前回は、何事においても、前提となる基本的なことをくり返しの上にくり返し学ぶことが大切であり、そうしなければ、真の上達はありえないということを説いた。
今回は、本書のメインの内容である歩くにいたる過程的構造をしっかりと理解できるように、本書の論理展開をきちんと追っていきたいと思う。
本書では、初めに「直立二足歩行」に関する研究者の見解が、新聞記事を通して紹介されている。そこでは、直立二足歩行がすべての始まりであり、これがなければ人類の進化はなかった、そして直立が可能となったのは森の樹上生活を経たからこそであると説かれている。これに対して本書では、「結果を述べれば、それで解答になるとは!」とか「全て結果論だけだ」とかのように批判されている。すなわち、一般の研究者の見解は全て結果を説いているだけであり、そこに至る過程がすっぽりと抜け落ちている、という批判であろう。そこで、「では、どうしてサルは森の樹上生活が可能となったのでしょう」(p.46)と問いを立てて、樹上生活の前の哺乳類における四つ足での運動形態についての問題へと進んでいく。
ここは非常に弁証法的な論の展開だと感じた。というのは、常にその前の段階を問うのであるし、そこに至る前提、結果に至る過程を取り上げているからである。いきなり樹上生活があったわけではなく、そこに至る過程があるはずである。もちろん、樹木自体も、もともと存在していたわけではない。樹上生活が可能になる前提は何か。樹上生活の前にはどのような生活を行っていたのか。樹上生活の前に生命体は、どのような運動形態であったのか。その運動形態で、どのような実力をつけたからこそ、樹上生活が可能になったのか。このようなことを問うていくのは、事物をできあがった結果の複合体として見るのではなく、過程の複合体として見ているからこそ可能なのであり、その意味で弁証法的な見方・問いの立て方であると感じたのである。
さて、四つ足での運動形態についてである。四つ足での運動形態があったからこそ、樹上生活が可能となったのであり、樹上生活での運動形態があったからこそ、人間としての立つ、歩くという運動形態が可能となった。このことを本書では、「「いのち」には多重性を重ね持つ「歴史」があるのだ」(p.110)と説いている。すなわち、全ての生命体に内在しているDNAがそのようないのちの「歴史」性を重層的に把持してきているのだと説かれているのである。
これは、単細胞としての実力の上に、カイメンとしての実力が上書きされ、さらにその上に、クラゲ、魚類、両生類の実力が上書きされていき、その上に四つ足哺乳類の実力が上書きされ、その上にサルとしての実力が上書きされていく、このような重層構造を持つDNAが人間に内在しているからこそ、その「歴史」の上に、人間としての実力が花開いていくのだ、ということであろう。
人間の赤ん坊の「這う」というということの過程的構造も、このようないのちの歴史性から説かなければならないとして、次のように説かれている。
「解答から説けば、人間の赤ちゃんは「這う」という過程的構造かつ構造的過程を持つことで、哺乳類の四つ足としての運動形態のDNAを花開かされていくことになるのです。」(pp.111-112)
ここでは、個体発生は系統発生をくり返すというヘッケルの命題に関連する内容が、DNAの観点から説かれていると思う。赤ちゃんが「這う」ということは、もちろん、個体発生が系統発生をくり返していることを意味しているのだが、その中身に立ち入ると、実は、人間に内在しているDNAの、哺乳類としての四つ足の運動形態の部分が開花していることになるのだ、ということではないだろうか。「簡単に説けば、這うということの中身は人間がいわゆる哺乳類としての動物の動きの訓練期間だ」(p.110)と説かれているが、這うことによってDNA自体も変化していくのだということであろう。
立つ、歩くという人間としての運動形態をとれるようになるためには、その前段階である這うをしっかり行うことによって、前段階の実力をしっかりと養成することが大切である。立つ、歩くのためには這うが前提となるのである。特に、高橋尚子さんや井上康生さんのように、一流のスポーツ選手の場合、人間としての運動形態の非常に高度なレベルが要求される。そのような場合は、前段階である這うの過程を、よりきちんと、よりたくさんくり返す必要があるだろう。
このような問題について、本書では、「動物体から人間体へ」として説かれている。サルまでの動物は本能によって統括されているので、放っておいてもその動物の運動はきちんとできるが、人間は本能ではなく社会的かつ個性的な認識がその人間を育ててきたのであるから、その長所と短所をしっかり見てとる必要があると説かれている。長所としては、「どのようにも立て、どんな格好でも歩け、かつ走り方もいろいろと変化させることが可能」であり、「競技、武道技もしっかりとでき、団体演武も可能」(p.143)であると指摘されている。短所については、次のように説かれている。
「では、短所は何でしょうか。これは簡単には分かりかねます。
でも考えれば、すぐに判明するはずです。その一つは、人間の身体の動き(活動)は認識を通して社会的に創られたものです。それだけに、その創られた時期、時期の社会関係が薄くなったり、消えてしまったりすれば、その創られた実体の中身は、当然のようにそうなっていくのみなのです。
ここを分かり易く説けば、動物体としてのDNAはほぼ消えることはないのですが、人間体としてのDNAは、用いること(訓練すること)が少なくなるほどにまもなく薄くなり、やがて消えていくことになる、ということです。
さて、高橋尚子さん、井上康生さんは赤ちゃん時代をどう育てられていったのでしょう。四つ足的「這う」はマラソン・柔道としての「立つ」ためには当然のこと、同じくマラソン・柔道の走るため・投げるために充分だったでしょうか。……
この赤ちゃん時代の四つ足的「這う」はたしかに数ヵ月もしないうちに終わりますが、一流の運動選手に育つには、この過程を絶対にないがしろにすべきではない! のです。」(p.143-144)
すなわち、本能に基づいた動物の身体は育った過程のものが消えて行くことはないが、認識によって創られる人間の身体の動きは、創られた時期の社会関係が薄くなったり、消えていったりすれば、その創られた実体の中身も薄くなり消えていくのであり、一流の運動選手に育つためには、人間的な運動形態の前提となる四つ足的「這う」の過程を、絶対にないがしろにすべきではない、ということである。
人間は、赤ん坊の時期の社会関係に規定されて、這うことを数か月間はくり返すものの、そのような社会関係がなくなっていくと、這うことによって開花した哺乳類の四つ足としての運動形態のDNAは消えていくことになるのであり、そうなれば、哺乳類の四つ足としての運動形態を前提として成立する人間としての運動形態も、まともに維持・発展させていくことができなくなる、ということであろう。したがって、「運動体として見事になるためには、この「這う」過程の何回もの繰り返しをどうしても必要」(p.145)とするのである。
では、このような「這う」過程のくり返しを行わなければ、どうなっていくのか。端的には身体が歪んでいくのである。人間は認識によって身体の動きが規定されているだけに、さまざまな形で運動することが可能であるが、それが本来の哺乳類としての体形や生理構造を歪めていくのである。したがって、それを直していくためにも、成長期の子どもたちには特別な時間が必要であり、それが体育であると説かれている。この体育の時間に行うべき運動というのが、四つ足的「這う」に相当する運動ということであろう。これによって、人間的な運動形態の前提となる運動形態をしっかりととり、人間体の歪みを直していくということであろう。
一流の運動選手を目指すのであれば、この四つ足的「這う」に相当する運動をくり返し、人間体の歪みを正していくとともに、常に、四つ足的「這う」に相当する運動から人間体としての運動へと、くり返しくり返し辿り返していくことによって、真に人間としての運動形態の発展が図れるということになるのだと思う。この四つ足的「這う」に相当する運動とは、一般性としては、いわゆる柔軟体操やヨガが挙げられているが、武道空手が見事に上達するためには、「ジャングルジムの中で前後・左右・上下・斜面・背面に駆け巡るような、強力かつ立体的な動き」(p.149)が挙げられている。このような人間的な運動形態の前提となる運動をくり返し行わなければ、人間としての運動形態のために身体が歪んでいき、高橋尚子さんや井上康生さんらのように、まだまだ発展の余地があったのに、早くして引退ということになってしまうのであろう。
立つや歩くのような人間としての運動形態をきちんととるためには、その前提となる運動形態をきちんととることをくり返す必要があるのであり、それは何も「這う」だけには限らない。「仰向け」も同様である。このことについて、読者の小論の中で、「“夢”講義」では、「仰向け」を「運動」と説かれていること自体がすごいと思ったとしてうえで、次のように説かれている。
「「仰向け」は素材としてのヒトである赤ん坊が、人間になるために、目的的にとらされ・とっていく労働であると理解しました。
(中略)
抱っこ・おんぶでは、手で母親の体を触りまくり、足は宙に浮かせて動かしています。また「仰向け」では天井に向けて、自由に手足を動かしているということです。これが「仰向け」の現実の状態であって、この過程があるからこそ、やがて自分の自由になってきた手足を連動的に運動させて、自分の意志で全身を運動(移動)させる過程である「寝返り」が可能になっていくということなのであり、まさに地球環境の変化に見合う形で進化を遂げていった生命体の運動の歴史を「なぞる」ことを行っているのだと理解しました。
(中略)
このように見てくると、人間の赤ん坊は目的的にしっかりと「仰向け」に寝かせることが重要であり、さらに「仰向け」は、手足が圧迫されることがなく、血液の循環もスムーズであり、将来二本足で立って歩き、手を自由に使うための、まっすぐに伸びた健やかな手足が創られていく過程でもあるということです。……このようにして一つ一つの段階の運動が繰り返されて、次の段階への運動へと重層的に積み重なっていくことで、人間の「歩く」という運動へと成長発展していくと理解しました。」(pp.223-225)
ここでは「仰向け」は人間になるための労働である、すなわち、自分の自由になってきた手足を連動的に運動させて、自分の意志で全身を運動(移動)させる過程、将来二本足で立って歩き、手を自由に使うための過程であり、人間の「歩く」という運動へと成長発展していく前段階なのだと説かれている。
以上要するに、人間特有の運動形態である「立つ」「歩く」ができるようになるためには、「仰向け」や「這う」という、「生命の歴史」における哺乳類以前の運動形態をしっかりくり返す必要があるのであり、そのようないくつかの段階の運動が重層的に積み重なっていくことによって、「生命の歴史」の重層性をDNAが把持していき、「立つ」「歩く」という運動形態が可能となっていくのだ、ということであろう。本書で説かれている内容は、まだまだ理解が及んでいない部分もあるが、歩くにいたる過程的構造としては、おおよそ以上のようなことが説かれていると理解した。

