2012年01月23日

消費税はどういう税金か(9/13)


(9)消費税の増税で中間層は完膚なきまでに解体される

 本稿は、消費税増税の是非をめぐる攻防が税率5%への引き上げが実施された1997年以降で最も緊迫した局面を迎えている、という情況を踏まえ、国民の一人ひとりが主体性ある主権者として的確な判断を下していくためのには「そもそも消費税とはいかなる税金なのか」という本質的なところにまで遡っての議論が提供されなければならない、との問題意識に基づくものである。より具体的には、消費税に関わっての諸々の議論において暗黙の内に前提されている「消費税は、消費一般に広く公平に課税する間接税」(国税庁「消費税のあらまし」)というような見方に、根本的な疑問を提起しようとするものであった。

 本稿では、これまで、“事業者が消費税の負担を消費者に転嫁する”“消費税は納税義務者(事業者)と税負担者(消費者)が異なるから間接税だ”などという常識が、現実の世界では全く通用していないこと、これらの理屈は、実態はどうあれ、消費税法ではそう見なして(事業者が消費者にいくらで商品を販売しようと、その中には消費税分が含まれているものと強制的に見なして)事業者に消費税の納税義務を課しますよ、ということでしかないことを明らかにした。このように、いくらで売買取引が成立しようが、販売価格には消費税分が含まれていると自動的に見なされてしまう(実態の如何に関わらず、販売者は購買者から消費税を預かったことにされてしまう)ということは、売り手と書い手の力関係において、弱い立場の当事者が消費税分を実質的に負担させられてしまうという重大な結果をもたらす。これは、デフレ下で低価格競争が激化しているという日本経済の現状においては、とりわけ深刻な意味を持ってくる。消費税込の価格での過酷な競争の常態化が、中小零細業者の営業を破壊していくとともに、大企業による徹底的な下請けいじめや人件費の削減を喚起せずにはおかないのである。さらに、直接雇用を派遣労働に置き換えることで消費税を大きく節税できるという仕組みが、企業が雇用を破壊していく誘因となってしまうのである。これらは、消費税によって、市場経済の中で弱い立場にある者が徹底して犠牲にされていく、ということに他ならない。その一方で、国外に輸出して大きな儲けを上げている大企業は、「輸出戻し税」として巨額の還付金を受けているのであった。価格支配力の強い大企業が、国内で実質的には消費税を負担していない(取引先に消費税分あるいはそれ以上の値引きを強要している)とすれば、これは実質的な“輸出補助金”以外の何ものでもなくなってくる。この“輸出補助金”としての還付金は、国内で徴収された消費税のおよそ3〜4割にも上っているのである。

 以上のように論じてきたことを踏まえるならば、消費税はその税収の使い道云々の問題以前に、税金そのものの構造として、弱者から強者へと富を移転する性格をもっていることが直視されなければならない。すなわち、消費税は、日本国内の多数の弱者を犠牲にすることによって徴収され、その少なくない部分(実に3〜4割)が日本国外で大きな儲けを上げている一握りの輸出大企業に還付される、という構造をもっているのである。消費税の増税は、こうした富の移転の構造がますます強化されていくことを意味する。昨年来、米国社会を席巻しているOWS(Occupy Wall Street)の運動に倣って言うなら、消費税の増税は、99%の人々を貧しくして1%の富裕層をますます富ませるような政策に他ならないのである。

 ここで読者の方々に何としても思い出してもらわなければならないのは、野田首相が、“分厚い中間層の再生”なる目標を繰り返し掲げてきたことである。例えば、2011年9月2日の就任会見において、野田首相は次のように述べている。

「中間層の厚みがあったことがこの日本の強み、底力でした。残念ながら、被災地も含めて中間層からこぼれ落ちてしまった人たちが戻れるかどうかが大事だと思います。そうした視点から、まさに国民生活が第一という理念を堅持しながら、中間層の厚みがより増していくようなこの日本社会を築いていきたいと思います。」

 弱者から強者へ富を移転するという消費税の害悪をますます拡大させる方向へと突き進む一方で「中間層の厚みがより増していくようなこの日本社会を築いていきたい」などと言うのだから、全く支離滅裂である。このようなデタラメを平気な顔で口にする野田佳彦という人間の気が知れない。

 もっとも、消費税そのものはそのような害悪をもっていたとしても、社会保障との一体改革という全体像の中で見ればどうなのか、という疑問が生じてくるかも知れない。消費税の集め方だけでなく、その税収の使い道にまで視野を広げて見れば、中間層の再生という目標につなげていく道も拓けて来るのではないか……というわけである。しかし、それは全くの幻想であると言わなければならない。そもそも、現在進められている社会保障と税の一体改革なるものは、断じて、弱者への支援強化のために消費税の増税分を財源にして社会保障を充実させていこう、などというものではない。あくまでも、財政危機の中で社会保障制度の持続可能性を確保する、という観点から、社会保障費を徹底的に抑制していくということが第一の課題となっているのである(「日本経済新聞」などは、一体改革をめぐる一連の報道の中で、社会保障費抑制が甘いことに繰り返し不満を漏らしている)。より根本的には、あらゆる取引を通じて弱者に犠牲を集中させていく――これは、単なる逆進性の問題ではない!――消費税が、そもそも社会保障の財源としてふさわしいのかどうかが問われなければならないであろう(*)。また、「一体改革」素案においては、高所得者に負担増を求めるための所得税の最高税率の引き上げや、低所得者に消費税負担分を還付する給付付き税額控除の検討などが言われているが、これらも消費税増税という巨大な害悪の前には、“焼け石に水”程度のものでしかない。

 本稿でこれまで繰り返し説いてきたように、基本的にあらゆる取引に課税される消費税は、あらゆる取引を通じて弱者に犠牲を集中させていく税金に他ならない。この消費税を増税することは、それ自体、最大・最強の格差拡大策以外の何物でもないのである。消費税の増税は、経済の長期停滞や新自由主義的改革の進行によってすでに解体されかかっている日本の中間層を、完膚なきまでに解体していくことになるであろう。要するに、消費税は、極めて強力な“中間層解体税”としての性格を持っているのである。消費税の増税で中間層は完膚なきまでに解体される――“分厚い中間層の再生”などとヌケヌケと口にする野田首相を前にして、我々はこのことを、繰り返し繰り返し、声を大にして、強調していかなければならない。

(*)欧州諸国は高税率の付加価値税で福祉国家を築いているのではないか、という疑問も生ずるであろう。しかし、欧州諸国と日本とでは、消費税にまつわる歴史的経緯や経済社会的条件が全く異なる。そのような諸々の違いを全く無視した上で、ただ消費税(付加価値税)の税率のみを取り出してきてその高低を云々するのは全くナンセンスであると言わざるを得ない。この問題については、本稿の最終回で触れることにする。
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2012年01月22日

消費税はどういう税金か(8/13)

(8)消費税は大企業への輸出補助金として機能している

 前回は、賃金は消費税の課税対象外である一方で、派遣会社への支払いには消費税が含まれているとみなされることから、企業は直接雇用を派遣労働に置き換えることによって消費税納税額を計算する際に控除できる消費税額を増やすことが可能であり、結果として、派遣労働者を増やすことが、企業にとって大きな消費税節税効果を持つことを明らかにした。端的には、消費税は労働者にとっては“雇用破壊税”とでも言うべき恐るべき性格を持つのだ、ということであった。

 さて、本稿でここまで説いてきたことから、税込価格での競争を激化させる消費税の負担が、もっぱら弱い方へ弱い方へと押し付けられていく構造が、かなり明瞭に浮き彫りになってきたのではないだろうか。いくらで売買取引が成立しようがその販売価格には消費税分が含まれていると自動的に見なされてしまう(実態の如何に関わらず、販売者は購買者から消費税を預かったことにされてしまう)という消費税の仕組みからすれば、売り手と書い手の力関係において弱い方が消費税分を負担させられることになってしまうのは必然的な結果なのである。

 このことは、取引関係において強い立場にある大企業が、消費税負担を立場の弱い取引相手の方へと押し付けていくことが可能であることを意味している。これは、取引先に消費税額分(あるいはそれ以上)の値引きを強要することによって、自身が財貨やサービスの購入の際に支払うべき消費税を実質的には支払わずに済ませる、ということに他ならない。しかし、このような場合においても、いくらで売買取引が成立しようがその販売価格には消費税分が含まれていると自動的に見なされてしまうという消費税の仕組みからして、この大企業は取引先にきちんと消費税分も合わせて支払って財貨やサービスを購入したものと見なしてもらえるのである。実はこのことが、単に自分の支払うべき消費税を取引先に負担させたというに止まらない、極めて重大な結果をもたらすケースが存在するのである。

 その重大な結果とは、「輸出戻し税」と呼ばれるものに他ならない。それでは、この輸出戻し税とは、一体如何なる制度なのだろうか。

 これは、国内で原材料を仕入れ諸経費を支払って製造した商品を海外に輸出している企業の場合、国内での仕入れ・経費の支払いでは消費税を負担しているものの、海外の消費者に日本の消費税を負担させるわけにはいかない、ということを前提にした仕組みである。すなわち、輸出した企業は、輸出品の価格に消費税分を転嫁できず、自身の負担した消費税分を回収することができないから、その企業が国内で負担していた(と見なされる)消費税分を還付してあげることにしましょう、というわけである。

 この輸出戻し税について、具体的な数値例で考えてみることにしよう。本稿の連載第4回に登場したパン屋は、315円(本体300円+消費税15円)で仕入れたパンを420円(本体400円+消費税20円)で販売した。この場合、パン屋は、消費者から預かった20円の消費税から自身が製パン業者に支払った15円の消費税を控除した5円分について納税義務を負うのであった。もしこのパン屋がパンを国外へ輸出(単純化のため輸送費などは無視する)した場合、国外の消費者に日本の消費税を負担させるわけにはいかないから、本体価格に消費税を上乗せすることができない。(日本円に換算して)400円で販売するしかない。そうすると、自身は仕入先に15円の消費税を支払っているのに、その負担分を消費者に転嫁することができなくなってしまう。ここで登場するのが、輸出戻し税という制度に他ならない。つまり、このパン屋は、申告することによって、国内で負担していた15円分の消費税を還付してもらえる、というわけである(*)。

 自身が国内で負担していた消費税を国外の消費者に転嫁することができないから……というのは、それ自体としてみれば、まことにもっともな理屈ではある。しかし、圧倒的に強い価格支配力(価格を自分の思い通りに決める力)を持つ輸出大企業が、価格支配力の弱い国内の取引業者に消費税分の値引きを強要しているとすれば、事情は異なってくる。こうなると、輸出企業は、国内での取引において実質的には消費税を負担していないにもかかわらず、負担していると見なされる分の金額を、そっくり受け取ることができるということになってしまうのである。先ほどのパン屋の例で言えば、パン屋が製パン業者にパン1個当たりの仕入値を税込で300円にまで値引きさせると、パン屋は実質的には消費税を負担していないにもかかわらず、この仕入値は「パン本体286円+消費税14円」と見なされて、パン屋がこのパンを海外に輸出して販売した場合には、パン1個につき14円が還付されることになる。こうなると、輸出戻し税は、実質的な輸出補助金として機能することになってしまうわけである。

 それでは、現実に、現在の日本においては、どれくらいの額が還付されているのであろうか。

 2010年度については、還付金の合計は3兆3762億円で、全消費税収の28%に相当する。トヨタ自動車の2246億円、ソニーの1116億円、日産自動車の987億円、東芝の753億円、キャノンの749億円など、上位10社だけで年間8698億円に上るとも言われている(湖東京至税理士の推計による)。実に巨額の還付金というべきであるが、この年度が、2008年9月のリーマンショックによる輸出の急減からの回復途上に位置することに注意しなければならない。この年度よりも輸出額が多かった2008年度には、消費税の還付総額は6兆6700億円であり、同年度の消費税収16兆9820億円の実に4割にも相当する金額にのぼっていたのである。国内で集められた消費税の実に3〜4割までもが、日本経団連に参加しているような、一握りの輸出大企業に還付されているわけである。当然のことながら、消費税率が上がれば上がるほど、この還付金は増えていくことになる。日本経団連は、かねてから消費税率の10%台後半までの引き上げを強く求めてきた。日本経団連がなぜそこまで消費税の増税にこだわるのか、その大きな理由の一つが、この輸出戻し税であると言ってよいであろう(もう一つの大きな理由としては、法人税減税の穴埋めということがある)。日本経団連などの財界団体にとっては、消費税は巨額の“輸出補助金”の源泉としての意味を持っているのである。

(*)より正確には、この仕組みは、輸出が免税取引とされる(海外消費者から消費税を預かっていないのではなく、0円の消費税を預かっていると見なされる)ということによって成立する。事業者の納付する消費税は「預かった消費税−支払った消費税」として算出される。つまり、支払った消費税を控除するというのは、消費税を預かっているということが大前提なのである。輸出は免税取引とされ、売上高には0%の消費税が含まれている(海外の消費者から0円の消費税を預かっている)と見なされる。そのため、そこから国内での仕入・経費の支払いの際に負担していた(と見なされる)消費税を控除することができ、その差額分の還付を受けることができるわけである。これに対して、医療費の大部分は非課税取引とされるから、病院の収入には消費税が含まれていない(そもそも消費者から消費税を預かっていない)と見なされる。その結果、病院が薬や医療機器の購入などの際に支払っている消費税分については、控除することができなくなる(つまり、差額分を還付してもらえない)。結局、その分は病院自身が負担しなければならないわけである。これが病院の「損税」として大きな問題となっているが、このことと比較してみれば、輸出戻し税なる仕組みが、輸出という特定の経済行為を不当に優遇するものであることは明らかであろう。
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2012年01月21日

消費税はどういう税金か(7/13)

(7)消費税は安定した雇用を破壊していく

 前回は、消費税が増税されたとしても、その増税分に見合っただけモノの値段が上がっていくとは限らないこと、それどころか、価格競争力の強い大企業は、同業他社との差別化を図るために、徹底的なコスト削減努力をテコにして一層の低価格競争へと突き進んでいこうとする可能生が高いことを指摘した。消費税増税反対論の中では、税込価格の上昇による家計の負担増が指摘されることが多いが、これは消費税の負担が全て消費者に転嫁されることを前提にした議論であり不充分であること、大企業が税込価格での競争を有利に進めようとして徹底的なコスト削減を図る際に、弱小な取引先、あるいは多くの従業員を犠牲にしていくことこそが大きな問題であることを明らかにした。

 ここでより突っ込んで指摘しておかなければならないのは、消費税と人件費の関わりの問題である。前回は、大企業が商品の税込販売価格を消費税率引き上げ前よりも引き下げようとするならば徹底したコストの圧縮が必要となる、という文脈で、人件費が徹底して抑えられていく必然性を指摘した。しかし、消費税が労働者を犠牲にするということは、このような媒介的な効果のみならず、より直接的な効果についても指摘することが出来るのである。結論から言えば、企業は直接の雇用を削減して派遣労働者に置き換えていくことによって、非常に大きな節税効果が見込めるのである。

 これが一体なぜなのかということは、まず、個々の事業者が自身の納税すべき消費税額をどのように計算しているのか、ということから確認していってもらわなければならない。

 本稿の連載第4回で説いたように、それぞれの事業者は、売上高に含まれている消費税額、すなわち、自身が消費者から預かったとされる消費税額(…@とする)から、その売上を獲得するために支払った仕入代金・経費に含まれている消費税額、すなわち、自身が他の事業者から財貨・サービスを購入する際に支払ったとされる消費税額(…Aとする)を差し引いて、自身が納税すべき消費税額を確定するのである。要するに、Aが大きくなれば大きくなるほど、その事業者が納付すべき消費税額を小さく抑えることが出来る、ということになるわけである。

 ここで重要なのは、基本的に全ての取引に関して消費税が課税されると言っても、実は少数ながら課税されない取引もあり(厳密には非課税・免税・対象外の3つの区分がある)、その中でも特に重要な部分を占めるのが、雇用主が労働者に対して労働力の提供と引き換えに賃金を支払うという取引である、ということである。賃金が課税の対象外となっているというのは、考えてみれば当然のことであろう。もし賃金に消費税が課税されているとどうなるか。我々が労働力という商品を販売した場合、その販売価格には消費税分が含まれているとみなされて、労働力商品の買い手である雇用主から預かったとされる消費税について我々自身が納税義務を負う、ということになってしまうのである。もちろん、実際にはそんなことにはなっていない。賃金は消費税の課税対象外なのである(*)。 それでは、直接雇用を止めて派遣労働者に置き換えるとどうなるか。企業が直接に自身で雇っている労働者に対する賃金の支払いは課税の対象外であった。つまり、企業が労働者に支払った賃金の中には消費税が含まれているとはみなされないということであった。ところが、派遣会社に対する支払いは、人件費ではなく人材派遣というサービスに対する対価ということになり、これには消費税が含まれていることになるのである。

 ここで、それぞれの事業者が納税すべき消費税額は、売上高に含まれている消費税額(…@)から、その売上を獲得するために支払った仕入代金・経費に含まれている消費税額(…A)を差し引くことによって確定される、ということを改めて想起してもらいたい。Aを大きくすればするほど、それだけ消費税を節税することが出来る、ということであった。ここから必然的に、課税対象外である人件費の支払いを課税対象となる派遣会社への支払いに置き換えることによって、Aを大きくする、したがって、納付すべき消費税額を大きく減らす効果が期待される、ということになってしまうのである。

 このことを具体的な数値例で確認しておくことにしよう。ある大企業の年間売上げが1000億円、仕入200億円、人件費200億円、その他経費200億円で、400億円の利益を稼いでいたとする。売上高に100/105を掛けて税抜きにすると、952億円となる。これに5%を掛けると消費者から預かった(とされる)消費税額が47億6000万円と算出される。一方、仕入、人件費以外の経費に含まれている(とされる)消費税額についても、同様の計算によって、それぞれ9億5000万円と算出される。人件費は課税対象外なので考えない。従って、この大企業の納付すべき消費税額は、「47億6000万円−(9億5000万円+9億5000万円)=28億6000万円」となる。

売 上:1000億円→47.6億円(売上に含まれる消費税)
仕 入: 200億円→ 9.5億円(仕入に含まれる消費税)
人件費: 200億円→   0円(課税対象外。消費税を含まず)
諸経費: 200億円→ 9.5億円(経費に含まれる消費税)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この企業の納付すべき消費税額:
47.6億円−(9.5億円+9.5億円)=28.6億円

 ここで、直接雇用を止めて全て派遣に置き換えた(人件費200億円を派遣会社への支払い200億円に置き換えた)としたらどうなるか。消費者から預かった(とみなされる)消費税は先ほどと同じく47億6000万円である。ここから控除できる金額として、先ほどの仕入に含まれていた(とみなされる)9億5000万円、経費の支払いに含まれていた(とみなされる)9億5000万円に加えて、派遣会社への支払い200億円に含まれている9億5000万円の消費税も控除することができるのである。従って、直接雇用を止めて全て派遣労働に切り替えた場合、この企業の納付すべき消費税額は、「47億6000万円−(9億5000万円+9億5000万円+9億5000万円)=19億1000万円」となるわけである。つまり、直接雇用を派遣労働に切り替えることにより、派遣会社への支払いに含まれている消費税分だけ、自身の納付すべき消費税額を減らすことができるのである。

売 上:1000億円→47.6億円(売上に含まれる消費税)
仕 入: 200億円→ 9.5億円(仕入に含まれる消費税)
外注費: 200億円→ 9.5億円(派遣会社へ支払った消費税)
諸経費: 200億円→ 9.5億円(経費に含まれる消費税)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この企業の納付すべき消費税額:
47.6億円−(9.5億円+9.5億円+9.5億円)=19.1億円

 このように、企業は、直接雇用を止めて派遣労働に置き換えることによって、消費税を大きく節税することが可能なのである。多くの従業員を抱える大企業ほど、この節税効果は大きくなる。すなわち、消費税は、大企業の雇用リストラを大きく推進してしまう効果を持つのである。言うまでもなく、派遣労働者の増加は、その他の労働者の待遇を切り下げていく重石のような作用を持つものである。つまり、消費税は、労働者にとって“雇用破壊税”としての性格を持つ税金であると言わなければならないのである。

(*)あるいは、本稿の連載第3回で説いたように、消費税は付加価値に課せられる税金であるが、人件費はあくまでも付加価値の一部(企業が新たに生み出した価値を労働者に分配したもの)であるから、付加価値を計算する際の経費として差し引くことはできない、と考えることもできる。

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2012年01月20日

消費税はどういう税金か(6/13)

(6)消費税が増税されるとモノの値段は上がるのか

 本稿は、消費税増税の是非をめぐる攻防が税率5%への引き上げが実施された1997年以降で最も緊迫した局面を迎えている、という情況を踏まえ、国民の一人ひとりが主体性ある主権者として的確な判断を下していくためのには「そもそも消費税とはいかなる税金なのか」という本質的なところにまで遡っての議論が提供されなければならない、との問題意識に基づくものである。より具体的には、消費税に関わっての諸々の議論において暗黙の内に前提されている「消費税は、消費一般に広く公平に課税する間接税」(国税庁「消費税のあらまし」)というような見方に、根本的な疑問を提起しようとするものであった。

 これまで、消費税の課税標準(税額を算出する上で基礎となる課税対象)はあくまでもそれぞれの事業者によって生み出された付加価値であり、事業者がこの課税標準に税率を掛けた金額を販売価格に上乗せすることを媒介として税負担が消費者へと転嫁されることが予定されているに過ぎないこと、しかし、現実の事業者には(とくに零細な業者であればあるほど)、適正な儲けは儲けとして確保した上でそこにさらに消費税分を転嫁する、などという悠長な価格決定をするような条件にはないこと、“事業者が消費税の負担を消費者に転嫁する”というのは、現実はどうあれ、消費税法ではそう見なして(事業主が消費者にいくらで商品を販売しようと、その中には消費税分が含まれているものと強制的に見なして)事業主に消費税の納税義務を課しますよ、ということでしかないこと、を説いてきた。結局、価格競争力の弱い零細業者にとっては、消費税は消費者から預かったお金を納める間接税ではなく、身銭を切って納めなければならない直接税にもなってしまうのだ、ということであった。

 ここまで説いてきたことから、消費税のどのような性格が浮かび上がってくるであろうか。それは、端的に言えば、売り手と書い手の力関係において、弱い立場の当事者が消費税分を負担させられることになってしまう、ということに他ならない。これは、いくらで売買取引が成立しようが、販売価格には消費税分が含まれていると自動的に見なされてしまう(実態の如何に関わらず、販売者は購買者から消費税を預かったことにされてしまう)ことからくる必然的な結果である。基本的に全ての取引が税込価格でなされるため、消費税は市場参加者に税込価格での競争を強いるのである。消費税の増税が一体いかなる影響をもたらすか、という問題は、消費税のこのような本質を踏まえて考えていかなければならないのである。

 ここで検討されなければならないのは、消費税増税によって消費者の税負担が増えるという指摘がしばしばなされていることの妥当性である。例えば、消費税の増税に伴う家計(一方が働く夫婦と子ども2人の4人世帯)の負担増について第一生命経済研究所が試算した結果によれば、年収500万〜550万円の世帯では、8%への引き上げで現在よりも年に8万1408円、10%の場合は13万3114円の負担増、年収1000万〜1250万円の世帯では、8%で13万8343円、10%で 22万6378円の負担増などとされている。つまり、消費税の増税によって、それだけの金額が新たに財布から出て行くことになってしまう、という主張がなされているわけである。

 しかし、こうした試算に基づく消費者の負担増についての議論は、消費税が8%、10%に引き上げられた場合、増税分が完全に転嫁されて税込価格が引き上げられていく、という大前提の上になされていることを指摘しなければならない。しかし果たして、消費税率が増税された場合、モノの値段(税込価格)は、その増税分に見合っただけ、上昇していくものなのであろうか。

 景気がよくて物価が上昇傾向にある場合には、そうだと言って間違いないだろう。しかし、現在の日本経済は、デフレ(持続的な物価下落)状態にあり、市場においては低価格競争が激しく闘われているという情況にある。こうした情況の中で、それぞれの事業者は、消費税率が引き上げられたからといって、税込での販売価格をその分だけ引き上げるという選択を、容易に取りうるであろうか。おそらく無理であろう。値上げを躊躇するのが普通ではないだろうか(前回に提示した喫茶店の例を想起してもらいたい)。それどころか、価格競争力の強い大企業は、同業他社との差別化を図るために、徹底的なコスト削減努力をテコにして一層の低価格競争へと突き進んでいくことが容易に想像される。

 消費税の増税にも関わらず商品の税込価格を据え置く(あるいは値下げをする)ということ、すなわち、消費税増税分の負担を消費者に転嫁しないということは、取引関係において弱い立場にある個人事業主の場合は、自身が消費税増税分の負担をするということ、つまり、自身の儲け(自身の働き分)が侵害されるということを意味する。しかし、力の強い大企業の場合は、消費者に転嫁しない消費税増税分の負担に相当するものを、自分でかぶることなく、取引先や従業員に押し付けていくことが可能である。つまり、仕入れ値を徹底して叩き(消費税負担を実質的に仕入先に負担させ)、人件費を徹底的に削減することによってコストを抑え、結果として、税率引き上げ前と同じだけの(あるいはそれ以上の)儲けを確保しながら、税込価格を税率引き上げ前よりも低く抑えることも可能なのである。

 多くの大企業がこのようにして低価格競争に突き進んでいくとどうなるであろうか。直接的な効果としては、モノの値段が総じて下がっていくわけであるから、消費者にとっての利益になるかのようにも思われる。消費税が上がったからといって消費者の負担が増えるわけではない、との論も成り立ちそうである(現にそのような主張も登場してきている)。しかし、そのような論は、物事の一面しか捉えていない、極めて形而上学的な(非弁証法的な)見方という他ない。そもそも消費者は、財貨やサービスを購入するための所得をどこから得ているというのであろうか。消費者の多くの部分を占めるのは、何と言っても労働者である。すなわち、労働者として何らかの事業所に勤めて給料を得ているわけである。もし、コスト削減をテコにした低価格競争に突き進もうという大企業に勤めているのならば直接的な犠牲者となるし、その大企業の取引先に勤めているならば媒介的な犠牲者となってしまう。総じてモノの値段が低下していったとしても、自身の手にする給料がそれを上回るペースで下がっていってしまう(あるいは職そのものを失ってしまう)なら、全く何の意味もないではないか。

 消費税は弱者ほど負担が重いというのは、しばしば指摘されることである。しかし、それは大抵、消費税負担の所得に占める割合が低所得者ほど高くなってしまうという、いわゆる逆進性の問題を指摘するレベルに留まっている。こうした議論は、消費税の負担が全て消費者へと転嫁されていく、という前提の上に成り立っているのである。しかし、本稿で何よりも強調したいのは、いくらで売買取引が成立しようが販売価格には消費税分が含まれていると自動的に見なされてしまう(実態の如何に関わらず、販売者は購買者から消費税を預かったことにされてしまう)という消費税の仕組みそのものの欺瞞性なのである。このような性格を持つ消費税は、市場における税込価格での競争を激化させずにはおかないのであり、その過程で、消費税の負担が弱い方へ弱い方へと押し付けられていくという結果を招く必然性がある。消費税が弱者を狙い撃ちするようにして犠牲にしていくというのは、単なる逆進性の問題で尽くされるのではなく、あくまでもこのような消費税の本質的な性格から掴んでおかなければならない。
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2012年01月19日

消費税はどういう税金か(5/13)

(5)消費税の消費者への転嫁というのは理屈の上での話に過ぎない

 前回は、個々の事業者が納税すべき消費税額は、一体どのようにして算出されるものであるのか、という問題にかかわって説いた。それぞれの事業者は、自身の製品を販売しようとする際、その本体価格に消費税率を掛けたものを上乗せして価格を設定するのであり、この結果として売上高に含まれることになる消費税額(自身が消費者から預かった消費税額)から、その売上を獲得するために支払った仕入代金・経費に含まれている消費税額(自身が他の事業者から財貨・サービスを購入する際に支払った消費税額)を控除して――このことを「仕入税額控除」と呼ぶ――自身が納税すべき消費税額を確定するのだ、ということであった。すなわち、各事業者は自身が生み出した付加価値分についてのみ消費税の納税義務を負うのであり、「税金分は事業者が販売する商品やサービスの価格に含まれて、次々と転嫁され、最終的に商品を消費し又はサービスの提供を受ける消費者が負担する」(国税庁「消費税のあらまし」)ということができるのであった。

 しかし、ここで強調しておかなければならないのは、これはあくまでも理屈の上での話に過ぎない! ということである。国税庁が説明するように、消費税の負担が最終的に消費者にまで転嫁されていくためには、それぞれの事業者が自身の製品を販売しようとする際に、その本体価格に消費税率を掛けたものをきちんと上乗せして実際の販売価格を設定することができていなければならない。この大前提が成り立たなければ、「税金分は事業者が販売する商品やサービスの価格に含まれて、次々と転嫁され、最終的に商品を消費し又はサービスの提供を受ける消費者が負担する」という国税庁の説明は完全に崩壊してしまうのである。果たして、現在の日本経済の現実において、このような大前提がきちんと成り立っていると言うことが出来るのであろうか。

 結論から言えば、そうではないのである。ここまでの理屈上の話では、事業者がある商品を販売する際、その商品を生産するために要した仕入・経費に自身の生み出した付加価値分を上乗せして本体価格を設定し、さらにそこに消費税分を上乗せすることによって実際の販売価格を設定するのだ、ということが想定されていた。しかし、すべての事業者が、そのような考え方で自身の価格を設定することができているとは限らないのである。ではどうやって商品価格を決めるのかといえば、結局「いくらなら売ることができるか」ということに尽きるのである。

 そもそも、消費税の転嫁云々以前の問題として、それぞれの事業者が生み出した付加価値が一体どれほどの大きさのものなのか、という問題がある。言うまでもなく、付加価値なるものは手で掴んだり目で見たりすることのできる実体ではない。それぞれの事業者がいくら「自分はこれだけ新たな価値を付け加えたぞ!」と主観的に思ってみたところで、意味はない。あくまでも、その商品を実際に市場に売りに出して買い手がつくことによってはじめて、その商品に含まれていた付加価値が実現されるのであり、その実現と同時に付加価値の大きさも確定されるのである。前々回も説いたように、付加価値というのは「売上−(仕入+経費)」のことであった。つまり、現実の経済的取引に即して考えるならば、その商品が結局いくらで売れたかという事実によって、その商品に含まれる付加価値の大きさが、販売価格が仕入・経費を上回る分として事後的に確定する、と考えなければならないのである。

 したがって、それぞれの事業者は、あくまでも、他の業者との価格競争の中で「仕入+経費」にどこまで儲けを上乗せすることが可能か(どこまで上乗せしても買い手を見つけることが可能か)、という観点から、自身の商品の販売価格を決定していくことになる。この販売価格と「仕入+経費」の差が、自身が市場に認めてもらいたい付加価値の大きさ、ということである(実際に認めてもらえるかどうかは別問題である)。決して、付加価値なるものが確定した大きさとしてまずあって、「仕入+経費」にこの付加価値を上乗せして販売価格を決める、などというものではないのである。

 国税庁のパンフレットなどが想定しているように、「仕入+経費」にいわば“適正な儲け”としての付加価値を上乗せして本体価格を決め、さらにその本体価格に税率を掛けた消費税額を転嫁して実際の販売価格(税込)を決める、ということであれば、確かに、それぞれの事業者は消費税を一銭も負担することはなくなる。しかし、現実の取引では、ここが非常に曖昧になってくるのである。基本的に全ての取引が消費税込の価格でなされている以上、事業者は「(消費税込で)いくらなる売ることができるか」と考えなければならない。厳しい価格競争に晒されている弱小事業者の場合、ほとんど原価ぎりぎりのところで商品を販売しなければならないこともしばしばである。総じて、適正な儲けを確保した上でさらに消費税を転嫁する、などという悠長な価格決定をしている余裕などないのである。にもかかわらず、商品をいくらで消費者に販売しようが、消費税分を転嫁しているという意識があろうがなかろうが、その販売価格の中には当然に消費税が含まれているものと自動的に見なされてしまうのである。

 具体的な例で考えてみよう。現在、ある喫茶店がコーヒー1杯を400円で提供しているとしよう。この400円は、喫茶店主の意識如何にかかわらず「本体381円+消費税19円=税込価格400円」と見なされてしまうのである。このことの不合理さは、消費税率が引き上げられる場合を考えてみると、より一層はっきりする。消費税が10%に引き上げられた場合、仮に引き上げ前に完全に消費税を転嫁できていたとしても、この喫茶店はコーヒー1杯を「本体381円+消費税39円=420円」にまで値上げしなければ、消費税増税分の負担を消費者に完全には転嫁できないはずである。ところが、同業他店との価格競争を意識して値上げを見送ったとしても、400円の価格のうちには10%分の消費税が含まれている、すなわち、「本体364円+消費税36円」であると自動的に見なされてしまうのである。本体価格を381円から364円に値下げした分、その分、儲けとして確保できていたはずの付加価値部分は圧縮されてしまう、と考えなければならない。

 このように、“事業者が消費税の負担を消費者に転嫁する”というのは、現実はどうあれ、消費税法ではそう見なして(事業主が消費者にいくらで商品を販売しようと、その中には消費税分が含まれているものと強制的に見なして)事業主に消費税の納税義務を課しますよ、ということでしかないのである。消費税納税義務者とされてしまった事業主は、たとえどんなに営業が苦しくとも、消費税を納めないということは許されない。こうして、価格競争力の弱い零細業者にとっては、消費税は消費者から預かったお金を納める間接税ではなく、身銭を切って納めなければならない直接税になってしまうのである。現在、国税の中でも消費税の滞納がずば抜けて多い――2010年度の新規発生滞納は、税額で全税目の49%を占める――のは、このような現実があるからに他ならない。払いたくても払いようがないから、国税庁の必死の徴税攻勢にもかかわらず、滞納が増えているのである。中小零細業者にとっては、消費税はまさに“営業破壊税”以外の何物でもないのである。

 ところが、今回の「社会保障・税一体改革素案」の中では、いわゆる「益税」対策として、簡易課税制度などの見直しがいわれている。簡易課税制度というのは、人手の少ない零細業者に対して計算事務を軽減するための措置であり、年間売り上げ5000万円以下の業者に限って認められているものである。具体的には、仕入・経費に含まれている消費税額(納付すべき消費税額を計算する際、売上に含まれている消費税額から控除できる金額)を、仕入・経費の実額からではなく、業種ごとに決められている「みなし仕入率」――売上金額の内、卸売業は90%が、小売業は80%が、製造業は70%が、飲食業は60%が、サービス業は50%が、仕入・経費の支払いと見なされる――に基づいて計算する方式である。この「みなし」による仕入が実額を上回る場合、つまり、実額で計算するよりも過大な消費税額を控除できる場合があり、従って実額で計算するよりも納付すべき消費税額を小さく抑えることが可能になる場合がある、との指摘がある。いわゆる「益税」であり、中小業者が不当に優遇されているというのだ。しかし、本稿でこれまで説いてきたことから明らかなように、価格競争力の弱い業者にとって、消費税は「損税」以外の何ものでもない。そのような実態を悉く無視し、消費税負担は全て消費者に転嫁されるという理屈の上でしか通用しない話を前提にして、益税は許せぬだとか優遇は見直すべきだとかいうのは、全く不当極まりないものと言わざるを得ないのである。
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2012年01月18日

消費税はどういう税金か(4/13)

(4)事業者が納税する消費税額はどのように算出されるのか

 前回は、そもそも消費税は何を課税標準(税額を算出する上で基礎となる課税対象)とした税金なのか、という問題に関わって説いた。端的には、消費税の課税標準(税額を算出する上で基礎となる課税対象)となるのは、事業者が財貨・サービスの生産過程で生み出した新たな価値(付加価値)なのであって、消費税は財貨やサービスを消費するという行為に対して課税されているわけではない、ということであった。あくまでも、事業者がこの課税標準に税率を掛けた金額を販売価格に上乗せすることを媒介として、税負担が消費者へと転嫁されていく、ということに過ぎないのであった。

 さて、ここで、前回に具体例として提示した、小麦からパンが出来上がるまでの過程を思い出していただきたい。この例においては、最終的なパン小売段階において、パンに含まれている400円の付加価値(パン小売業者の生み出した付加価値額100円と、製パン業者が生み出した価値額100円と、製粉業者の生み出した価値額100円と、小麦農家の生み出した価値額100円との合計)に消費税率5%を掛けた20円分が価格に上乗せされ、これを消費者が負担することになる、というわけであった。

 しかし、このような説明の仕方では、ひょっとすると、パン小売業者がパンを消費者に販売する際のみに消費税が転嫁されるかのような印象を与えてしまったかもしれない。つまり、最終段階に位置するパン小売業者が、自身の生み出した100円の付加価値のみならず、その前段階に生み出されていた300円の付加価値についても責任をもって消費税を徴収して税務署に納める(消費者から預かった20円についてそのまま納税義務を負っている)、というわけである。しかし、それは端的には誤解である。消費税は、そういう仕組みにはなっていない。パン小売業者が消費者にパンを販売する際のみならず、農家が製粉業者に小麦を販売する際にも、製粉業者が製パン業者に小麦粉を販売する際にも、製パン業者がパン小売業者に販売する際にも、消費税が転嫁されることになっているのであり、結論的には、農家も製粉業者も製パン業者も、それぞれ自身が生み出した付加価値100円に対して課せられる消費税分についての納税義務者となることになっているのである。そのあたりの仕組みを、この同じ例を使って、少し突っ込んで説明してみることにしよう。

 まず、農家は、生産した小麦を100円で製粉業者に販売しようとした。この際、この100円に税率5%を掛けた5円が転嫁された105円という価格が設定されることになる。農家は、製粉業者から小麦本体価格とは別に5円の消費税を預かることになるわけであり、この5円について納税義務を負うわけである。この例においては、農家が100円の売り上げを得るためには、自身の労働力の支出以外に何らの費用も掛かっていないと考えるのだから、この農家については、「売上額=付加価値額」となり、話は単純である。

 次の製粉業者については、話がいささかややこしくなってくる。この製粉業者は、農家から仕入れた小麦を小麦粉に製粉して200円で製パン業者に販売しようとした。この際、この200円に税率5%を掛けた10円が転嫁された210円という価格が設定されることになる。それでは、製粉業者が納税義務を負うのは、製パン業者から預かったこの10円についてなのかといえば、そうではない。製粉業者は農家から小麦を仕入れた段階で5円分の消費税を負担しているのであるから、製パン業者から預かった10円から農家へ支払った5円を控除するのである。これが「仕入税額控除」と呼ばれる仕組みに他ならない。この仕組みがあることによって、製粉業者は、自身が生み出した付加価値100円に課せられる5%の消費税についてのみ納税義務を負えばよいということになるわけである。

 同じように、製パン業者が、製粉業者から仕入れた小麦粉からパンを作って300円でパン屋に販売しようとする場合、この300円に税率5%を掛けた15円を転嫁して315円という価格を設定することになる。製パン業者は製粉業者から小麦粉を仕入れた段階で10円分の消費税を負担しているのであるから、パン屋から預かった15円から自身が製粉業者へ支払った10円を控除した残りの5円についてのみ、納税義務を負うことになる。結果として、製パン業者は、自身が生み出した付加価値100円に課せられる5%の消費税についてのみ納税義務を負えばよいということになるわけである。

 パンを最終的に消費者に販売するパン屋についても、これらと同じように考えればよい。パン屋が製パン業者から仕入れたパンを400円で消費者に販売しようとする場合、この400円に税率5%を掛けた20円を転嫁した420円という価格を設定することになる。パン屋は製パン業者からパンを仕入れた段階で15円分の消費税を負担しているのであるから、消費者から預かった20円から自身が製パン業者へ支払った15円を控除した残りの5円についてのみ、納税義務を負うことになる。結果として、パン屋は、自身が生み出した付加価値100円に課せられる5%の消費税についてのみ納税義務を負えばよいということになるわけである。

 要するに、農家は自身が生みだした付加価値に課せられる5円を製粉業者に転嫁し、製粉業者は農家から転嫁された5円に自身が生みだした付加価値に課せられる5円を加えた10円を製パン業者に転嫁し、製パン業者は製粉業者から転嫁された10円に自身が生みだした付加価値に課せられる5円を加えた15円をパン屋に転嫁し、パン屋は製パン業者から転嫁された15円に自身が生みだした付加価値に課せられる5円を加えた20円を消費者に転嫁するというわけである。結局、この例において、消費者が400円のパンに対して支払う20円という消費税は、農家によって納税される5円と、製粉業者によって納税される5円と、製パン業者によって納税される5円と、パン屋によって納税される5円との合計である、ということになる。国税庁の「消費税のあらまし」というパンフレットが、「税金分は事業者が販売する商品やサービスの価格に含まれて、次々と転嫁され、最終的に商品を消費し又はサービスの提供を受ける消費者が負担する」というのは、以上で説明したような仕組みを踏まえてのものなのである。

 ここできちんと押さえておいてもらいたいのは、個々の事業者は自身が納税すべき消費税額をどのように算出するのか、という問題である。これまでの説明からも推測できるであろうが、それぞれの事業者は、売上高に含まれている消費税額(自身が消費者から預かった消費税額)から、その売上を獲得するために支払った仕入代金・経費に含まれている消費税額(自身が他の事業者から財貨・サービスを購入する際に支払った消費税額)を差し引いて、自身が納税すべき消費税額を確定するのである。現実には、個々の取引は全て税込価格で行われているから、個々の取引ごとに預かった税金、支払った税金を積み上げていくのではなく、帳簿上の記録に基づいて、1年間の売上高(税込)と仕入れ・経費の合計額(税込)をもとに、その年に納付すべき消費税額を計算する(*1)。

 具体的には、まず、年間の売上高(税込)の合計に100/105を掛けたもの(これが税抜売上高となる)にさらに5%を掛けることによって1年間の売上高合計に含まれる消費税額(消費者から預かった消費税額)を算出する。次いで、1年間の仕入れ・経費の合計(税込)に100/105を掛けたもの(これが税抜きの仕入・経費となる)に5%を掛けることによって、仕入・経費の合計に含まれる消費税額(自身が他の事業者から財貨・サービスを購入する際に支払った消費税額)を算出する(*2)。前者から後者を控除することによって、納付すべき消費税額が確定するのである。

(*1)「帳簿方式」という。これに対して、欧州諸国などでは、仕入先から発行されたインボイス(税額記入請求書)に基づき、個々の取引における支払い税額を積み上げていく形で控除すべき仕入税額を算出する。

(*2)正確には、消費税5%というのは消費税4%+地方消費税1%であるから、実際の計算手順としては、まず「税抜売上高×4%−税抜仕入高×4%」によって消費税4%分を計算し、さらにこの消費税額に25%を掛けることによって1%分の地方消費税額を計算して両者を合計する、ということになる。
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2012年01月17日

消費税はどういう税金か(3/13)

(3)消費税は何に対して課税される税金か

 本稿は、消費税増税の是非をめぐる攻防が税率5%への引き上げが実施された1997年以降で最も緊迫した局面を迎えている、という情況を踏まえ、国民の一人ひとりが主体性ある主権者として的確な判断を下していくためのには「そもそも消費税とはいかなる税金なのか」という本質的なところにまで遡っての議論が提供されなければならない、との問題意識に基づくものである。より具体的には、消費税に関わっての諸々の議論において暗黙の内に前提されている「消費税は、消費一般に広く公平に課税する間接税」(国税庁「消費税のあらまし」)というような見方に、根本的な疑問を提起しようとするものである。

 ここでまず問わなければならないのは、消費税を負担しているのは一体誰なのか、ということである。常識的には、財貨やサービスを購入する消費者が消費税の負担者である、ということになるであろう。財貨やサービスを販売した事業者が消費者から預かった消費税を国に納める、実際の負担者(財貨・サービスを購入した消費者)と納税義務者(財貨・サービスを販売した事業者)が異なるから間接税だ――これが、常識的な消費税のイメージであろう。国税庁が出している「消費税のあらまし」というパンフレットでも、「消費税は、事業者に負担を求めるものではありません。税金分は事業者が販売する商品やサービスの価格に含まれて、次々と転嫁され、最終的に商品を消費し又はサービスの提供を受ける消費者が負担することとなります」とされている。

 本稿で何よりもまず強く主張しなければならないのは、これは全く理屈の上での話に過ぎず、現実にそうであるかどうかは条件次第であり、むしろそうならないことのほうが常態である、ということに他ならない。

 この点を説明するためには、そもそも消費税は何に対して課税される税金であるのか、という問題を、少しばかり突っ込んで検討しておかなければならない。この点に関わっては、「消費税」という名前が、この税金の本質を理解する上での妨げとなっていることを指摘する必要がある。結論から言えば、いわゆる消費税は、本来なら「付加価値税」と呼ぶのが正しいのである。実際、ヨーロッパ諸国においては、日本で消費税と呼ばれているのと同種の税金が「付加価値税」(VAT=Value Added Tax)と呼ばれている。これこそが、この税金の本質的な性格を表現した妥当な名称である。いわゆる消費税は、付加価値に対して課税される税金に他ならないのである。

 それでは、この付加価値とは一体何か。端的には、「企業が生産・サービス活動によって新たに生み出した価値」(金森久雄他編『経済辞典 第4版』有斐閣)のことであり、「企業の生産額からその生産のためにほかの企業から購入して消費した財貨・サービスを控除した額が付加価値となる」(同)。最も簡単にまとめてしまえば、「付加価値=売上高−仕入高およびその他の経費の合計」ということになるわけである(*)。ちなみに、この付加価値額を一国全体で合計したものこそ、国内総生産(GDP=Gross Domestic Product)と呼ばれるものに他ならない。

 具体的にパンという財貨が生産されるまでの過程を例にとって、考えてみることにしよう。なお、以下の例は、あくまでも「付加価値とは何か」を大筋で掴むためのものであるから、農家が播種用の小麦をどうやって入手したかは問わないし、小麦さえあれば後は人間が労働を加えていくだけでパンを生産することが可能である(小麦以外の原材料の他、機械設備や燃料、その他の経費も無視する)という、いささか非現実的な想定によっていることを了解願いたい。

 まず、ある農家が小麦を生産して100円で製粉業者に売ったとしよう。この段階における付加価値額は100円である。つまり、この農家は小麦を生産する過程で100円の価値を新たに生み出したということになるわけである。

 この次の段階で、この製粉業者が、100円で仕入れた小麦を小麦粉に製粉して、製パン業者に200円で売った。この段階での付加価値額は、「小麦粉200円−小麦100円」で100円である。つまり、この製粉業者が、小麦を小麦粉にする過程で新たに生み出した価値が100円だということになるわけである。

 さらに次の段階で、この製パン業者が、200円で仕入れた小麦粉を原料にしてパンをつくり、300円でパン屋に売った。この段階での付加価値額は、「パン300円−小麦粉200円」であるから、100円である。つまり、この製パン業者が、小麦粉からパンを作る過程で生み出した価値が100円だということになるわけである。

 最後に、このパン屋(パン小売業者)が300円で仕入れたパンを400円で消費者に売ったとしよう。この段階での付加価値は「パン売上400円−パン仕入300円」であるから、100円である。つまり、パン小売業者が、仕入れたパンを消費者が選択しやすいように店頭に並べるなどの作業を行う過程で生み出した価値が100円だということになるわけである。

 要するに、このケースの場合、消費者が最終的に支払うパンの代金400円というのは、パン小売業者の生み出した付加価値額100円と、製パン業者が生み出した付加価値額100円と、製粉業者の生み出した付加価値額100円と、小麦農家の生み出した付加価値額100円との合計だということになるわけである。この400円の付加価値こそ、このパンに課せられる消費税についての課税標準(税額を算出する上で基礎となる課税対象)に他ならない。すなわち、この400円の付加価値に消費税率を掛けたもの、例えば、税率5%であれば400円×0.05=20円が、このパンに課せられる消費税だということになる。通常は、パン小売業者がこの20円をパンの販売価格に転嫁し、420円で消費者に販売することが想定されている。実際にそうであれば、結局のところ、消費者がこの400円の付加価値に課せられる20円分の消費税を負担するのだということになるわけである。

 以上の説明において、ここで改めてしっかりと確認しておいていただきたいのは、消費税は財貨やサービスを消費するという行為に対して課税されているわけではない、ということである。消費税の課税標準(税額を算出する上で基礎となる課税対象)となるのは、あくまでも事業者が財貨・サービスの生産過程で生み出した新たな価値(付加価値)なのであって、この課税標準に税率を掛けた金額が販売価格に上乗せされるならば、そのことを媒介として税負担が消費者へと転嫁されていく、ということに過ぎないのである。

(*)ただし、「生産額から差し引くものには、人件費、支払い利息、税金は含まれない…。なぜなら、人件費、支払い利息、税金は、企業の生産活動を通じて新たに生み出された価値を、従業員、金融機関、政府に分配したものだから」である(中谷巌『マクロ経済学入門 第2版』日経文庫、p.27)。人件費が付加価値の一部であるということは後で重要な意味を持ってくるので、記憶しておいていただきたい。
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2012年01月16日

消費税はどういう税金か(2/13)

(2)そもそも消費税とはどういう税金なのか

 前回は、野田佳彦首相が消費税増税に並々ならぬ決意を示している背景について探ってみた。端的には、その背景には、消費税の大増税という十数年ぶりの大事業を何としても成し遂げんとする財務省や財界の強烈な意志があるのだ、ということであった。このことは、政治的には八方塞がりの情況の中で消費税増税に向けた野田首相の熱意だけが空回りしている、といった見方が極めて皮相なものであることを意味する。財務省や財界の意志は、政府・与党のみならず、政権奪還を目指す自民党をも大きく規定する。そうである以上、たとえ消費税増税法案の審議が行き詰まってしまったとしても、衆議院の解散総選挙を経て民主党および自民党(の消費税増税に積極的な部分)による大連立政権が成立し、その大連立政権の下で消費税増税法案を成立させる、という展開が模索されていく可能性が高い。要するに、消費税増税の是非をめぐる攻防は、1997年以降で最も緊迫した局面を迎えているのだ、ということであった。

 このように、近い将来、消費税増税の是非を最大の争点にした衆議院総選挙が実施されることになる可能性がきわめて高い。主権者たる国民の一人ひとりが、消費税の増税を是とすべきか非とすべきか、主体的な判断を求められる局面が、近い将来に必ずやって来るのである。財務省や財界の強い影響下にある新聞やテレビなどのマスコミは、消費税増税問題をめぐって、国の将来に責任を持つ賛成派と無責任極まりない反対派という対立構図をつくりあげ、消費税増税を容認する方向へ世論を誘導していこうとするであろう。こうした中で、主体性ある主権者として的確な判断を下していくためには、そもそも消費税とはいかなる税金なのか、という本質的なところにまで遡っての把握が絶対に必要になってくる。

 こうした中で、現在、耳目を集めている消費税増税反対論は、大きく以下の二点の根拠に基づいているように思われる。一つは、消費税の増税よりも前に徹底した無駄の削減が必要である、という点である。もう一つは、デフレで経済が低迷している情況の下では消費税の増税はすべきではない、という点である。それぞれもっともことのようにも思われる。しかし、これらの点を根拠にした消費税増税論は、財政再建や社会保障制度の持続性確保のために消費税の増税そのものは仕方ないのだが……という前提に一定の留保を付けているようなものにすぎない。あくまでも、野田政権が現在進めようとしているような消費税増税には反対、ということであり、消費税の増税そのものに反対しているわけではないのである。そこには、そもそも消費税とはいかなる税金なのか、消費税の増税そのものが一体いかなる意味を持つのか、と問う視点が欠けている。本稿で提起しようとするのは、まさにそのような問いにほかならないのである。

 本稿において、そもそも消費税とはいかなる税金なのか、と問うにあたって、まず俎上に載せなければならないのは、1月6日に正式決定された「社会保障・税一体改革素案」の中の以下の文言である。

「社会保障改革と一体的に実施する今回の税制抜本改革の最大の柱は、社会保障財源を確保するための消費税率の引上げである。消費税は、高い財源調達力を有し、税収が経済の動向や人口構成の変化に左右されにくく安定していることに加え、勤労世代など特定の者へ負担が集中せず、経済活動に与える歪みが小さいという特徴を持っている。社会保険料など勤労世代の負担が既に年々高まりつつある中で、こうした特徴を持ち、幅広い国民が負担する消費税は、高齢化社会における社会保障の安定財源としてふさわしいと考えられる。」

 これは、消費税が社会保障の安定財源としてふさわしいと考えられる理由を述べたものである。ここで消費税の特徴として述べられていることがいかなる意味なのか、少し詳しく検討してみることにしよう。

 まず、「高い財源調達力を有し、税収が経済の動向や人口構成の変化に左右されにくく安定している」というのは、経済動向の如何や人口構成の如何に関わらず、国民生活が維持されていくためには必ず何らかの消費活動(正確に言えば、財・サービスの購入という経済的な取引)が継続されていなければならない、という厳然たる事実に関わっている。すなわち、消費活動を止めてしまうわけにはいかない以上、消費に対して課せられる消費税は取りっぱぐれがない! ということになるわけなのである。続いて、「勤労世代など特定の者へ負担が集中せず」と述べられているが、これは、消費活動はあらゆる世代・あらゆる階層・あらゆる業種の人々がやることだ、という意味に他ならない。最後の「経済活動に与える歪みが小さい」というのは、基本的に全ての消費活動(経済的な取引)に一律の税が課せられるため、特定の経済活動を抑制したり助長したりすることがない、という意味である。

 これらの特徴が成り立つためには、ある大前提が成り立たなければならないことにお気づきだろうか。それは、消費税が基本的に全ての消費活動(経済的な取引)に対して公平に(一律5%!)課税されている、ということに他ならない。「消費税は、消費一般に広く公平に課税する間接税です」(国税庁「消費税のあらまし」)というわけだ。このことは、暗黙の内に前提されており、恐らくほとんど全ての人が、当然に成り立っているものと考えていることであろう。

 しかし、本稿では、この点に強く疑問を呈したい。この大前提がはたして本当に成り立っているのかという観点から、そもそも消費税はいかなる税金なのかという問題を解いていきたいと考えるのである。また、このことを通じて、消費税の増税そのものが一体いかなる意味を持つのかという問題も自ずと解けてくることになるであろう。

 本稿での議論は、無駄の削減が徹底してなされていないこと、経済情勢が厳しいことを理由とした消費税増税反対論が、到底まともな反対論とは言えないことを示すだけでなく、「4人家族で年17万円の消費税負担が税率10%になったら34万円になってしまう」などという類の反対論の不充分さをも明かにするであろう。この種の反対論も、消費税が全ての消費活動に対して均一に課税されているということを前提にしているからである。本稿は、弱者ほど負担が重くなるという結論においてはこの種の反対論と立場を共有するが、そのような結果をもたらす過程の構造はそう単純なものではない、と考える。消費税の負担が弱者に押し付けられていく過程的構造の問題は、「消費税が全ての消費活動に対して均一に課税されている」という前提が全くの虚構でしかないという問題と、全く切り離すことの出来ない繋がりの中にあるのである。
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2012年01月15日

消費税はどういう税金か(1/13)

(1)消費税増税へ暴走する野田佳彦政権

 2012年1月6日、政府・与党は、消費税率を2014年4月に8%、15年10月に10%へ引き上げることを柱とする「社会保障・税一体改革素案」を正式に決定した。また、1月13日に行われた内閣改造においては、一体改革の担当相を兼務する副総理として岡田克也前民主党幹事長が入閣し、「消費税増税シフトを鮮明にした」(「京都新聞」1月13日付夕刊)などと報じられた。2011年6月30日、すでに菅直人前政権下において、「2010年代半ばまでに消費税を段階的に10%まで引き上げる」との成案が決定されていたが、前政権で財務大臣を務めていた野田佳彦を首班とする現政権において、その実現に向けた動きが一気に具体化してきているのである。現在、政府・与党は、年度内に関連法案を国会に提出することを目指して、野党に協議を呼びかけている。

 しかし、民主党は、政権交代を実現させた2009年の総選挙で「国民の生活が第一」との理念を掲げ、消費税増税について4年間は議論しない、と訴えていたのであった。それだけに、この素案の正式決定に至るまで、民主党内は大きく紛糾し、少なくない離党者まで出すことになった。党内において反対論はいまだにくすぶっており、さらなる離党者が出ることも予想されている。また、協議を呼びかけられている野党側にも、諸々の政治的思惑(衆議院解散に追い込みたい、など)も絡んで、これに積極的に応じようとする気配はない。こうした面に着目するならば、消費税増税法案の成立への道のりは、決して平坦なものではなさそうに思われるであろう。実際、新聞やテレビなどマスコミも、当面の通常国会を展望した場合の消費税増税法案成立の見通しという点では、このような見方を伝えているのである。

 しかし、このような情況の中において、異様なまでに際立って見えるのが、消費税増税にかける野田佳彦首相の並々ならぬ決意である。この間、野田首相は、「政治生命をかける」「政治家としての集大成」「ネバー、ネバー、ネバー、ネバー・ギブアップ」等々、聞いている方が気恥ずかしくなるほどの大仰なフレーズを振り回して、消費税増税の実現に向けた強い意欲をことさらにアピールしてきた。内閣総理大臣という政界の最高ポストに登りつめた野田佳彦という一人の政治家を、政治生命をかけて、自身の政治生活の集大成として、絶対に絶対に絶対に絶対に諦めないという決意で、消費税増税法案の成立という目標へと突き進ませているのは、一体いかなる力なのであろうか。芝居がかって感じられるほどに大仰なフレーズは、単に消費税増税の実現という容易ならざる目標の実現に向けて自身を鼓舞するためだけのものなのか、それとも誰かに向けての懸命のアピールなのであろうか。

 野田佳彦という一人の政治家に好意的な見方からすれば、これは、あくまでも彼自身の「日本の繁栄、国民の幸せを実現したい」との信念に基づいてのものだということになるであろう。彼は、昨年末、日本経団連の会合において「私は自分の政権の延命のために政治をしているわけではないし、民主党のために政治家になったのではない。日本の平和と繁栄、国民の幸せを実現するために政治家になった。その原点を踏まえて決断し、政治を前進させていきたい」と述べて、消費税増税への強い決意を示したのだが、ひょっとしたら、本当に純粋にそう思い込んでしまっているのかもしれない。

 しかし、政治の世界とは、独自の利害関係を背負った諸々の社会的勢力の要求がぶつかり合いながら一つの国家意志へと収斂されていく場にほかならない。そうである以上、内閣総理大臣という地位にある政治家を、彼自身の主観的な信念という観点からのみ取り上げるわけにはいかない。いかなる勢力の利害関係との相互浸透によって、(ひょっとしたら彼がもともと持っていたのかも知れない)「日本の繁栄、国民の幸せを実現したい」との思いが消費税の増税という課題に向けられるようになったのか、ということが問われなければならないのである。野田佳彦が「日本の繁栄、国民の幸せ」につながるものとして消費税増税を合理化するようになったのは、一体いかなる勢力からの働きかけを受けてのものなのか。

 直接的には、やはり何といっても、財務省からの働きかけによるものといわなければならないであろう。財務省は、財政再建至上主義を信奉し、消費税増税を悲願としてきた。少なくとも、財務省が財政危機を喧伝して消費税増税の必要性を主張し続けてきたことは、陰謀論でも何でもなく、誰もが否定しようのない公然たる事実である。野田佳彦は、首相に就任するまで財務大臣を務めていたが、この間に、消費税増税の不可避性なるものについて、財務省官僚から徹底的に刷り込まれてしまったことは想像に難くない(このことは、民主党の公約を踏みにじって消費税増税へと転換した前首相の菅直人もまた、首相になる直前に財務大臣を務めていたという事実によって強く示唆される)。週刊誌などでは、財務省事務次官の勝栄二郎が、野田首相に対して強い影響力を有していることがしばしば指摘され、“野田政権は財務省傀儡政権、真の総理は勝栄二郎”という類の揶揄までなされている始末である。

 しかし、消費税増税をめぐってのより根本的な利害関係勢力として忘れるわけにはいかないのが、日本経団連などの財界団体である。財界は、法人税の減税とともに社会保障の抑制および消費税の増税を強く求め続けてきた。野田政権は財務省のみならず、この財界とも非常に近い関係にあると見なければならないのである。このことに関わっては、昨年8月の民主党代表選挙において小沢一郎元代表に支援された海江田万里を破って勝利した野田佳彦が、国会での首班指名を受けた翌日の9月1日、まだ組閣前であるにもかかわらず、日本経団連など財界団体を訪問して米倉弘昌経団連会長などと会談していることが象徴的である。新首相が組閣前に財界団体を訪問するのは異例中の異例の出来事であり、このことは、マスコミでも驚きをもって報じられた。およそあらゆる事物の本質はその原点にこそはっきり現われている、ということができるのだが、野田政権がその出発点において、何をさておいても財界団体への訪問を優先させたことは、この政権の“財界傀儡政権”としての性格を端的に現わすものと見なければならない。野田政権の“財界傀儡”的な性格は、TPP交渉参加をめぐる姿勢にも露骨に現れていると言ってよいであろう。

 消費税は1989年に税率3%で導入され、その8年後の1997年には5%に引き上げられたが、財務省や財界はその後も一貫して消費税率の一層の引き上げを求め続けてきた。こうした要求を背景に、消費税の増税をめぐる問題は、政治の世界においてもしばしば大きな争点として浮上してきたが、日本経済の長期低迷が続いたことや反対世論が根強かったことなどもあって、結局、その実現に向けた動きが本格的に具体化することはなかった。今回、消費税増税に向けた動きが急速に具体化してきたのは、やはり何と言っても、財務省や財界の強烈な意志を忠実に反映しようとする野田政権が登場したことが大きいと見なければならないだろう。

 だとすれば、政治的には八方塞がりの情況の中で消費税増税に向けた野田首相の熱意だけが空回りしている、といった見方は極めて皮相なものと言わざるを得なくなってくる。野田首相の強い決意表明の背後に、直接的には財務省の、より根本的には日本経団連など財界団体の、十数年ぶりに消費税の大増税という大事業を成し遂げようという、強烈な意志の存在を重ねて見ておかなければならないのである。財務省や財界の意志は、政府・与党のみならず、政権奪還を目指す自民党の行動をも大きく規定する。このことを考慮に入れるならば、通常国会で消費税増税法案の審議が行き詰まってしまった場合、衆議院の解散総選挙を経て民主党および自民党(の消費税増税に積極的な部分)による大連立政権が樹立され、その下で消費税増税法案が成立させられる、というシナリオが現実味を帯びてくる。要するに、消費税増税の是非をめぐる攻防は、1997年以降で最も緊迫した局面を迎えている、と見なければならないのである。
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2012年01月14日

掲載予告:消費税はどういう税金か(全13回)

 昨日、野田改造内閣が発足し、税と社会保障の一体改革を担当する副総理として、岡田克也氏が入閣しました。税と社会保障の一体改革の大きな柱が消費税増税ですが、野田首相は、その実現に向けた「最強・最善の布陣」(野田首相)ができた、と述べています。

 いわゆる一体改革とは、財政危機が深まる中、歳出の大きな部分を占める社会保障費を徹底して抑制する一方、消費税の増税によって歳出を増やすことで財政を健全化させていこうとするものにほかなりません。消費税増税に反対する論の多くも、大枠では、このような観点からの消費税増税の必要性そのものは認めているようです。ただ、無駄の削減が不徹底なことや、デフレ下での増税が景気に大きな悪影響をあたえかねないことなどを理由にして、現在の野田政権が進めるような消費税増税には反対、ということでしかないのです。そこには、そもそも消費税とはいかなる税金なのか、消費税の増税そのものが一体いかなる意味を持つのか、と問う視点が欠けています。

 本ブログでは、明日から13回にわたって「消費税はどういう税金か」と題した論稿を掲載していきますが、そこで提起しようとするのは、まさにそのような問いにほかなりません。本稿では、“事業者が消費税の負担を消費者に転嫁する”“消費税は納税義務者(事業者)と税負担者(消費者)が異なるから間接税だ”との常識がまったくの虚構でしかないことをあきらかにするとともに、消費税込みの価格での競争が常態となることにより、その負担が市場経済において弱い立場にある人々へ押し付けられていくのは必然的な結果であることをあきらかにしていきたいと考えています。

 以下、目次(予定)です。


はじめに
(1)消費税増税へ暴走する野田佳彦政権
(2)そもそも消費税とはどういう税金なのか

1、消費税は本当に「間接税」と言えるのか
(3)消費税は何に対して課税される税金か
(4)事業者が納税する消費税額はどのように算出されるのか
(5)消費税の消費者への転嫁というのは理屈の上での話に過ぎない

2、消費税は弱者に厳しく強者に優しい
(6)消費税が増税されるとモノの値段は上がるのか
(7)消費税は安定した雇用を崩壊させていく
(8)消費税は大企業への輸出補助金として機能している

3、消費税の増税は日本に何をもたらすか
(9)消費税の増税は中間層を完膚なきまでに解体していく
(10)消費税の増税は日本経済をどん底に突き落とす
(11)消費税の増税は財政破綻を導く

まとめ
(12)消費税は弱者から強者へ富を移転する最悪の税金である
(13)日本を崩壊させる消費税増税を許してはならない
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2010年11月20日

「小沢失脚」謀略を問う(13/13)

(13)日本の支配構造についての理解を広げることが最も肝要である

 前回は、本稿のこれまでの流れを振り返るとともに、“小沢潰し”とでも言うべき動きの今後の展開について、既得権益層は、あらゆる手段を使って小沢氏を政治的に抹殺しようとしてくるに違いないこと、具体的には、指定弁護人による家宅捜索と「小沢逮捕」によって「小沢一郎=犯罪者」というイメージを決定的なものにするとともに、有罪判決に持ち込む危険性があることを見た。

 それでは、このような謀略が淡々と進められていくことを阻むことになりそうな要素は存在しないのであろうか。

 ないことはない。それは何かと言えば、この「小沢失脚」謀略が、利益分配政治の打破を掲げる小沢氏と既得権益層との激烈な闘争の過程での必然的な現象であることを掴んだ強固な小沢支持層の存在である。

 こうした層が、国民のごく少数にとどまる限りは、既得権益層は、何も恐れることはなく、淡々と謀略を進めていくことができるであろう。しかし、こうした層が、大きく広がりうるだけの可能性を秘めているとすれば、既得権益層は慎重にならざるを得ないのである。あまりに露骨なやり方で――その極限が暗殺という手段である――小沢氏の政治生命を奪ってしまったとすれば、「鉄の五角形+アメリカ」の支配構造を打破しなければならないと考える人々の間で、小沢氏は改革の途上における殉教者のごとき存在となり、これらの人々の精神的な結集の拠り所として、極めて強力に機能することになってしまうだろうからである。

 それでは、小沢支持層は、こうした既得権益層の謀略的な動きを抑える程の力を持ちうるのであろうか。

 現在、検察とマスコミの横暴に対してデモ行進が連続的に行われており、組織的動員などなかったにもかかわらず、いずれも1000人を超える参加者を集めている。この動きについては、検察とマスコミを直接の実行者とする“小沢潰し”の動きに抗して、優れた国民的政治家である小沢一郎氏を守りたいとの思いが大きな動機となっていることは間違いない。一人の政治家のために国民がこのような自発的な行動を起こすのは前代未聞と言ってもよいだろう。インターネットを駆使することで、こうした行動を全国各地に広げつつあるという点で、小沢支持層は無視することのできない存在となりつつあると言えるかもしれない。

 このことに加えて、「脱小沢」を掲げた菅政権の失政が、相対的に小沢氏の政治的な存在感を高めるように作用していることも考慮に入れておくべきだろう。

 この点では、小沢氏が、11月3日、インターネットサイト「ニコニコ動画」の「ニコニコ生放送」に出演した際の発言が象徴的であった。小沢氏は、尖閣事件での菅政権の失策について、「自分なら船長を釈放しなかった」「検察に(超法規的な)政治判断をさせたら法治国家でなくなってしまう」などと厳しく批判するとともに、北方領土問題についても「私はゴルバチョフ(元ソ連大統領)に『北方領土を一方的に侵略して占領したのはソビエトだ』と言った」というエピソードを披露した。その上で、「日本政府としての主張をきちんとしないといけない。彼らは自己主張しない人間を軽蔑する」「外交は首脳どうしが直接会ってやるべき。面と向かってしゃべらず、悪口を言うから、信用をなくす」と苦言を呈したのである。要するに、豊富な外交経験を持ち各国首脳と太いパイプを誇っている点で、菅首相や前原外相などとの政治家としての格の違いを見せつけたのである。

 こうしたことが度重なれば、「いくら菅さんが『クリーンでオープン』でも、国家の最高責任者を務めるだけの実力がなければダメだ。少々カネに汚くても実力のある小沢さんに総理をやってもらった方がよいのでは……?」と考える人々が増えてこないとも限らないのである。言うまでもなく、これは極めて健全な考え方である。

 とは言うものの、このような小沢支持層の拡大の可能性を過大評価するわけにもいかない。国民の圧倒的な多数は、マスコミを通じて強烈に刷り込まれた「小沢一郎=悪」というイメージからそう簡単に抜け出すことはできないであろうし、加えて支配層は、菅・仙石政権の失態が「小沢待望論」の高まりにつながらないような対策を打ってきているのである。それは、反小沢派の「ポスト菅」候補の押し出しである。

 現在、マスコミの攻撃の矛先は、仙石官房長官を中心とした菅直人政権そのものに向けられつつある。注意すべきなのは、この間の一連の外交的な失態の第一の責任者(本来なら罷免されて当然!)である前原誠司外務大臣がほとんど批判の対象となっていないことである。それどころか、「世論調査」で首相にしたい政治家のトップが前原氏になったと「前原待望論」を煽っているのである。

 そもそも、今回の尖閣事件の背景には、日中関係を険悪化させることで沖縄米軍基地などの対日利権を確保しようというアメリカの思惑の存在が強く疑われる。前原外相は、そのようなアメリカの思惑に沿って、事態を意図的に混乱させてきたのではないかと考えられるのである。そうであるならば、現在のマスコミの動きは、不安定な菅・仙石政権を崩壊させて、忠実な対米従属派である前原誠司氏を内閣総理大臣に据えようという計画が具体的に進行していることを示しているものと見るべきであろう。

 支配層の思惑は、単に小沢氏の影響を政権から排するという段階(菅・仙石政権)から、より忠実に自らの意向を反映させうる政権を求める段階に移行しつつあるのだ、と見るべきである。支配層の利害からすれば、鳩山・小沢政権の「マイナス」から菅・仙石政権によって「ゼロ」まで戻したが、これを「プラス」に転じるために「前原政権」が求められている、というのが現局面であろう。

 しかし、「前原政権」は日本国民にとって最悪の選択である。そもそも、日本という国の将来を考えるならば、今年9月の民主党代表選挙の際に、菅直人氏などではなく、卓越した改革構想とともにそれを実現するだけの政治的実力を兼ね備えた小沢一郎氏を選出して、内閣総理大臣につけるべきであった。小沢支持層は、現局面においても、小沢氏が早期に裁判で無罪を勝ち取って(あるいは裁判闘争中であってもよい)内閣総理大臣の座につくことを望んでいるであろうが、その可能性はゼロではない(決して諦めてしまう必要はない)にしろ、やはり極めて厳しいことは直視しておくべきであろう。

 それでもなお、「小沢失脚」謀略(加えて、現局面で言えば「前原待望論」)の真相、すなわち、これら一連の動きの背後にある日本の支配構造について徹底的に暴き続けていかなければならない。すべては変化するというのが弁証法の教えである。「鉄の五角形+アメリカ」による日本支配の構造も、永久不変のものではあるまい。しかし、この構造を根本から崩すためには、何世代にも渡る激烈な闘争が必要なのかもしれない。そうであるならば、何よりも重要なのは、国民の間にこのような支配構造についての理解を広げていくことであり、国民自身の手によって、小沢一郎氏の志を継いでこのような支配構造と闘おうとする優れた政治家を育てていくことなのである。

(了)
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2010年11月19日

「小沢失脚」謀略を問う(12/13)

(12)小沢一郎氏を政治的に抹殺しようとする意志が厳然と存在している

 本稿は、検察審査会による「起訴議決」など、小沢一郎氏の政治生命を断とうとするかのような一連の動きが、日本という国家の歴史的な発展過程において一体如何なる意味を持つものなのであるかを探るとともに、主権者たるわれわれ国民が、こうした動きを一体どのように受け止めていくべきなのかを考察することを目的としたものであった。

 ここで、これまでの論の流れを振り返っておこう。

 本稿では、まず、マスコミによって喧伝された「政治とカネ」疑惑なるものの実態を探った。その結果、国民の多くは、疑惑の具体的な中身については必ずしも明確なイメージを持たない(持てない)ままに、極めて漠然とした「小沢一郎=犯罪者」というイメージを刷り込まれてしまっていること、「起訴議決」の対象となったのは陸山会の政治資金収支報告書における土地取得と代金支払いの時期のズレでしかないこと、このようなズレ自体は土地取引においては必ずしも不自然なものではなく、ここに何らかの犯罪性を見出そうとするのは「小沢はカネに汚い」という虚像に影響された憶断に過ぎないことを明らかにした。また、検察の恣意性をチェックすべき機関である検察審査会が、検察の恣意性を補完する機関に成り下がってしまっている疑いが濃厚であり、今回の「起訴議決」が、「罪を犯したかどうか怪しい人物は確かな証拠がなくてもとりあえず裁判にかけてしまえ」という極めて乱暴な屁理屈に基づいたものであることをも明らかにした。

 次いで、小沢氏がここまで不当な攻撃を受ける理由を、小沢氏が如何なる政治的理念を持っていかなる改革を志してきたのかという観点から探った。その結果、小沢氏は、戦後日本社会(国家)の特殊な構造――「聖徳太子」以来の「コンセンサス社会」という条件の上に、「アメリカの傘」への依存を前提とした「富の再配分」への集中によって形成されてきた利益分配型政治――の根本的な変革(解体・再編)を志していたこと、より具体的には、政官財の“鉄の三角形”にマスコミと御用学者を加えた“鉄の五角形”をアメリカが上から統括するという構造を打破しようとしていたことを確認するとともに、これら既得権益層の中からこそ“小沢潰し”の動きが出てきたと考えられることを、アメリカ、検察、マスコミの三者が持つ利害関係の面から指摘した。

 さらに、こうした“小沢潰し”の動きを、主権者である国民がどのように受け止めているのかを検討した。多くの国民がマスコミの影響の下で小沢氏排除の動きに快哉を叫ぶ一方で、先の民主党代表選挙以来、「マスコミ情報を鵜呑みにしないで、自分で見聞きし自分で考え自分で判断する態度」の広がりを伴って小沢支持層の拡大・深化が進行しつつあること、より具体的には、激烈な“小沢潰し”の動きの存在によって日本の支配構造(“鉄の五角形”+アメリカ)が浮き彫りにされつつある中で、こうした支配構造を掴んだ強固な小沢支持層が少数ながらも形成されてきていることを見た。また、左派的な立場から小沢支持に転じる人々が少なくないことに着目し、小沢氏の政策の「変化」の過程について辿ることで、従来の右翼(保守)・左翼(革新)の対決の枠を超えた真の国民的な政治家として小沢氏が登場してきていることを見た。

 それでは、以上を踏まえるならば、“小沢潰し”とでも言うべき動きの今後の展開について、どのような展望を持つことができるであろうか。

 先にも振り返ったように、「起訴議決」の対象となった土地取得と代金支払い時期のズレに何らかの犯罪性を見出すのは困難であるし、その背景に想定されていたゼネコンによる裏献金なるものについても何の証拠もない。実際に裁判になれば小沢氏は99%は無罪だ、と言われる所以である。だとすれば、小沢氏は裁判闘争でほぼ確実に無罪を勝ち取り、晴れて政治的な復権を果すことが可能になる、と考えることができそうである。「脱小沢」を掲げた菅・仙石政権の数々の失態が、相対的に小沢氏の政治的な存在感を高めるように作用しつつあるという事情も、このような楽観的な見通しの根拠となりそうである。

 しかし、このような見方はやはり甘いと言わなければならないであろう。検察の横暴な捜査、マスコミの異常なまでの偏向報道、検察審査会にまつわる諸々の疑惑等々から、既得権益層の“小沢潰し”への尋常ではない執念を読み取るべきである。「鉄の五角形+アメリカ」の既得権益層は、あらゆる手段を使って、小沢氏を政治的に抹殺しようとしてくると見ておかなければならない。

 現在、東京地方裁判所によって検察官役の指定弁護人が選任され、小沢氏の起訴に向けた手続きが進められているが、指定弁護人は検事同様に、家宅捜索や逮捕もできる強大な権限を持っていることに注意すべきである。家宅捜索によって新たな疑惑を捏造し、小沢氏の身柄を拘束して「小沢一郎=犯罪者」を国民に対して強烈に印象付けるとともに、裁判において実際に有罪判決に持ち込む、といった可能性は充分にあり得るのである。あるいは、最悪の場合には、暗殺ということもあり得ないではない、と見ておくべきであろう。
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2010年11月18日

「小沢失脚」謀略を問う(11/13)

(11)左右の立場を超えて小沢支持層が形成されている

 前回は、激烈な“小沢潰し”の動きの存在が、日本の支配構造――政官財の“鉄の三角形”に御用学者とマスコミを加えた“鉄の五角形”をアメリカが上から統括しているという構造――を浮き彫りにしていること、こうした構造を掴みつつある少数ながらも強固な小沢支持層が形成されてきていることを見た。

 重要なのは、こうした小沢支持層が、戦後政治の構造を規定してきた保守対革新という枠組みを超えたところに形成されていることであり、とりわけ特徴的なのは、いわゆる左派的な立場から小沢氏支持に転じる人々が、どうやら少なくないらしいことである。

 もともと小沢氏が、1993年に『日本改造計画』を著すとともに、自民党を飛び出して非自民連立の細川政権を樹立した頃には、「政治改革」(=保守二大政党制につながる小選挙区制の導入)をテコに、日本の軍事大国化(自衛隊の海外派遣)と新自由主義的改革(規制緩和と民営化の推進)を強力に推進する実力を持った政治家として、マスコミからは歓迎される一方で、左派的な人々からは強い警戒感を持たれていたものである。

 この頃には、1955年体制、すなわち、利益配分をめぐる自民党と社会党との馴れ合い構造を壊すという点で、小沢氏の志す改革と支配層――“鉄の五角形”の中核たる財界とアメリカ――との利害が一致していた、少なくとも決定的な齟齬はなかった、と見るべきであろう。

 しかし、財界が望んだのは、利益配分構造の打破ならぬ財界に有利な形での再編、すなわち、高度成長の終焉に対応して、労働者や農民や自営業者に配分する富を減らし大企業の一層の利潤追求のために資源を集中させていく体制を確立することでしかなかった。また、アメリカが望んだのは、場合によっては国連を無視した単独行動も厭わずに自国の利益を追求していくことであり、こうした行動に日本を軍事的に協力させていくことであった。自衛隊の海外派遣やその条件整備のための憲法9条改定の動きなども、あくまでこうしたアメリカの世界戦略の枠内で要請され認められるものに過ぎなかったのである。

 「コンセンサス社会」の土台の上に築かれた利益配分構造を打破して“自立した国民による自立した国家”を建設し、国連重視の外交姿勢によって世界平和に貢献していこうとする小沢氏の理念は、こうした支配層の思惑とはもともと相容れないものであった。この食い違いは、5年に渡る長期政権となった小泉政権に対して、小沢氏が一貫して野党の立場から厳しい対決姿勢を取り続けたことを媒介として、決定的なものへと深化し、また表面化していくことになった。

 すなわち、外交については、小沢氏は、一貫した国連重視の立場から、小泉政権の対米追従のみならず、国連を無視しての単独行動でイラク戦争を起こしたアメリカの姿勢そのものを厳しく批判するに至った。また、内政については、「小泉政治とは市場原理・自由競争の名のもとに、セーフティネットの仕組みについて何の対策も講ずることなく、ごく一部の勝ち組を優遇し、大多数の負け組みに負担を押し付ける政治に他ならない」(『小沢主義』集英社)と厳しく批判するに至ったのである。

 こうした小沢氏の「変化」こそが、左派的な層からの小沢支持者を生む直接の要因になったものと思われるのである。

 しかし、こうした小沢氏の「変化」を“左転向”“左傾化”だとするのは皮相な見方であろう。というのも、「コンセンサス社会」の土台の上に築かれた利益配分構造を打破して“自立した国民による自立した国家”を建設し、「国連重視」を掲げた外交によって世界平和に貢献していこうとする小沢氏の理念そのものは、一貫して揺らいでいないからである。小沢氏は「変わらずに生き残るには、みずから変わらなければならない」という言葉を好んで口にするが、まさにこの言葉のとおり、自身の改革構想の根本理念を変えないために、具体的な枝葉の部分を、国際政治、国内政治の激動に対応させる形で、変えてきたわけである。

 外交政策の面での「変化」については、以前にも取り上げたので、ここでは、経済政策・社会政策の面での「変化」の性格について検討しておこう。

 小沢氏は保守政治家として初めて「セーフティネット」を政策の柱に据えたとされているが、このことの意味について、「小沢研究20年」とされる政治記者の渡辺乾介氏は、次のように指摘する(『週刊ポスト』2010年9月17日号)。

「小沢氏は選挙応援の際、大票田の都市部ではなく、過疎地域を重視することで知られている。
 中央政府の官僚統制が行き過ぎた結果、既得権による富の偏在が起きて地方の疲弊や国民格差の広がりを生み、社会を疲弊させたと考えているからです。
 社会や経済の活力を取り戻す為には、先ずセーフティネットを充実させて既得権を持たない国民を支援し、同時に官僚統制による既得権をなくすことが必要だというわけです。
 いわば国民を平等な条件で競争させる為のセーフティネットということです」

 つまり、小沢氏の政策的な体系においては、セーフティネットは国民の自立を促す手段に他ならないわけである。この点で、官僚統制や国民の「お上意識」の温存と結びつきやすい従来の左翼的なセーフティーネット論とは一線を画している。小沢氏が新自由主義的政策からバラマキ政策へと180度転換したかのように捉えるのは、皮相な見方なのである。

 以上を要するに、「もう、右翼だの左翼だのといったカビの生えたイデオロギー分類につきあう必要もない」(近藤成美「マルクス国家論の原点を問う」『学城』第1号)現代において、従来の右翼(保守)・左翼(革新)の対決の枠を超えた、真の国民的な政治家として、小沢氏が登場してきているのだ、と言えるであろう。このことが、従来の左右の立場の違いを超えて、強固な小沢支持層が形成されてきている最大の根拠である。
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2010年11月17日

「小沢失脚」謀略を問う(10/13)

(10)小沢一郎氏をめぐる動きが日本の支配構造を炙り出している

 前回は、小沢一郎氏が、自身の志す改革が既得権益層の激烈な抵抗にあうことは承知の上で、それでもなお決死の覚悟を持って改革に臨もうとしてきたのだ、ということを彼の発言から確認してきた。

 それでは、このような小沢氏の決死の覚悟を持っての闘いは、主権者である国民にどのように受け止められているのであろうか。

 残念ながら、国民の多くは、マスコミの意図的な報道に影響されて、「小沢はカネに汚い政治家である」「小沢は強権的・独裁的である」といった芳しくないイメージを抱くばかりか、菅直人政権が「脱小沢」を掲げることによって高支持率を得てきた(裏を返せば「脱小沢」を掲げることでしか支持を獲得できなかった)ことに端的に現れているように、小沢氏を政界から排除しようという動きに快哉を叫ぶような有様である。

 しかし、少数ではあるものの、確固として小沢氏を支持する人々はずっと存在し続けていた――小沢氏が党首を務めていた自由党の比例票から、小沢氏個人が全国的に500万票の固定票を持っているともされている――し、今年9月の民主党の代表選挙を通じて小沢氏が自身の改革への信念を広く国民に対して訴えたことは、小沢氏の支持層をかつてなく拡大・深化させていくこととなった。このあたりの事情を、岩手県知事の達増拓也氏が端的に「オザワ現象」としてまとめている(以下の引用は「THE JOURNAL」内「よろんず」9月29日の記事より)。
 
「今回の民主党代表選で、多くの国民が、小沢一郎氏の演説や討論の姿を直接あるいはテレビやインターネット(以下『ネット』)で見聞きし、少なからず驚き、考えさせられた。その結果、小沢支持がかつてないほど拡大・深化すると共に、マスコミ情報を鵜呑みにしないで、自分で見聞きし自分で考え自分で判断する態度が、国民に広がった。これを私は『オザワ現象』と呼んでいる。……中略……
 小沢・菅両氏の共同記者会見生中継で、全国に衝撃が走った。二人の力量の差が、一目瞭然だったのである。ツイッターにも、『小沢一郎氏の圧勝だった。正直、ここまで政治家としての資質に差があるとは思わなかった。』『菅さんはネチネチと個人攻撃するけど小沢さんはやらない。まさか品性の差が記者会見でここまではっきりするとは思わなかった。』といったツイートがあふれた。
 その後、討論会や街頭演説などを重ねるにつれ、小沢・菅両氏の差に、驚き、考えさせられる国民が増えていった。ツイッターで小沢氏を検索すると肯定的意見がたくさん寄せられているのに対し、菅氏を検索するとコメントがほとんどないのも驚きだった。小沢対菅の戦いではなく、ネット対マスコミ、市民対マスコミの戦いだ、という指摘もあった」

 重要なのは、小沢支持層の拡大・深化とは、直接に「マスコミ情報を鵜呑みにしないで、自分で見聞きし自分で考え自分で判断する態度」の広がりのことであった、ということである。日本政治が抱える問題の構造を深く掴んで揺るぎない改革の信念を率直に力強く語る小沢氏の姿にまともに接することで、少なくない国民が、マスコミによって流されてきた情報が偏向しているらしいことに気づかされるとともに、その背後に何かしらの思惑があるらしいことについても考えさせられるようになっていったわけである。

 より具体的には、少なくない国民が、何かしらカネの問題を抱えている政治家は決して少なくないであろうになぜ小沢氏だけが「政治とカネ」疑惑なる漠然とした言葉で殊更に叩かれなければならないのか、といった疑問から、インターネット等を通じてマスコミが決して報じることのない情報を集めることで、“小沢潰し”とでも言うべき動きが確かに存在しているらしいこと、これは小沢氏が志す改革を叩き潰してしまうことに利益を見出す既得権益層による抵抗の現れに他ならないことを掴んでいったのである。

 要するに、既得権益層からの激烈な抵抗をも受け止める覚悟で「コンセンサス社会」の土台の上に立った利益分配政治の改革を掲げ続けた小沢氏の闘いが、日本の支配構造――本稿での表現で言えば、政官財の“鉄の三角形”に御用学者とマスコミを加えた“鉄の五角形”をアメリカが上から統括しているという構造――について、浮き彫りにしてくれることになったわけである。小沢支持層の深化とは、このような日本の支配構造についての理解の深化をも伴って進んでいるものと見るべきであろう。

 検察審査会による「起訴議決」は、このような理解の深化を大きく促進するものであった。既得権益層の抵抗は、直接的には、検察とマスコミの横暴として現象しているが、この検察とマスコミの横暴に対して、デモ行進――これまで東京において10月24日と11月5日の2回行われ、それぞれ1000人ほどを集めたという――という形で抗議の声が挙げられるまでに至ったのである。

 このように、小沢支持層は日本の支配構造を掴みつつあるだけに、少数ながらも強固である。民主党代表選挙の際のマスコミの「世論調査」なるもの――これは固定電話によるものであるから、昼間自宅にいて電話を取ることのできる層が中心となる――では、概ね菅支持が70〜80%に対して小沢支持が20%弱であったが、この数字を仮に受け入れるとしても、菅支持がマスコミの“小沢叩き”の姿勢に影響された「小沢だけはイヤだ」という消極的な支持であるのに対して、小沢支持は、マスコミの論調などものともせず(と言うよりもむしろマスコミの論調そのものに批判の矛先を向けての)「日本の改革は小沢でなければできない」という強固な支持であると考えることができるのである。
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2010年11月16日

「小沢失脚」謀略を問う(9/13)

(9)小沢一郎氏は自身への攻撃をどのように受け止めてきたか

 本稿は、検察審査会による「起訴議決」など、小沢一郎氏の政治生命を断とうとするかのような一連の動きが、日本社会(国家)の歴史的な発展過程において一体如何なる意味を持つものなのであるかを探るとともに、主権者たるわれわれ国民が、こうした動きを一体どのように受け止めていくべきなのかを考察することを目的としたものであった。

 これまで、小沢氏が、戦後日本社会(国家)の特殊な構造――「聖徳太子」以来の「コンセンサス社会」という条件の上に、「アメリカの傘」への依存を前提とした「富の再配分」への集中によって形成されてきた利益分配型の戦後政治の構造――の根本的な変革(解体・再編)を志していたこと、より具体的には、政官財の“鉄の三角形”にマスコミと御用学者を加えた“鉄の五角形”をアメリカが上から統括するという構造を打破して“自立した国民による自立した国家”の確立を志していたことを確認するとともに、これら既得権益層の中からこそ“小沢潰し”の動きが出てきたと考えられることを、アメリカ、検察、マスコミの三者が持つ利害関係の面から指摘した。

 それでは、こうした“小沢潰し”という背景を持った一連の動きを、主権者である国民はどのように受け止めているのであろうか。マスコミの「世論調査」なるものに現れているように、ほぼ「小沢=悪」一色で塗り込められている、といった状態なのであろうか。 

 小沢氏をめぐる国民世論は、既得権益層の利害を直接的・媒介的に反映したマスコミによる小沢攻撃、およびこうした攻撃への対応をも含めた小沢氏自身の言動によって、過程的に創られていくものである。既得権益層からの小沢攻撃については、これまでのところで検討してきたので、ここでは、小沢氏をめぐる国民世論の問題について検討していくための前提として、小沢一郎氏自身がこうした攻撃をどのように受け止め、どのように対処しようとしているのか、検討することにしよう。

 戦後日本社会(国家)の構造的な問題点を深く把握している小沢氏であれば、自身の志す改革が既得権益層の激烈な抵抗を呼び起こさざるを得ないことを承知しているのは当然である。例えば、2003年6月2日に行われた、民主党と合併する前の自由党大会において、自由党党首であった小沢一郎氏は次のように挨拶している(奥村宏『経済学は死んだのか』平凡社新書、201ページによる)。

「政治家、官僚、業者の癒着は『鉄のトライアングル』といわれるが、それにマスコミと御用学者を加えた『鉄のペンタゴン(五角形)』となっています。これを壊すことは気の遠くなるような難事業であり、よほど心してかからないと、こちらが押しつぶされてしまいます」

 これはまさに、現在の“小沢潰し”のような事態が生じうることを予見していたかと思わせる言葉である。

 しかし、だからと言って、小沢氏は決して改革を諦めようとはしない。「改革がもたらす『現実』におびえて、改革そのものを中途半端なものにしてしまのなら、最初から改革などやらないほうがいい」(『小沢主義』集英社)と言うのである。

 この覚悟は生半可なものではない。今年9月に行われた民主党の代表選挙の際、高知県香南市での街頭演説(9月6日)においては、次のように述べている。

「内閣総理大臣、日本の内閣総理大臣は、どこの国の大統領、首相よりも強大な権力をもっております。最高裁判事から何から内閣が任命できる。何もかも内閣でもって、すべてやろうと思えばできる権限を持っている。要は自分が責任を取る、間違ってたらオレが責任が取る、そういう政治家の腹構え、それがない! だから結局役人の言うがままになってしまう。私はみなさんと約束したことを、必ず政治生命を賭けてというより、本気になってやろうと思えば物理的生命をも賭けなければならないかもしれません。私はその覚悟で必ずみなさんと約束したことを実行してみせます」

 「物理的生命をも賭けなければならない」というのは悲壮な決意である。これは単に自身の健康問題のことではなく、暗殺の危険性をも含めての言及であろう。このことについては、9月14日の民主党代表選挙の国会議員投票直前の演説においても、次のように述べている。

「明治維新の偉業を達成するまでに多くの志を持った人たちの命が失われました。また、わが民主党においても、昨年の政権交代をみることなく、志半ばで亡くなった同志もおります。このことに思いをはせるとき、私は自らの政治生命の総決算として最後のご奉公をする決意であります。そして同志の皆さんとともに、日本を官僚の国から国民の国へ立て直し、次の世代にたいまつを引き継ぎたいと思います。そのために私は政治生命はおろか、自らの一命を賭けて全力で頑張る決意であります」

 ここで「志半ばで亡くなった同志」と言及されている中には――同日の菅直人氏の演説のように明確に名前を挙げてはいないものの――特別会計の闇を暴こうとして暗殺された石井紘其代議士も含まれているであろう。「このことに思いをはせるとき……」としているのだから、これは、自身もまた暗殺の危険に晒されざるをえないということへの覚悟をも含んでの、「一命を賭けて」の宣言だったのだ、と受け止めるべきであろう。
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2010年11月15日

「小沢失脚」謀略を問う(8/13)

(3)小沢一郎氏の志す改革は既得権益層の利害と衝突する

 前々回と前回にわたって、小沢一郎氏が日本の政治の現状をどう把握し、どのような改革を提起しているのか、国内的な政治構造と外交とに分けて確認した。端的には、「自立した国民による自立した国家」とまとめることができるであろう。

 これは、「聖徳太子」以来の「コンセンサス社会」という条件の上に、外政的には「アメリカの傘」への依存、内政的には「富の再配分」への集中によって形成されてきたところの、戦後日本社会(国家)の特殊な構造を根本的に変革(解体・再編)することを志すものに他ならない。

 戦後日本社会の構造をもう少しだけ具体的に解くならば、以下のようになろう。

 大枠としては、「アメリカの傘」によって、外交・防衛など、国家の存立に直接関わる問題に向きあう必要がなかった、という条件がある。この大枠の中で、財界を構成する大企業が富の生産を担い、この富を税として徴収した上で農民や自営業者へと再配分していく過程を政治家と官僚が担ったのである。こうして、いわゆる「政官財」という“鉄の三角形”の癒着構造が形成されていくことになった。この“鉄の三角形”は、マスコミ、御用学者たちの存在によって補完され(御用学者たちが「政官財」の支配を支える「理論」をつくりだし、これをマスコミが利用しながら国民世論をつくっていく)、ここに“鉄の五角形”が形成されたのである。

 こうした“鉄の五角形”をさらに上部から統括したのが“宗主国”であるアメリカ(より具体的には、デイヴィッド・ロックフェラーなど米国を実質的に支配する国際金融資本家たち)であった。アメリカ(より具体的には直接に対日支配を担う「ジャパン・ハンドラーズ」とも呼ばれる人々)は、政治家・官僚・財界人・マスコミ人・御用学者とそれぞれのレベルで結びつき、米国の対日支配を貫徹しようとしてきたのである。

 小沢氏が提起する「自立した国民による自立した国家」への改革は、このような「“鉄の五角形”+アメリカ」による利権の絡み合った癒着構造を根本的に破壊してしまおうとするものに他ならない。ここに、小沢氏がこれら既得権益層に徹底的に嫌われる最大の根拠がある。

 今回の検察審査会の「起訴議決」に至るまでの“小沢潰し”とでも言うべき一連の動きについて、これら諸勢力の思惑が働いているのではないか、との指摘がなされている。いくつか具体的に見ておくことにしよう。

 一連の“小沢潰し”の動きの発端となったのは、2009年3月3日、公設第一秘書であった大久保隆規氏が、準大手ゼネコンの西松建設からの政治献金に関して検察に任意の事情聴取を受け、その場で突然「政治資金規正法違反容疑」で逮捕されたことである。実は、この直前の2月24日に、小沢氏は「アメリカの極東におけるプレゼンスは第7艦隊で十分だ。アメリカに唯々諾々と従うのではなく、私たちもきちんとした世界戦略を持たなければならない」との趣旨の発言をしていた。この発言の直後に大久保秘書が逮捕されたことについて、羽田孜内閣で運輸大臣を務めた二見伸明氏は「ああ、これはCIA(=米国政府)の仕事だな、と思った」と述べている(世川行介『泣かない小沢一郎(あいつ)が憎らしい』同時代社、2010年8月)。

 当時は、自民党・麻生政権の支持率が著しく低迷しており、近く行われる総選挙による政権交代がほぼ確実視され、小沢政権の誕生の可能性が高いと見られていた時期であった。要するに、小沢政権の成立を阻むために、アメリカの意志によって、“小沢潰し”の一連の動きが具体的に発動されたのだ、と見ることができるのである。

 この“小沢潰し”の過程を実際に担ったのは、何と言っても検察、より正確に言えば、アメリカの強い影響下にあるとされる東京地検特捜部――その前身はGHQによってつくられた「隠匿退蔵物資事件捜査部」であり、上層部に在アメリカ日本大使館の一等書記官経験者が多い――であった。

 しかし、検察は、単にアメリカ政府の意を受けただけでなく、独自の利害関係から、“小沢潰し”にのめり込んでいったと思われる節がある。このあたりの事情について、ジャーナリストの伊藤博敏氏は、そもそも小沢氏が検察に狙われたのは検察の人事を政治の側が押さえる仕組みをつくることで「政治主導」を「法務・検察」にも導入しようとしていたからではないか、より具体的には、検事総長の内閣同意制、検事正の公選制、録画録音を含む捜査の可視化といった検察改革の構想を持っていたからではないか、という見方を示している(「現代ビジネス」 伊藤博敏「ニュースの深層」9月23日)。

 “小沢潰し”達成のための世論形成という点では、検察のリーク情報に依存して動いてきたマスコミが果たしてきた役割も見過ごせない。マスコミもまた、単にアメリカ政府や検察の意志に従っていただけではなくて、“小沢潰し”には独自の利害関係を持っていたと見られるのである。

 第一に、小沢氏が、官僚や財界の意志を垂れ流すための窓口となってきた記者クラブの既得権益を認めず、フリージャーナリストにまで記者会見を開放してきたばかりか、記者クラブメディアの記者の不勉強振りについて一貫して厳しい姿勢を取り続けてきたことである。

 第二に、小沢氏が、クロスオーナーシップ(同一の資本による新聞とテレビの系列化)の禁止を主張してきたことである。同一の資本による新聞・テレビの系列化は、官僚や財界の意志による言論の統制を容易にする仕組みに他ならず、言論の多様性を確保するためには、クロスオーナーシップ禁止が欠かせない。しかし、クロスオーナーシップの禁止は、経営状態が悪化した新聞社が系列テレビ局の収入によって辛うじて支えられている状態を直撃するのである。

 小沢氏のこうした改革の構想は、マスコミにとっては絶対に叩き潰しておきたいものであったと考えられるのである。

 このように、小沢氏の提起する改革は、戦後日本においてアメリカへの従属の下で形成されてきた既得権益層の利害と徹底的に衝突するものだったのである。ここに「小沢失脚」謀略とでも言うべき動きが生じてきた根拠があると見るべきであろう。
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2010年11月14日

「小沢失脚」謀略を問う(7/13)

(7)小沢一郎氏は日本の外交をどう把握するか

 前回は、小沢一郎氏が、戦後「アメリカの傘」依存のもとで「富の再配分」に集中することで創られてきた官僚主導体制を打破し、選挙で選ばれた政治家がきちんと責任を取る体制を確立するとともに、国民の「お上意識」からの脱却というレベルをも含めて、誰もが責任を取ろうとしない「コンセンサス社会」という日本社会のあり方そのものの変革を志していることをみた。

 それでは、小沢氏は、日本の外交についてはどのように考えているのであろうか。引き続き、『小沢主義』(集英社、2006年)を見ていくことにしよう。

 小沢氏は、端的に日本は「外交不在の国」だと断ずる。小沢氏は、戦後日本について、「『アメリカの傘』に守られていた日本は、外交や防衛といった国家にとって重要な問題をみずから考え、決断する必要に迫られずにすんだ。すべてはアメリカが代わりに決めてくれていたも同然で、日本はそのレールの上を歩いていればよかった」とした上で、さらに根深い歴史的な根拠について、次のように説く。

「そもそも日本は歴史的に見ても、島国という地理的条件もあって、外交らしい外交をほとんどやってこなかった国である。江戸時代には三世紀にわたる鎖国を行ったのだから、ますます外交経験に乏しい国になった。
 近代に入って、日本は西欧諸国とも外交関係を持つようになったわけだが、明治維新の元勲たちがいた間はよかったが、彼らがいなくなってしまうと途端に『外交音痴』に戻ってしまった。そして、昭和の日本は国際問題を処理することができなくなり、あのような戦争に突入することになってしまったというわけだ。
 こうした歴史的な事情に加えて、戦後半世紀にわたって『思考停止』を続けてきたのだから、今の日本が『外交不在』の国になったのは当然すぎるほど当然の結果とも言える」

 しかし、冷戦構造の終結によって日本の置かれた状況がかつてとはまったく違ったものになった以上、「日本は否応なしに『自分の脚』で立ち、『自分の頭』で考えて決断することが求められている」のである。

 しかし、「残念ながら今の日本はそんな状態にあるとはとても言えない」。小沢氏は、「日本の外交にとって最も重要なのは日米関係」としつつも、小泉政権の外交について「日本政府は何の原則も定見もなく、ただひたすらアメリカに追従していけばいいという、これまた思考停止としか言いようがない外交を続けている」と批判し、「アメリカのご機嫌をとっていれば大丈夫」などといった安易な道をやめ、世界に何が貢献できるのかを主体的に考えうる「自立した国家」になるべきであると主張するのである。

 では、小沢氏は、何を日本外交の指針とすべきだと考えているのだろうか。

 小沢氏は、「現在の国連がさまざまな問題点を抱えているのは僕も承知している」と留保をつけながらも、「国連の存在が世界平和の鍵となる」と主張するのである。

 実は、このような国連重視は、小沢氏の一貫した姿勢であったと言える。周知のように、1990年の湾岸戦争に際して、当時自民党幹事長であった小沢氏は、多国籍軍への自衛隊参加を主張した。それは、この戦争が一応は国連の武力行使決議に基づいたものであったからに他ならなかった。当時のブッシュ(父)政権は、一応は国連と調和を図りつつ(国連を利用しつつ)戦争を遂行していくという姿勢を示していたのである。この点で、小沢氏においてアメリカ重視と国連重視とは調和していた。

 ところが、ブッシュ(子)政権は、2001年の「9・11」テロを利用して、国連を無視してでもイラク戦争を遂行するという戦略をとった。このような動きに対して、小沢氏は躊躇うことなく国連重視をアメリカ重視の上に置くことになったのである。

 小沢氏は、国連重視の観点から、小泉政権の対米追従のみならず、アメリカの姿勢そのものを厳しく批判するに至った。

「今のアメリカの過ちは、世界の平和を自国の力だけで維持できると過信しているところにある。
 たとえば現在のイラクの混乱にしても、やはりアメリカが『これはアメリカの戦争である』として、国連による決議といった手続きを経ずに戦争を開始してしまったことがそもそもの誤りだった」

 以上を要するに、小沢氏は自らの外交理念をアメリカ重視から国連重視へと180度転換させたわけではなく、もともと国連重視の土台の上にアメリカ重視の上部構造が立つという二重構造で考えていたにもかかわらず、アメリカの外交政策が国連重視の大枠から外れていったために、国連重視の観点からアメリカを厳しく批判せざるを得なくなったのだ、と捉えるべきであろう。

 「『自分の脚』で立ち、『自分の頭』で考えて決断する」日本外交を主張する小沢氏は、必要とあらば「アメリカのご機嫌」を損ねるようなことにも、あえて言及してきた。

 小沢氏は、アメリカが単純に悪と決め付けて軍事力・警察力を行使してきたテロについても、そのような行為が何故に生じざるを得なかったのかという過程的な構造に踏み込んで、「現在のイスラム・テロにしてもそうだが、あらゆる戦争や紛争の根っこにあるのは貧困問題だ。/アラブ世界が欧米に対して不信感を抱くのも、その根底には欧米とアラブ社会の経済格差、また、アラブ社会内部での貧富の問題があるからに他ならない。結局のところ、富の偏在が戦争や紛争をもたらすのである」と喝破するのである。

 このことに関わって興味深いのは、小沢氏が、2002年4月10日に、自由党党首として臨んだ小泉首相との党首討論におけるやり取りである。この党首討論において、小沢氏は、暴力・殺し合いがいけないのは当たり前と断った上で、パレスチナ民衆の自爆を含むイスラエルへの攻撃について、イスラエルやアメリカの言うとおりテロと思うか、それとも民族の自治を要求する民族の抵抗運動であると考えるか、と問うたのである。

 小泉首相との議論は噛み合わず、小泉首相のみならず小沢氏自身の明確な見解も示されずに終わったが、小沢氏が、パレスチナ民衆の行為を単純にテロだと決め付ける見方への疑問を提起しようとしていたことは間違いないであろう。このような小沢氏の言動は、アメリカの外交政策に強い影響力を持つユダヤロビーには到底許容できないものであったに違いない。
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2010年11月13日

「小沢失脚」謀略を問う(6/13)

(6)小沢一郎氏は日本の国内政治の構造をどう把握するか

 本稿は、検察審査会による「起訴議決」など、小沢一郎氏の政治生命を断とうとするかのような一連の動きが、日本という国家の歴史的な発展過程において一体如何なる意味を持つものなのであるかを探るとともに、主権者たるわれわれ国民が、こうした動きを一体どのように受け止めていくべきなのかを考察することを目的としたものである。

 これまでは、検察審査会の「起訴議決」が、マスコミが垂れ流した根拠薄弱な邪推に影響されたものでしかないことを確認してきた。

 ここで、これまでの流れを踏まえて、今回の「事件」の構図を整理しておこう。

 確かなのは、陸山会の会計責任者であった秘書が、土地の代金支払い時点ではなく登記完了時点で収支報告書に記載した、という事実だけである。検察審査会は、これが「虚偽記載」という犯罪であり、小沢氏はその「共犯者」であった、として「起訴議決」を行ったわけである。

 しかし、この記載のズレはそもそも「虚偽記載」ではない(登記完了時点での記載でも間違いではない)という指摘すらあるものであり、仮にあくまで代金支払い時点で記載すべきであった(その意味では「虚偽記載」となる)としても、これは単なる事務手続き上のミスの類でしかない。

 そもそも検察は、土地の代金支払いと登記のズレ――本来、このようなズレ自体は必ずしも不自然なことではないにもかかわらず――について、土地購入資金に含まれていたゼネコンからの裏金を隠すための工作であったものと解釈して捜査を行った。しかし、自ら起訴しうるだけの証拠を掴めなかったために、検察審査会を利用して(マスコミに影響され感情的になった「素人」を補助弁護士に誘導させて)、「国民は裁判所によってほんとうに無罪なのかそれとも有罪なのかを判断してもらう権利がある」として起訴に持ち込んだのである。小沢氏の「事件」とはこのようにして意図的に創られたものでしかない。

 そうであるならば、事実としては(どんなに重く見ても)単なる「記載ミス」でしかない小沢氏の「事件」よりも、例えば、菅直人首相の後援会費の不正処理問題――税法上、控除の対象とならない後援会費を「寄付」と偽る(虚偽記載!)ことで多額の税金を不正に還付させていた疑惑――や仙石由人官房長官の事務所費問題――長男の司法書士事務所に対して、自らの政治団体が事務所として利用している実態がないにもかかわらず、「事務委託費」や「人件費」名目で支出していた疑惑――の方が、「政治とカネ」をめぐるより悪質な問題であると言えよう。しかし、検察はもとよりマスコミですら、「脱小沢」を掲げる菅首相や仙石官房長官の疑惑に対してはそれほど踏み込まずに、小沢氏のみを目の敵としてきたのである。

 それではなぜ、小沢氏だけがそこまで目の敵にされなければならなかったのであろうか。

 小沢氏をめぐる動きは、現代日本の支配構造から解かなければならない、という本稿の問題意識からすれば、この疑問は、小沢氏が、現代の日本社会(国家)の構造をどのように改革しようとしてきたのか、という観点から解いていく必要がある。

 この観点から、小沢氏の著作『小沢主義 志を持て、日本人』(集英社、2006年)を見てみることにしよう。

 小沢氏は、政治とは「どうやってみんなが豊かに幸せに、そして安全に暮らせるか」を考えることだと端的に定義し、外交や環境問題などはこの原点から派生する枝葉だという位置づけを明確にする。このことをふまえて、2006年当時の「小泉政治とは市場原理・自由競争の名のもとに、セーフティネットの仕組みについて何の対策も講ずることなく、ごく一部の勝ち組を優遇し、大多数の負け組みに負担を押し付ける政治に他ならない」として、本来の「政治」の名には値しないものだ、と断じている。

 重要なのは、では小泉政権以前はどうであったかと問うて、「戦後の日本には政治がなかった」と答えていることである。小沢氏は次のように説く。

「戦後の日本は憲法第九条によって戦争を放棄し、自国の防衛をすべてアメリカに依存してきた。いわゆる日米安保体制である。
 この『アメリカの傘』があったおかげで、日本は外交も防衛のことも考えずに経済復興に全精力を集中でき、奇跡ともいわれる経済復興を成し遂げることができ、みなが豊かになった。…中略…
 では、この時代の日本において、政治はいったい何をしていたか。
 それは、高度成長で生れた富をどうやって公平に分配するかということに尽きた。
 たとえば、工業生産や輸出で儲けたカネを税金として徴収し、それを農業の補助金に充てる。あるいは高速道路などの建設に回す。さらには地方自治体に対して、地方交付税という形で援助をする。
 こうした『富の再配分』を考えるのが戦後政治の、唯一の任務だったと言ってもけっして過言ではない。…中略…
 戦後政治がこうした『富の再配分』に終始した結果、日本は政治不在、リーダー不在の国家になってしまった。
 なぜならば、富の再配分において大事なのは、人々が納得し、満足できる答えを見つけるための『目配り』『気配り』であって、集団のトップに立って人々を引っ張っていくリーダーシップではないからだ」

 小沢氏は「『富の再配分』の権限は官僚が握っており、同時にこのような実務は本来、政治家よりも官僚が得意とする仕事だ」として「日本の内政は官僚に乗っ取られたも同然になった」とする。

 これは、戦後の日本国家の構造についての的確な把握に基づいた、実に鋭い指摘であると言えよう。

 興味深いのは、小沢氏が、「改革を妨げているのは、戦後政治の枠組みを何としても変えたくないという守旧派の抵抗だけではない。それ以上に大きな問題は、日本の社会が伝統的にリーダーを認めないコンセンサス社会だという点だ」としている点である。

 小沢氏は、その根拠を日本列島の自然的な条件から解いてみせる。すなわち、縄文時代から弥生時代にかけて多数の人々が移住してきたほどに、日本列島は海に囲まれているために外敵の侵入がなく気候温暖で食糧生産にもめぐまれていた、という条件である。乾燥した大陸では、つねに戦乱の危険と隣り合わせであることにくわえて、限られた食糧生産のゆえに生産や分配についてもリーダーシップを必要としたのに対して、日本のような豊かで安定した社会では、リーダーはむしろ不要であったのだ、と説く。

 しかし、高度成長が終焉し、米ソ冷戦が崩壊した後の変化の激しい時代にあっては、リーダーの不在はかえって害を及ぼすことになる。小沢氏は、官僚ではなく、選挙によって国民から選ばれた政治家がきちんと責任をとる政治体制を確立すること、すなわち、日本を本当の民主主義国にすることを訴えるのである。

 要するに、小沢氏は、「官僚信仰」とでもいうべき思想を定着させてしまっている国民全体の意識改革をも含めて、それこそ大袈裟に言えば「聖徳太子」以来の日本社会の根本的なあり方――「和を以って貴しとなす」というコンセンサス社会――そのものの変革を提起しているのである。
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2010年11月12日

「小沢失脚」謀略を問う(5/13)

(5)民主主義を危機に晒す検察審査会の暴走

 前回は、小沢一郎氏に対する検察審査会の「起訴議決」が、陸山会による土地購入の資金4億円のなかにゼネコンからの裏献金が含まれていたのではないかという、マスコミが垂れ流した根拠薄弱な邪推に影響されたものであったことを明らかにした。

 このことは、検察審査会のあり方そのものに対して、重大な問題を提起するものである。

 そもそも検察審査会とは、容疑者の起訴・不起訴について独占的な決定権を持つ検察の判断が恣意的なものでないかどうかをチェックするための機関として、1948年に設置されたものである。この検察審査会は、犯罪被害者の救済を強化すべきだとの声が高まるなかで、2009年5月に施行された検察審査会法の改正によって強制力――検察が容疑者を不起訴にしても検察審査会で2回続けて起訴すべきとの議決がなされれば、強制的に起訴される――を持たされることになったのである。

 この検察審査会の制度の趣旨からすれば、今回の小沢氏の事件について、そもそも「真実を求める会」などという得体の知れぬ“市民団体”が申立人として認められたこと自体が妥当であったのかどうかが問題である。政治資金収支報告書における土地購入代金支出の記載が2ヶ月ずれていたからといって、国民が一体いかなる被害を受けたというのか。

 審議の過程もまた諸々の問題を抱えている。

 今回の陸山会の事件についての検察の捜査資料は2000ページにも及ぶものであったとされるのだが、このような膨大な、しかも難解な法律用語が多用されているであろう資料を、一般市民から抽選で選ばれたとされる審査員――平均年齢の異常な若さで恣意的な選任が疑われるばかりか、度重なる平均年齢の訂正でその実在すら疑われている――が、短期間で読み込んで的確な判断が下すことができたというのであろうか。審査補助員である弁護士が意図的に結論を誘導しようと思えばそれは非常に容易いことではないのか。

 実際、読売新聞(10月6日付)が報道したところによれば、審査補助員であった吉田繁実弁護士は、審査員に「共謀」について説明する際、拳銃の不法所持について暴力団内部の共謀の成否が争点となった判例を示して、「暴力団や政治家という違いは考えずに、上下関係で判断して下さい」と説明したという。

 「暴力団や政治家という違いは考えずに」というのは暴論である。「政治資金規正法」は、収支報告書の記載の正確性について会計責任者に第一義的な責任を負わせているのであって、「銃砲刀剣類所持等取締法」に基づいた暴力団内部の共謀についての判例をそのまま適用できるわけがない。にもかかわらず、吉田弁護士が、あえて暴力団と陸山会を同一視させようとするのは、マスコミよって刷り込まれた「小沢一郎=犯罪者」というイメージを利用して、「小沢は有罪の疑いが強い」という結論へ審査員を意図的に誘導しようとしたものと言わざるを得ないのである。

 極めて深刻なのは、審査補助員によるこうした誘導の背後に、検察そのものの意向の存在が疑われることである。鈴木宗男衆議院議員は、東京地検特捜部の吉田正喜副部長が、2010年2月1日に、取調べ中であった石川衆議院議員(小沢氏の元秘書)に対して、「今回は小沢を起訴できなかったが検察審査会で必ずやられるんだ」と明言していたことを、石川議員から直接聞いた話として暴露している(2010年4月28日の「司法の在り方を考える議員連盟」の会合にて)。この吉田正喜氏の発言からは、検察は、法を犯しているとの確証を掴めなかったゆえに自ら起訴することができなかった被疑者であっても、検察審査会を使って起訴することができる、と考えていることが見てとれる。要するに、検察の恣意性をチェックすべき機関である検察審査会が、検察の恣意性を補完する機関に成り下がってしまっている疑いが濃厚なのである。

 しかし、検察審査会事務局は、こうした疑惑の数々について、会議録はおろか会議の開催回数すら公表しようとしない。公表する法的な義務がないというのだ。検察審査会は、強制的な起訴という強い力を持つ機関であるにもかかわらず、適切に審査員が選任され、適切に審議が行われているのかどうか、国民がチェックする手段が何もないのである。すべては密室の深い闇の中である。

 今回の起訴議決書は、最後の「まとめ」で、「国民は裁判所によってほんとうに無罪なのかそれとも有罪なのかを判断してもらう権利がある」と述べている。要するに、確かな証拠がないにしても、シロかクロか分からないのであれば法廷で判断してもらえばよい、ということである。何と粗暴な屁理屈であることか! 怪しい人はとりあえず裁判にかけてしまえ――こんなことがまかり通れば、マスコミが妄想であろうが捏造であろうが何らかの疑惑を喧伝しさえすれば、どんな人間でも、検察審査会を利用することで(マスコミに影響され感情的になった「素人」を補助弁護士に誘導させることで)、確実に起訴することができる。これが政治的な敵対者を抹殺する手段として権力者によって使われるとすれば、紛れもなく民主主義の危機である。
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2010年11月11日

「小沢失脚」謀略を問う(4/13)

(4)小沢「政治とカネ」疑惑は根拠薄弱な妄想の類に過ぎない

 前回は、小沢「起訴議決」の対象となった土地取得と代金支払いとの時期のズレは、土地の取得を代金の支払い時点(2004年10月)でなく、登記の完了時点(2005年1月)で計上したに過ぎないものであり、これ自体には何の犯罪性も見い出すことはできない、との公認会計士の見解を紹介した。

 しかし、新聞やテレビなどのマスコミはこのような事情については決して報道しようとしない。記載時期のズレは何らかのやましいことを隠すために違いない、との邪推に基づいた妄想の類を無責任にも垂れ流すだけなのであり、これが議決書にも色濃く反映しているのである。

 それでは、議決書が“やましいことがあったに違いない”と疑う根拠らしきものを検討してみることにしよう。

 議決書は、まず、土地購入資金4億円についての小沢氏の説明が、当初の「銀行借り入れ」から「自己資金」などへと変遷したことについて、「著しく不合理なものであって、到底信用することができない」と断じている。

 しかし、同じ一つの対象でも焦点を当てる角度次第で様々な姿を見せる、というのは、弁証法のイロハのイである。たとえば、あるサラリーマンが銀行で住宅ローンを組んで住宅を購入し、毎月の給料からローンを返済しているとしたら、彼は銀行ローンで家を買ったとも言えるし、自分の給料で買ったとも言えるだろう。彼が一方で「銀行のローンで購入しました」と言い、他方で「自分の給料で買ったんです」と言ったにしても、彼の発言を著しく不合理だとか到底信用できないとか言うべきではないだろう。

 問題となっている陸山会の土地購入については、小沢氏個人が立て替えた資金で土地を購入した後で、陸山会が銀行ローンを組んで小沢氏に返済するとともに、陸山会は政治献金をもって銀行への返済に充てる、という流れが存在した。だとすれば、小沢氏の説明が「銀行借り入れ」から「自己資金」などへ変遷したことをもって、ただちに著しく不合理だとか到底信用できないなどと言うことはできないはずである。

 これは、むしろ見方によっては、小沢氏が、その時々のマスコミ記者たちによる異なる角度からの質問について、丁寧に「説明責任」を果たしてきた結果であるとすら言えるものであって、これを、マスコミ記者たちは「何か隠そうとしているに違いない」という先入見を持って、受験秀才特有の形而上学的なアタマで受け止めるから、不合理だとか信用できないとして反映してくるに過ぎないのである。議決書もまた、このような虚像に影響されている。要するに、「小沢はカネに汚い」という創られたイメージをもとに、形而上学的なアタマでもって、愚にもつかないケチ付けをしているに過ぎないのである。

 もう一つ、議決書が“やましいことがあったに違いない”と疑う根拠として指摘するのは、小沢氏が土地購入資金として4億円を自己の手持資金から出したと供述していることである。この件について、議決書は「そうであれば、本件土地購入資金として銀行から4億円を借入れる必要は全くなかったわけであるから、年間約450万円もの金利負担を伴う4億円もの債務負担行為……(中略)……は、極めて不合理・不自然である」と決め付けている。

 しかし、これもまたまったくの言いがかりであるという他ない。例え手持資金があったとしても、不確実な将来のために手もとにすぐに使える資金を残しておきたい、と考えるのは決して不合理なことではない。事業者であれば、例え手持資金があっても、運転資金の枯渇を避けるために、必要な資金は可能な限り借入で賄った方が合理的なのであり、この場合、金利負担は運転資金の枯渇を避けるための一種の保険料のようなものだと捉えることができるのである。サラリーマンであっても、不動産購入のために手持資金を使わずに銀行でローンをくむことなど日常茶飯事であろう。

 それでは、なぜ議決書(およびそれに影響を与えたマスコミの報道)は、これだけ無茶な言いがかりをつけてきているのだろうか。

 その背景には、そもそも土地購入のために陸山会が小沢氏から借り入れた4億円に、ゼネコンによるヤミ献金が使われたのではないか、との憶測がある。

 その有力な根拠とされたのは、水谷建設元会長の水谷功氏の「胆沢ダムの工事を受注するための見返りに、都内のホテルで石川議員に5000万円を紙袋に入れて渡した」という証言である。検察は当初、4億円の内にこの5000万円が含まれていると見立てていた。しかし、結局、大々的な捜査を行ったにもかかわらず、何の証拠も掴むことができなかったのである。

 そもそも、この水谷証言なるものは、佐藤栄佐久前福島県知事の「汚職事件」――これ自体、原発反対派の知事を陥れるために捏造された事件だとの疑いが濃厚である――の裁判において、信頼性に疑問符をつけられた代物である。しかも、この水谷氏の聴取には証拠改竄事件で逮捕された前田検事が関わっていたという曰く付きである。水谷証言なるものは、ゼネコンから小沢氏への裏献金を疑う根拠には到底なりえない。

 マスコミがさも大疑獄事件であるかのように大騒ぎしている小沢氏の「政治とカネ」疑惑なるものは、所詮この程度の根拠薄弱な妄想の類に過ぎないのである。
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<講義一覧>

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 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
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 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
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 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
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 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
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 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
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 ・心理療法における外在化の意義を問う
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 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
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 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
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 ・消費税はどういう税金か
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 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
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 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
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 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
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 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
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 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言