2013年10月06日

ヒューム『政治論集』抄訳(1/8)

目次

(1)ヒューム『政治論集』の抄訳掲載にあたって
(2)商業について
(3)奢侈について
(4)貨幣について
(5)利子について
(6)貿易差額について
(7)租税について
(8)公信用について

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)ヒューム『政治論集』の抄訳掲載にあたって

 本ブログでは、現代経済学の行き詰まりを打開していくためのヒントを探る、との問題意識の下に、アダム・スミスに注目してきました。とりわけ「アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う」においては、通常は「経済学の父」とされているアダム・スミスが、けっしてたんなる経済学者だったわけではなく、「哲学」という語の厳密な意味――哲学とは森羅万象に筋をとおして把握した体系である――において、哲学者と呼んでよいほどの広い視野をもった偉大な学者であったことをあきらかにしました。

 この哲学者アダム・スミスに決定的な影響を与えた人物として、デイヴィッド・ヒュームをあげることができます。この間、本ブログに掲載してきた論考においては、ヒューム『人間本性論』における因果律批判に衝撃を受けたスミスが、この衝撃を批判的に消化していくために「天文学史」(正式には「哲学的研究を導き指導する諸原理」)という論考を書き上げたことが、結合原理の探究(仮説の樹立→実験・観察による検証)という科学方法論の獲得につながったのではないか、と論じてきました。

 しかし、ヒュームがスミスに与えた影響はこれにとどまるものではありません。スミスをあくまでも経済学者として捉えてみたとしても、そこには偉大な先輩ヒュームからの強い影響をみてとることができるのです。端的には、スミスは経済思想家としてのヒュームから学ぶことなくしては、「経済学の父」と称されるような業績を成し遂げていくことは不可能であっただろう、と思われるのです。

 ヒュームの経済思想家としての側面を代表する著作といえば、何よりもまず、1752年1月に出版された『政治論集』(原題:political discourses)が挙げられるのですが、これが出版された翌年の1753年1月23日には、若きスミス(30歳)が、グラスゴウの文芸協会の会合において、この『政治論集』についての報告を行ったことが伝えられています。これは『国富論』出版の23年前のことです。スミスはこの年、グラスゴウ大学の道徳哲学教授に就任し、6年後の1759年に『道徳感情論』を出版、さらに法学についての講義、貴族子弟の家庭教師としてのフランス滞在を経て、1776年に『国富論』を出版することになったのでした。

 20世紀を代表する経済学者であるシュンペーターは、大著『経済分析の歴史』において、経済学史上におけるヒュームとスミスの関係について、次のように述べています。

「まさにこれ〔自動調節機構についての論――引用者〕を射抜いた者のなかでももっとも傑出していたのは、カンティヨンとヒュームであった。ヒュームの論文が若干の異論を引き起こした事実は、かえって彼の功績の証となるものである。……本質的には、彼の業績は「重商主義的」遺産から誤謬の塵を払い落としたこと、およびこれらの部品一つのきちんとしたよく発達した理論に組み立てたこと、にある。そして以上がすべてである。この世紀の残りの期間には、大きな重要性を持ったものは何も付加されなかった。『国富論』においてアダム・スミスはヒュームを抜きんでることなく、むしろ彼以下に留まった。実際のところ、ヒュームの理論は、自動調節の媒介手段としての価格の運動に対する彼の過度の強調をも含めて、実質上は今世紀の二〇年代にいたるまで、少しも挑戦されるところがなかったと言っても、真理から隔たるものではない。」(シュンペーター『経済分析の歴史(上)』岩波書店、p.664)


 スミスがヒューム以下のレベルにとどまっていたという評価が妥当かどうかは別にして、ヒュームの経済思想が経済学者としてのスミスに決定的な影響を及ぼしていたこと、ヒューム『政治論集』からの学びなくしてスミス『国富論』はありえなかったということ自体は、間違いないでしょう。

 それでは、経済学の歴史においてこれほどまでに大きな役割を果たした『政治論集』とは、いったいどのような著作だったのでしょうか。この著作の初版に収録されていたのは、以下の12の論説でした(ちなみに、その後『政治論集』は増補改訂をくり返され、新たな論説が次々と追加されていき、タイトルも『いくつかの主題についての論集』に変更されています)。

1.商業について
2.奢侈について
3.貨幣について
4.利子について
5.貿易差額について
6.勢力均衡について
7.租税について
8.公信用について
9.若干の注目に値する法慣習について
10.古代諸国民の人口稠密について
11.新教徒による王位継承について
12.完全な共和国についての設計案


 以上をみて明らかなように、『政治論集』といいながら、経済的な問題を正面から取り上げた論説が大半を占めています。現代的な感覚からすれば経済問題として分類されるような諸々のテーマ(貨幣、利子、貿易差額、租税、公債など)が、あくまでも政治の問題として、いいかえるならば、国家の維持・発展にかかわる問題として、論じられているのです。これは、直接的には、経済学の未確立という当時の学問的な情況を示すものですが、根本的にいえば、経済の政治からの未分化という社会の歴史的な発展段階の反映であるといえるでしょう。扱われているテーマ(商業、奢侈、貨幣、利子、貿易差額、租税、公信用)は、いわゆる重商主義的な経済思想のなかで論じられてきたものであり、名誉革命体制下イギリスの社会情況において大きな政治問題となっていたものにほかなりません。

 本稿では、この『政治論集』の抄訳という形で、ヒュームの経済思想について紹介していくことにしたいと考えています。取り上げるのは、上の12の論説のうち「商業について」「奢侈について」「利子について」「貿易差額について」「租税について」「公信用について」の7つです。抄訳の作成にあたっては、小松茂夫氏による訳文(岩波文庫『市民の国について』)および田中秀夫氏による訳文(京都大学学術出版会『政治論集』、1752年初版が基本)を見比べながら、ヒュームの原文と照らし合わせつつ要約していくという形で、作業をすすめました。

 なお、ヒュームの経済思想の歴史的意義、現代的意義についての突っ込んだ検討は、別稿においておこなう予定にしています。
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2012年09月27日

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったか(13/13)

(13)経済学は社会科学の一部門として位置づけられるべきものである

 前回は、本稿でこれまで説いてきた流れを簡単に振り返ってみることにより、1776年に出版されたアダム・スミスの『国富論(諸国民の富の本質と原因にかんする研究)』が、国家権力の保護から脱した経済の自立的かつ自律的な発展がはじまりつつあるという歴史的条件のもとで、それまで富にかかわる諸問題をめぐってなされてきた諸々の議論を批判的に継承しつつ、富の性質と原因を究明する独自の学問として経済学という学問が確立されなければならないことを宣言した著作であったことを確認しました。

 端的には、国民の富をより大きなものにしていくためにはどうすればよいかという問題意識から、社会的総労働の配分過程にたいする国家権力の恣意的な介入に反対し、それを市場の自然で自由な動きに任せるように主張したのが、『国富論』であったということができます。こうしたスミスの主張は、非常に有名なつぎの一節によく表現されているといえるでしょう。

「各個人は、かれの資本を自国内の勤労活動に用い、かつその勤労活動をば、生産物が最大の価値をもつような方向にもってゆこうとできるだけ努力するから、だれもが必然的に、社会の年々の収入をできるだけ大きくしようと骨を折ることになるわけである。もちろん、かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけでもないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、かれがこれを意図していた場合に比べて、かならずしも悪いことではない。社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも、自分自身の利益を追求するほうが、はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている徒輩が、社会の福祉を真に増進したというような話は、いまだかつて聞いたことがない。」(アダム・スミス、大河内一男監訳『国富論 U』中公文庫、pp.119-120)


 このようにスミスは、市場における価格変動をつうじた社会的総労働の配分過程に着目し、各個人の利己的な行動が「見えざる手」によって社会全体の利益へと導かれていくのだと論じたのでした。

 それでは、現代の経済学が陥っている混迷情況を打開していかなければならないという課題との関連においては、このような歴史的背景のもとで登場してきた『国富論』のどのような点に着目すべきなのでしょうか。

 ここで決定的に重要なのは、社会的総労働の配分過程にたいする国家権力の恣意的介入に反対したスミスは、けっして国家を経済学の考察対象から除外しようとはしていなかったということです。『国富論』の第5篇において、スミスは、重商主義的な諸政策が廃されたとしても国家がなすべき仕事はなお存在するとして、国防、司法、公共事業の3つをあげています。これらは、どの市民にたいしても普遍的な利益をもたらしますが、市民の個別的な利益にはならない(儲からない)ために、市場では提供されません。このため、国家がこの仕事を引き受けなければならないとスミスは主張するのです。

 つまり、『国富論』は、たんに社会的総労働の配分過程にたいする政府の介入を排するよう主張するだけでなく、すべての国民にとって利益になる仕事をなす主体として、政府を位置づけなおしているのです。スミスは、国家のなすべき仕事について(「経費論」)、また、国家の仕事に必要な財源の調達について(「租税論」)、市場の自然で自由な動きとの関連において、論じています。このようにスミスは、市場論と国家論とを統一したものとして『国富論』を構成していたわけです。まさに「政治経済学(political economy)」です。

「政治経済学は、およそ政治家あるいは立法者たるものの行なうべき学の一部門としてみると、はっきり異なった二つの目的をもっている。その第一は、国民に豊かな収入もしくは生活資料を供給することである。つまり、もっとはっきり言えば、国民にそうした収入や生活資料を自分で調達できるようにさせることである。第二は、国家すなわち公共社会にたいして、公務の遂行に十分な収入を供することである。だから経済学は、国民と主権者の双方をともに富ませることをめざしている。」(アダム・スミス、大河内一男監訳『国富論 U』中公文庫、p.75)


 このようにスミスは、政治経済学について、国民と国家の双方を富ませるための学問であると定義しました。国民を富ませるために市場の自然で自由なはたらきを確立(国家の恣意的介入の排除)し、こうして実現される国民の富の形成を大前提に、それをできるかぎり阻害しないように配慮しつつ、国家の富の形成(財源の調達)がはかられるべきだ――このような形で、市場論と国家論(より正確には財政論というべきでしょうが)が統一されていたわけです。

 ところが、スミス以後の経済学は、考察の対象をしだいに市場のみに限定していくようになっていきました。市場における社会的総労働の配分は、「少しでも大きな儲けを上げたい」「少しでも安いモノが欲しい」といった市場参加者の動機に規定されて、効率性を唯一の基準としておこなわれます。こうした場面に考察の対象が限定されていくことによって、経済学は市場における効率的な資源配分を研究する学問であるとみなされるようになっていきます。1932年、ライオネル・ロビンズは「経済学とは、代替的用途をもつ稀少な諸手段と諸目的との間の関係として人間行動を研究する学問である」(『経済学の本質と意義』)と定義しました。こうして経済学は「政治経済学(political economy)」からたんなる「経済学(economics)」へと変質を遂げてしまったのでした。

 しかし、私たちは、市場における効率的な資源配分のみに研究対象を限定してしまったことこそが、現今における経済学の行き詰まりを引き起こした元凶であると考えるべきでしょう。そもそも社会的総労働の配分過程はけっして市場だけで完結しているものではなく(政府による公共事業や社会保障が不可欠)、たとえ社会的総労働の配分過程を全体としてみたとしても、それは国家という枠組みをもった社会のほんの一部分を占めるにすぎないからです。にもかかわらず、「経済学(economics)」は、社会という有機的な全体のなかから、貨幣を媒介にした効率的な資源配分の場としての市場のみを実体的に切り離して究明の対象としようとしてきたわけです。これは、生きた人体から心臓や肝臓だけを実体的に切り離してきて研究し、それで立派に生きた心臓や肝臓を研究しているかのように思い込むのと大差ない錯誤というべきでしょう。

 しかし、社会のなかからようやくにして経済という領域がはっきりとした姿を現わしつつあった時代のアダム・スミスにとっては、経済が社会の一部にすぎないこと、したがってまた経済はあくまでも社会の一部分として究明していかなければならないことなど、当然過ぎるくらいに当然のことでしかありませんでした。ここで、われわれは、たんに『国富論』が市場論と国家論を統一したものであったというだけでなく、この『国富論』すらも、倫理学(『道徳感情論』)や法学などとともに、スミスの道徳哲学――社会生活のなかで形成される諸々の規範にかかわる事象をひろく扱う、いわば“社会科学一般”とでもいうべき学問――を構成する一部分にすぎなかったのだということに思いを致さなければなりません。現在の経済学の危機を打開していくために必要なのは、なによりもまず、このような広い視野を回復することであるということができるでしょう。

(了)
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2012年09月26日

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったか(12/13)

(12)経済学は諸国民の富の性質と原因をあつかう学問として誕生した

 本稿は、現代の経済学の混迷状況を打破していくためのヒントが現代経済学の源流たるアダム・スミスの『国富論』にあるとの問題意識をふまえて、人類が18世紀後半にいたってはじめて経済学という学問を確立しなければならないと考えるにいたった背景には、いったいどのような経済の発展過程があったのかを探ってみることを目的としたものです。より具体的には、『国富論』においても直接的かつ媒介的に考察の対象となっている資本主義経済の生成史、より具体的には、古代ローマ帝国の崩壊と中世封建制の成立にはじまり、イギリス産業革命の前夜に至るまでの経済の発展の歴史を、ざっとたどってみることが、本稿のめざすところなのでした。

 ここで、本稿の連載第2回で提示した仮説的な経済本質論――社会的な諸欲求を最大限に満たしつづけるべく社会的総労働を適切に配分していくことにより、国家の維持・発展を物質的な側面から支えていくこと――とのつながりを意識しながら、これまで本稿で説いてきた流れを簡単にふり返っておくことにしましょう。

 中世封建制社会の基礎となった荘園は、ローマ帝国の崩壊からフランク王国による政治的な支配が確立されていく時代、外部から異民族の侵入があいつぐという混乱した情況のなかで、王・諸侯・騎士といった領主が農民を軍事的に保護してやるかわりに農民は領主に労役を提供し年貢を納めるという関係を基軸として、自給自足的かつ防衛的な経済組織として形成されていったものでした。衣服や家具などの生産は基本的に農家の副業として営まれていたため、工業が独立した産業として存在することはなく、村落には農具をつくる鍛冶屋が存在する程度でした。社会的な欲求を満たすための社会的総労働の配分は、こうした閉鎖的な荘園の枠組みの内部において、固定的な身分制度と一体のものとして実現されていたのです。ローマ教皇を頂点としたカトリック教会がこうした秩序を神の意志を根拠としてイデオロギー的に正当化する役割をはたしていました(カトリック神学においては、自給自足を基本とする荘園のあり方に規定されて、またアリストテレス以来の思想的な伝統もあって、商行為で儲けるのは不道徳なこととされ、利子の取得も否定されていました)。端的には、経済(社会的欲求に応じた社会的総労働の配分)は宗教的・政治的な関係と完全に一体のものでしかなかったのであり、社会のなかに経済という独立した領域を見いだすことは不可能だったのでした。

 こうした情況は、10世紀以降、封建制社会の安定につれて、社会的欲求の増大と多様化を原動力として、生産力の発展に支えられながら、しだいに崩されていくことになります。領主層の欲求を満たす物資を調達とするとともに荘園の剰余生産物をやりとりするために商業活動がさかんになっていくなかで各地に商工業者が定住する都市が形成されていき、さらに地中海貿易圏と北海・バルト海貿易という南北2つの貿易圏を外枠として、全ヨーロッパ規模で国際的な分業関係が形成されていくことになります。商業と工業の大きな発展は、中世封建制社会に特有な分権的構造を突き崩して全ヨーロッパ規模での交通関係を創出するとともに、商業利得を不道徳なものとするカトリックの思想的束縛をしだいに断ち切っていくことになったのでした。

 重要なのは、こうした商工業の発展過程は、中央集権的な国家権力によっていっそう促進されていったのだということです。とくに中世封建制の危機に対応する形で登場してきた絶対王政は、封建制に特有な地方割拠性を打破することで国内統一市場を創出し、さらに他の諸国家との対峙(戦争や貿易政策)をつうじて国民経済的な枠組みをしっかりと創出していくことになりました。イングランドにおいては、17世紀後半の市民革命で絶対王政が打倒されたことにより、こうした国民経済的枠組みのなかで、新しい経済のあり方が本格的に成長の軌道にのっていくことになります。こうしてイギリス(1707年、イングランドはスコットランドとの合邦でグレートブリテンとなりました)は、国家の総力をあげて、18世紀における世界的な商業戦へと乗り出していくことになっていきます。この商業戦において各国の政策を規定していたのが、重商主義という考え方でした。これは、「富=金銀」とみなし、金銀を獲得するために貿易黒字を大きくすることをめざして、輸出奨励金、高率関税による輸入制限、植民地経済への統制などの政策をおこなおうとするものでした。

 ここまでの中世ヨーロッパ経済史を一言でまとめるならば、自給自足を基本的原則とした農業中心の社会のなかに貨幣経済がしだいに浸透していくことで封建的な諸々の束縛が解体されていく過程であったということができるでしょう。これを思想のレベルに焦点をあててとらえてみるならば、商業的な利得が不道徳なものとして非難され利子の取得が禁止されていた状態から出発して、これらが当然のものとして認められていく過程であったということができます。すなわち、経済活動がしだいに倫理的・宗教的な束縛を断ち切っていくことによって、商業的利得が恥ずべきものではなくなり、ついには国家的目的として堂々と掲げられるまでにいたったのです。こうした過程によって、「経済、取引、金もうけが、実際に科学や哲学に入りこみ、サロンにだしても少しも恥ずかしくない題目にはじめてなった」(シュテーリヒ『西洋科学史V』現代教養文庫、p.344)のです。

 経済活動が、荘園や中世都市の割拠的・閉鎖的・固定的な狭い枠組みを突き崩し、カトリックの思想的束縛を断ち切っていく動きは、中央集権的な国家権力によって大きく促進されてきたものでした。しかし、18世紀イギリスにおいては、政府による重商主義的政策の背後で均衡的な国民経済の発展の構造が形成され、自生的な産業革命への条件が成熟していく過程にありました。17世紀末の穀物価格の低下が実質所得の上昇をもたらしたことが大衆的な需要を急増させ、これに対応して様々な諸産業もいっせいに急速な発展を示すようになっていったのです。こうして18世紀のイギリス経済は、数多くの部門が相互に連関しあい好影響をあたえあいながら同時並行的に発展をとげていくという均衡的な成長のパターンを確立したのでした。こうした諸部門での発展のエネルギーは、しだいに重商主義的な諸政策の枠組み(政府による市場への恣意的介入)と衝突するようになっていきます。これは、経済本質論からいえば、社会的欲求に応じた社会的総労働の配分が、市場における商品価格の変動をつうじて実現される状態が確立されつつあったことの表現だといえるでしょう。市場は、政治的・宗教的な束縛から解放された自由な諸個人が貨幣を媒介として対等・平等な立場でむすびつく場です。社会的欲求に応じた社会的総労働の配分が、この市場を機軸として、すなわち宗教的あるいは政治的な関係からはっきりと区別された形でおこなわれるようになっていくことによって、社会のなかに経済とよぶべき領域が存在することがはっきりと浮上してくることになったのです。

 こうした歴史的条件のもとで、新興の産業資本の利害を代弁する立場で重商主義的な諸政策(社会的総労働の配分過程にたいする国家権力の恣意的な介入)に反対し、市場の自然で自由な動きに任せるように主張したのが、アダム・スミスの『国富論』にほかならなかったのだということができるでしょう。

 スミスは、経済学(正確には政治経済学〔political economy〕です)とは「諸国民の富の原因と性質を扱う」学問であると規定し、富とは金銀のことであり富の原因とは貿易黒字であるとした重要主義にたいして、激しい論争を挑んでいきました。スミスは、富の原因と性質をめぐる重商主義の見解にたいして、「国民の富は年々の労働の生産物からなり、その大きさは労働の熟練の程度と、有用な労働者とそうでない者との割合如何による」という見解を対置したのです。つまり、スミスによれば、富とは生活資料(人々の諸々の欲求を満たすモノ)のことであり富の源泉は労働にほかならなかったのです。スミスは、富を増大させるためには、分業によって生産性を上げるとともに、生産的労働の雇用を増大させるための資本蓄積が必要となるのだとして、富の源泉たる労働の合理的・適切な配分のあり方を研究の対象に据えたのでした。

 このようにして、アダム・スミスは、国家権力の保護から脱した経済の自立的かつ自律的な発展がはじまりつつあるという条件のもとで、それまで富にかかわる諸問題をめぐってなされてきた諸々の議論を批判的に継承しつつ、富の性質と原因を究明する独自の学問として経済学という学問が確立されなければならないことを宣言したのだといえるでしょう。
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2012年09月25日

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったか(11/13)

(11)イギリスにおける均衡的な国民経済の発展が産業革命を準備した

 前回は、18世紀においてはげしくたたかわれることになった世界商業の覇権をめぐる争奪戦の経過についてみました。この商業戦において各国の政策を規定したのが、重商主義という考え方でした。これは、「富=金銀」とみなし、金銀を獲得するために貿易黒字を大きくすることをめざして、輸出奨励金、高率関税による輸入制限、植民地経済への統制などの政策をおこなおうとするものでした。

 前回の最後で、アダム・スミスが18世紀後半に『国富論』を書いた直接の動機として、こうした重商主義的政策への批判があったことを指摘しました。アダム・スミスは、貿易差額の増大をめざしてなされた諸々の政策が、ことごとく経済の自然なあり方をゆがめてしまうものであると厳しく批判したのだということでした。

 しかし、同時に、こうした重商主義的な貿易政策の背後において、イギリス国内の諸産業が着実な成長の歩みを開始し、18世紀後半以降の産業革命の幕開けに向けた諸条件がしだいに成熟していく過程にあったことを見逃すべきではないでしょう。こうした観点から注目すべきことは、20世紀の大経済学者ジョン・メイナード・ケインズが、重商主義にたいして好意的な見解を示していることです。ケインズは、その主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』の「第23章 重商主義その他に関する覚書」において、「現在の私が、重商主義理論における科学的真理と考えるもの」として、つぎのように述べているのです。

「当局が貿易収支の黒字に関心をもったことは二つの目的に役立った。しかもそれが二つの目的を達成する唯一の可能な手段であった。すなわち、当局が国内利子率あるいはその他の国内投資誘因に対して直接の支配力をもたない時代においては、貿易収支の黒字を増加させる方策が、対外投資を増加させるために彼らがとりうる唯一の直接的手段であった。そして同時に、貿易収支の黒字が貴金属流入に及ぼす効果は、国内利子率を低下させ、それによって国内投資誘因を強化するための彼らの間接的手段であった。」(ケインズ、塩野谷祐一訳『雇用・利子および貨幣の一般理論』東洋経済新報社〔普及版〕、p.336)

 ケインズ理論とは、端的には、経済の順調な動きにたいして投資が大きな役割をはたすことを指摘し、(ある投資についての)予想利潤率と(その投資を実行するための資金を調達する際に必要な)利子率との関係が実際におこなわれる投資の大きさを決めていくのだという構造をあきらかにしたものであるといえます。ケインズは、このような観点から、金銀の流入増大をはかることが、対外投資の増加をもたらすとともに、利子率の低下による国内投資の刺激につながっていったのだと評価しているわけです。

 実際に、18世紀イギリスにおいて貿易差額が重視されたことは、たんに金銀を富と同一視する誤った思想にもとづいたものだとして片付けられるものではなく、客観的に見るならば、国内の余剰生産物の消費をおさえて輸出に振り向け、資本蓄積をおしすすめていくこと、そしてまた、通貨の供給量を増やすことによって信用の拡大をはかることにつながったのだということもできるのです。1694年に誕生したイングランド銀行による大幅な信用創造をつうじて大幅な利子率低下が実現したこと、さらに18世紀に入ってからポルトガルとの貿易で獲得した大量の金を基礎にして実質的な金本位制が確立され、これがさらなる信用拡大の基礎となっていったことは、前々回、前回にみたとおりです。

 総じていうならば、重商主義期ともいわれる18世紀イギリスの経済発展は、けっして輸出主導型のものではなく、農業と各種の工業部門が相互に好影響をあたえあいながらの内需主導型の成長であったということができるのです。

 こうした内需主導型の経済発展の構造を創り出す上で決定的に重要な役割をはたすことになったのは、17世紀後半以降、農業技術の革新と土地制度の変革によって、著しい農業の発展がみられたことです。飼料作物(クローヴァー、根菜)の導入によって休閑地が減少し家畜数が増加したことは、堆肥の増加による穀物の増収につながりました。市民革命を境にして、それまで絶対王制の採ってきた人為的な価格引下げは中止されることになったのですが、農業生産の増進によって価格は高騰することなく安定し、18世紀以降になると、穀物輸出が急進するにもかかわらず国内の食糧価格は低下傾向を示すようになったのです。これは、それだけ大きな穀物余剰がイギリス国内でつくりだされていたことを意味するものにほかなりません。急進する穀物輸出は、工業のための外貨を獲得する上で大きな役割をはたしました。一方で、新農法の普及は、農民層の分解にいっそう拍車をかけるものでもありました。農産物価格の低下と重税の重圧の下で、小農が資金不足・農業技術の停滞のせいで没落していったからです。小農場の減少と大農場の増加という傾向は著しくなり、近代的地主・資本家的借地農業経営者・農業賃労働者の三者から構成される19世紀イギリス特有の農業の構造がしだいに姿をみせはじめることになっていったのです。

 17世紀末以降における穀物価格の低下傾向は、イギリスの経済発展の局面を決定的に転換させるものとなりました。16、17世紀のイギリス(イングランド)の経済発展は、輸出主導型(毛織物工業)のものであり、賃金購買力は低下傾向にありました。それが17世紀末以降になると穀物価格低下で人々の実質所得は上昇し、工業製品に向けられる国内の購買力が大幅に高まっていくことになったのです。このことが、国内市場の浮揚にダイナミックな効果をおよぼしていくことになりました。必需品と奢侈品の中間的な食品(砂糖、茶、タバコ、ラム酒)、衣料(絹織物、麻織物)、金属工業、陶器業などの広範な分野で国内産業の著しい発展がはじまったのです(*)。

 これら諸産業は、イギリスの各地域に特化する形で散在していましたから、国内市場の拡大にともなって膨大な商品の移動が激しくなるにつれて、これを支えられるだけの運輸手段の改善が緊急の課題として浮上してくることになりました。こうした課題にこたえ、進取的な地主層のイニシアティヴと投資によって、全国的な道路網が整備されていくことにもなりました。こうした道路網の整備とあわせて全国的な商業機構も形成されていき、各地の生産と消費とがスムーズに媒介されていくようになったのでした。こうしたなかで、イングランド銀行の所在地であるロンドンが商業活動の中枢、信用組織の中心として確固とした地位を築いていくことになります。

 こうした工業の著しい発展は、激しい動きについていくことができなかった弱小業者の没落を必然的にともなうものでもありました。農業のみならず工業の分野からも、みずからの労働力を販売して賃金を得るしか生きる術のない労働者が大量に創出されてくることになったのです。18世紀のイギリス政府にとっては、こうした労働者の就業を支えることが大きな課題となりました。高率関税や禁止措置によって国内産業を保護したのは、たんに貿易差額の増大をめざしてのものということではなく、人民の就業の場を確保するためという意味合いもあったことを見逃すわけにはいきません。

 以上、重商主義期ともいわれる18世紀イギリスの国内経済の情況についてみてきました。端的には、17世紀末における農業生産の増大を転機として、経済成長の構造に大きな局面転換がもたらされたのだということでした。16、17世紀は毛織物工業(輸出産業)だけが突出する不均衡な成長だったのにたいし、17世紀末からは毛織物工業以外の様々な諸産業もいっせいに急速な発展を示すようになったのです。18世紀のイギリス経済は、数多くの部門が相互に連関しあい好影響をあたえあいながら同時並行的に発展をとげていくという均衡的な成長のパターンを確立したのでした。このようにして、重商主義的な貿易政策の背後で国内産業の成熟がすすみ、18世紀の半ば以降に、世界ではじめての、したがって自生的な産業革命――機械制大工業の普及による全社会規模にわたる変革――が開始されるための条件が、しだいにととのえられていくことになったのでした。

 重商主義期をつうじて育まれた諸部門での発展のエネルギーは、しだいに重商主義的な諸政策の枠組みと衝突することになっていきます。こうした衝突が顕在化しつつあったときに、経済の新しい動きに着目しながら重商主義的な諸政策を批判したのが、アダム・スミスの『国富論』であったのだということができるでしょう。

(*)こうしたなかで、産業革命へのつながりという点で注目すべきなのは、綿織物をめぐる動きです。17世紀半ば以降、安くて品質の良いインド産綿布が大衆的に爆発的人気を博します。しかし、東インド会社がインド綿布の輸入を激増させたことは、イギリス国内の毛織物業を圧迫していくことになりました。これが大きな社会問題となり、国内の繊維産業を保護するという観点から綿布の輸入は禁止されることになったのです。こうした措置のもと、インド産綿花を使ってイギリス国内で安く大量の綿布つくることができないかという問題への挑戦が、ジョン・ケイによる飛び杼の発明を嚆矢とする技術革新を促し、産業革命を導いていく直接のきっかけになったのです。
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2012年09月24日

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったか(10/13)

(10)世界商業の覇権をめぐる争奪戦で貿易差額の増大がめざされた

 前回は、封建制の危機のなかで形成された絶対王政が市民革命によって打倒されていく歴史的な過程について、イングランドに焦点をあてて、簡単に確認しておきました。絶対王政の歴史的役割について端的にいえば、中世封建制的な支配体制の危機に対応する形で登場し、資本主義経済の本格的な勃興を準備する役割を担ったのだということでした。より具体的には、絶対王政が封建制に特有な地方割拠性を打破することで国内統一市場を創出したこと、さらに他の諸国家との対峙(戦争や貿易政策)をつうじて国民経済的な枠組みをしっかりと創出したことが、資本主義経済の強固な発展の可能性を築いたのだということでした。市民革命によって絶対王政が打倒されたことによってこの可能性が現実性にまで転化され、資本主義経済は本格的に成長の軌道にのっていくことができたのです。

 さて、市民革命のあと、議会による財政主権の獲得と一連の財政改革によって国家財政の基礎を固めたイギリス(イングランドは1707年にスコットランドと合邦してグレートブリテン王国となりましたので、これ以降イギリスとよぶことにします)は、国家の総力をあげて、18世紀における世界的な商業戦へと乗り出していくことになります。

 それでは、イギリスが世界商業の覇権をめぐる激しい争奪戦へと本格的に参入していった18世紀はじめ、ヨーロッパはいったいどのような情況にあったのでしょうか。

 18世紀のはじめの時点で、世界的な商業覇権を握っていたのはオランダ(もともとはネーデルラント北部)でした。このオランダが大きく隆盛するきっかけとなったのは、16世紀後半に勃発したオランダ独立戦争です。商業の発達したネーデルラントには新教徒が多かったのですが、この地を統治していたカトリック教国のスペインが厳しい旧教化政策をとるばかりでなく自治権までも奪おうとしたために、激しい反乱を招いたのです。この戦争のなかで、フランドル・ブラバントなど南ネーデルラントの重要な工業地帯や国際仲継市場であったアントウェルペンなどがスペイン軍によって蹂躙されてしまいます。やがて北部ネーデルラントがオランダとしてスペインからの独立を達成し、オランダのアムステルダムが、アントウェルペンにかわる国際仲継市場としての地位を築いていくことになっていったのでした。アムステルダムが国際的仲継市場としての地位を確立していく上で大きな役割を果たしたのが、1609年に設立された公立のアムステルダム振替銀行です。この銀行は、アムステルダム市で活躍する各国の商人がもつさまざまな国のさまざまな貨幣を独自の銀行通貨単位に換算して記帳し、請求に応じて他の預金勘定へ振り替えました。こうして外国為替の決済を円滑化するしくみを創り出したことによって、アムステルダムはヨーロッパにおける一大金融市場に躍り出ることになったのでした。さらにオランダは、西インド(アメリカ)貿易、東インド貿易にも進出していくことになります。とくに東インド貿易では、ポルトガルによる独占を打ち破り、1602年に世界初の株式会社ともされる東インド会社を設立、ペルシャ湾以東の貿易を独占し、香料貿易で莫大な利益を上げるようになっていったのでした。

 こうしたオランダの商業覇権への挑戦者として、イギリスとともに登場してきていたのが、フランスでした。絶対王政下のフランスは、17世紀の後半以降、高率関税で毛織物の輸入を実質的に禁止しつつ、高級毛織物業を輸出産業として育成、さらに特権的な貿易組合を次々に設立するなどして、オランダに挑戦したのです。

 イギリスが世界商業の覇権をめぐる激しい争奪戦へと本格的に参入していった18世紀はじめのヨーロッパの情況は、おおよそ以上のようなものでした。こうしたなかで、イギリスは、名誉革命期から産業革命期にいたるまでの約1世紀をかけて、フランスをおさえつつオランダから商業覇権を奪いとり、一大植民地帝国を築き上げていくことになったのでした。

 こうした世界的な商業戦において、各国がとった政策の背景となっていたのが、重商主義とよばれる経済思想でした。これは、ごく簡単にいえば、外国貿易をつうじて富を蓄積して海軍を中心とする軍事力の強化をはかっていこうという考え方でした。宗教改革による新しい倫理観が浸透していったことを受け、また絶対王政の王権神授説や市民革命などをつうじて政治権力がカトリック教会の束縛から自立していったことを受けて、商業による富の蓄積がついに国家的な目標として正面から掲げられるところにまできたのです。このことは同時に、富をどうやって増やすかという問題が、学問的な議論の対象となりつつあることを意味するものでもありました。

 ここで重要なのは、重商主義においては、富とは金銀のことにほかならないとされていたことです。これは、市場の拡大につれて諸商品を獲得する手段としての貨幣の役割が飛躍的に増してきていたことを根拠にしていたといってよいでしょう。金山や銀山をもたない国にとっては、自国の商品を外国へ販売してその代価として金銀を獲得するしかありません。ここから、外国貿易において少しでも大きな黒字をあげていくことが、国家の富を大きくしていく唯一の道であると考えられるようになっていったのです。

 このような考え方にもとづいて、各国は、重要な輸出品には奨励金をあたえる一方で、国内で生産できる商品については、関税や条例によって外国からの輸入を制限しました。また国内産業の原料供給地あるいは再輸出商品(植民地物産)の産地として植民地の獲得がめざされ、植民地の争奪をめぐる衝突が重商主義の時代の戦争のひとつの焦点となったのでした。

 18世紀イギリスにとっては、国民的産業としての毛織物業の輸出先確保が、通商政策における最大の課題となりました。こうしたなかで、「重商主義の傑作」として称えられることになったのが、1703年にポルトガルとのあいだで締結されたメシュエン条約です。この条約は、ポルトガルがイギリス毛織物業の輸入を受け入れる代わりに、イギリスはポルトガル産ワインをフランス産ワインより低い関税率で輸入する、というものでした。この条約締結の背景には、17世紀末に、ポルトガルの植民地ブラジルで金鉱が発見されたという出来事がありました。国力の落ちていたポルトガルは、力をつけつつあったイギリスとの関係を強化することで、植民地帝国としての権益を保持していくことをねらったのです。この条約が結ばれた結果、ポルトガルからイギリスへのワインの輸入が増えた以上に、イギリスからポルトガルへの毛織物の輸出が増え、ポルトガル国内の毛織物業は壊滅的な打撃を受けることになりました。こうしてポルトガルの対英赤字の対価として、ブラジルの金山から産出された金が大量にイギリスへと流れ込んでいくことになったのです。この金によってイギリスは金本位制を確立することになります。ちなみに、このとき(1717年)金と銀の交換比率を定めたのは、造幣局長官を務めていたアイザック・ニュートンでした。

 さて、16世紀以降イギリスは北アメリカに植民地を築きつつあり、17世紀初めには東インド会社を創設してインドにも侵出していました。17世紀半ばの市民革命による混乱が収まったあと、本格的に植民地経営に乗り出していくことになります。

 このうち北アメリカのヴァージニア以南は、黒人奴隷を労働力としてタバコ、砂糖、染料、綿花、生姜などを産出する熱帯植民地となっていましたが、植民地貿易にはオランダ商人が深く食い込んでいました。こうしたオランダ商人の勢力を航海条例(イギリス本国および植民地の輸出入をイギリス船に限定)によって締め出すことによって、熱帯植民地は本国の植民地物産への需要を満たすだけでなく、本国にとっての重要な再輸出品の供給地となり、関税収入に大きく貢献するようになったのです。

 一方、北部の植民地は、本国とほとんど同様の社会構造をもっており、工業も発展していました。また、豊富な木材に恵まれて、海運・造船や植民地間の貿易で本国商人に脅威をあたえていました。本国政府は、植民地の商工業を抑圧し、原料供給地に押とどめようとしたのでした。

 北米植民地は、人口の増加とともにイギリス工業にとっての有力市場となり、本国政府は市場統制をいっそう強化しようとしていくことになります。こうした本国政府の統制強化の動きが、やがてアメリカ独立戦争へと連なっていく一連の紛争を引き起こしていくことになっていくのです。

 以上が、18世紀における重商主義的政策のあらましです。ここで決定的に重要なのは、アダム・スミスが18世紀後半に『国富論』を書いた直接の動機としては、こうした重商主義的政策への批判があったのだということです。スミスは、富が金銀であるとは認めず、したがってまた貿易差額が富の原因であるとも認めませんでした。貿易差額の増大をめざしてなされた諸々の政策(輸出奨励金、高率関税、植民地経済への統制など)は、ことごとく経済の自然なあり方をゆがめてしまうものであると厳しく批判したのでした。ようするに、スミスは、富の性質とその原因をめぐって誤った思想が跋扈していることが国民の富の増大を阻害していると考え、この情況をなんとか打破しなければならないと考えたわけです。こうした問題意識こそ、スミスに『国富論』を書かせたのだといってよいでしょう。
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2012年09月23日

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったか(9/13)

(9)封建制の危機が成立させた絶対王政が市民革命によって打倒された

 本稿は、現代の経済学の混迷状況を打破していくためのヒントが現代経済学の源流たるアダム・スミスの『国富論』にあるとの問題意識をふまえて、人類が18世紀後半にいたってはじめて経済学という学問を確立しなければならないと考えるにいたった背景には、いったいどのような経済の発展過程があったのかを探ってみることを目的としたものでした。

 前回までの3回にわたっては、古代ローマ帝国崩壊以降の混乱のなかからしだいに姿を現し9世紀ごろまでに確立されることになった中世封建制社会が、10世紀以降に相対的な安定期を迎えたことによって、いったいどのような変化が生じてくることになったのかをみてきました。ここで簡単にふりかえっておくことにしましょう。

 10世紀以降、農業生産の増大に支えられて、また領主層の欲求の増大を原動力として、領主層の欲求を満たす物資を調達とするとともに荘園の剰余生産物をやりとりするための商業活動が活発になっていき、各地に商工業者が定住する都市が形成されていくようになっていきます。こうした動きの延長線上に、地中海貿易圏と北海・バルト海貿易という南北2つの貿易圏を外枠として、全ヨーロッパ規模で国際的な分業関係が形成されていくことになったのでした。しかし、こうした商業の発展は、当初は封建地代(あるいはその転化形態である商業利潤)を購買力としてあてにするしかないという大きな制約のもとにおかれていたため、都市商工業者はギルドという自衛的な組織に結集し、市場における共倒れを防ぐという観点から、商工業活動の全般にわたって厳しい統制をおこなわざるをえなかったのでした。一方、都市の成立によって貨幣経済が農村にまで浸透していったことは、地代の金納化による農民の地位向上をもたらし、農村に蓄積された富を背景にして農村工業が展開していくことになります。とくに農民の地位向上が比較的スムーズにすすんだイングランドにおいては、14〜15世紀にかけて農村工業の展開のなかで毛織物業が大きく発展し、イングランドは羊毛輸出国から毛織物輸出国へと転換していくことになったのでした。こうして16世紀に入ると、内的にはイングランドが原料輸入国から製品輸出国へと一大転換を遂げたことによって、外的にはアジアとアメリカという2つの新貿易分野が登場してきたことによって、中世の貿易構造・国際分業体制の解体がはじまることになります。とくに16世紀後半以降に大量のアメリカ銀が流入してきたことは価格革命の一要因となり、これが農村地帯においても、荘園領主による支配体制の弱化や村落共同体の規制の弛緩などの大変化をもひきおこしたのでした。

 おおよそ以上のような過程をたどっていくことによって、割拠性・閉鎖性・固定性を最大の特徴としていた中世封建制が、しだいしだいに掘り崩されていくことになっていったわけです。

 このような中世封建制的な支配体制の危機に対応する形で登場し、資本主義経済の本格的な勃興を準備する役割を担うことになったのが、いわゆる絶対王政でした。絶対王政が封建制に特有な地方割拠性を打破することで国内統一市場を創出したこと、さらに他の諸国家との対峙(戦争や貿易政策)をつうじて国民経済的な枠組みをしっかりと創出したことが、資本主義経済の強固な発展の可能性を築いたのだということができます。絶対王政がいわゆる市民革命によって打倒されたことによって、この可能性が現実性にまで転化され、資本主義経済は本格的に成長の軌道にのっていくことができたのでした。今回は、封建制の危機のなかで絶対王政が成立し、市民革命によって打倒されるまでの過程を、イングランドに焦点をあててみていくことにしましょう。

 イングランドでは、1485年にテューダー朝のヘンリー7世が枢密院(行政機関)や星室裁判所(最高司法機関)を設置するなどして王権の強化を図ったことが、絶対王政のはじまりであるとされています。絶対王政を支える経済的・社会的基盤ということでいえば、国王の権力によって国内市場が統一されることをのぞむ商工業者層、あるいは封建領主の支配への対抗という点から国王の権力の伸長に期待する独立自営農民層といった新興勢力のみならず、掘り崩さつつあった特権をなんとか維持していくために国王の権力にすがろうとした封建貴族層という旧勢力の存在があったことを見逃すわけにはいきません。ようするに、旧来の支配勢力が新興勢力との対抗関係のなかで力を失いつつあったとき、しかも新興勢力がまだ単独で国家権力を掌握できるほどの政治的力をつけきれていないとき、対立する両勢力の上に調停者のようにして立って強大な権力をふるったのが絶対王政だったのです(*)。国王は、行政・司法機構の整備をすすめ、それまで領主裁判権といった形で分散させられていた封建的な諸権利を一身に集約しました。また、租税の形で封建地代を集中的に徴収・再分配していくようになり、こうした租税制度の裏づけのもとに王権直属の常備軍を創設しました。

 絶対王政の経済政策は、端的にいえば、商品経済の発展が封建的な関係を掘り崩していくのを抑制しつつも、生産力の発展がみずからの支柱(財政収入の確保)となるように、農村工業をふくめて全産業を再編成していこうというものであったということができます。より具体的には、織布工条例(これについては前々回に取り上げました)などによってギルド的な規制を強化し、農民の階層分化を押しとどめるための諸々の規制を強化するなどした一方で、毛織物輸出組合、イーストランド組合(バルト海地方)、レヴァント組合(トルコ・地中海地方)などをはじめ貿易商人の全国的ギルド組織をつぎつぎに再編強化あるいは新設して、独占権を賦与するかわりに巨額の上納金を吸い上げるようにもしたのです。

 こうしたなかで、王権とブルジョアジーとのあいだで、営業の自由と独占(特権的貿易組合と廷臣をはじめとする政商の独占特許)をめぐる抗争がしだいに激化していくことになります。経済的な側面からみるならば、こうした利害の対立が、ピューリタン革命(1642年)や名誉革命(1688年)へとつながっていくことになったのだということができます。

 これら市民革命は、枢密院の権限を縮小し星室裁判を廃止しましたが、このことは王権による恣意的な産業規制を不可能にし、営業の自由の拡大につながりました(これらの機関は絶対王政下における経済規制の担い手となっていたのです)。また、名誉革命後の1694年、新しい発券銀行としてイングランド銀行が設立されたことによって、社会的遊休貨幣(さしあたって使用されることがなく貯め込まれている貨幣)を貸付資本(事業活動のために資金を必要とする者へ利子を取って貸し出す)していく道が大きく拓かれます(貨幣の商品化!)。イングランド銀行は商業手形の割引を積極的におこない、兌換銀行券の大量発行(信用創造)によって、大幅な利子率引き下げを実現しました。これが、商工業者の活動を金融的に支援することになったのです。さらに、革命後の新しい国家は、議会による財政主権の獲得と一連の財政改革(地租の大幅増税、議会保障の新しい公債制度など)によって国家財政の基礎を固め、国家の総力をあげて、18世紀における世界的な商業戦へと乗り出していくことになったのです。

 さて、このような絶対王政から市民革命への過程のなかで、イングランドにとって最重要産業というべき毛織物業は、決定的な大転換を成し遂げていくことになりました。それは、製品および市場の両面における多様化です。

 15世紀以降、イングランドが農村工業の展開によって毛織物輸出国へと転換していったことは前回にみたとおりですが、イングランド毛織物にとって、ほとんど唯一の輸出先となっていたのが、アントウェルペンでした。ここで重要なのは、イングランドから輸出された毛織物のほとんどが「白地広織物」とよばれる半製品だったことです。アントウェルペンは、フランドル・ブラバントの毛織物工業を背景にもつ染色・仕上げ業の一大中心地だったのでした。つまり、イングランド毛織物業は、【半製品(イングランド)→染色・仕上げ(アントウェルペン)→最終消費地(おもに中欧)】という国際分業の枠組みにがっちり組み込まれていたのであり、アントウェルペンにたいする下請けのような存在でしかなかったのです。ところが、16世紀半ば以降、急増してきた白地幅広織輸出は一転して急減することになります。その要因としては、オランダ独立戦争(次回説明します)による混乱でアントウェルペンが市場としての機能を喪失してしまったことにくわえ、最終消費地である中部ヨーロッパの市場が三十年戦争で大幅に縮小してしまい、この市場をめぐってオランダ毛織物業との競争が激化してしまったことがあげられます。こうした事態への対応として、モスクワ組合、スペイン組合、イーストランド組合、レヴァント組合など、新たな貿易組合が続々と設立され、新市場開拓の試みが盛んになっていきます。また、オランダ独立戦争を機にネーデルラントからイングランドに亡命してきた織元・職人によって、新毛織物が移植・導入されたことは、製品の多様化につながりました。こうして、17世紀をつうじて、輸出市場の重心が中欧から南欧、レヴァント(地中海東部沿岸)地方へと移っていくとともに、国内の染色・仕上げ業も発達していくことになったのです。こうして、フランドル・ブラバントを基軸としていた旧来の国際分業体制の枠組みを徹底的に解体し、これを新しいものに創りかえしていく起点が、イングランドに確固として形成されることになったのでした。

(*)こうした国王の強大な権力を支えるイデオロギーとなったのが王権神授説でした。封建的な支配体制は、ローマ教皇を頂点とする宗教的な系列と国王を頂点とする世俗的な系列とが絡み合っていたものですが、王権神授説は、国王が後者の系列から分離独立して一元的な支配を確立していくことを正当化したのです。とくにイングランドにおいて強力かつ安定的な絶対王政が築かれたひとつの要因として、テューダー朝第2代のヘンリ8世が国王を首長とするイギリス国教会を創出(1534年)することによって、ローマ教皇の支配からの完全な独立を実現したことが注目されるべきでしょう。
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2012年09月22日

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったか(8/13)

(8)イングランド毛織物業を起点に中世の貿易構造の解体がはじまった

 前回は、商業の発展および都市の成立という大きな社会の変化が、農村の内部の構造にもたらした大きな変化についてみました。端的には、都市の成立によって貨幣経済が農村にまで浸透していったことが地代の金納化による農民の地位向上をもたらし、農村に蓄積された富を背景にして農村工業が展開、局地的な市場圏が形成されていき、のちの近代的工業都市の萌芽が芽生えてきたのだということでした。

 農村工業の展開としてとくに注目しなければならないのが、14世紀以降のイングランドにおける毛織物工業の発展です。これは、イングランド国内の経済のあり方を劇的に転換させたにとどまらず、中世ヨーロッパの国際分業のあり方を根本的に突き崩していく内的な原動力として作用していくことになったからです。

 ここで14、15世紀ごろまでに確立されていた中世ヨーロッパにおける国際分業とはどのようなものであったのか、あらためて確認しておくことにしましょう。

 まず、イタリアなど南欧地域には地中海貿易で栄えた諸都市が存在し、胡椒など東方の物産が取引されるとともに、フィレンツェやミラノでは毛織物・絹織物の生産も盛んでした。一方、北欧の北海・バルト海貿易圏ではハンザ同盟の商人が活躍し、海産物・毛皮・木材・穀物などが取引されたほか、フランドル(現在のフランス北部からベルギー西部、オランダ南部にかけての地域)やブラバント(現在のベルギーの北部からオランダ南部にかけての地域)の諸都市が毛織物のヨーロッパ最大の産地となっていました。そして、この南北2つの貿易圏をつなぐ地方にあるシャンパーニュあるいはブリュージュが国際的な中継市場となって、商業活動と金融業活動の全ヨーロッパ的な連関が形成されていたのでした。

 このような国際分業という観点からみると、14世紀半ばまでのイングランドは先進地域にたいして原料(羊毛)を輸出し、逆に工業製品(毛織物)を輸入するという「後進国型の経済」として中世貿易の枠組みのなかに組み込まれていたということができます。ところが、イングランド国内における農村毛織物工業の力強い展開は、それまで国外向けの原料として輸出されていた羊毛を国内毛織物工業の原料として吸収するようになっていきました。このことが、貿易構造の激変をもたらすことになったのです。14世紀後半からイングランドの羊毛輸出は減少し、これにかわって毛織物輸出が開始され、15世紀末から急増していくことになりました。一方で、毛織物の輸入は14世紀以降急速に減少して、15世紀の半ばにはほんのわずかになってしまったのです。こうしてイングランドは、14世紀後半からおよそ200年をかけて、原料羊毛の輸出国から工業製品である毛織物の輸出国へと決定的な変貌を遂げたのでした。

 イングランド貿易の劇的な構造転換は、ヨーロッパ中世貿易の構造に重大な影響をおよぼすことになりました。中世ヨーロッパにおける毛織物の第一の産地であったフランドル・ブラバント地方は、原料の面で羊毛の供給源をイングランドからスペインへ切り替えることを余儀なくされたのにくわえて、製品の面でもイングランド製毛織物との厳しい競争に直面させられることになったのです。

 イングランドの毛織物はおもにネーデルラントのアントウェルペンを経由して中央市場へと輸出されました。こうした取引をつうじて、イングランドとネーデルラントは強固な経済的むすびつきを築いていくことになります。イングランド毛織物の輸出を仲介したことが、15世紀後半以降、アントウェルペンがブリュージュにかわって国際的な中継市場としての揺るぎない地位を確立し大きな繁栄を築いていくうえで、決定的に重要な基盤となったのでした。

 このように、イングランドにおける農村毛織物工業の展開は、中世ヨーロッパの貿易構造を内側から壊していく原動力となったのですが、逆にこの貿易構造の枠組みを外側から壊していく力となったのは、アメリカとアジアという2つの新しい貿易分野が登場してきたことでした。この2つの貿易分野は、香料と貴金属とキリスト教徒をもとめて15世紀末を画期として試みられた航海の結果として、切り拓かれることになったものでした。

 それまでの遠隔地貿易では、ハンザ同盟に代表されるように、中世都市が貿易主体となっていましたが、この2つの新貿易分野においては、ポルトガルとスペインという中央集権国家が通商主体として登場してきました。ポルトガルはアジアへ、スペインはアメリカへと、国家権力の主導の下に商業的な進出を図っていくことになったのです。

 東インドの物産(おもに胡椒、丁子、肉桂などの香料)は、ポルトガルのリスボン港に陸揚げされてアントウェルペンへ送られました。このことは、アラビア商人とむすびついたヴェネツィアの没落をもたらしました。こうして、香料の対価として東方へ送られる銀を供給していたドイツ商人(南ドイツに鉱山があったのです)も、アントウェルペンにおいて(ヴェネツィアにかえて)ポルトガルを取引先にするようになっていったのです。

 しかし、ヨーロッパの経済に決定的に大きな影響をあたえたのは、まったく未知の分野であったアメリカ貿易のほうでした。アメリカ大陸から大量にもたらされた銀が、経済のあり方に大きな変化をもたらしていくことになったのです。アメリカ銀の流入は1580年代以降、年間20万sにもおよびましたが、これはそれまでヨーロッパにおける銀の主要な供給源となっていた南ドイツの銀産出量(年間3万s)をはるかに上まわるものでした。奴隷労働に依拠して生産されていたアメリカ銀は非常に安価でしたから、南ドイツ銀は到底太刀打ちできません。この結果、南ドイツの鉱山業は没落していき、東方貿易の対価である銀の供給はアメリカ貿易への依存を強めていくことになりました。こうしてスペインはポルトガルよりも優位に立つようになっていったのです。

 そもそも16世紀というのは、ヨーロッパの全域において、農業・工業・商業・貿易など産業のあらゆる部門で飛躍的な発展がすすみ、人口も増加していった時代でした。貨幣材料としての銀が大量に流入してきたことは、こうした経済活動を大きく刺激し、全ヨーロッパ的な規模での交通関係の強化を促進したということができるでしょう。人口の増加、人々の諸欲求の多様化によって、諸商品への需要は供給力の増大を上まわるペースでのびていきました。こうした需要の伸びとアメリカ銀の大量流入による貨幣価値の下落とがあいまって、穀物価格をはじめとする多くの商品の価格が、16世紀をつうじて上昇しつづけていくことになったのです。これを価格革命とよんでいます。

 こうした活況のなかで、経済にかかわる思想を大きく変えていく力になったのが、宗教改革でした。カトリック神学において、商行為による儲けや利子の取得が容認されつつあったことは前々回に説明しましたが、こうした動きはカトリックの教義に制約されたきわめて限定的なものでしかありませんでした。宗教改革とは、こうした限界を突破して、経済の新しい現実に対応した新しい考え方を大胆に創出していこうという動きでもあったともいえるのです。この面にかんしては、保守的であったルターにたいして、カルヴァンが大きな役割をはたしました。カルヴァンは、倹約、勤勉、冷静、質素など商工業活動で成功するために欠かせない資質を純化し、キリスト教的徳性の基礎に据えました。その上で、商人の利得を勤勉の結果として認め、利子についても借り手の困窮につけ込まない、などの条件をつけつつ基本的に容認したのです。商工業活動がこのように認められたことは、資本主義の発展にとっての大きな原動力となっていきました。

 さて、16世紀の価格革命は、中世封建制の基礎となっていた村落共同体のあり方や領主・農民関係にたいしても、劇的な変化をもたらすことになりました。どのような変化であったのか、16世紀イングランドの農村に焦点をあててみてみることにしましょう。

 まず、金納地代は定額(当時までに地代は金納が当然になっていました)だったために、物価が持続的に上昇していくことは、農民の負担する実質的な地代がきわめて軽微なものになっていくことを意味していました。こうして、地代負担から事実上解放された独立自営農民層が広範に形成されることになっていったのです。一方で、商品経済への依存が農業経営を不安定化させ、農民の階層分化を進行させていったことも見逃すわけにはいきません。こうした流れを劇的に促進したのが土地市場の形成でした。地代の金納化が進行するにつれて領主と農民の関係は契約的な関係に転化していき、これにともなって農民の土地保有権は強化されてきていたのですが、16世紀になると、農民は自分の保有地を事実上、自由に世襲・売却・賃貸できるようになりました(土地の商品化!)。農業経営に行き詰まってしまった農家は、自分の土地を売ってお金を手に入れようとするようになります。こうして、一部の富裕が農民層が家族で経営できる以上の土地を集積し、雇用労働力を導入して農業経営を拡大していく一方、土地を失った貧農層は、賃金労働者に転化するしかなくなっていくという事態が生じてきたのです(労働力の商品化!)。こうした過程で村落共同体の規制は弛緩していくことになっていったのでした。
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2012年09月21日

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったか(7/13)

(7)地代の金納化で農民の地位が向上、農村工業も台頭してきた

 前回は、10世紀以降に封建制社会がしだいに安定してくることによって生じてきた変化についてみてきました。端的には、農業生産の増大に支えられて、また領主層の欲求の増大を原動力として、領主層の欲求を満たす物資を調達とするとともに荘園の剰余生産物をやりとりするための商業活動が活発になっていき、各地に商工業者が定住する都市が形成されていくようになったのだということでした。都市に定住するようになった商工業者は、やがてギルドという自衛的な組織に結集し、市場における共倒れを防ぐという観点から、商工業活動の全般にわたって厳しい統制をおこなうようになっていったのでした。こうした都市の成立・発展という動きは、荘園制の閉鎖的・固定的な枠組みを打ち破っていくような動きであったということはまちがいありませんが、封建地代(あるいはその転化形態である商業利潤)を購買力としてあてにするしかないという市場の制約のもとで、商工業者もまた自分自身を防衛するために、荘園(村落共同体)とは別個のところに同様な閉鎖的・固定的な枠組みを形成していくことにならざるをえなかったのでした。

 それでは、このような中世都市の閉鎖性・固定性を打破するような力は、いったいどこから生れてくることになったのでしょうか。この問題を考えていくためには、ふたたび農村へと目をむけなければなりません。商業の発展、都市の成立という大きな社会の変化は、農村の内部にも大きな構造の変化をもたらしたのですが、この農村の変化こそが、都市の商工業のあり方にも大きな影響をあたえていくことになっていったからです。

 商人や手工業者が都市へ集まって、農村に対立する独自の共同体を形成するようになったことは、農工間の社会的分業が荘園の枠を破って、都市と農村との分業関係に編成されなおしたことを意味しました。つまり、各農家の副業として営まれる手工業や農具をつくる村の鍛冶屋などの形で荘園に閉じ込められていた工業が、荘園から離脱して都市という独自の共同体を形成するようになったわけです。その結果、都市の工業製品と農村の農産物とのあいだに交換関係が成立するようになります。

 都市と農村の分業・交換関係の成立によって、荘園領主層は、都市の生産物との交換の元手となる農産物あるいは貨幣への要求を強めていきます。こうして、労働地代よりも生産地代、さらには貨幣地代が重視されるようになっていき、領主直営地での賦役労働が廃止されるようになっていったのです。直営地は分割して農民に貸し出されるようになりました。こうした過程と並行して、荘園領主による農民への人身的支配もしだいに弱まっていくことになります。12、13世紀頃になると、賦役労働や人身支配が消滅して、領主・農民関係は、契約にもとづく物的な関係へと純化されていくことになったのでした。

 このように農村へと商品経済が浸透していくにつれて、荘園および中世都市の固定性・閉鎖性は打ち破られはじめ、商工業者は市場の統一を強くのぞむようになります。こうした流れにのって、割拠する封建領主をおさえつつ、国王の権力が大きく伸長してくるようになってきたのも、この時代の重要な変化として忘れるわけにはいきません。

 以上のような変化は、ヨーロッパの各地域において、それぞれの特色をもって展開していきました。

 たとえばフランスでは、14世紀に農民一揆などをつうじて貨幣地代が広がりますが、15、16世紀には都市の富裕な商人が貴族の荘園を買い取って分割貸与し、多数の小規模な農民経営を基礎にして生産物地代に寄生する「市民的土地所有」が成立することになります。

 一方ドイツでも、12、13世紀以降、貨幣地代が広まっていきました。しかし、16世紀、宗教改革の動き(宗教改革については次回とりあげます)のなかで宗教的な要求にくわて地代の軽減などの物質的な要求をも掲げて蜂起したドイツ農民戦争において、農民軍は惨敗してしまいます。このような力関係のなかで、16世紀頃から、エルベ川以東の植民地域では、賦役労働の強化と外国市場への輸出とがむすびついた農場領主制が成立することになりました。こうして農民は著しい隷属状態のもとにおかれてしまうようになったのです。

 こうしたなかで、農民の経済的な地位向上という動きの延長線上に、中世封建制の固定的枠組みを打ち破って経済の近代的発展への道を切り拓いていくことになったのが、イングランドの動向でした。

 イングランドにおいては、14世紀以降、領主直営地の農民への貸し出し、賦役の金納化が急速にすすんでいくことになります。こうした過程を大きく促進したのが、14世紀半ばの黒死病の大流行でした。労働力の激減が領主直営地の経営継続を困難にしてしまったのです。また、賦役金納化への過程を促進した重要な要素としては、地位改善をもとめて蜂起した農民一揆も見逃すわけにはいきません。定額貨幣地代が成立することによって、領主と農民の関係はもっぱら貨幣を介したものへと純化され、領主が土地と農民をセットで直接に支配するという関係がしだいに崩れはじめることになりました。こうして、封建領主(領民の生活のあらゆる場面を束縛)がしだいに近代的な地主(金納地代さえきちんと納めてくれればあとは不干渉)へと転成していくことになったのです。農民が生産物を市場で売って貨幣を蓄えるようになってきたことは、都市の商工業者にとって、新たな市場が拡大したことを意味するものでもありました。

 注目すべきなのは、こうして農村に富が蓄積されていく過程のなかで、農村において工業の新たな展開がはじまってきたことです。農村はもともと都市のギルドにより「禁制領域」とされ営業としての手工業が排除されていたのですが、農村における富の蓄積とともに、こうした統制をかいくぐるような動きが生じてくるようになったのです。具体的には、農民がこれまで自家用に営んでいた手工業をしだいに近隣市場目あてに展開していくようになったり、あるいはあるいは都市の手工業者が農村に進出してきたりといった動きです。こうした新しいタイプの手工業者の活動によって、工業の自由な展開の可能性がしだいに切り拓かれていき、農村地帯は都市ギルド的ながんじがらめの統制から事実上抜け出していくことになったのでした。

 こうした農村工業の展開にともなって、雇用の場をもとめて都市から労働者が流入してきたり、農村の内部に局地的な商品流通を担う小商人が登場してきたりするという変化も進行していきました。このような過程を経ることで、従来の中世都市―農村という固定的な分業関係が崩されていき、新しい局地的な市場圏が成立していくことになったのでした。こうして旧来の農村地帯のなかに新しい工業都市が成長してきたのですが、これがやがて近代工業都市として成長していくことになっていきます。

 14〜15世紀の農村工業において、とくに注目されるのが、毛織物工業の発展です。14世紀半ばまでのイングランドは、羊毛の輸出国であり、ネーデルラントなど先進地域にたいして原料(羊毛)を輸出し、逆に工業製品(毛織物)を輸入するという「後進国型の経済」として、中世貿易の枠組みのなかに組み込まれていました。ところが、農村における毛織物工業の台頭により毛織物業が「国民的産業」としての地位を確立していくことによって、イングランドは羊毛輸出国から毛織物輸出国への劇的な転換をとげることになったのでした(トマス・モアが『ユートピア』において「羊が人間を食う」と批判した囲い込みはこの過程での出来事です)。やがて、16世紀の半ばになると、独立生産者である織布工のあいだに、織元とよばれる比較的経営規模の大きな織布業者が登場してきます。独立手工業者どうしの競争をつうじて資本の集中がすすみ、20〜30人ぐらいの労働者を分業にもとづく協業によって編成したマニュファクチュア(工場制手工業)が形成されてくることになったのです。

 中世都市のギルドとしては、こうした農村工業の展開は何としても抑え込んでおきたいものでした。政府はこうした要求に応えて、農村工業にたいして織機台数の制限と賃貸禁止、縮絨や染色の兼業禁止、徒弟制の強制と徒弟数の制限などの規制を課す織布工条例(1555年)を制定します。またこうした措置にも呼応しながら、都市の側から農村織元に対抗した問屋織元が登場してくることにもなりました。農村工業は、こうした利害のせめぎあいのなかで実力をつけていき、やがて近代的な産業資本にまで成長していくことになったのでした。

 以上のように、都市の成立によって貨幣経済が農村にまで浸透していったことは地代の金納化による農民の地位向上をもたらし、農民層にも大きな富が蓄積されていったことは、従来の固定的な都市―農村間分業の枠組みを突き崩していくことになったのでした。こうした過程を経ていくことで、中世都市のギルド的制約から比較的自由な農村地帯において、新たな工業の展開がはじまってくることにもなったのでした。
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2012年09月20日

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったか(6/13)

(6)商業の復活にともなって都市が発展してきた

 本稿は、現代の経済学の混迷状況を打破していくためのヒントが現代経済学の源流たるアダム・スミスの『国富論』にあるとの問題意識をふまえて、人類が18世紀後半にいたってはじめて経済学という学問を確立しなければならないと考えるにいたった背景には、いったいどのような経済の発展過程があったのかを探ってみることを目的としたものです。より具体的には、『国富論』においても直接的かつ媒介的に考察の対象となっている資本主義経済の生成史、より具体的には、古代ローマ帝国の崩壊と中世封建制の成立にはじまり、イギリス産業革命の前夜に至るまでの経済の発展の歴史を、ざっとたどってみることが、本稿のめざすところなのでした。

 さて、前回までの3回にわたっては、中世封建制社会の生成過程について考えてきました。中世封建制社会の基礎となった荘園は、ローマ帝国の崩壊からフランク王国による政治的な支配が確立されていく時代、外部から異民族の侵入があいつぐという混乱した情況のなかで、王・諸侯・騎士といった領主が農民を軍事的に保護してやるかわりに農民は領主に労役を提供し年貢を納めるという関係を軸として、自給自足的かつ防衛的な経済組織として形成されていったものにほかなりませんでした。衣服や家具などの生産は基本的に農家の副業として営まれていたため、工業が独立した産業として存在することはなく、村落には農具をつくる鍛冶屋が存在する程度でした。もちろん、塩や鉄などは荘園の外部から調達するほかなく、これらを運んでくる商人をつうじて外部との交通関係が存在していたことはたしかですが、こうした外部との交通は、自給自足的な生活を部分的に補完する程度にとどまっていたのでした。

 さて、10世紀以降、外敵の侵入が少なくなって封建制社会が安定してくると、荘園の軍事的経済組織としての性格はしだいに緩んできます。領主層の奢侈品への欲求が高まっていくと同時に、犂の改良や水車の利用の広がりなど農業技術の進歩とともに農業生産も増大していくようになったのでした。このような変化は、中世封建制社会のあり方にどのような影響をあたえることになったのでしょうか。

 端的には、領主層の欲求を満たすための物資を調達するとともに、荘園の剰余生産物をやりとりするために、10世紀以降、西ヨーロッパにおいても、活発な商業活動がなされるようになったのだということができます。交通の便のよいところで定期市が開かれるようになり、商人や手工業者が集まってくるようになりました。やがて、商人や手工業者は定住するようになり、定期市は常設市場になり、やがて都市へと発展していくことになったのです。

 こうした商業復活の動きを決定的に促進することになったのは、11世紀末に開始された十字軍でした。イスラム教徒から聖地イェルサレムを奪還することを掲げた十字軍の遠征は、西ヨーロッパを地中海貿易とむすびつけることによって、東方貿易が大きく発展していく端緒となったのです。東方貿易が発展していくなかで、イタリアの港町は、東方からの香辛料とアルプス以北の銀などとの交換を媒介するなどして大きな富を蓄えるようになっていきます。こうした過程で、広範な手形の流通など金融技術が発達し、遠隔地貿易を担うための永続的な企業組織も誕生、さらには経営活動を合理的に把握し管理するための複式簿記などの会計技術もうまれてくることになっていったのです。ギリシャ・ローマの古典古代文化を復興しようという14世紀以降のルネサンスの動きも、こうしたなかで生じてきたものでした。

 十字軍の遠征によって領主層の奢侈品にたいする欲求が強く刺激されたことは、ヨーロッパ全般にわたっての商業の発展をもたらす大きな原動力となりました。こうしたなかで、地中海と並んで大きな商業の中心となっていったのが、バルト海や北海周辺の北ヨーロッパでした。ここでは、海産物・木材・毛織物・穀物などの生活必需品がおもな商品として取引されていました。こうした北海・バルト海貿易をつうじて北ドイツの各地に都市が発展、やがてハンザ同盟として結集していくことになります。

 このような二大商業圏の形成にともなって、内陸の商業路にも隊商(遍歴商人)の往来が活発になっていきました。こうした遍歴商人が、宮殿、城、修道院、教会などのある集落や川岸の取引場所などに、最初は一定期間、のちには永続的に定着するようになっていき、各地から運ばれた高価な特産品の取引される年市や大市が開かれるようになっていったのです。こうした市は、主として、租税の取得者である王侯貴族、地代の取得者である領主層の購買力によって支えられていました(もちろん商業で大きな富を築いた商人自身も重要な購買力の支え手でした)。こうした市の購買力は、周辺の農村に潜在していた手工業者(村の手工業者、巡歴職人など)をひきつける誘因となり、商業につづいて、手工業の市への集中をひきおこすことになりました。こうして商人と職人が集まって定住することによって、内陸部の各地にも都市が成立していくことになったのです。

 とくに、南北の二大商業圏をつなぐ地方には大きな定期市が開かれるようになり、商業と金融の中心都市として、繁栄していくことになりました。まず国際的な仲継市場としての地位を築いたのはシャンパーニュ(現在のフランス北西部、パリ盆地)でしたが、やがてその地位は、ブリュージュ(14世紀〜)からアントウェルペン(15世紀末〜)へと受け継がれていくことになります。こうした都市を中心にして、商業活動とそれを支える金融業活動との全ヨーロッパ的な連関がしだいに形成されていくことになったのです。

 さらに、都市商人のなかからは、需要の多い外国産品と同種の製造業を都市内に設立しようとする人たちも現れてきました。原材料を輸入して加工し、それを輸出することによって、運送費を節約しようというのです。こうして、フィレンツェやミラノなどの絹織物業、フランドル(現在のフランス北部からベルギー西部、オランダ南部にかけての地域)やブラバント(現在のベルギーの北部からオランダ南部にかけての地域)地方の毛織物業が勃興していくことになったのです。

 こうした商工業の発展は、中世封建制社会の支配的イデオロギーとなっていたカトリックの神学にたいして大きな問題を突きつけるものとなりました。それまでの神学においては、自給自足を基本とする荘園のあり方に規定されて、またアリストテレス以来の思想的な伝統もあって、商行為で儲けるのは不道徳なこととされ、利子の取得も否定されていました。しかし、単純に商工業活動を否定するだけでは、現実の社会のあり方の変化にとうてい対応できなくなってしまいます。こうして12、13世紀の頃から、トマス・アクィナスなどの神学者たちによって、公正な価格とはどういうものなのか(モノを売って儲けを得ることは許されるのか)、貨幣の貸し借りにともなう利子は認められるべきものなのか、といった問題が大きく議論されるようになっていったのです。こうした議論をつうじて、原則にたいする例外規定として、さまざまな条件をつける形で、商行為で儲けること、利子を取ることがしだいに認められていくようになったのです。

 さて、都市はもともと都市領主の所領であり、都市の住民は、生活のさまざまな場面で、都市領主の支配に服さなければなりませんでした。しかし、これは商工業の発展にとって大きな束縛となります。都市に定住するようになった商工業者は、やがて移転や商業活動の自由をもとめて領主に対抗するようになっていきました。これをコンミューン運動とよんでいます。こうした闘争の結果、市民の共同体としての都市が裁判権と徴税権を獲得し、市民のなかから市長と市参事会員を選ぶようになったのでした。

 しかし、市政の重要な役職は、コンミューン運動以来の指導的勢力であった有力商人層=都市貴族(門閥)が独占していましたから、14、15世紀に入ったころから、多くの都市で下積みの手工業者層が同職ギルドに結集し、市政への参加を要求するようになっていきました。これによって民主化された都市は平民都市とよばれています。

 ギルドというのは、商工業者がみずからの利益を守るためにつくった同業種の組織のことです。ギルドは、自衛と相互扶助を目的にして、手工業者の活動のあらゆる側面へ厳格な統制をおこないました。こうした組織がつくられた背景には、中世都市の市場が非常に狭いものであったという事情が存在しています。中世都市の商工業は、購買力としては封建地代またはその転化した形態である商業利潤(商人が封建地主に商品を売ることによって得た儲け)をあてにするしかありませんでした。こうした狭い市場のもとでは、都市の商工業者は、競争による共倒れを防ぐために、共同体をつくって市場の独占と統制を図るしかなかったのです。

 以上のように、10世紀以降、封建制社会が安定してくるにつれ、農業生産の増大に支えられて、また領主層の欲求の増大を原動力として商業が発達し、各地に商工業者が定住する都市が形成されていくようになったのでした。これは、荘園制の閉鎖的・固定的な枠組みを打ち破っていくような動きであったということができますが、封建地代(あるいはその転化形態である商業利潤)を購買力としてあてにするしかないという市場の制約のもとで、商工業者もまた自分自身を防衛するために、荘園(村落共同体)と同様な閉鎖的・固定的な枠組みを形成していくことにならざるをえなかったのでした。
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2012年09月19日

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったか(5/13)

(5)中世封建制はどのようなものとして確立されたのか

 前回は、古代奴隷制社会が中世封建制社会へと移行していく過程について検討しました。簡単にふり返っておきましょう。

 奴隷の労働力に過度に依存していた古代ローマ帝国にとって、征服戦争の終焉は、社会の維持・発展を物質的に支える労働力をどのようにして安定的に確保していくのかという大問題をきわめて切実な形で提起するものにほかなりませんでした。こうした大問題を解決するために、奴隷に土地や農具を与え世帯の形成を認めるかわりに、労役や貢納の義務を負わせるコロナートとよばれる制度が登場してきます。内陸部に土地を所有している貴族は、自分の所有地におもむいて所領(荘園)の経営に携わるようになり、内陸部はしだいに自立性を強めていったのでした。これらの荘園は、民族大移動に混乱のなかで荒廃してしまうのですが、フランク王国による政治的統一がすすめられていくにつれて復興し、7世紀ころには、王領地として、さらには修道院・教会や貴族の所領として、新たな荘園が姿を現わしてくるようになったのでした。

 こうした荘園の形成こそが、中世封建的な生産のあり方の起源にほかなりません。それでは、このような過程によって姿を現してきた中世封建制は、いったいどのような構造をもったものとして確立されていったのでしょうか。今回は、この問題について考えてみることにしましょう。

 中世封建的な生産のあり方の直接の起源となった7世紀の荘園は、4、5〜10戸ほどの家父長制大家族(少数の奴隷も含む)の農家によって構成される原初的な村落を基礎としていました。政治的にまだまだ不安定であったメロヴィング時代においては、こうした原初的な村落は、保護をもとめて有力者に土地をいったん譲渡し、貢納の義務を負うという条件で再び授与されるというケースが多くあったのです。荘園は、このような過程で成立した農民保有地と領主自身の直営地とによって構成されていました。領主直営地を耕作したのは、領主が所有する家内奴隷です。当時、有力者の所領経営の中心は農民保有地よりもむしろ領主の直営地にあったといってよいでしょう。

 8世紀にはいると(すなわちメロヴィング時代の末期からカロリング時代にかけて)、新しい農業経営の普及とともに、こうした原初的な村落の集村化がすすんでいくことになります。20戸程度の農家が集住することで、広い共同耕地をもつ村落共同体が現れてきたのです。こうした集村化の過程では、家父長制大家族から単婚小家族が分出されていき、これが農業経営の主体となっていきました。このような集村化の過程をつうじて領主の直営地と農民保有地との一体化がすすみ、大規模な所領が形成されていったのです。

 このような集村化の過程を促すことになった新しい農業経営は、三圃制度を中心としたものでした。これは、共同耕地を冬畑(ライ麦・小麦など秋播の冬穀物を栽培)、夏畑(大麦・燕麦・豆類など春播の夏穀物を栽培)、休閑地に3分し、それぞれの耕地が、冬畑→夏畑→休閑地を3年で一巡するように輪作をおこなったものです。耕圃と休閑地は共同放牧地として利用されました。

 この三圃制度は、重い車輪のついたゲルマン犂の利用とむすびついて発展したものでした。4頭の牛あるいは2頭の馬によってひかせるゲルマン犂は、重い土を深く掘り起こすのに適したもので、方向転換が難しかったかわりに1回の犂耕で耕耘を完了することができましたから、耕地は細長い形(およそ20m×200m)をとるようになりました。三圃制度によって大きく3分されていた共同耕地は、それぞれがさらに細かく分割され、全体で30ほどの耕区からなっていたのですが、各農家はそれぞれの耕区に地条(細長い形の畑)をもっていました。ようするに、各農家が所有する耕地は、30ヶ所ほどに分散させられ、しかも他の農家の地条と混在させられていたのです。これを混在地制とよんでいます。これは、土地の条件を均一化するとともに天災などによる全滅を防ぐための工夫でしたが、共同耕作が強制され、自主的な創意ある農業経営をさまたげてしまった面があることは否定できません。

 各農家は、このような共同耕地のほかに、村落の中心部に屋敷地と庭畑を私的かつ個別的に所有していたほか、村落周辺の森林、放牧地、沼などの共同地(入会地)にたいして、一定量の木材の伐採や一定数の家畜の放牧などの持分をもって、これを利用していました。以上のように、各農家がもつ土地は、屋敷地と庭畑、共同耕地、共同地持分の3部分から構成されていたわけですが、この総体がフーフェとよばれ、標準的な農業経営を支える土地の単位とされていました。村落共同体を構成する各農家が1フーフェずつ所有するという形で、形式的な平等が貫徹されていたわけです。

 8世紀から9世紀にかけては、イスラム勢力やマジャール人、ヴァイキングなどの侵入があいついだ時代でしたから、こうした村落共同体の存立にとって、有力者によって提供される軍事的な保護は絶対に欠かせないものでした。こうした条件に規定されて、有力者への土地の寄進、より上位の有力者への再寄進、あるいは下位の者への分与などがくり返されていく過程のなかで、各地の有力者は多数の騎士を従えて勢力を増し、城をつくって諸侯として自立するようになっていきました。こうして、王・諸侯・騎士のあいだに、主君は臣下に封土(知行)をあたえ臣下は主君に忠誠を誓って軍役など一定の義務を負担するという封建的な主従関係が成立していくと同時に、王領地をはじめ修道院や貴族の大所領という姿をとって、荘園制が確立されていくことになったのでした。この荘園制こそ、中世封建的な生産のあり方の基礎というべきものにほかなりません。

 この荘園制のもとでは、農民は古代の奴隷とは異なって、自分自身の生産手段を所有していました。すなわち、農民は私的に所有した農具を使って、事実上自分のものである土地を耕作していたのです。しかし、農民はこの土地からの収穫物の一部を年貢として領主に納めなければなりませんでした(これを現物地代といいます)。また、荘園は農民保有地と領主直営地からなっていましたが、農民はたんに年貢を納めるだけではなく、領主直営地における無償の賦役労働にも従事しなければならなかったのです(これを労働地代といいます)。さらに、荘園の農民は、結婚、相続、移動など生活のさまざまな場面で領主の意向に逆らって行動することは許されず、領主の裁判権にも服さなければなりませんでした。このような束縛への見返りとして、外部からの脅威にたいする軍事的な保護があたえられていたのでした。

 このような荘園制が確立されたのは、ちょうど、イスラム勢力の侵入の影響で西ヨーロッパが地中海商業圏からの離脱を余儀なくされた時期に相当しています。ようするに、防衛的な経済組織の強固な枠組みのなかで、基本的に商業に頼ることなく自給自足的に欲求の充足をなしていこうというのが、中世封建制的な生産のあり方の原点であったということができるのです(一種の軍事的な組織のなかで、欲求そのものが抑制されざるをえなかったことも重要です)。衣服や家具などの生産は基本的に農家の副業として営まれていたため、工業が独立した産業として存在することはなく、村落には農具をつくる鍛冶屋が存在する程度でした。もちろん、塩や鉄などは荘園の外部から調達するほかなく、これらを運んでくる遍歴商人をつうじて外部との交通関係が存在していたことはたしかです。しかし、こうした外部との交通は、あくまでも自給自足的な生活を部分的に補完する程度にとどまっていたのでした。

 以上のように、中世封建制社会の基礎をなす荘園とは、外部から異民族の侵入があいつぐという不安定な時代をつうじて、王・諸侯・騎士といった領主が農民を軍事的に保護してやるかわりに農民は領主に労役を提供し年貢を納めるという関係を基軸として、自給自足的かつ防衛的な経済組織として形成されていったものにほかなりません。社会的な諸欲求を満たすための社会的総労働の配分は、こうした閉鎖的な荘園の枠組みの内部における固定的な身分制度と一体のものとして実現されていました。こうした秩序を正当化するイデオロギーを提供していたのが、ローマ教皇を頂点としたカトリック教会です。封建的な身分制度は神の意志の表現であるとみなされました。中世封建制社会の人々は、神によって定められた生き方の一環として、日々の労働に励んでいたのでした。
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2012年09月18日

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったか(4/13)

(4)古代から中世への移行を問う

 前回は、中世封建制の生成過程をみていく前提として、先行する古代ローマや古代ギリシャの社会にまでさかのぼって、その経済のあり方を考えてみました。端的には、地中海を舞台とした活発な交通関係を大前提として、共同体の外部から獲得してきた奴隷の労働力に依存しながら、経済的な単位として自立したそれぞれの家族が家長の指揮のもとに集約的農業を営んでいたのだ、ということでした。こうしたなかで、家族の財産を適切に管理し維持していくためのオイコノミア(家政)という発想が生まれてきたことは注目すべきですが、外部から大量に流入してくる奴隷の労働に頼る度合いが大きくなっていくにつれて、合理的な経営とか労働意欲の喚起といった問題意識はしだいに薄れていかざるをえなかったと考えるべきでしょう。あらゆる人格的権利を奪われ「ものをいう道具」として扱われるようになった奴隷には、労働意欲など存在しようがないからです。直接的に生産に携わる奴隷がこのように積極的な労働意欲を欠いた状態であれば、生産過程における試行錯誤をつうじて技術的な改良がなされていくといったことは期待できません。古代社会における生産力の発展とは、せいぜい労働力の投入量(使用する奴隷の量)を増やすことによって生産量を拡大するといった程度のものでしかなかったと考えるべきでしょう。社会の発展につれて増大し多様化していく欲求を満たしつづけていくために生産量の拡大をはかろうとするならば、ともかく労働力の投入量(外部から獲得してくる奴隷の量)を増やすしか方法がなかったというのが、古代社会における経済の姿だったのです。

 それでは、このような古代奴隷制社会は、いったいどのような過程を経ることによって、中世封建制社会へと移行していくことになったのでしょうか。

 ここで注目すべきなのは、奴隷の労働力に過度に依存することになってしまった古代社会の維持・発展は、社会の外部から奴隷が安定的に供給されてくるかどうかに決定的に左右されるようになってしまっていたのだという事情です。つまり、古代ローマ帝国は、労働力としての奴隷が安定的に供給されなくなってしまうと、社会の維持・発展そのものが困難になってしまうという情況にあったわけです。

 ローマ帝国は、2世紀の前半には現在のヨーロッパ全域を支配するにいたったのですが、ここで対外的な膨張は限界に達してしまいます。ローマの勢力がヨーロッパの内陸部へと及んでいくことは、大農場経営や手工業生産が地中海沿岸のみならずヨーロッパ内陸部にも広がっていく過程にほかならなかったのですが、これは同時に、こうした生産の場を支える奴隷の労働力を確保していくことがしだいに困難になっていく過程でもありました。ローマ帝国の膨張の終焉は、社会の維持・発展を物質的に支える労働力をどのようにして安定的に確保していくのかという大問題を、きわめて切実な形で提起するものとなったのです。

 こうした大問題を解決するために登場してきたのが、コロナート(土着農民制)とよばれる制度でした。これは、奴隷に土地や農具をあたえ世帯の形成を認めるかわりに、労役や貢納の義務を負わせるようになったものです。ようするに、それまであらゆる人格的権利を認められず財産の所有主体にもなれなかった奴隷にたいして、ある程度までの自己財産を認めることによって労働意欲を喚起し、また家族の形成を認めることによって労働力の再生産をおこなわせるようになっていったわけです。このようにして形成された土着農民をコロヌス(隷農)とよんでいます。

 さて、ローマ帝国の内陸部への侵出は、交易のあり方にも大きな変化をもたらさずにはいませんでした。陸上交通は海上交通にくらべて困難で危険なものでしたから、内陸部に深く入り込んでいけばいくほど、交易は相対的に不活発なものになっていかざるをえません。内陸部に土地を所有している貴族は、自分の所有地におもむいて所領(荘園)の経営に携わるようになりました。こうして、内陸部はしだいに行政的=司法的な独立性を強めていき、地主は領主的な性格を強めていったのでした。農業は、穀物生産を中心にして封鎖的な荘園(村落共同体)を単位としておこなわれるようになっていき、荘園における生活は自給自足的な色彩をしだいに濃くしていくことになったのです。

 地中海を舞台にした活発な交通関係を基礎にして大帝国を築いたローマは、このような内陸部への侵出の過程を経ることで、しだいに変質への道を歩んでいくことになりました。こうしたローマ帝国の変質の動きを大きく促進し、ついには帝国の解体にまで導いていくことになったのが、いわゆるゲルマン民族の大移動でした。

 ローマ帝国の北方の辺境で牧畜・農業・狩猟の生活を営んでいたゲルマン諸民族は、人口増加による耕地の不足とアジア系のフン人の東方からの圧迫によって、4世紀後半から、ローマ帝国内に大量に侵入することになります。この民族大移動にともなう混乱のなかで、ローマ帝国は4世紀末には東西に分割され、このうち西ローマ帝国は5世紀の後半に滅亡してしまいました。ゲルマン諸民族は、西ローマ帝国の領内各地に部族国家を建設していましたが、5世紀末にメロヴィング家のクローヴィスがこれら諸部族国家を統一し、フランク王国の基礎を築いたのです。

 この過程で注目すべきなのは、ローマ帝国領内に侵入したゲルマン人たちは、旧来のローマ人地主たちにたいして必ずしも敵対的な態度をとったわけではないということです。ゲルマン人は、ローマ人地主たちの土地や隷農の一部は接収したものの、文武高官として積極的に登用するなどして、古代ローマの文化遺産の継承につとめたのです。このようにして、社会のあらゆる領域において、ゲルマン的要素とローマ的要素との相互浸透がしだいにすすんでいくことになりました。

 その後、西ヨーロッパ地域は、北はノルマン、南はイスラム、東はマジャールやスラブといった民族からの侵入にたびたび悩まされながら、こうした外敵との対峙をつうじて、フランク王国としての政治的な統一が固められていくことになります。古代ローマ帝国にかわる新たな政治的枠組みが、しだいしだいに形成されていくことになっていったわけです。

 このように政治的枠組みが形成されていく過程は、同時に経済の復興がすすんでいく過程でもありました。ゲルマン人たちが古代ローマの文化遺産を継承していく流れの一環として、農業の分野においても、穀作を中心とするローマ的要素と牧畜を中心とするゲルマン的要素との相互浸透がすすんでいきました。ローマ帝国時代の末期、現在のフランス・ドイツに相当する地域に築かれていた荘園は、民族大移動に混乱のなかで荒廃してしまっていたのですが、以上のような過程を経ることで、7世紀頃になると、王領地として、さらには王領地の分与によって成立した修道院・教会や貴族の所領として、新たな荘園が形成されていくようになったのです(この荘園の構造については、次回くわしくみることになります)。

 このようにして、ヨーロッパの内陸部は、経済的にも政治的にも文化的にも、地中海沿岸地域と肩を並べるほどの大きな影響力をもつようになっていったのですが、このような動きの延長線上に、西洋世界の経済的・政治的・文化的な中心を地中海沿岸地域からヨーロッパの内陸地域へと決定的に移動させることになったのは、イスラム勢力の侵入でした。

 西ローマ帝国が崩壊してゲルマン諸部族国家が成立したあとも、西方世界と東方世界とをつなぐ地中海商業は継続されていました。ヨーロッパの内陸部にも東方の物産(領主層の欲求を満たすための奢侈品)がもたらされ、東ローマとヨーロッパでは共通の金貨が流通していたのです。ところが、7世紀以降、イスラム勢力が東ローマ帝国の領土の大半を征服してしまったことにより、地中海商業は決定的に衰退してしまうことになりました。8世紀にはいると東方の物産はヨーロッパから姿を消してしまい、ヨーロッパ独自の銀貨が鋳造されるようにもなっていきます。

 ヨーロッパが地中海世界から切り離されていく過程は、メロヴィング朝からカロリング朝への移行の過程でもありました。西ヨーロッパへ地方の侵入をねらったイスラム勢力は、フランク王国の宮宰(メロヴィング家の家政の長)の地位にあったカロリング家のカール・マルテルによって食い止められます。その子ピピンがローマ教皇からフランク王として認められたことで、フランク王国とローマ教会との密接な結びつきがつくられることになりました。さらにピピンの子カールは、内政と外征に大きな成果をあげて、800年にローマ教皇によってローマ皇帝の位を授けられることになったのでした(カール大帝)。

 このような過程を経て、ヨーロッパは東ローマ帝国の影響から完全に離脱し、それと同時に、政治的・経済的・文化的な中心地が地中海沿岸地域からヨーロッパ内陸地域へと決定的に移動していったのです。このような場所の移動こそが、古代社会から中世社会への移行を媒介したのでした。
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2012年09月17日

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったか(3/13)

(3)古代社会の経済とはどのようなものであったか

 本稿は、現代の経済学の混迷状況を打破していくためのヒントが現代経済学の源流たるアダム・スミスの『国富論』にあるとの問題意識をふまえて、人類が18世紀後半にいたってはじめて経済学という学問を確立しなければならないと考えるにいたった背景には、いったいどのような経済の発展過程があったのかを探ってみることを目的としたものです。より具体的には、『国富論』においても直接的かつ媒介的に考察の対象となっている中世ヨーロッパの経済史、より具体的には、古代ローマ帝国の崩壊と中世封建制の成立にはじまり、イギリス産業革命の前夜に至るまでの経済の発展の歴史を、ざっとたどってみることが、本稿のめざすところとなります。

 中世ヨーロッパの経済史をみていくためには、なによりもまず、中世封建制社会の構造について、その生成過程をも視野に入れつつ、つかんでおくことが必要です。今回は、中世封建制の生成過程をみていくための前提として、先行する古代ローマや古代ギリシャの社会にまでさかのぼって、その経済のあり方を考えてみることにしましょう。

 古代ギリシャ・ローマは、地中海の北岸を拠点としていましたが、地中海の南岸・東岸には、古代ギリシャ・ローマに先行して発達した文明を築いたオリエントの大帝国――エジプト・メソポタミア――が存在していました。古代オリエント世界の辺境に位置していた古代ギリシャは、これらオリエント世界の中枢にあった大帝国との相互浸透関係をつうじて成長していたのであり、そこで築かれた成果が古代ローマへと継承されていったのです。

 そもそもオリエントの大帝国の起源は、オリエント地方の大河川流域のいくつもの共同体が、有力共同体の首長の指導の下で力を合わせて大規模灌漑事業をおこない耕地を広げていくようになっていったところにあります。この過程で、有力共同体の首長が、いくつもの共同体の上に君臨する王となり、この一人の王の下に多くの共同体が束ねられるような形で、オリエントの大帝国が形成されていったのでした。王の指揮による国家レベルの協働によってはじめて生活のまともな生産・再生産が可能となっていたオリエントの大帝国において、王はこの世のすべての秩序を保証してくれる神の化身として崇められる存在となりました。土地はすべて王のものだとされ、人々は王への奉仕として労働し、剰余生産物はいったん王のもとへ集められてから分配されるようになっていったのです。やがて、神の化身としての王は、神殿を中心にして都市を築き、周辺共同体から貢ぎ物として大量の物資を集めるようになります。都市には、農業労働に直接に携わることのない膨大な数の人間が集まり住み、莫大な富を管理し蓄積する支配層がうまれました。王や支配層の増大し多様化していく欲求を満たすために、水路や道路が整備されて、交易がさかんになっていったのでした。

 古代オリエント帝国を中枢とするこのような交易関係の広がりのなかで、オリエント世界の辺境に位置していた古代ギリシャの人々は、高温乾燥というギリシャの気候に適したぶどうやオリーブを栽培し、これをぶどう酒とオリーブ油に加工するなどしてオリエント地方に船で運び、かわりに食糧となる小麦を得るようになっていったのです。

 こうした交易関係をつうじて、古代ギリシャの社会においては、どのような経済のあり方が形成されていたのでしょうか。

 まず、自然環境の違いが農業のあり方の大きな違いにつながっていたことに着目しなければなりません。ギリシャ地方には、島や山が多くて農業に適した土地が少なく、オリエント社会のように大河の恵みにたよることもできませんでしたから、より小さな単位で手の込んだ農業をおこなう必要があったのです。このため、共同体の内部にいくつかの自立的な家族が形成されていき、この家族を単位にして、狭い土地に集中的に労働を投入するような農業がおこなわれるようになっていったのでした。ここで家族というのは、血縁の親族だけでなく奴隷などの従属者をもふくんだ、経済的独立性の強い一個の共同体のことだと考えてください。家長は、これら家の構成員のそれぞれに適切な仕事をあたえ、家の財産を適切に管理しつつ、家族全体を養っていかなければなりません。ここから「家政(オイコノミア)」という発想が生まれることにもなっていったのです。

 ギリシャには農業に適した土地が少なかったため、農地をめぐる共同体どうしの争いが絶えませんでした。ここから、防衛のためにいくつかの共同体が統合されて、戦士=市民(農地所有者)の共同体として、都市国家(ポリス)が形成されることになっていきます。さらに、新たな農地を獲得し鉱物資源・木材・魚などを確保するため、地中海および黒海周辺地域への征服・植民活動も活発になっていきました。植民活動によって地中海および黒海の周辺各地に新しいポリスが多く形成されていったことは、ギリシャ本土において新しいポリス向けの商品をつくる手工業の発達を促し、さらに、これら各ポリス間をつなぐための商業の大きな発展をもたらすことになりました。こうして活発化した経済活動を支える労働力となったのが、植民活動の過程で征服され奴隷にさせられた異民族です。本国に送られた奴隷は農業労働を担うとともに、手工業の労働力としても使用されるようになりました。とくに鉱山業では、多数の奴隷を使用した大経営がおこなわれたといわれています。このように労働力としての奴隷の使用が広がっていくことで、ポリス市民たちは直接には物質的な生活資料をつくりだすような労働にかかわることがなくなり、政治的あるいは学問的・芸術的な活動に専念するようになっていったのでした。

 こうして、古代ギリシャのポリスにおいて、商品交換の広がりとともに貨幣の流通もすすみ、利子を取っての貨幣の貸し借りという行為もはじまっていくことになります。しかし、ここで重要なのは、戦士=市民(農地所有者)の共同体たるポリスの秩序維持という観点からは、貨幣の過度の流通は警戒をもって受けとめられ、したがって、金儲けというのはけっして賞賛される行為とは考えられていなかったということです。

 代表的な見解として、アリストテレスの論をみてみることにしましょう。アリストテレスは、それぞれの家族が家長の指揮のもとに奴隷(アリストテレスは「ものをいう道具」といいました)をふくむ財産をしっかりと管理しつつ、基本的に自給自足の生活を営んでいくことが望ましいと考えていたようです。貨幣を媒介とした交換について、アリストテレスはつぎのように述べています。

「自然にかなった取財術、自然にかなった富は別のものであり、それは家政術に属する。しかるに、商人の術は財を作る仕方によってではなく、ただ財の交換によるだけのものだからである。そしてこれは、貨幣に関係するものだと思われている。なぜならば、貨幣は交換の出発点であり、目的点でもあるからである。さらに、この種の取財術から生じる富には限りがない。」(アリストテレス『政治学』岩波書店〔全集版〕、p.25)


 このように、アリストテレスは、生活に必要な財貨を獲得するのに必要なかぎりでの交換については、自給自足を補完するためにやむをえないものとして認め、家政術(オイコノミケー)の一要素として肯定しました。しかし、利益を獲得することを目的としての交換(あるモノを自分が買ったよりも高い価格で他人に売る)については、悪しき貨殖術(クレマテスティケー)であるとして、これを否定する態度をとったのです。一般の財への欲求に限度はあるが、貨幣への欲求に限度はないため、貨幣を増殖させるための交換を認めてしまうと、人間は貨幣のために生きることになってしまうと考えたのでした。

 このように考えたアリストテレスにとっては、商品交換すら媒介せずに利子をとる貨幣の貸し付けは、絶対に認めることのできないものでした。利子の禁止という考え方は、その後、カトリック教会によって思想的に支配された中世ヨーロッパにおいても、長く継承されていくことになります。

 さて、ギリシャではじまった大家族単位の農業経営は、つづくローマ時代に全面的に開花することになりました。ローマにおいても、家族長の指揮のもと、従属的な家族構成員と家内奴隷によって小麦畑の耕作やぶどうやオリーブの栽培がおこなわれたのです。ローマはギリシャのようによい港に恵まれなかったので、商業はあまり発達せず、当初はまったくの農業国でしかありませんでした。しかし、もともとフェニキア人の植民地であったカルタゴを破ってから、ローマの勢力は海におよび、露骨な侵略主義となって領土を拡大、征服地を属州として支配していくことになります。商業と略奪によって莫大な富を掌握した貴族や富裕な市民は、小農民を駆逐して土地を集積し、征服した異民族を大量に奴隷として輸入して大農場経営(ラティフンディウム)をおこなうようになっていきました。大農場ではオリーブやぶどうが栽培され、オリーブ油やぶどう酒に加工されて属州へと輸出するようになっていきます。こうした商業活動の大きな発展は、いわゆるローマ法にも反映していくことになりました(のちにローマ法は中世ヨーロッパにおいて商業活動が活発になっていくにつれて、優れた商業取引の法として大きな役割をはたしていくことになります)。

 以上が、古代ギリシャ・ローマにおける経済のおおよその姿です。端的には、地中海を舞台とした活発な交通関係を大前提として、共同体の外部から獲得してきた奴隷の労働力に依存しながら、経済的な単位として自立したそれぞれの家族が家長の指揮のもとに集約的農業を営んでいたのだ、ということができるでしょう。
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2012年09月16日

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったか(2/13)

(2)経済学は経済のどのような発展のなかから生まれてきたのか

 前回は、現代の経済が大変な危機に直面しているもとで、経済危機の原因および危機からの脱却方法についての指針を指し示すことを期待されている経済学が、その期待に充分には応えきれていない情況があることを指摘しました。その上で、現在の経済の混迷情況を打開することができないという経済学の無力さの原因について検討をすすめ、根本的には、経済学とよばれる学問の領域において真に学問の名に値するまっとうな理論体系(現実の経済のあり方を的確に反映した論理の体系)がいまだに確立されていないことが問題であることを示しました。現在、経済学の世界には、経済についての基本的な見方・考え方が大きく異なる諸々の流派が分立している情況にありますが、これも、まっとうな経済学体系が確立していないからこその現象であると考えられるのでした。

 では、科学的な経済理論体系を確立していくためには、いったいどのような作業が必要となってくるのでしょうか。 

 科学的な経済理論体系を確立していくとは、いうまでもなく、あくまでも現実の経済を対象にして、その構造を論理的に把握した体系をつくりあげていくことです。これをまともにやり遂げていく上で必須となる作業のひとつが、過去の経済学者たちが現実の経済の構造をどのように把握することを試みたのか、その経験から学ぶ、ということなのです。いいかえれば、経済学の歴史をさかのぼってその歩みを論理的にたどってみる、ということです。

 経済学の歴史を論理的にたどるとは、なによりもまず、それぞれの流派が、どういう視点で現実の経済のどういう部分に着目して成立したのか、その根拠をあきらかにすることにほかなりません。いくら異なる流派でも、現実の経済を研究の対象としているという点では、変わりはないはずです。流派が異なるのは、現実の経済を見る上での視点がそれぞれに異なっているからであり、その結果として、現実の経済のさまざまに異なる部分がもつ、それぞれに特殊な性質に着目してそれぞれの「理論」を組み立ててしまったからだ、ということができるでしょう。経済学の歴史を論理的にたどるとは、それぞれの学派がそれぞれの視点から達成した成果をより一段高い視点から評価し、行き過ぎたところを削り不足している部分を補いつつ、ひとつの新しい体系のなかに取り込んでいくことにほかならないのです。

 このような作業をおこなっていくうえでの大前提となるのが、経済学の源流に相当する部分、具体的にはアダム・スミスの『国富論――諸国民の富の原因と性質についての研究』(1776年)をしっかりとおさえておくことです。この『国富論』がなぜそれほどまでに重要なのかは、前回、経済学という学問の大きな歴史の流れについて、次のように説明したことに大きくかかわっています。

「18世紀の後半、アダム・スミスによって学問化の必要性が宣言された経済学は、資本主義経済が持つ深刻な矛盾――階級対立の激化、恐慌の繰り返しなど――が露わになっていくなかで、その対応をめぐり、いくつもの学派に分裂していくことになります。19世紀の半ば以降、経済学は、マルクス学派、オーストリア学派、ローザンヌ学派、ケインズ学派など多くの学派に細分化していき、現在では、相互にまともな議論が成り立たないほどに、差異化が進行してしまっているのです。」


 このように、経済学は、アダム・スミスによって創始されて以降、多くの流派に細分化していき、差異化が進行してしまったわけですが、逆にいえば、このように細分化してしまった経済学の諸分派も、その系譜をずっとさかのぼっていけば、かならずスミスの『国富論』に行き着くことになるわけです。いわば、成長するにつれて何本にも枝分かれしてしまった木の根っこに相当するのが、スミスの『国富論』であるということができるでしょう。そうであるならば、ここをしっかりとおさえておくことによって、さまざまに分化していく経済学の歴史の流れを統一的な視点で眺めていくことが可能になると考えることができます。

 ここで私たちが絶対に見逃してはならないのは、「経済学の父」とも称されるアダム・スミスが18世紀の後半に活躍した人物であった、という事実です。これは、裏を返せば、18世紀にいたるまで経済学という学問が独立した個別科学として確立されることがなかったのだということを意味するものにほかなりません。つまり、「なぜ18世紀後半になって経済学の確立がめざされるようになったのか」という問いは、あくまでも「なぜ18世紀後半にいたるまで経済学は独立した学問として確立されなかったのか」という問いと統一して考えられなければならないのです。

 このあたりの事情について、シュテーリヒ『西洋科学史』はつぎのように述べています。

「経済科学史をいささかでも深く理解するには、まず経済史を知る必要がある。この基礎に立ってこそはじめて、プラトンやアリストテレスの説が奴隷制にささえられた経済制度の説であることを認めることができ、トマスなどの説を身分に縛られた中世的社会制度という背景の前にすえて理解することができる。こうすると、自立した領域としての経済を宗教的・倫理的な制約や制限から解放して、合理的に因果的に考察しようとする最初の動きも、経済が実際にさまざまな中世的束縛を徐々にたち切りはじめたことの表現である、とみえるのである。またそのようにみれば、新教教会の新たな社会論は、しだいに貨幣経済が行われるようになっていき、都市的市民の勢力がもりあがっていくことと関連づけてみることができる。最後に、18世紀になって自立した経済科学が育ちはじめたのは、第三階級の手にすでに権力の一部が移り、一部はその後に闘いとられるようになった、という情勢に対応するものなのである。ブルジョワ・商人の職業観がいまや大勢を定めるようになる。封建時代の一かどの世俗人の理想は、金品についてとやかく言ったり考えたりしないことだった。彼は、自分の世襲領から流れ込む地代で食っていればよかったからである。そのような理想は退陣する。経済、取引、金もうけが、実際に科学や哲学に入りこみ、サロンにだしても少しも恥ずかしくない題目にはじめてなったのである。」(シュテーリヒ『西洋科学史V』現代教養文庫、pp343-344)


 これは、ごく簡単にいえば、社会のなかに経済とよばれる領域が存在することがはっきりとみえるようになってくることによってこそ、経済学という学問の必要性が認識されるようになってきたのだ、ということにほかなりません。現代経済学の源流たる『国富論』の歴史的意義をきちんと理解するためには、このような経済の歴史的な発展をしっかりとおさえておく必要があるのです。

 こうした観点から注目に値するのは、『国富論』がたんに18世紀後半のイギリス経済を考察の対象としているだけではなく、古代ローマ帝国の崩壊以降のヨーロッパ経済史をも考察の対象として視野に入れているという事実です。ようするにスミスは、18世紀後半のイギリス経済を何百年にもわたる発展過程を経てきたものとして把握しようとしていたわけです。したがって、18世紀にいたるまでの経済の歴史をしっかりとおさえてこそ、スミスに『国富論』を書かせたそもそもの問題意識の性格を明瞭につかむことができるのではないかと考えることができます。

 本稿では、以上のような問題意識をふまえて、18世紀にいたるまでの経済の歴史、より具体的には、古代ローマ帝国の崩壊と中世封建制の成立にはじまり、イギリス産業革命の前夜に至るまでの経済の発展の歴史をたどってみることを試みます。このような作業をしっかりとなしてこそ、現代の経済学の混迷情況を打破していくためのヒントを『国富論』に探っていくことが可能になってくるでしょう。

 なお、経済の歴史をながめていくうえでは、あらかじめ「経済とは○○である」という定まった視点をもっていなければなりません。資本主義経済成立以前の時代においては、経済が社会のなかにいわば埋め込まれているかのような状態にあるわけですから、このような視点はもっておくことはなおさら重要です。本稿では、経済について仮に、社会的な諸欲求を最大限に満たしつづけるべく社会的総労働を適切に配分していくことにより、国家の維持・発展を物質的な側面から支えていくことである、と定義しておくことにします。
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2012年09月15日

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったか(1/13)

(1)経済の混乱と経済学の混乱

 2007年のサブプライムローン問題、2008年のリーマンショックによって、世界経済はたいへんな不況に落ち込みました。その後、各国政府・中央銀行による必死の財政政策・金融政策によって若干もちなおしたようではありましたが、2010年以降になると、今度はギリシャ危機をきっかけにして、欧州を中心に各国の財政赤字が大きな問題として注目を集めるようになってきました。

 急激な景気後退という問題から財政危機の問題へと関心の焦点が移行するのにつれて、各国の経済政策もまた、金融緩和と財政支出の拡大を軸としたものから、財政支出の削減と増税を軸とした緊縮政策へと、大きく移行してきました。しかし、厳しい緊縮政策は国民生活に大きな犠牲を強いるものです。欧州各国では、こうした厳しい緊縮政策への国民的な反発の高まりによって、昨年から今年にかけて、緊縮政策を推進してきた政権与党が選挙で敗北、反緊縮・雇用と成長の重視を掲げる勢力が勝利して政権交代につながるといった事態が相次ぎました。

 一方、この日本においては、「欧州債務危機は対岸の火事ではない」(野田佳彦首相)として、社会保障への支出抑制と消費税増税という「税と社会保障の一体改革」関連法が、今年8月10日に成立させられました。しかし、「深刻なデフレ不況下における消費税の増税は国民の生活に耐えがたい苦しみをもたらすのではないか」「消費のいっそうの冷え込みで日本経済が壊滅的な打撃を受ければ税収が増えるどころかかえって減ってしまうのではないか」といった懸念から、消費税の増税実施に反対する意見が根強くあります。「近いうちに」行われる衆議院の総選挙において、消費税増税の実施の是非が大きな争点になることは確実な情況です。

 いずれにせよ、各国の経済と財政が大きな問題を抱えており、世界経済の行く末が不透明であることは間違いありません。世界の経済は、日本の経済は、これからどうなっていくのでしょうか。危機を打開していくために、どのような対策をとっていくことが妥当なのでしょうか。私たちは、自分の生活をまもっていくためにも、主権者たる国民として未来に向かってよりよい社会を築いていくという責任をはたしていくためにも、現代の経済が直面している諸々の問題について主体的に考え、解決を模索していかなければなりません。

 私たちがこうした問題について考え適切な判断を下していくために、参考となるような「ものの見方・考え方」を提供してくれると期待されるのが、経済学とよばれる学問です。ところが、現在の危機をめぐって経済学者とされる人たちによってなされる対策の提案は、必ずしも一致しているわけではなく、いかなる対策をとるべきかをめぐって、大きな論争がたたかわされているという情況にあるのです。

 現在の経済学が抱える問題は、経済危機の原因および危機からの脱却方法について有効な理論を提示できていないとみられている、ということにとどまりません。それどころか、経済学こそ現在の危機を招いた元凶のひとつなのではないか、との疑念すら向けられているのです。この疑念とは、より具体的にいうならば、「高度な数学を駆使した金融工学の発展が金融バブルを引き起こしてサブプライム危機を端緒とする一連の金融危機につながったのではないか」とか、「市場原理主義的な経済理論にもとづいたいわゆる新自由主義的な政策が貧困と格差の拡大につながったのではないか」といった疑念です。ようするに、世間一般では、経済学という学問にたいする不信感が広がっており、経済学の有効性にたいして強い疑問が投げかけられている情況があるということができるのです。

 経済学をめぐる情況がこのように混迷したものになってしまっているのは、いったいどうしてなのでしょうか。

 それは、端的にいえば、経済学とよばれる学問の領域において、学問の名に値するまっとうな理論体系(現実の経済のあり方を的確に反映した論理の体系)がいまだに確立されていないということにつきるでしょう。その結果として、経済学とよばれる領域においては、経済についての基本的な見方・考え方が大きく異なる諸々の流派が分立しているという情況になってしまっているのです。

 18世紀の後半、アダム・スミスによって学問化の必要性が宣言された経済学は、資本主義経済の発展が引き起こす深刻な矛盾――階級対立の激化、恐慌の繰り返しなど――が露わになっていくなかで、その対応をめぐって、いくつもの学派に分裂していくことになります。19世紀の半ば以降、経済学は、マルクス学派、オーストリア学派、ローザンヌ学派、ケインズ学派など多くの学派に細分化していき、現在では、相互にまともな議論が成り立たないほどに、差異化が進行してしまっているのです。

 こうしたなかで、1980年代以降、大きな力を持っていたのが、いわゆる新古典派経済学でした。これは、ローザンヌ学派の唱えた一般均衡理論(*)を土台にしたものであり、市場における合理的な個人の行動の集計として、効率的な資源配分がなしとげられていくのだと考える学派です。こうした考え方が、市場原理主義ともいわれるような新自由主義的政策の思想的・理論的な背景となっていたわけです。先ほど指摘した「経済学こそ現在の危機を招いた元凶のひとつなのではないか」という疑念は、主として、この新古典派経済学を対象として想定したものといってよいでしょう。

 その反動として、一時的に、ケインズ派やマルクス派の経済学が大きな注目を集めることになりました。しかし、これらの流派に属する人々が提案する危機打開策が多くの人々の支持を集め実際に大きな成果をあげているという情況にあるかといえば、とてもそうとはいえません。主流派の新古典派経済学とは異なり、資本主義経済をそもそも不安定なものとみなすケインズ派やマルクス派の経済学に、資本主義経済が現在直面している危機を解明する手がかりとなりうる鋭い視点が含まれていることは間違いないといってもよいでしょう。しかし、それが実際に危機の打開ということにつながっていかないのは、政治的な力関係という問題があることはもちろん否定できないにせよ、やはり根本的には、真に学問の名に値するまっとうな理論体系にまで仕上げられていないからだ、と考えるべきではないでしょうか。

 結局、現在の経済の混迷情況を打開することができないという経済学の無力さの原因は、根本的には、経済学とよばれる学問の領域において、学問の名に値するまっとうな理論体系(現実の経済のあり方を的確に反映した論理の体系)がいまだに確立されていないということにもとめられるべきでしょう。経済学とよばれる領域において、経済についての基本的な見方・考え方が大きく異なる諸々の流派が分立しているのは、まっとうな学問的体系が確立していないことの現れであると考えることができるわけです。

 経済学がこのような情況にあるということは、私たちが、現代の経済が直面している諸々の問題について主体的に考え、その解決を模索していこうとしたときに、現在の経済学があまりあてにできそうにない、ということを示しているといわなければなりません。これは非常に困った情況です。たとえば、もし、医学の世界で根本的に考えの異なる流派があったとして、それぞれの立場に立つ二人の医師が、ある患者のある病気の原因にたいして、まったくちがう原因を主張し、まったく正反対の治療法を提案したらどうでしょうか。医療現場は混乱し、とてもまともな治療は期待できないでしょう。現在の経済学の世界は、ちょうどそういう情況にあるのだと考えなければなりません。

 病気にたいする適切な治療を安定的におこなうためには、現実の人間の病気についての科学的な理論を確立しておくことがもとめられるように、経済危機にたいする適切な対策を行っていくためには、現実の経済がもつ構造を把握した科学的な経済理論を確立しておく必要があるのです。

(*)あらゆる商品の需要と供給についての連立方程式を立て、それを解くことによってすべての商品の市場が同時に均衡する状態(一般均衡)をあきらかにしようとする理論。完全な自由競争のもとで、合理的な個人が自分の利益を最大化すべく行動することによって、資源の最適な配分が効率的になしとげられることを示そうとしたものだといえます。レオン・ワルラス(1834〜1910)によって創始されました。
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2012年09月14日

掲載予告:経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか(全13回)

 本ブログでは、明日より、「経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか」題した小論を掲載します(全13回)。

 この小論の根底には、現代の経済および経済学の混迷した情況を打開するヒントを、現代経済学の源流たるアダム・スミス『国富論―-諸国民の富の性質と原因にかんする研究』(1776年)に探ることができるのではないか、という問題意識があります。経済学は、アダム・スミスによって創始されて以降、多くの流派に細分化していき、差異化が進行してしまいましたが、逆にいえば、このように細分化してしまった経済学の諸分派も、その系譜をずっとさかのぼっていけば、かならずスミスの『国富論』に行き着くことになります。したがって、『国富論』をしっかりとおさえておくことによって、さまざまに分化していく経済学の歴史の流れを、統一的な視点で眺めていくことが可能になると考えることができるのではないか、というわけです。

 しかし、本稿は、『国富論』の歴史的意義の検討を中心的な課題としているわけではありません。あくまでもそのような作業をおこなう上での大前提として、『国富論』が登場させられるまでの経済の歴史をたどってみることを目的としたものなのです。それは、『国富論』の歴史的意義をきちんと理解するためには、なぜ18世紀後半のイギリスではじめて経済学という学問が誕生させられたのか、なぜ18世紀後半にいたるまで経済学という学問が成立させられなかったのかという問題を、経済の歴史からつかんでおく必要があると考えられるからにほかなりません。

 本稿では、以上のような問題意識の上に立って、古代ローマ帝国の崩壊から産業革命前夜までの経済史(および経済思想史)をざっとたどってみることにします。

 以下、目次(予定)です。

経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
――古代ローマ帝国の崩壊から産業革命前夜までの経済史

はじめに
(1)経済の混乱と経済学の混乱
(2)経済学は経済のどのような発展のなかから生まれてきたのか

1、中世封建制はどのような過程で確立されたのか
(3)古代社会の経済とはどのようなものであったか
(4)古代から中世への移行を問う
(5)中世封建制はどのようなものとして確立されたのか

2、中世封建制はどのようにしてゆらぎはじめたのか
(6)商業の復活にともなって都市が発展してきた
(7)地代の金納化で農民の地位が向上、農村工業も台頭してきた
(8)イングランド毛織物業を起点に中世の貿易構造の解体がはじまった

3、資本主義経済はどのようにして生成してきたのか
(9)封建制の危機が成立させた絶対王政が市民革命によって打倒された
(10)世界商業の覇権をめぐる争奪戦で貿易差額の増大がめざされた
(11)イギリスにおける均衡的な国民経済の発展が産業革命を準備した

まとめ
(12)経済学は諸国民の富の性質と原因をあつかう学問として誕生した
(13)経済学は社会科学の一部門として位置づけられるべきものである
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2012年08月03日

クセノフォン『オイコノミコス』を読む(13/13)

(13)経済学とは国家を対象とした家政学にほかならない

 前回は、本稿でこれまでみてきたクセノフォン『オイコノミコス 家政について』の概要についてまとめたうえで、この著作で論じられていた「家政とは何か」を、整理して提示しました。再度確認しておきましょう。

 家政とは、端的には、自分自身の家財をきちんと管理する技術のことにほかなりません。ここで財産というのは、その人が所有する有用なもの、すなわち、そこから利益を得ることができるもののことでした。財産の管理の具体的なあり方としては、最小の手段で最大の効果をあげるべく諸々の家具・備品をきちんと整理整頓してそれぞれをあるべき場所に配置するということであり、家の内外で労働すべき者をしっかりと労働させていくことであり、その成果である収穫物をしっかりと保存管理して必要なときに適切に分配していくことでした。家とは奴隷などの従属者をもふくんだ一個の共同体(協働体)にほかならない、という観点からは、労働によって得られた収穫物を適切に保存管理し、それを適切に分配する(労働の成果に見合った報酬をきちんと公正にあたえていく)ことで労働すべき者たちの働く意欲を継続的に喚起して家の維持・発展という方向にそって組織していくことこそ、家政術の核心である、ということができたのでした。

 それでは、家政について確認された以上のような事柄は、本稿のそもそもの目的である「経済とは何か」という問題の考察に、どのように資するものなのでしょうか。

 ここであらためて想起したいのは、日本語の「経済」という言葉のもとになったのは、「ポリティカル・エコノミー(political economy)」であった、ということです。つまり、経済とはもともと政治的組織体であるところの国家に適用されたエコノミー(オイコノミア)にほかならなかったのだ、ということです。したがって、国家における経済の機能について考えてみるうえで、『オイコノミコス』の検討をつうじて確認された事柄を手引きとしてみることは、きわめて順当なことだといえるのです。以下、より具体的に考えてみることにしましょう。

 そもそも国家とは、人類が自然(地球環境)との相互浸透において生きつづけていくために創り出した最大の協働体であるということができます。この国家のなかには、具体的な協働を想定した諸々の小社会が包み込まれているのであって、国家はこれら諸小社会の過程的かつ重層的な複合体としての社会をひとつにまとめあげ、国家権力によってしっかりと統括しながら、この社会を外部からの攻撃に抗して守っていけるような強固な枠組みとして存在させられているのです。

 この国家における諸々の機能、たとえば、政治とか教育とか経済とかは、この国家レベルの社会の維持・発展のために不可欠のものとして、把握しておく必要があります。このうち経済とは、現象的には、人間が諸々の欲求――それは無限に増大していこうとする傾向をもっています――を満たすために自然に働きかけて生活資料を生産し、これを分配し消費していく過程のことだといえます。

 さて、ここで決定的に重要なのは、人々の諸々の欲求を満たすための生活資料は、ほかならぬ人間の社会的労働によって生産されつづけなければならない、ということです。ようするに、労働が継続されることこそ社会の存続にとっての根本的な条件なのであり、無限に増大し多様化していこうとする人々の欲求を何とか満たそうとして社会的労働の量的かつ質的な発展がはかられていくことこそ、社会の発展の原動力であるともいえるわけです。

 いうまでもないことですが、社会的労働が継続されるのは、人々が労働する意欲を継続してもちつづけるかぎりにおいてです。したがって、ここに、労働する意欲の源泉は何なのか、という問題が浮上してくることになります。高度に社会的分業が発展した状態を前提としていえば(*)、それは労働した成果に見合った報酬が公正にあたえられるに違いないという期待、換言するならば、労働すれば報われるという社会のしくみへの信頼にほかならない、ということができるでしょう。

 ここで決定的に重要なのは、人々の労働する意欲を現実の労働につなげていくためには、労働する意欲をもった人々にきちんと労働する場があたえられなければならないということです。これが、現代社会においては雇用の確保の問題として現象しているわけです。この問題をきちんと解決するということは、論理的には、労働力と生産手段の適切な結合を実現することにほかなりません。このことと、実際に労働した成果に見合った成果を適切に分配していくこととをあわせて、資源配分の問題ということができるでしょう。ふつう、経済学においては、配分という言葉は生産にかかわるもの、分配という言葉は消費にかかわるもの、という区別がなされますが、消費もまた人間の生産にほかならない(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』講談社現代新書、p.159)という観点からすれば、あわせて配分といってもよいわけです。

 以上をふまえるならば、国家における経済とは、次のような機能をはたすべきものであるということができます。すなわち、無限に増大し多様化していこうとする人々の欲求を何とか満たしていくために、人々の労働する意欲を継続的に喚起し、また労働する意欲をもった人々をきちんと生産手段とむすびつけていく(わかりやすくいえば、きちんと労働する場をあたえる)ことです。こうした機能が円滑にはたされていくためには、労働の成果に見合った報酬を必ず得ることができるに違いないという社会のあり方への信頼を確保し、人々の期待に大きく違わないようにきちんと労働の成果を分配していくことが、決定的に重要になります。

 現象レベルで把握すれば、生活資料の生産・分配・消費の過程でしかない経済は、本当は以上のような構造を内にふくんだものとして理解されなければなりません。端的には、「経済とは、国家的レベルの社会を維持し発展させていくために、限りなく増大し多様化しようとする人々の欲求を最大限に満たすべく限られた生産手段および労働力を適切に配分し結合させていくことであり、『労働すれば報われる』という社会のしくみへの信頼を確保することによって人々の労働する意欲を継続的に喚起することがその要となる」と定義することができるでしょう。

 家政についての検討をふまえてなされたこの定義の重要性は、あくまでも国家レベルの共同体の維持・発展という目的性が強調されていることです。もちろん、ここに提示した定義は、筆者の現時点での貧しい実力にもとづいた仮説的なものにすぎません。しかし、この定義は、国家レベルの社会の維持・発展を支えるためにもとめられる経済のあり方をあきらかにしようとするものであり、人間の社会的な生活のなかで、経済とはそもそもどのようにあるべきものかを示唆しようとするものであることは強調されてよいでしょう。

 本稿の冒頭で取りあげたデフレ経済下における消費税大増税の強行(断行?)という政策の妥当性も、本来は、このような観点からなされるべきであると考えられます。グローバル市場で稼ぐ大企業に負担をかけないために国内の生活者に過酷な負担を強要し、国内の景気回復や国民生活の安定という目標を(事実上)放棄してしまうような政策が、日本国内の労働者の労働意欲の継続的な喚起(ゲバルトレベルではなくマハトレベルの!)に資するものであるかどうか、真剣に検討されるべきでしょう。

 さらにいえば、ここで提示した経済の定義は、経済学のあり方を問うものでもあります。経済学においては、ながらく、合理的な経済人(ホモ・エコノミクス)を想定して、これら諸個人の行動の機械的な集合として(難しい数式を駆使して)経済の動きを把握しようという発想が主流となっていました。現代の経済学が混迷を深めている根底には、このような物理学的な手法をお手本にした発想の行き詰まりがあるといってよいでしょう。家政についての検討をふまえて提起された経済の定義には、このような混迷を超える可能性が秘められているとはいえないでしょうか。経済学とは国家を対象にした家政学にほかならない――経済学の原典『オイコノミコス』をふまえたこのような把握こそ、経済学の混迷を打ち破るカギとなるのではないでしょうか。

(*)自分自身の労働によって自分指針の生活を支える労働生産物を確保するという自給自足を想定するならば、労働生産物によって得られる効用への期待こそが労働する意欲の源泉である、ということができます。たとえば、衣服があれば寒さをしのぐことができるという期待こそが裁縫労働への意欲の源泉となる、ということです。ところが、国家的なレベルで社会的分業が進展していき、個々の労働者が特定の種類の労働に拘束されるようになって自給自足ということが過去のものとなっていくと、労働とその結果としての労働生産物の効用との直接的な関係は失われていくことになります。こうなると、自分がある特定の労働(たとえば裁縫労働)に専念することで、その成果とひきかえに、食料や家財道具などを他の人々から獲得することができる(物々交換であれ、貨幣を媒介としてであれ)という社会的なしくみへの信頼こそが、労働する意欲の源泉となるのです。
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2012年08月02日

クセノフォン『オイコノミコス』を読む(12/13)

(12)家政術の核心は労働する意欲の継続的な喚起と組織にある

 本稿は、「経済とはそもそも何か、それはどのようにあるべきものなのか」という根源的な問題が問われているという現代日本の情況をふまえ、経済にたいする人類の認識がどのようにしてはじまったのかを古代ギリシャに探るために、クセノフォンの『オイコノミコス 家政について』(越前谷悦子訳、リーベル出版、2010年)という著作の内容を確認していくことを目的としたものです。なお、この著作は、ソクラテスが富裕な一家の長であるイスコマコスという人物――スキルスという地で荘園主として暮らしていたクセノフォン自身がモデルだとされます――から聞いた家政にまつわる話をクリトブロスという人物にたいして語って聞かせる、という形式になっているものでした。

 ここで、これまでの流れをふり返っておくことにしましょう。

 『オイコノミコス』第一章から第六章までは、ソクラテスとクリトブロスの対話をとおして、家政にかかわる基本的な考え方があきらかにされていました。具体的には、まず、家政とは自分自身の家財をきちんと管理する技術であること、財産とは人が所有する有用なもの(そこから利益を得ることができるもの)であり、同じものでも条件しだいで財産になったり障害物になったりすること、みずからの欲望をきちんとコントロールすることが家政の前提となること――が確認されたのでした。そのうえで、ソクラテスは、ある人が裕福であるかどうかは財産の大きさと支出の大きさとの相対的な関係で決まってくるものであるとして、大きな財産をもつとはいえ富裕な市民として多大な金銭的義務を負っているクリトブロスの財政状況が非常に厳しいものであることを指摘したのでした。不安に駆られたクリトブロスに家政についての助言をもとめられたソクラテスは、財産をもったことのない自分にそれは不可能であるとして、かわりにまともに助言できる人を紹介することを約束します。これにつづくソクラテスとクリトブロスの対話では、家具の配置や奴隷の扱いなどの事例を検討することによって家政についてまともに助言できる有能な人の条件が検討されるなかで、最小の手段で最大の効果をあげるべく家財の配置(運動)を社会的認識によってコントロールしていくことの重要性が示唆されたのでした。さらに、実際にどのような仕事に従事するのがよいのかというクリトブロスの問いにたいして、ソクラテスは農業を勧めます。それは、農業は生活に必要な食料をもたらすのはもちろんのこと、耕作によって心身を鍛えることになるし、土地を守る勇気をあたえるとともに、人々を指揮するということについても学ばせることになる、という理由からでした。

 第七章からは、家政についてまともに助言できる有能な人として、カロスカガトス(立派な人)とよばれるイスコマコスが登場しました。より正確には、ソクラテスがイスコマコスから聞いた話をクリトブロスに語って聞かせることになったのでした。イスコマコスはまず、妻が家のなかではたすべき仕事について語りました。端的には、妻は、家の内外で働くべき者たちをしっかりと働かせ、収穫物をしっかりと保存管理して必要なときに必要なだけ分配していかなけれなならないのだ、ということでした。ついでイスコマコスは、妻に整理整頓の効用を教え、妻が家の諸々のことをしっかりと統括する構造を創出できるように手助けしたことについて語りました。具体的には、家具・備品を種類別に分類してそれぞれにふさわしい場所に置くようにするとともに、召使いのなかからもっとも信頼に値すると思われる女性を召使頭として選びまともにその役が務まるように教育したのだ、ということでした。さらに、イスコマコスは、妻にたいして、ポリスにおける公権力の機能を例にだしながら、家の内のことをしっかりと統括していく責任はほかならぬ彼女自身にあることを明確に理解させるようにしたのだ、ということでした。さらに、イスコマコスは、自身の生活原則について、三つの願い――健康と体力、社会的な名誉、富――を相互に連関しあったものとして把握して、毎日の具体的な生活をそこにつながるものとして送っていることを語りました。

 第十二章からのイスコマコスとソクラテスの対話では、耕作監督の育成の問題が話題となりました。そこでイスコマコスが語ったのは、まともな耕作監督を育てるためには、主人と主人の財産に好意をもつようにすることが大前提であり、そのうえで、配慮することの大切さと、どうすれば個々の作業がより有益になるのかということを教え、さらに働く者たちに指図することを学ばせるのだ、ということでした。第十五章から第二十章にかけては、イスコマコスがソクラテスのもとめに応じて農業技術について語りました。ここでイスコマコスは、農業技術は容易に学べるものであることを強調し、ソクラテスが知らないと思っている事柄でも、実は、知っている事柄に似ているのでそこから類推することができるのだということをあきらかにするとともに、農業で失敗する人がいるのは、その人に知識がないからではなく、実行に移す際の配慮が欠けているからである、と指摘したのでした。最後の第二十一章においては、イスコマコスは、「農業でも、政治でも、家政や戦争でも、すべての事柄に共通なのは、指揮の仕方である」として、管理人や監督者の立場にある人にもとめられる資質について語りました。結論的には、管理人や監督者の立場にある人は、人々を無理やり従わせるのではなく、人々にやる気を起こさ仕事にたいする熱意と勤勉さをもつようにさせることができなければならない、ということでした。

 以上のような『オイコノミコス』における論の展開を、この著作のそもそもの目的である、家政とはそもそもどういうものなのか、という点に焦点をあてて、あらためて端的にまとめておくことにしましょう。
家政とは、端的には、自分自身の家財をきちんと管理する技術のことにほかなりません。ここで財産というのは、その人が所有する有用なもの、すなわち、そこから利益を得ることができるもののことでした。財産の管理の具体的なあり方としては、最小の手段で最大の効果をあげるべく諸々の家具・備品をきちんと整理整頓してそれぞれをあるべき場所に配置するということであり、家の内外で労働すべき者をしっかりと労働させていくことであり、その成果である収穫物をしっかりと保存管理して必要なときに適切に分配していくことでした。家とは奴隷などの従属者をもふくんだ一個の共同体(協働体)にほかならない、という観点からは、労働すべき者たちを労働用具と適切にむすびつけ(整理整頓はまさにその目的のためであるとも考えられます)、その労働によって得られた収穫物を適切に保存管理し、それを適切に分配する(労働の成果に見合った報酬をきちんと公正にあたえていく)ことで労働すべき者たちの労働意欲を継続的に喚起して家の維持・発展という方向にそって組織していくことこそ、家政術の核心である、ということができたのでした。
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2012年08月01日

クセノフォン『オイコノミコス』を読む(11/13)

(11)イスコマコスが指揮の仕方の大切さについて語ること

 前回は、第十五章から第二十章にかけて、イスコマコスがソクラテスのもとめに応じて農業技術について語ったことを確認しました。イスコマコスは、農業技術は容易に学べるものであることを強調し、ソクラテスが知らないと思っている事柄でも、実は、知っている事柄に似ているのでそこから類推することができるのだということをあきらかにするとともに、農業で失敗する人がいるのは、その人に知識がないからではなく、実行に移す際の配慮が欠けているからである、と指摘したのでした。

 つづく第二十一章が、この『オイコノミコス』の最後の章となります。ここでは、指揮の仕方一般の大切さが語られています。この著作全体の内容を総括する位置にある重要な章であると考えられますから、その核心的な部分を、少し長くなりますが、引用しておくことにしましょう。

 イスコマコスは言った、
「ええ、全くそうです。そこで、ソクラテス、農業でも、政治でも、家政や戦争でも、すべての事柄に共通なのは、指揮の仕方であるということなのですが、それについては、指揮官の才覚によってある集団と他の集団の間に大きな差が生じるというあなたの意見に賛成です」
 彼(イスコマコス)は言った、
「例えば、三段オール船で沖に出て、海を越えて丸一日の航海をしなければならない時、漕ぎ手の頭達のある者は、声を掛け、指図して、漕ぎ手達が発奮し、意欲的に漕ぎ通すようにすることが出来ますが、他の頭達は、そのような事を考えもしないで、同じ航路を倍以上の時間をかけて終えるのです。一方の船団は発奮させるものとそれに従う者達とが、共に汗を流して健闘を称え合い上陸しますが、他の人達は汗も流さず目的地に着きますが、漕ぎ手達と彼等の頭はお互いに嫌いあっているのです」
 彼(イスコマコス)は続けた、
「それに、こうした点では、将軍達の間にもそれぞれ違いがあります。つまり、ある将軍達は彼等の兵士達を、苦労を嫌い、危険に身をさらしたくない者にしてしまう、兵士達は止むを得ない場合以外、命令に従うことを良い事と思わず、従おうともせず、逆に指揮官に反抗することを得意に思っているのです。これらの指揮官達は、不名誉な事態が起きても、恥を恥と思わない兵士達を作っているのです。
 これに対して、神のごとく、すぐれた指揮官はこの種の兵士達を指揮する術を心得ていて、しばしば他の兵士達の教育も引き受け、彼等兵士達が何か恥ずべきことをすることを恥じるように、服従することはより良いことなのだと考えるように、個人としても全体としても服従するということに誇りを持つように、苦労に耐えなければならない時には自ら進んでそうするように指導するのです。……
 このように、付き従う者達をその気にさせる指揮官というのは、強いけれども、体力的には兵士達の中で、決して最強ではなく、最も上手に槍を投げたり、弓を射たりする者でもなく、最もすぐれた騎手でもありません。また、最良の騎兵や歩兵達のように危険に身を晒すわけでもありません。でも、兵士達の心の中に戦火や危険を物ともせず、彼についてゆかなければならないという気持ちを起こさせることが出来るのです。
 このような指揮官達こそ、まさに、偉大と言われるのに相応しい人々であり、多くの兵士達は同じ思いで彼等に付き従うのです。彼等指揮官達が剛腕と共に進軍すると言われているのも当然でしょう、彼等の人格を慕って多くの兵士達が手を貸そうとしているからです。ですから武勇にによってよりむしろ、人格によって大勝利を得ることの出来るような指揮官こそ本当に偉大なのです。
 同じ事は、私的な事柄にもいえます。人が管理人や監督者の立場にある時、人々にやる気を起こさ、仕事に対する熱意と勤勉さをもつようにさせることの出来る人は、人々を善い事へと導き、豊かにするのです……」


 ここではまず、「農業でも、政治でも、家政や戦争でも、すべての事柄に共通なのは、指揮の仕方である」ということが確認されています。これは、論理的にいうならば、あらゆる社会的な活動について、それがまともになされていくためには、その活動に参加する人々をしっかりと一つの目的にそって統括していく機能が必要であることを示しているといえるでしょう。そもそも社会とは、「生活の生産におけるさまざまな協働によって結びついている人間の集団」(『弁証法はどういう科学か』講談社現代新書、p.160)のことにほかなりません。これは、わかりやすくいえば、企業や病院、学校などのように、何らかの具体的な目的にもとづいた協働を想定して形成された組織体のことを指します。大きな目でみれば、こうした協働体としての組織――いわば“小社会”――の過程的かつ重層的な複合体として、国家レベルの社会が存在していることになるわけです。重要なのは、諸小社会の過程的かつ重層的な複合体としての国家においても、またその国家を構成するそれぞれのレベルの小社会においても、それらが協働体としてまともに活動していけるためには、その協働をしっかりと統括する機能をはたす存在が絶対に必要なのだということです。

 ここでイスコマコスがとくに問題にしているのは、このような統括の機能を担うべき立場にある人(指揮官など)にもとめられる資質についてです。イスコマコスの主張の要点は、引用の一番最後のところ、すなわち、「人が管理人や監督者の立場にある時、人々にやる気を起こさ、仕事に対する熱意と勤勉さをもつようにさせることの出来る人は、人々を善い事へと導き、豊かにするのです」というところに尽きるといってよいでしょう。ようするに、協働を統括する立場にある人は、人々を無理やりに力ずくでしたがわせるのではなく、人々の心のなかにやる気を起こさせるようでなければならぬ、ということです。論理的にいえば、ゲバルト(Gewalt)レベルの統括ではなく、マハト(Macht)レベルの統括ができなければならぬ、ということになるでしょう。

 このことをふまえて、『オイコノミコス』におけるそもそもの対象である家政について、あらためて考えておくことにしましょう。本連載でこれまでに確認してきたとおり、家政とは家の内の諸々のもの(者・物)の配置(運動)をしっかりと統括していくための技術にほかならず、イスコマコスは妻にその統括者の地位をあたえていたのでした。その妻のはたすべき役割の筆頭にあげられていたのは、家の内外において労働すべき者をしっかりと労働させることにほかなりません(本連載第6回を参照)。第二十一章で展開されたイスコマコスの指揮の仕方についての主張をふまえていうならば、家の内外において労働すべき者を無理やりに労働させるのではなく、それらの人々にやる気を起こさ、仕事にたいする熱意と勤勉さをもつようにさせることのできる人こそ、真に優れた家政家と称するに値する、ということになるのです。

 以上のように、『オイコノミコス』最後の章である第二十一章においては、人々の協働を指揮すること一般の重要性が語られ、協働を統括する立場にある人は、人々を無理やりに力ずくでしたがわせるのではなく、人々の心のなかにやる気を起こさせるようでなければならぬ、ということが指摘されたのでした。
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2012年07月31日

クセノフォン『オイコノミコス』を読む(10/13)

(10)イスコマコスが農業技術の学びについて語ること

 前回は、イスコマコスが耕作監督の育成について語ったことを確認しました。端的には、主人と主人の財産に好意をもつようにすることが大前提であり、そのうえで、配慮することの大切さと、どうすれば個々の作業がより有益になるのかということを教え、さらに働く者たちに指図することを学ばせるのだ、ということでした。

 つづく第十五章において、ソクラテスはイスコマコスに、これまで詳しく語られることのなかった個々の作業の具体的なあり方、すなわち農業技術のことについて教えてもらいたい、なぜなら、この技術を知っている人たちは豊かになる一方、知らない人たちは骨を折っている割には生活に困るという有様なのだから、と問いかけます。これにたいしてイスコマコスは、農業の技術は容易に学ぶことができるものであり、ただ働いている人たちをよく見て、その人たちの言うことに耳を傾けさえすればすぐに体得できるのだ、答えます。

 第十六章から第十九章にかけて、イスコマコスは、問答によって、個々の作物にかんする具体的な農業技術についてソクラテスに教えていきます。その方法は、ソクラテスが知らないと思っている事柄でも、実は、知っている事柄に似ているので、そこから類推することができるのだということを示す、といったものです。その一例として、果樹の植え付けについてのイスコマコスとソクラテスの問答をみてみましょう。

 イスコマコスは言った、
「それでは、あなたが何を知らないのか考えてみて下さい。なぜって、あなたは木のためにどんな穴を掘るのか、すでに見ていたと僕は思ってますから」
 僕(ソクラテス)は言った、
「何度も見ているよ」
「では、三ピエ(*)よりも深い穴を見ましたか?」
 僕(ソクラテス)は言った、
「ないね、全く。二ピエ半だってないね」
「では、三ピエより幅の広い穴を見ましたか、どうですか?」
 僕(ソクラテス)は言った、
「見たことがないよ、全く。二ピエのでさえないよ」
 彼(イスコマコス)は言った、
「さあ、それでは答えてください、今までに一ピエより浅い穴を見たことがありますか?」
 僕は(ソクラテス)は言った、
「全くないね、一ピエ半より浅いのもみたことないよ、僕は。……」
 彼(イスコマコス)は言った、
「そうすると、ソクラテス、あなたはこういう事をちゃんと知っているんですね、つまり植え穴を掘るときには、二ピエ半より深くは掘らないし、一ピエ半よりあさくもないということを」
*1ピエは約30cm。

 このようなイスコマコスの方法について、個々の農業技術について説明が一通り終わったあとで、ソクラテスは次のように感想を述べています。

「ところで、イスコマコス、質問する事は教えることになるのかね? 何故なら、君がどのようにして僕に、それぞれの事柄を質問したのか、今になって解ったからなのだ。つまり、君は僕自身が知っている事柄を手がかりとして僕を導き、僕が知らないと思っていた事柄が、実は、僕が知っている事柄に似ているのだという事を示すことに拠って、結局、僕はそれらの事をも知っているのだと納得させられるのだ」

 しばしば、ソクラテス式問答法の本質は、対話者が知っていると思っていることを実は知らないということを自覚させることにあるとされますが、ここでクセノフォンは、それとは正反対のこと、すなわち、対話者が知らないと思っていることを実は知っているのだということを自覚させることに問答が役にたつのだという感想を、ソクラテス自身に語らせているわけです。ちなみに、ここでのイスコマコスの問答法は、「そもそもわかるとはどういうことか」という本質にかかわるものだといえるでしょう。端的には、「わかるとはよく知っていること・(すでに)わかっている(別の)ことに当てはめること」だといえるのです。これについては、本ブログに掲載した「わかるとはどういうことか」(2010年10月21日〜10月25日)で説かれていますので、参照してください。

 なお、ひきつづく第二十章において、ソクラテスは、農業技術がこれほど簡単に学べるならば、なぜ皆が同じようによい結果を出すことができないのか、と問います。これにたいして、イスコマコスは、その差は農業技術についての知識の有無によって生じるものではなく、実際の作業をおこなう際の配慮の有無によるのだ、と答えています。イスコマコスは、このことは軍隊の指揮官についても同じであり、戦のなかで必要とされる基本的な知識は誰でももっているが、それを実行に移すときに配慮に欠けてしまうと大敗を喫することになってしまうのだ、とも語ります。論理的にいえば、ここでイスコマコスは、技そのものの有無ではなく、技を使用するレベルにおいて問題が生じるのだという指摘をしているのだということができるでしょう。

 以上のように、第十五章から第二十章にかけては、イスコマコスがソクラテスに問いを投げかけ、それに答えさせることをくりかえすことをつうじて、諸々の農業技術についてあきらかにしていくとともに、その技術を使用するうえでの注意点についても言及されたのでした。
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2012年07月30日

クセノフォン『オイコノミコス』を読む(9/13)

(9)イスコマコスが耕作監督の育成について語ること

 本稿は、「経済とはそもそも何か、それはどのようにあるべきものなのか」という根源的な問題が問われているという現代日本の情況をふまえ、経済にたいする人類の認識がどのようにしてはじまったのかを古代ギリシャに探るために、クセノフォンの『オイコノミコス 家政について』(越前谷悦子訳、リーベル出版、2010年)という著作の内容を確認していくことを目的としたものです。

 これまで、全二十一章のうち、第十一章までを読んできました。ここまでの流れを簡単にふり返っておくことにしましょう。

 まず、第一章から第六章までは、ソクラテスとクリトブロスの対話でした。この二人の対話をつうじて、家政とは家の内にある諸々のものを体系的に統括していくための技術であること、まっとうな人間にとってのもっとも有益な仕事と技術は農業にほかならないことが確認されたのでした。第七章以降は、ソクラテスがクリトブロスにたいして家政についてまともに助言できる人間を紹介するとして、ソクラテスがカロスカガトス(立派な人)とよばれるイスコマコスから聞いた話を語って聞かせることになります。イスコマコスは、家政とは家の内の諸々の家具・備品および諸々の働く人たちをしっかりと体系的に統括していくことであり、その体系の頂点に立つのが妻にほかならないことを語り、さらに、自身の生活原則については、三つの願い――健康と体力、社会的な名誉、富――を相互に連関しあったものとして把握して、毎日の具体的な生活をそこにつながるものとして送っていることを語ったのでした。

 さて、ひきつづく第十二章では、イスコマコスが雇っている耕作地の監督たちについて話題が及びます。ソクラテスは、イスコマコスに、畑の監督者が必要な場合、最初からその任に適した能力をもった人を探してくるのか、それともイスコマコス自身が教育して監督にするのか、と問います。イスコマコスは、もちろん自分で教育するのだ、と答えます。

 ソクラテスは、教育して監督にするのであれば、まず君と君の所有物にたいして善意をもつようにすることが大前提になるだろう(善意がなければ管理についての何らかの知識があっても無益である)として、そのための教育方法を問います。これにたいしてイスコマコスは、「天の恵みで、たくさんの善き物を得たときには、必ず彼に報酬を与えるということによって」と答えます。つまり、イスコマコスの財産によって恩恵を受けるのであればおのずとイスコマコスとその財産に好意をもつようになるだろう、これこそ忠誠心を育むためのもっとも有効な方法であろう、というわけです。

 さらにイスコマコスは、主人にたいして好意をもつということと主人の財産にたいする管理能力があるということは別のことではないか、というソクラテスの問いかけにたいして、監督にしたいと思う者たちにはもちろん配慮するということを教えるのだ、と答えます。ただし、大酒飲み、眠りすぎる者、恋に溺れてしまう者、金銭欲に引かれやすい者にたいしては配慮することを教えるのは不可能であるとします。それでは、そうでない人たちにはどのようにして配慮することを教えるのか、というソクラテスの問いにたいして、イソクラテスは、よく気配りをしていると思った者については褒めて褒美をあたえる一方、怠けている者については厳しく叱責し罰をあたえる、という単純なことによってである、と答えるのです。

 耕作監督の育成については、次の第十三章でもひきつづき検討されます。まず、ソクラテスは、ある男に配慮を教えこめばそれでもう監督になれるのか、それともまだ何かほかに学ぶことがあるのか、と問います。イスコマコスは、何時どんなふうにそれをするかというノウハウと、働く者たちに指図することとを学ぶ必要があると答えます。この後者のことについてソクラテスは、どのようにして指揮者にふさわしい人を育成するのか、と問います。イスコマコスは、奴隷たちに服従することを学ばせるには、彼らの胃袋からの欲求あるいは賞賛にたいする欲求を満足させてやるのがよい、ということを監督にしたい者たちに教える、また、彼らを助けてやるために、彼らの下で働いているものたちに支給する衣服や履物について、よく働く者たちには上質のものを、怠けている者にはより劣ったものをあたえるようにして、それぞれの労に報いるようにするのだ、と答えます。このことにかかわって、イスコマコスは次のように述べています。

「僕の考えでは、ソクラテス、よく働く者たちがやる気をなくすのは、仕事を成し遂げたのは彼等自身なのに、一方で、苦労もせず、必要な危険も冒さない者たちが、彼等と同じ物を得るのを見たときなのです。
 だから、僕自身、勤勉な労働者が怠惰な者たちと同じ物を得るなんてことは認めません。畑の監督がよりすぐれている農奴により良い物を分配するのを見た時には彼を褒めたたえますが、その一方、ある者がお世辞とか、何か他の無益な計らいによって気に入られるのを見た時には、躊躇せず叱責して、そのような事は彼のためにならないということを教えるのです、ソクラテス」

 ここには、労働する意欲にかかわっての本質的な把握があるといってよいでしょう。これは、端的には、労働する意欲が喚起されるのは、労働することによってこそそれに見合った効用を獲得することが期待されるからである、ということにほかなりません。ここでイスコマコスが指摘しているように、労働しなくても報酬が得られるとか、その逆に労働してもまともに報酬がえられないとかであれば、人々の労働する意欲は減退していかざえるをえないのです。

 現代においても、不安定雇用や低賃金労働の広がりが若者の労働する意欲を奪っているのではないかという批判がなされる一方で、過度に充実した(?)失業保険や生活保護などが労働意欲の低下を招いているのではないかとかという批判がなされることもあります。もちろん、社会保障制度というのは、弱肉強食の資本主義的な市場経済の弊害から人々の生活を守らなければならないという必然性にもとづいて生まれてきたものであることを忘れるわけにはいきません(消費税増税関連法案をめぐる増税談合3党の密室協議を経て突如出されてきた「社会保障制度改革推進基本法案」なるものは、このような観点から批判的に検討されなければならないものです)。しかし、個々人の労働する意欲こそが社会を維持し発展させていくための基礎であるという大前提をふまえるならば、失業保険や生活保護などの制度は、あくまでも働く意欲はあっても働けない人たちを救済するという補完的な役割のものであるのだということについて、理論的には確認しておく必要があるでしょう。

 さて、ひきつづく第十四章においては、誠実であり公正であることが耕作監督にとって必要な条件であることが確認され、第十二章からなされてきた耕作監督の育成にかかわっての話題は一応ここで終了することになります。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
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 ・観念的二重化への道
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 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
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 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言