2017年12月01日

教育実習生に説く人間観の歴史(13/13)

(13)教師の歴史的な使命は目の前の子どもの可能性を事実として示すことである

 前回はこれまで説いてきた人間観の歴史を振り返ってみました。そして、人間観の歴史を一言でまとめるならば、すべての人間の価値を認める方向へと進んでいるということでした。社会的な諸条件によってその価値を認められなかった人間が価値を認められるようになってきているのです。究極的には、生まれた人間すべてがそれ自体として価値を認められること、そのような人間観に基づいた社会に至ることが人類の目標だということができるでしょう。

 では、果たして現在はどうでしょうか。すべての人間の価値が認められるような社会へと至っているでしょうか。残念ながら否と言わざるを得ないでしょう。

 そのことが最も端的にわかるものが、2016年7月に起こった相模原障害者施設殺傷事件です。これは19人の死亡者、26人の負傷者を出した凄惨な事件であり、殺人事件としては戦後最大の死亡者数となりました。犯行を行った元施設職員は、「意思疎通のできない人は幸せを作れない」「障害者は周りを不幸にするので、いない方がよい」「日本のために事件を起こした。自分は救世主だ」などと供述をしていました。

 犯行を行った元施設職員はいったいどういうことを考えているのでしょうか。

 おそらく「人間は尊重されなければならない」「人間には可能性がある」といった人間に関わる命題そのものは否定しないでしょう。ところが、その命題に含まれる「人間」というものの中には障害者が含まれていないのです。むしろ障害者は「人間」を脅かす存在であり、排除されるべき存在だと考えているのです。障害者が排除されることによって、人間がしっかりと尊重されるのだと考えているわけです。だからこそ「日本のために事件を起こした。自分は救世主だ」という発言になるのです。こうした犯行に対して、賛意を示す発言もネットでは挙げられていました。

 教育の先達たちは、目の前の子どもの可能性を信じて、社会から排除されてきた子どもたちにも教育を行い、すべての人間に価値があり可能性があることを事実として示してきました。その甲斐あって、様々な制度・設備が整えられていったわけです。この障害者施設にしても、障害者も人間として生きていけるようにするという目的の下に作られたものに他なりません。しかし、個々の人間の人間観に目を向ければ、そこにはまだまだ人間として考えられていない存在がいるというのが現状なのだと言えるでしょう。

 こうした現状を変え、生まれた人間すべてがそれ自体として価値を認められること、そのような人間観に基づいた社会を築いていくことが求められます。この目標を実現するために、教師としては何をすべきなのでしょうか。

 この問いに対する答えはもうすでに出ています。ペスタロッチが行ったように、あるいは糸賀一雄が行ったように、目の前の子どもの可能性を事実として示していくしかありません。クラスをもてば、必ず勉強のできない子、人間関係がうまく築けない子などが必ずいます。そうした子であってもテストで100点がとれるようになる、たくさんの友人をつくることができるようになる、そういった事実を創っていくしかないのです。課題を抱えている子どもであってもそうやって変わっていくことを事実として示すことで、人間のもっている価値や可能性を本人および周りの子どもに気づかせていくのです。子どもたちの人間観をまっとうなものとして創っていくのです。これこそが教師の歴史的な使命だと言えるでしょう。

 この使命を果たすためには、まずもって教師自身がまっとうな人間観をもっていなければなりません。「人間には可能性がある」ということは教師であれば恐らく誰も否定しません。では、その「人間」の中に、自分の目の前にいる課題のある子は果たして含まれているのか。そういったことを常に問い続けなければならないのです。そうやって自らの人間観を鍛え上げていくことが最も重要なのです。

 教育実習では苦しいこともたくさんあると思います。学生としての生活から社会人としての生活に切りかえることからまず大変なはずです。さらに日々の授業をどうするかを考え、指導案を書くことも夜遅くまでかかることもあるでしょう。さらに講話の内容をまとめたり、日々の振り返りを書いたりすることにも労力が必要です。毎日へとへとに疲れ果てて、何とか2週間なり4週間なりを過ごすことで精一杯だということが実際のところだと思います。

 しかし、その中にあって、子どもたちの変化を生み出すように働きかけること、またその変化をしっかりと見てとろうとすること、ここを是非とも心掛けてほしいと思います。そのような子どもの実際の変化が自らの人間観を鍛えることにつながります。そして、その人間観が自らの教育実践を支える原動力となるのです。時代を切り開いてきた先達たちの仕事を受け継ぐ教師の一人としてのスタートを期待し、本稿を終えたいと思います。

 なお、本稿はさらに詳細な展開に書き直したものを研究会機関誌において掲載する予定です。ご期待ください。
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2017年11月30日

教育実習生に説く人間観の歴史(12/13)

(12)人間観の歴史とは人間としての価値を認められる存在が拡大する過程である

 本稿は教育実習生に向けて、人間観(人間に対する見方・考え方)が歴史的にどのように変化していったのかを説こうとするものです。ここでこれまでの流れを振り返ってみましょう。

 まず人間観の出発点は、自分は他の動物とは違った存在であるという自覚が芽生えたことだとして、そのような自覚がどのようにして生まれたのかを見てきました。サルの集団はボスザルを中心として束ねられています。サルたちは本能に基づいてボスザルの指示に従うようになっているのでした。つまり自分よりも強いもの(ボスザル)には従うということはあらかじめプログラムとして組み込まれているし、またそのボスザルの出す合図がどういう意味であり、どういう行動をすべきなのかということももともとわかっているということでした。ところが、こうしたサルの集団の中で、徐々に徐々に本能が薄らいでいくサル(子ザル)が出てきます。こうしたサル(ヒト的サル)の数が増え、純粋なサル集団とは質的に異なった集団へと変化していきました。そのヒト的サルの集団が純粋なサルの集団と対峙する中で、自分たちとの違いを感じるとともに、自分たちはあいつらとは違うということが自覚されるようになっていったのでした。サルの集団との戦いに勝った人間の集団は、その生活範囲が次第次第に広くなっていき、他の人間の集団との争いを行うようになりました。争いは当初は偶然に行われていましたが、相手を滅ぼせば食料を確保できるということから、人々はやがて意図的に争いをしかけるようになりました。こうして戦争があちこちで行われていたのが原始社会の時代でした。争いに勝った人々は、当初は負けた人々を皆殺しにしていましたが、その後、徐々に奴隷として働かせるようになりました。古代ギリシャやローマでは、奴隷は自分で労働するモノとして扱われていました。生物としては同じ人間でありながら、人間としての価値は認められていなかったのです。このように社会的な条件によっては人間として認めないという人間観が生まれてきたのでした。中世ヨーロッパ社会においても、階層的な身分秩序が成立しており、その社会的な身分によって人間としての価値に差はあるものだと考えられていました。同じ人間であっても社会的な階級が違えば違う存在だと考えられていたのです。「王であろうと、僧侶であろうと、農奴であろうと同じ人間だ」というような考え方は全くなかったのでした。

 このような中世までの人間観は近代に入ると大きく変化することになります。経済的な発展の中でカトリック教会の権威が弱まり、腐敗が進んでいく中で、中世の階層的な身分秩序を正当化していたカトリック教会の教えを批判する動きが出てきました。教会の教えに従うだけではなく、聖書に基づいて自分のアタマで判断して生きていくべきだという考え方が芽生えてきたのです。これを明確な形で打ち出したのが宗教改革で有名なルターでした。神からすれば、人間の階級などちっぽけなものであり、人間と人間の間に差などないと主張したのでした。このルターの考えを受け継いだコメニウスは、神は個人個人に対して平等であるから、我々もある人間に対しては教育を行い、ある人間に対しては教育を行わないということは人間に対する侮蔑であり、神の冒涜だと考えたのでした。教育の対象となる人間というのは性別や素質の有無を問わずすべての人間であり、いかに素質がなかろうと教育すれば改善するのだと主張したのでした。しかし、コメニウスは、あくまでも神という絶対的な存在を想定することによって、人間の平等を主張していました。そうではなく、現実の人間の在り方に基づいて、人間の平等を説いたのがルソーでした。ルソーが生きた18世紀のフランス社会は第一身分の僧侶、第二身分の貴族、第三身分の平民という3つの身分で構成されていましたが、経済的な発展の中で、それぞれの身分の中にも貧富の差が入り交じるようになりました。第三身分にも経済的に豊かになる人々が出てくる一方、僧侶や貴族の中にも没落する人々が出てくるようになりました。こうして社会的な身分による区別は絶対的なものではないことが自覚されてきたのでした。そこでルソーは、現在みられるような不平等はあくまでも人間がつくりだしたものにすぎないのであって、もともと人間は人間として平等なのだと主張し、その人間とはどのような存在なのかを考察したのでした。そのルソーの主張は、人間というのは自己を改善する能力をもった存在であり、それは人間の一般性であるからこそ、すべての人間に教育の可能性が存在しているし、その教育によって人間の本質である自らの意志に基づいた行動ができるようにすること(=自由の獲得)が必要だと解釈することのできるものだったのでした。このルソーの影響を強く受けた人物がペスタロッチでした。『隠者の夕暮』『リーンハルトとゲルトルート』において教育によって国家を改造すべきだと主張し、文筆家、教育者として非常に有名になっていたペスタロッチは、戦争による孤児や浮浪児を預かる孤児院の院長となり、50人の子どもを相手に一人で教育を行ったのでした。そこには歩けない子、衰弱して骸骨のようにやせている子、愛情がなく邪推深い子、詐欺を常習とする子などもいましたが、ペスタロッチは1人でその子達と生活を共にし、必死で関わる中で、子どもたちを変容させていったのでした。ここにおいて、すべての人間に可能性があることが事実として示されたのでした。

 こうした人間観を土台として、産業革命を迎えた各国は次第に近代的な公教育制度を創りあげていくこととなります。産業革命を迎えた欧米諸国では、資本家たちが利益を上げるために、子どもたちを長時間働かせ続けたのでした。その扱いはまさに古代の奴隷なみのものであり、まともな人間として考えられていなかったことを裏づけるものでした。しかし、「人間は平等である」「人間は自由である」「すべての人間に可能性がある」などの考えに基づいて、日曜学校や慈善学校といった取り組みが行われ、またロバート・オウエンが少年労働者に学校を作るなど、民間の動きが活発になる中で、次第に公的に教育制度が整えられていったのでした。このように、少年労働者の問題を解決しようとする動きの中で義務就学・無償制などを原則とする近代的な公教育制度が整えられていったのでした。しかし、子ども全員の就学が行われるようになると、集団の中でうまくかかわっていけない、あるいは授業についていけない子どもが出てくるようになりました。そうした子どもたちの事例が数多く集められて分析される中で、肉体的・精神的な問題があることが自覚され、20世紀前後から障害のある子どもというものがクローズアップされるようになっていきました。いかにして新たな障害児(障害者)が生まれないようにし、社会から根絶するかということが議論され、社会的に価値がないと判断された人々については断種することが合法化されました。アメリカのインディアナ州で初めて合法化され、それを受けてドイツのナチス政権も断種法を制定したのでした。ナチス政権ではさらに、肉体的・精神的に不適格だと判断された人々を強制的に安楽死させる政策をとるようになりました(T4作戦)。このように労働によって経済的に社会を支えることができない存在は、人間として認められず、その生存すら許されない状況だったのでした。しかし、次第に障害児(障害者)を救おうとする動きが現れてきます。その1つとして近江学園を創設した糸賀一雄を紹介しました。敗戦を迎えた日本では、戦災で親を失った子どもたちが徘徊するようになりました。生活が苦しくなった家からも子どもは放り出されて、浮浪児の群れに入り、反社会的な人間として育てられていったのでした。その中には知的に障害のある子どもも含まれていました。そこで生活困窮児と障害児を教育する場として近江学園を創設したのでした。障害者にも手を差し伸べる福祉国家であってこそ日本の再建は可能だと考えたのでした。そして、「四六時中勤務」「耐乏の生活」「不断の研究」という「近江学園三条件」を職員に掲げて実践に取り組んだ結果、学園内の生活困窮児と障害児が心から交流できる事実を創ることができたのでした。糸賀は障害児にも焦点を当て、障害児こそ世の光になってほしいという思いを抱いていたのでした。

 以上、これまでの流れを振り返ってみました。人間観の歴史を概観するならば「すべての人間に価値があり、可能性がある」ということが自覚されていなかった段階から、「すべての人間に価値があり、可能性がある」ということが自覚されるようになる段階へと変化したということがわかるでしょう。人間観の歴史とは人間としての価値を認められる存在が拡大する過程なのです。当初は一部の教育者・教育学者の中に生まれたこの人間観の革新が、社会的な認識へと広まっていきました。それが近代の学校制度や障害児教育などの形で現実の教育のあり方へと反映していったのです。そして、こうした人間観の歴史の大きな原動力となったのは、目の前の子どもの価値が認められていない現状を憂い、その子の可能性を信じたコメニウス、ペスタロッチ、糸賀一雄などの先達たちの、文字通り懸命な努力だったのです。
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2017年11月29日

教育実習生に説く人間観の歴史(11/13)

(11)障害児教育の生成・発展−糸賀一雄

 前回は、近代公教育制度の成立によってクローズアップされるようになってきた障害児(障害者)を取り上げ、彼らにどのような政策がなされていたのかを紹介し、その背後にある人間観を明らかにしました。端的には、障害児(障害者)は社会的に役立たない存在だとされ、その存続が認められなかったのでした。当時の人々が考える「人間」の中に、障害児(障害者)は含まれなかったのだということでした。

 しかし、やがてこうした子どもたちを救おうとする動きが生じてくることとなります。その代表的な人物が、日本の教育者である糸賀一雄です。今回はその糸賀一雄(1914-1968)が障害児たちとどのように向き合ったのかを紹介したいと思います。

 糸賀一雄は鳥取市で生まれ、自由な校風で知られていた鳥取第二中学校に進学しました。医師になる希望をもって1930年に松江高校に入学するも、自分の将来に悩み、在学中に洗礼を受けて宗教哲学を志望しました。そして京都帝国大学文学部に入学し、宗教哲学の確立を目指していた波多野精一の指導を受けます。卒業後、京都市の第二衣笠尋常小学校の代用教員となり、そこで同僚であった池田太郎と親しくなります。池田が指示していた京都帝国大学文学部哲学科助教授の木村素衛(京都学派で有名な西田幾多郎の弟子)の自宅に出入りするようになり、その教育哲学から大きな影響を受けました。その後、池田の紹介で田村一二と出会い、この三人で敗戦後に近江学園を創設することになるのです。

 この三人の中で、当時、障害児教育に取り組んでいたのは田村一二でした。田村は知的障害の子の教育に10年間取り組んでおり、たくさんの教育現場や施設を見学して回っていました。しかし、その中に知能指数が50以下の障害の重い子はどこにもいないこと、教育から排除されていることに気づいたのでした。また教室だけの教育にも限界を感じ、生活をともにする教育というものが障害のある子どもたちにとって大切なのだと考えていました。

 やがて日本が敗戦を迎えると、戦災で親を失った子どもたちが町を徘徊するようになりました。生活が苦しくなった家からも子どもは放り出されて、浮浪児の群れに入り、反社会的な人間として育てられていったのでした。繁華街や駅などにあまりに浮浪児が群がると、警察の手で「浮浪児狩り」が行われました。トラックに駆り集められて、一時保護所につれて行かれるのでした。田村と池田はこうした現象を見、その中には知的に障害のある子どもも含まれていることを考えると、やり切れない思いになるのでした。仮に日本が経済的に立ち直ったとしても、こうした弱者を切り捨てたまま発展することになるのではないかという問題意識も抱いていたのでした。

 そこで二人は、戦争孤児と障害児を対象とした学園を開くことを糸賀に提案し、糸賀には園長になってもらいたいと話したのでした。同様の問題意識を抱いていた糸賀は、悩んだ末に申し出を受け入れることにしたのでした。「いくさに負けた日本を再建するには、福祉国家よりない。世界中の障害者を集めて、世界中の寄付で日本という国を再建する。それを自分がやる」(高谷清『異質の光−糸賀一雄の魂と思想』大月書店、2005年、p.125)。このような志をもって、近江学園の設立に向かったのでした。

「近江学園要覧」にはその問題意識と意義が書かれています。戦争孤児、生活困窮児は「街頭に、あるいは駅頭に食を求めて放浪しており、社会的混乱の波に揉まれながら次第に社会の裏面に追いやられて、恐るべき犯罪の温床と化している」とし、障害児も「忘れられ虐げられた存在として、いたずらに社会の足手纏とし、あるいは犯罪へと追いやっているのが現状である」としたうえで、「戦災孤児達は、このような姿で戦争の責任をとらねばならない理由があるのであろうかと怒りを表明しています。そして近江学園は「児童にとって何りも温かく楽しい、そして腹のくちくなる過程でなければならない」とし、知能が普通の子と知的障害がある子を同一施設において教育することは、「教育的にはむしろこの姿が本質的形態であることの確信が抱かれるに至った」と述べた上で、「この学園でお互いに助け慕って暮す美しく温かい環境を現出するために、吾々は努力して行きたい」と決意を表しています。そして、「四六時中勤務」「耐乏の生活」「不断の研究」という「近江学園三条件」を職員に掲げたのでした。

 こうした取り組みの中で様々な事実を生み出していったのですが、その1つとして1951年の修学旅行のエピソードを紹介しましょう。近江学園では戦災孤児・生活困窮児と知的障害児は生産と遊びは一緒にするものの、専門の教育は別々のクラスで行われており、それぞれ一部・二部と呼ばれていました。修学旅行は一緒に行くものの、これまでは班は別々にしていました。ところが一部の子どもたちが「もっとちがう行き方はないか」と発言し、一部も二部も一緒の班にすることになったのでした。その議論の中では、「知らないから仲良しになるのだ」「同じ学園にいるのに別々になる必要はない」「私たちが連れて行ってあげるべきだ」などの意見が出されていました。子どもたちがこのように育っていたことをうれしく思った糸賀は、子どもたちに任せることにしたのでした。そして一件の万引き事件やケンカもなく終えたのでした。子どもたちは「二部の人たちと一しょに寝られたことが一番うれしかった」「二部の人もお話しをしたら、いくらでもしやはります。なんでもっと早く仲よしにならなかったか」「二部の人となかよしになれたことがうれしかった」「ともだちがふえてうれしい」「二部の者は一部の者よりすなおに言うことを聞いてくれたので、けっして、めんどうくさいなどと思ったことはなかった」と振り返っていました。修学旅行を引率した教師は「一部の子どもたちのなかに思いやりのこころが次第に芽生えてきているし、二部の子どもたちの純粋無雑なこころの美しさが、一部の子のこころを実際の場で引き出したのでしょうね」と述べ、糸賀はその通りだと感じたのでした。近江学園の設立趣意書では、「お互いに助け合って行くという精神を養うのであります」と書かれており、それこそが本来の社会のあるべき姿だと糸賀は考えていたのでした。それが近江学園の中で実現されていったのです。

 糸賀の代表的な著作に『この子らを世の光に』というものがあります。ここで注意してもらいたいのは『この子らに世の光を』ではないということです。この場合、障害児たちは社会の恩恵を受けさせるという意味になります。そうではないと糸賀は言うのです。

「精神薄弱といわれる人たちを世の光たらしめる、精神薄弱な人たち自身が光り、また光となっていく、そうしたことをするのが、私たちの仕事ではないか」(『近江学園年報』第10号)


 つまり、障害児たち自身が社会の光となる存在なのだということです。ここに糸賀の人間観が端的に表されていると言えるでしょう。
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2017年11月28日

教育実習生に説く人間観の歴史(10/13)

(10)障害児(障害者)と優生思想

 前回は、近代公教育制度が確立される過程について見てきました。産業革命によって少年労働者の過酷な労働状況が問題になってくると、それを解決しようとする民間の動きが現れ、次第に国家としてもこの問題に取り組むようになっていったのでした。これは近代において掲げられた人間観を現実化していく過程とも言えるということでした。

 子ども全員の就学が行われるようになると、集団の中でうまくかかわっていけない、あるいは授業についていけない子どもというものが出てくるようになります。そうした子どもたちの事例が数多く集められて分析される中で、肉体的・精神的な問題があることが自覚されるようになっていきます。これらは障害として把握されるようになり、20世紀前後から障害のある子どもというものがクローズアップされるようになっていきました。今回はこうした障害児あるいは障害者というものに対して、当時どのような考えに基づいて、どのような扱いがなされていたのかを見ていきましょう。

 障害児(障害者)に対して考えられたのは、いかにして新たな障害児(障害者)が生まれないようにするか、いかにして社会から根絶するかということでした。こうした問題意識のもとで大きく広まっていったのが、優生学と呼ばれる学問です。フランシス・ゴルトンが『人間の能力とその発達の研究』という本の中で優生学(eugenics)という言葉を使ったのが、優生学の始まりとされています。ここで優生学とは「人間の優良な血統をすみやかに増やす諸要因を研究する学問的立場」とされ、ゴルトンは人間の才能がどの程度遺伝に因るのかを明らかにしようとしたのでした。この優生学を研究する人々の中には、「文化の発展によって人間という種の変質(退化)が起こっている」と主張する人(ドイツのシャルマイヤー)もいました。医療や福祉が充実した結果、本来なら自然に死んでしまうべき人間が生存できるようになってしまったのだということです。こうした人間がもつ疾患や障害が伝達されないようにしないといけないと考えられたのです。さらに、こうした疾患や障害は環境や教育で現れたり改善したりするものではなく、遺伝的なものだとされたのでした。そこで社会的に有意義な人々の血統は残し、社会的に価値がないと判断された人々の血統は根絶しようという政策が実施されるようになっていきました。これを優生政策と言います。

 社会的に価値がないと判断された血統を根絶するために大きく2つの方法がとられました。1つは断種手術です。つまり、障害などがある人々に対して、子どもが生まれないように手術をするということです。これは1907年、アメリカのインディアナ州で世界で初めて認められることとなりました。1923年までには多くの州で断種法が定められて、10000件以上の断種手術が行われました。

 このアメリカの断種法をモデルとして、ドイツのナチス政権も断種法を制定しました。その背景には世界恐慌によって、ドイツが不況にまみれていたということがあります。経済的に苦しい中、「遺伝的に問題のある人々にお金を使っても何の社会の役にも立たない」と考えられ、そうした人々を排除する方向へと進んだのでした。

 しかし、断種をしたとしても、結局はその人々自身は国家が経済的に支援をしていかなければなりません。そこでそうした人々を根絶するもう1つの方法として、ナチス・ドイツでは肉体的・精神的に不適格だと判断された人々を強制的に安楽死させる政策をとるようになりました。これはT4作戦と呼ばれます。当初は3歳児以下の乳幼児を対象としていましたが、第二次世界大戦がはじまると、年長児や大人も安楽死の対象になりました。その実態について、デイヴィッド・ライト『ダウン症の歴史』(明石書店、2015年)では次のように書かれています。

「特別殺戮センターに送られた子どもは、特殊なケアが必要なために病院に入院させると告げられ、収容した数週間後に医師と看護師が、餓死させるか薬物過服用、まれに致死注射によって子どもを『処置』する許可を下した。親たちは、子どもは『肺炎』で死んだと後に知らされた。少なくとも5000人の子どもが、22の殺戮施設で以上の方法で殺されたのである。
 1939年10月15日には、すべての健康管理施設は、身体障害・精神障害のすべての患者数を記録し、国に登録することが義務付けられた。国家登録は、戦争への従事能力の可否を判断するためであると信じた、様々な施設の医師たちは、労働や軍事奉仕から患者たちが免れることを望み、彼らの無能力をひどく誇張することも多かった。政府から信頼された(たいてい若手の)専門家たちは、症例簿を検討し、3人の医師の承認を受けた後、患者を『安楽死』させるか否かの判断を下し、安楽死させるものには−誰もじかに患者を見ることはなく−名前の隣に赤い十字架を書き、そうでない者には青いマイナス記号を記した。患者は、当局によって連行され−たいていの患者が起こったことを即座に理解して恐怖の感情を出す場面である−殺戮センターに送られたが、家族がその運命を知ることはなかったのである。」(pp.119-120)


 古代の奴隷や産業革命期の子どもたちであれば、労働によって経済的に社会を支えることができますから、その生存自体は否定されていませんでした。ところがそれができない障害児(障害者)たちは、社会的に役立たない存在、あるいは社会的に害をなす存在だと捉えられ、その生存さえ認められなかったのです。当時の人々の「人間」という言葉の中には、障害者は含まれていなかったのだと言えるでしょう。社会を経済的に支えることのできる人間のみが「人間」だとされたのです。これがこの当時の人間観だったのです。
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2017年11月27日

教育実習生に説く人間観の歴史(9/13)

(9)近代公教育制度の確立

 本稿は教育実習生に向けて、人間観が歴史的にどのように変化してきたのかということを説くものです。サルの集団の中から、本能による統括が薄れてきたサルの集団が誕生し、これが純粋なサルの集団と対峙してその違いを自覚する中で、「あいつらとは違う自分たち」という認識をもつようになったのでした。これが人間観のスタートです。さらにその人間の集団が食料をめぐって互いに争うようになり、勝った人々が負けた人々を奴隷とするようになりました。こうして人間でありながら人間としての価値が認められない存在が生まれたのでした。さらに中世社会になると、より複雑な階層的身分構造が形成されるようになり、身分に応じて人間としての価値が定められるようになったのでした。しかし、近代になる過程でこうした人間観が大きく変化するようになります。中世社会において絶対的な権力をもっていたカトリック教会が腐敗する中で、ルターは教会を批判するようになり、神の下に人間は平等だと主張するようになったのでした。こうした人間観を受け継いだコメニウスは、どんな人間であっても教育によって成長するのだと主張しました。さらに社会が大きく変化する中で、社会的な身分が個人の人生の中で変わるということも起きるようになると、どんな社会的な身分についていようと、人間として同じだという見方が生まれてきたのでした。ルソーはその人間とはどのような存在なのかについて考察し、人間は本能ではなく自らの意志によって行動するのであり、だからこそ他の動物とは違って自らを改善していく能力をもつのだと主張したのでした。こうしたルソーの主張を受けて、実際に貧しい子どもたちに教育を行ったのがペスタロッチでした。ペスタロッチの教育を受けた子どもたちは大きく変化し、どんな人間であっても確かに改善する能力があり、可能性があるということを実証したのでした。

 このようにすべての人間の可能性が自覚されるようになる中で、産業革命を迎えた各国は次第に近代的な公教育制度を創りあげていくこととなります。今回はその過程について見ていきましょう。

 18世紀の半ばごろになると、イギリスを始めとして生産の過程に機械が用いられるようになりました。例えば、布を織る織機や、糸をつむぐ紡績機などが次々と開発されたのです。また、水力や蒸気機関を動力とする機会を使って生産を行う大規模な工場も現れました。安くて質のよい商品を大量につくることができるようになったのです。このような大規模な工場を経営する資本家が、大きな経済力をもつようになりました。一方で、1つ1つの商品を手作業で作っていた職人たちは競争に敗れて職を失い、労働者として貧困に苦しむこととなったのでした。このように、機械の発明や改良が続き、社会の様子が大きく変化することを産業革命と言います。

 機械の導入によって、生産の過程にこれまでのように熟練した技が必要なくなりました。そこで資本家たちは、利益をあげるために、安い賃金で働かせることができる女性や子どもを雇うようになっていったのでした。子どもたちは、1日10数時間も働かされる過酷な状況におかれました。その状況について、梅根悟『世界教育史』の中では次のように書かれています。

「遠い田舎から狩りだされた子供たちは、もちろん工場の中に泊りこみであったが、寄宿舎というような気のきいたものはなかった。工場の片すみの床にベッドがならべられ、子供たちは昼番と夜番と交替でそれを使った。食べ物もひどかった。たえかねて逃げだす子供もいたが、つかまると足くびをくさりでつながれて働かされた。死ぬ子供も多かったが、死ぬ子供が多いという評判がたたないように、人目につかない場所に母床も立てずにほうむられた。
 毎日十六時間ずつ、六日間ぎっしり働いて、そして日曜は機械の掃除をさせられた。
『くさい、熱気にみちた室、百千の車のまわっている室で、子供たちの小さな指、小さな足がひっきりなしに働いている。監督員のごつい手足でなぐられ、けとばされ、あくことを知らぬ利己心のわるがしこさが発明させたかずかずの体罰の道具によって責めさいなまられながら、不自然な仕事を強いられて・・・』とある著者は述べている。」(p.284)


 これは、ほぼ奴隷に近い扱いだと言えるでしょう。当時の働く子どもたちはほとんど人間として扱われていなかったのです。

 しかし、コメニウスやルソー、ペスタロッチなどによって、「人間は平等である」「人間は自由である」「すべての人間に可能性がある」などの考えを抱くようになっていた人類は、こうした状況を改善する方向へ進んでいくこととなりました。例えば、工場で働く少年を対象とした日曜学校や、親が工場に行き家に取り残されている子どもを対象とした慈善学校などが行われるようになりました。また、労働者の擁護に努めたロバート・オウエンは、工場経営者でありながら、少年労働者には学校をつくって保護と教育を行いました。労働者とその子どもたちに健康な環境を与えて教育することによって、貧困や社会悪をなくすことができるとオウエンは考え、大きな成果をあげたのでした。

 こうした民間の動きを受けて、次第に公的に教育制度が整えられていきました。例えばイギリスでは1870年に初等教育法が定められ、子どもの就学が義務となりました。また、1891年には多くの学校で授業料が無料となりました。フランスにおいても、1881年の教育法により、初等教育の完全無償制が規定され、6歳から13歳までのすべての者の初等教育が義務となりました。アメリカにおいても、ホレース・マン(1796〜1859)が、光や空気と同じようにすべての民衆が共通に教育を享受する学校として、コモン・スクールを提唱しました。無償制、非宗派、義務就学を原則としたコモン・スクールの構想は次第に実現していくこととなりました。

 このように、少年労働者の問題を解決しようとする動きの中で義務就学・無償制などを原則とする近代的な公教育制度が整えられていったのでした。これは近代において掲げられた人間観に基づいて、現実の教育のあり方を変革していこうとする動きであったということができるでしょう。
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2017年11月26日

教育実習生に説く人間観の歴史(8/13)

(8)すべての人間が可能性をもつことの実証−ペスタロッチ

 前回は、ルソーの人間観がどのようなものであったのかを見てきました。経済的に豊かだった人間が没落したり、貧しかった人間が裕福になったりして階級が入り乱れる中で、ルソーは、社会的な条件と個人の価値が切り離して考えるようになったのでした。そして、そもそも人間とはどういう存在なのかということについて動物との対比においてとらえ、可能性をもった存在であり、自由を求める存在であることを指摘したのでした。

 このルソーの影響を強く受けた人物こそが今回紹介するペスタロッチです。彼は自分の子どもに「ヨハン・ヤコブ(フランス語でジャン・ジャック)」と命名するほどルソーの信奉者でした(ルソーは、ジャン・ジャック・ルソー)。今回は、ペスタロッチが人間観の歴史においてどういう役割を果たしたのかを見ていきましょう。

 ペスタロッチは、1746年、スイスのチューリッヒで生まれました。幼い頃に父親が亡くなってしまったので、祖父が父親としての役割を果たしていました。祖父は村の牧師として定期的に教区の貧しい家を訪問し、宗教的、家庭的な面で指導を行っていましたが、ペスタロッチは幼い頃からしばしばこの祖父についていき貧民の状況について目の辺りにしていました。彼らの苦悩とその悲惨な姿が原点となって、彼らの解放のために生涯を捧げることをペスタロッチは決意したのです。当時、貧民の子どもは大きな農家にひきとられてこき使われたり、乞食の手先として使われたりしていました。また、当時スイスでも盛んになってきていた工場生産の労働力として縛り付けられている者もいました。こうした子どもたちを救うために貧民学校を開きました。貧民が幸福に過ごせるようになるためには、単に施しを与えるだけでは不十分であり、貧民自身が自立して人間らしい生活をしていけるようにならないといけない。そのために必要な能力や手段を身につけられるように教育することが重要なのだと考えていたのです。

 しかし、この貧民学校も経営が成り立たなくなりました。以後、ペスタロッチは文筆家として生計を立てることになります。その中で発表した『隠者の夕暮』『リーンハルトとゲルトルート』において教育によって国家を改造すべきだと主張し、文筆家、教育者として非常に有名になりました。

 この頃、フランス革命の影響を受けて、スイスでも革命が起こり、新政権が誕生していました。しかし新政権に対する反対運動はまだまだ活発でした。特に反革命運動の拠点であった地域では武力抗争が起こり、多くの孤児や浮浪児を生み出していたのです。こうした子どもを救済するために新政権は孤児院を設立することを決め、その院長としてペスタロッチが選ばれました。

 孤児院には50人の子どもが集められ、そこには歩けない子、衰弱して骸骨のようにやせている子、愛情がなく邪推深い子、詐欺を常習とする子などもいましたが、ペスタロッチは1人でその子達と生活を共にし、必死で関わる中で、子どもたちを変容させていきます。そこでの成果をまとめたものが『シュタンツ便り』です。

 心も体も荒れ果てた子どもたちを前にしたときの心境を、ペスタロッチは次のように書いています。

「わたしにはほとんど何の不安の感も懐かせなかった。というのは最も憐れな最も見離された子供にも神の与え給う人間性の諸力をわたしは信じているので、この人間性が無教育と粗野とそして混乱との泥土の間にあっても、最も美しい素質と能力とを発展させるということを、ただに今までの経験がすでに久しくわたしに教えていただけではなくて、わたしはわたしの子供の場合にも、無教育ではあるが、この生き生きとした本性の力がいたるところに発露するのをみた。」(同上書、pp.50-51)


 つまり、どんな人間に対しても、人間がもつべき力を神が与えているのだから、何の不安も懐かなかったということです。現代においても、例えば身体障害の方などを見ると、その外見から「えっ!」「うわっ」と思う方はいるはずです。しかしペスタロッチはそういった現象にひきずられず、すべての人間がもっている可能性をそこに見出していたのだということです。

 もちろん、シュタンツでは壮絶な戦いと言えるレベルの教育があったはずです。みなさんは、サリバンによるヘレン・ケラーの教育を知っているでしょうか。あそこでは甘やかされて育ったヘレンが自分勝手な振る舞いをするのに対して、サリバンがヘレンと対峙し、文字通り格闘レベルで関わっていく姿が見られます。これをペスタロッチは何十人もの相手に行っていたのだということです。そう考えれば、ペスタロッチの信念の強固さというものがイメージできるはずです。

 こうした教育の結果、子どもたちは大きく変わっていきます。当時、子どもたちの親は、革命政府がよこしたペスタロッチを何も信用しておらず、ペスタロッチを非難し、子供を連れ帰ることもざらにあったようです。ところが、ペスタロッチの教育を受けた子どもたちはペスタロッチを信頼し始め、やがてペスタロッチを非難する親をたしなめるまでに至ったのです。自分たちの成長を自覚しているからこそ、それをもたらしてくれたペスタロッチに対して信頼を抱いているのだと言えるでしょう。

 どうしてこのような信頼を得ることができたのか。それについて、ペスタロッチは次のように語っています。

「子供の気持や考え方を左右するものは、教師の個々の行為ないしはたまさか行う行為ではない。汝に対する彼等の感情を断然左右するものは、毎日毎時繰返されて、しかも彼らの眼の前で働いている汝の心情状態の真相の程度であり、また彼ら自身に対しての汝の懐く愛情もしくは嫌悪の情の程度である。」(同上書、pp.75-76)


 つまり、教師が子どもに対して何をしたかではなく、教師が子どもに対してどういう思いをもっているか、その思いがどの程度のものなのか、本気なのかどうか、ということが重要だということです。こうしてペスタロッチからの愛情を注がれた子どもたちは、他者への愛情を注ぐようになっていきます。

「アルトドルフが丸焼けになったので、わたしは子供たちをわたしの周囲に呼び集めて言った。『アルトドルフは丸焼けになった。多分今ごろは100人もの子供が家もなく、食べ物もなく、着物もなくているだろう。お前たちは慈悲深いお上へお願いして、これらの子供を20人ばかりわたしたちの家に修養するようにしないか』『いいですとも、いいですとも』と言った感激の様子を、わたしは今も眼のあたりに見る思いがする。そこでわたしは言った。『しかし子供たちよ、お前たちが熱心に望んでいることをよく考えてご覧。わたしたちの家には思うほどのお金はないし、これらの貧しい子供のために今まで以上にお金の工面ができるかどうかも怪しいものだ。それでお前たちはこれらの子供がきたために、自分たちのお稽古には今まで以上に骨が折れ、食べ物は今までよりもずっと減らし、その上お前たちの着物も分けてやらなければならないような羽目になるかも知れない。だから彼らが困っているからといって、これらのすべてのことをお前たちがいかに喜んで心から納得しているかのような振りをして、うっかりこれらの子供が来ればいいなど言ってはならない』わたしは力をこめてできるだけ強くそう言った。わたしは自分の言ったことを彼ら自身に繰返させた。それは彼らの申し出の結果がどんなことになるかということを、明瞭に彼らが理解しているかどうかはっきりさせるためだった。しかし彼らは頑として心を翻さず、しかも繰返して言うのだった。『そうです、そうです、たといわたしたちの食べ物はもっと悪くなり、仕事はもっとふえ、着物は分けてやらなければならなくなっても、彼らが来れば嬉しい』」(同上書、pp.71-72)


 子どもたちは、たとえ自分たちが貧しい思いをすることになっても、アルトドルフの子どもがここに来ることを望んでいるのです。他者に対する非常に深い思いやりが込められています。

 このように、シュタンツの子どもたちは、ペスタロッチの教育を受けて他者への愛情を注げるまでに成長したのでした。そして、自分自身がその成長を自覚しているからこそ、ペスタロッチに深い信頼を抱くようになったのだということになるでしょう。ペスタロッチが「どんな人間も教育によって成長する」という人間観を抱いて、子どもに愛情を注ぎ続けた結果、子どもたちも自分たちがもつ人間としての可能性を自覚することができたのです。

 コメニウス以来、すべての人間に可能性があるということが主張されるようになりましたが、そのことがペスタロッチによって事実として示されたのです。ここに人間観の歴史におけるペスタロッチの意義があったと言えるでしょう。
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2017年11月25日

教育実習生に説く人間観の歴史(7/13)

(7)人間とは何かという問いかけの誕生−ルソー

 前回はコメニウスがどのような人間観をもっていたのかということを紹介しました。カトリック教会に対する反発が高まる中で、ルターは「神の下に人間は平等だ」という主張をするようになったのでした。それを受けて、コメニウスはいかなる人間であっても可能性があり、教育によって成長するという人間観を打ち出したのでした。これは、階級という社会的な条件に応じて人間の価値の差が認められていた中世社会からすれば大きな変化だということでした。

 しかし、コメニウスは、あくまでも神という絶対的な存在を想定することによって、人間の平等を主張しています。その意味では宗教的だと言えるでしょう。そうではなく、現実の人間の在り方に基づいて、人間の平等を説いたのがルソーです。今回はルソーの人間観について見ていきましょう。

 ルソーが生きた18世紀のフランス社会はアンシャン=レジームとよばれる階層社会で、3つの身分に分かれていました。第一身分の僧侶、第二身分の貴族、第三身分の平民です。僧侶や貴族は税金を免除されていたり、(第三身分の)農民から生産物を徴収することを認められていたりと、多くの特権をもっている一方、第三身分の人々は重い税金に苦しんでいました。しかし、経済的な発展の中で、それぞれの身分の中にも貧富の差が入り交じるようになりました。第三身分にも金融業者や上層市民、商工業や資本主義的農業経営にたずさわる中産市民など、経済的に豊かになる人々が出てきたのです。一方、僧侶や貴族の中にも経済的に没落する人々が出てくるようになりました。このように個人の人生の中で社会的な条件が様々に移り変わってしまうという状況が生まれてくるようになったのです。

 こうした中で、個々の人間の価値にはもともと差があるわけではないということが自覚されるようになっていきました。そのことを最も強く主張したのがルソーです。ルソーは次のように述べています。

「自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。だから、そのために十分に教育された人は、人間に関係のあることならできないはずはない。わたしの生徒を、将来、軍人にしようと、僧侶にしようと、法律家にしようと、それはわたしにはどうでもいいことだ。両親の身分にふさわしいことをするまえに、人間として生活をするように自然は命じている。生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ。」(ルソー、今野一雄訳『エミール(上)』岩波文庫、1964年、p.31)


 現在みられるような不平等はあくまでも人間がつくりだしたものにすぎないのであって、もともと人間は人間として平等なのだとルソーは主張しています。だから、まずはどの人間も人間として生きていけるようすることが教育としては重要であり、それさえできればどんな職業について生きていくことになったとしても、すべて人間に関係あることなのだからできるはずだと主張しているのです。

 では、人間として育てるとはどういうことなのでしょうか。そもそも人間とは何なのでしょうか。ルソーは次のように述べています。

「私はどんな動物のなかにも精巧な機械しか見ない。すなわちこの機械は自分で自分のねじをまくように、またこれを壊したり狂わしたりしそうなあらゆるものからある点まで身を守るために、自然から感覚というものを授かっている。私は人間機械のなかにも確かに同じものを認める。ただ、禽獣の行動においては自然だけがすべてを行なうのに対して、人間は自由な能因として自然の行動に協力するという点がちがっている。一方は本能によって、他方は自由行為によって、択んだり斥けたりする。」(ルソー、本田喜代治訳『人間不平等起原論』岩波書店、1972年、pp.51-52)


 つまり、動物は本能によって機械のように動くし、人間もそういう側面はあるけれども、人間の場合は自らの意志に基づいて行動するのであり、その意味で人間の行為は自由行為なのだということを説いているのです。このような捉え方は本稿の(3)で指摘した人間と動物との違いに近いものがあると言えるでしょう。

 さらに、人間と他の動物との違いとしてもう1点挙げています。

「もう一つ、両者を区別して、なんらの異議もありえない、きわめて特殊な特質が存在する。それは自己を改善(完成)する能力である。すなわち、周囲の事情に助けられて、すべての他の能力をつぎつぎに発展させ、われわれのあいだでは種にもまた個体にも存在するあの能力である。これに対して、動物は数ヶ月の後には一生涯そのままであるようなものになり、またはその種は千年たってもその千年の最初の年にそうであったままで変らない。」(同上書、p.53)


 つまり、人間は自己を改善(完成)する能力があるけれども、他の動物にはそれがなく、個体としても種としてもいつまでも変わらないということです。これは結局、第一の違いとつながるものだと言えるでしょう。人間以外の動物は本能という決められたプログラムに従って動くだけであり、このプログラムそのものが変わることはありません。だからそこに発展性はありません。しかし、人間は自らの意志に基づいて自由に行動するのであるから、その意志が発展すれば、自らのあり方も発展するし、人類全体としても発展していくことになるのです。

 人間というのは自己を改善する能力をもった存在であり、それは人間の一般性であるからこそ、すべての人間に教育の可能性が存在しているし、その教育によって人間の本質である自らの意志に基づいた行動ができるようにすること(=自由の獲得)が必要だと主張しているのです。

 このように、現実社会の人間のあり方を踏まえて、社会的な条件と人間の価値を切り離して考えたこと、そうして切り離された人間とはどういう存在なのかということについて動物との対比においてとらえ、人間は可能性をもった存在であり、自由を求める存在であることを指摘したこと、ここにルソーの人間観の歴史的な意義があると言えるでしょう。
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2017年11月24日

教育実習生に説く人間観の歴史(6/13)

(6)人間は平等であるという人間観の誕生−コメニウス

 本稿は教育実習生に向けて、人間観が歴史的にどのように変化してきたのかということを説くものです。ここまで原始社会、古代社会、中世社会の人間観の流れを見てきました。サルの集団の中に本能による統括が薄れてきたサルが誕生し、その数が多くなると、その集団は純粋なサルの集団とは異なったものとなっていきました。その集団が純粋なサルの集団と対峙する中で、「あいつらとは違う自分たち」という自覚をもつようになりました。これが人間観のスタートです。やがてそれぞれの人間の社会が拡大し、接触するようになると相争うようになり、負けた集団の人間は奴隷として扱われるようになったのでした。ここにおいて、生物としては人間であることを認めながら社会的な条件においては人間としての価値を認めないという見方が生まれてきたのでした。さらに、中世社会になれば、その身分秩序はより複雑化し、(生物としては同じ人間であるけれども)階級に応じてその価値の程度が考えられるようになったのでした。これは古代社会からの延長線上にあるということでした。

 このような中世までの人間観は近代に入ると大きく変化することになります。今回から3回にわたってその変化の過程を教育学の歴史において有名な人物(コメニウス・ルソー・ペスタロッチ)に焦点を当てながら、見ていきたいと思います。

 中世社会ではそれぞれの荘園で自給自足の生活が行われており、互いの交流がほとんどなされていなかったのでした。しかし、少しずつ生産力が向上していって、生活に必要以上の物資を獲得できるようになってくると、余ったものを荘園同士で交換するようになりました。交換に便利なように貨幣も使われるようになると、商品の交換に携わる商人や、商品の生産に携わる人々が次第に豊かになっていきます。また、余った生産物を売ることで得た金を納めることによって、領主の支配から逃れる農奴も出てくるようになりました。その一方で、領地を支配していた貴族や僧侶たちは経済的に苦しい状況に追い込まれることにもなりました。このようにして、カトリック教会によって裏付けられていた身分制度が絶対的なものではないということが、徐々に明らかになってきたのです。

 こうした時代の流れの中で、教会の教えに従うだけではなく、自分のアタマで判断して生きていこうという考え方が芽生えてくることとなりました。その背景には、当時のカトリック教会が金儲けのことばかり考えていたことに対する反発もあります。

 その反発を明確な形で打ち出したのが宗教改革で有名なルターです。ルターは僧侶と民衆を区別することを批判しました。神からすれば、人間の階級などちっぽけなものであり、そこに差などないと考えたのです。そして、民衆一人ひとりが聖書を読み、神が何を望んでいるのかを知り、それに従って生きていくことが重要だと主張しました。

 ルターの教えに賛同した人々(新教)は徐々に勢力を伸ばし、カトリック(旧教)と激しく争うようになっていきました。この対立の中心地だったのが、コメニウスが生まれたボヘミア(チェコ・スロヴァキア)であり、ここでは30年にわたる戦争が繰り広げられました。

 コメニウスは新教の立場の人間として生まれ育ち、結婚もして平和な生活を送っていました。しかし、戦争が起こると、仕事を追われ、逃避生活に入るようになります。その中で妻を失い、さらにコメニウスを含めた新教の人間は祖国を追われることとなりました。

 こうした絶望の日々を送る中で、コメニウスは、祖国の回復と平和な世界の実現を強烈な問題意識として抱くようになり、その手段として教育の改善が必要だと考え、有名な『大教授学』を執筆したのです。コメニウスはその冒頭において、次のように書いています。

「この我々の教授学の目指す全目的は(中略)キリスト教社会が在来のように暗黒、混乱、軋轢の場所とならずして、それによって却ってより多くの光明と秩序と平和と休息とを得るような教授法を探求し発見することに存している。」(コメニウス、稲富栄次郎訳『大教授学』明治図書、1956年、p.14)


 つまり、現在のように混乱したキリスト教社会ではなく、平和なキリスト教社会を築くことを目的としているということです。そのための教授法を探求した結果をこの『大教授学』で書いているということです。
 では、そこでは具体的にどのようなことを説いているのでしょうか。人間観という観点から注目すべきは、以下の文章です。

「神は一視同仁で、個人個人に対して何等の依怙贔屓もしないことを表明している。それ故に若しも我々が、或人間には精神の教育を施し、他の人間にはこれを許さないということになれば、我々は生来我々自身と同じ素質を持った人間に対して侮辱を加えることになるばかりでなく、神そのものをも冒涜することになるのである。」(同上書、p.92)


 つまり、神は個人個人に対して平等であるから、我々も平等に教育すべきだということです。ある人間に対しては教育を行い、ある人間に対しては教育を行わないということは人間に対する侮蔑であり、神の冒涜だというのです。

 中世ヨーロッパでは、まともな教育を受けられるのは一部の特権階級だけであり、農奴などには教育が行われませんでした。そうした中で、人間は神のもとに平等であるというルターの人間観を引き継ぎ、すべての人間に教育を与えることを主張しているのです。さらに、その「すべての人間」というのは性別や素質の有無を問わず、本当にすべての人間だとコメニウスは述べています。

「人の素質が、遅鈍であり、薄弱であればある程、このような生まれつきの動物的な愚鈍、愚昧から解放されるために、より多くの援助を必要とする。のみならず、およそ世に、教育によって之を改善することができない程、その智力の薄弱なるものはないのである。」(同上書、p.93)


 つまり、いかに素質がなかろうと教育すれば改善するのだというのです。ここには人間の可能性に対する信頼、教育の力に対する信頼があふれていると言えるでしょう。このような人間観・教育観をコメニウスは抱いていたのです。このような人間観・教育観に基づけば、子どもが成長しないのは教師の働きかけが悪いからだということになります。では、どのように働きかければよいのかということについての原則が、この『大教授学』では述べられているのです。

 このようにコメニウスはルター派の牧師として、人間は神のもとに平等であるという人間観を受け継ぎ、いかなる人間であっても可能性があり、教育によって成長するという人間観を打ちだしたのです。「王であろうと、僧侶であろうと、農奴であろうと同じ人間だ」というような考え方が全くなかった中世社会からすれば、非常に大きな意味をもつ主張だと言えるでしょう。
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2017年11月23日

教育実習生に説く人間観の歴史(5/13)

(5)人間の価値が社会的な条件によって定められた−中世社会

 前回は、古代社会の人間観とはどのようなものかを見てきました。古代社会では、人間ではあるけれども人間として認められていない奴隷という存在が正当化されていたのでした。このように(戦争に負けたという)社会的な条件によって、人間ではあるけれども人間として認めないという人間観が生まれてきたのが古代社会だということでした。古代社会において大きく発展したローマ帝国は、異民族の侵入によって滅ぼされてしまいます。こうしてヨーロッパでは民族同士の戦乱が繰り広げられる舞台となり、やがて各地に王国ができて落ち着きを取り戻していきます。こうした時代が中世です。今回はこの中世社会の人間観はどのようなものであったのかを見てみましょう。

 中世ヨーロッパの社会の特徴は、階層的な身分秩序が成立していたという点にあります。つまり、王の下に諸侯がいて、その諸侯の下には臣下がいて、さらにその下にはその臣下がいるというような状態だったのです。こうした王や諸侯たちはそれぞれ自分の土地(荘園)を保有していました。領主としてその土地を治め、その土地の農民を働かせて、収穫したものを納めさせていたのです。荘園同士の交流はほとんどなく、各地の荘園が自給自足的な生活を送っているという社会だったのでした。

 こうした仕組みが成立した背景には、先に述べたように、ローマ帝国が崩壊した後の民族大移動によって、ヨーロッパ各地が戦乱の舞台になってしまったということが挙げられます。土地の所有者たちは、こうした戦乱の中にあって、自分の生活のために自分の土地を何とかして守らなければなりませんでした。そこで彼らが考えた方法は、力の強い者に土地を譲りわたす(寄進する)代わりに、自分たちの生活の保障をしてもらうことだったのです。こうして力の強い者に自分の生産物を譲り渡す代わりに、その力の強い者に守ってもらうという仕組みがつくられたのです。さらにその力の強い者は、より力の強い者に自分の土地を譲り渡すようになります。これが積み重ねられる中で、階層的な身分秩序が成立したのでした。

 こうした社会では、身分の間の行き来ということは行われませんでした。つまり、農民の子どもとして生まれれば、農民として生きていくことになるし、貴族の子として生まれれば、貴族として生きていくことになるということです。このように、社会的な階級は変わらないものだと考えられていたのです。

 このような制度を正当化していたのが、キリスト教を担うカトリック教会でした。中世ヨーロッパにおいては、キリスト教が絶対的なものだと信じられていたのです。戦乱が絶えず、生活が不安定になるなかで、人々の心のよりどころになったのがキリスト教だったのです。コトワザでいう「苦しいときの神頼み」ということです。「自分たちの力ではどうしようもないから、神様に何とかしてもらおう」というような思いから、キリスト教が大きく広まっていたのです。中世ヨーロッパにおいてキリスト教の担い手となったカトリック教会では、階層的な身分秩序が正当化されていました。こうした身分秩序は神によって定められたものであり、その神に定められた仕事に取り組むことが、(神に従う)よい生き方だとされたのです。

 この階級は決して平等と言えるようなものではありませんでした。最も大きな力を持っていたのは、キリスト教を司るカトリック教会の僧侶たちです。僧侶たちは、神の言葉を地上の人々に伝えてくれる存在として絶対視され、その指示に従うことが神の望むことだと考えられていました。また、彼らも領地をもっており、そこから得られる富によって、経済的にも大きな力をもっていました。カトリック教会は国王をもしのぐ絶対的な権力を握っていたのです。

 したがって、教育においても優秀な僧侶をいかにして育成するかという観点が重視されていました。修道院に付属して僧院学校や本山学校と呼ばれる学校がつくられ、僧侶の養成のために、七自由科(文学・修辞学・弁証法・算術・幾何・天文・音楽)という当時の学術の基礎的な内容が教えられていたのでした。また、中世の半ばにつくられるようになった大学では、神学が中心的な学問として教えられていました。

 このように、社会的に大きな価値を認められ、優遇されていた人々がいる一方で、農民たちはその価値をほとんど認められていませんでした。古代の奴隷ほどではないにせよ、土地の一部という程度の認識でしか捉えられていませんでした。当然、農民たちに対して公的な制度として教育が行われるということもありませんでした。

 つまり、中世社会においては、同じ人間であっても社会的な階級が違えば全く違う存在だと考えられていたのです。「王であろうと、僧侶であろうと、農奴であろうと同じ人間だ」というような考え方は全くなかったのです。確かに古代社会に比べれば、社会的な階級の在り方がより複雑化しているものの、社会的な条件によって人間として認められる存在と人間として認められない存在がいるという点では同じであり、中世社会の人間観は古代社会の人間観の延長線上にあると言えるでしょう。
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2017年11月22日

教育実習生に説く人間観の歴史(4/13)

(4)人間の中での区別がなされるようになった−古代社会

 前回は、「自分たちは人間だ」という自覚がどのようにして芽生えてきたのかということをお話しました。本能の薄れていったサルの割合が増える中で、集団の質もこれまでと大きく異なってきたのでした。そうしたサルの集団が純粋なサルの集団と対峙したときに、「あいつらとは違う自分たち」という自覚が芽生えてきたのだということでした。そして、ヒト的サルの集団はサルの集団との戦いに勝利するようになり、主導権を握っていくようになったのだということでした。また、この過程でサルはヒト(人間)へと発展していくこととなります。今回は、原始社会から古代社会(ポリスを基礎とした古代ギリシャや、大帝国を築いた古代ローマ帝国を思い浮かべてください)への過程において人間観がどのように変化したのかを見ていきたいと思います。

 サルの集団との戦いに勝った人間の集団は、周囲から食料を獲得し、比較的安定的に生活していました。次第に人口も多くなり、その生活範囲が次第次第に広くなっていきます。生活範囲が広くなると、他の集団との接触が行われるようになります。こうして食料をめぐって、人間の集団と人間の集団との争いが行われるようになったのです。もし争いに負けてしまえば、その集団は全滅させられてしまいます。このように集団の存亡をかけたものであったために、人々は戦争に勝つために必死の努力をさせられることとなりました。より指導能力の高い人間が指導者になり、戦力となる兵士が育成され、という形で、集団の中で組織化が進められていったのです。
 原始社会では一人前の大人として認められるための儀式として入社式というものが存在していました。若者が集められ、断食させられたり、生き埋めにされたり、歯を抜かれたり、背中を切り裂かれたりといった苦行を命じられるのです。そして、苦行のあとでは集団の指導者から集団の掟が教えられ、その掟を破ったものがどうなるかを伝えられ、また、戦闘や労働の技能の訓練がなされました。これも集団の力を高めて、他の集団との争いに負けないようにするために行われた教育の1つだと考えられます。

 争いは当初は偶然に行われていました。つまり、たまたま他の集団と遭遇したから争いになっていたのでした。しかし、相手の集団を全滅させれば、相手がもっていた大量の食料をすべて獲得することができるという体験を積む中で、人々はやがて意図的に争いをしかけるようになりました。こうして戦争があちこちで行われていたのが原始社会の時代です。

 争いに勝った人々は、当初は負けた人々を皆殺しにしていました。しかし次第に、殺してしまうのではなく、生かしておいて奴隷として働かせた方が自分たちにとって得だということがわかってくると、滅ぼした集団の人間を生け捕りにするようになります。古代ギリシャや古代ローマの奴隷は、このようにして誕生したのです。

 こうした奴隷たちがどのような扱いを受けていたか、みなさんはご存知でしょうか。古代ギリシャやローマでは、奴隷は自分で労働するモノという見方をされていました。したがって、死ぬまで働かせ続けられますし、死んでしまったりして新しい奴隷が必要になれば、金を払って購入する、そんな存在でしかありませんでした。何か事件があったときに、真実を奴隷に述べさせるために拷問することも認められていました。椅子に縛りつけ、鞭で打ったり、皮をはいだり、引き伸ばしたり、レンガを体の上に積み上げるなどの拷問がなされていました。また古代ローマでは、剣闘士を務める奴隷もいました。お互いに剣をとって殺し合いをさせられ、それをローマ市民たちが見世物として楽しむのです。

 古代ギリシャで代表的な哲学者であるアリストテレスは、奴隷について次のように述べています。

「他の人々にくらべて、身体が霊魂に、また動物が人間に劣るのと同じほどに劣る人々は誰でもみな自然によって奴隷であって、その人々にとっては、もし先に挙げた劣れるものにも支配されることの方が善いことなら、そのような支配を受けることの方が善いことなのである。」(山本光雄『アリストテレス』岩波書店、1977年、p.201より孫引き)


 つまり、動物と同じ程度に劣っている人間は、奴隷として支配を受けた方がよいのだということです。このように古代の人々は奴隷を正当化していたのです。

 恐らく奴隷であっても生物としては自分たちと同じ人間であることは否定していないでしょう。しかし、人間としての価値はもっていないと考えているわけです。戦争で負けてしまったという社会的な条件によって、人間ではあるけれども人間ではないという見方をされてしまっているわけです。このように同じ人間であっても人間としての価値を認めないという見方(人間観)が生まれてきたのが、古代社会の特徴だということができるでしょう。
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2017年11月21日

教育実習生に説く人間観の歴史(3/13)

(3)動物と区別された存在という自覚が芽生えた−原始社会

 本稿は教育実習生に向けて、人間観(人間に対する見方・考え方)が歴史的にどのように変化していったのかを説こうとするものです。人間観の出発点は、そもそも自分たちが人間である(他の動物とは違う存在である)という自覚が芽生えてきたことです。人間はサルから進化してきたわけですが、その過程でこのような自覚が生まれてきました。今回はその過程を詳しく見ていきたいと思います。

 まず人間とサルなどの他の動物はどのように異なるのかを押さえておきましょう。一般的には様々なことが言われています。考える力があるかないか、二足歩行ができるかどうか、道具を作ることができるかどうか、などです。

 しかし、根本的な違いを言えば、変化性に富んでいるかどうかという点が挙げられるでしょう。動物は本能によって支配されています。本能というのは生きていくためのいわばプログラムのようなものであり、これによって支配されている動物は、そのプログラムによって決められたことしかすることができません。例えば、犬は犬としてどう成長していくかが決められており、それに沿って成長していきます。生活の仕方も定められており、例えば食べるものも犬のエサのみであり、牛のエサを食べたりすることはありません(もしあるとすれば、それは人間がペットとして飼うことによって本能を歪められたということができます)。このように本能によって支配されており、変化性に乏しいのが人間以外の動物だと言えます。

 これに対して、人間は変化性に富んでいます。単純な話、1000年前のサルと今のサルは同じであるのに対して、1000年前の人間と今の人間は大きく異なっています。これはなぜかと言えば、人間の場合、本能という定められたプログラムによって動くのではなく、自分で「あれをしよう」「これをしよう」と新たな目的(像)を描いて行動するからです。このように、次々と新たな目的をアタマの中に描いて、それを実現していこうとするという点に人間の特徴があります。

 人間と他の動物の違いをこのように押さえた上で、どのようにしてサルの集団が人間の社会へと発展していったのか、また、その過程で人間という自覚はどのようにして生まれていったのかを見てみましょう。

 サルの集団というのは単にたくさんのサルが集まっているだけではなく、ボスザルによってそのサルたちが束ねられています。餌を見つけたときや危険が迫ったときにはボスザルが吠えるなどの形で合図をし、他のサルはその合図に従って行動をします。このようにしてサルの集団は生存が維持されているのです。

 ここで押さえておかないといけないことは、サルがボスザルに従うのは本能に基づいているということです。つまり自分よりも強いもの(ボスザル)には従うということはあらかじめプログラムとして組み込まれているし、またそのボスザルの出す合図がどういう意味であり、どういう行動をすべきなのかということももともとわかっているということです。だからこそ、自分の命を守ることができるのです。

 ところが、こうしたサルの集団の中で、徐々に徐々に本能が薄らいでいくサル(子ザル)が出てきます。本能が薄らいでいるわけですから、ボスザルが合図を出しても、他のサルのようにすぐさま行動するということができにくくなります。そうすると、外敵に襲われたときに一人逃げ遅れて死んでしまったり、あるいは自分の指示に従わない者ということで、ボスザルに殺されてしまったりします。

 こうなると最も苦しいのはその子ザルの母ザルです。そこで、自分の子どもが殺されてしまわないように、「ボスザルがこう合図したらこう動く」ということを教えるようになります。もちろん言葉などはありませんから、実際にボスザルが合図を出したときに、身振り手振りをしたり、無理やり行動させたりして教えたものと思われます。これが教育の出発点です。

 本能の薄らいだサルが徐々に徐々に増えていくと、やがてボスザルもそうしたサルが務めるようになり、集団自体が純粋なサルの集団とは質的に異なったものとなります。行動の仕方や見た目なども含めて、大きく変わっていったものと思われます(もちろんその過程には何百年、何千年という長い年月がかけられています)。

 こうしたサルの集団が、純粋なサルの集団と出くわした場合、どんなことを感じると思いますか。「自分たちとは違う」という感覚になるのです。これは逆に言えば、「自分たちはあのサルたちとは違う」ということを感じるようになるということです。

 たとえ話で言えば、小学校を卒業した中学生が、小学校を訪れて小学生を見たときに「あぁ、小さいなぁ。自分とは違うなぁ」と感じるようなものです。このとき同時に、「自分は中学生になって大きくなった」ということが自覚されることになります。

 このように純粋なサルの集団と出会う中で、「自分たちはあいつらとは違う」という自覚が生まれてきたのです。これこそが人間観の出発点(「自分たちは人間だ」という自覚)だと言えるでしょう。また、ここにおいて、サルの集団とは区別された人間の社会が誕生したとも言えるでしょう。

 やがてヒト的サルの集団と純粋なサルの集団は、エサをめぐって縄張り争いを行うようになります。当初は本能によって完璧に統括されたサルの集団が勝っていたでしょうが、ヒト的サルの集団が戦い方を工夫し、次第に勝利を収めるようになります。このようにして、サルの集団から人間の社会へと主導権が移っていったのです。
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2017年11月20日

教育実習生に説く人間観の歴史(2/13)

(2)教育実習で学ぶべきものとは何か

 前回は、教育実習の目的について確認しました。2週間から1か月という短い期間の教育実習でしっかりとした学びを得るためには、教育実習の目的をしっかりと押さえておく必要があります。現在、文科省は教員として求められる資質能力として、「教職に対する強い情熱」「教育の専門家としての確かな力量」「総合的な人間力」という3つを挙げていますから、教育実習もこの3つを目的とするものだと言えますが、中でも「教職に対する強い情熱」こそが教育の出発点という意味で最も重要だということを書きました。実際に子どもを教育するなかで、教育することの楽しさを実感し、教職に対する強い情熱をもてるようにすることこそ、教育実習の最も大きな目的だと言えるだろうということでした。

 では、教育することの楽しさとはいったい何なのでしょうか。

 教育実習を経験した人の中には、「子どもたちといろいろな話をしたり、休み時間に遊んだりして楽しかった。やっぱり教師は楽しい」という感想をもつ人がいます。つまり、子どもたちと仲良くなって、話したり遊んだりすることが教育の楽しさだということになります。これはこれで教職に対する強い情熱につながっており、よい経験になったのだと思います。

 ただし、子どもたちと楽しい時間を過ごせたというだけでは、果たして正規の教員となったときに続けていくことができるか、疑問符がつくところです。なぜならば、教育実習はかなり優遇されている期間だからです。まず教育実習生という存在がクラスの子どもにとっては新鮮であるため、子どもの方から寄ってくる状況にあります。またクラス自体は担任の教師によってある程度創られているため、授業の実力が未熟であっても、子どもは真面目に授業を受けようとします。さらに基本的な責任は担任にあるため、仮に勉強ができない子がいたり、友達関係でトラブルを抱えた子どもがいたりしても、そうした子どもにはあまり向き合う必要がありません。保護者に対応しなければならないことも普通はありません。このように、かなり恵まれた条件の中で子どもたちと関わっているのです。

 正規の教員となり、こうした条件が失われたときに、子どもたちと同じように楽しい時間を過ごすことができるかは不明です。場合によっては子どもたちから大きく反発されることもあります。教育実習の経験から抱いていた自らのイメージとの間に、大きなズレを感じることになるのです。そうしたときにも教職に対する強い情熱を維持することができるかということが大きな問題になるわけです。

 では、このようなときにも教職に対する強い情熱を支える、教育の本質的な楽しさとはいったい何なのでしょうか。

 一言で言えば、目の前の子どもが成長する姿を見ることにほかなりません。全然勉強ができなかった子どもが、個別に教えたりすることによって、徐々にできるようになっていく。学校へ来られなかった子どもが、数か月間のかかわりの中で登校できるようになる。こうした子どもの成長の姿を見ること、すべての子どもが可能性をもっていることを体験すること、これこそ教育の醍醐味だと言えるでしょう。

 以前、私の知り合いの先生が、教職に就こうと思ったきっかけを次のように話しておられました。その先生は就職活動もせず、大学卒業後はとりあえず中学校の講師を務めたそうですが、あまり意欲はなく、授業は適当でメチャメチャなものだったそうです。そんなとき、生徒指導の担当となり、問題行動を起こす生徒たちと関わっていくことになります。その中には、常に目を光らせておかないと、何かしらの問題を起こす生徒がいました。ずっとその生徒と関わり続けていたそうですが、ある日、その生徒と一緒にいるときに、別の生徒が暴れている姿が見られました。そこでこんなやりとりをしたそうです。

生徒「先生、あいつら止めてきいや。先生が行かなやめよらへんで。」
先生「でも、俺が行ったら、お前、どっかいくやろ。」
生徒「せえへん、せえへん。行ってきい。」


 生徒がこういうので、その先生は別の生徒の方へ行ったそうです。そしてそちらの方を解決してから、あまり期待せず戻ってみると、その生徒はちゃんとその場にいたそうです。その体験が教職に就こうと思ったきっかけだということでした。

 それまでは常に目を光らせておかなければならなかった生徒。そんな生徒が教師とのかかわりの中でよい方向へと変化している。そこに教師としての楽しさを感じたのだろうと思います。

 このように、どんな子どもであっても可能性があり、教師とのかかわりの中で変化していくということ、これこそが教師がもつべき人間についての見方・考え方(人間観)です。これがあるからこそ、教職に対する強い情熱が生まれてくるのです。

 したがって、教育実習においても、「確かに子どもには可能性がある」と感じるような体験をしてほしいと思います。その体験があれば、仮に正規の教員となって苦しい状況に陥っても、自らの支えになるはずです。

 このような人間観は、昔から存在していたわけではありません。近代になってから生まれてきた見方・考え方であり、歴史的に創られてきたものです。「目の前の子どもたちを何とかしたい」、そういう強い情熱を抱いた先人たちの努力によって創り上げられた文化遺産なのです。こうした歴史的な過程を知ることは、自らの人間観を鍛え、これからの教育実習をより充実したものにすることにつながると考えられます。

 そこで本稿では、人類がどのような過程を経て子どもの可能性を見出していったのかという人間観の歴史を説いていきたいと思います。教育実習生にも読みやすいように、やさしく、わかりやすいものにしたいと思います。
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2017年11月19日

教育実習生に説く人間観の歴史(1/13)

(1)教育実習の目的とは何か

 教職を志す学生は、大学3回生か4回生のときに教育実習に行くことになっています。2週間から1か月ほどの間、実際に学校現場に入って、教師としての仕事を体験するのです。教育実習はこれまで教職課程で学んできた知識や技能を実際の現場で生かしてみる場であり、教職課程の締めくくりとも言えるでしょう。

 教育実習に向かうときは大きな不安を抱くものです。授業はしっかりできるだろうか。子どもとちゃんと教師として接することができるだろうか。学校の先生とはいい関係が築けるだろうか。こうした不安をもちながらも実習に臨みます。そして実習に行くと、朝早くから出勤して仕事をすることになり、ようやく子どもが帰ったと思ったら、今日の授業についての指導を受けたり、実習簿を書いたり、明日の授業の準備をしたりして、夜遅くまで残ることにもなります。とりわけ教育実習の終盤に行われる研究授業が近づいてくると、睡眠時間を大きく削られることにもなります。

 このように肉体的にも精神的にも非常に苦しい時間を過ごすのですから、できる限り教師として充実した学びを得られる時間にしてほしいと思います。そして、これからの大学での学びの意欲づけになり、正規の教員として現場に立つのが待ち遠しくなるような時間になってほしいと思います。

 そのためには、教育実習でいったいどんな学びを得るべきなのか、教育実習の目的は何なのかということを予めしっかりと押さえておく必要があります。教育実習はわずか2週間から1か月という短い期間でしかないのですから、なおさらです。例えば、近畿大学のホームページには、教育実習の趣旨として次のように書かれています。

http://www.kindai.ac.jp/academics/teacher-training/strength-training/teaching-practice/detail.html

1.教育実習の趣旨

教育実習は、教育職員免許法第6条に規定されている必須科目です。それは一定期間、教育の場での実地体験をとおして、教師として必要な知識、技能、態度、心構えなどを修得するために行われるものです。

教育実習は、教育現場における教育の実際を観察し、また体験し、さらに経験や体験を積むことにより、教育の意義についての体験的認識と理解を深め、教師としてのあり方を学ぶことを目標にしています。すなわち、大学での学問研究の成果(理論と技術)を、教育の実践的体験を通じて主体的に再構成し、教育現場に適用させることにその目的があります。大学における学問研究では修得することのできない教育の実際を、生徒との全身的接触のなかで啓発的経験活動を通じて修得するとともに、プロの教師である教育実習指導教員による指導を通じて実践的指導力の初歩を修得することが期待されています。また、これらの活動をとおして、教育実践への限りない意欲や情熱をわきたたせる機会でもあります。

 つまり「教師として必要な知識、技能、態度、心構えなど」を修得するために行われるものであり、「教師としてのあり方」を学ぶとともに教育実践への限りない意欲や情熱をわきたたせる機会だということです。

 では、一体「教師として必要な知識、技能、態度、心構え」「教師としてのあり方」とは何なのでしょうか。平成17年中央教育審議会答申「新しい時代の義務教育を創造する」では、「教員に求められる資質能力」として次のものが挙げられています。

@ 教職に対する強い情熱
教師の仕事に対する使命感や誇り、子どもに対する愛情や責任感など
A 教育の専門家としての確かな力量
子ども理解力、児童・生徒指導力、集団指導の力、学級づくりの力、学習指導
・授業づくりの力、教材解釈の力など
B 総合的な人間力
豊かな人間性や社会性、常識と教養、礼儀作法をはじめ対人関係能力、コミュニケーション能力などの人格的資質、教職員全体と同僚として協力していくこと


 @に関しては言うまでもないことです。「目の前の子どもを何とか成長させたい、成長させなければ!」という強い思いがなければ教育は成り立ちません。その意味で教育の出発点と言えるものであり、この答申で最初の項目として掲げられているのも正当だと言えるでしょう。

 しかし、いくら情熱があったところで、その情熱を現実化するだけの能力がなければ意味がありません。いかに真心をこめて作った料理であっても、料理の腕がなければおいしい料理にはなりません。そういう教育の専門家としての力量が必要になるというのがAです。

 また、こうした教育活動は決して一人だけで行うものでありません。学年の教師、学校の教師、また保護者や地域住民などと協力をしながら行うものです。したがって、そうした人たちと関係を結んでいく力が必要になるということで書かれているのがBということになるでしょう。

 こうした3つのものが「教師として必要な知識、技能、態度、心構え」であり、それを兼ね備えているのが「教師としてのあり方」ということになるでしょう。とりわけ重要なのが「@教職に対する強い情熱」です。先に述べたように、@こそが教育の出発点だからです。実際に子どもを教育するなかで、教育することの楽しさを実感し、教職に対する強い情熱をもてるようにすること、ここが教育実習の最も大きな目的だと言えるでしょう。
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2017年11月18日

掲載予告:教育実習生に説く人間観の歴史

教員免許をとって、現場の教員として働くためには、2週間から4週間の教育実習を行う必要があります。10月から1か月間、勤務校にも教育実習生が来ており、私が指導を担当していました。

教育実習とは、現場の教員として必要な資質・能力を身につけるために行われるものです。その資質能力とは、例えば「教職に対する強い情熱」「教育の専門家としての確かな力量」「総合的な人間力」などが挙げられています。

このうち最も中心になるのは「教職に対する強い情熱」です。なぜなら、そのような情熱こそが教育実践の原動力になるからです。

さらに、その情熱を生み出しているものは何かと突っ込んで考えてみるならば、「この子は必ず成長する」という信頼に他なりません。そのような子どもに対する見方、人間に対する見方、一言で言えば、人間観を養うこと、これが最も教員として求められることであり、教育実習生にも身につけさせたいもんどえす。

「すべての子どもに可能性がある」というような人間観は、決して昔から存在したわけではなく、歴史的に形成されてきたものです。その過程を推し進めてきた先人たちの努力を知ることは、自らの人間観を養う上で大きな意味のあることだと思います。

そこで、本稿では教育実習生に対して、人間観の歴史を説いていきたいと思います。以下、目次(予定)です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
序論
(1)教育実習の目的とは何か
(2)教育実習で学ぶべきものとは何か

本論
1.人間であるということについての自覚の芽生え
(3)動物と区別された存在という自覚が芽生えた−原始社会
(4)人間の中での区別がなされるようになった−古代社会
(5)人間の価値が社会的な条件によって定められた−中世社会
2.すべての人間がもつ可能性についての自覚の芽生え
(6)人間は平等であるという人間観の誕生−コメニウス
(7)人間とは何かという問いかけの誕生−ルソー
(8)すべての人間が可能性をもつことの実証−ペスタロッチ
3.人間の可能性の自覚に基づく教育対象の拡大
(9)近代公教育制度の確立
(10)障害児(障害者)と優生思想
(11)障害児教育の生成・発展−糸賀一雄

結論
(12)人間観の歴史とは人間としての価値を認められる存在が拡大する過程である
(13)教師の歴史的な使命は目の前の子どもの可能性を事実として示すことである
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2017年09月19日

障害児の子育ての1年間を振り返る(5/5)

(5)教育学の構築は歴史的な願いを現実化するものである

 本稿は、ダウン症と診断されたわが子の1年間の育児を振り返るものである。ここでこれまでの内容を振り返っておこう。

 まず、抱っこしながらの散歩とその意味について確認した。これを始めたきっかけは、松田道雄『育児の百科』で勧められていたからであるが、それは実体面と認識面の両面で大きな意義があるものだということだった。実体面に関しては、さらに生理的な側面と運動的な側面の2つがあり、生理的な側面で言えば、外界の自然的な変化に対応する実力をつけるという意味があるということだった。一方、運動的な側面で言えば、首から背中・腰にかけての骨や筋肉を鍛えるという意味があり、とりわけ縦抱きにされることによって、そういう姿勢の状態に慣れていくということ、このことが首すわりやお座りにつながっていくのだということだった。一方、認識面でいえば、抱っこをすることによって、これまでとは違った形で外界を反映させることになり、赤ちゃんの認識の発展を促していくことになるということであった。さらに散歩の場合、その反映する外界そのものが家の中に比べれば多種多様であるから、赤ちゃんの興味・関心を促し、外界に対して積極的な姿勢を創ることになるということだった。このような意味のある抱っこしながらの散歩を毎日続けたからこそ、それが量質転化したのではないかということだった。

 続いて、「ハイハイを促すために行った働きかけ」について紹介した。最初にハイハイの意味について確認した。ハイハイをすることによって上肢を鍛えることができるのであり、またハイハイができるようになる過程(=自らの体を移動させようとするけれど移動できない、移動させようとするけれど移動できない、を繰り返し、ようやく移動できるようになる過程)が人間としての脳の実力をすさまじくつけることになるのだということであった。そこで、成長の頃合いを見計らって、ハイハイができるように意図的に働きかけたのだった。そもそも人間は像を描いて行動するのであり、ハイハイにしても「あのおもちゃをとりたい」などの像を描いて行うわけだから、その像をしっかり描けるようにしないといけないということだった。そこで、移動できなくても、取るために頑張っているようだったら、ちょっとおもちゃを近づけてとれるようにしてやったのだった。こうやって「がんばったらとれた」という体験を積ませることで、「何とかがんばって動こう」という意志が強烈になるのではないかと考えたのだった。一方、ハイハイがしやすいように、つるつるの板を買ってきて滑りやすくするとともに、傾斜をつけて移動しやすくなる工夫をしたのだった。その結果、あっという間に自分でずりばいができるようになったのだった。

 最後に、障害をもつ子どもの親として、自分の認識がどのように変化していったのかを紹介した。自分の子どもがダウン症であることがわかったとき、大きなショックを受けたが、『障害児教育の方法論を問う』を読んで、自分の子どもも健常児と同じように可能性をもっているのであり、育て方次第でしっかりと育っていくのだと思うことができたのだった。しかし、最初の頃はかなり気負いこんでおり、あまり気持ちに余裕がなかった。しかし、1つ、また1つと子どもの成長を感じるたびに、その気持ちが少しずつ和らいでいき、「しっかり成長するんだな」と少し安心することができた。しかし、このような成長はいわば自然成長的なものとしか見られなかった。自分が意図的にやっている取り組みが、どのように影響を与えているのかはよくわからなかった。そのため、「本当にこれでいいのだろうか」という不安を覚えることもあった。しかし、理論的な実践として「ハイハイを促すための働きかけ」を行ったところ、子どもがハイハイをできるようになったことをきっかけに、子育てに関して自信をもつことができたのだった。10か月検診の際、もう普通のハイハイやつかまり立ちをしたり、手を離して歩くこともできている子どもがいたが、そういう姿を見て、「すごいな」とは思ったけれども、まだずりばいがちょっとできるぐらいでしかない自分の子どもについて卑屈に考えることは一切なかったのだった。そこには自分の子どももあるべき発達の過程をしっかり辿っているし、辿らせているという自信があったからだということだった。

 この1年間を振り返ったとき、もっとも大きな学びになったことは「すべての人間は可能性をもっている」ということである。このような内容は南郷学派の著作には書かれているし、これまでにも学んでいたけれども、これがいかに重要な論理なのかということがまったくわかっていなかった。本の上での知識でしかなかったのである。しかし、障害のあるわが子を育てなければならないという切実な問題にぶつかったとき、この論理のすばらしさに気づいたのである。

 もっとも子育てを始めた当初は、まだまだ信じるしかないというレベルだった。しかし、自らの取り組みによって子どもが大きく成長する姿を見せてくれる中で、この論理が自らの体験をともなったものとして、五感情像として発展していった。

 こうした認識でもって過去の偉大な教育学者の著作を読んでみると、やはりみな人間のもつ力・教育のもつ力を信じて実践に取り組んでいたのだということがわかった。「この子は育たないだろう」と思われる子どもたちに対して、信念をもって実践に取り組んでいったのである。教育学の歴史というのは、人間の力・教育の力のすさまじさが明らかにされていった歴史なのだということも読みとることができた(詳細は昨年掲載した「近代教育学の成立過程を概観する」を参照していただきたい)。その延長線上に、今の自分の子育てがあるのだということがわかった。

 しかし、いかに「人間には可能性がある」といったところで、それを現実化させるものが存在しなければ、結局は徒労に終わってしまうし、仮に成果が出たとしても一過性・偶然性にすぎないものとなってしまう。そこで求められるのが対象から導き出した論理であり、理論なのである。これをしっかりと自分のものにすれば、対象についての見え方が大きく変わってくるし、どうすればよいかの方向性が見えてくるということが自らの体験として非常によくわかった。

 この理論を体系的にまとめあげたものこそ教育学である。教育学の構築こそ私が掲げている人生の目標であるが、これを実現することは、「すべての子がその可能性を実現していってほしい」という先達たちの理想を具体化しようとするものなのである。人類が抱き続けてきた願いの実現につながる歴史的な大事業なのである。

 このようなことがわかったのは、障害をもって生まれてきたわが子のおかげである。本当に感謝している。家庭での子育てや教室での授業など、自分の実践の場で一人一人の可能性を最大限現実化させようと努力するとともに、そうした事実をもとに教育学を構築できるよう、研鑽に励んでいきたいと思う。
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2017年09月18日

障害児の子育ての1年間を振り返る(4/5)

(4)子育ての過程での親の認識の変化

 前回は、ハイハイを促すために行った働きかけについて紹介した。端的にまとめるならば、赤ちゃんがハイハイしやすい環境を作りだすとともに、ハイハイしようという意志が形成されるように、成功体験を積ませるように配慮したということであった。その結果、ずりばいをするようになり、現在では4mぐらいは移動できるようになったということだった。

 今回は、こうした取り組みの中で、親である私自身の認識がどのように変化していったのかについて紹介したい。

 冒頭で紹介したように、自分の子どもがダウン症であることがわかったとき、大きなショックを受けた。自分の子どもに障害があるとわかったとき、おそらく多くの親が同じような感覚をもつことだろうと思う。場合によっては、育児放棄や自暴自棄につながったりすることもあるだろう。

 私は幸いにも『障害児教育の方法論を問う』を読んで、自分の子どもも健常児と同じように可能性をもっているのであり、育て方次第でしっかりと育っていくのだと思うことができた。自分の子どもとしっかりと向き合っていこうという覚悟をもつことができた。

 今、「覚悟」という言葉を使ったけれども、最初の頃はかなり気負いこんでいたところがあった。「自分がしっかりしなければ、この子は育たないのだ」という思いが強かった。だからこそ散歩も毎日行うことになったのだが、あまり気持ちに余裕がなかった。

 しかし、1つ、また1つと子どもの成長を感じるたびに、その気持ちが少しずつ和らいでいった。例えば、2か月のときには、次のような記録を書いている。

(2か月と1週)
 最近、足の力や手を握る力がだいぶんついてきた。だっこをしているとき、足で蹴られたりするが、これが結構痛い。また、手で腕の肉などをつかまれたりすると、つねられたように痛い。首の力も少しずつついてきている。うつむせをさせていると、自分の首をだいぶん持ち上げられるようになってきた。地面から顔を浮かせて、顔の向きを変えることもできる。 

(2か月と2週)
 だいぶん体力がついてきた。そのことを感じるのは、授乳後の様子である。1か月の頃はおっぱいを飲んだ後はとてもぐったりして、そのまま寝てしまっていた。ところが、今は、確かにぐったりもするものの、そのまま寝ないことが多い。おっぱいを飲むというのは赤ちゃんにとって重労働のようだが、それに耐えうるだけの体力が身についてきたということであろう。飲んだ後のげっぷもよく出るようになってきた。また、最近だっこしていると、体を前に起こしてくる(腹筋してくるような感じ)ようになった。


 こうした小さな変化を見るたびに、「あぁ、ちゃんと成長しているんだな」と嬉しくなったし、安心することができた。

 しかし、このような成長はいわば自然成長的なものとしか見られなかった。自分が意図的にやっている取り組みが、どのように影響を与えているのかはよくわからなかった。そのため、「本当にこれでいいのだろうか」という不安を覚えることもあった。

 こうした不安が一挙に解消されたのが、前回紹介した「ハイハイを促すための働きかけ」である。人間は目的像を描いて行動する。ハイハイでいえば、おもちゃをとるという像を描くからこそ、それを実現しようとしてハイハイという行動をとるのである。しかし、ハイハイはすぐにはできない。ハイハイしようとがんばり続ける中で、一歩が出るようになるのである。そのがんばりを維持させるものは、「がんばったらおもちゃが取れた」という過去の成功体験であり、錯覚でよいからそれを与えることが必要になる。こうした論理に基づいて実践をしたわけだが、それによって見事にハイハイができるようになったわけである。

 この体験は、私にとってとてつもなく大きな自信となった。「あぁ、このようにして論理を使っていけばいいのか」ということがわかった。ここから普段の育児記録の量が一気に増えた。現実の目の前の子どもの姿と南郷学派の著作に書かれていることとが自分の中で次々とつながっていったのである。その内容をどんどん書き留めていった結果、約3か月で9万字にもなった。

 その時の自分の思いを次のように書いている。

 離乳食をなかなか食べなくて大変だなと思うこともあるけれども、子育て全般に関してはあまり不安がない。親の愛情を注ぐこと、自然に触れさせること、系統発生を辿らせること、食事をちゃんとすること、生活リズムを整えること、この5つぐらいがわかっていれば大丈夫だろうという感覚がある。何か問題が起こったとしても、この観点からその問題を説くことができるという自信もあるし、むしろ起こってくれた方がいろいろわかっていいなという思いすらある。


 この5つの観点の妥当性はともかく、これだけの自信をもつことができたということである。

 10か月検診の際、いろいろな親子と一緒の部屋で測定や診察を待つことになった。健常児の場合、10か月というと、もう普通のハイハイやつかまり立ちができている。子どもによってはもう手を離して歩くこともできている。そういう姿を見て、「すごいな」とは思ったけれども、まだずりばいがちょっとできるぐらいでしかない自分の子どもについて卑屈に考えることは一切なかった。自分の子どももあるべき発達の過程をしっかり辿っているし、辿らせているという自信があったからである。

 このように、当初は自分の子どもの可能性を信じるものの、気持ちに余裕がなかった状態であったが、理論的な実践によって結果を出すことができると、大きく自信をつけることができ、子育てに関して大きな不安を抱かないようになり、気持ちとしても余裕をもつことができるようになったのである。
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2017年09月17日

障害児の子育ての1年間を振り返る(3/5)

(3)ハイハイを促すための働きかけとその意味

 前回は、抱っこしながらの散歩について取り上げた。それを毎日行う意味について、実体面と認識面の2つに分けて確認した。今回は、ハイハイ(ずりばい)を促すために行った働きかけについて紹介したいと思う。

 そもそもハイハイをする意義について確認しておこう。ハイハイについては、世間では様々な見解がある。ハイハイをしないままつかまり立ちをするようになってもよいという見解もある。そうした見解に対して、瀬江先生は次のように批判しておられる。

「『なぜそこまでハイハイにこだわるのですか。人間の基本的運動形態は、二足で立って、歩き、両手を自由に使うことなのですから、ハイハイしなくても、立てるようになればいいのではないですか』と思うかもしれません。
 しかし、残念ながらそれは誤りです。なぜならば、ハイハイという過程を経ないで歩くようになると、人間としては、大きな欠陥をはらんだままの発達をしてしまうからです。それは、いったい何でしょうか。これには大きく二つあります。
 一つは、一番大事な時期に、前腕から上腕そして肩にかけての上肢の力がつかないままに、歩いてしまうことになるということです。(中略)唯一、上肢を力強く鍛える過程であるハイハイを経ないで歩行へと進んでしまうことは、人間としての運動形態に、大きな欠陥をはらんでしまうことになるのです。
 次に、ハイハイを経ないままに歩いてしまうことの欠陥の二つ目は、一つ目よりもさらに重大なことです。それは何かといえば、ハイハイによる赤ん坊の脳の発達の可能性を、欠落させてしまうということです。
 なぜならば、自らの力で動くことがまったくできずに生まれてきた赤ん坊が、地球の重力に逆らって、自らの体を移動させようとするけれど移動できない、移動させようとするけれど移動できない、を繰り返し、ようやく移動できるようになる過程は、人間としての脳の実力をすさまじくつけることになるからです。」(瀬江千史「看護の生理学(45)−運動器官第10回−」『綜合看護』(2013年1号)所収)


 つまり、ハイハイをすることによって上肢を鍛えることができるのであり、またハイハイができるようになる過程(=自らの体を移動させようとするけれど移動できない、移動させようとするけれど移動できない、を繰り返し、ようやく移動できるようになる過程)が人間としての脳の実力をすさまじくつけることになるのだということである。

 こうしたことを学んでいたので、とにかくハイハイはしっかりとさせたいと考えていた。およそ7か月の頃には、うつぶせになって、目の前にあるおもちゃに手を伸ばす姿が見られるようになったので、ハイハイを促すための働きかけを行うことにした。

 上の瀬江先生の論文では10か月検診でまだハイハイができない子どもの事例が取り上げられており、母親に生活状況をたずねてみると「自らハイハイしなくてもよい環境があった」として、次のように書かれていた。

「例えば、母親が見えなくなって泣けば、すぐに同居の祖母がとんできて抱っこをする、近くにあるオモチャを取りたくて泣けば、すぐに母親や祖母が取ってくれる・・・ということで、自ら大変なハイハイをしなくても、泣くだけで自分の目的が達成されてしまう状況にあった、ということです。」


 これを読んで、「なるほど、近くにおもちゃを置いて、多少泣いても放っておくのが大事なんだな」と思い、実践することにした。やってみると、叫び声をあげたり、必死で手を伸ばしたり、足で床を蹴っておしりを上げたりするが、進むことはできず、泣きじゃくる姿が見られた。

 その様子を見ていて、何か取り組みとして間違っているのではないかという思いを抱くようになった。もう無理だなと思ったときに「よくがんばったね。次もがんばろうね」とか言いながら抱っこしてなぐさめるのだが、何となく「これではだめなのではないか」という思いがあった。泣いた状態で終わるというのが、あまりいいとは思えなかったのである。

 そこで、我々の研究会の指導者に相談することにした。すると、ずりばいができるためには、土台としての実力が必要だと説いていただいた。例えば、おもちゃがとれなくて叫び声を上げたりするのだが、これは要するに頭の中で思い描いている像(=おもちゃをとって遊んでいる像)と現実を一致させられないことに対する苛立ちの表現として見ることができる、そういう像を描けることがずりばいを行うための土台として必要になる、ということであった。そうやって像が先行して、その像を実現させようとする過程で実体の力がついていくのだと説いていただいた。

 さらに具体的な取り組みとして、最後にはおもちゃをとれるようにしてやることが大事だということであった。そうすることで(錯覚ではあるものの)「がんばったらおもちゃがとれた」という成功体験をさせることになり、「次もがんばろう」という認識を育てることになるのだ、ということであった。

 これを聞いたとき、とても納得することができた。とりわけ最後には取れるようにすることが大事だという話は、自分が感じていた疑問を見事に解消するものであった。それ以後、必死でとろうとがんばる姿を見せたら、頃合いを見計らっておもちゃを子どもの方に寄せて、取れるようにしてやった。そして、「おもちゃに届いたね〜、よくがんばったね〜」などと言いながら、抱っこしたりするようにした。

 これを2週間ほど続け、取ろうとする意欲が高まっていることは感じられた。例えば、おもちゃを触ろうと必死で手を伸ばすあまり、ごろんと体ごと回転してしまうこともあった。しかし、なかなかずりばいができるようにはならなかった。

 私の家では床にカーペットをひいているのだが、カーペットは摩擦が強いから進みにくいのだろうと思った。これがつるつるの板で、しかも傾斜がついていれば、ずりばいができるようになるのではないかと考えた。

 さっそくホームセンターで木材(パネコート)900mm×1800mmを購入し、700mm×1600mmにカットしてもらった。また、端材で700mm×100mmを6つ作ってもらい、傾斜をつけるための土台とした。こうすれば、土台の板を1つずつ外せば、少しずつ傾斜が緩やかになる。

image.jpeg

この上に乗せて、少し距離のあるところにオモチャをおいたところ、すぐさまずりばいができた。両手を広げて地面につき、腕の力で体を前に引き寄せたり、足で蹴って体を前に推し進めたりしながら、そのオモチャに向かって移動する姿が見られたのである。

 当初は近い距離におもちゃを置かないとずりばいをしなかった。そこで、近づいて少し遊んでは、また少し離れたところにおもちゃを置き、そこに近づいて少し遊んでは、また離れたところにおもちゃを置き・・・ということを繰り返して、板の端から端までずりばいをさせるようにした。これをやっているうちに、最初から板の端におもちゃをおいても、そこに向かってずりばいをするようになった。ずりばいを繰り返す中で、それだけの距離を移動できるだけの実体の実力と、「あそこまでならいける」という認識が形成されたのだと言えるだろう。

 その後は傾斜を緩やかにしていき、やがて普通のフローリングでもずりばいができるようになった。さらに、しばらくすると、最初はできなかった摩擦の強いカーペットの上でもずりばいができるようになった。

 この段階ではちょっと移動しては止まり、ちょっと移動しては止まり・・・という状態だったが、現在は休みなくあちこちに移動していくし、促せば4mぐらいずりばいができるようになっている。こちらの働きかけ次第で大きく成長するのだということを実感した出来事であった。
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2017年09月15日

障害児の子育ての1年間を振り返る(1/5)

目次
(1)ダウン症として生まれた子ども
(2)抱っこしながらの散歩とその意味
(3)ハイハイを促すための働きかけとその意味
(4)子育ての過程での親の認識の変化
(5)教育学の構築は歴史的な願いを現実化するものである

・・・・・・・・・・・・・・・

(1)ダウン症として生まれた子ども

 昨年の夏、待望の第一子が生まれた。遠方であったため、連絡を受けてからすぐに駆け付けるもその日のうちには到着できず、翌日の朝、子どもと対面することになった。2682gの男の子である。恐る恐るだっこしながら、生まれた子どもをかわいがっていた。

 妻の家族や親戚も来てくれて、しばらくみんなで話していたが、3時頃、看護師に呼ばれて、妻と子どもが部屋から出て行った。そのうち、私も呼ばれたので、部屋を出て行った。そして保育器などのある部屋の裏手のスペースに行くように指示された。そこには、妻が子どもを抱いてソファーに座っていて、医者がその前に立っていた。「いったい何の話だろう」と思いながら、私が妻の横に座ると、医者が話を始めた。

「赤ちゃんね、もしかしたらダウン症かもしれない。産まれたときはしっかり泣き声も上げていたし、あまり感じなかったんだけど、よく見ると、ちょっと独特な顔つきをしているしね。あと手に猿線もある。うちの看護師さんたちも、抱いた感じがフニャフニャしていると言っていてね。もちろん確定ではないけれど、うちの看護師もベテランだからね。」


 一瞬、何のことかわからなかった。少し冷静に考えて、要するに障害があるということだとはわかったが、ダウン症の具体的なイメージがわかなかった。

 ダウン症とは、端的には、先天的な染色体異常によるものである。人間は2本1組の染色体を23組(22組の常染色体と1組の性染色体)もっており、精子や卵子を形成する際には、2本1組の染色体が分離され、数が半分になる(減数分裂)。つまり、精子・卵子はそれぞれ23本の染色体をもっており、これが合わさることで23組の染色体となる。染色体は大きなものから1番、2番と番号がつけられているが、そのうち21番の染色体に異常が見られる場合、ダウン症となる。具体的に言うと、精子や卵子が形成される際に、21番の染色体がうまく分離せず、21番の染色体が2本のままの精子あるいは卵子が生まれ、それが受精することによって21番の染色体が1本多い受精卵が誕生することとなる。これがダウン症である。

 ダウン症の子どもは「おとなしくて反応が弱い」「おっぱいの飲みが悪い」「身体的な特徴がある」「抱くとやわらかい」といった特徴があり、出産後すぐに産科医や助産師が気づくケースがほとんどである。

 では、ダウン症の子どもにはどのような問題が生じてくるのだろうか。

 様々な合併症があるということが特徴である。まず心臓の病気である。例えば、閉じるべき血管が閉じていなかったり、心臓内の4つの部屋を隔てる壁に穴があいていたりする。こうした心臓疾患は「呼吸が速く荒い」「顔色が悪い(唇の色が紫色・チアノーゼ)」「オッパイの飲みが悪い」「元気がない」などの症状として現れる。次に消化器の病気である。胃から肛門へと至る過程に異常があり、食べ物がうまく排泄されないことがある。これは「よく吐く」「便が出ない」「おなかが異常に膨れている」「便秘」などの症状として現れる。また、成長の過程において体や骨がバランス良く発達せず、頸椎が不安定になることがある。白内障や内斜視といった視覚の障害、難聴などもある。知的障害も伴い、平均的なIQは50前後とされている。

 後日、血液検査の結果、ダウン症であることが確定した。幸い私の子どもには、大きな合併症はなかった。しかし、初めての子どもが障害をもって生まれてきたということで、ショックを感じずにはいられなかった。

 そんな私を大きく支えてくれたのは、志垣司・北島淳『障害児教育の方法論を問う(第一巻)』(現代社、2014年)に書かれている障害の一般論だった。

「障害を負うとは、実体及び機能上の不可逆的な変化によって、そのままでは環境との相互浸透ができにくくなることである」(p.42)


 ここで私の目に飛び込んできたのは、「そのままでは・・・できにくくなる」という部分である。「できない」ではないのである。どんなに障害をもっていても、環境との相互浸透をすることは可能なのだ。なぜなら、それこそが人間の一般性だからである。しかし、それが健常児に比べればできにくいということである。ということは、健常児の場合より意識的に環境との相互浸透を質・量ともに充実させれば、障害があっても十分に育つということである。

 この言葉に大いに励まされ、しっかりとわが子を育てていこうという決意を固めた。ダウン症の育児に関係する著作、松田道雄『育児の百科』、斉藤公子の著作、南郷学派の著作(『育児の認識学』『育児の生理学』『新・頭脳の科学』『看護の生理学』など)を何度も何度も読み返し、子育てに生かしていった。

 その甲斐あってか、1年を迎えた現在、子どもは元気に順調に育っている(ダウン症に関わって権威とされる医師からもそう言われている)。確かに発達上の遅れはあるものの、例えば、おすわりをしておもちゃで遊んだり、遠くにあるおもちゃに興味を示して、ずりばいで移動したりする。こちらが笑いかけると笑い返すし、手を振ると手を振り返す。パチパチ(拍手)をすると、同じようにパチパチ(拍手)をして、大きな笑い声をあげたりする姿が見られている。そんなわが子と一緒に過ごせる毎日がとても幸せである。

 本稿では、こうした過程に至るまでの1年間を振り返りたいと思う。具体的な取り組みとして、「抱っこしながら散歩」「ずりばいを促すための働きかけ」を取り上げるとともに、その過程で親としての認識がどのように変化したのかをまとめたいと思う。
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2017年08月22日

ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う(5/5)

(5)教育の必要性と可能性の論理を学ぶべきである

 本稿は『人間不平等起原論』を取り上げ、それが『学問芸術論』からどのように発展しており、どのような歴史的意義をもっているのか、またそこから学ぶべきものは何か、とりわけ教育学の構築に向けて掬い取るべき論理は何かを明らかにしようとするものです。

 ここでこれまでの流れを振り返ってみましょう。

 最初に、ルソーが自然状態において人間はどのようなものであると説いているのかを確認しました。ルソーは理性に先立つ2つの原理として、安寧と自己保存の欲求(自己愛)、そして、憐れみという内的衝動(憐憫の情)があるのだと説いています。つまり、人間は自分自身を大切にしようとする傾向と、相手を大切にしようとする傾向という2つの対立する傾向をもつ矛盾した存在なのだということでした。そして、これこそ『学問芸術論』で強調されていた良心の声の源泉であるということでした。ただし、このような2つの原理は動物一般に当てはまるものですから、人間のみに当てはまる原理は何かということを見ていきました。これについて、ルソーは人間の行為は本能に基づくのではなく自由行為であること、さらに、自己を改善(完成)する能力があること、この2つを挙げていたのでした。こうした人間観でもって、自然状態では人間は相争う状態にあったというホッブズの主張を批判しているのでした。自然状態では自分の生活を営むために必要な物資はごく限られていたため(それだけ欲求が小さかったため)他者の生活を害することは最も小さかったし、また憐れみの情があるために他者を虐げてまで自らの幸福を追求しようとする気持ちは和らげられたはずだというのでした。

 続いて、このような自然状態の人間がどのようにして変質していったのかを見てきました。自然状態においては個々人がバラバラで生活していたけれども、共同利害に基づいて集合する中で、他者に認められたいという欲求(自尊心)が新たに生まれるようになったということでした。次いで、冶金や農業が行われるようになり、その社会の中での私有が認められるようになると、自然的素質に恵まれたものがより多くの財産を獲得するようになり不平等が成立したのでした。そこから次第に、他人を見下ろしたい(=他者から大きな尊敬を受けたい)という欲求が生まれ、必要以上に財産を増やそうとするようになった、また財産や財産を獲得するための自然的素質をもっているふりをするようになったのだということでした。つまりは、欲求の拡大の中で存在と外観のズレが生まれたのだということでした。そもそも存在(本質)と外観(現象)のズレということは、上流階級のあり方としてルソーが『学問芸術論』で批判していたものでしたが、そのようなあり方がどのようにして生まれてきたのかという問題意識がここに明確に現れているということでした。

 最後に、富者と貧者が生まれた後、社会や法律がどのようにして成立したのかという点についてルソーの見解を見てきました。他人を見下ろしたいという欲求から、必要以上に財産を増やそうという欲求は所有する土地の拡大を伴うものであったため、やがて他者の土地とぶつかることになったのでした。そうすると、貧者は生きていくために富者に従うか、あるいは富者から奪うかをしなければならなくなり、一方、富者は、支配することを体験すると、その快楽からより隣人たちを征服し、隷属させようとしたために、無秩序な戦闘状態が生まれたのだということでした。このような戦闘状態は、富者にとって大きな負担となるものであったこと、また、自分たちの財産は力によって獲得されたものである以上、力によって剥奪されても文句を言うことはできなかったということ、この2つの理由から、富者は「もっともらしい理由」をつけて自らの支配を正当化し、団結を促して、戦闘状態を食い止めようとしたのだ、これが社会や法律の起原なのだということでした。一方で、貧者も仲裁者や主人なしには自分の自由を確保できなかったため、この呼びかけに応じたのであり、あくまでも自分の自由の確保のために社会や法律の成立を認めたのだということでした。この点こそ、ルソーが最も強調したところであることを確認しました。

 ここまでルソーが『人間不平等起原論』でどのようなことを説いているのかを見てきました。『学問芸術論』からの発展ということで言えば、社会的に認められたいという欲求に従うのではなく、自らの良心の声に従って生きるべきだという主張が「自由」という概念で把握された点が挙げられるでしょう。ルソーは当時の上流階級のあり方に対するアンチテーゼとして、人間のあるべき姿、人間の本質を「自由」という形で把握することになったのです。そして、この自由の実現という観点から社会や法律の成立の意味を説こうとしたことは、自らの人間一般論で人間の歴史に筋を通そうとしたものであり、非常に学問的なアタマの働かせ方であったと言えるでしょう。

 このような把握が後にヘーゲルへと受け継がれていくことになります。ヘーゲルはこの世界の歴史を絶対精神の自己運動の過程として捉え、その中でも人間の歴史を(絶対精神の本質である)自由が実現されていく過程として捉えたのですが、そのベースとなる「人間は自由である」という人間観はまさにルソーから受け継いだものだと言えるでしょう(注)。

 また、その中身に目を向けると、欲求の拡大という視点で人間の歴史を把握しようとしている点が注目に値すると言えるでしょう。自然状態においてはごく限られた欲求しかなかったため、自己の生活の維持が他者の生活を脅かすようなことはなかったのですが、他者との関わりが生じてきて自らの生活のあり方が変化するに伴って、その欲求が徐々に拡大していったのだとルソーは説いています。ルソーはこのような欲求をマイナスとして捉えているようにも感じられますが、これはもう少し抽象化して捉えるならば、生活の変化とそれに伴う社会的認識の変化・発展に目を向けているということです。このように、ルソーの指摘は社会的認識の変化・発展として捉える南郷学派の歴史観につながるものだと言えるでしょう。

 このように、人間の歴史の見方について、その後のヘーゲルや南郷学派の主張につながる基本的な枠組みを提示したものがこの『人間不平等起原論』だと言えるでしょう。

 もっともそこには限界も存在しています。例えば、ルソーは人間には自己保存の欲求と憐れみの情があると主張していますが、なぜこのような相対立する傾向をもつのかは明らかにされていません。これがあることが前提として議論が進んでいます。「自然状態における人間は、…たとえ親子であっても一緒に生活することはなかったのだ」ともありますが、本当にそう言えるのかも疑問に感じるところです。また、なぜ人間だけが本能による支配を受けず自由なのかという点についても説かれていません。ここを説くためには、そもそも生命体がどのようにして誕生したのか、またその生命体はどのような過程を経て人間へと至ったのかを解明することが必要になります。進化論がまだ唱えられていなかった時代において、ルソーがその解明にまで至らなかったのは当然だと言えるでしょう。この点については、すでに『看護のための「いのちの歴史」の物語』が発刊されている現代において、筆者自身が取り組んでいかなければならないものだと考えています。

 では、教育学の構築に向けては、『人間不平等起原論』からどのような論理を掬い取るべきなのでしょうか。端的に言えば、教育の必要性と可能性についての論理をここでしっかり把握しておくべきだと言えるでしょう。

 ルソーは人間は本能に従うのではなく自由な存在なのだと主張していました。予め定められた本能に従うのではなく自由であるからこそ、人間は外界の変化に対応する形で自らをより発展させていくことができるわけです。このように人間には自らを改善する能力があるということもルソーが掲げた人間観の1つでした。自らを改善する能力があるからこそ、人類というレベルで捉えるならば、歴史を形成することが可能になるわけです。つまり、時代が経つにつれて、どんどん文化遺産を積み上げていくということです。したがって、新しい時代に生きる人間に対しては、その文化遺産を継承させる必要が生まれてきます。そうでなければ、歴史を前に推しすすめていくことができません。ここに教育の必要性が生じてくるのです。

 一方、教育の可能性とはどういうことでしょうか。人間は自らを改善していく能力があるということを、個の人間に着目して捉えるならば、どんどん成長していく可能性をもっているということです。このような可能性をもった存在であるからこそ、教育が成立しうるのだということです。これが教育の可能性ということです。

 このように、教育の必要性と可能性についての基本的な論理(人間観)を提示したことが教育学の観点からは評価することができるでしょう。筆者自身の教育学体系の中にもこのようなルソーの論理をしっかりと取り込んでいきたいと思います。

(注)
もっともルソーとヘーゲルにはその自由がどのようにして実現するかという捉え方については、相違点もあります。ヘーゲルはルソーの『人間不平等起原論』の記述を引用して、次のように指摘しています。

「『根本的な課題はこうである。各人の生命と財産を全体的な共同の力で保全し保護するとともに、全体とむすびつく各個人が自分以外のだれにも服従せず、自然状態にあったときとおなじように自由であるような、そういう結合の形式を見出すこと。それが社会契約の解決すべき課題である。』社会契約とはこのような結合のことであり、各人は自分の意思で契約をむすぶことになります。抽象的に表現されるかぎりで、この原理はまことに正当なものです。が、一歩踏みこむと、すぐにあいまいな点が見えてくる。人間が自由である、というのは、いうまでもなく、人間の実体をなす本性であって、その本性は国家のなかで放棄されるどころか、むしろ、国家のなかではじめて現実に形成される。本性上の自由や自由の資質といったものは現実の自由ではなく、国家によってはじめて自由は現実化するのです。」(ヘーゲル、長谷川宏訳『哲学史』(下巻)p.371、河出書房、1993年)

 つまり、ルソーは、人間はもともと自由であり、それが侵されないような国家の在り方を考えなければならないという主張であったのに対して、ヘーゲルは国家の中でこそ人間の自由は実現するのだと主張しているのです。
 このように自由の実現における国家の役割という点については両者の間に相違点がありますが、そもそも人間は自由なのだと捉える点は共通しているといえるでしょう。
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2017年08月21日

ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う(4/5)

(4)ルソーは社会の成立を自由の確保のためだと捉えた

 前回は、社会的な不平等がどのようにして生まれてきたのかについてルソーがどのように説いているのかを見ました。自然状態においてはバラバラに生活していた人間は、共同利害に基づいて社会を形成するようになり、その中で他者に認められたいという欲求が生まれてきたのでした。やがて、冶金や農業が行われるようになると、私有が生まれ、自然的素質のめぐまれたものはより多くの財産を形成するようになり、社会的な不平等が生まれたのだということでした。さらに、他人を見下ろしたい(これは逆に言えば他者から大きな尊敬を受けたいということでもあります)という欲求から、必要以上に財産を増やそうという欲求が生まれてくることとなったのだということです。このような社会では、財産や財産を獲得するための自然的素質をもっているふりをすることが求められるために、実際の自分とはちがったふうに見せるようになったのだということでした。このような把握の背後には、当時の上流階級のような人間がどのようにして生まれてきたのかという問題意識があるということでした。

 このような富者と貧者が生まれた後、強者と弱者、さらには主人と奴隷という不平等が生まれてきたのだとルソーは説いています。その過程の中で社会や法律が生まれてきたとしているのですが、今回はこの社会や法律がどのようにして生まれてきたのかという点を中心に見ていきたいと思います。

 前回紹介したように、格差の中にあって、人々は他人を見下ろしたいという欲求から、必要以上に財産を増やそうという欲求をもつようになったのでした。これは当然所有する土地の拡大を伴うものですが、やがて他者の土地とぶつかることになります。こうして利害の対立が生まれ、無秩序な戦闘状態が生まれたのだとルソーは説いています。

「相続財産が数においても範囲においても増大して地面全体を蔽い、すべてがたがいに接触するほどになったとき、ある者は他の者を犠牲にしないではもはや拡大することはできなくなってしまった。そして無力なためか、または無頓着なために自分の相続分を手に入れることができなくて相続者の数から漏れた者たちは、周囲では、すべてが変るのに彼らだけはいっこうに変らなかった自分は何も失わないのに貧乏になり、やむをえずその生活の資料を富者の手からもらうか奪うかしなくてはならなかった。そしてそこから人それぞれのさまざまな性格に従って、支配と屈従、あるいは暴力と掠奪が生れはじめた。富める者のほうでも、支配することの快楽さを知るようになると、たちまち他の一切の快楽を軽蔑した。そして新しい奴隷を服従させるために古い奴隷を使い、こうして隣人たちを征服し、隷属させることしか考えなかった。(中略)このようにしてもっとも力の強い者、またはもっとも貧困な者が、その力または欲求を、他人の財産に対する一切の権利―彼らによれば所有権と等価なもの―としたので、平等が破られるとともにそれに続いてもっとも恐ろしい無秩序が到来した。」(pp.102-103)


 つまり、貧者は生きていくために富者に従うか、あるいは富者から奪うかをしなければならなくなったということです。一方、富者は、支配することを体験すると、その快楽からより隣人たちを征服し、隷属させようとしたのだということです。こうして、無秩序な戦闘状態が生まれたのだということです。

 このような戦闘状態は、富者にとって大きな負担となるものでした。また、自分たちの財産は力によって獲得されたものである以上、力によって剥奪されても文句を言うことはできない理屈になります。

 そこで、富者は戦闘状態を食い止めるとともに、自らの支配を正当化するために、次のように述べて団結を促したのだとしています。

「弱い者たちを抑圧からまもり、野心家を抑え、そして各人に属するものの所有を各人に保証するために団結しよう。正義と平和の規則を設定しよう。それは、すべての者が従わなければならず、だれをも特別扱いをせず、そして強い者も弱い者も平等におたがいの義務に従わせることによって、いわば運命の気紛れを償う規則なのだ。要するに、われわれの力をわれわれの不利な方にむけないで、それを一つの最高の権力に集中しよう、賢明な法に則ってわれわれを支配し、その結合体の全員を保護防衛し、共通の敵を斥け、われわれの永遠の和合のなかに維持する権力に。」(pp.105-106)


 このように、富者は「もっともらしい理由」(p.105)を述べて、法を制定し、自らの支配を正当化したのだと主張しています。このようにして社会および法律は成立したのだというのです。

 一方で、貧者も仲裁者や主人なしには自分の自由を確保できなかったため、この呼びかけに応じたのだとしています。この「自分の自由の確保」という点こそ、ルソーが最も強調したところであり、次のように述べています。

「人民たちのほうがまず最初に絶対君主の腕のなかへ無条件に、かつ、永久的に身を投じたとか、共通の安全に備えるために、誇り高く、屈服をよせつけない人々が思いついた最初の手段が、奴隷状態のなかへ飛び込んでゆくことであった、などと信ずることも同じく道理に合った話とはいえまい。(中略)人民たちが首長を自分たちのために設けたのは、自分たちを奴隷とするためではなく、自分たちの自由を守るためであったということは異論のないところであり、またそれは、一切の国法の根本的な格率である。」(p.111)


 このように、社会やその社会の首長はあくまでも人々の自由を守るために創られたものであったということです。しかし、それが専制的な権力へと変化し、主人と奴隷との状態が容認されるに至ったのだ、これが不平等の行き着く先なのだとルソーは主張しているのです。

 前々回で紹介したように、ルソーは人間が他の動物とは異なる点は自由であり、自由こそ人間の本質であると考えたのでした。その人間の歴史において生まれた社会も、あくまでもその自由を確保するためのものとして成立したのだと捉えたのです。このように、社会の成立に対するルソーの把握には自らの人間観が貫かれているのだと言えるでしょう。
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 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言