2017年09月25日

掲載予告:経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(全13回)

 本ブログでは、明日より「経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス」と題した論稿を掲載していくことにします(全13回予定)。本稿は、2013年09月に掲載した「アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う」の増補改訂版です。

 サブプライム危機やリーマンショック以降、いわゆる市場原理主義的な経済のあり方への疑問が高まるにつれて、これまで自由な市場経済の守護神であるかのようにいわれてきたアダム・スミスの、いわば“知られざる側面”として、道徳の重要性を説いた倫理学者としての側面が強調されていくようになり、『国富論』と並ぶ主著である『道徳感情論』が大きな注目を集めるようになってきました。『道徳感情論』の相次ぐ新訳の登場は、こうした“『道徳感情論』ブーム”を象徴的に示すものにほかなりません。

 しかし、こうしたブーム的な動きにおいては、『道徳感情論』が現代の経済情勢にたいしてどういう意義をもっているのかという角度からの踏み込みが浅く、いささか表面的にすぎる受け止めにとどまってしまっている(『道徳感情論』の内容をエッセイ的な人生論のレベルで捉えられてしまっている)きらいがあります。しかし、本来ならば、『道徳感情論』における人間論および社会的秩序形成論をしっかりと土台に据えてこその『国富論』なのだ、という把握をふまえ、現代社会の課題に応えうる学問体系の構築に向かっていくことこそが、スミスの遺産を現代に活かしていく道なのです。

 本稿では、このような問題意識にもとづいて、『道徳感情論』と『国富論』という2大著作だけにとどまらないスミスの学問的構想(哲学体系)の全体像について、描き出すことを試みていきます。


 以下、目次(予定)です。

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経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(全13回)

〈目次〉

はじめに
(1)『道徳感情論』が注目を集めている
(2)スミスはどのような学問体系をつくろうとしていたのか

1、道徳哲学体系の前提としての自然哲学
(3)「天文学史」――自然哲学史の総括による科学方法論の獲得
(4)「自然神学」――自然哲学と道徳哲学はどのように媒介されるか
(5)「外部感覚論」――人間観の生物学的基礎を問う

2、社会の諸問題について歴史的な発展過程を視野に入れて解く
(6)『道徳感情論』――道徳哲学体系の土台としての共感原理
(7)『法学講義』――共感の原理を社会の歴史的現実に適用する
(8)『国富論』――社会の完成形態としての商業社会の究明

3、学問・芸術の歴史的発展過程の究明へ
(9)「哲学的研究を導き指導する諸原理」――感情および想像力に着目した学問論
(10)「模倣技術〔芸術〕論」――芸術の価値の源泉を問う
(11)『修辞学・文学講義』――人間と人間とをつなぐ言語への関心

まとめ
(12)スミスは具体的な社会問題を世界全体から解こうとした
(13)哲学的な把握を志向する精神こそスミス最大の遺産である
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2017年09月24日

新しい国家資格・公認心理師を問う(5/5)

(5)基盤となる認識論の構築を目指して

 本稿は、この9月に施行された法律によって新しく誕生した国家資格である公認心理師を取り上げ、その概要を紹介し、臨床心理士と比較したうえで、その意義と限界を論じた論考であった。ここで、これまでの流れをまとめてみよう。

 まず、公認心理士の概要を紹介した。国民の心の健康の保持増進に寄与することが、法の目的であると同時に、公認心理師の活動の目的であり、この目的を達成するために、@ 心理に関する支援を要する者の心理状態の観察、その結果の分析、A 心理に関する支援を要する者に対する、その心理に関する相談及び助言、指導その他の援助、B 心理に関する支援を要する者の関係者に対する相談及び助言、指導その他の援助、C 心の健康に関する知識の普及を図るための教育及び情報の提供、という4つの業務を行うこととされていた。このような業務を担うことが可能となるためのカリキュラムとしては、大学で25科目、大学院で10科目の履修が求められていることを見た。この中で、認知心理学や社会心理学、発達心理学など、主だった心理学の領域は全て学ばなければならないし、研究法や統計法、実験に関しての科目も必須となっていることも確認した。また、医療、福祉、教育、司法、産業という、公認心理師が活躍するであろう5領域に関わる科目も、学部、大学院、共に全て修める必要があり、実習も、特に大学院では長時間、課されているということも指摘しておいた。最後に、公認心理士資格試験の実施方法等と合格基準も確認した。すなわち、事例問題の多い150〜200問ほどのマークシート方式であり、合格基準としては正答率が60%程度以上ということであった。その中に、「公認心理師としての基本的姿勢を含めた基本的能力を主題とする問題」というものがあり、これは、間違うと、公認心理師としての基本的能力に欠けていると判断されるような問題であり、たとえば、3問以上間違うと無条件に不合格となる、というような、全体の正答率の基準とは別の、より高い基準が設定されるものと考えられると説いておいた。

 次に、現在存在する心理関係の資格の中で、もっとも著名で、もっとも難易度が高いとされる臨床心理士資格と、公認心理師資格を比較することによって、後者の特徴をさらに浮き彫りにしようと試みた。まず類似点を指摘した。それは業務内容であった。臨床心理士の業務としては、A臨床心理査定、B臨床心理面接、C臨床心理的地域援助、D上記A〜Cに関する調査・研究、の4つが挙げられているが、これは、先に指摘した公認心理師の4業務と、多少の分類の違いはあるとはいえ、ほぼ同じ内容なのであった。次に、両者の相違点を見ていった。臨床心理士は民間の資格であるのに対して、公認心理師は国家資格であるという点、公認心理師になるために必要な科目は、学部でも25科目が必要とされており、その範囲は主な心理学の領域はカバーしているし、研究法や統計法、実験に関するものまで含まれており、実に多種多様な心理学の知識の習得が求められているのに対して、臨床心理士は、何学部かは問われないし、大学院で履修する必要のある科目も、公認心理師と比べると実に限られたものであるという点を指摘した。さらに、臨床心理師養成にあたっては、限られた臨床心理学関係の科目だけでよいのはなぜなのかを考察した。それは、日本の臨床心理士のリーダー的な先生方の間では、臨床心理学とその他の心理学は、全く別の学問であるとの考えが支配的だからであると説いた。すなわち、露骨に極言してしまうと、臨床心理士というのは臨床心理学が専門であって、心理学とはほとんど何の関係もない、だから、認知心理学や発達心理学、社会心理学などは、臨床心理士になるために必ず学ばなければならないということなどは決してなく、まあ、隣接他領域ということで参考程度に学んでもよいもの、というような位置づけになっているのだということであった。

 最後に、以上を踏まえて、公認心理師の意義と限界を考察した。まず、公認心理師の意義としては、何といっても、心理職の国家資格がつくられたこと自体にあると説いた。心理的支援を要する人が増えている現状において、国家資格として、心理職の質の担保が図られることの意味は大きいし、心理師による心理療法が保険点数化される可能性のあることも指摘した。もう一つの意義として、臨床心理士に比べると、非常に幅広く心理学の知見を学ぶ必要があるし、支援する領域についても、主要な5つの領域(医療、教育、福祉、産業、司法)をひととおり学ぶ必要があるという点を挙げた。このため、心理職のレベルアップが期待できることについても触れた。しかし他方で、公認心理師には欠けたるものがあり、限界もあることを説いた。公認心理師に欠けたるものの中で最も重大なのは、人間の心理に関する統一理論=科学的認識論の欠如であった。このため、学部の段階で学ぶ20科目以上は、バラバラなものとして存在しており、そのためにそれぞれを何の関連もないものとして学ばざるを得ないのであった。このため、学ぶ量が増えていき、学んでも学んでも、結局心理とは何なのか、もっと一般的にいうと、人間の認識とは何であるのか、ということが分からないままになり、真に知識を身につけて、それを使いこなして支援することが難しくなる、という弊害が生じてくるのであった。もう一つの問題点として、上達論がない点も指摘した。特に大切なのに等閑視されていることとして、学部の1年生や2年生段階の一般教養の学びを挙げ、実力ある公認心理師になるためには、認識誕生に至るまでの過程を描いた「生命の歴史」の学び、認識の対象たる自然や社会についての自然科学・社会科学の学び、そして、感性的に心を捉えられるようにするための文学作品の学びなどが必要となることを説いた。

 以上をまとめるならば、公認心理師という国家資格の誕生は、その大枠においては非常に意義があるものであるものの、現在の心理学の学問的水準を反映して、その教育内容や教育方法には、大きな課題があるといえるのである。

 初回でも触れたように、そもそも公認心理師が誕生したのは、心理的な支援を必要とする人が増加し、これが国家的な問題となってきたからであった。そして、その支援の質を担保すべく、これまでになかった心理職の国家資格化が実現したのである。このような問題意識は、筆者も共有しており、心理的な問題を何とか解決していかなければならないという思いは同じである。しかし、これまでに見てきたように、公認心理師には、現在の心理学の学問レベルに規定されて、大きな欠陥が存在しているのであり、法律によってその枠組みを作ることができただけであるといえる。

 そこでその枠組みの中身をしっかりと創っていくために、これからの筆者の課題を2、3、述べておきたい。

 まず大前提として、2018年の12月までに実施されることになっている、第1回の公認心理師資格試験に合格することである。本稿では触れなかったが、臨床心理師養成の指定大学院を修了している臨床心理士は、たいていが公認心理師の受験資格を与えられることになっている。したがって、対象の臨床心理士は、この1年ほどの間に、公認心理師試験に出題されるような分野の知識を、しっかり学んでいく(学び直していく)必要がある。筆者としては、認知心理学や社会心理学などの諸々の心理学の領域の知識を、科学的認識論の論理とつなげながら、科学的認識論の論理で整序しながら、修得していくつもりである。

 ここに関わって、実は筆者は、来年度、公認心理師養成に関わる2つの科目を2つの大学で教えることがほぼ決定している。そこで、連載第4回で説いたようなアバウトな上達過程を踏まえて、公認心理師を目指す学生に対して上達の適切な指針を与えつつ、自らの臨床経験を踏まえたうえで、筋を通した講義を実現していきたいと考えている。この講義のための準備も、自らの公認心理師試験の対策勉強と合わせて、半年ほどかけて行っていく予定である。

 そしてこれがもっとも重要な課題であるが、何といっても心理学の統一理論たりうる科学的認識論を、しっかりと構築・再措定していく必要がある。これを欠いては、公認心理師に欠けたるものとして説いた限界を突破することはできない。科学的認識論を構築・再措定するために、三浦つとむや南郷継正などの認識論関係の著作をしっかりと学び直し、学び続けるとともに、自らの心理臨床の実践をしっかりと認識論的に捉えていく修練を継続することが求められるだろう。同時に、自らが措定した、実力ある公認心理師になるためのカリキュラムを、初心に帰って、また0から辿り返してみることも有効であると考えている。その中で、心理学の諸々の知見を、認識とは何かの本質につなげて考えられるように訓練していき、また、自然科学や社会科学もきちんと学び直して、それが人間の認識理解にどのように結びつくのかについても、理解を深めていきたい。さらに、心理職の具体的な心理テストの実施・解釈スキルや面接スキルは、どのように技化していけばいいのかということも、体験的に辿り返して論理化していくことも忘れずに行いたい。

 このような課題をこなしていく中で、現代社会に生じている諸々の心理に関わる問題にも、的確で、一貫した論理で筋をとおして解説し、その解決の指針を提示できるようになっていくことも求められるだろう。心理に関わる問題は、うつ病であろうと認知症であろうと、不登校・ひきこもりの問題であろうといじめの問題であろうと、会社内の人間関係の問題であろうと夫婦間のトラブルであろうと、子どもの発達の問題であろうと育児の問題であろうと、非行や犯罪にかかわる問題であろうと、いかなる問題であっても、認識とは何かの本質論から筋をとおして解明し、きちんとした解決の指針を提示できるような実力を養っていくことが求められる。

 このような実力を養成していき、公認心理師の中身をより充実したものにしていけるようになることを決意して、本稿を終えたいと思う。

(了)

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2017年09月23日

新しい国家資格・公認心理師を問う(4/5)

(4)公認心理師の意義と限界

 前回は、公認心理師を臨床心理士と比較して、その類似点と相違点を指摘した。業務内容は似ているものの、その養成の課程において、公認心理師は、臨床心理学以外の心理学の諸々の領域も重視していることが大きく臨床心理士養成と異なっている点であることを説いた。

 さて今回は、前々回と前回の内容を踏まえて、新たに創設された国家資格である公認心理師について、その意義と限界を考察していきたいと思う。

 まず、公認心理師の意義についてである。何といっても、心理職の国家資格がつくられたこと自体に、大きな意義があるといえる。連載第1回で触れたように、時代の大きな流れの中で、心理的支援を必要としている人は、確実に増えてきている。そのような現状において、しっかりと国家が認めた心理職の資格がつくられたということは、心理職の質の担保という意味で、非常に大きな意味があるだろう。たとえば、病院での保険診療として、心理職が行なう認知行動療法が認められる可能性も高まったと考えられる。現在、病院で保険診療として認められている認知行動療法を実施できるのは、医師と看護師のみである。しかし、実際上、認知行動療法を実施しているのは、大半が心理職なのである。それなのに、心理職の認知行動療法が、保険診療として認められていないのは、これまで、心理職には国家資格がなかったこともその一因であると思われる。今回、公認心理師が新設されたことによって、保険診療として、心理職による質の高い認知行動療法が提供できるようになる可能性が増したといえるだろう。

 公認心理師のもう一つの意義は、臨床心理士に比べると、非常に幅広く心理学の知見を学ぶ必要があるし、支援する領域についても、主要な5つの領域(医療、教育、福祉、産業、司法)をひととおり学ぶ必要があるという点が挙げられる。要するに、偏った知識で、部分しか理解していないようなものは、公認心理師にはなれないのである。そのような意味で、公認心理師は、臨床心理士よりもレベルが上がると筆者は見ている。

 このようにいうと、自らのアイデンティティが臨床心理士であるような方から、次のような反論があるかもしれない。すなわち、「現在臨床心理士になるためには、指定の大学院を修了する必要がある。そして、大学院を修了した年に資格試験を受験し、合格すれば翌年から資格を取得できるのであるから、臨床心理士になるためには、学部4年間と大学院2年間、それに修了後の1年を合わせて7年必要である。ところが、公認心理師は、場合によっては学部卒業だけでなれてしまうので、心理職のレベルが下がることが懸念される。その意味で臨床心理士は、心理職の上級資格として、生き続けるだろう」と。

 しかし、このような反論は、事実を正確に捉えていない暴論だといえると思う。前回確認したように、確かに臨床心理士になるためには、大学卒業後、指定の大学院を修了する必要があるのだが、大学に関しては、何学部でもかまわないのである。したがって、この学部の4年間を臨床心理士養成に必要な期間としてカウントするというのは、かなり無理がある。そもそも、現状においては心理学部や心理学科などというのはごく限られており、発表されたような公認心理師になるために必要な20以上の科目を履修している臨床心理士など、ごく少数だといってよい。それに、公認心理師養成も、メインルートは大学院修了までのコースである。大学院のカリキュラムを比較しても、履修科目の幅広さや実習時間の長さからして、むしろ、臨床心理士養成のカリキュラムよりも公認心理師養成のカリキュラムの方が、充実しているといえるくらいである。したがって筆者は、臨床心理士が心理職の上級資格として生き残っていくことはないのではないかと、現時点では考えている。

 公認心理師資格の創設は、以上のような意義があるものの、大きな限界も存在していると考えられる。そこで以下では、公認心理師の限界について考察していきたい。

 まず、公認心理師に欠けたるものの中で、最も重大なものを指摘しておく。それは、人間の心理に関する統一理論がないということである。すなわち、科学的認識論の不在である。これはどういうことか。

 先にも触れたように、公認心理師になるためには、学部の段階で20以上の心理学に関わる科目を履修する必要がある。このこと自体は、心理に関わる一般教養的なものを学ぶという意味では、臨床心理士よりも前進していると筆者は評価している。しかし、人間の心理に関する統一理論=科学的認識論がないために、それぞれの科目がバラバラなものとして存在しており、学生はそれぞれの科目を、ほとんど何の関係もないものとして学ばされることになるのである。これによって、どのようなことが生じるか。

 第一に、学ぶ量が増えていく。それぞれのつながりがよく分からないのであるから、それぞれをバラバラに覚えていくことになる。たとえば、認知心理学で記憶について学び、発達心理学で愛着について学び、社会心理学で印象形成について学ぶ。しかし、これらの間には、ほとんど何の関係もないものとして説かれているので、3つを独立に覚えていくことになるのである。さらに、新しい研究によって新しい知見が蓄積されていくので、どんどんと覚えるべき知識が増えていくのである。

 第二に、学んでも学んでも、結局心理とは何なのか、もっと一般的にいうと、人間の認識とは何であるのか、ということが分からないままなのである。これは、医学生が、心臓、肺、肝臓、腸、皮膚、筋肉、骨、脳、神経などをバラバラに学んでも、結局人間とは何かが分からないのと、論理的には同様である。すなわち、人間の認識のある側面をバラバラに学んだとしても、そもそも認識とは何かという本質を踏まえていなければ、認識についてのトータルな理解が深まっていかないのである。結果、部分部分の知識の寄せ集めに終わってしまい、認識とは何かが分からないままになってしまうのである。

 ここに関連して第三に、真に知識を身につけて、それを使いこなして支援することが難しくなる。バラバラなままの知識では、非常に限定された条件のもとでは活用できるかもしれないが、知識が体系として理解されていないので、実際に使おうとしてもなかなか使えない、ということになってしまう。科学的認識論がないために、心理学のもろもろの知見を、筋を通して理解して使いこなすということができないのである。

 以上のように、公認心理師に統一理論としての科学的認識論が欠けているために、さまざまな弊害が生じてくることが予想されるのである。

 科学的認識論が欠けていることと密接に関わるが、別の問題点として、上達論がないという点も限界の一つとして挙げられる。すなわち、心理職としてきちんと仕事ができるようになるためには、学部の1〜2年生ではどのようなことを身に付け、3〜4年生では何を習得し、大学院の修了時点ではどのようなスキルが身に付いているべきなのか、そしてそれらはどのように訓練すれば可能なのか、といったことに対して、明確な答えが出せないのである。このようなことに答えを出すためには、まず、学ぶべきものがもう少し論理的に整序されている必要があり、そのためにこそ、先ほど説いたような科学的な認識論が必要なのである。

 公認心理師のカリキュラムについては、以前筆者が、「心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想(5/5)」の中で、アバウトに提示したことがあった。それを以下に引用する。

「以上を踏まえて、もし筆者が公認心理師のカリキュラムを作るとしたら、どのようなものになるのか、アバウトではあっても考えて提示してみたい。

 まず、学部の1年生2年生の間は、専門の学びに突入する前の一般教養の学びを重視する。心理士は人間の認識を扱う職種であるから、人間の認識を理解することがその専門性となるべきではあるが、その前提をまずは学ばせるのである。この前提には二重構造があると思う。一つは、人間の認識に至る歴史性の学びである。人間の認識は、初めからあったものでもなければ、何の必然性もなく突然生じたものでもない。物質の生成・変化・発展の流れの中で、必然性をもって誕生してきたものである。この物質の発展の必然性を、すなわち「生命の歴史」を、しっかり学ばせることである。「過程も含めて全体である」(ヘーゲル)のだから、認識が誕生するに至った過程をしっかり理解しておかないと、認識そのものの理解が不十分なものとなってしまうと考えられる。もう一つの前提は、自然と社会の学びである。認識とは外界の反映によって成立するものであり、その外界は自然的外界と社会的外界の二つであるから、認識を理解するためにはそれら自然的・社会的外界のことをしっかりと理解しておく必要があるのである。これらと並行して、時代の心、社会の心、人の心を描いた文学作品をたくさん読ませるようにする。

 学部の3年生4年生では、認識論の基礎をしっかり身につけられるようにする。具体的には、認識学原論として、そもそも認識とは何か、どのように生成発展していくのか、ということをきちんと学ばせる。認識の正常な(健康な)生成発展の過程を、観念的二重化や問いかけ的反映という基本的な論理でもって筋を通して把握できるようにしていくのである。それに合わせて、科学的認識論で整序した(臨床)心理学や精神医学の文化遺産をしっかりと学ばせるようにする。その際、しっかりと事実から論理を導き出せるような頭脳創りも行っていく。卒業研究は、統計学の基礎をしっかりと理解し、使いこなせるようになることを目的とし、内容のオリジナリティにはそれほどこだわる必要がないだろう。『統計学という名の魔法の杖 ― 看護のための弁証法的統計学入門』(現代社)によって、統計学の発展の歴史を学ぶとともに、t検定を徹底的に技化できればそれで十分だといえる。

 大学院の修士課程の2年間は、心理臨床の技を創出する教育課程と位置づければいいであろう。心理検査の具体的な実施・解釈技法や心理面接の諸技法を、認識とは何かからしっかりと筋を通して学び、先生方の陪席を通して、あるいはロールプレイや事例検討を通して、徹底的に訓練する期間とすればいいであろう。気分障害や不安障害など、心理的介入が特に効果的と思われる精神疾患については、精神疾患の認識論的な理解に基づいた介入方法を、これまた認識論的にしっかりと筋を通して理解していくことも求められる。また、医療、教育、産業、司法、福祉領域など、心理士が活動する領域を一般的に押さえたあと、自分の志望する領域の特殊性について、ある程度の専門知識の学びと専門的な技能の訓練を行う必要もあるだろう。修士論文は、しっかりとした研究方法に則った、それなりにオリジナリティのある論文が求められよう。」


 これについては、現時点でも付け加えるものはない。このように科学的認識論を柱として、段階的に知識や技を習得していけるように、適切に配列されなければならないだろう。

 この中で特に大切なのに等閑視されているのは、学部の1年生や2年生段階の一般教養の学びであろう。すなわち、認識誕生に至るまでの過程を描いた「生命の歴史」の学び、認識の対象たる自然や社会についての自然科学・社会科学の学び、そして、感性的に心を捉えられるようにするための文学作品の学びである。このようなものは、発表された公認心理師養成のカリキュラムでも大きく欠けているところであるから、きちんとした実力を養成したい学生は、特に念頭に置いて学びを進めていく必要があるといえるだろう。

 以上今回は、公認心理師の意義と限界について考察した。

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2017年09月22日

新しい国家資格・公認心理師を問う(3/5)

(3)臨床心理士との比較

 前回は、公認心理師の概要を紹介した。すなわち、4つの業務内容を紹介し、大学および大学院で履修しなければならない科目を確認して、資格試験についても概説したのであった。

 今回は、公認心理師を、従来からある資格である臨床心理士と比較して、その特徴をさらに明確にしていきたいと思う。臨床心理士を比較対象として取り上げるのは、現在存在する心理関係の資格の中で、最も難易度が高く、それゆえ、最も専門性が高いといわれているのが臨床心理士であり、筆者自身の臨床心理士であるため、他の資格よりも臨床心理士資格について詳しいからである。

 まず、両者の類似点から指摘しておきたい。似ている点はずばり、業務内容である。日本臨床心理士資格認定協会のホームページでは、臨床心理士について、次のように説明されている。

「臨床心理士は、心の問題に取り組む“心理専門職”の証となる資格です。

「臨床心理士」とは、臨床心理学にもとづく知識や技術を用いて、人間の“こころ”の問題にアプローチする“心の専門家”です。」


 そのうえで、臨床心理士の専門業務として、次の4つが挙げられている。

A臨床心理査定
B臨床心理面接
C臨床心理的地域援助
D上記A〜Cに関する調査・研究


 念のために、公認心理師の業務として前回紹介したものを再掲しておく。

@ 心理に関する支援を要する者の心理状態の観察、その結果の分析
A 心理に関する支援を要する者に対する、その心理に関する相談及び助言、指導その他の援助
B 心理に関する支援を要する者の関係者に対する相談及び助言、指導その他の援助
C 心の健康に関する知識の普及を図るための教育及び情報の提供


 見比べてみると明らかであるが、臨床心理士業務のAとBは、公認心理師の業務@とAと全くといっていいほど同じである。Aと@が心理アセスメントであり、BとAが心理的介入である。

 臨床心理士業務のCは、公認心理師業務のBとCを合わせたものに近いであろう。というのは、Cの説明として、「専門的に特定の個人を対象とするだけでなく、地域住民や学校、職場に所属する人々(コミュニティ)の心の健康や地域住民の被害の支援活動を行うことも臨床心理士の専門性を活かした重要な専門行為です。これらのコンサルテーション活動は……」と書かれているからである。すなわち、Cには不特定多数を対象にした働きかけ(公認心理師業務のCに相当)やコンサルテーション(公認心理師業務のBに相当)が含まれているのである。

 臨床心理士業務のDは、調査や研究である。これは、あえて分類すると、公認心理師業務のCに含まれるといえる。なぜなら、Dの調査や研究は、いってみれば心の健康に関する知識の獲得を目指すものであり、こうした調査や研究の結果は広く社会に向けて公表され、その知識は普及を図っていくことが求められるからである。

 このように見てくると、分類の仕方に若干の違いがあるものの、臨床心理士と公認心理師は、ほぼ同じような業務に携わるのだ、ということが分かる。

 では、両者の相違点はどこにあるのだろうか。まず、決定的に重要な違いとして、臨床心理士は民間の資格であるのに対して、公認心理師は国家資格である、という点がある。これまで、心理職には国家資格がなかったため、たとえばスクールカウンセラーの採用や病院の心理職の採用などにあっては、臨床心理士であることが要件とされるケースが多かった。しかし、同じような業務に携わる国家資格が誕生してしまったら、学校や公的な機関はもちろん、民間の病院などでも、臨床心理士であるか否かは問題とされずに、国家資格たる公認心理師であることを採用の条件とするようになっていくと考えられる。国が認めた資格というのは、それほど威力やインパクトが大きいといえるのではないか。

 また、それぞれを養成するカリキュラムに着目するならば、そこには大きな違いがあることが分かる。公認心理師になるために必要な科目については、前回紹介したが、学部でも25科目が必要とされており、その範囲は主な心理学の領域はカバーしているし、研究法や統計法、実験に関するものまで含まれており、実に多種多様な心理学の知識の習得が求められていたのであった。加えて大学院でも、5つの領域における理論と支援の展開をもれなく学ぶ必要があるし、450時間以上の実習もクリアーする必要があるのであった。

 これに対して臨床心理士はどうか。臨床心理士になるためには、臨床心理士資格認定協会が指定する大学院を修了する必要があるのだが、実は、大学の学部で何を学んでいたかは全く問われないのである。筆者のように学部時代は哲学を専攻していてもかまわないし、極論すれば、理系の工学部などを卒業していても、全く問題ないのである。事実、筆者の知人の臨床心理士には、学部時代は理系だったという方もおられる。それゆえ、大学さえ卒業していれば、臨床心理士になるためには2年間、指定の大学院で学べばいいということになるのである。

 大学院の2年間で履修する必要のある科目も、公認心理師と比べると実に限られたものである。必修の科目としては、臨床心理学特論、臨床心理面接特論、臨床心理査定演習、臨床心理基礎実習、臨床心理実習という5つがあるだけで、あとは5つのグループからそれぞれ一つ以上の科目を履修すればいいのである。場合によっては、心理学研究法も心理統計法も、履修しなくても修了できる。もっと極端な例を出せば、発達心理学も認知心理学も、社会心理学も、そして精神医学すらも、必ず学ばなければならないというわけではないのである。もちろん、前回列挙したように、これらは公認心理師になるためには、全て必修である。

 なぜ、臨床心理士の養成はこのようになっているのであろうか。それは、日本の臨床心理士のリーダー的な先生方の間では、臨床心理学とその他の心理学は、全く別の学問であるとの考えが支配的だからである。これは特に、河合隼雄の影響を受けている京都大学系の臨床心理士には、根強い考え方であると思われる。ふつうに考えれば、認知心理学や発達心理学、社会心理学や臨床心理学など、諸々の心理学の領域があり、それぞれは特殊性を持ちながらも、心理学としての普遍性に貫かれているはずである。別言するならば、心理学とは、認知心理学や発達心理学、社会心理学や臨床心理学などをひっくるめた総称だと考えるのが普通である。ところが、臨床心理士の中には、そのように考えるのではなく、臨床心理学を、心理学とは別の、独立した一つの学問領域だと考える人が多いのである。もちろん、それは、そのような教育を受けてきたからである。

 このことを示す、一つの典型例を紹介しよう。以下の書物のタイトルに注目していただきたい。

上里一郎編『臨床心理学と心理学を学ぶ人のための心理学基礎事典』(至文堂)

 臨床心理学と心理学が、並列に並べられているのである。これはたとえば、『精神医学と医学を学ぶ人のための医学基礎事典』などといっているのと同様の、論理的な混乱に思える。「精神医学と医学」とあるが、医学の中には精神医学も入っているのであるから、この2つを同レベルで並べるのはおかしい、というのが普通の人の反応であろう。これと同様に、「臨床心理学と心理学」というように、この2つを同じレベルで並べるのはおかしいと感じるのが普通の感覚であろう。ところが、上述のとおり、この編者の先生や臨床心理士の典型的な教育を受けた人は、臨床心理学は、心理学とは全く別の、独立した学問領域だと固く信じているため、臨床心理学と心理学を同じレベルで並べることに、違和感がないのである。これは、たとえば、社会学と心理学を同じレベルで並べることと同じだと考えているのである。

 このような考え方が支配的だからこそ、臨床心理士養成のカリキュラムにあっては、心理学が軽視されているのである。すなわち、露骨に極言してしまうと、臨床心理士というのは臨床心理学が専門であって、心理学とはほとんど何の関係もない、だから、認知心理学や発達心理学、社会心理学などは、臨床心理士になるために必ず学ばなければならないということなどは決してなく、まあ、隣接他領域ということで参考程度に学んでもよいもの、というような位置づけになっているのだと考えられるのである。

 以上のようなカリキュラムの他にも、公認心理師と臨床心理士には違いがある。それは、臨床心理士養成の大学院では、基本的には臨床心理学に関する修士論文を書かなければならないが、公認心理師養成の大学院では、現在までの情報では、修士論文を書くことは課されていないという点である。これは、臨床心理士のほうが、調査や研究を重視していることの反映であろう。また、資格試験に関しても若干の違いがある。臨床心理士の資格試験には、マークシートのテストだけではなく、論述試験があり、これらの1次試験に合格したものは、2次試験である面接試験に進むことになる。ところが、公認心理師の資格試験には、論述試験も面接試験もないのである。さらに、臨床心理士資格には、5年に一回の更新制度があるが、公認心理師資格には、現在のところ、そのような更新制度はないという違いもある。

 以上、今回は、公認心理師を臨床心理士と比較して、その類似点と相違点を指摘した。
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2017年09月21日

新しい国家資格・公認心理師を問う(2/5)

(2)公認心理師の概要

 本稿は、新しく誕生する国家資格である公認心理師について、その歴史的な意義や限界を問うことを目的としている。

 今回は、公認心理師法や公認心理師のカリキュラム等検討会の報告書をもとに、公認心理師というのはどのような資格であるのか、その概要を紹介する。

 公認心理師法では、その目的として、「公認心理師の資格を定めて、その業務の適正を図り、もって国民の心の健康の保持増進に寄与することを目的とする」と書かれている。すなわち、国民の心の健康の保持増進に寄与することが、法の目的であると同時に、公認心理師の活動の目的であると考えてよいだろう。この目的の達成のために、「保健医療、福祉、教育その他の分野において、心理学に関する専門的知識及び技術をもって」、次の4つの行為を行うものが公認心理師であるとされている。

@ 心理に関する支援を要する者の心理状態の観察、その結果の分析
A 心理に関する支援を要する者に対する、その心理に関する相談及び助言、指導その他の援助
B 心理に関する支援を要する者の関係者に対する相談及び助言、指導その他の援助
C 心の健康に関する知識の普及を図るための教育及び情報の提供


 順に、もう少し詳しく説明したい。

 @はいわゆる心理査定とか心理アセスメントとか呼ばれるものであり、典型的には、心理テストを実施して、その結果を解釈するような作業のことである。たとえば、知能検査を実施して、対象者の知的な能力の偏り(得意なところと不得意なところ)を分析したり、パーソナリティ検査を行って、対象者の性格傾向を把握したりすることである。精神疾患のある方が対象である場合は、その疾患の重症度を測ったりもする。もちろん、心理テストを用いずに、あるいは心理検査と合わせて、対象者の行動を観察したり、本人から話を伺ったりすることによって、その心理状態を分析することもある。いずれにせよ、@では、対象者の心の状態がどのようなものかを専門的に調べて、分析・評価する仕事だといえるだろう。

 Aはカウンセリングや心理療法のことである。広く、心理的介入ということもある。たとえば、うつ病の方に認知行動療法を実施して、症状の緩和や回復を図っていくことや、不登校の中学生にカウンセリングを行い、登校できるように援助していくことなどである。もちろん個別に、1対1でカウンセリングや心理療法を行なうだけではなく、集団に対して心理的介入を行うこともある。うつ病の入院患者さんに対して、病棟のプログラムとして集団認知行動療法を行なうことや、刑務所で、出所後、きちんと就職できるように、就労に関するスキルを訓練するためにSSTを実施することも、ここに含まれるだろう。また、Cとの区別が微妙になるが、企業の新入職員を対象に、メンタルヘルスの研修を行うようなことも、広く解釈すれば、Aに入れてもいいだろう。

 Bは本人ではなく、その関係者に対する働きかけである。たとえば、うつ病患者さんのご家族に接し方のアドバイスをしたり、発達障害のあるの会社員の上司に、その特性をお伝えしたりする活動である。また、コンサルテーションといって、異なる専門家同士の相談もここに含まれる。企業の産業保健スタッフ(産業医や保健師など)と、休職中の方の復職時期やその後のサポートについて相談したり、教育の専門家である学校の先生と、対象の生徒について支援のあり方を相談したりする活動などである。コンサルテーションにおいては、心理の専門家として、その他の専門家と連携していくことが求められる。

 Cは、メンタルヘルスに関わる市民講座や各種メディアを通した情報提供などが想定されていると考えられる。@〜Bが、特定の対象者やその関係者に限られた活動であるのに対して、このCは、不特定多数を対象とした活動といえるだろう。公認心理師の「国民の心の健康の保持増進に寄与する」ためには、@〜Bにあるような「心理に関する支援を要する者」に対して、事後的に介入するだけではなく、現在は心理的な支援を必要としない不特定多数に対しても、事前に、予防的に関わっていく必要がある。そこで、講演会や雑誌、テレビなどのメディアを通じて、心の健康に関する知識を普及していくという活動も、公認心理師の仕事の一つだとされているのだと考えられる。

 このような4つの仕事を行うのが公認心理師であるとされているのである。そして、大学や大学院での公認心理師養成は、この4つの仕事が行えるように教育していく、ということになる。そこで次に、公認心理師養成の中身について、具体的に見ていきたい。

 今年の6月に公表された「公認心理師カリキュラム等検討会 報告書」では、公認心理師の養成について、以下の24の到達目標が挙げられている。

1. 公認心理師としての職責の自覚
2. 問題解決能力と生涯学習
3. 多職種連携・地域連携
4. 心理学・臨床心理学の全体像
5. 心理学における研究
6. 心理学に関する実験
7. 知覚及び認知
8. 学習及び言語
9. 感情及び人格
10. 脳・神経の働き
11. 社会及び集団に関する心理学
12. 発達
13. 障害者(児)の心理学
14. 心理状態の観察及び結果の分析
15. 心理に関する支援(相談、助言、指導その他の援助)
16. 健康・医療に関する心理学
17. 福祉に関する心理学
18. 教育に関する心理学
19. 司法・犯罪に関する心理学
20. 産業・組織に関する心理学
21. 人体の構造と機能及び疾病
22. 精神疾患とその治療
23. 各分野の関係法規
24. その他


 そして、これらの到達目標を達成するために、大学および大学院で必要な科目として、それぞれ次のような科目が指定されている。

大学における必要な科目
1. 公認心理師の職責
2. 心理学概論
3. 臨床心理学概論
4. 心理学研究法
5. 心理学統計法
6. 心理学実験
7. 知覚・認知心理学
8. 学習・言語心理学
9. 感情・人格心理学
10. 神経・生理心理学
11. 社会・集団・家族心理学
12. 発達心理学
13. 障害者(児)心理学
14. 心理的アセスメント
15. 心理学的支援法
16. 健康・医療心理学
17. 福祉心理学
18. 教育・学校心理学
19. 司法・犯罪心理学
20. 産業・組織心理学
21. 人体の構造と機能及び疾病
22. 精神疾患とその治療
23. 関係行政論
24. 心理演習
25. 心理実習(80時間以上)


大学院における必要な科目
1. 保健医療分野に関する理論と支援の展開
2. 福祉分野に関する理論と支援の展開
3. 教育分野に関する理論と支援の展開
4. 司法・犯罪分野に関する理論と支援の展開
5. 産業・労働分野に関する理論と支援の展開
6. 心理的アセスメントに関する理論と実践
7. 心理支援に関する理論と実践
8. 家族関係・集団・地域社会おける心理支援に関する理論と実践
9. 心の健康教育に関する理論と実践
10. 心理実践実習(450時間以上)

 見ていただければ分かるように、認知心理学や社会心理学、発達心理学など、主だった心理学の領域は全て学ばなければならないし、研究法や統計法、実験に関しての科目も必須となっている。また、医療、福祉、教育、司法、産業という、公認心理師が活躍するであろう5領域に関わる科目も、学部、大学院、共に全て修める必要がある。さらに、実習も、特に大学院では長時間、課されている。

 大学と大学院で、上記の科目を履修した者が、公認心理師試験の受験資格を得る。実は、大学院まで修了しなくても、受験資格を得られるルートは存在するのであるが、大学と大学院でこのような科目を修めることがメインルートとされている。

 では、公認心理師試験はどのようなものであるのか。実施方法等と合格基準について、先の報告書では次のように記されている。

「2.試験の実施方法等
 全問マークシート方式とし、1日間で実施可能な範囲(実施時間として合計300分程度を上限)で150〜200問程度を出題する。また、試験問題のうち、ケース問題を可能な限り多く出題する。なお、試験の実施時間は、1問当たり1分(ケース問題については同3分)を目安とする。公認心理師としての基本的姿勢を含めた基本的能力を主題とする問題と、それ以外の問題を設ける。
 障害のある受験者については、回答方法等、受験上の配慮をする。

3.合格基準
 全体の正答率は60%程度以上を基準とする。基本的能力を主題とする問題の正答率は、試験の実施状況を踏まえ、将来的に基準となる正答率を定める。」


 すなわち、事例問題の多い150〜200問ほどのマークシート方式であり、合格基準としては正答率が60%程度以上ということである。「公認心理師としての基本的姿勢を含めた基本的能力を主題とする問題」というのは、これを間違うと、公認心理師としての基本的能力に欠けていると判断されるような問題であり、たとえば、3問以上間違うと無条件に不合格となる、というような、全体の正答率の基準とは別の、より高い基準が設定されるものと考えられる。

 このような試験に合格すれば、晴れて公認心理師となれるのである。なお、第一回の資格試験は、2018年12月までに実施されることになっている。

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2017年09月20日

新しい国家資格・公認心理師を問う(1/5)

目次

(1)公認心理師法が施行された
(2)公認心理師の概要
(3)臨床心理士との比較
(4)公認心理師の意義と限界
(5)基盤となる認識論の構築を目指して

――――――――――――――――――――

(1)公認心理師法が施行された

 2015年12月に改正労働安全衛生法が施行された。この法律に基づき、従業員の心の健康状態を調べる検査を企業などに義務づけたストレスチェック制度が始まった。このストレスチェック制度の背景には、うつ病など精神疾患の発症による労災申請の増加がある。このストレスチェック制度に関して、最近、以下のような新聞記事があった。

「ストレスチェック実施82%、厚労省調べ、義務化後も徹底されず、医師の指導は32%。

 厚生労働省は26日、企業などに従業員の心の健康状態の点検を義務づけた「ストレスチェック制度」の実施状況を初めて公表した。実施率は82・9%にとどまり、実施したうえで部署による違いなどの分析までしたのは64・9%だった。同省は未実施の事業所を指導するほか、従業員が受け終わっている事業所には職場環境の改善につなげるよう促す。

 同制度は従業員のメンタルの不調を防ぐことを目的に2015年12月に開始。従業員50人以上の事業所は年1回、ストレスチェックを実施し、結果を受けて従業員から申し出があれば医師による面接指導などを行わなければならない。

 厚労省は今年6月末時点での状況をまとめた。全体の実施率は82・9%で、業種別では金融・広告業が93・2%で最も高かった。全事業所の従業員のうち、78・0%が同時点までにストレスチェックを受けた。

 医師による面接指導は32・7%の事業所が行っていた。高ストレスの従業員がいなかったことで面接をしなかった事業所もあるとみられるが、厚労省は面接指導が必要なのに受けていない従業員も多いとみている。

 ストレスチェック制度では、結果を踏まえて部署による多い・少ないなどストレスの現状を分析し、仕事の割り振りなども含む職場環境の改善に取り組むことを事業所の努力義務としている。しかし、チェックを実施した事業所のうち分析までしたのは78・3%で、同省によると、2割超は従業員にチェックを受けさせるだけで終わっている可能性が高い。

 一方、厚労省の研究班は15年度の同制度開始後最初の1年間の状況を分析した。それによると、チェック実施後に何らかの職場環境の改善をしていたのは37・0%にとどまった。

 研究班の代表を務める東京大大学院の川上憲人教授は「従業員への調査結果を見ると、ストレスチェックを受け、さらに職場環境の改善を経験した場合にストレスがやや軽減されている」と指摘。「制度の実効性を高めるためにも企業に対策を促していくことが重要だ」と強調する。研究班は今年度、職場環境の改善方法や医師の面接指導に関するマニュアルをつくる計画だ。」(2017年07月27日 日本経済新聞)


 この記事によると、ストレスチェックを実施した事業所は全体の82.9%であり、高ストレス者に対する医師による面接指導を行ったのはわずかに32.7%にすぎず、何らかの職場環境の改善を行ったのも37.0%にとどまっているという。労働者の心の健康を守るために施行された法律が、形式的なものにとどまっている現状がうかがえる。

 筆者も企業においてカウンセリングを行っているが、労働者の心の健康は、さまざまな形で害されているといってよい。長時間労働が当たり前の職場もあれば、質の高い業務を課される部署もある。パワハラや、そこまでいかなくても、上司との関係に悩んでいる方も多い。このような要因によってストレスを感じ、ついにはうつ病を発症して休職に追い込まれるような方も増えているのである。

 メンタルヘルス上の問題は、何も労働者に限定されたものではない。学校現場では、子どもの自殺が問題化している。内閣府が2015年に公表した自殺対策白書によると、1972〜2013年の42年間で18歳以下の自殺者数を日別に調べたところ、9月1日が突出して多かったという。9月1日前後の数日も自殺者数が多く、ゴールデンウィークや春休みの前後も多い傾向があると報告されている。このような中で、次のような取り組みが報道されていた。

「夏休み明け 悩み相談を 「応援委」カード 全小中生に配布へ

 【愛知県】名古屋市教委は新学期に入る九月一日、子どもの悩みに応じる「なごや子ども応援委員会」をPRするカードを全小中学生らに配布する。夏休み明け直後の悩みの顕在化が懸念される中、未然に問題を防ぎたい考えだ。

 応援委は中学校に常駐するスクールカウンセラー(SC)らが、不登校やいじめなどに対応する市独自の制度。二〇一四年に発足した。

 カードは名刺サイズの両面カラー刷りで、小中学生と教職員用の計十七万五千枚を作製した。「こころのこと、からだのこと、おうちのこと、なんでも相談してね!」などと呼び掛け、地域ごとの専用電話番号も記載している。

 全国的には夏休み明けの子どもの自殺が問題になっており、市教委の担当者は「二学期は学校行事が多く、気の重い状態となっている子もいる。不登校などになる前に気軽に相談してほしい」と話している。(安田功)」(2017年8月31日 中日新聞)


 ここでは、夏休み明けに不登校や自殺などの問題が生じないように、中学校のスクールカウンセラーが相談に応じることを周知するカードを配布しているということが紹介されている。

 筆者はスクールカウンセラーとして、週に1回、活動している。その中で、不登校に関する問題は非常に多い。中には、うつ病や統合失調症などの精神疾患を発症しているケースもある。また、思春期特有の発達上の課題で悩んでいる生徒も多い。

 このように、現代日本においては、メンタルヘルス(心の健康)に関わる問題が、さまざまな領域で、多様な形で噴出しているのである。そして、国家レベルでメンタルヘルス対策がなされており、その一環として新しい国家資格が誕生することになった。それが、本稿で取り上げる公認心理師である。

 公認心理師の資格を法定する公認心理師法は、2015年9月に成立し、公布された。そして、公布の日から2年を超えない範囲内において施行されることとされていたのであり、実際、この9月15日に施行された。この法案には、法律案を提出する理由として、次のように記されている。

「近時の国民が抱える心の健康の問題等をめぐる状況に鑑み、心理に関する支援を要する者等の心理に関する相談、援助等の業務に従事する者の資質の向上及びその業務の適正を図るため、公認心理師の資格を定める必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。」


 ここに記されているとおり、国民が抱える心の健康に関する問題が多様化し深刻化する中で、心理職に対する社会的ニーズが高まり、その質の担保が求められるようになったために、心理職の国家資格化が実現したといってよい。

 そこで本稿では、この新しい国家資格である公認心理師について、その意義と限界を問うことを目的としている。そのために、まずは公認心理師とはどのような資格であるかを紹介したい。そして、現在最も知名度があり、最も取得が難しいとされている心理系の資格である臨床心理士と比較して、その特徴を浮上させたい。これを踏まえた上で、公認心理師の意義と限界を考察していく予定である。
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2017年09月19日

障害児の子育ての1年間を振り返る(5/5)

(5)教育学の構築は歴史的な願いを現実化するものである

 本稿は、ダウン症と診断されたわが子の1年間の育児を振り返るものである。ここでこれまでの内容を振り返っておこう。

 まず、抱っこしながらの散歩とその意味について確認した。これを始めたきっかけは、松田道雄『育児の百科』で勧められていたからであるが、それは実体面と認識面の両面で大きな意義があるものだということだった。実体面に関しては、さらに生理的な側面と運動的な側面の2つがあり、生理的な側面で言えば、外界の自然的な変化に対応する実力をつけるという意味があるということだった。一方、運動的な側面で言えば、首から背中・腰にかけての骨や筋肉を鍛えるという意味があり、とりわけ縦抱きにされることによって、そういう姿勢の状態に慣れていくということ、このことが首すわりやお座りにつながっていくのだということだった。一方、認識面でいえば、抱っこをすることによって、これまでとは違った形で外界を反映させることになり、赤ちゃんの認識の発展を促していくことになるということであった。さらに散歩の場合、その反映する外界そのものが家の中に比べれば多種多様であるから、赤ちゃんの興味・関心を促し、外界に対して積極的な姿勢を創ることになるということだった。このような意味のある抱っこしながらの散歩を毎日続けたからこそ、それが量質転化したのではないかということだった。

 続いて、「ハイハイを促すために行った働きかけ」について紹介した。最初にハイハイの意味について確認した。ハイハイをすることによって上肢を鍛えることができるのであり、またハイハイができるようになる過程(=自らの体を移動させようとするけれど移動できない、移動させようとするけれど移動できない、を繰り返し、ようやく移動できるようになる過程)が人間としての脳の実力をすさまじくつけることになるのだということであった。そこで、成長の頃合いを見計らって、ハイハイができるように意図的に働きかけたのだった。そもそも人間は像を描いて行動するのであり、ハイハイにしても「あのおもちゃをとりたい」などの像を描いて行うわけだから、その像をしっかり描けるようにしないといけないということだった。そこで、移動できなくても、取るために頑張っているようだったら、ちょっとおもちゃを近づけてとれるようにしてやったのだった。こうやって「がんばったらとれた」という体験を積ませることで、「何とかがんばって動こう」という意志が強烈になるのではないかと考えたのだった。一方、ハイハイがしやすいように、つるつるの板を買ってきて滑りやすくするとともに、傾斜をつけて移動しやすくなる工夫をしたのだった。その結果、あっという間に自分でずりばいができるようになったのだった。

 最後に、障害をもつ子どもの親として、自分の認識がどのように変化していったのかを紹介した。自分の子どもがダウン症であることがわかったとき、大きなショックを受けたが、『障害児教育の方法論を問う』を読んで、自分の子どもも健常児と同じように可能性をもっているのであり、育て方次第でしっかりと育っていくのだと思うことができたのだった。しかし、最初の頃はかなり気負いこんでおり、あまり気持ちに余裕がなかった。しかし、1つ、また1つと子どもの成長を感じるたびに、その気持ちが少しずつ和らいでいき、「しっかり成長するんだな」と少し安心することができた。しかし、このような成長はいわば自然成長的なものとしか見られなかった。自分が意図的にやっている取り組みが、どのように影響を与えているのかはよくわからなかった。そのため、「本当にこれでいいのだろうか」という不安を覚えることもあった。しかし、理論的な実践として「ハイハイを促すための働きかけ」を行ったところ、子どもがハイハイをできるようになったことをきっかけに、子育てに関して自信をもつことができたのだった。10か月検診の際、もう普通のハイハイやつかまり立ちをしたり、手を離して歩くこともできている子どもがいたが、そういう姿を見て、「すごいな」とは思ったけれども、まだずりばいがちょっとできるぐらいでしかない自分の子どもについて卑屈に考えることは一切なかったのだった。そこには自分の子どももあるべき発達の過程をしっかり辿っているし、辿らせているという自信があったからだということだった。

 この1年間を振り返ったとき、もっとも大きな学びになったことは「すべての人間は可能性をもっている」ということである。このような内容は南郷学派の著作には書かれているし、これまでにも学んでいたけれども、これがいかに重要な論理なのかということがまったくわかっていなかった。本の上での知識でしかなかったのである。しかし、障害のあるわが子を育てなければならないという切実な問題にぶつかったとき、この論理のすばらしさに気づいたのである。

 もっとも子育てを始めた当初は、まだまだ信じるしかないというレベルだった。しかし、自らの取り組みによって子どもが大きく成長する姿を見せてくれる中で、この論理が自らの体験をともなったものとして、五感情像として発展していった。

 こうした認識でもって過去の偉大な教育学者の著作を読んでみると、やはりみな人間のもつ力・教育のもつ力を信じて実践に取り組んでいたのだということがわかった。「この子は育たないだろう」と思われる子どもたちに対して、信念をもって実践に取り組んでいったのである。教育学の歴史というのは、人間の力・教育の力のすさまじさが明らかにされていった歴史なのだということも読みとることができた(詳細は昨年掲載した「近代教育学の成立過程を概観する」を参照していただきたい)。その延長線上に、今の自分の子育てがあるのだということがわかった。

 しかし、いかに「人間には可能性がある」といったところで、それを現実化させるものが存在しなければ、結局は徒労に終わってしまうし、仮に成果が出たとしても一過性・偶然性にすぎないものとなってしまう。そこで求められるのが対象から導き出した論理であり、理論なのである。これをしっかりと自分のものにすれば、対象についての見え方が大きく変わってくるし、どうすればよいかの方向性が見えてくるということが自らの体験として非常によくわかった。

 この理論を体系的にまとめあげたものこそ教育学である。教育学の構築こそ私が掲げている人生の目標であるが、これを実現することは、「すべての子がその可能性を実現していってほしい」という先達たちの理想を具体化しようとするものなのである。人類が抱き続けてきた願いの実現につながる歴史的な大事業なのである。

 このようなことがわかったのは、障害をもって生まれてきたわが子のおかげである。本当に感謝している。家庭での子育てや教室での授業など、自分の実践の場で一人一人の可能性を最大限現実化させようと努力するとともに、そうした事実をもとに教育学を構築できるよう、研鑽に励んでいきたいと思う。
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2017年09月18日

障害児の子育ての1年間を振り返る(4/5)

(4)子育ての過程での親の認識の変化

 前回は、ハイハイを促すために行った働きかけについて紹介した。端的にまとめるならば、赤ちゃんがハイハイしやすい環境を作りだすとともに、ハイハイしようという意志が形成されるように、成功体験を積ませるように配慮したということであった。その結果、ずりばいをするようになり、現在では4mぐらいは移動できるようになったということだった。

 今回は、こうした取り組みの中で、親である私自身の認識がどのように変化していったのかについて紹介したい。

 冒頭で紹介したように、自分の子どもがダウン症であることがわかったとき、大きなショックを受けた。自分の子どもに障害があるとわかったとき、おそらく多くの親が同じような感覚をもつことだろうと思う。場合によっては、育児放棄や自暴自棄につながったりすることもあるだろう。

 私は幸いにも『障害児教育の方法論を問う』を読んで、自分の子どもも健常児と同じように可能性をもっているのであり、育て方次第でしっかりと育っていくのだと思うことができた。自分の子どもとしっかりと向き合っていこうという覚悟をもつことができた。

 今、「覚悟」という言葉を使ったけれども、最初の頃はかなり気負いこんでいたところがあった。「自分がしっかりしなければ、この子は育たないのだ」という思いが強かった。だからこそ散歩も毎日行うことになったのだが、あまり気持ちに余裕がなかった。

 しかし、1つ、また1つと子どもの成長を感じるたびに、その気持ちが少しずつ和らいでいった。例えば、2か月のときには、次のような記録を書いている。

(2か月と1週)
 最近、足の力や手を握る力がだいぶんついてきた。だっこをしているとき、足で蹴られたりするが、これが結構痛い。また、手で腕の肉などをつかまれたりすると、つねられたように痛い。首の力も少しずつついてきている。うつむせをさせていると、自分の首をだいぶん持ち上げられるようになってきた。地面から顔を浮かせて、顔の向きを変えることもできる。 

(2か月と2週)
 だいぶん体力がついてきた。そのことを感じるのは、授乳後の様子である。1か月の頃はおっぱいを飲んだ後はとてもぐったりして、そのまま寝てしまっていた。ところが、今は、確かにぐったりもするものの、そのまま寝ないことが多い。おっぱいを飲むというのは赤ちゃんにとって重労働のようだが、それに耐えうるだけの体力が身についてきたということであろう。飲んだ後のげっぷもよく出るようになってきた。また、最近だっこしていると、体を前に起こしてくる(腹筋してくるような感じ)ようになった。


 こうした小さな変化を見るたびに、「あぁ、ちゃんと成長しているんだな」と嬉しくなったし、安心することができた。

 しかし、このような成長はいわば自然成長的なものとしか見られなかった。自分が意図的にやっている取り組みが、どのように影響を与えているのかはよくわからなかった。そのため、「本当にこれでいいのだろうか」という不安を覚えることもあった。

 こうした不安が一挙に解消されたのが、前回紹介した「ハイハイを促すための働きかけ」である。人間は目的像を描いて行動する。ハイハイでいえば、おもちゃをとるという像を描くからこそ、それを実現しようとしてハイハイという行動をとるのである。しかし、ハイハイはすぐにはできない。ハイハイしようとがんばり続ける中で、一歩が出るようになるのである。そのがんばりを維持させるものは、「がんばったらおもちゃが取れた」という過去の成功体験であり、錯覚でよいからそれを与えることが必要になる。こうした論理に基づいて実践をしたわけだが、それによって見事にハイハイができるようになったわけである。

 この体験は、私にとってとてつもなく大きな自信となった。「あぁ、このようにして論理を使っていけばいいのか」ということがわかった。ここから普段の育児記録の量が一気に増えた。現実の目の前の子どもの姿と南郷学派の著作に書かれていることとが自分の中で次々とつながっていったのである。その内容をどんどん書き留めていった結果、約3か月で9万字にもなった。

 その時の自分の思いを次のように書いている。

 離乳食をなかなか食べなくて大変だなと思うこともあるけれども、子育て全般に関してはあまり不安がない。親の愛情を注ぐこと、自然に触れさせること、系統発生を辿らせること、食事をちゃんとすること、生活リズムを整えること、この5つぐらいがわかっていれば大丈夫だろうという感覚がある。何か問題が起こったとしても、この観点からその問題を説くことができるという自信もあるし、むしろ起こってくれた方がいろいろわかっていいなという思いすらある。


 この5つの観点の妥当性はともかく、これだけの自信をもつことができたということである。

 10か月検診の際、いろいろな親子と一緒の部屋で測定や診察を待つことになった。健常児の場合、10か月というと、もう普通のハイハイやつかまり立ちができている。子どもによってはもう手を離して歩くこともできている。そういう姿を見て、「すごいな」とは思ったけれども、まだずりばいがちょっとできるぐらいでしかない自分の子どもについて卑屈に考えることは一切なかった。自分の子どももあるべき発達の過程をしっかり辿っているし、辿らせているという自信があったからである。

 このように、当初は自分の子どもの可能性を信じるものの、気持ちに余裕がなかった状態であったが、理論的な実践によって結果を出すことができると、大きく自信をつけることができ、子育てに関して大きな不安を抱かないようになり、気持ちとしても余裕をもつことができるようになったのである。
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2017年09月17日

障害児の子育ての1年間を振り返る(3/5)

(3)ハイハイを促すための働きかけとその意味

 前回は、抱っこしながらの散歩について取り上げた。それを毎日行う意味について、実体面と認識面の2つに分けて確認した。今回は、ハイハイ(ずりばい)を促すために行った働きかけについて紹介したいと思う。

 そもそもハイハイをする意義について確認しておこう。ハイハイについては、世間では様々な見解がある。ハイハイをしないままつかまり立ちをするようになってもよいという見解もある。そうした見解に対して、瀬江先生は次のように批判しておられる。

「『なぜそこまでハイハイにこだわるのですか。人間の基本的運動形態は、二足で立って、歩き、両手を自由に使うことなのですから、ハイハイしなくても、立てるようになればいいのではないですか』と思うかもしれません。
 しかし、残念ながらそれは誤りです。なぜならば、ハイハイという過程を経ないで歩くようになると、人間としては、大きな欠陥をはらんだままの発達をしてしまうからです。それは、いったい何でしょうか。これには大きく二つあります。
 一つは、一番大事な時期に、前腕から上腕そして肩にかけての上肢の力がつかないままに、歩いてしまうことになるということです。(中略)唯一、上肢を力強く鍛える過程であるハイハイを経ないで歩行へと進んでしまうことは、人間としての運動形態に、大きな欠陥をはらんでしまうことになるのです。
 次に、ハイハイを経ないままに歩いてしまうことの欠陥の二つ目は、一つ目よりもさらに重大なことです。それは何かといえば、ハイハイによる赤ん坊の脳の発達の可能性を、欠落させてしまうということです。
 なぜならば、自らの力で動くことがまったくできずに生まれてきた赤ん坊が、地球の重力に逆らって、自らの体を移動させようとするけれど移動できない、移動させようとするけれど移動できない、を繰り返し、ようやく移動できるようになる過程は、人間としての脳の実力をすさまじくつけることになるからです。」(瀬江千史「看護の生理学(45)−運動器官第10回−」『綜合看護』(2013年1号)所収)


 つまり、ハイハイをすることによって上肢を鍛えることができるのであり、またハイハイができるようになる過程(=自らの体を移動させようとするけれど移動できない、移動させようとするけれど移動できない、を繰り返し、ようやく移動できるようになる過程)が人間としての脳の実力をすさまじくつけることになるのだということである。

 こうしたことを学んでいたので、とにかくハイハイはしっかりとさせたいと考えていた。およそ7か月の頃には、うつぶせになって、目の前にあるおもちゃに手を伸ばす姿が見られるようになったので、ハイハイを促すための働きかけを行うことにした。

 上の瀬江先生の論文では10か月検診でまだハイハイができない子どもの事例が取り上げられており、母親に生活状況をたずねてみると「自らハイハイしなくてもよい環境があった」として、次のように書かれていた。

「例えば、母親が見えなくなって泣けば、すぐに同居の祖母がとんできて抱っこをする、近くにあるオモチャを取りたくて泣けば、すぐに母親や祖母が取ってくれる・・・ということで、自ら大変なハイハイをしなくても、泣くだけで自分の目的が達成されてしまう状況にあった、ということです。」


 これを読んで、「なるほど、近くにおもちゃを置いて、多少泣いても放っておくのが大事なんだな」と思い、実践することにした。やってみると、叫び声をあげたり、必死で手を伸ばしたり、足で床を蹴っておしりを上げたりするが、進むことはできず、泣きじゃくる姿が見られた。

 その様子を見ていて、何か取り組みとして間違っているのではないかという思いを抱くようになった。もう無理だなと思ったときに「よくがんばったね。次もがんばろうね」とか言いながら抱っこしてなぐさめるのだが、何となく「これではだめなのではないか」という思いがあった。泣いた状態で終わるというのが、あまりいいとは思えなかったのである。

 そこで、我々の研究会の指導者に相談することにした。すると、ずりばいができるためには、土台としての実力が必要だと説いていただいた。例えば、おもちゃがとれなくて叫び声を上げたりするのだが、これは要するに頭の中で思い描いている像(=おもちゃをとって遊んでいる像)と現実を一致させられないことに対する苛立ちの表現として見ることができる、そういう像を描けることがずりばいを行うための土台として必要になる、ということであった。そうやって像が先行して、その像を実現させようとする過程で実体の力がついていくのだと説いていただいた。

 さらに具体的な取り組みとして、最後にはおもちゃをとれるようにしてやることが大事だということであった。そうすることで(錯覚ではあるものの)「がんばったらおもちゃがとれた」という成功体験をさせることになり、「次もがんばろう」という認識を育てることになるのだ、ということであった。

 これを聞いたとき、とても納得することができた。とりわけ最後には取れるようにすることが大事だという話は、自分が感じていた疑問を見事に解消するものであった。それ以後、必死でとろうとがんばる姿を見せたら、頃合いを見計らっておもちゃを子どもの方に寄せて、取れるようにしてやった。そして、「おもちゃに届いたね〜、よくがんばったね〜」などと言いながら、抱っこしたりするようにした。

 これを2週間ほど続け、取ろうとする意欲が高まっていることは感じられた。例えば、おもちゃを触ろうと必死で手を伸ばすあまり、ごろんと体ごと回転してしまうこともあった。しかし、なかなかずりばいができるようにはならなかった。

 私の家では床にカーペットをひいているのだが、カーペットは摩擦が強いから進みにくいのだろうと思った。これがつるつるの板で、しかも傾斜がついていれば、ずりばいができるようになるのではないかと考えた。

 さっそくホームセンターで木材(パネコート)900mm×1800mmを購入し、700mm×1600mmにカットしてもらった。また、端材で700mm×100mmを6つ作ってもらい、傾斜をつけるための土台とした。こうすれば、土台の板を1つずつ外せば、少しずつ傾斜が緩やかになる。

image.jpeg

この上に乗せて、少し距離のあるところにオモチャをおいたところ、すぐさまずりばいができた。両手を広げて地面につき、腕の力で体を前に引き寄せたり、足で蹴って体を前に推し進めたりしながら、そのオモチャに向かって移動する姿が見られたのである。

 当初は近い距離におもちゃを置かないとずりばいをしなかった。そこで、近づいて少し遊んでは、また少し離れたところにおもちゃを置き、そこに近づいて少し遊んでは、また離れたところにおもちゃを置き・・・ということを繰り返して、板の端から端までずりばいをさせるようにした。これをやっているうちに、最初から板の端におもちゃをおいても、そこに向かってずりばいをするようになった。ずりばいを繰り返す中で、それだけの距離を移動できるだけの実体の実力と、「あそこまでならいける」という認識が形成されたのだと言えるだろう。

 その後は傾斜を緩やかにしていき、やがて普通のフローリングでもずりばいができるようになった。さらに、しばらくすると、最初はできなかった摩擦の強いカーペットの上でもずりばいができるようになった。

 この段階ではちょっと移動しては止まり、ちょっと移動しては止まり・・・という状態だったが、現在は休みなくあちこちに移動していくし、促せば4mぐらいずりばいができるようになっている。こちらの働きかけ次第で大きく成長するのだということを実感した出来事であった。
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2017年09月16日

障害児の子育ての1年間を振り返る(2/5)

(2)抱っこしながらの散歩とその意味

 本稿は、ダウン症と診断されたわが子の1年間の育児を振り返るものである。今回は、その育児の中で行っていた「抱っこしながらの散歩」について取り上げたいと思う。

 里帰り出産であったため、出産後の2か月ほどは一緒にいなかったのだが、家に戻ってきてからはほとんど欠かすことなく毎日行っていたことが抱っこしながらの散歩である。朝6時頃から子どもを抱っこして、近くを2、30分散歩した。さらに、仕事から戻った夕方にも同じように散歩をした。休日は昼間にも行うようにした。つまり多い時で合計3回、1時間半ほど散歩するようにした。

 直接的なきっかけは、松田道雄『育児の百科』の「赤ちゃんをきたえよう」の項目で、くどいほど「外気に当てろ」と書かれていたことである。例えば、以下のとおりである。

「3か月をすぎた赤ちゃんは、1日のうち3時間くらい外気にあてたい。気候のいいときであれば、ベビーカーにねかせて、外気のなかにだしておいてもいいが、やはり、抱いて散歩する時間がほしい。3か月になると、赤ちゃんは、いろいろのものに関心をもつようになり、自分で頭をうごかして左右をながめる。抱かれていれば、胴体をしゃんと直立させようとする。よろこべば腕もうごかす。だから、赤ちゃんにとっては散歩はいい運動である。
 極寒でも、つよい風のない日は手足や耳を十分に保護して、あたたかい時刻をえらんで、せめて20〜30分でも外気にあてたい。冷たい空気を呼吸することが、気道の粘膜をきたえる。夏の暑いときは、日陰をえらんで外にだす。帽子を必ずかぶせる。春や秋でも、3か月では、まだあまり太陽で皮膚をやかないほうがいい。」(pp.197-199)

「4か月すぎると、赤ちゃんは首もしっかりし、支えればすわってもいられるから、抱っこしたり、ベビーカーに乗せたりして、家の外につれてでやすくなる。赤ちゃん自身も、周囲のものにたいする関心がふえるので、外へ出ることをよろこぶ。からだをきたえるチャンスがめぐってきたといえる。できれば1日に3時間以上、外気のなかで暮らすようにしたい。」(p.225)

「5か月から6か月までは(中略)鍛錬開始期とでもいいたいくらいだ。厳寒の季節をのぞいて、せいぜい外気のなかで生活させてほしい。」(pp.251-252)

「6か月すぎた赤ちゃんは、1日のうち3時間以上は外気のなかですごすようにしたい。ベビーカーにすわらせているだけでなく、安全なところでおろして、おすわりさせたり、はいはいさせたりできるといちばんいい。(中略)外で外気浴のできないときは、家のなかで空気浴をやる。室温を20度ぐらいにしておければ、赤ちゃんをはだかにできる。」(p.297)


 とりわけ抱っこしながらの散歩がよいということだったので、散歩をすることにした。最初は、ずっと斉藤公子が推奨しているやり方(赤ちゃんと向かい合わせになり、赤ちゃんの股を自分のおなかにくっつけて、片手でおへその裏側、もう片方の手で頭をもつという方法)で抱っこをしながら散歩をしていた(今振り返ると、かなりリスクの高い散歩の仕方だったと思う)。途中でとまって、じーっと目を見つめて、ほほえみかけたりした。生後2か月と1週のときの記録では「最近、だっこしているときに目が合うようになってきた。じーっと笑顔で見つめ続けると、ほほの筋肉が少し上がるようにもなった。先日ははっきりと笑う姿が見られた。」と書いている。12月からは、縦抱きにして抱っこするようにした。最近は、抱っこひもを使って縦抱きにするようにしている

 抱っこしながらの散歩にはどのような意味があるのか。『育児の認識学』では、「そもそも人間は実体と認識の統一体であり、それだけに、この両面をきちんととらえて教育していかなければならない」(p.26)と書かれている。したがって、散歩の意味についても、実体面と認識面の両面から見ていく必要があるだろう。

 第一に実体面に関してだが、これも生理的な側面と運動的な側面の2つがある。生理的な側面で言えば、外界に対応する実力をつけるということである。家の中はある程度過ごしやすい温度に保たれているが、外は暑かったり寒かったりする。また日差し・明るさに関しても、家の中ではほぼ一定であるが、外ではその時々によって変化する。このような外界の自然的な変化に対応できるようにするという意味がある。

 運動的な側面で言えば、首から背中・腰にかけての骨や筋肉を鍛えるという意味がある。ここに関わっては、『総合看護』に連載されていた「看護の生理学」で瀬江先生が次のように説いている。

「人間の赤ん坊は、首が座るということも、放っておいて自然にできるようになるわけではありません。ではどのような育て方をすると、赤ん坊の首が座ってくるのかというと、最も大事なことは『抱く』ということです。つまり人間の母親が赤ん坊を抱くということは、単なるスキンシップのためだけではなく、人間としての運動形態の基本をつくっていくことになるのであり、当然その抱き方が問題とされなければなりません。
 では、赤ん坊をどのように抱かなければならないのかと言うと、端的には、仰向けに寝ている状態から、少しずつ少しずつ背骨を立てていく抱き方、つまり”横抱き”から”たて抱き”に移行していく必要があるのです。
 そのように、少しずつ少しずつ大地に対して背骨を垂直に立てる姿勢をとらせていくことによって、赤ん坊の体は、背骨をはじめとして、首や手足の骨も筋肉も、内臓も、脳も感覚器官も、少しずつ少しずつその姿勢になれ、そのような重力関係に慣れ、そのような姿勢を保てる実力がついていくことになるのです。」(瀬江千史「看護の生理学(43)−運動器官第8回−」『綜合看護』(2012年3号)所収)


 要するに、縦抱きとは背骨を立てていく抱き方であり、それによって、そのような重力関係に慣れ、そのような姿勢を保てる実力がついていくことになるということである。

 これは私自身の経験としてもよくわかる。縦抱きを始めた当初、赤ちゃんはぐにゃぐにゃで、親が手でしっかりと支えていないといけない。しかし、徐々に徐々にその支える力を緩めていっても大丈夫なようになり、最終的には自分で支えられるようになるのである。ここでは直接的には首すわりについて触れられているが、私自身はおすわりのために背筋を伸ばすということにも同様のことが言えると感じている。

 第二に認識面に関してだが、こちらについても「看護の生理学」で次のように説かれている。

「さらに、抱くということは赤ん坊を育てるうえで、とても重要な意味を持つのですが、それは赤ん坊が仰向けに寝かされていたのに対して、抱かれた時には、反映する外界が大きく違ってくるからです。つまり周囲のものを、下から見上げていたのに対して、上から見下ろすことになるのです。例えばベッドに寝ている時は、のぞきに来たお兄ちゃんの顔しか見えなかったのに対し、お母さんに抱かれて上から見てみると、お兄ちゃんが走り回ったり、食事をしたりしているのが見える・・・という具合にです。そしてこういう外界の違った反映の体験を繰り返していくことが、サルが木に登ったり、降りたりしてヒトになっていく過程で、脳の機能としての認識が新たな発展を遂げたと同様に、赤ん坊の認識の発展を促していくことになるのです。」(同上論文)


 つまり、抱っこをすることによって、これまでとは違った形で外界を反映させることになり、赤ちゃんの認識の発展を促していくことになるということである。当初は横抱きに近い形で抱っこしていたから、そういう形での外界の反映をしていたけれども、徐々に縦抱きにしたことにより、以前とは違った反映がなされるようになり、両者が合わさって、像が厚みのあるものになっていったということである。

 さらに散歩の場合、その反映する外界そのものが家の中に比べれば多種多様となる。小鳥が泣いていたり、ちょうちょが飛んでいたり、前から散歩している犬がやってきたり、その飼い主が「おはよう」と声をかけてくれたり・・・といった家では味わえない新鮮な反映がある。これは赤ちゃんの興味・関心を促し、外界に対して積極的な姿勢を創ることになると考えられる。

 こうした意味のある抱っこしながらの散歩なのだが、「毎日」行い続けたということがやはり重要だったのではないかと思う。さすがにどしゃ降りの雨の日などは中止したが、多少の雨や雪の日は、濡れないように気を使いながらも散歩した。当然、疲れているときもあったけれども、朝と夕方の散歩は欠かさなかった(頻度は減ってしまったが、現在も行っている)。このように毎日行い続けた結果として、様々なものに興味関心を示す現在の姿があるのではないかと考えている。
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2017年09月15日

障害児の子育ての1年間を振り返る(1/5)

目次
(1)ダウン症として生まれた子ども
(2)抱っこしながらの散歩とその意味
(3)ハイハイを促すための働きかけとその意味
(4)子育ての過程での親の認識の変化
(5)教育学の構築は歴史的な願いを現実化するものである

・・・・・・・・・・・・・・・

(1)ダウン症として生まれた子ども

 昨年の夏、待望の第一子が生まれた。遠方であったため、連絡を受けてからすぐに駆け付けるもその日のうちには到着できず、翌日の朝、子どもと対面することになった。2682gの男の子である。恐る恐るだっこしながら、生まれた子どもをかわいがっていた。

 妻の家族や親戚も来てくれて、しばらくみんなで話していたが、3時頃、看護師に呼ばれて、妻と子どもが部屋から出て行った。そのうち、私も呼ばれたので、部屋を出て行った。そして保育器などのある部屋の裏手のスペースに行くように指示された。そこには、妻が子どもを抱いてソファーに座っていて、医者がその前に立っていた。「いったい何の話だろう」と思いながら、私が妻の横に座ると、医者が話を始めた。

「赤ちゃんね、もしかしたらダウン症かもしれない。産まれたときはしっかり泣き声も上げていたし、あまり感じなかったんだけど、よく見ると、ちょっと独特な顔つきをしているしね。あと手に猿線もある。うちの看護師さんたちも、抱いた感じがフニャフニャしていると言っていてね。もちろん確定ではないけれど、うちの看護師もベテランだからね。」


 一瞬、何のことかわからなかった。少し冷静に考えて、要するに障害があるということだとはわかったが、ダウン症の具体的なイメージがわかなかった。

 ダウン症とは、端的には、先天的な染色体異常によるものである。人間は2本1組の染色体を23組(22組の常染色体と1組の性染色体)もっており、精子や卵子を形成する際には、2本1組の染色体が分離され、数が半分になる(減数分裂)。つまり、精子・卵子はそれぞれ23本の染色体をもっており、これが合わさることで23組の染色体となる。染色体は大きなものから1番、2番と番号がつけられているが、そのうち21番の染色体に異常が見られる場合、ダウン症となる。具体的に言うと、精子や卵子が形成される際に、21番の染色体がうまく分離せず、21番の染色体が2本のままの精子あるいは卵子が生まれ、それが受精することによって21番の染色体が1本多い受精卵が誕生することとなる。これがダウン症である。

 ダウン症の子どもは「おとなしくて反応が弱い」「おっぱいの飲みが悪い」「身体的な特徴がある」「抱くとやわらかい」といった特徴があり、出産後すぐに産科医や助産師が気づくケースがほとんどである。

 では、ダウン症の子どもにはどのような問題が生じてくるのだろうか。

 様々な合併症があるということが特徴である。まず心臓の病気である。例えば、閉じるべき血管が閉じていなかったり、心臓内の4つの部屋を隔てる壁に穴があいていたりする。こうした心臓疾患は「呼吸が速く荒い」「顔色が悪い(唇の色が紫色・チアノーゼ)」「オッパイの飲みが悪い」「元気がない」などの症状として現れる。次に消化器の病気である。胃から肛門へと至る過程に異常があり、食べ物がうまく排泄されないことがある。これは「よく吐く」「便が出ない」「おなかが異常に膨れている」「便秘」などの症状として現れる。また、成長の過程において体や骨がバランス良く発達せず、頸椎が不安定になることがある。白内障や内斜視といった視覚の障害、難聴などもある。知的障害も伴い、平均的なIQは50前後とされている。

 後日、血液検査の結果、ダウン症であることが確定した。幸い私の子どもには、大きな合併症はなかった。しかし、初めての子どもが障害をもって生まれてきたということで、ショックを感じずにはいられなかった。

 そんな私を大きく支えてくれたのは、志垣司・北島淳『障害児教育の方法論を問う(第一巻)』(現代社、2014年)に書かれている障害の一般論だった。

「障害を負うとは、実体及び機能上の不可逆的な変化によって、そのままでは環境との相互浸透ができにくくなることである」(p.42)


 ここで私の目に飛び込んできたのは、「そのままでは・・・できにくくなる」という部分である。「できない」ではないのである。どんなに障害をもっていても、環境との相互浸透をすることは可能なのだ。なぜなら、それこそが人間の一般性だからである。しかし、それが健常児に比べればできにくいということである。ということは、健常児の場合より意識的に環境との相互浸透を質・量ともに充実させれば、障害があっても十分に育つということである。

 この言葉に大いに励まされ、しっかりとわが子を育てていこうという決意を固めた。ダウン症の育児に関係する著作、松田道雄『育児の百科』、斉藤公子の著作、南郷学派の著作(『育児の認識学』『育児の生理学』『新・頭脳の科学』『看護の生理学』など)を何度も何度も読み返し、子育てに生かしていった。

 その甲斐あってか、1年を迎えた現在、子どもは元気に順調に育っている(ダウン症に関わって権威とされる医師からもそう言われている)。確かに発達上の遅れはあるものの、例えば、おすわりをしておもちゃで遊んだり、遠くにあるおもちゃに興味を示して、ずりばいで移動したりする。こちらが笑いかけると笑い返すし、手を振ると手を振り返す。パチパチ(拍手)をすると、同じようにパチパチ(拍手)をして、大きな笑い声をあげたりする姿が見られている。そんなわが子と一緒に過ごせる毎日がとても幸せである。

 本稿では、こうした過程に至るまでの1年間を振り返りたいと思う。具体的な取り組みとして、「抱っこしながら散歩」「ずりばいを促すための働きかけ」を取り上げるとともに、その過程で親としての認識がどのように変化したのかをまとめたいと思う。
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2017年09月14日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の「経験の類推」を扱ったわが研究会の2017年8月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、3つの論点について諸々に議論したプロセスを紹介してきました。

 8月例会報告の最終回となる今回は、参加していた会員の感想を紹介することにします。

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 今回の内容も何を言わんとしているのかがなかなかつかみにくいところであったが、ヒュームの因果律批判に対してどのように反論しているのかについて、かなり明確に把握できたのではないかと思う。端的に言えば、我々が見ている世界(現象)は、原因と結果というカテゴリーが備わった純粋悟性概念によって成立したものであるから、そこには必然性が存在しているのだということである。そもそもカントは、我々が見ている世界はカテゴリーによって成立した現象の世界であり、この世界を客観的な世界として、様々な経験(認識)を獲得するのだと主張している。こういうカントの主張の枠組みがかなり明確に把握できた。

 当日の議論においても、こういう枠組みを踏まえたときに違和感を覚える表現についてしっかりと指摘することができたし、その指摘の中身を説明する中で、自分自身の理解や研究会全体の理解も深めることができたと感じている。前回の例会の感想の中で、7月例会のチューターが「ちょっとした会員のちょっとした言語表現から、大きく誤解しているのではないか、根本的なところを理解していないのではないか、と思われる点については、やや厳しく突っ込みを入れることができたと思う」と書いていたので、私も今回そのことを意識してチューターに臨んだのだが、まずまずの働きができたのではないかと思う。

 また、唯物論の立場からヒュームにどう反論するかという議論も非常によかったと思う。ヒュームに反論するためには、世界に必然性があることを主張しないといけない。あるいは、世界の部分的な認識に基づいて世界全体のことがわかるのはなぜなのかということを説かなければならない。端的には、この世界全体には弁証法性が貫かれているから、我々が認識する特定の部分にも弁証法は貫かれているのであり、したがって、部分の認識によって全体の認識をすることができるのだということであった。

 このように、唯物論の立場ではこう説くということをカント自身も納得するような形で論を展開していかなければならないと感じた。

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 今回は、カント『純粋理性批判』の「経験の類推」という部分を扱った。報告レジュメの担当に当たっていたため、しっかり読み込んでレジュメを執筆しようと取り組んでいった。

 読み始めの数ページは、まるで自分のアタマがカントになり切ったかの如く、「うんうん、そうだよな」という感じで全く引っかかりなく読めていった。カントの立場であればこういう表現になるということが、これまでの学びで少しずつ分かってきた感じがあったのである。

 しかし、「現象の現実的存在」という部分で引っかかってしまった。この表現がどのような中身であるのか、ほとんど全くといっていいほど像が描けなかったのである。しかも、この表現は繰り返し登場してきて、文章全体がよく分からないものとなっていってしまったのである。この表現については、例会を通してもあまり突っ込んだ議論ができなかったが、何度も読み返して、「読み始めの数ページ」で味わったような感覚になっていけるように努力していきたい。

 例会の議論の中で特に印象的だったのが、カントが現象の成立と現象の認識とを分けて捉えているらしいということであった。私の理解では、認識の側にある純粋悟性概念(カテゴリー)を現象に適用することで、認識が成立し、それと直接に現象(客観)も成立する、とカントが考えているものと思っていた。しかし、議論を通じて、そうではなく、確かに純粋悟性概念(カテゴリー)を適用することで現象は成立するのであるが、その現象を認識することはまた別の段階の事象だということが理解できてきた。これは、そもそものカントの問題意識、つまり人間に見えるような世界(現象の世界=客観)をなぜ人間は正しく認識(主観)できるのか、そもそも現象の世界=客観はどのように成立しているのか、という問題意識をしっかりとふまえてカントの論を追っていく必要がある、ということでもある。こうした大局的な見方ができていなかったために、カント学説の一般的な理解(認識が対象を成立させている)で満足してしまったということである。

 次回の例会はチューターに当たっているため、議論をリードし有意義な例会にできるように、しっかりと準備をしていきたいと思う。

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 今回の範囲もなかなか難しいところであったが、あくまでも『純粋理性批判』の全体の論の流れのなかでどのような位置づけにある部分なのかを見失わないようにしながら読んでいくことの大切さを改めて感じた。なかなか実行できていないが、やはり最初の部分からの読み直していくことが必要であると感じている。

 今回の例会の議論で重要だと思ったのは、カントの議論に対して、唯物論の立場からはこう考える、と対置することを、あまり安易にやってしまってはならない、ということが、研究会としての共通認識になったことである。例えば、「唯物論の立場からは、原因と結果のつながりは客観的に存在していることになる」などと結論だけいっても、それはヒューム以前の常識的な見方を繰返しているだけで、カントが納得するわけがないのである。これではヒューム以下なのだ、ということを自覚しなければならない。カントを納得させうるような唯物論の立場からの論の展開はどうあるべきか、と常に考えていかなければならない。これに関連して、世界の部分についての経験から世界の全体を貫く性質を把握することができるのはなぜか、という問いが明確になったのは、大きな収穫だったといえるのではないだろうか。こうした問題は、簡単に解決したもの、分かったものとしてしまってはならないので、常に問いを深めるようにしていきたい。
 
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 今回の例会では、カント「純粋理性批判」の「原則の分析論」のなかの、「経験の類推」の部分を扱った。論点への見解は書くことができなかったが、当日の議論において、だいたいの内容を把握することができたと思う。要するに、われわれは、ある現象Aと別の現象Bを、因果関係で捉えたり、同時に存在していると捉えたりするが、そのためには、どのような原則が適用されているのかを説いている部分だと思う。原因・結果の関係にせよ、同時だという関係にせよ、そういう時間関係について論じる際には、その前提として常住不変なもの=実体が想定されている。そこで、まず実体について論じ、その後、因果関係と同時的関係についてカントは説いているのであろう。

 今回の例会で最も興味深かったのは、唯物論の立場からすれば、経験の積み重ねによってなぜ必然性の認識が可能となるのか、について議論した点であった。私は端的には、認識における量質転化の問題だと答えたのであるが、当日指摘されたとおり、これでは不十分であった。なぜなら、ヒュームからは「それは単なる信念なのではないか」と反論されうるからであった。そこで、現実世界の持つ弁証法性に注目した。現実の世界全体を貫く弁証法的な性格は、もちろん、部分にも貫かれているから、部分の認識だけでもって、全体の認識、すなわち必然性の認識となる、ということであった。

 このように、現実世界の持つ弁証法性を考えに入れないと、必然性の認識が成立する根拠は説明できないというのは、間違いないと思う。しかし、当初私が指摘したような、認識の量質転化という問題も、他方でやはり、必然性の認識にとって不可欠な要素なのではないか。カントは、感性と理性を分けてしまって、そのつながりを解明できなかったが、われわれは、感性的認識と理性的認識を、同じ像の発展過程において捉えることができる。部分の認識というのはいわば感性的認識のことであり、全体の認識=必然性の認識とは理性的認識のことであるといえるだろう。そうすると、感性的認識の積み重ねによって、理性的認識に到達することができるのであるから、それはやはり量質転化といいうるのである。この認識の量質転化の具体的な過程的構造を解明していくことが、カントの二元論を克服するための、大きな道であると感じた次第である。
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2017年09月13日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(9/10)

(9)論点3:相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か。

 前回は、2つ目の論点に関する議論を紹介しました。そこでは、カント哲学の大きな枠組みを確認した上で、ヒュームの因果律批判にどう答えているのか、これに対して唯物論の立場からすれば、ヒュームの因果律批判にどう反論すべきなのかという点について検討しました。

 今回は、3つ目の論点についての議論と、その議論をとおしてどのような(一応の)結論に至ったのかを紹介したいと思います。まず論点を再掲します。

<論点再掲>
 カントは経験の類推の3つ目として相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則を挙げている。これは、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」というものであるが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?カントは、2つ以上の物が同一の時間に存在することを、何によって認識すると説明しているか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?


 まず、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」とはどういうことかについて確認しました。これについては、「2つのものが同時に存在する(相互的に継起し得る)ということを知覚する根拠は客観に存在するというためには、相互性の関係、あるいは相互作用の関係というカテゴリーを必要とし、このカテゴリーを前提としてのみ、2つのものの同時的存在が認識され、また経験の対象としての物を可能ならしめる、ということである」「端的には2つのものが同時に存在しているということを人間はどうやって認識するのかということに答えたもの」「2つ以上の物が同時に存在しているということは、それら2つ以上の実体間の相互作用を前提としてのみ、経験において認識され得る、ということである」などの見解が出されていました。時間の関係上、詳しく検討することはできませんでしたが、要するに、2つ以上の物が同時に存在しているということは、そこに相互作用が働いているからこそ認識できるのだとカントが主張していることを確認しました。

 この証明についても、あらかじめメンバーから提出された見解のうち、もっともすっきりまとまっているもので確認しました。

「カントによれば、2つ以上の物の同時的な存在を客観的なものとして表象するためには、互いに別々でありながらしかも同時的に存在するこれらの物の規定が相互的に継起することを表現するようなカテゴリー(純粋悟性概念)を必要とするが、そのカテゴリーとは影響の関係であり、相互作用の関係である(ある実体の含む規定の根拠がほかの実体に含まれているような関係)、と説明するのである。要するに、ある物が他の物に影響を与えている(両者が相互に依存しあっている)関係にあると把握されるからこそ、両者が同一の時間に存在するということが客観的に言いうるのだ、というわけである」

 しかし、このカントの見解に対して、チューターから疑問を提示しました。カントによれば、2つのものが同時に存在することを認識できるのは、その2つのものが相互作用の関係にある場合だということになります。しかし、例えば、喫茶店にいて、離れた場所にいる2人の客を見るとき、その2人は何の相互作用もないけれども、同時に存在していると言っていいのではないのか、ということでした。

 これに対してメンバーの一人は、カントが言っていることは、2つのものの間に相互作用していれば、確実に同時に存在しているということが言える、ということではないか、例えば、今、私と他の方たちは会話をとおして相互作用しているから同時に存在しているということが確実に言える、しかし、日本にいる我々と、アメリカにいる(例えば)マイク君とは相互作用していないから、必ずしも同時に存在しているとは言えないということではないか、ということでした。つまり、「同時に存在しているなら相互作用している」ということではなく、「相互作用しているなら同時だ」ということです。他のメンバーも一応納得しました。

 最後に、こうしたカントの主張を唯物論の立場から評価するとどういうことが言えるかを考えました。これについてチューターは「知覚の根拠を客観に求めている点は評価できる」と書いていたのですが、これについては他のメンバーから言葉足らずの表現ではないかという指摘がなされました。その客観というものもあくまでもカテゴリーによって成立したものだという点を触れないといけないのではないかということでした。これはチューターも納得しました。別のメンバーは「あくまで客観と主観の一致ということにこだわったこと自体は、唯物論の立場への接近として評価できるものの、客観とは物自体と区別された現象の世界であるとし、それが認識の能動性によって成立させられている(この場合は、相互作用という純粋悟性概念によって2つ以上の物の関係性が規定されている)としてしまったのは、唯物論の立場とは根本的に相いれないものである」と書いており、おおむねこのような評価で間違いないのではないかということになりました。また、このメンバーは「この世界全体をつながり合ったものとして、同時的な広がりをもったものとして、把握しきったことは、弁証法的な世界観の発展という点からすれば、大いに評価に値するのではないだろうか」という見解も提示していたのですが、これについても特に異論は出ませんでした。

 以上で例会での議論をすべて終了しました。
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2017年09月12日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(8/10)

(8)論点2:因果律に従う時間継起の原則とは何か。

 前回は、1つ目の論点についての議論について紹介しました。経験の類推とはどういうことか、それはカント哲学の中でどのような位置づけになるのかということや、その中の1つ目である実体の常住不変性とはどういうことかなどについて議論をしました。

 今回は2つ目の論点についての議論とその議論をとおしてどのような(一応の)結論に至ったのかを紹介します。まず論点を再掲します。

<論点再掲>
 カントは経験の類推の2つ目として「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」という因果律に従う時間継起の原則を挙げているが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?特に、表象のみならず対象(客観)においても継起するかどうかという問題について、カントがどのように説明しているのか。またこれは結局、ヒュームの因果律批判にどのように反駁しているといえるのか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?


 まず「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」とはどういうことかについて確認しました。これについては、チューターを含めたメンバーの3人からそれぞれ「原因と結果というカテゴリーを現象に適用することによって、現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ、ということである」「実体の規定が生起したり消滅したりする(中略)変化の前の状態が必ず前に置かれ、その後の状態が後に置かれなければならないということが必然的に規定されているということである」「変化、すなわち、ある現象に次いで別の現象が生じるということについて、これら2つの現象の間の関係が、ある現象が先行して別の現象が続かなければならないという必然性として、客観的に規定されていなければならない、という原則のことである」という見解が出されていました。

 このうち、2つ目と3つ目はほぼ同様のことを言っているものの、1つ目の見解については、少し力点の置き方が違うように感じられるとチューターが指摘しました。その見解を書いたメンバーから「力点の置き方が違うとはどういうことか」と問われたので、次のように説明しました。

 そもそもカント哲学では、人間のもっているカテゴリーによって、現象の世界が客観的なものとして人間の目の前に現れてくるとされています。そして、その客観的な世界の中で人間は様々な体験を積むわけです。図式化していうならば、@主観(カテゴリー)→A客観(現象)→B主観(経験)という流れになるわけです。これを踏まえると、2つ目と3つ目の見解は、Aあるいは@→Aについて解説したものとなります。ところが、1つ目の見解では「現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ」と書かれています。この表現の背後には、「現象の変化を認識することによって現象自体も変化する」という認識があるように感じられます。現象の変化を認識するというのはBの話であり、現象自体が変化するというのはAの話です。そうすると、この見解はB→Aという流れになっていることになります。そこに違和感を覚えたということでした。

 この説明に対して1つ目の見解を書いたメンバーは、あまり納得できないようでした。カントはコペルニクス的転回によって、「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」(p.33)と考えたのではないか、今の説明では、「現象の変化を認識する」とカントが考えていたことになり、これではコペルニクス的転回とはいえないのではないか、ということでした。

そこで別のメンバーが、チューターの説明を補う形で自分の見解を述べました。カントは、我々の目の前に客観的な世界が存在していて、その世界を通して様々な認識を獲得していく(様々な経験を積み重ねていく)ということ自体は認めているのではないか、しかしその目の前の客観的な世界というのは、物自体の世界ではなくて、我々のカテゴリーによって成立させられた現象の世界なのだ、だからこの現象の世界の成立という面では確かに「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」、つまり認識が対象を生み出しているといえるが、一方では客観的な世界(現象の世界)を認識することもカントは否定していないのではないか、ということでした。このメンバーは以上の内容をまとめて、人間に世界がどのように見えてしまうか(主観が客観を作り出す側面)ということと、その世界をより深く追究していく(客観が主観を作り出す側面)ということとは別問題であって、カントの『純粋理性批判』では、後者(科学を確立していくこと)の前提としての前者の問題を扱っているのではないか、と発言しました。こうした説明で、1つ目の見解を書いたメンバーもおおむね納得しました。

 続いて、因果律に従う時間継起の原則はどのように証明されているかについて扱いました。これは要するに原因と結果のカテゴリーによって現象が成立させられているからだと述べていることを確認しました。

 ここでメンバーの一人から疑問が出されました。カントは、生起するものの知覚においては原因と結果のカテゴリーが適用されるということを述べているものの、なぜ生起するものには適用されるのか、なぜ生起しないもの(例として出されている家など)には適用されないのかということでした。様々に議論をしましたが、カントの立場からすれば、物自体が持っている性質によると考えるしかないのではないかということになりました。つまり、生起するものには原因と結果のカテゴリーが適用されるような物自体としての性質を持っているけれども、生起しないものにはそういう性質がないということです。しかし、その物自体ということはわからないから、そうした点には触れないようにしたのではないかということでした。

 次に、カントはヒュームの因果律批判にどう反論したのかを確認しました。これまでの議論の中でほぼ答えは出されているのですが、端的には、「客観は悟性にア・プリオリに具わっている規則によってこそ成立させられている」のだということ、つまり、そもそも因果律が存在するものとして我々が見ている世界はつくられているのだと主張することで、ヒュームの因果律批判に反論したのだということでした。

 このようなカントの意見は「客観と主観の一致ということにこだわった」点では唯物論の立場からも評価できるものの、「経験を積み重ねることによっては必然性の認識には到達できない、と断定してしまっている」点は批判すべきだという見解が出されました。ただし、「経験の積み重ねによってなぜ必然性の認識が可能となるのかを説かなければ、唯物論の立場からの真っ当なカント批判にはならない」という問題提起がメンバーからなされたため、この点について議論をしました。

 メンバーの一人は、端的には量質転化だと発言しました。つまり、同じ経験を何度か積み重ねることによって、科学的認識というレベルへと認識が量質転化するのだということでした。これに対して別のメンバーは、「それではヒュームからは『単なる信念にすぎない』と反論されてしまうのではないか。そういうことではなくて、そういう部分的な認識を積み重ねれば、なぜ全体の認識に至るのかということを世界自体の仕組みから説明しなければならないのではないか」と指摘しました。そして、議論を重ねた中で、全世界は弁証法性という普遍的な性質が貫かれており、それは当然部分にも貫かれているからこそ、部分を認識すれば全体を認識することにつながるのではないかという意見が出されました。この見解については、メンバー全員が納得しました。

 以上で、論点2に関する議論を終えました。
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2017年09月11日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(7/10)

(7)論点1:経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か。

 前回は、カント『純粋理性批判』の経験の類推の部分のポイントを改めてまとめるとともに、それに対して出された論点を紹介しました。今回から、それぞれの論点についてどのような議論がなされたのかを紹介していきたいと思います。

 まず1つ目の論点です。

<論点再掲>
 カントは、純粋悟性の原則の3つ目として経験の類推を挙げているが、これはどういうことか? 特にこれは時間といかなる関係があるのか?また、直観の公理と知覚の先取的認識が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、経験の類推が力学的な統整的原理と名づけられているのはなぜか?ここに関わって、哲学でいう類推とはどういう意味であるとカントは説明しているか?経験の類推の第一としてあげられている実体の常住不変性とは何か? それはどのように証明されているか?カントのいわゆる実体は時間とどのように関わっているのか。その他、「現象の現実的存在」「基体」「常住不変なもの」などのキーワードにも注意しながら議論したい。


 この論点については、まず経験の類推とはどういうことかについて確認しました。これについては、「経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能となる」「意識における知覚の多様な内容の総合的統一によってこそ経験(知覚による客観の規定)が可能になるのだ」などの見解が出されていました。要するに、我々の知覚というものはそのままではバラバラな存在にすぎないけれども、それがしっかりと整えられることによって経験として成立するのだということを主張しているのだということを確認しました。そして、その知覚を整える際に使っているものが時間というア・プリオリな直観の形式なのだということでした。

 また、そもそもこの経験の類推というのは、純粋理性批判全体の中にどう位置づけられるのかも確認しました。経験の類推とは、人間が純粋悟性概念(カテゴリー)を対象に適用するその適用の仕方のうち、3つ目のカテゴリー、つまり「関係」というカテゴリーを適用するということに関わって説いているものなのだということを確認しました。

 では、前回扱った直観の公理と知覚の先取的認識が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、経験の類推が力学的な統整的原理と名づけられているのはなぜか。続いて、この点について確認しました。これについて、もっともすっきりとまとまった見解は次のようなものでした。

「『直観の公理』と『知覚の先取的認識』は、現象における現実的存在が数学的綜合によって産出されるという原則であった。すなわち、対象が何らかの量的な規定性をもったものとして認識の側から構成されていく、というのである。これに対して、『経験の類推』は現象における現実的存在どうしの関係をア・プリオリな規則に従わせるだけの原則である。そのため、『直観の公理』と『知覚の先取的認識』が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、『経験の類推』は力学的な統整的原理と名づけられているわけである。」


 つまり、「直観の公理」と「知覚の先取的認識」によって、ある1つの現象が量的な規定性をもったものとして構成されるということであり、「量的」「構成される」という点を捉えて「数学的な構成原理」と呼ばれているのだということです。一方、経験の類推においては、その現象と現象との関係性を問うています。互いに影響を与え合う2つの現象の関係を整えているものという意味で、「力学的な統整的原理」と呼ばれているということです。このような把握で全員が納得しました。

 次に、哲学でいう類推とはどういう意味であるかについて確認しました。数学でいう類推とは量的な関係性を示すため、比例式の3つの項が与えられればもう1つも示しうるのに対して、哲学でいう類推とは質的な関係性を示したものであり、比例式の3つの項が与えられても、第4項は示せないという見解が出されていました。

 具体的に言うと、例えば、砂糖と塩を1:2の割合で入れるといったとき、砂糖が100gであれば、塩は200gだということが定まります。これが数学でいう類推です。これに対して、ある男の子が泣いているという現象があったとき、原因と結果というカテゴリーに基づいて、その泣いているという結果には何らかの原因があったことは推測されますが、その原因が具体的に何であるかは定めることができません。これが哲学でいう類推ということです。このような説明でメンバー全員が納得しました。

 さらに、実体の常住不変性とは何かという点について議論しました。ここに関してもメンバーの間で大きな見解の相違はありませんでした。つまり、「時間における諸々の変化するものは、時間の根底に変化しないものがあるからこそ把握できる(変化するものは変化しないものとの関係でしか認識でいない)のだ」ということであり、この変化しないものこそが実体なのだということでした。

 ただ、メンバーの一人から「ここでカントが言っている実体とは、カテゴリー表の実体とは同じものなのか、違うものなのかがわからない」という疑問が提示されました。ここでのカントの説明では実体とは客観的に存在するものとして説かれているようだが、カテゴリー表の実体とは人間の認識の側に具わっているものであるから、違うもののように感じるということでした。これについては、チューターが次のように解説をしました。カントによれば、この客観的な世界というものはあくまでも人間のもつカテゴリーがつくりだしたものにすぎません。したがって、現実の世界に存在する実体も、我々がもっている実体というカテゴリーによって生まれたものであり、そういう意味で両者は同一の存在だと言える、ということです。この説明で疑問を提示したメンバーも納得しました。

 また、ここに関わって、メンバーの一人が「カントのいわゆる実体とは、時間の物質的表現であり、現象の世界を普遍的に(全体を隙間なく)満たしているものだといえるかもしれない。これは唯物論の立場からの時間の規定に接近したものとして興味深い」という唯物論の立場からの評価を書いていました。カントは実体というものを、この世界すべての根底に存在している普遍的な存在として捉えています。これは唯物論の立場から全世界が物質的に統一されていると主張するのと、考え方としては同一だと言えます。唯物論の立場ではその物質がもっている根源的な性質として空間と時間というものを捉えるので、カントの主張はそれに近いものがあるのではないか、ということでした。確たる結論は出ませんでしたが、そういうことも言えるかもしれないということになりました。

 以上で論点1に関わる議論を終了しました。
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2017年09月10日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 これまで、4回にわたって『純粋理性批判』の8月例会の範囲の要約を掲載してきました。ここで、改めて、今回の範囲で大事な内容を簡単にふり返っておきたいと思います。

 そもそも我々の知覚は時間によって整序されることによって、我々の経験として成り立っているのでした。その時間は大きく三つの様態、つまり常住不変性、継起および同時的存在があるから、それに応じて経験の類推も3つがあるのだとして、それぞれが紹介されていったのでした。

 第一の類推は、実体の常住不変性の原則というものでした。これは、現象がどんなに変易しようとも実体は常住不変であり自然における実体の量は増えもしなければ減りもしないということです。そもそも時間というものが成り立つ背景には、その根底に変化しない何らかのものが存在しなければならないとして、それが実体だとカントは主張したのでした。そして、我々が見ている変化というものは、その実体の在り方の変化でしかなく、実体そのものが生起したり消滅したりしているわけではないということを説いていたのでした。

 第二の類推は、因果律に従う時間的継起の原則というものでした。これは、一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起するということです。つまり生起するものに関しては、必ず原因と結果のカテゴリーが適用されたものとして我々の目の前に現れてくるのだということです。そのことを家や船の例を出しながら説明するとともに、ヒュームの因果律批判に対して反論していたのでした。

 第三の類推は、相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則というものでした。これは、およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしているということです。ある2つのものが同時に存在し、それぞれが互いに何らかの作用を与え合っているときに、我々はその2つのものを同時に存在するものとして把握することができるのだということでした。

 以上のような内容に関わって、会員からはいくつかの論点が提示されました。それをチューターが以下のように3つにまとめました。

1.経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か?
 カントは、純粋悟性の原則の3つ目として経験の類推を挙げているが、これはどういうことか? 特にこれは時間といかなる関係があるのか?また、直観の公理と知覚の先取的認識が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、経験の類推が力学的な統整的原理と名づけられているのはなぜか?ここに関わって、哲学でいう類推とはどういう意味であるとカントは説明しているか?経験の類推の第一としてあげられている実体の常住不変性とは何か? それはどのように証明されているか?カントのいわゆる実体は時間とどのように関わっているのか。その他、「現象の現実的存在」「基体」「常住不変なもの」などのキーワードにも注意しながら議論したい。

2.因果律に従う時間的継起の原則とは何か?
 カントは経験の類推の2つ目として「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」という因果律に従う時間継起の原則を挙げているが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?特に、表象のみならず対象(客観)においても継起するかどうかという問題について、カントがどのように説明しているのか。またこれは結局、ヒュームの因果律批判にどのように反駁しているといえるのか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?

3.相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か?
 カントは経験の類推の3つ目として相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則を挙げている。これは、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」というものであるが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?カントは、2つ以上の物が同一の時間に存在することを、何によって認識すると説明しているか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?

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2017年09月09日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約C

 前回は、第二の類推の後半部分の要約を紹介しました。前半部分でカントは一般の見解(ヒュームの因果律批判)についての反論をしたわけですが、それについてのより詳しい照明をしていました。また、因果的結合の原則は、必ずしも時間の経過ではないということなどが説かれていました。

 今回は、第三の類推の部分についての要約を紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
C 第三の類推

相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則
 およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている

 経験的直観において、あるものの知覚が他のものの知覚に次いで継起し、また逆に前者が後者に次いで継起するというふうに、これら2つの知覚が相互的に継起し得る場合には(こうしたことは第二原則で示したように、時間における現象の継起においては生じ得ない)、これらの物は同時的に存在する。我々は、まず月を知覚しその後で地球を知覚することもできるし、逆にまず地球を知覚してから月を知覚することもできる。これらの対象の知覚が相互的に相次いで生じるので、私はこれらの物が同時的に存在するというのである。同時的存在とは、同一の時間における多様なものの実際的存在である。しかし我々は時間そのものを知覚することはできないから、2つ以上の物が同時的に置かれているからといって、これらの物の知覚が相互的に継起し得ると推知するわけにはいかない。したがって統覚における構想力の総合は、主観においてこれらの知覚のどれかが存在すれば、他の知覚は存在しないし、またその逆の場合も成立することを告げはするが、しかし2つ以上の客観が同時的に存在すること――換言すれば、ひとつの客観が存在すれば他の対象もまた同一の時間に、すなわち同時的に存在するということ、そしてこのことは知覚が相互的に継起し得るための必然的条件であるということを告げるものではない。そうすると知覚の相互的継起の根拠は客観に存するというためには、またこれによって同時的存在を客観的なものとして表象するためには、互に別々でありながらしかも同時的に存在するこれらの物の規定が相互的に継起することを表現するような悟性概念すなわちカテゴリーを必要とするわけである。ところで実体間の関係において、ひとつの実体の含む規程の根拠が他の実体に含まれているような関係は、影響の関係である。そしてひとつの実体が他の実体を規定する根拠を相互的に含む場合には、実体間のかかる関係は、相互性の関係あるいは相互作用の関係である。それだから空間における2つ以上の実体の同時的存在は、実体間の相互作用を前提としてのみ、経験において認識され得る。したがって、この前提は、経験の対象としてのものを可能ならしめる条件である。

 2つ以上の物は、同一の時間において存在する限り、同時的に存在する。しかしこれらの物が同一の時間に存在することを、我々は何によって認識するのだろうか。

 1つの実体は他の実体に働きかけもしなければ、また他の実体からの影響も受けないと仮定するならば、実体の同時的存在は可能的知覚の対象になり得ないし、またひとつの実体の現実的存在は、決して経験的総合の道を通って他の実体に至ることもあり得ない。

 すると単なる現実的存在のほかに、なお何かあるもの――すなわち、それによってAがBにその位置を規定し、また逆にBがAにその位置を規定するようなあるものが存在しなければならない。こうした条件の下でのみ、これらの実体は同時的に存在するものとして経験的に表象され得るからである。ある物に時間におけるその位置を規定するところのものは、その物の原因、あるいはその物の規定の原因にほかならない。およそ実体は、(実体はその規定に関してのみ結果であり得るから)他の実体のある規定の原因性を含むと同時に、他の実体の原因性の結果をも含んでいなければならない。換言すれば、これらの実体は、もしその同時的存在がなんらか可能的な経験において認識されるとすれば、(直接もしくは間接に)力学的相互作用の関係をなさねばならないからである。ところで、あるものを欠いたなら、対象の経験そのものが不可能になるならば、そのようなものは全て経験の対象に関して欠くことのできないもの、すなわち必然的なものといえるだろう。ゆえに一切の実体が全て相互作用という完全な相互性の関係にあるということは、これらの実体が同時的に存在する限り、現象における一切の実体にとって必然的である。

 力学的相互作用がなければ、場所的〔空間的〕相互性すら、経験的に認識され得ない。ところで、次の諸件は、我々の経験について容易に認められる事柄である。すなわち、我々の感官をひとつの対象から他の対象へと向かわせうるものは、空間のあらゆる場所における連続的影響のみである。我々は空間に遍在する物質が我々の占めている場所の知覚を可能にするのでなければ、我々の場所を経験的に変じる(この変化を知覚する)ことはできない。また、こうした知覚は、場所間の相互的影響によってのみ、これらの場所の同時的存在を示し、これによって最も遠隔な対象に及ぶまでこれらの対象の共在を(間接的にもせよ)示し得る、ということである。こうした相互性を欠くと、およそ空間における現象の)知覚は、他の知覚からも断絶され、経験的表象の連鎖すなわち経験は、新しい対象にあってはそもそもの最初から始められることになり、前の経験はこれと全く結びつきえないだろう。つまり時間的関係をもつことができなくなるであろう。空虚な空間はたとえ存在するとしても、我々の知覚はとうていそこまで達し得ないから、同時的存在に関する経験的知識も成立しえない。空虚な空間は、我々の可能的経験にとっては全く対象でなくなるのである。

* * *

 これら経験の三類推は、時間の三様態にしたがって時間における現象の現実的存在を規定する原則にほかならない。時間の三様態とはすなわち量としての時間そのものに対する関係(現実的存在の量すなわち持続)、系列としての時間における関係(継時的)、および一切の現実的存在を総括するものとしての時間における関係(同時的)である。時間規定におけるこうした統一はあくまでも力学的統一である。というのは、時間は、経験がそこにおいて一切の現実的存在にそれぞれその位置を直接に指定するところのものと見なされない、ということである。絶対的時間は知覚の対象ではなく、現象は知覚によって互いに結合され得る。だから、現象の現実的存在は、悟性の規則によってのみ、時間関係に従う総合的統一をもち得ることになる。要するに悟性の規則が、全ての現象にそれぞれの位置を時間において、したがってまた何時でもいかなるときでもア・プリオリに妥当するように規定するのである。
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2017年09月08日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約B

 前回は、第二の類推の前半部分の要約について紹介しました。第二の類推とは、因果律に従う時間的継起の原則であり、一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起するというものでした。生起するものについては原因と結果のカテゴリーが適用されて我々の目の前に表れているということを説き、一般の見解(具体的にはヒュームの因果律批判)に対して反論していたのでした。

 今回は第二の類推の後半部分の要約を紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

B 第二の類推〔承前〕

 我々は次のことを実例によって示す必要がある。すなわち、我々は継起を客観に帰して、これを我々の覚知における主観的継起から区別するが、このことは知覚のこうした秩序を他のいかなる秩序にも勝るとみなすことを我々に強いるような規則が根底になければ不可能であるし、また、こうした規則による強制こそ、客観における継起の表象を初めて可能ならしめる、ということである。

 我々は自分のうちに種々な表象をもち、これを意識することもできるが、こうした表象に客観を対置し、また表象の主観的実在性は主観の変様であるにもかかわらず、こうした主観的実在性以上に、これらの表象に何らかの客観的実在性を帰するのはどうしてだろうか。

 現象の総合においては、多様な表象が終始継起している。しかし、こうした景気は一切の覚知に共通であって、このような継起によっては何ものも他から区別されないから、これによっては、およそ客観は全く表象され得ない。この継起が、それよりも前の状態に対する関係を含み、この状態から表象が規則に従って必然的に生じることを、私が認めもしくは想定するや否や、私は何かある物を出来事として、すなわち生起するものとして表象する。換言すれば、私は時間においてある一定の位置に置かねばならないような対象を認知する。そしてこの位置は全く先行の状態によってのみ、この対象に与えられるのである。この生起の現象がこうした時間関係において一定の位置を占め得るのは、この現象をいかなるときにも、つまりひとつの規則に従って、必然的に継起させるところのものが、先行の状態において前提されることによってのみ可能である。すると次のことが明らかになる。第一に、私はこの系列を逆にして、新たに生起するところのものをそれよりも前の状態に先立たせることはできない。第二に、先行の状態が設定されれば、この一定の出来事は必然的に継起せざるを得ない。これによって、我々のうちにある表象の間にひとつの秩序が成立する。この秩序においては現に存在するところのものは(それがすでに生じている限り)、これに対応するものとしてそれよりも前にある何らかの状態を指示する。また、この先行状態は、与えられた出来事の相関者として――まだ規定されていないにせよ――この状態から生じた結果としてのこの出来事に関係してこれを規定し、時間系列においてこの新たな出来事を必然的に自分に結びつけるのである。

 先行する時間は後続する時間を規定するというのが我々の感性の必然的法則であり、したがってまた一切の知覚の形式的条件であるとすれば、先行する時間における現象が後続する時間における一切の現実的存在を規定するということ、また先行する現象が後続する現象にその現実的存在を時間において規定するのでなければ――換言すれば、ひとつの規則に従って確定するのでなければ、この後続する現象は出来事として生起するわけにはいかないということもまた、時間系列の経験的表象にとって欠くことのできない法則である。我々は前後の時間の結合におけるこうした連続性を現象においてしか経験的に認識しえないからである。

 およそ経験を成立させ、また経験を可能なものとするためには、悟性を必要とする。そのために悟性のなすべき第一のことは、個々の対象の表象を判明にすることではなく、対象一般の表象を可能にすることである。このことは悟性が時間秩序を現象とその現実的存在とに適用することによってなされる。つまり悟性は、結果としての現象に、先行の現象に応じてア・プリオリに時間において規定された位置を与えるわけである。こうした一定の位置をもたなければ、現象は時間そのものと合致しないことになる。こうして生じた現象の系列は、内的直観の形式(時間)――換言すれば一切の知覚がそこにおいてそれぞれその位置を占めねばならぬところの時間においてア・プリオリに見出されるのと全く同じ秩序と一定不変の結合とを、悟性によって我々の可能的知覚の系列においても作り出し、これを必然的なものにするのである。

 それだから、何かあるものが生起するとは、ある可能的経験に属する知覚のことである。この可能的経験は、私がこの現象を時間におけるその位置に関して規定せられていると見なすときにのみ、したがってまたひとつの規則に従って知覚の系列的結合の位置にいかなるときでも見出され得るようなひとつの客観と見なすときのみ、現実的な経験となるのである。時間における継起を規定する規則は、出来事が生起するための条件は先行するところのもののうちに存しなければならない、ということである。だから、時間の系列的継起においては、因果律が可能的経験の根拠であり、したがってまた現象の客観的認識の根拠である。

 この基本的命題の証明根拠は、全く以下に述べる諸要件に基づく。およそ経験的認識には、構想力による多様なものの総合が必要である。この総合は、常に継時的である、換言すれば、表象はこの総合において継起する。この継起は、構想力においては(何が先行し、何がこれに継起しなければならないかという)秩序に関しては、全く規定されていないが、この総合が(与えられた現象における多様なものの)覚知の総合であれば、こうした秩序は客観において規定されているのである。もっと正確にいえば、継時的総合の秩序が客観のうちにあって、この秩序が客観を規定するのである。何かあるものは、この秩序に従って必然的に先行し、またこのものが設定されると、他のものが必然的にこれに次いで継起するのである。それだから私の知覚が、ある出来事の認識――つまり何かあるものが実際に生起するという認識を含むとすれば、こうした知覚は経験的判断でなければならない。そして我々は、この判断において、継起が規定されているということを考えるのである。これに反して、もし私が先行の現象を設定しても、出来事がこれに必然的に継起しないとなると、私はこの出来事を私の想像によって生じたものの営む主観的な戯れと見なさざるを得ないだろう。

 現象間の因果的結合の原則は、ひとつの現象が他の現象を同伴している場合にも当てはまる。例えば、炊かれている暖炉が原因となって、室内の温度という結果を同時に伴っているような場合である。この場合、原因と結果との間には時間における継起の関係は存せず、原因と結果は同時に存在するが、それでも員が結合の法則が妥当するのである。ここで我々がよく注意しなければならないのは、問題は時間の秩序であって時間の経過ではない、ということである。
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2017年09月07日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約A

 前回は、経験の類推の概説的な部分と、第一の類推についての要約を紹介しました。そもそも我々の経験は知覚が時間によって整序されることによって成り立っているものであり、その時間は常住不変性、継起および同時的存在という3つの様態があるから、経験の類推もそれに応じて3つになるということで、第一の類推に入っていったのでした。第一の類推は、実体の常住不変性の原則というもので、時間が成り立つ根底には何ら変化しないものが存在しており、それが実体なのだということを説いていました。

 今回は、第二の類推の部分の前半の要約について紹介したいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

B 第二の類推

因果律に従う時間的継起の原則
 一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する

証明

 時間において継起する一切の現象は全て変化にほかならない。換言すれば、実体の規定の継時的な存在と非存在とである。しかしこの場合も実体は常住不変であり、実体そのものに生起や消滅があるわけではない。第一の類推の原則はこのことを明らかにしたが、これは、現象の一切の変易(継起)は変化にほかならない、とも言い表し得る。

 私は、現象が時間において相次いで継起することを知覚する。私は時間における2つの知覚を結びつけるわけであるが、結合は単なる感官や直観のなし得るところではない。結合は構想力の総合能力の所産であり、構想力が内感を時間関係に関して規定するのである。ところが構想力は、ひとつの状態が時間的に他の状態よりも前にあるようにも結合できるし、またその後に来るように結合することもできる。時間自体は知覚されないし、時間に関して何が前にあり何がこれに続くかを客観についていわば経験的に規定することは不可能だからである。単なる知覚だけでは、相次ぐ現象の客観的関係は結局規定され得ない。この関係が規定されたものとして認識されるためには、両状態の間の関係は、これらの状態のうちのどれが前に置かれどれが後に置かれなければならず、逆であってはならないということが、この関係によって必然的に規定されている、と考えなければならない。この場合、総合的統一の必然性を有する概念は、原因と結果との関係の概念である。すなわち原因は、結果を原因に次いで継起するものとして、時間において規定する。我々は、現象の継起を、従ってまた一切の変化を、原因性の法則〔因果律〕に従わせることによってのみ経験、すなわち現象の経験的認識すらも可能ならしめるのである。従ってまた経験の対象としての現象自身も、この法則に従ってのみ可能となるのである。

 現象における多様なものの覚知は常に継時的であるが、こうした表象が対象〔客観〕においても継起するかどうか。我々は、どんな表象でも、我々がそれを意識している限りにおいて、客観と名づけてよい。しかし現象(表象としての)がそれぞれ客観であるというのではなくて、ただ1個の客観を表わすとしたら、客観という語が現象に関して何を意味するのか、もっと深い研究を必要とする。現象は物自体ではないにせよ、それにもかかわらず認識の素材として我々に与えられる唯一のものである。だから私は、覚知における多様なものの表象は常に継時的に現われるにしても、現象そのものにおける多様なものにはどのような時間的結合が与えられるかを証示せねばならない。例えば、私の眼前にある家屋の現象に含まれている多様なものの覚知は継時的である。しかしこの家屋そのものの含む多様なものもまたそれ自体継起的であるかといえばそうではない。そこで私が用いている対象という概念を先験的意味にまで高めると、この家屋はもはや物自体ではなくて単なる現象にすぎなくなる(家屋は表象であって、この表象の先験的対象は我々には知られていないことになる)。ならば私は、現象そのもの(物自体ではない)における多様なものはどのように結合されているか、という問題をどう解するのか。私に与えられている現象は、継時的な覚知に存する表象の総括であるにもかかわらず、表象の対象と見なされるのであり、私が覚知における表象から引き出した客観という概念は、この対象と一致せねばならない。するとすぐに、認識と客観の一致が真理だから、ここで経験的真理を成立させる形式的条件が問題になる。現象は現象における多様なものを結合する仕方を必然的にするような規則に従うことによってのみ、表象の対象すなわち客観と見なされ得るのである。要するに、現象において、覚知のこうした必然的規則の条件を含むところのものがすなわち客観なのである。

 何かあるものが生起するというのは、現在の状態を含んでいない現象がそれよりも前に存在するのでなければ、経験的に知覚され得ない。だから出来事の覚知は、ある知覚に続いて起きた別の知覚にほかならない。しかし、このことは覚知の一切の総合についても、先に家屋の現象で例示した通りであり、出来事の覚知はこれによってはまだ他の覚知から区別され得ない。先に知覚した状態をA、これに続く状態をBとすれば、覚知においてBはただAに続いて起きるだけであるが、しかし知覚ということになると、AがBについで継起するなどということは不可能で、AはBよりも前にしかあり得ない、ということである。例えば、川を下る船を見ていると、下流におけるこの船の位置の知覚は、上流におけるこの船の位置の知覚に次いで継起する。この現象の覚知において、船が最初下流にあり、その後で上流にあるものとして知覚されるということは不可能である。家屋の例ならば、覚知における知覚は、家屋の頂上からはじまり土台で終わることも、また下方からはじめて上方で終わることもできた。このような知覚の系列では、多様なものを経験的に結合するためにどこから始めるべきかという仕方を必然的にする一定の秩序は存在しない。ところが生起するところのものの知覚においては、我々はこの規則に出くわすのである。この規則が相次いで継起する知覚の秩序を必然的にするのである。

 この場合、覚知の主観的継起は現象の客観的継起から導かれなければならない。さもなければ、主観的継起は全く不定なものになり、ある現象と他の現象とが区別されなくなる。主観的継起だけでは、客観における多様なものの必然的結合を証示するわけにはいかないから、客観的継起は、現象における多様なものの秩序によって成立することになる。生起するあるものの知覚は、こうした秩序に準拠しひとつの規則に従って、他のものに次いで継起するのである。

 我々が、何かあるものの生起を経験的に知るというときには、何らかのあるものがこの生起よりも前にあり、生起するものは規則に従って、このものに次いで継起するということを前提しているのである。こういうことがなければ私は客観について、それが実際に継起するとはいえないだろう。私の主観的総合を客観的ならしめるというのは、このことがいつでも規則に従って行われるということなのである。

 このことは、我々の悟性使用の進み方についていわれてきた一般の見解と矛盾する。こうした見解では、我々は多くの出来事がそれぞれそれより前にある現象に次いで一様に継起するのを知覚し、比較することによってのみ、初めてある規則――すなわち、それに従ってある出来事が常にある現象に次いで継起する規則を発見する手がかりを得、原因の概念を構成する機会がようやく与えられるという段取りになる。しかしこういう見方では、原因の概念が全く経験的な概念にすぎなくなり、この概念が与えるところの規則、すなわち生起する一切のものは全て原因を有するという規則は、経験そのものと同じく偶然的なものになる。出来事の系列を規定する規則の表象、すなわち原因の概念の論理的明晰ということは、我々が経験においてこの規則を使用した場合に初めて可能になる。
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2017年09月06日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約@

 今回から4回にわけて、8月例会で扱った範囲の要約を紹介していきます。今回は、経験の類推の概説的な部分と、3つの類推のうちの1つ目「実体の常住不変性の原則」について紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

3 経験の類推

その原理――経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である

 経験とは知覚によって客観を規定するような認識であるから、経験は知覚の総合であるが、この総合そのものは意識における知覚の多様な内容の総合的統一を含んでいる。この総合的統一が、感官の対象の認識の本質、従ってまた経験の本質をなす。覚知が空間および時間において一緒に並べ連ねた現象が結合されたものとして実際に存在しているという必然性の表象は、覚知のなかには全く見出されない。ところが、経験は知覚による客観の認識だから、多様なものの現実的な存在における関係は、時間において客観的に存在する物として表象されねばならない。しかし、時間そのものは知覚されないから、時間における客観の存在は時間一般における結合によってのみ(ア・プリオリに結合するところの概念によってのみ)規定され得る。

 時間の三様態は常住不変性、継起および同時的存在である。およそ現象の現実的存在をあらゆる時間統一に関して規定するこれら規則は、一切の経験より前にあり、また経験を初めて可能ならしめる。

 これら三類推の全てに通じる一般的原則は、いかなる時でも一切の可能的な経験的意識(知覚)に関する統覚の必然的統一に基づいている、従ってまた――こうした統一が常にア・プリオリに根底に存するところから、時間における現象相互の関係に従うところの一切の現象の総合的統一に基づいている。

 こうした原則が考慮に入れるのは、現象の現実的存在および現象の現実的存在に関する現象相互の関係にすぎない。

 先に述べた二原則――直観の公理と知覚の先取的認識は、数学を現象に適用する機能をもっているので、数学的原則と名づけられた。これら原則は、現象の可能という点だけから現象を問題にし、現象がその直観と現象の知覚における実在的なものに関して、数学的総合に従ってどのように産出され得るか、ということを教えた。これら二原則は構成的原則と名づけられる。

 ところが、現象の現実的存在をア・プリオリに規則に従わせる原則ということになると、事情は全く異なる。現象の現実的存在は構成され得るものではないから、後の原則は統整的原理にすぎない。この場合、次のような事情が考慮されるだけである。我々にある知覚が他の知覚に対する時間関係において与えられている場合に我々がア・プリオリに言い得ることは、どうしてこの知覚が現にあるところの存在に関して、こうした時間的様態においてはじめの知覚と必然的に結びついているか、ということである。経験の類推は、それに従って経験の統一が知覚から生じるような規則であり、現象の対象に関する原則として構成的に妥当するのではなくて、全く統整的にのみ妥当する。

A 第一の類推

実体の常住不変性の原則
 現象がどんなに変易しようとも実体は常住不変であり自然における実体の量は増えもしなければ減りもしない

証明

 全て現象は時間において存在する。同時的存在も継起も、基体としての時間(内的直観の不変な形式としての)においてのみ、表象せられるのである。それだから時間は、現象の一切の変易がそのなかで考えられなければならないものであるが、時間そのものは常住であって変易しない。時間はそれ自体だけでは知覚され得ないから、知覚の対象すなわち現象において、時間一般を表わすところの基体が見出されねばならない。一切の変易や同時的存在は、こうした基体に即して、この基体に対する現象の関係によって覚知され得るのである。現象の一切の時間関係は、常住不変なものとの関係においてのみ規定され得る。してみるとこの常住不変なものがすなわち現象における実体である。換言すれば、現象の一切の変易の基体として、現象において常に同一不変であるところの実在的なものである。してみるとこの実体は、現象の現実的存在において変易することがあり得ない。ゆえに、自然における実体の量は増すこともあり得なければ減ることもあり得ないのである。

 現象における多様なものの覚知は継時的で絶えず変易しているから、我々は覚知によるだけでは多様なものが経験の対象として同時的に存在しているのか前後的に継起しているのか規定することはできない。そのためには、常住不変なあるものが経験の根底に存しなければならない。一切の変易や同時的存在は、こうした常住不変なものの実際的のそれぞれの仕方(時間の様態)にほかならない。換言すれば、常住不変なものが時間そのものの経験的表象の基体なのである。常住不変性は、一切の現実的存在の恒常的な相関者としての、従ってまた一切の変易と一切の同時的存在との相関者としての時間を表現する。常住不変なものがないと、およそ時間関係は全く成立しない。現象における常住不変なものは、一切の時間規定の基体であり、それ故にまた知覚の一切の総合的統一を可能ならしめる――換言すれば経験を可能ならしめる条件でもある。時間における一切の現実的存在と一切の変易とは、それぞれこの常住不変なものの実際的存在の一様態と見なされ得るにすぎない。それだからおよそ現象においては、この常住不変なものが対象そのものであり、実体(現象的実体)である。変易する(変易し得る)一切のものは、この実体の実際的な存在の仕方である。

 こうした常住不変性の概念に基づいて、変化の概念も訂正される。生起と消滅とは起滅する当体の変化ではなく、変化は対象の実際的存在のひとつの仕方であり、この仕方が同じ対象の別の存在の仕方に相次いで起きるのである。つまり変化するところの当体は全て常住不変であり、その状態だけが変易するのである。

 それだから変化は、実体に即してのみ知覚される。生起あるいは消滅そのものは、常住不変なものの規定に関する限りにおいてのみ、可能的な知覚になり得るのである。変化は常住不変なものの変易的規定としてのみ、経験的に認識され得るのである。

 現象における実体は、一切の時間規定の基体をなしている。もしある実体は生起し、他の実体は消滅するということになったら、時間を経験的に統一するための唯一の条件そのものが滅却されてしまうだろう。実際には唯一の時間があるだけで、この時間において相異なる一切の時間が、同時的にでなく相次いで配置されなければならないのである。
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 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史