2017年07月14日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約C

 前回は、感性的直観によって与えられた多様なもの(経験の対象)だけが統覚によって客観的に統一されるのだということが説明された部分の要約を紹介しました。カントは、経験的な直観における多様な表象が、判断という悟性の機能によって統覚のもとに取り込まれて客観的な統一を与えられることを指摘する一方で、このように純粋悟性概念(カテゴリー)が適用されるのはあくまでも経験の対象(経験的直観における多様な表象)のみであり、それ以外のところに純粋悟性概念を適用しようとしても、対象に関する無内容な概念にしかならず、客観的な実在性をもたない単なる思考形式にしかならない、と指摘していたのでした。

 さて、要約の紹介の最後となる今回は、カテゴリーに従って直観における多様なものを結合する総合をなす産出的構想力について、また、思惟する主観である「私」と思惟された客観としての「私」の関係、また、現象としての「私」と私自体との関係について、さらに、法則は自然における多様なものの結合を自然から得てこないにもかかわらずどうして自然をア・プリオリに規定しうるか、という問題について、説明されている部分の要約を紹介することにしましょう。

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感官の対象一般へのカテゴリーの適用について

 純粋悟性概念は、悟性だけによって直観の対象一般に関係する。しかし、だからこそ純粋悟性概念は単なる思考形式にすぎず、これによってはまだ一定の対象は与えられない。しかし、我々には感性的直観のある形式がア・プリオリに具わっており、この形式は表象能力(感性)の受容性を基礎とする。それだから自発性としての悟性は、与えられた表象の含む多様なものに基づき、統覚の総合的統一に従って内感を規定することができるし、また感性的直観においてア・プリオリに与えられた多様なものを結合するところの統覚の総合的統一を、我々(人間)の直観の一切の対象が必然的に従わねばならない条件と考えることができるのである。単なる思考形式としてのカテゴリーは、このようにして初めて客観的実在性をもつことになる。換言すればカテゴリーは、直観において我々に与え得る対象――といっても、単なる現象としての対象へ適用されるようになるのである。
 感性的直観における多様なもののこうした総合は、ア・プリオリにのみ可能でありまた必然的であるが、これは形象的総合と名づけられ、直観における多様なもの一般に関して単なるカテゴリーにおいて思惟されるような悟性的結合から区別される。
 形象的総合は、統覚の根源的-総合的統一にのみ、すなわちカテゴリーにおいて思惟される先験的統一にのみ関係する場合には、純粋に知性的な総合から区別されて構想力の先験的総合と呼ばれねばならない。構想力とは、対象が現に存在していなくても、対象を直観的に表象する能力である。我々の直観は全て感性的直観であるから、構想力は感性に属する。しかしまた構想力による総合は、自発性の働きである。構想力の総合は、感官をその形式に関して、統覚の統一に従ってア・プリオリに規定することができる。その限りにおいて構想力は、感性をア・プリオリに規定する能力である。構想力がカテゴリーに従って直観における多様なものを結合するところの総合は、構想力の先験的総合でなければならない。構想力が自発的である限り、私はこうした構想力を産出構想力とも名づけて、再生的構想力から区別する。再生的構想力による総合は、経験的法則すなわち連想の法則のみに従うものだから、ア・プリオリな認識の可能を説明するには全く役に立たない。

 内感は我々自身を我々の意識に現示するが、我々自体があるがままに示すのではなくて、我々が我々自身に現われるままにしか示さないのはどうしてであるかといえば、それは我々が、内的に触発される仕方でしか自分自身を直観することができないからである。悟性は内感において、多様なものの結合をそのまま見出すのではなく、内感を触発することによってこの結合をつくり出す。思惟する「私」は、自分自身を直観する「私」と異なっているにもかかわらず、しかも同じ主観として、自分自身を直観する「私」と同一であるのはどうしてなのか。すなわち、私はどうして、知性者であり思惟する主観である私が私自身を同時に思惟された客観として認め、しかもこの客観は直観に与えられた「私」でもあるが、ただ私に現われるままの(現象としての)私であって、悟性によって思惟される私自体ではない、といいうるのか。我々が外感について我々が外的に触発される限りにおいてのみ対象を認識すると認めるならば、我々はただ我々自身によって内的に触発されるままに我々自身を直観する、ということも認めなければならない。

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 表象の含む多様なもの一般において、したがってまた統覚の総合的、根源的統一において私が意識するところの私自身は、私が私自身に現われるままにでもなければ、また私自体があるがままにでもない。むしろ私は「私は存在する」ということを意識しているのである。こうした表象は思惟であって直観ではない。私の現実的存在の規定は、一方では内感の形式に従い、また他方では私の結合する多様なものが内的直観において与えられる特殊な仕方に従ってのみ成立しうる。それだから私が私自身についてもつ認識は「あるがままの私」の認識ではなく、私が私自身に「現われるままの私」の認識である。

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純粋悟性概念の一般的に可能な経験的使用の先験的演繹

 我々の感官に現われ得る限りの対象をカテゴリーによって、しかも対象を直観する形式によってではなく対象を結合する法則に従って、ア・プリオリに認識しうること、それどころか自然に法則をいわば指定しうることを説明する段になった。
 私がここにいう覚知の総合とは、経験的直観における多様なものの合成を意味し、知覚(直観の経験的意識)を可能にするものである。覚知の総合は、感性的直観の形式である空間表象および時間表象に合致しなければならない。しかし、空間および時間は直観そのものとしてもア・プリオリに表象されるが、この場合、直観における多様なものの統一という規定を含む。だから、多様なものの総合的統一はもとより、空間・時間の形式によって規定されたものとして表象されるもの一切が従わなければならない覚知の総合の条件として、すでにア・プリオリに、こうした直観と同時に与えられているのである。しかしこの総合的統一は、与えられた直観一般における多様なものの結合の統一が、根源的意識においてカテゴリーに従いつつ、我々の感性的直観に適用されたものにほかならない。ゆえに一切の総合がすべてカテゴリーに従うのである。そして経験は、結合された知覚にもとづく認識であるから、カテゴリーは経験を可能ならしめる条件であり、したがってまた一切の対象にア・プリオリに妥当するのである。

 カテゴリーは、現象に――したがって一切の現象の総括としての自然に法則をア・プリオリに指定する概念である。自然法則は、自然から導来されもしなければ、自然を範として従うわけでもないのに、かえって自然の方がこの法則に従わなければならないということ、換言すれば、法則は自然における多様なものの結合を自然から得てこないにもかかわらず、どうして自然をア・プリオリに規定しうるかということが、どうして理解できるのか。
 自然における現象の法則が、悟性とそのア・プリオリな形式とに―換言すれば、多様なものを結合する悟性能力とに合致せねばならないということは、現象そのものが感性的直観のア・プリオリな形式に合致せねばならぬということとまったく同じであって、いささかも不思議はない。法則は現象のうちに存在するのではなくて、およそ悟性を有する限りのこの同じ主観に関係してのみ存在するということと同じだからである。自然の一切の現象もまた、その結合に関しては、カテゴリーに従わなければならない。要するに自然の必然的合法性の根源的根拠としてのカテゴリーに依存しているのである。

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悟性概念のこうした先験的演繹から生じた結論

 我々は、カテゴリーによるのでなければ、対象を思惟することができない。またこの概念すなわちカテゴリーに対応する直観によるのでなければ、思惟された対象を認識することができない。ところで我々の直観は、全て感性的直観である。またこの認識は、認識の対象が与えられている限り、経験的直観である。しかし経験的認識は経験である。ゆえに我々は可能的経験の対象についてしかア・プリオリな認識をもつことができない。

この演繹の要約

 純粋悟性概念は、空間および時間における現象の規定一般としての経験を可能ならしめる原理である。この演繹はこうした原理としての純粋悟性概念の解明である。また統覚の根源的、総合的統一は、感性の根源的形式としての空間および時間に関する悟性形式である。この演繹は、最後に経験をこうした総合的統一の原理によって解明したものである。
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2017年07月09日

日本経済の歴史を概観する(13/13)

(13)国民経済という視点で変革の構想を

 前回は、本稿で辿ってきた日本経済の歴史の流れを簡単に振り返ってみました。本稿連載の最後となる今回は、この日本経済の歴史の流れについて、日本歴史と世界歴史との関係という観点から、まとめなおしてみることにしましょう。

 日本経済の歴史は、大きくいえば、2つの時代に分けることができます。第一は、江戸時代まで、資本主義経済を発展させていけるだけの実力をじっくりと培ってきた時代です。第二は、欧米諸国の圧力に抗して資本主義経済を発展させていく時代、すなわち明治時代から現在までです。多くのアジア諸国が、欧米列強の圧力に屈して植民地化を余儀なくされたなかで、日本は曲がりなりにも独立を維持し、政治・経済の近代化を成し遂げていきました。日本が植民地化を免れた外的な要因としては、列強によるアジア植民地化の最後の段階にあって、列強諸国が、インドや中国における人民の抵抗の経験を踏まえて、できる限り軍事力の行使を避けようとしていた事情があります。同時に、内的な要因として、日本がそれまでの歴史的な発展過程で、欧米列強に対抗できるだけの国力をもちつつあったという事情を無視するわけにもいきません。

 このことに関わっては、日本歴史がひとつの国家の歴史でありながら、世界歴史的な構造を内に含んでいることが重要です。

 第一に、原始共同体から現代社会までひとつにつながった流れをもっていることです。さらに、日本社会の構造そのものに、資本主義を開花させたヨーロッパと共通する部分があったことも見逃せません。具体的には、封建制という仕組み(領主層が土地を媒介した主従関係を結びつつ、土地と農民をセットで支配する仕組み)は、世界中でヨーロッパと日本にだけ成立していたのです(古代中国の周における封建制は、王が各地の有力氏族に領域支配を認めたもので、本質的に異なります)。世界歴史の流れを大雑把に捉えるならば、大河や内海の近くに成立した古代の大帝国が衰退した後、中央アジアの乾燥地帯から遊牧民が台頭し、周辺の農耕社会を侵略していくようになったといえるのですが、ヨーロッパと日本は、これから遠く離れていたために、遊牧民の征服を免れることになったのです。この結果、分権的で重層的な封建制という仕組みが形成されていったと考えられます(梅棹忠雄『文明の生態史観』がこの問題を論じています)。この封建制による安定した社会において、人々はじっくりと自然に向き合い、生産力を次第に発展させていくことになったのであり、このことが、後に資本主義経済を発展させていくための土台となったということができるでしょう。

 第二に、ひとつの国家(一貫して天皇が頂点に存在しました)でありながら、その内部に諸々の小国家どうしが対峙しあうという構造を含んでいたということです。そもそも、日本列島に初めて登場した統一政権たる大和政権は、日本列島各地の諸々の小国家を従属させる形で成立させられたものですし、その後も、いわゆる戦国時代では、日本列島各地の小国家がどうしが熾烈な戦いを繰り広げながら国力を発展させていくという過程をもったのでした。江戸時代末期、西南雄藩による倒幕の過程にも、国家内の小国家の存在が明瞭に現れています。世界歴史が、諸々の国家が対峙しあうという構造を含んでいるのと同じように、日本という国家の歴史も、諸々小国家どうしが対峙しあうという構造を含んでいたのです。

 第三に、より優れた文化への強烈な憧れをもち、それを自分のものにしようと必死に努力する過程をもったことです。その憧れの対象というのは、江戸時代までについていえば、中国にほかなりませんでした。さらに、開国以降についていえば、欧米の先進的な諸国です。憧れの対象は変わっても、それを何とか自分のものにしようという努力の過程をもった、ということ自体は一貫しています。

 日本歴史にこうした世界歴史的構造が含まれていたからこそ、欧米列強の圧力に屈せずに独立を維持できるだけの実力を培うことができたのだということができるのではないでしょうか。

 とはいうものの、欧米列強と幕末の開国時の日本とでは、国力に雲泥の差があったことは否定できません。日本は、他のアジア諸国のように、植民地化されてしまうほどに弱くはありませんでしたが、それでも欧米列強に対抗していくためには相当に無理を重ねる必要があったのです。このあたりの事情について、夏目漱石は、1911年(明治44年)に行った講演のなかで、次のように述べています。

「我々が内発的に展開して十の複雑の程度に開化を漕ぎつけた折も折、図らざる天の一方から急に二十三十の複雑の程度に進んだ開化が現われて俄然として我らに打ってかかったのである。この圧迫によって吾人はやむをえず不自然な発展を余儀なくされるのであるから、今の日本の開化は地道にのそりのそりと歩くのでなくって、やッと気合を懸けてはぴょいぴょいと飛んで行くのである。開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る余裕をもたないから、できるだけ大きな針でぼつぼつ縫って過ぎるのである。足の地面に触れる所は十尺を通過するうちにわずか一尺ぐらいなもので、他の九尺は通らないのと一般である」(「現代日本の開花」)


 江戸時代末期までの日本が、内発的な発展の歩みによって、資本主義経済の自立的な発展の土台を形成しつつあったこと、しかし、まさにその段階で、欧米列強による猛烈な圧力に晒されて、先進資本主義国による世界市場形成の動きに強制的に組み込まれてしまったこと――この二面性(二重構造)を捉える必要があります。夏目漱石は、近代日本を一生懸命腹を膨らませて牛と競争をする蛙にたとえましたが(『それから』)、必死に頑張れば欧米列強に何とか対抗できなくもなかったという点に、かえって近代日本の悲劇があったということもできるでしょう。

 経済に即していえば、資本主義的な国内統一市場が完成させられる前に世界市場に強制的に組み込まれてしまったために、個々の産業部門の連関が国内取引ではなく貿易によって完結する構造がつくられてしまったこと、国家権力の主導で少数の近代的大企業が育成された一方、前近代的小企業・家業的零細企業と農業が広範に残存するという、いわゆる「二重構造」がつくられてしまったこと、「富国強兵」「殖産興業」というスローガンの下に急速な工業化を推進したために、労働者の権利がまともに顧みられなくなってしまったことなどを指摘することができます。

 バブル崩壊後の長期不況のなかで、日本企業は、雇用・設備・債務のいわゆる「3つの過剰」の削減を強力に進めるとともに、政府に対して、企業活動を縛る諸々の規制の緩和や、税制や社会保障の改革による企業の公的負担の軽減を強く求めてきました。これらは、大きくみれば、1980年代以降に世界的な潮流となった新自由主義的改革の一部だと見なすことができます。しかし、企業の利益のために国民生活が犠牲にされやすいという構造をもつ日本経済においては、その影響はとりわけ深刻な形で現われてこざるをえないのです。とりわけ、1998年以降は労働者の賃金がほとんど伸びなくなり、GDPの約60%を占める個人消費が低迷を続け、GDPの約15%しかない輸出が景気の動向をもっぱら左右するという構造がつくられてしまいました。

 日本経済の再生を掲げた「アベノミクス」は、このような歪んだ構造を是正しようとするものではありません。従来の経済政策が行き詰まっているなかで、金融緩和や財政出動など、短期的に景気浮揚効果のありそうな政策(大胆な金融緩和による円安で輸出大企業が潤えば、そのおこぼれがやがては広く国民に行き渡るであろう、という「トリクルダウン」の発想にもとづいたもの)を掲げつつ、「成長戦略」の名のもと「世界で一番企業が活躍しやすい国」をスローガンに、より一層の新自由主義的政策を推進しようとするものであり、日本経済の危機をいっそう深めていくものにほかならないというべきでしょう。

 日本経済をまともな再生の道に乗せるために緊急に必要なのは、輸出ばかりに頼るのではなく、内需主導による景気回復を目指すこと、より具体的には、格差と貧困の是正、雇用の質の確保、社会保障制度の充実などを通じて国民生活を安定させ、個人消費の回復につなげていくことです。その上で、資本主義経済の世界的な規模での行き詰まりという現状をも踏まえつつ、長期的な視野に立って、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――をどのように解決していくべきなのかを模索していかなければなりません。

 そのための指針となる経済学の体系を構築すること、さらに、その前提となる社会科学の体系を構築することこそ、我々京都弁証法認識論研究会の歴史的使命であることを確認して、本稿を終えることにします。

(了)
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2017年07月08日

日本経済の歴史を概観する(12/13)

(12)これまでの日本経済の歴史の流れを振り返ると

 本稿は、これからの日本経済の進むべき方向を考えていくための前提として、日本経済の構造がどのような歴史的な過程によってつくられてきたのかを問うものであり、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けていくために有限な社会的総労働をどのように配分していけばよいのか、という問題がどのように解決されてきたのか、という観点から、縄文時代から現代までの歴史を概観していこうとするものです。

 本稿で、辿ってきた日本経済の歴史の流れを改めて簡単に示すならば次のようになります。

 農業共同体―→部民制―→律令制―→荘園公領制―→大名領国制―→幕藩制
 ⇒ 資本主義経済の成立と発展

 この流れを念頭に置きながら、本稿でこれまで説いてきた内容を簡単に振り返っておくことにしましょう。

 農耕が開始されたことで、諸集落の複合体たる農業共同体が形成され、多数の人々が1人の指導者の下で協働するようになり、他の共同体と対峙しながら、生活資料および生産手段の計画的な生産・分配を行っていくようになりました。

 小国家(農業共同体連合)どうしの争いのなかから成立してきた大和政権は、支配階級の諸欲求を満たすために、諸々の労働力を「部民」として組織した上で従属させるようになりました。

 さらに、律令制のもとでは、個人を課税の単位とし、労働力再生産の場として口分田を割り当てることで、剰余生産物を納めさせつつ、国家の必要に応じて労働力としても徴発するという構造がつくられました。しかし、こうした重い税負担が農民の労働意欲を削いでしまったことから、中央政府が剰余労働・剰余生産物を独占的に集めて、官人などへ必要に応じて分配するという構造は崩れてゆき、有力者がそれぞれ独自に(私的に)自己の諸需要を満たすための供給基盤をもつようになっていきました。

 こうしたなかで、有力農民たちは、自ら開発した土地の保護を求めて、貴族や寺社に土地を寄進するようになりました。その結果、在地領主が零細農民から剰余生産物を取り立てて中央領主に年貢として納めるという関係が成立し、ひとつの土地に複数の人の権利が重なり合う構造がつくられていきました。

 農業技術の改良によって農業生産力が発展すると、剰余生産物を交換するための市が設けられるようになり、手工業や商業、金融業も著しく発展しました。こうしたなかで、剰余労働を生産の現場により近いところで掌握できた在地領主層(武士)が中央領主層(貴族)を圧倒し、政治的に大きな力をもつようになっていきます。やがて、戦国大名たちが、広い領国を統一的に支配するようになり、他国との熾烈な戦いに勝ち抜けるだけの国力の確保に努めるようになりました。

 全国統一政権としての江戸幕府は、自給自足的な農民経済と領主権力が主導する商品経済という二重構造をつくりました。農民を市場経済から切り離し、農民から収取した年貢米を市場で貨幣に換えた上で、武士たちの諸欲求を満たすための諸商品を購入したのです。しかし、増大する都市住民の諸欲求を満たすために、農民経済と市場経済の相互浸透が進んでいき、「米価安の諸色高」と呼ばれる状況が現出したことで、幕府財政は深刻な危機に陥り、政治的な支配力も減退させていくことになりました。一方で、農村への市場経済の浸透によって、農民の階層分解による賃労働者の萌芽的な登場、工場制手工業の展開もみられました。

 このように、日本経済は、江戸時代後期までの内発的な発展によって、資本主義を成立させる寸前のところまで到達していたといえます。しかし、日本経済の資本主義化は、こうした動きの自然な延長線上で展開していったわけではありません。欧米列強からの圧力に抗して国家の独立を維持しなければならないという強烈な危機意識にもとづいて、国家権力の主導で上からの資本主義化が推進されたのです。

 幕藩体制を解体して新たな統一国家を樹立した維新政府は、財政的な基盤の確立のため秩禄処分と地租改正を行い、「富国強兵」を掲げて殖産興業政策を推進しました。産業の発展を資金面から支えるために、近代的な金融制度の創出も図られました。中央銀行による兌換券の発行を目指す過程では、それまで増発されていた不換紙幣の償却を進めるため過酷なデフレ政策(松方デフレ)がとられ、米価は著しく下落しました。このため、多くの自作農が土地を手放して小作農に転落し、生きていくために自らの労働力を売るしかない賃労働者が大量に創出されることになったのでした。このようにして準備された資本と賃労働力を前提にして、まずは製糸・紡績業を中心に、機械を本格的に導入する産業革命がスタートしました。欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持するという意識から、何よりも重視されていたのは兵器生産をはじめとする重工業の発展でしたが、重工業の発展のためには、まずは欧米諸国から資源や機械を輸入する必要がありました。そのために必要な外貨を稼いだのが、綿糸・綿織物や生糸といった繊維製品の輸出だったわけです。しかし、1930年代に、世界恐慌からの脱出をはかるために欧米列強がブロック経済化を進めると、日本からの輸出は高い関税によって対抗され、大きく減少していくことになりました。中国との戦争をはじめた日本は、石油やゴムなど戦争の遂行に必要な物資の確保をめざして「大東亜共栄圏」を掲げた南進政策をとりますが、これは列強の日本への経済封鎖を強め、やがて太平洋戦争につながりました。政府は、1931年の満州事変以降、戦争遂行のために経済統制を強め、少なくなっていた資源や労働力を軍需産業に集中させていきましたが、軍需品以外の生産が著しく減少し、食糧難も深刻化してしまったために、1945年以降、戦争の継続は不可能となり、ポツダム宣言を受け入れて降伏したのでした。敗戦後の日本では、連合国の占領の下、寄生地主制の解体、財閥の解体、労働組合の結成の奨励など、経済の民主化が進められました。また、均衡予算、所得税中心の税制改革、単一為替レートの設定などで、経済の安定が図られました。1950年、朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍への軍需物資の供給を日本企業が担ったことで、日本経済は急速に回復の軌道に乗り、1955年から1973年ころまで、年平均の経済成長率が10%を超える高度成長となりました。高度成長を牽引したのは、民間企業の活発な設備投資でした。さらに労働者の所得が順調に伸びていったことから設備投資と個人消費の好循環が確立され、「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や「3C」(自動車、クーラー、カラーテレビ)などの耐久消費財が普及していくことになりました。これら耐久消費財がひととおり国内に普及してからは、輸出の拡大が設備投資を大きく刺激するようになりましたが、1973年の変動相場制への移行による円高の進行は、日本企業の輸出にとって不利な条件となりました。そこに1974年のオイル・ショックが重なって深刻な不況となり、高度成長は終わりを告げたのでした。日本企業は、資源・エネルギーの有効活用などによって急速に輸出競争力を回復したものの、このことが貿易摩擦問題を引き起こし、1985年の先進5カ国蔵相会議(G5)の結果、円高誘導が図られるようになると、日本経済は一挙に不況に落ち込みました。こうしたなか、日本の内需拡大を要求するアメリカからの強い圧力もあって、財政支出の拡大と超低金利政策がとられるようになりましたが、その結果、膨大な資金が溢れて株式・土地などの購入に向かい、地価や株価の異常な値上がりというバブルが生じました。このバブルは1990年代に入って崩壊し、日本経済は長期不況に落ち込むことになったのでした。
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2017年07月07日

日本経済の歴史を概観する(11/13)

(11)高度経済成長とその終焉

 前回は、日本における産業革命の過程、さらに戦時統制経済から戦後改革への流れを簡単に辿ってみました。日本資本主義の確立過程においては、欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持するという意識から、兵器生産をはじめとする重工業の発展が何よりも重視されました。しかし、重工業の発展のためには、まずは欧米諸国から資源や機械を輸入する必要がありました。そのために必要となる外貨を稼いだのは、綿糸・綿織物や生糸といった繊維製品の輸出であり、これらの工業を支えた賃労働力は、農村の零細農家から供給されたのでした。こうした工業の発展は、貿易の二重構造――欧米に対しては、生糸を輸出し重化学工業製品を輸入するという後進国型、アジアに対しては、綿花など工業原料や食料を輸入して工業製品である綿製品を輸出するという先進国型――によって支えられていました。しかし、1930年代に、世界恐慌からの脱出をはかるために欧米列強がブロック経済化を進めると、日本からの輸出は高い関税によって対抗され、減少していくことになりました。中国との戦争をはじめた日本は、石油やゴムなど戦争の遂行に必要な物資の確保をめざして「大東亜共栄圏」を掲げた南進政策をとりますが、これは列強の日本への経済封鎖を強めることになりました。政府は、1931年の満州事変以降、戦争遂行のために経済統制を強め、少なくなっていた資源や労働力を軍需産業に集中させていきましたが、軍需品以外の生産が著しく減少し、食糧難も深刻化してしまったために、1945年以降、戦争の継続は不可能となり、ポツダム宣言を受け入れて降伏したのでした。敗戦直後の日本は、多くの都市が戦災を受け、残った工場も休業状態となって失業者は激増、生活物資の不足から物価が激しく上昇する、といった状態でした。敗戦後の日本では、連合国の占領の下、寄生地主制の解体、財閥の解体、労働組合の結成の奨励など、経済の民主化が進められました。また、均衡予算、所得税中心の税制改革、単一為替レートの設定などで、経済の安定が図られました。しかし、その結果として、国内経済は深刻な不況に見舞われることになったのでした。

 さて、今回は、1950年代半ば以降のいわゆる高度経済成長期から現在までの日本経済の歴史の流れを簡単に辿ってみることにしましょう。

 1950年、朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍への軍需物資の供給を日本企業が担ったことで、日本経済は急速に回復の軌道に乗っていくことになります。さらに1955年から1973年ころまで、年平均の経済成長率が10%を超える高度成長となったのでした。

 高度成長期の日本においては、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――は、どのように解決されていたのでしょうか。

 それは端的にいえば、増大していく大衆的な欲求を満たすべく、企業が積極的な設備投資を行うとともに、技術革新の過程を支える労働力を企業内に囲い込んでそれなりに高い賃金を保障することで、企業が生産した商品を労働者に買い取らせる、という構造がつくられることによって、でした。

 もう少し詳しくみていきましょう。

 高度経済成長を牽引したのは、何といっても、アメリカ的なライフスタイル(電化製品や自家用車をもった豊かで便利な生活)への大衆的な憧れであったといえます。

 こうした大衆的な欲求に応えたのが、民間企業の盛んな設備投資でした。これは欧米諸国からの革新的な技術の導入を伴うものでした。欧米諸国との技術水準の差が大きく開いてしまっていたことが、逆に企業を刺激し続けたのです。この設備投資の過程は、大きく2つの面から捉えておく必要があります。第一は、そもそも技術革新は何によって支えられたのかということです。第二は、設備投資の結果として高まった生産(供給)が消費(需要)とどのようにバランスをとったのかということです。この2つの面を媒介したのは、企業による労働者支配の構造にほかなりませんでした。

 まず、技術革新の過程を支えたのは、新しい技術に対応できるだけの実力をもった若い労働力が供給され続けたことでした。日本の大企業は、こうした労働力を企業にしっかりと囲い込むために、年功賃金や終身雇用の制度を形成し、企業内福利の充実を図ったのです。日本においては、健康で文化的な生活への要求は、基本的人権を根拠とする公的な社会保障制度として、すべての国民に対して直接に満たされるというよりも、企業の一員であることを媒介にして企業内の制度によってある程度まで満たされる、という形をとったのです。この結果、労働者の間には、企業の繁栄こそが自分たちの幸福につながるという意識が広範に定着していくことになりました。企業別に組織された労働組合も、労使協調的な傾向を強めていきました。

 このような構造のもとでは、企業の業績さえよければ、国民の所得はどんどん増え、個人消費が伸びていくことになります。このことが活発な設備投資を促すことになったのです。このような設備投資と個人消費の好循環を通じて、「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や「3C」(自動車、クーラー、カラーテレビ)などの耐久消費財が普及していくことになりました。

 これらの耐久消費財がひととおり国内に普及した高度成長期の後半には、国内の個人消費に加えて、輸出の拡大が設備投資を大きく刺激するようになりました。しかし、1973年の変動相場制への移行による円高の進行は、日本企業の輸出にとって不利な条件となりました。そこに1974年のオイル・ショックが重なったことで日本経済は深刻な不況に陥り、高度成長は終わりを告げることになります。

 日本企業は、資源・エネルギーの有効活用などによって急速に輸出競争力を回復したのですが、先進国のなかで日本だけが突出して輸出競争力を強めてしまったことが貿易摩擦問題を引き起こしました。このため、1985年の先進5カ国蔵相会議(G5)によって円高への誘導がはかられることになり、日本経済はいっきょに不況に落ち込んでしまいました。この不況は2つの重要な結果をもたらすことになります。

 第一は、日本の内需拡大を要求するアメリカからの強い圧力もあって、財政支出の拡大と超低金利政策がとられたことです。この結果、膨大な資金が溢れて株式・土地などの購入に向かい、地価や株価の異常な値上がりというバブルが生じました。このバブルは1990年代に入って崩壊し、このことをきっかけにして、日本経済は長期不況に落ち込むことになります。

 第二は、円高への対応として、日本企業が海外に生産拠点を移す動きが本格化したことです。しかし、日本企業の競争力の源泉は、労働者や下請企業との独特な関係という国内的な要因にありました。海外進出した企業は、こうしたことの全くないところから競争力を築いていくことを迫られたのです。相対的に、日本企業の競争力は低下せざるをえず、このことが不況の克服を遅らせる要因になったといえます。

 バブル崩壊後の長期不況のなかで、企業は、雇用・設備・債務のいわゆる「3つの過剰」の削減を強力に進めるとともに、政府に対して、企業活動を縛る様々な規制の緩和や、税制や社会保障の改革による企業の公的な負担の軽減を強く要求しました。こうした政策を徹底して進めたのが、2001年に登場した小泉政権の「構造改革」でした。

 しかし、公的な社会保障制度よりも企業内の制度によって国民生活が安定させられる度合いが強いという構造のもとで企業が正規雇用を削減することは、個人消費の著しい停滞につながりました。この結果、景気の動向がGDPの15%ほどしかない輸出によってもっぱら左右されてしまうという構造がつくられてしまったのです。このことは、2008年のリーマン・ショック以降の世界経済危機のなかでも、日本経済の落ち込みをとりわけ深刻なものにしました。また、公的な社会保障制度が充分でないもとでの正規雇用の減少は、貧困などの問題を深刻化させています。

 輸出ばかりに頼るのではなく、貧困問題への取り組み・公的な社会保障制度の充実などを通じて国民生活を安定させ、個人消費の回復につなげていくことが、日本経済のこれからの発展にとって、避けて通れない課題となっているといえるでしょう。
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2017年07月06日

日本経済の歴史を概観する(10/13)

(10)戦時統制経済から戦後改革へ

 前回は、江戸時代末期の開国による混乱を経て、日本における資本主義が成立してくる過程について、簡単に辿ってみました。明治新政府は、幕藩体制を解体して新たな統一国家を樹立し、その新政権の財政的基礎を確立するため、次々と近代化政策を打ち出していきました。そのなかで、資本主義経済が成立させられていく上で重要な役割を果たしたのは、秩禄処分・地租改正と殖産興業・通貨信用制度の創設でした。新政府は、士族に支給されていた俸禄について金禄公債証書を与えた上で全廃し、土地の売買を自由化した上で地価を定め、その3%を地租として現金で納めさせるようにしました。また、官営工場を建設し、外国から新しい機械を買い入れ、技術者を招いて、製糸や紡績、造船や兵器生産を進めていきました。こうした産業の発展を資金面から支えるために、近代的な金融制度の創出が図られました。中央銀行による兌換券の発行を目指す過程では、西南戦争の戦費調達のために増発された不換紙幣の償却を進めるため過酷なデフレ政策(松方デフレ)がとられました。米価が著しく下落したにもかかわらず、地租は定額金納だったため、農民の負担は著しく重くなり、多くの自作農が土地を手放して小作農に転落しました。こうして、生きていくために自らの労働力を売るしかない賃労働者が創出されます。このようにして準備された資本と賃労働力を前提にして、まずは製糸・紡績業を中心に、機械を本格的に導入する産業革命がスタートしました。江戸時代末期までに、市場経済が大きく発展し、工場制手工業も広まりつつあったものの、こうした動きの単純な延長線上に日本経済の資本主義化があったわけではありません。こうした経済発展を土台としながらも、欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持しなければならないという強烈な危機意識にもとづいて、国家権力の強力な主導により、上からの資本主義化が推進されたのでした。

 さて、今回は、日本における産業革命の過程、さらに戦時統制経済から戦後改革への流れを簡単に辿ってみることにしましょう。

 そもそも、日本における資本主義経済の形成の過程においては、欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持するという意識から、兵器生産をはじめとする重工業の発展が何よりも重視されることになりました。そのための鉄資源の確保という思惑もあって、日本は朝鮮半島や中国大陸への侵出を狙っていくことになります。しかし、重工業の発展のためには、まずは欧米諸国から資源や機械を輸入する必要がありました。そのために必要となる外貨を稼いだのは、綿糸・綿織物や生糸といった繊維製品の輸出にほかなりませんでした。これらの工業を支えた賃労働力は、農村の零細農家から供給されたのです。

 日本における産業革命(機械制大工業が成立して、資本家が労働者を雇って働かせるという関係が社会全体に広く行きわたる過程)は、松方デフレの後にはじまり、日清戦争、日露戦争を通じて急速に進展しました。民間では、製糸業、紡績業、織物業といった軽工業が大きく発展しました。重工業の中心は、陸海軍工廠を中心とする官営工場で、民間では造船業が発展しました。このほか、鉱山業や運輸通信業も多数の労働者を集めました。日清戦争、日露戦争の結果、満州の鉄・石炭資源が確保されたことは、製鉄・車両・造船・機械などの重工業を大きく発展させました。しかし、日露戦争の後には、過剰投資の反動として恐慌が起き、紡績・製糸・製糖・化学などの業種において、企業の合併・吸収が進んで、特定の大資本による独占の傾向が強まりました。その過程を通じて大銀行による企業支配も強まり、財閥が形成されることになりました。

 このような工業の発展の過程は、貿易の二重構造によって支えられていました。すなわち、欧米に対しては、生糸を輸出し重化学工業製品を輸入するという後進国型、アジアに対しては、綿花など工業原料や食料を輸入して工業製品である綿製品を輸出するという先進国型、という貿易の二重構造です。

 日本経済の資本主義化は、こうした対外関係に大きく規定されながら進むことを余儀なくされました。結果として、日本国内で諸々の産業部門が有機的に結びつきを強めていくということが希薄で、それぞれの産業部門が国内的な連関を欠いたまま外国との貿易関係を通じて発展していく(例えば、綿花を輸入して綿糸を輸出する、など)、という傾向が強かったのです。

 1914年から1918年にかけての第一次世界大戦は、日本の資本主義経済を大きく変化させました。第一次世界大戦は「大戦ブーム」と呼ばれた好況をもたらし、繊維工業のみならず、造船・鉄鋼・電力・電機・化学など、民間における重化学工業を含めて、様々な分野で企業の新設・拡張が相次ぎ、経済規模が急激に膨張しました。しかし、戦争が終わってヨーロッパ諸国の産業が復興すると、日本への注文は減り、不景気となってしまいました。その後も日本経済は、1923年の震災恐慌、1927年の金融恐慌など、恐慌に相次いで見舞われ、本格的に回復しきれないままに、1930年代の世界恐慌の時代に突入していきます。こうした過程のなかで、労働組合運動や社会主義運動も激化していきました。

 イギリスやフランスなどの列強が、世界恐慌からの脱出をはかるためにブロック経済化(国内資源や植民地を有している国が、自国通貨を決済通貨としてグループをつくり、グループ内の関税を軽減して域内通商を確保するとともに、域外からの輸入には高関税をかけて自国産業を保護する)を進めていくと、日本からの輸出は高い関税によって対抗され、減少していくことになりました。日本は、列強のブロック経済圏に日満経済ブロックを形成して対抗しようとします。1931年の満州事変、1934年の「満州国」建国を経て、1937年には中国との戦争がはじまり、次第に拡大していきます。日本は、石油やゴムなど戦争の遂行に必要な物資の確保をめざして「大東亜共栄圏」を掲げた南進政策をとりますが、これは列強の日本への経済封鎖を強めることになりました。1941年12月には、真珠湾(ハワイ)に奇襲攻撃をかけてアメリカに宣戦布告、太平洋戦争となりました。こうしたなかで日本政府は、1931年の満州事変以降、戦争遂行のために経済統制を強め、少なくなっていた資源や労働力を軍需産業に集中させていきました。1944年には、中学生以上の生徒、12歳以上の女子は軍需工場に動員され、サービス部門の労働者も転業を強制されました。要するに、戦時の日本政府は、社会的な諸欲求を抑圧し(「欲しがりません、勝つまでは」)、社会的総労働の配分過程に強力に介入して、それらが軍需産業に集中的に投入されるようにすることで、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――の解決を何とかして図ろうとしたわけです。しかしながら、社会的欲求を抑圧して、軍需生産ばかりに社会的総労働を投入するというやり方では、国家の中長期的な維持・発展が可能になるはずがありません。結局、軍需品以外の生産が急激に減退し、とりわけ農村における労働力の不足が深刻になることで、主食である米の収穫量が激減することになってしまいました。こうして、戦争の続行は不可能となり、1945年8月、日本はポツダム宣言を受け入れて降伏したのでした。

 敗戦当時の日本は、多くの都市が戦災を受け、残った工場も休業状態となって失業者は激増、生活物資の不足から物価が激しく上昇する、といった状態でした。

 敗戦後の日本では、アメリカを中心とする連合国の占領の下、経済の民主化と非武装化が進められました。連合国軍総司令部(GHQ)によって、兵器・航空機など軍事に関係する物資の生産が禁止され、重工業にも多くの制限が課されました。とりわけ、日本軍国主義を成立させた背景として、寄生地主制と財閥による産業支配とが取り上げられ、その解体が指令されました。独占禁止法などの制定によって財閥の解体が進められ、農地改革によって寄生地主制が解体されます。さらに、労働組合の結成が奨励されるなどして、経済の民主化が進められました。

 日本経済の復興は、石炭と鉄鋼という2つの基礎的な産業部門に集中的に資金・資財を投入して産業の拡大再生産を図るという傾斜生産方式によって始められました。復興金融公庫を通じた政府資金(復興債の発行)による企業への融資がその過程を支えました。しかし、こうした政策はインフレを加速させてしまいました。GHQは、インフレを収束させ、日本経済を自立化させるために、均衡予算、所得税中心の税制改革、単一為替レートの設定などを要求し、実施させました。その結果、国内経済は深刻な不況に見舞われることになりました。
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2017年07月05日

日本経済の歴史を概観する(9/13)

(9)日本資本主義の成立過程

 本稿は、これからの日本経済の進むべき方向を考えていくための前提として、日本経済の構造がどのような歴史的な過程によってつくられてきたのかを問うものであり、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けていくために有限な社会的総労働をどのように配分していけばよいのか、という問題がどのように解決されてきたのか、という観点から、縄文時代から現代までの歴史を概観していこうとするものです。

 前回までの3回にわたっては、律令体制の動揺のなかから荘園公領制が成立し、さらに荘園公領制のなかから大名領国制という新たな体制が形成されて、江戸幕府による全国支配が確立されていく流れを簡単に辿ってきました。ここで簡単に振り返っておくことにしましょう。

 10世紀以降、個人を課税単位として労役を課すという仕組みは機能しなくなり、土地を課税単位として収穫物の一部を納めさせる仕組みに転換します。有力農民は自ら開墾した土地を中央の貴族や寺社に寄進して荘園とすることで、重い税負担から逃れようとしました。一方、公領もまた上級貴族の事実上の私有地のようなものとなり、荘園・公領のいずれにおいても、在地領主(有力農民層)が零細農民から剰余生産物を取り立てて中央領主(上級貴族)に年貢として納めるという関係が成立しました。有力農民層は、自分の土地を守るために武装して争うようになり、地方での騒乱を抑えるために派遣された中央貴族と結びついて武士団を形成し、やがて武家政権の成立につながります。社会が安定し、鉄製農具や牛馬・肥料の使用が広がると、土地からの収穫物は大きく増え、自立的な経営を行う農民が結合する惣村的な形態も生まれてきました。農民は綿花や麻・桑・茶など新しい作物も栽培するようになり、鍛冶・鋳物師・紺屋など専門の手工業者も多くなりました。土地から遠く離れた中央領主層(貴族)は、こうした変化に対応できず、在地の武士によって土地支配の実権を奪われていきました。武士による一元的な土地支配が強められていく流れのなかから、地域的な市場圏の成立を基礎にて広い領国を統一的に支配する戦国大名が登場してきます。戦国大名は、他国との熾烈な戦いに勝ち抜いていくために、大規模な治水灌漑事業などで生産基盤を強化し国力を確保することに努めました。全国を統一的に支配した江戸幕府は、自給自足的な農民経済の維持(自立的な農民の労働力の再生産)を土台にして最重要生産物としての米を独占的に確保し、米の流通を掌握することで財政基盤を安定させるとともに、農地から切り離されて純粋な消費者となった武士たちの増大する諸欲求を満たすための商品経済を整備しました。しかし、農具の改良などで農業生産力の発展が進む一方、都市人口が増加したことで、都市住民の増大する諸欲求を満たすために野菜・茶などの商品作物の栽培が広がり、綿作や養蚕業なども行われるようになっていきました。こうした市場経済の発展のなかで、年貢米に依存していた幕府や諸藩の財政は危機を深めていきます。幕府は、諸々の改革を試みたものの、米を基礎とする仕組みを根本から変えることができず、年貢を重くするなどの対応に終始しました。しかし、薩長土肥などの西南雄藩は、藩の特産物の専売を強化したり造船などの藩営工場を設立したりして財政の再建に成功し、大きな力をつけていったのでした。

 さて、今回は、江戸時代末期の開国による混乱を経て、日本における資本主義が成立してくる過程について、簡単に辿ってみることにしましょう。資本主義経済とは、端的にいえば、大半の労働生産物が商品となり、市場において貨幣を媒介として交換される経済のことです。ここで決定的に重要なのは、労働力までもが商品化するということです。すなわち、土地や生産手段を奪われ、自分の労働力を商品として売る(誰かに雇ってもらう)しか生きていく術がなくなる労働者階級(無産者、プロレタリアート)が大量に創出されて、物質的な生産活動の中心を担うようになっていったのが資本主義経済なのです。資本主義経済は、産業革命(機械制大工業の成立によって、資本家が労働者を雇って働かせるという関係が社会全体に広く行きわたること)を通じて、揺るぎないものとして確立されます。資本主義経済においては、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――は、基本的には市場における商品交換を通じて解決されるようになります。しかしながら、社会的総労働の配分過程は決して市場だけで完結するものではなく、政府による公共事業や社会保障などが不可欠となってくることも忘れてはなりません。

 さて、18世紀後半から19世紀に半ばにかけて、産業革命を成し遂げたヨーロッパ諸国やアメリカは、世界中に植民地的な支配を広げていこうとしていました。こうしたなかで、それまでいわゆる鎖国政策によって、外国との貿易を厳しく統制していた日本も、欧米列強の圧力によって開港を迫られることになります。いわゆる安政の開港(開国)によって外国貿易は急激に発展していきます。それは、先進国へ原料・食料を輸出して工業製品を輸入する後進国型のものでした。外国貿易の急激な発展は、国内の商品流通を大きく混乱させ、物価が著しく高騰してしまうなど、経済の大きな混乱をもたらしました。江戸幕府がこうした事態にまともに対応しきれないなかで、西南雄藩の武士が主導して幕府が倒され、新政府がつくられていくことになります。いわゆる明治維新です。

 それでは、明治新政府は、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――を、どのように解決しようとしたのでしょうか。

 それは端的には、欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持しなければならないという強烈な危機意識にもとづき、「富国強兵」というスローガンを掲げて、国家権力の強力な主導によって、上からの資本主義化を推進することによって、でした。

 明治新政府は、幕藩体制を解体して新たな統一国家を樹立し、その新政権の財政的基礎を確立するため、次々と近代化政策を打ち出していきました。そのなかで、資本主義経済が成立させられていく上で重要な役割を果たしたのは、秩禄処分・地租改正と殖産興業・通貨信用制度の創設です。

 秩禄処分というのは、士族に支給されていた俸禄が新政府の財政を大きく圧迫していたために、士族に金禄公債証書を与えることと引き換えに俸禄を全廃したものです。これによって、多くの士族は経済的に大きな打撃を受けて、没落していくことになりました。

 地租改正というのは、土地の売買を自由化した上で地価を定め、その3%を地租として現金で納めさせるようにしたものです。地価の算定式は、地租の額が江戸時代の年貢とほぼ同じになるように、巧妙に定められたもので、農民の負担軽減にはつながりませんでした。しかし、現物納ではなく金納となったことで、農民は商品生産者としての性格を否応なしにもたされることになり、農民の階層分解が加速していくことになりました。

 秩禄処分と地租改正で財政基盤の確立を図った新政府は、「富国強兵」を掲げて官営工場を建設し、外国から新しい機械を買い入れ技術者を招いて、兵器生産や造船業、製糸業や紡績業の確立を進めていきました。欧米列強に対抗しつつ国家の独立を守るために軍事力を強化するとともに、輸入を抑制して輸出を促進するために民間産業の保護育成を図ったわけです。官営工場は、政府の財政負担を軽減する目的もあって、やがて政商と呼ばれる民間の有力商人に払い下げられました。政商は不況で没落した小企業を吸収して大きく成長し、やがて財閥と呼ばれるまでに成長していきます。

 こうした産業の発展を資金面から支えるために、近代的な金融制度の創出が図られました。華族(旧大名)が秩禄処分で得た巨額の公債を資本金とする発券銀行も設立されました。中央銀行(日本銀行)による兌換券の発行を目指す過程では、西南戦争の戦費調達のために増発された不換紙幣の償却を進めていくために、大蔵卿となった松方正義の下で、過酷なデフレ政策がとられることになります。いわゆる松方デフレです。この過程では、米価が著しく下落したにもかかわらず、地租は定額金納であったために、農民の負担は著しく重くなり、多くの自作農が土地を手放して急速に小作農に転落していくことになりました。こうして、土地を失った農民や、貧しい農村の次男や三男、女子が、生きていくために自らの労働力を売るしかない賃労働者となっていったのです。一方で、自らは耕作せず、買い集めた土地を小作人に貸して小作料に頼って生活する寄生地主が増えていくことにもなりました。

 このようにして準備された資本と賃労働力を前提にして、まずは製糸・紡績業を中心に、機械を本格的に導入する産業革命がスタートすることになっていきました。ここで重要なのは、江戸時代末期までに、市場経済が大きく発展し、工場制手工業も広まりつつあったものの、こうした動きの単純な延長線上に日本経済の資本主義化があったわけではない、ということです。こうした経済発展を土台としながらも、欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持しなければならないという強烈な危機意識にもとづいて、国家権力の強力な主導により、上からの資本主義化(秩禄処分や地租改正による財政基盤の確立、「富国強兵」を掲げた殖産興業政策、松方デフレによる通貨信用制度の創設と賃労働者の創出)が推進されたのです。
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2017年07月04日

日本経済の歴史を概観する(8/13)

(8)幕藩制の成立と発展

 前回は、荘園公領制のなかから大名領国制という新たな体制が形成されてくるまでの流れを辿ってみました。平安時代の中期以降、有力農民層が優れた農業技術を活かしながら、積極的に土地の開発を行っていきます。彼らは有力な貴族や寺社に土地を寄進して荘官としての地位を得ながら、自分の土地を守り勢力を拡大するために、武装して争うようになりました。こうした有力農民層と、地方での騒乱を抑えるために派遣された武芸に長けた中央貴族とが結び付いて武士団が形成され、やがて武家政権の成立にいたります。武家政権の確立で社会が安定し、鉄製農具や牛馬・肥料の使用が広がると、土地からの収穫物は大きく増え、自立的な経営を行う農民が結合する惣村的な形態も生まれてきました。農民は綿花や麻・桑・茶など新しい作物も栽培するようになり、鍛冶・鋳物師・紺屋など専門の手工業者も多くなりました。定期市が開かれるようになり、常設の小売店も増えていきました。商品流通とともに貨幣流通が増え、遠隔地の取引には為替が用いられるようになり、年貢も現物でなく銭で納めることが広まりました。土地から遠く離れた中央領主層(貴族)は、こうした変化に対応できず、在地の武士によって土地支配の実権を奪われていきました。地頭は、荘園領主と争いながら排他的な支配領域を広げて国人領主となり、守護は、国人領主たちと主従関係を結びながら土地への支配を強め、守護大名となっていきました。やがて、応仁の乱によって室町幕府の権威が失墜し守護大名の勢力が衰えると、実力によって大名の地位を獲得した戦国大名たちが、地域的な市場圏の成立を基礎にしつつ広い領国を統一的に支配するようになりました。戦国大名たちは、他国との熾烈な戦いに勝ち抜いていくために、生産基盤を強化して国力の確保に努めるとともに、城下町で新興商人に自由な営業を認めて商工業の振興を図り、鉱山開発にも尽力しました。また、大規模な治水灌漑事業などで農業を振興するとともに、剰余生産物を銭によって統一的に掌握すべく、貫高で年貢基準を定めるために検地を反復実施し、農民への支配を強めたのでした。

 このように、鎌倉時代から戦国時代にかけて、社会的諸欲求とそれらを満たす社会的労働とのつながりは、直接的なもの(欲求を満たしてくれる労働力を直接に従属させる)から媒介的なもの(市場における交換を通じて入手する)へと大きく発展していきました。こうした過程を根本から規定したのは、農業技術の改良による農業生産力の発展であり、生産の現場により近いところで剰余労働を掌握することのできた武士が、政治的にも大きな力をもつようになっていきました。さらに、戦国大名になると、単に剰余労働を搾取するだけにとどまらず、国力の強化という観点から、剰余労働を増やすための生産基盤の整備などにも努めるようになっていったのでした。要するに、大名領国制のもとでは、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――は、諸々の生産主体の自由な活動を容認しつつ、剰余生産物の流通過程を掌握するとともに、さらにその生産過程にも踏み込んでその生産力の増大に努めることで、国力の増強を図っていくという形で、解決されていたのだといえます。

 さて、今回は、群雄割拠の戦国時代から「天下統一」が成し遂げられ、江戸幕府による支配が確立していくまでの流れを辿り、江戸時代の日本社会がどのような経済構造をもっていたのかを、簡単にみていくことにしましょう。

 織田信長に続いて「天下統一」を成し遂げた豊臣秀吉は、全国統一の基準で年貢を確保するために、いわゆる「太閤検地」を実施し、直接の耕作者に限って検地帳に登録することにして、荘園公領制のもとで形成されていた重層的な権利関係を清算しました。また、刀狩を行って農民と武士の身分を明確に区別しました。秀吉の死後、徳川家康が江戸に幕府を開くと、将軍から1万石以上の領地を与えられた武士が大名と呼ばれ、大名の領地とその統治機構が藩と呼ばれるようになりました。この体制を幕藩制と呼びます。

 それでは、江戸幕府(幕藩制の領主権力)は、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――を、どのように解決しようとしたのでしょうか。

 それは端的には、自給自足的な農民経済の維持(自立的な農民の労働力の再生産)を土台にして最重要生産物としての米を独占的に確保し、米の流通を掌握することで財政基盤を安定させるとともに、農地から切り離されて純粋な消費者となった武士たちの増大する諸欲求を満たすための商品経済を整備することによって、でした。

 幕藩制の領主権力は、室町時代から戦国時代にかけて形成されてきていた惣村の自治的な行政機構を利用して、支配体制の下に組み込んでいきました。村民から村役人を選んで村内の行政を担当させるとともに、年貢については村を単位にして課し、村役人から石高に応じて村民に割当てさせるという方式をとったのです。農民には、移動や職業の転換は認められず、田畑勝手作りの禁によって、米を作るべき田畑で煙草・木綿・菜種など、商品として販売されうる作物を栽培することが禁止されました。また、年貢負担者である農民が土地を手放して没落していくことを防ぐために、田畑永代売買禁止令が出されました。このように、幕藩制の領主権力は、農民を市場経済から切り離し、自給自足的な生活様式の枠内におしとどめることで、自立的な経営基盤をそれなりに安定させた上で、その剰余労働の大半を吸い上げる体制を構築しました。

 当時、米の生産量は増加しており、市場における価値も安定していましたから、幕府や諸藩は、米の流通を掌握することで財政基盤を安定させようとしたのです。武士たち(大名の家臣団)が、城下町に集住して在地性(土地への支配力)を失い、俸禄を得る存在になっていたために、農民の剰余労働は何よりもまず、現物(米)の形で確実に確保する必要があった、という事情もあります。

 武士の大半が農業経営から切り離され、純粋な消費者として都市生活を営むようになっていたことは、商品経済(市場経済)の発達を大きく促すことになっていきました。また、江戸幕府によって貨幣制度が統一されるとともに、参勤交代が制度化されていましたから、諸大名は領内の米その他の産物を売って幕府の発行する貨幣に換えることで、江戸での消費生活をまかなっていく必要がありました。幕府や諸藩は、年貢米を江戸や大坂の蔵屋敷に運び、御用商人に売りさばかせて貨幣に換えた上で、武士たちの諸欲求を満たすための諸商品を購入しました。この側面から、全国的な商品流通網の発展が促されていくことになります。

 このように、江戸時代においては、自給自足的な農民経済と領主権力主導で上からつくられた市場経済との二重構造がつくられたのでした。

 しかしながら、農民経済は市場経済から完全に断絶されていたわけではなく、次第に両者の相互浸透が進んでいくことになります。17世紀後半以降、農具の改良などで農業生産力の発展が進む一方、都市人口が増加したことで、商品流通量が大きく増大していきました。都市住民の増大する諸欲求を満たすために、田畑勝手作りの禁を侵す形で、野菜・茶などの商品作物の栽培が広がっていき、綿作や養蚕業なども行われるようになっていきました。また、漁業、塩業、醸造業なども各地で発展していきました。こうしたなかで、18世紀に入ると、都市の商人が農民に資金や原料を前貸しして製糸・絹織物・綿織物などを生産させる問屋制家内工業も増えてきました。

 以上のような流れによって、市場経済が農村へと浸透してくると、それまで自給自足に近かった農民の生活は次第に不安定になり、田畑を質入して小作人に没落する農民も増えていきました。こうしたなかで、19世紀には入ると、農業から離れた人々を賃労働者として集め、分業と協業による手工業的生産を行うマニュファクチュア(工場制手工業)もはじまっていきました。

 こうした市場経済の発展のなかで、市場で取引される商品の価値総額に占める米の価値は相対的に低下していきました(これは「米価安の諸色高」と呼ばれました)。このことで、年貢米に依存していた幕府や諸藩の財政は危機を深めていかざるをえませんでした。幕府は、諸々の改革を試みたものの、米を基礎とする仕組みを根本から変えることはできず、年貢を重くするなどの対応に終始しました。しかし、薩長土肥などの西南雄藩は、藩の特産物の専売を強化したり造船などの藩営工場を設立したりして財政の再建に成功し、大きな力をつけていくことになります。
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2017年07月03日

日本経済の歴史を概観する(7/13)

(7)荘園公領制の解体と大名領国制の形成

 前回は、律令体制の動揺のなかから荘園公領制が成立してくるまでの流れを辿ってみました。律令制下の重い税負担が農民の労働意欲を削いでしまったことで、10世紀に入ると、個人を課税単位として労役を課すという仕組みは、次第に機能しなくなっていきます。こうした事態に対応して、土地を課税単位として収穫物の一部を納めさせる仕組みづくりが模索されるようになっていきました。中央政府は、国司に対して一定の納税を請負わせる半面、国司の国内支配には大幅な裁量を認めるようにもなっていきました。こうしたなかで、有力農民は、自らの開墾した土地を中央の貴族や寺社に寄進して荘園とすることで、重い税負担から逃れるようになっていきます。開発を行った有力農民は、荘官となって実質的に土地を支配し、零細農民を隷属させて耕作しました。荘官は、在地の領主として、中央の領主の保護を受けるかわりに、中央の領主に対して一定の年貢を納めるようになりました。一方で、荘園とはならなかった土地、すなわち公領においても、11世紀の後半以降、大きな変化が進行していくことになりました。荘園の増加によって中央政府の税収が減少したために、上級貴族(高級官僚)に棒給を払うのが困難になってきた政府は、彼らに特定の国の国司を自由に任免する権利を付与し、その国の税収を自分の収入としてもよいことにしたのです(知行国制)。この結果、公領もまた知行国主の事実上の私有地となっていきました。このようにして、平安時代の末期以降、公領もまた荘園と同じような重層的な土地支配の構造をもつようになりました。荘園・公領のいずれにおいても、在地領主が零細農民から剰余生産物を取り立てて中央領主に年貢として納めるという関係が成立し、ひとつの土地に複数の人の権利が重なり合う構造――いわゆる荘園公領制が形成されていったのでした。在地領主は、定期市を開設して流通への支配を強め、商人や手工業者の掌握に努めました。年貢を納めた上で残った剰余生産物については、市場に放出することで、自給不可能な物資(塩など)と交換しました。中央貴族は、奢侈品を入手するために、官営工房の流れを汲む手工業者集団を私的に従属させるようになり、これを座へと編成していきました。このように、平安時代の中期以降、中央政府が剰余労働・剰余生産物を集めて必要に応じて分配するという構造が崩れて、有力者がそれぞれ独自に自己の諸需要を満たすための供給基盤をもつようになっていくという形で、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――が解決されることになったのでした。

 さて、今回は、荘園公領制のなかから大名領国制という新たな体制が形成されてくるまでの流れを辿ってみることにしましょう。 

 律令制のなかから荘園公領制という体制が形成されていく上で、決定的な役割を果たしたのは、優れた農業技術をもちながら、積極的に土地開発を行った有力農民層です。彼らは、荘園においては荘官、公領(知行国主の事実上の私有地)においては郡司や郷司・保司に任じられることで、在地領主としての地位を安定させていました。これら在地領主たちは、やがて、自分の土地を守り勢力を拡大するために、武装して争うようになっていきます。こうした地方での騒乱を抑えるために、武芸に長けた中央貴族が派遣されるようになったのですが、彼らと在地領主層が結びついて、武士団が築かれていくことになります。やがて、源頼朝が全国の軍事支配権を手に入れて鎌倉に幕府を開くと、将軍と直接に主従関係を結んだ御家人と呼ばれる武士たちは、守護(各国の軍事や警察の任にあたる)、地頭(土地の管理と治安維持にあたりながら年貢を徴収し、荘園領主に納入する義務を負う)という公的な職を与えられることで、その地位をより安定的なものとしたのでした。

 武家政権の確立によって社会が安定し、鉄製農具や牛馬・肥料の使用が広がると、土地からの収穫物は大きく増えていきました。荘園公領制のもとでは、領主に納めるべき年貢はそれほど大きくは変動しませんでしたから、農民は、収穫量を上げることによって自分の収入を増やすことができました。収穫量の増大によって生活に余裕ができた農民は、麻・桑・茶など新しい作物も栽培するようになり、絹布や麻布を織ることもはじめました。また、鍛冶や鋳物師、紺屋などの手工業者も多くなり、各地を渡り歩いて仕事をするようになりました。このような流れのなかで、農民や手工業者が、荘園領主に納めたり自分の生活で消費したりするのに必要な量よりも多くのモノを恒常的に生産できるようになってくると、そうした余剰生産物の交換が行われるようになっていきます。このような交換は、最初は、荘園や公領の中心地や、大きな道と道が交わるような交通の要所といった、多くの人々が集る場所で、偶発的に行われるものにすぎませんでした。しかし、交換に参加したいと思う人の数が増えるにしたがって、交換の場が空間的・時間的にはっきりと定められて、定期市が生れてきます。この定期市はしだいに恒常的なものとなり、やがて都市へと発展して、商人や手工業者たちが移り住むようになっていきました。市での売買の手段としては、米などの現物に代わってしだいに貨幣(中国から輸入した銭)が多く使われるようになっていきました。また、遠隔地を結ぶ商業取引もさかんになり、各地の港や大河川沿いの交通の要地には、商品の委託販売や輸送を行う問丸が発達しました。遠隔地の取引においては、為替が使われるようにもなっていきました。年貢も現物でなく銭で納めることが広まりました。

 このような変化は、武士(荘官)と貴族(荘園領主)の関係にも大きな影響を与えました。荘園からの収穫量が増えていくなかで、自分たちの収入を少しでも増やしていくことをねらった地頭たちは、風水害などを口実にして、荘園領主にきちんと年貢を納めないことが多くなりました。このような場合、荘園領主たちは、まず幕府へ訴訟を起こしました。幕府も公正な裁判に努めたため、荘園領主側が勝訴することも多かったのですが、それだけでは現地に根をおろした地頭の行動を完全に抑えることはできませんでした。そこで、紛争を解決するために、荘園の土地そのものを折半して相当部分を地頭に完全に与えてしまう下地中分の取り決めが行われることが多くなっていきました。荘園を荘園領主の土地と地頭の土地とに二分して、互いの土地には干渉しないようにしよう、というわけです。鎌倉時代の中期以降、この下地中分が盛んに繰り返されることを通じて、荘園の再編成が進んでいきました。この流れのなかで、室町時代までには、それまで分散していた所領をひとつにまとめて、一元的な土地支配を行う武士が登場してきました。このような武士を国人領主と呼んでいます。鎌倉幕府によって各国に置かれ、軍事や警察の任にあたっていた守護は、これらの国人領主たちと主従関係を結ぶことで土地への支配を強めていき、室町幕府の体制においては、それまで国司がもっていた一般的な行政権限を獲得して、守護大名と呼ばれるようになっていったのです。

 もともと荘園や公領では、諸々の荘官職を得た有力農民たちがそれぞれに管理する名(みょう)がモザイク状に入り乱れて混在していたため、荘官の下で実際に耕作を請け負う農民たちの住居は、耕地の間に点在していました。しかし、鎌倉時代の中期以降、下地中分の繰返しを通じて武士による一元的な土地支配が確立していく過程のなかで、実際に耕作を請け負っていた農民たちは、水路や道路の整備、戦乱や盗賊からの自衛などの課題に協力して対処していくために、地縁的な結びつきを強めていくことになりました。こうして、家々が耕地から分離して集合し、耕地からはっきりと区別される集落が形成されるようになっていったのです。このような集落を基礎として、荘園や公領のなかには、いくつもの村落ができあがってきました。このような村落は、農業生産の向上のなかで力を強めて地主的な存在になりつつあった有力農民を中心に、新しく成長してきていた自立的な小農民など、その地域内に住む惣て(すべて)の人びとを構成員としたために、惣あるいは惣村と呼ばれました。

 応仁の乱(1467年)によって室町幕府の権威が失墜し、守護大名の力が衰えていくなかで、守護大名の地位を実力で奪った戦国大名たちは、地域的な市場圏の成立を前提にして、また惣村の自治を認めて、それをも基礎としつつ、領国を統一的に支配する仕組みを創り出していきます。このようにして、大名たちが自らの領国を統括しつつ、他の大名たちと対峙しあうという構造が日本列島に出来上がっていきました。これを大名領国制と呼んでいます。

 それでは、大名領国制のもとでは、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――は、どのように解決されていたのでしょうか。

 まず、戦国大名たちは、他国との熾烈な戦いに勝ち抜いていくために、生産基盤を強化して国力を確保することに努めました。戦国大名たちは、城下町で新興商工業者に自由な営業を認めて商工業の振興を図り、鉱山開発にも尽力しました。また、大規模な治水灌漑事業などで農業を振興するとともに、剰余生産物を銭によって統一的に掌握すべく、貫高で年貢基準を定めるために検地を反復実施し、農民への支配を強めたのでした。

 このように、鎌倉時代から戦国時代にかけて、社会的諸欲求とそれらを満たす社会的労働とのつながりは、直接的なもの(欲求を満たしてくれる労働力を直接に従属させる)から媒介的なもの(市場における交換を通じて入手する)へと大きく発展していきました。こうした過程を根本から規定したのは、農業技術の改良による農業生産力の発展であり、剰余労働(剰余労働の対象化されたものが剰余生産物)を生産の現場により近いところで掌握できた武士が、政治的にも大きな力をもつようになっていったのです。さらに戦国大名は、単に剰余労働を搾取するだけにとどまらず、国力の強化という観点から、剰余労働を増やすための生産基盤の整備などにも努めるようになっていったたのでした。要するに、大名領国制においては、諸々の生産主体の自由な活動を容認しつつ、剰余生産物の流通過程を掌握するとともに、さらにその生産過程にも踏み込んでその生産力の増大に努めることで、国力の強化を図ったのでした。
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2017年07月02日

日本経済の歴史を概観する(6/13)

(6)荘園公領制の成立

 本稿は、これからの日本経済の進むべき方向を考えていくための前提として、日本経済の構造がどのような歴史的な過程によってつくられてきたのかを問うものであり、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けていくために有限な社会的総労働をどのように配分していけばよいのか、という問題がどのように解決されてきたのか、という観点から、縄文時代から現代までの歴史を概観していこうとするものです。

 前回までの3回にわたっては、日本列島に人々が移り住んできてから、日本列島の大半を支配する統一的な国家が成立してくるまでの流れを辿ってきました。ここで簡単に振り返っておくことにしましょう。

 氷期によってアジア大陸と地続きになっていた日本列島に移り住んできた人々は、狩猟や採集で生活を維持し、20〜30人ほどの血縁的集団で、食物を求めて移動しながらの生活を送っていました。人間の自然への能動的な働きかけはまだごく初歩的なもので、人々の生活は自然環境に大きく左右されていました。氷期が終わって温暖化すると、大型草食動物の絶滅やドングリ、クリ、クルミなどの林の広がりなどの変化に対応して、人々は磨製石器や土器などを使って自然への能動的な働きかけをより深いものにしていく(狩猟や漁労、採集の質をより高いものにしていく)ことで、食料を中心とする生活資料の確保を安定的なものにして、定住生活を可能にしていきました。やがて、気候が再びやや寒冷化して諸々の食料の確保が難しくなってきていたところに、大陸から稲作が伝えられて、日本列島の各地に普及していくことになりました。広大な水田を耕作するには、多くの労働力が必要でしたから、いくつかの集落が連合してムラ(農業共同体)を形成するようになっていきました。農業共同体の首長(ムラの指導者)は、豊作を神に祈る祭りを司るとともに、灌漑工事を指揮したり、土地や水をめぐる他のムラとの争いを指揮したりすることを通じて、権威(宗教的=政治的=経済的な権威)を高め、人々への支配を強めていきました。農業共同体どうしの争いのなかから、日本列島の各地に農業共同体連合(小国家)が形成され、大和地方の小国家=農業共同体連合(大和政権)が各地方の小国家を従属させる形で、統一的な政権(大和政権)が成立します。大和政権は、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――を、部民制(べみんせい)という仕組みを構築することで解決しました。これは、大和政権が、各地方の小国家(クニ)やその連合体を服属させるに際して、その首長である豪族に対して、鉄などの資源や先進的な技術を与えることと引きかえに、その豪族が支配している土地や人々の一部を割いて部(べ)を編成させ、王権が必要とするものを生産して納めさせるようにしたものです。しかし、大和政権の支配は、豪族を長とするそれぞれの農業共同体の内部にまでは及んではいませんでしたし、豪族の支配する農業共同体連合の内部からは、鉄製農具の普及による農業生産力の発展につれて、新たに小豪族となる有力農民層も登場してきていました。唐や新羅といった大陸の強国に対抗するためにも、新興の有力農民層の台頭に対応しつつ、地方豪族への統制力を一段と強化する必要が出てきたのでした。そこで築かれたのが律令制であり、それまで各地の豪族が私有していた土地や人民を全て国家のものにする(「公地公民」)という中央集権的な体制でした。律令制国家は、経済の根本問題を班田制という形で解決しました。個人を課税の単位とし、労働力再生産の場として口分田を割り当てることで、支配層の諸々の欲求を満たすために、また国家の維持・発展にとって必要な事業のために、労働力を徴発していくことのできる仕組みを構築したのでした。支配層の特殊な欲求を満たすために、特定の手工業技術者集団が官営工房として抱え込まれていたことも見逃せません。

 律令制下においては、土地を基準とする租の負担は比較的に軽かったものの、調・庸などの現物を納めさせる人頭税や各種の労役の負担は非常に重かったために、農民の労働意欲は削がれていきました。税負担を逃れるため、口分田を捨てて他の土地に移る者も増えるなどして、個人を課税単位として労役を課すという仕組みは、次第に機能しなくなっていったのです。10世紀に入ると、班田も行われなくなりました。

 今回は、こうした事情によって律令制の公地公民の原則が崩れて、荘園公領制と呼ばれる新たな体制が形成されてくるまでの流れを辿ってみることにしましょう。

 個人を課税単位にして労役を課すという仕組みが機能しなくなるなかで、土地を課税単位として収穫物の一部を納めさせる仕組みづくりが模索されるようになっていきました。これは人頭税から土地税へという徴税方式の大転換にほかなりません。国司は公領(国衙領)を名(みょう)に編成し、名を単位に徴税を行うようになりました。名の耕作を有力農民に請負わせて、現物で年貢を納めさせるようにしたのです。名の請作にあたった者を田堵(たと)と呼びます。このような状況のなかで、中央政府は、国司に対して一定の納税を請負わせる半面、国司の国内支配には大幅な裁量を認めるようになっていきます。

 10世紀に入ると、貴族や寺社の権威を背景にして、中央政府や国司から租税を免除される荘園が増加してきていました。有力農民が、自らの開墾した土地を中央の貴族や寺社に寄進することで、重い税負担から逃れるようになっていったのです。開発を行った有力農民は、荘官となって実質的に土地を支配し、零細農民を隷属させて耕作しました。在地の領主としての荘官は、中央の領主の保護を受けるかわりに、中央の領主に対して一定の年貢を納めるようになりました。寄進を受けた寺社や貴族は、自らの力が政府権力の圧迫をはねつけるほど強くなかった場合、より有力な寺社や貴族へ寄進を重ねることもありました。

 荘園の増加が国の税収を圧迫しているとみた中央政府は、たびたび荘園整理令を出して、成立の由来がはっきりしない荘園を停止するとともに、新規の荘園の設置を取り締まりました。しかし、この荘園整理令は、成立の由来がはっきりしているなど一定の基準を満たした荘園を公認するという側面をもっていたことを見逃すわけにはいきません。これは、荘園の増加という現実に対応して、それを国家的な秩序の体系のなかに組み込んでいくことが模索されるようになってきたことを意味します。例えば、長久の荘園整理令(1040年)は、内裏造営を名目に、公領と荘園の区別なく一国を平均的に課税(このように課税されたものを「一国平均役」といいます)するための前提として行われたものでした。要するに、荘園を公認することで、荘園にも課税できるような新しい仕組みを創り出すことが目指されていたわけです。

 一方で、荘園とはならなかった土地、すなわち公領においても、11世紀の後半以降、大きな変化が進行していくことになりました。内裏造営など特定の事業を行うための一国平均役などの対応はあったにしても、全体としてみれば、荘園の増加によって中央政府の税収が減少していく傾向にあったことは否定できません。このため、上級貴族(高級官僚)に棒給を払うのが困難になってきた政府は、彼らに特定の国の国司を自由に任免する権利を付与し、その国の税収を自分の収入としてもよいことにしたのです。これを知行国制とよんでいます。この結果、公領もまた知行国主の事実上の私有地となっていきました。

 このようにして、平安時代の末期以降、公領もまた荘園と同じような重層的な土地支配の構造をもつようになりました。荘園・公領のいずれにおいても、在地領主が零細農民から剰余生産物を取り立てて中央領主に年貢として納めるという関係が成立し、ひとつの土地に複数の人の権利が重なり合う構造がつくられていったのです。これを荘園公領制と呼んでいます。

 それでは、荘園公領制の下では、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――は、どのように解決されていたのでしょうか。

 まず、中央貴族や寺社の神官・僧侶などの支配層は、各地の荘園あるいは知行国から在地領主によって送られてくる年貢によって、日々の生活を成り立たせていました。それに加えて、諸々の欲求を満たすための奢侈品を入手すべく、官営工房の流れを汲む手工業者集団を私的に従属させるようになり、これを座へと編成していきました。一方で、在地領主は、定期市を開設して流通への支配を強め、商人や手工業者の掌握に努めました。年貢を納めた上で残った剰余生産物については、市場に放出することで、自給不可能な物資(塩など)と交換しました。

 このように、中央政府が農民の労働力を直接的に掌握し、剰余労働・剰余生産物を独占的に集めて必要に応じて各所に分配するという律令体制下の中央集権的な経済の構造は、平安時代の中期以降、農民の労働意欲の減退のために崩れてしまい、経済の根本問題は、諸々の労働主体の発展を取り込んだ有力者たちが、それぞれ独自に自己の諸需要を満たすための供給基盤をもつようになっていく、という形で、解決されることになっていたのでした。
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2017年07月01日

日本経済の歴史を概観する(5/13)

(5)律令制の確立と動揺

 前回は、農業共同体の連合のなかから、日本列島の広範な地域(西日本)を支配する統一的な政権――大和政権――が成立していくまでの過程を簡単に辿ってみました。大和政権は、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――を、部民制(べみんせい)という仕組みを構築することによって解決しようとしていたのでした。これは、大和政権が、各地方の小国家(クニ)やその連合体を服属させるに際して、その首長である豪族に対して、鉄などの資源や先進的な技術を与えることと引きかえに、その豪族が支配している土地や人々の一部を割いて部(べ)を編成させ、王権が必要とするものを生産して納めさせるようにしたものです。部民には、特定の技術者集団を編成した品部(しなべ/ともべ)と、農業共同体の成員をそのまま編成した(屯倉という倉庫を設けて、そこに稲を納めるように義務づけた)田部(たべ)とがありました。この屯倉の設置は、大和政権の支配層が必要とする稲を直接に確保することのみならず、大規模な治水灌漑事業や古墳の築造をはじめとする土木工事のために、部民の労働力を動員していくことを目的としたものでした。このように、日本列島における初の統一政権である大和政権は、各地の豪族(農業共同体連合としての小国家の首長)を媒介にして、諸々の労働力を「部民」として組織しつつ従属させることで、中央の支配層の人々の諸々の欲求を満たしていくと同時に、統一国家としての維持・発展を図っていったのでした。

 しかしながら、大和政権による部民への支配は、あくまでも伴造としての豪族を媒介にしてのものでしかありませんでしたから、それぞれの農業共同体の内部にまで貫徹されていたというわけにはいきません。そもそも、豪族(農業共同体連合の首長)は、自らが支配する土地や人々の一部を割いて部民として大和朝廷に差し出した後も、田荘(たどころ)という私有地、部曲(かきべ)という私有民をもって、なかば独立的な性格を保ち続けていたのです。こうした豪族どうしの争いも絶えませんでした。

 一方で、6世紀に入ると、豪族の支配する農業共同体連合の内部からは、鉄製農具の普及による農業生産力の発展につれて、新たに小豪族となる有力農民層も登場してきていました。これら有力農民は、農業共同体からの自立化の傾向を示して、従来の豪族の支配を脅かしてきていました。

 折しも、朝鮮半島では唐と結んだ新羅が勢力を伸ばしていました。これに対抗して、大和政権の朝鮮半島南部への影響力を確保していくためには、地方豪族への統制力を一段と強化する必要がでてきていたのでした。

 今回は、このような事態に直面した大和政権が、中央集権的な体制を構築することによって、社会の隅々まで、その支配を貫徹していくようになるまでの過程を辿ってみることにしましょう。

 大和政権は、地方における小豪族(新興の有力農民層)の台頭という事態に対応しつつ、唐と結んだ新羅に対抗できるだけの強固な国家体制を構築していくために、唐の律令制(律は刑法、令は行政法)にならって、大王(天皇)を頂点とする中央集権的な統治体制を確立しようとしました。8世紀の初めには、唐の長安にならってつくられた平城京への遷都も行われました。律令制のもとでは、それまで豪族が支配していた土地・人民は、全て国家(天皇を頂点とする中央政権)が支配するものという建前(「公地公民」)になりました。近畿地方の豪族は、中央政権から官職を与えられた貴族となり、全国に60余りある国には、中央貴族が4〜6年の任期で国司として派遣されることになりました。地方豪族は、国司の下に位置づけられる地方官(郡司)となったのでした。郡司は終身官で、その地位は世襲されましたから、実質的には地方豪族としての性格を維持し続けたともいうこともできます。

 それでは、律令制国家は、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――を、どのように解決したのでしょうか。

 その核心となるのは、班田制の実施です。これは、6歳以上の人民に口分田を与えた上で、租・調・庸・徭役といった負担を課したものです。その前提として、中央政権は戸籍(班田の台帳)・計帳(調・庸など人頭税の徴税台帳)を作成して、人身を掌握しました。口分田は、個人に与えられ、労役などの人頭税も個人(成年男子)が負担するという形になっていましたが、実際には、戸主(家父長)が一括して班給を受け、ひとつの経営体として耕作を行うのが普通でした。班給など租税負担の単位となっていたのは郷戸と呼ばれる大家族集団(直系・傍系の親族を中心とした10人〜100人の集団)で、行政組織の末端としての性格ももたされていました。班田制は「公地」としての口分田を与えて耕作させるという建前ですが、実質的には、農業経営体である家父長的な大家族集団に耕地を配分するという形で、農民の私的土地所有の欲求の高まり(新たに小豪族となった有力農民層の台頭)に対応しようという側面ももっていたといえます。

 この班田制の実施によって、律令制国家は、人民に最低限の生活の基盤を与えた上で、労役を中心とする人頭税を賦課する体制を整えることになりました。

 正税と呼ばれる租は、口分田からの収穫のおよそ3%を収めさせたもので、地方行政の財源となりました。調は、絹・綿や鉄・塩など地方の特産物を中央に納めさせるものです。庸は、もともと中央官衙に奉仕する10日間の労役のことでしたが、布などによる代納が行われるようになりました。労役である徭役は、年間60日を基準にして、国司の権限にもとづいて、池堤・官衙などの建設・土木工事などに駆り出される、というものでした

 このほか雑税として、出挙(すいこ)と呼ばれるものがありました。これは、当初は貧民救済のために、春に稲を種籾として貸し付けて、秋に利子をつけて返納させるものでしたが、利殖を図ろうとした国司が、農民に強制的に貸し付けた上で5割もの利子をとるようになっていったために、租税と変わらないものとなっていたのでした。兵役(九州に送られた防人などが有名です)もまた、農民にとって大きな負担となっていました。

 このように、律令体制下の農民にとっては、土地を基準とする租の負担は比較的に軽かったものの、調・庸などの現物を納めさせる人頭税や各種の労役の負担は非常に重かったといえます。

 中央政府の財政(約1万人の官人の給与や官衙の経常費用、労役で都に集められた人々に給付される食料・労賃)は、主として都に運上される調・庸などでまかなわれていました。調および庸の一部は、中央官衙に直属する官営工房――高度な技術をもった手工業生産者集団であり、品部の流れを汲みます――で高級手工業製品に加工され、官庁や官人によって消費されました。平城京には、左京・右京のそれぞれに官設の東西の市があって、市司の管理のもとで、交換が行われていました。

 以上でみてきたように、律令制国家は、個人を課税の単位とし、労働力再生産の場として口分田を割り当てることで、支配層の諸々の欲求を満たすために、また国家の維持・発展にとって必要な事業のために、労働力を徴発していくことのできる仕組みを構築することで、経済の根本問題を解決しようとしたのでした。支配層の特殊な欲求を満たすために、特定の手工業技術者集団が官営工房として抱え込まれていたことも見逃せません。

 しかし、律令制下の重い税負担は、農民の労働意欲を削ぐことになリました。負担を逃れるため、口分田を捨てて他の土地に移る者も増えてきました。そこで政府は、墾田永年私財法を出し、新しく開墾した土地(墾田)の永続的な私有を認めました。その結果、大寺院や中央の有力貴族は、周辺の農民や口分田を捨てて逃げてきた人々を使って盛んに開墾を行い、私有地を広げていきました。これを初期荘園と呼びます。
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2017年06月30日

日本経済の歴史を概観する(4/13)

(4)大和政権の成立と部民制の確立

 前回は、日本列島に人々が移り住んできてから稲作が開始されるまでの流れを簡単に辿ってみました。

 氷期によってアジア大陸と地続きになっていた日本列島に、ナウマンゾウやオオツノジカなど、食料となる大型草食動物を追って、人々が移り住んできました。当時の人々は、狩猟や採集で生活を維持し、20〜30人ほどの血縁的集団で、食物を求めて移動しながらの生活を送っていたのでした。人間の自然への能動的な働きかけはまだごく初歩的なものでしかなく、人々の生活が自然環境に左右される度合は非常に大きなものがありました。

 氷期が終わって温暖化すると、日本列島は大陸から切り離されます。温暖化による大型草食動物の絶滅やドングリ、クリ、クルミなどの林の広がりなどの変化に対応して、人々は磨製石器や土器などを使って自然への能動的な働きかけをより深いものにしていく(狩猟や漁労、採集の質をより高いものにしていく)ことで、食料を中心とする生活資料の確保を安定的なものにして、定住生活を可能にしていったのでした。

 やがて、気候が再びやや寒冷化して諸々の食料の確保が難しくなってきていたところに、大陸から稲作が伝えられて(日本列島に住む人々が大陸から稲作を受け入れて)、日本列島の各地に普及していくことになります。稲作の開始は日本列島における社会の発展にとって大きな画期となりました。稲作の開始によって、人間が自然を計画的に大きくつくりかえていく過程がスタートしたのであり、自然と人間との関係において、いよいよ人間が優位に立ち始めたといえるからです。広大な水田を耕作するには、多くの労働力が必要でしたから、いくつかの集落が連合してムラ(農業共同体)を形成するようになっていきました。ムラには、稲の穂を貯蔵しておくための高床の倉庫がつくられ、豊作を神に祈る祭りが重んじられました。農業共同体の首長(ムラの指導者)は、こうした祭りを司るとともに、灌漑工事を指揮したり、土地や水をめぐる他のムラとの争いを指揮したりすることを通じて、権威(宗教的=政治的=経済的な権威)を高め、人々への支配を強めていったのでした。このように、農耕が開始されたことにより、諸集落の複合体たる農業共同体が形成され、多数の人々が1人の指導者の下で協働するようになり、他の共同体と対峙しながら、生活資料および生産手段の計画的な生産・分配が行われていくようになったのでした。

 さて、今回は、農業共同体の連合のなかから、日本列島の広範な地域(西日本)を支配する統一的な政権――大和政権――が成立していくまでの過程を簡単に辿ってみることにしましょう。

 前回も確認した通り、農耕社会としての安定性が強まって人口が増加してくると、農業共同体は、山間の河川流域や海岸の平野などにも、新たな耕地と集落をつくりだしていくことになります。灌漑技術の発展が、こうした耕地の拡大を可能にしました。こうした流れのなかで、農業に適した土地や水、農具をつくるのに必要な鉄の入手をめぐるムラどうしの争いが繰り返されていくことにより、強いムラが周辺のムラを従えるという構造がつくられ、各地に小さなクニ(農業共同体連合)が形成されていくことになります。こうした小国家の形成の過程で決定的に重要な要素となったのが、鉄の確保という問題でした。鉄は、耕地造成のための鉄器や木製農具の製作のために欠かせませんでしたし、他共同体との戦いのための武器のための素材ともなります。このため、農業共同体連合の首長(クニの王)は、他共同体との争いに勝ち抜きつつ、農業生産を維持・発展させていくために、鉄の産地・輸送路を確保し、鉄器を生産する技術者集団を統制することに努めたのでした(前回も触れた通り、弥生時代中期以降、鉄の国内生産が行われるようになっても、その加工を担ったのは、朝鮮・中国から渡来した技術者集団でした)。

 こうした流れのなかで、4世紀初頭、鉄の入手に有利だった瀬戸内海地方をおさえたのが、大和(現在の奈良県)地方の農業共同体連合である大和政権(大和王権)でした。大和政権の首長が大王(おおきみ)であり、後の天皇につながります。大和政権は、玄海砂丘の砂鉄をおさえる北九州の勢力、中国山地の砂鉄をおさえる出雲・吉備の勢力などと対抗しつつ、それらを圧倒していき、朝鮮・中国との交流に力を注ぎました。大和政権は、4世紀の中頃には、日本列島の西半分をほぼ支配下におさめ、さらには鉄資源の供給源であった朝鮮半島南部への進出をも図りました。また、西日本よりもかなり遅れて稲作をスタートさせた東日本の首長層は、急増していく鉄の需要に促されて、大和政権との結びつきを強めていかざるをえませんでした。このような過程を経て、大和における首長連合政権としての大和政権が、日本列島の各地の首長(豪族)を従えることで成立したものを大和国家といいます。

 それでは、日本列島の多くの部分を支配するに至った大和政権は、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――を、どのように解決したのでしょうか。

 それは、端的にいえば、部民制(べみんせい)という仕組みを構築することによって、でした。大和政権は、各地方の小国家(クニ)やその連合体を服属させるに際して、その首長である豪族に対して、鉄などの資源や先進的な技術を与えることと引きかえに、その豪族が支配している土地や人々の一部を割いて部(べ)を編成させ、王権が必要とするものを生産して納めさせるようにしました。これが部民制です。この部民制は、大和政権に結集した大和地方の農業共同体の首長たちが、武力や生産の担い手である民衆の集団を部(べ)として組織し、自らは伴造(とものみやつこ)としてこれを統率したのが原型となっています。

 部民には大きくわけて、特定の技術者集団を編成した品部(しなべ/ともべ)と、農業共同体の成員をそのまま編成した田部(たべ)とがありました。

 技術者集団の編成形態としての部には、刀剣などを鍛造した鍛治部(かぬちべ)、織物を織った漢織部(あやはとりべ)・呉織部(くれはとりべ)、埴輪や土師器(土器)をつくった土師部、須恵器(陶質の土器)をつくった陶部(すえつくりべ)などがありました。彼らは日常的には農業共同体に属しつつ、同時に一定の手工業生産に従い、その生産物を貢上する形をとりました。朝鮮・中国の技術者集団を畿内各地に定住させて部民とすることも少なくありませんでした。このような特定技術者集団としての部民は、大和政権の支配層が必要とする諸々の手工業製品を貢上させるための社会的分業のあり方にほかなりませんでした。大和政権は、諸々の先進的技術をもった労働力を独占的に掌握し、支配層の諸々の欲求を満たし続けるために、品部という形態で配置したわけです。

 一方、農民(諸農業共同体の成員)の部民化は、各地に屯倉(みやけ)と呼ばれる大和政権の倉庫を設け、その地域の農民(農業共同体)に稲を納めるよう義務づけるという形で進められました。屯倉は河内・和泉の各地を中心に設置され、その倉庫に納めるべき稲の生産を義務づけられた農民が田部とされました。農業共同体ぐるみで田部とされるのが基本的な形態でした。

 屯倉の設置は、大和政権の支配層が必要とする稲を直接に確保することのみならず、統一的な国家としての維持・発展のために必須の諸事業、すなわち、大規模な治水灌漑事業や古墳の築造をはじめとする土木工事のために、部民の労働力を動員していくことをも目的としていました。

 このように、日本列島における初の統一政権である大和政権は、各地の豪族(農業共同体連合としての小国家の首長)を媒介に、諸々の労働力を「部民」として組織した上で従属させることで、中央の支配層の人々の諸々の欲求を満たしていくと同時に、統一国家としての維持・発展を図っていったのです。
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2017年06月29日

日本経済の歴史を概観する(3/13)

(3)農耕の開始と農業共同体の成立

 本稿は、これからの日本経済の進むべき方向を考えていくための前提として、日本経済の構造がどのような歴史的な過程によってつくられてきたのかを問うものであり、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けていくために有限な社会的総労働をどのように配分していけばよいのか、という問題がどのように解決されてきたのか、という観点から、縄文時代から現代までの歴史を概観していこうとするものです。

 さて、今回は、この日本列島における人々が移り住んできてから、農業を始めるに至るまでの流れを簡単に辿ってみることにしましょう。

 現生人類(ホモ・サピエンス)は、十数万年前にアフリカに登場し、世界中に広がっていったとされています。こうした流れのなかで、氷期による海面の後退でアジア大陸と地続きになっていた日本列島にも、人々が移り住んでくることになります。当時の人々は、20〜30人ほどの血縁的集団をつくり、食物を求めて移動しながらの生活を送っていたのであり、ナウマンゾウやオオツノジカ、あるいはマンモスやヘラジカなど、食料となる大型草食動物を追って、アジア大陸から日本列島へ移り住んできたといわれています。当時の人々は、打製石器(石を打ち砕いてつくった石器)を主要な道具として使い、男性は主として狩猟や漁労に携わり、女性は主として植物性の食物の採集に携わるという分業を成立させていました。前回確認した通り、人間は自然に能動的に働きかけて生活資料をつくりだす存在ですが、この段階においてはそれはごく初歩的なものでしかなく、自然環境によって人々の生活は大きく左右されていたのです。

 約1万2000年前、最終氷期が終わって温暖化により海面が上昇すると、日本列島はアジア大陸から切り離され、日本列島に暮らす人々は、独自の道を歩んでいくことになります。気候の温暖化によって、それまで人々の重要な食料であった大型草食動物が絶滅してしまったことは、人々の生存の維持にとって大きな困難をもたらすものでした。一方で、温暖化によって、ドングリやクリ、クルミなど、食糧になりうる実をつける樹木の林が大きく広がることにもなりました。魚介類も豊富になりました。人々は新たな食料を求めて、シカ、イノシシ、ウサギなど動きの速い中小動物を捕らえるための弓矢、魚類を捕らえるための網や槍、木の実や根茎を食物とするための石臼や杵をつくるようになっていきました。さらに、それまでの打製石器に代わってより加工度の高い磨製石器(石を磨き上げてつくった石器)が主要な道具として使われるようになり、食物の保存や煮炊きのために土器が使われるようにもなりました(この土器には縄目の文様がつけられていることから縄文式土器と呼ばれており、縄文時代という名もこの土器に由来します)。人々は、このような試行錯誤を通じて、自然への能動的な働きかけをより深いものにしていくことで、狩猟や漁労、採集の質をより高いものにしていきました。その結果、食料を中心とする生活資料の確保がより確実に行われるようになり、人々の生活は以前よりも安定したものになっていったのでした。とはいえ、人々の生活が自然環境によって左右される度合はまだまだ大きく、自然の異変によって食料が減少してしまうことで、生存を脅かされることも少なくなかったものと思われます。

 人々は、狩猟や漁労、採集に都合のよい森林や海・川からあまり遠くない小高い丘の上に定住するようになりました。住居としては、当初は自然の洞窟が利用されていましたが、次第に竪穴住居が一般的になっていきました。縄文後期の集落は、4〜5人を収容する竪穴数戸から十数戸、人数にしてせいぜい40〜50人程度のものでした。

 紀元前4世紀頃になると、大陸から九州の北部に稲作が伝えられてきます。重要なのは、単に水稲のみが伝えられたのではなく、木製農具・鉄器・貯蔵用の壺など、食糧の計画的な生産と貯蔵を可能とする一連の用具と知識とが伝えられたということです。食料の計画的な生産と貯蔵によって、人々の生活は一変し、格段に安定的なものになっていきました。この時代には、ロクロの使用や高温による焼成など土器の製作技術が大きく進歩し、弥生式土器と呼ばれている石褐色で文様の控えめな土器が大量に生産されるようになりました(この土器の名によって、この時代は弥生時代と呼ばれます)。土器は、米を煮炊きしたり、食物を盛ったり、貯蔵したりするために利用されました。

 この稲作の開始は、日本列島における社会の発展にとって、大きな結節点になったといえます。それまでは、人間から自然への能動的な働きかけといっても、それは自然環境を大きくつくりかえるようなものではなく、自然によって与えられたものを消費する動物的なあり方とそれほど大きな差はなかったともいえるものでした。しかし、農耕の開始によって、人間が自然を計画的に大きくつくりかえていく過程がスタートしたのであり、自然と人間との関係において、いよいよ人間が優位に立ち始めたといえるのです。その背景として、縄文時代の末期には気候が寒冷化したために食料の確保が難しくなっており、自然への能動的な働きかけを画期的に深めていかなければ生活の水準を維持できなくなっていた、という事情があったことも見逃すわけにはいきません。ちなみに、稲作(弥生文化)の東日本への普及は遅れましたが、それは東日本の方が自然環境が豊かで、狩猟や漁労の対象となる獲物(冷水を好むサケやマスなど)が豊富に存在したからだと思われます。

 さて、稲作の開始は、集落のあり方にも大きな変化をもたらしました。稲作には水を欠かすことができませんが、当時、灌漑技術は未熟でしたから、人々はそれまで住んでいた小高い丘から、湿潤な平野部に住居を移していくことになったのでした。また、広大な水田を耕作するには、多くの労働力が必要です。そのため、いくつかの集落が連合してムラ(農業共同体)を形成するようにもなっていったのです。ムラには、稲の穂を貯蔵しておくための高床の倉庫がつくられ、豊作を神に祈る祭りが重んじられるようになっていきました。農業共同体の首長(ムラの指導者)は、こうした祭りを司るとともに、灌漑工事を指揮したり、土地や水をめぐる他のムラとの争いを指揮したりすることを通じて、権威(宗教的=政治的=経済的な権威)を高め、人々への支配を強めていきました。

 生産手段としては、まず木製農具、さらに木製農具を製作するための、また土地を造成するための鉄器が重要でした。通常の農作業に必要な木製農具はそれぞれの集落が保有していましたが、耕地の造成や木器の製作に欠かせない鉄器は、農業共同体の首長が独占していました。鉄器は当初、全て朝鮮半島からのもので、国内では生産されていませんでしたが、やがて朝鮮半島から運ばれてきた鉄素材が国内で加工されるようになり、その量は飛躍的に増大していきました。とはいえ、国内で鉄素材の加工に携わった技術者は、朝鮮・中国からの渡来人であったと考えられています。こうした技術者を確保し統制することができたのは、中国や朝鮮と交渉をもつことのできた有力な農業共同体連合の首長=王層です。技術者たちはこうした首長層の強力な統制下におかれ、共同体の抱え職人として存在していたのでした。このほか、地理的条件に規定された社会的分業として、製塩がありました。塩の交換もまた首長層の手を通じて行われていました。

 弥生時代の中期以降、農耕社会としての安定性が強まって人口が増加してくると、農業共同体は、山間の河川流域や海岸の平野などにも、新たな耕地と集落をつくりだしていくことになります。灌漑技術の発展が、こうした耕地の拡大を可能にしました。こうした過程のなかで、自然的条件、鉄製利器の入手条件、人口の大小などに規定されて、農業共同体間の優劣が生じ、共同体間の連合と闘争が反復的にひきおこされ、やがては邪馬台国に見られるような政治的な統合が進められていくことになったのでした。

 このように、農耕が開始されたことで、諸集落の複合体たる農業共同体が形成され、多数の人々が1人の指導者の下で協働するようになり、他の共同体と対峙しながら、生活資料および生産手段の計画的な生産・分配が行われていくようになったのです。
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2017年06月28日

日本経済の歴史を概観する(2/13)

(2)日本経済の未来を展望するために日本経済の歴史を問う

 前回は、日本経済の現状について、簡単に検討してみました。端的には、いわゆる「アベノミクス景気」が戦後3番目の長さになったとされるものの、それが非常に緩やかで「低温」なものでしかなく、日本経済が長期にわたる低迷から脱しきれたとはとてもいえないような状況だ、ということでした。それどころか、金融市場がバブル的な活況を呈する一方で、実体経済は疲弊して貧困と格差が広がり、財政危機も深刻化するばかりであることを考えるならば、「アベノミクス」は日本経済を再生するどころか、日本経済の危機をますます深化させているといわなければならないのだ、ということでした。

 しかし、それでもなお、日本がいまだに世界有数の経済大国であることに変わりはありません。少し時代をさかのぼってみれば――「失われた30年」といわれますが、その30年ほどさかのぼってみれば――1980年代の日本経済は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれるほどの繁栄を謳歌していたのでした。もう少し時代をさかのぼってみれば、第二次世界大戦の荒廃から急速に立ち直った高度経済成長は奇跡ともいわれましたし、さらに時代をさかのぼってみるならば、明治維新以降、1930年代頃までの経済発展にもめざましいものがありました。19世紀の半ばまで、アジアの東の端の小さな島国でしかなかった日本が、世界有数の経済大国への道を歩むことができたのは一体なぜなのでしょうか。

 一方で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称された1980年代の頃においてすら、日本はヨーロッパ諸国などに比べると国民の生活に余裕がない「生活小国」である、との指摘がなされることがしばしばありました。貧困と格差の拡大が叫ばれる現在、こうした指摘のもつ重さは増しているといわなければなりません。日本が、経済大国としての繁栄を謳歌してきた一方で、「生活小国」と指摘されるような側面もまた存在させ続けてきたのは一体なぜなのでしょうか。このことは、日本が「失われた30年」といわれるほどの長期低迷に陥ってしまったことと何らかの関係があるのでしょうか。

 これからの日本経済の進むべき方向を考えていく上では、これらの問いに答えを見つけることが欠かせません。そのためには、日本経済の構造がどのような歴史的な過程によってつくられてきたのかが問われなければならないのです。

 本稿では、このような問題意識の上に立って、日本経済の歴史を概観していくことにします。しかし、経済の歴史をみていくためには、あらかじめ、簡単にでも「経済とは何か」を明らかにしておかなければなりません。本稿では仮に、「経済とは、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けるべく、有限な社会的総労働を適切に配分していくことであり、そのことと直接に国家の維持・発展を図っていくことである」と定義しておくことにします。

 若干の解説を加えておきましょう。

 人間もその他の生物と同じように、生きていくために必要なものを外部の自然環境からとり入れています。しかし、他の生物が自然から与えられたものを消費するだけで、自然に受動的に生きているのにたいして、人間は能動的に自然に働きかけて、生活資料を生産しています。人間の実践によって自然がつくりかえられ(自然の人間化)、そのつくりかえられた自然によって人間もまたつくりかえられていく(人間の自然化)という過程があります。

 人間が自然に対して能動的に働きかけることができるのは、いうまでもなく、その発達した頭脳のおかげです。人間の頭脳は、他の動物の脳とは異なって、外界の単純な反映に加えて、想像・予想という形で外界の直接的な反映からは相対的に独立した像、すなわち認識を描くことができます。動物が本能にもとづいて行動するのに対して、人間は認識にもとづいて行動します。動物の本能は、その動物が関わる限りでの外界のみを対象とするものであり、有限なものです。これに対して、人間の認識は、感覚器官で直接に捉えることのできないもの――事物の内部の構造とか、過去や未来の様子など――についても対象とすることができます。対象とする世界が無限の広がり、多様性をもつだけに、人間の認識は無限の発展性をもちます。

 このような認識によって行動する人間は、対象をこのように変化させよう(変化させたい)という目的像を描き、この像にしたがって外界に働きかけて意図的に変化させる(自然を人間化する)、すなわち労働することができるわけです。人間が労働するのは、何らかの欲求を満たすためにほかなりません。欲求を満たすために労働という形でわざわざエネルギーを支出するのは、その労働の結果として、その労働をしなかった場合には満たされなかった欲求が満たされること、いいかえれば、労働によるエネルギーの支出を補ってあまりある大きな効用が得られることを期待するからにほかなりません。例えば、木や石を加工して弓矢を製作するのは、素手では捕まえることのできなかった動きの速い小動物を捕まえられるようになることを期待するからであり、目の前の麦粒を直接食べずに地面に蒔くのは、目の前にある小麦の何倍もの小麦が収穫として得られることを期待するからなのです。

 ここで決定的に重要なのは、こうした労働は、あくまでも集団によって行われる協働である、ということです。あらゆる生命体は、集団を形成することによって、地球環境との関係で生存を維持していますが、人間もまた例外ではありません。ただし、人間以外の生物の集団が本能によって統括されているのに対して、人間の集団(社会)は規範と呼ばれる社会的な認識によって統括されることになります。ここでいう規範とは、集団的な生活における諸々の必要性から形成されてきた、行動についてのルールのことです。こうした規範が成立しているからこそ、共通の目的をもって自然に働きかけるという協働が可能になっているわけです。こうした協働を行う人間の集団がすなわち社会なのですが、ひとつの社会は、他の社会と対峙することで、国家という枠組みをもつことになります。人間の社会的な生活は、国家という枠組みにおいて維持され、発展していくものなのです。

 さて、人間の欲求は、当初は基礎的な生命の維持にかかわるレベルがほとんどであり、ごく基本的な衣・食・住の生活資料を確保すればよく、そのための労働の過程も単純なものでした。しかし、基礎的な生命の維持が安定的に満たされるようになるに応じて、欲求は次第に多様化していきます。無限の発展性をもった認識によって行動する人間は、他の生物のように単に生存を維持するだけでなく、物質的・精神的により豊かな(質の高い)文化的な生活へとレベルを上げていこうとするのです。欲求が多様化すれば、それに応じてそれらを満たすための労働も多様化し、様々なレベルでの分業が発展していくことになります。

 しかし、社会における欲求が無限といってよいほどの発展性をもつのに対して、それらを満たすための手段である社会的な総労働――これには、対象化された労働(労働の結果として形になったもの)としての消費対象や生産手段も含まれます――は有限です。ここに、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けていくためには、有限な社会的総労働をどのように配分していけばよいのか、という問題が生じてくることになります。この社会的欲求の土台として、生存の維持(基礎的な生命の維持)がなければならないのはいうまでもないでしょう。こうした社会的総労働の配分を、国家という枠組みにおいてどのように行っていくか、より詳しくいえば、基本的な生命の維持を可能としつつ、文化的な発展による欲求の多様化を最大限に満たし続けるためには、社会の総労働をどのように配分していけばよいのか――これが経済の歴史における基本的な問題なのです。

 本稿では、こうした問題がどのように解決されてきたのか、という観点から、日本列島における人々の生活が始まってから現代に至るまでの歴史を概観していくことにしましょう。
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2017年06月27日

日本経済の歴史を概観する(1/13)

(1)「アベノミクス」で危機を深める日本経済

 2012年末に発足した安倍政権は、「デフレからの脱却」と「富の拡大」を掲げて、「アベノミクス」と呼ばれる経済政策を進めてきました。この「アベノミクス」は、「大胆な金融緩和」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」という「3本の矢」からなるとされました(*)。このような経済政策の効果があってのことか、2012年の12月に始まった景気の拡大――いわゆる「アベノミクス景気」――は、2017年3月までで52ヶ月となり、1986年12月〜1991年2月の51ヶ月間だったバブル経済期を抜いて戦後3番目の長さになった、といわれています。この景気拡大が今年9月まで続けば、高度経済成長期の1965年11月〜1970年7月の57ヶ月間に及んだ「いざなぎ景気」も抜くことになる、といわれています(ちなみに、戦後最長の景気拡大は小泉政権時代の2002年2月〜2008年2月の73ヶ月間)。このことだけとってみれば、「アベノミクス」は成功しているといってもよさそうです。

 しかしながら、この「アベノミクス景気」なるものに対しては、景気回復の実感が乏しい、という指摘がしばしばなされていることを見逃すわけにはいきません。例えば、「アベノミクス景気」が戦後3番目の長さになったことを報じた「日本経済新聞」の記事では次のように書かれています。

「2012年12月に始まった「アベノミクス景気」が、1990年前後のバブル経済期を抜いて戦後3番目の長さになった。世界経済の金融危機からの回復に歩調を合わせ、円安による企業の収益増や公共事業が景気を支えている。ただ、過去の回復局面と比べると内外需の伸びは弱い。雇用環境は良くても賃金の伸びは限られ、「低温」の回復は実感が乏しい。……
 これまでの回復は緩やかで「低温」だ。戦後最長の回復期だった00年代の輸出は8割伸びたが、今回は2割増。設備投資も1割増と00年代の伸びの半分だ。賃金の伸びは乏しく、個人消費は横ばい圏を脱しきれない。
 「アベノミクス景気」を象徴するのが公共投資だ。東日本大震災からの復興予算や相次ぐ経済対策で、回復の期間中に1割ほど増えた。小泉政権の予算削減で3割減った00年代とは対照的だ。
 「低温」の背景には、中期的な経済成長の実力である潜在成長率の低下も背景にある。内閣府の推計で16年は0.8%。人口減少で労働力が増えず、企業が国内の設備投資に慎重なためで、景気回復の足腰が弱い。」(「日本経済新聞」4月6日付 朝刊)


 内需(個人消費・設備投資)、外需(輸出)の伸びが弱いために、景気回復は「低温」で実感が乏しい、という指摘です。とくに、「賃金の伸びは乏しく、個人消費は横ばい圏を脱しきれない」という指摘は重大です。個人消費の動向が人々の生活実感と直結するものであることはいうまでもありません。賃金が上がらないために生活を切り詰めなければならない、という状況で、景気の回復を実感しろといわれても、それは無理な相談というものでしょう。GDPの約6割を占める個人消費が低迷しているからこそ、景気回復の足腰は弱く、実感が伴わない、ということになっているわけです。

 2016年7月(景気の拡大はすでに40ヶ月を超えていました)の参議院選挙においては、こうした「アベノミクス」による景気回復の実感の乏しさが大きな争点のひとつとなりました。この参議院選挙に関連して行われた各種の世論調査では、景気の回復を実感していないとの回答が全体の7割から8割に上っていました。こうした状況に対して、安倍首相は、税収の増加(2016年度の税収は2012年度に比べて21兆円増えた)や就業者数の増加(2012年から2015年までに約110万人増えた)など、いくつかの指標でもって「アベノミクス」の成果を強調しつつ、「アベノミクス」はまだまだ「道半ば」なのだと説明したのでした。

 こうした安倍首相の主張に対しては、選挙戦のなかで、民進党や日本共産党など野党の側から厳しい批判が行われました。例えば、21兆円の税収増については、2008年のリーマン・ショックや2011年の東日本大震災による景気後退で税収が激減していた状態から見れば回復してきている、という程度のものでしかなく、しかも2014年に実施された消費税増税による9兆円分が含まれていることが指摘されました。また、就業者数の増加についても、非正規雇用が167万人増える一方、正規雇用が36万人も減少するなど、雇用の質が確実に劣化してきていることが指摘されたのでした。

 これは、安倍首相のいうとおり、「道半ば」ということなのでしょうか。そもそも「道半ば」というのはどういうことなのでしょうか。安倍首相が進もうとしている「道」はどういう道なのでしょうか。首相官邸ホームページの「アベノミクス「3本の矢」」というページには、次のように書かれています。


「企業の業績改善は、雇用の拡大や所得の上昇につながり、さらなる消費の増加をもたらすことが期待されます。こうした「経済の好循環」を実現し、景気回復の実感を全国津々浦々に届けます。」


 要するに、企業の業績改善が第一であり、それが起点になって雇用の拡大や所得の上昇につながっていく……という波及経路=「道」が想定されているわけです。富裕層や大企業が豊かになれば、貧しい層にも富が滴り落ちてくるはずだという、いわゆる「トリクルダウン」の考え方です。「道半ば」ということは、企業の業績は改善したけれども、それが雇用の拡大や所得の上昇にはつながっていない、ということを認めるものにほかなりません。

 「アベノミクス」による円安や株高で、輸出大企業や富裕層は確かに大いに潤ったかもしれないが、その甘い汁が庶民に滴り落ちてくることはなかった――このような批判が生じてくるのも当然のことでしょう。安倍首相が、特定秘密保護法(2013年)や安保法制(2015年)など、国民的に大きく賛否が割れた問題に一応の決着がつくたびに、経済優先の姿勢を強調して局面転換を図ってきたことを想起するならば、「アベノミクス」なるものの実態は、異次元の金融緩和で円安と株高を演出し、景気回復への国民の期待感を煽って、政権への支持を確保しようという政治的思惑の強いものだったのではないか、とも思われてきます。株価の下支えを狙って年金積立金を株式市場に流し込んだ結果、巨額の損失を出してしまったというニュースもありましたが、そもそも「アベノミクス」なるものが、国民生活の改善とか国民経済の健全な再生産とかをまともに考えた政策であったのかどうかも、疑わしくもなってきます。

 アメリカの経済誌『フォーブス』の集計によれば、「日本の超富裕層」上位40人の資産総額は2012年の7.2兆円から2016年の15.4兆円へと2倍以上に増えました。一方で、日銀の調査によれば、貯蓄が全くないという世帯が3割にも達しています。日銀の異次元緩和(国債買取)のもとで、国債の発行額は増え続けています。「アベノミクス景気」が戦後3番目の景気拡大になったといっても、金融市場がバブル的な活況を呈する一方で、実体経済は疲弊して貧困と格差が広がり、財政危機も深刻化するばかりであることは否定できません。そもそも、「アベノミクス」による景気拡大といっても、それが非常に緩やかで「低温」なものでしかなく、日本経済が長期にわたる低迷から脱しきれたとはとてもいえないような状況があります。日本経済は「失われた20年」どころか「失われた30年」に向かいつつある、との指摘も散見されるのです。「アベノミクス」は日本経済を再生するどころか、日本経済の危機をますます深化させているといわなければなりません。

(*)金融緩和、財政出動はいわゆるケインズ的政策であるのに対して、成長戦略は新自由主義的政策である。この「アベノミクス」なるものは、思想的系譜の全く異なる諸政策をごった煮にしたものであり、明確な方向性を欠いているというほかない。従来の経済政策が完全に行き詰まっているものの、為政者としては、ともかく日本経済の長期的低迷からの脱却への期待を煽って国民の支持を獲得するしかない、という状況のなかでの足掻きのようなものであるといえよう。これは大きくいえば、第二次世界大戦後、いわゆる「パクス・アメリカーナ」の下で資本主義経済が安定的に成長してきた状況が崩れていくなかで、経済政策・社会政策のみならず外交政策・安全保障政策をも含めて、各国が多かれ少なかれ混迷の度合いを含めていることと同じ流れにあるものだといえるだろう。
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2017年06月26日

掲載予告:日本経済の歴史を概観する

 本ブログでは、明日より「日本経済の歴史を概観する」と題した論稿を掲載していきます。

 現在、日本経済の再生を掲げた「アベノミクス」が進められるもとで、景気回復が進んでいるといわれる一方、その景気回復は極めて緩やかなもので実感に乏しいではないか、労働者の賃金はほとんど伸びておらず、個人消費も増えていないではないか、という指摘もなされています。総じていえば、「アベノミクス」が日本経済の長期低迷状態を打ち破ったとはとてもいえない状況であり、日本経済は「失われた20年」から「失われた30年」に突入しつつあるのではないか、とも思われます。

 しかし、それでもなお、日本がいまだに世界有数の経済大国であることに変わりはありません。少し時代をさかのぼってみれば、1980年代の日本経済は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれるほどの繁栄を謳歌していたのでした。もう少し時代をさかのぼってみれば、第二次世界大戦の荒廃から急速に立ち直った高度経済成長は奇跡ともいわれましたし、さらに時代をさかのぼってみるならば、明治維新以降、1930年代頃までの経済発展にもめざましいものがありました。19世紀の半ばまで、アジアの東の端の小さな島国でしかなかった日本が、世界有数の経済大国への道を歩むことができたのは一体なぜなのでしょうか。

 一方で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称された1980年代の頃においてすら、日本はヨーロッパ諸国などに比べると国民の生活に余裕がない「生活小国」である、との指摘がなされることがしばしばありました。貧困と格差の拡大が叫ばれる現在、こうした指摘のもつ重さは増しているといわなければなりません。日本が、経済大国としての繁栄を謳歌してきた一方で、「生活小国」と指摘されるような側面もまた存在させ続けてきたのは一体なぜなのでしょうか。このことは、日本が「失われた30年」といわれるほどの長期低迷に陥ってしまったことと何らかの関係があるのでしょうか。

 これからの日本経済の進むべき方向を考えていく上では、これらの問いに答えを見つけることが欠かせないといえるでしょう。そのためには、日本経済の構造がどのような歴史的な過程によってつくられてきたのかが問われなければなりません。

 本稿では、このような問題意識を踏まえつつ、日本列島における人々の生活が始まってから現代に至るまでの経済の歴史を概観していくことにします。

 以下、目次(予定)です。

序論
(1)「アベノミクス」で危機を深める日本経済
(2)日本経済の未来を展望するために日本経済の歴史を問う
1、稲作のはじまりから律令制の成立まで
(3)農耕の開始と農業共同体の成立
(4)大和王権の成立と部民制の確立
(5)律令制の確立と動揺
2、荘園公領制から大名領国制、幕藩制へ
(6)荘園公領制の成立
(7)荘園公領制の解体と大名領国制の形成
(8)幕藩制の成立と発展
3、日本資本主義の成立と発展
(9)日本資本主義の成立過程
(10)戦時統制経済から戦後改革へ
(11)高度経済成長とその終焉
結論
(12)これまでの日本経済の歴史を振り返ると
(13)国民経済という視点で変革の構想を
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2016年11月22日

アダム・スミス『国富論』を読む(13/13)

(13)国民の富の持続的再生産という観点が必須である

 前回は、本稿で紹介してきた『国富論』の内容について、簡単に振り返ってみました。その内容を、スミスの哲学体系の全体に位置づけ、法学体系の一部を構成するものであるであることを意識しつつ、より端的にまとめなおしてみましょう(以下は、本ブログ掲載の「アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う」を下敷きにしたものです)。

 第1篇では、共感(想像上の立場の交換)の原理とつながる交換性向論を基礎に、お互いの所有物を自由に交換しあうことを可能にするような条件――所有権という具体的形態をとった正義――が確立された商業社会において、分業の発展によって国民の富が増大していくことが説かれていました。第2篇では、どの産業部門への資本投下がどの程度まで富の増大に寄与するのか検討された結果、国民の富の増大に最も寄与するのは農業であり、次いで国内製造業、国内商業、外国貿易と続くことが示唆されていました。ここで大きな役割を果すのが、慎慮の徳――『道徳感情論』において、自分の将来の幸福のために現在の欲求を抑える徳として説かれた徳――です。資本所有者が慎慮の徳を備えていれば、それぞれの部門において予想される利潤が極端に異ならない限り、投資の安全性や確実性を考慮して、外国貿易より国内商業、国内商業より製造業、製造業より農業に、自分の資本を投下するはずです。その結果、国民の富を最大化するような形で社会的総資本の配分が達成されていくのです。このように、『道徳感情論』をふまえた法学体系の一部として『国富論』を捉えた場合、第1篇においては正義の徳が、第2篇においては慎慮の徳が、大きな役割を果たしていると指摘できます。お互いの財産(所有物)を不当に侵害しないという正義の枠組みのなかで、個々の経済主体(資本所有者)が慎慮の徳にしたがって行動するならば、おのずから国民の富は増大していく――これが、『国富論』の第1篇および第2篇の主張です。

 しかし、スミスが眼にしていた現実の社会のあり方は、そのような理想(理論的に描かれた商品交換社会)とは少なからず距離がありました。現実の社会のあり方を批判的に分析することで、理想的な状態の実現を阻んでいる諸要因を摘出したのが、第3篇と第4篇です。第3篇では、西ローマ帝国の崩壊以来のヨーロッパ経済史が批判的に検討され、農業→製造業→国内商業→外国貿易という産業の自然な発展の順序が(国家権力の恣意的な介入によって)往々にして逆転させられてしまっていたたことが論じられます。第4篇では、このような国家権力による恣意的な介入の根拠となった重商主義が厳しく批判されます。そして結論として、特定産業を優遇したり抑制したりする一切の制度を完全に廃止することで、明瞭で簡潔な「自然的自由の体系(system of natural liberty)」を実現させるべきことを主張するのです。

 しかし、スミスは、「自然的自由の体系」が実現された社会において政府は無用となる、と考えていたわけではありません。第5篇において、政府のなすべき仕事について(経費論)、政府の仕事に必要な財源の調達について(租税論・公債論)、市場の自然で自由な動きとの関連を意識した財政論として議論されていくのです。ここでスミスが、政府のやるべき仕事としてあげているのは、国防、司法、公共事業の3つです。このうち、国防は国家の存立そのものに関わるものとして富裕に先だって重要なものであるとされ、司法は正義の制度的枠組みを守るものとしてその重要性が強調されています。また、政府がやらなければならない公共事業として教育が論じられ、文明社会の二面性――商業社会が生活習慣を洗練していくという積極面と、分業の発展が労働者階級の視野を狭くし知的能力を失わせていくという消極面――を視野に入れつつ、国民の徳を陶冶していくための基礎的な教育の重要性が強調されていくのです。

 以上、法学体系の一部としての『国富論』という観点から、その構成を概観してみました。端的には、第1篇と第2篇が自然的自由の体系の基礎となる市場(経済社会)についての論をなし、第5篇が自然的自由の体系を上から統括する政府についての論をなす一方、第3篇が現実の経済社会のあり方についての批判、第4篇が現実の経済社会のあり方を規定した政府の政策およびそれに影響を与えた重商主義への批判をなす、とまとめることができます。

『国富論』全体像.jpg

 こうした『国富論』の内容に関わって、前回、決定的に重要なこととして確認したのは、スミスが実現を目指していたのは、全ての国民(その大きな部分を占めるのが下層の労働者)がそこそこの物質的な豊かさを保障され、人間らしく生きていくことのできる社会状態にほかならなかった、ということでした。スミスのいわゆる「見えざる手」は、国民が消費する生活必需品と便益品の生産量(社会の全収入)を最大にするような資本と労働の配分を実現してくれるからこそ尊重されるのであって、市場における自由な競争それ自体が自己目的化されていたわけではありません。スミスが「見えざる手」を主張したのは、ハッキリいえば、経済的な強者(特権的な大商人や製造業者)の利害によって経済の自然なあり方が歪められてしまったために、経済的な弱者(下層労働者など)が痛めつけられている、という現状を打開しようとしたからにほかならないのです。ここでいう経済の自然なあり方とは、国民が年々に消費する生活必需品と便益品が、きちんと持続的に再生産されていけるように、資本と労働が適切に配分されていく状態のことです。スミスが「見えざる手」に任せるべきことを主張したのは、強者の利益のために歪められてしまった経済の自然なあり方を回復することこそが、下層労働者を含む国民全ての利益になると信じたからにほかならないのです。こうしたスミスの信念の根底には、「宇宙は一般法則に支配され、それ自身およびそのなかにいる全ての種の保存と繁栄という一般的な目的を目指して運動するまとまった体系である」(「古代の自然学の歴史」)という把握がありました。この世界(宇宙)全体は、本来的に調和的なものとして存在しているのであって、人為的にその動きをかき乱さなければ、おのずから望ましい状態が実現されていくはずだ、という信念があったのです。こうした文脈から切り離して、「見えざる手」という言葉をもっぱら市場の自動調節機能を賛美するものとして流布するのは、スミスの真意を曲解するものといわなければなりません。

 本稿の第1回では、アダム・スミスという名前、あるいは「見えざる手」という言葉を持ち出しながらの「アベノミクス」批判が行われていることをみました。しかし、本稿を読んでこられた読者の皆さんなら、わざわざアダム・スミスという名前を出して「アベノミクス」を批判するのに、単に「統制経済だ!」「社会主義的な経済政策だ!」「市場原理に反する!」というレベルにとどまってしまうのであれば、それはあまりに浅薄である、と感じられるのではないでしょうか。せっかくアダム・スミスという名前を持ち出すのであれば、最低でも、経済的な強者の利益のために経済の自然なあり方が歪められてしまっていないか、そのために経済的弱者が痛めつけられるような結果になっていないか、という問いかけをもつべきでしょう。そのような問題意識から「アベノミクス」を批判的に検討してみるならば、外国貿易で儲けようという一握りの巨大企業の利益ばかりが優先されているのではないか(円安誘導策、TPPなど)、国民が消費する必需品や便益品を持続的に再生産できるような資本と労働の配分ということとは無関係に、ともかくお金(カネ)の量を増やせば何とかなるという考え方にとりつかれてしまっているのではないか(異次元金融緩和)、といった疑惑が浮かんでこざるを得ません。要するに、「アベノミクス」は決して「社会主義的な経済政策」などではなく、スミスが厳しい批判の対象とした重商主義そのものなのではないか、ということにもなってくるのです。

 『国富論』を踏まえた「アベノミクス」批判という問題を、もう少し突っ込んで考えてみましょう。

 「アベノミクス」の最優先課題はデフレ脱却であるとされますが、そのためには何よりも賃上げ(個人消費の回復による需要の伸び)が必要ではないか、ということは広く指摘されています。安倍首相自身、経済界に対して繰り返し賃上げを要求してきました。しかし、賃上げが必要であるにしても、それが“官製賃上げ”と揶揄されるような形で実現されるのは、果たして社会にとって健全なことなのでしょうか。ここで想起すべきなのは、スミスが重農主義批判(第4篇、第9章)において、全ての人が自分の生活をよくしようと努力し続ける自然な動きこそ社会の健全性を維持する原理である、と述べていたことです(本稿の連載第8回を参照)。「見えざる手」は、自分の生活を少しでもよくしようという各個人の努力を媒介として機能するものだとされていたわけです。これを敷衍するならば、賃上げというものは、労働者が自分たちの力によって闘い取るという形で実現しなければ社会は健全なものにはならない、と指摘することができます。「安倍首相が企業に強く要請してくれたから賃上げが実現した。感謝しなければ!」ということではダメなのです(ここには、独裁者への個人崇拝につながりかねない危険な要素が含まれています)。根本的な問題は、1980年代以降、世界的な規模で押し進められてきた新自由主義的な政策・イデオロギー攻撃によって、労働者階級の闘争力が著しく奪われてきたことです(デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』〔2007年、作品社〕がこの問題を詳しく論じています)。そもそも、第二次世界大戦後の資本主義経済の高度成長は、労働者階級が自分たちの生活をよくしようとして賃上げと労働条件の改善を勝ち取ってきたからこそ実現したという側面があります。現在、世界的な規模で経済が停滞状況にあるのは、資本家階級がみずからの利益を確保しようとして無理矢理に労働者階級の闘争力を奪ってきたからだ、ということは否定できないのです。「アベノミクス」における“官製賃上げ”は、大資本家の私的な利益のために社会の健全性を維持する仕組み(ここでは労働者階級の闘争力)が破壊されてしまった結果にほかなりません。日本社会を健全なものにするためには、労働者みずからが自分の権利のために闘うという雰囲気を取り戻す必要がある――『国富論』を踏まえた「アベノミクス」批判としては、以上のようなこともいえるのです。

 もちろん、スミスが、資本と労働の配分を基本的に市場における自由競争に任せてしまおうとしたことについては、批判的に検討される余地があります。これは、利己的でありながら共感の能力をもつ人間どうしの関わり合いのなかで(各人の胸中に「公平な観察者」が創出されることを媒介にして)、おのずから望ましい秩序が形成されていくはずだというスミスの社会観、さらにいえば、「宇宙は一般法則に支配され、それ自身およびそのなかにいる全ての種の保存と繁栄という一般的な目的を目指して運動するまとまった体系である」というスミスの宇宙(世界)観の是非にまで踏み込んで検討されるべき問題だといえるでしょう。この問題についての踏み込んだ考察は今後の課題とすることを確認して、本稿は終えることにします。
 
(了)
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2016年11月21日

アダム・スミス『国富論』を読む(12/13)

(12)スミスは強者の利益のために経済が歪められることに反対した

 本稿は、“経済学の祖”と呼ばれるアダム・スミスの主著『国富論』を、彼の哲学体系の全体像を念頭に置きながら、概観していこうとするものでした。ここで、本稿で紹介してきた『国富論』の内容について、簡単に振り返っておきましょう。

 スミスは、「序論および本書の構想」において、国の富とは国民が日々の生活において消費するモノ(必需品+便益品)にほかならず、その源泉は国民自身の労働である、と宣言し、この国民の労働のあり方を研究対象として据えることを明らかにしていました。

 「第1篇 労働の生産力における改善の要因と、生産物が各階級に分配されていく際の自然な秩序について」においては、まず、人間の交換性向(これは共感の能力に関連するものであることが示唆されています)にもとづく分業こそ生産力発展の要因であるとことが力説され、分業の発展により商品交換が広く行われるようになったことで貨幣が成立したこと、商品の交換価値の真の尺度は労働であること、商品の価格(交換価値)は労働の賃金、資本の利潤、土地の地代によって構成され、国民の収入の源泉は結局この3つに還元されること、賃金、利潤、地代の自然水準を過不足なく払えるのが商品の自然価格であり、市場価格はこの自然価格を中心にして変動していることが明らかにされていました。次いでスミスは、商品の自然価格を構成する賃金、利潤、地代の自然水準そのものの変動について検討し、労働者の利害、資本家の利害、地主の利害が社会全体の利害とどう関係するかを考察していました。スミスによれば、労働者が得る賃金と地主が得る地代は、分業の発展による社会全体の富の増大と一致して増えていくのですが、資本家が得る利潤は、豊かな国(資本が過剰な国)では低く、貧しい国(資本が過小な国)では高く、急速に衰退している国(資本が急速に減少しつつある国)で最も高くなるので、資本家階級の利害は社会全体の利害と食い違うのだ、と指摘していました。

 「第2篇 資本の性質、蓄積、用途について」においては、資本の蓄積が分業の発展を規定することが確認され、生産的労働(商品という具体的な形で価値を残す労働。農業労働、手工業労働など)と不生産的労働(価値は生み出すもののそのまま消えてしまう労働。家事使用人、役者・音楽家、役人など)とが区別された上で、生産量を増やすためには収入を浪費せずに倹約して生産的労働者を雇用するための資本を蓄積していく必要のあることが論じられていました。スミスは、資本の用途として、農漁業・鉱山業、製造業、卸売業、小売業(国内取引、国内消費用物資の輸入、中継貿易)を挙げ、最も多くの生産的労働を維持する農業から出発して、国内産業の順調の発展の末に、国内の生産的労働を全て維持してもなお余るほどの資本が蓄積されてはじめて、中継貿易に資本が投下されるようになっていくのが自然な流れだ、と強調していました。

 「第3篇 国によって豊かさへの道筋が異なることについて」では、ローマ帝国崩壊後のヨーロッパの歴史において、豊かさへの自然な道筋がなぜ歪められてしまったのか、より具体的には、農業よりも中継貿易に資本を投下する方が有利だというような不自然な状況がなぜつくられてしまったのか、という問題が立てられ、社会の混乱状況において、領地の安全確保を最優先して土地の分割を禁じる仕組みがつくられたことによって土地の改良が阻まれてしまったこと、国王が封建領主との権力闘争のなかで、商人や職人などの都市住民を優遇する政策をとるようになったことなどが、指摘されていました。

 「第4篇 政治経済学の諸体系(systems)について」では、豊かさへの自然な道筋が歪められてしまった思想的・理論的な根拠として、主として重商主義の主張が批判的に検討されていました。スミスは、富とは金銀であり鉱山のない国は貿易黒字によって金銀を入手するしかない、という考え方が確立した結果、輸入をできる限り減らして輸出をできる限り増やすことが経済政策の大目標となったことを指摘していました。その上で、輸入規制として2つ(国内生産できる商品の輸入を規制すること、貿易赤字の相手国からの輸入を全商品にわたって規制すること)、輸出奨励として4つ(戻し税、輸出奨励金、通商条約、植民地建設)の手段を挙げ、それぞれについて、産業の年間生産物に如何なる影響を与えるか、という観点から検討していました。有名な「見えざる手」という言葉は、第一の輸入規制(国内生産できる商品の輸入の規制)を批判する文脈のなかで登場するものでした。本稿では、「見えざる手」は、国民が消費する生活必需品と便益品の生産量(社会の全収入)を最大にするような資本と労働の配分を実現してくれるからこそ尊重されるのであって、市場における自由な競争それ自体が自己目的化されていたわけではないことを強調しました。この第4篇におけるスミスの結論は、ある種の産業を特別に奨励したり抑制したりしようとして、資本と労働の自然な配分を歪めてしまうならば、年間生産物の真の価値は多かれ少なかれ減ってしまうことになる、というものでした。この第4篇の最後の部分で、スミスは、特定産業を優遇したり抑制したりする一切の制度が完全に廃止されたならば、明瞭で簡潔な「自然的自由の体系(system of natural liberty)」が実現する、としつつ、それでもなお政府には果たすべき役割が存在することを指摘していました。

 「第5篇 主権者あるいは公共社会(the Sovereign or Commonwealth)の収入について」では、「自然的自由の体系」においてなお政府が果すべき役割について、また、政府がそうした役割を果すために必要となる資金の調達のあり方について、論じられていました。スミスが、政府の義務としてあげていたのは、簡単には、国防、司法制度の確立、公共施設・機関の建設・維持の3つでした。本稿では、国家の外側からの攻撃に抗して「自然的自由の体系」の枠組みを守るためのものが国防であり、国家の内側からの攻撃に抗して「自然的自由の体系」の枠組みを守るためのものが司法制度であると整理して、国防と司法制度によって社会の中身がしっかりと守られていてこそ、分業と交換を通じた豊かさの実現が可能になるのだ、という国家観・社会観をスミスが抱いていたことを指摘しました。これに対して、政府の第三の義務たる公共土木事業および公共施設の建設・維持は、「自然的自由の体系」の中身に関わっていこうとするものである、と位置づけました。スミスは政府の果すべき義務について検討した結論として、国防費のように社会全体の利益のために支出される経費は、社会全体の負担によって、すなわち、全ての国民が各人の能力に応じて負担する形で賄うのが適切であること、司法の経費、道路などの建設・維持費、教育機関・宗教団体の経費など、社会の一部が直接に利益を受けることになる経費は、利益を受ける人が負担する形で賄う方が適切であることを確認していました(もっとも、後者の諸経費にも、社会全体の利益につながる面がある以上、社会全体の負担で賄おうとすることが必ずしも不適切ではないとも指摘されていました)。スミスは、社会全体の負担で国の経費を賄うための国民の収入への課税、国防費を中心に国の経費の膨張を賄うための富裕な商工業者からの借入について論じていました。税金については、公平、確実、便宜、最小徴税費の4つの原則が立てられた上で、どのような課税が望ましいのか検討されていました。そのなかで注目されるのは、負担能力の大きい人間がより大きな負担(収入に比例する以上の負担)を行うことは必ずしも不合理ではない、として、応能負担の原則が強く示唆されていたことでした。また、公債については、その起源から巨額の債務が累積するまでの過程が歴史的に辿られつつ、イギリスが抱える巨額の債務をまともに解消するためには、財政収入を増やすか財政支出を減らすしか方法はなく、そのためには、アメリカ植民地を合邦する(植民地住民に本土の国民と同等の政治的権利を与えつつ、同等の税負担を課す)かアメリカ植民地を独立させる(植民地防衛のための巨額の費用負担をなくす)しかない、と提言されていたのでした。

 以上、本稿で紹介してきた『国富論』の内容について、簡単に振り返ってみました。

 改めて確認しておきたいのは、スミスが決して硬直した自由放任主義者ではなかったことです。本稿の連載第5回では、銀行券(紙幣)の発行に関わって、スミスが、少数の個人による自由の行使によって社会全体が危険に晒されかねない場合、そうした自由は制限されなければならない、と断固として主張していたことをみました。また、本稿の連載第8回では、重農主義における自由放任主義(レッセ・フェール)に対するスミスの批判的コメントに触れて、スミスにおける「見えざる手」の主張が決して硬直したものでではなかったことを確認しました。今回の振り返りのなかでも触れたとおり、「見えざる手」は、国民が消費する生活必需品と便益品の生産量(社会の全収入)を最大にするような資本と労働の配分を実現してくれるからこそ尊重されるのであって、市場における自由な競争それ自体が自己目的化されていたわけではありません。『国富論』をまともに理解する上では、ここが決定的に重要です。スミスが目指していたのは、全ての国民(その大きな部分を占めるのが下層の労働者です)が、そこそこの物質的な豊かさを保障され、人間らしく生きることができる社会状態にほかなりません(スミスが、人間に本来備わっている知的能力を育てるための基礎教育は、たとえ国が何の利益を受けないにしてもやるべきだ、と主張していたことを想起して下さい)。『国富論』の全体を読み通してみれば、特権的な大商人や大製造業者の利益のために経済の自然なあり方が歪められて、下層の労働者が痛めつけられている状況に対して、スミスが激しい怒りを燃やしていたことがよく分かります。スミスが「見えざる手」に任せるべきことを主張したのは、強者の利益のために歪められてしまった経済の自然なあり方を回復することこそが、下層労働者を含む国民全ての利益になると信じたからにほかならないのです。
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2016年11月20日

アダム・スミス『国富論』を読む(11/13)

(11)政府の経費はどのように調達されるべきか

 前々回と前回の2回にわたっては、政府が果たすべき役割についてのスミスの議論を紹介しました。今回は、政府の仕事に必要となる経費の調達についてのスミスの議論を、大きく租税論と公債論とに分けて紹介することにしましょう。

 まず、スミスの租税論です。スミスは、国民の収入が最終的に土地の地代、資本の利潤、労働の賃金の3つの源泉に由来するものであることを確認した上で、税金は全て最終的にはこの3つのうちから支払われることになる、と指摘します。スミスは、地代への課税、利潤への課税、賃金への課税を順番に検討していくわけですが、こうした具体的な検討を行うための前提として、税金一般に通用する4つの原則(いわゆるスミスの租税四原則)を確認しています。@国民は各人の能力に応じて、つまり各人が国の保護の下で得ている収入に比例して税金を負担すべき、という公平の原則、A税金は恣意的であってはならず、支払時期、方法、額の全てを明確で分かりやすいものにすべき、という確実の原則、B税金の支払時期と方法が納税者にとって便利なものであるべき、という便宜の原則、C国民から徴収する額と国庫に入る額との差が最小になるよう設計すべき(徴税のために人手や手間のかかりすぎないようにすべき)、という最小徴税費の原則です。スミスはこの4原則を踏まえつつ、地代への課税、利潤への課税、賃金への課税について、それぞれ社会全体の富の生産にどのような影響を与えるのか、という観点から具体的な検討を加えています。

 スミスは、地代への課税方法としては、地代が変われば税額も変動する仕組み(農業が発達すれば高くなり、衰退すれば低くなる仕組み)がもっとも公平だとする重農主義派の主張に賛意を示しつつ、地主と借地人が共同で借地契約を登記するよう義務づければ、(検地という手間と経費をかけなくても)借地契約の全条件が登記簿によって十分に明らかになるだろう、と提言しています。このほかスミスは、土地の生産物への課税が、実際には地代に転嫁されてしまうことを指摘しています。地代は、農業経営者が資本を回収し平均的な利潤を確保した上で、残った部分から支払われます。農業経営者が土地生産物への税金を支払いながら、農業経営を変わらずに続けていくためは、地代部分を減らすしかなくなる、というわけです。また、家賃(家屋賃料+敷地地代)については、土地の地代に似ているものの、地代が生産的な土地の利用に対して支払われるのに対して、家賃は非生産的なものの利用に対して支払われるという基本的な違いがある、と指摘しています。借家人は、借家とは無関係な別の収入(賃金か利潤か地代)から家賃を支払わねばならないという点で、他の消費財に課される税金と同じ性格をもっている、というわけです。興味深いのは、スミスがここで、課税の公平さという問題に言及していることです。スミスは、生活費に占める家賃の割合は、豊かな人ほど高く貧しい人ほど低くなるので、家賃に対する税金の負担は一般に金持ちほど重くなるが、このような不公平は不合理とはいえない、とします。金持ちが収入に比例する以上の比率で財政に貢献するのは不合理なことではない、というのがスミスの主張なのです。

 スミスは、利潤への課税については、最終的に商人(資本所有者)の負担になることはない、と指摘します。消費者が、商人の納付する税金を商品価格の一部として支払わなければならなくなるからです。

 スミスは、賃金への課税についても、実際に労働者が支払っているとはいえない、と指摘します。賃金は労働への需要と食料品の価格で決まりますから、賃金への課税は税率より少し高い率で賃金を引き上げます(労働者の生存に週10シリングの賃金が必要である場合、そこに20%の賃金税をかけるなら、税込12シリングの賃金支払いだけでは税引後に10シリングを残せませんから、12シリング6ペンス〔1シリング=12ペンス〕まで上昇する必要があります)。賃金への課税は、雇用主の賃金支払い額を増やすわけですが、製造業労働者の賃金上昇分が製品価格に上乗せされれば、それは消費者の負担になりますし、農業労働者の賃金上昇分が地代の減少によって賄われれば、それは地主の負担になります。ただし、賃金への課税によって労働の需要は減少するのが普通なので、課税に見合って賃金が上昇するとは限らない、ともスミスは指摘しています。

 ここまでは、特定の種類の収入に課すことを意図した税金が取り上げられていましたが、スミスは収入の種類と無関係に課すことを意図した税金として、人頭税と消費財に対する税を挙げています。人頭税については、その人の資産や収入に比例するように課税しようとしても、各人の状況は刻々と変化するので、恣意的で不確実なものにならざるをえない、とされます(人頭税へのこのような評価は、各々の経済主体の所得を税務当局が的確に把捉することができず、公正な所得課税が不可能であった当時の条件に規定されたものだといえます)。スミスは、国民の収入に直接に課税する方法を編み出せなかったために、収入にほぼ比例すると考えられた支出に間接的に課税する方法、より具体的には、支出の対象となる消費財に課税する方法が使われるようになった、といいます。あえて現代の用語でいうならば、所得税の導入が技術的に困難であったために次善の策として消費税が導入されるようになった、ということです(*)。

 消費財は、生活必需品と奢侈品に分けられます(スミスは、必需品のなかに、生存するために最低限必要なものだけでなく、その社会の習慣からして恥ずかしくないだけの体裁を整えるのに必要なモノ全てを含めています)。生活必需品への課税は賃金を上昇させますから、その結果は賃金への課税と同じになる、とスミスはいいます。すなわち、製造業労働者の賃金上昇分が製品価格に上乗せされて消費者の負担になるか、農業労働者の賃金上昇分が地代の減少によって賄われて地主の負担になるか、です。スミスはまた、生活必需品の価格が上昇してもそれに見合った賃金の上昇がなければ、貧困層が子どもを育てるのが難しくなり、有用な労働力を供給する能力が低下する、とも指摘しています。一方、奢侈品(luxuries)への課税は、賃金を上昇させることはないし、貧困層の子育てを困難にすることもない、とスミスはいいます(税金によって倹約を強いられた結果、かえって子どもを育てやすくなるかもしれない、とすらいいます)。スミスによれば、奢侈品に対する税金は、課税商品の消費者によって最終的に負担され、他に転嫁されることはありません。

 以上、スミスの租税論を紹介してきましたが、スミスが推奨するのは、地代の変動に応じた地代税および奢侈品への課税だといえます。前者は、工夫次第で4つの原則を大体において満たすことができますし、後者は、最小徴税費の原則については難があるものの(多数の税務職員が必要になる、特定産業を抑制してしまう、税逃れ対策のための手間と経費がかかる等々)、残りの3つの原則はよく満たしています。

 次いで、スミスの公債論です。商業や製造業の発展した国では、政府(統治者)は、自国内の大土地所有者と同じく(本稿の連載第6回を参照)、収入の大部分を奢侈品に費やすようになり、平時に節約しなくなるので、いざ戦争になると(戦時の国防費は平時の3、4倍!)借入に頼るしかなくなる、とスミスはいいます。スミスは、政府に借金を余儀なくさせる商工業の発達が、一方で、国民のなかに貸付の能力と意志を生み出すことを指摘します。商工業の発展で資本の回転が速くなることで、膨大な資金を政府に貸し付ける能力を備えた人々が存在することになりますし、政府は貸手から有利な条件で借入を行おうとするので、政府の債務証書は当初の払込額よりも高く市場で売ることができ、政府に貸し付けることで自分の資本を増やしていくことも可能になるのです。こうした借入は、当初は信用(担保なし)で行われましたが、やがて、より多額の資金を調達すべく、特定の財源を担保としての借入が行われるようになりました。その方法としては、見込債務と永久債務がありました。前者は、担保を短期間(1年か数年)に限って提供し、その財源で元本と利子を期間内に十分に返済できるとされたものです。後者は、担保を無期限に提供し、担保で払えるのは利子だけであり元本をいつ返済するかは政府次第だとされたものです。見込債務だけであれば、財政収入の使い方が縛られるのは数年だけですむのですが、見込債務が乱発された結果、17世紀末以来、永久債務への依存が深まりました。永久債務を累積させたのは、戦争でした。戦争は財政支出を激増させますが、政府はそれに合わせて税収を増加させることを嫌がるし、またできもしない、とスミスは指摘します。嫌がるというのは、突然の増税で国民感情を害して戦争政策への支持を失うことを恐れるからですし、できないというのは、どういう増税で必要な収入を賄うのが適切なのかが分からない、ということです。だからこそ政府は、安易に借入に頼るようになりました。特に永久債務であれば、最小限の増税で最大限の資金を調達できます。従来からの財政収入に戦時の増税を加えたもので、経常経費と戦時に起債された公債の利子を支払ってなお余剰があれば、それは公債償還のための減債基金に繰り入れられるのですが、この減債基金は公債の全てを償還するには不十分だし、むしろ他の目的に流用されがちである、とスミスは指摘しています。

 公債による国(イギリス)の破滅は何としても防がなくてはならない、というスミスは、公債償却の正道は、財政収入を大きく増やすか財政支出を大きく減らすかどちらかしかない、といいます。そして、前者のためには、イギリス国内だけの税制改革では間に合わず、アメリカ植民地なども含めて同一税制を適用するしかないし、後者のためには、アメリカ植民地などを独立させて、植民地防衛のための巨額の費用負担を節減するしかない、と提起するのです。端的には、アメリカ植民地と合邦するか、アメリカ植民地の独立を認めるか、です。『国富論』は、「大英帝国のどの領土にせよ、帝国全体を支えるために貢献させられないというのであれば、戦時にそれら領土を防衛する経費、平時に行政的・軍事的制度を一部であれ支える経費を負担するのを止めて、グレート・ブリテン〔イギリス〕がおかれている全く平凡な状況に合わせて、将来への展望と計画を調整すべきときである」という一文で締め括られます。この『国富論』が出版されたのが1776年3月9日ですが、それから約4ヶ月後の7月4日にはアメリカ独立宣言が出されることになったのでした。

(*)各人が負担能力に応じて税を負担すべき、というスミスの原則からすれば所得税が、しかも、金持ちが収入に比例する以上の比率で財政に貢献するのは不合理なことではない、というスミスの主張を踏まえれば累進的な所得税が、最も望ましい税のあり方だということになるはずです。しかし、当時においては、公正な所得課税など非現実的なものである、とみられていたわけです。イギリスで所得税が初めて導入されることになるのは、スミスの死後の1799年のことです(もちろんイギリスが世界初です)。
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2016年11月19日

アダム・スミス『国富論』を読む(10/13)

(10)政府のなすべき仕事――公共事業について

 前回および今回は、「自然的自由の体系」を主張するスミスが、それでもなお政府の果たすべき義務が存在する、とするのはどのようなことであるのか、みてきています。前回は、政府の義務として、国防および司法制度の確立が挙げられていることをみました。これらはいずれも、「自然的自由の体系」を成り立たせるための枠組みを維持するためのものであったといえるでしょう。すなわち、国家の外側からの攻撃に抗してこの枠組みを守るためのものが国防であり、国家の内側からの攻撃に抗してこの枠組みを守るためのものが司法制度です。国防と司法制度によって社会の中身がしっかりと守られていてこそ、分業と交換を通じた豊かさの実現が可能になるのだ、という国家観・社会観をスミスが抱いていたことが分かります。

 さて、今回は、スミスが挙げる政府の第三の義務についてみていくことにしましょう。これは端的には、公共土木事業および公共施設の建設・維持です。もう少し詳しくいえば、社会全体にとっては有用でありながら、利益を生み出さないために個人では建設・維持できない機関や施設を建設・維持することです。国防および司法制度が「自然的自由の体系」の枠組みに関わるものであるとすれば、この第三の義務は、その中身に関わっていくものだといえるでしょう。スミスは、政府が建設・維持すべき公共機関として大きく3つ、社会の商業活動を促進するためのもの、青少年教育のためのもの、生涯教育(宗教教育)のためのものを挙げています。

 社会の商業活動を促進するための公的施設・機関は、さらに社会の商業活動全般に関わるものと、特定の部門のみに関わるものとに分けられています。

 商業活動全般に関わるものとしては、道路、橋、運河、港などがありますが、これらの施設の建設・維持の費用は、それを利用する馬車や船から少額の通行料を取れば賄える、とスミスはいいます。通行料は運送業者が支払うものの、最終的には商品の価格に上乗せされて消費者が負担することになります。しかし、運送費はその公共施設のために大幅に低下するので、通行料を払っても商品は公共施設を使わない場合より安く消費者に販売できるだろう、というのがスミスの主張です。また、これら施設の建設・維持費を、それを利用する馬車や船に負担させることは、これらの施設を商業に本当に必要なところだけに建設するようにする効果がある、とも指摘しています。

 商業活動の特定部門に関わる施設や機関としては、未開民族との交易を行う際、現地人の攻撃から商品を守るために倉庫を要塞化することなどが挙げられます。スミスは、こうした特別の経費は、その部門に小幅な税金をかけて賄うべきだと主張しても不当ではないが、商人の会社は、議会を巧みに説得して、政府の義務のうちこの部分を果たす責任とそれに不可欠な権限の全てを引き受けるようになった、と指摘します(東インド会社などが半ば行政機関化していたことをイメージして下さい)。こうした会社は、加入した各人がみずからの資本を使ってみずからのリスクで営業する場合には組合会社と呼ばれ、株主から拠出された資本で営業し、株主が出資比率にしたがって全体の利益か損失を分け合う場合には株式会社と呼ばれました。スミスは、何人かの商人が協力し、自分たちのリスクと経費で、はるか遠方にある未開の国との貿易を切り拓こうとした場合、株式会社の設立を認め、成功した場合にある年数にわたって貿易の独占権を与えるのは不当ではない、と認めます。しかし、決められた期間がたてば独占は必ず終了させるべきだ、と主張します。要塞や守備隊が必要だと判断されれば、政府が引き継ぎ対価を会社に支払いつつ、貿易そのものは全ての国民に開放すべきだ、というのです。独占を恒久化すれば、自由貿易が許されていればはるかに安くなるであろう商品が高い価格で売られ続け、収益性が高い適切な事業から多数の国民が排除されることになるからです。また、スミスは、株式会社が排他的特権なしでも成功を収められるのは、全く決まりきった作業で業務を遂行できるものだけだとして、銀行業、保険業(火災保険、海上保険、戦時拿捕保険)、水路・運河の建設・維持の事業、大都市への給水事業を挙げています。しかし、株式会社で上手く経営できる可能性があるというだけで株式会社を設立するのは適切ではない、とも指摘しています。株式会社が完全に適正だといえるためには、業務の規則と方法を厳密に決められること以外に、@通常の事業の大部分と比べて社会にとって大きく役立つ事業であること、A株式でなければ集められないほど大きな資本を必要とするものであること、の2点の条件を満たさなければならない、というのです(前述の4つの事業は以上の条件を満たす、とされています)。

 政府が建設・維持すべき公共機関の第二は、青少年教育のためのものです。スミスは、青少年教育のための機関も、学生が教師に支払う授業料という自然な収入で十分に経費を賄うことができる、とします。そうしてこそ、教師の努力や能力の向上が促されるのであって、一般財政収入などを投入することは教育機関の目的達成の妨げになりかねない、とスミスは主張します(もっとも、こうしたスミスの主張は、主として、大きな資産をもった上流階級の子弟の教育を念頭に置いたものであることに注意が必要です)。では、政府は国民の教育に関与すべきではないのか、という問題を提起したスミスは、産業が発達した文明社会においては、政府は庶民の教育に対して積極的に関与する必要がある、と主張します。スミスによれば、分業の進展によって労働者の仕事がごく小数の単純作業に限定されるようになると、労働者は仕事の上で難しい問題にぶつかることがなくなり、問題解決のために理解力を活かしたり工夫を凝らしたりする機会を失ってしまいます。その結果、私生活でぶつかるごく普通の義務についてすら適切な判断を下せなくなりますし、ましてや、自国がぶつかっている大きくて複雑な問題については、全く判断できなくなってしまいます。スミスは、人間に本来備わっている知的能力が適切に使われていないのは、人間として基本的な部分を欠いた卑しむべき状態である、といいます。そして、下層階級の教育によって国がたとえ何の利益を得られないとしても、下層階級を全く無教育な状態に放置しないよう、政府は真剣に配慮すべきだ、と主張するのです。こうした主張からは、全ての人間に人間らしいあり方(知的能力の活用)が保障されるべきだ、というスミスの人間観を窺うことができます。もっともスミスは、下層階級の教育が国にとっても利益となるとも指摘しています。民衆が無知な場合、狂信や迷信によって社会が大混乱に陥ることがあるが、教育が進めばこうしたことは起こりにくくなる、というわけです。また、国民が早まった判断や気まぐれな判断を下す傾向を持たなくなることは政府の安定性にも資する、とも述べています。スミスは、全国民に読み書き計算という基礎的教育を義務付けるのに大した費用はかからない、と指摘した上で、教会区や地域ごとに小さな学校をつくり、下層労働者の親でも負担できるほど少額の授業料をとって、教師の報酬に不足する分は政府が支給すればよい、と提言するのです。

 政府が建設・維持すべき公共機関の第三は、生涯教育のためのもの、具体的には宗教教育のための機関です(宗教施設が公共機関だとされることには、現代日本の感覚からは違和感がありますが、政教分離の原則が必ずしも確立されていなかった時代の議論であることを踏まえておく必要があります)。スミスは、宗教上の教師について、信者の寄付のみに頼っている場合の方が、他の収入源がある場合より、はるかに熱心で勤勉である可能性が高い、と指摘します。このため、聖職者が聖職給に安住してしまう国教の教団より、信者の寄付に頼る新興の教団の方が、大衆的な人気を獲得し、改宗者を獲得する力に優れている、というのです。ちなみに、スミスは、新興教団が庶民の間で人気を博する根拠を、階級社会における2種類の道徳観、すなわち、厳格で禁欲的な考え方と自由な考え方ということにも関連させて解いています。下層労働者はわずか1週間、軽率に浪費しただけでも破滅し、自暴自棄になって極悪の犯罪を犯すまでになることがありますが、上流階級は何年にもわたって浮かれ騒いでも破滅するとは限りません。したがって、庶民の間では厳格で禁欲的な考え方が主流になり、上流階級の間では自由な考え方が主流となります。庶民のなかから始まる新興教団は、厳格な道徳観を採用し、それを徹底して純化することで、庶民の敬意を集めるわけです。問題は、国教の教団が必要とする経費をどう賄うか、です。スミスは、国教の教団の収入は、教団の所有地(荘園)から得る部分を除けば、国の一般収入の一部門なのであり、例えば十分の一税(教団の所有地のみならず、あらゆる土地の収穫の10分の1を納めさせるもの)は政府の収入をその分だけ減らして、国家の防衛力を弱体化させてしまう、と指摘します。しかし、スミスは、そもそも教団はそれほど大きな収入は必要ないはずだ、として、スコットランド国教会やスイスのプロテスタント教会が、教会所有地などからのわずかな収入で、牧師にまずまずの生活を保障しながら教会の全経費を賄っている例を紹介しています。スミスは、どのような職務でも、それが立派に遂行されるためには、給与や報酬が職務の性格に見合っている必要がある、といいます。聖職者の収入が多すぎると、雄興と社交と享楽に時間を費やすようになってしまい、聖職者にふさわしい人格ではないと庶民に見られるようになって、義務を果たすのに不可欠な権威や重みがなくなってしまう、とスミスは指摘しています。

 以上、前回と今回の2回にわたって、政府が果たすべき義務についてのスミスの議論の内容を、ごく簡単に紹介してきました。スミスは結論として、国防費のように社会全体の利益のために支出される経費は、社会全体の負担によって、すなわち、全ての国民が各人の能力に応じて負担する形で賄うのが適切であること、司法の経費、道路などの建設・維持費、教育機関・宗教団体の経費など、社会の一部が直接に利益を受けることになる経費は、利益を受ける人が負担する形で賄う方が適切であることを確認しています。もっとも、後者の諸経費にも、社会全体の利益につながる面がある以上、社会全体の負担で賄おうとすることが必ずしも不適切ではないとも指摘されています。

 社会全体の負担によって国の経費を賄うためには、国有の土地あるいは資本からの収入によるか、国民の収入に課税するかしなければなりません。さらに、国防費を中心に国の経費が膨張していくなかで、政府が富裕な商工業者から借り入れを行うようにもなっていきます。第5篇後半の2つの章では、これらの問題が議論されて、『国富論』の全体が締め括られることになります。次回は、スミスの租税論・公債論の要点を紹介することにしましょう。
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2016年11月18日

アダム・スミス『国富論』を読む(9/13)

(9)政府のなすべき仕事――国防と司法制度の確立について

 本稿は、“経済学の祖”と呼ばれるアダム・スミスの主著『国富論』を、彼の哲学体系の全体像を念頭に置きながら、概観していこうとするものです。

 前回までの3回にわたっては、「第3篇 国によって豊かさへの道筋が異なることについて」および「第4篇 政治経済学の諸体系(systems)について」をみてきました。第3篇では、ローマ帝国崩壊後のヨーロッパの歴史において豊かさへの自然な道筋がなぜ歪められてしまったのか、という問題が論じられ、第4篇では、自然な道筋を歪めるような政策の根拠となった政治経済学の諸体系、より具体的には、重商主義と重農主義とが、批判的に検討されていたのでした。ある種の産業を特別に奨励したり抑制したりしようとして、資本と労働の自然な配分を歪めてしまうならば、年間生産物の真の価値は多かれ少なかれ減ってしまうことになる――これが第4篇におけるスミスの結論でした。

 この第4篇の最後の部分で、スミスは以下のように述べています。

それゆえに、〔特定産業を〕優遇したりあるいは抑制したりする一切の制度が完全に廃止されたならば、明瞭で簡潔な自然的自由の体系(system of natural liberty)がおのずからできあがってくることになる。どんな人でも、正義の法を犯さないかぎり、自分の利益を自分のやり方で追求する完全な自由をもつようになり、自分の勤労(industry)と資本の双方をもって、他のどんな人や他のどんな階級とでも競争(competition)する完全な自由をもつようになるのである。(第4篇、第9章)


 ここで注目しなければならないのは、このような「自然的自由の体系」が実現された社会においてもなお政府の果たすべき役割が存在する、とされていることです。スミスは、政府が配慮すべき義務として、3つのことを挙げています。第一は、自国を他国の暴力と侵略から守ること、第二は、社会の各成員を他の成員の不正や抑圧から守ること、第三は、公共土木事業を行ったり公共施設を建設・維持したりすることです。政府がこうした義務を果すためには必ず一定の経費が必要になり、それをどうやって賄うかが問題になります。この問題を扱うのが、「第5篇 主権者あるいは公共社会(the Sovereign or Commonwealth)の収入について」にほかなりません(sovereign は「主権者」と訳されることが多いですが、統治者とも訳しうるものであり、ここでは基本的に政府〔行政のみならず立法、司法をも含む広義の政府〕と同義と見なしても問題ありませんから、以下、基本的には「政府」とします)。この第5篇では、政府のなすべき仕事について(経費論)、政府の仕事に必要な財源の調達について(租税論・公債論)、市場の自然で自由な動きとの関連を意識した財政論として議論されていくことになります。今回と次回は、このうち、政府のなすべき仕事について論じられている部分についてみていくことにしましょう(*)。

 スミスが挙げる政府の第一の義務は、他国の暴力と侵略から自国を守ること、端的には国防です。この義務を果たすためには軍事力が不可欠となるわけですが、そのための経費のあり方は、社会の発展段階によって大きく異なってきた、とスミスは説いています。

 狩猟民族や遊牧民族の場合は、戦闘の場面が日常生活から切り離されていませんでしたから、兵士を育成するための独自の取り組みも、戦場で戦う兵士の生活を支えるための経費の負担も、とりたてて必要ではありませんでした。農業中心の社会においても、戦闘が農閑期に集中して行われる以上は、兵士たちは自分で自分の生活を支えることができましたから、社会が特別の経費を負担する必要はありませんでした。

 しかし、より発展した社会においては、大きく2つの要因によって、戦場で戦う兵士が自分で生活を支えることができなくなった、とスミスはいいます。第一の要因は製造業の発達です。手工業者は仕事場を離れれば収入を失ってしまいますから、もし兵士として戦場に行くのであれば、その間の生活を国に維持してもらうほかなくなります。第二の要因は、戦争技術の発展です。戦争技術が高度化すると、戦争は1回の戦闘で決着をつけるようなものではなくなり、ほとんど1年の全体を覆ってしまうほど長期にわたるものになってしまいました。こうなると、たとえ農民出身の兵士であっても、自分の生活は自分で支えられます、というわけにはいかなくなります。加えて、戦争技術をいっそう発展させるためには、分業が不可欠であり、軍務を他の職業から分離し独立した職業にしなければならなくなった、という事情もありました。スミスは以上のように常備軍の起源を解いています。

 当時(18世紀後半)、軍隊は民兵組織(いざというとき国民一般が武器を取って戦うもの)であるべきで、常備軍は自由を抑圧する危険なものだ、と警戒される傾向もありました。しかし、分業の効用という観点から常備軍成立の必然性を説いたスミスは、軍指導部と政府の意志(利害関心)が一致している限りは、常備軍が自由を抑圧する危険はない、と述べます。それどころか、規律の保たれた常備軍によって政府(統治者)の安全が確保されてこそ、国民に放埓ともいえるほどの自由を許容することができるのであるから、常備軍は自由を確立する上で有利な条件となるのだ、とまで述べています。政府は常備軍の圧倒的な武力を背景にしてこそ、制定した法律を国内の隅々にまで適用することができるのであり、常備軍がなければありえなかった正規の統治を維持できるようになるのだ、というわけです。

 以上のように、スミスは、国防のために政府(統治者)が負担しなければならない経費が、社会の発展とともに増大してきたことを説いています。具体的には、高価な武器弾薬の購入、職業軍人を訓練し生活を維持するための経費などですが、近代の戦争においては、こうした経費を負担できる国の方が明らかに有利ですから、貧しい未開国よりも豊かな文明国の方が優位に立つようになりました。古代では豊かな文明国が貧しい未開の国の攻撃から自国を防衛するのが難しかったが近代では逆になった、とするスミスは、このことが文明の永続と拡大にとって明らかに有利な条件となっている、とも述べています。いかにも啓蒙の時代(文明の進歩が素直に信じられていた時代)たる18世紀らしい主張だとはいえるでしょう。

 さて、スミスが挙げる政府の第二の義務は、社会の他の構成員による不正と抑圧から社会の全構成員を守ること、つまり厳正な司法制度の確立です。国防が、国家の外側からの攻撃に対して国民生活を守ろうとするものであるのに対して、司法は国家の内側からの攻撃に対して国民生活を守ろうとするものである、ということができるでしょう。スミスは、この司法のための経費も、社会の発展段階によって大きく異なることを説いています。

 狩猟民族には、財産というものがありませんから、司法制度はそもそも必要ありませんでした。しかし、遊牧民族の段階で富の不平等が現われると、貧乏人の妬みによる攻撃から金持ちの財産を守るために、政府および司法制度が必要とされるようになったのだ、とスミスは説きます(こうしたスミスの論は、私有財産と階級の発生と関わらせて国家権力の生成を解いたマルクス主義の先駆ともいえそうです)。

 ここで問題になるのは、こうした司法制度を支える経費です。スミスは、政府(統治者)にとって司法制度は、その経費が負担になるどころか、有利な判決を得ようとする当事者たちの贈り物などによって、重要な収入源となってきたことを指摘します。しかし、収入の確保を優先するような仕組みでは、裁判の腐敗は避けられません。そのため、やがて贈り物の授受が禁止され、判事には決まった収入が保証されるようになってきました。とはいえ、司法制度の運用に必要な経費は、全ての判事への給与の支払いを含めても、政府の全経費のごく小さな部分を占めるにすぎません。したがって、司法の全費用を裁判手数料で賄うことも容易であろう、とスミスはいいます。

 同時にスミスは、他の財源から判事に固定給を支払う場合も含めて、行政権を任された人たちが、そうした財源を管理する責任を負うべきではない、とも指摘しています。スミスは、司法権と行政権の分離が、単に社会の発展によって業務が増えたことに対応するためのものだったのはなく、政治的な思惑によって裁判が捻じ曲げられることを避けるためであったことに注意を促すのです。公平な裁判こそが個人の自由の基礎であり、個人が安全だと実感できる根拠である、と力説するスミスは、全ての国民が自分の権利を完全に保障されていると感じられるようにするには、司法は行政から分離するだけでなく、行政から最大限に独立していることが必要である、と力説するのです。スミスによれば、判事は行政当局の気まぐれによって解任できるようになっていてはなりませんし、判事に定期的に支払われる給与は、行政当局の好意によってはもちろん、行政当局の財政手腕によってすら左右されてはならないのです。行政と司法の分離、司法の行政からの独立という問題について、スミスが非常に厳格に考えていたことが分かります。「自然的自由の体系」を成り立たせるための大前提として、正義の法による支配が決定的に重視されていたのだ、ということができるでしょう。

(*)この第5篇の第1章は、政府のなすべき仕事を経費という観点から論じようとするものですが、例えば、国防費を論じるにあたっては国防のあり方そのものが社会の歴史的な発展段階のなかで問題にされる、という形で展開されています。論の展開を追うことを優先して本稿では省きましたが、古代ギリシャ・ローマにおける学問・教育のあり方、中世における学問・教育(大学)のあり方、キリスト教会の歴史について等々、非常に面白い議論が展開されています。その面白さは、ぜひ直接に『国富論』の文章に触れて味わってみて下さい。『国富論』の第5篇は脱線が非常に多いともいえますが、現実世界においては諸々の要素が絡み合って存在しているわけで、財政論としてスッキリと整理(純化)されきっていないからこその含み(味わい深さ)がある――リカード以降の経済学では削ぎ落されてしまう豊かさがある――ともいえるでしょう。
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 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う