2017年03月21日

一会員による『学城』第14号の感想(12/14)

(12)「いのちの歴史」から「発展の論理構造」の具体を学ぶ

 今回は橘美伽先生による食事に関する論文を取り上げる。ここでは食事に関する問題が遺伝子の構造を絡めて説かれていく。

 本論文の著者名・タイトル・目次は以下である。

橘美伽
武道空手上達のための人間体を創る「食事」とは何か(3)
―遺伝子としての食事を考える

 《目 次》
一、はじめに
二、戦前と戦後のスポーツ選手はどう違うのか
三、戦前の選手の強さは「食事」から
四、武道空手上達のために「遺伝子」とは何かを説く
五、「いのちの歴史」の論理で武道空手の上達を説く

 本論文では、「戦前の日本は世界的な陸上王国だった」という趣旨の新聞記事が引用され、戦前は陸上だけではなく、テニスや競泳でも五輪でメダルをたくさん獲得していた事実が述べられる。しかも当時は、現代以上に諸外国人との体格差があり、スポーツ環境も劣り、現地の環境など想像もできない情況であり、さらに監督やコーチ、国家や財界などの支援に満たされた現代の選手のような出場条件ではありえなかったのにである、と説かれる。そして、日本の食物を摂ることによって日本人一般の遺伝子が創られてきたのであるから、日本が強かった理由の核心は「食事」にあるとされる。ここから論の展開は遺伝子論に移っていく。遺伝子とは、その生命体がその生命体として生き続けるための統括をする、いわばその生命体が生きるための重層構造を持った構造的設計図のようなものだとされた後、この遺伝子の重層構造がマンガレベルで説かれていく。「いのちの歴史」における前の段階の遺伝子が完成する直前に次の段階の遺伝子に溶かし込まれていく重層的構造が“論理のメガネ”を掛ければ見えてくるというのである。そして、以上のことを「食」に繋げて考えるとして、「いのちの歴史」のそれぞれの段階がそれぞれの流れを「食」としても辿ることによって人類が誕生したことが述べられる。さらにこの論理で武道空手が説かれていく。黒帯の者の遺伝子の構造は、その者の「白帯的レベル×緑帯的レベル×茶帯的レベル」という重層構造を内に含んでのものになっていて、黒帯としての修練を繰り返すのではなく、白帯からの辿り返しが必要であり、さらに完璧に上達させることをせず、上達しかかっているという状態であり続けさせることが重要だと説かれる。最後に大事なこととして、武道空手上達のためにはそれだけではなく、「人間としての繰り返し」、「いのちの歴史」たる単細胞体からの辿り返しが必要であることも説かれるのである。

 本論文では、『学城』第12号、第13号で説かれてきた「いのちの歴史にそった食事」の大事性に加えるに、「日本人としての食事」を摂るようにすべきだという内容が、遺伝子という角度から検討されていく。このことは同時に、連載第2回で取り上げたP江論文同様、第13号の冒頭論文である本田論文で説かれている、南郷継正先生による「遺伝子の体系性から生命の世界の発展性の帰結たる人間の遺伝子の重層構造を説く」という講義の内容を深めていくものでもある。

 ここに関わって若干触れておきたいことは、日本弁証法論理学研究会の組織としての認識の発展過程についてである。それはまず、南郷先生が結論をバンと示して、それについて弟子の先生方がなぜそうなるのかの過程的構造を研究していかれるという過程である。連載第2回に取り上げたP江論文でも、南郷先生が「遺伝子は情報を吸収して変化する」(p.14)と説かれたことに対して、当初は定説がアタマに刷り込まれているためにその見解に対立しその見解と闘論しつつも、最終的には定説を否定するに至り、南郷先生の結論が論理的に正しいことが明らかにされていくことが説かれている。また、「認識が遺伝子を変える」(p.8)という南郷先生の説に当初は違和感を覚えつつも、考えを進めていき「自らの認識を立て直し」(同上)ていく中で、その南郷先生の結論が「理論的には当然と言え」(同上)ると思えるまでの論理展開をP江先生が辿っていかれたことも述べられている。我々の場合も同様、師が「それは違う」とか「これはこうだ」とかまずは結論を説かれて、それに基づいて議論していくということがよくあるように思う。南郷先生や師はどんな問題についてもまずは結論が「見える」のだと思う。それは世界全体に関する論理的な把握がなせる業だと思うが、まだまだ直観レベルであるから、ここを支える論理展開をしっかりと構築していくことが、組織としての認識を一体のものとして発展させていくことになるのだと思う。

 さて、橘先生の論文に話を戻せば、『学城』第14号全体を貫くテーマとして設定した「発展の論理構造」に関して、非常に重要なことが説かれている。それは「いのちの歴史」から導かれた武道空手の上達のための論理として説かれている。

 まず、「黒帯としての実力を保ち、かつ、より上達していけるようにするためには、その黒帯としての現在のままの修練を繰り返すのではなく、白帯からの辿り返しが必要である」(p.173)と説かれていることである。これは黒帯の者の遺伝子の構造はこれまでの白帯、緑帯、茶帯のそれぞれのレベルの重層構造になっていて、この土台部分を強固に固めておく必要があるからだと説かれているのである。我々の学問への道でいえば、専門分野の学びに入っていったからといって、弁証法や認識論の基本的な概念に関しては、繰り返し辿り返していく学びが必要だということになるだろう。

 次に、「武道空手の上達において、白帯レベルの者を立派に白帯レベルとして完成させては絶対にならない」(同上)ということである。これは、もし白帯として完成してしまっては、それ以上の上達が望めなくなってしまうからだとされている。そして「この論理構造を修練の仕方にあてはめて説けば」(p.174)として、「その修練を上達へと繋げていくためにはどうすればよいかといえば、その修練をしている者たちが、その修練をうまくできかかったころにやめさせて、次の修練へと移っていくことである」(同上)と説かれている。これはつまり、「完璧に上達させることをせずに、上達しかかっている、という状態であり続けさせること」(同上)であり、これこそが「真の上達への道」(同上)だと説かれているのである。これを我々の学問への道にあてはめて考えてみると、例えば、専門分野たる対象に関わっての論理がどのように歴史的に発展してきたのかを原点にまで遡って辿る必要がある、簡単にいえば個別科学史を学ぶ必要がある、と連載第10回の法医学に関わる論文に関して説いた中で触れたが、これも非常に細かい内容にまで踏み込んで、いわば完成レベルでその個別科学史を把握してしまうなどという必要はない、というより、そんなことをしていては自らの専門分野の学としての創出などできないのであって、個別科学史をアバウトに押さえた後は、次なる課題に向って進んでいく、例えば専門分野の対象に関わる構造を深く把握するための学びに移っていく、などが必要になってくるということである。

 最後に、「この白帯からの繰り返しに加え、「人間としての繰り返し」も忘れてはならない」(同上)として、武道空手を行う土台となる人間体をより見事にするために、「仰向け→うつ伏せ→寝返り→お座り→ズリバイ→ハイハイ→摑まり立ち→立ち→伝い歩き→歩きといった過程」(同上)を辿り返す必要があり、さらにこの過程は「いのちの歴史」における単細胞体からの辿り返しにもなっていくものだと説かれていることである。この論理構造はなかなか学問の世界でどのようなことかを考えることは難しいのであるが、あえていえば、例えば言語を研究するにしても言語の土台となる人間の個体発生や「いのちの歴史」を含めた系統発生の論理が分かる必要があるということであろうか。

 いずれにしても、こうした「いのちの歴史」から掴んだ「発展の論理構造」の具体をしっかりと頭に入れて、実力向上の過程を創っていく必要があろう。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作・論文の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月20日

一会員による『学城』第14号の感想(11/14)

(11)「素直さ」=「否定の否定」は発展のために必須である

 今回取り上げるのは、朝霧華刃先生による唯物論の歴史に関する論文である。シュヴェーグラーがどれほどの実力をもっているのかが認められている。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトルを示しておく。なお、『学城』誌上では、目次はなく、本文に項番も振られていない。

朝霧華刃
唯物論の歴史を学ぶ(2)

 本論文ではまず、『哲学・論理学研究』第1巻を引用して、古代ギリシャの時代性が振り返られる。すなわち、この時代はエジプトやペルシャが文化の中心であり、相次ぐ戦乱で精神的な豊かさを持てるほどのゆとりが生まれなかったが、ギリシャでは戦争状態が幾分落ち着いてきて現実世界についてややゆとりを持って眺め渡す認識の変化が徐々に生じてきたというのである。こうした時代性を踏まえて、続きのアナクシマンドロスに進もうとしたところ、南郷先生からシュヴェーグラー『西洋哲学史』を読んで、哲学の歴史を踏まえて『唯物論の歴史』を学んでいく方がよいとアドバイスされたと述べられる。そこで『西洋哲学史』を学んでいくと、まずこの書の訳者の解説で、シュヴェーグラーが解説的な文章ではなくて、できるだけそれぞれの哲学者自身の言葉で語らせようとしていること、シュヴェーグラーはヘーゲル中央派で術語等がかなりヘーゲル的であることが分かったと述べられる。さらに冒頭の数行を読むだけで南郷先生が推薦された理由が分かってきたと述べられる。それはシュヴェーグラーが哲学を単なる思考や思索とは違うものとして説いていること、哲学を他の経験科学とは大きく異なるものだということを説いていることだとされる。しかしその後数十ページあとまで読み進めると、シュヴェーグラーの実力の程が大体分かってくるようになったと述べられる。すなわち、現象としての共通性すらもしかしたら分かっていなかったのではと説かれるのである。

 この論文については、『学城』第14号全体を貫くテーマである「発展の論理構造」に関わって、非常に重要な内容が含まれていると思われる。それは何かというと、一言でいえば「素直さ」である。

 筆者は前回の『学城』第13号に掲載された「唯物論の歴史を学ぶ(1)」においても感じたのであるが、この朝霧先生の論文は非常に読みにくく、どういうことが説きたいのかよく分からないと思っていたのである。今回も、一読しただけではどういうことが言いたいのか、正直よく分からなかったのであった。例えば、「南郷先生の恩師三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』や『認識と言語の理論T』なども「そう!」でした。」(p.163)とある部分について、「そう!」が何を指しているのか分からず、なんて分かりにくい論文だ、などと思ってしまっていたのであった。

 ところが、14号全体を貫くテーマとして「発展の論理構造」というものを見出し、その観点でこの論文を読んでみると、発展のためには、初めはこの論文のような平易は言葉で自分の感想を綴っていくレベルで説いていくという段階から始めなければならないのだと思い、それを学ぶ側もこの論文をそういうものとして素直に受け止めて読んでいくべきだということが分かってきたのであった。そうするとこの論文が、今までなぜこんな分かりやすい展開で説かれているのに分からなかったのかと思えるほどよく分かるように読めていったのであった。ここはやはり「素直」に学んでいく必要があるのだ、あれこれ批判的な態度などということは自分の実力のなさを棚に上げて分からない理由を相手に押しつけてしまっていたのだ、ということが分かってきたのであった。

 では、この論文で具体的にどのような事柄が朝霧先生の素直さだと思ったのかというと、1つには、この「唯物論の歴史を学ぶ」という論文の執筆に際して、「できるものなら、まともな哲学の歴史を説いている書物も一冊くらいは読み取ってそれをふまえながら書いていくほうが、実力をつけるためにはよいと思う」(p.157)と南郷先生に指導され、シュヴェーグラー『西洋哲学史』を薦められたため、それを「素直」に学んでいかれているということである。こんなことをいうと、「そんなことは当たり前ではないか。師の指導に従って学んでいるだけで、それを取り立てて「素直」だなどと大げさに評価すべきではないのではないか。」という反論がありそうである。しかし、これは筆者の経験に照らしていえば、なかなかそう「素直」に実践できるようなものではないのである。それがたとえ師の言葉であっても、である。ついつい自分の思いが頭をもたげてきて、自分ではこう思うのに、師は違うことを言っている、何故自分の思うようにやることが間違っているのか、それが分からない、などとなかなか「素直」にいうことを聞けないものである。挙句の果てに、自分の幼い頭で考えたことの方が正しくて、師は何か勘違いをしているのではないか、などとあらぬことをいつまでも考え続けて、時間と労力を無駄にしてしまうのである。しかしこれでは自分の実力の発展はあり得ないのである。こんないらぬことを様々に考えている暇があったら、師のいう通りを実践していくべきなのである。これは弁証法の術語でいえば「否定の否定」であるが、特に師のレベルであれば、自分などが考えも及ばないような論理でもって説いておられるのであるから、そこを自分の低レベルな頭で分からないからといって、自分を肯定し師を否定するのではなくて、あくまでも自分をまずは否定して、師のいう通りの実践をしてみることを続けていくことで、当時の自分の実力のなさも分かってくるというものである。最近の自分の幼さを思い返しつつ、そんなことを考えた次第である。

 もう1つ、朝霧先生の「素直さ」が現われていると感じた部分を紹介しておこう。それは『西洋哲学史』の訳者の解説に、シュヴェーグラーの良い点が書かれてあるとして、「1つにはシュヴェーグラーができるだけそれぞれの哲学者自身の言葉で語らせようとしているからである」(p.159)という部分と、「シュヴェーグラーは大体ヘーゲル中央派と見ることができる。術語(使用している言葉、文体(朝霧注))もかなりヘーゲル的である。そこに哲学史として或る一貫したものがあり、新カント学派の哲学者の多いわが国においては、その点でもこの書が意味を持つわけである」(同上)という部分とを引用した後、以下のように述べておられることである。

「この訳者の解説については、私なりに思うことがありました。それは「他の哲学者は解説的な文章が多いだけで、肝心のそれぞれの哲学者にはあまり語らせていないのだな……」であり、もう1つは、「ヘーゲル左派という言葉はマルクス、エンゲルスはそうだったので知っていたが、ヘーゲル右派のみならず、ヘーゲル中央派という人物も相当にいたということなのだな……」でした。」(同上)

 訳者の解説を非常に「素直」に受けとめて、シュヴェーグラーとそれ以外の哲学者やヘーゲル派を対比的に捉えていることがよく分かる感想になっていると思う。筆者自身も、これくらいまともに、素直に、他者の言葉を受け止められるような感性をしっかりと育てていくとともに、いつまでも持ち続けていかなければ、学問の構築など不可能なのだということを肝に銘じて取り組んでいきたいと思った。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作・論文の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月19日

一会員による『学城』第14号の感想(10/14)

(10)発展のためにはそれぞれの専門分野の原点を歴史的に辿る必要がある

 今回取り上げるのは、本田克也先生、矢野志津江先生、小田康友先生、菅野幸子先生による法医学の入門論文である。ここでは、法医学の原点たる片山國嘉の説く法医学とは何かに焦点を当てて論が展開されていく。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトル・目次を示しておく。

本田克也・矢野志津江
小田康友・菅野幸子
法医学への入門(3)
―医学生のための法医学原論―

 《目 次》
はじめに―一般論確立のために原点を見直すことの必須性
一 我が国における「法医学」の始まり―近代国家形成に必須となった「裁判医学」
二 日本法医学の始祖、片山國嘉
 (1)片山國嘉の壮大なる理念―「裁判医学」から「国家医学」としての「法医学」へ
 (2)主著『最新法医学講義』の構成
三 学問としての法医学創出に向けて

 本論文ではまず、学問としての法医学とは、病なり傷害なりの異状性に着目して、その病や傷害がいかなる社会関係性をもって生活不能的状態ないしは死に至ったのかの過程的構造を説くことであることが確認され、今回は我が国の法医学の原点たる片山國嘉の「法医学」の内実や意義を説いてくとされる。そこで初めに確認されるのが、「法医学」の元となった「裁判医学」がどのように誕生したのかについてである。江戸時代までの封建制社会においては、厳格な身分制社会の秩序を乱す者はお上の一存で容赦なく極刑に処されていたが、明治期の近代国家形成期になると、国民の「人権」が考慮され、それに基づいて法整備がなされてきたと述べられる。そして、刑罰の判定に際して、客観的証拠を示す必要があり、ここに「裁判医学」が必須となってきたというのである。では、片山國嘉の説く法医学とはいかなるものか、次にこの問題が説かれていく。片山は単に裁判官に求められた時だけ医学的意見を述べるといった、裁判官に従属的な位置づけではなく、そもそも近代国家において然るべき法とはいかなるものかという問題意識を追求すべく、裁判医学を法医学へと改称すべきだと主張したのである。そして片山の著作の中身は、法医学を一般的に定義することから始まり、医学全体の中での法医学の位置づけがなされ、医師の守るべき法律について説かれていく総論に加え、各論では最初に人間の精神状態、次に身体状態、そして死体の検査について説かれていくというのである。この構成からは、片山がそもそも社会において法秩序が守られなくなるという全体を問題とし、何故人間は罪を犯すような精神状態へと歪んでしまうのかも含めて究明しようとしていたことが分かると説かれる。そして最後に、社会の中で法秩序をいかに創っていくのか、そしてその法が犯される過程及び正常化させていく全過程の究明を目指した片山の法医学は、前回説いた狭義の法医学の定義に加え、あくまでも国家社会全体として法医学を捉える必要があることを説いているといえると説かれる。

 この論文では、『学城』第14号全体を貫くテーマとして設定した「発展の論理構造」という問題に関して、「それぞれの専門分野においての一般論を確立するために、その原点を歴史的に辿り、ふまえることの重要性」(p.144)が説かれている部分を取り上げることとしたい。どういうことかというと、本ブログに掲載した「一会員による『学城』第4号の感想」でも説いたように、「一般論を掲げての学び」というのは、その専門的対象の構造を深く把握していくためには必ずなさなければならないものであって、そのためには、そもそもアバウトにでもその専門的対象に関しての一般論を措定しておく必要がある。そして今回、この論文では、一般論を確立するためには、それぞれの専門分野の原点を歴史的に振り返り踏まえる必要があると説かれているのであるから、このことは認識の発展に大きくつながるものであるということである。

 では今回は、法医学という専門分野に関して、「日本法医学の始祖片山國嘉」(同上)という原点にまで遡って繙いてくことで、具体的にどのようなことが明らかになり、一般論の確立のためにどのような成果があったというのであろうか。この問題については以下のように説かれている。

「端的には、片山國嘉の説く「法医学」なるものは、個々の人間レベルの問題解決に終始するようなものでは決してなく、もっと根本的なレベルで、諸々の違法性ある事態が生じてくるところの社会そのものの病む・歪む過程を究明し、それをまさに治していかんとするもの、つまり「国患を救治せん」との実に壮大なスケールであったのである。」(同上)

 つまり、前回までは、「学問としての法医学とは、まずは、病なり傷害なりの異状性に着目して、その病や傷害がいかなる社会関係性をもって生活不能的状態ないしは死に至ったのかの過程的構造を説くことである」(同上)という形で、「個々の人間レベル」で説かれていたのであるが、片山が説く法医学はこうしたレベルを大きく上回っていて、まさに「国家社会全体」(p.154)の歪みを対象として、その歪む過程、正常化させる過程の究明を行わなければならないということである。ここで注意すべきは、「我々が前回までに説いた定義は、間違いではないものの、個人レベルに焦点を当てた狭義の法医学ともいえよう」(同上)と述べられていることである。つまり、簡単にいえば法医学には「二重構造」(同上)があるということである。ここに関しては以下のように説かれている。

「すなわち、国家としての社会は国民の生活が円滑に行われるべく法秩序を形成することによって成り立っているが、「それらが外的内的要因にて歪んでいく、その社会そのものの構造」の究明と、その社会的国民生活の歪みが現象してきて諸々の犯罪レベルでの生成過程の究明が1つであり、その実力をふまえて、それが犯罪と化したとされる場合において、確かにその犯罪がいかなる内実であるのかの犯罪現象と、犯罪者の病理及び、被害者の病傷態の実際を判断(判定)できる能力を養うことにある。」(同上)

 ここでは、これまで説かれていた法医学の「個人レベル」の定義、「狭義の法医学」の内実の背景には、個々の犯罪者をそういう犯罪に走らせた社会の歪みがあるという把握が展開されているのである。つまり、「狭義の法医学」の背景にいわば「広義の法医学」としての社会病理学が「二重構造」として把握されてはじめて、法医学の正しい理解に至るということである。

 こうした「個人レベル」と「国家社会全体」のレベルとの「二重構造」で把握する必要があるという論理は、筆者の専門分野である言語についてもよく考えておく必要があることだと思う。言語は、「個人レベル」で捉えるならば、コミュニケーションのための表現の一種だという把握になり、これはこれで「間違いではないものの」、「国家社会全体」のレベルで見てみれば、それは文化遺産の継承を可能とさせていったとともに、規範という社会的認識の形成をも促したというより大きな役割を捉えることができるのである。こうした大きな視点から、個々の人間同士の精神的な交通関係を捉える必要があるということである。

 今回は法医学を題材として、「それぞれの専門分野においての一般論を確立するために、その原点を歴史的に辿り、ふまえることの重要性」を確認した。法医学においては、その原点に遡ることによって、法医学の有する「二重構造」が明らかになったということであり、この視点は他分野でも有効に活用できるということであった。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作・論文の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月18日

一会員による『学城』第14号の感想(9/14)

(9)生命の歴史の論理と人類の系統発生の歴史の論理が発展のための契機である

 今回取り上げるのは、聖瞳子先生、高遠雅志先生、九條静先生、北條亮先生による医療における理論的実践を問う論文である。ここでは、マイコプラズマ肺炎の事例について考察するために、呼吸とは何か、呼吸器官とは何かが説かれていく。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトル・目次を示しておく。

聖瞳子・高遠雅志
九條静・北條亮
医療における理論的実践とは何か
―初期研修医に症例の見方、考え方の筋道を説く―
〈第6回〉マイコプラズマ肺炎A

 《目 次》
(1)はじめに
(2)教科書による呼吸器官の生理構造の知識的な学び
(3)教科書による呼吸器官の生理構造の説明の欠陥
(4)生理学の知識から呼吸の生理構造の像を描く
(5)生命の歴史をふまえて「呼吸とは何か」の一般論を説く
(6)生命の歴史における呼吸および呼吸器官の発展過程

 本論文ではまず、研修医が科学的理論に基づく実践方法論を駆使して、いかなる病気に対しても自信を持って正しい診断と治療が行える実力を培っていくことができるようになることが本症例検討の目的だということが確認され、今回は過酷ともいえる生活を続けることでいつどこに、どのような生理構造の歪みが起こってもおかしくない状態であったL君が、なぜマイコプラズマ肺炎を発症したのかについて説いていくとされる。まず、研修医が呼吸器官の正常な生理構造について、教科書を基に説明するが、指導医はこの説明に空気を体内に取り込む気道に関する過程がすっぽりと抜け落ちていて、それは研修医が生理構造ということが分かっていないからだと指摘する。さらに、生理学の教科書に書いてある知識を暗記するだけではダメで、生きている人間の体の内部をまずは大雑把に像として描いてみること、次にはその人間が外界と相互浸透することによって生きていることをその像に加えて描くこと、その上で生理学の教科書の必要十分な知識をその大枠の中に収めていくことが必要だと指導される。次に、それだけではL君が肺炎になった理由は分からないとして、「病気とは何か」「呼吸とは何か」「呼吸器官とは何か」を理解する必要があるとして、生命の歴史が辿られる。まず、生命現象の時の代謝の原基形態が呼吸の大本であると説かれ、生命体と地球との相互浸透のあり方が「食」と「呼吸」に分けられると説かれる。そして、食は生命の歴史において複雑化してきたが、呼吸は一貫して酸素を取り入れているとして、ここから呼吸は「生きていることの本質を支える原基形態的代謝過程」と概念化される。ここからさらに呼吸器官の発展過程が概観され、単細胞生命体は水に溶け込んだ酸素を取り込んでいたため、両生類以降の生命体も、大気中の酸素をそのまま取り入れるのではなく、気道や肺胞内で加湿したり浄化したりするのであって、また、両生類以降の生命体は、鰓のように自然に酸素を含んだ水が取り込まれることがないために、肺は呼吸器官として単独で機能できるものではなく、気道や呼吸筋等が一体となって呼吸器官を形成していることが説かれていく。

 この論文に関しては、『学城』第14号を貫くテーマとして設定した「発展の論理構造」という問題について、次の2つの点に着目したいと思う。

 1つ目は、研修医の認識において、生命体が行う「呼吸」の意味が、当初は酸素と二酸化炭素のガス交換という事実的把握であったものが、生命の歴史から捉えることによって、「生きていることの本質を支える原基形態的代謝過程」(p.138)という概念として理解するまでに発展していったことである。ではなぜ、生命の歴史から呼吸を捉える必要があるのか。ここに関しては、指導医が以下のように述べている。

「なぜ、生命の歴史を辿らなければならないのかということについては、前回も説明したように、地球上の生命体の中で、最も進化発展して複雑になった人間の呼吸や呼吸器官だけを見ていては、「呼吸とは何か」「呼吸器官とは何か」の一般論を導き出すことは困難だからである。」(p.136)

 つまり、生命の歴史という発展の過程的構造をしっかりと踏まえ、その過程を内に含むものとして人間の呼吸や呼吸器官を捉える必要があるのであって、呼吸をガス交換だと事実レベルで把握することは、非常に表面的で、発展過程の運動性を等閑視するという意味で、形而上学的な見方だということになるだろう。連載第5回には、アリストテレスの認識の発展過程を解明するために、生命の歴史を媒介とする必要があったことを説いたが、ここでは、生命の歴史が直接、呼吸の意味を解明する契機となっているのである。

 さらに次のようなこともしっかりと押さえておく必要がある。前回、『学城』第13号においては、L君の生理構造が歪んでいった過程の事実が確認されていたが、今回のこの視点は、L君を系統発生における過程性を有した、生命体の中での最も進化発展した存在としての人間だという形で捉えているのである。つまり、前回は個体発生における過程性として、そして今回は系統発生における過程性として、それぞれL君を捉えているのである。この把握を論理的にいえば、全て物事は個体発生と系統発生という二重性で把握する必要があるということになろう。この論理は、我々京都弁証法認識論研究会の例会の場でも繰り返し学んでいることであって、例えば、目の前にある缶コーヒーに関しても、その個別具体的な缶コーヒーがどこでどのようにつくられ、それがどのように自動販売機まで運ばれ、それを自分が購入したのかという、いわば「個体発生」の側面を考えることもできるし、種類としての缶コーヒーというものがどのメーカーの誰によっていつくらいに考案され、それが実用化されたのがどこでどのような形でであったのか、それがどのように進化していった(例えば、昔の缶コーヒーはプルラブが缶本体から外れたのに、今では外れないような工夫がなされている、など)のかという、いわば「系統発生」の側面を考えることもできる。こうした二重性で物事を把握することの重要性も、この論文の前回と今回の内容を合わせて考えるとき、しっかりと確認しておくべきだろう。

 さて、「発展の論理構造」というテーマに関してこの論文で着目しておきたいことの2つ目は、この論文の説き方が会話レベルの形態を中心にしたものから論文体といえるものに発展しているということである。これは人類の系統発生の歴史において、プラトンあたりまでは実際に行われた会話の事実を綴っていくのがやっとという実力であったものが、アリストテレスに至るとその会話の事実からある流れ、筋を導き出し、それを記述することが可能となっていったことに対応したものではないか。つまり、筆者の先生方が実地に人類の系統発生の歴史を辿り返しておられるのではないかと思われるのである。「巻頭言」や連載第5回で取り上げた悠季論文で述べられているように、人類が事実レベルの反映像から表象レベルの論理的な像を形成可能な実力を培っていくための過程を、この論文の執筆過程において辿り返すことで、自らの論理能力の発展に資する実践として、この論文執筆を捉えておられるのではないだろうか。我々も、研究会の例会の内容を、まずは会話レベルの事実を中心に振り返り、そこを論理的に捉え返してみるという学びの過程を繰り返し持つことで、論理能力の養成を図ってきているし、これからも図っていく必要があると思う。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作・論文の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月17日

一会員による『学城』第14号の感想(8/14)

(8)実力向上のための学びには順序がある

 今回取り上げるのは、P江千史先生、本田克也先生、小田康友先生、菅野幸子先生による新・医学教育 概論である。医学教育が成功するためには何が必要かについての論が展開されている。

 本論文の著者名・タイトル・目次は以下の通りである。

P江千史・本田克也
小田康友・菅野幸子
新・医学教育 概論(3)
─医学生・看護学生に学び方を語る─

 《目 次》
(1)医学教育が21世紀日本に果たすべき役割
(2)歴史に見る医学教育と医学体系、医療実践の関係性
(3)医学教育の最難関は入口である医学部教育にある
(4)医学部教育のゴールである一般医に求められる実力とは何か
(5)すべての病気に共通する考え方の筋道を技として創出しなければならない
(6)科学的医学体系に基づく文化遺産教育の全体像を説く
(7)学問的論理を導きの糸とした文化遺産の習得

 本論文ではまず、第1回、第2回の内容が軽く押さえられた後、今回は医学教育のゴールである一般医に到達するために必要な医学教育の内容と方法を設定するには、「医学体系」が不可欠であることを説いていくとされる。そして、「医学体系」と「医療実践論」、そして「医学教育論」が切り離せない関係を持っていることが医学教育の歴史を振り返ることで確認される。その上で、医学教育論の中で最も重要なのは、医師としての教育の出発点であり、その後のすべてのキャリアの基盤となる医学部教育のあり方だと説かれる。それは、そこで地域の第一線の医療機関での一般医としての実力を養成できなければ、専門分化してしまうその後の研修においては絶対に実現不可能となっていくし、専門医が医師としての基盤を欠落させた単なるテクニシャンへと堕してしまうからだと説かれる。そこで地域の第一線の医療機関での一般医に求められる実力とはどういうものかが確認されていく。それは端的には、多種多様な患者の病気を的確に診断し治療することであるのだが、そのためには、病名をつけ標準的とされる治療法を当てはめるために膨大な知識を正確に記憶するということではなくて、すべての病気に共通する一般論を学び取り、いなかる患者を目の前にしても、その一般論から筋道を通して考えていけるように、アタマの働きを技化することだと説かれる。そして、それが可能となる条件として、科学的医学体系に導かれた教育課程に学ぶ必要があるとして、まずは人間とは何かをふまえて人間の正常な生理構造を究明した常態論を学び、それを土台として病態論と治療論とを学ぶ必要があるとされる。最後に、医学教育におけるこうした文化遺産教育の全体像を示す図が示され、学ぶべき対象の全体像を一般的に把握する重要性が指摘されるのである。

 この論文では、医学教育が成功するためには何が必要かが説かれている。別の視点でいえば、的確な診断と治療を行える実力のある医者を育てるには、どのような教育をしていく必要があるのかということである。この問題に関しては、簡単にまとめれば以下のように説かれている。

 まず、あらゆる病気をとりあえず的確に診断し治療するためには、全ての病気に共通する一般論を学び取り、いかなる患者を目の前にしてもその一般論から筋道を通して考えていけるように、アタマの働きを技化することが必要だと説かれる。しかし、病気の一般論を知識として記憶しただけではダメで、病気を診断し治療するのに必要十分な医療の文化遺産を筋道を通して体系的に学ぶ必要があるとされる。ではその医師養成のための文化遺産とは何かといえば、直接的には病態論と治療論になるのだが、正常な生理構造が歪んで病気になるのであるし、また正常な生理構造を踏まえて歪んだ生理構造を回復させるのであるから、人間の正常な生理構造を究明した常態論を土台としてしっかりと習得する必要もあると説かれる。さらにこれらの学びの前提として、人間の認識が外界との相互浸透を規定し、そこから正常な生理構造が歪んでいくのが病気であるから、「人間とは何か」、「人間が認識的実在であるとはどういうことか」が分からなければならないとされる。さらにさらに、人間とは何かを学ぶためには、地球上で誕生した単細胞生命体が人間へと進化を遂げてきた過程、人間社会が生成発展して現代へと歴史を重ねてきた過程を含めて学ぶ一般教養教育が必要だと説かれるのである。

 以上のように、実力のある医師を養成するためには、どのような学びが必要であるかについて、そのためには、そのためには、……と遡っていって、学びの真の土台、大本にまで言及されていくのである。このことは逆にいえば、生命の歴史と世界歴史を含めた一般教養を土台として、人間とは何か、人間が認識的実在であるとはどういうことかを把握し、この把握に基づいて人間の正常な生理構造を究明した常態論をまずは押さえ、それを踏まえて正常な生理構造が病む過程を究明した病態論と病んだ生理構造の回復過程を究明した治療論を学ぶことによって、病気の一般論を診断と治療の指針として使いこなすことが実力ある医師の養成のためには必要である、これこそが医学教育論の骨子である、医師の実力の「発展の論理構造」は以上のようなものである、ということである。

 ここを端的にいえば、前々回に説いたように、「発展は前段階を実力と化すことによって可能となる」ということになろう。つまり、学びには順序があるのであって、医学教育に関していえば、いきなり病態論や治療論は学べるはずもなく、上に示したような一般教養教育から専門教育への体系性を有した教育を通して初めて、医師としての実力の土台が形成されていくということである。

 ここで考えさせられるのは、連載第3回で説いた「例えば言語学を志して出立したとしても、弁証法や認識論の基本的な用語や概念に関しては、繰り返し繰り返し学んでいく必要があるのであって、このことをおろそかにしては決して言語学の創出など不可能なのだということを肝に銘じておく必要がある」ということである。すなわち、言語学でいえば、言語を創出し生活に役立てているのは人間であるから、まずは人間とは何かを認識的実在ということをキーワードにして徹底的に学ぶ必要があるし、地球上で誕生した単細胞生命体が如何にして人間にまで発展したのか、そして人間社会がどのようにして現代へと歴史を積み重ねてきたのかについてもしっかりと把握しておく必要がある。そのためには、人間の人間たる所以の認識について解明した認識論、発展の論理構造を明らかにした弁証法を基礎からみっちりと学び続ける必要があるのであって、そうした学びの過程をすっ飛ばして、いきなり概念とは何かとか、言語過程はどのようなものかとかいった、言語に直接かかわる高度な問題に突っ込んでいってはいけないのだということである。そうした問題を論じていくには、それなりの基礎の学びの繰り返しの上の繰り返しの過程が必要だということである。この論文で説かれている科学的医学体系に匹敵する科学的言語学体系を創出するためには、まだまだ道は長いが、人間とは何かといった基本的な問題からしっかりと像を描けるように研鑽していく必要あると感じた次第である。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作・論文の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月16日

一会員による『学城』第14号の感想(7/14)

(7)部分を全体に位置づけることが認識の発展につながっていく

 今回は、P江千史先生による医学原論講義を取り上げる。治療論の構造論がインフルエンザの事実で説かれていく論文である。

 以下に、本論文の著者名・タイトル・目次を提示する。

P江千史
「医学原論」講義(12)
―時代が求める医学の復権―

 《目 次》
(一)これまでの要旨
 @医学体系の構造論としての治療論
 A治療論の構造論の構築過程
(二)治療論の構造論の構造
 @「一般的治療論」と「特殊的治療論」
 A「特殊的治療論」の四重構造
(三)治療論の構築過程で浮上してきた病態論の構造論
 @病気の全過程を「医学体系の全体像」から説く
 A病態論で重要なのは病気への必然性の解明である
 B現代医学は病気への必然性を解明できない
(四)治療論の構造論をインフルエンザの事例で説く
 @インフルエンザにおいて生理構造の歪みを察知する
 A生理構造が歪み始める段階の一般的治療の重要性
 B生理構造治療が歪んでしまった段階の特殊的治療の重要性
 C生理構造の機能の歪みから実体の歪みに対応した治療の必要性

 本論文では、前回提示された治療論の構造論を、さらに事実で検証することで深めて説いていくとされる。まず、治療論の構造論の骨子が病気の一般性に基づいた「一般的治療論」と病気の個別性・特殊性に基づいた「特殊的治療論」の二重構造であり、「特殊的治療論」はさらに機能が歪みかけているのか歪んでしまっているのか、実体が歪みかけているのか歪んでしまっているのかによって四重構造を有することが確認される。そして、この治療論の構造論構築の労苦の過程で思いがけない収穫があったとして、病態論の構造論が少しずつ浮上してきたというのである。そしてその骨子が説かれていく。すなわち、病気は生理構造の機能レベルの歪みから実体レベルの歪みへと発展すること、病態論の対象は正常な生理構造が歪み始める段階から歪んでしまった段階への過程、さらに治療によって歪んだ生理構造が回復していくあるいは回復しない過程の全過程を対象とすること、病態論においては病気への過程の必然性を究明する必要があることが病体論の構造論の骨子であると説かれる。さて、ここからはまた治療論の構造論に戻って、その構造化の重要性がインフルエンザの事実で説かれていく。まず、インフルエンザに罹患した際には、ゾクゾク寒気がするという感覚があるものだから、この時に暖かくして、栄養があって消化の良いものを取り、よく眠ることが「一般的治療」として重要だと説かれる。合わせて、乾燥を防ぐようマスクを着用したり、水分を取ったり、首を温めるためにスカーフを巻いたりする「特殊的治療」も必要だとされる。次に、高熱が出てしまったような場合には、「一般的治療」に加えて、抗ウイルス薬を処方するなどの「特殊的治療」が必要になると説かれる。そして最後に、合併症として肺炎を引き起こした場合には、その段階に応じた特殊的治療が求められるとされるのである。

 この論文について、本稿全体のテーマである「発展の論理構造」という観点から取り上げるべき内容は、治療論の構造論の構築過程において、病態論の構造が浮上してきたと述べられていることである。P江先生は、医学体系の創出を志して以来、病態論の構築に取り組み続けているとして、病態論の一般論を措定し、あらゆる病気の事実でその一般論の正当性を実証し続けてきているものの、病態論の構造論に関しては明確に浮上させることができずにいたとして、以下のように述べておられる。

「ところが今回、これまで手をつけずにおいた「治療論」の構築に取り組む過程で、「病態論」の「構造論」が、いささか感性的に言えば、少しずつ姿を現わすことになったのである。これは理論的には当然のことであると言えよう。なぜならば、治療とはあくまで病気を回復させる過程であるから、治療の構造化は、病気の構造化に基づいたもの以外ではありえないからである。」(p.101-102)

 つまり、治療論の構造を解明していく流れの中で、必然的に、しかも意図せず病態論の構造化を果たしてきていたのであって、そこを意識的に捉え返せば、病態論の構造論の体系性を説くことが可能となるということである。

 ここをもう少し広い視点から見てみると、これは治療論と病態論とを完全に別のものとして捉えるのではなくて、医学体系の全体像の中のそれぞれの部分として押さえることで、両者の必然的なつながりに媒介され、治療論の構造論の構築が病体論の構造論を浮上させていったということである。このことは、論理的に把握すれば、全体の中の部分という捉え方をしなければ論理的な発展はなかったかもしれない、つまり論理的な発展のためには全体との関係を常に意識しておく必要があるということである。

 この教訓は、言語学史の論理を捉えようとする場合にも当然当てはまるものである。すなわち、言語学史だけをいくら研鑽していったところで、そこから論理的な像を形成できるには自ずから限界があるのであって、学的認識の発展史たる哲学史の学びを通じて、学問全体の発展における言語学の発展をしっかりと押さえつつ、あるいは認識論の発展と言語学の発展との連関を常に意識的に捉えつつ、個別科学史たる言語学史の発展の論理構造を把握していく必要があるのである。あるいは、さらに大きな視点でいえば、社会の発展の歴史たる世界歴史の中に言語学史を位置づけ、その相互浸透関係や相互規定性を考察する必要もあるかもしれない。いずれにせよ、全体の中の部分という把握、全体の中の部分同士の関係という把握なしには、学問構築上の壁にぶつかる可能性が大きいのだということはしっかりと学んでおかなければならないだろう。

 もう1つ、この論文について触れておきたいことは、病気というものが人間の正常な生理構造が歪んだ状態になったものであることに関わって、「その歪みの過程の構造に分け入ると、生理構造の機能レベルの歪みから、実体レベルの歪みへと発展していくのである」(p.102)と説かれていることに関してである。これは病気の発展に関してであるが、連載第2回に取り上げた同じP江先生の論文では、マラソンの完走を目指してのトレーニングを例にして、「日常的に歩くというレベルから、42キロをスピードを伴って走り切るというレベルへと筋肉の機能が変化した時には、筋肉の実体そのものが変化している」(p.32)というように、運動能力の発展に関しても同様のことが説かれている。つまり、発展の論理構造としては、まず機能レベルの発展があり、それに伴って実体レベルの発展があるということである。何とかできるようになろうと努力し続けることによって、徐々に徐々にそれができるようになっていく過程で、その機能を支える実体すらもそういうことが可能な形態に変化・発展してきているということである。この論理は、『看護の生理学(3)』で説かれていた、なぜ他の代謝器官と違って呼吸器官だけは認識によってある程度自由にコントロールできるのかや、声帯が「人間の認識が統括できるようになって、音声言語が形成され、人間の文化を担ってきた」(『看護の生理学(3)』p.82)ということとつながるように思う。端的にいえば、もともとは全ての筋肉が本能により統括されていたわけであるが、このうち、必要に応じて「訓練」(同書p.66)がなされていく流れの中で、徐々に呼吸器官や声帯を認識が統括できるようになっていき、遂には呼吸器官や声帯が認識による統括が可能な器官として創られるようになっていったということである。いずれにしても、言語が歴史的に創出された過程の解明は言語学の大きな柱であるから、こうした論理をしっかりと身に着けることで、言語がどのように創出されたのか、当たり前のように説ける実力をつけていく必要がある。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作・論文の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月15日

一会員による『学城』第14号の感想(6/14)

(6)発展は前段階を実力と化すことによって可能となる

 今回は北嶋淳先生、志垣司先生による障害時教育とは何かを問う論文を取り上げる。ここでは、生まれてから首が座るまでの運動機能の獲得過程が一般的な育ちと障害を負った育ちとではどのように異なってくるのかが論じられていく。

 以下、本論文の著者名・タイトル・目次を掲げておく。

北嶋淳
志垣司
人間一般から説く障害児教育とは何か(8)
─障害児教育の科学的な実践方法論を問う─

 《前回目次》
はじめに
一、肢体不自由特別支援学校の現状と運動障害の理解
 (一)肢体不自由特別支援学校の運動教育の現状と問題点
 (二)機能訓練と教育
二、脳性麻痺児A子の運動の変化過程
 (一)転校してきた時のA子の様子
 (二)転校してきてからのA子の変化

 《今回目次》
はじめに
 (一)前回の要旨
 (二)「心理療法」としての「動作訓練」の持つ限界
一、A子の運動の育ちを障害の二重構造より説く
 (一)人間の育ちにおける一般的な運動性の獲得過程とは何か
   @人間の育ちにおける一般的な運動性の獲得過程の構造とは
   A「運動の発展構造」に分け入って説く、人間の運動性の獲得過程
 (二)障害を受けて育つ運動の獲得過程の歪みとは何か

 《以下は次号》
二、科学的実践方法論に基づいた脳性麻痺児への運動教育とは
 (一)A子の運動の成長をもたらした教育の視点とは何か
 (二)障害児教育一般からA子の成長を説く
   @系統発生を機能的に繰り返させる働きかけ
   A脳と認識を育てる働きかけ
 (三)自立活動より説くA子への教育
 (四)母親と共に
おわりに

 本論文ではまず、全国に普及している「心理療法」としての「動作訓練」の持つ限界が説かれる。それは端的には、「意志」の育成が説かれておらず、人間の運動を歴史性を持ったものとして捉えられていないことであるとして、「生命の歴史」に基づいて運動障害を捉えるとどうなるのかがこれからA子の事例を通して説かれていくと述べられる。A子は5年生でありながら走り回ることも手を使うこともできないのは、「障害の二重構造」の故であるが、その中身を把握するためには、まず人間の運動性は一般的にどのように獲得されてくるものなのかを把握する必要があるとして、P江千史著「看護のための生理学――運動器官」が参照されていく。ここでは、人間は母体内で実体としての系統発生を繰り返すだけではなく、誕生後には機能としての系統発生を繰り返さなければならないことが説かれているとして、生まれてから首が座るまでの過程が取り上げられる。そして、一般には自然に可能になっていくと思われている、生まれてから首が座るまでの人間の最初期の運動形態も、「生命の歴史」を辿る運動を繰り返し、それと直接に認識の発展や母親を中心にした社会関係の発展の過程もあると把握されていく。では、障害を負うとこの過程がどうなるのか、この問題が次に説かれていく。重症の脳性麻痺児は未熟な実体を持って出生するため、普通の子育て以上に丁寧に働きかける必要があるのだが、それがNICUでの生活で妨げられるというのである。具体的には、泣く、オッパイを飲むという全身運動も、仰向けで手足を動かし背骨をつくっていくこともできないし、さらには認識に目を向けても、快・不快の感情がはっきりすることも意志や人間的な感情の育ちも遅れてしまうというのである。こうして外界をきちんと反映できなくなるとともに、運動もまた外界の変化に見合った対応ができにくいものになり、合わせて母親の育児上の不安が子供の認識に影響するという社会関係も加わってくると説かれる。そして最後に、運動機能の向上だけではなく、社会関係と意志とを育てていくことを通してしっかりとした人間に育て上げていくことが教育でなければならないと説かれるのである。

 この論文では、「「できない」とされていることの中には、実体及び機能上の不可逆的な変化によって生じた障害ゆえのものと、「育てられていない(知らない)」ゆえにできないでいるものが混在している」(pp.86-87)という「障害の二重構造」(p.87)の中身をどのように把握することができるのかとして、以下のように説かれている。

「それを知るには、まず人間の運動は一般的にどのように獲得されてくるものなのかを問いかけ、そこと比較して、障害を負うとそれがどうなるのかが問われなければならないだろう。この時、単に運動形態だけに着目するのではなく人間全体、すなわち、体、心、社会関係に育て方(育ち方)を重ねて問いかけていくことが重要である。」(同上)

 つまり、一般的な運動性獲得の過程をものさしにして、障害を負うとその過程がどのように歪むのかについて、実体と認識、それに社会関係にも着目して確認していく必要があるということである。これはこれで見事な把握だと思われるが、「しかし、これだけでは人間の運動の発達を理解するにはまだ十分ではない」(同上)として、「発展の論理構造」に分け入って理解するために、P江千史先生の「看護のための生理学――運動器官」という論文に学んでいかれるのである。そしてまさにこの部分が、本稿のテーマに深く関係する部分であるから、少し詳しく見ていきたいと思う。

 まず重要なのは、「人間は、母体内で実体としての系統発生を繰り返すだけではなく、誕生後には機能として系統発生を繰り返さなければなら」(p.88)ないと説かれた後、その必要性についいて、「それが「発展というものの構造」による」(同上)と述べられている部分である。では、その「発展というものの構造」とは何かといえば、P江先生の論文から引用して、「そもそも発展というものは、連続的であると同時に段階的な過程を、同時的・直接的に内に含むものであり、前段階を自らの実力と化すことをふまえることによって初めて! 次の段階をふむことへ! と至ることが可能となる」ということだと説かれている。そしてこのことが具体的に、人間が生まれてから首が座るまでの運動の上達過程の構造として辿っていかれるのである。

 その中身はまず、生まれたばかりの赤ん坊は、泣くこととオッパイを飲むことが重要な運動形態であって、これは赤ん坊にとっては重労働といえる全身運動であり、これを行っていく過程を通して、がんばる気持ちも育てていくと説かれている。そしてこの段階は、「生命の歴史」においては単細胞段階の運動の段階(その場を移動することのない、うごめき運動)に当たると説かれている。

 次の段階は「仰向け」に寝る状態についてである。ここでは、手足を自由に動かすことで手足がつくられるばかりでなく、立つために最も大事なしっかりとした背骨もつくられると説かれる。さらに、この姿勢は視野を広く働かせることができるから、見ることによって周囲への興味が育まれ、それがさらに運動を発展させていくと説かれる。そしてこの段階はカイメン段階の運動に当たると説かれるのである。

 さらに首が座るために必要な働きかけとして、“横抱き”から“たて抱き”に移行していくことが必要だと説かれたうえで、次のように結論付けられるのである。

「このように辿ってくる時、一般には自然に可能になっていくと思われている、生まれてから首が座るまでの人間の最初期の運動形態も、その過程的な構造に立ち入れば、そこには「生命の歴史」における系統発生を胎内で辿っていく過程の上に、生後における「単細胞段階」の運動、そしてそこから「海綿段階」の運動を繰り返していく過程、そして“横抱き”から“たて抱き”へと移行していく過程があり、それらと直接に積み上げられかつ膨らんでいく「意志の芽生え」たる認識の発展が重なり、これらが1つになって「首が座っていく」のである。しかもその1つ1つの段階には皆、愛情を基盤にした強烈な教育(学習)の過程があり、そこを経て初めて獲得されていくのが人間としての運動性であると理解されてくるのである。」(p.91)

 このように、実体たる身体の運動は、段々と前の段階を踏まえての積み重ねによって発展していること、そこには意志の芽生えへと至る認識の発展過程が重ね合わされていること、さらにはこうした心身の発展には母親を中心とした社会関係の発展に伴う教育(学習)の過程が絡んでいること、これが「発展というものの構造」であって、「生命の歴史」を導きの糸として解明していくべきものだと説かれているのである。

 「発展というものの構造」、あるいは「前段階を自らの実力と化す」ということをこの学びによって生き生きとした像として描くことで、例えば言語の発展とはどのようなものか、学問化可能な頭脳はどのようにすれば創出できるのかといった問題を主体的に解決していって、自らの学問を構築していきたいと決意を新たにした次第である。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作・論文の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月14日

一会員による『学城』第14号の感想(5/14)

(5)「発展の論理構造」は生命の歴史を媒介とする必要がある

 今回取り上げるのは、悠季真理先生による哲学・論理学研究に関する論文である。アリストテレスの原語からアリストテレスの認識が如何なるものであったのかが、生命の歴史の論理を媒介にしつつ解明されていく。

 本論文の著者名・タイトル・目次は以下のとおりである。

悠季真理
哲学・論理学研究余滴(5)

 《目 次》
はじめに
一 アリストテレスの学的認識の形成とは
 (1)『哲学・論理学研究』第1巻執筆の過程で分かってきたこと
 (2)τὸ τί ἦν εἶναιは哲学界でどう捉えられてきたか
 (3)アリストテレスはいかなるレベルの像を描くに至ったのか
 (4)アリストテレスの像形成を生命現象の生生・生成発展過程と重ね合わせて考える
 (5)アリストテレスの像の中身を時代性を踏まえて具体的に考える
(以下次号)
二 法とは何かを国家形成の原点から考える
三 国家形成において政治的なことがなされ始める原点について考える
四 国家において政治経済として誕生してくる原点のところを考える

 本論文では、まず、今回は人類の学的認識の形成過程について考察されていくことが述べられ、『哲学・論理学研究』第1巻の執筆過程において、τὸ τί ἦν εἶναι(ト・ティ・エーン・エイナイ)というアリストテレスの原語がやがて論理的な像へと発展していくその出発点としての像を描き始めていく途上の必然的な言語表現だと解明できたと説かれる。そしてその原語の意味が解説される。すなわち、「ト」は英語のthe、「ティ」はwhat、「エーン」はbe動詞の未完了過去形、「エイナイ」もbe動詞だが不定詞であり、特に時制が違う動詞が続く理由が当初は分からなかったという。しかし、そもそも言語は認識の表現であるから、アリストテレスがいかなるレベルの像を描いていたのかから考え、アリストテレスの研鑽過程を推し量っていくと、これは「それをそうあり続けされてきているそのものの何たるか、とは一体何物であるか」となるはずだと考えるに至ったと述べられ、その理由が説かれていく。ここから論の展開は、アリストテレスの像の形成のあり方へと移っていく。すなわち、生命の歴史において生命現象的なあり方ができては消えという繰り返しによって生命現象が実存できるようになっていったように、アリストテレスの頭脳は対象を論理的に把握できかかるかと思えばできない、論理化しかかっては消え、というような頭脳活動が積み重ねられていくことによって創出されたというのである。こうして、現実と過去の像が何となく二層化していくような過程性を伴っていく像を内に含んだ原語が創出されたというのである。例えば、軍馬の例でいえば、アリストテレスが若い頃から現在に至るまで見てきた諸々の馬の像を振り返っているのが、あの未完了過去形という表現に表れていると説かれている。そしてこの表現は、事実レベルの像でありつつも、そこから表象レベルの像が描かれつつある過程そのものを表していると結論されるのである。

 この論文では、アリストテレスのτὸ τί ἦν εἶναι(ト・ティ・エーン・エイナイ)という原語を、いわゆる「文法」に従って意味不明的に訳すのではなくて、アリストテレスの認識の発展に対応したものとして、そういう発展しつつある認識の表現として、アリストテレスの原語を把握する必要があることが中心に説かれている。そのアリストテレスの認識の「発展の論理構造」を解明するために媒介とされたものは、生命の歴史、それも生命現象から生命体への流れの論理構造であった。以下、このことが説かれている部分の引用である。

「プラトンの、互いに闘い滅ぼし合うような討論を経てのアリストテレスの頭脳へと至る道というのは、対象を論理的に把握できかかるかと思えばできない、論理化しかかっては消え、というような頭脳活動がなされ、積み重ねられていくことであり、これは喩えてみれば生命現象的なあり方ができては消え、というのを繰り返しながら生命現象が実存できるようになっていくのと同様の道程であると言えよう。」(p.76)

 ここで説かれているのは、地球上に当初現われた生命現象は、「次第次第にできかかっては消え、できかかっては消え……という気の遠くなるほどの長い過程を繰り返していくことを通して、生命現象として実存し得るようになっていく過程、さらには地球が徐々に冷えていく中での、生命現象がそのものとして実存し続けるために、いわばまとまることができる、つまり、まだ他との区別も定かではないan sichであるような状態から、己として成りゆく、自らを他と区別するところの膜らしきものを作り得る方向へと向かってゆく」(p.75)流れが、アリストテレスの描く像が事実レベルの像から表象レベルの像、論理的な像へと発展しかかっては消えていって、という繰り返しを通して、表象レベルの像、論理的な像として実存し得るように発展していく流れを考察する際に、大きな示唆を与えるということである。簡単にいえば、論理的な像というものは、アリストテレスがいきなり形成できたのではなくて、ソクラテスからプラトンへと至る長い過程の成果を踏まえて、アリストテレスが必死の研鑽を経る中で、徐々に徐々に形成できていったものだということである。生命の歴史においては、「膜を形成するにも、形成しうるだけの実力を生命現象が培っていくことが必要であった」(同上)と説かれているが、まさにこの実力養成課程が、論理的な像を形成するということに関して、人類史上、アリストテレスの段階において持たれたのだということである。

 この、生命の歴史における生命現象から生命体への「発展の論理構造」、また人類史における事実レベルの像から論理レベルの像形成への「発展の論理構造」は、筆者の専門とする言語の歴史的創出過程に関しても大きなヒントになりそうである。すなわち、自分の認識を言語として表現できかかるかと思えばできない、言語化しかかっては消えるような長い過程を経ることによって、徐々に徐々に、単なる叫び声であったものが言語として創出されていくようになっていったというように考えられそうである。これは個体発生における言語の獲得過程についてもいえることであって、当初は単なる泣き声しか発することができなかった赤ちゃんが、「今、ママって言ったよね!」と周囲を驚かせるような声を発したかと思えば、またそうは言えなくなって、しかしまた言えたように思えるという過程を繰り返し経ることによって、徐々に言葉が話せるようになっていく過程についても同様だということである。こうした過程に関しては、「そうなれるだけの実力を培っていくというのはいかなることなのか、ここの過程を像として描ける頭脳にしていくことが」(pp.75-76)必須だとあるように、ヒントを参考に直観的なレベルで説いている段階から、より高い論理性のレベルで説けるように研鑽していく必要がある。

 さて、「発展の論理構造」ということに関して、もう1つ取り上げたいのは、かつて悠季先生が自身で説かれた論文を引用しつつ、その内容を前提として論を展開していっておられることである。我々もこのブログにおいて、毎日毎日論文を発表してきているわけであるが、例えば1年以上前に執筆した論文であれば、その執筆当初に活性化された頭脳でもって一気に書き記した内容に関する像が、相当程度薄らいでいってしまっているのである。しかし、認識の更なる発展のためには、これまでの研鑽の中身が凝縮されている論文については、その執筆時の頭脳活動を常識化すべく、そこを土台として向上していく必要があるのである。そのためには、折に触れてかつて自らが執筆した論文を読み返し、そのレベルにまで何度も何度も自分を引きかげてやる作業が重要になってくるのである。おそらく悠季先生は、こうした作業を繰り返しておられるために、新たしい論文を執筆するに際しても、かつて自分が説いた関連する内容に関して即座に引用して、そこから更なる論理展開をしていくことが可能なのだろうと思われる。こうした作業も目的意識的にしっかりと実践していく必要があろう。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作・論文の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月13日

一会員による『学城』第14号の感想(4/14)

(4)対象を弁証法的に捉える、対象と弁証法的に関わるとは如何なることか

 今回取り上げるのは、神庭順子先生の看護論論文である。前号までに取り上げられた事例に関して、今回は弁証法に焦点を当てて展開されていく。

 以下、本論文の著者名・タイトル・目次を掲載する。

神庭純子
現代看護教育に求められるもの(3)
―弁証法・認識論から説くナイチンゲール看護論―

 《目 次》
(一)看護学を学的に説く実力養成のためには「論理とは何か」を学ぶ必要がある
(二)対象を弁証法的に捉えるとはどういうことかを事例から説く
(三)対象を生成発展する存在としてみてとることが弁証法的な捉え方である
(四)変化の過程性をみてとることの重要性
(五)対象の弁証法性をみてとらない実践で失うものとは
(六)弁証法の「量質転化」の法則性から事例を説く
(七)弁証法の「対立物の相互浸透」の論理から事例を説く
(八)弁証法とは「自然・社会・精神の一般的な運動性に関する科学」であるとは

 本論文は、まず、論理とはある場所へのまともな、到着しやすい道順を示してくれるものだということが確認された後、今回は看護者の弁証法的な思考を具体的に解き明かしていくとされる。初めに「対象を弁証法的に捉える」とは、自分の専門に関わる出来事(対象)を必ず動き、変化、発展として見做すことだと説かれ、その例として、2つの物事(母親と子ども)を統一して考えようとすることや、対象を生成発展する存在としてみてとる(子どもの身体的、認識的発展過程、母親の関わりの過程をみてとる)ことなどが弁証法的だとされる。逆に、弁証法的な考え方をしないならば、変化の過程性を創り上げる関わりが求められている看護というものも否定されかねないと説かれる。また、対象を「量質転化」の法則からみてとるとして、楽しくおもちゃで遊んでいた子どもが「ママ」と声をあげて泣き出す過程的構造が展開される。次に、「対象と弁証法的に関わる」とはということに関して、保健師が「対立物の相互浸透」を意識して、母親には子育ての安心感と意欲を持ってもらえるよう、子どもには小さな誇りを育てたいとの思いから、言葉かけをしていった中身が説かれていく。合わせてこのことは、母親の認識と子供の認識との相互浸透、子どもの将来像と現実性との相互浸透なども図ることができることが説明される。そして結論として、事実を通して少しずつでも弁証法的なものの見方・考え方を理解していってほしいと述べられるのである。

 この論文ではまず、「発展の論理構造」の中心である弁証法が正面に据えて説かれていることに着目したい。以下、弁証法に関わって説かれている内容の引用である。

「弁証法は一言では、動くものを対象とする学問です。「動く」を論理的に説けば、ある「もの」、ある「こと」が、そこに「ある」と共に「ない」ということです。」(p.52)
「「動くもの」「動くこと」「変化するもの」「変化すること」「運動するもの」「運動すること」「発展するもの」「発展すること」「消えるもの」「消えること」「捉えどころがない」「捉えようがない」等々の現実を論理的に扱う学問を弁証法というのです。」(同上)

「弁証法とは「動く」「働く」「変わる」「ある」「生きる」「病む」「学ぶ」「運動する」「看護する」「介護する」「教育する」「仕事する」等々の動き、変化の中身を持つすべての世の中の出来事を扱う学問なのです。」(p.53)

「弁証法とは「自然・社会・精神の一般的な運動性に関する科学」であるといわれています。ここで「自然・社会・精神の」というのはどういうことかというと、この宇宙の、世界のありとあらゆるもの、森羅万象そのものすべて、ということであり、森羅万象そのものすべて、言い換えれば「万物」ということです。そのような万物(=ありとあらゆるもの)の「一般的な運動性に関する科学」である、ということは、この世界のありとあらゆるものは、一般的に運動しているという性質を持っているとして、その運動性に着目し、その過程的構造を体系的に明らかにする学問であるということです。」(p.65)

 このように、弁証法とは簡単にいえば、万物の運動に関する学問であるということになる。しかし、こうした知識的な理解をしただけでは、「弁証法的なものの見方・考え方」(p.66)をすることで、対象を正しく把握したり、対象を発展させるべく関わっていったりすることはできない。では「弁証法的なものの見方・考え方」とはどのようなことか、弁証法はどのように現実の問題の把握や関わりに役立つのか、これらの問題について、本論文では具体的な事例を通して説かれているのである。

 例えば、低出生体重児の親の集いでは、親が子育てを学んだり親同士が交流したりするのみならず、別室で子どもたちを預かることで子どもの発達を見守りアセスメントする機会にもなるという意味で、母親も子どもも双方を支援する取り組みになっていることが紹介されている。これは「あれかこれか」と別々に考えるのではなくて、「あれもこれも」という形で2つの物事を統一して考えようとしているという意味で弁証法的といえると説かれている。

 また別の例では、グループワークが終わって母親が子どものもとに戻ってきた場面において、保健師が母親と子どもに対してどのような言葉をかけるのか、その判断をした時にも弁証法的な見方・考え方に支えられて言葉を選んだことが説かれている。具体的には、「お母さん、お疲れ様。A君、バイバイ」(p.62)で終わってしまうのではなくて、母親に対しては「車で上手に遊べていましたよ。さっきまでは泣かずに頑張ってお母さんを待っていられたのですよ。何ともすごいことに、A君は自分でダイジョブ、ダイジョブと励ましているようでしたよ」(同上)と伝え、子どもには「車やおもちゃで遊んだね。泣かずに待っていられたね。お友達と過ごすことができたね」(p.63)と話しかけたのである。このことによって、「母親の認識にA君の育ちを専門職者に認めてもらっている安心感と実際に成長していることでの自信と次なる目標と励みを自ら描くことができる意欲とを創り出せるように」(p.64)意図したのであり、子どもに対しては「頑張りを認めることで自ら乗り越えたのだという小さな誇りを育てたい」(同上)と考えたのだということである。簡単にいえば、「認識の相互浸透による成長、発展を意識して関わった」(同上)という意味で、弁証法的な関わりであったと説かれているのである。

 以上のように、この論文では具体的な事例を通して、「弁証法的なものの見方・考え方」がどのようなものか、弁証法がどのように役立つのかが説かれているのであるが、もう1つ押さえておきたいことがある。それは、同じ事例を何度も何度も、焦点の当て方を少しずつ変えながら説かれているということに関してである。前々回は事例を事実的に説かれ、前回は認識論的な観点から説かれ、今回は弁証法という観点から事例が説かれている。こうした説き方自体が、何度も繰り返し同じ問題を丁寧に説いていくことで、看護とはどのようなものかの理解を深めていこうという意図があるのであり、「量質転化」的な説き方だという意味で弁証法的な説き方だといえるだろう。我々も、1つの事例、1つの概念などに関して、もう学び切ったとして終わってしまうのではなくて、繰り返し何度でも学んでいくことで、質的に把握の度合いを深めていく必要があると感じた次第である。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作・論文の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月12日

一会員による『学城』第14号の感想(3/14)

(3)発展のためには基礎をおろそかにしてはならない

 今回は北條翔鷹先生の実戦部隊飛翔隊の修業過程に関わっての論文を取り上げる。武道空手技を修得するための鍛錬とは如何なるものかが説かれていく論文となっている。

 本論文の著者名・タイトル・目次は以下である。

北條翔鷹
実戦部隊飛翔隊修業の総括小論(4)
―1983年〜1988年3月の実戦部隊飛翔隊合宿修業小論―

 《目 次》
一、武道空手体力養成のために学んだ柔道の「木立への打ち込み」
二、武道空手体力養成のために学んだ薩摩示現流を超える鍛錬
三、達人としての武技体得における姿形を覚えるとは

 本論文ではまず、立木蹴りと立木打ちの鍛錬が、武道空手体力養成のための基本であることが説かれ、これが講道館柔道の達人木村政彦の修行に由来すること、骨体力・筋体力鍛錬の重要な養成課程であり、かつ一撃必倒の武技創りとなっていったことが説かれる。さらに、この鍛錬が薩摩示現流の太刀斬り鍛錬(立木を木刀で叩く鍛錬)の武道空手版であるとして、薩摩示現流の立木打ちが説明され、その修練方法の意義や示現流の見事さが南郷先生の著作を引用しつつ明らかにされていく。そして、そうした他の武道に学ぶ場合、現象的にそれらを真似て取り入れるのではなくて、見事な重層的な構造を持った大発展レベルでの変革をなして学ぶ必要があることが説かれ、女子武道家の卵の実践が紹介される。すなわち、骨体力の強靭化や神経体力の自由自在な動きへ向けての発達、内臓体力の強靭化を目指して、炊事、洗濯、水汲み、薪割り、田畑の耕し、リヤカーの押し引きなどを行ったというのである。合わせて、武道空手基本武技の再措定をすべく日課として、武技の姿形を覚えこみ、覚えた姿形を自分のものにする鍛錬を繰り返し実践していったことが紹介され、その中で単なる現象的な姿形をとるということが問題なのではなく、武技としての構造をともなった上で姿形をとっていることが重要だということが思い知らされたと説かれるのである。

 『学城』第14号全体と貫くテーマである「発展の論理構造」に関して本論文で取り上げたいことは、「一撃必倒の武道空手技を修得するための鍛錬」(p.48)とは如何なる過程を持ったものであるのかということについてである。ここに関しては以下のように説かれている。

「我々飛翔体が目指す一撃必倒の武道空手技を修得するための鍛錬であったはずの“立木打ち、蹴り込み”や武道居合技斬り下ろしの鍛錬は、さらにその鍛錬がまともにできるようになるための“丸太土手打ち”がまともにできる必要があり、さらにそれがまともにできるようになるための修練の1つにもっと強烈な鍛錬があったのである。」(同上)

 すなわち、「一撃必倒の武道空手技を修得するための鍛錬」にはそれなりの段階があり、いきなり武道空手技を修練するものではないということである。ここで「強烈な鍛錬」とあるのは、明示はされていないものの、おそらくは「炊事、洗濯、水汲み、薪割り、田畑の耕し、以上のそれが実力をもつための、材木を積んでのリヤカーを押し引きしながらを、坂道の傍らの道なき道での坂道の上り下り」(pp.45-46)であり、「海岸では何時間もの砂浜での鍬の打ちこみであり、流木の引き回し等々であり、海のなかでは泳ぐのではなく、波に逆らっての四方八方への強烈な歩き(走り!)」(p.46)などのことであろう。こうした「通常の武道修練の若者が行う内容とはおそらくは大きく異なった」(p.45)鍛錬は、筋肉鍛錬などの皮相なことではなくて、骨体力の強靭化や神経体力の自由自在な動きへ向けての発達、内臓体力の強靭化を図るために実践されるものだと説かれている。

 ここで注意しなければならないことは、こうした鍛錬を行う武道修練の若者が、こんなものは武道でもなんでもないとして、ここを避けて通ろうとすることはあってはならないということである。こうした「強烈な鍛錬」を踏まえることなしには、決して武道の道を歩むことができないということである。このことは、学問の世界でも当てはまる論理である。すなわち、例えば言語学を志して出立したとしても、弁証法や認識論の基本的な用語や概念に関しては、繰り返し繰り返し学んでいく必要があるのであって、このことをおろそかにしては決して言語学の創出など不可能なのだということを肝に銘じておく必要があるのである。武道空手技の修得過程における「発展の論理構造」は、そのまま自らの学問構築過程の「発展の論理構造」であるとして、自らの問題としてしっかりと受け止める必要がある。

 さて、ではこうした基本的な鍛錬を積んだ後、諸々の鍛錬を経て、武道空手技の鍛錬に入ったとして、そこでも注意すべき点があると本論文では説かれている。それはまず、基本技の厳格なチェックや型修練を行っていく必要があるということである。そしてこうした鍛錬は、達人レベルに到達すればもはや「モデルチェンジは不可能なものであるから、最高の姿形で学ばなければならないからである」(p.47)と説かれているのである。つまり、歪んた形で基本技を覚えてしまっては、それを修正することが不可能であるから、基本技の型を常に正しいものとして創っていく努力が必要だということである。先の学問の世界の観点でいえば、基本的な用語や概念に関する学びを一応終え、本格的に言語学の学びを行っていく際にも、常に合わせて基本技の確認をしていく必要があるということであろう。

 そしてさらに注意すべき点として、「武道においては現象的な姿形をとるということが問題なのではなく、武技としての構造をともなった上で姿形をとっていることが重要だ」(同上)と述べられているのである。ではここでいう「武技としての構造をともなった上で姿形をとっている」とは一体どういうことであろうか。その後の展開を踏まえて考えると、それは実践を想定した練習を行う必要があるということだと思われる。ではこの「実戦を想定した練習」と「現象的な姿形をとる」練習とはどこがどう違うのであろうか。これも明確には説かれていないが、おそらくは認識が違うということではないかと思う。つまり、単に現象的な形をきちんと取れるように基本技の学びを行っていけばそれでいいというのではなくて、その修練を行う際には、常に実践を意識して、実戦さながらの緊張感や気合でもって修練を行う必要があるということだと思う。人間は認識的実在であるから、単なる実体的な動きということはあり得ないのであって、常に認識のあり方に規定された実体の運動であるから、実体と認識とを統一的に鍛えておく必要があるという指摘だと思われる。これも学問の世界ではどういうことになるのかを考えると、単に本から文字を暗記レベルで学ぶというのではなくて、そこに生き生きとした像を伴いながらの学び、例えば認識論の学びであれば、自分の頭脳活動を立派にするためにこその学びが必要だということであろう。

 以上、武道空手の上達過程に重ねる形で、学問の構築過程における認識の発展過程の論理構造を考察してきた。端的には、基本技は当初はもちろん、学びの一定の段階に至った後でも繰り返し確認していく必要があるし、単なる文字の暗記レベルの学びではなく、その文字から生き生きとした像を描きながらの学びが発展のためには必須であるということであった。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作・論文の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月11日

一会員による『学城』第14号の感想(2/14)

(2)「発展の論理構造」は「弁証法の構造」である

 今回から、『学城』第14号に掲載されている各論文について、順次その感想を述べていきたい。

 初めに取り上げるのは、第13号に掲載された本田克也先生の遺伝子の体系性、重層構造に関わっての論文をP江千史先生が解説される論文である。ここでは、人類の遺伝子はどのようなものか、それはどのように変化していくのかが説かれていく。

 まずは以下に、本論文の著者名・タイトル・目次を掲載する。

P江千史
「南郷継正講義」遺伝子の体系性から生命の世界の
発展性の帰結たる人間の遺伝子の重層構造を説く」
から発展の論理構造を学ぶ

 《目 次》
(T)はじめに
(U)生命体にとっての遺伝子とは何か
 (1) 講義録 人類の遺伝子は重層構造を把持している
 (2) 遺伝子とは何か
 (3) 生命体に遺伝子はなぜ必要か
 (4) 遺伝子は外界は勿論自らの内界そのものの情報をも吸収して変化する
 (5) 遺伝子は変化しないとする定説「セントラル・ドグマ」
 (6) 定説に対する新たな「動く遺伝子」説
 (7) 遺伝子と進化論の関わり
 (8) 遺伝子が変化することは「生命の歴史」が証明している
(V)人類の遺伝子は構造的体系性を把持した重層構造となっている
 (1) 遺伝子の歴史的発展過程
 (2) 遺伝子の構造的体系性を把持した重層構造とは
 (3) ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」
 (4) ヘッケルの遺伝子「終端付加の原理」の誤りを正す
(W)認識の変化が遺伝子の構造を変化させる
 (1) 人間の脳の機能としての認識=像の形成
 (2) 認識論から説く「思う」と「考える」の違い
 (3) 「考える」によって複雑化・重層化する遺伝子の中身
 (4) 認識を形成する脳の機能と実体との関係
 (5) 「生命の歴史」に見る脳の遺伝子の変化
(X)おわりに

 本論文では、南郷先生の講義が新たな弁証法の歴史を切り拓いたものであるとはどういうことかを明らかにし、この新たな弁証法の構造をしっかりと学びたいという決意がまずは述べられる。その上で、「人類の遺伝子は、構造的体系性を把持した重層構造というものになっている」という大事な中身が確認され、遺伝子=DNAではないということが強調される。さらに、生命体が自らを自らとして維持し、次世代へ伝えていくしくみとして、設計図レベルでその役割を担っていたものが遺伝子であること、遺伝子は従来考えられていたように不変のものではなく、変化してはならない構造と新たな情報を吸収して変化しなければならない構造の二重構造を持つものであることが説かれていく。ここから「人類の遺伝子は、構造的体系性を把持した重層構造というものになっている」の内容が説かれていく。まず、前の生命体の設計図の上に次の生命体の設計図がなぞるように上書きされること、また単細胞体×海綿体……という立体的重層構造が大切であると説かれる。そして、発展の論理構造が構造的体系性を把持した重層構造を持つものであることを理解しなければならないと述べられる。ここから議論はヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」、すなわち遺伝子「終端付加の原理」の批判へと移っていく。端的には、ヘッケルが前段階の生命体の遺伝子に新たな遺伝子が「+(プラス)」されると考えたことが誤りで、「前段階の遺伝子×(掛ける)新たな遺伝子」というように構造的体系性を把持しての立体的重層構造を有したものと把握しなければならなかったということである。論の展開はここからさらに、認識の変化が遺伝子の構造を変化させるということに関わっていく。このことに関わって、まずは認識とは何か、人間の脳とは何かが確認され、「思う」と「考える」の違いが説かれる。すなわち、「思う」は頭脳の中の認識を取り出して使うことであり、その像は過去、現在の像であるが、「考える」は思い描いている像を筋道を立てて何とか動かした未来的像だというのである。そして「考える」という労苦を続けていくことで遺伝子が複雑化・重層化してくるというのである。最後に結論として、変化し続ける外界に適応して、自らを維持していくために、変化の情報を吸収し、自らを変化させる設計図を創り直し続けているのが遺伝子であることが説かれるのである。

 本論文に関してまず述べておく必要があることは、『学城』第14号を貫くテーマとして設定した「発展の論理構造」というものは、「新たな弁証法の構造」(p.9)のことを意味しているということである。p.19には「唯物論を把持した弁証法の新たな構造、すなわち生成発展の論理構造」という文言もある。これはどういうことかというと、簡単には、弁証法は世界の全ての事物・事象に関わっての生成発展に関する学問であるということである。では、ここに「新たな」と付加されているのはどういうことか。それは、南郷継正先生による「遺伝子の体系性から生命の世界の発展性の帰結たる人間の遺伝子の重層構造を説く」という講義によって、弁証法の新たな歴史が切り拓かれたのであって、その新たな弁証法の構造をしっかりと学び取る必要があるということである。南郷先生はこの講義で、「遺伝子の構造的体系性を把持した重層構造」(p.23)に焦点を当てて説いておられるのだが、これは「一般性としての発展の論理構造」(同上)をも学べる中身を持っているということである。言葉を変えていえば、生命の歴史に発展の論理構造を学ぶ、生命の歴史から弁証法を学ぶ、ということによって、どんな事物・事象であってもその発展の論理構造を捉えることができるということである。

 では、「遺伝子の構造的体系性を把持した重層構造」とはどのようなものであろうか。ここを理解するために、P江先生は南郷先生の講義録から以下の2つの部分を引用しておられる。

「歴史を経るにつれて、(遺伝子の)その単細胞的紋様の設計図の上に海綿的設計図がなぞるようにして上書きされていくようになる」(p.20)

「結果としてのこの遺伝子を歴史的に分析すれば、単細胞体×海綿体……×哺乳類体×猿類体としての壮大かつ華麗なる体系性的構造を把持しての立体的重層構造となる」(同上)

 そして、この中で重要なのは、「上書き」という文言と「×(掛ける)」という文言であると説かれる。「上書き」に関しては、パソコンの文章作成ソフトでの「上書き」保存や、板敷きを何枚にも重ね合せたり板に何重ものペンキを上塗りしたりするイメージで説明しておられる。また「×(掛ける)」については、単に「+(足す)」という量的な変化ではなくて、質的な変化を伴うものだと説明されている。そして結論的には、「体系的に発展するということは、前段階の内実を自己の内に持たなければならないが、しかしそれはそのままに取り入れればよいというものではなくて、それを取り入れながらしっかりと自己化し、かつ変化させる実力を有することによって、前段階とは違った段階へと自らを変えていくということ」(p.22)だと説かれている。こうした「発展の論理構造」に関するイメージはしっかりと創っておく必要があると感じた。

 ここで筆者の専門分野である言語に関わって、少しだけ触れておきたい問題がある。それは、人間が幼少期に言語の知識を獲得していくに際して、周りの人間が話している日常の言葉以上の豊富で複雑な言葉を理解したり話したりできるようになるのは何故かという問題である。この問題の本格的な解答については、科学的な認識論(像論)をしっかりと踏まえて行う必要があると思うが、少なくとも、上記の「発展の論理構造」、特に「×(掛ける)」ということはどのような中身を持っているのかをヒントにすれば、筋を通した解答ができるのではないか。また、「単細胞体でしかなかった場合の設計図であった遺伝子の構造は、海綿体の誕生(進化)によって、単細胞体の遺伝子がより簡略化していき、その分海綿体の遺伝子の重要部分がより見事な重層構造化を果たしていく」(同上)という部分などを考察していくことも大きな手掛かりとなりそうである。このような検討を重ねていけば、生成文法でいわれている、複雑な言語知識を獲得可能にしている「言語機能」なる「心的器官」の存在に問題の解決を委ねてしまうような、観念論的・形而上学的把握に陥ることはなくなるであろう。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作・論文の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月10日

一会員による『学城』第14号の感想(1/14)

《目 次》(予定)

(1)「発展の論理構造」が『学城』第14号の全体を貫くキーワードである
(2)「発展の論理構造」は「弁証法の構造」である
(3)発展のためには基礎をおろそかにしてはならない
(4)対象を弁証法的に捉える、対象と弁証法的に関わるとは如何なることか
(5)「発展の論理構造」は生命の歴史を媒介とする必要がある
(6)発展は前段階を実力と化すことによって可能となる
(7)部分を全体に位置づけることが認識の発展につながっていく
(8)実力向上のための学びには順序がある
(9)生命の歴史の論理と人類の系統発生の歴史の論理が発展のための契機である
(10)発展のためにはそれぞれの専門分野の原点を歴史的に辿る必要がある
(11)「素直さ」=「否定の否定」は発展のために必須である
(12)「いのちの歴史」から「発展の論理構造」の具体を学ぶ
(13)「発展の論理構造」を自分のこととして把握する必要がある
(14)「発展の論理構造」を文字として捉えるのではなく、像として主体的に描いていく必要がある


−−−−−−−−−−−−−−−

(1)「発展の論理構造」が『学城』第14号の全体を貫くキーワードである

 2016年12月17日、遂に『学城』第14号が発刊された。

 前号、前々号は2号とも2015年に発刊されたため、今後もこのペースでと期待していたのだが、14号については、何とか2016年中に世に出たといったところであった。しかし待ちに待った分、また前号から1年以上経っている分、とても楽しみに読んでいくことができたし、内容が非常に濃いものになっていて、非常に勉強になった思いもある。特に前号の冒頭論文である、本田克也「「南郷継正講義」 遺伝子の体系性から生命の世界の発展性の帰結たる人間の遺伝子の重層構造を説く(1)」に関しては、非常に難解であったとの思いがあったのであるが、14号においては2つの論文においてこれが取り上げられていて解説されているのである。これらの解説をもとにして、改めて前号の論文を読み込んでいくことで、大きく認識を発展させていきたいと思っているところである。

 さて、今回も第14号全体に貫かれているであろうテーマを設定し、そのテーマを中心に据えて、各論文の感想を認めていきたいと思う。今回の第14号では、各論文において「発展の論理構造」が説かれているのではないか、これが筆者の読後感である。なぜそのように感じたのか。各論文の中身については次回以降、詳細に見ていくとして、ここではいつものように、「巻頭言」と「編集後記」の文言を見ておくことにしよう。まずは「巻頭言」である。

 「巻頭言」では、学問を体系化するための実力養成の土台として、弁証法的な論理能力を培う必要があるとした上で、本物の学的弁証法の実力の起源として、アリストテレスに着目されていくのである。「当時のアリストテレスの頭脳は事実レベルの反映像の並列的・経過的形成から、ようやくにしてそれらを一体化し始めるべき表象レベルの像形成へと二重化しかかる途上」(p.1)であったのであり、「学的将来として描かれるべき論理的な像へとしての出発点としての像を、描き始めていく途上」(同上)だったと説かれている。そして、そうした像を何とか表現しようとして、「ト・ティ・エーン・エイナイ」という言葉を生み出したというのである。これがアリストテレス弁証法の原基形態となり、学的弁証法の歴史的原基形態なのだと説かれているのである。

 ここで確認しておくべきことは、ある物事がどのようなものであるのかをしっかりと押さえるためには、その原点から、どのような発展を遂げた結果として、現在のあり方があるのかを把握する必要があるということである。このことは当然、弁証法についても当てはまるのであって、その原点からの発展の第一歩がこの「巻頭言」で説かれているということである。この原点からの第一歩という過程が、発展の論理構造を問う場合にはもっとも難しい部分であって、生命の歴史でいえば、生命現象が如何にして自分自身の体を持った単細胞生命体に発展したのかを説くことに等しい論理構造が、弁証法に関してこの「巻頭言」で説かれているのではないかと感じたのである。

 では「編集後記」に関してはどうか。ここでは以下のように説かれている。

「この生命の歴史を再措定的に学び直す中で強く考えさせられたことは、生命の歴史構築の過程で明らかとなってきた、森羅万象として現象してきている万物の生生・生成発展の重層構造の論理性ということである。万物の生生・生成発展してきた体系性としての流れを一般性的過程として把握しつつ、その一般性を論理的に押さえつつ、いかに生生・生成が体系的であったか、というところから見つめ直し、辿り返していく、生生・生成していくにもどれほどの体系的過程性が必要だったのかを説く努力をし続けていくことの重要性を、以前にも増して感じるようになってきた。この頭脳活動の営為なしには、社会の歴史へも、そして精神の歴史へも究明の道程が視えてこない筈である。」(p.191)

 ここでは、生命の歴史から発展の論理構造を学び直していく作業を続けていくことで、その発展の論理構造には重層構造があり体系性があるということが次第次第に分かってきて、その重層構造や体系性をこそしっかりと説き続けていくことが論理能力を向上させるためには必須であり、また自然の歴史から社会の歴史、精神の歴史を究明していく大本の実力ともなるということが説かれている。つまり端的には、「巻頭言」で説かれている弁証法の原基形態、そこからの発展の論理構造を把握するためには、やはりまずは生命の歴史の発展の論理構造にしっかりと学び続けていく必要があるということである。こうした過程を経てこそ、真の弁証法を自分のものとすることが可能となっていくのであって、さらに自らの頭脳活動の実力を「発展の論理構造」に沿った形で向上させていくことが可能となっていくのである。

 以上を踏まえて、本稿では次回以降、14号に掲載されている12本の論文を順次読んでいき、特に「発展の論理構造」とはどのようなものかを把握することを目的として、その感想を認めていくことにしたい。その際、発展の「重層構造」、「体系的過程性」ということに着目して、発展の内実を深く捉えていきたいと思う。

 では最後に、『学城』第14号の全体の目次を以下にお示しする。

学 城 (学問への道)  第14号


◎ 南郷継正   巻頭言 ― 「アリストテレス弁証法」 の起源を解く

◎ 瀬江千史   「〔南郷継正講義〕 遺伝子の体系性から生命の世界の発展性の帰結たる人間の遺伝子の重層構造を説く」 から発展の論理構造を学ぶ

◎ 北條翔鷹   実戦部隊飛翔隊修業の総括小論 (4)
           ― 1983年〜1988年3月の実戦部隊飛翔隊合宿修業小論

◎ 神庭純子   現代看護教育に求められるもの (3)
           ― 弁証法・認識論から説くナイチンゲール看護論

◎ 悠季真理   哲学・論理学研究余滴 (5)

◎ 北嶋  淳   人間一般から説く障害児教育とは何か (8)
  志垣  司   ― 障害児教育の科学的な実践理論を問う

◎ 瀬江千史   「医学原論」 講義 (12)
           ― 時代が求める医学の復権

◎ 瀬江千史   新・医学教育 概論 (3)
  本田克也   ― 医学生・看護学生に学び方を語る
  小田康友
  菅野幸子

◎ 聖  瞳子   医療における理論的実践とは何か
  高遠雅志   ― 初期研修医に症例の見方、考え方の筋道を
  九條  静   説く
  北條  亮   〈 第6回 〉 マイコプラズマ肺炎2

◎ 本田克也   法医学への入門 (3)
  矢野志津枝  ― 医学生のための法医学原論
  小田康友
  菅野幸子

◎ 朝霧華刃   唯物論の歴史を学ぶ (2)

◎ 橘  美伽   武道空手上達のための人間体を創る 「食事」 とは何か (3)
           ― 遺伝子としての食事を考える

◎ 南郷継正   武道哲学講義 〔11〕
           ― 学問とはいわば世界地図を描くことである (2008年冬期ゼミ講義詳説)

◎ 悠季真理   編集後記
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作・論文の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月09日

システムズアプローチを弁証法から説く(5/5)

(5)システムズアプローチは弁証法性を踏まえている

 本稿は,天才セラピストと称されている東豊が採用しているシステムズアプローチを俎上に載せ,なぜこの方法でセラピーが奏効するのかを,弁証法の観点から説いていく論考でした。システムズアプローチとは,「システムを念頭に置いた心理・社会的援助の総称」(東豊『セラピスト入門』p.5)のことであり,部分はシステムのあり方に規定され,システムのあり方は部分に規定されているという特徴を活かして介入するセラピーでした。ここで,これまでの流れを振り返っておきたいと思います。

 はじめに,システムズアプローチの前提となっているものの見方考え方について検討しました。それは,円環的思考法と呼ばれており,一方通行の直線的思考法とは違い,「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。」などと考える考え方,「事象Aは事象Bの原因でもあり,結果でもある(事象Bは事象Aの原因でもあり,結果でもある)」というように,双方向的な見方をする考え方のことでした。このような円環的思考法は,物事を矛盾として,対立物の統一として捉える見方であり,非常に弁証法的な見方といってよいのでした。システムズアプローチでは,このような対象の弁証法性を的確に捉えられるような見方が採用されているからこそ,対象をきちんととらえられ,その対象に適切に働きかけていくことが可能となっているのだと説きました。もう一つ,コンテンツ(内容)よりもコンテクスト(前後関係,文脈)を重視するというシステムズアプローチの見方も検討しました。これは,コンテンツに囚われることなく,コンテクストに目を向け,悪循環のパターン(コミュニケーションの連鎖)を見出そうとするものの見方のことです。これは,システムの部分同士や部分と全体のつながりを見ようとする見方であり,全体を踏まえることによって部分だけを見ていたのでは見えてこなかった対立する性質を浮き彫りにする見方でもあるという意味で,非常に弁証法的な見方といってよいのでした。このように,システムズアプローチが奏効する背景には,弁証法的なものの見方があるのでした。

 次に,システムズアプローチの代表的・典型的技法の一つである「ジョイニング」を取り上げて,これを弁証法の観点から説きました。ジョイニングとはお仲間に入れていただくということであり,システムに参加する,とけ込むことを意味していました。東豊は,ジョイニングがすべてであり,ジョイニングができないと,他の指導は無意味になるし,ジョイニングのセンスがないと援助者にはなれないと断言するほど,ジョイニングを重視しているのでした。では,どのような操作をすればジョイニングができるのでしょうか。東豊は,ジョイニングを実現するためには,相手のムードや雰囲気,動き,話の内容,ルールに合わせなければならないと説いていました。これらは要するに,言語表現・非言語表現を媒介として,当該のシステムの諸々の社会的認識を見極め,セラピスト自身もその社会的認識を有しているものとしてふるまうことであるといえると説きました。セラピストは,当該システムの多様性・変化性を見抜き,それに合わせてこちらも変化していくという弁証法的な運動・変化が求められるのでした。一般に,ある対象をコントロールしたり思い通りに変化させたりしたい場合,まずはその対象の性質を見抜き,それに合わせてこちらが動いていくことが必要となりますが,システムズアプローチで家族システムを扱う場合も,論理的には全く同様のことがいえるのでした。すなわち,セラピストは,何か悪循環に陥っている家族システムをコントロールし,思い通りに変化させたいわけですが,そのためには,それぞれの家族システムの性質=社会的認識をしっかりと見極め,それに合わせてこちらが動いていく必要があるのでした。ジョイニングがそのまま変化に向けた介入になりうるということを,事例を通して検討したあと,「問題」と思われるようなものでも,システムズアプローチにおいてはそれも「資源」であるととらえて,活用していくという点,および,ジョイニングに際しては,一方に肩入れしないように,非敵対的矛盾を実現するとともに解決するようなポジショニングを常に意識する必要があるという,ジョイニングに関わるあと2つの弁証法的側面にも触れました。

 最後に,もう一つの代表的・典型的技法である「リフレーミング」を取り上げて,これを弁証法の観点から論じました。「フレーム」(frame:枠あるいは枠組み)とは,物事の受け止め方,意味づけの仕方のことであり,リフレーミングとはクライエントがすでに所持しているフレームを変える作業であり,面接のゴールに至る第一歩であるとされていました。リフレーミングの中でもよく知られているものに,ポジティブ・リフレーミング(positive reframing:肯定的意味づけ)があり,これは否定的に見えることの中に肯定的側面を発見することであると東豊の本では説かれていたのでした。まず,「母親が口うるさいせいで,子どもが反抗的になった」というフレームを,「子どもが反抗的なせいで,母親が口うるさくなった」とリフレーミングしたり,「夫が家事を何もしないせいで,妻がすべてをやらないといけない」というフレームを,「妻が全部やってしまうせいで,夫は何もしない」とリフレーミングしたりする単純なリフレーミングについて,弁証法の観点から考察しました。これらはすべて,現実のもつ二面性,すなわち矛盾をそれなりに捉えたものであり,これらのリフレーミングが可能な現実的な根拠は,現実のもつ弁証法性にあると指摘しました。弁証法の教科書である『弁証法はどういう科学か』にも,「因果関係の構造」として,原因と結果には直接の統一があることや結果の内部にも原因があることが指摘されていると紹介しました。問題は役に立っているので解決すべきではないとリフレーミングするようなポジティブ・リフレーミングについても検討しました。二つの事例を紹介し,そこでは,問題とされている症状は,対立する性格(=システム内の他の問題を解決する機能)も有していて,弁証法的な存在であるがゆえに,ポジティブ・リフレーミングによって,180度異なった見方をすることが可能になったのだと説きました。また,人間の認識は,受動的であると同時に能動的であるという矛盾した存在であるから,見たいようにものごとを見る傾向があるのであり,ポジティブ・リフレーミングはこのような認識の弁証法性を活用した方法であるとも指摘しました。

 以上要するに,システムズアプローチが前提としているものの見方は非常に弁証法的であり,システムズアプローチが用いる代表的・典型的技法であるジョイニングやリフレーミングも,現実の弁証法性を踏まえたものになっているということです。弁証法的なものの見方が前提となっているために,現実の運動・変化やつながりを的確に捉えることができ,技法が弁証法性を踏まえているために,現実の弁証法性に見合った形で介入でき,思い通りに変化させることができるのだということです。東豊のセラピーが「天才的」と称されるのも,システムズアプローチという方法論を採ることによって,無意識的にではあれ,弁証法的な見立てと介入を行っているからこそ,ということもいえるでしょう。弁証法の教科書には,「現実の世界が弁証法的な性格を持っているのですから,現実ととりくんでそのありかたを正しくつかんだ著述には,多かれ少なかれ弁証法が顔をのぞかせています」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.244)と説かれていますが,システムズアプローチはその非常に典型的な実例だといってもいいでしょう。

 東豊は,非常に教育熱心なことでも知られています。大学院生に対する指導の一端は東豊『セラピスト誕生』などにも描かれていますが,そこで描かれているように,ロールプレイによる徹底した指導によって,院生はシステムズアプローチを学ぶと直接に,それとは自覚せずに,弁証法をも習得していくのだといえるでしょう。たとえば,物事をつながりで見ること,物事の両面性,矛盾を見ること,相手の変化性に合わせてこちらも変化すること,問いかけを変えればものの見方が変わることなどを,システムズアプローチと直接に,学んでいくのです。そうすることによって,弁証法の基本がある程度身につき,その弁証法の実力でもってセラピーを行うからこそ,面接上手になっていくのだと考えられます。

 リフレーミングのところで紹介したように,問題を問題として捉えずに,かえってそれが役に立っているのであるから,その問題を解消しようとすべきではない,とするリフレーミングは,別の角度から見ると,「逆説的介入(パラドックスの技法)」などと呼ばれることもあります。問題を解決しに来ているクライエントに,問題は解決すべきではないと教示して,それによって,実は問題の解決を図ろうとしているからこそ「逆説(パラドックス)」なのです。これも弁証法的に捉えれば,回り道によって問題解決を図ろうとしているわけであり,「否定の否定の法則」を使ったものだということもできるでしょう。

 また,システムズアプローチでは,家族システムにセラピストがジョイニングして,セラピストをも構成員として加えた「治療システム」の中でセラピストが介入し,従来の相互作用とは違った相互作用をもたらすようにします。すなわち,何らかの悪循環を好循環に変えるわけです。そうして,セラピストが抜けた家族システムにおいても,その好循環が維持するようにするのです。これは弁証法的に捉え返せば,家族システムと治療システムの相互浸透といえるのであり,治療システムの好循環が家族システムに浸透していくことを狙うのがセラピーである,ということがいえるでしょう。

 このように,連載2〜4回で見た以外にも,システムズアプローチは弁証法的な発想がちりばめられており,弁証法的な介入を行って成果を上げているといえるのです。

 本稿では,東豊が何故天才と称されるのかという問題意識のもと,彼が採用しているシステムズアプローチの優れた側面に焦点を当てて,これまで論じてきました。それでは,システムズアプローチを学べば,弁証法もしっかり勉強できて,面接上手になっていうことなしなのかというと,そういうわけでもありません。システムズアプローチには,大きな落とし穴があると筆者は考えています。詳細はまた別の機会に説きたいと思いますが,以下で簡単に触れておきます。

 結論から言いますと,システムズアプローチは観念論的な世界観に立っている点が大きな欠陥だといえます。観念論に陥ってしまっているのは,システムズアプローチが「社会構成主義」に依拠しているからです。東豊は次のように説いています。

「いかに真実のようにみえても,それはひとつのフレームに過ぎない。そして,多くの人が同じフレームを心に描いて言葉にすることで,社会的に存在感をもつフレームができあがる。社会構成主義ですね。だから,リフレーミングとは,脱構築,あるいは物語の書き換えのための作業であるといってもいいのです。」(東豊『リフレーミングの秘訣』p.95)


 ここで説かれていることは,真実なんてものは存在せず,社会的な現象はすべてフレーム(受け止め方,意味づけの仕方)によって創られる,ということです。認識が社会を構成するという主張なので,これは観念論ということになります。現実には無限に多様な性質があるから,現実はフレーム次第で異なって認識される,というのであれば唯物論なのですが,そこから行き過ぎて,フレーム次第で現実はいかようにも創られるとしてしまうと,観念論に転落したことになってしまいます。

 ではなぜ観念論ではだめなのでしょうか。このあたりも別稿で詳細に論じたいところではありますが,簡単に説けば,一つには,観念論では,人間の認識は初めから「ある」とされているので,認識の生成発展の必然性が解けなくなってしまうからです。われわれの行う心理臨床は,端的にいえば相手の認識を変えるための働きかけですから,その認識の生成発展の必然性を掴むことがはじめからできないような世界観に立っていては,限界が来るのは論理的に明らかです。

 もう一つ,観念論は宗教と親近性がありますので,宗教の方に流れてしまう可能性が高いのです。実際,東豊は近年,神様やサムシング・グレートなるものに対する信仰を著作で公表しています。そしてセラピストは「他力本願」であるべきだと力説しているのです(東豊『リフレーミングの秘訣』p.46)。論理的には,神様の力を認めれば認めるほど,人間の力を不当に低く見積もることになりますので,セラピストの努力や実力を不当に低く評価したり,最悪の場合,セラピーで相手を力づけるのではなく,相手を無力なものとして扱う可能性すら生まれてくるといえるでしょう。

 システムズアプローチの限界について,もう一つ別の側面を指摘しておくならば,弁証法性を踏まえているとはいえ,文化遺産としての弁証法をしっかりと学んで吸収しているというわけではない点も挙げられます。認識論についても同様のことがいえます。要するに,哲学の遺産である弁証法や認識論といった,人類の文化遺産をしっかりと受け継いで成立したものではないために,運動・変化やつながり,それに人間の認識といったことについて,法則性レベルの把握が弱く,連載第4回の最後にも触れたように,偶然に左右される側面が大きくなってしまうのです。

 では,以上のように観念論に落ち込まずに,しっかりと弁証法的な介入ができるようになるためには,どうすればいいでしょうか。それは,システムズアプローチを学ぶにしても,唯物論的弁証法と科学的認識論の学びを踏まえることです。また,より根本的には,唯物論的弁証法と科学的認識論を心理療法の領域に具体化した新しい理論体系を創っていく必要があるといえるでしょう。それこそ,筆者が目指しているものであり,唯物論的弁証法と科学的認識論をこれまで学んできた臨床心理士である筆者の歴史的な使命であるといます。

 このような使命を全うできるように,これからも弁証法・認識論,および心理療法の研鑽を積んでいくことを決意して,本稿を終えたいと思います。

(了)

posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 弁証法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月08日

システムズアプローチを弁証法から説く(4/5)

(4)リフレーミングの根拠は現実の弁証法性にある

 前回は,システムズアプローチの代表的・典型的技法のひとつであるジョイニングを取り上げ,それを弁証法の観点から考察しました。ジョイニングとは,お仲間にさせていただくことですが,そのためには,当該のシステムの社会的認識の変化性に合わせて,セラピストも弁証法的に変化していく必要があるのであり,そうしてこそ,対象となるシステムを思い通りにコントロールできるのだと説きました。また,ジョイニングには,「問題」も「資源」として捉える対立物の統一的な発想が含まれていること,ジョイニングの際には一方のみに味方せずに,非敵対的矛盾を実現するとともに解決するような形態を創造しながら,システム全体に合わせていく必要があることにも触れました。

 今回は,システムズアプローチのもう一つの代表的・典型的技法である「リフレーミング」を取り上げて,これを弁証法の観点から論じたいと思います。

 まず,リフレーミングとは何かを説明するために,「フレーム」について説明します。システムズアプローチにおいては,ものごとは諸要素の円環的な相互作用によって成り立っていると考えます。この相互作用をどのように切り取って認識するかによって,ものごとに対する受け止め方,意味づけの仕方は変わります。たとえば,「夫の帰宅が遅いせいで,妻が不満をいう」というのと,「妻が不満をいうせいで,夫の帰宅が遅くなる」というのは,どちらも現実の相互作用の一面をとらえたものであり,両方とも正しいと考えられます。しかし,前者のように切り取れば,夫が悪いことになり,後者のように切り取れば,妻が悪いということになります。このように,現実の切り取り方によって,ものごとの受け止め方,意味づけの仕方は変わるのです。このような受け止め方,意味づけの仕方を総称して,システムズアプローチにおいては「フレーム」(frame:枠あるいは枠組み)と呼ぶのです。

 では,リフレーミングとは何でしょうか。東豊は次のように説明しています。

「前述した通り,システムズアプローチを専門とするセラピストは,コミュニケーションの相互作用を使って様々な変化を作る職人です。ゴールとしては,クライエントの心身の変化であったり家族の変化であったりするのですが,多くの場合,その第一歩はクライエントのもつフレームを変化させることであるといえます。クライエントがすでに所持しているフレームを変える作業,それがリフレーミングです。セラピストは面接中,様々なレベルで,様々な方法を駆使してリフレーミングを行います。」(p.18)


「リフレーミングの中でもよく知られているものに,ポジティブ・リフレーミング(positive reframing:肯定的意味づけ)があります。これは,クライエントのもつ否定的なフレームを,セラピストが肯定的な形に言い換えるものです。

 「ものは言いよう」と一般にいわれるように,どのように否定的にみえることでも,その肯定的な側面を発見すること(引き出すこと)は容易です。たとえばあるクライエントが,「(母・妻である)私は病気で家事ができないので,夫や子どもたちにやらせてしまっているのです」と述べたとします。これに対してセラピストは,「それは病気ではなく,家事をしないことで夫と子どもの協力関係を作ろうとする,あなたの無意識の知恵なのです」とポジティブ・リフレーミングすることができるでしょう。あるいは,家族間のコミュニケーションにおいて,「父親と子どもが口論していると,母親が口を挟む。すると父親がトーン・ダウンし,今度は子どもと母親の口論が始まる」というパターンがみられたとします。この場合,これを「母親が父親と子どものコミュニケーションの形成を邪魔している」とみるのではなく,「母親が父親と子どもの関係を守っている」とポジティブ・リフレーミングすることができるわけです。」(pp.19-20)


 ここでは,リフレーミングとはクライエントがすでに所持しているフレームを変える作業であり,面接のゴールに至る第一歩であるとされています。そして,ポジティブ・リフレーミングとは,否定的に見えることの中に肯定的側面を発見することであるとして,その具体例がいくつか挙げられています。

 では,このようなリフレーミングという技法を,弁証法の観点から検討すると,どのようなことがいえるでしょうか。まず,もっとも単純なリフレーミングを取り上げてみましょう。それは,原因と結果を入れ替えるリフレーミングです。先ほど取り上げた例でいうと,「夫の帰宅が遅いせいで,妻が不満をいう」というのを,「妻が不満をいうせいで,夫の帰宅が遅くなる」と言い換えるものです。他にも,「母親が口うるさいせいで,子どもが反抗的になった」というフレームを,「子どもが反抗的なせいで,母親が口うるさくなった」とリフレーミングしたり,「夫が家事を何もしないせいで,妻がすべてをやらないといけない」というフレームを,「妻が全部やってしまうせいで,夫は何もしない」とリフレーミングしたりするのも,原因と結果を入れ替えた単純なリフレーミングの例です。

 これらはすべて,現実のもつ二面性,すなわち矛盾をそれなりに捉えたものであり,これらのリフレーミングが可能な現実的な根拠は,現実のもつ弁証法性にあるということができます。連載第2回では,システムズアプローチが有する円環的思考法について紹介しましたが,そもそも現実は,いろいろな要素の相互作用として成立していますので,一面を切り取れば原因ともなり,別の一面から見れば結果ともなる,ということがいえるわけです。このように非常に弁証法的なものの見方がシステムズアプローチの前提にあるので,その見方を技法として取り出したものがリフレーミングである,ということができるでしょう。

 原因と結果については,弁証法の教科書にも「因果関係の構造」として,次のように説かれています。

「科学は原因と結果とのつながり,いわゆる因果性というものを問題にします。池に石を投げると波紋がおこる,波紋がおこるとハスの花がゆれる,──これが因果関係です。石が原因,波紋が結果,原因が結果を媒介する,これが常識です。しかし因果のつながりを考えると,波紋という結果そのものは,同時にまたハスの花をゆれさせる原因ともなっているわけで,ここに結果と原因との直接の統一があります。さらにつっこんで考えてみると,水の波紋が石の結果だと一方的にきめてしまうこともできなくなります。もしこれが氷なら,波紋は起らないでしょう。水自身,石によって波紋を起すような性質を持っていたことが,やはり波紋の原因の一つであると考えなければならなくなります。外部の原因から結果が媒介されるだけでなく,結果として生れる現象の内部にもまた原因のあることを考えなければならなくなります。」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.93)


 すなわち,原因が結果を媒介するだけではなく,その結果は,また次の結果の原因にもなるという直接の統一があり,さらに外部の原因から結果が媒介されるだけではなく,結果として生れる現象の内部にもまた原因があるのである,ということです。システムズアプローチでは,ここまで論理的にきちんととらえているわけではないとはいえ,あるものは原因でもあり結果でもある,というように非常に素朴ながら弁証法的な見方をするように促されているわけです。すなわち,現実の弁証法性を踏まえているからこそ,リフレーミングが可能となり,それによってシステム全体の変化も引き起こすことができるのです。

 次に,ポジティブ・リフレーミングについても見ていきましょう。東豊の本に登場するポジティブ・リフレーミングの代表格といえるのは,問題をポジティブに捉え返すというものです。すなわち,ある問題に困っているシステムに対して,「問題は役に立っているので解決すべきではない」とリフレーミングするのです。具体的にはどういうことでしょうか。東豊『セラピスト入門』で紹介されている事例を2つ紹介しましょう。

 まず,夜尿に困っている小学生の事例(p.198〜)です。この小学生の母親は長年,姑との関係に悩んでおり,涙の日々であり,夫も仕事にいちずで,相談に乗ってくれなかったが,息子の夜尿の問題が生じてからは,姑のことで涙している暇もなく,また息子のことで姑とともに心配するという共同作業ができるようになったばかりでなく,夫も相談に乗ってくれるようになって,夫婦関係も安泰になったということです。こういった情報を掴んだセラピストは,両親と息子を前にして,いかに夜尿という症状が家族の役になっているかを説明し,息子ほどの家族思いはいない,息子のオシッコこそ,かつての母親の涙である(笑),などと説いたというのです。この面接後,夜尿が急速に改善したということです。

 次の事例は,女子大生がうつになった事例(p.200〜)です。実は,この女子大生には姉がいたのですが,1年前にスキー場で亡くなっていたのです。それ以来,母親のうつが始まり,毎日毎日泣き暮らしていたということです。父親もどう支えていいのか分からずに酒におぼれる日々だったそうです。ところが,この女子大生がうつ病を発症したのちは,母親は世話のために泣いていられなくなり,父親も,生きている者を心配している母親に対しては援助しやすくなり,酒もピタッとやめたといいます。こういった情報収集をした後,セラピストは,彼女がいかに家族思いで,いかに症状が家族の役に立っているかを,もてる演技力をすべて注いで語っていきました。面接の三週間後,彼女のうつは回復し,すっかり普通の女子大生に戻っていたということです。

 この二つの事例でも,問題とされている症状は,対立する性格も有していて,弁証法的な存在であるがゆえに,ポジティブ・リフレーミングによって,180度異なった見方をすることが可能になったのだ,ということがいえるでしょう。また,人間の認識は,受動的であると同時に能動的であるという矛盾した存在であるから,見たいようにものごとを見る傾向があります。このことは,「人間には,自分のもっている癖の通りにしかものごとがみえない(みようとしない)という習性があるのかもしれません」(東豊『リフレーミングの秘訣』pp.13-14)という形で触れています。ポジティブ・リフレーミングはこのような,受動的であると同時に能動的であるという認識の弁証法性をプラスの方向へと活用した方法である,ということもいえるでしょう。

 さらに,システム構成員のフレームを変えることによって,まわりまわって症状が消失することを狙うというのも,ものごとはつながりあっており,そのつながりを活かしているという意味で,弁証法的な介入の方法だということもいえます。リフレーミングでは,システム構成員の問いかけ像を変えることによって,反映を変え,反映(=認識)が変わることで,認識に規定されている個々人の言動が変わり,それによって構成員間のコミュニケーションが変わり,それによって社会的認識が変わり,していく中で,当初の「問題」の維持要因が変わっていくのでしょう。これによって問題が成り立っていたメカニズムが崩れることになり,問題が消失していくのだと考えられます。これがどのようなつながりになっているのかについては,システムズアプローチでは問題にしない(できない)ので,介入が奏効するかはある程度偶然に左右されるといってもいいのですが,リフレーミングをくり返すことによって,かなりの確率で「問題」とされていたことの維持要因が変化して,最終的に問題が解消することになるのです。

 以上見てきたように,リフレーミングは,現実のもつ弁証法性を根拠として,さらに認識の弁証法性を活用して成り立つ技法であり,現実のつながりを前提としているという意味での,非常に弁証法的な技法だということができるのです。

posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 弁証法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月07日

システムズアプローチを弁証法から説く(3/5)

(3)ジョイニングでは相手に合わせた変化が求められる

 前回は,システムズアプローチのものの見方である円環的思考法とコンテクスト重視の見方を取り上げ,両者ともに弁証法的なものの見方といえるのであり,そのように対象の弁証法性をしっかりと把握できるからこそ,対象の性質に見合った介入ができ,その介入が成功するのだということを説きました。

 今回は,システムズアプローチの代表的・典型的技法の一つである「ジョイニング」を取り上げて,これを弁証法の観点から説いていきたいと思います。

 まず,ジョイニングについての一般的な説明を引用しておきます。

「ジョイニング(Joining)とは,構造的家族療法の創始者であるアメリカのS・ミニューチン先生の言い出した用語で,平たく言えば,お仲間にさせていただくことといった意味です。よくラポール(Rapport)と混同されることがありますが,後者は信頼関係そのものを意味し,かつ,なにかしらこころの深いところで起きているものといったイメージを彷彿させますが,前者はむしろ信頼関係に至るプロセスとそのための手段を意味しているようですし,なにかしら表面的で意図的操作的なイメージを彷彿とさせるものです。」(東豊『セラピスト入門』p.41)


 要するに,ジョイニングとはお仲間に入れていただくということであり,システムに参加する,とけ込むことだといってもいいでしょう。

 東豊は,このジョイニングを非常に重視しています。その重要性について,次のように説いています。

「私は,家族療法を学びにくるひとにはいつも「ジョイニングがすべて」と強調して語っているし,実際,ジョイニングが上手になってもらえないと,それ以上のことは指導できそうもない。はっきり言って,ジョイニングのセンスがないとよい家族療法家にはなれないと思う(それどころか,どのようなタイプの援助者にもなれないと思っている)。」(東豊『家族療法の秘訣』p.169)


 ここでは,ジョイニングがすべてであり,ジョイニングができないと,他の指導は無意味になるし,ジョイニングのセンスがないと援助者にはなれないと説かれています。

 ここで「家族療法」という言葉が出てきているので,一言,注意事項を述べておきます。ここでの家族療法とは,これまで説いているシステムズアプローチとほぼ同義です。システムズアプローチでは,家族システムを扱うことが多く,できるだけ関わっている家族全員に来談していただき,その家族集団と面接をしていくことになります。ですから,システムズアプローチによる心理療法は,だいたい家族療法になるのです。ただし,システムズアプローチによる個人面接ということも場合によっては可能ですし,家族療法といえば必ずシステムズアプローチになるかといえば,そうともいえず,精神分析的なアプローチによる家族療法というものも存在しています。しかしここでは,ごく大雑把に家族療法=システムズアプローチととらえていただいてけっこうです。

 システムズアプローチでは,セラピストはまず,家族システムの一員として受け入れてもらう必要があります。そのシステムのお仲間に入れていただかないかぎり,介入のしようがないのです。そういう意味では,ジョイニングはシステムズアプローチのすべてであり,第一に習得すべき技法だといえるでしょう。それだけではなく,ジョイニングはラポール(信頼関係)構築に至るプロセスでもありますので,どのようなタイプの心理療法を行なうにせよ,必要不可欠な技法であるともいえるでしょう。

 では,セラピストは具体的に,どのような「操作」をすることによって,ジョイニングを実現するのでしょうか。それについては,以下の4つのテクニックが挙げられています。

「1 相手のムードや雰囲気(家族であるなら家風といったようなもの)に合わせること。
2 相手の動きに合わせること。
3 相手の話の内容に合わせること。
4 相手のルールに合わせること。」(東豊『セラピスト入門』p.48)


 すなわち,ジョイニング(お仲間にさせていただくこと)を実現するためには,相手のムードや雰囲気,動き,話の内容,ルールに合わせなければならない,ということです。ムードや雰囲気に合わせるというのは,カッコ書きで「家風」とあるように,そのシステム(小社会)が表現によってそれとなく醸し出している社会的認識に合わせる,ということです。動きに合わせるということは,足を組むことや顎に手を添えること,姿勢を正すこと等といった,文字通り,相手の認識の表現たる動き(非言語表現)に合わせるということです。話の内容に合わせるとは,これまた相手の認識の表現たる言語表現に合わせるということです。ルールに合わせるというのは,相手の持っている社会的認識たる規範(意志の対象化されたもの)に合わせるということです。

 要するにジョイニングとは,お仲間にさせていただくために,言語表現・非言語表現を媒介として,当該のシステムの諸々の社会的認識を見極め,セラピスト自身もその社会的認識を有しているものとしてふるまうことである,といえるでしょう。あるシステムAと,別のシステムBとでは,それぞれが把持している社会的認識は全く別物ですから,セラピストはそれぞれの社会的認識をしっかりと把握して,自分もそれに合わせて変化していく必要があるのです。つまり,セラピストは,当該システムの多様性・変化性を見抜き,それに合わせてこちらも変化していくという弁証法的な運動・変化が求められるのです。

 一般に,ある対象をコントロールしたり思い通りに変化させたりしたい場合,まずはその対象の性質を見抜き,それに合わせてこちらが動いていくことが必要となります。たとえば,ガラスのコップを扱うときと,ゴムボールを扱うときとでは,われわれは全く違ったふるまい方をするはずです。ゴムボールであれば,ぞんざいに扱って,そのへんの床にぽいっと投げておくこともありますが,ガラスのコップに対しては,そのような扱い方はせずに,置きたいときには,丁寧に置く場所まで手で運んで,静かに置くはずです。これは,われわれがガラスのコップの性質を見抜いているからであり,ゴムボールのようにぽいっと投げてしまえば,たちまち割れてしまうことを知っているからです。だからこそ,ガラスという対象の性質に見合った形で,こちらは動いていくわけです。これが対象をコントロールするということでしょう。ですから,ガラスの性質をまだまだ理解できていない子どもは,ガラスのコップもゴムボールのように扱って,割ってしまうことになるのです。これでは対象をコントロールできているとはいえません。

 システムズアプローチで家族システムを扱う場合も,論理的には全く同様のことがいえるのです。セラピストは,何か悪循環に陥っている家族システムをコントロールし,思い通りに変化させたいわけですが,そのためには,それぞれの家族システムの性質=社会的認識をしっかりと見極め,それに合わせてこちらが動いていく必要があるのです。

 このジョイニングがそのまま変化につながることもあります。そのような例として,東豊は次のようなケースを紹介しています。

「長い長い母親の陳述の後,やっとセラピストは男の子に話しかけるチャンスを得た。「それで君はどんなふうに考えてるの?」 セラピストの問いかけに男の子はうつむき始めた。すかさず隣の母親が割って入った。「それはつらいと思います,というのも……」

 セラピストは母親の方に身体を向けて,再び母親の話に熱心に耳を傾けた。長い陳述の後,セラピストは丁寧に母親の許可を仰いだ。「お母さん,この子に直接聞きたいことができたのですが,聞いてもよろしいでしょうか」

 母親はもちろん聞いてやってくださいと,セラピストに頼んだ。「それで君はつらいときはどうしているの?」 男の子はまたうつむき始めた。短い沈黙の後,再び母親が割って入った。「ふさぎこんじゃうね,ね? いつも暗い顔をしているんですよ,というのも……」

 セラピストはまたしても母親の方に少し大げさに身体を向けて,母親の話に熱心に耳を傾けた。しかし今度は前よりも短めにそれをさえぎった。そして,これ以上低くできないくらいに腰の低い態度で,頭を深々と下げ,母親の許可を仰いだ。「お母さん,誠に申し訳ありません。またこの子に直接聞いてみたいことができたのですが,聞いてもよろしいでしょうか」

 母親は手を口に当て,プッと吹き出した。「ああ,すみません。私,でしゃばりで……」

 セラピストは「母親はみんなそうですよ」と軽く受けてから,男の子の方を向いた。

 「それで君はどうなったらいいと考えているの」

 男の子はやっぱりうつむき始めたが,今度は母親が口をはさまない。

 しばらくの沈黙の後,彼は顔を上げた。そして「まわりのことが気にならなくなればいい」と,ボソッと答えたのである。」(pp.63-64)


 このケースでは,母親が主導権を握っているというこの家族システムのルールにジョイニングして,馬鹿ていねいに母親に許可をとることをくり返すことによって,ジョイニングしています。同時に,このようなジョイニングによって,母親は自分の「でしゃばり」に気づき,口をはさまないようになったために,今までにはなかった息子の見解が表明されたということです。このように,ジョイニング自体が変化をもたらすための大きな介入技法にもなり得るのです。

 このケースに関わって,ジョイニングの弁証法的側面を,あと2つ,指摘しておきたいと思います。まず第一に,「問題」と思われるようなものでも,システムズアプローチにおいてはそれも「資源」であるととらえて,活用していくという点です。子どもの代わりに母親が答えるというのは,一般的には「問題」であるととらえられがちですが,これすらも「資源」として活用して,たとえば先の引用のような介入を行うわけです。「問題」でもあれば「資源」でもあるという形で,対立物の統一として捉える点で,非常に弁証法的な発想だといえるでしょう。

 第二に,ジョイニングに際しては,システムの構成員の一部に肩入れするようなことはしてはならないという点に関わります。複数を相手に面接をしていると,「あちら立てればこちら立たず」ということになりがちですが,一人の話だけを長々と聞きすぎないとか,味方に引き込もうとする言動は無視するとか,システムのルールをアセスメントしてそれにまずは従うとかしながら,システム全体にジョイニングしていくことが求められます。弁証法的にいうならば,非敵対的矛盾を実現するとともに解決するようなポジショニングを常に意識する必要がある,といえるでしょう。微妙なかじ取りが要求されますし,バランスが難しいとはいえますが,この微妙なバランス感覚は,臨床のなかで培っていく必要があるといえるでしょう。

 以上今回は,システムズアプローチの代表的な技法のひとつであるジョイニングを取り上げ,これを弁証法の観点から論じました。

posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 弁証法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月06日

システムズアプローチを弁証法から説く(2/5)

(2)前提に弁証法的なものの見方がある

 本稿は,天才セラピストと称されている東豊のセラピーがなぜうまくいくのかということを,彼が採用している方法論であるシステムズアプローチに着目して,弁証法の観点から説くことを目的にしています。

 今回は,システムズアプローチの前提となっているものの見方考え方について検討します。

 システムズアプローチの前提となっているものの見方は,「円環的思考法」と呼ばれています。円環的思考法について,東豊は次のように説明しています。

「円環的思考

 システムズアプローチを理解するための重要なキーワードのひとつなので,説明しておきましょう。

「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。上は下であり,下は上である,などと考えること」

 覚え方としてはこの程度でいいと思います。」(東豊『セラピスト入門』p.16)


「まずシステムとは,「部分と部分が相互作用している全体」,あるいは「その相互作用のあり方(連鎖・パターン・ルール)のことであると理解します。全体は部分に影響を与え,部分は全体に影響を与える。このようなものの見方を,円環的思考法と呼びます。

 私たちは通常,「事象Aは事象Bの原因である(事象Bは事象Aの結果である)」というように,矢印が一方通行の考え方(A→B)をする習性があります。これを直線的思考法といいます。これに対し円環的思考法とは,「事象Aは事象Bの原因でもあり,結果でもある(事象Bは事象Aの原因でもあり,結果でもある)」というように,双方向的な見方(A⇆B)をするものです。」(東豊『リフレーミングの秘訣』pp.10-11)


 ここでは,一方通行の直線的思考法とは違い,「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。」などと考える考え方,「事象Aは事象Bの原因でもあり,結果でもある(事象Bは事象Aの原因でもあり,結果でもある)」というように,双方向的な見方をする考え方を,円環的思考法と呼ぶと説かれています。

 たとえば,「母親の過保護のせいで子どもが甘えん坊になった」というのは,世間でよくある直線的思考法の例です。そういう見方もできるが,逆に「子どもが甘えるせいで母親が過保護になった」と解釈することも可能なのです。このように,あのようにも見えるし,このようにも見えるとするのが円環的思考法なのです。

 ここで説かれている円環的思考法が,非常に弁証法的なものの見方考え方であるのは明らかでしょう。というのは,弁証法では,対象を対立物の統一として見ますし,矛盾した存在と見るからです。「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。上は下であり,下は上である」などというものの見方は,弁証法の教科書にもそのまま説かれているような,物事を矛盾として見る見方だといっていいでしょう。一方だけ見るのではなく両方を見るというのも,物事を対立物の統一として見る,弁証法的な見方の典型例といえます。

 このように,システムズアプローチにおいては,物事を弁証法的に見るために,対象を的確に,その性質に見合ったものとして捉えることができるのだ,ということがいえるでしょう。このような対象の弁証法性を的確に捉えられるような見方が採用されているからこそ,対象をきちんととらえられ,その対象に適切に働きかけていくことが可能となっているのだと考えられます。

 このような円環的思考法と同様の弁証法的な発想として,システムズアプローチでは,コンテンツ(内容)よりもコンテクスト(前後関係,文脈)を重視するという見方が採用されています。これを理解していただくために,治療場面におけるある家族の会話の一部を引用します。

「母:あなたは,いったいいつまでこのままでいるつもりなの。中学校にも行かなければ高校だって行けないし,就職や結婚もできたものじゃないわ。

娘:放っておいてよ。いつもうるさいんだから。

母:なんですか,親に向かってその態度は。いい加減にしなさい。

娘:私,あなたのことを親とは思ってないわ。

母:なんですって,もう一度言ってごらん。

娘:何度でも言うわ,鬼,ブタ,ウスノロ!

母:黙りなさい。なんでこんな子になったの,あなたは。

父:まあまあ二人ともよしなさい。もっと落ち着いて話し合おうじゃないか。

母:あなたはいつもそんなことばかり言って本当に甘いんだから,もっと父親らしくしゃんとしてよ。

父:私はおまえのようにしつこく言いたくないんだよ。

母:私のどこがしつこいと言うの,子どものためにこれくらい当たり前よ。あなたももっとこの子を叱ってよ。情ない。

娘:この人(父のこと)が怒っても少しも怖くないよ。こんな人,ただの月給運搬人よ。

父:そんなことはないよ。お父さんはね,おまえたちのために一所懸命働いて……。

母:(娘に)ちゃんと座りなさい。何よその態度は。

娘:うるさいねえ,いちいち,くそババア! 死んでしまえ。」(東豊『家族療法の秘訣』pp.6-7)


 ここでコンテンツに注目すると,「母親は厳しすぎる」とか「父親は頼りない」とか,「娘の言葉遣いはひどいが,この年頃はこんなものだ」とかいう反応になります。しかし,コンテンツにとらわれることなく,コンテクストに目が向くようになると,次のようなパターン(コミュニケーションの連鎖)を発見できると説かれています。

「A.母親が娘を批判する
    ↓
 B.娘が母親に反抗する
    ↓
 C.母親と娘が対立する(緊張が生じる)
    ↓
 D.父親が会話に入る
    ↓(母・娘間の緊張下がる)
 E.母親が父親の態度を批判する
    ↓
 F.父親が母親に反発し両親間に緊張が生じる
    ↓
 G.娘が会話に入る
    ↓(両親間の緊張下がる)
 A.母親が娘を批判する
    ↓」(p.10)


 このような悪循環が見出されるというのです。これがコンテクスト重視のものの見方ということです。同時に,家族システムという大きな視点から,個々の構成員の役割を見出す見方であるともいえるでしょう。父親は頼りないという側面をもちつつも,母親と娘の緊張を和らげる役割を果たす優しい父親であり,娘も悪態をつきながら両親間の緊張を緩和させる役割を果たす優しい娘である,そのようなチームワークのいい家族と見なすこともできるわけです。

 これは,部分にのみ着目するのではなく,それがどのようにつながっているかをみるという意味でも,また,部分が全体とどのようにつながっているのかをみるという意味でも,つながりを重視する見方です。また,このようにつながりを見ることによって,部分だけを見ていたのでは見えてこなかった別の対立するような性質が浮き彫りになっています。したがって,このようなコンテクストを重視する見方は,とりもなおさず,弁証法的な見方であるといえるでしょう。

 システムズアプローチでは,このようにして発見したコンテクストを家族に伝えて共有したり,また,セラピストがこのシステムの中に入って,悪循環のパターンを変えたりします。それによって,システムが変わったり,個々の部分の反応が変わったりして,結果として,よい循環・相互作用を生み出すシステムに再構築されていくことを狙うのです。このようなことが成功する背景には,今回見たような弁証法的なものの見方があるということがいえるでしょう。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 弁証法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月05日

システムズアプローチを弁証法から説く(1/5)

目次

(1)システムズアプローチはなぜ効果があるのか
(2)前提に弁証法的なものの見方がある
(3)ジョイニングでは相手に合わせた変化が求められる
(4)リフレーミングの根拠は現実の弁証法性にある
(5)システムズアプローチは弁証法性を踏まえている

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(1)システムズアプローチはなぜ効果があるのか

 みなさんは,「名医」という言葉を聞いたことがあるでしょう。非常に優れた医師のことであり,名医にみてもらえば,治療困難と思える病気も治してもらえるのです。現代日本においても,「スーパードクター」などと称して,テレビでも取り上げられている名医がいます。がんの名医や心臓病の名医,脳神経外科の名医などです。

 手塚治虫のマンガ『ブラック・ジャック』では,医師免許を持たないものの,天才的な外科手術の技術を有しており,手術成功の暁には法外な治療費を請求する医師の姿が描かれています。また,『三国志演義』には,華佗という伝説的な医師が登場します。彼はどんな病気や怪我でも治す名医として描かれています。彼の遺した医学書は結局燃やされてしまうのですが,もし燃やされていなければ,医学の歴史は現在とは大きく違ったものになったであろう,などといわれるほどの偉人として描かれているのです。

 このように,マンガや小説の世界にもたびたび取り上げられている名医ですが,筆者の属する心理臨床の世界にも,そのような「名医」にあたる人物が存在しています。世界的に有名なのは,何といってもミルトン・エリクソンです。彼の臨床は,臨機応変に,ケースに応じて変幻自在に変化させるもので,その名人芸から「魔術師」とも呼ばれるほどの実力でした。しかし,ケースに応じて異なるアプローチをすべきであるという信念のもと,あまりまとまった著作をものさず,弟子たちがそれぞれにエリクソンの遺産を受け継ぎ,体系化しているのが現状です。いずれ筆者もミルトン・エリクソンを正面から取り上げたいとは思っています。

 では,心理臨床の世界に属する日本人で「名医」レベルの人物はいるのでしょうか。結論からいうと,います。その人物の名は東豊(ひがし・ゆたか)。日本の臨床心理士であればだれもがその名を知っているほど著名であり,「天才」と名高い人物です。彼はミルトン・エリクソンやその弟子筋に学んでおり,若かりし頃は「日本のエリクソン」と自ら豪語していた時代もあったといいます。東豊については,その著作を出版している遠見書房の編集者のブログで,次のように紹介されています。


「2012年3月19日月曜日

【東豊】けっこうコレはすごい本になると思う【DVD!】

天才セラピスト!というと,なんだかいろいろと怒られそうであるが,東豊先生を知っている人は,みな,東先生のことをそう言う。「あのひとは天才だ」「天性やね」「天才的ですよ」などと。

現実問題として,天才セラピストとは,どういうことを指すのだろうか,とも思う。丁々発止がうまい,という感じもあるかもしれないし,包容力がある,という感じかもしれない。いや,単に「治す」という意味なのかもしれない。

東豊先生が「治す」のか,というと,これはよく治すらしい。以前,東豊先生の雇用者であった小郡まきはら病院院長の牧原浩先生がその論文か何かで,「東先生には一番の給料をあげていた。一番治してくれるからだ」ということを書いていた。その病院では,MDやNSを含めて,臨床心理士である東先生が一番の給金をもらっていたらしい。

その後,東豊先生は,鳥取大学医学部精神医学教室の助教授になった。非医師の医学部助教授は,東先生が最初のひと,というわけではないけれど,やはり珍しい。ここでも伝説的なセラピーを展開していたらしい。当時の論文をいくつか読むと,ものすごく面白い。

ともあれ,天才セラピストと語弊なく言えるうちの一人が東豊先生であることは,間違いないだろう。よくある出版社が勝手に天才だと持ち上げているわけではなく,周りの人が言っているという意味で,である。

実際の東豊先生は,とてもサービス精神の旺盛な方である。あちこちに目端がきく。頭の回転もすこぶる早い。そして,愉快な方である。一緒にいてとても楽しい。スゴ腕の話し上手である。天才セラピストの一面が確かにある。

で,なかなか厳しいところのある方でもある。自分にも厳しいし,他のひとにも厳しい。キレモノすぎて,いろいろとわかりすぎてしまうところがあるのかもしれない。

ともあれ,そんな天才の本,しかも! DVDで天才のセラピーが2回分(1つのケースで初回と2回目)の映像がついた本が出ます!」(http://tomishobo.blogspot.jp/2012/03/dvd.html


 ここでは,医師よりも給料をたくさんもらっていたという驚きのエピソードや,治療成績が抜群で誰もが認める天才セラピストであることなどが説かれています。

 では,なぜ東豊には,このような天才的なセラピーが可能なのでしょうか。もちろん,彼個人の特性に由来するものも多いでしょう。しかし,彼が採用している方法にも優れたものがあると考えられるのです。

 東豊が採用している方法というのは,「システムズアプローチ」と呼ばれています。システムズアプローチは,先に紹介した世界的な天才セラピストであるミルトン・エリクソンの影響も受けて成立したものです。いってみれば,エリクソンの臨床の一部分を切り取って,それを発展させたものということができます。そこで本稿では,このシステムズアプローチを取り上げて,これによって「天才的セラピー」が可能になる所以を説いていきたいと考えています。

 幸い,東豊は,ミルトン・エリクソンと違って,多くの著作を執筆しており,また,研修会も多く開催して,自らの方法論であるシステムズアプローチについてさまざまに説いています。それらを参考にして,システムズアプローチについて紹介しながら,それがどのように優れているのかを,弁証法という観点から論じていこうとするのが本稿です。

 詳細については次回以降検討するとして,ここではまず,システムズアプローチの概要を説明しておきます。システムズアプローチとは,「システムを念頭に置いた心理・社会的援助の総称」(東豊『セラピスト入門』p.5)のことです。では,「システム」とは何でしょうか。東豊は,次のように説明しています。

「ある一定の法則にしたがっているかのような活動を繰り返している複数の部分からなる集合体,もしくはその法則そのもの。小は分子原子レベルから,大は宇宙レベルに至る。」


「ただひとつ補足しておくと,この場合,部分と部分は相互に影響しあっており,まるで既存のシステムのあり方を維持しようとの意思をもっているかのごとく互いに活動を規制しあっているのだと仮説します。つまり,部分はシステムのあり方に規定されていると覚えておいてください。

 しかし一方,「なにかの拍子」に一部分が変化してしまうと,他の部分も連鎖的に変化していき,結果的にシステムが変わってしまうこともあると仮説します。つまりシステムのあり方は部分に規定されていると覚えておいてください。」(p.4)


 これだけではよく分からないと思いますので,実際に心理臨床でよく問題になるシステムを例に挙げて説明します。それは家族というシステムです。家族は,家族構成員という部分からなる集合体です。ですから,家族もシステムの一つです。この構成員は家族システムのあり方に規定されていると同時に,家族システムのあり方は構成員に規定されています。このように家族を捉えることが,システムズアプローチのものの見方だといっていいでしょう。

 これ以上の詳細については,次回以降,詳しく説いていくことにします。ここでは,システムというものの概要を大雑把に把握していただければと思います。

 では次回以降,天才セラピスト東豊が採用しているシステムズアプローチについて,弁証法という観点から説いていきたいと思います。次回は,システムズアプローチの前提となるものの見方考え方を,もう少し詳細に取り上げて検討します。連載第3回と第4回では,システムズアプローチの代表的・典型的な技法である「ジョイニング」と「リフレーミング」をそれぞれ取り上げ,それらが奏効する所以を弁証法的に解明していく予定です。

posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 弁証法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月04日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の2つの序文を熱かった我が研究会の2017年2月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。

 2月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回3月例会は、『純粋理性批判』の緒言(pp.57-83)を扱います。

 それでは、以下、参加者の感想です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会からいよいよカント『純粋理性批判』の中身に入っていった。今回は、序文を中心に扱った。

 カントが形而上学をどのように捉え、この著作をその歴史にどのように位置づけようとしていたのか、数学や物理学における考え方の革新とは如何なるもので、カントはそれを形而上学にどのように適用したのか、カントが物自体と現象とを分けて考えたのはなぜか、といった問題について、まずは本論に入る前の段階として理解しておくべき事柄については押さえることができたのではないかと思う。

 しかし同時に感じたことは、他会員と比べればはるかに理解の度合いが劣っているということであった。カントの物自体論と自由との関わりに関する議論が特にそうであった。解説してもらうと、なるほどそういうことかと一応の理解はできるので、苦手意識を克服して、分かったことを1つずつ丁寧に確認していき、分からなかったことを例会を通じて少しでも理解できていくよう努力していく必要がある。

 来月は緒言を扱うが、ここでも本論に入る前提としての理解が求められると思う。しっかりと読み込んで、上記の作業ができるように準備しておきたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会では、カント『純粋理性批判』を読み進めていくうえでの、いくつかの大切な問題意識を共有できた点が非常によかったと思う。

 まず、カントは形而上学の歴史を独断論と懐疑論の闘争の歴史として描いているが、どうやらこの闘争の歴史を踏まえて4つの二律背反が措定されたらしいことが分かった。もちろん、単純にテーゼが独断論の立場で、アンチテーゼが懐疑論の立場である、というような区分けではないにしろ、独断論と懐疑論の闘争、および独断論内部での闘争(内乱)の歴史を踏まえて、それを4つのアンチノミーとしてまとめ上げたのだ、という可能性が高いと分かったのである。それは、カントが理性批判を法廷になぞらえていることからも分かる。カントの論の流れからは、この法廷では従来の独断論と懐疑論の主張が戦わされる場であるというように解釈できるが、諸々の参考文献によると、この法廷というのは4つのアンチノミーについて、理性が裁判官としてのより高い立場から判定を下すという解釈が一般的であるようだ。すなわち、形而上学の歴史である独断論と懐疑論の闘争ということと、4つのアンチノミーということが、つながっていると理解できそうなのである。形而上学がぶつかっていた難問というのも、この問題にかかわってくるであろうから、ここはカントの問題意識の大前提として、しっかりと押さえておく必要があると感じた。

 次に、カントが形而上学に適用した考え方の革新についてである。数学や自然科学で成功した着想を形而上学にも採用したと説かれているが、ここに関して、結局物自体と現象というのは、どの程度つながっているのか、物自体が現象をどの程度規定しているのか、という問題意識が明確になった。カントも説いていたが、現象というからには、「何か」が現象しているのであり、その「何か」はとりもなおさず物自体であるはずだから、両者にはきちんとつながりがあるのは当然である。しかし、カントはこの二つの区別を強調もしているわけで、弁証法的にいえば、物自体と現象は、つながっているとともにつながっていないということができる。では、どのようにつながっており、どのようにつながっていないのか、その構造をきちんと理解していくことが、今後の大きな課題になるといえるだろう。

 最後に、物自体と現象とを区別することによって、無条件者についての矛盾が解消するとされていたわけであるが、そもそも、無条件者ということが形而上学の歴史において、どのような必然性があって扱われてきたのか、さらに、具体的にはどのような哲学者がどのような矛盾する見解を戦わせてきたのか、それをカントは本当に解決したといえるのか、こういった問題についても、しっかりと念頭に置きながら、『純粋理性批判』を読んでいかねばならないと感じた。カントは、自分の業績をコペルニクスになぞらえているが、それならばごくシンプルな説明でたりうるはずなのに、『純粋理性批判』は大著となっている。このあたり、カントの自信とは裏腹に、論理的にはスッキリと把握はされていなかった証左といえるのではないか、という気がする。いずれにせよ、歴史的に取り上げられてきている無条件者という対象の必然性をしっかりと掴んでいく必要があるのは間違いないだろう。

 このあたりの問題意識をもって、いくつかの入門的な参考書も参照しながら、『純粋理性批判』に取り組んでいきたいと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会では、カントが『純粋理性批判』を書いたときの問題意識とその意義について理解を深めることができた。

 形而上学においては、独断論と懐疑論(または独断論同士)が争っていたが、とりわけヒュームが必然性は客観的に存在するものではないと主張したことを受けて、カントとしては、必然性は存在しており人間はそれを認識することができるということ、つまりアプリオリな認識が可能であることを示す必要が出てきたということである。例えば「机をたたけば音がなる」ということについて、いくつかの事例をもとにして、(実際に試してみなくても)どんな机でもそうだということがわかるということを示す必要が出てきたということである。そこで考え出されたのが、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うというコペルニクス的な転換なのだということである。こうして、対象そのもの(物自体)は何の性質ももたないけれども、我々がとらえた現象は認識によって性質を与えられているという物自体論が出てきたのである。

 このように現象と物自体を区別することにより、意志が自由であると同時に自由でない(法則性に縛られている)という矛盾を解決することができるようになった。つまり、現象としては自由ではないが、物自体としては自由であるということである。例えば、的に向かってボールを投げたとして、投げるのは自由な意志に基づくものである。ところが、その投げたボールが的に当たる過程は空気抵抗や重力など自然の法則性に縛られることになる、ということである。我々が見ることができるのは、ボールという現象だけである。しかし、その背後に「ボールを投げる」という(自由な)意志を想定することができる。このような形で意志の自由という問題を解決したのだということであった。

 もちろん今回の解答は現段階での暫定的なものであり、今後、これをより深めていく必要があるだろうが、大まかには把握することができたのは今回の例会の大きな収穫だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会を通じては、そもそもなぜカントが『純粋理性批判』を書かなければならなかったのか、そのそもそもの問題意識にしっかりと共感することが大切であると思わされた。ア・プリオリな総合判断はどのようにして可能か、ということがカントの根本的な問題意識であったといってよさそうであるが、ア・プリオリな総合判断とはどういうことなのか、なぜそういうものが切実に求められたのか、ヒュームの因果律批判からカントが受けた衝撃の大きさということをしっかりと踏まえつつ、カントの強烈な問題意識に幾分かでも共感できるようにならなければ、『純粋理性批判』はまともに読んでいくことはできないだろう、と思わされた。

 カントが現象と物自体とを区別してしまったこと、また結局は同じことであるが、理性を思弁的理性と理性の実践的使用とに二分してしまったこと(認識できるということと考えることができるとを分けてしまったこと)は、結論からみればおかしなことであり、現象と物自体との関係をカントは解けていない、というこもできるであろう。しかし、同時に、これがそれまでの形而上学の難問を解決するための画期的にすぐれた提起であったのだという側面を、絶対に見失ってはならないだろうとも思う。現象と物自体とを区別し、思弁的理性(絶対的なものを認識できない)と理性の実践的使用(絶対的なものを考えることができる)とを二分したことこそが、この『純粋理性批判』の哲学史上の不滅の意義なのであり、また同時にヘーゲルによって克服されるべき限界ともなったのだといえるだろうが、自分自身の不充分な実力のままヘーゲルらの尻馬に乗ってカントを非難すべきではないだろう、まずは『純粋理性批判』の画期的な意義をしっかりと受け止めることに重点を置くべきではないか、と思われるのである。

 『純粋理性批判』のまともな理解のためには、南郷継正『学問としての弁証法の復権』(『武道哲学講義(第二巻)』所収)に加えて「武道哲学講義〔Z〕」(『南郷継正全集第11巻』所収)をも繰り返し読み込んでおく必要があると確認することができたのも、この2月例会を通じた取り組みで得た大きな成果であった。

(了)
posted by kyoto.dialectic at 06:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月03日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(9/10)

(9)論点3:カントは自由についてどのように考えているのか

 前回は、第二の論点、すなわち、カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、カントが、数学や自然科学(物理学)は、対象が認識を規定するのではなくて認識(理性)が対象を規定するのだと捉えるという考え方の革新によって、学としての確実な道を歩むことになったのだと捉えていること、形而上学においては、対象が認識を規定するという前提ではうまくいかなかったので、逆に、認識が対象を規定するという考え方を採用してみることによって、それまでの形而上学の難問が解決されたのだと主張していることを確認しました。

 さて、今回は、第三の論点、すなわち、カントは自由についてどのように考えているのか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、物自体と現象との区別の大切さを説くが、カントはなぜこの区別が大切だと考えたのか。「カントの「物自体」論は、これは本質論であり、けっして構造論でもなければましてや現象論や実体論でもない」(南郷継正『武道哲学講義 著作・講義全集 第十二巻』、p.87)という指摘は、ここにどのように関わってくるのか。
 また、物自体と現象とを区別したことは、カントの自由論とどのように関わってくるのか。「思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできない」(p.43)とはどういうことか。


 カントがなぜ物自体と現象との区別の大切さを説いたのか、という問題をめぐっては、各メンバーから事前に提示された見解の間に、大きな相違はありませんでした。端的には、物自体と現象とを区別しなければ無条件なもの(絶対的なもの)を矛盾なしに考えることができなくなってしまう(例えば、人間の意志は自由でありながら自由でないというような矛盾に陥ってしまう)から、換言すれば、無条件なもの(絶対的なもの)は間違いなく存在するものなのだということを保障するためにほかならない、ということでした。これは、詰まるところ、二律背反の問題に悩んだあげく、その解決策として物自体論(物自体と現象を区別すること)をもってきたということである、という指摘もなされました。

 「カントの「物自体」論は、これは本質論であり、けっして構造論でもなければましてや現象論や実体論でもない」という指摘がここにどのように関わってくるのか、という問題をめぐっては、カントにおいて、物自体というのは、世界の本質的な存在として考えられているのであって、認識できる現象と区別することによって、認識はできないけれども考えることができる存在として、世界の本質が成立し得る領域を残しておいたということなのではないか、ということになりました。

 物自体と現象との区別がカントの自由論とどう関わるか、という問題をめぐっても、大きな見解の相違はありませんでした。端的には、自然法則が支配するのは現象の領域であり、「物自体」は自然法則に縛られないから自由であるという形で、人間の意志の自由を主張しようとしたのだ、ということです。ただし、このことに関わっては、具体的にどういうことか正直よくわからない、という疑問も出されました。例えば、子どもと関わるとき、自分としては自分で考えて行動している(自由である)ように思うけれども、そのプロセスを客観的に眺めたときには、毎回同じような対応をしている(一定の法則性に縛られてしまっている)ということなのだろうか、という疑問です。こうした疑問に対しては、そんなに難しく考える必要はなく、例えば、ある人が石ころをある的に命中させるべく投げるとして、「あの的に当てるぞ」という意志を抱くか抱かないかはその人の自由だが、いったん手から放れた石ころは、重力とか空気の抵抗とかの諸々の条件によって必然的に規定された軌道を進んでいくことになる、というようなことではないか、という見解が示されました。疑問を出したメンバーも、大筋でこうした説明に納得しました。

 43ページの引用文(「思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできない」)をめぐっては、何がいいたいのかよく分からなかった、という感想も出されましたが、これは結局のところ、物自体と現象との区別がなぜ大切か、という問題と同じであることが、他のメンバーから指摘されました。すなわち、「思弁的理性から経験を超越して認識すると称する越権を奪い去」るというのは、思弁的理性は経験の限界を超えられないのであり、認識できるのは現象のみで物自体は認識できないことを明らかにする、ということにほかならず、そのようにしない限りは、神、自由、霊魂の不死といった無条件なもの(絶対的なもの)を矛盾なしに考えることはできないのだ、ということです。こうした説明に、「よく分からなかった」という感想を出したメンバーも大筋で納得しました。

 ただし、「理性の実践的使用」というのが神、自由、霊魂の不死といった無条件なもの(絶対的なもの)と関わるものでることは何となく分かるが、「理性の実践的使用」というのはそもそもどういうイメージなのか、カントが思弁的理性と理性の実践的使用とを分け、認識できるということと考えることができるということとを分けてしまっているのは、なかなかすんなりとは納得しがたいところがある、という感想も出されました。チューターは、このように思弁的理性(絶対的なものを認識できない)と理性の実践的使用(絶対的なものを考えることができる)とを二分したことこそが、この『純粋理性批判』の哲学史上の画期的な意義であり、またヘーゲルによって克服されるべき限界ともなったのではないか、と指摘し、本論部分を読み進めていくなかで、しっかりと検討を深めていくように提起しました。

 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点3に関する議論を終えました。
posted by kyoto.dialectic at 06:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(8/10)

(8)論点2:カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか

 前回は、第一の論点、すなわち、カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、カントが「形而上学」「論理学」「悟性」「理性」といった用語をどのような意味で使っていたかを確認しつつ、理性が経験を超えたものについて論じようとすると混迷と矛盾に陥ってしまうという問題を正面に据え、理性自身を批判(吟味)することで形而上学の完成に道を切り拓こうというのが、カントの『純粋理性批判』の意図であったことを確認したのでした。

 さて、今回は、第二の論点、すなわち、カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、数学と自然科学(物理学)が、考え方の革新によって一個の学としての確実な道を歩むことになったとしているが、それはどのような革新であったのか。カントはこうした考え方の革新を形而上学に適用することを試みてみたというが、それはどういうことか。


 この論点をめぐっては、まず、数学および自然科学(物理学)における考え方の革新とはどのようなものであったのか、確認しました。

 数学における考え方の革新について、カントは、タレスによるともいわれる二等辺三角形の論証(二等辺三角形の底角は等しいことの論証だと思われます)を例に挙げながら、図形のうちに見たものにもとづいて図形の性質を学び取ろうとしてはならないのであって、「彼が何ごとかを確実にかつア・プリオリに知ろうとするならば、彼は自分の概念に従ってみずから対象のなかへ入れたところのものから必然的に生じる以外のものを、この対象に付け加えてはならない」(p.29)と説いています。一方、自然科学(物理学)における考え方の革新について、カントは、ガリレイやトリチェリやシュタールの実験の例を挙げながら、あらかじめ仮説を立てて(理性判断の諸原理によって先導して)、それを確認するために実験を行うということでなければ、換言すれば、理性自身が自然のなかに原理を考え入れなければ、いくら実験・観察しても偶然的なものにしかならず、必然的な法則など見い出しようがないのであって、「理性は、自然から学ばねばならないことや理性自体だけではそれについて何も知り得ないようなことを、自分自身が自然のなかへ入れたところのものに従って、これを自然のうちに求めねばならない(もともと自然のなかにありもしないことを自然に押しつけるのではなくて)」(p.30)と説いています。

 こうしたカントの主張をめぐって、2つの異なった捉え方が提示されました。ひとつは、認識が対象に性質を与えているのだという捉え方であり、もうひとつは、人間の認識が対象に備わっている性質を浮かび上がらせているのだ、という捉え方です。どちらの捉え方がカントの真意に近いのか議論をしました。後者の立場(認識が対象の性質を浮かび上がらせる)からは、自然科学について「自然を強要して自分の問いに答えさせる」「自分の提出する質問に対して、証人に答弁を強要する」といった表現をカントが行っていることから、自然そのものが何らかの答えをもっているのであって、それはすなわち、自然に備わっている性質を自然科学者の側からの目的意識的な問いかけによって浮かび上がらせるということにほかならないのではないか、という主張がなされました。こうした主張に対して、前者の立場(認識が対象に性質を与える)からは、確かに自然科学(物理学)に関していえば、自然にもともと何らかの性質が備わっているかのように読める表現はあるが、数学に関してはそれはないではないか、カントは「数学と物理学とは、それぞれその対象をア・プリオリに規定せねばならぬ両つの理論的認識である。そして数学は全体として純粋であり、また物理学は少くとも部分的に純粋である、しかし部分的に純粋ということになると、理性の認識源泉とは別個の認識源泉によっても幾分規定せられるわけである」(p.27)と書いているではないかという指摘がなされました。つまり、数学においては、理性が対象を全くア・プリオリに規定するのだが、自然科学(物理学)においては、理性が対象を部分的にア・プリオリに規定するのだ、というのがカントの捉え方であって、理性による対象のア・プリオリな規定という考え方の革新は、やはりあくまでも、認識(理性)が対象に性質を与えるということ、対象が認識を規定するのではなくて認識が対象を規定するのだと捉えるべきであろう、ということに落ち着きました。

 なお、「理性は、自然から学ばねばならないことや理性自体だけではそれについて何も知り得ないようなことを、自分自身が自然のなかへ入れたところのものに従って、これを自然のうちに求めねばならない(もともと自然のなかにありもしないことを自然に押しつけるのではなくて)」という表現をめぐって、認識が対象に性質を与えるといっても、物自体たる対象に対して認識が勝手気ままにどんな性質でも与えることができる、ということではないのではないか、という提起がなされました。物自体たる対象と認識の側にもともと(ア・プリオリに)備わっている枠組みとの相互浸透で現象が生じるとして、その現象はどの程度まで物自体によって規定されているのか、という問題があるのではないか、この問題をカントはどのように論じているのだろうか(果たしてきちんと論じきれているのであろうか)という疑問も生じてきました。チューターからは、カントは形而上学の問題を最終的に解決したと自信たっぷりであることをまずは尊重すべきで、きっとカントは解けていないのだ、などと早急に結論を出してカントを軽く見てしまうことになっては問題ではないか、との指摘もなされましたが、これが重要な論点であることは間違いなく、本論部分を読み進めていきながらしっかりと検討を深めていく必要があることを確認しました。

 数学および自然科学(物理学)における考え方の革新を形而上学に適用するとはどういうことか、という問題をめぐっては、対象が認識を規定するという前提ではうまくいかなかったので、逆に、認識が対象を規定するという考え方を採用してみようということであり、これによってそれまでの形而上学の難問が解決されたとカントは主張しているのだ、といった見解がほぼ一致して示されました。チューターからは、対象が認識を規定するという前提では何がうまくいかなかったのか、カントが一挙に解決したという形而上学の難問とは何だったのか、ということこそが重要であると提起されました。

 これは、端的には、形而上学においては、ア・プリオリな認識、すなわち、対象が我々に与えられる前に対象について何ごとかを決定するような認識が可能であることが要求されているということであるわけですが、そもそもなぜカントがこのような問題意識を抱いたのか、ヒュームの因果律批判との関わりできちんと確認しておく必要があるだろう、ということになりました。ヒュームの懐疑論によれば、リンゴを手から放したらどうなるか、1個目から9個目のリンゴについては下に落ちていったとしても、10個目のリンゴもそうなるかどうか前もって確実にいうことはできません。手から放れたリンゴは下に落ちるという主観的信念が習慣によって形成されているにすぎない、というのがヒュームの主張です。これに対して、10個目のリンゴについても手から離せば落下すると確実に主張できるためにはどうすればよいか、というのがカントのそもそもの問題意識だったのではないかと思われます。

 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点2に関する議論を終えました。
posted by kyoto.dialectic at 06:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む