前回は,『“夢”講義(6)』で説かれている弁証法の弁証法的な学び方を取り上げた。具体的には,弁証法のドアを閉めるということの意味について,正規分布に従ってのくり返しの重要性・必然性について,3年にして1作品という構造についての3点であった。
今回は,全てを二重化して捉えるということ,さらに,全てを対立物の統一として捉えるということについて,学びを深めていきたい。
本書では,三浦つとむに関して,エンゲルスの説く科学的弁証法をまともな体系性を把持したものとして学ぶことが可能となった方(p.86)と紹介されている。他方,滝村隆一については,弁証法が単層から重層構造を把持するものとして構造化していく端緒となった恩師,学問体系の根幹ともいうべき構造論を構築する出発点となった二重構造を,間接的に学び取ることになった方(p.87)であるとされている。そのうえで,恩師滝村隆一に何を学んだのかについて,次のように説かれている。
「たしかに深く深く学んだのは本当です。でも少し,かつ大きく違います。私が恩師滝村隆一に大きく学んだのは,対象を二つに分けて考える,つまり「すべてを二重化して捉えるという頭脳の働きをなすべし」ということであって,書物に説いてある事柄の中身に深く深く学ぶ努力をしたのではなく,自分の専門たる武道の世界に関わる森羅万象の出来事を,二重に構造化して,かつ過程として捉える努力をなすきっかけとなったのだ,ということです。
分りやすく説くならば,恩師滝村隆一に学んだのは,「何事かを捉えようとするならば,必ず二つに分けて考えてみるべし」であり,「何事かを論じるならば,実体の二重性と機能の二重性,すなわち簡単には四重性においてなすべし」という見事な教訓として捉えることを学びとったことだったのです。この二重性・二重化を,私は自分の専門分野への指針(コンパス)として学びとっていったのです。」(p.88)
ここでは,滝村隆一について,その書物に説いてある事柄の中身を学ぶ努力をしたのではなく,森羅万象の出来事を,二重に構造化して,かつ過程として捉えることを学んだのだ,何かを論じる場合は実体の二重性と機能の二重性の,四重性においてなすべしということを学んだのだ,と説かれている。この後の部分では,滝村隆一から学んだ内容を,「二重化を構造化として,かつ過程化として把捉すべし」という格言=金言であると言い換えている。要するに,全てを二重化して捉える頭脳の働きをなすべしであるということである。
滝村隆一の専門とした国家論であれば,国家を,政治的国家と経済的国家というように二つに分けて考えていたし,あるいは,広義の国家と狭義の国家,〈共同体―即―国家〉と〈共同体―内―国家〉というように二つに分けて考えていた。このように,全てを二重化して捉えられるように努力していくべきだということであろう。
筆者の専門である心理臨床であればどうなるであろうか。大きくは,働きかけられるクライエントと,働きかけるセラピストというように,二つに分けることができるであろう。これは,教育を二つに分ける際に,先生と生徒の二つに分けるようなものであろう。あるいは別の観点からすると,心理臨床は,見立てと介入というように,二つに分けることもできる。これは医療における診断と治療に対応するものであって,クライエントにはこのような困りごとがありこのような悪循環で維持されているのだと把握して,だから,このような技法を使ってこのように働きかけていくというようなものである。対象たるクライエントを認識する段階と,その認識に基づいて専門的な表現をなしていく段階の二つといってもいいかもしれない。この見立てと介入のそれぞれにも二重性がある。それは言語と非言語の二重性である。クライエントが発した言語表現による見立てとクライエントの非言語表現による見立て,言語による介入と非言語による介入である。このように,専門分野の森羅万象を,とにかく二つに分けて,二重性として捉えていくことが,弁証法性を有する対象をより正確に認識するということになるのだろう。これが「専門分野への指針(コンパス)として学びとっていった」ということなのであろう。
同じような内容が,本書のかなり後の方で,より深められた形で説かれている。そこでは,恩師滝村隆一の著作への学びの実態をはっきりと説いておくべきだとして,一応学問レベルの実力を持っているとされる弟子の一人の感想が紹介されている。その弟子の感想の中で,次のように説かれている。少し長いが,非常に重要なことが説かれている気がするので,引用する。
「なぜならその一般論なしには,自己の専門領域の中の何事をも,どうにも概念規定なるものが創出できないと分かったからです。そして,その把持できた一般論の中身を論理レベルで説いていくために,それを幾分かの典型的な事実を基にしつつ思考かつ思惟していくことが大切だと思いますが,その中でも特に大事なことは,それらの事実的レベルにすら,構造に分け入ることが大切であり,そしてそこでは,「存在するものと存在していないものとの大きく二重性の構造が見えてくること」に大きく注意を払うことが必要であると思います。
それが,つまりその二重性なるものは,たしかに最初はぼんやりしたものでしかないものですが,しかしきちんとした一般論をふまえてそこを視てとる努力をして,それをふまえてなんとか二重性を規定しなければと努力することになります。そうして苦しんで考えて思惟レベルに認識を昇らせるために,しっかりと書いていく,そしてまた書き直して思惟し直していくその中で,その二重性の構造なるものが,次第次第に明確になってくるのであろうと思われます。
(中略)
……すなわち,なにより国家の一般性をしっかりとふまえての,その国家の中の構造に分け入ること,その二重性としての,政治とは,経済とはを論理的に把握していかなければならず,そのためには政治・経済の実態性を把持する実体的社会の二重性からその政治の二重性,経済の二重性かつ文化・教育の二重性をふまえて,そこから二重性の二重性なる構造すなわち,政治の二重性の中の二重性のそれぞれに含まれている二重性,つまり,四重性の構造へと思弁を深めて概念化までもっていくべきであり,そうでなければ国家や社会や,政治,経済,文化・教育などのまともなる概念規定など,到底不可能なのだ,ということであろうと思います。」(pp.188-189)
ここは非常に難解である。先の引用文も踏まえて,自分なりの理解を認めていきたいと思う。
まず,前半部分はそれこそ一般論が説かれており,後半部分はそれを国家の場合でいうとどうなるかという具体が説かれていると思う。前半のはじめに,まず,一般論なしには概念規定ができないのであり,一般論の中身を論理レベルで説いていくためには,事実の構造に分け入ること,事実の二重性の構造なるものを浮かび上がらせることが必要であると説かれている。国家でいうと,国家とは何かの一般論を踏まえて,その中身を論理レベルで説いていくためには,国家の中の構造に分け入ることが必要であるが,それは,国家の二重性としての政治とは,経済とはを規定していく努力をすることである。さらにそのためには,政治・経済の実体たる社会の二重性と,その実体たる社会の機能であるところの政治・経済(さらに文化・教育?)のそれぞれの二重性をもしっかりと捉えられるように努力してく必要がある,ここまできてようやくにして,政治や経済の概念規定が可能となっていくのだということであろうか。
南郷継正は,この弟子の感想で説かれている「すべての出来事を二重性として捉え返す」ということを,初心者にも分りやすく説くとして,次のように説明している。
「「すべての言葉には二重性が存在する,つまり,二重性の意義が含まれている」ということです。もっと説くならば,ある言葉というものは,それを何か他のものと区別するためにまずは誕生させられているということです。人間とは動物に対比して,動物とは植物に対比して,とかいったようなことです。それが対比だけではなくなっていくのが,言葉そのものの宿命になります。」(pp.191-192)
ここでは,全ての言葉には二重の意義が含まれており,言葉は,他のものと区別(対比)するためにまずは誕生させられているが,それが対比だけではなくなっていくのが言葉の宿命だと説かれている。
具体例で考えてみよう。たとえば経済とは,まずは政治に対比して誕生させられた言葉だが,それが対比だけではなくなって,経済という言葉自体に二重の意義が含まれるようになる,ということであろうか。診断(見立て)とは,治療(介入)に対比して誕生させられた言葉であるが,それが対比だけではなくなって,診断(見立て)という言葉自体に二重の意義が含まれるようになる。セラピストとは,まずはクライエントに対比して誕生させられた言葉だが,それが対比だけではなくなって,セラピストという言葉自体に二重の意義が含まれるようになる。
このように考えると,先の弟子の感想にあった「存在するものと存在していないものとの大きく二重性の構造が見えてくること」というのは,言葉がまずは何か他のものと区別(対比)するために誕生させられたという原点のところを説いているのではないかと思えてくる。すなわち,たとえば診断であれば,これは診断は存在しているが治療は存在していないということになるし,セラピストといえば,これはセラピストは存在しているがクライエントは存在していないということになる。診断という言葉には,診断であると同時に治療ではないという二重性の意義があり,セラピストという言葉には,セラピストであると同時にクライエントではないという二重性の意義がある,ということであろうか。それが,言葉というのはそういう対比的な二重性だけではなく,その他の二重性の意義をも含むようになっていく,ということであろうか。
現時点ではこのくらいしか理解が深まっていないが,今後もこの点については考え続けていきたいと思う。
さて最後にもう一点指摘しておきたい。それは,全てを対立物の統一とする,ということについてである。対立物の統一について,本書では弟子の修練日誌の中で次のように説かれている。
「これは「対立物の統一とは,相対的独立したAとBを対立物として捉えて統一し,発展させなければならない。階段の上り下りで喩えるなら,上る時と下りる時にそれぞれ使う筋肉が違ってくるのは当然だし,前向きと後ろ向きの上り下りでもまた違ってくるものだ。それをどう統一させるかはその人によるのだ」という指導だったと思う。」(p.115)
ここでは,対立物の統一とは,相対的独立したAとBを対立物として捉えて統一し,発展させることであると説かれている。そのうえで,階段を上るときと下るとき,前向きと後ろ向き,という例が挙げられている。この弟子の日誌には他にも,右向きと左向き,客観的事実と主観的事実,身体が正常な状態と異常な状態などが,対立物の統一の例として挙げられている。要するに,全てを対立物の統一として捉えなければならないということであろう。
これは,先に触れた全てを二重性として捉える,対象を二つに分けて考えるということとつながってきそうに思われる。どういうことかというと,全ての対象は二重性を有しているのであるが,その二重性の一方だけを見ていた場合は,対立物の統一として,他方もしっかり統一して考えないといけない,逆に,対象の二重性が見えていないのであれば,2つに分けて考えて,その二重構造を明確にするように努力していかなければならない,ということではないか。これこそ対立物の統一であって,一つのものを二つに分けて考えることも大切であるし,逆に二つのものを一つとして考えることも大切である,ということであろう。
筆者の専門でいえば,見立てを,言語による見立てと非言語による見立てと2つに分けて,その二重性を捉えていくことも大切であるし,逆に,言語による見立てをしている場合は,それとセットで,非言語による見立ても行っていかなければならない,相手の言語表現と非言語表現をしっかり統一して把握していかなければならない,ということになるだろう。
以上今回は,全てを二重化して乃至対立物の統一として捉えるということについて検討した。

