2017年08月03日

改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う(1/5)

〈目次〉

(1)前稿に欠けたるものとは?
(2)モノ化=実体化してこそ本当に認識をコントロールできる
(3)外在化によって観念的二重化の能力を鍛える
(4)心理療法は社会的認識を創り出す
(5)認識論に基づく心理臨床が求められる


(1)前稿に欠けたるものとは?

 以前,「職場のメンタルヘルス対策義務化」として,次のようなニュースが流れていました。

「職場のメンタルヘルス対策義務化=臨時国会で法改正へ―厚労省

 小宮山洋子厚生労働相は24日,事業者に対し医師などによる従業員のメンタルヘルス(心の健康)チェックを義務付ける労働安全衛生法の改正案要綱を労働政策審議会に諮問した。労政審は同日の安全衛生分科会でこれを了承し,原案通り答申。改正案は今臨時国会に提出され,来年秋にも施行される見込みだ。

 厚労省は「東日本大震災を契機にメンタルヘルスが不調に陥る人の増加が懸念され,予防対策を充実させる必要がある」としている。

 仕事上のストレスが原因でうつ病などになる人が増えていることから,改正案は全従業員の精神状態の把握を事業者に義務化。検査結果は医師や保健師から従業員へ直接通知し,本人の同意を得ずに事業者に提供することを禁じる。

 従業員は希望すれば医師の面接指導を受けられる。事業者は面接指導を申し出た従業員に対し不利益な扱いをしてはならず,医師の意見を聞いた上で,必要であれば勤務時間の短縮や職場の配置転換などの改善策を取ることを求められる。」(時事通信 2011年10月24日(月)22時20分配信)


 これは,うつ病などの予防対策として,職場でのメンタルヘルスチェックを義務付けるように国が動き出した,ということです。近年はうつ病患者が増加しており,年間3万の大台は下回ったとはいえ,まだまだ多い自殺の大きなリスク要因としてうつ病が指摘されているだけに,国も積極的にうつ病予防の対策に乗り出さざるをえなくなった,ということかと思います。

 実際,この記事で説かれている内容は,いわゆる「ストレスチェック制度」として,2015年12月から実施されています。筆者も臨床心理士として,いくつかの企業の労働者を対象に,ストレスチェック後の面接を行っています。

 このような流れを受けて,本ブログでは以前,うつ病の治療や予防に効果があるとされている心理療法である認知行動療法を取り上げて,その技法の1つである「外在化」の意義を,「改訂版 心理療法における外在化の意義を問う」と題して論じました。「外在化」と一口にいっても,分野や流派によって微妙にその意味内容が変わるのですが,前稿や本稿で扱っている「外在化」とは,主に認知行動療法で使われている技法をより抽象化して一般化した概念として用いています。認知行動療法でいわれている「外在化」とは,認知心理学で使われている「外在化」概念に近いものです。そこで念のために,認知心理学における「外在化」とは何かを,以下に引用しておきます。

「人間の認知(内的な知識や思考やイメージ),およびそれに伴う気分・感情や身体反応,つまり人間の内的な体験を,外的な装置(紙,ホワイトボード,コンピュータのモニターなど)に置いて,いつでも参照可能な状態にすること」(伊藤絵美他編『事例でわかる心理学のうまい活かし方』(金剛出版,2011))


 すなわち,外在化とは人間の内的体験を外に置いて,眺められるようにする,というような意味です。おおよそのイメージとしては,このようなものとして理解していただいて結構です。

 さて,前稿で説いた内容をここで振り返ってみましょう。連載第5回(最終回)で,次のようにまとめておきました。

「最初に,心理療法の技法である外在化とはどのようなものであるかを紹介しました。外在化とは,元々は当事者の内にあった心の問題を外に出すということでした。たとえば,認知行動療法においては,当事者の苦労や困りごとを,「状況」「認知」「気分」「身体」「行動」の悪循環として把握し,それを紙の上に描いて整理するという形で外在化を行いました。べてるの家では,幻聴を「幻聴さん」,特定の状況でふと浮かんでくるネガティブな認知(自動思考)を「マイナスのお客さん」などと呼んで,擬人化することによって外在化している,さらに東豊氏の「虫退治」においては,困りごとの原因を「虫」に帰属する(困りごとの原因が「虫」にあると考える),ということを紹介しました。このような外在化によって,心の問題を当事者以外にも目に見えるようにすることができるだけでなく,当事者から問題を切り離すこともできるのでした。「当事者=問題」という直接的同一性としての見方から「当事者と問題」という媒介関係としての見方へとシフトし,援助者と当事者(と他のメンバー)がチームを組んで,外在化された問題に取り組む,という姿勢が自然と構築できるのでした。

 次に,以上のような外在化を構造に分け入って,認識論的に説きました。認識論的にいうならば,外在化は観念的な対象化のための一つの有力な手段である,ということができるのでした。そもそも対象化とは,「対象→認識→表現」という過程的構造の最初の部分にそのモノを設定することでした。認識の対象でなかったものを,認識の対象として置く,ということです。さらに観念的な対象化とは,頭の中だけで当事者の外部にあるものとして客観化することでした。これらを踏まえるならば,外在化とは,実際には当事者の心の中にしかない心の問題を,あたかも当事者の外部にあるものとして,当事者が認識できる位置に客観的に存在しているものとして置くための手段である,ということができるのでした。外在化とは,巻き込まれていた状態から距離をとってその状態を眺めるための手段である,といってもいいということも確認しました。

 最後に,このように外在化によって心の問題を観念的に対象化することにどのような意義があるのかを考察しました。まずは,心の問題を観念的に対象化することによって,心の問題から距離がとれ,冷静になれるのだ,ということを確認しました。これは,なにがなんだか分からないままに問題となっている認識=像によって苦しめられていたのが,その認識=像が小さくなったことによって影響力が弱まったということを意味するのでした。さらに,より決定的に重要なのは,対象化することによってこそコントロール可能性が生まれることだ,という点でした。そもそも人間は,対象としたものと取り組むことによってその対象についての認識が発展し,その対象について自由自在にコントロールできる可能性が高まっていく存在でした。心の問題に巻き込まれて,なにがなんだか分からない状態ではどうすることもできなかったのに,対象化してしまえば,試行錯誤レベルでの取り組みであってもそれをコントロールできる可能性が生まれてくる,ということでした。

 以上のように,外在化の意義を端的にまとめれば,心の問題を対象化することによって,思い通りにコントロールできる可能性が生まれてくる,ということになるわけです。」


 このような内容を説いた小論に対して,我々の指導者からコメントをいただきました。端的には,この小論には大きく欠けているものがある,という指摘でした。具体的にいうと,第一に,単なる対象化ではなく,モノ化=実体化してこそ本当に認識をコントロールできるようになる,という点が不足していること,第二に,外在化とは端的いえば観念的二重化の問題であるのに,観念的二重化の視点からの考察がないこと,第三に,セラピストとクライントと問題というように三者関係に言及しているのはいいとして,ここに関連すると考えられる社会的認識の問題に踏み込めていないこと,という3つの指摘でした。

 そこで本稿は,「改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う」と題して,指導者から指摘された3点を順番に取り上げ,認識論的により深く構造に分け入って,心理療法における外在化の意義を考察してみたいと思います。

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2017年08月02日

一会員による『学城』第15号の感想(14/14)

(14)「段階性」を踏まえた学びの重要性を主体的に捉え返す必要がある

 本稿は『学城』第15号の感想を認めることによって、特に全体を貫くテーマである「段階性」ということを踏まえた学びの重要性という観点から、この第15号の中身を主体的に自分の実力とすることを目的として、これまで第15号に掲載されている12本の論文を取り上げ、その要約を行い、学ぶべき点を明かにしてきたものである。

 ここで、第15号全体を貫くテーマである「段階性」ということを中心に、これまでの展開を簡単に振り返っておきたい。

 連載第2回で取り上げた村田論文では、人類の社会的認識の「段階性」は、事実的に捉えるのではなくて、その流れの中の論理に焦点を当てて捉えるべきだということが説かれていた。このことは、連載第8回で扱った菅野論文においても述べられていた。すなわち、「生命の歴史」においても、社会の歴史においても、人類の個人としての歴史においても、前の段階をしっかりと踏まえて次の段階へと進んでいくのだということを論理的に把握する必要性が説かれていたのであった。

 村田論文ではほかにも、「段階性」という区別とともに、対象の一般性レベルの把握が必要であることも説かれていた。人類の歴史であれば、その一般性としての社会的認識に着目する必要があるということであった。連載第10回で取り上げた河野論文においても、「段階性」の把握は特殊性と一般性との統一として行う必要があるということが暗に説かれているとしておいた。

 「段階性」という問題を考える際に、どうしても避けては通れないものとして、「生命の歴史」について説かれている論文もあった。連載第4回の浅野論文では、武道空手体を創出するためには、まずは「生命の歴史」の「段階性」をしっかりと踏まえた人間体を創出する必要があることが説かれていた。また、連載第9回で扱った北嶋・志垣論文では、脳性麻痺児の教育においては、「生命の歴史」における「段階性」を辿り返すような教育を行う必要があることも説かれていた。

 「段階性」という問題のうちでもとくに重要な事柄として、「原点」という「段階性」に言及されている論文も多数あった。北嶋・志垣論文では、上記のような教育を「原点からの過程性、歴史性を問う」ことが重要だとまとめられていたし、連載第3回に取り上げた近藤論文では、国家論の学びにおいては、共同体や法というものがどのように生成発展してきたのかの「原点」を踏まえる必要があることが説かれていた。また、連載第5回の北條論文では、上達や組織の発展の「原点」には、強烈な憧れがあるということが強調されていたし、連載第7回の佐藤論文では、文化遺産の学びの「原点」である小学一年生の特殊性が俎上に載せられ、具体的な事例を通して「初学者」にも分かりやすい展開がなされていたのであった。

 この「初学者」の学びの「段階性」ということについても、多くの論文で説かれていた。連載第6回に取り上げた西林論文では、哲学の初歩の学びの段階では、哲学の歴史の構造を学問の発展の構造として学ぶ必要があることが説かれていたし、連載第11回の症例検討論文や連載第13回の橘論文では、「初学者」という「段階性」を踏まえて、具体的なイメージが描けるよう、喩え話で病気や遺伝子の構造が説かれていた。連載第12回で扱った朝霧論文では、「初学者」の学びの「段階性」として、区別よりも連関をという弁証法的なアタマ創りが必要であることも説かれていた。

 以上、今回第15号を読み、その内容を主体的に把握するために、「段階性」をテーマとしてこれまで説いてきた流れを振り返っておいた。端的にいえば、どのような歴史であっても、その各段階はその段階に応じた実力を身につける時期であり、そこを踏まえてこそ次の段階へと進んでいくことができるのであるが、その中でも特に「原点」という段階のあり方は、「生命の歴史」における単細胞段階で生じた「代謝」のように、その後の流れの中に貫かれている普遍性を持ったものであり、ここをしっかりと一般性として押さえておくことが重要である、ということである。そして、こうした「段階性」を踏まえた学びの重要性という問題は、何よりもまず、自分自身の発展の「段階性」における論理構造として学び取る必要がある、ということである。

 ここで、連載第1回に引用した「編集後記」において、第15号は「初学者の学びに資するもの」を数多く掲載したと述べられていたことを再び取り上げたいと思う。上にも記したように、「初学者」の学びにおいては、まず何よりも弁証法的なアタマ創りが重要になってくる。現在のいわゆるアカデミズムの世界との対比でいえば、対象たる分野を細かく細かく分割していくのではなくて、大きな視点で、対象の全体像を捉える必要があるのである。部分のみでは、対象を捉え違えかねないのであって、まずはアバウトにでも、対象を、そして世界全体を把握する必要がある。そういう意味では、学問の歴史を大きな流れとして学んでいく必要があるといえるだろう。人類の社会的認識の発展の最高段階として、各時代には人類は世界をどのように捉えてきたのか、何を問題とし、何を解決してきたのか、自分の専門分野も含めた哲学の歴史として、学問の流れを押さえておく必要があるのである。

 もう1つ指摘しておかなければならないことは、認識の「のぼりおり」が非常に重要だということである。学問は論理の体系であるとはいえ、その歴史を振り返ってみれば明らかなように、自分を含めた世界が直面する具体的な諸々の問題を解決するためにこそ、学問は生成発展してきたのである。具体的な問題と抽象的な論理とを結びつけることによってこそ、現実のあらゆる問題を説き切れるような学問が成立するのである。だから、「初学者」の学びにおいても、常に論理に触れればそれは具体的にどういうことかと考えていく、逆に具体的な問題にぶつかったときには、それは要するにどういうことかを考えていく、という形で、認識の「のぼりおり」の訓練をしておく必要があるのである。そして、何らかの論理を相手に説明するにしても、これは具体的にイメージ化していえばどういう説明の仕方ができるかを常に考え、具体的な問題を論じる際にも、それは結局どういうことだと論理的に結論できるかを考えながら、相手が納得感を持ってその説明を受け入れてもらえるような工夫が必要になってくるのである。

 以上の「初学者の学び」ということに関していえば、我々京都弁証法認識論研究会では、まずは三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』を弁証法の基本書として何度も何度も繰り返し学んできているし、世界の全体像を把握するためにシュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』から、カント『純粋理性批判』、さらにはヘーゲル『エンチュクロペディー』への学びの道を進んできているのである。また、認識の「のぼりおり」ということに関していえば、年に数回実施している、直接顔を突きあわせての例会において、我々の指導者から繰り返し繰り返しこのことの指導を受けてきているし、スカイプで行っている勉強会においても、会員間で討論の際に、意識的にこうした指摘を行うようにしてきているのである。また、このブログに掲載する論文についても、ここは抽象的過ぎて分かりにくいから、具体的な例を入れるべきではないかとか、この事実からどういう論理を導き出せるのかをまとめて説明した方が良いのではないかとかいった指摘を行い、認識の「のぼりおり」を実践してきているのである。

 今回、15号という「初学者の学びに資する」という目的を持った『学城』が発刊されたことに鑑み、改めて学びの「原点」からの「段階性」を辿り返していく必要性を感じたことである。大志を抱いて学問への道に志した初心を忘れずに、自らの道を切り開いていくべく研鑽していく覚悟を述べて、本稿を終えたいと思う。

(了)
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2017年08月01日

一会員による『学城』第15号の感想(13/14)

(13)「初学者」にはどのような説き方が必要か

 今回は橘美伽先生による食事に関する論文を取り上げる。ここでは遺伝子の問題から神経の役割について説かれていく。

 本論文の著者名・タイトルは以下である。なお、『学城』誌上では、目次はなく、本文に項番のみ振られているため、その項番に筆者なりにタイトルを付して目次とした。

橘美伽
武道空手上達のための人間体を創る「食事」とは何か(4)
―遺伝子としての食事を考える―

 《目 次》
(1)柔道事故防止に必須のものとは何か
(2)指導者は「生活」指導を行う必要がある
(3)遺伝子とは何か、その二重構造とは何か
(4)遺伝子を武道空手化させていくとはどういうことか
(5)遺伝子を武道空手化させていく具体例
(6)武道空手は神経を駆使しての闘いである
(7)五体を自在に働かせるためには全ての神経を駆使できる必要がある
(8)鍛えられていない神経が自在な組手や上達の邪魔をする
(9)使っていないところを使うことで遺伝子の内実も変わっていく

 本論文では、部活動における柔道事故に関する新聞記事が引用され、事故防止に絶対に必要な項目として、練習生の「生活」に関する項目が挙げられる。人間の身体は、衣・食・住の「生活」の過程で創られるのであるから、指導者は「生活」に関する指導ができなければならないというのである。こうして遺伝子レベルで人間は創られていくということで、そもそも遺伝子とは何かが説かれていく。すなわち、遺伝子とは、その人の行動や認識の全てをその人がそうするように司令を出すものだということである。しかも遺伝子は、外界から得た情報を組み込んで変化し、その変化した遺伝子がまた司令を出すという二重構造を持っているというのである。ここで武道空手をモノにしたいのであれば、武道空手的修練を行っていくことで、自分の遺伝子に武道空手の情報を組み込んでいく必要があるのであるが、これは武道空手が日常生活にない動きを要求するために、非常に困難なことであることが説かれる。具体的には、相手の攻撃技に対して、当初はどうしても横によけたり後ろに下がったりしてしまうのであるが、遺伝子を創っていく過程を経て、動かないこともできるという重層的構造を持てるようにしていったというのである。ここで論の展開は、遺伝子からの司令を受けてこれらを体現させるための神経に関してのものに移っていく。武道空手は神経を駆使しての闘いであること、そのためには本能的な動きを取り戻す必要があること、それは五体を自在に働かせることができるように全ての神経を駆使できる必要があるためであること、鍛えられていない神経が自在な組手を阻害していることなどが説かれていく。最後に、使っていないところを使うという実践をすることで、頭脳活動も見事になり、身体的にも精神的にも上達していくことが説かれる。

 本論文に関しても、まずは『学城』第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」ということを考えていきたい。

 まず、本論文では、柔道における事故防止の第一要因、つまり最も大切な根本的な段階の事柄として、「各練習生の「生活」、すなわち「食事」「睡眠」「日常を含めた運動」に関する項目!」(p.203)を挙げておられる。これはどういうことかといえば、通常であれば、例えば受け身の練習をしっかりとしていたかとか、体格差や技能差をきちんと考慮していたかとか、練習の初めに準備運動をしっかりと行ったかとか、練習生の体調をきちんと確認したかとか、そういったことが問われて問題になるということがあるのだが、実は柔道における事故を防止する上で最も重要なことは、練習生の身体が日常的な衣食住、つまり生活の過程で創られているのであるから、そこをこそしっかりと問う必要がある、ということである。具体的にいえば、きちんとしたバランスの良い食事をしっかりと食べているのか、睡眠時間は十分確保できているのか、歩いたり走ったり飛んだりといった運動が日常的に継続できているのか、こうしたことをこそ問題にすべきだというのである。これは人間は創られて人間となるという人間の一般論を踏まえた根本的な提起だといえると思う。

 もう1つ、「段階性」ということに関わって取り上げたいのは、前々回の症例検討論文でも述べたことではあるが、「初学者」という「段階性」にとっては、具体的にイメージできるような喩えを踏まえて、論理を理解させていく必要があるということである。本論文では、遺伝子がいわばその人の司令官として、その人の行動や認識の全てをその人がそうするようにさせるものだと述べられた後、これをマンガレベルの像として描いてみるとして、アニメ『ヒカルの碁』の例が引かれている。このアニメでは、「主人公の進藤ヒカルに憑いた碁の達人である藤原佐為の霊が「あそこに打ちなさい、次はここに打ちなさい」といった具合にヒカルに司令を出し、寸分違わずその通りに、なんの疑いもなくヒカルが碁を打っていく」(p.207)のであるが、このあり方が遺伝子の全身への司令のあり方をイメージするために役に立つとして、こうした例が用いられているのである。「初学者」の段階においては、いきなり遺伝子が司令を出して全身をそうあるようにさせているなどと説明されても、具体的な像が描けないのであるが、こうした分かりやすい例で説明されれば、なるほどそういうイメージかと、大枠での理解ができていくのである。

 本論文ではほかにも、「初学者」が内容を理解しやすいように工夫されていることがある。それは、武道空手の修練において、遺伝子を武道空手化させていく必要があると説かれていることに関わってである。「遺伝子を武道空手化させていく必要がある」などといきなりいわれても、それは一体どういうことなのか、初学者には全くといっていいほどイメージができないと思われる。そこで橘先生は、武道空手の修練過程の初期において、相手の攻撃技をその場で受ける(もしくは少しでもいいから前に出る)という練習を具体的に説明することで、このことを理解できるように工夫しておられる。当初は、どうしてもその場で技を受けることができずに、横によけたり、後ろに下がったりしてしまうのであったが、これは「その時の筆者の遺伝子は身体的にも精神的にも武道空手のそれとはほど遠く、「横や後ろに動いてしまうしかない」、逆にいえば「前に出ることができない」という、単層構造的なものだった」(p.209)からだと説かれる。しかし、強烈な意志で何とか動かないように努め、遺伝子にその情報を組み込ませていくことによって、「それまでに創ってきてしまった遺伝子と、これから創っていかなければならない遺伝子との闘い、せめぎ合い」(pp.209-210)の結果として、「新たに「動かないこともできる」「前に出ることもできる」という重層的構造」(p.210)を遺伝子が持てるようになっていったというのである。

 本論文ではこのように、説かれている内容もさることながら、その説き方にしっかりと学んでいく必要があると感じた次第である。
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2017年07月31日

一会員による『学城』第15号の感想(12/14)

(12)「初学者」の学びの「段階性」とはどのようなものか

 今回取り上げるのは、朝霧華刃先生による唯物論の歴史に関する論文である。「初学者」が学問構築への道を歩む際の学びの「段階性」が論じられていく。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトルを示しておく。なお、『学城』誌上では、目次はなく、本文に項番も振られていない。

朝霧華刃
唯物論の歴史を学ぶ(3)

 本論文ではまず、シュヴェーグラーの実力が、達人の説くことを忠実に理解できるが、自らの生命を賭けた決闘においての勝負の機微が分かるレベルでは全くないと説かれる。そしてその実例として、ヘーゲルが学的生命を賭けて「学問は体系化しなければならない」と説いているにも拘らず、シュヴェーグラーはこれは正しくないとしていることを取り上げ、これではシュヴェーグラーは学問構築への努力から逃走してしまっているというのである。とはいえ、その難行苦行の精神状態の実態を知れば、逃走してしまうことも分かる気がするとして、南郷継正先生の著作からの引用を通して、具体的な研鑽の中身が説かれていく。合わせて、シュヴェーグラーが哲学と経験的な諸科学とを区別している文言についての批判もなされるのである。展開はここから『唯物論の歴史』の次の項目に移っていく。すなわち、万物のもととなるものは「無限なものである」と唱えたアナクシマンドロスについて触れられていく。アナクシマンドロスに関しては、彼が唱えた「無限」とか、人間は魚から生れたということを主張した際の「魚」とかいった言葉の背後にあるイメージが、自然を肌身で感じていたようなところから生まれたものであり、人工的なものにまみれてしまっている現代の私たちの抱くイメージと全然違うのではないかということが説かれる。また、19世紀と古代とを結びつける点に気づいたとして、シュリーマンが19世紀になってやっと、古代文明があった時代を発掘したことが述べられる。

 本論文に関してまず述べなければならないことは、本論文の展開が非常に分かりにくく、一体どういうことが説きたいのか、筆者のレベルでは充分に把握できなかったということである。『学城』第13号に関する小論でも、「書かれている言葉自体は平易な日常会話で用いられているようなものであるのだが、どうにも論理展開を追っていくにあたって朝霧先生の認識にうまくついていけない、という感じがする」と述べていたが、正に同じような感想を抱いてしまったということである。

 前回、第14号の感想を述べた小論では、一読しただけではよく分からなかったものの、第14号全体を貫くテーマを念頭に、素直に学んでいくことで、「今までなぜこんな分かりやすい展開で説かれているのに分からなかったのかと思えるほどよく分かるように読めていった」と述べておいた。今回もこの反省を生かして、第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」というものを手掛かりに、素直に学んでいったのであるが、今回はどうしてもその展開についていけなかったのである。具体的にいえば、「学問構築への努力」(p.194)の過程における「難行苦行の精神状態の実態」(同上)について、南郷先生の著作を借りて述べていくとされているが、その引用されている南郷先生の著作には、「難行苦行の精神状態の実態」が説かれているようには思えないのである。また、後半部分ではアナクシマンドロスについて説かれているが、ここでもアナクシマンドロスが人間は魚から生れたということを唱えていたことに関連して、ダーウィンの進化論の話へ、そこからさらにダーウィンの時代の人間は、ポリス以前の社会がホメロスの叙事詩などにみられる空想的な社会として考えていたことが述べられ、ここに関連してポリス以前の小アジアの遺跡を発見したシュリーマンに話が移っていく、という展開であって、一体これはどういうことか、よく分からないまま、歴史に残る「武道論」を創りたいという決意が述べられて論文が終わるという流れなのである。正直、非常に弱ってしまった。

 しかし、いつまでも弱ってしまっていても仕方がないので、無理にでも「段階性」というテーマに結びつけてこの論文を読み解いてみると以下のようになる(ということを理解していただきたい)。

 本論文は前半部分で、シュヴェーグラーの「学問からの逃走(決闘からの逃走)」(p.193)の実態が分かるためには、学問構築の過程での「難行苦行」(p.194)を知るという「段階性」が必要だと述べられている。これはつまり、実際に自らが学問構築への道を歩んでみて、その実態を自ら体験することなくしては、本当にはシュヴェーグラー『西洋哲学史』を読み取ることはできないということであろう。このことに関わっては、「哲学を経験的な諸科学から区別するものは哲学の素材ではなくて、その形式、方法、認識の仕方である」というシュヴェーグラーの言葉を引用して、これは「間違いだらけだ」(p.198)と、朝霧先生は即座に反論しておられることである。そしてその理由として、「哲学というものは経験的な諸科学と区別するもの、といってよいわけがな」(同上)いと断言しておられるのである。筆者のレベルであれば、こうした即座の批判、反論はできないものである。それはつまり、いまだに学問構築への道をしっかりと歩んでいけていないからこそ、シュヴェーグラーの弱点が掴めないのだ、まだまだその段階に達していないのだという警告として、しっかりと受け止めなければならない。

 もう1つ触れておきたいことは、「高校時代の世界史の教科書をばらばらとめくり、19世紀がどんな時代だったか見ていたところ、19世紀と古代とを結びつける面白いある点に気づきました」(p.200)とあることである。これは「初学者」の「段階性」における学びの目標として、事物間のつながりに着目できる弁証法的な実力をまずは養成する必要がある、ということが説かれているものとして理解した。本論文ではほかにも、アナクシマンドロスとダーウィンとのつながり、ダーウィン・マルクスとシュリーマンとのつながりなども説かれているが、弁証法の実力養成のためには、まずは区別よりも連関を捉えられるような頭づくりが必要だということであろう。そういう意味では、先に引用したシュヴェーグラーの「哲学を経験的な諸科学から区別するものは哲学の素材ではなくて、その形式、方法、認識の仕方である」という言葉も、哲学と経験的な諸科学の区別を説いているのであって、まず区別から説くという展開に即座に反応し、そうではない、まずはつながりをこそ説かなければならない、として、朝霧先生は全ての個別科学の素材を一般化することが哲学だと述べておられるのであろう。

 以上をまとめると、「初学者」が学問への道を歩む際には、まずは弁証法的なアタマを創ることから始め、実際にその道を自分で歩んでいくことで、過去の偉人たちの著作も読めていくようになっていくということが、この論文の中身だといえるのではないだろうか。
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2017年07月30日

一会員による『学城』第15号の感想(11/14)

(11)「初学者」への指導では具体的なイメージが描ける工夫が必要である

 今回取り上げるのは、聖瞳子先生、高遠雅志先生、九條静先生、北條亮先生による医療における理論的実践を問う論文である。ここでは、何故10歳男児が肺炎になってしまったのかの過程が説かれていく。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトル・目次を示しておく。

聖瞳子・高遠雅志
九條静・北條亮
医療における理論的実践とは何か
―初期研修医に症例の見方、考え方の筋道を説く―
〈第7回〉マイコプラズマ肺炎B

 《目 次》
(1)はじめに
(2)「呼吸とは何か」「呼吸器官とは何か」を復習する
(3)呼吸器病とは何か
(4)「呼吸器官とは何か」「呼吸器病とは何か」の一般論から患児の病態を説く
(5)マイコプラズマと人間における相互浸透のあり方の特殊性を説く@
  ―マイコプラズマの一般的な知見
(6)マイコプラズマと人間における相互浸透のあり方の特殊性を説くA
  ―マイコプラズマの特殊性から、その病態の特殊性を説く

 本論文ではまず、10歳男児L君がマイコプラズマ肺炎を発症した症例を検討してきているとして、呼吸とは何か、呼吸器官とは何かが復習する形で説かれ、さらにそれらを踏まえて呼吸器病とは何かが措定される。すなわち呼吸器病とは、生きていることの本質を支える原基形態的代謝過程(呼吸)を行うために、大気を生命現象的に変化させ体内に取り込むことができない、あるいは代謝によって生じた代謝産物を体外に排出することができなくなっている状態であり、完全に呼吸不全に至るまでの過程と捉えることができるというのである。そしてL君について、呼吸器官の正常な生理構造がどのように歪んでいったのかが説かれていく。端的には、気道において不必要な物質を浄化する働きに歪みが生じ、病原体の1つであるマイコプラズマの感染を引き起こしたというのである。その要因は3つあり、1つ目は自らが外界に適用して生きていけるように自らを成長させるという小児期の特殊性であり、2つ目は激しい運動を毎日のように長時間続けることにより、体内に取り込む必要のある酸素が多くなり、異物もろとも取り込む空気が増えたことであり、3つ目は激しい運動の連続で気道内が乾燥し、粘膜が損傷を受けやすい環境にさらされていたにもかかわらず、睡眠不足などによりその修復が十分にできなかったことであると説かれる。さらに1つ目の問題に関わって、なぜマイコプラズマは乳幼児や高齢者に比べて、健康で元気な若年者に羅患者が多いのかが、戦国時代の戦の喩え話で説かれていく。結論としては、免疫反応が過剰に働くことによって、自分で自分の体を傷つけてしまって、その結果、肺炎という状態にまで至ってしまったということである。

 本論文は、「初学者の学びに資する」ということがどういうことか、具体的な形として説かれていることに特徴のある論文である。これがどういうことか、以下に見ていくことにする。

 本論文ではまず、免疫反応について、「強く働けば働くほど良いというものではない」(p.188)と述べられている。「人間と病原体との相互浸透のあり方においては、病原体に対して、その力関係が均衡した状態でいられるように免疫系が働いて、表面的には何事もなかったかのような状態で保たれるということが、正常な生理構造の状態である」(p.190)が、免疫反応が強く働き過ぎると、「免疫系が病原体に対して必要以上に過剰に働き過ぎて、それにより本来の攻撃対象である病原体だけでなく、本来守るべき対象である自分自身の細胞までが傷害される」(同上)ことになってしまうというのである。10歳のL君がマイコプラズマ肺炎になってしまったのは、こうした過剰な免疫反応によるものだと述べられている。

 しかし、一般的にいうならば、人間の免疫系の正常な生理構造が歪むというと、それは「病原体に対して人間の免疫系が弱かったり衰えていたりして、病原体による直接の攻撃を受けることによって、人間の細胞が傷害される」(同上)ということを想定するだろう。つまり、病原体を攻撃し切れるだけの免疫反応がないことによって、病原体の増殖を抑えきれず、結果、その病原体の攻撃により細胞が傷害されるのだと考えるのが普通だということである。だからこそ、「なぜマイコプラズマは乳幼児や高齢者に比較的少なく、健康で元気な若年者に罹患者が多いのか」という疑問も出てくるというのである。

 こうした問題に関して、明確なイメージを描いて生理構造の変化を理解するために、本論文では研修医の指導に関して指導医が説明の工夫を行っているのである。すなわち、研修医が歴史に関わるゲームが好きであることを捉えて、指導医はこの問題を「群雄割拠の戦国時代をモデルにしたゲームに喩えて説明」(p.184-185)していくのである。

 具体的には、まずL君の体をL国として、マイコプラズマのような病原体をL国に対する他国からの侵入者として話が進められていく。マイコプラズマはそれほど強い破壊力はないために、L国が赤ちゃんの時代にちょこちょこといわば嫌がらせレベルの攻撃を仕掛けてきても、L国が未熟な分、追い払おうと戦いを仕掛けることができないのである。だから、気道内で小競り合いが続くだけで、目に見える症状をあまり呈してこないというのである。これはL国が高齢者となった状態でも同様だと説かれる。

 一方で、L国が成長し国力が上がってくると、強固な防御力を誇る壁や石垣などで防御しているし、兵士達も実力のある武器の使い手に成長しているため、マイコプラズマのような敵はとるに足らない敵になっていると説かれる。しかしここで、例えばイナゴの大発生や台風や洪水などの自然災害で飢饉にあったり、流行病でL国の力が弱まったりすると、壁などのメンテナンスもできなくなり、合わせて前線への物資の補給が滞ってしまい、兵士達の警備力も弱まってしまう。そうなると、本来は簡単に侵入できないマイコプラズマがL国に侵入してしまうし、防御力が低下した状態では、前線の兵士達も必要以上に大暴れして、何とかこの事態に対処しようとしてしまうのである。この遮二無二戦ってしまうことが過剰反応の中身だと説かれるのである。

 以上のように本論文では、「初学者」をターゲットにした説き方として、つまり「段階性」を踏まえた説き方として、まずは具体的なイメージが描けるように、喩え話でもって、しかもその学び手たる「初学者」の興味関心に沿った喩え話でもって、対象とする現象のあり方を説明していくことで、「初学者」の理解を生き生きとしたものにしていこうとされているのである。「なぜマイコプラズマは乳幼児や高齢者に比較的少なく、健康で元気な若年者に罹患者が多いのか」という、一見、筋の通らないような現象に対して、そこを「初学者」にも分かりやすいように説明する工夫として、こうした方法が採られているということである。逆からいえば、指導者としては、抽象的な問題を論じるにあたっても、常に「初学者」でも理解可能なように、具体的な問題におりていって説明することが要求されているのであり、そうした認識ののぼりおりの訓練を積んでいく必要があるということでもある。
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2017年07月29日

一会員による『学城』第15号の感想(10/14)

(10)「段階性」の把握は特殊性と一般性との統一として行う必要がある

 今回取り上げるのは、河野由貴先生による病気の一般論を問う論文である。ここでは、病気一般論から看護実践が検討されていく。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトル・目次を示しておく。

河野由貴
看護のための病気一般論を問う
―ナイチンゲールの説く「病気とは回復過程である」に学んで―

 《目 次》
(一)ナイチンゲールの説く病気の一般論との出会い
(二)ナイチンゲールの病気の見方と看護一般論とのつながり
(三)看護実践を事例から説く
(四)看護実践の振り返り@
   ―安心できる療養環境を整える関わり
(五)看護実践の振り返りA
   ―食を整える関わり
(六)看護実践の振り返りB
   ―本人と家族の安らぎを支える関わり

 本論文ではまず、ナイチンゲール『看護覚え書』序章の冒頭に説かれている「病気とは回復過程である」という言葉が紹介され、「癒そうとする自然の努力」がうまく働くように生活過程を整えることが看護として大事だと説かれる。そしてこの病気一般論が強い看護の心を理論的に支えるのだと述べられる。ここから論は看護実践の事例となる。70代男性で認知症の既往がある血液疾患の患者(Aさん)とその娘さんに関する事例である。当初、このAさんは「ここは警察」というような言葉をよく発していたのだが、これは本来は安全で安楽であるべき療養生活の場が、Aさんには強制的に捕らわれ脅かされるような場として受け止められているということであり、「生命力が消耗している」状態であるから、この思いを変化させることが重要な看護だと説かれる。そして看護研修生の献身的な援助によって、こうした発言が消えていったというのである。次に、Aさんが自分で車椅子に乗り、嬉しそうに車椅子をこげるまでに活動できるようになったことが取り上げられる。これは、先の認識の変化を生み出した基盤である、食と活動(リハビリ)、休養の質を整えることができたからだと述べられる。そして、Aさんが車椅子をこいで嬉しそうな表情でその時を過ごせたことが、看護として大きな意味があったと説かれる。最後に、Aさんが亡くなる場面で、娘さんの認識を整えられたことも看護であると説かれる。看護は家族も含めて対象としなければならないのであって、そうした看護によって、患者も安らぎ、その家族もストレス状態に陥ることを免れたのだというのである。

 本論文は、ナイチンゲールの説く病気とは何か、看護とは何か、両者はどのようにつながるのかという問題を踏まえ、「初学者」にも分かりやすい形で事例を通して看護実践が振り返られていくものである。これが看護であるということが、生き生きとした像として描けるように、具体的な看護の場面を取り上げて、それが何故看護といえるのか、看護一般論を媒介として説かれているのである。

 70代男性で認知症の既往がある血液疾患の患者Aさんとその娘さんへの看護実践について、具体的に3つの場面を取り上げて、それぞれがどういう意味で看護といえるのかが説かれている。簡単にいえば、患者の認識を整えるような援助を行いつつ、身体的にも回復過程を辿っていけるように食事の準備や片付けなどを行い、栄養として吸収されやすいような雰囲気を創っていくという患者への看護のみならず、その患者を支える家族の認識をも整えることを通じて、媒介的に患者を支えるとともに、その家族をも看護していくのだということであった。

 こうした看護実践の根底にあるものこそ、「看護とは生命力の消耗を最小限にするよう生活過程を整えることである」という看護一般論であり、その前提としての「病気とは回復過程である」という病気の見方であると説かれているのである。前回取り上げた障害児教育に関する論文でも感じたことであるが、本当に効果的な実践を行いたいのであれば、どのような分野においても、その実践の指針となるような論理、一般論が必要だということを、ここでも改めて感じさせられたことであった。

 さて、では『学城』第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」という問題について、この論文ではどのようなことが説かれているといえるだろうか。

 まずいえることは、学問への道の「初学者」にとっては、いきなり高度の論理的展開を示して、抽象的な像しか描けないような形で学んでいかざるを得ないというような情況を創るのではなくて、事例に即して、具体的にイメージできる形を示していって、しかしその具体的な事例にも貫かれている一般性があるのだ、それこそが対象とする事物の一般論なのだという説き方が必要になってくる、ということである。本論文はまさにこうした展開になっており、看護を専門とする者がどのようなアタマの働かせ方をすべきか、その基本となる事柄について、具体的に展開されているといえるだろう。さらに、他分野の理論的実践家にとっても、一般論から事例を見ていくことがどれほど重要であるかということが分かるという意味で、非常に優れた実践報告となっているともいえると思う。合わせて、学問を志す者にとっても、実践から論理を導き出し、その論理を基に実践していくということがどういうことなのか、具体的に知ることができる論文になっていると思う。

 もう1つ、「段階性」ということを別の角度から考えさせられる論文でもあると思う。この論文は最後の部分で、「病気の段階、病状の程度にかかわらず、看取りの時であっても「生命力の消耗を最小にするように」すべてを整え、対象とその家族の持てる力を引き出す関わりを創り上げることができる、それが、看護のための病気一般論を把持していることの強みである」(p.171)と説かれているのであるが、注目したいことは、初めの「病気の段階、病状の程度にかかわらず」という部分である。これまで取り上げた15号に掲載されていた論文は、どちらかというと、「段階性」の特殊性、つまり大きな流れの中でのその段階の他と区別される性質に焦点を当てて、その特徴を論じていくというものが大半であったと思われるが、ここでは各段階における一般性、つまりどの段階においても必ず貫かれている本質(看護においては、どのような場面においても、病気一般論を踏まえた看護一般論を貫く必要があるということ)を取り上げているといえるのではないかと思うのである。大きくいえば、「段階性」のそれぞれの特殊性とともに、一般性をも、対立物の統一として、両側面から対象を捉えていく必要があるということが、暗に説かれているのではないかということである。

 対象のある段階における特徴を明らかにするためには、その段階の特殊性のみならず全ての段階に貫かれている普遍性をも合わせて捉える必要があるという、弁証法的なアタマの働かせ方が必要になってくる、このことを学ばされた論文であった。
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2017年07月28日

一会員による『学城』第15号の感想(9/14)

(9)原点からの過程性、歴史性を問う必要がある

 今回は北嶋淳先生、志垣司先生による障害時教育とは何かを問う論文を取り上げる。ここでは、脳性麻痺児に対する運動教育のあるべき姿が論じられていく。

 以下、本論文の著者名・タイトル・目次を掲げておく。

北嶋淳
志垣司
人間一般から説く障害児教育とは何か(9)
─障害児教育の科学的な実践方法論を問う─

 《前々回目次》
はじめに
一、肢体不自由特別支援学校の現状と運動障害の理解
 (一)肢体不自由特別支援学校の運動教育の現状と問題点
 (二)機能訓練と教育
二、脳性麻痺児A子の運動の変化過程
 (一)転校してきた時のA子の様子
 (二)転校してきてからのA子の変化

 《前回目次》
はじめに
 (一)前回の要旨
 (二)「心理療法」としての「動作訓練」の持つ限界
一、A子の運動の育ちを障害の二重構造より説く
 (一)人間の育ちにおける一般的な運動性の獲得過程とは何か
   @人間の育ちにおける一般的な運動性の獲得過程の構造とは
   A「運動の発展構造」に分け入って説く、人間の運動性の獲得過程
 (二)障害を受けて育つ運動の獲得過程の歪みとは何か

 《今回目次》
はじめに
一、科学的実践方法論に基づいた脳性麻痺児への運動教育とは
 (一)A子の運動の成長をもたらした教育の視点とは何か
 (二)障害児教育一般からA子の成長を説く
   @系統発生を機能的に繰り返させる働きかけ
   Aスローモーションでの働きかけ
   B脳の実体とその機能である認識を育てる働きかけ
 (三)母親と共に
 (四)自立活動より説くA子への教育
おわりに

 本論文ではまず、今回は脳性麻痺児A子への運動指導の実践を示し、その論理的な意味を明らかにしていくことが述べられる。初めに、A子は脳に重い障害を負っているため、本来生まれてから小学五年生になるまでの間に培ってこなければならなかったことを少しずつ段階を追って身につけさせていく指導が必要だと説かれ、人間としての運動形態の基本を身につけさせるべく、呼吸がしっかりとできるような働きかけ、手足の動かし方についての働きかけ、しっかりした背骨をつくっていく指導を行ったというのである。さらに1つ1つの動作をゆっくり行わせていったと説かれる。それは、神経を通しての手足の動かし方がしっかりとしたものになるためであると述べられる。こうした働きかけの結果、余計な筋緊張がなくなり、歪んだ運動が正されていったのみならず、認識の面にも積極的な変化が見られるようになってきたと述べられる。それは今まで経験したことのない新たな刺激として五感覚器官を働かせ、そこから神経を介して脳の実体の実力がつくられ、それに伴って像を描くという脳の働きも向上していったからだと説かれる。そして、障害児は系統発生を機械的に繰り返していく運動も食事を摂ることも自分自身で行うことが難しいため、家庭との協同がどうしても必要になること、「自立活動」が適切なものになれるためには、「教育とは何か」の一般論を把持して、それを貫く教育を行っていく必要があること、人間として全的に育てること、すなわち、体、心、社会関係を一体として当該学年のレベルに育て上げることが必要であることが説かれるのである。

 本論文に関しても、『学城』第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」について考察していきたい。

 前回、菅野先生の論文を扱った際に、「過去から現在にまで生じてきた様々な出来事というのは、どんなものでも、必ずその前の段階までの物事に積み重ねる形で新たなものとして生じてくる」こと、つまり「前の段階をしっかりと経ることなしには、次の新たな段階には進めない、途中を飛ばすことは決してできないのだ」ということについて見ていった。今回の北嶋・志垣両先生の論文でも、このことの具体的な例が示されているといえるだろう。それは、脳性麻痺児であるA子には、「本来生まれてから小学五年生になるまでの間に培ってこなければならなかったことを、少しずつ段階を追って身につけさせていく指導が必要になってくる」(p.144)と説かれていることである。つまり、脳性麻痺児が偏った運動しかできず、余計な筋緊張を起こしてしまう原因は、本来あるべき人間としての運動形態を創っていく過程が欠けていたからである、もっといえば、その欠けていた過程を原点から辿り返していく指導を行っていくことによって、そうした歪みは解消され、本来のあるべき人間としての運動形態に近づけていくことが可能である、ということである。

 それでは具体的にどのようなことを行わせていく必要があるのか。この問題に関して両先生は、「「生命の歴史」をふまえながら、系統発生を機能的に繰り返していく過程を、最初の段階からしっかりと持たせていくこと」(p.145)だと述べておられる。より具体的には、まずは「「単細胞段階」の運動形態」(p.146)を身につけされる必要がある、それは「この全身的運動が原点となって、土台となって、赤ん坊は次なる段階へと成長していくことが可能となる」(同上)からだと説かれるのである。そして、脳性麻痺児の場合は、全力で泣くことで可能となる呼吸もまともにできない状態であるから、腹式呼吸を誘導するような働きかけを行い、合わせて手足のいわば「単細胞段階」の運動として、手足に柔らかく触れて、手を開いたり閉じたりつかんだりできるようにしてやることなどを実践していったということである。

 さらには、「カイメン段階の運動」(p.147)として、仰向けの状態で手足を自由に動かしていくことや、「哺乳類からサルそしてヒトへと発展していく過程」(pp.152-153)を辿らせるべく、今まで行ったことがない手足の動きを体験させていくなどした結果、「A子は人間として成長し始めることができていった」(p.154)というのである。

 こうした実践をまとめて、「おわりに」においては、「原点からの過程性、歴史性を問う」(p.159)ことが重要だとしておられる。つまり、「生命の歴史」における原点たる「単細胞段階」から、順次、生成発展の論理構造を見てとり、その系統発生におけるあり方を個体発生としても機能的に繰り返すことによって、まともな障害児教育が可能となるというわけである。まさに、「生命の歴史」における「段階性」を踏まえた教育とはどのようなものか、その成果がどのような素晴らしい結果になるのか、実践によって確かめられた論理が示されている論文だといえるだろう。

 さて、本論文に関してもう1つ触れておきたいことは、「子供の運動能力というものは、運動したいという意志と共に育てていかなければ、まともには育ち得ない」(p.154)と説かれていることである。端的にいえば、人間は認識的実在であるから、運動能力という実体に関わる問題を扱う際にも、常に認識ということを念頭に置いていなければならないということであろう。本論文では具体的に、脳性麻痺児の運動能力を向上させていくためには、単なる機能訓練で、泣こうが喚こうが強制的に運動する「機能」を「訓練」していくというだけではダメであって、「自分もやってみたい」という強烈な意識を育てつつ、身体的な機能を創っていく必要があることが説かれている。このように、人間について考える場合にはつねに、身体と精神とを統一して考えていく必要があることを改めて確認させられたことであった。
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2017年07月27日

一会員による『学城』第15号の感想(8/14)

(8)前の「段階」をしっかりと踏まえて次の「段階」へと進んでいくことの重要性

 今回取り上げるのは、菅野幸子先生による講演録である。頭脳活動を発展させるために大事なことは何かが展開されている。

 本論文の著者名・タイトル・目次は以下の通りである。

菅野幸子
〔講演録〕生命の歴史から見た人間の頭脳の成り立ち
─子供達のより良い頭脳活動を育むために

 《目 次》
はじめに―すべての物事を歴史性あるものとして見ていくことの大事性
一 脳科学研究の現状と問題点
二 人間とはどのような存在なのか
三 人間とはどのような存在かを、生命の歴史を遡って考える
 (1)人間の脳は認識を形成する
 (2)生命の歴史に見る脳の誕生と進化
 (3)動物の脳が描く像とは
 (4)動物の脳と人間の頭脳の違い
 (5)外界の変化と動物の脳の発達
 (6)人間の脳の形成を胎児期から見ていくと
   ―個体発生は系統発生を繰り返す
四 頭脳の働きをより良くしていくには
 (1)子供の身体の発育と頭脳の発達のさせ方
 (2)頭脳の働きは感覚器官の実力によって規定される
 (3)外界との関わりが少ないと認識を形成する力も見事には育たない
五 頭脳の活性化に必要な食事とは
 (1)バランス良く食べることが大事と言われることの意味
 (2)サルはどのような生活をすることでヒトになれたのか?
 (3)食生活と子どもの頭脳の発達との関係
おわりに

 本論文ではまず、教育の要となる人間の頭脳について話すことが述べられる。そしてその前提として、歴史の学びにおいて、最初の段階でいわば核となるものが形成され、その本質は消滅することなく物事が発展していくこと、過去から現在までに生じてきた出来事は、必ずその前の段階までの物事に積み重ねる形で新たなものとして生じてくることに気づいたと説かれる。個人の頭脳についても、この観点が必要だというのである。では、脳科学の現状と問題点はどうかというと、脳の目に見える物理的変化のみにしか着目できない脳科学では、人間の心を解明することはできないと述べられる。人間の心を解明するためには、人間は社会的に育てられることで人間となる存在であることを踏まえて、どのように育ってきたがゆえにこうなったのか、どう働きかけていけばよいのかを問いかける視点が大切だとされる。そこでまずは、人間が認識的実在であることを確認し、その認識を形成する脳とは何かが「生命の歴史」を遡ることで解明される。端的には、魚類段階で誕生した脳は、地球の変化に対応して二重構造化した運動器官と代謝器官とを総括するために形成された統括器官であるというのである。さらに、動物が本能に従って外界からの反映像のみを描くのに対して、人間は外界を自分なりに反映させてその像を作り変えていくことができると述べられる。そしてそれは、人間の脳にそれまでの歴史が詰まっているからだと説かれる。以上を踏まえて、人間の脳がハイハイによってできないことを頑張ろうとする力を培うこと、頭脳の働きは運動によって規定されるから、感覚器官を働かせることで頭脳に描かれる像も生き生きとしてくるということが説かれる。最後に、頭脳の発達にとっての食事の大事性が「生命の歴史」を踏まえて説かれていくのである。

 本論文に関してまず検討したいのが、『学城』第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」という問題についてである。菅野先生は、人類社会の歴史、自然科学の歴史、哲学の歴史、生命の歴史、地球の歴史、宇宙の歴史などの学びを通じて、高校までに習った「多くの出来事の羅列」(p.112)とは全くレベルが異なった、様々な物事の奥に潜む、直接目には見えない内部の繋がりが見えてきたとして、その中身を2つ説いておられる。1つ目が、最初の段階でいわば核となるもの(原基形態)が形成されて、それが形を変えてもその本質は決して消失することなく連綿と貫かれながら物事は発展していくことを説かれた後、以下のように述べられる。

「そしてもう1つは、過去から現在にまで生じてきた様々な出来事というのは、どんなものでも、必ずその前の段階までの物事に積み重ねる形で新たなものとして生じてくる、ということ、つまり前の段階をしっかりと経ることなしには、次の新たな段階には進めない、途中を飛ばすことは決してできないのだ、ということです。」(同上)

 つまり、諸々の物事の歴史においては、必ずその段階に至るまでの必然的な積み重ねがあるのであって、いきなり新たな段階に進むのでは決してない、ということである。そしてこのことに関して、生命の歴史(単細胞→カイメン体→クラゲ体→…)や社会の歴史(原始時代→古代社会→…)、人類の個人としての歴史(いわゆる“飛び級”はできないし、やってもまともに発展できない!)でその具体的な説明をされていくのである。

 また、魚類以降の動物の脳の発展の順序についても、以下のように説いておられる。

「まず大事なことは、魚類→両生類→哺乳類→ヒトへと、各段階の生命体の脳を見ていく時に、これらは決して別々のものではなくて、それらにはある1つの連綿と繋がったプロセスがある、つまり必ず前の段階を踏んで次の段階へと進化しているということです。哺乳類の脳になるには、両生類の脳を飛ばしては絶対になれなかったのであり、両生類の脳は魚類の脳の段階を踏まなければならなかったのです。同様に、ヒトの脳になるにも、途中を飛ばしてはダメで、魚類、両生類、哺乳類の脳の段階を踏まないと、その先のサルの脳へ、さらにヒトの脳へと発展できなかったのです。」(p.125)

 このように、生命の歴史の各段階で培った実力をもって次の段階へと発展していくという必然性が強調されているわけであるが、このことは何ももう過ぎ去ってしまった過去の出来事として済ましてしまってよい問題ではないことも説かれていく。すなわち、「人間の赤ん坊は、体内では単細胞段階から人間にまで至った系統発生を、論理的実体的に繰り返して誕生してくるのですが、誕生後はその系統発生を、論理的機能的に繰り返させる育て方をすることによって、ようやく人間としての基本的な運動形態が、可能となる」(pp.130-131)ということが、P江千史先生の論文で紹介され、その中身がハイハイの重要性として説かれるのである。要するに、人間はすでに人間にまで進化してしまったとはいえ、個体発生においても生命の歴史の流れで養ってきた実力を、実体的機能的に論理として辿り返していく必要があるということである。

 こうした論理構造は、当然、学問を創出しようとしている我々にとっても導きの糸となる。すなわち、古代ギリシャで誕生した学問を辿り返す、つまり弁証(の方)法の実力をまずはしっかりと創っていく必要があるのであって、その上で、エンゲルスなり三浦つとむなりの(科学的)弁証法(の法則)を学ぶ必要があるということである。さらにいえば、個別科学の発展史を学び、そこにどのような発展の必然性があったのかを明らかにすることも重要になってくるだろう。

 さて、最後にもう1つ触れておきたいことは、筆者の専門分野である言語に関わってである。菅野先生は、一歳頃から次第に言葉らしきものが話せるようになってくることについて、「生後、不快の時は単に泣くだけでしかなかった状態から、言葉を話して何かを訴えられるようになるということは、それだけ頭脳の中に豊かに認識即ち像を描けるようになってきたことの現われです」(p.129)と述べておられる。このことは、個体発生について述べられているものであるが、人間の系統発生においても、言葉すなわち言語がどのようにして創出されてきたのかを考える際にヒントになるように思われる。つまり、言語を必要とするほどにまで人間の認識が豊かな像を描けるようになったからこそ、言語が創出されたのであって、サルからヒトへ、人間へと発展していく流れの中で、像の発展が言語創出の契機になったのだということである。このあたりは今後、もう少し突っ込んで検討していきたと思う。
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2017年07月26日

一会員による『学城』第15号の感想(7/14)

(7)小学一年生の「段階」における特殊性とは何か

 今回は、佐藤聡志先生による教育実践に関する論文を取り上げる。小学一年生の特殊性が認識論を基に説かれていく論文である。

 以下に、本論文の著者名・タイトル・目次を提示する。

佐藤聡志
教育実践の指針を求めて
―小学一年生における教育の重要性―

 《目 次》
はじめに
一 教育実践において指針となるものを求めて
 @教育基本法や教育関係の書物に記されていたこととは
 A大学時代の空手の学びから「人間は創られる」ことを実感する
 B「人間とは何か」「教育とは何か」から教育実践を捉えていく
二 「教育とは何か」から小学一年生の教育の重要性を説く
三 小学一年生の特殊性(1)
  ―分からないということが不安な一年生
 @授業中、分からなくて泣きだした一年生
 A「子どもたちが分かる」ためには、まず何が大切なのか
四 小学一年生の特殊性(2)
  ―何でもやりたがる一年生
 @チャレンジする一年生たち
 A入学式の日に「ヤダー」と叫んだ一年生(O子)
 BO子が育てられてきた過程を見る
 C「ヤダー」から「ヤッター」への表現の変化

 本論文では最初に、佐藤先生が大学を卒業して初めて小学校の教壇に立った頃の悪戦苦闘の日々を振り返りつつ、教師が拠り所とすべきものなどの教師人生で掴んだことを説くことで、若い先生などのヒントになればと思っての執筆であることが説かれる。まず、教育について拠り所となるものとして、「教育基本法」や「学校教育法」、さらには教育関係の本も参照したが、それらは教育実践において何ら具体的な問題の指針にはならなかったと述べられる。しかし、大学時代に学んだ空手の練習で「人間は創られる存在である」という人間の捉え方を学んだことを思い返してみると、これは日々の教育活動での教え方のヒントになるのでは、何事もチャレンジし続け、繰り返し行うことが上達への鍵を握るのではと思えてきたということである。そして、「人間とは何か」を基盤にした「教育とは何か」を教育実践の指針にしていくことで、様々なことが見えてきたというのである。特に小学一年生に対する教育は、それぞれの家庭で様々な育ち方をしてきた子どもたちが小学校で皆でどのように学んでいくのかという「取り組む姿勢」をしっかりと教育する必要があること、またそれ以後の学習内容の土台となることという2点で、非常に重要だと説かれる。そこで小学一年生の特殊性が説かれていく。その1つは、小学一年生は「分からない」ということが耐え難いほどの不安になるということであり、この問題を解決するためには、子どもたちを同じスタートラインに並ばせ、子どもたちが「学ぶことは楽しい、勉強が分かりたい」という気持ちを持てるように教師が働きかける必要があると説かれる。小学一年生のもう1つの特殊性は、低学年ほどに何でもやりたがるということであり、ここでのポイントは、やりたいという気持ちが行動を起こさせ、行動することによって様々な学びを深めていくことができるのであるから、担任としてできるだけ多くの子どもたちに機会を与えてやり、前向きの認識を創っていくことだと述べられる。

 本論文は、実践を積んできた先生らしい、分かりやすく生き生きとした表現で論が展開されていて、「初学者の学びに資するもの」として非常に優れた実践記録を含む論文だとまずは感じた。今回は、小学校、中学校、高校、大学という学びの過程における「段階的な教育制度」(p.98)の中で、特に重要だとされる小学一年生に対する教育内容を具体的に見ていきたい。

 佐藤先生はまず、「一年生の認識の発展段階の特殊性」として、「その1つは、小学一年生は「分からない」ということが耐え難いほどの不安になるということであり、もう1つは低学年ほどに(可能性を信じてか?)「何でもやりたがる」ということです」(p.99)と説いておられる。そして前者については、算数の問題を各自に解かせていたとき、突然泣いている子供がいたというのである。その理由を聞くと、「どうやってよいのか分からない」ということであった。そうしてこうした経験は、一年生を担任するたびに何回かあったというのである。さらに二年生ではわからないという理由で泣くことはほとんどないと述べられた後、このことについて佐藤先生は次のように説いておられる。

「それはどうしてなのかと考えると、子どもたちはいつの間にか分からないことに慣れ、分からないことに不安を覚えなくなり、主体的に学ぼうという意欲がなくなってきているように思えます。あるいは、その不安に慣れ、逆から言えば耐えられる精神力がついてきていると言えるのかもしれません。」(p.100)

 ここには、「人間は創られる存在である」(p.97)という人間一般論が反映しているように思われる。すなわち、「分からない」という不安心も、その量が積み重なっていくにつれて、段々となくなってくる、つまり不安心に安心してしまうような認識が創られていってしまう、だからこそ、「分からない」ということが耐え難いほどの不安になるということは小学一年生の(つまりは文化遺産の知識的習得を開始した当初の)特殊性だということであろう。

 ではこの問題はどのように解決すればいいのか。佐藤先生はまず、「「分からない」ことが「分かる」ようになる喜びへと導いていくことが、一年生を担任し教えていくことの醍醐味ではないか」(p.100)として、この問題を積極的に捉えた上で、教師が子どもに「観念的に二重化する」(p.102)ことによって、分からないことの不安を取り除き、「学ぶことが楽しい、勉強が分かりたい」(同上)と子どもが思えるように教師が働きかけていく必要があると説かれているのである。

 さて、小学一年生のもう1つの特殊性についても見ていこう。一般的に小学一年生は、何でもやりたがり、張り切って入学してくるのであるが、入学式の後の教室で、いきなり「ヤダー」と叫ぶように反応した女の子(O子)がいたというのである(O子は「ヤダー」とか「知らない」という言葉をよく発する子どもであった)。ここでも佐藤先生は、「人間は創られる存在である」という人間一般論を踏まえて、O子が育ってきた過程を見ていくことにされるのである。端的には、O子が通っていた幼稚園は、就学前から詰め込み教育をするような幼稚園であり、そのためにO子は「また間違っていたらどうしよう、途中でつかえたら恥ずかしい」(p.106)という思いを抱いてきていて、何かについけてやりたくないという思いが強くなってきたのではないか、そこから「ヤダー」という表現になっているのではないか、ということであった。

 このまま放っておいたら、クラス全体に「ヤダー」という雰囲気が広がり、学習が進めにくくなるし、失敗しても再度チャレンジするということもなくなっていってしまうのではないかという疑念があったため、ここで佐藤先生は子どもたちに次のように説かれるのである。

「みんなは勉強がんばりたいんだよね。…でも「ヤダー」と言ってしまうのは、みんなの中で間違ってしまったらどうしようとか、途中でつかえたら恥ずかしいなとか、そういうことを思っていると心臓がドッキンドッキンしてきて苦しくなってきて「ヤダー」と言ってしまうのではないのかな。

 間違っていいんだよ。まだみんなは教えてもらっていないことを自分で一生懸命考えて言おうとしているのですから。失敗は成功のもとだよ。どんどん失敗していいんだよ。自分の考えを言えるって素敵なことですよ。…

 それから、わざわざ「知らない!」と大声を出さなくても大丈夫。「知らない」と気がついたのですから、今から勉強していけばよいのです。学校は知らないことを勉強するところなのですから。…」(pp.106-107)

 ここで佐藤先生は、見事に子どもたちに観念的に二重化して、まず「ヤダー」といってしまう子どもたちの思いを受け止め、その上で、「失敗」はダメなことではなくてどんどんしてもいいこと、「知らない」ということを叫ばなくてもいいことを、子どもたちに伝わるやさしい言葉で話しておられる。子どもに観念的に二重化するとはどういうことかが非常に分かりやすい形で具体的に示されているのである。

 こうした教育の結果、O子はいつもより多めの宿題を出した際に、「ヤダー」ではなくて「ヤッター」と叫んだということである。教育を通して子どもたちを変化させていくことの喜びが溢れているような論文であった。
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2017年07月25日

一会員による『学城』第15号の感想(6/14)

(6)哲学への道の初心の「段階」で必要なものは何か

 今回は西林文子先生による『哲学以前』を問う論文を取り上げる。ここでは、哲学への道が『哲学以前』の学びを通じて考察されていく。

 以下、本論文の著者名・タイトル・目次を掲げておく。

西林文子
出隆『哲学以前』を問う(1)
─哲学への道とは何かを知るために

 《目次》
(1)なぜ今、出隆『哲学以前』なのか
(2)『哲学以前』の冒頭に説かれていることは
(3)『哲学以前』の言葉の背後にある出隆の思惟を問う
(4)出隆は『哲学以前』でいかなる思いを把持しながら何を説こうとしたのか

 本論文ではまず、『哲学以前』を取り上げる理由が述べられる。すなわち、大学に入学して最初に出会った哲学書であったこと、第二の人生として医師を志すに際して、哲学への道を歩くとは何かを知りたくなったことが挙げられる。そして、『哲学以前』の冒頭部分に関して、30年前の大学入学当時はサッパリ分からず、人生に関する迷いや心情といった文学的レベルでしか理解できなかったと説かれるのである。しかしながら、現在、『哲学以前』がサッパリ分からないままではどうしようもないとして、第一論文「真理思慕」全体を何度も読んでいくうちに、出隆が「哲学とは何か」を分かろうとして、歴史上の著名な哲学書を学んでいった際の苦労や迷いや淋しさが表現されていることが何となく分かってきたというのである。そのことを踏まえて、『哲学以前』の冒頭部分が解説されていく。「哲学とは何か」を考えようとして、諸々の哲学書を読み漁ったものの、どれが本当であるか迷ってしまって、結局、哲学に異説が多いのは歴史的条件の如何が影響するためと出隆は考えてしまったこと、一歩も身動きできないというのはこれほど勉強したのに何も分からないという「自問の責苦」ではないかということ、ようやく辿り着いた古代ギリシャの哲学を研鑽していくうちに、「初め」とは知識欲や真理欲といった人間の認識の面ではないかと思い至ったことなどが説かれていく。そして最後に、出隆が歴史に残るような哲学者が何を知ろうとしていたのかを問わずに、何かを知ろうとする人間の認識の面ばかりに問いかけていたのは、それまでにどのような哲学の学びをしてきたからなのかを探るために、次回は出隆の哲学の研鑽過程を追っていくとされるのである。

 本論文では、哲学への道の「段階性」が、西林先生自身と出隆の人生を重ねる形で、しかもしっかりと区別しつつ説かれていると感じた。これがどういうことか、以下に説いていきたい。

 まず西林先生は、日本弁証法論理学研究会に入会して数年後、南郷継正先生から「初学者の学びの大事なこととして(哲学の初歩の学びのためにとして)「アリストテレスからカント・ヘーゲルへの道」を自分なりに筋を通した小論として書くことを命じられた」(p.76)と説かれている。これはつまり、哲学の「初学者」はまず、哲学史の大きな流れを「アリストテレスからカント・ヘーゲルへ」と辿っていくことでアバウトにでも掴みとらなければならないということであろう。しかもそれは、「哲学の歴史を知識の習得レベルで」(同上)執筆していくというのではなくて、「哲学の歴史の構造をアリストテレスの学(現象論的一般論)からカントの学(構造論的一般論)・ヘーゲルの学(過程的一般の構造論)という学問の発展の構造として」(p.84)説かなければならないというのである。ここに関しては、出隆も「哲学の歴史も原著も含めてかなり勉強していた」(p.87)と説かれているように、それなりの過程を辿っていたものと思われる。しかし出隆の場合は、「哲学には異説が多い」(p.86)のは「歴史的条件の如何」(同上)が影響するからだとして、「歴史上に残っているような学説の違いを発展の歴史として捉えようとしていない」(同上)と批判されている。つまり、西林先生も出隆も共に哲学の歴史を学んでいったことは共通しているものの、そこにどのような論理を見出すかという問題については、西林先生が南郷先生の講義に導かれて発展の論理構造として哲学の歴史を学んでいかれたのに対して、出隆の場合には、そうした「導きの糸」(p.84)がなかったこともあって、諸々の哲学説の違いを歴史的条件の違いに解消してしまったのだということである。

 さて、出隆が「哲学とは何か」を分かろうとして、歴史上の著名な哲学書を学んでいった中で、様々な苦労や迷いや淋しさがあったと『哲学以前』の冒頭に説かれていることについて、西林先生は、自らの「アリストテレスからカント・ヘーゲルへの道」と題した小論を執筆していった際の思いと大きく重なるものがあると説かれている。しかしここからの発展過程が異なるのである。出隆は「何が初めであるか」と自問し、その「初め」が「知識欲」や「真理欲」であると見出した、つまり出隆は「何かを知ろうとする人間の認識の面ばかりに問いかけていた」(p.90)のに対して、西林先生は「歴史に残るような哲学者が何を知ろうとしていたのか」(同上)を問い、「世界全体を知ろうとしたから」(同上)こそ、そうした存在になれたのだということを学び取っていかれたのである。この違いの意味を考えてみると、出隆は現実の世界とは無関係に、哲学者自身の認識の側面にだけ焦点を当てて哲学史を把握してしまったのであるが、西林先生は認識を対象の反映として、科学的認識論の立場で、哲学が現実世界の問題を解決するためにこそ生成発展していったのだという流れを把握しようとしておられるのだということになると思う。つまり、出隆が哲学を哲学自体で解決しようという観念論的な把握に陥ってしまったのに対して、西林先生はあくまでも現実の反映たる認識の発展形態としての哲学を見ていくという唯物論的な把握をしておられるということである。

 我々京都弁証法認識論研究会も、「世界全体を知」るために、そしてその実力でもって現実世界の諸々の問題を解決していける能力を養っていくために、「哲学者が何を知ろうとしていたのか」を哲学史に問い続けていくという研鑽を行っていく必要がある。そして、それぞれの哲学説の違いは、単に歴史的条件の違いだという理解に留まることなく、先人の何をどのように発展させていったがために、「違い」として現象してきたのかの過程的構造を把握できるように学んでいく必要がある。毎月の例会において、シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『歴史哲学』『哲学史』、カント『純粋理性批判』などを共に学んできているのであるが、「哲学への道」の「段階性」をしっかりと念頭に置きつつ、ここで指摘されている内容を踏まえながら、大きな発展の流れを見失うことなく学んでいく必要があると感じた次第である。
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2017年07月24日

一会員による『学城』第15号の感想(5/14)

(5)やる気を起こすためにはまず強烈な憧れを抱く必要がある

 今回は北條翔鷹先生の実戦部隊飛翔隊の修業過程に関わっての論文を取り上げる。今回は、前号の続きではなく、読者の参考になるようにと、北條先生から師 南郷継正先生への手紙(ではあるが直接に論文である)が掲載される。

 本論文の著者名・タイトルは以下である。なお、本論文については『学城』誌上に目次はなく、本文に項番も振られていない。

北條翔鷹
実戦部隊飛翔隊修業の総括小論(5)

 本論文ではまず、南郷先生が会議の中で説かれた内容が紹介される。端的には、大会ではどう対戦させたら互いが自分の実力を発揮できるかで対戦をさせるべきであること、少年少女の大会も、そこに見事な武道空手としての精神を花咲かせるべきものとして実践すべきであることが説かれたのである。この講義を受けて北條先生は、先導するものが自分で実践することで、少年少女に対して、本来の人間的生き様としての人間の人間たる所以をまともに見せ続けていくことが重要だと述べられる。つまり、一般会員は、目の前でこの流派の見事さ、凄さを見せてやらねばどうにも信じないのであり、逆に現実の見事さや凄さを分からせてやった分だけおおいなる希望を持ち頑張るのだ、というのである。こうしたことができていなかったという反省を踏まえて北條先生は、大会が全体として発展し続けることができなければ、それは現状維持どころかレベルダウンへの道であること、そうなれば大会を開催すること自体が目的となり、武道空手の実力は問わないという無惨な状況になってしまうことを述べられる。そして、茶帯の尺止め組手をなくしてしまったことは、自身の危機管理能力の杜撰さ以外の何ものでもなかったと反省される。なぜなら、尺止め組手の練習を積んだ茶帯の攻撃技が躊躇なく鋭いものになってとなってきていたのにもかかわらず、あまりに安易に尺止めでなくても大丈夫と判断してしまったために、脳震盪によって救急車で病院に運ばれたり、骨折の可能性を指摘されたりする者が出てきてしまったからだと説かれるのである。

 本論文についても、『学城』15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」について考えていきたい。

 本論文の中で紹介されている南郷先生の講義の中に、少年少女の大会であるジュニア大会について、「東京オリンピックを見据えて組手をやらねばわが流派の支部はつぶれてしまいかねない」(p.64)という記述がある。ここだけを読めば、「なるほど、日本で開催される東京オリンピックでは、空手も競技種目に数えられることとなったので、そこに選手を輩出できるような取り組みが必要だということだな」などと早とちりしてしまいかねない。実際に南郷先生が説こうとしておられることは全く反対の事である。すなわち、武道空手の世界はオリンピックに代表されるような、金食い虫的なスポーツの世界とは全く違うのであるが、空手の世界がオリンピックの世界へということになれば、しかもそれが日本で開催されるとなれば、我々もお金を貯めてオリンピックを目指そうとの、「いわゆる風評被害(?)」(p.65)が出ないとも限らない、だから「我々は武道空手の世界でまともに生きていくのが本分であり、本心である、との思想性を明確に打ち出して、オリンピックのような“お金”の世界とは無縁的な生き様を志すべきである」(同上)、というのである。「人間性を育てるような実質を把持できる「ジュニア大会」」(同上)という言葉も使われている。つまり、東京オリンピックのおかげ(せい)であらぬ方向に向かってしまわぬように、本来の武道空手をしっかりと指導していく必要があるということである。

 ではそのためには何が必要だというのか。南郷先生は「単なる試合」「単なる闘い」(p.66)ではダメだと述べておられる。つまり、試合に出られるようになるために空手をするという低度ではダメだということである。この南郷先生の講義を受けて北條先生は、「先導する者が何もやらないで号令をかけるだけ」(同上)では誰も頑張らないこと、「本来の人間的な生き様としての、人間の人間たる所以は「何」なのか、をまともに見せ続けていくこと」(同上)が必要だということを説いていかれる。さらに30数年前、本部の修行者同士の一戦で、前蹴一撃で対戦者を2〜3メートルすっ飛ばした《一撃必倒》を目の当たりにしたことで、会員は躍起になって取り組みだしたことを踏まえて、次のように説かれていく。

「このような現実的状況を我々指導者が実際にやって見せなければ会員は本物としてのやる気を出しようがない、ということです。これらの現実は、この後の我々飛翔隊の実践を目の当たりにしたり、対外的闘いでの成果があったことでも同じだったことであり、我々が現実として実践して見せたことは会員すべての喜びとなり、自分という野望を持たせることができるようになる、しかし、見せなければ決してできない、の一貫性は決して崩れることはありませんでした。」(同上)

 つまり、流派の見事さや凄さを指導者自身が体現することによって会員に示すことができなければ、会員はやる気を出して取り組むことはなく、大きくいえばそれが組織の崩壊へとつながってしまいかねないということである。ここで説かれていることは、組織を発展させていくためには、何よりもまず会員に本物のやる気を起こさせる必要があるが、そのためには、自分もこんなふうになりたいと強烈に思わせるだけの人間の可能性を実際に示してやるという「段階性」が必要になってくる、ということである。「本物としてのやる気」を出させるような強烈な憧れを媒介する「現実」を見せることがまずは必要だということである。

 さて、本論文についてはもう1つ取り上げたいことがある。それは「尺止め」の効果についてである。先に結論をいえば、「「必殺できる実力」を創出するために、「必殺しない(=当てない)形式で修練する」」(p.72)ことにこそ、「尺止め」練習の効用があるということである。これはどういうことかというと、「「尺止め組手」ないし「尺止めでの突込」を修練させ、突蹴を対手に当てない形で技の威力を爆発させることを意図的に訓練」(p.71)することによって、「技を対手に当てることによって躊躇することを覚えさせ」(同上)ることなく、技を鋭いものにすることができる、ということである。つまり、技を対手に当てる形で練習すれば、どうしても心が躊躇することを学習してしまって、技を全力で駆使することができがたくなってしまうために、「尺止め」で練習することによって、爆発的な威力を持つ技を創って、本番で使える技としたということである。相手を倒すために相手を倒さない(技を当てない)形で修練するという、「否定の否定」の実践的なあり方をここでは学ぶべきであろう。合わせて、このような「段階性」を踏むことが上達に繋がるのだということも確認しておきたい。
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2017年07月23日

一会員による『学城』第15号の感想(4/14)

(4)「生命の歴史」の「段階性」に応じた鍛錬とはどのようなものか

 今回取り上げるのは、浅野昌充先生の空手指導に関する論文である。「生命の歴史」を辿り返すことによる人間体の創出とはどのようなものかが展開されていく。

 以下、本論文の著者名・タイトル・目次を掲載する。

浅野昌充
桜花武道局への指導に見る
生命の歴史の学的論理(T)

 《目 次》
一、桜花武道局の十数年にわたる鍛錬は「生命の歴史」の実証的実験であった
二、人間体と武道空手体との構造の二重性
三、「生命の歴史」適応の第二期たる桜花武道局の鍛錬
四、人間体が武道空手体として「立つ」ことの構造

 本論文は、まず、女性武道家の育成を本格化させた桜花武道局の十数年にわたる鍛錬は、「生命の歴史」の改めての壮大な実証的実験としてなされていったことが説かれ、現在はサルからヒトへと進化していった「二本足で立つ」ところまで来ているとされる。すなわち、人間が二本足で立つことは「踵」を動物的にではなくヒト的に使うことであり、俊敏に動き回りうる縦横無尽さと武技の強烈な発動を支える強靭さとの二重性を養成する必要があると説かれる。しかし、ここで注意が必要なことは、武道空手を武道空手に重点を置いて鍛錬すべきではないということだと説かれる。すなわち、人間としての最も高度な身体運動を頭脳活動の総括下に行いうる身体と精神とを合わせるべく創出(人間体の創出)しながら、そこの武道空手を見事になしうる身体と精神とを相対的かつ特殊的に創出(武道空手体の創出)していく二重的過程が必要だというのである。では、それはどうすればいいのかといえば、人間が「生命の歴史」の全過程を背負った生命体であるがゆえに、その単細胞から進化してくる過程を見事なレベルで段階的に辿ることが必要だとされ、これは遺伝子の重層構造の創出過程としても捉えられるというのである。そして、具体的な鍛錬が紹介された後、「立つ」ことについて論じられていく。すなわち、サルからヒトへの過程において、二本の足で立つための足の掌底の「踵」化が重要な契機になったと説かれるのである。

 本論文についても、『学城』第15号全体と貫くテーマとして設定した「段階性」ということに着目していきたい。まず注目すべきは、オリンピック選手に関して、そのアスリートたちの身体の生理構造に加えて、姿形の構造すらが特化的に創られてきていて、そのことが競技体の足を引っ張ってしまっている、つまり実力向上の足かせになってしまっているということが説かれた後、次のように説かれていることである。

「すなわち、武道空手も武道空手に重点を置いての鍛錬をなすべきものではない。端的に私見レベルでは、まずは、武道空手に集中をなすことのできる人間体をまずは何をさておいても創出し続けながら、その上にこそ武道空手体、武道空手を見事になしうる人間体を創出していかなければならないということになるであろう。すなわち人間として最も高度な身体運動を頭脳活動の統括下に行いうる身体と精神とを合わせるべく創出しながら、そこに武道空手を見事になしうる身体と精神とを相対的かつ特殊的に創出していく二重的過程がどうしても必要なのだということにある。」(p.53)

 上記のオリンピック選手について説かれた内容を踏まえてこの部分で説かんとされていることが何なのかを考えてみると、それはどのような運動体(ある運動なり競技を行うための身体)を創っていくにしても、まずはその土台となる人間体(一般的な身体)の実力を向上させていく必要がある、そうでなければその運動体によって人間は歪んで育ってしまうということであろう。さらに、その運動体による歪みのせいで、その運動なり競技自体の実力も頭打ちになってしまうということであろう。つまりここでは、特に武道空手について、人間体と武道空手体との二重性が指摘され、さらにその育成の順序、つまり「段階性」がどうあるべきかが説かれているということである。

 それでは、見事な人間体を創出するためにはどのようにすればよいのであろうか。この問題についても本論文では明確に答えが与えられている。それは「単細胞から進化してくる過程(=「生命の歴史」)を見事なレベルで段階的に辿ることによって」(p.54)であるというのである。そしてそれは「人間が「生命の歴史」の全過程を背負った生命体であるがゆえ」(同上)だというのである。これは、人間を人間のみで捉えるのではなくて、単細胞から進化してきた歴史的存在として捉え、人間が人間に至るまでに歩んできた各段階の実力をしっかりと再措定してこそ、見事な人間体が創出可能となるという、非常に弁証法的・論理的な把握だといえるだろう。

 とはいえ、「生命の歴史」を見事なレベルで段階的に辿るといっても、具体的にどのような鍛錬をすればよいのか、よく分からないというのが実情であろう。そこで浅野先生は、具体的な鍛錬をいくつか挙げておられる。いわく、「水の中での静的受動的運動から、能動的かつ強烈に振り回し、振り回される運動」、「直接の木登りや手指での数多くのモノを掴みとり、また掴んだモノに振り回されるように振り回す運動」、「段ボール千切り」(以上p.55)、「段ボールを何枚も重ね合せた板状のものへの蹴り技である段ボール蹴り技」、「荷車で土を運んで山を築く」鍛錬、「何重ものティッシュペーパーを収めてのマスクをつけて呼吸困難な中での十何時間もの日常的鍛錬」、「柔軟性を十分に把持した空手バーなる器具や重いペットボトルを両手に持っての内臓体力を鍛錬する強化」(以上p.57)などである。しかも、それらの鍛錬のそれぞれについて、例えば「四肢の体幹からの相対的独立かつ一体化を果たす」などというように、「生命の歴史」から導き出された論理を媒介として、それらの鍛錬の意味がしっかりと説かれているのである。

 こうした鍛錬を経ることによって、桜花武道局という女性武道家の育成組織において、「姿形として「いかにも武道家らしい」とは決して見えない、通常のバランスのとれた姿形の女性がいざ闘いの場となると、瞬時に逞しい武道空手の秀技を逞しい男性相手に見事に繰り出し、相手を圧倒していくという、現在の姿形になってきている」(p.55)というのである。要するに、「生命の歴史」の「段階性」をしっかりと踏まえた人間体の見事な創出を土台として、武道空手体を創出していくという「段階性」を辿っていくことによって、オリンピック選手のような歪んだ姿形や生理構造が上達の足を引っ張ることなく、「逞しい男性」を相手にしてすら、彼らを圧倒してしまう武技を手に入れることができるのだということである。

 さらに重要なことは、先に示したp.53の引用文にあるように、こうした人間体や運動体の見事な創出というのは、単に「身体」や「身体運動」だけの問題ではなくて、「精神」や「頭脳活動」の問題でもあるということである。それだけに、学問の構築を志す我々も、どうしたらアタマが良くなるのかという観点からも、この論文で説かれている論理をしっかりと自分のものにして実践していく必要があると思う。
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2017年07月22日

一会員による『学城』第15号の感想(3/14)

(3)国家論構築のための学びの「段階性」とは何か

 今回は近藤成美先生と加納哲邦先生による国家論論文を取り上げる。国家とは何かを提示するために、三浦つとむ及び滝村隆一の国家論が説かれていく論文となっている。

 本論文の著者名・タイトル・目次は以下である。

近藤成美
加納哲邦
滝村隆一『国家論大綱』をめぐって(2)

 《目 次》
 はじめに
一、滝村国家論は何故行き詰まったか【承前】
  A 滝村国家論には「国家とは何か」の一般的規定が欠落している
  B 「革命のため」だけの国家論はどんな結果をもたらしたか
  C 国家論の学的体系化のために必須なものは何か
二、学的「国家論」構築のための国家一般論を問う
 [1] 三浦つとむ、滝村隆一の国家論とは何か
  (以下次号)
 [2] 国家とは何かを学的に問う
  A 国家とは何か
  B 国家とは何かを歴史的原点レベルから問う
  C 成立している国家は、いかなる体系的構造を把持しているか

 本論文ではまず、前回の内容を振り返るとして、滝村隆一の国家論の意義が2つ挙げられる。すなわち、国家を二重構造で説こうとしたこと、世界歴史レベルでの国家の内実の発展を描こうとしたことの2つである。しかし一方で、滝村国家論には大きな欠点もあることが説かれていく。つまり、国家とは何かの一般的規定が欠落しているというのである。それは何故かといえば、滝村は国家学という学的体系化を図ったのではなくて国家廃絶を主眼においた国家奪取論に終始してしまったためであるとされる。その結果、国家権力の実態が把握できず、また国家権力の実体・実態のひとつである法的支配を夢想だにできないということになってしまうというのである。では国家論の学的体系化のために必須のものは何かというと、それは国家とは何かを概念化し、国家の歴史的原点レベルからの究明を行い、国家に内在する権力の実態を明確にする(国家の体系的構造を把持する)ことだと説かれる。そして、こうした展開をしていくために、まずは準備運動として、三浦つとむと滝村隆一の国家に関わる記述が(歴史に耐えうる展開のみに絞って)解説されていく。すなわち、三浦においては、人間の社会生活にあっては規範が必要であること、国家は法律を通して国民を統括すること、権力に従わせるために強制力が必須であることなどが説かれ、滝村においては、権力とは社会生活の中で創出された規範による支配力であること、国家権力の本質的側面は国家意志への服従を迫り、社会全体を直接支配し統制し統御するところの〈イデオロギー的な権力〉に他ならないことなどが説かれているというのである。そして、こうした見解は、基本的な概説としてはそれなりの水準にあるとしつつも、サルから人間への過程をふまえた原始共同体とは何か、法とは何かの原点がふまえられていないというのである。

 本論文に関しても、まずは『学城』第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」に関わる問題から検討していきたいと思う。本論文では、国家論を構築する上で必須の項目として、以下の3点が掲げられている。すなわち、

「@国家とは何かの一般論的な展開をなすこと
 A国家とは何かについて、歴史的原点レベルからの究明を行う
 B成立している国家は、いかなる体系的構造を把持しているかを具体的に説く」(pp.37-38)

 これらの必須項目については、簡単には説明されているのであるが、本格的な展開の前に、「読者諸氏の国家論の理解を正常にするためにも、まずはその準備運動として、先達である三浦つとむ及び滝村隆一の国家論を概括するところから始めることにしたい」(p.41)と述べられているのである。これはつまり、いきなり高度の論理展開を行ったとしても、読者がその高度な論理展開を正確に理解することが難しいために、国家論の歴史的発展における全うな論理をまずはしっかりと押さえた上で、近藤・加納両先生自身の論理展開を行うということである。端的にいえば、国家論の学びにはきちんとした「段階性」があるのであって、その過程を踏まえることなしには、国家を正常に理解することはできないということである。(さらにいえば、三浦つとむ、滝村隆一の論理展開を本当に理解するためには、レーニン『国家と革命』やエンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』『反デューリング論』の引用箇所をまともに自分の実力としなければならないことも指摘されている。)

 では、三浦や滝村の国家論をきちんと学びさえすれば、それで国家の理解が正常となるのかというと、そうではないと両先生は説いておられる。

「しかしながら、三浦つとむにせよ、滝村隆一にせよ、社会とは何か、国民とは何か、国家とは何かのそれを統治するとはいかなることかという「国家とは社会の自立的実存形態である」との原点レベルからの解明が全く欠けているために、現象論レベル、あるいは少しばかりの構造性レベルでの記述に留まっている、すなわちそこで立ち止まる、つまり留まる他なかったのだ、と言ってよいのである。」(p.47)

 要するに、三浦や滝村の国家論には国家の「本質論的一般論」(p.40)が欠けているために、「現象論レベル、あるいは少しばかりの構造性レベルでの記述に留まっている」というのである。では、そのレベルで留まっていてはどういう問題があるのかということについても、「そのため、例えば、なぜ国家だけが、徴兵や租税の義務を強制できるのか、なぜ国家は死刑を宣告することが可能なのか等々は、これまた何にも説けてはいないのである」(p.47)として、具体的に示されているのである。端的にいえば、三浦や滝村の国家論では国家に関わる具体的な問題が解決できないということである。

 では、どのようにすればこうした欠陥を補うことができるのか、次にはこのことが問題になってくる。この点については以下のように説かれている。

「国家とは何かを学的に規定するためには、サルから人間への過程をふまえた、原始共同体とは何か、そこに誕生し、実存することになっていく法とは何かとの原点をふまえての、初歩レベルからの解明が必須なのである。」(同上)

 つまり、生命の歴史を踏まえた国家の原点からの解明、人間の特殊性たる認識に焦点を当てつつ、本能に代えて規範による統括がなされていく人間社会の解明が必要だということだろう。このことは、国家論を構築する上で必須項目が簡単に説かれている部分においても、「国家は、原始共同体から現在の社会に至るまで、社会の実存形態として、変遷してきたものである」(p.40)とか、「人間の社会は、本能ではなく認識=規範により統括される。その統括力が法としての権力であり、その実施形態、その現象形態がすなわち権力機関たる軍隊、警察、裁判等々である」(p.41)という形で触れられていることである。

 我々京都弁証法認識論研究会も、社会科学の確立を目指していく以上、ここで示された学びの「段階性」をしっかりと踏まえつつ、生命の歴史や三浦・滝村国家論をしっかりと学びとることで、国家論構築の準備運動を確実に行っていく必要があるだろう。
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2017年07月21日

一会員による『学城』第15号の感想(2/14)

(2)対象の一般性レベルの把握と共に「段階性」を捉えていく必要がある

 今回から、『学城』第15号に掲載されている各論文について、順次その感想を述べていきたい。

 初めに取り上げるのは、今回から新たに連載が開始された村田洋一先生のロシアにおける社会主義革命を問う論文である。ここでは、ソビエト連邦が解体したことの意味を考察するために、資本主義とは何かが分かりやすく説かれていく。

 まずは以下に、本論文の著者名・タイトル・目次を掲載する。

村田洋一
ロシアにおける社会主義革命の誤りとは何であったか(1)

 《目 次》
はじめに―なぜ今、ロシアにおける社会主義革命を取り上げるのか
一 資本主義段階を経ずに社会主義国となったソビエト連邦
二 人間社会は然るべき段階を踏まなければ発展し得ない
三 資本主義(資本制)とは何か
 (以下は次号予定)
四 資本主義はどのように生成してきたのか
五 中世における封建社会の構造とは何か―自立と統括の発展
六 社会主義経済は資本主義経済を経ることで可能となる
おわりに

 本論文ではまず、ソビエト連邦における社会主義国家建設の失敗と社会主義自体の問題とは論理的に区別しなければならないのではないかという問題意識のもと、そもそも資本主義とは何か、いかなる歴史性を持つものなのか、社会的認識がいかなる質的変化をすることで、社会の構造が次なる段階へと変化していくのかを考察すると述べられる。そして、ソ連が解体した後のロシアの情況や市場経済を導入した中国の経済大国化という事実を踏まえ、社会主義的生産に対して資本主義的生産が猛烈な生産力を持っていることが示される。さらに『共産党宣言』においては、プロレタリア革命はかなり進歩したヨーロッパ文明全般の条件のもとで、まずブルジョア革命が起こった後に起こすべきであると記載されていること、それにもかかわらずロシアは資本主義社会の段階には至っておらず、封建制のもとで商工業を十分に発達させることもできていなかったこと、これがロシアにおける革命の失敗の原因であったことが述べられる。問題の本質は、単に社会主義一般が誤りだということではなく、然るべき人間社会の発展段階を踏まなかったことにあるというのである。つまり、人間社会のある段階はその前までをふまえて実力と化すことなしには達し得なかったのであって、本論文では資本主義について、それ以前の歴史的段階を必須としたこと、人類の社会的認識は段階を1つずつ踏むことで資本主義の段階へと達したことを説いていくとされる。そこで、そもそも「資本」とは何かが明確にされる。すなわち、「蓄積された過去の対象化された労働」が「直接の生きた労働」を支配するという関係に置かれたとき、この「蓄積された過去の対象化された労働」が「資本」だというのである。そして、資本制の大きな特徴は、労働に大きな価値がおかれるようになってくるということにあると述べられるのである。

 本論文については、まず、『学城』第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」ということに着目する必要があろう。「目次」をご覧いただければ明らかなように、「資本主義段階を経ずに社会主義国となったソビエト連邦」は、「人間社会は然るべき段階を踏まなければ発展し得ない」という一般論を媒介にすれば、必然的に解体せざるを得なかったのだということが論じられようとしている。このことを「分かりやすく人間の個人レベルの成長に喩えれば」として、「幼稚園児が小学生の過程を経ずにいきなり中学生になることは不可能であるし、小学生が中学生の段階を経ずに高校生になることなど、実体的にも精神的にも不可能である」(p.26)と説かれているのは確かに「分かりやすい」。しかし、この喩えは事実的なイメージとしては「分かりやすい」ということであって、そこに如何なる必然性が存在するのかという論理的な把握はないのである。そこで村田先生は、「まず本論文では、資本主義について、それ以前の歴史的段階を必須としたこと、人類の社会的認識は段階を1つずつ踏むことで資本主義の段階へと達するに至ったことを説いてい」(pp.27-28)くとして、資本主義とは何かを丁寧に、「初学者」でも理解可能な形で展開していかれるのである。つまり、まずは歴史的な事実から資本主義への発展の歴史的必然性を論理として把握し、その把握を踏まえて、今度は問題としている「資本主義段階を経ずに社会主義国となったソビエト連邦」の解体の必然性を説いていこうということであろう。「段階性」を踏まえる必然性については、次回展開されるようなので、しっかりと論を追っていきたい。

 ただし、ここで注意すべきは、「段階性」といっても単に各段階を並べるだけではダメである、ということである。村田先生は、マルクスの有名な歴史的発展段階の定式に関する部分を引用した後、次のように述べておられる。

「確かにマルクスはここで、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式の順で並べてはいる。しかしながら、そこには大きく欠けているものがあるのである。それは何かと言えば、人間社会とは何かの一般性レベルでの把握であり、人間社会の原点たる原始共同体からいかなる重層性をもって現代の資本主義社会まで形成されてきているのかの過程的構造である。」(p.27)

 つまり、人間社会の変遷を特徴的な様式で区切って並べる(区別する)だけではなくて、人間社会一般を貫く普遍的な存在(共通性)を把握し、それがどのように積み重なっていって現代にまで至ったのかを解明する必要があるということである。そしてその普遍的な存在(共通性)とは、人間社会でいえば、「社会的労働・社会的文化として発展させ」(同上)られてきた「社会的認識」(同上)であるというのである。だからこそ、先にも引用したように、「資本主義について、それ以前の歴史的段階を必須としたこと、人類の社会的認識は段階を1つずつ踏むことで資本主義の段階へと達するに至ったことを説いてい」(pp.27-28)くという流れになるのである。非常に弁証法的な捉え方といえるだろう。

 最後に、村田先生の弁証法的な把握をもう1つだけ紹介しておく。通常、資本制といえば、マルクスの主張が大きく影響して、「資本が労働者の労働を搾取する」(p.32)という否定的側面ばかりが強調されがちである。しかし村田先生は、「資本制における大きな特徴」(p.31)として、「人間の労働が大きく着目されるようになり、労働に大きな価値がおかれるようになってくるということ」(同上)を挙げておられる。つまり、「資本制とは、人間労働が生み出した価値が一点に凝縮して新たな人間労働を支配し、人間のもつ生産能力を最大に活用することで最大の価値を新たに生み出していく生産様式にほかならない」(p.32)のであって、こうした肯定的側面をも捉えてこそ、「社会主義経済は資本主義経済を経ることで可能となる」という結論が全うに導き出されるということであろう。対象の性質を二重性として把握する必要性が次回で詳細に展開されることを期待している。
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2017年07月20日

一会員による『学城』第15号の感想(1/14)

《目 次》(予定)

(1)『学城』第15号は「段階性」ということに焦点を当てて学ぶべきである
(2)対象の一般性レベルの把握と共に「段階性」を捉えていく必要がある
(3)国家論構築のための学びの「段階性」とは何か
(4)「生命の歴史」の「段階性」に応じた鍛錬とはどのようなものか
(5)やる気を起こすためにはまず強烈な憧れを抱く必要がある
(6)哲学への道の初心の「段階」で必要なものは何か
(7)小学一年生の「段階」における特殊性とは何か
(8)前の「段階」をしっかりと踏まえて次の「段階」へと進んでいくことの重要性
(9)原点からの過程性、歴史性を問う必要がある
(10)「段階性」の把握は特殊性と一般性との統一として行う必要がある
(11)「初学者」への指導では具体的なイメージが描ける工夫が必要である
(12)「初学者」の学びの「段階性」とはどのようなものか
(13)「初学者」にはどのような説き方が必要か
(14)「段階性」を踏まえた学びの重要性を主体的に捉え返す必要がある


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(1)『学城』第15号は「段階性」ということに焦点を当てて学ぶべきである

 2017年4月23日、早くも『学城』第15号が発刊された。ここで「早くも」というのは、前号第14号が発刊されてから僅か4ヶ月と少ししか経っていないからである。これまでで最短の発刊である。

 このことの意味を少し考えてみよう。これまで、この『学城』の感想シリーズで何度か触れたことであるが、これまでは基本的に年1回のペースで発刊されていた。それが2015年には1度だけ、年2回の発刊(第12号、第13号)となったことであった。「これは第10号の「編集後記」にて、「今後は年二回の発刊を現実化すべく努力していく所存である」と決意が述べられ、第11号の「編集後記」で「わが研究会においては志ある若い読者のために、発刊を年二回に増やし、初学者向けの教育が可能な、いわゆる入門編となる論文も掲載したい」と展望が示され、第12号の「編集後記」で「年二回の発刊を目指して努力してきた」と言及されていることが、遂に実現したことを意味している」と第13号の感想に書いた通りである。そして今回、第15号の「編集後記」においては、「今回は特別記念号として、従来の連載以外の小論を多く掲載することにした。会員諸氏から寄せられた原稿には、なかなか労作が多い中で、なるべく初学者の学びに資するものを中心に選んである。」(p.215)と述べられているように、この第15号においては、「初学者の学びに資するもの」が多く掲載されているのである。

 「会員諸氏から寄せられた原稿には、なかなか労作が多い」とあるように、この『学城』掲載論文の背後には、掲載に至らなかったものの相当の中身を把持した論文が多数存在するということである。これまでは、「従来の連載」を中心に『学城』誌上に掲載していたものの、号を重ねるにつれて論文のレベルが相当に上がってきていて、新しい読者にとってはそれを読み解くことがかなり難しくなってきているのである。そこで、「志ある若い読者のために、発刊を年二回に増やし、初学者向けの教育が可能な、いわゆる入門編となる論文も掲載したい」という思いを何とか実現すべく、今回は年をまたいだとはいえ、最短での発刊によって、「初学者の学びに資するもの」を数多く掲載したのだ、ということだと思われる。

 こうした事情も踏まえて、今回も第15号全体を貫くテーマを設定し、そのテーマに沿った形で各論文を読み解いていきたいと思う。ではそのテーマとは何か。それは「段階性」ということを踏まえた学びの重要性が説かれているということではないかと思われる。上に引用した「編集後記」においては、「初学者の学びに資するもの」を掲載した旨記載されていたが、これは順を追って学んでいくことが重要であるという観点に立っての選択ではないかと思われるのである。第13号の冒頭論文である本田克也「「南郷継正講義」遺伝子の体系性から生命の世界の発展性の帰結たる人間の遺伝子の重層構造を説く(1)」や、今回の冒頭の南郷継正「絶対矛盾(ゼノン)の理解はアリストテレスをふまえるべきである―巻頭言に代えて」を読めば明かなように、最近の『学城』の各論文のレベルは、初学者が理解可能な範囲を明らかに超えてしまっているのである。そこで、もう一度原点に立ち返って、初学者にも十分役立つレベルの論文を掲載して、基礎から学ぶことができるように配慮されているのではないかと思われるのである。

 ほかにも「段階性」という観点から第15号を読み解いていくべきではないかと思った理由を挙げておくと、冒頭の南郷継正「絶対矛盾(ゼノン)の理解はアリストテレスをふまえるべきである―巻頭言に代えて」において、アリストテレスの弁証法の原基形態を理解するためには、ヘーゲルの弁証法を学ぶ実力が必要だと述べられていることもある。これは、現在の人間の脳の解明によって、サルの脳のから人間の脳への解明が促されるのと同様、対象とすべきものの原点を解明するためには、完成した形態の対象の解明が導きの糸になるということだろうと思われる。つまり、アリストテレスという漸くにしてアタマの中の無数ともいえる像を何とか1つにまとめていって、それを1つの言葉として表すことができるようになっていくかどうかという時代の認識(弁証法)を理解するためには、そのアリストテレスだけを対象として研究していったとしてもそれは不可能であって、ある意味で弁証法を完成させたヘーゲルへの学びを媒介とすることによって初めて、アリストテレスのアタマの中の像を、そしてそれを何とか表現しようとした言語を理解することができるのだということだと思われる。端的にいえば、学びの「段階性」をしっかりと踏まえることが重要だということであろう。

 以上を踏まえて本稿では、「段階性」ということに焦点を当てて第15号を学んでいきたいと思う。各論文において、「段階性」の重要性がどのように現われてきているのかについては、次回以降、詳しく展開していく予定である。特に「初学者」という「段階性」、また「生命の歴史」における「段階性」が強く意識されている各論文の内容となっていることが分かると思う。

 次回以降、以下の第15号全体の目次の順に、各論文の感想を認めていく。ただし、南郷継正「絶対矛盾(ゼノン)の理解はアリストテレスをふまえるべきである―巻頭言に代えて」については、内容が非常に難解であり、まとまった感想を筆者のレベルで展開できないために、またブログ掲載の回数の問題もあって、今回触れた程度でお許しいただくとして、次回は村田洋一「ロシアにおける社会主義革命の誤りとは何であったか(1)」の感想から認めていきたいと思う。

学 城 (学問への道)  第15号


◎ 南郷継正   絶対矛盾 (ゼノン) の理解はアリストテレスをふまえるべきである
           ― 巻頭言に代えて

◎ 村田洋一   ロシアにおける社会主義革命の誤りとは何であったか (1)

◎ 近藤成美   滝村隆一 『国家論大綱』 をめぐって (2)
  加納哲邦

◎ 浅野昌充   桜花武道局への指導に見る生命の歴史の学的論理 (1)

◎ 北條翔鷹   実戦部隊飛翔隊修業の総括小論 (5)

◎ 西林文子   出 隆 『哲学以前』 を問う (1)
           ― 哲学への道とは何かを知るために

◎ 佐藤聡志   教育実践の指針を求めて
           ― 小学一年生における教育の重要性

◎ 菅野幸子   〔講義録〕 「生命の歴史」 から見た人間の頭脳の成り立ち
           ― 子供達のより良い頭脳活動を育むために

◎ 北嶋  淳   人間一般から説く障害児教育とは何か (9)
  志垣  司   ― 障害児教育の科学的な実践理論を問う

◎ 河野由貴   看護のための病気一般論を問う
           ― ナイチンゲールの説く 「病気とは回復過程である」 に学んで

◎ 聖  瞳子   医療における理論的実践とは何か
  高遠雅志    ― 初期研修医に症例の見方、考え方の筋道を説く
  九條  静   〈第7回〉 マイコプラズマ肺炎3
  北條  亮

◎ 朝霧華刃   唯物論の歴史を学ぶ (3)

◎ 橘 美伽   武道空手上達のための人間体を創る 「食事」 とは何か (4)
           ― 遺伝子としての食事を考える

◎ 悠季真理   編集後記
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2017年07月19日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の演繹についての部分を扱った我が研究会の2017年6月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。

 6月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回7月例会は、『純粋理性批判』の純粋悟性概念の図式論(pp.209-264)を扱います。

 それでは、以下、参加者の感想です。

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 今回は、カント『純粋理性批判』の「純粋悟性概念の演繹について」という部分を扱った。

 カントの文章は、なかなか具体的なイメージが描きづらいものであったため、どういうことをいわんとしているのか、自分が分かる具体的なものにあてはめながら読み進めていった。

 論点への見解を執筆する際にも、こうした姿勢で、具体的にはどういうことかを意識して書いていった。初めのうちは、この方法でかなり理解が深まったと思うのだが、純粋統覚を扱っている部分などになると、ハッキリしたイメージを描くことが難しくなっていった。

 例会での議論を通じて感じたことは、まだまだ1回目の学びであるため、大雑把にどういうことが説かれているのかを把握することをまずは心がけるべきであるということであった。大きくいえば、悟性もカテゴリーも純粋統覚も同じものだと考えておくことが、初学者にとって不要の混乱を引き起こさないためには必要だということも確認できた。

 もう1つ、カントが産出的構想力というものを想定して、感性と悟性とを明確に区切ってしまうのではなくて、それらを1つのものとして構想しようとしていたことも何となく理解できていった。このことは、例会での議論をするまでは全くそういう像が描けていなかったため、また読み返していく際には十分念頭に置いて取り組んでいきたいと思う。

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 今回の範囲は、『純粋理性批判』でも最も難解とされている「純粋悟性概念の先験的演繹」の部分であった。論点への見解を書く過程で参考書を読んだり、例会当日に他のメンバーと議論を重ねたりすることによって、アバウトな理解はできたように感じている。

 一番印象に残ったのは、カントは初めは感性と悟性を分けて考えていた、すなわち、媒介関係にあるとして説いていたが、ここにきて、それでは純粋悟性概念がいかにして対象に対して客観的妥当性をもつのかという問題を解決できなくなり、両者は直接の関係であると捉えるようになった、という指摘がなされたことである。そして、両者が直接の関係であることを示すために、「産出的構想力」とか「純粋統覚」とかいう概念を持ってこざるを得なかったということである。これにはなるほどと思わされるものがあった。南郷継正「武道哲学講義〔Z〕」でも、感性・悟性・理性というのは、カントが思惟的に分けただけであるというような指摘があったが、それともつなげて理解できるように感じた。

 思惟する「私」と自分自身を直観する「私」との関係については、非常に難解で、解釈が錯綜してしまったが、少なくとも「私」をカントのように物自体としての「私」と現象としての「私」という形で分けてしまうと、統一性がなくなってしまうことは理解できたように思う。ヘーゲルはここの問題を、カントのいう表象を生み出す力である「構想力」という概念をもとにして、実際に自然や精神的存在を生み出していく「絶対精神」の自己運動として解決したのだろうという、大きな流れもある程度掴むことができた。これも今回の例会の収穫であった。

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今回の内容についても難解で理解することが困難であったというのが正直なところである。とりわけ純粋統覚の辺りになると、かなり厳しくなっていった。

ただ、議論をとおして、悟性や構想力、統覚といった概念が、同じことを別の角度から説いているのであって、とりあえず同じものとして捉えておけばよいということはわかったし、論点3に関わって、カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのかという点はある程度理解できたと感じている。

ただ、やはりなかなか読み進めていくのが苦しいところなので、何度も読み返した上で、次の範囲に進むことを心がけたいと思う。

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 この6月例会については、チューターにあたっていたのだが、毎月行っている要約作業は結局、例会までに終えることができず、カントの議論を自分なりに十分に把握しきれないままに、論点の整理、整理された論点に対する各メンバーの見解についてのまとめの作業を行わなければならなかった。それでも、例会での議論を通じて、悟性、カテゴリー、先験的統覚、産出的構想力などが、感性的直観におけるバラバラな表象をまとめ上げて対象となす過程について、様々な角度から焦点を当てて浮かび上がらせたものだ、ということが明確になったのは、大きな収穫であった。また、悟性と感性とを媒介するものとして、より根源的な、産出的構想力なるものが持ち出されてきたらしいこと、この産出的構想力を、表象(主観)レベルのものではなく、現実に物自体を産出するものにまで発展させたものがヘーゲルの絶対精神であること、それに伴って、純粋悟性に具わっているとされたカントのカテゴリー表も、絶対精神が把持する世界そのものの設計図というべき論理学にまで発展させられていくのだ、という道筋がおぼろげながら見えてきたことも、大きな収穫であったといえよう。
 
(了)
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2017年07月18日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(9/10)

(9)論点3:カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのか

 前回は、第二の論点、すなわち、純粋統覚とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、純粋統覚とは「私は考える」という意識のことであり、これによってばらばらな表象が結合されることがなければ、そもそも人間の認識は成り立たないという意味で、人間の認識全体の最高原理であるといえること、また、バラバラな表象をまとめ上げるように働く力が産出的構想力であり、悟性、カテゴリー、統覚、産出的構想力というものは、いずれも感性的直観におけるバラバラな表象をまとめ上げて我々にとっての対象となす過程に関わるものであり、焦点の当て方の違いによって異なる捉え方がなされたものであることを確認しました。さらに、カントが、現象としての私と物自体としての私を分けてしまったこと、これらを同じ一つのものとして、絶対精神の自己運動として筋を通したのがヘーゲルであることも確認しました。

 さて、今回は、第三の論点、すなわち、カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで、論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、カテゴリーについて、現象(一切の現象の総括としての自然)に法則をア・プリオリに指定する概念だとした上で、「かかる法則は自然における多様なものの結合を自然から得てこないにも拘らず、どうして自然をア・プリオリに規定し得るか」(p.203)という難問を解決しようとしているが、カントはこの難問をどのように解決したのであろうか。ヘーゲルであれば、カントの解決にどのような評価を与えるだろうか。


 この論点そのものをめぐっては、各メンバーから提示された見解の間に大きな相違はありませんでした。端的には、カントの立場からすれば、自然の法則なるものが主観とは独立に存在しており、それを認識するというのではなくて、そもそも自然の法則なるものそのものが、純粋悟性概念が関わって成立するのだ、ということです。少し言い方を換えるならば、純粋悟性概念が関わって、対象たる自然の法則が成立することが、直接に、その認識が成立することでもある、ということになります。

 ヘーゲルならばカントの解決をどのように評価するだろうか、という問題についても、各メンバーの見解はほぼ一致していました。端的には、ヘーゲルであれば、物自体としての自然と現象としての自然との間に絶対的な境界線を引くことに反対し、物自体としての自然の合法則性は絶対に認識可能であると、自らの絶対的観念論の立場から反駁を加えだろう、ということになります。このことに関わっては、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の以下の記述を改めて確認しておくべきだ、という指摘もありました。

「カントのように物の性質を主観的なものだと考えるなら、木の葉を黒としてでなく緑として眺め、太陽を四角でなく丸として眺め、砂糖を辛いものとしてでなく甘いと感じ、時計は一時と二時をいっしょに打つのでなく順次に打つと聞き、二時から一時になるのではなくてその反対だと考えることなどが、物のありかたと無関係にわたしたちの認識の中だけで行われることになります。カントのように物の性質と物との間に絶対的な壁を設けるのはまちがいで、物自体は性質を持ち、いわゆる「二律背反」も世界自体の持っている性格である、とヘーゲルは主張しました。」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.61)


 すなわち、ヘーゲルならば、カントのように物自体には性質がなく物の性質は主観が与えるのだという考え方に反対し、物自体には性質がありそれを人間が認識するのだと説明する、ということです。対象となる物の性質が人間の認識を生み出すという関係の把握についていえば、ヘーゲルの主張は、唯物論の立場からの把握と同じものになります(もっとも、対象となる物はそもそも絶対精神が姿を変えたものである、と把握される点では唯物論の立場とは決定的に異なりますが)。

 論点そのものについては、以上のような確認を行ったのですが、ここで、自然法則はどうして自然をア・プリオリに規定しうるかという「難問」は、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスのなかでどのように位置づけられているのか、という報告者レジュメのなかで提起されていた問題について、議論を行うことにしました。この問題は、より具体的にいえば、この「難問」が取り上げられる段階では先験的演繹はすでに終わっているのか、それとも、この「難問」の解決が直接に先験的演繹の最後の段階を意味するのか、ということになります。純粋悟性概念(カテゴリー)がなければ経験が可能なものとはならない、と指摘された段階で、先験的演繹は終わっているともいえそうなのに、わざわざ自然法則について「難問」を取り上げているのはなぜなのか、という疑問です。

 この疑問をめぐっても、議論は大いに錯綜しましたが、200ページに「先験的演繹では、直観の対象一般に関するア・プリオリな認識としてのカテゴリーの可能が説明せられた。そこで今度は、およそ我々の感官に現われ得る限りの対象をカテゴリーによって、――しかも対象を直観する形式によってではなく対象を結合する法則に従って、ア・プリオリに認識し得ること、それどころか自然を可能ならしめ得ることを説明する段になった」とあるところが、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスのなかでの、この「難問」の位置を示しているのではないか、ということは指摘されました。この文章の意味するところについて、明確な共通理解までは得られなかったのですが、「直観の対象一般」と「我々の感官に現われ得る限りの対象」とが対比させられて、後者が自然法則に結び付けられていること、そもそもカントの問題意識は自然法則についての認識の確実性を主張したいという点にあったことを重く見るべきことは確認されました。また、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセス全体については、最後の「この演繹の要約」(p.208)で簡潔に示されているのではないか、という指摘もあり、「この演繹は、最後に経験をかかる綜合的統一の原理によって解明したもの」という個所が、自然法則の問題についての検討に相当すると考えられることからも、この「難問」の解決が直接に先験的演繹の最後の段階を意味する、と捉える方が妥当ではないか、という意見も出されました。
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2017年07月17日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(8/10)

(8)論点2:純粋統覚とはどういうものか

 前回は、第一の論点、すなわち、純粋悟性概念の演繹とはいかなることか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、純粋悟性概念の演繹とは思惟の主観的条件である純粋悟性概念がなにゆえに客観的妥当性をもちうるものであるのかを説明するものであることを確認しました。

 さて、今回は、第二の論点、すなわち、純粋統覚とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、純粋統覚あるいは統覚の先験的統一こそが人間の認識全体の最高の原理だとしているが、これはどういうことか。また産出的構想力というものはここにどのように関わってくるのか。思惟する「私」と自分自身を直観する「私」との関係を、カントはどのように解いたのか。こうしたカントの論について、ヘーゲルならばどのように評価するだろうか。


 純粋統覚あるいは統覚の先験的統一こそが人間の認識全体の最高原理であるとはどういうことか、という問題については、各メンバーによって提示された見解に、大きな相違はありませんでした。端的にいえば、「私は考える」という意識によってバラバラな表象が結合されることがなければ、そもそも認識が成り立たない、ということです。

 産出的構想力とはどういうものか、という問題をめぐっても、大きな見解の相違はありませんでした。そもそもカントのいわゆる構想力とは、対象が現に存在していなくてもこの対象を直観的に表象する能力のことなのですが、この構想力が、統覚の統一にしたがって感官の形式をア・プリオリに規定すると同時に、感性的直観における多様なものをまとめあげて悟性にもたらす、とカントはいうのであり、このような自発的(能動的)な働きをなす構想力を、かつて経験したものを再生するだけの再生的構想力から区別して、産出的構想力と名づけているわけです。すなわち、我々の対象が成立する時点で、純粋悟性概念(カテゴリー)が関わっているのであり、感性的直観における多様なものを総合して我々の対象となすものこそが、産出的構想力なるものなのです。このことに関わっては、カントの議論においては、この構想力なるものが感性の側に属するものなのか悟性の側に属するものなのか判然としないが、感性とも悟性ともつかないものがあるからこそ感性と悟性とが媒介される、ということが重要なのではないか、という意見も出されました。

 構想力なるものの捉え方そのものについては大きな見解の相違はなかったのですが、問題となったのは、純粋統覚と産出的構想力の関係です。この問題に関しては、よく分からない、というメンバーがいる一方で、端的に、両者は同じものである、と断言する見解を提示したメンバーもいました。そのような見解のヒントとなったのは、黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』において、「認識〈能力〉としての「悟性」、それの純粋〈概念〉としての「カテゴリー」、それに「私は……と考える」を生み出す〈自己意識〉としての「統覚」。本書の「はじめに」でも書いたように、この『純粋理性批判』入門の、見学ツアーレベルでは、これらはだいたい同じ、と思ってもらって差し支えない」(p.131)という記述だ、ということでした。感性的直観における多様な(バラバラの)表象をまとめあげて何らかの対象となす、という過程において、悟性という能力が把持するところの、バラバラな表象をまとめあげるための枠組みのようなものに焦点を当てれば、それが純粋悟性概念(カテゴリー)だということになり、まとめ上げるという過程を遂行する主体に焦点を当てれば、それが統覚だということになり、バラバラの表象をまとめ上げている力に焦点を当てれば、それが産出的構想力だということになるのではないか、ということでした。このような見解に、他のメンバーも納得しました。

 思惟する「私」と自分自身を直観する「私」との関係については、議論が大変に錯綜しましたが、根源的統覚としての「私」(「私は存在している」と意識している「私」)と、現象としての「私」(「現われるままの私」)と、物自体としての私(「あるがままの私」)とが区別されているらしいことは、ほぼ共通の認識となりました(根源的統覚としての私と物自体としての私との差異については若干の疑問が残りましたが)。

 このことを確認した上で、チューターは、結局のこところカントは、根源的統覚としての「私」と、現象としての「私」と、物自体としての「私」が区別されるべきことを力説したものの、それらの関係については解くことができなかったのではないか、と提起しました。そして、これらを、絶対精神の自己運動(絶対精神が自己を知る過程)として筋を通しきったのが、ヘーゲルの絶対的観念論であるといえるのではないか、との見解を述べました。

 こうした見解に対しては、カントが私を物自体としての「私」と現象としての「私」とに分けてしまったことで論に一貫性がなくなってしまったとは確かにいえそうだ、また、ヘーゲルは、このようなカントの限界を、カントのいわゆる産出的構想力を発展させる形で、あらゆる対象を現実に産出していく「絶対精神」の自己運動として解決したということになるのではないか、という感想が出されました。
 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点2に関する議論を終えました。
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2017年07月16日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(7/10)

(7)論点1:純粋悟性概念の演繹とはいかなることか

 前回まで、カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の演繹の要約を提示し、その内容を踏まえて出された論点を紹介しました。今回からは、それらの論点に関わってどのような議論がなされたかを紹介していくことにします。

 今回は、第一の論点、すなわち、純粋悟性概念の演繹とはいかなることか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 先験的演繹と経験的演繹とはどのように異なり、純粋悟性概念について先験的演繹が求められるのは何故なのか。このことに関わって、カントは、ロックやヒュームの試みについて、どのような評価を与えているのか。


 カントのいわゆる演繹とは、法学者の用語を踏まえたもので、何が事実であるかという問題と区別して、何が権利であるかという問題を説明するものだとされています。これについては、あるメンバーが、以下のような例を提示しました。

 ある病院職員Aがある患者Bのカルテを閲覧したことは違法だという訴訟事件があった場合、事実としてAがBのカルテを閲覧したことを証明するとともに、AはBのカルテを閲覧する権限がないこと、および閲覧する権利を要求することもできないことをも、カルテ閲覧に関する規則(原理)から証明しなければならない、ということです。端的にいえば、カントのいう演繹とは、ある一定の原理からある対象の権利、適法性(正当性)を証明することである、ということになります。

 このような具体例も踏まえつつ、概念の演繹とは、諸々の概念についてそもそもその概念が正当性(客観的妥当性)をもっていることを説明することである、ということを確認しました。

 先験的演繹と経験的演繹の違いについては、概念がア・プリオリに対象に関係するということ(適法性)を示すのが先験的演繹であり、概念がどのようにして生まれたかを事実として示すのが経験的演繹ということで、各メンバーによって提示された見解の間に大きな相違はありませんでした。

 純粋悟性概念について先験的演繹が求められるのは何故なのか、という問題をめぐっても、大きな見解の相違はありませんでした。空間・時間という感性の純粋形式の場合は、このような直観形式がなければ、そもそも現象としての対象は我々に与えられないわけですから、空間・時間と対象の関係を云々する必要はありませんでした。ところが、純粋悟性概念(カテゴリー)の場合は事情が異なってきます。直観によってすでに対象は与えられており、悟性はこの対象について思惟するわけですから、純粋悟性概念(カテゴリー)は対象の可能性の制約ではないと考えられるからです。一方に既に与えられている対象があり、他方にカテゴリーがあるとすれば、両者がなぜうまく適合するのか、思惟の主観的条件がどうして客観的妥当性をもつのか、ということを説明しなければならなくなってきます。これが、純粋悟性概念について先験的演繹が求められる理由です。端的には、純粋悟性概念は、その性質上、その使用の客観的妥当性や制限などに関して疑惑をひき起こしてしまうから、先験的演繹が必要だということです。

 ロックやヒュームの試みについてのカントの評価をめぐっては、ロックやヒュームが純粋概念を経験から導きだそうとしたことが批判されているのだ、という見解が示されました。カントは、カテゴリーと対象とが合致し必然的に関係し合うこと(要するにカテゴリーの客観的妥当性)は、対象がカテゴリーを可能にするか、カテゴリーが対象を可能にするかのどちらかの場合にのみ可能である、として、前者が可能だとしてこの問題に取り組んだのがロックやヒュームだと考えているわけです。しかし、カントは純粋概念をこのように経験から導き出すことは、純粋数学や一般自然科学の実際に適合するものではなく、こうした事実によって否定されるものだと説いている、ということです。

 この見解に対して、チューターは、大筋では間違いではないものの、カントはロックとヒュームの微妙な差異についても言及しているのであるから、そこは丁寧に確認しておくべきではないか、と提起しました。

 カントは、ロックについて、我々の認識能力が個々の知覚から出発して一般的概念に達しようとする最初の努力を行ったとして一定の評価を与えつつも、純粋悟性概念の演繹は、こうした仕方では決して成立しないと批判もしています。こうした純粋悟性概念の使用は経験とは全く関わりがないから、「経験からの出生を立証する証明書とは別の出生証明書を呈示しなければならない」(p.164)というわけです。また、ロックが純粋悟性概念を経験から導来したにもかかわらず、こうした概念によって経験の一切の限界をはるかに超出するような認識(神の認識など)に達しようとしたことは辻褄が合わない仕方だと非難されてもいました。

 一方、ヒュームについてカントは、純粋悟性概念はア・プリオリな起原をもたねばならないことに気がついていたものの、概念自体が悟性において結合されていないのに、悟性がこうした概念を対象においては必然的に結合されていると考えねばならないのはどうして可能なのか、全く説明できず(原因と結果という必然的なつながりが対象において客観的に存在するなどとは考えることができず)、悟性がこうした概念によって自ら経験の創作者になるのではないか、悟性の対象は経験そのもののうちに見出されるのではないかということに思い及ばなかったため、こうした純粋悟性概念を(結局は)経験から導き出さざるを得なかった、つまり経験において同じ連想が度々繰り返されると、そこから主観的必然性が生じ、この必然性がついには客観的必然性と誤認されるに至ると考えざるを得なかったのだ、と説明しています。カントは、ヒュームがこうした概念とそれから生じる原則とをもってしては、経験の限界を超出することは不可能であると断言したことは、(ロックと比較すると)なかなか辻褄のあったやり方だと評しつつも、ロックもヒュームもともに純粋悟性概念を経験的に導き出そうとしたことは、純粋数学や一般自然科学の実際に適合しないとして否定しているわけです。
 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点1に関する議論を終えました。
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2017年07月15日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の演繹という問題について論じられている部分の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところをふり返っておくことにしましょう。

 そもそも、カントのいわゆる演繹とは、端的には、何が権利であるかという法学用語を踏まえたもので、概念に即していえば、その客観的妥当性を説明するものでした。カントは、純粋悟性概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を、純粋悟性概念の先験的演繹と名づけていました。対象は、感性の純粋形式である空間と時間を介してのみ我々に現れるのですから、空間・時間については、特にこうした説明は必要ありませんでした。ところが、純粋悟性概念は、対象が直観に与えられるための条件ではありませんから、対象が必然的に悟性の機能に関係しなければならないということはできません。そのため、思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がなにゆえに客観的妥当性をもつのか、説明することが求められることになります。これがカントのいわゆる純粋悟性の先験的演繹なのでした。

 カントは、多様なものの結合は悟性の作用であり、そのような悟性作用を総合と呼ぶのだと説明していました。また、私の一切の表象には、「私は考える」という意識が伴っていなければならないとして、この「私は考える」という自己意識のことを、純粋統覚あるいは根源的統覚と名づけていました。カントは、悟性が直観における多様な表象を統一するという統覚の総合的統一の原則は、人間の認識全体の(一切の悟性使用の)最高の原理(原則)であると強調していました。「私は考える」という原則がなければ、そもそも認識が成立しない、というわけです。

 さらにカントは、経験的な直観における多様な表象が、判断という悟性の機能によって統覚のもとに取り込まれて客観的な統一を与えられることを指摘する一方で、このように純粋悟性概念(カテゴリー)が適用されるのはあくまでも経験の対象(経験的直観における多様な表象)のみであり、それ以外のところに純粋悟性概念を適用しようとしても、対象に関する無内容な概念にしかならず、客観的な実在性をもたない単なる思考形式にしかならない、と指摘してもいました。カテゴリーにしたがって直観における多様なものを結合する総合をなすものについて、カントは産出的構想力と名づけていました。

 カントは、悟性は内感を触発することによって多様なものの結合をつくり出すことに注意を促した上で、我々はただ我々自身によって内的に触発されるままに我々自身を直観するとして、思惟された客観としての私は悟性によって思惟される私自体(物自体としての私)ではない、と指摘していました。

 カントは、カテゴリーは一切の現象の総括としての自然に法則をア・プリオリに指定する概念であるとした上で、ここに難問があるとしていました。すなわち、自然法則は自然から導き出されたものでもなければ、自然を範としてこれに従うのでもないのに、自然の方がこの法則に従わなければならないことをどうして理解できるのか、という問題です。カントはこれに対して、法則は現象のうちに存在するのではなく、現象が与えられているところの主観に関係してのみ存在するのだ、という解答を与えていました。すなわち、自然は、自然の必然的合法性の根源的根拠としてのカテゴリーに依存しているというわけです。

 2017年6月例会の場では、おおよそ以上のような内容に関わっての報告を受けて、参加したメンバーから諸々の意見・論点が提起され、議論がたたかわされました。これから、その内容を、大きく3つの論点に沿って整理した上で、紹介していくことにします。今回はその3つの論点を紹介し、次回以降、討論の具体的な内容を紹介していくことにします。

1、純粋悟性概念の演繹とはいかなることか
 カントのいわゆる演繹とはどういうことか。先験的演繹と経験的演繹とはどのように異なり、純粋悟性概念について先験的演繹が求められるのは何故なのか。このことに関わって、カントは、ロックやヒュームの試みについて、どのような評価を与えているのか。

2、純粋統覚とはどういうものか
 カントは、純粋統覚あるいは統覚の先験的統一こそが人間の認識全体の最高の原理だとしているが、これはどういうことか。また産出的構想力というものはここにどのように関わってくるのか。思惟する「私」と自分自身を直観する「私」との関係を、カントはどのように解いたのか。こうしたカントの論について、ヘーゲルならばどのように評価するだろうか。

3、カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのか
 カントは、カテゴリーについて、現象(一切の現象の総括としての自然)に法則をア・プリオリに指定する概念だとした上で、「かかる法則は自然における多様なものの結合を自然から得てこないにも拘らず、どうして自然をア・プリオリに規定し得るか」(p.203)という難問を解決しようとしているが、カントはこの難問をどのように解決したのであろうか。ヘーゲルであれば、カントの解決にどのような評価を与えるだろうか。
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 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて