前回は、『法学講義』の全体像の概観を目的とした本稿でこれまで説いてきた流れを改めて簡単に振り返った上で、『国富論』が決して単なる経済学の本として構想されたものではなく、あくまでも国家(法と統治)の全体像(社会の始原からの発展過程をも視野に入れての!)を描き出す壮大な構想の一部であったことを確認しました。端的には、正義(身体・財産の安全保障)という枠組みのなかで展開する実質的な中身として生活行政(分業による生活資料の安価と豊富の実現)が位置づけられ、そこから再び公収入および軍備という国家の枠組みに戻っていく、という構想があったわけでした。
スミスは、こうした構想の下に『法と統治の一般的諸原理と歴史』(仮称)という大著に挑み続けていたわけですが、結局それは完成させられることはなく、このうちの後半部分(『法学講義』第2部の生活行政論、公収入論、軍備論)のみが、『国富論(諸国民の富の本質と原因にかんする研究)』というタイトルで先行して刊行されることになったのです(『法と統治の一般的諸原理と歴史』全体の構想が放棄されてしまったわけではないことは、晩年の言明から明らかです)。
それでは、何故にスミスは、『法学講義』の後半部分のみを『国富論』として独立させて先行的に完成させることになったのでしょうか。この問題について、我々は、2013年9月に本ブログに掲載した「アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う」において、以下のように論じました。
「端的には、スミスが、法学の一般的諸原理を説くべき前半部分において、「公平な観察者」による共感の歴史的な積み重ねという論立てでは正義(所有権)の絶対性を論証できない、という難問にぶちあたってしまい、この難問解決への糸口を何とか見いだそうと苦闘したあげく、正義(所有権)の絶対的な確立というゴールの姿を明確にすることこそがそのゴールに到達するまでの歴史的過程の構造を究明する上でのヒントになりそうだ、という考えに至ったからではないか、ということでした。それだからこそスミスは、法学体系の後半に相当する『国富論』を先行して執筆・出版するという決断をしたのではないか、と考えられるわけです。『国富論』は、学問の歴史の流れのなかに客観的に位置づけてみてみるならば、経済学の歴史が流れ出す起点としての意義をもつことになるのですが、スミス自身の認識においては、あくまでも法学体系の後半部分に相当するものにほかならなかったのです。」(「アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う(10/13)」)
要するに、『法学講義』は、正義(所有権)確立の歴史を説く第1部、正義が確立した下で(商業社会で)展開される生活資料の安価と豊富(および公収入と軍備)を論じる第2部、という形で構成されていたのであって、『国富論』を先行させたのは、まずはゴールを明確にしておかねばそこに至る過程が明確に見えてこない、という問題意識があったからだろう、ということでした。ここに我々は、法的規範(国家意志)の問題を究明する上でのスミスの方法論(他者への共感、「公平な観察者」の視点に依拠する、という方法論)上の弱点をみることも可能なのですが(*)、ここで強調したいのは、『国富論』を『法学講義』から独立させたことには、当時の社会情勢に規定された一定の歴史的正当性はあったのだ、ということです。
その歴史的正当性というのは、18世紀のイギリスにおいては、国家権力の保護から脱した経済の自立的かつ自律的な発展が始まりつつあるという歴史的条件があり、国家(国民)の富の本質と原因は何なのかという問題が、国家の維持発展にとっての大きな課題として浮上していた、という事情に関わります。この課題に正面から応えるべく、それまで富にかかわる諸問題をめぐってなされてきた諸々の議論(重商主義や重農主義)を批判的に継承しつつ、スミスの見解を纏め上げたのが『国富論』だったわけです。それは、端的には、国家(国民)の富は金銀ではなく生活資料の安価と豊富さにあるという問題意識から、社会的総労働の分割(配分)過程に対する国家権力の恣意的な介入に反対し、それを市場の自然で自由な動きに任せるように主張したものでした。
後世からみるならば、この『国富論』は、富の性質と原因を究明する独自の学問として経済学という学問が確立されなければならないことを宣言した著作であった、と評価することも可能です。
しかし、ここで決定的に重要なのは、本稿の連載第2回でも確認した通り、社会的総労働の分割(配分)過程に対する国家権力の恣意的介入に反対したスミスは、決して国家を経済学の考察対象から除外しようとはしていなかったのだ、ということです。成立の経緯からも確認した通り、『国富論』には、『法学講義』の生活行政論のみならず、公収入論、軍備論に相当する内容も含まれているのです。より具体的には、『国富論』の第5篇においてスミスは、重商主義的な諸政策が廃されたとしても国家(政府)がなすべき仕事はなお存在するとして、治安維持、司法、公共事業の3つを挙げています。これらは、国民全体に普遍的な利益をもたらしますが、個別的な利益にはならない(儲からない)ために、市場では提供されません。このため、国家(政府)がこの仕事を引き受けなければならないとスミスは主張するのです。
つまり、『国富論』は、単に社会的総労働の配分過程に対する政府の介入を排するよう主張するだけでなく、全ての国民にとって利益になる仕事をなす主体として、政府を位置づけなおしているのです。スミスは、国家のなすべき仕事について(経費論)、また、国家の仕事に必要な財源の調達について(租税論+公債論)、市場の自然で自由な動きとの関連において、論じています。このようにスミスは、市場論と国家論とを統一したものとして『国富論』を構成していたわけです。まさに「政治経済学(political economy)」です。
「政治経済学は、およそ政治家あるいは立法者たるものの行なうべき学の一部門としてみると、はっきり異なった二つの目的をもっている。その第一は、国民に豊かな収入もしくは生活資料を供給することである。つまり、もっとはっきり言えば、国民にそうした収入や生活資料を自分で調達できるようにさせることである。第二は、国家すなわち公共社会にたいして、公務の遂行に十分な収入を供することである。だから経済学は、国民と主権者の双方をともに富ませることをめざしている。」(アダム・スミス、大河内一男監訳『国富論 �U』中公文庫、p.75)
このようにスミスは、政治経済学について、国民と国家の双方を富ませるための学問であると定義しました。国民を富ませるために市場の自然で自由な働きを確立(国家の恣意的介入の排除)し、こうして実現される国民の富の形成を大前提に、それをできるかぎり阻害しないように配慮しつつ、国家(政府)の富の形成(財源の調達)がはかられるべきだ――このような形で、市場論と国家論が統一されていたわけです。
ところが、スミス以後の経済学は、考察の対象を次第に市場のみに限定していくようになっていきます。市場における社会的総労働の配分は、「少しでも大きな儲けを上げたい」「少しでも安いモノが欲しい」といった市場参加者の動機に規定されて、効率性を唯一の基準として行われます。こうした場面に考察の対象が限定されていくことによって、経済学は市場における効率的な資源配分を研究する学問であるとみなされるようになっていったのでした。現代の主流派経済学(一般均衡論)の直接の祖といえるレオン・ワルラスは「純粋経済学」を標榜し、ライオネル・ロビンズは「経済学とは、代替的用途をもつ稀少な諸手段と諸目的との間の関係として人間行動を研究する学問である」(『経済学の本質と意義』1932年)と定義しました。こうして経済学は「政治経済学(political economy)」から単なる「経済学(economics)」へと変質を遂げてしまったのです。アダム・スミスにおいて、法学体系から相対的に独立させられた政治経済学が、政治(国家)と経済(市場)とが絶対的な独立の関係にあるかのような幻想と結びつくことで、「純粋経済学」なるものを生み出してしまったのです。
しかし、私たちは、市場における効率的な資源配分のみに研究対象を限定してしまったことこそが、現今における経済学の行き詰まりを引き起こした元凶であると考えなければなりません。そもそも社会的総労働の配分過程は決して市場だけで完結しているものではなく(政府による公共事業や社会保障が不可欠)、たとえ社会的総労働の配分過程を全体としてみたとしても、それは国家という枠組みをもった社会のほんの一部分を占めるにすぎないからです。にもかかわらず、「経済学(economics)」は、社会という有機的な全体のなかから、貨幣を媒介にした効率的な資源配分の場としての市場のみを実体的に切り離して究明の対象としようとしてきたわけです。これは、生きた人体から心臓や肝臓だけを実体的に切り離してきて研究し、それで立派に生きた心臓や肝臓を研究しているかのように思い込むのと大差ない錯誤といわねばなりません。
しかし、社会のなかからようやくにして経済という領域がハッキリとした姿を現わしつつあった時代のアダム・スミスにとっては、経済が社会の一部にすぎないこと、したがってまた経済はあくまでも社会の一部分として究明していかなければならないことなど、議論の余地なく明白なことでした。我々は、このことを決して忘れてはなりません。現代の感覚から『国富論』を単なる経済学(economics)の本として読んでしまってはならないのです。少なくともそれは、市場論と国家(政府)論を統一した政治経済学(political economy)の本として読まれなければならないのであり、さらにいえば、『国富論』があくまでも国家(法と統治)の全体像(社会の始原からの発展過程をも視野に入れての!)を描き出す壮大な構想の一部でしかなかったことを、しっかりと意識した上で読まれなければならないものなのです。
「市場」が「国家」と無関係に自立したシステムを作りうるとみなす幻想によって、市場における巨大企業の利潤追求活動、巨額の金融投機(マネーゲーム)を野放しにすることが正当化されてしまったことが、現在の世界的な経済危機の根源にあります。こうした事態に、市場における効率的な資源配分のみに研究対象を限定することで形成されてきた主流派経済学の理論では対処できません。もともとの核心的理論が歪んでいるので、そこにいくら補足的な観点を接木しようとしてもダメなのです。「投機経済の終焉」、あるいは、資本主義経済の「終わりの始まり」(「東京新聞」2015年8月31日社説)が囁かれるようになった昨今、我々はアダム・スミスの政治経済学、あるいは法学体系の壮大な構想にまで立ち返り、その精神に学びながら、国家学体系の一部としての経済学を確立していかねばならないのです。
(*)スミスは、社会契約論を批判していることにも示されている通り、個々人が集まって国家(社会)をつくる、という発想には飽き足らないものを感じつつも、結局のところ、個々人の意志から独立した国家の意志がどのような過程で成立するのか、国家意志(社会的認識、吉本隆明流にいえば共同幻想)とはそもそもどういうものなのか、よく分からなかったものと思われます。個々人の意志から出発点したスミスは、結局のところ、他者への共感の積み重ねによって各人の胸中に「公平な観察者」が形成される、というところにまでしか到達できなかったのです(この対極にあるのが絶対精神から出発するヘーゲルの観念論であり、そこでは絶対精神の現われとしてまず国家の意志が登場し、そこから個々人の意志が分離していく、という過程を辿ります)。しかし、こうしたスミスの限界は、人類史の究極の始原(サルの群れから人間の社会への過程)がまだ不明瞭であったという歴史的制約に規定されたものとして、やむを得ないものともいえます。我々としては、スミスが可能な限り対象の歴史的起源を突き止めようとした姿勢の見事さを高く評価すべきでしょう。
(了)

