この間、世界中の株式市場で株価が大きく値下がりし、世界経済の行方に大きな不安が抱かれています。今回の世界同時株安の発端となったのは、今年の6月後半、中国の株式市場で、それまで好調だった株価が大暴落したことでした。この事態に直面した中国政府は、株価の暴落を何とか食い止めようと、株式市場への全面的な介入を行いました。ところが、こうした中国政府の対応は、アメリカやEUや日本など先進資本主義諸国のマスコミにおいて、批判的な論調で報じられることになります。政府が直接に介入して株価を支えるなんて我々先進国では考えられない! というわけです。例えば、「東京新聞」の社説は次のように論評しています。
「〔中国〕政府はバブルを警戒して、過熱気味の背景だった信用取引(株を担保にして行う取引)を規制した。これで一気に売り圧力が高まり、株価が暴落すると、今度は証券業界が「市場安定化基金」をつくり、株価下支えに動く。企業も自社株の急落を抑えようと証券取引所に売買停止を申請、上場企業の半数以上が取引できない異常事態を招いた。
売買停止はより大きな混乱を防いだかもしれないが、投資家の取引機会を奪う背信行為であり、大きな不信を生んだはずだ。投資情報の迅速な提供や自由な売買が約束されなければ、市場としての最低限の機能を持っているとはいえない。市場を歪める対応が続くようでは、経済規模で世界二位にまで発展したとはいえ、成熟した経済先進国の仲間入りという長年の悲願は果たせまい。」(「東京新聞」2015年7月10日社説「中国株バブル「官製相場」を改めよ」)
市場の機能をまともに発揮させないまま、政府が市場を歪める対応を続けているようでは、成熟した経済先進国の仲間入りなどできませんよ、という“忠告”です。市場が自らの機能を発揮できるよう介入を控えるというのが「成熟した経済先進国」の政府として当然身に着けておくべきたしなみであるにもかかわらず、中国はまだまだお行儀がよろしくないね、といったところでしょう。
しかし、この「東京新聞」社説が、次のように釘を刺していることも見逃すわけにはいきません。
「もっとも、日本の株式市場も「官製相場」の批判は免れない。国民の大切な年金を預かり世界最大の機関投資家である年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)や異次元緩和の名目で上場投資信託(ETF)を大量に購入する日銀が相場を支えているのである。中国の市場対応を声高に非難することなどできない。」(同)
日本の株価も年金積立金の運用や日銀の異次元緩和によって政策的に支えられているのだから、中国の対応を声高に非難できたものではないよ、というわけです。市場の機能に任せ切ることができず、株価を下支えしようとして政府がついつい介入してしまっている――果たしてこれは、中国や日本といった東洋の国々だけの問題なのでしょうか。このことに関連しては、以下のような実に興味深い指摘がなされています。
「二〇〇八年のリーマン・ショック以後、世界経済が少しは持ち直した理由の一つは中国の立ち直りが速かったからである。中国が世界の景気の底を支えたのだ。中国は、世界経済危機にさいして五〇兆円におよぶ巨額な財政出動をしながら財政赤字になっていない。しかも、巨額な貿易黒字によって、巨額の外貨準備を持っている。その世界第一の外貨準備を背景にして中国はアメリカ国債を支えているのである。
どうしてそのようなことが可能なのか。それは中国が自由・民主主義国家ではないからである。中国経済を根幹において管理しているのは共産主義体制である。
為替を管理し、金融市場を管理し、独裁的な強力な政府によって十分な税収が確保されるという変則的な経済のおかげで中国経済は未曾有の成長を遂げ、しかもリーマン・ショック以後の世界経済を支えたことになる。」(佐伯啓思『経済学の犯罪』講談社現代新書〔2012〕、pp.53−54)
要するに、リーマン・ショック以降の世界経済(グローバル市場)の危機的情況は、巨額の財政出動をはじめとする中国政府の強力な介入によって辛うじて切り抜けられてきたのだ、というわけです。さらに著者は次のように述べています。
「自由主義者や市場主義者やグローバリストは、多かれ少なかれ、「国家」を排除しようとしてきた。「国家」による「市場」への介入を嫌い、「市場」は「国家」とは無関係に自立したシステムを作りうると見なしてきた。「市場」は「自由」の領域であり、「国家」は「権力」の作動する世界だと見ていた。この両者を判然と区別できるというところに自由主義経済学の存在理由もあった。……ところが、リーマン・ショックやEUの事態が明らかにしたことは、グローバル市場は最終的に政治的な「力」によって支えられなければならない、ということだった。」(同、p.55)
端的には、「市場」が「国家」と無関係に自立したシステムを作りうるとみなすのは幻想に過ぎず、市場が最終的に政治的な「力」によって支えられていることを直視しなければならない、ということです。だとするならば、我々「経済先進国」の人間は、株価の暴落に直面した中国政府の狼狽振り(なりふり構わぬ露骨な市場介入)を“上から目線”で嗤うのではなく、「市場」が最終的には「国家」の力なくしては崩壊してしまいかねないことを示すものとして、この事態を自らの問題として深刻に受け止めるべきである、ということになるでしょう。
このように「市場」と「国家」の関係、より一般的にいいかえるならば、政治と経済との関係をどのように捉えるべきなのかという問題が、現在、大きく問われているといえます。政治と経済とを対立した構図として描いた上で、政治は経済に介入すべきか否か、という問題の立て方をすることが妥当なのかどうか、根本から問い直されなければならなくなっているのです。これは、現在の経済学のあり方に対して重大な問題提起がなされているということにほかなりません。主流派の経済学(佐伯啓思氏の言葉を借りれば「自由主義経済学」)は、政治と経済とを画然と区別し、両者を対立する構図で描き出した上で、政治は経済に介入すべきでない、と論じてきました。こうした「自由主義経済学」の教義の妥当性が、根本から問い直されなければならない情況になってきているわけです。
それでは、主流派の「自由主義経済学」は、そもそもなぜ、政治は経済に介入すべきではないなどという教義を掲げるようになったのでしょうか。この問題に答えるためには、「自由主義経済学」なるものの起源を問うてみなければなりません。
結論からいえば、それはアダム・スミスの『国富論』にまで遡る、ということができるでしょう。教科書的には、スミスは、政府の市場への介入を排して自由競争を促進すれば、各個人の利己的行動が「見えざる手」に導かれて社会全体の利益を実現することになると論じたのだ、とされています。この「見えざる手」を市場の自動調節機能(価格の上下を通じて各商品の需要と供給を一致させ、資源の最適な配分を実現する機能)として捉え、政治から切り離された経済(=市場)にのみ視野を限定した上で、「見えざる手」の働き(効率的な資源配分の機能)を数学的手法をも駆使しながら解明していく、という方向に進んでいったのが、いわゆる「自由主義経済学」なるものにほかならなかったのです。

