(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ要約�@
(3)ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ要約�A
(4)ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ要約�B
(5)ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ要約�C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:形而上学の時代とはどういうものか?
(8)論点2:デカルトの哲学とはどういうものか?
(9)論点3:スピノザの哲学とはどういうものか?
(10)参加者の感想の紹介
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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
我々京都弁証法認識論研究会は,昨年および今年の2年間を費やして,ヘーゲル『哲学史』の学びに取り組んでいます。3年前のヘーゲル『歴史哲学』,一昨年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを踏まえて,この『哲学史』を通読することにより,ヘーゲルが描く哲学史の流れを理解することはもちろんのこと,それを唯物論的に捉え返すことで唯物論哲学の創出に向けた一歩を確実に進めていくことを課題としています。
7月例会では,「思惟する悟性の時期」とされる時代の始まりの部分を扱いました。具体的な哲学者としては,デカルト,スピノザ,およびマルブランシュが取り上げられていました。今回の例会報告では,まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと,扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し,ついで,参加者から提起された論点について,どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に,この例会を受けての参加者の感想を紹介します。
今回はまず,報告担当者から提示されたレジュメ,およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。
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ヘーゲル『哲学史』(思惟する悟性の時代)
1.形而上学の時代とはどのようなものか
ヘーゲルは,デカルトとともに,本格的な哲学に足を踏み入れるとしている。本格的な哲学とは,理性を自立的な出発点とし,自己意識が真理の本質的契機であることを自覚している哲学である。思惟によって生み出される哲学の形式として,ヘーゲルは形而上学の形式(思惟する悟性の形式)と,懐疑論および批判主義があるとしている。
ヘーゲルによれば,形而上学は,二元論に反対して,ひとつの統一を確立しようとするもので,その内部には,実体を重んじる立場と個体を重んじる立場との対立がある。第一は,存在と思惟の統一を立てるデカルトとスピノザである。第二は,経験の形而上学的な理念を考察しつつ対立そのものを扱うロックである。第三にライプニッツの単子に至ってはじめてそれ自身世界観の総体となるとヘーゲルは述べている。
<報告者コメント>
この形而上学の時代というのは,一言でいえば,世界について1つの原理から把握しようとする傾向が生まれた時代ということになるだろう。こうした問題意識が生まれた背景には,当時の混乱した社会情勢が大きくかかわっていると思われる。カトリック教会の絶対的な支配が崩れる中で,政治的には諸国が国家としての枠組みを固めていき,また宗教的には新教徒が勢力を伸ばすようになり,ヨーロッパでは様々な対立が生じるようになった。その最も代表的なものが三十年戦争だと言えるだろう。こうした中で,「一体何が正しいのか」という問題意識が社会的認識として浮上してくることになったのだと思われる。そこで絶対に正しい1つの原理を求める傾向が芽生えてきたのだろう。
これを個体発生になぞらえるならば,青年期に相当するのではないか。『手にとるようにわかる発達心理学』では,「青年期には『自分とはどんな人間なのか』『自分は将来どんなことをやりたいのか』『自分の生きている意味は何だろうか』といった問題について模索し,ゆるぎない自分を確立することが必要になるのです」とかかれている。これをアイデンティティの確立と呼ぶが,それを求め始めた時期ということになるのではないか。
2.デカルトの哲学とはどのようなものか
デカルトの出発点は,思想は自己自身からはじめられなければならないという点にあるとされる。これを「一切を疑わなければならぬ」と表現する。あらゆる偏見を捨て去り,思惟を純粋なはじまりとして,そこから確実なものにいたるべきだ,というのである。デカルトは「我思う,ゆえに我あり,という認識こそ,秩序だって思索するすべての人に第一に示される,最も確実な認識である」と言う。ヘーゲルは,この「我思う」は,直接に私の存在を含んでおり,これが全ての哲学の絶対的基礎だという。ここでは思惟と存在が不可分に結合されており,哲学は再び本来の土台の上に立つことになったと評価している。
ヘーゲルによると,デカルトは事物を思惟するものと延長をもつものという2種類に分けたとされる。自然の領域をなす延長実体と精神としての実体は互いに相手を必要としない。思惟は精神の絶対的属性を構成し,延長は物体の本質的規定であって,それ以外のものはただ二次的性質たる様態にすぎないという。そこで,デカルトは延長の概念から運動の法則へと考察を進める。延長と運動は力学の根本概念で,物体世界の真理を映し出す。このようなデカルトの自然哲学をヘーゲルは,全ての関係を力学的運動に還元するものだとしている。一方,精神の哲学は,形而上学的な部分と経験的な部分がいりまじっており,デカルトの形而上学は哲学的思考からは程遠いものだとしている。
デカルトは,「我思う」という意識のなかに精神の自立性の基礎をおき,この抽象的な自己と外部の個物を結合する中間項が神であるとしたが,神が第三者として両者の外に現れるために,統一が概念化されることはなかったとヘーゲルは述べている。
<報告者コメント>
絶対的な真理を求める傾向が芽生える中で,そもそもそれが真理であるかどうかをどうやって判断するのかという問題に解答を与えたのがデカルトだということになるだろう。それ以前は教会の啓示的真理に合致するかどうかが真理かどうかを判定する基準であったのだが,デカルトは,真理かどうかを判定する基準は個々の人間がもっているのであり,それを理性(良識)と呼んだ。これは当時の人々が自然の人間化を推し進める過程で,自らの力に対する自信を取り戻していったこと,それに伴いカトリック教会がその権威を失っていったことを受けての主張だということになるだろう。デカルト自身,スコラ哲学に関する教育を受けたものの,スコラ哲学は意味がないと失望していたようである(このことは,南郷先生の著作でも紹介されていた)。このように,個人の体験として,カトリック教会,スコラ哲学の衰退というものを感じていたからこそ,それに代わるものを求めたのだと言えるだろう。
ヘーゲルは「人間は精神であるから,自分の力に絶対の自信をもってよい」という内容を就任演説で述べていた。このような人間の力に対する絶対的な信頼というものが,このデカルトにおいて芽生えたのだということができるだろう。
3.スピノザの哲学とはどのようなものか
ヘーゲルによれば,スピノザの哲学はデカルト哲学の原理を首尾一貫した体系へと展開したものだとされる。デカルトにあっては,物体性と思惟する自我とはそれだけで自立的なものであったが,スピノザにあっては,真なるものは端的にひとつの実体(神)であり,この実体が思惟と延長を属性とするということである。しかし,スピノザの実体は一般的抽象的に定義されたものにすぎず,いかなる発展も精神性も活動も生まれてこないとヘーゲルは指摘している。
以下,ヘーゲルはスピノザ『エチカ(倫理学)』から定義・命題・道徳論について扱っている。定義においてスピノザは実体,実体に対する第二のものとしての属性,実体に対する第三のものとしての様相を扱っている。この実体,属性,様相は普遍,特殊,個別に対応するが,第三の存在を悪しき個別たる様相としてしか捉えない点がスピノザの欠点だとしている。個別的なもの,主観的なものは,普遍的なものへと返っていくのであり,個別的なものは,自己自身のもとにあることによって普遍的なものであるが,この返っていく過程がスピノザにはないと指摘している。
命題の要点は,ヘーゲルによると,定義された概念から神という唯一の実体が存在するのを証明することである。しかし,スピノザはその唯一の実体である神から自然と思惟という2つの属性がどのように生じるのか,なぜ2つしかないのかの証明はしないと指摘している。
続いてヘーゲルはスピノザの道徳論について紹介している。道徳の原理は,有限な精神が道徳的真理を獲得するのは,認識と意志を神に向け,神の観念を真に認識するときに限られるというものだとされる。感情が人間の行動を左右するとき,人間は受動的な不自由の中にある。しかし,精神がすべてのものを必然ととらえるとき,感情を制御することがずっとたやすくなるというスピノザの言葉に触れて,これが精神の神への帰還であり,人間の自由であるとヘーゲルは述べている。
スピノザは一切の規定はそのうちに否定を含むという命題を立てた点をヘーゲルは評価する一方,その否定が一面的であったため(否定は否定の否定であり,それによって真の肯定となるという否定的な自己意識の契機を欠いていた)こと,その結果,主観性,個体性,人格性の原理,本質における自意識の契機が根絶されてしまったことを批判している。
<報告者コメント>
スピノザの哲学はデカルト哲学の原理を首尾一貫した体系へと展開したものだとされているが,要するにデカルトによって整理された思惟するものと延長をもつものという2つの実体を,神の二側面であるという形で統一して捉え,すべてがこの神の現れに他ならない(汎神論)と主張したのがスピノザの哲学だということになるのだろう。ヘーゲルは全世界を絶対精神の現れだと捉えているが,このスピノザの主張はそれに近いものがあり,その点をヘーゲルは評価しているのだと思われる。
一方で,ヘーゲルは絶対精神が自然,精神へと転化し,再び絶対精神に戻ってくるという自己運動の過程を説いているのに対して,そうした運動性・発展性について説けていないということがスピノザに対する批判だと言えるだろう。神という唯一の実体を定めたのはいいものの,そこからどのようにして思惟と延長が出てくるのか,なぜその2つしかないのかという点が明らかにされていないということである。
こういう観点からみると,このデカルトからスピノザの流れは,ドイツ観念論におけるカントからフィヒテ,シェリングという流れに類似しているように思われる。カントは物自体の世界と現象の世界という形で世界を大きく2つに区分したものの,その2つをどう統一的に把握するかが課題として残ることとなった。その課題に取り組んだのがフィヒテ,シェリングであり,シェリングにおいて絶対的同一性なる「絶対者」が掲げられたが,無差別とか同一性とかいわれる抽象的な「絶対者」から,無限の多様性をもって展開する現実世界が如何にして生成してくるのか,まともに解くことができなかったということであった。
シェリングはスピノザの汎神論にヒントを得て「絶対者」を発想したようであるが,そのまま横滑りさせてしまったために,同様の問題点を抱えることになってしまったのだろう。我々も先哲の見解を横滑りさせるのではなく,その意義と限界をしっかりと把握していかねば,同じ失敗をしてしまうことを意識すべきであろう。
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このレジュメに対して,まず,「この形而上学の時代というのは,一言でいえば,世界について1つの原理から把握しようとする傾向が生まれた時代ということになる」とあるが,これでは一般的すぎる,という指摘がなされました。「世界について1つの原理から把握しようとする傾向」ということであれば,それこそソクラテスの時代から,いや,それ以前からあるのであって,何もこの時代に始まったことではない,という指摘です。また,時代背景についての説明も一般的すぎるという指摘もありました。これについては,レジュメ報告者も同意しました。
また,個体発生になぞらえようとする姿勢は重要であるものの,系統発生と個体発生の対応は一つではないのであり,いくつもの正解がありうるのだから,どういう観点で対応させたのかを説かないと,あまり意味がないのではないか,という指摘もなされました。これについても,レジュメ報告者は同意しました。
さらに,「デカルトからスピノザの流れは,ドイツ観念論におけるカントからフィヒテ,シェリングという流れに類似している」という指摘については,興味深い観点であり,論理的には筋が通っているというコメントがなされました。ここに関して,別の会員は,新プラトン主義に至る過程も,デカルトからスピノザへの過程も,さらにカントからフィヒテ,シェリングへと至る過程も,すべて一元論に解消していく流れということでは同一であり,同じような過程のくり返しがなされているといえる,これは正規分布図に従ったくり返しによって発展しているということだ,とコメントしました。これには皆が納得しました。

