2017年06月23日

教育の政治的中立性を問う(3/5)

(3)本格的な政治教育は中学生からが妥当である

 前回は、教育の政治的中立性とはどういうことかを確認しました。そもそも教育とは社会で生きていける人間を育てることです。したがって、国家が行う教育は、個人をその国家で生きていけるようにするものでなければなりません。では、どのような国家において教育の政治的中立性が問われるのかと言えば、ある政治的な問題に対して、Aという見解とそのアンチテーゼであるBという見解が並び立っているような社会、つまり民主主義社会においてこそ問われるのだということでした。そのような社会では、両方の見解を視野に入れた上で、自分の立場を決定できる人間が求められるのであり、そのような人間の育成が求められるからこそ、教育の政治的中立性ということが問われるのだということでした。

 今回は、本格的な政治教育、つまり、政治的な問題に関して両方の見解を視野に入れた上で、自分の立場を決定できるようにする教育はいつ頃から始めるのがよいのかという問題について考えてみたいと思います。

 結論から言うならば、これは思春期を迎えた中学生の時期から始めるのが妥当だと言えるでしょう。

 そもそも思春期とはどのような時期だったでしょうか。南郷継正先生は次のように説いておられます。

「中学生(思春期)の五感器官に関わる論理構造は端的には以下のごとくであった。中学生は思春期とあって子供から大人への脱皮期間であり、準備期間である。それだけに、その実体の成長が子供時代と大きく変ってくる面がある。実体的には大人としての体へと変化することであるが、そのことによって、認識と実体とが相互浸透的な過激的変化をとげながらの大人へ向けての成長が、急速的となっていく。」(『武道と認識の理論U』三一書房、1991年、p.195)


「この思春期は大人へなりにいく最初の重大な時期であり、その個としての人間にとっては初体験期であり、かつ、最初にして最後の重大時期である。体が大人になった高校生では、絶対に味わうべくもない思春期である。これは単に、認識の思春期にとどまらず、実体の思春期であり、実体の思春期にとどまらない認識の思春期である。」(『武道と認識の理論V』三一書房、1995年、p.127)


 つまり思春期とは、認識と実体とが相互浸透的な過激的変化をとげながら、大人へ向けて急速に成長していく時期だということです。

 先日、私が勤務している小学校を卒業して、現在中学1年生になっている子どもに出会ったのですが、小学生の頃から大きく変化していることに驚きました。背は伸び、声変わりもし、部活で肌は浅黒くなっており、かわいらしかった小学生時代に比べると、非常にたくましくなった印象を受けたのです。

 また、このような実体の変化のみならず、認識においても変化が起こっていることを感じました。中学校の先生に関わって「数学の先生はわかりやすいけど、理科の先生は何を言っているかわからん」「うちの担任は朝からハイテンションでうっとうしい」「あの先生はみんなから○○ってあだ名で呼ばれてる」などと言っていたのです。小学校においては教師というのは神的な存在であり、その行いに対して疑問を抱くことは基本的にはありません。しかし思春期を迎えた中学生になると、あくまでも自分と同じ人間として捉え、良くも悪くも教師を批判する場面も出てくるようになってくるのです。

 このように教師に対して従順であった小学生は、思春期を迎えると、自分なりの見解を主張するようになってくるのですが、その背後には論理能力が向上しているということが挙げられます。例えば、中学生ぐらいになると「先生はひいきをする」と教師を批判することがありますが、これは「全員に対して平等に接しないといけない」という論理でもって教師の言動を見ることができるようになっているのだと言えるでしょう。教師だから正しいというのではなく、何らかの価値観に照らして正しいかどうかを自分で判断ができるようになっているということです。

 ここまで見てくると、なぜ本格的な政治教育は中学生頃から始めるのがよいのかが見えてくるでしょう。

 第一に、相当な論理能力(抽象能力)が必要になるからです。消費税増税の是非や憲法改正の是非などの政治的な問題というのは国家レベルの問題です。あくまでも自分の日常生活レベルの体験・経験をもとに考える小学生にとっては、切実さを感じにくい問題です。これを小学生で扱うのは無理があると言えるでしょう。このような問題を扱えるだけの論理能力(抽象能力)が育ってくるのはおよそ思春期を迎える頃であるから、中学生から始めるのが望ましいということです。

 第二に、本当の意味で自分の立場を決定するということは中学生でないと難しいからです。小学生の場合、教師は神的な存在として、その言動は絶対的なものだと捉えられます。政治的な問題の場合、教師自身の見解もあり、どうしてもそれが授業に現れてしまいますから、子どもたちは教師自身の立場を敏感に感じとり、それに合わせる形で判断をしてしまいます。子ども自身は、自分で正しいと判断したつもりでしょうが、その「正しい」の根拠は結局「先生がそうだから」ということにしかならないのです。それに比べれば、中学生は教師を同じ人間として相対的に捉えられるようになっていますから、本当の意味で自分の立場を決定することも可能になってきます。

 以上の理由により、本格的な政治教育は中学生からが妥当だと言えるでしょう。
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2017年06月22日

教育の政治的中立性を問う(2/5)

(2)教育の政治的中立性とはどういうことか

 本稿は、政治的な問題が多数生まれている現代において、こうした政治的な問題を学校現場でどのように扱えばよいのかについて、そもそも教育の政治的中立性とは何かということを踏まえながら検討していこうとするものです。

 今回は、そもそも教育の政治的中立性とはどういうことかを考えてみたいと思います。ここには教育と政治的中立性という2つの概念がありますから、1つずつ検討してみましょう。

 まず教育という概念ですが、そもそも教育とは社会の維持・発展のための社会的個人としての人間を育てることです。もう少し簡単に言うならば、その社会の一員としてしっかり生きていける人間を育てることです。例えば、教師として育てるのであれば、学校という小社会で生きていけるようにすることが教育だということです。学校では授業をしないといけないですし、与えられた校務をしっかりとこなさないといけません。また、同僚との関係性もそれなりに良好に保つことが求められます。そうしたことができるだけの人間に育てるということが、教師として教育するということになります。

 この社会という概念に含まれる最も大きなものは国家です。したがって、それぞれの国家はそこに所属する人間に対して、その国家で生きていけるように教育します。例えば日本であれば、日本という国家で生きていけるように子どもたちを教育するのです。箸を使ってご飯を食べられるようにしたり、家では靴を脱ぐようにしたり、日本語を使えるようにしたり、日本の歴史や文化を学ばせたりするわけです。義務教育とは、日本人として生きていけるように教育をするものだと言えるでしょう。

 これが例えば北朝鮮であれば、北朝鮮で生きていけるように教育がなされるわけです。朝鮮語が教えられ、北朝鮮の文化を学ばされます。北朝鮮の場合、もし最高指導者に反抗するようなことがあれば、銃殺されてしまいますから、絶対に服従しなければなりません。したがって、最高指導者は絶対でありそれには従うように教育がなされます。これは善悪の問題ではなく、北朝鮮の教育としてはそうでなければならないということです。

 仮に「イスラム国」のような場合でしたら、まずイスラム教がしっかりと教えられるでしょう。そもそもイスラム教徒でなければ、「イスラム国」では生きていけないからです。また戦闘訓練なども行われることになるでしょう。そのような力がなければ、「イスラム国」の人間としては生きていくことができないからです。

 このように、それぞれの国家がそれぞれの国家で生きていけるように教育をするのです。こうしてみると、必ずその国家特有の価値観が教えられることになるということがわかります。決して、その国家を離れて、世界に共通する普遍的価値のようなものが教えられるわけではないのです。あくまでもその国家で生きていくために、その国家として身につけておいてほしい価値観が教えられるのです。その意味では、教育は中立ではありえません。教育は必ずその国家の立場から行われるのです。

 続いて、政治的中立性という概念について検討してみましょう。

 これは要するに政治的な問題に関して中立であるということになるでしょう。そもそも中立という立場が存在するためには条件があります。中立というのは、文字通り捉えると「何かと何かの中に立つ」ということになります。もう少し論理的に捉えるならば、何かと何かをより高い視点から眺めるということになります。したがって、中立が成り立つためには、その何かと何かが存在していなければなりません。つまり、政治的な問題に対して、Aという見解が存在する一方で、そのアンチテーゼとしてBという見解が存在しており、両者がしっかりと並び立っていることが必要だということです。例えば、消費税の問題に対して、「増税すべきだ」という立場と「減税すべきだ」という立場の両方がしっかりと存在していることが必要だということです。このような状態であるからこそ、中立という立場が存在しうるのです。

 このような立場は、例えば北朝鮮で成り立ちうるでしょうか。北朝鮮では最高指導者の見解こそが絶対であり、それにアンチテーゼを投げかけようものなら、射殺されてしまうことになります。このような社会においては、対立する2つの見解が並び立つことはなく、したがって、教育の政治的中立性ということが問題になることはありません。これは「イスラム国」でも同じことが言えるでしょう。イスラム教の教えを絶対的なものだと考えている国では、それにアンチテーゼを投げかけるようなことは考えられません。

 こうして見てくると、政治的中立性が存在しうる社会というのは、ある見解に対してアンチテーゼを投げかけることが可能な、ある程度成熟した社会であり、具体的に言えば、民主主義社会であるということがわかります。

 対立する見解が並び立つ社会(民主主義社会)において、個々の人間は、一方の見解を鵜呑みにするのではなく、両方の見解を視野に入れた上で、自らの立場を決定することが求められます。したがって、教育もそのような人間を育てるものでなければなりません。一方の見解を押しつけるのではなく、両方を見た上で自分のアタマで判断できるようにするものでなければなりません。このような教育が求められる社会であるからこそ、教育の政治的中立性ということが問われるのだと言えるでしょう。
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2017年06月21日

教育の政治的中立性を問う(1/5)

目次
(1)教育の政治的中立性が問われている
(2)教育の政治的中立性とはどういうことか
(3)本格的な政治教育は中学生からが妥当である
(4)両者の立場を俯瞰させる教育が求められる
(5)弁証法的なアタマづくりこそが求められている
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(1)教育の政治的中立性が問われている

 今年の2月から3月にかけて、森友学園の問題がニュースで大きく取り上げられていました。直接的なきっかけは、瑞穂の国記念小学校(安倍晋三記念小学校)に対して国有地が不当に安く払い下げられていたのではないかという疑惑でしたが、その疑惑について追及される中で、塚本幼稚園での行きすぎた教育の中身も広く知られることとなりました。運動会において幼稚園児が、「安倍首相ガンバレ、安倍首相ガンバレ、安保法制通過、よかったです」と叫ぶ映像は多くの方の記憶に残っているのではないかと思います。

 こうした教育の是非が国会で問われたとき、安倍首相は「適切ではない」としつつも、「教育の詳細については、全く承知をしていない」と述べ、松野文部科学相は、教育基本法で禁じる政治活動にあたるかどうかについて「大阪府が判断することだ」と評価を避けました。

 この問題と合わせて見ておきたいのは、2016年7月に自民党のHPにて設けられていた「学校教育における政治的中立性についての実態調査」というタイトルのページです。すでに削除済みですが、そこでは次のように説明がなされていました。

「党文部科学部会では学校教育における政治的中立性の徹底的な確保等を求める提言を取りまとめ、不偏不党の教育を求めているところですが、教育現場の中には『教育の政治的中立はありえない』、あるいは『子供たちを戦場に送るな』と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。
 学校現場における主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがあり、高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出されることをわが党は危惧しております。
 そこで、この度、学校教育における政治的中立性についての実態調査を実施することといたしました。皆さまのご協力をお願いいたします。」


 つまり、教育の政治的中立性を保ち、偏向教育を防ぐために、「教育の政治的中立はありえない」「子供たちを戦場に送るな」などと主張し中立性を逸脱した教育を行う先生がいたら投稿してくださいと呼びかけているのです。これは「密告フォーム」とも呼ばれ、注目を集めました。

 その後、突如このHPは見られなくなり、再度閲覧できるようになったときには、「『子供たちを戦場に送るな』と主張し中立性を逸脱した教育を行う」という文言が「『安保法制は廃止にすべき』と主張し中立性を逸脱した教育を行う」に変更されていたのでした。

 この説明を読む限り、「安保法制を廃止にすべき」という主張を子どもに教えることは、教育の政治的中立性に反するということになります。それならば、「安保法制の通過はよかった」という主張を子どもに教えることも、同じように教育の政治的中立性に反することになるはずです。塚本幼稚園の事例は、この密告フォームの対象となる典型例だと言えるでしょう。

 それにも関わらず、安倍首相や松野文科大臣は自らの明確な回答は避けたのです。これは一体どういうことなのでしょうか。そもそも教育の政治的中立性とはどういうことなのでしょうか。

 教育の政治的中立性の根拠となっている文言は、教育基本法第8条(政治教育)です。

「第8条 (政治教育) 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」


 つまり、特定の政党を支持したり、反対したりするための政治教育を行ってはならないということです。

 近年、日本では政党間で大きく意見が対立する問題が数多く生じてきています。例えば、消費税増税の是非、共謀罪の是非、憲法改正の是非などです。さらには領土問題のように国家間の対立を招いている問題もあります。このように多くの政治的な問題(その社会全体の維持・発展に大きく関わる問題)が生まれている中で、さらに18歳選挙権も導入された現状において、政治的な問題を教育現場でどのように扱うべきかということは大きなテーマとなっていると言えるでしょう。そもそも小学校・中学校・高校のいつ頃からこうした問題を教えるべきなのか、教えるとすればどのような形で教えるべきなのか、教師は自分の立場を表明してもいいのかなど、様々な問題が存在しています。

 そこで本稿では、そもそも教育の政治的中立性とはどういうことかを明らかにするとともに、学校現場で政治的な問題をどのように扱うべきなのか(いつから行うべきなのか、またどのような形態で行うべきなのか)という点について検討していきたいと思います。
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2017年06月20日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(5/5)

(5)一から多への発展を捉える

 本稿は,今年,京都弁証法認識論研究会で組織的に取り組むことにしている南郷継正『“夢”講義』シリーズの第3巻に学び,特に弁証法的頭脳活動の成果であろうと思われる3つの問題を取り上げて,筆者なりに理解したことを文章化することによって整理し,少しでも自分の実力と化していくことを目的に,これまで説いてきた。ここで,これまでの内容を振り返ってみたい。

 初めに,脳の統括の問題を取り上げた。人間の脳には,体全体を統括する働きと自分の脳の中に像を創り出す働きの,大きな二つの働きがあるとされていた。また,脳は自分自身をも統括しているとして,脳自体の統括にも2つの働きがあると説かれていた。それは,脳自体の生理状態と運動状態の統括と脳がそれによって誕生させる認識すなわち像の統括の2つであった。このように,脳は体全体を統括することと脳自体を統括することを同時に行っており,これが「二重性(二重構造)」と呼ばれていた。しかし,これとは別に,脳の統括自体も運動そのものであり,昼間と夜間では変化すると説かれており,その昼間と夜間の異なる統括のあり方が二重性=二重構造として把握されていたのであった。さらに,夢は認識の一つであるが,その認識とは脳の働きの一つに過ぎず,生命体全体の体系的な統括をするためにこそ,脳による認識の統括があるのであり,脳の全体系的な統括のなかで,認識が働かされて(生成発展させられて)いるのであるからして,夢の問題を解くためには,脳の全体系的な統括という働きをきちんと解明しなければならないと説かれていた。この後,人間の脳の統括は四重構造の性質をもつとして,@〔運動の統括×生理の統括=脳の全体統括〕,A〔感覚器官×像=脳の統括〕,B〔脳の統括=脳の生理×運動×認識〕という,3つの公式が紹介されていた。体全体の統括と脳自身の統括の二重性=二重構造というのは,この公式でいうと,@AとBの二重性=二重構造ということになり,それぞれの統括はさらに,昼間と夜間では変化するのであり,それぞれ昼間と夜間という二重性=二重構造が存在するといえるのであった。これで合計四重構造になると説かれていた。このような多重性=多重構造の把握をごく自然になしうることこそ,弁証法的頭脳活動の本領なのであり,世界の二重星=二重構造を見抜けず,片方のみしか見ることができないような非弁証法的な頭脳活動を克服するべく研鑽していかなければならないと説いておいた。

 次に,『“夢”講義(3)』に掲載されている『“夢”講義』の感想文を取り上げ,そこで説かれている真の学的方法について考えた。この感想文では,南郷継正は,いかなる問題を解く場合でも,「原点」に立ち返り,そこからの生成発展が,くり返しくり返し説かれているのであり,夢をその直接的形態のみで扱うのではなく,夢を原点から問い直して,すべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開するという真の学的方法でもって,夢を解明したと説かれていた。「そこに至るすべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開する」というのは人間に関するあらゆる問題を解明する場合に必要な手続きであり,そういえるのは,宇宙=物質が,人間という生命体に流れ込むように発展してきたという歴史的事実があるからであろうと説いておいた。続いてこの感想文では,『“夢”講義』は「認識論を認識学へ」と向かわせるための方法論が説かれていると指摘したうえで,認識論を認識学へと向かわせるためには,何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く必要があり,そのためには弁証法的な学力を養成しなければならない,換言すれば,弁証法という土台の上に認識論を構築しなければならない,と説かれていた。弁証法は学問構築の過程で誕生したのであるから,あらゆる学問はそれを構築するためには弁証法的な学力が必要なのだといえるだろうとしておいた。また,「何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」という言葉に関しても,他の分野でも同様のことがいえると確認した。すなわち,経済学・教育学・言語学の構築を志すのであれば,何が経済・教育・言語となっていったのかの生成発展の過程的な構造を説く必要があり,もどき経済・もどき教育・もどき言語のような発想が,その解明のヒントになると説いておいた。最後に,原点からの出立とそこからの生成発展のくり返しの辿り返しについて,くり返す必要があるのは弁証法的な頭の働かせ方を技化するためであり,どんな領域でも,「桃太郎のくり返し」よろしく,基本的・基礎的な物事の飽きることのないほどの「くり返し」を嫌がってはいけないということを確認した。

 最後に,赤ちゃんの夜泣きと患者さんの辛い夢の共通性という問題を取り上げた。これは,端的にいうと夢を見る実力ということであった。『“夢”講義(3)』では,この夢を見る実力がどのようなプロセスで生成発展してきたかの謎解きがなされており,そのプロセスを辿り返したのであった。まず,生命体はその歴史において生きる環境を大きく変えていったことによって脳の体全体を統括する機能が発展していき,それにともなってもう一つの機能である像を創り出すという機能も発展していき,脳が描く像はより運動的・構造的に発展していったのだと説かれていた。そして,単なる外界の反映である像しか描けなかったのに,サルの段階で樹上生活を行なったため,反映でもあり,反映でもないという「もどき像」をも描けるようになり,これが問いかけ的認識の原始形態となっていき,やがて問いかけ的認識が相対的に独立化した結果,像がきちんと二重化するようになった,そのころからヒトは“夢”をみることができるようになっていったのであり,これが個体発生でいうと赤ちゃんが夜泣きを始める段階に相当する,と説かれていた。また,サルの樹上生活については,地上で反映させて形成されていった像と,樹上で反映されて形成されるようになった像との相克の像のあり方の一つが,対象をいわば目的的にみる目となり,最終的に,「あれはこうだ!」という自分の主観から,自分勝手に対象をみてしまう認識の誕生につながったのであり,これが夢の大本(根本原因)であると説かれていた。すなわち,夢はヒトが目的をもつようになった結果,みることができるようになったものであり,目的をもつとは,外界を媒介的にでも映せるようになり,外界からの直接の像と外界からの媒介の像を二つに分けて考えられる実力をもったということであるとされていた。このように,夢を見る実力がどのようについてきたかの過程的構造が解明できたからこそ,赤ちゃんの夜泣きを防ぐ方法と悪夢で苦しむ患者さんに対する看護の方法をしっかり提示でき,その共通性を雰囲気と動作の二つで五感器官に働きかけることであると見抜けたのだと説いておいた。

 このように見てくると,弁証法的頭脳活動とは,端的にいうと,一から多への発展を捉えるものであるといえる。すなわち,現在の対象の二重性=二重構造(多重性=多重構造)を見抜くだけではなく,その二重性がどのようして原点たる「一」から生成発展してきたのかの過程的構造をもしっかり把握できるようなものだといえるだろう。脳の統括といえば,すぐにそれには二重性=二重構造があるはずだとして,その構造に分け入っていく,人間の認識といえば,すぐにそれには二重性があるはずだとして,その構造に分け入っていく。そして,それだけではなく,その構造を真に解明するために,その二重性に至った生成発展のプロセスを,すなわち,何が「脳の統括」や「認識」となってきたのかの生成発展の過程的構造を射程に入れて,その解明に進んでいく。これこそが真の学的方法であり,このような学的方法を実践できるためには,対象の矛盾(対立物の統一)を捉え,対象を運動変化している一断面として捉えることができるほどの,弁証法の実力が必要となってくる。このような弁証法の実力を養成しないかぎり,専門分野の学問体系を構築することなど,決してできないのだ,逆にいうと,このような弁証法の実力を養成すれば,本書で展開されているような学的な論の展開が可能となるのだ,ということが本稿を認め,本書で展開されている弁証法的頭脳活動の成果を味わうことによって,ますます確信できていったことである。

 そのような弁証法的頭脳活動が可能となるためには,どのようにすればよいか。それは,本書でも説かれていたとおり,弁証法の基本的な頭の働かせ方を意識して,それをくり返しくり返し辿り返すことであろう。具体的には,弁証法の基本書としての三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』を,改めて原点として設定し,そこに戻って,またそこから学び直すとともに,南郷継正の『“夢”講義』シリーズも,くり返しくり返し読み込んでいく必要があるだろう。それて並行して,専門分野についても,例えば対象の二重性を考えてみたり,何がその対象となってきたのかの生成発展の構造を考えてみたりして,弁証法的に捉えられるように訓練していかねばならない。そうして,弁証法的な頭の働かせ方とはこのようなものだということが,特別意識しなくても勝手にできるようになることこそが,目指すべき目標であるといえるだろう。

 そのような目標に到達するために,今後もしっかりと弁証法学びを継続していく決意である。


(了)
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2017年06月19日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(4/5)

(4)夜泣きと辛い夢の共通性とは何か

 前回は,『“夢”講義(3)』の弁証法的頭脳活動の成果として真の学的方法をとりあげ,本書に開催されている感想文を手がかりに考察した。真の学的方法とは,そこに至るすべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開することであり,何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説くのに必要な弁証法的な学力を養成することこそが大切である,ということであった。また,このような弁証法的な学力を技化するためには,くり返しの上のくり返しの学びが必要であることも確認した。

 さて今回は,赤ちゃんの夜泣きと患者さんの辛い夢の共通性という問題を取り上げたい。この共通性とは,端的にいうと,夢を見る実力ということである。『“夢”講義(3)』では,この夢を見る実力がどのようなプロセスで生成発展してきたかの謎解きがなされており,一応この第3巻で,その謎解きが完了しているといってもいい。今回は,この夢を見る実力の生成発展のプロセスを辿り返してみたい。

 本書では,「第3編 学問的に「夢とはなにか」を説くための礎石」「第1章 夢の学問的な解明に必須の過程を説く」「第3節 「いのちの歴史」から説く人間の認識への発展過程」において,いつものように,これまでの論の展開を要約しつつ(真の学的方法!),人間が夢を見る実力をつけていったプロセスが説かれている。

 「生命の歴史」において,脳が誕生した魚類段階から両生類段階へ,そして哺乳類段階へと生命体が発展するに伴って,生きる環境が大きく変化していく。そのことによって,脳が大きく変化していくのである。より過酷な環境で生きられるように,脳の全身を統括する機能が発展せざるを得ず,脳の実体としての実力も増していく。そうすると,当然に脳の全身の統括ではないもう一つの働き,すなわち像を描くという働きにも影響が出て,脳が描く像はより運動的・構造的に発展していく。やがて哺乳類のトップとしてサルが誕生し,樹木での生活を余儀なくされると,サルの脳とその反映像は大きく発展させられることとなるとしたうえで,次のように説かれている。

「端的には,それまでの脳が描く認識=像は,外界の反映でしかない(しかも本能としての脳が反映させるだけの)像だったモノが,樹上生活・樹木生活の過程的構造のゆえをもって,外界からの反映の像は当然のこととして,二重・三重の多重像を描く実力をつけた結果,外界からのまともな反映ではない像,すなわち,反映でもあり,反映でもないという『もどき像』をも描く実力をもった,ということです。

 この『もどき像』が脳のなかで発生するにつれて,サルはその像をたしかめる方向へと運動しはじめることになり,これがいわゆる問いかけ的認識の原始形態(原形)となっていったのです。

 この問いかけ的認識が相対的に独立化して,本当の“問いかけ”が完成し,像がきちんと二重化するようになったころから,ヒト(人類)は“夢”をみることができるようになっていったのです。これがヒトが“夢”をみることができるようになった段階であり,人間の発達段階からいうと,赤ちゃんが夢をみる=夜泣きのころの脳の発達=発育の中身のレベルが,ヒトの認識の夜明け段階といえます。」(p.85)


 ここでは,単なる外界の反映である像しか描けなかったのに,樹上生活のために,反映でもあり,反映でもないという「もどき像」をも描けるようになり,これが問いかけ的認識の原始形態となっていき,やがて問いかけ的認識が相対的に独立化した結果,像がきちんと二重化するようになった,そのころからヒトは“夢”をみることができるようになっていったのであり,これが個体発生でいうと赤ちゃんが夜泣きを始める段階に相当する,ということが説かれている。

 ここで説かれている内容を,像の生成発展だけを独立化して取り上げてみるならば,以下のようなプロセスとなるだろう。

外界の反映でしかない像
  ↓
二重・三重の多重像
  ↓
外界からのまともな反映ではない像=もどき像
  ↓
問いかけ的認識の原始形態
  ↓
本当の“問いかけ”=像の二重化


 すなわち,サルまでの段階では,単なる外界の反映でしかなかった像が,サルの樹上生活を経ることによって,ついには二重化した像にまで発展したのである。ここの歴史的な像の生成発展については,すぐ後の部分では,次のように説かれている。

「このように地上で反映させて形成されていった像と,樹上で反映されて形成されるようになった像との相克が,あるとき突然に,ある時代のあるレベルのサルにおきはじめます。

 この相克を解決するために,サルは地上へおりることを決心(?)し,やがてこれらがヒト的サル(類人猿)へと進化し,そこから人への進化が始まっていくのです。

 これらの相克の像のありかたの一つが,対象をいわば目的的にみる目となり,対象を自分で(主観的・自分勝手的に)描いた形でとらえられるようになり……して,結果,問いかけの像=問いかけ的認識すなわち『あれはなんだ?』ではなく,『あれはこうだ!』として自分の主観から,自分勝手に対象をみて(とらえて)しまう認識の誕生をみることになっていくのです。これが夢の大本(根本原因)なのです。

 つまり,夢はヒトが目的をもつようになった結果,みることができるようになったモノであること,そしてその目的をもつということは,認識論的・像的に説くと,ヒトの脳のなかで,それまでは外界からの直接の反映でしか映せなかった像が,外界を媒介的にでも映せるようになった結果,外界からの直接の像と外界からの媒介の像との二重性を帯びるようになり,あげく,それを二つに分けられる実力がつきはじめ,そしてそこからしだいしだいにヒトから人間になるにつれて,分けて考えられる実力を脳はもってしまったのだ,ということなのです。」(p.87-88)


 ここでは,地上で反映させて形成されていった像と,樹上で反映されて形成されるようになった像との相克の像のあり方の一つが,対象をいわば目的的にみる目となり,最終的に,「あれはこうだ!」という自分の主観から,自分勝手に対象をみてしまう認識の誕生につながったのであり,これが夢の大本(根本原因)であると説かれている。換言すれば,夢はヒトが目的をもつようになった結果,みることができるようになったものであり,目的をもつとは,外界を媒介的にでも映せるようになり,外界からの直接の像と外界からの媒介の像を二つに分けて考えられる実力をもったということであるとされている。

 ごく単純化していえば,像が,外界の直接の反映像と,そうでない媒介の像に二重化したのであり,媒介の像の方が,あるときには問いかけ像となり,あるときには目的像となり,そしてあるときには夢となる,ということであろう。認識=像が二重化することは三浦つとむも説いていたが,どのようなプロセスを経て像が二重化するようになったのかを解明したのは,本書が史上初なのではないか。このような過程的構造を明らかにしたのは,まさに弁証法的頭脳活動の技の冴えといえるだろう。

 以上見たように,生命の歴史において認識=像が二重化したために,ヒトは夢をみることができるようになったのであり,個体発生でいうと,これがちょうど夜泣きが発生する段階に相当する。このころの赤ん坊は,眠っていて直接の反映像としてはそれほどの像を描いていないにもかかわらず,媒介の像として,何が何だかわからないような像を勝手に描いてしまえる実力がついてしまったため,その描いた像をみて,突発的に泣きじゃくるというようなことになるのであろう。また患者さんは,眠っていても過去の体験から媒介された像を勝手に描いてしまう。これが辛い悪夢であり,疼痛の原因となっているものである,ということだと理解した。

 本書の最後の方の部分,すなわち「第5編 看護の夢の事例を「いのちの歴史」から解く」「第2章 赤ちゃんの夜泣きと夢の過程的構造を説く」「第4節 夜泣きを防ぐ赤ちゃんの睡眠中の育てかたを説く」では,夜泣きを防ぐ対応の方法が説かれている。それは,雰囲気と動作の二つで赤ちゃんの五感器官を育てることであり,具体的にはお母さんがのんびりとした歌を歌ってあげながら,赤ちゃんが好むようなスキンシップを行っていくことであると説かれている。

 これは,『“夢”講義(1)』から登場する看護学生Dさん(神庭純子氏)が疼痛と悪夢に苦しむ患者さんに行った看護と論理的には同じものであろう。看護学生Dさんは,ケアをとおしてコミュニケーションを図ろう,話をゆっくりお聞きして気持ちを知ることにしようとの方針のもと,痛みの訴えがある部分をゆっくりさすりながら話に耳を傾けたということであった。これも雰囲気と動作の二つで患者さんの五感器官や神経に働きかけ,患者さんの認識を整えることによって,悪夢を防止することにつながったのだと考えられる。

 このように夜泣きや悪夢に対する根本的な対処法を提示でき,両者の共通性を説けるのは,やはり南郷継正がそもそも夢とは何かを,その原点から,学問的な方法で弁証法的に解明しえたからこそといえるだろう。ここでも,弁証法的な頭脳活動の見事さを感じることができた。

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2017年06月18日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(3/5)

(3)真の学的方法とは何か

 前回は,『“夢”講義(3)』で説かれている弁証法的頭脳活動の成果として脳の統括の問題を取り上げ,2つの二重性=二重構造で合計四重構造の性質をもっていることを確認したうえで,すべての事物・事象を二重性として捉えられるような弁証法的な頭脳を創ることの大切さを強調した。

 さて今回は,本書に掲載されている『“夢”講義』の感想文を取り上げ,そこで説かれている真の学的方法とは何かについて検討したい。

 問題の感想文は,「第3編 学問的に「夢とはなにか」を説くための礎石」「第2章 学問的でない夢の専門家の実力を説く」「第4節 『“夢”講義』感想文―夢を学問的に説くとはいかなることか」に収められている。この節は全文,読者の感想文である旨が注記されている。「この読者は若くして某一流大学の教授となった,その専門分野では世界的レベルでの権威とされている方」(p.105)であり,感想文中には「DNA」とか「DNA理論」とかいう言葉がくり返し出てくるから,この感想文は本田克也氏の手になるものであろう。

 感想文では,「この『夢講義』においては,いかなる問題を解く場合でも,『原点』に立ち返り,そこからの生成発展が,繰り返し繰り返し説かれている」(p.106)と指摘され,これまでのすべての研究者はそのような夢に至る生成発展に着目できなかったために,夢を解明することができなかったのだと説かれている。その上で,次のように説かれている。

「いったい,これまで誰が,このような偉大なる展開をなしえたであろうか。例えば“夢”について論じようと志した人間は少なくない。精神分析のフロイトやユングはもとより,多くの心理学者,脳生理学者,生物学者がこの謎に挑んできた。しかし,すべての研究者は,夢をその直接的形態でのみ扱う以上には出られず,ついには袋小路に迷い込んでしまっているのである。

 しかし南郷継正はそうではなかった。夢をそれ自体として見れば脳が勝手に描く像にすぎないとしながらも,これを原点から問い直して,これは優れて人間の認識の発展の言うなれば一つの現象形態なのであるから,そこに至るすべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開することこそが,夢の解明になるという,真の学的方法すらも,この『夢講義』では提示されているのである。」(p.108)


 ここでは,南郷継正は,夢をその直接的形態のみで扱うのではなく,夢を原点から問い直して,すべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開するという真の学的方法でもって,夢を解明したと説かれている。

 確かに,前回も少し触れたように,夢は認識の一つであるから,認識とは何かを,その生成発展に遡って解明し,さらに,認識とは脳の働きの一つであり,もう一つの働きである全身の統括のためにこそ,認識が存在するのであるから,脳の働き全体や,それを支える脳の実体の生成発展を辿り返すことによって,夢を解明しようとしているのが『“夢”講義』であるといえる。

 それにしても「そこに至るすべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開する」というのはすごい言葉である。これは夢のみならず,人間に関わるあらゆる問題を解明する場合に必要な手続きであるといえるのではないか。そして,そのようなことがいえるのは,結局,宇宙=物質が,人間という生命体に流れ込むように発展してきたという歴史的事実があるからであろう。すなわち,人間はもともと人間として存在していたのではなく,物質の発展の流れの終着点として,いわば究極の物質として誕生したものであるから,そのプロセスを辿り返さないと,人間の問題は解けないということであろう。

 続けて感想文では,『“夢”講義』は「認識論を認識学へ」と向かわせるための方法論が説かれていると指摘したうえで,次のように説かれている。

「ならば認識論を認識学にするための鍵はどこにあるのか。逆から言えば,これまでの認識論者はなぜ認識学の構築に失敗したのかの秘密も,ここに暴かれているように思える。

 おそらくこれまでのすべての認識論者,あるいは心理学者は,できあがった認識をそれ自体の運動としてとらえることに終始してしまい,何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説くのに必要な,弁証法的な学力を養成してこなかったのだ。したがって『夢』に至るその生成発展のプロセスを問うことができなかったのだ。もっと言えば弁証法の土台の上に認識論を築くことができなかった,つまり認識論構築の土台を失ったままに認識論を構築しようとしたから空中楼閣に終わって崩れ去ってしまったのだ,ということが見えてくるのである。

 もしこう言ってよければ,認識論の土台は弁証法にあるということを史上初めて証明されているかのようにも思えるのが,この南郷継正の『夢講義』であるともいえるのである。」(pp.111-112)


 すなわち,認識論を認識学へと向かわせるためには,何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く必要があり,そのためには弁証法的な学力を養成しなければならない,換言すれば,弁証法という土台の上に認識論を構築しなければならない,ということである。

 基本的には,先の引用部分と同じことが説かれていると考えていいだろう。従来の研究者は,「夢をその直接的形態でのみ扱う」=「できあがった認識をそれ自体の運動としてとらえる」ことしかしていなかったが,本来は,「原点から問い直して」「何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要があるということである。そして,そのような生成発展の過程的な構造を説くためには,弁証法的な学力を養成しなければならないのであり,弁証法という土台の上に構築してこそ,認識論は認識学として成立するのだと説かれている。もう少し一般化すれば,これはどんな学問にも当てはまる論理だといえるだろう。すなわち,いかなる学問であれ,それを構築するためには弁証法的な学力が必要なのであり,いってみれば弁証法という土台の上に構築しないと,空中楼閣に終わって崩れ去ってしまうのである。これは歴史的に見ても,弁証法が学問構築の過程で誕生したことと無関係ではあるまい。

 今回の引用文中にある「何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」という言葉も,すごい言葉である。このような言語表現ができるところに,この読者(おそらく本田克也氏)の実力の高みを感じることができる。これこそ,認識学を構築するための真の学的方法なのであるから,これは他の分野でも同様であるといえる。たとえば,経済学の構築を志すのであれば,「何が経済となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要があり,教育学の構築を志すのであれば,「何が教育となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要がある。言語学の構築を志すのであれば,「何が言語となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要があるのであり,これらの過程的構造を説けるほどの弁証法的な学力を養成しなければならないのである。

 私の専門に関わるもう少し狭いテーマでいうならば,たとえば心理療法や心理検査を学問的に説こうとする場合,「何が心理療法となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要があるし,「何が心理検査となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要がある。本感想文で触れられている「もどき像」の誕生という論理を借用すれば,心理療法が誕生する直前の段階では,「もどき心理療法」のようなものがあったはずであるし,心理検査が誕生する直前の段階では,「もどき心理検査」なるものが存在したはずである。このように考えていくと,心理療法や心理検査を研究していく際の観点が明らかになってくるし,心理療法や心理検査が歴史性を帯びたものとして,これまでとは違ったふうに見えてくるというものである。

 さて,感想文の最後には,「『原点からの出立とそこからの生成発展の繰り返しの辿り返し』,そのことこそが『夢講義』に連綿と流れている学的精神であると思う」(p.115)と認められている。確かに本書では,くり返しくり返し,原点から説き直されている。そもそも認識とは何か,生命体は単細胞からどのようにして人間にまで至ったのか,などということが,本当にしつこいくらいくり返して説かれている。前回見た脳の統括の問題も,たとえば94頁以降に,またまとめて説き直されている。こういう箇所は無数にある。

 このようにいうと,「原点からの辿り返しは分かったが,それをなぜくり返す必要があるのか?」との疑問が読者から出されるかもしれない。それは端的にいうと,そのような原点からの生成発展を辿るという弁証法的な頭の働かせ方を技化するためである。バスケットのシュートフォームをくり返しくり返し練習し,少し上達しても崩れを防ぐために定期的にフォームをチェックしてまたくり返すのと同じことである。ここに関しては,「秀才といわれる人たちの欠陥は,自分にとってやさしいと思える物事については,どうしてもくり返しの学習を嫌がることです」(p.187)としたうえで,次のように説かれているので,それを紹介して,今回は終わりにしたい。

「何事においても,技が上達したいなら,あるいは頭脳のはたらきを見事にしたいのなら,けっして,この基本的・基礎的な物事の飽きることのないほどの『くり返し』を嫌がってはいけません。それほどに『桃太郎のくり返し』は,学問構築を志す人たちは当然のこと,スポーツや武道を一流にと志す人たちにとっても,とても大事なことなのです。この『桃太郎のくり返し』のことを『量質転化化』をはかることだ,すなわち『弁証法』の説く『量質転化』の問題と同じことだとわかることは,とても大事なことなのです。」(p.188)

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2017年06月17日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(2/5)

(2)脳の統括の多重構造とはいかなるものか

 本稿は,『“夢”講義(3)』を組織として集団的に読み込み,その中に説かれている弁証法的頭脳活動の成果を取り上げて論じていく論考である。今回は,本書の初めの方から説かれ続けている脳の統括の問題を取り上げたい。

 まず,本書の流れにしたがって,脳の統括について触れられている部分を見ていく。

 「第1編 生理学から説く「夢とはなにか」」の「第1章 認識の発展の過程的構造を脳から説く」「第2節 人間の脳には大きな二つのはたらきがある」では,脳の二つの働きとして,「体全体を統括するというはたらき」と「自分の脳のなかに像を創りだすはたらき」(p.17)の二つが挙げられている。もちろん,この二つの働きには,相互に関連するところがあるはずである。たとえば,食をとるという運動を行うために,外界の対象を五感覚器官を通して反映し,像を創りだし,その像に基づいて体を動かして対象を食べるというような関連である。すなわち,体を統括するためにこそ像を描くのであり,その描いた像に基づいて体を統括していくということである。

 次に,同じ第1編の「第2章 夢の解明に必要な「昼間の生理学」と「夜間の生理学」を説く」「第2節 脳自体の統括の二つのはたらきとは」では,脳は自分自身をも統括しているとして,脳自体の統括の二つの働きが説かれている。それは,「脳自体の生理状態と運動状態の統括」と「脳がそれによって誕生させる認識すなわち像の統括」(p.25)である。

 続く「第3節 脳の統括は当然に弁証法性をもつ」の冒頭では,今までの内容が次のようにまとめられている。

「脳は,脳自体の全体として大きな二つのはたらきを統括しつづけるものでした。

 しかし大変なことに,この脳は自分自身を全体として統括しているばかりでなく,脳自体が存在している体全体(全身)をも統括していることは常識です。ですから,脳は自分自身の統括体系の外側(これはヒユです)で,その自分自身をも含めた体全体(全身)の統括も行なっていることになります。

 すなわち脳は自分自身の統括と体全体との統括の二重性(二重構造)を,あたかも一つの構造のものとして時々刻々統括する(しなければならない)という大事業を欠かさずに行なっているわけです。」(p.27)


 ここでは先にみたように,脳は体全体を統括することと脳自体を統括することを同時に行っており,これが「二重性(二重構造)」と呼ばれている。脳は統括器官であるが,体全体から見れば部分に過ぎない。したがって,脳は全体を統括しつつ,部分たる自分自身も統括している。この全体の統括と部分の統括が「二重性(二重構造)」と呼ばれているといえるだろう。

 しかし,別の二重性=二重構造も指摘されている。今見た第3節から,次の「第4節 活動している「昼間の生理学」と休息している「夜間の生理学」」にかけての部分では,次のように説かれている。

「それで,脳が体と自分自身を統括するということは,体の運動と自分自身の運動を統括するにとどまらず,自分自身のその二重の統括すらも運動そのものであるということです。「これが運動ということは,これは変化している!」ということなのです。

 そこで,まずここでの運動すなわち変化の大きな部分を見てみることにしましょう。

 それが,再三説いている昼間の生理学と夜間の生理学なのです。すなわち,脳の,体と脳自身の統括には二重性=二重構造がある! ということなのです。」(pp.28-29)


 ここでは,脳の統括自体も運動そのものであり,昼間と夜間では変化すると説かれており,その昼間と夜間の異なる統括のあり方が二重性=二重構造として把握されている。脳の統括について,同じ二重性=二重構造という言葉が使われていても,先に見たのは体全体の統括と脳自身の統括の二重性=二重構造であったのに対して,ここで説かれているのは,統括のあり方が昼間と夜間では異なるという二重性=二重構造なのであった。このあたり,ぼんやりとした像を描いて分かったような気になったり,同じ二重性=二重構造なのだから同じことを説いているはずだと決めてかかったりしてはいけない。

 さらに,「第3編 学問的に「夢とはなにか」を説くための礎石」「第1章 夢の学問的な解明に必須の過程を説く」「第2節 夢を唯物論的に説くには脳の解明が必須である」では,夢は認識の一つであるが,その認識とは脳の働きの一つに過ぎず,生命体全体の体系的な統括をするためにこそ,脳による認識の統括があるのであり,脳の全体系的な統括のなかで,認識が働かされて(生成発展させられて)いるのであるからして,夢の問題を解くためには,脳の全体系的な統括という働きをきちんと解明しなければならないと説かれている。この部分は,先に触れた脳の二つの働き,すなわち「体全体を統括するというはたらき」と「自分の脳のなかに像を創りだすはたらき」の関連について説かれている個所であるといえるだろう。端的にいうと,前者の方がメインであり,後者は前者のためにこそ存在するという位置づけである,といえる。夢の問題を解くに際して,大きな視点からとらえ返し,認識の問題だとするだけではなく,さらに脳の統括における認識の位置づけを問題にして,それらを全体的・体系的に説かないと,部分たる認識の問題,夢の問題は説けないということである。

 さて,第3編の「第3章 夢に関わって人間の脳の統括の過程的構造を説く」「第1節 人間の脳の統括は四重構造の性質をもつ」では,脳の統括の問題が総括されているといえる。簡単には,節のタイトルにあるように「人間の脳の統括は四重構造の性質をもつ」ということである。では,その四重構造とは何か。これをしっかりと確認しておかなければならない。

 まず,この説では,脳の統括に関わって,次の三つの公式が登場する。

@〔運動の統括×生理の統括=脳の全体統括〕
A〔感覚器官×像=脳の統括〕
B〔脳の統括=脳の生理×運動×認識〕

 @が一番初めに人間の脳に大きな二つの働きがあるとして説かれていたうちの一つ,すなわち,体全体を統括する働きのことを表していると考えられる。そしてAが,もう一つの働き,すなわち,自分の脳の仲に像を創りだす働きのことであろう。Bは,脳の自分自身の統括のことであり,その中で「脳の生理×運動」が「脳自体の生理状態と運動状態の統括」を意味し,「×認識」の部分が「脳がそれによって誕生させる認識すなわち像の統括」を意味していると考えてよさそうである。

 そうすると,先に見た2つの二重性=二重構造のうち,前者,すなわち,体全体の統括と脳自身の統括の二重性=二重構造というのは,この公式でいうと,@AとBの二重性=二重構造ということになるだろう。

 さらに,体全体の統括である@Aと脳自身の統括であるBは,昼間と夜間では変化するのであり,それぞれ昼間と夜間という二重性=二重構造が存在するといえるのである。ここに関しては,次のように説かれている。

「脳が体(の運動と生理)と自分自身(の運動と生理)を統括するということは,体の運動と自分自身の運動を統括することにとどまらず,自分自身のその二重の統括すらも運動形態そのものであるということです。また,これが運動形態であるということは,これは一般的な変化をなしながら,それと直接に部分としても変化していくという形態を把持しているということなのです。

 これこそが,先に説いた昼間の生理学と夜間の生理学の大切な中身なのです。すなわち脳の,体と脳自身の統括には二重性=二重構造があるのですが,これ自身にも昼間の生理学としてのものと,夜間の生理学としてのものとの二重性があり,合計四重構造の性質をもっているのだということを,読者のみなさんははっきりと自覚できなければなりません。」(p.118-119)


 すなわち,脳の統括は,体の統括と脳自身の統括の二重性=二重構造があるだけでなく,それぞれについて昼間の生理学としてのものと夜間の生理学としてのものの二重性=二重構造があり,合計で四重構造になっているということである。

 このような多重性・重層性の把握は,著者である南郷継正にとっては,まさに勝手に(自動的に)なし得るものであり,これこそが弁証法的頭脳活動のなせる業であるのではないか。われわれはともすれば,脳の統括のうち,体の統括のみを見て,脳自身の統括は見落としがちなのではないか。あるいはまた,脳の統括のうち,昼間の生理学としてのもののみを見て,夜間の生理学としてのものを見落としがちなのではないか。これはまさに,世界の二重性=二重構造を見抜けない非弁証法的頭脳活動のなせる業である。われわれは一刻も早く,すべての事物・事象を二重性として把握できるような弁証法的な頭脳活動に向けて,『“夢”講義』に学び続けなければならないのだと,決意を新たにした次第である。

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2017年06月16日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(1/5)

目次

(1)弁証法的頭脳活動で創られた『“夢”講義』
(2)脳の統括の多重構造とはいかなるものか
(3)真の学的方法とは何か
(4)夜泣きと辛い夢の共通性とは何か
(5)一から多への発展を捉える

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(1)弁証法的頭脳活動で創られた『“夢”講義』

 本稿は,南郷継正『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義――看護と武道の認識論 第3巻』(以下,『“夢”講義(3)』と略す)を集団的に読み込み,学んだ内容を認めることによって,本書の内容をしっかりと自分の実力と化すことを目的としたものである。

 われわれのブログの「年頭言」にも記したように,今年は,京都弁証法認識論研究会として,集団的に『“夢”講義』に取り組むことを,活動の一つの柱としている。これまで,2月と4月にそれぞれ第1巻と第2巻の感想を掲載した。今回は3回目であり,『“夢”講義』は全6巻であるから,ようやく半分の折り返し地点に辿り着いたことになる。

 本書を読んでの率直な感想は,これこそが弁証法的頭脳活動のなせる業だ! というものであった。弁証法的頭脳を駆使して,見事に生理学から夢とは何かや思春期の論理構造などが説かれているのである。では,弁証法的頭脳活動とは何か。本書では,弁証法の学びは,自動車の運転の学びと同じようなものであり,「教習所の運転コースから市街地へでていき,そこから郊外の道を走り,やがては高速道路へと,そこを経たら,いうなれば山道,がけっぷちの道,といったあらゆる道路を易から難へと訓練し続けてようやくにして一人前」(pp.172-173)になれるとした後,次のように説かれている。

「この学問的弁証法の実力を培っていったのが,古代ではアリストテレスであり,近代では高速道路だけを走ったカントであり,高速道路以外の道をもまともに踏破できたのがヘーゲルなのだと思ってもらえばいい。なお現代では,私の恩師三浦つとむは,生活道路上の走りかたでは達人であった,といってよいであろう。

 さて,ではそうなったばあいに最初に説いた脳の実体とその機能という関わりからいえば,どういうことになるかというと,結論から説くなら,脳の実体の二重化かつ脳の機能の二重化となってきているものである。

 具体的に説けば,脳のはたらきである認識が,弁証法を駆使できるレベルを超して,認識そのものが弁証法性を帯びて,あたかも認識が弁証法的認識であるかのように,(観念的に)実体化していく状態を通過するなかで,それが相互浸透されて脳の実体そのものが,脳として,つまり脳の認識を創りだす能力そのものの機能が,弁証法化するという事態にまで発展していけるのである。

 すなわち,認識が弁証法的に考えようと思わなくても,勝手に弁証法的に考えてしまっている,すなわち,弁証法的な考えかたを自分で意図的に止めないかぎりは,必ず弁証法的に認識を創りだし,弁証法的な認識を創りだす,そういう脳の実体に量質転化化しているのである。」(pp.173-174)


 ここでは,認識が弁証法的認識であるかのように観念的に実体化し,それが脳の実体と相互浸透する中で,脳の認識を創りだす能力そのものの機能が弁証法化する結果,勝手に弁証法的に考えてしま脳の実体に量質転化化しているレベルが弁証法的な頭脳の実体の構造であると説かれている。このような頭脳を駆使することが,弁証法的頭脳活動であるといっていいだろう。要するに弁証法的頭脳活動とは,考えれば必然的に弁証法的に考えてしまうのであり,意図的にやめない限り,どうしても弁証法的な頭の働かせ方をし,弁証法的に対象の構造を明らかにして,弁証法的な論の展開をして文章を書いていくことになる,というレベルの頭脳活動だといっていいだろう。

 本書では,まさしくそのような弁証法的頭脳活動が展開されており,これこそが重層弁証法の威力なのだと感動を覚えることが非常に多い。

 そこで本稿では,本書で説かれている弁証法的頭脳活動の成果を3つ取り上げ,筆者なりに理解したことを文章化することによって整理し,少しでも自分の実力と化していきたいと考えている。初めに取り上げるのは,脳の統括の問題であり,次に,真の学問的方法について考察する。最後に,患者さんの辛い夢の問題を検討する予定である。

 ではいつものように,最後に本書の目次を示しておく。



なんごうつぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(3)


【 第1編 】 生理学から説く「夢とはなにか」

第1章 認識の発展の過程的構造を脳から説く

 第1節 “夢”講義は,みなさんそれぞれの夢の実現のためにこそ
 第2節 人間の脳には大きな二つのはたらきがある
 第3節 認識は五感覚器官・脳の成長との相互規定性で発展する

第2章 夢の解明に必要な「昼間の生理学」と「夜間の生理学」を説く

 第1節 夢は睡眠中に脳が勝手に描くものである
 第2節 脳自体の統括の二つのはたらきとは
 第3節 脳の統括は当然に弁証法性をもつ
 第4節 活動している「昼間の生理学」と休息している「夜間の生理学」

第3章 労働と睡眠の関係を説く

 第1節 人間の睡眠は労働による疲労の回復のためである
 第2節 学問的に説く労働とはなにか
 第3節 「疲れ」と「疲労」は違うものである
 第4節 「疲労」は哺乳類としての運動からの逸脱による

【 第2編 】 生理学から説く「思春期の論理構造」

第1章 「心の闇」を認識論的に説く

 第1節 「心の闇」がおこした事件
 第2節 「心の闇」は赤ん坊の頃から育つ
 第3節 他人にも自分にもみえない育ちのゆがみ

第2章 「心の闇」を脳の生理構造から説く

 第1節 脳は反映した像を自分流に発展させる実力をもっている
 第2節 思春期の脳の特殊性
 第3節 生活環境の違いで脳の創られかたが違ってくる
 第4節 思春期の脳への「ネット社会」の影響
 第5節 「狂想」へと転化させる思春期の脳
 第6節 心のゆがみは「心の教育」だけでは治せない

【 第3編 】 学問的に「夢とはなにか」を説くための礎石

第1章 夢の学問的な解明に必須の過程を説く

 第1節 観念論の立場では夢の学問的解明は不可能である
 第2節 夢を唯物論的に説くには脳の解明が必須である
 第3節 「いのちの歴史」から説く人間の認識への発展過程
 第4節 人間の認識=像は外界の反映と相対的独立に発展する
 第5節 脳は神経を介して労働と睡眠の異なった統括をする

第2章 学問的でない夢の専門家の実力を説く

 第1節 夢に関する専門家の見解を問う
 第2節 人類の歴史的な文化を学ぶことなしに夢は説けない
 第3節 夢の解明は脳が夢を描かされる過程的構造を説くことである
 第4節 『“夢”講義』感想文―夢を学問的に説くとはいかなることか

第3章 夢に関わって人間の脳の統括の過程的構造を説く

 第1節 人間の脳の統括は四重構造の性質をもつ
 第2節 労働により日々ゆがめられる人間の体と「ツボ健康法」を問う
 第3節 「ツボ」「経絡」に関する専門家の見解を問う
 第4節 「ツボ」「経絡」は動物体と人間体の相克により誕生したものである
 第5節 労働の過程的構造に夢の問題を解く鍵がある

【 第4編 】 学問に必須の「認識論」「弁証法」とその上達の構造を説く

第1章 認識論における海保静子の業績を説く

 第1節 認識論の理論的実践家としての海保静子
 第2節 認識論は弁証法とともに学問成立に必須のものである
 第3節 恩師三浦つとむの認識論の内実を問う
 第4節 認識の問題が解けない三浦つとむの認識論
 第5節 海保静子に「認識とは何か」の像の展開を学ぶ

第2章 講義録「弁証法の上達の構造を問う」

 第1節 学問としての弁証法が技化した頭脳による「目次」立てを説く
 第2節 学問構築に必要な大志・野望は空想的認識の一種である
 第3節 学問構築には対象の全体像の把握と弁証法の学びが必須である
 第4節 歴史上弁証法の全体像を提示できた学者はいない
 第5節 弁証法の実力をつける過程的構造を説く
 第6節 弁証法は脳の実体が量質転化するまで学ばなければならない
 第7節 「弁証法の上達の構造」における落とし穴とはなにか

【 第5編 】 看護の夢の事例を「いのちの歴史」から解く

第1章 人間が夢をみるに至る発達・教育の過程を説く

 第1節 辛い夢をみる事例
 第2節 上達に必須の「量質転化」の構造を説く
 第3節 サルにおける「問いかけ的認識」の芽ばえとはなにか
 第4節 人間における外界の直接の反映は誕生時のみである
 第5節 人間は外界を勝手に描く能力を教育されながら育ってくる
 第6節 外界を反映する神経系のはたらきは労働のありかたで異なる

第2章 赤ちゃんの夜泣きと夢の過程的構造を説く

 第1節 夜泣きは夢をみる実力をつけたことから始まる
 第2節 辛い夢を理解するために必要なことはなにか
 第3節 夜泣きは発育途上の脳の実力をこえた外界の反映による
 第4節 夜泣きを防ぐ赤ちゃんの睡眠中の育てかたを説く
 第5節 夜泣きと辛い夢との関係への解答

第3章 夢の事例を脳の神経と認識の統括から説く

 第1節 足のウラの鍛錬は頭脳活動を活発にする
 第2節 脳が誕生する魚類への生命体の運動形態の発展過程を説く
 第3節 魚類の脳は四重構造の統括をするために誕生したのである
 第4節 人間の脳は認識活動の統括をも行なうのである
 第5節 辛い夢をみる患者の実体と認識に働きかけた見事な看護を説く


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2017年06月15日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回までに、例会で報告されたレジュメを紹介したあと、カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介してきました。

 最終回となる今回は、例会を受けての参加者の感想を掲載しておきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回は、カント『純粋理性批判』先験的論理学の初めの部分を扱った。チューターとして、論点の提示、各会員から提示された論点の整理、論点への見解の執筆、各会員の論点への見解の整理を行い、例会当日を迎えた。

 当日の進行では、特に先験的論理学とはどのようなものか、一般論理学や純粋論理学とどのように異なるのか、といった論点に関して、自分のアタマの中を整理し切れず混乱してしまって、大きく時間を費やすことになってしまった。事前に自分なりの解答をしっかりと用意しておくという基本的な事柄がきちんと実践できていなかったのだと大きく反省されられた。

 また、他の部分でも、各会員が示した見解を確認していくという作業を行ったのみで、今回の範囲での大きな学びに繋がっていくような議論を提起することも出来なかった。

 とはいえ、今回の範囲は非常に難解で、この部分だけを読んで理解できるものではないようにも思うので、次回以降、今回の内容に関わっての論が展開されていくようであれば、今回の内容に立ち返って、合わせて考えていくようにすることで、少しでも認識の構造を明らかにしていこうとしたカントの描いた像を掴めるように努力していきたいと思う。

 次回は「純粋悟性概念の演繹について」という範囲を扱うことになるが、事前の準備を怠ることなくしっかりと自分の見解を用意して臨めるようにしておきたいと思う。

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 今回の範囲は、なかなか難解であった。論理学について、カントは大きく整理しているのであるが、一般論理学と先験的論理学の差異について明確なイメージを描くことができたとはなかなか言いにくいものがある。また、純粋悟性概念についても同様である。ここに関わって、判断も総合も表象を統一するものだという説明がなされていたように思うが、この違いは一体何なのかという点についても、あまり明確には理解できなかったと感じている。

 次回の範囲は今回の内容も踏まえたものであるので、もしかすると次回の範囲を読み込む中で、今回の内容も理解を深めていくことができるかもしれない。そういう期待をもって、次回に向けて準備をしたいと思う。

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 今回の例会では,時間の関係で論点に対する見解を作成することができなかった。その影響もあって,今回の範囲はきちんと理解できた感じがせず,他の会員の発言も,まあ,そういうものかなというくらいでしか受け取れなかった。これではせっかく例会を行っている意味がないし,今後,『純粋理性批判』を読み進めていくうえでも支障が出る。そのようなことがないように,今後はしっかり論点に対する自己の見解を書き切るようにするとともに,これまでの部分もしっかり復習しながら読み進めていきたい。

 今回の範囲では,カテゴリーという有名な概念が登場したが,これが判断の機能から導出されたことはしっかりと押さえておくべきだと思った。また,「構想力」という概念も登場したが,これは以前の例会で,ヘーゲルの絶対精神につながる重要な概念だと指摘している研究者の説を確認した。多様な表象を綜合するのが構想力だと今回の範囲では説明されていたが,綜合と判断はどう違うのか,構想力と悟性はどのような関係なのかといったことが,いまいちはっきりしていない。ひょっとしたら,自然と唯物論的な認識論の枠組みでカントを理解しようとしているために,自分の他人化ならぬ自分の自分化レベルでカントを理解してしまっており,それが,筋を通して理解できていない要因なのかもしれない。

 今後はいったん,唯物論の立場を否定して,しっかりとカントの観念論の立場に立って,カントの論の展開を応用に意識していかなければならないと感じた。

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 5月例会は、報告レジュメの担当であった。毎月、該当範囲の要約作業を行っているのだが、この5月例会に向けては、実に数ヶ月ぶりに、論点の提起までに要約作業を終えることができた。しかし、これまで読み進めてきた範囲よりもかなり難解だったという印象がある。先験的論理学とはどういうもので従来の論理学とはどのように異なっているのか、判断という悟性の機能とカテゴリー(純粋悟性概念)との関係はどうなっているのか、また、これらはヘーゲルの立場からはどのように批判されるのか、等々、なかなか明確なイメージが描き切れなかった。報告レジュメについては、難解な個所であるだけに、あくまでも『純粋理性批判』の全体像を見失わないように、また、ヒュームやヘーゲルとの関連など哲学史の大きな流れのなかで位置付ける視点を失わないように、という問題意識でまとめることを試みた。当日の議論については、かなり錯綜してしまって、率直にいって消化不良だった感も否めないが(私自身、徹底した読み込みが不足していたことも大きい)、今後読み進めていく部分で理解を深めていければ、と思う。また、緒言からの丁寧な読み直しにも取り組んでいきたい。

(了)
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2017年06月14日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(9/10)

(9)論点3:純粋悟性概念とはどのようなものか

 前回は、純粋悟性概念を導き出す手引きに関する議論について見ていきました。ここでは主に、判断が表象を統一する機能であり、判断における統一の機能を完全に余すところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能(純粋悟性概念)は経験的要素を交えずに純粋に残らず発見できるということが展開されていることを確認しました。

 さて今回は、3つ目の論点として、純粋悟性概念とはどのようなものかに関する論点を見ていきたいと思います。

論点3:純粋悟性概念とはどのようなものか

 カントは、純粋悟性概念すなわちカテゴリーに関して、どのようなものだと述べているか。また、カントは判断の機能からカテゴリー表を導いているが、判断とはどのようなもので、判断と純粋悟性概念はどのような関係にあるのか。このカテゴリー表について、ヘーゲルはどのように評価しているか。唯物論の立場から評価するならば、どのようなことがいえるか。

 この論点に関しては、まず、カントがカテゴリーをどのようなものだと述べているかに関して議論しました。ある会員は、「カントは、対象についての多様な表象から認識を構成する作用を総合と名づけ、総合は構想力の作用である、とする。カントによれば、種々の表象を分析によってひとつの概念に包括するのは一般的論理学の仕事であるが、表象の純粋総合を概念に形成するのは先験的論理学の仕事である」とした上で、「純粋総合に統一を与える概念は、悟性にもとづく。種々の表象に統一を与えるという判断の機能が、直観によって与えられた種々の表象の単なる総合そのものにもまた統一を与えるのであるが、この統一を一般的に表現したものがすなわち純粋悟性概念(カテゴリー)である、とカントは説明している」と述べました。この見解に対しては、具体的にはどういうことかという疑問が呈せられました。これに対して見解を述べた会員は、カントの文章をほとんどそのまま使って見解を書いたことを認めた上で、要するに、多様な表象を総合するのが構想力であって、綜合を概念にするのが純粋悟性概念だということであると説明しました。他の会員は、判断には統一するという機能があって、その機能が直観が与える材料にも統一を与えるということではないか、それが純粋悟性概念だというのではないかと発言しました。

 ここで、判断の問題が出てきたために、次の議論に移っていきました。それは、カントが判断をどのようなものとして捉え、判断と純粋悟性概念はどのような関係にあるとしているかという問題についてです。この点に関しては、判断が種々の表象を統一する機能を持つものであり、悟性の一切の作用を還元できるものであるということは共通認識となりました。また、先に出された、「種々の表象に統一を与えるという判断の機能が、直観によって与えられた種々の表象の単なる総合そのものにもまた統一を与える」とはどういうことかについては、判断も純粋悟性概念も統一という共通の機能があるという点を確認しました。

 次に、ヘーゲルがカントのカテゴリー表をどのように評価しているかについてです。この論点については概ね見解が共通していて、第一のカテゴリーは積極的(肯定的)であり、第二は第一を否定するもので、第三は両者の総合だといっているのは、概念の偉大なる本能である、という評価をヘーゲルは与えている一方で、これらのカテゴリーを経験的に取り上げるだけで、統一からこれらの差別を必然性をもって発展させることができていないという批判も行っているということでした。

 最後に、カントのカテゴリー表について、唯物論の立場から評価すればどうなるかという問題についてです。この問題についても概ね見解が一致していました。すなわち、カントはカテゴリーが対象をア・プリオリに思惟する条件だと捉えているが、これは論理がなければ対象についての認識が成立しないという唯物論(的認識論)の主張につながるものと評価することができる一方で、そのカテゴリーがもともと具わっているとした点は、認識は対象の反映であり像であるとする唯物論(的認識論)の立場からは批判されるべきだ、あくまでも対象を反映した像を原点として、そこから抽象されて形成された論理像として捉えられなければならない、ということでした。

 以上のような議論を行い、今回の例会における論点についての議論を終了しました。
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2017年06月13日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(8/10)

(8)論点2:全ての純粋悟性概念を残らず発見する方法とはどのようなものか

 前回は1つ目の論点、すなわちカントが論理学をどのように把握していたかに関する論点についての討論を見ていきました。カントは、認識にもともと備わっている純粋悟性概念だけを扱う先験的論理学を展開しているのだということ、これはアリストテレスの論理学を発展させたものであって、認識の成立条件を考察するものだということでした。

 さて今回は、2つ目の論点として挙げられた、純粋悟性概念を導き出す手引きに関する論点について見ていきたいと思います。

論点2:全ての純粋悟性概念を残らず発見する方法とはどのようなものか

 カントは、「先験的哲学は、純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見するという利点をもっているが、しかしまたそうする責務をももつのである。かかる概念は、絶対的統一体としての悟性から、夾雑物をひとつも交えずに純粋に生じるものであり、従ってこれらの概念自身もまた一個の概念或いは理念に従って互いに関連していなければならない」(p.140)と述べているが、これはどういうことか。純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見する方法はどのようなものだと説明されているか。

 この論点に関しては、時間の関係もあり、また概ね見解が一致していたこともあって、軽く確認する程度で済ませました。

 まず、引用されたカントの文章については、次のような見解が出されました。すなわち、カントによれば、直観や感性に属するのではなく思惟と悟性とに属し、経験的概念ではない純粋悟性概念を完全に、余すところなく把握することは、先験的哲学によって可能となるのであるが、単に可能であるという段階で留まるべきではなくて、それは先験的哲学の責務であるというのである、そして、ア・プリオリな概念の生みの親である悟性を出発点として、ここから一切の経験的要素を交えることなく純粋悟性概念を分析していく必要があるわけだが、ここでアリストテレスのように、何の原理もなく探し求めていくというのではなくて、判断する能力という1個の原理から生み出していく、それも個々の純粋悟性概念が体系的に的確に分類されることを持って完全性を保証する形で探求していく必要がある、というのがこの引用文の趣旨であるということでした。この見解については、概ね賛同されました。

 次に、純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見する方法はどのようなものかという問題についてですが、これは概ね見解が一致しました。つまり、悟性の一切の作用は判断に還元できる(悟性は判断の能力である)のであり、判断は表象を統一する機能であるから、判断における統一の機能を完全にあますところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能(純粋悟性概念)は経験的要素を交えずに純粋に残らず発見できる、ということでした。そして、この主張に基づいて、判断一般からその一切の内容を度外視して判断の悟性形式だけに着目することによって、カントは12個の判断様式を導きだし、これに基づいてカテゴリー表を創り出したということでした。

 簡単ですが、以上でこの論点に関する議論を終えました。
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2017年06月12日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(7/10)

(7)論点1:カントのいわゆる論理学とはどのようなものか

 前回は、カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他の部分のうち、ポイントとなる部分を改めて振り返った後、5月例会で提出された3つの論点を紹介しました。

 今回から、その3つの論点について順次検討した内容を紹介していきたいと思います。まず1つ目の論点として挙げられたのは、カントが論理学をどのように捉えていたのかを問う論点です。

論点1:カントのいわゆる論理学とはどのようなものか

 カントは論理学をどのようなものとして整理しているのか。特に先験的論理学はその中にどのように位置づけられているか、一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論に区分する必要性はどのようなものか、カントの論理学はアリストテレスの論理学とはどのような関係にあるのか、またヘーゲルの論理学はこれらとどのように異なっているのかを中心に議論したい。

 この論点については、まず、カントが論理学をどのようなものとして整理しているのかについて確認しました。この点については、各自の見解に大きな差異はありませんでした。まとめると、論理学は悟性が認識の一切の対象とその差別を度外視して、悟性自身と悟性の形式だけを問題にするものであり、与えられた知識を判定するための前提となるものであって、感性を扱う感性論と対をなすものだということでした。

 次に、先験的論理学の位置づけについてです。まず全員に共通していたのが、論理学を一般的な悟性使用についての論理学である一般論理学と、特殊な対象へ悟性を使用するための論理学とに区分し、前者である一般論理学をさらに、我々が悟性を使用する場合の一切の経験的条件(感覚の影響、想像力の活動、記憶の法則、習慣の力、情意的傾向等々)を一切度外視し、悟性および理性の使用の形式的方面だけに関係し、内容の如何を問わない純粋論理学と、これらの経験的条件を考慮した応用論理学とに分けているという把握でした。このカントの分類を確認した上で、先験的論理学とはどういうものかについて議論しました。この点についても大きな見解の相違はありませんでした。すなわち、先験的論理学とは、要するに我々が対象をア・プリオリに思惟するための条件であり、経験的起源も感性的起源も全く持たない純粋悟性概念に関する学であるということでした。

 ここでチューターから、今議論した先験的論理学というものは、先に区分された一般論理学や純粋論理学とどのような関係にあるのか、という疑問が呈せられました。この論点については、特殊な対象へ悟性を使用するための論理学である個々の学のオルガノンとはどういうものかをまずはイメージすべきであるとか、応用論理学は心理学だということをヒントに考えるべきではないかとか、一般論理学は認識の起源を問題にしないが先験的論理学は認識の起源を問うという違いがあるのではないかとか、諸々の意見が出されました。結局、一般論理学では雑多な概念を扱うが、先験的論理学では認識にもともと備わっている概念だけを扱うという違いがある、という共通理解を確認するまでで(時間の関係もあって)切り上げました。

 一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論に区分する必要性については、以下のような共通した理解が示されました。すなわち、一般論理学であれ、先験的論理学であれ、論理学が問題にできる真理というものは形式に関するものであって、内容に関するものではあり得ない、だからある認識が真理であるための形式を明らかにするのが論理学であって、このことをカントは分析論と呼んでいるのである。一方で、この分析論を誤用して、ある認識が形式的に真理であるという規準に過ぎない分析論でもって実質的真理を与え得るかのように純粋悟性の使用を説明するとすると、これは弁証法的仮象であって、この弁証法的仮象を批判する部分が弁証論である、ということでした。

 カントの論理学がアリストテレスの論理学とはどのような関係にあるのかに関しては、カントの論理学がアリストテレスの論理学を踏まえつつも、人間の認識が成立する条件という観点から深めて、人間の悟性のア・プリオリな形式を明らかにしようとするものであったこと、アリストテレスのカテゴリーは何らかの原理に基づいて体系的に配置されたものではないのに対して、カントのカテゴリーは判断する能力という1個の原理に基づいて導き出されたものであって、全体が4つの綱目から成り、さらに各綱目を形成する3つのカテゴリーについても第1のカテゴリーと第2のカテゴリーを結合して第3のカテゴリーが生じるといった体系性があることを確認しました。なお、この議論の中で、ある会員がアリストテレスの論理学に関して、「ノウハウレベルのものだった」と述べたことに対して、別の会員からは、アリストテレスの論理学をノウハウレベルだったという理解で分かった気になってしまってはいけないのではないかと指摘し、その見解に全員がうなずきました。

 最後に、ヘーゲルの論理学はこれらカントおよびアリストテレスの論理学とどのように異なっているのかという問題についてです。この論点については、アリストテレスやカントの論理学があくまでも人間の思惟に関する法則を明らかにしようとしていたのに対して、ヘーゲルの論理学は、思惟=存在という大前提を強調して、この世界の創造に先立つ神の思考(この世界の設計図を描くようなもの)として、思惟法則であると同時に(直接に)客観的世界それ自体がもつ法則を明らかにするものとして位置づけられているという見解が出されました。これに関連して、「この世界の創造に先立つ」という部分について、へーゲルの論理学は、絶対精神が自然に外化する前、時間及び空間という規定を獲得する前であり、絶対精神が自然から精神へという客観的なものから主観的なものへの発展過程を辿る前に、その基本的な設計図を描き上げてしまうものであるという説明もなされました。また、端的には運動性が大きく異なるとして、カントにしてもアリストテレスにしても、個々のカテゴリーが他と明確に区別され対立する形になっているが、ヘーゲルの論理学においては、絶対精神の自己運動という形で個々の概念の運動過程として論理学が展開されているのであって、単に10個や12個のカテゴリーに関してだけではなくて、世界の森羅万象に絶対精神の自己運動という設計図でもって筋を通し切った点が、ヘーゲルの論理学の大きな特徴であるという見解も出されました。どの見解についても、大筋で全うなものだということになりました。

 以上でこの論点に対する議論を終了しました。
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2017年06月11日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところを振り返っておきたいと思います。

 まずカントは、感性の規則一般に関する学である感性論を、悟性一般の規則に関する学である論理学から区別します。そして論理学については、その目的によって、一般的な悟性使用の論理学である一般論理学と、特殊な悟性使用の論理学である個々の学のオルガノンとに区別するのです。さらにカントは、一般論理学を純粋論理学と応用論理学とに分類し、前者は我々が悟性を使用する場合の一切の経験的条件を全て度外視するものであるのに対して、後者は心理学の提示する主観的、経験的条件のもので悟性を使用する規則に関する学だと主張するのです。

 さらにカントは、対象にア・プリオリに関係するような概念を想定し、我々が対象を全くア・プリオリに思惟するための条件であるところの純粋悟性に関する学を先験的論理学と呼びます。そしてカントは、一般論理学も先験的論理学も分析論と弁証論とに区分するのです。分析論とは、悟性による認識の形式に関する仕事全体をその要素に分解して、これを我々の認識を吟味する一切の論理的判定の原理として提示するもので、弁証論とは、この分析論が論理的判定の規準でしかないのに、客観的主張を実際に作り出せるものだとして誤用された場合の欺瞞を暴露し、その弁証法的仮象の批判に関する学だとされていました。

 続いてカントは、全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて説明していきます。まずカントは、判断について、我々の表象を統一する機能であり、悟性の一切の作用を判断に還元することができると主張します。その上で、判断における統一の機能を完全に余すところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見できるとして、判断における思惟の機能を4綱目に区分し、さらにまた各綱目が3個の判断様式を含むものだとして、合計12個の判断様式を提示するのです。

 最後にカントは、表象の純粋総合を概念に形成することを教えるのが先験的論理学であるとした上で、判断の含む種々な表象に統一を与えるのと同じ機能が、直観の含む種々な表象の単なる総合そのものにもまた統一を与えるのであって、この統一を一般的に表現したものとして、12個の純粋悟性概念を導き出すのでした。

 以上のような内容について、例会では大きく3つの論点が提示されました。そして、各論点をめぐって様々な議論・討論がなされていきました。そこで今回は、その3つの論点を紹介したいと思います。次回以降、それぞれの論点をめぐってなされた討論過程と、その結果どのような(一応の)結論に到達したのかということを詳しく紹介していく予定です。

論点1:カントのいわゆる論理学とはどのようなものか

 カントは論理学をどのようなものとして整理しているのか。特に先験的論理学はその中にどのように位置づけられているか、一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論に区分する必要性はどのようなものか、カントの論理学はアリストテレスの論理学とはどのような関係にあるのか、またヘーゲルの論理学はこれらとどのように異なっているのかを中心に議論したい。

論点2:全ての純粋悟性概念を残らず発見する方法とはどのようなものか

 カントは、「先験的哲学は、純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見するという利点をもっているが、しかしまたそうする責務をももつのである。かかる概念は、絶対的統一体としての悟性から、夾雑物をひとつも交えずに純粋に生じるものであり、従ってこれらの概念自身もまた一個の概念或いは理念に従って互いに関連していなければならない」(p.140)と述べているが、これはどういうことか。純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見する方法はどのようなものだと説明されているか。

論点3:純粋悟性概念とはどのようなものか

 カントは、純粋悟性概念すなわちカテゴリーに関して、どのようなものだと述べているか。また、カントは判断の機能からカテゴリー表を導いているが、判断とはどのようなもので、判断と純粋悟性概念はどのような関係にあるのか。このカテゴリー表について、ヘーゲルはどのように評価しているか。唯物論の立場から評価するならば、どのようなことがいえるか。
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2017年06月10日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約A

 前回は、悟性の論理的使用について、また判断における悟性の論理的機能について説かれている部分の要約を紹介しました。そこでは、悟性の一切の作用を判断に還元することができること、判断における統一の機能を完全にあますところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見できることが説かれ、判断が12個に分けて説かれていました。

 今回は純粋悟性概念すなわちカテゴリーについて説明されている部分の要約を紹介します。

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第3節 純粋悟性概念すなわちカテゴリーについて

 一般論理学は、認識の一切の内容を度外視して、表象が他所から与えられることを待っており、これらの表象を概念に変じるのであるが、表象から概念を構成する操作は分析的に行われる。これに反して先験的論理学は、感性においてア・プリオリに与えられた多様なものをすでにもっている。空間および時間は、我々の心意識の受容性の条件であり、我々の心意識はこうした条件のもとでのみ対象の表象を受け取りうるのである。したがって、これらの条件は、常に対象の概念にも影響を与えざるをえない。しかし、我々の思惟の自発性は、こうした多様なものをまずある仕方で通観し、これを取りまとめ、さらにまたこれらを結合して、この多様なものから認識を構成しようとする。こうした思惟作用を、私は総合と名づける。
 しかし私はまた総合を最も一般的な意味に解して、種々な表象を互いに加え合わせて、その多様をひとつの認識に統括する作用であるとする。多様なものの総合によって作り出される認識は、なるほど最初は未整理で乱雑なものであり、したがって分析を必要とするかもしれない。しかしもともとこれらの多様な要素を結合してある内容とするところのものがすなわち総合なのである。したがって総合は、我々が認識の起源を究明しようとする場合、まず着目せねばならないものである。
 およそ総合は、構想力の作用にほかならない。構想力がなければ、我々は全く認識をもちえないが、それにもかかわらず我々がそれを意識することは稀である。
 一般的に表象された純粋総合は純粋悟性概念を与える。しかし私はこの純粋総合を、ア・プリオリな総合的統一を基礎とする総合と解する。
 種々な表象は分析によって1個の概念のもとに包括される(これは一般論理学の仕事である)。ところが表象でなくて表象の純粋総合を概念に形成することを教えるのは先験的論理学である。およそ対象をア・プリオリに認識するために、我々に与えられていなければならないものは、第一に純粋直観における多様なものであり、第二に構想力によるこの多様なものの総合であるが、しかしこれだけではまだ認識を与ええない。そこでこうした純粋総合に統一を与え、またこの必然的、総合的統一の表象にほかならないところの概念が、当面の対象に必要な第三のものを加える。これらの概念は全て悟性に基づいているのである。
 判断の含む種々な表象に統一を与えるのと同じ機能が、直観の含む種々な表象の単なる総合そのものにもまた統一を与える。この統一を一般的に表現したものがすなわち純粋悟性概念である。
 そこで直観の対象一般にア・プリオリに関係する純粋悟性概念が、善計の判断表に列挙された一切の可能的判断の論理的機能とちょうど同じ数だけ生じるわけである。我々はこれらの概念を、アリストテレスにならってカテゴリーと名づける。

カテゴリー表
1、分量 単一性/数多性/総体性
2、性質 実在性/否定性/制限性
3、関係 付属性と自存性/原因性と依存性/相互性
4、様態 可能―不可能/現実的存在―非存在/必然性―偶然性

 悟性はみずからのうちにこれらの概念をア・プリオリに含んでいる。悟性はこれらの純粋悟性概念によってのみ直観における多様なものについて何かあることを理解しうる。上記のカテゴリー表の区分は、共通な1個の原理、すなわち判断する能力にもとづいて体系的に作成されたもので、純粋概念を手当たり次第に探し出して、互いに連絡もなしに寄せ集めたものではない。

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 上掲のカテゴリー表は、悟性の一切の基本概念を余すところなく含んでいるばかりか、人間悟性における基本概念の体系の形式をすら含み、したがってまた何らかの思弁的な学が企てられる場合には、こうした学の一切の要件に関してのみならず、これらの要件の秩序についても指示を与えるのである。ここで2、3の注意を述べておきたい。
 注の1 悟性概念の4綱目を含むカテゴリーは、直観の対象に関係する分量と性質(数学的カテゴリー)、対象の実際的存在に関係する関係と様態(力学的カテゴリー)とに2分される。
 注の2 これら4綱目は、いずれも3個ずつのカテゴリーを含み、第三のカテゴリーは常に第一のカテゴリーと第二のカテゴリーの結合から生じている。総体性のカテゴリーは単一性と見なされた数多性、制限性は否定性と結合した実在性、相互性は他の実体と相互的に規定し合う実体の因果性、必然性は可能ということによって与えられた実際的存在にほかならない。第一の概念と第二の概念との結合によって第三の概念が成立するためには、悟性の特殊な活動が必要である。
 注の3 相互性のカテゴリーだけは、論理的機能の表〔判断表〕において対応する選言的判断との一致が、他のカテゴリーとこれに対応する判断形式との一致ほど明白でないので、次のことを付言する必要がある。およそ選言的判断においては、判断の全範囲はいくつかの部分に区分された全体と見なされてよい。選言的判断では、ひとつの部分は他のいかなる部分のもとにも包括させられないわけだから、これらの部分は互いに並列的であって従属的ではない。したがってまた系列において見られるように、互いに一方的な関係をなすものではなくて、集合体におけるように相互的に規定し合うものと考えられるのである。

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 スコラ哲学者のあいだで有名であった命題「およそ実在するものは一者、真および善である」において、物に付け加えられる先験的述語〔一者、真および善〕は、それぞれ分量のカテゴリー、すなわち単一性、数多性および総体性を認識の根底においている。ただこれらのカテゴリーは、実質的に解されねばならないのに、つまり物そのものを可能ならしめる条件と解されねばならないにもかかわらず、彼らはこの3カテゴリーを、実際には単なる形式的な意味に解し、およそ認識に関する論理的要求に属するものとして使用しながら、しかも元来は思惟の標徴であるところのものを、不用意にも物自体の特性としたのである。
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2017年06月09日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約@

 前回は、一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論とに区分することについて説かれている部分の要約を紹介しました。そこでは、論理学について、認識が正しいといえる形式の基準を与える分析論と、分析論を誤用して客観的主張を創り上げるものであるとする弁証論とに分けてカントが説明していることが論じられていました。

 さて今回は、悟性の論理的使用について、また判断における悟性の論理的機能について説かれている部分の要約を紹介します。

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先験的論理学

第1部 先験的分析論

 この分析論は、我々のア・プリオリな全認識を、純粋悟性認識の諸要素に分析することを趣旨とする。その場合に4つの要件がある。(1)ここでいう概念は純粋概念であって経験的概念ではない、(2)これらの概念は直観や感性に属するものではなく、思惟と悟性に属する、(3)これらの概念は基本的概念であって、派生的概念、合成された概念ではない、(4)これらの概念の表は完全であって、純粋悟性概念の全領域をあますところなく包括する。こうした完全性は、ア・プリオリな悟性認識の全体という理念と、この認識を構成する全ての概念をこうした理念に基づいて的確に分類することによってのみ、したがってこれら概念を関連させてひとつの体系とすることによってのみ成立しうる。先験的論理学の先験的分析論の部分は、純粋悟性概念を含む概念の分析論と、純粋悟性の原則を含む原則の分析論の2篇からなる。

第1篇 概念の分析論

 ここでいう「概念の分析論」とは、悟性能力そのものの分析である。ア・プリオリな概念をその出生地である悟性においてのみ求め、悟性の純粋使用を分析することでこれら悟性概念の可能を究明する。

第1章 全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて

 先験的哲学は、純粋悟性概念を1個の原理にしたがって残らず発見するという利点をもち、またそうする責務をもつ。こうした概念は、絶対的統一体としての悟性から夾雑物をひとつも交えずに純粋に生じるものであり、したがってこれらの概念自身もまた1個の概念あるいは理念に従って互いに関連していなければならない。

第1節 悟性の論理的使用一般について

 悟性の認識、少なくとも人間悟性の認識は、例外なく概念による認識であり、直観的ではなく論証的な認識である。悟性は概念を判断に用いうるだけであるが、概念が直接に関係するのは対象そのものではなくて、対象に関する何らかの表象である。すると判断は、対象の間接的認識であり、したがってまた対象の表象のそのまた表象である。およそ判断には他の多くの概念にも通用するような概念がある。例えば、「全て物体は可分的である」という判断において、可分的という概念は物体という概念以外の他の多くの概念にも関係するし、物体という概念はまた我々に現われる色々な現象に関係する。このように、あらゆる判断は、我々の表象を統一する機能である。つまり対象に直接に関係するひとつの表象の代わりに、この表象をもまた他の多くの表象をも含むようないっそう高次の表象があって、この表象が対象の認識に使用されると、多くの可能的認識がひとつの認識にまとめられるのである。ところで我々は悟性の一切の作用を判断に還元することができるから、悟性は判断の能力と考えられてよい。悟性は思惟の能力だからである。思惟は、概念による認識である。しかし概念は、可能的判断の述語としては、まだ規定されていない対象の表象に関係する。そこで物体という概念は、この概念によって認識されうるような何かあるもの、例えば金属をも意味する。このように物体の概念は、この概念のもとに含まれている他の表象を介して対象に関係しうるからこそ概念なのである。したがってこうした概念はある可能的判断、例えば「全ての金属はいずれも物体である」というような判断の述語になるのである。それだからもし我々が、判断における統一の機能を完全にあますところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見できるわけである。

第2節 判断における悟性の論理的機能について

9

 判断一般からその一切の内容を度外視して判断の悟性形式だけに着目すると、我々は判断における思惟の機能が4綱目に区分され、さらにまた各綱目が3個の判断様式を含むことを知る。これらは次のように示される。

判断の
1、分量 全称的判断/特殊的判断/単称的判断
2、性質 肯定的判断/否定的判断/無限的判断
3、関係 定言的判断/仮言的判断/選言的判断
4、様態 蓋然的判断/実然的判断/必然的判断
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2017年06月08日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約A

 前回は、論理学一般及び先験的論理学が取り上げられている部分の要約を紹介しました。ここでは、心意識の受容性が感性であり、認識の自発性が悟性であること、悟性の一般規則に関する学が論理学であり、これは一般論理学と応用論理学に区分できること、先験的論理学とは対象を全くア・プリオリに思惟するための条件であるところの純粋悟性および純粋理性認識に関する学であることなどが説かれていました。

 今回は、一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論とに区分することについて説かれている部分の要約を紹介しましょう。

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V 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて

 昔から論理学者を窮地に追い込んできたのは真理とは何かという問題である。この場合「真理とは認識とその対象との一致である」という定義は前提されている。しかし我々の知ろうとするのは、およそ認識の真理を表示する確実な普遍的標徴は何であるか、ということである。
 真理が、認識とその対象の一致にあるならば、この対象はその他の対象から区別されなければならない。もしある認識がその関係する対象と一致しなければ、たとえその他の対象には十分に妥当するところのものを含んでいるにしても、この認識は偽である。ところで真理の普遍的標徴であるからには、認識の関係する対象の差異にかかわりなく、一切の認識に妥当するものでなければなるまい。するとこういうことが明らかになる。それは――真理すなわち真なる判断のこうした普遍的標徴にあっては、一切の認識内容(認識とその対象との関係)は全て度外視される、ところが他方で真理がまさに認識の内容に関するとしたら、こうした認識内容を真であるとするところの標徴は何かと問うのは、全く不可能でありまた不合理でもある、したがって真理の十分でしかも同時に普遍的な標徴は示されえない、ということである。真理の普遍的標徴なるものは、内容に関する認識の真理には要求できない。そうすることは自己矛盾だからである。
 しかし、単に形式だけから見た認識についていえば、一般論理学が悟性の普遍的、必然的規則を提示するものである限り、これらの規則においてこそ真理の標徴が開顕されねばならないということも同様に明らかである。こうした規則に矛盾するものは全て偽である。悟性は、思惟に関してみずから確立した法則に矛盾し、したがってまた自己矛盾に陥ることになるからである。しかし、こうした真理の標徴は真理の形式、換言すれば思惟一般の形式のみに関するものであり、不十分である。ある認識が、論理的形式には完全に一致し、自己矛盾を含まないにしても、この認識はなおその対象に矛盾するということがありうるからである。一般論理学は、形式に関する誤謬ではなくて内容に関する誤謬を発見しうるような基準をもたない。
 ところで一般論理学は、悟性および理性による認識の形式に関する仕事全体をその要素に分解して、これを我々の認識を吟味する一切の論理的判定の原理として提示する。それだから一般論理学のこの部分を「分析論」と名づけてよい。しかし認識の単なる形式は、いかに論理的法則と一致していようとも、この認識に関する実質的(客観的)真理を与えるにはまだまだ不十分である。一般論理学は、もともと論理的判定の規準(カノン)でしかないのに、まるでオルガノンででもあるかのように客観的主張を実際に作り出したり、あるいは少なくとも客観的主張らしく見えるまやかし物を拵えあげたりすることに使われてきたし、また実際にもこうして誤用されたのである。そこでオルガノンと誤想された一般論理学は、弁証論と呼ばれるのである。
 昔の学者たちが、弁証論という名称をまちまちの意味で用いたが、弁証論は彼らにあっては仮象の論理学にほかならなかった。すなわち彼らの無知あるいはそれどころか彼らが故意に拵えあげたまやかし物を真理の概観で装うとする詭弁術であった。オルガノンと見なされた一般論理学は常に仮象の論理学であり、したがってまた弁証的である。一般論理学はもともと認識内容については我々に全く教えるところがなく、ただ悟性と一致する形式的条件、つまりいずれにせよ対象にいささかもかかわりのない条件を示すだけにすぎない。
 私は弁証的仮象の批判に関する部分を弁証論と名づけて、この論理学のなかに加えた。

W 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区分することについて

 先験的論理学では、我々は悟性を孤立させ、また思惟の部分――しかもその起源が全く悟性にのみ存するような部分だけを、我々の認識からそっくり取り出すのである。しかしこうした純粋認識の使用は、この認識の適用されうる対象が直観において我々に与えられているということに基づくものであり、またこのことを認識の条件としているのである。直観がないと我々の認識は対象を欠くことになり、認識は全く空虚になってしまうからである。先験的論理学のこうした部分は、純粋な悟性認識の諸要素と、対象が思惟されうるためには絶対に欠くことのできない諸原理とを論述する学である。それだからこの部分は、先験的分析論であると同時に真理の論理学である。もし認識がこの学に矛盾するなら、それと同時に一切の認識内容が失われるからである。換言すれば、認識の対象に対する一切の関係が失われ、したがってまた一切の真理が失われるのである。質料(対象)を我々に与えるのは経験だけであり、こうした質料に純粋悟性概念が適用されうるのであるが、純粋な悟性認識および悟性の原則だけを用いて、経験の一切の限界を超出するということは、悟性にとって非常な魅力でありまた誘惑である。そこで悟性は、空疎な思弁を弄して純粋悟性の単なる形式的原理を実質的に使用し、また我々に与えられていないどころか、おそらくは決して与えられえないような対象について、見境なく判断を下すという危険を冒すのである。先験的分析論は、もともと悟性の経験的使用を判定する基準にすぎないはずなのに、もし我々がこれにオルガノンとしての普遍的使用を許し、純粋悟性だけでもって対象を総合的に判断し主張しまた決定するという僭越をあえてすると、この分析論の誤用が生じるのである。そうなると純粋悟性の使用は、弁証的になるだろう。それだから先験的論理学の第2部は、こうした弁証的仮象の批判でなければならない。この部分は先験的弁証論と名づけられるが、それは弁証的仮象を独断論的に作りあげる技術としてではなく、悟性および理性をその超自然的使用に関して批判する学としてである。この先験的弁証論は、悟性および理性のこうした越権が何ら根拠をもたないにもかかわらずあたかも正当な権利を有するように装っている欺瞞を暴露し、またこの両者が先験的原則のみをもって認識における発明や拡張なるものを達成しようとする大それた要求を引き下げて、ただ純粋悟性を批判するにとどめさせて、純粋悟性が詭弁的な迷妄に陥らないよう配慮するためである。
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2017年06月07日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約@

 前回は、京都弁証法認識論研究会の5月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回に渡って、カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想等の部分の要約を紹介していくことにします。

 今回は、論理学一般及び先験的論理学が取り上げられている部分の要約を紹介します。

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先験的原理論

第2部門 先験的論理学

緒言 先験的論理学の構想

T 論理学一般について

 我々の認識は心意識の2つの源泉から生じる。第一の源泉は、表象を受け取る能力であり、第二の源泉は、これら表象によって対象を認識する能力である。第一の能力によって対象が与えられ、第二の能力によって対象がこれら表象との関係で思惟される。直観と概念とが我々の一切の認識の要素であり、自分に対応する直観をもたない概念も、概念をもたない直観も、それだけでは認識になりえない。この両者はいずれも、純粋であるか経験的であるかどちらかである。直観なり概念なりが感覚を含んでいれば経験的であるし、感覚を交えていなければ純粋である。感覚は感性的直観の質料と呼べる。純粋直観は形式だけを含み、この形式によって何かあるものが直観されるのである。また純粋概念は対象一般を思惟する形式だけを含んでいる。こうした純粋直観あるいは純粋概念のみが、ア・プリオリに可能であり、経験的直観あるいは経験的概念はア・ポステリオリにのみ可能である。
 我々の心意識の受容性は、心意識が何らかの仕方で触発される限りにおいて、表象を受け取る能力である。この受容性を感性と名づけるなら、自ら表象を生み出す能力、すなわち認識の自発性は悟性である。感性がなければ対象は我々に与えられないし、悟性がなければいかなる対象も思惟されない。この2つの能力は、各自の機能を互いに交換することはできない。悟性は何ものも直観できないし、感性は何ものも思惟できない。両者が結合してのみ認識が生じうるのである。しかし、だからといって両者の持ち分を混同してはならない。感性の規則一般に関する学すなわち感性論を、悟性の一般規則に関する学すなわち論理学から区別するのはそのためである。
 論理学は2通りの目的をもって論究される。すなわち一般的な悟性使用の論理学としてであるか、特殊な悟性使用の論理学としてであるか、である。前者は思惟の絶対的に必要な規則を含み、悟性がどんな対象に使用されようと対象の差異を無視して悟性の使用だけを論究する。後者はある種の対象について正しく思惟する規則を含む。前者は基本的論理学、後者は個々の学のオルガノンと名づけることができる。後者は学がすでに出来上がってこれを修正し完成させるために、最後の仕上げを必要とするときに初めて達するものである。
 一般論理学は純粋論理学であるか応用論理学であるかどちらかである。純粋論理学においては、我々が悟性を使用する場合の一切の経験的条件、例えば感覚の影響、想像力の活動、記憶の法則、習慣の力、情意的傾向などはもとより、種々の成見の源も全て度外視される。それどころか、ある種の認識を我々に生じさせたり、こうした認識を我々の認識とひそかにすりかえたりするような一切の原因もまたことごとく無視される。こうしたものは悟性がある事情のもとで適用される場合にのみ悟性に関係するが、これらの事情を知るには経験を必要とするからである。だから一般的であってしかも純粋な論理学は、ア・プリオリな原理のみを論究し、悟性および理性の規準になるが、その場合にも悟性および理性の使用の形式的方面だけに関係し、内容の如何を問わないのである。この一般論理学は応用論理学と呼ばれることもあるが、それは一般論理学が、心理学の提示する主観的、経験的条件のもとで悟性を使用する規則に向けられた場合である。それだから応用論理学は、対象の差異に関わりなく悟性使用を論じる限りでは一般的といえるにせよ、やはり経験的原理を含んでいるのである。
 こういうわけで、一般論理学においては、純粋理性の学をなすべき部分を、応用論理学を成す部分から画然と区別しなければならない。前者すなわち一般的な論理学だけが本来の学である。この学について常に2条の規則を念頭に置かなければならない。
(1)この学は一般論理学としては悟性認識の一切の内容と認識の対象の差異とを度外視して思惟の単なる形式のみを論じるものである。
(2)この学は純粋論理学としては、経験的原理を一切含まない。したがってまた心理学から何ひとつ借用しない。
 私がここで応用論理学と名づけるのは、悟性と悟性の具体的ではあるがしかし必然的な使用の規則を含むところの学である。

U 先験的論理学について

 一般論理学は、一切の認識内容――換言すれば、認識と対象との一切の関係を度外視して、認識相互の関係における論理的形式、すなわち思惟一般の形式だけを考察する。直観には、純粋直観と経験的直観とがあり、対象を考える場合にも、純粋思惟と経験的思惟との区別がありうる。そうすると認識内容を必ずしも全て度外視しないような論理学が別に成立することになるだろう。対象の純粋思惟に関する規則だけを扱う論理学の方は、経験的内容を含むような一切の認識を排除するからである。そして認識内容を必ずしも全て排除しないような論理学はまた、対象に関する我々の認識の起源をも究明することになるだろう。もちろん認識の起源といっても、それは認識の対象に求められうるようなものではない。ところが一般論理学では、認識の起源などは一切問題にしないのである。一般論理学は、表象が我々のうちにア・プリオリに与えられていようが経験的に与えられていようが頓着なく、悟性が思惟において表象を互いに関係させつつ使用する場合に準拠するところの法則に従ってのみこれらの表象を考察するだけである。
 今後の考察の全般にわたって影響を及ぼす注意すべき事柄がある。ア・プリオリな認識でありさえすればすべて先験的認識だというのではなく、先験的と呼ばれねばならない認識は、ある種の表象がア・プリオリにのみ適用されア・プリオリにのみ可能であるということと、こうした表象がどうしてア・プリオリにのみ適用されまたア・プリオリにのみ可能であるかということとを、我々がそれによって認識するような認識にほかならない、ということである。それだから、空間にせよ空間のア・プリオリな幾何学的規定にせよ、それはいずれも先験的表象ではない。先験的と呼ばれ得るのは、こうした表象が経験的起源を全くもっていないという認識と、それにもかかわらずこれらの表象が経験の対象にア・プリオリに関係することの可能とだけである。同様に対象一般に空間表象を適用することも先験的といえるだろうが、この適用が感官の対象だけに限定されるなら、こうした使用は経験的だといわれる。
 そこで我々は、対象にア・プリオリに関係するような概念、つまり純粋直観としてでもなければ経験的直観としてでもなくて、全く純粋思惟の作用としてのみ対象に関係し、したがってまた経験的起源をも感性的起源をも全くもたないような概念が多分ありうるだろうということを期待して、我々が対象を全くア・プリオリに思惟するための条件であるところの純粋悟性および純粋理性認識に関する1個の学の理念をあらかじめ構想するわけである。このような学は先験的論理学と呼ばれてしかるべきであろう。
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2017年06月06日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約@
(3)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約A
(4)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約@
(5)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約A
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:カントのいわゆる論理学とはどのようなものか
(8)論点2:全ての純粋悟性概念を残らず発見する方法とはどのようなものか
(9)論点3:純粋悟性概念とはどのようなものか
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 5月例会では、『純粋理性批判』の先験的論理学の構想その他を扱いました。今回の範囲は次のような構成になっています。

第2部門 先験的論理学
 緒言 先験的論理学の構想
  T 論理学一般について
  U 先験的論理学について
  V 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて
  W 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区分することについて
 第1部 先験的分析論
  第1篇 概念の分析論
   第1章 すべての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて
    第1節 悟性の論理的使用一般について
    第2節 判断における悟性の論理的機能について
    第3節 純粋悟性概念即ちカテゴリーについて

 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

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京都弁証法認識論研究会 2017年5月例会
カント『純粋理性批判』
先験的論理学 緒言
〜すべての純粋悟性概念を発見する手引きについて

1.先験的論理学について
 カントは、論理学を一般的な悟性使用についての論理学(一般論理学、基本的な論理学)と、特殊な対象へ悟性を使用するための論理学に分けている。一般論理学は、我々が悟性を使用する場合の経験的条件(感覚、想像力、記憶、習慣、情意的傾向等々)を度外視した純粋論理学と、これら経験的条件を考慮した応用論理学とに分かれるが、純粋理性の学の一部をなすのはあくまでも純粋論理学である、とされる。
 カントは、(従来の)一般論理学について、表象がア・プリオリに与えられようが経験的に与えられようが頓着なく、悟性が思惟において表象を互いに関係させつつ使用する場合に準拠するところの法則に従ってこれらの表象を考察するだけである、と指摘する。その上で、経験的起源をも感性的起源をも全くもたず、全く純粋思惟の作用としてのみ対象に関係する概念(我々が対象を全くア・プリオリに思惟するための条件)について究明する学が先験的論理学である、とする。
 カントは、一般論理学について、真理の普遍的標徴を明らかにしようとする(形式に関する誤謬を発見する)だけで、内容に関する誤謬を発見しうるような基準をもたないと指摘して、思惟が正しいといえる一般的な形式を明らかにする「分析論」と、論理的判定の規準でしかないものから客観的主張(らしく見えるもの)を拵えあげてしまう「弁証論」とに区分する(後者は内容に関する誤謬を発見できないという限界に無自覚であったからこそ生じてしまったものである)。
 カントは、先験的論理学は純粋な悟性認識の諸要素と対象が思惟されうるためには絶対に欠くことのできない諸原理とを論述する学なのだから、この部分は分析論である(真理であるための形式を明らかにする)と同時に真理の論理学である(この学に矛盾すれば一切の認識内容が消失する)と主張する。この先験的分析論は、もともと悟性の経験的使用を判定する基準にすぎないのだから、もし純粋悟性だけでもって対象を総合的に判断し主張しまた決定しようとするのなら、それは分析論の誤用である。こうした誤用から生じる弁証的仮象を批判するのが、先験的弁証論である。

〈報告者コメント〉
 カントのいわゆる純粋理性の学は、人間の認識はいかなる条件で成立しているのか、という問題意識に徹頭徹尾貫かれたものであるといえるだろう。人間はこの世界を正しく捉えることができるかどうか、という思惟と存在に関わる根本問題について、思惟の構造を徹底して究明することで、その解決に迫ろうとしたのがカントであったことを、改めて確認しておきたい。
カントは、人間の認識について、感性・悟性・理性の3つの部分に分けて、それぞれがもともとどのような形式を備えているのかを考察している。これが先験的な究明ということである。感性(対象を感覚的に直観する能力)にもともと備わっている形式を究明するのが先験的感性論、悟性(直観で得られた多様な表象をまとめ上げて判断する能力)にもともと備わっている形式を究明するのが先験的論理学ということであろう(理性については、先験的論理学の第二部門たる先験的弁証論で扱われることになる)。
 この世界を捉えるため(この世界についての認識を成立させるため)に、人間の認識(頭脳)の側にもともとどのような形式が備わっているのか、というカントの問いの立て方(認識の根源的な性格に迫ろうとするもの)自体は高く評価されるべきであろう。もちろん、「もともと」(先験的)という捉え方が唯物論の立場からすれば問題になることはいうまでもないが。

2.悟性の判断という機能および純粋悟性概念(カテゴリー)について
 カントは、悟性は(思惟の能力であり概念による認識であるから)判断の能力、すなわち、我々の表象を統一する機能である、としている。つまり、諸々の具体的な表象(対象に直接に関係する表象)をより高次の(抽象的な)表象にまとめあげるのが悟性の判断だ、というわけである。ここからカントは、判断における統一の機能を完全に表示しさえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見することができるのだ、と主張している。
 カントによれば、この統一を一般的に表現したものがすなわち純粋悟性概念(カテゴリー)である。純粋悟性概念こそが、悟性にもともと備わっている思惟の形式であり、それは諸々の表象をまとめる判断という悟性の機能にもとづいているのだ、ということになるわけである。

〈報告者コメント〉
 多種多様な(雑多でそれ自体として脈絡のない)表象をまとめあげるための形式が人間の認識(頭脳)の側に備わってなければ、対象についての認識はまともに成立しない、というカントの着眼は、高く評価されるべきものであろう。これが、ヒューム的な因果律批判への解答というところからきていることも改めて確認しておきたい。
 カテゴリー表の4項目がそれぞれ3つから構成されていることも興味深い。ヘーゲルがこの点に注意を促して、第一のカテゴリーは積極的(肯定的)であり、第二は第一を否定するもので、第三は両者の総合だというのは、概念の偉大なる本能である、という評価を与えていたことも確認しておきたい。同時に、カントがこれらのカテゴリーを経験的に(判断という機能を観察することから)とりあげるだけで、思惟そのものの統一からこれらの差別を必然的なものとして展開することはできなかった、という批判が加えられていたことについて、カントの論理学とヘーゲルの論理学との差異という観点から、議論を深めておくことも必要であろう。
 唯物論の立場からすれば、これらのカテゴリーについて、ア・プリオリに(もともと)人間の認識に備わっている、と片付けてしまった点が批判されなければならない。唯物論の立場からすれば、これらのカテゴリーなるものは、あくまでも対象を反映した像を原点として、そこから抽象されて形成された論理像として捉えられなければならないのである。

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 以上の報告に対しては、「1.先験的論理学について」の2段落目に「(従来の)一般論理学」という表現があるが、このカッコつきの「従来の」とはどういう意味かという質問が出されました。これに対してレジュメの執筆者は、カントは一般論理学と先験的論理学を区別して説いているようなので、この点を明確にするために、これまで一般的に用いられてきた一般論理学という言葉の前にカッコつきで「従来の」という表現を加えたのだと説明しました。この点については、論点の中で議論していくことを確認しました。
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2017年06月05日

マルクス思想の原点を問う(5/5)

(5)マルクスはヘーゲルの自由論の延長線上に普遍的な人間解放を構想した

 本稿は、ロシア革命から100年という記念の年にあたって、20世紀に現に存在したスターリン的な「社会主義」体制にとらわれることなく、19世紀半ばに若きマルクスがヘーゲル哲学を踏まえつつ当時のヨーロッパ社会の現実と対峙しながらつくりあげた思想とはそもそもどのようなものであったのかを問うことから、資本主義をのりこえる新たな社会の構想をつかみとっていく必要があるのではないか、という問題意識を踏まえつつ、若きマルクスの思想形成の画期となった「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」『経済学・哲学草稿』という3つの文献をとりあげ、マルクス思想の原点について明らかにしようとするものでした。

 ここで、これまでに説いてきた流れを簡単に振り返っておくことにしましょう。

 まず、マルクスが1844年に『独仏年誌』という雑誌に掲載した2つの論文――「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」――を取り上げました。「ユダヤ人問題によせて」では、近代における政治的国家と市民社会の分裂に応じて同一の人間が公人(公民)と私人とに分裂してしまうこと、すなわち、類的存在(共同体の一員として、お互いに助け合うような存在)としての側面は抽象化され国家に奪われてしまうことで市民社会における利己的で排他的な個人として存在するしかなくなっていることが論じられていました。マルクスは、市民社会と政治的国家との分裂を解消して、現実的な人間が直接に共同体の一員としてお互いに助け合うような状況をつくることこそが真の人間的解放であると主張したのでした。「ヘーゲル法哲学批判序説」では、市民社会のあり方が踏み込んで検討されることで、市民社会の弊害を完全な形で一身に体現させられているプロレタリアートこそ普遍的な人間解放の担い手であることが見出されたのでした。

 続いて、マルクスが『経済学・哲学草稿』(1844年に書かれた未定稿)において、古典派経済学とヘーゲル哲学とを相互浸透させることで、自らの思想を深く彫琢していこうとしていたことをみました。マルクスは、絶対精神の自己運動として諸々の具体的なものの運動に筋を通していこうとしたヘーゲル哲学を念頭に起きながら、古典派経済学が競争、営業の自由、土地占有の分割を一般的で抽象的な公式として羅列的に捉えるだけで、これらの法則が私有財産の本質からどのような必然性をもって生まれてくるのかを明らかにしようとしてはいない、と批判していたのでした。一方でマルクスは、ヘーゲルが古典派経済学を通じて人間の本質を労働だと捉えきったからこそ絶対精神の自己運動という観点から自己の哲学を構築することができたのだと喝破してもいました。

 しかし、マルクスは、ヘーゲルが労働を人間の本質として捉えたことを高く評価しながらも、「彼は労働の肯定的な側面を見るだけで、その否定的な側面を見ない」と批判してもいました。マルクスは現実社会におけるプロレタリアートの状況を踏まえて、人間の本質たる労働が非人間的なものに貶められ、人間を非人間的な境遇に追い込む力として働いてしまっているという近代市民社会における現実を「疎外された労働」という言葉で表現したのでした。マルクスは、私有財産が「疎外された労働」の必然的な結果として成立しているものであることを確認した上で、私有財産の積極的な止揚によって普遍的な人間解放を実現しようとするものが共産主義である、と結論付けていたのでした。それは、人間が自然の必然性を把握しつつ自然と調和して生きられる社会、人間が他人に抑圧されることなく自由に生きられる社会(各個人が共同体の一員として相互に助け合うような社会)の実現を目指す思想にほかなりません。

 以上でみてきたように、ヘーゲルよりも半世紀ほど後の時代に生きたマルクスは、当時のドイツ社会の現実――資本主義経済の勃興につれて物質的な利害の衝突が生じてきているという現実――と対決しながら、「すべての人間が本来自由である」というヘーゲルの掲げた世界歴史の究極目的を真に実現していく(普遍的な人間解放を実現する)ためにはどうすればよいのかを探究していった結果、市民社会の弊害を完全な形で一身に体現させられているプロレタリアートこそが普遍的な人間解放の担い手とならなければならないこと(労働者の解放が直接に普遍的な人間解放を含むこと)を見出し、さらに「疎外された労働」の必然的な結果として成立させられている私有財産を積極的に止揚することで、人間が自然の必然性を把握しつつ自然と調和して生きられる社会、人間が他人に抑圧されることなく自由に生きられる社会の実現を目指すという共産主義の思想に到達したのでした。端的には、若きマルクスが抱いた共産主義の思想とは、ヘーゲルの自由論の延長線上に、近代市民社会の現実を踏まえながら、普遍的な人間解放を構想したものにほかならなかったのです。

 マルクスの共産主義がヘーゲルからの強烈な影響のもとにあったことを確認するために、唯物史観の定式として非常に有名な『経済学批判』の序言もみておくことにしましょう。

「大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。」(武田隆夫ほか訳『経済学批判』岩波文庫、p.13)


 ここで登場する「アジア的→古代的→封建的→近代ブルジョア的」という流れは、ヘーゲル『歴史哲学』における「東洋世界→ギリシャ世界→ローマ世界→ゲルマン世界」という流れを下敷きにしたものであることは明らかですし、歴史(マルクスにおいては「人間社会の前史」)の到達点を、人間の本性たる自由が全面的に開花する段階としてイメージしたこともヘーゲルと共通しています。この段階について、マルクスとエンゲルスの初期の共著『ドイツ・イデオロギー』では次のように述べられています。

「共同社会においてはじめて、人格的自由が可能になる。共同社会のこれまでの代用物、すなわち国家などにおいては、人格的自由は、支配階級の諸関係のなかで育成された諸個人にとってだけ、そして、彼らがこの階級の諸個人であったかぎりでだけ、存在した。……真の共同社会においては、諸個人は、彼らの連合のなかで、また連合をとおして、同時に彼らの自由を獲得する。」(服部文雄監訳『ドイツ・イデオロギー』新日本出版社、p.85)


 こうした文章からも明らかに確認できる通り、そもそもマルクスが主張した共産主義というものは「各個人の自由な発展が、万人の自由な発展のための条件となる連合体〔Assoziation〕」(『共産党宣言』第2章)を目指すものにほかならなかったのです。

 しかし、革命ロシア=ソ連においては、帝国主義諸国の干渉や国際的孤立という悪条件の下、世界革命を主張するトロツキーが一国社会主義を主張するスターリンに敗れてしまい、個人の自由を徹底して押し潰す異様な専制と抑圧の体制が築かれてしまったのでした。社会主義社会の建設を掲げて出発したはずのソ連が、なぜそのような経過を辿ることになってしまったのかは、別に詳しい検討が必要です(先月発刊された『学城』第15号の村田洋一「ロシアにおける社会主義革命の誤りとは何であったか」はまさにこの問題について考察するものです)が、若きマルクスが構想していた共産主義というものが、ソ連で築かれてしまったような人間抑圧型の社会とは全く異なるものであったことを確認しておくことも重要でしょう。

 資本主義経済の行き詰まりが明瞭になりつつある現在、20世紀に存在したスターリン的な「共産主義」のイメージにとらわれることなく、若きマルクスがヘーゲルの普遍的な人間解放の思想を当時の社会の現実と対決させながら創り上げた共産主義の思想から、資本主義をのりこえる新たな社会の構想についてのヒントをつかみとっていく必要があるといえます。少なくとも、普遍的な人間解放というヘーゲルの掲げた目標を真に社会の現実とするためにはどうすればよいのか、という若きマルクスが抱いた強烈な問題意識を、現代に生きる我々も共有することが求められていることだけは間違いないでしょう。

(了)
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2017年06月04日

マルクス思想の原点を問う(4/5)

(4)私有財産の積極的止揚としての共産主義

 前回は、マルクスが『経済学・哲学草稿』において、古典派経済学とヘーゲル哲学とを相互浸透させることで、自らの思想を深く彫琢していこうとしていたことをみました。マルクスは、古典派経済学が競争、営業の自由、土地占有の分割を一般的で抽象的な公式として羅列的に捉えるだけで、これらの法則が私有財産の本質からどのような必然性をもって生まれてくるのかを明らかにしようとしてはいない、と批判していました。これは、絶対精神の自己運動として諸々の具体的なものの運動に筋を通していこうとしたヘーゲル哲学を踏まえたものにほかなりません。このように、若きマルクスは、古典派経済学の限界を突破するためにヘーゲル哲学を武器として使っていこうとしていたのでした。一方で、マルクスが古典派経済学の観点からヘーゲル哲学を読み込んでいることも確認しました。ヘーゲルが古典派経済学を通じて人間の本質を労働だと捉えきったからこそ、絶対精神の自己運動という観点から自己の哲学を構築することができたのだと、マルクスは喝破していたのでした。

 しかし、マルクスは、ヘーゲルが労働を人間の本質として捉えたことを高く評価しながらも、「彼は労働の肯定的な側面を見るだけで、その否定的な側面を見ない」と批判してもいました。この問題は、私有財産の本質という問題とも直接に重なるものです。端的には、マルクス思想の核心ともいうべき「疎外された労働」という概念がここに関わってくるのです。

 そもそも疎外というのは、ごく簡単にいうならば、人間の創り出したものが人間から独立した外的な存在として人間を規定してくることです。この疎外の概念は、マルクスがヘーゲルから受け継いだものです。しかし、ヘーゲル自身がもっぱら肯定的な意味合いで使っていたのに対して、マルクスは現実社会におけるプロレタリアートの状況を踏まえて、もっぱら否定的な側面を強調しました。「疎外された労働」というのは、端的にいえば、人間の本質たる労働が非人間的なものに貶められ、人間を非人間的な境遇に追い込む力として働いてしまっているという近代市民社会における現実を捉えた表現であるといえるでしょう。

 マルクスは、この「疎外された労働」を大きく3つの側面に分けて論じています。

 第一は、労働者の労働生産物からの疎外です。これは、ごく簡単にいえば、労働者が生産したものが労働者のものでなくなってしまう(資本家のものになってしまう)、ということです。

 第二は、労働者の労働行為そのものからの疎外です。これはごく簡単にいえば、労働は本来、創造的な喜びに溢れた行為であるはずなのに、非創造的な単純化された面白くもない行為を強制させられるものになってしまっている、ということです。

 第三は、人間の類からの疎外です。「類」というのは分かりにくい表現ですが、前々回「ユダヤ人問題によせて」を取り上げたときにも「類的存在」という表現が登場していました。類的存在あるいは類的生活というのは、人間の本来的なあり方、人間は本来こうあるべきものというイメージを含むものです。動物は自然に与えられたものを消費するだけですが、人間は自然に能動的に働きかけて生活に必要なものを創りだし、活動を相互に交換し合いながら、文化を発展させていきます。協働を通じて物質的のみならず精神的にも豊かな生活を生産していくわけで、それが本来あるべき人間的なあり方だといえます。ところが、近代市民社会においては、労働すればするほどそういう人間的なあり方からかけ離れた状況に陥っていく、ということになります。このことが類的生活からの疎外という言葉で表現されているわけです。

 このように論じたマルクスは「私有財産は、外化された労働の、すなわち自然や自分自身に対する労働者の外的関係の、産物であり、成果であり、必然的帰結である」(同、p.102)、「労賃は疎外された労働の直接の結果であり、そして疎外された労働は私有財産の直接の原因である」(同、p.104)と結論付けています。「疎外された労働」(他人の儲けのために面白くもない労働を強制され、労働生産物は資本家のものになってしまう)の必然的な結果として私有財産が成立しているのだ、というわけです。この結論を踏まえて、マルクスは普遍的な人間解放について次のように語っています。

「私有財産に対する疎外された労働の関係から、さらに結果として生じてくるのは、私有財産などからの、隷属状態からの、社会の解放が、労働者の解放という政治的なかたちで表明されているということである。そこでは労働者の解放だけが問題になっているように見えるのであるが、そうではなく、むしろ労働者の解放のなかにこそ一般的人間的な解放が含まれているからなのである。」(城塚登、田中吉六訳『経済学・哲学草稿』岩波文庫、p.104)


 労働者の解放は単に労働者だけの解放ではなくて、労働者の解放のなかにこそ一般的人間的な解放が含まれているのだ、というわけです。これは、前々回取り上げた「ヘーゲル法哲学批判序説」の結論――市民社会の弊害を完全な形で一身に体現させられているプロレタリアートこそが普遍的な人間解放の担い手となりうるのだ――を繰り返したものだといえます。ただし、この『経済学・哲学草稿』においては、古典派経済学とヘーゲル哲学とを相互浸透させることで獲得された「疎外された労働」=私有財産という概念を媒介とすることで、この結論がよりいっそう深められた形で、力強く宣言されることになったのだということができるでしょう。

 マルクスは、労働者の解放を通じての普遍的な人間解放こそが真の共産主義である、と主張しました(当時あった諸々の共産主義的思想に対抗して、です)。マルクスは自身が主張する共産主義について、次のように特徴付けます。

「人間の自己疎外としての私有財産の積極的止揚としての共産主義、それゆえにまた人間による人間のための人間的本質の現実的な獲得としての共産主義。それゆえに、社会的すなわち人間的な人間としての人間の、意識的に生まれてきた、またいままでの発展の内部で生まれてきた完全な自己還帰としての共産主義。この共産主義は完成した自然主義として=人間主義であり、完成した人間主義として=自然主義である。それは人間と自然とのあいだの、また人間と人間とのあいだの抗争の真実の解決であり、現実的存在と本質との、対象化と自己確認との、自由と必然との、個と類とのあいだの争いの真の解決である。それは歴史の謎が解かれたものであり、自分をこの解決として自覚している。」(同、pp.130−131)


 つまり、マルクスのいわゆる共産主義とは、人間が自然の必然性を把握しつつ自然と調和して生きられる社会、人間が他人に抑圧されることなく自由に生きられる社会(各個人が共同体の一員として相互に助け合うような社会)のことであって、そうした社会の実現こそが歴史の目指すところであるという把握があったわけです。これは、「共産主義」という言葉を省いて考えるならば、ヘーゲルが歴史の到達点として描いていることそのままであるといえるでしょう。マルクスは、ヘーゲルが描いた歴史の到達点について、「私有財産の積極的止揚」(社会的生産のための手段が資本家によって私的に所有され個人的な利益のために動かされているという状況を打破して、直接に社会全体の共同の利益のために動かせるようにする)という契機を媒介にすることで、共産主義という言葉で表現するようになったのだ、ということができます。

 ここでマルクスが描いているのは、非常に漠然とした理想でしかないというほかありませんが、若きマルクスが構想していた共産主義というものが、ソ連で築かれてしまったような人間抑圧型の社会とは全く異なるものであったことは、明確に確認することができるでしょう。
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 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
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 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
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 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う