前回は,『“夢”講義(6)』で説かれている,全てを二重化して乃至対立物の統一として捉えるということについて見た。そして,全てを二重化して捉えることと,全てを対立物の統一として捉えることの2つを,それこそ対立物の統一として捉えていかなければならないと説いておいた。
今回は,本書でしばしば触れられている南郷継正の人生について見ていきたい。ここでは,南郷継正の人生を大きく3期に分けて見ていく。第一期は大学生くらいまでの時期であり,第二期は恩師・恩人との出会い・交流のあった時期であり,第三期は著作執筆以後の時期である。
まず第一期である。本書の第二編「弁証法を学問的に深化させる過程を説く」の第一章「私の辿った学問への道を後から来る人に」の冒頭で,南郷継正は自身のことを「生来の怠け続け人であった」(p.64)と述べている。中学・高校時代には,机に座っての学びが全く駄目で,10分くらいは座っていられたものの,30分と続けられなかったという。体育も駄目で,鉄棒にぶら下がることも,縄跳び一つもできなかったそうである。ただし,自分自身で努力することを怠けていただけであって,授業の欠席,サボリ,居眠りは一度もなかったということである。また,小説の類は小学校時代からむさぼるように読んでいたとも述べられている。大学に入ってからは,思い切っての方向転換を図っての人生やり直しをなそうとし,弁証法・認識論の学びに加えるに,武道空手の実践で大成功を収めることになっていったという。
ここまで説いてきた後,『全集』の「読者への挨拶」の引用がある。ここでは,同じ桜でも,吉野桜はあまり好きではなく,八重桜の中でも,本当に色濃く咲いており,かつ地面の方へ下向きに咲き誇っている,俗称「提灯桜」が大好きであること,「諸共に哀れと思へ 山桜 花より外に知人もなし」(行尊)という『百人一首』(島津忠夫訳注,角川文庫)の中の66番目の和歌が中学・高校時代から大変気に入っており,それは,この歌のとおり,「自分の心」以外には誰にもその「自分」の存在意義が認められていないような人生だったからであること,八重桜のような素晴らしく見事な未来に憧れてもそんな人生は望むすべもないだろうとの心境であったこと,などが述べられている。
ここまでを読んで,本題からは少し外れるかもしれないが,筆者は本書の少し前の部分を思い出したことであった。それは,第一編第二章の第三節「指導者は時代の流れを読み,人生を深めるための学びが必要である」で説かれていた以下の内容である。
「大体,現在の大学生はうっかりすると(うっかりしないでも)毎日の新聞すらまともには読んでいないといってよいほどです。これは私の弟子である東京大学の学生や大学院生ですら,「あまり読んでいない,というより読む暇がないのです」との返答が常にあるくらいですから。
特に毎年のように驚いていることは,大学の新入生が,俳句や和歌,といった文芸的教養があまりないことですし,まして格言・金言といった人生にとってとても大切な言葉の技(ことわざ)に習熟していないことです。これでは大学を出ても社会人としての指導者に到底なれるわけはない,といってよいでしょう。通常ならば,少なくとも中学校の先生であれば,毎朝の挨拶で,格言の一つ,四字熟語の一つや,俳句の一つくらいは理科の先生であってもなすべきであろうと,私は思います。」(pp.50-51)
ここでは,現代の大学生は新聞をまともに読んでおらず,俳句や和歌といった文芸的教養があまりないのに驚いている,中学校の教師もそのようなことをしっかりと教えるべきだ,と説かれている。その少し前のところでは,「大和魂(ヤマトゴコロ)」という言葉の日本最古の原典は『源氏物語』であることも指摘されている。
何がいいたいのかというと,南郷継正は怠け続け人ではあったが,中学・高校の(優れた)授業はきちんと受けており,あるいは小説をむさぶるように読んだこともあって,俳句や和歌といった文芸的教養や格言・金言といった言葉の技に習熟していたのだろう,ということである。こういう土台があってこそ,見事な指導者になれたのだと感じたのである。
ここでわが身を反省してみると,確かにそういう教養に大きく欠けているところがある。われわれの組織としても,そういう自覚があったので,数年前から吉本隆明『日本近代文学の名作』などを頼りにして文芸作品を読み続けているのである。しかし,もっと積極的な自学自習が必要だと痛感した。そこで取り急ぎ,南郷継正が触れている『百人一首』(島津忠夫訳注,角川文庫)を購入した。また,NHKの高校講座に「古典」や「現代文」などというものがあるので,とりあえず「古典」を聞き始めている。これは非常にいい。古典の朗読もあるし,一字一句の解釈などという細かいことよりも,当時の時代背景や社会的認識,作者や作品についての概要やそれに関連する知識,その作品の概要や大意などが,うまくまとめられていると感じている。聞き進めるのが楽しみである。そういえば,以前読んだ森信三『幻の講話』にも,西行の和歌などが多数紹介されていた。齋藤孝の『声に出して読みたい日本語』シリーズや『理想の教科書』シリーズも,文芸的教養を身につけるためのスタートとしてはよいかもしれない。こういう著作も読み返していきたい。
さて南郷継正の人生に戻ると,怠け続けていたものの,大いなる野望があり,その実現のために,大学入学後は,弁証法への学びだけは大きく「まじめに励む人」となっていったという。「弁証法に関しては,「世界一」になるのだ! 以外に考えをゆるめたことはな」(p.70)いというほどの強烈さである。こうして,弁証法と武道空手との学びが始まり,深まっていったのである。
次に,南郷継正の人生の第二期を見ていこう。恩師・恩人との交流の時期である。『綜合看護』に「“夢”講義」を連載中に,吉本隆明さんが亡くなった。2012年3月16日である。われわれは本ブログに「吉本隆明さん逝去に寄せて」という文章を掲載したが,南郷継正もすぐさま連載でこれを取り上げ,追悼文を書かれたのであった。それが本書にも収められている。そこでは,自分の恩師は三浦つとむと滝村隆一の二人であるが,吉本隆明は「人生上の恩人ともいってよい」(p.89)と評されている。そのうえで,恩師三浦つとむ・滝村隆一と,恩人吉本隆明との出会いの個人的なエピソードが語られていく。ここではその経緯を簡単に辿ってみる。
1969年,南郷継正らの組織は「教育とは何か」「学問とは何か」という難問に突き当たり,三浦つとむに聞こうとして電話をし,自宅に伺うことになったという。そこで,三浦つとむに問われるままに弁証法の武道への応用について話をすると,それを文章にしてみないかと提案されたらしい。2日ほど悩んだ末に,断ろうと思って再度三浦つとむの自宅を訪問すると,そこに滝村隆一がいたのだという。もう一度滝村隆一に武道論を説くことになったが,そこで滝村隆一が絶賛したため,武道論を書くことを承諾したと述べられている。1ヶ月半ほどかけて75枚ほどになった原稿をもって三浦宅を訪問すると,「これはヨコ書きになっている。原稿はタテ書きにするものだ。それに60枚が限度だ」といわれて,その場で書き直し,その後,吉本隆明の旧宅にまで連れ出されたそうである。そこで吉本隆明と2時間ほど問答をして合格となり,『試行』誌への掲載が決まったということである。その後の10数年間は,恩義というものを感じるほどの交際期間を持てたと説かれている。そのなかで,南郷継正が武道論を語り,そのお返しであるかのようにヘーゲルの諸々の文言について講義をしてもらったという。そこで「ヘーゲルは,学問の世界と実体の世界とを二つ描いて,両方の図式の対がいわば重なり合うレベルで一致した時に,本当の学問の成立であるとしたのだ」(p.98)という話も聞いたということである。このように吉本隆明はヘーゲルに深く学んでいたのに,新聞などで追悼文を書いている人の誰一人としてここは語っていないと指摘されている。また,残念に思うこととして,自分が著書を出す時に吉本隆明の推薦文の申し出を断ったことが挙げられている。
ここまでで,恩人吉本隆明にまつわるエピソードは終わり,恩師についてのエピソードが少し触れられる。吉本隆明への追悼文の中でも,三浦つとむが『試行』誌に連載することについて大きく反対するようになっていたと語られていたが,ここでは,滝村隆一が南郷継正に対して行った論文指導に対して,三浦つとむが大きく叱責したというエピソードが紹介されている。「南郷継正君は単なる武道家にすぎないのであって,文筆家でもなければ,また当然ながら理論家になれるわけでもない」などと,南郷継正の面前で滝村隆一を叱責したというのである。その後,三浦つとむは口を利いてくれることがなくなり,想像を絶するほどの口惜しい想いをしたと説かれている。その時のことが,次のように述べられている。
「たしかに恩師三浦つとむの私への評価は,間違っていないとの思いは当時はあったのですが,でも二回にもわたっての悪評価は私をして,当然のように奮発させるものでした。「今に見ていろ! 十年経ったら,三浦さんの言葉を嘘にしてみせるから!」と。」(pp.103-104)
ここの部分は非常に感動的であった。南郷継正の伝記を書くならば,前半の大きな山場になるだろう。このような口惜しさや怒りを自身の原動力として,精神分析的にいうならば昇華して,見事に三浦つとむの言葉を嘘にしてみせた南郷継正の人生は,まさに弁証法的発展そのものだと痛感させられるエピソードであった。
それから6年後に,『武道修行の道』の原稿を『試行』に連載し始めた頃に,ある駅の改札口で滝村隆一は南郷継正に対して,「もう君はマルクスの学問レベルになっているよ」ときっぱり述べたそうである。それで南郷継正は『それを断言する自分の実力は,マルクス以上ということなのか」と思わず問い返したら,滝村隆一は笑って去っていったという。
この滝村隆一からの論文指導については,本書のだいぶ後の方で再び触れられている。そもそも一回り若い滝村隆一に弟子入りしたのは,『試行』に初めて載った「武道の理論(1)」がほんとうの意味での拙い文だったからで,それを恥じてのことだったという。また,滝村隆一の『革命とコンミューン』と『マルクス主義国家論』を読んで,アリストテレスのいう「驚駭」といえるベレルの衝撃を受けたからでもあるという。筆者も南郷継正の『弁証法・認識論への道』を読んで,主観的には同じくらいの衝撃を受けたと思っている。滝村隆一に忠実に学んでいった結果,三一書房から出された『武道の理論』には,悪文が大きく消えていったらしい。その指導の中身については,次のように説かれている。
「とにかく,恩師滝村隆一による本物の指導という中身(構造)を端的に説くならば,毎回毎回同じ欠陥を指摘され,かつ叱られながら,徹底的に論文体なるものを叩きこまれていく何年かだった,ということです。もっとも,それをなすにあたっての予備的学習も当然ながらあったことです。それは,端的には文章の中身を一言で読みとる訓練,すなわち,ある長い(何十頁もの)文章に適切な題名をつけることから,始まったものでした。」(p.179)
自分の欠点を素直に恥じて,教えに対しては忠実に学んでいく,何度叱られてもそれに耐えて学び続けていく,これが上達の大きなポイントであることを示しているエピソードだと感じた。筆者自身の日々の職場や家庭でのストレスなど,一方の恩師には見捨てられ,他方の恩師からはしごきのような指導を受けていた南郷継正に比すれば,本当になんでもないことであると思わされたことである。
さて最後に,南郷継正の人生の第三期を見ていきたい。ここは著作執筆による発展が見られた時期であるが,第二期と時期的に少し重複する。この時期については,本書第四編「学問的世界・理論的世界を志す人へ」の第三章「学問力を向上させ続けた私の道程とは」で説かれている。本書の最終章である。
ここでは,『武道の理論』『武道の復権』『武道への道』『武道修行の道』のそれぞれに付されていた「推薦文」が引用されながら,その発展が説かれている。ちなみにこの推薦文は,おそらく滝村隆一の手になるものであろうと思われる。そしてこの推薦文は,先の引用に説かれていた論文を執筆するための「予備的学習」,すなわち,文章の中身を一言で読みとる訓練の理想的なお手本としても紹介されている。
『武道の理論』は,武道論が初めて科学にまで高められた著作であり,弁証法が自在に駆使されている点が特徴であった。この『武道の理論』が多数売れていったために,南郷継正の道場は大賑わいとなり,中には,学問や弁証法を求めて訪れる学生もおり,そのうちに学的研究会が発足し,「生涯指導者であり続けたいと決意した」(p.209)南郷継正は,弟子の専門分野での指導者とならざるをえず,彼らの専門分野すら指導できる実力を把持していくこととなる。このような指導をとおして構造論が発展していったという。著作でいうと『武道の復権』から武道としての構造論的展開が始まっていったというのである。『武道への道』では,入門から極意に至る道程が分りやすく説かれ,世界歴史レベルでの認識論の大発展があったと説かれている。続く『武道修行の道』では,副題にある「武道教育と上達・指導の理論」が説かれるのであった。
しかし,『武道修行の道』で論理能力がこれ以上発展できないことになり,その壁を突破するべく,一大決心をしたと説かれている。それは,50歳を少し越えていた段階であったにも関わらず,「学的能力の発展には脳(細胞)の実体的発展をなす以外にはないと深く決意して,ここから二十代の若者(学生)との大修行へと出立することにした」(pp.214-215)というのである。この修練が60代まで続き,その成果がとある月刊誌に連載し,後に単行本化された『武道講義』シリーズへと結実していくことになる。
その後,南郷継正は人生最後の仕上げとして,女性武道家の育成を開始し,本「“夢”講義」の執筆を始めることとなったという。ここでは触れられていないが,同じ頃に『学城』の発刊がなったのであった。
以上今回は,南郷継正の人生を3つに区分して,その道程を追体験した。

