(5)カント『純粋理性批判』序文と緒言 要約�C
前回は、『純粋理性批判』の序文の前半部分の要約を紹介しました。そこでは純粋認識(ア・プリオリな認識)と経験的認識、分析的判断と総合的判断の区別などが説かれていました。端的には経験を一切含まない認識が純粋認識であるということでした。また「AはBである」という判断において、主語Aの中に述語Bが含まれている場合は分析的判断、含まれていない場合は総合的判断であるということでした。
今回は、『純粋理性批判』の序文の後半部分の要約を紹介します。ここでは、純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな総合判断はどうして可能か」という点であることが説かれています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
�X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる
1、数学的判断は全て総合的判断である。この命題は極めて確実で、誰も反駁できない。「7+5=12」という命題は分析的命題だと考えられるかもしれない。しかし、12という概念は、私が7と5との結びつきを考えるだけで既にこの概念において考えられているというわけにはいかない。和の概念をいくら分析しても、この概念のうちに12という数は見出されない。同様に、純粋幾何学の「直線は2点間で最短である」という命題も総合的命題である。直線という概念は長短の量を含むものではなく、ただ性質を含んでいるだけだからである。最短という概念は、全く別に付け加わったものであり、分析によってこれを直線の概念から引き出すことはできない。
2、自然科学(物理学)はア・プリオリな総合的判断を原理として自分自身のうちに含んでいる。例えば「物体界の一切の変化において物質の量は常に不変である」あるいは「運動の一切の伝達において作用と反作用は常に相等しくなければならない」という命題は、いずれも必然性と、したがってア・プリオリな起源とを有するのみならず、総合的命題であることも明白である。物質という概念で考えられるのは、物質が空間のうちに現に存在しているということだけであり、常住不変という性質ではない。だから、物質という概念によって考えられていなかった何かあるものを、ア・プリオリにこの概念に付け加えるためには、物質という概念の外に出なければならない。
3、形而上学は、これまでのところ単に試みられたにすぎない学であるにもかかわらず、人間理性の自然的本性からいって、欠くことのできない学だとみなされている。形而上学の旨とするところは、我々が物に関してア・プリオリに構成するところの概念を単に分析することによって、これらの概念を分析的に解明するのではなく、我々が我々の認識をア・プリオリに拡張するところにある。そのためには、与えられた概念の外に出て、この概念に含まれていなかった何かあるものを別に付け加えるような原則を用いなければならない。そこで我々は、ア・プリオリな総合的命題によってこの概念を超出することになるので、経験そのものはもはや我々に追随できないのである。例えば、「世界にはそもそもの始まりがなければならない」などという命題がこれである。
�Y 純粋理性の一般的課題
純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能か」という形の問いに含まれる。
形而上学がこれまで非常に不確かで矛盾に満ちていたのは、哲学者たちがこのような課題はもとより、分析的判断と総合的判断との区別にすら気づかなかったからである。それでも哲学者たちのうちで、この課題の解決に最も近づいたのは、デイヴィッド・ヒュームである。しかし、彼も、生起した結果をその原因に結びつけるという総合的命題(因果律)だけにとどまった。彼は、こうした命題はア・プリオリには全く不可能であることを明らかにすることができた、と信じた。彼の推論に従えば、我々が形而上学と呼ぶところのものは全て、実際には全く経験から得たところのものや、習慣によって見かけだけの必然性を得たところのものを、理性の真正な洞察と思い誤った妄想にすぎないということになるだろう。もしヒュームが、我々の提出した課題は普遍性をもつものだということを念頭に置いていたら、一切の純粋哲学を破壊するような主張を思いつきはしなかっただろうし、彼の論証に従えば純粋数学すら存在しなくなることを覚っただろう。
上記の課題の解決は、「純粋数学はどうして可能であるか」「純粋自然科学はどうして可能であるか」という問題に対する解答をもまた包括することになる。純粋数学にせよ純粋自然科学にせよ、いずれも実際に存在しているのだから、これらの学がどうして可能なのか問うのは当を得たことである。ところが形而上学に関しては、実際に存在しているとは言い難いので、誰しもこの学が可能であることに疑いを差し挟むのはもっともである。
しかし、形而上学は、学としてではなくても、人間の自然的素質としては実際に存在する。人間の理性は、自分自身の止みがたい要求に駆られて、理性の経験的使用やまたそれから得られた原理などによってはとうてい答えられないような問題に向って、絶えず進んでいくものだからである。そこで形而上学については、「人間理性の自然的素質としての形而上学はどうして可能であるか」という問いが生じる。
しかし、人間理性にとって自然な問題、例えば「世界にはそもそも始まりがあるのか、それとも世界は無限の昔から存在しているのか」という問題に応えようとする従来のあらゆる試みには、常に避けることのできない矛盾があった。それだから我々は、人間理性に存在する形而上学的素質だけにとどまっているわけにはいかず、形而上学の論究する対象は知ることができるのか否か、これらの対象について何ごとか判断する能力の有無が決められるのか、したがってまた我々の純粋理性を拡張できるのか、それとも純粋理性には明確に規定された確実な制限を付しうるのか、問わねばならない。すると、上記の一般的課題から生じてくる第三の問題は当然に次のようなものになるであろう。「学としての形而上学はどうして可能であるか」。
それだから、理性批判は結局学にならざるをえない。これに反して批判なしに理性を独断論的に使用すれば、根拠のない主張に、したがってまた懐疑論に陥るのである。こうした主張には同じくもっともらしい主張を対抗させることができるからである。
理性批判という学が扱うところのものは、理性の多種多様な対象ではなくて、全く理性自身であり、全て理性の内奥から生じたところの課題――理性自身の自然な本性によって理性に提出されたところの課題である。実際にも、もし理性が経験において自分に現われるところの対象に関して、前もって自分自身の能力を完全に知ることができれば、経験の一切の限界を超えて試みられる理性使用の範囲と限界とを完全かつ確実に規定することが容易になるに違いない。
�Z 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分
以上述べたところから、純粋理性批判と名づけられるような特殊な学の構想が生じる。純粋理性は、何かあるものを全くア・プリオリに認識する原理を含むところの理性である。我々の認識の拡張は果たして可能なのか、また可能だとすればそれはどのような場合に可能であるか、今のところはまだ決定されていないわけだから、我々は純粋理性とその源泉および限界との批判を旨とするような学を、純粋理性のための予備学とみなしてよい。こうした予備学は、学説ではなくて、単に純粋理性の批判と呼ばれなければならないだろう。また、この批判の効用は、思弁に関しては全く消極的であって、我々の理性を拡張するのに役立つものではなく、ただ理性を純化する用をなすことで理性が誤謬に陥るのを防ぐことになるだろう。私は、対象に関する認識ではなくてむしろ我々が一般に対象を認識する仕方に関する一切の認識を先験的(transzendental)と名づける。すると、こうした概念の体系は先験的哲学と名づけられてよいが、そういってしまっては最初としては過大である。この学は、分析的認識とア・プリオリな総合的認識を完全に含んでいなければならないので、我々の意図に関する限りでは、なお範囲が広すぎるからである。我々が分析を進めて差し支えないのは、ア・プリオリな総合の諸原理をその全範囲にわたって洞察するのに是非とも必要な程度に限られている。したがって、この研究は学説と称してよいようなものではなく、先験的批判と名づけられるべきものである。
先験的哲学は、ある種の学の構想である。換言すれば、純粋理性批判がこの学の全設計をいわば建築術的に、すなわち原理にもとづいて立案するとともに、この建物を構成する一切の部分の完全と安全とを十分に保障しなければならないような学の構想である。すなわち、先験的哲学は、純粋理性の一切の原理の体系である。この批判がみずから先験的哲学と名のらないのは、こうした批判が完全な体系であるためには、人間のア・プリオリな認識全体の周到な分析を含まねばならないからである。
こうした学〔純粋理性批判〕を区分するに当たって最も重要な目安は、何によらず経験的なものを含むような概念が入り込んではならない、換言すれば、ア・プリオリな認識はあくまで純粋でなければならない、ということである。それだから、道徳の最高原則と基本概念とは、ア・プリオリな認識ではあるが先験的哲学には属さない。
ところで、一般に体系というものを考察する見地からこの学の区分を試みるとなると、我々が今述べているところの区分は、第一に純粋理性の原理論を、また第二に純粋理性の方法論を含まねばならない。またこれら2つの主要部門は、それぞれ小区分を含むことになるだろう。人間の認識には、2つの根幹がある。おそらくこれら根幹は、共通ではあるがしかし我々には知られない唯一の根から生じたものであろう。この2つの根幹というのは、感性と悟性とである。感性によって我々に対象が与えられ、悟性によってこの対象が思惟されるのである。ところで感性は、対象が我々に与えられるための条件をなすところから、先験的哲学に属するだろう。そして先験的感性論は、原理論の第一部門でなければならないだろう。認識の対象が人間に与えられるための条件は、その対象が考えられるための条件に先立つからである。
2017年12月26日
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・文法家列伝:ソシュール編
・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
・高校生に説く立憲主義の歴史
・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
・アダム・スミス『国富論』を読む
・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
・3年間の育児を振り返る
・近代教育学の成立過程を概観する
・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
・年頭言:機関誌の発刊を目指して
・激動する世界情勢を問う
・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
・一会員による『学城』第4号の感想
・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
・本来の科学的な教育とは何か
・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
・システムズアプローチを弁証法から説く
・一会員による『学城』第14号の感想
・ルソー『学問芸術論』を読む
・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
・斉藤喜博から何を学ぶべきか
・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
・小中一貫教育を問う
・ヘーゲル『哲学史』を読む
・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
・文法家列伝:宮下眞二編
・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
・マルクス思想の原点を問う
・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
・教育の政治的中立性を問う
・日本経済の歴史を概観する
・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
・一会員による『学城』第15号の感想
・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
・現代日本の政治家の“失言”を問う
・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
・障害児の子育ての1年間を振り返る
・新しい国家資格・公認心理師を問う
・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
・徒然なるままに――40歳を迎えて
・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
・教育実習生に説く人間観の歴史
・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言

