2010年12月31日

ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う(3/3)

(3)「第九」の長大さと声楽の導入は「苦悩を克服して歓喜へ」に説得力をもたせるためのものであった

 前回は、ベートーヴェンの第九交響曲が、「苦悩を克服して歓喜へ」という一つのストーリで全曲を統一するという「運命」交響曲での試みの延長線上にあるものだということを確認しました。

 それが具体的にいかなるものであったのか、まずは、ベートーヴェンの第九交響曲の作曲過程をたどってみることにしましょう。

 第九交響曲は、もともと二つの異なる交響曲の構想を一つに統合することで生れたものだといわれています。この「二つの異なる交響曲」のうち、一つは従来どおり純器楽による交響曲だったのですが、もう一つは声楽を導入したまったく新しいタイプの交響曲でした。後者は「ドイツ交響曲」と名付けられ、ドイツの民族意識を高揚させるような作品となるはずでした。実は、この「ドイツ交響曲」において、シラーの「歓喜に寄す」を歌い上げる音楽を使うことが計画されていたのです。

 ところが、ベートーヴェンは、この二つの交響曲の構想を一つに統合し、「歓喜に寄す」にもとづく音楽を、純器楽の交響曲として計画されていた交響曲の第4楽章にもってくることで、「苦悩を克服して歓喜へ」というストーリーをもった交響曲の結論部分と位置づけることにしたのです(もともと純器楽の交響曲の第4楽章として作曲されていた音楽は弦楽四重奏曲第15番の第5楽章に流用されたといわれています)。

 この第4楽章は、たしかに圧倒的な喜びの賛歌です。しかし、この楽章だけが単独の音楽として存在しているならば、その感動は薄いものとなってしまうでしょう。やはり、この喜びをつかむまでに幾多の困難を克服してきたのであるな、という感慨を伴うことによってこそ、いっそう深く感動的なものとなるのではないでしょうか。少なくとも、ベートーヴェンはそのように考えたからこそ、あえて二つの交響曲の構想を一つに統合するという決断をしたのだと考えられるのです。つまり、この第九交響曲においては、第1楽章、第2楽章、第3楽章の音楽は、第4楽章の「歓喜に寄す」にもとづく賛歌を引き立たせるために位置づけられるようになったのだ、といえるのです。

 それでは、以上のような観点から、第九交響曲のそれぞれの楽章がどのような音楽であるのか、確認していきましょう。

 第1楽章は、暗く闘争的な音楽です。深い霧(弦楽器がかすかな音量で細かい音を刻む)のなかから第1主題が断片的にあらわれはじめ、諸断片が次第に集合しながら急速に膨れ上がり威圧的ともいえる堂々たる全体像を見せるに至るという、きわめて印象的な開始をもっています。第2主題は、穏やかな性格の美しいものですが、この楽章の主導権は、あくまでも闘争的な第1主題が握っています。展開部はもちろん再現部の後のコーダにおいても、この第1主題が徹底して主題労作され、圧倒的な悲劇的な高揚を創りだすのです。作曲家であり指揮者でもあったワーグナーは、この第1楽章について、運命にたいする人間の闘いを描いたものであると位置づけました。

 第2楽章は、スケルツォ(3拍子の急速なテンポによる突進するような音楽)です。ワーグナーは、この第2楽章について、狂乱的な歓楽を描いたものだと位置づけました。通常の交響曲の構成では、第2楽章には、(第1楽章がもたらした緊張を緩和するために)緩やかなテンポの音楽(緩徐楽章といいます)が置かれ、第3楽章にスケルツォが来るのですが、第九交響曲では、この順番が入れ替わっています。これは、第4楽章の衝撃的な開始(後述します)を印象付けるための工夫にほかなりません。

 第3楽章は、一転して、緩やかなテンポによる非常に美しい音楽となります。ワーグナーは、愛と希望を描いたものとして位置づけています。この楽章には、二つの主題が登場しますが、いずれも穏やかな性格をもったもので、あくまで静かに夢見るように流れていきます。しかし、最後の方で、突如として、あたかも「夢想にふけって現実逃避をしたままでよいのか」と警告するかのように、金管楽器の鋭いファンファーレが鳴り響きます。このあと、音楽は一応は再び穏やかさを取り戻してこの楽章を終えるのですが、どこか不安の影がつきまとうような音楽となってしまっており、これが第4楽章の嵐のような開始を導く重要な伏線となっているのです。

 先に述べたように、第4楽章は、この交響曲の結論(「苦悩を克服しての歓喜」)として、勝利の賛歌を歌い上げる部分ですが、重要なのは、いきなり歓喜の歌が歌い始められる(そうなれば、あまりに唐突な印象をあたえることでしょう)のではなく、冒頭に、第1楽章から第3楽章までの音楽と「歓喜に寄す」を歌う音楽とを媒介する部分がおかれていることです。

 つまり、第4楽章は、第3楽章の平安な世界を突如として破る猛烈の嵐のように急速なテンポで開始されると、まず、第1楽章、第2楽章、第3楽章の音楽がそれぞれ断片的に再現されるとともに、それらが一つ一つ否定されていくという過程をたどるのです。この否定は、チェロとコントラバスの威圧的な強奏によってなされます。やがて、木管楽器が有名な「喜びの歌」のメロディーの断片を提示すると、それまで威圧的な態度で以前の音楽を否定してきたチェロとコントラバスが、「それだ!」といわんばかりに喜びの表情を示し、「喜びの歌」を静かに静かに奏ではじめるのです。そして周りの楽器も次第に声を合わせるようにくわわって力を増していき、圧倒的なクライマックスに到達するのです。
 ここまでは純器楽(オーケストラのみ)の音楽なのですが、ここで突如として、第4楽章の冒頭の嵐のような音楽が戻ってきます。そして、先の威圧的なチェロとコントラバスの否定のメロディーで、バリトンが「おお友よ、このような音ではない! もっと心地よく、もっと喜びに満ちた歌を歌おうではないか!」 と歌いだします。こうして、先ほどのチェロとコントラバスが、過去の音楽を否定するものであったことが、言葉によって明確に示されたわけです(ちなみに、これはシラーの詩ではなくベートーヴェン自身によるものです)。その後は、4人の独唱と合唱がくわわって「歓喜に寄す」が何度も変奏されながら歌われていき、大団円となります。

 以上のような音楽の流れをふまえて、第九交響曲の二大特徴――長大さと声楽の導入――にいかなる必然性があったのか、考えてみることにしましょう。

 端的に結論からいえば、第九交響曲において長大さや声楽の導入が必要とされたのは、ベートーヴェン(および彼と同時代の人々)が直面させられた苦悩がそう簡単に解決できそうもないほどに深いものであったからだといえます。苦悩の克服過程を描くのにこれだけの長大さが必要とされたのは、難しい問題を論理的に説こうとすると、丁寧な論理展開が必要となるために、必然的に説明が長くなってしまうのと似ているといってよいでしょうし、声楽の導入については、音楽そのものによる時間をかけた論理展開にくわえて、言葉の力をも借りなければ苦悩の克服過程を説得的に描くことができなかったからである、とみることができるのです。

 先にみたとおり、第九交響曲において、苦悩を克服して歓喜の歌に至る結節点に当たるのが、「おお友よ、このような音ではない! もっと心地よく、もっと喜びに満ちた歌を歌おうではないか!」 というバリトンの独唱でした。つまり、声楽(言葉)を導入することによって、苦悩から歓喜への一大転換をより説得的に成し遂げようとしたのだ、ということができるのです(*)。

 第九交響曲に長大さと声楽の導入をもたらしたもの、すなわち、直面する苦悩がそう簡単に解決できそうにもないという懐疑は、19世紀、産業革命の進展によって社会が解決困難な新しい問題を無数に抱え込んでいき従来の価値観が崩壊していくなかで、いっそう深刻なものとなっていきました。このような懐疑をどのように扱うかが、ベートーヴェンにつづく19世紀の交響曲作曲家にとっての大きな課題となったのです。ここから、人間の諸々の感情の流れをよりナマナマしく克明に描くことが試みられるようになっていくのと同時に、闘争から勝利への過程に説得力をもたせるために、論理的な構成を強化して曲全体に統一感を持たせる諸々の工夫(声楽の導入もその極限的な試みの一つです)がなされるようになっていくわけですが、こうした試みの萌芽は、すべて第九交響曲にあるといっても過言ではないのです。

(*)もっとも、このような言葉の導入は、悪くいえば、本来は純粋に音楽の力で表現すべきところを言葉の力を借りてしまったものである、ということもできます。このことを指摘した音楽評論家の許光俊氏は、これはベートーヴェンの音楽の敗北を意味するものではないか、と批判的に論じています(『クラシックを聴け!』ポプラ文庫)。

(了)
posted by kyoto.dialectic at 05:32| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月30日

ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う(2/3)

(2)ベートーヴェンの創作活動における「第九」の位置づけを問う

 前回は、個人的な感情の表現という意味での真に交響曲らしい交響曲は、ベートーヴェン(1770〜1827)によって確立されたのだということを確認しました。

 その画期となった作品は、彼の交響曲第3番「英雄」変ホ長調作品55(1804年完成)でした。これは、もともとナポレオンに献呈しようとしていたという有名なエピソードが象徴しているように、フランス革命後の新しい時代における社会的な気分の高揚――王侯貴族の支配を倒した市民たちが自らの手で歴史を切り開いていくのだという高揚――と切りはなせません。ともかく、幾多の困難をものともせずに前へ前と突き進んでいくかのような、圧倒的な力強さを感じさせる曲なのです。その性格はとくに第1楽章に顕著にあらわれているといえるでしょう。

 「英雄」交響曲が交響曲の歴史上いかに画期的な作品であったかということは、それまでの交響曲と比較しての規模の大きさという面からも確認することができます。すなわち、18世紀前半における交響曲の演奏時間はせいぜい10分から15分ほど、ハイドンの晩年(18世紀末〜19世紀初頭)の長いものでもせいぜい25分ほどであったにもかかわらず、「英雄」交響曲は50分ほどもかかる大曲だったのです。第1楽章だけでも(あとで説明する「提示部」のくり返しを含めると)なんと20分近くを要します。

 この長大さを支えるための骨組みとなっているのは、ハイドン(1732〜1809)、モーツァルト(1756〜1791)などの古典派と呼ばれる作曲家たちによって確立されたソナタ形式とよばれる構造です。

 それでは、このソナタ形式とは、いったいいかなるものなのでしょうか。

 ソナタ形式とは、端的には、一つの楽章(ひとつの楽曲がさらにいくつかの部分に分かれていて、それぞれの部分が他の部分から明確に区切られているとき、それらを楽章と呼びます)を構成する形式の一つであり、異なる性格の2つの主題の絡み合いが軸となるものです。このソナタ形式にもとづけば、一つの楽章は、次のように大きく3つの部分から構成されることになります。すなわち、〈対照的な性格をもった2つの主題が提示される提示部〉〈2つの主題がそれぞれ分解されたり組み合わされたりして大きく発展させられていく展開部〉〈この展開をふまえたうえで2つの主題がより調和的な形で再現される再現部〉の3つの部分です。つまり、ソナタ形式とは、あたかも、討論において2つの異なる意見がたたかわされながらより高いレベルでの見解の一致が見出されていくかのような、まさに弁証法の音楽化といってもよいものであり、「対立から調和へ」という一本の筋に貫かれたものなのです。

 このソナタ形式は、ハイドンやモーツァルトにおいては、まだ、教養ある貴族どうしの知的なおしゃべりといった趣をもったものだったのですが、ベートーヴェンにおいては、大衆を前にして大きな身振りを交えつつ演説する、といった趣のものへと変貌させられていったのです。

 音楽そのものの構造に即していうならば、ハイドンやモーツァルトの音楽が、美しい主題(メロディ)が次々と流れさっていくような印象をあたえるものであったのにたいして、ベートーヴェンの音楽では一つの主題が徹底的にいじくりまわされるようになります。つまり、ベートーヴェンは、同じ主題を執拗なまでにくり返し、細かく分解してみたり異なる要素とぶつけてみたりしながら素材を丹念に磨き上げ、それを堅固に組み上げていくことで、壮大な建物のような音楽を構築していくのです。このような主題の扱いを「主題労作(テマティッシェ・アルバイト)」とよびます。(*)。討論過程にたとえるならば、大衆を相手に、あの手この手で必死に説得を試みている(よくいえば、非常に丁寧な論証を行おうとしている)ような音楽だとでもいえるでしょうか。このようなベートーヴェンらしい音楽の特徴がはっきりと確立された作品こそが、「英雄」交響曲だったのです。

 さて、ソナタ形式は、もともと一つの楽章を構成する原理であり、「対立から調和へ」という筋は、元来、個々の楽章で完結したものでした。しかし、ベートーヴェンはやがて、「対立から調和へ」という筋を個々の楽章の内部ではなく、4つの楽章からなる交響曲の全体を貫くものとして、明確に位置づけていくようになったのです。つまり、4つの楽章すべてをつうじて一つながりのストーリー展開を感じさせるように、楽章どうしに緊密なつながりをもたせるような工夫がなされるようになっていったのだということです。

 この点で画期となった作品が、日本では「運命」のタイトルで知られる交響曲第5番ハ短調作品67(1808年完成)でした。この作品こそ、「苦悩を克服して歓喜へ(暗から明へ)」というストーリーを、交響曲の基本的な型のひとつとして打ち立てた画期的な作品だったのです。

 この交響曲は、暗く闘争的な第1楽章(超有名な「運命の動機」をもとに徹底した主題労作がなされます)のあと、ホッと一息つくような第2楽章をへて、第3楽章で再び暗雲が垂れ込め、第4楽章にいたってついにその暗雲を吹き飛ばして勝利の凱歌を高らかに歌い上げる、といったように、きわめて分かりやすい明快な構成をもっています。しかも、冒頭に出てくるあの有名な「運命の動機」が全曲をつうじてくり返し登場し、全曲の一体感を高めているのです。

 ハイドンやモーツァルトの交響曲であれば、一つの楽章だけを取り出して聴いてみても、それなりに完結した音楽作品として楽しむことができます。しかし、この「運命」交響曲については、そのような聴き方は不可能です。個々の楽章は、あくまで「苦悩を克服して歓喜へ」という全体の流れに位置づけられてはじめて意味をもつものとして構成されているからです。

 実は、本稿で問題にしている第九交響曲は、端的には、このような「運命」交響曲での試みの延長線上にあるものだといえるのです。

 「苦悩を克服して歓喜へ」というのは、まさにベートーヴェンの人生観・世界観そのものであったといってもよいでしょう。そこには、いうまでもなく、彼が音楽家にとっては決定的ともいえる難聴という障害を背負っていたことが影響しています。また、このような身体的な障害にくわえて、社会的な条件がこのような信念に切実さをあたえたのだという見方もあります。つまり、ベートーヴェンはオーストリアの反動体制の下で、自由のために闘う革命家のような存在であったのだ、ということです。『秘密諜報員ベートーヴェン』を著した古山和男氏は、この観点から、ナポレオン敗北後のオーストリアの反動体制の下で「革命家」ベートーヴェンが苦境に置かれたこと、そのため作曲活動も停滞せざるをえなかったこと、この挫折と抑圧を跳ね返すべく反動体制への抗議の意志の表明として第九交響曲が作曲されたことを指摘しています。

「私たちが、現在のような《第九》を聴くことができるのは、反動体制に逆戻りしたウィーンで、ベートーヴェンが迫害され、自由を奪われ、苦難を強いられたからなのである。そんな当時の恐怖政治を跳ね返し、人間の尊厳を守るために、ベートーヴェンは不屈の反骨精神を発揮させた。《第九》とは、その結果生れた音楽なのだ。」(『秘密諜報員ベートーヴェン』新潮新書、2010年、p190)

 次回は、第九交響曲そのものの音楽の流れに即して、この問題を検討していくことにしましょう。

*『音楽社会学序説』という著作を書いたアドルノという20世紀の思想家は、19世紀初頭における資本主義的な労働の成立とベートーヴェンの主題労作との同時代性に注目していますが、これは、音楽の歴史もまた社会の歴史(社会的認識=社会的労働の発展の過程)の一部でしかないという観点からして、非常に興味深い指摘だといえます。
posted by kyoto.dialectic at 06:50| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月29日

ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う(1/3)

(1)交響曲の歴史におけるベートーヴェンの役割とは

 師走といえば「第九」の季節です。この「第九」とは、正確にいうならば、ベートーヴェン(1770〜1827)が1824年に完成させた「交響曲第9番ニ短調作品125」のことです。交響曲とは、クラシック音楽の曲種のひとつ、それもとくに重要視されてきた曲種の一つであり、いくつかの独立した部分(楽章とよびます)から構成された、オーケストラ(管弦楽)によって演奏される規模の大きな楽曲のことですが、ベートーヴェンが作曲した9番目の、最後のものにあたる交響曲が、この第九交響曲です。日本においては、この12月に、全国各地で無数といってよいほどの「第九」の演奏会が行われています。たとえば、京都コンサートホールでは、この12月だけで4回の「第九」演奏会が行われました。

 この第九交響曲の際立った特徴として、すぐに指摘できることが二つあります。

 まず第一は、その長大さです。この曲は、通常、演奏におよそ70分程かかります。それまでのベートーヴェンの交響曲がだいたい30〜40分程度、もっとも長かった交響曲第3番「英雄」でも50分程度でしたから、これは(当時としては)破格の長さであった、といってよいでしょう。

 もう一つの際立った特徴は、声楽の導入です。この曲の終楽章(第4楽章)には、4人の独唱者(ソプラノ、アルト、テノール、バス)と合唱が登場し、シラーの「歓喜に寄す」という詩を歌い上げるのです。もともと交響曲というのは、オーケストラだけで演奏される(純器楽の)音楽であり、当時としては、交響曲に声楽を導入するというのは(この「第九」が最初ではないにしろ)、きわめて珍しい試みでした。

 実は、ここであげた二つの特徴――長大さと声楽の導入――にこそ、ベートーヴェンの第九交響曲が、交響曲の歴史において、さらにはクラシック音楽(西洋芸術音楽)の歴史において、いかなる意味を持つ作品であったのか、という問題を解く鍵があるのです。

 それでは、ベートーヴェンの「第九」交響曲は、交響曲の歴史においていかなる意味をもった作品だったのでしょうか。

 まず、交響曲の歴史におけるベートーヴェンの位置について確認しておくことにしましょう。

 そもそも交響曲とは何でしょうか。

 先ほども簡単に説いたとおり、交響曲とは、クラシック音楽の曲種のひとつであり、端的にいえば、いくつかの楽章(普通は4つの楽章)によって構成された、オーケストラによって演奏される楽曲のことです。その名のとおり、さまざまな「響き」が「交わる」音楽(原語の「シンフォニー」も「ともに鳴り響く」という意味をもっています)です。

 この交響曲という種類の楽曲の形式が確立され、盛んに作曲されるようになっていったのは、西洋芸術音楽(鑑賞を目的として意識的に創作される音楽)の長い歴史のなかでも、18世紀から19世紀にかけてのことでした。この背景には、中世社会から近代社会への移行過程において、キリスト教の絶対的な権威が薄れていくことにより、「人間いかに生きるべきか」という問題が真剣に問われるようになってきたことがあります。つまり、当時の作曲家たちは、このような真剣な問いにたいする考察を盛り込めるような新たな表現形式を模索していたのだということです(交響曲の歴史については、本ブログ6月25日〜29日に掲載した「交響曲の歴史を社会的認識から問う」という小論で詳しく論じていますので、参照してください)。

 このような要求の受け皿となった表現形式が、オラトリオ(宗教的な題材にもとづいた音楽劇)やオペラ(世俗的な題材にもとづいたものでより演劇的な要素が強い音楽劇)などの音楽劇において、幕が上がる前や場面の切り替えの際にオーケストラだけで演奏されていたシンフォニア(合奏曲)とよばれるものでした。このシンフォニアは、急・緩・急の三部形式によっていました。やがて、このシンフォニア(合奏曲)を長大化させてもとの音楽劇から独立させるとともに、急・緩・急の三つの構成部分をそれぞれの楽章(一つの楽曲がさらにいくつかの部分に分かれていて、それぞれの部分が他の部分から明確に区切られているとき、それらを楽章と呼びます)として分化させることで、交響曲(シンフォニー)という形式が確立されていくことになったのです。

 やがて、「交響曲の父」と呼ばれるオーストリアのハイドン(1732〜1809)が、先の三つの楽章――〈急速なテンポの第1楽章〉〈緩やかなテンポの第2楽章〉〈急速なテンポの第3楽章〉――に、メヌエットという3拍子の宮廷舞踊風の音楽を第3楽章として加えた4楽章構成を、交響曲の標準的な型として確立することになりました。つまり、〈急速なテンポの第1楽章〉〈緩やかなテンポの第2楽章〉〈優雅な宮廷舞踊風の音楽(メヌエット)の第3楽章〉〈急速なテンポの第4楽章〉という型です。

 以上のような交響曲の生成過程は、自らの人生を自らの手で切り開いていくなかで必然的に生まれてくる個人的な諸々の感情を表現するために、多くの種類の楽器によって構成されたオーケストラを使った大規模な表現形式が必要とされるようになっていった過程だ、と把握することができるのですが、この模索の過程を一つの到達点に導いた作曲家こそ、ベートーヴェンにほかなりませんでした。
 それまでの作曲家が王侯貴族に雇われた職人的な存在だったのにたいして、ベートーヴェンはそのような関係を拒否し、自立した一人の芸術家として、大衆にむかって音楽を発表していったのです。くわえて、彼は音楽家にとっては決定的ともいえる難聴という障害を背負っていました。このことが、彼の音楽を、まさに自らの運命を自らの力で切り開いていくという非常な力強さをもったものにしました。

 ベートーヴェンにとっては、交響曲こそ、そのような内容を盛り込んでいくための格好の形式となったのでした。ベートーヴェンは、ハイドンが確立した交響曲の型を基本的に受けつぎつつも、第3楽章のメヌエット(宮廷舞踊風の優雅な音楽です)を、より深刻な性格をもったスケルツォ(急速なテンポで突撃するような音楽です)とよばれる音楽に置き換えました。ベートーヴェンの交響曲においては、もはや王侯貴族の楽しみにつながるような要素は存在しなくなったのです。

 このようにしてベートーヴェンによって打ち立てられた型――〈急速なテンポの第1楽章〉〈緩やかなテンポの第2楽章〉〈急速なテンポで突撃するような音楽(スケルツォ)の第3楽章〉〈急速なテンポの第4楽章〉――こそが、19世紀において交響曲が大きく発展していくうえでの基本的な型となったのでした。つまり、ベートーヴェンの登場によってこそ、真に交響曲らしい交響曲が確立されたのだといってもよいのです。
posted by kyoto.dialectic at 06:27| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月15日

21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演

 8月8日の記事で紹介した佐村河内守氏の交響曲第1番「HIROSHIMA」の全曲初演が、昨日8月14日(土)、京都コンサートホールにて行われました。演奏は秋山和慶氏の指揮する京都市交響楽団です。

 3楽章構成で演奏時間70分を超えるこの曲は、ベートーヴェンによって確立された「暗から明へ」という交響曲の王道を行く、真に交響曲らしい交響曲であった、ということができるでしょう。

 まず、全体として、どのような流れの音楽であったのか、簡単にまとめておきましょう。

 「運命」を描いたという第1楽章は、不気味な低音の蠢きによって開始されました。序奏的な部分が静まったところで弦楽器によって奏でられる旋律がこの交響曲の核となるもののようで、ここから派生したと思われる主題が、第2楽章や第3楽章にも登場していました。第1楽章をつうじて不協和音と耽美的な響きとが交錯しますが、全体としてはかなりゆったりとしたテンポによる、非常に重苦しい音楽です。

 今回初めて演奏された第2楽章は、「絶望」を描いた音楽とされています。事前には、ブルックナーのような壮大なアダージョ楽章を想像していたのですが、ブルックナーのアダージョのように、一つの頂点を目指して徐々に息長く盛り上がっていく、という感じの音楽ではなく、様々な楽想が次々と浮かんでくる感じの音楽でした。全体として、第1楽章の延長のような雰囲気で、それほど明確な性格の対称はないように感じました。
 なお、第2楽章の真ん中あたりで、打楽器の激しいリズムを伴ったかなり急速なテンポの音楽が登場したので、これがスケルツォ的な役割を担うことで、交響曲全体としてセザール・フランクの交響曲ニ短調のような構造(スケルツォ楽章を欠いた3楽章構成だが第2楽章の中間部がスケルツォ的な性格を持つ)になっているのかとも思いましたが、すぐに静まってしまったために、そういう訳ではないのかもしれません。

 「希望」を描いたという第3楽章が、この交響曲の最大の聴き所ではないか、と感じました。第1楽章や第2楽章が、非常に重苦しく抑圧されたような音楽だったのに対して、ここでエネルギーが一挙に解放されて、圧倒的なクライマックスに達するのです。急速なテンポによって悲痛極まりない闘争的な音楽が大きく高揚し、これが静まった後で、一筋の光が差し込むような祈りの音楽が静かに始まり、これが次第に力強さを増して、鐘の音を伴った壮大な頂点を築いて、全曲を締めくくるのです(広島初演時よりは早めのテンポによる、ややあっさりとした表現になっていたように感じましたが)。

 この佐村河内守氏の交響曲第1番を、大きく交響曲の歴史の中に位置づけて捉えてみましょう。

 先に「交響曲の歴史を社会的認識から問う」という小論(6月25日〜29日に掲載)において論じたように、そもそも交響曲なる表現形式が創出された背景には、近代社会になってキリスト教の絶対的な権威が薄れていく状況下で、「人間いかに生きるべきか」ということが真剣に問われるようになったことがありました。すなわち、交響曲とは、世界の見方にもかかわるような大きな問いかけにもとづいて、体系的に組み上げられた論理的な構築物に他ならないのです。中でも、ベートーヴェンによって確立された「苦悩を克服して歓喜へ(暗から明へ)」という図式が、19世紀という時代に、交響曲という表現形式が発展していく上での軸として、決定的に重要な役割を果しました。

 しかし、社会関係が複雑化して、解決困難な諸々の課題を抱え込むようになるにしたがって、対立する要素の調和や闘争の果ての勝利がそれほど簡単には信じられなくなってきたことが、交響曲という表現形式を肥大化の末に衰退させていくことになりました。19世紀末(20世紀初頭)に活躍したマーラーを最後にして、交響曲らしい交響曲はほとんど作曲されなくなっていったのです。交響曲を名乗る作品であっても、交響曲という表現形式でしか表現できない内容が盛り込まれているとは到底いえないものが多くなっていったのが、20世紀でした。これは、世界全体のあり方を体系的に解くものであるはずの哲学がヘーゲルを最後に衰退してしまい、およそ哲学とは言えない内容のシロモノが哲学を名乗る、という20世紀の学問の世界の状況を想起させます。

 このような観点からすれば、佐村河内守氏の交響曲第1番は、交響曲という表現形式でしか表現できない認識内容が盛り込まれた、真に交響曲の名に値する交響曲である、と断言してよいでしょう。それを端的に示す言葉が、当日配布されたプログラムに掲載された作曲者の言葉の中にあります。

「シンフォニーと名付ける以上、世界にとって最も重大な主題を激しい発作の合間を縫い、自らの血で祈りを込めて書き上げる音楽が、15分足らずの曲で良いはずがありません。
 原爆の絶対悪という『闇』と、平和への『祈り』の闘いの音楽に長大さは必要不可欠でした」

 佐村河内守氏にとって、肉体も精神も破壊されてしまうほどの自らの病苦と原爆の絶対悪という「闇」を重ね合わせて作曲するということは、文字通り命を懸けた闘争です。だからこそ、闘争の果てに勝利の光を展望する、交響曲という表現形式が絶対に必要だったわけです。決して、何となく形だけ交響曲にしてみました、というような音楽ではないのです。

 とはいえ、同じく「暗から明へ」という図式に則っているとはいうものの、ベートーヴェンの交響曲第5番や第9番と佐村河内氏の交響曲第1番とでは、やはり大きく異なる部分もあります。ベートーヴェンの交響曲における「暗から明へ」は、苦しい闘争の果てに過酷な運命を決定的にねじ伏せ、間違いなく勝利を確定させた上で、高らかに凱歌を奏でる、といったものです。これに対して、佐村河内氏の方は、容易には勝利できそうにない苦しい闘争の中にあっても勝利への確信を決して失わない、そのこと自体が希望であることを示す、といったものです。ベートーヴェンの交響曲第5番の終結部分が、まさにこれで闘いは終わったぞ、という充足感を与えるものであるのに対して、佐村河内氏の交響曲第1番の終結部分は、これからもまだ闘いは続くだろうが諦めずに頑張ろう、と聴く者を鼓舞するようなものになっているのです。ここに、「暗から明へ」という交響曲の王道ともいうべき図式の、21世紀的な深化がみられる、ということができます。

 このように、佐村河内守氏の交響曲第1番は、21世紀においても交響曲という表現形式が立派に生命力を持ちうるという可能性を示した力作であった、といってよいでしょう。

※ゴーストライター騒動を受け、2014年3月5日に以下の追記を行いましたので、ご参照下さい。
http://dialectic.seesaa.net/article/158838831.html
posted by kyoto.dialectic at 00:00| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月08日

佐村河内守『交響曲第一番』(講談社)

 本書は、佐村河内守という作曲家の半生を綴った自伝です。出版された当初、表紙に「交響曲第一番」と大書された本が書店に並んでいるのを見た際には、「無名の新人作家による音楽小説だろう」と思い、特に興味を惹かれることなく、手にとることはしなかったのですが、数ヶ月ほど前、HMVサイト内の「許光俊の言いたい放題」の「世界で一番苦しみに満ちた交響曲」(2007年11月6日http://www.hmv.co.jp/news/article/711060001/)の記事で佐村河内守氏の交響曲第1番が取り上げられていたのをたまたま発見して、非常に興味をもちました。

 佐村河内守氏がいったいどのような作曲家なのか、この許光俊氏による記事から引用することで紹介しておきましょう。

「1963年広島に生まれている。早くから作曲家を志したが、楽壇のややこしい人間関係などに巻き込まれることをよしとせず、独学の道を選んだ。それゆえ、なかなか仕事に恵まれなかったが、ある時期から映画、テレビ、ゲームなどの音楽を書いて徐々に知られるようになってきた。なんと、一時はロックバンドで売り出されそうになったというから、一風変わった経歴と言えるだろう。
 妙な人間関係を嫌うことからもわかるように、佐村河内はまれに見る潔癖な人間のようだ。自分が本当に書きたい曲だけを書きたいと、あえて実入りのよい仕事を断り、厳しい日雇いの仕事をして生計を立てていたこともあるし、住む場所もなくホームレス状態になっていたときすらあるという」

「実は、彼は非常に大きな肉体的なハンディキャップを抱えている。なんと、あるときから完全に耳が聞こえないのだ。それどころか、ひどい耳鳴りで死ぬような思いをしているのだ。しかし、彼はそれを人に言わないようにしてきた。知られるのも嫌がった。障害者手帳の給付も拒んできた。自分の音楽を同情抜きで聴いてもらいたいと考えていたからだ。
 彼のところにはテレビ番組を作らないかという話が何度も舞い込んだという。確かに、耳が聞こえない障害者が音楽に打ち込むなんて、いかにもテレビが好みそうな話だ。だが、佐村河内は障害を利用して有名になることを拒んだ。テレビ局からは『せっかく有名になるチャンスなのに、バカじゃないか』と言われたという」

 この記事を読んで、佐村河内守氏に興味をもった私は、早速『交響曲第一番』を買い求めて読んでみたのですが、そこには想像を絶するような壮絶きわまりない人生が綴られていました。被曝二世として生まれ、クラシック音楽の作曲家、交響曲の作曲家になることを志しながらも、35歳の時に完全に聴力を失ってしまった、というのです。肉体も精神も破壊されてしまいそうな苦しみのなかで、音楽以外の一切を捨て、隠者生活のなかでただ音楽だけを求道する、という孤高の闘いに圧倒され、一気に読まされてしまいました。

 もともと佐村河内守氏は、音楽大学の現状を批判して独学の道を選ぶだけの作曲に対する高い志を持っていました。

「いまの音大の作曲科で学ばされるのは『現代音楽(不協和音を駆使して構築する無調音楽)』だけであり、いったん作曲科に入ったなら、その学校の教師(現代音楽作曲家)に師事しないわけにはいかず、師事した教師の作風からはずれた音楽を書くことは許されず、卒業して『クラシック音楽作曲家(いわゆる調性音楽)』として身を立てることなど認められない時代になってしまったことを悟ったからでした。
 当時の私は、マーラーのような、壮大でロマンチックな曲を書くことを夢見ていました。音大に進めば夢はかなわず、現代音楽作曲家の道に集約されてしまう。私はそう思い、それを恐れました。何とかクラシック音楽の作曲で身を立てるために、まず、調性音楽を基本とした、ロマン性が認められる、映画やドラマの音楽を創る劇伴作曲科となり、そこから道を開いていこうと考えていたのです」(p66)

 ところが、聴力を完全に失い激しい耳鳴りによって肉体も精神も破壊されんばかりの苦しみを味わうようになるに至って、作曲をするということは文字どおり、命を懸けた闘いとなったのです。

「肉体的苦痛を考えれば、私の持ち時間は長くはないのかもしれない。
 現世では顧みられず終わってももはやかまわない。死後、誰かが自分の楽譜を見つけて演奏が実現し、人々に聴いてもらえる音楽――そんな作品を書けるようになりたい。そのためにも、詩、文学、世界史、西洋宗教学、哲学などを可能なかぎり極めたい。
 それに要する期間を三年間と区切りました」(p109)

 このようにして、まさに生命を削るようにして作曲されたのが、本書のタイトルともなった交響曲第1番でした。この曲は、全3楽章で70分を超えるものですが、第1楽章・第3楽章のみの短縮版で、2008年に秋山和慶氏が指揮する広島交響楽団によって初演されました。

 その際の第3楽章部分の演奏(およそ23分)は、Youtubeで聴くことができますが、これを聴く限り、重厚で深刻きわまりない響きに満ちていると同時に、苦難を打ち破って前進していこうという圧倒的な力強さをも感じさせる音楽であり、この曲が本格的な大交響曲であることを予想させます。悲劇的に高揚していく部分ではショスタコーヴィチを、また最後の祈りに満ちた平穏な音楽はブルックナーやマーラーを(とくにマーラーの交響曲第3番終楽章の終結部に似ています)想起させます。全曲を聴かない限り断定的なことはいえませんが、演奏時間が1時間を超えるという規模の面はもちろん、その充実した内容の面でも、ブルックナーやマーラーなどと並べてもそれほど遜色ないのかもしれない、と思わせるだけのものがあります。

 この交響曲第1番は、今年の4月4日にも東京交響楽団が大友直人氏の指揮で演奏していますが、この際も広島初演と同じく第1楽章・第3楽章のみの短縮版でした。第2楽章も含めた全曲版の初演は、今週8月14日(土)に、秋山和慶氏が指揮する京都市交響楽団によって行われます。この全曲版初演に際し、佐村河内氏はこの曲に「HIROSHIMA」というタイトルを付しました。「これまでは先入観抜きで音楽を味わっていただきたいと考えてきたが、これからは被爆2世の私が作った、平和への祈りを込めた曲であることを明確に示そうと思った」(「日本経済新聞」8月5日付「作曲家魂 聴覚障害に勝つ 35歳のとき音を失うが、交響曲書き上げる」)とのことです。第1楽章は「運命」、第2楽章は「絶望」、第3楽章は「希望」を描いたということです。
 
 いずれにせよ、現代の日本において、過去の偉大な作曲家たちの交響曲にも匹敵しうるかもしれない新作交響曲の初演が聴けるというのは、非常に貴重な体験となることでしょう。


追記(2014年3月5日)

 周知のとおり、先月の初めになって、この曲は佐村河内氏が作曲したものではなく佐村河内氏の「発注書」に基づいて新垣隆氏が作曲していたものであること、また、佐村河内氏が全聾であるということもどうやらウソであるらしいことが明らかになりました。

 私が佐村河内氏を知ったのは、2010年の初め、許光俊氏の文章を偶然に読んだことによってです。この時期は、佐村河内氏が本格的に売れ始める直前の時期に当たっていました。自伝的著作たる『交響曲第一番』(講談社)を読んでそこに描かれていた生き様に深く感動し、同年8月に京都で「交響曲第1番」の全曲初演が行われるらしいことを知って演奏会チケットを購入して聴きに行き、翌年7月に発売された「交響曲第1番」のCDを購入しました。ということで、このブログでは3回に渡って、この佐村河内氏の名義で発表された「交響曲第1番」について取り上げてきたのでした。

 音楽そのものを聴いた感想としては、確かに聴き応えのある立派な大交響曲ではあるけれども、「世界で一番苦しみに満ちた交響曲」(許光俊)という割には、甘く感傷的な部分が多いな、というものでした(許氏はペッタションの交響曲をまともに聴いたことがないのかな、などとも思いました)。しかし、ゲーム音楽や映画音楽を創作してきた人が挑んだ交響曲としてはそんなものなのかな、とも思いましたし、取り立てて論うほどの欠点でもない(甘いといえばラフマニノフの交響曲も相当に甘い)とも思いましたので、特にその点に触れることはしませんでした。また、熱狂的な“佐村河内ファン”とでもいうべき人たちが、交響曲作曲家・吉松隆氏による「日本人が書いた最高の交響曲のひとつ」という評価を最後の「のひとつ」を抜いた上で流布させようとしたり、あたかもブルックナーやマーラーやショスタコーヴィチの諸交響曲を凌駕するような大傑作であるかのように持ち上げたりしている様子に対しては、正直いってちょっと距離を置きたいな、という思いがないでもありませんでした(日本人が書いた後期ロマン派風の交響曲としては、諸井三郎が大戦末期に作曲した「交響曲第3番」の方が素晴らしいのではないか、と思っていました)が、当時はまだ佐村河内氏が世間一般的にはそれほど知られている存在ではありませんでした(一部の音楽愛好家に知られるに止まっていた)し、そういうことにもあえて触れることはしませんでした。

 この点、佐村河内氏の人生にまつわる壮絶な物語(虚構だったわけですが)に幻惑されて、音楽そのものへの評価が甘くなっていた面があるのではないかといわれれば、それを否定することはできません。純粋に音楽そのものを聴いて評価すべきだ、というのは正論かもしれませんが、佐村河内氏の生き様に強烈な印象を受けた上で音楽を聴いてしまった以上、それは困難なことでした。しかし、そもそも芸術作品とは作者の認識(生き様)の表現にほかならないのですから、作品に作者の人生を読み込もうとする鑑賞の仕方そのものは一概に否定されるべきものではないと思います。

 さて、当ブログで3回に渡って佐村河内氏名義の「交響曲第1番」を取り上げた時期は、ちょうど佐村河内氏がレコード会社やマスコミによって盛んに持ち上げるようになっていき、爆発的に売れ始めていく端緒の時期に相当していました。ところが、そもそも許氏の文章では以下のように述べられていたのでした。

「彼のところにはテレビ番組を作らないかという話が何度も舞い込んだという。確かに、耳が聞こえない障害者が音楽に打ち込むなんて、いかにもテレビが好みそうな話だ。だが、佐村河内は障害を利用して有名になることを拒んだ。テレビ局からは『せっかく有名になるチャンスなのに、バカじゃないか』と言われたという」。

 私は、この記述に深く感動していただけに、この記述を全く否定してしまうような展開に戸惑いを感じざるを得ず(ハッキリいえば、裏切られた、佐村河内氏も俗物に堕してしまったのか、との思いを抱かされて)、「シャコンヌ」以降の佐村河内氏(名義)の作品をまともに聴いていく気を失ってしまったのでした(私の家にはテレビがないので、諸々のテレビ番組で佐村河内氏がどのように取り上げられるようになっていったのか具体的には知りません)。今回の一件で、「ああ、そういうことだったのか」と思った次第です。

 とはいえ、今回明るみに出た事実によって、この「交響曲第1番」の音楽的な価値を全否定してしまうことも行き過ぎでしょう。もちろん、佐村河内氏の人生にまつわる物語がこの音楽を実態以上に感動的なものに聴かせていた、ということは否定すべくもないところですが、そういった点を割り引いても、この「交響曲第1番」は充分に聴き応えのある、立派な交響曲であるといえるのではないかと思っています。

 今回の一件で、この「交響曲第1番」に対して以前から批判的に論評していた人の意見が正当なものとして持ち上げられる傾向にありますが、これはそんなに単純に割り切ってよいものではないでしょう。一つの音楽作品についての評価は色々あり得るもの(なかなか難しいもの)です。例えば、新垣氏の告白のきっかけとなった文章(『新潮45』2013年11月号に掲載された「『全聾の天才作曲家』佐村河内守は本物か」)を書いた野口剛夫氏が熱心に紹介に努めているフルトヴェングラーの交響曲については、一般の音楽家愛好家から専門家の間まで、散々に酷評する声の方が圧倒的に多いのです(とはいえ、私自身は、佐村河内〔新垣〕氏の交響曲よりフルトヴェングラーの交響曲の方が好きなので、これを機にフルトヴェングラーの交響曲の評価が高まると良いな、などとも思っています)。

 問題の「交響曲第1番〈現代典礼〉」の「発注書」において非常に興味深いのは、一番上の部分に「後世にのこる芸術的価値のみを追求!」という壮大な目標が高々と掲げられていたことです。端的にいえば、佐村河内氏には、歴史に残るような立派な大交響曲を創作したいという願望だけは強烈にあり、音楽についての漠然としたイメージもあったものの、それを具体化し楽譜化する技術は持っていなかった、だからそういう優秀な技術を持っていた新垣氏を利用した、ということなのでしょう。というよりも、現代のアカデミックな世界で専門的な技術を身につけた人は、そもそもそういう大それた夢は描けなくなってしまうのであって、歴史に残るような大交響曲などという夢は、彼が素人だったからこそ描けた夢であった、という側面があるのではないでしょうか。そのような佐村河内氏の強烈な願望(よくいえば大志、悪くいえば誇大妄想)が根底にあった(新垣氏も意気に感ずる部分があった)からこそ、出来上がった交響曲は、独特の魅力を放つものになり得た、といえそうです。

 この事件の構図を端的に纏めるならば、歴史に残るような立派な大交響曲を世に出したい! という佐村河内氏の強烈な願望がまずあって、その売り込みのための手段として、全聾、過酷な病との強烈な闘争を演じることが選択された、ということになるでしょう。もちろん、障害者を偽装した、被爆地や被災地を出しにしたという点で、決して許されるものではありませんが、そういう売り出し方をせずに正攻法でこの交響曲を世間に認めさせようとしても、それは不可能なことだったでしょう。そういう売り出し方が、予想以上(予想通り?)に当たって世間を賑わせ、レコード会社やマスコミも巻き込んで巨額の金になった、という面はあるでしょうが、2003年の「交響曲第1番〈現代典礼〉」の完成時点、すなわち、佐村河内氏がほとんど無名であり、この曲が本当に金になるかどうか分からない時点で200万円の報酬が新垣氏に渡されているとのことなので、佐村河内氏は最初から金儲けが目的の詐欺師であった、などと切って捨てるのは適当でないように思われます。

 現在は、佐村河内守氏の創作していた物語に感動していた人々のショックと怒りで世間は大混乱(これは当然のことです)で、この「交響曲第1番」そのものが冷静に評価される、ということは不可能な情況です。しかし、これから数十年も経てば、今回の一件も創作にまつわる一種の興味深いエピソード程度に受けとめられるようになり、音楽そのものが評価されるようになっていくのではないでしょうか。
posted by kyoto.dialectic at 15:39| Comment(2) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月23日

『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか(7・最終回)――まとめ

 以上、ベートーヴェンの「不滅の恋人への手紙」についての古山和男氏による謎解きをみてきました。簡単にまとめておきましょう。

 古山氏は、従来の「不滅の恋人への手紙」研究が、特定の女性を恋人と仮定してその可能性を検証していくという方法をとった結果、「不滅の恋人」候補の女性たちのなかで「手紙」が宛てられた可能性のある女性は絞り込めたものの、彼女たちの誰かを恋人と考えるのには無理がある、という形で完全に行き詰まってしまった、と批判します。

 これに対して、古山氏は、この「手紙」が汚い字で書き殴られた支離滅裂な文面であるということから、これが「恋文」であるという大前提そのものを疑い、「手紙」にかかわる謎の核心を、従来の研究のように「誰に宛てたのか」ではなく、「何を伝えるために書かれたか」であると捉え返すのです。

 古山氏は、このように問題設定のやり直しを行った上で、従来の研究のようにこの手紙をたんに手紙それ自体としてとりあげるのではなく、大きく当時のヨーロッパの政治的・経済的な激動の情勢とつながったものとしてとりあげて、この手紙が書かれなければならなかった必然性を探っていく、という方法で謎を解明していこうとしたのです。

 その結果、古山氏は、「不滅の恋人への手紙」は改革派・親ナポレオン陣営の盟友に守旧派大物貴族の動向を伝えるための密書であり、秘密警察の目を欺くために恋文を装ったのである、という説を提示します。さらには、「不滅の恋人」=自由の女神と捉えることによって、手紙の意味不明に思われる言葉の連なりを解釈しなおすとともに、その視点から、ベートーヴェンの生涯についても一つにつながった流れとして説ききっているのです。

 このように、古山氏の謎解きは、広い視野から多くの事実に筋をとおしたものであり、非常に説得力のある新説の提示だといってよいでしょう。
 

 もちろん、古山氏の新説の提示によって、「ベートーヴェンの不滅の恋人への手紙」をめぐる謎は完全に解明された、諸々の論争は決着した、ということまではできないでしょう。従来の「ベートーヴェン研究家」の立場からは、古山氏の説に対して強い反発や批判も出てくるのではないかと思われます。

 しかし、少なくとも、謎を解くために古山氏がとった手法ということに限ってみるならば、学問を志す者にとって大いに学ぶべきものがあるとして、高く評価されてしかるべきだといって間違いないでしょう。本稿では、それを三点にわたって論じてきました。改めて確認しておきましょう。

 第一は、従来の研究が暗黙のうちに前提としてきたことそのものを疑い、的確な形で問題を設定しなおすことです。

 第二は、問題とする対象をそれ自体として孤立してとりあげるのではなく、大きなつながりのなかでとらえていくことです。

 第三は、たんに大きなつながりのなかでつながてみるということだけでなく、全体にしっかりと一つの筋をとおす形でつかんでいくことです。

 古山氏の推理の過程をたどることで、このような一般的な謎解きのポイントとなるところをしっかりと学んでいくことができるのが、本書の最大の魅力といってよいでしょう。

 また、古山氏が当時のヨーロッパの政治的・経済的な情勢にまで視野をひろげて探求していることそのものが大きな魅力となっています。その記述の充実ぶりは、一瞬、経済史の本を読んでいるのか、という錯覚を抱かせるほどです。本書は、社会の歴史についての一般教養的な学びにとっても役立つという点からも、お薦めできるものです。
posted by kyoto.dialectic at 05:19| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月22日

『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか(6)――学問志望者が古山氏の謎解きから学ぶべきこと・その3

 学問を志す者が、古山和男氏による「不滅の恋人への手紙」にかんする謎解きから学ぶべき第三のこととして、全体に筋をとおすことの大切さをあげることができるでしょう。

 このことについては、古山氏の自説についての強烈な自負を感じさせる「はじめに」の文章を引用しておきましょう。

「本書は、これら従来の諸説を根本から見直し、すべての予断を排して、論理的に考え直すために、別の角度からの仮説を用いることによって、まったく新しい結論を提示するものである。その結論は、従来のベートーヴェン観では考えられないような意外なものであるかもしれない。しかし、この仮説を採用する限り、この『手紙』やベートーヴェンに関する謎の多くを、矛盾なく説明できるのである」

 重要なのは、「この仮説を採用する限り、この『手紙』やベートーヴェンに関する謎の多くを、矛盾なく説明できる」というところです。古山氏のこの手紙に関する謎解きは、ベートーヴェンは自由のために闘う革命家のような存在であった、という一つの観点から、「不滅の恋人への手紙」の恋文としては不自然な諸々の要素についてきちんと説明するだけでなく、当時の激動するヨーロッパ社会に生きていたベートーヴェンの生涯全体を、きちんと一つにつながった流れとして説ききっているのです。

 手紙の恋文として不自然な要素にかかわっていえば、古山氏は、「不滅の恋人」とは自由のことであり、ベートーヴェンは自由の女神への恋文という形を借りて重要情報を伝える密書を書いたのだ、という観点から、意味不明と思われた手紙の言葉について、「なるほど」と思わせるだけの解釈を提示しています。

 さらに、ナポレオン敗北後のオーストリアの反動体制の下で、「革命家」ベートーヴェンが苦境に置かれたこと、そのため作曲活動も停滞せざるをえなかったこと、この挫折と抑圧を跳ね返すべく、反動体制への抗議の意志の表明として第九交響曲が作曲されたこと、これが啓蒙主義的フリーメーソンたちを熱狂させたこと、などを論じていきます。

 また、いささか蛇足的ではありますが(古山氏自身、思いつき・こじつけかもしれない、と断わりつつ)、作曲の経緯が不明な「エリーゼのために」というピアノ小品について、「エリジウム=自由を得た地上の国」に向けて、ということではないか、というなかなかに興味深い解釈も披露しています。

 このように、古山氏の「不滅の恋人への手紙」=密書説は、たんに手紙そのものの謎を解くだけでなく、ベートーヴェンの生涯全体に一つの筋をとおしてみることのできる視点を提示するものなのです。

 この、全体に筋をとおすということこそが、学問を志す者にとってきわめて重要なことなのです。これは、前回取り上げた、物事を大きなつながりのなかでみていくことの具体的な中身といってもよいものです。前回引用した南郷継正先生の文章のなかには、「体系性」という言葉がありました。体系とは、アタマ(本質論)によって全体がしっかりと統括されることで、対象とのかかわりに応じて動いていけるもののことです。物事を大きなつながりにおいてみることは大切ですが、たんに漠然とつなげてみるのではなくて、全体にしっかりと一つの筋をとおす形でつかむことが大切なのだ、ということなのです。
posted by kyoto.dialectic at 05:10| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月21日

『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか(5)――学問志望者が古山氏の謎解きから学ぶべきこと・その2

 学問を志す者が、古山和男氏による「不滅の恋人への手紙」にかんする謎解きから学ぶべき第二のこととして、物事を大きなつながりのなかで見ていくことの大切があげられるでしょう。

 古山氏が、「不滅の恋人への手紙」は「何を伝えるために書かれたか」という謎に迫っていくためにとった方法は、この手紙をたんに手紙それ自体としてとりあげるのではなく、大きく当時のヨーロッパの政治的・経済的な激動の情勢、より具体的にいえばナポレオンによる大陸封鎖政策とロシア遠征とつながったものとしてとりあげて、この手紙が書かれなければならなかった必然性を探っていく、というものでした。

 手紙を書いたベートーヴェンも、手紙を宛てられた人物も、当時の社会の動きと無関係に存在できていたわけではありません。これらの人たちが、いかなる社会的な関係のもとにおかれていたのか、ということをふまえてこそ、この手紙は「何を伝えるために書かれたか」という謎を深く掘り下げて解明していくことが可能になっていくのです。

 より一般化していうならば、ある特定の対象をとりあげるときに、たんにそれ自体としてとりあげるのではなく、その背後にある大きなつながりにまで視野をひろげてこそ、その対象の姿を正しくつかむことができるのだ、ということができるでしょう。なぜならば、この世界のどんな事物・事象もそれ自体として単独で孤立して存在しているものはなく、必ず全世界的なつながりのなかの一つの部分として存在しているからです。この世界のある部分について何らかの問題設定をして謎を解いていく、といった場合に、「木を見て森を見ず」という姿勢では、本当に謎を解いていくことはできないのです。

 必ず世界全体のつながりをふまえて特定の部分をみていくこと――これこそが、学問を志す人間にとってきわめて重要なことです。だからこその一般教養であり、弁証法の実力なのです。

 南郷継正先生の「武道哲学講義(X)」(全集第7巻)から引用しておきましょう。これは、ヘーゲルの『精神現象学 序論』に出てくる植物の例にかかわって論じたものです。
 
「これを、本当に理論的に複合体(体系性)として説くには、植物にたいして、大地、大気、雨、あるいは動物をもってこなければならない。つまり、私たちは常に複合体の一部をみているだけなのだ。だから対象を学問化するには、そのみてとっている対象は、複合体の一部でしかなく、当然にそこは過程としてみなければどうにもならない、体系性としてみてとることは不可能だということである」

「具体的な像とは、木々の葉っぱの一つ一つをみてとることではなく、地球規模のなかで葉っぱの一般性をみてとることである。これが論理性のなかの具体ということである。簡単にいえば、具体の事実の一つ一つを以上のようにみてとれてこそ、体系という存在の意義がわかるのであり、弁証法性としての運動性が過程的構造性としてみてとれること(考えられること)となり、これを一言で体系性といい、弁証法性というのである」

 ようするに、たんに葉っぱ一枚といっても、その姿を的確にみてとるためには、木の一部としてみてとらなければならないのはいうまでもないこととして、さらに大地、大気、雨、あるいは動物などとのつながりにおいて、究極的には地球規模の諸々の事物・事象のつながりの一部として、みてとっていかなければならないのだ、ということなのです。

 古山氏による「不滅の恋人への手紙」の謎解きは、このようなみてとりかたの一つの例であるといってもよいものでしょう。
posted by kyoto.dialectic at 05:44| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月20日

『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか(4)――学問志望者が古山氏の謎解きから学ぶべきこと・その1

 前回まで、ベートーヴェンの「不滅の恋人への手紙」についての従来の研究が、この手紙をたんなる恋愛関係の産物としてしかみなかったことで完全に行き詰まってしまっていたのに対して、古山氏が当時のヨーロッパがおかれていた政治的・経済的な激動の情勢の必然的な産物としてみていったこと、そのことによって、恋文にしては不自然だと思われた諸々の要素についてきちんと筋をとおして解いたことをみてきました。

 以上のような古山氏による謎解きの過程には、学問を志す者にとっても、大いに学ぶべきものがあるといえるでしょう。

 第一に、暗黙のうちに前提とされてしまっていることをあえて疑ってみることの大切さです。

 古山氏による謎解きの過程で、もっとも重要なのは、「不滅の恋人への手紙」の恋文としての不自然さから、これが本当に恋文なのかどうかを疑ってみた、ということでしょう。

 この手紙が恋文なのだ、ということを前提にしてしまうと、この手紙をめぐる謎は、自ずと、相手の女性は誰なのか、ということに限定されてしまいます。これでは、たんなる恋愛関係の問題の角度からベートーヴェンの姿に迫っていくことにしかなりません。特定の女性を恋人と仮定してその可能性を検証していく従来の研究方法では、「不滅の恋人」候補の女性たちのなかで「手紙」が宛てられた可能性のある女性は絞り込めたものの、彼女たちの誰かを恋人と考えるのには無理がある、という形で完全に行き詰まってしまったというのは、先にみたとおりです。

 これに対して、古山氏は、より抽象度の高いレベルにおいて、「何を伝えるために書かれたか」、いいかえれば、ベートーヴェンはなぜこのような手紙を書いたのか、という問題設定をするわけです。このような問題設定によってこそ、当時のヨーロッパの激動の情勢にまで視野をひろげて、それとのかかわりでベートーヴェン像を描いていくという道が開かれたのです。

 これは、『銅鐸の謎』の大羽弘道氏が、漢字の伝来以前には日本に文字はなかったという暗黙の前提を疑い、人類の一般的な認識の発展過程から文字が創出される必然性をつかみ、銅鐸の絵を絵文字として読み解いていくことで、日本古代史の驚くべき姿を描き出していったことを想起させます。

 そもそも、学問の歴史において、革命的といわれる大きな発展は、それまでの定説が暗黙の前提としていたことを疑うことによってこそ成し遂げられてきたのだ、ということを忘れてはなりません。現在、日本弁証法論理学研究会(南郷学派)の学問誌『学城』に連載中の浅野昌充先生や本田克也先生の論文で詳しく解かれているように、南郷学派による「生命の歴史」の措定の過程とは、まさにそういうものでした。

 これよりはもっと低いレベルですが、よく知られた例をあげるならば、経済学の歴史上における「ケインズ革命」がそれにあたるでしょう。ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』は、それまでの理論では認められていなかった非自発的失業の存在を、有効需要の原理によって根拠付けた「ケインズ革命」の書であるとされています。この序文でケインズは次のように書いています。

「正統派経済学に誤りがあるとしたら、その誤りは、論理的整合性に心を砕いて構築された上部構造ではなく、その前提が明確さと一般性を欠如させている点にあるはずである」

 ケインズは、正統派経済学(彼は「古典派経済学」と呼んでいます)の理論の枠内でどうしても失業の問題を解くことができなかったので、その前提そのものの問い直しとつくりかえに向かったというわけです。ケインズはこの『一般理論』において、有効需要の原理を展開する前に、おそらくは正統派経済学者でさえ明確に意識することなく縛られていたであろう前提を「古典派経済学の公準」という形で抉り出し、そこに厳しい批判を加えていっているのです。

 このように、それまでの理論が暗黙の前提としていたことを疑うことによってこそ、学問の大きな発展への道が切り開かれていくのです。
posted by kyoto.dialectic at 06:12| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月19日

『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか(3)――古山氏はどのような過程で「手紙」の謎を解いていったか

 前回は、ベートーヴェンの「不滅の恋人への手紙」についての従来の研究が、誰に宛てて出された手紙なのかという「不滅の恋人」探しに終始して行き詰まってしまったのに対して、古山氏が手紙は「何を伝えるために書かれたか」を謎の核心として問題を設定しなおしたことをみました。

 それでは、古山氏は、いわゆる「不滅の恋人への手紙」の謎にどのように迫っていくのでしょうか。

 その方法を端的にまとめるならば、いわゆる「不滅の恋人への手紙」を、ただ手紙それ自体としてとりあげるのではなく、大きく当時のヨーロッパの政治的・経済的な激動の情勢とつながったものとしてとりあげて、この手紙が書かれなければならなかった必然性を探る、というものです。 


 それでは、この手紙が書かれた1812年、ヨーロッパはどのような状況にあったのでしょうか。

 当時はナポレオンによるヨーロッパ大陸支配の絶頂期でした。ナポレオンは、対立していたイギリスの国力を奪うために、ヨーロッパ大陸をいわば「鎖国化」して大陸市場からイギリスを排除すると同時に、大陸が経済的にイギリスに頼らなくてもよいように、大陸の産業を振興しようとしたのです。

 ナポレオンによるこの大陸封鎖の結果、農産物価格が大暴落する反面、シレジアやボヘミア地方において鉱業や鉄鋼業が急速に発展していくことになりました。これにともなって、封建的領主であった古い貴族が没落する一方、改革派貴族や新興企業家たちが台頭してきます。ベートーヴェンの熱心な支援者となったのは、こうした改革派貴族や新興企業家でした。旧体制に対して自由主義の理想を掲げたこれらの人たちは、ナポレオンの大陸制度によって利益を得ていた親ナポレオン派でした。「不滅の恋人」最有力候補であるアントーニエの夫フランツ・ブレンターノもこうした親ナポレオン派の一人だったのです。


 ところが、この大陸制度も1812年には綻びをみせはじめます。経済先進国たるイギリスとの貿易なしには成り立たなかったロシアが、大陸制度からの離脱を宣言したのです。大陸封鎖令を守らせるために、ナポレオンはロシアへ遠征することになりました。遠征中の政治的混乱を避けるため、ナポレオンはロシアへ出兵するにあたって、自身に面従腹背するヨーロッパ各地の諸侯らをボヘミアの温泉保養地テプリッツに招待し、事実上の軟禁状態におきました。

 「不滅の恋人への手紙」が書かれた1812年7月のテプリッツは、このようなきわめて緊迫した状況にあったわけです。

 それでは、「不滅の手紙の恋人」は何を伝えるために書かれた手紙であったのでしょうか。

 実は、支離滅裂で意味不明なところの多い「手紙」の文面で、一箇所だけ非常に明瞭な情報を伝えている部分があります。それは、守旧派(反ナポレオン派)の大物貴族エステルハージが自分(ベートーヴェン)と同じくテプリッツに向かったが、途中で立ち往生してしまった、という情報です。古山氏は、この部分に着目し、これこそが、「手紙」の中でベートーヴェンがもっとも伝えたかった情報なのだ、と考えるのです。

 ようするに、いわゆる「不滅の恋人への手紙」とは親ナポレオン派の盟友であるブレンターノ夫妻に対して、反ナポレオン派の大物貴族の動向をいち早く伝えるための手紙だった、というわけです。

 では、それがなぜ「恋文」を装わなければならなかったのでしょうか。

 それは、当時のオーストリア帝国においては、秘密警察があらゆる手紙を検閲しており、体制にとって危険だと判断されれば手紙を証拠に逮捕されてしまう恐れすらあったからです。検閲官の目を欺くために、熱に浮かされたような支離滅裂な文面の「恋文」を装ってその中に重要情報を紛れ込ませたのだ、というわけです。

 以上が、古山氏による「不滅の恋人への手紙」にかんする謎解きの概要です。従来の研究が、「不滅の恋人への手紙」が書かれた背景にたんなる恋愛関係以上のものを想定しえなかったのに対して、古山氏は、当時のヨーロッパの政治的・経済的な激動の情勢にまで視野をひろげて、それが書かれた必然性をつかもうとするのです。この古山氏の説は、諸々の事実にきちんと筋をとおして説明しきっており、非常に強い説得力をもつものといえます。
posted by kyoto.dialectic at 05:29| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月18日

『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか(2)――従来の「不滅の恋人」探しに古山氏が呈した疑問とは

 そもそもベートーヴェンの「不滅の恋人への手紙」とはどういうものだったのでしょうか。

 これは、1827年3月26日に亡くなったベートーヴェンの遺品のなかから見つかった、鉛筆書きによる宛て先不明の3通の手紙であり、ベートーヴェンの弟子であったシントラーが1840年に出版した『ベートーヴェン伝』において公表したものです。

 早く会いたいと徹夜で馬車を飛ばして来たのだが、天候が悪い上に道も悪くてやっと途中までたどり着いた。お互いすぐ会いたいという思いが募っているのに、何かと都合の悪いことがあって、なかなか会いに行くことができない……。こうした内容が、鉛筆で殴り書きしたような汚い字で書かれてあり、文面も支離滅裂、「冷静に」と相手にくり返し呼びかけているにもかかわらず、そう書いている当のベートーヴェン自身が冷静さを失ってしまっているのでは……、といった「恋文」です。全体として非常に切迫した調子に満ちており、これが恋文だとしたら、どうも秘めなければならない恋なのではないか、と思わせるだけの雰囲気をもっています。  


 この「恋文」はいったいどういう女性にあてられたものなのでしょうか。公表されて以来、世界中の研究者たちがこの謎を解こうと取り組んできました。それは、ベートーヴェンにこれだけの恋文を書かせるほど影響をあたえた女性の姿があきらかになれば、ベートーヴェンの作品をより深く理解する手がかりとなりうるのではないか、と考えられたからです。

 これら研究者の探究によって、この手紙について、多くのことがあきらかになりました。いつどこで書かれた手紙か、ということについては、1812年7月6日から7日にかけて、ボヘミアの温泉保養地テプリッツにおいて、同じボヘミアの温泉地カールスバートに向けて書かれたものだ、ということで決着しています。

 手紙を宛てられた恋人の候補としては、これまで10人以上の女性の名前があげられてきました。しかし、1812年7月にテプリッツからカールスバートに向けて出された手紙を受けとることができたという条件を満たす女性は限られています。こうした探索の結果、現在もっとも有力な「不滅の恋人」候補とみなされているのは、ベートーヴェンの友人で新興の銀行家・実業家であったフランツ・ブレンターノの妻、アントーニエ・ブレンターノです。ようするに、「手紙」の切迫した調子や外聞を憚るような雰囲気は、人妻を相手とした道ならぬ恋ゆえ、と解釈されているわけです。


 しかし、古山氏は、ブレンターノ夫妻とベートーヴェンとの友好的な関係からして、アントーニエは不倫の恋の対象とは考えられない、とします。「手紙」が書かれた直後に、ベートーヴェンはカールスバートでブレンターノ夫妻と合流し、9月まで一緒に逗留していますが、アントーニエとフランツとの夫婦関係、さらにこのブレンターノ夫妻とベートーヴェンとの関係は、これ以降もずっとずきわめて良好なものであったとされます。

 ようするに、特定の女性を恋人と仮定してその可能性を検証していく従来の研究方法では、「不滅の恋人」候補の女性たちのなかで「手紙」が宛てられた可能性のある女性は絞り込めたものの、彼女たちの誰かを恋人と考えるのには無理がある、という形で完全に行き詰まってしまった、というわけです。

 このような疑問から、古山氏は「手紙」にかかわる謎の核心を、従来の研究のように「誰に宛てたのか」ではなく、「何を伝えるために書かれたか」であると捉え返すのです。

 ようするに、古山氏は、この手紙が恋文であったという大前提そのものを疑うのです。古山氏があげている根拠として興味深いのは、この手紙の具体的な表現のあり方です。アントーニエはたいへん聡明な女性であったといわれていますが、そういう聡明な女性に対して、41歳の大の男が、大袈裟で支離滅裂な言葉の連なりを汚い字で書き殴ったような手紙を出すだろうか、という疑問を呈するのです。恋文であれば、いくら慌てていても、またいくら字が下手でも、もう少し心を込めて丁寧に書くのではないだろうか、というのです。

 これは実にもっともな疑問というべきでしょう。南郷継正先生の「武道哲学講義〔Y〕」(『学城』第7号)における、「先生、ボクはラブレターくらい書けるよ」といった子どもに対して先生がにっこり笑って「あなたがバカな人を恋人にしたければね」と答えた、というたとえ話を思い出させます。

 いずれにせよ、このような問題設定のやり直しは、謎を解くということを成し遂げていく上での必須の過程であり、たいへんな慧眼であるといってよいでしょう。
posted by kyoto.dialectic at 05:47| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月17日

『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか(1)――はじめに

 2010年5月、新潮新書より『秘密諜報員ベートーヴェン』と題された本が出ました。著者は古山和男氏というリコーダー演奏家だそうです。

 「秘密諜報員」などという大袈裟な、見ようによっては胡散臭い言葉をもってくるあたり、荒唐無稽な内容が書き散らされたいわゆる「トンデモ本」の類ではないか、というのが、この本から受ける第一印象ではないでしょうか。

 ところが、実際に読んでみると、「これはいかがわしい本では?」という予想は、大きく、それも見事に裏切られることになるに違いありません。

 本書で古山氏が描いているベートーヴェンの姿は、たしかに従来のイメージを大胆に覆すものではありますが、当時のヨーロッパの政治的・経済的な激動の情勢をも視野に入れての、非常に強い説得力をもつものとなっているのです。


 本書『秘密諜報員ベートーヴェン』の内容は、端的にいうならば、ベートーヴェンの遺品の中から発見された、宛て先不明の恋文らしき手紙についての謎解きです。この手紙は、文中に出てくる呼びかけの言葉をとって、通常は「不滅の恋人への手紙」と呼ばれているものです。

 この恋文はいったいどういう女性に宛てられたものなのか、「不滅の恋人」とはいったい誰のことなのか――この手紙が1840年に公表されて以来、150年以上にわたって、世界中のベートーヴェン研究者たちによって、数多くの推測が積み重ねられていくことになりました。

 古山氏は、従来の論者とはまったく別の観点から、この「不滅の恋人への手紙」の謎を解こうとしたのです。その観点とは、端的にいうならば、手紙をたんなる恋文としてそれ自体だけでとりあげるのではなく、大きく当時のヨーロッパの政治的・経済的な激動の情勢とのつながりにおいて捉えた上で、この手紙が書かれなければならなかった必然性を探る、というものです。

 古山氏による謎解きの過程はともかく非常に面白いものです。この面白さは、銅鐸に描かれた絵が実は絵文字であると喝破し、その絵文字を読み解くことで日本古代史の驚くべき姿を描いてみせた大羽弘道氏の『銅鐸の謎』(カッパブックス)の面白さにも比較できるのではないか、といえるほどのものです。

 この謎解きの面白さは、学問とは何か、という問題にもつながっていきます。なぜならば、「学問とは歴史上誰もが解くべくもない問題を自ら措定して解くことにこそある」(南郷継正『武道と弁証法の理論』あとがき)からです。

 本稿では、「不滅の恋人への手紙」についての古山氏による謎解きの優れた点を、従来の「不滅の恋人への手紙」研究との対比で浮かび上がらせた上で、学問を志す者はそこから何を学びとるべきなのか、という問題について考えてみたいと思います。
posted by kyoto.dialectic at 06:26| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月29日

交響曲の歴史を社会的認識から問う(5・最終回)――学問への道において交響曲を聴く意義とは

 これまで、18世紀に起源をもち19世紀に確立され大きく発展していった交響曲の歴史を、人類の社会的認識の発展という観点をふまえつつ、簡単にたどってみました。

 端的には、交響曲が創出された背景には、近代社会になってキリスト教の絶対的な権威が薄れていくという状況下での「人間いかに生きるべきか」という真剣な問いがあったのであり、このような大きな問いに対するそれぞれの作曲家なりの答えを論理的に展開していくものが、交響曲にほかならなかったのだ、とまとめることができます。すなわち、交響曲とは、世界の見方にもかかわるような大きな問いかけにもとづいて、体系的に組み上げられた論理的な構築物なのだ、ということができるわけです。

 このような交響曲は、20世紀には、それほど盛んに作曲されなくなりました。オーケストラを使った音楽作品ということでみても、交響曲のような体系的な構造をもった抽象的な音楽作品というものはあまりつくられなくなるかわりに、細部において表現技術が著しく発展していくという過程がすすむことになります。オーケストラをやたらと華やかに色彩的に鳴らす技術が向上したり、具体的な事物を詳細に描写する技術が向上したり、といったように、です。

 この過程は、世界全体を体系的に把握しようとしたヘーゲル哲学が崩れて、「世界全体のあり方をどうみるか」という大きな問いかけがなされないままに、細分化された個別分野の研究が著しく発展していくという20世紀の学問の世界のあり方とも対応しているといってよいのではないでしょうか。

 蛇足ですが、20世紀において例外的に交響曲が盛んに書かれたのがソ連です(代表的な作曲家としてショスタコーヴィチがいます)。これは、階級闘争の果てに理想的な社会が建設されるという「共産主義」のイデオロギーが、交響曲の基本的な図式に合致していたからなのかもしれません。ヘーゲルを部分的であれ継承しようとしたマルクスの思想が、著しく歪められた形ではありましたが、国家的なイデオロギーとされたソ連において、交響曲が盛んに書かれたのは、人類の認識の発展史という観点からして、非常に興味深い事実といってよいでしょう。


 さて、このように、現代は、交響曲が盛んに作曲されるという時代ではありません。しかし、私たちは、過去の偉大な作曲家たちが残してくれた交響曲を聴くことができます。このような交響曲を聴くということは、その作曲家の世界に対する見方や、それをふまえた上での人生についての真剣な模索を共有するということに他ならないといえるでしょう。

 このこと自体、大志・情熱・誇りの把持という点で、学問を志す者にとってはきわめて大切なことなのですが、くわえて、緻密に構成された優れた交響曲を聴くということは、対象を論理的に把握するアタマを創っていく上で、非常に役に立つのではないかと考えられます。

 それがなぜなのかは、芸術鑑賞一般がいかなる構造をもっているのか、ということからおさえておく必要があります。

 そもそも芸術とは、作者によって創造された「もうひとつの世界」の表現ということができます。ここで大事なのは、「世界」ということです。

 そもそも「世界」とは、さまざまな要素が複雑に絡みあい相互に影響を与えあいながら発展していくという体系的な運動性をもっているものです。あえて観念論的に(宗教的に)、この現実の世界は神が創出したもので細部にいたるまで神の意図が貫徹しているのだ、と考えるならば、創造主たる神の立場に二重化して、この世界全体を手のひらにのせて眺めるような視点を獲得することが、真の哲学の構築であるということができるでしょう。

 優れた芸術の鑑賞というのは、論理的にいえば、これとまったく同じ過程をたどるのです。芸術の鑑賞とは、いわば作品世界の創造主(=神)たる作者の立場に観念的に二重化することにほかならないのです。ですから、優れた芸術の鑑賞を積み重ねて、鑑賞能力を高めていく(よいものを見極める力をつけていく)ことは、自ずと学問的なアタマづくりにつながっていく側面があるといってよいでしょう。

 絵画や彫刻なども本来はそういうものなのでしょうが、何といっても音楽のように時間の流れの中で鑑賞行為を行うものの方が、体系的な運動性ということを感覚としてつかみやすいでしょう。とりわけ、交響曲は、意図的に論理的かつ体系的に創作されているものですから、対象を論理的に把握するアタマを創っていく上で、非常に有効であるということができるのです。
posted by kyoto.dialectic at 07:05| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月28日

交響曲の歴史を社会的認識から問う(4)――交響曲を発展させ衰退に導いた社会的認識の変化とは

 前回まででみてきたように、交響曲は、19世紀の初めに、ドイツのベートーヴェンによって、「いかに生きるべきか」という問いへの答えとしての「対立から調和へ」あるいは「闘争から勝利へ」という流れを、論理的な必然性を感じさせるように展開していく楽曲として、確立されたものでした。

 では、その後、この交響曲は、いかなる発展過程をたどることになっていったのでしょうか。

 このことも、社会あり方の大きな変化からおさえておかなければなりません。それでは、19世紀とはいったいどのような時代だったのでしょうか。

 19世紀というのは、ひとことでいえば、産業革命の進展にともなって、資本主義経済が確立・発展していく時代でした。この過程で、恐慌に伴う失業や貧困、公害など、諸々の社会的な問題が発生し、資本家と労働者との階級対立も先鋭化していきます。このように、社会が解決困難な新しい問題を無数に抱え込んで大きな変動にさらされ、従来の価値観が崩れていったのが19世紀でした。

 このような社会のあり方の変化は、当然のことながら、社会的認識のあり方にも大きな影響を与えたはずです。端的にいえば、19世紀の人びとにとって、交響曲の構成の前提である「対立から調和へ」「闘争から勝利へ」といった図式は、そう簡単に信じることができないものになっていったのではないか、と考えられるのです。「根本的に対立した要素は果たして本当に調和に向かうことができるのか?」「必死に闘ったからといって本当に勝利できるのか?」という懐疑が芽生えてきたのが19世紀だといえるでしょう。
 

 このような懐疑をどのように扱うかが、19世紀の交響曲作曲家にとっての大きな課題となりました。ここから、交響曲の創作にあたっては、人間の諸々の感情の流れをよりナマナマしく克明に描くことが試みられるようになっていくのと同時に、闘争から勝利への過程、対立から調和への転換に説得力をもたせるために、論理的な構成を強化して曲全体に統一感を持たせる諸々の工夫がなされるようになっていきました。具体的には、異なる楽章の旋律どうしに密接な関連を持たせたり、全楽章をつうじて特定の旋律をくり返し登場(循環形式といいます)させたり、といった工夫がなされるようになっていったのです。

 ひとつの例として、シューマン(1818〜1856)の交響曲第4番ニ短調作品120(1841年作曲、1851年改訂)をみてみましょう。この曲もまた、ベートーヴェンの第5番のように「暗から明へ」という図式にのっとった交響曲なのですが、全曲の統一感を高めるためのいろいろな工夫がみられる興味深い作品なのです。この曲の最大の特徴は、4つの楽章が切れ目なく連続して演奏されるということです。さらに、各楽章に登場する旋律は密接に連関しています。しかし、もっとも重要なのは、第1楽章は再現部を欠いた不完全なソナタ形式であり、第4楽章が再現部的な役割を持たされているということです。これによって、全曲の統一感がグッと高められているのです。

 このように、19世紀の交響曲作曲家にとっては、「闘争から勝利へ」という過程にいかに説得力をもたせるか、というのが大きな課題であったわけですが、試行錯誤の結果、曲の最後で勝利や調和を提示すること自体を放棄してしまった作曲家も登場します。「調和や勝利をそう簡単に信じられるのか。根拠のない希望を提示するよりも、むしろ悩みや苦しみをそのまま素直に表現するべきではないか」ということでしょう。

 象徴的なのは、チャイコフスキー(1843〜1893)の最後の交響曲となった第6番ロ短調作品74「悲愴」です。彼の第4番や第5番の交響曲は、ベートーヴェン的な「暗から明へ」という図式にのっとって作曲されているのですが、第6番においてこの図式が捨てられるのです。この曲の終楽章(第4楽章)は、非常にゆったりとしたテンポの、ただひたすらに嘆き悲しむような音楽(アダージョ・ラメントーソ)になっており、最後は消えるように静かに終わるのです。調和や勝利を高らかに歌い上げて力強く終わるというのが、それまでの交響曲における通常のパターンであっただけに、これはきわめて画期的な作品だったといってよいでしょう。


 いずれにせよ、19世紀における交響曲は、ベートーヴェン流の「闘争から勝利へ(暗から明へ)」という図式を――肯定するにせよ否定するにせよ――軸に据えた上で、人間の感情の諸々の動きを克明に描いていくものとして、発展していったのだということができます。

 この過程の最後に登場するのが、19世紀末のウィーンで指揮者として活躍していたユダヤ人のマーラー(1860〜1911)です。マーラーは、ウィーン国立歌劇場の指揮者となり、最高のオペラ上演を目指して、歌手やオーケストラを徹底的に鍛え抜くとともに、歌劇場の組織も改革しようとしました。しかし、このような厳しさへの反発にユダヤ人に対する偏見も加わって、敵を増やしてしまいます。指揮者としての仕事の合間に作曲された彼の交響曲には、こうした彼の苦悩や挫折感、勝利への希望などの諸々の感情が、非常にナマナマしい形で表現されているのです。

 こうした諸々の感情を克明な形で盛り込むためでしょう、マーラーの交響曲の最大の特徴は、何といっても、演奏時間の面でも、オーケストラの規模の面でも、著しく肥大化しているということです。彼は、第1番から第9番(第10番は未完)に加えて番外の「大地の歌」(オーケストラ伴奏の歌曲集のような性格ももつ)という10曲の交響曲を残していますが、そのすべてが演奏に1時間から1時間半ほどかかる大曲です。楽章の数も、伝統的な4楽章のものだけでなく、5楽章(2番、5番、7番、10番)や6楽章(3番、大地の歌)といったものもみられます。また、金管楽器の種類や数が増えるとか、多様な打楽器が使われるなど、使用されるオーケストラの規模も拡大していきます。例えば、交響曲第8番は俗に「千人の交響曲」と呼ばれるように、大規模なオーケストラに加えて8人の独唱者および複数の合唱団を要する巨大な作品となっています。

 彼はまだ第2番「復活」などでは、ベートーヴェン流の「闘争から勝利へ(暗から明へ)」という図式にのっとって交響曲を書いているのですが、やがて、この図式を否定する方向に進むことになります。特徴的なのは、交響曲第6番イ短調「悲劇的」(1904年)です。これは厳格なソナタ形式に基づいた、伝統的な4楽章構成の交響曲(とはいえ、演奏時間は80分ほどかかります)なのですが、その終楽章において、オーケストラによって奏でられる力強い音楽が、巨大なハンマーを打ち下ろす音によって中断されてしまうという場面が3回も設定されているのです。しかも、最後は、英雄が突然に背後から刺されて息絶えてしまうかのような、非常にショッキングな結末をむかえるのです。また、完成された最後の交響曲である第9番ニ長調(1909年)では、チャイコフスキーの「悲愴」と同じく、終楽章(第4楽章)がアダージョという非常にゆったりとしたテンポの楽章となっており、最後は静かに消え入るように終わるのです。

 このようにしてマーラーは、交響曲という形式の枠組みの中で、あらゆる表現の可能性を探求し試行錯誤を重ねつつも、最終的には、ベートーヴェン流の「闘争から勝利へ」という図式を否定してしまうに至ったのです。このマーラー以降、交響曲らしい交響曲は以前のように盛んには作曲されなくなっていきました。
posted by kyoto.dialectic at 07:15| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月27日

交響曲の歴史を社会的認識から問う(3)――交響曲の確立過程は論理的な認識の発展によってこそ支えられた

 前回みたように、「いかに生きるべきか」という大問題にかかわっての個人的な感情の表現という意味での真に交響曲らしい交響曲は、ベートーヴェンによって確立されたということができます。その画期となったのは、1804年に完成されたベートーヴェンの交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」です。

 このことは、演奏時間の面からも確認できるでしょう。初期の交響曲の演奏時間はせいぜい10分から15分ほど、ハイドンの晩年の長いものでもせいぜい25分ほどなのですが、ベートーヴェンの「英雄」交響曲は50分ほどもかかる大曲だったのです。これ以降、交響曲は通常30分〜40分かかるのがふつうになり、1時間を超えるものも珍しくなくなっていったのです。

 ちなみに、これに伴って、1人の作曲家が生涯に作曲する交響曲の数は激減していきます。「交響曲の父」ハイドンは100曲以上の交響曲を残したのですが、ベートーヴェンは9曲だけです。彼以降、一流とされる交響曲作家の中で、はっきり10曲を超える交響曲を書いた人はほとんどいません。ようするに、交響曲はいわば自らの人生をかけて創作すべき分野となったので、そう大量には作曲できなくなってしまった、というわけでしょう。

 さて、ハイドンからベートーヴェンへという交響曲の確立過程は、端的には、「いかに生きるべきか」という大問題にかかわっての個人的な諸々の感情を盛り込んでいくために演奏時間の長大化が必要とされた過程であった、とまとめることができるのですが、この確立過程を支える上で、一つの重要な条件があったことを見落としてはなりません。

 それは、長大な楽曲を支えるためにはしっかりとした骨組みがなければならない、ということです。何の脈絡もなくダラダラと音楽が続いていくといったことでは、規模の拡大は不可能だからです。ようするに、もともと交響曲はしっかりとした骨組みをもった楽曲として創出されていたからこそ、このような規模の拡大が可能だったのだ、ということがいえるわけです。

 
 では、そもそも交響曲とはいかなる骨組みをもったものだったのでしょうか。

 核心となるのは、ソナタ形式です。交響曲の第1楽章および第4楽章は、たいていソナタ形式と呼ばれるきわめて論理的な構成がとられているのです。

 このソナタ形式とは、大きくいえば、提示部・展開部・再現部の3つの部分からなるものです(提示部の前に序奏が、再現部のあとにコーダがおかれることもあります)。

 提示部というのは、対照的な性格をもった2つの主題が提示される部分です。たいていは、力強く激しい第1主題と穏やかな第2主題という対照です。展開部では、この2つの主題がそれぞれ分解されたり複雑に組み合わされたりして、大きく発展させられていきます。そして、このような展開の過程をふまえたうえで、再現部では2つの主題がより調和的な形で再現されるのです。

 このように、ソナタ形式というのは、あたかも、討論において2つの異なる意見がたたかわされることによってより高いレベルで見解の一致が見出される過程を音楽にしたような、まさに弁証法の音楽化といってもよいものです。対立物が相互に浸透し合いながらひとつの新しいものが生成していく過程を音楽にしたもの、ひとことでいえば「対立から調和へ」という筋に貫かれているのがソナタ形式だ、といってよいでしょう。

 このソナタ形式は、ハイドンやモーツァルト(1756〜1791)においては、まだ、教養ある貴族どうしの知的なおしゃべり、といった趣なのですが、ベートーヴェンにおいては、大衆を前にして大きな身振りを交えつつ激しく煽るように演説することで意見をぶつけあう、というような趣になってきます。

 さて、交響曲の構造について、さらに重要なのは、この「対立から調和へ」という過程が、ベートーヴェンによって、たんに1つの楽章の内部だけでなく、4つの楽章からなる交響曲の全体を貫くものとして、明確に位置づけられるようになったのだということです。4つの楽章をつうじてひとつの物語の展開を流れとして感じさせるように、楽章どうしに緊密なつながりをもたせるような工夫がなされるようになっていったのです。

 とくに、ベートーヴェンは「苦悩を克服して歓喜へ」という図式を、交響曲の基本的な型のひとつとして打ち立てました。それが端的にあらわれているのが、日本では「運命」のタイトルでよく知られている交響曲第5番ハ短調作品67です。

 これは、暗く闘争的な第1楽章のあと、ホッと一息つくような第2楽章をへて、第3楽章で再び暗雲が垂れ込め、第4楽章にいたってその暗雲を吹き飛ばして勝利の凱歌を高らかに歌い上げる、といったように、非常にわかりやすい構成となっています。しかも、第1楽章がその冒頭に登場する有名な「運命の動機」によって緊密に組み上げられているばかりでなく、この「運命の動機」が他の楽章にも登場することで、全曲の統一感を高めているのです。

 この交響曲は、後世の交響曲作曲家に大きな影響を与え、19世紀には、この「暗から明へ」という図式にのっとった交響曲が数多く作曲されていくことになりました。
 

 以上でみてきたように、交響曲とは、「いかに生きるべきか」という大問題から生じる個人の諸々の複雑な感情を、きわめて論理的な構成によって、いわば論文のように纏め上げたものなのだ、ということができます。

 ここから分かるのは、交響曲の創出の背景にある社会的認識の発展とは、社会のあり方の変化に伴う個人的な感情の発展にくわえて、対象を論理的に把握する能力の向上をもふくむのではないか、ということです。

 実は、社会のあり方の変化に伴う社会的認識の変化ということでいえば、変化の激しい近代社会になるにつれて、その変化を論理的に把握する能力(千差万別に見える諸々の現象の背後に共通する構造を見抜く力)もまた創出されていったのだ、ということができるのです。これがやがて、ドイツにおいて、カント(1724〜1804)やヘーゲル(1770〜1831)の哲学として花開くことになっていきました。

 とりわけ、ヘーゲルは、この世界全体を、絶対精神というひとつのものが多様に分化しながら発展していく過程において捉えました。このように、多様なものを統一的に把握する論理的な能力の発展こそが、交響曲という多様な要素を内包しつつも統一感のある表現形式の創出を可能にしたのだということができるのではないでしょうか。

 ちなみに、世界全体を論理的に把握する哲学体系を確立したヘーゲルと、論理的な構築物としての交響曲を確立したベートーヴェンとは、同じ1770年に同じドイツに生まれています。このことは、人類の社会的認識の歴史における発展の必然的な流れというものを感じさせる、非常に興味深い事実です。
posted by kyoto.dialectic at 05:55| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月26日

交響曲の歴史を社会的認識から問う(2)――交響曲創出につながった社会的認識の発展とは

 それでは、交響曲という表現形式の創出につながる社会的認識の発展とはいったいどういうものだったのでしょうか。この問題を解くためには、さらに、社会的認識をうみだす対象としての社会そのもののあり方にまでさかのぼって考察をすすめていかなければなりません。

 このように考えていくと、18世紀から19世紀にかけての交響曲の創出過程は、中世末期の絶対王政から市民革命と産業革命をへて近代社会が生まれてくる時代に対応していることに気づきます。大きくいえば、中世社会から近代社会への発展による社会的認識の発展が、交響曲という表現形式を創出したのだということができるでしょう。

 それでは、中世社会と近代社会では、何がどう変わったのでしょうか。

 中世社会の特徴をあらわすキーワードは、「割拠性、封鎖性、停滞性」(林健太郎『歴史の流れ』)です。簡単にいえば、自給自足的な荘園が各地に点在し、都市に住む商人や職人たちもギルドという閉鎖的な集団をつくっている、というイメージです。

 しかし、生産力の発展によって商業がいっそうさかんになっていくことで、土地や労働力や貨幣そのものまでもが商品化するという経済的な大きな変化が進行していくことになります。このことによって、荘園や都市といったそれまでの狭い枠組みが壊されて、広い経済圏が誕生したのです。これが近代国家の枠組みのもとになりました。やがて、封建的な貴族の政治的な支配を新興のブルジョアジーが打ち破り(市民革命)、機械制大工業による経済のあり方の大変革(産業革命)が進んでいくことになります。

 以上の発展過程を端的にまとめるならば、中世社会は固定的で変化が少なかったのに対して、近代社会は非常に流動的で変化が激しくなった、ということができるでしょう。


 それでは、このような社会のあり方の変化は、社会的認識のあり方にどのような影響を与えたのでしょうか。

 交響曲の創出にかかわる問題、より一般的にいえば、芸術の内容に深くかかわる問題として、人びとの人生についての考え方が決定的に変化したことを指摘できるでしょう。

 そもそも中世社会においては、キリスト教(カトリック教会)の圧倒的な影響の下で、それぞれの人間が果たすべき社会的な役割が厳格に定められていました。ようするに、貴族の子は貴族、農民の子は農民、職人の子は職人、商人の子は商人……といったように、固定的な身分制の秩序があったわけです。極端にいってしまえば、人間は生まれたときからだいたいどのような人生を歩むべきなのかが、社会的に定められてしまっていた、ということです。

 これに対して、近代社会においては、経済的な大変動(=資本主義経済の勃興)にともなって、キリスト教によって厳格に枠付けされた固定的な身分制秩序が壊されていき、個々人の人生はあくまでも個々人の努力で切り開いていくべきものに変わっていったのです。

 いささか乱暴に単純化してしまえば、中世社会の人間はただひたすら神による救済を願えばよかっただけなのに対して、近代社会の人間は、自分の人生を自分の力で切り開いていく過程で無数の苦しみや悩みを味わわなければならなくなったのだ、ということになります。

 
 端的には、このように、人生についての人びとの考え方が大転換したことこそが、交響曲という表現形式の創出につながったのだといってよいでしょう。ようするに、自らの人生を切り開いていく過程で必然的に生まれてくるところの、苦しみや悩み、憧れや希望などの個人的な諸々の感情を表現するために、多くの種類の楽器によって構成されたオーケストラを使った大規模な表現形式が必要とされるようになったのです。このことが交響曲という表現形式の創出につながっていったのだと考えてよいでしょう。

 この過程において決定的に重要な役割をはたしたのは、ベートーヴェンでした。それまでの作曲家が王侯貴族に雇われた職人的な存在だったのに対して、彼はそのような関係を拒否し、自立した一人の芸術家として、大衆にむかって音楽を発表していったのです。ようするに、交響曲というのは、宮廷において王侯貴族が私的に楽しむための音楽ではなくて、コンサートホールという公的な空間において大衆にむかって訴えかける音楽として確立されていったものなのです。

 くわえて、周知のとおり、ベートーヴェンは、音楽家にとっては致命的ともいえる難聴という障害を背負うことになりました。このことが、彼の音楽を、まさに自らの運命を自らの力で切り開いていくという非常な力強さをもったものにしたのです。

 このベートーヴェンの登場によってこそ、真に交響曲らしい交響曲が確立されたといってよいでしょう。
posted by kyoto.dialectic at 09:02| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月25日

交響曲の歴史を社会的認識から問う(1)

 ベートーヴェンの「英雄」「運命」「田園」、シューベルトの「未完成」、ドヴォルザークの「新世界より」、チャイコフスキーの「悲愴」、マーラーの「巨人」「復活」……。いま、いわゆるクラシック音楽の有名曲・人気曲のタイトルをざっと列挙してみました。実は、これらの曲は、すべて交響曲よばれる分野に属しています。

 ごくごく簡単にいってしまえば、交響曲とは、いくつかの楽章(普通は4つの楽章)によって構成された、オーケストラによって演奏される楽曲のことです。多くの種類の楽器によって構成されたオーケストラを使い、たいていは30〜40分ほどの時間をかけて演奏されるという大規模なものですから、諸々の作曲家が、それこそ全精力を注入して創作に挑んできました。そのような歴史的な積み重ねのある分野なのですから、この交響曲こそ、ヨーロッパ起源の芸術音楽(目的意識的に鑑賞の対象として創作された音楽)であるクラシック音楽の中でも、もっとも重要な分野であるといえます。


 交響曲が盛んに書かれたのは、西洋芸術音楽の長い歴史の中でも、18世紀から19世紀にかけてのことでした。

 そもそも交響曲は、17世紀イタリアにおけるオペラやオラトリオといった音楽劇において、幕が上がる前や場面の切り替えの際にオーケストラだけで演奏されていたシンフォニア(合奏曲)に起源があるといわれています。このシンフォニアは、急・緩・急の三部形式によっていましたが、これがしだいに長大化して独立し、三つの構成部分がそれぞれの楽章として分化することで、交響曲(シンフォニー)という形式が確立していったとされているのです。

 やがて、「交響曲の父」と呼ばれるオーストリアのハイドン(1732〜1809)によって、先の3つの楽章に、メヌエットという3拍子の宮廷舞踊風の音楽を第3楽章として加えた4楽章構成が、交響曲の標準的な型として確立されます。ついで、ベートーヴェン(1770〜1827)が、このメヌエットをより深刻な性格をもったスケルツォに置き換え、これが19世紀において交響曲が大きく発展していくうえでの基本的な型となりました。

 では、なぜ交響曲は、18世紀のドイツ・オーストリアにおいて確立され、19世紀にかけて盛んに書かれるようになっていったのでしょうか。

 この問題を解いていくためのカギは、芸術(表現)は、対象→認識→表現(芸術)という過程的構造においてとらえられなければならない、という三浦つとむさんの教えにあります。ようするに、交響曲というのも認識の表現における一つの特殊な形式にほかならないのですから、弁証法的=過程的にいえば、交響曲という表現形式の創出の背景には、そのような独自の表現形式でしか表現できない新しい社会的認識のあり方への発展があったのだ、と考えていかなければならない、というわけです。

 本稿では、以上のような観点をふまえて、交響曲の生成・発展(および衰退)の歴史過程を、人類の社会的認識の発展史から辿ってみたいと思います。
posted by kyoto.dialectic at 07:22| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言