2015年04月27日

心理職の国家資格化を問う(2/5)

(2)賛成派・反対派の見解

 前回は,国がメンタルヘルス対策に力を入れるようになってきている近年の動きを概観し,それに合わせるかのように,心理職の国家資格の誕生が目前に迫っていることを紹介した。心理職の国家資格化の動きは戦後すぐからあったが,いったんは民間資格をつくる流れとして結実し,「臨床心理士」の資格を生んだ。その後,臨床心理士と医療心理師の二つの資格を国家資格にする動きもあったが,それは挫折し,数年前から議員連盟の設立などを経て,昨年「公認心理師法案」が国会に提出されたのであった。昨年11月の突然の衆議院解散で廃案になったものの,今国会で同法案が提出されることが確認され,いよいよ心理職の国家資格が誕生する可能性が非常に高まっている。公認心理師は汎用性の資格であり,大学院修了が資格要件のメインとされていることを確認した。また,診療補助職ではなく,名称独占の資格であることも見た。

 今回は,このような「公認心理師法案」について,現在,どのような見解が出されているのかを整理してみたいと思う。特に筆者は臨床心理士であり,臨床心理士というのがもともと国家資格化の前段階としてつくられた民間資格であるだけに,臨床心理士の中で「公認心理師法案」がどのように受け取られているのかを見ていきたい。

 まず,筆者の身近な臨床心理士に聞いてみると,大半は法案の詳細は知らずに,ただ単に,心理職が国家資格になればいいと思っているという印象を受ける。その内容をもう少し考えてみると,現在の臨床心理士は国家資格ではなく,民間の資格にすぎないために,やや信用に欠けるというだけではなく,病院等の常勤での採用枠が少なく,採用されても給料が低いという現状がある。国家資格ではないため,病院で臨床心理士が心理療法(カウンセリング)をしても診療報酬がとれずに,サービスとして無料で行うか,別組織をつくって実費で(たとえば一時間6000円などのように)実施するしかない状況である。これが国家資格になれば,改善されるのではないかという漠然とした期待というか希望があるようなのである。

 これに対して,「公認心理師法案」に反対している者は,どのような見解なのであろうか。反対している代表的な組織として,日本臨床心理士養成大学院協議会を取り上げ,サイトで紹介されている文章を紹介したい。

http://www.jagpcp.jp/news.html

 ここでは,いくつかの団体が国家資格についての意見や要望を表明している文書が掲載されている。この中から,比較的コンパクトにまとまっている文書として,2014年9月17日に出された徳島県臨床心理士会の「公認心理師法案への対応に関する要望書」を一部抜粋したい。

「1.大学院を修了していない学部卒業者にも受験資格が与えられています(第7条第2項)。
受験資格は所定の単位を修得した大学院修士課程修了者にしていただきたい。

 心の健康に関わるためには高度な専門知識と技能が要求されます。そのため,学部教育だけでなく,それに加えて大学院修士課程における教育・訓練が必要不可欠だと考えられ,臨床心理士資格は大学院修士課程修了を受験資格としています。
 国民の心の健康を維持向上するうえで,心理サービスのさらなる質の向上を目指すためには,また,社会からの期待に十分応えるためには,国家資格となる「公認心理師」は,大学院修士課程修了が必要であると思います。

2.医療機関外で活動している心理師にも「当該支援に係る主治の医師があるときは,その指示を受けなければならない」となっています(第42条第2項)。貴会も医師の指示条項に疑義を表明されているにもかかわらず,なぜ公認心理師法案を進めるのか,お教えいただきたい。

 貴会だけではなく,日本臨床心理士資格認定協会,日本心理臨床学会,日本臨床心理士養成大学院協議会をはじめ多くの関係団体が,医師の指示条項に疑義を表明しています。言語聴覚士や精神保健福祉士と同様に「医師の指導」に変更すべきだと考えます。

3.現在の公認心理師法案が可決されれば,臨床心理士の何倍もの公認心理師が誕生することが見込まれます。そのため,就職状況が一層厳しくなると見込まれますが,臨床心理士の職能団体である貴会は,この点についてどのように考えておられるのか,お教えいただきたい。

 学校カウンセラー(750人),学校心理士(3,700人),キャリア・カウンセラー(140人),教育カウンセラー(12,000人),認定カウンセラー(1,000人),臨床発達心理士(2,700人)の資格を有する人たちが「スクールカウンセリング推進協議会」を設立し,スクールカウンセラーの採用枠を広げ,「ガイダンスカウンセラー」を活用するようにと活動しています。その他,心理学に関連する資格として産業カウンセラー,特別支援教育士,認定心理士などが挙げられます。
 これらの資格保有者が心理師を受験することが予想され,臨床心理士の何倍もの心理師が誕生すると考えられます。これほど多くの心理師の就職先はあるのでしょうか。国家資格を目指す理由の一つが,就労問題を解決するためでした。しかし,これでは,就労問題が一層困難になるのではないでしょうか。

4.現在の公認心理師法案であれば,その資質向上の責務について言及されていません。臨床心理士の資質保障のためにこれまで行ってきたように5年ごとの資格の更新制度を設けることが必要ではないでしょうか。

 精神保健福祉士や社会福祉士又は介護福祉士においても,資質向上の責務については言及されておりますが,「福祉を取り巻く環境の変化による業務の内容の変化に適応するため,相談援助に関する知識及び技能の向上に努めなければならない」(精神保健福祉法第四十一条の二,社会福祉又は介護福祉士法第四十七条の二)更新制度について言及されておりません。」


 要するに,@「公認心理師法案」では学部卒業者にも受験資格が与えられている点,A「当該支援に係る主治の医師があるときは,その指示を受けなければならない」という医師の指示条項がある点,B臨床心理士の何倍もの公認心理師が誕生して,就職状況が一層厳しくなる見込みがある点,さらにC資格の更新制度がない点の4点が批判されているわけである。

 もう少し詳しく見ていこう。

 @とCは,臨床心理士資格に比しての批判である。「心の健康に関わるためには高度な専門知識と技能が要求され」るため,臨床心理士資格を取得するためには指定の大学院を修了する必要があるし,5年ごとの更新制度が設けられている。これに比べて,「公認心理師法案」では,学部卒業生にも受験資格が与えられるし,更新制度も明記されていないので,現在の臨床心理士よりも質の低い者が有資格者になってしまうのではないか,と懸念しているのであろう。だからこそ,大学院修了を条件とすること,および更新制度の設定を「要望」しているのだと考えられる。

 Aは少しややこしい。法案の第42条第2項には「公認心理師は,その業務を行うに当たって心理に関する支援を要する者に当該支援に係る主治の医師があるときは,その指示を受けなければならない」とある。この医師の指示条項が問題とされているのであるが,具体的にはどのような問題があるとされているのであろうか。それは,上述のサイトにある臨床心理士養成大学院協議会理事会が出した「公認心理師法案の国民と臨床心理士等への影響について」という文書に詳しい。ここでは主に,「国民への影響」と「心理職への影響」を取り上げる。

 前者としては,主治医の指示を受けてからでないと心理的支援が行えず,タイミングが遅れる可能性があること,主治医がいるクライエントとは援助契約を結びにくくなること,医療以外の教育・福祉・司法矯正・産業等の各施設では,いちいち主治医の指示を仰ぐ必要があるため,支援内容が決定できなくなってしまうこと,などが挙げられている。また後者については,「公認心理師が,資格の関係性において,それぞれの専門性が尊重される「連携」の関係とは異なり,主治医がある場合に一方的に医師の「指示」を受ける位置づけになることにより,臨床心理士等の心理職は独立した専門職として認められなくなる」と端的にまとめられている。だから先ほど挙げた徳島県臨床心理士会は,個別具体的でかなり強い強制力を持った「指示」ではなく,抽象的包括的なもので,それに従うかどうかは指導を受けた側の主体的な判断に委ねられる「指導」に改めるように「要望」しているのである。これであれば心理職の専門性が尊重され,独立した専門職として認められる,というわけである。

 Bに関しては,臨床心理士がそのまま国家資格化されるのであれば,数が減ることはあっても増えることはないから,単純に民間資格が国家資格になるだけであって,信頼感が増すと考えられ,就職にも有利になるはずである。ところが,他の民間の心理資格保有者も公認心理師になるとすると,臨床心理士の何倍もの公認心理師が生まれることになり,かえって就職状況が厳しくなる,との批判である。

 このような反対論は,一応もっとものように思われる。これに対して賛成派は,どのように考えているのであろうか。ネットに出ている情報や,賛成派臨床心理士に個人的に聞いた情報をもとにすると,以下のようになる。

 @に関しては,あくまでも学部卒と大学院修了の6年のコースがメインルートであるから,質の担保は問題がない。Aについて。医師の「指示」は,「当該支援に係る主治の医師があるとき」という条件が付いているのであり,これは,主治医の医療上の方針に従って心理支援が行われないと症状の悪化が起こりうると判断される場合に必要とされるということを意味する。したがって,現在の臨床心理士が,教育や福祉その他の分野で行っている業務を妨げるものではない。Bについては,そもそも国家資格は,心理職のためのものではなく,「国民の心の健康の保持増進に寄与することを目的とする」(第一条)ものである。だから,極論すれば,これによって就職状況がどうなろうと,それは問題ではない。

 賛成派の見解は,おおよそ以上のようなものである。全体的には,細かい部分にとらわれて条文の改定作業などを行っていると,また廃案になってしまって,国家資格化の機を逃す,という論調もあるようである。それに対してはさらに,デメリットが多すぎる国家資格なら,むしろないほうがいい,しっかりしたものになるまで,時間がかかっても徹底的に議論するべきだ,という意見もあるようである。

 以上見てきたように,「公認心理師法案」に関しては,心理職の国家資格化を目指すという点では大筋で共通認識があるものの,個々の点では対立する見解も多く,賛成派・反対派がそれぞれの立場からコメントを出して,法案を成立させるべく,あるいは廃案にするべく,運動しているのが現状である。

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2015年04月26日

心理職の国家資格化を問う(1/5)

目次

(1)心理職の国家資格誕生が目前に迫っている
(2)賛成派・反対派の見解
(3)臨床心理士・臨床心理学の現状
(4)人間とはを踏まえた科学的認識論がない
(5)科学的認識論を土台に据えた学問体系が求められている

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(1)心理職の国家資格誕生が目前に迫っている

 昨年6月に,労働安全衛生法が改正され,企業は社員の精神疾患への対策が求められるようになった。具体的には,従業員が50人以上の事業所には,従業員のストレスチェックが義務づけられたのである。この法律改正について,以下のような新聞記事があった。

「従業員のストレスチェック――中小企業向け月350円

 6月の改正労働安全衛生法の成立で従業員50人以上の企業は従業員に対し年1回以上のストレスチェックを実施することが義務付けられた。これを受け,企業のメンタルヘルスの対策支援を手掛ける各社がサービスを拡充している。ストレスの度合いの検査と結果の分析,相談の受け付けなどが内容で今後,価格競争となる可能性もありそうだ。

 改正労働安全衛生法が施行されるのは2015年12月の予定。ストレスチェックの結果,度合いが高いと判定された従業員に医師などによる面接指導などの対応を必要としている。

 企業向けメンタルヘルスケア大手のアドバンテッジリスクマネジメントでは,6月に改正法が成立して以降,問い合わせが増えた。最近の相談件数は前年同期比2倍以上に達する。

 すでにメンタル面の対策に取り組む企業には,ストレスチェックに対応した4月開始のサービスへの変更を促す。現行サービスの「アドバンテッジタフネス」の内容を見直し,1人当たり年間1800円,年180万円からの価格を抑えたサービスも設けた。

 年1回のストレスチェック,個人への結果通知,希望者の面談受け付け,24時間対応のカウンセリングなどで構成する。当面は従業員500人以上の企業を中心に売り込む考えだ。」(2014/10/21 日経産業新聞)


 この記事では,従業員のストレスチェックの義務化に対応して,企業向けのメンタルヘルス支援サービスが拡充されている旨,説かれている。筆者が勤務する病院にも,複数の企業から技術協力の依頼があり,精神科医や精神保健福祉士,それに臨床心理士が,従業員のメンタルヘルス対策の支援のために派遣される予定である。

 このような改正労働安全衛生法に代表されるように,近年,国を挙げてのメンタルヘルス対策が講じられている。2011年,厚生労働省は従来の糖尿病,脳卒中,がん,急性心筋梗塞に精神疾患を加えて「5大疾病」とする方針を決め,国としてメンタルヘルスの対策を講じていくことになった。背景には,職場でのうつ病や高齢化に伴う認知症の増加がある。

 また,少し古くは,1995年度から旧文部省の「スクールカウンセラー活用調査研究委託事業」によって,公立中学校へのスクールカウンセラーの配置が開始された。2001年度からは事業名を「スクールカウンセラー活用事業補助」と変え,全公立中学校へのスクールカウンセラー配置に向けて,計画が遂行されているところである。これによって,学校におけるいじめや不登校,その他友人関係の悩みや学習上の困難などの解消・軽減が期待されている。

 こうした動きと連動するかのように,心理職の国家資格化が実現しようとしている。

 現在,日本における心理関係の資格としては,産業カウンセラーや臨床心理士など,民間のものが多数存在するものの,国家資格はない。心理職の国家資格を求める動きは,戦後すぐにもあったが,まずは民間資格からということで,臨床心理士という資格が誕生した。これが1988年のことである。

 その後,2005年には,臨床心理士と医療心理師の二つの資格を国家資格化しようということになり,とりあえず2資格1法案でというコンセンサスが形成されたが,法案の形になることはなく,そのまま頓挫してしまったという経緯がある。

 それが,2009年ごろから新しい動きが出てきて,心理職の国家資格化に向けた議論がなされ,2012年の超党派の院内集会や自民党,民主党の議員連盟の設立を経て,2014年6月に初めて「公認心理師法案」が国会に提出されたのである。同法案は継続審議となり,臨時国会で成立の見込みとなったが,2014年11月の衆議院解散に伴って廃案となった。

 しかし,日本応用心理学会のサイトには,2015年3月31日付けの「日本応用心理学会 メールニュース Vol. 61」が紹介されており,そこには以下のように認められている。 

「日本応用心理学会会員各位

 日本応用心理学会会員の皆様におかれましては,ますますご活躍のこととご拝察申し上げます。

さて,
 日本心理学諸学会連合(上野一彦理事長)より,「公認心理師」について次のような連絡がありましたので会員のみなさまにお知らせいたします。

日本心理学諸学会連合
加盟学会 御中
  理事 各位

 平成27年3月30日(月),自由民主党の「心理職の国家資格化を推進する議員連盟総会」が,自由民主党本部で開催されました。
 同総会には,関連省庁の方々の他,関係団体として,日本臨床心理士会,推進連,推進協,心理学諸学会連合,臨床心理士資格認定協会,臨床心理士養成大学院協議会,精神科七者懇談会の関係者も同席いたしました。
 山下貴司事務局長の司会のもと,河村建夫(会長),鴨下一郎(会長代行)のご挨拶に続き,心理関係三団体代表として村瀬嘉代子(日本臨床心理士会会長),大塚義孝(日本臨床心理士資格認定協会専務理事),林道彦(精神科七者懇談会代表 日本精神科病院協会常務理事)の3氏がご挨拶されました。
 総会では,昨年6月に提出され,前臨時国会で廃案となった『公認心理師法案』を,本国会で再提出することが確認されました。
 加盟学会の皆様には多大なるご尽力を賜り,心より感謝申し上げるとともにご報告いたします。

日本心理学諸学会連合
理事長 上野一彦」


 要するに,廃案となった「公認心理師法案」を本国会で再提出することが確認されたということであり,これはとりもなおさず,本法律が成立して,心理職の国家資格が誕生する見込みが非常に高くなった,ということである。

 では,この「公認心理師法案」はどのようなものであろうか。全文は,以下の衆議院のサイトに載っている。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g18601043.htm

 いくつかポイントがある。まず前提として,「この法律は,公認心理師の資格を定めて,その業務の適正を図り,もって国民の心の健康の保持増進に寄与することを目的とする」とされており,公認心理師は,心理査定,心理カウンセリング,コンサルテーション,教育・普及の活動をする者とされている。

 その他の大切なポイントとして,一つは,公認心理師は,保健医療領域に限られない汎用性の資格であるという点が挙げられる。現在の臨床心理士と同様に,保健医療,福祉,教育,矯正その他,どの領域においても通用するとされている。したがって,主務大臣も文部科学大臣及び厚生労働大臣とされている。

 次に,資格取得の要件としては,大学院修了がメインコースとなっている。これで一定の質が担保されるとされている。

 また,第一のポイントにも関わるが,公認心理師は診療補助職ではない。そもそも医療だけの資格ではないので,当然に診療補助職と規定することはできない。

 最後に,名称独占の資格であるため,資格がないものが「心理師」を名乗ることはできないが,業務独占ではないため,資格がないものも,これまで通り心理カウンセリング等を行うことはできる。

 このような「公認心理師法案」に対して,賛成派,反対派による喧々諤々の議論が巻き起こっている。そこで本稿では,本法案についてのさまざまな見解をまとめて整理し,そのような異論が噴出する所以を探り,本法案に真に欠けたるものは何かを明らかにしたい。そうすることによって,心理職の国家資格を求める時代のニーズに,真に答えられる道筋が明らかになると信じている。
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2015年01月10日

「戦後70年」を迎える日本をどうみるか(5/5)

(5)日本の将来を切り拓く指針となる学問の構築が求められている

 本稿では、2014年総選挙の結果を踏まえつつ、「戦後70年」を迎える日本をどうみるか、検討してきた。具体的には、2014年総選挙をめぐって、相互に関連する以下の3つの問いについて、考察してきたのであった。

 最初の問題は、2014年総選挙において当初、「アベノミクス」継続が政権与党への国民の支持獲得のための旗印として位置づけられたのは何故か、ということであった。この問題については、「アベノミクス」はそもそも景気回復への国民の期待を煽ることで政権への高い支持率を確保するための手段として位置づけられていたのものでったこと、昨秋「アベノミクス」の失敗が云々され始めた情況においても、民主党政権時代の無惨な混乱という記憶を喚起しつつ「この道しかない」というスローガンを前面に押し立てていくことで、辛うじて残っている「アベノミクス」への幻想に訴えかけることは非常に有効であったこと、を確認した。

 続いての問題は、2014年総選挙が異常なまでの低投票率に終わってしまった構造的な要因は何なのか、ということであった。この問題については、この間の新自由主義的改革の進展により、議会制民主主義が有効に機能するための土台が掘り崩されてきていることを確認した。そもそも議会制民主主義は、労働者階級が諸々の権利獲得のための闘争を積み重ねていく過程で発展し定着していったものにほかならず、労働者階級が自らの力に自信を持ち、政治参加への強い意欲を持っているという条件においてこそ、有効に機能しうるものであった。ところが、新自由主義的改革の推進によって労働者階級が歴史的に獲得してきた権利が奪われていくことで、労働者階級は自らの力への自信を失っていき、政治参加への意欲を減退させていったのである。2014年総選挙が異常なまでの低投票率に終わってしまった背景には、こうした世界歴史レベルの根深い問題が隠されているのであって、単に「自民党への批判票を投じようにも、適当な候補者や政党が見あたらなかった」というレベルの総括で済ませるわけにはいかないのであった。

 最後に、2014年総選挙の結果によって「戦後レジームからの脱却」を目指した動きが強まることが予想されるが、これが第2次世界大戦の終結から70年を迎える世界のなかで、日本を如何なる境遇へと導いていくのか、という問題について検討した。この問題については、2015年は、現在の世界秩序(国際連合憲章などによって体現されている秩序)の正当性の根拠となった「反ファシズム戦争」の勝利を記念する年(70周年)であること、このような時に、安倍首相が「反ファシズム戦争」の敗者たる「大日本帝国」の行為を正当化しようという姿勢を明瞭にすればするほど(「反ファシズム」戦争の勝利の上に構築された)国際社会における日本の立場は難しいものになっていかざるを得ないこと、を確認した。

 総じていえば、新自由主義による攻撃で労働者民衆が自信を喪失し、政治へ主体的に参加していく意欲を減退させているなかで、中国や韓国といった“反日国家”に断固たる姿勢で臨む強いリーダーとして自らを押し出す安倍首相が、国民の消極的な支持を獲得しているのだ、ということができるであろう。

 我が日本国がこうした悲惨な情況に陥ってしまっているのは、日本国民が、国内的な経済政策・社会政策の領域においては、「TINA(他に選択肢はない)」「この道しかない」という言説に対抗できるだけの代替案を把持することができず、外交・安全保障の領域においては、敗戦国として独自の軍隊を奪われアメリカに従属させられているという現実を直視できずに、国民社会の主体的実存についてはかつての「大日本帝国」を正当化するような形で夢想するしかない(国民社会の主体的実存を正当化する論理を戦前の「栄光」にしか求められない)、という学問的・思想的に退廃した状態に置かれてしまっているからである。したがって、我が日本国が、現在の苦境を打開していくには、「この道しかない」という言説に対抗できるだけの体系性をもった経済・社会の総体的な改革ヴィジョンを構築していくとともに、(単に自らの過去を正当化するというレベルではなく)より公正な国際秩序を新たに構築していくのだという思想性の高みから、国民社会の主体的実存を正当化する論理(日本は如何なる国家か、如何なる国家的目標を把持して国際社会で主体的に生きていくのか)をしっかりと構築していかなければならない。そのためには、「国家とは何か」を中核に据えた社会科学の構築が必須となる。

 こうした学問の構築に向かっていくためにも、現在、本来なら安倍政権の暴走に対してストップをかけるべき左派(リベラル派)が学問的・思想的にまともな影響力を持てなくなっているのは何故なのか、という問題について検討しておく必要がある。ここには、戦後民主主義の欺瞞という問題が深く絡んでいるように思われる。

 国民社会の主体的実存を正当化する(日本の国家としての尊厳を取り戻す)論理として「大日本帝国」を復権させようという流れには、「大日本帝国」の植民地支配や侵略そのものを正当化・美化しようという要素と、どこの国だって悪いことをしていたではないか、と「大日本帝国」の行為を相対化しようとする要素とが含まれている。前者の方は論外だとするにしても、後者の方は(国政政党の幹部クラスの政治家の発言としては不見識の謗りを免れないにしろ)民衆の素朴な感情としては必ずしも不当なものとはいえない。東京裁判が勝者による一方的な裁きであったことは間違いないのである。ところが、戦後民主主義の側では、「大日本帝国」の植民地支配や侵略を厳しく断罪しなければならないとの思いが先行するばかりに、そういう戦後処理の不公正さについて言及することをタブー視してきた。だからこそ、こうした戦後処理の不公正さに対する民衆の不満が鬱積させられていったのであり、冷戦の崩壊後、戦後民主主義の影響力が後退していくに伴って、それが一気に噴出してくることになったのである。左派(リベラル派)の側は、戦後処理の不公正さの問題を直視することを避け続けてきた戦後民主主義の弱点について真摯に総括しなければならない。そうでなければ、「この道しかない」というスローガンを振りかざしつつ、中国や韓国に断固たる姿勢で臨む強いリーダーとして振る舞う安倍首相に、思想的なレベルでまともに対抗していくことはできないであろう。

 より根本的には、第2次世界大戦をファシズムと反ファシズムの闘いとして描き出すことの正当性が問われなければならない。第2次世界大戦とは、果たしてそんなに単純な性格のものであったのであろうか。そこには、第1次世界大戦の継続としても捉えられるような、帝国主義諸国家間の戦争という要素も含まれていたのではないか。また、帝国主義の支配に抗する植民地人民の抵抗という要素も含まれていたのではないか。このような問題を深く突っ込んで検討していくならば、単に「大日本帝国」の植民地支配や侵略行為を一方的に断罪しておればよい、というレベルではすまなくなってくるはずである。同時に、「反ファシズム戦争」の勝利を正当性の根拠としてきた戦後の国際秩序(パクス・アメリカーナ)の欺瞞も暴かれることになるであろう。第2次世界大戦の終結から70周年という記念の年に、我々はこのような課題(第2次世界大戦の歴史的性格を問い直していくこと)に取り組んでいかなければならない。

 現在、我が日本国は、中国との緊張を煽りつつ軍事的な体制強化に突き進んでいる安倍政権の下、極めて危険な状態に置かれている。昨秋の日中首脳会談をきっかけに、日中の緊張状態は幾分か緩和したようにも思われるが、今後の事態の推移如何では、再び著しく緊張が高まっていく危険性も高い。仮に尖閣諸島をめぐる偶発な軍事衝突が生じてしまったならば、それが次第に全面的な戦争へと発展していき、日本という国家の存亡そのものが脅かされる事態になってしまうということも、絶対にないとは断言できないのである(その可能性については、昨年1月に本ブログに掲載した「歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う」の最終回で論じた)。仮にそういった事態に陥ってしまったとして――もちろん、そういった事態に陥らないために全力を尽くすことが大前提であるが――日本の復興は可能であろうか。それを左右するのは、真っ当な学問の有無であろう。学的国家論を中核とする社会科学を土台に据えて、国民社会の主体的実存を根拠付ける論理(日本は如何なる国家か、如何なる国家的目標を把持して国際社会で主体的に生きていくのか)をしっかりと把持することができるならば、どんなに厳しい情況からでも、日本の復興は不可能ではないであろう。もちろん、こうした社会科学の構築は、自然科学・社会科学・精神科学という3本柱に支えらる哲学体系の構築という、より大きな課題の一部として遂行されなければならないものである。現代日本におけるアカデミズムの退廃ぶりを横目で見つつ、我々こそがそうした学問構築の担い手になるべく、しっかりと研鑽を積んでいかなければならない。京都弁証法認識論研究会は、数千年以上に渡る人類の文化の歴史をしっかりと踏まえながら、我が日本国の将来を切り拓く指針となるような学問体系の構築に向けて、着実に前進していく決意である。このことを最後に述べて、本稿を終えることにする。

(了)
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2015年01月09日

「戦後70年」を迎える日本をどうみるか(4/5)

(4)改憲への動きを規定する復古的イデオロギーの桎梏

 前回は、2014年総選挙が異常なまでの低投票率に終わってしまった構造的な要因は何なのか、という問題について考察した。端的には、この間の新自由主義的改革の進展により、議会制民主主義が有効に機能するための土台が掘り崩されてしまっているからである、ということであった。そもそも議会制民主主義は、労働者階級が諸々の権利獲得のための闘争を積み重ねていく過程で発展し定着していったものにほかならず、労働者階級が自らの力に自信を持ち、政治参加への強い意欲を持っているという条件においてこそ、有効に機能しうるものであった。ところが、新自由主義的改革の推進によって労働者階級が歴史的に獲得してきた権利が奪われていくと、労働者階級は自らの力への自信を失い、政治参加への意欲を減退させていかざるをえなかったのである。2014年総選挙が異常なまでの低投票率に終わってしまった背景には、こうした根深い問題が隠されているのであって、単に「自民党への批判票を投じようにも、適当な候補者や政党が見あたらなかった」というレベルの総括で済ませてよいものではないのであった。

 ここで、象徴的な事例をひとつ指摘しておこう。そもそも賃上げといえば、かつては労働者階級が自らの力で闘いとるものにほかならなかった。ところが、現代の日本においては、安倍首相が財界団体幹部を呼んで賃上げを要請するという倒錯した事態が展開しているのである。2014年総選挙に際して、労働者民衆が「アベノミクス」への淡い期待を抱いて、棄権という形(政権批判勢力には投票しないという形)をも含めて政権与党に消極的な支持を与えることになったのも、誠にむべなるかなといわざるをえない。

 しかし、安倍政権の与党に対して与えられたのが、「この道しかない」というスローガンに誘導されての消極的な支持(大量の棄権という形での表現も含む)に過ぎなかったにしても、与党が衆議院の全議席の3分の2超を占め続けるという結果(「自公圧勝」と報じられた結果)そのものは、厳然たる事実として我々に突きつけられている。安倍首相が、この結果を土台にして、自らの悲願とする憲法改定へと突き進もうとしていることは、本稿の連載第1回で指摘した通りである。憲法改定は、安倍首相が信念として掲げる「戦後レジームからの脱却」の本丸と位置づけられるものにほかならない。すなわち、我が日本国は、日本国憲法を頂点とする「戦後レジーム」打破への執念を剥き出しにする首相の下で、「戦後70年」という節目の年を迎えているのである。このことは、第2次世界大戦の終結から70年を迎える国際社会のなかで、日本をどのような境遇に導いていくのであろうか。これが、本稿で考察すべき3つ目の問題である。

 集団的自衛権の行使を容認するための解釈改憲の断行、「国防軍」を保持するための明文改憲の模索など、安倍首相の憲法改定への並々ならぬ意欲を直接的に規定しているのは、日本を中国にまともに対峙しうる大国にしたいとの強烈な願望であろう(安倍首相の「地球儀を俯瞰する外交」なるものが対中包囲網の形成を狙ったものであることは明瞭である)。もちろん、現在の中国が、経済力の発展に伴って膨張主義的な傾向を強め、周辺諸国との緊張を高めていることは否定できないし、日本がこうした中国の動きに対峙して、国民社会の主体的実存形態をしっかりと維持できるよう努めていくことは、一般論として当然のことではある。しかし、安倍首相が主導している憲法改定の動きには、日本の国民社会の主体的存立をかえって大きく脅かしかねない危険な要素が内包されていることを厳しく指摘しておかなければならない。

 まず挙げなければならないのは、憲法改定の動きそのものがアメリカの世界戦略に大きく規定されたものであるということである。そもそも憲法改定は、自民党の結党(1955年)以来の悲願とされながら、その実現に向けた動きが本格化してきたのは、冷戦の終焉後、1990年代以降のことでしかなかった(改憲のための国民投票法が制定されたのはようやく2007年のことである)。この背景には、冷戦後のアメリカが、それまで「世界の警察官」として一手に担ってきた軍事的負担を同盟諸国にも分担させていこうとする流れを強めてきたことがある。さらに、21世紀に入って、いわゆる「パクス・アメリカーナ」の綻びが明らかになるとともに、財政危機による軍事費削減圧力が強まってきたことも大きい。オバマ政権が2012年1月に打ち出した「新国防戦略」は、冷戦後の米軍の戦力展開の基本となっていた「二正面戦略」(ほぼ同時に2つの大規模な紛争が起きても、どちらにも勝てるだけの戦力を世界規模で配備しておく)を放棄する一方、中国の軍事的脅威が増すアジア太平洋地域については戦力展開を強化していく、というものであった。こうしたアジア太平洋重視の「新国防戦略」によって、アメリカの国益に沿う形で日本の軍事力を利用できるようにしたい、という要求は極めて切実なものとなっていったのである。第2次安倍政権以降、改憲への動きが急速に強まってきている背景には、こうしたアメリカの世界戦略があるのであって、現在進行している改憲と再軍備への動きは、日本の自立性を強めるどころか、対米従属をより深化させる結果に繋がりかねないものなのである。

 とはいえ、安倍首相の改憲への動向には、こうしたアメリカの世界戦略の枠組みに収まらない要素が含まれていることも確かである。そのことを端的に象徴するのが、安倍首相が一昨年末に周囲の強い反対を押し切ってまで靖国神社に参拝したことであった。安倍首相の(中国を強烈に意識しての)大国願望は、復古的な色彩、端的には「大日本帝国」の正当性を復権させたいとの願望と一体のものなのである。そもそも安倍晋三は、1993年の初当選以来、自民党内において、「自虐的」な歴史教科書を声高に攻撃し続けることによって、頭角を現してきた政治家である。安倍晋三は、日本軍「慰安婦」問題について軍の関与を認めて謝罪した河野談話(1993年)や、日本の植民地支配と侵略を「国策の誤り」と認めて謝罪した村山談話(1995年)に対しても、攻撃を続けてきた(もっとも、第1次政権時を含めて、首相の座にあるときには、これらの談話を基本的に継承するという姿勢を示しているが)。このように、「大日本帝国」の正当性を復権させようという志向性を持ち続けてきた安倍晋三という政治家が、この2015年、「戦後70年」という節目の年を迎える日本の首相として、「未来志向」の新たな首相談話を出す、としているのである。これは、単に中国や韓国との関係を悪化させるのみならず、“宗主国”アメリカとの関係をも難しいものにしかねない要素を持っている。そもそも「パクス・アメリカーナ」のイデオロギー的正当性は「反ファシズム戦争」としての第2次世界大戦での勝利にこそあるのであって、安倍首相の(中国を強烈に意識しての)大国願望は、ここを直接に脅かしかねない要素を含んでいるのである。

 ここで想起しなければならないのは、この「反ファシズム戦争」において、日本は敗戦国でありアメリカおよび中国は戦勝国であった、という事実である。日本においては、「日米同盟VS中国」という対決構図が確固不動のものとして存在するかのように考えられがちであるが、これは幻想である。現在の世界経済は中国国内の大きな需要(巨額の財政支出も含む)を抜きにしては成り立たず、中国はアメリカ国債の最大の引き受け国にもなっている。アメリカにとって、中国は単純に敵視するわけにはいかない存在なのである。経済力を衰退させ財政危機を抱えるなかで軍事的支出を削減せざるを得ないアメリカとしては、中国の台頭に警戒しながらも、国際社会の責任ある一員として節度ある行動をとるように誘導していく、というのが基本的な戦略となる。こうしたなかで、安倍首相が、第2次世界大戦の終結から70年という象徴的な年に「大日本帝国」の正当性を復権させようという姿勢を強めていくことは、米中間に存在するかつての「反ファシズム連合国」という共通性を印象づける(中国の支配層は明確にそういう戦術を持っている!)結果を導くものにほかならない。日本をアメリカと提携しつつ中国に対峙する大国にしたい、という安倍首相の大国願望にとって、復古的イデオロギーが大きな桎梏となっているわけである。

 2015年は、現在の世界秩序(国際連合憲章などによって体現されている秩序)の正当性の根拠となった「反ファシズム戦争」の勝利から70年を記念する年となる(*)。このような時に、我が日本国がかつての「大日本帝国」の行為を正当化しようという志向性を持った人物を首相に戴いていることは極めて重大である。安倍首相が「反ファシズム戦争」の敗者たる「大日本帝国」の行為を正当化しようという姿勢を明瞭にすればするほど、「反ファシズム」戦争の勝利の上に形成された国際社会における日本の立場は、難しいものになっていかざるを得ないのである。

 もちろん、現在の世界秩序の道義的正当性そのものは大いに疑わしいものである。東京裁判が勝者による一方的な裁きであったことは間違いないし、ベトナムへの侵略やラテンアメリカの反米(的と見なされる)政権の顛覆策動など、アメリカ帝国主義による世界支配の実態にはおぞましいものがある。安倍首相が、こうした「パクス・アメリカーナ」の欺瞞性を徹底的に暴き出した上で、より公正な世界秩序を新たに構築していくのだ、という高い志と緻密な戦略・戦術をもっているのならば、「大日本帝国」の行為を弁護しようとする彼の主張にも、聞くべきところはあるといえるかもしれない。しかし、残念ながら、安倍首相にはそういう思想性の高みの欠片もない。対米従属をますます深める一方で、いわばその鬱憤晴らしとして、中国や韓国に対して強硬な姿勢を誇示しようとしているだけである。

(*)中国にとっては抗日戦争での勝利から70年という記念すべき年であり、韓国にとっては植民地支配からの解放から70年という記念すべき年となる。中国や韓国は、この2015年、日本が過去に行った植民地支配と侵略について、国際社会に改めて印象づけようとしていくであろう。日本と同じく第2次世界大戦における敗戦国であるドイツのメルケル首相は、昨年6月、ノルマンディー上陸作戦(第2次世界大戦における欧州での戦闘を終結に導いた作戦)から70周年の記念式典に招待され、大きな話題になったが、東アジアにおいては今年、日本の首相も加わる形での記念行事は予定されていない。
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2015年01月08日

「戦後70年」を迎える日本をどうみるか(3/5)

(3)新自由主義による労働者階級への攻撃と議会制民主主義の空洞化

 前回は、2014年総選挙において当初、「アベノミクス」継続が政権与党への国民の支持獲得のための旗印として位置づけられたのは何故か、という問題について、考察した。そもそも「アベノミクス」は景気回復への国民の期待を煽ることで政権への高い支持率を確保するための手段として位置づけられていたのものであり、昨秋「アベノミクス」の失敗が云々され始めた情況においても、民主党政権時代の無惨な混乱という国民の記憶に強く働きかけることとセットに「この道しかない」というスローガンを前面に押し立てていくことにより、辛うじて残っている「アベノミクス」への幻想に訴えかけることはまだ有効でありえたのだ、ということであった。

 とはいえ、(当然のことといえようが)国民は「アベノミクス」を積極的に支持するところまでは行かなかった。民主党政権時代の無惨な混乱という苦い記憶に「この道しかない」というスローガンが覆い被さってくることで、せいぜい、民主党を筆頭とする「アベノミクス」批判勢力への投票がためらわれる情況がつくりあげられたにすぎない。無論、安倍首相にしても「アベノミクス」への熱狂的な支持など獲得しようがないことなど織り込み済みで、批判勢力に票が向かわないような情況を確保することに主眼があったことは間違いない。今回の総選挙が、戦後最低の投票率になってしまった直接の要因は、ここにこそ求められるといえよう。「自民党への批判票を投じようにも、適当な候補者や政党が見あたらなかった」というわけである。したがって、今後の総選挙については、野党再編の進展如何や選挙戦における争点の設定如何によっては投票率の向上が見込めないわけではない、とはいえるであろう。

 しかし、ここで注目しておきたいのは、衆議院総選挙における投票率は長期的にみてどのように推移してきているのか、ということである。総務省のHPに戦後の衆議院総選挙における投票率の推移を表したグラフが掲載されている(ただし、2014年総選挙の投票率はまだ加えられていない)。これを見ると、戦後復興期から高度成長期にかけての投票率は高く、1990年代以降、いわゆるバブル経済が崩壊して日本経済が長期的な低迷状態に入っていくのに伴って、投票率が大きく低下していることが読み取れる。争点が比較的に明瞭であったと思われる2005年の小泉郵政解散および2009年の政権交代選挙は例外的に投票率が高かったが、それでも高度成長期には普通であった70%台には届いていないのである。総じていえば、高度成長期には高かった投票率が、低成長時代へ移行するとともに低落していく流れにある、ということができる。これと同様の傾向は、他の先進資本主義諸国においても観察される(*)。

 それでは、経済の低成長への移行に伴って投票率が低下していくのは一体何故なのか。この問題を考えるためには、議会制民主主義および普通選挙制というものが如何にして生成し発展してきたのか、その歴史的過程を辿ってみる必要がある。

 そもそも議会制民主主義、すなわち、国家の意志決定において議会という機関が主導的な役割を果たすという仕組みは如何にして成立してきたのだろうか。端的には、中世から近代への移行期のヨーロッパ諸国において、新興の資本家階級が絶対王政を打ち倒して自らの階級的利害を国家意志に反映させていくための足場として利用したのが議会であり(王権の諮問機関としての身分制議会は中世期から存在していた)、大きくいえばこうした市民革命の過程にこそ議会制民主主義の淵源があるのだ、ということができるだろう。

 しかし、こうした議会制度確立の過程は、旧封建勢力に対抗して資本家階級の利害を国家意志に反映させるための仕組みが形成されていく過程にほかならなかったため、議員を選挙する権利は当初、一定の財産を保有する者に限って認められていたにすぎなかった。資本主義経済の発展とともに大量に生み出されつつあった労働者階級には、選挙権が認められていなかったのである(**)。

 しかし、19世紀以降、産業革命が進行していく過程で、労働者階級は自らを労働組合に組織化して資本家階級に対抗し、労働条件の改善を求めて運動していくようになった。そこからさらに、自らの階級的利害を国家意志に反映させていくために、選挙権の獲得を求めていくようになっていったのである。こうして労働者階級の闘争が高揚していくと、国家的社会を統治していく上で労働者階級の意向を無視するわけにはいかなくなってきた(資本主義経済の発展とともに国家人口に占める労働者階級の比率が上昇していったことも見逃せない)。こうして、19世紀後半から20世紀の前半にかけて、主要な資本主義諸国家において、普通選挙制が実現していくことになったのである。端的には、普通選挙制の実現は、労働者階級が自らの力に自信(自らの存在なしには経済社会は立ちゆかないのだという自信)をつけていき、政治参加への意欲を高めていったことによるものなのである。

 こうした選挙権拡大の流れは、大きくみれば、いわゆる「夜警国家」から「福祉国家」への過程に対応していたということができる。すなわち、選挙権の拡大とともに、労働条件の改善や社会保障制度の確立など、労働者階級の待遇改善に国家が責任を持つようになっていったわけである。その背景として、社会主義(国内の社会主義運動、および1917年のロシア革命以降、現実に存在するようになった社会主義国家からの影響)に対抗しつつ、闘争的な労働者階級を懐柔しつつ、資本主義体制そのものを擁護しなければならなかった、という事情があるであろう。しかし、これは資本家階級にとって単なる“階級的妥協”ではなく、労働者への譲歩によってこそ内需主導型の経済成長、景気の安定化が実現し、譲歩を補って余りある見返りが期待できたこという事情もあったのである(このことを経済理論から根拠づけたのが、ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』〔1936年〕である)。

 こうした構造が本格的に定着するのは、第2次世界大戦後のことであった。第2次世界大戦後、世界の資本主義諸国家は、ソ連を盟主とする共産主義陣営と対峙して資本主義体制を擁護しなければならないという条件の下に、アメリカを盟主にして結束した。これら資本主義諸国家の内部においては、共産主義陣営に対して資本主義体制を擁護するための“階級的妥協”として、労働者の権利擁護、各種の規制の強化、社会保障制度の充実、金融緩和・財政出動といった政府の経済介入の容認、公営事業の拡大など、いわゆるケインズ主義的な政策が採用されていくようになったのである。重要なのは、こうした“階級的妥協”の大枠のなかでこそ、議会制民主主義は極めて有効に作用しえたのだ、ということである。議会制民主主義のもと、資本主義体制の護持という大枠のなかで、資本家階級を支持基盤とする保守政党と労働者階級を支持基盤とする社会民主主義政党(中道左派の党)との競い合いを通じて、階級間の利害対立が適当に調整されていったのである。

 議会制民主主義にまつわる歴史的経過をここまで辿ってきたならば、何故に経済の低成長への移行に伴って投票率が低下していったのか、その問いに答えを見出すことは難しくないだろう。結論からいえば、1980年代以降の新自由主義的改革の進展により、議会制民主主義が有効に機能するための土台(労働者階級が自らの力に自信を持ち、政治参加への強い意欲を持っていること)が次第に掘り崩されていったからなのである。階級関係という観点からすると、新自由主義とは労働者階級が歴史的に獲得してきた諸々の権利を奪っていくものにほかならない。「新たな成長のためには規制緩和と民営化が必要だし、財政危機打開のためには社会保障の縮減は仕方がない。他に選択肢はないのだ。痛みに耐えて頑張っていれば富はいずれ上から滴り落ちてくる」……こうしたイデオロギーの攻勢が、労働者階級の組織的抵抗力を奪っていった。労働組合は改革を阻む既得権益層として攻撃され、雇用が劣化していくにつれて、労働者階級は自らの力への自信を失っていく。こうして階級的力関係が資本家階級側に有利に再編されていく過程で、社会民主主義政党は弱体化しつつ(労働者階級との結びつきを弱めつつ)右傾化していくことになったのである。とりわけ決定的だったのが、米ソ冷戦の終結や「社会主義」諸国の体制崩壊により、政治の対決軸が劇的に右に寄ってしまったことであった。その結果、労働者階級の利害をまともに代弁してくれる政党がほとんど消滅してしまうことになったのである。「投票したい候補者や政党がない」というのも当然というほかない。

 こうして政治参加への意欲を失ってしまった労働者階級(を中心とする民衆)の間には、「政治はエリートがやるものだ(自分には関係ない)」「政治など誰がやっても同じだ」という気分が蔓延する。政治的な無関心が広がるのである。とはいえ、生活の現状に満足しているわけではないので不満は鬱積していく。このことが「強いリーダー」待望論として現れてくるのであり、排外主義的な気分(自分たちの生活が苦しいのは移民や周辺の敵対的国家のせいだ!)と相俟って、極右勢力の台頭の土壌となっているのである(***)。

 2014年末の日本における総選挙が異常なまでの低投票率に終わってしまった背景には、こうした労働者階級の自信喪失という世界歴史レベルの根深い問題が隠されているのであって、単に「自民党への批判票を投じようにも、適当な候補者や政党が見あたらなかった」というレベルの総括で済ませてしまってよいものではないのである。

(*)次のグラフを参照。

(**)もちろん、そもそも女性の参政権が認められていなかったことも重大な問題である。結局、女性の参政権は男子普通選挙権よりもさらに遅れて実現されることになった。

(***)日本において、「新しい歴史教科書をつくる会」が活動を始めたのは、1996年のことであった。
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2015年01月07日

「戦後70年」を迎える日本をどうみるか(2/5)

(2)新自由主義による国民経済の破壊と「アベノミクス」幻想

 本稿は、自民党・公明党の圧勝という結果に終わった2014年総選挙をどうみるか、この選挙結果が「戦後70年」を迎える日本に如何なる結果をもたらそうとしているのか、考察することを目的としたものである。

 今回は、2014年総選挙において当初、「アベノミクス」継続が政権与党への国民の支持獲得のための旗印として位置づけられたのは何故か、という問題について、考察していくことする。

 そもそも「アベノミクス」については、純粋に経済政策としてどう評価するかという視点だけでは充分に捉えきれないものがある。政治的な打算が非常に色濃く反映したものとして捉える視点が欠かせないのである。

 経済政策として考えれば、これは、金融緩和、財政出動、成長戦略を3本の柱とするもの捉えることができる。このうち前の2つ、すなわち、金融政策と財政政策で景気浮揚をはかるというのは、いわゆるケインズ主義的政策として捉えうる。これに対して、最後の成長戦略なるものは、規制緩和や税負担の軽減などで企業活動への制約を取り払おうというものであり(「世界で一番企業が活躍しやすい国」というスローガンを想起せよ!)、紛れもない新自由主義的政策である。というよりもむしろ、第2次安倍政権が、小泉政権以来の新自由主義的政策の一定の修正(「国民の生活が第一」というスローガンを想起せよ!)を図ろうとした民主党政権の(財界と対立を深めた末の)挫折後に登場したという経緯からすれば、「アベノミクス」の主眼は新自由主義的政策の再始動にこそある、というべきであろう。

 ここで考えてみなければならないのは、第二次世界大戦後における資本主義諸国の高度経済成長を理論的に支えたケインズ主義と、高度成長の行き詰りを受けていわば「反ケインズ革命」という形で猛威をふるうようになっていった新自由主義とは、経済理論という観点から捉えた場合、一体どこがどう異なるのか、という問題である。

 端的に結論をいえば、ケインズ主義が需要サイド重視であるのに対して、新自由主義は供給サイド重視なのである。ケインズ主義においては、一国の経済の大きさ(生産量と雇用量)を決めるのは需要の大きさであると考えられ、国内需要(国民による消費+企業による設備投資)を持続的に喚起していくことに経済政策の主眼が置かれた。ここから、労働条件の改善や社会保障の充実など国民の所得を増やす政策が重視されるようにもなっていったのであった。これに対して、新自由主義においては、一国の経済の成長力は企業の競争力によって左右されると考えられ、企業活動への諸々の制約を取り払っていくことに経済政策の主眼が置かれる。ここから、労働組合への攻撃、規制緩和や公的企業の民営化(私営化)、法人税の減税などが行われるようになっていったのである。こうした政策が進行すれば、雇用の質が劣化して賃金は伸び悩むし、社会保障も縮小されてしまうから、国内需要は低迷していかざるをえない。新自由主義は国民経済を破壊し、国民生活の安定を脅かすのである。

 ここで疑問が生じるであろう。「いくら企業の競争力が強化されたとしても、国内需要が低迷してしまっては大量の商品が売れ残ってしまい、結局、企業の業績も落ち込んでしまうのではないか」と。しかし、新自由主義においては、視線は国内市場ではなくあくまでもグローバル市場に向けられている。新自由主義においても実践的には需要(大量に生産した商品をどこに売りつけるか)はもちろん重要なのだが、それはこの地球上のどこかに存在するであろう需要を奪ってくればよい! というものでしかないのである。新自由主義にとって、需要は地球上のどこかにあらかじめ存在しているはずのものであり、それがどのように再生産されるか、といった問題は、理論的には全く視野の外に置かれてしまうのである。そもそもケインズ主義の時代においては、政策担当者の視点はあくまでも国内市場(国民経済)に置かれていたので、国内需要を継続的に生み出していかなければならないという観点から、国民経済の再生産に対して一応は責任ある対策が取られていたといえる。ところが、グローバル市場における需要争奪戦が展開される新自由主義の時代になると、政策担当者にとって、需要は自らの責任で持続的に生み出していかなければならないものとは捉えられなくなるのであり、国民経済の持続性(国民生活の安定)への責任が真面目に省みられなくなってしまったのである。

 とはいえ、幻想的な共同利害(一部の社会的集団にとっての特殊利害に過ぎないものを、あたかも国民全体の共通利害であるかのように偽装したもの)によって社会全体を統括していかなければならない国家権力としては、国民生活の安定などどうでもよいのだ、などと開き直ってしまうわけにはいかない。ここで援用されたのが、大企業や富裕層が儲かれば貧しい者にも富が滴り落ちるという、いわゆる「トリクルダウン理論」であった。加えて象徴的なのは、1980年代に新自由主義を進めたサッチャー英首相が「TINA」というスローガン(「There is No Alternative」の略で「他に選択肢はない」の意味)を掲げたことである。要するに、「苦しいけれどもこれ以外の道はないのだ。じっと耐えていれば富はいずれ上から滴り落ちてくるのだ」として、新自由主義的な構造改革への国民の合意を調達しようとしてきたわけである。

 しかし、2008年のリーマン・ショックによって世界経済が危機的な情況に陥ると、新自由主義的政策は世界的に糾弾されるようになった。先進資本主義諸国では、新自由主義の行き過ぎに一定の修正を加えようという政治勢力への政権交代が一気に進んだのである。欧州諸国における社会民主主義政党の政権獲得、アメリカにおけるオバマ政権の誕生などがその現れであるが、2009年の日本における民主党への政権交代もその一環と見なしうる。とはいえ、危機が沈静化するにつれて新自由主義の再攻勢が始まった。「アベノミクス」もそうした新自由主義の世界的大攻勢という流れのなかにあるものにほかならないのである。

 「アベノミクス」は、新自由主義的政策が厳しく非難されるという経験を経た上でそれを再始動させようとするものであるだけに、幻想的な性格が一層強化されている。「アベノミクス」は、新自由主義的政策をむき出しにするのではなく、異次元の金融緩和と巨額の公共投資という一見ケインズ主義的な政策と抱き合わせにした上で、日本経済の長期的低迷からの脱却(「デフレからの脱却」として語られる)への期待を煽るとともに、「この道しかない」というスローガンによって国民を無理やり納得させようとしてきたのである。「この道しかない」というスローガンは、この総選挙においても高々と掲げられたが、これがサッチャーの「TINA」を踏まえたものにほかならないことは、安倍首相自身が明言しているものである(*)。

 「アベノミクス」は、異次元の金融緩和で派手な株高を演出し、加えて巨額の公共投資によって経済指標をムリヤリ改善させ、あたかも日本経済が好転したかのような幻想を振りまいてきた。こうしたことが、「苦しい生活が少しでも楽になっていくのではないか」という国民の期待を煽り、高い内閣支持率の源泉となってきたのである。まさにこの点にこそ、「アベノミクス」の最大の政治的狙いがあったといえる。露骨にいえば、政権への国民の支持を取り付けて政権基盤を強化し、安倍首相の悲願である憲法改定を可能にするような政治的環境を中長期的な視野で整えていくための手段が「アベノミクス」にほかならなかったのである。

 もっとも、2014年4月の消費税率8%への引き上げ以降、景気の落ち込みが鮮明となっていき、実質賃金が減少し続けていることなども含めて、「アベノミクスは破綻した」という野党の攻撃を招く事態になっていた。世論調査でも「アベノミクスで景気回復したという実感はない」「アベノミクスで生活は楽になっていない」との回答が多数を占め、大企業・富裕層の繁栄と一向に楽にならない国民生活という対立構図がイメージされるようになりつつあった。安倍首相が衆議院の解散を決断した時点で、「アベノミクス」幻想の化けの皮は剥がれ落ちつつあったのである。

 しかし、安倍首相は、この総選挙に臨むに当たって、民主党政権を悲惨な混乱の時代として描き出すとともに、「この道しかない」というスローガンを極めて強力に打ち出すことにより、辛うじて残っている「アベノミクス」への幻想に訴えかけようとした。アベノミクスは道半ば、今のところ景気回復の実感はなくても、もう少し耐えていれば必ずよい結果が出るはずだ。それとも、そういう良い結果を手にする前に、民主党政権時代のような悲惨な混乱状態に逆戻りしたいのか――「景気回復、この道しかない」という安倍自民党の掲げたスローガンは、有権者に対してこうした問いを投げかけるものであったといえよう。残念ながら、こうした問いの設定は、絶大な効果を発揮したといわざるをえない。

(*)安倍首相は、2013年の世界経済フォーラムにおいて、以下のように述べている。

「今年は、世界から偉大な指導者が消えてしまいましたね。マーガレット・サッチャーのことです。There is no alternative。サッチャー首相の、口癖でした。TINAと、頭文字をとった四文字言葉まで、有名になりました。私も、同じです。これ以外の道は、ありません。TINAといつも思って、やっています。」

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2015年01月06日

「戦後70年」を迎える日本をどうみるか(1/5)

目次

(1)2014年総選挙の結果が問いかけるものとは
(2)新自由主義による国民経済の破壊と「アベノミクス」幻想
(3)新自由主義による労働者階級への攻撃と議会制民主主義の空洞化
(4)改憲への動きを規定する復古的イデオロギーの桎梏
(5)日本の将来を切り拓く指針となる学問の構築が求められている

*文中の敬称は略した

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(1)2014年総選挙の結果が問いかけるものとは

 2014年12月14日に投開票が行われた衆議院議員総選挙は、自民党・公明党の与党が3分の2の議席を維持するという結果に終わった。これを受けて、12月24日には第3次安倍政権が発足した。総選挙の結果、我が日本国は、「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍首相の下で「戦後70年」という節目の年を迎えることになったわけである。

 しかし、2014年総選挙ではそもそも一体何が問われていたのだろうか。その問いに対して日本国民は如何なる解答を与えたのであろうか。

 そもそも安倍首相は、衆議院解散を自ら「アベノミクス解散」と銘打ち(11月21日の記者会見)、消費税率10%への引き上げを1年半(当初予定の2015年10月から2017年4月へ)延期することの是非、「アベノミクス」継続の是非について国民の信を問うためだ、と説明していた。消費税増税の先送り及び衆議院の解散を表明した11月18日の記者会見では、安倍首相は次のように発言している。

「国民生活にとって、そして、国民経済にとって重い重い決断をする以上、速やかに国民に信を問うべきである。そう決心いたしました。今週21日に衆議院を解散いたします。消費税の引き上げを18カ月延期すべきであるということ、そして平成29年4月には確実に10%へ消費税を引き上げるということについて、そして、私たちが進めてきた経済政策、成長戦略をさらに前に進めていくべきかどうかについて、国民の皆様の判断を仰ぎたいと思います。……
 今、アベノミクスに対して失敗した、うまくいっていないという批判があります。……私たちが進めている経済政策が間違っているのか、正しいのか。本当にほかに選択肢があるのかどうか。この選挙戦の論戦を通じて明らかにしてまいります。そして、国民の皆様の声を伺いたいと思います。」


 このように、安倍首相は当初、消費税増税延期の是非、「アベノミクス」継続の是非を総選挙の最大の争点に掲げていたのであり、もっぱら経済政策の問題に論戦を限定しようという姿勢が鮮明であった。

 ところが、マスコミの情勢調査などで自民党の圧倒的な優勢が伝えられるに及んで、安倍首相は、街頭演説やテレビ討論会などで、集団的自衛権や改憲の問題にも積極的に言及するようになっていった。さらに選挙後の記者会見(12月15日、自民党本部)では、以下のように述べるに至ったのである。

「今回の選挙はアベノミクス解散でもありましたが、7月1日の閣議決定〔集団的自衛権の行使容認――引用者〕を踏まえた選挙でもありました。そのこともわれわれ、しっかりと公約に明記しています。また街頭演説においても、あるいは数多くのテレビの討論会でもその必要性、日本の国土、そして領空、領海を守っていく、国民の命と安全な国民の幸せな暮らしを守っていくための法整備の必要性、閣議決定をもとにした法整備の必要性ですね、集団的自衛権の一部容認を含めた閣議決定に基づく法整備、これを来年の通常国会で行っていく、これを訴えて来たわけです。このことにおいてもご支持をいただいた。当然、約束したことを実行していく。これは当然、政党、政権としての使命だと思う。来年の通常国会のしかるべき時に法案を提出していきたい。そして成立を果たしていきたいと考えています。……
 憲法改正については、これは自民党結党以来の一貫した主張です。ただし、国会において3分の2の議員を確保しなければならないと同時に、最も重要なことは国民投票において過半数の国民の支持を得なければならない。その観点から、国民的な理解と支持を深め、広げていくために、これから自由民主党総裁として努力をしていきたいと思っています」


 このように、安倍首相(自民党総裁)は、自民党の勝利は集団的自衛権の行使容認に国民が支持を与えたものにほかならないと強弁し、憲法改定に向けた強い意欲をあからさまに示したのであった。

 こうして安倍首相の総選挙前後2つの発言を並べてみると、国民の支持を比較的容易に獲得できそうな経済政策の問題(増税の延期、「アベノミクス」の継続)を前面に押し出すことで、集団的自衛権の行使容認など国民の支持の獲得が容易でない問題について、事実上の白紙委任を取り付けようとする、卑劣きわまりない姿が浮かび上がってくる。

 ここで決定的に深刻な問題として直視しなければならないのは、こうした安倍首相の2つの発言が、今回の総選挙における異常なまでの低投票率という形で現れた、国民の圧倒的な無関心によって媒介されている、という現実である。

 具体的な数字で確認しておこう。民主党が政権交代を実現した2009年8月総選挙の投票率は69.28%であった。これに対して、自民党が政権を奪還した2012年12月総選挙の投票率は、前回から10%近くも下落して59.32%となり、戦後最低を更新した。今回の総選挙の投票率は、そこからさらに何と7%近くも下落して、2回連続で戦後最低を更新することになったのである。注目すべきなのは、自民党の得票数は、この3回の総選挙を通じて減り続けていることである。2009年の総選挙では、自民党は小選挙区で2,730万票を獲得したが、民主党よりは少なかったために惨敗した。2012年の総選挙では2,564万票だったが、投票率が下がるなか民主党の得票数が激減したために相対的に浮上し、政権を奪還することができたのである。今回は前回より12万票少ない2,522万票にすぎなかったが、有権者のほぼ半数が棄権するなか、民主党の2倍以上の票を得た結果、圧勝したのである。与党が衆議院の3分の2超の勢力を維持したとはいえ、与党の絶対得票率(全有権者数に占める得票数の割合)は30%にも満たないのである。まさに議会制民主主義の正統性の根幹を揺るがすような、極めて深刻な自体が進行しているといわねばならない。

 こうした異常なまでの低投票率という事態に、「自民党への批判票を投じようにも、適当な候補者や政党が見あたらなかったからだ」といった説明を加えるのは容易い。しかし、これだけではあまりにも現象論的な見解(事態の上辺だけをなぞった見解)というべきである。そもそも、そうした候補者や政党が存在しなくなってしまったのは何故なのか。こうした点も含めて、もっと掘り下げた考察が必要であろう。そしてまた何よりも、国民の圧倒的な無関心による自民党の圧勝という事態が「戦後70年」を迎える日本に如何なる結果をもたらそうとしているのか、このことをしっかりと考えておかなければならない。

 以上のような問題意識を踏まえつつ、本稿では、2014年総選挙をめぐって、以下のような3つの問題について検討することにしたい。

 まず、2014年総選挙において当初、「アベノミクス」継続が政権与党への国民の支持獲得のための旗印として位置づけられたのは何故か、という問題について検討する。

 次いで、2014年総選挙が異常なまでの低投票率に終わってしまった構造的な要因は何なのか、という問題について検討する。

 さらに、2014年総選挙の結果を受けて、安倍首相が信念として掲げる「戦後レジームからの脱却」(*)を目指した動きが強まることが予想されるが、これは第2次世界大戦の終結から70年を迎える世界のなかで、日本を如何なる境遇へと導いていくものであるのか、という問題について検討する。

(*)第1次安倍政権(2007-2008年)は、「戦後レジーム」とは「憲法を頂点とした、行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的枠組み」であり、「戦後レジームの脱却」とは、21世紀の時代の大きな変化についていけなくなっている戦後レジームを原点にさかのぼって大胆に見直していくことである、と説明していた(衆議院議員逢坂誠二君提出経済財政改革の基本方針二〇〇七に関する質問に対する答弁書)。
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2014年01月10日

歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う(5/5)

(5)戦争か革命か――歴史的な岐路に立つ世界と日本
 
 本稿は、目前に迫っているかもしれない破局を回避し、希望ある未来を切り拓いていくための道を模索しなければならない、との問題意識から、現代の日本が一体如何なる歴史的情況の下におかれているのか、可能な限り明瞭に描き出すことを試みてみることを目的としたものであった。ここで、これまで説いてきた流れを簡単に振り返っておくことにしよう。

 まず、世界歴史の流れを根底から大きく規定している要因として、資本主義経済の歴史的変容という問題を検討した。第二次世界大戦後の資本主義諸国は、高度成長の果実を労働者階級にも手厚く分配するという“階級的妥協”によって、安定的な政治経済体制を創出したのであったが、内需主導型の高度成長が限界に突き当たることにより、こうした“階級的妥協”は放棄され、労働組合への攻撃、規制緩和、公営事業の民営化、社会保障の削減などといった一連の改革が進められていくことになったのであった。その結果、貧困と格差は著しく拡大し、分厚い中間層に支えられた安定的な国内需要は崩壊してしまった。こうして、資本主義経済は、金融市場の肥大化によって仮想的な需要を創り出すほかなくってしまい、デフレとバブルを周期的にくり返すという極めて不安定な情況に陥ってしまったのであった。このこととは同時に、政治的な体制の安定を揺さぶるものでもあった。将来への希望が失われ、生活不安が蔓延していくことは、不平等をもたらす体制への不満が爆発しかねない情況を創り出していく。こうしたなかで各国の支配層は、自立・自助・自己責任というイデオロギーを殊更に吹聴するとともに、共同体としての一体性を醸成するために、場合によっては排外的なナショナリズムを煽りながら上から強権的に抑えつけていく、という方向へと追いやられていったのである。

 つづいて、国際関係というレベルで現代世界を捉えてみるならば、どのような構造が浮かび上がってくるのか、検討した。端的には、第二次世界大戦後の世界の安定を体現していた「パクス・アメリカーナ」が崩壊過程に入るなかで、新興大国として中国が大きく台頭してきたことが、世界情勢の大きな変動をもたらしているということであった。日本においては、「日米同盟VS中国」という対決構図が確固として成立するかのように考えられがちであるが、話はそう単純ではない。露骨にいうならば、アメリカにとっての日本とは、中国との戦略的な関係――単純な敵対関係でも単純な同盟関係でもない関係――を深めていくための手駒のような存在にほかならないのである。アメリカのアジア戦略は、決して中国をとるか日本をとるかといった平面的なものではなく、「日米同盟」を基礎としつつも中国との戦略的な関係を深めていくことを何よりも重視する、という重層的かつ立体的な構造をもつものとして捉えられなければならないのであった。

 世界的な情勢についての以上のような把握を踏まえつつ、安倍政権の動向について検討した。端的にいえば、第2次安倍政権は、新自由主義がもたらした社会の荒廃に対応する強権的な国家体制づくりという歴史的課題を担わされて登場してきた政権であるといえるのであった。その最大の目標は、いうまでもなく日本国憲法の全面改定である。ここで警戒すべきなのは、例えば尖閣諸島で軍事衝突を引き起こすことで一気に世論を固め、その上で改憲国民投票に打って出る、といった謀略的行動の可能性であった。安倍政権は当面、アメリカのアジア戦略(日中が友好的に接近するより、ほどほどに敵対している方が何かと都合がよい)の大枠のなかで、日本版NSCの創設、秘密保護法の制定、国家安全保障戦略の策定など、軍事的な体制強化をはかりつつ、アメリカの対中戦略をより強硬な路線へと転換させることを狙って、尖閣諸島での軍事衝突を引き起こすことすら想定しているのかもしれないのである。たとえ現時点の安倍政権にそこまで明確な意図がないにしても、今後の事態の展開次第では、そういう方向へと流されていく危険性は決して小さいものではない。

 尖閣諸島をめぐって日中が軍事衝突した場合、米軍の介入を待つまでもなく、わずか数日間で日本側の圧勝という結果に終わる、というシュミレーションもなされているようである。我々は現時点において軍事的な知識を充分に持ち合わせていないから、これが全くの妄想であるなどと断定することは差し控えたい。しかし、たとえこのシュミレーションにそれなりの根拠があるにしても、事態がそこで収束する可能性は極めて低いのだ、ということだけは厳しく指摘しておきたい。尖閣諸島における軍事衝突で一度敗北したからといって、中国側はそれで引き下がるのであろうか。いずれ時をみて、尖閣諸島を「奪還」すべく攻勢に出てくるに違いない、と考える方が自然であろう。中国は広大な国土と豊富な資源と膨大な人口を抱える大国である。数日間で片付くはずの軍事衝突が、数十年にも及ぶ泥沼の戦争の入口であった、ということにならないとも限らないのである。事態が最終的に、日本の全面降伏、中国による日本占領という最悪の結末に至ってしまうことだって、絶対にあり得ないことだとはいいきれない。

 日米同盟があるからアメリカは日本に加担してくれるに違いない、というのも楽観的にすぎる。たとえ日本と中国が決定的な対立関係に入ったとしても、アメリカはそれに引きずられるようにして中国との決定的な敵対関係に入ることは望まないだろうし、そもそも中国と本気で事を構えるだけの財政的余裕もないのである。極端にいえば、日本と中国が戦争でお互いにつぶし合ってくれれば、アメリカの国益にとってこれほど望ましいことはない、という判断が生じる可能性だってあるのである。また、日中間の軍事的な衝突の過程のなかで、「反日的」な中国共産党政権が崩壊することを期待する向きもあるが、これまた楽観的にすぎる見方というほかない。仮に共産党政権が崩壊したとして、代わりに親日的政権が成立して広大な領土に対して安定的な統治をなすという保証がどこにあるのか。より反日的な政権ができて、尖閣諸島を「略奪」した日本への復讐心を煽ることで国民的な一体感を醸成しようとする可能性だってあるのではないか。

 このように考えてくるならば、中国との緊張を煽って軍事的な体制強化に突き進もうとしている安倍政権の動向が、日本という国家の存亡を脅かしかねない危険極まりないものであることは明らかである。安倍政権の暴走はストップさせなければならない。しかし、ただ単に、安倍政権の個々の政策に反対し、安倍政権打倒を叫ぶだけではいけない。ここでしっかりと踏まえておかなければならないのは、安倍政権は、資本主義経済の深刻な行き詰まりという世界歴史的な危機のなかで、ある一定の解決方向を模索する役割を担わされている存在にほかならないのだ、ということである。端的にいえば、事態はもはや、戦争か革命かという選択が迫られるほどに緊迫してきているのである。いうまでもなく、戦争による解決という路線を象徴するのが、現在の安倍政権にほかならない。社会の荒廃をもたらす新自由主義的政策の延長線上に、戦争によって国家的共同体をムリヤリに「再建」するという方策を展望しようという安倍政権の路線(必ずしも安倍がそうした役割に自覚的だというわけではなく、客観的に見ればそのように評価するしかない、という意味である)に本当の意味で対抗しようとするならば、歴史的な危機に瀕している資本主義的な経済のあり方を根本から変革していく道が模索されなければならないのである。

 変革のためには、変革のための理論的指針――社会のあり方を体系的に解ききる学問体系――が必須となる。例えば、経済問題に限って見ても、経済政策が右往左往してきたのは、科学的な経済学体系がなかったからに他ならないのであり、その創出こそが社会を安定的に発展させる土台となるのである。20世紀においては、社会を根本的に変革するための理論的指針が、マルクス主義の革命思想(科学的社会主義)という形で与えられていると信じられていた。しかし、ソ連崩壊後の世界に生きる我々は、マルクスやレーニンらによって、資本主義社会を乗り越える新たな社会の展望がすでに与えられているなどと、素朴に信じるわけにはいかない。新しい社会を建設していくための理論的指針は、ヘーゲルからマルクスおよびエンゲルスへ、さらには三浦つとむから南郷学派へ、といった学問的伝統を受け継ぎながら、我々自身の手でこれから創出していかなければならないものなのである。人類が動物的生存条件から脱して真に人間らしい生活へと入っていくためには、換言すれば、人類が本当に意識的に自分で自分の歴史をつくれるようになるためには、まずもって、自然の法則性・社会の法則性・精神の法則性についてしっかりと把握しきった学問一般を体系的に構築しなければならない。こうした学問の創出こそ、我々の歴史的使命であることを確認して、本稿を終えることにする。

(了)
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2014年01月09日

歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う(4/5)

(4)軍事的な体制強化へ突き進む安倍政権

 前回は、国際関係というレベルで現代世界を捉えてみるならば、どのような構造が浮かび上がってくるのか、検討した。端的に結論をいうならば、第二次世界大戦後の世界の安定を体現していた「パクス・アメリカーナ」が崩壊過程に入るなかで、新興大国として中国が大きく台頭してきたことが、世界情勢の大きな変動をもたらしているということであった。こうした時代の大きな流れが、第二次世界大戦後の世界において覇権国アメリカの従属的な同盟国としての地位に甘んじることで経済的繁栄を実現してきた日本を激しく翻弄している。日本においては、「日米同盟VS中国」という対決構図が確固として成立するかのように考えられがちであるが、話はそう単純ではない。露骨にいうならば、アメリカにとっての日本とは、中国との戦略的な関係――単純な敵対関係でも単純な同盟関係でもない関係――を深めていくための手駒のような存在にほかならないのである。アメリカのアジア戦略は、決して中国をとるか日本をとるかといった平面的なものではなく、「日米同盟」を基礎としつつも中国との戦略的な関係を深めていくことを何よりも重視する、という重層的かつ立体的な構造をもつものとして捉えられなければならないのであった。

 ここまで、本稿においては、資本主義経済の世界歴史的変容という問題、また、主としてアメリカのアジア戦略に焦点あてた国際情勢の動向について、検討してきたわけであるが、一昨年末の総選挙で誕生した第2次安倍政権の動向については、あくまでもこうした世界的な情勢との関わりをも視野に入れつつ、捉えられなければならないのである。今回は、この問題について考察を進めていくことにしたい。

 まず、本稿の連載第1回、第2回でも簡単に触れたことではあるが、いわゆる「アベノミクス」なる経済政策について、改めて検討しておく必要がある。安倍政権がこれまで高い支持率を維持してきたことの背景には、何といってもアベノミクスへの期待感が存在したことは否定しようがないわけであるから、その検討は重要である。

 アベノミクスは、金融緩和、財政出動、成長戦略を3本の柱とするものとされる。このうち前の2つ、すなわち、金融政策と財政政策で景気浮揚をはかるというのは、いわゆるケインズ的政策であるのに対して、最後の成長戦略なるものは、規制緩和や税負担の軽減などで企業活動への制約を取り払おうというものであり、紛れもない新自由主義的政策である。つまり、アベノミクスというのは思想的系統の全く異なる諸政策を混在させたものというほかない。こうしたごった煮のような性格に、近年の世界的レベルにおける経済政策の混乱が集約的に表現されていることは、連載第2回で指摘したとおりである。

 アベノミクスの登場の当初、佐伯啓思など一部の保守派の論者は、アベノミクスが新自由主義的な構造改革路線・財政緊縮路線からの転換であるかのような見方を示した。しかし、それは全く本質を捉え損なった謬見というほかない。アベノミクスなるものは、当初から、消費税増税と社会保障の解体的再編という大緊縮政策への地ならしという意味合いの強いものであったといわなければならないのである。異次元の金融緩和と巨額の公共投資によって経済指標をムリヤリ好転させ景気回復を演出することで、「景気が回復しない限り消費税増税はしない」という安倍自身の発言との整合性をとりつつ、消費税増税の実施を正当化していこうというのが、当初からの思惑だったのではないかと思われるわけである。

 しかし、アベノミクスの政治的意味は、そうした経済政策上のものにとどまらない。最大の意味は、日本経済の長期的低迷からの脱却への期待(根拠なき幻想というほかないものであるが)を大きく高めることで高い内閣支持率を実現し、政権基盤を確固たるものにするということであった。端的には、アベノミクスなるものは、安倍晋三が悲願とする憲法「改正」を可能にするような政治的環境を中長期的な視野で整えていくという狙いを背景にしたものであった、といえるのである。

 ここで注目しなければならないのは、安倍が新保守主義ともいわれる思想の持ち主であるということである。新保守主義とは、新自由主義がもたらした社会の分裂・解体に対して、伝統的な価値観を復権することにより、家族や地域といった共同体の再建を目指そうとするイデオロギーにほかならない。これが端的に現れるのが、教育の分野である。愛国心やモラル、規律性を強調することにより、新自由主義がもたらした不平等への不平・不満を抑えつけ、それに耐える心情を国民のなかに育てることが主張されるわけである。こうした新保守主義的な思想の持ち主である安倍が首相の座に返り咲いたのは、日本社会の不安定化によって排外的なナショナリズムすら大きく煽られるようになってきたという時代情況の変化があったからこそ、といわなければならない(安倍政権はいわゆる「ネトウヨ」層に熱烈に支持されている)。

 新自由主義がもたらした社会の荒廃に対応する強権的な国家体制づくりの最大の目標は、いうまでもなく、平和、人権、民主主義を高らかに掲げた日本国憲法の全面改定である。いま、左派政党などは「海外で戦争する国づくり」のための憲法改定だと批判しているが、これは決定的に甘い情勢判断だといわざるを得ない。端的にいえば、戦争をするための憲法改定ということではなく、憲法を改定するために戦争が引き起こされてしまう危険性をこそ警戒すべきなのである。もう少し具体的にいうならば、例えば尖閣諸島(これは海外ではなく「国内」である!)で軍事衝突を引き起こすことで一気に世論を固め、その上で改憲国民投票に打って出る、そういう謀略性を警戒すべきなのである(逆に、そうでもしなければ、改憲派が国民投票で勝利することは容易ではないであろう)。狙いは、分裂し解体しつつある日本社会を上から強権的に纏め上げる体制をつくることである。

 国家安全保障会議(日本版NSC)の創設、秘密保護法の制定、国家安全保障戦略の策定など、中国を敵国と想定しての戦争準備を具体的に進めているとしか思えないような動きが急激に進んでいることは、以上のような観点から捉えられるべきであろう。これはよく指摘されるとおり、大きくいえばアメリカの世界戦略、とりわけアジア太平洋重視の「新国防戦略」と軌を一にしたものであるといえる。すなわち、軍事費削減圧力が強まるなかで、日本に軍事的な負担を転嫁しよう、というアメリカの思惑が背景にあるというわけである。しかし、安倍政権の動向には、そうしたアメリカの世界戦略の枠組みに収まらない要素も含まれていることに注意が必要である。そのことを象徴するのが、安倍が昨年末に周囲の強い反対を押し切って靖国神社に参拝したことであった。改憲に向けた安倍の構想には、復古的色彩(端的には「大日本帝国」の正当性を復権させたいとの願望)が色濃く纏わり付いており、アメリカの世界戦略と衝突する要素を含んでいる。「パクス・アメリカーナ」のイデオロギー的正当性は反ファシズム戦争(第二次世界大戦)での勝利にこそある(*)のであって、安倍の言動はここを直接に脅かしかねないものだからである。

 したがって、安倍政権の軍事・外交路線を単に対米従属の枠内にあるものと見なすことはできない。大枠としては対米従属であるが、それと衝突する要素をも含んだものとして見なければならないのである。端的にいえば、安倍政権は、アメリカの中国への姿勢をより強硬なものへと引っ張ることを狙っているのではないだろうか。アメリカの支配層の対中国戦略は、大枠では一致しているとしても、より構造に踏み込んでみるならば、封じ込めに近い強硬路線を主張する傾向も存在すれば、より融和的で協調を何よりも重視すべきだという傾向も存在する。やや図式的に整理するならば、アメリカの対中国戦略は、軍事対抗路線と協調融和路線との二重構造になっているわけである。安倍政権は、アーミテージのような「ジャパン・ハンドラー」を媒介にしつつ、アメリカの対中国戦略を全体としてより強硬なものへと引っ張ろうとしているのではないか、とも推測されるのである。そのための極限的な仕掛けとして、尖閣諸島において日中間の偶発的な軍事衝突が引き起こされる危険性は決して小さくない。しかし、こうした衝突が一度引き起こされてしまえば、事態は制御不能な展開を見せていくかもしれないのである。まさに、いま日本は大きな破局の前に立たされているといっても過言ではない。

(*)この反ファシズム戦争において、日本は敗戦国であり米中は戦勝国である。
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2014年01月08日

歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う(3/5)

(3)アメリカの衰退と中国の台頭

 前回は、世界歴史の流れを根底から大きく規定している要因として、資本主義経済の歴史的変容という問題を検討した。端的には、資本主義経済の発展が歴史的な限界に到達しつつあるのではないか、ということであった。もう少し詳しく振り返っておく。第二次世界大戦後の資本主義諸国は、高度成長の果実を労働者階級にも手厚く分配するという“階級的妥協”によって、安定的な政治経済体制を創出したのであったが、内需主導型の高度成長が限界に突き当たることにより、こうした“階級的妥協”は放棄され、労働組合への攻撃、規制緩和、公営事業の民営化、社会保障の削減などといった一連の改革が進められていくことになったのであった。その結果、貧困と格差は著しく拡大し、分厚い中間層に支えられた安定的な国内需要は崩壊してしまった。こうして、資本主義経済は、金融市場の肥大化によって仮想的な需要を創り出すほかなくってしまい、デフレとバブルを周期的にくり返すという極めて不安定な情況に陥ってしまったのであった。このこととは同時に、政治的な体制の安定を揺さぶるものでもあった。将来への希望が失われ、生活不安が蔓延していくことは、不平等をもたらす体制への不満が爆発しかねない情況を創り出していく。こうしたなかで各国の支配層は、自立・自助・自己責任というイデオロギーを殊更に吹聴するとともに、共同体としての一体性を醸成するために、場合によっては排外的なナショナリズムすら煽りながら上から強権的に抑えつけていく、という方向へと追いやられていったのである。

 それでは、このような資本主義経済の歴史の流れを踏まえた上で、国際関係というレベルで現代世界を捉えてみるならば、どのような構造が浮かび上がってくるだろうか。今回は、この問題について、検討していくことにしたい。端的に結論をいうならば、第二次世界大戦後の世界の安定を体現していた「パクス・アメリカーナ」が崩壊過程に入るなかで、新興大国として中国が大きく台頭してきたことが、世界情勢の大きな変動をもたらしているということができる。

 米ソ冷戦に勝利したアメリカは、市場経済と民主主義こそ人類の普遍的な価値観であるとして、これらを軍事力の行使も辞さずに世界中に広げていくことを自らの使命として宣言した。とりわけ2001年の9・11テロ以降は、国連を無視してでも独自に「世界の警察官」としての役割を果たしていくという単独行動主義を露骨なものにしていったのである。しかし、サブプライム危機やリーマン・ショックに象徴されるような経済の衰退や財政危機の進行がアメリカの世界戦略にとって大きな制約要因となり、従来のように軍事的覇権主義を貫徹することができなくなってきてたのである。このように、厳しい財政事情の下で軍事費の圧縮を迫られるなか、戦略的重点をアジア太平洋地域に移すことを宣言したのが、2012年の「新国防戦略」であった。

 ここで最大の焦点として浮上してくるのは、いうまでもなく米中関係である。日本においては、「日米同盟VS中国」という対決構図が確固として成立するかのように考えられがちであるが、話はそう単純ではない。端的にいえばアメリカは、中国を敵でも味方でもない相手として見なしているのである。もちろん、「民主主義」を掲げるアメリカの価値観からすれば、共産党の一党独裁体制など到底認められるものではないし、中国の軍事的な台頭はアメリカの国益を脅かしかねない脅威として見なされている。しかし、だからといって、中国がかつてのソ連のように単純に封じ込めるべき相手としてのみ位置づけられているわけでもないのである。中国は、少なくとも市場経済という価値観は受け容れているのであるし、現在の世界経済は中国国内の大きな需要(巨額の財政支出も含む)を抜きにしては、もはや成り立たなくなっている。さらにいうならば、中国はアメリカ国債を大量に買い支えてくれているのである。このように見てくれば、アメリカにとって中国が単純に敵視するわけにはいかない存在であるのは極めて当然のことであろう。経済力を衰退させ財政危機を抱えるなかで軍事的支出を削減せざるを得ないアメリカとしては、中国の台頭に警戒しながらも、国際社会の責任ある一員として節度ある行動をとるように誘導していく、というのが基本的な戦略となるのである。

 例えば、オバマ政権の外交政策に大きな影響力を持っているズビグニュー・ブレジンスキーは、次のように述べている。このブレジンスキーは、カーター政権時代に国家安全保障担当大統領補佐官をつとめた政治学者であり、外交問題評議会(アメリカの外交政策に強い影響力をもった超党派のシンクタンク組織)のメンバーでもある。

「アメリカにとっては、米中の戦略的な提携がユーラシア戦略の東の錨になっていなければ、アジア大陸で地政戦略を実行できなくなる。そして、アジア大陸での地政戦略がなければ、ユーラシア全体を対象とする地政戦略も成り立たない。したがって、アメリカにとっては、地域大国としての中国を国際協力の幅広い枠組みのなかに取り込めれば、ユーラシア全体を対象とする地政戦略上、ユーラシアの安定を保つために決定的に重要な資産になる。この点では、ヨーロッパとおなじ重要性をもっており、日本よりも重要である。」(Z・ブレジンスキー『地政学で世界を読む 21世紀のユーラシア覇権ゲーム』日経ビジネス人文庫、p.329)


 このようにブレジンスキーは、アメリカにとっては日本との関係よりも中国との関係のほうが重要なのだ、とはっきり述べているのである。それでは、アメリカにとっての日米同盟の意義は、どのようなところにあると考えられるのであろうか。ブレジンスキーは、次のように述べている。

「しかし、ヨーロッパとは違って、ユーラシア大陸の東端には民主主義の橋頭堡はすぐには登場しないだろう。このため、中国との戦略的な関係を深めていくにあたっては、アメリカにとって、民主主義的で経済が成功している日本が太平洋地域で最重要な同盟国であり、世界でも中心的な同盟国である点を疑問の余地なく認めることが基礎になっていなければならない。」(同、pp.329−330)


 露骨にいうならば、アメリカにとっての日本とは、中国との戦略的な関係――単純な敵対関係でも単純な同盟関係でもない関係――を深めていくための手駒のような存在なのである。アメリカは、世界第2位の経済大国である中国との政治的・経済的協力関係を重視する一方で、中国の海洋戦略をはじめとした軍事的進出を抑制するために、日米同盟を通じて米軍の指揮下における自衛隊の実戦的動員をさらに強化しようとしているわけである。

 そもそも、アメリカにはアメリカの国益にもとづいた世界戦略があるのであって、アメリカの国益に適うのであれば、たとえ日本に不利になることがあっても、中国との協調を重視していくのは当然である。少なくとも、アメリカのアジア戦略は、けっして中国をとるか日本をとるかといった平面的なものではなく、「日米同盟」を基礎としつつ中国との戦略的な関係を深めていく、という重層的かつ立体的な構造を持つものとして捉えられなければならない。アメリカにとっては、日本と中国が接近してアジアからアメリカの影響力を排除しようとする方向に向かうことこそ最悪の事態であり、日中がある程度の敵対的関係にある方が何かと好都合なのである。
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2014年01月07日

歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う(2/5)

(2)資本主義経済の歴史的な行き詰まり

 本稿は、目前に迫っているかもしれない破局を回避し、希望ある未来を切り拓いていくための道を模索しなければならない、との問題意識から、現代の日本が一体如何なる歴史的情況の下におかれているのか、可能な限り明瞭に描き出すことを試みてみることを目的としたものである。

 今回はまず、世界歴史の流れを根底から大きく規定している要因として、資本主義経済の歴史的変容という問題を検討しておくことにしたい。

 大きな観点から端的に結論をいうならば、現代は、資本主義経済の発展が行き詰まってきた時代である、ということができる。

 第二次世界大戦後、世界の資本主義諸国は、ソ連を盟主とする共産主義陣営と対峙して資本主義体制を擁護しなければならないという条件の下に、アメリカを盟主にして結束した。これら資本主義諸国は、20世紀前半に顕在化した国際的な矛盾(国家間の対立の激化)、国内的な矛盾(階級対立の激化)を政府による経済介入によって緩和することを試みるようになったのである。各国民経済の枠内においては、社会的公正や社会的安定を重視する観点から、資本家による利潤追求の自由に一定の制限が加えられていくようになった。具体的には、労働者の権利擁護、各種の規制の強化、社会保障制度の充実、金融緩和・財政出動といった政府の経済介入の容認、公営事業の拡大など、いわゆるケインズ主義的な政策が採用されたのである。これは、資本家階級の側からすれば、共産主義陣営に対して資本主義体制を擁護するための“階級的妥協”としての性格を持っていたが、それだけではなく、労働者への譲歩によってこそ内需主導型の高度経済成長が実現し、譲歩を補って余りある見返りが期待できたことも無視できない。ともかくも、第二次世界大戦後の資本主義諸国は、高度成長の果実を労働者階級にも手厚く分配するという一種の“階級的妥協”によって、経済的にも政治的にも安定した体制を創出してきたのである。

 ところが、各々の資本主義国内において、自動車や家電製品などの耐久消費財がほぼ普及し尽くして国内市場が飽和してしまうと、こうした高度成長の持続は困難になってしまった。そのようななかで、社会的な安定や公正を重視してきたケインズ的な経済思想への批判が高まり、政府による経済介入を排して市場における自由な競争を復活させれば新たな経済成長が可能になるとの経済思想が形成されていくことになったのである。これこそ新自由主義の思想にほかならない。新自由主義の思想は、社会的公正の実現や社会的安定の確保を目指した国家権力による経済・社会への介入を、個人の自由を侵害するものと位置づけて両者を敵対的な関係にあるものとして描き出し、個人の自由こそ至上のものにほかならないとすることで、自立、自助、自己責任といった考え方を浮上させていった。このことが、経済のみならず、社会のあらゆる領域に影響を与えていくことになったのである。

 こうした思想的背景の下で、1980年代以降、世界の多くの資本主義国において、労働組合への攻撃、規制緩和、公営事業の民営化、社会保障の削減などといった一連の改革が進められていくことになった。こうした新自由主義的な政策は、いわゆるグローバリゼーションの動きと一体のものとして進行していった。各国の内需が低迷するようになったなかで、自由貿易の徹底的な推進、資本輸出の全面的な自由化などによってグローバルな市場を創出し、大企業が世界を舞台に自由に利潤追求ができるようにすることが目指されたのであった。こうした情況のなかで、各国の大企業が、激化する国際競争に打ち勝つために負担と感じられるものを徹底的に削ることを要求したことが、新自由主義的政策の大きな推進力となっていった。要するに、1980年代以降に世界的な規模で推進されるようになった新自由主義的改革は、グローバル企業の強固な支配を打ち立てていくための“資本の反革命”とでもいうべき性格をもっていたわけである。

 しかし、労働組合への攻撃、賃金の引き下げ、社会保障の縮小などは、貧困と格差を著しく拡大させ、分厚い中間層に支えられた安定的な国内需要を崩壊させてしまった。その結果、資本主義経済は、金融市場の肥大化によって仮想的な需要を創り出すほかなくってしまい、デフレとバブルを周期的にくり返すという極めて不安定な情況に陥ってしまったのである(*)。このことは、各国の経済政策をも大きく混乱させることになった。なかでも大きな転機となったのは、2007年のサブプライム危機や2008年のリーマン・ショックによって、新自由主義的な政策思想への批判が大きく高まったことであった。世界レベルでの経済の深刻な落ち込みに対して、金融緩和政策のみならず大胆な財政出動政策への期待が高まり、“ケインズの復活”ともいわれるような情況が現出することになったのである。ところが、大胆な財政出動は、各国の財政状態を著しく悪化させることになった。いわゆるギリシャ危機をひとつの大きなきっかけにして、各国の財政政策は緊縮政策(支出削減と増税)へと大きくカジを切っていくことになったのである。しかし、極端な緊縮政策は、景気を大きく冷え込ませ、世界的なレベルで民衆の生活を圧迫したために、各国において政権への国民の不満が高まっていくことになった。各国政府は、緊縮政策一本槍で押し進めていくわけにはいかず、ある程度の転換を余儀なくされるに至ったのである。こうした情況のなかでこの日本に登場してきたものこそ、アベノミクスにほかならない。つまり、深刻な経済危機に直面して各国政府の進める経済政策が右往左往してきたことが、アベノミクスのごった煮的性格に反映しているということができるわけである。

 新自由主義は、経済政策の混迷をもたらしたのみならず、政治的体制の安定性をも揺るがすこととなった。そもそも、新自由主義的な政策の推進とは、経済活動の果実を労働者階級にも手厚く分配することによって資本主義体制への信任を取りつける、といった統治手法の放棄を意味するものにほかならなかったから、必然的に政治的体制を不安定化させてしまったのである。より具体的にいえば、貧困と格差の拡大により将来への希望が失われ、生活不安が蔓延するとともに、不平等をもたらす体制への不満が高まっていくことになったのであった。議会制民主主義は、“階級的妥協”の大枠のなかにおいては、保守的な政党と社会民主主義的(中道左派的)な政党との競い合いを通じて、諸階級・諸階層の利害を調整していくための枠組みとして、それなりに有効に作用してきた。しかしながら、新自由主義的改革の推進、米ソ冷戦の終結によって政治の対決軸が大きく右に寄っていくことにより、議会制民主主義は、民衆の不満をそれなりに吸い上げて国家意志に反映させていくという機能を充分には果たし得なくなってきたのであった。このような状態のなかで、各国の支配層は、体制への信任を取りつけるために、自立・自助・自己責任というイデオロギーを殊更に吹聴するとともに、共同体としての一体性を醸成するために、場合によっては排外的なナショナリズムすら煽りながら上から強権的に抑えつけていく、という方向へと追いやられていったのである。

*より「健全」な需要として、いわゆるBRICSなど成長著しい新興国における富裕層・中間層の需要が考えられるが、今後数十年の後にこれらの国々に耐久消費財が普及し尽くして市場が飽和してしまえば、資本主義経済の成長は決定的な限界にぶつかってしまうであろう。
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2014年01月06日

歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う(1/5)

目次

(1)いま世界と日本はどうなっているのか
(2)資本主義経済の歴史的な行き詰まり
(3)アメリカの衰退と中国の台頭
(4)軍事的な体制強化へ突き進む安倍政権
(5)戦争か革命か――歴史的な岐路に立つ世界と日本

*本文中では敬称は省略した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)いま世界と日本はどうなっているのか

 一昨年の年末、戦後最低の低投票率となった衆議院総選挙において自民党が圧勝し、第2次安倍晋三政権が誕生した。本来ならば、この総選挙は、原発をどうするか、消費税増税を認めるのかどうか、TPP交渉参加すべきかどうか、といった諸問題が問われるべき選挙であった。にもかかわらず、これらの問題がまともに争点となって論戦が深められるということはなく、マスコミが「決める政治」への前進などという信じがたいほどに空疎な文言を氾濫させるなかで、2009年の総選挙において厳しくノーを突きつけられたはずの自民党が、あっさりと政権の座に返り咲いてしまったのであった。

 これは何よりもまず、民主党政権への国民の大きな失望が招いた結果であったというべきであろう。そもそも民主党は、「国民の生活が第一。」というスローガンを掲げることで、それまでの自民党政治からの転換という国民の大きな期待を集めて、2009年の総選挙で大勝し、政権を獲得したのであった。民主党政権を誕生させた国民の期待の中身をより具体的に見るならば、それは、何よりもまず、貧困と格差の拡大をもたらした新自由主義的改革路線を見直すことであり、加えて、日米軍事同盟強化一本槍の外交政策(ブッシュ政権時のアメリカは国連無視の単独軍事行動へと突き進んでいた)を修正することであったといえよう。

 にもかかわらず、民主党政権は、アメリカや財界、官僚層からの圧力に屈して、あっけなく、新自由主義的改革の推進、日米軍事同盟強化の方向へと転換してしまったのである。2012年の総選挙は、端的にいえば、こうした民主党政権の変質に対する国民の失望と怒りが表現された選挙にほかならなかった。2009年総選挙から2012年総選挙へ、民主党が比例得票率を42.4%から16%に激減させるという歴史的大惨敗を喫する一方で、自民党は比例得票率を26.7%から27.6%へと微増させただけにすぎない。つまり、この総選挙の結果を見る限り、自民党が積極的に選ばれたということではなくて、民主党が大敗北を喫するなかで自民党が相対的に浮上したに過ぎない、ということもできるのである。

 とはいえ、第2次安倍政権は、「強い日本を取り戻す」をキャッチフレーズに、「アベノミクス」と呼ばれる経済政策を打ち出すことで、極めて高い支持率を獲得していくことになった。このアベノミクスなるものは、思想的系統の全く異なる諸政策をごった煮にしたもの(金融緩和、財政出動はいわゆるケインズ的政策であるのに対して、成長戦略は新自由主義的政策)でしかなく、消費税大増税と社会保障の解体的再編という大緊縮政策への地ならしという政治的意味合いの強いものであったが、ともかくも、日本経済の長期的低迷からの脱却への期待(根拠のない幻想としかいいようのないものではあるが)を大きく高めることには成功し、安倍政権が高い支持率を得る上で最大限の貢献をしたのであった。

 「保守的」あるいは「右翼的」思想の持ち主とされる安倍晋三は、第1次政権の際の失敗を踏まえ、自身の悲願とする憲法「改正」などについては当面封印し、少なくとも2013年7月の参院選までは「安全運転」で行くのではないか、とも見られていた。しかし、新聞各紙の世論調査で高い支持率が出続けるにつれて、安倍は参院選を待たずに、原発再稼動、TPP交渉参加、憲法「改正」などについて、積極的に言及していくようになっていったのである。そのようななかで行われた参議院選挙において、自民党は圧勝した。こうして、安倍政権の“暴走”ともいわれるような事態が引き起こされることになったのである。

 安倍政権は、昨秋の臨時国会において、多数の反対世論を押し切り、また、これまで安倍政権を支えてきたマスコミの一部までも敵にまわした上で、極めて強引な国会運営によって、“現代の治安維持法”とも称される秘密保護法を強行した。また、秘密保護法の強行と並行して、国家安全保障会議(日本版NSC)が創設されるとともに、中国の脅威を強調し軍事的対抗の必要性を力説した防衛大綱、国家安全保障戦略が策定された。さらに安倍は、暮れも押し迫った12月26日になって、周囲の反対を押し切り、靖国神社への参拝を強行したのである。

 我々は昨年の年頭言において、現代日本の情況が、恐慌による社会の荒廃から泥沼の戦争へと突入していった1930年代の時代的情況に酷似していることを指摘し、警鐘を鳴らした。それから1年経った現在、その危機感をますます深めざるを得ない。いま安倍政権は、中国を敵国と設定した上で、軍事的な体制強化へと遮二無二突き進んでいるように見える。こうした動きについて、「いざというときに戦争できる体制をつくるのは国家として当然のこと」と受け止める向きもあるだろう。しかし、急速に台頭する中国を封じ込めてアジアでの権益を取り戻そうとするアメリカの戦略を考え合わせるならば、また、消費税大増税、社会保障の解体、TPP参加などが近い将来に必然的にもたらすであろう日本社会の深刻な荒廃を考え合わせるならば、そういって簡単に片付けてしまうわけにはいかないのである。

 もっとはっきりというならば、安倍政権は、いざというとき戦争できるよう軍事的な体制をつくるというより、軍事的な体制(荒廃した社会を上から強権的にまとめあげる体制)を完成させるためにわざと戦争を起こすことを狙っているのではないか――このような疑念もまったく荒唐無稽とはいいきれないのである。仮に安倍政権がそこまで具体的に考えていないにしても、情況におされて(確固たる戦略性を欠いた場当たり的な選択の積み重ねの結果として)そういう事態に追い込まれてしまう可能性は決して低くはないといえよう。一般的にいって、対内的な矛盾を激化させてしまった社会は、対外的な矛盾を激化させることによってしか国家としての統治を果たしていくことができない。そのような観点からすれば、日本という国家はいま、大きな岐路に立たされているといわなければならないのである。国家の存亡を危うくしてしまいかねないような破局が、すぐそこまで迫っているのかも知れないのである。

 我々は、学問の力をもって、破局を回避し希望ある未来を切り拓いていくための道を模索しなければならない。そのためには、何よりもまず、現代が如何なる時代なのか、より具体的には、日本という国家が如何なる世界情勢のもとにあって如何なる問題に直面させられているのか、しっかりと明らかにしておかなければならないのである。これは、我々の現時点での学問的実力からすれば、決して容易い課題とはいえない。しかし、だからといって避けてしまうわけにもいかない。本稿では、現代の日本が一体如何なる歴史的情況の下におかれているのか、可能な限り明瞭に描き出すことを試みてみたい。
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2012年08月22日

消費税増税実施の是非を問う(5/5)

(5)消費税増税を実施してはならない

 本稿は、民主・自民・公明の増税談合3党による消費税増税法の強行成立という事態が、われわれ主権者国民にたいして、消費税増税を本当に実施してしまってよいのかどうかという問いを鋭く提起しているのだとの問題意識の上に立って、消費税増税の実施が日本という国家にいかなる結果をもたらしてしまうものか、あらためて考えてみることを目的としたものでした。

 まず、消費税増税法のいわゆる「景気弾力条項」(付則第18条)を念頭において、消費税増税が日本経済にいかなる影響を与えるものであるのか、考えてみました。結論的には、消費税増税の実施は、一握りの輸出大企業が日本国内の労働者や中小業者の犠牲の上に立って国外で巨大な儲けを上げているという構造的な歪みを著しく拡大させることをつうじて、日本経済の低迷状態をこれまで以上に深刻なものにしてしまうことは間違いないだろう、ということでした。

 ついで、消費税増税の実施は本当に財政再建に資するのかという問題について、検討しました。そもそも日本財政の危機は、債務の伸びに見合ったGDPの伸びがないというところにこそ存在するのでした。GDPの低迷の最大の要因は、一握りの輸出大企業が下請け単価を叩き労働者の賃金を切り下げることで儲けを確保してきたところにこそあるのですから、こうした構造的歪みを強化して日本経済に壊滅的打撃を与えかねない消費税増税の実施が、財政再建に資するわけがありません。それどころか、深刻な景気後退による税収減――消費税収が増えたとしても、それを上回る規模で所得税・法人税の減収が見込まれるのです――を媒介として、財政を破綻に追い込んでしまう危険性がきわめて高いと考えなければなりません。財政危機の要因はGDPの低迷にこそあるのですから、日本経済の歪んだ構造にメスを入れることにより日本経済を健全な成長の軌道にのせて税収の増加を図ることこそが、財政再建の最も確かな道だということになるのでした。

 さらに、社会保障の財源として本当に消費税がふさわしいのかどうかという問題について、検討を進めました。そもそも社会保障とは、資本主義経済における自己責任原則の部分的な修正として、国民の生存権を保障するために歴史的に形成されてきた制度にほかなりません。社会保障の給付は、不利益(失業、ケガ・病気など)を被った人にたいして国家的保障によってその不利益をある程度までカバーしてやるためのものといった性格をもったものである以上、「生活に余裕のある人々の負担で生活の苦しい人々を支える」という考え方で、その財源確保がなされるべきだということになるのでした。したがって、弱者ほど大きな負担を強いられる消費税は社会保障にもっともふさわしくない税金であり、お金に余裕があるほど負担が大きくなる所得税や法人税こそ、社会保障財源にふさわしい税金なのだということになるわけでした。

 以上、大きく3つの論点について検討を進めてきたことによって、消費税増税実施の強行が、日本経済と国民生活に壊滅的な打撃を与え、財政を破綻に導いてしまいかねないきわめて危険な政策であること、また、消費税を社会保障目的税として位置づけることが、歴史的に形成されてきた社会保障制度の理念を否定してしまいかねないものであることがあきらかになったといってよいでしょう。

 本稿の冒頭でのべたとおり、消費税増税法が成立させられてしまったからといって、「消費税増税はもう決まったこと」などと考えてしまってはなりません。増税法には付則第18条なるものが存在しており、本当に消費税増税を実施するかどうかは経済状況を踏まえた政府の判断にゆだねられているわけですし、そもそも消費税増税の実施までに確実に衆議院総選挙(および参議院選挙)がおこなわれることを踏まえるならば、消費税増税法そのものを廃止ないしは無効化する展望もないわけではないのです。消費税増税の是非――消費税増税そのものの是非と同時に、マニフェスト違反を強行あるいは強要した増税談合3党のやり方の是非――が一大争点となる衆議院総選挙を「近いうちに」控えた今だからこそ、消費税増税を本当に実施してよいのかどうか、主体的に考えて的確に判断していくことが、われわれ主権者国民に鋭く問われているのです。

 消費税増税の実施を許してしまうかどうかは、日本という国家の将来にたいしてきわめて大きな影響を与える重大な選択です。消費税増税実施の強行は、有体にいえば、海外市場で稼ぐ一握りの大企業の利益のために日本国内の労働者や中小業者を犠牲にするという政策にほかなりません。野田首相が掲げた「分厚い中間層の再生」などというスローガンも虚しく、日本国内においてはすでに解体されかかっている中間層が完膚なきまでに解体されていき、格差と貧困が劇的に拡大していくことになるでしょう。デフレ経済下の消費増税実施の強行は、確実に日本社会の荒廃をもたらしてしまうのです。

 われわれはここで、1930年の金解禁によって引き起こされた昭和恐慌が戦争とファシズムの遠因となってしまったことを想起すべきでしょう。格差と貧困の拡大によって荒廃しきった社会は、対外的な緊張をテコとしつつ強権的な手法によってまとめあげるしかなくなってしまうのです。このような観点からは、現在、橋下維新の会や石原新党など、強権的・ファッショ的とも称される勢力の動きが大きく取り沙汰されると同時に、竹島問題や尖閣諸島問題などをめぐって対外的な緊張の高まりが演出されつつある(*)ことに重大な警戒を抱くべきでしょう。これは直接的には、次の総選挙で消費税増税実施の是非が大きな争点にならないための煙幕として機能するものですが、より長期的には、消費税増税実施強行後の日本社会をどのように統治していくかという観点からの布石としての意味をもっているとも考えることもできるのです。たとえば、これから数年ののちには、尖閣諸島をめぐって部分的・偶発的な軍事衝突をくり返すといった形での日中戦争に突入し、この体外的な緊張をテコにして、日本国憲法の改定をも含めて国内の統治体制が全面的につくりかえられてしまう、といった事態すら、考えられないでもないのです。消費税増税実施後の日本社会は、それこそ戦争でもしないかぎりまともに統治できないほど荒廃したものになってしまいかねないのだ、という危機感はもっておくべきでしょう。

 このように、「近いうちに」おこなわれる総選挙でわれわれに問われるのは、日本という国家の未来に大きくかかわった重大な選択なのです。われわれは、このような歴史的な責任をしっかりと自覚した上で、消費税増税を本当に実施してよいのかどうか、主体的に考えて的確に判断していかなければならないのです。

(*)日米同盟の揺らぎが韓国や中国の挑発を招いたのだ、やはり日米同盟は重要なのだ(アメリカに楯突いてはならないのだ)というマスコミなどの論調を見るに、この間の韓国や中国の動きの背後に、アメリカの何らかの意図がはたらいていないか、疑ってかかってみることも必要でしょう。アメリカにとっては、日本とは自国の世界戦略を有利に進めるためのひとつの駒にすぎないのだということを忘れてはなりません。
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2012年08月21日

消費税増税実施の是非を問う(4/5)

(4)消費税は社会保障財源にふさわしくない

 前回は、消費税増税の実施は本当に財政再建に資するのかという問題について、検討しました。結論的には、消費税増税の実施を強行することは、経済状況の劇的な改善でもないかぎり、財政再建に資するどころか、日本経済に壊滅的な打撃を与えることを媒介として、財政を破綻に追い込んでしまう危険性がきわめて高いのだ、ということでした。

 そもそも日本財政の危機は、債務の伸びに見合ったGDPの伸びがないというところにこそ存在します。したがって、財政再建への道は、何よりもまず、GDPを伸ばすことによって税収を上げるところにこそ見出すべきなのだということになります。前々回に説いたとおり、GDPの低迷の最大の要因は、一握りの輸出大企業が下請け単価を叩き労働者の賃金を切り下げることで儲けを確保してきたところにこそあるわけなのですから、何よりもまずこの歪んだ構造にメスを入れることによって日本経済を健全な成長の軌道にのせることこそが、財政再建の最も確かな道だということになるのです。

 前回の最後では、このような確認の上に立って、「仮に増税が必要ならば、大企業・富裕層にこそ負担を求めるべきであって、労働者や中小業者に求めるべきではありません」という提起をおこないました。この提起は、日本経済の健全な成長を確保するために、という観点からなされたものでしたが、これは同時に、政府や御用学者やマスコミによる「社会保障の財源としては国民みんなが広く公平に負担する消費税がふさわしい」「消費税を社会保障目的税にするべきだ」などという類の大宣伝にたいして、大きな疑問符を突きつけるものでもあります。つまり、ここで、社会保障の財源として消費税が本当にふさわしいのかどうか、という問題が浮上してくることになるのです。

 重要なのは、この問題は、あくまでも「そもそも社会保障とは何か」という本質的なところから考えていかなければならないのだ、ということです。

 それでは、「そもそも社会保障とは何か」という問いにたいして、どのような答えを与えるべきなのでしょうか。その歴史的な形成過程に着目すれば、次のように考えることができるでしょう。

 そもそも社会保障とは、「自己責任」を原則とした資本主義経済の発展のなかで、貧困や生活苦の要因をすべて個人的な責任に帰するわけにはいかないこと――たとえば、失業者は怠惰なのではなく、労働力商品を売って生活の糧を得るしか生きる術がないのに、不況の影響でどこにも働く場所がないのだ、ということ――があきらかになってくるのに応じて、形成されてきたものにほかなりません。もう少し踏み込んでいえば、広く国民一般にたいして人間らしく生きる権利(生存権)を保障することこそが、国家(社会)の安定的な発展にとって不可欠であるということが認められることによって、社会保障制度が形成されていくことになったのです。ようするに、社会保障とは、資本主義経済における自己責任原則の部分的な修正として、国民の生存権を保障するために歴史的に形成されてきた制度にほかならないのです。

 この確認の上に立って、ここでどうしても厳しく批判の対象とされなければならないのは、消費税増税法と同時に「税と社会保障の一体改革」の一環として成立させられた「社会保障制度改革推進法」です。この法律は、ことさらに「自助」=自己責任の原則を強調しているのですが、これが自己責任原則の修正として成立したという社会保障制度の本質を否定しかねない暴論であることは明白でしょう。また、この法律が、社会保障について「受益と負担の均衡」という考え方をことさらに強調していることも、同様の観点からして大問題です。社会保障の給付は決して「利益」として捉えられるべきものではなく、大きな不利益(失業、ケガ・病気など)を被った人にたいして、国家的保障によってその不利益をある程度までカバーしてやるためのものといった性格をもっているからです。

 現在、たとえば、生活保護の不適切な受給の問題が喧伝されるなどして、社会保障の給付があたかも過度に大きな不当な利益であるかのようなムードがつくられようとしています。もちろん、現在の社会保障制度が現象レベルで様々な問題を抱えており、改革にむけた議論が必要であるのはたしかでしょう。しかし、その議論は決して個々の現象に引きずられた感情的なものであってはならず、「そもそも社会保障とは何か」という本質をしっかりとおさえた冷静なものでなければならないはずです。

 さて、以上のように社会保障の本質について検討し確認してきたこと――資本主義経済が本来的にもっている自己責任原則の部分的修正であり、不利益(失業、ケガ・病気など)を被った人にたいして、その不利益をある程度までカバーするための国家的給付をおこなうことをつうじて国民の生存権を保障していく制度――は、社会保障の財源をどのようにして確保していくべきかという問題にたいして、重要な示唆を与えるものです。端的にいえば、生活に余裕のある人々の負担で生活の苦しい人々を支えるというのが社会保障のあるべき姿ではないのか、ということにならざるをえないのです。

 このような観点からすれば、「社会保障の財源は国民みんなで広く公平に負担すべき(だから消費税がふさわしい)」などという消費税増税論者のもっともらしい主張は、実は、社会保障の本質を踏まえない愚論にほかならないということになります。しばしば「消費税を社会保障目的税に」などという宣伝がなされることもありますが、これは大変に欺瞞に満ちたものです。これは「社会保障財源はすべて消費税でまかなう」ということであり、裏を返せば「所得税や法人税は社会保障に使わない」ということにほかなりません。しかし、消費税は、「税込みいくら」で過酷な低価格競争が強いられる状況の下では、経済的な弱者ほど大きな犠牲を強いられる税金なのです。消費税がこのような性格をもっている以上、社会保障の理念的な側面(生活に余裕のある人々の負担で生活の苦しい人々を支える)からして、消費税が社会保障にふさわしくない税金であることはあきらかであるといわなければなりません。

 もうひとつ重要なのは、実際的な側面からしても、消費税は社会保障財源にもっともふさわしくないということです。どういうことかといえば、消費税は、中小業者を倒産・廃業に追い込み、労働者の雇用を奪ってしまうことによって、社会保障の必要経費を激増させてしまうからです(*)。

 結論としては、「社会保障の財源としては消費税がふさわしい」などというのは、社会保障の本質をふまえない暴論であり、弱者ほど大きな負担を強いられる消費税ではなく、お金に余裕があるほど負担が大きくなる所得税や法人税こそ、社会保障財源にふさわしい税金なのだ、ということになります。

(*)ジャーナリストの斎藤貴男氏は、アメリカ合衆国において、このような観点から、国税としての消費税(付加価値税)の導入が見送られてきたことを指摘しています(斎藤貴男『消費増税で日本崩壊』ベスト新書、pp.57−60)。
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2012年08月20日

消費税増税実施の是非を問う(3/5)

(3)消費税増税は財政再建につながらない

 前回は、消費税増税法のいわゆる「景気弾力条項」(付則第18条)を念頭に、消費税増税が日本経済にいかなる影響を与えるものであるのか、考えてみました。結論的には、消費税増税の実施は、一握りの輸出大企業が日本国内の労働者や中小業者の犠牲の上に立って国外で巨大な儲けを上げているという構造的な歪みを著しく拡大させることをつうじて、日本経済の低迷状態をこれまで以上に深刻なものにしてしまうことは間違いないだろう、ということでした。

 実は、消費税増税の実施が深刻な景気後退をもたらしてしまうというこの結論は、消費税増税法の成立を「日本の財政再建に向けた重要な一歩」(「日本経済新聞」8月11日付社説)とする評価にたいして、大きな疑問符を突きつけるものにほかなりません。ここで、消費税増税の実施は本当に財政再建に資するのか、という問題が浮上してくることになるのです。

 この問題にかかわって、何よりもまず、日本の財政の現状をどう見るべきなのかが検討されなければなりません。この問題については、本ブログに2010年7月28日から掲載した小論「弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り」において論じました。詳細な議論についてはそちらを参照してもらうとして、ここでは、この小論の主要部分をごく簡単に要約する形で振り返っておくことにしましょう。

 日本は、国と地方を合わせて1000兆円にもなる世界一の借金国だといわれます。しかし、まず指摘されなければならないのは、日本は、政府の借金額が世界一であるだけでなく、政府の金融資産、民間貯蓄、対外純資産も世界一なのだという事実です。このように、国内に資金が溜まりがちな日本の経済体質に着目するならば、ある程度までの政府の借金はむしろなければ困るものなのだという見方もできるのです。つまり、国内の金融機関に溜まったままになっている資金を国債と交換し、政府が政策的な目的に支出していくことによってこそ、経済の循環が可能になっているのだ、ということです。実際、このような構造があるからこそ、日本国債の大半が日本国内で消化されているのだと考えなければなりません。この点、国内に資金の余裕がないから国外の投資家に国債を販売することで財政資金を調達していたギリシャ政府とは決定的に事情が異なるわけです。

 とはいえ、日本の財政の持続可能性はどうなのかという問題は、別個に検討されるべきでしょう。この問題にかんしては、まず、財政の健全性は政府の債務と国民が産み出す富との関係如何という観点から把握されなければならないこと、より具体的には、たとえ債務額が増えたとしても、それに見合うだけのGDPの伸びがあれば、超長期的(国家に寿命はありません!)には返済可能であるとの見通しがもてることが確認されなければなりません。実は、日本財政の真の危機は、この点に大きくかかわってくるのです。

 1994年の時点では、日本の純債務残高GDP比は20%で、いわゆるG7(先進主要7カ国。日、米、英、独、仏、伊、加)のなかで最低水準でした。問題はその後の推移です。G7の日本以外の国々は、政府の債務額自体は増加させてしまったものの、積極的な財政支出による景気浮揚効果もあって、債務額の伸びを上回る(あるいは少なくともそれに見合う)GDPの伸びを実現させてきたため、純債務残高GDP比(政府債務の国民負担率)をほぼ横ばい程度に抑えることができていました。これにたいして、日本は債務が増える一方で、GDPがほとんど伸びなかったために、純債務残高GDP比(政府債務の国民負担率)を急激に悪化させてしまったのです。2011年の日本の純債務残高GDP比は120%を超え、G7中ダントツの第一位となってしまいました。

 皮肉なのは、日本の財政状況が急速に悪化していったこの期間は、本格的に財政危機が叫ばれるようになり、そのための対策がとられるようになった時期に重なっているということです(日本の財政危機問題が本格的に騒がれるようになったのは、1995年11月、村山自社さ連立政権の武村正義蔵相が国会で「日本は財政危機だ」と宣言してからのことです)。これは、結論からいえば、「財政赤字を出してこそGDPが伸びて財政が健全化する」という弁証法的な発想を否定し、形而上学的に「何時如何なる時も財政赤字は悪」という形而上学的な発想にもとづいて、「歳出削減+増税」という財政再建路線を採ったことで景気を冷え込ませてしまったからにほかなりません。ようするに、日本財政の真の危機は、政府の債務額が巨大であるということではなく、財政再建路線の下にもかかわらず純債務残高対GDP比を急速に悪化させてきているという過程そのものにある、と見なければならないわけです。

 消費税増税法の成立が「日本の財政再建に向けた重要な一歩」だとする評価の妥当性は、以上で説いてきたような財政と国民経済との相互浸透関係をふまえて判断されなければなりません。より具体的には、消費税の増税が直接に税収を増やす効果のみに着目するのではなく、消費税の増税を契機とする景気の冷え込みによってGDPが縮小してしまう可能性、さらにはそのことを媒介として、所得税や法人税などの税収を減少させてしまう可能性をも合わせて考えていかなければならないのです。

 実際、1997年に消費税率が3%から5%に引き上げられた際には、景気が極端に悪化してしまったことにより、1998年度の消費税収が1996年度に比べ4兆円増えた一方で、所得税収は2兆円、法人税収は3.1兆円の減収となり、税収全体としてはかえってマイナスになってしまったのでした。現在の日本経済の落ち込みは、当時と比べても際立っています。当時は僅かずつではあっても、労働者の賃金は伸びていく過程にありました。ところが現在は、労働者の賃金が伸びていないのです。このような状況下で消費税増税の実施を強行すれば、日本経済に1998年とは比較にならないくらいの壊滅的な打撃が与えられてしまうのは明瞭です。消費税増税の実施を強行することは、経済状況の劇的な改善でもないかぎり、財政再建に資するどころか、日本経済に壊滅的な打撃を与えることを媒介として、財政を破綻に追い込んでしまう危険性がきわめて高いのです。

 先ほども説いたとおり、日本財政の危機は、債務の伸びに見合ったGDPの伸びがないというところにこそ存在します。そうであるならば、財政再建への道は、何よりもまず、GDPを伸ばすことによって税収を上げるところにこそ見出すべきだということになります。前回論じたように、GDPの低迷の最大の要因は、一握りの輸出大企業が下請け単価を叩き労働者の賃金を切り下げることで儲けを確保してきたところにこそあります。したがって、何よりもまず、この歪んだ構造にメスを入れることによって経済成長を図ることこそが、財政再建の最も確かな道だということになるのです。仮に増税が必要ならば、大企業・富裕層にこそ負担を求めるべきであって、労働者や中小業者に求めるべきではありません。
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2012年08月19日

消費税増税実施の是非を問う(2/5)

(2)消費税増税は日本経済に壊滅的な打撃を与える

 本稿は、民主・自民・公明の増税談合3党による消費税増税法の強行成立という事態が、われわれ主権者国民にたいして、消費税増税を本当に実施してしまってよいのかどうかという問いを鋭く提起しているのだとの問題意識の上に立って、消費税増税の実施が日本という国家にいかなる結果をもたらしてしまうものか、あらためて考えてみることを目的としたものです。

 今回はまず、消費税増税が日本経済にいかなる影響を与えるものであるのか、考えてみることにしましょう。この問題が重要なのは、前回紹介したように、消費税増税法に、いわゆる「景気弾力条項」(付則第18条)なるものが付けられているからです。この条項が存在している以上、消費税増税が日本経済に与える影響の如何が大きな争点として浮上してこざるを得ないのであり、その論争の動向によっては、政府が消費税増税の実施にふみきれなくなる可能性もあるのだ、というわけでした。

 そもそもこの条項は、長引くデフレ経済下で消費税増税を実施すれば個人消費が冷え込み景気をいっそう悪化させてしまうのではないか、という懸念に応えてつくられたものです。「名目3%、実質2%」という成長率は、これくらいの経済状況であれば消費税増税の影響にも耐えられるだろうという、一応の目安として設定されたものだと考えてもよいでしょう。しかし、仮にこれだけの成長率があったとしても、日本経済が消費税増税実施の影響に耐えられるのかどうかは、慎重に検討されなければなりません。消費税増税の実施は確実に消費を冷え込ませるものですから、たとえ景気が好転する状況にあったにしても、その動きを一気に反転させ、景気をどん底に突き落としてしまう危険性がきわめて高いのです。

 消費税増税の実施が、景気を大きく後退させてしまうことは、1997年に消費税増税が実施された際、それまで好転しかけていた景気が一気に反転してしまったことからもあきらかです。日本の年間の自殺者数は、1997年に激増して3万人を突破し、それ以来ずっと3万人を超えたままなのです。1997年の消費税増税実施時の首相だった橋本龍太郎氏は、2001年4月の自民党総裁選――このとき橋本氏を破って自民党総裁・内閣総理大臣の地位に就いたのが小泉純一郎氏でした――の立会演説会で以下のように、痛恨の思いを述べています。

「バブル崩壊後の長期の不況を脱することができない、そして国民の皆様に不安と苦しみを与えることに、政治の責任を感じています。振り返ると私が内閣総理大臣の職にありましたとき、財政の健全化を急ぐあまりに、財政再建のタイミングを早まったことが原因となって経済低迷をもたらしたことは、心からお詫びをいたします。そして、このしばらくの期間に、私の仲のよかった友人の中にも、自分の経営していた企業が倒れ、姿を見せてくれなくなった友人も出ました。予期しないリストラにあい、職を失った友人もあります。こうしたことを考えるとき、もっと多くの方々がそういう苦しみをしておられる。本当に心の中に痛みを感じます。」


 しかし、このときの景気後退について、消費税増税にともなう個人消費の冷え込みよりも金融危機の影響によるものだして、「消費税を上げても景気を冷やす作用はそれほど大きくない」(吉川洋・東大教授、「日本経済新聞」6月27日付朝刊)という主張がなされることもあります。しかし、こうした議論は、消費の冷え込みは消費の冷え込み、金融危機は金融危機というきわめて形而上学的な発想にもとづいており、〈消費の冷え込み→企業の経営状態の悪化→不良債権の増加→金融危機〉という経路がありうることを無視した愚論というべきでしょう。1997年秋以降のアジア通貨危機の影響が云々される場合もありますが、逆に日本国内における不良債権問題の浮上によって、邦銀がアジア諸国から資金をいっせいに引き上げたことが危機連鎖の要因になったのではないか、との指摘もあるのです(*)。

 消費税増税の実施が景気の動向に与える悪影響は限定的なものにすぎない――このような御用学者の論の欺瞞性は、日本経済が「失われた20年」とよばれるほど長期に渡って低迷している背景にいかなる構造が存在しているのかを問うてみることによって、浮き彫りにされるでしょう。その構造とは、端的には、一握りの輸出大企業が日本国内の労働者や中小業者の犠牲の上に立って国外で巨大な儲けを上げているという歪んだ構造にほかなりません。消費税増税の実施は、こうした構造的な歪みをいっそう大きなものにせずにはおかないのです。

 消費税は、各事業者の付加価値(生産過程で生みだした新たな価値)を課税ベースとし、各事業者が商品の販売価格に消費税分を転嫁できるかどうかは各事業者の自己責任に委ねられています。つまり、消費者(買い手)が消費税を負担するというのは理屈の上での話にすぎず、実際にどうなるかは売り手と買い手の力関係によるわけです。したがって、市場において「税込みいくら」で激しい価格競争が行われるもとでは、取引関係において弱い側に実質的な消費税負担が押しつけられていくのは必然の結果なのです。

 価格競争力の弱い業者は、消費税をまともに転嫁して価格設定する余裕などありません。下請け業者が大企業から消費税分を値切られ、消費税の負担を実質的に押しつけられてしまうこともしばしばです。このことが、輸出大企業の受け取るいわゆる「輸出戻し税」に不当な輸出補助金という性格をあたえてしまうことは、本ブログでもくり返し説いてきたとおりです。また、人件費が課税対象外である一方、派遣会社への人材派遣サービスへの支払には消費税が含まれていると見なされることから、企業が正社員を減らして派遣社員に切り換えることで大きく節税できる、という仕組みが存在していることも重大です。消費税が持つこれらの害悪は、現在の日本のようなデフレ経済(「税込みいくら」での過酷な低価格競争!)においては、とりわけ耐え難いものにならざるをえません。消費税が「経済活動に与える歪みが小さい」などという政府の宣伝はまったくのデタラメであり、消費税増税の実施は、価格競争力の弱い業者を強力に淘汰し、雇用リストラを強力に推進するとともに、輸出という特定の経済行為を不当に優遇してしまう性質を持っているのです。

 このことは、消費税増税の実施が、一握りの輸出大企業が日本国内の労働者や中小業者の犠牲の上に立って国外で巨大な儲けを上げているという構造的な歪みを著しく拡大させるものにほかならないことを意味しています。消費税増税の実施が、日本経済に壊滅的な打撃をあたえてしまうことはあきらかなのです。

 1997年の景気後退を消費税増税実施の影響ではないと言い張る御用学者たちは、たとえ2014年、2015年以降に日本が深刻な景気後退に見舞われたとしても、欧州危機の影響だとか、海外景気の落ち込みの影響だとか、ほかの要因を持ち出して逃げようとすることでしょう。御用学者たちのこのような醜い責任逃れを許さないためにも、主権者たるわれわれ国民は、しっかりとした判断力を身につけていかなければなりません。

*たとえば、慶應義塾大学の竹森俊平氏は、次のように指摘しています。

「東アジア通貨危機にも、日本国内の金融問題が絡んでいたのである。/バブル崩壊以降、低金利なのに景気は悪く、銀行は日本国内では金利収入が稼げなくなる。それで主要行は90年代の初めから積極的に東アジアに進出した。そこにタイで危機が勃発した。すでに国内の不良債権は大銀行の経営基盤を危うくする規模に膨張していたが、この上、海外の不良債権まで背負ってはかなわないと考え、日本の銀行は融資を引き揚げる。それが『危機の連鎖』の少なくとも一因となった。」(竹森俊平『1997年――世界を変えた金融危機』朝日新書、p64)
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2012年08月18日

消費税増税実施の是非を問う(1/5)

目次

(1)消費税増税を本当に実施してもよいのか
(2)消費税増税は日本経済に壊滅的な打撃を与える
(3)消費税増税は財政再建につながらない
(4)消費税は社会保障財源にふさわしくない
(5)消費税増税を実施してはならない

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(1)消費税増税を本当に実施してもよいのか

 ロンドン五輪に世間の関心が集中している最中の8月8日、民主党、自民党、公明党の党首会談が行われ、消費税増税関連法案を早期に成立させ「近いうち」に国民に信を問うという合意が成立しました。この合意にもとづいて、8月10日、参議院において消費税増税関連法案の採決が行われ、賛成多数で可決・成立しました。この増税法の成立によって、消費税率が2014年4月に8%、2015年10月に10%にまで引き上げられる道筋がつけられたわけです。

 翌8月11日、読売・朝日・毎日・日経・産経の大手全国紙5紙は、消費税増税法の成立を「日本の財政再建に向けた重要な一歩」(日経)などとして大歓迎する社説をいっせいに掲載しました。

 しかし、民主党のマニフェストに違反するばかりか国民の生活に重大な影響を与える重大な法案を、事前に国民に信を問うことのないままに、一部政党の密室談合によって強行したことは、議会制民主主義の原則からいって、到底許されるべきものではありません。今回の一部政党の密室談合による消費税増税法の成立を、「決められる政治」への前進として評価する向きもありますが、マニフェスト違反という「決めてはならないこと」を決めてしまったことは、何ら賞賛に値するものではなく、むしろ厳しく批判されるべきものです。今回の密室談合の当事者である自民党の谷垣禎一総裁自身、今年1月、野田首相の施政方針演説にたいする代表質問のなかでは、「民主党政権は、マニフェスト違反の消費税率引き上げを行う権限を主権者からは与えられていないんです。議会制民主主義の歴史への冒涜であり、国権の最高機関の成り立ちを否定するものです」と糾弾していたのですが、これこそ正論というべきではないでしょうか。マニフェスト違反を犯した民主党が厳しく責められるべきなのは当然ですが、国民に不人気な政策は民主党政権に押し付けてやらせた上で政権を奪還しようなどと虫のいいことを目論み、民主党政権にマニフェスト違反を強要した自民党・公明党もまた、厳しく責められなければなりません。

 本ブログでは、消費税の増税が日本経済に壊滅的な打撃を与えることによって、財政をいっそう悪化させてしまいかねない亡国の策であることをくり返し指摘してきました。消費税増税法の成立は、大手全国紙が賞賛したような“日本再生への第一歩”などではなく、日本崩壊への歩みを大きく一歩すすめるものにほかならないのです。

 しかし、消費税増税法が成立したとはいえ、消費税増税の実施が100%確実になってしまったわけではありません。消費税増税法によれば、本当に消費税の増税を実施するかどうかは、その時の政府が景気の動向をみながら判断を下すことになっているからです。消費税増税法の付則第18条を見てみましょう。

「消費税率の引上げに当たっては、経済状況を好転させることを条件として実施するため、物価が持続的に下落する状況からの脱却及び経済の活性化に向けて、平成二十三年度から平成三十二年度までの平均において名目の経済成長率で三パーセント程度かつ実質の経済成長率で二パーセント程度を目指した望ましい経済成長の在り方に早期に近づけるための総合的な施策の実施その他の必要な措置を講ずる。
2 税制の抜本的な改革の実施等により、財政による機動的対応が可能となる中で、我が国経済の需要と供給の状況、消費税率の引上げによる経済への影響等を踏まえ、成長戦略並びに事前防災及び減災等に資する分野に資金を重点的に配分することなど、我が国経済の成長等に向けた施策を検討する。
3 この法律の公布後、消費税率の引上げに当たっての経済状況の判断を行うとともに、経済財政状況の激変にも柔軟に対応する観点から、第二条及び第三条に規定する消費税率の引上げに係る改正規定のそれぞれの施行前に、経済状況の好転について、名目及び実質の経済成長率、物価動向等、種々の経済指標を確認し、前二項の措置を踏まえつつ、経済状況等を総合的に勘案した上で、その施行の停止を含め所要の措置を講ずる」

 ようするに、「経済状況を好転させること」が消費税増税を実施するための条件として明記された上で、経済状況の好転(平成23〜32年度の平均成長率が名目で3%、実質で2%が目安)にむけて諸々の施策をおこなうこと、さらに、消費税増税を実施する前には、それらの施策の効果を見つつ、その時の経済状況を総合的に勘案して、消費税増税の「施行の停止を含め所要の措置を講ずる」ことが定められているわけです。

 これは、日本経済の現状からすれば、決して低いハードルではありません。過去10年間で最も高い名目成長率となった2010年度ですら、1.1%にとどまっているのです。もちろん、「名目3%、実質2%」という成長率は、あくまで「努力目標」であって、政府による消費税増税実施の是非の判断を直接的に縛る数値目標ではないとされています。しかし、このような条項が存在している以上、消費税増税が日本経済に与える影響の如何が大きな争点として浮上してこざるを得ないのであり、法律に明記された目標を達成しないまま消費税増税の実施を強行することが許されるのかどうか、政府の判断の妥当性が厳しく問われることになります。論争の動向しだいでは、政府が消費税増税の実施にふみきれなくなる可能性もあるのです(*)。

 また、決定的に重要なこととして、「近いうちに」衆議院の解散・総選挙が行われることを忘れてはなりません。仮に消費税増税の実施に反対する勢力が大きく躍進するならば、選挙後の新しい国会において、消費税増税法そのものを廃止ないしは無効化する法案が提出・成立させられるという展望も開けてくるのです。当然のことながら、付則第18条にもとづく政府判断を待つまでもなく、このような法案が成立した段階で、消費税増税はストップされます。

 したがって、消費税増税法が成立したからといって、絶対に「消費税増税はもう決まったこと」などと考えてしまってはならないのです。むしろ、消費税増税の是非――消費税増税そのものの是非と同時に、マニフェスト違反を強行あるいは強要した増税談合3党のやり方の是非――が一大争点となる衆議院総選挙を「近いうちに」控えた今だからこそ、消費税増税を本当に実施してよいのかどうか、主体的に考えて的確に判断していくことが、われわれ主権者国民に鋭く問われているのだと考えなければなりません。

 本稿では、このような問題意識の上に立って、大きく以下の3つの問題について考えてみることにしましょう。

 第一は、消費税増税の実施は日本経済にいかなる影響を与えるのか、という問題です。

 第二は、消費税増税の実施は本当に財政再建に資するのか、という問題です。

 第三は、社会保障の財源として消費税が本当にふさわしいのかどうか、という問題です。

 本稿が、消費税増税実施の是非の問題を考えていくためのひとつの手がかりとなれば幸いです。

(*)日本経済新聞は、8月11日社説において、「法律が通ってもまだ安心はできない。経済情勢を見極めながら消費増税の是非を判断する弾力条項が、先送りの口実に利用される恐れがある。景気への配慮は必要だが、大幅に悪化しない限り、増税を回避すべきではない」として、この点に警戒感をあらわにしています。
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2012年05月08日

簡約版・消費税はどういう税金か(5/5)

(5)消費税は弱者のわずかな富を収奪して強者に移転する最悪の税金である

 本稿は、消費税増税法案の本格的な国会審議がいよいよスタートするというきわめて緊迫した局面を受け、「消費税はどういう税金か」を知らずに増税の是非を論じることはできないとの問題意識から、「消費税は国民みんなが広く公平に負担する税であり、経済活動にあたえる歪みが小さい」という宣伝文句の欺瞞を暴いていくことを目的としたものでした。

 政府が2月24日に閣議決定した「社会保障・税一体改革大綱」では、「消費税は、高い財源調達力を有し、税収が経済の動向や人口構成の変化に左右されにくく安定していることに加え、勤労世代など特定の者へ負担が集中せず、経済活動に与える歪みが小さいという特徴を持っている」と述べられています。しかし、本稿で説明してきたとおり、これはまったくのデタラメであるといわざるをえません。

 消費税は「特定の者へ負担が集中しない」などということはまったくなく、市場において「税込みいくら」で激しい価格競争が行われるもとでは、経済的な立場が弱ければ弱いほど、大きな負担を押しつけられていく傾向を持っています。いくらで売買取引が成立しようがそれは消費税込みの価格と見なされる(売り手は書いてから消費税を預かったものと見なされる)という仕組みがある以上、取引関係において弱い側に実質的な消費税負担が押しつけられていくのは必然の結果なのです。

 価格競争力の弱い業者は、消費税をまともに転嫁して価格設定する余裕などありません。下請け業者が大企業から消費税分を値切られ、消費税の負担を実質的に押しつけられてしまうこともしばしばです。このことが、輸出大企業の受け取るいわゆる「輸出戻し税」に不当な輸出補助金という性格をあたえてしまうことは、すでに説明したとおりです。また、人件費が課税対象外である一方、派遣会社への人材派遣サービスへの支払には消費税が含まれていると見なされることから、企業が正社員を減らして派遣社員に切り換えることで大きく節税できる、という仕組みが存在していることも重大です。消費税が持つこれらの害悪は、現在の日本のようなデフレ経済(「税込みいくら」での過酷な低価格競争!)においては、とりわけ耐え難いものになります。

 このようにみてくると、消費税が「経済活動に与える歪みが小さい」などというのが、まったくのデタラメでしかないのはあきらかでしょう。消費税は、価格競争力の弱い業者を強力に淘汰し、雇用リストラを強力に推進するとともに、輸出という特定の経済行為を不当に優遇してしまう性質を持っているのです。

 端的にいえば、消費税は、日本国内の多数の弱者を犠牲にすることによって徴収され、その少なくない部分が日本国外で大きな儲けを上げている一握りの輸出大企業に還付されるという構造をもっているわけです。消費税はその税収の使い道云々の問題以前に、税金そのものの構造として弱者から強者へと富を移転する性格をもっているのだといわなければなりません。このような性格をもった消費税が、果たして本当に社会保障財源としてふさわしいのか、根本的に問われるべきでしょう。

 そもそも日本経済が「失われた20年」とよばれるほどの長期に渡って低迷している背景には、一握りの輸出大企業が日本国内の労働者や中小業者の犠牲の上に立って国外で巨大な儲けを上げているという構造的な歪みが存在します。消費税は「経済活動に与える歪みが小さい」どころか、日本経済のこうした歪みを強化する性格を持っているわけです。というよりもむしろ、1989年に消費税が導入されてから「失われた20年」がスタートしたことからするならば、そもそも消費税こそがこのように日本経済の歪みをもたらす上で大きな役割を果たしたのではないか、と疑ってみることも必要でしょう。少なくとも、消費税の増税が、日本経済のこの歪みを著しく拡大させることをつうじて、日本経済の低迷状態をこれまで以上に深刻なものにしてしまうことは間違いありません。

 (とくにデフレ経済下での)消費税の増税は、最大・最強の格差拡大策でしかなく、野田首相が掲げる「中間層の再生」なる目標と真っ向から対立するものであるといわなければなりません。いま消費税の増税を強行するならば、崩壊しつつある日本の中間層は、完膚なきまでに解体されていくことになるでしょう。

 消費税の増税は、日本の財政にも壊滅的な影響をもたらしかねません。消費税の増税が財政にあたえる影響は、消費税の増税が直接に税収を増やす効果だけでなく、消費税の増税を契機とする景気の冷え込みでGDPが縮小してしまう効果、さらにはそのことを媒介として他の税目の税収を減少させてしまう効果をも含めて検討されなければなりません。そこまで視野を広げるならば、消費税の増税は財政再建への道であるどころか、財政破綻への道でしかないことはあきらかです。実際、1997年に消費税率が3%から5%に引き上げられた際、景気が極端に悪化することで、1998年度の消費税収が1996年度に比べ4兆円増えた一方で、所得税収は2兆円、法人税収は3.1兆円の減収となり、税収全体としてはかえってマイナスになってしまったのでした。結局、消費税増税は、財政再建に資するどころか、日本経済に壊滅的な打撃を与えることを媒介として、財政を破綻に追い込んでしまう危険性が高いといわざるをえません。「消費税を増税すれば税収が増え、財政再建につながる」というのは、一種の神話にすぎないのです。

 そもそも税収というものは、景気が良ければ(私たち国民の生活に余裕があれば)増え、景気が悪ければ(私たち国民の生活が苦しければ)減るものであって当然です。政府は消費税について「税収が経済の動向や人口構成の変化に左右されにくく安定している」(一体改革大綱)といいます。たしかに消費税だけをとってみれば、景気が良かろうが悪かろうが税収は安定しているでしょう。しかし、それは、徹頭徹尾、税金を取る側の論理でしかありません。景気動向如何にかかわらず消費税収は安定しているというのは、私たち国民からみれば、生活に余裕があろうが苦しかろうが確実にむしり取られてしまう、ということにほかならないのです。消費税の大増税によって、景気が良かろうが悪かろうが税収が安定する構造を無理やりにつくってしまうことは、政府にたいして、まじめに景気を良くする(国民の生活を楽にする)よう努力する姿勢を(これまで以上に)失わせてしまうという悲惨な結果を招いてしまうことになるのではないでしょうか。
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2012年05月07日

簡約版・消費税はどういう税金か(4/5)

(4)消費税は輸出大企業に巨額の利益をもたらす

 前々回、前回は、中小零細業者や労働者が消費税増税によって多大の犠牲を強いられることを説きました。一方で、取引関係において強い立場にある大企業は、消費税の増税で苦しめられることはありません。それどころか、これをうまく利用すれば、労働者や下請け業者の犠牲のうえに多大な利益を得ていくことも可能なのです。

 前々回に説明したように、消費税は、いくらで売買取引が成立しようがその販売価格には消費税分が含まれていると自動的に見なされてしまう(実態の如何にかかわらず、販売者は購買者から消費税を預かったことにされてしまう)という仕組みをもっています。この仕組みは、売り手と書い手の力関係において弱い方が消費税分を負担させられることになってしまうという結果を必然的にもたらしてしまいます。これは、取引関係において強い立場にある側が、消費税負担を弱い取引相手の方へと押しつけていく、ということにほかなりません。

 このような仕組みがあるために、取引関係において強い立場にある大企業は、取引先に消費税額分(あるいはそれ以上)の値引きを強要することによって、自身が財貨やサービスの購入の際に支払うべき消費税を実質的には支払わずに済ませる、ということが可能になります。重要なのは、このような場合においても、(いくらで売買取引が成立しようがその販売価格には消費税分が含まれていると自動的に見なされてしまうという消費税の仕組みからして)この大企業は取引先にきちんと消費税分も合わせて支払ったものと見なしてもらえる、ということです。実はこのことが、単に自分の支払うべき消費税を取引先に負担させたというにとどまらない、きわめて重大な結果をもたらすことにもなるのです。

 その重大な結果こそ、「輸出戻し税」とよばれるものにほかなりません。それでは、この輸出戻し税とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

 これは、国内で原材料を仕入れ諸経費を支払って製造した商品を海外に輸出している企業の場合、国内での仕入・経費の支払いでは消費税を負担しているものの、海外の消費者に日本の消費税を負担させるわけにはいかない、ということを前提にした仕組みです。すなわち、輸出した企業は、輸出品の価格に消費税分を転嫁できず、自身の負担した消費税分を回収することができないから、その企業が国内で負担していた(と見なされる)消費税分を還付してあげることにしましょう、というわけです。

 具体的な数値例で考えてみましょう。

 下請け業者から400万円で製品を仕入れて海外へ(日本円に換算して)800万円で販売した大企業があるとしましょう。この下請け業者は、本来なら400万円の本体価格に消費税5%分20万円を転嫁して税込420万円で売りたかったところを、取引先大企業に消費税相当分の値引きを強要されて、税込400万円で販売したのでした。つまり、この400万円は、本体381万円+消費税19万円とみなされてしまう(本来の利益が19万円も圧縮された!)わけです。簡単化のために、この下請け業者に仕入等がなくすべて手持ちの原材料を使用したのだとすれば、この下請け業者は19万円の消費税を納税しなければなりません。

 一方、輸出大企業にとってみれば、国外の消費者に日本の消費税を負担させるわけにはいきませんから、本体価格800万円に消費税を転嫁するわけにはいかない、ということになります。そうすると、自身は仕入先に19万円の消費税を支払っているのに、その負担分を消費者に転嫁することができない、ということになってしまいます。ここで登場するのが、輸出戻し税という制度です。つまり、この輸出大企業は、申告することによって、国内で負担していた19万円分の消費税を還付してもらえる、というわけなのです。

 自身が国内で負担していた消費税を国外の消費者に転嫁することができないから……というのは、それ自体としてみれば、まことにもっともな理屈ではあります(*)。しかし、圧倒的に強い価格支配力(価格を自分の思い通りに決める力)を持つ輸出大企業が、価格支配力の弱い国内の取引業者に消費税分の値引きを強要しているとすれば、事情は異なってきます。こうなると、輸出企業は、国内での取引において実質的には消費税を負担していないにもかかわらず、負担していると見なされる分の金額(これは実質的に下請け業者に押し付けた消費税負担にほかなりません!)を、そっくり受け取ることができるのです。結局、輸出戻し税は、実質的な輸出補助金として機能することになってしまうわけです。

 それでは、現実に、現在の日本においては、どれくらいの額が還付されているのでしょうか。

 2010年度については、還付金の合計は3兆3762億円で、全消費税収の28%に相当します。トヨタ自動車の2246億円、ソニーの1116億円、日産自動車の987億円、東芝の753億円、キャノンの749億円など、上位10社だけで年間8698億円に上るともされています(湖東京至税理士の推計による)。実に巨額の還付金というべきですが、この年度は、海外の景気減速などの影響により、輸出が減少していたことに注意しなければなりません。この年度よりも輸出が好調であった2008年度には、消費税の還付総額は6兆6700億円であり、同年度の消費税収16兆9820億円の実に4割にも相当する金額にのぼっているのです。国内で集められた消費税の実に3〜4割までもが、日本経団連に参加しているような、一握りの輸出大企業に還付されているわけです。当然のことながら、消費税率が上がれば上がるほど、この還付金は増えていくことになります。少なくとも、輸出大企業が国内の取引先に対して、最低でも消費税率引き上げ分に見合った取引価格の引き上げをきちんと認めないかぎり、それは不当な「益税」であるといわなければなりません。

 日本経団連は、かねてから消費税率の10%台後半までの引き上げを強くもとめてきました。日本経団連がなぜそこまで消費税の増税にこだわるのか、その大きな理由の一つが、この輸出戻し税であるといってよいでしょう(もう一つの大きな理由としては、法人税減税の穴埋めということがあります)。日本経団連などの財界団体にとっては、消費税は巨額の「輸出補助金」の源泉としての意味を持っているのです。

(*)この仕組みは、輸出が免税取引とされる(海外消費者から消費税を預かっていないのではなく、0円の消費税を預かっていると見なされる)ということによって成立します。前回説明したとおり、事業者の納付する消費税は「預かった消費税−支払った消費税」として算出されます。つまり、支払った消費税を控除するというのは、消費税を預かっているということが大前提なのです。輸出は免税取引とされ、売上高には0%の消費税が含まれている(海外の消費者から0円の消費税を預かっている)と見なされます。そのため、そこから国内での仕入・経費の支払いの際に負担していた(と見なされる)消費税を控除することができ、その差額分の還付を受けることができるのです。これに対して、医療費の大部分は非課税取引とされるから、病院の収入には消費税が含まれていない(そもそも消費者から消費税を預かっていない)と見なされます。その結果、病院が薬や医療機器の購入などの際に支払っている消費税分については、控除することができません(つまり、差額分を還付してもらえません)。結局、その分は病院自身が負担しなければならないわけです。これが病院の「損税」として大きな問題となっています。このような病院の「損税」問題の存在と比較してみれば、輸出戻し税なる仕組みが、輸出という特定の経済行為を不当に優遇するものであることはあきらかだというべきでしょう。
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2012年05月06日

簡約版・消費税はどういう税金か(3/5)

(3)消費税は雇用リストラを促進する

 前回は、消費税は付加価値税であり、「消費税は消費者が負担する」という命題は、それぞれの事業者が商品を販売する際、その本体価格に消費税率を掛けたものを上乗せして価格を設定することにより、付加価値についての税負担を消費者に転嫁することを前提にしてはじめて成立するものであること、にもかかわらず、市場経済の現実においては(とりわけデフレ経済下で低価格競争が過酷さを増しているなかでは)こうした命題が必ずしも成り立つものではないことをあきらかにしました。

 こうした消費税の付加価値税としての性格は、価格競争力の弱い(価格に消費税を転嫁できない)中小零細業者にたいして、きわめて大きな犠牲を強いるものです。しかし、消費税で大きな犠牲を強いられるのは、中小零細業者だけではありません。実は、消費税は、労働者にたいしても大きな痛みを強いる税金なのです。それは、付加価値税としての消費税の仕組みが、直接的に雇用破壊を促進する効果を持っているからです。

 前回説明したように、消費税の課税標準(税額を算出する上で基礎となる課税対象)は、事業者が財貨・サービスの生産過程で生み出した新たな価値(付加価値)です。付加価値とは、ごく大雑把にいえば「売上−(仕入+経費)」のことであり、賃金(従業員への給料の支払い)、利子(借入先への利子の支払い)、利潤(企業の儲け)へと分配されていくもとのものとなります。この付加価値に消費税率を掛けたものが、その企業が納税すべき消費税額にほかなりません。

 とはいえ、実際に各企業が納税すべき消費税額を計算する場合には、まず付加価値額を計算してさらにそこに税率を掛ける、という手順をふむわけではありません。実際には、消費者から「預かった」消費税額(税抜売上額に税率を掛けたもの)から、自身が仕入れや経費の支払いの際に「負担した」消費税額(税抜仕入額、経費支払額に税率を掛けたもの)を差し引いて計算するのです。

 付加価値×税率
=〔売上−(仕入+経費)〕×税率
=売上×税率−(仕入+経費)×税率
 *ただし、売上、仕入、経費は税抜額とする

 このように、各企業が納税すべき消費税額を実際に計算する際には、売上に含まれている消費税額から仕入・経費に含まれている消費税額を差し引いて計算することで、付加価値額に税率を掛けたのと同じ結果を導き出しているわけです。このしくみを「仕入税額控除」と呼んでいます。

 注意すべきは、人件費の扱いです。先ほど説明したように、人件費(賃金)は付加価値の構成要素(生産過程で新しく生み出した価値を労働者に分配したもの)であり、消費税の課税標準に含まれることになります。このことを、具体的な計算手順に即していえば、企業が支払った人件費には消費税が含まれていない(企業が生産活動のために購入する労働力という商品には消費税が課税されていない)ため、先にあげた「売上×税率−(仕入+経費)×税率」という式の「経費」部分に人件費を含めることはできない、ということになるのです。つまり、人件費をいくら支払っても(そこに消費税が含まれていないために)自身の納税すべき消費税額を減らす効果は期待できないのです。

 ここで決定的に重要な意味をもってくるのが、人件費の支払いには消費税が含まれていない(労働力という商品は消費税の課税対象外である)のにたいして、派遣会社への支払いには消費税が含まれている(人材派遣というサービスには消費税が課税される)と見なされる、ということです。つまり、企業は直接雇用(消費税の課税対象外)を派遣労働(消費税が含まれる)に置き換えることによって、自身の消費税納税額を計算する際に差し引くことのできる消費税額を大きくすることが可能なのです。

 このことを具体的な数値例で確認しておくことにしましょう。

 ある企業の年間売上げが1000億円、仕入200億円、人件費200億円、その他経費200億円(各数字は税込額)で、400億円の利益を稼いでいたとします。売上高に100/105を掛けて税抜きにすると、952億円となります。これに5%を掛けると消費者から預かった(とされる)消費税額が47億6000万円と算出されます。一方、仕入、人件費以外の経費に含まれている(とされる)消費税額についても、同様の計算によって、それぞれ9億5000万円と算出されます。人件費は課税対象外なので考えません。したがって、この大企業の納付すべき消費税額は、「47億6000万円−(9億5000万円+9億5000万円)=28億6000万円」となります。

売 上:1000億円→47.6億円(売上に含まれる消費税)
仕 入: 200億円→ 9.5億円(仕入に含まれる消費税)
人件費: 200億円→   0円(課税対象外なので消費税は含まれず)
諸経費: 200億円→ 9.5億円(経費に含まれる消費税)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この企業の納付すべき消費税額:
47.6億円−(9.5億円+9.5億円)=28.6億円

 ここで、直接雇用をやめてすべて派遣に置き換えた(人件費200億円を派遣会社への支払い200億円に置き換えた)としたらどうなるでしょうか。消費者から預かった(とみなされる)消費税は先ほどと同じく47億6000万円です。ここから控除できる金額として、先ほどの仕入に含まれていた(とみなされる)9億5000万円、経費の支払いに含まれていた(とみなされる)9億5000万円にくわえて、派遣会社への支払い200億円に含まれている9億5000万円の消費税も控除することができるのです。したがって、直接雇用をやめてすべて派遣労働に切り替えた場合、この企業の納付すべき消費税額は、「47億6000万円−(9億5000万円+9億5000万円+9億5000万円)=19億1000万円」となります。つまり、人件費200億円を外注費(派遣会社への支払い)200億円に置き換えることにより、納税すべき消費税額を9億5000万円減らすことができるわけです。

売 上:1000億円→47.6億円(売上に含まれる消費税)
仕 入: 200億円→ 9.5億円(仕入に含まれる消費税)
外注費: 200億円→ 9.5億円(派遣会社への支払に含まれる消費税)
諸経費: 200億円→ 9.5億円(経費に含まる消費税)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この企業の納付すべき消費税額:
47.6億円−(9.5億円+9.5億円+9.5億円)=19.1億円

 このように、企業は、直接雇用をやめて派遣労働に置き換えることによって、消費税を大きく節税することができます。とりわけ多くの従業員を抱える大企業ほど、この節税効果は大きくなります。労働者にとって、消費税はまさに「雇用破壊税」以外の何物でもないのです。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言