(1)没後100年の年に漱石を読む意義とは
(2)『吾輩は猫である』――「猫」的視点からの人間社会への批判
(3)『坊っちゃん』――旧時代に依拠して新時代へ異議を申し立てる
(4)『草枕』――「非人情」と「人情」との宥和をめざして
(5)『二百十日』――革命を想う熱い心
『野分』――「文学者」として生きる決意
(6)『虞美人草』――悲劇によって社会を真正の文明に導く
(7)『坑夫』――硬直したものの見方・考え方を突き崩す
(8)『三四郎』――「現実世界」に積極的に斬り込んでいくことへの逡巡
(9)『それから』――「現実世界」からの逃避を経て再対決へ
(10)『門』――断ち切りがたい「現実世界」とのつながり
(11)『彼岸過迄』――「胸(ハート)」を抑える「頭(ヘッド)」
(12)『行人』――自己(主観)と世界(客観)の関係への根本的な苦悩
(13)『こころ』――「明治の精神」に殉じて新世代に希望を託す
(14)『道草』――「公平な観察者」的な視点の獲得
(15)『明暗』――改めて「現実世界」に正面から闘争を挑んでいく
(16)漱石の苦闘の過程を主体的に受け止め「現実世界」の変革へ
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(1)没後100年の年に漱石を読む意義とは
今年は、夏目漱石が亡くなってちょうど100年という記念の年にあたります。近代日本を代表する国民的大作家とされる夏目漱石は、1916年(大正5年)12月9日、49歳でその生涯を閉じたのでした。
漱石の作品の特徴については、「近代人の不安と孤独を描く」「エゴイズムの追究」(浜島書店『改訂版 常用国語便覧』)といった言葉で語られることが多いようです。簡単にいえば、漱石の作品には、人間の利己的な心の動きの醜さを鋭く抉るような洞察の深さがあり、そのことが現代に生きる我々の心をも大きく揺さぶるのだ、というわけです。しかし、漱石によるこうした「エゴイズムの追究」は、人間の内面を徹底的に深く掘り下げていけば人間の真相に迫ることができるのだ、といった姿勢のものではありませんでした。このことは、本ブログに先ごろ掲載した論稿「夏目漱石の思想を問う」において論じたとおりです。
この論稿では、漱石の評論文や講演録を取り上げて、漱石が単に人間の内面だけを掘り下げようとしていたわけではなく、個々人を取り巻く日本社会の有様、さらには日本という国家を取り巻く世界全体の情勢の有様に常に強い関心を持ちつづけていたこと、そうした社会の動きが個人の心のあり方に如何なる影響を及ぼしていくことになるのか、という視点を明瞭に把持していたことを論じました。漱石は時代の課題に正面から応えようとする思想家としての側面をもっていた、ということでした。
結論的にいえば、その漱石の思想とは、個としての主体性の確立を何よりも重視し、それを阻む諸々のもの(西洋文化の表面的な模倣、権力・金力の横暴、国家主義・軍国主義など)に厳しい批判の眼を向けるものであった、ということができるのでした。先の論稿では、漱石はそうした自己の思想を表現するための一手段として小説という形態を採用したのではないか、とも指摘したのでした。
このことを裏書するのが、1906年(明治39年)10月26日、門下生である鈴木三重吉に宛てて書かれた手紙です。この手紙で漱石は、「僕は小供のうちから青年になる迄世の中は結構なものと思っていた」と述べます。旨いものを食べ、綺麗な着物を着て、詩的に生活して、美しい細君をもって、美しい家庭を築けるものだと思っており、これらの反対のことはできるだけ避けようとしていた、というのです。しかし漱石は、世の中は自己の想像とは全く正反対の現象でうずまっているのであり、この世の中にいる以上は「キタナイ者でも、不愉快なものでも、イやなものでも一切避けぬ否進んで其内へ飛び込まなければ何にも出来ぬ」のだといいます。文学をもって生命とする以上、超然と単なる美を追求するだけでは決して満足が出来ない、「間違ったら神経衰弱でも気違いでも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまい」「死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」というのです。
こうした激しい感情は、漱石が門下生の中村蓊に宛てた手紙(1907年〔明治40年〕8月6日付)のなかでは、以下のように吐露されています。
細民はナマ芋を薄く切って、それに敷割などを食っている由。芋の薄切は猿と択ぶ所なし。残忍なる世の中なり。而して彼らは朝から晩まで真面目に働いている。
岩崎の徒を見よ!!!
終日人の事業の妨害をして(否企てて)そうして三食に米を食っている奴らもある。漱石子の事業はこれらの敗徳漢を筆誅するにあり。
「岩崎の徒」というのは、いうまでもなく、岩崎弥太郎を創始者とする三菱財閥を指すものにほかなりません。漱石は、真面目に働く圧倒的多数の庶民が一握りの巨大企業の利益のために抑圧されているという社会の現実に対して、激しい怒りを燃やしていたのです。そして、「岩崎の徒」のような敗徳漢を筆誅することこそ、自身の事業にほかならない、とハッキリと宣言していたのでした。このように、漱石が生命をかけた文学とは、権力や金力の横暴など、個人の自由な発展を阻む諸々の事柄と闘うための手段にほかならなかったわけです(*)。
しかし、「岩崎の徒」などの「敗徳漢」は、そう簡単に倒せるような敵ではありませんでした。漱石は、高浜虚子に宛てた手紙(1906年〔明治39年〕11月11日付)のなかで、以下のように述べています。
僕は十年計画で敵を斃(たお)す積りだったが近来これほど短気な事はないと思って百年計画にあらためました。百年計画なら大丈夫誰が出て来ても負けません。
「百年計画」ですから、漱石自身が生きている間には完遂できない計画です。個人の尊厳を踏みにじる敵を倒すという自分自身の事業を、自分の後に続く世代に継承していってもらわなければならない、という課題がここに生じているわけです。
こうした観点から注目に値するのは、1907年(明治40年)4月、東京美術学校で行った講演「文芸の哲学的基礎」です。この講演の最後の部分で漱石は、次のように述べています。
新しい理想か、深い理想か、広い理想があって、これを世の中に実現しようと思っても、世の中が馬鹿でこれを実現させない時に……自分の理想は技巧を通じて文芸上の作物としてあらわるるほかに路がないのであります。そうして百人に一人でも、千人に一人でも、この作物に対して、ある程度以上に意識の連続において一致するならば、一歩進んで全然その作物の奥より閃めき出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡を残すならば、なお進んで還元的感化の妙境に達し得るならば、文芸家の精神気魄は無形の伝染により、社会の大意識に影響するが故に、永久の生命を人類内面の歴史中に得て、ここに自己の使命を完うしたるものであります。
要するに、文芸(文学)というものは、高い理想を抱きながらそれを現在の世の中に実現することが出来ない者が、作物を通じて後世に働きかけようとするものにほかならない、というわけです。作家の理想が作品を媒介にして読者の心を動かすならば、「社会の大意識」に影響して「永久の生命を人類内面の歴史中に得」るだろう、というのです。
このように漱石は、全ての個人の自由な発展という自己の理想が、「人類内面の歴史」のなかでの永久に生き続けるように、また、その理想が後世において現実のものとなることを願って、諸々の小説を書き続けていったわけです。漱石の死から100年の後に生きる我々は、こうした漱石の熱い思いにしっかりと応える気概をもって、漱石の小説を読んでみるべきなのではないでしょうか。
漱石の最初の小説である『吾輩は猫である』は、1904年(明治37年)の暮れに書き始められたものです(そのとき漱石は37歳でした)。その後、1907年(明治40年)2月に一切の教職を辞して職業作家として歩み始め、1916年(大正5年)の末に大著『明暗』を未完のまま残して49歳で没するまで、漱石の作家生活はわずか10年程度のものにすぎませんでした。この期間に漱石が書いた中・長編小説を列挙すると、以下のようになります(括弧内は発表された年)。
・『吾輩は猫である』(1905年−1906年)
・『坊っちゃん』(1906年)
・『草枕』(1906年)
・『二百十日』(1906年)
・『野分』(1907年)
・『虞美人草』(1907年)
・『坑夫』(1908年)
・『三四郎』(1908年)
・『それから』(1909年)
・『門』(1910年)
・『彼岸過迄』(1912年)
・『行人』(1912年)
・『こころ』(1914年)
・『道草』(1915年)
・『明暗』(1916年)
漱石は、これらの作品を通じて、個人の自由な発展を阻む諸々の敵と苦しい闘争を積み重ねていったのです。その苦闘は、自分の生きているうちに自分の理想を実現することは不可能であることを覚悟しつつ、後世に残る文学作品を創造することで、後世の人々の魂に働きかけようとするものにほかなりませんでした。
我々は、漱石没後100年という記念の年だからこそ、漱石の「百年計画」という言葉を重く受け止めなければなりません。個人の尊厳を脅かす諸々の敵と100年という長期的な視野で闘って打ち倒す――漱石の小説作品は、この「百年計画」を実行するための手段にほかならなかったのです。本稿では、このことをしっかりと踏まえた上で、これら漱石の中・長編小説について、漱石が後世に託した自己の理想を現代に生きる我々はどのように受け止めるべきなのか、という観点から、検討していくことにします。
(*)こうした漱石の戦闘的精神に着目して、漱石の苦闘の生涯と作品を見事に筋を通して論じたのが、伊豆利彦『夏目漱石』(新日本新書、1990年)である。

