2014年11月17日

精神障害の弁証法的分類へ向けた試み(5/5)

(5)ものの見方が極度に形而上学的になると適応が難しい

 本稿は,昨年改訂されたDSMに代表されるように,新しい知見が出てくれば,それに応じて次々と精神疾患の分類が変更されているような現状,すなわち,未だに論理的な精神疾患の分類がなされていない現状を憂いて,その分類を細分化していく方向ではなく,逆に,論理的に大きく括っていく方向で整理していくための第一歩として,弁証法の観点から精神疾患の共通性を把握していくことを目的としてここまで説いてきました。その中で,自閉症スペクトラム障害,境界性パーソナリティ障害,うつ病の一般的な症状を説いた後,それを弁証法の観点からとらえ返すとどうなるのかを考察してきました。ここで,これまでの流れを簡単に振り返ってみたいと思います。

 まず,自閉症スペクトラム障害(発達障害)について検討しました。自閉症スペクトラム障害とは,発達上の問題があって対人相互作用の質的な障害や行動,興味,活動の限定された反復的で常同的な様式という自閉的傾向を示す障害のことでした。これらは簡単にいうと,非言語的なやり取りが難しく,自分や他者の気持ちを把握して表現することが困難であり,儀式的でいつも決まったやり方をしたり,興味や関心の範囲が非常に狭かったりするということでした。このような自閉症スペクトラム障害の方のものの見方・考え方は,弁証法の観点から見ると,形而上学的と評価できるものでした。なぜなら,他者の立場に立てるだけの柔軟性がなく,変化しないという想定でものを見,ルールを絶対化して無条件に適応する「あれかこれか」式の見方だからです。

 次に,境界性パーソナリティ障害について,その特徴を取り上げました。パーソナリティ障害とは,性格の偏りが大きくて,偏った考え方や行動のパターンのために,社会適応が難しくなってしまっている状態のことを指しました。その中で境界性パーソナリティ障害とは,気分と対人関係において,両極端の間をめまぐるしく変動するという点が特徴的でした。ちょっとしたことがきっかけで,気分がどん底まで落ちて,自己否定感にさいなまれて自傷行為をくり返すということも多いのでした。また対人関係でも,他者評価が両極端になり,極度の理想化をしたかと思えば,逆に極度のこき下ろしに陥るということになるのでした。このような境界性パーソナリティ障害の方のものの見方・考え方は,「あれかこれか」という形而上学的な見方になってしまっているといえるのでした。また,自分のネガティブな感情に対処する方法も非常に限定されており,レパートリーが乏しいという点でも,形而上学的だと判断できるのでした。

 最後に,うつ病について検討しました。うつ病は,気分が沈み気力がなくなるというのが基本症状ですが,状況の捉え方である認知が偏ってしまうということも症状の一つといえるのでした。認知の偏りの代表的・典型的パターンとしては,「全か無か思考」と「自己関連づけ」がありました。前者は,あいまいな状態に耐えられず,物事を,いつも白黒をはっきりさせておかないと気が済まないという認知のパターンのことで,後者は,自分と関係のないことや自分ではどうしようもないことについて自分の個人的責任を過剰に認めてしまうような思考パターンのことでした。これらも弁証法の観点から見ると,形而上学的と判断できるものでした。というのは,前者は典型的な「あれかこれか」的なものの見方ですし,後者はさまざまな原因のつながりを無視して,自分の責任のみに着目する見方だからでした。

 このように見てくると,自閉症スペクトラム障害も,境界性パーソナリティ障害も,さらにうつ病も,総じてものの見方・考え方が形而上学的になっているという点で,共通しているといえるでしょう。すなわち,これらの障害のある患者さんは,物事を変化しないとみなす見方,つながっているものを切り離して,別のものとして扱う見方になっており,「あれかこれか」的なものの見方になっているといえるのです。

 では,なぜ精神障害のある患者さんの認識は,形而上学的であるという点で共通しているのでしょうか。これは,認識が形而上学的になっていき,ある一線を越えると,社会にうまく適応できなくなって「障害」と呼ばれるレベルになってしまう,だからこそ,「障害」と呼ばれるレベルにまでなってしまった人の認識は極度に形而上学的になっているのだ,ということなのだと考えられます。これはどういうことか,もう少し詳しく説明します。

 そもそも我々の生活している社会は,非常に変化性に富んでおり,弁証法的な性質をもっているということができます。また,我々が日々関わる他者にしても,その認識は非常に変化性に富んでおり,弁証法的な性質をもっているといえます。このように,我々を取り巻く環境は,弁証法性で満ちているといってもいいのです。我々が生きて生活している世界は,非常に弁証法的なのです。したがって,その中でうまく生きていくためには,周囲の世界を反映するところの我々の認識もまた,弁証法的であることが求められます。世界の弁証法性をしっかりと反映して,それに応じて適切に弁証法的なものの見方・考え方ができなければ,うまく適応できないということになるのです。

 たとえば,世界は常に運動・変化しているのに,世界を静止したものとして捉えてしまう形而上学的な見方をしていては,狭い範囲で,短期においてはそれほど問題が生じないといえますが,広い範囲で,長期において見るならば,適切に世界を捉えられずに,その結果として,周囲の世界に合わせて適切にふるまうことが困難となってしまうのです。同じことは,つながっているものをつながっていないものとしてみる形而上学的な見方や,「あれかこれか」式の形而上学的な見方についてもいえます。全世界はつながりあっており,相互に対立する側面を有している矛盾した存在であるのに,形而上学的な見方をしてしまうと,そのような弁証法的なあり方をきちんととらえることができなくなるのです。その結果として,適応に問題が生じて「障害」と診断されることにもなってしまうわけです。

 このようにいうと,「それでは,形而上学的な認識の持ち主は,全て「障害者」なのか。それはおかしいのではないか」と反論したくなる読者もおられるかもしれません。しかし,そこまでの主張をしているわけではありません。これは量質転化の問題です。ある程度まで形而上学的な認識であっても,それほど問題とならずに生活していける可能性はあります。しかし,ある一線を超えれば(結節点を超えれば),あるいは徐々に,あるいは急速に,生活に支障が生じてきて,自分や周囲の人間が困り果ててしまう,ということになるのです。もちろん,この場合の結節点は,それぞれの生活している小社会や本人のリソース(資源)などの条件によって左右されるでしょう。しかし,ある一線を越えれば質的な転化が起きて,これまで問題ではなかったものが問題化して,「障害」と診断されるまでになる,ということは間違いないといえます。

 では,このように精神障害に共通する性質を云々することに,どのような意味があるのでしょうか。それは,端的いうと,治療の大きな方向性を定めることが容易になる,ということです。どういうことかというと,精神障害のある方の認識が形而上学的であり,その形而上学的な認識ゆえに社会に適応できずに「障害」とされているのであれば,認識を弁証法的にすることこそが治療である,ということができるのです。これは精神障害の種類に関わらず,論理的には同様の介入で奏効する可能性がある,ということにつながります。現実には様々な症状を呈し,さまざまな困りごとを語られる患者さんに対して,一つの統一した基準でもって「障害」の程度を見立てて,治療の大きな方向性についてある程度見通しがもてるということは,治療上,大きなメリットになると考えられます。

 実際,近年,アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT)や不安とうつの統一プロトコル(UP)のような,診断横断的な治療法も登場してきています。これらは,診断の種類(すなわち精神障害の種類)に関わらず,同じような心理的介入を行えば,治療効果があがるといわれています。

 他にも,弁証法的行動療法という治療法が存在することも,本稿の趣旨からすれば興味深いところです。弁証法的行動療法は,境界性パーソナリティ障害の方の感情調節の困難や衝動性をターゲットにして開発された治療法です。ただし,ここでいう「弁証法」というのは,通俗的に理解されたものであり,主として,「合理的な精神」(Reasonable Mind)と「感情的な精神」(Emotional Mind)を統合した「賢明な精神」(Wise Mind)を目指す治療という意味で使われています。この治療法から本稿のヒントを得たのは事実ですが,この治療法における「弁証法」は,端的にいってしまうと,お題目に過ぎないという印象があります。あえて「弁証法」を冠する必然性があまり感じられません。それでも注目すべきは,弁証法的行動療法でコア・スキルとされている,マインドフルネス・スキルというものの存在です。このマインドフルネスというのは,禅宗の瞑想から心理療法に取り入れられたものですが,これが先に紹介したACTやUPにも取り入れられており,診断横断的な介入の中核となっているのです。

 いずれにせよ,これらについては今後,認識論的な観点から研究していく必要があり,いずれ稿を改めて論じたいと思っています。

 本稿では,3つの精神障害に共通するものの見方・考え方として,形而上学的である点を明らかにし,そこから,弁証法的な認識を目指すことが治療の大きな方向性になると考えられると説きました。もちろん,ここの精神障害の生成・発展のプロセスをまったく考慮外として,できあがった症状のみを問題にしているという点で,大きな課題が残されているといえます。しかし,本稿で論じたような精神障害の共通性をしっかり押さえつつも,障害ごとの特殊性に配慮し,また,ケースごとの個別性をもしっかり踏まえるならば,より適切で,より効率的な心理療法が実施できると考えられます。心理士としては今後そのような介入ができるように,また,本稿で残された課題の解決や,精神障害の理論体系の構築に向けて,今後とも研鑽していきたいと考えています。

(了)
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2014年11月16日

精神障害の弁証法的分類へ向けた試み(4/5)

(4)弁証法から見たうつ病の特徴

 本稿は,精神疾患の分類がいまだに整理されずに,昨年改訂されたDSMのように,新しい分類が試みられている現状にあって,弁証法の観点から精神疾患の共通性を把握し,精神疾患の分類を弁証法の観点から整理することに向けてその一歩を進めていこうとする試みです。本稿では,自閉症スペクトラム障害,境界性パーソナリティ障害,うつ病という3つの精神疾患を取り上げて,弁証法の観点からその共通性を浮き彫りにすることを目的としており,前回までに自閉症スペクトラム障害と境界性パーソナリティ障害について検討してきました。

 今回は最後のうつ病に関して考察していきたいと思います。まずはうつ病とはどのような病気であるのか,その特徴をかいつまんで見ていきましょう。

 うつ病は,気分が沈み気力がなくなるというのが基本症状です。症状は朝の方が顕著で,夕方から夜にかけて軽減することが多いものです。笑顔がなくなり,口数は少なくなります。思考の流れは渋滞し,悲観的,自責的,厭世的な色彩を帯びます。自殺念慮をもち自殺行為につながることもまれではありません。これらの精神症状に加えて,不眠,食欲低下,性欲低下,疲労感,口渇,便秘など,さまざまな身体症状を伴うのがふつうだとされています。

 ここでは,ものの見方・考え方を特に問題にしていますので,特に認知療法の領域でいわれている,うつ病患者の認知の特徴について,詳しく紹介したいと思います。

 うつ病になると,認知が偏ってしまうといわれています。ここでいう認知とは,状況の受け取り方という意味であり,ものの見方・考え方と同じだと考えてもいいでしょう。認知療法では,我々は現実をそのまま客観的に見ているのではなく,主観的な判断に基づいて見ていると仮定しています。すなわち,認知のフィルターを通して自分なりの世界をつくりあげて,その中で一喜一憂しているといえると考えるのです。通常,それらの判断は適応的に働きますが,ストレスが強くなってうつになってしまうと,そうした適応的な働きができなくなるのです。次々と悲観的な考えが頭に浮かぶようになったり,現実とはかけ離れた否定的な判断をするようになったりするということです。これを認知療法では,「認知の偏り」とか「認知の歪み」(cognitive distortion)とか呼んでいます。このような偏り歪んだ認知にとらわれてしまうのも,うつ病の症状といえるわけです。

 認知の歪みにはいくつかのパターンがあるといわれていますが,ここでは,うつ病患者に典型的で,非常に良く出くわす二つのパターンを取り上げたいと思います。一つは「全か無か思考」,もう一つは「自己関連づけ」と呼ばれるパターンです。前者は,あいまいな状態に耐えられず,物事を,いつも白黒をはっきりさせておかないと気が済まないという認知のパターンのことです。後者は,自分と関係のないことや自分ではどうしようもないことについて自分の個人的責任を過剰に認めてしまうような思考パターンのことです。

 たとえば,仕事で上司に少しのミスを指摘されると,自分はこの仕事に全く向いていないと考えてしまうことがあります。あるいは上司は自分を嫌っているに違いないと考えます。これは全か無か思考であるといえます。ある仕事に向いているか向いていないかという問題は,100%向いているとか,向いている要素が1%もないとか,そういう問題ではありません。この人のこういう点はこの仕事に向いているといえるが,この人のこういう特徴は,この仕事にはあまり向いていない,というように,白黒はっきりしない,いってみれば曖昧なものなのです。それなのに,そのようなあいまいさに耐えきれずに,極端にネガティブな判断をしてしまうところに,うつ病患者さんの認知の偏りがあるといえるのです。上司からの評価も同様です。上司が部下を評価するのに,100%好きであるとか,100%嫌いであるとか,そういうことはあまりないものです。そもそも部下を評価する際に,好きか嫌いかというような感情をさしはさむべきではありません。私が担当したケースでも,自分のミスで上司に嫌われたと考えたり,ミスのためにこの仕事に向いていないとか考えたりして,転職しかないと判断される方もおられました。しかし,うつ病の時は,その症状がこのような全か無か思考に陥らせるのですから,ふつうは重大な判断をしないようにお勧めします。いずれにせよ,うつ病患者さんは,曖昧な状況に耐えられずに,物事を白か黒かという形で明確にしないと気が済まないという傾向が強いのです。

 自己関連づけも非常によくみられる認知の偏りです。何でもかんでも自分のせいだと考えて落ち込んでしまうというパターンです。たとえば,上司の機嫌が悪いときに,それは自分が無能だからだと考えたりします。筆者がつい最近担当したケースでも,社長が毎朝毎朝大声で叱責してくるということで,その原因を全て自分が無能だからというところに求めていました。お話を伺っていると,どう考えても社長の性格に問題があるという気がするのですが,自己責任が強調されるビジネスの世界で生きてこられた患者さんだっただけに,全て自己責任だと考えて,自分の無能さに打ちひしがれて,自殺まで考えておられた方でした。このケースだけではなく,うつ病患者さんのお話を伺っていると,自己関連づけの認知の偏りが強くて,自責の念を抱いておられる方がたくさんいらっしゃいます。

 では,このようなうつ病患者さんによくみられる認知の偏りを,弁証法の観点からとらえ返すと,どのようなことがいえるでしょうか。まず全か無か思考は,典型的な「あれかこれか」的な物事の見方・考え方であるといえるでしょう。したがって,形而上学的な見方であることは明らかです。

 このようにいうと,「先の境界性パーソナリティ障害でも同じようなものの見方・考え方が出てきたような」と思われる読者もおられるでしょう。たしかに,境界性パーソナリティ障害でも,対人関係でものの見方が両極端になるという特徴を紹介し,それを形而上学的だと説きました。うつ病患者に特徴的な全か無か思考も,これとほとんど同じだといえるかもしれません。しかし,その違いもあります。境界性パーソナリティ障害の方の両極端というのは,主として対人関係や自己評価に限られており,極端に良い評価をする場合もあれば,極端に悪い評価をする場合もありました。これに対してうつ病患者さんの全か無か思考は,特に対人関係や自己評価の場面に限られるわけではなく,また,確実にネガティブな方向へ偏ります。さらにいうと,境界性パーソナリティはそもそも性格の偏りですから,両極端な見方は容易には変化しませんが,うつ病患者さんの全か無か思考というのは,うつ病の症状の1つですから,うつ病が良くなれば,それに応じて,そのような認知の偏りも軽減されていきます。そのような症状が持続的か否かという点でも,違うというわけです。

 次に自己関連づけという認知の偏りについてですが,これも端的にいうと形而上学的なものの見方ということになります。なぜなら,ある一つの出来事は,複数の原因がつながり合って生じるものなのに,そのうちの一つである自分(の能力)という要因のみを切り離して,それしか見ようとしないからです。あるいは,いろいろな要因に目を向けることなく,自分の要因のみという非常に狭い範囲に限ってみているという点でも,形而上学的ということができます。端的には,視野狭窄に陥っているということです。しかし,世の中には,何か単独の原因で生じる結果などというものは存在しません。必ず複数の要因が絡み合っています。それなのに,ネガティブな出来事の原因を自分のみに帰すると,気分が落ち込んで,抑うつ気分が強化されたり持続したりするのは当然といえるでしょう。これも形而上学的な見方が病気の発症や維持に関わっている例だといえると思います。

 このように見てくると,うつ病患者さんの呈する症状の一つである認知の偏りは,もちろん,発達障害やパーソナリティ障害のように変化が非常に難しいということはないのですが,一時的にではあっても,非常に形而上学的になっているということは間違いないといえるでしょう。
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2014年11月15日

精神障害の弁証法的分類へ向けた試み(3/5)

(3)弁証法から見た境界性パーソナリティ障害の特徴

 本稿は,精神疾患の分類がいまだに論理的に整理されていない現状にあって,弁証法の観点から精神疾患の共通性を把握し,精神疾患の分類を弁証法的に統一することに向けてその一歩を進めていこうとする試みです。具体的には,3つの精神疾患を取り上げて,弁証法の観点からその共通性を浮き彫りにすることを目的としています。前回は,自閉症スペクトラム障害を取り上げて,そのものの見方の形而上学性を指摘しました。

 今回は境界性パーソナリティ障害を検討したいと思います。前回同様,まず,境界性パーソナリティ障害について解説した後,これを弁証法の観点から考察していきたいと思います。

 そもそもパーソナリティ障害とは,性格の偏りが大きく,偏った考え方や行動のパターンのために,周囲と摩擦を生じて社会適応に支障をきたしている状態のことをいいます。

 パーソナリティ障害は,さらにいくつかの下位カテゴリーに分類されますが,その典型が境界性パーソリティ障害であるといえます。これは情緒不安定で,衝動的,かんしゃく,浪費,性的逸脱,自傷行為や自殺企図のくり返しなど,周囲の人を悩ます問題行動が多いタイプです。その特徴は,気分と対人関係において,両極端の間をめまぐるしく変動するということでです。最低と最高の往復といってもよいでしょう。こうした不安定性の根底には,深い愛情飢餓感と依存対象に見捨てられまいとする心理があるといわれています。

 たとえば,昨日は最高に幸せだったのに,今日はどん底の気分ということが頻繁に起こります。それどころか,一日のうちでも気分が両極端に揺れ動くこともたびたびあります。筆者が関わっているケースでも,つい先ほどまでルンルン気分だった女性の患者さんが,恋人とのメールのやり取りの後,病棟で突然大声を出して泣き始める,というようなこともありました。メールの内容も,「今日は残業なのでお見舞いに行けない」というような,それほど深刻な内容でもないにも関わらず,です。こうして,うつ状態になると,全てが無意味に思え,自分が生きている価値のない存在だと感じられ,絶望感や激しい自己嫌悪から,自己破壊衝動に囚われることも特徴的です。非常に多いのがリストカットや多量服薬です。アルコールを過度に飲んでしまったり,衝動的にたくさんの物を買ってしまったりする方もおられます。

 対人関係でも,両極端が特徴です。自分を支え,愛情飢餓を癒してくれる人に出会うと,相手を極度に理想化します。しかし,相手が支えきれなくなったり,過大な期待に耐えきれなくなったりすると,見捨てられるのではないかという不安に駆られ,見捨てられないようになりふりかまわない努力をします。それで相手が引いてしまうと,期待が大きかった分,激しい失望と同時に裏切られたという怒りを感じ,相手をこき下ろすことになるのです。

 このような境界性パーソナリティ障害の人のものの見方・考え方の特徴は,弁証法の観点からはどのように捉えられるでしょうか。端的には,両極端ということですから,「あれかこれか」という形而上学的な見方になってしまっているといえるでしょう。気分にしても対人関係にしても,100点か0点かのどちらかなのであり,70点もなければ30点もありません。自分であれ,他者であれ,パーフェクトで理想的なものか,そうでなければ最悪で無価値に思ってしまうということです。

 しかし,現実の世界は,このように「あれかこれか」,100点か0点かで割り切れるような,形而上学的な性質を持っているのではなく,限りなく多様で,互いに矛盾した側面をもっている=弁証法的な性格を持っているものです。たとえば,自分を支えてくれる,理想的に思える人間でも,たまには自分にとって不都合なこと,嫌なことをする可能性もあり,100%自分が思い描いた通りの理想的な人間である,というようなことはあり得ないことです。分かりやすくいってしまうと,いい面もあれば悪い面もあるという矛盾した存在なのです。このような現実の弁証法的なありかたに対応して,弁証法的なものの見方・考え方をしていくべきなのに,それができない点が,境界性パーソナリティ障害の特徴といえるでしょう。

 このように説くと,読者からは「そうはいっても,両極端の間を揺れ動くのであるから,これは認識が非常に激しく変化しているということであり,非常に弁証法的だ,ということもできるのではないか」という疑問が出てくるかもしれません。確かに,認識の運動・変化というありかたを見れば,これはそういえるかもしれません。しかし,今問題にしているのは,ものの見方・考え方であり,現実の対象をどのように捉えているかという,そのとらえ方なのです。ものの見方・考え方という点においては,「あれかこれか」式のとらえ方しかできずに,「あれもこれも」という弁証法的なとらえ方はなかなかできないのが,境界性パーソナリティ障害の方の特徴なのです。そういう意味では,認識が形而上学的になっているといっていいでしょう。

 さらに,自分のマイナスの感情に対する対処法が非常に限定されており,偏っているという点も,形而上学的と評価することができます。感情を発散させたり解消させたりするための方法は,現実には非常にたくさんのレパートリーがあるのに,そのうちの非適応的な方法のみしか視野に入っておらず,特定の方法に固執しているからです。たとえば,彼氏が思う通りに動いてくれなかったら,すぐにリストカットする,多量服薬する,そのような健康的ではない限定的な方法をくり返すという意味でも,形而上学的だということができるのではないでしょうか。

 以上見てきたように,境界性パーソナリティ障害の方のものの見方・考え方も,発達障害の方とはその現れ方が違うとはいうものの,総じて形而上学的である点においては一致していると考えられるのです。
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2014年11月14日

精神障害の弁証法的分類へ向けた試み(2/5)

(2)弁証法から見た自閉症スペクトラム障害の特徴

 本稿は,精神疾患の分類がいまだに整理されずに,新しい分類が試みられている現状にあって,弁証法の観点から精神疾患の共通性を把握し,精神疾患の分類を弁証法的に統一することに向けてその一歩を進めていこうとする試みです。具体的には,自閉症スペクトラム障害,境界性パーソナリティ障害,うつ病という3つの精神疾患を取り上げて,弁証法の観点からその共通性を浮き彫りにすることを目的としています。

 今回は自閉症スペクトラム障害を取り上げたいと思います。まず自閉症スペクトラム障害というのはどのような精神疾患なのかを説明して,その後で,それを弁証法の観点から捉え返していきたいと思います。

 自閉症スペクトラム障害(自閉症やアスペルガー症候群などを含めて広汎性発達障害と呼ばれることもあります)は,端的にいってしまうと,幼少期より自閉的傾向を示す障害のことです。ここでいう自閉的傾向とは,対人相互作用(社会性)の質的な障害と行動,興味,活動の限定された反復的で常同的な様式のことです。この両者も説明が必要だと思いますので,一つずつ,詳しく見ていくことにしましょう。

 まず,対人相互作用の質的な障害とは,非言語的なやり取りが難しく,自分や他者の気持ちを把握して表現することが困難である,ということです。アイコンタクトが難しく,表情や姿勢,身振りなどの非言語コミュニケーションを通して伝えるメッセージを読みとることや,それを用いてメッセージを発信することも困難です。通常我々は,言語表現と共にこのような非言語表現を用いて意志の疎通を行います。言語に直接反映される認識よりも,非言語に反映される認識の方が情報量が多いということもしばしば指摘されています。しかし,自閉症スペクトラム障害の方は,このような非言語表現を読み取って,相手の認識を理解することが苦手なのです。また,気持ちのやり取りも苦手で,相手の気持ちや考えを察知するなかなかできません。相手の立場になってものを考えるということが極度に苦手で,自分の視点だけが正しいと思っており,それ以外の視点で考えることが難しいのです。概して,抽象的で目に見えないものは理解しがたいといえます。

 例えば,筆者は病棟やリワーク施設などで,集団を相手にして認知行動療法やSSTなどといったプログラムを実施することがあります。その中で,今説明したような自閉症スペクトラム障害の方がおられると,よくあるのは,独りで延々と話を続ける,ということです。こちらが言葉で直接言うのではなく,それとなく身振りや手ぶり,表情などで制止しても,意図がなかなか伝わらずに,まだ話し続ける,ということが多いです。あるいは,「こんなプログラムはつまらないので帰ります」といって,出ていった方もおられます。普通は,こういう言い方をすると他者はどのように感じるのか,それを想像して,同じ内容を伝えるにしてももう少し工夫するものですが,他者の視点に立てない自閉症スペクトラム障害の方は,このように思ったことをストレートに言ってしまうことが多いのです。

 次に,行動,興味,活動の限定された反復的で常同的な様式についてです。これは,儀式的でいつも決まったやり方をしたり,興味や関心の範囲が非常に狭かったりすることを意味します。端的には,非常にこだわりが強いということです。例えば,手順というものに非常に強いこだわりがあり,いつもやっているやり方でできないと,パニックを起こしたりします。だから,事態の変化に臨機応変に対応するなどということは,かなり困難です。一度覚えこんだルールにも非常に厳格で,他者がそのルールを少しでも破ると,猛烈に怒り出してトラブルになることもあります。

 筆者が経験したケースを紹介しましょう。断ることが苦手な方に対して,「上手な断り方」のようなスキル・トレーニングをしていたとき,「嘘も方便といいますから,たとえ嘘であっても,何らかの理由をつけて断る方が,相手にとっては受け入れやすいものです」という話をしたことがありました。すると,参加者の中の自閉症スペクトラムの特性の強い方が猛反発されて,「それは嘘をつけということか! 嘘をつくことはよくないことだ!」と猛烈に抗議されたことでした。当然,嘘をつくことは一般的にはよくないことですが,この方にとってはそれが絶対的なルールとなっていて,厳格に守るべきものという信念が強かったために,このように反発されたのだと思います。

 このような自閉症スペクトラム障害の人のものの見方・考え方は,弁証法の観点から考察すると,どのようになるでしょうか。まず,相手の視点に立てないということについて検討しましょう。相手の視点に立てないということは,自分の認識を変化させて相手の認識に二重化することができないということですから,ものの見方に柔軟性がなく硬直しているといえます。自分の立場と相手の立場の条件の違いを考慮して,しっかりと自分の認識を変化させて相手に二重化するのではなく,相手も自分と同じだろうと硬直的に決めつけて,あるいはそんなことを何も考えずに,自分の視点のみにこだわっているという点で,形而上学的な見方であると判断することができます。

 また,変化を好まず,いつもやっている手順や,予定されたスケジュールが乱されたりすると,パニックになる点はどうでしょうか。これも,非常に形而上学的な,硬直した性質がうかがえるのではないでしょうか。というのは,変化しないと思い込んでいるからこそ,実際の変化に対応できないと考えられるからです。もともと「全ては変化するのだ」というように考えていたら,予定の変更などはいわば「想定内」であり,パニックに陥ることもないでしょう。

 さらに,自分が覚えたルールは絶対であり,条件によってルールが変更になることを認められない点についても,同様に形而上学的な見方といえます。なぜならこれは,典型的な「あれかこれか」的なものの見方だからです。「〜するべき」「〜してはいけない」というルールは,無条件でこのとおりなのであり,「するべき」か「してはいけない」かのどちらかなのであり,条件しだいで「するべき」が「してはいけない」になったり,「してはいけない」が「するべき」に変わったりすることなど,認められないのです。これは条件による変化を認めない「あれかこれか」式の形而上学的な見方であることは明らかでしょう。

 最後に,注意が限定されており,細部にこだわる点も,木を見て森を見ない傾向,部分のみ見て全体を見ないという形而上学的な傾向といえると考えられます。

 このように,自閉症スペクトラムの方のものの見方は,総じて形而上学的になっているといえるでしょう。
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2014年11月13日

精神障害の弁証法的分類へ向けた試み(1/5)

目次

(1)3つの精神疾患の共通性とは?
(2)弁証法から見た自閉症スペクトラム障害の特徴
(3)弁証法から見た境界性パーソナリティ障害の特徴
(4)弁証法から見たうつ病の特徴
(5)ものの見方が極度に形而上学的になると適応が難しい

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(1)3つの精神疾患の共通性とは?

 昨年5月に,アメリカ精神医学会(APA)が作成しているDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:精神障害の統計・診断マニュアル)が約20年ぶりに改訂され,精神科医療の現場では大きな話題となりました。DSMというのは,精神障害の診断に用いられる基準で,この基準に基づいて,「統合失調症」とか「パニック障害」とか診断されるわけです。このDSMが改訂される直前には,以下のような新聞記事も見られました。

「【行方史郎=ワシントン,土肥修一】日本でも広く使われている米精神医学会の診断の手引(DSM)が5月に改訂され,発達障害の一種「アスペルガー症候群(AS)」の分類が消える見通しだ。「適切な支援が受けられなくなる人が出る」などの不安が米国で出ており,日本の臨床現場への影響も出そうだ。

 ASは,言語発達の遅れや知的障害はないが,対人関係を築くのが苦手なのが特徴で,「アスペルガー障害」とも呼ばれる。「軽い自閉症」と見なされることもあり,19年ぶりに改訂されるDSM第5版では,重い自閉症からASまでを連続的に捉える「自閉症スペクトラム(連続体)障害」に一本化される。

 診断に使う項目も改訂版では,「社会コミュニケーションの障害」「限定した興味や反復行動」に絞る。 改訂に関わったグループは「第4版の基準は医師によって診断名が違ってくる」などとし,「より正確な診断が可能になる」としている。

 だが,米エール大の研究グループが,第4版でASと診断される人のデータを第5版で診断し直したところ,4分の3の人が,自閉症スペクトラム障害に該当しなくなった。

 そのため,今後は同じような障害を抱えていても診断で除外され,コミュニケーション技術の支援教育などが受けられない可能性があるという。さらに,現在,ASと診断されている人の間でも,診断名がなくなることへの不安の声が出ている。」(朝日新聞電子版 2013年4月30日)


 ここでは,改訂されるDSMでは「アスペルガー症候群」という分類が消えて,他の発達障害を含めて新たにつくられる「自閉症スペクトラム障害」という分類に一本化されそうだと記されています。実際,この後公開されたDSM-5では,「アスペルガー」という名前は消えていました。

 この他にもDSM-5では,統合失調症の妄想型とか解体型などというサブタイプが廃止されたり,気分障害が双極性障害とうつ病性障害に分割されたり,不安障害から独立して強迫性とその関連の障害やトラウマとストレッサー関連障害が新設されたりと,さまざまな変更点があります。

 このような変更は,何を意味しているのでしょうか。端的にいうと,精神障害に関しては,まだまだ解明されていない点が多く,新たな発見によって精神障害の分類が変更されていっている,ということです。

 病気の分類については,瀬江千史先生が詳しく説かれていますが,ここではコンパクトにまとまっている部分を引用します。

「そもそも,医療の歴史を遡ってみるならば,それは一面では,病気の分類に労力を注ぎ込んだ歴史といえるのであるが,その病気の分類の方向性は,大きく二段階に分けることができた。

 第一段階は,病気の現象的事実が積み重なっていった結果,それらの事実の共通性をみてとることによって,病気を分類していった段階であり,第二段階は,技術の進歩によって様々に病気の事実の構造に分けいっていけるようになり,より細かな違いに着目して,病気を分類,すなわち細分化していった段階である。そして現代医療は,この第二段階の発展に,ますます拍車がかかっているのが実情である……。

 しかしながら,この病気の分類の細分化は,大きな欠陥をもたらすことになった。それは何かといえば,人間の生活の全体像が考えられないことはもちろんのこと,人間の生理構造の全体像さえも消失し,医師にとって最も大切な「病気の全体像」が忘れ去られて,その結果,病気の実態を把握することが不可能になってきている,ということである。」(瀬江千史「『医学原論』講義(第6回)」,『学城』第8号,pp.43-44)


 要するに,病気分類の歴史は,アバウトに共通性を捉えて分類する第一段階から,より細かな違いに着目して細分化していく第二段階に至っており,その結果,人間の生活の全体像や人間の生理構造の全体像が忘れ去られてしまうという大欠陥が生じてきている,ということです。このような現状であるだけに,瀬江先生は科学的な医学の学問体系を構築して,現在の細かな知見を論理的に統合しようとされているのだと思います。

 本稿ではこのような指摘を踏まえて,現在の精神疾患の分類から主なものを3つ取り上げて,細かな違いに着目するのではなく,論理的な統合を目指してその共通性を探ることを試みてみたいと思います(※)。その際,世界全体の一般的な運動について扱っている弁証法の観点から,その共通性を探っていきたいと考えています。そこでまず,弁証法的なものの見方・考え方と,その対立物である形而上学的なものの見方・考え方について,簡単に復習しておきましょう。

 まずは形而上学的なものの見方・考え方の方からです。これは端的にいうと,物事を変化しないとみなす見方,つながっているものを切り離して,別のものとして扱う見方です。三浦つとむさんがよく使う言葉で表現すると「あれかこれか」的な見方です。もう少しいうと,条件を無視した硬直的な見方ということもできます。

 たとえば,仲のよかった友人とけんかをして,「絶交だ!」といわれたとします。そのとき,「もう,この友人とはずっと話もできないのだ。このままずっと仲が悪いままだ」と考えてしまうとします。これは形而上学的な見方ということができます。なぜなら,友人の認識は本来,変化していくものなのに,このまま変化しないと考えているからです。あるいは,このけんかの原因をすべて自分にあると見なすのも,形而上学的な見方ということができます。なぜなら,ある現象の原因というものは,一つとは限らず,もろもろの要因がつながりあって一つの結果をもたらしているのに,そのつながりを無視して,自分の要因だけを見ているからです。関係がいい時もあれば悪い時もあると考えずに,悪くなってしまったらもうよくなることはないのだと考えているのですから,「あれかこれか」的な発想であり,どのような条件を整えればまたいい関係になれるのかを考えていないという点でも,形而上学的な見方ということができます。

 これに対して,弁証法的なものの見方・考え方とは,どのようなものでしょうか。それは,全ては変化するとする見方,全てはつながっているとする見方です。三浦つとむさん的に表現すると,「あれもこれも」という見方です。全ては条件次第で変化するという,非常に柔軟な見方といってもいいでしょう。

 たとえば,先の例でいうと,友人とけんかをして「絶交だ!」といわれたとしても,そのような悪い関係もいつかは変化するだろうと考えるのが,弁証法的な見方です。けんかの原因も多面的に考えて,決して自分一人だけが悪い,というようなことは考えません。人間関係は,いい時もあれば悪い時もあると考えて,どうすれば今の悪い関係からいい関係に戻れるのか,その条件を考えていくのが弁証法的な見方・考え方ということができるでしょう。
 
 もちろん,弁証法的なものの見方・考え方がいつでも無条件によくて,逆に,形而上学的なものの見方・考え方がいつでも無条件に悪い,ということではありません。これこそ,条件を無視した形而上学的な見方ということになります。そうではなくて,形而上学的な見方も,世界をせまい範囲で,短期において見るときにはけっこう通用するけれども,世界を広い範囲で,長期にわたって見るときには通用しなくなるので,その場合には弁証法的なものの見方・考え方が求められるのだ,そういう意味では,弁証法的なものの見方・考え方の方が広範囲で使えて汎用性が高いのだ,ということなのです。

 本稿では,以上のような弁証法的な観点から,3つの精神障害の症状を検討して,その共通性を探っていくことを目的としています。次回以降,自閉症スペクトラム障害,境界性パーソナリティ障害,うつ病の順番に考察していくことにします。本稿では,これら3つの障害分類の妥当性についての判断は保留して,これらの教科書的な特徴や,筆者が臨床場面で関わった経験をもとに,その共通性を探っていきたいと思います。


※「細かな違いに着目するのではなく,論理的な統合を目指してその共通性を探る」という意味では,新聞記事で紹介したDSM-5における「自閉症スペクトラム障害」という分類の仕方は,それなりに妥当だと評価することができます。ただし,DSM-5全体としてみると,このようにいくつかの障害が統合されることもありますが,本論でも紹介したように,気分障害が双極性障害とうつ病性障害に分割されたり,強迫性障害が不安障害から独立したりと,細分化の流れも見られます。要するに,統一的な指針で統合の流れになっている,というわけではないという点をご確認ください。
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2014年05月07日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る(13/13)

まとめ
(13)今後はどのように学んでいくべきか

 前回はこの小論で振り返ってきたことをもう一度、簡単に振り返りました。最終回である今回は、『弁証法はどういう科学か』学習会やこの小論執筆によって明らかになった課題や、今後はどのような学びを行っていくべきか、ということについて書いていきたいと思います。

 この学習会では、弁証法の基本的な各概念を理解できたこと、そして弁証法の学びかたを理解できたことが大きな成果でした。しかしこの学習会の全体を振り返ったことにより、今回の学習会では理解が不十分であった部分やこれからの課題とすべき点も明らかになりました。

 これからの課題としていきたい点については三つあります。一つ目は「矛盾論」についてです。学習会や例会の場では、矛盾論が一番難しく、初学者にとっては理解が難しいという話だったのですが、確かに「矛盾論」については学習会を一通り終えた現在でも漠然とした部分があり、これからも特に意識して学んでいかなければならないと考えています。具体的には「運動は存在する矛盾そのものである」(p.274)というような運動と矛盾の関係がしっかりと理解できていません。これはそもそも運動とはどういうことか、矛盾とはどういうことか、ということから『弁証法はどういう科学か』や南郷継正氏の各著作を参考にして押さえていくことで理解していきたいと思います。

 この小論執筆で明らかになった課題の二つ目は、『弁証法はどういう科学か』全体の論の流れを捉えることについてです。今回の『弁証法はどういう科学か』学習会は基本的な概念を押さえることに特に重点がおかれていましたが、個々の概念を理解するためにも、その概念の文章のある項、節、章、そして『弁証法はどういう科学か』の全体から論の展開を押さえていかなければならないという指摘を何度も受けました。しかし今回の学習会では先輩会員から、ここはこういう流れなのだ、という説明を聞いてやっと分からされる、という状態だったため、今後は『弁証法はどういう科学か』の項、節、章ごとの要約作業などを実践することで、全体の論の展開を捉えることができるようにしていきたいと思います。

 小論執筆で明らかになった課題の三つ目は、『弁証法はどういう科学か』の本文中では定義されていない概念についてを理解していくことです。例えば「学問」とはどういうものか、「科学」とはどういうものか、「学問」と「科学」はどうちがうのか、「運動」「変化」「発展」とはそれぞれどういうことか、どうちがうのか、などです。これらの概念については南郷継正氏の著作を参考にして、今回の学習会で行ったのと同じように、定義からことばの意味を一つ一つあてはめて検討していき、具体例にあてはめて考えるという実践によって、明確に意味を捉えることができるようにしていきたいです。

 これからは今回の学習会で得ることのできた成果をふまえて、上記のような実践を徹底し、認識構造を弁証法的にモデルチェンジすることで自らの専門分野の問題を解決していくことができるだけの実力を身に付けていけるように、よりいっそう努力していきたいと思います。
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2014年05月06日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る(12/13)

まとめ
(12)『弁証法はどういう科学か』学習会の学びをもう一度振り返る

 前回はあらゆるものを矛盾として捉えるとはどういうことか、ということについて振り返りました。世界は矛盾の複合体であり、ある矛盾はそれ以前の段階の根本矛盾によって規定され、条件の変化によって矛盾は変化していき、このような矛盾の発生や消滅によって世界は発展しているのだということでした。ここまで弁証法の基本的な考えかたについて、弁証法の三法則について、弁証法の学びかたについて、と振り返ってきましたが最後にもう一度全体を振り返りたいと思います。

 まず唯物論と観念論とはどのようなものか、弁証法はどのように発展してきたか、論理とはどういうものか、弁証法ではつながりをどう捉えるのかなどを振り返りました。そもそも弁証法とは世界がもっている運動・変化・発展という性質を認識にすくいとって法則化したものでした。このような世界を運動において捉える考えかたは古代ギリシャでうまれ、古代ギリシャでは世界を運動において捉える弁証法的な世界観として形成されたのでした。やがて個別科学の発展によってものごとを固定してみる形而上学的な見かたが主流になり、その見かたが世界全体の見かたに拡大されて形而上学的な世界観が形成されたことでいったん弁証法は姿を隠します。しかし形而上学的な世界観のもとで個別科学の研究は発展することができ、やがて形而上学的な世界観では解明できないことが出てきたことでドイツ観念論哲学では弁証法が復活し世界全体を弁証法的に見る弁証法的な世界観が形成されたのでした。これは物質に対して精神を優位にみる観念論的な弁証法でしたが、その後マルクス・エンゲルスによって精神は物質のありかたの一部だとする唯物論から改作され唯物弁証法として現在の姿になったのでした。

 弁証法を学ぶ上で押さえておかなければならないのは事実と論理の区別でした。事実とは世界に目に見える形で存在する具体的な事物のことで論理とはこの事実の中から共通性を取り出して把握したものでした。この論理には段階があり、事実として存在するものを「個別」的なもの、個別的な事実に共通する性質をすくいとったものの抽象殿高い論理を「普遍」、「普遍」に対して抽象度の低い論理を「特殊」というのでした。

 次に弁証法の三法則について学んだことを振り返りました。対立物の相互浸透とは対立物が媒介関係にあるとともに各自直接に相手の資質を受けとるという構造を持ち、このつながりが深まるかたちをとって発展が進んでいくこと、「量質転化」とは量的な変化が質的な変化をもたらし質的な変化が量的な変化をもたらすこと、「否定の否定」とはあるあり方から一度別のあり方に変えて進行させ、あとでまたもとのあり方に戻すというやりかたでしたが、これらは独立した論理ではなく、ある対象を見たときにある面から見ると相互浸透の構造をもち、ある面から見ると量質転化の構造をもち、ある面からみると否定の否定の構造をもって発展している、と捉えることができるのでした。

 また弁証法の学びかたについても学びました。弁証法を学ぶ上では自分の持っている認識構造を弁証法的なものにつくりかえるという認識構造のモデルチェンジが必要ですが、これを実践するためには、『弁証法はどういう科学か』に書いてあることをまるごと理解するということが必要なのでした。

 弁証法を身に付けて世界を弁証法的に捉えることは、世界を矛盾として捉えることであるということも振り返りました。矛盾とはある事物が対立をせおっているという関係のことで、対立物の統一が矛盾の構造であるということでした。この矛盾には「敵対的矛盾」と「非敵対的矛盾」があり、「敵対的矛盾」とは、対立物が闘争し一方が破壊されることによって解決される矛盾のことであり、「非敵対的矛盾」とは、対立物を調和させ、実現そのものが解決であるような矛盾のことでした。

 弁証法では世界をこのような矛盾の複合体として捉えることを主張しますが、矛盾は固定されたものではなく、その矛盾を規定している根本矛盾の変化によって発生・消滅し、また条件の変化によってまた新たな矛盾が発生するということを繰り返しており、このような過程によって世界は発展しているのであり、このように捉えることが世界を弁証法的に捉えることであるということでした。
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2014年05月05日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る(11/13)

3.弁証法はどのように学んで行くべきか
(11)世界を矛盾の複合体として捉えるとはどういうことか

 前回は矛盾とはどういうことか、ということについて振り返りました。矛盾とはある事物が対立をせおっているという関係のことであり、対立物の統一が矛盾の構造であるということでした。また、矛盾には敵対的矛盾と非敵対的矛盾があり敵対的矛盾とは、一方を破壊し一方をすくいとることによって解決される矛盾のことであり、非敵対的矛盾とは実現そのものが解決であるような矛盾のことをいうのでした。今回はあらゆるものを矛盾として捉えるとはどういうことか、ということについて振り返っていきます。

 弁証法では世界を「できあがった事物の複合体」としてではなく、運動・変化・発展し続ける「過程の複合体」として捉えます。「過程の複合体」として捉えるということは、世界は永遠の過去から永遠の未来にわたって運動・変化・発展するものとして見て、現実の自分たちが見ている世界は、この変化発展し続けている過程のある一点であるという見かたをすることです。このある一点だけを固定して切り取って見るということが「できあがった事物の複合体」として見るということです。

 世界を「過程の複合体」として見るということは、世界を「矛盾の複合体」として見るということでもあります。世界は永遠の過去から運動・変化・発展し続けていますが、生命が発生する以前の地球には「化学的な分解と化合」という矛盾がありました。それから生命の発生によって「生物の吸収と排泄の矛盾」という代謝の矛盾が発生し、生物のある段階で、人間が生まれ「労働力の支出によって労働力を獲得するという矛盾」が発生します。さらに人間社会のある段階で「生産における生産の社会性と生産手段の私有」という矛盾が発生します。このように、世界は矛盾の複合体であり、ある矛盾はそれ以前の根本的な矛盾によって規定され、あらたな条件が発生することで新たな矛盾が生まれ、新たな過程の段階へと進んでいくというかたちで世界は発展しています。これが世界を矛盾の複合体として捉えるということです。

 このようにその過程の根本にあって過程のすべてを規定している矛盾を「根本的矛盾」といいます。一方、このような「根本的矛盾」によって規定された過程の特殊な段階でうまれる、現実的にすぐに解決しなければならない目の前の問題などのことを「主要矛盾」と言います。例えば人間の認識の根本的矛盾は「対象の無限性と認識の有限性」という矛盾です。人間は芸術などの表現をするときは、この「根本的矛盾」に規定されます。芸術家が表現の方法で悩んだりするのはこの、認識における根本的矛盾に規定された主要矛盾です。

 矛盾という形態はそのまま固定しては存在しません。矛盾という形態も過程が進行していくと発展していきます。人間の認識は「対象の無限性と認識の有限性」という根本矛盾を持っていますが、人間がある対象について直接認識できない認識を得ようとすると、認識はいったん現実の対象から離れて観念の世界で直接認識できない対象について想像し、また断片的な認識をつなぎあわせるなどの実践を行います。そして観念の世界で得た認識を現実の世界に持ち帰ることで、直接認識することができなかった対象により接近することができます。

 このようにいったん現実の対象から離れることで、結果的に現実の対象をより忠実に反映できるようになる、というのは「対象の無限性と認識の有限性」という認識の根本的矛盾がより発展した形態をとってくることです。「敵対的矛盾」が発展した形態をとってくることは、ある事物とその対立物の性質の違いがより明瞭になっていくことですが、この非敵対的矛盾では「認識」が対立物である「対象」をよりうまくせおえるようになるという形で、非敵対的矛盾としての認識の根本的矛盾が発展した形態をとっています。このように矛盾も発生したり消滅したりしていくものであり、世界ではつねに様々な矛盾が複雑に存在し、発生・消滅し続けています。このように世界を見ていくことが世界を弁証法的に捉えるということであるということでした。
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2014年05月04日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る(10/13)

3.弁証法はどのように学んで行くべきか
(10)矛盾とはどういうことか

 前回は弁証法の学びかたについて、弁証法はこれまでの自分の認識構造を否定して、弁証法的な認識構造をまったく新しく創出していくことが重要である、ということを振り返りました。弁証法を学んで行く上では認識構造のモデルチェンジが必要なのですが、弁証法を身につけるには認識構造をモデルチェンジすることによってあらゆるものを矛盾として捉えられるようにならなければなりません。今回はこの矛盾とは何か、ということについて振り返っていきます。

 「矛盾」とはそもそも何でしようか。矛盾については「矛盾の本質は、ある事物が対立を『せおっている』という関係です。対立物が存在しているだけで、それが『せおっている』という関係になっていないなら、それは矛盾ではありません。対立物の統一ということが、矛盾の構造です。」(p.276)とあります。

 これはどういう意味か、一つ一つ検討していきます。まずそもそも「対立物」とは、ある事物と反対の性質をもつ事物のことです。対立物をせおっている、とはただ対立物が存在しているというのではなくある事物のなかに対立する性質をもつ事物があらわれるという関係のことで、これをある事物が対立をせおっているといいます。「親と子」という関係でいうと、ただ親と子が存在しているというのではなく、子が自分の子を産んで親になり子であり親でもある、という関係がうまれたときにこれが対立を「せおっている」関係になります。これは「親でもあり子でもある」という矛盾です。

 矛盾については常識的には「ホコとタテ」のような、頭の中で現実に適合しない関係をつくり出すことだと考えられています。しかし実際には、矛盾には現実と適合する矛盾もあり、頭の中で勝手につくり出されるものだけが矛盾ではありません。例えば先ほどの「親と子」という矛盾は、頭の中で勝手につくりあげたものではなく現実に存在する矛盾です。このような現実に存在する矛盾のことを「客観的矛盾」といいます。

 このように現実に存在する「客観的矛盾」には「敵対的矛盾」と「非敵対的矛盾」の二種類があります。「プロレタリアートとブルジョアジー」という矛盾は、どちらか一方を破壊し一方をすくいとることで解決される矛盾です。しかし「親と子」という矛盾はどちらか一方を破壊することはできません。「親と子」の関係は、破壊ではなくその関係を実現することが直接に解決でもあるという矛盾の形態です。「プロレタリアートとブルジョアジー」のような闘争によって対立物を破壊することで矛盾を克服する関係を「敵対的矛盾」、「親と子」のような調和によって矛盾を保持することが矛盾の解決である関係を「非敵対的矛盾」といいます。矛盾には矛盾の解決の仕方によって、このような二種類が存在するのです。

 「非敵対的矛盾」の場合には、「実現そのものが解決である」形態を創造することで解決されます。例えば全力で走り続けると同時にその場にとどまっていたいという矛盾は、ランニングマシンのような「実現そのものが解決である」形態を創造することで解決されます。「認識の有限性と対象の無限性」という矛盾も、物質的な鏡を媒介することで直接認識することができないものを認識するという実現そのものが解決である形態の創造によって解決される「非敵対的矛盾」です。非敵対的矛盾の解決には、このような実現そのものが解決であるような形態を創造することが重要であるということでした。以上が矛盾とはどういうものかという振り返りでしたが、ではあらゆるものを矛盾として捉えるとはどういうことか、ということについては次回振り返っていきます。
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2014年05月03日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る(9/13)

3.弁証法はどのように学んで行くべきか
(9)認識構造をモデルチェンジするとはどういうことか

 前回は弁証法の三法則のひとつである「否定の否定」の法則について振り返りました。「否定の否定」は、一度他のありかたに変えて進行させ、またもとのあり方に戻すというまわりみちをすることで、もとのあり方では得られなかった成果を得るというかたちで発展が進行する論理でした。前回までは弁証法に関する様々な概念や弁証法の三法則についてを振り返ってきましたが、それでは弁証法はどのように学んでいくべきでしょうか。これについては認識構造のモデルチェンジという論理を学びました。

 弁証法の学びは、まずはこれまでの人生で身に付けてきた認識構造を否定し、弁証法的な認識構造を創出していくことが必要です。弁証法は、これまでの科学・哲学の歴史の中で「弁証法的な認識構造」として、文化遺産として形成されてきました。この文化遺産として弁証法を修得することで、学問上の問題を解決できるようになっていくのです。しかし人間はこれまでの人生で自分流の考えかたというものを身に付けてきているため、自分流の考えかたという認識構造を一度否定し、弁証法的な認識構造をまったく新しく創出していかなければならないのです。

 しかしここに弁証法を学ぶ上での非常に大きな問題があります。それはこの新しい認識構造をつくっていくのもこれまでに身に付けた自分の認識構造を用いて行わなければならない、ということです。秀才的な人間は、ここで自分の古い認識構造を否定せず『弁証法はどういう科学か』を自分の認識で読み、理解してしまいます。例えば「科学」という言葉が出てきたら、これは意味が間違っているんじゃないかとか、これはこういう意味だろうとか、自分なりに勝手に理解してしまいます。これでは、自分の認識構造が弁証法的に強化されるだけであり、新しく文化遺産としての認識構造を創出することができません。

 ではどのように学べば弁証法的な認識構造を創出することができるのでしょうか。それは『弁証法はどういう科学か』から、三浦つとむの認識をまるごと学ぶ、ということです。まるごと学ぶことで自分の認識構造を弁証法的な認識構造へとモデルチェンジすることが重要です。「分からない」から「分かる」へと一気に認識が量質転化するということです。

 具体的には『弁証法はどういう科学か』の一語一句をそのまま筆写することや要約していくこと、また集団の中で討論することなどによって、自分なりの理解というものを一切否定して学んでいくことが必要です。自分なりの理解をしないで正確に理解していくには、『弁証法はどういう科学か』に書いてあることを全て正しいと信じて学ぶことが必要です。『弁証法はどういう科学か』はどのような問題も解決できるだけの内容をもっているため、『弁証法はどういう科学か』を学ぶことで弁証法的な認識構造を身につければ、どのような問題も解決できるのだと信じることが大切です。そして弁証法的な認識構造を頭のなかに大樹としてつくりあげ、それにあらゆることをくっつけて理解していく、という態度で学びを進めていくことが重要です。このような学びを何年にもわたって継続していかなければ、弁証法を使いこなせるようにはなれないのだ、ということでした。
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2014年05月02日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る(8/13)

2.弁証法の三法則について振り返る
(8)否定の否定について振り返る

 前回は弁証法の三法則のひとつである「量質転化」について振り返りました。「量質転化」とはある事物の量が増大・現象したときに、その事物の質が変化する、という論理でした。またこの量質転化には直接の面と媒介の面があり、直接の面とはある量的な変化がその事物の質的な変化を直接に起こすことで、媒介の面とはある量質転化が別の量質転化を引き起こすことでした。

 今回は「否定の否定」の法則について振り返りますが「否定の否定」とは「一度他のありかたに変えて進行させ、あとでまたもとのありかたに戻すというやりかた」(p.225)です。これは端的にはまわりみちということであり、まわりみちを行うことでもとのあり方では得ることのできなかった成果をあげるという論理が「否定の否定」の法則です。

 具体的には、音を遠くに伝えるためにまずは空気の振動というあり方を否定して一度鑞管に定着させ、再生するときにはそこからまた定着した振動というあり方を否定して空気の振動というかたちに戻して伝えることや、戦争において攻撃するためにまずは進撃することを否定して退却し、また退却というあり方を否定して敵の隙をついて攻撃することなどです。人間が労働によって生活資料をつくり出す「生活の生産」も、本来ならエネルギーを得るために直接消費するものを、まずエネルギーを支出することでよりたくさんのエネルギーを得るかたちに加工したり、そのままでは消費できないものを消費できるようにしたりするという否定の否定です。

 このような否定の否定の構造は、歴史にも見られます。マルクス主義では、人間の歴史は、階級のない社会から階級のある社会へ、そしてさらに社会が発展することで階級のない共産主義社会をうみだすと考えられました。これは、一度無階級社会から階級社会になることで支配階級と被支配階級とに社会的に分業し、労働から解放される階級が生まれることで、この階級が学問や文化を発展させることができ、社会がさらなる発展をすることができたという否定の否定です。

 学問の歴史も否定の否定的な発展をしています。弁証法はまず古代ギリシャで、原始的で素朴だが本質的には正しい世界観として生まれました。それが個別的な研究の発展によって世界を不変のものと考える形而上学的な世界観になり、ここで個別科学が大きく発展し、科学の発展により形而上学的な世界観が維持できなくなって弁証法的な世界観が復活したという否定の否定的な発展をしてきました。

 否定の否定で重要なことは、第一の否定、第二の否定を経ることによって、どのような成果が生まれたのかというところです。ただ一度別のあり方になってもとに戻ってくるのではなく、一度別のあり方に移行することでもとのあり方では得られなかった成果をうみだし、それをもとのあり方に戻して活かすことに否定の否定の意義があります。そのため否定の否定は、現実の世界でも観念の世界でも、ただ否定を宣言するのではなく実際に別のあり方、別の立場に移行してそれまでのあり方を変えなければならないということでした。
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2014年05月01日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る(7/13)

2.弁証法の三法則について振り返る
(7)量質転化について振り返る

 前回は弁証法の三法則の一つである「対立物の相互浸透」についてを振り返りました。対立物の相互浸透とは対立物が媒介関係にあるとともに各自直接に相手の性質を受けとりあうという構造をもちこのつながりが深まるかたちをとって発展が進行していくという論理でした。これは対立物であるAとBが互いに性質を受けとりあうことでAがB化、BがA化することでAでもBでもないという部分が大きくなっていくというかたちで発展していく構造のことでした。

 今回は弁証法の三法則の一つである「量質転化」の法則について振り返っていきます。「量質転化」とは「量的な変化が質的な変化をもたらし、また質的な変化が量的な変化をもたらす」(p.212)という法則です。  

 「量的な変化」とは例えば車の幅が広くなること、重さが増えること、同じ性質をもつ物質が複数あつまることなどです。この量の変化によって車が道を通れなくなる、重さに耐えきれず橋が落ちてしまう、ある物質から別の物質へと変化する、という「質的な変化」がおこることが「量質転化」です。

 この逆の「質量転化」とは、例えば純度の高い宝石は数少ないが、宝石の純度の質を落とすとその量が増大することなどです。この量質転化についてもいろいろな例で説明されています。

 人間が別々に行動してもできないことが、集団になるとできるようになることは、集団における量質転化です。労働者一人ではできないこと、例えば大きな障害物を動かすというとき、一人一人の労働者が個別に障害物を動かそうとしてもこれは動きませんが、複数の労働者が一緒に力を合わせることで障害物を動かすことができます。これが量質転化であり、このように労働者を協業させることによって発生する労働力を集団力と言います。資本家は、労働者一人一人のもつ労働力には賃金を払わなければなりませんが、協業によってうまれる集団力に対しては賃金を払う必要がありません。そのため、資本家はいかにして集団力を発揮させるかを考えることになります。

 また量質転化には「直接の面」と「媒介の面」があります。量質転化というものは、独立して存在するものではなく、ある量質転化が別の量質転化を媒介するというように、つながりあっているものです。この量質転化の直接の面と媒介の面について、『弁証法はどういう科学か』では企業の倒産についての例で書かれています。

 ある企業の赤字が増大し、ある一定のラインを超えてその企業が倒産したとします。これは赤字の増加という量の変化によって企業が倒産するという質的な変化を起こすという量質転化の直接の関係です。この倒産により、この企業と提携関係にあった別の企業が倒産したとします。これはある量質転化が別の量質転化を媒介するという量質転化の媒介的な面です。

 この部分的な量質転化と、それに媒介されて全体としての量質転化が起こるまでには時間差があります。量質転化の直接の面と媒介の面を区別できないと、部分的な量質転化が急激に起こったから、全体としての量質転化も急激に起こるのだという形而上学的な理解になってしまいます。量質転化も直接の面と媒介の面を区別して取り上げなければならない、ということでした。
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2014年04月30日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る(6/13)

2.弁証法の三法則について振り返る
(6)対立物の相互浸透について振り返る

 前回は弁証法を理解する上で重要となる基本的な概念についてを振り返りました。事実とは現実に存在する具体的な事物のこと、論理とはその事実に共通する性質を捉えたもので、現実的に存在するものを「個別」、その共通性を把握したものを「特殊」「普遍」というのでした。また弁証法では世界を絶対的な独立ではなく相対的独立として捉え、事物のつながりかたには「直接」「媒介」というつながりかたがあるということでした。

 今回は弁証法の三法則の一つである「対立物の相互浸透」についてを振り返っていきます。「対立物の相互浸透」は「対立物が媒介関係にあると共に各自直接に相手の性質を受けとるという構造を持ち、このつながり深まるかたちをとって発展が進んでいく」(p.95)ことであると説明されています。

 そもそも「対立物」とはある事物と反対の性質をもつ事物のことです。この対立物が「媒介関係」にあるとはただ対立物が存在するのではなく、それがつながりあっているということです。本文ではA君とB嬢という例で説明されていますが、この例ではA君とB嬢がただ他人として存在するのではなく、結婚することによって互いにつながりあった関係になった、ということです。A君とB嬢は夫と妻という対立物ですが、A君はB嬢の立場にたって考えることでB嬢の思想を受け取りB嬢化し、B嬢はA君の立場にたって考えることでA君の思想を受け取りA君化していくというかたちで相互浸透して発展していきます。

 「このつながりが深まるかたちをとって」とは、A君はB嬢の思想を受けとることでA君でもありB嬢でもあるという思想の部分が生まれ、B嬢はA君の思想を受けとることでB嬢でもありA君でもあるという思想の部分が生まれます。A君とB嬢は互いに思想を受けとりあうことを繰り返すことによって、このA君でもありB嬢でもある、B嬢でもありA君でもあるという思想の部分が大きくなっていきます。これが「このつながりが深まるかたちをとって」発展していくということです。この部分が大きくなっていくことで、A君はB嬢をよりよい妻として発展させながら自らもよりよい夫として発展させ、B嬢はA君をよりよい夫として発展させながら自らもよりよい妻として発展していきます。これが「対立物の相互浸透」の構造です。

 『弁証法はどういう科学か』の中ではこの「対立物の相互浸透」の論理が様々な例で出てきます。人間は労働によって生活資料をつくりだしますが、この生活資料を消費することによって人間自身をつくります。この生活資料の生産と人間の生産を統一して生活の生産といいます。生活資料には労働者の行う労働によって労働力が対象化されています。人間はこの対象化された労働を消費することで労働力を獲得します。人間はこのような活動の交換を社会的な関係の中で繰り返していますが、相互浸透の論理の把握によりマルクスは独自の労働価値説を確立することができました。

 マルクス以前の経済学では、生産活動のどこで剰余価値がうまれるのかという問題を明らかにすることができませんでした。これは労働者のもつ労働力と労働者の行う労働を区別できなかったからです。マルクスは労働者の中に対象化されている労働と、労働者が実際に行う労働を区別し、労働者は生活資料の消費によって生活資料に対象化されている労働を自分の中にとりこむことで労働力をもつが、この労働者の中にどれだけの労働が対象化されているのか、ということが労働力の価値であると考えました。

 資本家が賃金を払うのは労働者のもつ「労働力(対象化された労働)」に対してであり、労働者の行う「労働そのもの(生きた労働)」に対してではないのであり、資本家は労働者のもつ労働力に対して正当に賃金を払っても、払った賃金以上に働かせることによって剰余価値をうみだすのだというのがマルクスの労働価値説です。このように相互浸透の論理の把握によって経済学は大きく発展することができたということでした。
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2014年04月29日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る(5/13)

1.弁証法の基本的な考えかたについて振り返る
(5)弁証法の基本的な概念を振り返る

 前回は弁証法はどのように発展してきたか、ということについて振り返りました。弁証法は古代ギリシャでうまれ、世界を常に運動・変化・発展するものとしてみる弁証法的な世界観となり、科学の発展によって形而上学的な見かたが主流になり、形而上学的な世界観が形成され、やがてドイツ観念論哲学で弁証法が復活し、マルクス・エンゲルスによって唯物論的な弁証法に改作され、現在の姿になったのでした。今回は弁証法を学んでいく上で重要となる論理やつながりについての概念について振り返っていきます。

 弁証法とは世界の弁証法性を認識にすくいとって法則化した科学でしたが、この法則とか科学というものは現実に目に見える形で存在するものではありません。これを分かるためには、「事実」と「論理」についての理解が必要です。「事実」とは世界に目に見えるかたちで現実的に存在している個々の具体的な物ごとのことです。「論理」とは、この事物の中にある共通性を認識にすくいとったものです。理論とか法則というものはこの「論理」を集めてよりレベルの高いものにまとめたものです。

 このような「論理」には様々な段階があります。ここで必要となるのが「個別・特殊・普遍」という概念です。「個別」のものとは現実に存在する具体的な事物のことで、「普遍」とは個別のものから共通性を論理として捉えたものです。この共通性には段階があり、「家」という例で例えると「個別」のものとはそれぞれの現実に存在する家のことで、「普遍」はそのそれぞれの家に共通する性質を論理として把握したものですが、共通性にも「人の住む家」とか「動物の棲む犬小屋」「荷物を入れる倉庫」などという論理の段階があります。これを「家」というより大きな共通性を捉えた「普遍性」に対して「特殊性」といいます。これが「個別・特殊・普遍」という論理です。現実の事物は「個別」的なものとして存在していますが、そこに含まれる共通性を論理として捉えたものが「普遍」であり、この「普遍」に対して抽象度の低い共通性を捉えた論理が「特殊」です。

 弁証法では、世界のあらゆるものは独立して存在するものではなくそれぞれつながりあっているものと考えます。しかし世界のつながりだけを形而上学的に捉え、すべてはつながっているのだ、という部分だけを強調するとこれも誤謬となります。弁証法では、それぞれの事物を別々に独立したものとして捉えるわけではなく、ただ一面的につながっているものだと捉えるのでもなく、つながっていると同時につながっていないという矛盾として捉えます。これを「相対的独立」において捉えるといいます。

 「相対的独立」とは、きりはなすことができないにもかかわらず、一方がある限界の中では他方と関係なしに変化できるという関係のことです。これは本文中では紙風船の表面積と体積という例で説明されています。紙風船の表面積と体積はきりはなすことのできない関係ですが、紙風船が割れてしまうという限界までは、体積は表面積と関係なく変化(増加)していくことができます。このとき体積と表面積は相対的独立の関係にあるといいます。

 また弁証法では世界は全体としてはすべてつながっていると捉えますが、このつながりというものを媒介関係といいます。弁証法はこのつながりを、ただつながっているのだと一面的に捉えるのではなく、つながりにも法則的な構造があるのだと主張します。

 つながりの構造には「直接」と「媒介」があります。『弁証法はどういう科学か』ではp.89で「常識的な見かた」としてAとBが直接、BとCが直接つながり、AとCがBを媒介してつながっているという図で説明されています。ここではA、BとB、Cのつながりが直接の関係で、A、Cのつながりが媒介の関係です。
 
 また、p.91の図ではAの歯車の回転がBの歯車を媒介にしてCの歯車を回転させているというつながりが書かれてますが、弁証法ではこの「歯車そのもの」とその機能である「回転」のような「自分自身が同時に他の性質を持つときの切りはなすことのできないつながり」(p.92)のことを「直接」といいます。つながりというものを見ると、大きくは全て媒介関係にありますが、そのつながりのひとつひとつを見ると直接のつながりにもなっている、ということでした。
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2014年04月28日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る(4/13)

1.弁証法の基本的な考えかたについて振り返る
(4)弁証法はどのように発展してきたかを振り返る

 前回は弁証法を学ぶ上で非常に重要となる「唯物論・観念論」についてを振り返りました。「唯物論」とは世界は永遠の過去から永遠の未来にわたって存在し続けるものであり、精神は物質の一定のありかたにおいてうまれたものであるとする世界観で、「観念論」とは精神こそが永遠の存在であって、物質とは精神のありかたにおける産物であると考える世界観でした。そしてこの「唯物論」と「観念論」は移行しあうものである、ということでした。今回は弁証法がどのように発展して現在のような姿になったのか、という弁証法の歴史について振り返ります。

 人間はこれまでの自然や社会、精神に対する研究によって世界は常に運動・変化・発展する性質を持っている、すべてはつながりあっている、ものごとの区別は相対的であり絶対的ではないという世界の持つ性質を発見しました。このような世界の持つ性質を人間の認識の中にすくいとって法則化したのが弁証法です。人間は科学の発展によって世界をより忠実に認識に反映できるようになり、世界の持つ弁証法的な性格を自覚できるようになりました。この弁証法性の自覚によって弁証法を法則化し、科学として発展させることができるようになったのです。

 しかし、弁証法は実際には複雑な歴史をたどって発展して現在の姿になったのでした。弁証法はまず古代ギリシャで、対立する相入れない意見をたたかわせることで思惟における矛盾を明らかにし、討論することで真理に到達する討論法、問答法として誕生しました。古代ギリシャの人々は、弁証法的な討論によって世界の本質を明らかにしようとし、やがて世界をありのままに素朴に捉え、世界は運動・変化・発展しているものだと捉えました。この捉えかたは原始的で素朴ではありましたが、本質的には正しいものでした。しかしこのような弁証法的な世界観は、世界を大づかみに捉えたものでしかなかったので、具体的な部分の説明をすることはできませんでした。

 個々の科学が発展してくると、「変化しているものを、一応変わらないものとして、つながっているものを一応別のものとして扱う見かた」(p.57)である形而上学的な見かたが、科学の研究において主流になっていきました。これは個々の分野を研究するためには一応物ごとを変化しないものとして捉える必要があったからです。やがてさらに科学が発達すると、この個々の物ごとに対する見かたであった形而上学的な見かたが世界全体の見かたにも持ち込まれるようになり、世界を絶対的に不変なものとして捉える形而上学的な世界観が形成されていきました。

 このような形而上学的な世界観もやがて弁証法的な世界観によってとってかわるようになります。形而上学的な世界観では、常に変化し続ける人間の認識を説明することができないという問題や、ドイツの反動的な社会では世界を変わらないものとして見る機械論的唯物論は、無神論として弾圧されるようになってきたという社会的条件に媒介され、十八世紀のドイツでは観念論哲学が生まれました。

 唯物論から観念論へという流れで見ると、唯物論による科学の発展から観念論哲学へというのは後退ですが、ドイツ観念論哲学ではそれまで無視されてきた弁証法を再びとりあげることになりました。これは学問全体で見ると前進でした。ドイツ観念論哲学で弁証法が復活し、ヘーゲルは世界全体を弁証法的な世界観として捉えました。これは観念論ではありますが、弁証法的な世界観の復活です。

 やがてこのヘーゲルの観念論的な弁証法も唯物論的な弁証法に改作されることになります。マルクスとエンゲルスは、ヘーゲルの言う「客観的弁証法」は世界の弁証法的な性格=弁証法性のことであり、「主観的弁証法」=弁証法的思惟は、この世界の持つ弁証法的な性格を認識に反映させたものであることを明らかにしました。こうしてマルクス・エンゲルスによって唯物弁証法が誕生させられ、弁証法は現在のすがたになりました。弁証法はこのように複雑な過程を経て現在の科学的な弁証法になったということでした。
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2014年04月27日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る(3/13)

1.弁証法の基本的な考えかたについて振り返る
(3)唯物論と観念論について振り返る

 前回は『弁証法はどういう科学か』学習会ではどのように学びを進めていったのか、ということについて振り返りました。学習会では部分的に理解していくのではなく、その文章の書いてある項、節、章の全体からどのような論理の流れで書かれているのかを押さえ、文章の中で一つ一つのことばの意味することを厳密に考えていくことが必要であるということでした。今回から学習会ではどのようなことを学んだのか、具体的な内容を振り返っていきます。

 今回は弁証法の理解において重要となる「唯物論」と「観念論」についてを振り返ります。弁証法とは世界全体を運動・変化・発展するものとして捉えますが、世界全体を見たときに世界はどこかの時点で創造されたものなのか、それとも永遠の過去から永遠の未来にわたって存在し続けるものなのか、という対立する二つの世界観がうまれます。これが唯物論と観念論です。

 ではこの唯物論・観念論とはどのようなものでしようか。唯物論とは「世界は永遠の昔から存在したものであり、つねに物質的に統一されていたとするならば、物質こそ根本的な永遠的な存在であって、精神と呼ばれるものは生物の発生以後においてはじめてあらわれた存在であり、物質の一定のありかたにおいてうみだされたものであるとする世界観」(p.31)で、観念論とは「精神こそ根本的な永遠的な存在であって、物質と呼ばれるものはその産物であるとする世界観」(p.31)です。唯物論は精神は物質のもつひとつの機能であると捉え、観念論は精神によって物質的な世界が生み出されたと考えます。どちらの世界観も世界が物質的に統一されているという点では共通していますが、その世界に起源があるのか否かという点で対立しているのです。

 それでは唯物論と観念論が移行しあうとはどういうことでしょうか。弁証法では唯物論と観念論をまったく別物と考えるものではなく、つながりあっているものと捉え、物質的な存在に対する精神的な存在の先行も部分的には認めます。例えば人間は何か行動を起こすときには、行動をとる前に頭のなかで予想をつけたり計画を立てたりしてから実際の行動に移します。これは物質に対する精神の先行です。これは間違った考えかたではなく現実を正しく捉えた考えかたです。しかしこの物質に対する精神の先行という捉え方を拡大して、この世界も誰かの想像した世界なのだ、神によって創造された世界なのだと考えてしまうと観念論になってしまいます。

 また、宇宙を見たときに目に見える限りが宇宙の全てだと考えて、現在の宇宙が存在する前は何の物質も存在しない「無」の世界があり、そこから世界が誕生したのだと考えると「無」から現在の世界が創造されたのだという考えかたになり、観念論になってしまいます。このように精神的な存在を不当に拡大しても、物質的な存在を不当に縮小しても観念論になってしまいます。

 唯物論と観念論独立して存在するものではなく、つながりあっていて互いに移行しあうものであるため、科学の研究においてはいたるところに観念論へと落ち込む可能性があるのです。
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2014年04月26日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る(2/13)

はじめに
(2)『弁証法はどういう科学か』学習会ではどのように学んだか

 前回は『弁証法はどういう科学か』学習会でどのようなことを学んだか、ということを簡単に振り返りました。学習会では弁証法のそれぞれの概念の理解ができただけでなく、弁証法のそれぞれの概念や考えかたはつながっていて、一つの事物を見たときに相互浸透として捉えたり量質転化として捉えたり否定の否定として捉えたり、ということができたのでした。今回は学習会ではどのように学びを進めていったのか、ということを振り返りますがその前になぜこの『弁証法はどういう科学か』学習会を行ったのか、ということについて振り返ります。

 そもそもなぜこの研究会の活動に参加したのかと言うと筆者は経済学を中心に社会科学全般を追究していきたいという目標があり、研究会の活動に参加する以前にも『弁証法はどういう科学か』や南郷継正氏の著作を読んで弁証法を学んでいました。そんな中でこの研究会のブログを見つけ、研究会という集団の中で学ぶことができたら、もっと上達していけるだろうと思って活動に参加しました。

 そしてこの京都弁証法認識論研究会の活動に参加し、はじめて行った活動が『弁証法はどういう科学か』学習会でした。なぜ『弁証法はどういう科学か』を取り上げての学習会を行ったのかというと『弁証法はどういう科学か』は弁証法に関する唯一の基本書であり、初学者はまずは『弁証法はどういう科学か』から徹底的に学んでいかなければならないからです。

 それでは具体的に『弁証法はどういう科学か』学習会ではどのように学びを進めていったのでしょうか。学習会では事前に『弁証法はどういう科学か』を読み込み、疑問点や論点を整理し、その疑問点・論点を中心に質問し、質問箇所を中心に討論をすすめていくというかたちで進められましたが、『弁証法はどういう科学か』の文章を理解するには、概念の定義などの一般論的・抽象的な説明がされている部分と、それを具体例で説明した部分とを区別して読んでいくことが必要です。疑問点が一般論的な説明の文章だった場合はそれが具体的に説明されている部分にあてはめて考え、疑問点が具体的な説明の文章だったときは、それがどの一般論的な文章の説明としての文章なのか確認し、あてはめて考えていく、ということです。

 また、定義などの説明がされている部分では、定義の中で出てくることばがそれぞれ何を意味しているのかをひとつひとつ厳密に考えていくことが必要です。「対立物の相互浸透」の定義ならば、対立物とはなにか、媒介関係とはなにか、直接とはなにを意味しているか、などと考えていくということです。
このような厳密な検討を行わないと、弁証法の概念を理解していくことはできません。

 そして重要なのは、これらの検討を行う前にその文章の前後や項、節、章全体の論の流れを見て、どのような説明の流れにあるのか、ここで三浦つとむは何が言いたいのか、ということを押さえておくことです。部分的な文章を読んで分からなかったことが、大きな流れの中でみるとすんなり理解できた、ということもあります。

 学習会をはじめた当初は、一般論的・抽象的な文章と具体的な説明の文章を分けて捉えることができず、また定義で出てくることばの意味が分からず、自分でも何が分からないのか分からない、という状態でした。しかし学習会で、まず論の全体の流れをおさえ、一般論的な説明と具体的な説明を確認し、ことばの意味を一つ一つ厳密に検討していくという学びを繰り返していくことによって、疑問点が解消されて理解が深まっただけでなく、理解できない文章はどのように考えていけばよいか、ということを学び実践できたことが大きな成果でした。

 以上が学習会はどのように学びを進めてきたかという振り返りですが、次回からは具体的な学びの内容を振り返っていきます。
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2014年04月25日

三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る(1/13)

はじめに
(1)『弁証法はどういう科学か』学習会ではどのようなことを学ぶことができたか

 この小論は京都弁証法認識論研究会に新たに入会した筆者が、2013年4月から2014年1月まで行われた三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会の内容を振り返るものです。

 『弁証法はどういう科学か』学習会では弁証法初学者として、弁証法の基本的な概念や考えかたを学びました。学習会では第一章から第六章までを順番に学んでいきましたが、学んだことは大きく分けて「弁証法の基本的な考えかたについて」「弁証法の三法則について」「弁証法の学びかたについて」でした。

 弁証法とは全てはつながっている、ものごとの区別は絶対的ではなく相対的である、全ては運動・変化・発展している、という世界のもつ性質を認識にすくいとって法則化したものです。この弁証法の法則には「対立物の相互浸透」「量質転化」「否定の否定」がありますが、学習会では弁証法の基本的な概念とこの弁証法の三法則を学んでいき、当初は漠然としていた弁証法の理解を深めていくことができました。

 学習会によって学ぶことのできたことはいくつもあり、それらの具体的な内容はこれからの連載の中で振り返っていきますが、学んだことの中で最も大きかったことの一つは、弁証法の三法則である「対立物の相互浸透」「量質転化」「否定の否定」がそれぞれ同じものの過程を対象としてみたときに、「相互浸透」「量質転化」「否定の否定」という見かたができるのだというイメージを持てたことです。

 世界は常に運動・変化・発展している過程にありますが、その中のある事物の過程を見たときに、そこに相互浸透、量質転化、否定の否定という論理が見出せるのであり、相互浸透、量質転化、否定の否定という論理がまったく独立して存在するのではないのです。ある事物の運動・変化・発展している過程を相互浸透としてみると、対立物と互いに浸透していくことで発展していく過程を捉えることができ、量質転化としてみると、その事物の量の増大もしくは減少がある一定のラインを超えたときに一気に事物の質が変化する、という過程を捉えることができ、否定の否定としてみると、その事物がこれまでとは別のあり方に変化し別のあり方で進行し、またもとのあり方に戻ることで一定の成果を得る、という過程を捉えることができます。学習会をはじめた当初は、このような三法則の関係が理解できずそれぞれがどのように関連しているのかが理解できていなかったのですが、学習会での学びによってこのように一つの対象を見たときにそれぞれの捉え方ができるのだ、と考えることができるようになりました。

 また、弁証法をどのように学んでいくべきかということについて学び、実践できたことも学習会で得た大きな成果でした。弁証法の学びかたとしては、自分なりに理解しては絶対にならず、これまでにつくってきた自分の認識構造を否定して弁証法的な認識構造へとモデルチェンジしていかなかればならないということでした。これを学習会の討論の中で繰り返し実践したことで、自分の認識構造を否定して認識構造のモデルチェンジをしていくことの重要性を捉えることができたことは、これからの学びの上でも大きな財産になりました。学習会では大きくは以上のような成果をあげることができたのですが、次回は実際にどのように学びを進めていったのかということを振り返ります。
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2014年04月24日

掲載予告:三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る

 本ブログでは明日から「三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る」と題した小論を13回にわたって連載していきます。この小論は新たに京都弁証法認識論研究会に入会した筆者が、『弁証法はどういう科学か』学習会で学んだことを振り返ることにより、より理解を深めていくことを目的としたものです。

 『弁証法はどういう科学か』は三浦つとむによって執筆された、弁証法の基本的な学びに関する唯一の基本書ですが、弁証法の学びはまずは『弁証法はどういう科学か』から徹底的に弁証法を学び、認識構造をつくりかえることが求められます。ここで重要となるのが『弁証法はどういう科学か』を学ぶ上で、自分なりの認識を否定し、『弁証法はどういう科学か』の学びを繰り返し、「分からない」から「分かる」へとまるごと量質転化させることですが、学習会では初学者の筆者がまちがった理解をしないよう、集団的な討論によって学び進めていきました。

 このような学習会を繰り返すことで、『弁証法はどういう科学か』を個人的に学んでいたときに比べて、飛躍的に理解をすすめることができました。この小論では、『弁証法はどういう科学か』学習会ではどのように学び、どのように理解していくことができたかということを「弁証法の基本的な考えかたについて」「弁証法の三法則について」「弁証法はどのように学んでいくべきか」に大きく三つに分けて振り返っていき、もう一度全体を振り返ることで学習会で得た学びをより深めていきたいと思います。

目次

はじめに
(1)『弁証法はどういう科学か』学習会ではどのようなことを学ぶことができたか
(2)『弁証法はどういう科学か』学習会ではどのように学んだか
1.弁証法の基本的な考えかたについて振り返る
(3)唯物論と観念論について振り返る
(4)弁証法がどのように発展してきたかを振り返る
(5)弁証法の基本的な概念について振り返る
2.弁証法の三法則について振り返る
(6)対立物の相互浸透について振り返る
(7)量質転化について振り返る
(8)否定の否定について振り返る
3.弁証法はどのように学んでいくべきか
(9)認識構造をモデルチェンジするとはどういうことか
(10)矛盾とはどういうことか
(11)世界を矛盾の複合体として捉えるとはどういうことか
まとめ
(12)『弁証法はどういう科学か』学習会での学びをもう一度振り返る
(13)今後はどのように学んでいくべきか
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2013年06月23日

三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ(7/7)

(7)まとめ

 本稿は、三浦つとむさんが1967年のソ連訪問の際、モスクワの「マルクス・レーニン主義研究所」宛てに提出した公開質問状「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」に即して、マルクス主義の基礎理論、とりわけ問題解決の武器としての唯物論的弁証法についての三浦つとむさんの基本的な主張を再確認しておくことを目的にしたものです。

 この公開質問状は全部で21の質問からなるものであり、それは大きく以下の5つのテーマに分けられるものでした。すなわち、第一に矛盾について(質問1〜5)、第二にヘーゲル哲学とマルクス主義との関係について(質問6〜8、12)、第三に真理と誤謬との関係について(質問9〜11)、第四に「生活の生産」の概念について(質問13〜18)、第五に権力論、国家論、階級闘争論について(質問19〜21)、です。本稿では、以上5つのテーマに分けて、三浦つとむさんがどのような主張をしてきたのか、その基本的なところを確認してきたのでした。

 ここで、本稿で説いてきた流れを簡単に振り返っておくことにしましょう。

 まず取り上げたのは矛盾についてでした。「官許マルクス主義」においては、対立物の闘争こそが絶対的であるというレーニン『哲学ノート』の記述を正しいものとしていたために、矛盾というのはあっては困る不合理なものとして、すなわち、対立する両者が闘争してどちらか一方が廃棄される形で解決されなければならないものとしてのみ、考えられてしまう傾向がありました。しかし、そもそもマルクスやエンゲルスは、生物体における恒常性と変化の矛盾や摂取と排泄の矛盾、あるいは、貨幣における特殊な使用価値と一般的等価物との矛盾など、対立する両者が調和する形で解決される矛盾、いいかえれば、実現がそれ自体として解決であるような矛盾の存在を指摘していたのでした。マルクスやエンゲルスの後継者たちは、社会の革命への志向性が強烈であっただけに、もっぱら克服しなければならない階級社会の諸矛盾にばかり着目してしまうことになり、結果として矛盾についての一面的な理解に陥ってしまったのでした。これにたいして三浦さんは、言語論や芸術論などの領域における研究で唯物論的弁証法を武器として使っていくという経験をもっていただけに、非敵対的な矛盾の理解が死活的に重要であることを主体的につかんでいったものと思われます。

 つづいて、ヘーゲル哲学とマルクス主義の関係についての問題を取り上げました。「官許マルクス主義」において神聖視されていたレーニンは、ヘーゲルの『論理学』などを熱心に学び、膨大なノートを遺しました。しかしレーニンは、ヘーゲルに熱心に学ぶあまり、客観的な現実世界の反映として人間のアタマのなかに認識が成立するのだという唯物論の大前提を堅持できなくなってしまい、ヘーゲルの観念論的な見解に引きずられてしまうことがあったのです。その端的な例が、「論理学、弁証法、および認識論(三つの言葉は必要でない。それらは同じものである)」という言明です。しかし、唯物論の立場を大前提とすれば、世界全体を対象とする弁証法あるいは論理学と人間のアタマのなかにしか存在しない認識を対象とする認識論とが同一のものでありえないことはあきらかです。人間の認識を扱う個別科学であるべき認識論を、世界全体をつらぬく一般的な運動法則にかんする科学である弁証法と同一視してしまう(認識論を弁証法に解消してしまう)ならば、人間のアタマとココロのはたらきを究明して体系的な理論を構築していくという作業がおろそかにされてしまうことはあきらかです。三浦さんが、「官許マルクス主義」におけるこうした理論的混乱を正して、唯物論の立場から弁証法と認識論を明確に区別すべきことを主張したことによってこそ、個別科学としての認識論構築への道が切り拓かれたといってもよいでしょう。

 つぎに問題になったのは、真理と誤謬との関係についてです。「官許マルクス主義」において神聖視されていたレーニンは『唯物論と経験批判論』において、認識の不完全性ばかりを一面的に強調していたロシアのマッハ主義者に反駁し、無限のひろがりをもつ現実の世界を全面的に把握した認識のことを「絶対的真理」と名づけ、人類はやがてそういう絶対的真理を把持する状態に到達しうると想定した上で、現実の世界を部分的に把握した認識を「相対的真理」と名づけ、人類はこうした「相対的真理」を歴史的に無数に積み重ねていくことをつうじて「絶対的真理」へと無限に接近していくのだ、という見方を提示したのでした。つまり、レーニンにおいて真理が絶対的とか相対的とかいうのは、対象とする領域が絶対的であるとか相対的であるという意味をもっていたのです。「官許マルクス主義」においては、こうしたレーニンの真理論が無批判に受け入れられてしまった結果、真理はどこまでいっても真理であって、誤謬との媒介関係を考えないという、形而上学的な態度を生んでしまいました。しかし、そもそもエンゲルスは、真理をあくまでもその対立物である誤謬との統一において捉えた上で、誤謬との対立において真理の絶対性と相対性を論じていたのでした。つまり、真理そのものは相対的なもので、そこには少しばかりの誤謬がこびりついているのであって、したがって条件しだいでこの真理は誤謬に転化することが主張されていたわけです。三浦さんは、こうした真理から誤謬への転化の認識が、マルクス主義者の実践活動にとって不可欠の要件であることを強調しました。たとえば、教条主義者の理論上、実践上の誤りが、特定の命題を条件を無視してあらゆる場面に適用しようとする(たとえば、中国革命において大きな成果をあげた農村ゲリラ闘争の方式を先進国の革命運動にも適用しようとする)ところから生ずることを指摘したわけです。

 つづいて、マルクス主義における「生活の生産」の概念について取り上げました。「官許マルクス主義」において神聖不可侵の存在であったスターリンは、生産という語を常識的に生活資料をつくりだすことだと解釈していました。しかし、そもそもマルクスやエンゲルスにおいては、人間の存在は何よりもまず生活過程として捉えられていたのであり、さらにその生活過程は、常識的な意味での生産たる生活資料の生産・再生産の過程のみならず、その生活資料の消費による人間自身の生産・再生産の過程をも含んだ二重の性格をもつものとして把握されていたのでした。スターリンのように、生活資料の生産のみを歴史の究極的な基底的な要因と見なすならば、いわゆる唯物論的歴史観は、きわめて平板なものになってしまいます。極端にいえば、生活資料の生産力が向上していけばおのずと政治的な革命につながる、といった直線的・短絡的な理解すら正当化されかねないのです。これでは、古い社会体制を打ち倒そうとする「革命的大衆」がどのような過程的構造において創出されてくるのか、まともに解くことなどできません。これにたいして三浦さんは、マルクスやエンゲルスの諸々の著作を丁寧に読み込むことで、マルクス主義における「生活の生産」概念が、生活資料の生産と(その生活資料の消費による)人間そのものの生産との二重構造をもっていることをあきらかにし、さらに、生活資料の生産のあり方が人間そのものの生産のあり方を規定すること、たとえば、資本主義的生産様式においては、生活資料の生産の場面で労働者のクビが切られたり賃金が切り下げられたりするために、人間そのものの生産の正常な進行が阻害されてしまうといった事態が生じてくること、ここから階級闘争が必然的に生じてこざるをえないことなどを主張したのでした。このように三浦さんが「生活の生産」概念の本来の姿をあきらかにしたことによってこそ、社会のダイナミックな歴史的発展過程をまともに把握していく道が拓かれたのだといってよいでしょう。

 最後に取り上げたのは、権力論、国家論、階級闘争論をめぐる問題でした。「官許マルクス主義」においては、国家は階級抑圧のための暴力機構(Gewalt)にほかならないというレーニン『国家と革命』における規定が絶対的に正しいものとして受け入れられていました。しかし、そもそもマルクスやエンゲルスは、国家を何よりもイデオロギー(法的規範となる国家意志)によって社会全体の秩序を維持する権力(Macht)として把握していたのです。その上でマルクスやエンゲルスは、国家を二重性において、すなわち、社会全体の現実的な共同利害(風水害対策や伝染病予防など)を処理するという側面が、支配階級の特殊利害が幻想的な「共同利害」として押しつけられてしまうという側面を背負わされてしまっているという矛盾した存在として把握し、国家の死滅とは後者の側面を排して前者の側面をのこすことにほかならないと捉えていたのでした。三浦さんは、ヘーゲル哲学の唯物論的改作というマルクス主義成立の経緯をふまえてマルクスやエンゲルスの著作を読み込むことで、国家は国家意志によって秩序を維持する権力として把握されなければならないこと、特定の階級の利害を代弁してしまう面と社会全体の利害を処理しなければならない面とが統一されているという矛盾において国家を把握しなければならないことを強調したのでした。国家をもっぱら階級抑圧のための暴力機構としてきわめて一面的に把握する「官許マルクス主義」的な国家論からは、複雑な国家的現象、とりわけ、議会制民主主義を成立させた先進国の国家的現象をまともに究明していくことはできません。三浦さんのいわゆる国家意志説は、マルクス主義本来の国家論の姿をあきらかにするとともに、より体系的な学的国家論構築への道を拓いたものと評価することができるでしょう。

 本稿では以上のように、1967年の公開質問状「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」を読むことつうじて、三浦つとむさんによる「官許マルクス主義」批判の基本的な内容を確認してきました。本稿をつうじて、マルクスやエンゲルスの本来の理論を、レーニンやスターリンの個人崇拝を基調とする「官許マルクス主義」的な偏向から断固として擁護しようとする三浦さんの姿が浮かび上がってきたのではないでしょうか。ここで決定的に重要なのは、三浦さんはマルクスやエンゲルスにたいする個人崇拝の念が強かったから彼らの理論を歪曲したレーニンやスターリンが許せなかったのだ、というわけではない! ということです。三浦さんがマルクスやエンゲルスの理論を正しいと信じたのは、あくまでも、自分の学問的な仕事をおしすすめるうえで彼らの古典的著作に述べられている原理が有効であったからであり、それ以外ではありません。ここに、三浦さんの主張が信頼できる最大の根拠があります。本ブログに2011年2月15日(三浦つとむさんの100回目の誕生日)から連載した「三浦つとむ生誕100年に寄せて」において詳しく論じたように、三浦さんの生き様の根底には、自分から積極的に問題ととりくんで自分の力で問題を解決しようという独学の精神がありました。三浦さんは、そのための武器としてマルクスやエンゲルスの唯物論的弁証法を選び取ったのであって、実際にその弁証法を使うことで「主体性ある生き方・誇りある生き方」をつらぬいたのでした。このような三浦さんであったからこそ、マルクスやエンゲルスの理論を、たんに字句の解釈レベルではなく、現実の対象の構造を究明していくための武器というレベルで、正しくつかむことができたのです。

 そもそもマルクスやエンゲルスは、古代ギリシャ(プラトン→アリストテレス)から近代ドイツ(カント→ヘーゲル)へと流れつつ発展してきた学問発展の王道をまともに継承しようとしていたのであり、そのマルクスやエンゲルスの理論の基本的なところを誤らずに日本に紹介した三浦さんの仕事を媒介としてこそ、学問発展の王道が近代ドイツから現代日本にまでつながる可能性が切り拓かれたということができるでしょう。三浦さん自身が、マルクスやエンゲルスから学んだ唯物論的弁証法を武器として芸術論や言語論の領域において大きな成果をあげたばかりでなく、三浦さんが教科書として整理してくれた唯物論的弁証法を武器として学んだ人々により、看護学、生命の歴史、認識論など多くの分野で輝かしい学問的成果が残されつつあります。そのような輝かしい学問的成果をまともに受け継いでいくために、こうした流れのひとつの源泉ともいうべきマルクスやエンゲルスの理論の本来の姿をしっかりと確認しておくことは、非常に意義のある作業であるといえます。世界的なレベルでマルクスやエンゲルスの理論についての関心が高まりつつある現在、彼らの理論の基本的なところを「官許マルクス主義」的な歪曲から擁護しようとして提出された三浦さんの「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」は、人類史のこれからの学問的な発展を考えたとき、決して小さくない意義をもつものといってよいでしょう。

(了)
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 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
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 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言