前回は,前稿「改訂版 心理療法における外在化の意義を問う」に欠けたるものとして,心の問題のコントロール可能性の問題を取り上げました。心の問題を外在化して,単に観念的に対象化するだけではコントロール可能性が生まれるだけで,コントロールの現実性については心もとないということで,コントロールを実現するための方法を紹介しました。それを端的にいえば,観念的にモノ化=実体化するという方法でした。心の問題を観念的に対象化した上でモノ化=実体化することによって,それをあたかも手に触れられるモノであるかのように容易に扱うことが可能となる,ということでした。
今回は,外在化のもう1つの意義を取り上げたいと思います。それは外在化とは観念的二重化である,ということに関わります。これはどういうことでしょうか。少し説いてみます。
外在化とは心の問題を外に出すことでした。しかし,本来,心は自分の頭の中にしか存在しないわけで,頭の中にしかないものを「外に出す」というのは,実際は「あたかも外に出したかのように想像する」ということでしかありません。つまり,外在化とは一種の想像だといえるわけです。そうすると,外在化とは観念的二重化でもある,ということが分かっていただけるかと思います。
念のために,三浦つとむが観念的二重化について説いている部分を引用します。
「このように,想像することは,現実の世界以外に観念的な世界をつくりだして世界を二重化することですが,それだけではなく,同時に現実の自分以外にその観念的な世界の中でそれに相対している観念的な自分をつくりだす自分自身の二重化をも意味します。」(『弁証法はどういう科学か』pp.140-141)
ここにも説かれているように,外在化によって,実際は心の中にしかないものをあたかも外にあるかのように想像することは,現実の世界以外に観念的な世界を創り出すと直接に,その観念的な世界に相対している観念的な自分を創り出すことでもあるわけで,端的にいえば,観念的二重化であるということができるのです。
観念的二重化については,海保静子氏も以下のように説いています。
「観念的二重化とは,端的には自分の観念を二重化すること,つまり自分の頭のなかでもう1人の自分を創りだすことである。自分がみている世界が,「現実の目」がみている像と「頭のなかでの目」がみている像との二重になることを,現実と観念(頭のなか)との二重になることをいうのである。
この観念的二重化は,自分が現実の自分と頭のなかの自分とに分けられるので「自己の二重化」ともいい,またこの「観念的二重化=自己の二重化」は,自分が相手の立場に立って行なわれるばあいが多いだけに「自分の他人化」といわれる。さらにその構造を説くならば,観念的二重化はそのなかに「自分の二重化」があり,その自分の二重化には「自分の自分化」と「自分の他人化」の二重構造があり,そしてこれは「自分の自分化から自分の他人化へ」の過程性としてとらえることができるものである。」(海保静子『育児の認識学』,現代社,pp.355-356)
このような観念的二重化の能力というものは,自然成長的に,あるいは教育によって創られ,人間であれば多かれ少なかれ把持しているのが通常です。そして,この観念的二重化の能力があるからこそ,社会生活を適応的に送ることができるのです。空気を読んで周りに合わせるのも観念的二重化の問題ですし,事態の展開を予想して対策を立てるというのも観念的二重化の問題です。ルールに従ったり,常識的な行動を取れたりするというのも,全て,観念的二重化の能力があってこそです。
しかし,心に問題を抱える人は,この能力が衰えていたり,あるいは歪んでいたりしているために,適応的な生活が送れなくなっている状態だということができます。
たとえばうつ病の患者さんは,事態を悪いほう悪いほうへと考えてしまう傾向があり,第三者の視点で事態を冷静に眺めることが困難になっています。これは,観念的二重化の能力が衰えているためと考えられます。また,統合失調症の患者さんは,誰もいないのに自分の悪口がはっきり聞こえたり(幻聴),客観的な根拠は皆無なのにヤクザが自分を殺しに来ると信じていたり(妄想)します。これは,もう一人の自分が見ている観念的な世界と現実の自分が見ている客観的な世界とを区別できずに,混同してしまっているからです。あるいは,ずっと二重化し続けているのに,二重化しているのだという自覚がないということもできます。いずれにせよ,観念的二重化の能力が歪んでしまっている結果だといえるでしょう。
したがって,認識論的に考えるならば,このような心に問題を抱える方に対する治療としては,損なわれてしまった観念的二重化の能力を回復させるための介入が不可欠である,ということができます。そして,そのための強力な手段の1つが,外在化という手法なのです。
なぜ,外在化によって観念的二重化の能力を回復させることができるのでしょうか。それは,先にも説いたように,外在化が観念的二重化でもあり,セラピストと共同してあるべき観念的二重化を促進することになるからです。たとえば,うつ病に対する認知行動療法では,当事者の中の認知・気分・行動の悪循環を外在化して,紙に書いたりホワイトボードに図示したりします。自分自身を第三者の視点から客観視して冷静に捉えるというのは,社会生活を営む上でなくてはならない観念的二重化の能力であるといえますが,認知行動療法におけるこのような外在化によって,自分自身を客観視するという観念的二重化が,スムーズに促進されるわけです。これが同時に,損なわれた観念的二重化の能力を鍛えるための訓練にもなっているのです。
そもそも観念的二重化を大きくとらえれば,直接見ることができないものを頭の中の目によって見ることである,ということができます。外在化は,この直接見ることができないものを見るための媒介として,非常に役立つということができるわけです。いわば外在化は,頭の中の目の視力をよくし,「もう一人の自分」を鍛えるための手段であるといえるのです。
セルフモニタリングという認知行動療法の技法も,観念的二重化の能力を回復させることに役立ちます。例えば,活動記録表という用紙をクライエントにお渡しして,一日に行った活動と,その時の気分(−5〜+5)を記録していただくことがあります。これは,自分自身の行動と気分を,第三者の視点から客観的に・冷静に・眺める訓練であるともいえます。うつ病の患者さんは,しっかりできていることもあるのに,「自分は何もしていない」「今日は寝てばかりだった」とマイナスに考えてしまいがちです。観念的二重化の能力が衰えているために,自分自身の行動を冷静に捉えられていないのです。このようなときに活動記録表を用いたセルフモニタリングを課題に出すことによって,自分の行動を客観的に捉えられるようになっていくのです。すなわち,この課題を通して,観念的二重化の能力の回復が図られていくわけです。
このような心の病と観念的二重化の問題について,説かれている文章があります。以下に引用します。
「また,この「観念的二重化」の実力を現実の世界とかけ離れたものとして自分勝手に歪めたままに育ててしまうと,それが現実の世界とかけ離れるほどに病への芽をつくることになりかねない問題でもあるといえます。心を病む人の認識の問題は「観念的二重化」の論理からのみ解くことができるということだけを,ここではふれておきたいと思います。」(神庭純子『初学者のための『看護覚え書』(2)』現代社,pp.190-191)
「心を病む人の認識の問題は「観念的二重化」の論理からのみ解くことができる」という言葉を,認識論を学びつつ心理臨床の実践を行っている筆者としては忘れてはいけないと感じています。この言葉の通りに,うつ病の問題は観念的二重化の能力の衰えとしてとらえることができますし,そうであるならば,観念的二重化の能力を回復させるために,自分自身の認知や行動・感情などを自分の外に置くという外在化の方法によって,自分自身を第三者の視点から冷静かつ客観的に眺める練習をしていくことは,うつ病の回復過程において必須であるともいえるでしょう。

