2013年06月22日

三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ(6/7)

(6)権力論、国家論、階級闘争論

 今回は、権力論、国家論、階級闘争論についての質問(19〜21)を取り上げて検討していくことにしましょう。まずは、質問19〜21で扱われている問題を、三浦つとむさんの積極的な主張に即してまとめたものを再掲しておきます。

【質問19】 力(Kraft)、強力(Gewalt)、権力(Macht)は区別されなければならず、国家は何よりもまずイデオロギー的な権力として把握されるべきである。

【質問20】 「国家の死滅」とは政治的権威がなくなっていくことである。

【質問21】 階級戦争は共倒れに終わることもあり、世界核戦争もその一例である。


 質問19では、エンゲルスの『反デューリング論』や『フォイエルバッハ論』、マルクスとエンゲルスの共著である『ドイツ・イデオロギー』などからの引用をつうじて、マルクスやエンゲルスが、社会的な力にかかわる諸概念、より具体的には、力(Kraft)、強力(Gewalt)、権力(Macht)という3つの語を厳密に使い分けていたことが主張されています。『ドイツ・イデオロギー』からの引用を紹介しておきましょう。

「社会的な力(soziale Macht)、すなわち、分業のなかで条件づけられるさまざまな個人の協働によって生じる何倍にもされた生産力(Produktionskraft)は、これらの個人にとって、協働そのものが自由意志的ではなく自然成長的であるために、彼ら自身の結合された力(Macht)として現われず、むしろ疎遠な、彼らの外に立つ強制力(Gewalt)として現われるのであり、この強制力について彼らはどこからきて、どこへゆくかを知らず、したがって、それを彼らはもはや支配することができず、それは逆に、いまや人間たちの意志や行動から独立した、それどころか、この意志や行動をかえって指揮する、独特の一連の局面と発展段階をとおっていく。」(マルクス、エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』、新日本出版社、p.45。ドイツ語の挿入は本稿の筆者による)


 このように、マルクスやエンゲルスは、力(Kraft)、強力(Gewalt)、権力(Macht)という3つの語を厳密に使い分けていたのです。にもかかわらず、マルクスやエンゲルスの著作の英訳あるいは日本語訳においては、これら3つの語が適切に訳し分けられることなく、すべてが混同され同一視されていました。たとえば、英訳では Gewalt が Force となったり Power となったりで一貫性がなく、日本語訳では、Kraft、Macht が「力」、Gewalt が「権力」「強力」「暴力」などと訳されるかと思えば、またあるときには Macht が「権力」「勢力」「威力」などと訳されるといった混乱振りを露呈していたのでした。こうした情況にたいして、三浦さんは、この質問19において、次のような端的な規定を与えています。

“Kraft” ・・・力そのもの(物質的または観念的な)
“Gewalt” ・・・人民に対して行使される暴力
“Macht” ・・・管理力


 つまり、Kraft というのが物理的あるいは観念的に作用する力そのものを一般的に指す言葉であるのにたいし、Gewalt というのは人間にとって暴力として作用する状態におかれた力のことを指すのであり、Macht というのは人間が社会的な関係において創り出した組織的な構造を管理するために作用する力(組織の構成員を支配する共通の意志=規範の力)のことを指すのだ、というわけです。社会の構造を科学的に究明していこうとするならば、こうした力(Kraft)、強力(Gewalt)、権力(Macht)の概念上の差異をしっかりとおさえておく必要があります。

 このことがもっとも鋭く問われるのが、社会全体を統括する国家をどのようなものとして理解するのか、という問題においてであるといってよいでしょう。「官許マルクス主義」においては、ロシア革命の直前にレーニンが著した『国家と革命』以来、国家をある階級を抑圧するための物質的な暴力機構(具体的には常備軍や警察のような武装した特殊な人間の集団)として解釈されてきたのでした。このように、国家をもっぱら Gewalt として把握する国家暴力機構説にたいして、三浦さんはヘーゲル哲学の唯物論的改作というマルクス主義成立の経緯をふまえてマルクスやエンゲルスの著作を読み込むことで、国家は国家意志によって秩序を維持する Macht (権力)として把握されなければならないという国家意志説を対置しました。その際に、重要な根拠となったのが、質問19において引用された『フォイエルバッハ論』の以下の文章です。

「国家は、われわれにたいして、人間を支配する最初のイデオロギー的権力としてあらわれる。社会は、内外からの攻撃にたいして共同の利益をまもるために、一つの機関をつくりだす。この機関が国家権力である。」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』、新日本出版社〔古典選書版〕、p.91)


 ここでは、国家権力がイデオロギーによって秩序を維持する権力であることが端的に示されています。三浦さんは、国家においては何よりもまずイデオロギー(観念体)としての国家意志が基礎であり決定的であること、国家はまず国家意志の成立において問題にされなければならないことを強調しました。もう少し具体的にいうならば、諸階級の意志・要求が総合されることで個人の意志から独立した規範としての国家意志が形成されていくのであり、この国家意志にもとづいた国家権力のはたらきによって社会の秩序が維持されていく(その過程において Gewalt の行使を伴うのは当然です)、というのが三浦さんの国家論なのです。

 このような見方から、国家はそもそも一つの矛盾である、という捉え方がでてきます。つまり、支配階級の特殊利害が幻想的な「共同利害」として押しつけられてしまうという側面と、社会全体の現実的な共同利害(風水害対策や伝染病予防など)を処理するという側面との二重性です。このような矛盾(二重性)をしっかりと把握できるか否かが、プロレタリア革命(共産主義社会の建設)の大きな任務とされていた「国家の死滅」という課題の理解に大きくかかわってくるのです。この問題を提起したのが、質問20です。

 マルクスはこのような国家の二重性(なくさなければならない側面と、なくすことのできない側面との統一)をしっかりと捉えていましたから、たとえ階級対立がなくなり階級的な特殊利害が消えうせても、社会全体の共同利害は依然として残る以上、この共同利害を処理するための公的機関は残るだろう、と予想しました。マルクスは、この公的機関のことを「共産主義社会の国家組織」(『ゴータ綱領批判』)という言葉で表現しています。つまり、マルクスやエンゲルスにおける「国家の死滅」とは、国家の二重性のうち、支配階級の特殊利害を貫徹するという側面を廃棄する(いいかえれば、政治的な権威をなくす)ものにほかならなかったわけで、共同利害を処理するという側面は、共産主義社会においても引き継がれていくのだと把握されていたわけです。ところが、国家を暴力機構(Gewalt)としてきわめて一面的に、なくさなければならない悪しきものとして把握していたレーニンは、「国家の死滅」とは暴力的な機構(軍隊や警察)が消滅することであってそれ以外ではない、と考えました。ここから、レーニンは、マルクスのいう「共産主義社会の国家組織」という言葉を誤解してしまったのだ、というのが三浦さんの主張です。レーニンは、「共産主義社会の国家組織」というマルクスの言葉を、共産主義社会というゴールにおける公的機関のあり方を指すものとしてではなく、共産主義社会というゴールに向かっていく過程(共産主義の第一段階)における国家のあり方、すなわち、革命によって国家の暴力機構を奪取した労働者階級が資本家階級を抑圧するという国家のあり方(プロレタリア独裁)を表現したものであると理解し、これに「死滅しつつある国家」との規定を与えたのでした。

 三浦つとむさんは、こうしたレーニンの解釈が、当時(1960年代)のソ連社会のあり方をどのように理解するかという議論において、大きな混乱のもととなっていたと考えていましたから、この質問20をつうじて、「国家の死滅」ということをどのように理解するべきなのか、問題を提起したのでしょう。ソ連が崩壊してしまったいま、プロレタリア革命による国家の死滅という課題を現実的なものと考えうるかどうかはともかく、国家における二重性を明確に把握しておかなければならないという指摘そのものは、現代においてもきわめて重要な意味をもつものであるということができるでしょう。

 最後の質問21は、マルクスとエンゲルスの共著『共産党宣言』からの引用をつうじて、階級闘争の共倒れということがありうることが主張されています。これは、「官許マルクス主義」において、階級闘争は必ず古い階級(支配階級)の敗北と新しい階級(被支配階級)の勝利に終わるとの主張があったことを背景としています。ここから、世界核戦争は必ず古い支配勢力たるアメリカ帝国主義の敗北に終わるからむしろ歓迎すべきだ、という奇怪な主張すらなされていたのです。三浦さんはこうした主張を厳しく批判したわけですが、そこには階級闘争を見る際にも矛盾という視点をもっていたこと、つまり、たんに敵対する階級の特殊利害のぶつかり合いをみるだけでなく、その背後に人類としての共通利害をも重ねてみていたのだということを指摘することができるでしょう。
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2013年06月21日

三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ(5/7)

(5)「生活と生産」の概念をめぐって

 今回は、「生活の生産」の概念をめぐる質問(13〜18)を取り上げて検討していくことにしましょう。まずは、質問13〜18で扱われている問題を、三浦つとむさんの積極的な主張に即してまとめたものを再掲しておきます。

【質問13】 生活資料の生産は物質的生活の生産の一部にすぎない。

【質問14】 生活の生産・再生産は、生活資料の生産・再生産と人間の生産・再生産に分かれる。

【質問15】 生活の生産関係も、生活資料の生産・再生産の関係と人間の生産・再生産の関係に分かれる。

【質問16】 生活の生産様式も、生活資料の生産・再生産の様式と人間の生産・再生産の様式に分かれ、その総体には家族関係も含まれる。

【質問17】 生産と消費とは直接的同一性(統一の特殊形態)の関係にもある。

【質問18】 『経済学批判序説』では、生産と消費の関係として相互浸透の具体的発展形態の論理構造が説かれている。


 このうち、質問13においては、マルクス、エンゲルスの初期の共著である『ドイツ・イデオロギー』と、マルクス『資本論(第三巻)』からの引用によって、人間は生活資料を生産することによって間接に物質的生活そのものを生産すること、すなわち、生活資料の生産は、マルクス主義における「生活の生産」という概念の一部を占めるにすぎないものであることが主張されています。

 さらに、質問14〜16にかけては、同じく『ドイツ・イデオロギー』や、マルクスの『経済学批判』の序言、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』の序文からの引用をつうじて、マルクスやエンゲルスが、人間の存在を何よりもまず生活過程として捉える視点をもっていたこと、さらに、その生活過程は、常識的な意味での生産たる生活資料の生産・再生産の過程のみならず、その生活資料の消費による人間自身の生産・再生産の過程をも含んだ二重の性格をもっていたことが主張されています。そのもっとも端的な根拠となる『家族、私有財産および国家の起源』の序文からの文章を紹介しておきましょう(この文章は、質問14において引用されています)。

「唯物論的な見解によれば、歴史における究極の規定的要因は、直接的生活の生産と再生産とである。しかし、これはそれ自体さらに二通りに分かれる。一方では、生活資料の生産、すなわち衣食住の諸対象とそれに必要な道具の生産、他方では、人間そのものの生産、すなわち種の繁殖が、これである。」(エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』序文)


 このようにエンゲルスは、いわゆる唯物論的歴史観において歴史の究極な規定的要因としてみなされる「生活の生産・再生産」について、生活資料の生産・再生産と人間そのものの生産・再生産との二重構造をもっていることを非常に明快に主張しています。

 しかし、スターリンは、生産という言葉を常識的に解釈して生活資料の生産のことだと把握しました。このため、「官許マルクス主義」においては(スターリンこそ最高の理論家であるという建前を堅持するために)、こうしたエンゲルスの主張を生産の概念を曖昧にするものとして批判してきた歴史があったのでした。

 しかし、「官許マルクス主義」のように、生活資料の生産のみを歴史の究極的な基底的な要因と見なすならば、いわゆる唯物論的歴史観は、きわめて平板なものになってしまいます。極端にいえば、生活資料の生産力が向上していけばおのずと政治的な革命につながる、といった直線的・短絡的な理解すら正当化されかねないのです。そこには、古い社会体制を打ち倒そうとする「革命的大衆」がどのような過程的構造において創出されてくるのかという問題を、まともに解きうるような視点は存在しません。

 これにたいして三浦さんは、マルクスやエンゲルスの諸々の著作を丁寧に読み込むことで、マルクス主義における「生活の生産」概念が、生活資料の生産と(その生活資料の消費による)人間そのものの生産との二重構造をもっていることをあきらかにしました。さらに、生活資料の生産のあり方が人間そのものの生産のあり方を規定すること、たとえば、資本主義的生産様式においては、生活資料の生産の場面で労働者のクビが切られたり賃金が切り下げられたりするために、人間そのものの生産の正常な進行が阻害されてしまうといった事態が生じてくること、ここから階級闘争が必然的に生じてこざるをえないことなどを主張したのでした。このように「生活の生産」概念を二重構造において把握することによってこそ、社会のダイナミックな歴史的発展過程をまともに把握していくことができるのだといってよいでしょう。

 なお、質問16においては、家族もまた生活の生産関係に含まれることが主張されています。スターリンは生産を生活資料の生産にほかならないと狭く解釈してしまったために、人間の生産にとって主要な場面となる家族が、生産関係から追い出されてしまうことになったのです。結局、家族というものが社会全体のなかにどのように位置づけられるべきなのか、理論的に明確に位置づけることができないという事態に陥ってしまったのです。しかし、王や皇帝の一族の例をあげればあきらかなように、家族関係は歴史の動きに大きな影響を与えてきたのであって、社会における家族の位置を理論的に明確にできないようでは、いわゆる唯物論的歴史観は科学的歴史観の名に値しないことになってしまうでしょう。三浦さんは、「官許マルクス主義」におけるこのような理論的混乱にたいして、家族は社会のいわば細胞に相当する組織(Macht)であって、それなりの土台(物質的側面)と上部構造(精神的側面)をもつ、という見解を提示したのでした。これによって、社会における家族の位置が理論的に明確になったのです。

 質問17〜18においては、マルクスの『経済学批判 序説』の文章が引用され、ここでマルクスが説いている生産と消費との関係(生産と消費とが媒介関係にあると同時に各自が直接に他のものでもある、すなわち、生産は直接に消費でもあり、消費は直接に生産でもある)が、「対立物の相互浸透」の論理構造をあきらかにするものにほかならないことが主張されています。マルクスの文章のうち、核心的な部分を引用しておきましょう。

「生産は直接に消費であり、消費は直接に生産であるだけではない。また生産は消費の手段であり、消費は生産の目的であるだけではない。つまり、それぞれ一方が他方にその対象を、生産は消費の外的対象を、消費は生産の表象された対象を提供するということだけではない。またそれらのおのおのが、直接に他方のものであるだけではなく、他方のものを媒介しているだけでもない。むしろ両者のおのおのが、自分を完成することによって他方のものをつくりだすのであり、自分を他方のものとしてつくりだすのである。」(マルクス『経済学批判』、岩波文庫、pp.301〜302)


 つまり、つながりあっているものがお互いに相手のもっている性質を受けとることで変化していく、このようなつながりが深まる形で発展がすすんでいく、ということです。三浦さんは、このマルクスの文章こそ、「対立物の相互浸透」の論理構造を具体的に示したものだと考えたわけです。この「対立物の相互浸透」の法則は、どんな事物もそれ自体として孤立して存在していたのであれば変化しないのであり、かならず他の事物とのつながりにおいて変化していくものなのだ、ということをあきらかにするものであり、きわめて重要な法則であるといえます。

 しかし、本稿の連載第2回で説いたように、「官許マルクス主義」においては、(レーニンがこの法則について触れていなかったために)「対立物の相互浸透」が弁証法の主要法則の一つであることが明確には認められていませんでした。三浦さんは、このことが問題解決の武器たる弁証法の有効性を傷つけていると考えていましたから、この公開質問状においても、この点をマルクスの文章を引用することで、強調しておきたかったのだと思われます。
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2013年06月20日

三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ(4/7)

(4)真理と誤謬との関係について

 今回は、真理と誤謬との関係をどのように考えるのかという問題をめぐる質問(9〜11)を取り上げて検討していくことにしましょう。まずは、これらの質問で扱われている問題を、三浦つとむさんの積極的な主張に即してまとめたものを再掲しておきます。

【質問9】 相対的真理とは多少の誤謬を含むものであり、真理と誤謬の相互転化について認識しておくことが実践上不可欠である。

【質問10】 相対的誤謬は相対的真理の反対概念であり、多少の真理を含んでいる。

【質問11】 科学史の中には、相対的誤謬の多くの事例を見出すことができる。


 質問9では、エンゲルスの『反デューリング論』から以下の文章が引用された上で、真理と誤謬とを統一して把握することの重要性が強調されています。

「真理と誤謬とは、両極的な対立のかたちでうごくすべての思考規定と同じように、ごく限られた分野にたいしてしか絶対的妥当性をもたない。このことは、われわれがたったいま見たところであり、デューリング氏にしても、弁証法の初歩を、すなわちまさにあらゆる両極的な対立の不十分さを論じている箇所をいくぶんでも知っていたなら、それがわかったであろう。真理と誤謬との対立を、さきほど述べた狭い領域をこえて適用するやいなや、対立は相対的となり、したがって、正確な科学的表現法としては役に立たなくなる。もしまたこの対立を絶対的に妥当するものとして右の領域をこえて適用するなら、いよいよひどいしくじりにおちこむ。対立の両極はその反対物に転化し、真理は誤謬となり、誤謬は真理となる。」(エンゲルス『反デューリング論1』、国民文庫、pp.139−140)


 ここでエンゲルスのいう「相対的」とは、真理と誤謬との対立が相対的であるという意味にほかなりません。つまり、真理そのものは相対的なもので、そこには少しばかりの誤謬がこびりついているのであって、したがって条件しだいでこの真理は誤謬に転化することが主張されているわけです。三浦さんは、真理から誤謬への転化の認識が、マルクス主義者の実践活動にとって不可欠の要件であることを強調しています。教条主義者の理論上、実践上の誤りが、特定の命題を条件を無視してあらゆる場面に適用しようとする(たとえば、中国革命において大きな成果をあげた農村ゲリラ闘争の方式を先進国の革命運動にも適用しようとする)ところから生ずることを指摘したわけです。

 このように三浦さんは、真理をあくまでもその対立物たる誤謬との統一において捉え、真理がなぜ、いかにして誤謬に転化してしまうのか、その過程的構造をあきらかにしようとしました。この背景として、レーニンが『唯物論と経験批判論』という著作において展開した真理論が「官許マルクス主義」における通説とされていたという事情を指摘することができます。それでは、レーニンの展開した真理論とはいかなるものだったのでしょうか。

 レーニンの『唯物論と経験批判論』は、ロシアのマッハ主義者の主張に反駁することを目的として書かれたものでした。マッハ主義者というのは、エルンスト・マッハというオーストリアの物理学者(1838〜1916)の影響のもとに、真理の相対性(認識の不完全さ)の強調からあらゆる絶対的な存在(現実の世界の実在をも含めて)を否定する立場に落ち込んでしまい、エンゲルスが真理の絶対性について論じているのは誤りである、と主張していた人たちのことです。彼らの主張にたいしてレーニンは、無限のひろがりをもつ現実の世界を全面的に把握した認識のことを「絶対的真理」と名づけ、人類はやがてそういう絶対的真理を把持する状態に到達しうると想定した上で、現実の世界を部分的に把握した認識を「相対的真理」と名づけ、人類はこうした「相対的真理」を歴史的に無数に積み重ねていくことをつうじて「絶対的真理」へと無限に接近していくのだ、という見方を提示したのでした。つまり、レーニンにおいて真理が絶対的とか相対的とかいうのは、対象とする領域が絶対的であるとか相対的であるという意味になってしまったのでした。いうまでもなくこれは、誤謬との対立において真理の絶対性と相対性を論じたエンゲルスの真理論とは異なるものです。

 「官許マルクス主義」においては、こうしたレーニンの真理論が無批判に受け入れられていくことになりました。その結果、真理はどこまでいっても真理であって、誤謬との媒介関係を考えないという、形而上学的な態度を生んでしまったのでした。

 「官許マルクス主義」のように、真理と誤謬とを絶対的な独立において捉えてしまって、誤謬が人間の認識にとって必然的なものである(現実の世界は無限の広がり・多様性をもっているのに、人間の頭脳は常にそれを有限の範囲においてしか認識できない!)ことの把握を欠くと、誤謬の原因は認識の外部に、具体的にはもっぱら階級的条件や政治的な地位といったものに、もとめられるようになってしまいます。その結果、何らかの誤った(とされる)思想や理論を掲げた人たちは、ただちに政治的な敵であると断罪されることになってしまい、粛清が正当化される根拠ともなったのでした。真理をあくまでもその対立物たる誤謬との統一において捉え、真理が誤謬に転化する媒介関係を的確に把握しなければならないこと、誤謬は人間の認識にとって必然的なものであることを把握していた三浦さんは、こうした粛正の政治的な誤りを的確に見抜くことができたのです。このこともまた、真理と誤謬との関係の理解がマルクス主義者の実践活動にとって不可欠の要件である、との三浦さんの主張につながったといえるでしょう。

 さて、つづく質問10では、引き続きエンゲルスの『反ディーリング論』からの文章が引用され、相対的誤謬の問題がとりあげられています。引用されている文章を紹介しておきましょう。

「思考の至上性は、きわめて非至上的に思考する人間たちの系列をつうじて実現され、また真理たることの無条件の主張権をもつ認識は、相対的誤謬の系列をつうじて実現されるのである。このどちらも、人類の生命の無限の持続をつうじてでなければ、完全に実現されることはできない」(同、p.133)


 三浦さんは、この文章をふまえて、絶対的誤謬、相対的誤謬、相対的真理、絶対的真理の四者の関係を、4つの正方形を並べた図を用いて説明しています。すなわち、絶対的誤謬を表す正方形では全体が斜線に覆われ、相対的誤謬を表す正方形では一部斜線に覆われていない部分が存在するのにたいして、相対的真理を表す正方形では一部のみが斜線に覆われ、絶対的真理を表す正方形はまったく斜線に覆われていない、という図です。この図によって三浦さんは、相対的誤謬というものは相対的真理の反対概念であって、相対的真理には多少の誤謬が含まれるのと同様、相対的誤謬には多少の真理が含まれていることを主張しているわけです。また三浦さんは、理論の発展史を「否定の否定」として捉え、相対的真理から相対的誤謬を経て、また相対的真理にいたる過程として説明しています。

 「官許マルクス主義」のように、真理と誤謬とを絶対的に独立した、媒介のない対立関係として捉えてしまうと、マルクス主義の専門用語である相対的誤謬がそもそもどういうものであるのか、理解することは不可能です。せいぜい、エンゲルスの書き間違いにしてしまうくらいの解釈しか出てきません。三浦さんは、相対的真理を多少の誤謬を含む真理として把握していましたので、同じように、相対的誤謬を多少の真理を含む誤謬として、的確に捉えることができたのでした。

 こうした相対的誤謬の理解をふまえて科学史を大きな視点で押さえるならば、相対的誤謬というものはいたるところで見受けられるものであるということになります。質問11では、エンゲルス『反デューリング論』旧序文から以下の文章を引用することで、この問題が取り上げられています。

「だが、自然科学そのものでも、現実の関係を逆立ちさせ、映像を原形ととりちがえているような理論、したがって、上述したようなひっくりかえしをやる必要のある理論に、われわれはじつにしばしばぶつかるのである。そういう理論がかなりに長い期間にわたって通用している場合も、じつにしばしばある。」(同、p.238)


 三浦さんは、エンゲルスにならって、こうした理論の例として、カロリイク説(熱の正体は熱素〔カロリイク〕という実体であるとした説)やフロギストン説(燃焼とはある物体から燃素〔フロギストン〕という実体が飛び出していく現象であるとした説)、またヘーゲル弁証法を挙げています。質問10の説明において示したように、三浦さんは、こうした相対的誤謬を、科学の歴史においては必然的に経過する段階として捉えていました。三浦さんの主著である『弁証法はどういう科学か』においても、科学の歴史における「否定の否定」として、天文学や国語学、経済学の歴史を取り上げて相対的誤謬の例(天動説や言語構成説や効用価値説)が示されています。

 このように三浦さんは、相対的誤謬を理論の発展史が必然的に経過しなければならない段階として位置づけたわけですが、このことは、相対的誤謬にも汲み取るべき成果が含まれていることを強調することにつながりました。

 「官許マルクス主義」においては、真理は真理、誤謬は誤謬であって、これらは媒介のない対立として捉えられていました。こうした考え方では、例えばヘーゲルの弁証法は誤謬でしかなく、破って捨ててしまえばいいということになりかねません。こうした態度では、歴史の発展の必然性(なぜ、どのようにして、ヘーゲル弁証法は生成し、発展し、衰退していったのかの論理構造)が解明できないばかりではなく、掬い取るべき貴重な成果を見逃してしまうことにもなってしまいます。誤謬を相対的誤謬として、掬い取るべき真理を多少とも含むものとして把握することで、大きく科学の発展に資することができることは、三浦さんが熱心にヘーゲル研究にとりくんでいたことからもあきらかです(*)。三浦さんは、真理と誤謬との関係を的確に把握し、それを正確に表現することをつうじて、実践的にも理論的にも大きな成果を生み出す土台を構築してくれたのだといえるでしょう。

*このことにかんしては、本ブログに2013年3月11日から掲載した「『三浦つとむ意志論集』を読む」を参照してください。
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2013年06月19日

三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ(3/7)

(3)ヘーゲル哲学とマルクス主義の関係をどう捉えるか

 今回は、ヘーゲル哲学とマルクス主義の関係をどう捉えるのかという問題をめぐる質問(6〜8および12)を取り上げて検討していくことにしましょう。まずは、これらの質問で扱われている問題を、三浦つとむさんの積極的な主張に即してまとめたものを再掲しておきます。

【質問6】 マルクス主義における弁証法とは、運動の一般法則に関する科学であり、物質の弁証法的運動を意識的に反映することによって成立したものである。

【質問7】 客観的弁証法というのはヘーゲル流の用語であり、マルクス主義の基本用語ではありえない。

【質問8】 ヘーゲルにおいては弁証法=認識論=論理学であるが、マルクス主義においてはこの3者は区別されるべきである。

【質問12】 マルクス、エンゲルスの世界観は科学であって哲学ではない。


 質問6および7では、ヘーゲル哲学における弁証法とマルクス主義の弁証法との差異、より具体的には、前者から後者への発展はどのように行われたのかという問題、また、そのことをふまえて「客観的弁証法」という語をどのように理解すべきなのか、という問題が取り上げられています。

 まず、質問6では、エンゲルス『フォイエルバッハ論』から、以下の文章が引用されています。

「ヘーゲルにあっては、弁証法は概念の自己発展である。…(中略)…
 このようなイデオロギー的なさかだちはとりのぞかれなければならなかった。われわれは、現実の事物を、絶対的概念のあれこれの段階の映像としてとらえるかわりに、われわれの頭脳のなかの概念を、ふたたび唯物論的に、現実の事物の映像としてとらえた。これによって弁証法は、運動の一般的法則の科学、つまり外部の世界ならびに人間の思考の、両運動の一般的法則の科学にひきもどされた。」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』、新日本出版社〔古典選書版〕、p.71)


 三浦さんは、この文章の内容をふまえつつ、ヘーゲルの弁証法とマルクスの弁証法の差異を図によって示しています。その図に即して説明すると、以下のようになります。

 ヘーゲルにあっては、絶対概念の運動(客観的弁証法)が自己疎外によって自然の必然性(客観的弁証法)をうみだし、さらに人間のアタマのなかで概念の弁証法(主観的弁証法)という形をとるようになります。つまり、弁証法そのものが現実の世界のなかに客観的に(人間のアタマとは独立して)存在する、というのが観念論者であるヘーゲルの立場なのです。これにたいして、マルクスは、現実の世界に存在する物質的・弁証法的運動の意識的反映として、人間のアタマのなかに「運動の一般法則に関する科学」としての弁証法が成立するのだと考えます。絶対概念の自己運動としての客観的弁証法、またその自己疎外として生み出された自然の必然性としての客観的弁証法の存在(人間のアタマとは独立して弁証法そのものが存在する、という考え方)が否定され、弁証法が客観的世界の運動のあり方を意識的に反映した科学として捉えられるようになったわけです。このように、弁証法が客観的な存在から人間のアタマのなかの存在へと捉え返されたことを、エンゲルスは「還元」という言葉で表現したのです。

 このことをふまえた上で、質問7において、エンゲルス『自然の弁証法』における「弁証法、いわゆる客観的弁証法は、自然全体を支配するものであり、またいわゆる主観的弁証法、弁証法的な思考は、自然の至るところでその真価を現わしているところの、諸々の対立における運動の反映に過ぎない」との文言の意味が問われています。「官許マルクス主義」においては、エンゲルスも「客観的弁証法」という用語を自分の文章のなかに用いているのだから、「客観的弁証法」というのはマルクス主義の基本的な用語なのだ、という主張がなされる場合がありました。これにたいして三浦さんは、エンゲルスが客観的弁証法という言葉の前に「いわゆる」と添えていることに着目し、これはあくまでも「ヘーゲル学派でそう呼ばれているところの」という意味にほかならないのだと喝破したのです。このような三浦さんの読み方の妥当性は、質問6をつうじて主張されたヘーゲルの弁証法とマルクスの弁証法との違いをふまえるならば、あきらかだといってよいでしょう。

 つづく質問8では、エンゲルス『反デューリング論』における弁証法の規定、すなわち、「弁証法とは、自然、人間社会および思考の一般的な運動=発展法則に関する科学という以上のものではない」という規定が引用された上で、弁証法と認識論および論理学との関係をどのように理解するのか、という問題が提起されています。ここでの三浦さんの主張は、弁証法とはあくまでも世界全体(自然、社会、精神)をつらぬく一般的な運動法則を扱う科学であり、世界の体系的なつながりを究明する論理学の一部なのであって、認識という特殊な領域における発展構造を究明する個別科学としての認識論とは明確に区別されなければならない、というものです。もちろん、認識論と論理学とを同一視することも許されない、ということになります。

 ここで三浦さんがこのように主張したのは、官許マルクス主義において、弁証法、認識論、論理学の三者が同一のものと見なされてきた歴史があったからにほかなりません。それでは、なぜ「官許マルクス主義」において、弁証法=認識論=論理学という解釈がまかりとおってきたかといえば、それは、レーニンが『哲学ノート』で以下のように認めていたからだ、ということにつきます。

「マルクスは『論理学』にかんする著書をこそ書き残さなかったけれども、『資本論』という論理学を残した。…(中略)…ヘーゲルのうちにあるすべての価値あるものをとり、そしてこの価値あるものをいっそう発展させた唯物論、このような唯物論の論理学、弁証法、および認識論(三つの言葉は必要でない。それらは同じものである)が、『資本論』のうちで、一つの科学に適用されている。」(レーニン『哲学ノート 下巻』、岩波文庫、pp.131−132)


 このようにレーニンは、論理学、弁証法、認識論の三者を同一視していたわけです。しかし、客観的な現実世界の反映として、人間のアタマのなかに認識が成立するという唯物論的な立場を大前提とすれば、世界全体を対象とする弁証法あるいは論理学と人間のアタマのなかにしか存在しない認識を対象とする認識論とが同一のものでありえないことはあきらかです。それでは、レーニンはなぜこの三者を同一視するなどという誤りに陥ってしまったかといえば、それはヘーゲル『論理学』の研究に没頭するあまり、ヘーゲルの主張に引きずられてしまったからにほかなりません。この世界のすべてを絶対精神の自己発展の過程(絶対精神がみずからを理解していく過程)として筋をとおそうとした偉大なる観念論者ヘーゲルの体系にあっては、弁証法も論理学も認識論も、すべて、絶対精神の展開過程を扱うものとして同一だということになるのです。つまり、レーニンの理解はヘーゲル解釈としては正当なものであるといえます。しかし、現実世界とその反映たる認識とを区別しようという唯物論の見地からは、これは認められません。人間の認識を扱う個別科学であるべき認識論を、世界全体をつらぬく一般的な運動法則にかんする科学である弁証法と同一視してしまう(認識論を弁証法に解消してしまう)ならば、人間のアタマとココロのはたらきを究明して体系的な理論を構築していくという作業がおろそかにされてしまうことはあきらかです。三浦さんが、「官許マルクス主義」におけるこうした理論的混乱を正して、唯物論の立場から弁証法と認識論を明確に区別すべきことを主張したことによってこそ、個別科学としての認識論構築への道が切り拓かれたといってもよいでしょう。

 真理論および誤謬論を扱った質問9〜11(これらについては次回に取り上げます)を挟んで、質問12においては、エンゲルス『フォイエルバッハ論』や『反デューリング論』などからの引用をつうじて、マルクスやエンゲルスは哲学の遺産の継承者であること、また、ヘーゲルの世界観や弁証法が哲学であるのにたいして、マルクスの唯物論は哲学ではなく科学的な世界観であり、唯物論的弁証法も哲学ではなく運動の一般法則を扱う科学であり、唯物論的歴史観も哲学ではなく科学的世界観の一部であることが主張されています。これは、「官許マルクス主義」において、科学(現実との対決で証明された原理原則)と哲学(現実との対決で証明されていない原理原則)とが混同されたまま、唯物論も弁証法的唯物論も史的唯物論も哲学であるとか、弁証法的唯物論=唯物論的弁証法=哲学=科学といった解釈がまかりとおっていた状況を背景としています。こうした状況にたいする三浦さんの厳しい批判は、『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)の「まえがき」にあるような哲学不要論を背景としているといえるでしょう。三浦さんは、哲学を「現実との対決で証明されていない原理原則」としてとらえることで、科学の発展した現代における哲学の不要を主張したわけですが、そこには、実証的な研究を怠けて雑文をモノしている当時の「マルクス主義哲学者」たちの堕落したあり方にたいする激しい怒りの感情が込められていることが指摘できます。
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2013年06月18日

三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ(2/7)

(2)矛盾とはどういうものか

 本稿は、三浦つとむさんが1967年のソ連訪問の際、「マルクス・レーニン主義研究所」宛てに提出した公開質問状「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」に即して、マルクス主義の基礎理論、とりわけ問題解決の武器としての唯物論的弁証法についての三浦つとむさんの基本的な主張を再確認しておくことを目的にしたものです。

 今回は、矛盾の概念にかかわる質問(1〜5)について取り上げて検討していきましょう。まずは、これらの質問で扱われている問題を、三浦つとむさんの積極的な主張に即してまとめたものを再掲しておきます。

【質問1】 矛盾の本質は「ある事物が対立物を背負っている」という関係であって、「闘争」というのはその特殊なあり方にすぎない。

【質問2】 非敵対的矛盾とは矛盾の実現が同時に解決でもある矛盾であり、止揚(対立物の一方を破壊する)によって解決されるものではない。

【質問3】 敵対的矛盾はまず成立し、その次に解決される。

【質問4】 生物体における摂取と排泄の矛盾は調和的なものである。

【質問5】 対立物の相互浸透は、対立物の統一(矛盾の普遍形態)の特殊形態たる三法則の一つである。


 ここで取り上げられている論点は、大きく3つに分けることができるでしょう。第一に、そもそも弁証法でいう矛盾とは何かという問題。第二に、敵対的矛盾と非敵対的矛盾の区別と連関の問題。第三に、矛盾と弁証法の三法則との関係の問題です。これら3つの問題は絡み合ったものであり、これらを解き明かすことは、唯物論的弁証法の成立と歪曲の歴史を辿ることにもなります。

 三浦さんがこのような問題提起を行った背景には、レーニンの記した『哲学ノート』(レーニンがヘーゲル『論理学』などの哲学書を読みすすめていく際にとったノートをまとめて出版したもの)が絶対的な権威として認められていたという事情がありました。ここでレーニンは、次のように認めています。

「弁証法は簡単に対立物の統一の学説と規定することができる。これによって弁証法の核心はつかまれるであろうが、しかしこれは説明と展開とを要する。」(レーニン『哲学ノート1』、国民文庫、p.191)

「対立物の統一(合致、同一、均衡)は条件的、一時的、経過的、相対的である。たがいに排除しあう対立物の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である。」(レーニン『哲学ノート2』、国民文庫、p.327)


 このうち、対立物の統一が弁証法の核心であるという前者は的確な把握であったといえるのですが、対立物の統一は相対的であり対立物の闘争こそが絶対的であるとした後者は、特殊なあり方を度はずれに拡大するものであり、逸脱というべきものでした。ところが、スターリン体制下においてレーニンが神格化されるようになったため、ソ連の学者がレーニンの主張を疑うことは許されませんでした。それゆえ、レーニンの主張を擁護するように、弁証法は矛盾=対立物の統一と闘争を扱う学問であり、対立物が闘争して矛盾が克服され止揚されることこそが矛盾の解決であると解釈されるようになったのです。

 さらにここから、エンゲルスが『自然の弁証法』で挙げていた弁証法の三つの法則、すなわち、量質転化の法則、対立物の相互浸透の法則、否定の否定の法則と、レーニンがいう弁証法の核心との関係が問題になりました。結論からいえば、ソ連の学者たちは、エンゲルスのいう「対立物の相互浸透」とレーニンのいう「対立物の統一と闘争」が言葉の上でよく似ていることからこれを同一視し、後者は前者を発展させたものだと解釈したのです。しかし、エンゲルスが「対立物の相互浸透の法則」にはじめて言及した晩年の遺稿『自然の弁証法』は、レーニンの死後1925年になってはじめて出版されたものでしたから、レーニンはエンゲルスが「対立物の相互浸透の法則」を措定したこと自体を知りませんでした。ですから、レーニンの「対立物の統一と闘争」がエンゲルスの「対立物の相互浸透」を発展させたものであるというのは、コジツケ的な解釈でしかありません。

 三浦さんが登場する以前は、以上のような事情もあって、弁証法の根本的な部分について全く混乱した解釈がまかり通っていたのです。このようななかにあって、三浦さんはマルクスやエンゲルスの著作を丁寧に引用しながら、弁証法でいう矛盾とはどのようなものであるのかをきちんと整理し、論理的に提示したのでした。

 まずは、そもそも矛盾とは何かにかんして三浦さんが引用している部分を紹介しましょう。

「ある事物が対立を担っているとすれば、それは自分自身と矛盾しているわけであり、その事物の思想的表現も同様である。たとえば、ある事物がひきつづき同一のものでありながら、しかも同時にたえず変化するということ、「恒常性」と「変化」との対立をそれ自身においてもっているということは、一つの矛盾である。」(エンゲルス『反デューリング論1』、国民文庫、p.264)


 ここから三浦さんは、矛盾の本質はある事物が対立を背負っているという関係であること、対立物の統一が矛盾の構造であることを見抜きました。「恒常性」と「変化」の矛盾として、エンゲルスは、生物体の例を取り上げています。レーニン的な、対立物の「闘争」こそ絶対的だという解釈からすれば、「恒常性」と「変化」が闘争して、どちらか一方が勝ち残ればこの矛盾は解決する、「恒常性」だけか「変化」だけになってこそ生物の矛盾は解決されるのだ、などという珍妙極まりない解釈しか出てきません。つまり、レーニンの規定はエンゲルスの規定とはあきらかに食い違っており、現実の法則的な構造を的確に把握したものであるとはいいがたいのです。

 三浦さんは、質問2および質問4において、エンゲルスの『反デューリング論』での生物体の矛盾にかんするいくつかの記述、すなわち、生物がどの瞬間も同一のものであってまた同一のものではないとか、生物は摂取と排泄という対立物を調和的に実現しかつ解決しているとかの記述を引用しながら、闘争によって解決するのではない、実現そのものが直接に解決であるところの非敵対的矛盾の存在を指摘しています。また、質問2においては、マルクス『経済学批判』での貨幣にかんする記述も引用されており、貨幣が特殊な使用価値であると同時に一般的等価物であるという矛盾を実現すると同時に解決する形態であることが指摘されています。この貨幣における非敵対的矛盾の実現に関連して、「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」では紹介されていないものの『弁証法はどういう科学か』等ではくり返し引用されているマルクス『資本論』の一節を以下に紹介しておくことにしましょう。

「すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾し互に排除し合う諸関連を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を取りのぞくのではなく、これらの矛盾が運動しうる形態をつくり出す。これが、一般に、現実的諸矛盾が自己を解決する方法である。たとえば、一つの物体が絶えず他の物体に落下し、しかも同時に絶えずそれから飛び去るというのは、一つの矛盾である。楕円は、この矛盾が自己を実現するとともに解決する運動諸形態の一つである。」(マルクス『資本論1』、新日本出版社〔新書版〕、p.177)


 この記述は、三浦さんが言語についての研究をすすめていく上で、きわめて大きな手がかりとなりました。社会的な存在である人間は、自身の認識(超感性的なもの)を感性的な形で表現しなければ他者に伝えることができないという大きな矛盾を抱えています。三浦さんは、言語という表現において、あくまでも感性的なものであるところの音声や文字の具体的な形が、一定の種類に属するかぎり同一のものとみなされるという超感性的な面をも背負わされる(これを媒介するのが言語規範という社会的認識です)ことによって、この矛盾が実現されると同時に解決されていることを見抜いたのでした。

 このように非敵対的矛盾の重要性を見抜いていた三浦さんにたいして、マルクスやエンゲルスの著作を熱心に学んだ革命家たちは、資本主義社会の根本的な矛盾を克服し止揚することによって新しい社会を創造することを最大の使命と考えていただけに、何よりもまず資本主義社会の根本的な矛盾に代表されるような敵対的矛盾に着目することになりました。さらに、闘争こそ絶対的だとのレーニンの論が大きく持ち上げられていったという事情がくわわって、「官許マルクス主義」においては、矛盾といえば克服しなければならない敵対的矛盾であると捉えられるようになっていき、調和的に実現=解決されるような矛盾が存在することが無視されてしまうようになったのです。このような不当な一面化を是正して、正しい矛盾論を復権したのが三浦さんの大きな功績だったといえます。

 さらに三浦さんは、「対立物の統一と闘争の法則」などという混乱した規定を排して、弁証法の核心たる対立物の統一とエンゲルスの措定した三法則との関係を明快に整理しました。質問5ではこの問題が扱われています。ここでは、矛盾の普遍的形態(いわゆる「核心」)が対立物の統一であり、矛盾の特殊形態が三法則、すなわち量質転化、対立物の相互浸透、否定の否定であり、「『相互浸透』は『統一』の特殊形態の一つであり、三つの基本法則は『核心』で貫かれている」と説かれています。

 三浦さんは、言語論や芸術論などの領域における自身の研究に唯物論的弁証法を武器として使っていくなかで、非敵対的矛盾の理解、対立物の相互浸透の論理構造の理解が死活的に重要であることを主体的につかんでいったのでしょう。このような三浦さんであったからこそ、エンゲルスによって法則化された弁証法をしっかりと再措定することができ、人類の文化遺産として誰もが学べる弁証法の教科書を書くことができたのだということができます。
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2013年06月17日

三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ(1/7)

目次

(1)「本質的な質問」に学ぶ意義とは
(2)矛盾とはどういうものか
(3)ヘーゲル哲学とマルクス主義の関係をどう捉えるか
(4)真理と誤謬との関係について
(5)「生活と生産」の概念をめぐって
(6)権力論、国家論、階級闘争論
(7)まとめ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)「本質的な質問」に学ぶ意義とは

 ここ数年来、資本主義の矛盾を鋭く暴いたマルクスの理論が大きな関心を集めるようになってきています。しかし、本ブログで何度も指摘してきたように、マルクスの理論から学ぼうとするときには、それが政治的条件に規定されて大きな歪曲を受け続けてきたという歴史を忘れるわけにはいきません。

 19世紀後半のドイツにおいて、資本主義の発展による階級闘争の激化という時代的条件の下に、ヘーゲル哲学の批判的な継承として誕生したマルクス主義は、革命運動の理論的指針として各国の労働者階級に受け入れられていくことになりました。このうち、帝政ロシアにおける革命運動の指針として受け入れられたマルクス主義は、1917年の革命により、ソヴィエト社会主義体制を結実させます。しかし、レーニンが死去した1920年代の中頃から、スターリンの独裁体制の確立過程でレーニンの神格化がすすめられていく――スターリンは、レーニンの神格化を媒介として「レーニンの忠実な弟子」たる自身の絶対的な権威の確立をはかりました――ことによって、いわゆる「マルクス・レーニン主義」なるものへと変質していくことになったのです。こうしたなかで、レーニン、スターリンは最高の理論家として神聖不可侵の権威をもたされることになり、レーニンやスターリンの文章や発言がマルクスやエンゲルスの古典的著作と食い違っている場合には、両者が両立するようにこじつけレベルの珍解釈をひねり出す(たとえば、マルクスやエンゲルスの理論をレーニンやスターリンがより素晴らしいものに発展させたと解釈する)ことが、ソ連の「哲学者」たちに課せられるようになったのでした。

 このような過程で成立させられた国定教科書的な「マルクス・レーニン主義」のことを「官許マルクス主義」と呼んで厳しく批判し、マルクス主義の理論の基本的なところを誤らずに日本に紹介することに尽力したのが、三浦つとむさんでした。三浦さんは、1967年12月にソ連をはじめて訪問した際、「マルクス・レーニン主義研究所」に宛てて「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」という公開質問状を提出しました。この公開質問状は三浦さん自筆の英文によるもの(ただし、マルクスやエンゲルスの著作の引用はドイツ語)ですが、矢吹眞康さんによって日本語訳されたものが、三浦さんの追悼文集『胸中にあり火の柱』(明石書店)に収録されています。

 三浦さんがこうした質問状を提出した背景には、当時のソ連において「官許マルクス主義」の再検討がはじまりつつあるのではないか、との期待があったものと思われます。三浦さんは、『生きる・学ぶ』(季節社)に収録された「ソ連旅行記」において、次のように述べています。

「ソ連のマルクス主義の現状を一言でいうなら、心ある人々が官許マルクス主義からの大転換が必要だと気づいて、現在の理論的退廃ないし荒廃状態を克服すべく必死の努力を開始したところである。その大転換の必要を経験の中で知ったところに、必死に努力するという積極面もあれば、なぜそんな状態生まれたかが理論的に明確につかめていない消極面もあるわけである。……私はソ連に出かける前から、追いつめられたソ連が大転換に踏み切ったのではないかと予想して、その観点から各方面を当たってみたが、事実は予想どおりであった。」(「ソ連旅行記」『生きる・学ぶ』季節社、pp.119-120)


 このように三浦さんは、ソ連における理論的大転換の可能性に大きな期待を寄せるとともに、その動きに理論的不徹底さという危うさをも感じていたからこそ、その過程に自分なりに積極的に働きかけたいとの思いをもって、この公開質問状を提出したものと思われます。

 この公開質問状は、21個の質問から構成されています。それぞれの質問は、最初にマルクスやエンゲルスの著作から引用した上で、その引用文についてのいくつかの解釈を選択肢として配置し、回答者の同意する解釈に○をつけるように求めるものとなっています(三浦さん自身が正しいと思う解釈にはあらかじめ◎がつけられています)。

 この公開質問状で扱われている問題を、三浦さんの積極的な主張に即してまとめてみるならば、以下のようになるでしょう。

【質問1】 矛盾の本質は「ある事物が対立物を背負っている」という関係であって、「闘争」というのはその特殊なあり方にすぎない。

【質問2】 非敵対的矛盾とは矛盾の実現が同時に解決でもある矛盾であり、止揚(対立物の一方を破壊する)によって解決されるものではない。

【質問3】 敵対的矛盾はまず成立し、その次に解決される。

【質問4】 生物体における摂取と排泄の矛盾は調和的なものである。

【質問5】 対立物の相互浸透は、対立物の統一(矛盾の普遍形態)の特殊形態たる三法則の一つである。

【質問6】 マルクス主義における弁証法とは、運動の一般法則に関する科学であり、物質の弁証法的運動を意識的に反映することによって成立したものである。

【質問7】 客観的弁証法というのはヘーゲル流の用語であり、マルクス主義の基本用語ではありえない。

【質問8】 ヘーゲルにおいては弁証法=認識論=論理学であるが、マルクス主義においてはこの3者は区別されるべきである。

【質問9】 相対的真理とは多少の誤謬を含むものであり、真理と誤謬の相互転化について認識しておくことが実践上不可欠である。

【質問10】 相対的誤謬は相対的真理の反対概念であり、多少の真理を含んでいる。

【質問11】 科学史の中には、相対的誤謬の多くの事例を見出すことができる。

【質問12】 マルクス、エンゲルスの世界観は科学であって哲学ではない。

【質問13】 生活資料の生産は物質的生活の生産の一部にすぎない。

【質問14】 生活の生産・再生産は、生活資料の生産・再生産と人間の生産・再生産に分かれる。

【質問15】 生活の生産関係も、生活資料の生産・再生産の関係と人間の生産・再生産の関係に分かれる。

【質問16】 生活の生産様式も、生活資料の生産・再生産の様式と人間の生産・再生産の様式に分かれ、その総体には家族関係も含まれる。

【質問17】 生産と消費とは直接的同一性(統一の特殊形態)の関係にもある。

【質問18】 『経済学批判序説』では、生産と消費の関係として相互浸透の具体的発展形態の論理構造が説かれている。

【質問19】 力(Kraft)、強力(Gewalt)、権力(Macht)は区別されなければならず、国家は何よりもまずイデオロギー的な権力として把握されるべきである。

【質問20】 国家の死滅とは政治的権威がなくなっていくことである。

【質問21】 階級戦争は共倒れに終わることもあり、世界核戦争もその一例である。


 このように、それぞれの質問を通じて三浦さんが主張したかったであろうことを並べてみると、「官許マルクス主義」的な歪曲にたいして三浦さんが論争を提起し続けてきた主要な論点がほぼ網羅されていることが分かります。一言でいえば、この公開質問状は、「官許マルクス主義」的な歪曲からマルクス、エンゲルスの本来の理論を防衛すべく闘ってきた三浦さんが、「官許マルクス主義」において最高に権威ある機関であったといってよいモスクワの「マルクス・レーニン主義研究所」に本来のマルクス主義理論の基本的な姿を確認させようとして、いわば闘いを挑むような覚悟で、提出したものだということになるでしょう。

 このような性格をもった公開質問状であるだけに、その質問内容について突っ込んで検討することは、マルクス主義の基礎理論、とりわけ問題解決の武器としての唯物論的弁証法をまともに理解していく上で、非常に有意義なことであるといえます。本稿では、このような観点から、この公開質問状の内容を、矛盾について(質問1〜5)、ヘーゲル哲学とマルクス主義との関係について(質問6〜8、12)、真理と誤謬との関係について(質問9〜11)、生活の生産の概念について(質問13〜18)、権力論、国家論、階級闘争論について(質問19〜21)の5つのテーマに分けて、マルクス主義の基礎理論、とりわけ問題解決の武器としての唯物論的弁証法についての三浦つとむさんの基本的な主張を再確認しておくことにしたいと考えています。
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2013年04月08日

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(13/13)

(13)京都弁証法認識論研究会でともに学ぼう

 前回は、本稿での論の流れをふり返りました。あらためて強調しておかなければならないのは、大学は文化の発展を担いうる実力を養成するために「学問の府」としてつくられた高等教育機関であり、そこで学ぶ学生には、社会のなかのそれぞれの専門領域で文化の発展を担っていけるだけの実力をつけていくために、自らのアタマのなかに専門領域にかかわっての体系的なイメージをしっかりと描きだせるようにしていくことが、社会的責任としてもとめられているのだ、ということです。大学生活のスタート地点にあるみなさんには、このような重い社会的・歴史的責任をしっかりと自覚した上で、これから4年間の大学生活をどうすごしていくべきなのか、真剣に考えてもらうことを、改めて強く希望しておきたいと思います。

 本稿でこれまで説いてきたことは、学問体系の構築が可能となるような実力の土台(基礎的な実力)となる「アタマの働き」をつくるための方法であったといえます。これは端的には、対象を論理的に把握していく実力ということであり、ただ単に知識を詰め込めばよいという受験勉強的な(そしてまた現在の多くの大学教員の先生方がやっている研究レベルの)アタマの働きとはまったく異質のものです。本稿で説いたような学びをしっかりと実践して、論理的に対象を把握していく実力をつくっていくことこそ、みなさんがどの学部に所属していようと、将来どのような専門領域にすすむつもりであっても、学生としての社会的責任をはたしていくための共通の土台となるのです。しっかりと実践してくださることを期待しています。

 なお、ここでつけくわえておきたいことがあります。それは、これからみなさんが受けなければならない大学の講義について、本稿ではかなり否定的なことを書いてしまったけれども、以上のようなことをしっかり実践していくという条件の下であれば、これらも一般教養の学びの一環としてしっかり活かしていくことが可能になるのだ、ということです。どういうことかといえば、「世界全体の姿を自分のアタマのなかに描き出してやるんだ!」との大志をしっかりと把持した上で、世界の部分的な姿を特定の観点から描いてくれるものと位置づけた上で、大学の講義に臨めばよいのだ、ということです。要するに、大学の講義に自分のアタマを支配させてしまうのではなくて、自分のアタマ(学問の構築という大志を把持したアタマです)で大学の講義を支配できるようになればよいわけです。大学の講義をある程度まじめに受けて単位をしっかりと取得していかなければ大学を卒業することなどできないわけですから、このことは決定的に重要です。

 さて、本稿を終えるにあたって、これまで説いてきたような学び方をしっかりと実践していく気になった新大学生のみなさんに、是非とも伝えておかなければならないことがあります。それは、わたしたち京都弁証法認識論研究会は、高い志を掲げて学ぶ意欲に燃えた新大学生のみなさんの参加を心から歓迎する、ということです。

 わたしたちの研究会は、いまから十数年ほど前、京都のある大学で、弁証法というものに興味をもった数人の学生が、三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』の読書会をはじめたことにその起源があります。以来、『弁証法はどういう科学か』を中心とした三浦つとむさんの著作、あるいは三浦つとむさんの弁証法を武器として武道哲学・武道科学を創始された南郷継正先生の著作についての読書会を継続して開催してきました。また、その過程において、偶然の縁で、これ以上ない指導者の指導を仰ぐようになるという幸運にも恵まれました。

 現在は、シュテーリヒ『西洋科学史』やヘーゲル『歴史哲学』など学問史上の重要文献をテキストにした月1回の読書会を基本に、日常的なメールのやり取りも併用しながら、弁証法・認識論の学びを深めるために活発な討論をおこなっています。また、年に3、4回は、合宿形式(通常は2泊3日)による学習会をおこなっています。ここでは、指導者による直接の指導のもとに、時間の制約を気にせずに、徹底して討論を深めていきます。また、この合宿の際には、教育実践・教育学、経済学、心理学、言語学など、それぞれの専門分野についての成果の報告もおこない、弁証法・認識論の見地がしっかりと踏まえられているのか、他の専門分野とのつながりがきちんと意識されているのか、といった観点から集団的な検討をおこなっています。異なる専門分野の人と共通の土台で突っ込んだ討論ができるというのも、わたしたちの研究会の大きな魅力であり、非常に重要なメリットであるといえるでしょう。

 本稿の連載第10回で説いたとおりに、弁証法・認識論のまともな学びのためには、最低でも、ともに学んでいく仲間の存在、できればそれにくわえてまともな実力をもった指導者の存在が必要です。とはいえ、みなさんが自力でこのような環境を一から整えていくことは、なかなかに困難なことでしょう。わたしたちの研究会は、十数年かけて、このような条件を満たした環境をつくりだしてきました。学ぶ意欲に燃えた新大学生のみなさんに、これをおおいに活用してもらえるならば、私たちにとってこれほど嬉しいことはありません。わたしたち京都弁証法認識論研究会は、学ぶ意欲に燃えた新大学生のみなさんに、これ以上ないほどに素晴らしい学びの場を提供することができると自負しています。

 とはいえ、現実には、わたしたちが開催している読書会などに日常的に参加できるのは、京都市内およびその周辺地域で学ぶみなさんに限られるでしょう。しかし、京都から遠い地域にいるからといって、何も絶望することはありません。わたしたちの研究会のはじまりがそうであったように、学びに適した環境は、みずからの力でつくっていくことができるものです。本稿を読んで「自分は何としても弁証法・認識論をモノにしてやるぞ!」という気持ちになった新大学生のみなさんは、早速、本稿で紹介した基本的な文献の学びをスタートするとともに、大学生活のなかで得た信頼できる友人たちと夢を語らうなかで、その友人(たち)をあなた自身と同じように、弁証法・認識論を学ぶ気にさせてみてください。もしそれができるならば、それがあなた自身にとって、最高の学びの場となることでしょう。また、インターネットの発達した現在は、メールで瞬時に長文のやり取りもできますし、スカイプを使って討論することもできます。もしみなさんにその気があるならば、京都から離れた地にいても、わたしたちの研究会とともに学んでいくことは可能です。年に3、4回の合宿の際には、直接に顔をあわせての討論も可能となることでしょう。

 本稿を読んで、何としても弁証法・認識論をモノにしたい! という強い意欲をもたれた新大学生のみなさんは、是非とも連絡をください。日本文化の発展を担い人類の歴史の前進に寄与していくのだ、という高い志を共有して、ともに学んでいきましょう。

(了)
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2013年04月07日

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(12/13)

(12)徹底して学問することこそが学生の社会的責任である

 本稿は、この春から新しく大学生活をはじめる新入生のみなさんをおもな読者に、「大学で何をどう学ぶか」を説いていくことを目的としたものでした。より詳しくいうならば、本稿の目的は、そもそも大学は文化の発展を担いうる実力を養成するための高等教育機関として創出された「学問の府」であり、学生はそれぞれの専門領域において文化の発展を担っていけるだけの実力をつけていくために徹底して学問していく社会的責任があるのだ、ということを踏まえて、そもそも学問とは何か、大学で何をどのように学んでいけばよいのか、説いていくことを目的としたものだったのでした。

 ここで、これまでに説いてきた流れをふり返っておくことにしましょう。

 まず、「学問とは何か」の答えを学問の起源(生成の過程)に探りました。人類が本能ではなく労働によって地球環境とかかわるようになったところに学問の生成につながる過程の芽生えがあること、現代につながる学問の直接の起源である古代ギリシャの学問が、敵国との戦争にいかに勝つか、治山・治水をどうするか、といった国家(ポリス)の維持・発展にかかわる切実な問題を解決するためのものであったことを確認しました。端的には、学問とは、現実の問題を解決してよりよい未来を拓いていくためのものである、ということでした(学問の機能)。ついで、現実の問題を解決するためには現実のことをよく知らなければならない、ということから、学問とは簡単には現実の世界の姿をアタマのなかにイメージとして描き出したもの、いわば世界地図のようなものである、ということを確認しました。さらに、現実のことをよく知るといっても、ただたんに事実を集めていくだけでは学問にはならず、諸々の事実をさまざまなレベルの共通性(=論理)で括って立体的にくみ上げていってこそ学問になるのだ、ということを確認しました。簡単には、学問とは事実の集積ではなく論理の体系である、ということでした(学問の実体)。このようにして、「学問の府」たる高等教育機関で学ぶ学生の社会的な責任が、社会のなかのそれぞれの専門領域で文化の発展を担っていけるだけの実力をつけていくために、自らのアタマのなかに専門領域にかかわっての体系的なイメージをしっかりと描き出せるようにしていくことにほかならない、ということが確認されたのでした。

 ついで、このような学生の社会的責任についての把握を踏まえて、新大学生のみなさんがこれから何をどのように学んでいけばよいのかという問題について、検討をすすめました。まず確認したのは、大学の講義のほとんどは、学者ならぬ研究者でしかない先生方が自身の狭い専門領域で集めた諸々の事実(知識)の一端を披瀝するといった低度のものであり、学問体系の構築は、大学の講義を真面目に受けるといったことだけでは不可能になってしまう、ということでした。それだけに、新大学生のみなさんが学生の社会的責任をまともに果たしていきたいと念願した場合、「人類の文化遺産を自らに教え、自らの内に育てる」という教養をまともに保持していくことが決定的に重要となるのだ、と説きました。さらに、その教養の内容としては、何よりもまずいわゆる「一般教養」、すなわち世界全体のつながりのなかで自分の専門分野がどのような位置を占めるのかをしっかりと理解するための学びが必須となること、より具体的には、現実の世界が自然・社会・精神という重層的な構造をもつものとして形成されてきた歴史の流れをしっかりとイメージできるようにすることが必須であることを説きました。そのうえで、このような一般教養の学びのために必読となるいくつかの基本的な文献およびその理解を深めるための参考書となるものを紹介したのでした。具体的には、『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社白鳳選書)、中学校の理科教科書、中学校の歴史教科書、林健太郎『歴史の流れ』(新潮文庫)など、でした。

 さらに、一般教養のまともな学び――自分の専門分野を世界全体のつながりのなかできちんと位置づけられるように、現実の世界が自然・社会・精神という重層的な構造をもつものとして形成されてきた歴史の流れをしっかりとイメージできるようにすること――を可能にするための条件について説きました。まず、世界全体をひとつにつながったものとしてつかむためには、世界全体に一般的につらぬかれている運動・変化という性質に着目しなければならないとして、世界全体(自然・社会・精神)をつらぬく一般的な運動法則についての科学である弁証法を学ぶことの必須性を説きました。具体的には、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)をつうじて科学としての弁証法を学ぶことによってこそ、一般教養の実力をまともにつけていくことが可能となっていくのだ、ということでした。ついで、一般教養のまともな学びに必須となる、弁証法にくわえてのもうひとつの学びとして、認識論について説きました。認識論とは、端的には、人間の頭脳活動、すなわち「アタマの働き」と「ココロの働き」について究明する学問のことでした。人間にかかわるあらゆる問題に認識が絡む以上、社会や精神のあり方を究明する自然科学や人文科学の学びに認識論が必須となるのはいうまでもなく、さらに、一般的に学問なるものが形成されていく過程に着目すれば、人間とかかわりのない(ようにみえる)自然をもふくめて、この世界のいかなるものを対象にしようとも、その対象の歴史性・構造性を把握するのは自分の認識(=アタマの働き)にほかならない、ということから、学問の土台となる一般教養のまともな学びのためには、「アタマの働き」について「認識とは何か」を踏まえて説ききった科学としての認識論の学びが必須となるのだ、ということでした。ここでは、認識論の学びの基本書となる文献として、瀬江千史・菅野幸子『新・頭脳の科学 アタマとココロの謎を解く』(現代社白鳳選書)、南郷継正『なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義』シリーズ(現代社白鳳選書)、海保静子『育児の認識学』(現代社)を紹介しました。最後に、弁証法や認識論をまともに学んでいくうえで、決定的に重要な条件となることを説きました。それは、自分と同様に真摯に弁証法・認識論を学んでいこうという意欲をもった仲間とともに集団的に学ぶことでした。その効用を三点――@基本的な文献、基本的な概念についての学びの過程で必然的に生じてくるところの自己流の歪んだ解釈を発見・修正していくことを可能にする、A他者とまともに討論することによってこそみずからの認識をダイナミックに変化・発展させていくことが可能になる、B集団的に学ぶことでこそ、学ぶことへの情熱が維持でき、さらには発展させていくことも可能になる――にわたって説いたのでした。

 新大学生のみなさん。以上のようなことをしっかりと踏まえた上で、大学生活のスタート地点において、これから4年間の大学生活を自分はどのように過ごしていけばよいのか、真剣に考えて下さい。この連載のはじめに述べたとおり、大学生として過ごすこれからの4年間は、みなさんの人生のなかでも、例外的といってよいくらいに自由な時間に溢れたものです。この自由な時間を有意義なものにするかどうかは、みなさんの決断にかかっているのです。4年間などあっという間です。この短い期間を最大限に有意義なものにするためには、スタート地点での準備を怠ってはなりません。「学問の府」に所属することの社会的・歴史的な責任を自覚して、自分がこれから何をしていくべきなのか、真剣に考えていくことを強く希望しておきたいと思います。
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2013年04月06日

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(11/13)

(11)集団的に学んでいくことの意義を説く

 前々回および前回は、一般教養のまともな学び――自分の専門分野を世界全体のつながりのなかできちんと位置づけられるように、現実の世界が自然・社会・精神という重層的な構造をもつものとして形成されてきた歴史の流れをしっかりとイメージできるようにすること――のために弁証法および認識論の学びが必須になることを指摘した上で、「弁証法とは何か」「認識論とは何か」ということについて説いてきました。

 今回は、弁証法や認識論をまともに学んでいく上で、決定的に重要な条件について説いておくことにしましょう。仮にこの条件を欠いてしまったならば、これまで紹介したようなすばらしい文献にいくら真摯に学んだとしても、弁証法や認識論の実力がまともについていくことにはならないかもしれない、というくらいの重大事なのです。

 「その決定的に重要な条件とやらは、いったい何なのですか!?」とみなさんは問われるに違いありません。本稿をこれまで読んできたことで、「よし! 弁証法や認識論を真剣に学んでいくぞ!」という気持ちになっておられる新大学生のみなさんには、まともに答えておくべきでしょう。

 端的に答えをいうならば、自分と同様に真摯に弁証法・認識論を学んでいこうという意欲をもった仲間とともに、集団的に学んでいく、ということに尽きます。このことには大きく3つの効用を指摘することができます。

 第一の効用は、基本的な文献、基本的な概念についての学びの過程で必然的に生じてくるところの自己流の歪んだ解釈を発見・修正していくことを可能にする、ということです。

 そもそも人間の認識(アタマの働きとココロの働き)は、それぞれの個人の経験如何によって、きわめて個性的に育ってしまっているものです。そうである以上、一般的にいって、自分とはまったく異なった個性をもった他人の思っていること・考えていることを的確に理解するのは非常に困難です。このことは、弁証法あるいは認識論といった人類文化の最高峰とでもいうべき学問を偉大な学者の著作をつうじて学ぶ場合には、とりわけシビアな問題として浮上してくることになります。この場合、著者と自分のあいだには決定的な実力差があるわけですから、その高い内容を、自分流の個性的なアタマの働きによって、よりハッキリいうならば自分のアタマの働きのレベルにまで引き下げて「理解」してしまう、といった怖ろしいことになりがちなのです。結局のところ、ただ一人で弁証法あるいは認識論を学んでいると、自己流のおかしな解釈でしかないのに、それで弁証法あるいは認識論を「理解」したと勘違いして、その上にさらに自己流の解釈を積み重ねていく……といったことになってしまいかねません。このような個性的に歪められた「理解」に陥らないために、自分とは異なる個性をもった仲間との討論のなかで学び、さらに理想的にはよき指導者からの指導を受けながら学ぶことが必要になってくるのです。

 第二の効用は、他者とまともに討論することによってこそ自らの認識をダイナミックに変化・発展させていくことが可能になる、ということです。これは、科学としての弁証法の三法則のひとつである「対立物の相互浸透の法則」に深くかかわります。

 そもそも「相互浸透」とは、簡単にいえば、つながりあっているものがお互いに相手のもっている性質を受けとることで変化していく、このようなつながりが深まる形で発展がすすんでいく、ということです。「対立物の相互浸透の法則」は、どんな事物もそれ自体として孤立して存在していたのであれば変化しないのであり、かならず他の事物とのつながりにおいて変化していくものなのだ、ということをあきらかにしたものであり、弁証法の三法則のなかでも根本的に重要なものだといえます。

 この法則からもあきらかなように、自分の認識は、ただ自分の認識として孤立してあっただけでは、まともに変化・発展していくことはないのです。かならず、他者の認識との交流関係においてこそ、まともに発展させていく道が拓けてくるのです。このことを学問の構築ということに即していえば、対象にかかわって自分のアタマに描かれたイメージをしっかりと相手に伝わるレベルの言葉で表現するとともに、相手の言葉を媒介として相手がアタマのなかで描いていた対象のイメージを自分のアタマのなかに再現し、さらにこの両者(同一の対象にかかわっての自分のイメージと相手のイメージ)を比べてどこが同じでどこが違うかをしっかりと理解した上で、それをまた相手に伝わるレベルの言葉で表現する、といった努力のくり返しの過程によってこそ、対象の構造にかかわっての像(イメージ)をまともに描いていけるようになる、ということです。勘のよいみなさんはすでにお気づきかもしれませんが、これは、前々回、弁証法の起源である古代ギリシャの問答法について説いたことに重なります。つまり、個人としての認識(アタマの働き)のまともな発展のためには、人類としての認識(アタマの働き)の発展過程を、個人としてもたどり返す必要があるのだ、ということができるわけです。

 第三の効用は、集団的に学ぶことでこそ、学ぶことへの情熱が維持でき、さらには発展させていくことも可能になる、ということです。

 一人だけで学んでいると、どうしても、日常生活の惰性に流されて、ついつい楽な方向にすすんでしまいがちです。しかし、大志を掲げて学ぼうという意欲に燃えている仲間との日常的な交流関係があれば、自分も怠けてなどいられない! という気持ちにさせられるはずです。もっといえば、そのような仲間をライバルとして設定して、お互いが情熱を分け合い、お互いがお互いの熱で熱せられて冷めることがない、というような形で、お互いが凄まじいまでのレベルでの発展を成し遂げていくことも可能となっていくのです。

 以上、集団的に学ぶことの意義を説いてきました。このような同じ志をもって真摯に学んでいく仲間をつくることができるかどうかということこそが、みなさんの大学生活の充実度を決定的に左右するといっても過言ではないのです。
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2013年04月05日

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(10/13)

(10)一般教養の学びに必須となる認識論とは何かを説く

 前回は、一般教養のまともな学び――自分の専門分野を世界全体のつながりのなかできちんと位置づけられるように、現実の世界が自然・社会・精神という重層的な構造をもつものとして形成されてきた歴史の流れをしっかりとイメージできるようにすること――のために弁証法および認識論の学びが必須になることを指摘した上で、まず「弁証法とは何か」ということについて説明したところでした。

 それでは、一般教養のまともな学びに必須となる、弁証法にくわえてのもうひとつの学びである認識論とは、いったいどのようなものなのでしょうか。認識論とは何か、端的に結論からいうならば、人間のアタマとココロの働きについて解明する学問だ、ということになります。このように説明すると「心理学のようなものかな」と思われるかもしれませんが、そうではありません。いわゆる心理学と重なるのは、この認識論の一部分だけです。簡単には、ここでいう認識論とは、心理学がおもな対象とするような「ココロの働き」のみならず、理論的・学問的な活動にかかわる「アタマの働き」をも含めて論じるものだ、と思ってください。

 学問の歴史をさかのぼってみるならば、認識論はもともと、学問のなかの学問といってよい哲学(世界そのものをまるごと対象にして体系的に論じきる学問)の大きな柱のひとつとして、「人間の頭脳活動とは何か」を論じる部門として(より具体的には、人間はどのようにして物事を正しく知ることができるのか、といった問題を扱う部門として)、存在させられてきたことが分かります。ようするに、認識論はあくまでも「アタマの働き」を中心として究明されてきたのでした。ところが、19世紀以降、資本制経済の発展により社会が不確実性を増し、人々が解決困難な諸々の悩みを抱えるようになっていったことで、ココロの働きにかかわる諸々の問題が大きく浮上してくることになります。こうした問題は、「アタマの働き」を中心に究明してきた従来の認識論では扱うことができませんでしたから、「ココロの働き」を中心に究明する別個の学問として、心理学なるものが登場してくることになったわけです。

 しかし、「アタマの働き」も「ココロの働き」も、同じひとつの頭脳の働きなのですから、本来これらは決して切り離した形では論じられないはずのものなのです。この当たり前の事柄をまともに踏まえたあるべき認識論、すなわち、「アタマの働き」と「ココロの働き」とを、同じひとつの頭脳のはたらきとしてしっかり統一して論じる個別科学としての認識論は、20世紀後半の日本において、ようやくその姿をあらわすことになったのでした。このあたりの事情は、瀬江千史・菅野幸子『新・頭脳の科学』(現代社白鳳選書)に詳しく書かれていますので、ぜひとも参照してください。

 さて、個別科学としての認識論の確立にとって決定的な契機となったのは、「認識とは何か」という問題が、生命の歴史を踏まえることで明確に解明されたことです。もう少し詳しくいうならば、生命が地球との相互浸透において進化してきた大きな流れを踏まえて、サルから人間への進化の過程で認識なるものが創出されなければならなかった必然性は何なのかという観点から、「認識とは何か」が解明されたのだ、ということです。この認識論でいう「認識」とは、端的には、人間の頭脳に描き出された(脳細胞が描き出した)像(イメージ)のことにほかなりません。これは、外界(現実の世界)の対象を五感覚器官をとおして反映させることによって脳細胞に描かれた像(イメージ)を原点として、諸々の像が重ね合わされたりある部分だけが切り離されたりしながら、さまざまなに発展させられていくものです。このようなダイナミックな発展過程にある認識が、大きく「アタマの働き」と「ココロの働き」とに分けてとらえれるのだ、ということになります。

 本能を主体として行動する動物にたいして、人間は認識を主体として行動します。ここから、人間にかかわるあらゆる問題は、認識論をまともに踏まえることがなければ解決は不可能である、ということができるのです。したがって、社会科学、人文科学をまともに学んでいくためには、その研究対象に人間の認識が絡んでくる以上、この認識論の学びが必須の前提となることは、容易に理解してもらえるのではないでしょうか。

 このようにいうと、「自然には人間の認識は絡んでこないのだから、自然科学の学びのためには認識論は必要ないのではないですか?」という疑問の声が聞こえてきそうです。しかし、そうではありません。そもそも学問とは何だったでしょうか。ごくごく簡単には、学問とは現実の世界の姿をアタマのなか(観念の世界)にしっかりと一本の筋を通しきるレベルで描き出したものだ、ということでしたね。これは、とどのつまり、学問とは認識である! ということにほかなりません。同じことを学問が形成されていく過程に着目していうならば、人間とかかわりのない(ようにみえる)自然をも含めて、この世界のいかなるものを対象にしようとも、その対象の歴史性・構造性を把握するのは自分の認識(=アタマの働き)にほかならない! ということができるわけです。

 このことをみなさん自身の問題として考えてみてください。新大学生であるみなさんが学問をまともに志した場合、どうすれば自分のアタマの働きがよくなるのか、学問を構築できるだけの見事なアタマの働きをどうやってつくっていけばよいのか、という難問に逢着することになるのではないですか。これこそ実践的な認識論の課題にほかなりません。以上が、学問の土台となる一般教養のまともな学びに、「アタマの働き」について「認識とは何か」をふまえて説ききった科学としての認識論の学びが必須とされる所以です。ちなみに、このことは、前回に説いた弁証法の習得にも深くかかわります。学問の構築のための方法である弁証法もまた、この世界の一般的な運動のあり方を把握しようという「アタマの働き」のひとつにほかならないのですから、これを的確に習得していくためにも、実践的な認識論の学びは欠かせないということなのです。

 それでは、認識論の学びのためには、どのような本を読んでいけばよいのでしょうか。

 まずあげなければならないのは、先ほど少し紹介した瀬江千史・菅野幸子『新・頭脳の科学 アタマとココロの謎を解く』(現代社白鳳選書)です。これは、生命の歴史においてそもそも脳なるものが誕生させらなければならなかったのはなぜなのか、という根本的な問いから魚類段階以降における脳の実体と機能との発展過程をたどることによって、人間の脳は生命体としてのたんなる「脳」ではなく「頭脳」というべき特殊な存在であることを解明した画期的な理論書です。

 もうひとつ、南郷継正『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義』シリーズ(現代社白鳳選書)をあげなければなりません。これは、看護学科・心理学科の学生たちをおもな読者に想定して、青春時代の人生問題・社会問題を解決して生きていけるような能力 (頭脳活動=アタマとココロの働き) が育つことを願って、科学的な認識論の立場から、夢の活動についてはもちろんのこと、「アタマの働き」をより見事にしていくための学び方について体系的に説いた書です(このシリーズは、季刊 『綜合看護』 に連載中のものを単行本にしたものであり、2013年3月現在、第5巻までが出版されています)。

 このほか是非とも紹介しておかなければならないのは、海保静子『育児の認識学』(現代社)です。著者の海保静子さんは科学的保育論の構築を志した保育士でした(残念ながらすでにお亡くなりになっています)。本書は、「認識とは対象の頭脳における反映であり像である」ということを、多くの図を交えながら徹底的にあきらかにした画期的な書であるといえます。人間の認識の原点=赤ちゃんのうぶ声を出発点に、人間のアタマとココロの働きがどのように創られていくのか、像の問題として、過程的・構造的に解明されているのです。

 認識論の具体的な学び方(ただ本を読むだけではダメなのです!)については、これらの本にしっかりと説かれていますので、しっかりと学んで真面目に実践していってもらいたいと思います。
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2013年04月04日

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(9/13)

(9)一般教養の学びに必須となる弁証法とは何かを説く

 本稿は、この春から新しく大学生活をはじめた新入生のみなさんをおもな読者として想定したものです。本稿では、そもそも大学は文化の発展を担いうる実力を養成するための高等教育機関として創出された「学問の府」であり、学生はそれぞれの専門領域における文化の発展を担えるだけの実力をつけていくため徹底して学問していく社会的責任があるのだ、ということを確認した上で、「そもそも学問とは何か? 大学で何をどのように学んでいけばよいのか?」という問題について、説いてきているのでした。

 まず、学問とは、その機能からいえば、現実の問題を解決してよりよい未来を拓いていくためのものであり、実体としては、事実の集積ならぬ論理の体系であることを確認しました。また、現在の大学には論理の体系としてのまともな学問が不在であるという現実をふまえ、「人類の文化遺産を自らに教え、自らの内に育てる」という教養をまともに保持していくことが決定的に重要であると説きました。その教養の内容としては、何よりもまずいわゆる「一般教養」、すなわち世界全体のつながりのなかで自分の専門分野がどのような位置を占めるのかをしっかりと理解するための学びが必須となること、より具体的には、現実の世界が自然・社会・精神という重層的な構造をもつものとして形成されてきた歴史の流れをしっかりとイメージできるようにすることが必須であることを説きました。その上で、このような一般教養の学びのために必読となるいくつかの基本的な文献およびその理解を深めるための参考書となるものを紹介したところでした。

 自分の専門分野における学問体系を構築していくための土台となる一般教養の実力をまともにつけていくためには、これらの文献をくり返しくり返し学んでいくことが大切です。しかし、それだけではまだ大きく不足するものがあるのです。

 「いったい何が不足するというのですか? まともに一般教養の実力をつけるために必要なものとはいったい何なのですか?」とみなさんは問いたいことでしょう。まずは端的に答えておきます。一般教養の実力をまともにつけていくために必須となるのは、弁証法および認識論の学びにほかなりません。

 とはいえ、弁証法といい認識論といい、大半の新大学生のみなさんにとっては、あまりなじみのない得体の知れない言葉であることでしょう。ひょっとしたら、高校の倫理の授業で弁証法という言葉くらいは聞いたことがあるかもしれませんが、結局のところ何が何やらわからなかった、といったところかもしれませんね。

 今回はまず、弁証法とはどういうものか、簡単に説いておくことにしましょう。結論から端的に述べるならば、弁証法とは、学問を構築する実力、すなわち、現実の世界の姿をアタマのなか(観念の世界)にしっかりと筋をとおして描き出していく実力をつけるための方法にほかなりません。

 この弁証法の起源は、古代ギリシャにあります。本稿の連載第3回では、古代ギリシャにおいて、国家(ポリス)の維持・発展にかかわる諸々の問題を解決していくために学問が成立していったことを説きましたが、この学問の成立過程の前提となったものこそが、弁証法の創出だったのです。

 それでは、古代ギリシャの弁証法は、具体的にどのようなものだったのでしょうか。それは、端的にいえば問答法、もう少し詳しくいえば、問答(討論)することをつうじて諸々の問題を突きつけてくる対象(現実の自然や社会における諸々の事物・事象)の構造を究明していくための方法にほかなりませんでした。これまでくり返し説いてきたように、現実の自然や社会が突きつけてくる問題をまともに解決していくためには、現実の自然や社会の構造をまともに知ることが必要なのです。しかし、個人のアタマの働きにはどうしても限界がありますから、自分一人の実力だけでは、問題をうまく解決できないということにもなってしまいます。そこで、古代ギリシャ社会においては、この限界を突破していくために、「自分はここのところはこのようにとらえた」「それはおかしい。そこはこのようにとらえるべきではないか」といった問答(討論)を積み重ねて、問題を突きつけてくる対象の構造についてのイメージをより確かなものにしていくことが試みられるようになっていったのです。

 ここで注意しなければならないのは、このようなまともな問答の成立は、アタマの働きがかなり高度なレベルにまで発展してきていることを前提としている、ということです。こうした問答成立への過程は、当初は、自分が何を主張したいかも不明確なままともかく主張し続けるだけ、相手が何を主張したいのかなどさっぱり分からない、といったレベルからスタートしたことでしょう。そこから、自分のいわんとすることを相手に何とか分からせよう、相手のいわんとすることを何とか理解しよう、と悪戦苦闘する過程が延々と積み重ねられていくことになります。こうしたなかでしだいしだいに、対象にかかわって自分のアタマに描かれたイメージをしっかりと相手に伝わるレベルの言葉で表現するとともに、相手の言葉を媒介として相手がアタマのなかで描いていた対象のイメージを自分のアタマのなかに再現し、さらにこの両者(同一の対象にかかわっての自分のイメージと相手のイメージ)を比べてどこが同じでどこが違うかをしっかりと理解した上で、それをまた相手に伝わるレベルの言葉で表現する、ということができるようになっていったのです。こうした過程の結果として創出されていったものこそ、問答法としての弁証法にほかなりません。この弁証法が創出されたことによって、人類のアタマの働きはいっそう飛躍的に発展していくようになり、ソクラテスからプラトン、アリストテレスへという過程を経ることによって、学問らしい学問がまともに成立することになっていったのでした。

 さて、本稿の連載第4回で述べたとおり、古代ギリシャの学者たちは、あくまでも世界全体をまるごと論じる哲学者でした。これは、この現実の世界の諸々の事物・事象がたがいにつながりあっている以上、まともな問題解決のためには、世界全体を大きなつながりにおいてまるごととらえることが必要とされたからにほかなりません。ここで考えてみてほしいのは、現実の世界を全体としてひとつにつながったものとしてまるごとつかむといったときに、現実の世界のどのような性質に着目する必要があったのか、ということです。

 この現実の世界を大きな視野でとらえてみれば、諸々の事物・事象が複雑に絡み合い相互に影響をあたえながら絶えず運動・変化の過程にあるという姿がみえてくるでしょう。少し難しくいえば、世界は諸過程の複合体である、ということができるのです。つまり、運動・変化するというのは、この世界に存在するあらゆる事物・事象に一般的につらぬかれている性質(一般性)であり、この性質に着目してこそ、世界をまるごとつかむことができるのだ、というわけです。

 現実の世界の姿を把握するための問答法として誕生した弁証法は、現実の世界がもつこのような性質に規定されて、カントからヘーゲルへという哲学の歴史の流れのなかで、現実の世界の運動法則について研究する学問といってよいほどのものにまで深められていくことになりました。こうした流れを踏まえつつ、ヘーゲルの哲学体系から弁証法を3つの法則――対立物の相互浸透、量から質への転化、否定の否定――という形に整理して抽出し、自然・社会・精神を貫く一般的な運動法則についての科学として定式化したのが、19世紀後半ドイツの大学者フリードリヒ・エンゲルス(1820年〜1890年)でした。さらに、この科学としての弁証法の基礎を(学ぼうという意欲さえあれば)誰もが学べるような基本書・教科書としてまとめあげたのが、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)にほかなりません。

 現代においては、この『弁証法はどういう科学か』で科学としての弁証法(世界全体をつらぬく一般的な運動の法則)を学ぶことをつうじて、一般教養の実力をまともにつけていくことが可能となっているのです。しかし、ここでつけくわえておかなければならないのは、弁証法の学びはただこの本を読みさえすればよい、というようなものではないのだ、ということです。弁証法の具体的な学び方については、本ブログ掲載の「弁証法の学び方の具体を説く」(2010年10月3日〜7日)においてとりあげましたので、是非とも参照してください。
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2013年04月03日

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(8/13)

(8)大学における一般教養の大切さを説く

 前回は、現在の大学には論理の体系としてのまともな学問が不在であるという現実をふまえ、学生の社会的責任――社会のなかのそれぞれの専門領域で文化の発展を担っていけるだけの実力をつけていくために自らのアタマのなかに専門領域にかかわっての体系的なイメージをしっかりと描き出せるようにしていくこと――をまともに果たしていくためには、「人類の文化遺産を自らに教え、自らの内に育てる」という教養をまともに保持していくことが決定的に重要であると説きました。

 さて、自分を教え育てるという教養の重要性をしっかり理解してもらったとして、次に問題としなければならいのは、自分自身に教えるべき文化遺産の内実とは何なのか、ということです。

 その端的な答えは、何よりもまず、ふつう「一般教養」とよばれているところのものをしっかりと身につけていくことだ、となります。みなさんは、法学部、経済学部、教育学部、医学部などそれぞれの学部に所属する身でありながら、いきなりこれらの専門科目の学びに突入していくわけではなく、まずはいわゆる「一般教養科目」の学びが必須とされているはずです。理系の学部に所属する学生であっても、社会科学、人文科学の「一般教養科目」を学ばなければならず、逆に、文系の学部に所属する学生であっても、自然科学の「一般教養科目」を学ばなければならいことになっているでしょう。これは、いかなる専門分野といえども、ひとつにつながった世界全体のなかのある特定の部分にすぎないのであり、世界全体のつながりのなかで自分の専門分野がどのような位置を占めるのかをしっかりと理解した上でなければ、その専門分野における文化の発展を担っていけるだけの実力をつけていくことは不可能だからなのです。以上を要するに、「一般教養」の目的は、何よりもまず、この現実の世界の全体像をしっかりと把握して、そのなかに自分の専門領域をきちんと位置づけていくためのものだ、ということができるわけです。

 しかし、現在の大学における「一般教養科目」においては、以前にも説いたとおり、学者ならぬ研究者である先生方が、自身の狭い狭い専門領域で集めた諸々の事実(知識)の一端を、学問の全体系(世界全体のつながり)の展望を欠いたままに披瀝する、といったレベルにとどまるものが決して少なくありません。これでは、世界の全体像を描くという一般教養の目的を果たしていくことは困難となります。なぜなら、狭い領域ごとに知識を積み重ねていくということでは、絶対にまともな全体像を描くことにはつながらないからです。

 このことを、象の絵を描く、というたとえ話で考えてみましょう。この場合、象の体を恣意的に細分化してそれぞれ詳細に描きこんだ絵、例えば、鼻の先の部分を細い細い皺の一本まで描きもらさぬよう詳細に描いた絵、耳の端っこを毛の一本も落とさぬくらいに詳細に描きこんだ絵、右の前足の爪をこれまた詳細に描きこんだ絵……このように相互バラバラに描かれた何枚もの絵を集めていくという方法で、果たして一目で象だとわかる絵ができあがるでしょうか。ひょっとしたら、象の絵であることがわからないどころか、一頭の動物の絵だということすらわからないシロモノができあがってしまうかもしれませんね。厳しくいえば、現在の大学で提供されている「一般教養科目」はこのような結果をもたらしかねないものなのです。

 「ではどうすればよいのですか?」とみなさんは問いたいことでしょう。象の絵のたとえ話でいえば、あくまで一頭の巨大な動物の体をまるごとつかむことを明確に意識して、長い鼻のついた大きなアタマ、団扇のような大きな耳、丸太のような太い足……というように、ポイントとなる部分の特徴を踏まえながら全体の輪郭をざっと描ききればよいのだ、ということになります。一般教養の学びにおいては、このように、ポイントとなる少数の事実だけを拾って、それらに筋をとおして世界の全体像をざっと描くことができればよいわけです。大学における一般教養は、あくまでも対象の姿を論理的に把握する実力をつけるためのものなのであって、ただひたすらに多くの知識を詰め込んでいくことを目的とするものではありません。知識の多さを誇るような考え方は、ここできっぱりと捨ててかかってもらわなければならないのです。

 以上のようなことを念頭においてもらった上で、本来あるべき一般教養の学びとは具体的にどういうものなのか、説いておくことにしましょう。それは、端的には、現実の世界が、自然・社会・精神という重層的な構造をもつものとして形成されてきた歴史の流れをしっかりとイメージできるようにする、ということに尽きます。すなわち、自然の上に社会が形成され、さらにその社会のなかに精神がつくりだされてきたのだ、という歴史的な過程を、しっかりと自分のアタマのなかで展開できるようにする、ということです。極端にいえば、このような歴史の流れをイメージしていくことに役立つ書物だけを読めばよいのであって、「世界全体を知らなければならないから……」ということで、雑多な分野の本を片っ端から読み漁っていくなどということは、まずはまったくもって無用であるといってよいのです。

 では、実際にどういう本を読んでいけばよいのでしょうか。ここでは何よりもまず、本田克也ほか『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社白鳳選書)をあげなければなりません。これは、自然の歴史、すなわち宇宙と太陽系の歴史を踏まえた上での地球と生命の歴史を、一本につながった大きな流れとして、物語のように描ききった画期的な書です。本書を深く理解するためには、中学校の理科教科書、とりわけ地学・生物を扱ういわゆる「第2分野」の学びが必須となります。また、必要に応じて、高校理科の地学・生物の参考書などを参考にするのもよいでしょう。

 ついで、社会の歴史および精神(宗教や学問や芸術などの文化)の歴史の学びについては、何といっても、中学校の歴史教科書にまさるものはありません。高校の歴史教科書レベルになると、提示されている事実が多すぎて、イメージがスムーズに流れていかないのです。また、中学校の歴史教科書にくわえて、林健太郎『歴史の流れ』(新潮文庫)もすぐれた参考書となるでしょう。ただ、本書の欠点は、16世紀、宗教改革のあたりまでのことが比較的詳しく、それ以後のことはきわめて簡単なあらすじだけになってしまっていることです。この欠点を補うためには、同じ著者による『世界の歩み(上・下)』(岩波新書)を読んでもらわなければなりません。残念ながらこれらの本は絶版となっていますが、古本屋で探して是非とも入手してもらいたいと思います。これらにくわえて、H・G・ウェルズ『世界史概観(上・下)』(岩波新書)も、提示されている事実のレベルがやや細かくなりますが、重要な参考書となるでしょう。また、社会のなかの経済という領域に焦点を絞ったものではありますが、ヒューバーマン『資本主義経済の歩み(上・下)』(岩波新書、絶版)も、歴史のダイナミックな流れについて生き生きとしたイメージを描かせてくれる名著です。さらに、精神の歴史の学びについていえば、以上のような本からの学びにくわえて、歴史に残る文学作品、絵画、音楽などすぐれた藝術作品を鑑賞することが欠かせないこともつけくわえておきたいと思います。

 ここで紹介した本は、一回ざっと読んだらそれで終わり! というような性格のものではありません。一本につながった世界全体の歴史の流れを自分のアタマのなかでしっかりとイメージできるようになるまで、くり返しくり返し読み込んでいくようにしてください。
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2013年04月02日

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(7/13)

(7)教養とは何かを説く
 
 前回は、「学問の府」たる高等教育機関で学ぶ学生の社会的な責任――社会のなかのそれぞれの専門領域で文化の発展を担っていけるだけの実力をつけていくために、自らのアタマのなかに専門領域にかかわっての体系的なイメージをしっかりと描き出せるようにしていくこと――を踏まえて、新大学生たるみなさんが、これからどのように学んでいけばよいのかという問題について、検討をはじめたところでした。前回確認したのは、これからみなさんが受けることになる大学の講義は、学者ならぬ研究者でしかない先生方が自身の狭い専門領域で集めた諸々の事実(知識)の一端を披瀝するといったレベルのものが少なくないのだ、ということでした。つまり、学問体系の構築は、ただたんに大学の講義を真面目に受けつづけるだけでは不可能になってしまう、ということです。

 それでは、新大学生のみなさんが学問体系の構築を志した場合、大学で提供される講義に過大な期待をかけるわけにはいかないとすれば、いったいどうすればよいのでしょうか。高等教育機関である大学において教育を施す主体(教授!)であるべき大学教員の先生方にあまり大きな期待ができそうもないとなってしまった場合、新大学生のみなさんは、学問への道を諦めてしまうしかないのでしょうか。

 決して諦める必要はありません。ではどうすれば、学問への道を歩んでいけるのでしょうか。その端的な答えは、自分で自分を教育すればよい! ということです。このようにいうと、「大学教授の先生方にも無理なことがなぜ自分にできるのか!?」と思われるかもしれません。しかし、これはそれほど難しいことではないのです。みなさんがたとえ直接にまともな教師にめぐまれなかったとしても、書物などをつうじて、人類の歴史上の偉大な学者たちに教えを請うていくことは可能なのですから。ようするに、過去の偉大な文化遺産を自らすすんで学んでいくという姿勢を確立しさえすればよい、ということなのです。

 実は、このように、自分で自分を教育していくということこそが、いわゆる「教養」の内実にほかなりません。教養とは何か、きちんと定義するならば、「人類の文化遺産を自らに教え、自らの内に育てることによって自らの実力と化すべきもの、あるいは自らの実力と化したもの」(瀬江千史『医学の復権』現代社、p.71)ということになります。

 このような教養、すなわち自分自身を教え育てるという姿勢の確立は、別の言葉では「独学」といってもよいものです。この独学ということにかかわって、新入生のみなさんにぜひとも紹介しておきたい人物がいます。それは、言語過程説(言語を〈対象→認識→表現〉という過程的構造において把握しようという説)を唱えた独創的な言語学者として知られ、日本におけるマルクス主義理論の最良の紹介者でもあった三浦つとむ(1911年〜1989年)です。三浦つとむは、大学に職を得るどころかそもそも大学に通うことすらなかったにもかかわらず、言語学や芸術論などの幅広い分野において、どんな大学教授の追随も許さない高いレベルで独自の見解・独自の理論を立てて研究活動をつづけた実に偉大な学者でした。三浦つとむについては、本ブログに掲載した「三浦つとむ生誕100年に寄せて」(2011年2月15日〜3月5日)、あるいは「三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う」(2011年5月11日〜25日)で詳しくとりあげましたので是非とも参照してください。

 それはさておいて、この三浦つとむは、独学ということについて、次のように説いています。

「ほんとうの独学は、自分から積極的に問題ととりくんで、自分の力で問題を解決しようと努力することであり、自分の力で知識や理論をつくり出すことである。かたちの上での独学が、先生につくことなく「一人で学ぶ」ことであるのに対して、ほんとうの独学は「独自に・独力で学ぶ」ことである。先生がいるかいないかは、独学と関係がない。かたちの上での独学にしても、教科書を使えば、その教科書を書いた人間は先生の役割をつとめているわけである。学校へ通っていても、先生の講義を頭から信じこんだり、教科書を暗記したりするのではなく、自分で独自の意見を持って批判的に受けとるか、独力で新しい思想や理論をつくり出す努力をしているとか、積極的な創造活動をしている学生は、ほんとうの独学をしているのである。」(『新しいものの見方考え方』季節社、p.194)


 このように、三浦つとむのいわゆる独学とは、「自分から積極的に問題ととりくんで、自分の力で問題を解決しようと努力することであり、自分の力で知識や理論をつくり出すこと」にほかならないのです。

 以前、学問の起源にかかわって説いたように、人間はつねに何らかの問題の解決をせまられつづける存在であり、人間が生きつづけているということは、毎日、毎時、必然的にぶつかりつづける諸々の問題について解決をせまられつづけるということにほかなりません。だからこそ、問題を突きつけてくる現実の対象の構造をつかむために、現実の諸々の事実から論理を導き出していく「学ぶ」という行為が必要となるのです。自分の力で問題を解決していくためには、自分の力で対象の構造を把握しなければなりません。自分からすすんで対象にとりくんでこそ、自ら問題を解決していけるだけの力をつけることができるのです。三浦つとむは「私はいわゆる独学者である」と述べていますが、この言葉は、このような強烈な自負を含んだものとして理解されなければならないものだといえるでしょう。

 まともに学問していくためには、このような独学の精神すなわち教養をもつことが決定的に重要です。たとえみなさんが、学者としての実力と教育者としての実力を兼ね備えたまともな大学教員にめぐりあうことができなかったとしても、このような独学の精神すなわち教養を保持することができたならば、まともに学問への道を歩んでいくことは充分に可能なのです。

 少なくとも、大学生という社会的な地位を得たみなさんは、社会の他の部分に位置する人々よりもはるかに多くの自由な時間をもっているはずです。この時間を有効に使いさえすれば、大学の講義にたよらずとも、学問的な実力をつけていくことは充分に可能なのです。新大学生のみなさんには、学生の社会的責任――社会のなかのそれぞれの専門領域で文化の発展を担っていけるだけの実力をつけていくために自らのアタマのなかに専門領域にかかわっての体系的なイメージをしっかり描き出せるようにしていくこと――をしっかりと自覚した上で、これをまともに果たしていくためには、独学の精神、すなわち教養のまともな保持こそが決定的に重要な条件となるのだということを、しっかりと理解しておいてもらいたいと思います。
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2013年04月01日

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(6/13)

(6)現代の大学における学問の不在を問う

 本稿は、この春から新しく大学生活をはじめた新入生をおもな読者として想定して、「そもそも学問とは何か」ということをしっかりとふまえつつ、大学で何をどのように学んでいけばよいのか、説いてくことを目的としたものです。

 前回までのところで「学問とは何か」という問題について確認してきました。端的には、学問とは、その機能からいえば、現実の問題を解決してよりよい未来を拓いていくためのものであり、実体としては、事実の集積ならぬ論理の体系、より具体的には、諸々の事実から導き出された論理が、それぞれのレベルに応じて立体的に組み上げられ、全体が「脳」によってしっかりと統括されているもの、ということでした。

 この学問の機能と実体は、必ずセットでつかんでおかなければなりません。なぜならば、対象の構造を的確に把握した論理の体系であってこそ現実の問題をまともに解決していける、ということになるからです。このことを、もう少し突っ込んで考えておくことにしましょう。

 学問体系に「脳」がなければならないというのは、いうまでもなく、人間の体(生命体)にたとえての表現です。学問体系を統括する「脳」とは、その学問が対象とするものについての「○○とは何か」という一般論(本質論)にほかなりません。例えば、経済にかんする諸々の事実から導き出された論理がきちんとあるべきところに位置づけられて、「経済とは○○である」というたったひとつの原理原則によってしっかりと統括されているものが経済学体系です。経済学体系によれば、あらゆる経済問題について、「経済とは○○である」という経済一般論(本質論)とのつながりにおいて、解いていくことができます。たとえば、「経済とは○○である。したがって財政政策はこのようにすべきである」とか「経済とは○○である。したがって税制改革はこのようにするほうがよい」、あるいは「経済とは○○である。したがってA党の掲げる経済政策はこれこれこういう点で間違いである」というように、です。人間の体は、隅々まで脳によってしっかり統括されているからこそ、変化してやまない外界にしっかりと対応しながら、ひとつにまとまって動いていくことができます。これと同じように、経済学体系も、「経済とは○○である」という経済一般論(本質論)によって全体がしっかりと統括されているからこそ、経済にかかわる諸々の現象の複雑きわまりない変化にしっかりと対応して、ひとつにまとまって動いていくことができるのです。

 以上をふまえるならば、社会のなかのそれぞれの専門領域(例えば経済活動)で文化の発展を担っていけるような実力をつけるために、自らのアタマのなかに専門領域にかかわっての体系的なイメージをしっかりと描き出せるようにしていくことこそが、「学問の府」たる高等教育機関で学ぶ学生の社会的な責任である、ということができるわけです。ここでもとめられるのは、受験勉強においてもとめられたような、試験用に作成された問題を暗記した知識によって解いていく実力ではけっしてなく、誰も解いたことのない未知の問題をほかならぬ自分自身のアタマの働きによって解いていく実力、より具体的には、事実を論理的に把握するとともにそれらを体系的に組み上げていく実力にほかなりません。

 さて、それでは、新大学生たるみなさんは、このような実力をつけていくためにこれからどのように学んでいけばよいのでしょうか。

 「ともかく、日々の講義にしっかり出席してきちんとノートをとり、講義のテキストや講義のなかで紹介された参考文献もじっくり読み込んでいけばよいのだろう」と考える方もいるかもしれません。しかし、残念ながら、大学の講義を真面目に受けるといったことだけでは、学問的な実力をつけるという点ではあまり役立たない、というよりもむしろ害にさえなりかねない場合がある! という現実があるのです。

 「そんなことがあってたまるものか!」とみなさんは思うかもしれませんね。しかし、これは紛れもない現実なのです。このことにかんしては、本稿の連載第2回で紹介した『学生に与う』の著者である河合栄治郎が、大学教員の実力について以下のような痛烈なる批判を浴びせかけていることに注目してもらわなければなりません。

「学問の教師は、学者であるとともに教師でなければならないのに、今日の多くの教師は、研究者ではあるが学者ではない。研究所の研究員や独学の研究者は、自己の好む問題や他から命ぜられた題目について、既存の学界の水準を維持し発展させればそれでよかろう、彼は必ずしも学問の全体系の展望をもたなくとも済みうる。専門が細かに分化すればするほど、各項目の研究に能率をあげるにいっそう便利であろう。しかし学者は研究者ではない、彼もまた研究者と同じく、専門学科の特定の題目を研究せねばならないが、学者たることの特徴は、学問の全体系における自己の専門の地位を明らかにし、隣接した専門との連関をあざやかに意識していることにある。」(河合栄治郎『新版 学生に与う』社会思想社・現代教養文庫、pp.47-48)


 ここで河合栄治郎が批判しているのは、大学教員の多くが学問の全体系についての展望を欠いたまま細分化された自身の専門領域のなかだけで研究をすすめている、という現実です。この文章が書かれたのは昭和25年(1940年)のことですが、それから70年以上たった現在、このような惨状がますます深まっているのではないかと思われる悲しい現実があるのです。厳しくいえば、現在の大学には、論理の体系たる学問は不在といってよく、細分化されたそれぞれの専門領域における事実の集積レベルの研究が幅を利かせているのです。現在の大学を中心としたアカデミズムの世界において評価される研究というのは、これまであまり事実が集積されていなかった狭小な領域を見つけ出してきて、そこで幾許かの事実を集めてもっともらしい解釈を添えて提出するといったレベルのものが、決して少なくありません。

 大学生になったみなさんがこれから受けることになる大学の講義は、このようなアカデミズムの世界に生きる研究者の先生方によるものです。だからこそ、学問的な実力をつけるということは、ただたんに大学の講義を真面目に受けるといったことだけでは不可能であるといわなければならないのです。
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2013年03月31日

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(5/13)

(5)学問とは事実の集積ではなく論理の体系である

 前回は、学問なるものの機能ならぬ実体とはいかなるものか、という問題について考えてみました。端的には、ひとつにつながった歴史の流れのなかにある現実の世界(自然・社会・精神)のありさまについて、自分のアタマのなか(観念の世界)にしっかりと描き出したイメージこそが、学問の実体なのであり、たとえていえば、この世界のどこに何があってそれぞれどのようにつながって(かかわりあって)いるのかということを、いわば一枚の世界地図のように描き出したものこそが学問である、ということでした。このような世界地図をしっかりと描き出すことができてこそ、道に迷うことなく、確実に目的地に到達することができるわけです。これこそが、現実の問題を解決していくのに役立つという学問の機能にほかなりません。

 ここで、ひょっとしたら生じてくるかもしれない誤解について、あらかじめ解いておく必要があるでしょう。それは、学問とは簡単には現実の世界をよく知ることだということから、学問とは、現実の世界についての諸々の事実を集めていくこと、いいかえれば、知識の量を増やしていくことである、とする誤解です。

 これは、ハッキリいってとんでもない間違いです。このことについて、地図のたとえ話に即していえば、現実に存在する諸々の事物についてあれもこれもと事細かに地図に書き込んでいくことで、はたして地図としての使い勝手がよくなっていくのだろうか、ということで理解してもらいたいと思います。

 それでは、学問とはいったいどのようなものであるべきなのでしょうか。端的に結論から述べるならば、学問とは事実の集積ではなく論理の体系でなければならない、ということになります。この言葉の意味するところを理解するためのポイントは二つあります。その第一は「論理とは何か」であり、第二は「体系とは何か」ということです。

 それでは、事実ならぬ論理とはいったい何なのでしょうか。まず「事実とは何か」ということから確認しておきましょう。事実とは、簡単にいえば、実際にある(あった)ことです。これは感覚器官を媒介としてとらえることができます。これにたいして、「論理とは何か」といえば、対象とする個々の事実から共通する性質をとりだしたものだ、ということになります。これは、わたしたちが自分自身のアタマを駆使して事実とかかわっていくなかで導き出さなければなりません。

 身近な例で考えてみましょう。例えば、みなさんの机のうえに赤鉛筆や万年筆、原稿用紙、ノートがあるとします。これらのものが事実として存在していることは、視覚を中心とした感覚器官によってとらえることができますね。これにたいして、アタマのなかで赤鉛筆と万年筆とをならべてみて、そこから何らかの共通性を導き出すことができたならば、それが論理だということになります。この場合は「書くもの=筆記具」という論理(共通した性質)を導き出すことが可能です。赤鉛筆や万年筆などは現実の世界に事実として存在するものですが、「筆記具」なるものは、現実の世界には存在しません。これはあくまでも、個々の鉛筆やシャープペンシルや万年筆やボールペンなどなどの事実から導き出された共通性として、アタマのなかに存在する像(イメージ)でしかないものです。

 ここで重要なのは、この論理によってこそ、対象を立体的な構造として筋をとおしてつかんでいくことが可能になるのだ、ということです。例えば、赤鉛筆と万年筆という事実から「筆記具」という論理(共通性)を導き出し、原稿用紙とノートから「書きつけるもの=用紙」という論理(共通性)を導き出した上で、さらにこの両者に共通する性質として「文房具」というよりレベルの高い論理を導き出すことができるでしょう。つまり、事実をたんに事実として集めているだけでは、いろいろなモノがあるなあ、といった平面的な把握にしかならないのですが、諸々の事実を共通性で括って組み上げていくことで、立体的な構造として筋をとおして把握していくことが可能になるのです。

 端的には、この「立体的な構造」ということが、第二のポイントである「体系とは何か」という問題につながっていくのです。ここまで説いてきたことをしっかり念頭においた上で、次の文章を読んでみてください。

「体系とは読んで字のごとく体の系である。すなわち、人間の体のようにつながってひとまとまりになっているものである。人間の体はみればわかるように、頭がありその下に体幹があり、体幹から手、足が出ている。そして、全身が頭に存在する脳によって、神経・ホルモンを介して完全に統括されている。このようにあるべきところにきちんとあるべきものがあり、それが一貫としてつながってひとかたまりになって脳の支配の下に統括されながら活動していけるものが、体系なのである。」(瀬江千史『看護学と医学』現代社、p.78)

「学問体系とはあくまでも論理の大系であって、どんなに数多くの事実が集められていても、それは事実の集合箱ではあっても、けっして学問としての大系ではないということである。なぜここであえて念をおすのかといえば、現代の医学は事実の集積にしかすぎない、いわゆる大系、すなわち膨大な事実のモザイク的集合箱でしかなく、なんら論理の大系たる体系になっていないのであるが、それが医学の学問体系であると、医学者と称する専門家をも含めて世間一般に錯覚されているのが現実だからである。」(同、pp.78-79)


 ようするに、事実がたくさん並んでいるだけでは学問ではなく、諸々の事実から導き出された論理が、それぞれのレベルに応じて立体的に組み上げられ、全体が「脳」に相当する本質レベルの論理によってしっかりと統括されているものこそが学問である、ということになるでしょう。言葉を換えて説くならば、(かつてみなさんが受験勉強においてもとめられたように)たんに知識の量の多さを誇ることではなくて、現実の世界のあり方を筋をとおしてつかみとることこそが学問にほかならないのだ、ということになります。

 以上、前回から今回にかけては、学問の実体について考えてきたわけですが、ここまで説いてきた流れを総括する意味で、今回は最後に「学問とは何か」の厳密な定義を示しておくことにしましょう。非常に難しいものですが、これまでの流れをしっかり踏まえるならば、何となくでも理解してもらえるのではないでしょうか。

「学問というものは、現実の世界の歴史性、体系性を観念的な論理性として体系化することである」(『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集第四巻』現代社)       
「学問というものは、自然・社会・精神として存在している現実の世界の歴史性、体系性を観念的な実体の論理性として構築し、その内実の歴史的構造性を理論レベルで体系化することである」(『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集第六巻』現代社)


 本稿でこれまで説いてきた流れを踏まえていいかえるとすれば、自然・社会・精神の三重構造をなすものとして歴史的に形成されてきた現実の世界の姿を、自分のアタマのなか(観念の世界)でしっかり一本の筋をとおすようにして描き出していったもの(論理の体系!)こそ学問の実体にほかならない、ということになります。
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2013年03月30日

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(4/13)

(4)学問とは現実の世界の姿をアタマのなかに描き出したものである

 前回は、「学問とは何か」という問いにたいする答えを学問の起源に探りました。端的には、サルから人間への発展の過程で、労働によって地球環境を能動的に変革していくようになっていった人間が、現実が突きつけてくる諸々の問題を自分のアタマで解決していけるように、現実のありさまをよく知ろうとしたところから学問がはじまっていくことになったのだ、ということでした。簡単には、学問とは、人類が直面する諸問題を解決し、よりよい未来をつくるためにはじまったものにほかならない、というわけです。

 さて、学問は人類が直面する問題を解決しよりよい未来をつくるためのものである、という答えは、学問というものを、機能(はたらき)の面から、いいかえれば、どのように役に立つのかという面から、つかんだものであるということができます。しかし、これだけでは、「学問とは何か」の答えとしては、いささか不足するのです。

 これがどういうことなのか、身近な道具を例にして考えてみましょう。

 たとえば、ハサミなるものを機能の面からつかむならば、紙などを切るための道具である、ということになります。しかし、これだけでは、ハサミそのものはいったいどういう形態や構造(これを少し難しい言葉ですが「実体」といいます)をもっているものなのかわかりません。ハサミの実体がいかなるものかは、ハサミの機能とは別に問題にされなければなりません。それでは、ハサミの実体とはいったい何なのかといえば、簡単には、二枚の刃が蝶番を支点として回転するようにつなげられたもの、ということができますね。ハサミというものは、紙などを切るという機能を果たすために、このような実体をもっているわけです。「学問とは何か」についても、このハサミの例とちょうど同じように、機能の面からだけでなく実体の面からもつかんでおく必要があるのです。

 それでは、学問なるものの機能ならぬ実体とはいかなるものなのでしょうか。そのヒントは、実は前回に説いたところですでに出てきています。それは「現実が次々と突きつけてくる問題をうまく解決していくためには、問題を突きつけてくるところの現実の対象のあり方をよく知ることが必要だ」という箇所です。これは、自分のアタマを使って問題を解決していかなければならない人間は、問題を突きつけてくる現実の対象がいかなる構造をもったものなのか、その姿をしっかりとアタマのなかに写しとっておかなければならないのだ、ということを意味しています。卑近な例でいえば、パソコンを使用する上でぶつかる諸々の問題はパソコンの構造についてのイメージがある程度までアタマのなかに描けていなければ解決できないし、洗濯機を使用する上でぶつかる諸々の問題は洗濯機の構造についてのイメージがある程度まではアタマのなかに描けていなければ解決できない、ということです。ここから、学問はどういう実体をもっているのか、という問題について、ひとつの答えを導き出すことができるでしょう。それは、現実の対象の構造についてのイメージをアタマのなかに描き出したものだ、という答えにほかなりません。つまり、学問というものは、現実の対象が突きつけてくる問題を解決するという機能を果たすために、このような実体をもっているわけです。

 しかし、ここで絶対に忘れてはならないことがあります。それは、現実の世界に存在する諸々の事物・事象はたがいにつながりあっているということです。ですから、ただ直接に問題となっている事物だけを取り上げていては、問題の本当の解決はできません。パソコンの問題にしろ、洗濯機の問題にしろ、大きくは電気という問題につながっているのです。だから、本当は電気のことを知らなければパソコンの問題も洗濯機の問題も解決できないのです。このように考えていくと、現実の事物・事象はすべてつながりあっているのだから、結局のところ、この世界のすべてをまるごと知らなければどんな小さな部分の問題も適切に解決していくことはできないのだ、ということになっていききます。実は、「学問とは何か」を考えていく上で絶対に欠かすことのできないポイントが、「この世界のすべてをまるごと知らなければ……」ということなのです。

 これがどういうことを意味するのか、学問の生成発展の歴史的過程から考えてみることにしましょう。みなさんが古代ギリシャの時代に学問の起源をたずねてみればすぐにわかることですが、そもそも学問は、この現実の世界(具体的には古代ギリシャ人の生活領域)の全体をまるごとつかみとろうというところからはじまったのでした。古代ギリシャの学者たちは、あくまでも世界全体をまるごと論じる哲学者だったのであり、物理学や生物学、あるいは政治学などといった専門領域に特化したいわゆる個別科学者は存在しませんでした。この世界の全体をまるごと論じる哲学がまず誕生したのであり、そこから個別の領域についての究明が積み重ねられていくことによって、つづくヘレニズム時代からローマ時代にかけて、しだいに個別科学への分化が進行していくことになったのでした。「学問とは何か」という問題を考える上では、このような学問の歴史の構造を是非にもつかんでもらわなければなりません。

 ここで、哲学から個別科学が分化していく過程をみていく上で重要な視点を説いておくことにしましょう。それは、学問の対象となる「現実の世界」は、大きく自然・社会・精神という3つの領域に分けてとらえることが可能だ、ということです。しっかりと押さえておいてもらいたいのは、これら3つの領域は、あくまでも一本につながった歴史の流れのなかで、重層的な構造をなすものとして形成されてきたのだ、ということです。この歴史の流れをざっとたどるならば、以下のようになります。

 まず、太陽(いわゆるビッグバンによって誕生させられた無限の星々のひとつです)から分かれた惑星のひとつとして地球が誕生し、その地球からさらに月が分かれることで、太陽・地球・月という三重構造が形成されます。この三重構造のなかで、地球上に生じた物質の特殊な存在様式として、生命が誕生することになっていくのです(その特殊性は、地球環境との相互浸透をつうじて自己のあり方を維持していこうとする、端的には代謝するというところにあります)。この生命は、(太陽や月とのかかわりを内にふくんでの)地球との相互浸透関係(生命体の活動が地球上の新しい環境をつくりだし、その新しい環境に適応して生命体みずからが変化していく過程)をつうじて、「単細胞→カイメン→クラゲ→魚類→両生類→哺乳類→人類」という流れをたどって発展してきたのでした。やがて、サル(の群れ)が人間(の社会)にまで発展し、人間の社会が社会的労働を媒介にして地球環境とかかわりながら発展していく流れのなかで、精神的なもの(文化)が誕生させられ大きく発展させられていくことになったのでした。このように、簡単には、自然の上に社会が形成され、さらにその社会のなかに精神(文化)がつくりだされて発展してきた、という歴史的な過程があるのです。

 現実の世界における諸々の事物・事象は、このようにつながりあって発展してきたわけですから、例えば経済を専門にしたいからといって、ただ経済だけを究明していけばよいということには絶対になりません。諸々の経済的事象を、自然・社会・精神という三重構造をもった世界の一部分として究明していってこそ、真に学問の名に値する経済学の構築ができるのです。端的には、経済学、教育学、心理学、言語学などといった個別科学は、世界全体をまるごと究明する学問たる哲学の一分肢として位置づけられてはじめて、学問の名に値するものになりうるのだ、ということができるでしょう。

 これから「学問の府」たる大学での生活をはじめようとしている新入生のみなさんには、学問が対象としなければならない「現実の世界」とは、これだけ壮大な広がりをもったものなのだということを、しっかりと肝に銘じておいてもらいたいと思います。簡単には、自然・社会・精神の三重構造をなすものとして形成されてきた現実の世界の姿について、自分のアタマのなか(これを「現実の世界」にたいして「観念の世界」といいます)にしっかりとしたイメージとして描き出していくことこそが、学問の構築なのです。たとえていうならば、この世界のどこに何があってそれぞれどのようにつながって(かかわりあって)いるのかということを、いわば一枚の世界地図のように描き出したものこそ学問にほかならぬ、ということができるでしょう。
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2013年03月29日

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(3/13)

(3)学問は現実の問題を解決してよりよい未来を拓くためのものである

 本稿は、この春から新しく大学生活をはじめた新入生をおもな読者として想定して、「そもそも学問とは何か?」ということをしっかりと踏まえつつ、大学で何をどのように学んでいけばよいのか、説いていくことを目的としたものです。

 前回に確認したのは、大学とは文化遺産の発展を担えるだけの実力をもった人材を養成する高等教育機関である、ということでした。このことを踏まえて、文化を発展させるために必要なものこそ学問であり、徹底的に学問することこそ学生の社会的責任なのだ、と説いたところまででした。

 さて、徹底的に学問することが学生の社会的責任であるとして、ではどうすればよいか……と考えをすすめていく上で何よりもまず重要なのは、「学問とは何か」をしっかりとつかむことです。あとで詳しく説くように、大学教育のスタート地点で「学問とは何か」がまともに講義されないことが、現在の大学教育における重大な欠陥として存在しているのですが、その欠陥を補うためにも、ここで「学問とは何か」について大まかなイメージを描いてもらえるよう、できるかぎり分かりやすく説いておきたいと思います。

 その前に、どうしても強調しておきたいことがあります。それは「学問とは何か」という問いの立て方がもつ重要性です。この「○○とは何か」という問いの立て方は、対象とする○○の本質をズバリと問うものであるといえるでしょう。対象にかかわるあらゆる問題は、この本質とつなげる形でこそ解いていくことができるわけです。たとえば、経済にかかわるあらゆる問題は「経済とは何か」という本質から、教育にかかわるあらゆる問題は「教育とは何か」という本質から、言語にかかわるあらゆる問題は「言語とは何か」という本質から、解いていくことができる、ということです。というよりもむしろ、そうしなければ間違った答えが出てきてしまう、というほどに、この「○○とは何か」というアタマの働かせ方(考え方の筋道)は重要なのです。このことについては、本稿でもあらためてふれる機会があるでしょう。

 さて、それでは「学問とは何か」をつかむためには、どのように考えて(アタマを働かせて)いけばよいのでしょうか。それは簡単には、「学問とは何か」は学問の起源からつかんでいかなければならない、ということになります。つまり、学問など存在しない状態から学問なるものが創出されていく過程にこそ、「学問とは何か」を解くカギが潜んでいるのです。もっといえば、学問なるものの創出を必要とするような何らかの条件の変化があったことをしっかりとつかんでこそ、「学問とは何か」をあきらかにすることができる、ということです。ちなみに、このようなアタマの働かせ方は、あらゆる「○○とは何か」という問いについていえることです。たとえば、「言語とは何か」は、サルの群れから人間の社会への発展過程のなかで、いかなる必要性が生じたことに対応して言語なるものが創出されていったのか、という観点から追究してこそ、あきらかにすることができるのです。このようなアタマの働かせ方は、非常に役に立つものですから、しっかりと記憶に留めておいてください。

 さて、以上をふまえて、学問の成立過程に「学問とは何か」を探っていくことにしましょう。いうまでもないことですが、この世界のなかで学問なるものをもつのは人間だけです。したがって、学問の成立過程は、究極的には、サルから人間への発展過程をふまえて考えていかなければならないのだ、ということになるわけです。それでは、サルの群れから人間の社会への発展過程のなかで、いかなる必要性が生じてきたことに対応して、学問なるものが創出されていくことにつながっていったのでしょうか。

 そもそも、サルまでの動物は、本能(あらかじめ組み込まれたプログラムのようなもの)によって地球環境に受動的に対応して生きていました。ところが、サルからヒトへ、ヒトから人間へという過程をたどっていくなかで、人間はしだいにアタマのなかに何らかのイメージを描いて、それにもとづいて地球環境に働きかけるようになっていったのです。簡単には、人間は労働によって地球環境を能動的に変革していくようになったのだということであり、ここに、動物の集団的生活と人間の社会的生活との決定的な違いが存在します。人間は、労働(地球の自然への能動的な働きかけ)によって生活に必要な諸々のモノをつくりだし、それらを消費することによって人間自身(自分自身と子孫たち)をつくっていくのであり、いわば生活そのものを生産するのです。

 地球の自然に能動的に働きかけていくということは、人間が自身のアタマをいろいろと働かせながら自然の諸々のモノにかかわっていく、ということにほかなりません。このことは、動物においては、生きていく上で解決に悩むような問題が生じようがなかった(あえていえば、生きていく上でぶつかる諸々の問題は基本的に本能が解決してくれる)のにたいして、人間はまともに生きていくためには諸々の問題について自分(たち)のアタマを悩ませながら何らかの解決をはかっていかなければならなくなった、ということを意味します。つまり、人間は、労働を開始したことによって、つねに何らかの問題の解決をせまられつづける存在になってしまったのでした。

 ここで考えてみなければならないのは、現実が次々と突きつけてくる問題をうまく解決していくためにいったい何が必要なのか、ということです。この答えは、端的には、問題を突きつけてくるところの現実の対象のあり方をよく知らなければならない、ということになります。実は、ここのところにこそ、やがて学問なるものが生成していく過程の芽生えがあると考えられるのです。ようするに、人間が生活上の諸々の問題を的確に解決していくための指針を得ようとして、自身を取り巻く諸々の対象について知ろうとしたところにこそ、学問のそもそもの淵源があるのだ、と考えることができるわけです。

 人類の歴史上、学問らしい学問がはっきりと姿をあらわすことになるのは、古代ギリシャ時代のことであったとされています。古代ギリシアにおいて誕生した学問は「知を愛する」という意味で「フィロソフィア」と呼ばれていました。ここから通常、古代ギリシャの学問については、純粋に知を愛する、「学問のための学問」であったかのようにイメージされがちです。しかし、先ほど検討したような学問のそもそもの淵源を踏まえるならば、これは、現代に生きるわれわれが抱く「哲学」のイメージを意識的あるいは無意識的に押しかぶせてしまったところにつくられたイメージにすぎない、というべきでしょう。古代ギリシャの学問の実態については、次のような説明がもっとも正鵠を射たものだと思われます。

「フィロソフィアとは何よりも国家(ポリス)を他国から守り、国家を成り立たせ繁栄させていくことができるために絶対に必要な知識を、敵国との戦争状態にある現実そのものの生活の中で、その状態をよりよくしていくために必要と思われる対象そのもの=事実そのものといわば必死に、つまり格闘するというようなレベルで、そのものと関わることによって国家(ポリス)の実力とすることであった」(悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か(二)」『学城』第2号 p.60)


 端的には、古代ギリシャにおいては、敵国との戦争にいかに勝つか、治山・治水をどうするか、といった国家(ポリス)の維持・発展にかかわる切実な問題を解決するためにこそ、学問が生成し発展していったのだということです。

 このような古代ギリシャの学問の性格からも、学問なるものは人類が直面する諸問題を解決してよりよい未来をつくるためにこそはじまったのだということを確認することができるでしょう。これは当然のことながら現代における学問にもつらぬかれている(べき)性格です。ズバリといえば、学問は社会の役に立つものでなければならないのです。もちろんこれは、特定の企業の利益につながるなどといった狭い意味ではなく、日本という国家における文化の発展に寄与するという意味であり、さらにはそのことをつうじて人類文化の発展に貢献していくという意味にほかなりません。このような意味での社会の役に立つ学問をつくっていくことこそ、社会がコストを負担していることで存在している大学の「学問の府」としての歴史的・社会的な使命であり、このような学問を学ぶことをつうじて文化を発展させていく実力をつけていくことこそ、大学で学ぶみなさんの歴史的・社会的な使命なのです。
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2013年03月28日

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(2/13)

(2)学生の社会的責任を果たすため大学で何をどう学ぶべきか

 前回は、この春から大学生活をスタートさせる新入生のみなさんにたいして、4年間の大学生活を有意義なものとして過ごしていくための必須の条件について、説きました。それは端的には、大学生活のスタート地点において、「自分はこの社会のなかでどのような役割を担って生きていきたいのか? そのためにこの4年間の大学生活をどのように過ごしていくべきなのか?」ということをじっくりと考え、しっかりとした目標を立てておくことでした。

 とはいえ、このようにいうだけでは、大学生活の目標をまじめに立てていこうとしている新入生のみなさんへのアドバイスとしては、いささか漠然としすぎていることは否めません。なぜならば、「社会のなかでどのような役割を担って生きていきたいのか?」という問いは、なにも大学生にかぎらず、社会のなかで生きるすべての人間が考えなければならないレベルの問題であるからです。この抽象的なレベルの問いから、いきなり「4年間の大学生活をどのように過ごしていくべきなのか?」という具体的な問いへの答えを導き出すことはできないのです。

 それでは、この2つの問いを媒介する(うまくつないでいく)ためには、いったい何が必要となるのでしょうか。それは、「この社会のなかで大学はどういう役割を担っているのか? したがって、学生の社会的責任とはいったい何なのか?」ということをしっかりとつかんでいくことです。大学は社会のなかでこのような役割を担っており、したがって学生にはこのような社会的責任がある、これをしっかりと果たしていくことをつうじて、自分個人としては社会のなかでこのような役割を担って生きていけるようになりたいのだ……、というように考えていく(アタマを働かせていく)必要があるわけです。

 それでは、そもそも大学とは、社会のなかでいったどのような役割を担っている存在なのでしょうか。この問いにたいして見事な解答をあたえた書として、ここで是非とも紹介しておきたいのは、東京帝国大学(現東京大学)経済学部の教授であった河合栄治郎(1891年〜1944年)が著した『学生に与う』(現代教養文庫)です。著者の河合栄治郎は、戦前の日本を代表する戦闘的な自由主義知識人であり、理想主義(個々人の人格の成長に最高の価値を置き、社会の成員全ての人格の成長が実現される社会を理想とする思想)を掲げてマルクス主義と鋭く対立するとともに、軍国主義にも強く抵抗する姿勢を示していました。この『学生に与う』は、1939年に軍部の弾圧によって教壇を追われてしまった著者が、その翌年の3月、それまでの20年間にわたる教育実践の成果をすべて注ぎ込んで、大学生活とはいったいいかなるものであるべきかを、学生たちにむかって熱く説ききるべく、一気呵成に書き下ろしたものです。大学生活をスタートさせるにあたっての必読の書として、新入生のみなさんに強く推薦しておきたいものです(残念ながら社会思想社の教養文庫版は絶版になっていますが、現在は文元社から教養ワイドコレクション版が出ています。また、電子版の購入も可能です)。

 さて、この書のなかで、河合栄治郎は、大学の社会的な位置、学生の社会的責任について、以下のように説いています。

「社会は文化の伝統を継承して、これを後代に伝えるものを必要とする。ここに文化というのは……要するに精神の自然への克服の所産であって、科学、哲学、宗教、芸術、道徳、法律、政治、経済等々の総合である。過去より伝承したこれらの文化を、現代に理解させ、消化させるのが教育の目的であり、小学から中学に至る教育もこれを目的とするのであるが、こうした初等教育、中等教育ではわずかに初歩的の程度にとどまるので、とうてい不充分たるを免れない。そこで教育の目的を完成せしめるためには、さらに高等の教育を必要とする、もとよりそれだけで教育の目的が達せられるのではないが、少なくともその基礎だけをおくことができるだろう。社会はただに文化を消化理解して、過去の文化を相続するだけで満足することはできない。そこで継承した文化をさらに発展させ、新たなる文化を創造させなければならない。社会が高等教育に俟つところはかくのごとき文化の発展と創造である。一言にしていえば、社会の必要とするものは、過去の文化を理解、消化し、さらにこれを発展、創造する主体たる人間を育成することである。学生は現に高等教育を修めつつあるものであるから、学生または卒業生は、以上のような使命を社会から託されて、文化を後世に継承せしめる任務を負担しているのである」(河合栄治郎『新版 学生に与う』社会思想社・現代教養文庫、pp.21-22)

「社会は、文化の相続と創造とを必要とする、これなくして社会の維持もできないし、いわんや社会の進歩もできないからである。ところで初等・中等の教育だけでは、この任務を負担するに足らないとすれば、社会は一群の成員をして、さらに高等の教育を修めさせねばならない。彼らと同年輩の青年が、現に労働に従事して社会の生産力を増しつつあり、さらにその方面の労働人口を増加することは、それだけ生産力を加えることにはなるが、それでは文化の維持と発展とが望まれない。ここにおいて一群の青年を労働から解放し、いかに生きるかの自然的生活の配慮から脱却せしめて、専心教育に没頭することにさせなければならない。」(同、p.23)


 以上を簡単にまとめてみましょう。まず、社会の維持・発展のためには、新しい世代に過去の文化遺産を継承し発展させていけるだけの実力をつけさせてやらなければなりません。これが教育の一般的な目的です。しかし、初等教育・中等教育だけではたんに文化を継承するレベルにとどまってしまいますから、新たな文化の発展・創造を担いうる実力をもった人間を育成するためには、高等教育というものが施されなければならないのです。このため、本来なら社会に出て充分に働いていけるだけの条件をもった青年の一部を、生活のための労働から解放して、高等教育に専念させる必要があるのだ、ということになるわけです。

 以上を踏まえて、大学の社会的な位置および学生の社会的責任について端的にのべるならば、過去の文化遺産をたんに継承するだけでなく、それを発展させていけるだけの実力を養成するための高等教育機関として創出されたのが大学であり、文化の発展・創造を担いうるだけの実力を養成していくところにこそ学生の社会的な使命があるのだ、ということができるわけです。

 この文化の発展・創造のために必須となるものこそ学問にほかなりません。だからこそ大学は「学問の府」として創出されてきた歴史的過程をもっているのです。ここから、しっかりと学問することこそ学生の社会的責任なのだ、ということになります。したがって、新学生が大学生活のスタートにあたって掲げるべき目標は、何よりもまず、徹底的に学問するということでなければならないのです。

 しかし、ここでまた大きな問題が浮上してくることになります。それは、徹底的に学問するとはどういうことか、文化の発展を担いうる実力を養成するにはどのように学問していけばよいのか、という問題、より具体的には、大学において何をどのように学んでいけばよいのか、という問題にほかなりません。

 以上をふまえて、本稿では、新大学生のみなさんが直面する(直面しなければならない)この大きな問いにたいして、一般的な(ここでは、すべての学生にとって役立つ、という意味です)答えをあたえることを目的として、説いていくことにします。より具体的には、この春から新しく大学生活をはじめた新入生のみなさんにたいして、「そもそも学問とは何か?」ということをしっかりと踏まえつつ、大学で何をどのように学んでいけばよいのかを説いていくことにしたいと考えています。
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2013年03月27日

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(1/13)

(1)大学生活のスタート時点で大志を掲げることが大切である

 この春から新しく大学生活をはじめることになったみなさん、おめでとうございます。長く苦しかった受験勉強からようやく解放され、これからはじまる学生生活に、大きな期待を抱いていることでしょう。

 とはいうものの、新聞やテレビのニュースなどで伝えられる世界や日本の現状は、決して明るいものではありません。新大学生のみなさんのなかには、日本経済の現状、より具体的にいえば、失業の増加や非正規雇用の拡大、深刻な就職難などなどの問題が報じられるのにふれて、「大学を出たところで、果たしてきちんと就職できるのだろうか……」と、卒業後の進路について拭いがたい不安を抱いている方も少なくないかもしれません。

 しかし、とりあえずいまは、精一杯前向きに、明るく、大きな夢を描くようにしてもらいたいと思います。なぜなら、しっかりと夢を描くということこそが、みなさんのこれから4年間の大学生活を有意義なものとしていく上で、決定的な条件となるからです。

 ここで「夢」というのは、いいかえれば、目的・目標のことだと思ってください。そもそも人間は、意識的であろうが無意識的であろうが、かならず何らかの目的を描くことなしには行動しない存在であるといえます。したがって、ある人間がいかなるレベルの目的を描いてから行動におもむいたかということが、その人間の行動の質を決定的に左右することになるのです。目的・目標をしっかりと立てることの大切さがしきりに強調されるのはそのためです。

 このことは、とりわけ大学生活について考える上では、とくに重要になってきます。それはいったいなぜでしょうか。それは、大学生として過ごすこれからの4年間は、みなさんの人生のなかでも、例外的といってよいくらいに自由な時間に溢れたものであるからです。自由な時間というのは、ようするに、どのような過ごし方をしようが(どんなことをしようが、あるいは何もしなかろうが)、それはすべてみなさんの勝手である、ということです。しかし、これは同時に、みなさんの大学生活4年間がどのような結果をもたらそうとも、それはすべてみなさん自身の責任である! ということをも意味するのです。それだけに、大学生活のスタート地点において、大きな目標を志高く、目的意識的に描くことで、大学生活を最大限に有意義なものにしていく必要があるわけです。

 大学生活の問題について説いていくにあたって、ここでとくに力をこめて強調しておきたいのは、目標の大きさ、あるいは志の高さということがもつ重要性についてです。つまり、たんに明確な目標を立てればよいということではなくて、大きな目標を、志高く掲げることが何よりも重要であるのだ、ということです。

 たとえ話的に説いてみましょう。日本一の山である富士山に登るということを考えてみてください。富士山の頂上に到達できるのはどういう人でしょうか。足腰の強い人、登山経験の豊富な人……など、いろいろな答えが出てくるでしょうが、一番大事なのは、「富士山に登る」という目標を明確に立てた人だ、ということです。いくら足腰が強くても登山経験が豊富でも、「富士山に登る」という目的をもつことなしに、富士山の頂上に到達することはありえません。ましてや、そのあたりをブラブラ散歩するつもりで歩いていたら、いつのまにやら富士山の頂上についていた! などということは絶対にないのです。それだけに、富士山の頂上をきわめたいという人は、かならず「自分は富士山に登るのだ!」という目標をしっかりと描いて、そこに向かって日々努力を積み重ねていく必要があるのです。

 このように、人間のあらゆる行動について一般的に、ゴール地点で達成されるものの大きさを決めるのはスタート地点での目標の大きさ・志の高さにほかならない、ということがいえるのです。通常、人間は最初に立てた目標以上のことは達成できません。このことをしっかりと肝に銘じたうえで、自由な時間に溢れた大学生活のスタート地点においてこそ、大きな目標をしっかりと立てて、それを志高く掲げつづけることを願っておきたいと思います。

 さて、大学生活のスタート地点において明確な、大志レベルの目標を立てるべきだとして、では具体的にどういう中身の目標を立てればよいのでしょうか。

 このようにいうと突き放したように聞こえるかもしれませんが、それは直接的には、みなさんの勝手! ということになります。みなさんの人生はほかならぬみなさん自身のものなのですから、どういう目標を立てようと(あるいは立てなかろうと)、それがもたらすところの結果は、自分自身でしっかりと責任を取ればよいのだ、ということです。

 とはいえ、これはあくまでも表面的にみれば、ということでしかありません。本当は、あなた自身の人生だからといって、あなたが自分勝手にどんな目標を立ててもよい(あるいは、何の目標を立てなくてもよい)、ということはないのです。

 たしかに、自分の人生はほかならぬ自分自身のものとはいえ、人間は決して一人だけで生きているものではありませんね。あなたの人生は、他の人たちの人生から切り離されたものとして、孤立して存在しているわけではないのです。ですから、自分がどのような目標を立てて人生を歩んでいくかということは、良かれ悪しかれ、多かれ少なかれ、他人の人生に影響をあたえずにはおかないのです。逆に、自分の人生が、良かれ悪しかれ、多かれ少なかれ、他の人たちの人生からの影響を受けていることも、また確かなことでしょう。これはようするに、人間は社会のなかでしか生きていくことのできない存在である、ということにほかなりません。少し難しくいうならば、「人間たちは相互にはたらきかけており、精神的・肉体的な活動を相互に交換し合い、相互につくり合うという相互浸透の中で生産を行い生活をいとなんでいる」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』講談社現代新書、p.165)ということができるわけです。さらに大きな視点からいえば、私たちは人類全体として文化を発展させてきた、その歴史の流れのなかに生きているのだ、ということを忘れるわけにはいきません。

 このように、自分の人生と他人の人生とは、人類史の大きな流れのなかで、しっかりと絡み合っているのです。それだけに、私たちが人間としてしっかりと生きたければ、自らの人生を現代の社会的な関係のなかでしっかりと位置づけてとらえるとともに、人類が歴史的に発展してきた流れのなかに自らの人生を位置づけて、その流れに合わせて生きるように務めていかなければなりません。大学生活のスタート地点において、「自分はどのような人生を歩んでいくべきか?」という問題についてまともに考えていくためには、まずは、このようなことをしっかりと踏まえておく必要があるといえるのです。
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2013年03月26日

掲載予告:改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(全13回)

 新年度も間近です。この春も数多くの青年たちが、大学への学びに大きな希望を抱きつつ、新大学生としての生活をスタートさせることと思います。

 そこで本ブログでは、明日より、2011年の4月に掲載した「新大学生に説く『大学で何をどう学ぶか』」(全13回)という論考を再掲していくことにします。もちろん、たんなる再掲ではなく、より分かりやすく、より読みやすくするための加筆修正を施した上での再掲です。

 これは、「そもそも学問とは何か」ということをしっかりと踏まえつつ、大学で何をどのように学んでいけばよいのか、説いていくことを目的としたものでした。具体的には、一般教養および弁証法・認識論の学びの大切さを説いていたのでした。同時に、私たち京都弁証法認識論研究会こそが、学ぶ意欲に燃えた新大学生にたいして、これ以上にないほどの素晴らしい学びの場を提供できる存在であることについても、しっかりと説かれています。

 新大学生のみなさんが、本稿を読むことで「何としても弁証法・認識論をモノにしたい!」という強い意欲をもたれるようになることを期待しています。

 以下、目次です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」(全13回)

序論

(1)大学生活のスタート時点で大志を掲げることが大切である
(2)学生の社会的責任を果たすため大学で何をどう学ぶべきか

本論

1、新大学生に説く「学問とはどういうものか」
(3)学問は現実の問題を解決してよりよい未来を拓くためのものである
(4)学問は現実の世界の姿をアタマのなかに描き出したものである
(5)学問は事実の集積ではなく論理の体系である

2、新大学生に説く「一般教養とはどういうものか」
(6)現代の大学における学問の不在を問う
(7)教養とは何かを説く
(8)大学における一般教養の大切さを説く

3、新大学生に説く「弁証法・認識論とはどういうものか」
(9)一般教養の学びに必須となる弁証法とは何かを説く
(10)一般教養の学びに必須となる認識論とは何かを説く
(11)集団的に学んでいくことの意義を説く

結論

(12)徹底して学問することこそが学生の社会的責任である
(13)京都弁証法認識論研究会でともに学ぼう
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言