2017年06月20日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(5/5)

(5)一から多への発展を捉える

 本稿は,今年,京都弁証法認識論研究会で組織的に取り組むことにしている南郷継正『“夢”講義』シリーズの第3巻に学び,特に弁証法的頭脳活動の成果であろうと思われる3つの問題を取り上げて,筆者なりに理解したことを文章化することによって整理し,少しでも自分の実力と化していくことを目的に,これまで説いてきた。ここで,これまでの内容を振り返ってみたい。

 初めに,脳の統括の問題を取り上げた。人間の脳には,体全体を統括する働きと自分の脳の中に像を創り出す働きの,大きな二つの働きがあるとされていた。また,脳は自分自身をも統括しているとして,脳自体の統括にも2つの働きがあると説かれていた。それは,脳自体の生理状態と運動状態の統括と脳がそれによって誕生させる認識すなわち像の統括の2つであった。このように,脳は体全体を統括することと脳自体を統括することを同時に行っており,これが「二重性(二重構造)」と呼ばれていた。しかし,これとは別に,脳の統括自体も運動そのものであり,昼間と夜間では変化すると説かれており,その昼間と夜間の異なる統括のあり方が二重性=二重構造として把握されていたのであった。さらに,夢は認識の一つであるが,その認識とは脳の働きの一つに過ぎず,生命体全体の体系的な統括をするためにこそ,脳による認識の統括があるのであり,脳の全体系的な統括のなかで,認識が働かされて(生成発展させられて)いるのであるからして,夢の問題を解くためには,脳の全体系的な統括という働きをきちんと解明しなければならないと説かれていた。この後,人間の脳の統括は四重構造の性質をもつとして,@〔運動の統括×生理の統括=脳の全体統括〕,A〔感覚器官×像=脳の統括〕,B〔脳の統括=脳の生理×運動×認識〕という,3つの公式が紹介されていた。体全体の統括と脳自身の統括の二重性=二重構造というのは,この公式でいうと,@AとBの二重性=二重構造ということになり,それぞれの統括はさらに,昼間と夜間では変化するのであり,それぞれ昼間と夜間という二重性=二重構造が存在するといえるのであった。これで合計四重構造になると説かれていた。このような多重性=多重構造の把握をごく自然になしうることこそ,弁証法的頭脳活動の本領なのであり,世界の二重星=二重構造を見抜けず,片方のみしか見ることができないような非弁証法的な頭脳活動を克服するべく研鑽していかなければならないと説いておいた。

 次に,『“夢”講義(3)』に掲載されている『“夢”講義』の感想文を取り上げ,そこで説かれている真の学的方法について考えた。この感想文では,南郷継正は,いかなる問題を解く場合でも,「原点」に立ち返り,そこからの生成発展が,くり返しくり返し説かれているのであり,夢をその直接的形態のみで扱うのではなく,夢を原点から問い直して,すべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開するという真の学的方法でもって,夢を解明したと説かれていた。「そこに至るすべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開する」というのは人間に関するあらゆる問題を解明する場合に必要な手続きであり,そういえるのは,宇宙=物質が,人間という生命体に流れ込むように発展してきたという歴史的事実があるからであろうと説いておいた。続いてこの感想文では,『“夢”講義』は「認識論を認識学へ」と向かわせるための方法論が説かれていると指摘したうえで,認識論を認識学へと向かわせるためには,何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く必要があり,そのためには弁証法的な学力を養成しなければならない,換言すれば,弁証法という土台の上に認識論を構築しなければならない,と説かれていた。弁証法は学問構築の過程で誕生したのであるから,あらゆる学問はそれを構築するためには弁証法的な学力が必要なのだといえるだろうとしておいた。また,「何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」という言葉に関しても,他の分野でも同様のことがいえると確認した。すなわち,経済学・教育学・言語学の構築を志すのであれば,何が経済・教育・言語となっていったのかの生成発展の過程的な構造を説く必要があり,もどき経済・もどき教育・もどき言語のような発想が,その解明のヒントになると説いておいた。最後に,原点からの出立とそこからの生成発展のくり返しの辿り返しについて,くり返す必要があるのは弁証法的な頭の働かせ方を技化するためであり,どんな領域でも,「桃太郎のくり返し」よろしく,基本的・基礎的な物事の飽きることのないほどの「くり返し」を嫌がってはいけないということを確認した。

 最後に,赤ちゃんの夜泣きと患者さんの辛い夢の共通性という問題を取り上げた。これは,端的にいうと夢を見る実力ということであった。『“夢”講義(3)』では,この夢を見る実力がどのようなプロセスで生成発展してきたかの謎解きがなされており,そのプロセスを辿り返したのであった。まず,生命体はその歴史において生きる環境を大きく変えていったことによって脳の体全体を統括する機能が発展していき,それにともなってもう一つの機能である像を創り出すという機能も発展していき,脳が描く像はより運動的・構造的に発展していったのだと説かれていた。そして,単なる外界の反映である像しか描けなかったのに,サルの段階で樹上生活を行なったため,反映でもあり,反映でもないという「もどき像」をも描けるようになり,これが問いかけ的認識の原始形態となっていき,やがて問いかけ的認識が相対的に独立化した結果,像がきちんと二重化するようになった,そのころからヒトは“夢”をみることができるようになっていったのであり,これが個体発生でいうと赤ちゃんが夜泣きを始める段階に相当する,と説かれていた。また,サルの樹上生活については,地上で反映させて形成されていった像と,樹上で反映されて形成されるようになった像との相克の像のあり方の一つが,対象をいわば目的的にみる目となり,最終的に,「あれはこうだ!」という自分の主観から,自分勝手に対象をみてしまう認識の誕生につながったのであり,これが夢の大本(根本原因)であると説かれていた。すなわち,夢はヒトが目的をもつようになった結果,みることができるようになったものであり,目的をもつとは,外界を媒介的にでも映せるようになり,外界からの直接の像と外界からの媒介の像を二つに分けて考えられる実力をもったということであるとされていた。このように,夢を見る実力がどのようについてきたかの過程的構造が解明できたからこそ,赤ちゃんの夜泣きを防ぐ方法と悪夢で苦しむ患者さんに対する看護の方法をしっかり提示でき,その共通性を雰囲気と動作の二つで五感器官に働きかけることであると見抜けたのだと説いておいた。

 このように見てくると,弁証法的頭脳活動とは,端的にいうと,一から多への発展を捉えるものであるといえる。すなわち,現在の対象の二重性=二重構造(多重性=多重構造)を見抜くだけではなく,その二重性がどのようして原点たる「一」から生成発展してきたのかの過程的構造をもしっかり把握できるようなものだといえるだろう。脳の統括といえば,すぐにそれには二重性=二重構造があるはずだとして,その構造に分け入っていく,人間の認識といえば,すぐにそれには二重性があるはずだとして,その構造に分け入っていく。そして,それだけではなく,その構造を真に解明するために,その二重性に至った生成発展のプロセスを,すなわち,何が「脳の統括」や「認識」となってきたのかの生成発展の過程的構造を射程に入れて,その解明に進んでいく。これこそが真の学的方法であり,このような学的方法を実践できるためには,対象の矛盾(対立物の統一)を捉え,対象を運動変化している一断面として捉えることができるほどの,弁証法の実力が必要となってくる。このような弁証法の実力を養成しないかぎり,専門分野の学問体系を構築することなど,決してできないのだ,逆にいうと,このような弁証法の実力を養成すれば,本書で展開されているような学的な論の展開が可能となるのだ,ということが本稿を認め,本書で展開されている弁証法的頭脳活動の成果を味わうことによって,ますます確信できていったことである。

 そのような弁証法的頭脳活動が可能となるためには,どのようにすればよいか。それは,本書でも説かれていたとおり,弁証法の基本的な頭の働かせ方を意識して,それをくり返しくり返し辿り返すことであろう。具体的には,弁証法の基本書としての三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』を,改めて原点として設定し,そこに戻って,またそこから学び直すとともに,南郷継正の『“夢”講義』シリーズも,くり返しくり返し読み込んでいく必要があるだろう。それて並行して,専門分野についても,例えば対象の二重性を考えてみたり,何がその対象となってきたのかの生成発展の構造を考えてみたりして,弁証法的に捉えられるように訓練していかねばならない。そうして,弁証法的な頭の働かせ方とはこのようなものだということが,特別意識しなくても勝手にできるようになることこそが,目指すべき目標であるといえるだろう。

 そのような目標に到達するために,今後もしっかりと弁証法学びを継続していく決意である。


(了)
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2017年06月19日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(4/5)

(4)夜泣きと辛い夢の共通性とは何か

 前回は,『“夢”講義(3)』の弁証法的頭脳活動の成果として真の学的方法をとりあげ,本書に開催されている感想文を手がかりに考察した。真の学的方法とは,そこに至るすべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開することであり,何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説くのに必要な弁証法的な学力を養成することこそが大切である,ということであった。また,このような弁証法的な学力を技化するためには,くり返しの上のくり返しの学びが必要であることも確認した。

 さて今回は,赤ちゃんの夜泣きと患者さんの辛い夢の共通性という問題を取り上げたい。この共通性とは,端的にいうと,夢を見る実力ということである。『“夢”講義(3)』では,この夢を見る実力がどのようなプロセスで生成発展してきたかの謎解きがなされており,一応この第3巻で,その謎解きが完了しているといってもいい。今回は,この夢を見る実力の生成発展のプロセスを辿り返してみたい。

 本書では,「第3編 学問的に「夢とはなにか」を説くための礎石」「第1章 夢の学問的な解明に必須の過程を説く」「第3節 「いのちの歴史」から説く人間の認識への発展過程」において,いつものように,これまでの論の展開を要約しつつ(真の学的方法!),人間が夢を見る実力をつけていったプロセスが説かれている。

 「生命の歴史」において,脳が誕生した魚類段階から両生類段階へ,そして哺乳類段階へと生命体が発展するに伴って,生きる環境が大きく変化していく。そのことによって,脳が大きく変化していくのである。より過酷な環境で生きられるように,脳の全身を統括する機能が発展せざるを得ず,脳の実体としての実力も増していく。そうすると,当然に脳の全身の統括ではないもう一つの働き,すなわち像を描くという働きにも影響が出て,脳が描く像はより運動的・構造的に発展していく。やがて哺乳類のトップとしてサルが誕生し,樹木での生活を余儀なくされると,サルの脳とその反映像は大きく発展させられることとなるとしたうえで,次のように説かれている。

「端的には,それまでの脳が描く認識=像は,外界の反映でしかない(しかも本能としての脳が反映させるだけの)像だったモノが,樹上生活・樹木生活の過程的構造のゆえをもって,外界からの反映の像は当然のこととして,二重・三重の多重像を描く実力をつけた結果,外界からのまともな反映ではない像,すなわち,反映でもあり,反映でもないという『もどき像』をも描く実力をもった,ということです。

 この『もどき像』が脳のなかで発生するにつれて,サルはその像をたしかめる方向へと運動しはじめることになり,これがいわゆる問いかけ的認識の原始形態(原形)となっていったのです。

 この問いかけ的認識が相対的に独立化して,本当の“問いかけ”が完成し,像がきちんと二重化するようになったころから,ヒト(人類)は“夢”をみることができるようになっていったのです。これがヒトが“夢”をみることができるようになった段階であり,人間の発達段階からいうと,赤ちゃんが夢をみる=夜泣きのころの脳の発達=発育の中身のレベルが,ヒトの認識の夜明け段階といえます。」(p.85)


 ここでは,単なる外界の反映である像しか描けなかったのに,樹上生活のために,反映でもあり,反映でもないという「もどき像」をも描けるようになり,これが問いかけ的認識の原始形態となっていき,やがて問いかけ的認識が相対的に独立化した結果,像がきちんと二重化するようになった,そのころからヒトは“夢”をみることができるようになっていったのであり,これが個体発生でいうと赤ちゃんが夜泣きを始める段階に相当する,ということが説かれている。

 ここで説かれている内容を,像の生成発展だけを独立化して取り上げてみるならば,以下のようなプロセスとなるだろう。

外界の反映でしかない像
  ↓
二重・三重の多重像
  ↓
外界からのまともな反映ではない像=もどき像
  ↓
問いかけ的認識の原始形態
  ↓
本当の“問いかけ”=像の二重化


 すなわち,サルまでの段階では,単なる外界の反映でしかなかった像が,サルの樹上生活を経ることによって,ついには二重化した像にまで発展したのである。ここの歴史的な像の生成発展については,すぐ後の部分では,次のように説かれている。

「このように地上で反映させて形成されていった像と,樹上で反映されて形成されるようになった像との相克が,あるとき突然に,ある時代のあるレベルのサルにおきはじめます。

 この相克を解決するために,サルは地上へおりることを決心(?)し,やがてこれらがヒト的サル(類人猿)へと進化し,そこから人への進化が始まっていくのです。

 これらの相克の像のありかたの一つが,対象をいわば目的的にみる目となり,対象を自分で(主観的・自分勝手的に)描いた形でとらえられるようになり……して,結果,問いかけの像=問いかけ的認識すなわち『あれはなんだ?』ではなく,『あれはこうだ!』として自分の主観から,自分勝手に対象をみて(とらえて)しまう認識の誕生をみることになっていくのです。これが夢の大本(根本原因)なのです。

 つまり,夢はヒトが目的をもつようになった結果,みることができるようになったモノであること,そしてその目的をもつということは,認識論的・像的に説くと,ヒトの脳のなかで,それまでは外界からの直接の反映でしか映せなかった像が,外界を媒介的にでも映せるようになった結果,外界からの直接の像と外界からの媒介の像との二重性を帯びるようになり,あげく,それを二つに分けられる実力がつきはじめ,そしてそこからしだいしだいにヒトから人間になるにつれて,分けて考えられる実力を脳はもってしまったのだ,ということなのです。」(p.87-88)


 ここでは,地上で反映させて形成されていった像と,樹上で反映されて形成されるようになった像との相克の像のあり方の一つが,対象をいわば目的的にみる目となり,最終的に,「あれはこうだ!」という自分の主観から,自分勝手に対象をみてしまう認識の誕生につながったのであり,これが夢の大本(根本原因)であると説かれている。換言すれば,夢はヒトが目的をもつようになった結果,みることができるようになったものであり,目的をもつとは,外界を媒介的にでも映せるようになり,外界からの直接の像と外界からの媒介の像を二つに分けて考えられる実力をもったということであるとされている。

 ごく単純化していえば,像が,外界の直接の反映像と,そうでない媒介の像に二重化したのであり,媒介の像の方が,あるときには問いかけ像となり,あるときには目的像となり,そしてあるときには夢となる,ということであろう。認識=像が二重化することは三浦つとむも説いていたが,どのようなプロセスを経て像が二重化するようになったのかを解明したのは,本書が史上初なのではないか。このような過程的構造を明らかにしたのは,まさに弁証法的頭脳活動の技の冴えといえるだろう。

 以上見たように,生命の歴史において認識=像が二重化したために,ヒトは夢をみることができるようになったのであり,個体発生でいうと,これがちょうど夜泣きが発生する段階に相当する。このころの赤ん坊は,眠っていて直接の反映像としてはそれほどの像を描いていないにもかかわらず,媒介の像として,何が何だかわからないような像を勝手に描いてしまえる実力がついてしまったため,その描いた像をみて,突発的に泣きじゃくるというようなことになるのであろう。また患者さんは,眠っていても過去の体験から媒介された像を勝手に描いてしまう。これが辛い悪夢であり,疼痛の原因となっているものである,ということだと理解した。

 本書の最後の方の部分,すなわち「第5編 看護の夢の事例を「いのちの歴史」から解く」「第2章 赤ちゃんの夜泣きと夢の過程的構造を説く」「第4節 夜泣きを防ぐ赤ちゃんの睡眠中の育てかたを説く」では,夜泣きを防ぐ対応の方法が説かれている。それは,雰囲気と動作の二つで赤ちゃんの五感器官を育てることであり,具体的にはお母さんがのんびりとした歌を歌ってあげながら,赤ちゃんが好むようなスキンシップを行っていくことであると説かれている。

 これは,『“夢”講義(1)』から登場する看護学生Dさん(神庭純子氏)が疼痛と悪夢に苦しむ患者さんに行った看護と論理的には同じものであろう。看護学生Dさんは,ケアをとおしてコミュニケーションを図ろう,話をゆっくりお聞きして気持ちを知ることにしようとの方針のもと,痛みの訴えがある部分をゆっくりさすりながら話に耳を傾けたということであった。これも雰囲気と動作の二つで患者さんの五感器官や神経に働きかけ,患者さんの認識を整えることによって,悪夢を防止することにつながったのだと考えられる。

 このように夜泣きや悪夢に対する根本的な対処法を提示でき,両者の共通性を説けるのは,やはり南郷継正がそもそも夢とは何かを,その原点から,学問的な方法で弁証法的に解明しえたからこそといえるだろう。ここでも,弁証法的な頭脳活動の見事さを感じることができた。

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2017年06月18日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(3/5)

(3)真の学的方法とは何か

 前回は,『“夢”講義(3)』で説かれている弁証法的頭脳活動の成果として脳の統括の問題を取り上げ,2つの二重性=二重構造で合計四重構造の性質をもっていることを確認したうえで,すべての事物・事象を二重性として捉えられるような弁証法的な頭脳を創ることの大切さを強調した。

 さて今回は,本書に掲載されている『“夢”講義』の感想文を取り上げ,そこで説かれている真の学的方法とは何かについて検討したい。

 問題の感想文は,「第3編 学問的に「夢とはなにか」を説くための礎石」「第2章 学問的でない夢の専門家の実力を説く」「第4節 『“夢”講義』感想文―夢を学問的に説くとはいかなることか」に収められている。この節は全文,読者の感想文である旨が注記されている。「この読者は若くして某一流大学の教授となった,その専門分野では世界的レベルでの権威とされている方」(p.105)であり,感想文中には「DNA」とか「DNA理論」とかいう言葉がくり返し出てくるから,この感想文は本田克也氏の手になるものであろう。

 感想文では,「この『夢講義』においては,いかなる問題を解く場合でも,『原点』に立ち返り,そこからの生成発展が,繰り返し繰り返し説かれている」(p.106)と指摘され,これまでのすべての研究者はそのような夢に至る生成発展に着目できなかったために,夢を解明することができなかったのだと説かれている。その上で,次のように説かれている。

「いったい,これまで誰が,このような偉大なる展開をなしえたであろうか。例えば“夢”について論じようと志した人間は少なくない。精神分析のフロイトやユングはもとより,多くの心理学者,脳生理学者,生物学者がこの謎に挑んできた。しかし,すべての研究者は,夢をその直接的形態でのみ扱う以上には出られず,ついには袋小路に迷い込んでしまっているのである。

 しかし南郷継正はそうではなかった。夢をそれ自体として見れば脳が勝手に描く像にすぎないとしながらも,これを原点から問い直して,これは優れて人間の認識の発展の言うなれば一つの現象形態なのであるから,そこに至るすべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開することこそが,夢の解明になるという,真の学的方法すらも,この『夢講義』では提示されているのである。」(p.108)


 ここでは,南郷継正は,夢をその直接的形態のみで扱うのではなく,夢を原点から問い直して,すべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開するという真の学的方法でもって,夢を解明したと説かれている。

 確かに,前回も少し触れたように,夢は認識の一つであるから,認識とは何かを,その生成発展に遡って解明し,さらに,認識とは脳の働きの一つであり,もう一つの働きである全身の統括のためにこそ,認識が存在するのであるから,脳の働き全体や,それを支える脳の実体の生成発展を辿り返すことによって,夢を解明しようとしているのが『“夢”講義』であるといえる。

 それにしても「そこに至るすべての歴史が夢へと収斂する形で一点に流れ込むように展開する」というのはすごい言葉である。これは夢のみならず,人間に関わるあらゆる問題を解明する場合に必要な手続きであるといえるのではないか。そして,そのようなことがいえるのは,結局,宇宙=物質が,人間という生命体に流れ込むように発展してきたという歴史的事実があるからであろう。すなわち,人間はもともと人間として存在していたのではなく,物質の発展の流れの終着点として,いわば究極の物質として誕生したものであるから,そのプロセスを辿り返さないと,人間の問題は解けないということであろう。

 続けて感想文では,『“夢”講義』は「認識論を認識学へ」と向かわせるための方法論が説かれていると指摘したうえで,次のように説かれている。

「ならば認識論を認識学にするための鍵はどこにあるのか。逆から言えば,これまでの認識論者はなぜ認識学の構築に失敗したのかの秘密も,ここに暴かれているように思える。

 おそらくこれまでのすべての認識論者,あるいは心理学者は,できあがった認識をそれ自体の運動としてとらえることに終始してしまい,何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説くのに必要な,弁証法的な学力を養成してこなかったのだ。したがって『夢』に至るその生成発展のプロセスを問うことができなかったのだ。もっと言えば弁証法の土台の上に認識論を築くことができなかった,つまり認識論構築の土台を失ったままに認識論を構築しようとしたから空中楼閣に終わって崩れ去ってしまったのだ,ということが見えてくるのである。

 もしこう言ってよければ,認識論の土台は弁証法にあるということを史上初めて証明されているかのようにも思えるのが,この南郷継正の『夢講義』であるともいえるのである。」(pp.111-112)


 すなわち,認識論を認識学へと向かわせるためには,何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く必要があり,そのためには弁証法的な学力を養成しなければならない,換言すれば,弁証法という土台の上に認識論を構築しなければならない,ということである。

 基本的には,先の引用部分と同じことが説かれていると考えていいだろう。従来の研究者は,「夢をその直接的形態でのみ扱う」=「できあがった認識をそれ自体の運動としてとらえる」ことしかしていなかったが,本来は,「原点から問い直して」「何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要があるということである。そして,そのような生成発展の過程的な構造を説くためには,弁証法的な学力を養成しなければならないのであり,弁証法という土台の上に構築してこそ,認識論は認識学として成立するのだと説かれている。もう少し一般化すれば,これはどんな学問にも当てはまる論理だといえるだろう。すなわち,いかなる学問であれ,それを構築するためには弁証法的な学力が必要なのであり,いってみれば弁証法という土台の上に構築しないと,空中楼閣に終わって崩れ去ってしまうのである。これは歴史的に見ても,弁証法が学問構築の過程で誕生したことと無関係ではあるまい。

 今回の引用文中にある「何が認識となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」という言葉も,すごい言葉である。このような言語表現ができるところに,この読者(おそらく本田克也氏)の実力の高みを感じることができる。これこそ,認識学を構築するための真の学的方法なのであるから,これは他の分野でも同様であるといえる。たとえば,経済学の構築を志すのであれば,「何が経済となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要があり,教育学の構築を志すのであれば,「何が教育となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要がある。言語学の構築を志すのであれば,「何が言語となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要があるのであり,これらの過程的構造を説けるほどの弁証法的な学力を養成しなければならないのである。

 私の専門に関わるもう少し狭いテーマでいうならば,たとえば心理療法や心理検査を学問的に説こうとする場合,「何が心理療法となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要があるし,「何が心理検査となってきたのかの生成発展の過程的な構造を説く」必要がある。本感想文で触れられている「もどき像」の誕生という論理を借用すれば,心理療法が誕生する直前の段階では,「もどき心理療法」のようなものがあったはずであるし,心理検査が誕生する直前の段階では,「もどき心理検査」なるものが存在したはずである。このように考えていくと,心理療法や心理検査を研究していく際の観点が明らかになってくるし,心理療法や心理検査が歴史性を帯びたものとして,これまでとは違ったふうに見えてくるというものである。

 さて,感想文の最後には,「『原点からの出立とそこからの生成発展の繰り返しの辿り返し』,そのことこそが『夢講義』に連綿と流れている学的精神であると思う」(p.115)と認められている。確かに本書では,くり返しくり返し,原点から説き直されている。そもそも認識とは何か,生命体は単細胞からどのようにして人間にまで至ったのか,などということが,本当にしつこいくらいくり返して説かれている。前回見た脳の統括の問題も,たとえば94頁以降に,またまとめて説き直されている。こういう箇所は無数にある。

 このようにいうと,「原点からの辿り返しは分かったが,それをなぜくり返す必要があるのか?」との疑問が読者から出されるかもしれない。それは端的にいうと,そのような原点からの生成発展を辿るという弁証法的な頭の働かせ方を技化するためである。バスケットのシュートフォームをくり返しくり返し練習し,少し上達しても崩れを防ぐために定期的にフォームをチェックしてまたくり返すのと同じことである。ここに関しては,「秀才といわれる人たちの欠陥は,自分にとってやさしいと思える物事については,どうしてもくり返しの学習を嫌がることです」(p.187)としたうえで,次のように説かれているので,それを紹介して,今回は終わりにしたい。

「何事においても,技が上達したいなら,あるいは頭脳のはたらきを見事にしたいのなら,けっして,この基本的・基礎的な物事の飽きることのないほどの『くり返し』を嫌がってはいけません。それほどに『桃太郎のくり返し』は,学問構築を志す人たちは当然のこと,スポーツや武道を一流にと志す人たちにとっても,とても大事なことなのです。この『桃太郎のくり返し』のことを『量質転化化』をはかることだ,すなわち『弁証法』の説く『量質転化』の問題と同じことだとわかることは,とても大事なことなのです。」(p.188)

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2017年06月17日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(2/5)

(2)脳の統括の多重構造とはいかなるものか

 本稿は,『“夢”講義(3)』を組織として集団的に読み込み,その中に説かれている弁証法的頭脳活動の成果を取り上げて論じていく論考である。今回は,本書の初めの方から説かれ続けている脳の統括の問題を取り上げたい。

 まず,本書の流れにしたがって,脳の統括について触れられている部分を見ていく。

 「第1編 生理学から説く「夢とはなにか」」の「第1章 認識の発展の過程的構造を脳から説く」「第2節 人間の脳には大きな二つのはたらきがある」では,脳の二つの働きとして,「体全体を統括するというはたらき」と「自分の脳のなかに像を創りだすはたらき」(p.17)の二つが挙げられている。もちろん,この二つの働きには,相互に関連するところがあるはずである。たとえば,食をとるという運動を行うために,外界の対象を五感覚器官を通して反映し,像を創りだし,その像に基づいて体を動かして対象を食べるというような関連である。すなわち,体を統括するためにこそ像を描くのであり,その描いた像に基づいて体を統括していくということである。

 次に,同じ第1編の「第2章 夢の解明に必要な「昼間の生理学」と「夜間の生理学」を説く」「第2節 脳自体の統括の二つのはたらきとは」では,脳は自分自身をも統括しているとして,脳自体の統括の二つの働きが説かれている。それは,「脳自体の生理状態と運動状態の統括」と「脳がそれによって誕生させる認識すなわち像の統括」(p.25)である。

 続く「第3節 脳の統括は当然に弁証法性をもつ」の冒頭では,今までの内容が次のようにまとめられている。

「脳は,脳自体の全体として大きな二つのはたらきを統括しつづけるものでした。

 しかし大変なことに,この脳は自分自身を全体として統括しているばかりでなく,脳自体が存在している体全体(全身)をも統括していることは常識です。ですから,脳は自分自身の統括体系の外側(これはヒユです)で,その自分自身をも含めた体全体(全身)の統括も行なっていることになります。

 すなわち脳は自分自身の統括と体全体との統括の二重性(二重構造)を,あたかも一つの構造のものとして時々刻々統括する(しなければならない)という大事業を欠かさずに行なっているわけです。」(p.27)


 ここでは先にみたように,脳は体全体を統括することと脳自体を統括することを同時に行っており,これが「二重性(二重構造)」と呼ばれている。脳は統括器官であるが,体全体から見れば部分に過ぎない。したがって,脳は全体を統括しつつ,部分たる自分自身も統括している。この全体の統括と部分の統括が「二重性(二重構造)」と呼ばれているといえるだろう。

 しかし,別の二重性=二重構造も指摘されている。今見た第3節から,次の「第4節 活動している「昼間の生理学」と休息している「夜間の生理学」」にかけての部分では,次のように説かれている。

「それで,脳が体と自分自身を統括するということは,体の運動と自分自身の運動を統括するにとどまらず,自分自身のその二重の統括すらも運動そのものであるということです。「これが運動ということは,これは変化している!」ということなのです。

 そこで,まずここでの運動すなわち変化の大きな部分を見てみることにしましょう。

 それが,再三説いている昼間の生理学と夜間の生理学なのです。すなわち,脳の,体と脳自身の統括には二重性=二重構造がある! ということなのです。」(pp.28-29)


 ここでは,脳の統括自体も運動そのものであり,昼間と夜間では変化すると説かれており,その昼間と夜間の異なる統括のあり方が二重性=二重構造として把握されている。脳の統括について,同じ二重性=二重構造という言葉が使われていても,先に見たのは体全体の統括と脳自身の統括の二重性=二重構造であったのに対して,ここで説かれているのは,統括のあり方が昼間と夜間では異なるという二重性=二重構造なのであった。このあたり,ぼんやりとした像を描いて分かったような気になったり,同じ二重性=二重構造なのだから同じことを説いているはずだと決めてかかったりしてはいけない。

 さらに,「第3編 学問的に「夢とはなにか」を説くための礎石」「第1章 夢の学問的な解明に必須の過程を説く」「第2節 夢を唯物論的に説くには脳の解明が必須である」では,夢は認識の一つであるが,その認識とは脳の働きの一つに過ぎず,生命体全体の体系的な統括をするためにこそ,脳による認識の統括があるのであり,脳の全体系的な統括のなかで,認識が働かされて(生成発展させられて)いるのであるからして,夢の問題を解くためには,脳の全体系的な統括という働きをきちんと解明しなければならないと説かれている。この部分は,先に触れた脳の二つの働き,すなわち「体全体を統括するというはたらき」と「自分の脳のなかに像を創りだすはたらき」の関連について説かれている個所であるといえるだろう。端的にいうと,前者の方がメインであり,後者は前者のためにこそ存在するという位置づけである,といえる。夢の問題を解くに際して,大きな視点からとらえ返し,認識の問題だとするだけではなく,さらに脳の統括における認識の位置づけを問題にして,それらを全体的・体系的に説かないと,部分たる認識の問題,夢の問題は説けないということである。

 さて,第3編の「第3章 夢に関わって人間の脳の統括の過程的構造を説く」「第1節 人間の脳の統括は四重構造の性質をもつ」では,脳の統括の問題が総括されているといえる。簡単には,節のタイトルにあるように「人間の脳の統括は四重構造の性質をもつ」ということである。では,その四重構造とは何か。これをしっかりと確認しておかなければならない。

 まず,この説では,脳の統括に関わって,次の三つの公式が登場する。

@〔運動の統括×生理の統括=脳の全体統括〕
A〔感覚器官×像=脳の統括〕
B〔脳の統括=脳の生理×運動×認識〕

 @が一番初めに人間の脳に大きな二つの働きがあるとして説かれていたうちの一つ,すなわち,体全体を統括する働きのことを表していると考えられる。そしてAが,もう一つの働き,すなわち,自分の脳の仲に像を創りだす働きのことであろう。Bは,脳の自分自身の統括のことであり,その中で「脳の生理×運動」が「脳自体の生理状態と運動状態の統括」を意味し,「×認識」の部分が「脳がそれによって誕生させる認識すなわち像の統括」を意味していると考えてよさそうである。

 そうすると,先に見た2つの二重性=二重構造のうち,前者,すなわち,体全体の統括と脳自身の統括の二重性=二重構造というのは,この公式でいうと,@AとBの二重性=二重構造ということになるだろう。

 さらに,体全体の統括である@Aと脳自身の統括であるBは,昼間と夜間では変化するのであり,それぞれ昼間と夜間という二重性=二重構造が存在するといえるのである。ここに関しては,次のように説かれている。

「脳が体(の運動と生理)と自分自身(の運動と生理)を統括するということは,体の運動と自分自身の運動を統括することにとどまらず,自分自身のその二重の統括すらも運動形態そのものであるということです。また,これが運動形態であるということは,これは一般的な変化をなしながら,それと直接に部分としても変化していくという形態を把持しているということなのです。

 これこそが,先に説いた昼間の生理学と夜間の生理学の大切な中身なのです。すなわち脳の,体と脳自身の統括には二重性=二重構造があるのですが,これ自身にも昼間の生理学としてのものと,夜間の生理学としてのものとの二重性があり,合計四重構造の性質をもっているのだということを,読者のみなさんははっきりと自覚できなければなりません。」(p.118-119)


 すなわち,脳の統括は,体の統括と脳自身の統括の二重性=二重構造があるだけでなく,それぞれについて昼間の生理学としてのものと夜間の生理学としてのものの二重性=二重構造があり,合計で四重構造になっているということである。

 このような多重性・重層性の把握は,著者である南郷継正にとっては,まさに勝手に(自動的に)なし得るものであり,これこそが弁証法的頭脳活動のなせる業であるのではないか。われわれはともすれば,脳の統括のうち,体の統括のみを見て,脳自身の統括は見落としがちなのではないか。あるいはまた,脳の統括のうち,昼間の生理学としてのもののみを見て,夜間の生理学としてのものを見落としがちなのではないか。これはまさに,世界の二重性=二重構造を見抜けない非弁証法的頭脳活動のなせる業である。われわれは一刻も早く,すべての事物・事象を二重性として把握できるような弁証法的な頭脳活動に向けて,『“夢”講義』に学び続けなければならないのだと,決意を新たにした次第である。

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2017年06月16日

弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想(1/5)

目次

(1)弁証法的頭脳活動で創られた『“夢”講義』
(2)脳の統括の多重構造とはいかなるものか
(3)真の学的方法とは何か
(4)夜泣きと辛い夢の共通性とは何か
(5)一から多への発展を捉える

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(1)弁証法的頭脳活動で創られた『“夢”講義』

 本稿は,南郷継正『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義――看護と武道の認識論 第3巻』(以下,『“夢”講義(3)』と略す)を集団的に読み込み,学んだ内容を認めることによって,本書の内容をしっかりと自分の実力と化すことを目的としたものである。

 われわれのブログの「年頭言」にも記したように,今年は,京都弁証法認識論研究会として,集団的に『“夢”講義』に取り組むことを,活動の一つの柱としている。これまで,2月と4月にそれぞれ第1巻と第2巻の感想を掲載した。今回は3回目であり,『“夢”講義』は全6巻であるから,ようやく半分の折り返し地点に辿り着いたことになる。

 本書を読んでの率直な感想は,これこそが弁証法的頭脳活動のなせる業だ! というものであった。弁証法的頭脳を駆使して,見事に生理学から夢とは何かや思春期の論理構造などが説かれているのである。では,弁証法的頭脳活動とは何か。本書では,弁証法の学びは,自動車の運転の学びと同じようなものであり,「教習所の運転コースから市街地へでていき,そこから郊外の道を走り,やがては高速道路へと,そこを経たら,いうなれば山道,がけっぷちの道,といったあらゆる道路を易から難へと訓練し続けてようやくにして一人前」(pp.172-173)になれるとした後,次のように説かれている。

「この学問的弁証法の実力を培っていったのが,古代ではアリストテレスであり,近代では高速道路だけを走ったカントであり,高速道路以外の道をもまともに踏破できたのがヘーゲルなのだと思ってもらえばいい。なお現代では,私の恩師三浦つとむは,生活道路上の走りかたでは達人であった,といってよいであろう。

 さて,ではそうなったばあいに最初に説いた脳の実体とその機能という関わりからいえば,どういうことになるかというと,結論から説くなら,脳の実体の二重化かつ脳の機能の二重化となってきているものである。

 具体的に説けば,脳のはたらきである認識が,弁証法を駆使できるレベルを超して,認識そのものが弁証法性を帯びて,あたかも認識が弁証法的認識であるかのように,(観念的に)実体化していく状態を通過するなかで,それが相互浸透されて脳の実体そのものが,脳として,つまり脳の認識を創りだす能力そのものの機能が,弁証法化するという事態にまで発展していけるのである。

 すなわち,認識が弁証法的に考えようと思わなくても,勝手に弁証法的に考えてしまっている,すなわち,弁証法的な考えかたを自分で意図的に止めないかぎりは,必ず弁証法的に認識を創りだし,弁証法的な認識を創りだす,そういう脳の実体に量質転化化しているのである。」(pp.173-174)


 ここでは,認識が弁証法的認識であるかのように観念的に実体化し,それが脳の実体と相互浸透する中で,脳の認識を創りだす能力そのものの機能が弁証法化する結果,勝手に弁証法的に考えてしま脳の実体に量質転化化しているレベルが弁証法的な頭脳の実体の構造であると説かれている。このような頭脳を駆使することが,弁証法的頭脳活動であるといっていいだろう。要するに弁証法的頭脳活動とは,考えれば必然的に弁証法的に考えてしまうのであり,意図的にやめない限り,どうしても弁証法的な頭の働かせ方をし,弁証法的に対象の構造を明らかにして,弁証法的な論の展開をして文章を書いていくことになる,というレベルの頭脳活動だといっていいだろう。

 本書では,まさしくそのような弁証法的頭脳活動が展開されており,これこそが重層弁証法の威力なのだと感動を覚えることが非常に多い。

 そこで本稿では,本書で説かれている弁証法的頭脳活動の成果を3つ取り上げ,筆者なりに理解したことを文章化することによって整理し,少しでも自分の実力と化していきたいと考えている。初めに取り上げるのは,脳の統括の問題であり,次に,真の学問的方法について考察する。最後に,患者さんの辛い夢の問題を検討する予定である。

 ではいつものように,最後に本書の目次を示しておく。



なんごうつぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(3)


【 第1編 】 生理学から説く「夢とはなにか」

第1章 認識の発展の過程的構造を脳から説く

 第1節 “夢”講義は,みなさんそれぞれの夢の実現のためにこそ
 第2節 人間の脳には大きな二つのはたらきがある
 第3節 認識は五感覚器官・脳の成長との相互規定性で発展する

第2章 夢の解明に必要な「昼間の生理学」と「夜間の生理学」を説く

 第1節 夢は睡眠中に脳が勝手に描くものである
 第2節 脳自体の統括の二つのはたらきとは
 第3節 脳の統括は当然に弁証法性をもつ
 第4節 活動している「昼間の生理学」と休息している「夜間の生理学」

第3章 労働と睡眠の関係を説く

 第1節 人間の睡眠は労働による疲労の回復のためである
 第2節 学問的に説く労働とはなにか
 第3節 「疲れ」と「疲労」は違うものである
 第4節 「疲労」は哺乳類としての運動からの逸脱による

【 第2編 】 生理学から説く「思春期の論理構造」

第1章 「心の闇」を認識論的に説く

 第1節 「心の闇」がおこした事件
 第2節 「心の闇」は赤ん坊の頃から育つ
 第3節 他人にも自分にもみえない育ちのゆがみ

第2章 「心の闇」を脳の生理構造から説く

 第1節 脳は反映した像を自分流に発展させる実力をもっている
 第2節 思春期の脳の特殊性
 第3節 生活環境の違いで脳の創られかたが違ってくる
 第4節 思春期の脳への「ネット社会」の影響
 第5節 「狂想」へと転化させる思春期の脳
 第6節 心のゆがみは「心の教育」だけでは治せない

【 第3編 】 学問的に「夢とはなにか」を説くための礎石

第1章 夢の学問的な解明に必須の過程を説く

 第1節 観念論の立場では夢の学問的解明は不可能である
 第2節 夢を唯物論的に説くには脳の解明が必須である
 第3節 「いのちの歴史」から説く人間の認識への発展過程
 第4節 人間の認識=像は外界の反映と相対的独立に発展する
 第5節 脳は神経を介して労働と睡眠の異なった統括をする

第2章 学問的でない夢の専門家の実力を説く

 第1節 夢に関する専門家の見解を問う
 第2節 人類の歴史的な文化を学ぶことなしに夢は説けない
 第3節 夢の解明は脳が夢を描かされる過程的構造を説くことである
 第4節 『“夢”講義』感想文―夢を学問的に説くとはいかなることか

第3章 夢に関わって人間の脳の統括の過程的構造を説く

 第1節 人間の脳の統括は四重構造の性質をもつ
 第2節 労働により日々ゆがめられる人間の体と「ツボ健康法」を問う
 第3節 「ツボ」「経絡」に関する専門家の見解を問う
 第4節 「ツボ」「経絡」は動物体と人間体の相克により誕生したものである
 第5節 労働の過程的構造に夢の問題を解く鍵がある

【 第4編 】 学問に必須の「認識論」「弁証法」とその上達の構造を説く

第1章 認識論における海保静子の業績を説く

 第1節 認識論の理論的実践家としての海保静子
 第2節 認識論は弁証法とともに学問成立に必須のものである
 第3節 恩師三浦つとむの認識論の内実を問う
 第4節 認識の問題が解けない三浦つとむの認識論
 第5節 海保静子に「認識とは何か」の像の展開を学ぶ

第2章 講義録「弁証法の上達の構造を問う」

 第1節 学問としての弁証法が技化した頭脳による「目次」立てを説く
 第2節 学問構築に必要な大志・野望は空想的認識の一種である
 第3節 学問構築には対象の全体像の把握と弁証法の学びが必須である
 第4節 歴史上弁証法の全体像を提示できた学者はいない
 第5節 弁証法の実力をつける過程的構造を説く
 第6節 弁証法は脳の実体が量質転化するまで学ばなければならない
 第7節 「弁証法の上達の構造」における落とし穴とはなにか

【 第5編 】 看護の夢の事例を「いのちの歴史」から解く

第1章 人間が夢をみるに至る発達・教育の過程を説く

 第1節 辛い夢をみる事例
 第2節 上達に必須の「量質転化」の構造を説く
 第3節 サルにおける「問いかけ的認識」の芽ばえとはなにか
 第4節 人間における外界の直接の反映は誕生時のみである
 第5節 人間は外界を勝手に描く能力を教育されながら育ってくる
 第6節 外界を反映する神経系のはたらきは労働のありかたで異なる

第2章 赤ちゃんの夜泣きと夢の過程的構造を説く

 第1節 夜泣きは夢をみる実力をつけたことから始まる
 第2節 辛い夢を理解するために必要なことはなにか
 第3節 夜泣きは発育途上の脳の実力をこえた外界の反映による
 第4節 夜泣きを防ぐ赤ちゃんの睡眠中の育てかたを説く
 第5節 夜泣きと辛い夢との関係への解答

第3章 夢の事例を脳の神経と認識の統括から説く

 第1節 足のウラの鍛錬は頭脳活動を活発にする
 第2節 脳が誕生する魚類への生命体の運動形態の発展過程を説く
 第3節 魚類の脳は四重構造の統括をするために誕生したのである
 第4節 人間の脳は認識活動の統括をも行なうのである
 第5節 辛い夢をみる患者の実体と認識に働きかけた見事な看護を説く


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2017年04月22日

重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想(5/5)

(5)弁証法・労働論・技術論は重層構造をなしている

 本稿は,『“夢”講義(2)』から重層的な弁証法をしっかりと学び取ることを第一の目的として,その他,本書で説かれている労働と疎外,それに技術論も取り上げて,理解を深めていくために認めてきた。ここで,これまでの内容を振り返っておきたい。

 まず,「プロローグ――まえがきに代えて――」を引用しながら,本書で説かれている内容を確認した。本書ではアタマとココロの見事な使いかたの基本となる学び=弁証法の学びを中心にすえて説いてあった。また,三浦つとむさんの弁証法は単層レベルなので,学問の問題を解くためには不十分であり,重層構造で成り立っている学問の対象を説くための重層的な弁証法をしっかりと説いているのが本書であるとも説かれていた。

 連載の第2回では,本稿の第一の目的たる弁証法そのものを取り上げた。本書の第1編では,初めに,「弁証法とは,自然・社会・精神の一般的な運動とか発展の法則」であるとして,弁証法でいう自然とは何か,社会とは何か,精神とは何かが説かれていた。弁証法でいう自然とは,地球上の人間社会を除いた全歴史の実体のことであり,小さくは地球全体の発展過程を含んでの,大きくは宇宙そのものの発展を内に秘めての自然としての流れそのものとされていた。筆者は,弁証法でいう自然というとらえ方に驚き,その壮大さに感心したのであった。また,弁証法でいう自然概念には,当然ながら,変化・発展が内に含まれているのであった。弁証法でいう社会とは,サルが人間に進化してからの時代的流れのすべてをうちに含んで発展してきている社会の歴史性そのものであり,弁証法で説く精神とは,人類の歴史を創造するのに寄与してきたモロモロの先達たちの英知の集大成をアウフヘーベンしたものであり,人類の時代として生成発展するモノだとされていた。特に,精神に関わっては,「個々の誰かのモノをいうのではなく,「英知のすべての集大成の昇華」したモノ」と捉えられており,ここは重要だと感じた。南郷先生は全学問を網羅したからこそ,このような弁証法で説く自然・社会・精神の概念化が可能であったのだし,われわれも弁証法を学ぶ際にはせめて中学の全教科の内容を自分の実力とする努力とともにやっていかねばならないことも確認した。もう一つ,弁証法と弁証術の違いが説かれていることも重要だと感じた。弁証法の対象は世界全体(森羅万象)であり,古代ギリシャの学者たちは全学的研究を行っていたと説かれていた。そして,古代ギリシャの学問形成過程にこそ,弁証法の起源があると説かれていたのである。古代ギリシャの学問形成過程で,個々人の限界を突破するために,他人の認識との相互浸透を図ること,すなわち交流かつ議論することがなされ,「この一連の議論の,討論の,論争の過程を一つの流れの過程として,すなわち過程的構造としてとらえかえしたものが「ディアレクティク」,すなわち弁証法といわれるものだった」ということである。ここから,方法としての弁証術も,法則としての弁証法も,ともに世界全体に関わるものであり,前者があってこその後者の誕生ということができるであるから,われわれも個体発生においてこの過程を辿り返す必要があると説いておいた。

 連載の第3回では,本書で夢に関わって説かれている「労働」概念について,特に労働と疎外の関係について検討した。南郷先生は,労働とは,人間が目的的に対象に観念的・実体的にはたらきかけて,対象を目的的に人間化するべく創りかえることであり,かつ,そのことによって目的とした対象が目的的に人間化することによって,人間が目的のレベルで創りかえられることにあると規定されていた。ここで大切なポイントは,労働とは目的をもって対象にはたらきかける行為であるという点と,労働とは「自然の人間化・人間の自然化」のことであるという点であると指摘した。二つ目の点は,働かきかけられた側の変化と,働きかけた側の変化を統一して捉えており,人間と自然の相互浸透をきちんと捉えているからして,非常に弁証法的な捉え方であろう。また,南郷先生は,疎外とは,(学問レベルから説けば)人間が労働を対象化すると,その人間自らが労働を対象化したモノによって,その人間自体が規定されてしまうことと規定されていた。労働することによって労働した側の人間にも変化が生じるのであり,この側面をとらえて「疎外」というのであった。南郷先生は「ここでいう人間とは人類一般からなる人間一般であり,簡単には,社会的存在としての人間そのもののこと」を指しており,「ここでまちがってはならないことは,必ず人間一般であって,個としての人ではない」と指摘されていた。これは,大きな視点で,サルから人間への発展の流れをふまえた上で人間をとらえるべきであるという指摘であろう。さらに,人類一般としての人間が行った労働が,結局は人類一般としての人間を規定することになるのだ,というような含意があるのではないかとも指摘しておいた。たとえば,原爆を開発した人間と,原爆で被害を受けた広島や長崎の人間は別人であるが,大きな観点から見れば,人間が創ったモノによって,人間自体が規定=規制されたということができるのである。こういう捉え方が「人間一般」ということではないかということであった。また,幼児の遊びを労働として捉えておられるのも,両親・保育士と幼児を別々の人間として区別するような観点ではなく,双方を人間一般として捉えているからこそではないかと説いておいた。これは,弁証法でいう「精神とは個々の誰かのモノをいうのではなく,「英知のすべての集大成の昇華」したモノ」であると説かれていたのを髣髴とさせる弁証法的な捉え方であると感じた。最後に,同じ人間一般の目的的な行為を,その目的性・過程性に重点を置いて捉えると「労働」となり,その結果に重点を置いて捉えると「疎外」となるという解説について,対立物を統一した弁証法的な捉え方であるとしておいた。

 連載の第4回では,本書で説かれている技術論を取り上げて考察した。技とは動物が関わるモノではなく,本来は人間のみが関わるモノ,関われるモノであるとしたうえで,技とは人間の認識のなせるワザであり,認識が関わって技となると説かれていた。ここから,認識のない動物は,全てを本能が統括しているのであり,技などなくても問題なく生きていくことが可能であるが,本能が薄れた人間の場合は,認識が技を創出していくのであり,この技こそ,薄れた本能を補うようなものであると位置づけられるのかもしれないと指摘しておいた。その後,「始めチョロチョロ,中パッパ」という歌の文句で有名なご飯の炊き方も技であると指摘され,「物のこと」が技になるのは,それに関わった認識のオカゲであることが強調され,認識が「物のこと」を技化すると説かれていた。また,「技化」については,認識がなにかに関わって対象を自家薬籠中のものと化すものであるとされていた。たとえば包丁の使いかたを技化する場合,食材の押さえ方や包丁のおろし方などをしっかり認識したうえで,手を駆使できるようにならないといけないし,正しい使いかたをくり返すことによって,意識せずともきちんと切れるようになる=技化する,ということだと説いておいた。この後,南郷先生は,「物のこと」ばかりではなく,「認識のこと」も認識が関わって初めて技化されると説かれていた。「認識のこと」とはたとえば,相手の心を読む術(技)とか,心を教育する術(技)とかのことである。看護師や心理士は,経験のないことでも分かる能力をもつことが必要なのであり,それは努力・訓練で培うものであり,そのような,相手の心を読みとる術,相手の心を動かせる術,相手の心を変えてやれる術なども技というのであると説かれていた。たとえば,うつ状態のクライエントの心を読みとる術も一つの技であり,鬱々としたクライエントの認識を治療的な方向へと運動・変化させるのも,心理士としての重要な介入技法なのであると指摘しておいた。このように,相手の心というような「認識のこと」についても,技化ということが可能なのであり,特に看護師や心理士にとっては,「認識のこと」についての技というものが非常に重要になってくるとまとめておいた。

 以上,本稿で取り上げた弁証法,労働・疎外論,技術論について振り返った。これらはすべて,南郷先生が現在までの学問の発展の流れを一身にくり返したうえで,独自に発展させられた分野であると思う。南郷先生は,三浦つとむさんの弁証法は単層弁証法であると批判されていた。これは,主として自然を対象として引き出された弁証法であり,自然から生まれた社会,そして社会の中に誕生した精神をも含む重層構造を把持する世界全体を解明するには不十分だということであった。南郷先生は,自然・社会・精神が重層構造をなし,相互浸透しながら相互に規定しあっている世界の全体を解明され,その重層構造を踏まえた弁証法を創出されたのである。すなわち,自然の弁証法を解明され,社会の弁証法を解明され,精神の弁証法を解明された上で,これらを統一的に捉え返されたのであろう。これが重層弁証法ということになるのだと思う。。

 以上を踏まえて,本稿で取り上げた弁証法,労働・疎外論,技術論の関係を眺めてみると,次のようなことがいえるのではないか。すなわち,弁証法よりも労働・疎外論,労働・疎外論よりも技術論の方が特殊で狭い領域になっており,労働・疎外論は弁証法の基盤の上に創られ,技術論は労働・疎外論の基盤の上に創られているということである。もう少し詳しく説いてみたい。

 弁証法とは,先にも再確認したように,自然・社会・精神の一般的な運動とか発展の法則のことである。その中で,自然の弁証法といえば,端的にいうと「生命の歴史」のことであろう。それは,地球とそこから誕生した生命体の相互浸透的発展の流れを論理化したものといえる。その相互浸透のあり方が,生命体が人間に至ると,特殊性を帯びるようになる,つまり,それまで生命体は環境に対して受動的だったのに,人間の段階に至ると環境に対して能動的に働きかけるようになる。それが労働・疎外ということである。すなわち,生命体と地球の相互浸透の中で,人間と地球との関わりに関して取り上げたものが労働・疎外論ということになるであろう。換言すれば,全世界の一般的な運動・発展の中から,人間が自然や他の人間などに働きかける,その働きかけに領域を絞ってみて,その中で働きかけられた対象がどのように運動・発展するのか,働きかけた人間はどのように運動・発展するのかということを概念化すると,労働・疎外ということになるのではないか。

 さらに,技化というのは,疎外の特殊なあり方ということができるように思う。どういうことか。疎外とは人間自らが労働を対象化したモノによって,その人間自体が規定されてしまうことであったが,その疎外の中で,認識が何かに関わって対象を自家薬籠中のものと化した場合,それを「技化」というのではないだろうか。目的を持った人間の行為が労働であったが,その労働の結果,人間は何らかの規定を受ける。それが疎外である。この疎外を,人間の上達という観点から捉えた場合,それを技化というのではないだろうか。

 要するに,自然・社会・精神の一般的な運動の特殊性として労働とか疎外とか呼ばれるものがあり,その疎外の特殊性として技化と呼ばれるものがあるのではないか。そうして,技というものを考えるに際して,単に技自体から考えるのではなく,もう少し広く,人間の労働・疎外一般から考えるのでもなく,もっと広く,自然・社会・精神の一般的な運動・発展の法則である弁証法レベルから考えていくということが,南郷継正先生の真骨頂なのではないか。このような三層構造=重層構造をしっかりと捉えられる実力こそ,南郷先生の説かれる重層弁証法の実力ということなのではないかと,今回,本稿を執筆する過程で思わされたことであった。

 いずれにせよ,夢を説くに際して,世界全体の一般的な運動の法則を当然に前提にしたうえで,人間の目的的な行為である労働=疎外をも踏まえて説かれていくのである。このように,より大きな視点から,その生成発展をしっかり把握したうえでそのものを説いていくという説き方こそ,弁証法的な説き方であり,本書で典型的に示されている説き方であろうと思う。こういった説き方からも弁証法をしっかりと学んでいきたいと考えている。

(了)
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2017年04月21日

重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想(4/5)

(4)「技とは何か」を考える

 前回は,『“夢”講義(2)』で説かれている労働と疎外について,そして両者の関係について,見た。人間は,労働することによって,働きかけた対象を変化させるだけではなく,疎外される,すなわち,働きかけた対象から規定されもする,ということを確認したのであった。

 今回は,本書で説かれている技術論を取り上げて考察したい。

 本書では,最後の第5編で技術論が取り上げられている。第5編の目次を以下に引用する。

「【 第5編 】 看護への夢を実現するために

第1章 看護に重要なこととはなにか

 第1節 すべてを看護の問題として
 第2節 観念的二重化の実力が看護の見事な実力となる

第2章 「看護技術論」の柱を説く

 第1節 そもそも技とはなにか
 第2節 看護技術は実体・認識への技である」


 ここでは,聖隷クリストファー大学で南郷先生の技術論が重要視されてきているという話をきっかけに,技術論への導入がなされている。そして,観念的二重化の実力の重要性が,『“夢”講義(1)』で説かれた内容の要約として,再度説かれていく。その後,「そもそも技とはなにか」ということが本格的に説かれていくのである。

 第5編第2章では,技とは動物が関わるモノではなく,本来は人間のみが関わるモノ,関われるモノであるとしたうえで,次のように説かれている。

「そうしますと,次には以下のような思いが浮かんでくるでしょう。

「人間だけが……というと,これは人間と動物との違い,すなわち人間と動物との分水嶺だということだ。なんだ,わかったぞ! 人間だけのモノといえば,脳のはたらき,すなわち認識のことだろう。そうだ,そうだ,技とは認識のなせるワザだったのか。認識が関わって技となるのだ,認識が関わったモノが技となって現象してくるのだ。簡単には,技は認識が創るモノ! なのだ」と。

 そのとおりです。そうなのです。「技は,技能は,技術は認識がなにかに関わって創出されたなにかなのだ」ということなのです。」(pp.224-225)


 すなわち,技とは人間の認識のなせるワザであり,認識が関わって技となるということである。

 逆にいうと,認識のない動物は,全てを本能が統括しているのであり,技などなくても問題なく生きていくことが可能であるということであろう。しかし,本能が薄れた人間の場合は,認識が技を創出していくのであり,この技こそ,薄れた本能を補うようなものであると位置づけられるのかもしれない。

 その後,「始めチョロチョロ,中パッパ」という歌の文句で有名なご飯の炊き方も技であると指摘され,次のように説かれている。

「たしかに,御飯がおいしく炊けるのも,包丁が見事に切れるようになるのも,「物のこと」です。でも,この「物のこと」を技といえるレベルに仕上げたのは「モノ」ではなく,人間の認識なのです。「物のこと」が立派になるのは,「物のこと」が技になるのは,それに関わった認識のオカゲなのです。認識の関わりなくして「物のこと」は技にはならないのです。

 認識が「物のこと」を技化(この「技化」という言語表現は弁証法の量質転化の法則を応用して,量質転化ではダメで量質転化化でなければならない,そうでなければ,弁証法は技にはならないとして,私が独自に創造した,技の創りかたの概念化であるものです)するのです。」(pp.227-228)


 ここでも,「物のこと」が技になるのは,それに関わった認識のオカゲであることが強調され,認識が「物のこと」を技化すると説かれている。「技化」については,後の部分で「技化は認識がなにかに関わって対象を自家薬籠中のものと化すものである」(p.231)と説かれている。したがって,認識こそが「物のこと」を自家薬籠中のものと化すのだ,ということになるだろう。

 具体例で考えてみたい。ご飯の炊き方や包丁の使いかたは,米やお釜,包丁や食材などといった「物のこと」に関わる。これが技といえるほど立派になるためには,認識の関わりが必要だということである。「始めチョロチョロ,中パッパ」というように,初めは弱火で炊き始めて,しばらくしてから強火で一気に沸騰させるのがよい炊き方であるということをしっかりと認識していないと,そして認識したとおりにタイミングを見計らって火加減を調整できないと,技と呼べるほどに立派なご飯の炊き方はできない。包丁の使いかたも,食材の押さえ方や包丁のおろし方などをしっかり認識したうえで,手を駆使できるようにならないといけないし,正しい使いかたをくり返すことによって,意識せずともきちんと切れるようになる=技化する,ということであろう。

 南郷先生はこの後,技といっても「物のこと」に限らないとして,次のように説かれている。 

「「物のこと」とは認識が関わって初めて「技のこと」になるのですが,これと同じように「認識のこと」も認識が関わって初めて「技のこと」,すなわち「技化」されていくのです。」(p.229)


 すなわち,「物のこと」ばかりではなく,「認識のこと」も認識が関わって初めて技化されるということである。

 では,「認識のこと」が技化するとはどういうことか。南郷先生は,庄司和晃氏がことわざのことを「言(葉)の技」と比喩されていたことを紹介し,言葉の大本である認識をも,技化することが可能だと説かれている。そして,「相手の心を読む術(技)とか,心を教育する術(技)とか」(p.229)の例を挙げておられる。その後,次のように説いておられる。

「すなわち,経験したことのない事柄でも,本能がしっかりとはたらく動物にはわかることが可能なのですが,本能のはたらきがほとんどない人間にはなかなかわかることができないのだ,だからこそ,経験のないことでもわかる能力をもつことが必要なのだ,その能力は先天的なものではけっしてなく,自分の努力で訓練で培うことがどうしても必要なのだ,そしてそれこそがその努力(訓練)で培うものが相手の心を読みとる術であり,相手の心を動かせる術であり,相手の心を変えてやれる術なのだ,そしてこの実力をも「技というのだ」ということです。」(p.230)


 ここでは,経験のないことでも分かる能力をもつことが必要なのであり,それは努力・訓練で培うものであり,そのような,相手の心を読みとる術,相手の心を動かせる術,相手の心を変えてやれる術なども技というのである,ということが説かれている。

 これらはまさに看護師や心理士にとって必要な能力であり,技化すべき実力だといえるだろう。これも具体例で考えてみたい。たとえば,筆者のような心理士のところに,うつ状態のクライエントが来談されたとする。そのクライエントの心を読みとる術も一つの技である。これは観念的二重化の実力ということになるだろう。この実力が,技といえるほど立派になるためには,認識が関わる必要があるのである。また,クライエントの心を動かすのも変えてやるのも,ひとつの技である。鬱々としたクライエントの認識を治療的な方向へと運動・変化させるのは,心理士としての大切な技なのである。これも技になるためには,認識の関わりが必要だということである。

 このように,相手の心というような「認識のこと」についても,技化ということが可能なのであり,特に看護師や心理士にとっては,「認識のこと」についての技というものが非常に重要になってくるといえるだろう。

 以上,今回は,本書で説かれている南郷先生の技術論について考察してきた。

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2017年04月20日

重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想(3/5)

(3)労働と疎外の関係を問う

 前回は,南郷継正『“夢”講義(2)』で初学者向けに説かれている弁証法の内容を確認した。南郷先生は,自身の恩師である三浦つとむさんの弁証法に不足しているところを「重層弁証法」として説かれていたのであるが,そこで重要なのは,弁証法でいう自然・社会・精神の概念化と古代ギリシャの弁証術の意義であるとして,その中身を紹介したのであった。

 今回は,本書で夢に関わって説かれている「労働」概念について,特に労働と疎外の関係について見ていきたい。

 南郷先生は,人間が夢を見ることができるようになっていった過程を説く流れのなかで,看護学科学生から出された「労働」というイメージがつかめないという質問に答える形で,労働についてやさしく説いていかれる。まずは学問レベルで説かれる「労働とは」の部分を引用する。 

「労働とは,人間が目的的に対象に観念的・実体的にはたらきかけて,対象を目的的に人間化するべく創りかえることであり,かつ,そのことによって目的とした対象が目的的に人間化することによって,人間が目的のレベルで創りかえられることにある」(p.80)


 ここで大切なポイントは,第一に,労働とは目的をもって対象に働きかける行為である,という点である。あとの部分でも,人間の行為の中で「なにか目的をもってなんらかの対象にはたらきかけて,なんらかのモノ(このモノは実体のみならず,認識をも含みます)を創りだしていく,いける行為を学問的・理論的には「労働」と称するのです」(p.88)と説かれている。

 第二に大切だと思われるポイントは,「『弁証法はどういう科学か』(前出)では,ここを簡単に「自然の人間化・人間の自然化」として説いてあります」(p.80)とあるように,労働とは「自然の人間化・人間の自然化」のことであるという点である。先に見たように,労働とは目的をもって対象に働きかける行為であるから,働きかけられた対象が変化する,すなわち自然が目的に見合ったものとして人間化する,ということはイメージできる。しかし,労働が「人間の自然化」でもあるといわれると,ピンとこない読者もいるのではないか。先の引用文でも「人間が目的のレベルで創りかえられる」とあるが,このことが,特に弁証法の初学者はよく分からないのではないかと思われる。それでも,労働という目的を持った働きかけによって,働きかけた側も変化するというのである。

 これは,非常に弁証法的な労働の捉え方だと思う。働かきかけられた側の変化と,働きかけた側の変化を統一して捉えているからであるし,自然の人間化と人間の自然化というように,人間と自然の相互浸透をきちんと捉えているからである。

 この労働の人間の自然化の側面をより広く捉えた捉え方が「疎外」ではないか。南郷先生は,疎外について次のように規定しておられる。

「疎外とは,(学問レベルから説けば)人間が労働を対象化すると,その人間自らが労働を対象化したモノによって,その人間自体が規定されてしまうこと」(p.81)


 すなわち,疎外とは,労働にともなって,働きかけた対象によってその人間自体が規定されることである。働きかける対象が自然であれば,これは人間の自然化ということになるであろう。ともかく,労働することによって労働した側の人間にも変化が生じるのであり,この側面をとらえて「疎外」というわけである。

 ここで注意を要するのは,南郷先生が「ここでいう人間とは人類一般からなる人間一般であり,簡単には,社会的存在としての人間そのもののこと」を指しており,「ここでまちがってはならないことは,必ず人間一般であって,個としての人ではない」(p.81)と指摘されている点であろう。ここでいう人間とは人間一般のことであるとは,どういうことか。

 まずいえそうなことは,大きな視点で人間をとらえるべきであり,もう少し具体的にいうと,サルから人間への発展の流れを踏まえるべきである,ということであろう。すなわち,生命の歴史を踏まえたうえで,人間の労働=疎外を問題にしない限り,労働=疎外とは何かということは明らかにならない,ということではないか。実際,本書でも,生命の歴史から夢を見る実力への過程が説かれた後で,「労働とは何か」が問われている。個としての人間という,目の前に存在する一人の人間を問題にするのではなく,もっと広い視野から,人間に至る過程をも射程に入れて,弁証法的に,サルまでの生命の歴史をも内に秘めた存在として,人間を見ていくべきであり,そうしてこそ,労働=疎外の謎も解ける,ということではないか。

 もう一ついえそうなこととしては,ある特定の人間が行った労働によって,その労働を行った人間自体が規定されるというのではなく,もっと大きな観点から,人類一般としての人間が行った労働が,結局は人類一般としての人間を規定することになるのだ,というような含意があるのではないか,ということである。どうしてそのように考えられるのかというと,南郷先生は次のように説かれているからである。

「もう一度くり返しておきますが,疎外とは結果として人間が(あるいは人間性=精神が)規定ないし規制されることであり,端的にいえば,人間が人間として社会的に労働した(させられた)結果,自分たち人間の精神が創出した(させられた)資本なり工場なり原爆なりによって,人間のありかた,育ちかた,はたらきかた,生活のしかた,教育のされかたが規定=規制されてくることをいうのです。」(p.85)


 ここで説かれている原爆の例が分かりやすい。原爆を開発した人間と,原爆で被害を受けた広島や長崎の人間は別人である。しかし,大きな観点から見れば,人間が創ったモノによって,人間自体が規定=規制されたということができるのである。こういう捉え方が「人間一般」ということではないか。

 また,「幼児の遊びも,目的を持った両親とか保育士の教育の一環としてあるのなら,しっかりとした労働となります」(pp.88-89)とも説かれている。これも,両親・保育士と幼児を別々の人間として区別するような観点ではなく,もっと大きな観点から,双方を人間一般として捉えるならば,目的をもってある行為を行うことによって,人間一般が学習して,変化・発展していく,ということもできるように思う。先の引用文に,「人間が人間として社会的に労働した(させられた)結果,自分たち人間の精神が創出した(させられた)」と,「させられた」という言葉がカッコ書きで挿入されているが,これはたとえば,個々の具体的な幼児が労働=遊びをさせられたといっても,それは,人間一般という観点から見れば,自分が教育的な目的をもって労働したのであり,その労働によって人間が人間となっていくための社会的な学習を行った,というようなことを意味しているのではないか。

 このような人間の捉え方は,非常に弁証法的であるといえる。なぜなら,前回見たように,弁証法でいう「精神とは個々の誰かのモノをいうのではなく,「英知のすべての集大成の昇華」したモノ」であると説かれていたように,個々の人間を問題にするのではなく,個々の人間をひっくるめて一括りにして,人間一般として捉えることこそが,弁証法的な人間の捉え方だからである。今問題にしている労働とか疎外とかいうことも,個々の人間を問題にするというよりも,そういった個々の人間をひっくるめて一括りにしたところの,人間一般を問題にしている概念なのである。

 以上見てきたように,人間一般のなす目的を持った行為が労働であり,疎外なのであるが,この両者の関係は,端的に次のようにまとめられている。 

「労働も疎外も,人間一般の同じ行為のことを説明しているからです。ただ,労働はその行為の目的性・過程性に重点を置いて説いてあるのにたいし,疎外は結果に重点を置いた言葉なのです。したがって,双方の言葉を直接的同一性レベルで用いることが可能になる努力をしてください。」(p.86)


 ここも非常に弁証法的である。というのは,人間一般の同じ行為を,目的性・過程性と結果という対立物の統一として捉えているからである。すなわち,人間の目的的な行為を,その目的性・過程性に重点を置いて捉えると「労働」となり,その結果に重点を置いて捉えると「疎外」となる,ということである。さらに,マルクス主義の影響で,「疎外」といえば,悪い側面のみが強調されてきたが,ヘーゲルが説くように,よい側面も当然にあるとして,疎外のよい側面と悪い側面を統一して説いておられるのも,非常に弁証法的であると感じた。

 以上,今回は,本書で説かれている労働と疎外について見てきた。

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2017年04月19日

重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想(2/5)

(2)「弁証法とは何か」を確認する

 本稿は,南郷継正『“夢”講義(2)』を読み込み,学んだ内容を言語化しようとすることによって,学びの質を深める目的で執筆している論考である。『“夢”講義(2)』は「弁証法の学び編」とされているだけに,南郷先生が創造された重層弁証法を学び取ることを,特に第一の目的とするものである。

 今回は,その第一の目的たる弁証法そのものを取り上げたい。

 本書は,前回の最後に引用した目次を見ていただければ明らかなように,第1編が「初学者に説く「弁証法とはなにか」」となっており,弁証法とは何かや弁証法の学び方が初学者向けに説かれている。

 初めに,「弁証法とは,自然・社会・精神の一般的な運動とか発展の法則」(p.29)であるとして,弁証法でいう自然とは何か,社会とは何か,精神とは何かが説かれていく。順に,ポイントとなる部分を引用する。

「ここの弁証法でいう自然とは,まず小さくは地球全体の発展過程を含んでの,大きくは宇宙そのものの発展を内に秘めての自然としての流れそのものです。簡単には,地球上の人間社会を除いた全歴史の実体と思ってください。」(pp.29-30)


 すなわち,弁証法でいう自然とは,地球上の人間社会を除いた全歴史の実体のことであり,小さくは地球全体の発展過程を含んでの,大きくは宇宙そのものの発展を内に秘めての自然としての流れそのものということである。

 ここだけ読んでも,いくつもの像が筆者の頭に浮かんでくる。まず,そもそも「弁証法でいう自然」なる捉え方があったのか! という驚きである。同じ「自然」といっても,どのような観点で取り上げるのかによって,その中身は全く異なってくる,ということであろう。別言すれば,誰かが「自然」という言語表現を用いていても,どのような認識=像を表現したものであるかは,表現者の実力や観点次第で変化する,ということであろう。

 次に,その壮大さである。小さくても地球全体の発展過程を含んでいるのであり,大きくは宇宙そのものの発展を内に秘めての概念であるという。南郷学派を学んできているわれわれからすると,いわれてみれば当たり前なのであるが,弁証法の初学者からすれば,一般に「自然」という言葉からイメージするものとは,そのスケールが格段に違うだろう。

 最後に,「自然としての流れそのもの」とか「全歴史の実体」とかとあるように,この「自然」という概念には変化・発展のプロセスが含まれているということである。「弁証法でいう」自然なのであるから,当然といえば当然なのであるが,この「自然」概念は,単に今ある自然ということではなく,また単にかつてあった自然ということでもなく,歴史性を背負ったものとしての自然なのである。

 では次に,弁証法でいう社会と弁証法でいう精神についても,説かれているところを引用してみよう。

「では社会とはなんでしょう。これは人間の生成発展してきた社会の歴史性そのものです。サルが人間に進化してからの時代的流れのすべてをうちに含んで発展してきている,そしてこれからもまだ発展しようとも,あるいは世界大戦とやらで滅亡しようともしている現在の社会の状態そのものです。」(p.30)


「弁証法で説く精神とは,人間が人類として発展・発達してきた流れのなかで,その人類の歴史を創造するのに寄与してきたモロモロの政治家・経済家(企業家・実業家・財界人等々を含んだうえでのすべて経済に関わった人々)・文化人・軍人・作家・芸術家の英知の集大成をアウフヘーベン(より見事なモノとして措定する)したモノをいいます。

 ですから,ここで精神とは個々の誰かのモノをいうのではなく,「英知のすべての集大成の昇華」したモノなのです。そして,この精神は人類の時代として生成発展するモノなのです。ですから,すべての時代の発展的集大成的アウフヘーベンとして考えられているのです。」(p.31)


 ここでは,弁証法でいう社会とは,サルが人間に進化してからの時代的流れのすべてをうちに含んで発展してきている社会の歴史性そのものであり,弁証法で説く精神とは,人類の歴史を創造するのに寄与してきたモロモロの先達たちの英知の集大成をアウフヘーベンしたものであり,人類の時代として生成発展するモノだとされている。

 ここでも,先に自然概念で記したような驚きや壮大さを感じるし,これらの概念も歴史性を含んだものであることが分かる。特に,精神に関わっては,「個々の誰かのモノをいうのではなく,「英知のすべての集大成の昇華」したモノ」という点は非常に重要な指摘だと感じた。弁証法でいう精神を,このように捉ええた人間が,これまでにいたであろうか。

 以上を踏まえるなら,全世界というのは,まずは自然の生成発展があり,その中で社会が誕生して生成発展し,さらにその中で精神が誕生して生成発展するという大きな流れがあり,これら全てを射程に入れ,そこから一般的な運動・発展の法則を導き出したものが弁証法である,ということがいえるだろう。

 南郷先生が,「私の説く弁証法は,社会科学,精神科学,自然科学のすべてを修得したレベルでなされている」(p.49)と豪語されているのも,上記のような自然・社会・精神の概念化がなされたことでも分かると思う。このようにすべての学問を網羅しないと弁証法は分からないのであるし,だからこそ,「弁証法を学ぶばあいには,……せめて中学の全教科の内容を自分の実力とする努力とともにやってください,直接的同一性のレベルで学んでください」(p.50)という助言がなされているのであろう。

 もう一つ,弁証法に関わって本書で重要だと感じたのは,弁証法と弁証術の違いである。今まで説いた,弁証法で説くところの自然・社会・精神の概念化を果たしたというだけでも,三浦つとむさんの弁証法に不足していたものを大きく補ったということになると思うが,もう一つ,弁証法の生成発展の歴史を踏まえて,弁証法と弁証術を区別された点も,南郷先生ならではであり,三浦さんの弁証法に欠けたるものであったと感じた。

 南郷先生は,弁証法の対象は世界全体(森羅万象)であるとし,古代ギリシャの学者たちは全学的研究を行っていたと説かれている。そして,古代ギリシャの学問形成過程にこそ,弁証法の起源があると説かれているのである。これはどういうことか。

 古代ギリシャの学者は,自分の感覚器官を駆使して,自然や社会の現象形態・出来事をしっかりと観察しながら究明しようと努力していたが,それは個々人の能力の及ぶところではなかった。そこで,他人の認識との相互浸透を図ること,すなわち交流かつ議論によって,個々人の限界を突破していったということである。「この一連の議論の,討論の,論争の過程を一つの流れの過程として,すなわち過程的構造としてとらえかえしたものが「ディアレクティク」,すなわち弁証法といわれるものだった」(p.42)と南郷先生は説かれている。このディアレクティクが,エンゲルスが創った法則としての弁証法に対して,方法としての弁証術だったのである。

 ここで大切なのは,弁証法(弁証術)は古代ギリシャの学者たちの全学的研究の流れの中で,学問形成過程で,誕生したものであるということであろう。要するに,学問形成のためには弁証法(弁証術)が必須だったということである。その弁証法(弁証術)という名の学的社会的認識が,哲学の発展の流れの中で生成発展していき,カントからヘーゲルに至る過程で大きく発展して,ヘーゲルの哲学に含まれていた弁証法を,エンゲルスが法則として取り出したということであろう。

 そうなると,方法としての弁証術も,法則としての弁証法も,ともに世界全体に関わるものであり,前者があってこその後者の誕生ということができるであろう。こういった人類の認識の大きな発展の流れは,個体発生においてもくり返す必要があり,われわれも弁証法をしっかりと身につけたかったら,古代ギリシャの方法としての弁証術をも,しっかり研鑽していくことが大切だ,ということになろう。

 このような方法としての弁証術の意義について,三浦つとむさんは(少なくともあまり明確には)説かれていないと思う。方法としての弁証術をもそのプロセスとして内に含んでいるところの弁証法ということが,重層弁証法といわれるゆえんの一つではないかと感じた次第である。
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2017年04月18日

重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想(1/5)

目次

(1)「弁証法の学び編」を読む
(2)「弁証法とは何か」を確認する
(3)労働と疎外の関係を問う
(4)「技とは何か」を考える
(5)弁証法・労働論・技術論は重層構造をなしている

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(1)「弁証法の学び編」を読む

 本稿は,南郷継正『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義(2)』(現代社,以下,『“夢”講義(2)』とする)にしっかりと学び,その学びの成果を認める論考である。

 本年は,『“夢”講義』全6巻を研究会として組織的に学び,その成果を言語化しようとすることによって,より学びの質を深めていく年にしたいと,年頭言で宣言しておいた。本稿は,2月に掲載した『“夢”講義(1)』の感想に続く第2弾である。

 では,『“夢”講義(2)』にはどのような内容が説かれているのか。ここに関わって,「プロローグ――まえがきに代えて――」では,次のように説かれている。

「そこをふまえて,すなわち第二巻である本書は第一巻の認識論の学習をふまえて,そのあなたの「アタマとココロ」の見事な使いかたの基本となる学びを中心にすえて,説いてあります。

 では「見事な使いかたの基本となる学び」とはなんでしょうか。読者のみなさんには,およその推測はついているはずです。端的にいえば,それは弁証法の学びです。」(p.16)


 すなわち,本書ではアタマとココロの見事な使いかたの基本となる学び=弁証法の学びを中心にすえて説いてあるということである。

 ここで確認しておくべきことは,そもそも『“夢”講義』は,読者のアタマをよくするためにこそ説かれているということである。第一巻では,アタマとココロのはたらきを立派にするための学問である認識論の基本が説かれ,それを踏まえて第二巻では,アタマとココロの見事な使いかたの基本となる学び=弁証法の学びが説かれていくということである。したがって,本書をなんらかの客体の研究書として,第三者的に読んでいては意味がない。そうではなくて,自らの主体の問題として,自分のアタマをよくするためにはどうすればいいのかという観点を把持しながら,主体的に読み込んでいく必要があるのである。

 「プロローグ――まえがきに代えて――」では続いて,三浦つとむさんの『認識と言語の理論(第一部)』が引用され,これが夢の問題に取り組むヒントになったと説かれている。そのうえで,読者に不足しているのは弁証法の学びであるとして,三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』は本当に基本の書なので,学問レベルの問題,特に“夢”の問題には歯が立たないと断言されている。そのうえで,次のように説かれていくのである。

「私は読者のみなさんにしっかりとした実力をつけてほしいと願っているので,恩師の著作に不足するところを,この『“夢”講義』でも説(解)いてきています。それで第一巻は「認識論入門」ということになっており,本第二巻は,そこを深める実力養成のための学問,すなわち「弁証法の学び編」となっているのです。

 恩師の著作の「弁証法」と「認識論」はいってみれば単層レベルの単純なものでしかありません。学問レベルの問題を解くには,単層弁証法や単層認識論であってはなりません。必ず重層構造のものが要求されます。

 それはなぜかというと,学問の対象である,自然も社会も精神もすべて重層構造で成り立っているからです。(中略)

 本書は“夢”を説きながらも,そこに必須の重層的な弁証法への学びがしっかりと説かれていくことになっています。」(pp.22-23)


 ここでは,三浦つとむさんの弁証法は単層レベルなので,学問の問題を解くためには不十分であり,重層構造で成り立っている学問の対象を説くための重層的な弁証法をしっかりと説いているのが本書である旨,説かれている。

 そこで本稿では,本書から重層的な弁証法をしっかりと学び取ることを第一の目的として,その他,本書で説かれている重要な内容も取り上げて,理解を深めていきたいと思う。連載の第2回では弁証法を直接取り上げ,第3回では労働と疎外を取り上げる。労働と疎外は,人間を理解するうえで欠くことのできない概念であり,かつ,われわれが執筆しようとしている「新・社会とはどういうものか」においても核となる概念になるはずである。そこで,しっかりとこの概念を理解しておきたい。連載の第4回では,技術論を取り上げる予定である。技術論は,南郷継正先生の先駆的な業績であるし,これまた人間を理解するうえでは非常に大切なポイントとなってくるからである。

 では次回以降,上記の計画にしたがって説いていくこととする。今回の最後に,『“夢”講義(2)』の目次を掲載しておく。



なんごうつぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(2)


【 第1編 】 初学者に説く「弁証法とはなにか」

第1章 「弁証法とはなにか」を弁証法的に説く

 第1節 弁証法とはなにか
 第2節 弁証法の対象は世界全体(森羅万象)である
 第3節 弁証法の起源は古代ギリシャの学問形成過程にある
 第4節 弁証法という名は歴史的な意味をもっている
 第5節 弁証法と弁証術の違いを説く

第2章 弁証法の学びかたを説く

 第1節 弁証法に必要な自然・社会・精神の学び
 第2節 弁証法の具体的な学びかた

【 第2編 】 弁証法的に説く「夢とはなにか」

第1章 「いのちの歴史」から説く夢をみる実力への過程

 第1節 頭脳活動の本体は脳全体である
 第2節 再び,看護学生からの手紙について
 第3節 「夢とはなにか」の問いかたを問う
 第4節 魚類から両生類への脳の実体としての実力の発展
 第5節 サル(猿類)における問いかけ的認識の芽ばえ
 第6節 夢は睡眠中に脳が勝手に描いている像である

第2章 夢にかかわって「労働とはなにか」を問う

 第1節 労働の結果は哲学用語「疎外」として説かれている
 第2節 人間は労働することによって必ず「疎外」される存在である
 第3節 労働とは目的をもって対象にはたらきかける行為である

第3章 夢へといたる認識の発展過程を説く

 第1節 夢は脳が勝手に描いている認識=像の一つである
 第2節 認識=像形成の原点は外界と五感器官にある
 第3節 認識=像は脳のなかで創りかえられる
 第4節 人間は教育されて外界を勝手気ままに描く実力をつける

【 第3編 】 看護の事例から「夢とはなにか」を説く

第1章 看護にかかわっての「痛みとはなにか」を説く

 第1節 再び,夢にうなされる事例を説く
 第2節 痛みは神経の重要なはたらきの一つである
 第3節 運動させなければ治らない神経の痛みがある
 第4節 患者の痛みを見事にやわらげた看護の技とは

第2章 神経と夢のかかわりを説く

 第1節 神経のはたらきが夢を描かせる事例
 第2節 看護の視点から,夢にうなされる事例を読み解く

【 第4編 】 学問的に説く「夢とはなにか」序論

第1章 夢を学問的に解明するとは

 第1節 唯物論の立場からしか夢は解明できない
 第2節 赤ちゃんの夜泣きの構造と夢にうなされる構造
 第3節 人間にとって夢は必然性である
 第4節 問いかけ的認識の誕生が夢の大本である
 第5節 人間の神経のはたらきは昼間と夜間とで異なる
 第6節 学問書は体系的に説かなければならない
 第7節 夢に関する学問的でない書物の一例

第2章 夢にかかわる人間の生理構造を説く

 第1節 人間は労働によって特殊な生理構造をもつにいたる
 第2節 過程的構造の解明に弁証法は必須である
 第3節 人間は立つことにより脳のはたらきに変化が生じる
 第4節 人間は労働により質的に違った像を形成するにいたる
 第5節 人間にとっての睡眠とはなにか
 第6節 呼吸とはなにかから解く「睡眠時無呼吸症候群」

【 第5編 】 看護への夢を実現するために

第1章 看護に重要なこととはなにか

 第1節 すべてを看護の問題として
 第2節 観念的二重化の実力が看護の見事な実力となる

第2章 「看護技術論」の柱を説く

 第1節 そもそも技とはなにか
 第2節 看護技術は実体・認識への技である


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2017年03月09日

システムズアプローチを弁証法から説く(5/5)

(5)システムズアプローチは弁証法性を踏まえている

 本稿は,天才セラピストと称されている東豊が採用しているシステムズアプローチを俎上に載せ,なぜこの方法でセラピーが奏効するのかを,弁証法の観点から説いていく論考でした。システムズアプローチとは,「システムを念頭に置いた心理・社会的援助の総称」(東豊『セラピスト入門』p.5)のことであり,部分はシステムのあり方に規定され,システムのあり方は部分に規定されているという特徴を活かして介入するセラピーでした。ここで,これまでの流れを振り返っておきたいと思います。

 はじめに,システムズアプローチの前提となっているものの見方考え方について検討しました。それは,円環的思考法と呼ばれており,一方通行の直線的思考法とは違い,「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。」などと考える考え方,「事象Aは事象Bの原因でもあり,結果でもある(事象Bは事象Aの原因でもあり,結果でもある)」というように,双方向的な見方をする考え方のことでした。このような円環的思考法は,物事を矛盾として,対立物の統一として捉える見方であり,非常に弁証法的な見方といってよいのでした。システムズアプローチでは,このような対象の弁証法性を的確に捉えられるような見方が採用されているからこそ,対象をきちんととらえられ,その対象に適切に働きかけていくことが可能となっているのだと説きました。もう一つ,コンテンツ(内容)よりもコンテクスト(前後関係,文脈)を重視するというシステムズアプローチの見方も検討しました。これは,コンテンツに囚われることなく,コンテクストに目を向け,悪循環のパターン(コミュニケーションの連鎖)を見出そうとするものの見方のことです。これは,システムの部分同士や部分と全体のつながりを見ようとする見方であり,全体を踏まえることによって部分だけを見ていたのでは見えてこなかった対立する性質を浮き彫りにする見方でもあるという意味で,非常に弁証法的な見方といってよいのでした。このように,システムズアプローチが奏効する背景には,弁証法的なものの見方があるのでした。

 次に,システムズアプローチの代表的・典型的技法の一つである「ジョイニング」を取り上げて,これを弁証法の観点から説きました。ジョイニングとはお仲間に入れていただくということであり,システムに参加する,とけ込むことを意味していました。東豊は,ジョイニングがすべてであり,ジョイニングができないと,他の指導は無意味になるし,ジョイニングのセンスがないと援助者にはなれないと断言するほど,ジョイニングを重視しているのでした。では,どのような操作をすればジョイニングができるのでしょうか。東豊は,ジョイニングを実現するためには,相手のムードや雰囲気,動き,話の内容,ルールに合わせなければならないと説いていました。これらは要するに,言語表現・非言語表現を媒介として,当該のシステムの諸々の社会的認識を見極め,セラピスト自身もその社会的認識を有しているものとしてふるまうことであるといえると説きました。セラピストは,当該システムの多様性・変化性を見抜き,それに合わせてこちらも変化していくという弁証法的な運動・変化が求められるのでした。一般に,ある対象をコントロールしたり思い通りに変化させたりしたい場合,まずはその対象の性質を見抜き,それに合わせてこちらが動いていくことが必要となりますが,システムズアプローチで家族システムを扱う場合も,論理的には全く同様のことがいえるのでした。すなわち,セラピストは,何か悪循環に陥っている家族システムをコントロールし,思い通りに変化させたいわけですが,そのためには,それぞれの家族システムの性質=社会的認識をしっかりと見極め,それに合わせてこちらが動いていく必要があるのでした。ジョイニングがそのまま変化に向けた介入になりうるということを,事例を通して検討したあと,「問題」と思われるようなものでも,システムズアプローチにおいてはそれも「資源」であるととらえて,活用していくという点,および,ジョイニングに際しては,一方に肩入れしないように,非敵対的矛盾を実現するとともに解決するようなポジショニングを常に意識する必要があるという,ジョイニングに関わるあと2つの弁証法的側面にも触れました。

 最後に,もう一つの代表的・典型的技法である「リフレーミング」を取り上げて,これを弁証法の観点から論じました。「フレーム」(frame:枠あるいは枠組み)とは,物事の受け止め方,意味づけの仕方のことであり,リフレーミングとはクライエントがすでに所持しているフレームを変える作業であり,面接のゴールに至る第一歩であるとされていました。リフレーミングの中でもよく知られているものに,ポジティブ・リフレーミング(positive reframing:肯定的意味づけ)があり,これは否定的に見えることの中に肯定的側面を発見することであると東豊の本では説かれていたのでした。まず,「母親が口うるさいせいで,子どもが反抗的になった」というフレームを,「子どもが反抗的なせいで,母親が口うるさくなった」とリフレーミングしたり,「夫が家事を何もしないせいで,妻がすべてをやらないといけない」というフレームを,「妻が全部やってしまうせいで,夫は何もしない」とリフレーミングしたりする単純なリフレーミングについて,弁証法の観点から考察しました。これらはすべて,現実のもつ二面性,すなわち矛盾をそれなりに捉えたものであり,これらのリフレーミングが可能な現実的な根拠は,現実のもつ弁証法性にあると指摘しました。弁証法の教科書である『弁証法はどういう科学か』にも,「因果関係の構造」として,原因と結果には直接の統一があることや結果の内部にも原因があることが指摘されていると紹介しました。問題は役に立っているので解決すべきではないとリフレーミングするようなポジティブ・リフレーミングについても検討しました。二つの事例を紹介し,そこでは,問題とされている症状は,対立する性格(=システム内の他の問題を解決する機能)も有していて,弁証法的な存在であるがゆえに,ポジティブ・リフレーミングによって,180度異なった見方をすることが可能になったのだと説きました。また,人間の認識は,受動的であると同時に能動的であるという矛盾した存在であるから,見たいようにものごとを見る傾向があるのであり,ポジティブ・リフレーミングはこのような認識の弁証法性を活用した方法であるとも指摘しました。

 以上要するに,システムズアプローチが前提としているものの見方は非常に弁証法的であり,システムズアプローチが用いる代表的・典型的技法であるジョイニングやリフレーミングも,現実の弁証法性を踏まえたものになっているということです。弁証法的なものの見方が前提となっているために,現実の運動・変化やつながりを的確に捉えることができ,技法が弁証法性を踏まえているために,現実の弁証法性に見合った形で介入でき,思い通りに変化させることができるのだということです。東豊のセラピーが「天才的」と称されるのも,システムズアプローチという方法論を採ることによって,無意識的にではあれ,弁証法的な見立てと介入を行っているからこそ,ということもいえるでしょう。弁証法の教科書には,「現実の世界が弁証法的な性格を持っているのですから,現実ととりくんでそのありかたを正しくつかんだ著述には,多かれ少なかれ弁証法が顔をのぞかせています」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.244)と説かれていますが,システムズアプローチはその非常に典型的な実例だといってもいいでしょう。

 東豊は,非常に教育熱心なことでも知られています。大学院生に対する指導の一端は東豊『セラピスト誕生』などにも描かれていますが,そこで描かれているように,ロールプレイによる徹底した指導によって,院生はシステムズアプローチを学ぶと直接に,それとは自覚せずに,弁証法をも習得していくのだといえるでしょう。たとえば,物事をつながりで見ること,物事の両面性,矛盾を見ること,相手の変化性に合わせてこちらも変化すること,問いかけを変えればものの見方が変わることなどを,システムズアプローチと直接に,学んでいくのです。そうすることによって,弁証法の基本がある程度身につき,その弁証法の実力でもってセラピーを行うからこそ,面接上手になっていくのだと考えられます。

 リフレーミングのところで紹介したように,問題を問題として捉えずに,かえってそれが役に立っているのであるから,その問題を解消しようとすべきではない,とするリフレーミングは,別の角度から見ると,「逆説的介入(パラドックスの技法)」などと呼ばれることもあります。問題を解決しに来ているクライエントに,問題は解決すべきではないと教示して,それによって,実は問題の解決を図ろうとしているからこそ「逆説(パラドックス)」なのです。これも弁証法的に捉えれば,回り道によって問題解決を図ろうとしているわけであり,「否定の否定の法則」を使ったものだということもできるでしょう。

 また,システムズアプローチでは,家族システムにセラピストがジョイニングして,セラピストをも構成員として加えた「治療システム」の中でセラピストが介入し,従来の相互作用とは違った相互作用をもたらすようにします。すなわち,何らかの悪循環を好循環に変えるわけです。そうして,セラピストが抜けた家族システムにおいても,その好循環が維持するようにするのです。これは弁証法的に捉え返せば,家族システムと治療システムの相互浸透といえるのであり,治療システムの好循環が家族システムに浸透していくことを狙うのがセラピーである,ということがいえるでしょう。

 このように,連載2〜4回で見た以外にも,システムズアプローチは弁証法的な発想がちりばめられており,弁証法的な介入を行って成果を上げているといえるのです。

 本稿では,東豊が何故天才と称されるのかという問題意識のもと,彼が採用しているシステムズアプローチの優れた側面に焦点を当てて,これまで論じてきました。それでは,システムズアプローチを学べば,弁証法もしっかり勉強できて,面接上手になっていうことなしなのかというと,そういうわけでもありません。システムズアプローチには,大きな落とし穴があると筆者は考えています。詳細はまた別の機会に説きたいと思いますが,以下で簡単に触れておきます。

 結論から言いますと,システムズアプローチは観念論的な世界観に立っている点が大きな欠陥だといえます。観念論に陥ってしまっているのは,システムズアプローチが「社会構成主義」に依拠しているからです。東豊は次のように説いています。

「いかに真実のようにみえても,それはひとつのフレームに過ぎない。そして,多くの人が同じフレームを心に描いて言葉にすることで,社会的に存在感をもつフレームができあがる。社会構成主義ですね。だから,リフレーミングとは,脱構築,あるいは物語の書き換えのための作業であるといってもいいのです。」(東豊『リフレーミングの秘訣』p.95)


 ここで説かれていることは,真実なんてものは存在せず,社会的な現象はすべてフレーム(受け止め方,意味づけの仕方)によって創られる,ということです。認識が社会を構成するという主張なので,これは観念論ということになります。現実には無限に多様な性質があるから,現実はフレーム次第で異なって認識される,というのであれば唯物論なのですが,そこから行き過ぎて,フレーム次第で現実はいかようにも創られるとしてしまうと,観念論に転落したことになってしまいます。

 ではなぜ観念論ではだめなのでしょうか。このあたりも別稿で詳細に論じたいところではありますが,簡単に説けば,一つには,観念論では,人間の認識は初めから「ある」とされているので,認識の生成発展の必然性が解けなくなってしまうからです。われわれの行う心理臨床は,端的にいえば相手の認識を変えるための働きかけですから,その認識の生成発展の必然性を掴むことがはじめからできないような世界観に立っていては,限界が来るのは論理的に明らかです。

 もう一つ,観念論は宗教と親近性がありますので,宗教の方に流れてしまう可能性が高いのです。実際,東豊は近年,神様やサムシング・グレートなるものに対する信仰を著作で公表しています。そしてセラピストは「他力本願」であるべきだと力説しているのです(東豊『リフレーミングの秘訣』p.46)。論理的には,神様の力を認めれば認めるほど,人間の力を不当に低く見積もることになりますので,セラピストの努力や実力を不当に低く評価したり,最悪の場合,セラピーで相手を力づけるのではなく,相手を無力なものとして扱う可能性すら生まれてくるといえるでしょう。

 システムズアプローチの限界について,もう一つ別の側面を指摘しておくならば,弁証法性を踏まえているとはいえ,文化遺産としての弁証法をしっかりと学んで吸収しているというわけではない点も挙げられます。認識論についても同様のことがいえます。要するに,哲学の遺産である弁証法や認識論といった,人類の文化遺産をしっかりと受け継いで成立したものではないために,運動・変化やつながり,それに人間の認識といったことについて,法則性レベルの把握が弱く,連載第4回の最後にも触れたように,偶然に左右される側面が大きくなってしまうのです。

 では,以上のように観念論に落ち込まずに,しっかりと弁証法的な介入ができるようになるためには,どうすればいいでしょうか。それは,システムズアプローチを学ぶにしても,唯物論的弁証法と科学的認識論の学びを踏まえることです。また,より根本的には,唯物論的弁証法と科学的認識論を心理療法の領域に具体化した新しい理論体系を創っていく必要があるといえるでしょう。それこそ,筆者が目指しているものであり,唯物論的弁証法と科学的認識論をこれまで学んできた臨床心理士である筆者の歴史的な使命であるといます。

 このような使命を全うできるように,これからも弁証法・認識論,および心理療法の研鑽を積んでいくことを決意して,本稿を終えたいと思います。

(了)

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2017年03月08日

システムズアプローチを弁証法から説く(4/5)

(4)リフレーミングの根拠は現実の弁証法性にある

 前回は,システムズアプローチの代表的・典型的技法のひとつであるジョイニングを取り上げ,それを弁証法の観点から考察しました。ジョイニングとは,お仲間にさせていただくことですが,そのためには,当該のシステムの社会的認識の変化性に合わせて,セラピストも弁証法的に変化していく必要があるのであり,そうしてこそ,対象となるシステムを思い通りにコントロールできるのだと説きました。また,ジョイニングには,「問題」も「資源」として捉える対立物の統一的な発想が含まれていること,ジョイニングの際には一方のみに味方せずに,非敵対的矛盾を実現するとともに解決するような形態を創造しながら,システム全体に合わせていく必要があることにも触れました。

 今回は,システムズアプローチのもう一つの代表的・典型的技法である「リフレーミング」を取り上げて,これを弁証法の観点から論じたいと思います。

 まず,リフレーミングとは何かを説明するために,「フレーム」について説明します。システムズアプローチにおいては,ものごとは諸要素の円環的な相互作用によって成り立っていると考えます。この相互作用をどのように切り取って認識するかによって,ものごとに対する受け止め方,意味づけの仕方は変わります。たとえば,「夫の帰宅が遅いせいで,妻が不満をいう」というのと,「妻が不満をいうせいで,夫の帰宅が遅くなる」というのは,どちらも現実の相互作用の一面をとらえたものであり,両方とも正しいと考えられます。しかし,前者のように切り取れば,夫が悪いことになり,後者のように切り取れば,妻が悪いということになります。このように,現実の切り取り方によって,ものごとの受け止め方,意味づけの仕方は変わるのです。このような受け止め方,意味づけの仕方を総称して,システムズアプローチにおいては「フレーム」(frame:枠あるいは枠組み)と呼ぶのです。

 では,リフレーミングとは何でしょうか。東豊は次のように説明しています。

「前述した通り,システムズアプローチを専門とするセラピストは,コミュニケーションの相互作用を使って様々な変化を作る職人です。ゴールとしては,クライエントの心身の変化であったり家族の変化であったりするのですが,多くの場合,その第一歩はクライエントのもつフレームを変化させることであるといえます。クライエントがすでに所持しているフレームを変える作業,それがリフレーミングです。セラピストは面接中,様々なレベルで,様々な方法を駆使してリフレーミングを行います。」(p.18)


「リフレーミングの中でもよく知られているものに,ポジティブ・リフレーミング(positive reframing:肯定的意味づけ)があります。これは,クライエントのもつ否定的なフレームを,セラピストが肯定的な形に言い換えるものです。

 「ものは言いよう」と一般にいわれるように,どのように否定的にみえることでも,その肯定的な側面を発見すること(引き出すこと)は容易です。たとえばあるクライエントが,「(母・妻である)私は病気で家事ができないので,夫や子どもたちにやらせてしまっているのです」と述べたとします。これに対してセラピストは,「それは病気ではなく,家事をしないことで夫と子どもの協力関係を作ろうとする,あなたの無意識の知恵なのです」とポジティブ・リフレーミングすることができるでしょう。あるいは,家族間のコミュニケーションにおいて,「父親と子どもが口論していると,母親が口を挟む。すると父親がトーン・ダウンし,今度は子どもと母親の口論が始まる」というパターンがみられたとします。この場合,これを「母親が父親と子どものコミュニケーションの形成を邪魔している」とみるのではなく,「母親が父親と子どもの関係を守っている」とポジティブ・リフレーミングすることができるわけです。」(pp.19-20)


 ここでは,リフレーミングとはクライエントがすでに所持しているフレームを変える作業であり,面接のゴールに至る第一歩であるとされています。そして,ポジティブ・リフレーミングとは,否定的に見えることの中に肯定的側面を発見することであるとして,その具体例がいくつか挙げられています。

 では,このようなリフレーミングという技法を,弁証法の観点から検討すると,どのようなことがいえるでしょうか。まず,もっとも単純なリフレーミングを取り上げてみましょう。それは,原因と結果を入れ替えるリフレーミングです。先ほど取り上げた例でいうと,「夫の帰宅が遅いせいで,妻が不満をいう」というのを,「妻が不満をいうせいで,夫の帰宅が遅くなる」と言い換えるものです。他にも,「母親が口うるさいせいで,子どもが反抗的になった」というフレームを,「子どもが反抗的なせいで,母親が口うるさくなった」とリフレーミングしたり,「夫が家事を何もしないせいで,妻がすべてをやらないといけない」というフレームを,「妻が全部やってしまうせいで,夫は何もしない」とリフレーミングしたりするのも,原因と結果を入れ替えた単純なリフレーミングの例です。

 これらはすべて,現実のもつ二面性,すなわち矛盾をそれなりに捉えたものであり,これらのリフレーミングが可能な現実的な根拠は,現実のもつ弁証法性にあるということができます。連載第2回では,システムズアプローチが有する円環的思考法について紹介しましたが,そもそも現実は,いろいろな要素の相互作用として成立していますので,一面を切り取れば原因ともなり,別の一面から見れば結果ともなる,ということがいえるわけです。このように非常に弁証法的なものの見方がシステムズアプローチの前提にあるので,その見方を技法として取り出したものがリフレーミングである,ということができるでしょう。

 原因と結果については,弁証法の教科書にも「因果関係の構造」として,次のように説かれています。

「科学は原因と結果とのつながり,いわゆる因果性というものを問題にします。池に石を投げると波紋がおこる,波紋がおこるとハスの花がゆれる,──これが因果関係です。石が原因,波紋が結果,原因が結果を媒介する,これが常識です。しかし因果のつながりを考えると,波紋という結果そのものは,同時にまたハスの花をゆれさせる原因ともなっているわけで,ここに結果と原因との直接の統一があります。さらにつっこんで考えてみると,水の波紋が石の結果だと一方的にきめてしまうこともできなくなります。もしこれが氷なら,波紋は起らないでしょう。水自身,石によって波紋を起すような性質を持っていたことが,やはり波紋の原因の一つであると考えなければならなくなります。外部の原因から結果が媒介されるだけでなく,結果として生れる現象の内部にもまた原因のあることを考えなければならなくなります。」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.93)


 すなわち,原因が結果を媒介するだけではなく,その結果は,また次の結果の原因にもなるという直接の統一があり,さらに外部の原因から結果が媒介されるだけではなく,結果として生れる現象の内部にもまた原因があるのである,ということです。システムズアプローチでは,ここまで論理的にきちんととらえているわけではないとはいえ,あるものは原因でもあり結果でもある,というように非常に素朴ながら弁証法的な見方をするように促されているわけです。すなわち,現実の弁証法性を踏まえているからこそ,リフレーミングが可能となり,それによってシステム全体の変化も引き起こすことができるのです。

 次に,ポジティブ・リフレーミングについても見ていきましょう。東豊の本に登場するポジティブ・リフレーミングの代表格といえるのは,問題をポジティブに捉え返すというものです。すなわち,ある問題に困っているシステムに対して,「問題は役に立っているので解決すべきではない」とリフレーミングするのです。具体的にはどういうことでしょうか。東豊『セラピスト入門』で紹介されている事例を2つ紹介しましょう。

 まず,夜尿に困っている小学生の事例(p.198〜)です。この小学生の母親は長年,姑との関係に悩んでおり,涙の日々であり,夫も仕事にいちずで,相談に乗ってくれなかったが,息子の夜尿の問題が生じてからは,姑のことで涙している暇もなく,また息子のことで姑とともに心配するという共同作業ができるようになったばかりでなく,夫も相談に乗ってくれるようになって,夫婦関係も安泰になったということです。こういった情報を掴んだセラピストは,両親と息子を前にして,いかに夜尿という症状が家族の役になっているかを説明し,息子ほどの家族思いはいない,息子のオシッコこそ,かつての母親の涙である(笑),などと説いたというのです。この面接後,夜尿が急速に改善したということです。

 次の事例は,女子大生がうつになった事例(p.200〜)です。実は,この女子大生には姉がいたのですが,1年前にスキー場で亡くなっていたのです。それ以来,母親のうつが始まり,毎日毎日泣き暮らしていたということです。父親もどう支えていいのか分からずに酒におぼれる日々だったそうです。ところが,この女子大生がうつ病を発症したのちは,母親は世話のために泣いていられなくなり,父親も,生きている者を心配している母親に対しては援助しやすくなり,酒もピタッとやめたといいます。こういった情報収集をした後,セラピストは,彼女がいかに家族思いで,いかに症状が家族の役に立っているかを,もてる演技力をすべて注いで語っていきました。面接の三週間後,彼女のうつは回復し,すっかり普通の女子大生に戻っていたということです。

 この二つの事例でも,問題とされている症状は,対立する性格も有していて,弁証法的な存在であるがゆえに,ポジティブ・リフレーミングによって,180度異なった見方をすることが可能になったのだ,ということがいえるでしょう。また,人間の認識は,受動的であると同時に能動的であるという矛盾した存在であるから,見たいようにものごとを見る傾向があります。このことは,「人間には,自分のもっている癖の通りにしかものごとがみえない(みようとしない)という習性があるのかもしれません」(東豊『リフレーミングの秘訣』pp.13-14)という形で触れています。ポジティブ・リフレーミングはこのような,受動的であると同時に能動的であるという認識の弁証法性をプラスの方向へと活用した方法である,ということもいえるでしょう。

 さらに,システム構成員のフレームを変えることによって,まわりまわって症状が消失することを狙うというのも,ものごとはつながりあっており,そのつながりを活かしているという意味で,弁証法的な介入の方法だということもいえます。リフレーミングでは,システム構成員の問いかけ像を変えることによって,反映を変え,反映(=認識)が変わることで,認識に規定されている個々人の言動が変わり,それによって構成員間のコミュニケーションが変わり,それによって社会的認識が変わり,していく中で,当初の「問題」の維持要因が変わっていくのでしょう。これによって問題が成り立っていたメカニズムが崩れることになり,問題が消失していくのだと考えられます。これがどのようなつながりになっているのかについては,システムズアプローチでは問題にしない(できない)ので,介入が奏効するかはある程度偶然に左右されるといってもいいのですが,リフレーミングをくり返すことによって,かなりの確率で「問題」とされていたことの維持要因が変化して,最終的に問題が解消することになるのです。

 以上見てきたように,リフレーミングは,現実のもつ弁証法性を根拠として,さらに認識の弁証法性を活用して成り立つ技法であり,現実のつながりを前提としているという意味での,非常に弁証法的な技法だということができるのです。

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2017年03月07日

システムズアプローチを弁証法から説く(3/5)

(3)ジョイニングでは相手に合わせた変化が求められる

 前回は,システムズアプローチのものの見方である円環的思考法とコンテクスト重視の見方を取り上げ,両者ともに弁証法的なものの見方といえるのであり,そのように対象の弁証法性をしっかりと把握できるからこそ,対象の性質に見合った介入ができ,その介入が成功するのだということを説きました。

 今回は,システムズアプローチの代表的・典型的技法の一つである「ジョイニング」を取り上げて,これを弁証法の観点から説いていきたいと思います。

 まず,ジョイニングについての一般的な説明を引用しておきます。

「ジョイニング(Joining)とは,構造的家族療法の創始者であるアメリカのS・ミニューチン先生の言い出した用語で,平たく言えば,お仲間にさせていただくことといった意味です。よくラポール(Rapport)と混同されることがありますが,後者は信頼関係そのものを意味し,かつ,なにかしらこころの深いところで起きているものといったイメージを彷彿させますが,前者はむしろ信頼関係に至るプロセスとそのための手段を意味しているようですし,なにかしら表面的で意図的操作的なイメージを彷彿とさせるものです。」(東豊『セラピスト入門』p.41)


 要するに,ジョイニングとはお仲間に入れていただくということであり,システムに参加する,とけ込むことだといってもいいでしょう。

 東豊は,このジョイニングを非常に重視しています。その重要性について,次のように説いています。

「私は,家族療法を学びにくるひとにはいつも「ジョイニングがすべて」と強調して語っているし,実際,ジョイニングが上手になってもらえないと,それ以上のことは指導できそうもない。はっきり言って,ジョイニングのセンスがないとよい家族療法家にはなれないと思う(それどころか,どのようなタイプの援助者にもなれないと思っている)。」(東豊『家族療法の秘訣』p.169)


 ここでは,ジョイニングがすべてであり,ジョイニングができないと,他の指導は無意味になるし,ジョイニングのセンスがないと援助者にはなれないと説かれています。

 ここで「家族療法」という言葉が出てきているので,一言,注意事項を述べておきます。ここでの家族療法とは,これまで説いているシステムズアプローチとほぼ同義です。システムズアプローチでは,家族システムを扱うことが多く,できるだけ関わっている家族全員に来談していただき,その家族集団と面接をしていくことになります。ですから,システムズアプローチによる心理療法は,だいたい家族療法になるのです。ただし,システムズアプローチによる個人面接ということも場合によっては可能ですし,家族療法といえば必ずシステムズアプローチになるかといえば,そうともいえず,精神分析的なアプローチによる家族療法というものも存在しています。しかしここでは,ごく大雑把に家族療法=システムズアプローチととらえていただいてけっこうです。

 システムズアプローチでは,セラピストはまず,家族システムの一員として受け入れてもらう必要があります。そのシステムのお仲間に入れていただかないかぎり,介入のしようがないのです。そういう意味では,ジョイニングはシステムズアプローチのすべてであり,第一に習得すべき技法だといえるでしょう。それだけではなく,ジョイニングはラポール(信頼関係)構築に至るプロセスでもありますので,どのようなタイプの心理療法を行なうにせよ,必要不可欠な技法であるともいえるでしょう。

 では,セラピストは具体的に,どのような「操作」をすることによって,ジョイニングを実現するのでしょうか。それについては,以下の4つのテクニックが挙げられています。

「1 相手のムードや雰囲気(家族であるなら家風といったようなもの)に合わせること。
2 相手の動きに合わせること。
3 相手の話の内容に合わせること。
4 相手のルールに合わせること。」(東豊『セラピスト入門』p.48)


 すなわち,ジョイニング(お仲間にさせていただくこと)を実現するためには,相手のムードや雰囲気,動き,話の内容,ルールに合わせなければならない,ということです。ムードや雰囲気に合わせるというのは,カッコ書きで「家風」とあるように,そのシステム(小社会)が表現によってそれとなく醸し出している社会的認識に合わせる,ということです。動きに合わせるということは,足を組むことや顎に手を添えること,姿勢を正すこと等といった,文字通り,相手の認識の表現たる動き(非言語表現)に合わせるということです。話の内容に合わせるとは,これまた相手の認識の表現たる言語表現に合わせるということです。ルールに合わせるというのは,相手の持っている社会的認識たる規範(意志の対象化されたもの)に合わせるということです。

 要するにジョイニングとは,お仲間にさせていただくために,言語表現・非言語表現を媒介として,当該のシステムの諸々の社会的認識を見極め,セラピスト自身もその社会的認識を有しているものとしてふるまうことである,といえるでしょう。あるシステムAと,別のシステムBとでは,それぞれが把持している社会的認識は全く別物ですから,セラピストはそれぞれの社会的認識をしっかりと把握して,自分もそれに合わせて変化していく必要があるのです。つまり,セラピストは,当該システムの多様性・変化性を見抜き,それに合わせてこちらも変化していくという弁証法的な運動・変化が求められるのです。

 一般に,ある対象をコントロールしたり思い通りに変化させたりしたい場合,まずはその対象の性質を見抜き,それに合わせてこちらが動いていくことが必要となります。たとえば,ガラスのコップを扱うときと,ゴムボールを扱うときとでは,われわれは全く違ったふるまい方をするはずです。ゴムボールであれば,ぞんざいに扱って,そのへんの床にぽいっと投げておくこともありますが,ガラスのコップに対しては,そのような扱い方はせずに,置きたいときには,丁寧に置く場所まで手で運んで,静かに置くはずです。これは,われわれがガラスのコップの性質を見抜いているからであり,ゴムボールのようにぽいっと投げてしまえば,たちまち割れてしまうことを知っているからです。だからこそ,ガラスという対象の性質に見合った形で,こちらは動いていくわけです。これが対象をコントロールするということでしょう。ですから,ガラスの性質をまだまだ理解できていない子どもは,ガラスのコップもゴムボールのように扱って,割ってしまうことになるのです。これでは対象をコントロールできているとはいえません。

 システムズアプローチで家族システムを扱う場合も,論理的には全く同様のことがいえるのです。セラピストは,何か悪循環に陥っている家族システムをコントロールし,思い通りに変化させたいわけですが,そのためには,それぞれの家族システムの性質=社会的認識をしっかりと見極め,それに合わせてこちらが動いていく必要があるのです。

 このジョイニングがそのまま変化につながることもあります。そのような例として,東豊は次のようなケースを紹介しています。

「長い長い母親の陳述の後,やっとセラピストは男の子に話しかけるチャンスを得た。「それで君はどんなふうに考えてるの?」 セラピストの問いかけに男の子はうつむき始めた。すかさず隣の母親が割って入った。「それはつらいと思います,というのも……」

 セラピストは母親の方に身体を向けて,再び母親の話に熱心に耳を傾けた。長い陳述の後,セラピストは丁寧に母親の許可を仰いだ。「お母さん,この子に直接聞きたいことができたのですが,聞いてもよろしいでしょうか」

 母親はもちろん聞いてやってくださいと,セラピストに頼んだ。「それで君はつらいときはどうしているの?」 男の子はまたうつむき始めた。短い沈黙の後,再び母親が割って入った。「ふさぎこんじゃうね,ね? いつも暗い顔をしているんですよ,というのも……」

 セラピストはまたしても母親の方に少し大げさに身体を向けて,母親の話に熱心に耳を傾けた。しかし今度は前よりも短めにそれをさえぎった。そして,これ以上低くできないくらいに腰の低い態度で,頭を深々と下げ,母親の許可を仰いだ。「お母さん,誠に申し訳ありません。またこの子に直接聞いてみたいことができたのですが,聞いてもよろしいでしょうか」

 母親は手を口に当て,プッと吹き出した。「ああ,すみません。私,でしゃばりで……」

 セラピストは「母親はみんなそうですよ」と軽く受けてから,男の子の方を向いた。

 「それで君はどうなったらいいと考えているの」

 男の子はやっぱりうつむき始めたが,今度は母親が口をはさまない。

 しばらくの沈黙の後,彼は顔を上げた。そして「まわりのことが気にならなくなればいい」と,ボソッと答えたのである。」(pp.63-64)


 このケースでは,母親が主導権を握っているというこの家族システムのルールにジョイニングして,馬鹿ていねいに母親に許可をとることをくり返すことによって,ジョイニングしています。同時に,このようなジョイニングによって,母親は自分の「でしゃばり」に気づき,口をはさまないようになったために,今までにはなかった息子の見解が表明されたということです。このように,ジョイニング自体が変化をもたらすための大きな介入技法にもなり得るのです。

 このケースに関わって,ジョイニングの弁証法的側面を,あと2つ,指摘しておきたいと思います。まず第一に,「問題」と思われるようなものでも,システムズアプローチにおいてはそれも「資源」であるととらえて,活用していくという点です。子どもの代わりに母親が答えるというのは,一般的には「問題」であるととらえられがちですが,これすらも「資源」として活用して,たとえば先の引用のような介入を行うわけです。「問題」でもあれば「資源」でもあるという形で,対立物の統一として捉える点で,非常に弁証法的な発想だといえるでしょう。

 第二に,ジョイニングに際しては,システムの構成員の一部に肩入れするようなことはしてはならないという点に関わります。複数を相手に面接をしていると,「あちら立てればこちら立たず」ということになりがちですが,一人の話だけを長々と聞きすぎないとか,味方に引き込もうとする言動は無視するとか,システムのルールをアセスメントしてそれにまずは従うとかしながら,システム全体にジョイニングしていくことが求められます。弁証法的にいうならば,非敵対的矛盾を実現するとともに解決するようなポジショニングを常に意識する必要がある,といえるでしょう。微妙なかじ取りが要求されますし,バランスが難しいとはいえますが,この微妙なバランス感覚は,臨床のなかで培っていく必要があるといえるでしょう。

 以上今回は,システムズアプローチの代表的な技法のひとつであるジョイニングを取り上げ,これを弁証法の観点から論じました。

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2017年03月06日

システムズアプローチを弁証法から説く(2/5)

(2)前提に弁証法的なものの見方がある

 本稿は,天才セラピストと称されている東豊のセラピーがなぜうまくいくのかということを,彼が採用している方法論であるシステムズアプローチに着目して,弁証法の観点から説くことを目的にしています。

 今回は,システムズアプローチの前提となっているものの見方考え方について検討します。

 システムズアプローチの前提となっているものの見方は,「円環的思考法」と呼ばれています。円環的思考法について,東豊は次のように説明しています。

「円環的思考

 システムズアプローチを理解するための重要なキーワードのひとつなので,説明しておきましょう。

「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。上は下であり,下は上である,などと考えること」

 覚え方としてはこの程度でいいと思います。」(東豊『セラピスト入門』p.16)


「まずシステムとは,「部分と部分が相互作用している全体」,あるいは「その相互作用のあり方(連鎖・パターン・ルール)のことであると理解します。全体は部分に影響を与え,部分は全体に影響を与える。このようなものの見方を,円環的思考法と呼びます。

 私たちは通常,「事象Aは事象Bの原因である(事象Bは事象Aの結果である)」というように,矢印が一方通行の考え方(A→B)をする習性があります。これを直線的思考法といいます。これに対し円環的思考法とは,「事象Aは事象Bの原因でもあり,結果でもある(事象Bは事象Aの原因でもあり,結果でもある)」というように,双方向的な見方(A⇆B)をするものです。」(東豊『リフレーミングの秘訣』pp.10-11)


 ここでは,一方通行の直線的思考法とは違い,「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。」などと考える考え方,「事象Aは事象Bの原因でもあり,結果でもある(事象Bは事象Aの原因でもあり,結果でもある)」というように,双方向的な見方をする考え方を,円環的思考法と呼ぶと説かれています。

 たとえば,「母親の過保護のせいで子どもが甘えん坊になった」というのは,世間でよくある直線的思考法の例です。そういう見方もできるが,逆に「子どもが甘えるせいで母親が過保護になった」と解釈することも可能なのです。このように,あのようにも見えるし,このようにも見えるとするのが円環的思考法なのです。

 ここで説かれている円環的思考法が,非常に弁証法的なものの見方考え方であるのは明らかでしょう。というのは,弁証法では,対象を対立物の統一として見ますし,矛盾した存在と見るからです。「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。上は下であり,下は上である」などというものの見方は,弁証法の教科書にもそのまま説かれているような,物事を矛盾として見る見方だといっていいでしょう。一方だけ見るのではなく両方を見るというのも,物事を対立物の統一として見る,弁証法的な見方の典型例といえます。

 このように,システムズアプローチにおいては,物事を弁証法的に見るために,対象を的確に,その性質に見合ったものとして捉えることができるのだ,ということがいえるでしょう。このような対象の弁証法性を的確に捉えられるような見方が採用されているからこそ,対象をきちんととらえられ,その対象に適切に働きかけていくことが可能となっているのだと考えられます。

 このような円環的思考法と同様の弁証法的な発想として,システムズアプローチでは,コンテンツ(内容)よりもコンテクスト(前後関係,文脈)を重視するという見方が採用されています。これを理解していただくために,治療場面におけるある家族の会話の一部を引用します。

「母:あなたは,いったいいつまでこのままでいるつもりなの。中学校にも行かなければ高校だって行けないし,就職や結婚もできたものじゃないわ。

娘:放っておいてよ。いつもうるさいんだから。

母:なんですか,親に向かってその態度は。いい加減にしなさい。

娘:私,あなたのことを親とは思ってないわ。

母:なんですって,もう一度言ってごらん。

娘:何度でも言うわ,鬼,ブタ,ウスノロ!

母:黙りなさい。なんでこんな子になったの,あなたは。

父:まあまあ二人ともよしなさい。もっと落ち着いて話し合おうじゃないか。

母:あなたはいつもそんなことばかり言って本当に甘いんだから,もっと父親らしくしゃんとしてよ。

父:私はおまえのようにしつこく言いたくないんだよ。

母:私のどこがしつこいと言うの,子どものためにこれくらい当たり前よ。あなたももっとこの子を叱ってよ。情ない。

娘:この人(父のこと)が怒っても少しも怖くないよ。こんな人,ただの月給運搬人よ。

父:そんなことはないよ。お父さんはね,おまえたちのために一所懸命働いて……。

母:(娘に)ちゃんと座りなさい。何よその態度は。

娘:うるさいねえ,いちいち,くそババア! 死んでしまえ。」(東豊『家族療法の秘訣』pp.6-7)


 ここでコンテンツに注目すると,「母親は厳しすぎる」とか「父親は頼りない」とか,「娘の言葉遣いはひどいが,この年頃はこんなものだ」とかいう反応になります。しかし,コンテンツにとらわれることなく,コンテクストに目が向くようになると,次のようなパターン(コミュニケーションの連鎖)を発見できると説かれています。

「A.母親が娘を批判する
    ↓
 B.娘が母親に反抗する
    ↓
 C.母親と娘が対立する(緊張が生じる)
    ↓
 D.父親が会話に入る
    ↓(母・娘間の緊張下がる)
 E.母親が父親の態度を批判する
    ↓
 F.父親が母親に反発し両親間に緊張が生じる
    ↓
 G.娘が会話に入る
    ↓(両親間の緊張下がる)
 A.母親が娘を批判する
    ↓」(p.10)


 このような悪循環が見出されるというのです。これがコンテクスト重視のものの見方ということです。同時に,家族システムという大きな視点から,個々の構成員の役割を見出す見方であるともいえるでしょう。父親は頼りないという側面をもちつつも,母親と娘の緊張を和らげる役割を果たす優しい父親であり,娘も悪態をつきながら両親間の緊張を緩和させる役割を果たす優しい娘である,そのようなチームワークのいい家族と見なすこともできるわけです。

 これは,部分にのみ着目するのではなく,それがどのようにつながっているかをみるという意味でも,また,部分が全体とどのようにつながっているのかをみるという意味でも,つながりを重視する見方です。また,このようにつながりを見ることによって,部分だけを見ていたのでは見えてこなかった別の対立するような性質が浮き彫りになっています。したがって,このようなコンテクストを重視する見方は,とりもなおさず,弁証法的な見方であるといえるでしょう。

 システムズアプローチでは,このようにして発見したコンテクストを家族に伝えて共有したり,また,セラピストがこのシステムの中に入って,悪循環のパターンを変えたりします。それによって,システムが変わったり,個々の部分の反応が変わったりして,結果として,よい循環・相互作用を生み出すシステムに再構築されていくことを狙うのです。このようなことが成功する背景には,今回見たような弁証法的なものの見方があるということがいえるでしょう。
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2017年03月05日

システムズアプローチを弁証法から説く(1/5)

目次

(1)システムズアプローチはなぜ効果があるのか
(2)前提に弁証法的なものの見方がある
(3)ジョイニングでは相手に合わせた変化が求められる
(4)リフレーミングの根拠は現実の弁証法性にある
(5)システムズアプローチは弁証法性を踏まえている

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(1)システムズアプローチはなぜ効果があるのか

 みなさんは,「名医」という言葉を聞いたことがあるでしょう。非常に優れた医師のことであり,名医にみてもらえば,治療困難と思える病気も治してもらえるのです。現代日本においても,「スーパードクター」などと称して,テレビでも取り上げられている名医がいます。がんの名医や心臓病の名医,脳神経外科の名医などです。

 手塚治虫のマンガ『ブラック・ジャック』では,医師免許を持たないものの,天才的な外科手術の技術を有しており,手術成功の暁には法外な治療費を請求する医師の姿が描かれています。また,『三国志演義』には,華佗という伝説的な医師が登場します。彼はどんな病気や怪我でも治す名医として描かれています。彼の遺した医学書は結局燃やされてしまうのですが,もし燃やされていなければ,医学の歴史は現在とは大きく違ったものになったであろう,などといわれるほどの偉人として描かれているのです。

 このように,マンガや小説の世界にもたびたび取り上げられている名医ですが,筆者の属する心理臨床の世界にも,そのような「名医」にあたる人物が存在しています。世界的に有名なのは,何といってもミルトン・エリクソンです。彼の臨床は,臨機応変に,ケースに応じて変幻自在に変化させるもので,その名人芸から「魔術師」とも呼ばれるほどの実力でした。しかし,ケースに応じて異なるアプローチをすべきであるという信念のもと,あまりまとまった著作をものさず,弟子たちがそれぞれにエリクソンの遺産を受け継ぎ,体系化しているのが現状です。いずれ筆者もミルトン・エリクソンを正面から取り上げたいとは思っています。

 では,心理臨床の世界に属する日本人で「名医」レベルの人物はいるのでしょうか。結論からいうと,います。その人物の名は東豊(ひがし・ゆたか)。日本の臨床心理士であればだれもがその名を知っているほど著名であり,「天才」と名高い人物です。彼はミルトン・エリクソンやその弟子筋に学んでおり,若かりし頃は「日本のエリクソン」と自ら豪語していた時代もあったといいます。東豊については,その著作を出版している遠見書房の編集者のブログで,次のように紹介されています。


「2012年3月19日月曜日

【東豊】けっこうコレはすごい本になると思う【DVD!】

天才セラピスト!というと,なんだかいろいろと怒られそうであるが,東豊先生を知っている人は,みな,東先生のことをそう言う。「あのひとは天才だ」「天性やね」「天才的ですよ」などと。

現実問題として,天才セラピストとは,どういうことを指すのだろうか,とも思う。丁々発止がうまい,という感じもあるかもしれないし,包容力がある,という感じかもしれない。いや,単に「治す」という意味なのかもしれない。

東豊先生が「治す」のか,というと,これはよく治すらしい。以前,東豊先生の雇用者であった小郡まきはら病院院長の牧原浩先生がその論文か何かで,「東先生には一番の給料をあげていた。一番治してくれるからだ」ということを書いていた。その病院では,MDやNSを含めて,臨床心理士である東先生が一番の給金をもらっていたらしい。

その後,東豊先生は,鳥取大学医学部精神医学教室の助教授になった。非医師の医学部助教授は,東先生が最初のひと,というわけではないけれど,やはり珍しい。ここでも伝説的なセラピーを展開していたらしい。当時の論文をいくつか読むと,ものすごく面白い。

ともあれ,天才セラピストと語弊なく言えるうちの一人が東豊先生であることは,間違いないだろう。よくある出版社が勝手に天才だと持ち上げているわけではなく,周りの人が言っているという意味で,である。

実際の東豊先生は,とてもサービス精神の旺盛な方である。あちこちに目端がきく。頭の回転もすこぶる早い。そして,愉快な方である。一緒にいてとても楽しい。スゴ腕の話し上手である。天才セラピストの一面が確かにある。

で,なかなか厳しいところのある方でもある。自分にも厳しいし,他のひとにも厳しい。キレモノすぎて,いろいろとわかりすぎてしまうところがあるのかもしれない。

ともあれ,そんな天才の本,しかも! DVDで天才のセラピーが2回分(1つのケースで初回と2回目)の映像がついた本が出ます!」(http://tomishobo.blogspot.jp/2012/03/dvd.html


 ここでは,医師よりも給料をたくさんもらっていたという驚きのエピソードや,治療成績が抜群で誰もが認める天才セラピストであることなどが説かれています。

 では,なぜ東豊には,このような天才的なセラピーが可能なのでしょうか。もちろん,彼個人の特性に由来するものも多いでしょう。しかし,彼が採用している方法にも優れたものがあると考えられるのです。

 東豊が採用している方法というのは,「システムズアプローチ」と呼ばれています。システムズアプローチは,先に紹介した世界的な天才セラピストであるミルトン・エリクソンの影響も受けて成立したものです。いってみれば,エリクソンの臨床の一部分を切り取って,それを発展させたものということができます。そこで本稿では,このシステムズアプローチを取り上げて,これによって「天才的セラピー」が可能になる所以を説いていきたいと考えています。

 幸い,東豊は,ミルトン・エリクソンと違って,多くの著作を執筆しており,また,研修会も多く開催して,自らの方法論であるシステムズアプローチについてさまざまに説いています。それらを参考にして,システムズアプローチについて紹介しながら,それがどのように優れているのかを,弁証法という観点から論じていこうとするのが本稿です。

 詳細については次回以降検討するとして,ここではまず,システムズアプローチの概要を説明しておきます。システムズアプローチとは,「システムを念頭に置いた心理・社会的援助の総称」(東豊『セラピスト入門』p.5)のことです。では,「システム」とは何でしょうか。東豊は,次のように説明しています。

「ある一定の法則にしたがっているかのような活動を繰り返している複数の部分からなる集合体,もしくはその法則そのもの。小は分子原子レベルから,大は宇宙レベルに至る。」


「ただひとつ補足しておくと,この場合,部分と部分は相互に影響しあっており,まるで既存のシステムのあり方を維持しようとの意思をもっているかのごとく互いに活動を規制しあっているのだと仮説します。つまり,部分はシステムのあり方に規定されていると覚えておいてください。

 しかし一方,「なにかの拍子」に一部分が変化してしまうと,他の部分も連鎖的に変化していき,結果的にシステムが変わってしまうこともあると仮説します。つまりシステムのあり方は部分に規定されていると覚えておいてください。」(p.4)


 これだけではよく分からないと思いますので,実際に心理臨床でよく問題になるシステムを例に挙げて説明します。それは家族というシステムです。家族は,家族構成員という部分からなる集合体です。ですから,家族もシステムの一つです。この構成員は家族システムのあり方に規定されていると同時に,家族システムのあり方は構成員に規定されています。このように家族を捉えることが,システムズアプローチのものの見方だといっていいでしょう。

 これ以上の詳細については,次回以降,詳しく説いていくことにします。ここでは,システムというものの概要を大雑把に把握していただければと思います。

 では次回以降,天才セラピスト東豊が採用しているシステムズアプローチについて,弁証法という観点から説いていきたいと思います。次回は,システムズアプローチの前提となるものの見方考え方を,もう少し詳細に取り上げて検討します。連載第3回と第4回では,システムズアプローチの代表的・典型的な技法である「ジョイニング」と「リフレーミング」をそれぞれ取り上げ,それらが奏効する所以を弁証法的に解明していく予定です。

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2016年04月09日

新大学生に与える(5/5)


(5)集団力を用いて社会的に学んでいこう

 本稿は,新大学生に向けて,大学で学問に取り組んでいくには,具体的にどのようにすればいいのかを説いてきました。特に最初の3ヵ月間が重要であるという指摘にしたがって,大学に入学したばかりの頃に何をすればいいのかということにも触れながら説いてきました。ここで,これまでの流れをふり返っておきたいと思います。

 初めに,同志を見つけることをお勧めしました。「学生の間に熱心に学問に取り組むんだ!」「学問を修めて高度な専門性を身につけるんだ!」という大志を抱き,情熱を持っている仲間を見つけることが大切だと説きました。なぜ大切かには二重構造があって,一つは,学問の研鑽を継続していくためには,自分の怠け心を排除して,情熱を燃やし続けなければなりませんが,そのためには,お互いの情熱を燃やし合い,刺激し,叱咤激励し合えるような同志がどうしても必要だからでした。筆者の経験からいっても,大学時代に同志を見つけることができたからこそ,勉強会を今でも継続して行えていますし,難解な本でもなんとか読み進めていけているといえるのでした。同志を見つけるのが大切なもう一つの理由は,学問を構築していくためには,あるいは学問的な実力を高めていくためには,絶対に討論相手が必要だからでした。学問は古代ギリシアの時代に誕生しましたが,その誕生のプロセスで,具体的にはソクラテスからプラトンの時代に,活発な討論が延々と続けられたのでした。このような討論によって,相手の認識を受け取って,自分の認識が相互浸透的に発展していくのみならず,相手に分かるように説明しようと試みる中で,論理能力も高まっていくのでした。このような人類の歴史が辿った道を,個人としても辿り返さなければ,学問的な実力は身につかないのであり,そのためにも,志を同じくする討論相手が必要なのでした。したがって,大学に入った直後から,サークルを巡ったり,インターネットを使ったりして,同志を探すために時間を費やすことをお勧めしたのでした。

 次に,一般教養の重要性,何事も全体の把握から部分の把握へと進んでいくことの大切さを説きました。そもそも一般教養とは,世界の論理的な全体像を生き生きと描くことを目指すものですし,学問の全体像をアバウトではあっても描くことにその目的があります。このように,学問の全体像を描いてから,自分の専門領域に突入していくことが学びの王道なのだと説きました。なぜ全体から部分へと学びを進めて行かなければならないのかについて,「群盲象を評す」という故事を挙げて説明しました。すなわち,部分だけから全体を判断すれば,間違った結論になってしまうし,全体から切り離した部分だけを研究しても,正しく解明できない,ということのたとえなのでした。したがって,どのような対象を研究する場合でも,まずは全体をおさえる必要があるのであり,それこそが一般教養教育であるということでした。また,歴史的な事実として,18世紀に大学で一般教養教育を取り入れたドイツは,19世紀後半には医学や自然科学の分野で華々しい発展を遂げたということを紹介して,一般教養の大切さを別の角度からも理解していただいたのでした。最後に,一般教養を学ぶための名著を紹介しました。それは河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)という書でした。この書を大学入学後ただちに読んで,さらに中学校の教科書で学問の全体像を描けるように勉強していくことをお勧めしました。

 最後に,弁証法を学ぶことの大切さを説きました。弁証法とは,世界全体(自然・社会・精神)の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学のことでした。自然・社会・精神と分けることができる世界には,それらを貫く法則性が存在しているのであり,それを認識の中に掬い上げたものが弁証法の法則なのでした。一例として,「対立物の相互浸透」という弁証法の法則をとりあげました。これはごく簡単に説明すると,対立する二つのものは,互いに相手の性質を受け取りながら,相手的になることによって発展していく,というものでした。地球と生命体が相互浸透して発展したこと,日本と中国が,あるいは日本と西洋が相互浸透して,日本の社会は発展してきたこと,夫と妻が相互浸透して発展していくこと,などから明らかなように,この法則性は自然にも,社会にも,精神にも貫かれているのでした。では,このような弁証法を,なぜ学問に取り組む大学生が学ぶ必要があるのでしょうか。それは,世界が連関しており(つながりあっており),運動・発展しているからにほかなりませんでした。世界はつながりあって,運動・発展しているという弁証法性をもっているのであるから,この世界の仕組みをしっかりと学べば,この世界で起きてくる問題もうまく解決していくことができるのだと説きました。このような弁証法が分かる柔軟な頭は,大学に入学したころでないと保てないものであるし,非弁証法的な受験勉強的な方法から脱して,しっかりと弁証法を勉強していくためには,大学入学の時期が最適だということも説きました。そして具体的な教科書として,三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)も紹介しました。

 以上のように,本稿では3つに分けて,大学でいかに学問に取り組んでいくべきかということを説いてきたのです。しかしこれら3つは,決してバラバラのものではありません。3つがそれぞれ関連し合っているのであり,これらを三位一体として取り組んでいかなければ,学問的な実力を向上させることはできないのです。

 少し説明します。

 まず,一般教養と弁証法は,密接に関連しています。一般教養の学びは弁証法の学びになっていきますし,弁証法の学びは,一般教養を学びながらでないと不可能になります。どういうことかといいますと,一般教養の学びとは,世界の論理的な全体像を描くことでした。そしてその世界というのは,つながりあっており,運動・発展しているものでした。したがって,世界の全体像を描くためには,その歴史をも射程に入れる必要が出てくるのです。すなわち,過程も含めて全体であるということになるのですから,一般教養を学んでいくと,必ずプロセスをも問題にしなければならなくなり,弁証法の学びにつながっていくのです。

 また弁証法とは,世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学ですので,これを学ぶ際には世界全体を学ぶ必要があります。すなわち,一般教養を学ぶ必要があるのです。もう少しいうと,一般教養で学ぶものを素材として,弁証法を学んでいかなければならないのです。たとえば,中学校の理科の教科書で,自然全体を学んでいきます。これは一般教養の学びといっていいでしょう。しかし,その自然はどのような過程を経て現在の自然になってきたのか,各部分がどのようにつながりあっており,どのような弁証法性を有しているのか,という観点で学ぶと,それは弁証法の学びになるのです。このように,弁証法の勉強をしようとすると,必然的に世界全体を幅広く学ばなければならなくなるわけです。

 さらに,このような一般教養の学び=弁証法の学びは,集団的にしか学べません。すなわち,同志との認識の交流なしには,学ぶことができないのです。これは連載第2回で説いたように,継続的に研鑽をしていくためには情熱を燃やし合う相手が必要だからですし,学問的な実力をつけていくためには,人類の歴史が辿ったように討論の過程を個人も辿り返さなければならないからです。もう少しいうと,自分一人の認識には限界があるので,他者との認識の交通関係を結ぶことによって,その限界を突破していくのです。

 われわれの実際でいうと,たとえば,あるメンバーが一般教養として優れた書物を読んだ場合,それを勉強会の機会に報告したり,メールで内容の要約を送ったりして,他のメンバーに伝えます。そうすると,他のメンバーは,自分だけではその存在に気付かなかったような書物を知ることができますし,概略については読んだメンバーから聞くことができます。こうして,一人の学びがほかの同志の学びにもなっていき,相互浸透的に認識が発展していくわけです。また,専門が違うメンバー同士が,自分の専門分野について一般教養的に,あるいは弁証法の観点から,他のメンバーに説明するということも非常に勉強になります。説明を聞いたメンバーは,疑問を提示したり反論を試みたりして,論理的に筋の通っていないところをあぶりだします。それに対して,再度説明を試みることによって,より筋の通った論の展開となり,双方の論理的な実力の向上に資する討論となるのです。このような形で集団的・社会的にしか,一般教養や弁証法は学べないといっても過言ではないでしょう。集団の力はこのように非常に強力であり,一人だけで勉強する場合とは比べ物にならないくらいの実力の向上が見込めるのです。

 以上,要するに,同志を見つけて共に学ぶことと,一般教養を学ぶことと,弁証法を学ぶことを三位一体として,大学入学後早々に取り組んでいってほしいということです。そうしてこそ,大学生に課せられた社会的な使命(学問の修得)が果たせるといえるのです。

 しかし,そうはいっても,なかなか同志を見つけることが難しいかもしれません。そういう方は,是非とも,この京都弁証法認識論研究会で,共に学んでいきませんか。われわれは,情熱をもって学問に取り組もうとする大学生に対して,いつでも門戸を開いています。われわれの研究会は,基本的には月に一度,最近はスカイプを使って例会(研究会)を行っています。また,年に3回ほどは,師も招いて直接顔を合わせて討論する集中例会も行っています。その他にも,本ブログ掲載用の論考を交流し合ったり,それぞれの学習の進展や新しい発見などをメールで交流したりもしています。そして,ブログのタイトルにもあるように,弁証法(と認識論)を学問の基盤として,しっかりと学び続けています。

 その成果は,これまで本ブログに掲載してきた数々の論文として結実しています。これまで,本ブログには約280本の論文を掲載してきました。ブログの下の部分に,そのタイトル一覧があり,クリックすればその論文に飛べるようにリンクが張ってあります。まずは自分の関心の持てそうなものから,ぜひとも読んでみてください。特に,「改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」」や「新大学生への訴え」は,以前に皆さんのように新しく大学に入学された学生を対象に説いたものですので,ぜひとも読んでいただきたいです。

 われわれの研究会のように,集団的・社会的に弁証法の学習ができる組織は,世界中を見渡しても数えるほどしか存在しないものと自負しています。もしもわれわれと一緒に学びたいという同志がおられれば,ぜひとも連絡をください。ブログの右側にある「メッセージを送る」をクリックすれば,われわれにメッセージを送ることができます。

 情熱にあふれ,大志を抱いている若者の参加を期待しています。

(了)
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2016年04月08日

新大学生に与える(4/5)

(4)問題解決の武器である弁証法を学ぼう

 前回は,大学生が学問に取り組む際には,はじめに一般教養を学ぶことがいかに大切であるかを説きました。そもそも一般教養とは,学問の論理的な全体像をアバウトであっても描くことを目指すものであり,このように全体を学んだ後に部分たる専門領域を学んでいかなければ,部分の理解が誤ってしまうということを,「群盲象を評す」という故事を紹介して説明しました。また,科学の歴史上も,18世紀,大学で一般教養教育がなされるようになったおかげで,ドイツは19世紀後半に飛躍的な科学的発展を成し遂げることができたのだということも説きました。このような一般教養を学ぶためには,大学の教育には期待できないので,河合栄治郎『学生に与う』をしっかりと入学後3ヵ月以内に学ぶことが大切であるとしておきました。

 さて今回は,学問にとって一般教養と同じくらい大切な,弁証法の学びについて説いていきます。

 みなさんは,「弁証法」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。高校で倫理や世界史を学ばれた方は,ヘーゲルという哲学者が「弁証法」を説いたと教わったかもしれません。しかし,高校で習った方も,弁証法とはどういう学説なのか,よく分からなかったのが正直なところでしょうし,現在,世間的に説かれている弁証法は,多くの誤解に満ちていると思われますので,今回は弁証法とはどのようなものか,それが学問に取り組む際にいかに大切であるのか,という点を説きたいと思います。

 まず弁証法とはそもそもどのようなものなのでしょうか。弁証法とは,自然・社会・精神を貫く普遍的な法則性が正しくとらえられ体系づけられた,世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則を説く科学のことです。少し説明します。

 まず,弁証法と呼ばれる科学が成立する前提として,「自然・社会・精神を貫く普遍的な法則性」が存在するのだ,ということが挙げられます。前回少し説いたように,世界は大きく分けると,自然と社会と精神とに分かれます。これらに共通に貫かれている法則性が存在するのです。それも,「一般的な連関・運動・発展」に関する法則性が存在しているのです。

 具体的に説明したいと思います。たとえば,弁証法には「対立物の相互浸透」という法則があります。これは,ごく簡単にいうと,対立する二つのものは,互いに相手の性質を受けとりながら,相手的になることによって発展していく,というものです。この法則性は,自然にも社会にも精神にも貫かれているのです。

 自然の例を挙げると,みなさんが「進化論」として知っているような生物の進化も,この法則性に則してなされてきたものです。この場合の対立物とは,地球と,そこから生まれた生命です。地球の変化・発展の影響を受けて生命が変化・発展していき,生命の変化・発展の影響を受けて地球が変化・発展していったのです。端的には,生命の地球化と地球の生命化のプロセスが進むことによって,生物の進化と呼ばれる現象が生じてきたのだ,といっていいでしょう。このあたりを詳しく知りたい方は,ぜひとも『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)という本をお読みください。

 社会でも,対立物の相互浸透という法則性は貫かれています。日本という社会は,近隣の中国や朝鮮の影響を受けて,いわば中国的・朝鮮的になって発展していったのは,中学の歴史の教科書にも説かれていることです。具体的には,6世紀には仏教が輸入され,中国の律令制度が導入されていきます。平城京や平安京が中国の長安を倣ったものだということは,みなさんもご存じでしょう。このように中国化することによって,日本社会は中央集権化が図られていったわけです。江戸時代には,儒教の影響力が増してきます。これも,中国的になることによって,日本社会が変化・発展していった一例といえるでしょう。さらに明治期になると,西洋の文化遺産が日本社会に浸透してきて,急速な近代化が進展していきます。このように,日本は,その対立物である他国との相互浸透によって発展してきた歴史があるといえるでしょう。

 精神というか,人間の心も,相互浸透的に発展していくものです。例えば夫婦も,相手からの影響を受け,相手的になることによって,変化・発展していきます。筆者はかなり大雑把な性格だったのですが,結婚してからは妻のまめな性格が浸透してきて,つまり,妻的になることによって,ずいぶんとまめになりました。また,妻の方も筆者的になっていった側面もあります。このようなことは夫婦間だけではなく,友人間,師弟間でもよく起ることですので,みなさんもなるほどと肯けることでしょう。

 要するに人類は,世界を対象にして様々に研究していった結果,世界全体を貫く「対立物の相互浸透」のような一般的な連関・運動・発展の法則を発見するに至ったのであり,そのような世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則を説く科学こそが,弁証法なのである,ということなのです。

 では,学問に取り組む大学生が,なぜ弁証法を学ぶ必要があるのでしょうか。それはまさに,世界が連関しており(つながりあっており),運動・発展しているからにほかなりません。自然・社会・精神を貫く連関・運動・発展に関わる普遍的な法則性のことを「弁証法性」といいますが,ありとあらゆるものが弁証法性をもっているのです。ですから,その弁証法性をしっかりと研究して導き出された弁証法の法則を学ばないと,世界の連関(つながり)や運動・発展を正しく捉えられないのです。

 逆にいうと,しっかり弁証法を学べば,世界の一般的な連関・運動・発展については理解できたということになります。いってみれば,世界の仕組みが分かるということです。世界の仕組みが分かれば,その中で生じてくる問題も,うまく解決していくことができます。ちょうど,パソコンの仕組みを知っていれば,パソコンの問題がうまく解決できるのと同じことです。ですから,弁証法は「問題解決のための武器」といわれることがあります。弁証法を学んで,世界の一般的な連関・運動・発展について理解していれば,うまく問題の構造を理解し,それを解決することが可能となるからです。

 このように非常に優れた問題解決の武器となる弁証法ですが,修得するためには時間がかかりますし,また学び方にもポイントがあります。一番大切なことは,学び始めるのは,大学に入学した今しかない,ということです。これまでの受験勉強というのは,いってみれば弁証法の学びとは対極にある学び方でした。受験勉強というのはつながっている世界の一部分を切り離して,運動している対象をとりあえず静止しているものとして,学んでいくものです。たとえば日本史で江戸時代を学ぶ場合,とりあえず世界全体の中から日本だけを切り離して,あまりそれ以前の時代やそれ以後の時代とのつながりも意識せずに,学んでいったはずです。そうでないと,学べないということもあります。

 このような受験勉強的な,非弁証法的な学び方を転換していく必要があるのです。それには,大学に入学して新たに学問に取り組み始めた時期こそ,最もふさわしいのです。弁証法を学び,世界をつながっているものとして,運動・発展するものとして学んでいくためには,これまでの受験勉強的な方法をやめなければなりません。それには,この大学入学直後こそがベストの時期なのです。仮に受験勉強的なやり方を継続して,そのまま大学で学んでいってしまったら,一生,弁証法が理解できない頭になってしまいます。受験勉強的な方法がしっかりと定着してしまうからですし,そもそも弁証法を理解できる柔軟性が年をとると共に失われていくからです。こうなると,もはや世界の一般的な運動をしっかり認識できない頭になってしまいます。すなわち,静止した像しか描けないような頭の構造になってしまい,学問などできなくなってしまうのです。

 では,具体的にどのように弁証法を学んでいけばいいのでしょうか。これも,非常にすばらしい弁証法の基本書が存在しています。それは,三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)です。この書を,大学入学と同時に学び始め,3ヵ月間で最低でも3回は読み通してほしいところです。この書は,社会科学への入門書としても優れていますし,何より,難解とされる弁証法をここまで易しく説き切った書物は,現時点では他に存在しません。時代的に少し古くなっていますが,そういったところにはこだわらずに,著者が説きたい弁証法のエッセンスを学んでいただきたいと思います。

 本書の具体的な学び方については,本ブログの初期の論考で説いたことがあるので,参考にしてください。

弁証法の学び方の具体を説く

 弁証法がある程度身についてくると,目に見えるもの全てをプロセスとしてとらえることが可能になってきます。全ては,生成・発展・消滅する過程の一断面に過ぎないのであり,これまでの歴史があって,今それがここに存在しているのであり,それはこのままの状態が続くということはありえず,必ず変化していくものである,と捉えられるようになっていきます。たとえば,目の前に自動車があったとすると,その自動車の歴史性を感じられるようになります。その自動車の歴史性といっても,二重構造があり,一つは,実際にその自動車が何年か前にどこかの工場で作られて,諸々の過程を経て,現在ここにある,という側面です。もう一つは,そもそも自動車という存在の歴史性です。もともとは馬車として存在していたものが,蒸気機関で動く自動車を経て,現在のようなガソリン自動車が誕生してきて,そのガソリン自動車も,次々に発展してきて,現在われわれが目にするような形になってきたのだ,というような,大きな歴史性です。いわば,個体の歴史性と系統の歴史性といってもいいでしょう。

 このように,どんなものを見ても,二重の歴史性を背負った存在として,捉えることができるようになることが,弁証法の学びの当面の目標といっていいでしょう。このように歴史的な流れに着目できるようになるために,先にも紹介した『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)は非常に優れた参考書となるはずです。弁証法の基本書である『弁証法はどういう科学か』と合わせて読んでいただけると,理解が深まっていくでしょう。

 以上今回は,弁証法の学びの重要性について説きました。
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2016年04月07日

新大学生に与える(3/5)

(3)何事も全体の把握を優先しよう

 前回は,大学に入学したらまず行うべきこととして,共に学問に取り組む同志を見つけることの大切さを説きました。学問の研鑽を継続していくためには,情熱を燃やし合うために同志が必要なのでした。また,学問を構築するためには,人類の歴史が古代ギリシア時代に辿った討論過程を個体発生としてもくり返さなければならず,そのためにも,学問的な討論相手=同志がどうしても必要となるのでした。

 さて今回は,一般教養の重要性を説いていくことになります。

 一般教養というと,みなさんにはどのようなイメージがあるでしょうか。まだ大学に入学したばかりのみなさんには,あまり具体的なイメージがないかもしれません。先輩方に聞いてみると,「専門分野に入る前,主に1年生2年生の間に取らなければならない単位のことだよ。自分の専門以外の様々な領域の入門編をつまみ食いするもので,試験はそれほど難しくないから,気にしたくてもいいよ。このサイトには,パンキョウ(一般教養の俗称)の授業の難易度がランキングされているから,参考にするといいよ。」などと教えてくれるかもしれません。

 確かに,この先輩のいうことにも一理ありますし,現状の大学における一般教養教育をしっかり反映した内容となっているともいえます。どういうことかというと,一般教養とは,確かに,自分の専門領域(経済学とか教育学とか心理学とか)を本格的に学び始める前に学ぶべきものです。この意味で,先輩のいっていることは間違いではありません。しかし,本来の一般教養というのは,「専門以外の様々な領域の入門編をつまみ食いするもの」ではありません。後で詳しく説くように,本来の一般教養教育とは,「世界の論理的な全体像をイキイキと描かせる」(『医学教育概論(6)』p.74)ことにこそ,その目的があるのです。それなのに,そのような一般教養教育をなしうる教官が大学にはほとんど存在しないために,教官自身の専門のごく一部分を,易しく説いて一般教養と称しているのが現状なのです。これでは学んでも何の役にも立ちません。

 では,本来の一般教養とはどのようなものか,詳しく見ていきましょう。本来の一般教養とは,端的にいうと,学問の全体像を描くことです。学問というのは現実の世界を対象としたものですから,本来の一般教養とは,世界はこのようにできているのだ,ということをアバウトながら描けるようになることがその目的なのです。

 たとえばみなさんに質問したいのですが,世界を大きく三つの部分,三つの領域に分けるとすると,どのように分けられると思いますか? 実は,自然,社会,精神という三つに分けることができるのです。そして,それぞれを対象にした学問として,自然科学,社会科学,精神科学というものが成立しています。ですから,一般教養の学びとは,大きくいえば,自然とはどのようなものであり,それを対象とした学問にはどのようなものがあって,どのようなことが解明されているのか,社会とはどのようなものであり,それを対象とした学問にはどのようなものがあって,どのようなことが解明されているのか,精神とはどのようなものであり,それを対象とした学問にはどのようなものがあって,どのようなことが解明されているのか,ということを,ある程度頭の中で全体像として描けるようになることを目指すものなのです。

 大学に入学してから,はじめの2年間くらいは,あまり細かな専門分野の勉強はしないほうがいいでしょう。それよりも,世界とはどのようなものか,学問の全体像とはどのようなものかということをしっかりと描けるような学習をするべきです。つまり,全体から部分へと学習を進めて行くことこそが,学問の王道なのです。

 なぜ,全体から部分へと学習を進めることが学問の王道なのでしょうか。分かりやすい喩え話として,「群盲象を評す」という故事を紹介してみましょう。これは数人の盲人が象を触って,象とはどのようなものかを評価しあったという故事です。足を触ったものは象とは柱のようなものだといい,尾に触れたものは象とはほうきのようなものだといい,お腹を触ったものは象とは太鼓のようなものだといった,というエピソードです。この故事からいえることは,部分だけから全体を判断すると誤ってしまう,ということです。さらにいうと,たとえば象の尾を研究するにしても,尾だけを切り離してほうきとして研究してしまうと,正しい解明には至りません。まずは象の全体を押さえた上で,その部分として尾を研究していく必要があるのです。

 どのような専門領域でも同じようなことがいえます。たとえば経済を研究するにしても,いきなり経済の研究を始めてしまっては,象の尾をほうきだといってしまうのと同様な間違いを犯してしまいかねません。そうではなくて,まずは世界全体をアバウトではあっても学んでから,その部分たる経済の研究へと進んでいく必要があるのです。そうしてこそ,しっかりと経済を経済として正しく解明できるわけです。これが全体から部分へと学びを進めて行くことが学問の王道であるといったゆえんなのです。

 もう一つ,一般教養の学びが学問にとっていかに大切であるかということを,歴史的事実を通して理解していただきたいと思います。『医学教育概論(6)』(現代社)には,非常に興味深いことが説かれていますので,紹介します。近代的な一般教養教育が誕生したのは,18世紀ドイツにおいてであるとした後,次のように説かれています。

「ドイツと言えば,19世紀後半に,医学および自然科学の分野で,科学革命の舞台として華々しい発展を遂げ,ノーベル賞を独占していたことは広く知られています。しかし,そのわずか数十年前には,ドイツはヨーロッパの後進国でしかなかったのです。多数の領邦に分裂したまま中央集権化が遅れ,政治・経済的にも,文化的にも,イギリスやフランスの後塵を拝するほかなかったドイツに,何ゆえにそのような華々しい発展がもたらされたのでしょうか。これは大学教育史上,最大の関心事の一つなのですが,実はそれを支えたのは,一般教養の教育であったことはあまり知られていません。」(pp.71-72)


 すなわち,ヨーロッパの後進国であったドイツが,19世紀後半に科学上の大いなる発展を遂げることができたのは,18世紀にはじまった大学での一般教養教育のおかげであった,ということです。

 その一般教養教育とは,「哲学を中心として当時の最先端の自然科学,社会科学,人文科学全体を包含したもの」であり,「全学的な教育」(p.73)であったと説かれています。その上で,次のようにまとめられています。

「19世紀ドイツが,フランスやイギリスで発展しそして行き詰った,経験や観察に重きを置く教育や,研究の限界を破り,最先端の知見及び技術をも用いて,人類にとっての未知の分野に踏み込んでいくことができたのは,まさに学芸学部(哲学部)における,学問としての哲学を中心とした,個別科学の全体を包含した教育があったからなのです。すなわち,まずは歴史性を持った文化遺産を全体として継承する教育課程があったからこそ,現在の限界と将来に向けて進むべき道を見通し,自分の専門分野の発展の方向性を把握することができ,そうして初めて,当時の諸分野の最先端の知見を,自分の専門分野に応用することができたのです。」(p.73)


 ここでは,経験や観察に重きを置くフランスやイギリスでの教育・研究の限界を突破して,未知の分野に踏み込んでいくことができたのは,ドイツの大学における哲学部で,学問的文化遺産の全体を学ばせる一般教養教育がなされたからこそである,ということが説かれています。

 このように,学問的な発展を成し遂げるためには,どうしても学問の全体像を学んだうえで,専門の領域に突入していくことが必要なのです。19世紀ドイツの科学上の発展が一般教養の大切さの証明といっていいでしょう。

 今回の最後に,では,一般教養を学んでいくためには具体的にどうすればいいのかを説いておきます。はじめに触れたように,現在の大学では一般教養とは名ばかりであり,教官の専門を易しくつまみ食い的に学ばされるのが現状です。ですから,大学での教育には残念ながら期待できません。しかし,嘆く必要はありません。非常に優れた書物が存在するからです。

 それは,河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)です。これは読むだけでやる気が湧き,一般教養の学び方も分かるという,非常に優れた名著です。以下に目次を示しておきます。

「序
第一部 価値あるもの
一 はしがき  二 社会における学生の地位  三 教育  四 学校  五 教養(一)  六 教養(二)  七 学問  八 哲学  九 科学  十 歴史  十一 芸術  十二 道徳  十三 宗教

第二部 私たちの生き方
十四 読むこと  十五 考えること,書くこと,語ること  十六 講義・試験  十七 日常生活  十八 修養  十九 親子愛  二〇 師弟愛  二一 友情  二二 恋愛  二三 学園  二四 同胞愛  二五 社会  二六 職業  二七 卒業」


 この書物を,大学入学後,できるだけ早めに読了してください。これを読むと読まないのとでは,大学生活が大きく変わってくることになります。学問の全体像が描けますし,どのように勉強していけばいいのか,どのように生活を送っていけばいいのかが,しっかりと理解できるはずです。

 その上で,一般教養のための勉強としては,中学校の教科書(特に理科と社会)を,自然科学と社会科学の全体像を描く目的で,復習することです。大学生にもなって中学校の教科書なんか読んでいられないなどと軽蔑せずに,読み返してみることをお勧めします。また,最近われわれが取り組んでいるNHK高校講座というラジオ・テレビ番組も,ネット上で視聴できますが,これも中学レベルの易しい内容ですので,お勧めです。自分の専門分野については,一人の著者ができるだけ幅広く説いている新書レベルの入門書を何冊か読んでおけばいいでしょう。専門領域も全体から学び始めるというわけです。

 このようにして学問の全体像を描くことが大学1年生2年生の大きな目標となりますので,入学後3ヵ月以内には『学生に与う』を何度かくり返して読んでほしいものです。
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2016年04月06日

新大学生に与える(2/5)

(2)まずは同志を見つけよう

 本稿は,大学に入学したばかりの新大学生を対象に,大学生活で,特に最初の3ヵ月の間に,どのようなことをしていけばいいのか,学問に取り組むためには具体的にどのような勉強をしていくべきなのか,ということを説いていく論考です。前回も説いたように,大学生はすべからく学問に取り組むべきであり,そうであってこそ,大学生としての社会的使命を果たせるというものです。しっかりとした専門性を身につけられるように,本稿に学んであるべき学生生活をしっかりとイメージしてほしいと願っています。

 さて今回は,学生生活で最も大切なことの一つを説きたいと思います。それはズバリ,同志を見つけることです。これはどういうことでしょうか。また,どうしてこれが大切なことなのでしょうか。今回は,これらの点について,筆者自身の体験も踏まえて説いていきます。

 まず同志とは,読んで字のごとく,「志を同じくする者」のことです。大学生にとっての志とは本来,学問を修めることであり,高度の専門性を身につけることであるといっていいでしょう。ですから,大学生が「同志を見つける」ということは,すなわち,自らと同じく,「学生の間に熱心に学問に取り組むんだ!」「学問を修めて高度な専門性を身につけるんだ!」という大志を抱き,情熱を持っている人間を見つけるということを意味します。そして,一緒に学問に取り組んでいくわけです。

 なぜこのような同志を見つけることが大切なのでしょうか。それは,このように同志とともに集団的に取り組んでいかないと,学問を修めることが難しいからです。これには二重構造があります。少し説明します。

 一つは,学問というのは学生時代の4年間だけではなく,卒業後も延々と研鑽し続けて,初めて修めることが可能なものです。ずっと大志を抱き続け,情熱を燃やし続け,そして研鑽し続けていかなくてはなりません。そのためには,お互いに叱咤激励し合えるような同志がどうしても必要となってくるのです。これを,筆者の体験を元に説いていましょう。

 大学4年間に限っても,勉強し続けていくことはなかなか大変でした。たとえば,学問に必須とされる難解な書物も読んでいかなければなりません。これを一人で読み進めていくことができるでしょうか。それはなかなか難しいことです。そこでわれわれは,何人かの同志が集まって読書会という形式で,週に1回,特定の時間を設定してその時間に集まり,指定された範囲のテキストについて議論することにしました。こうすれば,毎週読んでいかないと他のメンバーに迷惑になりますし,負けてたまるかという気持ちも湧いてきて,自然と熱心にテキストの範囲を読み込むことにもなります。こうして,一人では読み進めることすら難しい書物であっても,集団的に読み進めていけば,単に順調に読了できるというだけではなくて,より深い理解に達することも可能なのです。

 大学を卒業して就職してからは,さらに勉強の継続が難しくなってきます。学生時代のようにありまる時間を自由に使えるなどということはなく,仕事が終わって家庭の用事を済ませてから,あるいはちょっとした隙間時間を見つけて,あるいは朝早起きして仕事に行くまでの時間で,勉強することになります。この場合,もし同志がいなくて一人で勉強しなければならないとすれば,ついつい楽な方向へ流れてしまうものです。「今日くらいはいいか」とか言い訳をして,サボってしまうことになりかねません。ところが,現在のわれわれのように,学生時代に見つけた同志で継続的に勉強会を実施していると,そういうわけにはいきません。勉強会のテキストの範囲は何としても読まなければなりませんし,他のメンバーががんばっているのに自分だけサボるわけにもいきません。こうして直接間接に叱咤激励しあうことによって,大志を育て合い,情熱を燃やし続けることができるのです。そうしてこそ,学問を修められる可能性が出てくるというものです。

 大学を卒業して就職してから,学問を志す同志を見つけるというのは,かなり難しい話です。したがって,学問こそが本業である学生の間に,それも入学後できるだけ早い段階で,学問を志す同志を見つけることは大切になってくるのです。

 もちろん,自分自身の大志を育てていくことを,仲間任せすることはできません。自分自身も,自分の大きな志を育てるための努力が必要です。そのためには,まず,大志を抱き,情熱を燃やし続けて大きな仕事を成し遂げた,歴史上の人物の伝記や,そのような人物を主人公とした歴史小説などを読んだり,映画を見たりすることです。あるいは,以前NHKで放送していた「プロジェクトX」のような番組を見るのもいいでしょう。これは,戦後日本でさまざまな課題に挑戦して,成功を収めた無名の人物を取り上げたドキュメンタリー番組でした。大学の図書館にそのDVD等があるでしょうから,一度見てください。あるいは,もっと直接的に,学問上の偉大な人物の伝記を読むことも大切です。哲学でいうと,アリストテレス,カント,ヘーゲルの生涯とその仕事は押さえておきたいですし,それぞれの専門分野でも,絶対に押さえておかなければならない偉大な先達というものはいるはずですから,まずは彼らの生涯を描いた伝記を読むといいでしょう。そうすれば,「自分もこのような人間になりたい!」とか,「彼らと同じような大きな仕事がしたい!」というような大志が育っていくでしょう。このような憧れの人物を見つけていき,同志と交流していけば,お互いの大志を育て合うことができるでしょうし,情熱を燃やし合うことにもつながっていくでしょう。

 同志を見つけることが大切なのは,このように大志を育て合い,情熱を燃やし合えるという利点があるからだけではありません。もう一つの構造として,学問の構築には討論が必須であるということも指摘できます。これはどういうことでしょうか。

 学問は古代ギリシアの時代に誕生しましたが,その誕生のプロセスで必須だったのが,討論過程を持つことだったのです。その過程は,ソクラテスに始まり,プラトンの時代になっても,延々と続けられていきました。この過程の中で,自分の言いたいことをしっかりと言葉にして表現し,相手に分からせようとする,そして,相手の言ったこと(表現)から,相手がどのようなことを伝えたいのかを必死で読み取る,というようなことがくり返されていきます。このような討論過程をくり返していくことによって,自分の認識の限界を突破して,相手の認識をしっかり受け取って相互浸透的に認識を発展させていくことが可能となると同時に,共通する像を括っていく能力,つまり論理能力が育っていくことになります。すなわち,討論によってこそ,学問化可能な頭脳が創出されていったのでした。

 このようなことは何も,歴史的な,人類の系統発生といえるような発展過程においてのみいえることではありません。そうではなく,われわれが個人として認識を発展させていく時にも,必ず通らなければならない道なのです。自分が相手に対して,分かりやすいように何らかの論を展開する,それに対して相手が疑問・反問をぶつけてくる,その相手の疑問・反問の意味をしっかりと理解して,さらに分かるように説いていく,というような討論過程によって,論理がより精緻になっていきます。このような討論過程によって,自分とは異なる他者の認識をしっかりと受け取り,それを踏まえた上で,さらに自分の論を強固に展開していくことになるのです。こうしてこそ,誰もが納得できるような筋の通った論理的な展開ができる頭脳が創出されていくのであり,学問に必須の論理能力が高まっていくわけです。

 人類の歴史では,ソクラテスからプラトンあたりまでは実在する他者との討論によって,自己の論理能力を向上させていましたが,アリストテレスに至ると,その他者を内在化して,自問自答できる実力が創られていきます。こうなると,「一人きりの二人問答」ができるようになり,討論相手がいなくても,自分で自分に反論し,それに再反論するという形で,観念的に討論過程を持つことが可能となるのです。

 同じように個人の認識の発展においても,当初は現実の他者と討論する必要がありますが,徐々に自問自答できるようになる,「一人きりの二人問答」ができるようになっていきます。こうなってようやくに,学問を構築できる前提が整ったといえるでしょう。しかし,それまでには,実際に存在する他者との気の遠くなるような討論過程をくり返す必要があるのであり,そういった討論過程を持つためにも,同志が必要となってくるのです。

 筆者自身の経験でも,同志との討論によって,徐々に論理的な頭脳が創られていったという実感があります。たとえば,ある重要な著作を同志と一緒に読み進めていたとき,自分が分からなかった部分を他のメンバーがうまく理解して解説してくれるということは多々ありました。この場合,相手の認識を受け取ることによって,自分の認識が発展していくわけです。また,自分があるテーマについて小論文を書いて同志に見せたとき,論理的に飛躍しているとか,根拠が薄いなどという指摘をもらうことも多いです。その指摘を踏まえて,もう一度,しっかりと筋を通すべく,説き直していくことになります。こういった作業によって,より筋の通った論理展開となり,より論理的な頭になっていくといえるでしょう。

 以上のように,同志を見つけて一緒に学問に取り組んでいくということは,情熱を燃やし合って困難な研鑽を継続していくためにも,討論によって論理的な頭脳を創出していくためにも,絶対に必要なことであるといえるでしょう。幸いにわれわれは,大学のとあるサークル(研究会)で同志を見つけ,その時のメンバーが中心になって,今の京都弁証法認識論研究会が創られています。このようなサークル活動は,社会の縮図としての意味も持ち,未熟な認識を社会的に鍛えていくうえでも,非常に意味があったと感じています。みなさんも,そのようなサークル(研究会)を探したり,ない場合は自分で創ってみるというのも一つの手でしょう。

 いずれにせよ,大学入学後のしばらくの期間は,サークルを巡ったり,インターネットを活用したりして,同志を探すために時間を費やしてみるのがいいでしょう。
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2016年04月05日

新大学生に与える(1/5)

目次

(1)最初の3ヵ月が勝負である
(2)まずは同志を見つけよう
(3)何事も全体の把握を優先しよう
(4)問題解決の武器である弁証法を学ぼう
(5)集団力を用いて社会的に学んでいこう

−−−−−−−−−−

(1)最初の3ヵ月が勝負である

 新大学生のみなさん,大学入学,おめでとうございます!

 大半のみなさんが,つらく長い受験勉強を潜り抜け,今,そこからの解放感に浸りながら,一方では安堵するとともに,他方では新しい学生生活に夢を膨らませ,多少の不安も感じておられることかと思います。大学の講義とはどのようなものなんだろうか,大学での人間関係はどのようなものになるのだろうか,部活動やサークル活動にはどのようなものがあり,どれに入れば充実した学生生活が送れるのだろうか,アルバイトはどのようなものをしようか,近所にはどんなところがあるのだろうか,などなど,期待と不安が入り混じった,しかし基本的には明るい未来に向けての前向きな気持ちになっておられるかもしれません。

 筆者が大学に入学したのは,もう20年ほど前になります。しかし,大学時代の思い出は今も鮮明に記憶しています。おそろしく分厚いシラバスが配られ,数えきれないほどの講義や演習の中から,自分で自由に出席するものを選び,必要な単位をとっていくという経験は,高校まででは体験したことのないものであり,非常に新鮮で,わくわくするものでした。

 学内の施設にも驚きました。総合図書館は非常に大きく,もはやここに存在しない本はないのではないかというくらい,充実していました。さらに,各学部ごとの図書館も存在しており,非常に専門的な書物が収められていました。

 IT関係の施設も充実していました。当時は,ようやくインターネットが普及し始めたころです。学生一人一人に専用のメールアドレスが割り振られ,学内にいくつかあるパソコン室では,自由にインターネットが使える環境が整っていました。実は,そこで偶然閲覧していたサイトで,ある人物から三浦つとむや南郷継正先生の著作を紹介していただき,学生時代は三浦つとむ一色といっていいほどのめり込んでいったのでした。

 部やサークルの新入生歓迎イベントも印象に残っています。部やサークルは,必死になって新入生を獲得しようと,様々なイベントを企画したり,飲み会を開催したりしています。筆者が通った大学では,新入生の健康診断の時に,並んでいる新入生の列の両サイドを上級生が取り囲んで,部やサークルの紹介のチラシ,イベント開催のチラシなどを問答無用で新入生の腕の上に積み重ねていくのが恒例となっていました。健康診断が終った頃には,30センチほどの分厚さのチラシを手に抱えている状態となるのでした。その中の気に入った部やサークルのイベントに顔を出し,先輩や同級生と話しながらどの部(サークル)に入るのかを決めていくのが一般的でした。

 さて,このようなもろもろの新鮮な出来事や楽しいことが次々に押し寄せてくるのが,入学当初の新大学生の一般的なあり方でしょう。しかし,けっして忘れてほしくないのは,大学生の使命ということです。では,そもそも大学生の使命とは何でしょうか。それは,端的にいうと,学問に打ち込むことです。高校卒業くらいの年齢になると,立派に社会で働いていくことが可能であり,実際にそうやって働いている人もいます。それなのに,その労働を免除され,国や親などの支援を受けて大学に行くことができるのは,労働を免除しても有り余るほどの成果を,将来に期待されているからです。そして,そのような成果を生み出すことが可能なのは,大学生活の間に学問に打ち込み,優れた文化遺産を身につけて高度の専門性を発揮することができるようになるからです。

 大学側も,学生に真の実力をつけてもらうために,さまざまな教育改革に取り組んでいます。ちょうど一年ほど前の新聞には,以下のような記事が掲載されていました。

「東大――浜田改革,国際化へ道筋,4ターム制など推進,秋入学は見送り(大学解剖)

 東京大学の浜田純一総長が31日付で退任する。2009年に就任し「総合的教育改革」を打ち出して,秋入学の提案や4ターム(学期)制の導入などで国際化への道筋をつけた。ただ,海外の有力大学との競争激化や国内での求心力低下などに見舞われ,東大を取り巻く環境は徐々に厳しくなっている。6年間の「浜田改革」で東大はどこまで変わったのか。(1面参照)
 「森を動かす」。浜田総長は就任後,大学運営の基本姿勢についてこう表明した。これまで動かすことができなかった組織を変える。覚悟を込めたスローガンのもと,秋入学構想や学内のスケジュールを定める学事暦の変更,推薦入試などの施策を次々に打ち出した。
 改革の柱の1つは大学のグローバル化だ。英タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)の世界大学ランキングでは国際化のスコアが足を引っ張り,一時は30位まで順位を落とした。
「進振り」が阻む
 国際化を阻んできた要因の1つに「進振り(進学振り分け)」と呼ぶ東大独特の仕組みが挙げられる。3年生に進む際に学科を希望し,2年生までの成績によって選別するシステムだ。学生からは「留学した瞬間に留年が決まってしまう」(法学部3年の男子学生)と不満も漏れる。
 国際特命担当の江川雅子理事は「振り分けがあるため,1〜2年生は専攻が決まるまで留学などがしづらい事情があった。3年生は就職活動があり,海外に行きにくかった」と振り返る。
 この問題を是正するため,11年度に従来の学部ごとの交換留学に加え,全学対象の交換留学制度を立ち上げて学生の海外派遣を拡充。英語で学位が取得できるコースも増やした。江川理事は「学生の約半数が何らかの形で海外に出るようになった」と強調する。矢継ぎ早の国際化施策の効果でTHEの順位は足元では23位まで持ち直した。
 ただ,頓挫した構想もある。改革の目玉だった秋入学構想は慎重論が噴出し,当面見送りが決まった。学内の足並みがそろわない印象も残った。」(2015/03/31 日経産業新聞)


 ここで説かれている東京大学の教育改革の目玉であった秋入学構想については,テレビや新聞などで大々的に報道されましたから,みなさんもご存じかもしれません。簡単に説明すると,入学時期を欧米と同じ秋に設定することによって,留学生の受け入れ・派遣を増やし,大学のグローバル化を促進しようとするものでした。そして,高校を卒業してから秋の大学入学までの空白の期間(ギャップターム)を使って,海外留学やボランティア,企業でのインターンシップなど,多様な体験を積むことを東京大学当局は想定していました。

 この東京大学の秋入学制度,およびそれに伴うギャップタームに関して,先に感想文を認めた『医学教育概論(6)』(現代社)において,非常に重要な指摘がなされていましたので,紹介します。「人間は,確かに実体験から大きく学ぶことはできますが,そこで何を学ぶかは,その人の目的意識が規定する」(p.42)とした後に,次のように説かれています。

「だからこそ,受験勉強から脱却させるための教育を,大学が責任を持ってやらなければなりません。そして一番強調しなければならないことは,これをなし得るための時期がある,ということです。それは新入生が受験勉強から解放され,フレッシュな認識で,希望を胸に抱いて新たな環境での学びに意気揚々と入ってくる,最初の3ヵ月を除いては存在しないのです。

 ……

 ……そこに合格した誇りで輝いている,その時期にこそ,新入生に夢と志と使命を熱く熱く語って,説いてやらなければなりません。それなのに,その一番大事な半年間を,自主性に任せて放り出しておいたのでは,9月の入学式に臨む学生達のくたびれた有様が,大きく目に浮かぶのみです。」(p.43)


 ここでは,人間が何を学ぶかは,その人の目的意識が規定するものであるから,受験勉強とは違う大学生としての学びをしっかりしたものにするためには,入学後の3ヵ月の間にこそ,夢と志と使命を熱く語っていく必要がある,と説かれています。東京大学の秋入学制度に伴うギャップタームは,この非常に大切な期間を学生の自然成長性に任せる欠陥があるので,必然的に失敗する,ということでした。

 幸いというか,先の新聞記事にもあったように,秋入学構想は当面見送りが決まったようです。しかし,初期教育の重要性は変わりませんし,現在の大学がこの重要な初期教育をなし得るかどうかは,大いに疑問の残るところです。

 そこで本稿では,大学生になったばかりのみなさんに対して,大学で学問をするためにはどのようなことをしていけばいいのか,特に最初の3ヵ月をどのように過ごせばいいのか,ということを具体的に説いていきたいと思います。先に結論をいってしまうと,まずは,社会的に鍛え合えるような同志・ライバルを見つけることですし,一般教養を学ぶために河合栄治郎『学生に与う』を読み,弁証法を学ぶために三浦つとむ『弁証法はどういう科学か」を学び始めるべきだ,ということになります。詳細は次回以降の連載に説いていきますので,楽しみにしてください。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する