2012年03月05日

『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか(5/5)

 新入会員の手になる小論を掲載してきた本連載も,今回で最後となります。最終回は,我々の論文の書き方に忠実に,今までの流れを振り返って全体をまとめたあと,若干の補足と今後の展望が説かれています。その中の「決めたからには必ず最後まで毎日毎日継続する、ここをないがしろにしては実際やらないのと同じである」という覚悟の表明は,我々の魂を揺さぶるものがありました。味読していただければありがたいです。


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(5)『弁証法はどういう科学か』の要約は理論と現実との結びつきを意識して

 本稿は、『弁証法はどういう科学か』の学びの中で特に要約の仕方について、いったいどのように要約することが真に弁証法を学ぶ上で役立つのか、その要約するということの過程的構造をあきらかにし、毎日の学びの意義を確認するとともに、同じような学びを実践される方への学びの指針とすることを目的にしたものである。

 ここでこれまでの流れを振り返っておこう。

 まずは、『弁証法はどういう科学か』の要約過程を3つの段階、すなわち、音読・黙読による各項の理解、アウトラインを作成することによる各項の構造化、構造を意識しての400字詰め原稿用紙への要約、という各段階に分けてそれぞれについてみてきた。

 音読・黙読による各項の理解の段階では、音読・黙読を含めて何度も何度も繰り返し繰り返し『弁証法はどういう科学か』の各項を学ぶ必要があること、そのためには『弁証法はどういう科学か』の全体像を通読なり筆写なりのかたちでアバウトにでも描いている必要があることを説いた。

 次に、アウトラインを作成することによる各項の構造化については、各項を読み込んで内容を理解したものをいきなり原稿用紙に要約するのではなく、序論で問いを立て、本論で3つに分けて論証し、結論では序論で立てた問いに対して、本論で展開した論証を踏まえて結論を述べる、という小論文の書き方に習った要約を行うために、アウトラインとして序論、本論×3、結論の各部分に見だしをつけることを説明した。ここが一番重要な過程で、こうすることで、よりよく本文を理解することができるのである。

 最後に、構造を意識しての400字詰め原稿用紙への要約については、高級万年筆で青インクを使って一気に書くことを説いた。この際には、前の段階で作成したアウトラインに沿う形で本文の各項を再構成して、そのとらえた論理の筋に沿って要約する必要があることを強調しておいた。

 ここでアウトラインの書き方で注意すべき点がある。それは、序論で問いを立て、本論で論証した上で結論を述べる、とはいっても、すべての項でこの型どおりの展開を行うことは難しいということである。各項は説いてある中身もその説き方も文章の長さもさまざまである。大きな観点から言えば、こうした事情を考慮して、全体で5つのパラグラフで要約を構成すればいい、その際、最初のパラグラフはできるだけ問いを立てるようにする、というくらいの理解で問題ないと思う。型にはめることに急で、各項の論理構造をゆがめてしまっては元も子もないからである。

 もう一つ注意しておくことがある。それは継続は力なり、ということである。『弁証法はどういう科学か』の筆写も同じであるが、毎日毎日続けることでこそ、本当の意味が出てくるのである。疲れたらやらない、気が向かないからやらない、仕事が忙しかったからやらない、というのでは、そういう中途半端な気持ちが学びの中身にも反映してしまい、たいした成果を上げることはできないのである。決めたからには必ず最後まで毎日毎日継続する、ここをないがしろにしては実際やらないのと同じである、という覚悟でもってとりくむ必要があるのである。

 最後になるが、今後の展望を述べておきたい。各項の要約が終了すれば、次には各節、さらには各章、最後に『弁証法はどういう科学か』丸ごと一冊分、の400字要約を行いたいと考えている。こうすることで、「弁証法はどういう科学か」の像が鮮明になることと思う。合わせて論理や覚悟についても学べるのである。

 一通りの要約が終われば、もう一度初めから要約を行って、前回行った時との違い、発展を確認してみたいとも思っている。一度二度と言わず、弁証法の基本書・教科書たる『弁証法はどういう科学か』は何度でも繰り返し繰り返し学んでいかなければならないものである。ただし、ここで最も注意しなければならないことは、理論と現実との結びつきを意識して学んでいくということである。『弁証法はどういう科学か』を学ぶ意味は、現実が突きつけるどんな問題でも、主体的に解決していける実力を養成することである。机上の空論を学ぶためではない。このことを再確認して、本稿を終了したい。

(了)
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2012年03月04日

『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか(4/5)

 今回は新入会員による小論の第4回目です。今回は,事前に作成したアウトラインに沿って実際に原稿用紙に書いていく作業について,その留意点が説かれていきます。特に,書きはじめたらならば一気呵成に書き上げてしまうことの重要性が強調されています。


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(4)構造を意識して400字詰め原稿用紙に要約する

 前回は、『弁証法はどういう科学か』の要約を行なう前にアウトラインを作成することによって、各項の内容を構造化しておくことが重要であることを述べた。各項を序論、本論、結論の3つに大きく分けて、序論では問いを立て、本論では3つの段落に分けて論証を行い、結論では、序論で立てた問いに対して、本論で展開した論証を踏まえて結論を述べる、というかたちで要約を行なうために、そのアウトラインとして序論、本論×3、結論の各部分に見だしをつけるのである。こうすることで、アウトラインなしで要約するより深く内容をつかむことができるのである。

 今回はいよいよ、構造を意識しての400字詰め原稿用紙への要約について見ていきたい。

 まず、何で原稿用紙に要約を書くかである。シャープペンシルやボールペンで書くこともできるが、お勧めなのは2万円以上する高級万年筆で書くことである。万年筆は通常青インクを使うので、この要約に際しても黒インクではなく青インクを使う。この方法を用いることで、精神を高め、やるぞ、という意識を喚起できるのである。これを繰り返すことで、原稿用紙の前に座って、万年筆を手にするだけでやる気が出てくるのである。

 次に、書く内容である。前の段階で作成したアウトラインに沿って、各項を頭の中で再構成して、これをもとに要約を行うのである。ただ単に、本文の記述を順に追っていって、重要そうな文章をつなぎ合わせるのではなく、序論のアウトラインの見だしで立てた問いに対して、3つの論証を行い、最後に結論を述べるという構造に沿ったかたちで、各項の論理構造をとらえ返し、その論理構造を表現するのである。本文では、読者の便宜のために、具体例や繰り返しを厭わない書き方になっているところを、その論理を手繰り、論理の筋を明らかにした要約を行うわけである。

 最後に重要なことは、一気に要約を書き切るということである。原稿用紙に向かって一文字目を書いたなら、最後の句点を書くまで脇目も振らずに最後まで書き切るのである。これは、各項の内容を頭に描いたままに最後まで書き切ることで、途中で中断することによる非効率、つまり再度各項の中身を頭に描きなおすことを避ける目的もあるし、そのことによる前後のつながりの遮断、つながりの喪失を避ける意味もある。

 以上、構造を意識しての400字詰め原稿用紙への要約の段階について詳しく見てきた。ここで1つ断わっておくことがある。それは、この作業は要約自体であって、その意味では非常に重要な段階であるには違いないが、実は、要約の過程的構造を見てみると、アウトラインを作成する段階まででその9割がたが終わっている、つまりアウトライン作成までの作業がより重要な意味合いをもっている、ということである。アウトラインさえ書いてしまえば、あとはその流れに沿って本文の論理構造を文章にしていくだけであるから、実はそれほど大変なものではないのである。逆にいえば、アウトラインの作成までをいい加減に行ったり、三浦さんの意図とは違ったかたちでアウトラインを作成したりすれば、この要約の段階で非常に困ってしまって、まともな要約文は書けないことになるのである。よって、アウトラインを作成するまでの段階で、各項の論理構造をある程度明らかにして、その論理構造に沿ったかたちでアウトラインを作成し、つまり5つの見だしを書いておくことこそ、実際に要約を行う上での最重要の行程になるのである。
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2012年03月03日

『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか(3/5)

 新入会員による小論も今回で3回目となります。今回は,いきなり要約を開始するのではなく,その前にアウトラインを作成することの大事性について説かれていきます。我々が論文を書くときには,書き始める前に必ずアウトラインを作成する,つまり目次立てを考えます。それと同様のプロセスを,『弁証法はどういう科学か』の要約作業にも適用して,内容をより深く,より的確に掴もうとする試みです。それでは本文をお読みください。


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(3)アウトラインを作成することによる各項の構造化

 前回は、『弁証法はどういう科学か』の要約の過程的構造のはじめの段階である音読・黙読による各項の理解について確認した。簡単に述べるなら、要約のためには黙読に加え音読も行うことも含めて、何度も何度も繰り返し読み込むことで、各項の理解を深める必要がある、ただし、いくら部分だけを深く理解しようとしてもそれは「群盲像を評す」ことになって間違った結論になってしまう可能性があるから、そもそも要約のための読み込みの前に、筆写なり通読なりの方法で『弁証法はどういう科学か』の全体像を把握しておく必要がある、ということを説いた。

 今回は要約の過程的構造の2つ目の段階、アウトラインを作成することによる各項の構造化について検討してみたい。

 何度も何度も読み込んで理解した内容を、いきなりそのまま原稿用紙に要約していくことももちろん可能であるが、この方法には2つの大きな欠点がある。1つ目は、ただ重要そうな文章を適当に抜粋しつなぎ合わせるような仕方になってしまって、何が言いたいのかわからないような要約文になってしまうことである。2つ目は、この方法では要約することの意味があまりないということである。要約することはあくまでも『弁証法はどういう科学か』を深く理解して、どんな問題でも主体的に解決できる実力をつけることにある。読み込んだ部分をいきなり原稿用紙に要約する方法では、各項の中身を深くとらえることはできないのである。

 ではどうすればいいのか。端的には、各項を序論、本論、結論のかたちでとらえ返し、各項のアウトラインを作成することである。序論では各項で説かれていることは何かということからさかのぼって問いを立てる。本論では、その問いについて3つの段落に分けて論証を行う。そして結論では、序論で立てた問いに対して、本論で展開した論証を踏まえて結論を述べるのである。こうした要約の展開を想定し、そのアウトラインとして序論、本論×3、結論の各部分に見だしをつけるのである。こうすることで、各項の構造をヨリ深くとらえることができるのである。

 さらにこのようにアウトラインを作成した後で、もう一度本文を読むことで、各項の理解が一層深まるのである。アウトラインを書くことで、特に序論で問いを設定することで、各項を読む際に問いかけができ、そうした問いかけでもって本文を反映するため、以前に学んだ内容と合わせて像が重層化するのである。この重層化した認識でもってさらに学びを深めることで、三浦さんの認識との浸透が発展していくのである。

 このように、単に読み込んだ内容をそのまま要約してしまうのではなく、アウトラインを作成し、各項を構造的にとらえ返したうえでもう一度読み返し、その上で要約を行うことで、像を重層化させ、中身をヨリ深めていくことができるのである。

 ここで一つ断わっておくことがある。実は今回説いたアウトラインの作成については、小論文の書き方として紹介されているものである。湯浅俊夫さんという方が、『合格小論文の書き方』という著作で小論文の書き方を説いておられる論理を、『弁証法はどういう科学か』の要約に応用したものである。

 ここでは説いていない豊富な内容が含まれているので、是非味読していただきたいものである。
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2012年03月02日

『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか(2/5)

 今回は,『弁証法はどういう科学か』の要約に至るまでの前提の段階について,詳しく説かれています。その前提の段階とは,『弁証法はどういう科学か』の音読や黙読です。この音読や黙読にいかなる意義があるのか,なぜこの段階が必要なのか,等の問題について論じていきます。


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(2)音読・黙読による各項の理解

 前回は、『弁証法はどういう科学か』の要約を続けていることについて、この学びが「人生における基礎を確立する」という今年の目標のための学びであること、なぜ『弁証法はどういう科学か』の要約を行っているかといえば、それは著者である三浦つとむさんが実際に使ってみて役に立つ素晴らしい武器であることを実感した弁証法について、その実感したままに説いているから、市中の弁証法の書物とは決定的に異なる意義が『弁証法はどういう科学か』にはあるからであること、本稿では『弁証法はどういう科学か』の学びの中で特に要約の仕方についてその過程的構造をあきらかにすることを目的としたものであること、を説いた。

 今回から、『弁証法はどういう科学か』の要約の過程的構造を3回にわたって説いていく。端的には、音読・黙読による各項の理解、アウトラインを作成することによる各項の構造化、構造を意識しての400字詰め原稿用紙への要約について詳しく見ていくことにする。今回は音読・黙読による各項の理解について検討する。

 まず何と言っても、要約するためには内容をしっかりと把握していなければならない。そのためには、何度も何度も繰り返し読み込むことである。繰り返し繰り返し読み込むことで、この項で三浦さんが言わんとしていることを正確に理解するように努めるのである。ここで重要なことは、「三浦さんが言わんとしていること」をそのまま丸ごと受け入れるということである。

 人間の認識はただ単に対象を反映するのみならず、必ず対象に向かって問いかけているものである。問いかけ的反映によって描かれた像が認識である。この問いかけは、幼いころから積み重ねてきた外界からの反映である認識が、その人の個性と言われるほどにまで発展した結果、強烈になされるものである。

 よって、人間は無意識的に現実をその人なりの個性で変化させた像を描いてしまうものである。これでは、せっかく三浦さんが弁証法の基本について語ってくれている内容もゆがんだ形でしか反映しない可能性が残ってしまう。繰り返し読み込むことによって、対象をゆがんだ形で反映することから、自分の認識のゆがみを矯正する方向にもっていくことができるのである。

 次に読み方の問題についてである。通常本を読むというと、黙読をするものである。しかしこれだけではいけない。音読することが必要である。音読することによって、視覚からの像だけでなく、聴覚から現実を反映させることで、ヨリ立体的な像を形成できるのである。これによって、黙読では気づかなかったあいまいな点が明確になるなどして、ヨリ深い理解が可能となるのである。

 最後に指摘しておかなければならないことは、全体の理解なくして部分の理解はできない、ということである。「群盲象を評す」というように、部分だけをいくら理解したとしても、全体像は全く描けない、もしくは間違った全体像を描いてしまうということである。

 各項の要約を行うのは、あくまでも『弁証法はどういう科学か』を全的に深く理解することで、弁証法の基礎を学び、もってどんな問題でも主体的に解決しうる実力を養成せんがためである。各項の要約自体が目的ではない。

 とすれば、『弁証法はどういう科学か』の全体像をアバウトにでも頭の中に描けている必要がある。この全体像をある程度理解してからでないと、部分部分の内容を細かくつかんでみたところで、全く的外れな学びとなってしまいかねないということである。故に、『弁証法はどういう科学か』の要約をするための各項の音読・黙読の前に、その前提として、『弁証法はどういう科学か』の全体的な学びが必要だということになる。そのためには、『弁証法はどういう科学か』を通読したり、全体を丸ごと筆写したりする学習過程が必須である。『弁証法はどういう科学か』の学びとして、いきなり各項の要約から始めるのは順番が違うということである。

 以上、音読・黙読による各項の理解について説いてきた。簡単に各項を理解すると言っても、その中身は簡単ではないことが理解していだたけたのではないか。人間の認識の一般性を把握して、ヨリ立体的な像を描ける方法を採用しながら学ぶ必要があるとともに、そもそもその前提として、通読あるいは筆写等の学びを通して、『弁証法はどういう科学か』の全体的な学びを行ったうえで、漸く要約のための各項の理解が可能となるのである。
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2012年03月01日

『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか(1/5)

 今回から5回にわたって,新入会員の手になる小論を掲載したいと思います。題して「『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか」です。

 この新入会員は,ずっと以前から(それこそ10年以上も前から)弁証法や認識論に関心は寄せていたものの,本格的に勉強し始めたのはここ2,3年だということです。しかし,いったん決心したからには,自らに課した課題を毎日,1日も欠かさずにこなしており,その努力は他の会員にも刺激になっています。

 これまで,従来のメンバーが辿ったのと同様の学習過程を辿り直してきました。すなわち,『弁証法はどういう科学か』の新版・旧版を,くり返しくり返し音読し,丸写しすることを通して,『弁証法はどういう科学か』を書いたときの三浦つとむさんに二重化する修練を重ねてきました。

 そして昨年末から,いよいよ『弁証法はどういう科学か』の各項目を要約する段階に入りました。毎日『弁証法はどういう科学か』の1項目を要約して,自らのブログに掲載することを自らに課したのです。約2ヶ月が経過したのを機に,自分の学びのあり方を反省するためにも本論文を書いたということです。

 まだ入会してから間もないにもかかわらず,我々の論文の書き方の形式に従って,きちんと論を展開できていると思います。

 第1回目の今回は,そもそもこの小論を書こうとした背景と,この小論の問題意識について説かれています。


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〈目次〉

(1)『弁証法はどういう科学か』の要約の仕方
(2)音読・黙読による各項の理解
(3)アウトラインを作成することによる各項の構造化
(4)構造を意識して400字詰め原稿用紙に要約する
(5)『弁証法はどういう科学か』の要約は理論と現実との結びつきを意識して


(1)『弁証法はどういう科学か』の要約の仕方

 『弁証法はどういう科学か』の要約も今日で67回目を迎えた。この要約作業は、今年の目標である「人生における基礎を確立する」ために行っている学びである。よって、ただ単に要約しさえすればいいものではなく、また、かつて行った要約を毎日1項ずつブログにアップしているという安直なものではない。端的にいえば、毎日毎日必死の覚悟で1項ずつ要約を行って、それを「人生の基礎を確立する」ためにこそ行っているのである。では、そもそもなぜ『弁証法はどういう科学か』の要約を行っているのであろうか。

 『弁証法はどういう科学か』といえば、弁証法を学ぶ上で避けて通れない、というより、ここを踏まえることなしには一歩も先に進めない、弁証法の基本書・教科書である。

 それではそもそもその弁証法とは何かといえば、「自然・社会・精神をつらぬく」「世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学」(p.23)ということになる。

 この弁証法を実際に学び社会科学の研究に使ってみて、「それがどんなにすばらしい武器であるかを実感することができ」(p.4)た著者の三浦つとむさんは、「多くの人たちにこのすばらしい武器のことを知ってもらいたい、これを使って成果をあげてほしいと願って、この本を書くことにしたの」(p.4)である。

 このように、著者である三浦さんが実際に使ってみて価値がある、困難を突破する素晴らしい武器になる、と実感して、これを多くの人たちに問題解決の武器として使ってもらいたいと思ったことが、この著作の原点になっているのである。

 こここそが、その他雑多な弁証法に関する書物と決定的に異なる点である。実際に使ってみて役に立つからこそ、うわべの言葉だけでなくその使い方の実際も含めて詳細に論を展開できるのであって、だからこそ、この著作を基本書・教科書として、弁証法を学ぶことができるのである。

 そこで、この弁証法の基本書・教科書である『弁証法はどういう科学か』をどのように学んでいけばよいのか。詳細については京都弁証法認識論研究会のブログに掲載されている「弁証法の学び方の具体を説く」(2010年10月3日〜7日)という論文を参照していただくとして、簡単には次のとおりである。

 まずは、『弁証法はどういう科学か』の音読・筆写のくり返しにより、弁証法はどういう科学であるのかを三浦さんの主張通りに、頭の中にアバウトにでもその像を描くことである。次に少し主体的な取り組みとして、『弁証法はどういう科学か』の要約を行うのである。

 本稿では、この『弁証法はどういう科学か』の要約を論の中心に据えて、いったいどのように要約することが真に弁証法を学ぶ上で役立つのか、その要約するということの過程的構造をあきらかにし、毎日の学びの意義を確認するとともに、同じような学びを実践される方への学びの指針としたいと考えるものである。

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2011年12月21日

『美味しんぼ』から何を学ぶべきか(13/13)

(13)自立した国民による自立した国家の確立が求められている

 本稿では、様々な食の問題が浮上している中で、『美味しんぼ』から何を学ぶべきかという点について考えてきました。前回は、本稿の結論として、物事の本質を問うて、自分で判断する姿勢をこそ学ぶべきだと主張しました。

 現代の日本では、食に限らず、TPP、消費税、原子力発電など、様々な問題が浮上しています。こうした様々な問題の複雑な絡み合いを深いところで規定している大きな出来事として、今年起こった東日本大震災のことを忘れるわけにはいきません。東日本大震災は、まさしく国家的な危機であり、これをどのように克服していくかが、現代日本にとって何よりも大きな問題になっているのです。

 東日本大震災に関して、南郷継正先生は次のように説いておられます。

「国家的危機から、日本がいかにすれば現実の大危機を克服し、そこからまともな復興をどうしたら果たせるかが、議論されている。しかしながらそれら一連の議論の大半は、残念なことに形として目に見えてくる経済的側面や技術的側面などに大きく偏ったものにとどまっているといえよう。
 だが、ここで忘れてならないことは、今後何十年にわたっての、日本という国を全体としてどう創り直していくべきかの教育の中身であろう。すなわちより根源的には、日本人としての精神、大和魂(ヤマトゴコロ)をいかに見事に創り直していくべきかということをも併せて問われねばならない。」(日本弁証法論理学研究会編『学城』No.8、現代社)

 この「大和魂」という言葉について、南郷継正先生は、『綜合看護』最新号の「“夢”講義」において、「これを旧軍部や右翼の人たちそのものだけの強烈な言葉なのだ、と錯覚しないでほしい」「この『大和魂』という言葉の日本最古の原典は、『源氏物語』であり、かの紫式部がその中で用いていたのだと、あちこちの識者が説いていることからも是非に分かってほしい」と言及しておられます。

 『源氏物語』が書かれたのは、中国伝来の学問・文化を、日本人が消化して日本の風土にあったものにつくりかえることをつうじて、独自の「国風文化」を創出していった時代であったことを想起しなければなりません。この『源氏物語』の「少女」の巻において、光源氏が息子・夕霧の教育方針について語る中で、「大和魂」という言葉が、中国伝来の漢学を意味する「才」と対比させる形で使われているのです。光源氏は「才を本としてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ」というのですが、これは、学問を基礎としてこそ日本人としての知恵を世の中のために役立てていくことができるだろう、といった意味でしょう。もう少し踏み込んでいえば、中国伝来の学問はあくまで基礎的な教養にほかならず、何よりもそれを日本社会独自の条件に応じて具体的に活かしていくことこそが大事なのだという思想を読み取ることができるかもしれません。

 以上のようなこともふまえつつ、ここでは、この「大和魂」という言葉について、ほかならぬこの日本社会の現実が突きつけてくる諸々の問題を日本人自身が自分の力で解決していくための自前の「ものの見方・考え方」のことにほかならない、と受け止めておきたいと思います。現代の日本人に求められているのは、まさにこのような意味での「大和魂」なのではないでしょうか。

 残念ながら、今の日本人にはこうした姿勢が欠けているといわなければなりません。第二次世界大戦後の日本は、米ソの対決を軸とする東西冷戦構造をふまえたアメリカの世界戦略のなかで、おもにソ連・中国を意識した「反共の防波堤」としての役割を担わされてきました。こうした条件のもと、戦後日本は、外交・安保という国家の存亡にかかわる問題についての意志決定をすべてアメリカに依存しつつ、みずからは国内的な資源配分の問題に専念することで、経済的な復興と高度成長をなしとげてきたのでした。このことをあえて肯定的にまとめるならば、圧倒的な超大国であったアメリカの庇護のもとにあったからこそ、日本は経済的な繁栄を手に入れることができたのだ、ということもできるでしょう。しかし、このことが、政治の世界におけるリーダー不在という情況を招き、また個々の国民のレベルにおいても、日本という国家のあるべき姿・進むべき方向について主体的に判断するだけの姿勢・実力を失わせてしまった面があったこともまた決して否定することはできないでしょう。

 しかし、いまや世界情勢は大きく動いています。もはや、とりあえずアメリカに従っていればよい、という時代ではないことは明らかです。世界情勢および東アジア情勢の激変をしっかりと受けとめつつ、東日本大震災からの単なる物質重点主義ではない復興を図っていくためにも、まっとうな「大和魂」の形成こそ急務となっているといえます。日本国民の一人ひとりが、物事の本質を問うて自分で判断する姿勢を確立していけるように、そのための一助となることを志して、われわれ京都弁証法認識論研究会では、これからも、その土台となる弁証法・認識論について説いていきたいと思います。

(了)
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2011年12月20日

『美味しんぼ』から何を学ぶべきか(12/13)

(12)物事の本質を問うて自分で判断する姿勢をこそ学ぶべきである

 本稿では、食の問題が様々な形で浮上している現在、『美味しんぼ』から何を学ぶべきかという点について考えてきました。ここで、これまでの流れを振り返ってみましょう。

 まず、『美味しんぼ』とは「究極対至高」の対決を軸に展開されている物語だということを確認しました。しかし、その対決の勝敗を決める基準は、単に味の善し悪しというだけではなく、テーマとなった食材の本質をいかに把握することが出来たかであることを明らかにしました。では、山岡や海原がどのようにして食材の本質を把握していくのかを見たところ、そこには現在ある様々な現象を取り上げるのではなく、そもそもの原点にさかのぼって考えるという弁証法的なアタマの働かせ方があることを確認しました。

 続く第2章では、その弁証法的なアタマの働かせ方は食の問題を考える上でも重要なのだと説明しました。食の問題について考える場合、そもそも食とは何かという点から考えていかなければなりません。そこで生命体が誕生した過程を確認していきました。そもそも生命体は地球から分離・独立する形で誕生したものであり、もともとは地球と一体であった以上、そのつながりを保ち続けなければ生きていくことができません。そのための仕組みの1つとして食があるのだということでした。しかし、生命体が人間へと進化する過程で本能が薄らぎ、認識によって統括されるようになりました。これによって、人間は自分勝手な食事をするようになり、また、そもそも食べるものに対して大きく加工するようになり、自らの食のあり方を目的意識的に捉え返さなければ、地球とのつながりを保つための食とはならないということを確認しました。我々の目の前に届けられる食材は、非常に長い過程を含んでおり、その過程において様々なものとのかかわりを持っています。そうした関係にまで目を向ける視点、つまり弁証法的な見方がなければ、本当の意味で食の問題を考えることはできないのだということでした。

 第3章では、『美味しんぼ』に描かれている人間としてのあり方を明らかにし、弁証法的な考え方との関係について説きました。まず『美味しんぼ』では、食通と呼ばれる人たちの意見を鵜呑みにして、自分の舌で味を判断しようとしない一般の人々のあり方が大きく批判されていることを確認しました。一方、山岡や海原は対照的に、決して権威にしたがうことはなく、自分のアタマで考え、その結果については責任をとる人間として描かれていることを明らかにしました。こうした姿勢を貫くためには、自分の力で物事の本質をつかむことが必要なのであり、そのためにこそ弁証法的な考え方が必要なのだということでた。

 このように、物事の本質を問うて、自分で判断する姿勢をこそ、『美味しんぼ』から学ぶべきだということが言えるでしょう。
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2011年12月19日

『美味しんぼ』から何を学ぶべきか(11/13)

(11)主体性を背後から支えるものが弁証法の実力である

 前回は、現在の消費者が権威にすがり自分のアタマで判断しないのに対して、山岡・海原は権威に屈せず自分の正しいと思うところを貫き通すということ、そして、それこそが主体的な生き方なのだということを説きました。

 しかし、「では明日から権威に左右されず、自分の考えで行動しよう」と思ったところで、それは不可能です。権威にすがるのは、権威にすがるだけの必然性があるのであり、その点を明らかにしておかなければなりません。

 なぜ人々は権威にすがるのでしょうか。端的には、自分の直面した問題に、自分では答えが出せないからだと言えるでしょう。

我々は問題に直面した時、大きく心が揺さぶられることになります。その不安定な心を安定したものへと戻すために、我々は問題の解決を図るのですが、そこには2つの方法があります。1つは自分の力で解決する方法であり、もう1つは他人の力によって解決する方法です。

 したがって、自分の力で解決できない場合は、他人の力によって解決してもらうしかありません。ここに権威にすがってしまう必然性があります。実は、このような“自分で解決できない問題を解決してくれる他人の力”の最たるものこそ、神と呼ばれる宗教的な存在にほかならないのです。このことにかかわって、三浦つとむさんは以下のように説いています。

「科学者の中にも、科学上の問題をどう解決していいかわからなくて、やはり宗教や哲学に助けを求める人があります。科学者が宗教に心をひかれるのは、ちょっとおかしいようですが、そこには溺れる者は藁をもつかむという気もちがひそんでいるのです。」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』講談社、p.12)

 つまり、たとえ科学者であっても、自分の力ではとても解決できそうにないという問題に直面したときには、科学とは根本的に対立しているはずの宗教的な権威にすがってしまうことになりかねないということです。

 したがって、権威にすがらない生き方、つまり主体的な生き方を貫くためには、どんなに解決困難と思われる問題に直面しても、自らのアタマで取り組み、解決への道を見いだしていけるだけの実力が必要になるということになります。自分で考えていくだけの実力があれば、権威にすがる必然性はなくなってしまうということです。

 この実力こそ、弁証法の実力に他なりません。例えば、かつて本ブログでも説いたように、法人税減税という問題を考えるためには、「現代の日本経済はどういう状況か」ということを、経済の原点から辿って把握しなければなりません。こうした把握がなければ、テレビのコメンテーターの発言内容を鵜呑みにするしかなくなってしまいます。

つまり、対象の構造を原点にさかのぼって把握することによって自分なりの答えが出せるのであり、そのためには弁証法の実力が必要だということです。

 最後に若干の補足として、海原雄山の発言を取り上げたいと思います。山岡と栗田の結婚に際して、至高のメニューとしてみすぼらしい家庭料理を披露し、その解説している場面です(47巻所収)。

「私は妻のその料理を食べて、目からウロコが落ちる思いがした。私もおおかたの食通と呼ばれる人間と同様、それまで、フカヒレやら、ツバメの巣やら、フォアグラ、キャヴィア、松阪の霜降り牛肉など、そんな高価で貴重なものの味をあさるのが、美味の追求だと思っていた・・・しかし、そうではなかったのだ!大事なのは、感動だ。至福の口福による感動なのだ!高価で珍奇な食材を用いた下衆極まる料理もあれば、安価で平凡な食材を使って至福の口福と感動を与えるものもある、ということなのだ。そう悟ると、どうだ!世の中の一切の権威と称されるものも、怖くなくなった。何も怖いものがなくなった。何に対しても、平常心で立ち向かえるようになったのだ。それは、貧乏であることが少しも怖くなくなったからだ。貧乏であっても、知恵の使いようでこのような至福の口福が味わえる。それなら貧乏を怖がる必要が、どこにあるか?一切の妥協をせず、貧乏をむしろ楽しみ、自らの道を追求するだけではないか?そう悟ったのだ!そう悟ると、不思議なことに私の作品もガラリと変わった・今まで、権威に怯え、他人の批評を気にしていたのに気づいたのだ。自由奔放、わが道を行くのみ。するととたんに道が開け、私の作品は次々に世に認められていったのだ。」

 つまり、本質を把握することで、そこを基準に自分なりの答えを出せるようになるのであり、権威にすがる必要もなくなるのである、ということです。
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2011年12月18日

『美味しんぼ』から何を学ぶべきか(10/13)

(10)山岡・海原は権威に屈しない

 前回は、一般の人々が自分のアタマで考えず、権威に従って動いており、そうした生き方が『美味しんぼ』では大きく批判されていることを取り上げました。

 一方、山岡や海原は全く対照的な生き方をする人間として描かれています。今回はこの点について見ていきましょう。

 究極のメニューが開始した当初、東西新聞社の社主は、食通と呼ばれる先生方に協力を依頼していました。その先生方との打ち合わせを行っている場面(1巻所収)です。


丹(作曲家)「よろしい、黒海のキャビアを取り寄せましょう!」

左田(レストラン評論家)「それじゃタイから燕の巣を持ってこなくては・・・」

花村(食味エッセイスト)「和食の方は井戸先生に。パリで食べた仔羊の喉肉パイ皮包み焼きが忘れられないなぁ。」

高岡(作家)「子羊の脳のソティもこたえられまへんわ。」

井戸(料理学校校長)「そうなるとワインいいのをそろえんとね。」

川本(芸術評論家)「シャトオ・ムートン・ロチルドか、それともロマネ・コンティといくか。」

高岡「よだれが出まんなあ!」

川本「私はフランスから美食の王フォワ・グラを取り寄せましょう。栗田さんは食されたことがおありかな?」

栗田「いえ・・・」

川本「フォワ・グラはガチョウに、ゆでたトウモロコシを大量に与えて、運動をさせずに肥らせて、その以上に肥大した肝臓で作るのですよ。」

高岡「まさに美味中の美味や!」

川本「どうです山岡さん、やはり『究極のメニュー』には、かかせませんでしょう?」

山岡「フン・・・日本の食通とたてまつられてる人間は、こっけいだねえ!」

食通「何っ!?」

山岡「外国人がうまいって言うからその尻馬にのって有難っているけど、有名ブランド商品を有難がるのと同じ・・・中身じゃなく名前を有難がってるだけなんじゃないの?」


続いて、海原雄山です。石垣島にリゾート計画を建てている会社の社長(筒金)が、ホテルのメニューに極力してほしいと海原に依頼してきたのに対して、海原が罵倒する場面です。


海原「筒金さん、私は自殺と長生きの両方を願うような愚か者とはつき合いきれませんのでな、あなたの会社の石垣島リゾート開発の計画に、協力などお断りしましょう。」

筒金「な、なに断る!?筒金グループの支配者であるこの私に、逆らうと言うのか!?政財界の大物をも動かす私を、敵に回すとは身の程知らずな!海原雄山もこれまでだぞ!!」

海原「政財界の大物だと?下衆な根性をさらけ出しおったな。この海原雄山、天が下に恐れるものいっさいなし!ただ自らの芸術の究極ならんことを追求するのみ!きさまごとき、リゾート開発などとぬかして国土を食い荒らして浅ましく肥え太った寄生虫になにができるか、やってみろ!」


 このように、山岡・海原は権威に屈せず自らの判断で主張するという場面がよく出てきます。取り上げた場面はどれも、場合によっては仕事を失うなどの不利益を被りかねないものです。しかし、そうした点は覚悟の上で、自らが正しいと思うところを主張する人間として描かれているのです。
 南郷継正先生はこうしたありかたを主体的だと説いておられます。

「<主体的>とは
 自分の責任をもって行動するときの自分のありかたである。主体性ある人間を創ろううというのは、自分自身の思考、行動に責任をもてる人間を創ろうということである。」(南郷継正『武道と弁証法の理論』三一書房、1998年、pp.68-69)

 相手がどんな地位の人間であろうと、結果がどうであろうと、自分の正しいと思う考えを貫き通す山岡・海原は、まさに主体的な人間のモデルとして描かれていると言えるでしょう。
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2011年12月17日

『美味しんぼ』から何を学ぶべきか(9/13)

(9)権威に従う生き方が批判されている

 現在、食に関わる問題が様々な形で浮上しています。それらの問題に関して『美味しんぼ』から何を学ぶべきか、これが本稿のテーマです。

 まず『美味しんぼ』とは「究極対至高」の対決を軸に展開されている物語だということを確認し、その対決の勝敗を決める基準は、テーマとなった食材の本質をいかに把握することが出来たかであるという点を明らかにしました。そして、そうした対象の本質を明らかにするためには、弁証法的な把握が必要なのだと指摘しました。

 続いて、その弁証法的な把握は食の問題を考える上でも重要なのだと説明しました。そもそも我々の目の前に届けられる食材は、非常に長い過程を含んでおり、その過程において様々なものとのかかわりを持っています。そうした関係にまで目を向ける視点、つまり弁証法的な見方がなければ、本当の意味で食の問題を考えることはできないのだということでした。

 しかし『美味しんぼ』では、弁証法的な見かた考えかたが説かれているばかりでなく、人間としてのあり方にも言及しています。今回からはその点について見ていきたいと思います。

 以下は、山岡を含む東西新聞社の社員が横浜の中華街へ行った場面(第2巻所収)です。グルメガイドに書かれていた店に行ってみますが、出された豚バラ煮込みに山岡が文句を言う場面です。


山岡「この豚バラ煮込みは出来そこないだ。食べられないよ。」

料理人「出来そこないとは何だッ、味もわからんくせに!!うちの店は新聞や雑誌でいつもほめられている!!有名人のお客さんもたくさん来てくれるんだぞ!!」

山岡「ここに来る有名人は、みんな味のわからん連中ばかりのようだな。」


ここにオーナーの周大人が入り、仲裁します。そして、どちらがうまい豚バラ煮込み(東坡肉(トンポウロウ)を作れるか勝負しようという話になり、結果、山岡が勝ちます。その後の会話です。


山岡「この東坡肉(トンポウロウ)という料理は要は皮つきの豚バラ肉をていねいに処理して根気よく蒸し煮するだけです。宝華飯店も昔はちゃんとした東坡肉を作っていたはず・・・しかしマスコミで取り上げられ、有名になり、客がたくさんつめかけるようになると、ついつい手間を惜しむようになった。とても2時間も蒸し煮にかけられないというわけです。」

周大人「悲しい話です。有名になって堕落する方も悪い、しかし日本人も悪いんですよ。」

山岡「そうだ、誰かが本か何かでほめると、みんなドッとつめかける。一度有名になると自分の舌で判断することもせず、有名店だというだけでありがたがる。これじゃ店の人間が堕落するのも当りまえだ。」

 このように、一般の消費者たちは他者の評価によって左右されると指摘されています。簡単に言えば、権威に従うということです。このような生き方が『美味しんぼ』では批判されているのです。
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2011年12月16日

『美味しんぼ』から何を学ぶべきか(8/13)

(8)自らの食のあり方を問うためには弁証法的な視点が必要である

 前回、我々は自分の食のあり方を目的意識的に問うていかなければならない、ということを説きました。それぞれの個性的な認識によって統括されている人間の場合、放っておいたのでは地球とのつながりを保つ食にはならないということでした。

 しかし、本当に地球とのつながりを保つための食事をするには、そこには弁証法的な考え方が徹底されていなければなりません。

 これはどういうことでしょうか。『美味しんぼ』12巻に収められている「玄米VS白米」を具体例として説明しましょう。

 東西新聞社の文化部一同で、白川温泉に遊びに行ったときの物語です。旅館で宴会をしているところへ、合宿をしていた女子大の柔道部員数人がこっそりやってきて「白米を食べさせてほしい」と懇願してきます。この柔道部では、健康を考えて玄米を食べるようにしていたのですが、パサパサしていておいしくないということでした。ところが、先輩柔道部員に見つかり、強制的に連れて帰ろうとしています。そこへ山岡が口論を仕掛ける場面です。

山岡「玄米食が、必ずしも体にいいとは限らないと思うけどな・・・」

先輩A「栄養学の常識を知らないんですか!?胚芽も含めて米の外側にこそビタミンやミネラルといった大事な栄養分が集まってるんですよ!」

先輩B「白米はその大事な栄養分を精米して捨ててしまっている。だから白米なんか食べる価値はないんです!」

山岡「なるほどねえ・・・玄米食信仰もこうなるとかえって害があるなあ。」

先輩A「玄米食が害があるだって・・・!?」

先輩B「しかも我々が合宿に持ってきたのは有機農法で栽培した米なんですよ!」

山岡「有機農法?あ、こりゃますますいけないや。」

先輩A「化学肥料を使わずに、堆肥や、家畜の糞を肥料に使う有機農法は、一番自然な農法でしょうっ!?その有機農法で作った玄米が体に悪いなんて、あまりに物を知らなすぎる!」

山岡「よおし、俺がきみたちに本当の玄米食を教えてあげるよ。」


いかがでしょうか。先輩部員が言うとおり、有機農法で作った玄米は一番自然な作られ方をしており、地球とのつながりを保つ上では非常によいように思うのですが、山岡はそれを否定するのです。

 そして、実際、この柔道部で食べられていた玄米と、山岡が持ってきた玄米を検査したところ、山岡の玄米には何の問題もなかったにもかかわらず、柔道部の玄米からは農薬や抗生物質が検出されたのです。

 この差がどうして生まれたのかを説明するべく、山岡が柔道部員を連れて牛舎に行った場面です。

栗田「すごい牛の数ね!!」

部長「せまい所にたくさんつめこまれて飼われているのね・・・」

山岡「だから病気しやすいんだよ。で、病気を防ぐために、エサの中に最初から抗生物質が入ってるんだ。」

部長「ええっ!!エサの中に抗生物質が!?」

山岡「肉にして出荷する前に、抗生物質を与えるのを止める期間をもうけるから、理論的には、肉の中に抗生物質は残らないことになっている。だが、問題は糞だ。抗生物質を与えている牛の糞も、与えてない牛の糞も一緒になってしまっている。これが問題なのさ。」

部長「え?」

山岡「抗生物質は糞や尿の中に排泄される。今、目の前にある糞の山の中には、かなりの量の抗生物質が入っているよ。有機農法は家畜の糞も肥料に使うんだろう?」

部長「あっ!!」

栗田「そうか!!」

山岡「抗生物質を含んだ肥料をやれば、農作物にも抗生物質が入って行く可能性は十分にある。もちろん、濃度は低くなっていて問題にならないことの方が多いだろうが・・・」

栗田「どんなにわずかでも、抗生物質が入る可能性があるのはイヤだわ。」

山岡「鶏も豚も同じだよ。効率的に飼育するために薬を多用する。そんな牛や鶏や豚の糞が肥料として望ましいだろうか。」

部長「う、うう・・・」

栗田「すべての薬物が、糞を肥料にする過程で、分解して無害なものになるとは限らないものね・・・」

山岡「有機農法では、家畜の糞と堆肥を肥料にしているが、堆肥に使う植物も問題だ。農薬のかかった草や葉で作った堆肥は、それ自体、農薬を含んでいる。」

 つまり、有機農法であればよいというわけではなく、その肥料はどういう牛・鶏・豚や植物から作られたのかという点にまでさかのぼって考えなければならない、ということです。

 我々の食卓に届く食材には、非常に長い過程が含まれており、その過程の中で様々なものとかかわりあいながら作られてきています。したがって、こうした背後に隠れている過程をしっかりと見つめる目、つまり弁証法的なアタマの働かせ方こそが、食の問題を考える上では重要になるのです。『美味しんぼ』はこうした点を指摘していると言えるでしょう。
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2011年12月15日

『美味しんぼ』から何を学ぶべきか(7/13)

(7)人間は自らの食のあり方を目的意識的に問うていかなければならない

 前回は、生物にとって食とは何かという点を明らかにしました。端的には、食とは地球の実体的な摂取だということでした。

 この点を踏まえると、いかなる食が望ましいのでしょうか。今回はこの点について考えてみましょう。

 結論から言うならば、地球とのつながりが保たれるような食が望ましいということになります。食とは、単に食べればよいというものではありません。前回も説いたように、あくまでも地球とのつながりを維持するという目的につながるものでなければなりません。そのような条件を備えた食になっているのかどうか、ということです。

 人間以前の生命体の段階では、このようなことが問題となることはありませんでした。人間以外の動物は本能によって支配されています。本能とは生命体が生き残っていくために必要なプログラムであり、そのプログラムにしたがって、食を行っているわけです。好き嫌いという視点で食を選ぶことはありませんし、その食の対象となる生命体についても、地球環境の中で自然に創られてきたものですから、それを食べることは地球とのつながりをしっかりと保つことになっていたのです。

 ところが、人間の場合、大きく事情が異なってきます。サルから進化する過程において、本能の支配が薄らいでいったからです。自分の経験に基づいて個性的な認識が形成され、その個性的な認識によって、対象に働きかけていくようになったからです。これによって、地球とのつながりが保たれない食が行われるようになりました。

 具体的にどういうことかと言えば、1つは偏食、つまり自分の好みで食べるものを選んでしまうということです。例えば、肉が好きだから肉ばかり食べるとか、毎日お酒ばっかり飲んでいるとかいう食のありかたが生まれてきたということです。

 もちろん肉やお酒も地球環境の中で創られたものですから、それを食べることを確かに地球とのつながりを保つことにはなります。しかし、そのつながり方が非常に部分的なものになってしまうということです。

 もう1つは加工の問題です。我々の食べるものは自然にあるままではなく、様々な加工がなされているということです。加工されればされるほど、地球とのつながりは薄れていきますから、それを食べたところで、人間が地球とのつながりを保つことはできません。とりわけ現代においては、単に調理するといった加工のみならず、人工的に作った様々な添加物を加えるので、尚更です。

 このように、人間においては、放っておいたのでは食を通して地球とのつながりを保つことはできないのであり、我々は自らの食のあり方を目的意識的に問うていかなければならないのです。
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2011年12月14日

『美味しんぼ』から何を学ぶべきか(6/13)

(6)生命体にとって食とは外界(地球)の実体的な摂取である

 本稿では、食の問題が様々に叫ばれている現在、『美味しんぼ』から何を学ぶべきかというテーマを扱っています。『美味しんぼ』とは山岡・栗田による「究極のメニュー」と、海原による「至高のメニュー」の対決を軸にして展開される物語だということを確認した上で、その対決がいかなる基準によって判定されるのかということを明らかにしました。端的には、テーマに沿って対象の本質をいかに把握したということが問われるのであって、決して味の善し悪しを単純に比べるのではないということでした。そして、その対象の本質を把握するためには原点にまでさかのぼって考える必要があると説かれていることを取り上げ、こうした考え方が非常に弁証法的であるという点を指摘しました。

 今回からは『美味しんぼ』で提示されている弁証法的な考え方を使って、食の問題について考えてみたいと思います。まずは原点にさかのぼって、そもそも食とは何か、なぜ生命体にとって食が必然なのかを考えてみましょう。

 結論から言うならば、地球との一体性を保つためということになります。ここには生命体誕生の過程が大きく関わっています。

 太陽から分離することで誕生した惑星は、当初、巨大な熱を帯びていましたが、物質の一般性に従って、次第に冷えていくことになりました。ところが、地球だけは急激には冷えていかない条件が整えられることとなりました。地球の4分の1ほどの大きさの月が、地球から分離する形で誕生したからです。月の誕生により、地球は太陽からの熱を直接に受け取るのみだけでなく、月を媒介として受け取るようになり、また地球から発せられた熱も月に反射して再度受け取るというような構造が形成され、なかなか冷えていかない、冷えていったと思ったら再び温められるという状態が、長く長く続くことになりました。

 このような温度の上下を繰り返すという現象(運動)は、当初は太陽や月との関係によって生じていたのですが、この状態が継続されることによって、次第に地球上の物質そのものが、自らこうした繰り返しを起こす性質(恒常性)を帯びていきます。これが生命体における代謝の原基形態です。

 やがて、物質の一般性にしたがって、地球も徐々に冷えていきます。恒常性を保持するようになった物質は、自らを維持するためには、そうした地球の状態から切り離される必要があります。一方で、こうした物質は地球の一部なのですから、地球から全く切り離されて存在することはできません。こうした矛盾を克服し、切り離されていると同時に切り離されていないという状態を創るために、細胞膜が誕生しました。ここにおいて生命体の原点というべき単細胞が生まれたのです。

 以上のように、生命体はもともと地球の一部であり、そこから分離・独立する形で誕生してきたのです。したがって、生命体は地球から完全に離れて存在することはできません。その生命を維持するためには、必ず地球とのつながりを確保しておかなければならないのです。

 その具体的なありかたが呼吸であり、食です。食とは何らかの生命体を体の中に取り入れることですが、その生命体を通して、その生命体を育ててきた環境(地球)とのつながりを保つわけです。

 このように、生物にとって食とは地球の実体的な摂取だと言えるでしょう。
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2011年12月13日

『美味しんぼ』から何を学ぶべきか(5/13)

(5)対象の把握のためには弁証法が必須である

 前回は、「究極対至高」の対決においては、単に味の善し悪しではなく、対象の本質をいかに把握したのかという点が問われるということを明らかにしました。

 では、どうすれば対象の本質を把握することができるのでしょうか。この点についても、『美味しんぼ』では答えが書かれています。以下で紹介する のは、「菓子対決」(26巻)の場面です。海原雄山の希望により、対決のテーマが「菓子」ということになりました。そこで山岡士郎と栗田ゆうこは、「究極 の菓子」を求めて、青山「キハチ」という店へ行き、そこのパティシエである熊谷に相談します。

熊谷「うはあ!それは大変な話だな!知恵を借りたいと言われてもねえ・・・僕だってデザートのレシピ、300から400は持ってますよ。パリやウィーンといった洋菓子の本場に行けば、それこそ星の数ほどさまざまなお菓子がありますよ。」

栗田「まあ大変!洋菓子だけでもそんなにあるんじゃ・・・」

熊谷「和菓子だって、京都だけでも大変な数の種類があるでしょう。中国のお菓子にしたって数限りなくあるし・・・」

山岡「うーん・・・それは最初っからわかってることなんだけど、あらためて熊谷さんに言われるとズシリとこたえるなあ・・・」

栗田「和洋中華そのほかのさまざまなお菓子を考えると、究極のお菓子を選び出すなんてとても無理ね。」


 こうして困っている様子を受けて、唐山陶人は山岡と栗田を自分の茶室へ招待します。この唐山陶人とは、海原の陶芸の師匠です。その関係で、唐山は小さい頃から山岡とかかわりがあり、祖父のような存在になっています。そこへ海原も呼び寄せ、なぜ菓子全般をテーマに選んだかを尋ねます。


海原「私は、最近の菓子が根本の土台のところを見失っているように思えるんです。『至高』と『究極』の対決を通して、世の中の人々にもう一度お菓子の根本を考え直してもらいたい。」


 このように、海原は「そもそも菓子とは何か」という本質を明らかにしたいという心境を語っていますが、「菓子対決」というのは海原が一方的に提示したテーマであったため、唐山は山岡たちにヒントを出すように指示します。仕方なく海原がヒントを出す場面です。


海原「よろしい、先生のお言葉とあれば・・・士郎、ヒントをやろう。それはこの茶室にある、茶室の中をよく見まわすことだ。この茶室の中に大事な物が隠されている。」

山岡「なに!」

栗田「この茶室の中に!?」

海原「茶室の中を注意深く見て、そして菓子とはそもそもなんだったのかじっくり考えれば、おのずとわかるはずだ。」


 ここで注目したいのは海原の最後の言葉です。少し言葉を補うならば、「菓子とはそもそもなんだったかをじっくり考えれば、菓子の根本(本質)がわかる」ということになります。つまり、そもそもそれがどういう形で出発したかという原点を把握することができれば、その対象の本質が把握できるという指摘です。ここに関連して、南郷継正先生は国家論について述べておられる箇所を見てみましょう。

「現代国家のあまりにも複雑性に目を奪われると、『国家とは何か』の本質はけっしてみえてこないのであり、その国家誕生の一番の原基形態である原始共同体(単細胞)に戻ってみなければならない、ということである。」(南郷継正『武道哲学 著作・講義全集 第五巻』現代社、2008年、p.363)


 つまり対象の本質を把握するためには、現在ある多種多様の現象に着目するのではなく、その原点にさかのぼらなければならないということです。これは海原の指摘と同じであることがわかるでしょう。山岡たちが現代のお菓子のあまりにものの複雑性に目を奪われている様子に対して、菓子の原点に戻れと助言しているのです。

 この世界のあらゆる物事は、生成し、運動・変化・発展の過程を経て、現在の姿に到っています。したがって、物事の本質をつかむためには、現在の姿のみならず、原点から現在までの歴史的な過程も押さえておこうという視点が必要になります。その際に必須となるのが、「世界全体の一般的連関・運動・発展の法則についての科学」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』講談社、1968年、p.23)であるところの弁証法です。

 このように、対象の本質を捉えるには弁証法が必須であり、『美味しんぼ』ではその点が提起されているのだと言えるでしょう。
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2011年12月12日

『美味しんぼ』から何を学ぶべきか(4/13)

(4)「究極VS至高」の対決では対象の本質的な把握が問われる

 前回、『美味しんぼ』は「究極対至高」の対決を軸としたマンガだということを紹介しました。

 では、その対決はどのような観点で評価されるのでしょうか。実はここに『美味しんぼ』の大きな特徴があります。今回はそこを見ていきましょう。

 一般に料理対決といった場合、みなさんはどういう観点で評価されると思いますか。

 通常ならば、どちらが美味しいかという観点ではないかと思います。例えば、土曜日にテレビ朝日で放送していた『お願い!ランキング GOLD』という番組では対決する2つの店舗がそれぞれの売り上げの高い商品を出し、どちらが美味しいか審査員が点数をつけ、その点数の高い方が勝ちという形式をとっています。その他にも料理対決というものはありますが、多くはこうした形で審査されるものだと言えるでしょう。

 しかし、『美味しんぼ』における「究極対至高」の対決は、単に味の善し悪しが求められるだけではありません。技術的な点に関しては、山岡士郎・海原雄山ともに最高のレベルを持っているということを前提にしているからです。

 では、一体どういう点が審査の対象となるのでしょうか。

 実は、その料理の背後にある考え方こそが問われるのです。いかにテーマを把握したかという点、つまり、対象の本質的な把握の度合いこそが勝負を決するのです。

 その点がもっとも明確に現れている場面を紹介しましょう。「スパゲッティ対決」(25巻所収)です。ここでは「日本人好みのスパゲッティ」というテーマで対決が行われています。海原雄山が「具のないスパゲッティ」や「トマトソースのスパゲッティ」など簡素なものを出したのに対して、山岡士郎は「生ウニとイクラのスパゲッティ」「アワビのスパゲッティ(わさびつき)」などを出していきます。審査員の反応としては、山岡士郎の料理の方が上々だったのですが、結局、海原雄山の勝利に終わりました。そこに続く場面です。

山岡「な、なぜだ!!」

審査員「審査員全員、最初は『究極のメニュー』側の方に心を惹かれたが、すぐに重大な事実に気づいたのじゃ。麺の持つ本来のうまさを、十全に引き出したのはどっちだったか、毎日でも食べたいと思うのはどっちか。」

山岡「え・・・?」

審査員「『究極のメニュー』側のスパゲッティはとにかくうまい。おいしさとぜいたくさでは、上やろ。しかしそれは、ウニやイクラやアワビのうまさや。麺自体のうまさを十全に引き出したものではない。麺のうまさを、包み込んだにすぎない。」

審査員「一方、『至高のメニュー』側のスパゲッティは、材料と調理法は最上、しかし単純。それが麺の味を十全に引き出している。これなら毎日食べてもあきることがないだろう。」

海原「士郎。おまえはスパゲッティも麺の仲間だということを忘れていたな。日本には昔からうどんとそばという麺の伝統がある。うどんにはうどんすき、そばには鴨南蛮など、実沢山のものがあるが、やはり一番日本人が好きなのは釜あげうどん、素うどん、もりそば、かけそばなどのように、麺のうまさそれ自体を味わうものだ。」

山岡「あ!」

海原「日本料理の神髄は、素材のうまさを引き出すことだ。私のニンニクとオリーブオイルとバターのソース、あるいはトマトソースは、スパゲッティの内に眠るうまさを、十全に引き出した。一方おまえのウニとイクラのソース、アワビのソースは、麺のうまさよりも、ソースのうまさの方が、はるかに大きい。」

山岡「う・・・」

海原「おまえは日本風とかイタリア風とかの外形に心を奪われ、本質を忘れた。たとえイタリア風であれ、フランス風であれ、日本人は素材の持つ本質的なうまさを素直に引き出した料理が好きなのだ。それこそ日本人好みというもの。たとえ日本風に調理しても、素材のもつうまさを包みかくしてしまうような料理は、日本人好みではないのだ。ことの本質を忘れては、うまいもまずいもない!!おまえは日本人のくせに、日本人の好みをわからぬ愚か者だ!」

 ここでは「日本人好みとはどういうことか」という点を、いかに把握したかが問われているのがわかるでしょう。単に味の善し悪しだけではないのです。

 こうした観点は別の対決の場面でも出てきます。例えば、「カレー勝負」(24巻)では「そもそもカレーとは何か」という点が問われていますし、「究極の披露宴」(27巻)では、そもそも披露宴とは何かという点から料理の選択をしています。

 このように、「究極対至高」の対決では、対象の本質を把握できたかどうかという点が問われるのです。
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2011年12月11日

『美味しんぼ』から何を学ぶべきか(3/13)

(3)『美味しんぼ』は弁証法的な討論を通じて美味を追究する

 本稿では、『美味しんぼ』から何を学ぶべきかという点を本題にしています。前回までは、近年、食に関する安全が問題視されているという点を紹介しました。その問題に対してどう対応していけばよいかということが、大きな課題になっているわけですが、そのヒントが『美味しんぼ』に隠されているということで、『美味しんぼ』から何を学ぶべきかを扱っています。

 今回は、まず『美味しんぼ』とはいかなるマンガなのかを紹介しましょう。

 端的には、山岡士郎・栗田ゆうこによる「究極のメニュー」と、海原雄山による「至高のメニュー」の対決を軸にしたマンガだと言えます。

 物語は、栗田が東西新聞社に新入社員として入ってくるところから始まります。東西新聞社では、当時創立100周年記念のイベントとして「究極のメニュー」作りが企画されていました。世界のありとあらゆる美味珍味の中からよりすぐった、後世に残す文化遺産のメニューを作ろうというものです。その担当者の決定のため、社員に審査が行われた結果、栗田と、グータラ社員として有名だった山岡の2人が選ばれることになりました。

 ところが、山岡は「究極のメニュー」作りに興味を示さず、一向に取り組もうとしません。

 そんなとき、画家・陶芸家で、希代の美食家と呼ばれている海原雄山が東西新聞社にやってきます。この海原と山岡は実の親子ですが、激しく憎み合っていました。山岡は、海原が自分の芸術への道を歩むため、妻(山岡にとっての母親)に大きな負担をかけ、死なせてしまったと考えていたからです。母の死後、山岡は家出をすることになるのですが、その際、憎き父親の芸術作品の数々をぶちこわしていったため、海原も実の子である山岡を憎むようになっていました。

 東西新聞社にやってきた海原は、山岡が「究極のメニュー」の担当者だと聞いて大笑いします。それに怒った山岡は海原と天ぷらの味の判定で勝負をすることになります。腕の良い職人数人の中から、どの職人がうまい天ぷらを揚げられるか、実際に揚げる前に判定するというものです。結果、山岡は海原に敗れてしまいました。この悔しさから、山岡は「究極のメニュー」作りを本格的に担当するようになります。

 このように、「究極のメニュー」は、海原との対決を含んだものとして出発しています。
 
その後、山岡士郎と栗田ゆうこは、各地にまわって食材を集めたり、食品を味わったりしていきますが、「究極のメニュー」作りはなかなか進みません。その頃、東西新聞社のライバルである帝都新聞社では、「究極のメニュー」作りという企画を真似て、「至高のメニュー」作りを立案しました。その担当者は海原です。こうして、新聞社同士の対決として、さらには親子同士の対決として、「究極対至高」という場が設定されることになりました。毎回、何らかのテーマを決めて、料理対決を行うのです。

 以上のように、『美味しんぼ』は「究極のメニュー」作りという企画から始まったものですが、その出発点から山岡と海原の対決が含まれており、さらに「至高のメニュー」作りという企画が立ち上がったことで、その親子の対決が実際的な場で行われるようになったのです。もちろん『美味しんぼ』ではこの対決のみが取り上げられているわけではありませんが、この対決が物語の中核を担っています。この対決を軸にして、それぞれのメニューの担当者が美味を追究していくのです。

 すなわち、究極対至高という形をとった弁証法的な対話を通じて、真理を追究していくという構造をもったマンガなのです。
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2011年12月10日

『美味しんぼ』から何を学ぶべきか(2/13)

(2)『美味しんぼ』から何を学ぶか

 前回は、現在、食に関わって様々な問題が生じていることを紹介しました。安全性の問題、添加物の問題、健康に影響を及ぼす偏食や欠食の問題、伝統的な家庭の味が失われつつあるという文化的な問題、家族団らんから孤食化という問題などです。これらに対して明快な解答を与えることが、現代の日本において求められています。

実はこうした問題に長年にわたって取り組んできた漫画があります。雁屋哲・花咲アキラ『美味しんぼ』(小学館)です。1983年から『ビッグコミックスピリッツ』で連載を開始したこの漫画は、高度経済成長の果てに豊かさを獲得した日本に広がったグルメブームを批判し、本当の美味とは何かを追求し、描いてきました。現在も連載を続けており、107巻まで出版されていますが、その基本的な姿勢は貫かれたままです。そこには現代の食に関する問題を解くための貴重な提言があると思われます。

 しかし、『美味しんぼ』は単に食の問題を扱った漫画ではありません。問題に対して、どのようにアタマを働かせればよいのかということや、大きく言えば、いかに生きるべきかといった大きな問題にまで言及している漫画なのです。結論から言えば、その考え方は非常に弁証法的であり、生き方は主体的なのです。

 そこで、本稿では『美味しんぼ』を取り上げ、現代の食に関わる問題をどのように考えていけばよいかを明らかにすると同時に、そこに貫かれている弁証法的な考え方や主体的な生き方を浮き彫りにしていきたいと思います。

 まず第1章では、『美味しんぼ』の様々な場面を取り上げ、そこに現れている弁証法的な考え方を明らかにします。続く第2章では、その弁証法的な視点でもって、食の問題をいかに考えていけばよいのかを明らかにします。最後に第3章では、『美味しんぼ』に出てくる主人公たちの生き方を検討し、その主体的なありかたを浮き彫りにすると同時に、弁証法的な考え方との関わりについて説きたいと思います。
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2011年12月09日

『美味しんぼ』から何を学ぶべきか(1/13)

(1)食をめぐる様々な問題が浮上している

 2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。マグニチュード9という観測史上最大の地震が起こり、そこへ津波が襲いかかり、各地に甚大な被害をもたらしました。これにより、福島原発でメルトダウンが起こり、各地に放射線・放射性物質が流出するという事態になりました。そして、茨城県のほうれん草や福島県の牛乳に基準値を上回る放射線量が検出され、現在、食に対する意識が高まっています。
 食の安全性に関わっては、これまでにも様々な事件が起こり、大きく取り上げられてきました。2001年には国内で初めてBSE感染牛が発見され、話題となりました。2002年には全農系鶏肉加工会社が国産と偽装し輸入肉7トンを不正混入する事件が起こりました。2006年には日本ライスがコシヒカリに屑米、中国産米などを混入し、福井県産コシヒカリとして販売していたことが明らかになりました。2007年にはミートホープ社で牛ひき肉に豚肉を混入していたことが発覚しました。
 現代の日本人がよく口にしているコンビニ弁当やスナック菓子ですが、これには食品添加物が入れられており、その安全性を問う声もあります(例えば、安部司『食品の裏側』東洋経済、2005年)。
 こうした問題の背景には、我々日本人の食生活の変化というものがあります。ここで、戦後の日本の食生活の変化を振り返ってみましょう。

「『食』をめぐる社会状況の変化を見ると、戦後以降80年代を境にして大きく変化している。80年代は現在20代の若者が生まれた時代である。80年代以前の多くの人の食生活は、家庭内で主婦が作る家庭料理を家族で食べるという形態が中心だった。主婦が生鮮食品や一次加工品を、個人や家族の好みに合わせて創意工夫をこらして調理するのである。(中略)このような食事を『近代的食事』と呼ぶことにしたい。
 しかし70年代には、すでにデニーズやすかいらーくなどファミリーレストランが誕生し、80年代にはすしや牛丼など安価な和食レストランも次々生まれた。これらによって家族そろって外で夕食を食べることを、多くの人が手軽に実現できるようになる。
 さらに90年代にはコンビニ食などの食事を家に持ち帰って食べる、『中食』が増大する。外食や中食は、フードテクノロジー、フードビジネスによって創り出された食事であるが、このような食事を『合理的食事』と呼ぶことにしたい。(中略)
 コンビニ食に代表される中食は、外食よりもさらに安価で一人でも簡単に手に入れられる食事である。それまで、子どもや収入の多くない若者にとって、食事は家庭内で食べるものとほぼ限定されていた。それが中食の広がりによって、小、中学生でも家庭の外で簡単に利用できるようになったのである。若者が外食や中食を受け入れ、家庭料理が市場化されたことと裏腹に、主婦の食労働の価値は低下したと言える。」(梶原公子『自己実現シンドローム――むしばまれる若者の食と健康』長崎出版、2008年、p.182)

 つまり、1980年代以前は主婦が作る家庭料理を食べるという「近代的食事(内食)」であったものが、80年代からレストランが次々誕生したことにより外食が多くなされるようになり、90年代になるとコンビニやファーストフードで食事を済ませる「合理的食事(中食)」が広がっていったということです。
 こうした過程で、食をめぐる様々な問題が生じてきました。冒頭で挙げた安全性の問題はもちろん、我々の食事が家庭料理中心から外食・中食へと変わりつつある中で、伝統的な家庭の味というものが失われつつあること、家族そろっての食事が減り孤食化へと変化していることなどが問題になっています。また外食や中食で済ませる場合、油分や脂質の摂取量が多くなります。その結果、成人病・メタボリックシンドロームなどが大きくクローズアップされるようになりました。さらに、こうした食生活の中で育ってきた子ども達の食に対する意識というものも危ぶまれています。
 このように食に関する問題は、食生活の変化にともない様々な形で浮上してきているものなのです。
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2011年12月08日

掲載予告:『美味しんぼ』から何を学ぶべきか

 現在の日本では、食の安全性の問題、食品添加物の問題、健康に影響を及ぼす偏食や欠食の問題、伝統的な家庭の味が失われつつあるという文化的な問題、家族団らんから孤食化への変化など、食をめぐってさまざまな問題が浮上しています。

 雁屋哲・花咲アキラ『美味しんぼ』(小学館)は、1980年代から、こうした食をめぐるさまざまな問題にとりくんできた漫画です。しかし、この『美味しんぼ』は、単に食の問題を扱っただけの漫画ではありません。食をめぐる諸々の問題を解いていくことをつうじて、一般的にわれわれが何らかの問題に直面した場合にどのようにアタマを働かせればよいのかということや、さらに、いかに生きるべきかといった大きな問題にまで言及している漫画であるということができるのです。

 本ブログでは、明日から、『美味しんぼ』から何を学ぶべきかという問題を論じた小論を掲載していくことにします。この小論では、『美味しんぼ』の内容を紹介しつつ、現代の食に関わる問題をどのように考えていけばよいかを明らかにすると同時に、そこに貫かれている弁証法的な考え方や主体的な生き方を浮き彫りにしていきたいと考えています。ご期待ください。

 以下、目次(予定)です。

はじめに
(1)食をめぐる様々な問題が浮上している
(2)『美味しんぼ』から何を学ぶか

1.『美味しんぼ』は「本当の美味とは何か」を追求する
(3)『美味しんぼ』は弁証法的な討論を通じて美味を追求する
(4)「究極VS至高」対決ではどこまで対象の本質にせまれたかが問われる
(5)対象の本質の把握のためには弁証法が必須である

2.『美味しんぼ』は食の問題における弁証法的把握の必要性を説く
(6)生命体にとって食とは外界(地球)の実体的な摂取である
(7)人間は自らの食のあり方を目的意識的に問うていかなければならない
(8)自らの食のあり方を問うためには弁証法的な視点が必要である

3.『美味しんぼ』は食の問題を通じて人間の生き方を説く
(9)権威に従う生き方が批判されている
(10)山岡・海原は権威に屈しない
(11)主体性を背後から支えるものが弁証法の実力である

まとめ
(12)物事の本質を問うて自分で判断する姿勢をこそ学ぶべきである
(13)自立した国民による自立した国家の確立が求められている
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2011年05月24日

三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う(13/13)

(13)「日常生活に役立つレベルの弁証法」は正当に評価すべきである

 前回は、本稿でのこれまでの論の流れをふり返ることで、三浦つとむさんの弁証法は、人間を支配する「神」に対抗するための科学として創出されたものであり、敗戦後、「天皇=神」という絶対的な価値観が崩壊して日本人が生きる指針を失ってしまった時代に、何らかの「神」的な存在にすがる(支配される)のではなく、ほかならぬ自分自身の力で未来を切り拓いていくための武器として、啓蒙的なレベルで説き続けられたものである、という結論を確認しました。

 本稿を終えるにあたって、最後にあらためて強調しておきたいのは、三浦つとむさんの弁証法が、日常生活に役にたつレベルのものであったことの長所は、やはり正当に評価されなければならない、ということです。このことは、南郷継正先生の『武道哲学講義V』(『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第六巻』)における三浦つとむさんの弁証法への批判的な言及――具体的には、学問体系の構築のためには学問的レベルでの弁証法の学びが必要になってくるのに三浦つとむさんは諺・金言レベルでとどまってしまった、結果として専門分野で学問体系を創ることができなかったということ――をどのようなものとして位置づけてとらえておけばよいか、という問題にかかわります。

 この問題については、連載の第11回でも簡単に触れました。端的には、南郷継正先生が指摘しておられる点は必ずしも三浦弁証法の短所としてだけとらえられるべきものではなく、見方によっては長所ともとらえられるのではないか、つまり、特定の専門分野に過度にのめりこむことなく日常生活に役立つというレベルで説き続けたからこそ、どんな専門分野にすすもうとする人にも学べるという一般性をもったレベルで弁証法の基本的な姿を提示することができたのではないか、ということでした。この観点から注目したのは、南郷継正先生による次の文言です。

「わが恩師滝村隆一の言にあるように、エンゲルスや三浦つとむの弁証法はたしかに幼稚ではある。でも、それでも滝村国家論の主要な柱と化していることを忘れてはならない。だからそれだからこそ、初級者には『弁証法はどういう科学か』は、逆に不可欠なのである。簡単には、算数の学びなくして数学(微分・積分)の学びは不可能に近いからである。」(南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第六巻』p.300)

 このように、いかな学問志望者にとっても三浦弁証法の学びは必須の過程である、いくら初歩的だからといって決してバカにしてはならない、ということができるわけでした。

 このことは、大きく、学問の発展の歴史という観点からとらえ返しておく必要があるでしょう。

 端的には、学問の歴史の流れでみれば、問題解決の武器としての弁証法を創出する人と、それを実際に使用してそれぞれの専門分野で学問的体系化を成しとげていく人とが異なるのは当然である、ということです。つまり、学問の歴史に残る偉人といってよい三浦つとむさんにおいての弁証法は、たとえば南郷継正先生(および南郷学派の先生方)が弁証法を武器として「いのちの歴史」を究明したり学問としての国家論体系を構築したりしていくのとは、おのずと位置づけが異なるのです。私たちは、学問とはあくまでも時代の学問である、という観点をつねに堅持しておかなければなりません。三浦つとむさんの弁証法が日常生活に役立つレベルのものであったのは、価値観の喪失という情況をいかに打開していくかという時代の要請に見事にこたえるものであったのであり、この点はいくら高く評価してもしすぎることはないのです。学問の発展の歴史という観点からみても、「神」的な存在にすがることを否定し、現実の世界が突きつけてくる問題をあくまでも自分の力で解決していくのだという姿勢を確立する必要があったという意味では、あの時代の日本(敗戦後の日本)における弁証法はこのような啓蒙的なレベルのものでよかったのだ、といえるのです。

 ただし、現代の日本において自分の専門分野で本当に学問的な体系化を志すならば、このような啓蒙的なレベルの弁証法の学びだけでは不足しますから、南郷継正先生によって学問体系レベルにまで発展させられた弁証法をしっかりと学びとることによって補っていかなければならない、ということができるわけです。

 しかし、このことを、三浦つとむさんの弁証法と南郷継正先生の弁証法の二つの異なる弁証法があるというように形而上学的に把握してはなりません。学問の発展の歴史においては、前者から後者へと、ひとつにつながった発展の流れが確固として存在しているのです。

 本稿のそもそもの問題意識は、三浦つとむさんをいわば「絶対精神の自己運動」としてとらえる、ということでした。これは、学問の発展の歴史とは「絶対精神の自己運動」の過程にほかならないのだ、という見方にかかわります。この見方からすれば、歴史上の偉大な学者たちはすべて、ひとつの絶対精神をその時代、その時代において体現する存在なのだ、ということになります。つまり、わかりやすくいうならば、「絶対精神の自己運動」としての学問の歴史というのは、あたかも一人の人物の認識の発展過程であるかのようにとらえるもの(あくまでも、たとえ話! です)なのです。

 この観点からすれば、三浦つとむさんは敗戦後の日本において「絶対精神の自己運動」を見事に体現した偉大な学者だったのであり、その役割を南郷継正先生へと引き継いでいったのだ、というようにとらえられなければなりません(*)。南郷継正先生が三浦つとむさんの弁証法に批判的に言及するのは、絶対精神が自分自身の過去をふり返ってみているようなもの、いいかえれば、立派な大人になった人物が自分の若い頃をふり返って「まだまだ未熟な部分があったな」とふり返ってみているようなものである、ととらえておくべきでしょう。

 ここで私たちが想起しなければならないのは、「個体発生は系統発生をくり返す」という命題にほかなりません。つまり、学問の体系化を志す私たちは、三浦つとむさんから南郷継正先生へという学問の系統発生の過程を、みずからの認識において、個体発生の過程として、くり返さなければならないのです。このような過程をたどってこそ、私たち自身が「絶対精神の自己運動」として、三浦つとむさんから南郷継正先生へと受け継がれてきた学問発展の歴史を、しっかりと引き継いで新しい時代に実らせていくという役割をはたすことができるでしょう。この人類史的な課題を何としてもやり遂げるために、三浦弁証法から南郷弁証法へという流れをしっかりとみずからのものにすべく学び続けていくという決意を表明して、本稿を終えたいと思います。

*「絶対精神の自己運動」としての学問発達の歴史という観点からすれば、20世紀後半の日本に先行して大きな発展が成し遂げられた19世紀前半のドイツにおいても、フィヒテからシェリング、ヘーゲルへというドイツ観念論の発展の流れが、ナポレオン占領下に端を発していることに着目すべきかもしれません。19世紀前半のドイツには、敗戦によって他国に蹂躙された国家を復興させていくためにこそ学問の再興がもとめられた、という点で、20世紀後半の日本との共通点をみることができるのです。この問題もふくめて、古代ギリシャ以来の「絶対精神の自己運動」としての学問(哲学)発展史がどのような構造をもっているのかについては、近々、本ブログにおいてしっかりと説いていく(解いていく)ことをお約束しておきます。ご期待ください。

(了)
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
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 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
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 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
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 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言