2015年09月26日

アダム・スミス『法学講義』を読む(11/13)

(11)戦争における合法性とは何か

 前回は、スミスの軍備論を紹介しました。スミスは、狩猟段階→牧畜段階→農業段階→商業段階という社会発展の歴史を念頭に置きつつ軍備の歴史を概観した上で、常備軍導入の歴史的必然性(分業=社会的総労働の分割の一環としての必然性)を説きつつ、それが国王専制の道具として使われてしまう危険性(また、その点での民兵制の優位)をしっかり直視した上で、その組織のあり方には慎重な配慮が必要だと主張していたのでした。

 前回までで、スミスが「法の四大目的」とした4つの項目、すなわち、正義、生活行政、公収入、軍備についての考察を一通り概観してきたことになるわけですが、スミスは法学の最後に、国際法の考察が必要となることを述べていたのでした。今回は、その国際法論について紹介することにしましょう。

 スミスは、諸国家が相互に守るべき諸々のルールについては、国内法たる私法や公法のように正確に取り扱うことはできない、とします。なぜならば、国家間の争いについて裁定するような裁判官は存在し得ないのであり、したがって、国家間の争いを決着させる上での確実性とか規則性とかは期待することができないからです。スミスはまず、そのような限界があることを確認した上で、国際法についての議論をスタートさせているわけです。

 スミスは、国際法について、平和または戦争に関係する法だとして、ここでは戦時における規則を、@何が戦争の正当な原因か、Aある国家が戦時に他の国家に対して合法的に何をなし得るか、B交戦諸国は、中立諸国家に対して何をなすべきか、C諸国家間における外交使節の諸権利は何か、という順序で考察していく、としています(いうまでもないことですが、これらはあくまでも18世紀の当時における考え方であって、20世紀の2つの世界大戦を経て戦争違法化の流れが大きく進んだ現代の国際法とは少なからず相違点があります。その点を踏まえて、以下の解説をお読みください)。

 第一の問題は、開戦の正当性(どういう場合に戦争することが許されるか)です。スミスは、一般に、裁判所において適切な訴訟の根拠とされるようなものは、何でも戦争の正当な理由になりうる、とします。スミスの説明によれば、そもそも訴訟の根拠となるのは、何らかの権利の侵害を強制的に排除することが認められるもの、ということです。こうした侵害の排除は、文明化されていない社会においては私的な暴力によって遂行され、近代においては為政者の決定にもとづいて遂行されます。近代社会においては、各人がそれぞれ正義を主張することによって社会が混乱させられることがないようにされているわけです。では、具体的にはどのようなものが訴訟の根拠、したがって正当な開戦理由となり得るのでしょうか。

 例えば、ある国家が他の国家の所有を侵犯するか、あるいは他国の国民を殺害または投獄したにもかかわらず、裁判による紛争解決を拒否するのであれば、統治者はその相手国に対して、犯行の償いを要求しなければなりません。なぜならば、それぞれの成員を外敵から保護する点にこそ政府(統治)のそもそもの目的があるのであって、そうした補償が拒否されるならば、それは立派な開戦の根拠になるのだ、とスミスは説くわけです。同じように、ある国家が他の国家に対して負債を負っているのにもかかわらずその支払いを拒否する、といった場合にも、こうした契約の破棄は正当な戦争の理由となり得るのだ、と説明されています。

 第二の問題は、戦争における合法性(ある国家が戦時に他の国家に対して合法的になし得ることは何か)です。スミスは、ある国家が他国家からの侵害に対する報復をどこまで進めていいのかということは、容易に決められることではない、と説きます。ある国家の国民が他国家の国民から侵害された場合、その侵害者は当然に報復の対象となりますし、もしその侵害者の属する国家の政府が彼を保護しようとするならば、その政府も報復の対象となります。しかし、その国家の国民の大半は、こうした犯罪行為については何も知らず、全く何の罪もありません。侵害者を処罰するために他国に戦争を仕掛けるとすれば、これら罪のない多くの国民を傷つけてしまうことは避けられないのです。それでは、我々はどのような正義の原理にもとづいて他国民を苦しめるのか、とスミスは問うわけです(現代世界の状況に即していえば、「テロ」によって自国民に大きな被害を与えた容疑者をかくまう相手国に対して、どこまでの報復が許されるのか、という問いを想定することができるでしょう)。この問いに対してスミスは、これは決して厳密に正義と呼ばれ得るものにもとづいているのではなく、必要にもとづいているのであって、この場合はそれが正義の一部だされるのだ、という答えを与えます。

 この場合、相手国の国民全体が憤慨の正当な対象と考えられてしまうのは、我々が遠くにいる人々に対して、近くにいる人々に対するほどには親しみを感じないからだ、とスミスは説明しています(現代の問題にひきつけていえば、アメリカ合衆国が9・11テロの報復としてイラクに戦争を仕掛けることを正当化できたのは、アメリカの人々がイラクの人々にそれほどの親しみを感じていなかったからだ、ということになります)。こうした説明を補強するために、イングランドの国内法においては、1人の罪のない者が苦しむよりも10人の罪のある者が免れることが選択されることを、スミスは指摘しています。同胞に対しては強い親しみの感情があるために、いくら犯罪者を懲らしめるために必要だとしても、罪のない市民が巻き添えを食らってしまうような措置は、なかなか認められないのです。これはさすがに『道徳感情論』の著者らしい、非常に鋭く興味深い指摘だといえるでしょう。

 スミスは、相手国の国民全体が憤激の正当な対象と考えられてしまうことのもうひとつの理由として、侵害者や相手国の統治者から償いを得ることが非常に困難だという事情を指摘しています。侵害者が相手国の中心部にいて充分に安全を保障されているならば、我々は彼らに近づくことはできず、報復することができません。したがって、一般市民を巻き添えにせず、彼らのみを報復の対象とすることは困難です。これは最大の不正義であるが、戦争においてそれは避けられない、とスミスは説くのです。

 次いでスミスは、捕虜の扱いについて、古代と近代の慣行には大きな違いがあることを指摘します。端的には、古代においては奴隷化されたけれども、近代においてはそういうことはない、というわけです。こうした人道性(humanity)は、法王支配の時代に、全キリスト教徒は異端の徒と同じように扱われるべきではない、ということで導入されたものだ、ということです(裏を返せば、非キリスト教徒の捕虜は奴隷的な扱いを免れない、ということなのですが)。

 続いてスミスは、被占領地の動産の扱いについて、人道性というよりも生活行政上の動機にもとづいてその安全保障がなされるようになったのだ、と述べます。民衆が抵抗して蜂起することは占領のコストを高めるのであって、平穏に支配することこそが占領者にとっての利益だからです。

 スミスは、近代における洗練としてもうひとつ、敵対諸国家の間でも一種の礼儀のようなもの(というよりもむしろ任侠)が成立することを指摘します。敵国の王や将軍に対してそれなりに敬意をもって接するようになり、彼らを殺害することが以前のように合法的とは考えられなくなった、というわけです。

 スミスは、戦争における合法性に関する考察の最後に、我々をあまり戦争に行きたがらないようにしたのと同じ要因(産業の発展)が、敵国に完全に征服されてしまうことへの抵抗感を弱めたことを指摘しています。征服された国は、いわば主人を変えるだけであって、新しい税金や諸規則を課せられるとしても、古代のように根こそぎ土地から追われて奴隷化されることはなくなりました。征服者は、被征服者に対して旧来の信仰と法律の存続を許すのであって、これは古代に比べて遥かに優れた慣行である、とスミスはいいます。

 第三の問題は、中立国の権利(中立的な諸国家が交戦諸国からどのように取り扱われるべきか)です。スミスは、基本的な原則として、中立国はどちらの側も侵犯しなかったのだから侵害を受けるべきではない、ということを確認します。その上で、交戦諸国の中立国に対する態度には、陸戦と海戦とでは大きな相違があることを指摘します。退却する被征服国の軍隊を、征服国が中立国内まで追跡し、その中立国が両者を阻止する力がないならば、中立国内は戦場となりますが、損害に対する償いはほとんど与えられません。しかし海戦では、どんなに弱小の中立国であっても、奪われた船を常に返還してもらうことができます。これは普通、船を奪うことは商業に対する最大の侵害だからだ、と説明されますが、本当のところは、陸戦では小国が中立性を主張するのは難しいが、海戦ではそれが容易だからだ、とスミスはいいます。

 第四の問題は外交使節の権利です。古代においては、様々な国家の間の交易がほとんどなかったので、駐在外交使節の必要はありませんでした。しかし、交易が発達してくると、業者間にはほとんど毎日、調整すべき何らかの問題が生じることになります。このため、彼らの間の紛争のきっかけを防止するために、重みと権威があって宮廷への通路を持つ人物がいることが必要なのだ、といいます。スミスは、外交使節の身柄は不可侵でなければならないし、彼が常駐する国のどの法定にも服すべきではない、と確認しています。

 以上が、スミスの国際法論です。身体と財産の安全保障を確立するために成立した国内統治の歴史的発展を辿った公法論から始まり、所有権の歴史的な確立過程を論じた私法論を経て、産業の自然的均衡というべきものに沿って社会的総労働が分割されるべきことを論じた生活行政論に至り、そこからさらに、政府の活動に必要な財源を確保するための公収入論(租税論+公債論)、他国家による侵略から国家を防衛するための軍備論が展開され、最後には、諸国家間の関係を律する国際法が展開されて、スミスの『法学講義』は閉じられるわけです。
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2015年01月24日

哲学の歴史の流れを概観する(13/13)

(13)哲学の完成に向けて、我々の課題を考える

 前回は、本稿でこれまで説いてきた流れを簡潔に纏め直す形で、古代ギリシャからヘーゲルまでの哲学の歩みを概観しました。端的には、この世界全体を一元論的に説ききるための根本的原理が諸々に想定されたもののなかなか二元論を克服できないという過程が延々と続いたこと、19世紀の後半になってようやくヘーゲルが絶対精神の自己運動という発想を打ち立てることで観念論的な一元論哲学の完成に大きく接近したことを確認したのでした。

 さて今回は、本稿を締めくくるに当たって、人類史のこれからを展望しつつ哲学の完成を自らの手で成し遂げていくという大志を果たすために、我々はいったい何を課題とすべきなのか、という問題について、簡単に考察しておくことにしましょう。

 南郷継正「武道哲学講義」シリーズにおいては、ヘーゲルは哲学の完成にあと1歩というところまで迫りながら結局果たせなかったことが指摘され、その理由について様々な考察が加えられています。哲学の完成を展望するならば、まずはこのあたりの事情をしっかりと確認しておく必要があるでしょう。『武道哲学講義(第一巻)』では、ヘーゲル哲学が未完成に終わった要因が、客観的(客体)要因と主体的要因との両面に分けて指摘されているといえます。

 客観的要因としては、端的には時代的制約です。ヘーゲルの時代には、資本主義社会(国家)が未発達だったために、その現象形態を全的に見てとることはできませんでした。このため、ヘーゲルの哲学の構想からは、社会哲学がすっぽりと抜け落ちてしまうことになったのだ、というのです。『武道哲学講義(第一巻)』では、次のように説かれています。

「哲学とは精神哲学、社会哲学、自然哲学の論理構造を基盤にして学一般として完成されるべきものであり、加えて、そもそも論理学は学一般の論理的体系としての学そのものだからである。ということは、ヘーゲルの実践した自然哲学と精神哲学の論理構造のみでは、学一般に重要なもう一つの柱である社会哲学の論理構造が欠けているだけに、学一般すなわち論理学の構造としては、三大柱を二大柱で支えるのみであるという欠陥が、そこに存在するからである。
 これこそが、大哲学者ヘーゲルの把持していた時代性的欠陥ということである。まさしくこれまた後世(後の時代)畏るべし! なのである。」(南郷継正『武道哲学講義(第一巻)』p.51)


 本来、哲学は、精神哲学・社会哲学・自然哲学という三大柱に支えられて論理学(=学一般)が存在する、という構造であるにもかかわらず、ヘーゲルは(時代的欠陥のせいで)社会哲学を欠いてしまったために、哲学を完成させられなかったのだ、ということでしょう。

 また、『武道哲学講義(第一巻)』(pp.49−50)では、ヘーゲル哲学が未完成に終わってしまった主体的要因として、「学問形成への道標」となる『精神現象学 序論』の次に、学問としての哲学の構造論となる『エンチュクロペディ』を執筆すべきであったのに、いきなり『大論理学』の執筆に向かってしまったからだ、ということが説かれています。先の引用と合わせて考えれば、論理学の基盤となる学的構造論をまず構築すべきであった、ということになるでしょう。たとえるならば、家の設計図は見事に描いた(『精神現象学 序論』)ものの、柱(『エンチュクロペディ』)がまだ出来ていない段階で屋根(『大論理学』)を造ろうとしてしまったのだ、というわけです。さらにここに、時代的欠陥のゆえに三大柱のうちのひとつ(社会哲学)はそもそもまともに造りようがなかった、という事情が絡んでくることになるわけです。

 このようなヘーゲルの取り組みにおける欠陥を踏まえて、我々は学問構築において何を意識すべきでしょうか。

 何よりもまず、資本主義社会(国家)の爛熟期に生きている我々が「後世(後の時代)畏るべし!」という語を現実のものとするのだ、という気概を把持することでしょう。現代社会の現象形態を全的に(ここが重要なところ!)見てとることで、ヘーゲルに欠けていた社会哲学(社会科学)を構築していかなければなりません。

 これに加えて重要なのは、「武道哲学講義W」(『南郷継正 武道哲学 講義・著作全集 第七巻』)における以下の指摘です。

「もっとも大きな理由は、弁証法の発展が可能でなくなった、つまりできなくなったからである。簡単には哲学的問答ができなくなった。すなわち、まともな論争相手が誰もいなくなったからである。」(『全集第七巻』p.352)
「答は、端的にはヘーゲルが自分(絶対精神)そのもので体系的な著作を書く努力をしなかったということに尽きる。つまり、原稿を講義録のままにしておいたことにある。自分で努力しなかった、ヘーゲル流にいえば、「絶対精神」レベルで学問の体系化を主体的にやらなかった、そこを行うことを怠ったからである。もっと説けば、ヘーゲルは生きた実体を生きた実体のままにしておいた。つまり講義録を講義録のままにしておいたのである。ヘーゲルは講義録に主体をからめて、生きた実体を主体性ある生きた実体にすべきだったのに、である。」(p.352)


 要するに、ヘーゲルにはまともな論争相手がいなかったために哲学的問答を通じて学問的実力の向上を図ることができなかったのであり、また、大学での講義録を体系的な著作にまで書き直していくという主体的な努力を怠ってしまったために哲学の完成が不可能になってしまったのだ、というわけです。我々はここからしっかりと教訓を導き出し、日々の学びの指針としなければなりません。まず、ヘーゲルにはまともな論争相手がいなかったということに関わっては、研究会としての集団力を発揮して、哲学的問答をしっかりとやっていかなければなりません。そのためにも、お互いがお互いをしっかりと哲学的問答のできる相手として育てていくのだ、という意識を持っておかく必要があります。次いで、ヘーゲルが講義録を講義録のまま放置してしまったということに関わっては、本ブログへの掲載用論稿を中心にして、論文レベルの文章をしっかりと書き続けていくことが必要となるでしょう。

 さらにいえば、観念論の立場に制約されていた(精神が初めから存在するとする以上、認識論をまともにつくれるはずもなかった)ヘーゲルに対して、我々はヘーゲル以降の個別科学の目覚ましい発展の成果をしっかりと受け継ぎつつ、あくまでも唯物論の立場から、哲学の完成を目指していかなければならなのだ、ということも忘れるわけにはいきません。ヘーゲルがこの世界の全てを絶対精神の自己運動として説ききろうとしたのに対して、我々はこの世界の全てを「物(一体性的物一般=物自体)」(浅野昌充)そのものの運動として説ききらなければならないのです(*)。

 以上のようなことを踏まえつつ、我が京都弁証法認識論研究会は、本年の毎月の例会において、哲学史の学びの本番ともいうべきヘーゲル『哲学史』に挑戦していきます。唯物論哲学の完成は我々の使命であるということを胸に刻み、哲学の歴史について昨年以上に深く突っ込んだ学びを展開していくことを通じて、しっかりと学問的実力を培っていく決意を表明して、本稿を終えます。

(*)日本弁証法論理学研究会編集の『学城』第10号掲載論文「「生命の歴史」の歴史W──「個体発生は系統発生を繰り返す」(ヘッケル)との学説が我々に問いかけたものとは(2)」(浅野昌充)では、「学的唯物論」について次のように説かれています。

「この世界(宇宙=森羅万象)はその端緒(初めがあるとするならば)からして物(一体性的物一般=物自体)そのものであり、物(一体性的物一般=物自体)そのもの以外の何物でもなく、その物(一体性的物一般=物自体)そのものが物(一体性的物一般=物自体)そのものとしての一般的な性質を把持しながら、その時点での物(一体性的物一般=物自体)そのものの運動として発展していき、その時点での物(一体性的物一般=物自体)そのものの発展性がつきれば、次の物(一体性的物一般=物自体)そのものへと形態的・質的に変化しながら、いわば発展していく物(一体性的物一般=物自体)そのものの運動過程性(そのもの)なのである。
 要するに、世界はすべて物(一体性的物一般=物自体)そのものとしての体系性的な生成発展との運動形態を把持する過程的・複合的な体系性的統一体(実体)だ、との学的世界観である。」(『学城』第10号、p.29)


(了)
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2015年01月23日

哲学の歴史の流れを概観する(12/13)

(12)哲学の歴史は一元論の完成を目指した歩みであった

 本稿は、昨年一年間、シュヴェーグラー『西洋哲学史』の内容に関わってなされた要約、例会への報告、例会で提示された論点をめぐってなされた討論などをしっかりと振り返りつつ、ひとつの流れをもったものに纏め直すことを通じて、哲学の歴史の全体像を一般教養レベルで描き出すことを目指したものでした。ここで、これまで説いてきた流れを簡単に振り返っておくことにしましょう。

 そもそも哲学は、よりよい国家的生活を築いていくために、自分自身を取り巻く環境(自然および社会)について何とか筋を通して把握したい、(アダム・スミス流にいえば)バラバラな諸現象によって喚起される不安を鎮めたい、という切実な感情からスタートした営みであるといえます。こうした感情こそが、哲学の歴史における原点であるといってよいでしょう。

 古代ギリシャ哲学は、自然の多様な現象の背後に唯一不変の存在を見出そうとする試みであったと総括することができます。しかし、対象の構造に分け入れるほどの認識の実力はありませんでしたから、仮想された永遠不変の存在(エレア派の有やプラトンのイデア)から多様で変化してやまない現実の諸現象に筋を通して説明することはできず、両者を二元論的に並存させるのがせいぜいでした。こうしたなかで、あくまでも多様な現象に着目して、古代ギリシャ世界において蓄積されてきた諸々の知識を百科全書的に集大成したのがアリストテレスです。

 やがて、ポリス社会の崩壊過程が進行していくと、これまでポリスの歴史的な慣習に従って生きていればよかった人々が、客観的世界と区別された自分というもの(主観)を痛切に自覚する(自我が確立される)ようになり、自らの生き方に深刻に悩むようになっていきます。こうした過程のなかで、永遠不変の存在(プラトンのいわゆるイデアのようなもの)と確固たる生き方の指針を求めてやまない自分自身の精神とが重ね合わされていくようになり、永遠不変の存在と転変してやまない現象世界という二元論的把握が、主観(精神)と客観(自然)との二元論へと変化していくことになったのでした。

 ローマ帝国の崩壊後、イスラム勢力の伸張によって明るい地中海から切り離され、深く暗い森に閉じ込められてしまったヨーロッパの人々は、キリスト教(カトリック教会)の絶対的な権威にすがるようにして生きていました。しかし、人々は、何百年もの時間をかけて暗い森を切り開いて広大な海にまで到達し、地球規模で活躍の場を広げていくことになっていきます。こうした過程で、人間は自分自身が持つ力について次第次第に揺るぎない自信をつけていき、キリスト教の絶対的な権威は大きく揺らいでいくことになったのです。カトリック教会は、11世紀以降、人々が日々の生活のなかで蓄積してきた経験的知識と教会信仰における啓示的真理との折り合いをつけていくために、(イスラム圏より流入してきた)ギリシャ哲学の成果を利用していくようになります。これがスコラ哲学です。しかし、経験的知識の蓄積が進んで人間が自分の力について自信を強めていくにつれて、経験的知識と啓示的真理との間の整合性を維持することが困難になっていきます。スコラ哲学は、ルネサンスや宗教改革、自然科学の台頭によって衰退していったのでした。

 近代哲学の創始者デカルトは、「われ思うゆえにわれ在り」という命題により(教会信仰の絶対的権威ではなく)思考する具体的個人を学問的探究の出発点として位置づけ、実体(他のものに依存せずにそれだけで存在しうるもの)として物体(物質)と思考(精神)の2つを見出しました。これは、主観と客観という対立構図を、いわば外側から眺めることによってこそ可能になったものといえます。すなわち、自らの主観を客観的に見つめる視点を明確に持てるようになったからこそ、自分(主観)とそれ以外(客観)という自他の関係ではなく、世界の2大存在たる精神と物質の対立として反映してくるようになったわけです。しかし、デカルトは、この両者がどのように媒介されるかという問題を解決できず、二元論にとどまってしまいます。

 物質と精神のどちらが根源的存在か、という問題は、ロックやライプニッツ以降、人間精神は受動的か能動的か、という問題として(すなわち、再び主観/客観の二元論の問題と絡めて)議論されていくことになります。人間精神は受動的だとして物質を根源に据えて精神の生成を説明しようとした流れ(ロックに始まる系列)も、逆に、人間精神は能動的だとして精神を根源に据えて物質の生成を説明しようとした流れ(ライプニッツに始まる系列)も、ともに一面的な結論に陥ってしまいます。

 ここで両系列の流れを合流させたのがカントです。カントは、認識を感性(受動性)と悟性(能動性)という2つの要因に分けて考察し、我々は物自体ではなく、物が我々の認識の側に備わっている枠組みを通して現象する姿を認識するのだ(現象の世界は自我によって構成されたものであり、我々は物自体を知ることはできない)、としたのです。しかし、認識の受動性/能動性の二元論をこのように解決する過程で、物自体/現象という二元論が新たに持ち込まれてしまった(世界〔対象〕を捉える認識の側の二重構造が世界〔対象〕そのものの二重構造に転化させられた)のでした。

 この新たな二元論の克服という課題に絡んで、認識による世界の構成というカントの議論を、自我による世界の創出というところにまで押し進めていったのがフィヒテです。フィヒテは、カントのいわゆる「物自体」はあくまでも自我の活動のなかで創出されてくるものだ、すなわち、根源的な存在はあくまでも自我であって、その自我(主観)が物自体(客観)を生み出すのだ、という形で、自我(主観)/物自体(客観)のそもそもの二元論を自我一元論へと解消しようとしたのでした(*)。この非我に相当する部分についての論を、当時までの自然科学の成果を取り込んで自然哲学として構築していったのがシェリングです。しかし、シェリングは、フィヒテ的な先験哲学(自我を主とする論)と自然哲学(非我を主とする論)を充分に媒介することができませんでした。シェリングは、自然(実在)と精神(観念)のどちらも根源ではなく、両者の無差別(絶対的同一性)なるものが根源であるとしたのですが、抽象的で無内容な絶対者から具体的な現実世界がどのようにして媒介されてくるのか、まともに解くことはできなかったのです。

 シェリングの基本的な発想を継承しつつ、体系を統括する要となる「絶対者」の内容を大きく発展させたのがヘーゲルでした。ヘーゲルにおける絶対者は、シェリングにおけるように観念的なものと実在的なものの無差別ではなく、あくまでも観念的なもの、すなわち絶対精神です。絶対精神は、単なる存在ではなく発展であり、自分自身を展開して、自然および精神の世界に表現される豊かな現実となっていく普遍者として措定されたのでした。こうした絶対精神の自己運動という観点から、世界全体に体系的に筋を通して説ききろうとしたのが、ヘーゲルの哲学です。ヘーゲルは世界歴史を絶対精神が本来の自己へ立ち還る過程、すなわち自由の実現過程として描こうとしたのです。

 以上でみてきたように、人類は、諸々の事物・事象が複雑に絡み合って変化し続けているこの世界に何とか1本の筋を通して把握しきろうとして、悪戦苦闘を続けてきたのでした。世界全体を一元論的に説ききるための根本的原理が諸々に想定されたけれども、なかなかに二元論を克服できない、という歴史が続きました。19世紀の後半になってようやく、ヘーゲルが絶対精神の自己運動という発想を打ち立てることによって、観念論の立場からの一元論的な哲学の完成に向かって大きく接近することになったのでした。

(*)このことによって、物自体/現象の二元論も必然的に解消されることになります。世界もまた自我(主観)によって創出されたのだとすれば、現象と物自体の区別などなくなる(自分が想像=創造したものの真の姿を知り得ない、などということはない)からです。
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2015年01月22日

哲学の歴史の流れを概観する(11/13)

(11)ヘーゲルは観念論の立場から一元論哲学を完成させようとした

 前回は、カントの哲学を継承したいわゆるドイツ観念論の発展過程、具体的には、フィヒテからシェリングへの流れを概観しました。カントの批判哲学においては、主観(自我)と客観(物自体)とが全く別個の存在として並存させられており、自我によって現象世界が構成されるのだ、自我(理論理性としての自我)に対しては物自体は現象としてしか捉えられないのだ、とされていました。こうした認識による世界の構成というカントの議論を、自我による世界の創出というところにまで押し進めていったのがフィヒテです。フィヒテは、カントのいわゆる「物自体」なるものはあくまでも自我の活動のなかで創出されてくるものだ、すなわち、根源的な存在はあくまでも自我なのであって、その自我(主観)が物自体(客観)を生み出すのだ、という形で、自我(主観)と物自体(客観)の二元論を自我一元論へと解消しようとしたのでした。この非我に相当する部分についての論を、当時までの自然科学の成果を大きく取り込むことで、自然哲学として構築していったのが、シェリングです。しかし、シェリングは、フィヒテ的な先験哲学(自我を主とする論)と自然哲学(非我を主とする論)を充分に媒介されないままに並列させてしまう、という困難に直面することになりました。この困難を何とか打開しようとしてシェリングは、自然(実在)と精神(観念)のどちらも根源ではなく、両者の無差別(絶対的同一性)なるものが根源であるとします。その上で、シェリングは、絶対者が自分自身を外化して、この外化から自己とのより高い統一へ帰るのだ、と示そうとしました。しかし、結局のところ、抽象的で無内容な絶対者から具体的な現実世界がどのようにして媒介されてくるか、まともに解くことはできなかったのです。

 絶対者が自分自身を外化して、この外化から自己とのより高い統一へ還る――こうしたシェリングの基本的な発想を継承しつつ、体系を統括する要となる「絶対者」の内容を大きく発展させることによって、観念論哲学の完成に向けて大きく歩みを進めることになったのが、ヘーゲルです。

 1770年にシュトゥットガルトに生まれたヘーゲルは、18歳のときにテュービンゲン大学(神学部)に入学し、シェリングやヘルダーリンと親交を結びました。ヘーゲルはシェリングよりも5歳年長でしたが、先に哲学者として有名になったのはシェリングであり、ヘーゲルはシェリングの哲学上の同志と目される存在でしかありませんでした。しかし、1807年に著した『精神現象学 序論』においてシェリングの哲学を厳しく批判し、独自の哲学の構築に向けた宣言を行ったのです。

 ヘーゲルにおける絶対者は、シェリングにおけるように観念的なものと実在的なものの無差別ではなく、あくまでも観念的なもの、すなわち絶対精神です。絶対精神は、単なる存在ではなく発展であり、自分自身を展開して、自然および精神の世界に表現される豊かな現実となっていく普遍者として措定されました。『精神現象学 序論』では、以下のように述べられています。

「生きた実体は、存在といっても、真実には主体であるところの存在である。あるいは同じことであるが、生きた実体とは、その実体が、自分自身を定立する運動であり、みずから他者となりつつそのことを自分自身に関係づけ媒介するという、このかぎりにおいてのみ真に現実的であるところの存在である。主体としてのかぎりでは、それは単純な否定性であり、まさにそのことによって、単純なものを分割するはたらきである。そのさい、対立的なものへと二重化しながら、たがいに交渉のないそれら二つの項のあいだの差異と対立がふたたび否定される。根源的な、あるいは直接的な統一そのものではなくて、このように自分を回復する同一性、あるいは、他であることにおいて自分自身へ帰ってくる反省、これが真なるものなのである。真なるものは、それ自身になりゆく生成としてある。それは円環、すなわち、前もって目的として立てた自分の終わりを初めとし、そしてそれを実現する過程と終わりとによってのみ現実的であるところの円環である。」(ヘーゲル『精神現象学 序論』中央公論社、世界の名著35、pp.101-102)


 このように、ヘーゲルにおける絶対精神は、シェリングにおける絶対者のような単なる実体(すなわち規定性の否定)ではなく、生きた実体すなわち主体(有限な諸区別の定立および産出)であったのです。こうした絶対精神の自己運動という観点から、世界全体に体系的に筋を通して説ききろうとしたのが、ヘーゲルの哲学だったわけです。我々が2012年の毎月の例会で取り上げてきたシュテーリヒ『西洋科学史』(現代教養文庫)では、ヘーゲル哲学の全体像が、以下のようにまとめられていました。

「ヘーゲルにとって、世界過程の全体は、世界精神が自己を展開していく一個の経過なのだ。これには三つの本質的な段階が区別される。
 第一段階においては、世界精神が“即自有”の状態にある。こうしたものとしてそれを考察することは、論理学の課題である。だから論理学は思惟規則の総括ではなく、純粋で無時空的な状態にある世界精神そのもの論理なのだ。
 第二段階では、世界精神そのものが空間と時間とに結びつけられた自然へと自己を“外化”する。自然哲学は、こうした、つまり、“他在”の状態においての世界精神を取り扱う。
 第三段階で、世界精神は自己自身に立ち戻る。つまり、いまや“即自の、かつ対自の有”という状態にあることになる。そうしたものとして世界精神を考察するのは、精神の哲学である。
 精神の哲学がさらに三段階に分かれる。主観的精神論は、個別的人間、自己意識をもつ個人の生を扱う。主観的精神論を越えて一段と高められたものが、客観的精神論である。これは、家族や社会や国家や歴史の大規模な超個人的“客体的”秩序関連を問題にする。“絶対的精神”すなわち芸術とか哲学とか宗教とかいう形態をとったとき初めて、精神は自己自身と自己の自由とを完全に意識するにいたる。」(シュテーリヒ『西洋科学史 X』現代教養文庫、p.6)


 このように、ヘーゲルの哲学的構想においては、絶対精神は、純粋で時間にも空間にも制約されていない状態(この段階を考察するのが論理学)から、空間と時間に結びつけられた自然へと自己を“外化”し(この段階を考察するのが自然哲学)、そこからさらに自己自身に立ち戻っていき、最終的に、宗教、芸術、学問として実現されるのです。こうして世界全体の歴史的発展過程の大きな円環が閉じることになります(この段階を考察するのが精神哲学)。大きくいえば、ヘーゲルは世界歴史を絶対精神が本来の自己へ立ち還る過程、すなわち自由の実現過程として描こうとしたのだといえます。改めて図式的に整理するならば以下のようになるでしょう。

〈ヘーゲル哲学体系の全体像〉
 論 理 学…時間・空間に制約されない純粋な絶対精神そのものを説く
 自然哲学…時間・空間に規定された“他在”としての絶対精神を説く
 精神哲学…自然を経て自己に復帰してきた絶対精神を説く
  主観的精神論(個人の精神を説く)
  客観的精神論(家族、社会、国家、歴史を説く)
  絶対精神論(宗教、芸術、学問という形での絶対精神の実現を説く)
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2015年01月21日

哲学の歴史の流れを概観する(10/13)

(10)自我を根源とする一元論哲学への過程――フィヒテからシェリングへ

 前回は、カントが、経験論の流れと合理論の流れとに分裂していた哲学を、再び1本に合流させたことをみました。経験論の流れにおいては、精神の側の受動性が強調されるあまり、精神を物質のなかに解消してしまうような結末を迎えていました。一方で、合理論の流れにおいては、精神の側の能動性が強調されるあまり、物質を精神のなかに解消してしまうような結末を迎えてしまっていました。こうした両極端の主張が並存するなかで、両方の流れを再び合流させて新たな哲学を打ち立てようとしたのがカントであったわけです。端的にはカントは、この世界を大きく「物自体の世界(叡智界)」と「現象の世界(感性界)」に分けた上で、自我は理論的な営みにおいては感性界に制約されている(このことを論じたのが『純粋理性批判』)が、実践的な行為においては叡智界の住人として感性界に君臨しうる(このことを論じたのが『実践理性批判』)、という整理を行ったのです。端的には、理論的理性は感性界を自然法則に従って把握するが、実践理性は叡智界から自由に感性界に働きかけるのであり、自然法則に支配された感性界と自由な叡智界を媒介して統一する役割を担うのが判断力である、ということになります。判断力は、自然の多様性のなかに統一の根拠を見出すこと、すなわち、自然の合目的性を見出すことによって、それを果たすのだとされました(『判断力批判』)。

 このカントの批判哲学を起点にして、フィヒテ、シェリングからヘーゲルへと至る、いわゆるドイツ観念論の流れが展開していくことになります。彼らの主張の内容を見ていく前に、そもそも18世紀後半から19世紀前半にかけてのドイツにおいて、何故に観念論哲学が大きく発展していくことになったのか、その必然性について、考えておくことにしましょう。

 端的には、経済的・政治的に後進地域であったドイツにおいて、イギリスやフランスで達成された自由ということに強烈な憧れが抱かれていたからだ、ということがいえるでしょう。

 人類史の大きな流れからみるならば、中世社会から近代社会へ移行していくなかで、人間の自由(主体性)の確立が大きな課題となってきます。自由の理念は、まずイギリスやフランスにおいて、政治的・経済的変革を通じて現実世界のなかに実現されることになりました。これに対してドイツは、19世紀に入ってもなお封建的色彩の濃い領邦国家の分立状態にあり、政治的・経済的に停滞した情況にあったのです。ドイツにおいては、自由の理念を現実の世界に実現するだけの条件がまだ成熟していなかったために、イギリスやフランスで実現されていた自由に対して強烈な憧れを抱きつつ、それをまずもって観念の世界で発展させていく(理論的に考察して深化させる)という過程が進行することになりました。これがカント(道徳論において自由と義務の結びつきを深く解明)に始まりヘーゲル(世界歴史を自由の実現過程として把握)で頂点を極めていくドイツ観念論哲学の流れとして結実していくことになったわけです。

 さて、カントの批判哲学を観念論的に発展させていく上で、まず大きな一歩を踏み出したのが、フィヒテです。カントにおいては、自我(主観)と物自体(客観)とは全く別個の存在として、最初からこの2つが並存させられていました。その上で、自我によって現象世界が構成されるのだ、自我(理論理性としての自我)に対しては物自体は現象としてしか捉えられないのだ、とされていたわけです。

 フィヒテは、認識による世界の構成というカントの議論を、自我による世界の創出というところにまで押し進めていきました。カントのいわゆる「物自体」なるものはあくまでも自我の活動のなかで創出されてくるものだ、すなわち、根源的な存在はあくまでも自我なのであって、その自我(主観)が物自体(客観)を生み出すのだ、という形で、自我(主観)と物自体(客観)の二元論を自我一元論へと解消しようとしたわけです。カントが認識はできないにせよあくまで実在すると考えた「物自体」をフィヒテは完全に放棄してしまい、カントが「物自体」に帰した精神の外部からの衝動を、精神そのものの行為として定立するに至ったのでした。要するに、フィヒテの哲学は、「自我のみがある、そして外物による自我の制限と考えられているものは、むしろ自我そのものの自己制限である」という形で纏められる観念論にほかならないわけです。

 このように、フィヒテの理論哲学(知識学)においては、自我と非我(自我の自己制限)との区別が立てられたわけですが、自我が非我という自己制限を克服していこうとする(現実の世界を越えて、全てが絶対我によって定立されているような理想の世界を実現しようとする)ところに、実践哲学(法律論および道徳論)の課題が生ずることになります。フィヒテの法律論においては、まず、知識学における絶対我が無数の法的人格に分かたれます。その上で、自由な諸個人が自己を制限することによって相互に理性的で自由な存在であることを承認しあうような関係こそ法的関係である、と説かれたのでした。これに対して、無数の法的人格に分れた絶対我をふたたび統一するのが道徳論の課題です。フィヒテは、外的強制(他人の自由を侵害しないために或ることをしたりしなかったりすることを外部から命ずる)としての法律に対して、道徳的本性をなすのは内的強制(外的目的を離れて或ることをしたりしなかったりすることを命じる)にほかならない、と説いたのでした。このような道徳論を展開したフィヒテは、世界の道徳的秩序こそ我々の想定する神的なものにほかならない、と主張していたのですが、後期になると、自我を絶対者すなわち神と同一視するようになっていきました。

 このように、自我(主観)が非我(客観)を生み出す、というフィヒテの議論を継承しつつ、この非我(客観)に相当する部分の議論を、当時までの自然科学の成果を大きく取り込んで、自然哲学として構築していこうとしたのが、シェリングでした。

 シェリングは非常に早熟で、15歳で入学したチュービンゲン大学では、ヘルダーリンやヘーゲルと親しくなりました。その後イェナでフィヒテの弟子になりますが、次第にフィヒテの立場から離れて独自の立場をとるようになっていったのでした。

 シェリングの哲学は、ひとつの原理によって構築された体系という形にはなっておらず、新しい問題にぶつかるたびに、いつも新しい立場を試みて始めからやり直そうとするようなものでした。シュヴェーグラー『西洋哲学史』の記述にしたがって、シェリングの哲学の変遷を6つの時期に分けて、概観しておくことにしましょう。

 第1期は、自我を根源とするフィヒテ的立場からの出発です。シェリングは自我を根源とするフィヒテ的立場を継承しつつも、そこから自然の多様な現象を説明しようとしました。つまり、自然科学の成果を哲学のなかに取り込もうとしたわけです。その結果、自然哲学(観念を実在に従属させる)と先験哲学(実在を観念に従属させる)とを並列させる第2期に至ります。

 当然のことながら、次に問題になるのは、自然哲学(実在重視)と先験哲学(観念重視)は如何にして統一されるのか、ということでした。シェリングは、この問題を、スピノザの汎神論にヒントをえて、根源的なものは観念的なものでも実在的なものでもなく、両者の無差別(絶対的同一性)なのである、として解決しようとしました。これが第3期です。

 ここでシェリングは、絶対的同一性なる「絶対者」から、多様性をもって展開する諸々の現象を説明しようとしたが、うまくいきませんでした。そのため、新プラトン派(本稿の連載第5回を参照)的に、絶対者と世界との区別を強調し、後者は前者の堕落したものにすぎない! とすることで心を安らわせようとしたのです。こうして絶対者は神と同一視され、宗教と哲学との合一が主張されるようになりました。これが第4期です。

 こうした神の歴史として、世界の歴史(自然から人間にいたるまでの過程、人間が歴史のなかで発展していく過程)を描き出すことが試みられるのが、第5期です。

 さらに晩年のシェリングは、ここまでの自らの歩みについて、理念としての神を思考によって把握することをめざした消極哲学にすぎない、と総括した上で、意志によって要求される現実的な神を説明する(事実として与えられている宗教を説明する)積極哲学によって補われなければならない、と主張するに至ったのでした。

 このように、シェリングの哲学がまとまった体系になりえなかったのは、端的には、体系を統括するべき根源的存在、すなわち「絶対者」なるものを、極めて抽象的な、無内容なものとしてしか措定できなかったからであると思われます。シェリングは、無差別とか同一性とかいわれる抽象的な「絶対者」から、無限の多様性をもって展開する現実世界が如何にして生成してくるのか、まともに解くことができなかったのです。抽象的な絶対者と具体的な現実世界とをどう媒介するのか(前者から後者が出て来る過程をどう説明するのか)、という難問を解きあぐねて試行錯誤を続けた結果、シェリングの哲学は「本質的に発展の歴史」(シュヴェーグラー)と呼ばれるようなものになってしまったのでした。
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2015年01月20日

哲学の歴史の流れを概観する(9/13)

(9)カントは物自体論と二律背反論で合理論の流れと経験論の流れを合流させようとした

 前回は、デカルトによって提起された問題、すなわち、精神と物質という2つの実体(他のものに依存せずにそれだけで存在しうるもの)の二元論的な対立を如何にして一元論的に解決するか、という問題が、人間精神は受動的か能動的か、という問題として(すなわち、再び主観/客観の二元論の問題として)議論されていった過程をみました。人間精神を受動的とみなすことで、根源的存在たる物質から精神の生成を説明しようとしたのがイギリス経験論あるいはフランス啓蒙思想の流れであり、人間精神を能動的とみなすことで、根源的存在たる精神から物質の生成を説明しようとしたのが、ライプニッツに代表される大陸合理論の流れです。

 しかし、この2つの大きな流れは、いずれも非常に一面的な結論に到達してしまいます。精神と物質という2つの実体の存在をしっかりと認めた上で両者を内的に調和させるのではなく、どちらか一方の存在だけを肯定して他方を否定する、という結果に終わってしまったのです。こうして、哲学の2つの大きな流れは、互いに大きく隔たったまま、枯れ果ててしまいかねない危機に直面することになりました。そこへ登場して、人間精神は受動的でもあれば能動的でもある、とすることで、2つの流れを再び合流させようとしたのが、カントです。カントは、ライプニッツやヴォルフに連なる大陸合理論の流れを受け継ぎつつ、イギリス経験論を究極まで押し進めたヒュームの因果律批判を正面から受け止め、独自の批判哲学(理性を批評する哲学)を打ち立てていったのです。

 若い頃から自然の研究に打ち込んできたカントは、自然科学的認識の確実性を揺るがしかねないヒュームの因果律批判(原因と結果の繋がりは客観的な現実世界に存在するものではなく、ある出来事と別の出来事を結びつける主観的信念にすぎない)に大きな衝撃を受けます。そして、何とかして自然科学的認識の確実性を基礎づけようと、因果律なるものがそもそもなぜ成立するのか、という根本的な問題の探究に駆り立てられていったのでした。カントは、ヒュームの提起した問題を、そもそも人間の認識はこの世界の姿をどのようにして捉えるのか、という問題として突き詰めて考え、11年かかけて『純粋理性批判』を書き上げました。

 カントによれば、物自体の世界(存在するがままの世界)は、人間の認識で把握することができません。人間は自身の認識にあらかじめ備わっている枠組みで物自体の世界に問いかけることによって現象の世界を成立させるのであり、こうして成立させられた現象の世界を眺めるほかないのです。つまり、私たち人間が見ているのは、存在するがままの世界(物自体の世界)ではなく、私たちの認識の枠組みによって捉えられた限りでの世界(現象の世界)にすぎないのだ、というのがカントの主張です。

 カントは、人間の認識の側にア・プリオリに備わっている枠組みとして、感性的直観の純粋形式である空間・時間と、純粋悟性概念であるカテゴリー(分量、性質、関係、様態の4つの領域にそれぞれ3つ、全部で12のカテゴリーが存在する)を論じました。つまり、カントにおいては、時間・空間という世界の大枠も、そのなかに存在する諸々の事物・事象の分量(単一性、数多性、総体性)、性質(実在性、否定性、制限性)、関係(付属性と自存性、原因性と依存性、相互性)、様態(可能―不可能、現実的存在―非存在、必然性―偶然性)といったあり方も、すべて主観(人間の認識)の側から客観(現象の世界)の側へと与えられるものである、ということになるのです。客観的な世界(現象の世界)に存在する諸々の法則性はすべて、人間の認識が(物自体の世界に問いかけることによって)現象の世界を成立させるに際して、まさにその人間の認識の側から与えられたものにほかならない、というわけです。

 このように考えるならば、因果律とは客観的な世界のあり方とは関わりのないものであり、人間の心のなかだけに存在する主観的な信念にほかならない、というヒュームの主張が成立する余地がなくなってくるのは明らかです。なぜなら、私たちが眺めている客観的な世界(現象の世界)は、私たちの認識の側に備わっている条件によって、きちんと因果律が成り立つものとして構成されている(人間の認識がまさにそのようなものとして創造した!)、ということになるからです。

 このようにカントは、客観的な世界(現象の世界)が人間の主観によって成立させられたものにほかならないとすることによって、客観的な世界のなかに間違いなく因果律というものが存在していること、したがって、因果律を適用することによって現象としての客観的世界の構造について究明していくという自然科学的な営みが絶対的な確実性をもったものとして成立する余地があることを主張しようとしたのでした。

 さらにカントは、理性の誤った使用(カテゴリーを物自体にまで及ぼそうとすること)によって、二律背反が生じてしまうことを示しています。例えば、宇宙論的仮象として、以下の4つの二律背反が示されています。

「純粋理性の二律背反
 先験的理念の第一の矛盾
  定  立
 世界は時間において初まりを有し、空間に関しても限界の内に囲まれている。
  反 定 立
 世界は初めを持たず、空間においても限界を有せず、かえって時間に関しても空間に関しても無限である。」(河出書房新社『世界の大思想 10 カント〈上〉』p.315)

「先験的理念の第二の矛盾
  定  立
 世界における各複合的実体は、単純な部分から成り、かつ実際に存在するものはいずれも単純体か、もしくは単純体から合成されたものにほかならない。
  反 定 立
 世界におけるいかなる複合物も単純な部分からはつくられない。世界には一般に単純体なるものは実際に存在しない。」(同、p.320)

「先験的理念の第三の矛盾
  定  立
 自然の法則に従う原因性は、世界の現象がことごとくそこから導き出されるような唯一のものをなしていない。世界の現象を説明するためにはなお自由による原因性を想定することが必要である。
  反 定 立
 自由というものはなく、世界における一切はもっぱら自然法則に従って生起する。」(同、p.326)

「先験的理念の第四の矛盾
  定  立
 世界には、世界の部分としてか世界の原因としてか、端的に、必然的存在体をなすものが属している。
  反 定 立
 世界の内にも世界の外にも、端的必然的存在体が世界の原因として存在するということはない。」(同、p.331)


 二律背反が何故に4つなのかといえば、これは、純粋悟性概念の4つのカテゴリー――量、質、関係、様相――に対応したものであるからだと考えられます。すなわち、世界(宇宙)の量に関わっての二律背反が第一(空間的・時間的の限界の有無)であり、世界(宇宙)の質に関わっての二律背反が第二(究極の構成要素の有無)、世界(宇宙)の関係に関わっての二律背反が第三(究極原因としての自由の有無)、世界(宇宙)の様相に関わっての二律背反が第四(世界の創造主の有無)であると整理することができます。純粋悟性概念の4つのカテゴリーは、カントにおいては、この世界(現象の世界)を成り立たせるための基本的な枠組み(4つの根本的な要素)とでもいうべきものであり、古代ギリシャ以来の学問の歴史がこの枠組みに沿って整理されたのだということができるでしょう。

 4つの二律背反を眺めると、いずれも、定立(テーゼ)はこの物質的な世界に何らかの限界を設定しようとするものであり、反定立(アンチテーゼ)はこうした限界を設定することに反対している、といえます。したがって、大きくいえば、いずれの二律背反も、定立が観念論的な見方からの主張、反定立が唯物論的な見方からの主張である、ということができるでしょう。以下、第二、第三、第四の二律背反のそれぞれに即して、簡単に確認しておきましょう(第一の二律背反についてはその後で述べます)。

 第二の二律背反(世界の全ては単純なものから成り立つ/単純なものはなく全て合成されている)は、空間という抽象のもととなった物質のあり方について問うものです。定立においては、究極の構成要素というものがある(それ以上は遡れない基礎単位がある)と主張されるのであり、そこに物質的世界の限界が設定されることになってしまいます。これに対して、反定立は、究極の構成要素を否定することによって物質的世界に限界を設定することに反対しています。

 第三の二律背反(世界には自由による原因がある/いかなる自由もなく全ては自然法則である)は、いわゆる自由と必然性の問題として、古代ギリシャ以来の学問の歴史のなかで(とくに道徳の問題との関わりで)論じられてきたものです。定立のように、自由による原因を認めるということは、自然法則と不可分な物質的世界に限界を設けようとすることにほかならない、と考えられます。これに対して、反定立は、自由を排して自然法則しか存在しないとすることで、物質的世界が全てであることを主張しているわけです。

 第四の二律背反(世界には絶対的に必然的な存在であるような何かが実在する/世界の原因として絶対に必然的な存在というものは全く存在しない)というのは、この世界が何らかの存在によって創造されたものかどうか(ごく簡単に言い換えれば、時間や空間の始めがあるのかどうか)、を問うているものです。定立は、物質的世界の何らかの形での創造を主張し、反定立は、如何なる形においても物質的世界の創造を否定するのです。

 これら3つの二律背反は、この物質的世界(宇宙)の、いわば特殊な側面を捉えて、その限界の有無を論じるものであって、究極的には、この物質的世界(宇宙)そのものをまるごと捉えて(量的に把握して)、その限界の有無を論じる第一の二律背反に収斂するのだということができるでしょう。

 以上のように、客体がア・プリオリに認識できるかどうかを問題にしたのが、純粋理性(理論的理性)の批判でした。これに対して、理性による自由な意志決定を問題にするのが、実践理性の批判です。カントは、道徳律(理性が自分自身によって意志に与える法則)の事実により、経験的意志による決定ではなく理性的意志による決定が可能であることは確実である、と主張しました。その上で、人間の意志の唯一の動機は道徳律そのもの、すなわち道徳律への尊敬でなければならない、としたのでした。

 純粋理性(理論的理性)は「現象の世界」を自然法則にしたがって認識するものであり、実践理性は全てが自由によって規定されている「物自体の世界(叡智界)」をひらくものです。カントは、両者の統一の根拠の概念を掲げることによって、「現象の世界」と「物自体の世界」との深淵を埋めるものこそ判断力である、としました。カントによれば、判断力は特殊を普遍のもとに含まれているものとして思考する能力であり、自然の経験的多様性を先験的な原理(多様を統一する根拠が含まれている原理)へ関係させるものですから、自然の合目的性を対象とすることになります。カントはこの判断力を、自然の合目的性を主観的に(概念を媒介とせずに)掴む美的判断力と、自然の合目的性を客観的に(概念を媒介として)掴む目的論的判断力とに分けて論じています。
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2015年01月19日

哲学の歴史の流れを概観する(8/13)

(8)哲学史の流れは経験論と合理論とに分かれる

 前回は、デカルトによって、キリスト教神学から明瞭に分離した近代哲学が確立されたことをみました。デカルトは、学問的探求の出発点(真理を保証する基準)として個人の思考を据えるとともに、実体(他のものに依存せずそれだけで存在するもの)として精神と物質の2つを掲げたのでした。このことは、論理的にいえば、この世界の全存在を精神と物質という2大存在に纏めきったことを意味するものであり、哲学史上の偉業であったということができます。しかし、デカルトは、この2つの実体を並列させるだけで、両者が如何に統一されるのか、という問題については、満足のいく解答を見出すことができなかったのでした。デカルトの後継者たち(マールブランシュやスピノザ)も成功しませんでした。精神と物質との媒介は、スピノザが試みたように、両者を無限の実体(=神)のうちでひとつにすることではなく、対立した2つの側面そのものに即して、すなわち、物質の側に立つか(精神的なものを物質的なものによって理解するか)、精神の側に立つか(物質的なものを精神的なものによって理解するか)によって、なされなければならなかったのです。ここから、唯物論(物質こそ根源であるとして、精神的なものを物質的なものによって理解する)へと向かう流れと、観念論(精神こそ根源であるとして、物質的なものを精神的なものによって理解する)へと向かう流れと、2つの発展系列が並行して進行する過程がスタートすることになったのです。

 前者は、イギリスからフランスへ、という流れで発展していきました。イギリスでは、伝統的に議会の勢力が強く、島国という条件に規定されて王権の基盤となる常備軍(陸軍)が形成されませんでした。一方で、地代の金納化による独立自営農民層の形成や牧羊業・毛織物工業の発展など、新興勢力の形成が早くから進んでいました。17世紀に入ると、これら新興勢力(敬虔なピューリタン派が中心)が、議会を足場にして国王の権力を制限する革命を遂行していくことになります。より具体的には、国王の処刑にまで突き進んでしまったピューリタン革命(1649年)、その反動としての王政復古(1660年)とピューリタン派への弾圧、議会主権に基づく立憲王政を確立した名誉革命(1688年)というように、政治的・宗教的に激しい党派闘争を経ながら、国家主権の概念が明確化され、漸進的に議会制民主主義が確立されていくことになったのでした。

 こうした激烈な党派闘争のなかで、神や信仰や道徳といった問題についてあれこれ議論する前に、それらの対象を捉えるところの人間の知性(認識能力)について考察すべきではないか、という問題意識を抱いたのが、ロックでした。ロックは生得観念を否定し、我々の認識は全て経験に由来するのだ、としました(ここから彼の立場は経験論と呼ばれます)。彼は、経験を感覚(外的対象の感覚器官を媒介にした知覚)と反省(心の内面的な働きの知覚)とに2大別し、この2つのものから全ての観念を導き出し説明することを試みました。ロックは、知性は諸々の単純観念(感覚と反省によって受動的に得られた単純で混じりけのない観念)を様々に結合して能動的に複合観念をつくるのだ、と説明したのです。

 ロックは、実体の観念について、諸々の単純観念を束ねている基体として想定されたものにすぎないとする一方、それが客観的実在をもっているとも主張しました。しかし、心はもともと白紙であり、認識の全内容は経験からのみ得られたものだとすれば、経験から直接に得ることのできない実体の観念は主観の勝手な創造物だとしなければならないはずです。ここに、ロックの経験論の不徹底さを読み取って、物体なるものは単なる主観的な表象にすぎず、心から独立した客観的な世界など存在しないのだ、というところまで主張を徹底させたのが、バークリでした。さらに、ヒュームは、因果関係の概念の批判によって、経験論の立場を極限にまで押し進めました。ヒュームによれば、必然性の関係をあらわすあらゆる概念、事物の実在的連関の認識と思い込まれているあらゆる認識は、結局のところ、観念の連合にもとづいているにすぎない、というのです。普遍性とか必然性とかいう諸規定は、感覚のうちには含まれていないのですから、全ての知識が経験からのみ得られるとすれば、これらの諸規定は当然にも否定し去ってしまうほかないのです。

 一方、フランスでは、もう少し違った形で、唯物論への発展の歩みが進行しました。これには、政治情況の違いが大きく影響しています。ヨーロッパ大陸の中心に位置し、たえず隣接諸国との紛争を抱えていたフランスでは、強大な陸軍を保持する必要があったために、王権は極めて強大なものとなっていました。また、地代が長く物納にとどまっていたために、農民は農奴の地位に縛り付けられ、(農民所得の低迷による国内需要の低迷のために)商工業の発展も阻害されました。このため、新興勢力の成長はイギリスに比して大きく遅れていたのです。また、フランスでは議会の勢力が弱く、そもそもほとんど開かれていなかったため、国民の政府への不満が高まっても、それを正当に代表する方法が存在しませんでした。このため、イギリスのように政治体制を漸進的に改革していく道が閉ざされてしまい、政治の腐敗が極端にまで進んで、暴力的な革命によって一挙に矯正されるよりほかに途がなくなったのです。

 18世紀フランスの哲学者たちは、絶対王制下における政治と宗教と風習の腐敗堕落に対して、理性からの要求を突きつけました。フランス啓蒙哲学は、あらゆる既成宗教に対して闘争を挑んだヴォルテールから、鋭い機智をもって(概して臆病な暗示にとどまりながらも)自然から精神と神とを否定し去ったディドロ、人間の心は脳髄の思考繊維の機能に過ぎぬとしたラ・メトリーの人間機械論を経て、哲学における唯物論的方向の代表である『自然の体系』(ドルバックの著作)にまで至ります。

 このように、イギリスおよびフランスにおいて、唯物論へと向かう方向で哲学の発展がなされたのに対して、ドイツにおいては、観念論へと向かう方向で哲学の発展がなされることになりました。ドイツは中世以来、「神聖ローマ帝国」として古代ローマ帝国の後継者をもって任じていましたが、実質的には封建諸侯の寄せ集めにすぎませんでした。西ヨーロッパ各地に国民国家が成立しつつあったなかで、ドイツでは民族的統一が遅れ、政治的に分裂したままだったのです。ドイツの発展がこのように遅れてしまった大きな要因として、いわゆる「地理上の発見」に伴う商業の世界的拡大にドイツが参加できなかったことがあげられるでしょう。北海・バルト海貿易によって、中世のドイツには多くの都市が栄えていたのですが、新しいアジア貿易と新大陸貿易が大西洋沿岸諸国に次々に富強を与えたのに反比例して、ドイツの商工業は衰退の一途を辿っていったのです。これに加えて、16世紀初めにルターが宗教改革を起こして以来、ドイツでは新旧両派の対立である宗教戦争が絶え間なく続き、とりわけ最大で最後の三十年戦争(1618〜48)によってドイツの中心部は完全に荒廃してしまい、人口も1800万人から700万人に激減したといわれています。

 こうした情況のなかで、精神こそ根源的存在である、とする観念論へ向かう歩みをスタートさせたのが、ライプニッツでした。ライプニッツの哲学は、スピノザの哲学に全く対立するものとして特徴づけることができます。ライプニッツもスピノザと同様、哲学の根底に実体の概念をおいたのですが、スピノザが無規定の普遍者としての実体を唯一の積極的なものとしていたのに対して、ライプニッツは実体を生き生きとした活動(能動的な力)として捉え、その実体は個物、すなわちモナド(単子)であるとして、多くのモナドが存在するとしたのです。モナド(単子)はアトム(原子)に似ていますが、ひとつひとつが質的に異なっていること、分割できないこと、霊的な存在であるとされていることなどは、アトムと著しく異なるといえます。無数のモナドの各々は1個の小宇宙であり、存在し生起する全てのものの姿を映し出す鏡である、とされます。したがって、モナドは万物をいわば萌芽的に、自分の内に観念的にもっているのだ、ということになるわけです。世界は、表象する存在であるモナドの総和ですが、表象作用の程度に応じて、すなわち、反映の完全不完全の相違に応じて、一定の諸段階に分けることができます。しかし、各々のモナドは同じ宇宙を反映しているのですから、全てのモナドの変化は互いに平行しており、神によって予定された宇宙の調和が実現されていることになります。魂と肉体も、正確な2つの時計が互いに全く無関係でありながら完全に一致するのと同様、完全な並行関係があり調和しているのだ、ということになるわけです。

 ライプニッツの哲学を継承し発展させたのがヴォルフです。彼は、哲学とは知識の全領域を扱うべきものだと主張し、体系的な説明を与えようと試みました。また、ドイツ語で哲学上の用語の多くを作ったことで、その後のドイツ哲学の発展の基礎を築きました。

 以上でみてきたように、精神が根源か物質が根源かという問題は、ロックやライプニッツ以降、人間精神は受動的か能動的か、という問題として(すなわち、再び主観/客観の二元論の問題として)議論されていくことになりました。しかし、人間精神は受動的だとして物質を根源に据えて精神の生成を説明しようとした流れ(ロックに始まる系列)も、逆に、人間精神は能動的だとして精神を根源に据えて物質の生成を説明しようとした流れ(ライプニッツに始まる系列)も、ともに一面的な結論に陥ってしまったのです。
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2015年01月18日

哲学の歴史の流れを概観する(7/13)

(7)デカルトによる根本問題の整理――根源は精神か物質か

 前回は、スコラ哲学の生成・発展・衰退の過程を辿りました。中世初期のヨーロッパの人々は、明るい地中海から切り離され深く暗い森に閉じ込められて、外敵の侵入に怯えながら生活していました。彼ら彼女らは、神という絶対的な権威に縋って心の安定を図るしかなかったのです。しかし、ヨーロッパの人々は、何百年もの時間をかけて暗い森を切り開き、村と村とを結ぶ道を築き、余剰生産物を交換する市を築いて、それをさらに都市へと発展させていきます。そして、やがて広大な海にまで到達し、いわゆる「大航海時代」として地球規模に活躍の場を広げていくことになったのでした。こうした歴史的過程のなかで、人々は日々の生活(労働過程)を通じ、自らを取り巻く世界(自然・社会)について、諸々の知識を経験的に蓄積していくことになります。そうすると、経験的に掴まれてきた知識と教会信仰における啓示された真理との間の折り合いをどうつけていくのかが、大きな問題となってこざるをえません。ここで大きな役割を果たしたのが、イスラム文化圏を経由して流入してきた古代ギリシャの文化遺産でした。古代哲学の成果(プラトンのイデア説やアリストテレスの形相・質料の説)が、啓示的真理と経験的知識との折り合いをつけていくための手段として利用されていったのです。しかし、経験的知識の蓄積がさらに進んで、人間が自分の持つ力についての自信をますます深めていくと、経験的知識と啓示的真理との間の整合性を維持することが難しくなってきます。このように、経験的知識が啓示的真理の絶対的権威を揺るがしかねない程の力をつけてくることで、スコラ哲学は衰退へと向かっていくことになったのでした。

 スコラ哲学の衰退の過程は、15世紀から17世紀にかけて、ルネッサンス、宗教改革、自然科学の台頭などによって、大きく促進されていきました。こうした過程の結果、哲学がキリスト教神学から分離して独自の歩みをスタートさせるに至ったのです。スコラ哲学から近代哲学への過程を媒介した存在としては、イングランドの経験論者ベーコン、イタリアの汎神論者ブルーノ、ドイツの神秘主義者ベーメなどが代表的です。こうした流れの果てに、キリスト教神学から明瞭に分離した近代哲学をしっかりと打ち立てたのが、デカルトでした。

 前回確認した通り、キリスト教の登場は、人間精神と神(世界の根源的存在)との本質的同一性を示唆するものでした。しかし、両者の本質的同一性といっても、それは神が絶対的に優位であって、個々の具体的人間は神と繋がってはじめて価値を認められるものでしかありませんでした。したがって、具体的個人が獲得していく経験的知識は教会信仰における啓示的真理に従属させられるしかなかったのであり、スコラ哲学によって築かれた体系には数多の独断や偏見が絡み付いてしまうことになったのです。

 世界の究極の根源から人間までを一元的に筋を通した形で把握しようとする哲学的認識の発展にとっては、こうした数多の独断や偏見を一掃することが、避けては通れない課題となります。神という絶対的権威から学問的探求を出発させたことによって生み出された諸々の独断・偏見を一掃するためには、全てを疑うという姿勢に徹するとともに、(神という絶対的権威ではなく)そのような懐疑という思考をなす個人こそ学問的探求の出発点(真理を保証する基準)であるとされなければなりませんでした。デカルトは、「われ思うゆえにわれ在り」という命題により、こうした偉業を成し遂げたのでした。これは、単なる懐疑のための懐疑ではなく、人間理性の確実性、つまり、人間理性は、明晰判明に認識する限り、真実でない対象を把捉することは決してありえない! と主張するものであった点が重要です。教会信仰における啓示的真理が絶対的権威を持っていた時代には、経験的知識の確実性(正しさ)は啓示的真理との繋がりにおいて担保されていました。ところが、啓示的真理と経験的知識が分離してしまうと、経験的知識の正しさは別の仕方で担保しなければならなくなります。この問題に対して、神が与えたもうた人間の理性こそ真理の保証である! との解答を与えたのがデカルトだったわけです。

 このようにデカルトは、学問的探求の出発点(真理を保証する基準)として個人の思考を据えたのですが、このことは、思考する実体(他のものに依存せずにそれだけで存在しうるもの)としての精神という把握を明瞭にするものにほかなりませんでした。このことは同時に、精神に対立する実体としての物質の存在を明瞭にするものでもあったことが重要です。実体の本来の定義(他のものに依存せずにそれだけで存在しうるもの)からすれば、神のみが唯一の実体だというべきなのですが、2つの創られた実体、すなわち、思考する実体(精神)と延長(空間的な拡がり)を持つ実体(物質)とは、自分の存在のために神の協力しか必要としないという広い意味で実体である、とされたのでした。

 デカルトが、精神と物質という2つの実体を打ち立てたことは、論理的にいえば、この世界の全存在を精神と物質という2大存在に纏めきったことを意味します。これは、主観と客観という対立構図を、いわば外側から眺めることによってこそ可能になったものといえます。すなわち、自らの主観を客観的に見つめる視点を明確に持てるようになったからこそ、自分(主観)とそれ以外(客観)という自他の関係ではなく、世界の2大存在たる精神と物質の対立として反映してくるようになったわけです。

 このことは、哲学の発展史上、決定的に大きな意味を持つものでした。そもそも哲学の歴史とは、人類が自らを取り巻く世界の全体を何らかのひとつの根本原理から体系的に筋を通して説ききることを目指して試行錯誤してきた歴史だったのであり、それは必然的に一元論(世界の一切の現象はある一元的なものの生成進化発展の結果であるとする思想)の完成を目指すことになります。結論からいえば、一元論の哲学とは、究極的には観念論(世界の全てを精神という一元的なものの生成進化発展の結果として説く)として成立するか、あるいは、唯物論(世界の全てを物質という一元的なものの生成進化発展の結果として説く)として成立するしかありません。したがって、一元論の完成のための大前提として、この世界の全存在が精神と物質という2大存在に整理される必要がありました。この整理を成し遂げた人物こそデカルトであった、ということができるのです。

 精神と物質の区別など、現代の我々から見れば簡単で分かりきったことのようにも思われますが、歴史的にみてみるならば、精神と物質との区別を明瞭につけることは人類にとって大難事だったことが分かります。心霊的存在がこの世界の随所に漂っているという迷信的な考えもそうですし、人間のアタマのなかにしか存在しない概念を究極の真実在として祭り上げてしまったプラトンのイデア説なども、こうした難しさ故のものだというべきでしょう。要するに、デカルト以前には精神とか物質とかいう捉え方は非常にあやふやなものでしかなかったのであり、精神とか物質とかいう概念もまた人類が歴史的に獲得してきたものである、ということがいえるわけです。

 このように、デカルトがこの世界の全存在を精神と物質という2大存在に纏めきったことにより、一元論としての哲学の完成は、観念論として成されるか唯物論として成されるかしかない、ということが明瞭になったといえます。精神を根源に据えて物質の生成を説明するか、あるいは逆に、物質を根源に据えて精神の生成を説明するか――論理的にいえば、哲学の進むべき道は大きく2つに絞られてきたのです。

 とはいえ、観念論あるいは唯物論の完成に向けての前進(どちらか一方を根源に据える)という過程は、ただちにはスタートしませんでした。精神と物質という2つの実体を何とか対等な形で調和させられないか、というレベルでの試行錯誤があったのです。

 デカルト自身は、精神と物質の両者がどのように媒介されるのかという問題をまともに解くことができずに、二元論に陥ってしまいました。彼は人間論においては、人間の肉体と精神は松果腺という一点で接触するにすぎない、とするほかありませんでした。こうしたデカルト的二元論を何とか克服しようという流れのなかから、ゲーリンクス、マールブランシュ、スピノザが登場してきます。スピノザは、物質と精神は神という唯一の実体が持つ2つの属性にほかならないとして、全ての存在を抽象的な一者としての神へと溶かし込むような形で、デカルトの二元論を一元論的に解決しようとしたのでした。しかし、スピノザの哲学は抽象的な一神論というべきものであって、抽象的な神と具体的な客観的世界との間に、生き生きとした結びつきが欠如してしまっています。ここで人類は再び、世界の究極的な根源たる一者から具体的で多様な変化に満ちた世界がどのようにして生じてきたのか、という難問を鋭く突きつけられることになったのでした。
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2015年01月17日

哲学の歴史の流れを概観する(6/13)

(6)スコラ哲学の生成・発展・衰退の過程

 本稿は、昨年1年間、シュヴェーグラー『西洋哲学史』の内容に関わってなされた要約、例会への報告、例会で提示された論点をめぐってなされた討論などをしっかりと振り返りつつ、ひとつの流れをもったものに纏め直すことを通じて、哲学の歴史の全体像を一般教養レベルで描き出すことを目指したものです。

 前回まで、古代ギリシャからローマへの哲学の発展史を辿ってきました。古代ギリシャの植民市イオニアで、ポリス社会を取り巻く諸々の自然現象を大きくひとつに括ろうというところから哲学的探究がスタートし、プラトンおよびアリストテレスによって、それまでの成果を集大成する形で一応の体系化が達成されます。しかし、タレスからアリストテレスまでの過程は、ポリス社会の伝統的なあり方が崩壊していくなかで、徐々に主観(精神)と客観(自然)の区別・対立が明確になっていく過程でもありました。アレクサンドロス大王以降の時代、この両者の対立は決定的なものになり、人々は如何に生きるべきかの確固たる指針を失ってしまいます。個々人が心の平安を獲得するために主観(精神)と客観(自然)を如何にして調停するか――これが、ヘレニズム時代およびローマ時代の哲学にとっての根本的な問題となっていたのでした。

 古代の精神は、新プラトン派において、主観(精神)と客観(自然)の二元論を解消して一元論を打ち立てようという死にものぐるいの努力を行ったのですが、結局のところ、主観的自我の絶滅(自己の感性的・具体的なあり方の否定)という消極的な方向でしか、それを成し遂げることは出来ませんでした。これに対して、古代の二元論を積極的な方向で克服していく可能性を示唆するものとなったのが、“神が人間になった”ことを根本理念とするキリスト教の登場です。そのあたりの事情を、もう少し詳しく確認しておくことにしましょう。

 新プラトン派の神は、抽象的な一者でしかありませんでしたから、人間の神への同化は人間の感性的なあり方(具体的な日々の生活)を否定する形でしかあり得ませんでした。これに対して、キリスト教の神は、新プラトン派の神と同様に世界の創造者であり唯一絶対の存在ですが、抽象的なものではなく人格神です。神は自分の姿に似せて人間を創造したのであり、無限の愛をもって人間に呼びかける存在です。ですから、人間を神(世界の究極的な根源)と本質的に同一のものとして見る場合、人間の感性的なあり方を否定してしまう必要などありません。むしろ、神との関係で人間の感性的な生活のあり方が浄化され聖化されることが期待されるのです。このように、神と人間との本質的統一を根本理念とするキリスト教の登場によって、人間は自分自身と世界の究極的根源(万物を創造した神)とをしっかり繋がったものとして感じとることが可能になったのであり、また、このことによってこそ、主観が客観との絶対的な分離に悩むという古代哲学の二元論的な行き詰まりを克服していく展望が示唆されることになったのです。

 古代ローマで誕生し、当初は迫害されながらも、やがてローマ帝国の国教にまでなったキリスト教は、ローマ帝国の衰退後、中世ヨーロッパにおいて、絶対的な権威を持つものとなりました。西ローマ帝国の崩壊以降、ヨーロッパ内陸部の各地には、内乱や外部の諸民族の侵入から土地を守るために、自給自足的な一種の防衛組織体としての荘園が形成されていきました。8世紀に入ると、イスラム勢力の伸長によって、このようなヨーロッパ内陸部と地中海世界との交通関係が断絶されてしまいます。ギリシャやローマ、あるいはイスラムの人々が、明るい日の光が降り注ぐ地中海を眼にしながら、その海を渡って活発な交通関係を築いていたのに対して、中世初期のヨーロッパの人々は、明るい地中海から切り離されて、深く暗い森に閉じ込められてしまったのでした。彼ら彼女らは、外敵の侵入に怯えながら数々の迷信に囚われて生きていたのであり、神という絶対的な権威に縋って心の安定を図るしかなかったのです。

 しかし、ヨーロッパの人々は、何百年もの時間をかけて暗い森を切り開き、村と村とを結ぶ道を築き、余剰生産物を交換する市を築いて、それをさらに都市へと発展させていきます。そして、やがて広大な海にまで到達し、いわゆる「大航海時代」として地球規模に活躍の場を広げていくことになったのでした。このような「自然の人間化」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』講談社現代新書、p.164)の進展につれて、人間は自分自身が持つ力について次第に揺るぎない自信をつけていくことになります。このことは、キリスト教の有無をいわさぬ絶対的支配を徐々に揺らがせていくものにほかなりませんでした。人々が、日々の生活(労働過程)のなかで、自らを取り巻く世界(自然・社会)について諸々の知識を経験的に蓄積していくと、経験的に掴まれてきた知識と教会信仰における啓示された真理との間の折り合いをどうつけていくのかが、大きな問題として浮上してくるのです。カトリック教会は、“有無をいわさぬ”絶対的支配ではなく、民衆の側から提起される諸々の疑問に答えながら、理屈によってその絶対的権威を納得させる方向を模索していかざるをえませんでした。そうした試みにとって大きな武器となったのが、イスラム文化圏を経由して流入してきた古代ギリシャの文化遺産です。

 ヨーロッパ世界の拡大の流れのなかで行われた十字軍の遠征は、当然にもイスラム文化圏との接触という結果をもたらしました。その結果、古代ギリシャの文化遺産が大量に流入してくることになったのです。こうして、古代哲学の成果(プラトンのイデア説やアリストテレスの形相・質料の説)が、啓示的真理と経験的知識との折り合いをつけていくために利用されるという流れが生じてきたのでした。このように、キリスト教の教義と古代ギリシャ哲学の相互浸透の結果生まれたのが、スコラ哲学です。

 スコラ哲学は当初、啓示的真理に諸々の知識を体系的に従属させていくという方向で発展していきました。啓示的真理を哲学的手法によって何とか正当化しようという努力が積み重ねられていったわけです。このことは、人間精神(具体的にはヨーロッパ精神)にとって、厳密に論理的な思考を展開する実力を培っていく契機となりました。その頂点を築いたのが、13世紀に活躍したトマス・アクィナスです。彼は、アリストテレスの哲学を援用しつつ、世俗的な知識と宗教的な知識とをひっくるめて、包括的なひとつの壮大な体系に纏め上げたのでした。

 しかし、「自然の人間化」がさらに一層深まり、経験的知識の蓄積が進んで人間が自分の持つ力についての自信をますます深めていくと、経験的知識と啓示的真理との間の整合性を維持することが難しくなってきます。このように、経験的知識が啓示的真理の絶対的権威を揺るがしかねない程の力をつけてくることで、スコラ哲学は衰退へと向かっていくことになったのでした。

 こうした歴史的過程に関わって、いわゆる普遍論争の歴史的意義についても確認しておく必要があります。普遍論争とは、普遍者は実在するという立場をとる実念論と、個物のみが実在するのであり普遍者は名称にすぎないという立場をとる唯名論との間に展開された大論争です。こうした論争が展開されたのは、人類に論理ということがなかなか分からなかったから、すなわち、人間は現象している個々のものからそれらに共通する性質を導き出して(頭脳において)論理という像を形成するのだということが分からなかったからにほかなりません(*)。

 この普遍論争は、「自然の人間化」の進展によって経験的知識の力が増していくという歴史的趨勢のなかで、結局は、具体的な個物を重視する唯名論が勝利することになります。唯名論の勝利によって信仰と知識との分離は決定的なものとなり、スコラ哲学は歴史的な役割を終えることになったのでした。自然の諸現象は、スコラ哲学全盛の時代においては、あくまでも創造主たる神の意志に繋がるものとして理解すべきだと考えられていたのですが、スコラ哲学の衰退によって、神の意志とは一応切り離されたものとして、それ自体のあり方を追究することが正当化されるようになっていきます。このことが、自然科学の興隆に繋がっていくことになったのでした。

(*)悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待(8)」(『学城』第9号、p.59)を参照。
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2015年01月16日

哲学の歴史の流れを概観する(5/13)

(5)古代社会の衰退と古代哲学の衰退

 前回は、古代ギリシャ哲学の黄金期ともいうべきソクラテスからプラトンへ、プラトンからアリストテレスへの過程を辿ってみました。前々回からみてきたとおり、タレス以来の古代ギリシャ哲学の歴史は、端的にいえば、生々流転する諸々の事物・事象の根源を探求し、その根源から諸々の現象を説明しようとする試みの歴史であったということができます。この探求の歩みのひとつの到達点が、永遠不滅の真実在というプラトンのイデア論にほかならなかった、ということができます。しかし、プラトンの哲学は、イデア界と現象界とが媒介されないまま(イデア界から如何にして現象界が生じてくるのかが説明されないまま)に並列させられるという二元論とならざるをえなかったのです。これに対して、アリストテレスは、形相(エイドス)は具体的個物に内在するとして、すなわち、形相が質料と結びつくことによって具体的個物が形成されるのだとして、プラトン的な二元論の克服を試みました。しかし、そのアリストテレスにしても、最終的には、一方の端に何らの質料も含まない第一形相なるものを認め、また他方の端には何らの形相も含まない第一質料なるものを認めるほかなく、二元論を完全に克服するまでには至らなかったのでした。

 前回触れたとおり、プラトンのイデア論はそもそも、ポリス社会の秩序が崩れていく情況のもとで、如何に生きるべきかの確固たる指針が切実に要求されるようになったという事情を背景にして、構想されたものでした。しかし、このイデア論は、先に見たとおり、生成流転する現象世界を上手く説明しきれないという難点を抱えていたのであり、このことが生き方の指針としても大きな弱点となっていました。それでも、プラトンやアリストテレスの時代においては、“古き良き時代”のポリス社会を再建するということに辛うじて期待を託すことができていただけに、こうした弱点が深刻な形で顕在化するまでには至りませんでした。

 ところが、マケドニアのアレクサンドロス大王によって全ギリシャ世界が統一されて以降の時代的情況のもとでは、“古き良き時代”のポリス社会の再建など、もはや現実的には考えられなくなってきます。ポリス社会が完全に崩壊していくなかで、主観(精神)と客観(自然)の分離が決定的に進んでいくのです。もう少し分かりやすくいえば、これまでポリスの歴史的な慣習に従って生きていればよかった人々が、客観的世界と区別された自分というもの(主観)を痛切に自覚せざるをえなくなった(自我が確立された)ことで、自らの生き方に深刻に悩むようになったのだということです。生成流転する客観に対峙する主観は、確固たる生き方の指針として、永遠不変の存在(プラトンのいわゆるイデアのようなもの)を求めずにはおれません。こうして、永遠不変の存在と転変してやまない現象という(プラトン的な)世界の二元論的把握が、主観と客観の二元論へと変化していくことになったのでした。この二元論をどう解決するか、より具体的にいえば、ポリス共同体の崩壊によって個々人の心に生じた諸々の不安を如何にして解消するか、という大きな問題意識が、新たな哲学的潮流として、ストア学派やエピクロス学派、懐疑論などを生むことになったのです。

 ストア派は、全ての事物は物体的であって非物体的なものなど存在しないのだ、という原則を全面的に貫こうとしました。精神や魂もまた物体であり、ただ肉体など通常の物質とは種類が違うだけである、とすることにより、主観(精神)と客観(自然)との二元論を解消しようとしたわけです。こうした彼らの努力の帰結が、世界は神の肉体であり神は世界の魂である、という汎神論でした。神は、この世界の全てを合目的的に形成して秩序を保つ理性的な摂理であり、善をすすめ善にむくい、悪を禁止し悪を罰する完全な智慧である、とされたのでした。ここから、人間の行為は、神の思考によって成立している宇宙の理性的秩序に依存するものである、との考えが必然的に導かれてきます。ストア派によれば、人間は自らの生活を普遍的な世界法則に適合させ、理性的な宇宙の理性的な一部であるように努めるべきであり、そこにこそ人間の最高の幸福があるのでした。このようにストア派は、ポリス共同体(個々人を包摂し、個々人にとって生きる指針を示していた共同体)の崩壊という時代的情況のなかで、全宇宙にまで視野を一挙に拡大し、全宇宙を理性的な神に統括された一大共同体として観念することで、そこから人間如何に生きるべきかという問題について考察したのです。

 全宇宙まで視野を広げたストア派とは反対に、専ら個人の主観のなかに視野を限定することで、人間如何に生きるべきかという問題を考察しようとしたのが、エピクロス派です。エピクロスによれば幸福とは快にほかなりませんでした。徳はそれ自身が重要なのではなく、快適な生活をもたらしてくれる限りにおいて価値をもつ、というのです。ここで注意すべきなのは、エピクロスのいわゆる快とは、短絡的な肉体的快楽ではなく、永続的な精神的快楽のことを意味していたことです。全てを超越した賢者の平静な感情(アタラクシア)こそが理想である、とされたのでした。

 こうした個人の主観への着目という方向性を極限まで徹底したところに登場してきたのが、懐疑論者たちです。懐疑論者は、客観的な現実など全く認識できないものなのだ、と主張し、哲学者が事物に対してとるべき正しい態度は、全く判断を差し控え(エポケー)、あらゆる積極的な主張をやめることである、としたのでした。主観(精神)と客観(自然)の二元論という困難をめぐって、ストア派が主観(精神)を客観(自然)のなかに溶解させて汎神論に到達したのだとすれば、懐疑論者は完全に主観のなかに閉じこもってしまおうとしたのでした。

 このように、ポリス社会の崩壊、ローマによる大帝国の建設という政治的激動のなかで、自らの存在の小ささを痛切に感じざるをえなかった個々人は、何とかして心の平安を獲得しようと、諸々の試行錯誤を積み重ねてきたのでした。こうした流れの果てに登場してくるのが、プロティノスによって創始された新プラトン派です。絶対的な満足への強い憧れから生じた新プラトン派は、自己の具体的・感性的なあり方を完全に否定し、主観の内部において、理性の自己直感により抽象的な一者(=神)へ恍惚として溶け込むこと(エクスタシス)、その結果として、あらゆる区別や対立を解消し尽くすことを理想としたのです。この一者なるものこそ全ての存在についての究極的な根拠であり、そこから全てのものが導きだされる最高原理であるとされました。新プラトン派においては、この世界の全ての存在は一者からの流出ということで説明されたのです。

 ちなみにシュヴェーグラーは、この新プラトン派について、古代哲学の完成であると同時に自己解消である、と述べています。これは一体どういうことなのでしょうか。この問題は、古代哲学の2つの側面、すなわち、探究目標(世界の究極的な根源)と探究方法(合理的な思考)という2つの側面から考えていく必要があります。端的には、新プラトン派は、前者を無理やり達成する(古代哲学の完成)ために後者を放棄してしまった(古代哲学の自己解消)、ということができるでしょう。全てを一者に還元しきったという点においては、新プラトン派の哲学は一元論であるといえますし、諸々の現象の根源となるものを探ろうという古代哲学における探求方向の究極的な到達点であるといえます。したがって、これは古代哲学の完成であるということができるわけです。しかし、その究極の根源なるものは、主観の内的な神秘的な高揚によってしか把握できないとされているのであって、客観的な諸対象を何とか筋の通った形で把握しようとしてきたタレス以来の努力の伝統を全く放棄してしまっています。この点においては、新プラトン派は古代哲学の自己解消であるといわなければならないのです。要するに、新プラトン派の哲学が一元論であるといっても、それは客観への真剣な探求を放棄し、すべてを主観のなかに溶かしこむことによって無理やりに達成されたものでしかなかったのであり、古代ギリシャ哲学の二元論を真に克服して一元論を打ち立てたものとはいえないということになるのです。
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2015年01月15日

哲学の歴史の流れを概観する(4/13)

(4)対象を論理化していく歩みが始まる――ソクラテスからプラトン、アリストテレスへ

 前回は、いわゆる「イオニア自然哲学」からソフィストまでの流れを辿りました。哲学的探求は、人間を取り巻く自然の諸々の現象を何とかひとつに括って把握しようというところからスタートし、やがて原子論という形で自然の諸現象を機械的に説明するところにまで到達します。しかし、自然を機械的に説明するだけでは抜け落ちてしまう要素(自然の合目的性など)があり、これが精神的なものとして把握されるようになっていったのでした。こうした流れはちょうど、ギリシャ世界において、伝統や慣習による支配が揺らいで個々人の利害の主張が強くなってくる過程に対応しています。こうしたなかで、物とは各自に見える通りのものにすぎず、普遍的に妥当する真理など存在しない、という思想を掲げたのが、ソフィストと呼ばれる人たちでした。何が正しいことで善いことなのかは個々人が全く任意に決定できる、というソフィストたちの主張は、ペロポンネソス戦争(全ギリシャ世界の覇権をめぐってのアテネとスパルタの戦争)による混乱によって、伝統や慣習が崩壊していた時代の思想的表現であったといえます。

 こうしたソフィストの大先生達(彼らは伝統と慣習の破壊者として警戒されつつ、智者として大きな尊敬を集めてもいたのです)の主張に対して、人間というものの力を重視するという点には大いに同意しつつ、しかし同時に納得しがたいものをも感じて、積極的に問答をふっかけていったのが、かの有名なソクラテスです。とはいえ、ソクラテス自身は、自分の見解を明瞭な形で纏めて表現することはできませんでした。そもそも彼は文章を書くことはなく、もっぱら問答という形で、智者とされる人々の見解の不充分さを暴き出すことに徹していたのです。しかし、ここでは、文章を書けなかったという点でソクラテスの実力を低くみるよりも、問答を始めることができたということ自体、ソクラテスの実力の高さを示すものである点に注目するべきでしょう。そもそも問いを投げかけるというのは、相手の説に対して容易に納得せず「おかしい」と感じるからこそであり、「おかしい」と感じる以上は、自分なりの考えが(極めて漠然としたものであり、明瞭な形には纏まりきれなかったとはいえ)それなりにあったということなのです。ソクラテスが「おかしい」と感じたのは、正しいことや善いことの基準を完全に個々人の主観に解消し尽くそうとするソフィストの考え方でした。ソクラテスは、正しいことや善いことには、個々人の主観によらない何らかの客観的な基準があり得るのではないか、との強い思いを抱いていたのです。こうしてソクラテスは、アテネの市民たちに積極的に問答をふっかけていったわけですが、それは自分の考えを何とかして相手に分からせようとして試行錯誤を積み重ねていく過程にほかなりませんでした。重要なのは、こうした問答の過程で様々な例やたとえ話による説明が試みられるようになっていったことです。このことは、人類が複数の事物の共通性を把握(事物の共通性を把握した認識が論理です)できるようになっていく端緒となるものでした。まさにこの点にこそ、ソクラテスの哲学史上の最大の意義があるというべきでしょう。

 このソクラテスを全的に受け継いだのがプラトンでした。名門貴族の家系に生まれ、若い頃には政治家を志したプラトンでしたが、師ソクラテスの刑死に衝撃を受けて政治家への道を断念し、祖国を去って各地を遍歴することになります。こうした遍歴の過程でプラトンは、ヘラクレイトスやエレア派、ピュタゴラス派などの影響を受け、独自の哲学を築いていくことになったのでした。

 ソクラテスにおける問答は、「自分の言いたいことを何とか相手に分からせたい」という一心で、個々の事物・事象から何とかして共通性(概念)を引き出そうと、試行錯誤を重ねていくものでしかありませんでした。しかし、問答が積み重なっていくにつれ、どのように問答すれば諸々の事物・事象の共通性を容易に導き出してくることができるのか、段々と分かってくるようになります。こうして、論理を導き出す道筋らしきものが見えてくるようになると、その道筋が目的意識的に辿られるようになっていくわけです。このように、自然成長的な問答から目的意識的な問答へと発展していく過程こそ、ソクラテスからプラトンへの流れであったということができます。プラトンは、問いと答えを通じて認識を展開していき、事物の真実の姿(概念)を正しく把握していくための術を、弁証法と呼びました。

 ここで注目すべきなのは、プラトンにおいて、事物の真実の姿がイデアと呼ばれて、現象的・感覚的な世界とは別個の世界(イデア界)に実在するものだとされたことです。現象的・感覚的な世界に存在する諸々の事物・事象は、イデア界の存在の影のようなものにすぎない、というわけです。しかし、事物の概念というものは、諸々の事物から共通性を抽象するという観念的作業によって成立させられるものであり、人間のアタマのなかにしか存在しないものです。これを、個々の人間のアタマから取りだして、世界のどこかに実在するものとしてしまったものが、プラトンのいわゆるイデアにほかなりません。現代の私達から考えると奇妙な主張ですが、自然と精神との区別がまだハッキリせず、人間のアタマの働きについてほとんど未解明であった(そもそもまともに自覚できなかった)時代には、こういう考えから抜けられなかったのも無理のないことでしょう。

 それよりも注目すべきことは、こうしたプラトンの主張が、それまでのギリシャ哲学史の流れを大きく総括するものであったということです。プラトンは、永遠不滅で絶対的に静止したイデア界と、変転してやまない現象界という二元論を打ち立てたのですが、前者はエレア派の「純有」の原理に対応するものであり、後者はヘラクレイトスの「成」の原理に対応するものであるということができるのです。ここからは、遍歴の時代がプラトンの思想形成に大きく資するものであったことを見てとることができるでしょう。

 ここで非常に重要なのは、絶対的に不変な存在としてのイデアの定立が、“古き良き時代”のポリスを取り戻すことで伝統や慣習の崩壊によって生じた混迷情況(何が正しいことで何が善いことなのか分からない!)を打破しようというプラトンの政治的な意志(信念)と不可分のものであったことです。プラトンにあっては、イデアは「正しいこと」「善いこと」の絶対的な基準としての役割を持たされていたのです。プラトンは、理想的な国家のあり方を論じた『国家』において、イデアを把握する実力を持った哲学者こそ国家統治者にふさわしい、との主張(哲人王の思想として有名です)を展開しました。さらに、人間の霊魂はもともとイデア界の住人であり、現世での生をまっとうした後は再びイデア界に戻っていくのであって、現世で善く生きたか否かにしたがって来世での境遇が左右されるのだ、というお伽噺のようなもので、善く生きるべきことを力説したのでした。

 とはいえ、プラトンの哲学が、絶対的な真実の世界(イデア界)と感覚的現象の世界という二元論的世界観にとどまり、両者がまともに統一されていない、という弱点を抱えていたことは否定しようがありません。前者と後者の関係について、物体とその影の関係のようなもの、というたとえ話で説明するだけであり、前者から如何にして後者が成立させられるのか、まともに解かれているわけではないのです。こうしたプラトン的二元論の限界を、イデアは個々の事物に内在するものだ、と捉えることによって解消しようとしたのが、アリストテレスでした。

 マケドニア出身のアリストテレスは、17歳の時、アテネでプラトンの門にはいり、20年間その教えを受けました。アリストテレスは、後世「万学の祖」と称されるように、論理学、自然学、形而上学(第一哲学)、倫理学、政治学、文学など、広範な領域に渡って膨大な著作を遺しています。

 アリストテレスは、師プラトンのイデア論を継承しながらも、イデアが個々の具体的な物とは別個に(全く別の世界に)実在するとした考えについては批判し、イデアと区別してエイドス(形相)とヒュレー(質料)という2つの根本的な規定を提唱しました。プラトンのイデアは個物から離れて存在しますが、アリストテレスのエイドス(形相)は具体的な個物のなかに、質料と結びついた形でしか実在しえないものです。家を例にとれば、質料は木材であり、形相は家の形をつくるものです。質料と形相との対立は固定したものではなく、ある関係において質料であるものも、他の関係においては形相となることがあります。例えば、材木は出来上がった家に対しては質料ですが、切られていない木に対しては形相となるのです。こうした質料と形相との関係は、論理的には可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)との関係として捉えられます。すなわち、家の質料である材木は可能態における家ではありますが、まだ現実的な家ではなく、ただ自己のなかに一定の家を形成すべき可能性を持っているにすぎません。この材木によって一定の家が建築されるとき、それが家の現実態となります。このような見地からすれば、この世界に存在するあらゆる個物は、全て自己のうちにひとつの形相を持ちながらも、他のより高次の形相を目指して運動していく(例えば、材木は材木としての形相を持ちながらも、より高次の家の形相を目指して運動していく)、ということになります。このような考え方を推し進めていくと、この世界の全ての存在は、少しも形相を含まない「第一質料」を最下段とし、少しも質料を含まない「第一形相」を頂点とする、ひとつの階段をなしているはずだということになるでしょう。

 このようにアリストテレスは、この世界の全ての存在はより高次の形相を求めて運動するものであり、したがって究極的には「第一形相」を目指して運動するものだ、という観点を打ち出したのです。プラトンにおいては、イデアと個々の事物を別個の存在として把握したために、世界の生成発展についての統一的な見解が示せませんでした。これに対してアリストテレスは、質料が形相を目指して不断に変化・発展するというように両者を統一的に把握することで、世界の生成発展の過程をそれなりに上手く説明することが出来たのでした。

 とはいえ、このアリストテレスにしても、最終的には、一方の端に何らの質料も含まない第一形相なるものを認め、また他方の端には何らの形相も含まない第一質料なるものを認めるほかなかったという点においては、プラトン的な二元論を完全に克服するまでには至らなかったのだ、ということができます。
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2015年01月14日

哲学の歴史の流れを概観する(3/13)

(3)人間を取り巻く自然の探究から人間としての自覚へ――イオニア学派からソフィストまで

 本稿は、昨年1年間、シュヴェーグラー『西洋哲学史』の内容に関わってなされた要約、例会への報告、例会で提示された論点をめぐってなされた討論などをしっかりと振り返りつつ、ひとつの流れをもったものに纏め直すことを通じて、哲学の歴史の全体像を一般教養レベルで描き出すことを目指したものです。

 今回からいよいよ哲学の歴史の具体的な中身に入っていくことになります。

 人類の歴史上、哲学らしい哲学がはっきりと姿を現すことになるのは、古代ギリシャ時代のことでした。古代ギリシャにおける哲学の誕生を考える上で決定的に重要なのは、古代オリエント世界の辺境に位置していたギリシャが、オリエントをはじめとする周辺諸民族との交通関係(戦争と交易)を何重にも積み重ね、オリエントの先進的な文化(知識・技術)に学びながら独自の文化を形成していったことです。とりわけ、紀元前8世紀以降になると、エーゲ海から地中海、さらには黒海方面にかけて、活発な植民活動、交易活動が行われるようになり、こうした流れにのって、小アジア沿岸部イオニア地方の植民都市が、その地の利を活かした交易活動によって大きな富を蓄積し、ギリシャ本土に先んじて豊かな文化の花を開かせることになったのでした。

 哲学史においては普通、タレスを筆頭とするイオニアの自然哲学者たちが、多様で変転きわまりない自然の諸現象の根底にある不変の原理を求めて、どんな元素が根本元素なのかと問うたことこそが、哲学の始まりである、とされています。彼らが最初の哲学者だとされるのは、彼らが神話の世界から抜け出し、何らかの自然的な存在を起源と設定して、そこから合理的に世界を説こうとしていったからにほかなりません。タレスは水を、アナクシマンドロスは「無限定なもの」を、アナクシメネスは、空気こそが根源的な物質であると考えました。こうしたイオニアの自然哲学の発展のうちには、物質の特定の質を捨象する傾向が示されているということができるでしょう。

 ここからスタートする古代ギリシャ哲学の歴史についてはまたすぐ後で見てみることにして、ここで考えておかなければならない問題は、先進的な文化を築いていたオリエント世界中枢部で哲学が誕生せず、相対的にみれば文化的な発展の遅れた周辺部であるギリシャにおいて哲学が誕生することになったのは何故なのか、という問題です。結論からいえば、自然環境に恵まれたオリエント世界中枢部と、自然環境がより厳しい周辺部という差異が影響したのではないかと考えられます。自然環境に恵まれた古代オリエント世界の中枢部においては、個々の問題を個々のやり方で解決できるだけの知識・技術(経験的に蓄積されたもの)があれば充分でした。これに対して、こうしたオリエントの知識・技術を学びつつ、それらをより自然環境の厳しいところに適用してポリス社会の維持発展を主体的に図っていかなければならなかった古代ギリシャの政治指導層にとっては、個別的に観察され記録された諸事実の間に如何なる連関が存在するのか、ということこそが問題となってきたのだ、ということです。だからこそ、物質の特定の質(多様性・変化性)を捨象して根源的なものを把握しようという過程がスタートしたのだと考えられます(*)。

 こうした捨象化の過程をさらに進めていくと、物質の質的な側面がなくなって量的な側面だけが残ることになります。ここに着目したのがピュタゴラス派です。その根本思想は、自然の諸現象のうちには合理的秩序と調和と合則性があり、これら自然の法則は割合と数とによって表現されうるのだ、というものでした。

 この捨象化の過程を最後まで徹底して押し進め、あらゆる変化という変化を否定し去ろうとしたのが、パルメニデスやゼノンによって代表されるエレア派です(**)。パルメニデスの発言としては「有のみがあり、非有、成はまったく存在しない」という言葉が伝えられています。さらに、諸物体の運動(場所の移動)の構造に分け入って、それを論理的に止めてみせたのが、パルメニデスの弟子であったゼノンです。ゼノンは、ある物体はある時間には空間のある場所にしか存在しえない(同時に他の場所に存在することはない)ということを論拠に、運動の存在を否定したのです。

 このようにエレア派は、「純有(ただ有る)」という原理を掲げて、あらゆる有限な存在、転変する現象世界の存在を否定しようとしたのでした。しかし、理屈としてはともかく、実際の感覚としては感覚器官で捉えられる世界の存在を否認し通すことは不可能です。ここから、有と非有の統一である成こそ原理である、と主張するようになったのが、「万物は流転する」という言葉で有名なヘラクレイトスです。

 しかし、ヘラクレイトスの「成」はエレア学派の純有を裏返したものでしかありませんでした。パルメニデスがあらゆる成を絶対に不変な存在へと解消したのに対して、ヘラクレイトスはあらゆる出来上がった存在を絶対に流動的な成へと解消したのです。感覚が誤る理由について、パルメニデスは不変の存在を変化するものと捉えてしまうからだ、としたのですが、ヘラクレイトスは、変化しているものを不変なものと捉えてしまうからだ、としました。このように、ヘラクレイトスの主張は、パルメニデスの主張をちょうど裏返しにしたようなものだ、ということができます。ただ単に成を主張するだけでは、なぜあらゆる有は成であるのか、なぜ一は永久に多に分れるか、説明されたわけでありません。この問題に答えること、換言すれば、有の原理を前提しながら成を説明することが、次の課題となったわけです。

 こうした課題に挑んだのが、四元素説を唱えたエンペドクレスおよびアトム論者たちでした。彼らは、成の必然性を説明するために、これを有と非有という2つの契機に意識的に分解したのです。アトム論者においては、有は不変・不可分の微粒子たるアトム(絶対的充実)として、非有は相互接触を妨げているアトム間の空虚な空間として実体化されました。諸アトムは空虚な空間を漂いながら相互に衝突することで渦巻き運動を生じさせ、この運動によってアトムの集合・分離が行われる、この過程がすなわち生成にほかならないのだ、というわけです。アトムが分割できず自立的であり絶対的に充実していること、アトムそのものは生成も消滅もしないことは、エレア派的です。一方、アトムが多数で種々であること、非有が実在するとした(空虚な空間の存在を主張した)こと、運動と無限の結合能力を主張したことなどは、ヘラクレイトス的であるといえます。

 こうしたアトム論者の主張は、自然の諸運動を全く機械的なものとして説明しきろうとするものであったといえるのですが、そうなると、自然における生成には何らの合目的性もないことになってしまいます。こうした点に不満を感じて、自然を支配する力としての精神的存在を要求し、これをヌースと名づけたのが、アナクサゴラスです。論理的にいえば、自然が純粋に機械的に説明されようとすることによって、そこから抜け落ちてしまった要素が精神的なものとして把握されるようになっていき、むしろ後者を優位において世界を説明しようという流れが出てきたのだ、ということができるでしょう。アナクサゴラスは、諸事物を構成する大量の根本的構成要素(現物質、種子)の混沌とした塊に、ヌースが永遠に続く渦巻き状の運動を生じさせ、この運動によって同質的なものがもとの混合から分化して一緒に集まるようになったのだ、と考えました。ヌースは、万物をそれぞれの本性にしたがって配列しながら、種々様々な諸形態を包括している宇宙を創り上げていったのだ、というわけです。

 アナクサゴラスは、小アジアのクラゾメナイ出身で、後にアテネに移ります(アテネ民主制の黄金期を築いたペリクレスは彼の弟子となりました)。アナクサゴラスとともに、哲学の中心はイオニアなどの植民市からギリシャ本土のアテネに移ることになります。

 アテネはもともと、アッティカ地方の各村落共同体から、甲冑で自ら武装できるだけの経済力を保持した貴族的市民(村落的共同体を構成する独立自営農民のなかでも特に有力な層)が集住することで形成されたポリスであり、彼ら貴族たちが政治の中心にいました。しかし、イオニア植民市との交易を通じて手工業や商業(貨幣流通)が発展し、鉄製武器が次第に安価になっていくと、平民たちも重装歩兵として戦場で活躍できるようになっていきます。アナクサゴラスがアテネに移ってきたのは、ちょうどこの頃、平民たちがポリス社会における発言力を強めて、伝統や慣習に依拠した支配が揺らいできた時代でした。

 こうした時代的情況のもとで、アナクサゴラスのヌースの原理(非物質的な原理)をある意味で引き継いだのが、ソフィストと呼ばれる人たちでした。最初のソフィストとされるプロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と説いたことで有名です。彼らは、物とは各自に見える通りのものにすぎず、普遍的に妥当する真理など存在しない、何が正しいことで何が善いことなのかは個々人が全く任意に決定できるのだ、と主張しました。こうしたソフィストの主張は、ペロポンネソス戦争(全ギリシャ世界の覇権をめぐってのアテネとスパルタの戦争)による混乱によって、伝統や慣習が崩壊していた時代の思想的表現であったともいえるでしょう。

 しかし、普遍的な真理など存在しないとなれば、個々人の好き勝手な行動が野放しにされかねず、社会的な秩序が完全に崩壊してしまうことにもなりかねません。こうした危惧を背景に、人間が万物の尺度であるということを認めつつ、個々の恣意的な人間ではなく、普遍的な、思考する理性的な人間こそが尺度なのだと主張しようとしたのが、かの有名なソクラテスです。こうしたソクラテスの思想は、ソフィストの原理(人間の尊重)を積極的に補足するものだといえます。このソクラテスから、プラトンを経てアリストテレスへと至る古代ギリシャ哲学の黄金期については、次回、説明することにしましょう。

(*)加えて、交易で蓄積された富のおかげで市民層の生活に余裕が生まれ高い教養への要求が喚起されたこと、交易や混血などを通じ他の諸民族の言語・風習・宗教観などと深く接触したことで伝統的な宗教観念や習俗が揺らいだこと、商業活動の発展そのものが合理的な思考を促したこと、ギリシャ世界には(オリエント世界とは異なって)強大な権力を握って政治を支配してしまうような神官階級が存在しなかったこと、なども理由としてあげることができるでしょう。

(**)悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か(3)〜(5)」(『学城』第3〜5号)では、タレスおよびパルメニデスがポリスを指導統括する立場にあったことが強調され、彼らの主張した「原理」なるものが、ポリスの維持発展に命懸けで取り組む過程で到達した認識にほかならぬことが説かれています。タレスの「万物のアルケーは水」というのは、タレスにとっての世界、すなわち、ミレトスを取り巻く自然環境を一般的に反映させた上での表現(ポリスの維持発展にとって水をコントロールすることが肝要、との認識の表現)であり、パルメニデスの「一」とは、諸々の具体的問題を解決しつつポリスをひとつに纏め上げなければならない、との認識の表現だったのです。
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2015年01月13日

哲学の歴史の流れを概観する(2/13)

(2)哲学の歴史とは何を目標とした流れであったのか

 前回は、我が京都弁証法認識論研究会が、如何なる観点からシュヴェーグラー『西洋哲学史』(岩波文庫)の学びに取り組んできたのか、振り返っておきました。端的には、一昨年に扱ったヘーゲル『歴史哲学』とセットで把握すべきヘーゲル『哲学史』に挑戦していけるだけの実力を集団的に創出していくことが大きな目標であった、ということでした。こうした大目標を踏まえた上で、昨年の我が研究会の月例会では、シュヴェーグラー『西洋哲学史』を軸にしつつ、哲学史の他の概説書(岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、など)も適宜参照しながら、哲学史についての一般教養レベルでのイメージをまともにつくっていくことを目指していたのでした。同時に、哲学の発展過程をまともに理解していく上で決定的に重要なのは、国家的生活の発展過程との一体性をしっかりと把握することですから、一昨年の『歴史哲学』の学びの成果を踏まえつつ、一般的な世界歴史の概説書(林健太郎『歴史の流れ』『世界の歩み』、H・G・ウェルズ『世界史概観』など)を学び直していくことにもしていたのでした。

 本ブログの読者の皆さんであればすでにご承知の通り、我々は、毎月の例会が終了した後に、例会の場でなされた討論について振り返って纏め直し、『西洋哲学史』の扱った範囲についての要約、例会に提示されたレジュメ、参加した各メンバーの感想を合わせて、「例会報告」として本ブログで紹介するようにしてきました。

 しかし、こうした「例会報告」のそれぞれは、基本的に各月で扱われた範囲に焦点が当てられた纏めにすぎない、という大きな限界があります。それだけに、シュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを意味あるものとして次の課題、すなわち、ヘーゲル『哲学史』への挑戦という今年の課題へと繋げていくためには、こうした「例会報告」を単なる「例会報告」のままに放置しておくのではなく、ある月の「例会報告」からその翌月の「例会報告」へ、さらにその次の月の「例会報告」へ……という流れを、改めてアタマのなかで振り返ってしっかりと反省することにより、ひとつに繋がった大きな流れを浮かび上がらせていく、という作業が絶対に必要になってくるのです。これはより具体的にいえば、「例会報告」の羅列というレベルで記録が残されている『西洋哲学史』の集団的な学びの過程について、改めて1本の論文として纏め直すことにより、主体的に自分のもの(実力)にしていく努力が求められているのだ、ということにほかなりません。

 さて、シュヴェーグラー『西洋哲学史』に関する毎月の「例会報告」の羅列でしかないものを、哲学の歴史の全体像(一般教養レベルですが)を描き出すひとつの論稿にまで纏め上げていくためには、哲学史の流れを構造的に捉えるための視点を確固たるものとして定めておく必要があります。そのためにも、(前回説いた内容と重複する部分もありますが)そもそも哲学とは如何なるものなのか、それは国家的生活のなかで如何なる位置を占めるものなのか、という問題について、予め少し踏み込んで確認しておくことにしましょう。

 前回、哲学について、学問の最高形態だと説明しました。それでは、そもそも学問とは何かといえば、簡単には、現実の世界の姿を観念の世界(アタマのなかの世界)においてしっかりと1本の筋を通すように描き出していったものだ、ということができます。学問といえば、経済学、教育学、心理学、言語学……といった諸々の個別科学が想起されますが、これらは、現実の世界のある特定の部分(側面)に焦点を当てた上で、その特定の部分(側面)に筋を通すことを目指したものです。こうした個別科学に対して、現実の世界の特定の部分(側面)だけではなく、世界全体をまるごと掴んで筋を通すことを目指したものが哲学にほかなりません。

 ここで考えてみなければならないのは、部分は全体のなかに位置づけてこそ的確に把握できるのだ、ということです。つまり、経済学、教育学、心理学、言語学といった個別科学は、あくまでもこの世界の部分部分を究明しようとするものであるから、世界全体をまるごと究明しようとする哲学を踏まえた上で理解されなければならないのだ、ということができるわけです。換言すれば、諸々の個別科学を統括する(ひとつのものとして動けるように纏め上げる)学問中の学問が哲学である、ということであり、この意味において、哲学は学問の最高形態だといえるわけです。

 このことを学問の発展過程から捉えるならば、個別科学は哲学から分化し、哲学との相互浸透的な関係(お互いがお互いに影響を与え合う関係)において発展していったものであるから、哲学史を踏まえなければ個別科学史をまともに把握することはできないのだ、ということにもなります。

 ここで、「世界全体をまるごと把握しよう、というのは、哲学のみならず宗教や芸術(文学)でもそうなのではないか? これらと哲学は一体どこがどう違うのか?」という疑問が出てくるかもしれません。端的には、哲学では宗教や文学と同じように世界を説くにしても、その説き方(説く過程)が違うのです。どういうことかといえば、哲学はひとつの根本的な原理から「これがこうで、それがそうだから、あれがああなって……」というような過程できちんと筋を通して説いていこうとするものであり、そういう説き方の過程性が宗教や芸術とは決定的に異なるのだ、ということです。中世のスコラ神学に象徴されるように、キリスト教の教義が体系性を帯びているといっても、それは古代ギリシャ哲学との相互浸透の結果でしかありません。当初のキリスト教は、全てを神というひとつの原理に収斂させるといっても、それは決して体系的に筋の通ったものなどではなく、奇蹟(常識では計り知れない出来事)にもとづく信仰という非合理的なものでしかありえなかったわけです。しかし、キリスト教とギリシャ哲学の相互浸透の例からも分かる通り、宗教と哲学(学問)とは必ずしも排除しあうものではありません。人類の歴史の大きな流れを見ると、宗教的な世界の説き方のなかに哲学(学問)的な世界の説き方が生まれたのであり、両者が絡み合うなかで諸々の紆余曲折はありながらも、後者が次第に力をつけてきて前者を圧倒するようになっていく、という流れがあるわけです。

 それでは、このような哲学は、国家的生活のなかで如何なる位置を占めるものなのでしょうか。もっといえば、哲学の歴史は、世界の歴史(人類社会の歴史)のなかで如何なる位置を占めるものなのでしょうか。

 端的に結論からいえば、人類が歴史的に築いてきた文化の最高形態が学問であり、その学問の最高形態が哲学である(これは先ほど説明した通り)、ということになります。そもそも人類は、社会的な労働によって地球環境を能動的に変革することで、文化的に豊かな生活を築いてきた存在です。こうした社会的労働(国家的労働)を統括する社会的認識のことを文化と呼びます(ここには、社会的認識としての文化によって社会的労働がなされ、そうした社会的労働の成果として文化がさらに発展させられていく、という相互浸透の関係が存在しています)。それでは、こうした文化の最高形態が学問にほかならない、というのはどういうことなのでしょうか。そもそも労働とは、アタマのなかの何らかのイメージ(目的像)にもとづいて対象へ能動的に働きかけることにより、そのあり方を変革していく過程にほかなりません。したがって、労働を統括する認識といった場合、目的意識的な働きかけの対象となる諸々の事物・事象が有している構造を体系的に把握した認識、すなわち学問こそが頂点に立つことになるのです。なぜかといえば、最終的には理論(学問的な認識)のレベル如何が実践(地球との相互浸透という国家的労働の過程)の成否を大きく左右することになるからです。こうした学問が、(本来的には)諸々の個別科学が哲学によって統括される、という構造を持っていることは、先ほど説明した通りです。

 以上で説いてきたことを踏まえて、哲学史の流れを構造的に捉えるための視点について確認しておくとすれば、以下のようになるでしょう。

 哲学の歴史は、国家的生活の歴史(社会的労働による地球環境との相互浸透過程)の頂点に位置するものであり、人類が自らを取り巻く世界の全体を何らかのひとつの根本原理から体系的に筋を通して説ききることを目指して試行錯誤してきた歴史であったのだ、ということです。本稿では、このような観点を踏まえながら、哲学の歴史の全体像を一般教養レベルで描き出すことに挑戦していくことにします。
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2015年01月12日

哲学の歴史の流れを概観する(1/13)

(1)『西洋哲学史』の学びの過程を振り返る

 昨年、我が京都弁証法認識論研究会は、ヘーゲル『哲学史』へと挑戦していくための準備段階として、シュヴェーグラー『西洋哲学史』(岩波文庫)を一年かけて読破し、その内容を主体的に掴み取ることを毎月の例会の目標として掲げていました。一昨年に扱ったヘーゲル『歴史哲学』は、世界歴史を世界精神の発展過程(成長過程)として捉えることで、その大きな流れに一本の筋を通して把握したものでした。この学びの成果をしっかりと踏まえつつ、世界歴史のなかでもとりわけ哲学(学問の最高形態)の歴史に焦点を当てて、シュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを軸にしながら、哲学史の流れの構造的な把握に努めていくことが、昨年一年間の我が研究会の大きな目標だったわけです。

 我々はそもそもなぜ哲学(あるいは学問)の歴史の学びを重視しているのでしょうか。哲学(学問)の歴史を学ぶことに如何なる意義があるのでしょうか。この問題について、加藤幸信「学問の発達の歴史」(「綜合看護」1996年3号)では、以下のように説かれています。

「何を専攻しているにせよ、学問の構築を目指している以上は学問の歴史、つまり先人たちがいかにして学問を築いてきたかを知らなければならないということです。知らなければ何がまずいのかといえば、端的にいえば、学問の歴史を自分の一身に繰り返すことができないということです。……学問を構築したい、学問を理解したいということであれば、学問の歴史を一身に繰り返す必要があるのであって、そのための前提として、学問の歴史を理解していなければならないのです。」


 一言でいえば、学問の歴史を学ぶのはそれを一身に繰り返すためである、ということです。ではなぜ「一身に繰り返す」必要があるのでしょうか。それは、そのようにしてこそ学問的実力をまともに培っていくことができるからにほかなりません。学問(簡単には、現実の世界の姿を、観念の世界においてしっかりと一本の筋を通すように描き出していったもの)は、時代を超えた多くの人々の協働作業(より具体的には、諸々の対象の構造を究明しようとした先人たちの苦闘の積み重ね)により、“単純なものから複雑なものへ”という発展過程を通じて形成されてきました。私たちは、こうした学問の発展過程を辿ることによってこそ、対象の構造を体系的に把握する論理的な実力をつけていくことができます。学問の歴史的発展過程を追体験する(一身に繰り返す)とは、そもそも学問の原点とは何なのか、その原点を踏まえつつ如何なる問題に如何なる解答が与えられてきたのか、ということを学ぶことにほかならないのであって、そのような学びの過程によってこそ、学問的実力をまともに培っていくことができるわけなのです。我が研究会のそれぞれのメンバーが、経済学史、教育学史、心理学史、言語学史などの学びに取り組んでいるのは、以上のような理由からにほかなりません。

 しかし、こうした個別科学の歴史を辿るだけでは、まだ充分とはいえません。それはなぜなのでしょうか。前掲の加藤論文は、この問題について以下のように説いています。

「学問を目指す以上は、その最高形態であり、世界そのものを対象とした哲学の歴史を学ぶことが不可欠なのです。個別科学だけでは、自分の対象とする分野を世界のなかにきちっと位置づけられなくなります。位置づけられないということは、自分の分野が確定できないということでもあります。……大きな視点から、つまり全体から見なければ、部分はわかりません。本来、哲学の歴史に学ばなければ、個別科学とは何かということさえわからないのです。」


 つまり、経済学、教育学、心理学、言語学といった個別科学は、あくまでもこの世界の部分部分を究明しようとするものであるから、世界全体をまるごと究明しようとする哲学を踏まえた上で理解されなければならないのだ、ということです。このことを学問の発展過程から捉えるならば、個別科学は哲学から分化し、哲学との相互浸透的な関係(お互いがお互いに影響を与え合う関係)において発展していったものであるから、哲学史を踏まえなければ個別科学史をまともに把握することはできないのだ、ということになります。哲学の歴史を一身に繰り返して自ら哲学を構築しうるだけの学問的実力を培ってこそ、各々が専門とする個別科学の領域における体系化が可能となっていくのです。

 学問(哲学)の歴史の学びには、大よそ以上のような意義があるといえます。それでは、哲学史を学ぶために最良の文献は何でしょうか。それは何といってもヘーゲルの『哲学史』を挙げるべきでしょう。なぜならば、この『哲学史』は、歴史上に登場してきた哲学者たちの学説を羅列していくのではなく、絶対精神というひとつの主体の成長過程として、1本の太い筋に貫かれるような形で、哲学史を描き出そうとした著作であるといえるからです。その意味で、この『哲学史』という著作(正確にはヘーゲルの大学での講義を弟子たちが纏めたもの)は、先ほども述べた通り、一昨年に我が研究会が取り組んできたヘーゲル『歴史哲学』(これもまたヘーゲルの大学での講義を弟子たちが纏めたものであり、絶対精神というひとつの主体が自由の実現〔本来の自己に立ち返る〕に向かって前進していく過程として、世界歴史の流れに1本の太い筋を通して描き出そうとしたもの)と一体のものとして理解されるべき著作でもあります。

 そうであるならば我々は、本来なら、2013年の『歴史哲学』の学びに続いて、2014年は『哲学史』へと果敢に挑戦していくべきであったのかも知れません。しかし、哲学史について、一般教養レベルでのイメージすらまともに描けていないようでは、ヘーゲル『哲学史』をまともに読みこなしていくことなど到底不可能でしょう。それだけに我々は、まずはヘーゲル『哲学史』に挑戦していけるだけの実力を創り上げていく必要がある、と考えたのでした。そのため、昨年の毎月の例会においては、哲学の歴史の流れを分かり易く説いた古典的名著として知られるシュヴェーグラー『西洋哲学史』(岩波文庫、上下2巻)を扱うことにしたのです。ロシア革命を指導した革命家であるレーニンや、『弁証法はどういう科学か』の著者である三浦つとむもこの書を学んだらしく、『南郷継正 著作・講義全集 第十巻』の「読者への挨拶」のなかでも「唯物論と観念論を理解された後の通読書としては分り易い書物である」(p.19)との評価が与えられています。

 昨年の我が研究会の月例会では、このシュヴェーグラー『西洋哲学史』を軸にしつつ、哲学史の他の概説書(岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、など)も適宜参照していくことにしていました。また、哲学の発展過程をまともに理解していく上で決定的に重要なのは、国家的生活の発展過程との一体性をしっかりと把握することですから、一昨年の『歴史哲学』の学びの成果を踏まえつつ、一般的な世界歴史の概説書(林健太郎『歴史の流れ』『世界の歩み』、H・G・ウェルズ『世界史概観』など)を学び直していくことにもしていました。

 以上のような取り組みを通じて、ヘーゲル『哲学史』に挑戦していけるだけの実力を集団的に創出していくこと――これが、昨年の研究会活動における大きな課題として設定されていたのでした。
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2015年01月11日

掲載予告:哲学の歴史の流れを概観する

 われわれ京都弁証法認識論研究会は、昨年の毎月の例会において、シュヴェーグラー『西洋哲学史』を読みすすめてきました。本ブログの読者のみなさんならすでにご承知のとおり、われわれは、毎月の例会が終了したあとに、例会の場でなされた討論について振り返ってまとめなおし、『西洋哲学史』の扱った範囲についての要約、例会に提示されたレジュメ、参加した各メンバーの感想と合わせて、「例会報告」として本ブログで紹介するようにしてきました。

 しかし、こうした「例会報告」のそれぞれは、基本的に各月で扱われた範囲に焦点があてられたまとめにすぎない、という大きな限界があります。それだけに、『西洋哲学史』の学びを意味あるものとして次の課題(哲学史の学びの本番というべきヘーゲル『哲学史』への挑戦)へとつなげていくためには、こうした「例会報告」を単なる「例会報告」のままに放置しておくのではなく、ある月の「例会報告」からその翌月の「例会報告」へ、さらにその次の月の「例会報告」へ……という流れを、あらためてアタマのなかで振り返ってしっかりと反省することにより、ひとつにつながった大きな流れとしてまとめ直していく、という作業が絶対に必要になってくるのです。

 本稿は、昨年一年間、シュヴェーグラー『西洋哲学史』の内容にかかわってなされた要約、例会への報告、例会で提示された論点をめぐってなされた討論などをしっかりと振り返りつつ、ひとつの流れをもった論稿にまとめ直したものです。哲学の歴史の全体像を一般教養レベルで描き出すことを目標に、できるかぎり分かりやすく説いていくようにしたいと考えていますので、ご期待ください。

 以下、本稿の目次(予定)です。

目次

はじめに
(1)『西洋哲学史』の学びの過程を振り返る
(2)哲学の歴史とは何を目標とした流れであったのか

1、古代ギリシャにおける哲学の誕生
(3)人間を取り巻く自然の探究から人間としての自覚へ――イオニア学派からソフィストまで
(4)対象を論理化していく歩みが始まる――ソクラテスからプラトン、アリストテレスへ
(5)古代社会の衰退と古代哲学の衰退

2、スコラ哲学から近代哲学への過程
(6)スコラ哲学の生成・発展・衰退の過程
(7)デカルトによる根本問題の整理――根源は精神か物質か
(8)哲学史の流れは経験論と合理論とに分かれる

3、ドイツ観念論の発展過程
(9)カントは物自体論と二律背反論で合理論の流れと経験論の流れを合流させようとした
(10)自我を根源とする一元論哲学への過程――フィヒテからシェリングへ
(11)ヘーゲルは観念論の立場から一元論哲学を完成させようとした

まとめ
(12)哲学の歴史は一元論の完成を目指した歩みであった
(13)哲学の完成に向けて、我々の課題を考える
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2014年03月10日

世界歴史の流れを概観する(13/13)

(13)われわれはこれからの世界をどうしていくべきか

 前回は、世界歴史の流れについて、本稿でこれまで説いてきたことを簡単にまとめておきました。結論的には、世界歴史とは、大きくみるならば(紆余曲折、長期に渡る逆行をも含みながらも)、社会的労働の場面において自らの意志で主体的に行動できる人間の層が次第に拡大していく過程であり、同時に、社会的労働の成果たる文化的生活を享受できる人間の層が次第に拡大していく過程であったということができるのでした。

 こうした世界歴史の流れの全体を貫いている根本矛盾は、人間はあくまでも個としてしか存在しないにもかかわらず、社会的な関係のなかでしか生きていけない、という矛盾であったといってよいでしょう。この矛盾を実現すると同時に解決するための形態、すなわち、「個人的意志/規範的意志」という非敵対的矛盾を発展させてきた過程こそが、世界歴史にほかならなかったということもできるのです。社会的労働を如何に組織し、その成果を如何に分配するかという問題は、この矛盾のなかで、その時代、その時代の情況に応じた解決がなされてきたわけです。

 こうした根本矛盾の観点から世界歴史の流れに筋を通して把握する上で非常に参考になるのが、18世紀の偉大な哲学者カントが「世界公民的見地における一般史の構想」という論稿において展開した議論です。カントは、この根本矛盾について、「非社交的社交性」という言葉でつかんでいます。すなわちカントは、人間の本性について、相集まって社会を形成しようとする傾向(社交的性質)を持つと同時に、仲間を離れて自分一人になろう(孤立しよう)とする強い傾向(非社交的性質)をも備えている、という二重性において把握しているわけです。このうち、後者の傾向は、他者の抵抗を排して一切を自分の意のままに処理しようというところから生じるとされています。カントによれば、人類は、自分と他人とが互いに傷つけ合うことなく自由に共存しうるような法的組織として、「公民的共同体」(=国家)を形成していくことになります。しかし、この段階では、自分と他人とが互いに傷つけ合うことなく自由に共存しうるという状態は、個々の国家の枠組みの内においてのみ実現されているにすぎません。国家どうしが互いに敵対的に抗争し合うという問題は解決されていないのです。そこで人類は、国家的な公民的組織を形成するにとどまらず、一個の世界公民的組織(世界国家あるいは国際連合)を創設しようという方向に進まなければならなくなるのです。要するに、まず、個人間の敵対関係が国家意志(法的規範)への個人意志の従属という形態によって解決され、次いで、国家間の敵対関係が国家間の関係を律する規範(国際法)の確立によって解決されていく、という大きな流れをみてとることができる、というわけです。

 世界歴史の流れの具体的な事実で考えてみましょう。まず前者(一国内における根本矛盾の解決)についていえば、近代における議会制民主主義の確立によって、一応は完成したといってよいでしょう。社会的労働において各個人が自由に(=主体的に)振る舞うことが建前となったことに対応して、諸個人、諸団体の間の利害対立を調整しながら一つの国家意志(法律)に収斂させていくために、議会の役割が決定的なものになっていったのです。とはいえ、議員の選出方法やマスコミなどによる世論誘導の問題などもあって、議会が本来の役割を充分に果たせてきたかといえば、必ずしもそうはいえません。とりわけ、ソ連崩壊に伴って政治の対決軸が大きく右に移行したことによって(ソ連崩壊によって社会主義への展望がリアリティを失ってしまったことが、労働者階級の力を弱めるように作用したことは否定できません)、議会制民主主義は、民衆の不満をそれなりに吸い上げて国家意志に反映させていくという機能をまともに果たし得なくなってきているのです。

 一方、後者(国家間における根本矛盾の解決)については、2度にわたる世界大戦を通じて、国際連合というものが形成され力を増してきたことが重要です。大きくみれば、(1928年の不戦条約以来)戦争の違法化という流れが進展してきていることも注目に値します(日本国憲法第9条はこうした流れを大きく先取りしたものであるともいえます)。しかし、国連憲章の第2条第1項が「この機構は、そのすべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている」とし、同第7項が「この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権内にある事項に干渉する権限を国際連合に与えるものではない」としているように、現在の国連は、決して全世界を統括する「世界政府」や「世界連邦」のような存在ではなく、独立した主権国家どうしの寄り合い所帯にすぎません。第二次世界大戦後の世界においても国家間の紛争は絶えませんでしたし、冷戦終結後には、唯一の超大国となったアメリカが、国連を無視してでも「世界の警察官」としての役割を果たすという単独行動主義を露骨に示したこともありました。さらに現在は、経済の衰退などでアメリカの地位が相対的に低下していく一方で、中国やロシアなどの新興大国が対外膨張路線をとるようになってきているのです。

 このように、現代においては、世界歴史の根本矛盾を解決するために創出されてきた形態(国内的には議会制民主主義、国際的には国連を軸とした国際秩序)が、国内的にも国際的にもまだまだ不安定な要素を抱え込んでいるのだといわなければなりません。こうした情況を深いところで規定しているのが、世界的レベルにおける経済の混乱です。新自由主義的改革によって国内需要を掘り崩してしまった資本主義経済は、金融市場の肥大化によって仮想的な需要を創り出すほかなくなり、デフレとバブルを周期的にくり返すという極めて不安定な情況に陥っています。将来への希望が失われ、生活不安が蔓延していくことは、体制への民衆の不満を高めていくことにならざるを得ません。各国の支配層は、自立・自助・自己責任というイデオロギーを殊更に吹聴するとともに、共同体としての一体性を醸成するために、場合によっては排外的なナショナリズムを煽るようになっていきます。国内的な矛盾を国外へ転嫁しようというわけです。

 そうした世界的な危機の一つの焦点が、わが日本にあることは間違いないでしょう。アメリカの衰退と中国の台頭という大きな世界歴史的な流れが、アメリカの従属的な同盟国として経済的な繁栄を実現してきた日本を大きく揺さぶっているのです。こうしたなかで、安倍政権が「大日本帝国」「大東亜戦争」の正当性を復権させようとしながら、中国を敵国と想定しての戦争準備としか見えない動き(秘密保護法の制定、日本版NSCの発足など)を加速させていることは、極めて危険なことだといわなければなりません。世界有数の経済大国どうしが軍事衝突するとなれば、これは第三次世界大戦にも繋がりかねない深刻な事態です。まさに、現在の日本に生きるわれわれは「サルが人間に進化してからの時代的流れのすべてを内に含んで発展してきている、そしてこれからまだ発展しようとも、あるいは世界大戦とやらで滅亡しようともしている現在の社会の状態そのもの」(南郷継正『看護学科・心理学科学生への“夢”講義(2)』現代社白鳳選書、p.30)を直視しなければならないのです。

 第三次世界大戦による人類の破局を回避するためには、何よりもまず、歴史的な危機に瀕している資本主義的な経済のあり方を根本から変革していく道が模索されなければならないでしょう。ここでわれわれは、かつて資本主義経済の危機打開に挑んだケインズの模索とその挫折について振り返ってみる必要があります。1920年代、恐慌や階級対立の激化など資本主義経済(自由主義経済)の深刻な行き詰まりに直面したケインズは、次のように述べていました。

「経済的無政府状態から、社会的公正と社会的安定のために経済力を統制、指導することを慎重にめざす体制に向かっての移行には、技術的にも政治的にもはかりしれない困難を伴うことであろう。それにもかかわらず、新しい自由主義(New Liberalism)の真の使命は、その困難の解決にたち向かうことにあるのだ、と私は言いたい。」(ケインズ「私は自由党員か」、中央公論社『世界の名著69 ケインズ・ハロッド』p.170)


 こうしたケインズの思想によって、社会的公正や社会的安定を重視する観点から、すなわち、労働者階級を含めた国民一般が文化的生活を享受できるように、企業の利潤追求活動の自由に一定の制限を加えることが正当化されていったのです。このことが、第二次世界大戦後の世界において高度成長の実現という形で結実したのですが、結局のところ行き詰まり、新自由主義(Neo Liberalism)の隆盛をもたらすことになります。どこに問題があったのでしょうか。それは、ケインズの思想が、国民経済という枠内での経済のコントロールに主眼をおいたものであったからだと考えられます。要するに、現在われわれは、企業の利潤追求活動が特定の国民経済の枠組みを超えて展開するようになったという新しい条件を踏まえ、グローバルな(個々の国家の枠組みを超えた)レベルにおいて社会的公正と社会的安定のために経済力を的確に統制、指導し得る体制を構築していくという困難な課題に直面させられているのです。このことなしには、国内経済の安定もあり得ません。

 このような経済的変革と直接に、国内政治の面では議会制民主主義を実質的な中身の伴ったものに創り変える(国家的社会の維持発展という観点から各階層、各個人の利害を調整するという機能をまともに果たせる機関を創出していく)とともに、国際政治の面では国家どうしが協調しながら競い合うことのできる(利害対立を軍事衝突まで持ち込まない)体制を築いていかなければなりません。結論的にいえば、国内的にも国際的にも、個々の主体が自らの意志をしっかりと持った上で、その自らの意志と法的規範(国家の法、国際法)からの規定を調和させながら行動できるような状態を実現していくこと、換言すれば、全ての個人、全ての国家が主体的に行動するとともに、その行動の結果として、全ての国家の全ての個人が人間らしい文化的な生活を享受できるような状態を実現していくことこそが、われわれが未来に向かって目標とすべきことなのだといえるでしょう。

 そうした目標の実現に向けた社会変革のためには、変革のための理論的指針――社会のあり方を体系的に解ききる学問体系――が必須となります。人類が動物的生存条件から最終的に離脱して真に人間らしい生活へと入っていくためには、換言すれば、人類が本当に意識的に自分で自分の歴史をつくれるようになるためには、まずもって、自然の法則性・社会の法則性・精神の法則性についてしっかりと把握しきった学問一般を体系的に構築しなければなりません。19世紀ドイツにおいてヘーゲルが観念論の立場から(全ては絶対精神の展開過程であるとして)学問の体系化を図って以降、自然科学のみならず社会科学、精神科学の領域においても(諸々の専門領域への際限のない細分化を伴いながら)個別科学が大きく発展してきました。資本主義経済を基礎とした近代社会が黄昏の時を迎えつつある現代、こうした個別研究によって蓄積されてきた諸々の成果を集大成し、唯物論の立場から(全ては一体性的物一般=物自体の発展過程であるとして)体系化していくことが切実に求められている(また、そのことが可能となる時代的条件が成熟してきている)といえます。現代世界が直面している困難な情況を打開して未来社会を構築していくための指針として、弁証法的唯物論、唯物論的弁証法という論理によって「指導統括」された真の学問体系を構築していくこと――このことこそが、21世紀の日本に生きるわれわれの歴史的使命であることを確認して、本稿を終えることにします。

(了)
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2014年03月09日

世界歴史の流れを概観する(12/13)

(12)世界歴史は社会的労働の発展過程として捉えられなければならない

 本稿は、唯物論の立場に立った学問的な世界歴史の構築を展望しつつ、そのための準備作業として、世界歴史の大きな流れを事実レベルで概観しておくことを目的としたものでした。唯物論の立場からすれば、地球的自然との相互浸透によって発展していく社会的認識=社会的労働こそ世界歴史における発展の主体にほかなりません。本稿では、このような社会的労働の発展過程について、その各段階において人類が如何なる矛盾を解決してきたのか、という観点から整理しておくことを試みてきました。ここで、その流れを簡単に振り返っておくことにしましょう。

 地球から相対的に独立して誕生した生命体は、地球との相互浸透を通じて進化していき、やがてサル類の一部が樹上生活から地上へと降り立って人間(ヒト)へと進化していくことになります。ところが、能動的な認識を主体にして行動できるようになった人間(ヒト)の集団は、「共同体的集団による生存維持の必須性(地球的自然に集団的に働きかけなければ生きていけない)/共同体的集団による生存維持の不可能性(各々の自分勝手な行動が他者の生存を脅かしてしまう)」という矛盾に直面させられることになったのです。この矛盾は「個人的意志/規範的意志」という非敵対的矛盾を創出することによって解決されなければなりませんでした。これこそサルの群れと明確に異なる人間社会(社会的労働)の成立であり、社会的労働を如何に組織するか、社会的労働の成果を如何に分配するか、という問題は、この矛盾のなかで解決されていくようになったのです。すなわち、多数の個人的意志を規範的意志によって統括するという矛盾こそ世界歴史の全体を貫く根本矛盾であって、この矛盾を実現すると同時に解決するための形態を発展させてきた過程こそが、世界歴史にほかならなかったということもできるのです。

 この矛盾は原始社会においては「共同体成員の無条件服従/ボス的存在の意志の絶対的支配」という形態において実現(=解決)されていました。ところが、個々の共同体の生活範囲が広がって食糧の確保をめぐる共同体どうしの抗争(諸々のボス的存在の意志の敵対的なぶつかり合い)が恒常化し激化していくと、原始社会において社会的労働の発展の原動力となっていたこの矛盾が、社会的労働のそれ以上の発展にとっての桎梏に転化していきます。人類は「共同体の枠を超えた協働による食糧増産の必要性/諸共同体どうしの敵対的対峙(ボス的存在どうしの敵対)によるその不可能性」という矛盾に直面させられることになったのでした。この敵対的矛盾は「多数の共同体の協調/唯一の絶対的君主による専制的支配」という形態を創出することによって解決されました。すなわち、いくつもの共同体(小国家)が有力共同体(有力国家)の首長の絶対的な権威の下に緩やかに束ねられて、絶対的な専制君主の意志に従って多数共同体の人々が協働するという形態が創出されていくことによって解決されたのです。これが、古代メソポタミアや古代エジプトなどに代表される大帝国にほかなりません。これは、ボス的存在の意志を他の成員がそのまま受け入れることによって秩序が維持されるという構造を、著しく拡大されたレベルで実現したものであるともいえます。

 しかし、ただ一人の専制君主が絶対的な権威を持つという社会構造のもとでは、複数個人が対等な立場でお互いの認識をぶつけ合いながら対象の構造の究明を深めて、社会的に問題解決能力を高めていく、という過程を持つことができません。このため、紀元前12世紀以降、地球寒冷化の影響で北方から大量の異民族が侵入し、古代オリエント世界が大混乱に陥ると、それまで社会的労働の発展の原動力となっていた「多数の共同体の協調/唯一の絶対的君主による専制的支配」という矛盾が、社会的労働のそれ以上の発展にとっての桎梏に転化していったのでした。古代オリエント世界の中枢部分がこうした情況を上手く打開できず次第に衰退へと向かっていく一方、その辺境(地中海東北岸)に位置するギリシャが「共同体外の奴隷による肉体的労働/共同体内の市民による精神的労働」という形態の創出によって、これを打開します。自立的な小共同体内において、市民たちが、共同体外から連れてきた奴隷に生産的労働を担わせながら、対等な立場で共同体の維持に関わる諸問題(治山・治水、外敵の侵入に対する防衛など)をめぐって討論するようになっていったわけです。ここに、共同体成員がボス的存在の意志に無条件的に服従するという原始共同体以来の構造が打破され、相対的に平等な市民たちの認識交流(個々人の主体性!)を通じて規範的意志が形成されていくという過程がスタートすることになったのですが、それは共同体外の奴隷たち(人格を認められず酷使される「ものいう道具」!)の労働に全く依存した形でしかあり得なかったわけです。

 古代ギリシャにおいて小規模なポリス共同体のなかで発展させられた文化は、ローマ帝国によって実用的に具体化されながら受け継がれ、地中海世界全体に渡る安定的支配が確立されます。しかし、奴隷の労働力に過度に依存するようになっていたローマ帝国は、征服戦争の継続によって奴隷労働力を確保し続けなければならなかったにもかかわらず、全ヨーロッパ地域を支配して対外的膨張の限界に達したことで、それが不可能になってしまいました。ここに、古代地中海世界(ギリシャ・ローマ)において社会的労働の発展の原動力となっていた「共同体外の奴隷による肉体的労働/共同体内の市民による精神的労働」という矛盾が、社会的労働のそれ以上の発展にとっての桎梏に転化することになったのです。古代ローマ世界の中枢部分がこうした情況を上手く打開できず次第に衰退へと向かっていく一方、その辺境に位置するヨーロッパ内陸部が、「農民の自発的な労働/領主による強制的な支配」という形態の創出によって、これを打開します。共同体内の農業労働者に一定の土地の保有や財産の所有を認めて自発的な労働を促す一方で、共同体の頂点に立つ領主が農民たちの生活のあらゆる側面を束縛して収穫の一部を年貢として納めさせる(その代償として安全保障を提供する)ようになっていったわけです(中世封建制社会の成立)。ここに、社会的労働、とりわけ物質的な生活資料を生産する場面において個々人の主体性(自由)が拡大していく過程がスタートし、生産力が次第に増大していくことになったのですが、それは領主の支配、換言すれば、固定的な身分制秩序の強固で狭い枠組み(それを正当化するイデオロギーとなっていたのがキリスト教)のなかのことでしかなかったのです。

 事実上の土地所有を認められていた中世の農民は、古代の奴隷とは異なってまともに労働意欲を持っていましたし、(修道院などを接点として)古代ローマの文化遺産(知識や技術)との相互浸透が進んでいったこともあって、次第に生産力が上昇していくことになります。やがて、商業や工業が勃興し、都市が形成され、十字軍の遠征による東方文化との接触によって因習的な考えを打破しようという動きが強まっていき、東方の物産への欲求と知識・技術の進歩とが結合して大航海時代の幕が開き……といった流れのなかで、中世封建制の厳格な身分制度の枠組みを打破しようとする自由への志向が強まってきます。中世封建制社会において社会的労働の発展の原動力となってきた「農民(+商工業者)の自発的労働/領主による強制的な支配(固定的身分制度の秩序)」という矛盾が、社会的労働のそれ以上の発展にとっての桎梏に転化することになったのです。こうした事態は、経済の自由(所有、職業選択などの自由)、精神の自由(思想、信条、学問、信教などの自由)など、国家的生活のあらゆる場面に自由の理念を貫徹する変革が成し遂げられたことによって、打開されます。個々人の自由な活動(利己的行動)は、不可避的に相互の利害の衝突をもたらすのですが、これは議会制民主主義の確立によってそれなりに調整されていくようになりました。つまり、ここに「個々の主体の自由な活動/国家意志による統制」という非敵対的矛盾が創出されたのであり、議会を軸として経済的な利害対立を調停しつつ、富の著しい拡大が図られていくことになったのでした。

 ところが、19世紀以降、資本主義経済の著しい発展とともに、この非敵対的矛盾が真の意味では実現されていなかったこと、すなわち、全ての人間の自由(主体的)な行動および規範的意志の民主的形成という理念が未だ実現されざる目標であることが鮮明化してきます。具体的には、労働者階級が社会的労働の場面において劣悪な情況におかれ、社会的労働の成果を如何に分配していくかということに関わる政治的意志決定にまともに参加することもできず、結果として文化的生活の享受という面でも著しく不利な立場におかれていることがはっきりしてきたのです。こうした国内的な矛盾(階級対立の激化)を、資本の活動領域を国外にまで拡大していくことによって緩和しようとするところから、国際的な矛盾が生じることになりました。すなわち、商品販売市場、生産資本の投下先、資源供給地としての植民地獲得をめぐる国家間の対立が激化し、やがて2度に渡って世界規模の大戦争が引き起こされるまでに至ったのです。第二次大戦後の世界は、国際連合を軸とする国際協調体制を構築するとともに、各国の内部においては、社会的公正や社会的安定を重視する観点から資本家の利潤追求活動に一定の規制を加えて、労働者階級もそれなりに豊かな文化的生活を享受できるようにしていったのでした。

 以上で振り返ってみてきたように、人間は社会的労働を積み重ねていくことによってこそ、自然のあり方に決定的に左右される動物的生存条件から脱して、人間らしい文化的な生活を築き上げてきたのだということができます。社会的労働のあり方は、当初はただ一人の専制的支配者の意志に従って多数の人間が使役されるといった単純ものでしかなく、社会的労働の成果としての文化的生活も社会の上層部のごく一握りの人間が享受できるだけに過ぎませんでした。しかし、社会的労働は、特定の国家の枠組みを超えて、すなわち場所を移動しながら(自然環境のより厳しいところへと拡大していきながら)の繰り返しを積み重ねていくなかで、自らを維持しつつ多様に分化させていくことになります。それは、大きくみるならば(紆余曲折、長期に渡る逆行をも含みながらも)、社会的労働の場面において自らの意志で主体的に行動できる人間の層が次第に拡大していく過程であり、同時に、社会的労働の成果たる文化的生活を享受できる人間の層が次第に拡大していく過程であったのでした。
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2014年03月08日

世界歴史の流れを概観する(11/13)

(11)第二次世界大戦後の世界

 前回は、19世紀以降の資本主義経済の大きな発展が諸々の深刻な問題を引き起こし、国家の存亡そのものを脅かしかねないほどの事態を招いたことをみてきました。これは大きく、国内的な矛盾と国際的な矛盾とに分けて捉えることができるのでした。国内的な矛盾としては、労働者階級の所得減少によって恐慌が繰り返し発生し、大量の失業者が生じ続けたことによって、階級対立がいよいよ激化してきたことです。そして、資本の利潤追求活動によって国内に蓄積されてきたこのような矛盾を、資本の活動領域を国外にまで拡大していくことによって解決しようとするところから、国際的な矛盾が生じることになりました。すなわち、商品販売市場、生産資本の投下先、資源供給地としての植民地獲得をめぐる国家間の対立が激化し、やがて2度に渡って世界規模の大戦争が引き起こされるまでに至ったのです。

 第二次世界大戦の直後の1945年10月、連合国によって、国際連合がつくられました。国際連合は、世界平和を守る上で大国が大きな責任を持つこととして、必要に応じて武力を使うこともできるようになるなど、国際連盟とくらべるとより強い力を持つ組織となりました。長い間、欧米の植民地にされてきたアジアやアフリカでは、大戦後、各地で独立運動が起こり、新しい国が次々に生まれました。これらの国々も、次々に国際連合に加盟していくことになります。

 第二次大戦後の世界では、アメリカを中心とした西側の資本主義圏と、ソ連を中心とした東側の社会主義圏という「二つの世界」が対立する冷戦構造が作られました。このうち、資本主義諸国は、戦争による打撃が少なかったアメリカと、戦争によって大きな打撃を受けたその他の国々に二分されていました。アメリカ以外の国々は、復興のためにアメリカから諸々のモノを買わなければならないにもかかわらず、アメリカに支払うドルを持たないという矛盾(ドル不足)に苦しんでいました。一方のアメリカは、戦時需要に応じるために肥大化した生産能力を抱え込んでしまったものの、それに見合った需要が国内に存在しないという矛盾に苦しんでいました。アメリカにおける過剰生産能力と、その他の資本主義諸国における復興需要とは、いわゆるブレトンウッズ体制の確立によって媒介されることになります。GATT体制(西側同盟諸国間の自由貿易)およびIMF体制(金と交換可能なドルを基軸通貨とする固定相場制)を軸とした枠組みのなかで、アメリカから他の資本主義諸国に向けて復興援助として大量のドルが散布されたのです。

 このような国際的経済関係が確立されたもとで、各国民経済の枠内においては、社会的公正や社会的安定を重視する観点から、資本家による利潤追求の自由に一定の制限が加えられていくようになりました。より具体的には、労働者の権利擁護、社会保障制度の充実、各種の規制の強化、金融緩和・財政出動といった政府の経済介入の容認、公営事業の拡大など、いわゆるケインズ主義的な、あるいは社会民主主義的な政策が採用されたのです。こうした政策が採用された結果、日本や欧州諸国においては、アメリカによる復興援助(ドルの散布)と相俟って(援助されたドルによって機械設備の輸入が可能となりました)、大戦による荒廃状態からの復興を起点として内需主導型の高度経済成長が実現されていったのです。その推進力となったのは、労働者の所得を保障する(賃金の上昇や社会保障による所得再分配)ことによって、耐久消費財(家電製品・自動車)を中心とした消費と投資の好循環が実現されたことでした。一方、アメリカは、国内でのケインズ政策の採用に加え、ドル散布による輸出促進によって、戦時に増大した生産能力を活用しての高度成長を遂げていくことになります。このように、いわゆるケインズ主義的な体制の確立によって、西側先進国は、第二次世界大戦終了後から1970年代半ばにかけて、「黄金の30年」とも呼ばれる高度経済成長期を実現することになり、労働者階級もそれなりに豊かな文化的生活を享受できるようになっていったのでした。

 ところが、1970年代、耐久消費財がほぼ普及し尽くして各国の国内市場が飽和すると、高度成長は限界に達してしまいます。その結果、景気対策のための支出で財政赤字が累積するなど、政府の経済介入の弊害が目立つようになってきたのです。このため、政府の介入を排して市場経済の自由な動きにまかせようという思想――いわゆる新自由主義の思想が強まってくることになります。こうして、世界規模での企業の活動を自由にするために、企業活動への規制は緩和され、社会保障への削減圧力が強まっていくことになったのでした。

 以上のような世界経済の動き(成長から停滞へ)と並行して、国家間関係にも微妙な変化がもたらされていきます。端的には、米ソ二大大国の対決という冷戦構造が徐々に綻びを見せ始めてくるのです。戦後、新しく独立を達成したアジア、アフリカ、ラテンアメリカの新興諸国は、米ソいずれの陣営とも同盟することなく、東西二つの世界に対して「第三世界」と呼ばれるようになりました。さらに、西側世界のなかで西ヨーロッパ諸国が経済的な協力関係を強めて、米ソにならぶ地位をめざすようになる一方、東側世界のなかでも反ソ連の動きが出てきて陣営の結束が乱れてきたのでした。このように、米ソ二大勢力のほかにも、国際政治を動かす多くの勢力が生れてきたことを、世界の多極化と呼んでいます。

 こうした世界の多極化のなかで、パレスチナ地方にユダヤ人が建国したイスラエルと周辺のアラブ諸国との対立から戦争が起きると、石油産出国であるアラブ諸国は石油輸出を制限しました。いわゆる石油危機(オイルショック)です。これは、高度成長の限界に達しつつあった各国経済を直撃し、各国政府は深刻なインフレ(持続的物価上昇)への対応に追われることになりました。資本主義諸国は、石油危機以後、エネルギーの節約に努め、1980年代には、電子工学などによる高度で精密な技術を発展させていきました。

 これに対して、ソ連など社会主義国では、技術の革新が遅れ、また厳しい統制のもとで人々の労働意欲が減退していったために、経済が行き詰まってしまいました。1980年代の後半から、ソ連では政治と経済の改革(ペレストロイカ)が試みられましたが、成果はあがらず、結局、1991年12月にソ連は解体してしまうことになります。またソ連が東ヨーロッパへの干渉をやめたことから、1989年以降、東ヨーロッパ諸国の政治と経済の自由化が急速に進んでいくことになりました。こうして、冷戦は終結したのです。

 しかし、米ソ冷戦に勝利して唯一の超大国となったアメリカは、市場経済と民主主義こそ人類の普遍的な価値観であるとして、これらを軍事力の行使も辞さずに世界中に広げていくことを自らの使命として宣言しました。とりわけ2001年の9・11テロ以降は、国連を無視してでも独自に「世界の警察官」としての役割を果たしていくという単独行動主義を露骨なものにしていったのです。一方、世界経済も深刻な問題を抱えています。1990年代に入って、東欧やソ連の社会主義が崩壊し、中国やベトナムなど残った社会主義国でも市場経済化が進行していったことで、世界単一の市場経済が形成され(いわゆるグローバル化)、新自由主義的な経済政策が一気に強まることになりました。しかし、労働組合への攻撃、賃金の引き下げ、社会保障の縮小などは、貧困と格差を著しく拡大させ、分厚い中間層に支えられた安定的な国内需要を崩壊させてしまいます。その結果、資本主義経済は、金融市場の肥大化によって仮想的な需要を創り出すほかなくってしまい、デフレとバブルを周期的にくり返すという極めて不安定な情況に陥ってしまったのでした。このような経済の混乱は、アメリカの世界戦略にとっての大きな制約要因となり、従来のように軍事的覇権主義を貫徹することができなくなってきています。こうしたアメリカの世界的地位の相対的低下に対応して、ブラジル、ロシア、インド、中国といった新興大国が台頭し、世界政治のなかで大きな発言力を持つようになってきています。アメリカの衰退と中国の台頭という大きな世界歴史的な流れが、アメリカの従属的な同盟国として経済的な繁栄を実現してきた日本を大きく揺さぶっているのです。
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2014年03月07日

世界歴史の流れを概観する(10/13)

(10)資本主義経済の発展と帝国主義戦争の時代

 前回は、17世紀から19世紀にかけて、市民革命から産業革命という流れによって、国家的生活のあらゆる場面に自由の理念が貫徹されるようになっていった過程を簡単に辿ってみました。これは、端的にいえば、ヨーロッパ諸国の活動範囲が文字どおり世界全体へと拡大していくなかで、固定的な身分制度の狭い枠組みでは社会の維持・発展を担う人材の育成が困難になってきていたため、この狭い枠組みを取っ払ってあらゆる人々が自由に自分の将来を選択できるという体制に変革することが求められたからにほかなりません。こうした変革の結果として、社会のあり方は固定的なものからダイナミックな可変性に富んだものへと一変し、諸々の社会的集団の利害が複雑に絡み合うという情況が現出したのでした。

 前回みたとおり、自由の理念は、まずイギリスやフランスにおいて、政治的・経済的変革を通じて現実世界のなかに実現されていきました。これに対してドイツは、19世紀に入ってもなお封建的色彩の濃い領邦国家の分立状態にあり、政治的・経済的に停滞した情況にありました。ドイツにおいては、自由の理念を現実の世界に実現するだけの条件がまだ成熟していなかったために、それをまずもって観念の世界で発展させていく(理論的に考察して深化させる)という過程が進行したのです。これがカント(道徳論において自由と義務の結びつきを深く解明)に始まりヘーゲル(世界歴史を自由の実現過程として把握)で頂点を極めていくドイツ観念論哲学の流れとして結実しました。ヘーゲルにおいては、この世界全体が絶対精神の自己展開過程にほかならぬとの見地から、当時までに人類が獲得していたあらゆる知識の体系化が試みられ、これがその後の個別科学発展にとっての重要な基礎となったのでした。

 このように、社会的変革よりも精神(学問)的変革を先行させたドイツにおいても、19世紀半ば以降、産業革命が進行していくとともに、中央集権的な統一国家の形成、政治的民主主義の確立が現実的な課題となっていきます。こうした近代社会の発展過程をみていく上では、やはり何といっても経済のあり方に着目してみることが必要でしょう。自由は、もともと封建的な束縛の否定という意味合いをもっていましたが、経済分野で何よりも自由を体現していたのは貨幣にほかなりません(貨幣をもっている限り平等で、誰が何を売買しようが自由!)。生産手段(対象化された労働)と労働力(生きた労働)との結合が、もっぱら貨幣によって媒介される関係となったことによって、近代の資本主義経済が確立されたのです。このことが社会の構造的な発展過程に与えた影響には二面性がありました。

 第一は、生産手段と労働力との関係が中世封建制のように固定的なものでなくなり、簡単に結びつけたり切り離したりすることができるようになったことです。このことによって、資本主義経済は著しい柔軟性を獲得(諸々の生産要素が“change of the place”を継続していく構造を創出)し、生産力の著しい発展、巨大な富の蓄積を成し遂げていくことになったのです。第二は、生産手段と労働力との媒介(労働者が雇用の場を見いだせるかどうか)は、生産手段の所有者たる資本家の側の意志、具体的には、貨幣によって体現されている価値の増大(剰余価値の獲得)を追求しようとする資本家の意志(生産した商品を売ることができるかどうかという問題をめぐる予想)のみに依存してしまうようになったことです。このことによって、労働者の地位は著しく不安定化してしまったのでした。

 この第二の側面(不安定性)は、当初、前者(成長の実現)の輝かしい成果の背後に覆い隠されていました。しかし、資本の集中・集積によって企業の規模が大きくなり、個々の大資本家の行為が社会全体に与える影響が拡大していくにつれて、資本主義経済が抱える不安定性の面が次第に顕在化していくことになったのです。その画期となったのが、1848年の恐慌です。一方では雇用の不安定化を通じて労働者階級の側に貧困が蓄積されていく(階級対立の激化)とともに、他方では大衆の消費の制限により市場の需要が大工業の発展がもたらす供給の増大追いつけないという事態が導かれることによって、恐慌の発生が必然化されたのです。こうした資本主義経済の発展によって、資本家階級の側に大きな富が蓄積されていく一方で、労働者は過酷な労働環境のもとで酷使され、周期的に訪れる恐慌の際には多くの労働者が職を失いました。労働者階級が社会的労働の場面において劣悪な情況におかれ、社会的労働の成果たる文化的生活の享受という面でも不利な立場におかれていることがはっきりしてきたのです。このことは、「個々の主体の自由な活動/国家意志による統制」という非敵対的矛盾が真の意味では実現されていなかったこと、すなわち、すべての人間の自由(主体的)な行動および規範的意志の民主的形成という理念が未だ実現されざる目標であることが鮮明化していく過程であったといってもよいでしょう。こうした情況に対して、労働者は団結して労働条件の改善をもとめて闘うようになっていき、選挙権の拡大を要求する運動も進めていくことになります。こうした過程のなかから、資本主義的生産様式の変革によってこそ真の自由および真の民主主義が確立されるのだと主張する近代的社会主義思想(マルクス、エンゲルスの「科学的社会主義」など)も形成されていくことになったのでした。

 こうしたなかで、芸術や学問・思想の領域では、ロマン主義と呼ばれる潮流が力を増してきます。このロマン主義は、「理性的=自然的」という啓蒙思想の基本的な定式を批判し、理性と自然とを別個の対立さえするもの(自然は必ずしも合理的に割り切れるものではない!)として把握した上で、自然的なもの(人間の自然な感情のあり方)の方を重視しようとするものでした。

 こうしたロマン主義が大きな力をもった背景には、19世紀に入って諸々の社会問題が生じてきたことがあります。先ほどみたような経済的な矛盾(階級対立の激化)に止まらず、フランス革命後の混乱を収拾したナポレオンの侵略による全ヨーロッパ的な混乱、それに伴っての国家間の対立の激化、民族主義的な動き、排外主義的な動きの成長など、19世紀のヨーロッパ世界は、諸々の深刻な社会問題に見舞われることになっていたのでした。やがて19世紀末から20世紀前半にかけて、こうした諸々の問題が激化し、国家の存亡そのものを脅かしかねないほどの事態になっていきます。これは大きく、国内的な矛盾と国際的な矛盾とに分けて捉えることができます。国内的な矛盾としては、労働者階級の所得減少によって恐慌が繰り返し発生し、大量の失業者が生じ続けたことによって、階級対立がいよいよ激化してきたことです。そして、資本の利潤追求活動によって国内に蓄積されてきたこのような矛盾を、資本の活動領域を国外にまで拡大していくことによって解決しようとするところから、国際的な矛盾がますます激化していくことになりました。すなわち、商品販売市場、生産資本の投下先、資源供給地としての植民地獲得をめぐる国家間の対立が激化し、やがて世界規模の大戦争を引き起こすまでに至ったのです。

 このことをもう少し詳しくみておくことにしましょう。19世紀の終わり頃になると、物理学や化学などの飛躍的な発展(こうした自然科学の発展においては、ヘーゲル哲学の遺産を受け継いだドイツが先行しました)に支えられながら、製鉄業や電機、機械、石油、鉄道などの産業が急速に成長してきました。これらの大企業は、大きな銀行と結びつき(レーニンのいわゆる「金融資本」の成立)、アジアやアフリカの諸地域において、現地の人々を安い賃金で雇用し、原料を安く買い叩いて、工場や鉱山、鉄道などの事業を始めていくことになります。各国の大企業は、国政にも大きな影響力を及ぼすようになり、国の軍隊によって現地の人々の抵抗を抑えて、これらの地域を植民地として支配するようになっていきました。このような動きを帝国主義と呼びます。

 海外進出が遅れたドイツは、植民地の獲得をめぐって、フランスやロシアとの対立を深めていき、ドイツ・オーストリアの同盟国とイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国が争う形で、第一次世界大戦が始まりました。この戦争が長期化するなか、皇帝の専制政治が続いていたロシアにおいて、物資不足に苦しんだ労働者と農民が、専制政治を打倒し、レーニンやトロツキーらが率いるボリシェヴィキ(後のソ連共産党)の指導のもと、社会主義を目指すソヴィエト政権が創られました。ドイツはソヴィエト政府と単独で講和を結んで大攻勢に出ましたが、連合国に敗れ、国内で革命が起こったため、降伏しました。パリで開かれた講和会議で、ドイツとの講和条約(ヴェルサイユ条約)が結ばれ、ドイツには多額の賠償金が負わされました。一方で、大戦後には、アメリカのウィルソン大統領の提案にもとづいて、世界平和の確立を目的とした国際機構として国際連盟が設立され、軍縮のための様々な条約が結ばれるなど、国際協調が広がります。

 しかし、第一次世界大戦後、世界経済の中心として繁栄を続けていたアメリカで、1929年、株の大暴落をきっかけに大恐慌が始まりました。恐慌は、ソ連をのぞく各国に広がり、世界経済は大きな打撃を受けます。これが世界恐慌です。そもそも資本主義経済は、生きていくためには自らの労働力を販売するしかない労働者を大量に創出することによって成立したのですから、その労働者たちに雇用の場を与えることができない(人民の大多数に生きていく術を与えることができない!)ということは、その体制の歴史的正当性を根本から揺るがす事態にほかなりません。ここに、この世界恐慌の決定的な深刻さがありました。

 それまでの経済思想では、自由な経済活動を尊重するために政府は市場に介入すべきでない、と考えられていたのですが、ケインズがこれを大転換させます。ケインズは、需要が不足して失業が存在する場合は、政府が金融政策・財政政策を駆使して人々の将来への見通しを改善し、投資を刺激することで完全雇用をめざすべきであると提起し、政府の経済への介入を理論的に正当化しました。こうしたなかで、アメリカ政府は、公共事業や農産物の買い上げで国民の購買力を高めようとするニューディール政策で恐慌に対応していくことになります。一方、イタリアやドイツでは、軍備を拡張して新たな植民地を獲得することで経済危機を打開しようと訴える勢力が政権を獲得し、対外的な進出を試みるようになっていきます。日本でも、軍部を中心に、中国大陸への進出を求める動きが強まりました。こうして、1939年にドイツがポーランドに侵入したことから第二次世界大戦となり、世界は、ドイツ・イタリア・日本の枢軸国とアメリカ・イギリス・ソ連などの連合国に分かれて戦うことになったのです。戦争は1945年に連合国の勝利に終わります。敗戦国となった日本は、事実上アメリカに単独占領され、日米安保条約を締結することで、アメリカの従属的な同盟国として復興の道を歩んでいくことになりました。
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2014年03月06日

世界歴史の流れを概観する(9/13)

(9)市民革命と産業革命の時代

 本稿は、唯物論の立場に立った学問的な世界歴史の構築を展望しつつ、そのための準備作業として、世界歴史の大きな流れを事実レベルで概観しておくことを目的としたものです。前回まで、人類の誕生から中世ヨーロッパまでの歴史の流れをざっと眺めてきました。

 古代オリエントの大帝国においては、ただ一人の専制君主の意志によって大多数の人民が使役され、その成果としての文化的生活は一握りの支配階級に独占される、といった情況でした。これに対して、古代ギリシャのポリス社会においては、市民たちが生産的労働を奴隷に担わせつつ、学問・芸術など文化を花開かせていったのです。引き続くローマは、古代ギリシャの文化遺産を地中海世界全体を統括する社会的認識として継承し、強固な支配を築いていきます。ローマ市民たちが、奴隷の労働や属領からの搾取に支えられて文化的生活を享受する、という構造が形成されたのです。こうしたなかで、皇帝専制による政治的抑圧からの救いを内面(精神的な充足感)に求める人々の要求に合致したものとして、絶対的な神の愛を説くキリスト教が成立したのであり、これがやがて帝国支配のイデオロギーとなっていったのでした。奴隷労働力に過度に依存するようになっていたローマ帝国は、対外的膨張の限界に到達することで、次第に衰退に向かっていきます。こうしたなかで、ローマ文化の遺産を継承して、新しい場所で新しい文化の発展を築いていくことになったのが、ローマ帝国の北方辺境で原始的な農耕・牧畜の生活を営んでいたゲルマン民族でした。質実剛健なゲルマン民族の特色と、キリスト教を中核としたローマの文化遺産とが相互浸透していくことで、中世ヨーロッパ世界が形成されていったのです。中世初期は、戦乱の絶えない時代でしたから、生産基盤としての土地を防衛するために、自立的・閉鎖的・固定的な自給自足体としての荘園が各地に形成されました。農民たちによる労働の成果は、教会の階層構造、封建領主層の階層構造という二重のルートで吸い上げられていき、こうした社会の上層部でキリスト教と密接に結びついた文化が形成されていくことになりました。しかし、事実上の土地所有を認められていた中世の農民は、古代の奴隷とは異なってまともに労働意欲を持っていましたし、(修道院などを接点として)古代ローマの文化遺産(知識や技術)との相互浸透が進んでいったこともあって、次第に生産力が上昇していくことになります。やがて、商業や工業が勃興し、都市が形成され、十字軍の遠征による東方文化との接触によって因習的な考えを打破しようという動きが強まっていき、東方の物産への欲求と知識・技術の進歩とが結合して大航海時代の幕が開き……といった流れのなかで、中世社会の特質である閉鎖性・固定性・割拠性が揺らぎ始めていったのであり、中世封建制の厳格な身分制度の枠組みを打破しようとする自由への志向が強まってきたのでした。

 このことによって、中世封建制社会において社会的労働の発展の原動力となってきた「農民(+商工業者)の自発的労働/領主による強制的な支配(固定的身分制度の秩序)」という矛盾が、社会的労働のそれ以上の発展にとっての桎梏に転化することになります。もう少し具体的なレベルでいえば、ヨーロッパ諸国の活動範囲がグローバルな規模へと拡大していくなかで、「ダイナミックな可変性に富んだ社会の維持発展を図るためには、古い慣習に縛られない人材を育成して自由に活動させていかなければならないにもかかわらず、固定的な身分制度の狭い枠組みにおいてはそういった人材を育成することもできず自由に活動させることもできない」という敵対的矛盾が浮上してきたわけです。

 それでは、この敵対的矛盾(人々の自由な活動の必要性/固定的身分制度の狭い枠組み)は、如何なる形で解決されることになったのでしょうか。それは、端的には、後者の側面を破壊し、社会のあらゆる面に自由の理念を貫徹させる新たな体制を創出することによって、でした。より具体的には、身体の自由はもとより、職業選択の自由、私的所有の自由といった経済の自由、思想、信条、宗教、学問の自由といった精神の自由など、国家的生活のあらゆる場面に自由の理念が貫徹される近代社会が創出されていくことによって、です。個々人の自由な活動(利己的行動)は、不可避的に相互の利害の衝突をもたらすのですが、これは議会制民主主義の確立によってそれなりに調整されていくようになりました。つまり、ここに「個々の主体の自由な活動/国家意志による統制」という非敵対的矛盾が創出されたのであり、議会を軸として経済的な利害対立の調停がなされながら、富の著しい拡大が図られていくことになったのです(*)。

 こうした自由の理念の実現過程を歴史的な事実としてみるならば、政治制度という枠組みとして創出されるのは市民革命(マルクス主義の用語では「ブルジョア革命」)を通じてであり、経済的内容として実質的に(最終的に揺るぎないものとして)確立されるのは産業革命を通じてのことであった、ということができるでしょう。以下、このあたりの事情をもう少し詳しくみておくことにしましょう。

 そもそも市民革命とは、16世紀以来、ヨーロッパ諸国に成立していた絶対王政を、新興の市民(ブルジョア)階級の勢力が打倒したものです。絶対王政は、封建的な支配体制の動揺に対応する形で登場したものでした。絶対王政の成立を支えた社会的基盤としては、国王の権力によって国内市場が統一されることを望む商工業者層、あるいは封建領主の支配への対抗という点から国王の権力の伸長に期待する独立自営農民といった新興勢力のみならず、掘り崩されつつあった特権を何とか維持していくために国王の権力にすがろうとした封建貴族層という旧勢力の存在があったのです。要するに、旧来の支配勢力が新興勢力との対抗関係のなかで力を失いつつあったとき、しかも新興勢力がまだ単独で国家権力を掌握できるほどの政治的実力をつけきれていないとき、対立する両勢力の上に調停者のようにして立って強大な権力をふるったのが絶対王政だったわけです。国王は、行政・司法機構の整備をすすめ、それまで領主裁判権といった形で分散させられていた封建的な諸権力を一身に集約しました。また、租税の形で封建地代を集中的に徴収・再分配していくようになり、こうした租税制度の裏づけのもとに王権直属の常備軍を創設しました。ちなみに、こうした国王の強大な権力を支えるイデオロギーとなったのが王権神授説です。封建的な支配体制は、ローマ教皇を頂点とする宗教的な系列と国王を頂点とする世俗的な系列とが絡み合っていたものですが、王権神授説によって、国王が後者の系列から分離独立して一元的な支配を確立していくことが正当化されたのでした。

 市民革命が最初に起こったのはイギリスです。イギリスでは、14世紀後半以降、毛織物を生産する手工業が農村を中心に広く行われるようになり、地主のなかには、農民を耕地から追い出して羊の牧場とするものも登場しました(囲い込み運動)。やがて、富を蓄えた自営農民や都市の手工業者の裕福な者は、耕地を失った農民を雇い入れて、毛織物工業の経営を行うようになり、都市の商工業者と結んで、大きな力を持つようになっていきました。ところが、17世紀になると、絶対王政のもと国王が議会の同意なしの課税を強行するなどしたため、これらの人々は議会を動かして革命を起こすことになったのです。この結果、王は議会の承認がなければ法律の停止や新しい課税ができないようになり、工業や商業の発展によって次第に育まれてきていた自由の理念(身体の自由はもとより、職業選択の自由、私的所有の自由といった経済の自由、思想の自由、信教の自由、学問の自由といった精神の自由など)を基礎とする近代社会が創出されることになっていったのでした。このことによって、社会はダイナミックな可変性に富んだものとなり、諸々の社会的集団の利害が複雑に絡み合うという情況が現出します。こうした複雑な利害対立を調整しながら一つの国家意志(法律)に収斂させていくための機関として、議会が著しく存在意義を高めていきました。また、立法機関としての議会の役割が明確になっていくのと同時に、行政機関と司法機関との役割分担も進み、(憲法の制定を媒介として)国家権力が立法・行政・司法の3つに分割されたのでした。このような市民革命は、18世紀の末にはフランスにおいてより激烈な形で遂行されることになります。また、北アメリカのイギリスの植民地は、独立革命をおこしてアメリカ合衆国となったのでした。

 こうした市民革命によって、私的所有権が確立され、経済活動の自由が確立されたことによって、経済活動のあり方にも、大きな変革が進行していくことになります。この面でも、先頭をきったのはイギリスでした。イギリスでは、18世紀の中頃、綿織物に対する内外の需要が高まったのに応じて、紡績や織布の機械が次々に発明され、綿製品が工場で大量に生産されるようになりました。それとともに、機械をつくるための重工業や、大量の原料や製品を輸送するための鉄道も発達しました。こうした動きこそ、産業革命と呼ばれるものにほかなりません。産業革命の結果、生産手段を所有する資本家と、生産手段を所有せず自らの労働力を販売するしかない労働者によって生産が行われる、資本主義と呼ばれる生産様式が、社会全般に行き渡ることになります。

 このように、18世紀は資本主義経済が本格的な発展の歩みを始めようとしていた時代であり、大きな富が蓄積されていった時代でした。経済的繁栄は自由で進歩的な社会の雰囲気をつくりだしていきます。新興の市民層が、旧来の封建的な体制を変革していくための精神的な武器として、「自由」と「理性」とを掲げるようになっていく(いわゆる啓蒙思想)からです。総じてこの時代は、人間の理性によって新しい合理的な社会を建設しうるのだという希望が広く行き渡っていた時代であり、前向きなエネルギーに溢れていた時代であったということができるでしょう。こうした社会的な雰囲気によって、学問(哲学および個別科学)の発展が大きく促進されたのですし、芸術の分野でも、均斉や調和、合理的な構成が重視されるようになっていった(例えば、音楽におけるソナタ形式の確立)のです。

(*)「個人的意志/規範的意志」という世界歴史の全体を貫く根本矛盾は、ここで一応の完成形態に到達したものといってもよいでしょう。全ての人間が自由(主体的)に行動できること、規範的意志は全ての人間の意志を踏まえて形成されるべきことが、理念(建前)としてはここで確立されたといってよいからです。もっとも「全ての人間」といっても、ここには労働者階級や女性たちは必ずしも含まれていなかった(労働力商品の所有者としては「自由」であっても、選挙権を持たされていなかった)ことに注意が必要です。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
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 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
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 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
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 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
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 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか