2015年11月13日

夏目漱石を読むD――道草、明暗(2/2)

(2)『明暗』――社会的環境に規定された認識の絡み合いを客観的に描く

 漱石読書会の第12回(一応の最終回)に取り上げたのは未完の大作『明暗』(1916〔大正5〕年、「朝日新聞」に5月26日から12月14日まで連載され、作者病没のため188回までで中断、1917〔大正6〕年に岩波書店から刊行)です。

 読書会の場では、まず「物語が佳境を迎えようとするところで突然中断させられてしまうのは非常に残念だが、それまでの部分で十分に堪能できる。やはり漱石の他の作品とは別格の見事な小説であると思った」との感想が出されました。「物語世界がきちんと構造化されて、しっかりと伏線が張り巡らされているし、諸々の登場人物の造形も見事である。主人公は津田由雄(30歳)およびその新妻・お延(23歳)であるが、いわば「公平な観察者」の視点で両者を扱っており、お延の内面にぐっと入り込んで、お延が主人公のように進行していく個所が多々あるのは、これはそれまでの漱石作品にはなかったものだろう」とのことでした。

 このことに関連しては、この『明暗』では、人間の認識というのは社会的環境に規定されてつくられていくということが実に見事に描かれているといえるのではないか、という指摘もなされました。このことは、裕福で余裕のある吉川夫人、不安定な中間階層たる津田、貧困で自棄になっている小林の三者を並べてみただけでもよく分かるのであって、社会的格差の問題を根底に据えて実に見事に登場人物が造形されているといえるのではないか、とのことでした。

 ここからさらに踏み込んで、この『明暗』では、物語世界の構造化において社会的な格差の問題が下敷きとなっており、人間と人間との関係がカネとカネとの関係として現われてしまうことが重要な要素となっていることが注目される、という指摘もなされました。もう少し詳しくいえば、津田夫婦を真ん中において、カネの力で人間を支配しよう(意のままに動かそう)という上層の世界(津田の上司の妻である吉川夫人によって代表される)と、カネがないために諸々の社会的な関係からの疎外感を痛切に味わっている下層の世界(津田の友人で、食い詰めて朝鮮に渡ろうとしている小林によって不気味に代表される)が広がっています。津田は上層の世界に対して従順であろうとするわけですが、津田に絶対に愛されたいなどというお延は上層の世界の秩序を乱しかねない(上層の世界からみれば)危険な存在にほかなりません。いささか乱暴に単純化していえば、津田には主体性がなく(露骨にいえば、吉川夫人の意図通りに動くのが自分の社会的地位を確かなものにするのだと割り切っている)、お延には強烈な主体性があります。とはいえ、結局のところお延も、上層の世界に視点を向けて、自らをよく見せたい(夫から深く愛され、夫を意のままにする悧巧な妻として見られたい)という虚栄心に縛られているだけだという点には注意が必要だろう、という指摘もなされました。

 このほか、漱石の描く会話の緊迫感の見事さには感動した、という感想も出されました。とりわけ、お延とお秀の対決の場面、会話による戦争とでもいうべき場面の見事さは特筆すべきものがあるのではないか、ということでした。ここでは、お延が諸々の像を描きつつ、それをひとつの言語に収斂していく過程が、非常に分析的に描かれています。他愛もないといえば他愛もない会話ですが、それをここまで手に汗握る展開に仕立て上げた漱石の筆力はやはり素晴らしいものがあるだろう、ということでした。

 さて、この作品は未完ですから、漱石がどのような結末を想定していたのか、具体的に知ることはできません。津田はいざというときに自身のあり方を改めて主体性ある人間になれるのかなれないのか。お延は(ともすればカネで人間を自由に動かそうとする)上層世界の価値観から自由になれるのかなれないのか。こうした問題に、自分には世の中がなく人間がないといいカネをぞんざいに扱って見せる小林(これはあらゆる社会的なしがらみから自由であるという強みでもある)がどのように絡んでくるのか。津田が読んでいた「経済学の独逸書」(マルクス『資本論』のことだとされます)は物語の結末に向けた展開に何らかの役割を果たすのか果たさないのか。物語の結末に向けて、様々な疑問が提起されました。

 あるメンバーからは、認識論の高いレベルの実力があれば、晩年の漱石に二重化して『明暗』を見事に書き継ぐことができるのではないか、『明暗』の結末について明瞭に語れるかどうかということこそが、漱石の思想のレベルをしっかりとつかむことができたかどうかの試金石になるのではないか、という提起がありました。こうした提起を受けて、他のメンバーから、実際に『明暗』を書き継いだ試みとして、水村美苗『続明暗』(ちくま文庫)、田中文子『夏目漱石『明暗』蛇尾の章』(東方出版)、粂川光樹『明暗 ある終章』(論創社)という3作品が存在することが紹介され、一応全てに目を通してみたもののいずれも決定打に欠ける感は否めなかった(例えば、『続明暗』は漱石的文体の模倣が上手くなかなか読み応えはあったが、小林の扱いに物足りなさ〔違和感〕が残る)、という感想が述べられました。その他、多くの作家や評論家による『明暗』の結末をめぐる発言についても、同様にいずれも決定打に欠ける印象があることが語られました。

 読書会に参加していたメンバーからは、『明暗』の結末について、「津田が清子と再婚するような展開になるのではないか。これまでの作品でも略奪愛的なものが色々あったが、それらは『門』の宗助にしろ『こころ』の先生にしろ略奪した側が主人公だったので、『明暗』では略奪された側が取り返すという新境地が開かれることになるのではないか」「優柔不断な津田が危機に直面したからといって主体的な人間に早変わりできるとは到底思えず、結局津田は破滅するほかないのではないか。物語世界で複雑に絡み合った諸問題を片付けるためには、強い意志を持ったお延とあらゆる社会的なしがらみから自由な小林が何らかの形で結びつくことが必要となるのではないか」といった予想が語られました。

 この問題については引き続き議論していくことを確認して、読書会は一応の終了となりました。

(了)
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2015年11月12日

夏目漱石を読むD――道草、明暗(1/2)

目次
(1)『道草』――「公平な観察者」的な視点の獲得
(2)『明暗』――社会的環境に規定された認識の絡み合いを客観的に描く

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 京都弁証法認識論研究会では、昨年の6月より、月に1冊のペースで、夏目漱石の中・長編小説を読んで感想を交流しあう場を設けてきました(これは、漱石が描く小説中の諸人物の心に着目すると同時に、それらを書いている漱石自身の心〔認識の発展〕にも着目していく、という二重の観点から、認識論の学びを深めていくためのものでした)。

 本稿では、その第14回目、第15回目の議論の様子を紹介することにします。作品としては最後の2つ、『道草』『明暗』が対象となります(漱石読書会はこれで一応の終了です)。

(1)『道草』――「公平な観察者」的な視点の獲得

 漱石読書会の第11回目に取り上げた作品は、『道草』(1915年〔大正4年〕、「朝日新聞」に6月3日から9月14日にかけて連載)です。これは漱石の自伝的作品であり、『吾輩は猫である』執筆の頃の生活の様子がもとになっているとされています。大学教員として忙しい日々を送る主人公・健三のもとに、かつて縁を切ったはずの養父・島田が思いがけなく現われ、金銭を要求します。健三は何とか工面して一応の区切りをつけるものの、これでようやく片が付いた、と喜ぶ妻に対して「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない」と苦々しく吐き出すのです。

 読書会のなかではまず、あるメンバーから「漱石の思想を研究するという問題意識からすれば、この『道草』は非常に興味深い作品であるが、冷静に純粋にひとつの小説としてみた場合、果たしてこんな話が面白いのだろうか、と思わざるを得ない面もある。私自身は漱石の思想的発展への興味が強く、この作品も何度も読み込んでいるので、そのあたり何とも判断しがたくなってしまっているのだが、今回初めて読んでみた方がいれば、率直な感想が聞いてみたい」という提起がありました。

 これに対しては、初めて読んだというメンバーから「ひとつの物語としてみれば、確かに尻切れトンボというか『えっ、カネを渡してそれでおしまい!?』といった戸惑いはなくはなかったが、そうした結末に至る過程についていえば、健三やお住(健三の妻)の認識の動きがなかなか見事に描かれていて、それなりに楽しめるものではあった」という感想が出されました。

 この感想に関連して、健三とその妻の認識のすれ違い見事に描いた個所として、家計の困窮を知った健三が、仕事を増やして受け取った報酬を封筒のまま畳に放り出して妻に渡すシーンが指摘されました。

「その時細君は別に嬉しい顔もしなかった。然し若し夫が優しい言葉に添えて、それを渡して呉れたなら、屹度嬉しい顔をする事が出来たろうにと思った。健三は又若し細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた。」


 ここでは、互いが相手の責任のみを強調し、自分の非には一切気付かないでいることが暴かれているわけです。

 このことに関連して、健三(他ならぬ漱石自身をモデルに造形された人物)の言動・思想を非常に高い視点から批判するような個所が少なからずみられることこそが、『道草』の最も重要な特徴なのではないか、という見解が示されました。「先生」が自らの死と引き換えに自らの暗い過去を明かした『こころ』の後に、こうした漱石自身の過去に鋭い分析のメスを入れるような作品が書かれたということを、重く受け止めるべきではないか、『こころ』の「先生」に徹底して自身の暗い過去を暴かせたことによってはじめて、漱石は他ならぬ自分自身の過去を徹底的に掘り下げていく決意を固めることができた(そのような問題意識を抱くに至った)、いうことではないだろうか、という見解です。

 そこからさらに踏み込んで、この『道草』の趣意は、自分自身を周囲の人間よりも立派だと信じて疑わない健三の思い上がりを批判するところにあったといえるのではないか、という見解も示されました。物語中、健三自身、このことには薄々気づき始めている節があります(例えば、第67章において姉について「姉はただ露骨なだけなんだ。教育の皮を剥けば己だって大した変りはないんだ」という反省を強いられるところは印象的)が、より高い視点からの批判が折々に挟まれることによって、健三が(より高い視点から)批判されているという印象は強められています。作家生活のスタート地点で『野分』の白井道也を理想的な高邁な人物として描いたところから、『こころ』の「先生」を自殺させてしまったところにまで至って、漱石は徹底した自己批判(健三批判という形を借りての媒介的なものですが)を試みなければ、それ以上作家として前に進むことができなくなっていた、ということなのかもしれない、ということでした。

 同時に、かといって健三が細君や姉などと同レベルの存在として片づけられてしまっているわけでもないことが指摘されました。『道草』の最後の部分では、ただ形式的にのみ片がつけばそれでよしとする周囲の人物(細君の御住を筆頭に)との対比で、健三がそういう上っ面に騙されず、片付かないという本質をしっかりと掴んだ上で、なおそれを片付けなければならない意志を示しているのです。この点で、健三は周囲の人物よりも間違いないなく優位にあるといえます。ここに、これ以降の漱石の作家としての方向性が示されているということができるかもしれない、という指摘もなされました。

 このほか、漱石の諸々の作品を形作る要素は、他ならぬ漱石自身の現実の生活のなかにあったのだな、ということを強く感じさせられる作品であるところが興味深い、という感想も出されました。このことに関連しては、健三と御住の夫婦関係は、『行人』の一郎と御直の夫婦関係を彷彿とさせる、という指摘がなされました。健三は我儘に育てられた結果、世間と調和できなくなっているのであり、細君など自分の思い通りになって当然だと考えています。一方、御住は御住で、どうとでもしろ! と開き直ったような強さを持っています。これはまさに『行人』の一郎・御直の夫婦関係についての謎解きとして読めるのではないだろうか、ということでした(『行人』については「夏目漱石を読むC」を参照のこと)。

 ただし、『道草』の夫婦関係の場合、『行人』の夫婦関係のように暗さ一辺倒で(悪い方向へとどんどん深刻化していくように)描かれるわけではなく、緩和剤としての細君の病気(歇斯的里)の効果もあって、微かな明るさというか救いのようなものも感じられるのが興味深い、という感想も出されました。これは、『道草』が、健三も御住をも平等に見渡すような、いわば「公平な観察者」の視点で、それぞれの言い分をある程度までは認めつつも、しかも批判すべきところは批判する、というような視点で描かれていることによるのかもしれない、ということでした。一種の客観性というか、余裕のようなものが感じられる、というわけです。

 このことに関わっては、『行人』の場合、御直の内面に分け入っての記述はない(あくまでも一郎や二郎あるいは母親など、周囲の人物から見ての彼女の姿が描かれるだけであった)のに対して、『道草』の場合、御住の内面に分け入っての記述がかなりあることが指摘されました。漱石が女性の内面をまともに描けるようになったのはようやく『明暗』においてである、という評価もあるわけですが、そうした飛躍の準備は、この『道草』においてしっかりとなされていたのだ、ということになるのではないか、ということでした。

 このほか、『道草』に描かれた漱石の実生活と漱石の作品世界との連関ということについて、過去がどこまでも追いかけてくるというモチーフ(『道草』においては島田や御常という具体的人物の形をとって登場する)は『虞美人草』『それから』『門』などに共通しているし、社会全体から見捨てられたという疎外感(第91章「健三は海にも住めなかった。山にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた」)は『猫』において滑稽な衣をまとって表現され、続く『明暗』の小林という姿をとっていくことにもなるのではないか、という指摘もなされました。
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2015年11月11日

フロイト『精神分析入門』を読む(下)(5/5)

(5)フロイトは異常な認識の論理化を試みた

 本稿は,「フロイト『精神分析入門』を読む(上)」の続編として,『精神分析入門』の神経症論の部分を読み解いていく試みでした。ここまでの流れをふり返っておきたいと思います。

 初めにフロイトは,神経症の諸症状には,錯誤行為と同じように意味があるということを論じていました。ある強迫神経症を患う婦人の症例では,夫の性的能力を疑いそうな女中に対して,「いいえ,それは真実ではありません。夫は女中に対して恥をかくことはなかったのです。夫はインポテンツではありません」というメッセージを発しているのだ,これこそが彼女の強迫症状の意味なのだ,ということでした。これは10年前の結婚当初の体験に由来し,当時満たされなかった願望を代理的に充足させる目的を帯びた症状なのでした。このように神経症患者は,過去のある時点,それもかなり早期の段階に縛りつけられています。このことをフロイトは「固着」と呼んだのでした。神経症の症状は,その時点での外傷体験に由来し,当時満たされなかった願望を代理的に充足する目的があるのだと説かれていました。しかし症状に悩んでいる患者は,この症状の意味(由来と目的)を意識はしていません。意識すれば,症状よりも強い不快な感情が想起されるので,治療者がこれを意識させようとしても,患者は必ず「抵抗」します。意識すれば不快に感じる心的内容を,無意識の領域に抑圧しようとするわけです。ここでフロイトは,新たに「前意識」という,無意識と意識を媒介する概念を導入しました。大きな無意識の部屋と隣接する小さな部屋(=前意識)には意識が腰をすえていますが,両部屋の敷居のところには,夢の作業のところで登場した検閲者が番人として控えており,番人が許さなければ前意識の部屋には入れませんし,その部屋に入っても,意識の視界に入らなければ意識にのぼることはない,という比喩でフロイトは説明していました。この後,フロイトは人間の性生活について説きました。性生活には,性の対象や目標が変わっている倒錯も含めること,そうすれば幼児期から性生活が始まっていることが分かること,性的な欲動を発現させる力を「リビドー」と名づけること,などが説かれていました。

 続いてフロイトは,リビドーの発達やそれに関わる症状形成の経路について説いていきました。フロイトは,性的な欲動=リビドーは,子どもの成長にともなって,口から肛門,そして異性の親へ(さらに潜伏期を経て性器へ)と,次々とその向けられる対象が変わっていくと論じていました。そして,異性の親に愛情を感じ,同性の親に敵対心をいだく時期をエディプス期,その状態をエディプスコンプレクスと呼び,フロイトは神経症にとって大きな意義があると説いていました。それは,エディプスコンプレクスを適切に解決できず,抑圧してしまったのが神経症患者であり,エディプス的な葛藤が形を変えて現れたのが神経症の症状である,ということでした。このエディプスコンプレクスは,倒錯的で近親姦的な願望や身近な人間に対する強い敵意として,夢を形成する願望としてもしばしば登場することにも触れられていました。続いてフロイトは,神経症の病因を検討していきました。それは,リビドーの満足をえられないという外的な拒否,固着した段階までの退行,および,退行した段階でのリビドーと自我欲動との葛藤の3つでした。さらに,症状は退行した時点での性的欲求の充足を求めるものであり,その欲求は,夢の場合と同じく検閲によって自我が許容できるものに歪められているのであり,それでも自我にとっては苦痛であるに違いない,そのような意味で症状は,リビドーと自我の妥協の産物なのである,ということが説かれていきました。また興味深い指摘しとして,フロイトの「神経症の世界では心的現実性が決定的なものである」という説を紹介しました。すなわち,フロイトが神経症の発症の要因としている幼児期の体験は,必ずしも真実なのではなく,本人が歪めて記憶している内容であることも多いということでした。

 次に,フロイトが説く不安論について見ていきました。フロイトによると,不安には,現実不安と神経症的不安があるということでした。前者は,外界からの危険を認知した時の反応であり,逃避反射と結びついているということでした。これに対して神経症的不安は,抑圧されたリビドーが転換されたものだと説かれていました。どのような感情が抑圧されても,それは不安に置き換えられるのであるから,不安は広く通用する貨幣のようなものであるとフロイトは説いていました。さらに,一般に症状は,不安の発生を免れるために形成されるとも説かれていました。要するに,現実的不安は外界からの危険に対する反応であるのに対して,神経症的不安はリビドーに関連する内的な危険に対する反応である,ということであり,さらに神経症的不安に対する防御方策として症状が形成されるのである,ということでした。恐怖症の強い不安も,抑圧された恐怖心などが形を変えたものだということでした。『精神分析入門』の最後の2講を使って,フロイトは治療論を展開していました。治療の目標は,無意識の意識化であり,抑圧の解消であるが,その過程で必ず感情転移という抵抗を患者が示すとしていました。これは,もともと親など身近な人に向けていた感情が,治療者に向けられるようになるという現象でした。これは昔の葛藤の再現であり,新しく作られた症状であるから,これを対象に治療を進めていき,抑圧とは別の結末に導くことが治療であると説かれていました。リビドー論的にいうと,リビドーを抑圧した状態では,抑圧するためにもかなりのエネルギーを使ってしまうために,楽しみを味わったり仕事をしたりすることができなくなるので,抑圧を解除してリビドーを自我が自由に使えるようにすることこそが治療である,ということでした。そしてそのためには,リビドーの代償満足を与える症状の発生したところまでさかのぼって,症状を発生させた葛藤を治療者との関係の間に再現させ,この葛藤を抑圧以外の適切な処理の方法へともっていく必要がある,と説かれていたのでした。最後の部分でフロイトは,神経症患者の夢も正常な人間の夢も本質的には同じであり,また健康人もある程度抑圧を行っているのだから,潜在的な神経症患者ということもできる,両者の違いは量的な差異でしかないと論じられていたのでした。

 さて,以上のようなフロイトの神経症論は,認識論の発展上,どのような意義があったといえるのでしょうか。最後にこの問題を考えてみたいと思います。

 端的にいうと,神経症という異常な認識についても,真正面からこれと取り組み,一定の論理化を果たしたという点こそ,フロイトの神経症論の歴史的な意義であると考えられます。南郷継正先生も説かれているように,まともな認識論を構築したければ,正常な認識だけではなく,異常な認識もしっかりと扱えなければなりません。異常な認識について,「それは例外だ」とか,「複雑怪奇で謎だらけなので扱えない」といっているようでは,認識の論理を説いたことにはならず,認識の理論化など夢のまた夢となるでしょう。その点,フロイトは異常な認識から逃げずに,むしろこれに積極的に取り組み,それなりに一貫した論理を導き出せたというのは見事であると評価できると思います。

 フロイトがこのように異常な認識に関わるそれなりの論理を導き出せたのは,やはり臨床家として数多くの患者の治療にあたったというのが大きいと思われます。フロイトは,リビドーというような生得的な心的エネルギーを想定したり,認識を空間的に(延長のあるものとして),あるいはのちにエス・自我・超自我というような実体的なものとして捉えたりしている点では,観念論的だということができるでしょう。しかし,彼の観念論は,まったくアタマの中だけで思索して導き出したような屁理屈ではなくて,無数の臨床実践の事実を基に引き出されたものであったといえます。ただ彼には,学問的な訓練,学的論理能力を養成するような過程が不足していたために,最終的な理論化にあって観念論とならざるをえなかった,というだけではないかと思われます。

 正常な認識と異常な認識とのつながりについて,フロイトが説いている箇所があります。フロイトは,前意識という概念を導入するに当たり,無意識という大きな部屋と,それに隣接する,意識が腰をすえる前意識という小さなサロンの喩えを出した後,次のように説いています。

「そこで,もしみなさんが,神経症の症状を説明するために私がここで仮定したような心的装置のこのような構造は,一般にも広く当てはまるものであるから,心の正常な機能をも説明してくれるにちがいないと言って下さるならば,それは私にはたいへんありがたいことなのです。むろんみなさんのこのお考えは間違ってはおりません。われわれは今この推論に従って考えを進めて行くことはできませんが,しかし病的な事情を研究することによって,正常な心的現象という,しっかりと覆い隠されているものを解き明かす見通しがつくとするならば,症状形成の心理学に対するわれわれの関心は,異常に高められざるをえないのです。」(『精神分析入門(上)』,新潮文庫,pp.415-416)


 すなわち,異常な認識を対象として導き出した意識・前意識・無意識という構造は,正常な認識の機能を解明するうえでも役に立つということです。これは,異常な認識に取り組む中で,これまで明らかにされていなかった認識一般の構造が明確になってきた,ということでしょう。フロイトは異常な認識を対象として論理を導き出し,それなりの一貫した原理で人間の認識を説くことができました。だからこそ,錯誤行為や夢と神経症の繋がりも論じることができたのですし,後にフロイト理論は文化論にも適用されていくこととなったのでしょう。

 その他,フロイトの神経症論で評価できる点としては,正しいか否かは別にして,神経症の病因論をしっかりと説いたという点も挙げられます。病気になる原因が明らかになれば,自ずと治療論も浮かびあがってくるわけで,フロイトの論の展開は,まさしくそのようになっていました。なぜこのようなことをあえて指摘するのかといえば,現代の精神医学においては,病因は問題にされないことが多いからです。現象形態ばかり,症状ばかりに目を向けて,それで客観的な診断だと誇っているのが,現状なのです。本当の治療を目指すのであれば,当然になぜ病気になったのかの原因を明らかにしていかなければなりません。このような病因をしっかり特定しようとした姿勢も,フロイトに見習うべきだといえるでしょう。

 他にも,本論でもいくつかの箇所で触れたように,問いかけ的反映のあり方をそれなりに掴んだ点や,幼児期の体験の重要性=過去像の影響力の大きさを指摘した点,認識=像は身体にも影響を与えるほど威力をもっていることをそれなりに見抜いた点,認識の発達段階をそれなりに論理化した点なども,評価できる点だといえるでしょう。

 しかしフロイトは,しっかりと認識の本質論に統括された学問体系を構築し得たわけではありません。唯物論の立場を堅持して,異常な認識をも含めて,認識の論理構造を一貫して説ききることは,われわれに残された課題であるといってもいいと思います。筆者はフロイトの遺産をしっかりと受け継ぎ,フロイトと同じように日々臨床実践を行うとともに,論理能力養成のための研鑽も継続して,しっかり唯物論の立場に立った科学的認識論を構築することを約束して,本稿を終えたいと思います。

(了)
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2015年11月10日

フロイト『精神分析入門』を読む(下)(4/5)

(4)無意識の意識化が治療目標である

 前回は,リビドーの発達によって,快感を感じる部位が変わっていくこと,エディプス期には異性の親を愛し,同性の親に敵意を向けるというエディプスコンプレクスが形成され,これが神経症にとって非常に大きな意義があること,神経症の病因として現実の拒否やリビドーの固着(そこへの退行),それに性欲動(リビドー)と自我欲動との葛藤があること,神経症の世界では心的現実性が決定的なものであること,などを見てきました。

 今回は,不安についてのフロイトの説を確認した後,神経症の治療に関するテーマを見ていきたいと思います。

 フロイトは不安を,現実不安と神経症的不安の二つに分類しています。現実不安というのは,「ある外界からの危険,言いかえれば予期された傷害を認知した時の反応であり,逃避反射と結びついている」ものであり,「自己保存の欲動の現われとみてもさしつかえない」(『精神分析入門(下)』,新潮文庫,p.112)とされています。また,不安は出産行為という体験やその時の印象の反復であるとも説かれています。

 これに対して神経症的不安は,外界からの危機とはそれほど明確につながっていないとフロイトは説きます。フロイトは,神経症的不安を3つに分類して様々に考察するのですが,結局は,抑圧されたリビドーが神経症的不安という形で意識されると結論づけています。したがって,たとえば,婚約期間中の男性とか,夫が精力不足である女性とかのように,性的に抑制されていると,不安状態に陥ります。また,羞恥や狼狽などの心の動き,さらには怒りや敵意などを抑圧した場合にも,不安が生じることになります。すなわち,どのような感情が抑圧されても,どのような情動の動きに属する表象が抑圧されても,それは不安に置き換えられるのであるから,不安というのは広く通用する貨幣のようなものである,とフロイトは説くのです。

 さらにフロイトは,強迫神経症を取り上げ,強迫行為は不安から免れるために行われているものであり,強迫症状がなければ生じていた不安が,症状形成によって代償されているのだと説いた後,さらに一般化して,「一般に症状というものは,通例は不可避な不安の発生を免れるために形成されるにすぎない」(同上,p.126)と説きます。

 ここまでをまとめて,フロイトは現実不安と神経症的不安の区別と連関を,次のように説いています。

「現実的不安と神経症的不安との間に求められていた連絡は,われわれがしばしば主張した自我とリビドーとの対立を前提とすれば,結局はこれを手に入れることができるようになります。すでにお話ししたように,不安の発生は危険に対する自我の反応であり,逃走開始を告げる信号です。そこで神経症的不安の場合には,自我は自分のリビドーの要求を突きつけられて,ちょうどこのような逃走の試みを企て,この内的危険をあたかも何か外的危険ででもあるかのように取り扱うのではあるまいかという見解が自然と浮かんできます。……外的危険から逃走しようとする試みが,頑張りと,適切な防御方策を立てることにとって代られるように,神経症的不安の発生もまた,不安を拘束してくれる症状形成に道を譲るのです。」(同上,p.127)


 すなわち,現実的不安は外界からの危険に対する反応であるのに対して,神経症的不安はリビドーに関連する内的な危険に対する反応である,ということであり,さらに神経症的不安に対する防御方策として症状が形成されるのである,ということです。

 不安に対する講義の最後の部分で,フロイトは幼児における不安の発生と,恐怖症における神経症的不安について論じています。幼児が未知の人を見て不安を感じるのは,信頼して愛している母親を見ることができると思っていたのに,そうではない未知の人を見ることになってしまったために,使用不能になったリビドーが不安として発散されるのだと説きます。同じように恐怖症の場合も,抑圧されて使用不能になっているリビドーが,見かけだけの現実不安に変えられて,その結果,ささいな外的危険が過剰なものとして現われるというのです。この講義では出てきませんが,父親への恐怖心を抑圧した結果,馬に対して過剰に恐怖心をいだくようになったハンスという症例が有名です。フロイトはハンスの動物恐怖症を解釈して,本当は父親から去勢されることに対する不安が変形したものであると結論づけたのです。このように,顕在夢を解釈して夢の潜在思想に到達したように,恐怖症の内容を解釈して,抑圧された本来の内容に到達するのが,精神分析なのです。

 続いてフロイトは,ナルシズム(自己愛)について講義します。ここでは,自己愛から対象愛へと発達していくことや,精神分裂病では原始的自己愛の段階にまで退行することなどが論じられていますが,ここで説かれている精神分裂病やパラノイア(その人独特の異常な一貫した妄想で行動するという精神病の一種)は,精神分析の技法が適用できない疾患とされていますので,ここでは省略したいと思います。

 さて『精神分析入門』の講義の最後で,フロイトは治療を取り上げて2回の講義を行なっています。

 フロイトは精神分析の治療の課題は,意識と無意識との葛藤を同じ土俵上でぶつかりあうようにすること,すなわち,無意識を意識に置き換え,「無意識的なものを意識的なものに変えることによって抑圧を解消し,症状形成のための条件を取り去り,病因となる葛藤を,なんとか解決できるにちがいない正常な葛藤に変える」(同上,p.170)ことだと主張しています。端的にいうと,「無意識の意識化」「抑圧の解消」こそが治療の目標だということです。これは,これまで説かれてきた神経症論からすれば,必然的な結論であるということができるでしょう。

 フロイトはこの治療目標を達成するために,抑圧されているものを解釈して患者に伝え,必然的に起こってくる抵抗を推測して,それを患者にいってやることによって除去するのだといいます。はじめて顕微鏡を覗く学生も,教師から何を見るべきかを教示されなければ,見るべきものがそこにあって当然見えるはずなのに,その学生には全然見えないのと同様に,セラピストから抑圧や抵抗についての解釈を与えられなければ,患者はそこにあるはずの抑圧された内容や抵抗に気づくことができないのだ,とフロイトは説きます。これは科学的認識論からすると,問いかけ的反映のことであり,興味深い指摘だといえます。

 続いてフロイトは,治療の要となる「感情転移」という現象について解説していきます。これはヒステリーや強迫神経症の患者を分析している時にフロイトが気づいた現象です。どういう現象かというと,患者が治療者に対してある特殊な関心を寄せるという現象です。もう少しいうと,治療者の行動や治療中に生じた治療者との関係からはとうてい説明できないほど強い情愛の気持ちや敵意の気持ちを患者が治療者に対して向けてくる,という現象です。これは,患者が本来別の人間に向けていたいろいろな感情が治療者という人間へ転移されたのだとフロイトはいいます。だからこそ,この現象を「感情転移」と名づけたのです。

 これも,科学的認識論からすれば,すんなりと理解できる現象です。たとえば,女性が父親に向けていた感情を治療者に対して向けるようになるというのは,年上の男性である治療者を見て,同じく年上の男性である父親を自覚することなく想起して,それに関する像が呼びさまされ,その呼び覚まされた像と反映像が合成されて,一つの像を描いている状態である,ということです。問いかけ的反映の一種といってもいいでしょう。したがって,本来は父親像に由来する感情であるにもかかわらず,純粋に治療者を反映して創られた感情であるかのように感じてしまうことになります。このように,純粋な反映などは(赤ん坊が誕生した瞬間の一回きりを除いて)ありえず,人間の認識は常に問いかけ的反映であり,治療場面でもそれが感情転移という形で必然的に現われてくるのです。

 それはともかく,フロイトは感情転移は,特にプラスの感情転移は,当初,治療を進める原動力となるが,その後,治療を妨害する抵抗の一種となると説きます。しかし,この抵抗の意味を解釈して患者に伝えることによって,この感情転移は治療にとって最良の道具になるとフロイトはいいます。フロイトは,次のように説いています。

「……しかし治療が患者の心を捉えはじめると,疾病が新しく生み出すものはすべてただ一個所に,すなわち医師との関係の中に集中されるようになります。……そうなれば,われわれの相手はもはや患者の以前の病気ではなくて,それに代って新しく作り出され,作りかえられた神経症であると言っても間違いではなくなるのです。……しかしこの新しい人為的神経症を克服することは,治療の目標であるもとの病気を除去することであり,われわれの治療上の課題を解決することなのです。」(同上,pp.184-185)


 ここでは,感情転移こそが患者のパターンの反復であり,新しく作られた神経症の症状であるから,これこそが治療のターゲットとなり,この人為的神経症を克服することこそが,治療の目標になる,ということが説かれています。このように,必然的に起こってくる感情転移を材料として分析を進め,これを取り除くことが直接に,もともとの神経症を治療することになるわけです。

 最後の講義でフロイトは,治療のメカニズムをリビドー論から捉え返して,次のようにまとめています。

「さてわれわれは,治癒の機制についてお話ししたことをリビドー論的に定式化して,これを完全なものにしましょう。神経症患者は楽しみを味わうことも仕事をすることもできませんが,彼が楽しみを味わうことができないのは,そのリビドーがいかなる現実的対象にも向けられていないからですし,彼が仕事をすることができないのは,リビドーを抑圧したままに保ち,その暴走を防ぐためにその他のエネルギーを非常にたくさん消費しなければならないからです。神経症患者は,自我とリビドーとの間の葛藤が終結して,自我がふたたびリビドーを思いのままに使用できるようになれば健康になるでしょう。それ故治療の課題は,その時々の,リビドーを自我から引き離している束縛からリビドーを解放して,そのリビドーをふたたび自我が使用できるようにするという点にあります。……リビドーは,その時々にただ一つの可能な代償満足を与えてくれる症状に結びついているのです。従って症状を制圧し,これを解消させなければなりません。……症状を解消させるには,症状の発生したところまでさかのぼり,症状を生ぜしめた葛藤をよみがえらせて,当時は自由に使えなかったそういう欲動の力の助けを借りて,葛藤を別の結末にもって行く必要があります。このような抑圧過程の吟味が,抑圧を招くに至った諸過程の記憶の痕跡にたよって行われても,それは部分的にしか成功しません。この作業の決定的な部分は,患者の医師に対する関係,すなわち「感情転移」の中で,昔の葛藤の新版を作りあげることによって成し遂げられるのです。」(同上,pp.199-200)


 すなわち,リビドーを抑圧した状態では,抑圧するためにもかなりのエネルギーを使ってしまうために,楽しみを味わったり仕事をしたりすることができなくなるので,抑圧を解除してリビドーを自我が自由に使えるようにすることこそが治療である,そのためには,リビドーの代償満足を与える症状の発生したところまでさかのぼって,症状を発生させた葛藤を治療者との関係の間に再現させ,この葛藤を抑圧以外の適切な処理の方法へともっていく必要がある,ということです。これがリビドー論から見た治療ということです。

 フロイトは最後の部分で,神経症患者の夢は本質的な点で正常な人間の夢と異なっておらず,夢の解釈は症状の意味を推測するうえで役に立つと述べています。また,健康人もある程度抑圧を行っているのだから,健康人もまた潜在的には神経症患者だといえるとしています。両者の違いは,自由に使用できるエネルギー量と拘束されたエネルギー量の相対的関係に還元されるとしています。また,この知見こそが,神経症は原則的には治癒できるという確信に,理論的な根拠を与えていると説いています。

 以上がフロイトの神経症治療論です。
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2015年11月09日

フロイト『精神分析入門』を読む(下)(3/5)

(3)神経症の病因は拒否,固着,葛藤である

 前回は,神経症の症状には意味があること,神経症患者は過去のある時点に固着しており,この過去のある時点での外傷体験が神経症発症の要因であるにもかかわらず,そして当時実現できなかった願望の充足こそが症状の目的であるにもかかわらず,患者はそれを意識していないこと,分析治療によってその無意識の領域にあるものを意識させようとすると,必ず抑圧が起こり,それが抵抗として現れること,人間の欲動を発現させるエネルギーをリビドーと呼ぶこと,などを見ました。

 今回は,このリビドーの発達やそれに関わる症状形成について論じられている部分を見ていきます。

 はじめにフロイトは,性器に快感を感じるようになる以前に,口や肛門に快感を感じる時期があると述べます。これは,性的欲動のエネルギーであるリビドーが性器に向けられる(「充当」とか「備給」とかと呼ばれています)以前に,口や肛門に充当されるからだとフロイトは説きます。そして,口や肛門にリビドーが充当される時期の次に,異性の親に対してリビドーが向けられ,異性の親を愛する時期が来るといいます。この時期のことをエディプス期といい,異性の親に愛情を感じ,同性の親にライバル心(嫉妬心)や敵対心を感じる状態をエディプスコンプレックスと呼びます。この「エディプス」という言葉は,父を殺し母を妻とする宿命を背負わされたギリシャ悲劇の登場人物,エディプス王(オイディプス王)にちなんでいます。

 フロイトは,このエディプスコンプレックスは神経症の解明にあたって,非常に大きな意義をもっていると述べています。フロイトは次のように説いています。

「われわれは,性欲動がはじめて強力に自己主張をする思春期に,家族内の昔の近親姦的な対象がふたたびとりあげられ,またそこに新たにリビドーが充当されることを知るのです。……ところで思春期には,非常に強い感情的な過程が,あるいはエディプスコンプレックスの方向をとって,あるいはエディプスコンプレックスに対する反動の方向をとって現われます。しかし,これらの過程の前提となるものは,意識するには耐えがたいものとなってしまっているために,その大部分が意識から遠のかざるをえないのです。この時期から個々の人間は,両親から離れて独立するという大きい課題に挺身しなければならなくなります。この課題を解決したのちにはじめて人は幼児であることをやめ,社会共同体の一員となるのです。息子にとっては,自分のリビドー的願望を母親から離し,誰か現実の肉親以外の愛の対象へとさしむけることが課題となります。そして,もし父親と対抗状態にある時には,父親と宥和するし,もし幼児期の反抗の反動として父親に屈従するようになっている時には,その父親の威圧のもとから脱出するということになります。……ところで神経症患者は,一般にこの解決に成功していないのです。」(『精神分析入門(下)』,新潮文庫,pp.32-33)


 すなわち,リビドーを異性の親から肉親以外の対象へと転換していくことが,あるいは,父親との対抗状態を融和に持っていくことが,正常なリビドー発達のあり方だが,それができずに,異性の親を愛したいというような願望を意識下に抑圧したままであるとか,あるいは父親との対抗状態を無意識の領域に押しとどめたままであるとかの状態であるのが神経症患者であり,その抑圧したエディプス的な葛藤が,形を変えて現れるのが神経症の症状である,ということでしょう。

 またここに関して,フロイトは夢と神経症のつながりを改めて指摘します。夢を形成する願望は,しばしば倒錯的で近親姦的なものであったり,身近な人間に対する強い敵意であったりしました。実は,この邪悪な欲動は,エディプス期に発生し,その後抑圧されて無意識の領域に保管されていた欲動だとフロイトは指摘するのです。そのうえで,「神経症患者は,夢を分析してみると健康者の場合にも見出されることを,ただ拡大し粗大にして見せているにすぎないと結論してもさしつかえないのです」(同上,p.35)と説いています。

 次にフロイトは,退行という現象を論じます。性の欲求は通常,口から肛門,異性の親を経て,通常は肉親以外の異性へと発展していきますが,欲求のある部分が発達の比較的初期の段階にそのまま取り残されることがあると,フロイトは説きます。これが性欲動(リビドー)の固着であるというのです。

 そして発達して先に進んだ欲求も,ともすれば後退運動を起こして固着した早期の段階の一つへ戻ることもあるといいます。これをフロイトは「退行」と名づけたのです。このような退行現象は,欲求がよりあとの段階では満足を得られないような強い外的障害に突き当たった時に起こるとされています。

 フロイトは神経症の病因として,いま触れたリビドーの満足に対する外的な拒否と,一定の方向に向かってリビドーを押しやるリビドーの固着の他に,もう一つあげています。それは,リビドーの衝動を拒む自我の発達から生じる葛藤傾向です。これはどういうことでしょうか。

 フロイトは,人格一部分がある願望の味方になっているのに,他の一部分がそれに対立し,それを防ごうとするような葛藤がない場合には神経症にはならないと断言しています。この葛藤は,性欲動(リビドー)と,性的ではない欲動,すなわち自我欲動との間の葛藤であるとフロイトは説きます。

 以上のように,フロイトは,神経症の原因となるものを洞察して,現実の拒否とリビドーの固着,それにリビドーと自我欲動との葛藤をあげたのですが,少し分かりにくいので,漫画チックな事例で補足しておきます。たとえば,20歳のもてない男性大学生は,付き合う女性がいないために,性的な満足が得られていません。これが現実の拒否です。この場合,彼は退行現象を起こします。たまたま彼はエディプス期に固着していたとすると,母親に愛情・愛着の感情を向けることになります。自我がこれを認めると,葛藤は起こらず,神経症にもなりません。ただ,マザコンという倒錯的・幼児的な形で,リビドーが満足させられるだけです。ところが,自我がこれを拒否すると,すなわち,自我欲動と性欲動(リビドー)の間に葛藤が起こると,エディプス的な欲動は抑圧され,神経症の症状という形で代理の満足が得られるということになりかねません。およそ以上のようなことをフロイトは説いているものと思われます。

 この後もフロイトは,同じような内容を言葉を変えて繰り返し説明していきます。たとえば,次のように説いています。

「症状はなんらかの形で幼児期のはじめの満足を反復しているものであり,その満足は葛藤から生ずる検閲によって歪められ,通例は苦悩の感覚に変えられており,罹患の誘因から生じた諸要素と入りくみあっています。……満足が苦痛に変わるというこの変化は,症状を形成する圧力となった心的葛藤の一部なのです。かつては個体にとって満足であったものも,現在では,その個体の抵抗や嫌悪の念を呼び起さずにはいないのです。」(p.73)


 ここでは,症状は退行した時点での性的欲求の充足を求めるものであり,その欲求は,夢の場合と同じく検閲によって自我が許容できるものに歪められているのであり,それでも自我にとっては苦痛であるに違いないということが説かれています。したがって,症状は,リビドーと自我の妥協の産物なのです。

 またフロイトは,神経症にとって幼児期の体験が重要であり,それが神経症の発症の由来であるとしているのですが,面白いことに,その幼児期の体験というのは,必ずしも真実ではないことを認めています。そして,「神経症の世界では心的現実性が決定的なものである」(同上,p.78)と強調しているのです。

 これは,唯物論の立場に立つ認識論にあっても,重要な指摘だと思われます。というのは,そもそも認識とは問いかけ的反映であり,問いかけ次第では,現実からかなり隔たった反映となる可能性もあるからであり,いくら現実から隔たっていても,その人間にとってはそれはまさしく記憶された現実なのであり,その記憶像こそがその人間に影響を与えるからです。フロイトはそこまで明確に掴んでいたわけではないでしょうが,本人が心のなかで現実だと思っていることこそが重要なのであり,場合によってはそれが神経症の発症の絡んでくると説いているのは間違いありません。
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2015年11月08日

フロイト『精神分析入門』を読む(下)(2/5)

(2)神経症の症状には患者の気づかない意味がある

 本稿は,フロイト『精神分析入門』の神経症論を,認識論的にはどのような点が評価できるのか,また,神経症と錯誤行為や夢は,どのような共通性があるのか,と問いかけながら読み解いていく試みです。今回は,「抵抗」と「抑圧」などのキーワードを中心に見ていくことにします。

 フロイトは初めに,「神経症の諸症状には,錯誤行為と同じように意味があり,神経症の症状を示している当人の生活と関連があるのです」(『精神分析入門(上)』,新潮文庫,p.359)と指摘しています。そして,そのことを説明するための実例として,強迫神経症の二例を報告しています。ここでは,分かりやすいと思われる初めの症例だけを紹介しましょう。

 患者は30歳に近い婦人で,自分の部屋から隣の部屋に駆け込んでいき,その部屋の真ん中にあるテーブルのそばの一定の場所に立って,ベルを鳴らして女中を呼び,どうでもいいような用事を言いつけるか,何も言いつけないままで引き取らせてから,また元の部屋に駆け戻るという強迫症状に苦しんでいました。この強迫症状には,どのような意味があるのでしょうか。フロイトは,強迫行為に関係する次のような内容を,本人が物語ったといいます。

 彼女は10年以上前に年上の夫と結婚したのですが,初夜に夫がインポテンツ(性的不能)であることが分かりました。その夜,夫は何度も自分の部屋から彼女の部屋に駆け込んできて,繰り返し性交を試みたが,すべて失敗だったといいます。翌朝,夫は「こんなことでは,女中が寝床を片付けるときに恥をかかなければなるまい」と言いながら,赤インキをシーツの上にこぼしました。しかし,その赤いシミは,その種のシミが当然つくべき場所につかなかったのです。

 このような昔話をした後で,この婦人は,フロイトを隣の部屋のテーブルのところに連れて行き,テーブル掛けの上にある大きなシミを見せました。そして「私は,呼びつけた女中がこのシミを見逃さないような位置に立つのです」と説明したというのです。

 以上をもとに,フロイトは彼女の強迫症状の意味を解釈していきます。まずフロイトは,ここでは患者が自分と夫を同一視しており,テーブルとテーブル掛けとをベッドとシーツの代理にしていると指摘しています(このようなことは,夢の解釈でも行ったことです)。そのうえで,次のように説きます。

「この婦人の強迫行為の核心は,明らかに「これでは女中の前で恥をかかなければなるまい」と言った夫の言葉とは裏腹に,女中を呼びつけて,しみを見せつけることにあります。つまり夫が――彼女がその役を演じているのですが――女中に対して恥をかかないように,しみは正しい位置につけてあるのです。……つまりこの強迫行為の言いたかったことはこうです。「いいえ,それは真実ではありません。夫は女中に対して恥をかくことはなかったのです。夫はインポテンツではありません」ということです。彼女はこの願望を,夢の場合のやり方に従って,現在の行為の中で,すでに実現されたものとして表現しています。彼女は夫をあの時の不運からのがれさせたいという気持に奉仕しているのです。」(同上,pp.366-367)


 この婦人は,現在夫と別居しているものの,離婚はしておらず,夫に対する貞節を強いられている状態です。そんな彼女は性的な願望を充足したいという無意識的な欲動があるものの,それをそのまま実現するわけにはいかないので,このように症状という形に歪曲された形で,それなりに願望を実現しているのだということでしょう。

 続いてフロイトは,外傷への固着ということを問題にします。今の例では,婦人患者は10年以上前の結婚当初という過去のある時点に縛りつけられている,つまり固着されているというのです。神経症の患者は,過去に,それも小さな子どもの頃に,固着されていることが多く,それはその時期に外傷的体験と呼べるようなことを経験したからだといいます。神経症の症状は,このような外傷的体験に由来しているのです。また,神経症の症状は,当時満たされなかった願望を代理的に充足することにこそ,その目的があります。これは,先の例からも明らかでしょう。

 ところが,フロイトは,神経症の患者が症状に悩まされている時には,この症状の意味(由来と目的)は意識されていないといいます。すなわち,患者には特定の無意識的過程が存在しており,その過程にこそ症状の意味が内包されているが,症状が成立するためには,この意味が意識されていないことが必要だというのです。ここに治療の糸口もあります。すなわちこのことは,意識させれば,症状が消滅するということを暗示しているのです。

 この後フロイトは,精神分析を進めていくうえで必ず遭遇することになる患者の「抵抗」という現象を取り上げます。夢の解釈の場合と同様に,神経症患者の治療でも,自由連想といって,患者に思いついたことは何でも話すように教示するのですが,思いついたことなのに治療者に言わないというような「抵抗」が見られるのです。この抵抗を克服することこそが,分析の本質的な仕事だとフロイトは指摘していますが,この抵抗によって示される心的過程を,フロイトは「抑圧」と呼んでいます。

 これはどういうことでしょうか。フロイトによると,神経症の症状をつりだすのは無意識の心の内容であり,これが意識されれば,本人が強烈に不快を感じるために,無意識の領域に押しとどめられているわけです。分析治療において,それを意識化すれば症状が消滅するとして自由に話すように求められても,そもそも意識すれば不快になるからこそ,無意識の領域に押しとどめているわけです。この無意識の領域に押しとどめる心的過程を,フロイトは「抑圧」と呼んだのです。そしてこの抑圧があるからこそ,患者が治療者に対して無意識的に「抵抗」しているような現象を呈するのです。

 フロイトはここで,新たに「前意識」という概念を導入します。そして,無意識・前意識・意識の関係を,次のような喩え話で説明するのです。

「無意識の組織体系を一つの大きな控室にたとえ,その中でたくさんの心的な動きが個々の人間のように忙しく動きまわっていると考えるのです。この控室には,さらに第二の,それよりは狭い,サロンとでもいうべき部屋が続いていて,そこには意識も腰をすえています。ところが,この二つの部屋の敷居のところには一つひとつの心的な動きを監査し,検閲する一人の番人がいて,自分の気に入らないことをするものはサロンに入れません。……たといそれらがすでに敷居ぎわまで押しせまってきたところを番人に追い返されたような場合でも,意識されるだけの資格はないのです。われわれは,それを抑圧されたと呼びます。しかし,番人がこの敷居をこえて入ることを許した心の動きであっても,必ずしも意識的になったということにはならないのです。意識の目をうまく自分に向けさせることができた場合にだけ,それらは意識的なものになりうるのです。ですから,われわれがこの第二の部屋を前意識の体系と呼ぶことは当をえていましょう。」(同上,pp.413-414)


 すなわち,隣り合っている大きな部屋と,意識が腰を据える小さなサロンがあって,大きな部屋からサロンへ入るには検閲する番人が入室を認める必要がある,小さな部屋に入ったとしても意識の目に触れなければ意識上にのぼることはない,ということであり,ここで大きな部屋が無意識の喩え,小さな部屋が前意識の例えであり,番人は夢の場合に登場した検閲者である,ということです。

 心すなわち認識を空間的に捉えてしまうこと自体の妥当性は措くとして,この喩え自体は非常に分かりやすいものだといえるでしょう。

 この後フロイトは,人間の性生活について論じていきます。ここでは,人間の性生活には,性の対象や目標が変わっている倒錯も含めること,そうすれば幼児期から性生活が始まっていることが分かること(たとえば指をしゃぶって口に快感を得ることも,フロイト的には性生活である),性的な欲動を発現させる力を「リビドー」と名づけること,などが説かれています。
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2015年11月07日

フロイト『精神分析入門』を読む(下)(1/5)

目次

(1)フロイトは神経症の謎に取り組んだ
(2)神経症の症状には無意識の意味がある
(3)病因は拒否,固着,葛藤である
(4)無意識の意識化が治療目標である
(5)フロイトは異常な認識の論理化を試みた

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(1)フロイトは神経症の謎に取り組んだ

 本稿は,「フロイト『精神分析入門』を読む(上)」の続編です。「フロイト『精神分析入門』を読む(上)」では,フロイトの『精神分析入門』の「第一部 錯誤行為」「第二部 夢」を取り上げ,フロイトの論の展開に沿って,その内容を紹介しました。本稿はその続編ですので,まずは,前回の連載第5回で説いた内容を元にして,前稿を簡単に紹介しておきます。

 『精神分析入門』は第一次世界大戦中に,フロイトが61歳の時に刊行された著作で,大学での講義を再現したものです。本書は非常に特徴的な論の展開を行っています。それは,自説に対する異議や反問を予め想定しておいて,その異議や反問を提示した後,それに答えていくという弁証法的な展開方法です。また,本書にはフロイトが76歳の時に書いた続編も存在します。

 フロイトは,いきなり専門の神経症の問題を取り上げるのではなく,錯誤行為という,日常誰もが経験する身近な話題から講義を始めています。フロイトの言う錯誤行為とは,たとえば,言い違いとか書き違い,読み違い,聞き違いや度忘れ,置き忘れ,紛失などの,誰もが犯しがちなちょっとした間違いのことです。こういった錯誤行為の起こる原因を偶然に帰してしまうと,自然界の決定論を破ることになり,学問的な世界観が放棄されてしまうとフロイトは説いています。そうして,錯誤行為にも必然的な意味・意図があるのだとして,論を展開していくのです。フロイトは特に言い違いを取りあげて,衆議院議長が開会を宣言する代わりに閉会を宣言してしまった例などをとおして,錯誤行為には独自の意味があり,この独自の意味が漏れてしまったのが錯誤行為であると説いています。さらにフロイトは,二つの異なった意図の共同,もっといえば相互の衝突の結果として錯誤行為は生じると主張しています。二つの意図とは,妨げる意向と妨げられる意向であり,両者は内容上関係があり,前者は後者への反対,あるいは後者に対する修正や補充を意味しているとのことです。そして,妨げる意向とは,口に出さないように押しつけられた意向であり,何か言おうとする意図が現存するのに,それを抑えつけるということが,言い違いを起こす不可欠の条件であると結論づけられています。錯誤行為に関する講義の最後の部分で度忘れの検討を行い,不快な感情と結びついているがゆえに,それを思い出すと不快感がふたたびよみがえってくるようなものは,記憶がこれを思い出すことを好まない,という原理が説かれています。フロイトは,想起あるいはその他の心的行為にともなう不快を回避しようとするこの意図,すなわち不快からの心理的逃走こそ,名前の度忘れのみならず,怠慢,見当ちがいなどのような,多くの錯誤行為の究極的な有力な動機であると説いていたのです。

 続いて,夢についての講義に移ります。まず,夢を扱う理由が説かれています。フロイトによると,夢の研究は神経症研究の最上の準備となるばかりでなく,夢そのものがまさに神経症的な症状であり,しかもすべての健康な人たちに見られる神経症的な症状であるという点で,夢の研究は計り知ることのできない利益をもつとのことです。次に,夢判断の前提として,夢は身体的現象ではなく心的な現象であるということ,および,夢を見た人はその夢が何を意味しているのかを知っているが,自分が夢の意味を知っているということを知らないのだという二つが説かれています。後者に関しては,他の領域で証明済みだとして,催眠現象の研究が紹介されています。これは,はじめは催眠状態中のことを思い出せないと言っていた男が,促されて,最終的には全て思い出せたという実験です。これと同様に,夢についても本人がその意味を本当は知っているのだとしたら,夢判断の技法は,本人にその夢について連想することを自由に語ってもらうこと(自由連想)だということになります。フロイトは錯誤行為の研究を適用して,夢の要素とは,本来的なものではなく,他のあるものの代理物であるという見解を提示し,夢の要素についての自由連想によって,別の代理物を浮かび上がらせ,その代理物に基づいて隠れているものを推測するのが夢判断の技法だと説いています。ここで隠されたものを無意識的とか夢の潜在思想とか呼び,夢の要素を意識的とか夢の顕在内容とか呼ぶことを提案しています。この後フロイトは,小児の夢の検討という回り道をして,夢の歪曲は夢の本質ではないこと,夢は眠りの妨害者を取り除く役目を果たし,幻想的な体験で願望を満たされたものとして表現するということを説きます。その上で成人の歪曲された夢の検討に進み,夢の歪曲とは,夜眠っている間にわれわれのうちに働く,なにかしら忌まわしい願望に対して,自我に容認されている諸意向によって行われる検閲の結果であると主張するのです。

 フロイトはさらに夢についての講義を続けます。フロイトは,夢の歪曲のもう一つの要因として,象徴的表現に触れています。これは水は出産を,3やステッキなどは男子性器を象徴するなどというような,恒常的な関係のことを表しますが,これは精神分析が発見したものではなく,自由連想に取って代われるものでもないことが強調されています。続いてフロイトは,夢の作業について詳しく検討していきます。夢の作業とは,潜在夢を顕在夢に置き換える働きのことであり,圧縮,移動,思想を視覚像に翻訳する作業の3つに分類されます。そして,最後の思想を視覚像に翻訳することこそが,夢の本質的なものであるとされています。このあとフロイトは,われわれの思想は感覚像にあとから言語が結び付けられ,ついでその言語に思想が結合されることによって生じてきたものであるが,夢の作業は,その思想の発展を逆戻りさせ,思想を感覚的な像に戻す操作であるから,思想に対してある種の退行的な処理を施すものであると指摘しています。さらにフロイトは,フロイトは自身が「太古的あるいは退行的表現方式」と名づけた夢の作業の特徴について説いていきます。夢の作業は,系統発生的太古時代に当たる幼児期と,個体発生的太古時代である幼児期に,われわれを連れ戻すというのです。フロイトは,無意識的な領域に残されている幼児期の記憶像を,夢の作業は自由に使用するのであり,心的生活における無意識的なものとは,実は幼児的なものであると説くのです。そのうえで,「昼の名残」が,無意識的な領域から出てくるものと一つになって,夢が形成されるのだと結論づけられています。最後にフロイトは,もしも夢が願望充足であるとすれば,夢の中に苦痛の感覚があるのはおかしな話ではないかという疑問に対して,三つの観点から答えています。そこでは,夢の作業が願望を充足することに充分に成功しなかったために,夢の思想中の苦痛の感情の一部が顕在夢中に残されていることがあること,抑圧された願望にとっての願望充足は,夢の検閲者の側に立つわれわれにとっては苦痛な感覚を引き起こす機縁となり,それを防衛しようとする機縁となるものにすぎないこと,懲罰もまた検閲を加える側の人間の願望充足であることが説かれています。

 以上が,前稿のおよその内容です。前稿の連載第5回では,このような内容を振り返った後,錯誤行為と夢の共通性という点に絞って,以下のようにまとめ直しておきました。

「両者はともに,本人には未知の無意識的な内容が歪曲されて,本人に自覚できる代理物として現象しているという点で,共通性があります。未知の無意識的な内容は,ある意味本人の本心ですが,その場で出てきては困るもの,社会的に許容されない(と本人が思っている)ものであるために,無意識の領域に抑圧されているのです。しかし,これがふとした拍子に意識上に現われてしまうことがあるのです。ただし,そのまま現われることはまれで,たいていは何らかの形に歪曲されて現われます。夢であれば,これが検閲の働きです。どうして歪曲されるのかというと,そのまま現われたのでは,良心がとがめるというか,自分自身も不快に感じてしまうからです。すなわち,歪曲された形で現われる,そのままではなく何らかの代理物という形で現れるのは,不快からの心理的逃走のため,といえるのです。」


 要するに,抑圧された無意識的な内容が,まだ自我に許容されるような内容に歪曲された形で意識上に出てきたものが錯誤行為であり,夢である,ということです。

 本稿では,以上の内容を踏まえて,『精神分析入門』の神経症論の部分を読み進んでいくことにします。特に,錯誤行為や夢の講義で説かれた内容とのつながりを重視して,神経症論を読み解いていきたいと思います。

 さてここでは,精神医学に馴染みのない読者のために,そもそも神経症とはどのような疾患であるのかを,簡単に説明しておきたいと思います。Wikipediaでは,次のように説明されています。

「神経症(しんけいしょう,Neurosis)とは,精神医学の伝統的な用語で,不安などの不適応行動を特徴とし,入院するほど重篤ではない場合が多い状態である。……神経症に対するかつての用語は,精神病であり,行動や思考過程の障害が激しくより重篤な状態を指した。……

歴史
19世紀以前において,脳や体に何も異常がないのに精神(神経)が病に冒されたようになる病気をそう呼んでいた。当時はアカデミックの精神医学にしろ町の開業医にしろ,体に異常がないのに体や意識がおかしくなる精神疾患は原因不明と考えられており,このような精神疾患に神経症という名前が当てはめられた。フロイトが精神分析という方法で神経症の患者を研究していたことが有名である。」


 ここで説かれていることをわかりやすく言い換えるならば,フロイトの時代には,精神疾患は大きく二つに分類されており,重症な方が精神病,軽症な方が神経症と呼ばれていた,ということです。そして神経症は,不安を伴うことが多く,脳や体に何も異常がないのに発症する謎の病とされていたということです。

 もう少し詳しく説明します。フロイトが主に対象としていたのは,神経症の中でもヒステリーや強迫神経症と呼ばれる疾患でした。ヒステリーというのは,たとえば『アルプスの少女ハイジ』に出てくるクララのような症状です。彼女は脳や体に異常がないのに歩けません。他にも,声が出なくなったり,けいれん発作が起こったり,知覚が麻痺したり,視野が狭くなったりする症状が出ることもあります。また,特定の対象を異常に恐がる恐怖症も,ヒステリーの一種とされていました。

 強迫神経症とは,現在の強迫性障害(強迫症)のことで,頭では不合理だとわかっているのに,ある特定の儀式的な行為を繰り返してしまい,それをやめられないという疾患です。不潔恐怖で手洗いを繰り返してしまうとか,火事になってしまうことを恐れてガスの元栓の確認を繰り返してしまうとかが,現代日本人に多い典型的な症状です。

 現代であれば,恐怖症や強迫性障害などは,認知行動療法という学習理論に基づく介入によって,かなりの改善が見込めるようになっています。しかし,フロイトが生きた19世紀から20世紀にかけての時代にあっては,これらを含む神経症は,いかにも複雑怪奇で,治療困難な難病とされていたのでした。そのような対象に取り組み,精神分析という新しい学問を構築して一世を風靡したのがフロイトだったのです。

 さて,『精神分析入門』における神経症論は,以下のような13講からなっています。

第三部 神経症総論
 第十六講 精神分析と精神医学
 第十七講 症状の意味
 第十八講 外傷への固着 無意識
 第十九講 抵抗と抑圧
 第二十講 人間の性生活
 第二十一講 リビドーの発達と性的体制
 第二十二講 発達および退行の諸観点 病因論
 第二十三講 症状形成の経路
 第二十四講 普通の神経質
 第二十五講 不安
 第二十六講 リビドー論とナルシズム
 第二十七講 感情転移
 第二十八講 精神分析療法


 本稿では,大筋でこの講義の流れに沿いながら,特に重要な部分を重点的に取り上げる形で説いていきたいと思います。そして,認識論の発展にとって重要だと考えられる点にも触れながら,また,錯誤行為や夢との共通性を念頭に置きながら,読み解いていきたいと思います。

 なお,本ブログでは2015年10月19日から5回にわたって,「三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約」を掲載しました。ここでは三浦つとむさんがフロイト理論を批判的に検討されている内容を紹介しましたが,本稿ではフロイト理論を批判的に扱うというよりも,まずはその前提として,フロイト理論をしっかり理解しようという問題意識のもとに執筆しています。したがって,フロイトの講義の流れに沿って,フロイトのいわんとしていることを読み取ることがその目的となっています。ご了解ください。
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2015年10月23日

三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約(5/5)

(5)要約D――フロイトの説く2つの基本本能とはどういうものか

 前回は、「7 性的象徴」「8 「幼児期性生活」の正体」を要約したものを紹介しました。そこでは、フロイトが快感の獲得をすべて性的なものと解釈するという、特殊性として理解すべきものを不当に普遍化してしまう誤謬に陥っていること、そのためフロイトは早期幼児期における性生活というありもしないものを説明しなければならないことになり、これに反対する人びとに対しては、「幼児期健忘」を持ち出したことなどが説かれていました。

 さて今回は、「9 「エディプス・コンプレックス」の正体」、「10 エロスの本能と破壊本能」、「11 右と左からのフロイト批判」を要約したものを紹介します。ここでは、フロイトのいう「エディプス・コンプレックス」や「エロスの本能と破壊本能」とはどういうものかについて考察されていきます。

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9 「エディプス・コンプレックス」の正体

 フロイトの方法はいつも同じで、その経験した事実を決定論的に誇張しながら不可知論的な基礎仮説へあてはめて解釈するのであるから、エディプス・コンプレックスについても同じように扱えばよい。

 フロイトは、男の児はリピドー発達によって母親の愛人になるとか、母親を誘惑しようとするとか、母親との関係において父親に代ろうとするとか主張するのは、一見思いもかけぬことであるが、事実まったく無根であるとはいい切れない。子どもはその周囲に生活している他の人間という鏡に媒介されて、自分自身のありかたや未来の生活のありかたを認識するが、これは遊びの中に、家庭生活についてのいわば演劇的な創造の表現として、家庭生活のままごとをするかたちが現われてくる。同じように、子どもたちが大人たちの性行為を目撃したりすることで、家庭生活のままごとから性生活のままごとにまですすむ可能性がある。フロイトが男の児に母親の愛人になろうとする行為を見たのも、実はこの性生活のままごとの1つの特殊なありかたを見たにすぎなかった。これを現象的に見ると、たしかに男の児が「母親の愛人」になって行動しているように思われるのである。

 演劇の俳優を論じるときに、現実の俳優相互の関係と、空想の世界での人物相互の関係とを区別しなければならない。子どものままごとも演劇の1つのありかたであるから、現実の子どもたちの相互の関係とままごとの世界の中での相互の関係とを区別しなければならない。フロイトは現実の世界とままごとの世界を正しく区別できなかっただけでなく、決定論に禍いされて子どもの演じる役割を偶然的なものと理解することができなかった。そのために彼はエディプス・コンプレックスの主張へとつっ走ってしまったのである。

 空想の世界では現実の家族がネグレクトされるということも、別に異常なことでも何でもないが、フロイトは男の児の空想の世界のありかたと現実の世界のありかたをいっしょくたにし、男の児が母親と父親を意識しているもののように、「母親の愛人」として「父親に代ろうとする」もののように解釈した。男の児が、母親に関して現実に「父親を邪魔にして押しのけよう」とし、「競争者」あつかいする事実もたしかに存在するが、これは性生活のままごととは直接関係のないことである。だがフロイトはままごとの空想の世界と現実の世界とをいっしょくたにして、そこで父親が排除されるという現象にひきずられたために、ここでの父親が邪魔にされる事実とむすびつけて解釈したのである。この事実は、きわめて単純な愛情の問題なのであって、いわば子どもが愛情を独占したい欲望をもつことから生れた嫉妬以上のものではない。けれどもフロイトとしては愛情は性的なものだという前提があるから、子どもの愛情についての不満や嫉妬もすべて性的なものだと解釈しなければならないし、ここから否応なしに単なる愛情をめぐっての現実の父親に対する嫉妬や憎しみが、性生活のままごとの現象的なありかたとむすびつけられることとなった。

 子どもの性生活の見聞や、ままごとをふくむ具体的な経験などが、精神生活の中で特殊な扱いを受け、この経験から受けた精神的な傷あとが、無意識の底に沈んでいて、成人になってからの精神生活をいろいろと規定してくる場合がある。子どもが性器をもてあそんでいるなどを母親が見れば、これを叱ってやめさせるだろうが、問題は叱りかたであって、不当な叱責で子どもが精神を大きく傷つけられるだけでなく、父親が知ったらその叱責は母親の比ではないことを予想して恐怖を抱くのである。子どもは、自分を愛し育ててくれた母親が父親から不当な待遇を受けていることなどを感じているから、性的な行為に対する不当な叱責や叱責への恐怖は、この両親についての認識と微妙にからみ合うことによって、父親に対する嫌悪感が植えられることにもなる。もちろんこの2つは独立したことがらであるから、かならずしもからみ合って傷あとを深いものにするとは限らないが、フロイトにとってはこの2つを区別できない立場におかれている。2つを区別した上でからみ合いを考えるのではなく、はじめからいっしょくたにした上で現象的なちがいが生れたかのように解釈しないわけにはいかなかった。

 女の児の性的な認識に対するフロイトの解釈も、本質的には男の児のそれと同じであって、女の児には母親を邪魔者として排除したい気もちを認めた。この女の児についての解釈も、すべてを性的に説明しようとするところから不可避的に出て来たものである。男の児が女の児を軽蔑している現実では、女の児が自分も男の児に生れていたらと思うのも当然であって、そこから自分を女に産んだ母親に怨みや憎しみを持つことにもなるのである。フロイトはこれを性的に解釈するが、女の児が遊戯のときに母親になるのを創造の世界での母親にすぎないとは理解していない。

 母親が男の児を欲しがるという事実も、男の児は経済的に頼りになるという気もちなどから出て来たものであるのに、フロイトはこれも「陰茎願望」から説明しようとする。母親が自分の男の児に、かつての父親もしくは愛人のおもかげを認めることから、空想の世界での異性として扱うこともありうる。フロイトの対象とした患者に、そのような女性がいたであろうことも想像可能である。これは母親が男の児を性的な感情で扱うものにちがいないが、それも特殊性にすぎない。この特殊性を不当に普遍化したり、「陰茎願望」と解釈したりすることが、正当化されるわけではない。


10 エロスの本能と破壊本能

 精神的な苦痛から神経症を起している患者の中には、自分が道徳に反する行為をしたことを悔い、そのつぐないとして精神的な苦痛に甘んじる者もあれば、それによって死後の生活に光がもたらされると宗教に教えられたために、すすんで苦痛の道を選ぶ者もあるが、フロイトの対象とした患者は、封建的な道徳を身につけている女性たちであり、彼女たちが精神的な苦痛に甘んじようとする意志を持つことは、当然に医師がこの苦痛を除いて神経症を除こうとすることへの抵抗となってあらわれる。これをフロイトは「上位自我」から「自我」への規定と解釈したが、そこから抵抗する力そのものや苦痛に対する要求そのものがでてくるわけではない。これらはやはり「自我」の側に求められなければならないから、「自我」のありかたは「エス」から発展して来たという基礎仮説に従って、この苦痛に対する要求も本能から説明することが必要であるが、これは性的でないことも明らかである。

 経験的に、快感を求めることを性的なものだと解釈したフロイトは、それとまったく対立した敵対的な闘争にぶつかり苦痛を求める事実にぶつかって、これを性的なエロスの本能とはまったく対立した他の本能のあらわれと解釈しないわけにはいかなかった。こうして経験から、エロスまたは愛の本能と、破壊または死の本能と、2つの基本本能を認めざるをえなくなったフロイトは、両者を並列的に結合させ、さらに情感の対立した性質のものへの転化も、これまた空想的な精神的エネルギーそれ自体の質的な転化と解釈したのである。さらに、この本能論は決定論的に生物以外に延長させられ、無生物のありかたに直結されていき、エンペードクレスの説いた2つの力の原理が自分の主張と同一のものだという考えかたに到達した。

 フロイト学派が哲学者のグループならば、教祖の説くところはそのまま忠実に弟子たちによって受けつがれたであろうが、フロイトの弟子たちは医師であり、実践の中で理論を体系化しようとする人びとであったから、この実践は破壊本能論の体系化を妨害することとなった。いろいろな解釈が成立する場合に、いったいどれが正しいかは現実のありかたと相応するか否かで決まるのであり、夢の解釈にしても、患者の現実のありかたがどうであるかをしらべることによって、その正否を決めることになる。性的な象徴かそれとも死の象徴かとしらべてみれば、どうしても前者のほうが思い当るところが多いのに反して、後者のほうはほとんど根拠がないように考えられ、放棄しなければならなくなる。フロイト理論に深い関心を持ち、そのエロスの本能についての解釈を支持する人びとの中にも、破壊本能をエロスの本能と並べて同列に位置づけることにはためらう人びとが少なくなかった。フロイトの不可知論の論理は、現実とのくいちがいを露呈することとなり、現実に忠実であろうとする人びとが批判的な立場をとることとなった。

 フロイト理論における破壊本能論は、1つの重要な分岐点であり、あくまでも現実のありかたに忠実に、現実のありかたに相応するかたちに理論を是正していこうとする実践的な科学者の態度をつらぬくか、それとも理論に内在するところの論理に強制されあくまでもその論理を発展させていこうとする哲学者の態度をつらぬくか、の分岐点である。フロイトは、エムペードクレスの助けをかりて2つの基本本能を合理化したところで、その生涯を終えたのである。


11 右と左からのフロイト批判

 すでに哲学史がカント哲学のありかたについて語っているように、不可知論はその性格からして右からも左からも批判さるべき運命を追っている。不可知論はまだ唯物論に未練を持っている中途半端な理論、どっちつがずの理論(唯物論的認識論の出発点を否定しながら、外界の実在まで否定してしまったわけではない)であり、右からは観念論の立場に、左からは唯物論の立場に、どちらにしてもつっつかれるのをまぬかれない。フロイトの不可知論にしても、カント哲学と同じ運命を負うこととなった。

 右からの批判としては、ハイデッガーやヤスパースのいわゆる実存主義の立場からする批判を上げることができる。彼らにとっては、フロイトが人間の身体と精神との間に連関を持たせること自体がそもそも気に入らない。彼らの哲学的な立場からすれば、人間の身体の機能とはまったく無関係に人間の精神生活が存在することになるからである。左からの批判としては、いわゆるフロイト左派からの修正や自称マルクス主義者の攻撃を上げることができよう。フロイト左派といわれる人びとの修正は、経験にもとづく疑問あるいは批判であるだけに、理論の誇張および還元のほとんどすべてにわたって問題にされているが、フロイト左派からの修正は、そのもっともすぐれた人びとにあっても、フロイトの欠陥を完全に克服できず、やはりその弱点を受けついでいる。自称マルクス主義者からすれば、フロイト理論には学びとるべき何らの積極面もなく、反動的な観念論として破りすてるべき存在であるが、彼らはそれに代るものとしての夢の理論や神経症の理論など何ら創造しようとはせず、せいぜいパヴロフ理論を信仰してふりまわす程度にとどまっているのである。

(了)
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2015年10月22日

三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約(4/5)

(4)要約C――フロイトは快感の獲得をすべて性的なものと解釈した

 前回は、「5 無意識論と精神的エネルギー論」、「6 夢と想像」を要約したものを紹介しました。そこでは、フロイトが精神活動のありかたを意識的・前意識的・無意識的の3つに区別したこと、フロイトが夢を「一種の精神病」ととらえ、疾患として扱われる精神病の発生およびその治療について、夢の研究が手がかりを与えることなどが説かれていました。

 さて今回は、「7 性的象徴」「8 「幼児期性生活」の正体」を要約したものを紹介しましょう。ここでは、フロイトが快感をすべて性的なものにむすびつけて解釈することによって、ありもしないものを説明するにまで至ってしまったことが説かれています。

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7 性的象徴

 個人の精神活動はさまざまの形態をとっているが、そこには不均衡があり重点的な部分がある。客観的な生活条件や主体的な条件が認識の内容を規定するからである。過去の生活で大きな精神的ショックになったような事件は、思いがけないときに夢の中にかたちを変えて再現することがあり、また、現実的な自己の生理的条件から観念的な自己のありかたが規定されて、夢に現れることもある。このような意味で夢は合理的な存在であり、夢を解釈することも有用性を持っている。フロイトが夢を過程と結果としてとらえたことは、われわれの考えかたと共通するが、夢の過程やつくられかたの問題になると、フロイトとはちがってくる。

 存在が意識を決定する、とは唯物論的な見かたであるが、これを経験主義者としての存在のしかたはその意識を決定するというかたちで考えてみると、フロイトにおいては、中年の女性のヒステリー患者の持つ特殊性が不当に普遍化されたことを理解する必要がある。封建的な支配と宗教的なきびしい戒律の下に生活してきたヨーロッパの中年の女性が対象となったからこそ、フロイトの「上位自我」が注目され強調されたのである。このような女性の患者が精神分析療法を行う医師に対して持つ感情は、容易に恋愛感情に転化しやすいし、性的な意識が入りこみやすい。フロイトが解釈したように、親愛的な感情がつねに必ず性愛的なものにむすびついているというところになると、特殊性として理解すべきものが不当に普遍化されてしまっている。

 性的象徴は人類にとって何ら異常な存在ではないが、現象的に性器の表象を表現したものと同じに見えるもの(偶然の一致でしかないもの)を、決定論の発想を持つ者は必然性がひそんでいると解釈して、そこに無意識の性的本能がはたらいているのだと主張する。性的な連想は、夜ねむったとき見る夢にも浸透していくが、この夢における象徴の解釈を全体的普遍的に度はずれに拡大するならば、それはもはや真理ではなくナンセンスとなる。フロイトの夢の解釈が、このナンセンスにまで逸脱していることを指摘するのは困難ではないが、これも彼の不可知論および決定論から論理的に強制されたものであるから、彼自身はその基礎を疑って訂正しないかぎりどうにもならなかったわけである。フロイトは、無意識的な本能の力による願望充足が夢なのだという理論にもとづいて夢を解釈したために、性的な連想と無関係な夢の中の事物のありかたまで、性的な意味を持っているかのように誇張して解釈することとなった。

 フロイトは夢を「自我」から発生してくるものと「エス」から発生してくるものと2つに大別している。問題は「エス」から発生してくる夢といわれるものである。夢の内容に必然性があることは事実であるが、すべてが必然性ではないにもかかわらず、フロイトは決定論者であるために、夢の内容は思想のあらわれであって、ただそれが無意識のうちに潜在しているものがあらわれてくるだけだと説明した。そこで「潜在思想」という概念が持ち出され、これがさらに不可知論的に、「エス」から出てくるものとして解釈されるのである。さらにこの空想的なつながりを外界へ延長して、遺伝的なものだと解釈し、「太古の遺産」ということになってしまった。

 睡眠は生理的な条件に規定されて自然成長的にあらわれてくる脳活動の部分的な停止であり、生理的な必然性として起る脳活動の停止であるが、われわれの意識的な精神活動のありかたからすれば1つの偶然性として、努力しても肉体的な疲労には勝てずにいつの間にか眠ってしまったというかたちの中断である。フロイトは決定論をとるから、この中断も精神活動における必然性のありかたとして解釈しないわけにはいかなかった。そこで彼は、睡眠をも本能の1つとして、これを「睡眠本能」とよび、このネガティブな睡眠を、「エス」のポジティブな規定というかたちで空想的な本能につくりあげた。

 睡眠のときは精神活動が中断され、肉体外の世界との精神的な交渉も中断される。フロイトはこれを、「装置」それ自体が「退行」するかのように解釈した。それゆえこの機能の停止は「自我」から「エス」へと復帰したことであって、「エス」の機能とむすびつけて説明されるのである。


8 「幼児期性生活」の正体

 フロイトの性に関する理論は、さまざまな非難を浴びたが、それらの非難は正当であった(フロイトが特殊性を度はずれに普遍化する逸脱をおかし、それを不可知論によって合理化した)ともいえるしまた不当であった(フロイト理論を破りすてるだけでその正しい部分をすくいとって理論を建設する方向へすすまなかった)ともいえる。

 フロイト理論で「性的」というのは、われわれの概念とちがって不当に拡大されてしまっていて、愛イクオール性なのである。それゆえ他の人間に対する非敵対的な情感のすべてが性欲とよばれ、すでに物心ついた幼児の快感はすなわち性的な感情であり、快感のための活動はすなわち性的活動だということになる。性生活は出産後間もなく認められる明瞭な現われをもってはじまるというフロイトの主張は、多くの人びとにとってショッキングであった。フロイトは、快感の獲得をすべて性的なものと解釈して、エロスの本能へとむすびつけていったのであった。

 フロイトは、性欲と関係のない幼児の生活のありかたの発展と、幼児の性の区別についての認識の発展とをむすびつけて、いくつかの性生活の段階を空想的に設定したのであって、幼児の性生活などという主張はナンセンスである。しかし、唯物論の側からのフロイト批判には、幼児のこの種の認識の発展を正しく説明したものがないかきわめて不十分である。マルクス主義は、すでにこの正しい説明のために必要な方法論を提出しているにもかかわらず、自称マルクス主義者はこのことを反省しなかった。そのためマルクス主義では性を正しくとりあげられていないものと判断し、マルクスをフロイトで「補う」必要があると主張したり、フロイトの性の理論をマルクス主義につぎ木したりする人びとも出現した。マルクスが指摘しているように、異性が「他の人間という鏡」として媒介関係に入りこむのだということを理解する必要がある。

 人間は他の人間のありかたを観念的に自分自身のありかたとしてとらえることができるが、これは性生活も変るところがない。大人の性行為が子どもの目にどんなに異常に映じようとも、それは同時に子どもにとっては自分の未来の生活のありかたの一端としてとらえられ、自分も大人になると同じ行為をするのであろうという結論が出てくる。フロイトは母の乳房が幼児に満足感を与えることから、これを幼児の最初の性的対象であると主張しているが、乳房ははじめ栄養的な意味でとらえられ、そこから父親との差異を自覚するのに役立つ以上のものではない。子どもが自分と同じ種類に属する人間とちがった種類に属する人間とを実体的に区別してとらえるのは、性器のありかたとそのちがいを認識したときであって、ここでそれまでの現象的なちがいを止揚し、性的な認識が発展していく。フロイトとは逆に、実体としての性器の認識から本質的な性への認識へとすすむのである。フロイトは異性という外界に実在する鏡と無関係に、エロスの本能からリピドーが移行するというかたちで性の認識を説明するのであるから、まず性的認識が存在し、そこには「太古の遺産」も受けつがれていて、それから現実の性器の認識へとすすむのだと、逆立ちした解釈をしないわけにはいかなかった。

 フロイトは早期幼児期における性生活というありもしないものを説明しなければならないことになったから、これが途中で「潜在期」を迎えさらに思春期にいたって復活するのだと主張した。「潜在期」に反対する人びとには、それはきみたちが忘れてしまっているからだ、「幼児期健忘」のせいだと彼はいう。しかもこの主張は、さらに進化論を援用して合理化され、遺伝的にも当然だというのである。

 フロイトは性的な認識をはじめる時期について、男の子どもは「エディプス期に入る」ものと説明している。彼は自身の有名な「エディプス・コンプレックス」の理論を誇り、父を殺して母を妻としたというギリシャ神話のエピソードが「太古の遺産」として「エス」に遺伝していると考えた。そして、父を殺して母を妻とすることは現実に許されはしないから、頭の中に抑圧されたかたちで存在するのだという結論になった。すなわちコンプレックスの成立で、そんな不道徳な空想を抱いた覚えはないと反対する人びとに対しては、例の「幼児期健忘」が持ち出されるわけである。
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2015年10月21日

三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約(3/5)

(3)要約B――フロイトは夢をどのように捉えたか

 前回は、「3 不可知論と唯物論との間の彷徨」および「4 フロイトの基礎仮説――「エス」「自我」「上位自我」」を要約したものを紹介しました。そこでは、フロイトは医師としての実践に規定されて、露骨な観念論には陥らなかったものの、不可知論的な解釈からぬけ出せなかったこと、フロイトの不可知論は、認識の全体の構造を精神的な「装置」にして、すべてを本能から説いていくことにしてしまったことが説明されていました。

 さて、今回は、「5 無意識論と精神的エネルギー論」、「6 夢と想像」を要約したものを紹介することにしましょう。ここでは、フロイトが無意識や夢をどのように説明したかが説かれています。

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5 無意識論と精神的エネルギー論

 精神分析学は純粋な思惟の産物ではなく、患者の治療を通じてつくり出され経験によって具体化されていった理論であるから、その解釈の背後にはやはりそれに相当する現実のありかたが隠されているのであって、簡単に破りすててしまうわけにはいかない。

 パヴロフは脳の精神活動に不均衡の存在することを生理学的に認めたが、フロイトもやはり意識的だということと精神的だということとを同視するやりかたに反対した。ただフロイト理論では、無意識の説明にも不可知論的な解釈が施されることになり、精神活動のありかたには、意識的・前意識的・無意識的が区別されるべきだというのである。

 言語表現の規範も家族の間の生活規律も、一見犬の条件反射と同じもののように思われるが、フロイトはこれらを「上位自我」の活動として正しく区別しており、「前意識という性格を否定することができない」とのべている。

 フロイトは「エス」から「自我」が生れたという論理的な関係を設定したが、これは本能的な無意識と前意識的な無意識との間にも論理的な関係を設定することでなければならない。フロイトはこのように事実に反した・空想的な・「エス」から「自我」への発展を主張することによって、事実に反した・空想的な・本能的な無意識と前意識との間の相互移行をも認めないわけにはいかなくなったのである。またこのことによって、「自我」において存在する抑圧が、事実に反した・空想的な・「自我」による「エス」の側への抑圧へと誇張されていくことになったのである。

 なかなか思い出せないものが、夢の中その他思いもかけぬところに再現してくるという事実を、フロイトは思い出せないものを抑圧の結果と解釈した。この「自我」の前意識的なありかたの中で、容易に意識的になれないものを、「自我」から閉め出されて「エス」の中に追いやられてその意味で無意識化したものを考え、ここで「抑圧されたもの」が夢の中で抑圧がゆるめられるためにあらわれて来るのだと説明する。

 こうして認識は現実の世界の像であるにもかかわらず、実体的な「装置」の機能であると考えられ、「装置」それ自体の素材ないし実質をなしているものはいったい何なのか、なぜこのような移行が起るのか、を明かにしなければならなくなってくる。フロイトは科学者として何とか説明を与えようと努力し、エネルギーを持ち出してくる。論理的な強制の結果としての空想は、ついに空想的な「精神的エネルギー」とその可動性にまで行きついた。この空想的な精神的エネルギーの中でエロスの本能の発展となっているものを、彼は「リピドー」と名づけた。

 この有名な「リピドー」論は、フロイト理論の信仰者にとって何ら疑いをさしはさみえない核心的な主張の1つであるが、これは、古代の霊気説と本質的に変るところがなく、これでは八方ふさがりであり、フロイトも精神的エネルギーを認める以上に出られなかったのである。われわれはここに、不可知論にいくら科学的な衣裳を着せかけてやっても、それを展開していくときは観念論的妄想以外のところへ行きつくことはできないし、信仰者の望むと望まないとにかかわらずそうなる運命にあるのだということを、またしても見せつけられたわけである。

 人間は現実の世界のありかたを認識していく中で、それが本能との相互関係で独自の意志をつくり出すことになる。だが、意志から行動へとすすむことが望ましくないと判断すれば、その認識の発展を別の意志で抑制する。精神分析学で患者の治療を論じて、「エスの中に抑圧されているものの意識化」というのは、このような意志による押えつけを自らとり去って、本能とむすびつく認識をふたたび意識化させることであって、この抑制を神経症の原因になるものと見て、話し合いの中でこの抑制を発見し、患者が自らこれをとり去るように指導するのは合理的であるし、またそれなりに成功をおさめたわけである。本能から意志へ行動へという発展が、秩序を乱すと判断したときは、対象化された意志で抑圧する習慣を持つようになり、フロイトもこのような「自我」の活動を経験的に認めていた。それゆえフロイト理論では、本能満足の制限を「上位自我の主要な仕事である」ととらえるだけでなく、さらに「自我」による「防衛」のメカニズムを重視するのである。これらは意志の活動として統一的に理解しておくことが必要であるが、フロイトにはこの統一がなく、「装置」の2つの部分の機能として分解したままになっているのである。


6 夢と想像

 夢とよばれるものは、健康な正常の人間の生活の中で必ずあらわれてくるところの精神現象である。夢にははなはだ不合理な・妄想とよぶのがふさわしいような・奇妙な存在や事件が現れてくるし、自分の自由にならぬ精神現象であるから、夢は精神現象の中の例外的な存在である。フーリエやエンゲルスが例外もしくは不明瞭なものに関する理論を軽視することに反対したのと似たことを、フロイトも夢について述べている。

 俗流唯物論は夢について、人間が経験で獲得したものを材料にして頭の中で加工したのだと説明するが、なぜそんな加工がなされるのかについては答えられない。パヴロフ理論は夢について、生理学的な解説を与えるだけで、これも夢の成立の過程を認識論的に解明したものではない。パヴロフは精神病をとりあげるときも、人間特有の型に基づいて解釈するし、夢についても同様の形式を論じなくてはならなくなる。夢を見ている人間は、目をさましているときの現実的な自己とは別の自己として、社会的な位置づけも年令もちがった観念的な自己として、夢の世界で生活している。夢の現象的な不合理あるいは妄想の背後にある必然性を示さなければ、問題は解決しないから、生理学的な型としての解釈を押しつけたところでどうなるものでもない。

 われわれが夢を解明しようと思うなら、生理学的な「純客観的な」研究へとすすむのではなく、夢の内容を規定してくるところの日常生活における精神活動がどんなものであったかという、この過程を客観的かつ全面的に検討してみなければならない。現実の世界の忠実な反映と夜ねむったとき見る夢との中間項である想像(夢であることを自覚した夢)のありかたを無視して、中間項をとびこえて、夢と現実の世界の忠実な反映とを直結する発想は、混乱をおこさずにはすまない。想像が現実と無関係な純粋な観念上の想像ではないし、また現実の忠実な反映も純粋に受動的になされるわけではない。想像と現実の忠実な反映との相互浸透が存在している以上、想像についての解明がなければ現実を忠実に反映する過程を十分に明かにすることもできないし、また現実を忠実に反映するという出発点を無視して想像を解明することもできない。観念論や不可知論は認識はすべて能動的な立場での創造だと解釈するから、現実の忠実な反映と想像との区別が与えられなくなってしまう。

 フロイトが夢を「一種の精神病」ととらえ、疾患として扱われる精神病の発生およびその治療について、夢の研究が手がかりを与えるものだとし、夢を正常の精神活動と精神疾患との中間に位置づけ、精神疾患を結果としてでなく過程においてとらえようとしたことは、彼の卓見である。彼は不可知論的であっても外界との交渉で経験が蓄積されることを認めているし、夢を現実の世界の認識と一応区別しているが、「自我」は「エス」から発達したものとして、絶えず本能とのむすびつきで説明されるフロイトの不可知論の特徴(基礎仮説の誤りに基づく)が、夢の解釈を歪めることになる。フロイトは決定論を堅持していたため、夢の世界像の具体的なありかたが必然性の発現だと考え、これは「エス」から規定されているものと解釈し、「太古の遺産」もまた「無意識界の精神過程を支配している法則」に従って夢の中に再現してくると考えた。

 われわれの立場で想像について検討するならば、想像には過去の追想と未来の予想と実在しない空想と三つに大別できる。追想は、過去の経験に近い世界像を再現するわけであるが、それと同時に自己自身もまた過去のその時の自己に近いものになろうとして、観念的な自己分裂が起る。このときの観念的な自己のありかたを、フロイトのいう「上位自我」や「防衛機構」とむすびつけてとりあげることは重要であり、この点においても観念的な自己は現実的な自己と異っている。予想をする場合にも、自己自身が未来のそのときのありかたに観念的に移行していくばかりでなく、やはり「上位自我」や「防衛機構」とのむすびつきが消滅したり出現したりする。空想は、芸術の作家が与えてくれる夢の世界を追体験する場合と、自主的に創造する場合とある。

 人間は生活資料の生産(家の建築など)や消費(ショーウインドのコートなど)においても、未来のありかたを予想して表象をつくり出す。空想の場合には現実的な自己としての実践は伴わないが、観念的な自己としての観念的な満足感がないではない。創造と欲望との間には深い関係があるから、想像の欲望が夢に浸透し、満たしたいとのぞんでいる欲望が満たされる場合が多い。フロイトが夢を「願望充足」だと規定したのも、もっともらしく思える。これに対する疑問として、夢には苦痛や不安を与えられる夢、充足を拒否される夢があることをあげる人びとが出てくることも、フロイトは予想していて、「無意識的なエスにとって満足であるものは、まさにそれゆえに自我にとって不安の原因となりうる」と、あくまでも「エス」とむすびつけて解釈している。本能と直接むすびついていない夢や願望充足でない夢もすべて「エス」にむすびつけなければならず、空想的な法則による「エス」からの規定として解釈しなければならないのである。
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2015年10月20日

三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約(2/5)

(2)要約A――フロイトの「基礎仮説」とはどのようなものか

 前回は、「1 パヴロフの人間機械論と決定論」と「2 フロイト理論の礎石」を要約したものを紹介しました。そこでは、パヴロフが人間を機械的に扱ってしまったために、現実の人間のありかた、その高度の精神活動とこれにもとづく行動が十分説明し切れなかったこと、フロイトは本能の役割を誇張しすぎたために、その理論の礎石がゆがんでしまっていたことが説かれていました。

 さて、今回は、「3 不可知論と唯物論との間の彷徨」および「4 フロイトの基礎仮説――「エス」「自我」「上位自我」」を要約したものを紹介することにしましょう。ここでは、フロイトの基礎仮説の基礎に不可知論的な解釈が伏在していることが説明されています。

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3 不可知論と唯物論との間の彷徨

 フロイトは生理学的な俗流唯物論では問題を解明しえないことを知って、これと袂を分かった。ブロイエルはヒステリー症状の女性の治療に当たるうちに、症状を起す契機になった事件を睡眠状態の中で思い出させ、それに付随している感情をもよびさますことができるなら、ヒステリーが起らなくなることを発見したが、フロイトはこの方法を多くの患者に追試し、これを抑圧されて意識にのぼらない精神過程の転換であると説明し、抑圧されていた感情が発散することによって治癒するのだと説明した。ここから、無意識という精神状態の重要性が、経験的に自覚されることとなったのである。

 フロイトは医師であって、研究の対象は生活経験を重ねたヒステリーの女性であったから、生きた現実の人間の具体的な精神活動ととりくむことで、彼の理論体系が露骨な観念論へとつっ走ることに絶えずブレーキをかけたのであった。しかし一方でフロイトは、りっぱな不可知論的な言葉も残している。すなわちフロイトは唯物論の立場をとったり不可知論の立場をとったり、一貫していないのである。このフロイトの不可知論と唯物論との間の右往左往が、そのままフロイトの理論体系の性格ともなっているのである。

 フロイトの不可知論は深刻に理論体系へ入りこんでいるが、これは研究の対象が現実の世界ではなく精神活動だからであって、精神活動について不可知論的な解釈をもつ以上対象のとらえかたがつねに不可知論的になり、理論体系の基礎に不可知論的な解釈が伏在することになるからである。

 パヴロフにあっては、人間機械に対する「反射」として機械的唯物論の全体像がつくり出されたが、フロイトにあっては、本能がもたらす「精神的エネルギー」のありかたとして不可知論の全体像がつくり出された。フロイトはこの全体像を、科学者の謙虚さで「基礎仮説」とよんでいるが、医師あるいは医学者に共通した経験主義的な態度とそれから来る論理的なひよわさがあり、「哲学的思索」にひきずられずにすんだという長所は、同時に仮説のあやまりを死ぬまで反省できなかった短所ともなっていたのである。

 精神活動をながめてみると、それは大きく区別して2つの外界、すなわち、人間の肉体と肉体外の世界とによって規定されているが、フロイトの注目した本能とよばれるものは、その人間の肉体から規定されてくる精神活動であり、肉体から規定されてくるゆえに経験的に獲得したものではなく生れつき身体にそなわっているものであり、その意味ではたしかに経験を超えたものだということができる。フロイトが人間の精神活動における本能の役割を基礎的なものとして誇張し、肉体外の世界の認識までこの本能の発展として本能から説明したのは、彼の不可知論のもたらす論理的必然だったのである。この論理的な強制が、フロイトの夢についての解釈をも歪めることとなり、フロイトは夢の起原を遺伝的に解釈した。夢での創造は偶然的な形式をとるけれども、決定論の立場に立つフロイトはそう理解しないで、これを必然的なものと解釈し、その個人の経験を超えた内容を他の人間の精神活動から、「祖先の経験から」遺伝的に肉体を媒介してみちびいてくるのである。


4 フロイトの基礎仮説――「エス」「自我」「上位自我」

 フロイトがつくり出した精神活動についての不可知論的全体像を、すなわち精神分析学の礎石となっているところの基礎仮説はどのようなものであるかを、唯物論的全体像と比較しながら具体的に検討してみることにしよう。

 認識は形態こそ変化しているが、終始一貫して像であり、つねに原型の存在を前提としている。フロイトの不可知論にあっては唯物論で原型として認められる実在が不可知だと規定され、実在の反映という考えかたが論理的に否定されるのであるから、認識を本能を出発点として、像ではない「何か」の成長と発展として論じなければならない。ここから、フロイトの基礎仮説における認識の全体の構造も、精神的な実体の成長と発展を説くこととなった。フロイトの不可知論は、認識の全体の構造を生理学的な脳の構造から切りはなして精神的な「装置」にしてしまったのである。精神活動のありかたにさまざまなちがいがあるという事実を、フロイトは「装置」のそれぞれ異った部分の機能のちがいとして解釈する。

 この「装置」は、そのもっとも基礎的な部分は人間が生れながらに持っている部分であって、この部分の機能としての精神活動がさまざまな本能だと解釈し、この基礎的な部分をフロイトは「エス」と名づけた。この「エス」は化学史におけるフロギストンと同じような架空の実体にすぎず、フロイト解釈の試みは、不毛に終わることを最初から約束されているのである。

 フロイトは、本能とは別の過程を認めずに、実在からの「刺激」によって「エス」それ自体が変化するのだと解釈した。この「エス」の変化は、これまでの「装置」のありかたの変化であり、新しい部分が生れたことであって、この部分をフロイトは「自我」(情感、意志など)と名づけた。またフロイトは、精神的な抑圧すなわち敵対的な性格をもつ観念的な自己疎外に真正面からとりくんだので、その基礎仮説においてもその精神的な装置の一部分としてこの機能をあらわす部分を想定しないわけにはいかず、この部分を「上位自我」と名づけた。

 フロイトが「上位自我」と名づけているものは規範であって、フロイトが「外界の一部」が「同一化」によって「自我の中にとりいれられる」というのも、他の人間の意志あるいはすでに社会的に成立している規範が追体験によって個人の頭の中に複製されるということの、不可知論的な解釈なのである。

 フロイトの意志論あるいは規範論の特徴は、第一に、ヘーゲルのように意志それ自体が客観的に出ていくなどと考えないが、論理的な反省がないから体系的な広がりを持っていないこと、第二に、観念的に対象化された意志のすべてを「上位自我」として扱わず、自分から自発的に対象化した意志あるいは自分で創造した個別規範などは、「上位自我」から除外され「自我」のほうに入っていることである。

 「上位自我」の本能満足の制限のうち、破壊本能についての説明を考えてみると、一見まことにもっともらしくみえるが、一面的なとらえかたから生れた誇張であることが分かる。第一に、攻撃本能なるものが「自我」の内部に本能それ自体の発展として「固定化」するのでも何でもない。第二に、「自己破壊」はすべて現実の他人への攻撃性から「向け変え」たものだというのも還元論である。
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2015年10月19日

三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約(1/5)

《目 次》(予定)

(1)要約@――研究の成果とその解釈とを区別しなければならない
(2)要約A――フロイトの「基礎仮説」とはどのようなものか
(3)要約B――フロイトは夢をどのように捉えたか
(4)要約C――フロイトは快感の獲得をすべて性的なものと解釈した
(5)要約D――フロイトの説く2つの基本本能とはどういうものか

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(1)要約@――研究の成果とその解釈とを区別しなければならない

 本ブログでは、本日より5回に分けて、三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約を掲載します。

 三浦つとむさんの代表作というべき『認識と言語の理論』については、2015年3月14日から10回にわたって、第1部第1章から第3章までの要約を本ブログに掲載しました。そこでは、第1部では認識の理論が説かれていること、第1章から第3章までは三浦認識論の入門編とでもいうべき展開となっており、その応用編として第4章でパヴロフおよびフロイトの理論が批判的に検討されていることを述べました。

 科学的な言語の理論の確立のためには科学的な認識の理論が前提になければならない、という三浦さんの問題意識を受け止めることで、真に科学的な言語学を創出することこそ人生の目標だとしている筆者にとっては、言語の理論を構築する前提として、まずは三浦認識論を全体としてしっかりと学び、継承していく必要があると考えています。そこで、前回いわば中途半端に終わってしまった『認識と言語の理論』第1部の要約の続きを、今回ここに掲載することにしたわけです。なお、言語の理論を説いた第2部については、近い将来に必ずしっかりと取り上げることをここにお約束しておきます。

 今回取り上げる第1部第4章の目次は以下のようになっています。

第1部 認識の発展

 第4章 パヴロフ理論とフロイト理論の検討
  1 パヴロフの人間機械論と決定論
  2 フロイト理論の礎石
  3 不可知論と唯物論との間の彷徨
  4 フロイトの基礎仮説――「エス」「自我」「上位自我」
  5 無意識論と精神的エネルギー論
  6 夢と想像
  7 性的象徴
  8 「幼児期性生活」の正体
  9 「エディプス・コンプレックス」の正体
  10 エロスの本能と破壊本能
  11 右と左からのフロイト批判

 第1章から第3章にかけて、「観念的な自己」の運動がいかにして認識を発展させるかが説かれていたわけですが、第4章では、この論理を応用し、パヴロフおよびフロイトの理論が検討・批判されていきます。

 今回は、第1節と第2節の要約を掲載します。ここでは、パヴロフやフロイトの研究成果の正しい部分はしっかりと受け継ぐ必要があるものの、彼らの解釈で歪んでしまった部分を建設し直す必要もあることが説かれていきます。

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第4章 パヴロフ理論とフロイト理論の検討

1 パヴロフの人間機械論と決定論

 脳科学は、脳の物質的・生理的な側面の検討と、精神的・認識的側面の検討とが、正しく統一されることを要求しているが、そのために必要な脳観さえまだ確立していない状態にある。生理学で仕事をすすめて来たパヴロフと、心理学の分野で独自の理論を打ち立てたフロイトののこした業績は、正しい脳観によって建設される脳科学の中に止揚されるべき存在である。

 パヴロフは1870年代に生理学の研究をはじめたロシアの生理学者であり、いくつかの重要な発見をしたが、発見とその解釈とは区別しなければならない。パヴロフは唯物論の立場らか、観念論的な心理学に対して絶えず批判的であったが、素朴唯物論を克服することはできなかった。例えばパヴロフは、犬における興奮と抑制という生理的過程は同じように人間にも適用され、犬の行動が両者のバランス如何によって決定されるという結論は同じように人間にも適用されるという還元論的方法ともいうべき考え方をしていた。彼は人間機械論のとりこになっていたのであり、すべての存在を機械的に説明することこそ自然科学の「理想」であると思いこんでいるのである。こうした人間の社会関係という特殊性を見ようとしない、犬的な法則を押し付けて解釈しようとするパヴロフの態度は、非科学的な態度だといわなければならない。

 パヴロフ理論の「反射」という概念は、デカルトから受けつがれ、しかもデカルト的な機械的な解釈において受けつがれた。デカルトは精神と物質をたがいに独立した実体と解釈し、二元論の立場に立ったが、パヴロフはこの二元論に反対して、動物のありかたを人間に延長しようとして、かつてのフランス唯物論と同じ問題に直面した。第1は、「決定論」であり、第2はそれにつながる意志の自由という事実をどう理解するかである。彼は18世紀的な決定論を基本的原理であると信じ切っていたから、われわれに偶然と見えるものも、すべて必然なのであって、ただその必然性がまだよくつかめていないのだと考えなければならなくなる。物理学の発展が極微の世界の解明へとすすみ、偶然性をも認めなければならなくなったとき、決定論の否定から因果性それ自体の実在の否定へ、さらに唯物論への疑念が生じるという喜劇的な事態が起こった。意志の自由についても、自由と必然性を対立物の統一として・矛盾として・とらえることによって、初めて解決できる問題であるが、パヴロフは18世紀的な唯物論の段階にとどまっていて決定論を固守したし、意志の自由の問題も解決できなかった。パヴロフは人間を1つの機械であると考え、そこから人間の研究方法も人間がつくり出した機械の研究方法も変りがないのだという結論へと持っていき、この結論と現実の人間のありかた・その高度の精神活動とこれにもとづく行動との大きなくいちがいの原因を、「強力な未知の法則」のはたらきに押しつけただけであった。

 パヴロフにおける意志論の欠如は、規範論の欠如となって、彼の言語論の足をひっぱってくる。パヴロフ理論は第二信号系において言語が成立するといい、これを「信号の信号」だと説明しているが、説明はそこまでで、言語規範の成立やその発展による自由の拡大など、意志の自由の具体的なありかたについては何も語っていないのである。


2 フロイト理論の礎石

 人間は1つの機械なのだから機械も人間も研究方法は同じだというパヴロフの方法論を適用すると、精神活動の結果として形成される人間の性格まで、機械と同じように物質的に、人間の生理学的なありかたから説明されることになる。こうしてパヴロフは犬から出発してヒポクラテスの四気質説を支持するところへと落ちつき、彼の弟子も医師の処置には主観的データと客観的データが必要であるとの説に二元論のレッテルを貼ったのである。

 他方、フロイトによって創始された精神分析療法は、患者に対してその頭に浮かんだことをかくさず忠実に話すように要求し、この「主観的データ」を分析し、患者に説明することで、その抑圧を除き治癒にみちびく療法であるから、パヴロフの理論とは本質的に相容れない。われわれはフロイトに対してもパヴロフに対すると同様に、彼の研究の成果とその解釈とを区別しながら、批判的な態度で接する必要がある。フロイトは礎石をすえることに成功しなかったとはいえ、階層を築くことには成功したのであるし、彼なりの礎石(それが科学にとって真の礎石ではないにしても)をもってはいたのである。フロイトの出発点あるいは礎石についての検討は、彼の仕事の壁がどこにあったかを明かにするために不可欠である。

 科学の新しい分野の開拓には、新しい術語の創造が不可避であり、パヴロフは興奮と制止のバランスによってすべてを説明しにかかり、さまざまの新しい術語をつくり出した。しかし彼は機械論的な発想で、機能の実体的なとらえかたをした。一方、観念論哲学にあっては、これ見よがしの「最新」用語をちりばめるのがつねであるから、科学と称する理論体系に耳なれない哲学的用語がつぎつぎととび出してくる場合には、いかさまと予想してまずまちがいない。

 観念論的な発想を出発点あるいは礎石としたことが明かな理論に対して、われわれはそれを破りすてるのではなく、その中にある真理をすくいとって来ることに努力しなければならない。出発点あるいは礎石に歪みがある場合は、体系全体を再検討して全面的な改訂をやらなければならないから、この誤謬が礎石の歪みに由来するように見えても、そう見えるのは何か見当ちがいな見かたであり自分が未熟なせいであるにちがいないと、自分で自分にいいきかせる傾向があらわれる。また他方では、礎石の歪みだと確信しても、それを訂正して体系全体をつくりかえる方向へすすむのではなく、礎石が歪んでいるのでは全体が意味をもたないと全体を否定する方向へすすんでしまって、すでに築かれている階層までぶちこわす傾向があらわれる。

 フロイトの精神分析学に対しても、やはりこの2つの傾向があらわれているが、どちらにもそれだけの根拠と逸脱がある。フロイトの人間観は「本能」論であり、2つの基本本能としてエロスまたは愛の本能と、破壊または死の本能を認めた。フロイトは晩年、ギリシャの哲学者エムペードクレスの主張を発見し、無生物界を支配しているところの2つの「基本力」を認めて、これらが生物において2つの「基本本能」のかたちをとるのだと主張するようになった。

 そこでわれわれはこのエムペードクレスの原理について、いますこし検討してみようと思う。エムペードクレスはその原理を自分でつくりあげたものではなく、2つの基本力という考えかたはすでにヘラクレイトスの主張していたところである。ヘラクレイトスは元素的なものを認めながらも、それらが差異ばかりでなく共通性をも持って相互に転換していると主張し、この質料に内在する原理として闘争と調和の2つを指摘したのである。エムペードクレスも元素的なものは認めたが、これらは相互に転換するものではなく、独立して存在する永遠に変化しないものだという見解をとった。それゆえエムペードクレスは、ヘラクレイトスの闘争と調和の2つの原理を、質料とは別に存在する力それ自体のありかたとして、いわば自己流にとり入れたのであった。

 自然科学の発展は、物質と運動とが不可分の存在であることをわれわれに教えていて、この意味でエムペードクレスよりもヘラクレイトスの考えかたのほうが正しかったわけであるが、フロイトがエムペードクレスを支持するにとどまって、ヘラクレイトスへすすまなかったのは、フロイトの発想がヘラクレイトス的(弁証法的)ではなくエムペードクレス的(形而上学的)であったことから規定されたものである。フロイトの基本本能論それ自体は歪められたものではあっても、事物の発展の原動力として二種類の矛盾が存在しからみ合っている事実をそれなりに反映しているのではないか、と予想することができるのである。

 われわれがフロイトの理論体系の礎石の歪みを理解してそれを正しいものにつくり変えるための、もっとも重要な環は、なぜ彼が本能の役割をそれほどまで誇張しなければならなかったか、彼をして誇張させた理由はどこにあったか、である。この理由を明かにしなければ、本質的な批判にはならないのである。
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2015年08月21日

フロイト『精神分析入門』を読む(上)(5/5)

(5)抑圧された意向は錯誤行為や夢となって現われる

 本稿は,著名であるにもかかわらず,正確には理解されていないとされるフロイトの精神分析をきちんと理解するために,代表的な著作である『精神分析入門」を取りあげて,これを読み解いていく試みでした。「フロイト『精神分析入門』を読む(上)」と題する本稿では,その前半部分,すなわち,錯誤行為と夢いついて扱われている部分を見てきました。ここで,これまでの流れを振り返ってみたいと思います。

 『精神分析入門』は第一次世界大戦中に,フロイトが61歳の時に刊行された著作で,大学での講義を再現したものでした。本書は非常に特徴的な論の展開を行っていることを確認しました。それは,自説に対する異議や反問を予め想定しておいて,その異議や反問を提示した後,それに答えていくという弁証法的な展開方法でした。また,本書にはフロイトが76歳の時に書いた続編が存在することにも触れました。

 連載の第2回では,錯誤行為の部分を扱いました。フロイトの言う錯誤行為とは,たとえば,言い違いとか書き違い,読み違い,聞き違いや度忘れ,置き忘れ,紛失などの,誰もが犯しがちなちょっとした間違いのことでした。こういった錯誤行為の起こる原因を偶然に帰してしまうと,自然界の決定論を破ることになり,学問的な世界観が放棄されてしまうとフロイトは説いていました。そうして,錯誤行為にも必然的な意味・意図があるのだとして,論を展開していくのでした。フロイトは特に言い違いを取りあげて,衆議院議長が開会を宣言する代わりに閉会を宣言してしまった例などをとおして,錯誤行為には独自の意味があり,この独自の意味が漏れてしまったのが錯誤行為であると説いていました。さらにフロイトは,二つの異なった意図の共同,もっといえば相互の衝突の結果として錯誤行為は生じると主張していました。二つの意図とは,妨げる意向と妨げられる意向であり,両者は内容上関係があり,前者は後者への反対,あるいは後者に対する修正や補充を意味しているとのことでした。そして,妨げる意向とは,口に出さないように押しつけられた意向であり,何か言おうとする意図が現存するのに,それを抑えつけるということが,言い違いを起こす不可欠の条件であると結論づけられていました。最後に度忘れの検討を行い,不快な感情と結びついているがゆえに,それを思い出すと不快感がふたたびよみがえってくるようなものは,記憶がこれを思い出すことを好まない,という原理が説かれていました。フロイトは,想起あるいはその他の心的行為にともなう不快を回避しようとするこの意図,すなわち不快からの心理的逃走こそ,名前の度忘れのみならず,怠慢,見当ちがいなどのような,多くの錯誤行為の究極的な有力な動機であると説いていたのでした。

 連載の第3回では,夢についての講義の前半部分を扱いました。まず,夢を扱う理由が説かれていました。フロイトによると,夢の研究は神経症研究の最上の準備となるばかりでなく,夢そのものがまさに神経症的な症状であり,しかもすべての健康な人たちに見られる神経症的な症状であるという点で,夢の研究は計り知ることのできない利益をもつとのことでした。次に,夢判断の前提として,夢は身体的現象ではなく心的な現象であるということ,および,夢を見た人はその夢が何を意味しているのかを知っているが,自分が夢の意味を知っているということを知らないのだという二つが説かれていました。後者に関しては,他の領域で証明済みだとして,催眠現象の研究が紹介されていました。これは,はじめは催眠状態中のことを思い出せないと言っていた男が,促されて,最終的には全て思い出せたという実験でした。これと同様に,夢についても本人がその意味を本当は知っているのだとしたら,夢判断の技法は,本人にその夢について連想することを自由に語ってもらうこと(自由連想)だということになります。フロイトは錯誤行為の研究を適用して,夢の要素とは,本来的なものではなく,他のあるものの代理物であるという見解を提示し,夢の要素についての自由連想によって,別の代理物を浮かび上がらせ,その代理物に基づいて隠れているものを推測するのが夢判断の技法だと説いていたのでした。ここで隠されたものを無意識的とか夢の潜在思想とか呼び,夢の要素を意識的とか夢の顕在内容とか呼ぶことを提案していました。この後フロイトは,小児の夢の検討という回り道をして,夢の歪曲は夢の本質ではないこと,夢は眠りの妨害者を取り除く役目を果たし,幻想的な体験で願望を満たされたものとして表現するということを説きました。その上で成人の歪曲された夢の検討に進み,夢の歪曲とは,夜眠っている間にわれわれのうちに働く,なにかしら忌まわしい願望に対して,自我に容認されている諸意向によって行われる検閲の結果であると主張するのでした。

 連載の第4回では,夢を扱った残りの部分を検討していきました。フロイトは,夢の歪曲のもう一つの要因として,象徴的表現に触れていました。これは水は出産を,3やステッキなどは男子性器を象徴するなどというような,恒常的な関係のことを表しますが,これは精神分析が発見したものではなく,自由連想に取って代われるものでもないことが強調されていました。続いてフロイトは,夢の作業について詳しく検討していました。夢の作業とは,潜在夢を顕在夢に置き換える働きのことであり,圧縮,移動,思想を視覚像に翻訳する作業の3つに分類されていました。最後の思想を視覚像に翻訳することこそが,夢の本質的なものであるとされていました。このあとフロイトは,われわれの思想は感覚像にあとから言語が結び付けられ,ついでその言語に思想が結合されることによって生じてきたものであるが,夢の作業は,その思想の発展を逆戻りさせ,思想を感覚的な像に戻す操作であるから,思想に対してある種の退行的な処理を施すものであると指摘していました。さらにフロイトは,フロイトは自身が「太古的あるいは退行的表現方式」と名づけた夢の作業の特徴について説いていきました。夢の作業は,系統発生的太古時代に当たる幼児期と,個体発生的太古時代である幼児期に,われわれを連れ戻すというのでした。フロイトは,無意識的な領域に残されている幼児期の記憶像を,夢の作業は自由に使用するのであり,心的生活における無意識的なものとは,実は幼児的なものであると説くのでした。そのうえで,「昼の名残」が,無意識的な領域から出てくるものと一つになって,夢が形成されるのだと結論づけられていたのでした。最後にフロイトは,もしも夢が願望充足であるとすれば,夢の中に苦痛の感覚があるのはおかしな話ではないかという疑問に対して,三つの観点から答えていました。そこでは,夢の作業が願望を充足することに充分に成功しなかったために,夢の思想中の苦痛の感情の一部が顕在夢中に残されていることがあること,抑圧された願望にとっての願望充足は,夢の検閲者の側に立つわれわれにとっては苦痛な感覚を引き起こす機縁となり,それを防衛しようとする機縁となるものにすぎないこと,懲罰もまた検閲を加える側の人間の願望充足であることが説かれていたのでした。

 およそ,以上のような内容が説かれていたのでした。ここで,錯誤行為と夢の共通性という点に絞って,再度,まとめ直しておきたいと思います。

 両者はともに,本人には未知の無意識的な内容が歪曲されて,本人に自覚できる代理物として現象しているという点で,共通性があります。未知の無意識的な内容は,ある意味本人の本心ですが,その場で出てきては困るもの,社会的に許容されない(と本人が思っている)ものであるために,無意識の領域に抑圧されているのです。しかし,これがふとした拍子に意識上に現われてしまうことがあるのです。ただし,そのまま現われることはまれで,たいていは何らかの形に歪曲されて現われます。夢であれば,これが検閲の働きです。どうして歪曲されるのかというと,そのまま現われたのでは,良心がとがめるというか,自分自身も不快に感じてしまうからです。すなわち,歪曲された形で現われる,そのままではなく何らかの代理物という形で現れるのは,不快からの心理的逃走のため,といえるのです。

 このようなフロイトの理論は,認識論上,どのような意義があったといえるでしょうか。それは,端的にいうと,認識の構造に一歩分け入ったといえるのではないでしょうか。すなわち,行動や精神現象の背後に,本人も自覚しておらず隠しておきたいような動機があり,それが知らず知らずのうちに本人を規定している,ということを突きとめた点は高く評価できるものと思われます。もう少しいうと,われわれの認識は一枚岩ではなく,対立する二つの意向の統一として存在しており,一方は意識できるが他方は意識できないことがあるということを掴んだ点,および,意識できない方の意向は,過去像・蓄積像がもとになっており,これら過去像・蓄積像は,気づかないうちに現在の行動や精神現象に影響を与えるということを掴んだ点,この二つの点が,フロイトの大きな業績といっていいのではないでしょうか。

 また,もう少し細かい部分でいうと,読み違いの考察において,人間の認識が単に受動的に対象を反映するのではなく,問いかけ的に反映するのだ,ということをフロイトはそれなりに掴んでいました。さらに,夢の作業において,思想の発展は抽象化のプロセスであるのに対して,夢の作業は逆に具体化のプロセスだと説いている部分も紹介しました。このような点も,人間の認識の問題に取り組んだフロイトならではの,認識論上の成果ということがいえるでしょう。『精神分析入門』の錯誤行為や夢について扱った部分の読解から,以上のようなことがいえると思います。

 これは,他人に二重化する際にも留意すべきポイントだと思います。どういうことかというと,他人の言動を理解するためには,表に現われている動機だけではなく,その裏にあるはずの対立する動機にも目を向けるべきだ,ということです。また,その他人の言動は,その人の過去像によって規定されているのだから,その言動からその人の過去の体験を推測することもできるし,逆に,その人の過去を知っていれば,それが現在にどのような影響を与えて,今の言動になっているのかも,より深く正確に理解できる,ということもいえそうです。

 以上を踏まえて,「フロイト『精神分析入門』を読む(下)」では,いよいよ神経症総論の部分を読み解いていく予定です。ここは,南郷継正先生も評価されていた精神の異常を正面から扱った部分ですので,さらに,筆者の専門としている心理臨床と直接関係のある部分ですので,これまで以上に熱心に読み解いていきたいと思っています。また,今回扱った部分では,「想起あるいはその他の心的行為にともなう不快を回避しようとする意図が神経症の症状発症の原因」とか,「夢そのものがまさに神経症的な症状」とかいったように,まだ神経症について説かれていない段階では意味がよく分からなかった箇所もありました。こういった点にも,つまり錯誤行為や夢と神経症のつながりという点にも留意しながら,『精神分析入門』の後半を読み解いていきたいと思います。読者の皆さんも,期待してお待ちください。

(了)
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2015年08月20日

フロイト『精神分析入門』を読む(上)(4/5)

(4)夢は幼児期の記憶を使った無意識の願望の充足である

 前回は,『精神分析入門』の夢を扱った部分の前半を紹介しました。そこでは初めに,夢は心的現象であり,本人は夢の意味を知っているのに,そのことを知らないと信じているという,夢判断の前提が説かれていました。また,自由連想によって浮かび上がった代理物によって,無意識の夢の潜在思想を推測していくのが夢解釈の技法であると説かれていました。さらに,その夢の潜在思想は,検閲によって,自我が許容可能な夢の顕在内容へと歪曲されていくのだと説かれていました。

 さて今回は,夢についての残りの部分を検討していきたいと思います。

 フロイトは,夢の歪曲は,許しがたい無意識の願望に対して向けられた検閲活動の結果であるが,夢の検閲だけが歪曲の唯一の要因ではないとして,夢の象徴的表現について説いていきます。これは,夢の要素のある一連のものに対しては,いつも一定の翻訳ができるという恒常的な関係のことをいいます。たとえば,小動物は子どもや兄弟を象徴しているとか,水は出産を,旅立ちは死を象徴しているとか,3やステッキ,傘などは男子性器を象徴しているとか,そういう関係のことです。しかし,これは精神分析が発見したものではなく,また,精神分析特有の自由連想の技法に取って代わるものでもないとフロイトは強調しています。

 続いてフロイトは,夢の作業について詳しく検討していきます。夢の作業とは,潜在夢を顕在夢に置き換える働きのことです。夢の作業とは逆に,顕在夢から潜在夢に到達しようとするのが解釈作業ですから,この解釈作業は夢の作業を消去しようとするものであるといえます。

 夢の作業は3つに分類されています。一つ目は圧縮です。これは,ある種の潜在要素が完全に脱落させられたり,ある共通点を持ついくつかの潜在的要素が融合してひとつの要素となったりすることです。二つ目が移動です。これは潜在要素が仄めかしによって代理されたり,心的なアクセントがある重要な要素からあまり重要でない要素へと移っていったりすることです。最後が,思想を視覚像に翻訳する操作です。フロイトはこれが夢の本質的なものであるとしています。ただ,この翻訳操作は容易ではないと指摘して,新聞の政治問題に関する論説を一連の図解によって翻訳するという課題に喩えています。そして,「なぜ」「だから」「しかし」などの論理的関係を示す品詞は,翻訳の際に失われてしまうと述べています。

 このあとフロイトは,非常に興味深い指摘をしています。それは,夢の作業は思想の発展を逆戻りさせる操作である,というものです。どういうことかというと,もともとわれわれの思想は,感覚像,感覚的印象の記憶像であったものに,あとから言語が結び付けられ,ついでその言語に思想が結合されることによって生じてきたものであるとフロイトは説くのです(これは明らかに言語道具説的発想であり,間違った捉え方だと考えられますが,ここでは措いておきます)。したがって,言語の形をとっている潜在思想を感覚的な像,それもたいていは視覚的な像に翻訳する夢の作業は,思想に対してある種の退行的な処理をほどこすことになるのだ,というのです。

 ここは科学的認識論の立場からも非常に興味深いことが説かれているといえます。端的には,認識ののぼりおり(抽象化と具体化)のプロセスが説かれているといえるでしょう。どういうことかというと,フロイトは思想の発展を抽象化(のぼり)のプロセスと捉えており,逆に夢の作業は具体化(おり)のプロセスだと捉えているということです。思想は感覚像から発展するのであり,夢の作業はその感覚像への退行だと説いていることが,そのことを物語っています。フロイトが「感覚像」という言葉を使っていること自体も非常に興味深いといえるでしょう。
 
 さて,以上のような夢の作業をいくつかの夢の実例で確認したあと,フロイトは自身が「太古的あるいは退行的表現方式」と名づけた夢の作業の特徴について説いていきます。この表現方式は,われわれがはるか昔に克服してしまった知的な進化の諸段階,すなわち比喩的言語の段階,象徴関係の段階,およびおそらくはわれわれの思考言語が発達する以前にあったと思われる諸段階にまでさかのぼるものであり,夢の作業がわれわれを連れ戻す太古の時代には,二重に意味があるとしています。二重の意味とは,第一には,個体の太古時代にあたる幼児期であり,第二には,あらゆる個体はその幼児期において人類の発展の全段階をなんらかの形で短縮して反復するという意味で,系統発生的太古時代にあたる幼児期である,ということです。これは,個体発生における初期時代と,系統発生における初期時代ということでしょう。

 たとえば,個人が絶対に自分で修得していないような象徴関係は,系統発生的太古時代の遺物とみなしてよいとフロイトは述べています。

 これに対して,夢の作業が個体発生的太古時代にわれわれを連れ戻すとは,どのようなことをいうのでしょうか。それは,夢の作業が幼児時代初期の忘れていた材料を自由に使用するということです。幼児期の記憶はあまり残っていないものですが,実は忘れられてしまったのではなくて,手の届かない無意識的な領域に保存されているとフロイトは述べています。この記憶像を夢の作業は自由に利用するというのです。

 たとえば,兄弟の死を望む願望を夢の背後に見出した場合,その憎悪は,過去に属し,かつては意識されていて,心的生活の中である役割を果たしていたものの記憶が使用されているのです。幼児が,自己のエゴイズムの動機から,兄弟に対して憎悪を抱くということは,非常に有り得そうなことといえるでしょう。また,エディプスコンプレクスと呼ばれるものも,ここに関係しています。フロイトによると,男の子は幼い時代にすでに,自分のものと思いこんでいる母親に対して特殊なやさしい情愛を示し始め,その独占をめぐって自分と争う父親を競争者と感じ始めるのであり,父親に対するこのような心的態度をエディブスコンプレクスというのです。これが利用された夢が形成されることもあるのです。

 こうして,心的生活における無意識的なものとは,実は幼児的なものであるということが確認されました。夢は思考と感情においてわれわれを簡単にふたたび幼児と化して,倫理的な発達の初期の段階にひきもどすにすぎないのです。そして,われわれの意識的生活から出てくるもので意識的生活の性格をわけもっているもの(これをフロイトは「昼の名残」と呼んでいます)が,無意識の領域から出てくる他のものと一つになって,夢を形成するのである,と結論づけています。

 ここの部分も,科学的認識論の立場から評価することができます。すなわち,幼いころの体験は,人間の頭の中に過去像として蓄積されており,それが無意識的に,現在の精神現象(この場合は夢)を規定している,ということを,フロイトはそれなりに掴んでいたのです。

 さて,夢理論の終盤で,フロイトは夢は願望充足であるという説に対する素人批評家の疑問に答えています。もしも夢が願望充足であるとすれば,夢の中に苦痛の感覚があるのはおかしな話ではないかという疑問に対して,三通りの複雑な問題を考慮する必要があるとしています。

 第一に,夢の作業が願望を充足することに充分に成功しなかったために,夢の思想中の苦痛の感情の一部が顕在夢中に残されていることがある,という問題です。それでも,夢の思想にはさらに多くの苦痛を与えるものが含まれていたのが,顕在内容としてはやや和らげられている,という趣旨のことをフロイトは説いています。

 第二に,願望の充足はたしかに快感をもたらすにちがいないのだが,誰にもたらすのかという問題が取りあげられています。無意識の願望の側と検閲する側とでは,いわば利害が対立するのであり,一方の願望充足は他方にとっては不快な結果になるのです。フロイトは,抑圧された願望にとっての願望充足は,夢の検閲者の側にとっては苦痛な感覚を引き起こす機縁となり,それを防衛しようとする機縁となるものにすぎないと主張しています。だから不安夢における不安は,抑圧された願望が検閲よりももっと強力なものであったということ,抑圧された願望が検閲に対してその願望充足を貫きとおした,あるいは貫きとおそうとしつつあったということの表徴であるとされています。

 第三に,なぜ願望の充足によって極めて不快な懲罰が行われるのかという問題です。フロイトはこの問題に関して,懲罰もまた検閲を加える側の人間の願望充足なのであると説いています。

 フロイトはこのようにして,夢は願望充足であるという自説を補足・強化していくのです。そのうえで,夢と夢の潜在思想とを混同しないように再度注意を払い,夢における唯一の本質的なものは,潜在思想という素材に働きかけた夢の作業であると強調しています。すなわち,昼の名残の上に,これも無意識に属していたあるもの,すなわち強力ではあるが抑圧を受けていた願望の動きが付加されて,この願望の動きのみが夢を形成することができるのだ,ということなのです。

 夢についての最後の講義である第15講では,これまでの夢理論について誰もが抱く疑問や不確実な点について取りあげ,丁寧に回答が述べられていきます。こうして11回に及んだ夢理論についての講義が閉じられます。
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2015年08月19日

フロイト『精神分析入門』を読む(上)(3/5)

(3)夢の潜在思想は検閲によって顕在内容となる

 前回は,『精神分析入門』で錯誤行為が扱われている部分を見てきました。錯誤行為というのは,言い違いや読み違い,度忘れなどの,誰もが体験するちょっとした間違いのことですが,これを偶然のせいにせずに,必然的な意味・意図・意向があると考えて,フロイトは二つの意図の衝突によって生じると結論付けたのでした。そして,不快からの心理的逃走こそが,錯誤行為の究極的な動機であると指摘したのです。

 さて今回と次回では,夢について扱っている部分を読み解いていきたいと思います。

 初めに,なぜ夢を扱うのかが説かれています。フロイトによると,夢の研究は神経症研究の最上の準備となるばかりでなく,夢そのものがまさに神経症的な症状であり,しかもすべての健康な人たちに見られる神経症的な症状であるという点で,夢の研究は計り知ることのできない利益をもつとのことです。それなのに,夢に対して学界が軽蔑の目を向けているのは,昔,夢を過大評価したことに対する反動だと説いています。

 また,夢は眠りを妨げる刺激に対する心の反応ではあるが,眠りを妨げる外界からの刺激は夢のごく一部分を説明しうるにとどまり,反応としての夢のすべてを説明することはできないので,そのことが分かって以来,眠りを妨げる内外の刺激を高く評価することをやめてしまったと述べられています。

 次に,夢判断の前提が説かれます。それは,夢は身体的現象ではなく心的な現象であるということ,および,夢を見た人はその夢が何を意味しているのかを知っているが,自分が夢の意味を知っているということを知らないのだということの二つです。そして前者は今後の研究の結果によって証明しようとしている前提であるが,後者は,他の領域では証明済みのものであり,その領域から転用しているだけだとフロイトは説きます。

 この他の領域とは,どのような領域なのでしょうか。それは催眠現象の領域です。フロイトはベルネームという研究者の実験を紹介しています。その実験では,初めの間は,催眠状態中であった過去のことを思い出せないと主張していた男が,促されると,ついにはあますことなく思い出したというのです。ここから,彼が最初から睡眠状態中の出来事を知っていたと結論することができるとフロイトは主張します。彼は自分が知っているということを知らずに,知らないと信じていただけだというのです。これは,夢の意味を知っているのに知らないと信じているだけだということと,論理的には同じことだといえるでしょう。

 夢を見た人がその夢の意味を知っているならば,夢判断の技法は,単純です。すなわち,夢を見た人にどうしてそんな夢を見るようになったのかと尋ね,その場での答えをその説明とみなそうというのが,夢判断の技法であるということになるのです。これが自由連想という技法です。

 この技法に対して,フロイトは反論を予想します。それはまとめると,以下のような反論です。

「夢をみた人がその場ですぐに思いつくことが,まさに求められている説明をもたらしてくれるとか,そこに至る糸口を与えてくれるとか考えるのは恣意的な仮定であって,むしろ思いつきはまったく随意的なものであり,求められている説明とは無関係のものではないのか。」


 これに対してはフロイトは,心の自由と恣意性に対する信念は非科学的であって,心的活動を支配している決定論の要請には屈しなければならない,と再び力強く主張します。そして,自分がみた夢について尋ねられた人が思い浮かべたのは,まさにこのことであって,他のことではないということを一つの事実として尊重していただきたいと願うと説いています。

 この問題は,フロイト自身も重要だと感じたのか,別の観点からも説明していきます。フロイトは自由連想はその人が出発点となる表象をしっかり念頭に置いたうえで行うのだということを強調します。だから,自由な連想による思いつきといっても,心の内部の,意味深い体制によって,いつも厳密に決定されているとフロイトは説くのです。すなわち,数々の思いつきも同じくたった一つの制約,すなわち発端となった一表象による制約を受けていると結論して一向にさしつかえない,ということです。

 フロイトは,錯誤行為の研究を適用して,夢の要素とは,本来的なものではなく,他のある物の代理物であるという見解を提示します。そして,夢判断の技法は,そういう要素についての自由連想によって,別の代理物を浮かび上がらせ,その別の代理物に基づいて,隠れているものを推測できるようにすることを目指すのだと説きます。

 ここでフロイトは,隠されたものを無意識的,夢の要素自体と連想によって新しく獲得された代理表象を意識的と呼ぶことを提案します。そうすると,夢は全体としてある無意識的なものの歪曲された代理物であるからして,夢解釈の課題は,この無意識的なものを発見することにある,ということになります。

 すぐあとで,フロイトは新たな術語を導入します。それは顕在内容と潜在思想という2つの術語です。顕在内容というのは,夢の物語るもの,夢の要素自体のことであり,潜在思想というのは,いろいろと思い浮かぶことを追求して到達できるはずの隠されている無意識的なもののことです。逆からいうと,夢の作業とは,無意識的な潜在思想を歪曲して,ある時は断片や仄めかしによる代理形成を行って,視覚的な映像をつくることにあるわけです。

 続いてフロイトは,回り道をすることによって,夢の本質を明らかにしようとします。その回り道とは,小児の夢の検討です。子どもが見る夢は,夢としては特殊性を持ちながらも,夢の普遍性に貫かれているはずです。したがって,小児の夢を検討すれば,そこではっきりと示されている夢の特徴こそが夢の本質なのではないかという仮説が立てられるわけです。また,そこには示されていない夢の性質は,夢の本質とはいえないということになります。

 はじめに,小児の夢は,夢の歪曲を欠いているために解釈の必要がない,顕在夢と潜在夢は合致していると述べられています。ここから,夢の歪曲は夢の本質ではないのだということが分かります。

 小児の夢は,残念な気持ち,憧れ,満たされなかった願望などをあとに残すような日中の体験に対する反応であり,この願望を,直接にむきだしに満たしてくれるものだとフロイトはいいます。ここから,夢の二つの性質が導かれます。ひとつは,夢は眠りの妨害者ではなく,逆に眠りの守護者であり,眠りの妨害者を取り除く役目を果たすものである,ということです。もう一つは,夢は単純にある思想を表現するのではなくて,幻想的な体験で,願望を満たされたものとして表現する,ということです。錯誤行為との比較でいうと,夢も妨害する意向と妨害される意向との妥協であり,妨害される意向とは,眠ろうとする意向であり,妨害する意向は何が何でも充足を求める願望だとされています。

 たとえば,ということで例を考えてみましょう。遠足に行きたかったのに雨で中止になってしまった子どもは,非常に残念な気持ちを抱えて眠りにつくことになります。そうなると,この残念な気持ち,満たされなかった願望は,眠ろうとする意向を妨害する可能性が出てきます。そこで両者の妥協として,遠足に行って楽しい体験をしているという夢を形成して,その夢が眠りの妨害者を取り除くわけです。

 このように小児の夢の検討を媒介したあと,成人の夢で通常起きる歪曲は何に起因しているのか,どういう役割を果たし,どのようにしてなされるのかが考察されていきます。フロイトは,老婦人が見た「愛の奉仕」という夢について分析します。

 この夢は,愛国的な義務を果たすために,軍人の愛の要求を満足させるべく,わが身を捧げる決心をして陸軍病院に赴いたという内容です。前後の文脈からすればそういう内容であることはまちがいないのですが,肝心の部分が雑音でかき消されたり,抜け落ちたり,抑えつけられたりしているのです。この夢は,ひどく厭わしい破廉恥な性的空想の典型なのですが,肝心の部分は夢の中には全く現れてこないのです。フロイトはこれを,第一次世界大戦当時の政治新聞に施された新聞検閲と同じだと指摘します。すなわち,都合の悪い部分は欠落させられたり,仄めかされるだけであったり,内容諸要素の編成替えがあったりするというのです。

 その際,検閲する側の意向とは,夢を見た人が目覚めている時に承認するような意向であり,検閲が加えられる意向とは,徹頭徹尾非難に値する性質のものであり,倫理的,美的,社会的な見地からして許しがたいものであり,人があえて考えようとはしないもの,あるいは嫌悪の念をもってでなければ考えられないようなものである,と説明されます。

 以上のような議論を通して,フロイトは,夢の歪曲とは,夜眠っている間にわれわれのうちに働く,なにかしら忌まわしい願望に対して,自我に容認されている諸意向によって行われる検閲の結果であるという説を採用するのです。
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2015年08月18日

フロイト『精神分析入門』を読む(上)(2/5)

(2)錯誤行為は二つの意図の衝突によって生じる

 本稿は,「心理学=フロイトの精神分析」と誤解されるほど著名であるにもかかわらず,きちんと理解されているとは言い難いフロイトの理論を,フロイトの代表作である『精神分析入門』を読み解くことによって理解していくための論考です。「フロイト『精神分析入門』を読む(上)」と題した本稿では,その前半部分を扱います。

 では早速,『精神分析入門』の読解に入っていきたいと思います。今回は,フロイトが本書ではじめに取り上げている「錯誤行為」(「失錯行為」とか「しくじり」とか訳される場合もあります)に関する部分を扱います。

 フロイトの言う錯誤行為とは,たとえば,言い違いとか書き違い,読み違い,聞き違いや度忘れ,置き忘れ,紛失などの,誰もが犯しがちなちょっとした間違いのことです。フロイトはなぜ,このような対象から説き始めているのでしょうか。フロイトはすでに1901年の段階で『日常生活に於ける精神病理』(岩波文庫)という著作を発表して,錯誤行為についての研究成果を世に問うています。おそらく,こういった研究を通して,錯誤行為が発生するメカニズムと神経症の発症のメカニズムの共通性に気がついたのでしょう。そして,誰もがなじみがあるとはいえない神経症の話をする前提として,誰もが知っており,とっつきやすい錯誤行為の話から始めて,スムーズに精神分析を理解してもらうことを狙っていたのだと考えらえます。

 フロイトは,精神分析の観察の材料は,他の学問ではとるにたらないものとして捨てて顧みられないようなことから成り立っていると説いています。そして,小さな問題も大きな問題も,すべてはつながっているのだから,なんの予断もなんの期待ももたずに,白紙の態度で研究を根本から始めて,幸運に恵まれさえすれば,まったく地味な研究からでも,大問題を研究する糸口がひらけてくるのである,と主張しているのです。では,錯誤行為の研究から,どのようなことが分かってきたのでしょうか。

 精神分析を知らない人に対して,錯誤行為がどうして起こるのか尋ねてみると,ちょっとした偶然だと答えるだろうとフロイトは説きます。確かに,言い違いとか聞き違いなどは,特別の理由などはなく,単なる偶然によって起こるのだ,というのが世間一般の理解ではないでしょうか。ところが,フロイトは,偶然に帰すると,自然界の決定論(原因があって結果が起こるという考え方)を破ることになり,学問的な世界観(世界には何らかの法則性・必然性が貫かれているとする世界観)が放棄されてしまうと厳しく批判します。その上で,錯誤行為にも意味があるのだと説いていきます。

 フロイトは,錯誤行為の中でも言い違いをとりあげて検討していきます。言い違えたことに意味があるというのはどういうことかというと,言い違いの結果起こったことは,それ自身の目的を追求している一個の独立した心理的行為であり,またある内容と意味とを表現するものとして理解されてしかるべきものだということである,としています。これだけでは分かりにくいですので,フロイト自身が挙げている例で考えてみましょう。

 フロイトは,衆議院議長がその第一声で開会を宣言する代わりに閉会を宣言してしまった例を挙げています。会議を開くときに,「諸君,私は議員諸氏のご出席を確認いたしましたので,ここに閉会を宣言いたします」といってしまったというのです。これに関してフロイトは,議長は議会の形勢が思わしくないので,できることならすぐに閉会してしまいたいと思っていたと指摘します。すなわち,すぐに閉会してしまいたいというのが,この場合の錯誤行為の意味であり,この独自の意味が洩れてしまったのが錯誤行為なのだ,ということです。

 フロイトは,言い違いの例を概観してみると,言い違いの意図,すなわち意味をはっきりと読みとれる場合が非常に多いことが分かると述べ,また,言い違いがそれ自身では意味をもっていないように思われる場合でも,よく調べてみると,異なった二つの意図が衝突し,干渉しあうということで説明できると説いています。甲の意図が乙の意図に完全にとって代わって(代理して)しまい,逆の言葉が出てくるの場合もあれば,甲の意図は乙の意図を歪めるかまたは変容させるだけにとどまっているので,二つの言葉が混合して多かれ少なかれ意味があるような形の言葉ができあがる場合もあるということです。

 言い違いで明らかになった説明を,他の錯誤行為にも一般化して,フロイトは,錯誤行為は決して偶然のものではなく,大真面目な心的行為であって,固有の意味をもち,二つの異なった意図の共働,もっと適切にいえば相互の衝突の結果として生じたものなのである,と強調しています。

 もちろん,疲労や興奮あるいは放心,注意力の障害などという要因は錯誤行為に関係がありますが,これらは錯誤行為が起こるための不可欠な条件ではなく,言い違いに特有の心的機制が活動しやすいように,手助けをしているにすぎない,と説かれています。

 では,妨げる意向と妨げられる意向との間には,どのような関係があるのでしょうか。両者には内容上の関係があり,前者は後者への反対,あるいは後者に対する修正や補充を意味していると説かれています。言い違えて反対のことをいう場合は,ほとんどすべての例で,妨害する意向が妨害される意向とは反対のことを言い現わしており,従ってこの錯誤行為は合致しがたい二つの意向間の葛藤の表現であるとされています。

 たとえば先の閉会を宣言してしまった議長の例では,「開会を宣言しよう」という意向が,「閉会を宣言したい」という意向によって妨げられたわけです。二つの意向は内容上反対です。また,別の例では,「私どものボスの健康を祈って乾杯をしましょう」というべきところを,「私どものボスの健康を祈っておくびをしましょう」といってしまった失敗が紹介されています(ドイツ語で「乾杯をする」はanstossenであり,「おくびをする」はaufstossenであって,発音が似通っています)。この場合,妨げられる意向は「乾杯しましょう」であり,妨げる意向は「おくびをしましょう」になります。「おくび」というのは「げっぷ」のことですから,両者は内容上,反対といっていいことが分かるでしょう。

 次に,どのような意向が他の意向の妨害者となるのかという問題が取り上げられます。いくつかのタイプに分けて考察した後,結論的には,妨害する意向は,口に出ないように押しつけられた意向であるとフロイトは説きます。すなわち,押しつけられた意向は,語り手の意志に反して言葉となって口を衝いて出るのであり,語り手の承認したほうの意向の表現を変え,あるいはその表現といりまじって,あるはこれと入れ代って言葉に出てくるのである,ということです。そして,何かを言おうとする意図が現存するのに,それを抑えつけるということが,言い違いを起こす不可欠の条件であるという結論を下しています。別言すれば,妨害する意向は,妨害者として登場する前に,まず自分自身がある妨害を受けていたに相違ない,ということです。

 くり返し例示している閉会を宣言してしまった議長の例では,「閉会を宣言したい」という意向は,持っているものの,口には出さないように押さえつけていたはずです。ところがこれが,語り手の意志に反して言葉となって口を衝いて出てしまったのです。

 およそ以上のような議論で,錯誤行為についての精神分析的説明は終わりになります。フロイトは錯誤行為の中でも特に言い違いをとりあげて,その原因,その必然性を考察したといえるでしょう。われわれの認識論の立場では,何らかの行為というのは,ある認識の表現ですから,当然,錯誤行為の背景にもある認識が存在している,ということになります。たとえ本人がその認識を自覚していなくても,必ず存在しているものです。そこをフロイトは見事に指摘したということができます。

 フロイトは錯誤行為についての最後の部分で,いくつかの錯誤行為について補足的に検討していますので,ここで簡単に触れておきたいと思います。。まず,読み違いに関しては,人の関心を惹き,注意を惹くものが,自分に関係のうすいものや関心の少ないものの代りとなるのであり,思想の「残像」が新しい知覚を曇らせるのである,という興味深い説明がなされています。ここは認識論的にいうと「問いかけ的反映」の論理が説かれているといえるでしょう。すなわち,人間は必ず何らかの「問いかけ像」をもって対象を反映するのであり,その問いかけ像の影響で純粋な反映とはならずに,その問いかけ像に規定された像が描かれる,ということです。このことをフロイトなりに説いている,ということができると思います。

 また,度忘れに関しては,神経症の症状発生の原因として大きな意義をもつ原理に触れられています。それは,不快な感情と結びついているがために,それを思い出すと不快感がふたたびよみがえってくるようなものは,記憶がこれを思い出すことを好まない,という原理です。フロイトは,想起あるいはその他の心的行為にともなう不快を回避しようとするこの意図,すなわち不快からの心理的逃走こそ,名前の度忘れのみならず,怠慢,見当ちがいなどのような,多くの錯誤行為の究極的な有力な動機であると認めざるをえない,と説いています。ここに関しては,「フロイト『精神分析入門』を読む(下)」で神経症を見ていくときに立ち戻ってくることにしましょう。
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2015年08月17日

フロイト『精神分析入門』を読む(上)(1/5)

目次

(1)『精神分析入門』は対話形式の講義再現である
(2)錯誤行為は二つの意図の衝突によって生じる
(3)夢の潜在思想は検閲によって顕在内容となる
(4)夢は幼児期の記憶を使った無意識の願望の充足である
(5)抑圧された意向は錯誤行為や夢となって現われる

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(1)『精神分析入門』は対話形式の講義再現である

 みなさんは「心理学」と聞くと,どのような心理学者,どのような理論を想起するでしょうか。心理学を専門に勉強していない多くの方や,これから心理学を学びたいと考えている学生のみなさんの多くは,フロイトとか精神分析とかを想起されるのではないでしょうか。実際,心理学の歴史に関する本にも以下のように説かれています。

「《精神分析(Psychoanalysis)》という用語と,ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)という名前は,教養のある人の大部分になじみがある。心理学の歴史に名をとどめているこれ以上の著名な人物――たとえばフェヒナーとかヴントとかティチェナー――は,心理学の専門家以外の人たちにはあまり知られていない。フロイトは表面的には広く知られているけれども,彼の体系については,一般大衆には皮相に不正確に知られているにすぎない。かなり多くの初歩の学生が,フロイト《だけ》が心理学であり,心理学は精神障害を治療することにだけかかわっていると信じていることを知って,心理学教師はがっかりすることがよくある。」(D.シュルツ『現代心理学の歴史』,培風館,p.310)


 ここでは,フロイトという名前は教養ある多くの人にとってなじみがあり,フロイトの理論だけが心理学だと誤解されているきらいがあるが,フロイトの理論のみが心理学ではないのである,ということが説かれています。この本は1981年にアメリカで書かれたものですが,ここで説かれていることは現代日本でもそのまま当てはまるといっていいでしょう。このように,一般的には心理学=フロイトと誤解されていることからも,フロイトの精神分析が心理学の代名詞のように考えられていることが伺えますし,それだけフロイトの精神分析は有名だといえるでしょう。

 しかし,この引用文にもあるように,フロイトは「皮相に不正確に知られているにすぎない」という現状があります。われわれ心理士の中にも,フロイトを読みもせずに思い込みで批判している者も見られます。そこで本稿では,フロイトをしっかりと理解するということを第一の目的にしたいと思います。具体的には,フロイトの代表的な著作の一つといってよい『精神分析入門』を取り上げ,これをしっかりと読み解いていきたいと考えています。

 まずはじめに,フロイトの精神分析とはどのようなものであるかのイメージを描いていただくために,二つの教科書の説明を引用します。

「今日の心理療法はフロイト(Freud, S. 1856〜1939)の精神分析(psychoanalysis)に始まり,その後の多くの心理療法の学派は,彼の精神分析理論と技法を改善し発展させてきたといえる。彼は器質的原因がなくて麻痺や健忘などの身体的・心理的異常を示す患者を神経症者とよび,人間の精神機能と行動に関する理論と治療技法を作った。彼の理論は恣意的・主観的に思索した結果ではなく,個々の事例への治療経験を検討することで構築したものである。

(1)基本仮説

 フロイトによると,精神現象も物理現象と同じように偶然に生じるのではなく,原因となる精神現象(動機)によって決定されている。精神現象も因果関係を有しており,これまで偶然に起こり意味がないと思われていた夢,空想,言い間違い,物忘れなどにも,それを生じる原因(動機・意味)がある。これを心的決定論といい,精神現象は単に1対1の因果関係によるのではなく,過去や現在の多くの要因が同時に働いているので,多重決定論(overdetermination)とよばれている。精神現象や行動に原因(動機)があるとすれば,表立った行動と本人が意識できる動機の非連続性を説明するのに,無意識の過程が必要になってくる。精神現象は無意識の動機に基づくことが多いので,人が自分の行動の原因として述べる動機は合理化されていて,本当の原因でないことが多い。フロイトの基本理論は「人間の行動と精神現象にはすべて原因(動機)があり,そのほとんどは本人の気付いていない無意識の原因である」ということができる。」(高橋雅春・高橋依子『臨床心理学序説』,ナカニシヤ出版,p.89)


「フロイトははじめ,患者を催眠状態におき,催眠下での対話を通して抑圧された経験を探り,これをしゃべらせることによって症状の軽減を図るカタルシス(浄化)療法を主として用いたが,催眠法の効果は一時的で症状が再発しやすいこと,患者が医師に対して愛着の転移を起こしやすいことなど,不都合な点が明らかになったので,後にはこれに代わって思いつくままに患者に語らせる自由連想法を治療の手段として用いるようになった。

 フロイトは意識下に抑圧された性的動機(リビドー)の影響を重視し,それが機会あるごとに意識の面に上がろうとして夢の中にその象徴的表現を求めることを指摘して『夢の解釈』(1900)を公にした。このような構想は,なお意識主義に留まっていた当時の表面的な心理学界においては,きわめてユニークなものであった。心的活動の原因を観念表象のたんなる連合にではなく,より深い情動的契機に求め,意識の内部よりは無意識の基底に求めようとしたその構想は,その後の「動的心理学」(dynamic psychology)への傾向に先鞭をつけたものといえる。」(鹿取廣人・杉本敏夫編『心理学 [第2版]』,東京大学出版会,p.277)


 この二つの教科書では,ともに,フロイトは無意識の過程を重視したことが説かれています。フロイトの基本理論は「人間の行動と精神現象にはすべて原因(動機)があり,そのほとんどは本人の気付いていない無意識の原因である」ということであり,神経症者の治療には,「思いつくままに患者に語らせる自由連想法」を使って,無意識の原因を意識化させる手法が用いられたのでした。このようにフロイトは,人間の認識の無意識の領域にスポットを当てて,さまざまな精神現象や行動の研究を行ったのでした。本稿では,このようなフロイトの精神分析の理論を,『精神分析入門』を読み解いていく中で,詳しく見ていきたいと思います。

 では,『精神分析入門』とはどのような著作なのでしょうか。ここでは,その成立背景や概要,特徴などを紹介したいと思います。なお,本稿では新潮文庫版の高橋義孝・下坂幸三訳を主として参照しており,訳語もこの版のものに統一しています。

 『精神分析入門』は,第二次世界大戦中の1915年秋から1916年春にかけて,および1916年秋から1917年春にかけて,ウィーン大学で行われた講義をそのまま再現したものです。聴衆は医師もいれば非専門家もおり,男性も女性もいたそうです。フロイトの後継者になる末娘のアンナ・フロイトも聴講していました。一年目は錯誤行為と夢について扱われ,二年目に神経症について講義されました。出版時,フロイトはすでに61歳でした。「入門」というタイトルから,自らが構築した精神分析を分かりやすく啓蒙する意図があったことが伺えます。実際,フロイトの著作の中では最も読みやすく分かりやすいものであると評価されています。

 講義は土曜日の夜7時から9時という時間になされました。『精神分析入門』の前半部分は,ノートなしにしゃべったことを,直後に,記憶を頼りに書き留めたものだということです。フロイト自身,「私は当時まだいわば蓄音機的な記憶力を持っていた」と述懐しています。後半部分は,事前につくられた草稿を講義でそのまま読み上げたということですから,その時の草稿を元に書かれたものでしょう。

 目次は以下のようになっています。



第一部 錯誤行為
 第一講 序論
 第二講 錯誤行為
 第三講 錯誤行為(つづき)
 第四講 錯誤行為(結び)

第二部 夢
 第五講 種々の難点と最初のアプローチ
 第六講 夢判断のいろいろな前提と技法
 第七講 夢の顕在内容と潜在思想
 第八講 小児の夢
 第九講 夢の検閲
 第十講 夢の象徴的表現
 第十一講 夢の作業
 第十二講 夢の分析例
 第十三講 夢の太古的性格と幼児性
 第十四講 願望充足
 第十五講 不確実な点と批判

第三部 神経症総論
 第十六講 精神分析と精神医学
 第十七講 症状の意味
 第十八講 外傷への固着 無意識
 第十九講 抵抗と抑圧
 第二十講 人間の性生活
 第二十一講 リビドーの発達と性的体制
 第二十二講 発達および退行の諸観点 病因論
 第二十三講 症状形成の経路
 第二十四講 普通の神経質
 第二十五講 不安
 第二十六講 リビドー論とナルシズム
 第二十七講 感情転移
 第二十八講 精神分析療法



 この『精神分析入門』は,特徴的な論の展開になっています。それは,自説に対する異議や反問をあらかじめ想定しておいて,その異議や反問を提示した後,それに答えていく,という展開方法です。言ってみれば,自分で設問を立てて,それに自分で答えていくという形式です。その意味で,古代ギリシャにおける弁証法を髣髴とさせるような論理展開になっており,興味深いものがあります。このような形式になったのは,実際の講義を元にしているだけに,聴講者から現に出された疑問・反問を著作の中に取り入れて,読者がより納得できるような論の展開にしたからかもしれません。あるいは,当時にあっても精神分析に対する世間や学界の反発が根強く,よくある誤解を取り上げて,その誤解を解いておく必要があったために,このような自問自答形式になったのかもしれません。いずれにせよ,淡々とした講義とは真逆で,読んでいて惹きつけられるような流れになっていることは間違いありません。

 この『精神分析入門』には,続編があります。これは1932年,フロイトが76歳の時に執筆したものです。正編のように講義調にはなっていますが,実際に講義したものではなく,新たに書き下ろしたものです。ここでは,正編以降のフロイトの精神分析理論の発展について,新たにまとめられています。目次は以下です。


精神分析入門(続)



第二十九講 夢理論再考
第三十講 夢と心霊術
第三十一講 心的人格の分解
第三十二講 不安と欲動の動き
第三十三講 女性的ということ
第三十四講 解明・応用・方向づけ
第三十五講 世界観というものについて



 さて本稿では,『精神分析入門』の前半部分,すなわち,錯誤行為と夢を扱った部分を順に読み解いていきたいと思います。
そして,近いうちに執筆する予定の「フロイト『精神分析入門』を読む(下)」では,後半部分,すなわち神経症を扱った部分を扱っていきたいと考えています。

 次回は早速,錯誤行為についてのフロイトの論を追っていきます。続く連載第3回と第4回で,フロイトの夢理論を見ていきたいと思っています。
 
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2015年08月06日

夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ(3/3)

(3)『こころ』――「先生」が殉じた「明治の精神」とは何か

 漱石読書会の第13回目に取り上げた作品は、『こころ』(1914年〔大正3年〕4月20日から8月11日まで「朝日新聞」に「心 先生の遺書」として連載)です。これは、漱石作品のなかでも特に有名なものですので、内容についての詳しい説明は必要ないでしょうが、ごく簡単に纏めるならば、「私」が鎌倉で出会った「先生」と親しくなり、交際を深めていくなかで、「先生」の過去を聞かせて欲しいと強く迫った結果、先生は「遺書」という形で(自ら命を絶つことと引き換えに)、かつて恋愛観関係のもつれから親友を裏切って自殺に追い込んでしまったという壮絶な暗い過去を明かす、といった物語です。

 作品全体に対しては、これまでの作品については正直なかなか難解だなという印象があったが、この『こころ』は非常に面白くて一気に読むことができた、作品の結末に至るまでの伏線がいくつも張られており、「一体先生の過去に何があったのだろうか?」という読者の探究心を高めずにはおかない見事な書きぶりになっていると思った、という感想が出されました。また、「先生」の過去に何があったのか最後まで明確には語られないまま進行し、その最後の最後で一気に謎が解けるということで、あたかも一種の推理小説のような展開になっているといえるのではないか、という指摘もなされました。さらに、作品全体から与えられる印象に関連しては、そもそも「私」が先生と関わりのある過去を回想しながら筆を執るという設定が冒頭で明示されており、先生の遺書についても過去の回想であることは明らかであることが指摘されました。『彼岸過迄』や『行人』も語り手が過去を回想するという形式でしたが、『こころ』では、語られる過去の出来事とそれらを語る現在との時間的な隔たりがこれら先行2作品とは比較にならないくらいに明瞭に打ち出されており、どことなく静謐な雰囲気が漂っているように感じられる、とのことでした。

 この作品をめぐっては、やはり何といっても、「先生」はなぜ自殺をしたのか、ということが大きな論点となりました。この問題をめぐっては、複数のメンバーから、「先生と遺書」第12章において、「金に対して人類を疑ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかった」とあるところが大きなヒントとなるのではないか、という指摘がありました。「先生」は、両親の遺産を叔父に騙し取られてしまったという経験から、金に関して他の人間は信じられないという認識を抱くようになったものの、この段階ではまだ、愛については人類を疑っていなかった(愛のために人間が卑劣な行動に出るとは思っていなかった)、ということです。ここのところを踏まえて議論した結果、「お嬢さん」への愛をめぐって、自分自身がKを裏切るような卑劣な行為に及んでしまった結果、あらゆる面において他の人間のみならず自分自身までもが信用できなくなってしまったのであり、また、そのような自分の苦しみを理解してくれる人が1人もいなかった(妻となった「お嬢さん」に全てを打ち明けて苦しみを共に背負ってもらうようにする勇気もなかった)ことによって、極限まで追いつめられてしまったのではないか、ということになりました。端的には、愛において親友を裏切るという「罪悪」――「先生と私」第12章において先生は「恋は罪悪ですよ」と語る――を犯してしまった結果、自らの命を絶たざるを得なくなる方向へ、大きく歩みを進めてしまったのだ、ということです。

 この問題に絡んで、そもそもKはなぜ自殺してしまったのか、という疑問も提起されました。「先生と遺書」第53章の最後には、「私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑がい出しました」とあります。ここをもう少しKの言動に即して考えてみると、「先生と遺書」第42章(「先生」が、Kの「お嬢さん」への恋心と道のために精進するというKの人生観との矛盾を打算的に追及する場面)で、Kが「覚悟、――覚悟ならない事もない」と述べていることが注目されるのであり、Kはこの時点で既に(漠然とであれ)自殺を選択肢のひとつとして考え始めていたのではないだろうか、という指摘がなされました。つまり、自殺の直接のきっかけは、失恋(あるいは先生の裏切りから受けたショック)ということかもしれないが、根本的には、道のために生きるといいながら恋に惑う自身の弱さに煩悶した結果ということになるかもしれない、ということでした。端的には、Kの自殺に至る過程は二段階のものとして捉えるべきだ、ということです。こうした捉え方に対しては、それそれで納得できるものの、Kが自殺場所に(海や山や川ではなく)普段生活している「先生」の隣の部屋を選んだことの意味を考えるならば、「先生」の裏切りから強いショックを受けたことが直接の引き金になったことを軽視すべきではない、という意見も出されました。

 こうした議論を踏まえつつ、「たった一人で淋しくて仕方がな(い)」とはどういうことか、という問題が提起され、議論が深められていきました。問題を提起したメンバーからは、端的には、世間体のようなものを気にして、自然な感情を押し隠して形ばかり取り繕ってばかりいるために、本当に心から打ち解けた関係を他者との間で築くことができなかったということではないか、として、「先生」がKに対して、自身の「お嬢さん」への思いを打ち明けようとしつつなかなか打ち明けられなかったのが、その象徴的なあり方である、と指摘されました。このことに関わって、「先生」が遺書の読み手である「私」に対して、今の若い人から見れば馬鹿馬鹿しいだろうが……といった風な断りを度々入れていることも注目すべきだ、という指摘がなされました。すなわち、これは、旧世代たる「先生」の新世代たる「私」への期待、もう少し詳しくいえば、我々の世代を反面教師にして、自然な感情の発露を大切に良好な(本当に心の底からうち解けた)人間関係を築いていってもらいたい、といった期待が込められてのものであろう、ということでした。

 その上で、「先生」の遺書におけるキーワードとなっている「明治の精神」の実態とはまさにそういうもの、すなわち、世間体やそれらしい形式ばかりを尊重して自然な感情を押し殺してしまうようなものなのではないか、と提起されました。「先生」はそういう「明治の精神」に殉じたのであり、こうした「明治の精神」の実態を自身の痛切な実体験を赤裸々に語ることを通じて白日の下に晒すことで、自身を次世代にとっての反面教師としようとしたのであろう、ということでした。「先生」にとっては、自身の犯罪を赤裸々に語るということは、自身の生命と引き換えでなければ成し得ないほどに辛く重い事業だったわけですが、それによって次世代に資することができるならば……という決意の上での自殺だったのであろうと思われます。若い世代への熱い期待をもって若い世代の魂に語りかけようとする、ということでは、『野分』の白井道也が想起されますが、道也が理想を理想として語る高邁な人物として造形されていたのに対して、『こころ』の先生は、反面教師として造形されています。これは、漱石の7年間に及ぶ作家生活を通じての思索(現実世界を変革することの困難さへの直面)の結果ということなのかもしれない、という感想も語られました。

 「明治の精神」をめぐっては、当時の日本社会全体を一般的に眺めてみて何か他の具体例を挙げることができるだろうか、という提起もありました。これに対しては、欧米列強の猛烈な圧迫の下で近代国家の形を何とかして整えようと邁進した過程そのものが、こうした「明治の精神」なのではないか、という意見が出されました。例えば、明治憲法にしても、外見的には立憲君主制という近代的な形は整えたものの、その内実は半封建的で絶対主義的なものでしかなかったではないか、ということでした。漱石は『それから』の代助に明治日本を「牛と競争する蛙」にたとえさせていますし、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生に大和魂を諷刺する詩を書かせています。欧米列強に張り合おうと背伸びするもののそれに見合った内実を伴っていないという明治日本の現実を、漱石が非常に厳しく批判的に見ていたことは明らかではないか、ということでした。こうした見解には、他のメンバーも大筋で納得しましたが、明治以降の日本が列強と対峙しながら背伸びしようとしてきたことそのものは批判されるべきことではなく、敗戦の反動の結果、「等身大の思想」なるものが持ち上げられるような風潮がつくられてしまったことは、戦後民主主義思想の弱点として否定できないのではないか、という補足的な意見も出されました。
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2015年08月05日

夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ(2/3)

(2)『行人』――自分(主観)と世界(客観)の関係への根本的な苦悩

 漱石読書会の第12回目に取り上げた作品は、『行人』(1912年〔大正元年〕12月6日から1913年〔大正2年〕11月5日まで「朝日新聞」に連載。ただし、4月〜9月まで、作者が胃潰瘍のため中断)です。

 この作品の語り手は長野二郎ですが、中心的なテーマを担う人物という意味での実質的な主人公は、二郎の兄である大学教員・長野一郎であると思われます。本作品も、前作『彼岸過迄』と同様に、短篇を連ねて長篇とする、という構成になっているのですが、大きくいえば、弟である二郎から見た一郎が描かれる前半部分と、同僚であるHさんから見た一郎が描かれる後半部分(「塵労」後半のHさんの手紙部分)とに分けることができそうです(といっても、分量的には圧倒的に前半の方が大きいのですが)。

 前半では、一郎、一郎の妻・直、二郎との三角関係が設定され、妻との関係(実は弟に惚れているのではないか、との疑惑)に悩む一郎が描かれています。男2人、女1人の三角関係というのは、『虞美人草』以来の一貫した構図であるといえます。これに対して、後半(Hさんの手紙)は、自分自身と世界一般との関係(主観と客観との関係)に悩む一郎の姿が描かれています。前半の男女関係に悩む一郎の姿(妻の貞操を試してくれ、などと、実に馬鹿げた頼みを弟にしてしまう)と、後半の高尚な「哲学」的問題に悩む一郎の姿とではかなり大きな落差があるわけですが、このことをめぐっては、同一人物であっても社会的関係の異なる場所から眺めると全く異なった像として反映してくるものだ、ということを漱石は強調したかったのだろう、という意見が出されました。

 さらにこのことに関連して、前半(妻〔と弟〕との関係に悩む一郎)と後半(自分と世界との関係に悩む一郎)との断絶ばかりを強調するべきではなく、両者はしっかりと繋がっているものと捉えるべきなのではないか、という指摘がなされました。以前、『三四郎』を取り上げた漱石読書会第8回において、青年と現実世界との関係が1人の女性との関係によって象徴されている(特定の女性が、現実世界へのいわば入口として設定されている)のではないか、という議論が行われました。その後の諸作品も、それぞれの形で、この問題を深めてきたものだと捉えることができます。すなわち、『それから』では、三千代を諦めた代助が現実世界に正面から向き合えなくなってしまい、『門』では、友人の妻・御米を奪ってしまった宗助が現実世界から疎外されてしまい、『彼岸過迄』では、ハートで千代子を強く求めながらヘッドに抑えられて身動きがとれなくなくなってしまった須永が、現実世界(=外界)にまともに目を向けられず自己の内面に閉じこもってしまう、といった具合に、です。こうした探究の延長線上に『行人』が来るのであって、特定の女性との関係に現実世界との関係を重ねてみるという捉え方が、ここでは極限まで掘り下げられて、主観対客観といういわば「哲学」的なレベルにまで到達しているといえるのではないか、ということです。

 このような指摘を踏まえつつ、一郎の人物像について、さらに議論を重ねました。ここではまず、一郎は長男として我が儘に育て上げられた結果、自分を絶対的な存在として、周囲の全てが自分の思い通りにならなければ気が済まない、という人間になってしまったのではないか、という指摘がなされました。Hさんの手紙のなかでは、こうしたことが難解な「哲学」的な議論として展開されているものの、結局のところ、一郎は我が儘な人間である、ということでしかないのではないか、という意見も出されました。これは、一郎が、周囲の諸々の事物・事象、あるいは自分の周囲の他人に対して、表面上は調子を合わせることはしながらも、根本的には自己は変化しようとせず、他が自己に合わせて変化するのが当然だという姿勢を持っている、ということにほかなりません。そこのところを鋭く暴くために持ち出されたのが、Hさんによって紹介されたモハメッドの逸話(山を呼び寄せるのが不可能なら、自分が山のところに歩いていくまでだ、といったという話)だろう、という指摘もなされました。

 その上で、こうした一郎の我が儘な特性が、妻・直との関係で最も深刻な形で現れてきているということではないか、直が適当に調子を合わせるというよりも、どうにでもなれ! と開き直ったような、腹を据えたような性格であることが、一郎との間で事態を著しく深刻なものにしたのではないか、との意見が出されました。「塵労」第4章で二郎が、嫂・直について「そうしてこの強さが兄に対してどう働くかに思い及んだ時、思わずひやりとした」と述懐するのは、この点に触れるものではないか、ということでした。

 こうした捉え方に対しては、もっと主人公・一郎の苦悩の過程性に注意すべきではないか、すなわち、自分の思い通りになって当然と考えられていた妻が思い通りにならない(要するに妻・直の我が強い)ことから調子が狂ってしまって、自分(主観)と世界(客観)との関係に根本的に苦悩することになってしまったのではないか、という提起もなされました。こうした提起を受けて議論した結果、自分の思い通りになるべき(自分に調子を合わせるべき)最たるものと思われる(一郎は旧式に我が儘に育てられただけに、その思いが強烈に強かったものと思われます)妻がそのようにならなかったことこそが、自分自身と世界全体との関係についての悩みを深刻化させる契機となったのであろう、ということになりました。

 このほか、物語のひとつのクライマックスとなっている、一郎が二郎を「この馬鹿野郎」と怒鳴りつけて決定的に決裂してしまう場面(「帰ってから」第22章)における両者の認識の動きを検討したい、という提起もありました。二郎は、一郎の「もうおれはお前に直の事について何も聞かないよ」という言葉に対して、「そうですか。その方が兄さんのためにも嫂さんのためにも、また御父さんのためにも好いでしょう。善良な夫になって御上げなさい。そうすれば嫂さんだって善良な夫人でさあ」と返し、ここで一郎が突然の如く「この馬鹿野郎」と怒鳴り声をあげるのです。これは端的には、一郎の「もうおれはお前に直の事について何も聞かないよ」という言葉の背後にある認識を、二郎が捉えそこなっていたためだ、ということになりました。一郎は、「お父さん」(一郎、二郎の父)の「虚偽の告白」(ある盲目の女性が20年以上も煩悶し続けていた問題を、ただ一口にいい加減にごまかしてしまったことを自慢げに語ったこと)を聞いて以降、軽薄な父の性質を受け継いだ二郎が何をいっても信用するに値しない、という気持ちになっています。つまり、お前が何をいっても信用することはできないから、という含みを持った「もうおれはお前に直の事について何も聞かないよ」であるにもかかわらず、二郎はこの言葉を額面通り軽く受け止めてしまって、「そうですか。その方が兄さんのためにも嫂さんのためにも、また御父さんのためにも好いでしょう。善良な夫になって御上げなさい。そうすれば嫂さんだって善良な夫人でさあ」という、いかにも軽薄な感じの、調子に乗った返答をしてしまったのであり、このことが一郎が怒りを爆発させるきっかけとなってしまったのだ、ということでした。
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2015年08月04日

夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ(1/3)

目次
(1)『彼岸過迄』――「胸(ハート)」を抑える「頭(ヘッド)」
(2)『行人』――自分(主観)と世界(客観)の関係への根本的な苦悩
(3)『こころ』――「先生」が殉じた「明治の精神」とは何か

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 京都弁証法認識論研究会では、昨年の6月より、月に1冊のペースで、夏目漱石の中・長編小説を読んで感想を交流しあう場を設けています(これは、漱石が描く小説中の諸人物の心に着目すると同時に、それらを書いている漱石自身の心〔認識の発展〕にも着目していく、という二重の観点から、認識論の学びを深めていくためのものでした)。

 本稿では、その第11回目から第13回目までの議論の様子を紹介していくことにしましょう。作品としては、いわゆる後期三部作として有名な『彼岸過迄』『行人』『こころ』が対象となります。

(1)『彼岸過迄』――「胸(ハート)」を抑える「頭(ヘッド)」

 漱石読書会の第11回目に取り上げた作品は、『彼岸過迄』(1912年〔明治45年〕、「朝日新聞」に1月1日から4月29日にかけて連載)です。

 この『彼岸過迄』は、短篇を連ねて長篇を構成するという意図のもと、大学を卒業して就職に奔走している田川敬太郎という人物を形式上の主人公にして、彼が様々な人物から話を聞く、という形で物語は進行していきます。しかし、この作品の中心的なテーマを担うという意味での実質的な主人公が、田川敬太郎の友人・須永市蔵であることは疑いありません。分量的には全体の半分に満たない「須永の話」が、圧倒的な存在感をもって読者に迫ってくるのです。ここでは、須永が、従姉妹である田口千代子への複雑な思い、とりわけ千代子をめぐって生じる嫉妬という感情について、自己分析的に語っています。この「須永の話」が核心となり、ここで須永自身によって掘り下げられた彼の性質について、須永の叔父(母の弟)である「松本の話」で、さらに別の角度から(後日談も含めて)補足される、という流れになっているわけです。

 「須永の話」で語られる須永の千代子への思いは、一筋縄ではいかない極めて複雑なものですが、これについては、以下のような指摘がなされました。すなわち、須永は千代子に対して、諸々の社会関係――血の繋がらない母子関係を背景にして須永の母が須永と千代子の結婚を切望している一方で、千代子の父・田口が須永と千代子との結婚を眼中に入れていないような態度を示していること――に規定されて、素直に対することができなくなっているし、また、そういう社会関係を度外視してみても2人の関係はうまくいくわけがないと考えている節もあるのだが、やはり根本的には千代子を求めてやまないのだろう、という指摘です。つまり、社会関係を冷静に客観的に眺める視点からは千代子と結婚などできるかと考えるが、本心としては千代子なしでは生きていけないことに薄々感づいている、ということです。この点に関わっては、「須永の話」第25章の最後で「僕は始終詩を求めて藻掻いている」というのが、「須永の話」第12章において自分を哲人に千代子を詩人にたとえた箇所と対応して、千代子を求めずにはいられない心情を切実に吐露したものとして、決定的な箇所だといえるのではないか、と指摘されました。また、千代子が結婚が決まったとウソをついて須永を翻弄する場面(「須永の話」第10章)で、須永が「僕は自分という正体が、それほど解り悪い怖こわいものなのだろうかと考えて、しばらく茫然としていた」と独白するのも非常に重要ではないか、という指摘もなされました。

 こうした千代子に対する矛盾した思いを踏まえつつ、須永は自身の性格について「僕の頭(ヘッド)は僕の胸(ハート)を抑えるために出来ていた」(「須永の話」第28章冒頭)と総括しているものと思われます。端的には、「胸(ハート)」は千代子を求めてやまないのだが、「頭(ヘッド)」がそれを抑えようとする、ということです。読書会の場では、こうしたヘッドとハートの対立について、フロイト理論の枠組みでいえば、超自我とエスとの対立として捉えることができるのではないか、という提起がありました。超自我は社会的な規範を自身の認識内部に取り込んだものであり、個人的な欲求(エス)を抑えつける機能を果たすものです。こうした提起に対しては、社会関係に規定されて動かされたり逆に動けなくなったりしてしまう須永の性格をよく説明しうるのではないか、との感想が出されました。

 このほか、「須永の話」については、非常に理屈っぽい感はあるものの、嫉妬という感情を徹底的に掘り下げて考察しており、非常に興味深い、との感想が出されました。須永は、避暑で鎌倉の別荘に滞在していた千代子の一家に招待され、そこで高木というイギリス帰りの好青年に出会います。須永は、千代子の結婚相手の候補とも目される高木の登場によって、嫉妬の感情に苦しめられることになるのですが、須永は、この嫉妬の感情について、高木に勝とうという感情(競争心)を抜きに、自分と千代子と高木という三角関係によって規定された機械的運動からのみ来るものとして把握しようとしています(「須永の話」第25章)。他者の属性とかそれに対する自分の感情とかいうことを抜きにして、他者の存在があるというだけで反射的にある動きを強いられてしまう、というような把握が面白く、これはこれで社会関係によって動かされざるを得ない人間の重要な一側面を捉えているのではないか、との意見が出されました。この意見に対しては、この場合は千代子であり高木であるという他者の属性が決定的に重要で、こうした属性を抜きにしては、須永の主張するような運動(嫉妬という感情)はそもそも生じ得ないのではないか、との異論も出されました。この異論に対しては、嫉妬という感情が生じる根拠としては確かにその通りであるが、競争心を抜きにして考えようという須永の把握(解釈)の特異性はやはり注目に値するのであって、ハートを抑えてヘッドで考える、という須永の特性が典型的に現れた箇所といえるのではないか、という受け止めが示されました。

 また、須永の性格をめぐっては、「松本の話」第1章において「市蔵という男は世の中と接触する度に内へとぐろを捲き込む性質である」と述べられている箇所、あるいは同じく「松本の話」第2章における美人の写真の逸話――雑誌の表紙を飾る美しい女性の写真を、どこの誰かを知ろうともせずに、ずっと眺めていた(現実の女性を写したものとしてではなく、ただただ美しい写真として眺めていた)という逸話――も非常に重要ではないか、という指摘がなされました。端的には、須永は、諸々の社会的な関係に囚われすぎて(頭であれこれ考えすぎて)、現実世界との生き生きとした関わりを持てなくなってしまっているということではないか、ということでした。

 こうした須永の性格をめぐっては、『行人』の兄や『こころ』の先生やKにも通じる性格であり、その意味で『彼岸過迄』には『行人』や『こころ』に繋がっていく要素が含まれているといえるのではないか、という指摘がなされました。同時に、『こころ』や『行人』と違って、最後には京都・大阪方面への旅行を通じて少しずつ外界に目が向かうようになっていく須永の手紙(旅先からの須永の手紙は、ただひたすら外的世界の出来事を描写しているだけのものであり、「世の中と接触する度に内へとぐろを捲き込む」という文言から連想されるものとは全く正反対のものになっています)で終わっているところが、この作品全体に一種の安心感を与えているようだ、という感想も出されました。

 ただ、この点をめぐっては、物語世界のなかの時間軸でいえば、須永が敬太郎に自身の千代子への複雑な思いを語るのは、京都・大阪方面への旅行で須永が少し明るくなったように思われるよりも後の出来事であることが指摘されました。旅先からの須永の手紙が作品の最後に来ることで、作品全体の印象が薄明るいものになってはいるものの、須永が敬太郎に語る様子からすれば、京都・大阪方面への旅行を経た後も須永の性格にそれほど大きな変化があったようには思われない、ということです。これについては、漱石が作品の構成を意図的にこのような形(須永の手紙が最後に来る形)にすることによって、ほの明るい雰囲気を醸し出そうとしたのではないか、との意見も出されました。そもそも、この作品全体が、敬太郎が社会に出る前後の一連の世上の経験として語られている(敬太郎が第三者的な立場で見聞したものとして全体が括られている)ことにより、その深刻さを打ち消す一種の軽さが与えられているのであって、このこともこの作品を過度に深刻なものとしないように、という漱石の意図を示すのではないか、との指摘もなされました。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言