2017年12月21日

改訂版・初学者に説く経済学の歴史(5/5)

(5)経済学の歴史を見る上での最大のポイントは経済の歴史と経済学の歴史とのつながりである
 
 本稿は、諸々の経済問題にたいして適切な対策を行っていくためには、現実の経済がもつ構造を把握した科学的な経済理論を確立しておく必要があるという問題意識から、経済学の歴史を論理的にたどってみることを目的としたものでした。

 ここで、これまで説いてきた流れを簡単に振り返っておくことにしましょう。

 まず、経済学らしい経済学は資本主義経済の成立とともに誕生したことを確認しました。その背景としては、商品交換のひろがりによって、労働力や土地といった生産のための根源的な要素までもが商品となり、さらには貨幣も商品化(利子を取ってのお金の貸し借りが盛んになる)するようになっていくことで、政治的な行為あるいは宗教的な行為とはハッキリと区別された独自の経済的な行為というものがあるという社会的認識が生成していったことがありました。このような経済の分離によって、人びとは全体として、それ以前の時代よりも格段に物質的に豊かな生活を享受できるようになりました。こうした物質的な豊かさのもととなる富とは何であり、その源泉は何なのか、という問題を解明しようとしてはじまったのが、経済学とよばれる学問であったということができます。「経済学の祖」とされるアダム・スミスは、『国富論』において、人間の労働こそがさまざまな富を生み出す源泉であることを指摘し、労働価値説を打ち立てました。18世紀の資本主義経済の生成期においては、さまざまな部門で多くの小さな企業が自由な競争をおこなっており、この競争をつうじて全体として経済は上向きに発展していく、という楽観的な見方が強くありました。スミスに代表される古典派経済学は、このような見方に支えられて、個々人が私的な利益を追求して合理的に行動すれば、神の「見えざる手」(スミス)の導きによって社会全体の最大の利益が調和的に達成される、と主張しました。

 しかし、19世紀の後半以降、恐慌や失業、貧困など、資本主義経済が抱える諸々の弊害が大きな問題として浮上してくるようになると、経済学の関心の焦点は、富の生産の場面よりも富の分配や消費の場面に移っていくことになります。資本家と労働者の対立という現実を直視し、はっきりと労働者階級の立場に立ちながら、古典派経済学の労働価値説を継承・発展させたマルクスにたいして、商品が消費される場面に視点を移して、その商品から得られる満足の度合い、すなわち消費者の認識こそがその商品の価値の大きさを決めるのだとという効用価値説も唱えられることになりました。ある財の価値の大きさを決めるのはその財の追加的1単位の効用だという限界効用理論は、個々人の合理的な行動という古典派経済学の前提を、消費者の認識が大きな役割を果たすようになってきたという新しい経済の現実に、なんとか対応させていこうという試みだといえました。限界効用理論は、あらゆる商品の需要と供給についての連立方程式を立て、それを解くことによってすべての商品の市場が同時に均衡する状態をあきらかにしようとする、一般均衡論とよばれる理論を生み出しました。しかし、個々人の自由で合理的な行動という前提を究極にまで徹底し、数学的に精緻にくみあげられた体系は、ダイナミックに発展していく現実の経済との生き生きとした連関を欠いてしまい、一般均衡論は発展のない静態的なモデルとなってしまったのでした。

 一般均衡論が古典派経済学の前提となる人間観のみを受けついで現実とのつながりを断ち切ってしまったのにたいして、古典派経済学の母国イギリスでその伝統を受けつぎつつ、理論と現実をなんとか対応させていこうとがんばったのが、マーシャルらのケンブリッジ学派でした。ケンブリッジ学派の学者たちは、イギリス資本主義の爛熟期からやや翳りが見えはじめるという時代状況のなかで、基本的にブルジョアジーの立場に立ちつつ、台頭してくる労働者階級の主張にも一定配慮しながら、政策提言にも深くかかわっていきました。しかし、この学派は、1930年代の大量失業問題にたいして、賃金が高止まりしているから労働にたいする需要が増えないのだ、という伝統的な発想を克服できずに挫折してしまいました。こうした状況のなかで、ケインズは、雇用量を決めるのは社会全体の有効需要(消費+投資)の大きさだ、と主張しました。ケインズは、投資の量は、その投資からの予想利潤率とその投資のための資金を調達するコストである利子率とのかねあいによって決まってくると考えました。前者が後者を上回るという期待がなければ、企業は投資を決断できません。予想利潤率が低下してしまうか利子率が高止まりしてしまえば、投資は低い水準にまで落ち込み、失業を生みだしてしまうと考えられるのです。ケインズは、有効需要が不足して失業が存在する場合は、政府が金融政策・財政政策を駆使して将来への期待を改善し、予想利潤率が利子率を上回るようにして投資を刺激することで完全雇用をめざせばよい、と主張したのでした。

 以上、本稿でたどってきた経済学の歴史を簡単に振り返ってみたわけですが、そもそも経済学の歴史を見る目的は、あくまでも、経済の現実を反映したまっとうな理論の体系を構築するために、過去の偉大な経済学者たちの経験に学ぶためでした。

 それでは、経済学の歴史をふまえることで、現代に生きる我々がまっとうな経済学の確立のために果たすべき課題として、いったいどういうことがみえてくるでしょうか?

 経済学の歴史を見る上での最大のポイントは、経済の歴史と経済学の歴史とのつながりです。単細胞体から人間にまでつながる生命体の進化の歴史があくまでも地球環境の変化・発展とのつながりにおいてあったように、経済学はたんに経済学だけで発展してきたわけではなく、あくまでも現実の経済との相互浸透関係のなかで発展してきたのです。現実の経済が突きつけてくる諸課題に真剣にとりくむところにこそ経済学の発展があったのであり、現実との連関を欠いたところでいくら精緻な体系をくみ上げたとしても、それは学問としては発展性を失ったものであるといわざるをえないのです。経済学の歴史における一般均衡論は、ちょうど「生命の歴史」における爬虫類のようなものだということができるでしょう。外界との相互浸透関係を断ち切ってしまうと、それ以上の発展性をもてなくなってしまうのです(詳しくは、本田克也ほか『看護のための「いのちの歴史」の物語』〔現代社白鳳選書〕で確認してください)。

 現在進行中の世界的な経済の危機は、経済学の歴史とのかかわりという観点からいえば、現実と乖離した理論にもとづいた経済政策がいかに大きな災厄をもたらすかということを如実に示しているものだといってもよいでしょう。

 経済学の歴史上、現実の経済問題への真剣なとりくみが理論の大きな発展をもたらした事例としては、なによりも、マルクスとケインズの経済学をあげなければなりません。

 マルクスは、資本家階級と労働者階級の対立という現実に労働者階級の立場から迫っていくという、経済学としてはやや偏った視点からではあるものの、自己増殖する価値としての資本なるものを措定することにより、経済全体の構造に筋をとおして把握するという点で、大きな成果をあげました。

 一方、ケインズも、失業問題の解決という限定された問題意識から、一国全体で集計された消費量・投資量・雇用量などの諸量の間には一定の法則的な関係があることをあきらかにするという現象論的な把握のレベルにとどまったとはいえ、不確実な将来をめぐる人間の認識の複雑な動きの問題を正面からとりあげ、資本主義経済が根本的に不安定であることを解明したのは、きわめて大きな功績であったといわなければなりません。

 このように、現在の経済的な危機のなかで、ケインズの復権が叫ばれ、マルクスの経済学が新たな注目を集めつつあるのは、決して理由のないことではないのです。

 しかし同時に、マルクスやケインズの経済学が未完成であることも忘れてはなりません。現在の世界経済、日本経済の状況は、たんに彼らの成果を学ぶことだけでなく、現実の経済に根ざした理論を一般均衡論に対抗しうるだけの体系性をもったものとして構築してくことを強く要求しているのです。経済学が世界中の人々の生活に極めて大きな影響をあたえる学問であることをしっかりと自覚して、この課題にとりくんでいくことこそが、現代に生きるわれわれの人類史にたいする責任だといえるでしょう。

(了)
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2017年12月20日

改訂版・初学者に説く経済学の歴史(4/5)

(4)経済学が資本主義経済の現実を大きく変えるだけの力を持ってきた

 前回は、19世紀の後半以降、恐慌や失業、貧困など、資本主義経済が抱える諸々の弊害が大きな問題として浮上してくるようになるなかで、経済学の関心の焦点が富の生産の場面よりも富の分配や消費の場面に移っていき、富の分配にかかわって労働価値説の新たな発展があった一方、富の消費の場面に着目することで効用価値説が唱えられるようになったことをみました。

 ある財の価値の大きさを決めるのはその財の追加的1単位の効用だという限界効用理論は、個々人の合理的な行動という古典派経済学の前提を、消費者の認識が大きな役割を果たすようになってきたという新しい経済の現実に、なんとか対応させていこうという試みだといえました。限界効用理論は、あらゆる商品の需要と供給についての連立方程式を立て、それを解くことによってすべての商品の市場が同時に均衡する状態をあきらかにしようとする、一般均衡論とよばれる理論を生み出しました。しかし、個々人の自由で合理的な行動という前提を究極にまで徹底し、数学的に精緻にくみあげられた体系は、ダイナミックに発展していく現実の経済との生き生きとした連関を欠いてしまいます。一般均衡論は発展のない静態的なモデルとなってしまったのでした。

 一般均衡論が古典派経済学の前提となる人間観のみを受けついで現実とのつながりを断ち切ってしまったのにたいして、古典派経済学の母国イギリスでその伝統を受けつぎ、理論と現実を対応させていこうとがんばったのが、マーシャルらのケンブリッジ学派です。

 では、このケンブリッジ学派はいかなる特徴をもっているのでしょうか?

 この学派もまた、価値論的には、効用価値説を受け入れます。ただし、労働価値説にとって代わるものとしてではなく、補完するものとして、です。マーシャルは、現在の教科書によくでてくる、供給曲線と需要曲線の図を描いたことで知られています。ある商品の市場について、縦軸に価格を、横軸に数量をとったときに、右上がりの供給曲線と右下がりの需要曲線が引け、その交点でその価格と取引数量が決定されるという、おなじみのあの図です。マーシャルは、商品の価格は、効用すなわち需要側の要因と生産費すなわち供給側の要因の相互作用で決まるものであり、どちらか一方だけを主張するのは一面的であるとしました。そのうえで、短期的には供給が固定されている(供給曲線が横軸にたいして垂直に近くなる)ので需要側の要因(主観的な効用)が大きく作用するが、長期的には操業度にくわえて機械設備そのものの量までも調整できるので一定の価格水準で供給量をある程度まで自由に増やすことできるようになり(供給曲線が水平に近くなり)、その価格水準と需要曲線との交点で数量が決定されることになる、すなわち供給側の要因(生産費あるいは費やされた労働量)が大きく作用すると考えたのです。また、マーシャルが、ワルラスのような物理学的な経済現象のとらえかたに反対し、生物学的な「有機的成長」というとらえかたを主張したことも重要です。これは、成長しつつあったり衰退しつつあったりする諸々の経済主体が複雑な相互依存関係にあり、こうした相互依存関係が全体として成長しまた衰退していくのだ、というとらえかたです。

 ケンブリッジ学派の学者たちは、イギリス資本主義の爛熟期からやや翳りが見えはじめるという時代状況のなかで、基本的にブルジョアジーの立場に立ちつつ、台頭してくる労働者階級の主張にも一定配慮しながら、政策提言にも深くかかわっていきました。マーシャルは新たな成長を達成することによって、その弟子のピグーは政策的な所得再分配によって、貧困問題の解決を模索したのです。しかし、この学派は、1930年代の大量失業問題にたいして、賃金が高止まりしているから労働にたいする需要が増えないのだ、という伝統的な発想を克服できず、挫折してしまうことになりました。

 しかし、このケンブリッジ学派のなかから、従来の経済学を根本からくつがえすような革新的な理論が生まれてきました。それがケインズ学派です。ケインズ(1883〜1946)の最大の問題意識は、失業はなぜ存在するのか、失業を解消するためにはどうすればよいのか、ということでした。

 それでは、ケインズは失業の問題をどうとらえ、どう解決しようとしたのでしょうか?

 ケインズは、まず、1930年代の世界大不況という経済の現実について、労働者は賃金が安いから働くことを拒否しているのではなくて、働きたくても企業が雇ってくれないからやむをえず失業しているのだということを認めたのです。こう書くと「なにをあたりまえのことを!」という感じかもしれませんが、ケインズ以前の経済学の常識では、雇用量は労働者側からの労働供給(賃金が高ければ増やし安ければ減らす)と企業側からの労働需要(賃金が安ければ増やし高ければ減らす)の関係で決まるわけですから、労働者は自発的に失業している、つまり、「もっと賃金を上げないと働かないぞ!」とワガママをいっている、という結論しか出てこなかったわけです。これに対して、ケインズは、雇用量を決めるのは社会全体の有効需要(消費+投資)の大きさだ、としました。直接的には、企業が投資を控えて生産を増やそうとしないから労働者は失業してしまうのだ、ということです。これは、端的にいえば「需要が供給をつくる」(売れるという見込みがあるからモノは生産されるのだ)ということであり、「供給が需要をつくる」(ともかくモノを生産すれば売れるはずだ)というセー法則の完全否定を意味します。これは、生産力の水準が上がり、恒常的に供給が需要を上回ってしまう状態がつくられたことの反映でもありました。

 では、なぜ企業は投資を控えてしまうのでしょうか? ケインズは、投資の量は、その投資からの予想利潤率とその投資のための資金を調達するコストである利子率とのかねあいによって決まってくると考えました。前者が後者を上回るという期待がなければ、企業は投資を決断できません。予想利潤率が低下してしまうか利子率が高止まりしてしまえば、投資は低い水準にまで落ち込み、失業を生みだしてしまうと考えられるのです。

 ケインズは、利子率が高止まりするのは、貨幣がたんなる価値尺度や交換手段ではなく、価値貯蔵手段であるからだと考えました。不確実な未来について悲観的な予想が強まると、貨幣所有者は価値を安全・確実なかたちで保存しておきたいと考え、貨幣をなかなか手放そうとしません。結果として、貸し出しにまわされる貨幣が借り入れ需要を満たすことができないために、利子率が高止まりすることになってしまう、というわけです。

 ケインズは、有効需要が不足して失業が存在する場合は、政府が金融政策・財政政策を駆使して将来への期待を改善し、投資を刺激することで完全雇用をめざすべきであるとして、政府の経済への介入を正当化したのでした。

 第二次世界大戦後、世界経済の中心はイギリスからアメリカへ移っていきます。ケインズの経済学は、アメリカの経済学者たちによって受け入れられることになりました。ただし、不確実な将来をめぐる人間の認識の複雑な動きを重視したケインズの理論の核心は継承されず、政府が公共投資を増やせばどれだけ雇用を増やす効果があるかといったことを示すようなものとして、単純にモデル化されてしまったのです。単純化されたケインズ・モデルは、金融政策と財政政策による景気対策といういわゆる「ケインズ政策」の理論的根拠となり、資本主義国各国政府の経済政策に大きな影響をあたえました。成長の成果を高賃金や社会保障のかたちで労働者階級に還元し、耐久消費財を消費させることで国内市場を拡大していく仕組みがつくられたことで、戦後の資本主義諸国における高成長が可能となっていったのです。

 しかし、1970年代、耐久消費財がだいたい普及し尽くして国内市場が飽和すると、高度成長は行き詰まってしまいました。また、貿易の拡大によって政府の財政支出による景気対策は効きにくくなり、財政赤字などの弊害ばかりが目立つようになるなかで、鉄道や郵便などの公営事業の非効率も浮き彫りになってきたのです。

 このことは、ワルラス流の一般均衡論的な発想、すなわち、市場の自由な競争に任せれば効率的な資源配分が達成されるという発想に立った諸々の主張を登場させることになりました。これらの主張は、いわゆる「ケインズ政策」が市場の調整機能を阻害してしまっていることこそ問題であると厳しく批判しました。これが、労働者への分配をおさえ、企業の負担軽減や企業活動への規制を取り払っていこうという大企業経営者たちの政治的な動きと結びついて、1980年代以降、世界中で企業活動についての規制緩和や公営事業の民営化が強力におしすすめられていくことになったのです。

 しかし、先ほどみたように、ワルラス流の一般均衡論は現実との連関を欠いたモデルであり、一般均衡論の想定する経済の姿は現実の経済の姿とはかけはなれています。理論と現実が食い違う場合、現実にそって理論のほうを構築しなおすのが学問の発展の本来あるべき姿です。ところが、1980年代以降の政治的な「ケインズ政策」批判は、理論と食い違う現実のほうに問題があるとして、現実との連関を欠いた抽象的な理論にしたがって現実の改革を要求したのです。学問としての経済学の歴史からみれば、これはまさに逆立ちした運動だったといわねばなりません。
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2017年12月19日

改訂版・初学者に説く経済学の歴史(3/5)

(3)資本主義経済の新しい現実への対応をめぐって経済学は諸学派に分裂した

 前回は、経済学らしい経済学は資本主義経済の成立とともに誕生したことを確認しました。その背景としては、商品交換のひろがりによって、労働力や土地といった生産のための根源的な要素までもが商品となり、さらには貨幣も商品化(利子を取ってのお金の貸し借りが盛んになる)するようになっていくことで、政治的な行為あるいは宗教的な行為とはハッキリと区別された独自の経済的な行為というものがあるという社会的認識が生成していったことがありました。このような経済の分離によって、人びとは全体として、それ以前の時代よりも格段に物質的に豊かな生活を享受できるようになっていったわけですが、こうした物質的な豊かさのもととなる富とは何であり、その源泉は何なのか、という問題を解明しようとしてはじまったのが、経済学とよばれる学問なのでした。

 さて、1860〜70年代になると、資本主義経済が抱える諸々の弊害が大きな問題として浮上してくるようになります。資本主義経済に特有な周期的な恐慌は、1825年にはイギリスを襲っただけでしたが、1836〜37年、1847年の際には、それが襲う範囲はしだいに広がっていき、ついに1857年には、イギリスをはじめ、ドイツやフランス、アメリカなど、資本主義経済を発展させつつあった主要な国々をまきこんだ世界的な規模での恐慌となりました。恐慌は失業者を生み、貧困をもたらします。こうした事態にたいして、労働者階級は独自の組織をつくってたたかいをすすめていくようになり、資本家と労働者の間の階級対立が激しくなってきました。資本主義経済のこのような新しい動向は、経済学の世界にどのような影響をあたえたのでしょうか?

 ひとことでいえば、関心の焦点が富の生産の場面よりも富の分配や消費の場面に移っていくことになります。富の分配にかかわって労働価値説の新たな発展があった一方、富の消費の場面に着目することで労働価値説に対抗する効用価値説が唱えられます。くわえて、景気循環の問題、成長(技術革新)の問題、市場メカニズムの機能の問題、政府の役割の問題などが、さまざまに論じられるようになっていったのです。これは同時に、経済学の世界が、立場の大きく異なる複数の学派に分裂してく過程でもありました。資本主義経済の新しい現実をどのような立場でとらえ理論を構築していくかという視点の違いをつうじて、立場の異なる複数の学派が生まれてきたのです。

 資本家と労働者の対立という現実を直視し、はっきりと労働者階級の立場に立ちながら、古典派経済学の労働価値説を継承・発展させたのがマルクスです。マルクスによる労働価値説の発展は、大きくは、貨幣の成立の根拠を解明したことと、剰余価値の謎を解明したことの2点にあるといえます。

 まず、貨幣成立の根拠の解明からみていきましょう。マルクスは、商品の価値の大きさはその商品をつくるのに費やされた労働の量によって決まるということを出発点に、商品交換関係の広がりと深まりのなかで、ある特定の商品がしだいに他の諸々の商品から分離して貨幣となっていく過程を歴史的かつ論理的に解明しました(価値形態論)。貨幣はもともとそれ自体価値をもった商品であるからこそ、たんなる価値尺度や交換手段ではなく、価値を保存するための手段にもなるのだということを示したのです。分かりやすくいえば、お金が何か他のモノを買うために使われないままに貯め込んでおかれることがあるのだ、ということです。これは、貨幣論のレベルからセー法則を否定する(お金があっても使われない=モノが売れ残る)ものであり、恐慌発生の根拠のひとつを示すものでした。

 では、剰余価値の謎の解明とは一体いかなることでしょうか? 剰余価値とは簡単にいえば資本家の儲けのことです。現実の生産過程をみれば、労働者が生みだした生産物の価値は、資本家が労働者に支払う賃金より大きく、この差額が剰余価値(資本家の儲け)となっています。マルクス以前の労働価値説は、労働者が行う労働に対して賃金が支払われていると考えたために、その労働によって生みだされた生産物の価値がなぜ賃金より大きいのか説明できませんでした。これにたいしてマルクスは、賃金は、労働者の労働ではなく、労働する能力に対して支払われているのだとしました。つまり、賃金は、労働者が他人の労働の成果を生活資料として受けとって自らを労働力商品としてつくっていくという側面にたいして支払われているのだとしたのです。労働者の労働力商品としての価値の大きさを決めるのは、この労働者が受け取って消費した生活資料の価値の大きさ、つまり、他人の労働によって生みだされた価値の大きさです。その価値よりも、その労働者自身の労働が生みだす価値のほうが大きいからこそ、剰余価値が生まれるのです。

 マルクスは、この剰余価値の獲得をめざして運動する価値、すなわち自己増殖をめざして運動する価値こそが資本にほかならないとしました。マルクスは、経済全体をこの資本の運動として、ようするに価値というひとつのものがさまざまに姿を変えながら運動しているという論理で、筋をとおして把握しようとしたのです。このような観点からマルクスは、新しい機械設備や技術の導入がすすむ一方で失業者が増えていくこと(相対的過剰人口論)、社会全体で生産される生産手段の価値の大きさと消費手段の価値の大きさとの間には一定のバランスが保たれなければならないこと(再生産論)、剰余価値が具体的には利潤、利子、地代という形態に分かれて分配されていくことなどを、次々とあきらかにしていったのです。

 こうしたマルクス的な労働価値説に対抗し、効用価値説を打ち立てたのが、メンガー(1840〜1921)やボェーム=バヴェルク(1851〜1914)らに代表されるオーストリア学派です。これは、ある商品の価値の大きさを決めるのは、そこに含まれている労働の量ではなく、その商品が個々人の欲望をどの程度満足させるのかという度合いである、という説です。彼らは、この満足の度合いのことを「効用」と呼びました。ここで重要なのは、ある財に対する効用の大きさは、その財の消費量が増えるにしたがって低下していくとされたことです。たとえば、1杯目のビールは最高に美味いと感じても、2杯目、3杯目……と飲みすすむうちに、その最後の1杯から得られる満足の度合いはだんだん小さくなっていくでしょう。一般的にいえば、財の消費量を1単位ずつ追加していくと、その追加的1単位の効用はしだいに小さくなっていくのです。この追加的1単位の効用のことを「限界効用」とよびます。彼らは、ある財の価値の大きさを決めるのは、この限界効用だと考えました。人間の生命の維持に不可欠な水がタダ同然なのは、それがきわめて豊富にあるために最後の1単位の水から得られる満足度が低くなっているからであり、人間の生命の維持に不可欠とはいえないダイヤモンドが高価なのは、それが希少であるために最後の1単位から得られる満足度が高いままだからだ、というわけです。このような考え方は限界効用理論とよばれています。フランスに生まれスイスのローザンヌ大学の教授になったワルラス(1834〜1910)によって創始されたローザンヌ学派は、この限界効用理論をさらに一歩すすめて、あらゆる商品の需要と供給についての連立方程式を立て、それを解くことによってすべての商品の市場が同時に均衡する状態をあきらかにする、一般均衡論とよばれる理論を打ち立てました。

 なぜ限界効用理論や一般均衡論のような説が唱えられたのでしょうか? まず、そこには、産業革命の進展によって生産水準が上がり、しだいに市場の供給が需要を上回ることが多くなってきたことが影響しています。モノをつくれば売れた時代から、いかに売るかということが問題になる時代、いいかえれば、消費者の認識が大きな問題として浮上してくるという時代の変化が反映しているのです。いくら多くの労働を費やして財を生産したとしても、それが誰にたいしても有用だと評価されないのであれば、そこに費やされた労働は無価値ですから、価値の大きさを決める上で人間の認識が無視できないのはあきらかです。この点で、限界効用論が、商品の価値の大きさを決める要因として人間の認識に着目したこと自体は評価されるべきです。しかし、マルクス主義にもとづいた社会主義運動に対する資本家階級の側からの対抗の必要性ということも反映してのことでしょうが、限界効用理論は「あれかこれか」式に、労働価値説を完全否定してしまったのでした。

 このような社会的な要因にくわえて、理論の形式という観点からすれば、個々人の合理的な行動という古典派経済学の前提を、新しい経済の現実に対応させる形で、なんとか継承しようとしたということもいえるでしょう。資本主義の生成期はまだしも、産業革命の進展によって、生産過程における労働者の資本家への従属がハッキリしてきた段階では、労働価値説を個々人の自由で合理的な行動という前提とむすびつけることは困難になってきます。そこで、経済学の出発点ともいえる価値論を生産の場面から消費の場面に移して展開することで、個々人の自由で合理的な行動という基本的な発想をまもろうとしたのだ、というわけです。この背景には、オーストリアやフランスがイギリスに追いつき追い越すべく急速な工業化をすすめていくなかで、社会全体の利益のために個人の自由が犠牲にされてしまうような風潮があったことにたいする反発があったことも見逃せません。ワルラスの一般均衡論とは、まさに、個人の自由な活動こそが社会全体の利益につながることを数学的に示した体系にほかならなかったのです。

 しかし、現実の人間の行動は、決して数学的に記述できるものではありません。個々人の自由で合理的な行動という前提を究極にまで徹底し、数学的に精緻にくみあげられた体系は、ダイナミックに発展していく現実の経済との生き生きとした連関を欠いてしまい、一般均衡論は発展のない静態的なモデルとなってしまったのです。

 このことについての反省にもとづいて、オーストリア学派の流れから登場したシュンペーターは、ワルラスの一般均衡論を高く評価しそれを前提としながらも、生産要素の新しい結合のあり方を試みる企業家と、その企業家に必要な資金を提供する銀行家の登場によって、経済発展が動態的にすすんでいくのだという論を構築しようとしました。しかし、一般均衡論をそのまま前提としてしまっている以上、静態的な市場に対して、企業家の行動を外部からの攪乱要因として対置するという機械的な2分法にとどまってしまっているといわざるをえません。
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2017年12月18日

改訂版・初学者に説く経済学の歴史(2/5)

(2)経済学は資本主義の成立過程とともに成立した

 本稿は、諸々の経済問題にたいして適切な対策を行っていくためには、現実の経済がもつ構造を把握した科学的な経済理論を確立しておく必要があるという問題意識から、経済学の歴史を論理的にたどってみることを目的としたものです。

 そもそも経済学とはいつはじまったのでしょうか? 通常「経済学の祖」とされるアダム・スミス(1723-1790)が『国富論』を出版したのは18世紀の後半、1776年のことでした。このことからも予想されるように、実は、経済学は比較的に新しい学問なのです。

 経済とは、現象的にいえば、人間が自分たちの生活に必要なもの(生活資料)を労働によって生産し、それを分配・交換して消費する活動のことです。もちろん、こうした活動は、人類が誕生したときからずっと存在していました。しかし、いわゆる資本主義経済の成立までは、こうした活動は社会のなかに埋め込まれていたようなもので、社会の他の領域からはっきり分離した独自の領域を占めることはなかったのです。たとえば、いわゆる中世封建制の社会においては、領主や教会によって土地の安全を保障された農民たちが、(神によって定められた生活のあり方として納得させられて)土地を耕して農産物などを生産し、その一部を領主や教会に年貢として納めるという形で、生活資料の生産・分配が行われていたのでした。このように、資本主義経済が成立する前には、経済的な行為というものが、政治的な行為あるいは宗教的な行為と直接に同一のものとしてしか存在しえなかったのです。したがって、古代ギリシャのころから、経済的な事象について論じた思想家や学者は存在していたのですが、他の学問から独立した形での体系的な経済学は存在しえませんでした。

 経済が社会の他の領域からはっきりと分離していくのは、資本主義経済の成立とともに、です。商品交換がひろがり、労働力や土地といった生産のための根源的な要素までもが商品となり、さらには貨幣も商品化(利子を取ってのお金の貸し借りが盛んになる)するようになっていくことで、政治的な行為あるいは宗教的な行為とはハッキリと区別された独自の経済的な行為というものがあるという社会的認識が生成していったわけです。

 このような経済の分離によって、人びとは全体として、それ以前の時代よりも格段に物質的に豊かな生活を享受できるようになっていきました。その豊かさをめぐる諸問題について解明しようとしてはじまった学問が経済学なのだといってもよいでしょう。経済学がまず問題にしたのは、物質的な豊かさのもととなる富とは何であり、その源泉は何なのか、という問題だったのです。

 もちろん、経済学らしい経済学がいきなり誕生したわけではありません。豊かさにまつわる諸々の問題を論じるなかで、しだいに経済学らしい経済学がつくられていくのです。そのような経済学が成立する前夜の経済思想として、重商主義と重農主義があります。

 重商主義は、16世紀の絶対主義国家成立期から18〜19世紀の産業革命期まで、ヨーロッパ諸国の経済政策のもとになった思想です。これは、端的にいえば、富とは金銀のことだとして、他国との貿易で黒字を稼いで金銀を蓄積して、富国強兵を図ろうという考えです。他国との貿易こそが豊かさの源泉であると認識されたわけです。

 しかし、重商主義は輸出のための奢侈品産業ばかりを優遇し、国民生活の基礎となる農業を軽視し、農村の疲弊を招いてしましました。このことに反発し、農業こそ富を生み出す唯一の産業であり、土地(=自然)こそ富の源泉である、と主張したのが、フランス革命前夜の重農主義です。代表的論者であるフランソワ・ケネー(1694-1774。もともとは外科医でした)は、農業で生み出された富が、借地農・地主・商工業者の3階級の間でどのように分配され、一国内の経済循環(富の生産・再生産)がどのように成立するかということを、「経済表」という図式によって簡潔かつ明快にあらわしました。富の源泉を農業のみにもとめたという限界はあるものの、国家という枠組みを正面に据えて、人々の生活がきちんと再生産されていくために必要な条件を客観的な法則性としてあきらかにしようとしたのは、非常に優れた問題意識であったといってよいでしょう。

 では、経済学らしい経済学はどのような過程において成立したのでしょうか?

 この過程にも現実の経済のあり方の変化が反映しています。18世紀から19世紀にかけて、諸々の機械の発明や普及で工業が大きく発展していくと、農業こそ富を生み出す唯一の産業だ、という認識では現実の経済とのズレが大きくなっていったのです。そういう現実の経済のあり方の変化を反映して、農業労働にくわえて工業労働も、すなわち労働一般こそが富の源泉である、という認識に到達したのが、スミスやリカード(1772-1823)などに代表されるイギリスの古典派経済学でした。

 彼らは、諸々の商品が相互に交換されている過程に着目し、その交換比率としての諸商品の価格は何によって決まるのかを考察していきました。そして、絶えず変動している価格の背後にあってそれを支えているものとして価値を想定し、労働こそがその商品の価値の大きさを決定しているのだとして、労働価値説を唱えたのです。

 このように、古典派経済学が労働に着目したことは、経済学の確立過程において決定的な意義がありました。それは、この労働こそが、人間とそれ以外の生物の生活過程のあり方における最大の違いだからです。そもそも生命の歴史(地球上に単細胞体として誕生した生命体が人類にまで進化する過程)をふまえていえば、人類は、それまでの生命体のように環境の変化に受動的に適応していく存在ではなくて、労働によって環境を意識的に変革していく存在として誕生しました。少し難しくいえば、労働という過程を内に含んだことによってこそ、地球と生命体との相互浸透の過程――相互浸透とは、つながり合っているものがお互いに相手の性質を受け取るという関係にあり、この関係を深める形で発展が進んでいくことです――としての生命の歴史は、人類の歴史へと転化しえたといえるのです。古典派経済学は、このような人類史の根源ともいうべき労働を、富の源泉として明確に位置づけた上で、現実の経済の構造を解こうとしていったわけです。

 ところで、当時の現実の経済において、諸々の商品を生み出す労働は、資本家が労働者を雇って働かせるという形態によって行われるようになりつつありました。ようするに、この古典派経済学によってはじめて、資本家が労働者を雇って生産するという関係――これを「資本主義的な生産関係」とよびます――が本格的な考察の対象になったといえるのです。

 このように、富の源泉として労働に着目した点、さらにその具体的なあり方としての資本主義的な生産関係をはじめて本格的な考察の対象にした点において、経済学らしい経済学は、古典派経済学の成立をもって誕生したということができるのです。

 さて、この古典派経済学の特徴をもう少しだけ詳しくみておきましょう。

 古典派経済学は、重商主義にもとづく政府の経済への介入を批判し、市場の自由な競争に任せることを主張しました。当時は、さまざまな部門で多くの小さな企業が自由な競争をおこなっており、この競争をつうじて全体として経済は上向きに発展していく、という楽観的な見方が強くあったのです。このような見方に支えられて、古典派経済学は、個々人が私的な利益を追求して合理的に行動すれば、神の「見えざる手」(スミス)の導きによって社会全体の最大の利益が調和的に達成される、としたわけです。

 競争が重視されたのには、当時の生産水準がまだまだ低かったことも反映しています。全体としてみれば、市場の供給は需要を下回ることが多かった(みんなが欲しいと思うだけのモノを供給しきれなかった)ので、生産されたものは価格が適切に上下しさえすれば、だいたい売りつくすことができたのです。供給されたモノはすべて需要される、いいかえれば、供給が需要をつくりだす――このような考え方を、提唱した経済学者の名前(ジャン=バティスト・セー)をとって「セー法則」とよんでいます。

 セー法則は、貨幣というものの捉え方にも影響を与えました。理論的には、供給されたものはすべて売りつくされるはずだと考えられたので、貨幣がモノを買うために使用されずに貯め込んでしまわれることがある、という事実についてはほとんど重視されなかったのです。ようするに、貨幣は価値の大きさを測り、交換するための手段であるとのみ、捉えられてしまったのだというわけです。
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2017年12月17日

改訂版・初学者に説く経済学の歴史(1/5)

目次

(1)経済学の歴史を学ぶことにはどのような意味があるのだろうか
(2)経済学は資本主義の成立過程とともに成立した
(3)資本主義経済の新しい現実への対応をめぐって経済学は諸学派に分裂した
(4)経済学が資本主義経済の現実を大きく変えるだけの力を持ってきた
(5)経済学の歴史を見る上での最大のポイントは経済の歴史と経済学の歴史とのつながりである

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)経済学の歴史を学ぶことにはどのような意味があるのだろうか

 2007年のサブプライムローン問題、2008年のリーマン・ショックをきっかけにして、世界経済はたいへんな危機に陥ることになりました。その後、各国の政府や中央銀行による必死の対策によって若干持ち直したようではありましたが、ギリシャ危機をきっかけに各国の財政危機の問題が大きな注目を集めて、世界経済は再び失速することになりました。その後、財政政策としては、財政危機への対応として緊縮政策(増税や財政支出の削減)がとられたり、あるいは景気対策の観点から積極的な財政出動が行われたりする一方で、金融政策としてはほぼ一貫して思い切った緩和政策(中央銀行が国債をはじめとする様々な債権を市場から買い取って大量の資金を供給する政策)が行われ続けてきたことによって、世界経済は弱々しいながらも何とか回復の傾向にあったというのが、ここ数年の状況だといってよいでしょう。日本においても、2013年以降のいわゆる「アベノミクス」によって、景気は弱々しいながらも回復傾向にあるとされていますが、これが政府の財政出動や日本銀行の「異次元緩和」に支えられたものであることはいうまでもないでしょう。現在の世界経済、日本経済は、政府が大量の国債を発行して財政出動を行い、中央銀行が大量の国債を買い取って資金を市場に供給する、という構造によって何とか支えられているわけですが、こうした状況がいつまでも続けられるわけでもないでしょう。危機への対応として行われてきた政策が、より大きな危機の原因を創り出している、ということなのかもしれないのです。

 世界経済は、日本経済は、これからどうなっていくのでしょうか? 危機を根本的に打開していくためには、いったいどのような対策が必要なのでしょうか?

 こうした問題に解答を与えることが期待される学問が経済学です。ところが、経済学者とされる人たちによってなされる対策の提案は、必ずしも一致しているわけではありません。たとえば、日本のデフレ(継続的に物価が下がる現象)ひとつとってみても、どのような原因で生じたもので、どのような対策をとるべきなのかをめぐって、大きな論争が行なわれてきたのでした。具体的にいえば、デフレは貨幣的な現象であるから日本銀行が思い切って貨幣供給量を増やせば解決するはずだ、という主張と、貨幣の流通量は経済活動がどれだけ活発に行われているかによって決まるのだから日本銀行が直接に増やそうと思って増やせるものではない、という主張とが対立してきたわけです。

 いったいなぜ、このような基本的な問題で意見が対立してしまうのでしょうか?

 それは、端的にいえば、学問の名に値するまっとうな経済学の体系がいまだに確立されておらず、経済についての基本的な見方・考え方が異なる、いくつもの流派が分立している状態であるからだと思われます。

 これは非常に困ったことです。たとえば、もし、医学において根本的に考えの異なる流派があったとして、それぞれの立場に立つ2人の医師が、ある患者のある病気の原因にたいして、まったくちがう原因を主張し、まったく正反対の治療法を提案したらどうでしょうか? 医療現場は混乱し、とてもまともな治療は期待できませんね。現在の経済学の世界は、ちょうどそのような状況なのだといってもよいでしょう。

 病気にたいする適切な治療を安定的に行っていくためには、現実の人間の病気についての科学的な理論を確立しておくことがもとめられます。これとまったく同じように、諸々の経済問題にたいして適切な対策を行っていくためには、現実の経済がもつ構造を把握した科学的な経済理論を確立しておく必要があるのです。

 では、科学的な経済理論を確立していくとは、いったいどういうことなのでしょうか?

 そもそも科学とは、現実の対象がもっている体系的な構造について把握した体系的な認識のことです。したがって、科学的な経済理論を確立するとは、歴史的・体系的に発展してきた現実の経済を対象にして、その構造についてのイメージを自らのアタマのなかにしっかりと描けるようにしていく、ということです。
 これをまともにやり遂げていくうえで必須となる作業の一つが、過去の経済学者たちが現実の経済の構造をどのように把握しようと試みたのか、その経験から学ぶ、ということです。いいかえれば、経済学の歴史をさかのぼって、その歩みを論理的にたどってみる、ということです。

 経済学の歴史を論理的にたどるとは、なによりもまず、それぞれの流派が、どういう視点(問いかけ)をもって現実の経済のどういう部分に着目して成立したのか、その根拠をあきらかにすることにほかなりません。いくら異なる流派でも、現実の経済を研究の対象としているという点では、変わりはないはずです。流派が異なるのは、現実の経済を見る上での視点がそれぞれに異なっているからであり、その結果として、現実の経済のさまざまに異なる部分がもつ、それぞれに特殊な性質に着目してそれぞれの「理論」を組み立ててしまったからだ、ということができるでしょう。

 つまり、異なる主張を掲げて相互に対立している諸流派も、すべてそれぞれなりに真理を捉えているのだ、ということができるわけです。しかし、その真理には必ず多かれ少なかれなんらかの誤謬がつきまとっています。経済学の歴史を論理的にたどるとは、それぞれの学派がそれぞれの視点から達成した成果をより一段高い視点から評価し、行き過ぎたところを削り不足している部分を補いつつ、ひとつの新しい体系のなかに取り込んでいくことにほかならないのです。

 本稿では、以上のような観点に立って、経済学の歴史の大きな流れをたどってみることにします。つまり、経済学とよばれる学問が、社会のどのような問題にたいしてどのように取り組んできたのかをたどってみるわけですが、いうまでもなく、社会というものは歴史的に発展してきたものです。その時代時代で、社会のどのような問題が解決すべき経済問題として取り上げられたのか、それらの問題についてどのような解決が模索されたのか、ということをたどっていくことによってこそ、経済とは何か、経済学とは何か、という本質的な問題についての大きな手がかりとなるに違いありません。
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2017年11月02日

〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う(5/5)

(5)新自由主義における「自由」とは大企業の国家的規制からの自由放任である

 本稿は、1980年代以降、世界中を席巻してきた「新自由主義」と呼ばれるような経済政策が、人々の生活を破壊し、社会を荒廃させてきたことが、各国において政治的な大きな変動を引き起こしているという把握にもとづき、新自由主義が主張する「自由」の概念の形成過程を検討することを通じて、そもそも自由とは人類の歴史においてどのような意味をもつものなのか、考察していこうとするものでした。ここで、これまでの流れを振り返っておきましょう。

 まず「新」自由主義に対する「旧」自由主義ともいうべき、古典的自由主義が誕生してきた過程を明らかにしました。古典的自由主義が誕生する以前の中世の社会は、政治的支配者である荘園領主が土地と農民をセットにして直接的に支配していました。しかし、生産力の向上から余剰生産物の交換が活発になるなかで貨幣が誕生し、この貨幣によって政治的な枠組みに縛られない形での人間どうしのつながり、人間とモノとのつながりが生まれ、中世封建制の固定的な身分秩序の崩壊、自由の拡大が押し進められることになったということでした。つまり、そもそも古典的自由主義における自由とは、中世封建制の硬直した身分秩序の否定としての自由を意味していたのです。したがって、この時代においては、自由と平等(社会的公正)は直接の関係にありました。古典的自由は、封建的な硬直した体制では不可能であったダイナミックな発展を可能にするというプラス面と、人々の生活を著しく不安定なものにしてしまうというマイナス面との両面をもっていました。当初はプラス面によって、マイナス面が覆い隠されていたものの、無数の小企業が競い合う段階から、少数の大企業が市場の独占的な支配をめぐって争い合うような段階に近づいていくにつれて、古典的自由の不安定性の面がしだいに明らかになっていくことになったのでした。

 古典的自由の不安定性は、国内的には度重なる恐慌という形で、国際的には植民地獲得競争という形で現れてきました。最も大きな問題となったのは、恐慌時における労働者の大量失業です。こうした時代の課題に立ち向かったのがケインズです。ケインズは、利潤追求の自由に対して一定の制限を加えて社会的公正・社会的安定を保つという「新しい自由主義」の立場に立ち、「有効需要の原理」を提唱して、政府が経済に対して介入することの正当性を理論的にあきらかにしたのでした。財政出動や金融緩和などを計画的に行うことにより、人類が自らの力で経済をコントロールしていくことが可能なのだと主張したのでした。戦後の資本主義各国は、こうしたケインズ主義的な思想にもとづく政策を取り入れました。資本家側がこうした“階級的妥協”に応じた背景としては、冷戦時代において、共産主義陣営に対して資本主義陣営として対抗していくためには一定の譲歩が必要であったことと、そうした妥協を取り返してあまりある見返りが期待できたからです。実際、ケインズ主義敵体制の下、資本主義諸国は高度経済成長を成し遂げることとなりました。

 しかし、この高度経済成長もやがて行き詰まりを見せることになります。そもそも高度経済成長は、国民経済の内部に耐久消費財を中心とした消費と投資の好循環が創られることを条件として成立するものでした。したがって、耐久消費財が普及し、国内市場が飽和してしまうと、高度成長の持続は困難になってしまったのです。これはインフレの昂進という形で現象してきました。成長が行き詰まると、賃金コストの伸びを生産性の向上で吸収することができず、物価の上昇を引き起こすようになったのでした。また、完全雇用状態に近づくと、財政出動や金融緩和を行っても、新たな生産には用いられず、使い道のないお金がだぶつくだけという状態になったのでした。ここにオイルショックが加わったことで、先進諸国はマイナス成長と2桁のインフレという深刻な経済危機に陥りました。こうした問題を解決に導くことのできなかったケインズ主義的政策に対する批判として、経済学の世界でマネタリズムやサプライサイド経済学といった「反ケインズ革命」の潮流が生まれるとともに、そこに“階級的妥協”を破棄しようとする資本家側の意図が絡み合って、政府による経済介入を排して市場における自由な競争を復活させれば新たな経済成長が可能になるとの思想が形成されていくことになったのでした。これが新自由主義の思想です。新自由主義の思想は、社会的公正の実現や社会的安定の確保を目指した国家権力による経済・社会への介入を、個人の自由を侵害するものと位置づけて両者を敵対的な関係にあるものとして描き出し、個人の自由こそ至上のものにほかならないとすることで、自立、自助、自己責任といった考え方を浮上させていきました。

 このように、新自由主義における自由とは、国家的な規制を廃して、大企業が自由に活動できるようにするという意味での自由でしかありません。いわば大企業の自由放任なのです。経済は人間の力ではコントロールできないものであり、むしろ恣意的な介入が正常な動きを歪めてしまうと主張するものであり、そこには人類が歴史的に突きつけられた自由と社会的公正や社会的安定との両立をいかにして図るかという問題意識を事実上、放棄してしまったものなのです。グローバリゼーションの動きに並行して新自由主義が拡大することで、地球的な規模で大きな経済格差が生じ、社会への不平・不満が高まっているのが、現代世界の状況であるといえるでしょう。


 端的には、新自由主義における自由についての考え方は、非常に浅薄なものであり、人類の未来を保障するものではないといわなければなりません。それでは、そもそも自由とはどのようなものとして捉えられるべきなのでしょうか? 自由とは何かという問題を考える上では、ヘーゲルの歴史観や自由についての考え方を欠かすことはできません。そこで、ヘーゲルがどのように説いているのかをみてみることにしましょう。

「精神の本性は、精神と正反対のもの〔物質〕との比較によって認識される。物質の実態が重力であるとすれば、精神の実態、本質は自由であるといわなければならない。ところで、精神がもついろいろの属性の一つとして自由もあるといえば、誰にも異議はあるまい。しかし、哲学は進んで、精神の一切の属性が自由によってのみあり、すべては自由のための手段にすぎず、すべてはただこの自由を求め、これを招来するものであるということを、われわれに教える。」(ヘーゲル『歴史哲学』岩波書店、1971年、p.76)

「世界史とは、精神が本来もっているものの知識を精神自身で獲得して行く過程の叙述である」(同上書、p.77)

「世界史とは自由の意識の進歩を意味するのであって、――この進歩をその必然性において認識するのが、われわれの任務なのである。」(同上書、p.76)


 このように、ヘーゲルは世界史を精神の運動・変化・発展の過程として捉え、究極的には精神自身の本質である自由へと歩んでいく過程なのだと主張しています。

 では、ヘーゲルのいう自由とはどのような意味なのでしょうか? この点について、エンゲルスは唯物論の立場に立って、次のように解説しています。

「彼〔ヘーゲル――引用者〕にとっては、自由とは必然性の洞察である。……自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによって、これらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある」(エンゲルス『反デューリング論1』国民文庫、p.175)


 つまり、ヘーゲルのいう自由とは、対象のもつ法則性を認識し、それによって対象を自由自在にコントロールできることを意味するのだということです。対象によって人類が支配されている状態から、人類が対象を支配する状態へと移行してこそ、自由が達成されたというのです。

 このように見てくると、新自由主義の説く自由は、ヘーゲルのいう自由とは全く中身が異なることがあきらかでしょう。確かに支配されている状態からの解放という意味では共通であるものの、何に支配されている状態から解放されることを目指しているのかという点が大きく異なるのです。ヘーゲルが、対象がもつ目に見えない法則性による束縛からの解放を目指しているのに対して、新自由主義は、国家的規制という目に見える束縛からの解放を目指しているに過ぎません。その国家的規制によって束縛することこそが、対象による束縛から逃れるための手段なのだという弁証法的な発想がないのです。そもそも人間の力では経済という対象をコントロールすることができないのだという考え方を根底にもつのですから、当然といえば当然だといえるでしょう。このような新自由主義を押し進めたところで、人類のよりよい未来を切り拓くことにはなりません。

 本稿の冒頭でも確認した通り、1980年代以降、世界中を席巻してきた新自由主義的政策が、人々の生活を破壊し、社会を荒廃させてきたことが、世界各国で大きな政治的変動を引き起こしつつあります。端的には、いわゆる新自由主義の時代が限界にぶち当たって、終わりを迎えつつあるともいえるのですが、新しい時代を牽引していく経済的な理論・思想・政策は、まだ明確な形では現われていないといわなければなりません。ヘーゲルの主張する真の自由へと人類が歩んでいくためには、対象の法則性を体系的に把握した学問が求められます。こうした学問の構築とその社会化は、現代の人類にとっての大きな課題だといえるでしょう。その歴史的役割を担うのが我々京都弁証法認識論研究会なのだという気概をもって今後の研鑽を行っていくことを表明し、本稿を終えることにします。

(了)
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2017年11月01日

〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う(4/5)

(4)自由主義の歴史B――新自由主義(Neo Liberalism)への転換

 前回は、古典的自由主義から新しい自由主義への転換の過程をたどりました。中世封建制の硬直した身分制度の否定という形から出発した自由(古典的自由主義における自由)は、生産手段と労働力のダイナミックな運動を可能とし大いなる発展をもたらしたと同時に、利潤を追求しようとする資本家の意志によってのみ生産手段と労働力が媒介されるという不安定性をもたらすこととなりました。このマイナスの側面が表面化し、大量失業が大きく社会問題となるなかで、ケインズは「新しい自由主義」の立場を表明し、社会的公正のために利潤追求の自由に一定の制限を加えることを主張しました。さらに「有効需要の原理」を提唱し、政府による経済介入を理論的に正当化したのでした。こうしたケインズ主義的体制にもとづいて、戦後の資本主義諸国は高度経済成長を成し遂げたのです。

 しかし、ケインズ主義的体制による高度経済成長は、大きくいえば、国民経済の内部に耐久消費財を中心とした消費と投資の好循環が創られることを条件としてのみ成立するものでした。したがって、耐久消費財が普及し、国内市場が飽和してしまうと、高度成長の持続は困難になってしまうことになります。

 高度経済成長を支えていた構造の終焉は、高率のインフレが持続するという形で現象してくることになりました。このインフレの要因としては、ミクロ的な要因(個々の企業に着目したレベル)とマクロ的な要因(国民経済全体を視野に入れたレベル)とを指摘することができます。

 ミクロ的な要因とは、生産性の伸びが行き詰まってしまったことです。高度経済成長気においては、賃金の伸びを生産性の向上で吸収する(=商品価格に転嫁しない)ことが可能でした。しかし、成長が行き詰まり、生産性の伸びが鈍化してくると、賃金コストの上昇を生産性の伸びで吸収することができなくなり、商品価格の上昇につながるようになっていったのです。

 マクロ的な要因とは、高度経済成長期を通じて、完全雇用状態に近づいたことで、財政出動や金融緩和の副作用が大きくなっていったことです。国内に失業者や未利用の生産手段が大量に存在するような状況で財政出動や金融緩和が行われれば、それをきっかけに、未利用の生産要素を使っての新たな生産活動が行われるようになり、景気はしだいに拡大にむかっていきます。しかし、完全雇用状態に近ければ、たとえ財政出動や金融緩和が行われたとしても、生産の拡大につながらず、使い道のないお金が大量に市場にだぶつくだけという結果に終わります。ここから、高率のインフレが持続するという事態が生じてくるのです。

 各国内部において消費と投資の好循環を前提に成立していた高度成長が行き詰まってしまったことは、国際経済のあり方にも大きな影響を与えることになりました。1960年代半ば以降、基軸通貨国であったアメリカでインフレが昂進していったことは、国際市場でのドル評価が過大であるという状況をつくりだしました。こうしたなかで、日本や欧州諸国の国内市場が飽和してしまったことは、これら諸国の資本の目をそれまで以上に国外市場へと向かわせることになりました。伸びなくなってしまった需要をめぐって、日米欧の大資本がグローバルな市場で激しく争い合うという状況が形成されていくことになったのです。ここで国際市場においてドルが過大評価されていたことは、アメリカからの輸出に不利に働くものであり、アメリカの貿易収支を著しく悪化させてしまうことになりました。アメリカが膨大な貿易赤字に陥った結果、大量のドルが国際市場に流出することになったのです。

 このような過程で、国際市場に実物需要につながらない大量のドルが存在する状態がつくられていきました。それまで高度成長の原動力となっていたドル散布策が、ドル不安を引き起こしかねないものへと転化したのです。その結果、1971年にニクソンショック(金ドル交換停止)が引き起こされ(これは直接には、日本や欧州各国の通貨価値を対ドルで切り上げることで、アメリカ製造業の国際競争力を高めようとするものでした)、1970年代半ばにはIMF体制(金と交換可能なドルを基軸通貨とする固定相場制)が崩壊して変動相場制へ移行することになります。さらに、1973年の中東戦争をきっかけに生じたオイルショックが、生産コストの高騰を通じて、各国のインフレにますます拍車をかけていくことになりました。

 1974、75年の先進国経済は、マイナス成長と2桁のインフレという深刻なスタグフレーションに陥りました。各国政府は、失業問題を重視した景気拡大策(金融緩和+財政出動)をとったものの、失業率が十分に下がる前にインフレがいっそう加速してしまうという事態に直面しました。

 こうした状況を受けて、完全雇用の実現を目指して政府の経済介入を正当化してきたケインズ理論への批判が高まっていくことになりました。ケインズ理論への批判の先駆けとなったのが、いわゆるマネタリストの主張です。マネタリストは、単純な貨幣数量説(貨幣供給量×貨幣の流通速度=物価×取引量)を前提に、インフレは純粋に貨幣的な現象であると捉え、政府や中央銀行が完全雇用を目指して貨幣供給量を過度に増大させてしまったことがインフレを招いたのだとしました。市場は自動調整機能を持っているのだから、政府や中央銀行は裁量的(恣意的)に介入するべきではなく、厳格に定められたルールに則って一定のペースで貨幣供給量を伸ばしていくことだけに専念すればよい、というのがマネタリストの主張でした。

 また、需要側の要因を重視してきたケインズ経済学に対して、供給側の要因を重視するサプライサイド経済学と呼ばれる潮流も登場してきました。これは、供給側の構造を改革することによって新たな経済成長を実現することが可能であると主張するものです。より具体的には、労働者や弱小産業を保護するための諸々の規制によって市場が雁字搦めになってしまっているために、労働力や生産手段や資金が停滞分野に閉じ込められて成長分野にスムーズに流れていかない、このことが経済全体の停滞をもたらしているのだから、規制緩和を徹底してすすめて市場原理がまともに機能するようにすれば経済は復活するはずだ、というのです。

 経済学のこうした新しい潮流の根底には、政府の介入によって経済を適切にコントロールできるというケインズ的な発想への反発、市場経済は裁量的な政策でコントロールできるものではなく、政府による裁量的な介入は市場の自動調節機能を攪乱するだけであるという経済観があったといえます。市場における自由な競争に任せれば効率的な資源配分が達成されるはずなのに、いわゆるケインズ政策や諸々の規制の存在が市場の自動調整機能を阻害してしまっているというのです。

 経済学の分野で生じてきたこのような「反ケインズ革命」とでもいうべき流れが、成長の限界にぶち当たってしまったことから“階級的妥協”を破棄しようとしていた大企業経営者達の政治的な動き(具体的には、労働者への分配を押さえ、企業の負担軽減や企業活動への規制を取り払っていくことを要求する動き)と結びついていくことで、政府による経済介入を排して市場における自由な競争を復活させれば新たな経済成長が可能になるとの思想が形成されていくことになりました。これこそが新自由主義の思想にほかなりません。新自由主義の思想は、社会的公正の実現や社会的安定の確保を目指した国家権力による経済・社会への介入を、個人の自由を侵害するものと位置づけて両者を敵対的な関係にあるものとして描き出し、個人の自由こそ至上のものにほかならないとすることで、自立、自助、自己責任といった考え方を浮上させていきました。このことが、経済のみならず、社会のあらゆる領域に影響を与えていくことになったのです。

 こうした新自由主義の思想に基づいて、1980年代以降、世界の多くの資本主義国において、労働組合への攻撃、規制緩和、公営事業の民営化、社会保障の削減などといった一連の改革が進められていくことになりました。

 こうした新自由主義的な政策は、いわゆるグローバリゼーションの動きと一体のものとして進行していきました。各国の内需が低迷するようになった中で、自由貿易の徹底的な推進、資本輸出の全面的な自由化などによってグローバルな市場を創出し、大企業が世界を舞台に自由に利潤追求ができるようにしていこうということです。こうした状況のなかで、各国の大企業が、激化する国際競争に打ち勝つために負担と感じられるものを徹底的に削ることを要求したことが、新自由主義的政策の大きな推進力となっていきました。

 同時に、グローバルな規模で金融市場が肥大化していったことも見逃せません。金融市場の国際化・規制緩和の進展によって、高率のインフレを引き起こすほどに過剰化してしまった貨幣を、投機的に運用していくための場が形成されていったのです。変動相場制への移行によって、為替変動リスクを回避するための諸々の金融商品が開発されるようになり、これが投機的に売買されるようになっていくことで、金融市場が一気に肥大化しました。こうして、実物経済では需要が伸びないにもかかわらず、労働分配率の引き下げによって資本家側が確保した儲けが金融市場での投機にまわることで、デフレとバブルが併存するという構造がつくられたのです。これは自由を体現するものとしての貨幣が、社会的公正や社会的安定への配慮からなされていた諸々の規制を断ち切って、グローバルなレベルで傍若無人に暴れ回るようになったことを意味するといってよいでしょう。
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2017年10月31日

〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う(3/5)

(3)自由主義の歴史A――新しい自由主義(New Liberalism)への発展

 前回は、「新」自由主義に対比される「旧」自由主義、すなわち古典的自由主義について、いかなる過程で成立してきたのか、古典的自由主義における自由とは何かという点について明らかにしてきました。

 そもそも古典的自由主義における自由とは、中世封建制の硬直した身分秩序の否定としての自由を意味していました。これは封建的な硬直した体制では不可能であったダイナミックな発展を可能にするというプラス面と、人々の生活を著しく不安定なものにしてしまうというマイナス面との両面をもっていました。当初はプラス面によって、マイナス面が覆い隠されていたものの、無数の小企業が競い合う段階から、少数の大企業が市場の独占的な支配をめぐって争い合うような段階に近づいていくにつれて、古典的自由の不安定性の面がしだいに明らかになっていくことになったのでした。

 古典的自由の不安定性の側面は大きく国内的な矛盾と国際的な矛盾という2つの形で現れることとなりました。国内的な矛盾としては、労働者階級の所得が減少することによって恐慌が繰り返し発生し、大量の失業者が生じるようになった点が挙げられます。常に剰余価値を追求する資本家は、生産性の向上を図り、その手段として、機械の改良を行うとともに労働者に長時間労働を強いたり、賃金を安く抑えたり、解雇したりしたのです。こうした資本家の私的な利潤追求の動きを国家的に制限する仕組みは当時はほとんど存在しませんでした。これにより、一方で生産性が向上し供給が増大するのに対して、それを消費する大衆の所得が減少し、需要が減少するという矛盾が誕生したのです。これが恐慌という形で必然化することとなりました。このことは、国際的な矛盾につながりました。生産性の向上を追求する資本家は、できるだけ安価な資源供給地を追い求めると同時に、国内において失われた商品の販売先を獲得するために、積極的に植民地獲得に乗り出すこととなったのです。これが国家間の対立を生み、やがて世界規模の大戦争を引き起こすまでに至りました。

 こうした矛盾の連鎖の中でも、決定的に重要な環となったものは、恐慌に伴って生じる大量失業でした。そもそも資本制経済は、生きていくためには自らの労働力を販売するしかない労働者を大量に創出することによって成立したのですから、その労働者たちに雇用の場を与えることができないということは、その体制の歴史的正当性を根本から揺るがす事態にほかならなかったのです。

 ハンガリー出身の経済学者で「経済人類学」の創始者として知られるカール・ポランニーは、20世紀に入って資本制経済が直面させられた深刻な危機について、自然(生産手段)と人間(労働力)という根源的な生産要素を商品化し、さらに貨幣までも商品化してしまったことの弊害が顕在化したものと捉えました。彼は、自己調整市場という「悪魔のひき臼」から社会を防衛するための反作用として、@共産主義、Aファシズム(全体主義)、Bニューディールという3つの形態が生まれたと考えました。

 このうち、Bの理論的基礎を提供することになったのが、ジョン・メイナード・ケインズでした。ケインズは、企業の規模が拡大していくにつれ、資金調達のための金融市場が拡大したこと、とりわけ株式会社形態の普及によって株式などを売買する証券市場が大きく発展してきたことに着目しました。経済活動が、長期的な視野に立った着実な企業的活動というよりも、短期的な思惑で大きな儲けを挙げようという投機的な動機によって左右されてしまう構造がつくられてきていることに着目したのです。ケインズはまた、第一次世界大戦の結果、世界最大の金保有国となったアメリカの金不胎化政策(金の保有量が増大しても、それに見合った貨幣供給量の増大をしないという政策)によって、国際金本位制の自動調節機能が失われてしまったことにも着目しました。

 こうした時代認識の下に、ケインズは、「経済的な無政府状態から、社会的公正と社会的安定を実現すべく、経済諸力を制御し指導することを慎重に目指すような体制へ移行」(中央公論社『世界の名著69 ケインズ・ハロッド』p.170)することを目標として掲げる「新しい自由主義(New Liberalizm)」の立場を唱えました(これは本稿の主題である「新自由主義(Neo Liberalizm)」とは異なります)。ケインズはこのように述べています。

「自由放任の論拠とされてきた形而上学ないしは一般的原理は、これをことごとく一掃してしまおうではないか。……干渉は、『一般的に不要で』、かつ、『一般に有害』であるとする想定は、これを捨てなければならない。今日の経済学者たちに課せられている主要な問題は、おそらく、政府のなすべきことと、政府のなすべからざることとを改めて区別し直すことであろう。」(ケインズ「自由放任の終焉」同上書所収、pp.152-153)

「経済的無政府状態から、社会的正義と社会的安定のために経済力を統制、指導することを慎重にめざす体制に向かっての移行には、技術的にも政治的にもはかりしれない困難を伴うことであろう。それにもかかわらず、新自由主義 New Liberalismの真の使命は、その困難の解決にたち向かうことにあるのだ、と私は言いたい。」(ケインズ「私は自由党員か」同上書所収、p.170)


 このようにケインズは、利潤追求の自由を放任してしまうことは社会的公正や社会的安定を脅かしてしまうことになりかねないという認識の下、利潤追求の自由そのものは認めながらも、それを放任してしまうのではなく、社会的公正・社会的安定を重視する観点から適切にコントロールを加えていく必要があることを主張したのです。

 ケインズは、自由についての考え方のこのような転換の上に立って、金本位制から管理通貨制度に移行することを主張しました。利潤追求の自由を何よりも体現してきた貨幣の運動について、政策的にコントロールしていく必要性を唱えたのです。これは、貨幣が人間を支配する状態から、人間が貨幣を支配する状態への転換を目指したものだといえるでしょう。

 さらに、ケインズは、1930年代の大量失業問題に正面から取り組むことで、雇用量は有効需要、すなわち、消費需要と投資需要で決まるという「有効需要の原理」を打ち立てました。この原理にもとづいて、資本家の予想利潤が低下して投資需要が落ち込んでしまうことこそが失業の発生原因にほかならない、という結論が導き出されたのです。これは、失業の原因を労働者の行動にではなく(古典派経済学では、労働者が自発的に失業しているのだと考えられていました)、資本家(企業)の行動に求めるという視点の一大転換をなしとげるものでした。ケインズは、有効需要が不足して失業が存在する場合には、政府が金融政策・財政政策を駆使して人々の将来への見通しを改善し、投資を刺激することで完全雇用を目指すべきであると主張したのです。こうして、政府の経済への介入が理論的に正当化されるようになったのでした。

 第二次世界大戦後、世界の資本主義諸国は、共産主義世界と対峙して資本主義体制を擁護しなければならないという条件の下に、アメリカを盟主にして結束しました。これら資本主義諸国は、20世紀前半に顕在化した国際的な矛盾(国家間の対立の激化)、国内的な矛盾(階級対立の激化)を政府による経済介入によって緩和することを試みるようになりました。

 図式的に整理するならば、第二次世界大戦直後の資本主義諸国は、戦争による打撃が少なかったアメリカと、戦争によって大きな打撃を受けたその他の国々に二分されていました。アメリカ以外の国々は、復興のためにアメリカから諸々のものを買わなければならないにもかかわらず、アメリカに支払うドルを持たないという矛盾(ドル不足)に苦しんでいました。一方のアメリカは、戦時需要に応じるために生産能力を肥大化させたものの、それに見合った需要が国内には存在しないという矛盾に苦しんでいました。アメリカにおける過剰生産能力と、その他の資本主義諸国における復興需要とは、ブレトンウッズ体制の確立によって媒介されることとなりました。GATT体制(西側同盟諸国間の自由貿易)およびIMF体制(金と交換可能なドルを基軸通貨とする固定相場制)を軸とした枠組みのなかで、アメリカから他の資本主義国に向けて復興援助として大量のドルが散布されたのです。

 このような国際的経済関係が確立されたもとで、各国民経済の枠内においては、社会的公正や社会的安定を重視する観点から、資本家による利潤追求の自由に一定の制限が加えられていくようになりました。具体的には、労働者の権利擁護、各種の規制の強化、社会保障制度の充実、金融緩和・財政出動といった政府の経済介入の容認、公営事業の拡大など、いわゆるケインズ主義的な政策が採用されたのです。

 資本家側がこうした”階級的妥協”に応じた要因としては、冷戦構造からの圧力があったといえるでしょう。共産主義陣営に対して資本主義体制を擁護するためには、一定の譲歩が不可避だったのです。それとともに、労働者への譲歩によってこそ高度経済成長が実現して、自らも成長の果実(譲歩を補ってあまりある見返り)を手にすることが期待できたことも挙げられます。このような消極的および積極的な理由から、“階級的妥協”が成立したのです。

 実際、ケインズ主義的な政策が採用された結果、日本や欧州諸国においては、アメリカによる復興援助(ドルの散布)とあいまって、大戦による荒廃状態からの復興を機転として、内需主導型の高度経済成長が実現されていったのです。その推進力となったのは、労働者の所得を保障すること(賃金の上昇や社会保障による所得再分配)によって、耐久消費財(家電製品・自動車)を中心とした消費と投資の好循環が実現されたことでした。一方、アメリカは、国内でのケインズ政策の採用に加えて、ドル散布による輸出促進によって、戦時に増大した生産能力を活用しての高度成長を成し遂げていくこととなったのです。

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2017年10月30日

〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う(2/5)

(2)自由主義の歴史@――古典的自由主義(Classical Liberalism)の生成

 本稿は、1980年代以降、世界中を席巻してきた「新自由主義」と呼ばれるような経済政策が、人々の生活を破壊し、社会を荒廃させてきたことが、各国において政治的な大きな変動を引き起こしているという把握にもとづき、新自由主義が主張する「自由」の概念の形成過程を検討することを通じて、そもそも自由とは人類の歴史においてどのような意味をもつものなのか、考察していこうとするものです。

 ところで、「新」自由主義というからには、それに対応する「旧」自由主義があったはずです。これは、資本主義経済の生成発展を踏まえ、18世紀の市民革命を通じて成立した思想であり、古典的自由主義(Classical Liberalism)と呼ばれています。それでは、この「旧」自由主義(=古典的自由主義)はそもそもどのようなものであったのでしょうか? それを知るためには、まずは、古典的自由主義が生まれる以前の中世社会がどのような社会だったのか、簡単にでも確認しておかなければなりません。

 中世社会は、簡単にいえば、荘園を基礎的な単位として、領主が労働力としての農民を土地に縛り付けて支配し、戦乱からの安全を保障する代わりに生産物を貢納させるという社会体制でした。防衛的な経済組織の強固な枠組みのなかで、基本的に商業に頼ることなく自給自足的に欲求の充足をなしていこうというのが、中世封建制的な生産のあり方の原点でした(一種の軍事的な組織のなかで、欲求そのものが抑制されざるをえなかったことも重要です)。衣服や家具などの生産は基本的に農家の副業として営まれていたため、工業が独立した産業として存在することはなく、村落には農具をつくる鍛冶屋が存在する程度でした。もちろん、塩や鉄などは荘園の外部から調達するほかなく、これらを運んでくる遍歴商人をつうじて外部との交通関係が存在していたことはたしかです。しかし、こうした外部との交通は、あくまでも自給自足的な生活を部分的に補完する程度にとどまっていました。こうした秩序を正当化するイデオロギーを提供していたのが、ローマ教皇を頂点としたカトリック教会です。封建的な身分制度は神の意志の表現であるとみなされ、中世封建制社会の人々は、神によって定められた生き方の一環として、日々の労働に励んでいたのでした。

 しかし、生産力が徐々に向上して余剰生産物が産み出されるようになると、手工業に専念する人々が生まれてきます(農業からの手工業の分離)。さらに、余剰生産物を売り歩く商人も誕生します。固定的な枠組みにのっとって自分たちが消費するためではなく、他人と自由に交換するために生産するというあり方が生まれてきたわけです。このような、封建制の硬直性の否定としての自由を体現したのが貨幣でした。貨幣は、交換を円滑に進めるために、それぞれの商品の価値を抽象化して示す存在として誕生したのでしたものですから、この貨幣自身がいかなる形にも変化できるという意味で自由な存在だといえます。この貨幣の誕生によって、中世封建制社会の束縛は大きく崩されていくことになります。

 そもそも社会的な存在としての人間は、活動を相互に交換することによって相互に作り合う存在です。中世封建制社会においては、政治的な支配の枠組み(厳格な身分制秩序の枠組み)が、直接に諸々のモノ(生活資料)の運動を規定する枠組みでした。たとえば、領主が農民を政治的に支配するという枠組みにより、余剰生産物が年貢として農民から領主へと移行していたのでした。ところが、貨幣を介した交換では、交換されるモノどうしが等価であるかどうかだけが問題となります。人間どうし(売り手と買い手)はその限りでは対等なのであって、政治的な支配秩序の枠組みは必要としないのです。つまり、貨幣を介したモノの交換によってはじめて、硬直した封建的支配秩序(政治的な支配関係にしたがって諸々のモノが運動する)とは異なる人間どうしのつながり方(自由な意志で活動を相互に交換し、相互に作り合うあり方)がありうることが示されるようになったのです。やがて、領主と農民の関係も、地代の金納化などを通じて、純粋に経済的な関係へと変化していきました。このことは直接に、生産者と消費者との直接的な結びつきが断たれてしまい、貨幣によって媒介されるしかなくなってしまったことを意味します。商品は不特定の誰かのために生産されるモノであって、その商品が実際に消費されるかどうかは事前には知りようがなく、市場にもっていって売れるかどうかによって事後的に判断するほかなくなってしまったのです。

 このようにして形成されてきた商品生産社会の大枠のなかで、やがて土地・労働力といった基本的な生産要素までもが商品化していくことになりました。農業経営に行き詰まった農家が農地を売り払ってしまうことにより、自分の労働力を売って(誰か他人に雇ってもらって)生活の糧を得るしかない賃金労働者層が産み出されていくようになったのです。これにより、生産手段と労働力との分離が進み、両者は貨幣によってのみ媒介されるようになったのです。このように貨幣の役割が決定的に大きくなっていくにつれて、やがて貨幣そのものが商品化されるようにもなりました。銀行業の発展により、利子を取って貸し付けられるものになったのです(金融市場の形成)。

 以上のように、各地方に無数に存在していた労働者と生産手段の小規模なセットが解体された上で、一方に生産手段が集積されていき、他方に生産手段を欠いた労働者が取り残されていったのです。その結果、大規模な生産手段を所有した資本家が、生産手段をもたない労働者を雇って生産するという構造が、国家的な広がりのなかで創られていくことになりました。このように中世封建制の固定性を否定し、自由が拡大していく流れを媒介したのが貨幣だったのです。

 こうした自由の拡大は、やがて個々の人間の自由を自覚させることになり、私的所有の自由や職業選択の自由といった経済的な自由、さらには思想・信条の自由などの精神的な自由も主張されるようになりました。市民革命を通じて、こうした自由が全面的に制度化されたことで、古典的自由主義が成立することになったのです。

 近代社会では、生産手段と労働力との関係が中世封建制のように固定的なものではなくなり、簡単に結びつけたり切り離したりすることができるようになりました。このことによって、近代社会は柔軟性を獲得し、生産力の著しい発展、巨大な富の蓄積を成し遂げていくことになります。一方で、生産手段と労働力とを結びつけるものは、生産手段の所有者である資本家側の意志(貨幣によって体現されている価値の増大を追求しようとする資本家の意志)のみに依存してしまうようになりました。このことによって、労働者の地位は著しく不安定化してしまうことになったのでした。このように、古典的な意味での自由はもともと、封建的な硬直した体制では不可能であったダイナミックな発展を可能にするというプラス面と、人々の生活を著しく不安定なものにしてしまうというマイナス面との両面をもっていたのです。

 しかし、古典的自由がもたらした後者(不安定性)の側面は、当初、前者(成長の実現)の輝かしい成果の背後に覆い隠されていました。国家権力による恣意的な経済介入(輸出産業のみを過度に優遇してきた重商主義政策)を廃して、個々の経済主体が自由に行動するようになれば、自ずと社会全体の利益(国民の富の増大)につながっていく、と考えられたのです。古典的自由主義においては、自由という理念と、平等(あるいは社会的公正)といった理念は、決して現在のような敵対的な関係にあるものとして捉えられていませんでした。そもそも自由というのが、封建的な束縛からの解放、封建的な特権の否定であったのですから、それが直接に平等の実現でもあったわけです。

 こうした自由を押し進め、封建的束縛を突き崩していく力となった貨幣は、もっぱら市場における自由な交換をスムーズに実現していくための手段としてのみ把握されていました。つまり、貨幣は商品の価値の大きさを測り、交換する手段としてのみ捉えられたのであり、不確実な将来に備えて価値を貯蔵しておくための手段としての側面(つまり、スムーズな商品交換の障害となってしまう側面)をもっていることは、ほとんど無視されることになったのです。

 貨幣によって各国の内部に形成された「自然的自由の制度」(アダム・スミス)は、国際的には金本位制によって支えられるものだと考えられていました。古典的自由主義の時代においては、貨幣というのは金銀にほかなりません(紙幣も兌換紙幣です)。金山・銀山を所有しない国においては、貨幣材料となる金銀は、対外貿易を通じて入手するしかありませんでした。国内の貨幣価値は、このようにして入手した金銀量によって大きく左右されます。古典的自由主義に先だつ重商主義の時代には、金銀こそが富そのものであると見なされたために、各国政府は対外貿易によってできるかぎり大量の金銀を獲得しようと、市場への恣意的な介入を行っていました。その結果、国内における金銀の価値が不安定になり、大きな経済的混乱が引き起こされる、といった事態も生じていたのでした。これに対して、古典的自由主義の経済学的表現といってもよい古典派経済学は、自由貿易を実現することによってこそ、すなわち、政府による市場への恣意的な介入を排することによってこそ、金銀の価値が安定的に推移するのだと主張しました。国際的な金本位制のもとで、各国政府が市場への恣意的介入を排するならば、一国への金の流入があった場合、それによって中央銀行の金準備が増えて信用が緩むために国内経済が刺激されて物価が上昇し、このことが輸出減少と輸入増加を引き起こすためにやがて金の一方的流入は止まる、という形で自動調整機能が働くと考えられたのです。このように、自由を体現する貨幣そのものを名実ともに自由にさせることによってこそ、「自然的自由の制度」(貨幣を媒介とする自由な商品交換)の基礎がしっかりと守られるのだと考えられるようになっていったわけです。

 しかし、資本の集中・集積によって企業の規模が大きくなっていくにつれて、個々の資本家の行為が社会全体に与える影響は拡大していくことになっていきます。無数の小企業が競い合う段階から、少数の大企業が市場の独占的な支配をめぐって争い合うような段階に近づいていくにつれて、古典的自由の不安定性の面がしだいにあきらかになっていくことになったのです。
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2017年10月29日

〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う(1/5)

目次

(1)新自由主義における「自由」とはどういうものか
(2)自由主義の歴史@――古典的自由主義(Classical Liberalism)の生成
(3)自由主義の歴史A――新しい自由主義(New Liberalism)への発展
(4)自由主義の歴史B――新自由主義(Neo Liberalism)への転換
(5)新自由主義における「自由」とは大企業の国家的規制からの自由放任である

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(1)新自由主義における「自由」とはどういうものか

 昨年(2016年)は、世界中で、これまでの常識を覆すような衝撃的な出来事が相次いだ1年でした。昨年11月8日に行われたアメリカ大統領選挙では、移民排斥を煽るような人種差別的な発言、女性蔑視的な発言を繰り返して物議をかもしてきた共和党のドナルド・トランプ候補が、女性初のアメリカ大統領を目指した民主党のヒラリー・クリントン候補に勝利しました。また、本選挙に先立つ民主党の予備選挙においても、大本命候補とされたクリントン候補に対して、「民主的社会主義者」を自称するバーニー・サンダース候補が、学費ローンの重い負担に苦しむ若者たちの熱狂的な支持を受けて、あと1歩というところにまで迫るような大健闘をしました。アメリカ大統領選挙のこうした展開については、格差と貧困が広がるなかで、エスタブリッシュメント(既得権益層)に対する民衆の不満が表れたものだと報じられることになりました。

 昨年6月23日にイギリスで行われたEU離脱の是非を問う国民投票において、離脱支持が多数(残留48%、離脱52%)となったことも、世界に大きな衝撃を与えました。離脱反対が勝利するだろうというメディアの事前の予想を覆して、離脱支持が多数となったからです。この結果については、大量の移民が流入して低賃金で働いていることによってイギリス人の雇用が奪われているという労働者層の不満が背景にあった、と解説されることになりました。この投票結果を受けて保守党のキャメロン首相は辞任、政界からも引退を表明し、同じく保守党のテリーザ・メイが首相に就任することになりました。

 そのメイ首相は、今年4月、離脱交渉に向け政権基盤を強化することを狙って、2020年までは実施しないと公言していた総選挙を前倒しして実施することを表明しました。当初は労働党に20%以上の支持率の差をつけていた保守党が圧勝するものと見られていましたが、高齢者の介護費用を本人が死亡した後の自宅売却でまかなう福祉改革案が究極の緊縮政策だとして国民の不興を買ったことで保守党の支持率は急落してしまいます。6月8日に投票が行われた総選挙では、社会主義者であることを公言するジェレミー・コービン党首のもと、鉄道の再国営化や大学教育無償化への回帰、国民医療サービス(NHS)の民営化の撤回など、断固とした反緊縮政策を掲げた労働党が大きく躍進し、保守党は第1党の地位は維持したものの、過半数割れするという惨敗を喫してしまいました。

 こうした一連の動きは、いわゆる「グローバル資本主義」が、中間層を没落させ、貧困と格差を拡大させてきたことへの民衆の反発の現われとして捉えられることになったわけですが、もう少し突っ込んでみれば、1980年代以降、世界中を席巻してきた「新自由主義」と呼ばれるような経済政策が、人々の生活を破壊し、社会を荒廃させてきたことが、このような一連の動きを引き起こしたのだといえます。端的には、いわゆる新自由主義の時代が限界にぶち当たって、終わりを迎えつつあるのではないか、ということです。

 それでは、そもそも新自由主義とはどういったものだったのでしょうか?

 一般に「○○主義」とは、「○○が大事だ」という考え方のことだといえます。だとすれば、新自由主義とは、簡単には「自由が大事だ」という考え方のことだということができるでしょう。ただし、その主張するところをよくみてみれば、どんな人の自由であっても全て同じように大事だと主張しているわけではないらしいことが分かってきます。では、誰の自由が大事だと主張しているのかといえば、結局のところ、企業、それもとりわけ巨大な多国籍企業の自由が何よりも大事だと主張していることがあきらかになってくるのです。ようするに、「企業が自由に活動することによってこそ、人々の幸福や社会の繁栄が実現できる」というのが、新自由主義の基本的な考え方なのだということができるのです。

 このようにいうと、「1980年代よりも前の時代は、企業は自由ではなかったの?」という疑問が浮かんでくるでしょう。その通りです。ごくごく大雑把にいえば、第二次世界大戦後から1970年代の頃までの時代は、企業は政府から「△△はするな!」「□□をやれ!」など、いろいろな注文をつけられて、自由な活動を制約される場面が少なくなかったのです。ところが、1980年代以降、新自由主義的な考え方にもとづいて、企業の活動を自由にしていくための、さまざまな改革が進められていくことになっていったのでした。新自由主義的な政策を進めた政権としては、イギリスのサッチャー政権やアメリカのレーガン政権が有名です。日本で新自由主義的な改革が本格化するのは、これらの国から少し遅れて2000年代に入ってから、小泉政権の進めた「構造改革」においてです。

 それでは、新自由主義的な改革のなかでは、具体的にどのようなことが行われてきたのでしょうか?

 新自由主義的な経済政策は、大きくいえば次の3つの柱から成り立っているといえます。

 第一の柱は、規制の緩和・撤廃による企業活動の自由の拡大です。企業には活動する上でのさまざまなルールが定められています。例えば、「労働者を働かせ過ぎてはいけない」「有害な物質をたれ流してはいけない」などのルールのことです。「こういう規制があるから、商品をつくるためのコストがかさんでしまうのだ。こいう規制をなくして、低コストで生産できるようにしよう!」というのが規制緩和です。規制緩和の対象となるルールは大きく3つあります。1つ目は、労働時間や賃金など、労働者保護のための規制です。例えば日本では、小泉政権のもとで、製造業への派遣労働が認められることになりました。それ以前は、派遣労働者は専門職にしか送り込めないことになっていたのですが、一般職である製造業でも派遣労働者を採用できるようになったわけです。これは、企業から見れば非常に都合のよいものでしたが、労働者から見れば雇用を著しく不安定なものにするものにほかなりませんでした。規制緩和の対象となるルールの2つ目は、弱小の産業・企業を保護するための規制です。例えば、日本では、農家を守るために農産物の輸入制限を行ったり、個人商店を守るために大規模小売店舗法という法律によって大型スーパーが商店街の近隣に進出できないようにしたりしてきました。しかし、このような保護の結果、商品の価格が下がらず、労働者の生活費が高くなってしまうと、企業は労働者にたいしてそれなりに高い賃金を払わざるをえなくなります。これが企業活動にとっての制約になるから、弱小産業・企業を保護するための規制はなくしてしまおう、というわけです。規制緩和の対象となるルールの3つ目は、国民の安全のための規制です。例えば、食に関していえば、危険な添加物は使用してはならないとか、賞味期限や原材料を明示しなければならないというルールがあります。しかし、こういったルールがあると、外国の企業は日本に入って来にくくなりますし、日本の企業としてもさまざまなコストがかさんで製品が割高になってしまいますから、こうした規制はなくしてしまおう、というわけです。

 さて、新自由主義的な経済政策の第二の柱は、企業の活動領域を広げ、儲けを獲得する機会を増やすための改革です。とくに日本では、民間企業の進出を拡大する目的で、特殊法人改革や行政改革が行われてきました。例えば、小泉政権の時代には、郵政民営化や住宅金融公庫の廃止が決定されました。

 新自由主義的な経済政策の第三の柱は、企業に課せられている税金や社会保険料の負担を軽減するための改革です。これは、さらに2つにわけることができます。ひとつは財政支出の削減です。政府は、福祉や教育、公共事業などにお金を出しているわけですが、これを減らしてしまえば、企業が負担しなければならない税金も減っていくことが期待されるわけです。もうひとつは、税制改革です。これは、企業が負担する税金を直接的に減らすように、税金の集め方を変えることです。具体的には、法人税の税率を引き下げたり、さまざまな優遇措置を設けたりすることです。

 以上を踏まえるならば、新自由主義的な経済政策とは、企業が自由に活動することを促すための政策だということができます。より具体的には、企業が自由に活動する上での障害となっているさまざまな規制を緩和し、民営化によって儲けの機会を拡大し、税負担を軽減していこうとするものです。このようにして可能になった企業の自由な利潤追求活動によってこそ、国家的なレベルで経済が活性化していき、ひいては人々の生活もより豊かなものになっていくはずだ、というのが新自由主義の考え方にほかならないのです。
 このような新自由主義が主張する「自由」とは、いったいどのような歴史的経過で形成されてきた概念なのでしょうか? また、そもそも自由とは人類の歴史においてどのような意味をもつものなのでしょうか? 本稿では、これらの問題について考察していくことにします。

 そのために、まずは新自由主義に対応する「旧」自由主義とも呼ぶべき古典的自由主義がどのようにして形成されてきたのかをあきらかにします。続いて、古典的自由主義の行き詰まりから、ケインズが新しい自由主義(New Liberalism)を唱えるようになった過程を見ていきます。最後に、新しい自由主義の行き詰まりから、新自由主義(Neo Liveralism)が登場してきた過程をあきらかにします。
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2017年09月01日

ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む(5/5)

(5)ヒュームは政治と経済を一体に、国家社会の維持発展という観点で論じている

 本稿は、経済学が独立した学問として確立される直前の時期に、現代的な感覚からすれば経済問題として分類されるような諸々のテーマ(貨幣、利子、貿易差額、租税、公債など)を、あくまでも政治の問題として、換言すれば、国家社会の維持発展に関わる問題として論じたヒューム『政治論集』を読んでいくことを通じて、ヒュームの経済思想が、現代経済学の混迷を打開していく上でどのようなヒントを与えてくれるものなのか、探っていくことを目的としたものでした。取り上げたのは、『政治論集』のなかの7つの論説、すなわち、「商業について」「奢侈について」「貨幣について」「利子について」「貿易差額について」「租税について」「公信用について」でした。

 ここで、これまで説いてきた流れを簡単に振り返っておくことにしましょう。

 「商業について」は、国民の幸福と国家の強大さの両立という問題を、社会的総労働の適切な配分――農業、基本的な手工業、奢侈品の生産・流通業、および軍隊――による生産力の発展という観点から論じたものでした。この論説では、生産力の発展を牽引する社会的認識のあり方――物質的・精神的により豊かな生活を送りたいという人間の諸欲求――に焦点が当てられるとともに、格差と貧困の拡大を放置することが国家を弱体化させることも指摘されていました。また、「奢侈について」は、奢侈あるいは機械的技術における洗練がもつ意義について、単に経済的な領域にとどまらず、国民精神のあり方全体を視野に入れて論じたものでした。この論説では、勤労と機械的技術における洗練が学問・芸術の発展と相互浸透的に進行していくものであること、さらにこうした過程のなかで人間が社会的交際を通じて、人間性を高めていくことも強調されていました。

 「貨幣について」「利子について」「貿易差額について」という3つの論説は、貨幣は財貨を交換するための手段にすぎず、貨幣の動きは結局のところ、勤労の生みだす財貨の動きに規定されるのだ、という考え方(古典派経済学的な貨幣数量説)に基づいて、貨幣=金銀こそ富であり、貿易黒字によって金銀を蓄積することが国家を富裕にするのだという重商主義的な俗見を批判したものでした。しかしながら、ヒュームは、貨幣量の漸次的な増大が(すなわち貨幣量が次第に増加していく過程においては)生産活動を刺激する効果をもつことも認めていましたし、自国民と手工業の保持を目標として貿易制限を行うことは国家社会の維持発展に資するものとして肯定してもいたのでした。

 「租税について」は、重商主義者たちが租税に関して掲げていた「全ての新しい租税は国民のうちにそれを支払う新しい能力を創り出し、公共の負担の各々の増加は、国民の勤労に比例して増加する」という命題の妥当性を検討したものでした。ヒュームは、勤労(産業活動)を重視する自身の立場からこの命題を批判し、あまりに重い税負担は、過度の窮乏と同じく、絶望感を生み出すことによって勤労を破壊してしまう、と指摘したのでした。ヒュームが最も望ましいとしていたのは奢侈品への課税であり、ロックや重農主義者が主張していた土地単一課税論に対しては、全ての者が税負担を他者に押しつけたがっているのに、ただ地主だけが他者に税負担を押しつける能力を欠いているなどとは考えがたい、という論法で批判していました。ここには、明示されてはいないものの、勤労一般(農業労働だけでなく!)こそが価値の源泉である、という発想が暗黙のうちに前提されている、と考えることもできるのでした。また、「公信用について」では、公債は国内流通を盛んにし産業活動を促進する効果をもつ、という重商主義者たちの主張が批判的に検討されていました。ヒュームは、公債には重商主義者が主張するような社会的利益をもたらす側面があることについて全面的には否定しないものの、社会的不利益の方が比較にならないくらいに大きい、という主張を展開していました。ヒュームは、公債の膨張は持続不可能であり、最悪の場合は国家の破滅をもたらしかねないとして、強い警告を発したのでした。

 以上でみてきたように、『政治論集』においては、現代的な感覚からすれば経済問題として分類されるような諸々のテーマ(貨幣、利子、貿易差額、租税、公債など)が、あくまでも政治の問題として、換言するならば、国家社会の維持発展に関わる問題として、論じられているのでした。

 ヒュームが政治と経済を一体のものとして論じているのは、本稿の連載第1回に確認した通り、直接的には、経済学の未確立という当時の学問的な状況を示すものであり、根本的にいうならば、経済の政治からの未分化という社会の歴史的な発展段階の反映であるといえます。しかしながら、そこには、現代経済学の混迷を打開するための重要なヒントが含まれているともいえます。

 現代経済学の混迷とは、本稿の連載第1回で確認した通り、効率的な資源配分の場としての市場を社会の他の部分から実体的に切り離して究明しようとした結果、経済の「個々の動き」ばかりに気をとられてしまい「大きな絵」「全体」を見失ってしまう、というものでした。確かに、現代の経済学は、対象となる経済の動きを細かく分けて捉えていくことで、それぞれの部分については精緻な理論を組み立ててきたということができます。しかし、その代償として、経済全体の大きな動きをまともに捉えられなくなってしまっているわけです。

 これに対して、ヒュームの議論は、細部について精緻な理論を展開したものだとはいえませんが、あくまでも国家社会の維持発展という広い視野から、経済的な諸問題を大づかみに捉らえているわけで、ここに現代の経済学にはない大きな長所があるということができます。

 こうしたヒュームの議論において決定的に重要なのは、国家社会の中身は国民の勤労(産業活動)にほかならない、という視点をもっていたことでしょう。貨幣は財貨を交換するための手段でしかない、という貨幣数量説的な見解も、このような視点に基づいたものにほかなりません。このことに加えて、物質的・精神的により豊かな生活を送りたいという人間の諸欲求こそが、国民の勤労(産業活動)のあり方を規定し、生産力の発展を牽引していくのだ、という視点を明瞭に把持していたことも、特筆されるべきことでしょう。このようなヒュームの視点は、我々京都弁証法認識論研究会が仮説的に掲げている経済本質論――経済とは、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けるべく、有限な社会的総労働を適切に配分していくことであり、そのことと直接に国家の維持発展を図っていくことである――への接近を感じさせるものとなっていると評価することができます。

 ヒュームの『政治論集』は、国家社会における政治と経済をきちんと分けた上で、両者の密接の関連を論じた、というようなものではありません。ヒュームの議論にあっては、政治と経済が未分化であり、両者が渾然一体のまま論じられています。見方によっては、政治と経済をしっかりと分けて捉えるような議論と比べると、未熟でレベルの低いものといわなければならないかもしれません。しかし、渾然一体となって論じているからこそ、全体の姿をそれなりに見事に捉えきっているということが長所だということができますし、そもそも渾然一体として論じるということは、物事をきちんと分けて捉えていけるようになるために必要な段階であったともいうことができます。

 決定的に大切なのは、国家社会の全体像――「大きな絵」を描こうという問いかけをもって、個々の政治=経済問題について考察を深めていこうとするヒュームの姿勢にしっかりと学ぶことです。このようなヒュームの姿勢を継承していくことこそが、現代経済学の混迷を打開するために求めらているといえるでしょう。

(了)
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2017年08月31日

ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む(4/5)

(4)『政治論集』を読むB――ヒュームの租税論・公信用論

 前回は、ヒューム『政治論集』のなかの3つの論説、すなわち「貨幣について」「利子について」「貿易差額について」を読みました。これらの論説は、貨幣は財貨を交換するための手段にすぎず、貨幣の動きは結局のところ、勤労の生みだす財貨の動きに規定されるのだ、という考え方(古典派経済学的な貨幣数量説)に基づいて、貨幣=金銀こそ富であり、貿易黒字によって金銀を蓄積することが国家を富裕にするのだという重商主義的な俗見を批判したものでした。しかしながら、ヒュームは、貨幣量の漸次的な増大が(すなわち貨幣量が次第に増加していく過程においては)生産活動を刺激する効果をもつことも認めていましたし、自国民と手工業の保持を目標として貿易制限を行うことは国家社会の維持発展に資するものとして肯定してもいたのでした。

 さて、今回は、「租税について」「公信用について」という2つの論説を取り上げることにしましょう。

 「租税について」では、重商主義者たちが租税に関して掲げていた「全ての新しい租税は国民のうちにそれを支払う新しい能力を創り出し、公共の負担の各々の増加は、国民の勤労に比例して増加する」という命題の妥当性が検討されています。この命題は、貧民に厳しい条件を与えれば、それだけ勤勉さが刺激されてよく働くようになるから……ということで、貧民に租税負担を課すことを合理化する理屈として主張されていたものです。ヒュームは、勤労(産業活動)を重視する自身の立場から、この命題について批判的に検討し、それが真理として通用する範囲を厳格に定めようとしたのでした。

 ヒュームの議論を少し詳しくみていくことにしましょう。

 ヒュームは、租税が貧民の勤勉さを刺激する効果をもつということ自体は、全面的に否定するわけではありません。不利な自然的条件こそが勤勉を刺激したという人類史的な事実からの類推として、人為的な不利が勤勉を刺激することがあり得るのだ、ということを認めています。

 とはいえ、ヒュームは、あまりに重い税負担は、過度の窮乏と同じく、絶望感を生み出すことによって勤労を破壊する、と釘を刺すことを忘れていません。それどころかヒュームは、現在のヨーロッパのあらゆるところで、租税がすべての技術と勤労を完全に押し潰してしまうほどに増大しているのではないか、との懸念を表明するのです。要するにヒュームは、租税について論じるにあたって、国民の勤労(産業活動)を何よりも重視する自身の見地からして、租税が産業活動を抑制しないかどうか、という点に焦点を当てているわけです。

 ヒュームが、最も望ましい税だと指摘するのは、奢侈的な消費に対する課税です。奢侈品に課税されているのであれば、人々は課税された財貨をどの程度使用するかある程度まで自由に選択することができますから、このような税の支払はある程度までは自発的なものであるとみなすことができる、というわけです。さらにヒュームは、奢侈的消費への課税について、賢明に課税されるなら自然に節制と節倹を生み出すこと、また財貨の自然価格と混同されるので消費者にはほとんど気づかれないことを、その利点として挙げています。ただし、この種の税は、徴収に高い費用がかかるという欠点があるために、財産に対する課税に頼らざるをえないことも指摘しています(*)。

 一方、ヒュームが最悪の税だとするのは、統治者が恣意的に課す税、とりわけ人頭税です。こうした税は、統治者の都合で容易く引き上げられてしまうために、勤労者にとって非常に抑圧的で耐え難いもの、端的には、勤労に対する懲罰のようなものになってしまう、とヒュームは指摘しています。また、人頭税のような逆進性の強い税は、それが不可避的にもたらす不平等によって、実際の負担よりもいっそう過酷に感じられてしまう、とも指摘しています。ここにも、勤労(産業活動)を何よりも重視するヒュームの視点が貫かれているといえます。

 さらにヒュームは、ジョン・ロックによって提唱され、重農主義者たちが受け容れるところとなった土地単一課税論に対しても批判を加えています。土地単一課税論は、商品に課された税金は、最終的には農業者(地主)に転嫁される――商人は課税分だけ値上げして商品を売るし、ギリギリの生活をしている労働者は物価の値上がり分だけ賃金を上げてもらわねば生きていけなくなるので、結局のところ、農業者(地主)が労働者の賃金や商品の値上がり分を負担しなければならなくなる――のだから、最初から土地にのみ税金を課すようにすればよい、という主張です。これは、根本的にいうならば、土地(農業)こそが価値の唯一の源泉である、という発想にもとづいたものでしたが、ヒュームはこれを、全ての者が税負担を他者に押しつけたがっているのに、ただ地主だけが他者に税負担を押しつける能力を欠いている(他者から税負担を押しつけられて大人しく黙っている)とは考えがたい、という論法で批判するのです。さらにヒュームは(1764年以降の版において)、労働者が賃金の引き上げによらず、節約と労働時間の延長によって商品価格の値上がりに対処する可能性をも指摘しています。ここには、明示されてはいないものの、勤労一般(農業労働だけでなく!)こそが価値の源泉である、という発想が暗黙のうちに前提されているのだ、といってよいかもしれません。

 さて、「公信用について」という論説は、イギリス名誉革命体制下における近代的公債制度の確立、すなわち、議会による承認と一定の財源(税収入)保障を裏づけとした公債発行が制度化されたことを歴史的な背景としたものです。この論説でヒュームは、公債は国内流通を盛んにし産業活動を促進する効果をもつ、という重商主義者たちの主張を批判的に検討しています。ヒュームは、公債には重商主義者が主張するような社会的利益をもたらす側面があることについて全面的には否定しないものの、社会的不利益の方が比較にならないくらいに大きい、という主張を展開していきます。あえて現代的な図式に当てはめて整理してみるならば、財政支出が経済の活性化に大きく貢献することを説く積極財政論者に対して、ヒュームは累積債務の膨張は持続不可能であるとして健全財政の確立を主張したのだ、ということもできます。

 ヒュームの議論をもう少し詳しくみておくことにしましょう。 

 そもそも重商主義者が公債の利益を主張したのは、公債が一種の貨幣のようなものとして金銀と同じくらい容易に時価で通用している、という事情を背景にしています。商人は、公債の保有によって商業利潤のほかに確実な利益を確保することになるために、より低い商業利潤で事業を営むことが可能になります。このため、財貨がいっそう廉価になって消費が拡大することで、一般民衆の労働が促進され、技術と産業が社会の隅々まで広がっていくのに資するに違いない、というわけです。

 しかし、ヒュームは、こうした事情はそれほど重要なものではないのに引き換え、公債に伴う不利益は国家の内的秩序に重大な悪影響を及ぼすものであることを力説していきます。ヒュームは、公債のもつ不利益として、次の5つを挙げています。

 第一は、地方の負担で首都に住む公債所有者への利払いがなされることによって富が首都へ集中させられることです。

 第二は、一種の紙幣である国債の流通増大によって物価が高騰してしまうことです。

 第三は、利払いのための増税が勤労者への負担となってしまうことです。

 第四は、外国人の公債所有によって労働力と産業活動の国外移転の可能性が生じることです。

 第五は、公債の利子収入で生活が可能になることで、怠惰な生活スタイルが蔓延してしまうことです。

 以上の5点にわたって公債の社会的不利益(国家の内的秩序への悪影響)を指摘したヒュームは、これらの損害は無視し得ないものであるものの、対外的に独立した国家――諸国家から構成される社会のなかで自立しなければならず、戦争や外交交渉において他の諸国家と対峙しなければならない政治体としての国家――に帰する損失と比べれば、取るに足りないものである、としています。つまり、国家の独立を危うくしてしまうことこそが、公債の最大の弊害であるとヒュームは主張するのです。

 ヒュームは、公債の膨張は持続不可能であり、国民が公信用を破壊してしまうか、公信用が国民を破滅させてしまうか、どちらかになるしかない、といいます。ヒュームは、公信用死滅の3つの形態として、“医者による死”“自然死”“暴力死”の3つの形態を挙げています。“医者による死”というのは、公債償還のための冒険的な試みが全機構を崩壊させるケースであり、“自然死”というのは、戦争や災害などの危機に際して国家が公債の返済を放棄してしまうケースです。これら2つのケースは、国民が公信用を破壊する(数百万人の国民の安全のために数千人の公債保有者を犠牲にする)形態であるとされています。これらに対して、“暴力死”というのは、公債の膨張による国家の弱体化が他国の侵略と征服を導いてしまうケースです。このケースは、公信用が国民を破滅させる(数千人の公債保有者の一時的な安全のために数百万人の国民が永久に犠牲にされてしまう)形態であるとされ、公債の膨張がもたらす最悪の結果だとされています。

 このように、ヒュームは、公債の膨張が社会的に大きな不利益を伴うものであり、最悪の場合は国家の破滅をもたらしてしまうことに強い警告を発したのでした。

(*)ちなみに、当時はまだ所得税なるものは成立していませんでした。個人の所得を正確に把捉してそこに課税する、というような高度な徴税技術はまだ確立していなかったのです。イギリスでは、1799年にナポレオン戦争の戦費調達のために所得税が導入されましたが、以後、導入と廃止がくりかえされ、所得への課税が定着するのは1840年代に入ってからのことです。
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2017年08月30日

ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む(3/5)

(3)『政治論集』を読むA――ヒュームの貨幣論・利子論・貿易差額論

 前回は、ヒューム『政治論集』の最初の2つの論説、すなわち「商業について」と「奢侈について」を読みました。「商業について」は、国民の幸福と国家の強大さの両立という問題を、社会的総労働の適切な配分――農業、基本的な手工業、奢侈品の生産・流通業、および軍隊――による生産力の発展という観点から論じたものであり、生産力の発展を牽引する社会的認識のあり方――物質的・精神的により豊かな生活を送りたいという人間の諸欲求――に焦点が当てられるとともに、格差と貧困の拡大を放置することが国家を弱体化させることも指摘されていました。「奢侈について」は、奢侈あるいは機械的技術における洗練がもつ意義について、単に経済的な領域にとどまらず、国民精神のあり方全体を視野に入れて論じたものであり、勤労と機械的技術における洗練が学問・芸術の発展と相互浸透的に進行していくものであること、さらにこうした過程のなかで人間が社会的交際を通じて、人間性を高めていくことも強調されていました。

 さて、今回は、「貨幣について」「利子について」「貿易差額について」という3つの論説を取り上げることにしましょう。

 ヒュームは、「貨幣について」において、産業活動の発展のなかで貨幣がどのような役割を果たすものであるのか、論じています。ここで基調になっているのは、貨幣は単なる交換手段であり、その量の増大は物価の高騰をもたらすだけである、という主張です。これは、経済学史の用語でいえば「機械的な貨幣数量説」と呼ばれる考え方(貨幣数量は物価水準に機械的に動かすだけ、という考え方)にほかならず、貨幣=金銀こそが富であるという(貨幣量の増大を富の増大と同一視する)重商主義的な考え方に対抗して主張された、古典派経済学に特徴的な主張です。つまり、ヒュームの貨幣論は、古典派経済学の貨幣数量説を先駆的に主張するものであった、といえるわけです。

 一方でヒュームは、貨幣量の漸次的な増大が(すなわち貨幣量が次第に増加していく過程においては)、生産活動を刺激する効果をもつことをも認めています。このような考え方は、経済学史の用語では「連続的影響説」と呼ばれるもので、重商主義的な主張です。古典派経済学的な主張と重商主義的な主張を併存させている点に、ヒューム貨幣論の重要な特徴があるともいえます。

 さて、ヒュームの貨幣論をもう少し詳しくみておきましょう。

 ヒュームは、財貨の価格は貨幣の多寡に常に比例するから、一国の幸福にとって貨幣量の多寡それ自体は何ら重要でないことは明らかである、と主張します。さらに、貨幣が他国より豊富であるということは、外国人との通商において、一国民の損失となることさえありうる、と主張するのです。ヒュームは、人間に関わる事柄には諸々の要因の絶妙な噛み合わせ(happy concurrence of cause)があり、貿易の発展や富の増大を一定の限度内に押しとどめ、貿易や富の一国民による全面的独占という事態の発生を防止している、と説きます。どういうことかといえば、商業が確立された国は、貨幣の豊富による物価高騰という不利益を避けることができないのであり、その結果、全ての国外市場において、豊かな国は貧しい国よりも安く販売することが不可能となり、それ以上の富の蓄積に歯止めをかけられてしまう、ということです。

 以上は、貨幣の数量は物価水準に影響を与えるだけだ、という考え方に基づく主張ですが、一方でヒュームは、貨幣量が次第に増加していく過程においては、生産活動を刺激する効果をもつことをも説いています。ヒュームは、物価の高騰は金銀貨が増大した途端に生じるものではなく、貨幣が国内に隈なく流通し、その影響が全ての階級の人々に及ぶまでにいくらかの時間が必要であることに注意を促します。まず、ある部門で労働の対価として以前より多くの貨幣を得られるようになったとしても、貨幣量の増大の影響はまだ社会全体に行き渡っていないために、生活必需品や便益品の価格は以前と同じですから、その部門の労働者は、以前より良い飲食等ができるようになり、喜んでよりてきぱきと働くようになります。こうして、いかなる国であっても、その国へ貨幣が大量に流入しはじめると、労働と勤労(産業活動、生産意欲)は活況を呈し、商人はより積極果敢になり、手工業者はいっそう勤勉と熟練を増し、農民までもが鋤を迅速かつ慎重に動かしていくようになる、というのです。

 このようにヒュームは、流入してきた貨幣が物価を騰貴させてしまう前に個人の勤勉の度合いを高める効果をもつことを指摘したのでしたが、「貨幣について」という論説で基調になっているのは、あくまでも貨幣数量説的な主張であり、国家の富裕は貨幣が豊富になった結果である、という俗見を批判することこそがヒュームの狙いであったことは、改めて確認しておく必要があります。

 これに続く「利子について」という論説もまた、国家の富裕は貨幣が豊富になった結果である、という俗見を批判しようというものです。当時、利子が低いことは国家の繁栄の証だ、と考えられていたのですが、ヒュームはそのこと自体は認めながらも、貨幣の豊富こそが低利子率をもたらしているのだ、という通念については厳しく批判するのです。その論拠となったのも、貨幣の多寡は物価の高低に帰結するだけである、という貨幣数量説的な発想にほかなりませんでした。

 この論説で、ヒュームは、利子の高低を決める要素を3つあげています。そのうち2つは、貨幣の貸借における需給関係です。貨幣需要(大きければ利子は高く、小さければ利子は低くなる)については、商工業が未発達で土地所有者階級しかいない段階においては、土地所有者が浪費的(土地からの固定した収入を消費するだけでは大して楽しくもないので、快楽を求めずにはいられない!)であることから借り入れへの需要が大きくなるのだ、と論じています。一方、貨幣供給(需要を満たす富が小さければ利子は高く、大きければ利子は低くなる)については、商業の発展によって、まとまった貨幣額をもつ大金持ち層(monied interest)が形成されてくることが、貨幣供給量の増大につながることを指摘しています。結局、商業の発展が、貨幣需要の減少、貨幣供給の増大の両面において利子率の低下を導いていく、というのがヒュームの結論です。

 ヒュームは、貨幣の需給関係に加え、商業利潤の高低を、利子率の高低を決める第三の要素として論じています。ここでは、低利子と低利潤が相互に促進し合う関係にあることが論じられています。商人が大きな資本を蓄積すると、そのまま商業活動を継続するか、それとも商業活動から撤退して利子取得者になるか、という選択を迫られるケースが出てきます。商業活動から撤退する場合は、社会における資金供給の豊富さのために、非常に低い利子しか受け取れないでしょう。そのため、低利潤に甘んじながら商業活動を継続せざるをえない場合も多くなります。そもそも広範な商業の発展は、競争を通じて商業利潤の低下をもたらすのですが、この低利潤は、商業活動から撤退する際に、極めて低い利子を受け入れさせるように働くのです。

 以上のように、利子の高低を決める3要素について検討したヒュームは、利子率は国家の状態のバロメーターであり、低利子は国民の繁栄状態のほとんど間違いない証であると述べ、低利子は勤労の増大と国家全体に及ぶ勤労の速やかな循環とを証明するものである、と結論づけています。

 続いての論説「貿易差額について」において、ヒュームは、外国商品に税を課すなどして貿易を制限することで貨幣の国外流出を押しとどめようという重商主義の核心的な思想・政策を正面から批判しています。その根拠となるのも、貨幣は財貨を交換するための手段にすぎず、貨幣の動きは結局のところ、勤労の生みだす財貨の動きに規定されるのだ、という考え方にほかなりません。これは、自由貿易を主張する古典派経済学への道を拓くような論といえますが、注目すべきなのは、ヒュームが貿易制限を全面否定しているわけではなく、国家社会の維持発展という観点から一定の制限を課すこと自体は認めている点です。

 もう少し詳しくみておくことにしましょう。

 ヒュームは、ある国家が国民と勤労を保持するかぎり、貿易赤字が累積され続けるという結果はありえないことを一般的に証明するために、以下のような思考実験を行います。

 ある国の貨幣(金)が突然に大幅に減少したとすれば、その国の物価(金で表示された価格)は大きく低下し、輸出が著しく有利になります。その大幅な輸出超過の結果、当該国の物価が周辺諸国とだいたい同じ水準に上昇するまで、貨幣が流入してくることになります。逆に、ある国の貨幣が突然に大幅に増加したとすれば、その国の物価は大きく上昇し、輸出が不利になり、国外から低廉な製品が大量に流入してくることになります。この大幅な輸入超過により、当該国の物価が周辺諸国とだいたい同じ水準に低下するまで、貨幣が流出していくことになるわけです。これが、経済学史上におけるヒュームの不滅の貢献として有名な、金本位制の自動調節作用についての説明です。

 しかしながら、ヒュームは、外国の商品に課される全ての租税が有害あるいは無益だとみなされてはならない、とも主張しています。貿易を通じて貨幣を失ってしまうのではないか、という誤った猜疑心にもとづく関税だけが有害で無益なのだ、というわけです。ヒュームは、正当な貿易制限の事例として、国内手工業を奨励するためにドイツ製リンネル(亜麻布)へ課税することや、ラム酒の売れ行きを増大させて南部植民地を支えるためにブランデーへ課税することなどをあげています。

 ここは、ヒュームの経済思想も結局は重商主義の枠内にすぎなかった、という主張の根拠ともされる部分ですが、ヒュームにおいては、(富としての金銀量の増大ではなく!)自国民と手工業の保持ということこそが最大の政策目標であるべきだと考えられていた点にこそ注目すべきでしょう。
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2017年08月29日

ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む(2/5)

(2)『政治論集』を読む@――ヒュームの商業論・奢侈論

 本稿は、経済学が独立した学問として確立される直前の時期に、現代的な感覚からすれば経済問題として分類されるような諸々のテーマ(貨幣、利子、貿易差額、租税、公債など)を、あくまでも政治の問題として、換言すれば、国家社会の維持発展に関わる問題として論じたヒューム『政治論集』を読んでいくことを通じて、ヒュームの経済思想が、現代経済学の混迷を打開していく上でどのようなヒントを与えてくれるものなのか、探っていくことを目的としたものです。

 今回は、『政治論集』の冒頭の論説「商業について」、および第二の論説「奢侈について」を読んでいくことにします。

 ヒュームは、「商業について」において、国家の強大さと国民の幸福は商業において不可分の関係にある(商業が発展した方が、国民は幸福になるし国家も強大になる)、という命題の妥当性を検討し、その真理性を主張しています。単純に考えれば、生活必需品の生産(農業および基本的な手工業)に携わる人々以外は、全て兵士にしてしまった方が国家が強大になるようにも思われますが、必ずしもそうではない、というのがヒュームの結論です。これは、国家社会の中身(国民生活)と容れ物(それを支えるのが軍事力)の両面に的確に目を配った論考だと評価することができます。

 もう少し詳しくその内容をみていくことにしましょう。

 ヒュームによれば、どんな国でも国民の大半は農民と手工業者に大きく二分されます。ヒュームは、農業技術の改善で、直接耕作者や彼らに必須の手工業製品を供給する人々を養う以上のモノが生産できるようになった場合、余分な人手(労働力)が、奢侈(生活洗練)に関する技術(直接の生命の維持にとって不可欠ではないが、物質的・精神的により質の高い文化的生活を営む上で求められるようになるモノを生産し流通させる技術)に従事するようになれば、国民の幸福は増大していくことになる、と主張します。

 同時にヒュームは、このことが、国家の統治者にとっても利益となることを力説します。奢侈に関する技術に従事する労働者が多ければ、国家の危急の際に彼らの多くを兵士に転換したとしても、農業者の労働から生じる剰余で彼らを維持することが容易だからです。奢侈品を生産する手工業者は、国家権力が誰からも生活必需品を奪わずに要求できるような種類の労働を蓄えることによって、国家の力を増大させる、というのです。

 ヒュームは、スパルタなど古代の国家が、国民の幸福を犠牲にして国家の強大さを追求したのは乱暴であり、事物の自然で普通の成り行き(the more natural and usual course of things)に反している、と批判しています。それでは、人間の本性に即した、事物の自然な成り行きとはどういうものなのでしょうか。

 ここでヒュームは、よりよい生活を希求する人間の諸々の欲望こそが、生産活動を発展させる原動力であることに注意を促しています。これは、生産活動を行っていく人間の認識(感情のあり方)に着目したものとして、高く評価するに値するといえます。

 ヒュームは、この世に存在するあらゆるものは労働によって取得されるとした上で、我々の情念こそが、そのような労働の唯一の原因である、と説いています。ヒュームが、そのような情念の具体例として挙げているのは、貪欲と勤労、技術と奢侈(諸感覚の満足における高度の洗練)の精神などです。人間がその生活のなかで必要とするあらゆるものは労働によって取得される、というのは、いうまでもなく、古典派経済学における労働価値説の先駆けといえるような把握です。加えてここでは、欲求・欲望満足の手段としての労働というように、認識のあり方と明確に関わらせた把握がなされていることが注目されます。

 このような情念を刺激する上で歴史的に大きな役割を果たしたものとしてヒュームが注目しているのが、外国貿易です。外国貿易は人々の欲望を掻き立てることで生産力発展の大きな誘因となった、というわけです。ヒュームによれば、外国貿易は、人々を怠惰な眠りから目覚めさせるとともに、富裕層に彼らが以前には夢想さえしなかった奢侈品を提供することによって、祖先たちが享受したよりも素晴らしい暮らし方をしたいという彼らの欲望を掻き立てたのでした。こうして、国内手工業が外国のそれと改良を競うようになり、あらゆる国産品を完成の極致にまで仕上げていくことになります。

 ヒュームは、こうした生産物の分け前に多くの人々があずかれるようにすることが国家社会の維持発展にとって有利だ、と指摘します。ヒュームによれば、市民の間の不均衡があまりに大きいことは、国家を弱体にしてしまいます。誰もが自分の労働の果実を享受し、全ての生活必需品と多くの生活便益品を保有するという平等なあり方こそが人間の本性にふさわしいものであり、それが富者の幸福を減少させる程度は、貧者の幸福を増大させる程度に比してはるかに少ないのだ、とヒュームは強調します。富が多数の人に分散されていれば、各人の肩にかかる負担は軽く感じられ、租税は誰の暮らし向きにもさほど目立った変化を生じさせないのですが、富が少数者に集中しているところでは、この少数者がすべての権力を壟断することになり、彼らは共謀して全ての負担を貧者に転嫁し、貧者をいっそう圧迫することによってあらゆる勤労をダメにしてしまう、というのです。

 以上のように、「商業について」という論説では、国民の幸福と国家の強大さの両立という問題が、社会的総労働の適切な配分――農業、基本的な手工業、奢侈品の生産・流通業、および軍隊――による生産力の発展という観点から論じられているのであり、そのなかでは、生産力の発展を牽引する社会的認識のあり方――物質的・精神的により豊かな生活を送りたいという人間の諸欲求――に焦点が当てられるとともに、格差と貧困の拡大を放置することが国家を弱体化させることも指摘されていたのでした。

 さて、よりよい生活を求める人間の諸欲求の問題は、第二の論説「奢侈(luxury)について」において、より突っ込んで検討されることになります(ちなみに、この論説のタイトルは、1760年の版より「技芸における洗練について〔Of Refinement in the Arts〕に変更されています)。この論説で、ヒュームは、あらゆる奢侈を有益とする議論、一切の奢侈を不道徳として否定する議論の双方を両極端の誤りとして排し、奢侈は度を越さない限り社会にとって好影響をもたらすことを論じています(ある命題がいかなる条件の下で真理として通用するかを問うのは、ヒュームの議論においてよくみられる思考法です)。

 ヒュームは、勤労と機械的技術の洗練は自由な学芸にも洗練をもたらすのであり、一方は、ある程度、他方を伴わなければ完成されえない、と主張します。ヒュームは、天文学を知らず、倫理学を軽視する国民において、一枚の毛織物が完全に織られるなどということは期待できない、と述べています。ヒュームによれば、時代精神は技芸のあらゆる分野に影響を及ぼすものであり、人間精神は、ひとたび怠惰の眠りから呼び覚まされ発奮させられると、四方八方に関心を伸ばしてあらゆる科学と技術に改善をもたらしていくものなのです。このように、ヒュームは、勤労と機械的技術における洗練が学問・芸術の発展と相互浸透の関係――一方の発展が他方の発展を促し、他方が完成しなければもう一方も完成しない、という関係――にあることを力説しています。さらに、ヒュームは、こうした過程のなかで、人間がより社交的になっていき、社会的交際を通じて、人間性を高めていくことも強調しています。ヒュームによれば、勤労と知識と人間性とは互いに断ちがたい鎖でつなぎ合わされているのです。

 さらにヒュームは、奢侈あるいは機械的技術における洗練が、国家統治のあり方にも好ましい影響を与えることを説いています。統治技術の発展は、統治者により洗練された支配方法を採用させるようになるし、独立心旺盛な中産階級が台頭してくることによって、国民の側からの圧政への抵抗力も強まっていく、というわけです。

 このように、「奢侈について」という論説では、奢侈あるいは機械的技術における洗練がもつ意義について、単に経済的な領域にとどまらず、国民精神のあり方全体を視野に入れて論じている点が注目されます。
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2017年08月28日

ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む(1/5)

目次

(1)ヒューム経済思想の歴史的・現代的意義とは
(2)『政治論集』を読む@――ヒュームの商業論・奢侈論
(3)『政治論集』を読むA――ヒュームの貨幣論・利子論・貿易差額論
(4)『政治論集』を読むB――ヒュームの租税論・公信用論
(5)ヒュームは政治と経済を一体に、国家社会の維持発展という観点で論じている

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)ヒューム経済思想の歴史的・現代的意義とは

 今から5年前のことになりますが、2012年10月11日付『朝日新聞』の「カオスの深淵」という欄に「危機読めない経済学」と題された記事が載りました。そこには、以下のように書かれていました。

「エリザベス英女王がなにげなく口にした疑問に、英国の経済学者たちは激しく動揺した。
 2008年11月、経済学の名門ロンドン大経済政治学院(LSE)の開所式。来賓の女王が尋ねた。
「どうして、危機が起きることを誰も分からなかったのですか?」
 米証券大手リーマン・ブラザーズ破綻から始まった金融危機が深まっていた。居合わせた経済学者は、充分な返答ができなかったようだ。
 学者や実務家らが集められて討論し、手紙で女王に報告した。「金融市場や世界経済について多くの警告はありましたが、分析は個々の動きに向けられました。大きな絵を見失ったことが、ひんぱんにありました」。手紙に署名した一人、LSEのティム・ベズリー教授は言う。「誰も全体を見ていなかった」
 経済学者は政策を示すエリートだ。しかし、本当に役に立つのか。よってたかって処方箋を書くのに、なぜ景気はよくならないのだろう。」


 要するに、経済の「個々の動き」にばかり気をとられて、「大きな絵」「全体」を見失ってしまうところに、現代の経済学が経済的な諸問題をまともに解決できない根本的な原因があるのではないか、という指摘です。例えば、この記事が出た後に成立した第2次安倍政権の下では、日銀が本気になって金融緩和を継続すれば必ずデフレから脱却できる、と主張するいわゆる“リフレ派”の経済研究者が日銀副総裁になって、異次元の金融緩和が進められてきましたが、ご存知の通り、デフレ脱却というハッキリとした成果は出せないままでいます(*)。これもまた、貨幣供給量とか物価とかの「個々の動き」に囚われて、経済全体の「大きな絵」を見失ってしまった典型的な事例だといえるのではないでしょうか。

 もっと大きくいえば、現代経済学の混迷は、そもそも、効率的な資源配分の場としての市場を、社会の他の部分から切り離して究明しようとしているところに根本的な原因があるといえるかもしれません。それだけに、経済学が独立した学問として確立される直前、経済的な問題が社会の他領域との関連でどのように論じられていたのかを探究することが、現代経済学の行き詰まりを打開していく上で大きなヒントとなるのではないか、とも思われるのです。

 経済学の確立に大きな役割を果たした人物として、18世紀スコットランドの3人――ヒューム、スチュアート、スミス――を挙げることができます。このうち、ジェームズ・スチュアート(『政治経済の原理』、1767)は、通常、重商主義的な思想を集大成した人物として知られています。重商主義というのは、端的には、貿易黒字で金銀=富を蓄積することが大切だという思想のことです。金銀という具体的な形をもったもの(目で見たり手で触ったり、感性的に捉えられる物体)こそが富であるとした現象論レベルの思想であり、外国貿易を通じて資本主義的な経済が生成発展していくなかで、自然成長的に形成されてきた社会的認識だといえます。スチュアートは、そのような自然成長的な認識を整理整頓して、それなりのレベルで論理化した存在であり、学者というよりは超一流の経済評論家のような存在だったといえるでしょう。

 これに対して、アダム・スミス(『諸国民の富の本質と原因に関する研究』、1776)は、重商主義を乗り越える古典派経済学を確立した人物として知られています。古典派経済学は、端的には、労働こそが富の源泉であり、労働生産性を向上させていくことが国家の豊かさにつながるのだという考え方を基礎にしています。つまり、スミスは、直接には目で見たり手で触ったりすることができない労働というものこそが富の源泉である、としたわけです。現象論レベルから構造に一歩踏み込んで経済の本質的なところを論理的に把握しようとしたわけで、一流の哲学的認識をもった経済学者であったと評価することができるでしょう。

 それでは、スチュアートやスミスに対して、ヒューム(『政治論集』、1752)についてはどのように評価することができるのでしょうか。端的には、ヒュームは、重商主義的見解を批判的に検討することを通じて古典派経済学への道を切り開いていった存在だ、ということができます。過渡的段階に属するだけに、どちらの側面をより重視するかによって、重商主義の枠内にすぎないという評価も成り立ちますし、古典派経済学の先駆者だという評価も成り立ちうる(**)わけですが、結局のところ、ヒュームの経済思想は、どのような歴史的意義をもったものだと評価するべきなのでしょうか。また、ヒュームの経済思想は、現代経済学の混迷を打開していく上で、どのようなヒントを与えてくれるものなのでしょうか。本稿では、このような問題意識をもって、ヒューム『政治論集』を読んでいくことにします。

 それに先立って、ヒュームの学問的構想全体のなかで『政治論集』がどのように位置づけられていたのかを、簡単に確認しておくことにしましょう。

 ヒュームは処女作『人間本性論』(1739)の序論において、@論理学(人間の推理能力の原理と作用、観念の本性を究明するもの)、A道徳論(我々の趣味と感情を究明するもの)、B文芸論(道徳論と同じく、我々の趣味と感情を究明するもの)、C政治論(結合して社会を形成し、相互に依存し合うものとしての人間を考察するもの)の4部門からなる構想を示し、その基礎として人間性の原理の究明が必要であること、その方法は実験と観察でなければならないことを主張しています。『人間本性論』は、この4部門のうち論理学と道徳論に該当する内容を含むものですが、その論理学における有名な因果律批判(原因と結果とのつながりは客観的なものではなく、ある出来事の後に別の出来事が続いて起ることを何度も繰り返して経験することによって形成される主観的な信念にすぎない、という議論)は、自然科学(自然哲学)と社会科学(道徳哲学)に共通する方法論の確立を目指すものとしての意味をもっていたわけです。

 さて、本稿で取り上げる『政治論集』は、先の4部門構想のうち、政治論に相当する内容を含むものにほかなりません。1752年に出版された初版には、以下の12の論説が含まれていました(ちなみに、その後『政治論集』は増補改訂を繰り返され、新たな論説が次々と追加されていき、タイトルも『いくつかの主題についての論集』に変更されています)。

1.商業について
2.奢侈について
3.貨幣について
4.利子について
5.貿易差額について
6.勢力均衡について
7.租税について
8.公信用について
9.若干の注目に値する法慣習について
10.古代諸国民の人口稠密について
11.新教徒による王位継承について
12.完全な共和国についての設計案


 『政治論集』は、そのタイトルからしても、論文集としての体裁からしても、スチュアート『経済の原理』やスミス『国富論』に比して、政治経済論としての体系性に欠けるような印象がありますが、内容を突っ込んで検討してみれば、必ずしもそうとはいいきれません。

 『政治論集』において注目すべきは、何よりもまず、「政治論」といいながら経済的な問題を正面から取り上げた論説が大半を占めている点です。現代的な感覚からすれば経済問題として分類されるような諸々のテーマ(貨幣、利子、貿易差額、租税、公債など)が、あくまでも政治の問題として、換言すれば、国家社会の維持発展に関わる問題として、論じられているのです。これは、経済学の未確立という当時の学問的な状況を示すものではありますが、根本的にいえば、経済の政治からの未分化という社会の歴史的な発展段階の反映にほかなりません。『政治論集』で扱われているテーマ(商業、奢侈、貨幣、利子、貿易差額、租税、公信用)は、いうまでもなく、名誉革命体制下イギリスの社会状況に規定されたものであり、いわゆる重商主義的な経済思想のなかで取り上げられてきたものです。

 それでは、次回以降、『政治論集』のうち、商業、奢侈、貨幣、利子、貿易差額、租税、公信用に関わるヒュームの論考を順次取り上げながら、ヒュームの経済思想が、現代経済学の混迷を打開していく上でどのようなヒントを与えてくれるものなのか、探っていくことにしましょう。

(*)服部茂幸『偽りの経済政策――格差と停滞のアベノミクス』(岩波新書、2017)は、この経済研究者の醜態(見苦しい言い訳)を完膚なきまでに叩きのめしていて痛快である。

(**)後者の見方をとる場合、古典派経済学の確立者とされるスミスとの関係(スミスはどのような点でヒュームを発展させたのか)が問題になりうる。極端なものでは、スミス『国富論』はヒュームを超えるものではなかった、という見解も存在する。例えば、20世紀を代表する経済学者であるシュンペーターは、大著『経済分析の歴史』において、ヒュームについて以下のように述べている。

「まさにこれ〔自動調節機構についての論――引用者〕を射抜いた者のなかでももっとも傑出していたのは、カンティヨンとヒュームであった。ヒュームの論文が若干の異論を引き起こした事実は、かえって彼の功績の証となるものである。……本質的には、彼の業績は「重商主義的」遺産から誤謬の塵を払い落としたこと、およびこれらの部品一つのきちんとしたよく発達した理論に組み立てたこと、にある。そして以上がすべてである。この世紀〔18世紀――引用者〕の残りの期間には、大きな重要性を持ったものは何も付加されなかった。『国富論』においてアダム・スミスはヒュームを抜きんでることなく、むしろ彼以下に留まった。実際のところ、ヒュームの理論は、自動調節の媒介手段としての価格の運動に対する彼の過度の強調をも含めて、実質上は今世紀の二〇年代にいたるまで、少しも挑戦されるところがなかったと言っても、真理から隔たるものではない。」(シュンペーター『経済分析の歴史(上)』岩波書店、p.664)


 ここでのシュンペーターの評価は、市場の自動調節機能の把握という非常に限定された基準によるものでしかないことに注意が必要である。『国富論』は、市場の自動調節機能を主として問題としたものではなく、国家社会の全体を視野に入れて諸々の問題に筋を通して論じていることにこそ意義があるものである。スミスがヒューム以下にとどまったというのは、市場の自動調節機能の把握という「個々の動き」に囚われて、経済学の発展の「大きな絵」「全体」を捉えそこなった評価だといわざるをえない。
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2017年07月14日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約C

 前回は、感性的直観によって与えられた多様なもの(経験の対象)だけが統覚によって客観的に統一されるのだということが説明された部分の要約を紹介しました。カントは、経験的な直観における多様な表象が、判断という悟性の機能によって統覚のもとに取り込まれて客観的な統一を与えられることを指摘する一方で、このように純粋悟性概念(カテゴリー)が適用されるのはあくまでも経験の対象(経験的直観における多様な表象)のみであり、それ以外のところに純粋悟性概念を適用しようとしても、対象に関する無内容な概念にしかならず、客観的な実在性をもたない単なる思考形式にしかならない、と指摘していたのでした。

 さて、要約の紹介の最後となる今回は、カテゴリーに従って直観における多様なものを結合する総合をなす産出的構想力について、また、思惟する主観である「私」と思惟された客観としての「私」の関係、また、現象としての「私」と私自体との関係について、さらに、法則は自然における多様なものの結合を自然から得てこないにもかかわらずどうして自然をア・プリオリに規定しうるか、という問題について、説明されている部分の要約を紹介することにしましょう。

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感官の対象一般へのカテゴリーの適用について

 純粋悟性概念は、悟性だけによって直観の対象一般に関係する。しかし、だからこそ純粋悟性概念は単なる思考形式にすぎず、これによってはまだ一定の対象は与えられない。しかし、我々には感性的直観のある形式がア・プリオリに具わっており、この形式は表象能力(感性)の受容性を基礎とする。それだから自発性としての悟性は、与えられた表象の含む多様なものに基づき、統覚の総合的統一に従って内感を規定することができるし、また感性的直観においてア・プリオリに与えられた多様なものを結合するところの統覚の総合的統一を、我々(人間)の直観の一切の対象が必然的に従わねばならない条件と考えることができるのである。単なる思考形式としてのカテゴリーは、このようにして初めて客観的実在性をもつことになる。換言すればカテゴリーは、直観において我々に与え得る対象――といっても、単なる現象としての対象へ適用されるようになるのである。
 感性的直観における多様なもののこうした総合は、ア・プリオリにのみ可能でありまた必然的であるが、これは形象的総合と名づけられ、直観における多様なもの一般に関して単なるカテゴリーにおいて思惟されるような悟性的結合から区別される。
 形象的総合は、統覚の根源的-総合的統一にのみ、すなわちカテゴリーにおいて思惟される先験的統一にのみ関係する場合には、純粋に知性的な総合から区別されて構想力の先験的総合と呼ばれねばならない。構想力とは、対象が現に存在していなくても、対象を直観的に表象する能力である。我々の直観は全て感性的直観であるから、構想力は感性に属する。しかしまた構想力による総合は、自発性の働きである。構想力の総合は、感官をその形式に関して、統覚の統一に従ってア・プリオリに規定することができる。その限りにおいて構想力は、感性をア・プリオリに規定する能力である。構想力がカテゴリーに従って直観における多様なものを結合するところの総合は、構想力の先験的総合でなければならない。構想力が自発的である限り、私はこうした構想力を産出構想力とも名づけて、再生的構想力から区別する。再生的構想力による総合は、経験的法則すなわち連想の法則のみに従うものだから、ア・プリオリな認識の可能を説明するには全く役に立たない。

 内感は我々自身を我々の意識に現示するが、我々自体があるがままに示すのではなくて、我々が我々自身に現われるままにしか示さないのはどうしてであるかといえば、それは我々が、内的に触発される仕方でしか自分自身を直観することができないからである。悟性は内感において、多様なものの結合をそのまま見出すのではなく、内感を触発することによってこの結合をつくり出す。思惟する「私」は、自分自身を直観する「私」と異なっているにもかかわらず、しかも同じ主観として、自分自身を直観する「私」と同一であるのはどうしてなのか。すなわち、私はどうして、知性者であり思惟する主観である私が私自身を同時に思惟された客観として認め、しかもこの客観は直観に与えられた「私」でもあるが、ただ私に現われるままの(現象としての)私であって、悟性によって思惟される私自体ではない、といいうるのか。我々が外感について我々が外的に触発される限りにおいてのみ対象を認識すると認めるならば、我々はただ我々自身によって内的に触発されるままに我々自身を直観する、ということも認めなければならない。

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 表象の含む多様なもの一般において、したがってまた統覚の総合的、根源的統一において私が意識するところの私自身は、私が私自身に現われるままにでもなければ、また私自体があるがままにでもない。むしろ私は「私は存在する」ということを意識しているのである。こうした表象は思惟であって直観ではない。私の現実的存在の規定は、一方では内感の形式に従い、また他方では私の結合する多様なものが内的直観において与えられる特殊な仕方に従ってのみ成立しうる。それだから私が私自身についてもつ認識は「あるがままの私」の認識ではなく、私が私自身に「現われるままの私」の認識である。

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純粋悟性概念の一般的に可能な経験的使用の先験的演繹

 我々の感官に現われ得る限りの対象をカテゴリーによって、しかも対象を直観する形式によってではなく対象を結合する法則に従って、ア・プリオリに認識しうること、それどころか自然に法則をいわば指定しうることを説明する段になった。
 私がここにいう覚知の総合とは、経験的直観における多様なものの合成を意味し、知覚(直観の経験的意識)を可能にするものである。覚知の総合は、感性的直観の形式である空間表象および時間表象に合致しなければならない。しかし、空間および時間は直観そのものとしてもア・プリオリに表象されるが、この場合、直観における多様なものの統一という規定を含む。だから、多様なものの総合的統一はもとより、空間・時間の形式によって規定されたものとして表象されるもの一切が従わなければならない覚知の総合の条件として、すでにア・プリオリに、こうした直観と同時に与えられているのである。しかしこの総合的統一は、与えられた直観一般における多様なものの結合の統一が、根源的意識においてカテゴリーに従いつつ、我々の感性的直観に適用されたものにほかならない。ゆえに一切の総合がすべてカテゴリーに従うのである。そして経験は、結合された知覚にもとづく認識であるから、カテゴリーは経験を可能ならしめる条件であり、したがってまた一切の対象にア・プリオリに妥当するのである。

 カテゴリーは、現象に――したがって一切の現象の総括としての自然に法則をア・プリオリに指定する概念である。自然法則は、自然から導来されもしなければ、自然を範として従うわけでもないのに、かえって自然の方がこの法則に従わなければならないということ、換言すれば、法則は自然における多様なものの結合を自然から得てこないにもかかわらず、どうして自然をア・プリオリに規定しうるかということが、どうして理解できるのか。
 自然における現象の法則が、悟性とそのア・プリオリな形式とに―換言すれば、多様なものを結合する悟性能力とに合致せねばならないということは、現象そのものが感性的直観のア・プリオリな形式に合致せねばならぬということとまったく同じであって、いささかも不思議はない。法則は現象のうちに存在するのではなくて、およそ悟性を有する限りのこの同じ主観に関係してのみ存在するということと同じだからである。自然の一切の現象もまた、その結合に関しては、カテゴリーに従わなければならない。要するに自然の必然的合法性の根源的根拠としてのカテゴリーに依存しているのである。

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悟性概念のこうした先験的演繹から生じた結論

 我々は、カテゴリーによるのでなければ、対象を思惟することができない。またこの概念すなわちカテゴリーに対応する直観によるのでなければ、思惟された対象を認識することができない。ところで我々の直観は、全て感性的直観である。またこの認識は、認識の対象が与えられている限り、経験的直観である。しかし経験的認識は経験である。ゆえに我々は可能的経験の対象についてしかア・プリオリな認識をもつことができない。

この演繹の要約

 純粋悟性概念は、空間および時間における現象の規定一般としての経験を可能ならしめる原理である。この演繹はこうした原理としての純粋悟性概念の解明である。また統覚の根源的、総合的統一は、感性の根源的形式としての空間および時間に関する悟性形式である。この演繹は、最後に経験をこうした総合的統一の原理によって解明したものである。
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2017年07月09日

日本経済の歴史を概観する(13/13)

(13)国民経済という視点で変革の構想を

 前回は、本稿で辿ってきた日本経済の歴史の流れを簡単に振り返ってみました。本稿連載の最後となる今回は、この日本経済の歴史の流れについて、日本歴史と世界歴史との関係という観点から、まとめなおしてみることにしましょう。

 日本経済の歴史は、大きくいえば、2つの時代に分けることができます。第一は、江戸時代まで、資本主義経済を発展させていけるだけの実力をじっくりと培ってきた時代です。第二は、欧米諸国の圧力に抗して資本主義経済を発展させていく時代、すなわち明治時代から現在までです。多くのアジア諸国が、欧米列強の圧力に屈して植民地化を余儀なくされたなかで、日本は曲がりなりにも独立を維持し、政治・経済の近代化を成し遂げていきました。日本が植民地化を免れた外的な要因としては、列強によるアジア植民地化の最後の段階にあって、列強諸国が、インドや中国における人民の抵抗の経験を踏まえて、できる限り軍事力の行使を避けようとしていた事情があります。同時に、内的な要因として、日本がそれまでの歴史的な発展過程で、欧米列強に対抗できるだけの国力をもちつつあったという事情を無視するわけにもいきません。

 このことに関わっては、日本歴史がひとつの国家の歴史でありながら、世界歴史的な構造を内に含んでいることが重要です。

 第一に、原始共同体から現代社会までひとつにつながった流れをもっていることです。さらに、日本社会の構造そのものに、資本主義を開花させたヨーロッパと共通する部分があったことも見逃せません。具体的には、封建制という仕組み(領主層が土地を媒介した主従関係を結びつつ、土地と農民をセットで支配する仕組み)は、世界中でヨーロッパと日本にだけ成立していたのです(古代中国の周における封建制は、王が各地の有力氏族に領域支配を認めたもので、本質的に異なります)。世界歴史の流れを大雑把に捉えるならば、大河や内海の近くに成立した古代の大帝国が衰退した後、中央アジアの乾燥地帯から遊牧民が台頭し、周辺の農耕社会を侵略していくようになったといえるのですが、ヨーロッパと日本は、これから遠く離れていたために、遊牧民の征服を免れることになったのです。この結果、分権的で重層的な封建制という仕組みが形成されていったと考えられます(梅棹忠雄『文明の生態史観』がこの問題を論じています)。この封建制による安定した社会において、人々はじっくりと自然に向き合い、生産力を次第に発展させていくことになったのであり、このことが、後に資本主義経済を発展させていくための土台となったということができるでしょう。

 第二に、ひとつの国家(一貫して天皇が頂点に存在しました)でありながら、その内部に諸々の小国家どうしが対峙しあうという構造を含んでいたということです。そもそも、日本列島に初めて登場した統一政権たる大和政権は、日本列島各地の諸々の小国家を従属させる形で成立させられたものですし、その後も、いわゆる戦国時代では、日本列島各地の小国家がどうしが熾烈な戦いを繰り広げながら国力を発展させていくという過程をもったのでした。江戸時代末期、西南雄藩による倒幕の過程にも、国家内の小国家の存在が明瞭に現れています。世界歴史が、諸々の国家が対峙しあうという構造を含んでいるのと同じように、日本という国家の歴史も、諸々小国家どうしが対峙しあうという構造を含んでいたのです。

 第三に、より優れた文化への強烈な憧れをもち、それを自分のものにしようと必死に努力する過程をもったことです。その憧れの対象というのは、江戸時代までについていえば、中国にほかなりませんでした。さらに、開国以降についていえば、欧米の先進的な諸国です。憧れの対象は変わっても、それを何とか自分のものにしようという努力の過程をもった、ということ自体は一貫しています。

 日本歴史にこうした世界歴史的構造が含まれていたからこそ、欧米列強の圧力に屈せずに独立を維持できるだけの実力を培うことができたのだということができるのではないでしょうか。

 とはいうものの、欧米列強と幕末の開国時の日本とでは、国力に雲泥の差があったことは否定できません。日本は、他のアジア諸国のように、植民地化されてしまうほどに弱くはありませんでしたが、それでも欧米列強に対抗していくためには相当に無理を重ねる必要があったのです。このあたりの事情について、夏目漱石は、1911年(明治44年)に行った講演のなかで、次のように述べています。

「我々が内発的に展開して十の複雑の程度に開化を漕ぎつけた折も折、図らざる天の一方から急に二十三十の複雑の程度に進んだ開化が現われて俄然として我らに打ってかかったのである。この圧迫によって吾人はやむをえず不自然な発展を余儀なくされるのであるから、今の日本の開化は地道にのそりのそりと歩くのでなくって、やッと気合を懸けてはぴょいぴょいと飛んで行くのである。開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る余裕をもたないから、できるだけ大きな針でぼつぼつ縫って過ぎるのである。足の地面に触れる所は十尺を通過するうちにわずか一尺ぐらいなもので、他の九尺は通らないのと一般である」(「現代日本の開花」)


 江戸時代末期までの日本が、内発的な発展の歩みによって、資本主義経済の自立的な発展の土台を形成しつつあったこと、しかし、まさにその段階で、欧米列強による猛烈な圧力に晒されて、先進資本主義国による世界市場形成の動きに強制的に組み込まれてしまったこと――この二面性(二重構造)を捉える必要があります。夏目漱石は、近代日本を一生懸命腹を膨らませて牛と競争をする蛙にたとえましたが(『それから』)、必死に頑張れば欧米列強に何とか対抗できなくもなかったという点に、かえって近代日本の悲劇があったということもできるでしょう。

 経済に即していえば、資本主義的な国内統一市場が完成させられる前に世界市場に強制的に組み込まれてしまったために、個々の産業部門の連関が国内取引ではなく貿易によって完結する構造がつくられてしまったこと、国家権力の主導で少数の近代的大企業が育成された一方、前近代的小企業・家業的零細企業と農業が広範に残存するという、いわゆる「二重構造」がつくられてしまったこと、「富国強兵」「殖産興業」というスローガンの下に急速な工業化を推進したために、労働者の権利がまともに顧みられなくなってしまったことなどを指摘することができます。

 バブル崩壊後の長期不況のなかで、日本企業は、雇用・設備・債務のいわゆる「3つの過剰」の削減を強力に進めるとともに、政府に対して、企業活動を縛る諸々の規制の緩和や、税制や社会保障の改革による企業の公的負担の軽減を強く求めてきました。これらは、大きくみれば、1980年代以降に世界的な潮流となった新自由主義的改革の一部だと見なすことができます。しかし、企業の利益のために国民生活が犠牲にされやすいという構造をもつ日本経済においては、その影響はとりわけ深刻な形で現われてこざるをえないのです。とりわけ、1998年以降は労働者の賃金がほとんど伸びなくなり、GDPの約60%を占める個人消費が低迷を続け、GDPの約15%しかない輸出が景気の動向をもっぱら左右するという構造がつくられてしまいました。

 日本経済の再生を掲げた「アベノミクス」は、このような歪んだ構造を是正しようとするものではありません。従来の経済政策が行き詰まっているなかで、金融緩和や財政出動など、短期的に景気浮揚効果のありそうな政策(大胆な金融緩和による円安で輸出大企業が潤えば、そのおこぼれがやがては広く国民に行き渡るであろう、という「トリクルダウン」の発想にもとづいたもの)を掲げつつ、「成長戦略」の名のもと「世界で一番企業が活躍しやすい国」をスローガンに、より一層の新自由主義的政策を推進しようとするものであり、日本経済の危機をいっそう深めていくものにほかならないというべきでしょう。

 日本経済をまともな再生の道に乗せるために緊急に必要なのは、輸出ばかりに頼るのではなく、内需主導による景気回復を目指すこと、より具体的には、格差と貧困の是正、雇用の質の確保、社会保障制度の充実などを通じて国民生活を安定させ、個人消費の回復につなげていくことです。その上で、資本主義経済の世界的な規模での行き詰まりという現状をも踏まえつつ、長期的な視野に立って、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――をどのように解決していくべきなのかを模索していかなければなりません。

 そのための指針となる経済学の体系を構築すること、さらに、その前提となる社会科学の体系を構築することこそ、我々京都弁証法認識論研究会の歴史的使命であることを確認して、本稿を終えることにします。

(了)
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2017年07月08日

日本経済の歴史を概観する(12/13)

(12)これまでの日本経済の歴史の流れを振り返ると

 本稿は、これからの日本経済の進むべき方向を考えていくための前提として、日本経済の構造がどのような歴史的な過程によってつくられてきたのかを問うものであり、無限に増大していく社会的欲求を最大限に満たし続けていくために有限な社会的総労働をどのように配分していけばよいのか、という問題がどのように解決されてきたのか、という観点から、縄文時代から現代までの歴史を概観していこうとするものです。

 本稿で、辿ってきた日本経済の歴史の流れを改めて簡単に示すならば次のようになります。

 農業共同体―→部民制―→律令制―→荘園公領制―→大名領国制―→幕藩制
 ⇒ 資本主義経済の成立と発展

 この流れを念頭に置きながら、本稿でこれまで説いてきた内容を簡単に振り返っておくことにしましょう。

 農耕が開始されたことで、諸集落の複合体たる農業共同体が形成され、多数の人々が1人の指導者の下で協働するようになり、他の共同体と対峙しながら、生活資料および生産手段の計画的な生産・分配を行っていくようになりました。

 小国家(農業共同体連合)どうしの争いのなかから成立してきた大和政権は、支配階級の諸欲求を満たすために、諸々の労働力を「部民」として組織した上で従属させるようになりました。

 さらに、律令制のもとでは、個人を課税の単位とし、労働力再生産の場として口分田を割り当てることで、剰余生産物を納めさせつつ、国家の必要に応じて労働力としても徴発するという構造がつくられました。しかし、こうした重い税負担が農民の労働意欲を削いでしまったことから、中央政府が剰余労働・剰余生産物を独占的に集めて、官人などへ必要に応じて分配するという構造は崩れてゆき、有力者がそれぞれ独自に(私的に)自己の諸需要を満たすための供給基盤をもつようになっていきました。

 こうしたなかで、有力農民たちは、自ら開発した土地の保護を求めて、貴族や寺社に土地を寄進するようになりました。その結果、在地領主が零細農民から剰余生産物を取り立てて中央領主に年貢として納めるという関係が成立し、ひとつの土地に複数の人の権利が重なり合う構造がつくられていきました。

 農業技術の改良によって農業生産力が発展すると、剰余生産物を交換するための市が設けられるようになり、手工業や商業、金融業も著しく発展しました。こうしたなかで、剰余労働を生産の現場により近いところで掌握できた在地領主層(武士)が中央領主層(貴族)を圧倒し、政治的に大きな力をもつようになっていきます。やがて、戦国大名たちが、広い領国を統一的に支配するようになり、他国との熾烈な戦いに勝ち抜けるだけの国力の確保に努めるようになりました。

 全国統一政権としての江戸幕府は、自給自足的な農民経済と領主権力が主導する商品経済という二重構造をつくりました。農民を市場経済から切り離し、農民から収取した年貢米を市場で貨幣に換えた上で、武士たちの諸欲求を満たすための諸商品を購入したのです。しかし、増大する都市住民の諸欲求を満たすために、農民経済と市場経済の相互浸透が進んでいき、「米価安の諸色高」と呼ばれる状況が現出したことで、幕府財政は深刻な危機に陥り、政治的な支配力も減退させていくことになりました。一方で、農村への市場経済の浸透によって、農民の階層分解による賃労働者の萌芽的な登場、工場制手工業の展開もみられました。

 このように、日本経済は、江戸時代後期までの内発的な発展によって、資本主義を成立させる寸前のところまで到達していたといえます。しかし、日本経済の資本主義化は、こうした動きの自然な延長線上で展開していったわけではありません。欧米列強からの圧力に抗して国家の独立を維持しなければならないという強烈な危機意識にもとづいて、国家権力の主導で上からの資本主義化が推進されたのです。

 幕藩体制を解体して新たな統一国家を樹立した維新政府は、財政的な基盤の確立のため秩禄処分と地租改正を行い、「富国強兵」を掲げて殖産興業政策を推進しました。産業の発展を資金面から支えるために、近代的な金融制度の創出も図られました。中央銀行による兌換券の発行を目指す過程では、それまで増発されていた不換紙幣の償却を進めるため過酷なデフレ政策(松方デフレ)がとられ、米価は著しく下落しました。このため、多くの自作農が土地を手放して小作農に転落し、生きていくために自らの労働力を売るしかない賃労働者が大量に創出されることになったのでした。このようにして準備された資本と賃労働力を前提にして、まずは製糸・紡績業を中心に、機械を本格的に導入する産業革命がスタートしました。欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持するという意識から、何よりも重視されていたのは兵器生産をはじめとする重工業の発展でしたが、重工業の発展のためには、まずは欧米諸国から資源や機械を輸入する必要がありました。そのために必要な外貨を稼いだのが、綿糸・綿織物や生糸といった繊維製品の輸出だったわけです。しかし、1930年代に、世界恐慌からの脱出をはかるために欧米列強がブロック経済化を進めると、日本からの輸出は高い関税によって対抗され、大きく減少していくことになりました。中国との戦争をはじめた日本は、石油やゴムなど戦争の遂行に必要な物資の確保をめざして「大東亜共栄圏」を掲げた南進政策をとりますが、これは列強の日本への経済封鎖を強め、やがて太平洋戦争につながりました。政府は、1931年の満州事変以降、戦争遂行のために経済統制を強め、少なくなっていた資源や労働力を軍需産業に集中させていきましたが、軍需品以外の生産が著しく減少し、食糧難も深刻化してしまったために、1945年以降、戦争の継続は不可能となり、ポツダム宣言を受け入れて降伏したのでした。敗戦後の日本では、連合国の占領の下、寄生地主制の解体、財閥の解体、労働組合の結成の奨励など、経済の民主化が進められました。また、均衡予算、所得税中心の税制改革、単一為替レートの設定などで、経済の安定が図られました。1950年、朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍への軍需物資の供給を日本企業が担ったことで、日本経済は急速に回復の軌道に乗り、1955年から1973年ころまで、年平均の経済成長率が10%を超える高度成長となりました。高度成長を牽引したのは、民間企業の活発な設備投資でした。さらに労働者の所得が順調に伸びていったことから設備投資と個人消費の好循環が確立され、「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や「3C」(自動車、クーラー、カラーテレビ)などの耐久消費財が普及していくことになりました。これら耐久消費財がひととおり国内に普及してからは、輸出の拡大が設備投資を大きく刺激するようになりましたが、1973年の変動相場制への移行による円高の進行は、日本企業の輸出にとって不利な条件となりました。そこに1974年のオイル・ショックが重なって深刻な不況となり、高度成長は終わりを告げたのでした。日本企業は、資源・エネルギーの有効活用などによって急速に輸出競争力を回復したものの、このことが貿易摩擦問題を引き起こし、1985年の先進5カ国蔵相会議(G5)の結果、円高誘導が図られるようになると、日本経済は一挙に不況に落ち込みました。こうしたなか、日本の内需拡大を要求するアメリカからの強い圧力もあって、財政支出の拡大と超低金利政策がとられるようになりましたが、その結果、膨大な資金が溢れて株式・土地などの購入に向かい、地価や株価の異常な値上がりというバブルが生じました。このバブルは1990年代に入って崩壊し、日本経済は長期不況に落ち込むことになったのでした。
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2017年07月07日

日本経済の歴史を概観する(11/13)

(11)高度経済成長とその終焉

 前回は、日本における産業革命の過程、さらに戦時統制経済から戦後改革への流れを簡単に辿ってみました。日本資本主義の確立過程においては、欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持するという意識から、兵器生産をはじめとする重工業の発展が何よりも重視されました。しかし、重工業の発展のためには、まずは欧米諸国から資源や機械を輸入する必要がありました。そのために必要となる外貨を稼いだのは、綿糸・綿織物や生糸といった繊維製品の輸出であり、これらの工業を支えた賃労働力は、農村の零細農家から供給されたのでした。こうした工業の発展は、貿易の二重構造――欧米に対しては、生糸を輸出し重化学工業製品を輸入するという後進国型、アジアに対しては、綿花など工業原料や食料を輸入して工業製品である綿製品を輸出するという先進国型――によって支えられていました。しかし、1930年代に、世界恐慌からの脱出をはかるために欧米列強がブロック経済化を進めると、日本からの輸出は高い関税によって対抗され、減少していくことになりました。中国との戦争をはじめた日本は、石油やゴムなど戦争の遂行に必要な物資の確保をめざして「大東亜共栄圏」を掲げた南進政策をとりますが、これは列強の日本への経済封鎖を強めることになりました。政府は、1931年の満州事変以降、戦争遂行のために経済統制を強め、少なくなっていた資源や労働力を軍需産業に集中させていきましたが、軍需品以外の生産が著しく減少し、食糧難も深刻化してしまったために、1945年以降、戦争の継続は不可能となり、ポツダム宣言を受け入れて降伏したのでした。敗戦直後の日本は、多くの都市が戦災を受け、残った工場も休業状態となって失業者は激増、生活物資の不足から物価が激しく上昇する、といった状態でした。敗戦後の日本では、連合国の占領の下、寄生地主制の解体、財閥の解体、労働組合の結成の奨励など、経済の民主化が進められました。また、均衡予算、所得税中心の税制改革、単一為替レートの設定などで、経済の安定が図られました。しかし、その結果として、国内経済は深刻な不況に見舞われることになったのでした。

 さて、今回は、1950年代半ば以降のいわゆる高度経済成長期から現在までの日本経済の歴史の流れを簡単に辿ってみることにしましょう。

 1950年、朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍への軍需物資の供給を日本企業が担ったことで、日本経済は急速に回復の軌道に乗っていくことになります。さらに1955年から1973年ころまで、年平均の経済成長率が10%を超える高度成長となったのでした。

 高度成長期の日本においては、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――は、どのように解決されていたのでしょうか。

 それは端的にいえば、増大していく大衆的な欲求を満たすべく、企業が積極的な設備投資を行うとともに、技術革新の過程を支える労働力を企業内に囲い込んでそれなりに高い賃金を保障することで、企業が生産した商品を労働者に買い取らせる、という構造がつくられることによって、でした。

 もう少し詳しくみていきましょう。

 高度経済成長を牽引したのは、何といっても、アメリカ的なライフスタイル(電化製品や自家用車をもった豊かで便利な生活)への大衆的な憧れであったといえます。

 こうした大衆的な欲求に応えたのが、民間企業の盛んな設備投資でした。これは欧米諸国からの革新的な技術の導入を伴うものでした。欧米諸国との技術水準の差が大きく開いてしまっていたことが、逆に企業を刺激し続けたのです。この設備投資の過程は、大きく2つの面から捉えておく必要があります。第一は、そもそも技術革新は何によって支えられたのかということです。第二は、設備投資の結果として高まった生産(供給)が消費(需要)とどのようにバランスをとったのかということです。この2つの面を媒介したのは、企業による労働者支配の構造にほかなりませんでした。

 まず、技術革新の過程を支えたのは、新しい技術に対応できるだけの実力をもった若い労働力が供給され続けたことでした。日本の大企業は、こうした労働力を企業にしっかりと囲い込むために、年功賃金や終身雇用の制度を形成し、企業内福利の充実を図ったのです。日本においては、健康で文化的な生活への要求は、基本的人権を根拠とする公的な社会保障制度として、すべての国民に対して直接に満たされるというよりも、企業の一員であることを媒介にして企業内の制度によってある程度まで満たされる、という形をとったのです。この結果、労働者の間には、企業の繁栄こそが自分たちの幸福につながるという意識が広範に定着していくことになりました。企業別に組織された労働組合も、労使協調的な傾向を強めていきました。

 このような構造のもとでは、企業の業績さえよければ、国民の所得はどんどん増え、個人消費が伸びていくことになります。このことが活発な設備投資を促すことになったのです。このような設備投資と個人消費の好循環を通じて、「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や「3C」(自動車、クーラー、カラーテレビ)などの耐久消費財が普及していくことになりました。

 これらの耐久消費財がひととおり国内に普及した高度成長期の後半には、国内の個人消費に加えて、輸出の拡大が設備投資を大きく刺激するようになりました。しかし、1973年の変動相場制への移行による円高の進行は、日本企業の輸出にとって不利な条件となりました。そこに1974年のオイル・ショックが重なったことで日本経済は深刻な不況に陥り、高度成長は終わりを告げることになります。

 日本企業は、資源・エネルギーの有効活用などによって急速に輸出競争力を回復したのですが、先進国のなかで日本だけが突出して輸出競争力を強めてしまったことが貿易摩擦問題を引き起こしました。このため、1985年の先進5カ国蔵相会議(G5)によって円高への誘導がはかられることになり、日本経済はいっきょに不況に落ち込んでしまいました。この不況は2つの重要な結果をもたらすことになります。

 第一は、日本の内需拡大を要求するアメリカからの強い圧力もあって、財政支出の拡大と超低金利政策がとられたことです。この結果、膨大な資金が溢れて株式・土地などの購入に向かい、地価や株価の異常な値上がりというバブルが生じました。このバブルは1990年代に入って崩壊し、このことをきっかけにして、日本経済は長期不況に落ち込むことになります。

 第二は、円高への対応として、日本企業が海外に生産拠点を移す動きが本格化したことです。しかし、日本企業の競争力の源泉は、労働者や下請企業との独特な関係という国内的な要因にありました。海外進出した企業は、こうしたことの全くないところから競争力を築いていくことを迫られたのです。相対的に、日本企業の競争力は低下せざるをえず、このことが不況の克服を遅らせる要因になったといえます。

 バブル崩壊後の長期不況のなかで、企業は、雇用・設備・債務のいわゆる「3つの過剰」の削減を強力に進めるとともに、政府に対して、企業活動を縛る様々な規制の緩和や、税制や社会保障の改革による企業の公的な負担の軽減を強く要求しました。こうした政策を徹底して進めたのが、2001年に登場した小泉政権の「構造改革」でした。

 しかし、公的な社会保障制度よりも企業内の制度によって国民生活が安定させられる度合いが強いという構造のもとで企業が正規雇用を削減することは、個人消費の著しい停滞につながりました。この結果、景気の動向がGDPの15%ほどしかない輸出によってもっぱら左右されてしまうという構造がつくられてしまったのです。このことは、2008年のリーマン・ショック以降の世界経済危機のなかでも、日本経済の落ち込みをとりわけ深刻なものにしました。また、公的な社会保障制度が充分でないもとでの正規雇用の減少は、貧困などの問題を深刻化させています。

 輸出ばかりに頼るのではなく、貧困問題への取り組み・公的な社会保障制度の充実などを通じて国民生活を安定させ、個人消費の回復につなげていくことが、日本経済のこれからの発展にとって、避けて通れない課題となっているといえるでしょう。
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2017年07月06日

日本経済の歴史を概観する(10/13)

(10)戦時統制経済から戦後改革へ

 前回は、江戸時代末期の開国による混乱を経て、日本における資本主義が成立してくる過程について、簡単に辿ってみました。明治新政府は、幕藩体制を解体して新たな統一国家を樹立し、その新政権の財政的基礎を確立するため、次々と近代化政策を打ち出していきました。そのなかで、資本主義経済が成立させられていく上で重要な役割を果たしたのは、秩禄処分・地租改正と殖産興業・通貨信用制度の創設でした。新政府は、士族に支給されていた俸禄について金禄公債証書を与えた上で全廃し、土地の売買を自由化した上で地価を定め、その3%を地租として現金で納めさせるようにしました。また、官営工場を建設し、外国から新しい機械を買い入れ、技術者を招いて、製糸や紡績、造船や兵器生産を進めていきました。こうした産業の発展を資金面から支えるために、近代的な金融制度の創出が図られました。中央銀行による兌換券の発行を目指す過程では、西南戦争の戦費調達のために増発された不換紙幣の償却を進めるため過酷なデフレ政策(松方デフレ)がとられました。米価が著しく下落したにもかかわらず、地租は定額金納だったため、農民の負担は著しく重くなり、多くの自作農が土地を手放して小作農に転落しました。こうして、生きていくために自らの労働力を売るしかない賃労働者が創出されます。このようにして準備された資本と賃労働力を前提にして、まずは製糸・紡績業を中心に、機械を本格的に導入する産業革命がスタートしました。江戸時代末期までに、市場経済が大きく発展し、工場制手工業も広まりつつあったものの、こうした動きの単純な延長線上に日本経済の資本主義化があったわけではありません。こうした経済発展を土台としながらも、欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持しなければならないという強烈な危機意識にもとづいて、国家権力の強力な主導により、上からの資本主義化が推進されたのでした。

 さて、今回は、日本における産業革命の過程、さらに戦時統制経済から戦後改革への流れを簡単に辿ってみることにしましょう。

 そもそも、日本における資本主義経済の形成の過程においては、欧米列強の圧力に抗して国家の独立を維持するという意識から、兵器生産をはじめとする重工業の発展が何よりも重視されることになりました。そのための鉄資源の確保という思惑もあって、日本は朝鮮半島や中国大陸への侵出を狙っていくことになります。しかし、重工業の発展のためには、まずは欧米諸国から資源や機械を輸入する必要がありました。そのために必要となる外貨を稼いだのは、綿糸・綿織物や生糸といった繊維製品の輸出にほかなりませんでした。これらの工業を支えた賃労働力は、農村の零細農家から供給されたのです。

 日本における産業革命(機械制大工業が成立して、資本家が労働者を雇って働かせるという関係が社会全体に広く行きわたる過程)は、松方デフレの後にはじまり、日清戦争、日露戦争を通じて急速に進展しました。民間では、製糸業、紡績業、織物業といった軽工業が大きく発展しました。重工業の中心は、陸海軍工廠を中心とする官営工場で、民間では造船業が発展しました。このほか、鉱山業や運輸通信業も多数の労働者を集めました。日清戦争、日露戦争の結果、満州の鉄・石炭資源が確保されたことは、製鉄・車両・造船・機械などの重工業を大きく発展させました。しかし、日露戦争の後には、過剰投資の反動として恐慌が起き、紡績・製糸・製糖・化学などの業種において、企業の合併・吸収が進んで、特定の大資本による独占の傾向が強まりました。その過程を通じて大銀行による企業支配も強まり、財閥が形成されることになりました。

 このような工業の発展の過程は、貿易の二重構造によって支えられていました。すなわち、欧米に対しては、生糸を輸出し重化学工業製品を輸入するという後進国型、アジアに対しては、綿花など工業原料や食料を輸入して工業製品である綿製品を輸出するという先進国型、という貿易の二重構造です。

 日本経済の資本主義化は、こうした対外関係に大きく規定されながら進むことを余儀なくされました。結果として、日本国内で諸々の産業部門が有機的に結びつきを強めていくということが希薄で、それぞれの産業部門が国内的な連関を欠いたまま外国との貿易関係を通じて発展していく(例えば、綿花を輸入して綿糸を輸出する、など)、という傾向が強かったのです。

 1914年から1918年にかけての第一次世界大戦は、日本の資本主義経済を大きく変化させました。第一次世界大戦は「大戦ブーム」と呼ばれた好況をもたらし、繊維工業のみならず、造船・鉄鋼・電力・電機・化学など、民間における重化学工業を含めて、様々な分野で企業の新設・拡張が相次ぎ、経済規模が急激に膨張しました。しかし、戦争が終わってヨーロッパ諸国の産業が復興すると、日本への注文は減り、不景気となってしまいました。その後も日本経済は、1923年の震災恐慌、1927年の金融恐慌など、恐慌に相次いで見舞われ、本格的に回復しきれないままに、1930年代の世界恐慌の時代に突入していきます。こうした過程のなかで、労働組合運動や社会主義運動も激化していきました。

 イギリスやフランスなどの列強が、世界恐慌からの脱出をはかるためにブロック経済化(国内資源や植民地を有している国が、自国通貨を決済通貨としてグループをつくり、グループ内の関税を軽減して域内通商を確保するとともに、域外からの輸入には高関税をかけて自国産業を保護する)を進めていくと、日本からの輸出は高い関税によって対抗され、減少していくことになりました。日本は、列強のブロック経済圏に日満経済ブロックを形成して対抗しようとします。1931年の満州事変、1934年の「満州国」建国を経て、1937年には中国との戦争がはじまり、次第に拡大していきます。日本は、石油やゴムなど戦争の遂行に必要な物資の確保をめざして「大東亜共栄圏」を掲げた南進政策をとりますが、これは列強の日本への経済封鎖を強めることになりました。1941年12月には、真珠湾(ハワイ)に奇襲攻撃をかけてアメリカに宣戦布告、太平洋戦争となりました。こうしたなかで日本政府は、1931年の満州事変以降、戦争遂行のために経済統制を強め、少なくなっていた資源や労働力を軍需産業に集中させていきました。1944年には、中学生以上の生徒、12歳以上の女子は軍需工場に動員され、サービス部門の労働者も転業を強制されました。要するに、戦時の日本政府は、社会的な諸欲求を抑圧し(「欲しがりません、勝つまでは」)、社会的総労働の配分過程に強力に介入して、それらが軍需産業に集中的に投入されるようにすることで、経済の根本問題――無限に増大しようとする社会的欲求を最大限に満たし続けるために社会的総労働をどのように配分していけばよいか、という問題――の解決を何とかして図ろうとしたわけです。しかしながら、社会的欲求を抑圧して、軍需生産ばかりに社会的総労働を投入するというやり方では、国家の中長期的な維持・発展が可能になるはずがありません。結局、軍需品以外の生産が急激に減退し、とりわけ農村における労働力の不足が深刻になることで、主食である米の収穫量が激減することになってしまいました。こうして、戦争の続行は不可能となり、1945年8月、日本はポツダム宣言を受け入れて降伏したのでした。

 敗戦当時の日本は、多くの都市が戦災を受け、残った工場も休業状態となって失業者は激増、生活物資の不足から物価が激しく上昇する、といった状態でした。

 敗戦後の日本では、アメリカを中心とする連合国の占領の下、経済の民主化と非武装化が進められました。連合国軍総司令部(GHQ)によって、兵器・航空機など軍事に関係する物資の生産が禁止され、重工業にも多くの制限が課されました。とりわけ、日本軍国主義を成立させた背景として、寄生地主制と財閥による産業支配とが取り上げられ、その解体が指令されました。独占禁止法などの制定によって財閥の解体が進められ、農地改革によって寄生地主制が解体されます。さらに、労働組合の結成が奨励されるなどして、経済の民主化が進められました。

 日本経済の復興は、石炭と鉄鋼という2つの基礎的な産業部門に集中的に資金・資財を投入して産業の拡大再生産を図るという傾斜生産方式によって始められました。復興金融公庫を通じた政府資金(復興債の発行)による企業への融資がその過程を支えました。しかし、こうした政策はインフレを加速させてしまいました。GHQは、インフレを収束させ、日本経済を自立化させるために、均衡予算、所得税中心の税制改革、単一為替レートの設定などを要求し、実施させました。その結果、国内経済は深刻な不況に見舞われることになりました。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言

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