本稿は、南郷継正『“夢”講義(5)』を集団的に読み込み、特に「過程」という観点から学んだことを認める論考であった。ここで、これまでの内容を振り返っておきたい。
初めに、なかなか答え(結論・結果)が説かれないという本書の説き方を取り上げた。なぜこのような説き方になっているのかというと、端的には、結論の前提となる内容をしっかりと読者に理解させなければ、結論だけ説いても理解不能となるからであると説いておいた。すなわち、前提をくり返しくり返し説くことによって、読者の認識の重層化を図り、ようやくにして結論(答え)を理解できるだけの準備が整うのであった。これは、赤ん坊をいきなり立って歩かせることは不可能であり、その前提となるハイハイを、くり返しの上にもくり返し行わせることによって、ようやく立って歩くための準備が整うのと、論理的には同様であると説いた。このように、前提(前段階)の実力をしっかりと身につけないと、それ以上の発展はない、それ以上の上達は見込めないというような内容は、本書では形を変えて何回かくり返して説かれていることを指摘した。たとえば、偉大な哲学者や研究者は、哲学の歴史の発展形態をしっかり学修した上で、専門分野の研究に突入したのだ、だからこそ歴史に名を残すような大きな業績を上げることができたのだ、ということが説かれていた。これは、しっかりと研究していって成果を上げるためには、一般論ないし一般性から考えていけるということが前提なのであり、そのためには、哲学の歴史を学修する期間がどうしても必要なのだ、ということであろうと理解した。別の個所では、論理学が成立可能となるためには、古代弁証法の創立課程への長い長い学びが必要なのである旨が説かれていた。ここは、論理学の前提には弁証法と認識論があり、その弁証法と認識論を用いることによって、ようやくにして論理学が成立可能となってくる、というこであろうと理解した。弁証法の学びについても、マラソンの「走る」や柔道の「投げる」、あるいは、看護の「ベッドメイキング」や心理の「カウンセリング」と同様に、「それで合格!」という到達点はなく、無限のくり返しが必要なのであり、それも同じこと同じレベルでのくり返しが大切なのである、と説かれていた。そして、同じことの同じレベルでのくり返しとは何かというと、それは、まずは変化・運動を見てとれるようになること、見てとった事実の性質を変化性・運動性において思惟すること、という基本的・前提的なことを、無限に、飽きることなく、どんなに飽きても、続けていくことなのであり、これこそが弁証法の学びとしては肝要なのだということであった。
次に、本書のメインの内容である歩くにいたる過程的構造をしっかりと理解できるように、本書の論理展開をきちんと追っていった。本書では、初めに「直立二足歩行」に関して、研究者が直立二足歩行がすべての始まりであり、これがなければ人類の進化はなかった、そして直立が可能となったのは森の樹上生活を経たからこそであると説いていることが紹介されていた。これに対して、一般の研究者の見解は全て結果を説いているだけであり、そこに至る過程がすっぽりと抜け落ちている、という批判がなされ、「では、どうしてサルは森の樹上生活が可能となったのでしょう」(p.46)という問いが立てられていた。これは、常にその前の段階を問うのであるし、そこに至る前提、結果に至る過程を取り上げているのであるから、非常に弁証法的であると感じたのであった。樹上生活の前の四つ足での運動形態については、単細胞としての実力の上に、カイメンとしての実力が上書きされ、さらにその上に、クラゲ、魚類、両生類の実力が上書きされていき、その上に四つ足哺乳類の実力が上書きされ、その上にサルとしての実力が上書きされていく、このような重層構造を持つDNAが人間に内在しているからこそ、その「歴史」の上に、人間としての実力が花開いていくのだ、というようなことが説かれていた。赤ん坊の「這う」ということの過程的構造については、人間の赤ん坊は「這う」という過程的構造かつ構造的過程を持つことで、哺乳類の四つ足としての運動形態のDNAを花開かされていくことになるのだと説かれていた。サルまでの動物は本能によって統括されているので、放っておいてもその動物の運動はきちんとできるが、人間は本能ではなく社会的かつ個性的な認識がその人間を育ててきたのであるから、その長所と短所をしっかり見てとる必要があるとして、短所としては、本能に基づいた動物の身体は育った過程のものが消えて行くことはないが、認識によって創られる人間の身体の動きは、創られた時期の社会関係が薄くなったり、消えていったりすれば、その創られた実体の中身も薄くなり消えていくということが挙げられていた。したがって、一流の運動選手に育つためには、人間的な運動形態の前提となる四つ足的「這う」の過程を、絶対にないがしろにすべきではない、この「這う」過程の何回ものくり返しをどうしても必要とする、ということであった。このくり返しがなければ、身体が歪んでいくのであり、歪みを直したり、予防したりするためにも、四つ足的「這う」に相当する運動、すなわち、いわゆる柔軟体操やヨガ、あるいはジャングルジムでの立体的な動きなどが必要であるということであった。「仰向け」についても、これは自分の自由になってきた手足を連動的に運動させて、自分の意志で全身を運動(移動)させる過程、将来二本足で立って歩き、手を自由に使うための過程であり、人間の「歩く」という運動へと成長発展していく前段階なのだと説かれていた。
最後に、本書でたびたび読者の感想文が引用されている意義について考察した。引用されている感想文のタイトルを列挙すると、�@「『“夢”講義』全三巻(第一〜三巻)から何を学ぶか」、�A「「“夢”講義」の学びを障害児教育に」、�B「「“夢”講義」の学びを看護に活かすには」、�C「「這う」ことで創られる「立つ・歩く」とは」、�D「「いのちの歴史」を一般論として「正常発達」とは何かを問う」、�E「身体障害者の「仰向け」の運動性の意義」であった。�@は“夢”講義』第一〜三巻の体系的構成を概観することによって、全体の流れを自分の頭の中で再構成しようとする試みであり、南郷継正は、前の巻の内容を概括することをくり返しているのであり、それによってさらに構造が深められて論の展開がなされていっていることが指摘されていた。この小論に対して、筆者である南郷継正は「論評者である医学部の先生よりも執筆者である私の方がより多くの勉強をさせられてしまった……との思い、しきりだ」と高い評価を与えていた。�Aは障害児教育を専門としている読者からの便りであり、「“夢”講義」で学んだことを自分の専門に応用しようとする試みが紹介されていた。これに対しても、「何よりも立派なのは、自分の専門分野にあてはめながら理解しよう、そして理解した上でもっと専門の分野の向上を図ろうという大きな志の見事さです」などと高く評価されていた。�Bと�Cは、ともに「“夢”講義」の連載を読んでの疑問点、よく理解できなかった点が述べられていた。�Cでは「這う」について、人間は認識が体を部分的にも使うため、体の歪みが生じるが、そうならないために体全体の運動である「這う」が必要となってくる、認識も一部だけを使うといびつになるので、それを防ぐための認識における「這う」に相当するものが弁証法なのだ、という指摘もあった。�Dと�Eは一連のものであったが、�Dでは、「仰向け」が「這う」ことの重要な前段階の運動であるという「“夢”講義」での指摘をもとに、「正常発達」の原点である「仰向け・大の字」とは何かが説かれ、その「仰向け・大の字」を一般論として、実際の指導場面で適用していった実践記録が紹介されていた。これに対して、南郷継正が「太陽がどういう存在か説かれていない」「地球がどういう存在か説かれていない」「重力が生命体にとって、いかなる作用をもたらしているかが説かれてない」などという、厳しい忠告を(ゼミの場で?)したとのことであり、それを踏まえて書かれたのが�Eであった。�Eでは、ゼミでの指導を受けて、「仰向け」は重力を徐々に使えるようになっていくスタートであり、両手両足と背骨を一体として、かつ独立させての運動なのではないかという考察がなされていた。このような読者の感想文を引用するのには、3つの意義があると考察した。第一に、読者に以前の内容を復習させ、これから説く予定の内容の前提となることを、くり返しの上にくり返し学ばせるという意義であった。第二に、読者に学び方のモデルを提示するという意味であり、読者からの感想文を引用することによって、「“夢”講義」はこのように学べばいいのだというお手本を提示しているといえるとしておいた。第三に、読者との対話=弁証法の実践であった。これは、読者からの疑問・質問に、南郷継正が答えたり、読者に対して南郷継正が指導し、それに対してまた読者がコメントしたりという形で、旧弁証法=哲学的問答が実践されているのであった。また、南郷継正と読者との相互浸透が図られているという意味でも、弁証法の実践といえるのであった。
本稿では以上のような内容を説いてきたのであるが、改めて、「過程的構造」という観点からまとめ直しておきたい。連載の第2回と第3回で説いた内容は、ある段階に至る過程的構造であり、ある段階の前提をくり返しの上にくり返すことによって、ようやくにして次の段階へと発展できるということであったし、その具体例としての、歩くに至る過程的構造であった。歩くに至るためには、その前提となる「這う」に相当する運動形態を、くり返しの上にくり返していく必要があったのである。
そういう意味でいうと、南郷継正のように無常の知性、高度な論理能力を身につけたいと思えば、その前提として、南郷継正の原点を、くり返しの上にもくり返し学んでいく必要があるといえるのであり、連載第1回で触れたように、南郷継正の「僕は、生涯にわたって、とにかく死ぬまで勉強し続けるぞ!」という夢を決定的なものとした『プルターク英雄伝』のような本は、われわれも南郷継正に至る前提として、しっかり学んでいかなければならない、ということがいえるだろう。
連載第4回で説いた内容も、過程的構造という観点からまとめ直すことができる。すなわち、くり返し読者の感想文を引用することによって、読者にこれまでの内容を振り返る過程を何度も辿らせるということであり、「“夢”講義」の学び方、「“夢”講義」を自分のものにしていくための過程をお手本として提示することであり、さらに、読者との弁証法(哲学的問答)を実践することが大切だということであった。全体としては、論を展開する過程的構造が説かれていたということもいえるだろう。すなわち、われわれが論文を書いていくときにも、読者に対して何度も復習させるような形でその前提を説いていくことが大切であり、学び方の過程をも丁寧に説いていく必要がある、さらに、読者との対話=弁証法を実践しながら説いていくことによって、読者と相互浸透を図り、論理展開を発展させていくことが必要だ、というようなことである。読者との対話=旧弁証法をくり返し実践するということも、実は新弁証法(科学的弁証法)の前提をくり返し学ぶということになるだろう。科学的弁証法は、古代ギリシャの旧弁証法=哲学的問答が発展した段階なのであるから、科学的弁証法を真に実力化するためには、その前提となる旧弁証法の実践を、くり返しの上にくり返す必要があるのである。
このように過程的構造という観点から本稿をまとめ直してみると、本書では、くり返しということが強調されていたことも分かってくる。つまり、量質転化が強調されていたのである。ある段階へと発展するためには、その前提をくり返して量質転化を図る必要があるし、復習や読者との対話もくり返し行うことによって、量質転化的に論を発展させていくということが説かれていたのである。ここまでくり返す必要があるのか! との思いがする。このくり返し=量質転化こそ、弁証法の要といえるのではないかと思った。
本書の「あとがき」には、「過程的構造」について、「三浦つとむ著『弁証法はどういう科学か』のレベルの平面性でしかない弁証法を、立体的な構造を内に含んでのものとして大きく発展させたものだ」(p.240)としたうえで、量質転化を例として、その過程的構造が、次のように説かれている。
「では、この量質転化の構造を見てとるように努めると、どうなるのでしょう。
どういうことなのかといえば、量質転化すなわち量から質への転化には、何程かの過程がきちんと存在していることが分かってくることになります。より具体的には、量を積み重ねていくと、その途上のある時期に、「何か変なことが起きているのではないか」と思えるようなことが生じてくることになるのです。
……この過程を論理的に捉えて、量質転化が起きることになりそうだという、すなわち(ここを捉えて)「量質転化・化」との概念が把握できるようになるのです。
もっと説けば、量質転化の過程には量が量のままの質でありながらも、でもその量が量ではなくなる転機としての量(つまり質的には同じであるものの、やがて違った質へとなりにいく構造を内に含みはじめるもの)が誕生しはじめているのです。これを捉えて量質転化・化と称するのです。そしてこれは、この量としての構造と質としての構造とは全く違った性質を把持している、過程としての構造の実態(中身)が見えてくることになり、この全体の流れを一つのものとして捉えて過程的構造の過程と概念づけるわけです。」(pp.242-243)
ここでは、量的な変化が質的な変化をもたらすという量質転化について、その過程的構造が、非常に詳細に説かれている。具体的には、「量を積み重ねていくと、その途上のある時期に、「何か変なことが起きているのではないか」と思えるようなことが生じてくる」のであり、「量質転化の過程には量が量のままの質でありながらも、でもその量が量ではなくなる転機としての量(つまり質的には同じであるものの、やがて違った質へとなりにいく構造を内に含みはじめるもの)が誕生しはじめている」のであり、ここを捉えて量質転化・化と概念規定するのだと説かれている。
量質転化というと、量的な変化が、ポンッと質的な変化をもたらすというようなニュアンスがあるが、その「ポンッと」の部分を、実に詳細に説くのが量質転化の過程的構造であり、量質転化・化であるということだと思う。思えば、本書で説かれていたのは、全てこの量質転化の過程的構造であり、量質転化・化である。ある段階に至る前提をくり返しの上にくり返すというのは、まさに、ポンッと量質転化する瞬間を、コマ送りのように詳細に、説いているといえよう。読者の感想を交えて、徐々に徐々に論を展開していくという説き方も、まさにコマ送り的な説き方であり、これ以上になく丁寧に、次の論への過程を詳細に説いているということを意味しているといえる。
われわれも論の展開をなすにあたって、あるいは、事物事象の生成発展を問題にするにあたって、このようなコマ送り的な詳細な展開ができるように、しっかりと研鑽していかなければならない。このことを確認して、本稿を閉じたいと思う。
(了)


コメント、ありがとうございます。「DNAによる「上書き」というのは過程的構造」「「直接」にあたるものが提示された」というご指摘は、はっとさせられました。
ともかくも『“夢”講義』を読み込んで、なんとか感想を書くことによって、見えてくることともありましたので、残り一巻もしっかり取り組みたいです。