(1)本当に哲学は不要なものなのか(今回)
(2)三浦つとむさんはなぜ哲学を不要であるとしたか
(3)南郷継正先生はなぜ哲学が必要であるとしているか
(4)両者の見解の関係をどうとらえるべきか
(5)まともな哲学の復興こそが現代的な課題となっている
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(1)本当に哲学は不要なものなのか
「エンゲルス『空想から科学へ』を読む(6/13)」で確認したとおり、エンゲルスは、『空想から科学へ』の第2章において、次のように述べていました。
「現代の唯物論は本質的に弁証法的であり、他の諸科学の上に立つどのような哲学ももはや必要としない。各個別科学にたいして、事物とその事物にかんする知識が全体的連関のなかでしめている地位をあきらかにするようにという要求がだされるやいなや、全体的連関を取り扱うあらゆる特別の科学はよけいなものになる。従来の哲学全体のなかでそれでもなお独立に存続しつづけるものは、思考とその法則についての学説――すなわち、形式論理学と弁証法である。その他のすべてのものは、自然と歴史についての実証科学のなかに解消するのである。」(新日本出版社・科学的社会主義の古典選書版、pp.57−58)
三浦つとむさんは、ここでの「従来の哲学全体のなかでそれでもなお独立に存在しつづけるのは、……形式論理学と弁証法である」というエンゲルスの主張について、けっして哲学という学問の種類が存続するという意味ではなく、過去の哲学のなかで遺産として残るもの――具体的にはアリストテレス以来の形式論理学とヘーゲル弁証法――をあげたものにすぎない、ととらえました(三浦つとむ『マルクス主義の復原』勁草書房、第一章の二「哲学は必要か、マルクス主義に哲学は存在するか」)。三浦つとむさんは、エンゲルスの真意があくまでも「どのような哲学ももはや必要としない」という部分にあったことを強調して、「マルクス主義哲学」なるものが云々されている風潮にたいして疑問を呈したのでした。三浦つとむさん自身、哲学をあくまでも科学に対立する概念として、より具体的には「現実との対決で証明されていない原理原則」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』講談社現代新書、「まえがき」)として把握することで、哲学不要論の立場をとっています。
ところが、このように哲学不要論をとなえた三浦つとむさんにたいして、南郷継正先生は哲学の必要性を強調されてきました。たとえば……ということで、ひとつの文章を紹介しましょう。以下は、『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第一巻』の「『全集』の読者への挨拶」からの引用です。ちなみに、これはもともとは『武道と認識の理論�V』(三一書房)第二編第二章「哲学と世界観――高校生K君に」にあった文章です。
「『哲学とは、全世界=森羅万象の論理を自家薬籠中の物と化すことである』。このように突然に説かれては、『なんのことだか、わからないなあ』と君はツブヤクかもしれません。では、次の言葉はどうですか。
哲学とは、『全世界の知識を学問体系と化して自らの手のひらに載せること』です。すなわち、『全世界=森羅万象を、自分の掌に物をのせるような容易さで論理的に解くこと』です。それでもわからなければ、こんなたとえ話ではどうです。
口のなかの歯のはたらきをすべてひっくるめて、ものを食べるといったときの、その噛むこと一般が哲学とはなにか、の答えなのです。
そして、三十数本ある、歯のいろいろなそれぞれ、つまり、犬歯、臼歯などのそれぞれが、たとえるならば個別科学である、物理学、生物学、政治学、経済学と考えてみてください。食事をするには一本だけの歯では役にたたないように、個別の学問一つ一つでは、全世界は把握できないのです。」(『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第一巻』現代社、pp.9−10)
このように、南郷継正先生は、個別科学を統括するものとしての哲学の必要性を強調されているのです。ここでとくに注目すべきなのは、「食事をするには一本だけの歯では役にたたないように、個別の学問一つ一つでは、全世界は把握できない」という部分でしょう。これは、エンゲルス(および三浦つとむさん)が、「全体的連関を取り扱うあらゆる特別の科学」は不要となり「自然と歴史についての実証科学のなかに解消する」という見解と真っ向から対立するものであるといえます。
私たちは、哲学の必要性にかかわっての、エンゲルスや三浦つとむさんと南郷継正先生とのこのような見解の相違について、いったいどのように受けとめていくべきなのでしょうか。エンゲルスや三浦つとむさんが「哲学は不要である」と主張したことは、本当に正しかったのでしょうか。この補論1においては、こうした問題について考えてみることにしましょう。

