本稿は、経済(市場)は政治(国家)から自立したシステムであるべきで政治は経済に介入すべきでない、という「自由主義経済学」の教義の妥当性が根本から問い直されなければならない情況になってきていることを踏まえ、「自由主義経済学」の源流とされてきたアダム・スミス『国富論』がスミス自身の『法学講義』から派生してきたものであることに着目し、この『法学講義』の全体像を概観していくことによって、『国富論』を「源流」として「自由主義経済学」が形成されていく過程において、見失われてしまったものは何なのか、明らかにすることを目的にしたものでした。ここで、本稿でこれまで解いてきた流れを簡単に振り返っておくことにしましょう。
スミスは『法学講義』全体の序論において、「法学は、法と統治の一般諸原理の理論である」と確認し、「法の四大目的」として、正義(justice)、生活行政(police)、公収入、軍備を挙げていました。
このうち正義論では、まず、正義とは侵害からの安全保障である、と定義された上で、人間としての安全保障を論じる私法論、家族の一員として安全保障を論じる家族法論、国家の一員としての安全保障を論じる公法論の3つの領域に分かれることが説明されていました。論の展開の順序に関連してスミスは、そもそも所有権を守るためにこそ国内統治が成立したのであるし、所有権の状態は国内統治の形態とともに歴史的に変化してきたのだ、として、公法論から(家族法論を媒介して)私法論へ、という流れを予告していたのでした。
スミスは、主権者(統治者)と臣民(被治者)のそれぞれの権利を論ずる公法論の前提として、人類社会の歴史を〈狩猟→牧畜→農耕→商業〉の4つの段階に分け、正規の統治は、牛や羊といった私有財産が成立した牧畜段階において、これらの財産を防衛するためにこそ発生したことを確認し、そこから、古代ギリシャにおける共和制の成立、古代ローマにおける軍事的君主制の成立と崩壊、ゲルマン人侵入による混乱と封建制の成立、国王の権力の専制化、議会の権限強化による自由の回復、という歴史的発展の流れを概説していました。また、私法論においては、「観察者」や想像上の立場の交換という『道徳感情論』で詳しく展開された論理を絡めつつ、人類の認識の歴史的発展という観点から、所有権の歴史的な拡大の過程が辿られていたのでした。
スミスが論じた国内統治(市民社会)の歴史の到達点は、国民の自由(国王の権力に束縛されないこと)が確立されたところであり、同じくスミスが論じた所有権拡大の歴史の到達点は、土地の売買の自由(何世代も前の故人の遺志に縛られないこと)が切実な課題として浮上してきているところでした。こうした議論の到達点に立って、生活行政(生活資料の安価と豊富を実現する国家の機能)についての議論が展開されていくことになります。
スミスの生活行政論について、本稿では、大きく、分業論、価格論と貨幣論、一国の富裕の進行が遅れてしまう原因についての考察、という3つの部分に分けて紹介してきました。分業論においては、分業(労働の分割)こそが生活資料の安価と豊富をもたらすものであること、分業の根拠は説得の本能を基礎とする交易性向にあること、この交易性向の具体的な発現は「私の欲しいものを私にくれれば、あなたはあなたの欲しいものを手にするだろう」と相手の仁愛ではなく利己心に働きかけるものであること、などが論じられていました。価格論と貨幣論においては、商品の市場価格の変動は自然価格によって規制される(商品の価格は、その商品の生産のために投入される労働に適正な報酬が支払われるところに落ち着く)こと、諸商品の自然価格を通じて産業の自然的均衡が達成される(どの労働にどれくらいの労働が投入されるべきかという問題が解決される)こと、商品取引の発展に伴って価値尺度および流通手段として金貨・銀貨が鋳造されるようになったこと、流通手段としての銀行券(紙幣)を発行することで、節約された金銀を国外に送って生活に必要な商品を輸入することは、一国の富裕に資するものであること、などを論じていました。さらにスミスは、一国の富裕は貨幣にある、という当時支配的であった考え方を誤りと断じ、個々人の財産の安全保障という国内統治の枠組みを確立した下で、生産的な労働に従事する人々の労働意欲を削ぐ諸々の観念(商工業への軽蔑など)や制度・政策(穀物の輸出禁止や特権的大商人の優遇など)を排するならば、富裕の進行が実現していくであろうことを主張していたのでした。スミスが、貨幣こそが富であるという謬見を排して、人々の労働によって生活必需品がきちんと継続的に生産されていくことこそ国家にとって死活的に重要であることを見抜いた点、また産業の自然的均衡というべきものに沿って社会的総労働が分割されるべきであることを鋭く指摘した点は、現代にも通じる卓見として、高く評価するに値するものであることを確認しておきました。
続いて、スミスの公収入(租税+公債)論、および、商業の発展が国民のマナー(風習、習慣)に与える影響についての議論を紹介しました(公収入は、序論においては「法の四大目的」のひとつとして、生活行政と並んで挙げられていますが、実際の議論の展開のなかでは、公収入論は生活行政論の一部として取り込まれているのでした)。ここでは、統治のための費用を得る上での財産税や消費税などの優劣が論じられ、公債が成立した歴史的経緯や公債価格の変動の要因について、考察されていました。さらに、スミスは、商業の発展が(商人として成功するために、という利己心に導かれて)誠実と几帳面という徳を涵養したこと、一方で、下層民衆の知的鋭敏さの欠如、国民の尚武の精神の衰退といった弊害をもたらしてしまったことを指摘して、生活行政論の締め括りとしていたのでした。
次に、「法の四大目的」の最後に来る軍備論について紹介しました。ここでスミスは、狩猟段階→牧畜段階→農業段階→商業段階という社会発展の歴史を念頭に置きつつ軍備の歴史を概観し、常備軍導入の歴史的必然性(分業=社会的総労働の分割の一環としての必然性)を説く一方、それが国王専制の道具として使われてしまう危険性(また、その点での民兵制の優位)をしっかり直視した上で、その組織のあり方には慎重な配慮が必要だと主張していたのでした。一般論としては、政府が責任を持って募集し、軍人として雇った人たちに対して給与を支払う近代的な常備軍(この対極にあるのが、古代ローマの軍閥です)は、国民の自由に対して脅威となる危険性は少ない、というのがスミスの主張でした。
ここまでで、スミスが「法の四大目的」とした4つの項目、すなわち、正義、生活行政、公収入、軍備についての考察を一通り概観したことになるわけですが、スミスは法学の最後に(それまでの議論が国家内の関係を対象にしていたのに対して)国家間の関係を律する国際法についての議論が必要になる、と述べて、戦争と平和に関わる国家間のルールについて、�@何が戦争の正当な原因か、�Aある国家が戦時に他の国家に対して合法的に何をなし得るか、�B交戦諸国は中立諸国家に対して何をなすべきか、�C諸国家間における外交使節の諸権利は何か、という4つの問題が考察されていたのでした。
このように、スミスの『法学講義』は、身体と財産の安全保障のために成立した国内統治の歴史的発展過程を辿った公法論に始まり、所有権の歴史的な確立過程を論じた私法論を経て、産業の自然的均衡というべきものに沿って社会的総労働が分割されるべきことを論じた生活行政論に至り、そこからさらに、政府の活動に必要な財源を確保するための公収入論(租税論+公債論)、他国家による侵略から国家を防衛するための軍備論が展開され(ここまでひとつの国家の内部に視野を向けた議論)、最後に、諸国家間の関係を律する国際法についての考察によって、全体が締め括られることになるのです。
以上、本稿でこれまで説いてきた流れを、後の『国富論』の核心的部分の原型といえる生活行政論にやや重点を置く形で、振り返ってきました。ここで、本稿の連載第2回目で紹介した、『道徳感情論』第6版の序文におけるスミスの言葉を再録しておくことにしましょう。
「この著作の初版の最終パラグラフで私は、別の論考において、法と統治の一般的諸原理について説明するよう努めるとともに、この一般的諸原理が社会のそれぞれ異なる時代ないし時期に応じてそれぞれこうむることになった種々の大変革について、たんに正義(justice)に関する事柄にとどまらず、生活行政(police)や公収入、および軍備に関わる事柄、さらには法の対象となる他の全ての事柄も含めて、説明に努めるつもりである、と述べておいた。『諸国民の富の本質と原因に関する研究』において、私はこの約束を部分的に、少なくとも生活行政、公収入、軍備に関する限り、実行することができた。」(『道徳感情論』第6版への序文。筆者訳)
『法学講義』の全体像を概観した上でこのスミスの言葉を改めて読み直してみるならば、『国富論』が決して単なる経済学の本として構想されたものではなく、あくまでも国家(法と統治)の全体像(社会の始原からの発展過程をも視野に入れての!)を描き出す壮大な構想の一部であったことが、深く納得してもらえるのではないでしょうか。端的には、正義(身体・財産の安全保障)という枠組みのなかで展開する実質的な中身として生活行政(分業による生活資料の安価と豊富の実現)が位置づけられていたのであり、そこを踏まえて再び公収入および軍備という国家の枠組みに戻っていく、という構想があったわけです。換言すれば、スミスにおいては、経済(社会的総労働の適正な分割)が国家の実質的な中身として位置づけられ、そこを土台に公収入論や軍備論といった国家の枠組みについても説き及んだのが『国富論』であった、ということができるでしょう。

