2012年05月05日

簡約版・消費税はどういう税金か(2/5)

(2)消費税は付加価値税である

 本稿は、消費税増税法案の本格的な国会審議がいよいよスタートするというきわめて緊迫した局面を受け、「消費税はどういう税金か」を知らずに増税の是非を論じることはできないとの問題意識から、「消費税は国民みんなが広く公平に負担する税であり、経済活動にあたえる歪みが小さい」という宣伝文句の欺瞞を暴いていくことを目的としたものです。

 今回は、消費税はなぜ「消費税」と呼ばれているのか、というもっとも根本的な問題から確認しておくことにしましょう。

 そもそも、消費税は何にたいして課せられる税金なのでしょうか。政府は、「消費税は、消費一般に広く公平に課税する間接税」(国税庁「消費税のあらまし」)だと説明しています。つまり、消費にたいして課税する税金だから「消費税」と呼ぶのだというわけです。

 しかし、ここに重大なごまかしが存在していることを指摘しなければなりません。このことを示唆するのは、欧州諸国においては、日本の消費税と同種の税金が「付加価値税」と呼ばれているという事実です。実はこれこそがこの税金の本質を的確にあらわした名称だといえるのです。

 これはどういうことかといえば、消費税の課税標準(税額を算出する上で基礎となる課税対象)は、あくまでも事業者が財貨・サービスの生産過程で生み出した新たな価値(付加価値)なのであって、消費者が財貨やサービスを消費(購入)するという行為ではない、ということなのです。「消費者が消費税を負担する」という命題は、それぞれの事業者が商品を販売する際、その本体価格に消費税率を掛けたものを上乗せして価格を設定することにより、付加価値についての税負担を消費者に転嫁することを前提にして、はじめて成立するのです。

 たしかに常識的なイメージでは、事業者が消費者から預かった消費税を国に納める、つまり、実際の税負担者(財貨・サービスを購入した消費者)と納税義務者(財貨・サービスを販売した事業者)が異なる間接税だ――ということになるのかもしれません。国税庁の出している「消費税のあらまし」というパンフレットでも「消費税は、事業者に負担を求めるものではありません。税金分は事業者が販売する商品やサービスの価格に含まれて、次々と転嫁され、最終的に商品を消費し又はサービスの提供を受ける消費者が負担することとなります」とされています。

 しかし、これはまったく理屈の上での話にすぎないのです。現実の経済において実際にそうであるかどうかは条件次第であり、とくに現在のようなデフレ経済下では、むしろそうならないことのほうがふつうなのです。たとえ「経済学者」を名乗る偉い先生方が「消費税は間接税だ」といっても、騙されてはいけません。それは日本経済の現実を知らない者の戯れ言だ、と疑ってかからなければならないのです。

 現実の経済においては、「税込みいくら」で厳しい市場競争がたたかわれています。価格競争力の弱い零細業者であればあるほど、原価に正当な儲けを上乗せしてさらにそこに消費税を転嫁するなどという悠長な価格決定をしている余裕などありません。「(消費税込で)いくらなら売れるか」と考えるしかないのです。とくに現在のように、デフレ下で低価格競争が過酷さを増しているなかでは、価格競争力の弱い業者が消費税をまともに転嫁して価格設定する余裕などありません。にもかかわらず、「事業者が消費税の負担を消費者に転嫁する」というのは、実態はどうあれ、国としては転嫁しているものと見なして――事業主が消費者にいくらで商品を販売しようと、そこには消費税分が含まれているものと強制的に見なして――事業主に消費税の納税義務を課しますよ、ということにほかならないのです。

 具体的な数値例で考えてみることにしましょう。

 たとえば、ある喫茶店がコーヒー1杯を400円で提供していたとします。消費税(5%)が存在するもとでは、この400円は、店主に消費税を転嫁したという意識があろうがなかろうが、国からは、本体価格381円に消費税19円を転嫁して販売したものと強制的に見なされてしまうのです。ことの不当性は、消費税率が引き上げられたケースを考えてみればより明確になります。たとえば、消費税率が10%に引き上げられたとしましょう。このとき、この喫茶店主が同業他店との競争を意識してコーヒー1杯の値上げを見送り400円で据え置いたとしたらどうなるでしょうか。この場合、国からは、この400円は本体価格363円+消費税37円である(喫茶店主が自己責任で本体価格を値下げした)と見なされてしまい、この37円分についての納税を強要されてしまうのです。

 このように、消費税は中小零細業者にとって、消費者から預かったお金を納める間接税などではなく、身銭を切って納めなければならない直接税になってしまうケースが非常に多いのです。とりわけ、デフレで低価格競争が激化している状況の下では、この影響は極めて深刻です。中小零細業者にとって、消費税はまさに「営業破壊税」以外の何物でもないのです。

 ここでしっかりと確認しておいていただきたいのは、消費税が存在しているもとでは、売買取引がいくらで成立しようがその販売価格には消費税が含まれているものとみなされてしまう、ということです。いいかえれば、販売者は(実質的にどうであるかとは無関係に)消費税を預かったことにされてしまい、その分の納税を強要されるのだということです。税込価格での市場競争は、実質的な消費税負担が売買取引関係において力の弱い側に押し付けられていくという結果を必然的に招きます。消費税5%増税による負担増はおよそ13兆円だといわれていますが、この13兆円を誰が負担するのかということをめぐって、熾烈な押し付け合いがおこなわれていくことになるのです。まさに、消費税は、あらゆる取引をつうじて弱者に犠牲を集中させていく恐ろしい税金であるといわなければなりません。
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2012年05月04日

簡約版・消費税はどういう税金か(1/5)

簡約版・消費税はどういう税金か

(1)「消費税はどういう税金か」を知らずに増税の是非を論じてはならない
(2)消費税は付加価値税である
(3)消費税は雇用リストラを促進する
(4)消費税は輸出大企業に巨額の利益をもたらす
(5)消費税は弱者のわずかな富を収奪して強者に移転する最悪の税金である

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(1)「消費税はどういう税金か」を知らずに増税の是非を論じてはならない

 野田政権は、3月30日に消費税増税法案を閣議決定し、国会へ提出しました。4月26日には、消費税増税法案とその関連法案を審議するための特別委員会が設置され、5月8日に衆議院本会議で趣旨説明、5月16日から特別委員会での実質的な審議入り、という日程が固まりました。野田首相は、「消費税増税法案の成立に政治生命を懸ける」として、今国会での法案成立に並々ならぬ決意を示していますが、会期末を6月21日に控え、日程的にはかなり窮屈な情況となってきています。また、日程的なことを度外視したとしても、参議院で野党が多数となっている以上、自民党が賛成に回らないかぎり消費税増税法案の成立はありえない情況です。

 とはいえ、今国会での消費税増税法案の成立はないだろう、とみてしまうのは早計です。そもそも消費税率の10%への引き上げは自民党のほうが先に主張していたものであり、とくに谷垣総裁自身が筋金入りの消費税増税論者であることを見逃すわけにはいきません。野田佳彦首相と谷垣貞一自民党総裁(いずれも財務大臣経験者)が、2月25日にホテルで密会していたとの報道がなされたのも、記憶に新しいところでしょう。

 こうした情況のなか、自民党は消費税率を一気に10%へ引き上げる対案(政府案は、2014年4月に8%、2015年10月に10%の2段階)を5月の連休明けにまとめる方針だとも報じられています。この二大政党の双方が、財務大臣経験者であり筋金入りの増税論者である党首を抱えていることからすれば、大連立も視野に入れて、国会の会期延長の可能性も含みながら、財務官僚・財界の悲願である消費税増税の実現のために、双方の案のすりあわせ(場合によっては自民党案の丸呑みも!)によって消費税増税法案の成立が図られる危険性は決して小さくはない、とみておく必要があるでしょう。

 こうした二大政党間の妥協にむけての動きにたいして歯止めになるかもしれないのが、世論の動向です。マスコミをつうじた「消費税増税やむなし」の大宣伝――財政危機論と社会保障財原論を2つの大きな柱としています――にもかかわらず、マスコミ自身の世論調査においてすら、いまだに消費税増税反対の声が過半数を超えているのです。とはいえ、今回の政府の増税法案にたいしてはたしかに反対が多いものの、消費税増税そのものの必要性については、6割以上の人々が認めているということことにも注目しておかなければなりません。これはやはり、マスコミの宣伝が浸透した結果、多くの人々が「財政危機だから消費税の増税は仕方がない」「社会保障の財源としては、国民みんなが広く薄く公平に負担する消費税がふさわしい」と思い込まされていることを示すものだと考えるべきでしょう。今後、実際に増税法案の審議(自民党案とのあいだでの修正協議)がすすんでいくなかで猛烈な宣伝工作がなされていけば、増税容認世論が多数になるという情況がつくられていくことも充分に考えられるのです。

 こうした状況のなかで、主権者たる国民にとって決定的に重要なのは、「そもそも消費税はどういう税金か」をしっかりとつかむことです。いま、消費税は、財政危機打開・社会保障財源確保の特効薬であるかのように宣伝されていますが、本当にそんなに素晴らしい薬なのか、恐ろしい劇薬である可能性はないのか、しっかりとみきわめていかなければならないのです。

 2011年3月11日の福島原発事故以降、「原発はクリーンで安全なエネルギー」との宣伝文句にたいして、多くの人々が根本的な疑問を抱くようになりました。本当はこれと同じようなレベルで疑われなければならないのが、「消費税は国民みんなが広く公平に負担する税であり、経済活動にあたえる歪みが小さい」との宣伝文句にほかなりません。

 いまでは「そもそも原発とはどういうエネルギーか」ということを根本的に問うことなしに、日本のエネルギー問題を語ることはできなくなりました。これと同様に「そもそも消費税はどういう税金か」ということが問われなければならないのです。このことを根本的に問うことなしに、日本の税制・財政、さらには日本経済のこれからの姿を語ってはなりません。官僚や政治家や学者や財界人やマスコミが、いくら「消費税は国民みんなが広く公平に負担する税であり、経済活動にあたえる歪みが小さい」という宣伝文句をふりまわしても、本当にそうなのか、自分の頭でしっかりと考え直してみる必要があるのです。

 そうすれば、事実はまったく逆であること、すなわち、消費税はあらゆる取引をつうじて弱者に犠牲を集中させ、弱者のわずかな富をまとめて収奪して強者に移転する最悪の税金であること、経済活動を著しく醜い形へと歪めていく税金にほかならないこと、その恐るべき害悪は、原発がもたらす害毒と比較してもけっして勝るとも劣らぬものがあることが、わかってくるはずなのです。

 本ブログに今年1月に掲載した「消費税はどういう税金か」(2012年1月15日〜1月27日)は、こうした問題を論じたものにほかなりませんでした。今回の連載は、消費税増税法案がいよいよ国会に提出され、本格的な審議がスタートするというきわめて緊迫した局面を受けて、この論稿の重要なポイントについて、あらためてより簡潔な形で論じなおすことを意図したものです。消費税の増税は、日本という国家の将来に決定的に大きな影響をあたえてしまいかねない、きわめて重要な問題です。今回の連載をつうじて、一人でも多くの方が、消費税という税金がもっている恐ろしい危険性に気づいて下さることを願っています。
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2012年03月24日

橋下教育基本条例案を問う(13/13)

(13)「聖域扱い」の正当性を支える教育学体系の構築が急務である

 前回は、本稿でこれまで論じてきた流れをふり返ってみるとともに、そのことをふまえて、橋下教育基本条例案の是非が大きな争点として浮上してきているという情況に対して我々が主張すべきことの要点を確認しました。

 まず、教育基本条例案そのものについては、学校教育の成立必然性を否定しかねないようなその基本的発想の故に、到底まともな教育改革の提言として認められるものではない、ということでした。その意味で、多くの教育関係者が教育基本条例案に危惧を抱き、これを阻止しようとしていることは、正当なことであると認めることができました。しかし、いま教育関係者が果たさなければならない責任とは、単に橋下教育基本条例案の成立を阻止するといったことではないのだということも同時に強調しました。橋下教育基本条例の是非が大きな争点となっているという情況において教育関係者に求められているのは、何よりもまず、教育関係者の側に主体的な力量が欠けている(と一般的に思われてしまう)ことこそが、橋下教育基本条例案のような、教育の聖域扱いを不当なものとして攻撃する動きを招いてしまったのだということを真摯に反省する姿勢であり、教育界の主体性確立の基盤となるまっとうな教育学体系を創出すべく努力することに他ならない、と言うことができるのでした。

 実践の理論的指針となる学問体系の確立こそが、その専門分野の自立性・自律性の確立にとって決定的に重要な条件となることについて、科学的保育論の構築を目指されていた海保静子先生は次のように述べています。
 
「専門分野として誇れるには、誇れるほどのもの、誇りにできるなにかをもっていなければならないはずです。私たち保育の世界に欠けていて他の分野にあるもの、その専門性を保障するもの、その専門性を誇りにできるもの、それは世に文化として誇れるレベルのものでなければなりません。そして、その文化レベルのものとは、理論的なもの、学問的なものであると思います。」(海保静子『育児の認識学』現代社、1999年、p.31)

「たしかに保育の世界の人たちはがんばっています。しかし、論理的実力を自分の専門分野に磨く人たちはまだまだ僅かです。ですから、教育論1つ満足に説くこともない先生方が、経験もない保育の世界へ土足で平気ではいってくることができるのです。
 本当の保育論は、学者の頭のなかではなく、私たちが日々実践している、そして日々実践していく、その保育的事実のなかにこそ鍵があるのです。論理はその日々の保育の実践のなかからこそ、うかびあがらせるべきものなのです。そうでなければ保育論は、科学はおろか科学的にすらなりえません。これが常識となるのは、いつの日のことでしょうか。でも私たちはほんの少数派ですが、そうであっても頑張っていくしかありません。」(同上書、p.36)

 ここには、保育の世界について、実際に保育した経験もない学者たちが平然と論じている現状に対して、痛烈な悔しさと情けなさを感じると同時に、専門分野としての主体性を確立すべく、科学的保育論を構築しようとする決意を固めておられる海保先生の姿が表れています。

 外部からの不当な干渉を許してしまうという海保先生が目にされていた保育に世界の情況は、そのまま現在の教育の世界にも当てはまるものだと言えるでしょう。海保先生が、こうした情況を打開すべく科学的保育論の確立を目指されたのと同じように、教育の世界を専門分野として誇れるものにする教育学の構築が急務となっているのです。

「日本の教育は、これまで様々な先人が「子どものために」という情熱を燃やして実践し、それらの積み重ねとして現在の姿に至っています。現在の教育制度や教育内容・教育方法には、不充分な点が多々あり、諸々の問題を抱えていることは否定できないにしても、そこに先人たちの努力と知恵が反映されていることはしっかりと受けとめなければなりません。こうした先人の情熱を批判的に受け継ぎ、その成果を学問的に掬い取って後世に残る教育の文化遺産を築き上げること、これにより全ての教育関係者が自らの実践に主体的に取り組めるようにすること、これを自らの課題であることを再確認し、本稿を終えたいと思います。
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2012年03月23日

橋下教育基本条例案を問う(12/13)

(12)学校教育はある意味「聖域」であるべきものである

 本稿は、橋下徹氏率いる大阪維新の会が提起した教育基本条例案の是非が大きな争点として浮上してきているという情況を踏まえ、教育基本条例案が学校教育や教育行政の聖域扱いを問題視していることに焦点を合わせて、なぜ橋下氏が教育の聖域扱いが不当だと考えるに至ったのか、その背景を探るとともに、そもそも教育の聖域扱いは不当なものなのかどうか、教育現場と外部者とのかかわりはどのようなものであるべきなのか、といった問題を「そもそも教育とは何か」という原点から論じることを目的としたものでした。

 ここで、本稿でこれまで論じてきた流れを振り返ってみることにしましょう。

 まず、橋下氏が教育基本条例案を提起するにいたった背景について探りました。その直接のきっかけとしては、2008年に大阪府知事となった橋下氏が、学力テストにおける大阪府の成績が2007年、2008年と2年連続で低迷したにもかかわらず、教育委員会がまともに対応し切れていないとして、教育行政や学校教育の現状に対して不信を強めていったことがあるのではないか、ということでした。その上で、学力テストの成績低迷という事態にまともに対応できないような教育行政や学校教育のあり方をそのままにしていては激化した国際競争の中で日本が生き残っていけないという思いがあったと考えられること、またこれは決して橋下氏の個人的な思いではなく、何よりもまず輸出大企業の連合体たる財界を中心にして、現在の日本の経済界に幅広く存在する認識であること、財界や橋下氏は、こうした教育の現状を打開するために、企業を取り巻く激しい国際競争に近い環境を教育行政や学校教育の領域につくりだそうと狙っているのだということを確認しました。

 このようなことを確認した上で、こうした発想――社会が必要とする人材を学校教育につくらせるためには、社会一般のあり方を学校教育の現場に押しつけていけばよいという発想――が妥当なものであるのかどうかを、「そもそも教育とは何か」という原点から問うてみました。そもそも教育とは、社会的分業を担いうるだけの社会的個人を育てる営みであり、より具体的には、新しい世代に文化遺産の発展的な継承をさせていくことにほかなりません。人類社会のある程度の発展段階までは、子どもたちに現実の社会の中で実際に労働を担わせることを通じて、そこで必要とされる文化遺産を継承させていくことが可能でしたが、文化遺産の積み重ねにより、しだいにこうしたあり方では社会的個人の育成が果たせなくなっていきます。ここにおいて、子どもたちを現実の社会からいったん切り離して(労働から一時的に解放して)教育を施す必要が生じることで、学校が誕生したのでした。こうした観点から考ることによって、学校教育はある意味、社会の他の部分からは切り離された“聖域”であるべきものだということを明らかにしました。このことを踏まえて、現実社会のあり方をそのまま学校に当てはめていこうとする教育基本条例案の考え方は、学校の成立の必然性を否定しかねない要素が含まれているものだということを指摘したのでした。

 このように、本稿では、学校教育の聖域扱いを否定しようとする橋下教育基本条例案の基本的発想に対して、「学校教育(教育という営みを担うための独自の小社会)は聖域扱いされてしかるべきものである、との論を打ち出してきたのでしたが、これは、教育界の現状をそのまま無条件に肯定しようというものではありませんでした。本稿は、教育界の現状について、学校教育の聖域扱いを正当なものとして機能させるだけの主体的な条件が教育界の側に充分に備わっていないことこそが、橋下教育基本条例案に象徴されるような、教育の聖域扱いを不当なものとして攻撃する動きを招いてしまったのではないか、との問題を提起したのでした。学校という小社会が社会の他の部分に対して自立性・自律性を主張しうるためには、教育関係者の側に、教育についての専門的な知見によって裏付けられた教育専門家としての主体性が絶対に不可欠です。教育専門家としての自信に満ちた対応こそが、専門的な知見を持たない人々の間に「教育は学校に任せておけば安心だ」という気持ちを生み出すのです。本稿は、このような観点を踏まえつつ、現在の教育界が、残念ながら、橋下氏が提唱する教育基本条例案に対して主体性ある対応ができているとは言いがたいことを明らかにしました。その上で、現場の教師は自らの実践の意義を論理的に把握し、外部に向かって説いていく必要があるのであり、そうした専門性・主体性を確保するものこそが学問としての教育学なのだということをも明らかにしました。こうした教育学が確立されてこそ、教育関係者は、学校教育の聖域扱いこそが正当なものであるとして、社会の他の部分に対して胸を張って堂々と主張することができるのです。

 このように本稿で論じてきたことを踏まえて、橋下徹氏率いる大阪維新の会が提起した教育基本条例案の是非が大きな争点として浮上してきているという情況に対して我々が主張すべきことの要点を、改めて簡潔に確認しておくことにしましょう。

 まず、教育基本条例案そのものについては、学校教育の成立必然性を否定しかねないようなその基本的発想の故に、到底まともな教育改革の提言として認められるものではない、ということを確認しておかなければなりません。この意味で、多くの教育関係者が教育基本条例案に危惧を抱き、これを阻止しようとしていることは、正当なことであると言ってよいでしょう。しかし、教育関係者に求められるのは、ただ橋下教育基本条例案の問題点を批判することではありません。教育関係者の側に主体的な力量が欠けている(と一般的に思われてしまう)ことこそが、橋下教育基本条例案のような、教育の聖域扱いを不当なものとして攻撃する動きを招いてしまったのだということを、真摯に反省する姿勢こそが求められているのだということを忘れてはならないのです。これは、究極的には、教育実践の確かな理論的指針となりうる教育学体系が存在していないという問題に行き着きます。教育関係者が実践についての確かな理論的指針を持たないからこそ、学校という小社会の自立性・自律性を社会の他の部分に属する人々に対してまともに認めさせることができず、橋下教育基本条例案のような不当な干渉を招いてしまうのです。ここには、教師としての仕事を上手くこなすことができず、精神的に追い詰められて、休職や離職、あるいは最悪の場合は自殺にまで追い込まれてしまう新人教師が後を絶たないという諸々の悲しい出来事と同根の問題があるのです。したがって、いま教育関係者が果たさなければならない責任とは、単に橋下教育基本条例案の成立を阻止するといったことにとどまるものではなく、教育界の主体性確立の基盤となるまっとうな教育学体系を創出すべく努力することに他ならない、と言うことができるのです。
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2012年03月22日

橋下教育基本条例案を問う(11/13)

(11)学問こそが専門分野としての主体性確立の役割を担う

 前回は、現代における教師は、自らの実践の意義を論理的に把握し、必要があれば外部の人間に対して説くことが求められているということを、原田隆史氏の例を出しながら、明らかにしました。

 実践の意義を論理的に説くとは、簡単に言えば、「そもそも教育の目的は○○であるから、こうすべきだ」という形で論じるということです。実際、原田氏も「自立型人間の育成」という自分なりの教育理念を掲げて、実践の意義を論じています。教育の専門家であるからには、最低でもこのような姿勢が必要であると言えるでしょう。 このような専門家としての姿勢は、もちろんいかなる分野においても必須のものだと言えるのですが、とりわけ教育という分野においては、決定的に切実なものがあることを強調しておかなければなりません。それは、教育は他の専門分野とは異なって、誰でも一定の年数経験しているものであり、また子育てなどの形でも携わっているものであるということに関わります。つまり、教育については、誰もが多かれ少なかれ自分の経験をもとにして、自分なりの見解を主張することができるのだということなのです。これが例えば医師が携わる医学・医療の分野や弁護士が携わる法律の分野であれば、専門的知識を持たない一般人が口を挟む余地はほとんどないでしょう。したがって、学校という小社会が社会の他の部分に対して自立性・自律性を主張しうるためには、教育に携わる者に、他の分野以上に、その専門性(専門家としての主体性)が厳しく求められるものだと言えるわけです。

 それでは、こうした専門性を究極的に保障するものとは、一体何でしょうか。この問いは、先ほど述べたことを踏まえるならば、「実践の意義を論理的に説く」ことを究極的に保障するものとは一体何か、と言い換えることもできます。

 結論から言えば、それは学問に他なりません。そもそも学問とは、対象に関わってのあらゆる事実から導き出された論理――「事実」とは実際にあること・あったことであり、「論理」とはそれらの諸々の事実から共通した性質を把握した認識のことです――を体系的に組み上げたものです。人間の体すべてが脳によって統括されているように、その分野の論理すべてが本質論(一般論)によって統括されている、これが学問体系というものです。教育学で言えば、「教育とは何か」という本質論(一般論)によって、教育に関わるあらゆる論理が体系的に(あるべきものがあるべきところにおかれた上ですべて一体につながったものとして)統括されているということです。

 このように学問とは事実から導き出された論理の体系なのですから、それはいかなる問題に対しても、専門家としてどう働きかけるべきか、その解決に向けた指針を与えてくれるものとなります。学問こそ実践の確かな指針なのです。だからこそまた逆に、学問体系の存在こそが「実践の意義を論理的に説く」ことを究極的に保障することにもなるのです。

 学問と実践とのこのような関わりについて、看護学を史上初めて体系化した薄井坦子先生は、次のように述べておられます。

「看護一般論をもっているからこそ、どのような対象に対しても、どのような条件にあっても、看護一般論に照らしてその特殊性や個別性が見えるのであって、それゆえに看護婦は主体的に自分の頭をはたらかせ工夫することができるのである。」(薄井坦子『科学的看護論 第3版』現代社、1997年、p.11)

 この文章の「看護」をそのまま「教育」に置き換えて読むこともできるでしょう。つまり、「教育とは何か」という教育一般論があるからこそ、あらゆる教育の問題に対して主体的に自分の頭を働かせていくことができる、ということです。通常、教育の歴史上、初めて教育学の体系化をめざした学者だと評価されているヘルバルトも、同様の内容を述べています。

「思慮により、反省や探求により、学問によって、教師は準備を整えるべきである。将来の個々の場面におけるふるまい方の準備というよりも、むしろ、彼を待ち受けている将来の諸現象や、彼がそこへとはいっていく状況の正しい受容、理解、感受、そして判断のために、彼自身、つまり、彼の情緒、頭脳、信条を準備すべきである。」(「最初の教育学講義」『世界教育学名著選14』所収、pp.99-100)

 端的には、ヘルバルトは、個々の場面でどう対応すればよいかを学ぶのではなくて、そうした場面をどう把握すればよいのかが分かるだけの頭脳を創出すべきだ、と主張しているわけです。そのためにこそ必要になってくるものこそ、「教育とは何か」という教育本質論(一般論)によって統括された論理の体系としての教育学にほかなりません。

 このように、究極的には学問があってこそ、専門家としての主体的な判断が可能となるのであり、専門分野としての主体性が確立される、言い換えれば、外部の人間に対しての権威が確立されるのです。そのような情況であってこそ、教育関係者は、学校教育はいわば聖域として扱われてしかるべきものなのだということを、社会の他の部分に対して胸を張って堂々と主張することができるに違いありません。

 しかし、残念ながら、現在の教育界には、そのような主体性の確固とした基盤となるような教育学体系が欠けていると言わなければならないのです。それを象徴するのが、教師としての仕事を上手くこなすことができず、精神的に追い詰められて、休職や離職、あるいは最悪の場合は自殺にまで追い込まれてしまう新人教師が後を絶たないという悲しい事実です。個々の教師がまともな実力をつけていけるかどうかは運次第であり、その実力も個別的な経験に支えられたカンやコツのレベルのものでしかない、という現在の教育界の実態を見るならば、実践の確かな理論的指針となる教育学体系は未だに創出されていないと考えざるをえません。このように、教師が自信をもって教育実践に取り組むことができていないという情況であれば、その意義を論理的に外部の人間に向かって説くということなど、到底望むべくもないことだと言わざるを得ないのです。

 教育関係者の側に主体的な力量が欠けている(と一般的に思われてしまう)ことこそが、教育の聖域扱いを不当なものとして攻撃する動きを招いてしまった現状を考えるならば、実践の確かな指針となりうる学問体系こそが、今の教育界において痛切に必要とされているものだと言えるでしょう。
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2012年03月21日

橋下教育基本条例案を問う(10/13)

(10)現場の教師は自らの実践を論理的に捉え返していかなければならない

 前回は、学校という小社会の聖域扱いを正当なものとして社会の他の部分に有無を言わさずに認めさせるだけの主体的な力量が、いわゆる教育関係者のあいだに存在しているのかどうか、という問題を提起しました。学校という小社会が社会の他の部分に対して自立性・自律性を主張しうるためには、教育関係者の側に、教育についての専門的な知見によって裏付けられた教育専門家としての主体性が絶対に不可欠です。教育専門家としての自信に満ちた対応こそが、専門的な知見を持たない人々の間に「教育は学校に任せておけば安心だ」という気持ちを生み出すのです。このような観点を踏まえつつ、現在の教育界が、残念ながら、橋下氏が提唱する教育基本条例案に対して主体性ある対応ができているとは言いがたいことを明らかにしました。我々は、教育関係者の側に主体的な力量が欠けている(と一般的に思われてしまう)ことこそが、橋下教育基本条例案に象徴されるような、教育の聖域扱いを不当なものとして攻撃する動きを招いてしまったのではないか、と考えるべきでしょう。

 このように、教育関係者の主体性ある対応ということこそが大問題なのですが、日本の教育の歴史を見てみると、このことが切実に問われるようになったのは、比較的近年のことであると言えるでしょう。

 かつて学校は地域において大きな権威をもった存在として成り立っていました。戦前あるいは高度経済成長期以前は、教員といえば高学歴を持った非常に希有なものでした。一方、大多数の保護者は、戦前の旧制中学校・師範学校や戦後の高校・大学レベルの高等教育を受けることがありませんでした。こうした保護者にとって、教師や学校はいわば絶対的な存在であり、そこで行われている取り組みに疑問が投げかけられることは、ごく稀なことだったと言えるでしょう。子どもたちに対しても「先生の言うことはしっかり聞きなさい」と親が指導することが当たり前でした。このように、学校の教師が絶対的とも言える権威を保持している情況においては、教師は自分の取り組みについて、その意義を明確に把握した上で外部に説得的に説明する必要などありませんでした。

 ところが、高校への進学が当たり前となり、大学への進学率も向上してくるにつれて、子どもの保護者たちも学歴としては教師と大差ないレベルになっていくことで、教育のあり方に対して、徐々に外部から疑問の声が上がるようになりました。いわゆるモンスターペアレントと呼ばれる、学校に対する不当なクレームをつける親が出現したのも、こうした社会の変化を反映したものと言えるでしょう。また、学級崩壊のように、子どもたちが教師の言うことを聞かず授業が成立しなくない状態が生まれてきたのも、これまで絶対的とされていた教師の権威が崩れていったことの一つの現れであるとも考えられます。

 こうした変化によって、教師は、教師という社会的地位によりかかるのではなく、ほかでもない自らの教師としての実力によって、その権威を保たなければならなくなったのです。つまり、問題解決に向けて取り組むとともに、その取り組みの意義を論理的に把握し、外部の人間に説くという必要性が生まれてきたのです。
 原田教育研究所所長であり、松虫中学陸上部顧問として数多くの日本一生徒を輩出した原田隆史氏は、ここを「価値観教育」として、自身の教育論の中に位置づけています。「価値観教育」とは、なぜそれを行うのかという意味づけを行い、相手に理解させるということです。

 こうした視点が原田氏の中で芽生えて来た背景として、以下のように述べられています。

「27年前の新人教師1日目、初めての体育授業の日のこと。(中略)意気揚々とグラウンドに出た。『あれ?誰もいない』。教室に行ってみた。ガチャーン、キャーの悲鳴。生徒が集団で殴り合っている。(中略)荒れていたのだ。(中略)そこで体育授業七原則『ハイという元気な返事。あいさつは人より早く。清掃によるすさみ除去。クツをそろえる。イスを入れる。堂々としたいい姿勢。話は相手の目を見て真剣に聞く』である。これを態度教育という。家庭ではしつけと呼ぶ。『みんないいか。七原則はな、軍国主義、軍隊と違うぞ(保護者や生徒は私を陰でそう茶化した)。ニューヨークもこれで再生した。全国の落ち着いている学校の共通原則や。次の修学旅行でも実践するぞ』思いを込めて何度も説いた。落ち着いている学校現場を生徒と視察に行った。説明のプリントを教師、保護者、地域に配布した。すると軍隊と呼ばなくなった。これが『意味づけ、価値観教育』である。」(「体育科教育」2010年4月号、大修館書店、p.9)

 端的には、授業を成立させるためには、徹底したしつけ(態度教育)を行うことが必要だと実感し取り組んでいたが、それに対して、生徒や保護者、さらには教員からも非難されたため、その意義を説く必要が出てきたということです。このように、原田氏は、自分の取り組みについて、その意義を明確に把握し直した上で、外部に説得的に説明するということを行ったわけです。原田氏の「意味づけ、価値観教育」という信念にもとづいた自信に満ちた対応こそが、教育についての専門的な知見を持たない保護者や生徒たちの間に「この教師に任せておけば安心だ」という気持ちを生み出したのだといえるでしょう。

 この原田氏のように、自らの実践の意義を論理的に把握し、必要があれば外部の人間に説くということ、こうしたあり方が現在の教師に対して大きく求められているのです。
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2012年03月20日

橋下教育基本条例案を問う(9/13)

(9)教育界は主体性ある対応ができていない

 本稿は、橋下徹氏率いる大阪維新の会が提起した教育基本条例案の是非が大きな争点として浮上してきているという情況を踏まえ、教育基本条例案が学校教育や教育行政の聖域扱いを問題視していることに焦点を合わせて、なぜ橋下氏が教育の聖域扱いが不当だと考えるに至ったのか、その背景を探るとともに、そもそも教育の聖域扱いは不当なものなのかどうか、教育現場と外部者とのかかわりはどのようなものであるべきなのか、といった問題を「そもそも教育とは何か」という原点から論じることを目的としたものです。

 これまで、橋下氏が教育基本条例案を提起するにいたった背景には、学力テストの低迷に対応できないような教育行政や学校教育のあり方では激化した国際競争の中で日本が生き残っていけないという思いがあったと思われること、またこれは決して橋下氏の個人的な思いではなく、何よりもまず輸出大企業の連合体たる財界を中心にして、現在の日本の経済界に幅広く存在する認識であること、財界や橋下氏は、こうした教育の現状を打開するために、企業を取り巻く激しい国際競争に近い環境を教育行政や学校教育の領域につくりだそうと狙っているのだということを確認しました。その上で、こうした発想――社会が必要とする人材を学校教育につくらせるためには、社会一般のあり方を学校教育の現場に押しつけていけばよいという発想――が妥当なものであるのかどうかを、「そもそも教育とは何か」という原点から問うてみたのでした。そもそも教育とは社会的分業を担いうるだけの社会的個人を育てる営みであり、具体的には新しい世代に文化遺産の発展的な継承をさせていくことにほかなりません。人類社会のある程度の発展段階までは、子どもたちに現実の社会の中で実際に労働を担わせることを通じて、そこで必要とされる文化遺産を継承させていくことが可能でしたが、文化遺産の積み重ねにより、しだいにこうしたあり方では社会的個人の育成が果たせなくなっていきます。ここにおいて、子どもたちを現実の社会からいったん切り離して(労働から一時的に解放して)教育を施す必要が生じることで、学校が誕生したのだということでした。こうした観点から考えれば、学校教育はある意味、社会の他の部分からは切りはなされた“聖域”であるべきものであって、現実社会のあり方をそのまま学校に当てはめていこうとする教育基本条例案の考え方は、学校の成立の必然性を否定しかねないものだということを明らかにしました。

 このように、本稿では、学校教育の聖域扱いを否定しようとする橋下教育基本条例案の基本的発想に対して、「そもそも教育とは何か」「そもそも学校とは何か」という根本的な問題から考え直してみることによって、学校教育(教育という営みを担うための独自の小社会)は聖域扱いされてしかるべきものである、との論を打ち出してきたのでした。

 しかし、言うまでもないことですが、学校教育の聖域扱いが正当であるという本稿の主張は、あくまでも論理的に考えればそのように言える、ということにすぎず、このことをもってただちに、現状の学校教育のあり方、さらに言えば、いわゆる教育界のあり方を、そのまま無条件に肯定しようとするものではありません。むしろ、学校教育の聖域扱いを正当なものとして機能させるだけの主体的な条件が教育界の側に充分に備わっていないことこそが、橋下教育基本条例案に象徴されるような、教育の聖域扱いを不当なものとして攻撃する動きを招いてしまったのではないか、とすら考えることができるのです。端的には、教育という小社会の聖域扱いを正当なものとして社会の他の部分に有無を言わさずに認めさせるだけの主体的な力量が、いわゆる教育関係者のあいだに存しているのかどうかということが、鋭く問われているのだと言うことができるでしょう。

 一般的に言って、ある特定の小社会が社会の他の部分に対して自立性・自律性を主張しうるためには、専門的な知見によって裏付けられた専門家としての主体性が絶対に不可欠です。簡単には、専門家としての自信に満ちた対応こそが、専門的な知見を持たない人々の間に「専門家に任せておけば安心だ」という気持ちを生み出すのです。たとえば、自信に満ちた態度で病人の治療を進めている医師に対して、医学・医療の素人である患者やその家族はあえて異論を唱えようとはしないでしょう。

 それでは、このような観点からして、教育界の現状はどのように評価されうるのでしょうか。残念ながら、いわゆる教育関係者には、教育という小社会の聖域扱いを正当なものとして社会の他の部分に有無を言わさずに認めさせるだけの主体的な力量が大きく欠けているといわざるを得ないのです。

 このことを端的に示す象徴的な事例の一つとして、陰山英男氏(大阪府教育委員)の発言を紹介しましょう。2012年1月30日に行われた府市統合本部会議において、陰山氏は、高等学校の学区制撤廃について、堺屋太一氏とのやりとりの中で、以下のように発言したのです。

堺屋「陰山先生は、学区制撤廃そのものに反対なんですか。それとも時間がないから反対なんですか。」
陰山「学区制撤廃が本当にいいのかどうかというところのメリットが僕には見えないんですよ。」
堺屋「じゃあ反対なんですか。」
陰山「反対でも賛成でもないです。わからないです。」
堺屋「あぁ、わからない。」

 学校教育のあり方を大きく改変してしまおうという外部からの干渉に対して、教育界の側がその是非をまともに判断することができない、という情けない姿を晒してしまったわけです。ここで陰山氏は、せめて、学区制撤廃には学校間の競争原理の導入によって教育の質の向上が図れるというメリットがあるとされているが、そもそも学校観に格差をつけることが望ましいかどうか問題であるし、通学時間が延びたり通学費の負担が増えることなどのデメリットも指摘されうる、「学区制とは何か」「なぜ学区制なるものが設定されてきたのか」という原点を踏まえつつの慎重な議論が必要なのであって、二者択一的に早急に結論を出すことには反対だ……などと、堂々とした態度で発言すべきであったでしょう。にもかかわらず、陰山氏は、部外者たる堺屋氏の追及にたいして、「わからない」などという専門家としては口にすべきではない言葉を口にしてしまったのです。これでは到底教育の専門家としての教育委員とは言えないでしょう。このように、現在の教育界は、専門的な知識に支えられた主体性ある対応ができているとは言い難い情況にあるのです。
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2012年03月19日

橋下教育基本条例案を問う(8/13)

(8)教育基本条例案の根底には学校教育についての見方の歪みがある

 前回は、学校の成立の必然性を明らかにしました。そもそも学校とは現実社会から相対的に独立した小社会であり、現実社会の中では系統発生が繰り返せないほどに文化遺産に蓄積がなされたことによって成立したものである、ということでした。つまり、社会的分業を担えるだけの文化遺産の継承を行うために、新しい世代(子どもたち)をいったん現実の社会から切り離して教育するための仕組みが学校だということでした。

 いよいよ今回は、この学校一般論を踏まえて、橋下氏が提唱する教育基本条例案の妥当性について検討してみることにしましょう。

 教育基本条例案には、「首長の教育目標作成」「保護者の教員に対する申し立て権」「相対評価による教員評価」「府立学校の学区撤廃」などの内容が含まれていました。これらは、日本経団連が主張する教育改革の方向性をより具体化したものであると言うこともできるのですが、その根底に流れている考え方は、企業を取り巻く激しい国際競争に近い環境を教育行政や学校教育の領域につくりだしていくことによって、企業が求めているような人材の輩出を可能にしていくべきだ、ということができます。これをより論理的に捉え返してみるならば、社会が必要とする人材を育成するためには、現実の社会と同じ環境において教育が行われるべきであり、そうした環境をこそ学校教育の現場に創りだしていかなければならない、ということになります。学校教育を聖域扱いすることが不当であるという橋下氏の主張は、まさにこのような考え方を根拠にしたものだと言えるでしょう。

 しかし、こうした考え方は、端的には誤りであると言わなければなりません。

 前回確認したように、学校とは、新しい世代(子どもたち)に文化遺産を効果的に継承させていくために創出された独自の小社会にほかなりません。文化遺産の蓄積があるレベル以上に達すると、現実の社会のただ中では文化遺産の継承が困難になってくるために、現実の社会から切りはなされた独自の小社会が必要とされてくるのでした。つまり、現実社会から相対的に独立した小社会であってこそ、言い換えるならば、大人たちが現に生活している現実の社会とはある程度違った環境の中でこそ、まともな文化遺産の継承が可能となっていくのです。その限りにおいて、学校を聖域扱いすることは不当であるどころか、むしろ正当なことであると言わなければならないのです。

 教育基本条例案における「首長の教育目標作成」「保護者の教員に対する申し立て権」「相対評価による教員評価」「府立学校の学区撤廃」などの提案は、このような学校成立の必然性についての配慮に欠ける(というよりむしろ、まったくの無理解を露呈する)ものだと言えます。教育基本条例案の根底に流れる考え方には、学校成立の人類史的な必然性を否定しかねない要素が含まれていると言わなければなりません。

 もちろん、教育行政や学校教育の現実的なあり方に何らかの問題があるのならば、それへの対策は考えられるべきでしょう。しかし、教育基本条例案が提起されていく過程では、教育行政や学校教育の現状が、一体なぜ・どのように問題なのか、突っ込んだ検討がなされているようには思われません。たとえば、教育基本条例案が提起される直接のきっかけとなったと推測される全国学力テストにおける大阪府の成績低迷という事態についても、そのことが一体なぜ・どのように問題なのか、突っ込んで論じられることはありませんでした。そもそも、社会的個人(社会的分業の一翼をしっかりと担い、人類の歴史的な文化遺産を発展的に継承しうる個人)の育成という教育本来の目的からして、学力テストの成績が低迷したことが、一体なぜ・どのように問題になるというのでしょうか。学力テストの問題をきっかけに教育改革を提起するならば、本来このような観点から突っ込んだ議論が展開されなければならないはずです。また、教育基本条例が提起される背景には、中国や韓国に比べて日本の教育は立ち後れているという認識もあったと考えられますが、このような把握の仕方も問題です。教育はあくまでもそれぞれの国家の枠組みの中において行われるものですから、国家のありかたが大きく異なる中国、韓国と日本とで、ただ教育だけを取り出してその比較をするということがそもそもナンセンスだと言わなければなりません。あくまでも国家という枠組みをもった社会の仕組み全体の中でしか、その教育のあり方の是非を考えることはできないはずです。

 総じて、教育基本条例案は、教育行政や学校教育のあり方を根本的に変えようとしている割には、問題意識のレベルも、志もあまりにも低すぎると言わなければなりません。それは決して、人類の歴史的な歩みをしっかりと視野に入れ、日本という国家がこれからの人類文化の発展に貢献していくためにはどうすればよいかという大きな課題を正面に据えた上で、どのような社会的個人を育成していくことが求められているのか、数千年にわたる文化遺産の蓄積を新しい世代にまともに継承させていくためにはどうすればよいのか、というような壮大な問題意識をもって出された提案ではないのです。せいぜい、激しい国際競争で必死に闘っている企業が求める人材をどのようにして輩出していくか、という低度の問題意識から提起されたものにすぎません。そこには、資本主義経済の深刻な行き詰まりの中で、「国際競争」とか「グローバル社会」とかいう言葉によって象徴されるような価値観――企業の自由な活動を是とし、企業が発展することを通じてしか人々の幸福はありえないという価値観――が崩壊しつつあるかもしれない、という問題意識すら存在していないように思われます。まして、その対策として打ち出されてきた内容が、学校という枠組みを崩しかねないものであるに至っては、到底まともな教育改革の提案とは言えないシロモノであると断ぜざるを得ません。

 このように、教育基本条例案における問題の立て方やその対策を見てみるに、その根底にある教育観・学校観が根本的に歪んでいると言うことができます。
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2012年03月18日

橋下教育基本条例案を問う(7/13)

(7)学校は教育のための独自の小社会として成立した

 前回は、そもそも教育とは何かという問題を扱いました。端的には、新しい世代(子ども)を社会の中での労働を担える存在(社会的個人)にまで育成していくこと、具体的には、その社会における文化遺産――文化とは協働を可能とするための、規範・知識・考え方の総体のことにほかなりません――を継承させることが教育の本質だということを明らかにしたのでした。人類が人類として世代交代を通じて歴史を創っていく上で必須の営みが教育であるということもできるでしょう。

 学校とは、その教育を行うために存在するものにほかならないわけですが、人類の誕生時から学校が存在したわけではありません。それではなぜ、学校という仕組みが生み出されなければならなかったのでしょうか。今回はこの点について考えていくことにしましょう。

 人類としての歴史の歩みがまだ浅く、社会のなかでまともに労働を担っていく上で学ぶべき文化遺産の蓄積がほとんどない時代にあっては、子どもたちは、自分が将来自立して生きていかなければならない社会のただ中で、周囲の大人たちの行動を真似することによって教育されていったのだ、ということができるでしょう。子どものときから(それなりに)労働を担うことを通して、その社会で必要とされる文化遺産を継承していったのです。

 しかし、時代を経るにつれ、身につけるべき文化遺産の蓄積が膨大になっていくと、現実社会での労働を担いながらそれらを身につけていくというあり方では、社会的個人の育成が果たせなくなってきます。そこで、子どもたちを一時的に労働から解放し、一カ所に集めて、現実社会とは切り離された独自の小社会の中で、文化遺産を継承させていく必要が生まれてきたのです。端的にはここに学校誕生の必然性があるのです。一般的には哲学者・教育学者として知られているJ・デューイは、次のように述べています。

「文明が進歩するにつれて、子どもたちの能力と大人たちの仕事の間のギャップは拡大する。大人たちの仕事に直接参加することによる学習は、あまり進歩していない仕事のほかは、ますますむつかしくなる。大人たちがすることの多くは、距離的にも意味的にも次第に縁遠いものとなり、そのため遊戯としての模倣は次第にその真意を再現するのにますます不適当なものとなっていく。こうして大人の活動に有効に参加する能力は、この目的を目指して、前もって与えられる訓練に依存することになるのである。」(J・デューイ『民主主義と教育(上)』岩波書店、1975年、p.21)

 つまり、文明の進歩とともに、社会的個人の育成は、現実社会の中での模倣という形から、事前に意図的に訓練されるという形へと変化していかざるをえなかったのだ、ということです。より厳密には、「本来、直接に必要がないと思える学校教育の本質は、人間を一時生産体制から解放する事によって、その期間に全人類の歴史性、すなわち文化遺産を受け継ぐ基盤を築かせるために存する」(南郷継正『武道哲学著作・講義全集第八巻』現代社、p.111)ということができるでしょう。

 実は、このような学校誕生の必然性は、生命の歴史において卵生という仕組みが誕生しなければならなかった必然性と論理的には同一だと言うことができるのです。

 そもそも個々の生命体は、それまでの生命体が辿ってきた進化の歴史=系統発生を繰り返すことにより、その時代の地球環境で生存していく実力を身につけることができます。しかし、生命体の進化が進むにしたがって、地球環境が生命体誕生時の状態から大きく変化してしまうにつれて、現実の地球環境のただ中では、系統発生をまともに繰り返すということができなくなってきます。そこで、現実の地球環境とは相対的に独立した環境、すなわち、いわば小地球としての卵の中で系統発生を繰り返すという仕組みが創りだされてきたのです。

 教育とは、ある見方からすれば、個としての人間に全人類の歴史の歩みを辿り返させることで文化遺産を継承させようとする営みであると言うことができます。現実の社会的環境のただ中で、この系統発生をまともに繰り返すことができなくなってきたときに、現実の社会環境とは相対的に独立した環境、すなわち、いわば小社会としての学校の中で系統発生を繰り返す(文化遺産を継承する)という仕組みが創りだされてきたのです。

 このように、人類の歴史的な歩みという観点から学校を捉えるならば、系統発生を繰り返すために創出された、現実社会から相対的に独立した小社会にほかならない、ということが言えるでしょう(注)。

(注)もちろん、学校が現実社会から切り離された独自の社会として形成されたと言っても、将来的に現実社会で生きていける人間を育てることが目的なのですから、絶対的に切り離されてしまっているわけではありません。時代時代において社会の維持・発展のために必要とされる人物像に応じて、学校の中で教育される内容も変化します。このように、学校は現実社会とつながっていると同時につながっていない、つまり相対的に独立した社会として成り立っている、ということです。
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2012年03月17日

橋下教育基本条例案を問う(6/13)

(6)そもそも教育とは何か

 本稿は、橋下徹氏率いる大阪維新の会が提起した教育基本条例案の是非が大きな争点として浮上してきているという情況を踏まえ、教育基本条例案が学校教育や教育行政の聖域扱いを問題視していることに焦点を合わせて、なぜ橋下氏が教育の聖域扱いが不当だと考えるに至ったのか、その背景を探るとともに、そもそも教育の聖域扱いは不当なものなのかどうか、教育現場と外部者とのかかわりはどのようなものであるべきなのか、といった問題を「そもそも教育とは何か」という原点から論じることを目的としたものです。

 これまで、橋下氏が、学力テストの低迷に対応できないような教育行政や学校教育のあり方では激化した国際競争の中で生き残ろうと必死に闘っている企業が求めるような人材を育成することができない、との思いを抱いていたらしいこと、それでは教育行政や学校教育をどのように改革すべきか、と問うて橋下氏が得た答えが、企業を取り巻く激しい国際競争に近い環境を教育行政や学校教育の領域につくりだしていくことだ、というものであったと考えられることを論じてきました。これは、端的には、激しい国際競争に対応できる人材は激しい競争原理がしっかりと働いているような環境の中でこそ育成が可能となる、という発想であると言えます。

 しかし、橋下氏が考えたように、社会一般のあり方を学校教育の現場にそのまま押しつけようとすることは、果たして妥当なことなのでしょうか。次回から、この点について、教育の原点にまでさかのぼって論じたいと思います。

 「そもそも教育とは何か」という問いに対して、一体どのような答えをあたえることができるでしょうか。

 手がかりとして、教育学を学ぶ大学生に向けたやさしいテキストを見てみることにしましょう。そこでは、教育とはどういうものかという問いについて、「一人ひとりの人間にこの社会を自立して主体的に生きていく力を手に入れさせようとする働きかけである」(田嶋一 他『やさしい教育原理』有斐閣、1997年、p.28)などと書かれています。それでは、そもそも「この社会を自立して主体的に生きていく」とは、具体的には一体どういうことなのでしょうか。この問題について考えてみるために、社会の中における我々の生活を振り返ってみることにしましょう。

 我々は決して一人だけで生きていけるものではなく、社会的な分業関係の中で生きています。より具体的には、我々は大人になれば、ふつうはどこかに就職して、そこで労働することで、生活の糧を得ています。会社員ならば企業において、医者や看護師ならば病院において分業を担っているわけです。これは要するに、何らかの組織(小社会)に属して、その組織(小社会)での分業を担うことで、生活しているということにほかなりません。

 しかし、これらそれぞれの小社会は、決してそれぞれの小社会として独立して存在しているわけではありません。互いにかかわりあい立体的に結びつきながら、国家というレベルでの大きな社会を形づくっているのです。逆にいえば、国家レベルの社会全体の維持・発展を社会的な分業関係において担うものとして、各々の小社会が存在させられているのです。したがって、それぞれの小社会の維持・発展は、究極的には、国家レベルでの社会の維持・発展につながっていくものでなければならないわけです。

 このようなことを踏まえるならば、「この社会を自立して主体的に生きていく力」とは、社会的労働における分業関係の一翼を担うことで、直接には自分の所属する組織(小社会)の維持・発展に資することのできる力であり、またこのことを媒介として、国家レベルの社会全体の維持・発展に資することのできる力であると言うことができるでしょう。

 ここで「教育とは何か」を考える上で決定的に重要なのは、これらの小社会、あるいはこれら諸々の小社会の過程的かつ重層的な複合体であるところの国家レベルの社会は、大きな歴史的視野でみるならば、世代交代をつうじて維持・発展させられていくものである、ということです。端的には、この世代交代をつうじた社会の維持・発展という過程的構造こそが教育を必要とさせるのです。どういうことかと言えば、教育とは、新しい世代に属する一人ひとりの人間に、社会的な労働を担いうるだけの力をつけさせるために行われる働きかけであると言うことができる、というわけなのです。

 その上で考えてみなければならないのは、このような力の内実は一体どのようなものなのか、ということです。これは、このような社会的労働が成り立つのは一体なぜなのか、というところから明らかにされなければなりません。

 それは端的には、それぞれの社会に属する人々の間に、何らかの共通認識(文化)が存在しているからであると言えるでしょう。サルの集団は本能によって統括されていますから、個々のサルは生まれながらにして集団の維持・発展につながる行動をとることができます。しかし、サルから人間への進化の過程で、能動的な認識の果す役割が次第に大きくなり、本能による統括が薄れていってしまいました。そこで、本能に代わって集団を統括する存在として誕生してきたものこそが、いわゆる規範(集団的な行動についてのルール)にほかなりません。さらに、規範に基づいて社会的労働が行われていく中で、様々な知識や考え方が獲得されていきます。こうした規範・知識・考え方の総体こそが文化とよばれるものなのです。端的には、このような文化があるからこそ、社会的労働が成り立つのだということができるわけです。

 もちろん、この文化はそれぞれの小社会に応じて異なっているものです。たとえば、病院(医療界)という小社会にこれから入ろうという新人医師であれば、人体に関する知識や医療機器を扱う技術はもちろん、病院という小社会における集団的な行動についてのルールについても知っておくことが必要になります。これら病院(医療界)という小社会を成り立たせている文化をしっかりと継承できてこそ、その医師は病院(医療界)という小社会においてまともに社会的労働を担っていくことができるのです。

 いうまでもなく、このようにそれぞれの小社会での労働を担うに必要な文化の土台となるのは、国家レベルの社会の一員として生きていくのに必要な文化(たとえば母国語をはじめとした基本的なコミュニケーションスキルや、その国家の歴史性をふまえた政治・経済制度の学びなど)にほかなりません。これらの諸々のレベルの文化の存在によって、社会的労働がスムーズに行われていくことになるわけです。

 以上を要するならば、新しい世代を社会での労働を担える存在(社会的個人)として育成していくこと、具体的にはその社会における文化遺産を継承させること――これこそが教育の本質だと言えるでしょう。
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2012年03月16日

橋下教育基本条例案を問う(5/13)

(5)「国際競争」への対応という観点から学校教育の改変を目指す

 前回は、橋下氏が教育基本条例を提起するに至った背景に、学力テストの低迷に対応できないような教育行政や学校教育のあり方では激化した国際競争の中で日本が生き残っていけないという思いがあったと思われること、またこれは橋下氏の個人的な思いではなく、何よりもまず輸出大企業の連合体たる財界を中心にして、現在の日本の経済界に幅広く存在する認識であるという点を明らかにしました。

 それでは財界は、現在の日本の教育行政や学校教育のあり方について、具体的にどのような点が問題であると考え、どのように変えるべきだと考えているのでしょうか。

 この点に関わっての財界の認識が端的に示されているものとして、「財界総本山」とされる日本経団連が2005年に発表した「これからの教育の方向性に関する提言」があります。経団連はこの提言において、国際競争に打ち勝つ人材を育てていくことが課題となっているにもかかわらず、教育現場での教育力が低下しておりそのような課題に対応できていないとして、「教育力低下の要因」として以下のような指摘を行っています。

「第1に、現行制度では、学校経営や教育のノウハウを有する主体が新規参入できない。このことが学校間の競争の低下に結びついている。現在の制度は、公教育は公立、国立学校担い、私立学校は補完的存在に留めるという考え方に基づいている。初等中等教育、とりわけ義務教育段階で顕著に見られるこうした考え方は、画一的な公教育の普及に重点を置いた高度成長期までは適合したが、次第に社会の多用なニーズに対応できなくなっている。

 第2に、児童・生徒・学生や保護者をはじめ社会のニーズに適切に応えなくとも、学校が存続できる構造になっている。初等中等教育では、教員数などを基準に教育予算や助成が拠出される仕組みとなっており、学校や教員が自ら問題点を見つけ、自立的に授業内容を改革し、教える力の増強を促すようにはなっていない。(中略)

 第4に、学校が組織的に管理・運営されるようになっていない。初等中等教育、高等教育ともに、学校や教員の取り組みを評価し、評価を踏まえて改善するというシステムが根付いていない。切磋琢磨する環境になかったといえよう。また、学校の方針に従って、各教員が努力するという組織となっていない。さらに、外部の人材を活用するなど、実社会との交流を通じて教育を充実させようという意識に欠けていた。」

 この経団連の提言は、「教育力低下」の要因をこのように分析した上で、以下のような対策を打ち出しています。

 まず、「新規参入者を増やし、学校間の競争を促進」することです。提言は、互いに競い合うことによって「多様な教育を実現し、教育の質を向上させる」ことになる、としています。

 ついで、それぞれの学校が「供給」する教育の質を問わず一律に予算を配分しているあり方を改め、「教育の供給者ではなく、児童・生徒・学生や保護者など教育の受け手に予算を配分し、社会のニーズに応える」ようにすることです(具体的には、「生徒や学生など個人を対象とする使途制限のある補助金を国がクーポンの形で交付し、個人が学校を選択し、学校はクーポンの額面分の補助金を国から受け取る」という「教育バウチャー制度」の導入を提言しています)。これによって、教育の受け手のニーズに応えければならない仕組みがつくられるのだというわけでしょう。

 さらに、学校評価と教員評価を徹底すること、より具体的には、「保護者、地域社会など多様な評価者が、多面的に学校や教員を評価する」仕組みをつくり、「評価に基づいて教員の処遇を行う(表彰や能力給の採用など)」ことや、学校運営に「外部ノウハウ・人材を積極的に活用すること」、より具体的には、「初等中等教育、高等教育ともに、学校経営、社会との関わりを意識させるプログラム、IT教育、実践的な専門教育や英語教育などの面で、外部の人材やノウハウを広範に取り入れること」を求めています。

 以上を要するに、日本経団連は、国際競争の激化という事態に学校と教員とをまともに対応させていくために、学校間および教員間にもしっかりと競争原理を導入し、競争の結果についての徹底した評価に基づいて学校や教員を処遇していく仕組みをつくっていくこと、さらには、より直接的に、激化した国際競争に対応している外部の人材やノウハウを学校教育の現場に導入していくことを求めているのだ、ということができるでしょう。これは端的には、経団連が、企業が置かれている環境のあり方を(競争原理)をそのまま学校教育の現場に当てはめていくことによってこそ、企業の求めているような人材の育成が可能になるのだ、と考えていることを意味しています。

 ここまで、日本経団連の教育提言の内容をやや詳しく紹介してきましたが、こうした内容は、実は、橋下氏が提起した教育基本条例案と非常によく似通っているということができます。橋下氏の提起した教育基本条例案には、「首長の教育目標作成」「保護者の教員に対する申し立て権」「相対評価による教員評価」「府立学校の学区撤廃」などの内容が含まれていましたが、これらは、日本経団連が主張する教育改革の方向性をより具体化したものだと位置づけることも可能でしょう。

 橋下氏が、学力テストの低迷に対応できないような教育行政や学校教育のあり方では激化した国際競争の中で生き残ろうと必死に闘っている企業が求めるような人材を育成することができない、との思いを抱いていたらしいことは、先に見たとおりです。それでは教育行政や学校教育をどのように改革すべきか、と問うて橋下氏が得た答えが、企業を取り巻く激しい国際競争に近い環境を教育行政や学校教育の領域につくりだしていくことだ、というものだったのではないか、と考えられるのです。これは、激しい国際競争に対応できる人材は激しい競争原理がしっかりと働いているような環境の中でこそ育成が可能となる、という発想であると言えるでしょう。より抽象化して言えば、社会が必要とする人材を学校教育でつくらせるためには、社会一般のあり方を学校教育の現場に押しつけていけばよい、という発想だと言うことができます。

 それでは、経団連の教育提言や橋下氏が考えたように、社会一般のあり方を学校教育の現場にそのまま押しつけようとすることは、果たして妥当なことなのでしょうか。次回から、この点について、教育の原点にまでさかのぼって論じたいと思います。
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2012年03月15日

橋下教育基本条例案を問う(4/13)

(4)学校教育が「国際競争」に対応し切れていないとの危機感がある

 前回は、学力テストの結果を受けての教育委員会の対応をめぐって、橋下氏が教育行政や学校教育の現状への不信感を深めていったことが、教育基本条例の提起につながる直接の出発点になったことを明らかにしました。

 それでは、なぜ学力テストの結果が芳しくなかったことが、そこまで問題にされなければならなかったのでしょうか。学力テストで良い結果を出すことができなかった教育行政や学校教育のあり方をそのままにしておくことが、なぜ問題だと考えられたのでしょうか。

 結論から言えば、学力の低迷を打開できないような教育行政や学校教育のあり方をそのままにしていては、これからの国際競争に対応できないという危機感があったのだと考えることができます。そのような認識の存在をうかがわせるような文言が、教育基本条例案(2011年9月に大阪府議会に提出されたもの)の前文に含まれています。

「大阪府における教育の現状は、子どもたちが十分に自己の人格を完成、実現されているとはいい難い状況にある。とりわけ加速する昨今のグローバル社会に十分に対応できる人材育成を実現する教育には、時代の変化への敏感な認識が不可欠である。大阪府の教育は、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に対応できるものでなければならない。」

 このように、教育基本条例案においては、グローバル社会あるいは激化する国際競争に十分に対応できる人材育成がこれからの教育には不可欠だという認識が示されているのです。実際、基本理念を示した第2条にも「グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で競争力の高い人材を育てること」という教育目標が含まれています。

 橋下氏がこうした問題意識を深めていく上で決定的な契機となったのは、2010年に行われた海外視察であったと思われます。橋下氏は、教育長、教育委員、府立学校の校長などを引き連れて、2010年11月にソウル、12月に上海を訪問し、教育状況について視察しました。この視察の後、橋下氏は「大阪府メールマガジン」で「韓国の教育を見て感じたことは、国として育てなければならない人材像が明らかであること、社会のリーダーを育てていこうという教育の方針が明確であることです。これは世界との競争に勝ち残っていくために必要なことであり、今の日本の教育に一番欠けていることだと私は思っています」と述べました。また、橋下氏は「韓国の視察は非常に効果があった。僕は教育に最も力を入れていく。僕が色々言うより海外の現場を見てもらう方が早い」とも語り、公立の小・中・高校の教員ら約500人を海外視察に送る方針も示しました。また、これまで計画していた「進学指導特色校」について、「国内の大学への進学だけが目標になっている感じがする。世界を相手にできるリーダーを育てなければ」として、名称を「グローバル・リーダーズハイスクール」に変更しました(これは2011年4月から実施されています)。

 これらの発言や対応には、橋下氏が海外視察を通して、国際競争への対応という点で日本の教育は立ち遅れているとの思いを強く抱くようになったことが示されていると言えます。このような思いが、教育基本条例案にある「グローバル社会に対応できる人材の育成」という目標につながっていくことになったのだと考えることができるでしょう。

 ここで重要なのは、この日本の教育の立ち遅れというのは、決して橋下氏だけの個人的な思いにとどまるものではない、ということです。これは何よりもまず経済界などに幅広く存在する認識にほかならないのです。このような認識の根拠となる事実として、しばしば、OECDが2000年から実施しているPISA調査で、教育における日本と海外の差が示されたことが指摘されます。PISAとは、義務教育が終了する15歳の子どもを対象に行われるもので、学校の知識をどれだけ生活の場で活用できるかが問われるものです。項目は読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシー、問題解決(この項目は2003年から)の4つです。2000年、2003年、2006年、2009年と3年ごとに実施されてきましたが、日本は、第1回の調査では好成績を収めたものの、第2回、第3回の調査では、順位を大きく落とすことになったのです。ちなみに、第2回の調査で好成績を収めたフィンランドが大きく注目を浴びることになり、第3回の調査で上海は全ての項目で1位となりました。

 こうした中で、「財界総本山」と呼ばれる日本経団連が発表した提言「経団連成長戦略2011」は、次のように述べています。

「近年、初等中等教育におけるゆとり教育の弊害や、大学全入時代における大学生の質の低下などにより、現状では産業界の求める人材と、わが国の教育課程を経て輩出される人材との間に乖離が生じている。(中略)人材は、中長期にわたって育成され、その後の影響も長く続くため、政策の方向性を誤れば、わが国企業の競争力を根幹から弱めることにつながる。」


 このように、輸出大企業の集まりである財界は、激化する国際競争に対応できる人材の育成を強く求めているのです。こうした人材の育成がここまで声高に叫ばれる背景としては、日本経済が長期にわたって低迷していることを指摘しなければなりません。日本経済はバブル崩壊後の20年間、名目GDPの平均成長率が0.4%と、ほとんど成長していません。その一方で、中国は16.5%、韓国は9.4%と非常に高い経済成長率を誇っています。中国はGDPで日本を抜き去り、現在、世界第2位の経済大国となっています。韓国経済についても、例えばサムソンがテレビ業界で世界的なシェアを誇るなどの躍進が見られます。先日、米調査会社ディスプレイサーチによって、2011年10〜12月期の韓国メーカーの薄型テレビ販売台数が世界販売の34%を占め、日本の31%を上回ったことが明らかにされました(ちなみに中国が20%で第3位となっています)。このように、中国経済や韓国経済の著しい躍進に比して日本経済の停滞振りが際立っているわけですが、財界は、こうした事態を打開するカギを教育に求めているわけです。

 こうした財界の強い要求が背景に存在している中で、橋下氏は、韓国や中国の教育状況を視察することを通して、企業の求める人材の輩出という点で日本の教育が立ち遅れていることに強い危機感を抱くことになったものと思われます。この強い危機感こそが、教育行政や学校教育の現状に対して橋下氏が抱いた不満を、教育基本条例案の提起というところまで媒介していくことになったのだと考えることができるでしょう。
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2012年03月14日

橋下教育基本条例案を問う(3/13)

(3)学力テストへの教育委員会の取り組みに不満があった

 本稿は、橋下徹氏率いる大阪維新の会が提起した教育基本条例案の是非が大きな争点として浮上してきているという情況を踏まえ、教育基本条例案が学校教育や教育行政の聖域扱いを問題視していることに焦点を合わせて、なぜ橋下氏が教育の聖域扱いが不当だと考えるに至ったのか、その背景を探るとともに、そもそも教育の聖域扱いは不当なものなのかどうか、教育現場と外部者とのかかわりはどのようなものであるべきなのか、といった問題を「そもそも教育とは何か」という原点から論じることを目的としたものです。

 まず検討しなければならないのは、教育の聖域扱いを打破しようとする教育基本条例案が出されるに至った背景、いいかえれば、橋下氏がなぜ教育の聖域扱いが不当だと考えるにいたったのか、という問題です。

 結論からいえば、教育基本条例案の提起につながる動きの直接のきっかけは、全国学力・学習状況調査で大阪府の成績が2年連続(2007年、2008年)で低迷したことにあったと考えることができます。

 この全国学力・学習状況調査とは、いわゆる「ゆとり教育」が学力低下を招いたとの批判を受けて、2007年から行われるようになった国語と算数(数学)についての全国的な学力テストのことです(通常は「全国学力テスト」と呼ばれています)。この学力テストにおいて、大阪府は、2007年および2008年の都道府県ランキングで、小学校算数が45位→38位、小学国語が45位→45位、中学国語が45位→45位、中学数学が45位→44位という結果になったのでした。

 このような結果受けて、2008年9月、当時の橋下知事(2008年1月の大阪府知事選挙で当選)は、「教育非常事態宣言」を発すると述べました。橋下知事は、「府教育委員会が前回のテスト後に『方策を取る』と言ったのに、全く改善されなかった」として教育委員会の対応を厳しく批判し、教育力向上の取り組みを徹底する考えを示したのでした。

 具体的な取り組みとして、橋下知事は、各市町村の教育委員会がしっかり仕事を果たしているどうかを明確にするために市町村別の学力テストの結果を公表すべきだとし、実際、各市町村に公表を要請しました。結果の公表について多くの教育委員会が消極的な姿勢を示していることに対しては、「指導、助言を無視されるようなら小中学校課の予算はつけない」とまで発言しました。また、学力テストの結果公表は府民の多くが求めているのに教育委員会だけが反対しているとして、教育委員会は民意を全くくみ取れていないとの批判も行っています。さらに、橋下知事は、ダメ教員は排除すべきだと主張し、不適格教員に対する分限免職の厳格な適用を府教育委員会に求めるとしました。公立学校と私立学校の関係についても、「平等に競争ができるような仕組みを考えていきたい」と発言しています。ちなみに、百マス計算で有名になった陰山英男氏が府の教育委員になったのはこの時のことです。「僕の考えに共鳴する人に多数を取ってもらいたい」という橋下知事によって、9月末で任期切れとなった教育委員に代わって選ばれたのでした。

 「教育非常事態宣言」をめぐるこうした一連の動きから、学力テストの結果とそれを受けての教育委員会の取り組みをめぐって、橋下氏が教育行政や学校教育のあり方について強い不信感を抱くに至ったことを読み取ることができるでしょう。教育委員会は学力テストの点数を高めるための方策をとると言ったにもかかわらず、何らの改善も見られないし、それに対する責任をとろうともしない。それぞれの仕事がきちんと成果をあげているのかどうか、学力テストの結果公表という形で明らかにすべきだ。また公立学校を私立学校と平等に競争させることによって教育の質を高めるとともに、ダメな教師は排除していかなければならない……、というわけです。

 ここから橋下氏は、教育の世界が外部から切り離されてしまっている(教育の世界を教育委員会が仕切っており、その保護の下に公立学校が置かれている)結果、教育の質を高めるための取り組みも不充分なものにしかならず、また、その取り組みの結果に対する責任の取り方も不明確なものになってしまっている、との不満を抱くようになったものと考えられるのです。

 まさにこのような批判にこそ、前回確認したような教育基本条例案の全体を貫く基本的な考え方――これまで聖域扱いされてきた学校教育や教育行政に風穴を開けて民意を反映する仕組みをつくらなければならないという考え方――につながっていく萌芽のようなものを見てとることができるでしょう。端的には、学力テストの結果を受けての教育委員会の対応をめぐって、橋下氏が教育行政や学校教育の現状への不信感を深めていったことが、教育基本条例の提起につながる直接の出発点になったということができるのです。

 それでは、そもそもなぜ、学力テストの結果が芳しくなかったということがそこまで問題視されなければならなかったのでしょうか。この問題を解くことは、橋下氏が抱くに至った教育行政や学校教育の現状への不満を、教育基本条例案の提起というところにまで媒介していったものは一体何だったのかを問うことでもあると言えます。この問題については、次回論じることにしたいとおもいます。
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2012年03月13日

橋下教育基本条例案を問う(2/13)

(2)学校教育への外部からの関与はどうあるべきか

 前回は、橋下徹氏率いる大阪維新の会が教育基本条例案を出してきた経緯、およびそれに対して様々な議論が起こってきたことを紹介しました。より具体的には、教育基本条例をめぐってとくに問題になった点として、教育基本条例案が「首長が教育目標を定める」「保護者は学校運営に対して主体的に参画する」「教員を相対評価する」などといった内容を規定していたことをとりあげたのでした。

 このように、教育基本条例案をめぐっては多くの論争点があるわけですが、結局のところ、教育基本条例案が目指すところは一体何なのでしょうか。諸々の論争を巻き起こした教育基本条例案の諸条項に貫かれている基本的な考え方とは、一体どのようなものなのでしょうか。

 この問題を解く上でヒントになりそうな文言が、昨年9月に大阪府議会に提案された教育基本条例案の前文にあります。それは、以下のような文言です。

「教育行政からあまりに政治が遠ざけられ、教育に民意が充分に反映されてこなかった結果生じた不均衡な役割分担を改善し、政治が適切に教育行政における役割を果たし、民の力が確実に教育行政に及ばなければならない。教育の政治的中立性や教育委員会の独立性という概念は、従来、教育行政に政治は一切関与できないかのように認識され、その結果、教員組織と教育行政は聖域扱いされがちであった。しかし、教育の政治的中立性とは(中略)教員組織と教育行政に政治が関与できない、すなわち住民が一切の影響力を行使できないということではない。」

 この文言からは、教育基本条例案の背後に、政治が教育に関与できず教育が聖域扱いされてきたために、教育に民意が充分に反映されてこなかったことが問題だ、という認識が存在することを読み取ることができます。ここから、首長は選挙で選ばれた住民の代表なのだから、その首長の関与を認めることにより、住民が教育に影響力を与えられる仕組みをつくるべきなのだ、という発想が出てきたと考えることができるのです。「首長が教育目標を定める」というのは、そのための具体的な仕組みとして規定されたものであるといってよいでしょう。

 また、橋下氏が、2012年1月24日のtwitterで、人事権や教員評価をめぐって、次のように発言していることも注目されます。

「学校目標、校長の人事、教員の評価・処分に、外部者や保護者の関与を定めているが首長は直接介入できない。このバランスは崩していない。教育委員会事務局が独占している人事権・評価権を改め、外部者・保護者に関与してもらうというのが教育基本条例の肝なのである。」

 つまり、人事権や教員評価に関して、教育委員会事務局の独占を打破して外部者や保護者に関与してもらう仕組みをつくることこそが教育基本条例案の核心なのだということです。実際、校長が行う教員の相対評価に対しては、保護者や周辺住民などからなる学校運営協議会を設置し、そこでの意見を参考にするよう定められています。また、2月7日に開かれた市教委との意見交換会において、D評価の5%枠を外す代わりに、保護者からの不適格教員の申し立て権を導入する方針が定められました。

 これらの点をふまえるならば、教育基本条例案の全体を貫く基本的な考え方とは、これまで聖域扱いされてきた学校教育や教育行政に風穴を開けて民意を反映する仕組みをつくらなければならないという考え方、より具体的には、学校教育や教育行政に保護者をはじめとした外部者が関与していく仕組みをつくっていかなければならないという考え方である、ということができるでしょう。

 それでは、橋下氏(維新の会)は、学校教育や教育行政の聖域扱いが何故に問題であると認識したのでしょうか。そもそも学校教育や教育行政を聖域扱いすることは本当に不合理なことなのでしょうか。また、学校教育や教育行政への外部者の関与はどのようにあるべきなのでしょうか。本稿は、これらの問題について論じていくことを目的にしています。

 まず教育基本条例案が提起されてきた背景を明らかにします。中国経済・韓国経済の台頭に比した日本経済の低迷への危機感を背景として、国際競争に耐えられる人材の育成という教育目標が打ち出されてきたこと、こうした教育目標を教育現場に持ち込める仕組みづくりが狙われていることを論じます。

 続いて、教育の聖域扱いを打破しようという教育基本条例案の基本的な考え方の是非を、そもそもなぜ学校教育が成立したのかという原点にさかのぼって問います。学校教育成立の必然性から考えれば、ある意味、学校教育は聖域扱いされるてしかるべき部分を含んでいます。このことを「そもそも教育とは何か」という原点から論じます。

 最後に、教育基本条例案に対する教育界の対応について問います。教育基本条例案に対して、教育学者などがまっとうな教育学的見地からの見解を述べることができているのかという点を厳しく問うとともに、現場の教師達が外部からの声に左右されないような理論的裏付けとなる教育学の構築こそが求められていることを明らかにしていきます。
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2012年03月12日

橋下教育基本条例案を問う(1/13)

(1)教育基本条例案の是非が大きな争点として浮上してきている
 
 2012年2月23日、大阪府の松井一郎知事は、府議会の議会運営委員会で、教育行政基本条例案と府立学校条例案を提案しました。現在、大阪府議会は維新の会が過半数を占めており、いずれも可決される見通しが強まっています。

 この両条例案のもとになったのは、2011年8月、橋下徹氏率いる地域政党・大阪維新の会が発表し、大阪府議会において提案がなされた大阪府教育基本条例案です。この教育基本条例案には、「首長が教育目標を定める」「相対評価で教員を評価し、2年連続最低ランクになった教員は処分の対象となる」「保護者の学校教育への関与を義務づける」などの内容が含まれており、これが大きな論争を巻き起こすことになりました。

 とくに大きな問題になったのは、教育基本条例案が「首長が教育目標を定める」としていた点です。教育基本条例案は、その前文において、「教育行政からあまりに政治が遠ざけられ、教育に民意が充分に反映されてこなかった」とし、さらに第6条2において「知事は、府教育委員会との協議を経て、高等学校教育において府立高等学校及び府立特別支援学校が実現すべき目標を設定する」と規定していたのでした。このことについては、教育の政治的中立性に反するのではないかという批判が上がり、文部科学省からも「(教育目標の)内容次第では違法になる可能性がある」との見解が出されました。

 また、教育基本条例案が「相対評価で教員を評価し、2年連続最低ランクになった教員は処分の対象とする」としていた点も大問題になりました。教育基本条例案は、第20条において、校長が教員をSABCDの相対評価するよう定められており、2年連続D評価となった場合、処分の対象となることが定められていました。この点について、教育現場から、「教員間の過度の競争を招く」「教員が子どものためではなく、自らの保身のために動くようになる」などの強い批判が出されたのでした。

 陰山英男氏をはじめとする大阪府教育委員たちも、「首長が教育目標を定める」「相対評価で教員を評価し、2年連続最低ランクになった教員は処分の対象とする」などの内容に対して強く反発し、「可決されれば辞職する」とまで発言しました。

 このほか、教育基本条例案が「保護者の学校教育への関与を義務づける」としていたことも問題になりました。教育基本条例案は、第10条において、「保護者は、学校の運営に主体的に参画し、より良い教育の実現に貢献するよう努めなければならない」「保護者は、学校教育の前提として、家庭において、児童生徒に対し、生活のために必要な社会常識及び基本的生活習慣を身に付けさせる教育を行わなければならない」と規定していました。このように、保護者に義務を課すような内容について、保護者の間から不満の声が上り、大阪のPTAも条例案に対して再考を要求しました。

 このような諸々の批判が巻き起こる中で、結局、条例案は否決されてしまいました。しかし、2011年11月27日に実施された大阪府知事・大阪市長ダブル選挙において、維新の会の松井一郎氏と橋下徹氏がダブル当選したことによって、教育基本条例案の成立に向けた動きが再び大きく加速していくことになります。

 まず、橋下氏が当初から掲げていた大阪都構想の実現に向けて12月27日に設置された大阪府市統合本部の会議の中で、府教育委員の側から教育基本条例案に対する対案が提出され、様々な議論がなされることになりました。その結果、いくつかの改変が加えられた上で教員委員会側も大筋で了承したことで、教育基本条例案と府立学校条例案が大阪府議会に提出されるに至ったのです。また、大阪市においても、府市統合本部会議で議論された内容を踏まえて、市教委が教育行政基本条例案と学校運営に関して規定した市立学校運営条例案を作成しました。これらは概ね府議会に提出された条例案と同じ内容です。2月22日には橋下市長との意見交換会が行われ、2月28日から開かれる大阪市定例議会で橋下徹市長が提出し、そこで議論・決定がなされる見通しです。

 教育基本条例案は、このような一連の過程でその中身を変えてきたのですが、教育基本条例に強く反対してきた人々からは、その危険な本質は変わっていない、との批判がなされています。たとえば、翻訳家の池田香代子氏や教育評論家の尾木直樹氏らが呼びかけ人として名を連ねた「大阪・教育基本条例案の制定の動きに対して、再び反対する」アピール(2月28日発表)は、次のように述べています。

「『大阪維新の会』の教育基本条例案は、違法であるという事実と市民の批判の前に、府教育委員会の提出した対案をもとに作り直しを余儀なくされました。しかし、作り直された知事提案は、『維新の会』の案と本質的に変わっていないと言わざるをえません。

 知事の『教育目標設定』はなくなりましたが、知事が教育委員会と協議して「教育基本計画」を作成するといいます。知事が独善的に教育目標の類を『教育基本計画』に入れれば、教育基本法が禁じている権力の介入と同じことになります。知事が教育委員を業績いかんで罷免する、違法の規定もなくなっていません。命令通りにならない教職員を免職にする規定も残りました。これは今年一月に『君が代』の起立斉唱に関して最高裁判所が下した判決に反します。また、府立高校の統廃合や学区撤廃など、競争原理を導入する条文もそのままです。」

 このアピールは、その最後で、「『教育条例案』を大阪府議会、大阪市議会において廃案にするまで、皆様と共に最後まで闘い続けたいと思います」と述べ、教育行政基本条例案と府立学校条例案に対する反対姿勢を鮮明にしています。このように、維新の会が提起した教育基本条例案の成立に向けた動きが大きく加速している一方で、それを何とかして阻止しようという動きも強まっているといえます。教育基本条例案の是非が大きな争点として浮上してきているのです。
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2012年03月11日

掲載予告「橋下教育基本条例案を問う」

 2012年2月23日、大阪府の松井一郎知事は、府議会の議会運営委員会で、教育行政基本条例案と府立学校条例案を提案しました。現在、大阪府議会は維新の会が過半数を占めており、いずれも可決される見通しが強まっています。

 そこでは、激しい国際競争に対応できる人材を育てるという教育目標を掲げ、首長の教育目標設定、企業的な経営手法の導入、学区撤廃・教員評価による競争原理の導入などの内容が盛り込まれています。これに対して、教育界からは「教育の政治的中立性に反する」「教師が子どもではなく、管理職の方に目を向ける
ようになる」などの批判がなされています。

 しかし、教育基本条例案にしても、それに対する教育界からの反論にしても、「そもそも教育とは何か」「学校とは何か」といった本質を把握した上での議論とはなっていません。本稿ではこの点を大きく問い、教育基本条例案およびそれに対する反論の是非を明らかにしたいと思います。教育基本条例案は人類の歴史
において学校が誕生してきた必然性を否定するものであり、またそうした反論が真っ当に行うことのできる教育学の構築が急務だという点を説いていきたいと思います。

 以下、目次(予定)です。

橋下教育基本条例案を問う

(1)教育基本条例案の是非が大きな争点として浮上してきている
(2)学校教育への外部からの関与はどうあるべきか

1.教育基本条例案が提起された背景を問う
(3)学力テストへの教育委員会の取り組みに不満があった
(4)学校教育が「国際競争」に対応し切れていないとの危機感がある
(5)「国際競争」への対応という観点から学校教育の改変を目指す

2.教育基本条例案の是非を学校教育成立の必然性から問う
(6)そもそも教育とは何か
(7)学校は教育のための独自の小社会として成立した
(8)外部からの過度の関与は学校教育成立の必然性を否定する

3.教育基本条例案への教育界の対応を問う
(9)教育界は主体性ある対応ができていない
(10)現場の教師は自らの実践の意義を捉え返していかなければならない
(11)学問こそが専門分野としての主体性確立の役割を担う

まとめ
(12)学校教育はある意味「聖域」であるべきものである
(13)「聖域扱い」の正当性を支える教育学体系の構築が急務である
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2012年01月27日

消費税はどういう税金か(13/13)

(13)この国を破壊する消費税増税を許してはならない

 前回は、本稿での論の流れを簡単に要約した上で、消費税は弱者から強者へと富を移転する最悪の税金であると断じた。ここから、「消費税増税する前にやることがある」「官僚利権根絶なき消費税増税反対」あるいは「デフレ下での消費税増税反対」などとする類の“消費税増税反対論”の妥当性を評価することができるであろう。

 まず、消費税の巨大な害悪は、税込価格での競争を通じて弱者に犠牲を強いるという消費税の本質的な性格に起因するものであるから、無駄の徹底的な排除(天下りに代表される官僚利権の根絶など)がなされたからといって、決して耐えられるようなものではない。したがって、本稿は「消費税増税する前にやることがある」「官僚利権根絶なき消費税増税反対」といった類の反対論には与しない。

 それでは、「デフレ下での消費税増税反対」という論はどうか。確かに、消費税の害悪がデフレという条件の下でとりわけ強烈なものとして現われているとは言えるであろう。しかし、仮に日本経済がまともな成長路線に転じ、労働者の賃金も順調に伸びて中小零細業者の経営も安定してきたという状態が実現されたとしても、消費税が弱者から強者へ富を移転するという構造――市場において税込価格での競争が強いられるという消費税の本質的な性格に由来する――は、ある程度まで緩和されるということに過ぎない。このような性格を持った消費税が本当に社会保障の安定財源としてふさわしいのか、根本的に問われるべきであろう。

 しかし、当面我々に問われているのは、現在、野田政権が進めようとしている消費税増税を認めるのか否か、という問題である。1月14日、テレビ東京の番組に出演した野田首相は、消費税の増税を含む「社会保障・税一体改革」について、「この国を守るために、政治生命を懸けてやり抜く」と述べた。しかし、本稿で説いてきたように、消費税の増税こそ、この国を破壊する最悪の愚策なのである。今、主権者たる国民に問われているのは、まさに、この日本という国を守るのか壊してしまうのか、という選択に他ならない。

 消費税増税の最大の受益者となるのは、日本経団連などに結集した一握りの輸出大企業であるが、これら大企業は、経済のグローバル化の流れに乗ることで、日本国内からよりも遥かに大きな売上を海外から得るようになってきている。例えば、2010年度の海外売上比率で見ると、経団連の現会長・米倉弘昌の住友化学が53%、前会長・御手洗冨士夫のキャノンが78%、前々会長・奥田碩のトヨタが72%などとなっている。存在は意識を規定する。売上げの大半を海外から得ている輸出大企業にして見れば、日本の国民経済がどうなろうと大した問題ではないのである。「日本経済新聞」などを読んでいれば、彼らが、少子高齢化で日本の内需が縮小していくという前提の下に、如何にして海外から大きな儲けを上げるかという課題に汲々としていることがよく分かるであろう。彼らは、日本の国民経済の健全な発展など眼中にない。経団連などが消費税増税を主張するのは、この国の将来を考えてのことなどではなく、彼ら自身の利害のためでしかないのである。

 それでは、財務省官僚の方はどうか。彼らが消費税増税に固執する理由として、天下りなど官僚利権の存在が指摘されることが多い。もちろん、そのようなこともあるし、官僚利権をなくすことはそれ自体として重要な課題である。しかし、それが理由の全てだというのは、やはり一面的であろう。本稿はここで、あえて彼らに好意的な見方、すなわち、彼らは彼らなりの流儀で「この国を守る」ことを考えているのだという見方を採用してみたい。それは、財務省官僚が、戦前・戦中に軍からの要求に屈して軍事費調達のために赤字国債を垂れ流し国家財政を破綻させてしまったことを痛苦の教訓として、財政均衡主義を固く信奉するようになっているのだ、という見方である。しかし、仮に彼らがそのような主義から消費税の増税に固執しているのだとするならば、財政を財政のみで取り上げて国民経済との相互浸透で把握しようとしない偏狭さが徹底的に批判されなければならない。財政均衡主義に固執するあまり、国民経済を破綻させてしまっては元も子もないのである。

 主権者たる国民である我々は、この消費税増税問題について、財界や財務省の影響下にあるマスコミの宣伝に惑わされることなく、「この国を守るために」という観点から、主体的な判断を下していかなければならない。問われているのは、他のどの国でもないこの日本という国の将来なのである。本稿では、徹頭徹尾、この日本という国の現実に即して、消費税の問題点について解いてきたつもりである。

 この観点から、本稿で最後に触れておきたいのは、欧州諸国では消費税(付加価値税)率は日本よりずっと高いのだから日本も少々高くしても仕方がないのではないか、という類の論調である。このような論調については、欧州諸国では食糧品などに軽減税率が適用されていること、その結果として、現時点でも国税収入に占める消費税(付加価値税)の割合は日本と欧州諸国でそれほど差のないことが指摘されることがある。しかし、そのような表面的な事実を指摘するだけでは、この類の論調への批判としては不充分である。本稿の連載第9回の注でも触れたが、そもそも欧州諸国と日本とでは、消費税にまつわる歴史的経緯や経済的・社会的な条件が全く異なるのであって、そのような諸々の違いを全く無視した上で、ただ消費税(付加価値税)の税率のみを取り出してきてその高低を云々するのは全くナンセンスなのである。

 それでは、経済的・社会的な条件や歴史的経緯の違いとは、具体的には一体どのようなことなのか。

 まず、経済的・社会的な条件について言えば、欧州諸国には、大企業から零細業者まで資本規模の異なる企業は存在していても、零細業者の数も日本よりは圧倒的に少なく、それぞれにおける労働条件にも大差のことが指摘されなければならない。日本は、明治維新以降に急速な「上からの資本主義化」を進めたため、一方に少数の大企業が存在し、他方に多数の零細業者が存在するといういわゆる「二重構造」を形成してしまっているのである。また、欧州諸国においては日本よりも労働者の権利保障が厚く、総じて市場競争はより緩やかであると見るべきであろう。もちろん、このような市場経済の行き過ぎを抑えるルールの存在は、労働者などの長い期間に渡る闘いを通じて確立されてきたものである。

 それでは、付加価値税にまつわる歴史的経緯についてはどうか。欧州諸国の付加価値税の直接の起源は、第一次世界大戦の際に戦費調達財源として導入されたことにある。要するに、戦時の“挙国一致”的な雰囲気の中で導入され税率が引き上げられていったわけである。欧州諸国においても、こうした大型間接税の導入・税率の引き上げは、多くの痛みや混乱をもたらしたであろう。しかし、そうした痛みや混乱は、戦時という特異な情況の下で圧殺されていったであろうことは想像に難くない。そこから100年近くの時間を掛けて、諸々の苦闘、試行錯誤の積み重ねを通じて、それなりに落ち着いてしまった状態として、現在の欧州諸国の姿があることを忘れてはならない。

 このような歴史的経緯、あるいは社会的・経済的な条件の違いを踏まえるならば、ただ消費税(付加価値税)の税率のみを取り出してきてその高低を云々するのはあまりに粗雑な議論であることが明らかであろう。

 以下のような例え話が、このような議論の不当性を明瞭に示すであろう。

 Aさんは、10年前、大事故に遭遇して不幸にも片足を失ってしまった。しかし、周囲の手厚いサポートも得ながら、長い長い苦闘の末に何とか新しい状態に適応して、それなりに暮らせるようになってきた。一方、Bさんは、現在、足を切断してしまわなければならないほどの怪我ではないのに、無理やり切断してしまおうとしている藪医者の説得を受けている。この藪医者は、「Aさんは、片足がなくてもそれなりに上手く暮らしているではないか」などと言う。しかし、Bさんが周囲を見渡してみると、Aさんが受けることのできたような手厚いサポートはとても期待できそうにないのである。それでもBさんは、藪医者の説得に応じて片足を切断してしまうべきであろうか。

(了)
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2012年01月26日

消費税はどういう税金か(12/13)

(12)消費税は弱者から強者へ富を移転する最悪の税金である

 本稿では、消費税増税の是非をめぐる攻防が税率5%への引き上げが実施された1997年以降で最も緊迫した局面を迎えている、という情況を踏まえ、国民の一人ひとりが主体性ある主権者として的確な判断を下していくためのには「そもそも消費税とはいかなる税金なのか」という本質的なところにまで遡っての議論が提供されなければならない、との問題意識に基づいて論じてきた。本稿で繰り返し強調してきたのは、消費税に関わっての諸々の議論において暗黙の内に前提されている「消費税は、消費一般に広く公平に課税する間接税」(国税庁「消費税のあらまし」)というような見方は、全く理屈の上での話に過ぎないということであった。

 ここで、本稿でこれまで説いてきた流れを簡単に振り返っておくことにしよう。

 まず、そもそも消費税は何を課税標準(税額を算出する上で基礎となる課税対象)とした税金なのか、という問題を取り上げた。端的には、消費税の課税標準は、あくまでも事業者が財貨・サービスの生産過程で生み出した新たな価値(付加価値)なのであって、消費税は財貨やサービスを消費するという行為に対して課税されているわけではないということであった。それぞれの事業者は、自身の製品を販売しようとする際、その本体価格に消費税率を掛けたものを上乗せして価格を設定することとされている。しかし、“事業者が消費税の負担を消費者に転嫁する”というのは、実態はどうあれ、消費税法ではそう見なして(事業主が消費者にいくらで商品を販売しようと、その中には消費税分が含まれているものと強制的に見なして)事業主に消費税の納税義務を課しますよ、ということでしかないのである。消費税は、税込価格での競争を強いる。価格競争力の弱い零細業者にとっては、原価に正当な儲けを上乗せしてさらにそこに消費税を転嫁するなどという価格決定をする余裕など到底ないのであって、「(消費税込で)いくらなら売れるか」と考えるしかない。結局、中小零細業者にとっては、消費税は消費者から預かったお金を納める間接税などではなく、身銭を切って納めなければならない直接税になってしまう。中小零細業者にとっては、消費税はまさに“営業破壊税”以外の何物でもないのである。

 次いで、消費税が税込価格での競争を強いる以上、たとえ税率が引き上げられたとしても、その引き上げ分に見合っただけモノの値段が上がっていく(単純に消費者に負担が転嫁される)とは限らないこと、価格競争力の強い大企業は、同業他社との差別化を図るために、徹底的なコスト削減努力をテコにして一層の低価格競争へと突き進んでいこうとする可能生が高いことを指摘した。消費税増税反対論の中では、税込価格の上昇による家計の負担増が指摘されることが多いが、これは消費税の負担が全て消費者に転嫁されることを前提にした議論であり、決定的に不充分なものである。大企業が税込価格での競争を有利に進めようとして徹底的なコスト削減を図る際に、弱小な取引先、あるいは多くの従業員を犠牲にしていくことこそが大きな問題として問われなければならないのであった。とりわけ、低価格競争のための一般的なコスト削減ということだけでなく、消費税の仕組みそのものがより直接的に雇用破壊を促進する効果を持つことが注目されなければならないことも指摘した。これは、賃金は消費税の課税対象外であるのに対して、派遣会社への支払いには消費税が含まれているとみなされることに関わる。企業の納付すべき消費税額は、「消費者から預かった消費税−自身が負担した消費税」として計算する。したがって、企業は直接雇用(消費税課税の対象外)を派遣労働(消費税が含まれる)に置き換えることによって消費税納税額を計算する際に控除できる消費税額を増やすことが可能となる。結果として、派遣労働者を増やすことが企業にとって大きな消費税節税効果を持つのであった。端的には、消費税は労働者にとって“雇用破壊税”以外の何物でもないのである。その一方で、国外に輸出して大きな儲けを上げている大企業が、「輸出戻し税」として巨額の還付金を受けていることも指摘した(輸出戻し税として還付される分は、全消費税収の実に3〜4割にも上っている)。これは、輸出企業は国内での仕入れで消費税を負担しているにもかかわらず国外の消費者にそれを転嫁するわけにはいかない、との理屈で、輸出企業が国内で負担していた(とされる)消費税額相当分を還付しようという仕組みであった。しかし、価格支配力の強い大企業が、国内で実質的には消費税を負担していない(取引先に消費税分あるいはそれ以上の値引きを強要している)とすれば、これは実質的な“輸出補助金”以外の何物でもなくなってしまうのである。

 このように、消費税はその税収の使い道云々の問題以前に、税金そのものの構造として、弱者から強者へと富を移転する性格をもっている。すなわち、消費税は、日本国内の多数の弱者を犠牲にすることによって徴収され、その少なくない部分(実に3〜4割!)が日本国外で大きな儲けを上げている一握りの輸出大企業に還付されるという構造をもっているということである。このことを踏まえて、消費税の増税がこうした富の移転の構造をますます強化していくことを論じた。端的には、消費税を増税することは最大・最強の格差拡大策に他ならず、このことによって、すでに解体されかかっている日本の中間層は完膚なきまでに解体されていくと考えなければならないのであった。一言で言えば、消費税は“中間層解体税”としての性格を持っている。そうである以上、消費税は「経済活動に与える歪みが小さい」(「社会保障・税一体改革素案」)などというのは全くデタラメと言わねばならない。日本経済が「失われた20年」と呼ばれるほどの長期に渡って低迷している背景には、一握りの輸出大企業が日本国内の労働者や中小業者の犠牲の上に立って国外で巨大な儲けを上げているという構造的な歪みが存在するのであるが、消費税の増税は、日本経済のこの歪みを著しく拡大させることを通じて、日本経済の低迷状態をこれまで以上に深刻なものにしてしまうのである。このことは、日本の財政にも壊滅的な影響をもたらしかねない。消費税の増税が財政に如何なる影響を与えるかという問題は、消費税の増税が直接に税収を増やす効果だけでなく、消費税の増税を契機とする景気の冷え込みによってGDPが縮小させてしまう効果、さらにはそのことを媒介として他の税目の税収を減少させてしまう効果をも含めて検討されるべきである。そこまで視野を広げるならば、消費税の増税は財政再建への道であるどころか、財政破綻への道でしかないことが明らかである。実際、1997年に消費税率が3%から5%に引き上げられた際には、景気が極端に悪化し、1998年度の消費税収が1996年度に比べ4兆円増えた一方で、所得税収は2兆円、法人税収は3.1兆円の減収となり、税収全体としてはかえってマイナスになってしまったのであった。結局、消費税増税は、財政再建に資するどころか、日本経済に壊滅的な打撃を与えることを媒介として、財政を破綻に追い込んでしまう危険性が高いのである。

 本稿では以上のように説いてきた。改めてその要点をまとめておくとすれば、以下のようになる。

 いくらで売買取引が成立しようがその販売価格には消費税分が含まれていると自動的に見なされてしまう(実態の如何に関わらず、販売者は購買者から消費税を預かったことにされてしまう)消費税は、市場参加者に消費税込価格での競争を強いる。結局、消費税は、あらゆる取引を通じて市場における弱者に犠牲を集中させていくのである。しかも重大なのは、このように弱者の犠牲の上に徴収された消費税の実に3〜4割までもが輸出大企業に還付されていることである。消費税は、中小零細業者にとっては“営業破壊税”であり、労働者にとっては“雇用破壊税”であるのと同時に、輸出大企業にとっては“輸出補助金”の源泉なのである。消費税は、税収の使い道云々以前に、それ自体として弱者から強者へと富を移転する効果を持つ“中間層解体税”に他ならない。消費税が1989年の導入以来、法人税減税や所得税の累進性の緩和など大企業・富裕層優遇税制の穴埋めとしての役割を果たし続けてきた(社会保障はこの20年来一貫して削減され続けてきた!)ことを考慮に入れるならば、その“中間層解体税”としての性格は一層強烈なものとなる。消費税は弱者から強者へと富を移転する最悪の税金である。現在、野田政権が進めようとしている「社会保障・税一体改革」とは、消費税のこうした害悪を一層耐え難いものへとしていく道に他ならないのである。
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2012年01月25日

消費税はどういう税金か(11/13)

(11)消費税の増税は財政を破綻へと導く

 前回は、消費税が弱者から強者へと富を移転する性格をもっている――より具体的には、日本国内の多数の弱者を犠牲にすることによって徴収され、その少なくない部分(実に3〜4割)が日本国外で大きな儲けを上げている一握りの輸出大企業に還付されるという構造をもっている――以上、「経済活動に与える歪みが小さい」(「社会保障・税一体改革素案」)などという論が全くのデタラメであることを明らかにした。日本経済が「失われた20年」と呼ばれるほどの長期に渡って低迷している背景には、一握りの輸出大企業が日本国内の労働者や中小業者の犠牲の上に立って国外で巨大な儲けを上げているという構造的な歪みが存在する。消費税の増税は、日本経済のこの歪みを著しく拡大させることを通じて、日本経済の低迷状態をこれまで以上に深刻なものにしてしまうのである。まさに、消費税の増税は日本経済をどん底に突き落とす最悪の愚策という他ない、ということであった。

 しかし、先進国の中で最悪といわれる財政危機を放置して続けるわけにはいかないのではないか、財政再建や社会保障制度の持続性を考えるならば、消費税の増税は遅かれ早かれ避けられないのではないか、との疑問も生じるであろう。今回は、この問題を取り上げて検討してみることにしたい。果たして財政再建のためには消費税の増税は不可避なのであろうか。

 この問題に関わっては、何よりもまず、日本の財政の現状をどう見るべきなのかが検討されなければならない。この問題については、本ブログに2010年7月28日から掲載した小論「弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り」において論じた。詳細な議論についてはそちらを参照してもらうとして、ここでは、この小論の主要部分をごく簡単に要約する形で振り返っておくことにしよう。

 日本は、国と地方を合わせて1000兆円もの借金を抱えていると言われている。これは、確かに巨額である。財務省の強い影響下にある新聞やテレビなどマスコミは、日本政府の借金額が世界一であるとして危機を煽っている。しかし、このような見方は、政府の借金なるものをただそれだけで、すなわち、他とのつながりを切り離して、固定したものとして捉えてしまっているという点で、極めて形而上学的(非弁証法的)な見方だと言わざるを得ない。まず指摘されなければならないのは、日本は、政府の借金額が世界一であるだけでなく、政府の金融資産、民間貯蓄、対外純資産も世界一なのだ、という事実である。このように、国内に資金が溜まりがちな日本の経済体質に着目するならば、ある程度までの政府の借金はむしろなければ困るものなのだ、という見方もできる。つまり、国内の金融機関に溜まったままになっている資金を国債と交換し、政府が政策的な目的に支出していくことによってこそ、経済の循環が可能になっているのだ、ということである。実際、このような構造があるからこそ、日本国債の大半が日本国内で消化されているのだと考えなければならない。この点、国内に資金の余裕がないから国外の投資家に国債を販売することで財政資金を調達していたギリシャ政府とは決定的に事情が異なる。

 このように、日本の財政状態をギリシャ等と比較して今すぐにでも破綻してしまうかのように危機を煽るような論には、まともな根拠がない。しかし、日本の財政の持続可能性はどうなのかという問題は、別個に検討されなければならない。

 この問題に関しては、まず、財政の健全性は政府の債務と国民が産み出す富との関係如何という観点から把握されなければならないこと、より具体的には、たとえ債務額が増たとしても、それに見合うだけのGDPの伸びがあれば、超長期的(国家には寿命はない!)には返済可能であるとの見通しが持てることが確認されなければならない。実は、日本の財政の真の危機は、この点にこそ存在するのである。

 1994年の時点では、日本の純債務残高GDP比は20%で、いわゆるG7(先進主要7カ国。日、米、英、独、仏、伊、加)の中で最低水準であった。問題はその後の推移である。G7の日本以外の国々は、政府の債務額自体は増加させてしまったものの、積極的な財政支出による景気浮揚効果もあって、債務額の伸びを上回る(あるいは少なくともそれに見合う)GDPの伸びを実現させたため、純債務残高GDP比(政府債務の国民負担率)は低下させる(あるいはほぼ横ばいに抑える)ことができている。一方で、日本は債務が増える一方で、GDPがほとんど伸びなかったために、純債務残高GDP比(政府債務の国民負担率)を急激に悪化させてしまったのである。2011年の日本の純債務残高GDP比は120%を超え、G7中ダントツの第一位である。

 皮肉なのは、日本の財政状況が急速に悪化していったこの期間は、本格的に財政危機が叫ばれるようになり、そのための対策がとられるようになった時期に重なっているということである(日本の財政危機問題が本格的に騒がれるようになったのは、1995年11月、村山自社さ連立政権の武村正義蔵相が国会で「日本は財政危機だ」と宣言してからのことであった)。これは、結論から言えば、「財政赤字を出してこそGDPが伸びて財政が健全化する」という弁証法的な発想を否定し、形而上学的に「何時如何なる時も財政赤字は悪」という形而上学的な発想にもとづいて、「歳出削減+増税」という財政再建路線を採ったことで景気を冷え込ませてしまったからに他ならないのである。要するに、日本財政の真の危機は、政府の債務額が巨大であるということではなく、財政再建路線の下にもかかわらず純債務残高対GDP比を急速に悪化させてきているという過程そのものにある、と見なければならないのである。

 財政再建のために消費税増税が不可避であるとの論の妥当性は、以上で説いてきたような財政と国民経済との相互浸透関係をふまえて判断されなければならない。より具体的には、消費税の増税が直接に税収を増やす効果のみに着目するのではなく、消費税の増税を契機とする景気の冷え込みによってGDPが縮小してしまう可能性、さらにはそのことを媒介として他の税目の税収を減少させてしまう可能性をも合わせて考えていかなければならないのである。

 実際、1997年に消費税率が3%から5%に引き上げられた際には、景気が極端に悪化し、1998年度の消費税収が1996年度に比べ4兆円増えた一方で、所得税収は2兆円、法人税収は3.1兆円の減収となり、税収全体としてはかえってマイナスになってしまっている。現在の日本経済の落ち込みは、当時と比べても際立っている。1998年当時は、労働者の賃金は僅かずつではあっても伸びていく過程にあった。しかし現在は、ともかく労働者の賃金が伸びていないのである。このような情況下で消費税の増税を強行すれば、日本経済に1998年とは比較にならないくらいの壊滅的な打撃を与えてしまうのは明瞭である。要するに、消費税増税は、財政再建に資するどころか、日本経済に壊滅的な打撃を与えることを媒介として、財政を破綻に追い込んでしまう危険性が高い。消費税増税はしばしば語られるような「ギリシャ化」回避策などではなく、確実な「ギリシャ化」への道なのである。

 先ほども説いたように、日本財政の危機は、債務の伸びに見合ったGDPの伸びがないというところにこそ存在する。そうであるならば、財政再建への道は、GDPを伸ばすことによって税収を上げるところにこそ見出すべきである。前回論じたように、GDPの低迷の最大の要因は、一握りの輸出大企業が下請け単価を叩き労働者の賃金を切り下げることで儲けを確保してきたところにある。したがって、何よりもまず、この歪んだ構造にメスを入れることによって経済成長を図ることにこそが、財政再建の最も確かな道だということになるのである。仮に増税が必要ならば、大企業・富裕層にこそ負担を求めるべきであって、労働者や中小業者に求めるべきではない。
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2012年01月24日

消費税はどういう税金か(10/13)

(10)消費税の増税は日本経済をどん底に突き落とす

 前回は、消費税がその税収の使い道云々の問題以前に、税金そのものの構造として、弱者から強者へと富を移転する性格をもっていること、すなわち、消費税が、日本国内の多数の弱者を犠牲にすることによって徴収され、その少なくない部分(実に3〜4割)が日本国外で大きな儲けを上げている一握りの輸出大企業に還付される、という構造をもっていることを説いた。消費税の増税は、こうした富の移転の構造がますます強化されていくことを意味する。消費税を増税することは最大・最強の格差拡大策に他ならず、消費税の増税によって、経済の長期停滞や新自由主義的改革の進行によってすでに解体されかかっている日本の中間層は、完膚なきまでに解体されていくことになるであろう、ということであった。

 このように、消費税は極めて強力な“中間層解体税”としての性格を持っているのであるが、このことは、消費税が「経済活動に与える歪みが小さい」(「社会保障・税一体改革素案」)などという論が全くのデタラメであることを如実に示している。本ブログでも何度か説いてきたように、日本経済が「失われた20年」と呼ばれるほどの長期に渡って低迷している背景には、一握りの輸出大企業が日本国内の労働者や中小業者の犠牲の上に立って国外で巨大な儲けを上げているという構造的な歪みが存在する。消費税の増税は、日本経済のこのような歪みを著しく拡大させることを通じて、日本経済の低迷状態をこれまで以上に深刻なものにしてしまいかねない。まさに、消費税の増税は日本経済をどん底に突き落としてしまいかねない、最悪の愚策なのである。

 このことをもう少し突っ込んで説いておこう。現在の日本経済が如何なる問題点を抱えているかは、景気の動向を需要の側面から見ていくことが役に立つ。景気の動向を大きく左右する需要は、まず、大きく国内の需要(内需)と国外の需要(外需)とに分けられる。この内、国内の需要(内需)はさらに、民間消費、民間投資(設備投資)、政府支出の3つに分けることができる。民間消費とは一般の消費者が財貨・サービスを購入すること、民間投資(設備投資)とは企業が機械設備等を購入することであり、政府支出とは、文字通り政府の支出(公共事業など)のことである。結論から言えば、現在の日本の景気動向は、内需が低迷する中で外需に大きく依存するような構造になってきているのである。このことは、「失われた20年」の中でも相対的に景気の良かった時期が、一体どのような構造において景気回復を成し遂げることができたのか見てみることではっきりする。本ブログでも何度か紹介したが、平成20年版の『経済財政白書』(内閣府)は、2002年2月から開始された景気回復――「いざなぎ景気」を超えて戦後最長の景気拡大になったと言われた――について、次のように分析している。

「国内需要については、景気回復期を通じて、全体として回復は緩やかであった。この間、輸出は実質ベースで1.8倍になったが、国内需要は1.1倍程度にしか増加していない。特に、今回の景気回復では輸出増加の実質GDP成長率への寄与が大きく、寄与率では戦後の景気回復局面の中でも最も高く6割を超えている。成長率への寄与では、やはり海外の強い需要増に支えられた成長であったといえるだろう。また、名目ベースでみても、GDPに占める輸出のシェアは、設備投資を上回っている」

 端的には、2002年からの景気回復は、輸出(外需)の拡大に大きく依拠したものであったということである。このような構造は、如何にして形成されていったのであろうか。

 高度経済成長期からバブル期の頃まで、日本経済は基本的に内需主導の拡大を遂げてきた。企業は、労働力を確保するために、年功賃金制や終身雇用を用いて労働者を企業に縛り付けていたが、これは労働者からすれば、企業の保護の下に生活を保障されており、それなりの購買力が保証されていたことを意味する。つまり、輸出が増え設備投資が増えて景気が回復し始めると、労働者の賃金が増えることで民間消費も伸びていく、さらにそれが設備投資を刺激してますます景気が良くなっていく……という好循環を生み出す構造が存在していた。結果として、景気の回復(GDPの伸び)に最も大きく寄与する需要項目は民間消費だったのである。

 ところが、1990年代以降、いわゆる「経済のグローバル化」の進行によって、この構造が崩されていく。日本の大企業は、諸外国の企業との競争に打ち勝つためと称して、生産の拠点を賃金の安い国へ移転させるとともに、日本国内においては、終身雇用や年功賃金などの制度を見直し、非正規雇用を拡大させていったのである。こうして、国内の雇用が縮小して賃金も低下した結果、たとえ輸出が増えそれに伴う設備投資がある程度増えたとしても、その効果が家計にまで波及していかない構造が形成されてしまった。実際、2002年以来の景気回復局面でも、賃金はほとんど増えなかったのである。これでは日本国内の民間消費が増えるわけがない。この景気回復は、米国や中国などの好景気によって輸出(外需)が増えたため一部の大企業が潤ったという域を出るものではなかったのである。

 以上を要するに、日本経済がこれほど長期に渡って低迷しているのは、大企業が労働者の賃金を抑えることで儲けを確保しようとしているために国民の所得が落ち込み、国内の民間消費が冷え込んでしまっているからに他ならない、と考えられるわけである。あらゆる取引を通じて弱者に犠牲を集中させていく消費税を増税することは、このような日本経済の歪みをますます拡大していくことを媒介にして、日本経済の低迷状態をこれまで以上に深刻なものにしていかざるを得ないのである(*)。

 あらゆる消費に課される消費税は消費活動を全般的に冷え込ませるから景気後退を招く恐れがある、ということが、1997年に実施された消費税率の5%への引き上げが深刻な景気後退を招いたことを引き合いに、しばしば語られる。しかし、このような指摘は、税込価格の上昇が消費を全般的に冷え込ませるから、というレベルの把握に止まる限り、決定的に不充分である。消費税の増税は、国民の所得が低く抑え込まれているという日本経済の歪みを拡大させてしまうが故に、深刻な景気後退を招くのである。消費税増税が景気動向に与える巨大な悪影響については、このような日本経済の構造にまで踏み込んだ形で、警鐘が乱打されなければならない。

(*)ところが、1月6日に正式決定された「社会保障・税一体改革素案」は、「一体改革により社会保障の安定財源を確保し、安心できる社会保障制度を確立していくことは、人々の将来への不安を減らし、消費や経済活動を拡大させることを可能とすることを通じて、新たな成長の基盤となる」などと言う。しかし、人々は、社会保障の持続可能性に疑問を抱き、将来への不安を感じているから消費を減らしている(所得を消費に回さず貯蓄している)のだろうか。仮にそうだとしたら、家計の貯蓄率(貯蓄/所得)は上昇していて然るべきである。しかし、実際には、日本の家計貯蓄率はこの20年間で急激に低下してきている(1992年の14.7%に対して、2009年は2.3%となり、主要先進国の中で最低水準となっている)。この大きな要因としては、何と言っても家計の所得が減少していることを指摘しなければならないだろう。所得が減っているから将来に備えて貯蓄に回す余裕などなくなってしまっているのである。このように、減少した所得の大半を消費に回して何とか生活しているというような状態では、今まで以上に消費を増やしたくても「無い袖は振れぬ」のである。社会保障の徹底した削減と消費税の大増税を一体で進めようとしながら、「安心できる社会保障制度を確立していくことは、人々の将来への不安を減らし、消費や経済活動を拡大させる」などとは、国民を馬鹿にするのもいい加減にしろ! と悪態を吐きたくなるほど粗雑極まりない議論と言わなければならない。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言