2017年10月28日

過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想(5/5)

(5)コマ送り的な量質転化の過程

 本稿は、南郷継正『“夢”講義(5)』を集団的に読み込み、特に「過程」という観点から学んだことを認める論考であった。ここで、これまでの内容を振り返っておきたい。

 初めに、なかなか答え(結論・結果)が説かれないという本書の説き方を取り上げた。なぜこのような説き方になっているのかというと、端的には、結論の前提となる内容をしっかりと読者に理解させなければ、結論だけ説いても理解不能となるからであると説いておいた。すなわち、前提をくり返しくり返し説くことによって、読者の認識の重層化を図り、ようやくにして結論(答え)を理解できるだけの準備が整うのであった。これは、赤ん坊をいきなり立って歩かせることは不可能であり、その前提となるハイハイを、くり返しの上にもくり返し行わせることによって、ようやく立って歩くための準備が整うのと、論理的には同様であると説いた。このように、前提(前段階)の実力をしっかりと身につけないと、それ以上の発展はない、それ以上の上達は見込めないというような内容は、本書では形を変えて何回かくり返して説かれていることを指摘した。たとえば、偉大な哲学者や研究者は、哲学の歴史の発展形態をしっかり学修した上で、専門分野の研究に突入したのだ、だからこそ歴史に名を残すような大きな業績を上げることができたのだ、ということが説かれていた。これは、しっかりと研究していって成果を上げるためには、一般論ないし一般性から考えていけるということが前提なのであり、そのためには、哲学の歴史を学修する期間がどうしても必要なのだ、ということであろうと理解した。別の個所では、論理学が成立可能となるためには、古代弁証法の創立課程への長い長い学びが必要なのである旨が説かれていた。ここは、論理学の前提には弁証法と認識論があり、その弁証法と認識論を用いることによって、ようやくにして論理学が成立可能となってくる、というこであろうと理解した。弁証法の学びについても、マラソンの「走る」や柔道の「投げる」、あるいは、看護の「ベッドメイキング」や心理の「カウンセリング」と同様に、「それで合格!」という到達点はなく、無限のくり返しが必要なのであり、それも同じこと同じレベルでのくり返しが大切なのである、と説かれていた。そして、同じことの同じレベルでのくり返しとは何かというと、それは、まずは変化・運動を見てとれるようになること、見てとった事実の性質を変化性・運動性において思惟すること、という基本的・前提的なことを、無限に、飽きることなく、どんなに飽きても、続けていくことなのであり、これこそが弁証法の学びとしては肝要なのだということであった。

 次に、本書のメインの内容である歩くにいたる過程的構造をしっかりと理解できるように、本書の論理展開をきちんと追っていった。本書では、初めに「直立二足歩行」に関して、研究者が直立二足歩行がすべての始まりであり、これがなければ人類の進化はなかった、そして直立が可能となったのは森の樹上生活を経たからこそであると説いていることが紹介されていた。これに対して、一般の研究者の見解は全て結果を説いているだけであり、そこに至る過程がすっぽりと抜け落ちている、という批判がなされ、「では、どうしてサルは森の樹上生活が可能となったのでしょう」(p.46)という問いが立てられていた。これは、常にその前の段階を問うのであるし、そこに至る前提、結果に至る過程を取り上げているのであるから、非常に弁証法的であると感じたのであった。樹上生活の前の四つ足での運動形態については、単細胞としての実力の上に、カイメンとしての実力が上書きされ、さらにその上に、クラゲ、魚類、両生類の実力が上書きされていき、その上に四つ足哺乳類の実力が上書きされ、その上にサルとしての実力が上書きされていく、このような重層構造を持つDNAが人間に内在しているからこそ、その「歴史」の上に、人間としての実力が花開いていくのだ、というようなことが説かれていた。赤ん坊の「這う」ということの過程的構造については、人間の赤ん坊は「這う」という過程的構造かつ構造的過程を持つことで、哺乳類の四つ足としての運動形態のDNAを花開かされていくことになるのだと説かれていた。サルまでの動物は本能によって統括されているので、放っておいてもその動物の運動はきちんとできるが、人間は本能ではなく社会的かつ個性的な認識がその人間を育ててきたのであるから、その長所と短所をしっかり見てとる必要があるとして、短所としては、本能に基づいた動物の身体は育った過程のものが消えて行くことはないが、認識によって創られる人間の身体の動きは、創られた時期の社会関係が薄くなったり、消えていったりすれば、その創られた実体の中身も薄くなり消えていくということが挙げられていた。したがって、一流の運動選手に育つためには、人間的な運動形態の前提となる四つ足的「這う」の過程を、絶対にないがしろにすべきではない、この「這う」過程の何回ものくり返しをどうしても必要とする、ということであった。このくり返しがなければ、身体が歪んでいくのであり、歪みを直したり、予防したりするためにも、四つ足的「這う」に相当する運動、すなわち、いわゆる柔軟体操やヨガ、あるいはジャングルジムでの立体的な動きなどが必要であるということであった。「仰向け」についても、これは自分の自由になってきた手足を連動的に運動させて、自分の意志で全身を運動(移動)させる過程、将来二本足で立って歩き、手を自由に使うための過程であり、人間の「歩く」という運動へと成長発展していく前段階なのだと説かれていた。

 最後に、本書でたびたび読者の感想文が引用されている意義について考察した。引用されている感想文のタイトルを列挙すると、@「『“夢”講義』全三巻(第一〜三巻)から何を学ぶか」、A「「“夢”講義」の学びを障害児教育に」、B「「“夢”講義」の学びを看護に活かすには」、C「「這う」ことで創られる「立つ・歩く」とは」、D「「いのちの歴史」を一般論として「正常発達」とは何かを問う」、E「身体障害者の「仰向け」の運動性の意義」であった。@は“夢”講義』第一〜三巻の体系的構成を概観することによって、全体の流れを自分の頭の中で再構成しようとする試みであり、南郷継正は、前の巻の内容を概括することをくり返しているのであり、それによってさらに構造が深められて論の展開がなされていっていることが指摘されていた。この小論に対して、筆者である南郷継正は「論評者である医学部の先生よりも執筆者である私の方がより多くの勉強をさせられてしまった……との思い、しきりだ」と高い評価を与えていた。Aは障害児教育を専門としている読者からの便りであり、「“夢”講義」で学んだことを自分の専門に応用しようとする試みが紹介されていた。これに対しても、「何よりも立派なのは、自分の専門分野にあてはめながら理解しよう、そして理解した上でもっと専門の分野の向上を図ろうという大きな志の見事さです」などと高く評価されていた。BとCは、ともに「“夢”講義」の連載を読んでの疑問点、よく理解できなかった点が述べられていた。Cでは「這う」について、人間は認識が体を部分的にも使うため、体の歪みが生じるが、そうならないために体全体の運動である「這う」が必要となってくる、認識も一部だけを使うといびつになるので、それを防ぐための認識における「這う」に相当するものが弁証法なのだ、という指摘もあった。DとEは一連のものであったが、Dでは、「仰向け」が「這う」ことの重要な前段階の運動であるという「“夢”講義」での指摘をもとに、「正常発達」の原点である「仰向け・大の字」とは何かが説かれ、その「仰向け・大の字」を一般論として、実際の指導場面で適用していった実践記録が紹介されていた。これに対して、南郷継正が「太陽がどういう存在か説かれていない」「地球がどういう存在か説かれていない」「重力が生命体にとって、いかなる作用をもたらしているかが説かれてない」などという、厳しい忠告を(ゼミの場で?)したとのことであり、それを踏まえて書かれたのがEであった。Eでは、ゼミでの指導を受けて、「仰向け」は重力を徐々に使えるようになっていくスタートであり、両手両足と背骨を一体として、かつ独立させての運動なのではないかという考察がなされていた。このような読者の感想文を引用するのには、3つの意義があると考察した。第一に、読者に以前の内容を復習させ、これから説く予定の内容の前提となることを、くり返しの上にくり返し学ばせるという意義であった。第二に、読者に学び方のモデルを提示するという意味であり、読者からの感想文を引用することによって、「“夢”講義」はこのように学べばいいのだというお手本を提示しているといえるとしておいた。第三に、読者との対話=弁証法の実践であった。これは、読者からの疑問・質問に、南郷継正が答えたり、読者に対して南郷継正が指導し、それに対してまた読者がコメントしたりという形で、旧弁証法=哲学的問答が実践されているのであった。また、南郷継正と読者との相互浸透が図られているという意味でも、弁証法の実践といえるのであった。

 本稿では以上のような内容を説いてきたのであるが、改めて、「過程的構造」という観点からまとめ直しておきたい。連載の第2回と第3回で説いた内容は、ある段階に至る過程的構造であり、ある段階の前提をくり返しの上にくり返すことによって、ようやくにして次の段階へと発展できるということであったし、その具体例としての、歩くに至る過程的構造であった。歩くに至るためには、その前提となる「這う」に相当する運動形態を、くり返しの上にくり返していく必要があったのである。

 そういう意味でいうと、南郷継正のように無常の知性、高度な論理能力を身につけたいと思えば、その前提として、南郷継正の原点を、くり返しの上にもくり返し学んでいく必要があるといえるのであり、連載第1回で触れたように、南郷継正の「僕は、生涯にわたって、とにかく死ぬまで勉強し続けるぞ!」という夢を決定的なものとした『プルターク英雄伝』のような本は、われわれも南郷継正に至る前提として、しっかり学んでいかなければならない、ということがいえるだろう。

 連載第4回で説いた内容も、過程的構造という観点からまとめ直すことができる。すなわち、くり返し読者の感想文を引用することによって、読者にこれまでの内容を振り返る過程を何度も辿らせるということであり、「“夢”講義」の学び方、「“夢”講義」を自分のものにしていくための過程をお手本として提示することであり、さらに、読者との弁証法(哲学的問答)を実践することが大切だということであった。全体としては、論を展開する過程的構造が説かれていたということもいえるだろう。すなわち、われわれが論文を書いていくときにも、読者に対して何度も復習させるような形でその前提を説いていくことが大切であり、学び方の過程をも丁寧に説いていく必要がある、さらに、読者との対話=弁証法を実践しながら説いていくことによって、読者と相互浸透を図り、論理展開を発展させていくことが必要だ、というようなことである。読者との対話=旧弁証法をくり返し実践するということも、実は新弁証法(科学的弁証法)の前提をくり返し学ぶということになるだろう。科学的弁証法は、古代ギリシャの旧弁証法=哲学的問答が発展した段階なのであるから、科学的弁証法を真に実力化するためには、その前提となる旧弁証法の実践を、くり返しの上にくり返す必要があるのである。

 このように過程的構造という観点から本稿をまとめ直してみると、本書では、くり返しということが強調されていたことも分かってくる。つまり、量質転化が強調されていたのである。ある段階へと発展するためには、その前提をくり返して量質転化を図る必要があるし、復習や読者との対話もくり返し行うことによって、量質転化的に論を発展させていくということが説かれていたのである。ここまでくり返す必要があるのか! との思いがする。このくり返し=量質転化こそ、弁証法の要といえるのではないかと思った。

 本書の「あとがき」には、「過程的構造」について、「三浦つとむ著『弁証法はどういう科学か』のレベルの平面性でしかない弁証法を、立体的な構造を内に含んでのものとして大きく発展させたものだ」(p.240)としたうえで、量質転化を例として、その過程的構造が、次のように説かれている。

「では、この量質転化の構造を見てとるように努めると、どうなるのでしょう。

 どういうことなのかといえば、量質転化すなわち量から質への転化には、何程かの過程がきちんと存在していることが分かってくることになります。より具体的には、量を積み重ねていくと、その途上のある時期に、「何か変なことが起きているのではないか」と思えるようなことが生じてくることになるのです。

 ……この過程を論理的に捉えて、量質転化が起きることになりそうだという、すなわち(ここを捉えて)「量質転化・化」との概念が把握できるようになるのです。

 もっと説けば、量質転化の過程には量が量のままの質でありながらも、でもその量が量ではなくなる転機としての量(つまり質的には同じであるものの、やがて違った質へとなりにいく構造を内に含みはじめるもの)が誕生しはじめているのです。これを捉えて量質転化・化と称するのです。そしてこれは、この量としての構造と質としての構造とは全く違った性質を把持している、過程としての構造の実態(中身)が見えてくることになり、この全体の流れを一つのものとして捉えて過程的構造の過程と概念づけるわけです。」(pp.242-243)


 ここでは、量的な変化が質的な変化をもたらすという量質転化について、その過程的構造が、非常に詳細に説かれている。具体的には、「量を積み重ねていくと、その途上のある時期に、「何か変なことが起きているのではないか」と思えるようなことが生じてくる」のであり、「量質転化の過程には量が量のままの質でありながらも、でもその量が量ではなくなる転機としての量(つまり質的には同じであるものの、やがて違った質へとなりにいく構造を内に含みはじめるもの)が誕生しはじめている」のであり、ここを捉えて量質転化・化と概念規定するのだと説かれている。

 量質転化というと、量的な変化が、ポンッと質的な変化をもたらすというようなニュアンスがあるが、その「ポンッと」の部分を、実に詳細に説くのが量質転化の過程的構造であり、量質転化・化であるということだと思う。思えば、本書で説かれていたのは、全てこの量質転化の過程的構造であり、量質転化・化である。ある段階に至る前提をくり返しの上にくり返すというのは、まさに、ポンッと量質転化する瞬間を、コマ送りのように詳細に、説いているといえよう。読者の感想を交えて、徐々に徐々に論を展開していくという説き方も、まさにコマ送り的な説き方であり、これ以上になく丁寧に、次の論への過程を詳細に説いているということを意味しているといえる。

 われわれも論の展開をなすにあたって、あるいは、事物事象の生成発展を問題にするにあたって、このようなコマ送り的な詳細な展開ができるように、しっかりと研鑽していかなければならない。このことを確認して、本稿を閉じたいと思う。

(了)
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2017年10月27日

過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想(4/5)

(4)読者の感想文を引用する意義

 前回は、本書で説かれている歩くにいたる過程的構造について、アバウトな論理展開を追ってみた。歩くなどの人間としての運動形態の前提となる這うをくり返し行っていかないと、きちんと歩けるようにはならないということを見た。

 今回は、本書でたびたび引用されいている読者の感想文・論文の意義について考察していきたいと思う。

 まず、本書で引用されている読者からの感想文・論文を列挙する。

@「『“夢”講義』全三巻(第一〜三巻)から何を学ぶか」(pp.73-89)
A「「“夢”講義」の学びを障害児教育に」(pp.163-168)
B「「“夢”講義」の学びを看護に活かすには」(pp.172-175)
C「「這う」ことで創られる「立つ・歩く」とは」(pp.176-182)
D「「いのちの歴史」を一般論として「正常発達」とは何かを問う」(pp.219-230)
E「身体障害者の「仰向け」の運動性の意義」(pp.233-238)

 順に、どのような内容か、簡単に紹介していく。

 @は、『“夢”講義』第一〜三巻の体系的構成を概観することによって、全体の流れを自分の頭の中で再構成しようとする試みである。それによって、南郷継正の説く「重層弁証法」の一端が見えてきたと説かれている。この小論の著者は大学医学部の先生とされており、国家論が専門である旨が本文中に触れられているから、近藤成美氏ではないかと推測される。以下、本稿での考察のヒントになる部分を引用する。

「第三巻のプロローグなどでの、南郷継正の概括を見せられると、「えーっ? 第一巻にはそんなことが書かれてあるのか」とギョッとさせられたというのが実情である。」(pp.76-77)


「今回『“夢”講義』が読みとれず四苦八苦しながら、目次と、まえがき、あとがきを何度も何度も読み返した、そこで気づかされたことは、「南郷継正こそは、自身の著書のもっとも熱心な愛読者である」ということだった。というのは、必ず第二巻では第一巻を概括し、さらに第三巻では第一巻と第二巻を概括しなおして、さらに弁証法的・認識論的な実力を、まさに論理的に深める形でまとめた上で、そこをふまえてのさらなる深化された展開がなされていくからである。

 ヘーゲル哲学の説く「対象の構造性を螺旋構造的に深める」とはこういうことか、分かり易くいえば「書く時には持てる力は全てその論で書ききってしまう、その上で次の構造を深めるべく展開していく」とはこのようなことかと、しきりに得心した次第である。」(pp.88)


 ここでは、南郷継正は、前の巻の内容を概括することをくり返しているのであり、それによってさらに構造が深められて論の展開がなされていっていることが指摘されている。確かに、本書でも、第5編第2章の第2節以降で、『“夢”講義』第4巻の体系が概括されているが、まさに「えーっ? そんなことが書かれてあるのか」とギョッとさせられる。

 この小論に対して、筆者である南郷継正は「論評者である医学部の先生よりも執筆者である私の方がより多くの勉強をさせられてしまった……との思い、しきりだ」(p.89)と述べている。非常に高い評価がなされているといっていいだろう。

 次にAについてである。これは、障害児教育を専門としている読者からの便りであり、「“夢”講義」で学んだことを自分の専門に応用しようとする試みが紹介されている。この便りの主は、障害児教育を専門としているのだから、志垣司氏か北嶋淳氏の可能性が高いと思われる。この便りに対しては、「何とも見事なまでに私の「“夢”講義」を(この読者のレベルではあるのですが)読みきって応用しようと努力しているのが、凄いところなのです」(p.162)、「何よりも立派なのは、自分の専門分野にあてはめながら理解しよう、そして理解した上でもっと専門の分野の向上を図ろうという大きな志の見事さです」(p.163)などと評価されている。

 BとCは、ともに「“夢”講義」の連載を読んでの疑問点、よく理解できなかった点が述べられている。Bは、研究室から現場復帰のため病院へと移動となったナースの文章である。さまざまな思いを綴った後、「こう考えると、「這う・立つ」ことの意味を論理的に説くことの難しさに直面してしまいます」(p.174)と書かれている。Cでは、「這う」の一般性としては、いわゆる柔軟運動やヨガが存在しているという指摘を読み、「この部分を読むと「這う」というのは、文字通りの二本の手と二本の足で地面を這うということではなく、体全体をしっかり使えるようにすることを「這う」といわれているのか、そうなると「走る」「歩く」「立つ」も文字通りに考えては駄目なのではないかと頭の中が混乱してきました」(p.178)と認められている。そのうえで、「這う」について考えていることが、次のように説かれている。

「人間の体は全体として一つであるのだ、そう考えると体の使い方も全体として使われるような構造になっているのではないかと思えます。しかしここで動物と人間の違いが出てくることになり、動物は本能で当然のように体全体を使うようになっているが、人間は認識の働きが大きく、その認識が体を全体として使うだけではなく、体全体からはずれる形で部分的にも使うようになり、それが結果として体の歪みとなっていくのだと思えるようになりました。

 ……強烈な「這う」とはその後の強烈な「立つ」「歩く」「走る」体ができるために、体全体を歪みなく創ることであり、歪みなく発展させることであると思うのです。」(p.179)


「また認識を別の面から考えてみると、例えば知識ばかりを詰めこむということは、体の一部を酷使しているのと同様、認識の一部だけを酷使していることになり、体の一部だけを酷使すると体がいびつになるように、認識の一部分だけ酷使すると認識がいびつになってしまうと思います。

 そういった意味からは、体に「這う」が必要なように、認識にも「這う」が必要であり、そして認識にとっての「這う」が弁証法なのではないかと思うこの頃です。」(pp.181-182)


 すなわち、人間は認識が体を部分的にも使うため、体の歪みが生じるが、そうならないために体全体の運動である「這う」が必要となってくる、認識も一部だけを使うといびつになるので、それを防ぐための認識における「這う」に相当するものが弁証法なのだ、ということである。

 このような評論文・感想文に対して、本書では「私の論の展開のためにも読者の皆さんの実力向上のためにも、とてもとても有益かつ大事な内容」(p.182)であると説かれている。

 最後にDとEに関してである。これは、障害児教育を専門とする同じ著者による感想文である。Aと同じく、志垣氏か北嶋氏の手になるものではないか。Dでは、「仰向け」が「這う」ことの重要な前段階の運動であるという「“夢”講義」での指摘をもとに、「正常発達」の原点である「仰向け・大の字」とは何かが説かれ、その「仰向け・大の字」を一般論として、実際の指導場面で適用していった実践記録が紹介されている。脳性まひや二分脊椎の子どもたちに「仰向け・大の字」の姿形をとらせることをやらせると、これまでは難しかった股関節が動かせ、開いていられるようになっていったという。

 これに対して、南郷継正が「太陽がどういう存在か説かれていない」「地球がどういう存在か説かれていない」「重力が生命体にとって、いかなる作用をもたらしているかが説かれてない」などという、厳しい忠告を(ゼミの場で?)したとのことである。これに対して寄せられたのが、Eである。Eでは、たとえば重力の問題については、以下のように説かれている。

「……今回のゼミでは、なぜ「仰向け」での手足の運動が赤ん坊の人間としての発達にとって必然性なのかということについて、それは「重力」を使えるようになるためなのだということを説いていただいたのではないかと考えています。

 つまり「仰向け」とは、通常は日常の運動の中で、もっとも「重力」を感じることなくできる「運動」であり、「重力」から相対的に独立した状態の中で、両手両足と背骨を一体として、かつ独立させての運動だということです。だからこそ、通常はこの「仰向け」から始めていくことによって、赤ん坊は約一年後には身体的に何の無理をかけることなく立って歩けるようになっていくのだと思います。」(p.236)


 ここでは、ゼミでの指導を受けて、「仰向け」は重力を徐々に使えるようになっていくスタートであり、両手両足と背骨を一体として、かつ独立させての運動なのではないかという考察がなされている。

 本書では、DEを引用したのは、自分が説くよりとても分かりやすく、かつ「立つ」「歩く」以前の「這う」「仰向け」の大事な部分がしっかり説かれているからだと説明されている。

 さて、以上のように、本書では6つの読者からの感想文が引用されているわけであるが、これはなぜなのだろうか。読者の感想文を引用する意義とはいかなるものであろうか。これには、3つの意義があると考える。

 まず第一に、読者に以前の内容を復習させるという意味がある。本連載の前々回と前回で説いたように、きちんとした発展(上達)をなすためには、前段階=前提を、くり返しの上にもくり返す必要があった。そこで本書でも、ことあるたびにこれまでの内容を概括する部分があるのだが、それだけではなく、読者からの感想文を引用することによって、これまでの内容を読者に復習させ、今後の論の展開の前提を、くり返しの上にもくり返し学ばせるのである。このように前提をしっかりと理解し、定着させない限り、次の論理展開が理解不能となるからである。

 第二に、読者に学び方のモデルを提示するという意味がある。これは特にAやDにおいて典型的に示されていると思うが、「“夢”講義」にしっかりと学んで、自分の専門領域に適用していくさまが紹介されている。「“夢”講義」というのは、単に読んで「面白かったな」だけでは意味がないのであり、学んだ内容を自分の専門領域に活用していかなければならない。そのような学び方をしない限り、真に理解することはできないのである。読者からの感想文を引用することによって、「“夢”講義」はこのように学べばいいのだというお手本を提示しているということがいえるだろう。

 読者の感想文を引用する第三の意義は、読者との対話=弁証法の実践である。BとCでは、読者からの疑問を紹介しているが、これによって、これまでの論で読者はどこが理解できていないのかを筆者である南郷継正が認識して、そしてその後、その疑問に答えるような論理展開を行なっていく。これは、古代ギリシャの弁証法(旧弁証法=哲学的問答)を実践しているということであろう。Dに対しては、おそらくゼミで直接この感想文の著者に対して指導を行い、それに対して弟子もEを執筆して対話を図っている。これも弁証法の実践の典型例であるといえるだろう。また、@では、「論評者である医学部の先生よりも執筆者である私の方がより多くの勉強をさせられてしまった……との思い、しきりだ」(p.89)とあったように、読者からの感想文によって、筆者である南郷継正の認識が深まっている。これはすなわち、南郷継正と読者との相互浸透であり、この意味でも弁証法の実践といえるだろう。

 以上、今回は、本書で引用されている読者からの感想文を紹介して、その意義を考察した。
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2017年10月26日

過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想(3/5)

(3)歩くにいたる過程的構造

 前回は、何事においても、前提となる基本的なことをくり返しの上にくり返し学ぶことが大切であり、そうしなければ、真の上達はありえないということを説いた。

 今回は、本書のメインの内容である歩くにいたる過程的構造をしっかりと理解できるように、本書の論理展開をきちんと追っていきたいと思う。

 本書では、初めに「直立二足歩行」に関する研究者の見解が、新聞記事を通して紹介されている。そこでは、直立二足歩行がすべての始まりであり、これがなければ人類の進化はなかった、そして直立が可能となったのは森の樹上生活を経たからこそであると説かれている。これに対して本書では、「結果を述べれば、それで解答になるとは!」とか「全て結果論だけだ」とかのように批判されている。すなわち、一般の研究者の見解は全て結果を説いているだけであり、そこに至る過程がすっぽりと抜け落ちている、という批判であろう。そこで、「では、どうしてサルは森の樹上生活が可能となったのでしょう」(p.46)と問いを立てて、樹上生活の前の哺乳類における四つ足での運動形態についての問題へと進んでいく。

 ここは非常に弁証法的な論の展開だと感じた。というのは、常にその前の段階を問うのであるし、そこに至る前提、結果に至る過程を取り上げているからである。いきなり樹上生活があったわけではなく、そこに至る過程があるはずである。もちろん、樹木自体も、もともと存在していたわけではない。樹上生活が可能になる前提は何か。樹上生活の前にはどのような生活を行っていたのか。樹上生活の前に生命体は、どのような運動形態であったのか。その運動形態で、どのような実力をつけたからこそ、樹上生活が可能になったのか。このようなことを問うていくのは、事物をできあがった結果の複合体として見るのではなく、過程の複合体として見ているからこそ可能なのであり、その意味で弁証法的な見方・問いの立て方であると感じたのである。

 さて、四つ足での運動形態についてである。四つ足での運動形態があったからこそ、樹上生活が可能となったのであり、樹上生活での運動形態があったからこそ、人間としての立つ、歩くという運動形態が可能となった。このことを本書では、「「いのち」には多重性を重ね持つ「歴史」があるのだ」(p.110)と説いている。すなわち、全ての生命体に内在しているDNAがそのようないのちの「歴史」性を重層的に把持してきているのだと説かれているのである。

 これは、単細胞としての実力の上に、カイメンとしての実力が上書きされ、さらにその上に、クラゲ、魚類、両生類の実力が上書きされていき、その上に四つ足哺乳類の実力が上書きされ、その上にサルとしての実力が上書きされていく、このような重層構造を持つDNAが人間に内在しているからこそ、その「歴史」の上に、人間としての実力が花開いていくのだ、ということであろう。

 人間の赤ん坊の「這う」というということの過程的構造も、このようないのちの歴史性から説かなければならないとして、次のように説かれている。

「解答から説けば、人間の赤ちゃんは「這う」という過程的構造かつ構造的過程を持つことで、哺乳類の四つ足としての運動形態のDNAを花開かされていくことになるのです。」(pp.111-112)


 ここでは、個体発生は系統発生をくり返すというヘッケルの命題に関連する内容が、DNAの観点から説かれていると思う。赤ちゃんが「這う」ということは、もちろん、個体発生が系統発生をくり返していることを意味しているのだが、その中身に立ち入ると、実は、人間に内在しているDNAの、哺乳類としての四つ足の運動形態の部分が開花していることになるのだ、ということではないだろうか。「簡単に説けば、這うということの中身は人間がいわゆる哺乳類としての動物の動きの訓練期間だ」(p.110)と説かれているが、這うことによってDNA自体も変化していくのだということであろう。

 立つ、歩くという人間としての運動形態をとれるようになるためには、その前段階である這うをしっかり行うことによって、前段階の実力をしっかりと養成することが大切である。立つ、歩くのためには這うが前提となるのである。特に、高橋尚子さんや井上康生さんのように、一流のスポーツ選手の場合、人間としての運動形態の非常に高度なレベルが要求される。そのような場合は、前段階である這うの過程を、よりきちんと、よりたくさんくり返す必要があるだろう。

 このような問題について、本書では、「動物体から人間体へ」として説かれている。サルまでの動物は本能によって統括されているので、放っておいてもその動物の運動はきちんとできるが、人間は本能ではなく社会的かつ個性的な認識がその人間を育ててきたのであるから、その長所と短所をしっかり見てとる必要があると説かれている。長所としては、「どのようにも立て、どんな格好でも歩け、かつ走り方もいろいろと変化させることが可能」であり、「競技、武道技もしっかりとでき、団体演武も可能」(p.143)であると指摘されている。短所については、次のように説かれている。

「では、短所は何でしょうか。これは簡単には分かりかねます。

 でも考えれば、すぐに判明するはずです。その一つは、人間の身体の動き(活動)は認識を通して社会的に創られたものです。それだけに、その創られた時期、時期の社会関係が薄くなったり、消えてしまったりすれば、その創られた実体の中身は、当然のようにそうなっていくのみなのです。

 ここを分かり易く説けば、動物体としてのDNAはほぼ消えることはないのですが、人間体としてのDNAは、用いること(訓練すること)が少なくなるほどにまもなく薄くなり、やがて消えていくことになる、ということです。

 さて、高橋尚子さん、井上康生さんは赤ちゃん時代をどう育てられていったのでしょう。四つ足的「這う」はマラソン・柔道としての「立つ」ためには当然のこと、同じくマラソン・柔道の走るため・投げるために充分だったでしょうか。……

 この赤ちゃん時代の四つ足的「這う」はたしかに数ヵ月もしないうちに終わりますが、一流の運動選手に育つには、この過程を絶対にないがしろにすべきではない! のです。」(p.143-144)


 すなわち、本能に基づいた動物の身体は育った過程のものが消えて行くことはないが、認識によって創られる人間の身体の動きは、創られた時期の社会関係が薄くなったり、消えていったりすれば、その創られた実体の中身も薄くなり消えていくのであり、一流の運動選手に育つためには、人間的な運動形態の前提となる四つ足的「這う」の過程を、絶対にないがしろにすべきではない、ということである。

 人間は、赤ん坊の時期の社会関係に規定されて、這うことを数か月間はくり返すものの、そのような社会関係がなくなっていくと、這うことによって開花した哺乳類の四つ足としての運動形態のDNAは消えていくことになるのであり、そうなれば、哺乳類の四つ足としての運動形態を前提として成立する人間としての運動形態も、まともに維持・発展させていくことができなくなる、ということであろう。したがって、「運動体として見事になるためには、この「這う」過程の何回もの繰り返しをどうしても必要」(p.145)とするのである。

 では、このような「這う」過程のくり返しを行わなければ、どうなっていくのか。端的には身体が歪んでいくのである。人間は認識によって身体の動きが規定されているだけに、さまざまな形で運動することが可能であるが、それが本来の哺乳類としての体形や生理構造を歪めていくのである。したがって、それを直していくためにも、成長期の子どもたちには特別な時間が必要であり、それが体育であると説かれている。この体育の時間に行うべき運動というのが、四つ足的「這う」に相当する運動ということであろう。これによって、人間的な運動形態の前提となる運動形態をしっかりととり、人間体の歪みを直していくということであろう。

 一流の運動選手を目指すのであれば、この四つ足的「這う」に相当する運動をくり返し、人間体の歪みを正していくとともに、常に、四つ足的「這う」に相当する運動から人間体としての運動へと、くり返しくり返し辿り返していくことによって、真に人間としての運動形態の発展が図れるということになるのだと思う。この四つ足的「這う」に相当する運動とは、一般性としては、いわゆる柔軟体操やヨガが挙げられているが、武道空手が見事に上達するためには、「ジャングルジムの中で前後・左右・上下・斜面・背面に駆け巡るような、強力かつ立体的な動き」(p.149)が挙げられている。このような人間的な運動形態の前提となる運動をくり返し行わなければ、人間としての運動形態のために身体が歪んでいき、高橋尚子さんや井上康生さんらのように、まだまだ発展の余地があったのに、早くして引退ということになってしまうのであろう。

 立つや歩くのような人間としての運動形態をきちんととるためには、その前提となる運動形態をきちんととることをくり返す必要があるのであり、それは何も「這う」だけには限らない。「仰向け」も同様である。このことについて、読者の小論の中で、「“夢”講義」では、「仰向け」を「運動」と説かれていること自体がすごいと思ったとしてうえで、次のように説かれている。

「「仰向け」は素材としてのヒトである赤ん坊が、人間になるために、目的的にとらされ・とっていく労働であると理解しました。

(中略)

 抱っこ・おんぶでは、手で母親の体を触りまくり、足は宙に浮かせて動かしています。また「仰向け」では天井に向けて、自由に手足を動かしているということです。これが「仰向け」の現実の状態であって、この過程があるからこそ、やがて自分の自由になってきた手足を連動的に運動させて、自分の意志で全身を運動(移動)させる過程である「寝返り」が可能になっていくということなのであり、まさに地球環境の変化に見合う形で進化を遂げていった生命体の運動の歴史を「なぞる」ことを行っているのだと理解しました。

(中略)

 このように見てくると、人間の赤ん坊は目的的にしっかりと「仰向け」に寝かせることが重要であり、さらに「仰向け」は、手足が圧迫されることがなく、血液の循環もスムーズであり、将来二本足で立って歩き、手を自由に使うための、まっすぐに伸びた健やかな手足が創られていく過程でもあるということです。……このようにして一つ一つの段階の運動が繰り返されて、次の段階への運動へと重層的に積み重なっていくことで、人間の「歩く」という運動へと成長発展していくと理解しました。」(pp.223-225)


 ここでは「仰向け」は人間になるための労働である、すなわち、自分の自由になってきた手足を連動的に運動させて、自分の意志で全身を運動(移動)させる過程、将来二本足で立って歩き、手を自由に使うための過程であり、人間の「歩く」という運動へと成長発展していく前段階なのだと説かれている。

 以上要するに、人間特有の運動形態である「立つ」「歩く」ができるようになるためには、「仰向け」や「這う」という、「生命の歴史」における哺乳類以前の運動形態をしっかりくり返す必要があるのであり、そのようないくつかの段階の運動が重層的に積み重なっていくことによって、「生命の歴史」の重層性をDNAが把持していき、「立つ」「歩く」という運動形態が可能となっていくのだ、ということであろう。本書で説かれている内容は、まだまだ理解が及んでいない部分もあるが、歩くにいたる過程的構造としては、おおよそ以上のようなことが説かれていると理解した。
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2017年10月25日

過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想(2/5)

(2)認識の重層化を図るための前提のくり返し

 本稿は、『“夢”講義(5)』を集団的に読み込み、特に「過程」という観点から学んだことを認めていく論考である。

 今回は、本書の特徴的な説き方に着目したい。本書では、第1編第1章で問いが立てられる。それは、技の創出と技の使用という技の二重構造に関するものであり、高橋尚子さんや井上康生さんが把握できていないという「歩き方」に関するものである。端的には、歩くを創出する中の多重構造とは何か、歩くを使用する中の多重構造とは何か、さらにこの二つの可逆構造とは何か、という問いである。

 本書の冒頭で提示されたこの問いに対して、なかなか答え(結論・結果)が説かれないのである。これに答えるためには、まず人間とは何かを理解しなければならない、などとして、遠回りしてというか、その問いに対する答えを導くための前提というか、そういうものがが説かれていき、説かれている途中で読者からの手紙が届いてそれを紹介して、という形で、なかなか答えまで到達しないのである。一見すると、話題があちこちに飛んでおり、結局何が説きたいのか、よく分からない、という印象を与えてしまいかねない、そのような特徴的な説き方になっているのである。

 なぜこのような説き方になっているのであろうか。南郷継正という学者のことをよく知らない読者は、ひょっとしたら、そのような説き方に特に意味はないというかもしれない。単に、徒然なるままに書いている結果として、あのような流れになっっているのだと感じるかもしれない。あるいは、もっと穿った見方をする読者は、南郷継正は結局、この問題を解けていないからこそ、長々と関係のないことを説いて、結論を先送りにしているのだ、などと批判する人もあるかもしれない。

 しかし、筆者はそのようには考えない。結論をなかなか説かない説き方には、きちんとした論理的な理由があると考える。では、その理由とは何か。端的に答えをいうならば、結論の前提となる内容をしっかりと読者に理解させなければ、結論だけ説いても理解不能となるからである。前提をくり返しくり返し説くことによって、読者の認識の重層化を図り、ようやくにして結論(答え)を理解できるだけの準備が整うわけである。

 このことを分かりやすく説明したい。

 本書で出てくる例で喩えれば、いきなり結論を説くことは、赤ん坊をいきなり立って歩かせようとすることに相当する。これは無理であり不可能である。赤ん坊の場合は、いきなり立って歩かせようとするのではなく、まずは寝返りができるようにして、ハイハイができるようにして、くり返しくり返しハイハイをさせる中で、つかまり立ちできるだけの足や腕の筋力、全身を統括できる脳の実力などをつけていく。立つためには、このような立つための前提となる運動形態を、しっかりととれるような訓練期間、実力養成期間を要するのである。

 これと論理的には同様に、南郷継正が説く結論を理解するためには、ハイハイに相当するような前提のくり返しが必要なのであり、結論を理解するための前段階の実力を養成する期間が必要なのである。いきなり答え(結論)を説いても、読者にそれを理解するだけの実力がないのであるから、それが理解できるための前提となる実力をしっかり養成するために、そこをくり返しくり返し説いていく、その結果、なかなか結論に至らない、という説き方になっているのである。

 このように、前提(前段階)の実力をしっかりと身につけないと、それ以上の発展はない、それ以上の上達は見込めないというような内容は、本書では形を変えて何回かくり返して説かれている。たとえば、世界中の研究者の一大盲点は、一般論ないし一般性からは考えていくことがないということであると指摘し、人間の人間たるゆえんは思惟能力をもつことが可能だということにあり、この思惟能力は文化の最高形態たる哲学の歴史の発展形態の中にこそ実存しているとした上で、次のように説かれている。

「それだけに、歴史上の偉大といえるほどの名を残している学者や研究者は、必ずといってよいほどにそれらの研究(学修)に没頭する時期を持っているのです。

 これはみなさんが錯覚していることで分かってください。

 何を錯覚しているのかを簡単にいえば、現在歴史上の哲学者として存在している人たちのほとんどは、専門分野の研究に突入する前に、哲学の歴史を学修していっているうちに、哲学者と呼ばれるだけの実力をつけていったのです。」(p.41)


 ここでは、偉大な哲学者や研究者は、哲学の歴史の発展形態をしっかり学修した上で、専門分野の研究に突入したのだ、だからこそ歴史に名を残すような大きな業績を上げることができたのだ、ということが説かれている。この後には、看護の祖であるナイチンゲールも、青春時代に学問というレベルでの哲学者の書物を学んでいたからこそ、偉大なる世界を創出していけたのだと説かれている。

 要するに、人間の研究であれサルの研究であれ、あるいは看護の研究であれ、しっかりと研究していって成果を上げるためには、一般論ないし一般性から考えていけるということが前提なのであり、そのためには、哲学の歴史を学修する期間がどうしても必要なのだ、ということであろう。専門分野の研究の前提(=哲学の歴史)をくり返し学ぶことによって、一般論ないし一般性から考えていくということができるようにならなければ、真に専門分野の研究は可能とはならないのである。これも、赤ん坊がしっかりとハイハイをくり返すことによって、その段階での実力を養成することをしなければ、しっかりと立って歩けるようにはならないのと論理的に同様であると考えられる。

 同じような内容は、『“夢”講義』第4巻の体系を説く流れの中でも次のように触れられている。

「論理学とは簡単には、労働する、研究する、研鑽する、対象的事実の全てを一般化、特殊化、個別化した論理として捉え、それらを法則化し、かつ対象から反映された認識を論理化(一般化、表象化、抽象化)、かつまた、体系化可能となる実力養成のための学問なのです。

 カントはこの能力について、感性、悟性、理性などと単純に分けて説明しています。

 とはいうものの、この論理学の成立過程が可能となりうるためには、当然にそのための歴史性を持った頭脳活動の訓練、修学過程が要求されることになるものです。

 この過程に応じられるものの一つが、カントやヘーゲルが長い長い時間をかけて学びとることになった古代弁証法の創立過程への学び、すなわちゼノンからソクラテスを経てプラトンまでの弁証法の生成発展の過程そのものでした。それゆえの第四編の論理学から説く弁証法と認識論なのです。そうやって成立できた弁証法と認識論を用いて、ようやくのことに論理学の過程性が歴史上に昇ってくることになるのです。」(p.207)


 ここでは、論理学が成立可能となるためには、古代弁証法の創立課程への長い長い学びが必要なのである旨が説かれている。すなわち、論理学の前提には弁証法と認識論があり、その弁証法と認識論を用いることによって、ようやくにして論理学が成立可能となってくる、というこであろう。われわれも、対象的事実の全てを論理として捉え、対象から反映された認識を論理化・体系化可能となる実力を養成するためには、論理学とされるものを直接に学んでいくのではなく、カントやヘーゲルと同様に、論理学の前提となる弁証法の生成発展の過程をこそ、しっかりと時間をかけて学び取っていく必要があろう。

 弁証法の学びについては、次のようなことも説かれている。

「「走る」」訓練がいくら上達したにしても、それゆえに回数の制限が(あってはなら)ないように、「投げる」に「もう合格!」ということでの終わりがないように、弁証法にも「それで合格!」という到達点はないのです。すなわち繰り返しの上の繰り返しが当然のように要求されるものだからです。

 それはどういうことかといえば、繰り返せば繰り返すことが多いほどに上達する(相互浸透による量質転化が進む)、その結果として頭脳の働き、すなわち理論レベルでの頭脳活動がきちんとよくなっていくものだからです。

(中略)

 弁証法の学びの大切な点は、復習また復習としての、繰り返しを嫌がらない、怠ることをしないということです。それも、同じことの同じレベルでの、です。」(pp.118-119)


 ここでは、マラソンの「走る」や柔道の「投げる」(あるいは、略したが、看護の「ベッドメイキング」や心理の「カウンセリング」)と同様に、「それで合格!」という到達点はなく、無限のくり返しが必要なのであり、それも同じこと同じレベルでのくり返しが大切なのである、と説かれている。

 それでは、弁証法の学びにおける「同じことの同じレベルでの繰り返し」とは何か。それは、「現実の手と足で分かった出来事を、すなわち事実として分かったことをふまえながら、その事実の性質を見てとることであり、そして見てとった事実の性質を変化性、すなわち運動性において思惟する、深く考えてみること」(p.119)であるとされている。そして、初心者は変化・運動を見てとれるようになることが大事であり、「こんな小さな「繰り返しの上の繰り返し」を飽きることなく(どんなに飽きても)続けていくことが弁証法のいわゆる達人(専門家)になる唯一の方法」(p.120)であると断言されている。

 弁証法の学びといえば、マルクスやエンゲルス、それにヘーゲルの著作にまで遡って、難しい哲学書を解釈することだと考えられるかもしれない。そこまでいかなくても、三浦つとむの著作を読み漁り、文献を解釈することによって、たとえば「矛盾」について理解を深めたり、「対立物の統一」と三法則の関係を考察したりすることだと思っている方もいるかもしれない。それはそれで、弁証法の学びであることは否定しないが、しかし、そういったいわば高度な学習の前提として、まずは変化・運動を見てとれるようになること、見てとった事実の性質を変化性・運動性において思惟すること、という基本的なことを、無限に、飽きることなく、どんなに飽きても、続けていくことが弁証法の学びとしては肝要なのである。このような前提の学びをくり返しの上にくり返すことをしなければ、それ以上の高度な学びは身についてはいかないのである。

 以上今回は、前提をくり返し学ぶことによって認識の重層化を図ることの大事性を確認した。

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2017年10月24日

過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想(1/5)

目次

(1)南郷継正の過程の原点
(2)認識の重層化を図るための前提のくり返し
(3)歩くにいたる過程的構造
(4)読者の感想文を引用する意義
(5)コマ送り的な量質転化の過程

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(1)南郷継正の過程の原点

 本稿は、南郷継正『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義(5)』(現代社)を組織的に読み込み、学んだ内容を感想文として認める論考である。2017年になってからこれまで、『“夢”講義』シリーズの感想文をブログに掲載してきたが、今回で5回目である。

 『“夢”講義(5)』の冒頭には、南郷継正の読者にとっては非常に興味深いエピソードが説かれているので紹介したい。はっきりと自覚的・主体的に描いた人生に関わったの最初の“夢”は「僕は、生涯にわたって、とにかく死ぬまで勉強し続けるぞ!」というものであったとした後、次のように説かれている。

「それを決定的なものにしたのが、三年生の時に兄が借りてきた『プルターク英雄伝』(「少年版」だったと思います)を、深夜こっそりと兄のランドセルから抜きだして読んだことからです。なぜ、深夜なのかというと、兄は自分の借りてきた本は絶対に弟たちには見せることすら嫌がっていたからです。そこで、兄がぐっすりと寝入った頃を見はからって、そーっと抜きだして読みきって、また、そーっと返しておくしかなかったのです。同じ部屋で寝ている兄が、目を覚まさないように、電灯には寝巻きをかぶせて、灯りがもれないように工夫しながら読書をすることの連夜だったのです。

 その『英雄伝』の中の「アレキサンダー大王」の項での最終章に、「巨星堕つ」(どういうワケか、この文言だけはしっかりと記憶できています)とあった、大王が病死した場面で、泣きながら決意したのです。「僕は学問の世界でこのアレキサンダーのような存在になりたい」と。そして、その決心(生涯、勉強し続けるという)だけは、いついつまでも変わることがありませんでした。」(pp.11-12)


 ここでは、「僕は、生涯にわたって、とにかく死ぬまで勉強し続けるぞ!」という夢を決定的なものとしたのは、『プルターク英雄伝』のアレクサンダー大王の病死の部分を読んだことであると説かれている。この「巨星堕つ」の部分に感動したという話は、以前の別の著作でも紹介されていたように記憶しているが、どこだったか、少し探しても見つからなかった。

 それはともかく、南郷継正にここまで影響を与えた本であるならば、ぜひとも読みたいと以前から思っていた。『プルターク英雄伝』は、現在、いくつかの日本語訳で読めるが、以前、玄和会関係の方から鶴見祐輔訳の『プルターク英雄伝』(潮文庫)を勧められていた。ただこの訳書は、固有名詞が英語発音になっていて、誰が誰だか分からないというような評価もあるようであった。今回、改めてネットで検索した結果、南郷継正が読んだと思しきものを発見できた。それは、澤田謙訳『プリューターク英雄伝』である。現在は、2012年に講談社文芸文庫から出たものが入手できる。

 本書はもともと、昭和5年に少年向けとして刊行されたものらしい。プルタークの『対比列伝』を著者独自の視点で書き直し、編纂したものであるという。つまり、単なる翻訳ものではないのである。『青木育志の書斎』の「二つのプルターク英雄伝」(https://kyoyoushugi.wordpress.com/2014/07/11/二つのプルターク英雄伝/)によると、澤田訳は鶴見訳とならんで、戦前のベストセラーだったという。

 これこそが南郷継正が読んだものだと私が断言したのは、「大王アレキサンダー」の項の最後の小見出しが「将星つひに地に墜つ」であったからである。南郷継正はアレキサンダー大王に関する最終章に「巨星堕つ」とあったと説いているが、これはかなりの一致だといえるだろう。本当は「将星つひに地に墜つ」だったのが、「巨星堕つ」と誤って記憶してしまったのか、記憶が変化してしまったのか、あるいは、澤田訳には別の(もっと少年向けの)バージョンがあり、そこの見出しは「巨星堕つ」だったのか。いずれにせよ、南郷継正が読んだのは、この澤田訳だったと考えて間違いなさそうである。

 なお、この原稿を書くために再度ネット上で調べていたら、澤田訳は国立国会図書館のサイトで、全文が公開されていることが分かった。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1717830

 昔のなかなか入手できない書物が、このような形でデジタル化されてきれいに保存され、誰もが読むことができるというのは素晴らしい取り組みだと思う。

 さて、このような自己の夢に関するエピソードの紹介から始まる本書であるが、キーワードは「過程的構造」ということにある。これは「あとがき」でも触れられているが、後に引用する本書の目次を眺めていただければ、頻繁に「過程的構造」なる語が登場することが分かる。「過程」や「過程性」という語もかなりたくさん登場する。そこで本稿では、この「過程」ということに特に着目して本書を読み、学んだ内容を3つに整理して認めていくこととする。初めに、本書では「結果」ではなく「過程」が重視されているのはなぜなのかを考察する。次に、本書で中心的に説かれている内容である「歩くに至る過程的構造」について、きちんと理解できるようにしたい。最後に、本書で頻繁に引用されている読者からの感想文・評論文などの意義について考えたい。

 では、最後にいつものように本書の目次を引用しておきたい。



なんごう つぐまさ が説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(5)

【 第1編 】 認識的 「技」 の論理の過程的構造を説く

第1章 「“夢”講義」 の学びによる認識の重層化の構造

 第1節  人生に関わる夢 ―「文武両道から文武統一への道の完成化へ」
 第2節  「“夢”講義」 連載の意義と書物の意義
 第3節  「連載」 による認識の形成 ―弁証法の三法則の多重の連関とその構造
 第4節  頭脳の働きを見事に ―『“夢”講義』 の学びを
 第5節  技の論理から上達の構造・技化の過程性を説く

第2章 哲学の歴史の発展形態をふまえて技の論理を説く(解く)とは

 第1節  現代の受験勉強による弊害を克服するために何が必要か
 第2節  「直立二足歩行」 に関する研究者の見解とその限界
 第3節  技の論理から 「歩く」 の構造を説く
 第4節  人間の思考・思惟能力の発展は哲学の歴史の発展形態の中に存在する
 第5節  学問レベルでの認識の研究とは何か ―認識論・認識学の一般性の構造

第3章 サルからヒトへの進化をもたらす歴史的過程を説く

 第1節  「直立二足歩行」 への過程(1) ―サルが樹上生活が可能となった理由
 第2節  「直立二足歩行」 への過程(2) ―サルの樹上生活が可能となった理由
 第3節  サルの樹上生活と認識の形成とその発展との関連性
 第4節  サルからヒトへの歴史性をふまえて人間の育ちを育てる大切さ

【 第2編 】 弁証法性の学びの過程的構造を説く

第1章 「“夢”講義」 の学びは弁証法性の学びを基本とする

 第1節  直接的同一性の論理を武道と看護から説く
 第2節  人類の文化としての武道論・武術論

第2章 「“夢”講義」 の論理展開の構造に学ぶ

 第1節  学問用語 ―「普遍性・共通性・一般性・必然性・偶然性」 とは
 第2節  偶然の必然性を説く
 第3節  『“夢”講義』 全三巻に何を学ぶか ―ある読者の論評文

【 第3編 】 「技の創出」 の過程的構造を説く

第1章 学問構築のための認識形成の過程を説く

 第1節  思春期・青春期の生活と高き志
 第2節  武道空手と弁証法を 「対立物の相互浸透」 として学ぶことの意義
 第3節  志高く武道空手を専門に 「弁証法」 を学んだ学生時代
 第4節  武道空手の修練には弁証法を、弁証法の向上には武道空手の研鑽を
 第5節  武道空手と弁証法、相対的独立と相互浸透、そして対立物の統一

第2章 技の創出における弁証法性を説く

 第1節  技の創出の二重構造と 「這う」 ことの二重構造とは
 第2節  いのちの歴史性から説く 「這う」 ことの過程的構造・構造的過程
 第3節  弁証法の学びの多重性・多重構造 ―くりかえし学ぶことの意義とは
 第4節  人間体一般としての生成発展の過程的構造性の運動
 第5節  運動選手の敗因を人間体としての弁証法性から説く

第3章 「いのちの歴史」 から技の創出過程を説く

 第1節  特殊哺乳類としてのサルの誕生の過程を 「いのちの歴史」 に尋ねる
 第2節  サルからヒトへの進化過程を辿ることによる運動形態の変容
 第3節  運動形態の変容がもたらした認識の誕生の原基形態
 第4節  技を創る過程にはサルからヒトへの歴史的過程性が含まれている

第4章 「動物体」 から 「人間体」 への過程を説く

 第1節  「歩く」 に至る過程性 ―「這う」 と 「立つ」 の二重構造
 第2節  動物体から人間体へ ―「這う・立つ・歩く」 の過程的構造とは
 第3節  動物体と人間体 ―人間体としての生理構造の持つ歪み
 第4節  動物体をふまえた人間体としての生理構造の理解が上達を導く

【 第4編 】 頭脳活動の養成の過程的過程を説く

第1章 自らの専門分野の実践を通して学ぶとは

 第1節  頭脳活動の実力養成に関わる原稿執筆のあり方
 第2節  舞い込んできた 「幸運」
 第3節  「“夢”講義」 の学びを障害児教育に ―ある読者の学びの過程(1)

第2章 人間体の構造性の論理を具体性から学ぶ

 第1節  人間体としての構造と動物体としての構造の二重構造とは
 第2節  「“夢”講義」 の学びを看護に活かすには ―ある読者の学びの過程(2)
 第3節  「這う」 ことで創られる 「立つ・歩く」 とは ―ある読者の学びの過程(3)

【 第5編 】 人間体と運動体の過程性の構造を説く

第1章 人間体とは何か ―人間体と運動体の区別と連関を説く

 第1節  武道・武術とは何か ―武道空手の修業・修行・学修の歴史性
 第2節  「人間体と柔道体・マラソン体・卓球体」 の過程性の構造
 第3節  人間体と運動体の過程性の構造を知らない指導者の大欠陥
 第4節  運動体の過程性には人間体を阻害する構造が存在する

第2章 「“夢”講義」 の体系性と弁証法的実力を説く

 第1節  「“夢”講義 ―看護と武道の認識論」 を説いてきている理由
 第2節  『“夢”講義』 第四巻の体系 ―「脳とは何か」 から 「哲学の起源」へ
 第3節  認識の成立の過程性から論理学の成立過程
 第4節  弁証法の過程的構造を説く必然性

第3章 人間体養成の過程を具体的実践から問う

 第1節  身体障害児教育の実践から ―ある読者の学びの過程(4)
 第2節  「いのちの歴史」 の一般性をふまえて身体障害者教育を説く
 第3節  身体障害者の 「仰向け」 の運動性の意義 ―ある読者の学びの過程(5)


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2017年06月20日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(5/5)

(5)一から多への発展を捉える

 本稿は,今年,京都弁証法認識論研究会で組織的に取り組むことにしている南郷継正『“夢”講義』シリーズの第3巻に学び,特に弁証法的頭脳活動の成果であろうと思われる3つの問題を取り上げて,筆者なりに理解したことを文章化することによって整理し,少しでも自分の実力と化していくことを目的に,これまで説いてきた。ここで,これまでの内容を振り返ってみたい。

 初めに,脳の統括の問題を取り上げた。人間の脳には,体全体を統括する働きと自分の脳の中に像を創り出す働きの,大きな二つの働きがあるとされていた。また,脳は自分自身をも統括しているとして,脳自体の統括にも2つの働きがあると説かれていた。それは,脳自体の生理状態と運動状態の統括と脳がそれによって誕生させる認識すなわち像の統括の2つであった。このように,脳は体全体を統括することと脳自体を統括することを同時に行っており,これが「二重性(二重構造)」と呼ばれていた。しかし,これとは別に,脳の統括自体も運動そのものであり,昼間と夜間では変化すると説かれており,その昼間と夜間の異なる統括のあり方が二重性=二重構造として把握されていたのであった。さらに,夢は認識の一つであるが,その認識とは脳の働きの一つに過ぎず,生命体全体の体系的な統括をするためにこそ,脳による認識の統括があるのであり,脳の全体系的な統括のなかで,認識が働かされて(生成発展させられて)いるのであるからして,夢の問題を解くためには,脳の全体系的な統括という働きをきちんと解明しなければならないと説かれていた。この後,人間の脳の統括は四重構造の性質をもつとして,@〔運動の統括×生理の統括=脳の全体統括〕,A〔感覚器官×像=脳の統括〕,B〔脳の統括=脳の生理×運動×認識〕という,3つの公式が紹介されていた。体全体の統括と脳自身の統括の二重性=二重構造というのは,この公式でいうと,@AとBの二重性=二重構造ということになり,それぞれの統括はさらに,昼間と夜間では変化するのであり,それぞれ昼間と夜間という二重性=二重構造が存在するといえるのであった。これで合計四重構造になると説かれていた。このような多重性=多重構造の把握をごく自然になしうることこそ,弁証法的頭脳活動の本領なのであり,世界の二重星=二重構造を見抜けず,片方のみしか見ることができないような非弁証法的な頭脳活動を克服するべく研鑽していかなければならないと説いておいた。

 次に,『“夢”講義(3)』に掲載されている『“夢”講義』の感想文を取り上げ,そこで説かれている真の学的方法について考えた。この感想文では,南郷継正は,いかなる問題を解く場合でも,「原点」に立ち返り,そこからの生成発展が,くり返しくり返し説かれているのであり,夢をその直接的形態のみで扱うのではなく,夢を原点から問い直して,すべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開するという真の学的方法でもって,夢を解明したと説かれていた。「そこに至るすべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開する」というのは人間に関するあらゆる問題を解明する場合に必要な手続きであり,そういえるのは,宇宙=物質が,人間という生命体に流れ込むように発展してきたという歴史的事実があるからであろうと説いておいた。続いてこの感想文では,『“夢”講義』は「認識論を認識学へ」と向かわせるための方法論が説かれていると指摘したうえで,認識論を認識学へと向かわせるためには,何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く必要があり,そのためには弁証法的な学力を養成しなければならない,換言すれば,弁証法という土台の上に認識論を構築しなければならない,と説かれていた。弁証法は学問構築の過程で誕生したのであるから,あらゆる学問はそれを構築するためには弁証法的な学力が必要なのだといえるだろうとしておいた。また,「何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」という言葉に関しても,他の分野でも同様のことがいえると確認した。すなわち,経済学・教育学・言語学の構築を志すのであれば,何が経済・教育・言語となっていったのかの生成発展の過程的な構造を説く必要があり,もどき経済・もどき教育・もどき言語のような発想が,その解明のヒントになると説いておいた。最後に,原点からの出立とそこからの生成発展のくり返しの辿り返しについて,くり返す必要があるのは弁証法的な頭の働かせ方を技化するためであり,どんな領域でも,「桃太郎のくり返し」よろしく,基本的・基礎的な物事の飽きることのないほどの「くり返し」を嫌がってはいけないということを確認した。

 最後に,赤ちゃんの夜泣きと患者さんの辛い夢の共通性という問題を取り上げた。これは,端的にいうと夢を見る実力ということであった。『“夢”講義(3)』では,この夢を見る実力がどのようなプロセスで生成発展してきたかの謎解きがなされており,そのプロセスを辿り返したのであった。まず,生命体はその歴史において生きる環境を大きく変えていったことによって脳の体全体を統括する機能が発展していき,それにともなってもう一つの機能である像を創り出すという機能も発展していき,脳が描く像はより運動的・構造的に発展していったのだと説かれていた。そして,単なる外界の反映である像しか描けなかったのに,サルの段階で樹上生活を行なったため,反映でもあり,反映でもないという「もどき像」をも描けるようになり,これが問いかけ的認識の原始形態となっていき,やがて問いかけ的認識が相対的に独立化した結果,像がきちんと二重化するようになった,そのころからヒトは“夢”をみることができるようになっていったのであり,これが個体発生でいうと赤ちゃんが夜泣きを始める段階に相当する,と説かれていた。また,サルの樹上生活については,地上で反映させて形成されていった像と,樹上で反映されて形成されるようになった像との相克の像のあり方の一つが,対象をいわば目的的にみる目となり,最終的に,「あれはこうだ!」という自分の主観から,自分勝手に対象をみてしまう認識の誕生につながったのであり,これが夢の大本(根本原因)であると説かれていた。すなわち,夢はヒトが目的をもつようになった結果,みることができるようになったものであり,目的をもつとは,外界を媒介的にでも映せるようになり,外界からの直接の像と外界からの媒介の像を二つに分けて考えられる実力をもったということであるとされていた。このように,夢を見る実力がどのようについてきたかの過程的構造が解明できたからこそ,赤ちゃんの夜泣きを防ぐ方法と悪夢で苦しむ患者さんに対する看護の方法をしっかり提示でき,その共通性を雰囲気と動作の二つで五感器官に働きかけることであると見抜けたのだと説いておいた。

 このように見てくると,弁証法的頭脳活動とは,端的にいうと,一から多への発展を捉えるものであるといえる。すなわち,現在の対象の二重性=二重構造(多重性=多重構造)を見抜くだけではなく,その二重性がどのようして原点たる「一」から生成発展してきたのかの過程的構造をもしっかり把握できるようなものだといえるだろう。脳の統括といえば,すぐにそれには二重性=二重構造があるはずだとして,その構造に分け入っていく,人間の認識といえば,すぐにそれには二重性があるはずだとして,その構造に分け入っていく。そして,それだけではなく,その構造を真に解明するために,その二重性に至った生成発展のプロセスを,すなわち,何が「脳の統括」や「認識」となってきたのかの生成発展の過程的構造を射程に入れて,その解明に進んでいく。これこそが真の学的方法であり,このような学的方法を実践できるためには,対象の矛盾(対立物の統一)を捉え,対象を運動変化している一断面として捉えることができるほどの,弁証法の実力が必要となってくる。このような弁証法の実力を養成しないかぎり,専門分野の学問体系を構築することなど,決してできないのだ,逆にいうと,このような弁証法の実力を養成すれば,本書で展開されているような学的な論の展開が可能となるのだ,ということが本稿を認め,本書で展開されている弁証法的頭脳活動の成果を味わうことによって,ますます確信できていったことである。

 そのような弁証法的頭脳活動が可能となるためには,どのようにすればよいか。それは,本書でも説かれていたとおり,弁証法の基本的な頭の働かせ方を意識して,それをくり返しくり返し辿り返すことであろう。具体的には,弁証法の基本書としての三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』を,改めて原点として設定し,そこに戻って,またそこから学び直すとともに,南郷継正の『“夢”講義』シリーズも,くり返しくり返し読み込んでいく必要があるだろう。それて並行して,専門分野についても,例えば対象の二重性を考えてみたり,何がその対象となってきたのかの生成発展の構造を考えてみたりして,弁証法的に捉えられるように訓練していかねばならない。そうして,弁証法的な頭の働かせ方とはこのようなものだということが,特別意識しなくても勝手にできるようになることこそが,目指すべき目標であるといえるだろう。

 そのような目標に到達するために,今後もしっかりと弁証法学びを継続していく決意である。


(了)
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2017年06月19日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(4/5)

(4)夜泣きと辛い夢の共通性とは何か

 前回は,『“夢”講義(3)』の弁証法的頭脳活動の成果として真の学的方法をとりあげ,本書に開催されている感想文を手がかりに考察した。真の学的方法とは,そこに至るすべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開することであり,何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説くのに必要な弁証法的な学力を養成することこそが大切である,ということであった。また,このような弁証法的な学力を技化するためには,くり返しの上のくり返しの学びが必要であることも確認した。

 さて今回は,赤ちゃんの夜泣きと患者さんの辛い夢の共通性という問題を取り上げたい。この共通性とは,端的にいうと,夢を見る実力ということである。『“夢”講義(3)』では,この夢を見る実力がどのようなプロセスで生成発展してきたかの謎解きがなされており,一応この第3巻で,その謎解きが完了しているといってもいい。今回は,この夢を見る実力の生成発展のプロセスを辿り返してみたい。

 本書では,「第3編 学問的に「夢とはなにか」を説くための礎石」「第1章 夢の学問的な解明に必須の過程を説く」「第3節 「いのちの歴史」から説く人間の認識への発展過程」において,いつものように,これまでの論の展開を要約しつつ(真の学的方法!),人間が夢を見る実力をつけていったプロセスが説かれている。

 「生命の歴史」において,脳が誕生した魚類段階から両生類段階へ,そして哺乳類段階へと生命体が発展するに伴って,生きる環境が大きく変化していく。そのことによって,脳が大きく変化していくのである。より過酷な環境で生きられるように,脳の全身を統括する機能が発展せざるを得ず,脳の実体としての実力も増していく。そうすると,当然に脳の全身の統括ではないもう一つの働き,すなわち像を描くという働きにも影響が出て,脳が描く像はより運動的・構造的に発展していく。やがて哺乳類のトップとしてサルが誕生し,樹木での生活を余儀なくされると,サルの脳とその反映像は大きく発展させられることとなるとしたうえで,次のように説かれている。

「端的には,それまでの脳が描く認識=像は,外界の反映でしかない(しかも本能としての脳が反映させるだけの)像だったモノが,樹上生活・樹木生活の過程的構造のゆえをもって,外界からの反映の像は当然のこととして,二重・三重の多重像を描く実力をつけた結果,外界からのまともな反映ではない像,すなわち,反映でもあり,反映でもないという『もどき像』をも描く実力をもった,ということです。

 この『もどき像』が脳のなかで発生するにつれて,サルはその像をたしかめる方向へと運動しはじめることになり,これがいわゆる問いかけ的認識の原始形態(原形)となっていったのです。

 この問いかけ的認識が相対的に独立化して,本当の“問いかけ”が完成し,像がきちんと二重化するようになったころから,ヒト(人類)は“夢”をみることができるようになっていったのです。これがヒトが“夢”をみることができるようになった段階であり,人間の発達段階からいうと,赤ちゃんが夢をみる=夜泣きのころの脳の発達=発育の中身のレベルが,ヒトの認識の夜明け段階といえます。」(p.85)


 ここでは,単なる外界の反映である像しか描けなかったのに,樹上生活のために,反映でもあり,反映でもないという「もどき像」をも描けるようになり,これが問いかけ的認識の原始形態となっていき,やがて問いかけ的認識が相対的に独立化した結果,像がきちんと二重化するようになった,そのころからヒトは“夢”をみることができるようになっていったのであり,これが個体発生でいうと赤ちゃんが夜泣きを始める段階に相当する,ということが説かれている。

 ここで説かれている内容を,像の生成発展だけを独立化して取り上げてみるならば,以下のようなプロセスとなるだろう。

外界の反映でしかない像
  ↓
二重・三重の多重像
  ↓
外界からのまともな反映ではない像=もどき像
  ↓
問いかけ的認識の原始形態
  ↓
本当の“問いかけ”=像の二重化


 すなわち,サルまでの段階では,単なる外界の反映でしかなかった像が,サルの樹上生活を経ることによって,ついには二重化した像にまで発展したのである。ここの歴史的な像の生成発展については,すぐ後の部分では,次のように説かれている。

「このように地上で反映させて形成されていった像と,樹上で反映されて形成されるようになった像との相克が,あるとき突然に,ある時代のあるレベルのサルにおきはじめます。

 この相克を解決するために,サルは地上へおりることを決心(?)し,やがてこれらがヒト的サル(類人猿)へと進化し,そこから人への進化が始まっていくのです。

 これらの相克の像のありかたの一つが,対象をいわば目的的にみる目となり,対象を自分で(主観的・自分勝手的に)描いた形でとらえられるようになり……して,結果,問いかけの像=問いかけ的認識すなわち『あれはなんだ?』ではなく,『あれはこうだ!』として自分の主観から,自分勝手に対象をみて(とらえて)しまう認識の誕生をみることになっていくのです。これが夢の大本(根本原因)なのです。

 つまり,夢はヒトが目的をもつようになった結果,みることができるようになったモノであること,そしてその目的をもつということは,認識論的・像的に説くと,ヒトの脳のなかで,それまでは外界からの直接の反映でしか映せなかった像が,外界を媒介的にでも映せるようになった結果,外界からの直接の像と外界からの媒介の像との二重性を帯びるようになり,あげく,それを二つに分けられる実力がつきはじめ,そしてそこからしだいしだいにヒトから人間になるにつれて,分けて考えられる実力を脳はもってしまったのだ,ということなのです。」(p.87-88)


 ここでは,地上で反映させて形成されていった像と,樹上で反映されて形成されるようになった像との相克の像のあり方の一つが,対象をいわば目的的にみる目となり,最終的に,「あれはこうだ!」という自分の主観から,自分勝手に対象をみてしまう認識の誕生につながったのであり,これが夢の大本(根本原因)であると説かれている。換言すれば,夢はヒトが目的をもつようになった結果,みることができるようになったものであり,目的をもつとは,外界を媒介的にでも映せるようになり,外界からの直接の像と外界からの媒介の像を二つに分けて考えられる実力をもったということであるとされている。

 ごく単純化していえば,像が,外界の直接の反映像と,そうでない媒介の像に二重化したのであり,媒介の像の方が,あるときには問いかけ像となり,あるときには目的像となり,そしてあるときには夢となる,ということであろう。認識=像が二重化することは三浦つとむも説いていたが,どのようなプロセスを経て像が二重化するようになったのかを解明したのは,本書が史上初なのではないか。このような過程的構造を明らかにしたのは,まさに弁証法的頭脳活動の技の冴えといえるだろう。

 以上見たように,生命の歴史において認識=像が二重化したために,ヒトは夢をみることができるようになったのであり,個体発生でいうと,これがちょうど夜泣きが発生する段階に相当する。このころの赤ん坊は,眠っていて直接の反映像としてはそれほどの像を描いていないにもかかわらず,媒介の像として,何が何だかわからないような像を勝手に描いてしまえる実力がついてしまったため,その描いた像をみて,突発的に泣きじゃくるというようなことになるのであろう。また患者さんは,眠っていても過去の体験から媒介された像を勝手に描いてしまう。これが辛い悪夢であり,疼痛の原因となっているものである,ということだと理解した。

 本書の最後の方の部分,すなわち「第5編 看護の夢の事例を「いのちの歴史」から解く」「第2章 赤ちゃんの夜泣きと夢の過程的構造を説く」「第4節 夜泣きを防ぐ赤ちゃんの睡眠中の育てかたを説く」では,夜泣きを防ぐ対応の方法が説かれている。それは,雰囲気と動作の二つで赤ちゃんの五感器官を育てることであり,具体的にはお母さんがのんびりとした歌を歌ってあげながら,赤ちゃんが好むようなスキンシップを行っていくことであると説かれている。

 これは,『“夢”講義(1)』から登場する看護学生Dさん(神庭純子氏)が疼痛と悪夢に苦しむ患者さんに行った看護と論理的には同じものであろう。看護学生Dさんは,ケアをとおしてコミュニケーションを図ろう,話をゆっくりお聞きして気持ちを知ることにしようとの方針のもと,痛みの訴えがある部分をゆっくりさすりながら話に耳を傾けたということであった。これも雰囲気と動作の二つで患者さんの五感器官や神経に働きかけ,患者さんの認識を整えることによって,悪夢を防止することにつながったのだと考えられる。

 このように夜泣きや悪夢に対する根本的な対処法を提示でき,両者の共通性を説けるのは,やはり南郷継正がそもそも夢とは何かを,その原点から,学問的な方法で弁証法的に解明しえたからこそといえるだろう。ここでも,弁証法的な頭脳活動の見事さを感じることができた。

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2017年06月18日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(3/5)

(3)真の学的方法とは何か

 前回は,『“夢”講義(3)』で説かれている弁証法的頭脳活動の成果として脳の統括の問題を取り上げ,2つの二重性=二重構造で合計四重構造の性質をもっていることを確認したうえで,すべての事物・事象を二重性として捉えられるような弁証法的な頭脳を創ることの大切さを強調した。

 さて今回は,本書に掲載されている『“夢”講義』の感想文を取り上げ,そこで説かれている真の学的方法とは何かについて検討したい。

 問題の感想文は,「第3編 学問的に「夢とはなにか」を説くための礎石」「第2章 学問的でない夢の専門家の実力を説く」「第4節 『“夢”講義』感想文―夢を学問的に説くとはいかなることか」に収められている。この節は全文,読者の感想文である旨が注記されている。「この読者は若くして某一流大学の教授となった,その専門分野では世界的レベルでの権威とされている方」(p.105)であり,感想文中には「DNA」とか「DNA理論」とかいう言葉がくり返し出てくるから,この感想文は本田克也氏の手になるものであろう。

 感想文では,「この『夢講義』においては,いかなる問題を解く場合でも,『原点』に立ち返り,そこからの生成発展が,繰り返し繰り返し説かれている」(p.106)と指摘され,これまでのすべての研究者はそのような夢に至る生成発展に着目できなかったために,夢を解明することができなかったのだと説かれている。その上で,次のように説かれている。

「いったい,これまで誰が,このような偉大なる展開をなしえたであろうか。例えば“夢”について論じようと志した人間は少なくない。精神分析のフロイトやユングはもとより,多くの心理学者,脳生理学者,生物学者がこの謎に挑んできた。しかし,すべての研究者は,夢をその直接的形態でのみ扱う以上には出られず,ついには袋小路に迷い込んでしまっているのである。

 しかし南郷継正はそうではなかった。夢をそれ自体として見れば脳が勝手に描く像にすぎないとしながらも,これを原点から問い直して,これは優れて人間の認識の発展の言うなれば一つの現象形態なのであるから,そこに至るすべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開することこそが,夢の解明になるという,真の学的方法すらも,この『夢講義』では提示されているのである。」(p.108)


 ここでは,南郷継正は,夢をその直接的形態のみで扱うのではなく,夢を原点から問い直して,すべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開するという真の学的方法でもって,夢を解明したと説かれている。

 確かに,前回も少し触れたように,夢は認識の一つであるから,認識とは何かを,その生成発展に遡って解明し,さらに,認識とは脳の働きの一つであり,もう一つの働きである全身の統括のためにこそ,認識が存在するのであるから,脳の働き全体や,それを支える脳の実体の生成発展を辿り返すことによって,夢を解明しようとしているのが『“夢”講義』であるといえる。

 それにしても「そこに至るすべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開する」というのはすごい言葉である。これは夢のみならず,人間に関わるあらゆる問題を解明する場合に必要な手続きであるといえるのではないか。そして,そのようなことがいえるのは,結局,宇宙=物質が,人間という生命体に流れ込むように発展してきたという歴史的事実があるからであろう。すなわち,人間はもともと人間として存在していたのではなく,物質の発展の流れの終着点として,いわば究極の物質として誕生したものであるから,そのプロセスを辿り返さないと,人間の問題は解けないということであろう。

 続けて感想文では,『“夢”講義』は「認識論を認識学へ」と向かわせるための方法論が説かれていると指摘したうえで,次のように説かれている。

「ならば認識論を認識学にするための鍵はどこにあるのか。逆から言えば,これまでの認識論者はなぜ認識学の構築に失敗したのかの秘密も,ここに暴かれているように思える。

 おそらくこれまでのすべての認識論者,あるいは心理学者は,できあがった認識をそれ自体の運動としてとらえることに終始してしまい,何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説くのに必要な,弁証法的な学力を養成してこなかったのだ。したがって『夢』に至るその生成発展のプロセスを問うことができなかったのだ。もっと言えば弁証法の土台の上に認識論を築くことができなかった,つまり認識論構築の土台を失ったままに認識論を構築しようとしたから空中楼閣に終わって崩れ去ってしまったのだ,ということが見えてくるのである。

 もしこう言ってよければ,認識論の土台は弁証法にあるということを史上初めて証明されているかのようにも思えるのが,この南郷継正の『夢講義』であるともいえるのである。」(pp.111-112)


 すなわち,認識論を認識学へと向かわせるためには,何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く必要があり,そのためには弁証法的な学力を養成しなければならない,換言すれば,弁証法という土台の上に認識論を構築しなければならない,ということである。

 基本的には,先の引用部分と同じことが説かれていると考えていいだろう。従来の研究者は,「夢をその直接的形態でのみ扱う」=「できあがった認識をそれ自体の運動としてとらえる」ことしかしていなかったが,本来は,「原点から問い直して」「何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要があるということである。そして,そのような生成発展の過程的な構造を説くためには,弁証法的な学力を養成しなければならないのであり,弁証法という土台の上に構築してこそ,認識論は認識学として成立するのだと説かれている。もう少し一般化すれば,これはどんな学問にも当てはまる論理だといえるだろう。すなわち,いかなる学問であれ,それを構築するためには弁証法的な学力が必要なのであり,いってみれば弁証法という土台の上に構築しないと,空中楼閣に終わって崩れ去ってしまうのである。これは歴史的に見ても,弁証法が学問構築の過程で誕生したことと無関係ではあるまい。

 今回の引用文中にある「何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」という言葉も,すごい言葉である。このような言語表現ができるところに,この読者(おそらく本田克也氏)の実力の高みを感じることができる。これこそ,認識学を構築するための真の学的方法なのであるから,これは他の分野でも同様であるといえる。たとえば,経済学の構築を志すのであれば,「何が経済となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要があり,教育学の構築を志すのであれば,「何が教育となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要がある。言語学の構築を志すのであれば,「何が言語となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要があるのであり,これらの過程的構造を説けるほどの弁証法的な学力を養成しなければならないのである。

 私の専門に関わるもう少し狭いテーマでいうならば,たとえば心理療法や心理検査を学問的に説こうとする場合,「何が心理療法となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要があるし,「何が心理検査となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要がある。本感想文で触れられている「もどき像」の誕生という論理を借用すれば,心理療法が誕生する直前の段階では,「もどき心理療法」のようなものがあったはずであるし,心理検査が誕生する直前の段階では,「もどき心理検査」なるものが存在したはずである。このように考えていくと,心理療法や心理検査を研究していく際の観点が明らかになってくるし,心理療法や心理検査が歴史性を帯びたものとして,これまでとは違ったふうに見えてくるというものである。

 さて,感想文の最後には,「『原点からの出立とそこからの生成発展の繰り返しの辿り返し』,そのことこそが『夢講義』に連綿と流れている学的精神であると思う」(p.115)と認められている。確かに本書では,くり返しくり返し,原点から説き直されている。そもそも認識とは何か,生命体は単細胞からどのようにして人間にまで至ったのか,などということが,本当にしつこいくらいくり返して説かれている。前回見た脳の統括の問題も,たとえば94頁以降に,またまとめて説き直されている。こういう箇所は無数にある。

 このようにいうと,「原点からの辿り返しは分かったが,それをなぜくり返す必要があるのか?」との疑問が読者から出されるかもしれない。それは端的にいうと,そのような原点からの生成発展を辿るという弁証法的な頭の働かせ方を技化するためである。バスケットのシュートフォームをくり返しくり返し練習し,少し上達しても崩れを防ぐために定期的にフォームをチェックしてまたくり返すのと同じことである。ここに関しては,「秀才といわれる人たちの欠陥は,自分にとってやさしいと思える物事については,どうしてもくり返しの学習を嫌がることです」(p.187)としたうえで,次のように説かれているので,それを紹介して,今回は終わりにしたい。

「何事においても,技が上達したいなら,あるいは頭脳のはたらきを見事にしたいのなら,けっして,この基本的・基礎的な物事の飽きることのないほどの『くり返し』を嫌がってはいけません。それほどに『桃太郎のくり返し』は,学問構築を志す人たちは当然のこと,スポーツや武道を一流にと志す人たちにとっても,とても大事なことなのです。この『桃太郎のくり返し』のことを『量質転化化』をはかることだ,すなわち『弁証法』の説く『量質転化』の問題と同じことだとわかることは,とても大事なことなのです。」(p.188)

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2017年06月17日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(2/5)

(2)脳の統括の多重構造とはいかなるものか

 本稿は,『“夢”講義(3)』を組織として集団的に読み込み,その中に説かれている弁証法的頭脳活動の成果を取り上げて論じていく論考である。今回は,本書の初めの方から説かれ続けている脳の統括の問題を取り上げたい。

 まず,本書の流れにしたがって,脳の統括について触れられている部分を見ていく。

 「第1編 生理学から説く「夢とはなにか」」の「第1章 認識の発展の過程的構造を脳から説く」「第2節 人間の脳には大きな二つのはたらきがある」では,脳の二つの働きとして,「体全体を統括するというはたらき」と「自分の脳のなかに像を創りだすはたらき」(p.17)の二つが挙げられている。もちろん,この二つの働きには,相互に関連するところがあるはずである。たとえば,食をとるという運動を行うために,外界の対象を五感覚器官を通して反映し,像を創りだし,その像に基づいて体を動かして対象を食べるというような関連である。すなわち,体を統括するためにこそ像を描くのであり,その描いた像に基づいて体を統括していくということである。

 次に,同じ第1編の「第2章 夢の解明に必要な「昼間の生理学」と「夜間の生理学」を説く」「第2節 脳自体の統括の二つのはたらきとは」では,脳は自分自身をも統括しているとして,脳自体の統括の二つの働きが説かれている。それは,「脳自体の生理状態と運動状態の統括」と「脳がそれによって誕生させる認識すなわち像の統括」(p.25)である。

 続く「第3節 脳の統括は当然に弁証法性をもつ」の冒頭では,今までの内容が次のようにまとめられている。

「脳は,脳自体の全体として大きな二つのはたらきを統括しつづけるものでした。

 しかし大変なことに,この脳は自分自身を全体として統括しているばかりでなく,脳自体が存在している体全体(全身)をも統括していることは常識です。ですから,脳は自分自身の統括体系の外側(これはヒユです)で,その自分自身をも含めた体全体(全身)の統括も行なっていることになります。

 すなわち脳は自分自身の統括と体全体との統括の二重性(二重構造)を,あたかも一つの構造のものとして時々刻々統括する(しなければならない)という大事業を欠かさずに行なっているわけです。」(p.27)


 ここでは先にみたように,脳は体全体を統括することと脳自体を統括することを同時に行っており,これが「二重性(二重構造)」と呼ばれている。脳は統括器官であるが,体全体から見れば部分に過ぎない。したがって,脳は全体を統括しつつ,部分たる自分自身も統括している。この全体の統括と部分の統括が「二重性(二重構造)」と呼ばれているといえるだろう。

 しかし,別の二重性=二重構造も指摘されている。今見た第3節から,次の「第4節 活動している「昼間の生理学」と休息している「夜間の生理学」」にかけての部分では,次のように説かれている。

「それで,脳が体と自分自身を統括するということは,体の運動と自分自身の運動を統括するにとどまらず,自分自身のその二重の統括すらも運動そのものであるということです。「これが運動ということは,これは変化している!」ということなのです。

 そこで,まずここでの運動すなわち変化の大きな部分を見てみることにしましょう。

 それが,再三説いている昼間の生理学と夜間の生理学なのです。すなわち,脳の,体と脳自身の統括には二重性=二重構造がある! ということなのです。」(pp.28-29)


 ここでは,脳の統括自体も運動そのものであり,昼間と夜間では変化すると説かれており,その昼間と夜間の異なる統括のあり方が二重性=二重構造として把握されている。脳の統括について,同じ二重性=二重構造という言葉が使われていても,先に見たのは体全体の統括と脳自身の統括の二重性=二重構造であったのに対して,ここで説かれているのは,統括のあり方が昼間と夜間では異なるという二重性=二重構造なのであった。このあたり,ぼんやりとした像を描いて分かったような気になったり,同じ二重性=二重構造なのだから同じことを説いているはずだと決めてかかったりしてはいけない。

 さらに,「第3編 学問的に「夢とはなにか」を説くための礎石」「第1章 夢の学問的な解明に必須の過程を説く」「第2節 夢を唯物論的に説くには脳の解明が必須である」では,夢は認識の一つであるが,その認識とは脳の働きの一つに過ぎず,生命体全体の体系的な統括をするためにこそ,脳による認識の統括があるのであり,脳の全体系的な統括のなかで,認識が働かされて(生成発展させられて)いるのであるからして,夢の問題を解くためには,脳の全体系的な統括という働きをきちんと解明しなければならないと説かれている。この部分は,先に触れた脳の二つの働き,すなわち「体全体を統括するというはたらき」と「自分の脳のなかに像を創りだすはたらき」の関連について説かれている個所であるといえるだろう。端的にいうと,前者の方がメインであり,後者は前者のためにこそ存在するという位置づけである,といえる。夢の問題を解くに際して,大きな視点からとらえ返し,認識の問題だとするだけではなく,さらに脳の統括における認識の位置づけを問題にして,それらを全体的・体系的に説かないと,部分たる認識の問題,夢の問題は説けないということである。

 さて,第3編の「第3章 夢に関わって人間の脳の統括の過程的構造を説く」「第1節 人間の脳の統括は四重構造の性質をもつ」では,脳の統括の問題が総括されているといえる。簡単には,節のタイトルにあるように「人間の脳の統括は四重構造の性質をもつ」ということである。では,その四重構造とは何か。これをしっかりと確認しておかなければならない。

 まず,この説では,脳の統括に関わって,次の三つの公式が登場する。

@〔運動の統括×生理の統括=脳の全体統括〕
A〔感覚器官×像=脳の統括〕
B〔脳の統括=脳の生理×運動×認識〕

 @が一番初めに人間の脳に大きな二つの働きがあるとして説かれていたうちの一つ,すなわち,体全体を統括する働きのことを表していると考えられる。そしてAが,もう一つの働き,すなわち,自分の脳の仲に像を創りだす働きのことであろう。Bは,脳の自分自身の統括のことであり,その中で「脳の生理×運動」が「脳自体の生理状態と運動状態の統括」を意味し,「×認識」の部分が「脳がそれによって誕生させる認識すなわち像の統括」を意味していると考えてよさそうである。

 そうすると,先に見た2つの二重性=二重構造のうち,前者,すなわち,体全体の統括と脳自身の統括の二重性=二重構造というのは,この公式でいうと,@AとBの二重性=二重構造ということになるだろう。

 さらに,体全体の統括である@Aと脳自身の統括であるBは,昼間と夜間では変化するのであり,それぞれ昼間と夜間という二重性=二重構造が存在するといえるのである。ここに関しては,次のように説かれている。

「脳が体(の運動と生理)と自分自身(の運動と生理)を統括するということは,体の運動と自分自身の運動を統括することにとどまらず,自分自身のその二重の統括すらも運動形態そのものであるということです。また,これが運動形態であるということは,これは一般的な変化をなしながら,それと直接に部分としても変化していくという形態を把持しているということなのです。

 これこそが,先に説いた昼間の生理学と夜間の生理学の大切な中身なのです。すなわち脳の,体と脳自身の統括には二重性=二重構造があるのですが,これ自身にも昼間の生理学としてのものと,夜間の生理学としてのものとの二重性があり,合計四重構造の性質をもっているのだということを,読者のみなさんははっきりと自覚できなければなりません。」(p.118-119)


 すなわち,脳の統括は,体の統括と脳自身の統括の二重性=二重構造があるだけでなく,それぞれについて昼間の生理学としてのものと夜間の生理学としてのものの二重性=二重構造があり,合計で四重構造になっているということである。

 このような多重性・重層性の把握は,著者である南郷継正にとっては,まさに勝手に(自動的に)なし得るものであり,これこそが弁証法的頭脳活動のなせる業であるのではないか。われわれはともすれば,脳の統括のうち,体の統括のみを見て,脳自身の統括は見落としがちなのではないか。あるいはまた,脳の統括のうち,昼間の生理学としてのもののみを見て,夜間の生理学としてのものを見落としがちなのではないか。これはまさに,世界の二重性=二重構造を見抜けない非弁証法的頭脳活動のなせる業である。われわれは一刻も早く,すべての事物・事象を二重性として把握できるような弁証法的な頭脳活動に向けて,『“夢”講義』に学び続けなければならないのだと,決意を新たにした次第である。

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2017年06月16日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(1/5)

目次

(1)弁証法的頭脳活動で創られた『“夢”講義』
(2)脳の統括の多重構造とはいかなるものか
(3)真の学的方法とは何か
(4)夜泣きと辛い夢の共通性とは何か
(5)一から多への発展を捉える

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(1)弁証法的頭脳活動で創られた『“夢”講義』

 本稿は,南郷継正『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義――看護と武道の認識論 第3巻』(以下,『“夢”講義(3)』と略す)を集団的に読み込み,学んだ内容を認めることによって,本書の内容をしっかりと自分の実力と化すことを目的としたものである。

 われわれのブログの「年頭言」にも記したように,今年は,京都弁証法認識論研究会として,集団的に『“夢”講義』に取り組むことを,活動の一つの柱としている。これまで,2月と4月にそれぞれ第1巻と第2巻の感想を掲載した。今回は3回目であり,『“夢”講義』は全6巻であるから,ようやく半分の折り返し地点に辿り着いたことになる。

 本書を読んでの率直な感想は,これこそが弁証法的頭脳活動のなせる業だ! というものであった。弁証法的頭脳を駆使して,見事に生理学から夢とは何かや思春期の論理構造などが説かれているのである。では,弁証法的頭脳活動とは何か。本書では,弁証法の学びは,自動車の運転の学びと同じようなものであり,「教習所の運転コースから市街地へでていき,そこから郊外の道を走り,やがては高速道路へと,そこを経たら,いうなれば山道,がけっぷちの道,といったあらゆる道路を易から難へと訓練し続けてようやくにして一人前」(pp.172-173)になれるとした後,次のように説かれている。

「この学問的弁証法の実力を培っていったのが,古代ではアリストテレスであり,近代では高速道路だけを走ったカントであり,高速道路以外の道をもまともに踏破できたのがヘーゲルなのだと思ってもらえばいい。なお現代では,私の恩師三浦つとむは,生活道路上の走りかたでは達人であった,といってよいであろう。

 さて,ではそうなったばあいに最初に説いた脳の実体とその機能という関わりからいえば,どういうことになるかというと,結論から説くなら,脳の実体の二重化かつ脳の機能の二重化となってきているものである。

 具体的に説けば,脳のはたらきである認識が,弁証法を駆使できるレベルを超して,認識そのものが弁証法性を帯びて,あたかも認識が弁証法的認識であるかのように,(観念的に)実体化していく状態を通過するなかで,それが相互浸透されて脳の実体そのものが,脳として,つまり脳の認識を創りだす能力そのものの機能が,弁証法化するという事態にまで発展していけるのである。

 すなわち,認識が弁証法的に考えようと思わなくても,勝手に弁証法的に考えてしまっている,すなわち,弁証法的な考えかたを自分で意図的に止めないかぎりは,必ず弁証法的に認識を創りだし,弁証法的な認識を創りだす,そういう脳の実体に量質転化化しているのである。」(pp.173-174)


 ここでは,認識が弁証法的認識であるかのように観念的に実体化し,それが脳の実体と相互浸透する中で,脳の認識を創りだす能力そのものの機能が弁証法化する結果,勝手に弁証法的に考えてしま脳の実体に量質転化化しているレベルが弁証法的な頭脳の実体の構造であると説かれている。このような頭脳を駆使することが,弁証法的頭脳活動であるといっていいだろう。要するに弁証法的頭脳活動とは,考えれば必然的に弁証法的に考えてしまうのであり,意図的にやめない限り,どうしても弁証法的な頭の働かせ方をし,弁証法的に対象の構造を明らかにして,弁証法的な論の展開をして文章を書いていくことになる,というレベルの頭脳活動だといっていいだろう。

 本書では,まさしくそのような弁証法的頭脳活動が展開されており,これこそが重層弁証法の威力なのだと感動を覚えることが非常に多い。

 そこで本稿では,本書で説かれている弁証法的頭脳活動の成果を3つ取り上げ,筆者なりに理解したことを文章化することによって整理し,少しでも自分の実力と化していきたいと考えている。初めに取り上げるのは,脳の統括の問題であり,次に,真の学問的方法について考察する。最後に,患者さんの辛い夢の問題を検討する予定である。

 ではいつものように,最後に本書の目次を示しておく。



なんごうつぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(3)


【 第1編 】 生理学から説く「夢とはなにか」

第1章 認識の発展の過程的構造を脳から説く

 第1節 “夢”講義は,みなさんそれぞれの夢の実現のためにこそ
 第2節 人間の脳には大きな二つのはたらきがある
 第3節 認識は五感覚器官・脳の成長との相互規定性で発展する

第2章 夢の解明に必要な「昼間の生理学」と「夜間の生理学」を説く

 第1節 夢は睡眠中に脳が勝手に描くものである
 第2節 脳自体の統括の二つのはたらきとは
 第3節 脳の統括は当然に弁証法性をもつ
 第4節 活動している「昼間の生理学」と休息している「夜間の生理学」

第3章 労働と睡眠の関係を説く

 第1節 人間の睡眠は労働による疲労の回復のためである
 第2節 学問的に説く労働とはなにか
 第3節 「疲れ」と「疲労」は違うものである
 第4節 「疲労」は哺乳類としての運動からの逸脱による

【 第2編 】 生理学から説く「思春期の論理構造」

第1章 「心の闇」を認識論的に説く

 第1節 「心の闇」がおこした事件
 第2節 「心の闇」は赤ん坊の頃から育つ
 第3節 他人にも自分にもみえない育ちのゆがみ

第2章 「心の闇」を脳の生理構造から説く

 第1節 脳は反映した像を自分流に発展させる実力をもっている
 第2節 思春期の脳の特殊性
 第3節 生活環境の違いで脳の創られかたが違ってくる
 第4節 思春期の脳への「ネット社会」の影響
 第5節 「狂想」へと転化させる思春期の脳
 第6節 心のゆがみは「心の教育」だけでは治せない

【 第3編 】 学問的に「夢とはなにか」を説くための礎石

第1章 夢の学問的な解明に必須の過程を説く

 第1節 観念論の立場では夢の学問的解明は不可能である
 第2節 夢を唯物論的に説くには脳の解明が必須である
 第3節 「いのちの歴史」から説く人間の認識への発展過程
 第4節 人間の認識=像は外界の反映と相対的独立に発展する
 第5節 脳は神経を介して労働と睡眠の異なった統括をする

第2章 学問的でない夢の専門家の実力を説く

 第1節 夢に関する専門家の見解を問う
 第2節 人類の歴史的な文化を学ぶことなしに夢は説けない
 第3節 夢の解明は脳が夢を描かされる過程的構造を説くことである
 第4節 『“夢”講義』感想文―夢を学問的に説くとはいかなることか

第3章 夢に関わって人間の脳の統括の過程的構造を説く

 第1節 人間の脳の統括は四重構造の性質をもつ
 第2節 労働により日々ゆがめられる人間の体と「ツボ健康法」を問う
 第3節 「ツボ」「経絡」に関する専門家の見解を問う
 第4節 「ツボ」「経絡」は動物体と人間体の相克により誕生したものである
 第5節 労働の過程的構造に夢の問題を解く鍵がある

【 第4編 】 学問に必須の「認識論」「弁証法」とその上達の構造を説く

第1章 認識論における海保静子の業績を説く

 第1節 認識論の理論的実践家としての海保静子
 第2節 認識論は弁証法とともに学問成立に必須のものである
 第3節 恩師三浦つとむの認識論の内実を問う
 第4節 認識の問題が解けない三浦つとむの認識論
 第5節 海保静子に「認識とは何か」の像の展開を学ぶ

第2章 講義録「弁証法の上達の構造を問う」

 第1節 学問としての弁証法が技化した頭脳による「目次」立てを説く
 第2節 学問構築に必要な大志・野望は空想的認識の一種である
 第3節 学問構築には対象の全体像の把握と弁証法の学びが必須である
 第4節 歴史上弁証法の全体像を提示できた学者はいない
 第5節 弁証法の実力をつける過程的構造を説く
 第6節 弁証法は脳の実体が量質転化するまで学ばなければならない
 第7節 「弁証法の上達の構造」における落とし穴とはなにか

【 第5編 】 看護の夢の事例を「いのちの歴史」から解く

第1章 人間が夢をみるに至る発達・教育の過程を説く

 第1節 辛い夢をみる事例
 第2節 上達に必須の「量質転化」の構造を説く
 第3節 サルにおける「問いかけ的認識」の芽ばえとはなにか
 第4節 人間における外界の直接の反映は誕生時のみである
 第5節 人間は外界を勝手に描く能力を教育されながら育ってくる
 第6節 外界を反映する神経系のはたらきは労働のありかたで異なる

第2章 赤ちゃんの夜泣きと夢の過程的構造を説く

 第1節 夜泣きは夢をみる実力をつけたことから始まる
 第2節 辛い夢を理解するために必要なことはなにか
 第3節 夜泣きは発育途上の脳の実力をこえた外界の反映による
 第4節 夜泣きを防ぐ赤ちゃんの睡眠中の育てかたを説く
 第5節 夜泣きと辛い夢との関係への解答

第3章 夢の事例を脳の神経と認識の統括から説く

 第1節 足のウラの鍛錬は頭脳活動を活発にする
 第2節 脳が誕生する魚類への生命体の運動形態の発展過程を説く
 第3節 魚類の脳は四重構造の統括をするために誕生したのである
 第4節 人間の脳は認識活動の統括をも行なうのである
 第5節 辛い夢をみる患者の実体と認識に働きかけた見事な看護を説く


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2017年04月22日

重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想(5/5)

(5)弁証法・労働論・技術論は重層構造をなしている

 本稿は,『“夢”講義(2)』から重層的な弁証法をしっかりと学び取ることを第一の目的として,その他,本書で説かれている労働と疎外,それに技術論も取り上げて,理解を深めていくために認めてきた。ここで,これまでの内容を振り返っておきたい。

 まず,「プロローグ――まえがきに代えて――」を引用しながら,本書で説かれている内容を確認した。本書ではアタマとココロの見事な使いかたの基本となる学び=弁証法の学びを中心にすえて説いてあった。また,三浦つとむさんの弁証法は単層レベルなので,学問の問題を解くためには不十分であり,重層構造で成り立っている学問の対象を説くための重層的な弁証法をしっかりと説いているのが本書であるとも説かれていた。

 連載の第2回では,本稿の第一の目的たる弁証法そのものを取り上げた。本書の第1編では,初めに,「弁証法とは,自然・社会・精神の一般的な運動とか発展の法則」であるとして,弁証法でいう自然とは何か,社会とは何か,精神とは何かが説かれていた。弁証法でいう自然とは,地球上の人間社会を除いた全歴史の実体のことであり,小さくは地球全体の発展過程を含んでの,大きくは宇宙そのものの発展を内に秘めての自然としての流れそのものとされていた。筆者は,弁証法でいう自然というとらえ方に驚き,その壮大さに感心したのであった。また,弁証法でいう自然概念には,当然ながら,変化・発展が内に含まれているのであった。弁証法でいう社会とは,サルが人間に進化してからの時代的流れのすべてをうちに含んで発展してきている社会の歴史性そのものであり,弁証法で説く精神とは,人類の歴史を創造するのに寄与してきたモロモロの先達たちの英知の集大成をアウフヘーベンしたものであり,人類の時代として生成発展するモノだとされていた。特に,精神に関わっては,「個々の誰かのモノをいうのではなく,「英知のすべての集大成の昇華」したモノ」と捉えられており,ここは重要だと感じた。南郷先生は全学問を網羅したからこそ,このような弁証法で説く自然・社会・精神の概念化が可能であったのだし,われわれも弁証法を学ぶ際にはせめて中学の全教科の内容を自分の実力とする努力とともにやっていかねばならないことも確認した。もう一つ,弁証法と弁証術の違いが説かれていることも重要だと感じた。弁証法の対象は世界全体(森羅万象)であり,古代ギリシャの学者たちは全学的研究を行っていたと説かれていた。そして,古代ギリシャの学問形成過程にこそ,弁証法の起源があると説かれていたのである。古代ギリシャの学問形成過程で,個々人の限界を突破するために,他人の認識との相互浸透を図ること,すなわち交流かつ議論することがなされ,「この一連の議論の,討論の,論争の過程を一つの流れの過程として,すなわち過程的構造としてとらえかえしたものが「ディアレクティク」,すなわち弁証法といわれるものだった」ということである。ここから,方法としての弁証術も,法則としての弁証法も,ともに世界全体に関わるものであり,前者があってこその後者の誕生ということができるであるから,われわれも個体発生においてこの過程を辿り返す必要があると説いておいた。

 連載の第3回では,本書で夢に関わって説かれている「労働」概念について,特に労働と疎外の関係について検討した。南郷先生は,労働とは,人間が目的的に対象に観念的・実体的にはたらきかけて,対象を目的的に人間化するべく創りかえることであり,かつ,そのことによって目的とした対象が目的的に人間化することによって,人間が目的のレベルで創りかえられることにあると規定されていた。ここで大切なポイントは,労働とは目的をもって対象にはたらきかける行為であるという点と,労働とは「自然の人間化・人間の自然化」のことであるという点であると指摘した。二つ目の点は,働かきかけられた側の変化と,働きかけた側の変化を統一して捉えており,人間と自然の相互浸透をきちんと捉えているからして,非常に弁証法的な捉え方であろう。また,南郷先生は,疎外とは,(学問レベルから説けば)人間が労働を対象化すると,その人間自らが労働を対象化したモノによって,その人間自体が規定されてしまうことと規定されていた。労働することによって労働した側の人間にも変化が生じるのであり,この側面をとらえて「疎外」というのであった。南郷先生は「ここでいう人間とは人類一般からなる人間一般であり,簡単には,社会的存在としての人間そのもののこと」を指しており,「ここでまちがってはならないことは,必ず人間一般であって,個としての人ではない」と指摘されていた。これは,大きな視点で,サルから人間への発展の流れをふまえた上で人間をとらえるべきであるという指摘であろう。さらに,人類一般としての人間が行った労働が,結局は人類一般としての人間を規定することになるのだ,というような含意があるのではないかとも指摘しておいた。たとえば,原爆を開発した人間と,原爆で被害を受けた広島や長崎の人間は別人であるが,大きな観点から見れば,人間が創ったモノによって,人間自体が規定=規制されたということができるのである。こういう捉え方が「人間一般」ということではないかということであった。また,幼児の遊びを労働として捉えておられるのも,両親・保育士と幼児を別々の人間として区別するような観点ではなく,双方を人間一般として捉えているからこそではないかと説いておいた。これは,弁証法でいう「精神とは個々の誰かのモノをいうのではなく,「英知のすべての集大成の昇華」したモノ」であると説かれていたのを髣髴とさせる弁証法的な捉え方であると感じた。最後に,同じ人間一般の目的的な行為を,その目的性・過程性に重点を置いて捉えると「労働」となり,その結果に重点を置いて捉えると「疎外」となるという解説について,対立物を統一した弁証法的な捉え方であるとしておいた。

 連載の第4回では,本書で説かれている技術論を取り上げて考察した。技とは動物が関わるモノではなく,本来は人間のみが関わるモノ,関われるモノであるとしたうえで,技とは人間の認識のなせるワザであり,認識が関わって技となると説かれていた。ここから,認識のない動物は,全てを本能が統括しているのであり,技などなくても問題なく生きていくことが可能であるが,本能が薄れた人間の場合は,認識が技を創出していくのであり,この技こそ,薄れた本能を補うようなものであると位置づけられるのかもしれないと指摘しておいた。その後,「始めチョロチョロ,中パッパ」という歌の文句で有名なご飯の炊き方も技であると指摘され,「物のこと」が技になるのは,それに関わった認識のオカゲであることが強調され,認識が「物のこと」を技化すると説かれていた。また,「技化」については,認識がなにかに関わって対象を自家薬籠中のものと化すものであるとされていた。たとえば包丁の使いかたを技化する場合,食材の押さえ方や包丁のおろし方などをしっかり認識したうえで,手を駆使できるようにならないといけないし,正しい使いかたをくり返すことによって,意識せずともきちんと切れるようになる=技化する,ということだと説いておいた。この後,南郷先生は,「物のこと」ばかりではなく,「認識のこと」も認識が関わって初めて技化されると説かれていた。「認識のこと」とはたとえば,相手の心を読む術(技)とか,心を教育する術(技)とかのことである。看護師や心理士は,経験のないことでも分かる能力をもつことが必要なのであり,それは努力・訓練で培うものであり,そのような,相手の心を読みとる術,相手の心を動かせる術,相手の心を変えてやれる術なども技というのであると説かれていた。たとえば,うつ状態のクライエントの心を読みとる術も一つの技であり,鬱々としたクライエントの認識を治療的な方向へと運動・変化させるのも,心理士としての重要な介入技法なのであると指摘しておいた。このように,相手の心というような「認識のこと」についても,技化ということが可能なのであり,特に看護師や心理士にとっては,「認識のこと」についての技というものが非常に重要になってくるとまとめておいた。

 以上,本稿で取り上げた弁証法,労働・疎外論,技術論について振り返った。これらはすべて,南郷先生が現在までの学問の発展の流れを一身にくり返したうえで,独自に発展させられた分野であると思う。南郷先生は,三浦つとむさんの弁証法は単層弁証法であると批判されていた。これは,主として自然を対象として引き出された弁証法であり,自然から生まれた社会,そして社会の中に誕生した精神をも含む重層構造を把持する世界全体を解明するには不十分だということであった。南郷先生は,自然・社会・精神が重層構造をなし,相互浸透しながら相互に規定しあっている世界の全体を解明され,その重層構造を踏まえた弁証法を創出されたのである。すなわち,自然の弁証法を解明され,社会の弁証法を解明され,精神の弁証法を解明された上で,これらを統一的に捉え返されたのであろう。これが重層弁証法ということになるのだと思う。。

 以上を踏まえて,本稿で取り上げた弁証法,労働・疎外論,技術論の関係を眺めてみると,次のようなことがいえるのではないか。すなわち,弁証法よりも労働・疎外論,労働・疎外論よりも技術論の方が特殊で狭い領域になっており,労働・疎外論は弁証法の基盤の上に創られ,技術論は労働・疎外論の基盤の上に創られているということである。もう少し詳しく説いてみたい。

 弁証法とは,先にも再確認したように,自然・社会・精神の一般的な運動とか発展の法則のことである。その中で,自然の弁証法といえば,端的にいうと「生命の歴史」のことであろう。それは,地球とそこから誕生した生命体の相互浸透的発展の流れを論理化したものといえる。その相互浸透のあり方が,生命体が人間に至ると,特殊性を帯びるようになる,つまり,それまで生命体は環境に対して受動的だったのに,人間の段階に至ると環境に対して能動的に働きかけるようになる。それが労働・疎外ということである。すなわち,生命体と地球の相互浸透の中で,人間と地球との関わりに関して取り上げたものが労働・疎外論ということになるであろう。換言すれば,全世界の一般的な運動・発展の中から,人間が自然や他の人間などに働きかける,その働きかけに領域を絞ってみて,その中で働きかけられた対象がどのように運動・発展するのか,働きかけた人間はどのように運動・発展するのかということを概念化すると,労働・疎外ということになるのではないか。

 さらに,技化というのは,疎外の特殊なあり方ということができるように思う。どういうことか。疎外とは人間自らが労働を対象化したモノによって,その人間自体が規定されてしまうことであったが,その疎外の中で,認識が何かに関わって対象を自家薬籠中のものと化した場合,それを「技化」というのではないだろうか。目的を持った人間の行為が労働であったが,その労働の結果,人間は何らかの規定を受ける。それが疎外である。この疎外を,人間の上達という観点から捉えた場合,それを技化というのではないだろうか。

 要するに,自然・社会・精神の一般的な運動の特殊性として労働とか疎外とか呼ばれるものがあり,その疎外の特殊性として技化と呼ばれるものがあるのではないか。そうして,技というものを考えるに際して,単に技自体から考えるのではなく,もう少し広く,人間の労働・疎外一般から考えるのでもなく,もっと広く,自然・社会・精神の一般的な運動・発展の法則である弁証法レベルから考えていくということが,南郷継正先生の真骨頂なのではないか。このような三層構造=重層構造をしっかりと捉えられる実力こそ,南郷先生の説かれる重層弁証法の実力ということなのではないかと,今回,本稿を執筆する過程で思わされたことであった。

 いずれにせよ,夢を説くに際して,世界全体の一般的な運動の法則を当然に前提にしたうえで,人間の目的的な行為である労働=疎外をも踏まえて説かれていくのである。このように,より大きな視点から,その生成発展をしっかり把握したうえでそのものを説いていくという説き方こそ,弁証法的な説き方であり,本書で典型的に示されている説き方であろうと思う。こういった説き方からも弁証法をしっかりと学んでいきたいと考えている。

(了)
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2017年04月21日

重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想(4/5)

(4)「技とは何か」を考える

 前回は,『“夢”講義(2)』で説かれている労働と疎外について,そして両者の関係について,見た。人間は,労働することによって,働きかけた対象を変化させるだけではなく,疎外される,すなわち,働きかけた対象から規定されもする,ということを確認したのであった。

 今回は,本書で説かれている技術論を取り上げて考察したい。

 本書では,最後の第5編で技術論が取り上げられている。第5編の目次を以下に引用する。

「【 第5編 】 看護への夢を実現するために

第1章 看護に重要なこととはなにか

 第1節 すべてを看護の問題として
 第2節 観念的二重化の実力が看護の見事な実力となる

第2章 「看護技術論」の柱を説く

 第1節 そもそも技とはなにか
 第2節 看護技術は実体・認識への技である」


 ここでは,聖隷クリストファー大学で南郷先生の技術論が重要視されてきているという話をきっかけに,技術論への導入がなされている。そして,観念的二重化の実力の重要性が,『“夢”講義(1)』で説かれた内容の要約として,再度説かれていく。その後,「そもそも技とはなにか」ということが本格的に説かれていくのである。

 第5編第2章では,技とは動物が関わるモノではなく,本来は人間のみが関わるモノ,関われるモノであるとしたうえで,次のように説かれている。

「そうしますと,次には以下のような思いが浮かんでくるでしょう。

「人間だけが……というと,これは人間と動物との違い,すなわち人間と動物との分水嶺だということだ。なんだ,わかったぞ! 人間だけのモノといえば,脳のはたらき,すなわち認識のことだろう。そうだ,そうだ,技とは認識のなせるワザだったのか。認識が関わって技となるのだ,認識が関わったモノが技となって現象してくるのだ。簡単には,技は認識が創るモノ! なのだ」と。

 そのとおりです。そうなのです。「技は,技能は,技術は認識がなにかに関わって創出されたなにかなのだ」ということなのです。」(pp.224-225)


 すなわち,技とは人間の認識のなせるワザであり,認識が関わって技となるということである。

 逆にいうと,認識のない動物は,全てを本能が統括しているのであり,技などなくても問題なく生きていくことが可能であるということであろう。しかし,本能が薄れた人間の場合は,認識が技を創出していくのであり,この技こそ,薄れた本能を補うようなものであると位置づけられるのかもしれない。

 その後,「始めチョロチョロ,中パッパ」という歌の文句で有名なご飯の炊き方も技であると指摘され,次のように説かれている。

「たしかに,御飯がおいしく炊けるのも,包丁が見事に切れるようになるのも,「物のこと」です。でも,この「物のこと」を技といえるレベルに仕上げたのは「モノ」ではなく,人間の認識なのです。「物のこと」が立派になるのは,「物のこと」が技になるのは,それに関わった認識のオカゲなのです。認識の関わりなくして「物のこと」は技にはならないのです。

 認識が「物のこと」を技化(この「技化」という言語表現は弁証法の量質転化の法則を応用して,量質転化ではダメで量質転化化でなければならない,そうでなければ,弁証法は技にはならないとして,私が独自に創造した,技の創りかたの概念化であるものです)するのです。」(pp.227-228)


 ここでも,「物のこと」が技になるのは,それに関わった認識のオカゲであることが強調され,認識が「物のこと」を技化すると説かれている。「技化」については,後の部分で「技化は認識がなにかに関わって対象を自家薬籠中のものと化すものである」(p.231)と説かれている。したがって,認識こそが「物のこと」を自家薬籠中のものと化すのだ,ということになるだろう。

 具体例で考えてみたい。ご飯の炊き方や包丁の使いかたは,米やお釜,包丁や食材などといった「物のこと」に関わる。これが技といえるほど立派になるためには,認識の関わりが必要だということである。「始めチョロチョロ,中パッパ」というように,初めは弱火で炊き始めて,しばらくしてから強火で一気に沸騰させるのがよい炊き方であるということをしっかりと認識していないと,そして認識したとおりにタイミングを見計らって火加減を調整できないと,技と呼べるほどに立派なご飯の炊き方はできない。包丁の使いかたも,食材の押さえ方や包丁のおろし方などをしっかり認識したうえで,手を駆使できるようにならないといけないし,正しい使いかたをくり返すことによって,意識せずともきちんと切れるようになる=技化する,ということであろう。

 南郷先生はこの後,技といっても「物のこと」に限らないとして,次のように説かれている。 

「「物のこと」とは認識が関わって初めて「技のこと」になるのですが,これと同じように「認識のこと」も認識が関わって初めて「技のこと」,すなわち「技化」されていくのです。」(p.229)


 すなわち,「物のこと」ばかりではなく,「認識のこと」も認識が関わって初めて技化されるということである。

 では,「認識のこと」が技化するとはどういうことか。南郷先生は,庄司和晃氏がことわざのことを「言(葉)の技」と比喩されていたことを紹介し,言葉の大本である認識をも,技化することが可能だと説かれている。そして,「相手の心を読む術(技)とか,心を教育する術(技)とか」(p.229)の例を挙げておられる。その後,次のように説いておられる。

「すなわち,経験したことのない事柄でも,本能がしっかりとはたらく動物にはわかることが可能なのですが,本能のはたらきがほとんどない人間にはなかなかわかることができないのだ,だからこそ,経験のないことでもわかる能力をもつことが必要なのだ,その能力は先天的なものではけっしてなく,自分の努力で訓練で培うことがどうしても必要なのだ,そしてそれこそがその努力(訓練)で培うものが相手の心を読みとる術であり,相手の心を動かせる術であり,相手の心を変えてやれる術なのだ,そしてこの実力をも「技というのだ」ということです。」(p.230)


 ここでは,経験のないことでも分かる能力をもつことが必要なのであり,それは努力・訓練で培うものであり,そのような,相手の心を読みとる術,相手の心を動かせる術,相手の心を変えてやれる術なども技というのである,ということが説かれている。

 これらはまさに看護師や心理士にとって必要な能力であり,技化すべき実力だといえるだろう。これも具体例で考えてみたい。たとえば,筆者のような心理士のところに,うつ状態のクライエントが来談されたとする。そのクライエントの心を読みとる術も一つの技である。これは観念的二重化の実力ということになるだろう。この実力が,技といえるほど立派になるためには,認識が関わる必要があるのである。また,クライエントの心を動かすのも変えてやるのも,ひとつの技である。鬱々としたクライエントの認識を治療的な方向へと運動・変化させるのは,心理士としての大切な技なのである。これも技になるためには,認識の関わりが必要だということである。

 このように,相手の心というような「認識のこと」についても,技化ということが可能なのであり,特に看護師や心理士にとっては,「認識のこと」についての技というものが非常に重要になってくるといえるだろう。

 以上,今回は,本書で説かれている南郷先生の技術論について考察してきた。

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2017年04月20日

重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想(3/5)

(3)労働と疎外の関係を問う

 前回は,南郷継正『“夢”講義(2)』で初学者向けに説かれている弁証法の内容を確認した。南郷先生は,自身の恩師である三浦つとむさんの弁証法に不足しているところを「重層弁証法」として説かれていたのであるが,そこで重要なのは,弁証法でいう自然・社会・精神の概念化と古代ギリシャの弁証術の意義であるとして,その中身を紹介したのであった。

 今回は,本書で夢に関わって説かれている「労働」概念について,特に労働と疎外の関係について見ていきたい。

 南郷先生は,人間が夢を見ることができるようになっていった過程を説く流れのなかで,看護学科学生から出された「労働」というイメージがつかめないという質問に答える形で,労働についてやさしく説いていかれる。まずは学問レベルで説かれる「労働とは」の部分を引用する。 

「労働とは,人間が目的的に対象に観念的・実体的にはたらきかけて,対象を目的的に人間化するべく創りかえることであり,かつ,そのことによって目的とした対象が目的的に人間化することによって,人間が目的のレベルで創りかえられることにある」(p.80)


 ここで大切なポイントは,第一に,労働とは目的をもって対象に働きかける行為である,という点である。あとの部分でも,人間の行為の中で「なにか目的をもってなんらかの対象にはたらきかけて,なんらかのモノ(このモノは実体のみならず,認識をも含みます)を創りだしていく,いける行為を学問的・理論的には「労働」と称するのです」(p.88)と説かれている。

 第二に大切だと思われるポイントは,「『弁証法はどういう科学か』(前出)では,ここを簡単に「自然の人間化・人間の自然化」として説いてあります」(p.80)とあるように,労働とは「自然の人間化・人間の自然化」のことであるという点である。先に見たように,労働とは目的をもって対象に働きかける行為であるから,働きかけられた対象が変化する,すなわち自然が目的に見合ったものとして人間化する,ということはイメージできる。しかし,労働が「人間の自然化」でもあるといわれると,ピンとこない読者もいるのではないか。先の引用文でも「人間が目的のレベルで創りかえられる」とあるが,このことが,特に弁証法の初学者はよく分からないのではないかと思われる。それでも,労働という目的を持った働きかけによって,働きかけた側も変化するというのである。

 これは,非常に弁証法的な労働の捉え方だと思う。働かきかけられた側の変化と,働きかけた側の変化を統一して捉えているからであるし,自然の人間化と人間の自然化というように,人間と自然の相互浸透をきちんと捉えているからである。

 この労働の人間の自然化の側面をより広く捉えた捉え方が「疎外」ではないか。南郷先生は,疎外について次のように規定しておられる。

「疎外とは,(学問レベルから説けば)人間が労働を対象化すると,その人間自らが労働を対象化したモノによって,その人間自体が規定されてしまうこと」(p.81)


 すなわち,疎外とは,労働にともなって,働きかけた対象によってその人間自体が規定されることである。働きかける対象が自然であれば,これは人間の自然化ということになるであろう。ともかく,労働することによって労働した側の人間にも変化が生じるのであり,この側面をとらえて「疎外」というわけである。

 ここで注意を要するのは,南郷先生が「ここでいう人間とは人類一般からなる人間一般であり,簡単には,社会的存在としての人間そのもののこと」を指しており,「ここでまちがってはならないことは,必ず人間一般であって,個としての人ではない」(p.81)と指摘されている点であろう。ここでいう人間とは人間一般のことであるとは,どういうことか。

 まずいえそうなことは,大きな視点で人間をとらえるべきであり,もう少し具体的にいうと,サルから人間への発展の流れを踏まえるべきである,ということであろう。すなわち,生命の歴史を踏まえたうえで,人間の労働=疎外を問題にしない限り,労働=疎外とは何かということは明らかにならない,ということではないか。実際,本書でも,生命の歴史から夢を見る実力への過程が説かれた後で,「労働とは何か」が問われている。個としての人間という,目の前に存在する一人の人間を問題にするのではなく,もっと広い視野から,人間に至る過程をも射程に入れて,弁証法的に,サルまでの生命の歴史をも内に秘めた存在として,人間を見ていくべきであり,そうしてこそ,労働=疎外の謎も解ける,ということではないか。

 もう一ついえそうなこととしては,ある特定の人間が行った労働によって,その労働を行った人間自体が規定されるというのではなく,もっと大きな観点から,人類一般としての人間が行った労働が,結局は人類一般としての人間を規定することになるのだ,というような含意があるのではないか,ということである。どうしてそのように考えられるのかというと,南郷先生は次のように説かれているからである。

「もう一度くり返しておきますが,疎外とは結果として人間が(あるいは人間性=精神が)規定ないし規制されることであり,端的にいえば,人間が人間として社会的に労働した(させられた)結果,自分たち人間の精神が創出した(させられた)資本なり工場なり原爆なりによって,人間のありかた,育ちかた,はたらきかた,生活のしかた,教育のされかたが規定=規制されてくることをいうのです。」(p.85)


 ここで説かれている原爆の例が分かりやすい。原爆を開発した人間と,原爆で被害を受けた広島や長崎の人間は別人である。しかし,大きな観点から見れば,人間が創ったモノによって,人間自体が規定=規制されたということができるのである。こういう捉え方が「人間一般」ということではないか。

 また,「幼児の遊びも,目的を持った両親とか保育士の教育の一環としてあるのなら,しっかりとした労働となります」(pp.88-89)とも説かれている。これも,両親・保育士と幼児を別々の人間として区別するような観点ではなく,もっと大きな観点から,双方を人間一般として捉えるならば,目的をもってある行為を行うことによって,人間一般が学習して,変化・発展していく,ということもできるように思う。先の引用文に,「人間が人間として社会的に労働した(させられた)結果,自分たち人間の精神が創出した(させられた)」と,「させられた」という言葉がカッコ書きで挿入されているが,これはたとえば,個々の具体的な幼児が労働=遊びをさせられたといっても,それは,人間一般という観点から見れば,自分が教育的な目的をもって労働したのであり,その労働によって人間が人間となっていくための社会的な学習を行った,というようなことを意味しているのではないか。

 このような人間の捉え方は,非常に弁証法的であるといえる。なぜなら,前回見たように,弁証法でいう「精神とは個々の誰かのモノをいうのではなく,「英知のすべての集大成の昇華」したモノ」であると説かれていたように,個々の人間を問題にするのではなく,個々の人間をひっくるめて一括りにして,人間一般として捉えることこそが,弁証法的な人間の捉え方だからである。今問題にしている労働とか疎外とかいうことも,個々の人間を問題にするというよりも,そういった個々の人間をひっくるめて一括りにしたところの,人間一般を問題にしている概念なのである。

 以上見てきたように,人間一般のなす目的を持った行為が労働であり,疎外なのであるが,この両者の関係は,端的に次のようにまとめられている。 

「労働も疎外も,人間一般の同じ行為のことを説明しているからです。ただ,労働はその行為の目的性・過程性に重点を置いて説いてあるのにたいし,疎外は結果に重点を置いた言葉なのです。したがって,双方の言葉を直接的同一性レベルで用いることが可能になる努力をしてください。」(p.86)


 ここも非常に弁証法的である。というのは,人間一般の同じ行為を,目的性・過程性と結果という対立物の統一として捉えているからである。すなわち,人間の目的的な行為を,その目的性・過程性に重点を置いて捉えると「労働」となり,その結果に重点を置いて捉えると「疎外」となる,ということである。さらに,マルクス主義の影響で,「疎外」といえば,悪い側面のみが強調されてきたが,ヘーゲルが説くように,よい側面も当然にあるとして,疎外のよい側面と悪い側面を統一して説いておられるのも,非常に弁証法的であると感じた。

 以上,今回は,本書で説かれている労働と疎外について見てきた。

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2017年04月19日

重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想(2/5)

(2)「弁証法とは何か」を確認する

 本稿は,南郷継正『“夢”講義(2)』を読み込み,学んだ内容を言語化しようとすることによって,学びの質を深める目的で執筆している論考である。『“夢”講義(2)』は「弁証法の学び編」とされているだけに,南郷先生が創造された重層弁証法を学び取ることを,特に第一の目的とするものである。

 今回は,その第一の目的たる弁証法そのものを取り上げたい。

 本書は,前回の最後に引用した目次を見ていただければ明らかなように,第1編が「初学者に説く「弁証法とはなにか」」となっており,弁証法とは何かや弁証法の学び方が初学者向けに説かれている。

 初めに,「弁証法とは,自然・社会・精神の一般的な運動とか発展の法則」(p.29)であるとして,弁証法でいう自然とは何か,社会とは何か,精神とは何かが説かれていく。順に,ポイントとなる部分を引用する。

「ここの弁証法でいう自然とは,まず小さくは地球全体の発展過程を含んでの,大きくは宇宙そのものの発展を内に秘めての自然としての流れそのものです。簡単には,地球上の人間社会を除いた全歴史の実体と思ってください。」(pp.29-30)


 すなわち,弁証法でいう自然とは,地球上の人間社会を除いた全歴史の実体のことであり,小さくは地球全体の発展過程を含んでの,大きくは宇宙そのものの発展を内に秘めての自然としての流れそのものということである。

 ここだけ読んでも,いくつもの像が筆者の頭に浮かんでくる。まず,そもそも「弁証法でいう自然」なる捉え方があったのか! という驚きである。同じ「自然」といっても,どのような観点で取り上げるのかによって,その中身は全く異なってくる,ということであろう。別言すれば,誰かが「自然」という言語表現を用いていても,どのような認識=像を表現したものであるかは,表現者の実力や観点次第で変化する,ということであろう。

 次に,その壮大さである。小さくても地球全体の発展過程を含んでいるのであり,大きくは宇宙そのものの発展を内に秘めての概念であるという。南郷学派を学んできているわれわれからすると,いわれてみれば当たり前なのであるが,弁証法の初学者からすれば,一般に「自然」という言葉からイメージするものとは,そのスケールが格段に違うだろう。

 最後に,「自然としての流れそのもの」とか「全歴史の実体」とかとあるように,この「自然」という概念には変化・発展のプロセスが含まれているということである。「弁証法でいう」自然なのであるから,当然といえば当然なのであるが,この「自然」概念は,単に今ある自然ということではなく,また単にかつてあった自然ということでもなく,歴史性を背負ったものとしての自然なのである。

 では次に,弁証法でいう社会と弁証法でいう精神についても,説かれているところを引用してみよう。

「では社会とはなんでしょう。これは人間の生成発展してきた社会の歴史性そのものです。サルが人間に進化してからの時代的流れのすべてをうちに含んで発展してきている,そしてこれからもまだ発展しようとも,あるいは世界大戦とやらで滅亡しようともしている現在の社会の状態そのものです。」(p.30)


「弁証法で説く精神とは,人間が人類として発展・発達してきた流れのなかで,その人類の歴史を創造するのに寄与してきたモロモロの政治家・経済家(企業家・実業家・財界人等々を含んだうえでのすべて経済に関わった人々)・文化人・軍人・作家・芸術家の英知の集大成をアウフヘーベン(より見事なモノとして措定する)したモノをいいます。

 ですから,ここで精神とは個々の誰かのモノをいうのではなく,「英知のすべての集大成の昇華」したモノなのです。そして,この精神は人類の時代として生成発展するモノなのです。ですから,すべての時代の発展的集大成的アウフヘーベンとして考えられているのです。」(p.31)


 ここでは,弁証法でいう社会とは,サルが人間に進化してからの時代的流れのすべてをうちに含んで発展してきている社会の歴史性そのものであり,弁証法で説く精神とは,人類の歴史を創造するのに寄与してきたモロモロの先達たちの英知の集大成をアウフヘーベンしたものであり,人類の時代として生成発展するモノだとされている。

 ここでも,先に自然概念で記したような驚きや壮大さを感じるし,これらの概念も歴史性を含んだものであることが分かる。特に,精神に関わっては,「個々の誰かのモノをいうのではなく,「英知のすべての集大成の昇華」したモノ」という点は非常に重要な指摘だと感じた。弁証法でいう精神を,このように捉ええた人間が,これまでにいたであろうか。

 以上を踏まえるなら,全世界というのは,まずは自然の生成発展があり,その中で社会が誕生して生成発展し,さらにその中で精神が誕生して生成発展するという大きな流れがあり,これら全てを射程に入れ,そこから一般的な運動・発展の法則を導き出したものが弁証法である,ということがいえるだろう。

 南郷先生が,「私の説く弁証法は,社会科学,精神科学,自然科学のすべてを修得したレベルでなされている」(p.49)と豪語されているのも,上記のような自然・社会・精神の概念化がなされたことでも分かると思う。このようにすべての学問を網羅しないと弁証法は分からないのであるし,だからこそ,「弁証法を学ぶばあいには,……せめて中学の全教科の内容を自分の実力とする努力とともにやってください,直接的同一性のレベルで学んでください」(p.50)という助言がなされているのであろう。

 もう一つ,弁証法に関わって本書で重要だと感じたのは,弁証法と弁証術の違いである。今まで説いた,弁証法で説くところの自然・社会・精神の概念化を果たしたというだけでも,三浦つとむさんの弁証法に不足していたものを大きく補ったということになると思うが,もう一つ,弁証法の生成発展の歴史を踏まえて,弁証法と弁証術を区別された点も,南郷先生ならではであり,三浦さんの弁証法に欠けたるものであったと感じた。

 南郷先生は,弁証法の対象は世界全体(森羅万象)であるとし,古代ギリシャの学者たちは全学的研究を行っていたと説かれている。そして,古代ギリシャの学問形成過程にこそ,弁証法の起源があると説かれているのである。これはどういうことか。

 古代ギリシャの学者は,自分の感覚器官を駆使して,自然や社会の現象形態・出来事をしっかりと観察しながら究明しようと努力していたが,それは個々人の能力の及ぶところではなかった。そこで,他人の認識との相互浸透を図ること,すなわち交流かつ議論によって,個々人の限界を突破していったということである。「この一連の議論の,討論の,論争の過程を一つの流れの過程として,すなわち過程的構造としてとらえかえしたものが「ディアレクティク」,すなわち弁証法といわれるものだった」(p.42)と南郷先生は説かれている。このディアレクティクが,エンゲルスが創った法則としての弁証法に対して,方法としての弁証術だったのである。

 ここで大切なのは,弁証法(弁証術)は古代ギリシャの学者たちの全学的研究の流れの中で,学問形成過程で,誕生したものであるということであろう。要するに,学問形成のためには弁証法(弁証術)が必須だったということである。その弁証法(弁証術)という名の学的社会的認識が,哲学の発展の流れの中で生成発展していき,カントからヘーゲルに至る過程で大きく発展して,ヘーゲルの哲学に含まれていた弁証法を,エンゲルスが法則として取り出したということであろう。

 そうなると,方法としての弁証術も,法則としての弁証法も,ともに世界全体に関わるものであり,前者があってこその後者の誕生ということができるであろう。こういった人類の認識の大きな発展の流れは,個体発生においてもくり返す必要があり,われわれも弁証法をしっかりと身につけたかったら,古代ギリシャの方法としての弁証術をも,しっかり研鑽していくことが大切だ,ということになろう。

 このような方法としての弁証術の意義について,三浦つとむさんは(少なくともあまり明確には)説かれていないと思う。方法としての弁証術をもそのプロセスとして内に含んでいるところの弁証法ということが,重層弁証法といわれるゆえんの一つではないかと感じた次第である。
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2017年04月18日

重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想(1/5)

目次

(1)「弁証法の学び編」を読む
(2)「弁証法とは何か」を確認する
(3)労働と疎外の関係を問う
(4)「技とは何か」を考える
(5)弁証法・労働論・技術論は重層構造をなしている

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(1)「弁証法の学び編」を読む

 本稿は,南郷継正『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義(2)』(現代社,以下,『“夢”講義(2)』とする)にしっかりと学び,その学びの成果を認める論考である。

 本年は,『“夢”講義』全6巻を研究会として組織的に学び,その成果を言語化しようとすることによって,より学びの質を深めていく年にしたいと,年頭言で宣言しておいた。本稿は,2月に掲載した『“夢”講義(1)』の感想に続く第2弾である。

 では,『“夢”講義(2)』にはどのような内容が説かれているのか。ここに関わって,「プロローグ――まえがきに代えて――」では,次のように説かれている。

「そこをふまえて,すなわち第二巻である本書は第一巻の認識論の学習をふまえて,そのあなたの「アタマとココロ」の見事な使いかたの基本となる学びを中心にすえて,説いてあります。

 では「見事な使いかたの基本となる学び」とはなんでしょうか。読者のみなさんには,およその推測はついているはずです。端的にいえば,それは弁証法の学びです。」(p.16)


 すなわち,本書ではアタマとココロの見事な使いかたの基本となる学び=弁証法の学びを中心にすえて説いてあるということである。

 ここで確認しておくべきことは,そもそも『“夢”講義』は,読者のアタマをよくするためにこそ説かれているということである。第一巻では,アタマとココロのはたらきを立派にするための学問である認識論の基本が説かれ,それを踏まえて第二巻では,アタマとココロの見事な使いかたの基本となる学び=弁証法の学びが説かれていくということである。したがって,本書をなんらかの客体の研究書として,第三者的に読んでいては意味がない。そうではなくて,自らの主体の問題として,自分のアタマをよくするためにはどうすればいいのかという観点を把持しながら,主体的に読み込んでいく必要があるのである。

 「プロローグ――まえがきに代えて――」では続いて,三浦つとむさんの『認識と言語の理論(第一部)』が引用され,これが夢の問題に取り組むヒントになったと説かれている。そのうえで,読者に不足しているのは弁証法の学びであるとして,三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』は本当に基本の書なので,学問レベルの問題,特に“夢”の問題には歯が立たないと断言されている。そのうえで,次のように説かれていくのである。

「私は読者のみなさんにしっかりとした実力をつけてほしいと願っているので,恩師の著作に不足するところを,この『“夢”講義』でも説(解)いてきています。それで第一巻は「認識論入門」ということになっており,本第二巻は,そこを深める実力養成のための学問,すなわち「弁証法の学び編」となっているのです。

 恩師の著作の「弁証法」と「認識論」はいってみれば単層レベルの単純なものでしかありません。学問レベルの問題を解くには,単層弁証法や単層認識論であってはなりません。必ず重層構造のものが要求されます。

 それはなぜかというと,学問の対象である,自然も社会も精神もすべて重層構造で成り立っているからです。(中略)

 本書は“夢”を説きながらも,そこに必須の重層的な弁証法への学びがしっかりと説かれていくことになっています。」(pp.22-23)


 ここでは,三浦つとむさんの弁証法は単層レベルなので,学問の問題を解くためには不十分であり,重層構造で成り立っている学問の対象を説くための重層的な弁証法をしっかりと説いているのが本書である旨,説かれている。

 そこで本稿では,本書から重層的な弁証法をしっかりと学び取ることを第一の目的として,その他,本書で説かれている重要な内容も取り上げて,理解を深めていきたいと思う。連載の第2回では弁証法を直接取り上げ,第3回では労働と疎外を取り上げる。労働と疎外は,人間を理解するうえで欠くことのできない概念であり,かつ,われわれが執筆しようとしている「新・社会とはどういうものか」においても核となる概念になるはずである。そこで,しっかりとこの概念を理解しておきたい。連載の第4回では,技術論を取り上げる予定である。技術論は,南郷継正先生の先駆的な業績であるし,これまた人間を理解するうえでは非常に大切なポイントとなってくるからである。

 では次回以降,上記の計画にしたがって説いていくこととする。今回の最後に,『“夢”講義(2)』の目次を掲載しておく。



なんごうつぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(2)


【 第1編 】 初学者に説く「弁証法とはなにか」

第1章 「弁証法とはなにか」を弁証法的に説く

 第1節 弁証法とはなにか
 第2節 弁証法の対象は世界全体(森羅万象)である
 第3節 弁証法の起源は古代ギリシャの学問形成過程にある
 第4節 弁証法という名は歴史的な意味をもっている
 第5節 弁証法と弁証術の違いを説く

第2章 弁証法の学びかたを説く

 第1節 弁証法に必要な自然・社会・精神の学び
 第2節 弁証法の具体的な学びかた

【 第2編 】 弁証法的に説く「夢とはなにか」

第1章 「いのちの歴史」から説く夢をみる実力への過程

 第1節 頭脳活動の本体は脳全体である
 第2節 再び,看護学生からの手紙について
 第3節 「夢とはなにか」の問いかたを問う
 第4節 魚類から両生類への脳の実体としての実力の発展
 第5節 サル(猿類)における問いかけ的認識の芽ばえ
 第6節 夢は睡眠中に脳が勝手に描いている像である

第2章 夢にかかわって「労働とはなにか」を問う

 第1節 労働の結果は哲学用語「疎外」として説かれている
 第2節 人間は労働することによって必ず「疎外」される存在である
 第3節 労働とは目的をもって対象にはたらきかける行為である

第3章 夢へといたる認識の発展過程を説く

 第1節 夢は脳が勝手に描いている認識=像の一つである
 第2節 認識=像形成の原点は外界と五感器官にある
 第3節 認識=像は脳のなかで創りかえられる
 第4節 人間は教育されて外界を勝手気ままに描く実力をつける

【 第3編 】 看護の事例から「夢とはなにか」を説く

第1章 看護にかかわっての「痛みとはなにか」を説く

 第1節 再び,夢にうなされる事例を説く
 第2節 痛みは神経の重要なはたらきの一つである
 第3節 運動させなければ治らない神経の痛みがある
 第4節 患者の痛みを見事にやわらげた看護の技とは

第2章 神経と夢のかかわりを説く

 第1節 神経のはたらきが夢を描かせる事例
 第2節 看護の視点から,夢にうなされる事例を読み解く

【 第4編 】 学問的に説く「夢とはなにか」序論

第1章 夢を学問的に解明するとは

 第1節 唯物論の立場からしか夢は解明できない
 第2節 赤ちゃんの夜泣きの構造と夢にうなされる構造
 第3節 人間にとって夢は必然性である
 第4節 問いかけ的認識の誕生が夢の大本である
 第5節 人間の神経のはたらきは昼間と夜間とで異なる
 第6節 学問書は体系的に説かなければならない
 第7節 夢に関する学問的でない書物の一例

第2章 夢にかかわる人間の生理構造を説く

 第1節 人間は労働によって特殊な生理構造をもつにいたる
 第2節 過程的構造の解明に弁証法は必須である
 第3節 人間は立つことにより脳のはたらきに変化が生じる
 第4節 人間は労働により質的に違った像を形成するにいたる
 第5節 人間にとっての睡眠とはなにか
 第6節 呼吸とはなにかから解く「睡眠時無呼吸症候群」

【 第5編 】 看護への夢を実現するために

第1章 看護に重要なこととはなにか

 第1節 すべてを看護の問題として
 第2節 観念的二重化の実力が看護の見事な実力となる

第2章 「看護技術論」の柱を説く

 第1節 そもそも技とはなにか
 第2節 看護技術は実体・認識への技である


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2017年03月09日

システムズアプローチを弁証法から説く(5/5)

(5)システムズアプローチは弁証法性を踏まえている

 本稿は,天才セラピストと称されている東豊が採用しているシステムズアプローチを俎上に載せ,なぜこの方法でセラピーが奏効するのかを,弁証法の観点から説いていく論考でした。システムズアプローチとは,「システムを念頭に置いた心理・社会的援助の総称」(東豊『セラピスト入門』p.5)のことであり,部分はシステムのあり方に規定され,システムのあり方は部分に規定されているという特徴を活かして介入するセラピーでした。ここで,これまでの流れを振り返っておきたいと思います。

 はじめに,システムズアプローチの前提となっているものの見方考え方について検討しました。それは,円環的思考法と呼ばれており,一方通行の直線的思考法とは違い,「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。」などと考える考え方,「事象Aは事象Bの原因でもあり,結果でもある(事象Bは事象Aの原因でもあり,結果でもある)」というように,双方向的な見方をする考え方のことでした。このような円環的思考法は,物事を矛盾として,対立物の統一として捉える見方であり,非常に弁証法的な見方といってよいのでした。システムズアプローチでは,このような対象の弁証法性を的確に捉えられるような見方が採用されているからこそ,対象をきちんととらえられ,その対象に適切に働きかけていくことが可能となっているのだと説きました。もう一つ,コンテンツ(内容)よりもコンテクスト(前後関係,文脈)を重視するというシステムズアプローチの見方も検討しました。これは,コンテンツに囚われることなく,コンテクストに目を向け,悪循環のパターン(コミュニケーションの連鎖)を見出そうとするものの見方のことです。これは,システムの部分同士や部分と全体のつながりを見ようとする見方であり,全体を踏まえることによって部分だけを見ていたのでは見えてこなかった対立する性質を浮き彫りにする見方でもあるという意味で,非常に弁証法的な見方といってよいのでした。このように,システムズアプローチが奏効する背景には,弁証法的なものの見方があるのでした。

 次に,システムズアプローチの代表的・典型的技法の一つである「ジョイニング」を取り上げて,これを弁証法の観点から説きました。ジョイニングとはお仲間に入れていただくということであり,システムに参加する,とけ込むことを意味していました。東豊は,ジョイニングがすべてであり,ジョイニングができないと,他の指導は無意味になるし,ジョイニングのセンスがないと援助者にはなれないと断言するほど,ジョイニングを重視しているのでした。では,どのような操作をすればジョイニングができるのでしょうか。東豊は,ジョイニングを実現するためには,相手のムードや雰囲気,動き,話の内容,ルールに合わせなければならないと説いていました。これらは要するに,言語表現・非言語表現を媒介として,当該のシステムの諸々の社会的認識を見極め,セラピスト自身もその社会的認識を有しているものとしてふるまうことであるといえると説きました。セラピストは,当該システムの多様性・変化性を見抜き,それに合わせてこちらも変化していくという弁証法的な運動・変化が求められるのでした。一般に,ある対象をコントロールしたり思い通りに変化させたりしたい場合,まずはその対象の性質を見抜き,それに合わせてこちらが動いていくことが必要となりますが,システムズアプローチで家族システムを扱う場合も,論理的には全く同様のことがいえるのでした。すなわち,セラピストは,何か悪循環に陥っている家族システムをコントロールし,思い通りに変化させたいわけですが,そのためには,それぞれの家族システムの性質=社会的認識をしっかりと見極め,それに合わせてこちらが動いていく必要があるのでした。ジョイニングがそのまま変化に向けた介入になりうるということを,事例を通して検討したあと,「問題」と思われるようなものでも,システムズアプローチにおいてはそれも「資源」であるととらえて,活用していくという点,および,ジョイニングに際しては,一方に肩入れしないように,非敵対的矛盾を実現するとともに解決するようなポジショニングを常に意識する必要があるという,ジョイニングに関わるあと2つの弁証法的側面にも触れました。

 最後に,もう一つの代表的・典型的技法である「リフレーミング」を取り上げて,これを弁証法の観点から論じました。「フレーム」(frame:枠あるいは枠組み)とは,物事の受け止め方,意味づけの仕方のことであり,リフレーミングとはクライエントがすでに所持しているフレームを変える作業であり,面接のゴールに至る第一歩であるとされていました。リフレーミングの中でもよく知られているものに,ポジティブ・リフレーミング(positive reframing:肯定的意味づけ)があり,これは否定的に見えることの中に肯定的側面を発見することであると東豊の本では説かれていたのでした。まず,「母親が口うるさいせいで,子どもが反抗的になった」というフレームを,「子どもが反抗的なせいで,母親が口うるさくなった」とリフレーミングしたり,「夫が家事を何もしないせいで,妻がすべてをやらないといけない」というフレームを,「妻が全部やってしまうせいで,夫は何もしない」とリフレーミングしたりする単純なリフレーミングについて,弁証法の観点から考察しました。これらはすべて,現実のもつ二面性,すなわち矛盾をそれなりに捉えたものであり,これらのリフレーミングが可能な現実的な根拠は,現実のもつ弁証法性にあると指摘しました。弁証法の教科書である『弁証法はどういう科学か』にも,「因果関係の構造」として,原因と結果には直接の統一があることや結果の内部にも原因があることが指摘されていると紹介しました。問題は役に立っているので解決すべきではないとリフレーミングするようなポジティブ・リフレーミングについても検討しました。二つの事例を紹介し,そこでは,問題とされている症状は,対立する性格(=システム内の他の問題を解決する機能)も有していて,弁証法的な存在であるがゆえに,ポジティブ・リフレーミングによって,180度異なった見方をすることが可能になったのだと説きました。また,人間の認識は,受動的であると同時に能動的であるという矛盾した存在であるから,見たいようにものごとを見る傾向があるのであり,ポジティブ・リフレーミングはこのような認識の弁証法性を活用した方法であるとも指摘しました。

 以上要するに,システムズアプローチが前提としているものの見方は非常に弁証法的であり,システムズアプローチが用いる代表的・典型的技法であるジョイニングやリフレーミングも,現実の弁証法性を踏まえたものになっているということです。弁証法的なものの見方が前提となっているために,現実の運動・変化やつながりを的確に捉えることができ,技法が弁証法性を踏まえているために,現実の弁証法性に見合った形で介入でき,思い通りに変化させることができるのだということです。東豊のセラピーが「天才的」と称されるのも,システムズアプローチという方法論を採ることによって,無意識的にではあれ,弁証法的な見立てと介入を行っているからこそ,ということもいえるでしょう。弁証法の教科書には,「現実の世界が弁証法的な性格を持っているのですから,現実ととりくんでそのありかたを正しくつかんだ著述には,多かれ少なかれ弁証法が顔をのぞかせています」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.244)と説かれていますが,システムズアプローチはその非常に典型的な実例だといってもいいでしょう。

 東豊は,非常に教育熱心なことでも知られています。大学院生に対する指導の一端は東豊『セラピスト誕生』などにも描かれていますが,そこで描かれているように,ロールプレイによる徹底した指導によって,院生はシステムズアプローチを学ぶと直接に,それとは自覚せずに,弁証法をも習得していくのだといえるでしょう。たとえば,物事をつながりで見ること,物事の両面性,矛盾を見ること,相手の変化性に合わせてこちらも変化すること,問いかけを変えればものの見方が変わることなどを,システムズアプローチと直接に,学んでいくのです。そうすることによって,弁証法の基本がある程度身につき,その弁証法の実力でもってセラピーを行うからこそ,面接上手になっていくのだと考えられます。

 リフレーミングのところで紹介したように,問題を問題として捉えずに,かえってそれが役に立っているのであるから,その問題を解消しようとすべきではない,とするリフレーミングは,別の角度から見ると,「逆説的介入(パラドックスの技法)」などと呼ばれることもあります。問題を解決しに来ているクライエントに,問題は解決すべきではないと教示して,それによって,実は問題の解決を図ろうとしているからこそ「逆説(パラドックス)」なのです。これも弁証法的に捉えれば,回り道によって問題解決を図ろうとしているわけであり,「否定の否定の法則」を使ったものだということもできるでしょう。

 また,システムズアプローチでは,家族システムにセラピストがジョイニングして,セラピストをも構成員として加えた「治療システム」の中でセラピストが介入し,従来の相互作用とは違った相互作用をもたらすようにします。すなわち,何らかの悪循環を好循環に変えるわけです。そうして,セラピストが抜けた家族システムにおいても,その好循環が維持するようにするのです。これは弁証法的に捉え返せば,家族システムと治療システムの相互浸透といえるのであり,治療システムの好循環が家族システムに浸透していくことを狙うのがセラピーである,ということがいえるでしょう。

 このように,連載2〜4回で見た以外にも,システムズアプローチは弁証法的な発想がちりばめられており,弁証法的な介入を行って成果を上げているといえるのです。

 本稿では,東豊が何故天才と称されるのかという問題意識のもと,彼が採用しているシステムズアプローチの優れた側面に焦点を当てて,これまで論じてきました。それでは,システムズアプローチを学べば,弁証法もしっかり勉強できて,面接上手になっていうことなしなのかというと,そういうわけでもありません。システムズアプローチには,大きな落とし穴があると筆者は考えています。詳細はまた別の機会に説きたいと思いますが,以下で簡単に触れておきます。

 結論から言いますと,システムズアプローチは観念論的な世界観に立っている点が大きな欠陥だといえます。観念論に陥ってしまっているのは,システムズアプローチが「社会構成主義」に依拠しているからです。東豊は次のように説いています。

「いかに真実のようにみえても,それはひとつのフレームに過ぎない。そして,多くの人が同じフレームを心に描いて言葉にすることで,社会的に存在感をもつフレームができあがる。社会構成主義ですね。だから,リフレーミングとは,脱構築,あるいは物語の書き換えのための作業であるといってもいいのです。」(東豊『リフレーミングの秘訣』p.95)


 ここで説かれていることは,真実なんてものは存在せず,社会的な現象はすべてフレーム(受け止め方,意味づけの仕方)によって創られる,ということです。認識が社会を構成するという主張なので,これは観念論ということになります。現実には無限に多様な性質があるから,現実はフレーム次第で異なって認識される,というのであれば唯物論なのですが,そこから行き過ぎて,フレーム次第で現実はいかようにも創られるとしてしまうと,観念論に転落したことになってしまいます。

 ではなぜ観念論ではだめなのでしょうか。このあたりも別稿で詳細に論じたいところではありますが,簡単に説けば,一つには,観念論では,人間の認識は初めから「ある」とされているので,認識の生成発展の必然性が解けなくなってしまうからです。われわれの行う心理臨床は,端的にいえば相手の認識を変えるための働きかけですから,その認識の生成発展の必然性を掴むことがはじめからできないような世界観に立っていては,限界が来るのは論理的に明らかです。

 もう一つ,観念論は宗教と親近性がありますので,宗教の方に流れてしまう可能性が高いのです。実際,東豊は近年,神様やサムシング・グレートなるものに対する信仰を著作で公表しています。そしてセラピストは「他力本願」であるべきだと力説しているのです(東豊『リフレーミングの秘訣』p.46)。論理的には,神様の力を認めれば認めるほど,人間の力を不当に低く見積もることになりますので,セラピストの努力や実力を不当に低く評価したり,最悪の場合,セラピーで相手を力づけるのではなく,相手を無力なものとして扱う可能性すら生まれてくるといえるでしょう。

 システムズアプローチの限界について,もう一つ別の側面を指摘しておくならば,弁証法性を踏まえているとはいえ,文化遺産としての弁証法をしっかりと学んで吸収しているというわけではない点も挙げられます。認識論についても同様のことがいえます。要するに,哲学の遺産である弁証法や認識論といった,人類の文化遺産をしっかりと受け継いで成立したものではないために,運動・変化やつながり,それに人間の認識といったことについて,法則性レベルの把握が弱く,連載第4回の最後にも触れたように,偶然に左右される側面が大きくなってしまうのです。

 では,以上のように観念論に落ち込まずに,しっかりと弁証法的な介入ができるようになるためには,どうすればいいでしょうか。それは,システムズアプローチを学ぶにしても,唯物論的弁証法と科学的認識論の学びを踏まえることです。また,より根本的には,唯物論的弁証法と科学的認識論を心理療法の領域に具体化した新しい理論体系を創っていく必要があるといえるでしょう。それこそ,筆者が目指しているものであり,唯物論的弁証法と科学的認識論をこれまで学んできた臨床心理士である筆者の歴史的な使命であるといます。

 このような使命を全うできるように,これからも弁証法・認識論,および心理療法の研鑽を積んでいくことを決意して,本稿を終えたいと思います。

(了)

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2017年03月08日

システムズアプローチを弁証法から説く(4/5)

(4)リフレーミングの根拠は現実の弁証法性にある

 前回は,システムズアプローチの代表的・典型的技法のひとつであるジョイニングを取り上げ,それを弁証法の観点から考察しました。ジョイニングとは,お仲間にさせていただくことですが,そのためには,当該のシステムの社会的認識の変化性に合わせて,セラピストも弁証法的に変化していく必要があるのであり,そうしてこそ,対象となるシステムを思い通りにコントロールできるのだと説きました。また,ジョイニングには,「問題」も「資源」として捉える対立物の統一的な発想が含まれていること,ジョイニングの際には一方のみに味方せずに,非敵対的矛盾を実現するとともに解決するような形態を創造しながら,システム全体に合わせていく必要があることにも触れました。

 今回は,システムズアプローチのもう一つの代表的・典型的技法である「リフレーミング」を取り上げて,これを弁証法の観点から論じたいと思います。

 まず,リフレーミングとは何かを説明するために,「フレーム」について説明します。システムズアプローチにおいては,ものごとは諸要素の円環的な相互作用によって成り立っていると考えます。この相互作用をどのように切り取って認識するかによって,ものごとに対する受け止め方,意味づけの仕方は変わります。たとえば,「夫の帰宅が遅いせいで,妻が不満をいう」というのと,「妻が不満をいうせいで,夫の帰宅が遅くなる」というのは,どちらも現実の相互作用の一面をとらえたものであり,両方とも正しいと考えられます。しかし,前者のように切り取れば,夫が悪いことになり,後者のように切り取れば,妻が悪いということになります。このように,現実の切り取り方によって,ものごとの受け止め方,意味づけの仕方は変わるのです。このような受け止め方,意味づけの仕方を総称して,システムズアプローチにおいては「フレーム」(frame:枠あるいは枠組み)と呼ぶのです。

 では,リフレーミングとは何でしょうか。東豊は次のように説明しています。

「前述した通り,システムズアプローチを専門とするセラピストは,コミュニケーションの相互作用を使って様々な変化を作る職人です。ゴールとしては,クライエントの心身の変化であったり家族の変化であったりするのですが,多くの場合,その第一歩はクライエントのもつフレームを変化させることであるといえます。クライエントがすでに所持しているフレームを変える作業,それがリフレーミングです。セラピストは面接中,様々なレベルで,様々な方法を駆使してリフレーミングを行います。」(p.18)


「リフレーミングの中でもよく知られているものに,ポジティブ・リフレーミング(positive reframing:肯定的意味づけ)があります。これは,クライエントのもつ否定的なフレームを,セラピストが肯定的な形に言い換えるものです。

 「ものは言いよう」と一般にいわれるように,どのように否定的にみえることでも,その肯定的な側面を発見すること(引き出すこと)は容易です。たとえばあるクライエントが,「(母・妻である)私は病気で家事ができないので,夫や子どもたちにやらせてしまっているのです」と述べたとします。これに対してセラピストは,「それは病気ではなく,家事をしないことで夫と子どもの協力関係を作ろうとする,あなたの無意識の知恵なのです」とポジティブ・リフレーミングすることができるでしょう。あるいは,家族間のコミュニケーションにおいて,「父親と子どもが口論していると,母親が口を挟む。すると父親がトーン・ダウンし,今度は子どもと母親の口論が始まる」というパターンがみられたとします。この場合,これを「母親が父親と子どものコミュニケーションの形成を邪魔している」とみるのではなく,「母親が父親と子どもの関係を守っている」とポジティブ・リフレーミングすることができるわけです。」(pp.19-20)


 ここでは,リフレーミングとはクライエントがすでに所持しているフレームを変える作業であり,面接のゴールに至る第一歩であるとされています。そして,ポジティブ・リフレーミングとは,否定的に見えることの中に肯定的側面を発見することであるとして,その具体例がいくつか挙げられています。

 では,このようなリフレーミングという技法を,弁証法の観点から検討すると,どのようなことがいえるでしょうか。まず,もっとも単純なリフレーミングを取り上げてみましょう。それは,原因と結果を入れ替えるリフレーミングです。先ほど取り上げた例でいうと,「夫の帰宅が遅いせいで,妻が不満をいう」というのを,「妻が不満をいうせいで,夫の帰宅が遅くなる」と言い換えるものです。他にも,「母親が口うるさいせいで,子どもが反抗的になった」というフレームを,「子どもが反抗的なせいで,母親が口うるさくなった」とリフレーミングしたり,「夫が家事を何もしないせいで,妻がすべてをやらないといけない」というフレームを,「妻が全部やってしまうせいで,夫は何もしない」とリフレーミングしたりするのも,原因と結果を入れ替えた単純なリフレーミングの例です。

 これらはすべて,現実のもつ二面性,すなわち矛盾をそれなりに捉えたものであり,これらのリフレーミングが可能な現実的な根拠は,現実のもつ弁証法性にあるということができます。連載第2回では,システムズアプローチが有する円環的思考法について紹介しましたが,そもそも現実は,いろいろな要素の相互作用として成立していますので,一面を切り取れば原因ともなり,別の一面から見れば結果ともなる,ということがいえるわけです。このように非常に弁証法的なものの見方がシステムズアプローチの前提にあるので,その見方を技法として取り出したものがリフレーミングである,ということができるでしょう。

 原因と結果については,弁証法の教科書にも「因果関係の構造」として,次のように説かれています。

「科学は原因と結果とのつながり,いわゆる因果性というものを問題にします。池に石を投げると波紋がおこる,波紋がおこるとハスの花がゆれる,──これが因果関係です。石が原因,波紋が結果,原因が結果を媒介する,これが常識です。しかし因果のつながりを考えると,波紋という結果そのものは,同時にまたハスの花をゆれさせる原因ともなっているわけで,ここに結果と原因との直接の統一があります。さらにつっこんで考えてみると,水の波紋が石の結果だと一方的にきめてしまうこともできなくなります。もしこれが氷なら,波紋は起らないでしょう。水自身,石によって波紋を起すような性質を持っていたことが,やはり波紋の原因の一つであると考えなければならなくなります。外部の原因から結果が媒介されるだけでなく,結果として生れる現象の内部にもまた原因のあることを考えなければならなくなります。」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.93)


 すなわち,原因が結果を媒介するだけではなく,その結果は,また次の結果の原因にもなるという直接の統一があり,さらに外部の原因から結果が媒介されるだけではなく,結果として生れる現象の内部にもまた原因があるのである,ということです。システムズアプローチでは,ここまで論理的にきちんととらえているわけではないとはいえ,あるものは原因でもあり結果でもある,というように非常に素朴ながら弁証法的な見方をするように促されているわけです。すなわち,現実の弁証法性を踏まえているからこそ,リフレーミングが可能となり,それによってシステム全体の変化も引き起こすことができるのです。

 次に,ポジティブ・リフレーミングについても見ていきましょう。東豊の本に登場するポジティブ・リフレーミングの代表格といえるのは,問題をポジティブに捉え返すというものです。すなわち,ある問題に困っているシステムに対して,「問題は役に立っているので解決すべきではない」とリフレーミングするのです。具体的にはどういうことでしょうか。東豊『セラピスト入門』で紹介されている事例を2つ紹介しましょう。

 まず,夜尿に困っている小学生の事例(p.198〜)です。この小学生の母親は長年,姑との関係に悩んでおり,涙の日々であり,夫も仕事にいちずで,相談に乗ってくれなかったが,息子の夜尿の問題が生じてからは,姑のことで涙している暇もなく,また息子のことで姑とともに心配するという共同作業ができるようになったばかりでなく,夫も相談に乗ってくれるようになって,夫婦関係も安泰になったということです。こういった情報を掴んだセラピストは,両親と息子を前にして,いかに夜尿という症状が家族の役になっているかを説明し,息子ほどの家族思いはいない,息子のオシッコこそ,かつての母親の涙である(笑),などと説いたというのです。この面接後,夜尿が急速に改善したということです。

 次の事例は,女子大生がうつになった事例(p.200〜)です。実は,この女子大生には姉がいたのですが,1年前にスキー場で亡くなっていたのです。それ以来,母親のうつが始まり,毎日毎日泣き暮らしていたということです。父親もどう支えていいのか分からずに酒におぼれる日々だったそうです。ところが,この女子大生がうつ病を発症したのちは,母親は世話のために泣いていられなくなり,父親も,生きている者を心配している母親に対しては援助しやすくなり,酒もピタッとやめたといいます。こういった情報収集をした後,セラピストは,彼女がいかに家族思いで,いかに症状が家族の役に立っているかを,もてる演技力をすべて注いで語っていきました。面接の三週間後,彼女のうつは回復し,すっかり普通の女子大生に戻っていたということです。

 この二つの事例でも,問題とされている症状は,対立する性格も有していて,弁証法的な存在であるがゆえに,ポジティブ・リフレーミングによって,180度異なった見方をすることが可能になったのだ,ということがいえるでしょう。また,人間の認識は,受動的であると同時に能動的であるという矛盾した存在であるから,見たいようにものごとを見る傾向があります。このことは,「人間には,自分のもっている癖の通りにしかものごとがみえない(みようとしない)という習性があるのかもしれません」(東豊『リフレーミングの秘訣』pp.13-14)という形で触れています。ポジティブ・リフレーミングはこのような,受動的であると同時に能動的であるという認識の弁証法性をプラスの方向へと活用した方法である,ということもいえるでしょう。

 さらに,システム構成員のフレームを変えることによって,まわりまわって症状が消失することを狙うというのも,ものごとはつながりあっており,そのつながりを活かしているという意味で,弁証法的な介入の方法だということもいえます。リフレーミングでは,システム構成員の問いかけ像を変えることによって,反映を変え,反映(=認識)が変わることで,認識に規定されている個々人の言動が変わり,それによって構成員間のコミュニケーションが変わり,それによって社会的認識が変わり,していく中で,当初の「問題」の維持要因が変わっていくのでしょう。これによって問題が成り立っていたメカニズムが崩れることになり,問題が消失していくのだと考えられます。これがどのようなつながりになっているのかについては,システムズアプローチでは問題にしない(できない)ので,介入が奏効するかはある程度偶然に左右されるといってもいいのですが,リフレーミングをくり返すことによって,かなりの確率で「問題」とされていたことの維持要因が変化して,最終的に問題が解消することになるのです。

 以上見てきたように,リフレーミングは,現実のもつ弁証法性を根拠として,さらに認識の弁証法性を活用して成り立つ技法であり,現実のつながりを前提としているという意味での,非常に弁証法的な技法だということができるのです。

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2017年03月07日

システムズアプローチを弁証法から説く(3/5)

(3)ジョイニングでは相手に合わせた変化が求められる

 前回は,システムズアプローチのものの見方である円環的思考法とコンテクスト重視の見方を取り上げ,両者ともに弁証法的なものの見方といえるのであり,そのように対象の弁証法性をしっかりと把握できるからこそ,対象の性質に見合った介入ができ,その介入が成功するのだということを説きました。

 今回は,システムズアプローチの代表的・典型的技法の一つである「ジョイニング」を取り上げて,これを弁証法の観点から説いていきたいと思います。

 まず,ジョイニングについての一般的な説明を引用しておきます。

「ジョイニング(Joining)とは,構造的家族療法の創始者であるアメリカのS・ミニューチン先生の言い出した用語で,平たく言えば,お仲間にさせていただくことといった意味です。よくラポール(Rapport)と混同されることがありますが,後者は信頼関係そのものを意味し,かつ,なにかしらこころの深いところで起きているものといったイメージを彷彿させますが,前者はむしろ信頼関係に至るプロセスとそのための手段を意味しているようですし,なにかしら表面的で意図的操作的なイメージを彷彿とさせるものです。」(東豊『セラピスト入門』p.41)


 要するに,ジョイニングとはお仲間に入れていただくということであり,システムに参加する,とけ込むことだといってもいいでしょう。

 東豊は,このジョイニングを非常に重視しています。その重要性について,次のように説いています。

「私は,家族療法を学びにくるひとにはいつも「ジョイニングがすべて」と強調して語っているし,実際,ジョイニングが上手になってもらえないと,それ以上のことは指導できそうもない。はっきり言って,ジョイニングのセンスがないとよい家族療法家にはなれないと思う(それどころか,どのようなタイプの援助者にもなれないと思っている)。」(東豊『家族療法の秘訣』p.169)


 ここでは,ジョイニングがすべてであり,ジョイニングができないと,他の指導は無意味になるし,ジョイニングのセンスがないと援助者にはなれないと説かれています。

 ここで「家族療法」という言葉が出てきているので,一言,注意事項を述べておきます。ここでの家族療法とは,これまで説いているシステムズアプローチとほぼ同義です。システムズアプローチでは,家族システムを扱うことが多く,できるだけ関わっている家族全員に来談していただき,その家族集団と面接をしていくことになります。ですから,システムズアプローチによる心理療法は,だいたい家族療法になるのです。ただし,システムズアプローチによる個人面接ということも場合によっては可能ですし,家族療法といえば必ずシステムズアプローチになるかといえば,そうともいえず,精神分析的なアプローチによる家族療法というものも存在しています。しかしここでは,ごく大雑把に家族療法=システムズアプローチととらえていただいてけっこうです。

 システムズアプローチでは,セラピストはまず,家族システムの一員として受け入れてもらう必要があります。そのシステムのお仲間に入れていただかないかぎり,介入のしようがないのです。そういう意味では,ジョイニングはシステムズアプローチのすべてであり,第一に習得すべき技法だといえるでしょう。それだけではなく,ジョイニングはラポール(信頼関係)構築に至るプロセスでもありますので,どのようなタイプの心理療法を行なうにせよ,必要不可欠な技法であるともいえるでしょう。

 では,セラピストは具体的に,どのような「操作」をすることによって,ジョイニングを実現するのでしょうか。それについては,以下の4つのテクニックが挙げられています。

「1 相手のムードや雰囲気(家族であるなら家風といったようなもの)に合わせること。
2 相手の動きに合わせること。
3 相手の話の内容に合わせること。
4 相手のルールに合わせること。」(東豊『セラピスト入門』p.48)


 すなわち,ジョイニング(お仲間にさせていただくこと)を実現するためには,相手のムードや雰囲気,動き,話の内容,ルールに合わせなければならない,ということです。ムードや雰囲気に合わせるというのは,カッコ書きで「家風」とあるように,そのシステム(小社会)が表現によってそれとなく醸し出している社会的認識に合わせる,ということです。動きに合わせるということは,足を組むことや顎に手を添えること,姿勢を正すこと等といった,文字通り,相手の認識の表現たる動き(非言語表現)に合わせるということです。話の内容に合わせるとは,これまた相手の認識の表現たる言語表現に合わせるということです。ルールに合わせるというのは,相手の持っている社会的認識たる規範(意志の対象化されたもの)に合わせるということです。

 要するにジョイニングとは,お仲間にさせていただくために,言語表現・非言語表現を媒介として,当該のシステムの諸々の社会的認識を見極め,セラピスト自身もその社会的認識を有しているものとしてふるまうことである,といえるでしょう。あるシステムAと,別のシステムBとでは,それぞれが把持している社会的認識は全く別物ですから,セラピストはそれぞれの社会的認識をしっかりと把握して,自分もそれに合わせて変化していく必要があるのです。つまり,セラピストは,当該システムの多様性・変化性を見抜き,それに合わせてこちらも変化していくという弁証法的な運動・変化が求められるのです。

 一般に,ある対象をコントロールしたり思い通りに変化させたりしたい場合,まずはその対象の性質を見抜き,それに合わせてこちらが動いていくことが必要となります。たとえば,ガラスのコップを扱うときと,ゴムボールを扱うときとでは,われわれは全く違ったふるまい方をするはずです。ゴムボールであれば,ぞんざいに扱って,そのへんの床にぽいっと投げておくこともありますが,ガラスのコップに対しては,そのような扱い方はせずに,置きたいときには,丁寧に置く場所まで手で運んで,静かに置くはずです。これは,われわれがガラスのコップの性質を見抜いているからであり,ゴムボールのようにぽいっと投げてしまえば,たちまち割れてしまうことを知っているからです。だからこそ,ガラスという対象の性質に見合った形で,こちらは動いていくわけです。これが対象をコントロールするということでしょう。ですから,ガラスの性質をまだまだ理解できていない子どもは,ガラスのコップもゴムボールのように扱って,割ってしまうことになるのです。これでは対象をコントロールできているとはいえません。

 システムズアプローチで家族システムを扱う場合も,論理的には全く同様のことがいえるのです。セラピストは,何か悪循環に陥っている家族システムをコントロールし,思い通りに変化させたいわけですが,そのためには,それぞれの家族システムの性質=社会的認識をしっかりと見極め,それに合わせてこちらが動いていく必要があるのです。

 このジョイニングがそのまま変化につながることもあります。そのような例として,東豊は次のようなケースを紹介しています。

「長い長い母親の陳述の後,やっとセラピストは男の子に話しかけるチャンスを得た。「それで君はどんなふうに考えてるの?」 セラピストの問いかけに男の子はうつむき始めた。すかさず隣の母親が割って入った。「それはつらいと思います,というのも……」

 セラピストは母親の方に身体を向けて,再び母親の話に熱心に耳を傾けた。長い陳述の後,セラピストは丁寧に母親の許可を仰いだ。「お母さん,この子に直接聞きたいことができたのですが,聞いてもよろしいでしょうか」

 母親はもちろん聞いてやってくださいと,セラピストに頼んだ。「それで君はつらいときはどうしているの?」 男の子はまたうつむき始めた。短い沈黙の後,再び母親が割って入った。「ふさぎこんじゃうね,ね? いつも暗い顔をしているんですよ,というのも……」

 セラピストはまたしても母親の方に少し大げさに身体を向けて,母親の話に熱心に耳を傾けた。しかし今度は前よりも短めにそれをさえぎった。そして,これ以上低くできないくらいに腰の低い態度で,頭を深々と下げ,母親の許可を仰いだ。「お母さん,誠に申し訳ありません。またこの子に直接聞いてみたいことができたのですが,聞いてもよろしいでしょうか」

 母親は手を口に当て,プッと吹き出した。「ああ,すみません。私,でしゃばりで……」

 セラピストは「母親はみんなそうですよ」と軽く受けてから,男の子の方を向いた。

 「それで君はどうなったらいいと考えているの」

 男の子はやっぱりうつむき始めたが,今度は母親が口をはさまない。

 しばらくの沈黙の後,彼は顔を上げた。そして「まわりのことが気にならなくなればいい」と,ボソッと答えたのである。」(pp.63-64)


 このケースでは,母親が主導権を握っているというこの家族システムのルールにジョイニングして,馬鹿ていねいに母親に許可をとることをくり返すことによって,ジョイニングしています。同時に,このようなジョイニングによって,母親は自分の「でしゃばり」に気づき,口をはさまないようになったために,今までにはなかった息子の見解が表明されたということです。このように,ジョイニング自体が変化をもたらすための大きな介入技法にもなり得るのです。

 このケースに関わって,ジョイニングの弁証法的側面を,あと2つ,指摘しておきたいと思います。まず第一に,「問題」と思われるようなものでも,システムズアプローチにおいてはそれも「資源」であるととらえて,活用していくという点です。子どもの代わりに母親が答えるというのは,一般的には「問題」であるととらえられがちですが,これすらも「資源」として活用して,たとえば先の引用のような介入を行うわけです。「問題」でもあれば「資源」でもあるという形で,対立物の統一として捉える点で,非常に弁証法的な発想だといえるでしょう。

 第二に,ジョイニングに際しては,システムの構成員の一部に肩入れするようなことはしてはならないという点に関わります。複数を相手に面接をしていると,「あちら立てればこちら立たず」ということになりがちですが,一人の話だけを長々と聞きすぎないとか,味方に引き込もうとする言動は無視するとか,システムのルールをアセスメントしてそれにまずは従うとかしながら,システム全体にジョイニングしていくことが求められます。弁証法的にいうならば,非敵対的矛盾を実現するとともに解決するようなポジショニングを常に意識する必要がある,といえるでしょう。微妙なかじ取りが要求されますし,バランスが難しいとはいえますが,この微妙なバランス感覚は,臨床のなかで培っていく必要があるといえるでしょう。

 以上今回は,システムズアプローチの代表的な技法のひとつであるジョイニングを取り上げ,これを弁証法の観点から論じました。

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2017年03月06日

システムズアプローチを弁証法から説く(2/5)

(2)前提に弁証法的なものの見方がある

 本稿は,天才セラピストと称されている東豊のセラピーがなぜうまくいくのかということを,彼が採用している方法論であるシステムズアプローチに着目して,弁証法の観点から説くことを目的にしています。

 今回は,システムズアプローチの前提となっているものの見方考え方について検討します。

 システムズアプローチの前提となっているものの見方は,「円環的思考法」と呼ばれています。円環的思考法について,東豊は次のように説明しています。

「円環的思考

 システムズアプローチを理解するための重要なキーワードのひとつなので,説明しておきましょう。

「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。上は下であり,下は上である,などと考えること」

 覚え方としてはこの程度でいいと思います。」(東豊『セラピスト入門』p.16)


「まずシステムとは,「部分と部分が相互作用している全体」,あるいは「その相互作用のあり方(連鎖・パターン・ルール)のことであると理解します。全体は部分に影響を与え,部分は全体に影響を与える。このようなものの見方を,円環的思考法と呼びます。

 私たちは通常,「事象Aは事象Bの原因である(事象Bは事象Aの結果である)」というように,矢印が一方通行の考え方(A→B)をする習性があります。これを直線的思考法といいます。これに対し円環的思考法とは,「事象Aは事象Bの原因でもあり,結果でもある(事象Bは事象Aの原因でもあり,結果でもある)」というように,双方向的な見方(A⇆B)をするものです。」(東豊『リフレーミングの秘訣』pp.10-11)


 ここでは,一方通行の直線的思考法とは違い,「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。」などと考える考え方,「事象Aは事象Bの原因でもあり,結果でもある(事象Bは事象Aの原因でもあり,結果でもある)」というように,双方向的な見方をする考え方を,円環的思考法と呼ぶと説かれています。

 たとえば,「母親の過保護のせいで子どもが甘えん坊になった」というのは,世間でよくある直線的思考法の例です。そういう見方もできるが,逆に「子どもが甘えるせいで母親が過保護になった」と解釈することも可能なのです。このように,あのようにも見えるし,このようにも見えるとするのが円環的思考法なのです。

 ここで説かれている円環的思考法が,非常に弁証法的なものの見方考え方であるのは明らかでしょう。というのは,弁証法では,対象を対立物の統一として見ますし,矛盾した存在と見るからです。「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。上は下であり,下は上である」などというものの見方は,弁証法の教科書にもそのまま説かれているような,物事を矛盾として見る見方だといっていいでしょう。一方だけ見るのではなく両方を見るというのも,物事を対立物の統一として見る,弁証法的な見方の典型例といえます。

 このように,システムズアプローチにおいては,物事を弁証法的に見るために,対象を的確に,その性質に見合ったものとして捉えることができるのだ,ということがいえるでしょう。このような対象の弁証法性を的確に捉えられるような見方が採用されているからこそ,対象をきちんととらえられ,その対象に適切に働きかけていくことが可能となっているのだと考えられます。

 このような円環的思考法と同様の弁証法的な発想として,システムズアプローチでは,コンテンツ(内容)よりもコンテクスト(前後関係,文脈)を重視するという見方が採用されています。これを理解していただくために,治療場面におけるある家族の会話の一部を引用します。

「母:あなたは,いったいいつまでこのままでいるつもりなの。中学校にも行かなければ高校だって行けないし,就職や結婚もできたものじゃないわ。

娘:放っておいてよ。いつもうるさいんだから。

母:なんですか,親に向かってその態度は。いい加減にしなさい。

娘:私,あなたのことを親とは思ってないわ。

母:なんですって,もう一度言ってごらん。

娘:何度でも言うわ,鬼,ブタ,ウスノロ!

母:黙りなさい。なんでこんな子になったの,あなたは。

父:まあまあ二人ともよしなさい。もっと落ち着いて話し合おうじゃないか。

母:あなたはいつもそんなことばかり言って本当に甘いんだから,もっと父親らしくしゃんとしてよ。

父:私はおまえのようにしつこく言いたくないんだよ。

母:私のどこがしつこいと言うの,子どものためにこれくらい当たり前よ。あなたももっとこの子を叱ってよ。情ない。

娘:この人(父のこと)が怒っても少しも怖くないよ。こんな人,ただの月給運搬人よ。

父:そんなことはないよ。お父さんはね,おまえたちのために一所懸命働いて……。

母:(娘に)ちゃんと座りなさい。何よその態度は。

娘:うるさいねえ,いちいち,くそババア! 死んでしまえ。」(東豊『家族療法の秘訣』pp.6-7)


 ここでコンテンツに注目すると,「母親は厳しすぎる」とか「父親は頼りない」とか,「娘の言葉遣いはひどいが,この年頃はこんなものだ」とかいう反応になります。しかし,コンテンツにとらわれることなく,コンテクストに目が向くようになると,次のようなパターン(コミュニケーションの連鎖)を発見できると説かれています。

「A.母親が娘を批判する
    ↓
 B.娘が母親に反抗する
    ↓
 C.母親と娘が対立する(緊張が生じる)
    ↓
 D.父親が会話に入る
    ↓(母・娘間の緊張下がる)
 E.母親が父親の態度を批判する
    ↓
 F.父親が母親に反発し両親間に緊張が生じる
    ↓
 G.娘が会話に入る
    ↓(両親間の緊張下がる)
 A.母親が娘を批判する
    ↓」(p.10)


 このような悪循環が見出されるというのです。これがコンテクスト重視のものの見方ということです。同時に,家族システムという大きな視点から,個々の構成員の役割を見出す見方であるともいえるでしょう。父親は頼りないという側面をもちつつも,母親と娘の緊張を和らげる役割を果たす優しい父親であり,娘も悪態をつきながら両親間の緊張を緩和させる役割を果たす優しい娘である,そのようなチームワークのいい家族と見なすこともできるわけです。

 これは,部分にのみ着目するのではなく,それがどのようにつながっているかをみるという意味でも,また,部分が全体とどのようにつながっているのかをみるという意味でも,つながりを重視する見方です。また,このようにつながりを見ることによって,部分だけを見ていたのでは見えてこなかった別の対立するような性質が浮き彫りになっています。したがって,このようなコンテクストを重視する見方は,とりもなおさず,弁証法的な見方であるといえるでしょう。

 システムズアプローチでは,このようにして発見したコンテクストを家族に伝えて共有したり,また,セラピストがこのシステムの中に入って,悪循環のパターンを変えたりします。それによって,システムが変わったり,個々の部分の反応が変わったりして,結果として,よい循環・相互作用を生み出すシステムに再構築されていくことを狙うのです。このようなことが成功する背景には,今回見たような弁証法的なものの見方があるということがいえるでしょう。
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2017年03月05日

システムズアプローチを弁証法から説く(1/5)

目次

(1)システムズアプローチはなぜ効果があるのか
(2)前提に弁証法的なものの見方がある
(3)ジョイニングでは相手に合わせた変化が求められる
(4)リフレーミングの根拠は現実の弁証法性にある
(5)システムズアプローチは弁証法性を踏まえている

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(1)システムズアプローチはなぜ効果があるのか

 みなさんは,「名医」という言葉を聞いたことがあるでしょう。非常に優れた医師のことであり,名医にみてもらえば,治療困難と思える病気も治してもらえるのです。現代日本においても,「スーパードクター」などと称して,テレビでも取り上げられている名医がいます。がんの名医や心臓病の名医,脳神経外科の名医などです。

 手塚治虫のマンガ『ブラック・ジャック』では,医師免許を持たないものの,天才的な外科手術の技術を有しており,手術成功の暁には法外な治療費を請求する医師の姿が描かれています。また,『三国志演義』には,華佗という伝説的な医師が登場します。彼はどんな病気や怪我でも治す名医として描かれています。彼の遺した医学書は結局燃やされてしまうのですが,もし燃やされていなければ,医学の歴史は現在とは大きく違ったものになったであろう,などといわれるほどの偉人として描かれているのです。

 このように,マンガや小説の世界にもたびたび取り上げられている名医ですが,筆者の属する心理臨床の世界にも,そのような「名医」にあたる人物が存在しています。世界的に有名なのは,何といってもミルトン・エリクソンです。彼の臨床は,臨機応変に,ケースに応じて変幻自在に変化させるもので,その名人芸から「魔術師」とも呼ばれるほどの実力でした。しかし,ケースに応じて異なるアプローチをすべきであるという信念のもと,あまりまとまった著作をものさず,弟子たちがそれぞれにエリクソンの遺産を受け継ぎ,体系化しているのが現状です。いずれ筆者もミルトン・エリクソンを正面から取り上げたいとは思っています。

 では,心理臨床の世界に属する日本人で「名医」レベルの人物はいるのでしょうか。結論からいうと,います。その人物の名は東豊(ひがし・ゆたか)。日本の臨床心理士であればだれもがその名を知っているほど著名であり,「天才」と名高い人物です。彼はミルトン・エリクソンやその弟子筋に学んでおり,若かりし頃は「日本のエリクソン」と自ら豪語していた時代もあったといいます。東豊については,その著作を出版している遠見書房の編集者のブログで,次のように紹介されています。


「2012年3月19日月曜日

【東豊】けっこうコレはすごい本になると思う【DVD!】

天才セラピスト!というと,なんだかいろいろと怒られそうであるが,東豊先生を知っている人は,みな,東先生のことをそう言う。「あのひとは天才だ」「天性やね」「天才的ですよ」などと。

現実問題として,天才セラピストとは,どういうことを指すのだろうか,とも思う。丁々発止がうまい,という感じもあるかもしれないし,包容力がある,という感じかもしれない。いや,単に「治す」という意味なのかもしれない。

東豊先生が「治す」のか,というと,これはよく治すらしい。以前,東豊先生の雇用者であった小郡まきはら病院院長の牧原浩先生がその論文か何かで,「東先生には一番の給料をあげていた。一番治してくれるからだ」ということを書いていた。その病院では,MDやNSを含めて,臨床心理士である東先生が一番の給金をもらっていたらしい。

その後,東豊先生は,鳥取大学医学部精神医学教室の助教授になった。非医師の医学部助教授は,東先生が最初のひと,というわけではないけれど,やはり珍しい。ここでも伝説的なセラピーを展開していたらしい。当時の論文をいくつか読むと,ものすごく面白い。

ともあれ,天才セラピストと語弊なく言えるうちの一人が東豊先生であることは,間違いないだろう。よくある出版社が勝手に天才だと持ち上げているわけではなく,周りの人が言っているという意味で,である。

実際の東豊先生は,とてもサービス精神の旺盛な方である。あちこちに目端がきく。頭の回転もすこぶる早い。そして,愉快な方である。一緒にいてとても楽しい。スゴ腕の話し上手である。天才セラピストの一面が確かにある。

で,なかなか厳しいところのある方でもある。自分にも厳しいし,他のひとにも厳しい。キレモノすぎて,いろいろとわかりすぎてしまうところがあるのかもしれない。

ともあれ,そんな天才の本,しかも! DVDで天才のセラピーが2回分(1つのケースで初回と2回目)の映像がついた本が出ます!」(http://tomishobo.blogspot.jp/2012/03/dvd.html


 ここでは,医師よりも給料をたくさんもらっていたという驚きのエピソードや,治療成績が抜群で誰もが認める天才セラピストであることなどが説かれています。

 では,なぜ東豊には,このような天才的なセラピーが可能なのでしょうか。もちろん,彼個人の特性に由来するものも多いでしょう。しかし,彼が採用している方法にも優れたものがあると考えられるのです。

 東豊が採用している方法というのは,「システムズアプローチ」と呼ばれています。システムズアプローチは,先に紹介した世界的な天才セラピストであるミルトン・エリクソンの影響も受けて成立したものです。いってみれば,エリクソンの臨床の一部分を切り取って,それを発展させたものということができます。そこで本稿では,このシステムズアプローチを取り上げて,これによって「天才的セラピー」が可能になる所以を説いていきたいと考えています。

 幸い,東豊は,ミルトン・エリクソンと違って,多くの著作を執筆しており,また,研修会も多く開催して,自らの方法論であるシステムズアプローチについてさまざまに説いています。それらを参考にして,システムズアプローチについて紹介しながら,それがどのように優れているのかを,弁証法という観点から論じていこうとするのが本稿です。

 詳細については次回以降検討するとして,ここではまず,システムズアプローチの概要を説明しておきます。システムズアプローチとは,「システムを念頭に置いた心理・社会的援助の総称」(東豊『セラピスト入門』p.5)のことです。では,「システム」とは何でしょうか。東豊は,次のように説明しています。

「ある一定の法則にしたがっているかのような活動を繰り返している複数の部分からなる集合体,もしくはその法則そのもの。小は分子原子レベルから,大は宇宙レベルに至る。」


「ただひとつ補足しておくと,この場合,部分と部分は相互に影響しあっており,まるで既存のシステムのあり方を維持しようとの意思をもっているかのごとく互いに活動を規制しあっているのだと仮説します。つまり,部分はシステムのあり方に規定されていると覚えておいてください。

 しかし一方,「なにかの拍子」に一部分が変化してしまうと,他の部分も連鎖的に変化していき,結果的にシステムが変わってしまうこともあると仮説します。つまりシステムのあり方は部分に規定されていると覚えておいてください。」(p.4)


 これだけではよく分からないと思いますので,実際に心理臨床でよく問題になるシステムを例に挙げて説明します。それは家族というシステムです。家族は,家族構成員という部分からなる集合体です。ですから,家族もシステムの一つです。この構成員は家族システムのあり方に規定されていると同時に,家族システムのあり方は構成員に規定されています。このように家族を捉えることが,システムズアプローチのものの見方だといっていいでしょう。

 これ以上の詳細については,次回以降,詳しく説いていくことにします。ここでは,システムというものの概要を大雑把に把握していただければと思います。

 では次回以降,天才セラピスト東豊が採用しているシステムズアプローチについて,弁証法という観点から説いていきたいと思います。次回は,システムズアプローチの前提となるものの見方考え方を,もう少し詳細に取り上げて検討します。連載第3回と第4回では,システムズアプローチの代表的・典型的な技法である「ジョイニング」と「リフレーミング」をそれぞれ取り上げ,それらが奏効する所以を弁証法的に解明していく予定です。

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 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
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 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史