(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)シュヴェーグラー『西洋哲学史』の要約�@
(3)シュヴェーグラー『西洋哲学史』の要約�A
(4)シュヴェーグラー『西洋哲学史』の要約�B
(5)シュヴェーグラー『西洋哲学史』の要約�C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:哲学史全体の過程的構造はどういうものか?
(8)論点2:哲学の完成に向けて、何を課題とするべきか?
(9)論点3:ヘーゲル『哲学史』をどのように学んでいくか?
(10)参加者の感想の紹介
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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
我々京都弁証法認識論研究会は、今年1年をかけて、シュヴェーグラー『西洋哲学史』(岩波文庫)を通読し、哲学の歴史を概観することで、哲学の歴史の像を明確化するとともに、自らの専門分野たる個別科学の歴史を哲学史の中に位置づけることを共通の目標として取り組んできました。これは昨年学んだヘーゲル『歴史哲学』とセットで理解すべきヘーゲル『哲学史』を理解するための準備作業としての意味合いも持ちます。
12月例会では、シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめを行うとともに、来年から2年かけて取り組む予定のヘーゲル『哲学史』の学びを展望しました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、『西洋哲学史』全体の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。
今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。
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京都弁証法認識論研究会2014年12月例会
シュヴェーグラー『西洋哲学史』全体のまとめ
1、古代ギリシャにおける哲学の生成と発展
【時代背景】 古代オリエント世界の辺境に位置するギリシャは、周辺諸民族との交通関係(戦争と交易)を何重にも積み重ね、オリエントの先進的な文化を学びながら独自の文化を形成していった。自然環境に恵まれた古代オリエント世界の中枢部では、個々の問題を個々のやり方で解決できるだけの知識・技術があれば充分だったが、それらの知識・技術をより自然環境の厳しいところに適用してポリス社会の維持発展を図っていかなければならなかった古代ギリシャの政治指導層にとっては、個別的な諸事実の間に如何なる繋がりがあるのか、ということこそが問題となってきた。
古代ギリシャ哲学は、人間を取り巻く自然の諸現象を何とかひとつに括って把握しよう(多様に変化する世界の背後に唯一不変なものを見出そう)としてスタートし、エレア派の「純有」にまで到達した。しかし、変化してやまない多様なものの存在を否定し去ることはできなかったから、有と非有の統一である「成」を根本原理と主張するヘラクレイトスが登場し、さらに、有をアトム(原子)、非有を諸アトム間の空虚な空間として実体化して、アトムの機械的運動によって世界の生成発展を説く原子論者たちが登場してくることになった。
ペロポネソス戦争以降、ポリスの伝統や慣習が揺らいでくると、物とは各自に見える通りのものにすぎず、普遍的な真理など存在しない、というソフィスト達が台頭してくる。これに対抗して、普遍的な真理(生き方の確固たる規準)を探し求めていったのがソクラテスからプラトンへの過程である。プラトンは事物の真実の姿をイデアと呼び、現象的な世界とは別個の世界(イデア界)に実在するものだ(現象世界に存在する諸々の事物は、イデアの影のようなものにすぎない)とした。永遠不滅で絶対的に静止したイデア界と変転してやまない現象界という二元論は、エレア派の「純有」とヘラクレイトスの「成」とを大きく合流させたものといえる。
これに対して、あくまで多様な現象こそが真実であるとし、それまでにギリシャ世界において獲得されてきた諸々の知識を百科全書的に纏め上げたのがアリストテレスであった。プラトンのイデアは個物から離れて存在するが、アリストテレスの形相(エイドス)は具体的な個物のなかに、質料(ヒュレー)と結びついた形でしか実在しない。アリストテレスによれば、この世界の全存在は、少しも形相を含まない「第一質料」を最下段とし、少しも質料を含まない「第一形相」を頂点とするひとつの階段をなす。アリストテレスの体系も結局質料と形相との二元論を克服していないのである。
◆報告者コメント
古代ギリシャ哲学史は、国家(ポリス)的生活の確固たる指針を得るために、自然(人間を取り巻く環境であり、現在でいう自然と社会とが未分化のまま含まれていると思われる)の多様な現象の背後(?)に、唯一不変な存在を見出していこうとする試みであった、ということができるのではないか。唯一不変な存在という原理(アタマのなかで考え出されたもの)と、多様で変化してやまない現象(現実の世界のあり方)とをどのように媒介するか――このことが、古代ギリシャ哲学において大きな問題となっていたように思われる。しかし、結局のところ、古代ギリシャ段階では、唯一不変な仮想的存在と変化してやまない現象世界とを上手く繋げて説明しきるところにまでは到達できなかった。
なお、ポリス社会の衰退・崩壊過程が進行するにつれ、この問題は、個としての人間はどう生きるべきか、という問題としての色彩を濃くしていく(そもそも「世界をどう捉えるか」と「どう生きるべきか」はハッキリ分化していなかった)。ここからさらに、不変の原理が主観(確固たる生き方を求める人間精神)と重ね合わされることで、主観と客観という対立構図が形成されていくことになった、といえるかもしれない。
2、スコラ哲学から近代哲学への過程
【時代背景】 中世初期、イスラム勢力の伸張によって明るい地中海から切り離され、深く暗い森に閉じ込められてしまったヨーロッパの人々にとって、キリスト教(カトリック教会)は絶対的な権威であった。しかし、人々は、何百年もの時間をかけて暗い森を切り開いて広大な海にまで到達し、地球規模で活躍の場を広げていくことになった。こうした過程で、人間は自分自身が持つ力について次第次第に揺るぎない自信をつけていくことになり、キリスト教の絶対的な権威は大きく揺らいでいくことになったのである。
カトリック教会は、11世紀以降、人々が日々の生活のなかで蓄積してきた経験的知識と教会信仰における啓示的真理との折り合いをつけていくために、(イスラム圏より流入してきた)ギリシャ哲学の成果を利用していくようになる。これがスコラ哲学である。しかし、経験的知識の蓄積が進んで人間が自分の力について自信を強めていくにつれて、経験的知識と啓示的真理との間の整合性を維持することが困難になっていく。スコラ哲学は、ルネサンスや宗教改革、自然科学の台頭によって衰退していった。
近代哲学の創始者デカルトは、「われ思うゆえにわれ在り」という命題により(教会信仰の絶対的権威ではなく)思考する具体的個人を学問的探究の出発点として位置づけ、実体(他のものに依存せずにそれだけで存在しうるもの)として物体(物質)と思考(精神)の2つを見出した。しかし、デカルトは、この両者がどのように媒介されるかという問題を解決できず、二元論にとどまった。この問題は、物質の側に立つか(精神的なものを物質的なものによって理解するか)、精神の側に立つか(物質的なものを精神的なものによって理解するか)で解決されなければならなかった。ここから、並行して進む2つの発展系列が始まる。
物質から精神を説明しようとする系列は、まずイギリスにおいて発展した。その創始者であるロックは、生得観念を否定し、我々の認識は全て経験に由来するとした。さらにヒュームは、因果関係の概念の批判(原因と結果との繋がりは客観的なものではなく、ある出来事と別の出来事を主観的信念として結びつけているだけ)により、経験論の考え方を徹底させた。
一方、精神から物質を説明しようとする系列は、ドイツのライプニッツに始まる。ライプニッツは、この世界の根本存在は無数に存在するモナド(単子)である、とした。個々のモナドは生き生きとした変化と活動のうちにある精神的存在であり、存在し生起する全てのものの姿をモナド自身の自発的な力によって映し出す鏡である。生得観念を否定したロックに対してライプニッツは生得観念を弁護し、観念は素質として潜在的にのみ精神のうちに存在しているのであって、精神は自分の内から観念を生み出す能力を持っているとした。
◆報告者コメント
デカルトは、「われ思うゆえにわれ在り」という命題で、教会信仰の絶対的権威ではなく思考する具体的個人(人間精神)こそ学問的探究の出発点である、とすることにより、思考(精神)と物体(物質)という2つの実体を打ち立てた。これは、主観と客観という(それまでの)対立図式を、いわば外側から眺めることによってこそ可能になったものといえないだろうか。すなわち、自らの主観を客観的に見つめる視点を明確に持てるようになったからこそ、自分(主観)とそれ以外(客観)という自他の関係ではなく、世界の2大存在たる精神と物質の対立として反映してくるようになったのだ、といえないだろうか。
哲学は一元論(世界の一切の現象はある一元的なものの生成進化発展の結果であるとする思想)として完成されなければならないが、これは観念論(世界の全てを精神という一元的なものの生成進化発展の結果として説く)あるいは唯物論(世界の全てを物質という一元的なものの生成進化発展の結果として説く)のどちらかしかありえない。したがって、一元論が成立するための大前提として、この世界の全存在が精神と物質という2大存在に整理されなければならない。デカルトは、この世界の全存在を精神と物質という2つの実体に纏めきったことにより、二元論克服(=一元論の完成)への課題を明確化したといえるだろう。
3、ドイツ観念論の発展過程
【時代背景】 中世社会から近代社会への移行は、人間の自由(主体性)の確立を大きな課題とするものであった。自由の理念は、まずイギリスやフランスにおいて、政治的・経済的変革を通じて現実世界に実現された。これに対してドイツは、19世紀に入ってもなお封建的色彩の濃い領邦国家の分立状態にあり、政治的・経済的に停滞した情況にあった。ドイツにおいては、自由の理念を現実の世界に実現するだけの条件が未成熟であっただけに、イギリスやフランスで実現されていた自由に強烈な憧れを抱きつつ、それをまずもって観念の世界で発展させる(理論的に考察して深化させる)過程が進行していくことになったのである。
ロックに始まる系列も、ライプニッツに始まる系列も、精神と物質という対立物の内面的な調和を果たせず、どちらか一方の要因を否定する結果に終わった。離ればなれになって枯れ果てようとしていた2つの流れを再び合流させたのが、カントであった。
カントは、認識を感性(受容性)と悟性(自発性)という2つの要因に分けて考察している。カントによれば、我々は物をありのままに認識するのではなく、認識の側に備わっている枠組み(時間と空間という感性的直観の形式、および悟性に備わる4つのカテゴリー)を通して物が我々に対して現象する姿を認識するにすぎない。
認識による世界の構成というカントの議論を、自我による世界の創出というところにまで押し進めたのがフィヒテである。フィヒテは、カントのいわゆる「物自体」なるものはあくまでも自我の活動のなかで創出されてくるものだ、すなわち、根源的な存在はあくまでも自我なのであって、その自我(主観)が物自体(客観)を生み出すのだ、という形で、自我(主観)と物自体(客観)の二元論を自我一元論へと解消しようとした。
この非我に相当する部分についての論を、当時までの自然科学の成果を取り込んで自然哲学として構築していったのがシェリングである。しかし、シェリングは、フィヒテ的な先験哲学(自我を主とする論)と自然哲学(非我を主とする論)を充分に媒介することができなかった。シェリングは、自然(実在)と精神(観念)のどちらも根源ではなく、両者の無差別(絶対的同一性)なるものが根源であるとしたが、抽象的で無内容な絶対者から具体的な現実世界がどのようにして媒介されてくるか、まともに解くことはできなかった。
ヘーゲルは、シェリングの基本的な発想は継承しつつ、体系を統括する要となる「絶対者」の内容を大きく発展させた。ヘーゲルにおける絶対者は、シェリングにおけるように観念的なものと実在的なものの無差別ではなく、あくまでも観念的なもの、すなわち絶対精神である。絶対精神は、単なる存在ではなく発展であり、自分自身を展開して、自然および精神の世界に表現される豊かな現実となっていく普遍者である。こうした絶対精神の自己運動という観点から、世界全体に体系的に筋を通して説ききろうとしたのが、ヘーゲルの哲学であった。ヘーゲルは世界歴史を絶対精神が本来の自己へ立ち還る過程、すなわち自由の実現過程として描いた。
◆報告者コメント
物質と精神のどちらが根源的存在か、という問題は、人間精神は受動的か能動的か、という問題として議論されてきた。カントはこの問題を解決するために、我々は物自体ではなく、物が我々の認識の側に備わっている枠組みを通して現象する姿を認識するのだ(現象の世界は自我によって構成されたものであり、我々は物自体を知ることはできない)、とした。こうして新たに持ち込まれた物自体(の世界)と現象(の世界)の二元論をどう解決するかが、後続の哲学者にとっての大きな問題となった。
大きな流れとしては、自我(主観)による世界の構成というカントの発想を、自我(主観)による世界の創出というところまで押し進めていくことで解決が図られた、といえるだろう。世界もまた自我(主観)によって創出されたのだとすれば、現象と物自体の区別などなくなる(自分が想像=創造したものの真の姿を知り得ない、などということはない)からである。こうして、精神一元論(観念論)としての哲学の完成への道が開かれたのだということができるだろう。
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以上の報告に対して、まず、古代ギリシャの哲学の末期において、「不変の原理が主観(確固たる生き方を求める人間精神)と重ね合わされることで、主観と客観という対立構図が形成されていくことになった」とあるが、これはどういうことか、という疑問が呈されました。これに対して報告者は、プラトンの不変(イデア界)と変化(現象界)という二元論が、新プラトン学派以降中世期においては、主観と客観の二元論に移行していくわけであるが、ここには確固たる生き方を求める主観が不変という原理と重ね合わされるという過程を通じて、変化する客観に対して不変の主観というものが現れてきたのではないかと考えて、こうした説明になった、との見解を示しました。また、デカルトが思考(精神)と物体(物質)という2つの実体を打ち立てたことについて、報告者が「主観と客観という(それまでの)対立図式を、いわば外側から眺めることによってこそ可能になったものといえないだろうか」と述べていることに関して、これはディソシエイト(物事を客観的に自分と分離した状態で認識すること)ということではないか、人間の個体発生においては10歳くらいでこうした能力が身に付くので、デカルトは人間の系統発生においてこうした位置付けができるのではないか、との意見も出されました。


確認です…が〜
>この非我に相当する部分についての論を 自我(主観)と物自体(客観)の二元論を自我一元論へと解消しようとした。
ここでの「非自我」とは、認識内の「物自体(客観)」部分〜と言う事ですね…
ここで、この自我と非自我を、統一する存在・統一した存在を求めて〜という事でしょうか…