(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準 要約
(3)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約
(4)カント『純粋理性批判』原則の体系に対する一般的注その他 要約
(5)カント『純粋理性批判』あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について 要約
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:「経験的思惟一般の公準」とはどういうものか
(8)論点2:カントは観念論に対してどのように反駁しているか
(9)論点3:対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠とは何か
(10)参加者の感想の紹介
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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。
9月例会では、『純粋理性批判』の経験的思惟一般の公準その他を扱いました。今回の範囲は次のような構成になっています。
第2章 純粋悟性のすべての原則の体系
第3節 純粋悟性のすべての綜合的原則の体系的表示
4 経験的思惟一般の公準
(観念論に対する論駁)
原則の体系に対する一般的注
第3章 あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について
今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。
今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。
なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。
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京都弁証法認識論研究会 2017年9月例会
カント『純粋理性批判』
経験的思惟一般の公準 〜判断力の先験的理説(原則の分析論)
第3章 あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について
1.「経験的思惟一般の公準」とはどういうものか
経験的思惟一般の公準とは、様態(対象の存在の仕方、対象にたいする認識能力の関係)についての判断の原則で、�@可能的 �A現実的 �B必然的の3項目に分けられる。これら様態のカテゴリーは、これまでの純粋悟性の原則(分量、性質、関係)と異なり、対象を規定するものでも概念を拡大するものでもなく、認識能力に対するこの概念の関係を表現するにすぎない、とされる。様態の3カテゴリーは、他の原則によって概念規定された対象が可能なのか、現実なのか、必然なのか、という問題に関わるものなのである。
可能性とは、物の概念が経験一般の形式的条件(純粋直観の形式である空間・時間と純粋悟性概念)に合致していることである。そういう形式的条件に合致していれば(実際に存在しているかどうかはともかく)存在する可能性はあるといえる。現実性とは、物が経験の実質的な条件(感覚)と関連すること、端的には、物が知覚されることである。必然性とは、原因性の法則(因果律)に従って生じた結果の現実的存在しか認識されない、ということである。
様態の三原則は、客観的な物の概念について何も主張しないから客観的な総合命題ではないが、こうした対象と主観との関係を規定するから主観的な総合命題である、とカントは述べている。
〈報告者コメント〉
「経験的思惟一般の公準」(様態のカテゴリーにもとづく総合判断の原則)が、他のカテゴリーにもとづく総合判断の原則とは異なって、対象そのものの概念規定に関わるものではなく、対象と認識主体との関係に関わるものだとされていることが重要であろう。カントがそもそも対象と認識との関係をどのように描いていたのか、というところから、この「経験的思惟一般の公準」の位置づけを明確にイメージしておく必要があるだろう。このことこそが、唯物論の立場からいうところの可能性、現実性、必然性とはどういうものなのか、それはカントのいわゆる可能性、現実性、必然性とどう異なるのか、議論していくための前提となるであろう。
2.カントは観念論をどう論駁しているか
カントは、物の現実的存在を間接的に証明しようとする規則に有力な非難を加えるものとして、観念論(実質的観念論)を挙げている。この観念論には、デカルトの蓋然的観念論(我々の外にある、空間における対象の現実的存在を単に疑わしいもの、証明できないものとする理論)と、バークリの独断的観念論(我々の外にある対象を虚妄であり不可能であるとする理論)の2通りある、とされる。
カントは、独断的観念論なるものは、空間を物自体に属する性質と見なしたために空間および空間を条件として生じる一切のものが想像上の虚構物だ、としてしまったものであり、先験的観念論においてすでに論破された、とする。これに対して、蓋然的観念論については、我々の存在以外の現実的存在を直接の経験によって証明することの不可能を説くだけであるから、合理的で哲学的考え方にかなうものだ、とする。ここから、直接的には知覚することができない物(例えば磁性的物質)の現実的存在を現象の経験的連関の法則に従って間接的に証明しようとすることへの「有力な非難」がなされることになる。このような非難に対してカントは、我々は外的なものを単に想像するだけでなく経験もしていること、このことは我々の内的経験(デカルトがもはや疑いえないとした経験)すら外的経験を前提としてのみ可能であることを証明することで論駁しようとしている。カントは、時間における私の現実的存在の規定は、私が自分の外にあるものとして知覚するような物の実際的存在によってのみ可能である、と主張するのである。
〈報告者コメント〉
カントのいわゆる観念論と、カント自身の立場とはどう違うのか、我々自身の唯物論の立場から、よく整理しておく必要があるだろう。カントが外的経験を前提としてのみ内的経験が可能になる、と主張しているのは重要ではないかと思われるが、これは我々自身の唯物論の立場からすればどのように評価できるのか、よく確認しておきたい。
3.あらゆる対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠とは
カントは「純粋悟性の国」を、波立さわぐ渺茫たる海に囲まれた「真理の国」にたとえている。「純粋悟性の国」とは、我々人間が経験できる領域のこと、すなわち現象の世界のことであり、悟性の使用がこの領域にとどまる限り、真理(主観と客観の一致)を主張することが可能となるという意味で、「真理の国」にたとえられている。これに対して、「波立さわぐ渺茫たる海」というのは、経験できない領域のこと、すなわち物自体の世界のことであり、悟性の使用がこの領域に及んでしまうと必然的に誤謬に陥ってしまう、とされている。
カントは、純粋カテゴリーは感性から完全に分離されてしまうと対象に全く適用できなくなってしまうことを強調し、感性に基づかないカテゴリーは感官の一切の対象を超えてもっと広い範囲に適用できるかのように思うのは誤解である、と指摘する。その上で、現象的存在と可想的存在との区別を導入している。カントのいわゆる現象的存在(感覚的存在)とは、感性的直観によって捉えられる対象の姿(対象の性質自体から区別された現象)であり、可想的存在(悟性的存在)とは、人間の感官の対象にはならず悟性によってのみ考えられた対象のことである。
〈報告者コメント〉
『純粋理性批判』を著したカントのそもそもの問題意識とは何であったのか、というところから確認すべきところであろう。人間の認識が真理性(対象と一致していること)を主張できるのはなぜなのか、という問いについて、真理性を主張できる範囲を厳格に定めることによって答えようとしたのだ、ということが確認できるであろう。
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以上の報告に対しては、概ね肯定的な評価がなされました。報告者コメントが若干分量的に少ないとはいえ、コンパクトにまとまっているのではないかということでした。また、3.の報告者コメントにあるように、カントのそもそもの問題意識を念頭に置きながら議論していく必要があることも確認しました。

