本稿は,天才セラピストと称されている東豊が採用しているシステムズアプローチを俎上に載せ,なぜこの方法でセラピーが奏効するのかを,弁証法の観点から説いていく論考でした。システムズアプローチとは,「システムを念頭に置いた心理・社会的援助の総称」(東豊『セラピスト入門』p.5)のことであり,部分はシステムのあり方に規定され,システムのあり方は部分に規定されているという特徴を活かして介入するセラピーでした。ここで,これまでの流れを振り返っておきたいと思います。
はじめに,システムズアプローチの前提となっているものの見方考え方について検討しました。それは,円環的思考法と呼ばれており,一方通行の直線的思考法とは違い,「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。」などと考える考え方,「事象Aは事象Bの原因でもあり,結果でもある(事象Bは事象Aの原因でもあり,結果でもある)」というように,双方向的な見方をする考え方のことでした。このような円環的思考法は,物事を矛盾として,対立物の統一として捉える見方であり,非常に弁証法的な見方といってよいのでした。システムズアプローチでは,このような対象の弁証法性を的確に捉えられるような見方が採用されているからこそ,対象をきちんととらえられ,その対象に適切に働きかけていくことが可能となっているのだと説きました。もう一つ,コンテンツ(内容)よりもコンテクスト(前後関係,文脈)を重視するというシステムズアプローチの見方も検討しました。これは,コンテンツに囚われることなく,コンテクストに目を向け,悪循環のパターン(コミュニケーションの連鎖)を見出そうとするものの見方のことです。これは,システムの部分同士や部分と全体のつながりを見ようとする見方であり,全体を踏まえることによって部分だけを見ていたのでは見えてこなかった対立する性質を浮き彫りにする見方でもあるという意味で,非常に弁証法的な見方といってよいのでした。このように,システムズアプローチが奏効する背景には,弁証法的なものの見方があるのでした。
次に,システムズアプローチの代表的・典型的技法の一つである「ジョイニング」を取り上げて,これを弁証法の観点から説きました。ジョイニングとはお仲間に入れていただくということであり,システムに参加する,とけ込むことを意味していました。東豊は,ジョイニングがすべてであり,ジョイニングができないと,他の指導は無意味になるし,ジョイニングのセンスがないと援助者にはなれないと断言するほど,ジョイニングを重視しているのでした。では,どのような操作をすればジョイニングができるのでしょうか。東豊は,ジョイニングを実現するためには,相手のムードや雰囲気,動き,話の内容,ルールに合わせなければならないと説いていました。これらは要するに,言語表現・非言語表現を媒介として,当該のシステムの諸々の社会的認識を見極め,セラピスト自身もその社会的認識を有しているものとしてふるまうことであるといえると説きました。セラピストは,当該システムの多様性・変化性を見抜き,それに合わせてこちらも変化していくという弁証法的な運動・変化が求められるのでした。一般に,ある対象をコントロールしたり思い通りに変化させたりしたい場合,まずはその対象の性質を見抜き,それに合わせてこちらが動いていくことが必要となりますが,システムズアプローチで家族システムを扱う場合も,論理的には全く同様のことがいえるのでした。すなわち,セラピストは,何か悪循環に陥っている家族システムをコントロールし,思い通りに変化させたいわけですが,そのためには,それぞれの家族システムの性質=社会的認識をしっかりと見極め,それに合わせてこちらが動いていく必要があるのでした。ジョイニングがそのまま変化に向けた介入になりうるということを,事例を通して検討したあと,「問題」と思われるようなものでも,システムズアプローチにおいてはそれも「資源」であるととらえて,活用していくという点,および,ジョイニングに際しては,一方に肩入れしないように,非敵対的矛盾を実現するとともに解決するようなポジショニングを常に意識する必要があるという,ジョイニングに関わるあと2つの弁証法的側面にも触れました。
最後に,もう一つの代表的・典型的技法である「リフレーミング」を取り上げて,これを弁証法の観点から論じました。「フレーム」(frame:枠あるいは枠組み)とは,物事の受け止め方,意味づけの仕方のことであり,リフレーミングとはクライエントがすでに所持しているフレームを変える作業であり,面接のゴールに至る第一歩であるとされていました。リフレーミングの中でもよく知られているものに,ポジティブ・リフレーミング(positive reframing:肯定的意味づけ)があり,これは否定的に見えることの中に肯定的側面を発見することであると東豊の本では説かれていたのでした。まず,「母親が口うるさいせいで,子どもが反抗的になった」というフレームを,「子どもが反抗的なせいで,母親が口うるさくなった」とリフレーミングしたり,「夫が家事を何もしないせいで,妻がすべてをやらないといけない」というフレームを,「妻が全部やってしまうせいで,夫は何もしない」とリフレーミングしたりする単純なリフレーミングについて,弁証法の観点から考察しました。これらはすべて,現実のもつ二面性,すなわち矛盾をそれなりに捉えたものであり,これらのリフレーミングが可能な現実的な根拠は,現実のもつ弁証法性にあると指摘しました。弁証法の教科書である『弁証法はどういう科学か』にも,「因果関係の構造」として,原因と結果には直接の統一があることや結果の内部にも原因があることが指摘されていると紹介しました。問題は役に立っているので解決すべきではないとリフレーミングするようなポジティブ・リフレーミングについても検討しました。二つの事例を紹介し,そこでは,問題とされている症状は,対立する性格(=システム内の他の問題を解決する機能)も有していて,弁証法的な存在であるがゆえに,ポジティブ・リフレーミングによって,180度異なった見方をすることが可能になったのだと説きました。また,人間の認識は,受動的であると同時に能動的であるという矛盾した存在であるから,見たいようにものごとを見る傾向があるのであり,ポジティブ・リフレーミングはこのような認識の弁証法性を活用した方法であるとも指摘しました。
以上要するに,システムズアプローチが前提としているものの見方は非常に弁証法的であり,システムズアプローチが用いる代表的・典型的技法であるジョイニングやリフレーミングも,現実の弁証法性を踏まえたものになっているということです。弁証法的なものの見方が前提となっているために,現実の運動・変化やつながりを的確に捉えることができ,技法が弁証法性を踏まえているために,現実の弁証法性に見合った形で介入でき,思い通りに変化させることができるのだということです。東豊のセラピーが「天才的」と称されるのも,システムズアプローチという方法論を採ることによって,無意識的にではあれ,弁証法的な見立てと介入を行っているからこそ,ということもいえるでしょう。弁証法の教科書には,「現実の世界が弁証法的な性格を持っているのですから,現実ととりくんでそのありかたを正しくつかんだ著述には,多かれ少なかれ弁証法が顔をのぞかせています」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.244)と説かれていますが,システムズアプローチはその非常に典型的な実例だといってもいいでしょう。
東豊は,非常に教育熱心なことでも知られています。大学院生に対する指導の一端は東豊『セラピスト誕生』などにも描かれていますが,そこで描かれているように,ロールプレイによる徹底した指導によって,院生はシステムズアプローチを学ぶと直接に,それとは自覚せずに,弁証法をも習得していくのだといえるでしょう。たとえば,物事をつながりで見ること,物事の両面性,矛盾を見ること,相手の変化性に合わせてこちらも変化すること,問いかけを変えればものの見方が変わることなどを,システムズアプローチと直接に,学んでいくのです。そうすることによって,弁証法の基本がある程度身につき,その弁証法の実力でもってセラピーを行うからこそ,面接上手になっていくのだと考えられます。
リフレーミングのところで紹介したように,問題を問題として捉えずに,かえってそれが役に立っているのであるから,その問題を解消しようとすべきではない,とするリフレーミングは,別の角度から見ると,「逆説的介入(パラドックスの技法)」などと呼ばれることもあります。問題を解決しに来ているクライエントに,問題は解決すべきではないと教示して,それによって,実は問題の解決を図ろうとしているからこそ「逆説(パラドックス)」なのです。これも弁証法的に捉えれば,回り道によって問題解決を図ろうとしているわけであり,「否定の否定の法則」を使ったものだということもできるでしょう。
また,システムズアプローチでは,家族システムにセラピストがジョイニングして,セラピストをも構成員として加えた「治療システム」の中でセラピストが介入し,従来の相互作用とは違った相互作用をもたらすようにします。すなわち,何らかの悪循環を好循環に変えるわけです。そうして,セラピストが抜けた家族システムにおいても,その好循環が維持するようにするのです。これは弁証法的に捉え返せば,家族システムと治療システムの相互浸透といえるのであり,治療システムの好循環が家族システムに浸透していくことを狙うのがセラピーである,ということがいえるでしょう。
このように,連載2〜4回で見た以外にも,システムズアプローチは弁証法的な発想がちりばめられており,弁証法的な介入を行って成果を上げているといえるのです。
本稿では,東豊が何故天才と称されるのかという問題意識のもと,彼が採用しているシステムズアプローチの優れた側面に焦点を当てて,これまで論じてきました。それでは,システムズアプローチを学べば,弁証法もしっかり勉強できて,面接上手になっていうことなしなのかというと,そういうわけでもありません。システムズアプローチには,大きな落とし穴があると筆者は考えています。詳細はまた別の機会に説きたいと思いますが,以下で簡単に触れておきます。
結論から言いますと,システムズアプローチは観念論的な世界観に立っている点が大きな欠陥だといえます。観念論に陥ってしまっているのは,システムズアプローチが「社会構成主義」に依拠しているからです。東豊は次のように説いています。
「いかに真実のようにみえても,それはひとつのフレームに過ぎない。そして,多くの人が同じフレームを心に描いて言葉にすることで,社会的に存在感をもつフレームができあがる。社会構成主義ですね。だから,リフレーミングとは,脱構築,あるいは物語の書き換えのための作業であるといってもいいのです。」(東豊『リフレーミングの秘訣』p.95)
ここで説かれていることは,真実なんてものは存在せず,社会的な現象はすべてフレーム(受け止め方,意味づけの仕方)によって創られる,ということです。認識が社会を構成するという主張なので,これは観念論ということになります。現実には無限に多様な性質があるから,現実はフレーム次第で異なって認識される,というのであれば唯物論なのですが,そこから行き過ぎて,フレーム次第で現実はいかようにも創られるとしてしまうと,観念論に転落したことになってしまいます。
ではなぜ観念論ではだめなのでしょうか。このあたりも別稿で詳細に論じたいところではありますが,簡単に説けば,一つには,観念論では,人間の認識は初めから「ある」とされているので,認識の生成発展の必然性が解けなくなってしまうからです。われわれの行う心理臨床は,端的にいえば相手の認識を変えるための働きかけですから,その認識の生成発展の必然性を掴むことがはじめからできないような世界観に立っていては,限界が来るのは論理的に明らかです。
もう一つ,観念論は宗教と親近性がありますので,宗教の方に流れてしまう可能性が高いのです。実際,東豊は近年,神様やサムシング・グレートなるものに対する信仰を著作で公表しています。そしてセラピストは「他力本願」であるべきだと力説しているのです(東豊『リフレーミングの秘訣』p.46)。論理的には,神様の力を認めれば認めるほど,人間の力を不当に低く見積もることになりますので,セラピストの努力や実力を不当に低く評価したり,最悪の場合,セラピーで相手を力づけるのではなく,相手を無力なものとして扱う可能性すら生まれてくるといえるでしょう。
システムズアプローチの限界について,もう一つ別の側面を指摘しておくならば,弁証法性を踏まえているとはいえ,文化遺産としての弁証法をしっかりと学んで吸収しているというわけではない点も挙げられます。認識論についても同様のことがいえます。要するに,哲学の遺産である弁証法や認識論といった,人類の文化遺産をしっかりと受け継いで成立したものではないために,運動・変化やつながり,それに人間の認識といったことについて,法則性レベルの把握が弱く,連載第4回の最後にも触れたように,偶然に左右される側面が大きくなってしまうのです。
では,以上のように観念論に落ち込まずに,しっかりと弁証法的な介入ができるようになるためには,どうすればいいでしょうか。それは,システムズアプローチを学ぶにしても,唯物論的弁証法と科学的認識論の学びを踏まえることです。また,より根本的には,唯物論的弁証法と科学的認識論を心理療法の領域に具体化した新しい理論体系を創っていく必要があるといえるでしょう。それこそ,筆者が目指しているものであり,唯物論的弁証法と科学的認識論をこれまで学んできた臨床心理士である筆者の歴史的な使命であるといます。
このような使命を全うできるように,これからも弁証法・認識論,および心理療法の研鑽を積んでいくことを決意して,本稿を終えたいと思います。
(了)


>「いかに真実のようにみえても,それはひとつのフレームに過ぎない。そして,多くの人が同じフレームを心に描いて言葉にすることで,社会的に存在感をもつフレームができあがる。社会構成主義ですね。だから,リフレーミングとは,脱構築,あるいは物語の書き換えのための作業であるといってもいいのです。」(東豊『リフレーミングの秘訣』p.95)
ここでは、上記の記述を以下のように理解して「観念論」としています。
>ここで説かれていることは,真実なんてものは存在せず,社会的な現象はすべてフレーム(受け止め方,意味づけの仕方)によって創られる,ということです。認識が社会を構成するという主張なので,これは観念論ということになります。現実には無限に多様な性質があるから,現実はフレーム次第で異なって認識される,というのであれば唯物論なのですが,そこから行き過ぎて,フレーム次第で現実はいかようにも創られるとしてしまうと,観念論に転落したことになってしまいます。
私の理解は以下のようです。
>いかに真実のようにみえても,それはひとつのフレームに過ぎない。
〜いかに事実のようにみえても、それはひとつの捉え方・見型に過ぎない。
>多くの人が同じフレームを心に描いて言葉にすることで,
〜多くの人が同じ見型を心に描いて言葉にすることで、
>社会的に存在感をもつフレームができあがる。
〜社会的に存在感をもつ社会的認識ができあがる。
ここの「存在感をもつフレーム」とは認識であり、それは「現象・事実ではない」のでは…
なので、「社会的な現象はすべてフレーム(受け止め方,意味づけの仕方)によって創られる…」=「観念論」と言い難いのでは?
ここでの「フレーム」とは、認識・観念の事なら、
「フレームによって社会的な現象・事実が創られる」ではなく、
フレームを変え言葉・表現する事で、事実の捉え方が変わり、行動・行為に変化が起こり得る…なのでは?
そして、多くの人間の行動・行為の結果、社会的な現象・事実も変化し得る…かな…
もっとも…ここには、「その心の表現・言葉を心底信じ・信じ続ける」という認識が必要不可欠でしょうが…
私が思うに、これは観念論と言うより、アバウトな弁証法的認識論なのでは?
ここに不足しているのは、弁証法的具体的唯物的な条件なのでは?
ただ、そのフレームが観念的な思いだけで必ず変えられる!
と考え思い込むだけでは、観念論ですかね…