2017年08月23日

夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想(1/5)

目次

(1)本書では学問そのものが説かれていく
(2)学問は原点からの歴史性に学んでこそ措定できる
(3)『弁証法はどういう科学か』旧版のあとがきの意義
(4)認識の成立と社会の関係性
(5)夢の解明のためには学問が必須である

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(1)本書では学問そのものが説かれていく

 本稿は,南郷継正『“夢”講義(4)』を読んで学んだことを,感想文として認めていく論考である。より正確にいうと,感想文を書くことによって『“夢”講義(4)』をより深く理解すると直接に,そこで説かれている内容を自分のものとすることを目的として執筆した論考である。これまでも何度か本ブログでくり返し説いているように,本年は京都弁証法認識論研究会として,組織的に『“夢”講義』シリーズに学んでいくことを一つの目標としている。本稿も,研究会としての議論を踏まえた内容となっている。

 さて,『“夢”講義(4)』は,今回の最後に載せている目次を見ていただければ明らかなように,学問を正面から取り上げての展開となっている。たとえば,第2編は「哲学の成立の過程的構造を説く」であり,哲学や学問の概念がその成立の起源から説かれている。ここでは,いかなる分野であれ,一流を目指すためには哲学や学問に関わる基礎的教養が必要であり,ナイチンゲールにはそれがあったからこそ,看護学の祖としての地位を築くことができたのだと説かれている。また,第4編は「論理学から説く弁証法と認識論」となっており,第5編は「論理学の過程的構造を説く」となっている。ここでは,論理学の観点から弁証法や認識論が説かれ,論理学の歴史性が説かれていくのである。このような目次を眺めれば,本書は「夢」はもちろん「看護」や「武道」とは何の関わりもない,単なる(?)大哲学書,大学問書であると勘違いしてしまいかねないであろう。それほどに,学問や哲学・論理学といったものが,頻繁に顔を出すような構成となっているのである。

 哲学に関わっては,これは日常用語として経営者すらが使っているような意味ではなくて,もっともっと厳しいものであることが,次のように説かれている。

「そもそも,哲学とは森羅万象すなわち全世界をしっかりと把握したいという,古代ギリシャにおける明晰な頭脳活動者(知を愛する人)たちの願望から始まることになったものです。ここから全ての学問レベルの理論的研鑽は始まっていくのです。そしてこれは,かつてのカントやヘーゲルの血のにじむような学問的努力を同じようにくり返すことによって(つまり古代ギリシャから自分の時代までの学問史を学問化する努力を,カントやヘーゲルが行っていたように)こそ,到達可能な道なのです。」(p.75)


「中学生にも分かるように簡単に説けば,学問とは,ある一流大学の学部の博士論文を全て集めて,一本化,すなわち体系化したレベルが底辺のものであり,哲学とは,一流大学の全学部の全ての博士論文の体系的展開であってようやくにして哲学の底辺であり,それでようやく哲学の名に値する実体が形成されてくるのだといってよいものです。」(p.77)


 すなわち,哲学とは,全世界の把握を目指したものであり,そのためには人類の系統発生をくり返すだけの血のにじむような研鑽が必要なのである,中学生にも分かるように説けば,哲学とは「一流大学の全学部の全ての博士論文の体系的展開であってようやくにして哲学の底辺」なのである,ということである。

 別の個所でも,『武道講義第3巻 武道と認識の理論V』が引用され,「哲学とは,『全世界を自らの手のひらに載せること』です。すなわち,全世界=森羅万象を自分の掌を指すがごとくの容易さで論理的に説くことです」「哲学とは,全世界=森羅万象の論理を自家薬籠中の物と化すことである」などと,中学生向きに説かれた後,『南郷継正 武道哲学・著作 講義全集』第6巻からの引用という形で,次のような学問(哲学)の概念規定が紹介されている。

「学問というものは,自然・社会・精神として存在している現実の世界の歴史性,体系性を観念的な実体の論理性として構築し,その内実の歴史的構造性を理論レベルで体系化することである。  南郷継正

 学問とは,客観的絶対精神の実体レベルでの発展形態である自然から社会へ,そして社会から精神への歩みを,主観的精神の絶対精神から絶対理念までの発展的自己運動として捉え返して体系化することにある。〔ヘーゲルが哲学を完成していたら書いたであろう概念規定〕」(p.193)


 このような厳しい厳しい哲学レベルの内容が,本書ではいたるところで説かれているのである。

 さて本稿では,以上のような哲学レベルで説かれている内容について,3つに分けて説いていくことにしたい。初めに,学問的な実力をしっかりと身につけるためには,原点から,その学問の辿ってきた過程を辿り返す必要がある,とされている点を取り上げる。次に,弁証法の基本について,特に,『弁証法はどういう科学か』旧版のあとがきについて説かれている内容を確認したい。最後に,認識の成立と社会の関係性について説かれていることをしっかりと理解できるようにしたい。

 最後に,本書の目次を現代社のサイトから引用しておく。

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なんごうつぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(4)


【 第1編 】 学問的に説く 「脳とは何か」

第1章 学問の歴史における頭脳活動の究明の過程性を説く

 第1節 「認知症予防」 に関する研究者の見解を問う
 第2節 人間の認識の歴史性を説く
 第3節 学問 ・哲学の歴史に学ぶことの意義を説く

第2章 弁証法の学びの構造を 「脳とは何か」 から説く

 第1節 論理的な頭脳活動が可能となる実力とは
 第2節 弁証法の実力は論の展開にその実態が現われる
 第3節 正常な頭脳活動のための二つの条件を説く
 第4節 脳は体全体の統括のための中枢器官である
 第5節 「いのちの歴史」 をふまえた脳の実体論から 「認知症予防」 を説く

【 第2編 】 哲学の成立の過程的構造を説く

第1章 哲学の形成の過程的構造を説く

 第1節 「学問への道」 「武道への道」 措定を弟子たちに
 第2節 一流を目指すには哲学 ・学問に関わる基礎的教養が必要である
 第3節 哲学 ・学問の概念をその成立の起源から説く
 第4節 学問体系としての哲学から個別科学の分化へ
 第5節 人類文化の最高形態としての哲学への研鑽過程を説く
 第6節 哲学の歴史的研鑽過程を分かる実力を身につけるために

第2章 哲学の形成の歴史的研鑽過程を説く

 第1節 「学問への道」 に必須の 「論理能力」 と 「大志」 を説く
 第2節 学問形成には学問力の基礎的研鑽が必要である
 第3節 学問 ・哲学は原点からの歴史性に学んでこそ措定できる
 第4節 学問 ・哲学はその発達史を一身の上にくり返すことが必然である
 第5節 ヘーゲルの説く 「学びの道」 の意義を説く
 第6節 武の道の育成過程は 武術の歴史の発達過程を一身の上にくり返すこと
      が必要である

【 第3編 】 認識の成立の過程性を説く

第1章 頭脳活動の究明の過程性を説く

 第1節 体系性を持った書物からの学びとは
 第2節 心理学の発達史を説く
 第3節 「いのちの歴史」 に 「ココロの歴史」 の起源がある
 第4節 心理学の誕生の基盤を説く

第2章 頭脳活動の育成の過程性を説く

 第1節 「アタマ」 と 「ココロ」 は育ちの中で創られる
 第2節 胎児期の実体の形成とその機能とは
 第3節 夢は社会 (環境) を反映して形成される
 第4節 哲学 ・学問 ・弁証法の学びの大事性を説く

第3章 認識の成立と社会の関係性を説く

 第1節 認識の原風景を形成する小社会とは
 第2節 夢としての像は社会 (環境) 的な反映を原基形態として描かれる
 第3節 像の内実=構造の成立過程を説く
 第4節 「認識とは五感覚器官を通して脳に描かれた像である」 とは
 第5節 感覚 ・感情 ・感性,像の重層化の過程を説く
 第6節 心の世界の発展を育む教育過程を説く

【 第4編 】 論理学から説く弁証法と認識論

第1章 弁証法の歴史的過程を説く

 第1節 弁証法の誕生からの変化・発展の過程を説く
 第2節 古代ギリシャで誕生した学問を創出する実力を養成するための弁証法
 第3節 弁証法の過程的構造への学びを説く
 第4節 「弁証法は自然 ・社会 ・精神の一般的な運動に関する科学である」 とは

第2章 認識論の歴史的過程を説く

 第1節 「弁証法と認識論の現象学 ・構造学」 とは
 第2節 “夢”講義に学ぶ心理学の真の発達史とは
 第3節 感性的認識の発展における過程的構造

第3章 弁証法の学びの構造を説く

 第1節 弁証法を学ぶための書物は新しいものが正しいとはいえない
 第2節 旧版 『弁証法はどういう科学か』 の 「あとがき」 に説かれていた重要な内容
 第3節 『弁証法はどういう科学か』 に学ぶとは

【 第5編 】 論理学の過程的構造を説く

第1章 世界観から 「哲学とは何か」 を問う

 第1節 季節の変化に応じて形成される感覚像 ・感情像
 第2節 弁証法に関わる基本の学習を説く
 第3節 世界観から論じる2つの正しい 「筋道(すじみち)」 とは
 第4節 観念論の立場から説く 「哲学とは何か」
 第5節 弁証法的唯物論の立場から説く 「哲学とは何か」

第2章 論理学の歴史性を説く

 第1節 学問の歴史性から説く 「現象学・構造学」
 第2節 学問は現象論 ・構造論 ・本質論としての体系性を持つ
 第3節 弁証法の学びの基本を説く ―〔本節から弁証法を武道で説く〕

第3章 論理学から 「心」 の論理構造を説く

 第1節 頭脳活動の形成過程への学びを問う
 第2節 技の形成に関わる過程性の構造を問う
 第3節 「心」 に関する専門家の見解を問う
 第4節 「心」 と 「気」 の論理構造とは

【 第6編 】 弁証法の過程的構造を説く

第1章 人間の一般的な生成発展の構造を説く

 第1節 人間体の形成に関わる過程性の構造を問う
 第2節 個としての人間の生成発展の過程的構造を問うことが必要である

第2章 生成発展の論理構造を説く

 第1節 人類の歴史性を問う意義とは
 第2節 物自体の生成発展の論理構造を解く
 第3節 人類の発展にとっての精神的文化の発展の意義
 第4節 「“夢”講義」 への学びの過程性

第3章 上達への過程的構造を説く

 第1節 体系化された書物と認識との相互浸透による学びの重層構造化とは
 第2節 上達への過程的構造を具体的に説く
 第3節 頭脳活動を創りかえる運動形態の創造とは
 第4節 「いのちの歴史」 から説く 「人間にとっての運動とは」

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2017年08月22日

ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う(5/5)

(5)教育の必要性と可能性の論理を学ぶべきである

 本稿は『人間不平等起原論』を取り上げ、それが『学問芸術論』からどのように発展しており、どのような歴史的意義をもっているのか、またそこから学ぶべきものは何か、とりわけ教育学の構築に向けて掬い取るべき論理は何かを明らかにしようとするものです。

 ここでこれまでの流れを振り返ってみましょう。

 最初に、ルソーが自然状態において人間はどのようなものであると説いているのかを確認しました。ルソーは理性に先立つ2つの原理として、安寧と自己保存の欲求(自己愛)、そして、憐れみという内的衝動(憐憫の情)があるのだと説いています。つまり、人間は自分自身を大切にしようとする傾向と、相手を大切にしようとする傾向という2つの対立する傾向をもつ矛盾した存在なのだということでした。そして、これこそ『学問芸術論』で強調されていた良心の声の源泉であるということでした。ただし、このような2つの原理は動物一般に当てはまるものですから、人間のみに当てはまる原理は何かということを見ていきました。これについて、ルソーは人間の行為は本能に基づくのではなく自由行為であること、さらに、自己を改善(完成)する能力があること、この2つを挙げていたのでした。こうした人間観でもって、自然状態では人間は相争う状態にあったというホッブズの主張を批判しているのでした。自然状態では自分の生活を営むために必要な物資はごく限られていたため(それだけ欲求が小さかったため)他者の生活を害することは最も小さかったし、また憐れみの情があるために他者を虐げてまで自らの幸福を追求しようとする気持ちは和らげられたはずだというのでした。

 続いて、このような自然状態の人間がどのようにして変質していったのかを見てきました。自然状態においては個々人がバラバラで生活していたけれども、共同利害に基づいて集合する中で、他者に認められたいという欲求(自尊心)が新たに生まれるようになったということでした。次いで、冶金や農業が行われるようになり、その社会の中での私有が認められるようになると、自然的素質に恵まれたものがより多くの財産を獲得するようになり不平等が成立したのでした。そこから次第に、他人を見下ろしたい(=他者から大きな尊敬を受けたい)という欲求が生まれ、必要以上に財産を増やそうとするようになった、また財産や財産を獲得するための自然的素質をもっているふりをするようになったのだということでした。つまりは、欲求の拡大の中で存在と外観のズレが生まれたのだということでした。そもそも存在(本質)と外観(現象)のズレということは、上流階級のあり方としてルソーが『学問芸術論』で批判していたものでしたが、そのようなあり方がどのようにして生まれてきたのかという問題意識がここに明確に現れているということでした。

 最後に、富者と貧者が生まれた後、社会や法律がどのようにして成立したのかという点についてルソーの見解を見てきました。他人を見下ろしたいという欲求から、必要以上に財産を増やそうという欲求は所有する土地の拡大を伴うものであったため、やがて他者の土地とぶつかることになったのでした。そうすると、貧者は生きていくために富者に従うか、あるいは富者から奪うかをしなければならなくなり、一方、富者は、支配することを体験すると、その快楽からより隣人たちを征服し、隷属させようとしたために、無秩序な戦闘状態が生まれたのだということでした。このような戦闘状態は、富者にとって大きな負担となるものであったこと、また、自分たちの財産は力によって獲得されたものである以上、力によって剥奪されても文句を言うことはできなかったということ、この2つの理由から、富者は「もっともらしい理由」をつけて自らの支配を正当化し、団結を促して、戦闘状態を食い止めようとしたのだ、これが社会や法律の起原なのだということでした。一方で、貧者も仲裁者や主人なしには自分の自由を確保できなかったため、この呼びかけに応じたのであり、あくまでも自分の自由の確保のために社会や法律の成立を認めたのだということでした。この点こそ、ルソーが最も強調したところであることを確認しました。

 ここまでルソーが『人間不平等起原論』でどのようなことを説いているのかを見てきました。『学問芸術論』からの発展ということで言えば、社会的に認められたいという欲求に従うのではなく、自らの良心の声に従って生きるべきだという主張が「自由」という概念で把握された点が挙げられるでしょう。ルソーは当時の上流階級のあり方に対するアンチテーゼとして、人間のあるべき姿、人間の本質を「自由」という形で把握することになったのです。そして、この自由の実現という観点から社会や法律の成立の意味を説こうとしたことは、自らの人間一般論で人間の歴史に筋を通そうとしたものであり、非常に学問的なアタマの働かせ方であったと言えるでしょう。

 このような把握が後にヘーゲルへと受け継がれていくことになります。ヘーゲルはこの世界の歴史を絶対精神の自己運動の過程として捉え、その中でも人間の歴史を(絶対精神の本質である)自由が実現されていく過程として捉えたのですが、そのベースとなる「人間は自由である」という人間観はまさにルソーから受け継いだものだと言えるでしょう(注)。

 また、その中身に目を向けると、欲求の拡大という視点で人間の歴史を把握しようとしている点が注目に値すると言えるでしょう。自然状態においてはごく限られた欲求しかなかったため、自己の生活の維持が他者の生活を脅かすようなことはなかったのですが、他者との関わりが生じてきて自らの生活のあり方が変化するに伴って、その欲求が徐々に拡大していったのだとルソーは説いています。ルソーはこのような欲求をマイナスとして捉えているようにも感じられますが、これはもう少し抽象化して捉えるならば、生活の変化とそれに伴う社会的認識の変化・発展に目を向けているということです。このように、ルソーの指摘は社会的認識の変化・発展として捉える南郷学派の歴史観につながるものだと言えるでしょう。

 このように、人間の歴史の見方について、その後のヘーゲルや南郷学派の主張につながる基本的な枠組みを提示したものがこの『人間不平等起原論』だと言えるでしょう。

 もっともそこには限界も存在しています。例えば、ルソーは人間には自己保存の欲求と憐れみの情があると主張していますが、なぜこのような相対立する傾向をもつのかは明らかにされていません。これがあることが前提として議論が進んでいます。「自然状態における人間は、…たとえ親子であっても一緒に生活することはなかったのだ」ともありますが、本当にそう言えるのかも疑問に感じるところです。また、なぜ人間だけが本能による支配を受けず自由なのかという点についても説かれていません。ここを説くためには、そもそも生命体がどのようにして誕生したのか、またその生命体はどのような過程を経て人間へと至ったのかを解明することが必要になります。進化論がまだ唱えられていなかった時代において、ルソーがその解明にまで至らなかったのは当然だと言えるでしょう。この点については、すでに『看護のための「いのちの歴史」の物語』が発刊されている現代において、筆者自身が取り組んでいかなければならないものだと考えています。

 では、教育学の構築に向けては、『人間不平等起原論』からどのような論理を掬い取るべきなのでしょうか。端的に言えば、教育の必要性と可能性についての論理をここでしっかり把握しておくべきだと言えるでしょう。

 ルソーは人間は本能に従うのではなく自由な存在なのだと主張していました。予め定められた本能に従うのではなく自由であるからこそ、人間は外界の変化に対応する形で自らをより発展させていくことができるわけです。このように人間には自らを改善する能力があるということもルソーが掲げた人間観の1つでした。自らを改善する能力があるからこそ、人類というレベルで捉えるならば、歴史を形成することが可能になるわけです。つまり、時代が経つにつれて、どんどん文化遺産を積み上げていくということです。したがって、新しい時代に生きる人間に対しては、その文化遺産を継承させる必要が生まれてきます。そうでなければ、歴史を前に推しすすめていくことができません。ここに教育の必要性が生じてくるのです。

 一方、教育の可能性とはどういうことでしょうか。人間は自らを改善していく能力があるということを、個の人間に着目して捉えるならば、どんどん成長していく可能性をもっているということです。このような可能性をもった存在であるからこそ、教育が成立しうるのだということです。これが教育の可能性ということです。

 このように、教育の必要性と可能性についての基本的な論理(人間観)を提示したことが教育学の観点からは評価することができるでしょう。筆者自身の教育学体系の中にもこのようなルソーの論理をしっかりと取り込んでいきたいと思います。

(注)
もっともルソーとヘーゲルにはその自由がどのようにして実現するかという捉え方については、相違点もあります。ヘーゲルはルソーの『人間不平等起原論』の記述を引用して、次のように指摘しています。

「『根本的な課題はこうである。各人の生命と財産を全体的な共同の力で保全し保護するとともに、全体とむすびつく各個人が自分以外のだれにも服従せず、自然状態にあったときとおなじように自由であるような、そういう結合の形式を見出すこと。それが社会契約の解決すべき課題である。』社会契約とはこのような結合のことであり、各人は自分の意思で契約をむすぶことになります。抽象的に表現されるかぎりで、この原理はまことに正当なものです。が、一歩踏みこむと、すぐにあいまいな点が見えてくる。人間が自由である、というのは、いうまでもなく、人間の実体をなす本性であって、その本性は国家のなかで放棄されるどころか、むしろ、国家のなかではじめて現実に形成される。本性上の自由や自由の資質といったものは現実の自由ではなく、国家によってはじめて自由は現実化するのです。」(ヘーゲル、長谷川宏訳『哲学史』(下巻)p.371、河出書房、1993年)

 つまり、ルソーは、人間はもともと自由であり、それが侵されないような国家の在り方を考えなければならないという主張であったのに対して、ヘーゲルは国家の中でこそ人間の自由は実現するのだと主張しているのです。
 このように自由の実現における国家の役割という点については両者の間に相違点がありますが、そもそも人間は自由なのだと捉える点は共通しているといえるでしょう。
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2017年08月21日

ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う(4/5)

(4)ルソーは社会の成立を自由の確保のためだと捉えた

 前回は、社会的な不平等がどのようにして生まれてきたのかについてルソーがどのように説いているのかを見ました。自然状態においてはバラバラに生活していた人間は、共同利害に基づいて社会を形成するようになり、その中で他者に認められたいという欲求が生まれてきたのでした。やがて、冶金や農業が行われるようになると、私有が生まれ、自然的素質のめぐまれたものはより多くの財産を形成するようになり、社会的な不平等が生まれたのだということでした。さらに、他人を見下ろしたい(これは逆に言えば他者から大きな尊敬を受けたいということでもあります)という欲求から、必要以上に財産を増やそうという欲求が生まれてくることとなったのだということです。このような社会では、財産や財産を獲得するための自然的素質をもっているふりをすることが求められるために、実際の自分とはちがったふうに見せるようになったのだということでした。このような把握の背後には、当時の上流階級のような人間がどのようにして生まれてきたのかという問題意識があるということでした。

 このような富者と貧者が生まれた後、強者と弱者、さらには主人と奴隷という不平等が生まれてきたのだとルソーは説いています。その過程の中で社会や法律が生まれてきたとしているのですが、今回はこの社会や法律がどのようにして生まれてきたのかという点を中心に見ていきたいと思います。

 前回紹介したように、格差の中にあって、人々は他人を見下ろしたいという欲求から、必要以上に財産を増やそうという欲求をもつようになったのでした。これは当然所有する土地の拡大を伴うものですが、やがて他者の土地とぶつかることになります。こうして利害の対立が生まれ、無秩序な戦闘状態が生まれたのだとルソーは説いています。

「相続財産が数においても範囲においても増大して地面全体を蔽い、すべてがたがいに接触するほどになったとき、ある者は他の者を犠牲にしないではもはや拡大することはできなくなってしまった。そして無力なためか、または無頓着なために自分の相続分を手に入れることができなくて相続者の数から漏れた者たちは、周囲では、すべてが変るのに彼らだけはいっこうに変らなかった自分は何も失わないのに貧乏になり、やむをえずその生活の資料を富者の手からもらうか奪うかしなくてはならなかった。そしてそこから人それぞれのさまざまな性格に従って、支配と屈従、あるいは暴力と掠奪が生れはじめた。富める者のほうでも、支配することの快楽さを知るようになると、たちまち他の一切の快楽を軽蔑した。そして新しい奴隷を服従させるために古い奴隷を使い、こうして隣人たちを征服し、隷属させることしか考えなかった。(中略)このようにしてもっとも力の強い者、またはもっとも貧困な者が、その力または欲求を、他人の財産に対する一切の権利―彼らによれば所有権と等価なもの―としたので、平等が破られるとともにそれに続いてもっとも恐ろしい無秩序が到来した。」(pp.102-103)


 つまり、貧者は生きていくために富者に従うか、あるいは富者から奪うかをしなければならなくなったということです。一方、富者は、支配することを体験すると、その快楽からより隣人たちを征服し、隷属させようとしたのだということです。こうして、無秩序な戦闘状態が生まれたのだということです。

 このような戦闘状態は、富者にとって大きな負担となるものでした。また、自分たちの財産は力によって獲得されたものである以上、力によって剥奪されても文句を言うことはできない理屈になります。

 そこで、富者は戦闘状態を食い止めるとともに、自らの支配を正当化するために、次のように述べて団結を促したのだとしています。

「弱い者たちを抑圧からまもり、野心家を抑え、そして各人に属するものの所有を各人に保証するために団結しよう。正義と平和の規則を設定しよう。それは、すべての者が従わなければならず、だれをも特別扱いをせず、そして強い者も弱い者も平等におたがいの義務に従わせることによって、いわば運命の気紛れを償う規則なのだ。要するに、われわれの力をわれわれの不利な方にむけないで、それを一つの最高の権力に集中しよう、賢明な法に則ってわれわれを支配し、その結合体の全員を保護防衛し、共通の敵を斥け、われわれの永遠の和合のなかに維持する権力に。」(pp.105-106)


 このように、富者は「もっともらしい理由」(p.105)を述べて、法を制定し、自らの支配を正当化したのだと主張しています。このようにして社会および法律は成立したのだというのです。

 一方で、貧者も仲裁者や主人なしには自分の自由を確保できなかったため、この呼びかけに応じたのだとしています。この「自分の自由の確保」という点こそ、ルソーが最も強調したところであり、次のように述べています。

「人民たちのほうがまず最初に絶対君主の腕のなかへ無条件に、かつ、永久的に身を投じたとか、共通の安全に備えるために、誇り高く、屈服をよせつけない人々が思いついた最初の手段が、奴隷状態のなかへ飛び込んでゆくことであった、などと信ずることも同じく道理に合った話とはいえまい。(中略)人民たちが首長を自分たちのために設けたのは、自分たちを奴隷とするためではなく、自分たちの自由を守るためであったということは異論のないところであり、またそれは、一切の国法の根本的な格率である。」(p.111)


 このように、社会やその社会の首長はあくまでも人々の自由を守るために創られたものであったということです。しかし、それが専制的な権力へと変化し、主人と奴隷との状態が容認されるに至ったのだ、これが不平等の行き着く先なのだとルソーは主張しているのです。

 前々回で紹介したように、ルソーは人間が他の動物とは異なる点は自由であり、自由こそ人間の本質であると考えたのでした。その人間の歴史において生まれた社会も、あくまでもその自由を確保するためのものとして成立したのだと捉えたのです。このように、社会の成立に対するルソーの把握には自らの人間観が貫かれているのだと言えるでしょう。
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2017年08月20日

ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う(3/5)

(3)ルソーは欲求の拡大の中で人間は本当の自分とは違ったふうに見せるようになったと説いた

 前回はルソーが人間をどのような存在として捉えたのかを見てきました。端的には、他の動物との共通性として自己保存の欲求と憐憫の情をもった存在であり、また人間としての特殊性としては予め定められた本能ではなく自らの意志に従って行動すること(自由)、したがって個としても人類としても自己を改善していく能力があるのだということでした。このような人間観に基づいて、自然状態における人間は争いが絶えない状態であったと主張するホッブズを批判していたのでした。

 自然状態において社会的および政治的不平等はほとんどなかったとルソーは主張しています。では、どのような過程を経てこの不平等が生まれてきたのでしょうか。今回はこの点についてルソーがどのように説いているのかを見ていきましょう。

 自然状態における人間は、個々が自己保存の感情に基づいて行動するだけであり、たとえ親子であっても一緒に生活することはなかったのだとルソーは説いています。生活の中では同じ果実を食って生きようとした動物との競争があったり、自分自身の命を奪おうとする凶暴な動物がいたりして、人間はそうした困難を乗り越えていかなければなりませんでした。その結果、動物を罠にかけたりする方法を学び、人間は他の動物に対する優越性を自覚するようになっていきます。つまり、自分たちは他の動物たちよりも優れているのだと考えるようになったのだということです。これが個人としても第一位を要求する心構えを生んだのだとしています。つまり、同じ人間の中でも自分の方が優れているのだという気持ちをもつことにつながっていったということです。

 人間はもともと他の同胞と交渉をもちませんでしたが、共通の利害関係から同胞の援助を頼らなければならない場合が出てきました。こうしたつながりは当初、その利害が存在する間の一時的なものにすぎませんでした。

 やがて固定した住居が作られ、家族が形成されるようになると、夫婦愛や父性愛が生まれるなど、心情の最初の発達がなされたのでした。こうした相互の愛着に基づく1つの小さな社会が形成されたのです。女性達は家と子どもを守る事に専念し、男性はみんなの生活資料を探しに行くという社会的分業が成立すると、生活を維持する労力が減ったため、これまでより多くの余暇をもつことができるようになりました。

 しかし、こうした生活によって、人々は以前に比べて身体と精神が柔弱になり、以前ほど野獣と戦うのに適しなくなっていきます。そこで、人々は野獣に抵抗するために集合することを覚えたのだというのです。たえず隣りあっているそれぞれちがった家族の間に結びつきが生まれたのです。

 人々は小屋の前や大木のまわりに集まり、(恋愛と余暇の結果生まれた)歌謡と舞踊を楽しむようになります。そして、その中で最も上手く歌ったり踊ったりする者、あるいはもっとも美しい者などが尊敬を受けるようになります。こうして公の尊敬を受けることが1つの価値をもつようになり、各人は他人に注目し、自分も注目されたいと思うようになります(自尊心の成立)。逆に軽蔑に対しては猛烈な復讐をするようになりました。これが多くの未開民族が到達していた段階だとルソーは説いています。この時期は以前よりも我慢力が弱くなり、自然の憐れみの情はすでに多少の変質を蒙っていたけれども、原始状態ののんきさと現在の我々の自尊心の手に負えない活動とのちょうど中間に位して、もっとも幸福な時期だったとしています。

 しかし、冶金と農業が行われるようになると、この状態が大きく変化したとルソーは述べています。特に農業に関して見てみると、まず土地の耕作から土地の分配が起こると、その土地で耕作したものに関しては耕作した者の私有になることが認められるようになりました。その結果、もっとも強い者はより多くの仕事をし、もっとも器用な者は、自分の仕事をより巧みに利用し、もっとも利口な者は労働を省く手段を発見するようになり、同じように働きながらも、ある者は実入りが多いのに、他の者はかろうじて生きるという状態が生まれることになりました。ここでは自尊心(利己心)が利害に目覚め、本当の必要からではなくむしろ他人を見下ろしたいために自分の不十分な財産を増やそうとすることとなったのだというのです。

 このような状況では、財産や財産を生み出すことにつながる体力、器用さなどの素質が人々の尊敬を引き寄せることのできるものであったため、それをもっていることや、それをもっているふりをすることが求められるようになります。つまり、自分の利益のために、実際の自分とはちがったふうに見せることが必要となるのであり、こうして「有ること(存在)と見えること(外観)がまったくちがったものになった」(p.101)のだとルソーは説いています。つまり、本当の自分とは違ったふうに見せるようになったということです。

 以上の過程を簡単にまとめるならば、まず当初は個々人がバラバラで生活していたけれども、共同利害に基づいて集合する中で、他者に認められたいという欲求が生まれるようになったということです。次いで、農業が行われるようになり、その社会の中での私有が認められるようになると、自然的素質に恵まれたものがより多くの財産を獲得するようになり不平等が成立したということです。そこから次第に、他人を見下ろしたい(これは逆に言えば他者から大きな尊敬を受けたいということでもあります)という欲求が生まれ、必要以上に財産を増やそうとするようになったのだということです。また、財産や財産を獲得するための自然的素質をもっているふりをするようになったのだということです。つまりは、欲求の拡大の中で人間は本当の自分とは違ったふうに見せるようになった(存在と外観がちがったものになった)のだということになるでしょう。

 
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2017年08月19日

ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う(2/5)

(2)ルソーは人間は自由であり自己を改善する能力をもつと捉えた

 本稿は『人間不平等起原論』を取り上げ、それが『学問芸術論』からどのような発展があり、どのような歴史的意義をもつのか、またそこから学ぶべきものは何か、とりわけ教育学の構築に向けて掬い取るべき論理は何かを明らかにしようとするものです。

 『人間不平等起原論』の正式なタイトルは「人間の間の不平等の起源と基盤についての論文」でした。この問いの背後には、もともとは人々の間には不平等がなかったのに、それが徐々に徐々に現れてきたという認識が伺えますし、実際、ルソーもそのような説き方をしています。ルソーは不平等を自然的または身体的不平等と、社会的あるいは政治的不平等とに分けているのですが、原始状態(ルソーはこれを自然状態と呼んでいます)においては存在しなかった社会的あるいは政治的不平等が、どのような過程を経て誕生してきたのかという流れで説明しています。

 今回は、社会的あるいは政治的不平等が生まれてくる以前の自然状態において、人間はどのようなものであったと説かれているのかを見ていきたいと思います。

 ルソーは序文の最後において次のように述べています。

「人間の魂の最初のもっとも単純なはたらきについて省察してみると、私はそこに理性に先立つ二つの原理が認められるように思う。その一つはわれわれの安寧と自己保存とについて、熱烈な関心をわれわれにもたせるものであり、もう一つはあらゆる感性的存在、主としてわれわれの同胞が滅び、または苦しむのを見る事に、自然な嫌悪を起させるものである。じつは、このほかに社交性の原理などをもってくる必要は少しもなく、右の二つの原理を、われわれの精神が協力させたり、組み合わせたり、できることから、自然法のすべての規則が生じてくるように思われる。」(p.31)


 ここでルソーは理性に先立つ2つの原理として、安寧と自己保存の欲求(自己愛)、そして、憐れみという内的衝動(憐憫の情)があるのだと説いています。少し言葉を変えるならば、自分自身を大切にしようとする傾向があるとともに、相手を大切にしようとする傾向があるのだと言えるでしょう。このように、人間は2つの対立する傾向が統一された存在なのだと説いているのです。これは非常に弁証法的な見方だと言えるでしょう(この憐憫の情に関しては、その後のスミスの「共感の原理」ともつながりをもっていると思われます)。

 また、『学問芸術論』では、社会で認められたいという欲求に従うのではなく、自らの良心に従って行動すべきだと説いていましたが、その良心とは一体何のことを指すのか、どこにその源泉があるのかは明らかにされていませんでした。しかし、このように人間の魂がもつ2つの原理を掲げることで、良心の声が生まれてくる源泉を明らかにしたのだとも言えるでしょう。

 しかし、このような2つの原理は必ずしも人間のみに当てはまるものではなく、他の動物も持ちうるものだとルソーは言います。つまり、人間の特殊性を捉えたものないということです。では、ルソーは人間と他の動物との違いをどのように捉えているのでしょうか。これについては、次のように述べています。

「私はどんな動物のなかにも精巧な機械しか見ない。すなわちこの機械は自分で自分のねじをまくように、またこれを壊したり狂わしたりしそうなあらゆるものからある点まで身を守るために、自然から感覚というものを授かっている。私は人間機械のなかにも確かに同じものを認める。ただ、禽獣の行動においては自然だけがすべてを行なうのに対して、人間は自由な能因として自然の行動に協力するという点がちがっている。一方は本能によって、他方は自由行為によって、択んだり斥けたりする。」(pp.51-52)


 つまり、動物は本能によって機械のように精密に動くし、人間もそういう側面はあるけれども、人間の場合は自らの意志に基づいて行動するのであり、その意味で人間の行為は自由行為なのだということを説いているのです。『学問芸術論』において、自らの良心の声に従って生きることこそが人間としてのあり方だと捉えられていましたが、そのあり方が「自由」という概念で捉えられるようになったのだと言えるでしょう。

 さらに、人間と他の動物との違いとしてもう1点挙げています。

「もう一つ、両者を区別して、なんらの異議もありえない、きわめて特殊な特質が存在する。それは自己を改善(完成)する能力である。すなわち、周囲の事情に助けられて、すべての他の能力をつぎつぎに発展させ、われわれのあいだでは種にもまた個体にも存在するあの能力である。これに対して、動物は数ヶ月の後には一生涯そのままであるようなものになり、またはその種は千年たってもその千年の最初の年にそうであったままで変らない。」(p.53)


 つまり、人間は自己を改善(完成)する能力があるけれども、他の動物にはそれがなく、個体としても種としてもいつまでも変わらないということです。

 これは結局、第一の違いとつながるものだと言えるでしょう。人間以外の動物は本能という決められたプログラムに従って動くだけであり、このプログラムそのものが変わることはありません。だからそこに発展性はありません。しかし、人間は自らの意志に基づいて自由に行動するのであるから、その意志が発展すれば、自らのあり方も発展するし、人類全体としても発展していくことになるのです。

 以上の人間観でもって、自然状態における人間のあり方についてルソーはホッブズの見解を批判しています。ホッブズは自然状態においては、人々は自らの生活を維持するために、互いに相争う状態になるのだと主張していました(万人の万人に対する闘争)。しかし、人間の本質を踏まえれば、そんなことはあり得ないとルソーは主張するのです。

 第一に、人間の欲求(意志)が次第に発展していくものであるならば、自然状態における欲求は非常に小さなものだということになります。したがって、自分の生活を営むために必要な物資はごく限られたものでよく、それが他者の生活を害することはほとんどないというのです。「自然状態とはわれわれの自己保存のための配慮が他人の保存にとってもっとも害の少い状態なのだから、この状態は従ってもっとも平和に適し、人類にもっともふさわしいものであった」(p.70)と書いています。

 第二に、人間には憐れみの情があるということです。人間は同胞を苦しむのを見ることを嫌うのであり、この憐れみの情によって、自らの幸福を追求しようという熱情が緩和されるのだということです。だから、争いも極力避けられたはずだというのです。

 以上が自然状態における人間のありかたについてのルソーの見解です。このような自然状態の人間がどのように変質していくと考えているのかを次回から見ていきたいと思います。
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2017年08月18日

ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う(1/5)

○目次
(1)ルソー『人間不平等起原論』から何を学ぶべきか
(2)ルソーは人間は自由であり自己を改善する能力をもつと捉えた
(3)ルソーは欲求の拡大の中で人間は本当の自分とは違ったふうに見せるようになったと説いた
(4)ルソーは社会の成立を自由の確保のためだと捉えた
(5)教育の必要性と可能性の論理を学ぶべきである
―――――――――――――――――――――――――
(1)ルソー『人間不平等起原論』から何を学ぶべきか

 筆者は今年、ルソーの代表的な著作である『学問芸術論』『人間不平等起原論』『社会契約論』を読み進めていくことを課題としています。

 このようにルソーを扱うことを決めたのは、教育学の歴史において、ルソーが非常に重要な位置を占めていることが明らかになったからでした。ルソーは紳士と貧民という経済的な差異にとらわれることなく、つまり現象にまどわされることなく、その本質においては誰もが人間として同じであると主張したのでした。そして、どのような社会でも生きていけるように教育しなければならないとし、そのために主体的な人間であることが必要だと主張したのでした。このようなルソーの人間観・教育観が後世に引き継がれ、すべての人間に対して同じように教育を行う近代の義務教育制度が成立することとなります。このように、ルソーは教育学の歴史において1つの結節点となった存在なのです。

 したがって、教育学を志す者としては、ルソーの教育思想をしっかり理解することは必須の作業だと言えます。ただし、そもそもルソーは社会思想家とされる人物であり、社会全体の在り方を論じる中で教育についても言及しているわけですから、ルソーの思想全体を把握しておく必要があります。そこで、ルソーの代表的な著作を読み進めていこうとしたのでした。

 今年の3月には『学問芸術論』を扱いました。そこでは、ルソーの問題意識、ルソーの見方・考え方の特徴、ルソーの道徳観という3つの観点から中身を見ていきました。その内容を簡単に振り返っておきましょう。

 そもそもルソーは、聖職者や貴族が優雅に生活をする一方で、第三身分の人々が苦しむという社会格差に対して激しい憤りを感じていたということでした。平民たちの犠牲の上に上流階級の人間が学問や芸術を楽しんでいるということ、その貴族達が楽しんでいる学問や芸術は現実の社会の矛盾の解決には役だっておらず、上流階級の人間が互いに褒めあったり自慢し合ったりするだけの道具になっているということ、そういう現状に対して怒りを抱いていたのでした。このような社会の不平等を何とかしたいということがルソーの根本的な問題意識なのでした。

 そして、ルソーは上流階級の人間に対して「着飾っているだけ」「見せかけだけ」といった批判を行っていたのでした。つまり、現象としては立派だけれども、本質においては非常に貧しいのだということでした。このように現象と本質を区別すること、行動とその背後にある認識を区別して捉えることが対立物の統一であり、弁証法的なアタマの働かせ方なのだということでした。

 上流階級がなぜこうなってしまうのかと言えば、結局、社会の常識や価値観に従って、社会で認められたいという欲求にとらわれてしまうからだということでした。そうではなくて、自分が何をすべきか、どうすべきかということについて、自らの良心が教えてくれるのだから、その良心の声に従って生きるべきだと主張したのだということでした。このようなあり方は、他者からの評価を第一に考えるロックの道徳思想への批判としての意味をもつということでした。そして、ルソー自身も、自らの良心の声に従って、「学問や芸術は人間の習俗を堕落させた」という当時としては異端の説を唱えたのだということでした。

 このように振り返ってみると、『学問芸術論』は良くも悪くもルソーの問題意識がそのままストレートに出ている著作だと言えるでしょう。つまり、「こうあるべきだ!」というルソーの主張(結論)が感情的に打ち出されているということです。したがって、この主張を理論的に裏付けていく作業が必要になります。その作業に取り組んだ結果の1つが『人間不平等起原論』です。

 『人間不平等起原論』も、『学問芸術論』と同様、アカデミーの公募論文に応募してルソーが執筆したものです。正式なタイトルは「人間の間の不平等の起源と基盤についての論文」です。ちなみに、この論文は残念ながら落選してしまいます。この時に一位に選ばれたのはアベ・タルベールという人物の論文であり、この人物は前回の『学問芸術論』のときにも応募していて、次席となった宿命的な競争者でした。落選後、ルソーはこの論文を、祖国ジュネーブ共和国への長い献辞を据えて出版することになったのでした。

 『人間不平等起原論』はその比較的長い献辞のあと、短い序文、ほぼ同じ長さの二部に分かれた本論と、かなりの量にのぼる原注から構成されています。本論では第一部で自然状態の人間はどのようなものであったかを説き、第二部ではその自然状態から不平等がどのようにして生まれてきたかが説かれています。

 本稿ではその内容を見ていきながら、『学問芸術論』の頃に比べてどのような発展があり、どのような歴史的意義があるのか、またここから我々は何を学ぶべきなのか、とりわけ教育学の構築に向けて掬い取るべき論理は何かということを明らかにしていきたいと思います(なお、本稿で引用するものは本田喜代治・平岡昇訳『人間不平等起原論』(岩波文庫)です)。
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2017年08月17日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで,カント『純粋理性批判』の「原則の分析論」の緒言〜第2章第3節2の部分を扱ったわが研究会の2017年7月例会について,報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で,3つの論点について諸々に議論したプロセスを紹介してきました。

 7月例会報告の最終回となる今回は,参加していた会員の感想を紹介することにします。なお,次回8月例会は,『純粋理性批判』で説かれている純粋悟性の原則の3つ目である「経験の類推」の部分(pp.251-294)を扱います。

 それでは,以下,参加者の感想です。

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 今回は,カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の図式論,純粋悟性の全ての原則の体系の部分を扱った。

 カントが,カテゴリーを現象に適用するためには,先験的図式なるものが必要であると説いていること,また,綜合的判断の最高原則が,いかなる対象も可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件〔直観の形式即ち空間および時間,カテゴリーとカテゴリーによる統一,先験的統覚,時間における構想力の綜合によるカテゴリーの図式化〕に従うものであると説いていること,純粋悟性の原則に関して,三段論法を用いて証明していることなどが大雑把にではあるが理解できた。

 しかし,他会員が把握していたような中身に至らなかったという反省点もある。例えば,先験的図式なるものに関していえば,これが庄司和晃氏の三段階連関理論と重ねあわせて把握し得るようなものであるという把握は,他会員が共通して指摘していたことであるが,私には全くそういった理解ができていなかった。また,カントのいう「現象」というものの理解についても,私はこれが物自体が認識に表れたものだと理解していたのだが,他会員は皆,これはそういう認識に属するようなものではなくて,対象に属するものであるという理解をしていたのだった。

 ここ最近は,何度も例会の範囲を読み込んで,それなりの理解ができてきているという面はあるものの,やはりそれまでの部分が十分に理解できていないため,またそもそものカント哲学の素養がないため,あらぬ理解になってしまっているということが多々あるということだと思う。しかしこれこそ,集団力でもって学んでいく重要な意義の1つであるのだから,その利点をしっかりと生かしていけるようなアタマのあり方にしていく必要があると感じた。

 次回は純粋悟性の原則の1つである「経験の類推」という部分を扱う。報告者レジュメの担当に当たっているために,ここ数ヶ月以上の読み込みで,しっかりと内容を把握し,的確な論点を提示し,それに対する見解も筋を通したものとして提示できるよう,努力していこうと思う。

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 7月例会はチューターとして臨んだ。カテゴリーを現象に適用するためには図式が必要だと説いていること,一切の綜合的判断の最高原則は,いかなる対象も可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件にしたがうものであるとされていること,直観はすべて外延量であり,感覚の対象は度合いをもつことはア・プリオリに認識できること,などが説かれていることは,ある程度理解できたと感じている。

 当日の進行についても,それほど問題はなかったと考えている。ちょっとした会員のちょっとした言語表現から,大きく誤解しているのではないか,根本的なところを理解していないのではないか,と思われる点については,やや厳しく突っ込みを入れることができたと思う。また,純粋理性の原則の部分に関しては,時間規定に引き付けて理解しなければならないことを提起できた点もよかったと思う。

 ただ,『純粋理性批判』の大きな流れに,今回の部分を位置づけようとすると,今回の部分は純粋悟性概念の演繹とどう違うのか,カントは一体何を説明しようとしているのか,などなど,疑問がいくつも生じてくるのも事実である。毎回の例会では,その部分部分を理解することに必死になってしまって,全体の流れにおける位置づけなどはなおざりになってしまっていると感じる。それはいくぶんしかたのないことなのかもしれないが,初めからまた読み返してみるなどして,毎回の例会では議論できない大きな流れについて,自分なりに考え続けることもまた,必要だと感じている。

 今回,解説部分が非常に充実している中山元訳『純粋理性批判』(光文社古典新訳文庫)も購入したので,改めてこちらで初めから読み返すことも検討してみたいと思ったしだいである。

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 7月例会では,カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の図式論,純粋悟性の全ての原則の体系について論じられている部分を扱った。本来なら,徹底して読み込み,要約作業を行ってから論点への見解を作成したかったのだが,それはかなわず,ざっと通読したレベルで見解を作成したために(また,見解提示の起源に間に合わせるために),不十分なものしか書くことができなかった。それでも,当日の議論を通じて,大まかな内容は理解できたのではないかと思う。

 とりわけ,カントの図式論について,唯物論の立場からの把握と比較しながらの議論は興味深かった。感性的なものと概念的なものとは全く異質なように見えるが,両者が関連していることも否定はできない。それでは両者はどのように媒介されるのか――このことが,それこそ古代から一貫して問題になっていたといえるのではないか,とも考えさせられた。感性的なものと概念的なものとの関係は,対象(客観)と認識(主観)との関係とどのように関わってくるのか,というのも考えてみれば微妙な問題で,様々な解釈がなされてきた歴史があるのではないかと思う。このあたりをきちんと整理しきらなければ,真の唯物論哲学の構築など不可能であるといってよいだろう。カントの二元論,ヘーゲルの観念論,それから唯物論という3つの立場を比較するという意識で考察を深めていく必要性を改めて感じさせられた。

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 今回の範囲に関して,最初に読んだときには非常に難しいなと感じていたが,論点への見解作成に向けて何度も読み返す中で,おぼろげながら内容がわかってきたように感じていった。また,例会での議論をとおして,ある程度理解を深めることができたと感じている。

 とりわけカントの図式論について唯物論的な見解とはどう同じでどう異なるのかという点を検討したのがよかったと思う。感性的なものと概念的なものを区別している点は共通しているものの,カントの図式論においては,その2つが全く別個のものであり,だからこそその別個のものをつなぐための媒介(図式)が必要になるのだという主張がなされている。それに対して,唯物論の立場では,感性的なものの反映を繰り返す中で,その共通する部分が概念的なものとして形成されていき,あらたに感性的なものを目にしたとき,アタマの中にある概念的なものと結びつくのだという説明をする。この点を捉えると,確かに唯物論の立場の方が1つの筋をとおして説くことができるのだなと実感できた。やはりこういうレベルでカントの主張と唯物論の立場での主張を比較検討していくという作業が必要になるなと感じた。

 あと,反省点として,カントの記述を読んでふと思いついたことをレジュメなり見解なりに書いてしまっていたという点が挙げられる。しっかり読み込んで,前後の文脈を理解したうえで自分の見解を作成していかなければならないと思った。


(了)

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2017年08月16日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(9/10)

(9)論点3:直観の公理,および知覚の先取的認識とはどういうものか

 前回は,主として一切の綜合的判断の最高原則についてのカントの主張について,議論した内容を紹介しました。

 今回は,純粋悟性の4つの原則のうち,初めの2つの部分についての討論過程を紹介します。論点は,以下のようなものでした。

【論点再掲】

 カントは,純粋悟性の原則を4つ提示しているが,そもそも,純粋悟性の原則とはどういうものか。さらにカントは,「直観の公理」は「直観はすべて外延量である」(p.237)という原理であり,「知覚の先取的認識」は「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」(p.241)という原理であると述べているが,これらはそれぞれどういうことか。それぞれはどのように証明されているか。

 この論点に関しては,まず,そもそも,純粋悟性の原則とはどういうものかを確認しました。これについては,カテゴリーを客観的に使用する(現象に適用する)ための規則のことである,という理解で,ほぼ落ち着きました。

 次に,「直観の公理」は「直観はすべて外延量である」(p.237)という原理であると説かれているが,これはどういうことかについて議論しました。まず,外延量とは,空間・時間のある部分を占めているという意味であり,「直観はすべて外延量である」というのは,直観はすべて,空間・時間の一部を占めているという意味であろうということを確認しました。そのうえで,これがどのように証明されているのか,そのプロセスを議論しました。ここでチューターが,中山元訳『純粋理性批判』(光文社古典新訳文庫)の解説で,ここでの証明は三段論法によってなされているという指摘があることを紹介しました。そのうえで,ここの証明を以下のように整理しました。

大前提:
 すべての現象は形式的に見れば空間・時間における直観を含んでおり,現象が覚知されるためには多様なものの綜合が必要である

小前提:
 直観一般における同種的な多様なものの意識は,対象の表象を初めて可能にするが,この意識が外延量の概念である

結論:
 同種的な多様なものの合成の統一が量の概念において考えられる,すなわち,現象は全て外延量である


 ごく簡単にいい直すならば,すべての現象は,空間や時間における直観を含んでおり,直観は外延量であるがゆえに,全ての現象は外延量である,ということです。この見解に対しては,皆が,ほぼ,このような理解でいいのではないかと同意しました。

 最後に,「知覚の先取的認識」についての議論に移りました。これは,「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」(p.241)という原理であると説かれていますが,これはどういうことを意味するのか,ということです。ここに関してもまず,「知覚の先取的認識」とはそもそもどういうことなのかを確認しました。ある会員は,カントは,経験的認識に属するものをア・プリオリに認識し規定し得るような認識を先取的認識と名づけていると説明しました。すなわち,経験的認識なのだけれども,その経験に先立って,あることを認識しうるような,そのような認識を「先取的認識」と呼んでいるのだ,ということでした。これにはみなが同意しました。

 続いて,先の場合と同じく,チューターによって三段論法の証明が,以下のように提示されました。

大前提:
 知覚とは感覚をも含むような意識であり,知覚の対象としての現象は客観一般に対応する質料を含んでいる

小前提:
 感覚自体は客観的表象ではなく,外延量をもつものではないが,ある種の量=内包量を持つ

結論:
 感覚が内包量をもつ以上,これに対応して知覚のあらゆる対象にもまた内包量,すなわち感官に及ぼす影響の度合がある


 ここでいわれている内包量についても確認しました。内包量とは,感官に及ぼす影響の度合いのことであり,どこまでも漸減せられ得るようなもの(例えば色,熱,重力)である,ということでした。したがって先の三段論法は,簡単にいってしまうと,知覚は感覚を含み,感覚は内包量(度合い)をもつがゆえに,知覚の対象をなす実在的なものにも内包量(度合い)がある,ということだと確認しました。要するに,知覚の先取的認識とは,経験に先立って,対象が度を有することを認識している,ということです。これで皆の見解がほぼ一致しました。

 以上で,7月例会の論点に関する議論を,すべて終了しました。
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2017年08月15日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(8/10)

(8)論点2:一切の分析的/綜合的判断の最高原則とは何か

 前回は,純粋悟性の図式論に関わる論点について,どのような議論がなされ,どのような(一応の)結論に到達したのかを説きました。

 今回は,分析的判断,綜合的判断のそれぞれの最高原則に関わる論点です。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】

 カントは,「一切の分析的判断の最高原則」は何だと説いているか。また,カントの説く「一切の綜合的判断の最高原則」とはどういうものか。なぜそれが最高原則だと言えるのか。カントの説く認識成立の構造は,唯物論の立場からはどのように評価することができるか。

 この論点については,まず,一切の分析的判断の最高原則についての確認から入りました。これについては皆の見解が一致しており,一切の分析的判断の最高原則は矛盾律だということを確認しました。なぜ矛盾律なのかという理由については,分析的判断の真実は,常に矛盾律に従って十分に認識せられうるからとカントが説いていることを確認しました。

 次に,一切の綜合的判断の最高原則についての検討に移りました。これも大筋では皆の見解は同様の内容でした。すなわち,端的にいうと,「我々の一切の表象を含む総括者であるところの内感,構想力に基づく表象の綜合,および統覚の統一に基づく表象の綜合的統一」(p.230)という三者にこそ,純粋な綜合的判断の可能が求められるべきである,ということでした。もう少し詳しくいうと,以下のようになります。そもそも綜合的判断とは,与えられた概念に,その概念のなかからは出てこない別の概念を関係させて考察するものです。この場合,判断自体からは,この判断が真理であるか否かは明らかになりません。与えられた概念と他の概念を比較するには,これら2つの概念の綜合を可能にするような第三のものが必要になる,とカントは説いています。それは,我々の一切の表象を含む総括者である内感,構想力に基づく表象の綜合,および統覚の統一に基づく表象の綜合的統一の三者です。綜合的判断は,この三者を基礎にしなければ成り立たない(したがって,それが最高原則である),というのがカントの主張なのです。

 ここでチューターがある疑問を呈しました。それは,p.232では,「直観の形式即ち空間および時間,カテゴリーとカテゴリーによる統一,先験的統覚,時間における構想力の総合によるカテゴリーの図式化」とあるように,三者ならぬ四者になっているのはなぜなのか,先ほどの三者とここに挙げられた四者は,どのように対応しているのか,というものでした。単純に対応しそうなものを考えてみると,前者の「内感」と後者の「直観の形式即ち空間および時間」,前者の「統覚の統一に基づく表象の綜合的統一」と後者の「先験的統覚」が,対応しそうだということになります。そうすると残ったのは,前者の「構想力に基づく表象の綜合」と後者の「カテゴリーとカテゴリーによる統一」「時間における構想力の総合によるカテゴリーの図式化」ということになります。確かに構想力は,カテゴリーとも図式とも関係してきますから,前者の「構想力に基づく表象の綜合」が後者の「カテゴリーとカテゴリーによる統一」「時間における構想力の総合によるカテゴリーの図式化」という2つに対応すると考えてもいいのではないか,ということになりました。

 また,カントは「いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件〔直観の形式即ち空間および時間,カテゴリーとカテゴリーによる統一,先験的統覚,時間における構想力の綜合によるカテゴリーの図式化〕に従うものである」(p.232)と説いているが,ここでは,可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件に,対象をも従う必要がある,それこそが,一切の綜合的判断の最高原則であると説かれています。これはすなわち,経験=認識が可能となる条件は,直接に,対象が可能となる条件でもあり,これによって,ア・プリオリな綜合的判断が客観的妥当性を持つのだ,と主張しているように思われるとの見解も出されました。これについて他の会員も,そのような理解でいいのではないかと同意しました。

 カントの説く認識成立の構造についての唯物論の立場からの評価については,物自体は性質をもたないとしている点が批判されるべきであるということについては,見解が一致しました。ここに関して,分かりやすく説いている一会員の見解を示すならば,以下です。

「カントの主張は,例えば,石が水に投げ込まれると波紋が生じる,という総合的判断について,我々の一切の表象を含む総括者である内感(石が投げ込まれた後に波紋が生じたというように,時間という形式に従って順序付けられる),構想力に基づく表象の綜合(石が投げ込まれたということが原因となって波紋という結果が生じた,というように原因と結果というカテゴリーが適用される),および統覚の統一に基づく表象の綜合的統一(「私は……考える」というように自分の経験としてまとめる)の三者によって成り立つのだ,と主張するものであり,あくまでも主観的条件が対象(現象)を成り立たせているのであって,物自体の性質は把握しようがない(物自体は何の性質も持たない),ということを前提としています。しかし,唯物論の立場からすれば,物自体は性質をもつのであって,石が波紋を引き起こすのも,それぞれの客観的な性質に根拠があるということになるのです。」


 この見解には,皆が納得しました。

 唯物論の立場からの評価に関わって,ある会員は,カントの立場を人間の認識に対象が現象する際に認識の側から性質を与えると説明しました。これに対してチューターは,カントの言う「現象」とは,人間の認識に対象が現われることをいうのではなく,客観的世界の側にあるものを指す用語ではないか,と指摘しました。カントの立場では,物自体は認識できず,その現象しか認識できないとされているのだから,現象とは認識する対象の側の存在を指すのであって,認識の側を指すのではない,ということです。この説明にはこの会員も納得しました。

 以上で論点2についての議論を終了しました。

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2017年08月14日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(7/10)

(7)論点1:純粋悟性概念の図式論とはどのようなものか

 前回は,7月例会で扱った範囲を改めて要約し直した後に,会員から出された論点をチューターが整理して3つにまとめたものを紹介しました。

 今回からは,その3つの論点について,どのような議論がなされ,どのような(一応の)結論に達したのかについて,紹介していきたいと思います。

 今回は,カントのいう「純粋悟性の図式論」に関わる論点についての内容です。論点は,以下のようなものでした。

【論点再掲】

 カントは判断力に関して,「規則のもとに包摂する能力である」(p.210)と述べているが,これはどういうことか。また,カントは,カテゴリーを現象に適用するためには先験的図式が必要だというが,これはどういうことか。唯物論の立場からすれば,カントの図式論をどのように評価することができるか。具体的な例として,犬の認識がどのように成立するか,カントの説明と唯物論の立場からの説明を比較してみるとどうなるか。

 この論点に関してはまず,判断力とは何かということについて確認しました。これについては意見の相違はありませんでした。すなわち,判断力とは,普遍的な規則のもとに特殊な対象を包摂する能力であり,特殊な対象が普遍的な規則の適用を受けるかどうかを判断する能力である,ということです。もう少し端的にいうと,感性的直観における表象を,悟性に具わった純粋悟性において与えられる規則に取り込む働きであり,カテゴリーを現象に適用する働きのことであるということです。会員の一人は,カントの叙述にしたがって,判断力は,生得の知慧の特殊なものであり,教えることができるようなものではない点にも触れました。

 次に,先験的図式について議論しました。これは,カテゴリーと直観を媒介する第三のものであり,カテゴリーとも現象とも同種である先験的な時間規定がこれにあたるという点は,皆の共通認識でした。二人の会員はこれに加えて,図式が構想力の所産であることも指摘しました。ここに関わって,カントが,感性的概念(経験的概念)の根底には形像ではなく図式がある,と説いている点について,議論を深めました。まず,感性的概念(経験的概念)とは何かという点ですが,これは,カテゴリー以外の,先験的ではない概念のことだろうということになりました。また,形像とは,見たままの像,具体像のことだろうということで落ち着きました。これを踏まえて,感性的概念(経験的概念)の根底には形像ではなく図式がある,ということはどのようなことかを議論して,結局,対象の具体的なイメージから感性的概念に達することはできず,必ず図式が媒介とならなければならない,ということであろう,という結論になりました。要するに,カテゴリーと現象(直観),感性的概念(経験的概念)と形像を媒介するものは図式である,ということです。

 構想力と図式の関係についても議論しました。一会員が,カントは,図式についてそれが構想力に関わることを指摘するだけで,「人間の心の奥深い処に潜む隠微な技術」(p.218)だとして,明快な説明を放棄してしまっていると指摘しましたが,この点については,これ以上議論が深まりませんでした。

 最後に,唯物論の立場からすれば,カントの図式論をどのように評価することができるかについて議論しました。感性と悟性,現象とカテゴリーを全く別物として捉えてしまっている点が問題であるが,カテゴリーを現象に適用する際には,その媒介物が必要だと指摘した点は,概念と感覚を媒介するものとして表象的段階を措定した庄司和晃に通じるような見事な指摘ということもできるとか,カントのいわゆる図式は,ごく大雑把にいえば,対象についての感性的(具体的)なレベルの像と概念的(抽象的)なレベルの像とを媒介する表象的なレベルの像に相当するものであるといえるのではないかとか,図式とは唯物論的にいうと表象的認識に相当するとかいう見解が出されました。いずれも,カントのいう図式は,庄司和晃氏の三段階連関理論における表象と論理的に似通って性質をもっているのではないかという指摘でした。ただし,三段階連関理論のように,抽象度の違いとして3段階を統一的に把握するような視座はなく,まったく異種的な2つのものを結びつけるために,両方の性質を併せ持った第三のものを設定しただけという欠陥がありそうだという話にもなりました。

 ここをもう少し検討するために,犬の認識がどのようにして成立するのかを,カントの立場とわれわれの立場とで比較してみました。カントの立場では,ある特殊な個々の犬を見た場合,これを「犬」だと認識できるのは,犬という図式に従ってこの形像を犬という概念に結びつけることによってである,ということになります。すなわち,犬の形像が,ア・プリオリな純粋構想力の産物である図式(がカテゴリーを適用すること)によって可能となるのです。一方で,われわれ唯物論の立場から犬という認識がどのように成立するかを説くならば,個々の犬をくり返しくり返し認識することによって,それらの像の重なる部分と重ならない部分とが徐々に明確になってきて,その重なる部分が共通性として把握されるようになり,その重なる部分が徐々に表象から概念へと発展していくことになるのであり,その「犬」という表象や概念でもって対象に問いかけることで,その共通像にある程度合致する対象の像を「犬」と判断できる,ということになります。もう少しいうと,具体的な犬を対象として反映した場合に,その具体的な像が,犬の表象像を媒介として犬の概念像に結び付けられるということができます。このように検討してみると,やはりカントの図式論は,何かバラバラなものを3つ並べただけという印象がぬぐえないのに対して,われわれ唯物論の立場に立つ認識論においては,3つの段階が全て像の発展として,その像の抽象度の違いとして,統一的に把握されており,より一貫性のある論理であるということができる,ということを確認しました。

 以上で,この論点についての議論を終了しました。

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2017年08月13日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 これまで,4回にわたって『純粋理性批判』の7月例会の範囲の要約を掲載してきました。

 ここで,改めて,今回の範囲で大事な内容を簡単にふり返っておきたいと思います。

 初めにカントは,これから論究しようとする原則の分析論は,判断力に対する規準であるとして,その判断力とは,規則のもとに包摂する能力,何かあるものが与えられた規則の適用を受けるかどうかを判別する能力であると説いていました。そして,ある現象をカテゴリーに包摂する場合には,一方ではカテゴリーと,他方では現象とそれぞれ同種的であるような第三のものがなければならないとして,それを先験的図式であると説いていました。この先験的図式とは先験的時間規定のことであるとされていました。この先験的時間規定が,悟性概念の図式として,現象をカテゴリーのもとに包摂する媒介的な役割をはたすということでした。そして,悟性が図式を取り扱う仕方を図式論と名づけ,図式は構想力の所産だとされていました。また,形像は,これを描き出すところの図式を介してのみ概念と結びつかねばならないのであって,それ自体概念と完全に合致するものではないと説かれていました。さらに,カテゴリーの図式はいずれも時間規定を含みかつこれを表示しているとされていました。

 このように純粋悟性概念の図式論について説いた後,カントは純粋悟性の原則の体系としてまず,一切の分析的判断の最高原則について説いていきました。カントはそれを,「いかなる物にもこの物と矛盾する述語を付することはできない」という矛盾律にあると説いていました。それは,分析的判断の真実は,常に矛盾律に従って認識され得るからとのことでした。続いてカントは,一切の綜合的判断の最高原則について説いていきました。内感,構想力に基づく表象の綜合,統覚の統一に基づく表象の綜合的統一の3つにこそ,純粋な綜合的判断の可能も求められるべきであり,綜合的判断は必ずこの三者を基礎としなければならないと説かれていました。結論的にカントは,一切の綜合的判断の最高原理は,いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件に従うものである,ということであると説いていました。

 最後にカントは,純粋悟性の原則を体系的に表示しようと試みていました。そもそも純粋悟性の原則とは,カテゴリーを客観的に使用するための規則のことでした。そしてそれは,「直観の公理」「知覚の先取的認識」「経験の類推」「経験的思惟一般の公準」の4つであることが示されていました。前二者は直観的確実性を持つがゆえに数学的原則と呼ばれ,後二者は論証的確実性しか持たないゆえに力学的原則と名づけられていました。その後,「直観の公理」に関しては,その原理は「直観はすべて外延量である」とされ,「知覚の先取的認識」については,その原理は「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」であると説かれ,それぞれその証明がなされていました。

 以上のような内容に関わって,会員からはいくつかの論点が提示されました。それをチューターが以下のように3つにまとめました。

1.純粋悟性概念の図式論とはどのようなものか

 カントは判断力に関して,「規則のもとに包摂する能力である」(p.210)と述べているが,これはどういうことか。また,カントは,カテゴリーを現象に適用するためには先験的図式が必要だというが,これはどういうことか。唯物論の立場からすれば,カントの図式論をどのように評価することができるか。具体的な例として,犬の認識がどのように成立するか,カントの説明と唯物論の立場からの説明を比較してみるとどうなるか。


2.一切の分析的/綜合的判断の最高原則とは何か

 カントは,「一切の分析的判断の最高原則」は何だと説いているか。また,カントの説く「一切の綜合的判断の最高原則」とはどういうものか。なぜそれが最高原則だと言えるのか。カントの説く認識成立の構造は,唯物論の立場からはどのように評価することができるか。


3.直観の公理,および知覚の先取的認識とはどういうものか

 カントは,純粋悟性の原則を4つ提示しているが,そもそも,純粋悟性の原則とはどういうものか。さらにカントは,「直観の公理」は「直観はすべて外延量である」(p.237)という原理であり,「知覚の先取的認識」は「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」(p.241)という原理であると述べているが,これらはそれぞれどういうことか。それぞれはどのように証明されているか。


 これらの論点について,会員は事前に自己の見解をまとめて文章化し,それをチューターが取りまとめて,コメントを付しました。ここまでを例会までにすませておき,それを踏まえて例会当日には議論をしました。次回以降は,例会当日にどのような議論がなされて,どのような(一応の)結論に到達したのか,ということを紹介していきたいと思います。

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2017年08月12日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第2章第3節1・2

 前回は,『純粋理性批判』原則の分析論の第2章第2節から第2章第3節にかけての部分の要約を紹介しました。そこでは,いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件に従うものであるという,一切の綜合的判断の最高原理が説かれていました。そして,純粋悟性の原則とは,カテゴリーを客観的に使用するための規則のことであり,「直観の公理」「知覚の先取的認識」「経験の類推」「経験的思惟一般の公準」の4つであることが説かれていました。

 さて今回は,今挙げた4つの原則のうち,「直観の公理」と「知覚の先取的認識」とについて説かれている部分の要約を掲載します。「直観の公理」に関しては,その原理は「直観はすべて外延量である」とされ,「知覚の先取的認識」については,その原理は「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」であると説かれ,それぞれその証明がなされていきます。

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1 直観の公理

その原理――直観は全て外延量である

証明

 およそ現象は,形式的に見れば全て空間あるいは時間における直観を含んでいるから,現象が覚知されるためには(現象が経験的意識に取り入れられるには),多様なものの総合によるよりほかに方法がない。要するにある一定の空間および時間の表象は,この総合によって,同種的なものの合成と同種的な多様なものの総合的統一の意識によって生じるのである。ところで直観一般における同種的な多様なものの意識は,対象の表象を初めて可能にするものであるが,この意識がすなわち量(外延量)の概念である。それだから現象としての対象の知覚すら,感覚的直観において与えられた多様なものの総合的統一によってのみ可能である。この同じ総合的統一によって,同種的な多様なものの合成の統一が量の概念において考えられるのである。換言すれば,およそ現象は全て量であり,しかも外延量である。空間および時間における直観としての現象は,空間および時間一般を規定する総合と同じ総合によって表象されねばならないからである。
 私がここで外延量というのは,そのなかでは部分の表象が全体の表象を可能にする(したがって部分の表象が必然的に全体の表象よりも前にある)ような量のことである。私が1本の直線を引くにしても,これを考えのなかで引いてみないことには(考えのなかである1点からこの線の全ての部分を順次作り出し,こうしてこの線の直観を描いてみないことには)どんな短い線でも実際に引くことはできない。このことは時間についても――たとえどんなに短い時間についても,全く同様である。それだから時間についていえば,私は時間においてあるひとつの瞬間から他の瞬間までの継続的進行を考えてみさえすればよい。そうするとこの進行のままに,全ての部分的時間とそれが順次に付け加えられていくこととによって,ついに一定の時間量が作り出されるのである。あらゆる現象について,純粋直観は空間であるかさもなければ時間であるから,およそ直観としての現象は全て外延量である。現象は(部分から部分への)継続的総合によってのみ,覚知において認識され得るからである。ゆえに一切の現象は,すでに集合(前もって与えられている諸部分の総量)として直観されるのである。しかしこのことは,どんな種類の量についても常にこうなるというわけではなく,我々によって外延量として表象され覚知されるような量についてだけの話である。

2 知覚の先取的認識

その原理――およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量すなわち度を有する

証明

 知覚とは経験的意識のことである。換言すれば,同時に感覚をも含んでいるような意識である。知覚の対象としての現象は,空間および時間のような(全く形式的な)純粋直観ではない。それだから現象は,直観を越えてそれ以上に,なお何らかの客観一般に対応する質料(空間あるいは時間において存在するものは,これによって表象される),すなわち感覚における実在的なものを,単なる主観的表象として含んでいる。経験的意識にから純粋意識に至る漸減的変化は可能である。経験的意識における実在的なものが全く消滅して,空間および時間における多様なものの純粋に形式的な(ア・プリオリな)意識が残るからである。それだから,感覚がゼロすなわち純粋直観から始めて次第に増大し,任意の量まで達すること(感覚の量を次第に算出していく総合)も可能になるわけである。感覚自体は決して客観的表象ではないし,また感覚には空間の直観もなければ時間の直観もないのだから,感覚はなるほど外延量をもつものではないが,しかしそれにもかかわらず,ある種の量をもつ(しかもそれはこの量を覚知することによるのである。つまり経験的意識は,この覚知においてある時間に無すなわちゼロから,その都度達した量まで増大し得るのである)。これがすなわち内包量である。知覚は感覚を含んでいるから,感覚が内包量をもつ以上,これに対応して知覚のあらゆる対象にもまた内包量,すなわち感官に及ぼす影響の度合いがあるとしなければならない。
 経験的認識に属するところのものを,ア・プリオリに認識し規定し得るような認識を,全て先取的認識と名づけることができる。しかし現象は,ア・プリオリには決して認識されないような何かあるものを含んでいるのであり,これが本来,経験的認識をア・プリオリな認識から区別するところのものである。すなわちそれは知覚の質料としての感覚である。感覚は,もともと先取的には決して認識され得ない。これに反して空間および時間において,形態なり量なりを純粋に規定することは,現象の先取的認識と呼ばれてよい。こうした純粋な規定は,経験においてア・ポステリオリにのみ与えられるところのものをア・プリオリに示すものだからである。しかしおよそ感覚には,感覚一般として(個々の感覚が与えられていようがいまいが)ア・プリオリに認識されるようなものがあると仮定するなら,それは特殊な意味で先取的認識とよばれてよい。
 感覚だけによる覚知はある瞬間を充たすにすぎない。現象の覚知は,部分から全体的表象へ進むような継続的総合ではない。それだから感覚はこうした性質のものとして,現象において外延量をもたない。経験的直観において感覚に対応するものは実在である。また感覚の欠無に対応するものは否定すなわちゼロである。如何なる感覚も漸減し得るものだから,感覚は次第に減じてついに消滅することがありうる。それだから現象における実在と否定との間には多くの可能的な中間的感覚を含む連続がある。
 内包量というのは,単一性としてのみ覚知されるところの量である。この量においては数多性は否定すなわちゼロに近接することによってのみ表象される。だから現象における実在は全て内包量すなわち度を有する。こうした実在を原因(感覚の原因であると,現象における別の実在――例えば変化――の原因であるとを問わず)と見なすならば,原因としての実在の度はモメントと名づけられる。
 量においては,そのいかなる部分も可能的な最小部分ではない。これが量の特性であって,この性質を量の連続性と名づける。空間も時間のいかなる部分も限界によって区切らずには与えられないから,空間も時間もそれぞれ連続的な量である。点や瞬間は,個々の空間や時間を局限する単なる場所にほかならず,空間や時間よりも前にその構成部分として与えられるようなものではない。点や瞬間から空間や時間が合成されるわけではないのである。このような量を産出する(産出的構想力の総合)は,時間における経過であるから,このような量を「流れる」量とも名付けることができる。
 すると現象一般は,連続的な量ということになる。すなわち現象の直観に関しては外延量としての,また単なる知覚(感覚とその対象としての実在と)に関しては内包量としての連続的量である。

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2017年08月11日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第2章第2節〜第2章第3節

 前回は,『純粋理性批判』の原則の分析論の第1章の後半部分と第2章第1節の要約を紹介しました。そこでは,図式がカテゴリーに関連して説明され,カテゴリーの図式は,いずれも時間規定を含みかつこれを表示していると説かれていました。また,一切の分析的判断の最高原則は矛盾律にあると指摘されていました。

 さて今回は,『純粋理性批判』原則の分析論の第2章第2節から第2章第3節にかけての部分の要約を掲載します。ここでは,一切の綜合的判断の最高原則について説かれた後,純粋悟性の原則について総論的に説かれていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

純粋悟性の原則の体系

第2節 一切の総合的判断の最高原則について

 総合的判断の可能を説明することは,先験的論理学の最も重要な仕事であり,ア・プリオリな総合的判断の可能,その判断の妥当性の条件と範囲の問題は,この論理学の唯一の仕事である。
 総合的判断にあっては,私は与えられた概念の外に出て,この概念において考えられているのとは全く別のものを,この概念に関係させて考察する。だから主語と述語との関係は,同一性の関係でもなければ矛盾の関係でもない。この場合には,判断自体からはこの判断が真実であることも誤謬であることも看取され得ない。
 与えられた概念と他の概念と総合的に比較するためには,この与えられた概念の外に出なければならないということを認めるならば,ここに第三のもの,すなわちこれら2概念の総合がそれにおいてのみ成立し得るような第三のものが必要になる。一切の総合的判断においてこうした媒介者の役目を果たす第三のものとは何か。それはわれわれの一切の表象を全て含んでいるような総括者にほかならない。すなわち内感と内感のア・プリオリな形式であるところの時間とがこれである。表象の総合は構想力に基づくが,表象の総合的統一は統覚の統一に基づくから,綜合的判断の可能はここに求められるべきである。この三者,すなわち,我々の一切の表象を含む総括者であるところの内感,構想力に基づく表象の総合,および統覚の統一に基づく表象の総合的統一は,ア・プリオリな表象の源泉を含むものであるから,純粋な総合的判断の可能もまたここに求められるべきであろう。それどころか,もし対象について全く表象の総合に基づくような認識が成立すべきなら,綜合的判断は必ずこの三者を基礎にせねばならないだろう。
 ある判断が客観的実在性をもたねばならないとすれば,また認識が対象に関係し,この対象において意義をもたねばならないとすれば,この対象は何らかの仕方で与えられねばならない。空間および時間の表象はいずれも単なる図式であり,この図式は常に再生的構想力に関係する。そしてこの構想力が経験の対象を現出するのである。経験の対象がなかったら,空間も時間も全く意義をもたなくなるだろう。
 経験が可能であるということは,つまり我々の一切のア・プリオリな認識に客観的実在性を与えるということなのである。経験は現象の総合的統一(現象一般の対象に関する概念に従うような総合)に基づく。経験は,その形式のア・プリオリな原理(現象を総合的に統一する一般的規則)を根底としているのである。この規則の客観的実在性は,必然的条件として常に経験において,それどころか経験を可能にするということにおいてすら,示され得るのである。こうした関係をほかにしては,ア・プリオリな総合的命題は不可能である。そうなると総合的命題は,第三のものであるところの純粋な対象(総合的命題の含む概念がそれにおいて客観的実在性を提示し得るような対象)をもたないことになるからである。
 純粋な総合的判断は,可能的経験に――というよりは,むしろ経験の可能そのものに(たとえ間接的にすぎないにもせよ)関係する。そして総合的判断における総合の客観的妥当性の根拠をこのことのみに求めるのである。
 このように経験は,経験的総合として,認識の唯一の可能な仕方であり,この仕方は他の一切の総合に実在性を与える。それだから他の一切の総合もまた,ア・プリオリな認識として,経験一般の総合的統一に欠くことのできない必須のものだけしか含まないことによってのみ,真理(対象との一致)を所有するのである。
 すると一切の総合的判断の最高原理はこういうことになる。いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の総合的統一の必然的条件(直観の形式すなわち空間および時間,カテゴリーとカテゴリーによる統一,先験的統覚,時間における構想力の総合によるカテゴリーの図式化)に従うものである,と。
 経験一般を可能ならしめる条件は,同時に経験の対象を可能ならしめる条件であり,それゆえにまたア・プリオリな総合的判断において客観的妥当性を有する。

純粋悟性の原則の体系

第3節 純粋悟性の全ての総合的原則の体系的表示

 純粋悟性は,生起するものに関する規則の能力であるばかりでなく,実にそれ自体原則の源泉であり,我々に対象として現われる一切のものは,この原則によって必然的に規則に従う。この規則を欠くと現象に対応するところの対象に関する認識は成立しない。
 純粋悟性概念を可能的経験へ適用する場合,純粋悟性による総合は,数学的に使用されるか力学的に使用されるかのどちらかである。この総合には直観だけに関係するものと,現象一般の現実的存在に関係するものとがあるからである。
 原則はカテゴリーを客観的に使用するための規則にほかならないから,先に示したカテゴリー表が,原則の表に対する適切な指示を与えることは当然である。すると,純粋悟性の全ての原則は次のように表示される。
 1 直観の公理
 2 知覚の先取的認識
 3 経験の類推
 4 経験的思惟一般の公準
 直接的確実性と,分量および性質のカテゴリーによる現象のア・プリオリな規定に関していえば,上記4原則のうち1と2は著しく異なる。つまり双方とも完全な確実性をもちはするものの,前2者は直観的確実性をもつが後2者は論証的確実性しかもたないからである。前2者を数学的原則,後2者を力学的原則と名づけよう。これら純粋悟性の原則は全て内感に対する関係によって可能となっている。

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2017年08月10日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第1章(承前)〜第2章第1節

 前回は,『純粋理性批判』の原則の分析論の緒言と第1章の前半部分の要約を紹介しました。そこでは,判断力とは規則のもとに包摂する能力であること,カテゴリーを,それとは異種的な現象に適用することを可能にする第三のものが図式であること,悟性が図式を取り扱う仕方を図式論と命名したこと,などが説かれていました。

 今回は,『純粋理性批判』の原則の分析論の第1章の後半部分と第2章第1節の要約を掲載します。ここでは,先験的図式がカテゴリーの順序に従って説明され,一切の分析的判断の最高原則について説かれていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

第1章 純粋悟性概念の図式論について(承前)

 純粋悟性概念一般の先験的図式をカテゴリーの順序に従い,またカテゴリーに関連して説明していこう。
 およそ外感に対する量の純粋な形像は空間である。しかし感性一般に対する一切の対象の純粋な形像は時間である。ところで悟性の概念としての量の純粋な図式は数である。数は一を一に順次加算することを含む表象であるから,同種な直観における多様なもの一般の総合的統一にほかならない。つまり私はこうした総合的統一において,時間そのものを直観の覚知において産出するのである。
 実在性は,純粋悟性概念において感覚一般に対応するところのものであるから,そのものの概念自体が時間における存在を示している。また否定は概念に対応するものの時間における非存在を表わすものである。実在と否定との対立は,同一の時間が充実しているのと空虚であるのとの相違ということになる。時間は直観の形式であり,現象としての対象の形式にほかならないから,対象において感覚に対応するものは物自体としての一切の対象という先験的質料である。およそ感覚は度あるいは量を有し,感覚はこれによって同一の時間を,換言すればある対象に関する同一の表象を含むところの内感を,無に至って消滅するまで,あるいは多くあるいは少なく様々な度合で充たすことができるから,ここには実在から否定への移行がある。この移行は,実在するいかなるものをもひとつの量として現わすのである。
 実体の図式は,時間における実在的なものの常住不変性である。換言すれば,経験的な時間規定一般の基体としての実在的なものの表象である。それだから他の一切のものは変化しても,この基体は常住的である。
 一般にあるものの原因と原因性との図式は,実在的なもの――換言すれば,このものが任意に設定されると,何か他のあるものが必ずこれに随起するような実在的なものである。だからこの図式の本質は,多様なものが規則に従って継起する限りにおいて,多様なもののこうした継起にある。
 相互性(相互作用)の図式――換言すれば,実体がその付随性に関して相互に作用しあう相互的原因性の図式は,一方の実体の規定と他方の実体の規定との同時的存在――しかも普遍的規則に従う同時的存在である。
 可能性の図式は,種々な表象の総合と,時間一般の諸条件との合致である。それだからこの図式は,何らかの時点における物の表象の規定である。
 現実性の図式は,ある一定の時間における現実的存在である。
 必然性の図式は,あらゆる時点における対象の現実的存在である。
 上述したところから,次のことが明らかになる。カテゴリーの図式は,いずれも時間規定を含みかつこれを表示している。すなわち分量の図式としては,対象の継起的覚知における時間の産出(総合)を,性質の図式としては感覚(知覚)と時間表象との総合,あるいは感覚による時間の充填を,関係の図式としては,あらゆる時間における近く相互の関係を,様態と様態のカテゴリーの図式としては,ある対象が時間に属するかどうか,また属するとすればどのようにして時間に属するかという規定の相関者としての時間を,それぞれに含み表示するのである。それだから図式はいずれも,規則に従うア・プリオリな時間規定にほかならない。そしてこの時間規定は,カテゴリー表の順序に従い,一切の可能的対象に関して時間系列,時間内容,時間秩序および時間総括に関係するのである。
 悟性の図式論が構想力の先験的総合によって達し得たところのものは,内感における直観に含まれている多様なものの統一であり,従ってまた間接的には内感(受容性)に対応する機能としての統覚の統一にほかならない。純粋悟性概念の図式は,それぞれの純粋悟性概念に対象との関係を与え意義を与えるところの,真正でかつ唯一の条件である。してみると,カテゴリーは結局,可能的な経験的使用以外には使用されないことになる。
 我々のあらゆる認識は,一切の可能的経験の全体のうちにある。そしてあらゆる個々の認識がこの可能的経験全体と関係するところに,先験的真理が成立する。こうした先験的意味における真理は,一切の経験的真理よりも前にあって,これを可能ならしめるのである。
 感性における図式の本務は,カテゴリーを実在化するにあるとはいえ,これらの図式はまたカテゴリーそのものに制限を加える。換言すれば,カテゴリーを悟性のほかにある(感性に存する)条件だけに制限するということである。それだから図式は本来は現象にほかならない。
 図式を欠くカテゴリーは,悟性の単なる機能――換言すれば,概念を産出する単なる機能にすぎないのであって,対象を表示するものではない。このようにカテゴリーに与えられるところの意義は,悟性を実在化する(図式によって悟性を経験的実在に関係させる)と同時に,これに制限を加える(経験的実在だけに制限する)ところの完成に由来するのである。


判断力の先験的理説(あるいは原則の分析論)

第2章 純粋悟性の全ての原則の体系

 悟性が実際にア・プリオリに形成するところの判断を,体系的に結合するためには,カテゴリー表が自然で確実な手引きになる。
 ア・プリオリな原則が原則という名をもつのは,これらの原則が他の判断の根拠を含んでいるという理由からばかりでなく,原則自身が最も高く最も一般的な認識に基づいているからである。しかしこうした特性をもつからといってこれら原則の証明を省略してよいものではない。
 我々は当面の研究をカテゴリーに関係する原則だけに限るが,ここでまた分析的判断の原則にも言及しなければならず,しかもこれを総合的判断の原則と対立させる。この対立こそ,綜合的判断の理論を一切の誤解から免れさせ,この判断の特異な本質を明確に示すものだからである。

純粋悟性の原則の体系

第1節 一切の分析的判断の最高原則について

 「いかなる物にも,この物と矛盾する述語を付すことはできない」という命題は,矛盾律と呼ばれて一切の真理の一般的な――たとえ消極的なものにすぎないにせよ――標徴である。しかしこの命題は一般論理学のみに属する。この命題は認識の内容に関わりなく,ただ認識一般としての認識にだけ妥当し,矛盾はおよそ認識を滅却するものである,と言明するにとどまるからである。
 ところがこの矛盾律は,積極的にも使用され得る。換言すれば,虚偽や誤謬(矛盾にもとづく誤謬)を追放するだけでなく,真理を認識するためにも使用できるのである。もし判断が分析的判断であれば,その判断が否定的であるにせよあるいは肯定的であるにせよ,こうした判断の真実は,常に矛盾律にしたがって十分に認識され得るからである。
 それだから我々は矛盾律を,あらゆる分析的認識の必然的でかつ十分な原理と見なさなければならない。しかし総合的認識の真理に関しては,この原則からいささかも解明を期待し得ない。

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2017年08月09日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第1章

 今回から4回に分けて,7月例会で扱った範囲の要約を掲載してきます。

 今回は,『純粋理性批判』の原則の分析論の緒言と第1章の前半部分の要約です。ここでは,判断力について,さらに,先験的図式や図式論について説かれていきます。

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先験的分析論

第2篇 原則の分析論

 一般論理学は,悟性,判断力,理性という高級認識能力の区分と正確に一致するような平面図をもとにして構築されている。この全く形式的な論理学は,認識(純粋認識だろうと経験的認識だろうと)の一切の内容を度外視して,もっぱら思惟一般の形式だけを論究するものだから,一般論理学はその分析論のなかに理性に対する規準(Kanon)をも含み得る。
 先験的論理学は,ア・プリオリな純粋認識という一定の内容に制限されているので,その区分は一般論理学にならうことができない。理性の先験的使用は全く客観的妥当性を有するものでないということ,したがって,こうした使用は,真理の論理学すなわち分析論に属するものではなく,むしろ仮象の論理学として,先験的弁証論という名でやかましい学的体系の特殊な部門を占めていることは明らかである。
 これから論究しようとする原則の分析論は,もっぱら判断力に対する規準ということになる。この規準は,ア・プリオリな規則に対する条件を含むところの悟性概念(カテゴリー)を現象に適用することを,判断力に教えるものである。こういう理由から,これから悟性に特異な諸原則を論題とするに当り,本編を判断力の理説と名づける。

緒言 先験的判断力一般について

 悟性一般を規則の能力と称するならば,判断力は規則のもとに包摂する能力である。換言すれば,何かあるものが与えられた規則の適用を受けるか否かを判別する能力である。
 一般論理学は,認識の一切の内容を度外視するから,判断力に何ら指定を与え得ないが,先験的論理学となると,事情はまるきり違ってくる。先験的論理学は,純粋悟性を使用する場合に判断力を一定の規則に従って正しく整えかつこれを安全にすることを本務としている感すらある。
 先験的哲学の特性は,悟性の純粋概念において与えられるところの規則のほかに,これらの規則が適用されるべき場合を同時にア・プリオリに指示し得るということである。
 この判断力の先験的理説は,純粋悟性概念が使用されうるための唯一の感性的条件,すなわち純粋悟性概念の図式論を論究する第1章と,この条件の下で純粋悟性概念からア・プリオリに生じて,しかも一切のア・プリオリな認識の根底に存するような総合的判断,すなわち純粋悟性の原則を論究する第2章を含む。

判断力の先験的理説(あるいは原則の分析論)

第1章 純粋悟性概念の図式論について

 ある対象をひとつの概念のもとに包摂する場合には,その対象はいつでも概念と同種なものでなければならない。換言すれば,概念は,その概念のもとに包摂される対象において表象されるところのものを,自分のうちに含んでいなければならない。例えば,皿という経験的概念は,円という純粋な幾何学的概念と同種である。円という概念において考えられる「円さ」は皿という経験的概念において直観される。
 ところが,純数悟性概念と経験的(感性的)直観とを比較してみると,両者は異種的であって,純粋悟性概念はいかなる直観においても決して見出され得ない。それならば,直観を純粋悟性概念のもとに包摂することはどうして可能なのか。カテゴリーを現象に適用することはどうして可能なのか。この問題こそ,判断力の先験的理説を必要とする本来の理由なのである。
 ここに第三のもの,すなわち,一方ではカテゴリーと,また他方では現象とそれぞれ同種的であって,しかもカテゴリーを現象に適用することを可能にするような第三の物がなければならないことが明らかになる。このような媒介的な役目をする表象は,経験的なものを一切含まない純粋な表象であって,しかも一方では知性的であり,また他方では感性的なものでなければならない。このような表象がすなわち先験的図式なのである。
 悟性概念は,多様なもの一般の純粋な総合的統一を含んでいる。また時間は,内感における多様なものの形式的条件として,したがってまたおよそ表象が結合されるための形式的条件として,純粋直観においてア・プリオリに与えられた多様なものを含んでいる。ところで先験的な時間規定が普遍的であって,ア・プリオリな規則にもとづく限り,こうした時間規定は(時間規定を成立させるところの)カテゴリーと同種である。しかしまた時間が多様なものの経験的表象に例外なく含まれている限りにおいて,時間規定はまた現象と同種である。それだからカテゴリーを現象に適用することは,こうした先験的時間規定を介して可能になるのである。つまりこの先験的時間規定が,悟性概念の図式として,現象をカテゴリーのもとに包摂する媒介的な役目をするわけである。
 悟性概念の使用は感性だけに限られている。そこで我々は感性のこうした純粋な形式的条件(時間)を悟性概念の図式と名づけ,また悟性が図式を取り扱う仕方を図式論と名づける。
 図式は,それ自体つねに構想力の所産にすぎない。構想力の総合が意図するのは,個々の直観ではなく,感性の規定における統一にほかならない。したがって図式は,形像よりも一般的であるから,形像から区別されなければならない。構想力が,ある概念に形像を与える一般的方法の表象を,この概念に対する図式と名づける。
 実際,我々の純粋な感性的概念の根底にあるのは,対象の形像ではなく図式である。三角形の概念は三角形のどんな形像も決して十全に合致するものでない。三角形の個々の形像は,三角形の普遍的な概念に達することができず,つねに三角形という範囲の一部だけに制限される。三角形の図式は,思考のうちにしか存在せず,空間における純粋な形像に関して,構想力による総合の規則を意味するのである。まして経験の対象やその対象の形像は,けっしてその対象の経験的概念に達し得るものではない。経験的概念は,つねに構想力の図式に,すなわち我々の直観をある一般概念に従って規定する規則としての図式に直接関係するのである。現象とその単なる形式とに関する我々の悟性の図式論は,人間の心の奥深いところに潜む隠微な技術であって,我々がこの術の真の技量を自然について察知し,これをあからさまに提示することは困難であろう。形像は産出的構想力の経験的能力による所産であり,感性的概念の図式はア・プリオリな純粋構想力のいわばモノグラム(組み合わせ文字)である。形像はこの図式によって初めて可能になる。しかしまた形像は,これを描き出すところの図式を介してのみ概念と結びつかねばならないのであって,それ自体概念と完全に合致するものではない。これに反して純粋悟性概念の図式は,形像には決して当てはまり得ないような何かあるものである。すなわち,この図式は,概念一般による統一の規則に従うところの純粋総合にほかならない。そしてこの総合はカテゴリーによって表現されるのである。この図式はまた構想力の先験的所産である。換言すれば,表象が統覚の統一に従ってア・プリオリに一つの概念において結合されなければならない限りにおいて,こうした一切の表象に関して内感の形式(時間)の諸条件に従うところの,内感の規定一般に関係するような所産である。

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2017年08月08日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(1/10)

目次
(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第1章
(3)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第1章(承前)〜第2章第1節
(4)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第2章第2節〜第2章第3節
(5)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第2章第3節1・2
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:純粋悟性概念の図式論とはどのようなものか
(8)論点2:一切の分析的/綜合的判断の最高原則とは何か
(9)論点3:直観の公理,および知覚の先取的認識とはどういうものか
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は,今年および来年の2年間を費やして,カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは,哲学の発展の歴史を,絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ,客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって,全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 7月例会では,『純粋理性批判』の先験的論理学の内,その「第1部 先験的分析論」の「第2篇 概念の分析論」のはじめの部分を扱いました。扱った部分の目次を引用すると,以下です。

第2篇 原則の分析論(判断力の先験的理説)
 緒言 先験的判断力一般について
 第1章 純粋悟性概念の図式論について
 第2章 純粋悟性のすべての原則の体系
  第1節 一切の分析的判断の最高原則について
  第2節 一切の綜合的判断の最高原則について
  第3節 純粋悟性のすべての綜合的原則の体系的表示
   1 直観の公理
   2 知覚の先取的認識
 
 今回の例会報告では,まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後,扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し,次いで,参加者から提起された論点について,どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に,この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず,報告担当者から提示されたレジュメ,およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

 なお,この研究会では,篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ,他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は,特に断りがない限り,岩波文庫版のものです)。

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京都弁証法認識論研究会7月例会

1.純粋悟性概念の図式論とはどういうものか

 判断力とは規則のもとに包摂する能力であり,何かあるものが与えられた規則の適用を受けるか否かを判別する能力であるとカントは説いている。ある対象を1つの概念のもとに包摂する場合には,その対象はいつでも概念と同種的なものでなければならないが,純粋悟性概念と直観は異種的であるから,カテゴリーを現象に適用することを可能にするような第三のものがなければならぬとして,カントはそれを先験的図式(具体的には先験的時間規定)であるとしている。そして,悟性が図式を取り扱う仕方を図式論と名づけ,形像は,これを描き出すところの図式を介してのみ概念と結びつかねばならないのであって,それ自体概念と完全に合致するものではないとしている。

<報告者コメント>
 このカントの主張は,庄司和晃氏の三段階連関理論につながるものだと言えるだろう。三段階連関理論では,認識は抽象度によって具体的認識・表象的認識・抽象的認識という3つにわけることができるとしている。そして,表象的認識は具体的であると同時に抽象的でもあるという性質をもち,具体から抽象へのぼったり,抽象から具体へとおりたりすることを促すものだとされている。つまり,具体と抽象を媒介する役割をもつのである。これはまさにカントが図式として提示したものと同じような内容をもつものであり,カントの主張は三段階連関理論につながっていると言えるだろう。


2.分析的判断・総合的判断の最高原則とはどういうものか

 分析的判断の最高原則は,矛盾律であるとカントは述べている。つまり「いかなる物にも,この物と矛盾する述語を付することはできない」ということである。分析的判断の真実は,常に矛盾律に従って認識され得るからである。
 総合的判断の最高原則は,いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の総合的統一の必然的条件に従うものであるということだとカントは述べている。そもそも総合的判断では2つの概念を結びつけるのだが,それが真実であるか誤謬であるかを判断するためには,第三のものが必要になるという。それが,我々の一切の表象を含む総括者であるところの内感,構想力に基づく表象の綜合,および統覚の統一に基づく表象の綜合的統一という3つであり,これによって総合的判断は可能になるのだから最高原則だとしている。

<報告者コメント>
 先の純粋悟性概念の図式論では,純粋悟性概念と直観とは異種的であるから,それを結びつけるには第三のものが必要になるとカントは説いていた。この総合的判断の最高原則では,ある概念と別の概念を正しく結びつけるには第三のものが必要になると説いている。このように,異なる2つのものがつながるならば,そこには媒介するものが存在するという考え方は非常に論理的だと言えるだろう。このようなアタマの働かせ方,またそれを裏付けている現実のあり方をすくいとることによって,『弁証法はどういう科学か』で説かれている「直接」や「媒介」といった概念が生まれてきたのだろうと思った。


3.直観の公理・知覚の先取的認識とはどういうものか

 カントは「直観はすべて外延量(部分の表象が全体の表象を可能にするような量)である」ということが直観の公理だとしている。これは次のように説明している。現象の根底には空間あるいは時間における直観を含んでいるから,現象が覚知されるには,多様なものの総合によるよりほかに方法がない。直観一般における同種的な多様なものの意識が量(外延量)の概念である。同種的な多様なものの合成の統一が量の概念において考えられるということが,現象はすべて外延量であるということである。
 知覚の先取的認識(経験的認識に属するところのものを,ア・プリオリに認識し規定し得るような認識)については「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」としている。これは次のように説明している。現象には感覚における実在的なものを主観的表象として含んでいる。この表象については,主観が触発せられているという意識を持ち得るにすぎない。この量が内包量である。知覚は感覚を含んでいるから,感覚が内包量をもつ以上,これに対応して知覚のあらゆる対象にもまた内包量,即ち感官に及ぼす影響の度合いがあるとしなければならないとしている。

<報告者コメント>
 第二の原則に関しては,『カント事典』では次のように説明されている。

「そこでは,物質一般の原則が論じられており,しかもその物質観は真空のうちに粒子が飛び交うというのではなく,さまざまな濃度をもった物質が境を接してせめぎ合っているといったものである。したがって,物質の「濃度」こそ,同じ延長量をもつある物質Aと別の物質Bとを区別する指標となる。つまり,第二原則とは,すべて物質は何らかの濃度を必然的に有するという原則なのであり,こうした動力学的自然が「知覚の予料」にそのまま持ち込まれている。」

 ここで説かれている物質観によると,我々が何もないと思っているところにも実は物質が存在していて,単に我々がとらえられるだけの濃度がないにすぎないということになるだろう。これはすなわち無ということの否定であり,その意味では唯物論の立場からも評価できる物質観だと言えるだろう。

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 このレジュメに対して,いくつかの指摘がありました。まず,1の報告者コメントに関して,「このカントの主張は,庄司和晃氏の三段階連関理論につながるものだ」というのは言い過ぎではないかという指摘がありました。確かに,ここでカントが説いている図式と,庄司和晃氏の三段階連関理論でいう表象とは,論理的に似ているけれども,「つながるものだ」と言ってしまうと,あたかも,カントの理論を庄司氏が受け継いで発展させた,というようなニュアンスが出てしまうのではないか,という指摘でした。

 また,2の報告者コメントでは,「異なる2つのものがつながるならば,そこには媒介するものが存在する」という考え方が説かれているが,そもそも必ずそうだといえるのか,という疑問が提示されました。これについては,別の会員から,『弁証法はどういう科学か』で説かれている直接と媒介の図のように,確かにそういうことはいえるだろうから,間違いとはいえないが,「分析的判断・総合的判断の最高原則」という本筋からはずれたコメントになっていえるのではないか,という指摘がありました。

 最後に3の報告者コメントについても,カントの物質観を唯物論の立場から評価できるといってもいいのか,という指摘がありました。そもそもカントは,物自体はとらえられず,我々が認識できるのは現象に過ぎないと主張しているのだから,その大前提を考慮せずに,『カント事典』の当該箇所の記述のみを根拠として評価するのはおかしいのではないか,ということでした。

 これら3つの指摘について,報告者は確かにそうだと納得しました。

 以上,今回は報告レジュメと,それに関わって出されたコメントを紹介しました。
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2017年08月07日

改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う(5/5)

(5)認識論に基づく心理臨床が求められる

 本稿では,前稿「改訂版 心理療法における外在化の意義を問う」を読んだ我々の指導者が,この小論には欠けたるものがあると指摘してくださったことを踏まえて,前稿以上に構造に分け入って,心理療法における外在化の意義を考察することを目的として説いてきました。ここで,これまでの流れをまとめておきたいと思います。

 はじめに,外在化=観念的対象化によって,心の問題に対するコントロール可能性が生まれる,という前稿の結論で不足していた点に触れました。それは,単に対象化するだけでなく,モノ化=実体化してこそ,はじめてコントロールの現実性が生まれるのだ,ということでした。モノ化して,あたかもそれが現実に存在するリアルな実体であるかのように外在化することによって,文字通りそれを手にとるように容易に扱うことができるようになる,ということを,東豊氏の「虫退治」の例やべてるの家の「幻聴さん」を例に挙げながら説きました。

 次に,外在化とは,自分の内的なものがあたかも外部に存在するかのように想像することであるから,認識論的に説けば観念的二重化である,という視点から,外在化の意義を考察しました。心に問題を抱える方々は,何らかの事情で観念的二重化の能力が衰えていたり歪んでいたりするために,不適応を起こしている状態に置かれています。だから,外在化という技法を用いて,自分自身を第三者の視点から客観的に眺められるように,セラピストと共同で観念的二重化を行うということは,損なわれてしまった観念的二重化の能力を回復に導くことになる,その能力を鍛えて適応的な生活ができることにつながるのだ,ということを説きました。

 最後に,セラピストと共同して外在化を行うことの意義を,社会的認識という観点から説きました。社会的認識とは,ある社会の成員がおよそ共通してもっている認識のことであり,あまり自覚できないものの,当人を強力に支配する力をもっているということを確認しました。その上で,心理療法において外在化した問題にセラピストと当事者が共同で取り組むことによって,治療促進的な強力な社会的認識が成立することを指摘しました。具体的には,自己を第三者の視点から眺めるという観念的二重化自体が強烈なる量質転化で技化されること,自分勝手ではない適応的な観念的二重化ができるようになること,小社会の文化として成立すればより強力な治療促進効果が得られること,などを説きました。

 前稿に欠けたるものとして指摘され,本稿において詳しく説いた以上3点は,どれも認識の構造により深く分け入った結果浮上してきた論理であるといえるかと思います。すなわち,しっかりと科学的な認識論を踏まえた上で説いたものである,ということです。

 そもそも認識とは,対象の頭脳における反映であり,像でした。認識の過程的構造を説くならば,対象を五感器官を通して頭脳に反映し,それが合成されて五感情像として成立し,それを原基形態として,生成発展していくものでした。ですから,自分の心の問題をリアルに対象化=モノ化・実体化し,コントロール可能性を高めるためには,その心の問題を単に視覚でとらえるだけでなく,触覚や,場合によっては聴覚,嗅覚,味覚といった5つの感覚を総動員したほうがよいわけです。そこで,連載第2回で紹介した事例では,外在化した「タバコを吸いたいという感情」の重さや手触りを尋ねたわけです。そもそも認識とは対象を5つの感覚器官を通して反映したものであるという認識の過程的構造を踏まえたからこそ,心の問題をモノ化=実体化することが可能となるのです。

 また,観念的二重化というのは,人間の認識を扱う場合にもっとも基本的な論理の1つです。三浦つとむが発見し,海保静子氏によって像の問題として深化させられた,非常に大切で認識の本質に関わる概念だと思います。だからこそ,神庭純子氏が「心を病む人の認識の問題は「観念的二重化」の論理からのみ解くことができる」と断言しているのでしょう。このような観念的二重化という視点から論理の光を当てたからこそ,本稿においてうつ病や統合失調症の問題を認識論的に説き,その治療技法としての外在化の深い意義を掴みえたのだと考えられます。

 さらに,社会的認識という論理も,我々京都弁証法認識論研究会では,非常にホットで新しい認識の問題として受け止め,研究を進めているところです。このような観点がないならば,社会的存在である人間の謎を解明することはできないはずですし,人間が人間に関わって人間の心の問題を解決しようとするサイコセラピーの原理も,解明が不十分に終わるに違いありません。心理士には,社会的認識という,あまり自覚はできないものの,強力な作用を及ぼしうる存在をしっかり自覚して,それを上手く治療に活用していくための工夫と努力が求められるといっていいでしょう。

 現在の臨床心理学の世界は,まさに百家争鳴という言葉がピッタリくる状況で,共有できる土台がない状態です。筆者としては,三浦つとむや海保静子氏・南郷継正氏によって創られ発展させられてきた科学的認識論をしっかり踏まえた心理臨床を行うとともに,本稿で試みたように,さまざまな心理臨床の事実を認識論の光を当ててとらえ返し,認識論の論理とつなげる研鑚を積んできました。そうすることによって,科学的認識論を踏まえた質の高い心理療法を提供できるようになるはずですし,心理療法の実践からのフィードバックによって,科学的認識論の再措定を果たし,それをより深化させていくことが可能になっていくと考えていたからです。

 現在は,哲学の歴史を振り返って,人類が獲得してきた認識論的な(あるいは弁証法的な)考え方が,心理療法の世界でどのように活用されているのか,あるいは,精神疾患の構造について哲学の知見を踏まえるとどのようなことがいえるのか,ということについて研究を進めているところです。これは1年以内をめどに書物としてまとめて,出版する予定です。

 このように今後も,心理療法の技法や治療のメカニズム,精神疾患の過程的構造などをしっかりと原理的に考え,筋を通して理解していけるように研鑽していきたいと思います。そのためにも,読者の皆さんに分かっていただけるような丁寧な論理展開がなされている論文を,しっかり書き続けていくことを決意して本稿を終えたいと思います。

(了)
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2017年08月06日

改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う(4/5)

(4)心理療法は社会的認識を創り出す

 前回は,前稿「改訂版 心理療法における外在化の意義を問う」に欠けたるものとして指摘された観念的二重化の視点から,外在化の意義を考察しました。外在化とは観念的二重化でもあるがゆえに,心に問題をかかえ,観念的二重化の能力が衰えたり歪んだりしているクライエントにとっては,セラピストと共同して心の問題を外在化することは,観念的二重化の能力の回復を促進することになる,ということでした。

 今回は,前稿に欠けていた社会的認識という観点から,心理療法における外在化の意義をとらえ返していきたいと思います。

 まず,そもそも社会的認識とは何でしょうか。それは,ある社会に属している人間がおよそ共通してもっている認識のことです。これは,本人はあまり自覚することはできませんが,本人を規定する大きな力となって本人を支配することになります。

 もう少し詳しく,基本的なところから説いておきます。

 そもそも「社会的」というのは「多数個人の協働」(マルクス)のことであり,したがって社会的認識とは多数個人の協働によって創られた認識,すなわち,自分一人だけでなく他の人(達)と一緒に創り上げた認識のことです。また,社会とは,多数個人の協働によって結びついた諸々の小社会の重層的かつ過程的な複合体であり,その最大の単位が国家という枠組みをもつ社会である,ということができます。

 たとえば,日本社会と欧米社会を比較してみましょう。我々日本人は家の中では靴を脱ぎます。これは,「家の中では靴を履いてはいけない」というような規範が,我々日本人の中には共通して存在しているからです。ところが,欧米ではそうではありません。欧米ではたいてい家の中で靴を履いています。これはあえていえば,「家の中でも靴を履くものだ」というような規範が,欧米人の頭の中に存在しているからです。こういった規範は,その社会の成員が創り上げ,それぞれが共通してもっている認識ですから,社会的認識の一種であるといえます。ですから,本人はその社会的認識の存在をあまり自覚できませんが,強力にその人の行動を規制しているのです。日本人であれば,他人の家に上がるときに,ほぼ自動的・無意識的に靴を脱ぐはずです。外国人が靴のまま上がったとすると,「ええ! なぜ?」と慌ててしまいかねません。この例で,社会的認識の威力をなんとなくであっても分かっていただけたかと思います。

 このような社会的認識は,先にも触れたように,その創出過程に着目するならば,2人以上の人間で創ったものであるということができます。2人で交わす約束も,その意味では社会的認識であるといえます。そして,自分ひとりだけで「○○をする」と決心した場合よりも,誰かとの約束として「○○をする」と決めた場合のほうが,自分を規定する力がより強いということは,経験上誰もが分かっていることでしょう。

 さて,以上を踏まえて心理療法における外在化の意義を,社会的認識の観点から考察したいと思います。前稿では,外在化とは何かを説明する流れの中で,外在化することによってセラピストと当事者の関係性も変化するとして,次のように説きました。

「もともと心理療法においては,援助するセラピストと援助される当事者という二者の関係性(セラピスト⇔当事者)が基本です。ところが心の問題を外在化することによって,セラピストが当事者とチームを組んで問題にあたる,というような三者関係(セラピスト・当事者⇒問題)に発展するのです。媒介関係の発展によって,当事者は援助される対象であると同時に援助する主体でもあるという矛盾した構造が創出され,それに伴って,セラピストと当事者は共同して問題に対処するという調和的な関係が構築されるわけです。認知行動療法においては,このような「自助の精神」や共同的な関係性が重視されています。」


 ここで説いたように,心の問題を外在化することによって,セラピストと当事者が共同して,1つの問題に対応するというような関係性が生まれるわけです。そうすると,1つの問題をめぐって,双方がさまざまなコミュニケーションをとり,問題点を明確化し,解決法を模索したり,解決策を試したりする中で,つまり問題と取り組んでいく中で,両者に共通の認識が芽ばえていくことになります。これが社会的認識として,強力な治療促進的な効果を発揮することになるのです。

 それでは治療促進的な効果とは具体的にはどのようなものでしょうか。2つ3つ,例を挙げたいと思います。

 まずは,外在化をセラピストと当事者が共同して行うということ自体に意義があります。こうすることによって,当事者が自分自身を第三者の視点から客観的に眺める観念的二重化という認識の運動も,スムーズに行うことができるようになります。当事者本人だけではなかなか気づけないような自分の認知や行動の特徴も,セラピストと共同で探っていくことによって,気づきやすくなります。また,一人で行う場合に比べて,強烈でしっかりした像として描かれるので,急激なる量質転化が起こり,治療が効率的に進展するということができます。要するに,心理療法場面という社会的な場で,社会的な認識の力を借りながら共同して外在化を行うことによって,心の問題から距離をとって冷静になれたり,心の問題の対処可能性が増したり,あるいは,観念的二重化の能力を鍛えたりするということが,より容易にできるようになるのです。

 これが,認知行動療法はうつ病に効果あるとされているものの,うつ病の人が1人でセルフヘルプ本を頼りに認知行動療法をやろうとしても,なかなか成功しない理由でもあります。1人で本を頼りにやろうとしても,そこには共同作業で創り上げた強力な社会的認識を欠いていますので,今説いたような治療促進的な効果が見込めず,なかなか奏効しないということになってしまうのです。

 また,統合失調症患者の場合は,セラピストと当事者が共同して,社会的に外在化=観念的二重化を行うということは,歪んでしまっている観念的二重化の能力を矯正する意味合いも出てきます。統合失調症の幻聴や妄想というのは,現実から乖離して自分勝手に二重化した状態が慢性化しているということですから,他者にも受けいれられる,他者と共通性のある観念的二重化を外在化によって促進するならば,自分勝手な二重化も徐々に社会性を帯びるようになり,観念的二重化の歪みが徐々に正されていくことが期待できます。つまり,社会関係の中であるべき観念的二重化をくり返し実践することによって,社会適応力を回復させていくことにつながっていくのです。

 もう1ついえることは,べてるの家のような小社会で社会的認識を創った場合,その認識がよい意味での「風」(ふう)となって,強力な威力を発揮するということです。べてるの家では,当事者研究においてもSSTのセッションにおいても,さらに日常生活場面においても,心の問題を外在化して,それに対する対処法を考案し試してみるというのは,1つの文化と呼べるほどにまで成熟しています。こうなると,新しくべてるの家のメンバーになった当事者は,この文化と呼べるレベルの社会的認識に強い影響を受け(相互浸透し),知らず知らずのうちに自分も同じように自分の問題を外在化して対処法を模索するというような,適応的なパターンが身に付いていくのです。これも社会的認識による治療促進効果といっていいでしょう。

 以上要するに,心理療法において心の問題を外在化することによって,最低でも2人,多い場合は十数人という人数が1つの問題に取り組むことになり,その結果,そこで創られる社会的認識が非常に強い威力を発揮して治療を促進しうるということを説いてきました。セラピストは,このような社会的認識の威力を自覚して,上手く利用することが求められるといえるでしょう。
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2017年08月05日

改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う(3/5)

(3)外在化によって観念的二重化の能力を鍛える

 前回は,前稿「改訂版 心理療法における外在化の意義を問う」に欠けたるものとして,心の問題のコントロール可能性の問題を取り上げました。心の問題を外在化して,単に観念的に対象化するだけではコントロール可能性が生まれるだけで,コントロールの現実性については心もとないということで,コントロールを実現するための方法を紹介しました。それを端的にいえば,観念的にモノ化=実体化するという方法でした。心の問題を観念的に対象化した上でモノ化=実体化することによって,それをあたかも手に触れられるモノであるかのように容易に扱うことが可能となる,ということでした。

 今回は,外在化のもう1つの意義を取り上げたいと思います。それは外在化とは観念的二重化である,ということに関わります。これはどういうことでしょうか。少し説いてみます。

 外在化とは心の問題を外に出すことでした。しかし,本来,心は自分の頭の中にしか存在しないわけで,頭の中にしかないものを「外に出す」というのは,実際は「あたかも外に出したかのように想像する」ということでしかありません。つまり,外在化とは一種の想像だといえるわけです。そうすると,外在化とは観念的二重化でもある,ということが分かっていただけるかと思います。

 念のために,三浦つとむが観念的二重化について説いている部分を引用します。

「このように,想像することは,現実の世界以外に観念的な世界をつくりだして世界を二重化することですが,それだけではなく,同時に現実の自分以外にその観念的な世界の中でそれに相対している観念的な自分をつくりだす自分自身の二重化をも意味します。」(『弁証法はどういう科学か』pp.140-141)


 ここにも説かれているように,外在化によって,実際は心の中にしかないものをあたかも外にあるかのように想像することは,現実の世界以外に観念的な世界を創り出すと直接に,その観念的な世界に相対している観念的な自分を創り出すことでもあるわけで,端的にいえば,観念的二重化であるということができるのです。

 観念的二重化については,海保静子氏も以下のように説いています。

「観念的二重化とは,端的には自分の観念を二重化すること,つまり自分の頭のなかでもう1人の自分を創りだすことである。自分がみている世界が,「現実の目」がみている像と「頭のなかでの目」がみている像との二重になることを,現実と観念(頭のなか)との二重になることをいうのである。

 この観念的二重化は,自分が現実の自分と頭のなかの自分とに分けられるので「自己の二重化」ともいい,またこの「観念的二重化=自己の二重化」は,自分が相手の立場に立って行なわれるばあいが多いだけに「自分の他人化」といわれる。さらにその構造を説くならば,観念的二重化はそのなかに「自分の二重化」があり,その自分の二重化には「自分の自分化」と「自分の他人化」の二重構造があり,そしてこれは「自分の自分化から自分の他人化へ」の過程性としてとらえることができるものである。」(海保静子『育児の認識学』,現代社,pp.355-356)


 このような観念的二重化の能力というものは,自然成長的に,あるいは教育によって創られ,人間であれば多かれ少なかれ把持しているのが通常です。そして,この観念的二重化の能力があるからこそ,社会生活を適応的に送ることができるのです。空気を読んで周りに合わせるのも観念的二重化の問題ですし,事態の展開を予想して対策を立てるというのも観念的二重化の問題です。ルールに従ったり,常識的な行動を取れたりするというのも,全て,観念的二重化の能力があってこそです。

 しかし,心に問題を抱える人は,この能力が衰えていたり,あるいは歪んでいたりしているために,適応的な生活が送れなくなっている状態だということができます。

 たとえばうつ病の患者さんは,事態を悪いほう悪いほうへと考えてしまう傾向があり,第三者の視点で事態を冷静に眺めることが困難になっています。これは,観念的二重化の能力が衰えているためと考えられます。また,統合失調症の患者さんは,誰もいないのに自分の悪口がはっきり聞こえたり(幻聴),客観的な根拠は皆無なのにヤクザが自分を殺しに来ると信じていたり(妄想)します。これは,もう一人の自分が見ている観念的な世界と現実の自分が見ている客観的な世界とを区別できずに,混同してしまっているからです。あるいは,ずっと二重化し続けているのに,二重化しているのだという自覚がないということもできます。いずれにせよ,観念的二重化の能力が歪んでしまっている結果だといえるでしょう。

 したがって,認識論的に考えるならば,このような心に問題を抱える方に対する治療としては,損なわれてしまった観念的二重化の能力を回復させるための介入が不可欠である,ということができます。そして,そのための強力な手段の1つが,外在化という手法なのです。

 なぜ,外在化によって観念的二重化の能力を回復させることができるのでしょうか。それは,先にも説いたように,外在化が観念的二重化でもあり,セラピストと共同してあるべき観念的二重化を促進することになるからです。たとえば,うつ病に対する認知行動療法では,当事者の中の認知・気分・行動の悪循環を外在化して,紙に書いたりホワイトボードに図示したりします。自分自身を第三者の視点から客観視して冷静に捉えるというのは,社会生活を営む上でなくてはならない観念的二重化の能力であるといえますが,認知行動療法におけるこのような外在化によって,自分自身を客観視するという観念的二重化が,スムーズに促進されるわけです。これが同時に,損なわれた観念的二重化の能力を鍛えるための訓練にもなっているのです。

 そもそも観念的二重化を大きくとらえれば,直接見ることができないものを頭の中の目によって見ることである,ということができます。外在化は,この直接見ることができないものを見るための媒介として,非常に役立つということができるわけです。いわば外在化は,頭の中の目の視力をよくし,「もう一人の自分」を鍛えるための手段であるといえるのです。

 セルフモニタリングという認知行動療法の技法も,観念的二重化の能力を回復させることに役立ちます。例えば,活動記録表という用紙をクライエントにお渡しして,一日に行った活動と,その時の気分(−5〜+5)を記録していただくことがあります。これは,自分自身の行動と気分を,第三者の視点から客観的に・冷静に・眺める訓練であるともいえます。うつ病の患者さんは,しっかりできていることもあるのに,「自分は何もしていない」「今日は寝てばかりだった」とマイナスに考えてしまいがちです。観念的二重化の能力が衰えているために,自分自身の行動を冷静に捉えられていないのです。このようなときに活動記録表を用いたセルフモニタリングを課題に出すことによって,自分の行動を客観的に捉えられるようになっていくのです。すなわち,この課題を通して,観念的二重化の能力の回復が図られていくわけです。

 このような心の病と観念的二重化の問題について,説かれている文章があります。以下に引用します。

「また,この「観念的二重化」の実力を現実の世界とかけ離れたものとして自分勝手に歪めたままに育ててしまうと,それが現実の世界とかけ離れるほどに病への芽をつくることになりかねない問題でもあるといえます。心を病む人の認識の問題は「観念的二重化」の論理からのみ解くことができるということだけを,ここではふれておきたいと思います。」(神庭純子『初学者のための『看護覚え書』(2)』現代社,pp.190-191)


 「心を病む人の認識の問題は「観念的二重化」の論理からのみ解くことができる」という言葉を,認識論を学びつつ心理臨床の実践を行っている筆者としては忘れてはいけないと感じています。この言葉の通りに,うつ病の問題は観念的二重化の能力の衰えとしてとらえることができますし,そうであるならば,観念的二重化の能力を回復させるために,自分自身の認知や行動・感情などを自分の外に置くという外在化の方法によって,自分自身を第三者の視点から冷静かつ客観的に眺める練習をしていくことは,うつ病の回復過程において必須であるともいえるでしょう。
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2017年08月04日

改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う(2/5)

(2)モノ化=実体化してこそ本当に認識をコントロールできる

 前回は,「改訂版 心理療法における外在化の意義を問う」と題した前稿の内容を簡単に振り返った後,この小論に対して我々の指導者からコメントをいただいたことを紹介しました。そのコメントは,「改訂版 心理療法における外在化の意義を問う」には欠けたるものがある,という指摘でした。そこで本稿では,指導者からのコメントを踏まえて,心理療法における外在化の意義をより構造に分け入って説いていくことにしたいと思います。

 今回は,外在化し,心の問題を観念的に対象化することによってこそ,その問題のコントロール可能性が生まれてくる,と前稿で説いた内容をより深めたいと思います。ここに関わって,前稿では以下のように説きました。

「このように外在化によって心の問題から距離をとれ,冷静になれるということ以外にも,決定的に重要な外在化の意義があります。それは,対象化することによって,その問題のコントロール可能性(解決可能性)が生まれてくる,ということです。

 そもそも外在化する前は,自己の問題に巻き込まれており,何が問題なのか,どこに問題があるのかも分からない状態でした。問題を問題として認識できていない状態,問題を対象化できていない状態だったのです。このような状態では,その問題をコントロールすることは絶対に不可能です。どこにあるのか分からない,認識できていないモノはコントロールのしようがないからです。」


 ここで説いたように,外在化し,認識の対象と化すことで初めてコントロール可能性が生まれる,ということはまさに真理であって,何らの訂正を要しません。しかし,ここで説いたことは,あくまでも「可能性」が生まれるということであって,実際にコントロールができること,すなわち「現実性」とは相対的に独立した問題です。

 では,どのようにすればコントロール可能性を高めて,実際にコントロールできるようになるのでしょうか。この問題を考える際に,一度,外在化というテーマから離れて考えてみましょう。

 我々が日常生活で出会う事物・事象で,コントロールしやすいものというのは一般にどのようなものでしょうか。それは,実際に手で触れて扱えるモノではないでしょうか。たとえば,毎日の食事で食べている食べ物。これらは実際に手で扱えるモノであるだけに,切り刻むこともできれば,口にもっていって噛み切ることもできます。口に合わないものなら,遠ざけて置いておくこともできますし,捨てることもできます。いわば,意のままに操ることができるわけです。

 毎日読む新聞紙はどうでしょうか。これも手でもって扱えます。新聞紙は自由に広げたり,折りたたんだりできます。丸めることもできますし,切ることもできます。色を塗ることもできますし,燃やしてしまうことも可能です。

 要するに,手で触れられるモノ=実体であるならば,我々はある程度コントロールすることが容易なわけです。手で触れるのですから,形を変えたり,小さく分割したりすることもできる可能性が高いです。捨ててしまったり燃やしてしまったりして,そのモノをなくすこともできますし,遠くに置いておいて,近づかないようにすることも可能なのです。

 そうであるならば,非実体であるところの心=認識も,単に対象化するだけではなく,モノ化する=実体化すれば,非常に扱いやすくなるといえます。すなわち,コントロール可能性が高まり,実際にコントロールすることができるようになるわけです。

 このような抽象的な論理だけでは分かりにくいと思いますので,ここで1つ,事例を紹介します。この方はタバコをやめたいということで禁煙のためのセラピーを開始した方でした。まず,身体のどの部分でタバコを吸いたいという感情が感じられるかを尋ねました。すると,この方は喉のあたりだといいます。そこで,その喉から,吸いたいという感情を観念的に取り出してもらいました。そして,その観念的に取り出した感情を手でもってもらい,どのくらいの大きさなのか,どのような形をしているのか,どんな色をしているのか,どのくらいの重さなのか,どのような手触りか,ということを尋ねていきました。これらは,観念的に取り出した感情,つまり対象化した感情を,モノ化=実体化するための質問です。するとこの方は,野球のボールくらいの黒い球体で,鉛のように重くザラザラしているとおっしゃいました。

 このように,自分のタバコを吸いたいという感情を外在化して対象化するだけではなく,しっかりとモノ化=実体化すれば,今までいかんともしがたかったこの感情を,文字通り手にとるようにたやすくコントロールすることができるようになるのです。結局この方の場合は,神社仏閣が大好きだということでしたので,特にお気に入りの神社までこの球体の感情をもっていっていただいて,そこに静かに奉納することにしました。こうすれば,タバコを吸いたいという気持ちが自分から離れて存在することになり,自分はもう吸いたいと思わなくなる,というリクツです。実際この方は,この方法によって,40年間近く続けてきた喫煙をやめることができたのでした。

 前稿でも紹介した東豊氏による「虫退治」の技法も,目に見えないものをモノ化=実体化することによって扱いやすくし,それによって家族が協力して問題に取り組めるようにする仕掛けだといってもいいでしょう。たとえば,不登校の原因が子どもの性格にあるといわれても,ではどのようにしてその「性格」を扱い,変えていけばいいのか,簡単には答えは出ません。「性格」なるものは,なかなか思い通りにコントロールできないのです。ところが,不登校の原因は子どもについた「弱虫」という虫のせいだとすると,その「弱虫」はいつ,どのくらいの頻度で現れるのか,「弱虫」の好物は何か,逆に苦手なものは何か,などというように,問題が扱いやすくなります。そして,「弱虫」の好物を与えないように,逆に苦手なものを与え続けるように,家族で協力していきましょうというような形で介入して,不登校の原因たる「虫」をコントロールできる(退治できる)可能性が高まっていくのです。

 ここで分かっていただきたいことは,単に観念的に対象化するだけではなく,形あるものとして,3次元のモノとして,対象化すれば,我々がふだん手に触れて扱っているモノのように,容易にコントロールすることができるようになるのだ,ということです。べてるの家で実践されている幻聴を「幻聴さん」と呼んで人格化することも,この種のモノ化=実体化だといえます。認知行動療法では,多くの場合,紙の上に,すなわち2次元的に対象化するだけですから,その意味ではべてるの家の実践の方がよりコントロール可能性が高いといえるでしょう。認知行動療法でも,東豊氏の「虫退治」やべてるの家の「幻聴さん」を見習って,問題を3次元的に実体化する工夫を行えば,より効率的な介入が行えるともいえるでしょう。
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 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
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 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
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 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
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 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
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 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
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 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
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 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
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 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて