(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約�@
(3)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約�A
(4)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約�@
(5)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約�A
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:カントのいわゆる論理学とはどのようなものか
(8)論点2:全ての純粋悟性概念を残らず発見する方法とはどのようなものか
(9)論点3:純粋悟性概念とはどのようなものか
(10)参加者の感想の紹介
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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。
5月例会では、『純粋理性批判』の先験的論理学の構想その他を扱いました。今回の範囲は次のような構成になっています。
第2部門 先験的論理学
緒言 先験的論理学の構想
�T 論理学一般について
�U 先験的論理学について
�V 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて
�W 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区分することについて
第1部 先験的分析論
第1篇 概念の分析論
第1章 すべての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて
第1節 悟性の論理的使用一般について
第2節 判断における悟性の論理的機能について
第3節 純粋悟性概念即ちカテゴリーについて
今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。
今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。
なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。
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京都弁証法認識論研究会 2017年5月例会
カント『純粋理性批判』
先験的論理学 緒言
〜すべての純粋悟性概念を発見する手引きについて
1.先験的論理学について
カントは、論理学を一般的な悟性使用についての論理学(一般論理学、基本的な論理学)と、特殊な対象へ悟性を使用するための論理学に分けている。一般論理学は、我々が悟性を使用する場合の経験的条件(感覚、想像力、記憶、習慣、情意的傾向等々)を度外視した純粋論理学と、これら経験的条件を考慮した応用論理学とに分かれるが、純粋理性の学の一部をなすのはあくまでも純粋論理学である、とされる。
カントは、(従来の)一般論理学について、表象がア・プリオリに与えられようが経験的に与えられようが頓着なく、悟性が思惟において表象を互いに関係させつつ使用する場合に準拠するところの法則に従ってこれらの表象を考察するだけである、と指摘する。その上で、経験的起源をも感性的起源をも全くもたず、全く純粋思惟の作用としてのみ対象に関係する概念(我々が対象を全くア・プリオリに思惟するための条件)について究明する学が先験的論理学である、とする。
カントは、一般論理学について、真理の普遍的標徴を明らかにしようとする(形式に関する誤謬を発見する)だけで、内容に関する誤謬を発見しうるような基準をもたないと指摘して、思惟が正しいといえる一般的な形式を明らかにする「分析論」と、論理的判定の規準でしかないものから客観的主張(らしく見えるもの)を拵えあげてしまう「弁証論」とに区分する(後者は内容に関する誤謬を発見できないという限界に無自覚であったからこそ生じてしまったものである)。
カントは、先験的論理学は純粋な悟性認識の諸要素と対象が思惟されうるためには絶対に欠くことのできない諸原理とを論述する学なのだから、この部分は分析論である(真理であるための形式を明らかにする)と同時に真理の論理学である(この学に矛盾すれば一切の認識内容が消失する)と主張する。この先験的分析論は、もともと悟性の経験的使用を判定する基準にすぎないのだから、もし純粋悟性だけでもって対象を総合的に判断し主張しまた決定しようとするのなら、それは分析論の誤用である。こうした誤用から生じる弁証的仮象を批判するのが、先験的弁証論である。
〈報告者コメント〉
カントのいわゆる純粋理性の学は、人間の認識はいかなる条件で成立しているのか、という問題意識に徹頭徹尾貫かれたものであるといえるだろう。人間はこの世界を正しく捉えることができるかどうか、という思惟と存在に関わる根本問題について、思惟の構造を徹底して究明することで、その解決に迫ろうとしたのがカントであったことを、改めて確認しておきたい。
カントは、人間の認識について、感性・悟性・理性の3つの部分に分けて、それぞれがもともとどのような形式を備えているのかを考察している。これが先験的な究明ということである。感性(対象を感覚的に直観する能力)にもともと備わっている形式を究明するのが先験的感性論、悟性(直観で得られた多様な表象をまとめ上げて判断する能力)にもともと備わっている形式を究明するのが先験的論理学ということであろう(理性については、先験的論理学の第二部門たる先験的弁証論で扱われることになる)。
この世界を捉えるため(この世界についての認識を成立させるため)に、人間の認識(頭脳)の側にもともとどのような形式が備わっているのか、というカントの問いの立て方(認識の根源的な性格に迫ろうとするもの)自体は高く評価されるべきであろう。もちろん、「もともと」(先験的)という捉え方が唯物論の立場からすれば問題になることはいうまでもないが。
2.悟性の判断という機能および純粋悟性概念(カテゴリー)について
カントは、悟性は(思惟の能力であり概念による認識であるから)判断の能力、すなわち、我々の表象を統一する機能である、としている。つまり、諸々の具体的な表象(対象に直接に関係する表象)をより高次の(抽象的な)表象にまとめあげるのが悟性の判断だ、というわけである。ここからカントは、判断における統一の機能を完全に表示しさえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見することができるのだ、と主張している。
カントによれば、この統一を一般的に表現したものがすなわち純粋悟性概念(カテゴリー)である。純粋悟性概念こそが、悟性にもともと備わっている思惟の形式であり、それは諸々の表象をまとめる判断という悟性の機能にもとづいているのだ、ということになるわけである。
〈報告者コメント〉
多種多様な(雑多でそれ自体として脈絡のない)表象をまとめあげるための形式が人間の認識(頭脳)の側に備わってなければ、対象についての認識はまともに成立しない、というカントの着眼は、高く評価されるべきものであろう。これが、ヒューム的な因果律批判への解答というところからきていることも改めて確認しておきたい。
カテゴリー表の4項目がそれぞれ3つから構成されていることも興味深い。ヘーゲルがこの点に注意を促して、第一のカテゴリーは積極的(肯定的)であり、第二は第一を否定するもので、第三は両者の総合だというのは、概念の偉大なる本能である、という評価を与えていたことも確認しておきたい。同時に、カントがこれらのカテゴリーを経験的に(判断という機能を観察することから)とりあげるだけで、思惟そのものの統一からこれらの差別を必然的なものとして展開することはできなかった、という批判が加えられていたことについて、カントの論理学とヘーゲルの論理学との差異という観点から、議論を深めておくことも必要であろう。
唯物論の立場からすれば、これらのカテゴリーについて、ア・プリオリに(もともと)人間の認識に備わっている、と片付けてしまった点が批判されなければならない。唯物論の立場からすれば、これらのカテゴリーなるものは、あくまでも対象を反映した像を原点として、そこから抽象されて形成された論理像として捉えられなければならないのである。
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以上の報告に対しては、「1.先験的論理学について」の2段落目に「(従来の)一般論理学」という表現があるが、このカッコつきの「従来の」とはどういう意味かという質問が出されました。これに対してレジュメの執筆者は、カントは一般論理学と先験的論理学を区別して説いているようなので、この点を明確にするために、これまで一般的に用いられてきた一般論理学という言葉の前にカッコつきで「従来の」という表現を加えたのだと説明しました。この点については、論点の中で議論していくことを確認しました。

