2017年02月17日

認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想(5/5)

(5)『“夢”講義』は鈍才的に学ばなければならない

 本稿は,今年一年間,われわれが京都弁証法認識論研究会全体で南郷継正『“夢”講義』をしっかり復習していく,その第一弾として,『“夢”講義(1)』を取りあげ,学んだことをきちんと言語化していく論考であった。ここで,これまでの内容を振り返っておきたい。

 はじめに,本書で説かれている認識論の基本を確認した。認識論とは,アタマとココロのはたらきを立派にするための学問であった。このように,認識論を客体についての理論と考えるのではなく,あくまでも自分の頭脳活動に活かすためのものとして主体的に捉えることが大切だと説いた。また,認識論は,心理学を学問的に学びとる術・方法であるとも説かれていたので,これはどういうことかを,「学問」とは何かと問うて,考えていった。学問とは,対象の性質を論理として把握して体系化したものであり,学問体系とは,人間の体の体系のように,あるべきところにきちんとあるべきものがあり,それが一貫してつながってひとかたまりになって本質論によって統括されながら活動していけるものということであった。したがって,心理学のバラバラな知見を,認識論で学問的に学びとれば,一貫してつながったものとして活動でき,巨大な力を発揮できるということになるのであった。次に,認識学とは何かを確認した。認識学とは,人間の頭脳活動(アタマの働きとココロの働き)たる認識のすべてを体系的レベルで論じきるものであり,それには三本柱があって,認識をその原点から,それも系統発生的な原点と個体発生的な原点の二つの原点から,一貫して筋を通して説ききるものなのであった。では,その認識論・認識学が対象とするところ認識とは何か。認識とは脳細胞が描く像であるが,これまで,像とは何かを説いた学者はいないと説かれていた。それを初めて説いたのが海保静子先生なのであった。その内容をまとめると,像とは,視覚,聴覚,味覚,嗅覚,皮膚感覚,といった五感のすべてが動員されて形成された五感情像であり,これは人間に特有の個性的感覚像のことであり,このような感情で問いかけて対象を見るのが人間の特徴である,ということであった。このような五感情像である認識を対象として,認識を理論化・体系化したものが21世紀の新興学問とされている認識学なのであった。

 次に連載第3回では,本書で説かれている認識と言語の関係について検討した。看護においては相手の立場に立つことが必要だが,それは非常に困難であることが説かれていた。相手の立場に立つためには,病む人と関わり続けることと,時代の心とか社会の心とか人間の心といったものを,それが描かれたふさわしい小説から学び続けることが必要だと説かれていた。そのうえで,コミュニケーション論が説かれていった。ここでは,コニュニケーションとは心を分かり合うことであり,相手の立場に立っての観念的二重化=自分の観念の相手的観念化であるとして,それが可能となるためには,小説の学びだけではなく,コミュニケーションは何よりもまず言葉を介してなすものであるから,言葉(言語)とは何か分からなければならないと説かれていた。そして,三浦つとむ『認識と言語の理論T』の大事なところが引用され,その中で最も大事なところを要約して,@言葉というものは,人間と人間との精神的な交通を行なうタメのものである,A認識の成立から表現(言葉)にいたる過程的構造の解明が大事である,と二つにまとめられていた。@については,南郷先生は言語の起源から問題にされ,文化と呼べるほどの労働が生まれて,それを次世代に伝えるためにこそ,言語の誕生が促されたのだと説かれていた。このような弁証法的・唯物論的な頭の働かせ方をしっかり学ばないといけないとしておいた。Aに関しては,私たち人間の住んでいる社会の社会的認識が社会性をもって,個々バラバラになろうとする私たちの認識の創造を常に社会的にしようと努力していくということがくり返し説かれていた。これは,人間の認識は,放っておいたのでは,個々バラバラになっていくのであり,そのままでは社会の維持が不可能になってしまうので,個別像を何らかの形で共通像にしていく必要があるということである。このように個別像を共通像にするために,言語が必要であると説かれていた。言語は,社会の成員に共通して必要な文化遺産を次世代に伝えるためにこそ誕生したものであり,言語によって,文化遺産を頭の中に送り込み,共通像を形成していく必要がる,ということであった。さらに,この教育・学習という作業をしっかりと行えるための条件,認識=像の形成がうまくいくための条件として,南郷先生は3つの条件をあげておられた。一つは,実物の外界を反映させることであり,二つは,きちんとした言語とともに認識=像を形成させることであり,三つは,なるべく集団的・小社会的に行なうことであった。

 連載第4回では,本書の最後に紹介されている2つの手紙を比較することによって,受験秀才と鈍才の違いを明確にした。さらにそれを踏まえて,『“夢”講義』はどのように学んでいかなければならないのかを考えた。まず,受験秀才について,南郷先生は,事実からの反映よりも書物からの反映を大事にするので,現実を見る実力が大きく低下して,感性が豊かに育っていかない,と説かれていた。だから南郷先生は,この受験秀才的な看護学生に対して,「もっともっと事実に関わって,現実と格闘しながら感性を育てていく場を自分で努力しながらもってほしい」(p.193)と助言されていたのであった。ここに関わって非常に重要なことが説かれていた。それは,弁証法の基本書を受験国語のレベルで読破するだけではなく,現実に存在する自分の専門に関わる事実という事実と格闘することによって初めて,弁証法が息をし,動きはじめることになるという指摘であった。看護に関わる弁証法の学びの実例として,病室の廊下の歩き方,病室のドアの開け方,患者さんへの声のかけ方などが紹介されていた。鈍才の手紙については,「全文,これ弁証法性のカタマリ」と評価されていた。一読して筆者は,全てが実物の外界を反映して描かれた像の表現になっており,自分の体験した事実に基づいて全てが説かれていると感じたのであった。そして,この鈍才のように事実と格闘するための前提として,「〜したい」という大志が必須であることも説いた。この鈍才の手紙を媒介として先の受験秀才の手紙を眺めてみると,受験秀才の手紙には,自分が体験した事実が少ない,ほとんどないということが分かると説いておいた。像抜きで,文字(言葉)を解釈しているだけであり,像がないのに文字を書き綴っているという印象を受けるのであった。しかし,われわれとしては,この看護学生を馬鹿にしていればそれですむというような問題ではなく,われわれも,ともすればこの受験秀才のような文章を書いてしまうものであり,そのことを明確に自覚して,少しでも,鈍才である心理学科の学生のような文章を書けるように研鑽していかなければならないのだと強調しておいた。そのためにはどうすればいいか,さらに『“夢”講義』はどのように学んでいけばいいのか。その答えはともに,「〜」したいという強烈な思い(大志)を前提として,認識=像の形成がうまくいくための三条件を満たすべく,学習していくということであった。『“夢”講義』を学んでいく際には,実物の外界をしっかりと反映して,事実からしっかり学んで,自らの体験像を豊かにしていくと同時に,また本書に帰ってきて,その意味するところ=論理を言語でしっかりと学び,なおかつ,研究会内で討論するなどして,小社会的に学んでいかなければならないのであった。

 このように本稿で説いたことをまとめてみると,結局,『“夢”講義(1)』で一番大切なのは,認識=像の形成がうまくいくための三条件ということになるのではないか。南郷先生が本書で説かれたことはこれに尽きるのではないか,という気がしてくる。

 もう一度,この三条件を引用しておく。

「一つは,外界を反映させる作業(教育・学習)を可能なかぎり,実物の外界を反映させることです。たとえば,船を反映させようと試みるときに,なるべく模型やビデオなどではなく,実際の船をしっかりとみせることです。

 二つは,ここを行なうときにきちんとした言語とともに,つまり文字と発音をしっかりと覚えさせながら船を反映させて,認識=像を形成させることです。

 三つは,なるべく集団的・小社会的に(つまり,個人的にではなく)行なうことです。」(p.159)


 この条件は,連載第2回で説いたような認識論を踏まえて説かれたものである。すなわち,そもそも認識とは五感情像であり,5つの感覚器官を通して反映したものの合成像である。だから,認識=像の形成がうまくいくためには,しっかりと5つの感覚器官を通して実物を反映する必要がある。書物からの学びでは,視覚のみの一感覚像になってしまう。そして,連載第3回で説いたように,言語は文化遺産を伝えるためにこそ誕生したものであり,言語によって個別像が共通像になっていくのであるから,人間としての認識をきちんと形成していくためには,言語とともに認識=像を形成していくことが大切なのである。これによって個々バラバラな認識が社会的認識として育っていき,社会の維持が可能となる。さらに連載第4回で説いた受験秀才は,このような条件を満たさずに学習した者であるから,現実を反映する力が低下して,感性が豊かに育っていかなかったのである。逆に鈍才の心理学科学生は,この三条件を満たす形で学習したために,弁証法・認識論の実力をきちんと養成できたのである。このように,三条件を核として,それぞれの回で説いたことをまとめることができると思う。

 このように見てくると,われわれはたしかに秀才のたぐいの集まりではあるものの,それなりにこの三条件を満たす学習を積み重ねてきたことも分かる。たとえば,『育児の認識学』を学ぶに際しては,保育士でもない限り,実物の育児がどうしても必要となるが,われわれは自分自身の子どもを育てるにあたって,『育児の認識学』を読み込み,実際の育児の像をしっかりと形成しながら,『育児の認識学』で説かれている言語=論理と重ね合わせ,事実と論理の昇り降りをくり返すような学習を,研究会として小集団的に,行なってきているといってよい。もちろん,まだまだその量が不足しているために,われわれの書く文章が受験秀才的なものとなってしまっているのは否めない。しかし,われわれの歩みを全否定する必要はなく,本稿で説いたような学び方を常に意識して,目的意識的な学習をこれまで以上に必死に積み重ねていくしかないのである。そうすれば,おぼろげながらも学問への道が拓かれていくと確信している。

 今後,『“夢”講義(2)』以降の学びも,認識=像がうまくいくための三条件を常に忘れずに,それを念頭に置きながら,くり返しの上にくり返して学んでいく必要があるだろう。このことを確認して,本稿を閉じたい。

(了)

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2017年02月16日

認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想(4/5)

(4)秀才は像抜きの文字を解釈する

 前回は,認識と言語の関係について,本書で説かれている内容をしっかりと理解して,検討していった。言語はこれまでの世代が獲得してきた文化遺産を次世代に伝えるためにこそ誕生したのであり,個々バラバラな認識を共通像にしていくためにこそ,言語が必要なのであった。

 さて今回は,本書の「第5編 看護に必要な弁証法入門」で紹介されている2つの手紙を俎上にのせ,受験秀才と鈍才の違いをしっかり理解することに努めたい。そして,それを通して,『“夢”講義』はどのように学んでいかなければならないのかを考えたいと思う。

 まず,受験秀才の書いた手紙について,南郷先生が指摘されていることを確認したい。受験国語力的頭のよさの危うさについて,次のように説かれている。

「通常の人たちは,受験用ではあっても,頭がよいことは「よいことだ」と信じがちです。でもこれは,反面では危ういことでもあるのです。どういうこと? と反問されそうです。簡単にいいますなら,一般的に頭のよい人というのは頭脳活動がイキイキしていますので,ついつい,事実からの反映よりも書物からの反映を大事にし,かつそれを信じて自分の実力にしてしまいます。思春期・青春期の脳細胞の発育・発達にとっての大切な時期を,受験用の勉強によって大きく無駄にしてしまっているのです。

 その結果,現実をみる実力が大きく低下して育っているだけに,現実をみる機会をなるべく避けて頭のなかに出来事を創りだします。そのほうがよほどに楽ですから。それだけに,ますます現実をよくみるのはとても大変なことにもなるものですから,ますます書物やビデオですませがちになります。

 これは困ったことになっていきます。たとえば,書物で学んだことは現実味を欠いていますので,感性がなかなか豊かに育ってはくれません。」(pp.192-193)


 ここでは,受験秀才は,事実からの反映よりも書物からの反映を大事にするので,現実を見る実力が大きく低下して,感性が豊かに育っていかない,と説かれている。連載第3回で紹介した「認識=像の形成がうまくいくための条件」のうちの一つ目である「実物の外界を反映させること」が大きく欠けてしまうがゆえの欠陥ということであろう。そのため,南郷先生は,この受験秀才的な看護学生に対して,「もっともっと事実に関わって,現実と格闘しながら感性を育てていく場を自分で努力しながらもってほしい」(p.193)と助言されている。

 これと同様の内容が,非常に分かりやすく説かれている部分がある。南郷先生は,弁証法の学びは「空手の学び」と同じであり,自分の専門分野の問題と闘って,その問題を解決する(勝つ)だけの鍛錬が必要となるとした後,次のようにまとめられている。

「ですから仮に『弁証法はどういう科学か』を何百回読んでも,あの書物のなかのすべての問題がなんなく解けても,専門分野の問題に立ち向かう実力が弁証法的についていなければ,なんの意味もありません。空手の修練が,受験国語のレベルで空手の本を読破することではないように,弁証法の学びも弁証法の本を読破することではありません。

 空手の学びと同じように自分の専門分野の本だけではなく,知識だけではなく,現実に存在する自分の専門に関わる事実という事実と格闘することによって初めて,弁証法が息をし,動きはじめることになるのです。」(p.206)


 ここでは,弁証法の基本書を受験国語のレベルで読破するだけではなく,現実に存在する自分の専門に関わる事実という事実と格闘することによって初めて,弁証法が息をし,動きはじめることになると説かれている。「弁証法が息をし,動きはじめる」というのは,非常に印象的な表現である。

 そして,看護に関わる弁証法の学びの実例として,次のようなものをあげておられる。

・病室の廊下の歩き方
・病室のドアの開け方
・患者さんへの声のかけ方
・患者搬送のタンカの運び方
・体温計の持ち方・持たせ方
・看護関係者同士の挨拶の仕方

 このような,自分が体験する事実で弁証法を学んでいかなければ,本当に学んだとはいえない,ということであろう。

 では次に,弁証法を学んだ鈍才である心理学科学生の手紙を見ていきたい。手紙の主は南郷先生によって「弁証法への学びのトップレベルへたどりつく可能性をもちはじめてきている」「在学していた大学のほとんどの教授の上位のレベルの心理学の実力を把持するまでに,わずか数年というより,二年有半で行なった」(p.209)と絶賛されている。また,手紙については,「全文,これ弁証法性のカタマリ」と評価されている。

 手紙は卒業にあたって,大学4年間を1時間以内で振り返るというものである。毎日が変化の連続であったことや弁証法が分かるようになるために何もかも全て弁証法的に生活するようになったことが説かれる。そして,大学の授業内容を1時間でレポートとしてまとめていたこと,その中で話にレベルがあって大切なのは一般的な話だと気づいたことが述べられている。また,生まれ変わるべく,食事や服装,読む本や歩き方,友達の付き合い方も変え,それが直接に弁証法を学ぶことであったとして,「友達との認識の「相互浸透」のありかたをよくみて,それによって私自身がどのように「量質転化」していくのかを考え」(p.212)たなどと説かれている。さらに,南郷先生に二重化する際に,段階を設けて,他の先達を中間目標としたことや,志を抱く意義は将来のあるべき自分から今の自分をみてとることであることなどが説かれている。

 一読して,本当に大学での4年間分の像が集約されたレポートになっていると感じた。全てが実物の外界を反映して描かれた像の表現になっている。自分の体験した事実に基づいて全てが説かれているのである。事実と格闘することによって,弁証法が息をし,動きはじめるとはこのようなことかという見事なお手本といえるのではないか。

 ここで,事実と格闘するということについては,もう少し突っ込んで考えておきたい。そもそも,なぜ事実と格闘する必要があるのか。それは端的には,「〜したい!」という志(大使)があるからこそである。大志の重要性は,南郷先生が常々強調されているところであるし,この鈍才の手紙にも説かれている。

 この大志の重要性については,われわれの師も,くり返し説いておられる。2001年に筆者が師の主催されているゼミに初めて参加したときも説かれていた。ここに,その時のレポートを2箇所、引用しておく。

「講義の初めに学んだことは,まさにこの問題に関連していた。その学んだこととは端的にいうと,弁証法を学ぶ目的がはっきりしていないと学び方を云々することはできない,ということである。考えてみれば当たり前のことであって,これは旅行するのに目的地を決めないことには,どのような手段でそこに辿り着くのかを決定できないのと同じ事である。私には目的地=「〜したい」という強烈な目的意識が欠如していたのである。以前から感じていたなんとなく不安な思いというのは,どこに行くのかも決めていないのに歩いていくより電車で行った方がいいだろうなどと考えていることから生じたものであろう。」


「最後に一番大事なことは,すべての実践を「〜したい」という人生の大目的につながるように位置付ける必要がある,ということである。「〜したい」というのが核になって,そのまわりに学んできたものがくっついている状態になって初めて,知識は動きだし,使えるようになるのである。」


 師の講義再現と,筆者の感想が混在しており,恥ずかしい限りのレポートではあるが,要するに,学ぶ目的を明確にし,すべての実践を「〜したい」という人生の大目的(大志)につながるように位置付けてこそ,学んだ知識が動き出し,使えるようになる,ということである。南郷先生の「弁証法が息をし,動きはじめる」との表現と,師の「知識は動きだし,使えるようになる」との表現は,非常に似かよっており,説かれているのも同様の内容だと考えられる。

 以上をまとめるならば,「〜したい」という大志があってこそ,事実と格闘というレベルで関われるようになるのであり,そうしてこそ,弁証法の知識も動き出すのだ,弁証法という認識=像の形成がうまくいくのだ,ということであろう。筆者も,目の前のクライエントの心の問題を少しでも早く,効率的に解消したい,そのために認識学を何としてでも構築したい,という大志を常に把持して,それを育てていかねばならないと痛感した。

 この手紙を紹介した後,南郷先生はこの心理学科の学生に,『弁証法はどういう科学か』の学び方について指導したことが,以下のように説かれている。

「指導したことは,毎日必ず一時間学ぶこと,そして学んだ内容を自分の日常生活の事実でわかること,です。二つは,以上のことを,理解したこと・理解できなかったことに分けて,理解できたことは自分の生活の実例で説き,理解できなかったことは書物のなかの事例でどうわからないのかを説明して三十分から一時間で筆記(ワープロではなく)すること,です。用紙は授業のモノと同じく,レポート用紙一枚としました。

 ……加えて,本人が一番嫌っていた読書を実行させました。歴史モノ・社会派推理モノ・古典文学に関してのモロモロの書を,一週一冊単位で読破させました。」(p.216)


 ここで書かれていることは,そのまま,われわれは学生時代に『綜合看護』でこの部分を読んだときに実行したものであった。加えて筆者は,このあと通うことになった大学院で,手紙にあったように,授業内容を1時間以内でレポートにまとめる作業も行ったものであった。

 それにしても,南郷先生は本書の最後におそろしいことを書いておられる。それは,上記のような学習を継続したことによって,「当然に,心理学のあらゆる分野の理解が最高になり,どんなに遅くとも二十年後には,学問としての「精神科学」の確立が可能になる! との予測さえ述べたいほどの現在」(p.216)であるというのである。手紙の日付が2001年3月19日であるから,20年後というと2021年である。遅くとも2021年に学問としての「精神科学」の確立が可能だというのである。当時は「20年後か」などとのんきに考えていたが,2017年となった現在では,もはやあと4年以内ということである。

 閑話休題,この鈍才の手紙を媒介として先の受験秀才の手紙を眺めてみると,その特徴が明確に浮上する。端的には,受験秀才の手紙には,自分が体験した事実が少ない,ほとんどないということである。自分が創り出した体験像が希薄なのに,分かったかのように説いている。像抜きで,文字(言葉)を解釈しているだけであり,像がないのに文字を書き綴っているという印象を受ける。

 南郷先生は,この学生には弁証法の学びが欠けているから,『“夢”講義』が分からないのだと説いておられる。実物の外界(事実)をしっかりと反映させることが少ないから,事実のもつ弁証法性が反映せずに,書物ばかりの反映だから認識が弁証法性を帯びないのであろう。

 しかし,われわれとしては,この看護学生を馬鹿にしていればそれですむというような問題ではない。率直にいえば,われわれは鈍才の心理学科の学生のような文章というよりは,この受験秀才の看護学生のような文章を書いていることをしっかりと自覚しなければならない。見る人が見れば,われわれの文章は,まさしくこの秀才の文章と同じであるかもしれないのである。

 もともと秀才といっていいわれわれは,ともすればこの受験秀才のような文章を書いてしまうものであり,そのことを明確に自覚して,少しでも,鈍才である心理学科の学生のような文章を書けるように研鑽していかなければならないのである。そのためにはどうすればいいか。ここでも連載第4回で触れた認識=像の形成がうまくいくための三条件をクリアーしていくことが求められる。三条件とは,実物の外界を反映すること,きちんとした言葉とともに認識を形成すること,小集団的に学習すること,であった。受験秀才的な学習の仕方では,この三条件をみたすことができないのである。逆にいうと,われわれは,この三条件を常に念頭に置きながら学習していかなければならないのである。その意味で,この三条件は決定的に重要な内容であるといえるだろう。

 では,以上を踏まえて,『“夢”講義』をどのように学んでいけばいいであろうか。端的にいうならば,『“夢”講義』に学んでいく際にも,この三条件を満たす形で学んでいく必要がある。たとえば,想像力豊かなジルーシャでも,入ったことのない普通の家の中には想像力が及ばなかったということが説かれていたが,これと同じような具体的な事実を探して,そこでこの論理を何度も何度も確認していく。目をつぶってバラの香りを嗅いだ場合,嗅覚しか働いていないのに,バラの花の形や皮膚感覚も感じている,これが認識は感覚の合成像であるという意味である,と説かれていれば,同じように,目をつぶってある対象を認識することをくり返し試みてみて,あるいは,視覚だけしか働かないような状況でも,味や香りも感じていることを確認していき,認識は合成像であるということの意味を深めていく。病室の廊下の歩き方,病室のドアの開け方,患者さんへの声のかけ方も弁証法を学ぶ材料であると説かれれば,看護師と同様に病院に勤務する心理士である筆者であれば,これを弁証法の学びとしてさまざまな実践・実験を行っていく。

 このように実物の外界をしっかりと反映して,事実からしっかり学んで,自らの体験像を豊かにしていくと同時に,また本書に帰ってきて,その意味するところ=論理を言語でしっかりと学んでいく。さらにこれを小社会的に行なっていく。われわれの場合でいえば,学んだことをしっかりとレポートにまとめて,師や会員に送り,それに対して別の会員はしっかりコメントをする。あるいは,『“夢”講義』の内容で理解できないところをしっかりと師に質問する。このようにして,本書を小集団的に学んでいくことが,認識=像の形成がうまくいくためには必要である,ということなるだろう。

 そしてそのような事実との格闘の前提として,「〜したい」という大志が必要であることもしっかり再確認しておかなければならない。このような大志がなければ,事実と格闘し続けることができず,その結果,学んだ知識が息をし,動き出し,使えるようにはならないのである。

 以上今回は,秀才の手紙と鈍才の手紙との比較から,秀才の欠陥を確認して,それを踏まえて,どのように『“夢”講義』を学んでいけばいいのかについて考察した。

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2017年02月15日

認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想(3/5)

(3)認識と言語の関係を問う

 前回は,『“夢”講義(1)』で説かれている認識論の基本を確認した。認識論とは,「アタマとココロのはたらきを立派にするための学問」という主体的な性格をもつものであり,学問体系としての認識学とは,五感情像たる認識をその原点から弁証法的に,そして唯物論的に説ききるものであった。

 今回は,「第2編 看護に必要な「認識と言語の理論」」と「第3編 学問的に説く「認識と言語の理論」」で説かれている認識と言語の関係について検討したい。

 ここではまず,看護においては相手の立場に立つことが必要だと論じられ,しかし,相手の立場に立つことは非常に困難であることが説かれる。その中で,『あしながおじさん』の主人公であるジルーシャが取りあげられている。ジルーシャは想像力豊な少女であったが,普通の家の中に入ったことがないので,普通の家の中へは空想であっても入っていけないのであった。それと同様に,看護学科の学生も,自分が経験したことのない普通ではない人の心を思いやること=病んでいる人の立場に立つことは難しいのである,と説かれている。

 ではどうすればよいかというと,心理学などに頼るのではなく,「看護とは」が分かって初めて相手の立場に立てるとして,「病む人の心や気持ちというものは,その病む人と関わることによってだけ,少しまた少しとしだいに大きくわかっていくことができる」(p.103)と説かれている。さらに,「看護とは」の全体像をしっかりと描くためには通常の人間の全体像が描けている必要があり,そのためには社会と歴史の学びが大事であるとして,歴史を題材とした時代小説,人間の心を主題にしている小説,社会派とされている推理小説の三つを挙げ,時代の心とか社会の心とか人間の心といったものを学び続けることが推奨されている。

 この後,コミュニケーション論が展開される。ここからが今回の中心主題である。コニュニケーションとは心を分かり合うことであり,相手の立場に立っての観念的二重化=自分の観念の相手的観念化であるとして,それが可能となるためには,その時代における社会一般の中の人の心というレベルで心とか気持ちがわからなければならないとされている。したがって,そのようなコミュニケーションの過程を学ぶためには,やはり,時代の心,社会の心,人の心が分かるようになるよう,ふさわしいしっかりとした小説を読むことが大切だと説かれている。

 さらにそれだけではなく,コミュニケーションが可能となるためには,コミュニケーションは何よりもまず言葉を介してなすものであるから,言葉(言語)とは何かを明確にしなければならないとして,三浦つとむ『認識と言語の理論T』の大事なところが引用される。そしてその中で最も大事なところを要約して,次の二つにまとめられている。

@言葉というものは,人間と人間との精神的な交通を行なうタメのものである
A認識の成立から表現(言葉)にいたる過程的構造の解明が大事である(p.120)

 この2つを順に見ていきたい。

 まず,@である。「言葉というものは,人間と人間との精神的な交通を行なうタメのものである」というのはどういうことか。これは,ごく単純に考えれば,自分の認識を相手に伝え,相手の認識を自分が理解するためにこそ,言葉が存在する,ということであろう。しかし,南郷先生は,言語の起源から問題にされている。すなわち,猿から人間へと発展する中で,いかにして言語が誕生したのか,その必然性を説いておられるのである。結論部分では,次のように説かれている。

「結論的にいいますと,言葉すなわち言語は,人類の労働の誕生を原点として誕生したのだ,ということです。すなわち,人類の文化の重層化を次世代に教育するため,あるいは,遺産として残す(伝える)ほどの文化の積み重ねを人類の労働が果たしたことが,言葉・言語の誕生をうながしたのだということです。」(p.124)


 ここでは,文化と呼べるほどの労働が生まれて,それを次世代に伝えるためにこそ,言語が誕生したのだと説かれている。身振り・手振りだけでは伝えられないほどに,文化遺産が重層化・複雑化していったため,それをきちんと次世代に教育できるようにするために,言語が誕生したということである。

 このように,何を問題にするにしても,その起源から解明しようとし,実際に解明されているところが南郷先生の凄いところである。起源を問題にするというのは,原点からの生成発展を説こうということであるから,弁証法的な考え方であるといえる。さらに,世界は物質的に統一されており,物質一般から特殊な物質は誕生するという唯物論的な世界観をしっかりと把持し続けているからこそ,特殊な物質といえる言語の誕生について説けるのであるから,唯物論的な考え方に貫かれているともいえる。したがって,われわれとしては,南郷先生は凄いといっているだけではダメであり,われわれもしっかりと,このような弁証法的・唯物論的なアタマの働かせ方を徹底して訓練していき,技化していかなければならない。そのためにこそ,『“夢”講義』に学んでいるのである。

 次にAである。「認識の成立から表現(言葉)にいたる過程的構造の解明が大事である」とはどういうことか。

 まず,南郷先生は,人間の認識と動物の認識との違いを説かれている。動物の認識=像は,本能が創り出すものであるが,人間の認識は本能を失った分,一人では生きていけないのであり,必ず社会的にのみ,自分を生かし,活かすことが可能となると説かれている。どれほど個性的だと思っている認識であっても,人間の認識はすべて社会的であり,社会性を帯びているとした後,次のように説かれている。

「これは端的には,私たち人間の認識は,本能が創ったモノではなく,私たち人間の住んでいる社会の社会的認識が社会性をもって,個々バラバラになろうとする私たちの認識の創造を常に社会的にしようと努力しているからなのです。」(p.137)


 すなわち,社会的認識が,個々バラバラになろうとする私たちの認識の創造を常に社会的にしようと努力しているということである。

 これはどういうことであろうか。われわれ人間は,本能が薄れている分,認識の形成は非常に個性的にならざるをえない。ひとりひとり,生まれた瞬間の外界が違うし,それ以降の外界も,大きく,あるいは小さく,違っている。また,外界を受け取る感覚器官の実力も,5つの感覚器官のバランスも,人それぞれであり,決して同じではない。そうなると,感覚器官を媒介として形成される認識=像は,同じ対象を見ていたとしても,決して同じにはなりえない。個々バラバラな認識が蓄積されていくのであるから,これまでの蓄積した像でもって対象に問いかけ,対象を反映するとなると,ますます違ったように反映していくことになる。このように,人間の認識は,放っておいたのでは,個々バラバラになっていくのであり,そのままでは社会の維持が不可能になってしまうのである。

 そこで,「私たち人間の住んでいる社会の社会的認識が社会性をもって,個々バラバラになろうとする私たちの認識の創造を常に社会的にしようと努力して」いくことになるのである。ここの部分を,南郷先生はくり返し,言葉を変えながら諄々と説いておられると思う。たとえば,社会的に生きる力を身につけるためにシキタリに従う能力を培う必要がある(p.134)とか,外界の反映を社会関係的な反映として行わせるのが母親の仕事である(p.144)とか,社会関係の中で言葉を覚えさせ使わせ,言葉を使うことによって社会的なルールを覚えさせる必要がある(p.146)とかである。

 そして,その極めつけともいえるのが,「個別像を共通像にするために言語は必要である」と題された節で説かれている内容であろう。ここでは,人間の認識は個性的な像として存在しており,人によって異なっているが,それを異なったままにしておくわけにはいかないとした後,次のように説かれている。

「そこで当然にそれを共通の像にしていく作業(教育・学習)が必要となります。

 ここに言語の必然性の一つがあるのです。しかもこの作業(教育・学習)は頭のなかから始めるわけにはいきません。なぜなら,頭のなかの像を外へだすことは不可能だからです。そこで,外から頭のなかへ,なるべく共通の像を送りこむことによってのみ,この作業(教育・学習)をしっかりと果たすことが可能になるわけです。」(pp.158-159)


 ここは当初,非常に難解で,どういうことかよく分からなかった。しかし,研究会の会員と討論したり,今見てきたように本書の大きな流れを確認して,その中に位置づけたりすることによって,ここで説かれていることの内容が見えてきたのであった。それは以下である。

 くり返し説かれているように,人間の認識は,個性的な像として存在している。個々の人間が描いている像は個別像なのである。しかし,そのままでは社会が維持できない。したがって,個別像を共通像にしていく必要があるのである。ここでいう「共通像」というのが一つのポイントである。これは,ある社会の成員が共通してもっているところの認識であるから社会的認識のことであり,本書で説かれていたことを踏まえるならば,言語によって伝えられる文化遺産である,といってもいいだろう。

 言語は,精神的な交通のためのものであった。すなわち,自分の認識を相手に伝え,相手の認識を自分も描くためのものである。そうすると,言語は,共通な像を描くためのものである,ということもできるわけである。そして言語の起源として説かれていた内容は,言語は,重層化した文化遺産を次世代に伝えるためにこそ,誕生させられたのだということであった。すなわち,世代を超えて,共通の像を描くためにこそ,言語の誕生が促されたのである。これまでの世代が獲得してきた,社会の成員が共通してもっていなければならない認識を伝えるためにこそ,言語が成立したのである。

 このような内容を踏まえるならば,「個別像を共通像にするために言語は必要である」ということの中身も,先の引用文の中身も,素直に理解することができる。すなわち,人によって異なった認識を,共通の像にしていく作業(教育・学習)のためには,言語によって(言語を媒介として)文化遺産を頭のなかに送り込むことが必要だ,ということである。

 南郷先生は,この教育・学習という作業をしっかりと行えるための条件,認識=像の形成がうまくいくための条件として,次の三つをあげておられる。

「一つは,外界を反映させる作業(教育・学習)を可能なかぎり,実物の外界を反映させることです。たとえば,船を反映させようと試みるときに,なるべく模型やビデオなどではなく,実際の船をしっかりとみせることです。

 二つは,ここを行なうときにきちんとした言語とともに,つまり文字と発音をしっかりと覚えさせながら船を反映させて,認識=像を形成させることです。

 三つは,なるべく集団的・小社会的に(つまり,個人的にではなく)行なうことです。」(p.159)


 すなわち,実物をきちんとした言語とともに集団的・小社会的に反映させていく,ということである。

 これは,今まで説かれていたことの総まとめといえるだろう。われわれは,たとえば育児をする際にも,子どもにこの三つの条件がしっかりそろった形で教育していかなければならない。また,弁証法の学習も同じである。たとえば,量質転化であれば,実際に自分で量質転化を起こしてみる。相手に起こさせてみる。それをしっかりと反映しなければならないし,『弁証法はどういう科学か』の定義に重ね合わせながら,集団的に学んでいく必要がある。個人的に学ぶと,どうしても自分勝手な解釈になりがちであり,文化遺産としての共通の像をきちんと描くことができないからである。

 以上,今回は認識と言語の関係について見てきた。端的にまとめておくと,認識の表現が言語であるというだけではなく,言語はこれまでの世代が獲得してきた文化遺産を次世代に伝えるためにこそ誕生したのであり,そのことによって個々バラバラな認識が,共通の像として整えられていくのであった。
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2017年02月14日

認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想(2/5)

(2)認識論の基本を確認する

 本稿は,学者になれるよう,自らの頭脳活動を見事にしていくために! という問題意識・目的意識をもって,南郷継正『“夢”講義(1)』に学び,その成果を認めていく論考である。

 今回は,本書の「第1編 看護に必要な認識論入門」の内容を取り上げ,認識論とは何かをしっかりと再確認したい。

 まず,認識論とは何かについて,南郷先生は端的に,次のように説いておられる。

「……認識論とは,ここでは簡単には頭脳活動の理論であり学問です,と答えておきます。端的にはアタマとココロのはたらきを立派にするための学問です。

 ですから,看護を学問的に学びたい人に,それを学びとる術,方法を学ぶ学問の一つなのです。もちろん,心理学を学問的に学びたい人へ向けての,学びとる術であり,方法でもありますので,御心配なくどうぞ! です。」(pp.29-30)


 前半部分は,連載第1回でも触れた内容である。すなわち,認識論はアタマとココロのはたらきを立派にするための学問であるということである。このように,認識論を客体についての理論と考えるのではなく,あくまでも自分の頭脳活動に活かすためのものとして主体的に捉える必要があることを,再度確認しておきたい。

 後半部分は,心理学を学んでいる筆者にとっては特に,非常に重要な内容が説かれているように思う。ここで説かれていることを心理学に限って言い換えるならば,認識論とは,心理学を学問的に学びとる術・方法である,ということになる。逆からいうと,認識論がなければ,心理学を学問的に学びとることはできない,ということになる。

 これは一体どういうことであろうか。これを理解するためには,「学問的に学びとる」という場合の「学問」とは何か,ということが分からなければならない。本書では,学問とは「対象の性質を論理として把握して体系化したもの」であり,「体系とは,自分の専門分野のすべてを一本の筋をとおしきって人間の体の系統のように説く(解く)こと」(p.45)であると解説されている。その上で,瀬江千史先生の『看護学と医学』上巻が引用されている。孫引きになるが,大切な部分を引用したい。

「人間の体はみればわかるように,頭がありその下に体幹があり,体幹から手,足が出ている。そして,全身が頭に存在する脳によって,神経・ホルモンを介して完全に統括されている。

 このようにあるべきところにきちんとあるべきものがあり,それが一貫してつながってひとかたまりになって脳の支配の下に統括されながら活動していけるものが,体系なのである。頭が体幹の下にあっても体系でなく,手の部分に足がついていても体系でなく,さらにそれが脳に統括される神経によってきちんとつながっていて活動することができなければ,また体系ではないのである。

 学問体系は,これにたとえて,本質論が頭,構造論が体幹,現象論が手足であり,全体系を貫く論理性が神経ということになるが,これまた当然に脳,すなわち本質論によって統括されていなければ,つまり本質論につながる構造論でなければ,そしてそれが活動できなければ学問としての体系ではないのである。」(p.46)


 すなわち,学問体系とは,人間の体の体系のように,あるべきところにきちんとあるべきものがあり,それが一貫してつながってひとかたまりになって本質論によって統括されながら活動していけるものということである。

 ここで先の問いに戻ろう。問題は,認識論とは心理学を学問的に学びとる術・方法であるとはどういうことであろうか,であった。今見てきた「学問とは何か」「体系とは何か」の解説を踏まえるならば,それは,心理学をバラバラの知見の集積として学ぶのではなく,一貫してつながったひとかたまりのものとして学びとるためには,そして,それをしっかりと活動させていき機能させていくことができるように学び取るためには,認識論の学びが必要である,ということではないか。

 南郷先生が引用されている『看護学と医学』上巻の文章の中には,事実のいわゆる大系と論理の体系の違いは,「会社とは名ばかりのガランとした大きな建物のなかで,社員千人がただ右往左往している」ことと,「千人の社員が,会社の規範(=法律レベルの)に従って社長―部長―課長―係長―平社員と,会社内のそれぞれの部署に整然と配置され,規範に基づいてくだされるひとつの指揮系統の流れのなかで仕事をしている」こととの違いのようなものであると説かれている。これがいってみれば,心理学と,認識論によって心理学を学問的に学びとったものとの違いということになるだろう。要するに心理学は,たくさん知見があるがバラバラなのであり,一つのまとまりとして活動していくことも機能することもできない。それに対して,認識論で心理学を学問的に学びとれば,一貫してつながったものとして活動でき,巨大な力を発揮できるということであろう。

 では,心理学を学問的に学び取るだけではなく,認識論をしっかりと学問体系として構築した場合の認識学とは,一体どのようなものであろうか。ここに関して,南郷先生は次のように説いておられる。

「認識学とは,読んで字のごとくに認識を問う学問であり,それも部分的にではなく,認識に関わるすべてを説く学問です。

 認識とは端的には,人間の頭脳活動のことであり,簡単には,アタマのはたらきとココロのはたらきです。

(中略)

 認識学とはすなわち,これらの社会的・家庭的・個人的な認識の過去かつ現在,そして未来を学問的レベルで問うて論じること,すなわち体系的レベルで認識のすべてを論じきるものです。

 端的には,認識学とは人間の頭脳活動である認識を,歴史的・具体的に探究して,それらを論理化し,理論として学問的に体系づけてできあがるものです。」(pp.49-50)


 すなわち,認識学とは,人間の頭脳活動(アタマの働きとココロの働き)たる認識のすべてを体系的レベルで論じきるものである,ということである。

 そして,その認識学の三本柱について,南郷先生は次のように説かれていく。

「一つは,人間はどのようにして発展してきて現在の人間になったのかを,認識からとらえ返した人類の認識としての発展過程の論理構造を説くこと。

 二つは,人間は一般的にいかなる認識の発展過程をもっているか,かつ,いかなる発展過程をもたせるべきかの論理構造を説くこと。

 三つは,人間の認識の一般的発展ではなく,個としての人間,社会的個人としての人間の認識の発展過程の論理を説くこと。」(p.50)


 少し補足すると,一番目は,文化史として存在するものの学問的レベルにおける論理化であり,哲学の生生発展の論理構造を人類の認識の頂点形態の発展として説くことになるという。二番目については,ここを簡単に分かるためには,保育園・幼稚園を含んだ日本の教育の流れを,その教科書を一列に並べて見渡すことであるとされている。三番目は,現代までの歴史上の精神医学・心理学の集大成だということである。

 ここは非常に難解なところであるが,ごく表面的ではあっても理解できることが二つある。一つは,心理学を学問的に学び取った内容は,せいぜい認識学の三本柱の一部にすぎないことである。

 もう一つがより肝心な点であるが,認識学とは,認識の原点から,それも系統発生的な原点と個体発生的な原点の二つの原点から,一貫して筋を通して説ききるものである,ということである。原点からの生成発展を説くという意味では,非常に弁証法的であるといえるし,精神は物質から誕生したのであり,その起源から説くという意味では非常に唯物論的であるともいえると思う。

 では,認識学が説くところの認識とは,そもそも何であるのか。南郷先生は,認識とは脳細胞が描く像であるという。しかし,この文言自体は,これまでの認識論の書物にも説かれていたが,その中身は説かれたことはなかったと指摘されている。すなわち,書物には認識は像であるとの言葉はあるが,その内容は何もないというのである。そのうえで,次のように説かれている。

「「そんなバカな!」と思われる読者が多分にいるはずです。

 でもこれは本当なのです。というのも,この認識の内容,つまり,像の内実を含めての像とはなんなのかを,その形成プロセスとともに,説(解)いたのは私の弟子である海保静子さんが初めて! といってもよいものだからです。これは今を去ること,二十五年ほど前のことでした。」(p.60)


 すなわち,認識とは像であるという場合の「像」とは何か,その内実を説いたのは,海保静子先生が初めてである,ということである。この認識学史上の偉大な発見は,本書によると1981年頃ということになっている。その約10年後に,南郷先生がこの大発見を記念して講義された講義録が本書には掲載されている。その中で,像とは何かについて説かれている部分を3箇所,引用する。

「ならば,その像,とはそもそもなにか,といえば五感情像である,ということになる。すなわち視覚だけではない。聴覚がそこに加わっているだけでもない。味覚,嗅覚,皮膚感覚,といった五感のすべてが動員されて「像」が形成されている。そして杉の木をみたときに,その像が頭のなかに結ばれることを反映といい,この像のことを認識という。」(p.63)


「もし動物だとしたら感覚像でしかないから,猫なら猫としてすべて同じ反映となる。ところが人間には個性があるからけっして同じ反映にはならない。つまりわかりやすくいうならば,「個性的感覚像」のことを「五感情像」という。」(pp.65-66)


「このように杉の木をみたときも,ただ単に杉の木をみるんじゃなく自分の感情で杉の木をみる。杉の木のそのままではなく,自分のアタマのなかにできあがっている杉の木の像でもって,その人の感情で対象に問いかけている。

 ……人間はその人の感情で杉の木の像が描かれる。それが感情像ということである。」(pp.66-67)


 ここでは,像とは,視覚,聴覚,味覚,嗅覚,皮膚感覚,といった五感のすべてが動員されて形成された五感情像であり,これは人間に特有の個性的感覚像のことであり,このような感情で問いかけて対象を見るのが人間の特徴であると説かれている。

 したがって,認識学とは,このような五感情像である認識が系統発生的にどのようにして誕生したのか,また個体発生としてもどのように誕生するのか,そして系統発生としてはどのように発展してきたのか,個体発生としてはどのように発展させていくべきなのかを解明し,それを踏まえて,社会的個人としての認識の発展過程の論理を説ききることであるといえるだろう。

 これ以上にないくらいな壮大なスケールであり,まさにかつてない,21世紀の新興学問というのにふさわしいような内容であると思う。

 これから一年間に渡って『“夢”講義』をしっかり学び直していくわけであるが,『“夢”講義』で説かれる認識学はこのようなものであるということを常に念頭に置きながら,一貫してつながったひとかたまりのものとして学んでいく必要があると痛感した。

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2017年02月13日

認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想(1/5)

目次

(1)21世紀の新興学問である認識学を学ぶ
(2)認識論の基本を確認する
(3)認識と言語の関係を問う
(4)秀才は像抜きの文字を解釈する
(5)『“夢”講義』は鈍才的に学ばなければならない

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(1)21世紀の新興学問である認識学を学ぶ

 本稿は,南郷継正『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義(1)』(現代社,以下,『“夢”講義(1)』とする)にしっかりと学び,その学びの成果を認める論考である。

 年頭言でも書いたように,2017年は『“夢”講義』全6巻をしっかりと学んでいく予定である。具体的には,2か月に1回,本ブログで感想文を書く。そのために,京都弁証法認識論研究会全体で『“夢”講義』を復習しながら,定期的に『“夢”講義』読書会を開催し,1巻ごとに各会員が学んだことを交流したり,疑問点を議論したりして,理解を深める取り組みを行うつもりである。本稿連載に先立って,『“夢”講義(1)』の読書会を行い,その内容を本稿に反映させている。

 南郷継正『“夢”講義(1)』といえば,筆者にとっては非常に懐かしい思いのする書物である。一つには,筆者は1998年に三浦つとむさんや南郷継正先生の著作に邂逅し,その年から『綜合看護』を定期購読するようになったのであるが,翌1999年から本書のもとになった論文が『綜合看護』誌上に連載され始めたのである。まるで,筆者が『綜合看護』を読み始めるのを待っていたかのようなタイミングであった。当時,玄和会の知人は「師範の連載が始まったから,これからは『綜合看護』を2冊ずつ定期購読する」と興奮気味に話しておられた。その頃の筆者自身はあまりよく分かっていなかったが,『武道講義』全4巻が完結して以来の新連載だったから,玄和会の会員のみならず,南郷先生のファンにとっては待望の論文だったのである。筆者自身も,まさか南郷先生の連載論文を読めるようになるとは思ってもおらず,そのタイトルにも惹かれて,夢中で学び出したことである。

 もう一つの思い出は,『“夢”講義(1)』で紹介されている海保静子『育児の認識学』(現代社)の書評に関わる。『育児の認識学』は,これまた1999年に出版された著作であり,われわれは出版と同時に学び始めたのである。当時筆者は,メールを通して,南郷先生に学ぼうとされている方々と交流していた。その中に,この書評を書かれた湯浅俊夫さんがおられたのである。湯浅さんは『育児の認識学』が出版された翌年に,『論座』に書評を書いたとメールを通して知らせてくださった。当時のメール仲間の間ではかなりの話題になったと記憶している。何せ,『育児の認識学』を正式に取り上げた初めての書評だったのだから。さらなる衝撃が走ったのは,その後しばらくしてから,『綜合看護』で南郷継正先生がこの書評を取り上げて,絶賛された時だった。南郷先生は次のように説いておられる。

「『論座』七月号に載った書評は「『認識とは何か』を原点に構築された保育の理論」というタイトルで論じられているのですが,その論文が見事なまでに『論文』となっているのにびっくりさせられました。といいますのは以下のことです。

 『実は,私はかつて三十九歳になったころ,……ある高名な学者に論文の書きかたを教わることにしました』と連載三回目の“夢”講義に書きましたが,そのとき教わった論文の書きかたの全きそのままの書き出しで驚かされ,そして全体としての論の展開も,その内実も『お見事!』そのものであり,私はうなりっぱなしでした。

 筆者は湯浅俊夫さんといい,予備校講師とありましたが,こんな先生に教わっている生徒は幸せだろうな,としみじみ思ったことでした。

 とにかく,その論文の言葉の一つ一つに一言の反論とてなく……,あまりにもの完璧な『育児の認識学』の紹介になっていたのです。一瞬,あたかも自分がその筆者であるかのような錯覚すらおこしたものです。」(pp.166-167)


 要するに,湯浅さんの書評は完璧な『育児の認識学』の紹介になっている見事な論文であり,あたかも自分が書いたものであるかのように感じた,ということである。この南郷先生の絶賛を読んだ後,湯浅さんは「多少は評価していただけたようで,安心した」というようなことをおっしゃっていたと思うが,「多少」どころではない。南郷先生から学ぼうとしている者にとって,「あたかも自分がその筆者であるかのような錯覚すらおこした」などという評価は,これ以上ないものである。この後,筆者は湯浅さんから本格的に論文の書き方を学んでいくことになったのである。

 このように,『“夢”講義(1)』は,非常に思い出深い著作であり,筆者が弁証法や認識論を学び始めた当初の懐かしい記憶を想起させてくれる著作なのである。

 ではなぜ『“夢”講義』を研究会をあげて集中的に学び直すことにしたのか。その問題意識・目的意識をここで明確にしておきたい。

 端的には,われわれは学者を目指しているからである。学者となるためには,当然に,論理能力を養成しなければならない。簡単にいえば,アタマをよくしなければならないのである。そのためにこそ,すなわち,アタマ(とココロ)の働きを見事にするためにこそ,われわれは「看護と武道の認識論」という副題のついた『“夢”講義』に認識論を学ぶのである。

 ここに関わって,南郷先生は「まえがき」で次のように説かれている。

「そこで,私が青春時代に悩みに悩んだアタマとココロの問題を理論的・体系的(ただしやさしく)に説くことにより,若い世代のみなさんが自分たちの人生問題,社会問題で,あまり悩むことなく問題を解決して生きていけるような能力(頭脳活動)を育てていってほしいと願っての本書の出版です。」(pp.3-4)


 また,副題がなぜ「看護と武道の認識論」なのかを説く流れの中で,次のように説かれている。

「それだけに本書の読者,特に看護学科の学生・心理学専攻の学生には時代を先取りした心理学以上の実力をもっている認識論の中身を,すなわち二十一世紀の新興学問となるであろう認識学の内実! を,看護の世界に大きくからめて説くことにしたのです。」(p.25)


 さらに,認識論とは何かに関わって,次のように説かれている。

「……認識論とは,ここでは簡単には頭脳活動の理論であり学問です,と答えておきます。端的にはアタマとココロのはたらきを立派にするための学問です。」(p.29)


 以上の3つの引用をまとめてみると,どうなるであろうか。それは,『“夢”講義』では,アタマとココロの問題が理論的・体系的に説かれている,つまり,二十一世紀の新興学問たる認識学が説かれているのであり,これを学べば,アタマとココロが立派になって,自分たちが遭遇する問題を解決していけるような頭脳活動を育てることが可能となる,ということである。「二十一世紀の新興学問」という言葉には非常に感銘を受ける。時代の最先端の学問的成果を学ぶわけである。また,これを学べばアタマとココロのはたらきが立派になるというのであるから,必死に学んでいこうということにもなる。

 このように,認識論,あるいは認識学を主体的に捉えておられるところが『“夢”講義』の大きな特徴の一つだと思う。どういうことかというと,「認識」という対象を,あくまでも客体として,客観的に研究しようというのではなく,自分自身の問題として,自分のアタマをよくするための学問として,認識論・認識学が把握されている,ということである。昨年までの2年間,ヘーゲル『哲学史』を学んできたわけであるが,哲学の大きな柱としての認識論を,このように主体的に捉えていた哲学者は歴史上いなかったのではないか。もちろん,われわれも南郷先生に倣って,認識論を主体的に捉えるというスタンスで学んでいこうとしているのである。

 要するに,われわれが『“夢”講義』を学んでいく問題意識・目的意識を端的にまとめるならば,学者になれるよう,自らの頭脳活動を見事にしていくためにこそ! ということである。

 今回,改めて『“夢”講義(1)』を学び直してみて感じたのは,『綜合看護』に南郷継正先生が初めて連載された論文が元になっているだけに,初めての読者にも分かるように,基本から丁寧に説かれているということである。したがって本稿でも,基本的なところからしっかり確認して,学んだ内容を分かりやすく説いていきたいと思う。

 次回以降の構成は以下のようになる。まず,「第1編 看護に必要な認識論入門」の内容を取り上げ,認識論とは何かをしっかりと再確認したい。ここでは,認識論ならぬ認識学とは何か,そもそも認識とは何か,といった問題についても触れることとする。次に,「第2編 看護に必要な「認識と言語の理論」」と「第3編 学問的に説く「認識と言語の理論」」で説かれている認識と言語の関係について検討する。その際,「言語は精神的な交通を行うためのものである」ということと,「認識の成立から表現にいたる過程的構造の解明が大事」ということの2つをポイントとして,それらがどういうことなのかをしっかり理解したい。最後に,「第5編 看護に必要な弁証法入門」で紹介されている2つの手紙を俎上にのせ,受験秀才と鈍才を比較することを通して,『“夢”講義』はどのように学んでいかなければならないのかを考えたい。

 最後に,『“夢”講義(1)』の目次を引用しておく。



なんごうつぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(1)


【 第1編 】 看護に必要な認識論入門

第1章 「看護と武道の認識論」の関係を説く

 第1節 読者への挨拶
 第2節 看護学科・心理学科学生からの質問
 第3節 なぜ「看護と武道の認識論」なのか
 第4節 認識論とはなにか,心理学との関係
 第5節 看護に関わる四つの質問・相談

第2章 認識論と認識学の違いを説く

 第1節 認識論から説く「思う」と「わかる」の違い
 第2節 認識論と認識学はどう違うのか
 第3節 認識学とはなにか,その三大柱を説く

第3章 認識論の基本を説く

 第1節 「夢」と認識論はどう関わるか
 第2節 認識とは脳細胞が描く像である
 第3節 講義録「認識は五感情像である」

第4章 看護を学ぶのに必要な覚悟を説く

 第1節 三十九歳からの論文の書きかたの学び
 第2節 憧れた看護と大学での学びの落差
 第3節 看護を専門として学ぶために必要な覚悟

【 第2編 】 看護に必要な「認識と言語の理論」

第1章 看護における観念的二重化を説く

 第1節 看護に認識論は必須である
 第2節 相手の立場にたつことの必要性
 第3節 相手の立場にたつことの困難性
 第4節 看護はなぜ相手の立場にたたなければならないか
 第5節 看護でなぜ相手の立場にたつことが難しいか
 第6節 心理学は看護には役にたたない
 第7節 「看護とは」がわかって初めて相手の立場にたてる
 第8節 「人間とはなにか」をわかるための学び
 第9節 看護における観念的二重化の実力

第2章 看護におけるコミュニケーションを説く

 第1節 コミュニケーションとはなにか
 第2節 看護におけるコミュニケーションの特殊性
 第3節 そもそも言語とはなにか
 第4節 言語は人類の労働が誕生させた

【 第3編 】 学問的に説く「認識と言語の理論」

第1章 人間の認識の生生・生成発展を説く

 第1節 認識から言語への過程の解明が大事である
 第2節 人間の認識と動物の認識との違い
 第3節 人間の認識は社会的に創られる
 第4節 人間の認識の生生・生成発展

第2章 認識から言語への過程を説く

 第1節 無限の認識を一つの言語に集約する
 第2節 言語は社会関係のなかで教育される
 第3節 「わかる」ことと「言葉にする」ことは別である
 第4節 認識=像の成立過程
 第5節 認識=像はすべて個性的に生生・生成する
 第6節 個性像を共通像にするために言語は必要である
 第7節 「わかる」ために必要な観念的二重化の実力
 第8節 言語化できる像を描くための実力
 特別節 『育児の認識学』の書評と「『十七歳』の心は分からない」(朝日新聞)

【 第4編 】 看護に関わっての「夢とはなにか」

第1章 「夢とはなにか」の導入部分を説く

 第1節 夢にうなされる事例
 第2節 夢は唯物論的認識論からしか解けない
 第3節 夢は人間の認識の生生かつ生成発展からしか説(解)けない
 第4節 人間が夢をみることの原点は労働にあり

【 第5編 】 看護に必要な弁証法入門

第1章 弁証法を学ばない学生の実力を説く

 第1節 秀才の受験国語的実力
 第2節 看護学科学生からの手紙
 第3節 弁証法の実力がないと“夢”講義は理解できない
 第4節 弁証法は看護の事実で学ばなければならない

第2章 弁証法を学んだ学生の実力を説く

 第1節 鈍才の弁証法の学びによる実力
 第2節 心理学科学生からの手紙
 第3節 弁証法の基本の学びの実際

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2016年12月07日

3年間の育児を振り返る(5/5)

(5)反抗期は認識の発展にとっての必然性である

 本稿は,反抗期の子どもへの虐待による死亡事件が相次ぐ社会情勢の中で,これまでの育児,特に反抗期を迎えた娘に対するここ1年間の育児を振り返って,言語の発達や反抗期について考察し,また,親の認識の変化やあるべき親の認識のあり方について検討するための論考であった。ここでこれまでの流れをまとめておきたい。

 初めに,言葉の発達について振り返った。まず,この1年間で物の名前をたくさんいえるようになったことを見た。これはたとえば,半円形の穴で,その中に入っていくことができるものは「トンネル」と認識できるようになったことを意味しており,対象の共通性を理解できるようになったのだと説いた。未知の対象に対しては,既に知っている論理でもって問いかけるために,高架橋をトンネルと認識したり,のど飴をお豆さんと認識したりするいき過ぎも生じることを指摘した。この中で,人間の認識は,まずは一般性として反映するのであり,その後に特殊性が分かってくるのだということも確認した。次に,名詞だけではなく,動詞や形容詞・副詞なども使えるようになってきて,長い文を話せるようになったことを見た。数に関しては,4以上は「多い」という認識しか成立しておらず,この「多い」一般を「4」と認識しているのは,先の名詞の場合と同じく,ある既知の特殊性を,一般性を表すものとして認識しているのだと指摘した。「なかなか」という時間経過に関する副詞や「中くらい」という大きさに関わる概念も理解できるようになってきたことを見た。アイスクリーム屋さんごっこをしていて,アイスを落とした際,「落としたら,洗わないとダメです」などといいながら洗いにいったことなど,見立て遊びができるようになったことについては,観念的二重化の実力がついてきた証左であると説いた。さらに,言語の本質的な機能であるコニュニケーション(認識の交通)もかなりできるようになってきたとして,「ウンチ,出る」といって,ほぼ100%,ウンチの前には言葉で伝えてくれるようになったこと,「おめめ,ぎゅー!」とこちらがいえば,目をつぶってくれて,そのおかげでスムーズに寝ることができるようになったことを説いた。このように言語が発達したことは,「いや!」と直接的に表明されることが増えたり,無意識的な要求水準が上がることにより現実とのギャップでイライラが積み重なったりして,虐待につながる要因になりうることにも触れた。

 次に,反抗期の認識について,事実を提示した後,海保静子『育児の認識学』で説かれている認識論的解明を紹介し,私の体験した事実と,説かれている論理とののぼりおりを試みた。私が体験した事実とは,たとえば,電車に乗っている時に,バナナがほしいというが,その日はたまたま持ち合わせていなくて,「今日はないよ」というと,「いやや! バナナ! バナナ!」といって大声で泣いたケースである。この時は,「バナナ,ほしいんやね。じゃあ,あげるわ。一緒にカバンのなか探そう!」といって,探した後,「ないわ。○○も探してみ」と提案して,娘にも探させ,それでないことが分かると納得したのか,機嫌が直ったのであった。他にも,朝ご飯を食べた後,おもちゃで遊んで,着替えをしようとしなかったケースや,たくさん柿を食べた後,まだ柿を食べたいといって駄々をこね,母親が,「もうダメ!」というと,「いやや!」などといって寝転がって大声で泣き始め,手を打つのが遅かったためにどうにもならなくなったケースなどを紹介した。このような「反抗」について,『育児の認識学』では,保育園のぬいぐるみをもって帰ろうとしたS子に対して,母親が「これは保育園のものでしょう」などという説得を試みても「イヤダ」の一点張りであったのに,海保先生が「S子ちゃんは,ウサギさんがだいすきなのよね」「でもウサギさんもお家に帰らなくちゃ」「ウサギさんもお母さんのお家に帰りたいって」などといって働きかけた結果,素直にぬいぐるみを渡してくれたという事例が紹介されていた。こういった反抗について,海保先生は,反抗とは自らが主体的に描き出した像の実現化に向けて,行動をおこしたときに,外界からその行為をはばもうとするなんらかのはたらきかけがあり,それにたいしてあくまでも自らの目的を達成しようと,認識と実体を駆使しながら,対象に向けておこす行動であると概念規定され,反抗期の認識には柔軟性があり,大人の接し方次第でいかようにも育つ可能性があると説かれていたのであった。この論理は,私が体験した事実にも合致するものであるということを確認した。

 最後に,親の認識の変化・発展を振り返り,加えて,反抗期の子どもを持つ親として,自分の認識をどのように整えるべきか,どのように考えれば不幸な虐待を防げるのかというテーマについても検討した。親の認識としては,一年前と比べても,かなり余裕が出てきたと指摘した。反抗期を迎え,手におえない場面もできたのであるが,それ以上に,一人でできることが増え,ある程度放っておいても大丈夫になってきたので,その分,親としては楽になってきて,余裕が生まれてきたのであり,その証拠に,妻が朝の世話を一手に引き受けてくれたことも紹介した。そのうえで,娘の成長を見るのは親としては非常にうれしく,言葉によるコミュニケーションがよりとれるようになったのは,楽しい体験であったとして,いくつかのエピソードを紹介した。できるようになってこととしては,おむつではなく,トイレで排泄できるようになったこと,一人でそれなりにこぼさずにご飯を食べられるようになったこと,一人で服を脱ぎ,一人で服を少しは着られるようになったことなどを紹介した。コミュニケーションということでいうと,「おおっ,そんなことがいえるのか」と驚いたり,感心したりしたことがいろいろあったとして,娘とのコミュニケーションを通して,プラスの・ポジティブな感情を何度も何度も体験したことを紹介した。たとえば,冗談で娘のことを「ポニョさん」とか「メイちゃん」とか,アニメのキャラクターの名前で呼びかけてみると,「ちがう! ○○(娘の名前)」といって,否定・訂正した後,ニコニコした顔をしながら,私のことを「ママ」と呼んで仕返ししてきたこと,仕事に行ったと思ったパパが現れて,「あれ? パパ,いる。仕事かと思ってたわ」といったため,妻も私も大笑いしたこと,おじいちゃんの車に乗っているときに,自分がおじいちゃんの車に乗っていると認識していたことや,おもちゃの数を正確に認識できたことなどを紹介した。こういったポジティブな感情を体験したことが,余裕が出てきた一因であること,このようなプラスの交流が増えれば,多少の反抗は許せて,虐待は予防できる可能性が高まることを説いた。また,より重要なこととして,親の認識を子どもに押し付けるのではなく,いったん自分の認識を否定して,子どもの認識を描きそれを表現することが「反抗」を静めるのに効果的であることを説いた。

 このように見てくると,2歳から3歳への1年間は,言語の発達にみられるように,自分なりの認識,すなわち問いかけ的認識が量質転化してしっかりしてきたために,対象の共通性をしっかり把握できるようになり,その共通性を把握した論理でもって,対象に問いかけることができるようになった一方で,いわゆる自我が芽生え,自分なりに主体的に判断して答えを出せるようになったため,親の要求と合致しなくなり,「反抗」という現象を呈するようになった1年であったといえるだろう。しかし,成長も著しい1年であったため,親として,その成長を喜び,うれしく思うという認識が育ってきて,反抗期の認識をしっかりと踏まえれば,適切な介入を行うことができ,こちらがそれほどイライラせずに余裕をもって対応できるということが分かった1年でもあったといえるだろう。

 以上を踏まえて,反抗期の子どもを持つ親のために,虐待を予防するための処方箋を考えてみたい。今まで説いたことも含めて説き直すならば,次のような処方箋が考えられるだろう。

 まずは,言語が著しく発達したとしても,まだ所詮は2年と少ししか人生経験のない幼児だということを,しっかりと自覚することである。まだ,たった2年しか生きていないのである。言葉も,ようやく話せるようになり,こちらのいうことも理解できるようになってきたばかりである。そのような子どもに対して,こちらのいうことを100%聞かそうとすること自体が間違っている。半分どころか,20%も聞いてくれれば御の字である。また,まだまだ正確な言葉を使える段階ではないので,子どもが使った言葉を字義通りに受け取って,こちらが怒りを覚えるなどは,単にこちらの間違った解釈による怒りに過ぎない。「いや!」とか「嫌い!」とかいう言葉も,それに近い何らかの思いを,その言葉で代表させて表現しているだけである。「親に嫌いとは何事か!」となどといって怒りを爆発させるなどは,愚の骨頂であると知るべきである。要は,子どもに対する要求水準(期待)を思い切って下げて,言葉も不十分にしか使えていないと自覚しておく必要があるということである。無意識的な要求水準(期待)をしっかり意識化して,それを下げておくことは,不必要にイライラしたり怒ったりしないための有効な手法である。

 次に,反抗期の必然性を勉強しておくことも大切だろう。『育児の認識学』で説かれているように,反抗期というのは子どもの正常な発達・成長にとっては必然性であり,むしろこれがない方が異常なのである。反抗期は,親をはじめとする周囲の人間の言動をしっかりと反映して,まねをすることができるほどの認識の発展がもたらされた結果であり,さらに,対象の反映をくり返すことによって,事物の共通性を把握できるようになり,それに伴って言語が発展してきたために,自分の意志をしっかりと言語表現できるようになっていった結果であるともいえるだろう。また,母親の答えに依存するのではなく,自分で答えを出したくなってきたことの現われである。いずれにしても,人間の成長としては,非常に歓迎すべきことである。このように反抗期の必然性をしっかりと勉強しておけば,「来るべきものが来たな」ということで,多少なりとも余裕を持って,子どものかんしゃくや反抗に巻き込まれてしまうのではなく,冷静に距離をとって眺められるようにもなるであろう。

 さらに,自分たち親の認識を意図的に整えていく,コントロールしていくことも大切である。そのための代表的な方法が,子どもとのポジティブな体験に目を向け,できればそれを日記として記録していくことである。いくら反抗期といっても,子どもは反抗ばかりしているわけではない。親にとっては,反抗ばかりしているように映るかもしれないが,それはこちらの問いかけがなせる業であり,実際はポジティブな出来事も起こっているはずである。連載第2回で説いたように,言葉が発達して,いろいろな言葉が話せるようになったり,こちらのいうことが理解できるようになったりするのがこの時期である。こういった成長が何よりのポジティブな出来事である。また,連載第4回で紹介したように,もっともっと些細なことであっても,ポジティブな出来事は探そうと思えばいくらでも出てくる。そのような喜びを感じた体験,楽しかった体験,親として達成感を得られたような体験など,ポジティブなことだけを日記に記していくのである。そうして,折を見て読み返す。それだけで心が明るくなり,心に余裕が出てくるものである。実際,筆者はカウンセリングでこの方法を指導して,育児に疲れてうつ状態になり,入院までしていた母親を,短期間に回復にまで導いた経験がある。

 親が自分の認識をコントロールする最たるものは,自分の認識を否定して,子どもの立場に立ち,子どもの認識を追体験する,というものである。そして,その認識を言葉で表現するのである。これがいわゆる共感するということである。まず,共感を示すことによって,子どもの反抗やかんしゃくがエスカレートしていくことを止めることが可能となる。なぜなら,『育児の認識学』で説かれていたように,反抗やかんしゃくというのは,「外界からその行為をはばもうとするなんらかのはたらきかけ」があることが要件となっているからである。ある像の実現化に向けて子どもが動いており,親もその子どもの認識=像を追体験して,同じように実現化に向けて動く。こうなると,子どもは何ら反抗することはなくなるはずである。反抗する対象がなくなってしまうのである。加えて,共感を示せば,子どもの認識がはっきり把握できるようになり,自分たち親の思いと両立可能な形態を創出できる可能性が出てくる。逆に,子どもの認識をしっかりと掴まなければ,親の認識の一方的な押し付けに終わってしまい,その押しつけに対して子どもは反抗してしまうのである。そうならずに,しっかりと子どもの認識と親の思いが両立するような形を提案するには,まずは子どもの認識を正確に掴むことが前提となるのである。

 以上,本稿では,筆者自身の反抗期の子どもの育児を振り返り,反抗期の子どもとその親の認識を整理しながら,この時期に起こりうる虐待をどのように防ぐのかというテーマについても考察してきた。本稿が,反抗期の子どもの育児に悩む親の,より適切な育児のためのヒントとなれば,幸いである。

(了)
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2016年12月06日

3年間の育児を振り返る(4/5)

(4)親の認識の変化・発展

 前回は,反抗期の子どもの認識を取り上げ,反抗期の子どもの事実と,その認識論的解明をなした『育児の認識学』で説かれている論理とののぼりを試みた。反抗とは,自らが主体的に描き出した像の実現化に向けて,行動をおこしたときに,外界からその行為をはばもうとするなんらかのはたらきかけがあり,それにたいしてあくまでも自らの目的を達成しようと,認識と実体を駆使しながら,対象に向けておこす行動であり,確かにこれが私の娘にも当てはまるものであった。また,このくらいの時期の認識には柔軟性もあることも確認した。

 さて今回は,子どもではなく,親の認識にスポットを当て,この間の育児を振り返りたいと思う。加えて,反抗期の子どもを持つ親として,自分の認識をどのように整えるべきか,どのように考えれば不幸な虐待を防げるのかというテーマにも切り込んでいくつもりである。

 まず,この間の親の認識の変化である。端的にいうと,一年前以上に余裕が出てきた。確かに,前回説いたように,反抗期を迎え,手におえない場面もできたのであるが,それ以上に,一人でできることが増え,ある程度放っておいても大丈夫になってきたので,その分,親としては楽になってきて,余裕が生まれてきたのである。それまでは,朝は私と妻が一緒に娘の世話をしていたが,いつからか,妻が一人するといってくれるようになった。これも余裕ができたが故である。

 また,これまでできなかったことができるようになると,親としては素直にうれしいし,加えて,言葉によるコミュニケーションがますます活発にできるようになったので,それも楽しい体験である。突拍子もないことをいって笑わせてくれたり,そんなことまで分かるのかと驚いたりすることも多かった。

 たとえばということで,記録を振り返って,いくつかのエピソードを紹介しておきたい。

 まず,できるようになってことでいえば,おむつではなく,トイレで排泄できるようになった。一人でそれなりにこぼさずにご飯を食べられるようになった。自分で鼻をかめるようになった。一人で服を脱ぎ,一人で服を少しは着られるようになった。また,保育園で習ってきたかなり長い歌を,自分一人で歌うことができるようになった。

 コミュニケーションということでいうと,「おおっ,そんなことがいえるのか」と驚いたり,感心したりしたことがいろいろある。昨年の12月には,「ママのこと好き?」と聞くと「好き」と答えるのに,「パパのこと好き?」と聞くとニコニコしながら「好きない」と答えるのである。「そんなこと言うなら,おやつ,あげないよ」というと,「パパ,好き」といい直すのである。現金なやつである。同じころには,保育園の友達の名前を7人ほどいうことができた。

 今年の2月には,冗談で娘のことを「ポニョさん」とか「メイちゃん」とか,アニメのキャラクターの名前で呼びかけてみた。すると,「ちがう! ○○(娘の名前)」といって,否定・訂正してきた。しばらくした後,ニコニコした顔をしながら,私のことを「ママ」と呼んできた。仕返しだろうか。

 4月になると,車に乗っていて赤信号で止まった時,「赤は止まれ」と言い出す。青信号になった時,「青は?」と尋ねると,「緑は進め」という。どうやら祖父に仕込まれたようだ。夕食で私が餃子を食べようとしていたら,自分が食べるわけでもないし,食べたこともないのに,「おいしそうですね〜」などと笑顔でいってくる。今まで,親の側が「おいしいよ〜」といって食べさせることはあったが,その逆は初めてで新鮮だった。

 6月のある日,妻が寝ぼけている娘を抱っこしてリビングに運んだ。いつもはこの時間の前に,私は出勤しているが,この日は午前中に半休をとっていた。しばらくしてから私もリビングに行くと,娘は私を見て,「あれ? パパ,いる。仕事かと思ってたわ」といったのである。妻も私も大笑いしたことである。

 8月には,祖父の車を借りてドライブしていた。たまたま,祖父の家の前を通りかかった時,農業に使っている軽トラックが見えたので,私が「あっ,おじいちゃんの車があった」といった。すると娘は,「違うで,おじいちゃんの車はこれやで」といったのである。車に乗っている状態・視点でも,今乗っているのがおじいちゃんの車で,おじいちゃんの家におじいちゃんの車があるはずがないということが分かったようで驚いた。別の日に,お風呂でイルカの形をしたゴムの水鉄砲があるのだが,それを桶から取り出して3つ与えた。お風呂のたびに,この3つの水鉄砲で娘は遊んでいたのである。ところがその日は,「もう一個ある!」と主張したのである。なぜこんなことをいい出したのか。それには理由がある。実はもともと風呂場に3つ置いていたのだが,その前日にはもう一つ娘が持ってきていたのだ。ということは,その日は,同じ形の水鉄砲が3つではなく,4つ存在していたことになる。娘はしっかりと3つではなく4つだという数の認識ができたのである。そういう数を記憶することができるのかと感心した。

 9月に娘はお医者さんのおもちゃを買ってもらって喜んでいた。ある日,聴診器をつけて遊んでいたので,私が「○○先生,お腹が痛いです」などというと,私のお腹に聴診器を当てて診てくれる。そして,「お腹が痛いですね」といっては,注射器のおもちゃをもってきて,ブスッとお腹にさして笑っているのである。「先生,痛いです。もっと優しくしてください」というと,さらに声を出して笑う娘であった。別の日に,ドライブ中,私が歌を歌っていると,「パパ,歌,うまいね〜」といってくれる。「○○も上手やで」というと,上機嫌で歌を歌いだす。また,「ね〜ね〜,見て」というので,娘の顔を見ると,何か,口をとがらせて変な顔をしている。「どうしたの?」と聞くと,「これ,怒っている顔」と笑いながらいう。ママが怒っているときの顔をまねしているのだそうだ。

 このように,娘とのコミュニケーションを通して,プラスの・ポジティブな感情を何度も何度も体験したことも,余裕ができてきた一因だといえるだろう。娘に対して快の感情を持つことが多くなれば,多少の不快は我慢できるものである。単純に,このようなポジティブな交流を積み重ねていけば,多少の反抗は許せるようになるはずである。そうなれば,第1回の連載で紹介したような不幸な虐待死は防げる可能性が高くなってくるのではないか。逆にいうと,あのような事件を起こした親と子の間には,ポジティブな交流は少なかったのではないか。

 反抗期の子どもに対する虐待を防ぐという意味では,より重要なことがある。それは,前回説いたことに関わるが,しっかりと科学的認識論をふまえた働きかけを行うべきだということである。どういうことか。少し説いてみる。

 前回説いた,ぬいぐるみを持って帰りたがる子に対する海保先生の働きかけや,朝おもちゃで遊び続けたいといった娘に対する私の働きかけからも分かるように,反抗する子どもをうまくコントロールするためには,まずは,こちら側が自分の認識=像を否定して,子どもの描いている認識=像をしっかりとこちらも追体験し,そしてそれを表現することが大切である。海保先生の例であれば,「S子ちゃんは,ウサギさんがだいすきなのよね」「S子ちゃんはウサギさんと仲よしこよしだものね」といっているし,私の場合は,「おもちゃで遊びたいね」といって,相手の認識が分かっていることを伝えたのである。

 失敗事例のほとんどは,親の思いをただ一方的に押し付けているだけである。海保先生の事例で,当初母親は,「これは保育園のものでしょう」「お家にもっていっちゃいけないの」といっているが,これは大人のルールを押し付けているだけである。同様に,私が「お風呂の時間なので,テレビはもうやめなさい」とか,「食べ過ぎだから,もう柿はあげません」とかいうのも,ただただ,こちらの認識を押し付けているだけである。こうなれば,子どもはますます自分の描く目的像の実現化に向けて,認識と実体を駆使して,激しく抵抗することになるのである。

 そうではなくて,まずはこちらが折れるというか,自分の押し付けたい認識を否定して,子どもの描いている認識をこちらも描き,それを子どもに伝えるのである。いわゆる共感である。その上で,では,その子どもの描いている認識=像を使って,どうすれば自分たち親の要求と両立するかを考えるのである。矛盾が実現するとともに解決するような調和的な形態を考え出すのである。海保先生であれば,ぬいぐるみと子どもを,ともに親が家で帰りを待っている存在として重ね合わせられるように働きかけたし,私であれば,お姉ちゃんだから,我慢はできるのだし,帰ってきてからは遊べるのだと分かるように働きかけたのである。また,お気に入りの服を見せて,親はそれを着てくれたら嬉しいという思いを表明し,子どももそれを着たいという思いをもつように働きかけ,両者の思いが両立する場面を創ったのである。

 このように,矛盾を調和的に解決することは難しいかもしれないが,自分の認識を否定して,相手の認識を描く,共感する,ということは,少し意識すればできるはずである。これだけでも,相手の反抗を助長することがなくなり,こちらが怒りを爆発させるようなことがなくなるはずである。

 いったん,子どもの反抗心が強くなりこじれてしまうと,もはや手が付けられなくなることもあるので,早い目に妥協して,しっかり共感を示すことが大切だろう。絶対にダメなこと(自他の命にかかわるような危ないこと等)以外は妥協するくらいの心持ちでちょうどいいのではないか。そうすれば,不幸な虐待の多くを予防できるだろう。

 以上今回は,親の認識に焦点を当てて,この一年間で自分の喜びや楽しみを感じたことを振り返り,それを踏まえて不幸な虐待を予防するための親の認識あり方,心持ちについて考察した。
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2016年12月05日

3年間の育児を振り返る(3/5)

(3)反抗期の認識

 前回は,この1年間の言語の発達について振り返った。物事の共通性を把握できるようになり,言葉の数が増えたこと,3語文以上の長い文も話せるようになったこと,コミュニケーションがかなりとれるようになり,自分の意志をしっかりと表現したり,こちらの意図を理解することが,どんどんできるようになってきたこと,言語の発達は虐待につながる要因になりうること,などを説いた。

 さて今回は,連載第1回でも大きく取り上げた反抗期について取りあげ,海保静子『育児の認識学』に基づいて,その認識論的解明を行っていきたい。

 まず,私の娘の反抗期に関わる事実をあげる。4月頃には,「またイヤイヤが強くなってきた」と記録にあるので,すでにこの頃以前にイヤイヤが始まっていたようだ。この時は,娘が何か,ものを運んでいたが,それにちょっと触れてしまって,運ぶのを邪魔した格好になっただけで泣く。お風呂の時間になったのに,まだアニメを見ていたので,「あがってから見ようね」というと泣く。

 7月には,保育園にお迎えに行っても,帰ろうとしない。その時やっている遊びをそのまま続けようとする。そこで,カバンに入ってあったおもちゃを見せて,「これ,パパがもらうよ!」といっておもちゃを隠すと,静かに泣き出してしまった。別の日には,電車に乗っている時に,バナナがほしいという。いつもは持ち歩いていたが,その日はたまたま持ち合わせていなくて,「今日はないよ」というと,「いやや! バナナ! バナナ!」といって大声で泣く。その後,「バナナ,ほしいんやね。じゃあ,あげるわ。一緒にカバンのなか探そう!」といって,探した後,「ないわ。○○も探してみ」と提案して,娘にも探させる。それでないことが分かると納得したのか,機嫌が直ったのであった。

 10月になると,たくさん柿を食べた後,まだ柿を食べたいといって駄々をこねる。母親が,「もうダメ!」というと,「いやや!」などといって寝転がって大声で泣き始める。しばらく泣くと,もう手が付けられなくなる。仕方なく,柿をあげようとしても,「いらないの!」と反発する。私が抱っこしようとすると,「ママがいい!」と叫ぶ。そこで母親が抱っこしようとすると,「違う!!」などといって激しく抵抗する。

 ごく最近では,朝ご飯を食べた後,おもちゃで遊んで,着替えをしようとしない。「着替えないとだめやで」といっても,「いやや。もうちょっと遊ぶの!」の一点張り。保育園に行く時間になっても,まだ遊んでいる。「もう行かないと,パパ,仕事に遅れちゃうやん」といっても,「いやや」である。結局この時は,「おもちゃで遊びたいね」と共感した後に,「でも,もう3歳やから,遊ぶのは帰ってきてからにしようね。お姉ちゃんやから我慢できるね」とか,「この服,パパは好きやから,着てくれると嬉しいな」などといって,うまくいうことを聞かしたのであった。

 このような「反抗」の事実には,どのような認識論的な意味が隠されているのであろうか。海保静子『育児の認識学』では,「認識は対象の頭脳における反映である」という原理から,反抗期の認識論的解明がなされている。少し紹介してみよう。

 1〜2歳ごろまでは,子どもは外界の反映が新鮮なものだらけであり,自分の認識(個性)も育っていないので,自分で判断することができない。そこで,全ての答えを自分の分身である母親に求めるものである。しかし,2〜3歳ごろになると,自分が反映した認識が,しだいに自分の認識として量質転化を起こし,認識が個性として成長してくるようになる。そうなると答えは自分が出したくなり,母親の答えは不要となるどころか,かえって邪魔になりかねない。「その不要,邪魔と思えるものにたいして実体がかんしゃくをおこし,認識が反抗というかたちをとってくるのです。これがかんしゃくと反抗が成長してくる過程的構造なのです」(p.218)ということである。

 このように説かれた後,事例が紹介されている。保育園のお迎えに来た母親とS子がもめているという場面である。S子は保育園のウサギのぬいぐるみを持って帰ろうとしていたが,母親は「これは保育園のものでしょう」「お家にもっていっちゃいけないの」などといって説得するが,S子は「イヤダ」の一点ばり。そこで海保先生は,「S子ちゃんは,ウサギさんがだいすきなのよね」と問いかけたら,それまでは「イヤダ」といって抵抗していたS子が「ウン」とうなずいたという。そしてその後,次のようにいって働きかけたという。

「S子ちゃんはウサギさんと仲よしこよしだものね」
「でもウサギさんもお家に帰らなくちゃ」
「S子ちゃんもお母さんといっしょにお家に帰るでしょ」
「ウサギさんもお母さんのお家に帰りたいって」
「お家に帰ってごはんたべて,ねんねして,そしたらまたS子ちゃんといっしょにあそぼうね,って」

 このような内容のことをくり返して伝えているうちに,S子は「ウン」とうなずいてぬいぐるみを渡してくれたと説かれている。

 ここに関して,母親のいう「保育園のもの」「持ち帰ってはいけない」というルールは,S子の頭の中に描かれておらず,母親の言はS子にとっては大好きなウサギさんと離れ離れになる思いとしてしか描かれていなかった(だから「イヤダ!」という表現になった)のに対して,海保先生の言葉は,まさにS子が描いている像と合致するものであり,それによって気持ちがほぐれたのだ,さらに,S子の頭の中でお母さんといっしょにいたい自分の思いをウサギに重ね合わせることができたからこそ,サヨナラしてまた明日遊べる像に結びつけることができた(だからぬいぐるみを手渡してくれた)のだと説かれている。

 以上を踏まえて,次のようにまとめられている。

「以上のことから反抗ということを考えてみると,「自らが主体的に描き出した像の実現化に向けて,行動をおこしたときに,外界からその行為をはばもうとするなんらかのはたらきかけがあり,それにたいしてあくまでも自らの目的を達成しようと,認識と実体を駆使しながら,対象に向けておこす行動である」といえましょう。

(中略)

 反抗期においては,対象とのかかわりのなかで自らをダイナミックに主張しつづける一方で,その欲求が徐々に社会的にととのえられていく,という柔軟性をもった認識であることがわかります。自分と他との関係,そして自らの目的や欲求をどのように描き,達成していこうとするのか,その基礎が創られる時期でもあるのです。

 したがって,この時期のおとなの接し方しだいで,こどもはなにがなんでも自分の思いをとおそうとするわがままな子になるか,それともすこしずつがまんしながら他人の心がわかり,ともだち関係がうまくもてるようになっていくか,という重要な分かれ目でもあるのです」(p.225)


 ここでは,反抗とは,「自らが主体的に描き出した像の実現化に向けて,行動をおこしたときに,外界からその行為をはばもうとするなんらかのはたらきかけがあり,それにたいしてあくまでも自らの目的を達成しようと,認識と実体を駆使しながら,対象に向けておこす行動である」と概念規定がなされ,反抗期の認識には柔軟性があり,大人の接し方次第でいかようにも育つ可能性があることが説かれている。

 筆者の娘の事実で,この反抗の論理について,具体的に考えてみよう。たとえば,7月に電車でバナナがほしいといってきかなかった例では,娘自らが,バナナの像を主体的に描き出して,それを実現化するために「バナナ,ほしい!」といったわけである。このようなときに,娘にとっては外界である私から,そのバナナを食べるという行為をはばもうとする働きかけがあった,つまり,「今日は,バナナ,ないよ」と言われたのである。これに対して,娘は,あくまでも自らの目的(=バナナを食べること)を達成しようとして,認識と実体を駆使しながら,「いやや! バナナ! バナナ!」といって大声で泣いたのである。

 ごく最近の朝ご飯の後でおもちゃで遊んでいて,着替えようともしないし,保育園に行く時間になっても,行こうとしない例でも考えてみよう。この場合,「自らが主体的に描き出した像」とは,自分がおもちゃで遊んでいる像である。その像を描いて,それを実現化するために,実際におもちゃで遊んでいるのである。その時に,外界からその行為をはばもうとするなんらかのはたらきかけがある。すなわち,父親である私が「着替えなさい」とか「もう保育園に行くよ」とかいって,娘を叱りつけるのである。それに対して娘は,あくまでも自らの目的を達成しようと,「いやや」といっておもちゃで遊び続ける。無理に着替えさせようとしたり,保育園に連れて行こうとしたりしたら,「いやや!!」と大声をあげて,泣きじゃくり,激しく抵抗する。これが「認識と実体を駆使しながら,対象に向けておこす行動」であるところの反抗である。

 先に,柿がほしいといってきかず,こじれてしまって,どうにも手が付けられなくなったことがあると紹介したが,今取り上げた二つの例は,それなりにうまく働きかけて,なだめることに成功した。たとえば後者であれば,「この服,パパ好きやな。これ着てくれたらうれしいな」などといってお気に入りの服を見せたり,「もう3歳のお姉ちゃんになるのに,いうこと聞かなかったら,もう一回1歳児さんのクラスからやり直しやな。もうお姉ちゃんやから,おもちゃで遊ぶのは帰ってくるまで我慢できるね」などといい聞かせたりするのである。これが成功して,「服,着る!」となったり,「お姉ちゃんやから我慢する!」となったりするのである。このあたりの事実が,「その欲求が徐々に社会的にととのえられていく,という柔軟性をもった認識である」「すこしずつがまんしながら他人の心がわか」るようになっていくということの一例であるといえるだろう。すなわち,反抗していても,その認識で固定化されるのではなく,周囲の関わり次第で,その認識・欲求が整えられて,我慢できるようになっていくのである。このような柔軟性をも持ち合わせているということが,このくらいの時期の認識の大きな特徴であるといえるだろう。

 以上,今回は,反抗期の子どもの認識に焦点を当てて,事実と論理ののぼりおりを試みた。

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2016年12月04日

3年間の育児を振り返る(2/5)

(2)言葉の発達

 本稿は,3年の育児,特に2歳から3歳になるまでの育児を振り返り,言語の発達,反抗期の認識,親の認識の変化・発展という観点から考察していく論考である。今回は,子どもの言語の発達を振り返りたい。

 まず,この1年間で,ものの名前を非常にたくさんいえるようになった。昨年の12月には,アニメで猫のキャラクターの後ろ姿が映った時,娘は「しっぽ!」といった。これは,生き物のお尻から生えている細長いものを反映して,それを種類として,あるいは大げさにいうと概念としてとらえて,「しっぽ」と表現したのであろう。そのくらい,対象の共通性が把握できるようになっているということである。

 他にも同様のことはある。今年の2月ごろ,たまたまテレビに小さなトンネルが映った時があった。その時,娘は「トンネル!」といったのである。これには事情がある。私はたまに娘を職場の保育所まで連れていくことがあった。車で行く場合,職場まで2回トンネルがあるのである。いつのころから,トンネルに入るたびに,私が「トンネル」というようにした。くり返し,くり返し教えたのである。その結果,半円形の穴で,その中に入っていくことができるものは「トンネル」であると認識したのであろう。たまたま,テレビにそのようなものが映っていたので,「トンネル!」と叫ぶことになったのだと思われる。つまり,いつも見ているトンネルから汎化して,別のトンネルでも「トンネル」として認識できるようになったということである。

 この汎化のし過ぎで,間違った認識になったこともある。それは,道路の上に架かっている高架橋を見て,娘はがトンネル!」と言い出したことである。確かに,アーチ状の形が見えるし,その中に入っていくという点でも,トンネルと共通性がある。その共通性をとらえて,娘は「トンネル」だと認識し,そう表現したのであった。取り急ぎ,「短いものはトンネルではない,あれは橋というのだ」と修正を入れた。

 他にも,これはつい先日のことであるが,私がのど飴を食べるのを見て,「お豆さん」といったことがあった。確かに,小さくて丸くて,茶色っぽくて,口に入れるもの(食べるもの)という共通性がある。この共通性をとらえて,「お豆さん」であると認識し,そう表現したのである。娘にとって,この種の飴はまだ食べたことがなく,未知のものである。娘が食べたことがある飴は,棒の先に平べったい円形の飴がついているものである。しかも,これは「ペロペロキャンディ」と呼ばれていた。形も全然違うし,「飴」などという言葉は知らなかったので,私が食べたものを「飴」と認識し,そう表現することなど不可能だったのである。逆にいうと,人間の認識は問いかけ的反映であり,その問いかけ像は当然に,すでに知っているものであるから,娘は私が食べたものを,これまでの体験で創ってきた認識を総動員して,「お豆さん」と反映したのであろう。このことは,人間は未知の対象を,まずは知っているものとの共通性としてとらえるのであり,より論理的にいえば,まずは一般性しか反映しないということを示唆しているといえるだろう。一般性というのは,この場合,「小さくて丸くて,茶色っぽくて,口に入れるもの」ということであり,その中には豆もあれば飴もあり,チョコレートもある,などという特殊性は,後々分かってくるということである。この段階では,一般に,「小さくて丸くて,茶色っぽくて,口に入れるもの」を「お豆さん」と捉えていたのである。

 このようなものの名前だけではなく,動詞や形容詞・副詞などもそれなりに使えるようになってきており,それに伴って,長い文を話せるようになってきた。昨年の12月,おもちゃで,コインのようなものがたくさん入っているものをもらった時は,「いっぱいある」といっていた。数が多いいということが理解できており,その共通性をとらえて「いっぱい」と言語表現できるまで,認識が発展していたということであろう。

 数の認識ということでいうと,「3」くらいまでは分かっているようである。何か食べ物をあげるときに「3つだけやで」などといいながら渡しても,理解しているようである。ところが,娘が,親指だけ曲げた形で「4」を示しながら,「おやつ,これだけちょうだい」といったことがあった。そこで,おやつを4つあげると,「ちがう! もっと!」などと怒るのである。これは,4以上は数が多いということで共通性があり,その共通性をとらえて,それを代表で「4」と表現しているのではないかと思う。つまり,「4」は「4」であって「4」ではない。3よりは大きいという意味で,確かに4は4なのであるが,厳密に3+1の数字を表しているのではなくて,ただ単に多いこと一般を表しているのである。先の,「小さくて丸くて,茶色っぽくて,口に入れるもの」一般を「お豆さん」と呼んでいたのと同様の論理構造があるだろう。このように一般性でとらえた後に,いろいろな特殊性が徐々に理解できるようになり,概念が分化していくのだと考えていいだろう。

 6月には,娘は「おじいちゃん,なかなか来ないね」といった。「なかなか」というような時間的な概念も分かるようになってきたようだ。また,「パパ,大きい。○○(自分の名前),小さい。ママ,中ぐらい」みたいなこともいっていた。「中くらい」という大きさの概念も,この頃には分かってきていたようだ。

 長い文も急速に話せるようになっていった。今年の2月には,「ぱぱ,おちゃちゃ,ちょうだい」とか「まま,おばけ,たいじ」とかいった3語文を,明確に話すようになった。5月や6月頃には,「ママ,赤い車好きっていってはったで」と教えてくれることや,「パパ,大きくなったら,黒の車買ってや」とお願いしてくることもあった。話せる文がみるみる長くなっていき,助詞や助動詞も,それなりに使えるようになってきていることが分かる。

 見立て遊びをしながら,一人で話すことも増えてきた。初めは,おもちゃのお皿とフォークで,何かを食べているまねをし,私にフォークを差し出して「はい,どうぞ」というくらいであった。5月にはいとこが生まれ,いとこが横抱きされている姿を見るようになった。すると,「□□(いとこの名前)君,やって」といって,横抱きを求めることも出てきた。そのうち,自分のことを「□□君です」といって,いとこになりきることも出てきた。そこで,「□□君,何歳ですか?」と聞くと,「分かりません」という答え。「0歳やで」と教えると,次からはしっかり「0歳」と答えるようになった。もちろん,「○○,何歳?」と本人の年齢を尋ねると,しっかりと「2歳」と答えるのであった。

 そのうち,見立て遊びもだんだん凝ったものになっていった。9月頃には,アイスクリーム屋さんのおもちゃで遊んでいるとき,アイスを落としてしまったようだ。そうすると,「落としたら,洗わなあかんなあ」などといいつつ,別の場所に持って行き,水で洗い流すしぐさをして,帰ってきたのである。また別の機会には,母親の昔の携帯電話で遊んでいて,「もしもし,ママですか。○○は今遊んでいます。それじゃあね,バイバイ。」というような言葉を発していた。

 このような見立て遊びができるようになり,より複雑な見立て遊びができるようになっていったというのは,観念的二重化の実力がついてきて,それが徐々に高まっていったことを意味しているだろう。実際にはおもちゃにすぎないものを本物のフォークやアイスなどと見立てているからである。現実の世界ではおもちゃであるが,想像の世界ではフォークやアイスなのである。アイスを落として水で洗い流すしぐさをしたのは,保育園で,先生が,落としてしまった食べ物を「落としたら,洗わないとダメです」などといいながら洗っているところを見たことがあるからだろう(実際は,アイスを水で洗い流すと融けてしまうが)。また,携帯電話で遊んでいるのも,明らかに,親が実際に携帯で話しているのを見ていたからである。仮に,25年前の子どもに同じ物体を渡しても,それを実際の電話と見立てて母親と会話するような遊びはしないであろう。想像の世界,二重化した観念的な世界も,実際の体験がもととなって創られていることがここから分かると思う。

 言語の本質的な機能であるコミュニケーション(認識の交通)もかなりとれるようになってきた。つまり,言葉を使って意思疎通ができるようになってきたのである。少し急いでいる時,こちらがご飯を食べさせてやったことがあった。パンをちぎって口まで運んでやった時,まだ口の中にたくさん残っていて嫌そうにしていた。「そういう時は,“まだ”っていうんだよ」と教えてやると,すぐに理解して,次からは「まだ!」というようになった。娘がテレビを見ている時,両親が二人で話していると,「うるさい!」と怒ることも出てきた。これは,娘がうるさい時に,親が「うるさい!」と叱っていたのを,理解してまねているのだろう。

 印象的なのは,トイレット・トレーニングが問題なく進んで,7月頃には自分で「ウンチ,出る」といって,ほぼ100%,ウンチの前には言葉で伝えてくれるようになったことである。そしてトイレに連れて行くと,スムーズにすることができるようになった。これはコニュニケーションでも発信の例であったが,もう一つ,うまく受信できるようになったこともある。それは,「おめめ,ぎゅー!」である。これは寝る時に使う。今まで,母親と一緒に寝ていることが多かったため,父親である私は,娘をお昼寝させたり,夜に寝かしつけたりすることが苦手であった。しかし,横になった後に目をつぶればすぐに寝てくれるはずだと考え,目をつぶるように伝えたのである。「おめめ,ぎゅー。そうしたら,おてて,つないであげるよ」などといい,目をつぶればご褒美として手をつないであげる。そうして5分もすれば,気持ちよさそうに寝付いてくれるのである。このテクニックを身につけてからは,寝付かせるのに何の苦労もなくなったのであった。

 このように言語が発展してきたことは,実は本稿の裏テーマである虐待にもつながりうる問題だともいえる。どういうことかというと,第一に,子どもが自分の欲求を阻害されたと感じたときには,それを「いや!」と表現できるようになるということである。自分の不快感,阻害された感を共通性として認識して,それを「いや!」という言葉で表現できるようになったのである。この言葉を発せられると,親としては「反抗」されたと受け止めてしまうものなのである。

 第二に,かなり長文のコミュニケーションもとれるようになってくると,親の方では知らず知らずのうちに,子どもを大人扱いしてしまう。それまでは言葉も話せない赤ん坊であったのが,人それなりの言葉を使い,それなりの言葉を理解できるようになったために,あたかも一人前の人間であるかのように子どもを見てしまうのである。そうすると,無意識的な期待が高まる。子どもに対する要求水準が,無意識的に高まるのである。それなのに,現実には,まだまだ2歳の幼児であり,親の思い通りに動かないことも多い。この期待と現実のギャップのために,親はいらいらし,怒りをため込むことになるのである。これが虐待につながりうる一つの要因となると考えられる。

 以上,今回は,言語の発達について振り返った。
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2016年12月03日

3年間の育児を振り返る(1/5)

〈目次〉
(1)反抗期が始まった
(2)言葉の発達
(3)反抗期の認識
(4)親の認識の変化・発展
(5)反抗期は認識の発展にとっての必然性である

――――――――――――――――――――

(1)反抗期が始まった

 本稿は,これまでの3年間の育児,特に2歳になってから3歳になるまでの育児を振り返り,子どもの認識の変化や親の認識の変化について考察する論考である。同時に,この時期に多発する虐待の問題をいかに解決するかということも,裏のテーマとして扱うことになる。

 この1年間の育児の印象を端的に述べるならば,子どもはかなりしっかりしてきて,手がかからなくなってきた半面,反抗期(いわゆるイヤイヤ期)を迎え,親のいうことを聞かない場面がかなり増えてきたということができる。

 反抗期に関わっては,この時期に関連すると思われる虐待事件が頻繁にくり返されている。たとえば,次のような報道があった。

「父に懲役3年判決,2歳監禁致死で奈良地裁。

 奈良県生駒市で4月,子供2人をプラスチックの収納ケースに押し込め,うち長男(当時2)を死亡させたとして,監禁致死と監禁の罪に問われた会社員,井上祐介被告(40)の裁判員裁判で,奈良地裁は15日,懲役3年(求刑懲役5年)の判決を言い渡した。
 西川篤志裁判長は,判決理由で「身体拘束の程度が非常に強く,常識的に考えて死亡の結果が生じるのは容易に分かる。強い非難に値し悪質だ」と指摘。「子供たちを懲らしめようとしたと考えられるが,配慮に欠け独善的で,真の愛情からの行為ではなく,執行猶予を付けるのは相当ではない」と述べた。弁護側は「やってはいけないことを理解させるための厳しいしつけで,死亡は予見できなかった」と主張し,執行猶予付きの判決を求めていた。」(2016/09/16 日本経済新聞 大阪朝刊)


 また,次のような記事もあった。

「父親に懲役12年を求刑,3歳ケージ監禁死,母親には7年。

 3歳の次男をウサギ飼育用のケージに閉じ込め死なせたとして,監禁致死と死体遺棄の罪に問われた皆川忍被告(31)と妻の朋美被告(29)の裁判員裁判で論告求刑公判が4日,東京地裁(稗田雅洋裁判長)であった。検察側は忍被告に懲役12年,朋美被告に懲役7年を求刑した。判決は11日に言い渡される。
 検察側は忍被告について「次男を劣悪な環境に置き,動物のように扱っていた。言うことを聞かないからという動機も身勝手極まりない」と指摘。朋美被告については「関与は従属的」とした。
 起訴状によると,2人は2012年12月〜13年3月,東京都足立区の当時の自宅で次男の玲空斗(りくと)ちゃんを監禁。口にタオルを巻いて死なせ,遺体を遺棄したとされる。
 忍被告は今月2日の被告人質問で,次男への食事は2〜3日に1回程度,入浴は5日に1回程度だったと説明。13年1月下旬から1日のほとんどをケージで過ごさせていたと明かし,「しつけのつもりだったが,逸脱していたと思う」と話した。」(2016/03/04 日本経済新聞)


 両者とも,2歳児や3歳児を「しつけ」と称して虐待し,死亡させてしまった事件である。このようなことは,決して許されることではないが,こういった事件が繰り返される背景には,子どもの反抗期の問題があると考えられる。

 この時期の反抗期については,心理学の教科書に次のように説かれている。

「2歳を過ぎると,それまで親に従順だった子どもが,なにについても「いやっ」と拒否したり,自分のいうことを無理に通そうとする。これは第一反抗期といわれる。この時期の反抗は,子どもが自分の考えをもてるようになったため,それと親の意向とが衝突することによって起こる。自分の考えがもてるようになったということは,自我の芽生えとして重要な発達である。」(『心理学[第2版]』東京大学出版会,p.251)


 すなわち,これまで親のいうことを素直に聞いていた子どもが,2歳を過ぎたあたりから,突如としていうことを聞かなくなり,「いや!」と拒否したり,親の意向に逆らうような言動を無理にとったりするようになるのである。この時期のこと第一反抗期と呼ぶ,ということである。

 このいわゆる「反抗」の仕方が尋常ではなく,親の心持ち次第では非常にイライラさせられることも多い。何をいってもいうことを聞かず,大人から見ると「悪いこと」を何度も行う,注意してもくり返す,このような状況の中で,親の方が力でねじ伏せ,無理やりこちらに従わすようなことがあって,それが高じに高じて,上記のような事件が起こってしまうのであろう。もちろん,だからといって「反抗」する子どもが悪いなどということは絶対にない。要は,それだけ育児が難しくなる時期だということである。では,どうすれば虐待を防ぐことができるのか。このテーマについても,本稿では考察していく予定である。

 確かにうちの娘も,この間,親から見ると「反抗」と映るような言動を,非常によくとるようにはなった。しかし,私や妻は虐待に至ることはなかった。それは,これも認識論の勉強の材料だと思って,記録をとったり,実験的に介入したりしたためだといえる。結果として,無事3歳の誕生日を迎えることができた。本稿では,その中身をしっかりと振り返っておきたい。

 前稿「2年間の育児を振り返る」の最後では,記録をつけておくことの大切さを強調した。記録を残しておかないと,人間は今の反映が強烈であるだけに,すぐに昔のことを忘れてしまうからである。また,記録を残しておけば,その時は気づかなかったことも,後々になってからある論理と結びつき,大きな認識の発展をもたらしてくれる可能性もある。そのような意味で,記録をとっておくことは大切だと説いたのであった。

 この1年間は,その前の1年間よりもたくさんの記録を書くことができた。また,以前は全く記録のない月もあったのだが,この1年に限ってはそういうことはなかった。しっかり,毎月,何らかの記録を残しておくことができたのである。

 本稿ではそれらの記録をもとに,まず言語面の発達を振り返りたい。当初は2語文がやっとであったが,今では5語以上の文も難なく話せるようになった。どのように話せるようになってきたのか,それは認識のどのような発展を反映しているのか,などについて考察したい。

 次に,反抗期の問題を考えたい。これは,この1年間の最大の問題であったといえるし,先にふれたように,社会的な問題にもつながってくる。海保静子『育児の認識学』(現代社)でも詳しく取り上げられ,認識論的に解明されている問題であるので,そこで説かれている論理と,私が体験した事実をしっかりつなげて,認識ののぼりおりをくり返すことによって,『育児の認識学』の論理を自分のものにしたい。

 最後に,親としてのわれわれの認識の変化について見ていく。個人的な体験を振り返りながらも,反抗期の子どもを持つ親として,自分の認識をどのように整えるべきか,どのように考えれば不幸な虐待を防げるのか,といった点まで,考察できればと考えている。

 なお,この間の実体面の発達・成長に関しても,ここで少しだけ触れておく。食事の時は自分でスプーンをもってご飯を食べることが容易になってきたし,服を脱いだりズボンをはいたりすることも一人である程度はできるようになった。階段の上り下りも,ほとんど危なっかしさがなくなった。体もだいぶ強くなってきたのか,病気になることもなく,熱が出るようなことも非常に少なくなって,保育園を休むことがほとんどなくなった。このように,注目すべき変化も起こっているが,本稿では,主として認識の発展に焦点を当てたいために,今回はこれらは取り上げないこととする。

 では次回以降,言語の発達,反抗期の認識,親の認識の変化・発展という順で考察していきたい。

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2016年08月12日

改訂版・観念的二重化への道(5/5)

(5)最先端の時代精神に至るプロセスを辿り返す

 本稿は,どのようにすれば観念的二重化が行えるようになるのか,どのようにすれば自分の自分化から自分の他人化に近づくことができるのか,その方法について考察することを目的として説いてきました。ここで今までの流れをふり返ってみたいと思います。

 初めに観念的二重化の基本について説きました。そもそも観念的二重化とは何かについて,三浦つとむさんと海保静子先生の概念規定を確認しました。三浦さんは,観念的二重化とは,世界の二重化と自分の二重化との直接的同一性であることを指摘しました。また海保先生は,観念的二重化を現実と観念との像の二重化として概念規定し,自分の他人化を目指しても当初は自分の自分化レベルになってしまう必然性があると説かれていました。その上で,観念的二重化のためには,表現を参考にする,もっというと表現をまねる方法と,相手の世界を徹底的に描く方法が基本である,ということを解説しました。対象→認識→表現という過程的構造からすれば,認識を知るためには認識の物質的現象形態である「表現」をヒントにするか,認識の元となる「対象」をヒントにするか,どちらかしかないわけです。

 続いて,心理検査を取り上げました。心理検査は,人類が観念的二重化のための客観的で効率的なツールとして創り出してきたものです。その原理は,相手の知能なり性格なりを知るのに必要な場面を設定し,そこでの言動をサンプルとして,一事が万事方式でその人の全体像を推測するというものでした。心理検査によって,24時間モニタリングでもなかなか分からないような,その人の様々な知能・性格の諸側面を知ることができるのでした。また,ロ・テストのようなあいまいな刺激を提示する検査では,その人の問いかけ像――フロイトの精神分析では「無意識」などと呼ばれています――を知ることもできました。心理検査の結果をもとに相手に二重化して,相手の日常生活を追体験すれば,相手の困りごとがはっきり分かってきて,援助の方針も立てやすくなります。また,苦手なところや性格の歪みなども明らかとなり,教育や治療のターゲットを明確化できるという利点もあります。さらに,心理検査で測られるような知能・性格の諸側面は,認識を評価する際の客観的な物差しの働きもしますので,心理検査をくり返すことによってそれらの物差しを自分の中に取り込み,それをもとに問いかければ相手の特徴がよりクリアーになる,ということも確認しました。簡単にいえば,心理検査をくり返すことによって人を見る目が養われていくのです。

 最後に,認識の構造に踏み込み,二重の過程を辿ることの必要性を説きました。二重の過程とは,一つは個人の体験の過程であり,もう一つは人類の体験の過程です。そもそも認識とは反映像と問いかけ像の合成像であり,同じ問いかけ像を持たない限り二重化はできません。問いかけ像は過去像ですから,同じ問いかけ像を持つためには,その人個人が体験してきたことを,たとえ観念的にではあっても辿り返す必要があるのでした。また,個としての認識は,社会的認識に規定されています。その社会的認識は時代精神として生成発展してきていますので,その時代精神も辿り直し,相手の置かれている時代のレベルの問いかけ像を創る必要があるのでした。つまり,人間は時代性に規定されていることを忘れるべきではないのです。このように系統発生と個体発生という二重の過程をたどり返してこそ,自分の他人化レベルの観念的二重化が可能になってくるのである,と説きました。

 さて最後に,自分のオリジナルな学問の創出を目指すわれわれにとって,避けて通ることのできない問題を取り上げたいと思います。それは,ヘーゲルや南郷継正先生など,歴史上の大哲学者に二重化するにはどうすればいいのか,という問題です。学問は歴史的に発展していくものですから,過去の大哲学者の理論を再措定しないかぎり,オリジナルの学問の創出などありえないことになります。そして,哲学者の理論を再措定するためには,どうしてもその哲学者に二重化する必要があるのです。ここでは,われわれが現代の大哲学者だと考えている南郷継正先生に二重化する場合で考えてみましょう。

 では,どうすれば史上最高レベルの学者である南郷先生に二重化できるのでしょうか? これまで説いてきたことを踏まえれば,およそ3つのことに収斂すると考えられます。

 第一に,表現を利用するという方法です。簡単にいうと,南郷先生の認識の表現たる著作を読む,ということです。これは非常に当たり前のことですが,実は注意すべき点があります。それは,現時点では南郷先生と同じ問いかけ像を持っていないのだから,南郷先生の文章を読んでも,真に南郷先生には二重化できていないということをしっかり念頭においておくことです。先生の論文を読んで,理解できなかったり疑問に思ったりするのは,自分の問いかけが出てきているからです。そんな自分の問いかけを大切にするのではなく,むしろ否定して,形としては分かったことにして読んでいく必要があります。そうしないと,自分勝手な解釈のオンパレードで,見るも無残なことになってしまいます。

 これは,南郷先生の師である三浦つとむさんの著作を読む場合も同様です。南郷先生は徹底的に『弁証法はどういう科学か』を学び,三浦弁証法を技化されたといえると思います。したがって,われわれも『弁証法はどういう科学か』の学びを通して三浦さんに二重化する必要があります。その際,自分の問いかけを否定して,ひたすら三浦さんの論理でこの本を読む必要があるのです。自分を出さず,形を崩さないで学ぶよい方法は,『弁証法はどういう科学か』を音読したり,書き写したりする方法です。つまり,三浦さんの言語表現をまねることに徹するということです。まずは形から,の適用といってもいいでしょう。南郷先生の著作を学ぶ場合も同様です。そうすることによって,徐々に三浦さんや南郷先生の認識が自分の認識に浸透してくることが期待されます。

 南郷先生に二重化する第二の方法は,可能な限り,南郷先生の体験を辿り直すということです。そうすることで,同じ問いかけ像を創るのです。残念ながら,われわれは南郷先生が体験してこられた空手の修行を行ってはいません。したがって,まったく同じ体験を辿り返すことは不可能です。それでも,できるだけ類似の体験を重ねるように努力していくことは,必要だと考えています。

 たとえば,三浦さんの『弁証法はどういう科学か』を徹底的に学ぶということも,南郷先生の体験を辿り直すことになります。そのほか,南郷先生が勧めておられる本は,当然読みます。灼熱のアスファルト上を裸足で歩く実践も,南郷先生がやっておられるなら,そしてその効果についても論理的に説いてくださっているのですから,しないわけにはいきません。何らかの組織の指導者となって,指導するということも同様です。

 これらは南郷先生の見ておられる世界を可能な限り描く,ということでもあります。しかも,現時点の世界だけでなく,過程も含めて,南郷先生が経験されたこと・学習されたことを同じように辿ることによって,南郷先生の見てこられた世界を可能な限り描くのです。

 南郷先生のような偉人に二重化しようとする場合は,単に観念的にその経験を辿るだけでは不十分といえます。もちろん,過去の大哲学者や英雄の伝記を読んで,観念的にその人生を辿り直すことは,同じような人生を歩んでこられた南郷先生に二重化するための素材にはなりうるでしょう。しかし,現実に南郷先生がされてきたことを,可能な限り実際に同じようにやってみる,という実践がどうしても必要だと思われます。南郷先生の実践は,単に認識を創るというだけではなくて,脳細胞の変革をも促すようなものだからです。

 第三に,人類の系統発生を辿り直すことです。学問の歴史を自分の中でくり返すといってもよいかと思います。これは第二の点とも重なりますが,南郷先生自身がそういう学習をされてきた,という点でも重要です。しかしそれだけでなく,南郷先生は最先端の学的時代精神の中で,学的実践を重ねてこられたのだから,南郷先生を規定している時代精神を,しっかり辿り直してその内実をつかむことが大切なわけです。

 さらにいうならば,南郷先生自身が,その学的時代精神の最先端におられるわけです。そのゴールに辿り着くには,スタート地点から始まって途中のプロセスもしっかり辿る必要があるといえるのです。一足飛びにゴールに辿り着くことはできません。過去の学問の成果を文化遺産としてしっかり学び取り,その文化遺産で考える,その文化遺産で問いかけられるようになってこそ,真の学者といってよいものです。過去の文化遺産を徹底的に技化すれば,南郷先生のように,動けば即技になるレベル,問えばすぐに大発見になるレベルも夢ではないというものです。

 そのためにも,人類が獲得してきた論理を素朴で単純なレベルから学び,その論理でもって未知の対象に問いかけるということをくり返して,すなわち,過去の学者達が辿ったプロセスを自分もしっかり辿り直して,自分の認識を現在の最先端の学問レベルまで発展させていくことが必要といえるでしょう。

 我々は今後とも,本稿で確認したような観念的二重化への道を歩み続け,専門家として,学者として,研鑽を重ねていくことを決意して,本稿を閉じたいと思います。

(了)
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2016年08月11日

改訂版・観念的二重化への道(4/5)

(4)系統発生・個体発生を辿り返す必要がある

 前回は,まず,本稿でなぜ心理検査を取り上げるのかを説明しました。端的にいうと,心理検査は,観念的二重化のための客観的で効率的なツールとして,人類が創り出してきたものであるから,ということでした。「一事が万事」というように,相手の言動の一部分からその人の全体を知ることができるのだ,ということも確認しました。次に,知能検査の一つであるWISCを取り上げて,これを用いてどのように相手に二重化するのかを説明しました。特定の能力が低い状態で観念的に日常生活を送ってみることによって,その人がどんなことに困っているのかということがよく理解できるようになり,それを踏まえればその人に対する援助方針や対応策も導き出せるということが分かっていただけたと思います。最後に,ロールシャッハ・テストを取り上げました。ロ・テストは,あいまいなインクのしみを見せて何に見えるか尋ねる検査でした。そして,ロ・テストの反応には,その人の性格や感情が反映するのだということ,ロ・テストが明らかにする認識の諸側面は,認識を測る客観的・社会的な物差しとでもいうべきもので,人間の認識を見ていくときにはその特徴を浮き彫りにしてくれるものだということを解説しました。

 今回は,認識論の基礎をしっかり確認し,自分の他人化に近づくためにはどうすればいいのかの考察を深めていきたいと思います。

 そもそも認識とは何だったでしょうか? 端的にいえば,認識とは対象の頭脳における反映であり,像でした。この反映も,厳密にいえば,たんなる反映ではなく,問いかけ的反映といわなければなりません。ここが最重要ポイントです。

 では,問いかけ的反映とは何でしょうか? 簡単にいえば,個性的な反映ということです。人間の認識は,外界にある対象が純粋に反映して像を結ぶのではなく,いわば不純に,その人らしい反映の仕方をするのです。すなわち,認識とは反映像と問いかけ像の合成像である,ということができるのです。たとえば,杉の木を見ても,杉の木の前で失恋した経験のある人は,杉の木をいや〜なものとして反映します。目の前の杉の木の反映像が,振られたときのいや〜な認識=像を呼び覚ますのです。このように,蓄積された像,過去像が問いかけ像になります。

 ロ・テストは,対象(図版にあるインクのしみ)が何に見えるか答える検査でした。このような検査の場合,明確な対象なら,問いかけ像が関与する余地は少ないといえます。馬の写真を見せて「何に見えますか」といわれても,「馬」以外にはほとんど考えられません(もちろん,馬自体を知らない場合は,そういった問いかけがないわけですから,「馬」と答えることはありませんが)。しかし,あいまいな対象が何に見えるか尋ねられると,その答えには,問いかけ像がより多く関与することになります。その人の過去の体験・学習で創られた像や,それらの合成像が頭の中に蓄積されていますが,これらの蓄積された過去像が問いかけ像となります。その結果,インクのしみという対象の反映像と,それによって呼び覚まされた問いかけ像(過去像)が合成されてそのときの認識が成立するわけです。対象自体はいかようにも見えるあいまいなものですので,何に見えるかは問いかけ像によって大きく規定されているといえます。したがって,ロ・テストは,あいまいな刺激によって問いかけ像=過去像を知るための検査であるといえるでしょう。

 認識は反映像と問いかけ像との合成像ですので,そもそも近似的に同じような問いかけを持っていなければ相手に二重化することはできないということになります。いくら同じ対象を見たとしても,問いかけ像が違うと,認識も異なってくるのです。だから,問いかけ像があまりにも違う場合は,なかなか相手に二重化できない,自分の自分化レベルに留まってしまう,ということになります。外国人に二重化する場合を想定してもらえれば,分かりやすいと思います。同じ日本人なら,ある程度共通した環境や文化の中で生活してきたので,相手の問いかけ像も自分と同じようなものである可能性が高く,偶然にせよ,意図しなくても二重化できる確率も高くなります。しかし,外国人の場合は,生活してきた環境も文化もまったくといっていいほど違いますので,当然,問いかけ像も全く違います。こういう場合にはこうするといったような常識もかなり違う場合がありますので,二重化するのは困難なのです。

 では,同じような問いかけ像を持つにはどうすればいいのでしょうか? それは,観念的に相手の経験を辿り返してみればいいのです。問いかけ像というのは,頭の中に蓄積された過去像であり,過去の経験や学習によって創られた像でした。したがって,同じような問いかけ像を持つには,相手と同じような体験をし,同じような学習をすればいいのです。ただし,全く同じ経験・学習をするのは時間もかかりますし,現実問題としても不可能です。したがって,相手のこれまでの歩みを聞いたり,同じような体験をした人物を描いた小説や映画を参考にしたりして,その人の人生を観念的に歩んでみることが求められるでしょう。そのようなプロセスをしっかりと経ないと,自分の自分化レベルから一歩も抜け出せないということになってしまいます。

 もう一点,自分の他人化ができるレベルになるためには,押さえておく必要のあることがあります。それは「社会的認識」です。

 社会的認識とは,ある(小)社会の構成員が共通して持っている認識のことです。人間はある小社会の中で生まれ育ち,その社会的外界と相互浸透しながら認識が創られていきます。初めは家庭という小社会の中で育てられるのが普通ですから,認識はその家庭的な性質を帯び,その家庭のメンバー(父親や母親,祖父母など)と同じ認識を持つようになっていきます。すなわち,小社会たる家庭には社会的認識が存在しており,そこで生まれ育った子どもは,同じような社会的認識を創りながら成長していくことになるわけです。

 もう少し範囲を広げて考えてみましょう。県民性というものがあります。たとえば,大阪の人間はケチであるとか,沖縄の人間は時間にルーズだとか,愛知の人は豪華な結婚式をするとかいうように,それぞれの都道府県の特徴がよく話題になります。これは,それぞれの都道府県には特殊な社会的認識が存在しており,その中で生まれ育った人間は,自然とその社会的認識と相互浸透して,同じような認識を持つようになっていく,ということの一例なのです。

 端的にまとめると,個としての認識=像は小社会の像に規定されている,ということです。その結果として,同じ小社会に属する人間は,同じような認識を持つようになっていくのです。この社会的認識は,普段はなかなか意識することができないのですが,強力に個人を規定しています。引っ越しや大学進学で別の都道府県に行ったときなどには,社会的認識の威力を痛感することになるものです。

 したがって,相手に二重化する場合には,相手の属している小社会の像,すなわち社会的認識にも注目して,意図的にその像を創っていく必要があるといえます。たとえば,方言というのも社会的認識の1つの現象形態ですから,方言を話す人に二重化するには,その地方の社会的認識を知る必要があります。その地方独特の習慣や常識というものも存在しています。京都のお宅を訪問して,「ぶぶづけ(お茶漬け)でもどうですか」といわれたら,それはそろそろ帰ってくれという認識の表現であるわけです。知らずに「いただきます」なんて答えると,恥をかくことになります。

 このように,個としての認識は小社会の像に規定されているのですが,さらに大きな,その時代全体を規定しているような認識=像も存在しています。現代日本人ならたいていの人が持っているような認識とか,19世紀のヨーロッパの学者なら誰もが持っていたような認識とかです。前者の例としては,グルメ志向などが挙げられると思います。あるいは,情報化社会とかネット社会とかいいますが,これも一つの大きな社会的認識のあり方だといえます。後者の例としては,なんといってもヘーゲル哲学でしょう。実際に個々の学者がヘーゲルを読んでいたかどうかというような問題ではなくて,その時代をヘーゲル哲学が支配し,規定していたのでした。

 このように,社会的認識を大きく時代ごとに輪切りにしたものを「時代精神」と呼びます。時代精神も個人の認識を大きく規定しますので,これを踏まえて二重化していく必要があります。先に挙げた19世紀の学者に二重化する際には,どうしてもヘーゲル哲学を踏まえた上で,それに規定された個としての認識であるということを分かった上で,二重化していく必要があるのです。19世紀の中ごろに,マイヤー,ジュール,ヘルムホルツという3人の学者によって相対的独立的に,エネルギー保存の法則が発見されました。これは,ヘーゲル哲学に後押しされて,当時の時代精神がそこまでのレベルに達していたということを意味しているのです。時代精神=社会的認識の存在がなかったとしたら,ほぼ同時期に3人によって同じ法則が発見されるなどという偶然が起こるはずもありません。

 人類の子ども時代に二重化する場合も,その当時の時代精神を踏まえる必要があります。そうしないと,自分の他人化レベルで二重化することが不可能となります。そのよい例として,高木彬光『邪馬台国の秘密』を挙げておきます。邪馬台国は,3世紀の後半に陳寿が書いたとされる「魏志倭人伝」に記述があります。「魏志倭人伝」の記述(表現)をもとに陳寿に二重化するためには,まず当時の未熟な時代精神に二重化する必要があります。その上で,陳寿が属していた中国の官僚社会の社会的認識も踏まえなければなりません。普通は,現代の自分的な認識のままに「魏志倭人伝」を読んでしまうのですが,高木彬光は見事に子どもレベルの問いかけ像をしっかり創ることによって,当時の人間に二重化することに成功しました。その結果,邪馬台国の場所を特定しえたのです。小説という形での発表ですが,すばらしい研究成果だと思います。未読の方はぜひ読んでみてください。また,このテーマに関わって本ブログに連載した論文「高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く」もご覧ください。

 時代精神も,個としての認識と同じように,生成発展していきます。人類誕生と同時に生まれた時代精神は,人類の経験によって新たな像を次々と蓄積していきます。そして未熟なレベルから現代の高度なレベルまで発展してきたのです。このような歴史性を,しっかりと流れとして把握して,二重化する人間がどのレベルの時代精神に規定されていたのかを意識化しないと,真に二重化することはできないといっていいでしょう。

 特に,われわれのように一流の学者を目指す者は,時代時代の最先端の学者に二重化しなければなりません。そのためには,学的時代精神をしっかり辿り直すことによって,それぞれの時代のレベルをしっかり把握し,その時代の成果を自分のものにしていく必要があります。そうしなければ,古代ギリシアの文献を読んでも,その言語を現代的・大人的な概念として解釈するという愚をおかしてしまうことになるのです。

 以上のように,自分の他人化レベルの観念的二重化がしっかりとできるようになるためには,相手の個としての認識の生成発展と,その当時の時代精神とを,しっかりと辿り返す必要があるのです。すなわち,人類の認識(時代精神)の発展を辿り直し,それが個としての認識を規定していることを踏まえた上で,個としての認識の発展過程も観念的に辿り直し,相手と同じ問いかけ像を持つことが,自分の他人化のための条件である,ということができるでしょう。端的には,観念的二重化のためには,人類の系統発生と個体発生の二重の過程を辿ることが必要だ,ということなのです。

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2016年08月10日

改訂版・観念的二重化への道(3/5)

(3)心理検査は観念的二重化のための効果的なツールである

 前回は観念的二重化の基本について説きました。まずは観念的二重化とは何かを確認する必要があるとして,観念的二重化は世界の二重化と自分の二重化との直接的同一性として成立するという三浦つとむさんの解説,さらに,観念的二重化とは,自分がみている世界が,「現実の目」がみている像と「頭のなかでの目」がみている像との二重になることをいう,という海保静子先生の概念規定を提示しました。また,観念的二重化は,自分の他人化を目指しても当初は自分の自分化としてしか現象しない必然性があることも確認しました。

 その上で,観念的二重化のための基本的な方法として,認識が形として現れたところの表現を媒介にする――もっというと表現をまねる――方法と,相手の世界を徹底的に描く方法とを説いてきました。以上が観念的二重化に関する基本となる内容でした。

 今回は心理検査を取り上げたいと思います。「なぜ心理検査を?」と不審がる方もおられるかもしれません。その理由を端的に述べておけば,心理検査というのは,観念的に二重化するための客観的で効率的なツールとして人類が創りだしてきたものだからです。

 観念的二重化の方法の基本が,相手の表現を媒介にするということと,相手の世界を徹底的に描くということであれば,一番確実な二重化の方法は,24時間その人をモニターすることである,という結論になります。24時間その人を観察していれば,その人がどんな言動=表現を行っているかに関する膨大な量の材料が手に入ります。さらに,どんな世界を体験しているのかも全て明らかになるといってもいいでしょう。そうなれば,かなり高いレベルで自分の他人化が行えるといっても過言ではありません。

 しかし,このような方法はあまりにも非現実的です。特定の個人を24時間モニターするなどということは不可能です。そこでどうしたらいいでしょうか? それは,人間の言動の一部分をサンプルとして取ってきて,そのサンプルをもとにその人の特徴を捉えればいいのです。ことわざレベルでいえば「一事が万事」です。一事が万事というのは「一事を見れば,他の全てのことを推察できる」(『広辞苑』)という意味ですね。もっと論理的にいえば,部分は全体を貫く法則性を孕んでいるということです。したがって,ごく一部分だけを見ても,全体的なことはかなり確実に推測できるものなのです。

 心理検査でも,550とか120とか,あるいは検査によっては14とか1つだけの表現(反応)であっても,そこからその人の全体を推察することが可能になります。たとえばロールシャッハ・テストという有名な検査は,左右対称のインクのしみのような図版を10枚見せて,何に見えるかを尋ねる検査ですが,14の反応数があれば信頼性・妥当性がある検査結果が得られるということが統計的に実証されています。すなわち,14以上の反応を見てみれば,そこから「ああ,この人はこういう人なんだな」と分かる,量質転化が起こるというわけです。その結節点が14である,ということです。

 心理検査は単なる行動観察・モニターではなかなか分からないようなことも教えてくれます。たとえば知能を測る心理検査(知能検査)では,一定の課題を与えて,それをどのくらい解決できるかを調べます。24時間モニターしていても,そのような課題に相当する場面になかなか遭遇しないかもしれません。知能を測るという点でポイントになるような課題を精選して,それをやってもらうのですから,かなり効率的だといえます。

 人類は,歴史的にこのような心理検査をいくつも開発してきたのです。より客観的に,より効率的に相手に二重化したいという思いが,相手の認識の一側面を映し出すコンパクトな鏡を発明させてきたといえます。そうであるからこそ,「観念的二重化への道」と題する本稿で,心理テストを取り上げるのです。

 では,心理検査の中でもWISC(Wechsler Intelligence Scale for Children)という知能検査を取り上げたいと思います。この検査は,子どものIQ(知能指数)を測る代表的な検査の一つです。15ほどの下位検査を実施することによって,全体としての知能を測るだけではなく,知能のいろいろな側面も測定できるのがWISCの特徴です。たとえば,言葉を聞いて理解する能力がどのくらいあるか,目で見た情報をどのくらいうまく処理できるか,耳で聞いた情報をどのくらい記憶しておけるか,情報をどのくらい素早く処理できるか,などといった能力が個別に測れるようになっています。

 たとえば,IQ80の小学生が二人いるとします。IQの平均は100ですので,80だとあまり頭はよくないということは予想できます。しかし,IQは同じでも,それぞれ得意なところと不得意なところは違う可能性があります。一方は,言葉を耳で聞いて理解するのが特に苦手だという検査結果になったとします。そうすると,その情報を踏まえて,その子に二重化し,その人の日常生活や学校生活を追体験してみることで,よりその子のことがよく分かるようになってきます。この子に二重化してみると,先生の話はなかなか理解できないことが分かってきます。先生が何かを口頭で指示したとしても,何を指示されたのか,理解できないことが多くなるでしょう。授業中に言葉で説明されただけでは,内容が把握できづらいことも分かってくるでしょう。このような子どもにはどのように援助し,どのように働きかければいいでしょうか? それは,口だけで指示するのではなくて,実際にこうするのだと動作で伝えたり,個別に分かりやすい言葉でゆっくりと伝えたりするのがいいでしょう。また,授業の内容は,言葉だけでなく,できるなら絵や図を用いて説明してあげると,この子にとっては分かりやすくなる可能性が高まります。

 もう一人の子どもは逆に,言葉の理解はある程度できるが,目で見た情報をうまく処理するのが極端に苦手だという検査結果になったとします。これを踏まえてこの小学生に二重化すると,どんなことが分かってくるでしょうか? たとえば,時間割表や掃除分担表などが掲示してあっても,この子にとっては非常に分かりにくいものである可能性が高いです。お遣いに行ってもらう場合に,地図を描いても目的地が分からないということも考えられます。したがってこのような子どもに対しては,表で示すだけではなく,しっかりと言葉で,「明日は国語と算数と理科だよ」とか,「あなたの掃除当番は金曜日だよ」とか,説明してあげると,分かりやすくなるかもしれません。お遣いの場合は,地図で示すのではなく,「ゆうびんきょくを左にまがって,2つ目のしんごうを右にまがる。」といったように,言葉で説明したメモの方がいいでしょう。

 このように,WISCのような知能検査によって,その子の得意なところと不得意なところをしっかりと把握することは,その子への二重化を容易なものにしますし,それを踏まえれば対応もより効果的なものとなるのは間違いありません。知能検査を利用することによって,相手の困り事が具体的に見えるようになってくるのであり,そうなってこそ,適切に対応できるというものです。

 もう一つ,有名な心理検査の一つであるロールシャッハ・テスト(以下,ロ・テストと略す)を取り上げましょう。ロ・テストは,以前にも少し触れましたが,インクのしみのような図版を見せて「何に見えるか」を尋ねる検査です。図版は全部で10枚あり,見せる順番は決まっています。

 WISCが知能を測定する心理検査=知能検査であったのに対して,今回のロ・テストは性格(パーソナリティ)を測定する心理検査=性格検査です。しかし,インクのしみが何に見えるかを尋ねるロ・テストで,本当に性格が分かるのでしょうか? 結論からいえば分かるのです。すなわち,ロ・テストは観念的二重化のための有効なツールとなります。たとえば,ということでこんな例を挙げてみましょう。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という句があります。夜道を歩いていたら,前方に何かがいます。ゆれています。幽霊だ! と思って恐怖が高まるのですが,実はたんなる枯れたススキでした。こんな情景を詠んだ句です。この人はよほど臆病者だったのでしょう。あるいは,夜道で不安が高かったのでしょう。この句が教えてくれるのは,あいまいな刺激が何に見えるかということに,その人の性格やそのときの気持ちが影響を与えるということです。

 ロ・テストの原理も同じことなのです。いかようにも見えるインクのしみというあいまいな刺激を提示して,何に見えるか答えてもらいます。すると,その答えにはその人の性格やそのときの感情――認識論的にいえば問いかけ像――が反映していると理解するのです。「大きな悪魔がこちらをにらんでいる」とか「鬼のお面」とか「首のない熊が血を流している」とかいうような反応ばかりする人と,「友人二人がダンスをしている」とか「男女が見つめ合っている」とか「キャンプファイヤーの炎」というような反応をする人とでは,性格やもののとらえ方が全然違うことが分かるはずです。

 また,インクのしみがどの程度客観的に,答えられた対象に見えるか,ということも問題となります。図版によってはよく答えられる典型的なものが存在します。そういう答えをするというのは,常識的で,ありふれたもののとらえ方をしているということになります。逆に,誰が見てもそうは見えないだろう,というような反応ばかりする人もいます。こういう人は,妄想・幻覚を伴った精神病者である可能性が高くなります。

 ロ・テストでは,一つ一つの反応をさまざまな観点から記号化し,それを集計・集約することによって,その人の感情面,認知面,自己イメージ,他者イメージなどが明らかになります。また,自殺の危険性,統合失調症やうつ病の可能性,対処力不全の程度,強迫傾向や警戒心の強さといったことも分かります。こういったものは,認識の諸側面であり,認識を眺める際の客観的な視点,社会的に創られた視点といってもいいでしょう。先に紹介したWISCで測れる知能の諸側面も同様です。これらの視点は,検査をくり返し実施することによって,徐々に検査者の中に取り込まれていき,検査をしていない場面でもそのような視点で問いかけられるようになります。すると,相手の認識の特徴がよりクリアーになってきます。ちょうど,日本酒を飲む時,甘い・辛いや淡麗・芳醇といった尺度(物差し)で問いかけて味わうと,その酒の特徴が浮き彫りになってくるのと同様です。

 なお,ロ・テストの反応は,文化差があることが確認されています。アメリカ人と日本人の反応を比べると,その傾向が大きく違うわけです。このように,反応に文化差が反映するということは,ロ・テストで何らかの性格を測れているという一つの証拠でもあるといえるでしょう。

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2016年08月09日

改訂版・観念的二重化への道(2/5)

(2)観念的二重化のためには表現と対象をヒントにする

 本稿は「観念的二重化への道」と題して,どうすれば観念的に二重化できるのか,どうすれば観念的二重化の実力を養成できるのか,という問題について考察する論考です。

 では早速この問題について考えていきましょう,といきたいところですが,ものには順序があります。「どうすれば観念的に二重化できるのか」「どうすれば観念的二重化の実力を養成できるのか」という問いに答えるためには,まず「観念的二重化とは何か」をしっかり把握しておく必要があります。ゴール(目的地)を明確にしておかなければ,そこに至る方法論を云々することはできないのです。旅行の行き先を決めなければ,バスで行くか電車で行くか,それとも飛行機で行くか決められないのと論理的には同一です。

 そういうわけですので,まずは,「観念的二重化」の概念規定をしっかり行っておきたいと思います。

 観念的二重化というのは,認識の運動の一つのあり方ですから,認識論という学問分野で問題にされてきました。弁証法の唯一の基本書とされている三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)にはかなりのページを割いて認識論の解説が行われていますから,まずはそこから,観念的二重化についての記述を引用します。

「このように,想像することは,現実の世界以外に観念的な世界をつくりだして世界を二重化することですが,それだけではなく,同時に現実の自分以外にその観念的な世界の中でそれに相対している観念的な自分をつくりだす自分自身の二重化をも意味します。」(pp.140-141)


 ここで三浦つとむさんは,想像を行うときには観念的な二重化が起こり,それは世界の二重化と自分の二重化の二重構造になっている,と指摘しています。

 次に,三浦つとむさんの認識論から出発し,認識論を大きく発展させた偉大な認識論学者である海保静子先生の概念規定を紹介したいと思います。

「観念的二重化とは,端的には自分の観念を二重化すること,つまり自分の頭のなかでもう1人の自分を創りだすことである。自分がみている世界が,『現実の目』がみている像と『頭のなかでの目』がみている像との二重になることを,現実と観念(頭のなか)との二重になることをいうのである。
この観念的二重化は,自分が現実の自分と頭のなかの自分とに分けられるので『自己の二重化』ともいい,またこの『観念的二重化=自己の二重化』は,自分が相手の立場に立って行なわれるばあいが多いだけに『自分の他人化』といわれる。さらにその構造を説くならば,観念的二重化はそのなかに『自分の二重化』があり,その自分の二重化には『自分の自分化』と『自分の他人化』の二重構造があり,そしてこれは『自分の自分化から自分の他人化へ』の過程性としてとらえることができるものである。」(海保静子『育児の認識学』,現代社,pp.355-356)


 ここでは観念的二重化とは像の二重化であり,観念的二重化の実力は「自分の自分化」しかできないレベルから「自分の他人化」が可能なレベルへと発展していく,ということが説かれています。詳しくはこの歴史的名著とされる『育児の認識学』をお読みいただくとして,ここで筆者が強調しておきたいのは「自分の自分化から自分の他人化へ」の過程性です。

 これは簡単にいってしまえば,相手の立場に二重化しようとしても,当初は,必然的に失敗してしまう,「他人になるつもりでも他人になりきれず,他人になりきったつもりでも,まったくのところ自分そのものでしかない」(同上,p.293)ということです。目的意識的な実力の養成期間をもたなければ,自分の他人化=真の観念的二重化は不可能なのだ,自分の自分化で相手のことが分かったつもりになっているレベルにとどまってしまうのだ,ということなのです。

 したがって,初めは自分の自分化しかできないのだという自覚が非常に重要となります。ここを自覚しないと,あたかも相手のことが分かったような,自分の他人化ができたような錯覚を持ち続けることになり,どうすれば観念的二重化ができるようになるのかとか,観念的二重化の能力を高めていこうとかいった問題意識を持つことすらないままで終わってしまうことになるのです。

 以上を踏まえて,観念的二重化の方法について考えていきたいと思います。まずは基本的なことから確認していきます。

 しっかりと観念的に二重化できているということは,しっかり相手の立場に立てているということであり,相手が描いている認識と同じような認識を自分も描けているということです。しかし,相手と同じような認識を描こうとしても,相手の認識は直接には目に見えません。なぜなら,認識とは実体ではなく,人間の脳細胞の機能であり,脳細胞に描かれる像のことだからです。

 このように目に見えない相手の認識=像をどのようにして描けばいいのでしょうか? 一番基本的な方法は,表現を媒介として相手に二重化する,ということです。表現から相手の認識を読む,といってもいいでしょう。

 では,表現とは何でしょうか? それは「人間の精神を映し出す物質的な鏡」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』,p.131)のことです。言語もそうですし,絵画・彫刻・舞踊・音楽・文学・演劇・映画などの諸芸術もそうです。表現は,言語や芸術のように,人間が意図的に創りだしたものだけに限られません。そこから相手の認識を読み取ることができれば,それは全て表現ということができます。たとえば,ちょっとした表情の変化や目の動き,姿勢や手足の動き,髪型や服装,声色や話すスピードなども表現の一種です。意図しないような人間の動きも全て表現といえるのです。認識は直接目には見えないのですが,表現という目に見える物質的な形態として現象する,といってもいいでしょう。その現象から,その背後にある認識を探ることができるのです。

 『弁証法はどういう科学か』で紹介されているエドガー・アラン=ポオの『盗まれた手紙』という小説では,相手の表現をまねることによって相手に二重化するという論理が説かれています。まずは『盗まれた手紙』の当該部分を引用します。相手の智力と合致させるのが得意な,すなわち観念的二重化が得意な子どものセリフの部分です。

「僕は,誰かがどのくらい賢いか,どれくらい間抜けか,どれくらい善い人か,どれくらい悪い人かまたそのときのその人の考えがどんなものか,というようなことを知りたいと思う時には,自分の顔の表情をできるだけ正確にその人の表情と同じようにします。それから,その表情と釣合うように,または一致するようにして,自分の心や胸に起ってくる考えや気もちを知ろうとして待っているんです。」(『弁証法はどういう科学か』p.248)


 これに対する三浦つとむさんの評価が以下です。

「百年以上前に,他人の智力と自分の智力をどうしたら合致させることができるかについて,ポオはこれだけつっこんだ分析をしました。他人の顔の表情が物質的な鏡となり,そこから『顔色を読んで』自分自身をその他人に観念的に二重化できることを指摘しました。」(同上,p.249)


 つまり,表情という表現をまねすることによって,認識を相手と合致させることができるということです。このように,認識の表現から認識へと遡るということは,観念的二重化のための基本だといえるでしょう。

 では次に,観念的二重化のためのもう一つの基本的な方法を取り上げたいと思います。それは,相手の世界を徹底的に描く,という方法です。そもそも認識とは対象の反映であり,像でした。したがって,相手と同じ認識を描こうとすれば,実際に相手の世界に立って,相手の視点から,相手が見たり聞いたりしている対象を,見たり聞いたりすればいいわけです。また,三浦つとむさんによると,観念的二重化は,世界の二重化と自分の二重化との直接的同一性として成立するものでした。したがって,相手の世界をきちんと描くことができたなら,それは直接に,しっかり相手に二重化できたことにもなるわけです。

 分かりやすい極端な例として,ヘレン・ケラーに二重化する方法を考えてみましょう。ヘレン・ケラーはご存じの通り,生後19ヶ月で病気のため目も見えず耳も聞こえなくなりました。家族に甘やかされて育ち,手のつけられない状態でしたが,奇跡の人たるサリバン先生が家庭教師としてやってきてから事態が一変します。ヘレンはサリバン先生の教育によって,ものには名前があることを学び,言葉も話せるようになって,猛勉強の末,名門大学を卒業,世界各地を講演し,視聴覚障害者の教育と社会施設改善に尽力した人物です。

 こんなヘレン・ケラーの立場に立って考えるにはどうすればいいでしょうか? その答えは,北島マヤが教えてくれます。北島マヤというのは『ガラスの仮面』という漫画の主人公です。彼女は一流女優を目指す少女でした。そんな彼女が『奇跡の人』という演劇でヘレン・ケラーを演じることになったのです。『奇跡の人』はヘレン・ケラーとサリバン先生の出会いから,ヘレン・ケラーがものには名前があるということを衝撃的に(急激な量質転化で)理解するまでを描いた物語です。

 なかなかうまく三重苦のヘレン・ケラーを演じられない北島マヤは,どのようにしてヘレン・ケラーに二重化して,リアルに演じられるようになったと思いますか? 実は彼女はある別荘に閉じこもり,目隠しをして耳栓をして,そこで暮らし始めたのです。これはすなわち,実際に目も見えず,耳も聞こえないヘレン・ケラーの世界に身を置いてみたことを意味します。このようにして北島マヤはヘレン・ケラーの世界を,実体験によって徹底的に描き続けたのです。ヘレン・ケラーの視点から,ヘレン・ケラーが見たり聞いたりした対象を,同じように見たり聞いたりして体験してみたわけです。もっとも,ヘレン・ケラーは目も見えず,耳も聞こえませんから,ここでの「見たり聞いたり」というのはもちろん喩えです。実際には触覚を中心とした残りの感覚器官のみで,対象を認識するということをやり続けたわけです,ヘレン・ケラーと同じように。こうしてヘレン・ケラーの世界を徹底的に描くことによってヘレン・ケラーに二重化できるようになった北島マヤは,見事にヘレン・ケラーを演じきり,ライバルを抑えて助演女優賞を獲得したのでした。

 私は『ガラスの仮面』を読んだ時,漫画とはいえ,非常にリアリティのある素晴らしい修行方法だと感心したものです。このエピソードから分かっていただきたいのは,相手の世界に実際に入り込んで,相手が実際に体験していることを,同じように自分も実際に体験してみることによって相手の世界を徹底的に描くことが,観念的二重化のための一つの有力な方法である,ということです。

 別の例を挙げてみましょう。小学校の国語では物語の読み方を勉強することになっています。物語の読解で重要なのは,登場人物の気持ちを理解することですが,小学校の先生は,あるいは小学生向けの問題集では,いきなり登場人物の気持ちを問うようなことはしません。たいていは,「いつのことですか?」「どこで起こった事件ですか?」「登場人物は何人ですか?」「どんな事件が起こりましたか?」といったような問いが先に来ています。これはなぜでしょうか? 端的にいうと,登場人物がいる世界を描けなければ,その人物に二重化して,その人物の気持ちを理解することなどできないからです。逆にいうと,登場人物がいる世界さえきちんと描くことさえできれば,自然と登場人物の気持ちは理解できるのです。自分の他人化とは,世界の他人化であり,その相手が置かれている世界をきちんと描くことができれば,それが直接に相手に二重化したことになるのです。だからこそ,どのような世界かを問う設問が先に来るわけです。

 小学校の先生は家庭訪問をしますが,家庭訪問の認識論的な意義も実は同じことなのです。どういうことかというと,あれは小学校の先生が,子どもの家庭環境=子どもが生活している世界を思い浮かべられるようになるために,行っているのです。学校での生活は,普段から目にしていますが,子どもの世界は学校だけではありません。家庭も大きなウェイトを占めています。したがって,小学校の先生が子どもに二重化する場合,家庭の様子・状態もしっかりと確かめることが必要となってくるのです。こういう環境で,こういう世界で生活しているのだということが分かれば,その子どもへの二重化が大きく自分の他人化レベルへと進んでいくことになります。

 このように,相手の視点から相手の世界を眺めて,相手の世界を徹底的に描くというのは,二重化のための有力な方法であるといえるのです。

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2016年08月08日

改訂版・観念的二重化への道(1/5)

目次

(1)社会生活では観念的二重化の能力が求められる
(2)観念的二重化のためには表現と対象をヒントにする
(3)心理検査は観念的二重化のための効果的なツールである
(4)系統発生・個体発生を辿り返す必要がある
(5)最先端の時代精神に至るプロセスを辿り返す

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(1)社会生活では観念的二重化の能力が求められる

 先日,南郷継正先生の最新刊『武道哲学講義 第三巻――『精神現象学 序論』(学の体系 講義)――』(現代社)が出版されました。その中の「まえがきに代えて」で,南郷先生は同じ内容を著すことには大きな意義が存在しているとして,次のように説かれています。

「一つは,私の年年歳歳的実力向上は,この何回もの「書き直し的綴り」の繰り返しが実践されているがためである。私の頭脳は何十年も,ここを実践してきているからこそ,頭脳(活動ではなく)の衰えがないままに,発展してきているのである。それだけにこれは,読者にも実践してほしいことである。同じことを何回となく書き綴っていくうちに,中身が立派になっていくのは,これも一つの大きな頭脳の量質転化への出立を促すものだから,である。」(pp.3-4)


 ここで南郷先生は,何回もの「書き直し的綴り」を実践してきているからこそ,自身の頭脳が発展してきているのであり,これを読者にも実践してほしいと説かれています。

 ここで説かれていることは,近年,南郷先生がくり返し説いておられる「正規分布図に従ったくり返し」が必要であるということと関連していると思われます。正規分布図に従ったくり返しとは,何かを学ぶ際に,必ず原点の位置へ戻ってそこから再び学び直すということをくり返す必要があるということです。正規分布図を思い出してください。左から右へと進んでいきます。少し昇ったら,また原点(初歩)に帰り,そこからまた辿り返します。そうして,また少し上昇したら原点(初歩)に戻り,そこからまた辿り返すのです。
このように正規分布を重層的に積み重ねながら少しずつ進んでいかないと,真の発展はない,ということだと思います。

 実は筆者は,この何回もの書き直し的綴りに近いことを既に実践しており,その効果を実感しています。その何回もの書き直し的綴りに近いこととは,専門家対象の研修会や学生向けの講義で,同じような内容を繰り返し説いていることです。具体的には,カウンセリングや認知行動療法の基礎的な内容を,くり返しくり返し研修会や講義で説いているのです。そうすることで,徐々に内容が整理されてきて,中身が立派になっていくということを体験しました。したがって,南郷先生の指摘を読んだとき,自身の体験とつなげてなるほどと理解できたのでした。

 本稿は,この南郷先生が指摘されている「書き直し的綴り」を実践するものです。

 当ブログには,2010年08月09日から11回にわたって「観念的二重化への道」と題する論文を掲載しました。この論文は,当ブログに掲載してきた論文の中でもかなり初期のものに相当します。そして,筆者の原点的な論文であるということもできます。そこで本稿では,この「観念的二重化への道」を改定版として説き直すことにしたいと思うのです。

 では本題です。

 先日の夕食時,何気なくテレビのクイズ番組を見ていたら,次のようなクイズをやっていました。それは,街中の人を適当につかまえて,その人が難読漢字を読めるかどうかを判断して回答する,というクイズです。テレビ画面にはその人の姿と,簡単なプロフィール,たとえば「慶応大学医学部学生」とか「大手自動車製造会社の営業職」とかが表示されます。そして,しばらくインタビューのやり取り(漢検何級をもっているとか,歴史小説好きであるとか,そういうヒント的なもの)が放送された後,「睫(まつげ)」「杜撰(ずさん)」「忝ない(かたじけない)」などの難読漢字とされるものをその人が読めるかどうかを回答させるというものでした。ちなみに回答者側には読み方が示されています。

 このクイズに正解するために必要な能力は何でしょうか? 自分が難読漢字を読むというクイズであれば,必要なのは漢字の知識だけです。しかし,自分ではなく他人が読めるかどうかを当てるクイズですので,しかも漢字の読み方はこちらには提示されているわけですから,漢字の知識の有無は直接的には関係ありません。実は,このクイズに求められるのが,本稿でテーマとして取り上げる観念的二重化の能力なのです。観念的二重化については詳しく,学問的な定義も紹介しながら説明していきますが,とりあえずは「相手の立場に立って考えられる能力」くらいに思っていただいてけっこうです。このクイズでいえば,街中のインタビューされている人の立場に立って,「この漢字が読めるかどうか」を考えられる能力が必要だったわけです。

 こんなクイズに答える場面だけではなく,日常生活には観念的二重化の能力が求められる場面がたくさんあります。というより,人間として社会的な生活を送っていく際には,必然的に観念的二重化の能力が要求される,といった方が正確でしょう。相手の立場に立って考えることができなければ,学校生活でもKY(空気読めない)となってしまって,適応的な生活ができなくなってしまいます。友人の気持ちも考えずに,ストレートに思ったことをいってしまって,相手を傷つけ,うまく人間関係が築けなくなります。観念的二重化の能力がなければ,家庭生活においても,兄弟同士,夫婦同士や親子間で,ケンカが絶えないということにもなってしまうでしょう。

 コミュニケーションの際にも観念的二重化の能力は必要となってきます。コミュニケーションにおいては一般に,相手に合わせて情報を整理してから発信する必要があります。相手に合わせるためには,いったん相手の立場に立って考えて,その後自分の立場に復帰して,適切な言葉を決めたり分かりやすい言い回しに変えたりというようなプロセスが必要となってきます。つまり,観念的に二重化して相手の立場に立つ必要があるのです。話が下手な人は,たいてい聞き手の立場を考慮していない,すなわち観念的二重化の能力が低いものです。

 「ありがた迷惑」という言葉があります。『広辞苑』によると,「人の親切や好意がかえって余計な干渉で迷惑と感ぜられること」という意味です。これも観念的二重化に関わってきます。本人は親切だ,いいことだと思ってやっていることが,実は相手にとっては迷惑以外の何ものでもない,ということですから,ありがた迷惑な人というのは,観念的二重化の能力が低いということがいえます。相手は本当は何を求めているのか,かえって迷惑と思うではないだろうか,というようなことを,相手の立場に立ってしっかりと考えることができていないからです。こういう人が周囲にいるのではありませんか。

 また最近,「発達障害」のある人たちが増えてきています。「発達障害」の特徴の1つとして,相手の立場に立てないというのがあります。これは観念的二重化の能力が低いということです。このような特徴のある人が「障害」とされているというのは,社会生活を営む上で観念的二重化の能力が必須であることを端的に物語っているといえます。

 単なる日常生活ではなく,仕事でも観念的二重化の能力が求められます。特に人間相手の仕事の場合,たとえば,教師,医師,看護師,保育士,弁護士,心理士,経営コンサルタントなどといった職業の場合,日常生活レベルの観念的二重化の能力ではとても役立ちません。もっと高いレベルの能力が求められるのです。こういった職種では,対象となる相手の立場に立ってきちんと考えることができなければ,適切な指導・助言・援助ができないからです。一般に,ある対象を変化させようとすれば,その対象をよく理解していないといけません。人間が対象である場合も同様です。人間の認識を変えようとするなら,変える前に,相手の認識についてよく理解していないといけないのです。相手の認識をよく理解するというのは,しっかり観念的に二重化して,相手の立場に立つことにほかなりません。だから,上記のような職業では,その専門職に見合うだけの高い観念的二重化の能力が必要となるのです。

 学問の構築を志すうえでも,観念的二重化の高度な能力が求められます。たとえば,現在わが研究会で読み進めているヘーゲル『哲学史』を読んで理解するということは,つまり,ヘーゲルに二重化することを意味しています。学問を志すうえでは,歴史上の学問の大先達である,アリストテレスやカント,ヘーゲルへの学びは避けては通れません。これは,アリストテレスやカントやヘーゲルに二重化できる能力を養っていく必要があるということです。

 このように,日常生活でも,人間相手の仕事を行う際にも,そして学問を志す際にも必須となってくる観念的二重化は,どのようにすればできるようになるのでしょうか? 自然成長性にまかせるのではなく,目的意識的に,観念的二重化という技を上達させる方法はないのでしょうか? 本稿では,こういった「観念的二重化への道」を,いくつかのポイントに絞って考察していきたいと思います。

 最初に,今目の前にいる相手に観念的に二重化するための基本的な方法を解いていきます。連載の第3回では,相手に観念的に二重化するためのツールとして誕生させられた心理検査を取り上げます。そして最後に,認識の構造により深く分け入って,観念的二重化の実力を向上させていくためには,どのような研鑽が求められるのかについて説いていく予定です。
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2016年06月12日

ブリーフセラピーを認識論的に説く(5/5)

(5)質問によって認識を強力に運動・変化させる

 本稿は,私の心理臨床の原点である森俊夫を追悼して,森が活用していたブリーフセラピーを取りあげ,なぜブリーフセラピーをうまく用いれば,効果的・効率的に治療の成果を上げることができるのかという謎を,科学的認識論の論理を用いて解明しようとするものでした。

 ここで,これまでの流れを簡単にまとめておきたいと思います。

 初めに,ブリーフセラピーとはそもそもどのような心理療法であるかを紹介しました。ブリーフセラピーは,天才的セラピストであったミルトン・エリクソンを源流とする治療法であり,効率的に治療効果を上げることを目指すものでした。森が実践していたのは解決志向ブリーフセラピーというものであり,ここでいう解決志向とは,問題やその原因を扱わずに,解決像を構築して,そこに向けて小さなゴールを設定して,ゴールに到達するためにできそうなことをやっていくというものでした。ブリーフセラピーでは,クライエントの話をひと通り聞いた後,ミラクル・クエスチョンなどを用いてゴールに向けての話し合いを行います。短期的なゴールを設定する際,まずは未来の「こうなっていればいいなあ」というようなイメージ=解決像を明確にして,大きな方向性を明らかにした上で,短期的なゴールを設定していくのでした。ゴールを設定したら,解決に向けての話し合いに移ります。ここでは主として,既に起こっている解決の一部である例外を探し,意図的例外をくり返す(ドゥー・モア)ことによって,例外を拡大していくのでした。また,初回公式課題として,例外を観察するように指示する観察課題を出すことも多いのでした。

 このようなブリーフセラピーについて,二つのキーワードを中心に,認識論的に考察しました。一つ目は「解決像の構築」でした。「奇跡が起こって,問題が全て解決してしまったら,何から奇跡に気づきますか」というようなミラクル・クエスチョンを行い,視覚・聴覚・体感覚などの五感をフルに使って,リアルで具体的な解決像を構築していくことが大切だとされていました。また,現在との差異を明確にすることも重要だとされていました。このような解決像の構築が治療的に働くのは,認識論的にいえば,人間は目的像に規定される存在だからでした。人間は必ず,目的像を描いてから,その目的像の実現のために行動する存在であり,描いた目的像のとおりに行動する反面,描いていない行動はとれないのでした。このような認識論的な理解を踏まえれば,ブリーフセラピーで行う解決像の構築とは,クライエントが今まで描いていた目的像とは別の,新しい目的像を明確に描くことを意味しており,それを媒介として,よりよい未来を創造することを意味しているのでした。「ミラクル」という設定を使うことによって,通常描いている目的像の支配から脱して,全く新しい別の目的像を描くところが,この技法の要なのでした。

 二つ目のキーワードは「例外探し」でした。ブリーフセラピーにおいては,解決は既に起こっているという前提のもと,既に起こっている解決の一部である例外を見つけて,それを拡大していくことが治療の目標であるとされていました。例外を探すためには,具体的に質問したり,観察課題を出したりします。例外が見つかれば,なぜ例外が起きたのかをしつこく質問していくのでした。そうして,例外が生じる要因を探求していき,自分が関わる要因が見つかれば,それを意図的にくり返すことによって,例外を拡大してくのでした。このようなブリーフセラピーにおける例外探しを,認識論的に捉え返すならば,これは問いかけ像を変えることによって反映を変えることを目指すものであり,それによって治療効果を得ようとするものでした。人間の認識は問いかけ的反映であり,対象の直接の反映像と,これまでの経験によって創られた問いかけ像(過去像)との合成像として,一つの像が結ばれるのでした。人によって個性的に問いかけるため,同じ対象を見ても違ったふうに反映しますし,問いかけ像がしっかりしていなければ,対象を反映しても像を結ばないこともあります。逆に,強烈な問いかけ像が存在するために,特定の対象ばかりが反映して像を結ぶということもあるのでした。ブリーフセラピーにおける例外探しでは,ネガティブなものばかりが反映するようになっているクライエントの問いかけ像(偏問い)を変えて,ポジティブなものも反映するようになることを狙うものなのでした。

 以上,これまでの内容を簡単にまとめ直しました。実は,ここで扱った「解決像の構築」ということと「例外探し」ということとはリンクしていると考えられます。それはどういうことでしょうか。まず,解決像を構築すれば,すなわち,これまでとは別のより良い未来を規定するような目的像を明確に描くことができれば,それが問いかけ像となって,すでに起こっている解決の一部である例外が反映しやすくなると考えられます。「こうなっていればいいなあ」という未来のあり方を,五感をフルに使ってリアルに具体的に描くことができれば,すでに起こっている,そのようなあり方の一部であるところの例外が,目に飛び込んでくるようになるわけです。このように考えると,目的像と問いかけ像は別物ではなく,目的像は問いかけ像の一部であり,目的像は問いかけ像になりうるのだということが分かってきます。次に,実際に例外が見つかり,すでに起こっている解決の一部が反映して像を描いたならば,それは実際の対象の反映なのですから,非常に具体的でリアルな像として描かれることになります。そしてこれが,より具体的でリアルな解決像を描くことにつながるのです。なぜなら,例外というのは,すでに起こっている解決の一部なのですから。このように,例外を反映することは,例外についての問いかけ像を強力にするだけではなく,目的像にも影響を与え,目的像を明確にすることにもつながっていくのです。このように,目的像と問いかけ像は相互浸透しながら,運動・変化・発展していくと考えられるのです。

 さらに,ブリーフセラピーのもう一つの重要な構造についても,指摘しておきたいと思います。それは,ブリーフセラピーにおいては,セラピストの質問によって,クライエントの認識(目的像や問いかけ像)が強力に運動・変化させられる,ということです。連載第2回で紹介したように,ブリーフセラピーには,ミラクル・クエスチョンや「例外」探しの質問,スケーリング・クエスチョンやコーピング・クエスチョンなどといった,ユニークな質問が技法として存在しています。これらの質問は,クライエントの認識を強烈な運動形態におくことになります。だからこそ,短期間で治療効果があがるといっていいでしょう。また,このことは,一人では目的像や問いかけ像を変えるのはなかなか難しい,ということも意味しています。目的像に関していうならば,二人で協力して描くからこそ力を持つのだ,ということができます。これが約束の力ということですし,認識論的にいうならば規範の力ということになるでしょう。複数人の意志を観念的に対象化することによって,それらの人間の行動を拘束する客観的な力となりうるのだといえます。

 最後に,ブリーフセラピーの限界についても触れておきたいと思います。ブリーフセラピーでは問題やその原因を扱いません。これは,クライエントの現在の認識がどのように創られてきたかという過程を問題としないということを意味します。あるいは,認識の正体が明らかではないために,どのようにして創られてきたかという過程は問題にできない,ということかもしれません。確かに,クライエントの認識がどのように創られてきたかを明らかにしても,過去に戻ってやり直すことができない以上,そのクライエントにとっては意味がない場合もあるでしょう。しかし,その認識が創られてきた過程を踏まえないと,真に適切にはその認識を変化させることができないし,根本的な解決に至らない,ということは,論理的には明らかではないでしょうか。どのような対象でも,過程を含めて全体であり,全体をしっかりと把握することなしには,適切にコントロールできないからであり,それは認識とて例外ではないからです。たとえば,自閉症や統合失調症に対しては,それがあってもうまく生きていけるように介入することはできるでしょうけれど,その生成の謎を解き,あわよくばそれら自体を治療するということなどは,ブリーフセラピーの範疇の外にあるといえるでしょう。また,問題となる認識が創られるプロセスが明らかにならないと,同じような問題が発生するのを予防することはできません。問題が発生してから解決するのではなく,そもそも問題が発生しないように予防できる方が,より好ましいのは論をまたないでしょう。しかし,問題やその原因を扱わないブリーフセラピーにおいては,予防的な介入が難しくなるのです。

 以上,本稿ではブリーフセラピーについて,これをうまく活用すればなぜ短期間で治療効果があがるのかを,認識論の論理とつなげて説いてきました。われわれはこのように,何かを理解する際に,認識論の論理(あるいは,弁証法の論理)につなげることができて,初めて「分かった!」と実感できるように感情を創ってきています。本稿でも,ブリーフセラピーの核となる部分をしっかりと認識論の論理につなげて理解することができたからこそ,なぜブリーフセラピーが効果的・効率的に治療効果を上げることができるのか,納得できた思いです。ブリーフセラピーはそれと知らずに,認識の本質や構造を踏まえた介入法になっていたのであり,だからこそ,効率的に認識を変化させることができるのでしょう。

 本稿ではブリーフセラピーの核となる二つのキーワードを取り上げて,考察してきました。しかし,ブリーフセラピーやミルトン・エリクソンの臨床,さらには私の臨床の原点である森俊夫の臨床については,まだまだ学ぶべきこと,しっかりと認識論の論理につなげて理解すべきことがたくさんあると感じています。特に森の臨床や訓練方法については,初回に少し紹介しましたが,かなり興味深いものが含まれています。今後,そのような内容をしっかりと納得できるまで学びつつ,本稿で説いた内容ももっと意識的に捉え返して,より認識の本質や構造に沿った介入をしていく努力を積み重ねていきたいと考えています。

(了)
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2016年06月11日

ブリーフセラピーを認識論的に説く(4/5)

(4)問いかけ像を変え反映を変える

 前回は,ブリーフセラピーにおける解決像の構築を取りあげ,これは認識論的には目的像を明確に描くことを意味すること,人間は目的像に規定されて行動するのであり,目的像として描いていない行動はとれないし,逆に目的像として明確に描けばそのとおりに行動する存在であるから,解決像の構築とは,これまでとは違う目的像を明確に描くことによって,新しいよりよい未来を創造することを意味すること,を説きました。

 今回は,ブリーフセラピーのもう一つの大きなキーワードである「例外探し」を取りあげ,これがなぜ治療的に働くのかを認識論の立場から考察したいと思います。

 ブリーフセラピーにおいて,例外とは,「既に起こっている解決の一部」と定義されています。もう少し砕けていうと,「例外的にうまくいっているときや例外的にうまくやれていること」といってもいいでしょう。森俊夫は,例外の定義を述べた後,次のように解説しています。

「「解決は既に起こっている」のです。解決を,まったく何もないところからつくっていくのではなくて,それはまだ小さなかけらかもしれないけれども,既にそれはある。ただ,それは小さなかけらですから見逃されていることも多いでしょう。だから,それを探していく。『あっ,ここにかけらが落ちていますね』という具合に例外を見つけていって,その面積や体積がどんどん増えていけばいいわけです。例外がどんどん拡大していき,それが日常生活のかなりの部分を覆うようになって,もはや例外とは呼べなくなる状態になること。これこそが治療の目標です。」(森俊夫・黒沢幸子『解決志向ブリーフセラピー』p.130)


 ここでは,解決は既に起こっているという前提のもと,既に起こっている解決の一部である例外を見つけて,それを拡大していくことが治療の目標であると説かれています。

 では,例外を探すためにはどのように質問すればいいのでしょうか。森は具体的に聞くことであるとしています。たとえば,3年間ずっと不眠であると訴えるクライエントに対しては,月曜日は何時に寝て何時に起きたか,火曜日は何時に寝て何時に起きたか,などということを,しっかりと質問して,事実を具体的に確認していけば,例外が見つかるというのです。「うちの子は不登校で,ずっと学校に行っていないんです」という母親に対しても,4月,5月,6月の出席日数を具体的に尋ねます。そうすると,例外が見つかる可能性があるというわけです。また,前々回に触れたように,観察課題を出すことも,例外を見つけるのには効果的です。観察課題とは,「こういうことがもっと起こってくれたらいいのになあ」と思われるような出来事を観察してきてもらうという課題です。つまり,例外に焦点を当てて観察していただくわけです。この課題は「初回面接公式課題」とも呼ばれているくらい,基本的でよく使われる課題です。

 例外が見つかったとして,それをどのようにして拡大していけばいいのでしょうか。それは,例外がなぜ起きたのかをしつこく,根掘り葉掘り質問するのです。そして,例外が起きた要因をいろいろと探求して,その要因のうち,自分自身や周囲の人間が関与しており,意図的にくり返せるものであれば,くり返すようにするわけです。これがドゥー・モア(Do more)課題です。たとえば,不眠の方が例外的に眠れた日があったとしたら,その日はいつもと違ってどんなことをしていたのかを詳しく・しつこく聞いていきます。そうして,その日は昼寝をせずにぶらぶら散歩をしていて,夜も眠くなってから寝床に入った,というのであれば,それをくり返してもらうわけです。そうすれば,例外を拡大していける可能性が高まるのです。

 では,このように例外を探し,例外を拡大していくということを認識論から捉え返すならば,どのようなことがいえるでしょうか。このような介入は,端的にいうと,問いかけ像を変えることによって反映を変えていくことである,ということができます。

 これだけではよく分からないと思いますので,認識論の基本から,詳しく説いていきます。

 人間の頭の中に描かれる像のことを認識といいますが,この認識は外界の対象を写しとったモノです。だから,学問的には,認識とは対象の反映であり,像である,と規定されています。ところが,人間は同じ対象を見ても,人によってその反映のあり方が変わっています。それは,人間の認識は,単なる受動的な反映にとどまらず,個性的に対象に問いかけ,その問いかけに応じて反映するからです。したがって,人間の認識は,問いかけ的反映であるといわれています。別言するならば,人間は反映と直接に問いかけ像が呼び覚まされ,反映像と問いかけ像の合成像として一つの像を結ぶのです。これが人間の認識なのです。したがって,異なる問いかけ像を持っている場合は,同じ対象を反映しても違ったものとして認識が成立することになります。

 たとえば,魚が大好きな人が魚を見ると「おいしそう!」という感情を伴った像が結ばれることになりますが,魚が嫌いな人が魚を見ると「気持ち悪い!」という感情を伴った像が結ばれることになるのです。このようになるのは,それまでの体験の中で創られてきた問いかけ像たる魚像が違うからです。本来,魚の見た目自体に,おいしいも気持ち悪いもないものです。ところが,これまでの経験で魚を食べておいしいという経験を積み重ねてきた人は,魚を見ただけで,経験によって創られた「おいしい」という感覚が蘇り,反映像と合成されて「おいしそう!」という像を描くことになるのです。逆に,生きた魚のぬるっとした感覚を味わい,それを気持ち悪いものとして経験したり,魚の頭部を眺めて,自分勝手にお化け像として描いてしまったりした経験を重ねた人は,魚を見ただけで,そのような経験によって創られた気持ち悪い像を呼び覚ましてしまい,直接の反映像とそうした呼び覚まされた像の合成像として一つの魚像を描くために,「気持ち悪い!」となってしまうのです。このように,体験によって創られた過去像でもって,対象を問いかけ的に反映するために,人それぞれの体験に応じて異なったふうに認識が成立するわけです。

 問いかけ像がしっかりしたものとして存在していない場合は,対象を反映しても,それとして反映しない,像を結ばない場合もあります。たとえば,私の妻は,最近,トヨタのヴォクシーという車を買いました。その後は,日々,ヴォクシーを見るようになり,ヴォクシーの像が頭の中に問いかけ像として成立することになったのです。そのため,自動車で道路を走行している時,対向車にヴォクシーが通ると,それが意識せずとも目に飛び込んでくるようになったのです。これは,問いかけ像がしっかりしたものとして頭の中に存在していたからこそ,反映像がその問いかけ像(過去像)を呼び覚まし,ヴォクシー像が結ばれたということです。逆にいうと,それ以前は,頭の中に明確なヴォクシー像などはなかったために,対向車でヴォクシーが通っても,しっかりした像は結ばずに,記憶にも残らなかったのです。反映はしていたはずなのですが,しっかりそれとして認識できていなかったということです。

 このことの裏返しの論理ですが,問いかけ像があまりにも強力であると,特定の対象ばかり反映するということにもなります。たとえば,不潔恐怖の方は,ほこりや汚れに過剰に敏感で,通常の人間が気づかないようなほこりや汚れも瞬時に反映してしまいます。テレビタレントでも潔癖症で,始終,部屋の掃除をしている人がいますが,こういった人は,たいていの人が気にも留めないような床のほこりやテレビ画面の汚れが飛び込んできて,気になって仕方がないので,掃除をしてきれいにしようとしているのです。このような人々は,ほこりや汚れといったものの問いかけ像が非常に強力であるために,ちょっとした反映像ですぐにそのようなほこりや汚れの像が呼びさまされて,その像を結ぶことになってしまっているのです。これは,問いかけ像が非常に硬直化してしまっていることを意味します。南郷継正先生は,このような硬直化した,偏った問いかけを「偏問い」と名づけておられます。

 では,以上のような認識論における「問いかけ的反映」あるいは「問いかけ像」の論理でもって,ブリーフセラピーの「例外探し」の技法を眺めてみるならば,どのようなことが分かってくるでしょうか。それは,例外が存在するのだという問いかけで日々外界を反映していると,それまでは「問題」の問いかけ像が強力で,「問題」に対して偏問いしていたために,「問題」しか反映しなかったものが,「問題」が生じず,うまくいっている現実の側面が反映するようになり,例外=既に起こっている解決の一部がしっかりと反映して像を結ぶことになる,ということです。すなわち,「問題」に巻き込まれているクライエントは,困ったことしか起きておらず,いいことなど一つもないと思い込んでいるために,そのような問いかけで外界を反映することになり,実際にそのような「問題」しか反映しなくなっていますが,例外探しの質問や観察課題などによって,問題が解決している状態があるのではないかという問いかけで現実を見てみれば,それなりに解決している状態も反映するようになる,ということです。

 実際,クライエントは,現実の問題に苦しんでおられるというよりも,自らが創り出した「問題」に苦しんでおられる場合が多いといえます。自らが創り出した「問題」に苦しんでいるというのは,ネガティブな問いかけ像によってネガティブな対象ばかりを反映し,その結果結ばれたネガティブな像によって苦しんでいるということです。客観的に見て,ネガティブな要素が80%であり,ポジティブな要素が20%であったとしても,クライエントは過度に一般化して,100%ネガティブであると思い込んでいるのです。例外探しはこのような過度の一般化を崩して,ポジティブなこともしっかりと認識できるようにするために,問いかけ像を変えるための介入であるということができるでしょう。このように問いかけ像が変わると,実際に例外がしっかりと反映することになり,その反映で結ばれた像がさらなる強力な問いかけ像となって,ますます現実に存在する例外を反映できるようになっていくのです。また,意図的に起こすことができた例外があれば,それもさらなる問いかけ像となって,より強烈に例外を反映できるようになる,意識しなくても例外が目に飛び込んでくるようになる,ということになっていくのです。

 このように,ブリーフセラピーにおける例外探しの介入は,クライエントの問いかけ像を変えることによって,客観的に存在しているはずの例外をしっかりと反映させることを狙ったものである,ということができるでしょう。
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2016年06月10日

ブリーフセラピーを認識論的に説く(3/5)

(3)生き生きとした具体的な目的像を創出する

 前回は,ブリースセラピーとはどのような心理療法であるのか,どのような流れでクライエントの困り事を解決しようとするのか,ということを見ました。最初に,「こうなればいいなあ」という未来の解決像を明確にして,その解決像と今を比べて,既に起こっている解決の一部=例外を探し,その例外を拡大していくように介入していく,というものでした。

 では,このようなブリーフセラピーがなぜ,効率的に効果を出すことができるのでしょうか。今回は,「解決の構築」ということに関わって,その謎を認識論的に解いていきたいと思います。

 ブリーフセラピーが,従来の心理療法(フロイトに端を発する精神分析的な心理療法)と一番大きく異なる点は,問題の原因を扱わずに,解決そのものに焦点を当てるという点です。言い換えれば,過去を扱わずに,未来の話に特化するということです。極論すれば,問題そのものを扱わないといってもいいかもしれません。前回紹介した,ブリーフセラピーの「発想の前提3」は,「『解決』について知るほうが,問題と原因を把握することよりも有用である」というものでした。ここで示されているように,問題を把握したり,その原因を把握したりしても,あまり役立たない,有用ではない,という発想があるのです。確かに,例えば,不登校の中学2年生がいるとして,その不登校の原因が幼少期の母子関係にあると分かったとしても,今さら,幼少期の母子関係を変えることはできません。不登校にまつわる「問題」,例えば,学力が伸びないとか,コミュニケーション能力が育たないとかいった「問題」を取りあげても,当人や家族の焦りや葛藤が増すだけで,問題解決につながらないことが多いといえます。

 そこでブリーフセラピーでは,未来に焦点を当て,未来の話に特化していくわけです。クライエントが自分の困り事を一通り話し終えたタイミングで,「何がどうなるとよりしいでしょうか?」とか「どうなりたいですか?」と質問して,未来の話に移行していくのです。

 特にユニークな質問が,前回も紹介したミラクル・クエスチョンです。典型的には,以下のように質問します。

「今晩眠りについて,明日の朝目を覚ますまでの間に奇跡が起こって,すべての問題が解決してしまったと想像してみてください。しかし,あなたは眠っているわけですから,明日の朝,目を覚ますまでは奇跡が起こったことに気づいていません。さて,明日の朝,目を覚まし,あなたはいったい何から『奇跡が起こった』ことに気づくのでしょう? また,あなたの周りの人は,あなたに奇跡が起こったことに,いったい何から気づくのでしょう?」


 このように質問して,解決像を構築していくのです。その際,視覚・聴覚・体感覚などの五感をフルに使って,リアルで具体的な解決像を構築していくことが大切だとされています。また,今までと,奇跡が起こった翌日との差異を明確にしていくことも大切だといわれています。

 では,このような解決像を構築することが,なぜ治療的に働くのでしょうか。端的には,ここでいわれている解決像とは,認識論的にいえば目的像のことであり,人間は目的像を描いてから行動する存在であり,目的像の範囲内でしか行動できない存在であるからです。

 少し認識論の基本から説明します。

 人間は,必ず目的像を描いてから,その目的像の実現のために行動する存在です。逆からいえば,描いた目的像以上の行動はとれないのです。描いたとおりに行動するといってもいいでしょう。たとえば,跳び箱が飛べない子どもは,跳び箱を飛んでいる自分がイメージできていないのです。跳び箱を飛んでいる時の像が,リアルな目的像として描けていないのです。逆に,跳び箱を飛ぼうとして,ドスンとお尻をついてしまうという目的像を描いてしまっています。だからこそ,その目的像に規定されて,実際に飛ぼうとしても,ドスンとお尻をついてしまうのです。こういう子どもに対しては,まずは跳び箱をうまく飛んでいる子どもをよく観察させて,跳び箱を飛ぶということのイメージ(目的像)をしっかりと創っていく必要があります。ただ,他者が飛んでいる場面を観察しても,実際に自分が飛ぶ時とは視点の位置が異なりますし,実際に飛んでいる時の体感覚は味わえません。そこで,体感覚も含めたリアルで具体的な目的像を描かせるために,二人の先生が左右から体を支え,あたかも跳び箱を飛べたかのような体の動きを経験させるという方法が考えられます。このようなことをくり返せば,跳び箱を飛ぶということがどういう感じなのかを,非常にリアルにイメージできますから,跳び箱を飛ぶという目的像が具体的なものとなります。そのような具体的な目的像を創ることができれば,それに規定されて,実際にしっかりと跳び箱を飛ぶことができるようになるわけです。

 別の例でも考えてみましょう。通常,われわれは,ある程度決まった行動パターンをとっています。だいたい同じような平日の一日を過ごし,だいたい同じような休日の一日を過ごしています。私の場合であれば,平日は朝5時に頃起きて,シャワーを浴び,6時頃に家を出て,電車に乗って職場に向かいます。職場につくと,業務時間開始までに事務仕事を可能なかぎり片付けて,業務時間中は,カウンセリングを行ったり,心理検査を行ったり,あるいはそれらの記録を書いたりします。業務時間が終わると直ぐに病院を出て,まっすぐ家に帰ります。このような行動パターンになるのは,そのような目的像を描いているからであり,それ以外の目的像を描いていないからです。この行動パターンに変化が起こるときは,必ずそれ以前に,目的像の変化があります。たとえば,仕事の帰りに靴屋さんによって,靴の踵の修理を依頼したとします。このようなことは今までしたことがありませんでしたが,このように行動に変化が起こったのは,妻から踵が擦り減っていることを指摘されて,そのような踵の修理ができる店が帰り道にあるということをネットで見つけたからにほかなりません。そうして,「帰りに店によって修理してもらおう」という目的像が描かれたために,実際にそのような行動をとったわけです。たとえ,帰り道でたまたまそういった店を見つけて入った場合でも,その瞬間に,「この店に入って修理してもらおう」という目的像が描かれているのです。目的像の変化なくして,行動の変化はありえません。

 休日のお昼ごはんは,たいてい,夜の残り物を食べていました。そうした選択肢しか頭になく,そういう目的像しか描かれていなかったのです。ところが,ある日,たまたまとりかかった道で,新しくラーメン屋がオープンしていることを知りました。天然塩で作ったスープが売りだとでかでかと書いています。それを見たとき,自分がその美味しい塩スープを飲んでいるところをイメージしました。そして今度の休日のお昼に,食べに来ようと思ったのです。そして予定通り,次の休日に,このラーメン屋にお昼ごはんを食べに来ました。いつもの休日と昼食のパターンが変わったのは,それ以前に,目的像が変わったからです。それ以前には選択肢になかった,ラーメン屋で昼ごはんを食べるという選択肢が,あるきっかけで創られたからこそ,実際にそのような行動ができたのです。このように,人間は,頭のなかにその選択肢がない行動(=目的像が描かれていない行動)をとることはできないのですし,目的像が描かれたならば,そのとおりに行動する存在なのです。

 このような認識論的な理解から,ブリーフセラピーにおける解決像の構築を捉え返すならば,どのようなことがいえるでしょうか。それは,既に存在する目的像とは別の,新しい目的像を明確に描くことを媒介として,よりよい未来を創造するお手伝いをしている,ということができるでしょう。クライエントは,今ある問題にとらわれており,その問題が存在する未来しか描けていません。問題がなくなってほしいと願っていても,では,問題がなくなったら,どのような1日を過ごすのか,ということについて,リアルで具体的なイメージ(目的像)を持っているクライエントはいないといっていいでしょう。そこで,ミラクル・クエスチョンや,効果的なゴール設定を行うことによって,リアルで具体的な,しかも今とは違う目的像を描き,さらに,たちまち実現しそうな短期のゴール(目的像)を設定することによって,今までとは違う目的像を描き,それによって今までとは違う未来を創造していくわけです。

 「ミラクル」(奇跡)を使うという手法も,非常にうまいといえます。というのは,今とは別の目的像を描こうとしても,「問題」にとらわれているクライエントは,「問題」に引きずられて,そう簡単に「問題」のない未来を描くことができないからです。それを,「奇跡が起こったとして」という仮定で想像していただくことによって,「問題」にとらわれない未来を想像(創像)することが可能となるのです。跳び箱が飛べない子どもに対して,先生が補助しながら飛んでいる感覚を体験するようなものといってもいいでしょう。いわば,擬似的に,強制的に,目的像を描いてしまうわけです。そして,五感をフルに活用してリアルな像を創った方が,その目的像の威力・規定力は強いものになりますし,今まで存在していた目的像との「差異」を明確にできた方が,より強力な目的像となるでしょう。

 以上のように,ブリーフセラピーで行われている解決像の構築というものは,認識論的に捉え返すと,これまでとは違うよりよい目的像を明確に描くことによって,その目的像の実現可能性を高めるものであるといえるのであり,人間の認識の構造を(知らず知らずのうちに)踏まえた介入であるといえるのです。
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2016年06月09日

ブリーフセラピーを認識論的に説く(2/5)

(2)ブリーフセラピーとは

 本稿は,私の心理臨床の原点である森俊夫が行っていたブリーフセラピーを取りあげ,なぜ効率的に効果を上げることができるのかの謎を,科学的認識論の立場から解明しようとするものです。今回は,ブリーフセラピーとはどのような心理療法であり,どのような流れで治療を行うものであるかについて紹介します。主として,森俊夫の著作に依拠して説明します。

 そもそもブリーフセラピーとは,治療の効果性・効率性をあげて,短期間で(ブリーフで)よい結果を出そうというものです。この源流はミルトン・H・エリクソンです。彼は,とても治りそうにないような患者をたった1回のセッションで治してしまうような天才でした。その治療法に興味をもった若手の臨床家が集まり,それぞれが独自の心理療法理論を構築していきました。こうして出来上がったものが「ブリーフセラピー」です。したがって,一口にブリーフセラピーと行ってもいくつかの理論モデルがあります。その中で,森俊夫が行っていたのは,解決志向ブリーフセラピー(Solution-Focused Brief Therapy,SFBT)です。本稿では,ブリーフセラピーという言葉を,この解決志向ブリーフセラピーの意味で使います。

 では解決志向とはどういうことでしょうか。これは問題志向との対比で考えると分かりやすいです。何らかの事実を問題として認識した場合,問題志向では「その問題の原因は何か」を考えます。その上で,どうすれば原因をなくせるかを考えていくことになります。原因がなくなれば,問題が解消するというのが問題志向の立場です。しかし,問題の原因は複合的であり,必ずしも明確にできるものではありません。また,原因を明確にできたところで,そこから解決策が出てくるとは限りません。過去の育児のあり方が原因で,現在,子どもに問題行動が生じているとして,過去の育児のあり方を今変えることができるでしょうか。それはできない相談です。

 一方,解決志向とはどのようなものでしょうか。それは,問題が解決した状態をイメージし(解決の構築),そこに向けての方法を考えていくというものです。具体的には,解決像を描いて,それを実現していくためにすでに備わっているもの(リソース)を整理し,小さなゴールを設定して,ゴールに到達するためにすぐにできること(アクション)を考えて実行していくというのが解決志向のやり方なのです。

 解決志向ブリーフセラピーには,いくつかの基本的な考え方があります。それは,「中心哲学」である3つのルールと,特有のものの見方・考え方である4つの発想の前提です。3つのルールとは以下です。

ルール1:もしうまくいっているのなら,変えようとするな
ルール2:もし一度やって,うまくいったのなら,またそれをせよ
ルール3:もしうまくいっていないのであれば,(何でもいいから)違うことをせよ


 4つの発想の前提は以下です。

発想の前提1:変化は絶えず起こっており,そして必然である
発想の前提2:小さな変化は,大きな変化を生み出す
発想の前提3:「解決」について知るほうが,問題と原因を把握することよりも有用である
発想の前提4:クライエントは,彼らの問題解決のためのリソース(資源・資質)を持っている。クライエントが,(彼らの)解決のエキスパート(専門家)である


 このようなルールや発想の前提を踏まえて,面接を進めていくのです。では,具体的にどのような流れでセラピーが進んでいくのでしょうか。もう少し詳しく見ていきましょう。

 森は初回面接の流れを以下の4つにまとめています。これらは多少前後しながら展開していくとされています。

(1)クライエントの話を聞く
(2)ゴールについての話し合いを行う
(3)解決に向けての話し合いを行う
(4)介入――アドバイス・指示・課題などを与える


 少し説明します。まずはクライエントが「問題」だととらえていることやカウンセラーに期待していることを明確にするために,話を具体的に聞いていきます。「問題」が具体的になったら,それ以上「問題」をほじくりまわさずに,ゴールについての話し合いへと進みます。「何がどうなるとよろしいでしょうか?」「どうなりたいですか?」という質問を入れて,「何がゴールなんだ」ということを話し合っていくわけです。要するに,過去の話は最小限にとどめて,未来の話に特化するわけです。

 その際,まずは解決像という未来の「こうなっていればいいなあ」というイメージを明確にします。それを踏まえて,もっと短期のゴールを設定していきます。良いゴールの条件としては,次の3つがあるとされています。

@大きなものではなく,小さなものであること
A抽象的なものではなく,具体的な,できれば行動の形で記述されていること
B否定形ではなく,肯定形で語られていること


 ゴールを設定した後は,解決に向けての話し合いを行います。そのために,以下のようなタイプの質問が有効であるとされています。

@ミラクル・クエスチョン
A「例外」探しの質問
Bスケーリング・クエスチョン
Cコーピング・クエスチョン


 @は,解決像=ソリューション・イメージを具体的に構築するための質問で,次のようなものです。

「今晩眠りについて,明日の朝目を覚ますまでの間に奇跡が起こって,すべての問題が解決してしまったと想像してみてください。しかし,あなたは眠っているわけですから,明日の朝,目を覚ますまでは奇跡が起こったことに気づいていません。さて,明日の朝,目を覚まし,あなたはいったい何から『奇跡が起こった』ことに気づくのでしょう? また,あなたの周りの人は,あなたに奇跡が起こったことに,いったい何から気づくのでしょう?」


 Aは,「例外=既に起こっている解決の一部」を探すための質問です。自分のかかわりによって起こる「意図的例外」が見つかれば,それをくり返すことによって,例外を拡大していくことができます。例外が広がっていけば,それだけ解決に近づいたということであり,全てが例外になれば,それはもはや例外ではなく,解決が実現したということを意味します。

 Bは差異を見つけるための質問で,「一番いい時の状態を10点として,最悪の状態を0点としたときに,今,何点ですか?」「その時は何点でしたか?」などと尋ねる質問です。「2点です」という答えであれば,「その2点分は何ですか?」という形でリソースや例外を見つけるための質問をしたり,「3点になっているときは,今とどういうふうに違いますか?」という形でゴール・セッティングにも使えます。

 Cは,クライエントの状況が大変な時に,ポジティブな面を引き出すための質問であり,「そんな大変な状況の中で,よく今日まで投げ出さずにやってこられましたね。いったいどうやって対処してこられたのですか?」というような質問です。

 最後にアドバイス・指示・課題などを与える介入です。介入には以下のようなものがあります。

@コンプリメント(Compliment)
A観察課題
Bドゥー・モア(Do more)
Cプリテンド・ミラクル・ハプンド(Pretend miracle happened)
Dドゥー・サムスィング・ディファレント(Do something different)


 @は自信をつけるために「ほめる,ねぎらう」ことです。Aは「こういうことがもっと起こってくれたらいいのになあ」と思われるような出来事を,よく観察していただくという課題です。例外を見つけ,それを拡大していくための課題であるといえます。Bは意図的例外をもっとやってもらうという課題です。Cは奇跡が起こったかのようにふるまう課題であり,次のように教示します。

「次回の面接までの間に1日か2日選んで,その日はあたかも奇跡が起こったかのように振る舞ってみてください。そうすると,どんなことが起こるか,周りの人たちの反応やあなた自身の内的なものも含めて観察して,次回報告してください。くれぐれも,このことは周りの人には内緒でやってくださいね。」


 Dは「何か違ったことをしなさい」というもので,事態がこう着状態にある場合に使います。

 以上が,ブリーフセラピーの基本的な流れです。ごく簡単にまとめ直すならば,解決像を明確にして,「例外=既に起こっている解決の一部」を探して,その例外を拡大していく,という流れになるといえるでしょう。
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2016年06月08日

ブリーフセラピーを認識論的に説く(1/5)

(1)なぜブリーフセラピーは効果があるのか

 2015年3月17日,一人のセラピストが亡くなりました。そのセラピストの名は森俊夫。東京大学大学院医学系研究科精神保健学分野助教で,精神保健学やブリーフセラピーを専門としていたセラピストでした。死後に出版された『森俊夫ブリーフセラピー文庫@心理療法の本質を語る──ミルトン・エリクソンにはなれないけれど』(遠見書房)という書籍の解説のサイトには,以下のように記されています。

「万年東大医学部助教にして元役者,ブリーフセラピー系心理士にして吉祥寺に日本全国から人が集まるKIDSカウンセリングシステムを立ち上げた森俊夫は,2015年3月に57歳で永眠した。自らの死を知った森は,心理療法に関する自分なりの考えを残したいと考え,盟友 黒沢幸子を聴き手に,心理療法や対人援助に関する本質について話を始める。

 ミルトン・エリクソン,ソリューション・フォーカスト・アプローチ,森流気質論など独特のアイデアと感性で,最良の効果的なセラピーを実践できた要因は何か。治癒率95%,平均治療回数2.0回以下という驚異的な臨床センスをもつ森俊夫の心理面接のエッセンスを語る,ユーモアと真剣さに満ちた一冊。」(http://tomishobo.com/catalog/ca93.html


 ここには,森俊夫というセラピストに関する重要な情報が盛り込まれていますので,少し補足します。まず,元役者であった点です。森は学生時代,10年ほど演劇に打ち込んでおり,演劇体験が自分の唯一のリソース(資源)であると語っています。『心理療法の本質を語る』に所収されている「ブリーフセラピーにおける演劇の利用」という論文では,次のようなエピソードが語られています。

「私が演劇を始めてまもない頃,よく渋谷の街角でボーッと立っていた。何をしていたかというと,人が歩くのを観ていたのである。人は各々皆,特徴的な歩き方をしている。中でも面白い歩き方をしている人を見つけると,早速後をつけて行った。そしてその人と同じ姿勢,同じ歩調,同じ歩幅で数メートル後を着いて行くのである。これは俳優の訓練として大変勉強になった。

 この人のような歩き方ができるためには,身体のどこにどのような緊張を入れていなくてはならないか,それを勉強するのである。そして,そうした緊張を入れて歩き方を真似していると,ある種の情緒なり感情,あるいはもっと漠然とした雰囲気みたいなものが生まれてくることを発見する。『こういう身体の緊張が入っていると,こんな“感じ”になるんだ』と。だったら,たぶんこの人は今これと同じ感じを味わっているだろう,とか,この人はこういう性格の人なんだろう,とかがわかるような気がして,それを稽古でよく試してみたものである。」(p.16)


 すなわち,演劇の稽古として,他者の歩き方を真似することによって,その人の情緒や感情,性格を理解するという方法を試していた,ということです。これは,「歩き方」を認識の表現と捉えて,その表現を模倣することによって,その背後にある認識に迫る訓練を行っていた,ということを意味しています。このような訓練を重ねて鍛えていった観察眼をリソースとして活用できた森だからこそ,クライエントの身体を見ればおおよそどのような人間かを見ぬくことができたのであり,そのアセスメントに合わせた介入を行えたからこそ,「治癒率95%,平均治療回数2.0回以下という驚異的な」結果を残すことができたのでしょう。

 次に,KIDSカウンセリングシステムです。これは,森が黒沢とともに立ち上げた心理療法のサービス施設です。もちろん,クライエントさんが来談されて,心理療法のサービスを提供するのですが,それだけではなく,専門家向けの心理療法に関わる研修を数多く実施されているのが特徴です。研修を数多くされていたのは,面接料(面接フィー)で自分の生計を成り立たせたくなかったからだと,森は語っています。面接フィーで食い始めると,クライエントさんに何回も来てほしくなる,しかしそれはブリーフセラピー(=短期療法)のポリシーに反する,だから面接の料金は低く抑えて,代わりに専門家向けの研修で稼ぎを得る,ということだったようです。また,KIDSカウンセリングシステムでは心理療法(サイコセラピー)の評価を重視していたということです。そのために,面接を録画できるようにしておき,その録画の映像を後で見直して,どこが良かったのか,どういう介入をすればより良かったのか,ということを検証していったそうです。こういうことをしっかりとされていたからこそ,心理臨床の実力が劇的に向上していったのではないかと思います。

 森俊夫というセラピストに関わる最後のキーワードは「ミルトン・エリクソン」です。ミルトン・エリクソンは米国の天才的セラピストで,催眠療法家としても著名な精神科医でした。非常に困難な事例を数多く治療しました。現在のブリーフセラピーの源流とされている伝説的人物といってもいいでしょう。森はこのミルトン・エリクソンに私淑していました。「エリクソンを見ればこういうことをエリクソンが全部やっているので,エリクソン一人研究していればいろんな技法,いろんなやり方が書かれているので,別に他に勉強する必要ない」(p.89)とまで断言しています。森はエリクソンを勉強し始めてから,治療成績が劇的に向上したと語っています。エリクソンはそれほど大きな影響を森に与えたのでした。

 エリクソンに関しては,興味深いエピソードがあります。ウィキペディアのミルトン・エリクソンの箇所の「エリクソンと身体障害」という項目を引用します。

「彼は極めて重篤な身体障害に悩まされていた。その中には1.ポリオ,2.色覚異常,3.失音楽症(音楽が理解できない障害)が含まれる。特にポリオにより,17歳の時に目を除く全身が麻痺した事は彼に重大な影響を及ぼした。一つには,回復するまでの退屈しのぎとして自分の家族を観察した事である。この観察の中で彼は言葉の‘ダブルテイク’(ある言葉が2重の解釈を許すこと),‘トリプルテイク’(ある言葉が3重の解釈を許す事)の発見や,言葉の命令的側面(例「窓が開いてますね。」が「窓を閉めてください。」との命令を含意しうる事)や幼児の身体的発達過程への理解,そして何より彼の伝説的な観察力を獲得した(例えば,彼は相手の首筋から脈拍数を数える事が出来たという)。さらに失音楽症は彼が話し相手の呼吸や抑揚に意識的な注意を向ける事を可能にし,これは後に彼が催眠を独習する時に大きな利点となった。」


 ここでは,エリクソンが17歳の時に目を除く全身が麻痺してしまったため,退屈しのぎに家族の言動を観察したこと,それによって相手の首筋から脈拍数を数えることができるくらいの伝説的な観察力を獲得したことが説かれています。これは,先に紹介した森の演劇の稽古と通じるものがあります。エリクソンと同じような訓練を経ていた森だったからこそ,エリクソンのことがきちんと理解でき,自分の臨床に活かしてくことができたのでしょう。

 さて,長々と森俊夫というセラピストについて紹介してきました。それはなぜかというと,実はこの森俊夫が私の心理臨床の原点だったからです。私は大学卒業後,教育の世界に入りました。教育の世界といっても,学校ではなく,塾です。私が学校の先生ではなく,塾の先生になったのは,二つの理由がありました。一つは,学校の先生であれば,特定の学年,特定の教科しか教えられませんが,塾の先生であれば,小学生から高校生まで,さまざまな教科を教えることが可能です。幅広い教育に関わりたかった私は,塾を選んだのです。もう一つの理由は,学校の先生であれば,自分が教えた生徒の学力がどれくらい上がったかということに関して,それほどシビアに評価されないだろうという思いがあったからです。それに対して塾の先生であれば,まさしく学力を上げることが第一目的であり,それが全てであるといってもいいでしょう。生徒に効果的に教育して,効率よく学力を伸ばしたいと考えていた私は,この理由からも塾の先生を選んだのでした。

 教育の世界に身をおいてすぐに,私はとあるインターネット上の教育関連のサイトで,お薦め本が紹介してあるのを見つけました。このサイトを作成していた先生は,非常に優れた実践をされている方でしたので,そこで紹介されていた本を読むことにしました。その中に,向山洋一『教師修業十年』(明治図書)や森信三『修身教授録』(致知出版)と並んで,森俊夫『先生のためのやさしいブリーフセラピー』(ほんの森出版)が紹介されていたのです。これが私が森俊夫を知った最初ですし,私が心理臨床関係の本を読んだ最初でした。この本では,セラピーの効果性・効率性について,くどいほど強調されていました。すなわち,セラピーはまず,効果がないと意味がないものであり,次に,同じ効果を上げるにしてもより短期に,すなわち,効率的に行うべきである,ということでした。これは私の教育観とも一致するものであり,その点での違和感はなく,読み進めることができました。

 その後,私は,認識論の研鑽をするためのフィールドとして心理臨床の世界を選び,臨床心理士の資格をとるために大学院に入学しました。大学院では,認知行動療法という心理療法を中心に勉強しました。認知行動療法は,比較的短期に終わる心理療法であり,かつ,うつ病や不安障害等に対して,確かに効果があると分かっている心理療法でした。直接的には,三浦つとむの認識論に似ていると思ったからこそ,認知行動療法を選択したのですが,実はその背後に,森俊夫の本の影響があったのかもしれません。効果的で効率的なセラピーを目指すという意味では,認知行動療法もブリーフセラピーと同じだからです。

 大学院修了後は,精神科の病院で,主に認知行動療法を用いた心理療法を行い,認知行動療法の研鑽を重ねてきました。その過程で,認知行動療法と近い立場にあるブリーフセラピーにも,少しずつ触れるようになってきました。また,スクールカウンセリングや産業カウンセリングといった,より短期に結果を出す必要があるフィールドにも進出したために,今まで以上にブリーフセラピーに関心が出てきました。そうした中で,私は森俊夫を再発見することになりました。実は森俊夫は,ブリーフセラピーの業界では,知らない人はいないほどの有名人だったのです。私が,自分の心理臨床の原点たる森俊夫を再発見してまもなく,森は亡くなりました。いずれは森の研修に参加したいと思っていたのですが,それも叶わず,一度もお会いすることはありませんでした。

 そこで本稿では,森俊夫が実践していたブリーフセラピーを取りあげ,なぜ効率的に効果を上げることができるのか,科学的認識論を武器にその秘密に迫っていきたいと思います。まず次回は,ブリーフセラピーとはどのようなものであるのかを解説します。それを踏まえて,ブリーフセラピーのキーワードといってよい「解決の構築」と「例外探し」を取りあげ,これがいかに治療に貢献するのかを認識論的に解明していきたいと思っています。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
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 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
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 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか