2017年04月10日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(8/10)

(8)論点2:分析的判断と綜合的判断とはどういうものか?

 前回は、ア・プリオリな認識に関わる論点を取り上げ、その議論のプロセスを紹介しました。

 今回は、分析的判断と綜合的判断に関わる論点2を取り上げます。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】

2.分析的判断と綜合的判断とはどういうものか?

 カントは、分析的判断と綜合的判断とを区別しているが、それぞれどのようなものだと説いているか。綜合的判断は、経験判断、あるいはア・プリオリに確立している判断とどのように関係しているのか。また、理性にもとづく一切の理論的な学、すなわち、数学や自然科学、形而上学にはア・プリオリな綜合判断が原理として含まれていると主張しているが、これはどういうことか。


 まず、分析的判断と綜合的判断についてです。これについては、皆の見解は一致していました。すなわち、分析的判断とは、主語に含まれている要素を引き出すだけの判断であり、主語概念を分析していくつかの部分的概念に分解するだけの判断のことです。したがってこれは、解明的判断とも呼ばれるのです。これに対して、綜合的判断とは、主語の概念において考えられていなかったものを新たに述語として付け加える判断のことです。このため、拡張的判断とも呼ばれます。

 次に、これら二つの判断と、ア・プリオリな判断・経験判断との関係について検討しました。ある会員は、綜合的判断は経験に基づかなければ成り立たないはずだと主張しましたが、カントはそこまではいっていないのではないかという指摘がありました。これについては、その会員も自分の行き過ぎを認めました。この点以外は、見解は一致しており、チューターは次のようにまとめました。すなわち、カントは、経験判断はすべて総合的であり、分析的判断のためには経験は必要ない(分析的判断はすべてア・プリオリな判断である)と説いているから、「分析的判断⇒ア・プリオリな判断」「経験判断⇒綜合的判断」ということになります。さらに、経験判断とア・プリオリな判断、分析的判断と総合的判断は、それぞれ相対立するものであるから、これらの関係をベン図に表すと、図1のようになります。

ベン図1.GIF
【図1】


 この図1は、分析的判断はア・プリオリな判断に含まれ、経験判断は綜合的判断に含まれることを示しており、また、オレンジで示したア・プリオリな判断と経験判断、青で示した分析的判断と綜合的判断とは、それぞれ相反しているので、重なる部分がないことを示しています。つまり、ア・プリオリな経験判断とか、分析的かつ綜合的判断というものは、その定義上、ありえないのです。そうなると残る問題は、ア・プリオリな綜合的判断はありうるのか、ということになり、これをカントは取り上げていくのだとチューターは説明しました。

 このようなチューターのまとめに対して、概ね賛同が得られました。ただ、会員の一人は、図1だと分析的判断でもなく綜合的判断でもないような領域が存在しているし、同様に、ア・プリオリな判断でもなく経験判断でもないような領域も存在しているので、おかしいのではないかと指摘しました。確かに、そのような領域が存在しない図に改定する必要があるとして、チューターは図2を作成しました。これでおおよそ、諸々の判断の関係を適切に表せているということになりました。

ベン図2.GIF
【図2】


 理性にもとづく一切の理論的な学、すなわち、数学や自然科学、形而上学にはア・プリオリな綜合判断が原理として含まれているというのは、どのようなことかについても、皆の見解はほぼ同様でした。一番シンプルにいってしまうと、これらの学においては、必然性および厳密な普遍性をもつ命題が存在しているということです。すなわち、ア・プリオリな綜合的判断は、これらの学(少なくとも数学と自然科学)では実際に成立しているのであり、これらの学こそが、ア・プリオリな綜合的判断が可能であるということの証明になるということです。ここからカントの問題意識は、「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか?」という問いに集約されていくのだということを確認しました。

 以上で、論点2についての議論を終えました。

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2017年04月09日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(7/10)

(7)論点1:ア・プリオリな認識とはどういうものか?

 前回は、今回扱ったカント『純粋理性批判』緒言の内容を再度まとめ直した後、本例会で議論した3つの論点を紹介しました。

 今回から3回にわたって、それぞれの論点についてどのような議論・討論を行い、どのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。

 今回は、ア・プリオリな認識に関する次のような論点についてです。

【論点再掲】

1.ア・プリオリな認識とはどういうものか?

 カントは、ア・プリオリな認識とはどのようなものであると説いているのか。通常言われているところのア・プリオリな認識なるものと、カントが明確に規定したところのア・プリオリな認識とはどのように異なっていると主張しているのか。カントは、ア・ポステリオリ、経験的認識、純粋認識という言葉も挙げているが、これらの区別と連関もしっかり確認したい。ここに関わって、純粋認識と経験的認識とを区別する標徴はどのようなものか。



 この論点については、まず、通常言われているところのア・プリオリな認識と、カントが明確に規定したところのア・プリオリな認識とは、どのように異なっているのかについて議論しました。この点については、初めから見解の一致を見ました。すなわち、通常言われているところのア・プリオリな認識とは、個々の経験にかかわりのない認識のことです。たとえば、土台下を掘ったために家を倒壊させた人に対して、そうすれば家が倒れるだろうということをア・プリオリに知り得たはずなのに、というようなことがいわれるとカントは指摘しています。確かにこれは、この家の土台下を掘ったら家が倒れた、という個々の経験を待たずに認識できるはずのことですから、通常言われているところのア・プリオリな認識といっていいでしょう。ところが、カントはこの規定では不十分だと考えていたようです。それは、物体には重さがあるのだから、支えているものが取り除かれたら落ちてしまうということ自体は、何らかの経験から得られた一般的な規則であり、これを知らなければ、先のア・プリオリな認識は成立しないからです。すなわち、何らかの経験が関与している認識であることは間違いがないのです。そこでカントは、このような個々の認識に関わりのない認識というだけでは、ア・プリオリな認識とはいえないと説いているのです。それだけではなく、一切の経験に絶対に関わりなく成立する認識をア・プリオリな認識と規定したのです。

 次に、ア・ポステリオリ、経験的認識、純粋認識の区別と連関について確認しました。まず、経験的認識は、ア・プリオリな認識に対立するものである点、ア・ポステリオリというのは「経験的」とほぼ同義である点、この二点については皆が同意しました。ここに関して、ある会員は「経験的認識は、その認識の源泉が経験のうちにあるものであって、ア・プリオリ(先天的)に対してア・ポステリオリ(後天的)であるとカントは述べている」と指摘しました。

 純粋経験については、見解が分かれました。チューターは、カントが「そこでこれから先き我々がア・プリオリな認識というときには、個々の経験にかかわりのない認識というのではなくて、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識を意味するということにしよう」と述べた後で、「ア・プリオリな認識のうちで、経験的なものをいっさい含まない認識を純粋認識というのである」と説いていることを根拠にして、これは素直に読めば、ア・プリオリな認識の特殊性として、純粋認識が位置づけられていることになると主張しました。これに対して他の会員は、「一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識」と「経験的なものをいっさい含まない認識」というのは、内容は全く同じであるから、ア・プリオリな認識=純粋認識であると主張しました。もし、チューターがいうように、ア・プリオリな認識の一部として純粋認識が位置づけられるのであれば、先の純粋認識の規定は、「一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識のうちで、経験的なものをいっさい含まない認識を純粋認識というのである」と言い換えられることになるが、このような規定はおかしい、純粋認識の規定に出てくる「ア・プリオリな認識」というのは、先に議論した「通常言われているところのア・プリオリな認識」のことであろうというわけです。さらに別の根拠として、緒言Tのタイトルが「純粋認識と経験的認識との区別について」となっており、経験的認識に対立するものとして純粋認識が位置づけられていること、緒言Uにおいても純粋認識=ア・プリオリな認識という前提で論が展開していることが挙げられました。これらの説明によって、チューターも純粋認識=ア・プリオリな認識という理解に同意しました。

 最後に、純粋認識と経験的認識とを区別する標徴についても確認しました。これについては、必然性と(厳密な)普遍性ということで見解は一致しました。ただ、ある会員は、カントは経験からは必然性や厳密な普遍性は導かれないと説いているが、これは唯物論の立場からは否定されるはずだと指摘しました。唯物論の立場では、基本的には経験から認識が形成されると考えるからです。しかし一方で、南郷学派が措定した「生命の歴史」は経験から導き出されたものではありません。資料のないところから分かるのが論理能力であるというようなことが南郷学派では説かれているので、唯物論の立場から見ても、カントの主張がまったく間違っているわけではありません。もっというと、同じ観念論の立場でも、ヘーゲルならばこのカントの主張をどのように捉えたか。このようなことは、すぐには結論が出ないということで保留としておきました。それでも、カントの主張をヘーゲルならどう考えるか、われわれ唯物論の立場からはどう評価するか、というような問題意識を常に持っておく必要があるということを確認して、論点1に関する議論を終了しました。
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2017年04月08日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までは4回にわたって、2017年3月例会で扱ったカント『純粋理性批判』緒言の要約を掲載してきました。ここで改めて、大切なポイントを振り返っておきたいと思います。

 カントはまず、純粋認識(ア・プリオリな認識)と経験的認識をしっかりと区別していました。カントがいうア・プリオリな認識とは、個々の経験にかかわりのない認識というのではなくて、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識のことでした。またカントは、経験的なものをいっさい含まない認識を純粋認識とも呼んでいました。このような純粋認識(ア・プリオリな認識)に対立するのが経験的認識です。

 次にカントは、純粋認識と経験的認識とを確実に区別しうる標徴を問題にし、それを必然性と厳密な普遍性であると説いていました。そして、そのような必然性と厳密な普遍性を有するア・プリオリな認識の可能、原理及び範囲を規定するような学を哲学は必要とすると説いていました。

 さらにカントは、分析的判断と綜合的判断の区別を考察していきます。主語と述語との関係を含む一切の関係において、述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属しているか、述語Bは主語Aと結びついてはいるが、しかしまったくAという概念のそとにあるかの2つがあるとして、前者を分析的判断、後者を綜合的判断と規定したのでした。分析的判断は解明的判断とも呼ばれ、綜合的判断は拡張的判断とも呼ばれていました。カントは、経験判断は全て綜合的であるとしたうえで、ア・プリオリな総合判断ということを問題にしていきました。

 カントは、数学や自然科学、それに形而上学などの、理性に基づく一切の理論的な学には、ア・プリオリな綜合的判断が原理として含まれていると説ていました。そうすると、純粋理性の本来の課題は、「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という形の問いにまとめられるとしていました。そして、この課題の解決に最も近づいたのがヒュームであると指摘されていました。

 最後にカントは、純粋理性批判の構想と区分についても説明していました。

 以上のような内容について、会員から事前にいくつもの論点が提出されました。それをチューターが3つにまとめました。その3つの論点が以下です。

1.ア・プリオリな認識とはどういうものか?

 カントは、ア・プリオリな認識とはどのようなものであると説いているのか。通常言われているところのア・プリオリな認識なるものと、カントが明確に規定したところのア・プリオリな認識とはどのように異なっていると主張しているのか。カントは、ア・ポステリオリ、経験的認識、純粋認識という言葉も挙げているが、これらの区別と連関もしっかり確認したい。ここに関わって、純粋認識と経験的認識とを区別する標徴はどのようなものか。



2.分析的判断と綜合的判断とはどういうものか?

 カントは、分析的判断と綜合的判断とを区別しているが、それぞれどのようなものだと説いているか。綜合的判断は、経験判断、あるいはア・プリオリに確立している判断とどのように関係しているのか。また、理性にもとづく一切の理論的な学、すなわち、数学や自然科学、形而上学にはア・プリオリな綜合判断が原理として含まれていると主張しているが、これはどういうことか。


3.純粋理性批判とはどういうものか?

 カントは純粋理性批判の本来の課題は「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という形の問いに含まれている、と述べているが、このような問いの提起の意義を、哲学史上にどのように位置づけているのか。このような問いの提起に関わって、カントは、デイヴィッド・ヒュームの議論の意義と限界をどのように見ているのか。また、人間の認識の2つの根幹であるとされている感性と悟性とはどのようなものだとされているか。


 これら3つの論点について、例会1週間前までに会員はそれぞれの見解を作成し、メールで相互に送り合いました。そしてチューターはそれらの見解を例会当日までにまとめました。例会当日は、それらの見解を踏まえて、議論をしていきました。

 次回以降、これらの論点についてどのような議論・討論がなされ、どのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していくことにします。

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2017年04月07日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』緒言 要約C

 前回は、カント『純粋理性批判』緒言の「X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる」と「Y 純粋理性の一般的課題」の部分の要約を掲載しました。ここでは、数学や自然科学、それに形而上学には、必然性と厳密な普遍性を備えた命題が存在していること、純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いに収斂することなどが説かれていました。

 今回は、カント『純粋理性批判』緒言の最後の部分である「Z 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分」の要約を掲載します。


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Z 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分

 以上述べたところから、純粋理性批判と名づけられるような特殊な学の構想が生じる。理性はア・プリオリな認識の原理を与える能力だからである。したがって、純粋理性は、何かあるものを全くア・プリオリに認識する原理を含むところの理性である。もしア・プリオリな一切の純粋認識が、原理にしたがって得られ、また実際に成立しうるなら、これらの原理の総括は、純粋理性のオルガノン(認識の道具)といえるだろう。また、こうしたオルガノンを周到に適用すれば、純粋理性の体系が成立するだろう。しかし、これは実に骨の折れる仕事である。我々の認識の拡張は果たして可能なのか、また可能だとすればそれはどのような場合に可能であるか、今のところはまだ決定されていないわけだから、我々は純粋理性とその源泉および限界との批判を旨とするような学を、純粋理性のための予備学とみなしてよい。こうした予備学は、学説ではなくて、単に純粋理性の批判と呼ばれなければならないだろう。また、この批判の効用は、思弁に関しては全く消極的であって、我々の理性を拡張するのに役立つものではなく、ただ理性を純化する用をなすことで理性が誤謬に陥るのを防ぐことになるだろう。私は、対象に関する認識ではなくてむしろ我々が一般に対象を認識する仕方――それがア・プリオリに可能である限り――に関する一切の認識を先験的(transzendental)と名づける。すると、こうした概念の体系は先験的哲学と名づけられてよいが、そういってしまっては最初としては過大である。この学は、分析的認識とア・プリオリな総合的認識を完全に含んでいなければならないので、我々の意図に関する限りでは、なお範囲が広すぎるからである。我々が分析を進めて差し支えないのは、ア・プリオリな総合の諸原理をその全範囲にわたって洞察するのに是非とも必要な程度に限られている。このア・プリオリな総合こそ我々にとって最も肝要なのである。こうした研究の意図するところは、認識そのものの拡張ではなく修正であり、ア・プリオリな一切の認識の価値あるいは非価値を判別する試金石である。したがって、この研究は学説と称してよいようなものではなく、先験的批判と名づけられるべきものである。このような批判は、オルガノンのための準備といえるが、オルガノンが成功しなくても、純粋理性の規準のための準備にはなるだろう。いつかはこの基準にしたがって、純粋理性の哲学の完全な体系が分析的にも総合的にも示されるだろう。こうした体系は決して完成が期待できないほど広大な範囲にわたるものではないということは、ここで我々が論究するところのものは物すなわち外的対象としての自然ではなく、自然について判断する悟性であり、それもア・プリオリな認識に関する限りの悟性であるということからも、容易に推測できる。必要な対象の手持ちは我々の内部にあるのだから、したがっていつまでも我々に隠されているわけにはいかないし、それにまたどう見積もっても極めて少ない量であるから、その全部をとりあげたところで、これらの対象をそれぞれその価値あるいは非価値にしたがって判定し、また適正に評価することができるだろう。ここで期待できるのは、純粋理性に関する書物や純粋理性の体系などの批判ではなく、純粋な理性能力そのものの批判である。こうした批判を根底にするときのみ、我々は哲学の部門における古今の著作の哲学的価値内容を評価すべき確実な基準をもつのである。

 先験的哲学は、ある種の学の構想である。換言すれば、純粋理性批判がこの学の全設計をいわば建築術的に、すなわち原理にもとづいて立案するとともに、この建物を構成する一切の部分の完全と安全とを十分に保障しなければならないような学の構想である。すなわち、先験的哲学は、純粋理性の一切の原理の体系である。この批判がみずから先験的哲学と名のらないのは、こうした批判が完全な体系であるためには、人間のア・プリオリな認識全体の周到な分析を含まねばならないからである。

 純粋理性批判は、先験的哲学を構成する一切のものを含み、先験的哲学の完全な構想ではあるが、しかしまだ先験的哲学そのものではない。この批判が行う分析は、ア・プリオリな総合的認識を完全に判定するに必要なだけにとどまっているからである。

 こうした学〔純粋理性批判〕を区分するに当たって最も重要な目安は、何によらず経験的なものを含むような概念が入り込んではならない、換言すれば、ア・プリオリな認識はあくまで純粋でなければならない、ということである。それだから、道徳の最高原則と基本概念とは、ア・プリオリな認識ではあるが先験的哲学には属さない。これらの原則や概念は快・不快、欲望、傾向のような、いずれも経験的起源をもつものの概念を、みずから道徳的命令の根底におくわけではないが、しかし義務の概念において克服されるべき障害として、あるいは動因にされてはならない刺激として、純粋な道徳の体系を構成する場合でも、こうした概念を引き入れざるをえないからである。それだから先験的哲学は全く思弁的な純粋理性の哲学である。一切の実践的な要素は、それが動機を含む限り感情に関係し、感情はまた経験的な認識起源に属するものだからである。

 ところで、一般に体系というものを考察する見地からこの学の区分を試みるとなると、我々が今述べているところの区分は、第一に純粋理性の原理論を、また第二に純粋理性の方法論を含まねばならない。またこれら2つの主要部門は、それぞれ小区分を含むことになるだろう。人間の認識には、2つの根幹がある。おそらくこれら根幹は、共通ではあるがしかし我々には知られない唯一の根から生じたものであろう。この2つの根幹というのは、感性と悟性とである。感性によって我々に対象が与えられ、悟性によってこの対象が思惟されるのである。ところで感性は、対象が我々に与えられるための条件をなすところから、先験的哲学に属するだろう。そして先験的感性論は、原理論の第一部門でなければならないだろう。認識の対象が人間に与えられるための条件は、その対象が考えられるための条件に先立つからである。
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2017年04月06日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』緒言 要約B

 前回は、カント『純粋理性批判』緒言の「V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする」と「W 分析的判断と総合的判断との区別について」の部分の要約を掲載しました。ここでは、ある種の認識は、概念によってわれわれの判断の範囲を経験の一切の限界を超えて拡張するように見えること、分析的判断とは主語概念を分析していくっかの部分的概念に分解するような判断であり、綜合的判断とは主語の概念において全く考えられていなかったものを述語として付け加えるような判断であることなどが説かれていました。

 今回は、カント『純粋理性批判』緒言の「X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる」と「Y 純粋理性の一般的課題」の部分の要約を掲載します。


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X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる

 1、数学的判断は全て総合的判断である。この命題は極めて確実で、誰も反駁できない。

 数学的命題は、経験からは到底得られないような必然性を備えているのだから、常にア・プリオリな判断であって経験的な判断ではない。

 「7+5=12」という命題は分析的命題であり、7と5の和という概念から矛盾率にしたがって生じると考えられるかもしれない。しかし詳しく考察してみれば、7と5の和という概念は、この2つの数を結びつけて1個の数にするということしか含んでいないことが分かる。12という概念は、私が7と5との結びつきを考えるだけで既にこの概念において考えられているというわけにはいかない。和の概念をいくら分析してみても、この概念のうちに12という数は見出されない。

 同様に、純粋幾何学の命題にしても、分析的なものはひとつもない。「直線は2点間で最短である」という命題は総合的命題である。直線という概念は長短の量を含むものではなく、ただ性質を含んでいるだけだからである。最短という概念は、全く別に付け加わったものであり、分析によってこれを直線の概念から引き出すことはできない。

 2、自然科学(物理学)はア・プリオリな総合的判断を原理として自分自身のうちに含んでいる。例えば「物体界の一切の変化において物質の量は常に不変である」あるいは「運動の一切の伝達において作用と反作用は常に相等しくなければならない」という命題は、いずれも必然性と、したがってア・プリオリな起源とを有するのみならず、綜合的命題であることも明白である。物質という概念で考えられるのは、物質が空間のうちに現に存在しているということだけであり、常住不変という性質ではない。だから、物質という概念によって考えられていなかった何かあるものを、ア・プリオリにこの概念に付け加えるためには、物質という概念の外に出なければならない。

 3、形而上学は、これまでのところ単に試みられたにすぎない学であるにもかかわらず、人間理性の自然的本性からいって、欠くことのできない学だとみなされている。この学には、当然ア・プリオリな総合的認識が含まれていなければならない。形而上学の旨とするところは、我々が物に関してア・プリオリに構成するところの概念を単に分析することによって、これらの概念を分析的に解明するのではなく、我々が我々の認識をア・プリオリに拡張するところにある。そのためには、与えられた概念の外に出て、この概念に含まれていなかった何かあるものを別に付け加えるような原則を用いなければならない。そこで我々は、ア・プリオリな総合的命題によってこの概念を超出することになるので、経験そのものはもはや我々に追随できないのである。例えば、「世界にはそもそもの始まりがなければならない」などという命題がこれである。このような形而上学は、少なくともその目的に関しては、全くア・プリオリな総合的命題からなるのである。


Y 純粋理性の一般的課題

 多くの研究をひとつの課題にまとめて、これを一定の形式で表現することができると、それだけでも得るところは大きい。そうすれば自分のなすべき当面の仕事を自分で正確に規定できるから、仕事そのものが楽になるし、またそれだけでなくこの仕事を検討しようという人にとっても、我々の企図が成功したかどうかの判断が容易になるのである。すると純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能か」という形の問いに含まれるといってよい。

 形而上学がこれまで非常に不確かで矛盾に満ちていたのは、哲学者たちがこのような課題はもとより、分析的判断と総合的判断との区別にすら気づかなかったからである。それでも哲学者たちのうちで、この課題の解決に最も近づいたのは、デイヴィッド・ヒュームである。しかし、彼もこの課題を十分明確に考えたわけではなく、またこの課題が普遍性をもつものであることに考え及んだのでもなく、生起した結果をその原因に結びつけるという総合的命題(因果律)だけにとどまった。彼は、こうした命題はア・プリオリには全く不可能であることを明らかにすることができた、と信じた。彼の推論に従えば、我々が形而上学と呼ぶところのものは全て、実際には全く経験から得たところのものや、習慣によって見かけだけの必然性を得たところのものを、理性の真正な洞察と思い誤った妄想にすぎないということになるだろう。もしヒュームが、我々の提出した課題は普遍性をもつものだということを念頭に置いていたら、一切の純粋哲学を破壊するような主張を思いつきはしなかっただろうし、彼の論証に従えば純粋数学すら存在しなくなることを覚っただろう。

 上記の課題の解決は、対象のア・プリオリな理論的認識を含むところの全ての学の基礎を確立し、またこれらの学を完成するために純粋な理性使用が可能であることも――換言すれば、「純粋数学はどうして可能であるか」「純粋自然科学はどうして可能であるか」という問題に対する解答をもまた包括することになる。純粋数学にせよ純粋自然科学にせよ、いずれも実際に存在しているのだから、これらの学がどうして可能なのか問うのは当を得たことである。ところが形而上学に関しては、実際に存在しているとは言い難いので、誰しもこの学が可能であることに疑いを差し挟むのはもっともである。

 しかし、形而上学は、学としてではなくても、人間の自然的素質としては実際に存在する。人間の理性は、自分自身の止みがたい要求に駆られて、理性の経験的使用やまたそれから得られた原理などによってはとうてい答えられないような問題に向って、絶えず進んでいくものだからである。それだから人間の理性が発達して思弁を事とするようになるや否や、何らかの形而上学があらゆる人間の心の内にこれまでも常に存在していたし、またこれからも存在するであろう。そこで形而上学については、「人間理性の自然的素質としての形而上学はどうして可能であるか」という問いが生じる。

 しかし、人間理性にとって自然な問題、例えば「世界にはそもそも始まりがあるのか、それとも世界は無限の昔から存在しているのか」という問題に応えようとする従来のあらゆる試みには、常に避けることのできない矛盾があった。それだから我々は、人間理性に存在する形而上学的素質だけにとどまっているわけにはいかず、形而上学の論究する対象は知ることができるのか否か、これらの対象について何ごとか判断する能力の有無が決められるのか、したがってまた我々の純粋理性を拡張できるのか、それとも純粋理性には明確に規定された確実な制限を付しうるのか、ということである。すると、上記の一般的課題から生じてくる第三の問題は当然に次のようなものになるであろう。「学としての形而上学はどうして可能であるか」。

 それだから、理性批判は結局学にならざるをえない。これに反して批判なしに理性を独断論的に使用すれば、根拠のない主張に、したがってまた懐疑論に陥るのである。こうした主張には同じくもっともらしい主張を対抗させることができるからである。

 理性批判という学が扱うところのものは、理性の多種多様な対象ではなくて、全く理性自身であり、全て理性の内奥から生じたところの課題――理性自身の自然な本性によって理性に提出されたところの課題である。実際にも、もし理性が経験において自分に現われるところの対象に関して、前もって自分自身の能力を完全に知ることができれば、経験の一切の限界を超えて試みられる理性使用の範囲と限界とを完全かつ確実に規定することが容易になるに違いない。

 それだから形而上学を独断論的に成立させようとして従来行われた一切の試みは、もともとなかったものと見なし得るし、また見なさざるをえないのである。我々の理性にア・プリオリに内在している概念を分析するだけでは、学としての形而上学の準備にすぎず、ア・プリオリな認識を総合的に拡張しようとする本来の形而上学の目的たりえるどころでない。だが、人間理性に欠くことのできない学である形而上学に関しては、その幹から生じた枝葉は切り捨てることができるかもしれないが、これを根絶することは全く不可能である。そこでこの学を、これまでとは反対の別な取り扱いによって育成し、豊かに繁茂させる仕事が、内部的な困難と外部からの抵抗とによって疎外されないようにするためには、一段の堅忍不抜な心構えを必要とする。

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2017年04月05日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』緒言 要約A

 前回は、カント『純粋理性批判』緒言の「T 純粋認識と経験的認識との区別について」と「U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない」の部分の要約を掲載しました。ここでは、ア・プリオリな認識=純粋認識とは、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識を意味すること、必然性と厳密な普遍性がア・プリオリな認識の特徴であることなどが説かれていました。

 さて今回は、カント『純粋理性批判』緒言の「V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする」と「W 分析的判断と総合的判断との区別について」の部分の要約を掲載します。

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V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする

 しかし、はるかに重大な意味をもつのは、ある種の〔ア・プリオリな〕認識は一切の可能的経験の領域を捨て、自分に対応する対象が経験において全く与えられないような概念によって、我々の判断の範囲を経験の一切の限界を超えて拡張するように見える、ということである。

 純粋理性にとって避けることのできない課題は、神、自由および不死である。そしてこれらの課題の解決を究極目的とし、一切の準備を挙げてもっぱらこの意図の達成を期する本来の学を形而上学というのである。ところが、この学のとる方法は、最初は独断論的である。つまり、こうした大事業を成就しうる能力の有無を理性についてあらかじめ検討せずに、この事業の遂行を担当してはばからないわけである。

 しかし、我々としては、経験の領域を立ち去るや否や、素性の分からない認識を材料とし、起源の不明な原則をそのまま信用し、綿密な研究によって建物の基礎を確かめもせずに、すぐさま建築に取り掛かるよりも、まずその前に、一体悟性はどうしてこのようなア・プリオリな認識を得るに至ったのか、またこのような認識はどのような範囲、妥当性および価値をもつのか、という問いを提出する方がよほど自然なことであると思われる。しかし、自然なことという言葉を、普通一般に行われていることと解するなら、こうした〔批判的〕研究が長らく放置されざるを得なかった事情にもまして自然で明白なことはない。というのは、こうしたア・プリオリな認識の一部をなすところの数学的認識が、昔からその確実性を信頼されているので、これとは全く性質を異にする他の認識までが、それによって自分に都合のよいことを期待しているからである。その上、いったん経験の範囲を出てしまえば、もう経験によって反駁される恐れがない。また、我々の認識を拡張しようとする魅力は極めて大きいので、明白な矛盾に出合いさえしなければ、我々の行く手を阻むものはあり得ない。この魅力は、虚構に注意しさえすれば避けられうるとはいえ、だからといって虚構が決して虚構でなくなるわけではない。数学は、我々が経験に関わりなくア・プリオリな認識をどこまで進め得るか、立派な実例を示すものである。数学は、その対象と認識が〔ア・プリオリな〕直観に示される限りでのみ、これを研究するところの学である。しかし、この事情は、ここでいうところの直観がア・プリオリに与えられることで単なる純粋概念とほとんど区別されないことから、ややもすると看過される。こういう数学上の証明によって理性の威力に心奪われるものだから、認識を拡張しようとする衝動はついにとどまるところを知らないのである。

 我々の理性の仕事の大きな部分は、我々のすでにもっている種々の概念を分析するところにある。概念の分析は我々に多くの認識を与えるが、実質すなわち内容からいえば、分析は我々の概念を拡張するものではなくて、ただこれを分解するものにすぎない。ところが、この方法は、実際にもア・プリオリな認識を与え、またこの認識は確実でかつ有用な発展をとげるので、理性はこれに欺かれて、自分でも気づかぬうちに全く別の種類の主張をひそかに取り入れるのである。換言すれば、理性はすでに与えられている概念に、これとは全く無縁の、しかもア・プリオリな概念を付加する。しかし我々には、理性がどうしてこういうことをするのか、わけが分かっていない。それどころか我々は、こういう問いを発することすら思いつかないのである。そこで、まずはじめに、認識のこうした2通りの仕方の区別を論じてみたい。


W 分析的判断と総合的判断との区別について

 主語と述語との関係を含む一切の判断において(私がここで肯定的判断だけを考察するのは、あとでこれを否定判断に適用するのは容易だからである)この関係は2通りの仕方で可能である。すなわち、述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属するか、そうでなければ述語Bは主語Aと結び付いてはいるが、しかし全くAという概念の外にあるか。第一の場合を分析的判断、第二の場合を総合的判断と呼ぶ。分析的判断を解明的判断、総合判断を拡張的判断と呼ぶこともできる。解明的判断は、述語によって主語の概念に何も付け加えず、ただ主語概念を分析していくつかの部分的概念に分析するだけだからである。これに反して拡張的判断は、主語の概念に述語を付け加えるものである。この述語は主語の概念においては全く考えられていなかったもの、また主語概念を分析することでは引き出してこれなかったものである。「物体は全て延長をもつ」は分析判断であるが、「物体は重さをもつ」は総合判断である。

 経験判断はその本性上、全て総合的である。分析的判断を構成するには、私がすでにもっている概念の外へ出る必要はなく、分析的判断は経験の証言を必要としない。

 ところが、ア・プリオリな総合的判断となると、経験という便宜を全くもたない。Aという主語概念に結びついているものとしてのBという概念を認識するために、Aという概念の外へ出る場合に、私が自分の支えとするものは何であるか、またこの総合は何によって可能であるのか。これを経験の領域で探し求めるという利便はないのである。例えば、「生起するものは全てその原因をもつ」という命題において、原因という概念は、生起する何かあるものという概念の全く外にあり、生起するものとは異なる何かあるものを示している。では、私は一体どうやって、一般に生起するものの概念に、これとは全く異なるものを述語として付け加えうるのか。その支えとなる未知のXは何か。それは経験ではあり得ない。上記命題を成立させる原則は、経験が与えうる以上の普遍性をもって、そればかりかさらに必然性という言葉をもって、したがってまた全くア・プリオリな純粋概念だけによって、原因の表象を生起するものの表象に付け加え得るのである。要するに、我々のア・プリオリな思弁的認識の究極の意図は、もっぱらこうした総合的原則すなわち拡張の原則に基づいているのである。

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2017年04月04日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』緒言 要約@

 前回は、報告レジュメと、それにかかわって出されたコメントを紹介しました。

 今回から4回にわたって、カント『純粋理性批判』緒言の要約を掲載していきます。今回は、「T 純粋認識と経験的認識との区別について」と「U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない」の部分です。

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緒言

T 純粋認識と経験的認識との区別について

 我々の認識がすべて経験をもって始まるということはいささかも疑いえない。対象こそが、我々の感覚を触発し、一方ではおのずから表象をつくりだし、他方では、我々の悟性を働かせてこれらの表象を比較し結合または分離して、感覚的印象という素材を対象の認識、すなわち経験へとつくりあげるのである。だから、我々のどんな認識も、時間的には経験に先立つものではなく、すべて経験をもって始まるのである。

 しかし、我々の認識がすべて経験をもって始まるとしても、我々の認識がすべて経験から生じるというわけではない。我々の経験的認識ですら、我々が感覚的印象によって受け取るところのものに、我々自身の認識能力〔悟性〕が自分自身のうちから取り出したものが付加されてできた合成物であるからである。我々は、長い間の修練によってこのことに気付き、またこの付加物を分離することに熟達するようにならないと、これを基本的な材料すなわち感覚的印象から区別できない。

 それだから、経験に関わりない認識、それどころか一切の感覚的印象にすら関わりないような認識が実際に存在するかという問題は、立ち入った研究を必要とする。こうした認識は、ア・プリオリな認識と呼ばれ、経験的認識から区別される。経験的認識の源泉は経験のうちにあるから、ア・ポステリオリである。

 ところが、ア・プリオリな認識という語は、明確さを欠いており、当面の問題に含まれている意味の全体を適切に言い表すには十分ではない。土台の下を掘ったために家を倒壊させた人がいると、彼はこうすれば家が倒れるということをア・プリオリに知りえたはずだ、なにも家が実際に倒れるという経験をまつまでもなかったのに、などといわれることがあるからである。しかし、彼とて、このことを何から何までア・プリオリに知ることはできなかったのである。なぜなら、物体には重さがあるのだから、物体を支えているものが取り除かれれば落っこちてくる、ということは、やはりあらかじめ経験によって知っておかなければならなかったからである。

 それだから、これから先、我々がア・プリオリな認識というときには、個々の経験に関わりない認識ということではなく、一切の経験に絶対に関わりなく成立する認識を意味するということにしよう。こうしたア・プリオリな認識に対立するのが、経験的認識である。経験的認識は、ア・ポステリオリにのみ、換言すれば、経験によってのみ可能な認識である。そしてア・プリオリな認識のうちで、経験的なものを一切含まない認識を純粋認識というのである。それだから例えば、「およそ変化は全てその原因をもつ」という命題はア・プリオリな命題ではあるが、しかし純粋ではない。「変化」という概念は、経験からのみ引き出すことができるものだからである。


U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない

 ここで問題は、純粋認識と経験的認識とを確実に区別しうる標徴は何か、ということである。経験は、何かあるものが事実としてしかじかであることを教えはするが、そのものが「それ以外ではありえない」という必然性を教えるものではない。だから第一に、ある命題があって、それが同時に必然性をもつと考えられるなら、それはア・プリオリな判断である。その上、その命題が必然的な命題だけから導かれたものなら、それは絶対にア・プリオリな命題である。第二に、経験はその判断に厳密な普遍性を与えるものではなく、ただ想定された相対的普遍性を与えるだけである。もし、ある判断が厳密な普遍性をもつ(ただひとつの例外も許さない)と考えられるなら、こうした判断は経験から得られたのではなく、絶対にア・プリオリに妥当する判断である。ある判断に、厳密な普遍性が本質的に属する場合、こうした普遍性はこの判断が、ア・プリオリに認識する能力によるものであることを示している。だから、必然性と厳密な普遍性は、アプリオリな認識を表示する確実な特徴であり、この2つの性質は互いに分離しがたく結びついている。

 我々はこうした必然的な、また厳密な意味で普遍的な、したがってまたア・プリオリな純粋判断が、人間の認識に実際に存することを容易に示すことができる。「変化は全て原因をもたねばならない」という命題を例にとってみても、原因の概念は、原因が結果と結び付く必然性という概念と、この規則すなわち因果律の厳密な普遍性という概念とを明らかに含んでいる。ヒュームのように、原因の概念を習慣からいきだそうとしたら、この概念は全く成り立たない。だが、わざわざこのような例を挙げなくとも、ア・プリオリな純粋原則が経験そのものを可能にするために不可欠なものであることをア・プリオリにも示すことができる。もし、経験の進行を規定する一切の規則がどれもこれも経験的なもの、したがってまた偶然的なものだとしたら、経験は自分の確実性をどこに求めようとするのだろうか。判断ばかりでなく概念にさえ、ア・プリオリな起源をもつものがいくつかある。物体という経験概念から物体における一切の経験的なもの――色、硬さ、重さ、不可入性を次第に抜き去ってみても、この物体が占めていたところの空間は残る。同様に、ある対象について、経験的概念から一切の経験的な性質を抜き去っても、件の対象を実体として、あるいは実体に付属するものとして考えるところの性質は残る。実体という概念が必然性をもって迫ってくる以上、これを否定することはできず、実体概念がア・プリオリな認識能力のなかにその座を占めるものであることを承認せざるをえない。
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2017年04月03日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(1/10)

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』緒言 要約@
(3)カント『純粋理性批判』緒言 要約A
(4)カント『純粋理性批判』緒言 要約B
(5)カント『純粋理性批判』緒言 要約C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:ア・プリオリな認識とはどういうものか?
(8)論点2:分析的判断と綜合的判断とはどういうものか?
(9)論点3:純粋理性批判とはどういうものか?
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 3月例会では、『純粋理性批判』の緒言を扱いました。緒言は次の7つの節からなっています。

T 純粋認識と経験的認識との区別について
U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない
V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする
W 分析的判断と総合的判断との区別について
X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる
Y 純粋理性の一般的課題
Z 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分


 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。


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京都弁証法認識論研究会3月例会
カント『純粋理性批判』緒言(pp.57-83)

1.ア・プリオリな認識とはどういうものか

 カントは、神、自由および不死という課題を解決しようとする形而上学において、ア・プリオリな認識の可能、原理、範囲を規定するような学を必要とするのだという考えのもと、そもそもア・プリオリな認識とはどういうものかを論じている。

 通常、ア・プリオリな認識とは個々の経験にかかわりのない認識を指すが、これでは経験から得てきた一般的な規則をもとにした認識もア・プリオリな認識となることをカントは指摘した。そうではなくて一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識をア・プリオリな認識だと主張し、さらに純粋認識と呼んだ。そして、この純粋認識と経験的認識とを確実に区別しうる標徴として、必然性と厳密な普遍性を挙げた。

<報告者コメント>
 『カント事典』によると、ア・プリオリという言葉には歴史的な経緯があるようである。もともとはラテン語で「先に」を意味しており、ライプニッツは「主語に含まれている概念を分析的に導出して認識することを、アプリオリに認識する」と呼んでいた。ヴォルフは「理性的原理にもとづく認識がアプリオリとされ、直接に感覚器官に頼る認識がアポステリオリ」と見なしていた。またヴォルフ学派最大の哲学者であるバウムガルテン(1714-1762、独)は「あるものが根拠から認識されうる場合、アプリオリに認識され、帰結から認識されうる場合、アポステリオリに認識される」と主張した。ライプニッツは少し系列が違うかもしれないが、ヴォルフ学派に関して言えば、我々の言葉で捉え返せば、論理に基づくものをア・プリオリと呼び、事実に基づくものをア・ポステリオリと呼んでいるようである。

 こうした観点から言えば、カントは、論理に基づくと言っても、その論理は事実から導かれたものだという論理と事実ののぼりおりを踏まえ、ア・プリオリという概念をより明確にしようとしたということが言えるだろう。


2.分析的判断と総合的判断とはどういうものか

 続いてカントは、理性に基づく一切の理論的な学(数学、自然科学、形而上学)にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれているとして、そもそも総合的判断とはどういうものかを分析的判断との対比で論じている。

 主語と述語との関係を含む一切の関係において、述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属しているか、述語Bは主語Aと結びついてはいるが、しかしまったくAという概念のそとにあるかの2つがあるとして、カントは前者を分析的判断、後者を総合的判断と呼んでいる。

<報告者コメント>
 『カント事典』によれば、「分析的」という言葉に関しても歴史的な経緯がある。ニュートンによれば、「多様なデータから実験と観察によって一般的命題を帰納する」のが分析の方法であり、「分析の方法の結果から出発して諸現象を説明する」のが総合の方法である。またヴォルフによれば、「諸々の真理が発見されたようにして、あるいは発見されうるようにして、それらを呈示する」のが分析的方法であり、「諸々の真理の一方が他方からより容易に理解され論証されうるようにして、それらを呈示する」のが総合的方法である。カントの「分析的」という言葉は(ライプニッツではなく)このヴォルフを受け継いでいるということである。

 ヴォルフの分析的方法というのは、これだけでは正直あまりよくわからないのだが、少なくともカントが様々な意味で使われていた「分析的(判断)」「総合的(判断)」という概念を明確にしようとしていたのは間違いないだろう。特にニュートンの使い方を読むと、ア・プリオリとア・ポステリオリの使い方とほぼ同様にように思われるし、この辺りはかなり曖昧に使われていたのだろう。我々としては、学問を構築していく上で1つ1つの概念を明確にしていくことの重要性をカントから学ばないといけないだろう。


3.ア・プリオリな総合判断とはどういうものか

 以上のように分析的判断と総合的判断について説いた上で、カントは、総合的判断は経験を拠り所としなければ成り立たないのに、数学や自然科学でア・プリオリな総合判断が事実として成り立っているのはどうしてなのかということを問題とする。ここの解明が形而上学の確実な基礎となるのであり、この課題に思い至らなかったことが、形而上学がこれまで非常に不確かで矛盾の多い状態を続けてきた原因だと、カントは主張するのである。

 この課題の解決に最も近づいたのはヒュームであるが、ヒュームが扱った問題は因果性の原理という総合的命題のみに留まっていた(ア・プリオリな総合判断一般を扱ったのではなかった)し、さらに因果性の原理が成り立たないものとし、純粋哲学を破壊するような主張をしてしまったとして、その限界を指摘している。

<報告者コメント>
 カントは哲学(形而上学)において、様々な議論が錯綜する中において、根本的な論点は何なのかということを明らかにしたのだと言えるだろう。この「問いの発見」こそがカントの物自体論や二律背反といった哲学上の業績につながったということを踏まえるならば、我々としても、自分の専門分野において一体何が問題とされているのかや、あるいは例会の議論が錯綜する中で論点になっているのは何なのかを明確に意識し、問いを見つける力を高めていくことが必要だと言えるだろう。

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 このレジュメに対して、いくつかの指摘がありました。まず、1の報告者コメントの最後の部分についてです。そこでは、「こうした観点から言えば、カントは、論理に基づくと言っても、その論理は事実から導かれたものだという論理と事実ののぼりおりを踏まえ、ア・プリオリという概念をより明確にしようとしたということが言えるだろう」と説かれていました。この部分に対して、「このようなことがいえるだろうか?」という疑問が出されました。前とのつながりがよく分からないという疑問でした。これに対してレジュメ報告者は、カントが挙げている家が倒れる例で補足説明しました。すなわち、土台下を掘れば家が倒れるということをア・プリオリに知っているといっても、その論理はやはり事実から導き出されたものであるから、それは厳密な意味でア・プリオリな認識とはいえない、ア・プリオリな認識というためには、個々の経験にかかわりがないというだけではなく、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識である必要がある、とカントは説いているということである。この説明を聞いて疑問を呈した会員は、そのような説明があれば分からないこともないが、この文章だけではかなりの飛躍があると指摘しました。また別の会員は、今の補足説明であれば、単に、一般にア・プリオリと呼ばれている認識も、実はそうではないのだと主張しているだけであり、「ア・プリオリという概念をより明確にしようとした」というよりは、経験的認識を明らかにしたというべきではないか、と指摘しました。さらに別の会員は、その前の部分に「論理に基づくものをア・プリオリと呼び、事実に基づくものをア・ポステリオリと呼んでいる」とまとめている部分があるが、そのように単純に対応させるべきではないのではないかと指摘しました。歴史の途中にある(混乱した?)観念論の立場の概念を、完成した唯物論の立場の概念で割り切ると、漏れる部分が出てくるのではないかという指摘です。これらの指摘を、レジュメ報告者は大筋で認めました。

 あと2点、確認されたことがありました。一つは、2の部分に「続いてカントは、理性に基づく一切の理論的な学(数学、自然科学、形而上学)にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれているとして、そもそも総合的判断とはどういうものかを分析的判断との対比で論じている」とあるが、これはカントの論述の順番と逆になっているのではないか、すなわち、カントは綜合的判断と分析的判断を対比で論じた後、理性に基づく一切の理論的な学(数学、自然科学、形而上学)にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれているというテーマに進んでいるのではないか、なぜ順番を入れ替えるのか、という指摘です。これに対してレジュメ報告者は、自分の思い込みが入ってしまったかもしれないと述べました。もう一つは、2の報告者コメントにある「カントの「分析的」という言葉は(ライプニッツではなく)このヴォルフを受け継いでいるということである」という部分に関してです。ここは報告者の見解ではなく、『カント事典』の内容であるということが確認されました。もしここが報告者自身の見解であれば、後ろの「ヴォルフの分析的方法というのは、これだけでは正直あまりよくわからない」という部分とつながらないことから出た疑問でした。

 以上、今回は報告レジュメと、それにかかわって出されたコメントを紹介しました。
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2017年04月02日

新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」(5/5)

(5)京都弁証法認識論研究会で共に学ぼう

 本稿は、新大学生を主な読者として想定し、大学生活では何を如何に学んでいくべきかを説くことを目的とした小論でした。ここまで、高校までの学びと(本来の)大学での学びの違いに着目しつつ、大学での学びに決定的に欠落しているものとは何か、それらはどのように学んでいったらよいのかを説いてきました。ここで、これまでの論の展開の重要な部分を振り返っておくことにしましょう。

 まず、高校までの学びと大学での学びの違いについて考えていきました。高校までの学びというのは、現実の世界の諸々の事物・事象のうち、一定の範囲内にあるものに関して、その対象の一定の側面のみを取り上げて科目として学んでいるのでした。しかもこれらは、既に人類が明らかにしてきた文化遺産であって、それらを基本的には受動的に受け入れるという学びだったということでした。しかし大学での学びの対象というのは、高校までのような制限はありません。いわば世界全体が対象となりうるわけで、既に明らかにされている文化遺産を学ぶというより、未知の分野に切り込んで、新たな文化遺産を創造するための学びという面が大きいのだということでした。

 では、この世界全体を対象として、未知の分野に切り込んでいく際に必要になってくるものは何かとして、弁証法を取り上げたのでした。弁証法は、「世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学」ですし、「自然・社会・精神の一般的な運動に関する科学」です。そしてその構造は、「対立物の相互浸透の法則」、「量質転化の法則」、「否定の否定の法則」という三法則で成り立っているものでした。大学での学びは、世界全体を一定の部分に分けて、さらにその対象の一側面のみを問題にするという高校までの学びと違って、世界全体の連関、さらには運動・変化・発展を問題とする必要がある以上、弁証法を羅針盤として自らの対象とする分野に切り込んでいく必要があるということでした。

 ではこの弁証法を学ぶとはどういうことか、次にこの問題について考えていきました。端的に結論をいえば、これまでの受験勉強のように、単なる文字として弁証法なり弁証法の三法則なりを学んでいくということでは決してなくて、現実の中から弁証法的な性質を1つ、また1つと発見していって、弁証法のイメージを大きく膨らませていくような学びが必要だということでした。ここに関連して、人間のアタマの中のイメージ、すなわち認識に関する学問である認識論について説いていきました。認識論は自分のアタマをよくするための学問であって、受験勉強のような文字ばかりで考えてしまうようなアタマの悪さを解消し、生き生きとした像を描けるようにするために学ぶのだということでした。それは現実の世界が文字からできているのではなくて、現実の世界を感覚器官を介して脳にしっかりとイメージできることが、アタマのよさの第一歩だったからでした。

 以上、大学での講義では決して学べない2つの学問、すなわち弁証法と認識論について説いてきました。これらの学びの基本書として、諸々の著作を紹介しましたが、それらも含めて本ブログでは、「新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」」と題した論文も掲載していますので、また参考にしてみてください。

 最後に、これらの学びを実のあるものにしていくための決定的に重要な条件について説きました。端的にいえばそれは、自分と同様に真摯に弁証法・認識論を学んでいこうという意欲をもった仲間とともに、集団的に学んでいくということでした。何故集団的な学びが決定的に重要かというと、第1に、基本的な文献、基本的な概念についての学びの過程で必然的に生じてくるところの自己流の歪んだ解釈を発見・修正していくことを可能にするためでしたし、第2に、他者とまともに討論することによってこそ自らの認識をダイナミックに変化・発展させていくことが可能になるからでした。そして第3に、集団的に学ぶことでこそ、学ぶことへの情熱が維持でき、さらには発展させていくことも可能になるという側面についても付け加えておきました。

 ここまで、本稿のこれまでの流れをおさらいしましたが、本稿を終えるにあたって、これまで説いてきたような学び方をしっかりと実践していく気になった新大学生の皆さんに、是非とも伝えておかなければならないことがあります。それは、私たち京都弁証法認識論研究会は、高い志を掲げて学ぶ意欲に燃えた新大学生の皆さんの参加を心から歓迎する、ということです。

 私たちの研究会は、いまから20年近く前、京都のある大学で、弁証法というものに興味をもった数人の学生が、三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』の読書会をはじめたことにその起源があります。以来、『弁証法はどういう科学か』を中心とした三浦つとむさんの著作、あるいは三浦つとむさんの弁証法を武器として武道哲学・武道科学を創始された南郷継正先生の著作についての読書会を継続して開催してきました。また、その過程において、偶然の縁で、これ以上ない指導者の指導を仰ぐようになるという幸運にも恵まれました。最近では、5年ほど前から参加し始めたメンバーもいます。

 現在は、ヘーゲル『哲学史』の学びを踏まえて、カント『純粋理性批判』に取り組むなど、学問史上の重要文献をテキストにした月1回の例会や、本稿でも紹介した南郷継正『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義』シリーズの読書会、日本近代文学の名作読書会などを定期的に開催しています。日常的なメールのやり取りを併用しながら、弁証法・認識論の学びを深めるために活発な討論を行ってもいます。また、年に3回程度は、合宿形式による学習会を行っています。ここでは、教育実践・教育学、経済学、心理学、言語学など、それぞれの専門分野に関する報告を行い、弁証法・認識論の見地がしっかりと踏まえられているのか、他の専門分野との繋がりがきちんと意識されているのか、といった観点から、(指導者による直接的な指導も仰ぎながら)集団的な検討を行っています。異なる専門分野の人と共通の土台で突っ込んだ討論ができるというのは、私たちの研究会の大きな魅力であり、非常に重要なメリットであるといえるでしょう。

 本稿を読んで、何としても弁証法・認識論をモノにしたい! という強い意欲をもたれた新大学生の皆さんは、是非とも連絡をください(*)。京都から遠い地域にいる皆さんでも構いません。インターネットの発達した現在は、メールで瞬時に長文のやり取りもできますし、スカイプを使って討論することもできます。もし皆さんにその気があるならば、京都から離れた地にいても、私たちの研究会とともに学んでいくことは可能です。合宿の際には、直接に顔を突き合わせての討論も可能となることでしょう。実際、現在の我々の研究会には、京都から非常にかけ離れたところに住んでいるのに、毎月の学習会や合宿に参加しているメンバーが存在します。

 日本文化の発展を担い人類の歴史の前進に寄与していくのだ、という高い志を共有して、共に学んでいきましょう。

(*)連絡の取り方ですが、ブログ記事のコメント欄にメールアドレスとともに書き込んでもらえれば、こちらから連絡させてもらいます。コメント欄は承認制ですので、その旨書いていただければ公開することはありません。

(了)
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2017年04月01日

新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」(4/5)

(4)弁証法・認識論の学びは集団的に行う必要がある

 前回は、認識論とは何か、どのように学んでいけばいいのかについて説いていきました。認識論とは、アタマの中に描かれるイメージ(これを認識=像といいます)について、その生成発展の過程も含めて説いてく学問であって、端的には、自分のアタマをよくするための学びだということでした。また、この認識論を学んでいくための著作として、『育児の認識学』、『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義』シリーズ、『新・頭脳の科学 アタマとココロの謎を解く』を紹介し、それらを読み進めていく上での注意点を説いたところまででした。

 人間の認識は、これまで生きてきた積み重ねによって、自分なりの個性が育ってきています。それだけに、これまで自分が育ててきた個性にそぐわないものに関しては、感情的に反発してしまいかねません。もちろん、その反発が正しい場合もあるでしょう。しかし、こと弁証法や認識論の学びに関しては、大学の講義ではまともに学べず、それらを学ぶ唯一といっていいような書物をこの連載で紹介してきていますし、それらはその道の超一流の著者によって書かれたものであるので、まだ二十歳になるかならないかの未熟なアタマでいきなり反論などをせず、素直に学んでいってほしいと説いたのでした。

 さて今回は、以上のことにも大きく関わりますが、弁証法や認識論をまともに学んでいく上で決定的に重要な条件について説いておくことにしましょう。仮にこの条件を欠いてしまったならば、これまで紹介したようなすばらしい文献にいくら真摯に学んだとしても、弁証法や認識論の実力がまともについていくことにはならないかもしれない、というくらいの重大事なのです。

 「その決定的に重要な条件とやらは、いったい何なのですか?」と皆さんは問われるに違いありません。本稿をこれまで読んできたことで、「よし! 弁証法や認識論を真剣に学んでいくぞ!」という気持ちになっておられる新大学生の皆さんには、まともに答えておくべきでしょう。

 端的に答えをいうならば、自分と同様に真摯に弁証法・認識論を学んでいこうという意欲をもった仲間とともに、集団的に学んでいく、ということに尽きます。このことには大きく3つの効用を指摘することができます。

 第一の効用は、基本的な文献、基本的な概念についての学びの過程で必然的に生じてくるところの自己流の歪んだ解釈を発見・修正していくことを可能にする、ということです。

 そもそも人間の認識は、それぞれの個人の経験如何によって、きわめて個性的に育ってしまっているものです。そうである以上、一般的にいって、自分とはまったく異なった個性をもった他人の思っていること・考えていることを的確に理解するのは非常に困難です。このことは、弁証法あるいは認識論といった人類文化の最高峰とでもいうべき学問を偉大な学者の著作を通じて学ぶ場合には、とりわけシビアな問題として浮上してくることになります。先に説いたように、いくら自分の感情のままに反発するのではなく、素直にその著作に学ぼうとしたとしても、著者と自分の間には決定的な実力差があるわけですから、その高い内容を、自分流の個性的なアタマの働きによって、よりハッキリいうならば自分のアタマの働きのレベルにまで引き下げて「理解」してしまう、といった恐ろしいことになりがちなのです。結局のところ、ただ一人で弁証法あるいは認識論を学んでいると、反発してしまって受け入れないということにはならないにしても、自己流のおかしな解釈でしかないのに、それで弁証法あるいは認識論を「理解」したと勘違いして、その上にさらに自己流の解釈を積み重ねていく……といったことになってしまいかねません。このような個性的に歪められた「理解」に陥らないために、自分とは異なる個性をもった仲間との討論のなかで学び、さらに理想的にはよき指導者からの指導を受けながら学ぶことが必要になってくるのです。

 第二の効用は、他者とまともに討論することによってこそ自らの認識をダイナミックに変化・発展させていくことが可能になる、ということです。これは、科学としての弁証法の三法則のひとつである「対立物の相互浸透の法則」に深く関わります。

 そもそも「相互浸透」とは、簡単にいえば、繋がり合っているものがお互いに相手のもっている性質を受けとることで変化していく、このような繋がりが深まる形で発展が進んでいく、ということです。「対立物の相互浸透の法則」は、どんな事物もそれ自体として孤立して存在していたのであれば変化しないのであり、必ず他の事物との繋がりにおいて変化していくものなのだ、ということを明かにしたものであり、弁証法の三法則のなかでも根本的に重要なものだといえます。

 この法則からも明かなように、自分の認識は、ただ自分の認識として孤立してあっただけでは、まともに変化・発展していくことはないのです。かならず、他者の認識との交流関係においてこそ、まともに発展させていく道が拓けてくるのです。このことを学問の構築ということに即していえば、対象に関わって自分のアタマに描かれたイメージをしっかりと相手に伝わるレベルの言葉で表現するとともに、相手の言葉を媒介として相手がアタマのなかで描いていた対象のイメージを自分のアタマのなかに再現し、さらにこの両者(同一の対象にかかわっての自分のイメージと相手のイメージ)を比べてどこが同じでどこが違うかをしっかりと理解した上で、それをまた相手に伝わるレベルの言葉で表現する、といった努力の繰り返しの過程によってこそ、対象の構造に関わっての像(イメージ)をまともに描いていけるようになる、ということです。

 第三の効用は、集団的に学ぶことでこそ、学ぶことへの情熱が維持でき、さらには発展させていくことも可能になる、ということです。

 一人だけで学んでいると、どうしても、日常生活の惰性に流されて、ついつい楽な方向に進んでしまいがちです。4月当初はまだまだいいのですが、段々と初めの決意が鈍くなってきてしまう可能性が大きいのです。しかし、大志を掲げて学ぼうという意欲に燃えている仲間との日常的な交流関係があれば、自分も怠けてなどいられない! という気持ちにさせられるはずです。もっといえば、そのような仲間をライバルとして設定して、お互いが情熱を分け合い、お互いがお互いの熱で熱せられて冷めることがない、というような形で、お互いが凄まじいまでのレベルでの発展を成し遂げていくことも可能となっていくのです。

 以上、集団的に学ぶことの意義を説いてきました。このような同じ志をもって真摯に学んでいく仲間を創ることができるかどうかということこそが、皆さんの大学生活の充実度を決定的に左右するといっても過言ではないのです。
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2017年03月31日

新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」(3/5)

(3)認識論とは何か、如何に学ぶべきか

 本稿は、この4月に新しく大学生になった方を主な読者として想定し、大学では何を如何に学んでいったらよいのかを説くことを目的とした小論です。

 前回は、大学での学びに大きく欠けているものの1つとして、弁証法を取り上げ、それはどのようなものか、何故それが大学での学びに必要なのか、それはどのように学んでいったらよいのかを説き始めたところまででした。

 簡単に振り返りながら論を展開していきます。高校までの学びでは、現実の世界の諸々の事物・事象をある一定の範囲で切り取って、その対象の特定の側面のみを1つの科目として学んできたのですが、これでは現実の世界の本当の姿、互いに関連し合い、運動し、発展していく現実の事物・事象の構造や本質を把握するには不十分だということでした。そこで「世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学」である弁証法を学び、その実力を身につけることによって、自分の専門とする対象に関わっても、世界全体の一部分として明確に位置づけならが、対象を全的に把握することが可能となっていくのだということです。このような把握によってこそ、今まで知られていなかった対象の構造や本質を掴み取っていくことができていくのだということです。(*)

 では、弁証法を学ぶためには、具体的にどのようなことをしていけばいいのでしょうか。まずは、弁証法とはどのようなものかについて、先回紹介した『弁証法はどういう科学か』、『看護のための「いのちの歴史」の物語』、『武道哲学講義(第2巻)』(現代社白鳳選書)第2部「『学問としての弁証法の復権』―弁証法の学的復活を願って」でしっかりと理解してもらう必要があります。その上で、弁証法の三法則、すなわち「対立物の相互浸透の法則」、「量質転化の法則」、「否定の否定の法則」を日常生活の実例で説いてく訓練をしていきます。例えば、大学で出会った友達の方言が徐々になくなっていけば、これは対立物の相互浸透の結果だなとか、大学でドイツ語を学び出して、初めは違和感があったのに、10月ごろになるともう「アー、ベー、ツェー、デー」という発音の仕方が当たり前になってきたことは量質転化だなとか、歩道橋を渡るのは、道路を直接渡ることを否定して、道路に平行に階段を上ったり、角を回ったり、階段を下りたりする内に道路を渡ってしまっているのでこれは否定の否定だなとか、弁証法の三法則を具体的に考えてみるのです。

 ここで大学での学びに決定的に欠けているもう1つのもの、すなわち認識論の学びについて説いていくことになります。認識論とは端的には、人間の認識、つまりアタマの中に描かれるイメージ(これを認識=像といいます)について説いていく学問です。もう少し言葉を加えますと、認識というのは人間のアタマの中に描かれるイメージとはいうものの、これは単純に外界を反映したものではなくて、アタマの中であれこれと考えたり、快不快の感情を持ったりするのも認識の1つのあり方です。そして認識論は、単に認識とは何かを説くのみならず、認識の生成発展を説いていくことにもなりますので、簡単にいえば、自分のアタマをよくするための学問だということになります。認識がどのように発生し、どのように発展していくのかを解明できれば、自分の認識を発展させる、すなわち自分のアタマをよくすることもできるからです。

 では、自分のアタマをよくするためには、どのようなことが必要になってくるでしょうか。科学的認識論を踏まえて端的に説けば、生き生きとした像を描けるよう、感覚器官と脳を鍛えていく必要があるのです。

 皆さんは特に中学以降、現実を生き生きとした像としてアタマの中に描くような学びをあまり行ってきてはいません。小学生であれば、実際に花壇で植物を育てて観察したり、ゴミ工場に行ってそこでの仕事を見学したりしますし、算数の問題にしても、いわゆる文章題の問題では、日常生活に起こる様々な具体的な場面を想定した問題になっていたはずです。ところが、大学入試のための勉強を思い出してみてください。例えば生物でメンデルの法則を習いますが、これなどは現実にエンドウ豆を育てることなく、文字だけで遺伝子がどのような性格を持つものか覚えさせようという授業だったはずです。日本史にしても、例えば田沼の改革はどのような歴史的背景があって、それを田沼意次はどのように捉え、どのような方向性を指向してこのような改革を行ったのかという現実のあり方を抜きにして、株仲間を奨励したとか、鎖国政策を緩めたとかいった文字だけで理解していても、試験で点数が取れたでしょう。年代を語呂合わせで覚えるなど、正に文字のみの学びでしかありません。また数学に関していえば、微積分や複素数など、現実の如何なる側面を捉えて問題にしているのかを理解して説いていましたか。単なる計算問題として説いていたでしょう。数字も文字の一種ですので、これも文字のみの学びだったはずです。

 しかし現実の世界を見てください。現実の世界は文字で出来ていますか。そうではないでしょう。アタマがよいというのは、現実の世界のあり方を生き生きとした像で描き、筋を通して把握しているということですので、アタマの中が文字だらけという受験勉強的な学びではどうしようもないのです。だからこそ認識論をきちんと学ぶ必要があるのですし、文字だけで考える習慣をいち早く捨てて、現実の世界を自らの感覚器官を通してしっかりと反映できるように、感覚器官を鍛えつつ脳を育てていく必要があるのです。

 ですから、ここで弁証法に話を戻しますと、前回触れたような、「弁証法は正・反・合である」などと言葉の上での理解を振りかざして弁証法を知っているなどといっても、何の意味もないということになります。現実の事物・事象は全て、弁証法的な性質を持っているからこそ、弁証法を学んでそれを羅針盤にして生きていくことが可能なのであって、日常生活の中でも弁証法の実例を具体的なレベルで発見して、それを積み重ねていくことによって、弁証法の三法則とはおよそこういうものだという論理的な像を創っていく必要があるのです。

 ですから、先ほどの弁証法の学び方に関していえば、弁証法の三法則を単に言葉としてだけ知っているということでは全く役に立たないことになります。弁証法の学び方を認識論を踏まえて説くと、つまりアタマをよくするための弁証法の学び方を説くと、それは先に説いたような現実の中から弁証法的な性質を発見し、自らのアタマの中に弁証法の生き生きとした像を描いていくことだということになるわけです。

 さて、では本当にアタマをよくするための認識論の学びはどのように行っていけばいいのでしょうか。まずは以下の著作を味読レベルで学んでいくことが必要になってきます。

・海保静子『育児の認識学』(現代社)
・南郷継正『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義』シリーズ(現代社白鳳選書)
・瀬江千史・菅野幸子『新・頭脳の科学 アタマとココロの謎を解く』(現代社白鳳選書)

 これらの著作を学んでいく際に注意が必要なことは、変に疑問を持っておかしいのではないかなどと食ってかからないことです。素直な気持ちで、ゼロから学ぶつもりで取り組んでください。また、このことにも関わりますが、これらの著作には途中で、「もう一度、第○編第△章を読んでから続きを読んでください」などの注意書きがある場合があります。こうした場合も、なんて面倒くさいのだなどと思わずに、素直にもう一度読み返してください。面倒くさいという認識が生じるのは、著作を読み切ることが目的となっているからであって、本当にアタマをよくしたいのなら、もう一度読めとあれば読むのだという強い気持ちが必要になってきます。

(*)例えば、人間とは何か、という問いに対して、皆さんならどのように解答するでしょうか。国語や歴史や生物などで人間というものを諸々に学んできた皆さんでも、これまで人間を色々な側面に分けてバラバラに学んできたために、いざ人間とは何か、とその本質的な規定を求められると、解答に窮してしまうのではないでしょうか。これを弁証法的な実力を把持して、人間の歴史性、発展性、あるいは他の動物との決定的な違い(連関)を踏まえて解答すると、「人間とは認識的実在である」となります。詳しくは、今回紹介した『育児の認識学』などで学んでください。
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2017年03月30日

新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」(2/5)

(2)弁証法とは何か、如何に学ぶべきか

 前回は、大学生の無限の可能性を保証するための学びが大学には決定的に欠落していることを述べ、ではどのようなことを学ぶ必要があるのかとして、大きくは弁証法の学びと認識論の学びが必要だと説いたところまででした。

 もう少し復習しておきますと、高校までの学びは、人類がこれまで獲得してきた文化遺産のある一定範囲を、予め与えられたカリキュラムに沿って受動的に学ぶだけであったものが、大学での本来の学びは、世界の全ての事物・事象を対象として、今までに明らかにされていない事物・事象の構造や本質を明らかにしていくことが求められるものだということでした。ですから、イメージ的にいえば、高校までの学びではどれだけ頑張っても100点が上限でしたが、大学での学びでは100点を大きく超えて、200点にも1000点にも達する可能性があるのだということになります。

 では、大学での毎日の授業に欠かさず出席し、きちんとノートを取って、試験に備えて復習もし、その試験で満点を取りつつ、自分の専門のテーマをしっかりと定めて、その研究に打ち込んでいくということが、すなわち200点であり、さらには1000点にもなっていくということなのでしょうか。答えは否! といわざるを得ません。それは一体なぜだったでしょうか。

 それは、大学の講義において、弁証法と認識論という本物の頭脳活動を可能にする学びが一切教えられていないということでした。では何故、そんな大切な科目が大学で教えられていないのかというと、弁証法にしても認識論にしても、それを学生の実力となるように説ける教育者が大学には存在しないからです、ほんのごく少数を除いては。ですから、大学生がこれらを学ぼうと思っても、大学の授業では(大半の場合)無理なのです。そこで本稿では、これらが一体どのようなもので、どのように学んでいけば自分の実力がついていくのかを説いていくことにしたのでした。

 さて、ということで今回は、弁証法について説いていきたいと思います。

 ここでまた、高校までの学びと大学での学びの違いについて考えてみる必要があります。高校までの学びは、現実の世界のある一部分を切り取って、その対象のある側面について学んでいくという形をとっていました。例えば、現実の世界の中の日本人を切り取って、その日本人の言葉の面(を中心)について学んでいくのが国語であって、現実の世界の中のアメリカ人やイギリス人を切り取って、彼らの言葉の面(を中心)について学んでいくのが英語でした。しかし、同じように現実の世界の中の人間を切り取っても、人間を人口として捉えるならば、それは地理の問題にもなりますし、人間の歴史性という側面を扱うならば、それは世界史なり日本史になります。人間の体の構造がどうなっているのかという点で考えれば、それは生物の対象となります。金属の金を取り上げるにしても、それを物質の1つのあり方として捉えれば物理や化学の対象となりますし、貨幣として扱えば、それは経済の対象となるのです。

 このように、現実の世界の事物・事象に関して、どのような側面をどのように取り上げるかによって、様々な科目の対象として、世界の事物・事象を別々に捉えて学んでいたのが高校までの学びであったわけです。しかし、現実の世界の事物・事象というのは、個々別々に存在しているわけではなくて、全ての存在が繋がり合っているのです。日本語を話す日本人(国語の対象)は、貨幣としての金(経済の対象)を扱いつつ、その歴史(日本史の対象)を創ってきた流れがあるのです。また、現実の世界の事物・事象は、様々な側面を合わせ持つものであって、例えば、国語の対象としての人間と、地理の対象としての人間と、歴史の対象としての人間と、生物の対象としての人間とが、それぞれ別々に存在する、などということではなくて、一個の人間のそれぞれの側面を便宜的に分けて、科目として対象としているに過ぎないわけです。

 何がいいたいのかというと、高校までの学びというものは、現実の世界の諸々の事物・事象が連関し、運動し、発展しているあり方をそのまま対象として捉えて学ぶというのではなくて、諸々の事物・事象間の連関を一応棚上げして、ある事物・事象だけを切り取って、しかもそのある事物・事象のある側面にのみ着目した学びだということです。現実の世界の全ての事物・事象のうち、人間だけを切り取って、その体の構造だけに着目して生物として学んでいるのであって、その人間が歴史性をもって発展してきたことや言葉を話すという側面に関しては、生物では捨象されているわけです。しかし、本来的には現実の世界の中の諸々の事物・事象は連関し、運動し、発展してきているわけですから、それらのあり方をありのまま対象として把握し、その構造なり本質なりを掴もうとすれば、その他の事物・事象との繋がりを捉え、それらがどのように影響し合って運動しているのかを把握し、また対象とした事物・事象の全側面をその連関において把握する必要があるのです。そしてそうした学びこそが、(本来の)大学での学びなのです。

 では、こうしたものの見方はどのようにすれば獲得できるでしょうか。本来の大学での学びを可能とするためには、一体何が必要なのでしょうか。その答えこそ、弁証法の実力を身につけることに他なりません。

 読者の皆さんは、おそらく弁証法というものについてきちんと学んだことがないと思います。しかしこの弁証法は、大学での学びには必須になってきますし、大学を出て社会人になった際にも、大きく力を発揮するものですから、大学生の初めの時期からしっかりと学んでほしいと思います。

 このように説くと、「私は弁証法を知っていますよ。19世紀ドイツの哲学者ヘーゲルが唱えたという例の「正・反・合」というものでしょう。でもこんな弁証法なんていうものを知っていたからといって、一体どんな意味があるのですか」という反論がありそうですね。ですがこの反論に対しては、ハッキリといっておかなければなりません。弁証法は決して「正・反・合」ではありません、と。それに加えて、「正・反・合」と唱えたのはヘーゲルではありません、と。

 では、弁証法とは何かというと、簡単には、「世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学」ですし、「自然・社会・精神の一般的な運動に関する科学」です。そしてその構造としては、「対立物の相互浸透の法則」、「量質転化の法則」、「否定の否定の法則」が三本柱になります。この弁証法を学ぶことによって、世界全体を連関において、運動・変化・発展するものとして把握することが可能となっていきます。世界全体を対象として、これまで明らかにされてこなかった世界の事物・事象の構造や本質を把握していくための大きな羅針盤になる、これが弁証法を学ぶ大きな目的の1つとなります。

 弁証法を学ぶためには、まずは以下の著作をしっかりと読むことが重要になってきます。断っておきますが、これは一度通読すればそれでお仕舞ということではなくて、何度も何度も繰り返し学んでいく必要がある著作です。

・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)
・本田克也・加藤幸信・浅野昌充・神庭純子『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社白鳳選書)
・南郷継正『武道哲学講義(第2巻)』(現代社白鳳選書)第2部「『学問としての弁証法の復権』―弁証法の学的復活を願って」
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2017年03月29日

新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」(1/5)

〈目次〉

(1)大学での学びに決定的に欠落しているものは何か
(2)弁証法とは何か、如何に学ぶべきか
(3)認識論とは何か、如何に学ぶべきか
(4)弁証法・認識論の学びは集団的に行う必要がある
(5)京都弁証法認識論研究会で共に学ぼう


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(1)大学での学びに決定的に欠落しているものは何か

 今年の4月から新しく大学生になられる皆さん、おめでとうございます。長く苦しかった受験勉強漬けの生活からも解放され、新しい大学生活に胸を躍らせていることと思います。どんな友達ができるだろうか、専門はどういうものにしようか、サークルやクラブはどういうものに入ろうか、などなど、これからの大学生活に大きく期待しておられることと思います。

 その一方で、独りぼっちになってしまったらどうしよう、勉強にはちゃんとついていけるだろうか、一体何をして過ごしていけばいいのだろうか、などなど、これまでの生活から大きく一変するだろう自分の未来について、少なからず不安を抱いておられることも事実だと思います。

 高校生までの生活は、基本的には受け身の授業が中心だったと思います。英語なり数学なり国語なりについて、先生が教室の前で授業をし、その学んだ内容を復習して、ということを繰り返しながら、定期試験で学んだ内容の理解度を確認していくという形での生活だったと思います。基本的には、決められた時間割の流れの中で、全員が共通して先生から教えてもらい、それらを覚えていくという勉強が中心だったと思います。

 ところが大学生になると、大学ごとの特殊性はあるとは思いますが、基本的には卒業に必要な単位を履修しさえすれば、どのような科目を受講しようと、必要以上に単位を取ろうと、その学生の自由だということになります。逆にいえば、自分で主体的に選択していくことができるため、「何もしない」という消極的な選択さえできてしまうのです。やらなければやらないだけで、時間だけが過ぎていくことになります。試験の点数が悪ければ、しっかりと指導してくれた高校までの先生方のような存在は、基本的には大学にはいらっしゃらないと覚えておいてください。

 自分で主体的な選択ができるということは、何も授業を選択することだけに限りません。自分が選んだ学部の中の、どのような専門分野に進むのか、どの先生の研究室に入るのかも自分で決めることになります。どのようなテーマを研究対象にするのかも決めていかなければなりません。勉強の面以外でも、どんなサークルやクラブに入るのか入らないのか、どんなアルバイトをするのかしないのか、授業以外の時間はどのように過ごすのか、こうしたことは全て、基本的には大学生であるあなた方の主体的な選択にかかってくるのです。有体にいえば、大人へと一歩近づいたことになるわけです。もちろん、その分責任も大きくなってくることはいうまでもないでしょう。

 こんなことを説くと、「そんなことはしっかりと分かっています。私はきちんと授業に出て、サークルやバイトでも友達を作って、楽しく充実した学生生活を送っていくつもりです。立派な成績で卒業して、大企業に入って、一流の人生を送っていくつもりです」などの大変頼もしい返事が返ってくるかもしれません。また一方で、「今までのように与えられた授業を受け、与えられた試験に答え、ということではダメなのですか。自分でテーマを決めて研究していかなければならないのですか。一体どのように大学生活を過ごせばいいのか、不安になってきました」という方もいらっしゃるかもしれません。

 しかし、大きな自信を持っておられる方も、大きな不安に駆られているあなたも、次のことだけはしっかりと分かってもらう必要があります。それは何かといえば、大学での学びには、満点はないということです。そして、自分自身の努力次第では、どのようにでも自分の可能性を伸ばすための学びが大学生のうちには可能だということです。

 まず、大学での学びに満点はないというのはどういうことでしょうか。高校までの学びと大学での学びを大きく分けるとすると、高校までの学びはある一定の範囲を定めて、その範囲内の事物・事象について、これまで人類が獲得してきた文化遺産を学ぶことが中心でしたが、大学での学びに関しては、これまでのような制限はありませんし、まだ人類が到達していないような事物・事象の構造や本質をも追い求めていくような学びなのです。つまり、高校までは現実の世界の諸々の部分のうち、既に人類が把握している事柄の一部のみを学んでいたため、その学ぶ項目というのは有限個の内容だったのに対して、大学での学びは、世界全体の無限の現実が対象となるため、それら全てを把握し尽くすということは論理的には不可能となるわけです。

 しかしこのことは、逆にいえば、努力次第でどこまでも深く現実世界のあり方を掴んでいくことが可能となっていくのだということでもあるのです。そういう無限の可能性が大学生には存在するのです。高校までの学びでは、決められた時間割にそって、決められた内容を先生から教わっているだけでした。しかし大学では、自らが新たな分野に切り込んでいって、これまで明らかにされていなかった現実の側面を明らかにし、研究を進めていくことも可能なのです。

 では、そうした無限の可能性に向けて、「きちんと授業に出て、」「与えられた授業を受け、与えられた試験に答え、」「自分でテーマを決めて研究してい」くことを真面目にやっていけば、それで十分に自分の可能性を伸ばすことができるのでしょうか。実はこれではダメなのです。それは大学での学びに決定的に欠落しているものがあるからです。それは一体何だと思われますか。

 それは端的にいえば、1つには弁証法の学びであり、もう1つは認識論の学びです。皆さんはこの「弁証法」や「認識論」という言葉すら聞いたことがないかもしれませんね。しかしこの2つの学びは、とてもとても大事なのです。しかし今の大学では、これらは決して学ぶことができないのです。何故そんな大切なものが大学で学べないのか不思議に思われるかもしれません。しかしそれは、まぎれもない現実なのです。

 そこで本稿では、弁証法や認識論とはどういうもので、なぜそれらが大学での学びにとって大切なのか、それらはどのように学んでいけばいいのか、こうした問題について説いていくこととします。もちろん、この論文だけ読めば、それで弁証法や認識論の学びはお仕舞、ということにはなりません。しかし、弁証法や認識論を学ぶことの必要性や重要性をしっかりと分かっていただき、大学生活においてこれらを学んでいく契機にしていただくことはできると思います。この論文は、弁証法と認識論の学びのスタートだと理解してください。大学での学びの成果がどのようなものになるのか、実はもう勝負は始まっていると心得て読み進めてください。
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2017年03月28日

ルソー『学問芸術論』を読む(5/5)

(5)『学問芸術論』にはロックの思想からの継承と発展があった

 本稿では、ルソーの処女論文『学問芸術論』を取り上げて、どのようなことが説かれているのか、それをどのように受け取るべきかを見てきました。

 ここでこれまでの流れを振り返っておきましょう。

 まず、『学問芸術論』を書いたルソーの問題意識について見てきました。『学問芸術論』において、ルソーは学問や芸術を悪だと評価しているのですが、一方で学問や芸術に携わるべき人間もいると主張し、自らも学問や芸術を学んでおり、学問や芸術自体を否定しているわけではなかったのでした。結局、『学問芸術論』では何を主張したかったのかを探るべく、ルソーはどのような社会で生きていたのかを確認しました。そもそもルソーは、聖職者や貴族が優雅に生活をする一方で、第三身分の人々が苦しむという社会格差に対して激しい憤りを感じていたということでした。平民たちの犠牲の上に上流階級の人間が学問や芸術を楽しんでいるということ、その貴族達が楽しんでいる学問や芸術は現実の社会の矛盾の解決には役だっておらず、上流階級の人間が互いに褒めあったり自慢し合ったりするだけの道具になっているということ、そういう現状に対して怒りを抱いていたのでした。そうした感情をもって「学問や芸術は習俗を腐敗させている」と主張したのだということでした。つまり、学問や芸術そのものを批判したわけではなく、その担い手たる上流階級の人間を批判したのだということでした。

 続いて、その上流階級に対する批判に見られるルソーの弁証法的な見方・考え方を指摘しました。その1つとして、ルソーは現象と本質を区別し、行動(現象)の背後にある認識(本質)に目を向けていたということでした。つまり、同じような行動をしたとしても、それがどのような認識に基づくものなのかに着目しなければならないということです。そしてこれはロックも主張していることであり、ロックから受け継いでいるものだと指摘しました。もう1つは個人と社会という関係に目を向けているということでした。つまり、個人がある行動をとる背景には、その人個人の思いのみならず、社会の常識・価値観というものが存在しており、これが大きな力をもっているということを指摘したということでした。このように、現象と本質、行動と認識、個人と社会という形で対立物を統一して考えている点が弁証法的だということでした。

 最後に、上流階級の人間のあり方を批判したルソーは、人間はどう生きるべきだと考えたのかを見てきました。これについては、端的には、社会で認められたいという欲望にとらわれず、自分が何をすべきか、どうすべきかということについて、あくまでも自分自身が正しいと考えていることに従うべきだと主張したのだということでした。そして、実はこのような生き方はルソー自身が目指したものであり、『学問芸術論』もルソーがそのような生き方を目指したからこそ生まれてきたものだということでした。ルソーは『学問芸術論』において、「学問や芸術は習俗を純化するのに寄与した」という常識に対して、ただ一人、真っ向からアンチテーゼを投げかけたわけですが、それがどのような波紋をもたらすか、また自分の身にどんなことが降りかかってくるのかを考えて悩んでいたのでした。しかし、自らの考えを率直に発表することが良心に従った生き方だと考えて、論文を提出することにしたのでした。そして、このようなあり方は、他者からの評価を第一に考えるロックの道徳思想への批判としての意味をもつということでした。

 以上、ルソーの問題意識、ルソーの見方・考え方の特徴、その道徳観という大きく3つを見てきました。認識と表現という形で人間を弁証法的に捉える視点はロックから受け継ぎつつも、自らが生きている小社会のルールや価値観に従うべきだというロックの道徳観に関しては、現実の社会の状況を踏まえて批判的な立場を打ち出した(打ち出すことになった)のが『学問芸術論』だったということができるでしょう。つまり、『学問芸術論』とは、ロックからの文化遺産を受け継ぎつつ、それを発展させていこうとする出発点と言えるものだということです。

 ただし、『学問芸術論』はあくまでも処女論文ということもあって、そこにはやはりまだまだ限界が感じられます。ルソーは自らの良心の声に従うべきだと主張したわけですが、(4)で触れたように、その自らの心に訴えかけてくる良心の声というものは、どのようにして形成されてくるのかは説かれていません。また、学問や芸術は習俗を堕落させたとしながらも、そもそも学問とは何か、芸術とは何かを説いておらず、それがなぜ習俗の堕落をもたらすのか、一方でそれが「人間精神の栄誉のために記念碑をうちたてる」ことにもつながるのはなぜかといった問題が説かれていません。素直に『学問芸術論』を読めば、学問や芸術携わるにふさわしい徳のある少数の人間と、学問や芸術に携わることによって堕落する多くの人間がいるということになってしまいます。これでは、精神白紙説を唱えたロック以前に退行してしまうことにもなります。

 そもそも「こうすべきだ」という判断は、対象についてのまともな把握なしには成立しません。小学生に授業をする場合でいえば、小学生は運動性が非常に高いですから、ずっと座ったまま話を聞くということは非常に困難です。立って友だちとペアで活動させたり、ノートを持ってこさせたりするなどの形で、適度に運動をさせながら授業を進めていかないといけません。そうしないと、目的とする文化遺産の継承ができないのです。逆に、対象についての把握が十分であればあるほど、正確な判断が可能となります。そして、対象の構造を体系的に把握したときに成立する認識こそ学問にほかなりません。したがって、学問を身につけてこそ、「こうすべきだ」という正しい判断ができるようになるのであり、自分が意図するように対象を自由に変化させることができるようになるのです。ルソーは『学問芸術論』の段階では、ゴールとしての人間の姿はイメージしたものの、そこに至るプロセスを明確に把握することはできなかったのだと考えられます。

 この『学問芸術論』に対しては、多くの批判文が寄せられ、ルソーはそれに答えていきました。岩波文庫版の『学問芸術論』には、「レーナル師への手紙」「ポーランド王、兼ロレーヌ公への回答」「グリム氏への手紙」「ボルド氏への最後の回答」「ディジョンの一アカデミー会員(ルカ)の新しい反論に対する手紙」が付録として収録されていますが、これだけで150ページほどあります。もとの小論は50ページほどですから、およそ3倍となっています。しかし、批判に答える過程でルソーは自らの社会思想を徐々に徐々に形成していきます。『学問芸術論』の解説においても「これらの論争を通じて(中略)『学問芸術論』に漠然と萌芽として潜んでいた特色ある彼の諸理念が、しだいに明確になり、やがて後の諸作品に結実してゆく過程がみられる」(p.238)と書かれています。

 このように個々の人間がそれぞれに異なる自らの考えを出し合い、議論するからこそ、よりよい考えが生み出されていくのです。そして、個々人が自分の考えを表明することを保証する仕組みこそ民主主義にほかなりません。ルソーは民主主義思想の原点だとされますが、自らの人生をとおしても、民主主義の意義というものを恐らくは感じていたのでしょう。

 現代日本において、民主主義を真に成り立たせるためには、個々人が自分の考えを表明できるようにしていく必要があります。今の社会が抱えている様々な問題に目を向け、「こうした方がいいのではないか」という自分の考えをもてるようにすること(それが可能となるように学問を身につけさせること)、そして、それを表明できるようにすることが欠かせません。その表明のあり方として、市民運動などがあるのだと言えるでしょう。

 ところが、テロ等組織犯罪準備罪(共謀罪)は、そのような自分の考えを表明すること、あるいはそもそも自分の考えをもつこと自体を抑制してしまいます。例えば、特定秘密保護法案が議論されていた際、当時、自民党幹事長であった石破氏は、国会周辺で繰り広げられたデモに対して、「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」として、デモをテロだと主張しました。このような解釈がなされるのであれば、市民や労働組合などの運動自体が罪として問われ検挙されるということになりかねません。そのような意味で、非常に大きな問題を抱えた法律だと言えます。このような法律の問題点を見抜けるような国民を育てることも、民主主義を確立する上で非常に重要だと言えるでしょう。

 真に民主主義社会を実現するための教育学を構築するということを念頭におきつつ、『人間不平等起源論』や『社会契約論』など、その後のルソーの著作を読み進めていきたいと思います。
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2017年03月27日

ルソー『学問芸術論』を読む(4/5)

(4)ルソーは自らの良心に従ってアンチテーゼを投げかけた

 前回は、上流階級の人間に対する批判の中に見られるルソーの見方・考え方の特徴について見てきました。現象と本質、行動と認識、個人と社会という形で対立物を統一してみており、非常に弁証法的な見方・考え方をしていたのだということでした。

 上流階級の人間のあり方を批判したルソーは、では人間はどうあるべきだと考えたのでしょうか。今回はこの点について見ていきたいと思います。

 まずはルソーの主張の重要な部分のうち、ここに関わるものを再度引用します。

「学問、文学、芸術は、政府や法律ほど専制的ではありませんが、おそらく一そう強力に、人間を縛っている鉄鎖を花環でかざり、人生の目的と思われる人間の生まれながらの自由の感情をおしころし、人間に隷属状態を好ませるようにし、いわゆる文化人を作りあげました。」(p.14)


「一そう精緻な研究と一そう繊細な趣味とが、ひとをよろこばす術を道徳律にしてしまった今日では、つまらなくて偽りの画一さが、われわれの習俗で支配的となり、あらゆるひとの精神が、同一の鋳型の中に投げこまれてしまったように思われます。たえずお上品さが強要され、礼儀作法が護らされます。つねにひとびとは自己本来の才能ではなく、慣習にしたがっています。ひとびとはもはや、あえてありのままの姿をあらわそうとはしません。」(p.17)


 ここでは個人の様々な感情・考えを社会が押し殺してしまっているのだということが指摘されています。前回見たように、ルソーは個人の言動に対して社会が大きな影響を与えているということを指摘しているのです。しかし、それによってその個人が本当にやるべきことができないのだというような問題意識を抱いているのだと考えられます。

 また、論文の最後には次のように書かれています。

「おお徳よ!素朴な魂の崇高な学問よ!お前を知るには多くの苦労と道具とが必要なのだろうか。お前の原則はすべての人の心の中に刻み込まれていはしないのか。お前の掟を学ぶには、自分自身の中にかえり、情念を静めて自己の良心の声に耳をかたむけるだけでは十分ではないのか。ここにこそ真の哲学がある。われわれはこれに満足することを知ろう。」(p.54)


 ここでは、自分の情念を沈めて、自分の良心の声に耳をかたむければよいということが説かれています。この情念というのは、これまでの流れからすれば、「他人に認められたい、評価されたい」といった思いということになるでしょう。そういう気持ちを捨てて、自分が心から正しいと思うことをするべきだということを言っているのだと言えるでしょう。そのようなあり方が道徳的なあり方であり、人間としてすばらしいあり方なのだと主張しているのです。

 もちろん「こうすべき」という自分の考えも社会的に創られるものではないかという問題はあります。しかし、前回も述べたように、少なくとも他者に評価されることが最も重要だと考えたロックに対して、そうではない側面があるという問題提起をした点は大きな意義があると言えるでしょう。

 実はこのような生き方はルソー自身が目指したものであり、『学問芸術論』もルソーがそのような生き方を目指したからこそ生まれてきたものだと言えます。ルソーはこの論文の序文で次のように書いています。

「わたしがあえてとった立場が許されがたいものであることは、前もって知っています。今日、ひとびとが称賛しているすべてのことに正面からぶつかれば、一般的な非難だけしか期待できません。いく人かの賢者に賞賛されるという栄誉を受けたからといって、公衆の賞賛を期待してはなりません。それにわたしの立場はきまっていたのです。つまり、わたしは、才人たちや当世流行のひとびとの、どちらをも喜ばすことは気にしていません。(中略)自分の世紀をこえて生きようと望むときには、そのような読者のために、決して書いてはならないのです。」(pp.9-10)


 ルソーは「学問や芸術は習俗の純化に寄与しなかった、むしろ堕落させた」と主張しているのですが、当時の一般的な常識では、学問や芸術によって習俗は純化したと考えられていたのです。したがって、ルソーのような主張は、社会の人びとには到底受け入れられないものであり、当然、社会から賞賛されることは期待できなかったのです。しかし、後世に残るような主張をしようと思えば、今自分が生きている時代の人間から賞賛されることを考えていてはいけないというのです。
 また本論の冒頭では次のように書いています。

「公正な支配者というものは、疑わしい議論において、自分と反対の意見をとりあげることを決してためらわないものです。事実、正当な主張にとって、最も有利な立場というのは、公正で明哲な相手、すなわち、訴訟を自分のこととして考える裁判官に対して、自己弁護ができる立場です。
 わたしを元気づけるこのような動機に加えて、わたしに決意を与えてくれる、いま一つの動機があります。それは、わたしが生来の明知にしたがって真理の側を支持した以上、わたしの成功がどんなものであろうと、必ずわたしに与えられる賞があるということです。それを、わたしは心の奥底に見いだすことでしょう。」(p.12)

 「元気づける」「決意」などの言葉から、ルソーがこの論文を発表することにためらいを感じていたことがうかがえます。実際、論文執筆にあたって自分の考えが明確になったとき、友人のディドロに相談して検討をしてもらっています。ただ一人、社会に向かって真っ向からアンチテーゼを投げかけるのですから、それがどのような波紋をもたらすか、また自分の身にどんなことが降りかかってくるのかを考えずにいられないでしょう。それでも自らの考えを率直に発表することが良心に従った生き方だ、人間としてあるべき姿だと考えて、論文を提出することにしたのです。そのような自分の生き方を貫けたということが、「わたしに与えられる賞」ということになるでしょう。このように、ルソーは『学問芸術論』において説いているあり方を自身の生き方として貫こうとしたのです。
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2017年03月26日

ルソー『学問芸術論』を読む(3/5)

(3)ルソーは弁証法的な見方・考え方を身につけていた

 前回は、『学問芸術論』がどのような目的で書かれたのかを見てきました。端的には、ルソーは学問や芸術を批判したかったわけではなく、学問や芸術の担い手である上流階級のあり方を批判しようとしたのだということでした。

 今回は、この批判の中に見られるルソーの特徴的な見方・考え方を掬いとってみたいと思います。再度、ルソーの主張を引用します。

「ひとびとは今や、ミューズ(学芸の神々)との交わりからえられる主な利益を知りはじめました。その利益というのは、お互いに讃美しあうにふさわしい著作によって、お互いに気に入ろうとする欲望を刺激して、人間を一そう社会的なものにすることです。」(p.14)


「学問、文学、芸術は、政府や法律ほど専制的ではありませんが、おそらく一そう強力に、人間を縛っている鉄鎖を花環でかざり、人生の目的と思われる人間の生まれながらの自由の感情を押し殺し、人間に隷従状態を好ませるようにし、いわゆる文化人を作りあげました。」(p.14)


「要するに、なに一つ徳をもたないのに、あらゆる徳があるかのようなみせかけ」(p.15)


「一そう精緻な研究と一そう繊細な趣味とが、ひとをよろこばす術を道徳律にしてしまった今日では、つまらなくて偽りの画一さが、われわれの習俗で支配的となり、あらゆる人の精神が、同一の鋳型の中に投げこまれてしまったように思われます。たえずお上品さが強要され、礼儀作法が守らされます。つねにひとびとは自己本来の才能ではなく、慣習にしたがっています。ひとびとはもはや、あえてありのままの姿をあらわそうとしません。」(p.17)


 ここで取り上げたいことは2つあります。1つは、現象にとらわれていないという点です。「なに一つ徳をもたないのに、あらゆる徳があるかのようなみせかけ」などの指摘は、まさにその視点を端的に表していると言えるでしょう。「本質としては徳をもっていないけれども、徳をもっているかのような現象を呈している」と述べているのです。冒頭でルソーは「紳士と貧民という経済的な差異などの現象にとらわれず、その本質においては誰もが人間として同じなのだという人間観」をもっていたと書きましたが、このように人間を現象と本質という形で分けて捉える視点がここで見られているということになります。

 認識論的な観点から言えば、何らかの行動を見たときに、その行動の背後にどのような認識があるのかという点に着目しているとも言えます。つまり、行動とその背後にある認識をしっかりと区別しているということです。小論「ロックの教育論から何を学ぶべきか」では、ロックは「たとえ同じ行動であっても、その背後にある認識がどのようなものなのかに着目しなければならない」ということに気づいたと書きましたが、そのような視点がルソーにも受け継がれていると言えるでしょう。

 もう1つ取り上げたい点は、個人と社会の関係に目を向けているという点です。例えば、「あらゆる人の精神が、同一の鋳型の中に投げこまれてしまったように思われます」ありますが、社会的なものが大きく個人の行動に影響を及ぼしていると、ルソーが考えていることがうかがえます。社会の常識や価値観によって動かされているという見方、社会的認識の強さというものを見て取っていることがわかります。また、「お互いに気に入ろうとする欲望を刺激して、人間を一そう社会的なものにすることです」という表現を見ると、個々人も嫌々そのような行動をとっているばかりではなく、社会的な評価を求めて自らそうしているという見方をしていることがわかります。以下のような記述もあります。

「芸術家というものは、すべて、称賛されることを望むものです。同時代の人びとの讃辞は、芸術家のうける報酬のなかで、最も貴重な部分です。(中略)芸術家たちは、讃辞をえるために、いったいどうするでしょうか。諸君、芸術家はどうするでしょうか。彼はその天才を、時代の水準にまで引きさげ、また、彼の死後ずっと後になって、はじめて讃美されるような、すばらしい作品よりも、自分の存命中に讃美される平凡な作品を作るほうを、いっそう好むでしょう。」(pp.37-38)

 つまり、芸術家は今の社会で認められることを求めて、今の社会で認められるような平凡な作品を作るのだということです。このように、個人の行動にその個人が生きている社会が非常に大きな影響を与えているということを見て取り、そこに潜む問題を指摘しようとしたのだということが言えるでしょう。

 ロックは世論に従うことがよいのだと考えていました。かつて執筆した小論「道徳思想の歴史を概観する」において、ロックの道徳思想として「世間で暮らし、どこへ行っても歓迎され、尊敬される真の術を身につけることが紳士としてもっとも必要であり、これこそが道徳的なあり方だということです。大雑把に言えば世論に従うことこそが道徳的だということであり、これは幸福に役立つからこそ価値があるのだということです。」と書きました。それを踏まえると、ルソーはそのロックの道徳観(=教育目的観)を批判したと見ることもできるでしょう。

 以上、ルソーの特徴的な見方・考え方について見てきましたが、現象と本質をわける(行動と認識をわける)という考え方、個人と社会の関係を見るという見方がそこには存在していました。これは一言でいえば、対立物の統一ということであり、ルソーは非常に弁証法的な見方・考え方をしていたのだと言えるでしょう。
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2017年03月25日

ルソー『学問芸術論』を読む(2/5)

(2)ルソーは学問や芸術の担い手である上流階級を批判した

 本稿は、ルソーの処女論文である『学問芸術論』をとりあげ、そこでどのようなことが説かれているかを確認したうえで、そこにはどのような歴史的な意義があるのかを明らかにしようとするものです。今回は、この『学問芸術論』がどのような目的で書かれたのかを見ていきたいと思います。

 前回紹介したように、『学問芸術論』の正式なタイトルは「学問と芸術の復興は、習俗の純化に寄与したかどうか、について」です。ルソーは、この問いに対して、「習俗の純化に寄与しなかった、むしろ堕落させた」という主張をしており、学問や芸術はそのような習俗の堕落をもたらす悪なのだと書いています。例えば、以下のとおりです。

「学問と芸術とが生まれたのは、われわれの悪のせいなのであって、もし、徳のおかげで生まれたのでしたら、われわれが、学問芸術の利益について疑うことは、もっと少ないことでしょう。」(p.31)


「時間の浪費ということは、確かに大きな悪です。が、他のもっと大きな悪が、文学や芸術にはつきまとっています。それは奢侈で、文学や芸術と同じように、人間の無為と虚栄とから生まれたものです。奢侈が学問や芸術を伴わないことは稀であり、学問や芸術が奢侈を伴わないことも、またけっしてありません。」(p.35)


「生活の便宜さが増大し、芸術が完成にむかい、奢侈が広まるあいだに、真の勇気は委縮し、武徳は消滅します。そして、これもやはり学問と、暗い小部屋の中でみがかれる、あのすべての芸術のしわざなのです。」(p.40)


 つまり、学問や芸術は無為や虚栄とから生まれたものであり、またそれは時間の浪費をもたらしたり、武徳を失わせたりするのだということです。学問や芸術は、その起源や目的からして悪なのだと主張しているのです。
 しかし、ルソーは学問や芸術を全否定しているわけではありません。例えば、ルソーは次のようにも書いています。

「もし、若干の人たちに学問芸術の研究にしたがうことを認めなければならないとすれば、これらの巨匠(注;ヴェルラム、デカルト、ニュートンのこと)のあとを独力でたどり進み、彼らを追いこす力を自覚している人びとに対してだけです。すなわち、人間精神の栄誉のために記念碑をうちたてることがふさわしい少数の人びとに対してだけです。」(p.52)


 つまり、過去の巨匠の後を追いかけ、追いこす力を自覚している人びとは、学問や芸術の研究に携われることを認めています。しかも「人間精神の栄誉のために」などの表現から、決して消極的にではなく、積極的に認めているのだと言えるでしょう。

 そもそもルソー自身は音楽家として生活をしており、芸術的な教養を備えていました(ディドロから百科全書で「音楽」の項目について書くよう依頼されていたほどです)。また、デカルトやロック、ライプニッツに代表される当時の学問も学んでいます。そのようなことを踏まえると、ルソーが学問や芸術を悪いものとして否定したとは考えにくいのです。

 結局、ルソーは『学問芸術論』で何を言いたかったのでしょうか。何のために、『学問芸術論』を執筆したのでしょうか。これを明らかにするために、ルソーはどういう社会に生きていたのかを確認してみましょう。

 ルソーが生まれた年は、ルイ14世の没年とほぼ同時期になっています。ルイ14世は絶対王政を確立し、またコルベールによる重商主義政策によって大きく財政を豊かにしていました。こうした中で貴族達は華やかな宮廷生活を送り、学問や芸術の担い手となっていたのですが、度重なる戦争によって財政が悪化し、絶対王政が陰りを見せ始めていたのでした。こうした中で、聖職者たちが第一身分として、政治的な権力や経済力を担うようになり、貴族は税金の免除や軍務の免除などの特権はもつものの第二身分として位置づけられるようになりました。さらにその下に第三身分たる平民がおり、重税に苦しめられていました。やがて資本主義経済が芽生えていく中で、第三身分の中にも金融業者や大商人、大地主といった上層市民、商工業や資本主義的農業経営にたずさわる中産市民、農民や都市商工業者などの民衆への分化が起こるようになりました。このように階層的な身分秩序が形成されていたのが当時のフランス社会だったのです。

 こうしたフランス社会において、ルソーは時計職人の子どもとして生まれました。母親の方は比較的裕福でしたが、すぐに亡くなってしまい、父親も罪を犯して捕まってしまい、13歳から徒弟奉公に出ることになります。その後、放浪の旅に出る中で、憧れていたパリに行くことになったのですが、そこで目にしたのは悪政によって虐げられていた人びとの姿でした。その当時の心境を次のように語っています。

「不幸な人々がこうむるあの過酷と圧制者に対して、わたくしの心の中にそれ以来生じた、あの消しがたい憎しみの芽はここにあった。」(中里良二『ルソー』清水書院、1969年、p.55より)


 このように、聖職者や貴族が優雅に生活をする一方で、第三身分の人々が重税などによって苦しむという社会格差に対して、ルソーは激しい憤りを感じていたのです。これがルソーの根本的な問題意識だと言えるでしょう。

 以上を踏まえて、『学問芸術論』で注目したいのが以下の記述です。

「ひとびとは今や、ミューズ(学芸の神々)との交わりからえられる主な利益を知りはじめました。その利益というのは、お互いに讃美しあうにふさわしい著作によって、お互いに気に入ろうとする欲望を刺激して、人間を一そう社会的なものにすることです。」(p.14)


「学問、文学、芸術は、政府や法律ほど専制的ではありませんが、おそらく一そう強力に、人間を縛っている鉄鎖を花環でかざり、人生の目的と思われる人間の生まれながらの自由の感情を押し殺し、人間に隷従状態を好ませるようにし、いわゆる文化人を作りあげました。」(p.14)


「要するに、なに一つ徳をもたないのに、あらゆる徳があるかのようなみせかけ」(p.15)


「一そう精緻な研究と一そう繊細な趣味とが、ひとをよろこばす術を道徳律にしてしまった今日では、つまらなくて偽りの画一さが、われわれの習俗で支配的となり、あらゆる人の精神が、同一の鋳型の中に投げこまれてしまったように思われます。たえずお上品さが強要され、礼儀作法が守らされます。つねにひとびとは自己本来の才能ではなく、慣習にしたがっています。ひとびとはもはや、あえてありのままの姿をあらわそうとしません。」(p.17)


 簡単にまとめると、「学問や芸術の利益は、お互いに気に入ろうとする欲望を刺激して、人間を社会的にすることである」「学問や芸術は、人間の生まれながらの自由の感情を押し殺して隷属状態を好ませるようにした」「(学問や芸術によって)なに一つ徳をもたないのに、あらゆる徳があるかのようなみせかけが生まれた」「慣習にしたがっていてありのままの姿をあらわそうとしない」ということになります。もう少し言えば、学問や芸術が、周囲の人間に気に入られる手段になってしまっているということです。社会的に価値があるとされるものを身につけることによって、周囲の人間から賞賛されることばかりを求めているという指摘です。そして、このような状態になった人間を「文化人」と呼んでいるわけですが、この文化人こそ、ルソーが批判的に捉えた上流階級の人びとを指していると言えるでしょう。

 以上を踏まえると、ルソーは『学問芸術論』において、決して学問や芸術を否定しようとしたわけではなく、その学問や芸術の担い手となっていた当時の上流階級の人々の在り方を批判したかったのだということになるでしょう。そこにこそ、『学問芸術論』の執筆動機があったのです。
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2017年03月24日

ルソー『学問芸術論』を読む(1/5)

<目次>
(1)ルソーは『学問芸術論』で何を説いたのか
(2)ルソーは学問や芸術の担い手である上流階級を批判した
(3)ルソーは弁証法的な見方・考え方を身につけていた
(4)ルソーは自らの良心に従ってアンチテーゼを投げかけた
(5)『学問芸術論』の人間観にはロックの思想からの継承と発展があった

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)ルソーは『学問芸術論』で何を説いたのか

 昨年掲載した「ルソーの教育論の歴史的意義を問う」と題した小論において、ルソーの教育論の歴史的意義について、次のように述べました。

「人間は将来どんな社会で生きていくかわからないから、どんな社会でも生きていけるようにしないといけない。それこそが教育の目的である。どんな社会でも生きていける人間というのは、権威に頼らず自分のアタマで考えて行動できる人間、つまり主体的な人間であり、そのような人間であってこそ社会の維持・発展も可能となる。したがって、教育方法に関しても、自らのアタマを働かせて対象に取り組んでいくように工夫しなければならないし、何よりも教師自身が主体的な人間でなければならない、ということです。

 では、このようなルソーの教育論はどのような意義があると言えるでしょうか。

 何よりも着目されるのは、その教育概念でしょう。ロックにおいては、紳士の教育と貧民の教育という形で、教育を2つに分けて論じられていたのでした。それに対して、ルソーにおいては、どんな社会でも生きていけるようにすることが教育だと主張しました。つまり、紳士の教育とか貧民の教育とかいう以前に、共通する土台の部分が存在するのであり、そこを教えることが重要だと主張したのです。現在、専門教育や大学教育などに至る前に義務教育が存在しますが、このような学校制度の原型となる考え方を打ち出したのだと言えるでしょう。このように教育という過程において、共通となる土台の部分を指摘したことが、ルソーの教育論の歴史的な意義だと言えるでしょう。」

 つまり、ルソーは、いかなる社会でも生きていけるように主体的な人間を育てることが教育だと主張したのだということです。そして、これは誰に対しても行わなければならないものであり、紳士の教育と貧民の教育と2つがわけて考えられていた段階(ロックの段階)から見れば発展であったということです。紳士と貧民という経済的な差異などの現象にとらわれず、その本質においては誰もが人間として同じなのだという人間観を抱いていたのだと言えるでしょう。

 このような人間観・教育観はペスタロッチやカントに引き継がれていくことになります。例えば、ペスタロッチは、『隠者の夕暮れ』の冒頭において、「玉座の上にあっても木の葉の屋根の蔭に住まっても同じ人間、その本質から見た人間、そも彼は何であるか。」と述べています。ここには玉座の上にある人間と木の葉の屋根の陰に住む人間を同じ人間として捉え、その共通性を把握しようという問題意識が窺えますが、こうした認識の原形はルソーにあると言えます。また、カントは「人間は教育によって人間となる」という有名な命題を打ち立てましたが、そのカントはルソーの『エミール』が出版されたとき、それに没頭するあまり、絶対に欠かさなかった朝の散歩を忘れてしまったという逸話があるほどです。 このように、ルソーは今日につながるような人間観・教育観を打ち出した人物なのです。

 昨年「ルソーの教育論の歴史的意義を問う」、そして「近代教育学の成立過程を概観する」を執筆する過程で、このようなルソーの意義を改めて確認することができ、改めてしっかりとその主張を掬い取っていかなければならないと感じるようになりました。

 ここで重要なのは、ルソーは決して単なる教育思想家だったわけではなく、そもそも社会思想家だったということです。つまり、社会全体について論じる中で教育についても扱っているということです。したがって、ルソーの社会思想全体からその教育思想を見ていく必要があります。筆者はこれを今年の大きな課題としています。そのために『学問芸術論』、そして『人間不平等起源論』、さらに『社会契約論』と一連のルソーの著作を読み、そこで何が説かれているのか、それをどのように把握していけばよいかということを明らかにしていこうと考えています。

 ルソーを扱うことは、民主主義とは何かということを確認する上でも重要だと考えています。ここに関わっては、とりわけ現在はテロ等組織犯罪準備罪(共謀罪)が最も大きな問題でしょう。

 2月28日に示された原案では、一定の犯罪の実行を目的とする組織的犯罪集団が、重大な犯罪を計画し、メンバーのうちの誰かが、資金または物品の手配、関係場所の下見、その他の、犯罪を実行するための準備行為を行った場合などに、テロ等準備罪として処罰すると定めています。このうち、組織的犯罪集団には、テロ組織や暴力団、薬物密売組織などが含まれるとしています。また、処罰対象となる重大な犯罪は、組織的な殺人やハイジャックなど、テロの実行に関連する110の犯罪に加え、覚醒剤や大麻の輸出入といった、薬物に関する30程度の犯罪など、組織的犯罪集団が関与することが現実的に想定される、合わせて277としています。さらに、罰則については、死刑や、10年を超える懲役や禁錮が科せられる犯罪を計画した場合、5年以下の懲役か禁錮とするなどとしています。

 しかし、「組織的犯罪集団」の明確な定義はなく、その団体が犯罪集団であるかどうかを判定するのは捜査機関であり、恣意的な解釈が行われる可能性が出てきます。これでは市民運動や労働運動などの弾圧にもつながりかねません。全国労働組合総連合事務局次長の橋口紀塩氏は「『共謀罪』の創設は、労働組合や市民団体の運動を委縮させること、国民が声を上げることを封殺することに、その狙いがある」と指摘しています。また、琉球新報は民主主義を破壊するものだと主張しています。

【談話】「共謀罪」創設に反対し、法案提出中止を求める
http://www.zenroren.gr.jp/jp/opinion/2017/opinion170208_01.html

<社説>「共謀罪」提出へ 民主主義崩す「悪法」だ
http://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-346152.html

 こうした情勢において、そもそも民主主義とは何かについて、その原点であるルソーを把握しておくことが重要な意味があるでしょう。

 以上を踏まえて、本稿ではルソーの処女論文である『学問芸術論』(正式なタイトルは「学問と芸術の復興は、習俗の純化に寄与したかどうか、について」)を取り上げます。これはアカデミーの公募論文に応募してルソーが執筆したものです。前川貞次郎訳の岩波文庫版では50ページほどの短いものです。その内容は、当時の一般的な認識と大きく食い違うものであったため、世に広まると様々な論争を引き起こすこととなり、ルソーは論壇の舞台に立たされることになっていくのです。ルソーが38歳のときのことでした。

 本稿では最初の『学問芸術論』がどのような目的で書かれたのかを明らかにします。続いて、そこでどのようなことが説かれているのかを確認し、その歴史的な意義について見ていきたいと思います。(以下、ページ数のみの場合は、すべて前川貞次郎訳の岩波文庫版の『学問芸術論』からの引用です)。
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2017年03月23日

一会員による『学城』第14号の感想(14/14)

(14)「発展の論理構造」を文字として捉えるのではなく、像として主体的に描いていく必要がある

 本稿は『学城』第14号の感想を認めることによって、特に全体を貫くテーマである「発展の論理構造」という観点から、この第14号の中身を主体的に自分の実力とすることを目的として、これまで第14号に掲載されている12本の論文を取り上げ、その要約を行い、学ぶべき点を明かにしてきたものである。

 ここで、第14号全体を貫くテーマである「発展の論理構造」ということの中身を中心に、これまでの展開を振り返っておきたい。

 連載第2回で取り上げたP江論文では、「発展の論理構造」は「新しい弁証法の構造」であると述べられ、動く遺伝子の構造が説かれていた。また、「発展の論理構造」は生命の歴史から学ぶべきものであることも強調されていた。

 「発展の論理構造」を把握するためには、弁証法の理解が必要だという観点から展開されていたのは、連載第4回に扱った神庭論文であった。ここでは、弁証法的なものの見方・考え方が看護の実例を通して説かれていたのであった。同じ事例を繰り返し別の観点から説いているというのは「量質転化」的な説き方であることも指摘しておいた。連載第7回のP江論文では、治療論を医学体系の全体像の中で把握すること、また治療論と病態論を対立物の統一として捉えることの重要性が説かれていたし、連載第11回の朝霧論文に関しては、「素直さ」が自分を否定し指導者に二重化するという意味で「否定の否定」になることを説いておいた。

 「発展の論理構造」を生命の歴史から学ぶ必要があることも、随所に説かれていた。連載第5回で取り上げた悠季論文では、アリストテレスの認識が論理的な像を形成し始める際の過程が生命の歴史を媒介として説かれていたし、連載第9回の症例検討論文では、呼吸とは何かという把握が生命の歴史を学ぶことで大きな発展を遂げたことが述べられていた。連載第12回で扱った橘論文では、生命の歴史から武道空手上達のための論理が導かれていた。すなわち、黒帯になっても白帯の鍛錬から辿り返していく必要があること、またある段階で完璧にできあがってしてしまうような修練の仕方をしてはならないことであった。

 「発展の論理構造」は原点からの辿り返しだという内容に関しては、他にも連載第3回の北條論文で説かれていた。武道空手の修練としては、初めは骨体力などの養成から始めなければならないこと、上達した段階でも常に基本技のチェックを行ってはならないことが説かれていた。また、連載第6回の北嶋・志垣論文においても、人間の個体発生においては前の段階を自らの実力と化しつつ発展していくことが説かれていたし、連載第8回の新・医学教育概論では、医師の実力養成のためには何が必要かについて、そのためには、そのためにはという形で原点にまで遡って考察されていた。連載第10回の法医学原論では、それぞれの専門分野の発展のためにはその原点を歴史的に辿り、踏まえることで一般論を確立する必要があることが説かれていた。

 そして最後に、連載第13回で取り上げた南郷論文では、学問発展のための土台としての一般教養の学びの重要性が説かれ、それぞれの専門分野の個別学問の発展のためには学問一般たる哲学の発展との相互規定的相互浸透が必要であることを説いておいた。また、これは連載第5回の悠季論文を扱った際にも触れたが、自分かかつて執筆した論文の内実を自らの実力として常識化しておく必要があることも説いておいた。さらに重要なこととして、「発展の論理構造」を対象の性質として客観的に受け止めるのではなくて、自らの頭脳活動を発展させるためにこそ学ぶのだという主体的な把握が必要だということも説いた。

 以上、今回第14号を読み、その内容を主体的に把握するために、「発展の論理構造」をテーマとしてこれまで説いてきた流れを振り返っておいた。端的にいえば「発展の論理構造」とは、対象の持つ弁証法的な性質であって、生命の歴史に学ぶことによって、あらゆる物事の発展の一般的なあり方を掴み取ることができるのだといえるだろう。その基本的な性質は、前段階のあり方に上書きする形で変化していくという構造を持っているのである。

 ここで重要なことを指摘しておきたい。それは「発展の論理構造」を、弁証法だの生命の歴史だの原点からの辿り返しだのという文字で把握するだけではダメだということである。このことに関しては、「人類の遺伝子が把持している重層構造」(p.169)の内実を分かっていくとはどういうことかが以下のように説かれていることをしっかりと踏まえる必要があろう。

「しかしこれを「文字」で追うだけでは理解とは程遠く、それどころかまったく意味がない。そうではなく、自分自身で筋道にそった頭脳活動としての自身の思い、思惟レベルでの像をまずはそれなりにでも描く努力をし続けなければ、いつまでたっても本当の理解はできてはいかないものである。」(同上)

 つまり、文字を文字として把握するのではなくて、その文字が表す中身について、像として描けるような努力をしていく必要があるということである。このことはもちろん、「発展の論理構造」という文字についても当てはまるのであって、それがどういうことか、しっかりと像としてイメージし続けていく必要があるのである。

 さらに改めて確認しておきたいことは、学びにおける主体性ということである。先にも少しふれたが、「発展の論理構造」をある対象に関する性質であるとして、自分から切り離した存在として把握していてはダメであって、あくまでも自分の頭脳活動を発展させるための構造として把握し学んでいく必要があるのである。この主体性という問題は、当然、認識論を学ぶ際にも、弁証法を学ぶ際にも、いのちの歴史を学ぶ際にも必要になってくる。認識論に関しては、前回、このブログにかつて掲載した論文「認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想」の中で説いていることを紹介したが、弁証法については、自分の頭脳を弁証法的にすることで、世界のすべてを弁証法的に把握できるようになるために学ぶのであって、生命の歴史についても、自分と関係のないかつての生命体の発展史だなどと考えるのではなくて、他でもない自分自身がどのような発展の歴史を背負っているのかを把握し、自分の生き方を生命の歴史の延長線上にある世界歴史、人類の歴史に重ねて発展させていくためにこそ学ぶのである。では例えば筆者の専門分野である言語はどうか。これも単なる対象として、自分の他にある存在として捉えるのではなくて、あくまでも自分の認識を発展させるべく研鑽し、その結果描いた像を何としても表現するのだ、社会化するのだという必死の過程を経て創出されるものだというように、主体的に捉えていく必要があるのではないか。

 さて、以上の中身を端的にいえば、『学城』第14号から学ぶべきことは、「発展の論理構造」を文字として捉えるのではなく、像として主体的に描いていくための学びが必須であるということではないだろうか。自らの頭脳活動を発展させ、それぞれの専門分野の学問を創出していくためには、どうしても認識をどのようにすれば発展させられるかの論理構造をしっかりとつかんでおく必要があるのである。そのための学びの指針が、第14号全体にわたって説かれていると捉え、引き続き学んでいく必要があるということだろう。「発展の論理構造」を像として描くという点に関していえば、「正規分布図」(p.174)のイメージが大きなヒントになりそうである。主体的な学びという点についていえば、自らの大志をどのように見事に描くかということにかかってくることであろう。いずれにしても、「発展の論理構造」を正しく捉え、集団力を駆使しつつ学問の構築を図っていくという我々京都弁証法認識論研究会の使命を確認して、本稿を終えたいと思う。

(了)
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2017年03月22日

一会員による『学城』第14号の感想(13/14)

(13)「発展の論理構造」を自分のこととして把握する必要がある

 今回取り上げるのは、南郷継正先生の武道哲学講義である。ここでは、哲学への道の厳しさが説かれている。

 以下、本論文の著者名・タイトル・目次を掲載する。

南郷継正
武道哲学講義〔Ⅺ〕
―学問とはいわば世界地図を描くことである―
(2008年冬期ゼミ講義詳説)

 《目 次》
プロローグ
一、学問とは、いわば世界地図を描くことである
 (一)学者は「学問とは何か」のいわゆる世界地図をもって出立しなければならない
 (二)医学教育は自らの分野のいわゆる教育内容としての世界「地図」を示さない
二、ヘーゲルは絶対精神の自己運動としての学問地図を描こうとしていた
 (一)歴史上、アリストテレスを踏まえたヘーゲルのみが体系的地図を描く努力をしてみせた
 (二)ヘーゲルの学問的世界地図とは絶対精神の自己運動を描いたものであった
 (三)ヘーゲルは観念論者であるが、彼の学問は見事に唯物論的であった
 (四)ヘーゲルは絶対精神が辿った自然・社会・精神を学問化しようと努めたのである
第13号のプロローグ
 (五)ヘーゲルの絶対精神の自己運動を「宇宙の自然的・歴史的自己運動と看做せば唯物論的展開となる
 (六)ヘーゲルを理解するには自然・社会・精神の一般教養が必要である
(以上、第11号、第12号、第13号所収。以下、本号目次)

本号のプロローグ
三、哲学すなわち学問一般と科学との関係とはいかなるものか
 1 ソフィアからフィロソフィーへの歴史的過程
 2 哲学とは個別科学のすべてを学的に体系すべく研鑽して創るものである

 本論文ではまず、誰も説いたことのない問題にしっかりと解答を与えるレベルのことを論じるのが真の大学教育であり、そのための第一歩として一般教養たる社会科学・精神科学・自然科学の一般性を入門レベルでの講義として説く人物が現われてほしいと説かれる。そして、南郷先生にとって想い出の深い『武道とは何か』が誕生した「因縁話」が語られ、哲学への精神レベルの書として推薦できるものとして、以前から説かれている出隆『哲学以前』、河合栄治郎『学生に与う』に加え、御厨良一『哲学が好きになる本』、『哲学用語に強くなる本』が紹介される。ここまでをプロローグとして、本題では哲学、学問、科学の区別と連関が説かれていく。まず、学問を志しつつ潰れていかないためには、哲学の歴史を弁証法の歴史と重ねる形で知って識ることであることが確認された後、古代ギリシャにおけるソフィアからフィロソフィアへの過程が説かれ、これを踏まえて、その中身は学問であると説かれる。つまり哲学と学問は同じだということである。ここから、哲学=学問と生物学や物理学などの個別学問との違いが説かれていく。端的には、全学問を一身に集めて学一般となった学問が哲学の実態だということである。そして、そこに至る道は、精神科学、社会科学、自然科学のすべての学問をまともに網羅して、それらを土台とする必要がある、非常に厳しい道のりであって、ヘーゲルですら学問一般をよじ登ることは可能とならなかったと説かれるのである。

 この論文に関しては、まず第一印象で、非常に引用が多い論文になっていると感じた。論文全体の大体3分の1くらいの分量が引用になっている。それも大半は、南郷先生のかつての著作からの引用である。このことは連載第5回の悠季論文を扱った際にも説いたことだが、自らの論文を引用しつつ論を展開していくことは、「その執筆時の頭脳活動を常識化すべく、そこを土台として向上していく必要がある」という「発展の論理構造」を実践しているものとして、我々もしっかりと見習いつつ実践していく必要があろう。

 さて、この論文の内容に関わってであるが、最も重要なことは、そのかつての著作の引用中にある「人間としての実力の発展の方法」(p.179)が『武道への道』に説かれているとされていることである。しかも、「人間としての実力の発展の方法」というのは、「頭脳すなわちアタマが本当によくなる方法」(同上)だと明確に説かれていることである。どういうことかというと、「発展の論理構造」が『学城』第14号全体を貫くテーマであって、それは「生命の歴史」の論理構造から学ぶ必要があるし、人間の個体発生においてもこうした論理構造が見られるなとどいうと、何か自分とは別の対象に関わっての論理であるかのように思われなくもないが、ここで説かれていることはそうではなく、あくまでも「発展の論理構造」を自分のこととして受け止めているのである。このことは、本ブログに掲載した「認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想」において、認識論に関わって、「「認識」という対象を,あくまでも客体として,客観的に研究しようというのではなく,自分自身の問題として,自分のアタマをよくするための学問として,認識論・認識学が把握されている」と説いたこととも繋がるものである。すなわち、認識論なり「発展の論理構造」なりを学ぶ必要があるのは、それらの論理を用いて対象の性質を究明しようということももちろんあるのだが、それ以上に、自らの認識をどのようにすれば発展させることができるのか、頭脳活動をより活発にしていくためには何をすべきか、といった主体的な問題として、これらの問題を把握しておられるということである。このように考えると、『武道への道』で説かれている内容についても、しっかりと学び続けていかなければならないと改めて感じたことであった。

 さて、この論文には他にも、色々と重要なことが説かれている。まず、「本号のプロローグ」においては、齋藤孝『使う哲学』という著作を引用しつつ、この著者に一般教養レベルの授業を持ってもらい、「一般教養たる社会科学、精神科学、自然科学の一般性を、入門レベルでの講義として、説き続けてほしい」(p.178)という願いが語られている。また、高校生向けに哲学=学問への書として、御厨良一『哲学が好きになる本』、『哲学用語に強くなる本』を紹介しておられるが、これらの本は随分と古いために、ここでも齋藤氏にこのような初心者向けの本を執筆してほしいと述べておられる。何がいいたいのかというと、当然、齋藤孝がそうした書物を執筆してくれれば、それに学んでいく必要はあるのだろうが、そんなことがいいたいのではなくて、この南郷先生の記述は、逆にいえば、学問への道を歩むためには一般教養レベルの学びが必須であることを強調しておられるのだととることも可能だ、ということである。自らの認識を学問化可能な実力を把持したものへと発展させていくためには、そうした一般教養の学びが必要なのであって、ここを踏まえることなしには、学問への道は歩めないのだということである。

 もう1つ、簡単にでも確認しておく必要があることは、哲学と科学との関係である。ここで科学とは、政治学、経済学などの個別学問のことを指すのだが、まず、「哲学という学問は、すべての個別科学たる、つまり政治学、経済学、物理学、生物学、医学……といったすべての科学を土台として、そこの上に築きあげられたもの」(p.189)だということである。つまり、科学の成果が哲学の発展を規定するということである。しかし一方で、ヘーゲルの時代のドイツが医学などの輝かしい成果を上げていったのは、ヘーゲルの哲学が科学の発展を規定していたのだという側面があるからであって、端的にいえば、哲学の成果が科学の発展を規定するのである。要するに、哲学と科学とは相互に規定しあいながらも相互浸透による「発展の論理構造」があるのである。だから、例えば筆者が言語学を創出したいとして、そのための努力をなしていく過程には、必ず哲学的な学びを含んでいる必要があるということになる。簡単には、言語学は言語学のみで存在できるものではないからである。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む