2017年08月07日

改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う(5/5)

(5)認識論に基づく心理臨床が求められる

 本稿では,前稿「改訂版 心理療法における外在化の意義を問う」を読んだ我々の指導者が,この小論には欠けたるものがあると指摘してくださったことを踏まえて,前稿以上に構造に分け入って,心理療法における外在化の意義を考察することを目的として説いてきました。ここで,これまでの流れをまとめておきたいと思います。

 はじめに,外在化=観念的対象化によって,心の問題に対するコントロール可能性が生まれる,という前稿の結論で不足していた点に触れました。それは,単に対象化するだけでなく,モノ化=実体化してこそ,はじめてコントロールの現実性が生まれるのだ,ということでした。モノ化して,あたかもそれが現実に存在するリアルな実体であるかのように外在化することによって,文字通りそれを手にとるように容易に扱うことができるようになる,ということを,東豊氏の「虫退治」の例やべてるの家の「幻聴さん」を例に挙げながら説きました。

 次に,外在化とは,自分の内的なものがあたかも外部に存在するかのように想像することであるから,認識論的に説けば観念的二重化である,という視点から,外在化の意義を考察しました。心に問題を抱える方々は,何らかの事情で観念的二重化の能力が衰えていたり歪んでいたりするために,不適応を起こしている状態に置かれています。だから,外在化という技法を用いて,自分自身を第三者の視点から客観的に眺められるように,セラピストと共同で観念的二重化を行うということは,損なわれてしまった観念的二重化の能力を回復に導くことになる,その能力を鍛えて適応的な生活ができることにつながるのだ,ということを説きました。

 最後に,セラピストと共同して外在化を行うことの意義を,社会的認識という観点から説きました。社会的認識とは,ある社会の成員がおよそ共通してもっている認識のことであり,あまり自覚できないものの,当人を強力に支配する力をもっているということを確認しました。その上で,心理療法において外在化した問題にセラピストと当事者が共同で取り組むことによって,治療促進的な強力な社会的認識が成立することを指摘しました。具体的には,自己を第三者の視点から眺めるという観念的二重化自体が強烈なる量質転化で技化されること,自分勝手ではない適応的な観念的二重化ができるようになること,小社会の文化として成立すればより強力な治療促進効果が得られること,などを説きました。

 前稿に欠けたるものとして指摘され,本稿において詳しく説いた以上3点は,どれも認識の構造により深く分け入った結果浮上してきた論理であるといえるかと思います。すなわち,しっかりと科学的な認識論を踏まえた上で説いたものである,ということです。

 そもそも認識とは,対象の頭脳における反映であり,像でした。認識の過程的構造を説くならば,対象を五感器官を通して頭脳に反映し,それが合成されて五感情像として成立し,それを原基形態として,生成発展していくものでした。ですから,自分の心の問題をリアルに対象化=モノ化・実体化し,コントロール可能性を高めるためには,その心の問題を単に視覚でとらえるだけでなく,触覚や,場合によっては聴覚,嗅覚,味覚といった5つの感覚を総動員したほうがよいわけです。そこで,連載第2回で紹介した事例では,外在化した「タバコを吸いたいという感情」の重さや手触りを尋ねたわけです。そもそも認識とは対象を5つの感覚器官を通して反映したものであるという認識の過程的構造を踏まえたからこそ,心の問題をモノ化=実体化することが可能となるのです。

 また,観念的二重化というのは,人間の認識を扱う場合にもっとも基本的な論理の1つです。三浦つとむが発見し,海保静子氏によって像の問題として深化させられた,非常に大切で認識の本質に関わる概念だと思います。だからこそ,神庭純子氏が「心を病む人の認識の問題は「観念的二重化」の論理からのみ解くことができる」と断言しているのでしょう。このような観念的二重化という視点から論理の光を当てたからこそ,本稿においてうつ病や統合失調症の問題を認識論的に説き,その治療技法としての外在化の深い意義を掴みえたのだと考えられます。

 さらに,社会的認識という論理も,我々京都弁証法認識論研究会では,非常にホットで新しい認識の問題として受け止め,研究を進めているところです。このような観点がないならば,社会的存在である人間の謎を解明することはできないはずですし,人間が人間に関わって人間の心の問題を解決しようとするサイコセラピーの原理も,解明が不十分に終わるに違いありません。心理士には,社会的認識という,あまり自覚はできないものの,強力な作用を及ぼしうる存在をしっかり自覚して,それを上手く治療に活用していくための工夫と努力が求められるといっていいでしょう。

 現在の臨床心理学の世界は,まさに百家争鳴という言葉がピッタリくる状況で,共有できる土台がない状態です。筆者としては,三浦つとむや海保静子氏・南郷継正氏によって創られ発展させられてきた科学的認識論をしっかり踏まえた心理臨床を行うとともに,本稿で試みたように,さまざまな心理臨床の事実を認識論の光を当ててとらえ返し,認識論の論理とつなげる研鑚を積んできました。そうすることによって,科学的認識論を踏まえた質の高い心理療法を提供できるようになるはずですし,心理療法の実践からのフィードバックによって,科学的認識論の再措定を果たし,それをより深化させていくことが可能になっていくと考えていたからです。

 現在は,哲学の歴史を振り返って,人類が獲得してきた認識論的な(あるいは弁証法的な)考え方が,心理療法の世界でどのように活用されているのか,あるいは,精神疾患の構造について哲学の知見を踏まえるとどのようなことがいえるのか,ということについて研究を進めているところです。これは1年以内をめどに書物としてまとめて,出版する予定です。

 このように今後も,心理療法の技法や治療のメカニズム,精神疾患の過程的構造などをしっかりと原理的に考え,筋を通して理解していけるように研鑽していきたいと思います。そのためにも,読者の皆さんに分かっていただけるような丁寧な論理展開がなされている論文を,しっかり書き続けていくことを決意して本稿を終えたいと思います。

(了)
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2017年08月06日

改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う(4/5)

(4)心理療法は社会的認識を創り出す

 前回は,前稿「改訂版 心理療法における外在化の意義を問う」に欠けたるものとして指摘された観念的二重化の視点から,外在化の意義を考察しました。外在化とは観念的二重化でもあるがゆえに,心に問題をかかえ,観念的二重化の能力が衰えたり歪んだりしているクライエントにとっては,セラピストと共同して心の問題を外在化することは,観念的二重化の能力の回復を促進することになる,ということでした。

 今回は,前稿に欠けていた社会的認識という観点から,心理療法における外在化の意義をとらえ返していきたいと思います。

 まず,そもそも社会的認識とは何でしょうか。それは,ある社会に属している人間がおよそ共通してもっている認識のことです。これは,本人はあまり自覚することはできませんが,本人を規定する大きな力となって本人を支配することになります。

 もう少し詳しく,基本的なところから説いておきます。

 そもそも「社会的」というのは「多数個人の協働」(マルクス)のことであり,したがって社会的認識とは多数個人の協働によって創られた認識,すなわち,自分一人だけでなく他の人(達)と一緒に創り上げた認識のことです。また,社会とは,多数個人の協働によって結びついた諸々の小社会の重層的かつ過程的な複合体であり,その最大の単位が国家という枠組みをもつ社会である,ということができます。

 たとえば,日本社会と欧米社会を比較してみましょう。我々日本人は家の中では靴を脱ぎます。これは,「家の中では靴を履いてはいけない」というような規範が,我々日本人の中には共通して存在しているからです。ところが,欧米ではそうではありません。欧米ではたいてい家の中で靴を履いています。これはあえていえば,「家の中でも靴を履くものだ」というような規範が,欧米人の頭の中に存在しているからです。こういった規範は,その社会の成員が創り上げ,それぞれが共通してもっている認識ですから,社会的認識の一種であるといえます。ですから,本人はその社会的認識の存在をあまり自覚できませんが,強力にその人の行動を規制しているのです。日本人であれば,他人の家に上がるときに,ほぼ自動的・無意識的に靴を脱ぐはずです。外国人が靴のまま上がったとすると,「ええ! なぜ?」と慌ててしまいかねません。この例で,社会的認識の威力をなんとなくであっても分かっていただけたかと思います。

 このような社会的認識は,先にも触れたように,その創出過程に着目するならば,2人以上の人間で創ったものであるということができます。2人で交わす約束も,その意味では社会的認識であるといえます。そして,自分ひとりだけで「○○をする」と決心した場合よりも,誰かとの約束として「○○をする」と決めた場合のほうが,自分を規定する力がより強いということは,経験上誰もが分かっていることでしょう。

 さて,以上を踏まえて心理療法における外在化の意義を,社会的認識の観点から考察したいと思います。前稿では,外在化とは何かを説明する流れの中で,外在化することによってセラピストと当事者の関係性も変化するとして,次のように説きました。

「もともと心理療法においては,援助するセラピストと援助される当事者という二者の関係性(セラピスト⇔当事者)が基本です。ところが心の問題を外在化することによって,セラピストが当事者とチームを組んで問題にあたる,というような三者関係(セラピスト・当事者⇒問題)に発展するのです。媒介関係の発展によって,当事者は援助される対象であると同時に援助する主体でもあるという矛盾した構造が創出され,それに伴って,セラピストと当事者は共同して問題に対処するという調和的な関係が構築されるわけです。認知行動療法においては,このような「自助の精神」や共同的な関係性が重視されています。」


 ここで説いたように,心の問題を外在化することによって,セラピストと当事者が共同して,1つの問題に対応するというような関係性が生まれるわけです。そうすると,1つの問題をめぐって,双方がさまざまなコミュニケーションをとり,問題点を明確化し,解決法を模索したり,解決策を試したりする中で,つまり問題と取り組んでいく中で,両者に共通の認識が芽ばえていくことになります。これが社会的認識として,強力な治療促進的な効果を発揮することになるのです。

 それでは治療促進的な効果とは具体的にはどのようなものでしょうか。2つ3つ,例を挙げたいと思います。

 まずは,外在化をセラピストと当事者が共同して行うということ自体に意義があります。こうすることによって,当事者が自分自身を第三者の視点から客観的に眺める観念的二重化という認識の運動も,スムーズに行うことができるようになります。当事者本人だけではなかなか気づけないような自分の認知や行動の特徴も,セラピストと共同で探っていくことによって,気づきやすくなります。また,一人で行う場合に比べて,強烈でしっかりした像として描かれるので,急激なる量質転化が起こり,治療が効率的に進展するということができます。要するに,心理療法場面という社会的な場で,社会的な認識の力を借りながら共同して外在化を行うことによって,心の問題から距離をとって冷静になれたり,心の問題の対処可能性が増したり,あるいは,観念的二重化の能力を鍛えたりするということが,より容易にできるようになるのです。

 これが,認知行動療法はうつ病に効果あるとされているものの,うつ病の人が1人でセルフヘルプ本を頼りに認知行動療法をやろうとしても,なかなか成功しない理由でもあります。1人で本を頼りにやろうとしても,そこには共同作業で創り上げた強力な社会的認識を欠いていますので,今説いたような治療促進的な効果が見込めず,なかなか奏効しないということになってしまうのです。

 また,統合失調症患者の場合は,セラピストと当事者が共同して,社会的に外在化=観念的二重化を行うということは,歪んでしまっている観念的二重化の能力を矯正する意味合いも出てきます。統合失調症の幻聴や妄想というのは,現実から乖離して自分勝手に二重化した状態が慢性化しているということですから,他者にも受けいれられる,他者と共通性のある観念的二重化を外在化によって促進するならば,自分勝手な二重化も徐々に社会性を帯びるようになり,観念的二重化の歪みが徐々に正されていくことが期待できます。つまり,社会関係の中であるべき観念的二重化をくり返し実践することによって,社会適応力を回復させていくことにつながっていくのです。

 もう1ついえることは,べてるの家のような小社会で社会的認識を創った場合,その認識がよい意味での「風」(ふう)となって,強力な威力を発揮するということです。べてるの家では,当事者研究においてもSSTのセッションにおいても,さらに日常生活場面においても,心の問題を外在化して,それに対する対処法を考案し試してみるというのは,1つの文化と呼べるほどにまで成熟しています。こうなると,新しくべてるの家のメンバーになった当事者は,この文化と呼べるレベルの社会的認識に強い影響を受け(相互浸透し),知らず知らずのうちに自分も同じように自分の問題を外在化して対処法を模索するというような,適応的なパターンが身に付いていくのです。これも社会的認識による治療促進効果といっていいでしょう。

 以上要するに,心理療法において心の問題を外在化することによって,最低でも2人,多い場合は十数人という人数が1つの問題に取り組むことになり,その結果,そこで創られる社会的認識が非常に強い威力を発揮して治療を促進しうるということを説いてきました。セラピストは,このような社会的認識の威力を自覚して,上手く利用することが求められるといえるでしょう。
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2017年08月05日

改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う(3/5)

(3)外在化によって観念的二重化の能力を鍛える

 前回は,前稿「改訂版 心理療法における外在化の意義を問う」に欠けたるものとして,心の問題のコントロール可能性の問題を取り上げました。心の問題を外在化して,単に観念的に対象化するだけではコントロール可能性が生まれるだけで,コントロールの現実性については心もとないということで,コントロールを実現するための方法を紹介しました。それを端的にいえば,観念的にモノ化=実体化するという方法でした。心の問題を観念的に対象化した上でモノ化=実体化することによって,それをあたかも手に触れられるモノであるかのように容易に扱うことが可能となる,ということでした。

 今回は,外在化のもう1つの意義を取り上げたいと思います。それは外在化とは観念的二重化である,ということに関わります。これはどういうことでしょうか。少し説いてみます。

 外在化とは心の問題を外に出すことでした。しかし,本来,心は自分の頭の中にしか存在しないわけで,頭の中にしかないものを「外に出す」というのは,実際は「あたかも外に出したかのように想像する」ということでしかありません。つまり,外在化とは一種の想像だといえるわけです。そうすると,外在化とは観念的二重化でもある,ということが分かっていただけるかと思います。

 念のために,三浦つとむが観念的二重化について説いている部分を引用します。

「このように,想像することは,現実の世界以外に観念的な世界をつくりだして世界を二重化することですが,それだけではなく,同時に現実の自分以外にその観念的な世界の中でそれに相対している観念的な自分をつくりだす自分自身の二重化をも意味します。」(『弁証法はどういう科学か』pp.140-141)


 ここにも説かれているように,外在化によって,実際は心の中にしかないものをあたかも外にあるかのように想像することは,現実の世界以外に観念的な世界を創り出すと直接に,その観念的な世界に相対している観念的な自分を創り出すことでもあるわけで,端的にいえば,観念的二重化であるということができるのです。

 観念的二重化については,海保静子氏も以下のように説いています。

「観念的二重化とは,端的には自分の観念を二重化すること,つまり自分の頭のなかでもう1人の自分を創りだすことである。自分がみている世界が,「現実の目」がみている像と「頭のなかでの目」がみている像との二重になることを,現実と観念(頭のなか)との二重になることをいうのである。

 この観念的二重化は,自分が現実の自分と頭のなかの自分とに分けられるので「自己の二重化」ともいい,またこの「観念的二重化=自己の二重化」は,自分が相手の立場に立って行なわれるばあいが多いだけに「自分の他人化」といわれる。さらにその構造を説くならば,観念的二重化はそのなかに「自分の二重化」があり,その自分の二重化には「自分の自分化」と「自分の他人化」の二重構造があり,そしてこれは「自分の自分化から自分の他人化へ」の過程性としてとらえることができるものである。」(海保静子『育児の認識学』,現代社,pp.355-356)


 このような観念的二重化の能力というものは,自然成長的に,あるいは教育によって創られ,人間であれば多かれ少なかれ把持しているのが通常です。そして,この観念的二重化の能力があるからこそ,社会生活を適応的に送ることができるのです。空気を読んで周りに合わせるのも観念的二重化の問題ですし,事態の展開を予想して対策を立てるというのも観念的二重化の問題です。ルールに従ったり,常識的な行動を取れたりするというのも,全て,観念的二重化の能力があってこそです。

 しかし,心に問題を抱える人は,この能力が衰えていたり,あるいは歪んでいたりしているために,適応的な生活が送れなくなっている状態だということができます。

 たとえばうつ病の患者さんは,事態を悪いほう悪いほうへと考えてしまう傾向があり,第三者の視点で事態を冷静に眺めることが困難になっています。これは,観念的二重化の能力が衰えているためと考えられます。また,統合失調症の患者さんは,誰もいないのに自分の悪口がはっきり聞こえたり(幻聴),客観的な根拠は皆無なのにヤクザが自分を殺しに来ると信じていたり(妄想)します。これは,もう一人の自分が見ている観念的な世界と現実の自分が見ている客観的な世界とを区別できずに,混同してしまっているからです。あるいは,ずっと二重化し続けているのに,二重化しているのだという自覚がないということもできます。いずれにせよ,観念的二重化の能力が歪んでしまっている結果だといえるでしょう。

 したがって,認識論的に考えるならば,このような心に問題を抱える方に対する治療としては,損なわれてしまった観念的二重化の能力を回復させるための介入が不可欠である,ということができます。そして,そのための強力な手段の1つが,外在化という手法なのです。

 なぜ,外在化によって観念的二重化の能力を回復させることができるのでしょうか。それは,先にも説いたように,外在化が観念的二重化でもあり,セラピストと共同してあるべき観念的二重化を促進することになるからです。たとえば,うつ病に対する認知行動療法では,当事者の中の認知・気分・行動の悪循環を外在化して,紙に書いたりホワイトボードに図示したりします。自分自身を第三者の視点から客観視して冷静に捉えるというのは,社会生活を営む上でなくてはならない観念的二重化の能力であるといえますが,認知行動療法におけるこのような外在化によって,自分自身を客観視するという観念的二重化が,スムーズに促進されるわけです。これが同時に,損なわれた観念的二重化の能力を鍛えるための訓練にもなっているのです。

 そもそも観念的二重化を大きくとらえれば,直接見ることができないものを頭の中の目によって見ることである,ということができます。外在化は,この直接見ることができないものを見るための媒介として,非常に役立つということができるわけです。いわば外在化は,頭の中の目の視力をよくし,「もう一人の自分」を鍛えるための手段であるといえるのです。

 セルフモニタリングという認知行動療法の技法も,観念的二重化の能力を回復させることに役立ちます。例えば,活動記録表という用紙をクライエントにお渡しして,一日に行った活動と,その時の気分(−5〜+5)を記録していただくことがあります。これは,自分自身の行動と気分を,第三者の視点から客観的に・冷静に・眺める訓練であるともいえます。うつ病の患者さんは,しっかりできていることもあるのに,「自分は何もしていない」「今日は寝てばかりだった」とマイナスに考えてしまいがちです。観念的二重化の能力が衰えているために,自分自身の行動を冷静に捉えられていないのです。このようなときに活動記録表を用いたセルフモニタリングを課題に出すことによって,自分の行動を客観的に捉えられるようになっていくのです。すなわち,この課題を通して,観念的二重化の能力の回復が図られていくわけです。

 このような心の病と観念的二重化の問題について,説かれている文章があります。以下に引用します。

「また,この「観念的二重化」の実力を現実の世界とかけ離れたものとして自分勝手に歪めたままに育ててしまうと,それが現実の世界とかけ離れるほどに病への芽をつくることになりかねない問題でもあるといえます。心を病む人の認識の問題は「観念的二重化」の論理からのみ解くことができるということだけを,ここではふれておきたいと思います。」(神庭純子『初学者のための『看護覚え書』(2)』現代社,pp.190-191)


 「心を病む人の認識の問題は「観念的二重化」の論理からのみ解くことができる」という言葉を,認識論を学びつつ心理臨床の実践を行っている筆者としては忘れてはいけないと感じています。この言葉の通りに,うつ病の問題は観念的二重化の能力の衰えとしてとらえることができますし,そうであるならば,観念的二重化の能力を回復させるために,自分自身の認知や行動・感情などを自分の外に置くという外在化の方法によって,自分自身を第三者の視点から冷静かつ客観的に眺める練習をしていくことは,うつ病の回復過程において必須であるともいえるでしょう。
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2017年08月04日

改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う(2/5)

(2)モノ化=実体化してこそ本当に認識をコントロールできる

 前回は,「改訂版 心理療法における外在化の意義を問う」と題した前稿の内容を簡単に振り返った後,この小論に対して我々の指導者からコメントをいただいたことを紹介しました。そのコメントは,「改訂版 心理療法における外在化の意義を問う」には欠けたるものがある,という指摘でした。そこで本稿では,指導者からのコメントを踏まえて,心理療法における外在化の意義をより構造に分け入って説いていくことにしたいと思います。

 今回は,外在化し,心の問題を観念的に対象化することによってこそ,その問題のコントロール可能性が生まれてくる,と前稿で説いた内容をより深めたいと思います。ここに関わって,前稿では以下のように説きました。

「このように外在化によって心の問題から距離をとれ,冷静になれるということ以外にも,決定的に重要な外在化の意義があります。それは,対象化することによって,その問題のコントロール可能性(解決可能性)が生まれてくる,ということです。

 そもそも外在化する前は,自己の問題に巻き込まれており,何が問題なのか,どこに問題があるのかも分からない状態でした。問題を問題として認識できていない状態,問題を対象化できていない状態だったのです。このような状態では,その問題をコントロールすることは絶対に不可能です。どこにあるのか分からない,認識できていないモノはコントロールのしようがないからです。」


 ここで説いたように,外在化し,認識の対象と化すことで初めてコントロール可能性が生まれる,ということはまさに真理であって,何らの訂正を要しません。しかし,ここで説いたことは,あくまでも「可能性」が生まれるということであって,実際にコントロールができること,すなわち「現実性」とは相対的に独立した問題です。

 では,どのようにすればコントロール可能性を高めて,実際にコントロールできるようになるのでしょうか。この問題を考える際に,一度,外在化というテーマから離れて考えてみましょう。

 我々が日常生活で出会う事物・事象で,コントロールしやすいものというのは一般にどのようなものでしょうか。それは,実際に手で触れて扱えるモノではないでしょうか。たとえば,毎日の食事で食べている食べ物。これらは実際に手で扱えるモノであるだけに,切り刻むこともできれば,口にもっていって噛み切ることもできます。口に合わないものなら,遠ざけて置いておくこともできますし,捨てることもできます。いわば,意のままに操ることができるわけです。

 毎日読む新聞紙はどうでしょうか。これも手でもって扱えます。新聞紙は自由に広げたり,折りたたんだりできます。丸めることもできますし,切ることもできます。色を塗ることもできますし,燃やしてしまうことも可能です。

 要するに,手で触れられるモノ=実体であるならば,我々はある程度コントロールすることが容易なわけです。手で触れるのですから,形を変えたり,小さく分割したりすることもできる可能性が高いです。捨ててしまったり燃やしてしまったりして,そのモノをなくすこともできますし,遠くに置いておいて,近づかないようにすることも可能なのです。

 そうであるならば,非実体であるところの心=認識も,単に対象化するだけではなく,モノ化する=実体化すれば,非常に扱いやすくなるといえます。すなわち,コントロール可能性が高まり,実際にコントロールすることができるようになるわけです。

 このような抽象的な論理だけでは分かりにくいと思いますので,ここで1つ,事例を紹介します。この方はタバコをやめたいということで禁煙のためのセラピーを開始した方でした。まず,身体のどの部分でタバコを吸いたいという感情が感じられるかを尋ねました。すると,この方は喉のあたりだといいます。そこで,その喉から,吸いたいという感情を観念的に取り出してもらいました。そして,その観念的に取り出した感情を手でもってもらい,どのくらいの大きさなのか,どのような形をしているのか,どんな色をしているのか,どのくらいの重さなのか,どのような手触りか,ということを尋ねていきました。これらは,観念的に取り出した感情,つまり対象化した感情を,モノ化=実体化するための質問です。するとこの方は,野球のボールくらいの黒い球体で,鉛のように重くザラザラしているとおっしゃいました。

 このように,自分のタバコを吸いたいという感情を外在化して対象化するだけではなく,しっかりとモノ化=実体化すれば,今までいかんともしがたかったこの感情を,文字通り手にとるようにたやすくコントロールすることができるようになるのです。結局この方の場合は,神社仏閣が大好きだということでしたので,特にお気に入りの神社までこの球体の感情をもっていっていただいて,そこに静かに奉納することにしました。こうすれば,タバコを吸いたいという気持ちが自分から離れて存在することになり,自分はもう吸いたいと思わなくなる,というリクツです。実際この方は,この方法によって,40年間近く続けてきた喫煙をやめることができたのでした。

 前稿でも紹介した東豊氏による「虫退治」の技法も,目に見えないものをモノ化=実体化することによって扱いやすくし,それによって家族が協力して問題に取り組めるようにする仕掛けだといってもいいでしょう。たとえば,不登校の原因が子どもの性格にあるといわれても,ではどのようにしてその「性格」を扱い,変えていけばいいのか,簡単には答えは出ません。「性格」なるものは,なかなか思い通りにコントロールできないのです。ところが,不登校の原因は子どもについた「弱虫」という虫のせいだとすると,その「弱虫」はいつ,どのくらいの頻度で現れるのか,「弱虫」の好物は何か,逆に苦手なものは何か,などというように,問題が扱いやすくなります。そして,「弱虫」の好物を与えないように,逆に苦手なものを与え続けるように,家族で協力していきましょうというような形で介入して,不登校の原因たる「虫」をコントロールできる(退治できる)可能性が高まっていくのです。

 ここで分かっていただきたいことは,単に観念的に対象化するだけではなく,形あるものとして,3次元のモノとして,対象化すれば,我々がふだん手に触れて扱っているモノのように,容易にコントロールすることができるようになるのだ,ということです。べてるの家で実践されている幻聴を「幻聴さん」と呼んで人格化することも,この種のモノ化=実体化だといえます。認知行動療法では,多くの場合,紙の上に,すなわち2次元的に対象化するだけですから,その意味ではべてるの家の実践の方がよりコントロール可能性が高いといえるでしょう。認知行動療法でも,東豊氏の「虫退治」やべてるの家の「幻聴さん」を見習って,問題を3次元的に実体化する工夫を行えば,より効率的な介入が行えるともいえるでしょう。
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2017年08月03日

改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う(1/5)

〈目次〉

(1)前稿に欠けたるものとは?
(2)モノ化=実体化してこそ本当に認識をコントロールできる
(3)外在化によって観念的二重化の能力を鍛える
(4)心理療法は社会的認識を創り出す
(5)認識論に基づく心理臨床が求められる


(1)前稿に欠けたるものとは?

 以前,「職場のメンタルヘルス対策義務化」として,次のようなニュースが流れていました。

「職場のメンタルヘルス対策義務化=臨時国会で法改正へ―厚労省

 小宮山洋子厚生労働相は24日,事業者に対し医師などによる従業員のメンタルヘルス(心の健康)チェックを義務付ける労働安全衛生法の改正案要綱を労働政策審議会に諮問した。労政審は同日の安全衛生分科会でこれを了承し,原案通り答申。改正案は今臨時国会に提出され,来年秋にも施行される見込みだ。

 厚労省は「東日本大震災を契機にメンタルヘルスが不調に陥る人の増加が懸念され,予防対策を充実させる必要がある」としている。

 仕事上のストレスが原因でうつ病などになる人が増えていることから,改正案は全従業員の精神状態の把握を事業者に義務化。検査結果は医師や保健師から従業員へ直接通知し,本人の同意を得ずに事業者に提供することを禁じる。

 従業員は希望すれば医師の面接指導を受けられる。事業者は面接指導を申し出た従業員に対し不利益な扱いをしてはならず,医師の意見を聞いた上で,必要であれば勤務時間の短縮や職場の配置転換などの改善策を取ることを求められる。」(時事通信 2011年10月24日(月)22時20分配信)


 これは,うつ病などの予防対策として,職場でのメンタルヘルスチェックを義務付けるように国が動き出した,ということです。近年はうつ病患者が増加しており,年間3万の大台は下回ったとはいえ,まだまだ多い自殺の大きなリスク要因としてうつ病が指摘されているだけに,国も積極的にうつ病予防の対策に乗り出さざるをえなくなった,ということかと思います。

 実際,この記事で説かれている内容は,いわゆる「ストレスチェック制度」として,2015年12月から実施されています。筆者も臨床心理士として,いくつかの企業の労働者を対象に,ストレスチェック後の面接を行っています。

 このような流れを受けて,本ブログでは以前,うつ病の治療や予防に効果があるとされている心理療法である認知行動療法を取り上げて,その技法の1つである「外在化」の意義を,「改訂版 心理療法における外在化の意義を問う」と題して論じました。「外在化」と一口にいっても,分野や流派によって微妙にその意味内容が変わるのですが,前稿や本稿で扱っている「外在化」とは,主に認知行動療法で使われている技法をより抽象化して一般化した概念として用いています。認知行動療法でいわれている「外在化」とは,認知心理学で使われている「外在化」概念に近いものです。そこで念のために,認知心理学における「外在化」とは何かを,以下に引用しておきます。

「人間の認知(内的な知識や思考やイメージ),およびそれに伴う気分・感情や身体反応,つまり人間の内的な体験を,外的な装置(紙,ホワイトボード,コンピュータのモニターなど)に置いて,いつでも参照可能な状態にすること」(伊藤絵美他編『事例でわかる心理学のうまい活かし方』(金剛出版,2011))


 すなわち,外在化とは人間の内的体験を外に置いて,眺められるようにする,というような意味です。おおよそのイメージとしては,このようなものとして理解していただいて結構です。

 さて,前稿で説いた内容をここで振り返ってみましょう。連載第5回(最終回)で,次のようにまとめておきました。

「最初に,心理療法の技法である外在化とはどのようなものであるかを紹介しました。外在化とは,元々は当事者の内にあった心の問題を外に出すということでした。たとえば,認知行動療法においては,当事者の苦労や困りごとを,「状況」「認知」「気分」「身体」「行動」の悪循環として把握し,それを紙の上に描いて整理するという形で外在化を行いました。べてるの家では,幻聴を「幻聴さん」,特定の状況でふと浮かんでくるネガティブな認知(自動思考)を「マイナスのお客さん」などと呼んで,擬人化することによって外在化している,さらに東豊氏の「虫退治」においては,困りごとの原因を「虫」に帰属する(困りごとの原因が「虫」にあると考える),ということを紹介しました。このような外在化によって,心の問題を当事者以外にも目に見えるようにすることができるだけでなく,当事者から問題を切り離すこともできるのでした。「当事者=問題」という直接的同一性としての見方から「当事者と問題」という媒介関係としての見方へとシフトし,援助者と当事者(と他のメンバー)がチームを組んで,外在化された問題に取り組む,という姿勢が自然と構築できるのでした。

 次に,以上のような外在化を構造に分け入って,認識論的に説きました。認識論的にいうならば,外在化は観念的な対象化のための一つの有力な手段である,ということができるのでした。そもそも対象化とは,「対象→認識→表現」という過程的構造の最初の部分にそのモノを設定することでした。認識の対象でなかったものを,認識の対象として置く,ということです。さらに観念的な対象化とは,頭の中だけで当事者の外部にあるものとして客観化することでした。これらを踏まえるならば,外在化とは,実際には当事者の心の中にしかない心の問題を,あたかも当事者の外部にあるものとして,当事者が認識できる位置に客観的に存在しているものとして置くための手段である,ということができるのでした。外在化とは,巻き込まれていた状態から距離をとってその状態を眺めるための手段である,といってもいいということも確認しました。

 最後に,このように外在化によって心の問題を観念的に対象化することにどのような意義があるのかを考察しました。まずは,心の問題を観念的に対象化することによって,心の問題から距離がとれ,冷静になれるのだ,ということを確認しました。これは,なにがなんだか分からないままに問題となっている認識=像によって苦しめられていたのが,その認識=像が小さくなったことによって影響力が弱まったということを意味するのでした。さらに,より決定的に重要なのは,対象化することによってこそコントロール可能性が生まれることだ,という点でした。そもそも人間は,対象としたものと取り組むことによってその対象についての認識が発展し,その対象について自由自在にコントロールできる可能性が高まっていく存在でした。心の問題に巻き込まれて,なにがなんだか分からない状態ではどうすることもできなかったのに,対象化してしまえば,試行錯誤レベルでの取り組みであってもそれをコントロールできる可能性が生まれてくる,ということでした。

 以上のように,外在化の意義を端的にまとめれば,心の問題を対象化することによって,思い通りにコントロールできる可能性が生まれてくる,ということになるわけです。」


 このような内容を説いた小論に対して,我々の指導者からコメントをいただきました。端的には,この小論には大きく欠けているものがある,という指摘でした。具体的にいうと,第一に,単なる対象化ではなく,モノ化=実体化してこそ本当に認識をコントロールできるようになる,という点が不足していること,第二に,外在化とは端的いえば観念的二重化の問題であるのに,観念的二重化の視点からの考察がないこと,第三に,セラピストとクライントと問題というように三者関係に言及しているのはいいとして,ここに関連すると考えられる社会的認識の問題に踏み込めていないこと,という3つの指摘でした。

 そこで本稿は,「改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う」と題して,指導者から指摘された3点を順番に取り上げ,認識論的により深く構造に分け入って,心理療法における外在化の意義を考察してみたいと思います。

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2017年05月31日

改訂版 心理療法における外在化の意義を問う(5/5)

(5)認識を認識としてとらえる修練が必要である

 本稿は,認知行動療法やべてるの家の取り組み,東豊氏のシステムズアプローチなど,近年ますます注目されている精神疾患の患者に対する心理社会的な介入法の中で,共通する要因として外在化をテーマとして取り上げ,その意義を探ることを目的として論じてきました。ここで,これまでの流れをまとめておきたいと思います。

 最初に,心理療法の技法である外在化とはどのようなものであるかを紹介しました。外在化とは,元々は当事者の内にあった心の問題を外に出すということでした。たとえば,認知行動療法においては,当事者の苦労や困りごとを,「状況」「認知」「気分」「身体」「行動」の悪循環として把握し,それを紙の上に描いて整理するという形で外在化を行いました。べてるの家では,幻聴を「幻聴さん」,特定の状況でふと浮かんでくるネガティブな認知(自動思考)を「マイナスのお客さん」などと呼んで,擬人化することによって外在化している,さらに東豊氏の「虫退治」においては,困りごとの原因を「虫」に帰属する(困りごとの原因が「虫」にあると考える),ということを紹介しました。このような外在化によって,心の問題を当事者以外にも目に見えるようにすることができるだけでなく,当事者から問題を切り離すこともできるのでした。「当事者=問題」という直接的同一性としての見方から「当事者と問題」という媒介関係としての見方へとシフトし,援助者と当事者(と他のメンバー)がチームを組んで,外在化された問題に取り組む,という姿勢が自然と構築できるのでした。

 次に,以上のような外在化を構造に分け入って,認識論的に説きました。認識論的にいうならば,外在化は観念的な対象化のための一つの有力な手段である,ということができるのでした。そもそも対象化とは,「対象→認識→表現」という過程的構造の最初の部分にそのモノを設定することでした。認識の対象でなかったものを,認識の対象として置く,ということです。さらに観念的な対象化とは,頭の中だけで当事者の外部にあるものとして客観化することでした。これらを踏まえるならば,外在化とは,実際には当事者の心の中にしかない心の問題を,あたかも当事者の外部にあるものとして,当事者が認識できる位置に客観的に存在しているものとして置くための手段である,ということができるのでした。外在化とは,巻き込まれていた状態から距離をとってその状態を眺めるための手段である,といってもいいということも確認しました。

 最後に,このように外在化によって心の問題を観念的に対象化することにどのような意義があるのかを考察しました。まずは,心の問題を観念的に対象化することによって,心の問題から距離がとれ,冷静になれるのだ,ということを確認しました。これは,なにがなんだか分からないままに問題となっている認識=像によって苦しめられていたのが,その認識=像が小さくなったことによって影響力が弱まったということを意味するのでした。さらに,より決定的に重要なのは,対象化することによってこそコントロール可能性が生まれることだ,という点でした。そもそも人間は,対象としたものと取り組むことによってその対象についての認識が発展し,その対象について自由自在にコントロールできる可能性が高まっていく存在でした。心の問題に巻き込まれて,なにがなんだか分からない状態ではどうすることもできなかったのに,対象化してしまえば,試行錯誤レベルでの取り組みであってもそれをコントロールできる可能性が生まれてくる,ということでした。

 以上のように,外在化の意義を端的にまとめれば,心の問題を対象化することによって,思い通りにコントロールできる可能性が生まれてくる,ということになるわけです。

 ヘーゲルの用語で説くならば,外在化(による観念的対象化)とは即自から対自への発展を促す,ということができます。即自とは自分と他者の区別がつかない状態,対自とは自分と他者とが区別できる状態のことです。外在化以前は,自分と心の問題が一体化しており,まさになにがなんだか分からない状態で苦しんでいます。ところが,外在化によって心の問題を観念的に対象化することができれば,対象たる心の問題と,それを認識している主体たる自分というように,明確に両者の区別がつけられるようになるわけです。

 そもそも認識とは何かという把握が不十分であるとはいえ,心理療法における外在化は,認識を認識として把握しようとする第一歩だと評価することができます。なぜなら,本来は自分しか見えない,それもそれなりの訓練をしないと決してきちんと見ることができない自分の認識を,誰もが対象として認識できるような工夫がなされているからです。

 人類は対象と取り組むことによって,対象の構造を明らかにしてきました。そして,対象の構造が明らかになるにしたがって,徐々に自分の意のままに対象を操れるようになる度合いが増してきました。そうすることによって,不安心を解消し,対象に安んずることができるようになってきたのです。このように,不安心を対象の構造を解明することによって解消しようとする流れが,学問の発展の流れそのものなのです。したがって,当事者にとってはまさになにがなんだか分からないところの心の問題を,何らかの形で対象化することができれば,それは不安を解消し安んずるための大きな一歩である,と評価することができるのです。しかもそれは,宗教的な方法ではなく,学問的な方法によって,自己の心の問題に安んずる第一歩なのです。

 認識学の偉大な先達といっていい故・海保静子先生は,『育児の認識学』(現代社)において,認識=像を絵として表して展開されています。これこそが真の認識の外在化であり,対象化であるといえるでしょう。海保先生は,認識を図示することの重要性を次のように説いておられます。

「その前進の中身,すなわち図示することの重要性は,次の2つにあります。1つは,精神活動すなわち認識は対象の頭脳における反映であり“像”だからです。その像とは映像,つまり姿,かたちをもった絵,シルエットというふうにマンガ的にとらえておくと,とてもわかりやすい,ということになります。

 さらに1つは,私たちが意識するしないにかかわらず,認識活動は像のモロモロの展開として行なわれていくのですから,私たちが自らの思考活動を訓練していく場合,この像のあり方をしっかりと像として自覚し,認識していく必要がある,ということです。具体的には,像として明確に描いているか,はたしてその像が対象と合致したものであるかどうか,自分勝手に歪めたりしていないかどうかを,1つ1つ対象と照らしあわせながら,その像の描き方を像としてチェックしていく能力です。この像のはたらきそのものがほかならぬ自己をみつめる能力であり,その像を対象の構造に合致させていくことのくりかえし,それこそが観念的二重化の能力を高めていく訓練過程であり,方法なのです。」(p.276)


 このように海保先生は,思考活動を高めるための訓練方法として,認識を認識として自覚してみつめる重要性を説いておられます。このように自分の認識をしっかりと対象化することによって,自分の認識をコントロールできるようになっていくのです。

 認識論を志す者は当然に,自分の認識を認識として,しっかりと見つめ,それをしっかりとコントロールできるようにならねばなりません。しかし,認識論志望者だけでなく,誰であっても,自己の認識のコントロールはある程度必要となってきます。特に精神疾患のある患者は,何らかの原因で,健常者よりも認識のコントロールがうまくいかなくなっている状態に置かれています。そのため,通常の人間以上に,認識を認識としてみつめる工夫が必要となってきます。心理療法における外在化という技法は,まさに,この認識を認識として見つめるための強力な手段なのです。そして,認識を認識としてみつめる修練をくり返すことによって,ある程度,自己の認識をコントロールできるようになることは,認知行動療法のエビデンスやべてるの家の実績,それに東豊氏の治療成績が雄弁に物語っているといえるでしょう。

 臨床家としての筆者は,今後,患者さんの困りごとや悩みごとを少しでも効果的に解消できるように,認知行動療法やべてるの家,東豊氏の外在化を絶対とするのではなく,より認識の構造に見合った外在化を工夫していきたいと思っています。そのような外在化の工夫が,心理臨床の世界のレベルアップに貢献するだけでなく,逆に認識の構造をよりクリアーにしていくことにもつながり,筆者の夢である独自の認識学の構築にもつながっていくものと確信しています。

(了)
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2017年05月30日

改訂版 心理療法における外在化の意義を問う(4/5)

(4)対象化してこそコントロール可能性が出てくる

 前回は,外在化とは認識論的に説くならばどういうことなのかについて説明しました。端的には,外在化は,心の問題を観念的に対象化するための一つの有力な手段なのであり,観念的な対象化が可能となるのは,当事者と問題を切り離し,当事者が問題から距離をとれるようになるからである,ということでした。

 今回は,このように外在化によって心の問題を観念的に対象化することにいかなる意義があるのかを考察したいと思います。

 まず,前回の最後に触れたように,外在化によって心の問題から距離がとれる,という点が大切です。

 当事者はまさに「なにがなんだか分からない」状態で苦しんでいます。ネガティブな思考や感情の渦中にいる,といってもいいでしょう。それが,外在化による観念的対象化によって,その状態から距離をとれるのです。苦しみから離れることができるのです。したがって,この外在化だけで大分苦労が和らぐということになります。

 これは喩えてみれば,海の中で溺れて苦しんでいた状態から,救助されて海岸に運ばれた状態になるのと似ています。海から距離をとることによって,苦しさの余韻は当然残っているとはいえ,楽になるのです。あるいは,火事で燃えている家の中にいて,熱さで苦しんでいたところを,救助されて家の外に運ばれたようなものともいえます。家の外から燃えさかる家を眺めて,「ああ,あんな場所にいたのか。もう少し救助が遅かったら焼け死んでいたな」などと,当初いた場所を距離をとって眺めるというのが,外在化による観念的対象化に相当するといえるでしょう。

 もちろん,心の問題の外在化は,現実的に海から離れたり火から離れたりするのとは違って,まさしく「観念的な」対象化であり,観念的に,すなわち頭のなかだけで心の問題から距離がとれるに過ぎません。しかし,もともと心の問題というもの自体が主観的なものであり,認識上の問題であるのですから,観念的に距離がとれればそれでいいのです。というより,観念的にしか距離のとりようがありません。

 心の問題から観念的に距離をとるということを,認識=像の問題としてとらえるならば,当初強烈な威力を持っていた認識=像の影響力・支配力を,弱めるということを意味しています。試しに,次のようなことを想像してみてください。目の前に大きな梅干しがあります。それを食べようと口に運ぶと,梅干しの匂いもしてきます。そして一気に口の中に入れて,咀嚼しました。どうでしょうか? 酸っぱさが実際の感覚として体験できたのではないでしょうか? 今度は目の前にある梅干しから,どんどん離れていくことを想像してください。10メートル,20メートルと離れていくと,もはや点にしか見えなくなりました。この状態で,酸っぱさを感じるでしょうか? おそらく感じないはずです。梅干しの像が及ぼす影響力(酸っぱさ)も,距離をとると感じなくなるのです。

 このように,心の問題から距離をとるということは,心の問題の像がいわば小さくなることですし,当然,そこから受ける影響(苦しみ)もその分,小さくなっていくのです。もちろん,今やっていただいた梅干しの像から観念的に距離をとって小さくしていくという操作ほど容易には,巻き込まれている心の問題を小さくすることはできません。だからこそ,外在化という心理療法の専門的な技法が考案され,用いられているわけです。

 このように外在化によって心の問題から距離をとれ,冷静になれるということ以外にも,決定的に重要な外在化の意義があります。それは,対象化することによって,その問題のコントロール可能性(解決可能性)が生まれてくる,ということです。

 そもそも外在化する前は,自己の問題に巻き込まれており,何が問題なのか,どこに問題があるのかも分からない状態でした。問題を問題として認識できていない状態,問題を対象化できていない状態だったのです。このような状態では,その問題をコントロールすることは絶対に不可能です。どこにあるのか分からない,認識できていないモノはコントロールのしようがないからです。

 うつ病で,なんだかやる気が出ない,億劫である,ということはよくあります。しかし,このままの状態では,いくらやる気を出せとか頑張れとかいわれても,あるいは,自分自身がやる気を出そうとしても,このやる気が出ないという問題は解決しません。

 ところが,専門家との共同によって自分の問題を外在化して,以下のことが分かったとします。これは連載第2回で挙げた例と同じものです。

状況:担当している仕事が進まない。
   そのことを上司に注意された。
 ↓
認知:何をやってもうまくいかない。
   自分はやはりダメな人間だ。
   ダメ社員と思われているに違いない。
 ↓
気分:憂うつ。無気力。自己嫌悪。
 ↓
身体:涙がこみあげる。
 ↓
行動:泣くのを我慢して仕事を続ける。


 このように問題を外在化し,対象化することができれば,無気力というのは「何をやってもうまくいかない」とか「自分はダメな人間だ」というような認知(ものごとのとらえ方)に関係があるのではないか,ということが分かってきます。そうすると,この認知の妥当性を検討したり,別の考え方を採用したりすることによって,自分の認知の癖を修正できれば,無気力という気分も変わるのではないか,ということになります。

 このように対象化してこそ,コントロール可能性が生まれてくるのです。この論理は心の問題に限らず,一般にどんなことにも当てはまります。

 人類は,歴史の経過とともに新しい対象を次々と獲得して,その対象と取り組むことによって,対象の構造を明らかにし,その対象をコントロールできるようになってきたのです。その時代性において対象でないモノ,対象化されなかったモノをコントロールすることなど,絶対にできない相談です。たとえば,ペニシリンが発見(対象化)される以前に,ペニシリンを製造したりそれを使ってある病気を治療することなどできない,という例で分かってください。

 ところが,あるモノを対象化してしまえば,ああでもない,こうでもないと試行錯誤的にその対象と関わることによって,徐々に対象の構造がクリアーになっていき,それに伴って,思い通りにコントロールできる可能性が増していくのです。これが自由の獲得の過程だといえるでしょう(「自由とは必然性の洞察である」というエンゲルスの名言を思い出してください)。

 心の問題も,巻き込まれてなにがなんだか分からない状態では,どうすることもできません。しかし,外在化によって観念的に対象化すれば,その時点でコントロール可能性が生まれるのです。もちろん,認知行動療法にしてもべてるの家の当事者研究にしても,あるいは東豊氏の「虫退治」にしても,認識の構造を正確に捉えたうえでの介入とはいえないレベルのものです。しかし,それよりも,対象化するということ自体が,非常に重要で意味のあることなのです。まだまだ正確に認識できていないとしても(あるいは「虫退治」のようにそもそも間違った認識であっても),その対象と試行錯誤しながら関わることによって偶然的にも良い結果が生じる可能性が出てくるからです。

 心の問題を,薬物などの生物学的な介入を用いずに何とかしようとする心理社会的な介入にあっては,問題を認識できるようにしっかりと対象化するということがいかに大切か,分かっていただけたと思います。端的には,対象化してこそ,そのモノのコントロール可能性が生まれてくる,ということです。
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2017年05月29日

改訂版 心理療法における外在化の意義を問う(3/5)

(3)外在化は観念的対象化のための手段である

 前回は,認知行動療法とべてるの家,そして東豊氏の「虫退治」のアプローチで共通してみられる外在化という心理療法の技法を紹介しました。外在化とは,当事者の内にあった心の問題を外に出すことによって,問題を当事者から切り離すことであるということでした。こうすることによって,援助者と当事者(とさらに他のメンバー)が共同して,一つの問題に取り組むという姿勢を確立することができるのでした。

 このような前回の説明は,現象論的な説明(外から見えるあり方をそのまま説くもの)といえます。今回は,この外在化のプロセスを構造に分け入って,認識論的に説いてみたいと思います。

 端的に結論からいうならば,外在化は観念的な対象化のための一つの手段である,ということができます。少し説明します。

 まずこの中に出てくる「対象化」とは何でしょうか? これは「対象でなかったモノを対象と化す」という意味です。ここでいう対象というのは認識にとっての対象のことです。では,認識にとっての対象とはどういうことでしょうか?

 ここで対象と認識(と表現)の関係を復習しておきましょう。この三者の中で,認識はどのような位置を占めるのでしょうか。端的にいうと,対象と認識の間に位置づけられます。つまり,「対象→認識→表現」という過程的構造があるのです。たとえば,目の前の杉の木を写生する場合,対象とは目の前の杉の木ですし,認識とはそれを目(五感覚器官の一つ)で見て頭の中に写しとった杉の木の像のことです。さらに表現とは,その頭の中の杉の木の像を物質的な形に投影して,キャンバスの上に描いた絵のことです。逆からいうならば,描かれた杉の木の背後には,作者の認識が,さらにその背後には現実に存在する杉の木という対象がひそんでいるわけです。したがってこの場合,認識にとっての対象とは目の前に存在する杉の木のことです。このように,認識として頭の中に反映する元のモノを「対象」というわけです。

 このように考えれば,対象化の意味も分かってくると思います。「対象でなかったモノを対象と化す」ということは,すなわち,「対象→認識→表現」という過程的構造のスタート地点に,そのモノを置く,ということです。写生の例でいえば,特定の杉の木の前に座って,自分(の認識)にとって都合のよい位置にその杉の木を置く,ということになるでしょう。

 では次に,「観念的な対象化」とはどういうことでしょうか? これは現実的・客観的には対象化していないけれども,頭の中の操作として,対象化したことにする,あるモノを認識の対象の位置に設定する,ということです。これに関して,弁証法の基本書では次のような例が挙げられています。

「この労働力を買うと,雇傭関係が成立しますが,これは契約というかたちをとります。……『月給二万円ならやとおう』『それでけっこうです』と買い手と売り手と両者の意志が一致すれば,ほかに何を考え何をのぞんでいるかはともかく,この点では共通の意志が成立します。意志はそれぞれの当事者の頭の中に主観的なものとして生れるのであって,頭からぬけだして外部に存在することはできません。しかしこのときの当事者は,共通の意志を個人的に勝手に変えてはならぬものとして固定化し,さらに観念的に当事者の外部にあって当事者を拘束する意志のかたちに客観化し,その意志に従うことになるのです。これを意志の観念的な対象化とよびます。私たちの日常生活で,『明日三時にいつものところで会いましょう』『ええ,いいですわ』と約束するのも,やはり意志の観念的な対象化です。」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』pp.181-182)


 ここでは契約と約束の例が挙げられていますが,「当事者の頭の中に主観的なものとして生れ」たモノを「観念的に当事者の外部にあ」るモノとして「客観化」することを観念的な対象化と呼ぶのだ,ということです。確かに,「こうしろ」「こうしてはいけない」とうような契約や約束は,対象の位置から発せられる命令というように主観的には受け取れますが,しかし,実際にこのような命令を発するモノが当事者の外部に,客観的に存在しているわけではありません。このように頭の中だけで行われるという意味で「観念的な」対象化というわけです。人間の認識には,現実に客観的に対象として存在していないモノでも,観念的に対象化する能力が備わっているのです。

 以上を踏まえて,「外在化は観念的な対象化の一つの手段である」というのはどういうことでしょうか?

 それは,心の問題を外在化することによって,実際には当事者の心の中にしかない問題を,あたかも当事者の外部にあって当事者が眺めることができる位置に客観的に存在しているかのように置くことができるようになる,ということです。心の問題を紙に書いて外在化したり,「幻聴さん」と呼んで擬人化することで外在化したり,あるいは不登校の原因を「怠け虫」にあるとして外在化したりしても,実際に心の問題が客観的に外部に存在するわけでもないし,幻聴さんという人物や「怠け虫」という虫が客観的に存在するようになるわけでもありません。しかし,そうすることによって,自分の心の問題をしっかり認識できるようになるわけです。つまり,心の問題を認識の対象と化すことができるようになるのです。このように,外在化は,心の問題を観念的に対象化するための一つの有力な手段なのです。

 心の問題を抱える当事者は,その心の問題に巻き込まれて,いわば「なにがなんだか分からない(ことすらもなにがなんだか分からない)」生まれたばかりの赤ん坊と同じように,なにがなんだか分からない状態で苦しんでいます。統合失調症の患者の中には,病識(自分が病気だという自覚)がない方もおられます。すなわち,問題を問題として認識できていないのです。ところが,外在化によって心の問題を観念的に対象化すれば,文字通り,心の問題を問題として認識することができるようになるわけです。

 外在化する以前は,心の問題が見えない状態(認識の対象ではない状態)になっています。これは,自分が心の問題と近すぎて,それに巻き込まれているからです。これはちょうど,地上にいる人間が,そのままの状態では地球を対象化できないのと論理的には同じことです。地上にいる人間は,いわば地球の(ごく小さな)一部分なのであって,地球と自分が一体化しています。ですから,自分たちが立っている場所が,実は地球という球体をした惑星である,などということは認識できないのです。地球だということを認識するためには,すなわち,地球を対象化するためには,宇宙船に乗って地球から離れ,ある程度の距離をとって自分たちのいた場所を眺める必要があります。海を泳いでいる魚も,自分たちの泳いでいるところが「海」であるとは認識していないでしょう。飛び魚のように海から空中へ飛び出して初めて,自分たちが泳いでいたところが海であったと認識することができるのです。

 先の写生の例でも同じことがいえます。杉の大木が目の前5pの位置にあったら,それを杉の木だと認識することはできるでしょうか? おそらくできません。少なくとも,写生の対象として,芸術的認識の対象としてとらえることはできないでしょう。この場合,50メートルなり100メートルなりさがった位置でないと,杉の木を対象化することはできないのです。

 このように,一般的にいうと,あるモノを対象化する際には,そこから一定の距離をとる必要があるのです。心の問題を外在化することによって,当事者と問題を切り離すということは,実はこの対象化に必要な距離をとることを意味しているのです。距離をとることができるからこそ,外在化によって心の問題の観念的な対象化が実現できるということもできるわけです。

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2017年05月28日

改訂版 心理療法における外在化の意義を問う(2/5)

(2)外在化とは問題を当事者の外に置くことである

 前回は,増加する精神疾患の患者に対して,心理社会的な介入の重要性が増しているとして,認知行動療法とべてるの家の取り組み,そして東豊氏のシステムズアプローチという3つの奏効している例を挙げました。そして,三者に共通する要素として「外在化」という技法があるのだと述べました。

 今回は,この外在化という技法を紹介したいと思います。

 外在化とは,文字通りに解するなら,「外に在るものと化す」ということです。元々は内に在った(内在していた)ものを外に出す,外にあるものとするということです。

 では,元々は内に在ったものとは何でしょうか? それは,本稿でテーマにしている精神疾患に関して端的にいえば,「心の問題」(とそれに関わる身体の問題・行動の問題)ということになるでしょう。ですから,外在化とは,心の問題を外に出す,外にあるものとするということなのです。

 これだけでは抽象的過ぎて分からないと思いますので,具体的に説明します。

 たとえばうつ病に対する認知行動療法においては,はじめに事例の概念化という作業をセラピストと当事者が共同して行います。これは,当事者の体験と状態を総合的に理解するための作業です。その際,分かってきたことを紙の上に図式化して書いて,セラピストと当事者が共有することが多いのです。一例を紹介しましょう。

状況:担当している仕事が進まない。
   そのことを上司に注意された。
 ↓
認知:何をやってもうまくいかない。
   自分はやはりダメな人間だ。
   ダメ社員と思われているに違いない。
 ↓
気分:憂うつ。無気力。自己嫌悪。
 ↓
身体:涙がこみあげる。
 ↓
行動:泣くのを我慢して仕事を続ける。


 このように紙に書いて整理することによって,当事者が内にかかえていた「心の問題」を外化することができるわけです。これが外在化です。

 このような外在化にはどのような意味があるのでしょうか? まず,外在化することによって,当事者の中にあって目に見えなかった「心の問題」を,当事者だけでなくセラピストも,目に見える形で取り出すことができる点が挙げられます。内にあって見えなかったものを,外に出すことによって「見える化」するのです。

 別の意味もあります。それは,元々は「当事者=うつ病」,すなわち「当事者=問題」という図式であったのが,外在化することによって変化するのです。どう変わるのかというと,問題は当事者の外にあるわけですから,「当事者と問題」というように,別個のものとして存在するようになるのです。外在化する以前は,当事者が直接に問題であったのが,外在化することによって,当事者と問題が媒介関係になる,といってもいいでしょう。このように,外在化とは当事者と問題を切り離すことでもあるのです。

 ここから,外在化は「人が問題なのではなく問題が問題なのである」(マイケル・ホワイトの言)という見方をすることにつながるといえます。たとえば,うつ病の症状としてやる気が起きない人がいた場合,ややもすれば当事者の問題だとして,「もっとやる気を出せ」とか「がんばれ」とかいってしまいかねません。これは,当事者自身が問題だととらえていることを意味します。そして,このような物言いは当事者を責めているようにも受け止められます。

 ところが外在化すれば,「ここの“何をやってもうまくいかない”という認知が問題ですね。これが無気力につながっているので,もう少し行動につながるような認知ができないか,考えてみましょう」というような形で介入することができます。これは,外在化された「認知」が問題で,その認知が当事者を困らせているという前提ですから,当事者を責めているような印象がずいぶん和らぎます。

 このように外在化すれば,当人を問題視するという姿勢から,外在化された,当人とは別の何かが問題であって,それが当人を苦しめている,というとらえ方になるのです。

 こうなると,セラピストと当事者の関係性も変わってきます。もともと心理療法においては,援助するセラピストと援助される当事者という二者の関係性(セラピスト⇔当事者)が基本です。ところが心の問題を外在化することによって,セラピストが当事者とチームを組んで問題にあたる,というような三者関係(セラピスト・当事者⇒問題)に発展するのです。媒介関係の発展によって,当事者は援助される対象であると同時に援助する主体でもあるという矛盾した構造が創出され,それに伴って,セラピストと当事者は共同して問題に対処するという調和的な関係が構築されるわけです。認知行動療法においては,このような「自助の精神」や共同的な関係性が重視されています。

 べてるの家でも外在化は重視されており,オリジナルでユニークな手法が編み出されています。もっとも有名なのが,統合失調症のメインともいえる症状である幻聴を「幻聴さん」と呼んで,擬人化すると直接に外在化する手法です。他にも,ある特定の状況でふと浮かんでくるネガティブな認知(認知行動療法では「自動思考」と呼びます)は「マイナスのお客さん」と呼ばれています。これも擬人化=外在化の一例です。

 べてるの家では,このような外在化によって心の問題を誰もが目に見える形に表現します。本来は当事者の内部にあって目に見えないはずの幻聴や自動思考を,「幻聴さん」「マイナスのお客さん」というように擬人化することによって外在化し,そういった迷惑な人たち(問題)にどう対処していくかを,援助者や他のメンバーと協力して,「ああでもない,こいうでもない」と話し合いながら探っていきます。ホワイトボードに幻聴さんやマイナスのお客さんのイラストを描きながら当事者の苦労のメカニズムを明らかにし,それに対する対処法を提案していくのです。これが当事者研究です。

 そして,苦労に対する対処法が見つかれば,実際にSSTでロールプレイをすることによって,その対処法を練習します。その際,他のメンバーが幻聴さん役やマイナスのお客さん役を演じます。

 たとえば,「おまえ,きもい」という幻聴が聞こえて苦しんでいた当事者は,これまでは「うるさい! あっちに行け」と怒鳴ることによって対処していました。それでも幻聴は消えません。長年の当事者研究の積み重ねによって,幻聴さんに対しては「丁寧に,やさしく,粘り強く」お願いすることが有効であると分かってきています。そこで,SSTでそのお願いの仕方を練習します。幻聴さん役の他のメンバーが当事者に向かって「おまえ,きもい」と連呼します。それに対して,当事者が丁寧にやさしく「分かりました。分かりましたから,今日のところは帰っていただけませんか?」などとくり返しお願いするのです。このような練習をくり返すことによって,幻聴に襲われたときも我を忘れず,冷静に対応できるようになるということです。

 東豊氏の「虫退治」という技法も,外在化の一種といえます。たとえば不登校の息子がいる家庭の場合,その不登校の原因を母親の育児のせいにしたり,父親の非協力的な姿勢のせいにしたり,あるいは,息子自身の性格のせいにしたりと,家族のそれぞれが,他のメンバーの非を訴えることがよくあります。これでは,家族で一致団結して,不登校という問題に対処していくことはできません。そこで東氏は,家族が訴える不登校の原因を全て否定して,息子についた「虫」のせいだと力説するのです。そしてその虫に「怠け虫」とか「弱虫」とかいう名前を付けて,その虫を退治する儀式を家族が協力して行うように仕向けるのです。もちろん,このような枠組みにのせるためには,前提となるコミュニケーションの工夫があります。今回,それは措くとして,もし「虫退治」という枠組みにのせることに成功すれば,原因が家族のメンバーの中にあるのではなく,「虫」という外在化されたものにある,というように,家族の見方が変わります。このような外在化によって,誰かを責めるのではなく,一致団結して外に置かれた問題に対処することが可能になるのです。

 以上のように,外在化で当事者(あるいはその家族)と問題を切り離すことによって,すなわち,「当事者=問題」という見方から「外部にある問題とそれに苦しめられている当事者」という見方へとシフトすることによって,援助者と当事者(やさらに他のメンバー)がタッグを組んで問題に取り組み,解決方法を模索していくことが可能となるのです。
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2017年05月27日

改訂版 心理療法における外在化の意義を問う(1/5)

目次
(1)外在化にはいかなる意義があるのか
(2)外在化とは問題を当事者の外に置くことである
(3)外在化は観念的対象化のための手段である
(4)対象化してこそコントロール可能性が出てくる
(5)認識を認識としてとらえる修練が必要である

――――――――――――――――――――

(1)外在化にはいかなる意義があるのか

 近年,うつ病や統合失調症などの精神疾患の患者が増加しています。それを受けて,以前,次のようなニュースが報道されました。

「4大疾病,精神疾患加え5大疾病に…厚生労働省

 厚生労働省は6日,「4大疾病」と位置付けて重点的に対策に取り組んできたがん,脳卒中,心臓病,糖尿病に,新たに精神疾患を加えて「5大疾病」とする方針を決めた。

 うつ病や統合失調症などの精神疾患の患者は年々増え,従来の4大疾病をはるかに上回っているのが現状で,重点対策が不可欠と判断した。

 同省は同日,国の医療政策の基本指針に精神疾患を加える方針を社会保障審議会医療部会で示し,了承された。この指針を基に都道府県は地域医療の基本方針となる医療計画を作る。

 4大疾病は2006年に重点対策が必要な病気として指針に明記。それを受けて都道府県が,診療の中核を担う病院の整備や,患者を減らすための予防策など,具体的な対策を立てた。

 医療計画は5年に1度見直され,次回は13年に予定している都道府県が多い。

 同省の08年の調査では,糖尿病237万人,がん152万人などに対し,精神疾患は323万人に上る。」(2011年7月7日 読売新聞)


 これは,精神疾患の患者数が「4大疾病」の患者数を上回るまでに増加してしまったために,国が重点的な対策に乗り出した,ということです。このように,精神疾患で苦しんでいる方が増えているのが日本の現状なのです。

 また自殺者数も高止まりしています。年間自殺者数は1998年から2011年まで14年連続で3万人を超えていました。2012年以降は3万人を下回っているものの,依然として2万人は超えています。これらの数のなかにはうつ病を患っての自殺も多いと考えられています。

 このような現状の中で,精神疾患に対する治療法として,従来からの薬物療法だけではなく,心理社会的な介入も重視されるようになってきました(心理社会的な介入というのは,当事者に対する心理療法(精神療法)をはじめとして,集団に対する集団精神療法,当事者や家族に対する教育的な援助,地域(小社会)に対するアプローチなどの総称です)。たとえば,2010年4月から,うつ病に対する認知行動療法が保険適用可能となり,2016年の診療報酬改定では,強迫性障害,社交不安障害,パニック障害などにも認知行動療法の適用範囲が拡大されました。認知行動療法というのは,うつ病などの気分障害や,パニック障害・強迫性障害などの不安障害等に効果があるというエビデンス(証拠)のある心理療法です。詳しくはいずれ説くとして,簡単には,患者の認知(物事のとらえ方・考え方)や行動を変えることによって,気分障害や不安障害の症状を緩和していこうとする心理療法です。この認知行動療法が保険適用となったということは,国がその効果を認めたということです。厚生労働省は,認知行動療法のマニュアルも作成して,無料で配布しています。

http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/kokoro/

 また,統合失調症をはじめとする重度の精神障害者に対するアプローチとしては,「べてるの家」の方法が注目されています。べてるの家というのは,北海道浦河町にある,精神障害等をかかえた当事者の地域活動の拠点のことです。そこで暮らす当事者にとっては,生活共同体,働く場としての共同体,ケアの共同体という3つの性格を有しているとされています。現在,100名以上の当事者が暮らしています。

 べてるの家が注目されているのは,精神障害等をかかえた当事者が起こした事業が成功していることが大きな要因だと思われます。元々は地元特産の昆布の通販から始まりましたが,今ではさまざまな事業展開をみせ,年商1億円を超えているということです。

 このべてるの家で心理社会的な治療的取り組みの中心になっているのが当事者研究とSST(social skills training;社会生活技能訓練)です。特に当事者研究は,べてるの家オリジナルのアプローチであり,世界に誇れる方法論なのではないかと筆者は考えています。これは簡単にいうと,当事者が自分の助け方について研究する,というものです。以下にいくつかの事例が紹介されていますので,是非目を通してみてください。

http://bethel-net.jp/tojisha.html

 SSTというのは,社会生活上必要となるコミュニケーションの技能(スキル)を,ロールプレイによる練習を通して身につけようというアプローチです。たとえば,断るのが苦手な方は,断らなければならない架空の場面を設定して,寸劇のような形で断る場面を演じて,他の参加者からフィードバックをもらいながら,よりよい断り方を練習していくのです。

 この当事者研究とSSTを通して,自分を助ける対処法を見つけて身につけ,実際に社会人として働くことで誇りのある人生を取り戻し,講演や執筆活動を通して広く社会にアピールしているのがべてるの家の当事者の方々なのです。

 さらに,日本を代表する天才セラピストとされる東豊氏は,家族療法とかシステムズアプローチとか呼ばれる心理療法で介入し,非常に優れた治療成績を残されています。彼が使用する技法のなかには,有名な「虫退治」というものがあります。これは簡単に説明すると,たとえば不登校の原因を子どもについた「虫」にあるとして,その「虫」を退治するための儀式を家族で行うというものです。非常にユニークな介入技法ですが,東氏はこれによって驚くほどの効果をあげています。

 さて,認知行動療法にせよ,べてるの家出の取り組みにせよ,あるいは,東豊氏の「虫退治」にせよ,心理社会的な介入が奏効しています。では,三者に共通する要素には,どのようなものがあるのでしょうか?

 いろいろな要素が考えられますが,本稿では「外在化」という心理療法の技法を取り上げたいと思います。筆者は心理士として認知行動療法も施術していますし,以前べてるの家を見学したこともあります。東豊氏の著作は全て読みましたし,東氏の研修会にも参加した経験があります。そのような学習や体験から浮上した三者の共通性の一つが外在化なのです。

 心理療法における「外在化」とは,もともとマイケル・ホワイトというオーストラリアのセラピストが提唱したもので,家族療法の文脈で扱われてきました。しかし,現在では,家族療法に関わらず,広く心理療法のなかで普及している技法といえます。たとえば,「べてると認知行動療法のインターフェース」をテーマに書かれた『認知行動療法,べてる式。』(伊藤絵美・向谷地生良編著,医学書院)という本においても,「べてると認知行動療法のさまざまな接点」の一つとして外在化が取り上げられています。

 そこで本稿では,この外在化を一般化してとらえ返して,その意義を考察していきます。まずは外在化とはどのような技法であるかを紹介したいと思います。その後,外在化を認識論的に説き,その意義を明らかにしていくつもりです。
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2017年02月17日

認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想(5/5)

(5)『“夢”講義』は鈍才的に学ばなければならない

 本稿は,今年一年間,われわれが京都弁証法認識論研究会全体で南郷継正『“夢”講義』をしっかり復習していく,その第一弾として,『“夢”講義(1)』を取りあげ,学んだことをきちんと言語化していく論考であった。ここで,これまでの内容を振り返っておきたい。

 はじめに,本書で説かれている認識論の基本を確認した。認識論とは,アタマとココロのはたらきを立派にするための学問であった。このように,認識論を客体についての理論と考えるのではなく,あくまでも自分の頭脳活動に活かすためのものとして主体的に捉えることが大切だと説いた。また,認識論は,心理学を学問的に学びとる術・方法であるとも説かれていたので,これはどういうことかを,「学問」とは何かと問うて,考えていった。学問とは,対象の性質を論理として把握して体系化したものであり,学問体系とは,人間の体の体系のように,あるべきところにきちんとあるべきものがあり,それが一貫してつながってひとかたまりになって本質論によって統括されながら活動していけるものということであった。したがって,心理学のバラバラな知見を,認識論で学問的に学びとれば,一貫してつながったものとして活動でき,巨大な力を発揮できるということになるのであった。次に,認識学とは何かを確認した。認識学とは,人間の頭脳活動(アタマの働きとココロの働き)たる認識のすべてを体系的レベルで論じきるものであり,それには三本柱があって,認識をその原点から,それも系統発生的な原点と個体発生的な原点の二つの原点から,一貫して筋を通して説ききるものなのであった。では,その認識論・認識学が対象とするところ認識とは何か。認識とは脳細胞が描く像であるが,これまで,像とは何かを説いた学者はいないと説かれていた。それを初めて説いたのが海保静子先生なのであった。その内容をまとめると,像とは,視覚,聴覚,味覚,嗅覚,皮膚感覚,といった五感のすべてが動員されて形成された五感情像であり,これは人間に特有の個性的感覚像のことであり,このような感情で問いかけて対象を見るのが人間の特徴である,ということであった。このような五感情像である認識を対象として,認識を理論化・体系化したものが21世紀の新興学問とされている認識学なのであった。

 次に連載第3回では,本書で説かれている認識と言語の関係について検討した。看護においては相手の立場に立つことが必要だが,それは非常に困難であることが説かれていた。相手の立場に立つためには,病む人と関わり続けることと,時代の心とか社会の心とか人間の心といったものを,それが描かれたふさわしい小説から学び続けることが必要だと説かれていた。そのうえで,コミュニケーション論が説かれていった。ここでは,コニュニケーションとは心を分かり合うことであり,相手の立場に立っての観念的二重化=自分の観念の相手的観念化であるとして,それが可能となるためには,小説の学びだけではなく,コミュニケーションは何よりもまず言葉を介してなすものであるから,言葉(言語)とは何か分からなければならないと説かれていた。そして,三浦つとむ『認識と言語の理論T』の大事なところが引用され,その中で最も大事なところを要約して,@言葉というものは,人間と人間との精神的な交通を行なうタメのものである,A認識の成立から表現(言葉)にいたる過程的構造の解明が大事である,と二つにまとめられていた。@については,南郷先生は言語の起源から問題にされ,文化と呼べるほどの労働が生まれて,それを次世代に伝えるためにこそ,言語の誕生が促されたのだと説かれていた。このような弁証法的・唯物論的な頭の働かせ方をしっかり学ばないといけないとしておいた。Aに関しては,私たち人間の住んでいる社会の社会的認識が社会性をもって,個々バラバラになろうとする私たちの認識の創造を常に社会的にしようと努力していくということがくり返し説かれていた。これは,人間の認識は,放っておいたのでは,個々バラバラになっていくのであり,そのままでは社会の維持が不可能になってしまうので,個別像を何らかの形で共通像にしていく必要があるということである。このように個別像を共通像にするために,言語が必要であると説かれていた。言語は,社会の成員に共通して必要な文化遺産を次世代に伝えるためにこそ誕生したものであり,言語によって,文化遺産を頭の中に送り込み,共通像を形成していく必要がる,ということであった。さらに,この教育・学習という作業をしっかりと行えるための条件,認識=像の形成がうまくいくための条件として,南郷先生は3つの条件をあげておられた。一つは,実物の外界を反映させることであり,二つは,きちんとした言語とともに認識=像を形成させることであり,三つは,なるべく集団的・小社会的に行なうことであった。

 連載第4回では,本書の最後に紹介されている2つの手紙を比較することによって,受験秀才と鈍才の違いを明確にした。さらにそれを踏まえて,『“夢”講義』はどのように学んでいかなければならないのかを考えた。まず,受験秀才について,南郷先生は,事実からの反映よりも書物からの反映を大事にするので,現実を見る実力が大きく低下して,感性が豊かに育っていかない,と説かれていた。だから南郷先生は,この受験秀才的な看護学生に対して,「もっともっと事実に関わって,現実と格闘しながら感性を育てていく場を自分で努力しながらもってほしい」(p.193)と助言されていたのであった。ここに関わって非常に重要なことが説かれていた。それは,弁証法の基本書を受験国語のレベルで読破するだけではなく,現実に存在する自分の専門に関わる事実という事実と格闘することによって初めて,弁証法が息をし,動きはじめることになるという指摘であった。看護に関わる弁証法の学びの実例として,病室の廊下の歩き方,病室のドアの開け方,患者さんへの声のかけ方などが紹介されていた。鈍才の手紙については,「全文,これ弁証法性のカタマリ」と評価されていた。一読して筆者は,全てが実物の外界を反映して描かれた像の表現になっており,自分の体験した事実に基づいて全てが説かれていると感じたのであった。そして,この鈍才のように事実と格闘するための前提として,「〜したい」という大志が必須であることも説いた。この鈍才の手紙を媒介として先の受験秀才の手紙を眺めてみると,受験秀才の手紙には,自分が体験した事実が少ない,ほとんどないということが分かると説いておいた。像抜きで,文字(言葉)を解釈しているだけであり,像がないのに文字を書き綴っているという印象を受けるのであった。しかし,われわれとしては,この看護学生を馬鹿にしていればそれですむというような問題ではなく,われわれも,ともすればこの受験秀才のような文章を書いてしまうものであり,そのことを明確に自覚して,少しでも,鈍才である心理学科の学生のような文章を書けるように研鑽していかなければならないのだと強調しておいた。そのためにはどうすればいいか,さらに『“夢”講義』はどのように学んでいけばいいのか。その答えはともに,「〜」したいという強烈な思い(大志)を前提として,認識=像の形成がうまくいくための三条件を満たすべく,学習していくということであった。『“夢”講義』を学んでいく際には,実物の外界をしっかりと反映して,事実からしっかり学んで,自らの体験像を豊かにしていくと同時に,また本書に帰ってきて,その意味するところ=論理を言語でしっかりと学び,なおかつ,研究会内で討論するなどして,小社会的に学んでいかなければならないのであった。

 このように本稿で説いたことをまとめてみると,結局,『“夢”講義(1)』で一番大切なのは,認識=像の形成がうまくいくための三条件ということになるのではないか。南郷先生が本書で説かれたことはこれに尽きるのではないか,という気がしてくる。

 もう一度,この三条件を引用しておく。

「一つは,外界を反映させる作業(教育・学習)を可能なかぎり,実物の外界を反映させることです。たとえば,船を反映させようと試みるときに,なるべく模型やビデオなどではなく,実際の船をしっかりとみせることです。

 二つは,ここを行なうときにきちんとした言語とともに,つまり文字と発音をしっかりと覚えさせながら船を反映させて,認識=像を形成させることです。

 三つは,なるべく集団的・小社会的に(つまり,個人的にではなく)行なうことです。」(p.159)


 この条件は,連載第2回で説いたような認識論を踏まえて説かれたものである。すなわち,そもそも認識とは五感情像であり,5つの感覚器官を通して反映したものの合成像である。だから,認識=像の形成がうまくいくためには,しっかりと5つの感覚器官を通して実物を反映する必要がある。書物からの学びでは,視覚のみの一感覚像になってしまう。そして,連載第3回で説いたように,言語は文化遺産を伝えるためにこそ誕生したものであり,言語によって個別像が共通像になっていくのであるから,人間としての認識をきちんと形成していくためには,言語とともに認識=像を形成していくことが大切なのである。これによって個々バラバラな認識が社会的認識として育っていき,社会の維持が可能となる。さらに連載第4回で説いた受験秀才は,このような条件を満たさずに学習した者であるから,現実を反映する力が低下して,感性が豊かに育っていかなかったのである。逆に鈍才の心理学科学生は,この三条件を満たす形で学習したために,弁証法・認識論の実力をきちんと養成できたのである。このように,三条件を核として,それぞれの回で説いたことをまとめることができると思う。

 このように見てくると,われわれはたしかに秀才のたぐいの集まりではあるものの,それなりにこの三条件を満たす学習を積み重ねてきたことも分かる。たとえば,『育児の認識学』を学ぶに際しては,保育士でもない限り,実物の育児がどうしても必要となるが,われわれは自分自身の子どもを育てるにあたって,『育児の認識学』を読み込み,実際の育児の像をしっかりと形成しながら,『育児の認識学』で説かれている言語=論理と重ね合わせ,事実と論理の昇り降りをくり返すような学習を,研究会として小集団的に,行なってきているといってよい。もちろん,まだまだその量が不足しているために,われわれの書く文章が受験秀才的なものとなってしまっているのは否めない。しかし,われわれの歩みを全否定する必要はなく,本稿で説いたような学び方を常に意識して,目的意識的な学習をこれまで以上に必死に積み重ねていくしかないのである。そうすれば,おぼろげながらも学問への道が拓かれていくと確信している。

 今後,『“夢”講義(2)』以降の学びも,認識=像がうまくいくための三条件を常に忘れずに,それを念頭に置きながら,くり返しの上にくり返して学んでいく必要があるだろう。このことを確認して,本稿を閉じたい。

(了)

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2017年02月16日

認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想(4/5)

(4)秀才は像抜きの文字を解釈する

 前回は,認識と言語の関係について,本書で説かれている内容をしっかりと理解して,検討していった。言語はこれまでの世代が獲得してきた文化遺産を次世代に伝えるためにこそ誕生したのであり,個々バラバラな認識を共通像にしていくためにこそ,言語が必要なのであった。

 さて今回は,本書の「第5編 看護に必要な弁証法入門」で紹介されている2つの手紙を俎上にのせ,受験秀才と鈍才の違いをしっかり理解することに努めたい。そして,それを通して,『“夢”講義』はどのように学んでいかなければならないのかを考えたいと思う。

 まず,受験秀才の書いた手紙について,南郷先生が指摘されていることを確認したい。受験国語力的頭のよさの危うさについて,次のように説かれている。

「通常の人たちは,受験用ではあっても,頭がよいことは「よいことだ」と信じがちです。でもこれは,反面では危ういことでもあるのです。どういうこと? と反問されそうです。簡単にいいますなら,一般的に頭のよい人というのは頭脳活動がイキイキしていますので,ついつい,事実からの反映よりも書物からの反映を大事にし,かつそれを信じて自分の実力にしてしまいます。思春期・青春期の脳細胞の発育・発達にとっての大切な時期を,受験用の勉強によって大きく無駄にしてしまっているのです。

 その結果,現実をみる実力が大きく低下して育っているだけに,現実をみる機会をなるべく避けて頭のなかに出来事を創りだします。そのほうがよほどに楽ですから。それだけに,ますます現実をよくみるのはとても大変なことにもなるものですから,ますます書物やビデオですませがちになります。

 これは困ったことになっていきます。たとえば,書物で学んだことは現実味を欠いていますので,感性がなかなか豊かに育ってはくれません。」(pp.192-193)


 ここでは,受験秀才は,事実からの反映よりも書物からの反映を大事にするので,現実を見る実力が大きく低下して,感性が豊かに育っていかない,と説かれている。連載第3回で紹介した「認識=像の形成がうまくいくための条件」のうちの一つ目である「実物の外界を反映させること」が大きく欠けてしまうがゆえの欠陥ということであろう。そのため,南郷先生は,この受験秀才的な看護学生に対して,「もっともっと事実に関わって,現実と格闘しながら感性を育てていく場を自分で努力しながらもってほしい」(p.193)と助言されている。

 これと同様の内容が,非常に分かりやすく説かれている部分がある。南郷先生は,弁証法の学びは「空手の学び」と同じであり,自分の専門分野の問題と闘って,その問題を解決する(勝つ)だけの鍛錬が必要となるとした後,次のようにまとめられている。

「ですから仮に『弁証法はどういう科学か』を何百回読んでも,あの書物のなかのすべての問題がなんなく解けても,専門分野の問題に立ち向かう実力が弁証法的についていなければ,なんの意味もありません。空手の修練が,受験国語のレベルで空手の本を読破することではないように,弁証法の学びも弁証法の本を読破することではありません。

 空手の学びと同じように自分の専門分野の本だけではなく,知識だけではなく,現実に存在する自分の専門に関わる事実という事実と格闘することによって初めて,弁証法が息をし,動きはじめることになるのです。」(p.206)


 ここでは,弁証法の基本書を受験国語のレベルで読破するだけではなく,現実に存在する自分の専門に関わる事実という事実と格闘することによって初めて,弁証法が息をし,動きはじめることになると説かれている。「弁証法が息をし,動きはじめる」というのは,非常に印象的な表現である。

 そして,看護に関わる弁証法の学びの実例として,次のようなものをあげておられる。

・病室の廊下の歩き方
・病室のドアの開け方
・患者さんへの声のかけ方
・患者搬送のタンカの運び方
・体温計の持ち方・持たせ方
・看護関係者同士の挨拶の仕方

 このような,自分が体験する事実で弁証法を学んでいかなければ,本当に学んだとはいえない,ということであろう。

 では次に,弁証法を学んだ鈍才である心理学科学生の手紙を見ていきたい。手紙の主は南郷先生によって「弁証法への学びのトップレベルへたどりつく可能性をもちはじめてきている」「在学していた大学のほとんどの教授の上位のレベルの心理学の実力を把持するまでに,わずか数年というより,二年有半で行なった」(p.209)と絶賛されている。また,手紙については,「全文,これ弁証法性のカタマリ」と評価されている。

 手紙は卒業にあたって,大学4年間を1時間以内で振り返るというものである。毎日が変化の連続であったことや弁証法が分かるようになるために何もかも全て弁証法的に生活するようになったことが説かれる。そして,大学の授業内容を1時間でレポートとしてまとめていたこと,その中で話にレベルがあって大切なのは一般的な話だと気づいたことが述べられている。また,生まれ変わるべく,食事や服装,読む本や歩き方,友達の付き合い方も変え,それが直接に弁証法を学ぶことであったとして,「友達との認識の「相互浸透」のありかたをよくみて,それによって私自身がどのように「量質転化」していくのかを考え」(p.212)たなどと説かれている。さらに,南郷先生に二重化する際に,段階を設けて,他の先達を中間目標としたことや,志を抱く意義は将来のあるべき自分から今の自分をみてとることであることなどが説かれている。

 一読して,本当に大学での4年間分の像が集約されたレポートになっていると感じた。全てが実物の外界を反映して描かれた像の表現になっている。自分の体験した事実に基づいて全てが説かれているのである。事実と格闘することによって,弁証法が息をし,動きはじめるとはこのようなことかという見事なお手本といえるのではないか。

 ここで,事実と格闘するということについては,もう少し突っ込んで考えておきたい。そもそも,なぜ事実と格闘する必要があるのか。それは端的には,「〜したい!」という志(大使)があるからこそである。大志の重要性は,南郷先生が常々強調されているところであるし,この鈍才の手紙にも説かれている。

 この大志の重要性については,われわれの師も,くり返し説いておられる。2001年に筆者が師の主催されているゼミに初めて参加したときも説かれていた。ここに,その時のレポートを2箇所、引用しておく。

「講義の初めに学んだことは,まさにこの問題に関連していた。その学んだこととは端的にいうと,弁証法を学ぶ目的がはっきりしていないと学び方を云々することはできない,ということである。考えてみれば当たり前のことであって,これは旅行するのに目的地を決めないことには,どのような手段でそこに辿り着くのかを決定できないのと同じ事である。私には目的地=「〜したい」という強烈な目的意識が欠如していたのである。以前から感じていたなんとなく不安な思いというのは,どこに行くのかも決めていないのに歩いていくより電車で行った方がいいだろうなどと考えていることから生じたものであろう。」


「最後に一番大事なことは,すべての実践を「〜したい」という人生の大目的につながるように位置付ける必要がある,ということである。「〜したい」というのが核になって,そのまわりに学んできたものがくっついている状態になって初めて,知識は動きだし,使えるようになるのである。」


 師の講義再現と,筆者の感想が混在しており,恥ずかしい限りのレポートではあるが,要するに,学ぶ目的を明確にし,すべての実践を「〜したい」という人生の大目的(大志)につながるように位置付けてこそ,学んだ知識が動き出し,使えるようになる,ということである。南郷先生の「弁証法が息をし,動きはじめる」との表現と,師の「知識は動きだし,使えるようになる」との表現は,非常に似かよっており,説かれているのも同様の内容だと考えられる。

 以上をまとめるならば,「〜したい」という大志があってこそ,事実と格闘というレベルで関われるようになるのであり,そうしてこそ,弁証法の知識も動き出すのだ,弁証法という認識=像の形成がうまくいくのだ,ということであろう。筆者も,目の前のクライエントの心の問題を少しでも早く,効率的に解消したい,そのために認識学を何としてでも構築したい,という大志を常に把持して,それを育てていかねばならないと痛感した。

 この手紙を紹介した後,南郷先生はこの心理学科の学生に,『弁証法はどういう科学か』の学び方について指導したことが,以下のように説かれている。

「指導したことは,毎日必ず一時間学ぶこと,そして学んだ内容を自分の日常生活の事実でわかること,です。二つは,以上のことを,理解したこと・理解できなかったことに分けて,理解できたことは自分の生活の実例で説き,理解できなかったことは書物のなかの事例でどうわからないのかを説明して三十分から一時間で筆記(ワープロではなく)すること,です。用紙は授業のモノと同じく,レポート用紙一枚としました。

 ……加えて,本人が一番嫌っていた読書を実行させました。歴史モノ・社会派推理モノ・古典文学に関してのモロモロの書を,一週一冊単位で読破させました。」(p.216)


 ここで書かれていることは,そのまま,われわれは学生時代に『綜合看護』でこの部分を読んだときに実行したものであった。加えて筆者は,このあと通うことになった大学院で,手紙にあったように,授業内容を1時間以内でレポートにまとめる作業も行ったものであった。

 それにしても,南郷先生は本書の最後におそろしいことを書いておられる。それは,上記のような学習を継続したことによって,「当然に,心理学のあらゆる分野の理解が最高になり,どんなに遅くとも二十年後には,学問としての「精神科学」の確立が可能になる! との予測さえ述べたいほどの現在」(p.216)であるというのである。手紙の日付が2001年3月19日であるから,20年後というと2021年である。遅くとも2021年に学問としての「精神科学」の確立が可能だというのである。当時は「20年後か」などとのんきに考えていたが,2017年となった現在では,もはやあと4年以内ということである。

 閑話休題,この鈍才の手紙を媒介として先の受験秀才の手紙を眺めてみると,その特徴が明確に浮上する。端的には,受験秀才の手紙には,自分が体験した事実が少ない,ほとんどないということである。自分が創り出した体験像が希薄なのに,分かったかのように説いている。像抜きで,文字(言葉)を解釈しているだけであり,像がないのに文字を書き綴っているという印象を受ける。

 南郷先生は,この学生には弁証法の学びが欠けているから,『“夢”講義』が分からないのだと説いておられる。実物の外界(事実)をしっかりと反映させることが少ないから,事実のもつ弁証法性が反映せずに,書物ばかりの反映だから認識が弁証法性を帯びないのであろう。

 しかし,われわれとしては,この看護学生を馬鹿にしていればそれですむというような問題ではない。率直にいえば,われわれは鈍才の心理学科の学生のような文章というよりは,この受験秀才の看護学生のような文章を書いていることをしっかりと自覚しなければならない。見る人が見れば,われわれの文章は,まさしくこの秀才の文章と同じであるかもしれないのである。

 もともと秀才といっていいわれわれは,ともすればこの受験秀才のような文章を書いてしまうものであり,そのことを明確に自覚して,少しでも,鈍才である心理学科の学生のような文章を書けるように研鑽していかなければならないのである。そのためにはどうすればいいか。ここでも連載第4回で触れた認識=像の形成がうまくいくための三条件をクリアーしていくことが求められる。三条件とは,実物の外界を反映すること,きちんとした言葉とともに認識を形成すること,小集団的に学習すること,であった。受験秀才的な学習の仕方では,この三条件をみたすことができないのである。逆にいうと,われわれは,この三条件を常に念頭に置きながら学習していかなければならないのである。その意味で,この三条件は決定的に重要な内容であるといえるだろう。

 では,以上を踏まえて,『“夢”講義』をどのように学んでいけばいいであろうか。端的にいうならば,『“夢”講義』に学んでいく際にも,この三条件を満たす形で学んでいく必要がある。たとえば,想像力豊かなジルーシャでも,入ったことのない普通の家の中には想像力が及ばなかったということが説かれていたが,これと同じような具体的な事実を探して,そこでこの論理を何度も何度も確認していく。目をつぶってバラの香りを嗅いだ場合,嗅覚しか働いていないのに,バラの花の形や皮膚感覚も感じている,これが認識は感覚の合成像であるという意味である,と説かれていれば,同じように,目をつぶってある対象を認識することをくり返し試みてみて,あるいは,視覚だけしか働かないような状況でも,味や香りも感じていることを確認していき,認識は合成像であるということの意味を深めていく。病室の廊下の歩き方,病室のドアの開け方,患者さんへの声のかけ方も弁証法を学ぶ材料であると説かれれば,看護師と同様に病院に勤務する心理士である筆者であれば,これを弁証法の学びとしてさまざまな実践・実験を行っていく。

 このように実物の外界をしっかりと反映して,事実からしっかり学んで,自らの体験像を豊かにしていくと同時に,また本書に帰ってきて,その意味するところ=論理を言語でしっかりと学んでいく。さらにこれを小社会的に行なっていく。われわれの場合でいえば,学んだことをしっかりとレポートにまとめて,師や会員に送り,それに対して別の会員はしっかりコメントをする。あるいは,『“夢”講義』の内容で理解できないところをしっかりと師に質問する。このようにして,本書を小集団的に学んでいくことが,認識=像の形成がうまくいくためには必要である,ということなるだろう。

 そしてそのような事実との格闘の前提として,「〜したい」という大志が必要であることもしっかり再確認しておかなければならない。このような大志がなければ,事実と格闘し続けることができず,その結果,学んだ知識が息をし,動き出し,使えるようにはならないのである。

 以上今回は,秀才の手紙と鈍才の手紙との比較から,秀才の欠陥を確認して,それを踏まえて,どのように『“夢”講義』を学んでいけばいいのかについて考察した。

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2017年02月15日

認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想(3/5)

(3)認識と言語の関係を問う

 前回は,『“夢”講義(1)』で説かれている認識論の基本を確認した。認識論とは,「アタマとココロのはたらきを立派にするための学問」という主体的な性格をもつものであり,学問体系としての認識学とは,五感情像たる認識をその原点から弁証法的に,そして唯物論的に説ききるものであった。

 今回は,「第2編 看護に必要な「認識と言語の理論」」と「第3編 学問的に説く「認識と言語の理論」」で説かれている認識と言語の関係について検討したい。

 ここではまず,看護においては相手の立場に立つことが必要だと論じられ,しかし,相手の立場に立つことは非常に困難であることが説かれる。その中で,『あしながおじさん』の主人公であるジルーシャが取りあげられている。ジルーシャは想像力豊な少女であったが,普通の家の中に入ったことがないので,普通の家の中へは空想であっても入っていけないのであった。それと同様に,看護学科の学生も,自分が経験したことのない普通ではない人の心を思いやること=病んでいる人の立場に立つことは難しいのである,と説かれている。

 ではどうすればよいかというと,心理学などに頼るのではなく,「看護とは」が分かって初めて相手の立場に立てるとして,「病む人の心や気持ちというものは,その病む人と関わることによってだけ,少しまた少しとしだいに大きくわかっていくことができる」(p.103)と説かれている。さらに,「看護とは」の全体像をしっかりと描くためには通常の人間の全体像が描けている必要があり,そのためには社会と歴史の学びが大事であるとして,歴史を題材とした時代小説,人間の心を主題にしている小説,社会派とされている推理小説の三つを挙げ,時代の心とか社会の心とか人間の心といったものを学び続けることが推奨されている。

 この後,コミュニケーション論が展開される。ここからが今回の中心主題である。コニュニケーションとは心を分かり合うことであり,相手の立場に立っての観念的二重化=自分の観念の相手的観念化であるとして,それが可能となるためには,その時代における社会一般の中の人の心というレベルで心とか気持ちがわからなければならないとされている。したがって,そのようなコミュニケーションの過程を学ぶためには,やはり,時代の心,社会の心,人の心が分かるようになるよう,ふさわしいしっかりとした小説を読むことが大切だと説かれている。

 さらにそれだけではなく,コミュニケーションが可能となるためには,コミュニケーションは何よりもまず言葉を介してなすものであるから,言葉(言語)とは何かを明確にしなければならないとして,三浦つとむ『認識と言語の理論T』の大事なところが引用される。そしてその中で最も大事なところを要約して,次の二つにまとめられている。

@言葉というものは,人間と人間との精神的な交通を行なうタメのものである
A認識の成立から表現(言葉)にいたる過程的構造の解明が大事である(p.120)

 この2つを順に見ていきたい。

 まず,@である。「言葉というものは,人間と人間との精神的な交通を行なうタメのものである」というのはどういうことか。これは,ごく単純に考えれば,自分の認識を相手に伝え,相手の認識を自分が理解するためにこそ,言葉が存在する,ということであろう。しかし,南郷先生は,言語の起源から問題にされている。すなわち,猿から人間へと発展する中で,いかにして言語が誕生したのか,その必然性を説いておられるのである。結論部分では,次のように説かれている。

「結論的にいいますと,言葉すなわち言語は,人類の労働の誕生を原点として誕生したのだ,ということです。すなわち,人類の文化の重層化を次世代に教育するため,あるいは,遺産として残す(伝える)ほどの文化の積み重ねを人類の労働が果たしたことが,言葉・言語の誕生をうながしたのだということです。」(p.124)


 ここでは,文化と呼べるほどの労働が生まれて,それを次世代に伝えるためにこそ,言語が誕生したのだと説かれている。身振り・手振りだけでは伝えられないほどに,文化遺産が重層化・複雑化していったため,それをきちんと次世代に教育できるようにするために,言語が誕生したということである。

 このように,何を問題にするにしても,その起源から解明しようとし,実際に解明されているところが南郷先生の凄いところである。起源を問題にするというのは,原点からの生成発展を説こうということであるから,弁証法的な考え方であるといえる。さらに,世界は物質的に統一されており,物質一般から特殊な物質は誕生するという唯物論的な世界観をしっかりと把持し続けているからこそ,特殊な物質といえる言語の誕生について説けるのであるから,唯物論的な考え方に貫かれているともいえる。したがって,われわれとしては,南郷先生は凄いといっているだけではダメであり,われわれもしっかりと,このような弁証法的・唯物論的なアタマの働かせ方を徹底して訓練していき,技化していかなければならない。そのためにこそ,『“夢”講義』に学んでいるのである。

 次にAである。「認識の成立から表現(言葉)にいたる過程的構造の解明が大事である」とはどういうことか。

 まず,南郷先生は,人間の認識と動物の認識との違いを説かれている。動物の認識=像は,本能が創り出すものであるが,人間の認識は本能を失った分,一人では生きていけないのであり,必ず社会的にのみ,自分を生かし,活かすことが可能となると説かれている。どれほど個性的だと思っている認識であっても,人間の認識はすべて社会的であり,社会性を帯びているとした後,次のように説かれている。

「これは端的には,私たち人間の認識は,本能が創ったモノではなく,私たち人間の住んでいる社会の社会的認識が社会性をもって,個々バラバラになろうとする私たちの認識の創造を常に社会的にしようと努力しているからなのです。」(p.137)


 すなわち,社会的認識が,個々バラバラになろうとする私たちの認識の創造を常に社会的にしようと努力しているということである。

 これはどういうことであろうか。われわれ人間は,本能が薄れている分,認識の形成は非常に個性的にならざるをえない。ひとりひとり,生まれた瞬間の外界が違うし,それ以降の外界も,大きく,あるいは小さく,違っている。また,外界を受け取る感覚器官の実力も,5つの感覚器官のバランスも,人それぞれであり,決して同じではない。そうなると,感覚器官を媒介として形成される認識=像は,同じ対象を見ていたとしても,決して同じにはなりえない。個々バラバラな認識が蓄積されていくのであるから,これまでの蓄積した像でもって対象に問いかけ,対象を反映するとなると,ますます違ったように反映していくことになる。このように,人間の認識は,放っておいたのでは,個々バラバラになっていくのであり,そのままでは社会の維持が不可能になってしまうのである。

 そこで,「私たち人間の住んでいる社会の社会的認識が社会性をもって,個々バラバラになろうとする私たちの認識の創造を常に社会的にしようと努力して」いくことになるのである。ここの部分を,南郷先生はくり返し,言葉を変えながら諄々と説いておられると思う。たとえば,社会的に生きる力を身につけるためにシキタリに従う能力を培う必要がある(p.134)とか,外界の反映を社会関係的な反映として行わせるのが母親の仕事である(p.144)とか,社会関係の中で言葉を覚えさせ使わせ,言葉を使うことによって社会的なルールを覚えさせる必要がある(p.146)とかである。

 そして,その極めつけともいえるのが,「個別像を共通像にするために言語は必要である」と題された節で説かれている内容であろう。ここでは,人間の認識は個性的な像として存在しており,人によって異なっているが,それを異なったままにしておくわけにはいかないとした後,次のように説かれている。

「そこで当然にそれを共通の像にしていく作業(教育・学習)が必要となります。

 ここに言語の必然性の一つがあるのです。しかもこの作業(教育・学習)は頭のなかから始めるわけにはいきません。なぜなら,頭のなかの像を外へだすことは不可能だからです。そこで,外から頭のなかへ,なるべく共通の像を送りこむことによってのみ,この作業(教育・学習)をしっかりと果たすことが可能になるわけです。」(pp.158-159)


 ここは当初,非常に難解で,どういうことかよく分からなかった。しかし,研究会の会員と討論したり,今見てきたように本書の大きな流れを確認して,その中に位置づけたりすることによって,ここで説かれていることの内容が見えてきたのであった。それは以下である。

 くり返し説かれているように,人間の認識は,個性的な像として存在している。個々の人間が描いている像は個別像なのである。しかし,そのままでは社会が維持できない。したがって,個別像を共通像にしていく必要があるのである。ここでいう「共通像」というのが一つのポイントである。これは,ある社会の成員が共通してもっているところの認識であるから社会的認識のことであり,本書で説かれていたことを踏まえるならば,言語によって伝えられる文化遺産である,といってもいいだろう。

 言語は,精神的な交通のためのものであった。すなわち,自分の認識を相手に伝え,相手の認識を自分も描くためのものである。そうすると,言語は,共通な像を描くためのものである,ということもできるわけである。そして言語の起源として説かれていた内容は,言語は,重層化した文化遺産を次世代に伝えるためにこそ,誕生させられたのだということであった。すなわち,世代を超えて,共通の像を描くためにこそ,言語の誕生が促されたのである。これまでの世代が獲得してきた,社会の成員が共通してもっていなければならない認識を伝えるためにこそ,言語が成立したのである。

 このような内容を踏まえるならば,「個別像を共通像にするために言語は必要である」ということの中身も,先の引用文の中身も,素直に理解することができる。すなわち,人によって異なった認識を,共通の像にしていく作業(教育・学習)のためには,言語によって(言語を媒介として)文化遺産を頭のなかに送り込むことが必要だ,ということである。

 南郷先生は,この教育・学習という作業をしっかりと行えるための条件,認識=像の形成がうまくいくための条件として,次の三つをあげておられる。

「一つは,外界を反映させる作業(教育・学習)を可能なかぎり,実物の外界を反映させることです。たとえば,船を反映させようと試みるときに,なるべく模型やビデオなどではなく,実際の船をしっかりとみせることです。

 二つは,ここを行なうときにきちんとした言語とともに,つまり文字と発音をしっかりと覚えさせながら船を反映させて,認識=像を形成させることです。

 三つは,なるべく集団的・小社会的に(つまり,個人的にではなく)行なうことです。」(p.159)


 すなわち,実物をきちんとした言語とともに集団的・小社会的に反映させていく,ということである。

 これは,今まで説かれていたことの総まとめといえるだろう。われわれは,たとえば育児をする際にも,子どもにこの三つの条件がしっかりそろった形で教育していかなければならない。また,弁証法の学習も同じである。たとえば,量質転化であれば,実際に自分で量質転化を起こしてみる。相手に起こさせてみる。それをしっかりと反映しなければならないし,『弁証法はどういう科学か』の定義に重ね合わせながら,集団的に学んでいく必要がある。個人的に学ぶと,どうしても自分勝手な解釈になりがちであり,文化遺産としての共通の像をきちんと描くことができないからである。

 以上,今回は認識と言語の関係について見てきた。端的にまとめておくと,認識の表現が言語であるというだけではなく,言語はこれまでの世代が獲得してきた文化遺産を次世代に伝えるためにこそ誕生したのであり,そのことによって個々バラバラな認識が,共通の像として整えられていくのであった。
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2017年02月14日

認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想(2/5)

(2)認識論の基本を確認する

 本稿は,学者になれるよう,自らの頭脳活動を見事にしていくために! という問題意識・目的意識をもって,南郷継正『“夢”講義(1)』に学び,その成果を認めていく論考である。

 今回は,本書の「第1編 看護に必要な認識論入門」の内容を取り上げ,認識論とは何かをしっかりと再確認したい。

 まず,認識論とは何かについて,南郷先生は端的に,次のように説いておられる。

「……認識論とは,ここでは簡単には頭脳活動の理論であり学問です,と答えておきます。端的にはアタマとココロのはたらきを立派にするための学問です。

 ですから,看護を学問的に学びたい人に,それを学びとる術,方法を学ぶ学問の一つなのです。もちろん,心理学を学問的に学びたい人へ向けての,学びとる術であり,方法でもありますので,御心配なくどうぞ! です。」(pp.29-30)


 前半部分は,連載第1回でも触れた内容である。すなわち,認識論はアタマとココロのはたらきを立派にするための学問であるということである。このように,認識論を客体についての理論と考えるのではなく,あくまでも自分の頭脳活動に活かすためのものとして主体的に捉える必要があることを,再度確認しておきたい。

 後半部分は,心理学を学んでいる筆者にとっては特に,非常に重要な内容が説かれているように思う。ここで説かれていることを心理学に限って言い換えるならば,認識論とは,心理学を学問的に学びとる術・方法である,ということになる。逆からいうと,認識論がなければ,心理学を学問的に学びとることはできない,ということになる。

 これは一体どういうことであろうか。これを理解するためには,「学問的に学びとる」という場合の「学問」とは何か,ということが分からなければならない。本書では,学問とは「対象の性質を論理として把握して体系化したもの」であり,「体系とは,自分の専門分野のすべてを一本の筋をとおしきって人間の体の系統のように説く(解く)こと」(p.45)であると解説されている。その上で,瀬江千史先生の『看護学と医学』上巻が引用されている。孫引きになるが,大切な部分を引用したい。

「人間の体はみればわかるように,頭がありその下に体幹があり,体幹から手,足が出ている。そして,全身が頭に存在する脳によって,神経・ホルモンを介して完全に統括されている。

 このようにあるべきところにきちんとあるべきものがあり,それが一貫してつながってひとかたまりになって脳の支配の下に統括されながら活動していけるものが,体系なのである。頭が体幹の下にあっても体系でなく,手の部分に足がついていても体系でなく,さらにそれが脳に統括される神経によってきちんとつながっていて活動することができなければ,また体系ではないのである。

 学問体系は,これにたとえて,本質論が頭,構造論が体幹,現象論が手足であり,全体系を貫く論理性が神経ということになるが,これまた当然に脳,すなわち本質論によって統括されていなければ,つまり本質論につながる構造論でなければ,そしてそれが活動できなければ学問としての体系ではないのである。」(p.46)


 すなわち,学問体系とは,人間の体の体系のように,あるべきところにきちんとあるべきものがあり,それが一貫してつながってひとかたまりになって本質論によって統括されながら活動していけるものということである。

 ここで先の問いに戻ろう。問題は,認識論とは心理学を学問的に学びとる術・方法であるとはどういうことであろうか,であった。今見てきた「学問とは何か」「体系とは何か」の解説を踏まえるならば,それは,心理学をバラバラの知見の集積として学ぶのではなく,一貫してつながったひとかたまりのものとして学びとるためには,そして,それをしっかりと活動させていき機能させていくことができるように学び取るためには,認識論の学びが必要である,ということではないか。

 南郷先生が引用されている『看護学と医学』上巻の文章の中には,事実のいわゆる大系と論理の体系の違いは,「会社とは名ばかりのガランとした大きな建物のなかで,社員千人がただ右往左往している」ことと,「千人の社員が,会社の規範(=法律レベルの)に従って社長―部長―課長―係長―平社員と,会社内のそれぞれの部署に整然と配置され,規範に基づいてくだされるひとつの指揮系統の流れのなかで仕事をしている」こととの違いのようなものであると説かれている。これがいってみれば,心理学と,認識論によって心理学を学問的に学びとったものとの違いということになるだろう。要するに心理学は,たくさん知見があるがバラバラなのであり,一つのまとまりとして活動していくことも機能することもできない。それに対して,認識論で心理学を学問的に学びとれば,一貫してつながったものとして活動でき,巨大な力を発揮できるということであろう。

 では,心理学を学問的に学び取るだけではなく,認識論をしっかりと学問体系として構築した場合の認識学とは,一体どのようなものであろうか。ここに関して,南郷先生は次のように説いておられる。

「認識学とは,読んで字のごとくに認識を問う学問であり,それも部分的にではなく,認識に関わるすべてを説く学問です。

 認識とは端的には,人間の頭脳活動のことであり,簡単には,アタマのはたらきとココロのはたらきです。

(中略)

 認識学とはすなわち,これらの社会的・家庭的・個人的な認識の過去かつ現在,そして未来を学問的レベルで問うて論じること,すなわち体系的レベルで認識のすべてを論じきるものです。

 端的には,認識学とは人間の頭脳活動である認識を,歴史的・具体的に探究して,それらを論理化し,理論として学問的に体系づけてできあがるものです。」(pp.49-50)


 すなわち,認識学とは,人間の頭脳活動(アタマの働きとココロの働き)たる認識のすべてを体系的レベルで論じきるものである,ということである。

 そして,その認識学の三本柱について,南郷先生は次のように説かれていく。

「一つは,人間はどのようにして発展してきて現在の人間になったのかを,認識からとらえ返した人類の認識としての発展過程の論理構造を説くこと。

 二つは,人間は一般的にいかなる認識の発展過程をもっているか,かつ,いかなる発展過程をもたせるべきかの論理構造を説くこと。

 三つは,人間の認識の一般的発展ではなく,個としての人間,社会的個人としての人間の認識の発展過程の論理を説くこと。」(p.50)


 少し補足すると,一番目は,文化史として存在するものの学問的レベルにおける論理化であり,哲学の生生発展の論理構造を人類の認識の頂点形態の発展として説くことになるという。二番目については,ここを簡単に分かるためには,保育園・幼稚園を含んだ日本の教育の流れを,その教科書を一列に並べて見渡すことであるとされている。三番目は,現代までの歴史上の精神医学・心理学の集大成だということである。

 ここは非常に難解なところであるが,ごく表面的ではあっても理解できることが二つある。一つは,心理学を学問的に学び取った内容は,せいぜい認識学の三本柱の一部にすぎないことである。

 もう一つがより肝心な点であるが,認識学とは,認識の原点から,それも系統発生的な原点と個体発生的な原点の二つの原点から,一貫して筋を通して説ききるものである,ということである。原点からの生成発展を説くという意味では,非常に弁証法的であるといえるし,精神は物質から誕生したのであり,その起源から説くという意味では非常に唯物論的であるともいえると思う。

 では,認識学が説くところの認識とは,そもそも何であるのか。南郷先生は,認識とは脳細胞が描く像であるという。しかし,この文言自体は,これまでの認識論の書物にも説かれていたが,その中身は説かれたことはなかったと指摘されている。すなわち,書物には認識は像であるとの言葉はあるが,その内容は何もないというのである。そのうえで,次のように説かれている。

「「そんなバカな!」と思われる読者が多分にいるはずです。

 でもこれは本当なのです。というのも,この認識の内容,つまり,像の内実を含めての像とはなんなのかを,その形成プロセスとともに,説(解)いたのは私の弟子である海保静子さんが初めて! といってもよいものだからです。これは今を去ること,二十五年ほど前のことでした。」(p.60)


 すなわち,認識とは像であるという場合の「像」とは何か,その内実を説いたのは,海保静子先生が初めてである,ということである。この認識学史上の偉大な発見は,本書によると1981年頃ということになっている。その約10年後に,南郷先生がこの大発見を記念して講義された講義録が本書には掲載されている。その中で,像とは何かについて説かれている部分を3箇所,引用する。

「ならば,その像,とはそもそもなにか,といえば五感情像である,ということになる。すなわち視覚だけではない。聴覚がそこに加わっているだけでもない。味覚,嗅覚,皮膚感覚,といった五感のすべてが動員されて「像」が形成されている。そして杉の木をみたときに,その像が頭のなかに結ばれることを反映といい,この像のことを認識という。」(p.63)


「もし動物だとしたら感覚像でしかないから,猫なら猫としてすべて同じ反映となる。ところが人間には個性があるからけっして同じ反映にはならない。つまりわかりやすくいうならば,「個性的感覚像」のことを「五感情像」という。」(pp.65-66)


「このように杉の木をみたときも,ただ単に杉の木をみるんじゃなく自分の感情で杉の木をみる。杉の木のそのままではなく,自分のアタマのなかにできあがっている杉の木の像でもって,その人の感情で対象に問いかけている。

 ……人間はその人の感情で杉の木の像が描かれる。それが感情像ということである。」(pp.66-67)


 ここでは,像とは,視覚,聴覚,味覚,嗅覚,皮膚感覚,といった五感のすべてが動員されて形成された五感情像であり,これは人間に特有の個性的感覚像のことであり,このような感情で問いかけて対象を見るのが人間の特徴であると説かれている。

 したがって,認識学とは,このような五感情像である認識が系統発生的にどのようにして誕生したのか,また個体発生としてもどのように誕生するのか,そして系統発生としてはどのように発展してきたのか,個体発生としてはどのように発展させていくべきなのかを解明し,それを踏まえて,社会的個人としての認識の発展過程の論理を説ききることであるといえるだろう。

 これ以上にないくらいな壮大なスケールであり,まさにかつてない,21世紀の新興学問というのにふさわしいような内容であると思う。

 これから一年間に渡って『“夢”講義』をしっかり学び直していくわけであるが,『“夢”講義』で説かれる認識学はこのようなものであるということを常に念頭に置きながら,一貫してつながったひとかたまりのものとして学んでいく必要があると痛感した。

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2017年02月13日

認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想(1/5)

目次

(1)21世紀の新興学問である認識学を学ぶ
(2)認識論の基本を確認する
(3)認識と言語の関係を問う
(4)秀才は像抜きの文字を解釈する
(5)『“夢”講義』は鈍才的に学ばなければならない

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(1)21世紀の新興学問である認識学を学ぶ

 本稿は,南郷継正『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義(1)』(現代社,以下,『“夢”講義(1)』とする)にしっかりと学び,その学びの成果を認める論考である。

 年頭言でも書いたように,2017年は『“夢”講義』全6巻をしっかりと学んでいく予定である。具体的には,2か月に1回,本ブログで感想文を書く。そのために,京都弁証法認識論研究会全体で『“夢”講義』を復習しながら,定期的に『“夢”講義』読書会を開催し,1巻ごとに各会員が学んだことを交流したり,疑問点を議論したりして,理解を深める取り組みを行うつもりである。本稿連載に先立って,『“夢”講義(1)』の読書会を行い,その内容を本稿に反映させている。

 南郷継正『“夢”講義(1)』といえば,筆者にとっては非常に懐かしい思いのする書物である。一つには,筆者は1998年に三浦つとむさんや南郷継正先生の著作に邂逅し,その年から『綜合看護』を定期購読するようになったのであるが,翌1999年から本書のもとになった論文が『綜合看護』誌上に連載され始めたのである。まるで,筆者が『綜合看護』を読み始めるのを待っていたかのようなタイミングであった。当時,玄和会の知人は「師範の連載が始まったから,これからは『綜合看護』を2冊ずつ定期購読する」と興奮気味に話しておられた。その頃の筆者自身はあまりよく分かっていなかったが,『武道講義』全4巻が完結して以来の新連載だったから,玄和会の会員のみならず,南郷先生のファンにとっては待望の論文だったのである。筆者自身も,まさか南郷先生の連載論文を読めるようになるとは思ってもおらず,そのタイトルにも惹かれて,夢中で学び出したことである。

 もう一つの思い出は,『“夢”講義(1)』で紹介されている海保静子『育児の認識学』(現代社)の書評に関わる。『育児の認識学』は,これまた1999年に出版された著作であり,われわれは出版と同時に学び始めたのである。当時筆者は,メールを通して,南郷先生に学ぼうとされている方々と交流していた。その中に,この書評を書かれた湯浅俊夫さんがおられたのである。湯浅さんは『育児の認識学』が出版された翌年に,『論座』に書評を書いたとメールを通して知らせてくださった。当時のメール仲間の間ではかなりの話題になったと記憶している。何せ,『育児の認識学』を正式に取り上げた初めての書評だったのだから。さらなる衝撃が走ったのは,その後しばらくしてから,『綜合看護』で南郷継正先生がこの書評を取り上げて,絶賛された時だった。南郷先生は次のように説いておられる。

「『論座』七月号に載った書評は「『認識とは何か』を原点に構築された保育の理論」というタイトルで論じられているのですが,その論文が見事なまでに『論文』となっているのにびっくりさせられました。といいますのは以下のことです。

 『実は,私はかつて三十九歳になったころ,……ある高名な学者に論文の書きかたを教わることにしました』と連載三回目の“夢”講義に書きましたが,そのとき教わった論文の書きかたの全きそのままの書き出しで驚かされ,そして全体としての論の展開も,その内実も『お見事!』そのものであり,私はうなりっぱなしでした。

 筆者は湯浅俊夫さんといい,予備校講師とありましたが,こんな先生に教わっている生徒は幸せだろうな,としみじみ思ったことでした。

 とにかく,その論文の言葉の一つ一つに一言の反論とてなく……,あまりにもの完璧な『育児の認識学』の紹介になっていたのです。一瞬,あたかも自分がその筆者であるかのような錯覚すらおこしたものです。」(pp.166-167)


 要するに,湯浅さんの書評は完璧な『育児の認識学』の紹介になっている見事な論文であり,あたかも自分が書いたものであるかのように感じた,ということである。この南郷先生の絶賛を読んだ後,湯浅さんは「多少は評価していただけたようで,安心した」というようなことをおっしゃっていたと思うが,「多少」どころではない。南郷先生から学ぼうとしている者にとって,「あたかも自分がその筆者であるかのような錯覚すらおこした」などという評価は,これ以上ないものである。この後,筆者は湯浅さんから本格的に論文の書き方を学んでいくことになったのである。

 このように,『“夢”講義(1)』は,非常に思い出深い著作であり,筆者が弁証法や認識論を学び始めた当初の懐かしい記憶を想起させてくれる著作なのである。

 ではなぜ『“夢”講義』を研究会をあげて集中的に学び直すことにしたのか。その問題意識・目的意識をここで明確にしておきたい。

 端的には,われわれは学者を目指しているからである。学者となるためには,当然に,論理能力を養成しなければならない。簡単にいえば,アタマをよくしなければならないのである。そのためにこそ,すなわち,アタマ(とココロ)の働きを見事にするためにこそ,われわれは「看護と武道の認識論」という副題のついた『“夢”講義』に認識論を学ぶのである。

 ここに関わって,南郷先生は「まえがき」で次のように説かれている。

「そこで,私が青春時代に悩みに悩んだアタマとココロの問題を理論的・体系的(ただしやさしく)に説くことにより,若い世代のみなさんが自分たちの人生問題,社会問題で,あまり悩むことなく問題を解決して生きていけるような能力(頭脳活動)を育てていってほしいと願っての本書の出版です。」(pp.3-4)


 また,副題がなぜ「看護と武道の認識論」なのかを説く流れの中で,次のように説かれている。

「それだけに本書の読者,特に看護学科の学生・心理学専攻の学生には時代を先取りした心理学以上の実力をもっている認識論の中身を,すなわち二十一世紀の新興学問となるであろう認識学の内実! を,看護の世界に大きくからめて説くことにしたのです。」(p.25)


 さらに,認識論とは何かに関わって,次のように説かれている。

「……認識論とは,ここでは簡単には頭脳活動の理論であり学問です,と答えておきます。端的にはアタマとココロのはたらきを立派にするための学問です。」(p.29)


 以上の3つの引用をまとめてみると,どうなるであろうか。それは,『“夢”講義』では,アタマとココロの問題が理論的・体系的に説かれている,つまり,二十一世紀の新興学問たる認識学が説かれているのであり,これを学べば,アタマとココロが立派になって,自分たちが遭遇する問題を解決していけるような頭脳活動を育てることが可能となる,ということである。「二十一世紀の新興学問」という言葉には非常に感銘を受ける。時代の最先端の学問的成果を学ぶわけである。また,これを学べばアタマとココロのはたらきが立派になるというのであるから,必死に学んでいこうということにもなる。

 このように,認識論,あるいは認識学を主体的に捉えておられるところが『“夢”講義』の大きな特徴の一つだと思う。どういうことかというと,「認識」という対象を,あくまでも客体として,客観的に研究しようというのではなく,自分自身の問題として,自分のアタマをよくするための学問として,認識論・認識学が把握されている,ということである。昨年までの2年間,ヘーゲル『哲学史』を学んできたわけであるが,哲学の大きな柱としての認識論を,このように主体的に捉えていた哲学者は歴史上いなかったのではないか。もちろん,われわれも南郷先生に倣って,認識論を主体的に捉えるというスタンスで学んでいこうとしているのである。

 要するに,われわれが『“夢”講義』を学んでいく問題意識・目的意識を端的にまとめるならば,学者になれるよう,自らの頭脳活動を見事にしていくためにこそ! ということである。

 今回,改めて『“夢”講義(1)』を学び直してみて感じたのは,『綜合看護』に南郷継正先生が初めて連載された論文が元になっているだけに,初めての読者にも分かるように,基本から丁寧に説かれているということである。したがって本稿でも,基本的なところからしっかり確認して,学んだ内容を分かりやすく説いていきたいと思う。

 次回以降の構成は以下のようになる。まず,「第1編 看護に必要な認識論入門」の内容を取り上げ,認識論とは何かをしっかりと再確認したい。ここでは,認識論ならぬ認識学とは何か,そもそも認識とは何か,といった問題についても触れることとする。次に,「第2編 看護に必要な「認識と言語の理論」」と「第3編 学問的に説く「認識と言語の理論」」で説かれている認識と言語の関係について検討する。その際,「言語は精神的な交通を行うためのものである」ということと,「認識の成立から表現にいたる過程的構造の解明が大事」ということの2つをポイントとして,それらがどういうことなのかをしっかり理解したい。最後に,「第5編 看護に必要な弁証法入門」で紹介されている2つの手紙を俎上にのせ,受験秀才と鈍才を比較することを通して,『“夢”講義』はどのように学んでいかなければならないのかを考えたい。

 最後に,『“夢”講義(1)』の目次を引用しておく。



なんごうつぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(1)


【 第1編 】 看護に必要な認識論入門

第1章 「看護と武道の認識論」の関係を説く

 第1節 読者への挨拶
 第2節 看護学科・心理学科学生からの質問
 第3節 なぜ「看護と武道の認識論」なのか
 第4節 認識論とはなにか,心理学との関係
 第5節 看護に関わる四つの質問・相談

第2章 認識論と認識学の違いを説く

 第1節 認識論から説く「思う」と「わかる」の違い
 第2節 認識論と認識学はどう違うのか
 第3節 認識学とはなにか,その三大柱を説く

第3章 認識論の基本を説く

 第1節 「夢」と認識論はどう関わるか
 第2節 認識とは脳細胞が描く像である
 第3節 講義録「認識は五感情像である」

第4章 看護を学ぶのに必要な覚悟を説く

 第1節 三十九歳からの論文の書きかたの学び
 第2節 憧れた看護と大学での学びの落差
 第3節 看護を専門として学ぶために必要な覚悟

【 第2編 】 看護に必要な「認識と言語の理論」

第1章 看護における観念的二重化を説く

 第1節 看護に認識論は必須である
 第2節 相手の立場にたつことの必要性
 第3節 相手の立場にたつことの困難性
 第4節 看護はなぜ相手の立場にたたなければならないか
 第5節 看護でなぜ相手の立場にたつことが難しいか
 第6節 心理学は看護には役にたたない
 第7節 「看護とは」がわかって初めて相手の立場にたてる
 第8節 「人間とはなにか」をわかるための学び
 第9節 看護における観念的二重化の実力

第2章 看護におけるコミュニケーションを説く

 第1節 コミュニケーションとはなにか
 第2節 看護におけるコミュニケーションの特殊性
 第3節 そもそも言語とはなにか
 第4節 言語は人類の労働が誕生させた

【 第3編 】 学問的に説く「認識と言語の理論」

第1章 人間の認識の生生・生成発展を説く

 第1節 認識から言語への過程の解明が大事である
 第2節 人間の認識と動物の認識との違い
 第3節 人間の認識は社会的に創られる
 第4節 人間の認識の生生・生成発展

第2章 認識から言語への過程を説く

 第1節 無限の認識を一つの言語に集約する
 第2節 言語は社会関係のなかで教育される
 第3節 「わかる」ことと「言葉にする」ことは別である
 第4節 認識=像の成立過程
 第5節 認識=像はすべて個性的に生生・生成する
 第6節 個性像を共通像にするために言語は必要である
 第7節 「わかる」ために必要な観念的二重化の実力
 第8節 言語化できる像を描くための実力
 特別節 『育児の認識学』の書評と「『十七歳』の心は分からない」(朝日新聞)

【 第4編 】 看護に関わっての「夢とはなにか」

第1章 「夢とはなにか」の導入部分を説く

 第1節 夢にうなされる事例
 第2節 夢は唯物論的認識論からしか解けない
 第3節 夢は人間の認識の生生かつ生成発展からしか説(解)けない
 第4節 人間が夢をみることの原点は労働にあり

【 第5編 】 看護に必要な弁証法入門

第1章 弁証法を学ばない学生の実力を説く

 第1節 秀才の受験国語的実力
 第2節 看護学科学生からの手紙
 第3節 弁証法の実力がないと“夢”講義は理解できない
 第4節 弁証法は看護の事実で学ばなければならない

第2章 弁証法を学んだ学生の実力を説く

 第1節 鈍才の弁証法の学びによる実力
 第2節 心理学科学生からの手紙
 第3節 弁証法の基本の学びの実際

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2016年12月07日

3年間の育児を振り返る(5/5)

(5)反抗期は認識の発展にとっての必然性である

 本稿は,反抗期の子どもへの虐待による死亡事件が相次ぐ社会情勢の中で,これまでの育児,特に反抗期を迎えた娘に対するここ1年間の育児を振り返って,言語の発達や反抗期について考察し,また,親の認識の変化やあるべき親の認識のあり方について検討するための論考であった。ここでこれまでの流れをまとめておきたい。

 初めに,言葉の発達について振り返った。まず,この1年間で物の名前をたくさんいえるようになったことを見た。これはたとえば,半円形の穴で,その中に入っていくことができるものは「トンネル」と認識できるようになったことを意味しており,対象の共通性を理解できるようになったのだと説いた。未知の対象に対しては,既に知っている論理でもって問いかけるために,高架橋をトンネルと認識したり,のど飴をお豆さんと認識したりするいき過ぎも生じることを指摘した。この中で,人間の認識は,まずは一般性として反映するのであり,その後に特殊性が分かってくるのだということも確認した。次に,名詞だけではなく,動詞や形容詞・副詞なども使えるようになってきて,長い文を話せるようになったことを見た。数に関しては,4以上は「多い」という認識しか成立しておらず,この「多い」一般を「4」と認識しているのは,先の名詞の場合と同じく,ある既知の特殊性を,一般性を表すものとして認識しているのだと指摘した。「なかなか」という時間経過に関する副詞や「中くらい」という大きさに関わる概念も理解できるようになってきたことを見た。アイスクリーム屋さんごっこをしていて,アイスを落とした際,「落としたら,洗わないとダメです」などといいながら洗いにいったことなど,見立て遊びができるようになったことについては,観念的二重化の実力がついてきた証左であると説いた。さらに,言語の本質的な機能であるコニュニケーション(認識の交通)もかなりできるようになってきたとして,「ウンチ,出る」といって,ほぼ100%,ウンチの前には言葉で伝えてくれるようになったこと,「おめめ,ぎゅー!」とこちらがいえば,目をつぶってくれて,そのおかげでスムーズに寝ることができるようになったことを説いた。このように言語が発達したことは,「いや!」と直接的に表明されることが増えたり,無意識的な要求水準が上がることにより現実とのギャップでイライラが積み重なったりして,虐待につながる要因になりうることにも触れた。

 次に,反抗期の認識について,事実を提示した後,海保静子『育児の認識学』で説かれている認識論的解明を紹介し,私の体験した事実と,説かれている論理とののぼりおりを試みた。私が体験した事実とは,たとえば,電車に乗っている時に,バナナがほしいというが,その日はたまたま持ち合わせていなくて,「今日はないよ」というと,「いやや! バナナ! バナナ!」といって大声で泣いたケースである。この時は,「バナナ,ほしいんやね。じゃあ,あげるわ。一緒にカバンのなか探そう!」といって,探した後,「ないわ。○○も探してみ」と提案して,娘にも探させ,それでないことが分かると納得したのか,機嫌が直ったのであった。他にも,朝ご飯を食べた後,おもちゃで遊んで,着替えをしようとしなかったケースや,たくさん柿を食べた後,まだ柿を食べたいといって駄々をこね,母親が,「もうダメ!」というと,「いやや!」などといって寝転がって大声で泣き始め,手を打つのが遅かったためにどうにもならなくなったケースなどを紹介した。このような「反抗」について,『育児の認識学』では,保育園のぬいぐるみをもって帰ろうとしたS子に対して,母親が「これは保育園のものでしょう」などという説得を試みても「イヤダ」の一点張りであったのに,海保先生が「S子ちゃんは,ウサギさんがだいすきなのよね」「でもウサギさんもお家に帰らなくちゃ」「ウサギさんもお母さんのお家に帰りたいって」などといって働きかけた結果,素直にぬいぐるみを渡してくれたという事例が紹介されていた。こういった反抗について,海保先生は,反抗とは自らが主体的に描き出した像の実現化に向けて,行動をおこしたときに,外界からその行為をはばもうとするなんらかのはたらきかけがあり,それにたいしてあくまでも自らの目的を達成しようと,認識と実体を駆使しながら,対象に向けておこす行動であると概念規定され,反抗期の認識には柔軟性があり,大人の接し方次第でいかようにも育つ可能性があると説かれていたのであった。この論理は,私が体験した事実にも合致するものであるということを確認した。

 最後に,親の認識の変化・発展を振り返り,加えて,反抗期の子どもを持つ親として,自分の認識をどのように整えるべきか,どのように考えれば不幸な虐待を防げるのかというテーマについても検討した。親の認識としては,一年前と比べても,かなり余裕が出てきたと指摘した。反抗期を迎え,手におえない場面もできたのであるが,それ以上に,一人でできることが増え,ある程度放っておいても大丈夫になってきたので,その分,親としては楽になってきて,余裕が生まれてきたのであり,その証拠に,妻が朝の世話を一手に引き受けてくれたことも紹介した。そのうえで,娘の成長を見るのは親としては非常にうれしく,言葉によるコミュニケーションがよりとれるようになったのは,楽しい体験であったとして,いくつかのエピソードを紹介した。できるようになってこととしては,おむつではなく,トイレで排泄できるようになったこと,一人でそれなりにこぼさずにご飯を食べられるようになったこと,一人で服を脱ぎ,一人で服を少しは着られるようになったことなどを紹介した。コミュニケーションということでいうと,「おおっ,そんなことがいえるのか」と驚いたり,感心したりしたことがいろいろあったとして,娘とのコミュニケーションを通して,プラスの・ポジティブな感情を何度も何度も体験したことを紹介した。たとえば,冗談で娘のことを「ポニョさん」とか「メイちゃん」とか,アニメのキャラクターの名前で呼びかけてみると,「ちがう! ○○(娘の名前)」といって,否定・訂正した後,ニコニコした顔をしながら,私のことを「ママ」と呼んで仕返ししてきたこと,仕事に行ったと思ったパパが現れて,「あれ? パパ,いる。仕事かと思ってたわ」といったため,妻も私も大笑いしたこと,おじいちゃんの車に乗っているときに,自分がおじいちゃんの車に乗っていると認識していたことや,おもちゃの数を正確に認識できたことなどを紹介した。こういったポジティブな感情を体験したことが,余裕が出てきた一因であること,このようなプラスの交流が増えれば,多少の反抗は許せて,虐待は予防できる可能性が高まることを説いた。また,より重要なこととして,親の認識を子どもに押し付けるのではなく,いったん自分の認識を否定して,子どもの認識を描きそれを表現することが「反抗」を静めるのに効果的であることを説いた。

 このように見てくると,2歳から3歳への1年間は,言語の発達にみられるように,自分なりの認識,すなわち問いかけ的認識が量質転化してしっかりしてきたために,対象の共通性をしっかり把握できるようになり,その共通性を把握した論理でもって,対象に問いかけることができるようになった一方で,いわゆる自我が芽生え,自分なりに主体的に判断して答えを出せるようになったため,親の要求と合致しなくなり,「反抗」という現象を呈するようになった1年であったといえるだろう。しかし,成長も著しい1年であったため,親として,その成長を喜び,うれしく思うという認識が育ってきて,反抗期の認識をしっかりと踏まえれば,適切な介入を行うことができ,こちらがそれほどイライラせずに余裕をもって対応できるということが分かった1年でもあったといえるだろう。

 以上を踏まえて,反抗期の子どもを持つ親のために,虐待を予防するための処方箋を考えてみたい。今まで説いたことも含めて説き直すならば,次のような処方箋が考えられるだろう。

 まずは,言語が著しく発達したとしても,まだ所詮は2年と少ししか人生経験のない幼児だということを,しっかりと自覚することである。まだ,たった2年しか生きていないのである。言葉も,ようやく話せるようになり,こちらのいうことも理解できるようになってきたばかりである。そのような子どもに対して,こちらのいうことを100%聞かそうとすること自体が間違っている。半分どころか,20%も聞いてくれれば御の字である。また,まだまだ正確な言葉を使える段階ではないので,子どもが使った言葉を字義通りに受け取って,こちらが怒りを覚えるなどは,単にこちらの間違った解釈による怒りに過ぎない。「いや!」とか「嫌い!」とかいう言葉も,それに近い何らかの思いを,その言葉で代表させて表現しているだけである。「親に嫌いとは何事か!」となどといって怒りを爆発させるなどは,愚の骨頂であると知るべきである。要は,子どもに対する要求水準(期待)を思い切って下げて,言葉も不十分にしか使えていないと自覚しておく必要があるということである。無意識的な要求水準(期待)をしっかり意識化して,それを下げておくことは,不必要にイライラしたり怒ったりしないための有効な手法である。

 次に,反抗期の必然性を勉強しておくことも大切だろう。『育児の認識学』で説かれているように,反抗期というのは子どもの正常な発達・成長にとっては必然性であり,むしろこれがない方が異常なのである。反抗期は,親をはじめとする周囲の人間の言動をしっかりと反映して,まねをすることができるほどの認識の発展がもたらされた結果であり,さらに,対象の反映をくり返すことによって,事物の共通性を把握できるようになり,それに伴って言語が発展してきたために,自分の意志をしっかりと言語表現できるようになっていった結果であるともいえるだろう。また,母親の答えに依存するのではなく,自分で答えを出したくなってきたことの現われである。いずれにしても,人間の成長としては,非常に歓迎すべきことである。このように反抗期の必然性をしっかりと勉強しておけば,「来るべきものが来たな」ということで,多少なりとも余裕を持って,子どものかんしゃくや反抗に巻き込まれてしまうのではなく,冷静に距離をとって眺められるようにもなるであろう。

 さらに,自分たち親の認識を意図的に整えていく,コントロールしていくことも大切である。そのための代表的な方法が,子どもとのポジティブな体験に目を向け,できればそれを日記として記録していくことである。いくら反抗期といっても,子どもは反抗ばかりしているわけではない。親にとっては,反抗ばかりしているように映るかもしれないが,それはこちらの問いかけがなせる業であり,実際はポジティブな出来事も起こっているはずである。連載第2回で説いたように,言葉が発達して,いろいろな言葉が話せるようになったり,こちらのいうことが理解できるようになったりするのがこの時期である。こういった成長が何よりのポジティブな出来事である。また,連載第4回で紹介したように,もっともっと些細なことであっても,ポジティブな出来事は探そうと思えばいくらでも出てくる。そのような喜びを感じた体験,楽しかった体験,親として達成感を得られたような体験など,ポジティブなことだけを日記に記していくのである。そうして,折を見て読み返す。それだけで心が明るくなり,心に余裕が出てくるものである。実際,筆者はカウンセリングでこの方法を指導して,育児に疲れてうつ状態になり,入院までしていた母親を,短期間に回復にまで導いた経験がある。

 親が自分の認識をコントロールする最たるものは,自分の認識を否定して,子どもの立場に立ち,子どもの認識を追体験する,というものである。そして,その認識を言葉で表現するのである。これがいわゆる共感するということである。まず,共感を示すことによって,子どもの反抗やかんしゃくがエスカレートしていくことを止めることが可能となる。なぜなら,『育児の認識学』で説かれていたように,反抗やかんしゃくというのは,「外界からその行為をはばもうとするなんらかのはたらきかけ」があることが要件となっているからである。ある像の実現化に向けて子どもが動いており,親もその子どもの認識=像を追体験して,同じように実現化に向けて動く。こうなると,子どもは何ら反抗することはなくなるはずである。反抗する対象がなくなってしまうのである。加えて,共感を示せば,子どもの認識がはっきり把握できるようになり,自分たち親の思いと両立可能な形態を創出できる可能性が出てくる。逆に,子どもの認識をしっかりと掴まなければ,親の認識の一方的な押し付けに終わってしまい,その押しつけに対して子どもは反抗してしまうのである。そうならずに,しっかりと子どもの認識と親の思いが両立するような形を提案するには,まずは子どもの認識を正確に掴むことが前提となるのである。

 以上,本稿では,筆者自身の反抗期の子どもの育児を振り返り,反抗期の子どもとその親の認識を整理しながら,この時期に起こりうる虐待をどのように防ぐのかというテーマについても考察してきた。本稿が,反抗期の子どもの育児に悩む親の,より適切な育児のためのヒントとなれば,幸いである。

(了)
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2016年12月06日

3年間の育児を振り返る(4/5)

(4)親の認識の変化・発展

 前回は,反抗期の子どもの認識を取り上げ,反抗期の子どもの事実と,その認識論的解明をなした『育児の認識学』で説かれている論理とののぼりを試みた。反抗とは,自らが主体的に描き出した像の実現化に向けて,行動をおこしたときに,外界からその行為をはばもうとするなんらかのはたらきかけがあり,それにたいしてあくまでも自らの目的を達成しようと,認識と実体を駆使しながら,対象に向けておこす行動であり,確かにこれが私の娘にも当てはまるものであった。また,このくらいの時期の認識には柔軟性もあることも確認した。

 さて今回は,子どもではなく,親の認識にスポットを当て,この間の育児を振り返りたいと思う。加えて,反抗期の子どもを持つ親として,自分の認識をどのように整えるべきか,どのように考えれば不幸な虐待を防げるのかというテーマにも切り込んでいくつもりである。

 まず,この間の親の認識の変化である。端的にいうと,一年前以上に余裕が出てきた。確かに,前回説いたように,反抗期を迎え,手におえない場面もできたのであるが,それ以上に,一人でできることが増え,ある程度放っておいても大丈夫になってきたので,その分,親としては楽になってきて,余裕が生まれてきたのである。それまでは,朝は私と妻が一緒に娘の世話をしていたが,いつからか,妻が一人するといってくれるようになった。これも余裕ができたが故である。

 また,これまでできなかったことができるようになると,親としては素直にうれしいし,加えて,言葉によるコミュニケーションがますます活発にできるようになったので,それも楽しい体験である。突拍子もないことをいって笑わせてくれたり,そんなことまで分かるのかと驚いたりすることも多かった。

 たとえばということで,記録を振り返って,いくつかのエピソードを紹介しておきたい。

 まず,できるようになってことでいえば,おむつではなく,トイレで排泄できるようになった。一人でそれなりにこぼさずにご飯を食べられるようになった。自分で鼻をかめるようになった。一人で服を脱ぎ,一人で服を少しは着られるようになった。また,保育園で習ってきたかなり長い歌を,自分一人で歌うことができるようになった。

 コミュニケーションということでいうと,「おおっ,そんなことがいえるのか」と驚いたり,感心したりしたことがいろいろある。昨年の12月には,「ママのこと好き?」と聞くと「好き」と答えるのに,「パパのこと好き?」と聞くとニコニコしながら「好きない」と答えるのである。「そんなこと言うなら,おやつ,あげないよ」というと,「パパ,好き」といい直すのである。現金なやつである。同じころには,保育園の友達の名前を7人ほどいうことができた。

 今年の2月には,冗談で娘のことを「ポニョさん」とか「メイちゃん」とか,アニメのキャラクターの名前で呼びかけてみた。すると,「ちがう! ○○(娘の名前)」といって,否定・訂正してきた。しばらくした後,ニコニコした顔をしながら,私のことを「ママ」と呼んできた。仕返しだろうか。

 4月になると,車に乗っていて赤信号で止まった時,「赤は止まれ」と言い出す。青信号になった時,「青は?」と尋ねると,「緑は進め」という。どうやら祖父に仕込まれたようだ。夕食で私が餃子を食べようとしていたら,自分が食べるわけでもないし,食べたこともないのに,「おいしそうですね〜」などと笑顔でいってくる。今まで,親の側が「おいしいよ〜」といって食べさせることはあったが,その逆は初めてで新鮮だった。

 6月のある日,妻が寝ぼけている娘を抱っこしてリビングに運んだ。いつもはこの時間の前に,私は出勤しているが,この日は午前中に半休をとっていた。しばらくしてから私もリビングに行くと,娘は私を見て,「あれ? パパ,いる。仕事かと思ってたわ」といったのである。妻も私も大笑いしたことである。

 8月には,祖父の車を借りてドライブしていた。たまたま,祖父の家の前を通りかかった時,農業に使っている軽トラックが見えたので,私が「あっ,おじいちゃんの車があった」といった。すると娘は,「違うで,おじいちゃんの車はこれやで」といったのである。車に乗っている状態・視点でも,今乗っているのがおじいちゃんの車で,おじいちゃんの家におじいちゃんの車があるはずがないということが分かったようで驚いた。別の日に,お風呂でイルカの形をしたゴムの水鉄砲があるのだが,それを桶から取り出して3つ与えた。お風呂のたびに,この3つの水鉄砲で娘は遊んでいたのである。ところがその日は,「もう一個ある!」と主張したのである。なぜこんなことをいい出したのか。それには理由がある。実はもともと風呂場に3つ置いていたのだが,その前日にはもう一つ娘が持ってきていたのだ。ということは,その日は,同じ形の水鉄砲が3つではなく,4つ存在していたことになる。娘はしっかりと3つではなく4つだという数の認識ができたのである。そういう数を記憶することができるのかと感心した。

 9月に娘はお医者さんのおもちゃを買ってもらって喜んでいた。ある日,聴診器をつけて遊んでいたので,私が「○○先生,お腹が痛いです」などというと,私のお腹に聴診器を当てて診てくれる。そして,「お腹が痛いですね」といっては,注射器のおもちゃをもってきて,ブスッとお腹にさして笑っているのである。「先生,痛いです。もっと優しくしてください」というと,さらに声を出して笑う娘であった。別の日に,ドライブ中,私が歌を歌っていると,「パパ,歌,うまいね〜」といってくれる。「○○も上手やで」というと,上機嫌で歌を歌いだす。また,「ね〜ね〜,見て」というので,娘の顔を見ると,何か,口をとがらせて変な顔をしている。「どうしたの?」と聞くと,「これ,怒っている顔」と笑いながらいう。ママが怒っているときの顔をまねしているのだそうだ。

 このように,娘とのコミュニケーションを通して,プラスの・ポジティブな感情を何度も何度も体験したことも,余裕ができてきた一因だといえるだろう。娘に対して快の感情を持つことが多くなれば,多少の不快は我慢できるものである。単純に,このようなポジティブな交流を積み重ねていけば,多少の反抗は許せるようになるはずである。そうなれば,第1回の連載で紹介したような不幸な虐待死は防げる可能性が高くなってくるのではないか。逆にいうと,あのような事件を起こした親と子の間には,ポジティブな交流は少なかったのではないか。

 反抗期の子どもに対する虐待を防ぐという意味では,より重要なことがある。それは,前回説いたことに関わるが,しっかりと科学的認識論をふまえた働きかけを行うべきだということである。どういうことか。少し説いてみる。

 前回説いた,ぬいぐるみを持って帰りたがる子に対する海保先生の働きかけや,朝おもちゃで遊び続けたいといった娘に対する私の働きかけからも分かるように,反抗する子どもをうまくコントロールするためには,まずは,こちら側が自分の認識=像を否定して,子どもの描いている認識=像をしっかりとこちらも追体験し,そしてそれを表現することが大切である。海保先生の例であれば,「S子ちゃんは,ウサギさんがだいすきなのよね」「S子ちゃんはウサギさんと仲よしこよしだものね」といっているし,私の場合は,「おもちゃで遊びたいね」といって,相手の認識が分かっていることを伝えたのである。

 失敗事例のほとんどは,親の思いをただ一方的に押し付けているだけである。海保先生の事例で,当初母親は,「これは保育園のものでしょう」「お家にもっていっちゃいけないの」といっているが,これは大人のルールを押し付けているだけである。同様に,私が「お風呂の時間なので,テレビはもうやめなさい」とか,「食べ過ぎだから,もう柿はあげません」とかいうのも,ただただ,こちらの認識を押し付けているだけである。こうなれば,子どもはますます自分の描く目的像の実現化に向けて,認識と実体を駆使して,激しく抵抗することになるのである。

 そうではなくて,まずはこちらが折れるというか,自分の押し付けたい認識を否定して,子どもの描いている認識をこちらも描き,それを子どもに伝えるのである。いわゆる共感である。その上で,では,その子どもの描いている認識=像を使って,どうすれば自分たち親の要求と両立するかを考えるのである。矛盾が実現するとともに解決するような調和的な形態を考え出すのである。海保先生であれば,ぬいぐるみと子どもを,ともに親が家で帰りを待っている存在として重ね合わせられるように働きかけたし,私であれば,お姉ちゃんだから,我慢はできるのだし,帰ってきてからは遊べるのだと分かるように働きかけたのである。また,お気に入りの服を見せて,親はそれを着てくれたら嬉しいという思いを表明し,子どももそれを着たいという思いをもつように働きかけ,両者の思いが両立する場面を創ったのである。

 このように,矛盾を調和的に解決することは難しいかもしれないが,自分の認識を否定して,相手の認識を描く,共感する,ということは,少し意識すればできるはずである。これだけでも,相手の反抗を助長することがなくなり,こちらが怒りを爆発させるようなことがなくなるはずである。

 いったん,子どもの反抗心が強くなりこじれてしまうと,もはや手が付けられなくなることもあるので,早い目に妥協して,しっかり共感を示すことが大切だろう。絶対にダメなこと(自他の命にかかわるような危ないこと等)以外は妥協するくらいの心持ちでちょうどいいのではないか。そうすれば,不幸な虐待の多くを予防できるだろう。

 以上今回は,親の認識に焦点を当てて,この一年間で自分の喜びや楽しみを感じたことを振り返り,それを踏まえて不幸な虐待を予防するための親の認識あり方,心持ちについて考察した。
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2016年12月05日

3年間の育児を振り返る(3/5)

(3)反抗期の認識

 前回は,この1年間の言語の発達について振り返った。物事の共通性を把握できるようになり,言葉の数が増えたこと,3語文以上の長い文も話せるようになったこと,コミュニケーションがかなりとれるようになり,自分の意志をしっかりと表現したり,こちらの意図を理解することが,どんどんできるようになってきたこと,言語の発達は虐待につながる要因になりうること,などを説いた。

 さて今回は,連載第1回でも大きく取り上げた反抗期について取りあげ,海保静子『育児の認識学』に基づいて,その認識論的解明を行っていきたい。

 まず,私の娘の反抗期に関わる事実をあげる。4月頃には,「またイヤイヤが強くなってきた」と記録にあるので,すでにこの頃以前にイヤイヤが始まっていたようだ。この時は,娘が何か,ものを運んでいたが,それにちょっと触れてしまって,運ぶのを邪魔した格好になっただけで泣く。お風呂の時間になったのに,まだアニメを見ていたので,「あがってから見ようね」というと泣く。

 7月には,保育園にお迎えに行っても,帰ろうとしない。その時やっている遊びをそのまま続けようとする。そこで,カバンに入ってあったおもちゃを見せて,「これ,パパがもらうよ!」といっておもちゃを隠すと,静かに泣き出してしまった。別の日には,電車に乗っている時に,バナナがほしいという。いつもは持ち歩いていたが,その日はたまたま持ち合わせていなくて,「今日はないよ」というと,「いやや! バナナ! バナナ!」といって大声で泣く。その後,「バナナ,ほしいんやね。じゃあ,あげるわ。一緒にカバンのなか探そう!」といって,探した後,「ないわ。○○も探してみ」と提案して,娘にも探させる。それでないことが分かると納得したのか,機嫌が直ったのであった。

 10月になると,たくさん柿を食べた後,まだ柿を食べたいといって駄々をこねる。母親が,「もうダメ!」というと,「いやや!」などといって寝転がって大声で泣き始める。しばらく泣くと,もう手が付けられなくなる。仕方なく,柿をあげようとしても,「いらないの!」と反発する。私が抱っこしようとすると,「ママがいい!」と叫ぶ。そこで母親が抱っこしようとすると,「違う!!」などといって激しく抵抗する。

 ごく最近では,朝ご飯を食べた後,おもちゃで遊んで,着替えをしようとしない。「着替えないとだめやで」といっても,「いやや。もうちょっと遊ぶの!」の一点張り。保育園に行く時間になっても,まだ遊んでいる。「もう行かないと,パパ,仕事に遅れちゃうやん」といっても,「いやや」である。結局この時は,「おもちゃで遊びたいね」と共感した後に,「でも,もう3歳やから,遊ぶのは帰ってきてからにしようね。お姉ちゃんやから我慢できるね」とか,「この服,パパは好きやから,着てくれると嬉しいな」などといって,うまくいうことを聞かしたのであった。

 このような「反抗」の事実には,どのような認識論的な意味が隠されているのであろうか。海保静子『育児の認識学』では,「認識は対象の頭脳における反映である」という原理から,反抗期の認識論的解明がなされている。少し紹介してみよう。

 1〜2歳ごろまでは,子どもは外界の反映が新鮮なものだらけであり,自分の認識(個性)も育っていないので,自分で判断することができない。そこで,全ての答えを自分の分身である母親に求めるものである。しかし,2〜3歳ごろになると,自分が反映した認識が,しだいに自分の認識として量質転化を起こし,認識が個性として成長してくるようになる。そうなると答えは自分が出したくなり,母親の答えは不要となるどころか,かえって邪魔になりかねない。「その不要,邪魔と思えるものにたいして実体がかんしゃくをおこし,認識が反抗というかたちをとってくるのです。これがかんしゃくと反抗が成長してくる過程的構造なのです」(p.218)ということである。

 このように説かれた後,事例が紹介されている。保育園のお迎えに来た母親とS子がもめているという場面である。S子は保育園のウサギのぬいぐるみを持って帰ろうとしていたが,母親は「これは保育園のものでしょう」「お家にもっていっちゃいけないの」などといって説得するが,S子は「イヤダ」の一点ばり。そこで海保先生は,「S子ちゃんは,ウサギさんがだいすきなのよね」と問いかけたら,それまでは「イヤダ」といって抵抗していたS子が「ウン」とうなずいたという。そしてその後,次のようにいって働きかけたという。

「S子ちゃんはウサギさんと仲よしこよしだものね」
「でもウサギさんもお家に帰らなくちゃ」
「S子ちゃんもお母さんといっしょにお家に帰るでしょ」
「ウサギさんもお母さんのお家に帰りたいって」
「お家に帰ってごはんたべて,ねんねして,そしたらまたS子ちゃんといっしょにあそぼうね,って」

 このような内容のことをくり返して伝えているうちに,S子は「ウン」とうなずいてぬいぐるみを渡してくれたと説かれている。

 ここに関して,母親のいう「保育園のもの」「持ち帰ってはいけない」というルールは,S子の頭の中に描かれておらず,母親の言はS子にとっては大好きなウサギさんと離れ離れになる思いとしてしか描かれていなかった(だから「イヤダ!」という表現になった)のに対して,海保先生の言葉は,まさにS子が描いている像と合致するものであり,それによって気持ちがほぐれたのだ,さらに,S子の頭の中でお母さんといっしょにいたい自分の思いをウサギに重ね合わせることができたからこそ,サヨナラしてまた明日遊べる像に結びつけることができた(だからぬいぐるみを手渡してくれた)のだと説かれている。

 以上を踏まえて,次のようにまとめられている。

「以上のことから反抗ということを考えてみると,「自らが主体的に描き出した像の実現化に向けて,行動をおこしたときに,外界からその行為をはばもうとするなんらかのはたらきかけがあり,それにたいしてあくまでも自らの目的を達成しようと,認識と実体を駆使しながら,対象に向けておこす行動である」といえましょう。

(中略)

 反抗期においては,対象とのかかわりのなかで自らをダイナミックに主張しつづける一方で,その欲求が徐々に社会的にととのえられていく,という柔軟性をもった認識であることがわかります。自分と他との関係,そして自らの目的や欲求をどのように描き,達成していこうとするのか,その基礎が創られる時期でもあるのです。

 したがって,この時期のおとなの接し方しだいで,こどもはなにがなんでも自分の思いをとおそうとするわがままな子になるか,それともすこしずつがまんしながら他人の心がわかり,ともだち関係がうまくもてるようになっていくか,という重要な分かれ目でもあるのです」(p.225)


 ここでは,反抗とは,「自らが主体的に描き出した像の実現化に向けて,行動をおこしたときに,外界からその行為をはばもうとするなんらかのはたらきかけがあり,それにたいしてあくまでも自らの目的を達成しようと,認識と実体を駆使しながら,対象に向けておこす行動である」と概念規定がなされ,反抗期の認識には柔軟性があり,大人の接し方次第でいかようにも育つ可能性があることが説かれている。

 筆者の娘の事実で,この反抗の論理について,具体的に考えてみよう。たとえば,7月に電車でバナナがほしいといってきかなかった例では,娘自らが,バナナの像を主体的に描き出して,それを実現化するために「バナナ,ほしい!」といったわけである。このようなときに,娘にとっては外界である私から,そのバナナを食べるという行為をはばもうとする働きかけがあった,つまり,「今日は,バナナ,ないよ」と言われたのである。これに対して,娘は,あくまでも自らの目的(=バナナを食べること)を達成しようとして,認識と実体を駆使しながら,「いやや! バナナ! バナナ!」といって大声で泣いたのである。

 ごく最近の朝ご飯の後でおもちゃで遊んでいて,着替えようともしないし,保育園に行く時間になっても,行こうとしない例でも考えてみよう。この場合,「自らが主体的に描き出した像」とは,自分がおもちゃで遊んでいる像である。その像を描いて,それを実現化するために,実際におもちゃで遊んでいるのである。その時に,外界からその行為をはばもうとするなんらかのはたらきかけがある。すなわち,父親である私が「着替えなさい」とか「もう保育園に行くよ」とかいって,娘を叱りつけるのである。それに対して娘は,あくまでも自らの目的を達成しようと,「いやや」といっておもちゃで遊び続ける。無理に着替えさせようとしたり,保育園に連れて行こうとしたりしたら,「いやや!!」と大声をあげて,泣きじゃくり,激しく抵抗する。これが「認識と実体を駆使しながら,対象に向けておこす行動」であるところの反抗である。

 先に,柿がほしいといってきかず,こじれてしまって,どうにも手が付けられなくなったことがあると紹介したが,今取り上げた二つの例は,それなりにうまく働きかけて,なだめることに成功した。たとえば後者であれば,「この服,パパ好きやな。これ着てくれたらうれしいな」などといってお気に入りの服を見せたり,「もう3歳のお姉ちゃんになるのに,いうこと聞かなかったら,もう一回1歳児さんのクラスからやり直しやな。もうお姉ちゃんやから,おもちゃで遊ぶのは帰ってくるまで我慢できるね」などといい聞かせたりするのである。これが成功して,「服,着る!」となったり,「お姉ちゃんやから我慢する!」となったりするのである。このあたりの事実が,「その欲求が徐々に社会的にととのえられていく,という柔軟性をもった認識である」「すこしずつがまんしながら他人の心がわか」るようになっていくということの一例であるといえるだろう。すなわち,反抗していても,その認識で固定化されるのではなく,周囲の関わり次第で,その認識・欲求が整えられて,我慢できるようになっていくのである。このような柔軟性をも持ち合わせているということが,このくらいの時期の認識の大きな特徴であるといえるだろう。

 以上,今回は,反抗期の子どもの認識に焦点を当てて,事実と論理ののぼりおりを試みた。

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2016年12月04日

3年間の育児を振り返る(2/5)

(2)言葉の発達

 本稿は,3年の育児,特に2歳から3歳になるまでの育児を振り返り,言語の発達,反抗期の認識,親の認識の変化・発展という観点から考察していく論考である。今回は,子どもの言語の発達を振り返りたい。

 まず,この1年間で,ものの名前を非常にたくさんいえるようになった。昨年の12月には,アニメで猫のキャラクターの後ろ姿が映った時,娘は「しっぽ!」といった。これは,生き物のお尻から生えている細長いものを反映して,それを種類として,あるいは大げさにいうと概念としてとらえて,「しっぽ」と表現したのであろう。そのくらい,対象の共通性が把握できるようになっているということである。

 他にも同様のことはある。今年の2月ごろ,たまたまテレビに小さなトンネルが映った時があった。その時,娘は「トンネル!」といったのである。これには事情がある。私はたまに娘を職場の保育所まで連れていくことがあった。車で行く場合,職場まで2回トンネルがあるのである。いつのころから,トンネルに入るたびに,私が「トンネル」というようにした。くり返し,くり返し教えたのである。その結果,半円形の穴で,その中に入っていくことができるものは「トンネル」であると認識したのであろう。たまたま,テレビにそのようなものが映っていたので,「トンネル!」と叫ぶことになったのだと思われる。つまり,いつも見ているトンネルから汎化して,別のトンネルでも「トンネル」として認識できるようになったということである。

 この汎化のし過ぎで,間違った認識になったこともある。それは,道路の上に架かっている高架橋を見て,娘はがトンネル!」と言い出したことである。確かに,アーチ状の形が見えるし,その中に入っていくという点でも,トンネルと共通性がある。その共通性をとらえて,娘は「トンネル」だと認識し,そう表現したのであった。取り急ぎ,「短いものはトンネルではない,あれは橋というのだ」と修正を入れた。

 他にも,これはつい先日のことであるが,私がのど飴を食べるのを見て,「お豆さん」といったことがあった。確かに,小さくて丸くて,茶色っぽくて,口に入れるもの(食べるもの)という共通性がある。この共通性をとらえて,「お豆さん」であると認識し,そう表現したのである。娘にとって,この種の飴はまだ食べたことがなく,未知のものである。娘が食べたことがある飴は,棒の先に平べったい円形の飴がついているものである。しかも,これは「ペロペロキャンディ」と呼ばれていた。形も全然違うし,「飴」などという言葉は知らなかったので,私が食べたものを「飴」と認識し,そう表現することなど不可能だったのである。逆にいうと,人間の認識は問いかけ的反映であり,その問いかけ像は当然に,すでに知っているものであるから,娘は私が食べたものを,これまでの体験で創ってきた認識を総動員して,「お豆さん」と反映したのであろう。このことは,人間は未知の対象を,まずは知っているものとの共通性としてとらえるのであり,より論理的にいえば,まずは一般性しか反映しないということを示唆しているといえるだろう。一般性というのは,この場合,「小さくて丸くて,茶色っぽくて,口に入れるもの」ということであり,その中には豆もあれば飴もあり,チョコレートもある,などという特殊性は,後々分かってくるということである。この段階では,一般に,「小さくて丸くて,茶色っぽくて,口に入れるもの」を「お豆さん」と捉えていたのである。

 このようなものの名前だけではなく,動詞や形容詞・副詞などもそれなりに使えるようになってきており,それに伴って,長い文を話せるようになってきた。昨年の12月,おもちゃで,コインのようなものがたくさん入っているものをもらった時は,「いっぱいある」といっていた。数が多いいということが理解できており,その共通性をとらえて「いっぱい」と言語表現できるまで,認識が発展していたということであろう。

 数の認識ということでいうと,「3」くらいまでは分かっているようである。何か食べ物をあげるときに「3つだけやで」などといいながら渡しても,理解しているようである。ところが,娘が,親指だけ曲げた形で「4」を示しながら,「おやつ,これだけちょうだい」といったことがあった。そこで,おやつを4つあげると,「ちがう! もっと!」などと怒るのである。これは,4以上は数が多いということで共通性があり,その共通性をとらえて,それを代表で「4」と表現しているのではないかと思う。つまり,「4」は「4」であって「4」ではない。3よりは大きいという意味で,確かに4は4なのであるが,厳密に3+1の数字を表しているのではなくて,ただ単に多いこと一般を表しているのである。先の,「小さくて丸くて,茶色っぽくて,口に入れるもの」一般を「お豆さん」と呼んでいたのと同様の論理構造があるだろう。このように一般性でとらえた後に,いろいろな特殊性が徐々に理解できるようになり,概念が分化していくのだと考えていいだろう。

 6月には,娘は「おじいちゃん,なかなか来ないね」といった。「なかなか」というような時間的な概念も分かるようになってきたようだ。また,「パパ,大きい。○○(自分の名前),小さい。ママ,中ぐらい」みたいなこともいっていた。「中くらい」という大きさの概念も,この頃には分かってきていたようだ。

 長い文も急速に話せるようになっていった。今年の2月には,「ぱぱ,おちゃちゃ,ちょうだい」とか「まま,おばけ,たいじ」とかいった3語文を,明確に話すようになった。5月や6月頃には,「ママ,赤い車好きっていってはったで」と教えてくれることや,「パパ,大きくなったら,黒の車買ってや」とお願いしてくることもあった。話せる文がみるみる長くなっていき,助詞や助動詞も,それなりに使えるようになってきていることが分かる。

 見立て遊びをしながら,一人で話すことも増えてきた。初めは,おもちゃのお皿とフォークで,何かを食べているまねをし,私にフォークを差し出して「はい,どうぞ」というくらいであった。5月にはいとこが生まれ,いとこが横抱きされている姿を見るようになった。すると,「□□(いとこの名前)君,やって」といって,横抱きを求めることも出てきた。そのうち,自分のことを「□□君です」といって,いとこになりきることも出てきた。そこで,「□□君,何歳ですか?」と聞くと,「分かりません」という答え。「0歳やで」と教えると,次からはしっかり「0歳」と答えるようになった。もちろん,「○○,何歳?」と本人の年齢を尋ねると,しっかりと「2歳」と答えるのであった。

 そのうち,見立て遊びもだんだん凝ったものになっていった。9月頃には,アイスクリーム屋さんのおもちゃで遊んでいるとき,アイスを落としてしまったようだ。そうすると,「落としたら,洗わなあかんなあ」などといいつつ,別の場所に持って行き,水で洗い流すしぐさをして,帰ってきたのである。また別の機会には,母親の昔の携帯電話で遊んでいて,「もしもし,ママですか。○○は今遊んでいます。それじゃあね,バイバイ。」というような言葉を発していた。

 このような見立て遊びができるようになり,より複雑な見立て遊びができるようになっていったというのは,観念的二重化の実力がついてきて,それが徐々に高まっていったことを意味しているだろう。実際にはおもちゃにすぎないものを本物のフォークやアイスなどと見立てているからである。現実の世界ではおもちゃであるが,想像の世界ではフォークやアイスなのである。アイスを落として水で洗い流すしぐさをしたのは,保育園で,先生が,落としてしまった食べ物を「落としたら,洗わないとダメです」などといいながら洗っているところを見たことがあるからだろう(実際は,アイスを水で洗い流すと融けてしまうが)。また,携帯電話で遊んでいるのも,明らかに,親が実際に携帯で話しているのを見ていたからである。仮に,25年前の子どもに同じ物体を渡しても,それを実際の電話と見立てて母親と会話するような遊びはしないであろう。想像の世界,二重化した観念的な世界も,実際の体験がもととなって創られていることがここから分かると思う。

 言語の本質的な機能であるコミュニケーション(認識の交通)もかなりとれるようになってきた。つまり,言葉を使って意思疎通ができるようになってきたのである。少し急いでいる時,こちらがご飯を食べさせてやったことがあった。パンをちぎって口まで運んでやった時,まだ口の中にたくさん残っていて嫌そうにしていた。「そういう時は,“まだ”っていうんだよ」と教えてやると,すぐに理解して,次からは「まだ!」というようになった。娘がテレビを見ている時,両親が二人で話していると,「うるさい!」と怒ることも出てきた。これは,娘がうるさい時に,親が「うるさい!」と叱っていたのを,理解してまねているのだろう。

 印象的なのは,トイレット・トレーニングが問題なく進んで,7月頃には自分で「ウンチ,出る」といって,ほぼ100%,ウンチの前には言葉で伝えてくれるようになったことである。そしてトイレに連れて行くと,スムーズにすることができるようになった。これはコニュニケーションでも発信の例であったが,もう一つ,うまく受信できるようになったこともある。それは,「おめめ,ぎゅー!」である。これは寝る時に使う。今まで,母親と一緒に寝ていることが多かったため,父親である私は,娘をお昼寝させたり,夜に寝かしつけたりすることが苦手であった。しかし,横になった後に目をつぶればすぐに寝てくれるはずだと考え,目をつぶるように伝えたのである。「おめめ,ぎゅー。そうしたら,おてて,つないであげるよ」などといい,目をつぶればご褒美として手をつないであげる。そうして5分もすれば,気持ちよさそうに寝付いてくれるのである。このテクニックを身につけてからは,寝付かせるのに何の苦労もなくなったのであった。

 このように言語が発展してきたことは,実は本稿の裏テーマである虐待にもつながりうる問題だともいえる。どういうことかというと,第一に,子どもが自分の欲求を阻害されたと感じたときには,それを「いや!」と表現できるようになるということである。自分の不快感,阻害された感を共通性として認識して,それを「いや!」という言葉で表現できるようになったのである。この言葉を発せられると,親としては「反抗」されたと受け止めてしまうものなのである。

 第二に,かなり長文のコミュニケーションもとれるようになってくると,親の方では知らず知らずのうちに,子どもを大人扱いしてしまう。それまでは言葉も話せない赤ん坊であったのが,人それなりの言葉を使い,それなりの言葉を理解できるようになったために,あたかも一人前の人間であるかのように子どもを見てしまうのである。そうすると,無意識的な期待が高まる。子どもに対する要求水準が,無意識的に高まるのである。それなのに,現実には,まだまだ2歳の幼児であり,親の思い通りに動かないことも多い。この期待と現実のギャップのために,親はいらいらし,怒りをため込むことになるのである。これが虐待につながりうる一つの要因となると考えられる。

 以上,今回は,言語の発達について振り返った。
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2016年12月03日

3年間の育児を振り返る(1/5)

〈目次〉
(1)反抗期が始まった
(2)言葉の発達
(3)反抗期の認識
(4)親の認識の変化・発展
(5)反抗期は認識の発展にとっての必然性である

――――――――――――――――――――

(1)反抗期が始まった

 本稿は,これまでの3年間の育児,特に2歳になってから3歳になるまでの育児を振り返り,子どもの認識の変化や親の認識の変化について考察する論考である。同時に,この時期に多発する虐待の問題をいかに解決するかということも,裏のテーマとして扱うことになる。

 この1年間の育児の印象を端的に述べるならば,子どもはかなりしっかりしてきて,手がかからなくなってきた半面,反抗期(いわゆるイヤイヤ期)を迎え,親のいうことを聞かない場面がかなり増えてきたということができる。

 反抗期に関わっては,この時期に関連すると思われる虐待事件が頻繁にくり返されている。たとえば,次のような報道があった。

「父に懲役3年判決,2歳監禁致死で奈良地裁。

 奈良県生駒市で4月,子供2人をプラスチックの収納ケースに押し込め,うち長男(当時2)を死亡させたとして,監禁致死と監禁の罪に問われた会社員,井上祐介被告(40)の裁判員裁判で,奈良地裁は15日,懲役3年(求刑懲役5年)の判決を言い渡した。
 西川篤志裁判長は,判決理由で「身体拘束の程度が非常に強く,常識的に考えて死亡の結果が生じるのは容易に分かる。強い非難に値し悪質だ」と指摘。「子供たちを懲らしめようとしたと考えられるが,配慮に欠け独善的で,真の愛情からの行為ではなく,執行猶予を付けるのは相当ではない」と述べた。弁護側は「やってはいけないことを理解させるための厳しいしつけで,死亡は予見できなかった」と主張し,執行猶予付きの判決を求めていた。」(2016/09/16 日本経済新聞 大阪朝刊)


 また,次のような記事もあった。

「父親に懲役12年を求刑,3歳ケージ監禁死,母親には7年。

 3歳の次男をウサギ飼育用のケージに閉じ込め死なせたとして,監禁致死と死体遺棄の罪に問われた皆川忍被告(31)と妻の朋美被告(29)の裁判員裁判で論告求刑公判が4日,東京地裁(稗田雅洋裁判長)であった。検察側は忍被告に懲役12年,朋美被告に懲役7年を求刑した。判決は11日に言い渡される。
 検察側は忍被告について「次男を劣悪な環境に置き,動物のように扱っていた。言うことを聞かないからという動機も身勝手極まりない」と指摘。朋美被告については「関与は従属的」とした。
 起訴状によると,2人は2012年12月〜13年3月,東京都足立区の当時の自宅で次男の玲空斗(りくと)ちゃんを監禁。口にタオルを巻いて死なせ,遺体を遺棄したとされる。
 忍被告は今月2日の被告人質問で,次男への食事は2〜3日に1回程度,入浴は5日に1回程度だったと説明。13年1月下旬から1日のほとんどをケージで過ごさせていたと明かし,「しつけのつもりだったが,逸脱していたと思う」と話した。」(2016/03/04 日本経済新聞)


 両者とも,2歳児や3歳児を「しつけ」と称して虐待し,死亡させてしまった事件である。このようなことは,決して許されることではないが,こういった事件が繰り返される背景には,子どもの反抗期の問題があると考えられる。

 この時期の反抗期については,心理学の教科書に次のように説かれている。

「2歳を過ぎると,それまで親に従順だった子どもが,なにについても「いやっ」と拒否したり,自分のいうことを無理に通そうとする。これは第一反抗期といわれる。この時期の反抗は,子どもが自分の考えをもてるようになったため,それと親の意向とが衝突することによって起こる。自分の考えがもてるようになったということは,自我の芽生えとして重要な発達である。」(『心理学[第2版]』東京大学出版会,p.251)


 すなわち,これまで親のいうことを素直に聞いていた子どもが,2歳を過ぎたあたりから,突如としていうことを聞かなくなり,「いや!」と拒否したり,親の意向に逆らうような言動を無理にとったりするようになるのである。この時期のこと第一反抗期と呼ぶ,ということである。

 このいわゆる「反抗」の仕方が尋常ではなく,親の心持ち次第では非常にイライラさせられることも多い。何をいってもいうことを聞かず,大人から見ると「悪いこと」を何度も行う,注意してもくり返す,このような状況の中で,親の方が力でねじ伏せ,無理やりこちらに従わすようなことがあって,それが高じに高じて,上記のような事件が起こってしまうのであろう。もちろん,だからといって「反抗」する子どもが悪いなどということは絶対にない。要は,それだけ育児が難しくなる時期だということである。では,どうすれば虐待を防ぐことができるのか。このテーマについても,本稿では考察していく予定である。

 確かにうちの娘も,この間,親から見ると「反抗」と映るような言動を,非常によくとるようにはなった。しかし,私や妻は虐待に至ることはなかった。それは,これも認識論の勉強の材料だと思って,記録をとったり,実験的に介入したりしたためだといえる。結果として,無事3歳の誕生日を迎えることができた。本稿では,その中身をしっかりと振り返っておきたい。

 前稿「2年間の育児を振り返る」の最後では,記録をつけておくことの大切さを強調した。記録を残しておかないと,人間は今の反映が強烈であるだけに,すぐに昔のことを忘れてしまうからである。また,記録を残しておけば,その時は気づかなかったことも,後々になってからある論理と結びつき,大きな認識の発展をもたらしてくれる可能性もある。そのような意味で,記録をとっておくことは大切だと説いたのであった。

 この1年間は,その前の1年間よりもたくさんの記録を書くことができた。また,以前は全く記録のない月もあったのだが,この1年に限ってはそういうことはなかった。しっかり,毎月,何らかの記録を残しておくことができたのである。

 本稿ではそれらの記録をもとに,まず言語面の発達を振り返りたい。当初は2語文がやっとであったが,今では5語以上の文も難なく話せるようになった。どのように話せるようになってきたのか,それは認識のどのような発展を反映しているのか,などについて考察したい。

 次に,反抗期の問題を考えたい。これは,この1年間の最大の問題であったといえるし,先にふれたように,社会的な問題にもつながってくる。海保静子『育児の認識学』(現代社)でも詳しく取り上げられ,認識論的に解明されている問題であるので,そこで説かれている論理と,私が体験した事実をしっかりつなげて,認識ののぼりおりをくり返すことによって,『育児の認識学』の論理を自分のものにしたい。

 最後に,親としてのわれわれの認識の変化について見ていく。個人的な体験を振り返りながらも,反抗期の子どもを持つ親として,自分の認識をどのように整えるべきか,どのように考えれば不幸な虐待を防げるのか,といった点まで,考察できればと考えている。

 なお,この間の実体面の発達・成長に関しても,ここで少しだけ触れておく。食事の時は自分でスプーンをもってご飯を食べることが容易になってきたし,服を脱いだりズボンをはいたりすることも一人である程度はできるようになった。階段の上り下りも,ほとんど危なっかしさがなくなった。体もだいぶ強くなってきたのか,病気になることもなく,熱が出るようなことも非常に少なくなって,保育園を休むことがほとんどなくなった。このように,注目すべき変化も起こっているが,本稿では,主として認識の発展に焦点を当てたいために,今回はこれらは取り上げないこととする。

 では次回以降,言語の発達,反抗期の認識,親の認識の変化・発展という順で考察していきたい。

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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う