(1)カントはスミスからどのような影響を受けたのか
(2)スミスは利己性と共感の原理との矛盾において人間を把握した
(3)カントは非社交的社交性という矛盾において人間を把握した
(4)カントはスミスの超歴史的な議論を歴史の領域へと導入した
(5)スミスの影響はカントを経てヘーゲルにまで及んでいる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)カントはスミスからどのような影響を受けたのか
今年、われわれ京都弁証法認識論研究会は、毎月の例会においてヘーゲルの『歴史哲学』を読みすすめています。しかし、それは、この書の内容を理解することが直接の目的ではありません。本ブログに2月15日から連載した「歴史観の歴史を問う」で説いたように、あくまでも歴史観の歴史ということを視野に入れて、観念論的歴史観の最高峰というべきヘーゲルの歴史観に学びつつ、それを唯物論の立場からより見事なものとして完成させていく(弁証法的唯物論の立場から世界歴史の構造についての把握を成し遂げていく)ためなのです。
さて、このような問題意識をふまえつつ、歴史観の歴史の流れのなかにヘーゲル『歴史哲学』をおいてみるならば、その直接の原型がカント(Immanuel Kant 1723〜1804)が1784年に著した論文「世界公民的見地における一般史の構想」(Idee zu einer allgemeinen Geschichte in weltbürgerlicher Absicht)にあることが分かります。カントはこの論文において、歴史とは、自然(≒創造主としての神)によって人間に与えられた理性および意志の自由という素質が人類一般(個々の人間を超えた類的存在としての人類)においてしだいに展開されていく過程にほかならない、という歴史観を示したのでした。より具体的にいうならば、集団のなかでしか生きていけないにもかかわらず、各々の利己的行動が互いを傷つけてしまうために集団においては生きていけないという矛盾(非社交的社交性)を抱えた人間が、この矛盾を解決して理性と意志の自由の展開が可能となる条件をつくっていくために、自然(=神)の計画に導かれながら、まず公共的公民体(国家)の形成へ、さらには「世界公民的連合」(世界国家あるいは国際連合)へとすすんでいく過程を把握するものこそ、カントのいわゆる哲学的歴史にほかならないのでした。このようなカントの歴史観こそ、ヘーゲルが自身の歴史観――歴史とは、絶対精神が、具体的な諸個人の情熱のぶつかり合いを手段としつつ、自己の本性たる自由をしだいしだいに実現していく過程である、とする歴史観――を打ち立てていく上で大きなヒントとなったものなのではないかと考えることができるわけです。
それでは、このようにヘーゲルに大きな影響を与えたカントは、自身の歴史哲学を打ち立てるにあたって、いったいどのような論から影響を受けていたのでしょうか。もちろん、偉大な哲学者カントは、その当時までに到達されていた諸々の学問的な成果を広く学びながら自己の思想を形成していったわけですから、彼の歴史哲学の源泉を何か特定の一つの論に帰結させてしまうことは適当でないでしょう。しかし、カントの歴史観の論理構造をふまえるならば、この歴史観の構想に際して少なからず影響を与えた可能性のある人物として、同時代のイギリス(スコットランド)の哲学者であるアダム・スミス(Adam Smith 1723〜1790)の名が浮上してくることになります。カントの歴史観は、人間本性の二重性の把握(非社交的社交性)においても、社会において法則性が貫徹されていくあり方の把握(個々人はそれぞれの利己心にもとづいてについて行動しつつも、全体としては、まさにそのことによってこそ法則性が貫徹していく、という把握)においても、スミスの人間観、社会観に酷似しているように思われるからです。
とはいうものの、カントが、同時代の思想家であるヒュームやルソーから決定的な影響を受けたことについて自身でハッキリと書き残しているのとは異なって、カントがスミスから影響を受けたことを示す直接的な証拠は存在していません。しかし、いくつかの情況証拠から、カントの思想形成過程にスミスが少なからず影響をあたえていたと推測することは不可能ではないのです。
スミスの主著『道徳感情論』(The Theory of Moral Sentiments 1759)のドイツ語訳は、1770年に刊行されたのですが、カントの『人間学』やその講義草稿(後述)にこの『道徳感情論』への言及がみられることからして、カントがこれを読んだことはほぼ確実です。大きな流れからいえば、もともとカント倫理学の形成過程には、スミスの直接の師でもあったフランシス・ハチスン(Francis Hutcheson 1694〜1746)の道徳哲学にたいする批判的検討が大きな役割を果たしていたのであり、その流れからして、スミスの『道徳感情論』に着目するのは当然のことであったともいえるでしょう。カントがスミスの『道徳感情論』について肯定的な感想を周辺に伝えていたらしいことは、カントの弟子(内科医、哲学者)であったマルクス・ヘルツがカントに宛てた手紙(1771年7月9日)において、「イギリス人、スミスは、フリートレンダー氏が私に述べたように、あなたのお気に入りですが」と記されていることからも確認することができます。さらにカントは、ケーニヒスベルク大学における「人間学」講義のための草稿(『人間学遺稿』)のなかで、以下のように記しているのです。
「ドイツは芸術の趣味が進歩したと讃えられている。けれども、歴史や無味乾燥きわまる哲学的題材を、ヒュームほど深い洞察をもって、それでいてかくも美しく論じた作家が、また、人間についての道徳的認識をスミスのごとく論じた作家が、どこにいるというのだろう。」(『カント全集 第15巻』岩波書店、p.411)
このようなことからすれば、カントがスミスの『道徳感情論』を読み、その内容についてそれなりに高い評価を与えていたことは、ほぼ間違いないということができるのです。高田純『カント実践哲学とイギリス道徳哲学』(梓出版社、2012)は、『道徳感情論』のドイツ語訳が出版された前後の時期から、カントが「共感」「立場の交換」「公平な観察者」といったスミス的な用語を使うようになっていったことを指摘しています。例えば、カントの倫理学(実践哲学)上の主著であるといってもよい『人倫の形而上学の基礎づけ』(Grundlegung zur Metaphysik der Sitten 1785)の最初の部分でも、以下のように「理性的で公平な観察者 vernünftiger unparteiischer Zuschauer」 という語が使われているのです。
「権力や富や名誉さらには健康、また無事達者で自分の境遇に満足していることすなわち幸福と呼ばれるもの、これらは、もし善なる意志がそこに加わって、それら幸運の賜物が心に及ぼす影響を正し、したがってその人の行為の原理全体を正して社会的に有益なものにするのでなければ、人を得意にならせ、したがってまたしばしば高慢にならせる。また言うまでもないことだが、理性的で公平な観察者は、一人の人間がずっと幸福に暮す有様を見る場合でも、その人が純粋かつ善なる意志のもつ美点を少しも具えておらぬならば、決して愉快を感じることができないであろう。したがって、善なる意志は、人間が幸福であるに値するためにも、不可欠な条件をなしているとみえるのである。」(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』、中公クラシックス、pp.240-241。文中強調は引用者)
以上のようにみてきたことからすれば、スミスからカントへの影響関係を云々することが、必ずしも突飛な考えではないことは理解していただけるでしょう。もちろん、スミスの思想とカントの思想とを比較検討する際には、直接的な影響関係云々よりも、もっと大きな歴史的文脈のなかで、同時代に同じような問題意識を抱いていた2人の偉大な哲学者として把握する視点こそが、まずは重要でしょう。いいかえるならば、両者の思想に類似がみられる場合、それは時代的・思想的背景と問題意識を共有していたことからくる必然的な結果としてみておくことが妥当なのではないかと考えられるわけです(本ブログに掲載した「ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか」はこのような視点にもとづいたものでした)。しかし、カントがスミスの『道徳感情論』に高い評価を与えていたことが間違いないとするならば、カントの思想の具体的な部分について、スミスからの影響を受けたものとして把握することが可能なところもでてくるはずです。
本稿では、以上のような観点をふまえ、カントが自身の歴史哲学を構想していく過程において、スミスの『道徳感情論』から何らかの示唆を得たのではないか、という問題意識の上に立って、スミス『道徳感情論』における人間観および社会観と、カント「世界公民的見地における一般史の構想」における人間観および社会観とを比較検討し、スミスの議論をカントがどのように発展させた(可能性がある)のか、考えていくことにします。

