2017年07月13日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約B

 前回は、直観における多様な表象を統一する根拠として、「私は考える」という純粋統覚、根源的統覚がなければならないことが説明された部分の要約を紹介しました。カントは、多様なものの結合は悟性の作用であり、そのような悟性作用を総合と呼ぶのだとしていました。また、「私は考える」という意識は、私の一切の表象に伴っていなければならないとして、この「私は考える」という自己意識のことを純粋統覚あるいは根源的統覚と名づけていたのでした。カントは、悟性が直観における多様な表象を統一するという統覚の総合的統一の原則は、人間の認識全体の(一切の悟性使用の)最高の原理(原則)であると強調していました。

 さて、今回は、感性的直観によって与えられた多様なもの(経験の対象)だけが統覚によって客観的に統一されるのだということが説明された部分の要約を紹介することにしましょう。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・

19

およそ判断の論理的形式の旨とするところは判断に含まれている概念に統覚の客観的統一を与えることにある

 判断について、与えられた認識の関係を精密に研究し、またこの関係を悟性に属するものとして、再生的構想力の法則に従って生じた関係(主観的妥当性しかもたない)から区別すると、判断は与えられた認識に統覚の客観的統一を与える仕方にほかならないことが分かる。判断に含まれている表象は、経験的直観において互いに必然的に結びつくのではなくて、直観の総合における統覚の必然的統一によって(認識になり得る限りのあらゆる表象を規定する諸原理に従って)互いに必然的に結びつく。

20

およそ感性的直観はこうした直観において与えられた多様なものが結合されてひとつの意識なりうるための条件としてのカテゴリーに従っている

 感性的直観において与えられた多様なものは、必然的に統覚の根源的、総合的統一のもとに統摂される。与えられた表象に含まれている多様なものは、悟性の作用によって統覚一般のもとに統摂される。こうした悟性作用がすなわち判断の論理的機能なのである。カテゴリーは、直観において与えられた多様なものが判断の論理的機能に関して規定されているかぎり、まさにこうした判断機能にほかならない。それだから与えられた直観における多様なものもまた必然的にカテゴリーに従うのである。

21



 私が、私の直観と名づけているような直観に含まれている多様なものが自己意識の必然的統一に属するものとして表象されるのは、悟性の総合により、このことはカテゴリーによって行われる。カテゴリーは、ひとつの直観において与えられた多様なものの経験的意識が、ア・プリオリでかつ純粋な自己意識に従うことを示す。これは、経験的直観が、これまたア・プリオリで純粋な感性的直観に従うのと同様である。
 上述の説明でどうしても除くわけにはいかなかったのは、多様なものは悟性の総合よりも前にこの総合に関わりなく直観のために与えられていなければならない、ということである。しかし、なぜそうなのかは、ここではまだ解決されない。自ら直観するような悟性(自分が表象すればそれによって同時に対象が与えられる神的悟性)があるとしたら、こうした認識に関してはカテゴリーは全く意義をもたないだろう。カテゴリーは人間の悟性に対する規則にほかならない。悟性は対象によって悟性に与えられなければならないところの直観、すなわち認識の質料を結合し、これに秩序を与えるだけにすぎない。人間悟性の特性、すなわちカテゴリーによってのみ、しかもカテゴリーの一定の種類と数とによってのみア・プリオリな統覚の統一を生じさせるという特性が説明され得ないのは、我々はなぜちょうどこれだけの判断機能をもち、それ以外の判断機能をもたないのか、なぜ時間および空間だけが我々に可能な直観の形式なのかが説明できないのと同じである。

22

カテゴリーは経験の対象に適用されるだけであってそれ以外には物の認識に使用され得ない

 対象を思惟することと、対象を認識することは同じでない。認識には、純粋悟性概念(これによって対象が一般的に思惟される)と直観(これによって対象が与えられる)という2つの要素が必要なのである。我々に可能な直観は全て感性的直観であるから、対象一般に関する思惟は、純粋悟性概念が感官の対象に関係させられる限りにおいてのみ、我々の認識になりうるのである。純粋悟性概念は、ア・プリオリな直観に適用される場合ですら(数学におけるように)、このア・プリオリな直観が――したがってまた直観を介して悟性概念が経験的直観に適用される限りにおいてのみ、認識を与えるのである。ゆえに、カテゴリーは、経験的直観に適用されなければ、直観によっても我々に物の認識を与えない。換言すれば、カテゴリーは、経験的認識を可能なものとするだけのものである。カテゴリーが物の認識に使用されるのは、物が可能的経験の対象とみなされる場合だけに限るのであり、それ以外には物の認識に使用され得ないのである。

23

 この命題は、対象に関する純粋悟性概念の使用に対して限界を規定するものだから、極めて重要である。これは、先に先験的感性論が我々の感性的直観の純粋形式に対して限界を規定したのと同じである。空間および時間は、感性においてのみ存在し、感性以外では全く現実性をもたない。ところが純粋悟性概念は、こうした制限を受けず、およそ直観の対象一般に適用される。しかし我々の感性的直観を超えて、これらの概念を拡張してみたところで、対象に関する無内容な概念があるだけで、この対象が可能であるか否かをすらを判断し得ない。このような場合、純粋悟性概念は単なる思考形式であって、客観的実在性を全くもたないことになる。つまり我々は、統覚の総合的統一が適用され得るような直観を持ち合わせないわけである。ところが統覚の総合的統一を含むものは概念〔カテゴリー〕だけであり、カテゴリーはこうした統一を直観に適用することによって対象を規定しうるのである。要するに、我々の感性的でかつ経験的な直観だけが、概念に意味と意義を与え得るのである。
posted by kyoto.dialectic at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月12日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約A

 前回は、そもそも演繹とはどういうことか、純粋悟性概念(カテゴリー)について、経験的な演繹ではなく先験的な演繹という手続きが必要になるのはどうしてなのかについて、説明されている部分の要約を紹介しました。カントのいわゆる演繹とは、端的には、何が権利であるかという法学用語を踏まえたもので、概念に即していえば、その客観的妥当性を説明するものでした。カントは、純粋悟性概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を、純粋悟性概念の先験的演繹と名づけていました。対象は、感性の純粋形式である空間と時間を介してのみ我々に現れるのですから、空間・時間についてはこうした説明は不要でした。ところが、純粋悟性概念は、対象が直観に与えられるための条件ではないので、対象が必然的に悟性の機能に関係しなければならないとはいえません。そこで、思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がなにゆえに客観的妥当性をもつのか説明が求められることになります。これがカントのいわゆる純粋悟性の先験的演繹なのでした。
 さて、今回は、直観における多様な表象を統一する根拠として、「私は考える」という純粋統覚、根源的統覚がなければならないことが説明された部分の要約を紹介することにしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

第2節 純粋悟性概念の先験的演繹

15

結合一般の原理について

 多様な表象〔印象〕は直観において与えられ得るが、この直観は単なる感性的直観であり、したがって受容性にほかならない。ところで多様なもの一般の結合は、感官によっては決して我々のうちに現われ得ず、感性的直観の純粋形式のうちに含まれているということもあり得ない。結合は表象能力の自発性の作用だからである。この自発性は感性と区別するために悟性といわなければならない。このような悟性作用に総合という一般的な名を与えよう。総合という悟性作用はもともとひとつしかなく一切の結合はいずれもこの作用に従わなければならないし、分析は実は総合を前提としている(悟性によって前もって結合されたものとして与えられたものだけが分析され得る)。
 結合の概念は、多様なものという概念と、この多様なものの総合という概念のほかに、さらにこの多様なものの統一という概念を必然的に伴っている。要するに結合は、多様なものの総合的統一の表象なのである。この統一はア・プリオリに一切の結合の概念よりも前にあり、判断における種々の概念の統一の根拠を含み、したがってまた悟性の論理的使用においてすら悟性の存立を可能ならしめる根拠を含むところのものに、これを求めなければならない。

16

統覚の根源的‐総合的統一について

 「私は考える(Ich denke)」〔という意識〕は、私の一切の表象に伴わなければならない。「私は考える」という表象は自発性の作用であり、感性に属するとみなすことはできない。この表象を純粋統覚または根源的統覚と名づける。こうした統覚は「私は考える」という表象を産出するところの自己意識〔自覚〕であって、もはや他の統覚からは導出されないからである。また、ア・プリオリな認識がこの統一によって可能であることをいうために自己意識の先験的統一とも名づける。
 直観において与えられた多様なものの統覚の完全な同一性は、表象の総合を含み、またこうした総合の意識によってのみ可能である。私は直観において与えられた多様な表象を1個の意識において結合することによってのみ、これら表象における意識の同一性そのものを表象できる。直観における多様なものの総合的統一は、ア・プリオリに与えられたものとして、私のあらゆる一定の思惟にア・プリオリに先立つところの統覚の同一性そのものの根拠なのである。結合は対象のうちに存するのでも、知覚によって対象から得られて悟性のうちに取り入れられるようなものでもない。この根源的結合は悟性のなすわざである。悟性はア・プリオリに結合する能力であり、また直観における多様な表象を統覚によって統一する能力にほかならない。そしてこの統覚の統一という原則こそ、人間の認識全体の最高の原理なのである。

17

統覚の総合的統一の原則は一切の悟性使用の最高原則である

 感性に関して一切の直観を可能にする最高原則は、先験的感性論によると、直観における一切の多様なものが空間および時間という2つの形式的条件に従うことであった。また、悟性に関して一切の直観を可能にする最高原則は、直観における多様なものが統覚の根源的統一の諸条件に従うことである。
 一般的にいえば、悟性は認識の能力である。認識は、与えられた表象がある客観に対してもつところの一定の関係である。客観は、与えられた直観における多様なものがひとつの概念によって結合されたところのものである。換言すれば、多様なものは客観の概念によって結合されている。およそ表象の結合は、表象の総合における意識の統一を必要とするから、意識の統一は表象がある対象に対してもつところの唯一の関係をなすものであり、表象の客観的妥当性の根拠であり、表象を認識にするところのものであり、したがって認識能力としての悟性が可能であることもまた意識の統一にかかっている。
 しかし、こうした原則は、およそ悟性であればどんな可能的悟性にも妥当するような原則ではなくて、悟性の純粋統覚によるだけでは「私は考える」という表象にまだ多様なものが全く与えられないような人間悟性だけにとっての原理である。自分の自己意識によって同時に直観における多様なものが与えられるところの悟性(自分が表象しさえすれば同時にその表象の対象が存在するような悟性)なら、多様なものを結合して意識の統一とする特殊な総合作用は必要としない。

18

自己意識の客観的統一とは何かということ

 統覚の先験的統一は、直観において与えられた多様なものを結合して、客観すなわち対象とするものである。それだからこの統一は客観的統一と呼ばれ、意識の主観的統一から区別されねばならない。意識の主観的統一は内感の規定である(内的直観において経験的に与えられた多様なものを、結合の素材として提供する)。しかし、私がこの多様なものを同時的もしくは継時的に意識しうるかどうかは、経験的条件によって決まるから、全く偶然的である。これに反して、時間における直観の純粋形式は、与えられた多様なものを含む直観一般としてのみ、意識の根源的統一に従うのである。そのことは、経験的総合の根底に、ア・プリオリに存するところの悟性の先験的統一によってのみ可能である。統覚の先験的統一だけが客観的に妥当する。これに反して、統覚の経験的統一は主観的妥当性をもつにすぎない。ある人はある言葉の表象にあるものを結びつけるし、他の人はその同じ言葉の表象に他のものを結びつける、といった経験的な意識の統一は、与えられたところのものに関して必然的でもなければ普遍的に妥当するものでもない。

posted by kyoto.dialectic at 06:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月11日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約@

 前回は、京都弁証法認識論研究会の6月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回にわたって、カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の演繹(思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がどうして客観的妥当性をもつのか、という問題についての説明)を紹介していくことにします。

 今回は、そもそも演繹とはどういうことか、純粋悟性概念(カテゴリー)について、経験的な演繹ではなく先験的な演繹という手続きが必要になるのはどうしてなのかについて、説明されている部分の要約を紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

第2章 純粋悟性概念の演繹について

第1節 

13

先験的演繹一般の諸原理について

 法学者は、ひとつの訴訟事件について、何が権利であるかという問題と事実に関する問題を区別し、第一の問題について権限、あるいはそればかりでなく権利要求をも説明する明示を演繹と名づけている。我々は、多くの経験的概念を誰からも異議の申し立てがないままに使用し、またこうした演繹を経ずにこれらの概念に意味と憶測的な意義を与える資格があると思いなしている。それは我々が、いつでもこうした概念の客観的実在性を証明しうる経験を持ち合わせているからである。
 しかし、人間の認識の極めて雑多な組織を造り上げている多種多様な概念のなかにも(一切の経験に全く関わりのない)ア・プリオリな純粋使用に供せられ得るような若干の概念があり、これらの概念の権限が演繹を必要とするのである。こうした純粋使用の適法性を経験によって証明することは十分ではないのにかかわらず、これらの概念はどうして対象に関係しうるのか、是非とも知らなければならないからである。このような概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を純粋悟性概念の先験的演繹と名づけ、これを経験的演繹(ひとつの概念が経験と経験に対する反省によって得られる仕方を示すもの)から区別する。
 我々は、全く種類を異にする2通りの概念でありながらア・プリオリに対象に関係するという点では互いに完全に一致するような概念をすでにもっている。すなわち感性の形式としての空間・時間と、悟性の概念としてのカテゴリーとである。これらの概念について経験的演繹を試みようとしても無益である。
 とはいえ、これらの概念についても、一切の認識におけると同じく、ア・プリオリな概念を可能にする原理ではないが、しかしこうした概念を産出する幾因を経験のうちに求めることはできる。経験は、認識の質料とこの質料に秩序を与える形式を含む。この形式は、純粋直観および純粋思惟という我々のうちにある源泉から生じたものであり、両者は質料を機縁として活動し始め、概念を創り出すのである。我々の認識能力が個々の知覚から出発して一般的概念に達しようとする最初の努力をこうして追究してみることは極めて有益である。ロックがこうした探究の道を開いたが、ア・プリオリな純粋概念の演繹はこのような仕方では決して成立しない。
 空間および時間の概念は、ア・プリオリな認識であるにもかかわらず、どうして必然的に対象に関係しなければならないのか、また一切の経験にかかわりなく対象の総合的認識をどうやって可能にするのかということは、先に容易に説明することができた。つまり対象は、感性の純粋形式である空間・時間を介してのみ我々に現われるから、直観における総合が客観的妥当性をもつのである。
 これに反して、悟性のカテゴリーは、対象が直観に与えられるための条件を示すものではない。従って対象は、確かに我々に現れはするが必然的に悟性の機能に関係しなければならないというものではないから、悟性は対象を可能にするア・プリオリな条件を含んでいないことになる。そこで、感性の領域ではなかったような困難が現われてくる。すなわち、思惟の主観的条件がどうして客観的妥当性をもつのか(対象の一切の認識を可能にする条件となるのか)ということである。例えば、原因という概念は特殊な種類の総合を意味する。あるものAに別のものBがある法則に従って結合されるからである。しかし現象がなぜBのようなものを含むかはア・プリオリには明白ではない。それだから、こうした概念は全く空虚で、現象のうちにはこの概念に対応するような対象は全く存在しないのではないか、というア・プリオリな疑問が生じるのである。原因の概念は、全くア・プリオリに悟性のうちにその根拠をもつか、それとも単なる妄想として放棄されねばならないか、どちらかである。この概念は、AからBが絶対的に普遍的な規則に従って必然的に随起するような性質のものであることを、あくまで要求する。だから、原因と結果の総合は、経験的には全く表現できないような尊厳というべきものを備えている。

14

カテゴリーの先験的演繹への移り行き

 総合的表象とその対象とが合致し、必然的に関係し合い、両者がいわば相会することは、対象が表象を可能にするか、表象だけが対象を可能にするか、2つの場合にのみ可能である。前者の場合、対象と表象の関係は経験的で、表象は決してア・プリオリには可能にならない。後者の場合、表象自体は対象をその現実的存在に関して産出しうるものではないが、表象だけで何かあるものを対象として認識することが可能であれば、表象は対象を規定することになる。この場合、直観(現象としての対象を与える)と概念(直観に対応する対象を思惟する)という2つの条件がある。第一の条件は、我々の心意識のうちにア・プリオリに存し、対象の根底をなしているから、一切の対象は、この感性的条件と必然的に合致する。では、我々が何かあるものを対象一般として思惟しうるための条件としての概念もあり、このような概念も経験に先立って存在するのではないか。もしこうした概念が存在するなら、それを前提しなければ何ひとつ経験の対象になりえないのだから、対象の経験的認識は全てこれらの概念と必然的に合致する。およそ経験は直観、すなわちそれによって何かあるものが与えられるところの感性的直観のほかに、直観において与えられる(現われる)ところの対象に関する概念をも含むのである。すると対象一般に関する概念は、ア・プリオリな条件として一切の経験的認識の根底に存することになるだろう。ア・プリオリな概念としてのカテゴリーの客観的妥当性は、カテゴリーによってのみ経験が(思惟の形式に関する限りでは)可能になるということに基づくわけである。
 ア・プリオリな概念を含む経験をただ展開するだけでは、こうした概念の演繹にはならない。
 ロックは、悟性の純粋概念が経験において見出されると考え、これらの概念を経験から導き出した。にもかかわらず、こうした概念によって経験の一切の限界をはるかに超出するような認識に達しようとする試みを敢てしたのは、甚だ辻褄の合わぬことだった。しかし、ヒュームは、こうした認識を得るためにはこれら純粋概念がどうしてもア・プリオリな起源をもたねばならないことに気づいていた。しかし彼は、概念自体が悟性において結合されていないのに、悟性がこうした概念を対象においては必然的に結合されていると考えねばならないのはどうして可能なのか、全く説明できなかった。また、悟性がこうした概念によって自ら経験の創作者になるのではないか、悟性の対象は経験そのもののうちに見出されるのではないか、と思い及ばなかった。そこで彼は、純粋概念を経験から導出せざるをえなかった(習慣から導出された主観的必然性を客観的必然性と誤想する、という形で)。それでもヒュームが、こうした概念とそれから生じた原則では経験の限界を超えられないと断言したのは、なかなか辻褄の合ったことだった。ロックもヒュームも、純粋概念を経験的に導出しようとしたが、これは我々が現に有するア・プリオリな学的認識の実際――純粋数学と一般科学の実際に適合するものではないという事実によって否定される。
posted by kyoto.dialectic at 06:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約@
(3)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約A
(4)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約B
(5)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:純粋悟性概念の演繹とはいかなることか
(8)論点2:純粋統覚とはどういうものか
(9)論点3:カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのか
(10)参加者の感想の紹介

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、絶対精神の成長の過程(自己=世界という自覚の成立過程)として哲学の発展の歴史を描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画にもとづいたものです。

 6月例会では、純粋悟性概念の演繹という問題について論じられている部分を扱いました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

カント『純粋理性批判』 純粋悟性概念の先験的演繹について

【1】先験的演繹一般について
 カントは、純粋悟性概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を、純粋悟性概念の先験的演繹と名づけている。これは、感性の純粋形式であるところの空間・時間については不要な説明であった。なぜなら、対象は、感性の純粋形式である空間と時間を介してのみ、我々に現れるからである。ところが、純粋悟性概念は、対象が直観に与えられるための条件ではないから、対象が必然的に悟性の機能に関係せねばならないというものではないとカントはいう。そこで、思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がどうして客観的妥当性をもつのか、ということを説明しなくてはいけない。これがカントのいうところの純粋悟性の先験的演繹である。
 カントは、綜合的表象とその対象が合致し、必然的に関係し合うことは、二つの場合にのみ可能であるとしている。それは、対象が表象を可能にするか、それとも、表象だけが対象を可能にするか、の二つである。カントは、前者の場合の取り組みとしてロックとヒュームを挙げ、ともに純粋概念を経験的に導来しようとしたのであるが、このような経験的導来は、ア・プリオリな学的認識の実際に適合するものではないと説いている。

〔報告者コメント〕
 ここでカントは、純粋悟性概念は、対象が直観に与えられるための条件ではないとして、それを前提にして、思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がどうして客観的妥当性をもつのかという問題に取り組もうとしている。しかし、結論から言えば、カントは純粋悟性概念は対象が直観に与えられるに際して関与しているのだと説明している。それならば、そもそもこの問題が生じる前提が違うということになるのだから、問題そのものが成立しないのではないか。このあたりが正直、よく分からないところである。
 唯物論の立場に立つ我々は、基本的にはロックやヒュームと同様に、対象が表象を可能にするという立場で、筋をとおして説いていく必要がある。そのためには、認識の生成発展を明らかにした科学的認識論と、対象と表象の合致は、最終的には学問体系としてしか可能ではないということを明らかにした学問論(論理学?)をしっかりと再措定していく必要があるだろう。


【2】純粋統覚について
 カントは、多様なものの結合は悟性の作用であり、そのような悟性作用を綜合と呼ぶと規定している。また、「私は考える」という意識は、私の一切の表象に伴い得なければならないとして、その「私は考える」という自己意識のことを純粋統覚と名づけている。そのうえで、悟性が直観における多様な表象を統一するという、統覚の綜合的統一の原則は、人間の認識全体の(一切の悟性使用の)最高の原理(原則)であると説いている。このような原則がないと、認識が成立しないからであるとされている。
 またカントは、対象が現在していなくてもこの対象を直観において表象する能力を構想力と名づけ、その中で、カテゴリーに従って直観における多様なものを結合する綜合をなすものを産出的構想力と呼んでいる。

〔報告者コメント〕
 悟性、カテゴリー、統覚、そして産出的構想力のそれぞれの関係は、分かりにくいところである。黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』では、次のように説かれている。

「認識〈能力〉としての「悟性」、それの純粋〈概念〉としての「カテゴリー」、それに「私は……と考えるを生み出す〈自己意識〉としての「統覚」。本書の「はじめに」でも書いたように、この『純粋理性批判』入門の、見学ツアーレベルでは、これらはだいたい同じ、と思ってもらって差し支えない。」」(p.131)

 岩崎武雄『カント』では、「先験的統覚は直観の多様に総合的統一を与えてゆくという自発的な働きをするものであるが、悟性とは正しく自発性の能力(B.75)だから」、「この先験的統覚こそ悟性に外ならないであろう」(pp.87-88)と述べた後で、産出的構想力について次のように説いている。

「この構想力は再現された表象と現に存する表象とを総合的に統一してそこに対象の形像を作り出してゆくものであり、この総合的統一の働きが先験的統覚の先天的規則にしたがって行なわれるのである。すなわち悟性あるいは先験的統覚はこの場合産出的構想力という形で働くのである。」(p.89)

 以上をふまえると、悟性、カテゴリー、統覚、そして産出的構想力は、ほぼ同じような意味ととって間違いないが、スポットの当て方が違うといっていいだろう。悟性という能力の把持する概念にスポットを当てればカテゴリー、自己意識という点にスポットを当てれば統覚、表象する力にスポットを当てれば産出的構想力ということになるのだろう。


【3】純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスについて
 カントは、カテゴリーは一切の現象の総括としての自然に法則をア・プリオリに指定する概念であるとしたうえで、ここに難問があるとしている。すなわち、自然法則は自然から導き出されたものでもなければ、自然を範としてこれに従うのでもないのに、自然の方がこの法則に従わなければならないことをどうして理解できるのか、という問題である。カントはこれに対して、法則は現象のうちに存在するのではなく、現象が与えられているところの主観に関係してのみ存在するのだと答えている。すなわち、自然は、自然の必然的合法性の根源的根拠としてのカテゴリーに依存しているというのである。

〔報告者コメント〕
 自然法則はどうして自然をア・プリオリに規定しうるかという「難問」(p.203)は、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスの中で、どのように位置づけられているのかが、いまいちよく分からない。もうこの段階では、先験的演繹は終わっているのか、それとも、この難問の解決が、直接に先験的演繹の最後の段階を意味するのか。論点3のなかで、今回の範囲の大きな流れについても議論できればと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上の報告レジュメの、「報告者コメント」のなかには、「純粋悟性概念は対象が直観に与えられるに際して関与している」というカントの論立てからして、純粋悟性概念の演繹(思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がどうして客観的妥当性をもつのか、という問題についての説明)などがそもそも成り立つ余地があるのか、「自然法則はどうして自然をア・プリオリに規定しうるかという「難問」(p.203)は、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスの中で、どのように位置づけられているのか」というような、『純粋理性批判』の構成における純粋悟性概念の演繹の位置づけ、あるいは純粋悟性概念の演繹そのものの論の展開についての根本的な疑問が含まれていました。これらの疑問については、論点をめぐる議論のなかで考えていくことを確認しました。
posted by kyoto.dialectic at 06:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月09日

日本経済の歴史を概観する(13/13)

(13)国民経済という視点で変革の構想を

 前回は、本稿で辿ってきた日本経済の歴史の流れを簡単に振り返ってみました。本稿連載の最後となる今回は、この日本経済の歴史の流れについて、日本歴史と世界歴史との関係という観点から、まとめなおしてみることにしましょう。

 日本経済の歴史は、大きくいえば、2つの時代に分けることができます。第一は、江戸時代まで、資本主義経済を発展させていけるだけの実力をじっくりと培ってきた時代です。第二は、欧米諸国の圧力に抗して資本主義経済を発展させていく時代、すなわち明治時代から現在までです。多くのアジア諸国が、欧米列強の圧力に屈して植民地化を余儀なくされたなかで、日本は曲がりなりにも独立を維持し、政治・経済の近代化を成し遂げていきました。日本が植民地化を免れた外的な要因としては、列強によるアジア植民地化の最後の段階にあって、列強諸国が、インドや中国における人民の抵抗の経験を踏まえて、できる限り軍事力の行使を避けようとしていた事情があります。同時に、内的な要因として、日本がそれまでの歴史的な発展過程で、欧米列強に対抗できるだけの国力をもちつつあったという事情を無視するわけにもいきません。

 このことに関わっては、日本歴史がひとつの国家の歴史でありながら、世界歴史的な構造を内に含んでいることが重要です。

 第一に、原始共同体から現代社会までひとつにつながった流れをもっていることです。さらに、日本社会の構造そのものに、資本主義を開花させたヨーロッパと共通する部分があったことも見逃せません。具体的には、封建制という仕組み(領主層が土地を媒介した主従関係を結びつつ、土地と農民をセットで支配する仕組み)は、世界中でヨーロッパと日本にだけ成立していたのです(古代中国の周における封建制は、王が各地の有力氏族に領域支配を認めたもので、本質的に異なります)。世界歴史の流れを大雑把に捉えるならば、大河や内海の近くに成立した古代の大帝国が衰退した後、中央アジアの乾燥地帯から遊牧民が台頭し、周辺の農耕社会を侵略していくようになったといえるのですが、ヨーロッパと日本は、これから遠く離れていたために、遊牧民の征服を免れることになったのです。この結果、分権的で重層的な封建制という仕組みが形成されていったと考えられます(梅棹忠雄『文明の生態史観』がこの問題を論じています)。この封建制による安定した社会において、人々はじっくりと自然に向き合い、生産力を次第に発展させていくことになったのであり、このことが、後に資本主義経済を発展させていくための土台となったということができるでしょう。

 第二に、ひとつの国家(一貫して天皇が頂点に存在しました)でありながら、その内部に諸々の小国家どうしが対峙しあうという構造を含んでいたということです。そもそも、日本列島に初めて登場した統一政権たる大和政権は、日本列島各地の諸々の小国家を従属させる形で成立させられたものですし、その後も、いわゆる戦国時代では、日本列島各地の小国家がどうしが熾烈な戦いを繰り広げながら国力を発展させていくという過程をもったのでした。江戸時代末期、西南雄藩による倒幕の過程にも、国家内の小国家の存在が明瞭に現れています。世界歴史が、諸々の国家が対峙しあうという構造を含んでいるのと同じように、日本という国家の歴史も、諸々小国家どうしが対峙しあうという構造を含んでいたのです。

 第三に、より優れた文化への強烈な憧れをもち、それを自分のものにしようと必死に努力する過程をもったことです。その憧れの対象というのは、江戸時代までについていえば、中国にほかなりませんでした。さらに、開国以降についていえば、欧米の先進的な諸国です。憧れの対象は変わっても、それを何とか自分のものにしようという努力の過程をもった、ということ自体は一貫しています。

 日本歴史にこうした世界歴史的構造が含まれていたからこそ、欧米列強の圧力に屈せずに独立を維持できるだけの実力を培うことができたのだということができるのではないでしょうか。

 とはいうものの、欧米列強と幕末の開国時の日本とでは、国力に雲泥の差があったことは否定できません。日本は、他のアジア諸国のように、植民地化されてしまうほどに弱くはありませんでしたが、それでも欧米列強に対抗していくためには相当に無理を重ねる必要があったのです。このあたりの事情について、夏目漱石は、1911年(明治44年)に行った講演のなかで、次のように述べています。

「我々が内発的に展開して十の複雑の程度に開化を漕ぎつけた折も折、図らざる天の一方から急に二十三十の複雑の程度に進んだ開化が現われて俄然として我らに打ってかかったのである。この圧迫によって吾人はやむをえず不自然な発展を余儀なくされるのであるから、今の日本の開化は地道にのそりのそりと歩くのでなくって、やッと気合を懸けてはぴょいぴょいと飛んで行くのである。開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る余裕をもたないから、できるだけ大きな針でぼつぼつ縫って過ぎるのである。足の地面に触れる所は十尺を通過するうちにわずか一尺ぐらいなもので、他の九尺は通らないのと一般である」(「現代日本の開花」)


 江戸時代末期までの日本が、内発的な発展の歩みによって、資本主義経済の自立的な発展の土台を形成しつつあったこと、しかし、まさにその段階で、欧米列強による猛烈な圧力に晒されて、先進資本主義国による世界市場形成の動きに強制的に組み込まれてしまったこと――この二面性(二重構造)を捉える必要があります。夏目漱石は、近代日本を一生懸命腹を膨らませて牛と競争をする蛙にたとえましたが(『それから』)、必死に頑張れば欧米列強に何とか対抗できなくもなかったという点に、かえって近代日本の悲劇があったということもできるでしょう。

 経済に即していえば、資本主義的な国内統一市場が完成させられる前に世界市場に強制的に組み込まれてしまったために、個々の産業部門の連関が国内取引ではなく貿易によって完結する構造がつくられてしまったこと、国家権力の主導で少数の近代的大企業が育成された一方、前近代的小企業・家業的零細企業と農業が広範に残存するという、いわゆる「二重構造」がつくられてしまったこと、「富国強兵」「殖産興業」というスローガンの下に急速な工業化を推進したために、労働者の権利がまともに顧みられなくなってしまったことなどを指摘することができます。

 バブル崩壊後の長期不況のなかで、日本企業は、雇用・設備・債務のいわゆる「3つの過剰」の削減を強力に進めるとともに、政府に対して、企業活動を縛る諸々の規制の緩和や、税制や社会保障の改革による企業の公的負担の軽減を強く求めてきました。これらは、大きくみれば、1980年代以降に世界的な潮流となった新自由主義的改革の一部だと見なすことができます。しかし、企業の利益のために国民生活が犠牲にされやすいという構造をもつ日本経済においては、その影響はとりわけ深刻な形で現われてこざるをえないのです。とりわけ、1998年以降は労働者の賃金がほとんど伸びなくなり、GDPの約60%を占める個人消費が低迷を続け、GDPの約15%しかない輸出が景気の動向をもっぱら左右するという構造がつくられてしまいました。

 日本経済の再生を掲げた「アベノミクス」は、このような歪んだ構造を是正しようとするものではありません。従来の経済政策が行き詰まっているなかで、金融緩和や財政出動など、短期的に景気浮揚効果のありそうな政策(大胆な金融緩和による円安で輸出大企業が潤えば、そのおこぼれがやがては広く国民に行き渡るであろう、という「トリクルダウン」の発想にもとづいたもの)を掲げつつ、「成長戦略」の名のもと「世界で一番企業が活躍しやすい国」をスローガンに、より一層の新自由主義的政策を推進しようとするものであり、日本経済の危機をいっそう深めていくものにほかならないというべきでしょう。

 日本経済をまともな再生の道に乗せるために緊急に必要なのは、輸出ばかりに頼るのではなく、内需主導による景気回復を目指すこと、より具体的には、格差と貧困の是正、雇用の質の確保、社会保障制度の充実などを通じて国民生活を安定させ、個人消費の回復につなげていくことです。その上で、資本主義経済の世界的な規模での行き詰まりという現状をも踏まえつつ、長期的な視野に立って、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――をどのように解決していくべきなのかを模索していかなければなりません。

 そのための指針となる経済学の体系を構築すること、さらに、その前提となる社会科学の体系を構築することこそ、我々京都弁証法認識論研究会の歴史的使命であることを確認して、本稿を終えることにします。

(了)
posted by kyoto.dialectic at 07:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月08日

日本経済の歴史を概観する(12/13)

(12)これまでの日本経済の歴史の流れを振り返ると

 本稿は、これからの日本経済の進むべき方向を考えていくための前提として、日本経済の構造がどのような歴史的な過程によってつくられてきたのかを問うものであり、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けていくために有限な社会的総労働をどのように配分していけばよいのか、という問題がどのように解決されてきたのか、という観点から、縄文時代から現代までの歴史を概観していこうとするものです。

 本稿で、辿ってきた日本経済の歴史の流れを改めて簡単に示すならば次のようになります。

 農業共同体―→部民制―→律令制―→荘園公領制―→大名領国制―→幕藩制
 ⇒ 資本主義経済の成立と発展

 この流れを念頭に置きながら、本稿でこれまで説いてきた内容を簡単に振り返っておくことにしましょう。

 農耕が開始されたことで、諸集落の複合体たる農業共同体が形成され、多数の人々が1人の指導者の下で協働するようになり、他の共同体と対峙しながら、生活資料および生産手段の計画的な生産・分配を行っていくようになりました。

 小国家(農業共同体連合)どうしの争いのなかから成立してきた大和政権は、支配階級の諸欲求を満たすために、諸々の労働力を「部民」として組織した上で従属させるようになりました。

 さらに、律令制のもとでは、個人を課税の単位とし、労働力再生産の場として口分田を割り当てることで、剰余生産物を納めさせつつ、国家の必要に応じて労働力としても徴発するという構造がつくられました。しかし、こうした重い税負担が農民の労働意欲を削いでしまったことから、中央政府が剰余労働・剰余生産物を独占的に集めて、官人などへ必要に応じて分配するという構造は崩れてゆき、有力者がそれぞれ独自に(私的に)自己の諸需要を満たすための供給基盤をもつようになっていきました。

 こうしたなかで、有力農民たちは、自ら開発した土地の保護を求めて、貴族や寺社に土地を寄進するようになりました。その結果、在地領主が零細農民から剰余生産物を取り立てて中央領主に年貢として納めるという関係が成立し、ひとつの土地に複数の人の権利が重なり合う構造がつくられていきました。

 農業技術の改良によって農業生産力が発展すると、剰余生産物を交換するための市が設けられるようになり、手工業や商業、金融業も著しく発展しました。こうしたなかで、剰余労働を生産の現場により近いところで掌握できた在地領主層(武士)が中央領主層(貴族)を圧倒し、政治的に大きな力をもつようになっていきます。やがて、戦国大名たちが、広い領国を統一的に支配するようになり、他国との熾烈な戦いに勝ち抜けるだけの国力の確保に努めるようになりました。

 全国統一政権としての江戸幕府は、自給自足的な農民経済と領主権力が主導する商品経済という二重構造をつくりました。農民を市場経済から切り離し、農民から収取した年貢米を市場で貨幣に換えた上で、武士たちの諸欲求を満たすための諸商品を購入したのです。しかし、増大する都市住民の諸欲求を満たすために、農民経済と市場経済の相互浸透が進んでいき、「米価安の諸色高」と呼ばれる状況が現出したことで、幕府財政は深刻な危機に陥り、政治的な支配力も減退させていくことになりました。一方で、農村への市場経済の浸透によって、農民の階層分解による賃労働者の萌芽的な登場、工場制手工業の展開もみられました。

 このように、日本経済は、江戸時代後期までの内発的な発展によって、資本主義を成立させる寸前のところまで到達していたといえます。しかし、日本経済の資本主義化は、こうした動きの自然な延長線上で展開していったわけではありません。欧米列強からの圧力に抗して国家の独立を維持しなければならないという強烈な危機意識にもとづいて、国家権力の主導で上からの資本主義化が推進されたのです。

 幕藩体制を解体して新たな統一国家を樹立した維新政府は、財政的な基盤の確立のため秩禄処分と地租改正を行い、「富国強兵」を掲げて殖産興業政策を推進しました。産業の発展を資金面から支えるために、近代的な金融制度の創出も図られました。中央銀行による兌換券の発行を目指す過程では、それまで増発されていた不換紙幣の償却を進めるため過酷なデフレ政策(松方デフレ)がとられ、米価は著しく下落しました。このため、多くの自作農が土地を手放して小作農に転落し、生きていくために自らの労働力を売るしかない賃労働者が大量に創出されることになったのでした。このようにして準備された資本と賃労働力を前提にして、まずは製糸・紡績業を中心に、機械を本格的に導入する産業革命がスタートしました。欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持するという意識から、何よりも重視されていたのは兵器生産をはじめとする重工業の発展でしたが、重工業の発展のためには、まずは欧米諸国から資源や機械を輸入する必要がありました。そのために必要な外貨を稼いだのが、綿糸・綿織物や生糸といった繊維製品の輸出だったわけです。しかし、1930年代に、世界恐慌からの脱出をはかるために欧米列強がブロック経済化を進めると、日本からの輸出は高い関税によって対抗され、大きく減少していくことになりました。中国との戦争をはじめた日本は、石油やゴムなど戦争の遂行に必要な物資の確保をめざして「大東亜共栄圏」を掲げた南進政策をとりますが、これは列強の日本への経済封鎖を強め、やがて太平洋戦争につながりました。政府は、1931年の満州事変以降、戦争遂行のために経済統制を強め、少なくなっていた資源や労働力を軍需産業に集中させていきましたが、軍需品以外の生産が著しく減少し、食糧難も深刻化してしまったために、1945年以降、戦争の継続は不可能となり、ポツダム宣言を受け入れて降伏したのでした。敗戦後の日本では、連合国の占領の下、寄生地主制の解体、財閥の解体、労働組合の結成の奨励など、経済の民主化が進められました。また、均衡予算、所得税中心の税制改革、単一為替レートの設定などで、経済の安定が図られました。1950年、朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍への軍需物資の供給を日本企業が担ったことで、日本経済は急速に回復の軌道に乗り、1955年から1973年ころまで、年平均の経済成長率が10%を超える高度成長となりました。高度成長を牽引したのは、民間企業の活発な設備投資でした。さらに労働者の所得が順調に伸びていったことから設備投資と個人消費の好循環が確立され、「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や「3C」(自動車、クーラー、カラーテレビ)などの耐久消費財が普及していくことになりました。これら耐久消費財がひととおり国内に普及してからは、輸出の拡大が設備投資を大きく刺激するようになりましたが、1973年の変動相場制への移行による円高の進行は、日本企業の輸出にとって不利な条件となりました。そこに1974年のオイル・ショックが重なって深刻な不況となり、高度成長は終わりを告げたのでした。日本企業は、資源・エネルギーの有効活用などによって急速に輸出競争力を回復したものの、このことが貿易摩擦問題を引き起こし、1985年の先進5カ国蔵相会議(G5)の結果、円高誘導が図られるようになると、日本経済は一挙に不況に落ち込みました。こうしたなか、日本の内需拡大を要求するアメリカからの強い圧力もあって、財政支出の拡大と超低金利政策がとられるようになりましたが、その結果、膨大な資金が溢れて株式・土地などの購入に向かい、地価や株価の異常な値上がりというバブルが生じました。このバブルは1990年代に入って崩壊し、日本経済は長期不況に落ち込むことになったのでした。
posted by kyoto.dialectic at 06:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月07日

日本経済の歴史を概観する(11/13)

(11)高度経済成長とその終焉

 前回は、日本における産業革命の過程、さらに戦時統制経済から戦後改革への流れを簡単に辿ってみました。日本資本主義の確立過程においては、欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持するという意識から、兵器生産をはじめとする重工業の発展が何よりも重視されました。しかし、重工業の発展のためには、まずは欧米諸国から資源や機械を輸入する必要がありました。そのために必要となる外貨を稼いだのは、綿糸・綿織物や生糸といった繊維製品の輸出であり、これらの工業を支えた賃労働力は、農村の零細農家から供給されたのでした。こうした工業の発展は、貿易の二重構造――欧米に対しては、生糸を輸出し重化学工業製品を輸入するという後進国型、アジアに対しては、綿花など工業原料や食料を輸入して工業製品である綿製品を輸出するという先進国型――によって支えられていました。しかし、1930年代に、世界恐慌からの脱出をはかるために欧米列強がブロック経済化を進めると、日本からの輸出は高い関税によって対抗され、減少していくことになりました。中国との戦争をはじめた日本は、石油やゴムなど戦争の遂行に必要な物資の確保をめざして「大東亜共栄圏」を掲げた南進政策をとりますが、これは列強の日本への経済封鎖を強めることになりました。政府は、1931年の満州事変以降、戦争遂行のために経済統制を強め、少なくなっていた資源や労働力を軍需産業に集中させていきましたが、軍需品以外の生産が著しく減少し、食糧難も深刻化してしまったために、1945年以降、戦争の継続は不可能となり、ポツダム宣言を受け入れて降伏したのでした。敗戦直後の日本は、多くの都市が戦災を受け、残った工場も休業状態となって失業者は激増、生活物資の不足から物価が激しく上昇する、といった状態でした。敗戦後の日本では、連合国の占領の下、寄生地主制の解体、財閥の解体、労働組合の結成の奨励など、経済の民主化が進められました。また、均衡予算、所得税中心の税制改革、単一為替レートの設定などで、経済の安定が図られました。しかし、その結果として、国内経済は深刻な不況に見舞われることになったのでした。

 さて、今回は、1950年代半ば以降のいわゆる高度経済成長期から現在までの日本経済の歴史の流れを簡単に辿ってみることにしましょう。

 1950年、朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍への軍需物資の供給を日本企業が担ったことで、日本経済は急速に回復の軌道に乗っていくことになります。さらに1955年から1973年ころまで、年平均の経済成長率が10%を超える高度成長となったのでした。

 高度成長期の日本においては、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――は、どのように解決されていたのでしょうか。

 それは端的にいえば、増大していく大衆的な欲求を満たすべく、企業が積極的な設備投資を行うとともに、技術革新の過程を支える労働力を企業内に囲い込んでそれなりに高い賃金を保障することで、企業が生産した商品を労働者に買い取らせる、という構造がつくられることによって、でした。

 もう少し詳しくみていきましょう。

 高度経済成長を牽引したのは、何といっても、アメリカ的なライフスタイル(電化製品や自家用車をもった豊かで便利な生活)への大衆的な憧れであったといえます。

 こうした大衆的な欲求に応えたのが、民間企業の盛んな設備投資でした。これは欧米諸国からの革新的な技術の導入を伴うものでした。欧米諸国との技術水準の差が大きく開いてしまっていたことが、逆に企業を刺激し続けたのです。この設備投資の過程は、大きく2つの面から捉えておく必要があります。第一は、そもそも技術革新は何によって支えられたのかということです。第二は、設備投資の結果として高まった生産(供給)が消費(需要)とどのようにバランスをとったのかということです。この2つの面を媒介したのは、企業による労働者支配の構造にほかなりませんでした。

 まず、技術革新の過程を支えたのは、新しい技術に対応できるだけの実力をもった若い労働力が供給され続けたことでした。日本の大企業は、こうした労働力を企業にしっかりと囲い込むために、年功賃金や終身雇用の制度を形成し、企業内福利の充実を図ったのです。日本においては、健康で文化的な生活への要求は、基本的人権を根拠とする公的な社会保障制度として、すべての国民に対して直接に満たされるというよりも、企業の一員であることを媒介にして企業内の制度によってある程度まで満たされる、という形をとったのです。この結果、労働者の間には、企業の繁栄こそが自分たちの幸福につながるという意識が広範に定着していくことになりました。企業別に組織された労働組合も、労使協調的な傾向を強めていきました。

 このような構造のもとでは、企業の業績さえよければ、国民の所得はどんどん増え、個人消費が伸びていくことになります。このことが活発な設備投資を促すことになったのです。このような設備投資と個人消費の好循環を通じて、「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や「3C」(自動車、クーラー、カラーテレビ)などの耐久消費財が普及していくことになりました。

 これらの耐久消費財がひととおり国内に普及した高度成長期の後半には、国内の個人消費に加えて、輸出の拡大が設備投資を大きく刺激するようになりました。しかし、1973年の変動相場制への移行による円高の進行は、日本企業の輸出にとって不利な条件となりました。そこに1974年のオイル・ショックが重なったことで日本経済は深刻な不況に陥り、高度成長は終わりを告げることになります。

 日本企業は、資源・エネルギーの有効活用などによって急速に輸出競争力を回復したのですが、先進国のなかで日本だけが突出して輸出競争力を強めてしまったことが貿易摩擦問題を引き起こしました。このため、1985年の先進5カ国蔵相会議(G5)によって円高への誘導がはかられることになり、日本経済はいっきょに不況に落ち込んでしまいました。この不況は2つの重要な結果をもたらすことになります。

 第一は、日本の内需拡大を要求するアメリカからの強い圧力もあって、財政支出の拡大と超低金利政策がとられたことです。この結果、膨大な資金が溢れて株式・土地などの購入に向かい、地価や株価の異常な値上がりというバブルが生じました。このバブルは1990年代に入って崩壊し、このことをきっかけにして、日本経済は長期不況に落ち込むことになります。

 第二は、円高への対応として、日本企業が海外に生産拠点を移す動きが本格化したことです。しかし、日本企業の競争力の源泉は、労働者や下請企業との独特な関係という国内的な要因にありました。海外進出した企業は、こうしたことの全くないところから競争力を築いていくことを迫られたのです。相対的に、日本企業の競争力は低下せざるをえず、このことが不況の克服を遅らせる要因になったといえます。

 バブル崩壊後の長期不況のなかで、企業は、雇用・設備・債務のいわゆる「3つの過剰」の削減を強力に進めるとともに、政府に対して、企業活動を縛る様々な規制の緩和や、税制や社会保障の改革による企業の公的な負担の軽減を強く要求しました。こうした政策を徹底して進めたのが、2001年に登場した小泉政権の「構造改革」でした。

 しかし、公的な社会保障制度よりも企業内の制度によって国民生活が安定させられる度合いが強いという構造のもとで企業が正規雇用を削減することは、個人消費の著しい停滞につながりました。この結果、景気の動向がGDPの15%ほどしかない輸出によってもっぱら左右されてしまうという構造がつくられてしまったのです。このことは、2008年のリーマン・ショック以降の世界経済危機のなかでも、日本経済の落ち込みをとりわけ深刻なものにしました。また、公的な社会保障制度が充分でないもとでの正規雇用の減少は、貧困などの問題を深刻化させています。

 輸出ばかりに頼るのではなく、貧困問題への取り組み・公的な社会保障制度の充実などを通じて国民生活を安定させ、個人消費の回復につなげていくことが、日本経済のこれからの発展にとって、避けて通れない課題となっているといえるでしょう。
posted by kyoto.dialectic at 06:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月06日

日本経済の歴史を概観する(10/13)

(10)戦時統制経済から戦後改革へ

 前回は、江戸時代末期の開国による混乱を経て、日本における資本主義が成立してくる過程について、簡単に辿ってみました。明治新政府は、幕藩体制を解体して新たな統一国家を樹立し、その新政権の財政的基礎を確立するため、次々と近代化政策を打ち出していきました。そのなかで、資本主義経済が成立させられていく上で重要な役割を果たしたのは、秩禄処分・地租改正と殖産興業・通貨信用制度の創設でした。新政府は、士族に支給されていた俸禄について金禄公債証書を与えた上で全廃し、土地の売買を自由化した上で地価を定め、その3%を地租として現金で納めさせるようにしました。また、官営工場を建設し、外国から新しい機械を買い入れ、技術者を招いて、製糸や紡績、造船や兵器生産を進めていきました。こうした産業の発展を資金面から支えるために、近代的な金融制度の創出が図られました。中央銀行による兌換券の発行を目指す過程では、西南戦争の戦費調達のために増発された不換紙幣の償却を進めるため過酷なデフレ政策(松方デフレ)がとられました。米価が著しく下落したにもかかわらず、地租は定額金納だったため、農民の負担は著しく重くなり、多くの自作農が土地を手放して小作農に転落しました。こうして、生きていくために自らの労働力を売るしかない賃労働者が創出されます。このようにして準備された資本と賃労働力を前提にして、まずは製糸・紡績業を中心に、機械を本格的に導入する産業革命がスタートしました。江戸時代末期までに、市場経済が大きく発展し、工場制手工業も広まりつつあったものの、こうした動きの単純な延長線上に日本経済の資本主義化があったわけではありません。こうした経済発展を土台としながらも、欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持しなければならないという強烈な危機意識にもとづいて、国家権力の強力な主導により、上からの資本主義化が推進されたのでした。

 さて、今回は、日本における産業革命の過程、さらに戦時統制経済から戦後改革への流れを簡単に辿ってみることにしましょう。

 そもそも、日本における資本主義経済の形成の過程においては、欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持するという意識から、兵器生産をはじめとする重工業の発展が何よりも重視されることになりました。そのための鉄資源の確保という思惑もあって、日本は朝鮮半島や中国大陸への侵出を狙っていくことになります。しかし、重工業の発展のためには、まずは欧米諸国から資源や機械を輸入する必要がありました。そのために必要となる外貨を稼いだのは、綿糸・綿織物や生糸といった繊維製品の輸出にほかなりませんでした。これらの工業を支えた賃労働力は、農村の零細農家から供給されたのです。

 日本における産業革命(機械制大工業が成立して、資本家が労働者を雇って働かせるという関係が社会全体に広く行きわたる過程)は、松方デフレの後にはじまり、日清戦争、日露戦争を通じて急速に進展しました。民間では、製糸業、紡績業、織物業といった軽工業が大きく発展しました。重工業の中心は、陸海軍工廠を中心とする官営工場で、民間では造船業が発展しました。このほか、鉱山業や運輸通信業も多数の労働者を集めました。日清戦争、日露戦争の結果、満州の鉄・石炭資源が確保されたことは、製鉄・車両・造船・機械などの重工業を大きく発展させました。しかし、日露戦争の後には、過剰投資の反動として恐慌が起き、紡績・製糸・製糖・化学などの業種において、企業の合併・吸収が進んで、特定の大資本による独占の傾向が強まりました。その過程を通じて大銀行による企業支配も強まり、財閥が形成されることになりました。

 このような工業の発展の過程は、貿易の二重構造によって支えられていました。すなわち、欧米に対しては、生糸を輸出し重化学工業製品を輸入するという後進国型、アジアに対しては、綿花など工業原料や食料を輸入して工業製品である綿製品を輸出するという先進国型、という貿易の二重構造です。

 日本経済の資本主義化は、こうした対外関係に大きく規定されながら進むことを余儀なくされました。結果として、日本国内で諸々の産業部門が有機的に結びつきを強めていくということが希薄で、それぞれの産業部門が国内的な連関を欠いたまま外国との貿易関係を通じて発展していく(例えば、綿花を輸入して綿糸を輸出する、など)、という傾向が強かったのです。

 1914年から1918年にかけての第一次世界大戦は、日本の資本主義経済を大きく変化させました。第一次世界大戦は「大戦ブーム」と呼ばれた好況をもたらし、繊維工業のみならず、造船・鉄鋼・電力・電機・化学など、民間における重化学工業を含めて、様々な分野で企業の新設・拡張が相次ぎ、経済規模が急激に膨張しました。しかし、戦争が終わってヨーロッパ諸国の産業が復興すると、日本への注文は減り、不景気となってしまいました。その後も日本経済は、1923年の震災恐慌、1927年の金融恐慌など、恐慌に相次いで見舞われ、本格的に回復しきれないままに、1930年代の世界恐慌の時代に突入していきます。こうした過程のなかで、労働組合運動や社会主義運動も激化していきました。

 イギリスやフランスなどの列強が、世界恐慌からの脱出をはかるためにブロック経済化(国内資源や植民地を有している国が、自国通貨を決済通貨としてグループをつくり、グループ内の関税を軽減して域内通商を確保するとともに、域外からの輸入には高関税をかけて自国産業を保護する)を進めていくと、日本からの輸出は高い関税によって対抗され、減少していくことになりました。日本は、列強のブロック経済圏に日満経済ブロックを形成して対抗しようとします。1931年の満州事変、1934年の「満州国」建国を経て、1937年には中国との戦争がはじまり、次第に拡大していきます。日本は、石油やゴムなど戦争の遂行に必要な物資の確保をめざして「大東亜共栄圏」を掲げた南進政策をとりますが、これは列強の日本への経済封鎖を強めることになりました。1941年12月には、真珠湾(ハワイ)に奇襲攻撃をかけてアメリカに宣戦布告、太平洋戦争となりました。こうしたなかで日本政府は、1931年の満州事変以降、戦争遂行のために経済統制を強め、少なくなっていた資源や労働力を軍需産業に集中させていきました。1944年には、中学生以上の生徒、12歳以上の女子は軍需工場に動員され、サービス部門の労働者も転業を強制されました。要するに、戦時の日本政府は、社会的な諸欲求を抑圧し(「欲しがりません、勝つまでは」)、社会的総労働の配分過程に強力に介入して、それらが軍需産業に集中的に投入されるようにすることで、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――の解決を何とかして図ろうとしたわけです。しかしながら、社会的欲求を抑圧して、軍需生産ばかりに社会的総労働を投入するというやり方では、国家の中長期的な維持・発展が可能になるはずがありません。結局、軍需品以外の生産が急激に減退し、とりわけ農村における労働力の不足が深刻になることで、主食である米の収穫量が激減することになってしまいました。こうして、戦争の続行は不可能となり、1945年8月、日本はポツダム宣言を受け入れて降伏したのでした。

 敗戦当時の日本は、多くの都市が戦災を受け、残った工場も休業状態となって失業者は激増、生活物資の不足から物価が激しく上昇する、といった状態でした。

 敗戦後の日本では、アメリカを中心とする連合国の占領の下、経済の民主化と非武装化が進められました。連合国軍総司令部(GHQ)によって、兵器・航空機など軍事に関係する物資の生産が禁止され、重工業にも多くの制限が課されました。とりわけ、日本軍国主義を成立させた背景として、寄生地主制と財閥による産業支配とが取り上げられ、その解体が指令されました。独占禁止法などの制定によって財閥の解体が進められ、農地改革によって寄生地主制が解体されます。さらに、労働組合の結成が奨励されるなどして、経済の民主化が進められました。

 日本経済の復興は、石炭と鉄鋼という2つの基礎的な産業部門に集中的に資金・資財を投入して産業の拡大再生産を図るという傾斜生産方式によって始められました。復興金融公庫を通じた政府資金(復興債の発行)による企業への融資がその過程を支えました。しかし、こうした政策はインフレを加速させてしまいました。GHQは、インフレを収束させ、日本経済を自立化させるために、均衡予算、所得税中心の税制改革、単一為替レートの設定などを要求し、実施させました。その結果、国内経済は深刻な不況に見舞われることになりました。
posted by kyoto.dialectic at 06:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月05日

日本経済の歴史を概観する(9/13)

(9)日本資本主義の成立過程

 本稿は、これからの日本経済の進むべき方向を考えていくための前提として、日本経済の構造がどのような歴史的な過程によってつくられてきたのかを問うものであり、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けていくために有限な社会的総労働をどのように配分していけばよいのか、という問題がどのように解決されてきたのか、という観点から、縄文時代から現代までの歴史を概観していこうとするものです。

 前回までの3回にわたっては、律令体制の動揺のなかから荘園公領制が成立し、さらに荘園公領制のなかから大名領国制という新たな体制が形成されて、江戸幕府による全国支配が確立されていく流れを簡単に辿ってきました。ここで簡単に振り返っておくことにしましょう。

 10世紀以降、個人を課税単位として労役を課すという仕組みは機能しなくなり、土地を課税単位として収穫物の一部を納めさせる仕組みに転換します。有力農民は自ら開墾した土地を中央の貴族や寺社に寄進して荘園とすることで、重い税負担から逃れようとしました。一方、公領もまた上級貴族の事実上の私有地のようなものとなり、荘園・公領のいずれにおいても、在地領主(有力農民層)が零細農民から剰余生産物を取り立てて中央領主(上級貴族)に年貢として納めるという関係が成立しました。有力農民層は、自分の土地を守るために武装して争うようになり、地方での騒乱を抑えるために派遣された中央貴族と結びついて武士団を形成し、やがて武家政権の成立につながります。社会が安定し、鉄製農具や牛馬・肥料の使用が広がると、土地からの収穫物は大きく増え、自立的な経営を行う農民が結合する惣村的な形態も生まれてきました。農民は綿花や麻・桑・茶など新しい作物も栽培するようになり、鍛冶・鋳物師・紺屋など専門の手工業者も多くなりました。土地から遠く離れた中央領主層(貴族)は、こうした変化に対応できず、在地の武士によって土地支配の実権を奪われていきました。武士による一元的な土地支配が強められていく流れのなかから、地域的な市場圏の成立を基礎にて広い領国を統一的に支配する戦国大名が登場してきます。戦国大名は、他国との熾烈な戦いに勝ち抜いていくために、大規模な治水灌漑事業などで生産基盤を強化し国力を確保することに努めました。全国を統一的に支配した江戸幕府は、自給自足的な農民経済の維持(自立的な農民の労働力の再生産)を土台にして最重要生産物としての米を独占的に確保し、米の流通を掌握することで財政基盤を安定させるとともに、農地から切り離されて純粋な消費者となった武士たちの増大する諸欲求を満たすための商品経済を整備しました。しかし、農具の改良などで農業生産力の発展が進む一方、都市人口が増加したことで、都市住民の増大する諸欲求を満たすために野菜・茶などの商品作物の栽培が広がり、綿作や養蚕業なども行われるようになっていきました。こうした市場経済の発展のなかで、年貢米に依存していた幕府や諸藩の財政は危機を深めていきます。幕府は、諸々の改革を試みたものの、米を基礎とする仕組みを根本から変えることができず、年貢を重くするなどの対応に終始しました。しかし、薩長土肥などの西南雄藩は、藩の特産物の専売を強化したり造船などの藩営工場を設立したりして財政の再建に成功し、大きな力をつけていったのでした。

 さて、今回は、江戸時代末期の開国による混乱を経て、日本における資本主義が成立してくる過程について、簡単に辿ってみることにしましょう。資本主義経済とは、端的にいえば、大半の労働生産物が商品となり、市場において貨幣を媒介として交換される経済のことです。ここで決定的に重要なのは、労働力までもが商品化するということです。すなわち、土地や生産手段を奪われ、自分の労働力を商品として売る(誰かに雇ってもらう)しか生きていく術がなくなる労働者階級(無産者、プロレタリアート)が大量に創出されて、物質的な生産活動の中心を担うようになっていったのが資本主義経済なのです。資本主義経済は、産業革命(機械制大工業の成立によって、資本家が労働者を雇って働かせるという関係が社会全体に広く行きわたること)を通じて、揺るぎないものとして確立されます。資本主義経済においては、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――は、基本的には市場における商品交換を通じて解決されるようになります。しかしながら、社会的総労働の配分過程は決して市場だけで完結するものではなく、政府による公共事業や社会保障などが不可欠となってくることも忘れてはなりません。

 さて、18世紀後半から19世紀に半ばにかけて、産業革命を成し遂げたヨーロッパ諸国やアメリカは、世界中に植民地的な支配を広げていこうとしていました。こうしたなかで、それまでいわゆる鎖国政策によって、外国との貿易を厳しく統制していた日本も、欧米列強の圧力によって開港を迫られることになります。いわゆる安政の開港(開国)によって外国貿易は急激に発展していきます。それは、先進国へ原料・食料を輸出して工業製品を輸入する後進国型のものでした。外国貿易の急激な発展は、国内の商品流通を大きく混乱させ、物価が著しく高騰してしまうなど、経済の大きな混乱をもたらしました。江戸幕府がこうした事態にまともに対応しきれないなかで、西南雄藩の武士が主導して幕府が倒され、新政府がつくられていくことになります。いわゆる明治維新です。

 それでは、明治新政府は、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――を、どのように解決しようとしたのでしょうか。

 それは端的には、欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持しなければならないという強烈な危機意識にもとづき、「富国強兵」というスローガンを掲げて、国家権力の強力な主導によって、上からの資本主義化を推進することによって、でした。

 明治新政府は、幕藩体制を解体して新たな統一国家を樹立し、その新政権の財政的基礎を確立するため、次々と近代化政策を打ち出していきました。そのなかで、資本主義経済が成立させられていく上で重要な役割を果たしたのは、秩禄処分・地租改正と殖産興業・通貨信用制度の創設です。

 秩禄処分というのは、士族に支給されていた俸禄が新政府の財政を大きく圧迫していたために、士族に金禄公債証書を与えることと引き換えに俸禄を全廃したものです。これによって、多くの士族は経済的に大きな打撃を受けて、没落していくことになりました。

 地租改正というのは、土地の売買を自由化した上で地価を定め、その3%を地租として現金で納めさせるようにしたものです。地価の算定式は、地租の額が江戸時代の年貢とほぼ同じになるように、巧妙に定められたもので、農民の負担軽減にはつながりませんでした。しかし、現物納ではなく金納となったことで、農民は商品生産者としての性格を否応なしにもたされることになり、農民の階層分解が加速していくことになりました。

 秩禄処分と地租改正で財政基盤の確立を図った新政府は、「富国強兵」を掲げて官営工場を建設し、外国から新しい機械を買い入れ技術者を招いて、兵器生産や造船業、製糸業や紡績業の確立を進めていきました。欧米列強に対抗しつつ国家の独立を守るために軍事力を強化するとともに、輸入を抑制して輸出を促進するために民間産業の保護育成を図ったわけです。官営工場は、政府の財政負担を軽減する目的もあって、やがて政商と呼ばれる民間の有力商人に払い下げられました。政商は不況で没落した小企業を吸収して大きく成長し、やがて財閥と呼ばれるまでに成長していきます。

 こうした産業の発展を資金面から支えるために、近代的な金融制度の創出が図られました。華族(旧大名)が秩禄処分で得た巨額の公債を資本金とする発券銀行も設立されました。中央銀行(日本銀行)による兌換券の発行を目指す過程では、西南戦争の戦費調達のために増発された不換紙幣の償却を進めていくために、大蔵卿となった松方正義の下で、過酷なデフレ政策がとられることになります。いわゆる松方デフレです。この過程では、米価が著しく下落したにもかかわらず、地租は定額金納であったために、農民の負担は著しく重くなり、多くの自作農が土地を手放して急速に小作農に転落していくことになりました。こうして、土地を失った農民や、貧しい農村の次男や三男、女子が、生きていくために自らの労働力を売るしかない賃労働者となっていったのです。一方で、自らは耕作せず、買い集めた土地を小作人に貸して小作料に頼って生活する寄生地主が増えていくことにもなりました。

 このようにして準備された資本と賃労働力を前提にして、まずは製糸・紡績業を中心に、機械を本格的に導入する産業革命がスタートすることになっていきました。ここで重要なのは、江戸時代末期までに、市場経済が大きく発展し、工場制手工業も広まりつつあったものの、こうした動きの単純な延長線上に日本経済の資本主義化があったわけではない、ということです。こうした経済発展を土台としながらも、欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持しなければならないという強烈な危機意識にもとづいて、国家権力の強力な主導により、上からの資本主義化(秩禄処分や地租改正による財政基盤の確立、「富国強兵」を掲げた殖産興業政策、松方デフレによる通貨信用制度の創設と賃労働者の創出)が推進されたのです。
posted by kyoto.dialectic at 06:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月04日

日本経済の歴史を概観する(8/13)

(8)幕藩制の成立と発展

 前回は、荘園公領制のなかから大名領国制という新たな体制が形成されてくるまでの流れを辿ってみました。平安時代の中期以降、有力農民層が優れた農業技術を活かしながら、積極的に土地の開発を行っていきます。彼らは有力な貴族や寺社に土地を寄進して荘官としての地位を得ながら、自分の土地を守り勢力を拡大するために、武装して争うようになりました。こうした有力農民層と、地方での騒乱を抑えるために派遣された武芸に長けた中央貴族とが結び付いて武士団が形成され、やがて武家政権の成立にいたります。武家政権の確立で社会が安定し、鉄製農具や牛馬・肥料の使用が広がると、土地からの収穫物は大きく増え、自立的な経営を行う農民が結合する惣村的な形態も生まれてきました。農民は綿花や麻・桑・茶など新しい作物も栽培するようになり、鍛冶・鋳物師・紺屋など専門の手工業者も多くなりました。定期市が開かれるようになり、常設の小売店も増えていきました。商品流通とともに貨幣流通が増え、遠隔地の取引には為替が用いられるようになり、年貢も現物でなく銭で納めることが広まりました。土地から遠く離れた中央領主層(貴族)は、こうした変化に対応できず、在地の武士によって土地支配の実権を奪われていきました。地頭は、荘園領主と争いながら排他的な支配領域を広げて国人領主となり、守護は、国人領主たちと主従関係を結びながら土地への支配を強め、守護大名となっていきました。やがて、応仁の乱によって室町幕府の権威が失墜し守護大名の勢力が衰えると、実力によって大名の地位を獲得した戦国大名たちが、地域的な市場圏の成立を基礎にしつつ広い領国を統一的に支配するようになりました。戦国大名たちは、他国との熾烈な戦いに勝ち抜いていくために、生産基盤を強化して国力の確保に努めるとともに、城下町で新興商人に自由な営業を認めて商工業の振興を図り、鉱山開発にも尽力しました。また、大規模な治水灌漑事業などで農業を振興するとともに、剰余生産物を銭によって統一的に掌握すべく、貫高で年貢基準を定めるために検地を反復実施し、農民への支配を強めたのでした。

 このように、鎌倉時代から戦国時代にかけて、社会的諸欲求とそれらを満たす社会的労働とのつながりは、直接的なもの(欲求を満たしてくれる労働力を直接に従属させる)から媒介的なもの(市場における交換を通じて入手する)へと大きく発展していきました。こうした過程を根本から規定したのは、農業技術の改良による農業生産力の発展であり、生産の現場により近いところで剰余労働を掌握することのできた武士が、政治的にも大きな力をもつようになっていきました。さらに、戦国大名になると、単に剰余労働を搾取するだけにとどまらず、国力の強化という観点から、剰余労働を増やすための生産基盤の整備などにも努めるようになっていったのでした。要するに、大名領国制のもとでは、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――は、諸々の生産主体の自由な活動を容認しつつ、剰余生産物の流通過程を掌握するとともに、さらにその生産過程にも踏み込んでその生産力の増大に努めることで、国力の増強を図っていくという形で、解決されていたのだといえます。

 さて、今回は、群雄割拠の戦国時代から「天下統一」が成し遂げられ、江戸幕府による支配が確立していくまでの流れを辿り、江戸時代の日本社会がどのような経済構造をもっていたのかを、簡単にみていくことにしましょう。

 織田信長に続いて「天下統一」を成し遂げた豊臣秀吉は、全国統一の基準で年貢を確保するために、いわゆる「太閤検地」を実施し、直接の耕作者に限って検地帳に登録することにして、荘園公領制のもとで形成されていた重層的な権利関係を清算しました。また、刀狩を行って農民と武士の身分を明確に区別しました。秀吉の死後、徳川家康が江戸に幕府を開くと、将軍から1万石以上の領地を与えられた武士が大名と呼ばれ、大名の領地とその統治機構が藩と呼ばれるようになりました。この体制を幕藩制と呼びます。

 それでは、江戸幕府(幕藩制の領主権力)は、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――を、どのように解決しようとしたのでしょうか。

 それは端的には、自給自足的な農民経済の維持(自立的な農民の労働力の再生産)を土台にして最重要生産物としての米を独占的に確保し、米の流通を掌握することで財政基盤を安定させるとともに、農地から切り離されて純粋な消費者となった武士たちの増大する諸欲求を満たすための商品経済を整備することによって、でした。

 幕藩制の領主権力は、室町時代から戦国時代にかけて形成されてきていた惣村の自治的な行政機構を利用して、支配体制の下に組み込んでいきました。村民から村役人を選んで村内の行政を担当させるとともに、年貢については村を単位にして課し、村役人から石高に応じて村民に割当てさせるという方式をとったのです。農民には、移動や職業の転換は認められず、田畑勝手作りの禁によって、米を作るべき田畑で煙草・木綿・菜種など、商品として販売されうる作物を栽培することが禁止されました。また、年貢負担者である農民が土地を手放して没落していくことを防ぐために、田畑永代売買禁止令が出されました。このように、幕藩制の領主権力は、農民を市場経済から切り離し、自給自足的な生活様式の枠内におしとどめることで、自立的な経営基盤をそれなりに安定させた上で、その剰余労働の大半を吸い上げる体制を構築しました。

 当時、米の生産量は増加しており、市場における価値も安定していましたから、幕府や諸藩は、米の流通を掌握することで財政基盤を安定させようとしたのです。武士たち(大名の家臣団)が、城下町に集住して在地性(土地への支配力)を失い、俸禄を得る存在になっていたために、農民の剰余労働は何よりもまず、現物(米)の形で確実に確保する必要があった、という事情もあります。

 武士の大半が農業経営から切り離され、純粋な消費者として都市生活を営むようになっていたことは、商品経済(市場経済)の発達を大きく促すことになっていきました。また、江戸幕府によって貨幣制度が統一されるとともに、参勤交代が制度化されていましたから、諸大名は領内の米その他の産物を売って幕府の発行する貨幣に換えることで、江戸での消費生活をまかなっていく必要がありました。幕府や諸藩は、年貢米を江戸や大坂の蔵屋敷に運び、御用商人に売りさばかせて貨幣に換えた上で、武士たちの諸欲求を満たすための諸商品を購入しました。この側面から、全国的な商品流通網の発展が促されていくことになります。

 このように、江戸時代においては、自給自足的な農民経済と領主権力主導で上からつくられた市場経済との二重構造がつくられたのでした。

 しかしながら、農民経済は市場経済から完全に断絶されていたわけではなく、次第に両者の相互浸透が進んでいくことになります。17世紀後半以降、農具の改良などで農業生産力の発展が進む一方、都市人口が増加したことで、商品流通量が大きく増大していきました。都市住民の増大する諸欲求を満たすために、田畑勝手作りの禁を侵す形で、野菜・茶などの商品作物の栽培が広がっていき、綿作や養蚕業なども行われるようになっていきました。また、漁業、塩業、醸造業なども各地で発展していきました。こうしたなかで、18世紀に入ると、都市の商人が農民に資金や原料を前貸しして製糸・絹織物・綿織物などを生産させる問屋制家内工業も増えてきました。

 以上のような流れによって、市場経済が農村へと浸透してくると、それまで自給自足に近かった農民の生活は次第に不安定になり、田畑を質入して小作人に没落する農民も増えていきました。こうしたなかで、19世紀には入ると、農業から離れた人々を賃労働者として集め、分業と協業による手工業的生産を行うマニュファクチュア(工場制手工業)もはじまっていきました。

 こうした市場経済の発展のなかで、市場で取引される商品の価値総額に占める米の価値は相対的に低下していきました(これは「米価安の諸色高」と呼ばれました)。このことで、年貢米に依存していた幕府や諸藩の財政は危機を深めていかざるをえませんでした。幕府は、諸々の改革を試みたものの、米を基礎とする仕組みを根本から変えることはできず、年貢を重くするなどの対応に終始しました。しかし、薩長土肥などの西南雄藩は、藩の特産物の専売を強化したり造船などの藩営工場を設立したりして財政の再建に成功し、大きな力をつけていくことになります。
posted by kyoto.dialectic at 06:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月03日

日本経済の歴史を概観する(7/13)

(7)荘園公領制の解体と大名領国制の形成

 前回は、律令体制の動揺のなかから荘園公領制が成立してくるまでの流れを辿ってみました。律令制下の重い税負担が農民の労働意欲を削いでしまったことで、10世紀に入ると、個人を課税単位として労役を課すという仕組みは、次第に機能しなくなっていきます。こうした事態に対応して、土地を課税単位として収穫物の一部を納めさせる仕組みづくりが模索されるようになっていきました。中央政府は、国司に対して一定の納税を請負わせる半面、国司の国内支配には大幅な裁量を認めるようにもなっていきました。こうしたなかで、有力農民は、自らの開墾した土地を中央の貴族や寺社に寄進して荘園とすることで、重い税負担から逃れるようになっていきます。開発を行った有力農民は、荘官となって実質的に土地を支配し、零細農民を隷属させて耕作しました。荘官は、在地の領主として、中央の領主の保護を受けるかわりに、中央の領主に対して一定の年貢を納めるようになりました。一方で、荘園とはならなかった土地、すなわち公領においても、11世紀の後半以降、大きな変化が進行していくことになりました。荘園の増加によって中央政府の税収が減少したために、上級貴族(高級官僚)に棒給を払うのが困難になってきた政府は、彼らに特定の国の国司を自由に任免する権利を付与し、その国の税収を自分の収入としてもよいことにしたのです(知行国制)。この結果、公領もまた知行国主の事実上の私有地となっていきました。このようにして、平安時代の末期以降、公領もまた荘園と同じような重層的な土地支配の構造をもつようになりました。荘園・公領のいずれにおいても、在地領主が零細農民から剰余生産物を取り立てて中央領主に年貢として納めるという関係が成立し、ひとつの土地に複数の人の権利が重なり合う構造――いわゆる荘園公領制が形成されていったのでした。在地領主は、定期市を開設して流通への支配を強め、商人や手工業者の掌握に努めました。年貢を納めた上で残った剰余生産物については、市場に放出することで、自給不可能な物資(塩など)と交換しました。中央貴族は、奢侈品を入手するために、官営工房の流れを汲む手工業者集団を私的に従属させるようになり、これを座へと編成していきました。このように、平安時代の中期以降、中央政府が剰余労働・剰余生産物を集めて必要に応じて分配するという構造が崩れて、有力者がそれぞれ独自に自己の諸需要を満たすための供給基盤をもつようになっていくという形で、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――が解決されることになったのでした。

 さて、今回は、荘園公領制のなかから大名領国制という新たな体制が形成されてくるまでの流れを辿ってみることにしましょう。 

 律令制のなかから荘園公領制という体制が形成されていく上で、決定的な役割を果たしたのは、優れた農業技術をもちながら、積極的に土地開発を行った有力農民層です。彼らは、荘園においては荘官、公領(知行国主の事実上の私有地)においては郡司や郷司・保司に任じられることで、在地領主としての地位を安定させていました。これら在地領主たちは、やがて、自分の土地を守り勢力を拡大するために、武装して争うようになっていきます。こうした地方での騒乱を抑えるために、武芸に長けた中央貴族が派遣されるようになったのですが、彼らと在地領主層が結びついて、武士団が築かれていくことになります。やがて、源頼朝が全国の軍事支配権を手に入れて鎌倉に幕府を開くと、将軍と直接に主従関係を結んだ御家人と呼ばれる武士たちは、守護(各国の軍事や警察の任にあたる)、地頭(土地の管理と治安維持にあたりながら年貢を徴収し、荘園領主に納入する義務を負う)という公的な職を与えられることで、その地位をより安定的なものとしたのでした。

 武家政権の確立によって社会が安定し、鉄製農具や牛馬・肥料の使用が広がると、土地からの収穫物は大きく増えていきました。荘園公領制のもとでは、領主に納めるべき年貢はそれほど大きくは変動しませんでしたから、農民は、収穫量を上げることによって自分の収入を増やすことができました。収穫量の増大によって生活に余裕ができた農民は、麻・桑・茶など新しい作物も栽培するようになり、絹布や麻布を織ることもはじめました。また、鍛冶や鋳物師、紺屋などの手工業者も多くなり、各地を渡り歩いて仕事をするようになりました。このような流れのなかで、農民や手工業者が、荘園領主に納めたり自分の生活で消費したりするのに必要な量よりも多くのモノを恒常的に生産できるようになってくると、そうした余剰生産物の交換が行われるようになっていきます。このような交換は、最初は、荘園や公領の中心地や、大きな道と道が交わるような交通の要所といった、多くの人々が集る場所で、偶発的に行われるものにすぎませんでした。しかし、交換に参加したいと思う人の数が増えるにしたがって、交換の場が空間的・時間的にはっきりと定められて、定期市が生れてきます。この定期市はしだいに恒常的なものとなり、やがて都市へと発展して、商人や手工業者たちが移り住むようになっていきました。市での売買の手段としては、米などの現物に代わってしだいに貨幣(中国から輸入した銭)が多く使われるようになっていきました。また、遠隔地を結ぶ商業取引もさかんになり、各地の港や大河川沿いの交通の要地には、商品の委託販売や輸送を行う問丸が発達しました。遠隔地の取引においては、為替が使われるようにもなっていきました。年貢も現物でなく銭で納めることが広まりました。

 このような変化は、武士(荘官)と貴族(荘園領主)の関係にも大きな影響を与えました。荘園からの収穫量が増えていくなかで、自分たちの収入を少しでも増やしていくことをねらった地頭たちは、風水害などを口実にして、荘園領主にきちんと年貢を納めないことが多くなりました。このような場合、荘園領主たちは、まず幕府へ訴訟を起こしました。幕府も公正な裁判に努めたため、荘園領主側が勝訴することも多かったのですが、それだけでは現地に根をおろした地頭の行動を完全に抑えることはできませんでした。そこで、紛争を解決するために、荘園の土地そのものを折半して相当部分を地頭に完全に与えてしまう下地中分の取り決めが行われることが多くなっていきました。荘園を荘園領主の土地と地頭の土地とに二分して、互いの土地には干渉しないようにしよう、というわけです。鎌倉時代の中期以降、この下地中分が盛んに繰り返されることを通じて、荘園の再編成が進んでいきました。この流れのなかで、室町時代までには、それまで分散していた所領をひとつにまとめて、一元的な土地支配を行う武士が登場してきました。このような武士を国人領主と呼んでいます。鎌倉幕府によって各国に置かれ、軍事や警察の任にあたっていた守護は、これらの国人領主たちと主従関係を結ぶことで土地への支配を強めていき、室町幕府の体制においては、それまで国司がもっていた一般的な行政権限を獲得して、守護大名と呼ばれるようになっていったのです。

 もともと荘園や公領では、諸々の荘官職を得た有力農民たちがそれぞれに管理する名(みょう)がモザイク状に入り乱れて混在していたため、荘官の下で実際に耕作を請け負う農民たちの住居は、耕地の間に点在していました。しかし、鎌倉時代の中期以降、下地中分の繰返しを通じて武士による一元的な土地支配が確立していく過程のなかで、実際に耕作を請け負っていた農民たちは、水路や道路の整備、戦乱や盗賊からの自衛などの課題に協力して対処していくために、地縁的な結びつきを強めていくことになりました。こうして、家々が耕地から分離して集合し、耕地からはっきりと区別される集落が形成されるようになっていったのです。このような集落を基礎として、荘園や公領のなかには、いくつもの村落ができあがってきました。このような村落は、農業生産の向上のなかで力を強めて地主的な存在になりつつあった有力農民を中心に、新しく成長してきていた自立的な小農民など、その地域内に住む惣て(すべて)の人びとを構成員としたために、惣あるいは惣村と呼ばれました。

 応仁の乱(1467年)によって室町幕府の権威が失墜し、守護大名の力が衰えていくなかで、守護大名の地位を実力で奪った戦国大名たちは、地域的な市場圏の成立を前提にして、また惣村の自治を認めて、それをも基礎としつつ、領国を統一的に支配する仕組みを創り出していきます。このようにして、大名たちが自らの領国を統括しつつ、他の大名たちと対峙しあうという構造が日本列島に出来上がっていきました。これを大名領国制と呼んでいます。

 それでは、大名領国制のもとでは、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――は、どのように解決されていたのでしょうか。

 まず、戦国大名たちは、他国との熾烈な戦いに勝ち抜いていくために、生産基盤を強化して国力を確保することに努めました。戦国大名たちは、城下町で新興商工業者に自由な営業を認めて商工業の振興を図り、鉱山開発にも尽力しました。また、大規模な治水灌漑事業などで農業を振興するとともに、剰余生産物を銭によって統一的に掌握すべく、貫高で年貢基準を定めるために検地を反復実施し、農民への支配を強めたのでした。

 このように、鎌倉時代から戦国時代にかけて、社会的諸欲求とそれらを満たす社会的労働とのつながりは、直接的なもの(欲求を満たしてくれる労働力を直接に従属させる)から媒介的なもの(市場における交換を通じて入手する)へと大きく発展していきました。こうした過程を根本から規定したのは、農業技術の改良による農業生産力の発展であり、剰余労働(剰余労働の対象化されたものが剰余生産物)を生産の現場により近いところで掌握できた武士が、政治的にも大きな力をもつようになっていったのです。さらに戦国大名は、単に剰余労働を搾取するだけにとどまらず、国力の強化という観点から、剰余労働を増やすための生産基盤の整備などにも努めるようになっていったたのでした。要するに、大名領国制においては、諸々の生産主体の自由な活動を容認しつつ、剰余生産物の流通過程を掌握するとともに、さらにその生産過程にも踏み込んでその生産力の増大に努めることで、国力の強化を図ったのでした。
posted by kyoto.dialectic at 06:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月02日

日本経済の歴史を概観する(6/13)

(6)荘園公領制の成立

 本稿は、これからの日本経済の進むべき方向を考えていくための前提として、日本経済の構造がどのような歴史的な過程によってつくられてきたのかを問うものであり、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けていくために有限な社会的総労働をどのように配分していけばよいのか、という問題がどのように解決されてきたのか、という観点から、縄文時代から現代までの歴史を概観していこうとするものです。

 前回までの3回にわたっては、日本列島に人々が移り住んできてから、日本列島の大半を支配する統一的な国家が成立してくるまでの流れを辿ってきました。ここで簡単に振り返っておくことにしましょう。

 氷期によってアジア大陸と地続きになっていた日本列島に移り住んできた人々は、狩猟や採集で生活を維持し、20〜30人ほどの血縁的集団で、食物を求めて移動しながらの生活を送っていました。人間の自然への能動的な働きかけはまだごく初歩的なもので、人々の生活は自然環境に大きく左右されていました。氷期が終わって温暖化すると、大型草食動物の絶滅やドングリ、クリ、クルミなどの林の広がりなどの変化に対応して、人々は磨製石器や土器などを使って自然への能動的な働きかけをより深いものにしていく(狩猟や漁労、採集の質をより高いものにしていく)ことで、食料を中心とする生活資料の確保を安定的なものにして、定住生活を可能にしていきました。やがて、気候が再びやや寒冷化して諸々の食料の確保が難しくなってきていたところに、大陸から稲作が伝えられて、日本列島の各地に普及していくことになりました。広大な水田を耕作するには、多くの労働力が必要でしたから、いくつかの集落が連合してムラ(農業共同体)を形成するようになっていきました。農業共同体の首長(ムラの指導者)は、豊作を神に祈る祭りを司るとともに、灌漑工事を指揮したり、土地や水をめぐる他のムラとの争いを指揮したりすることを通じて、権威(宗教的=政治的=経済的な権威)を高め、人々への支配を強めていきました。農業共同体どうしの争いのなかから、日本列島の各地に農業共同体連合(小国家)が形成され、大和地方の小国家=農業共同体連合(大和政権)が各地方の小国家を従属させる形で、統一的な政権(大和政権)が成立します。大和政権は、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――を、部民制(べみんせい)という仕組みを構築することで解決しました。これは、大和政権が、各地方の小国家(クニ)やその連合体を服属させるに際して、その首長である豪族に対して、鉄などの資源や先進的な技術を与えることと引きかえに、その豪族が支配している土地や人々の一部を割いて部(べ)を編成させ、王権が必要とするものを生産して納めさせるようにしたものです。しかし、大和政権の支配は、豪族を長とするそれぞれの農業共同体の内部にまでは及んではいませんでしたし、豪族の支配する農業共同体連合の内部からは、鉄製農具の普及による農業生産力の発展につれて、新たに小豪族となる有力農民層も登場してきていました。唐や新羅といった大陸の強国に対抗するためにも、新興の有力農民層の台頭に対応しつつ、地方豪族への統制力を一段と強化する必要が出てきたのでした。そこで築かれたのが律令制であり、それまで各地の豪族が私有していた土地や人民を全て国家のものにする(「公地公民」)という中央集権的な体制でした。律令制国家は、経済の根本問題を班田制という形で解決しました。個人を課税の単位とし、労働力再生産の場として口分田を割り当てることで、支配層の諸々の欲求を満たすために、また国家の維持・発展にとって必要な事業のために、労働力を徴発していくことのできる仕組みを構築したのでした。支配層の特殊な欲求を満たすために、特定の手工業技術者集団が官営工房として抱え込まれていたことも見逃せません。

 律令制下においては、土地を基準とする租の負担は比較的に軽かったものの、調・庸などの現物を納めさせる人頭税や各種の労役の負担は非常に重かったために、農民の労働意欲は削がれていきました。税負担を逃れるため、口分田を捨てて他の土地に移る者も増えるなどして、個人を課税単位として労役を課すという仕組みは、次第に機能しなくなっていったのです。10世紀に入ると、班田も行われなくなりました。

 今回は、こうした事情によって律令制の公地公民の原則が崩れて、荘園公領制と呼ばれる新たな体制が形成されてくるまでの流れを辿ってみることにしましょう。

 個人を課税単位にして労役を課すという仕組みが機能しなくなるなかで、土地を課税単位として収穫物の一部を納めさせる仕組みづくりが模索されるようになっていきました。これは人頭税から土地税へという徴税方式の大転換にほかなりません。国司は公領(国衙領)を名(みょう)に編成し、名を単位に徴税を行うようになりました。名の耕作を有力農民に請負わせて、現物で年貢を納めさせるようにしたのです。名の請作にあたった者を田堵(たと)と呼びます。このような状況のなかで、中央政府は、国司に対して一定の納税を請負わせる半面、国司の国内支配には大幅な裁量を認めるようになっていきます。

 10世紀に入ると、貴族や寺社の権威を背景にして、中央政府や国司から租税を免除される荘園が増加してきていました。有力農民が、自らの開墾した土地を中央の貴族や寺社に寄進することで、重い税負担から逃れるようになっていったのです。開発を行った有力農民は、荘官となって実質的に土地を支配し、零細農民を隷属させて耕作しました。在地の領主としての荘官は、中央の領主の保護を受けるかわりに、中央の領主に対して一定の年貢を納めるようになりました。寄進を受けた寺社や貴族は、自らの力が政府権力の圧迫をはねつけるほど強くなかった場合、より有力な寺社や貴族へ寄進を重ねることもありました。

 荘園の増加が国の税収を圧迫しているとみた中央政府は、たびたび荘園整理令を出して、成立の由来がはっきりしない荘園を停止するとともに、新規の荘園の設置を取り締まりました。しかし、この荘園整理令は、成立の由来がはっきりしているなど一定の基準を満たした荘園を公認するという側面をもっていたことを見逃すわけにはいきません。これは、荘園の増加という現実に対応して、それを国家的な秩序の体系のなかに組み込んでいくことが模索されるようになってきたことを意味します。例えば、長久の荘園整理令(1040年)は、内裏造営を名目に、公領と荘園の区別なく一国を平均的に課税(このように課税されたものを「一国平均役」といいます)するための前提として行われたものでした。要するに、荘園を公認することで、荘園にも課税できるような新しい仕組みを創り出すことが目指されていたわけです。

 一方で、荘園とはならなかった土地、すなわち公領においても、11世紀の後半以降、大きな変化が進行していくことになりました。内裏造営など特定の事業を行うための一国平均役などの対応はあったにしても、全体としてみれば、荘園の増加によって中央政府の税収が減少していく傾向にあったことは否定できません。このため、上級貴族(高級官僚)に棒給を払うのが困難になってきた政府は、彼らに特定の国の国司を自由に任免する権利を付与し、その国の税収を自分の収入としてもよいことにしたのです。これを知行国制とよんでいます。この結果、公領もまた知行国主の事実上の私有地となっていきました。

 このようにして、平安時代の末期以降、公領もまた荘園と同じような重層的な土地支配の構造をもつようになりました。荘園・公領のいずれにおいても、在地領主が零細農民から剰余生産物を取り立てて中央領主に年貢として納めるという関係が成立し、ひとつの土地に複数の人の権利が重なり合う構造がつくられていったのです。これを荘園公領制と呼んでいます。

 それでは、荘園公領制の下では、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――は、どのように解決されていたのでしょうか。

 まず、中央貴族や寺社の神官・僧侶などの支配層は、各地の荘園あるいは知行国から在地領主によって送られてくる年貢によって、日々の生活を成り立たせていました。それに加えて、諸々の欲求を満たすための奢侈品を入手すべく、官営工房の流れを汲む手工業者集団を私的に従属させるようになり、これを座へと編成していきました。一方で、在地領主は、定期市を開設して流通への支配を強め、商人や手工業者の掌握に努めました。年貢を納めた上で残った剰余生産物については、市場に放出することで、自給不可能な物資(塩など)と交換しました。

 このように、中央政府が農民の労働力を直接的に掌握し、剰余労働・剰余生産物を独占的に集めて必要に応じて各所に分配するという律令体制下の中央集権的な経済の構造は、平安時代の中期以降、農民の労働意欲の減退のために崩れてしまい、経済の根本問題は、諸々の労働主体の発展を取り込んだ有力者たちが、それぞれ独自に自己の諸需要を満たすための供給基盤をもつようになっていく、という形で、解決されることになっていたのでした。
posted by kyoto.dialectic at 06:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月01日

日本経済の歴史を概観する(5/13)

(5)律令制の確立と動揺

 前回は、農業共同体の連合のなかから、日本列島の広範な地域(西日本)を支配する統一的な政権――大和政権――が成立していくまでの過程を簡単に辿ってみました。大和政権は、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――を、部民制(べみんせい)という仕組みを構築することによって解決しようとしていたのでした。これは、大和政権が、各地方の小国家(クニ)やその連合体を服属させるに際して、その首長である豪族に対して、鉄などの資源や先進的な技術を与えることと引きかえに、その豪族が支配している土地や人々の一部を割いて部(べ)を編成させ、王権が必要とするものを生産して納めさせるようにしたものです。部民には、特定の技術者集団を編成した品部(しなべ/ともべ)と、農業共同体の成員をそのまま編成した(屯倉という倉庫を設けて、そこに稲を納めるように義務づけた)田部(たべ)とがありました。この屯倉の設置は、大和政権の支配層が必要とする稲を直接に確保することのみならず、大規模な治水灌漑事業や古墳の築造をはじめとする土木工事のために、部民の労働力を動員していくことを目的としたものでした。このように、日本列島における初の統一政権である大和政権は、各地の豪族(農業共同体連合としての小国家の首長)を媒介にして、諸々の労働力を「部民」として組織しつつ従属させることで、中央の支配層の人々の諸々の欲求を満たしていくと同時に、統一国家としての維持・発展を図っていったのでした。

 しかしながら、大和政権による部民への支配は、あくまでも伴造としての豪族を媒介にしてのものでしかありませんでしたから、それぞれの農業共同体の内部にまで貫徹されていたというわけにはいきません。そもそも、豪族(農業共同体連合の首長)は、自らが支配する土地や人々の一部を割いて部民として大和朝廷に差し出した後も、田荘(たどころ)という私有地、部曲(かきべ)という私有民をもって、なかば独立的な性格を保ち続けていたのです。こうした豪族どうしの争いも絶えませんでした。

 一方で、6世紀に入ると、豪族の支配する農業共同体連合の内部からは、鉄製農具の普及による農業生産力の発展につれて、新たに小豪族となる有力農民層も登場してきていました。これら有力農民は、農業共同体からの自立化の傾向を示して、従来の豪族の支配を脅かしてきていました。

 折しも、朝鮮半島では唐と結んだ新羅が勢力を伸ばしていました。これに対抗して、大和政権の朝鮮半島南部への影響力を確保していくためには、地方豪族への統制力を一段と強化する必要がでてきていたのでした。

 今回は、このような事態に直面した大和政権が、中央集権的な体制を構築することによって、社会の隅々まで、その支配を貫徹していくようになるまでの過程を辿ってみることにしましょう。

 大和政権は、地方における小豪族(新興の有力農民層)の台頭という事態に対応しつつ、唐と結んだ新羅に対抗できるだけの強固な国家体制を構築していくために、唐の律令制(律は刑法、令は行政法)にならって、大王(天皇)を頂点とする中央集権的な統治体制を確立しようとしました。8世紀の初めには、唐の長安にならってつくられた平城京への遷都も行われました。律令制のもとでは、それまで豪族が支配していた土地・人民は、全て国家(天皇を頂点とする中央政権)が支配するものという建前(「公地公民」)になりました。近畿地方の豪族は、中央政権から官職を与えられた貴族となり、全国に60余りある国には、中央貴族が4〜6年の任期で国司として派遣されることになりました。地方豪族は、国司の下に位置づけられる地方官(郡司)となったのでした。郡司は終身官で、その地位は世襲されましたから、実質的には地方豪族としての性格を維持し続けたともいうこともできます。

 それでは、律令制国家は、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――を、どのように解決したのでしょうか。

 その核心となるのは、班田制の実施です。これは、6歳以上の人民に口分田を与えた上で、租・調・庸・徭役といった負担を課したものです。その前提として、中央政権は戸籍(班田の台帳)・計帳(調・庸など人頭税の徴税台帳)を作成して、人身を掌握しました。口分田は、個人に与えられ、労役などの人頭税も個人(成年男子)が負担するという形になっていましたが、実際には、戸主(家父長)が一括して班給を受け、ひとつの経営体として耕作を行うのが普通でした。班給など租税負担の単位となっていたのは郷戸と呼ばれる大家族集団(直系・傍系の親族を中心とした10人〜100人の集団)で、行政組織の末端としての性格ももたされていました。班田制は「公地」としての口分田を与えて耕作させるという建前ですが、実質的には、農業経営体である家父長的な大家族集団に耕地を配分するという形で、農民の私的土地所有の欲求の高まり(新たに小豪族となった有力農民層の台頭)に対応しようという側面ももっていたといえます。

 この班田制の実施によって、律令制国家は、人民に最低限の生活の基盤を与えた上で、労役を中心とする人頭税を賦課する体制を整えることになりました。

 正税と呼ばれる租は、口分田からの収穫のおよそ3%を収めさせたもので、地方行政の財源となりました。調は、絹・綿や鉄・塩など地方の特産物を中央に納めさせるものです。庸は、もともと中央官衙に奉仕する10日間の労役のことでしたが、布などによる代納が行われるようになりました。労役である徭役は、年間60日を基準にして、国司の権限にもとづいて、池堤・官衙などの建設・土木工事などに駆り出される、というものでした

 このほか雑税として、出挙(すいこ)と呼ばれるものがありました。これは、当初は貧民救済のために、春に稲を種籾として貸し付けて、秋に利子をつけて返納させるものでしたが、利殖を図ろうとした国司が、農民に強制的に貸し付けた上で5割もの利子をとるようになっていったために、租税と変わらないものとなっていたのでした。兵役(九州に送られた防人などが有名です)もまた、農民にとって大きな負担となっていました。

 このように、律令体制下の農民にとっては、土地を基準とする租の負担は比較的に軽かったものの、調・庸などの現物を納めさせる人頭税や各種の労役の負担は非常に重かったといえます。

 中央政府の財政(約1万人の官人の給与や官衙の経常費用、労役で都に集められた人々に給付される食料・労賃)は、主として都に運上される調・庸などでまかなわれていました。調および庸の一部は、中央官衙に直属する官営工房――高度な技術をもった手工業生産者集団であり、品部の流れを汲みます――で高級手工業製品に加工され、官庁や官人によって消費されました。平城京には、左京・右京のそれぞれに官設の東西の市があって、市司の管理のもとで、交換が行われていました。

 以上でみてきたように、律令制国家は、個人を課税の単位とし、労働力再生産の場として口分田を割り当てることで、支配層の諸々の欲求を満たすために、また国家の維持・発展にとって必要な事業のために、労働力を徴発していくことのできる仕組みを構築することで、経済の根本問題を解決しようとしたのでした。支配層の特殊な欲求を満たすために、特定の手工業技術者集団が官営工房として抱え込まれていたことも見逃せません。

 しかし、律令制下の重い税負担は、農民の労働意欲を削ぐことになリました。負担を逃れるため、口分田を捨てて他の土地に移る者も増えてきました。そこで政府は、墾田永年私財法を出し、新しく開墾した土地(墾田)の永続的な私有を認めました。その結果、大寺院や中央の有力貴族は、周辺の農民や口分田を捨てて逃げてきた人々を使って盛んに開墾を行い、私有地を広げていきました。これを初期荘園と呼びます。
posted by kyoto.dialectic at 07:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月30日

日本経済の歴史を概観する(4/13)

(4)大和政権の成立と部民制の確立

 前回は、日本列島に人々が移り住んできてから稲作が開始されるまでの流れを簡単に辿ってみました。

 氷期によってアジア大陸と地続きになっていた日本列島に、ナウマンゾウやオオツノジカなど、食料となる大型草食動物を追って、人々が移り住んできました。当時の人々は、狩猟や採集で生活を維持し、20〜30人ほどの血縁的集団で、食物を求めて移動しながらの生活を送っていたのでした。人間の自然への能動的な働きかけはまだごく初歩的なものでしかなく、人々の生活が自然環境に左右される度合は非常に大きなものがありました。

 氷期が終わって温暖化すると、日本列島は大陸から切り離されます。温暖化による大型草食動物の絶滅やドングリ、クリ、クルミなどの林の広がりなどの変化に対応して、人々は磨製石器や土器などを使って自然への能動的な働きかけをより深いものにしていく(狩猟や漁労、採集の質をより高いものにしていく)ことで、食料を中心とする生活資料の確保を安定的なものにして、定住生活を可能にしていったのでした。

 やがて、気候が再びやや寒冷化して諸々の食料の確保が難しくなってきていたところに、大陸から稲作が伝えられて(日本列島に住む人々が大陸から稲作を受け入れて)、日本列島の各地に普及していくことになります。稲作の開始は日本列島における社会の発展にとって大きな画期となりました。稲作の開始によって、人間が自然を計画的に大きくつくりかえていく過程がスタートしたのであり、自然と人間との関係において、いよいよ人間が優位に立ち始めたといえるからです。広大な水田を耕作するには、多くの労働力が必要でしたから、いくつかの集落が連合してムラ(農業共同体)を形成するようになっていきました。ムラには、稲の穂を貯蔵しておくための高床の倉庫がつくられ、豊作を神に祈る祭りが重んじられました。農業共同体の首長(ムラの指導者)は、こうした祭りを司るとともに、灌漑工事を指揮したり、土地や水をめぐる他のムラとの争いを指揮したりすることを通じて、権威(宗教的=政治的=経済的な権威)を高め、人々への支配を強めていったのでした。このように、農耕が開始されたことにより、諸集落の複合体たる農業共同体が形成され、多数の人々が1人の指導者の下で協働するようになり、他の共同体と対峙しながら、生活資料および生産手段の計画的な生産・分配が行われていくようになったのでした。

 さて、今回は、農業共同体の連合のなかから、日本列島の広範な地域(西日本)を支配する統一的な政権――大和政権――が成立していくまでの過程を簡単に辿ってみることにしましょう。

 前回も確認した通り、農耕社会としての安定性が強まって人口が増加してくると、農業共同体は、山間の河川流域や海岸の平野などにも、新たな耕地と集落をつくりだしていくことになります。灌漑技術の発展が、こうした耕地の拡大を可能にしました。こうした流れのなかで、農業に適した土地や水、農具をつくるのに必要な鉄の入手をめぐるムラどうしの争いが繰り返されていくことにより、強いムラが周辺のムラを従えるという構造がつくられ、各地に小さなクニ(農業共同体連合)が形成されていくことになります。こうした小国家の形成の過程で決定的に重要な要素となったのが、鉄の確保という問題でした。鉄は、耕地造成のための鉄器や木製農具の製作のために欠かせませんでしたし、他共同体との戦いのための武器のための素材ともなります。このため、農業共同体連合の首長(クニの王)は、他共同体との争いに勝ち抜きつつ、農業生産を維持・発展させていくために、鉄の産地・輸送路を確保し、鉄器を生産する技術者集団を統制することに努めたのでした(前回も触れた通り、弥生時代中期以降、鉄の国内生産が行われるようになっても、その加工を担ったのは、朝鮮・中国から渡来した技術者集団でした)。

 こうした流れのなかで、4世紀初頭、鉄の入手に有利だった瀬戸内海地方をおさえたのが、大和(現在の奈良県)地方の農業共同体連合である大和政権(大和王権)でした。大和政権の首長が大王(おおきみ)であり、後の天皇につながります。大和政権は、玄海砂丘の砂鉄をおさえる北九州の勢力、中国山地の砂鉄をおさえる出雲・吉備の勢力などと対抗しつつ、それらを圧倒していき、朝鮮・中国との交流に力を注ぎました。大和政権は、4世紀の中頃には、日本列島の西半分をほぼ支配下におさめ、さらには鉄資源の供給源であった朝鮮半島南部への進出をも図りました。また、西日本よりもかなり遅れて稲作をスタートさせた東日本の首長層は、急増していく鉄の需要に促されて、大和政権との結びつきを強めていかざるをえませんでした。このような過程を経て、大和における首長連合政権としての大和政権が、日本列島の各地の首長(豪族)を従えることで成立したものを大和国家といいます。

 それでは、日本列島の多くの部分を支配するに至った大和政権は、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――を、どのように解決したのでしょうか。

 それは、端的にいえば、部民制(べみんせい)という仕組みを構築することによって、でした。大和政権は、各地方の小国家(クニ)やその連合体を服属させるに際して、その首長である豪族に対して、鉄などの資源や先進的な技術を与えることと引きかえに、その豪族が支配している土地や人々の一部を割いて部(べ)を編成させ、王権が必要とするものを生産して納めさせるようにしました。これが部民制です。この部民制は、大和政権に結集した大和地方の農業共同体の首長たちが、武力や生産の担い手である民衆の集団を部(べ)として組織し、自らは伴造(とものみやつこ)としてこれを統率したのが原型となっています。

 部民には大きくわけて、特定の技術者集団を編成した品部(しなべ/ともべ)と、農業共同体の成員をそのまま編成した田部(たべ)とがありました。

 技術者集団の編成形態としての部には、刀剣などを鍛造した鍛治部(かぬちべ)、織物を織った漢織部(あやはとりべ)・呉織部(くれはとりべ)、埴輪や土師器(土器)をつくった土師部、須恵器(陶質の土器)をつくった陶部(すえつくりべ)などがありました。彼らは日常的には農業共同体に属しつつ、同時に一定の手工業生産に従い、その生産物を貢上する形をとりました。朝鮮・中国の技術者集団を畿内各地に定住させて部民とすることも少なくありませんでした。このような特定技術者集団としての部民は、大和政権の支配層が必要とする諸々の手工業製品を貢上させるための社会的分業のあり方にほかなりませんでした。大和政権は、諸々の先進的技術をもった労働力を独占的に掌握し、支配層の諸々の欲求を満たし続けるために、品部という形態で配置したわけです。

 一方、農民(諸農業共同体の成員)の部民化は、各地に屯倉(みやけ)と呼ばれる大和政権の倉庫を設け、その地域の農民(農業共同体)に稲を納めるよう義務づけるという形で進められました。屯倉は河内・和泉の各地を中心に設置され、その倉庫に納めるべき稲の生産を義務づけられた農民が田部とされました。農業共同体ぐるみで田部とされるのが基本的な形態でした。

 屯倉の設置は、大和政権の支配層が必要とする稲を直接に確保することのみならず、統一的な国家としての維持・発展のために必須の諸事業、すなわち、大規模な治水灌漑事業や古墳の築造をはじめとする土木工事のために、部民の労働力を動員していくことをも目的としていました。

 このように、日本列島における初の統一政権である大和政権は、各地の豪族(農業共同体連合としての小国家の首長)を媒介に、諸々の労働力を「部民」として組織した上で従属させることで、中央の支配層の人々の諸々の欲求を満たしていくと同時に、統一国家としての維持・発展を図っていったのです。
posted by kyoto.dialectic at 06:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月29日

日本経済の歴史を概観する(3/13)

(3)農耕の開始と農業共同体の成立

 本稿は、これからの日本経済の進むべき方向を考えていくための前提として、日本経済の構造がどのような歴史的な過程によってつくられてきたのかを問うものであり、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けていくために有限な社会的総労働をどのように配分していけばよいのか、という問題がどのように解決されてきたのか、という観点から、縄文時代から現代までの歴史を概観していこうとするものです。

 さて、今回は、この日本列島における人々が移り住んできてから、農業を始めるに至るまでの流れを簡単に辿ってみることにしましょう。

 現生人類(ホモ・サピエンス)は、十数万年前にアフリカに登場し、世界中に広がっていったとされています。こうした流れのなかで、氷期による海面の後退でアジア大陸と地続きになっていた日本列島にも、人々が移り住んでくることになります。当時の人々は、20〜30人ほどの血縁的集団をつくり、食物を求めて移動しながらの生活を送っていたのであり、ナウマンゾウやオオツノジカ、あるいはマンモスやヘラジカなど、食料となる大型草食動物を追って、アジア大陸から日本列島へ移り住んできたといわれています。当時の人々は、打製石器(石を打ち砕いてつくった石器)を主要な道具として使い、男性は主として狩猟や漁労に携わり、女性は主として植物性の食物の採集に携わるという分業を成立させていました。前回確認した通り、人間は自然に能動的に働きかけて生活資料をつくりだす存在ですが、この段階においてはそれはごく初歩的なものでしかなく、自然環境によって人々の生活は大きく左右されていたのです。

 約1万2000年前、最終氷期が終わって温暖化により海面が上昇すると、日本列島はアジア大陸から切り離され、日本列島に暮らす人々は、独自の道を歩んでいくことになります。気候の温暖化によって、それまで人々の重要な食料であった大型草食動物が絶滅してしまったことは、人々の生存の維持にとって大きな困難をもたらすものでした。一方で、温暖化によって、ドングリやクリ、クルミなど、食糧になりうる実をつける樹木の林が大きく広がることにもなりました。魚介類も豊富になりました。人々は新たな食料を求めて、シカ、イノシシ、ウサギなど動きの速い中小動物を捕らえるための弓矢、魚類を捕らえるための網や槍、木の実や根茎を食物とするための石臼や杵をつくるようになっていきました。さらに、それまでの打製石器に代わってより加工度の高い磨製石器(石を磨き上げてつくった石器)が主要な道具として使われるようになり、食物の保存や煮炊きのために土器が使われるようにもなりました(この土器には縄目の文様がつけられていることから縄文式土器と呼ばれており、縄文時代という名もこの土器に由来します)。人々は、このような試行錯誤を通じて、自然への能動的な働きかけをより深いものにしていくことで、狩猟や漁労、採集の質をより高いものにしていきました。その結果、食料を中心とする生活資料の確保がより確実に行われるようになり、人々の生活は以前よりも安定したものになっていったのでした。とはいえ、人々の生活が自然環境によって左右される度合はまだまだ大きく、自然の異変によって食料が減少してしまうことで、生存を脅かされることも少なくなかったものと思われます。

 人々は、狩猟や漁労、採集に都合のよい森林や海・川からあまり遠くない小高い丘の上に定住するようになりました。住居としては、当初は自然の洞窟が利用されていましたが、次第に竪穴住居が一般的になっていきました。縄文後期の集落は、4〜5人を収容する竪穴数戸から十数戸、人数にしてせいぜい40〜50人程度のものでした。

 紀元前4世紀頃になると、大陸から九州の北部に稲作が伝えられてきます。重要なのは、単に水稲のみが伝えられたのではなく、木製農具・鉄器・貯蔵用の壺など、食糧の計画的な生産と貯蔵を可能とする一連の用具と知識とが伝えられたということです。食料の計画的な生産と貯蔵によって、人々の生活は一変し、格段に安定的なものになっていきました。この時代には、ロクロの使用や高温による焼成など土器の製作技術が大きく進歩し、弥生式土器と呼ばれている石褐色で文様の控えめな土器が大量に生産されるようになりました(この土器の名によって、この時代は弥生時代と呼ばれます)。土器は、米を煮炊きしたり、食物を盛ったり、貯蔵したりするために利用されました。

 この稲作の開始は、日本列島における社会の発展にとって、大きな結節点になったといえます。それまでは、人間から自然への能動的な働きかけといっても、それは自然環境を大きくつくりかえるようなものではなく、自然によって与えられたものを消費する動物的なあり方とそれほど大きな差はなかったともいえるものでした。しかし、農耕の開始によって、人間が自然を計画的に大きくつくりかえていく過程がスタートしたのであり、自然と人間との関係において、いよいよ人間が優位に立ち始めたといえるのです。その背景として、縄文時代の末期には気候が寒冷化したために食料の確保が難しくなっており、自然への能動的な働きかけを画期的に深めていかなければ生活の水準を維持できなくなっていた、という事情があったことも見逃すわけにはいきません。ちなみに、稲作(弥生文化)の東日本への普及は遅れましたが、それは東日本の方が自然環境が豊かで、狩猟や漁労の対象となる獲物(冷水を好むサケやマスなど)が豊富に存在したからだと思われます。

 さて、稲作の開始は、集落のあり方にも大きな変化をもたらしました。稲作には水を欠かすことができませんが、当時、灌漑技術は未熟でしたから、人々はそれまで住んでいた小高い丘から、湿潤な平野部に住居を移していくことになったのでした。また、広大な水田を耕作するには、多くの労働力が必要です。そのため、いくつかの集落が連合してムラ(農業共同体)を形成するようにもなっていったのです。ムラには、稲の穂を貯蔵しておくための高床の倉庫がつくられ、豊作を神に祈る祭りが重んじられるようになっていきました。農業共同体の首長(ムラの指導者)は、こうした祭りを司るとともに、灌漑工事を指揮したり、土地や水をめぐる他のムラとの争いを指揮したりすることを通じて、権威(宗教的=政治的=経済的な権威)を高め、人々への支配を強めていきました。

 生産手段としては、まず木製農具、さらに木製農具を製作するための、また土地を造成するための鉄器が重要でした。通常の農作業に必要な木製農具はそれぞれの集落が保有していましたが、耕地の造成や木器の製作に欠かせない鉄器は、農業共同体の首長が独占していました。鉄器は当初、全て朝鮮半島からのもので、国内では生産されていませんでしたが、やがて朝鮮半島から運ばれてきた鉄素材が国内で加工されるようになり、その量は飛躍的に増大していきました。とはいえ、国内で鉄素材の加工に携わった技術者は、朝鮮・中国からの渡来人であったと考えられています。こうした技術者を確保し統制することができたのは、中国や朝鮮と交渉をもつことのできた有力な農業共同体連合の首長=王層です。技術者たちはこうした首長層の強力な統制下におかれ、共同体の抱え職人として存在していたのでした。このほか、地理的条件に規定された社会的分業として、製塩がありました。塩の交換もまた首長層の手を通じて行われていました。

 弥生時代の中期以降、農耕社会としての安定性が強まって人口が増加してくると、農業共同体は、山間の河川流域や海岸の平野などにも、新たな耕地と集落をつくりだしていくことになります。灌漑技術の発展が、こうした耕地の拡大を可能にしました。こうした過程のなかで、自然的条件、鉄製利器の入手条件、人口の大小などに規定されて、農業共同体間の優劣が生じ、共同体間の連合と闘争が反復的にひきおこされ、やがては邪馬台国に見られるような政治的な統合が進められていくことになったのでした。

 このように、農耕が開始されたことで、諸集落の複合体たる農業共同体が形成され、多数の人々が1人の指導者の下で協働するようになり、他の共同体と対峙しながら、生活資料および生産手段の計画的な生産・分配が行われていくようになったのです。
posted by kyoto.dialectic at 06:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月28日

日本経済の歴史を概観する(2/13)

(2)日本経済の未来を展望するために日本経済の歴史を問う

 前回は、日本経済の現状について、簡単に検討してみました。端的には、いわゆる「アベノミクス景気」が戦後3番目の長さになったとされるものの、それが非常に緩やかで「低温」なものでしかなく、日本経済が長期にわたる低迷から脱しきれたとはとてもいえないような状況だ、ということでした。それどころか、金融市場がバブル的な活況を呈する一方で、実体経済は疲弊して貧困と格差が広がり、財政危機も深刻化するばかりであることを考えるならば、「アベノミクス」は日本経済を再生するどころか、日本経済の危機をますます深化させているといわなければならないのだ、ということでした。

 しかし、それでもなお、日本がいまだに世界有数の経済大国であることに変わりはありません。少し時代をさかのぼってみれば――「失われた30年」といわれますが、その30年ほどさかのぼってみれば――1980年代の日本経済は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれるほどの繁栄を謳歌していたのでした。もう少し時代をさかのぼってみれば、第二次世界大戦の荒廃から急速に立ち直った高度経済成長は奇跡ともいわれましたし、さらに時代をさかのぼってみるならば、明治維新以降、1930年代頃までの経済発展にもめざましいものがありました。19世紀の半ばまで、アジアの東の端の小さな島国でしかなかった日本が、世界有数の経済大国への道を歩むことができたのは一体なぜなのでしょうか。

 一方で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称された1980年代の頃においてすら、日本はヨーロッパ諸国などに比べると国民の生活に余裕がない「生活小国」である、との指摘がなされることがしばしばありました。貧困と格差の拡大が叫ばれる現在、こうした指摘のもつ重さは増しているといわなければなりません。日本が、経済大国としての繁栄を謳歌してきた一方で、「生活小国」と指摘されるような側面もまた存在させ続けてきたのは一体なぜなのでしょうか。このことは、日本が「失われた30年」といわれるほどの長期低迷に陥ってしまったことと何らかの関係があるのでしょうか。

 これからの日本経済の進むべき方向を考えていく上では、これらの問いに答えを見つけることが欠かせません。そのためには、日本経済の構造がどのような歴史的な過程によってつくられてきたのかが問われなければならないのです。

 本稿では、このような問題意識の上に立って、日本経済の歴史を概観していくことにします。しかし、経済の歴史をみていくためには、あらかじめ、簡単にでも「経済とは何か」を明らかにしておかなければなりません。本稿では仮に、「経済とは、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けるべく、有限な社会的総労働を適切に配分していくことであり、そのことと直接に国家の維持・発展を図っていくことである」と定義しておくことにします。

 若干の解説を加えておきましょう。

 人間もその他の生物と同じように、生きていくために必要なものを外部の自然環境からとり入れています。しかし、他の生物が自然から与えられたものを消費するだけで、自然に受動的に生きているのにたいして、人間は能動的に自然に働きかけて、生活資料を生産しています。人間の実践によって自然がつくりかえられ(自然の人間化)、そのつくりかえられた自然によって人間もまたつくりかえられていく(人間の自然化)という過程があります。

 人間が自然に対して能動的に働きかけることができるのは、いうまでもなく、その発達した頭脳のおかげです。人間の頭脳は、他の動物の脳とは異なって、外界の単純な反映に加えて、想像・予想という形で外界の直接的な反映からは相対的に独立した像、すなわち認識を描くことができます。動物が本能にもとづいて行動するのに対して、人間は認識にもとづいて行動します。動物の本能は、その動物が関わる限りでの外界のみを対象とするものであり、有限なものです。これに対して、人間の認識は、感覚器官で直接に捉えることのできないもの――事物の内部の構造とか、過去や未来の様子など――についても対象とすることができます。対象とする世界が無限の広がり、多様性をもつだけに、人間の認識は無限の発展性をもちます。

 このような認識によって行動する人間は、対象をこのように変化させよう(変化させたい)という目的像を描き、この像にしたがって外界に働きかけて意図的に変化させる(自然を人間化する)、すなわち労働することができるわけです。人間が労働するのは、何らかの欲求を満たすためにほかなりません。欲求を満たすために労働という形でわざわざエネルギーを支出するのは、その労働の結果として、その労働をしなかった場合には満たされなかった欲求が満たされること、いいかえれば、労働によるエネルギーの支出を補ってあまりある大きな効用が得られることを期待するからにほかなりません。例えば、木や石を加工して弓矢を製作するのは、素手では捕まえることのできなかった動きの速い小動物を捕まえられるようになることを期待するからであり、目の前の麦粒を直接食べずに地面に蒔くのは、目の前にある小麦の何倍もの小麦が収穫として得られることを期待するからなのです。

 ここで決定的に重要なのは、こうした労働は、あくまでも集団によって行われる協働である、ということです。あらゆる生命体は、集団を形成することによって、地球環境との関係で生存を維持していますが、人間もまた例外ではありません。ただし、人間以外の生物の集団が本能によって統括されているのに対して、人間の集団(社会)は規範と呼ばれる社会的な認識によって統括されることになります。ここでいう規範とは、集団的な生活における諸々の必要性から形成されてきた、行動についてのルールのことです。こうした規範が成立しているからこそ、共通の目的をもって自然に働きかけるという協働が可能になっているわけです。こうした協働を行う人間の集団がすなわち社会なのですが、ひとつの社会は、他の社会と対峙することで、国家という枠組みをもつことになります。人間の社会的な生活は、国家という枠組みにおいて維持され、発展していくものなのです。

 さて、人間の欲求は、当初は基礎的な生命の維持にかかわるレベルがほとんどであり、ごく基本的な衣・食・住の生活資料を確保すればよく、そのための労働の過程も単純なものでした。しかし、基礎的な生命の維持が安定的に満たされるようになるに応じて、欲求は次第に多様化していきます。無限の発展性をもった認識によって行動する人間は、他の生物のように単に生存を維持するだけでなく、物質的・精神的により豊かな(質の高い)文化的な生活へとレベルを上げていこうとするのです。欲求が多様化すれば、それに応じてそれらを満たすための労働も多様化し、様々なレベルでの分業が発展していくことになります。

 しかし、社会における欲求が無限といってよいほどの発展性をもつのに対して、それらを満たすための手段である社会的な総労働――これには、対象化された労働(労働の結果として形になったもの)としての消費対象や生産手段も含まれます――は有限です。ここに、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けていくためには、有限な社会的総労働をどのように配分していけばよいのか、という問題が生じてくることになります。この社会的欲求の土台として、生存の維持(基礎的な生命の維持)がなければならないのはいうまでもないでしょう。こうした社会的総労働の配分を、国家という枠組みにおいてどのように行っていくか、より詳しくいえば、基本的な生命の維持を可能としつつ、文化的な発展による欲求の多様化を最大限に満たし続けるためには、社会の総労働をどのように配分していけばよいのか――これが経済の歴史における基本的な問題なのです。

 本稿では、こうした問題がどのように解決されてきたのか、という観点から、日本列島における人々の生活が始まってから現代に至るまでの歴史を概観していくことにしましょう。
posted by kyoto.dialectic at 06:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月27日

日本経済の歴史を概観する(1/13)

(1)「アベノミクス」で危機を深める日本経済

 2012年末に発足した安倍政権は、「デフレからの脱却」と「富の拡大」を掲げて、「アベノミクス」と呼ばれる経済政策を進めてきました。この「アベノミクス」は、「大胆な金融緩和」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」という「3本の矢」からなるとされました(*)。このような経済政策の効果があってのことか、2012年の12月に始まった景気の拡大――いわゆる「アベノミクス景気」――は、2017年3月までで52ヶ月となり、1986年12月〜1991年2月の51ヶ月間だったバブル経済期を抜いて戦後3番目の長さになった、といわれています。この景気拡大が今年9月まで続けば、高度経済成長期の1965年11月〜1970年7月の57ヶ月間に及んだ「いざなぎ景気」も抜くことになる、といわれています(ちなみに、戦後最長の景気拡大は小泉政権時代の2002年2月〜2008年2月の73ヶ月間)。このことだけとってみれば、「アベノミクス」は成功しているといってもよさそうです。

 しかしながら、この「アベノミクス景気」なるものに対しては、景気回復の実感が乏しい、という指摘がしばしばなされていることを見逃すわけにはいきません。例えば、「アベノミクス景気」が戦後3番目の長さになったことを報じた「日本経済新聞」の記事では次のように書かれています。

「2012年12月に始まった「アベノミクス景気」が、1990年前後のバブル経済期を抜いて戦後3番目の長さになった。世界経済の金融危機からの回復に歩調を合わせ、円安による企業の収益増や公共事業が景気を支えている。ただ、過去の回復局面と比べると内外需の伸びは弱い。雇用環境は良くても賃金の伸びは限られ、「低温」の回復は実感が乏しい。……
 これまでの回復は緩やかで「低温」だ。戦後最長の回復期だった00年代の輸出は8割伸びたが、今回は2割増。設備投資も1割増と00年代の伸びの半分だ。賃金の伸びは乏しく、個人消費は横ばい圏を脱しきれない。
 「アベノミクス景気」を象徴するのが公共投資だ。東日本大震災からの復興予算や相次ぐ経済対策で、回復の期間中に1割ほど増えた。小泉政権の予算削減で3割減った00年代とは対照的だ。
 「低温」の背景には、中期的な経済成長の実力である潜在成長率の低下も背景にある。内閣府の推計で16年は0.8%。人口減少で労働力が増えず、企業が国内の設備投資に慎重なためで、景気回復の足腰が弱い。」(「日本経済新聞」4月6日付 朝刊)


 内需(個人消費・設備投資)、外需(輸出)の伸びが弱いために、景気回復は「低温」で実感が乏しい、という指摘です。とくに、「賃金の伸びは乏しく、個人消費は横ばい圏を脱しきれない」という指摘は重大です。個人消費の動向が人々の生活実感と直結するものであることはいうまでもありません。賃金が上がらないために生活を切り詰めなければならない、という状況で、景気の回復を実感しろといわれても、それは無理な相談というものでしょう。GDPの約6割を占める個人消費が低迷しているからこそ、景気回復の足腰は弱く、実感が伴わない、ということになっているわけです。

 2016年7月(景気の拡大はすでに40ヶ月を超えていました)の参議院選挙においては、こうした「アベノミクス」による景気回復の実感の乏しさが大きな争点のひとつとなりました。この参議院選挙に関連して行われた各種の世論調査では、景気の回復を実感していないとの回答が全体の7割から8割に上っていました。こうした状況に対して、安倍首相は、税収の増加(2016年度の税収は2012年度に比べて21兆円増えた)や就業者数の増加(2012年から2015年までに約110万人増えた)など、いくつかの指標でもって「アベノミクス」の成果を強調しつつ、「アベノミクス」はまだまだ「道半ば」なのだと説明したのでした。

 こうした安倍首相の主張に対しては、選挙戦のなかで、民進党や日本共産党など野党の側から厳しい批判が行われました。例えば、21兆円の税収増については、2008年のリーマン・ショックや2011年の東日本大震災による景気後退で税収が激減していた状態から見れば回復してきている、という程度のものでしかなく、しかも2014年に実施された消費税増税による9兆円分が含まれていることが指摘されました。また、就業者数の増加についても、非正規雇用が167万人増える一方、正規雇用が36万人も減少するなど、雇用の質が確実に劣化してきていることが指摘されたのでした。

 これは、安倍首相のいうとおり、「道半ば」ということなのでしょうか。そもそも「道半ば」というのはどういうことなのでしょうか。安倍首相が進もうとしている「道」はどういう道なのでしょうか。首相官邸ホームページの「アベノミクス「3本の矢」」というページには、次のように書かれています。


「企業の業績改善は、雇用の拡大や所得の上昇につながり、さらなる消費の増加をもたらすことが期待されます。こうした「経済の好循環」を実現し、景気回復の実感を全国津々浦々に届けます。」


 要するに、企業の業績改善が第一であり、それが起点になって雇用の拡大や所得の上昇につながっていく……という波及経路=「道」が想定されているわけです。富裕層や大企業が豊かになれば、貧しい層にも富が滴り落ちてくるはずだという、いわゆる「トリクルダウン」の考え方です。「道半ば」ということは、企業の業績は改善したけれども、それが雇用の拡大や所得の上昇にはつながっていない、ということを認めるものにほかなりません。

 「アベノミクス」による円安や株高で、輸出大企業や富裕層は確かに大いに潤ったかもしれないが、その甘い汁が庶民に滴り落ちてくることはなかった――このような批判が生じてくるのも当然のことでしょう。安倍首相が、特定秘密保護法(2013年)や安保法制(2015年)など、国民的に大きく賛否が割れた問題に一応の決着がつくたびに、経済優先の姿勢を強調して局面転換を図ってきたことを想起するならば、「アベノミクス」なるものの実態は、異次元の金融緩和で円安と株高を演出し、景気回復への国民の期待感を煽って、政権への支持を確保しようという政治的思惑の強いものだったのではないか、とも思われてきます。株価の下支えを狙って年金積立金を株式市場に流し込んだ結果、巨額の損失を出してしまったというニュースもありましたが、そもそも「アベノミクス」なるものが、国民生活の改善とか国民経済の健全な再生産とかをまともに考えた政策であったのかどうかも、疑わしくもなってきます。

 アメリカの経済誌『フォーブス』の集計によれば、「日本の超富裕層」上位40人の資産総額は2012年の7.2兆円から2016年の15.4兆円へと2倍以上に増えました。一方で、日銀の調査によれば、貯蓄が全くないという世帯が3割にも達しています。日銀の異次元緩和(国債買取)のもとで、国債の発行額は増え続けています。「アベノミクス景気」が戦後3番目の景気拡大になったといっても、金融市場がバブル的な活況を呈する一方で、実体経済は疲弊して貧困と格差が広がり、財政危機も深刻化するばかりであることは否定できません。そもそも、「アベノミクス」による景気拡大といっても、それが非常に緩やかで「低温」なものでしかなく、日本経済が長期にわたる低迷から脱しきれたとはとてもいえないような状況があります。日本経済は「失われた20年」どころか「失われた30年」に向かいつつある、との指摘も散見されるのです。「アベノミクス」は日本経済を再生するどころか、日本経済の危機をますます深化させているといわなければなりません。

(*)金融緩和、財政出動はいわゆるケインズ的政策であるのに対して、成長戦略は新自由主義的政策である。この「アベノミクス」なるものは、思想的系譜の全く異なる諸政策をごった煮にしたものであり、明確な方向性を欠いているというほかない。従来の経済政策が完全に行き詰まっているものの、為政者としては、ともかく日本経済の長期的低迷からの脱却への期待を煽って国民の支持を獲得するしかない、という状況のなかでの足掻きのようなものであるといえよう。これは大きくいえば、第二次世界大戦後、いわゆる「パクス・アメリカーナ」の下で資本主義経済が安定的に成長してきた状況が崩れていくなかで、経済政策・社会政策のみならず外交政策・安全保障政策をも含めて、各国が多かれ少なかれ混迷の度合いを含めていることと同じ流れにあるものだといえるだろう。
posted by kyoto.dialectic at 06:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月26日

掲載予告:日本経済の歴史を概観する

 本ブログでは、明日より「日本経済の歴史を概観する」と題した論稿を掲載していきます。

 現在、日本経済の再生を掲げた「アベノミクス」が進められるもとで、景気回復が進んでいるといわれる一方、その景気回復は極めて緩やかなもので実感に乏しいではないか、労働者の賃金はほとんど伸びておらず、個人消費も増えていないではないか、という指摘もなされています。総じていえば、「アベノミクス」が日本経済の長期低迷状態を打ち破ったとはとてもいえない状況であり、日本経済は「失われた20年」から「失われた30年」に突入しつつあるのではないか、とも思われます。

 しかし、それでもなお、日本がいまだに世界有数の経済大国であることに変わりはありません。少し時代をさかのぼってみれば、1980年代の日本経済は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれるほどの繁栄を謳歌していたのでした。もう少し時代をさかのぼってみれば、第二次世界大戦の荒廃から急速に立ち直った高度経済成長は奇跡ともいわれましたし、さらに時代をさかのぼってみるならば、明治維新以降、1930年代頃までの経済発展にもめざましいものがありました。19世紀の半ばまで、アジアの東の端の小さな島国でしかなかった日本が、世界有数の経済大国への道を歩むことができたのは一体なぜなのでしょうか。

 一方で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称された1980年代の頃においてすら、日本はヨーロッパ諸国などに比べると国民の生活に余裕がない「生活小国」である、との指摘がなされることがしばしばありました。貧困と格差の拡大が叫ばれる現在、こうした指摘のもつ重さは増しているといわなければなりません。日本が、経済大国としての繁栄を謳歌してきた一方で、「生活小国」と指摘されるような側面もまた存在させ続けてきたのは一体なぜなのでしょうか。このことは、日本が「失われた30年」といわれるほどの長期低迷に陥ってしまったことと何らかの関係があるのでしょうか。

 これからの日本経済の進むべき方向を考えていく上では、これらの問いに答えを見つけることが欠かせないといえるでしょう。そのためには、日本経済の構造がどのような歴史的な過程によってつくられてきたのかが問われなければなりません。

 本稿では、このような問題意識を踏まえつつ、日本列島における人々の生活が始まってから現代に至るまでの経済の歴史を概観していくことにします。

 以下、目次(予定)です。

序論
(1)「アベノミクス」で危機を深める日本経済
(2)日本経済の未来を展望するために日本経済の歴史を問う
1、稲作のはじまりから律令制の成立まで
(3)農耕の開始と農業共同体の成立
(4)大和王権の成立と部民制の確立
(5)律令制の確立と動揺
2、荘園公領制から大名領国制、幕藩制へ
(6)荘園公領制の成立
(7)荘園公領制の解体と大名領国制の形成
(8)幕藩制の成立と発展
3、日本資本主義の成立と発展
(9)日本資本主義の成立過程
(10)戦時統制経済から戦後改革へ
(11)高度経済成長とその終焉
結論
(12)これまでの日本経済の歴史を振り返ると
(13)国民経済という視点で変革の構想を
posted by kyoto.dialectic at 06:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月25日

教育の政治的中立性を問う(5/5)

(5)弁証法的なアタマづくりこそが求められている

 本稿は、政治的な問題が多数生まれている現代において、こうした政治的な問題を学校現場でどのように扱えばよいのかについて、そもそも教育の政治的中立性とは何かということを踏まえながら検討していこうとするものです。

 ここでこれまでの流れを振り返っておきましょう。

 まず、そもそも教育の政治的中立性とはどういうことかを検討しました。そもそも教育とは社会の維持・発展のための社会的個人としての人間を育てることであり、その社会の一員としてしっかり生きていける人間を育てることでした。この社会という概念に含まれる最も大きなものは国家であり、それぞれの国家はそこに所属する人間に対して、その国家で生きていけるように教育します。それぞれの国家がそれぞれの国家で生きていけるように教育をするのですから、必ずその国家特有の価値観が教えられることになるのであり、純粋な中立性というものは存在しないのでした。一方、政治的中立性とは政治的な問題に関して中立であるということであり、これが成り立つためには、政治的な問題に対して、Aという見解が存在する一方で、そのアンチテーゼとしてBという見解が存在しており、両者がしっかりと並び立っていることが必要だということでした。これが可能な社会というのは民主主義社会であり、民主主義社会で生きていく人間としては、一方の見解を鵜呑みにするのではなく、両方の見解を視野に入れた上で、自らの立場を決定することが求められるのであり、だからこそ教育の政治的中立性ということが問われるのだということでした。

 続いて、本格的な政治教育、つまり、政治的な問題に関して両方の見解を視野に入れた上で、自分の立場を決定できるようにする教育はいつ頃から始めるのがよいのかという問題について検討しました。結論的には中学生の時期から始めるのが妥当であり、それは思春期が関わっているということでした。そもそも思春期とは、認識と実体とが相互浸透的な過激的変化をとげながら、大人へ向けて急速に成長していく時期でした。この時期になると、論理能力が向上し、自分自身が正しいとする価値観に基づいて考えられるようになってくるということでした。そもそも国家レベルの政治的な問題を扱う場合、日常生活レベルの体験・経験を超えて考える力が必要になりますし、どちらが正しいかについて本当の意味で自分の立場で決定するためには、教師の見解にとらわれない必要があります。そのような条件を満たすのが思春期を迎えた中学生からなのだということでした。

 最後に、どのような形で教育していけばよいのかを検討しました。まず前提となるのは、「一般的に2つの対立する立場が存在する」ということを体験としてわからせることであり、子ども同士のトラブルや、学級会の話し合いで自分とは異なる見解とその背後にある考え方を理解させることが必要になるということでした。とりわけ学級会は、子どもにとっての社会である学級の維持・発展に関わる問題を議論する場であり、国家レベルの政治的な問題を扱うための土台となるものだということを指摘しました。その上で、国家レベルの政治的な問題を扱う場合でも、賛成・反対両方の立場の見解を理解できるようにすること、とりわけ自分の考えとは違う立場に立って議論をするディベートの形態が有効だということを主張しました。

 以上を簡単にまとめるならば、教育の政治的中立性が問われるのは、政治的な問題に関わって異なる2つの見解の両方を視野に入れた上で自分の立場を決定できるようにすることが目標とされるからであり、そのような人間を育てるためには、自分の身近な問題を題材として自分とは異なった見解が存在することを体験としてわからせること、そうした土台の上で政治的な問題を題材として討論する過程が必要だということです。このようにして、弁証法的なアタマを創ることが求められているのだと言えるでしょう。

 南郷先生は自らが古代ギリシャの弁証法(旧弁証法)の実力をどうやって身につけたかということに関わって、小学・中学時代の思い出を次のように語っておられます。

「小学時代でも多分にそうであったが、中学時代の私は、友人と呼べる関係を持った同級生はほとんどいなかったといってよい。
 私が会話する相手は、毎日といってよいくらいにイジメの真っ只中で生きていた小学時代は学校の中にだけ私をかばってくれる友が僅かにいただけであり、イジメとはまったく無縁の意気軒昂的人生の真っ只中の中学時代は学校の中と通学列車の中での一〜二人くらいの友がいただけであった。それだけにこの時代は駅から降りて自宅まで、また自宅から駅までの三十分もの時間はたった一人の私自身の頭脳を創出する時間であった。
 このたった一人の時間を私は、それこそ、何年にもわたって自分一人で二重性を把持しての闘論をなしつづけていったことである。(中略)
 その内実は、駅を出てほんの数分もすれば、説いたように、わが家まではたった一人の帰り道となる。それで、ただちに自分を二人に分けて(当然ながら観念的二重化そのものである)、自分Aと友人Bとして、何ごとかを問わず、必ず問題化してしまうのである。Aがあることを問題化して「○○である」との解答を出せば、Bはただちに「それは絶対に○○ではない。なぜなら真の解答は××なのだから」と反駁するのである。
 そうすれば、Aはまたただちに「○○」であることの証明をする。それに対してBはこれまた即座に「いや、やはり○○ではなく××なのだ」と、考えつくかぎりの論の展開をなす…といった具合に、である。」(日本弁証法論理学研究会編『学城(11号)』2014年、p.189)


 つまり、アタマの中に自分と友人という異なる2人を創りだし、問題に関して闘論していたということです。このような過程を積み重ねていたからこそ、旧弁証法の実力が身についたということです。まさにこのような過程を辿らせる必要があるのです。

 しかし、南郷先生のように、いきなり自分のアタマの中に観念的な論争相手を創出することは難しいですから、現実的な論争相手を設定する必要があります。その論争相手との討論(闘論)を繰り返す中で、徐々に自分のアタマの中に論争相手を想定できるようになり(例えば「こう言ったら、こんなふうに反論してくるな」ということが予想できるようになる)、異なる見解をしっかり自分の視野に入れることができるようになるのです。
 このように見てくると、冒頭で掲げた塚本幼稚園のような教育のあり方は、大きな問題だと言えるでしょう。幼稚園児に安保法制など中身がわかるはずはありませんし、当然その是非を判断する力もありません。それにも関わらず「安保法制通過、よかったです」と言うのは、幼稚園の指導者がそう言っているからにすぎないのであり、結局、1つの政治的主張を絶対的に正しいと教えるものでしかありません。これは教育の政治的中立性が問われている民主主義国家の日本には全くそぐわないものだと言えます。

 それにも関わらず、そのことをまともに指摘しない安倍政権も同じように問題視されるべきでしょう。結局彼らは、政治的中立性という理念に基づいてその是非を論じているのではなく、自らの政治的主張に合致するかどうかという観点で是非を論じているにすぎないのだと言えます。だからこそ、「安保法制を廃止にすべき」という主張は密告フォームという形で大きく問題視するのに対して、「安保法制通過、よかったです」という主張については言及を避けるという態度になるのです。

 そもそも古代ギリシャにおいて弁証法(対話)が始まったのは、ソクラテスから「統治者たる賢人の“考え”に対して、“教え”に対して、これまでは絶対レベルで服従するのが当然の社会であったのが、そこに『え?なぜだ』『なぜそうなるのか?』『そうではないはずだ……』と疑問を呈し始め」(悠季真理『哲学・論理学研究』現代社、2015年、p.170)るようになったからでした。統治者の考えに疑問を抱き、異論をぶつけるというところから弁証法が始まったのです。

 弁証法的なアタマづくりといったときには、この原点を忘れてはなりません。統治者の考えが本当に社会全体のことを考えたものなのかどうかを判断し、時には異論を投げかけ、自分たちでよりよい社会を創っていこうとすること、そのためにこそ弁証法的なアタマづくりが求められるのであり、そのような国民を育成できてこそ真の民主主義国家だと言えるのです。このような国民の育成の実現を目指して、今後も自らの研鑽を進めていきたいと思います。
posted by kyoto.dialectic at 06:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月24日

教育の政治的中立性を問う(4/5)

(4)両者の立場を俯瞰させる教育が求められる

 前回は、本格的な政治教育はいつから始めるのがよいのかという点について検討しました。そもそも国家レベルの政治的な問題を把握するためにはそれなりに論理能力が必要であること、また、政治的な問題の場合、教師の立場も出てしまい、思春期を迎える以前の小学生では教師の見解が絶対になってしまって、本当に意味で自分の立場を決定することはできないこと、この2つの理由により、中学生から始めるのが妥当であるということでした。

 では、政治的な問題に関して両方の見解を視野に入れた上で、自分の立場を決定できるようにするためには、どのような教育が必要になるのでしょうか。今回はこの点について検討してみたいと思います。

 まず前提となるのは、「一般的に2つの対立する立場が存在する」ということを体験としてわからせることです。自分は自分なりの理屈で考えたり行動したりしているけれども、相手も相手なりの理屈で考えたり行動したりしているのだということをわからせることです。

 以前、私が担任している4年生のクラスで、このようなトラブルがありました。給食の準備が終わった後、1人の女の子(Aさん)が泣いているのです。Aさんは給食当番でスープを入れる担当で、B君と一緒に盛りつけをしていました。話を聞いてみると、「スープに入っていた肉団子、みんな1個ずつ入れるようにしようと言っているのに、B君が『先生のは2つにする』って勝手に決めて2つ入れた」ということでした。B君に話を聞くと、「だって先生は大人だし、たくさん食べるから」ということでした。Aさんは平等という価値観に基づいて考えています。それに対して、B君は、子どもと大人という違いに着目して行動をしたわけです。どちらもそれなりの理屈があるわけです。このトラブルに関しては、それぞれに理屈があったことを確認させた上で、お互いが納得して決めるようにすること、どうしても決められなければ、別にどちらでもいいのだからじゃんけんでもして決めるようにすることを伝えました。

 また、私が担任しているクラスでは定期的にお楽しみ会をしていて、どんな遊びをするか計画しているのですが、その中で「ハンカチ落とし」をするかどうかをめぐって、次のようなやりとりがありました。

「ハンカチ落としに反対です。仲のいい人同士でやって、回ってこない人がいたりするからです。」
「その意見に反論します。それはルールを決めればいいんじゃないですか。例えば、男は女に落として、女は男に落とすというふうにすればどうですか。」
「それでもまわってこない人がいると思います。」
「いくつかのグループに分けてやったらどうですか。」
「お楽しみ会はみんなの仲がよくなるためにすることだから、グループに分けない方がいいと思います。」
「そもそも見ているだけでも楽しいから、仮に回ってこなくてもいいのではないですか。」


 ここでは、ハンカチ落としに反対の立場の子どもは「全員に回ってこない。回ってこないと楽しくない」という考えに基づいて発言しています。一方、賛成の立場の子どもは「ルールを決めればいいし、仮に回ってこなくても楽しい」という考えに基づいて発言しています。どちらも一理あるものだと言えるでしょう。
 そもそも子どもにとっては学級こそ自分が生きている社会であり、お楽しみ会でどんな遊びをするかということは、その学級という小社会の維持・発展に関わる政治的な問題であるわけです。したがって、このように学級会で議論をするという経験は、国家レベルの政治的な問題を扱う上で土台になるものだと言えるでしょう。

 このような体験・経験をとおして、「自分とは違う考え方があるし、それはそれで一理あるのだ。だから両方の見解を踏まえた上でどうするか(どうすればよかったか)を考えていかないといけないのだ」ということをわからせることが、本格的な政治教育を行う上で前提になります。そうでなければ、自分の見解が正しいと主張するばかりになってしまうからです。

 中学生以降で(国家レベルの)政治的な問題を扱う場合でも、同じような形で教育していくことが求められるでしょう。お楽しみ会の遊びなどに比べると、非常に抽象的で実感の湧きにくいものですから、基礎的・基本的なことはしっかりと教えた上で、賛成の立場、反対の立場、両方の見解をぶつけあって、それぞれに根拠があるということを理解させることが必要になります。

 ただし、自分が正しいと思う立場に立って考えると、どうしても感情が入ってしまって、自分と反対の見解を冷静に受け入れられないという側面が出てきます。そこで、ディベートのように、自分の考えとは反対の立場に立って、その立場で議論をしてみるということ、例えば、自分がある問題に対して賛成の立場なら、反対の立場に立って賛成の立場を批判してみるという経験も積ませる必要があるでしょう。このような経験があってこそ、対立する2つの立場を俯瞰的に眺めることができるようになるのです。

 以上をまとめるならば、まずは対立する2つの見解、自分とは違う見解が存在するということをわからせること、そして子どもがイメージしやすい学級という小社会の維持・発展に関わる問題で議論をする経験を積むこと、その延長線上で国家レベルの政治的な問題を扱うようにすること、その際、一度自分の見解を否定して相手の立場に立ってみる経験を積ませること、このような教育のあり方が求められるということです。
posted by kyoto.dialectic at 07:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う