2017年04月12日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回まで3回にわたって、本例会で議論した内容を紹介してきました。

 本例会報告の最後に、参加した会員の感想を掲載したいと思います。感想は以下です。

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 今回の例会では、カント『純粋理性批判』の「緒言」を扱った。ここでは、ア・プリオリな認識と経験的認識、分析的判断と綜合的判断が対比的に取り上げられており、本書のテーマとして、「ア・プリオリな綜合判断はどうして可能であるか」という問いが提起されている。

 全体として、これまでよりも時間をかけて読み込んだためもあると思うが、とても分かりやすい展開であったと思う。カントがア・プリオリな認識とは、一切の経験に絶対に関わりなく成立する認識であると考えていたこと、経験判断であれば必ず綜合的判断になるが、綜合的判断でかつア・プリオリな判断が問題になると考えていたこと、ヒュームは「ア・プリオリな綜合判断はどうして可能であるか」という問いに最も近づいた哲学者であるが、彼は因果律の問題だけを取り上げていたこと、またア・プリオリな綜合判断は不可能だとしてしまったことの2点が欠点であると述べていることなどがよく分かった。

 次回は「先験的感性論」で時間・空間の問題を扱うことになるが、今回以上に周到に準備をして、不明な点をできるだけ少なくしておくとともに、不明な点は何が不明であるのかをはっきりさせておくことで、例会での取り組みを実のあるもの賭すべく取り組んでいきたい。報告レジュメの担当でもあるので、この執筆もしっかりとしたものを目指したい。

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 今回の例会の範囲は「緒言」であり、ここでは「分析的」「総合的」「ア・プリオリ」など非常に重要で基礎的な概念が取り扱われているが、比較的易しく読み進めていくことができた。以前から「ア・プリオリな総合判断はいかにして可能か」ということがこの『純粋理性批判』を貫くテーマだということは聞いていたが、この問いがどういう意味なのかが全くわからなかった。しかし、今回の議論をとおして理解を深めることができたと感じている。とりわけ、それぞれの概念の関係を図として表すとどうなるかを検討できた点がよかったと思う。

 今回の例会ではレジュメ担当ということで、「分析的」と「総合的」、「ア・プリオリ」と「ア・ポステリオリ」という語の歴史的な経緯についても『カント事典』を使って調べたが、こうした言葉も徐々に徐々にその意味が明確化されてきて、カントにおいて一応はっきりとした区別をつけられるようになったのだということを感じた。学問を構築する上で、概念規定ということが極めて重要なのだということを感じた。

 次回は時間と空間について扱っている部分が対象となるが、しっかり読み込んで例会に臨みたいと思う。

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 今回扱った緒言では、『純粋理性批判』の課題が「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いに答えることであると、明確に規定されている。しかもこの問いは、これまでの形而上学の歴史全体をアウフヘーベンしたものであり、この問いにしっかりと答えることによって、形而上学が確実な学として構築される土台がつくられるのだとカントは考えていたということも非常に印象的だった。カントを理解するためにも、これまでの哲学の歴史をしっかり復習しながら、『純粋理性批判』を読み進めていかなければならないとも思った。

 また、他の会員が指摘していたことであるが、特に今回の範囲に関しては、カントの主張自体を理解することは、それほど困難とは感じなかった。しかし、重要なのはカントの主張を理解することだけではなく、カントが扱った問題をヘーゲルならばどのように解くか、そして、われわれ唯物論者はどのように解くべきか、ということをしっかりと考え続け、答えを出していくことであろう。単にカントがどのように考えたかということを云々するだけでは、大学にいるカント研究者と変わらないということになってしまう。カントが取り組んだ問題に、自らもしっかり取り組んでいくのだという決意をもって、主体的に読み込んでいく必要があるのだということを、しっかりと再確認できたと思う。

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 3月例会論点への見解については、緒言の要約を仕上げてから、と思っていたのだが、時間的な余裕がなく、要約作業が中途半端なまま、見解の作成にかかってしまった。そのこともあって、見解作成の過程では、あまり深く突っ込んだ考察はできなかったな、というのが率直なところである。

 緒言の文章そのものは、『純粋理性批判』の問題意識や全体像が漠然とでも押さえられているならば、それほど難解なものではないと感じた。例会での議論を通じて、カントが使っている基本的な概念などについて、研究会としての共通認識を作ることができたのはよかったと思う。

 しかしながら、ヘーゲルならばこうしたカントの捉え方をどのように批判するのだろうか、とか、唯物論者たる我々はカントの捉え方をどのように批判する(間違いを正して正当な論として仕上げる)べきなのか、というところまでは、十分に討論を深め切れなかったきらいがある。

 そもそもそういう角度できちんと論点提起できなかったのも反省すべきであるが、今後の例会のなかでは、きちんとそういう角度からも議論を深めていけるようにしたい。


(了)

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2017年04月11日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(9/10)

(9)論点3:純粋理性批判とはどういうものか?

 前回は、分析的判断と綜合的判断に関わる論点を扱い、そこでの討論プロセスを紹介しました。

 今回は、純粋理性批判の本来の課題とされる「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いに関わる論点を取り上げ、どのような議論・討論がなされたのかを紹介します。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】

3.純粋理性批判とはどういうものか?

 カントは純粋理性批判の本来の課題は「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という形の問いに含まれている、と述べているが、このような問いの提起の意義を、哲学史上にどのように位置づけているのか。このような問いの提起に関わって、カントは、デイヴィッド・ヒュームの議論の意義と限界をどのように見ているのか。また、人間の認識の2つの根幹であるとされている感性と悟性とはどのようなものだとされているか。



 この論点に関しては、まず、カントは「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いの提起の意義を、哲学史上にどのように位置づけているのかに絞って議論しました。

 ある会員は、多くの研究を1つの課題にまとめることができ、自分のなすべき当面の仕事を自分で正確に規定できるし、この仕事を検討しようとする人にとっても企図が成功したがどうかという判断が容易になることがその意義だと主張しました。別の会員は、形而上学に関わる主張の真偽を判定し、形而上学を構築していくための基準をつくるという意義があるのだと述べました。チューターは、その問いを解決することが対象のア・プリオリな理論的認識を含むような全ての学の基礎を確立することになるだという点に触れました。もう一人の会員は、この問いは形而上学史上の諸々の問題をひとつに収斂させたものであるという点が大切であり、いわば形而上学の本質論に相当するものなのだと説きました。チューターはおおよそ言わんとしていることは似通っているとして、次のようにまとめました。すなわち、まず大切なのが、「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いは、形而上学史上の諸々の問題をひとつに収斂させたものであるという点にあるということ、またそれゆえに、この問いの解決は、形而上学を含む、対象のア・プリオリな理論的認識を含むような全ての学の基礎となるのであり、形而上学の本質論に相当するものということでした。これに対して皆は同意しました。

 次にこの問いに関わって、カントはヒュームの意義をどのように見ていたのかについて検討しました。これについては皆ほぼ同様の意見でした。すなわち、ヒュームは、この課題の解決に最も近づいた哲学者であり、因果律の問題を取り上げることによって、綜合的命判断を議論の俎上に載せた点が高く評価されている、ということでした。なお、ここで一会員から、ヒュームは自我を認めていないので、「綜合的判断」というのではなく、「綜合的命題」というのが正しいのではないかという指摘がありました。確かに、カントもヒュームの見解を述べているところでは「判断」と言わずに「命題」と書いていることを確認して、おそらくそうだろうということになりました。

 ヒュームの限界については、次のような見解が出されました。すなわち、「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という課題を全般的に十分明確に考えたわけではなく、また結論としても誤っていた(因果律はただ習慣による主観的な観念に過ぎないと考えていた)ため、一切の純粋哲学を破壊してしまった点が限界である、ヒューム自身がそのような問いを意識していたわけではない点がヒュームの限界である、ヒュームが「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いが普遍的なものであることを理解せずに、総合判断を因果律だけにとどめて検討した点と、それがア・プリオリには全く不可能であるとしてしまった点の2点がヒュームの限界である、など。これらはほぼ同様の見解であり、綜合的判断の問題に挑んだものの、その位置づけが明確であったわけでもないし、取り上げた範囲も狭く、最終的な結論も間違っていた、ということでしょう。

 最後に、人間の認識の2つの根幹であるとされている感性と悟性について議論しました。共通ではあるが、しかし我々には知られない唯一の根から生じた認識の二つの根幹であり、感性によって我々に対象が与えられ、また悟性によってこの対象が考えられるということで、基本的な見解の一致を見ました。これに加えて、ある会員は、認識の受動性と能動性が感性と悟性という形で取り上げられていると指摘しました。また、別の2人の会員は、感性はロック以来のイギリス経験論の流れを含むものであり、悟性はデカルト以来の大陸合理論の流れを含むものであり、カントはこの2つの流れを合流させようとしたのだという点にも触れました。これらの見解は、他の会員の同意を得ました。

 さらに一会員は、感性と悟性が「共通ではあるがしかし我々には知られない唯一の根から生じた」(p.82)と指摘されている点を踏まえて、これはカントの二元論的発想を超える可能性を含むものであるといえるだろうと指摘しました。皆はそれに納得しました。その上で、とはいえ、カントはこの「唯一の根」について「我々には知られない」と簡単に片づけてしまうことで、この問題の本格的な究明を放棄してしまった、ということになるのかもしれないという見解も出されました。確かに、カントはこの問題に積極的に取り組まなかったのだろうということで、一応の結論としました。

 以上で、論点3についての議論は終了しました。

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2017年04月10日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(8/10)

(8)論点2:分析的判断と綜合的判断とはどういうものか?

 前回は、ア・プリオリな認識に関わる論点を取り上げ、その議論のプロセスを紹介しました。

 今回は、分析的判断と綜合的判断に関わる論点2を取り上げます。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】

2.分析的判断と綜合的判断とはどういうものか?

 カントは、分析的判断と綜合的判断とを区別しているが、それぞれどのようなものだと説いているか。綜合的判断は、経験判断、あるいはア・プリオリに確立している判断とどのように関係しているのか。また、理性にもとづく一切の理論的な学、すなわち、数学や自然科学、形而上学にはア・プリオリな綜合判断が原理として含まれていると主張しているが、これはどういうことか。


 まず、分析的判断と綜合的判断についてです。これについては、皆の見解は一致していました。すなわち、分析的判断とは、主語に含まれている要素を引き出すだけの判断であり、主語概念を分析していくつかの部分的概念に分解するだけの判断のことです。したがってこれは、解明的判断とも呼ばれるのです。これに対して、綜合的判断とは、主語の概念において考えられていなかったものを新たに述語として付け加える判断のことです。このため、拡張的判断とも呼ばれます。

 次に、これら二つの判断と、ア・プリオリな判断・経験判断との関係について検討しました。ある会員は、綜合的判断は経験に基づかなければ成り立たないはずだと主張しましたが、カントはそこまではいっていないのではないかという指摘がありました。これについては、その会員も自分の行き過ぎを認めました。この点以外は、見解は一致しており、チューターは次のようにまとめました。すなわち、カントは、経験判断はすべて総合的であり、分析的判断のためには経験は必要ない(分析的判断はすべてア・プリオリな判断である)と説いているから、「分析的判断⇒ア・プリオリな判断」「経験判断⇒綜合的判断」ということになります。さらに、経験判断とア・プリオリな判断、分析的判断と総合的判断は、それぞれ相対立するものであるから、これらの関係をベン図に表すと、図1のようになります。

ベン図1.GIF
【図1】


 この図1は、分析的判断はア・プリオリな判断に含まれ、経験判断は綜合的判断に含まれることを示しており、また、オレンジで示したア・プリオリな判断と経験判断、青で示した分析的判断と綜合的判断とは、それぞれ相反しているので、重なる部分がないことを示しています。つまり、ア・プリオリな経験判断とか、分析的かつ綜合的判断というものは、その定義上、ありえないのです。そうなると残る問題は、ア・プリオリな綜合的判断はありうるのか、ということになり、これをカントは取り上げていくのだとチューターは説明しました。

 このようなチューターのまとめに対して、概ね賛同が得られました。ただ、会員の一人は、図1だと分析的判断でもなく綜合的判断でもないような領域が存在しているし、同様に、ア・プリオリな判断でもなく経験判断でもないような領域も存在しているので、おかしいのではないかと指摘しました。確かに、そのような領域が存在しない図に改定する必要があるとして、チューターは図2を作成しました。これでおおよそ、諸々の判断の関係を適切に表せているということになりました。

ベン図2.GIF
【図2】


 理性にもとづく一切の理論的な学、すなわち、数学や自然科学、形而上学にはア・プリオリな綜合判断が原理として含まれているというのは、どのようなことかについても、皆の見解はほぼ同様でした。一番シンプルにいってしまうと、これらの学においては、必然性および厳密な普遍性をもつ命題が存在しているということです。すなわち、ア・プリオリな綜合的判断は、これらの学(少なくとも数学と自然科学)では実際に成立しているのであり、これらの学こそが、ア・プリオリな綜合的判断が可能であるということの証明になるということです。ここからカントの問題意識は、「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか?」という問いに集約されていくのだということを確認しました。

 以上で、論点2についての議論を終えました。

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2017年04月09日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(7/10)

(7)論点1:ア・プリオリな認識とはどういうものか?

 前回は、今回扱ったカント『純粋理性批判』緒言の内容を再度まとめ直した後、本例会で議論した3つの論点を紹介しました。

 今回から3回にわたって、それぞれの論点についてどのような議論・討論を行い、どのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。

 今回は、ア・プリオリな認識に関する次のような論点についてです。

【論点再掲】

1.ア・プリオリな認識とはどういうものか?

 カントは、ア・プリオリな認識とはどのようなものであると説いているのか。通常言われているところのア・プリオリな認識なるものと、カントが明確に規定したところのア・プリオリな認識とはどのように異なっていると主張しているのか。カントは、ア・ポステリオリ、経験的認識、純粋認識という言葉も挙げているが、これらの区別と連関もしっかり確認したい。ここに関わって、純粋認識と経験的認識とを区別する標徴はどのようなものか。



 この論点については、まず、通常言われているところのア・プリオリな認識と、カントが明確に規定したところのア・プリオリな認識とは、どのように異なっているのかについて議論しました。この点については、初めから見解の一致を見ました。すなわち、通常言われているところのア・プリオリな認識とは、個々の経験にかかわりのない認識のことです。たとえば、土台下を掘ったために家を倒壊させた人に対して、そうすれば家が倒れるだろうということをア・プリオリに知り得たはずなのに、というようなことがいわれるとカントは指摘しています。確かにこれは、この家の土台下を掘ったら家が倒れた、という個々の経験を待たずに認識できるはずのことですから、通常言われているところのア・プリオリな認識といっていいでしょう。ところが、カントはこの規定では不十分だと考えていたようです。それは、物体には重さがあるのだから、支えているものが取り除かれたら落ちてしまうということ自体は、何らかの経験から得られた一般的な規則であり、これを知らなければ、先のア・プリオリな認識は成立しないからです。すなわち、何らかの経験が関与している認識であることは間違いがないのです。そこでカントは、このような個々の認識に関わりのない認識というだけでは、ア・プリオリな認識とはいえないと説いているのです。それだけではなく、一切の経験に絶対に関わりなく成立する認識をア・プリオリな認識と規定したのです。

 次に、ア・ポステリオリ、経験的認識、純粋認識の区別と連関について確認しました。まず、経験的認識は、ア・プリオリな認識に対立するものである点、ア・ポステリオリというのは「経験的」とほぼ同義である点、この二点については皆が同意しました。ここに関して、ある会員は「経験的認識は、その認識の源泉が経験のうちにあるものであって、ア・プリオリ(先天的)に対してア・ポステリオリ(後天的)であるとカントは述べている」と指摘しました。

 純粋経験については、見解が分かれました。チューターは、カントが「そこでこれから先き我々がア・プリオリな認識というときには、個々の経験にかかわりのない認識というのではなくて、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識を意味するということにしよう」と述べた後で、「ア・プリオリな認識のうちで、経験的なものをいっさい含まない認識を純粋認識というのである」と説いていることを根拠にして、これは素直に読めば、ア・プリオリな認識の特殊性として、純粋認識が位置づけられていることになると主張しました。これに対して他の会員は、「一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識」と「経験的なものをいっさい含まない認識」というのは、内容は全く同じであるから、ア・プリオリな認識=純粋認識であると主張しました。もし、チューターがいうように、ア・プリオリな認識の一部として純粋認識が位置づけられるのであれば、先の純粋認識の規定は、「一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識のうちで、経験的なものをいっさい含まない認識を純粋認識というのである」と言い換えられることになるが、このような規定はおかしい、純粋認識の規定に出てくる「ア・プリオリな認識」というのは、先に議論した「通常言われているところのア・プリオリな認識」のことであろうというわけです。さらに別の根拠として、緒言Tのタイトルが「純粋認識と経験的認識との区別について」となっており、経験的認識に対立するものとして純粋認識が位置づけられていること、緒言Uにおいても純粋認識=ア・プリオリな認識という前提で論が展開していることが挙げられました。これらの説明によって、チューターも純粋認識=ア・プリオリな認識という理解に同意しました。

 最後に、純粋認識と経験的認識とを区別する標徴についても確認しました。これについては、必然性と(厳密な)普遍性ということで見解は一致しました。ただ、ある会員は、カントは経験からは必然性や厳密な普遍性は導かれないと説いているが、これは唯物論の立場からは否定されるはずだと指摘しました。唯物論の立場では、基本的には経験から認識が形成されると考えるからです。しかし一方で、南郷学派が措定した「生命の歴史」は経験から導き出されたものではありません。資料のないところから分かるのが論理能力であるというようなことが南郷学派では説かれているので、唯物論の立場から見ても、カントの主張がまったく間違っているわけではありません。もっというと、同じ観念論の立場でも、ヘーゲルならばこのカントの主張をどのように捉えたか。このようなことは、すぐには結論が出ないということで保留としておきました。それでも、カントの主張をヘーゲルならどう考えるか、われわれ唯物論の立場からはどう評価するか、というような問題意識を常に持っておく必要があるということを確認して、論点1に関する議論を終了しました。
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2017年04月08日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までは4回にわたって、2017年3月例会で扱ったカント『純粋理性批判』緒言の要約を掲載してきました。ここで改めて、大切なポイントを振り返っておきたいと思います。

 カントはまず、純粋認識(ア・プリオリな認識)と経験的認識をしっかりと区別していました。カントがいうア・プリオリな認識とは、個々の経験にかかわりのない認識というのではなくて、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識のことでした。またカントは、経験的なものをいっさい含まない認識を純粋認識とも呼んでいました。このような純粋認識(ア・プリオリな認識)に対立するのが経験的認識です。

 次にカントは、純粋認識と経験的認識とを確実に区別しうる標徴を問題にし、それを必然性と厳密な普遍性であると説いていました。そして、そのような必然性と厳密な普遍性を有するア・プリオリな認識の可能、原理及び範囲を規定するような学を哲学は必要とすると説いていました。

 さらにカントは、分析的判断と綜合的判断の区別を考察していきます。主語と述語との関係を含む一切の関係において、述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属しているか、述語Bは主語Aと結びついてはいるが、しかしまったくAという概念のそとにあるかの2つがあるとして、前者を分析的判断、後者を綜合的判断と規定したのでした。分析的判断は解明的判断とも呼ばれ、綜合的判断は拡張的判断とも呼ばれていました。カントは、経験判断は全て綜合的であるとしたうえで、ア・プリオリな総合判断ということを問題にしていきました。

 カントは、数学や自然科学、それに形而上学などの、理性に基づく一切の理論的な学には、ア・プリオリな綜合的判断が原理として含まれていると説ていました。そうすると、純粋理性の本来の課題は、「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という形の問いにまとめられるとしていました。そして、この課題の解決に最も近づいたのがヒュームであると指摘されていました。

 最後にカントは、純粋理性批判の構想と区分についても説明していました。

 以上のような内容について、会員から事前にいくつもの論点が提出されました。それをチューターが3つにまとめました。その3つの論点が以下です。

1.ア・プリオリな認識とはどういうものか?

 カントは、ア・プリオリな認識とはどのようなものであると説いているのか。通常言われているところのア・プリオリな認識なるものと、カントが明確に規定したところのア・プリオリな認識とはどのように異なっていると主張しているのか。カントは、ア・ポステリオリ、経験的認識、純粋認識という言葉も挙げているが、これらの区別と連関もしっかり確認したい。ここに関わって、純粋認識と経験的認識とを区別する標徴はどのようなものか。



2.分析的判断と綜合的判断とはどういうものか?

 カントは、分析的判断と綜合的判断とを区別しているが、それぞれどのようなものだと説いているか。綜合的判断は、経験判断、あるいはア・プリオリに確立している判断とどのように関係しているのか。また、理性にもとづく一切の理論的な学、すなわち、数学や自然科学、形而上学にはア・プリオリな綜合判断が原理として含まれていると主張しているが、これはどういうことか。


3.純粋理性批判とはどういうものか?

 カントは純粋理性批判の本来の課題は「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という形の問いに含まれている、と述べているが、このような問いの提起の意義を、哲学史上にどのように位置づけているのか。このような問いの提起に関わって、カントは、デイヴィッド・ヒュームの議論の意義と限界をどのように見ているのか。また、人間の認識の2つの根幹であるとされている感性と悟性とはどのようなものだとされているか。


 これら3つの論点について、例会1週間前までに会員はそれぞれの見解を作成し、メールで相互に送り合いました。そしてチューターはそれらの見解を例会当日までにまとめました。例会当日は、それらの見解を踏まえて、議論をしていきました。

 次回以降、これらの論点についてどのような議論・討論がなされ、どのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していくことにします。

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2017年04月07日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』緒言 要約C

 前回は、カント『純粋理性批判』緒言の「X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる」と「Y 純粋理性の一般的課題」の部分の要約を掲載しました。ここでは、数学や自然科学、それに形而上学には、必然性と厳密な普遍性を備えた命題が存在していること、純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いに収斂することなどが説かれていました。

 今回は、カント『純粋理性批判』緒言の最後の部分である「Z 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分」の要約を掲載します。


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Z 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分

 以上述べたところから、純粋理性批判と名づけられるような特殊な学の構想が生じる。理性はア・プリオリな認識の原理を与える能力だからである。したがって、純粋理性は、何かあるものを全くア・プリオリに認識する原理を含むところの理性である。もしア・プリオリな一切の純粋認識が、原理にしたがって得られ、また実際に成立しうるなら、これらの原理の総括は、純粋理性のオルガノン(認識の道具)といえるだろう。また、こうしたオルガノンを周到に適用すれば、純粋理性の体系が成立するだろう。しかし、これは実に骨の折れる仕事である。我々の認識の拡張は果たして可能なのか、また可能だとすればそれはどのような場合に可能であるか、今のところはまだ決定されていないわけだから、我々は純粋理性とその源泉および限界との批判を旨とするような学を、純粋理性のための予備学とみなしてよい。こうした予備学は、学説ではなくて、単に純粋理性の批判と呼ばれなければならないだろう。また、この批判の効用は、思弁に関しては全く消極的であって、我々の理性を拡張するのに役立つものではなく、ただ理性を純化する用をなすことで理性が誤謬に陥るのを防ぐことになるだろう。私は、対象に関する認識ではなくてむしろ我々が一般に対象を認識する仕方――それがア・プリオリに可能である限り――に関する一切の認識を先験的(transzendental)と名づける。すると、こうした概念の体系は先験的哲学と名づけられてよいが、そういってしまっては最初としては過大である。この学は、分析的認識とア・プリオリな総合的認識を完全に含んでいなければならないので、我々の意図に関する限りでは、なお範囲が広すぎるからである。我々が分析を進めて差し支えないのは、ア・プリオリな総合の諸原理をその全範囲にわたって洞察するのに是非とも必要な程度に限られている。このア・プリオリな総合こそ我々にとって最も肝要なのである。こうした研究の意図するところは、認識そのものの拡張ではなく修正であり、ア・プリオリな一切の認識の価値あるいは非価値を判別する試金石である。したがって、この研究は学説と称してよいようなものではなく、先験的批判と名づけられるべきものである。このような批判は、オルガノンのための準備といえるが、オルガノンが成功しなくても、純粋理性の規準のための準備にはなるだろう。いつかはこの基準にしたがって、純粋理性の哲学の完全な体系が分析的にも総合的にも示されるだろう。こうした体系は決して完成が期待できないほど広大な範囲にわたるものではないということは、ここで我々が論究するところのものは物すなわち外的対象としての自然ではなく、自然について判断する悟性であり、それもア・プリオリな認識に関する限りの悟性であるということからも、容易に推測できる。必要な対象の手持ちは我々の内部にあるのだから、したがっていつまでも我々に隠されているわけにはいかないし、それにまたどう見積もっても極めて少ない量であるから、その全部をとりあげたところで、これらの対象をそれぞれその価値あるいは非価値にしたがって判定し、また適正に評価することができるだろう。ここで期待できるのは、純粋理性に関する書物や純粋理性の体系などの批判ではなく、純粋な理性能力そのものの批判である。こうした批判を根底にするときのみ、我々は哲学の部門における古今の著作の哲学的価値内容を評価すべき確実な基準をもつのである。

 先験的哲学は、ある種の学の構想である。換言すれば、純粋理性批判がこの学の全設計をいわば建築術的に、すなわち原理にもとづいて立案するとともに、この建物を構成する一切の部分の完全と安全とを十分に保障しなければならないような学の構想である。すなわち、先験的哲学は、純粋理性の一切の原理の体系である。この批判がみずから先験的哲学と名のらないのは、こうした批判が完全な体系であるためには、人間のア・プリオリな認識全体の周到な分析を含まねばならないからである。

 純粋理性批判は、先験的哲学を構成する一切のものを含み、先験的哲学の完全な構想ではあるが、しかしまだ先験的哲学そのものではない。この批判が行う分析は、ア・プリオリな総合的認識を完全に判定するに必要なだけにとどまっているからである。

 こうした学〔純粋理性批判〕を区分するに当たって最も重要な目安は、何によらず経験的なものを含むような概念が入り込んではならない、換言すれば、ア・プリオリな認識はあくまで純粋でなければならない、ということである。それだから、道徳の最高原則と基本概念とは、ア・プリオリな認識ではあるが先験的哲学には属さない。これらの原則や概念は快・不快、欲望、傾向のような、いずれも経験的起源をもつものの概念を、みずから道徳的命令の根底におくわけではないが、しかし義務の概念において克服されるべき障害として、あるいは動因にされてはならない刺激として、純粋な道徳の体系を構成する場合でも、こうした概念を引き入れざるをえないからである。それだから先験的哲学は全く思弁的な純粋理性の哲学である。一切の実践的な要素は、それが動機を含む限り感情に関係し、感情はまた経験的な認識起源に属するものだからである。

 ところで、一般に体系というものを考察する見地からこの学の区分を試みるとなると、我々が今述べているところの区分は、第一に純粋理性の原理論を、また第二に純粋理性の方法論を含まねばならない。またこれら2つの主要部門は、それぞれ小区分を含むことになるだろう。人間の認識には、2つの根幹がある。おそらくこれら根幹は、共通ではあるがしかし我々には知られない唯一の根から生じたものであろう。この2つの根幹というのは、感性と悟性とである。感性によって我々に対象が与えられ、悟性によってこの対象が思惟されるのである。ところで感性は、対象が我々に与えられるための条件をなすところから、先験的哲学に属するだろう。そして先験的感性論は、原理論の第一部門でなければならないだろう。認識の対象が人間に与えられるための条件は、その対象が考えられるための条件に先立つからである。
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2017年04月06日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』緒言 要約B

 前回は、カント『純粋理性批判』緒言の「V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする」と「W 分析的判断と総合的判断との区別について」の部分の要約を掲載しました。ここでは、ある種の認識は、概念によってわれわれの判断の範囲を経験の一切の限界を超えて拡張するように見えること、分析的判断とは主語概念を分析していくっかの部分的概念に分解するような判断であり、綜合的判断とは主語の概念において全く考えられていなかったものを述語として付け加えるような判断であることなどが説かれていました。

 今回は、カント『純粋理性批判』緒言の「X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる」と「Y 純粋理性の一般的課題」の部分の要約を掲載します。


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X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる

 1、数学的判断は全て総合的判断である。この命題は極めて確実で、誰も反駁できない。

 数学的命題は、経験からは到底得られないような必然性を備えているのだから、常にア・プリオリな判断であって経験的な判断ではない。

 「7+5=12」という命題は分析的命題であり、7と5の和という概念から矛盾率にしたがって生じると考えられるかもしれない。しかし詳しく考察してみれば、7と5の和という概念は、この2つの数を結びつけて1個の数にするということしか含んでいないことが分かる。12という概念は、私が7と5との結びつきを考えるだけで既にこの概念において考えられているというわけにはいかない。和の概念をいくら分析してみても、この概念のうちに12という数は見出されない。

 同様に、純粋幾何学の命題にしても、分析的なものはひとつもない。「直線は2点間で最短である」という命題は総合的命題である。直線という概念は長短の量を含むものではなく、ただ性質を含んでいるだけだからである。最短という概念は、全く別に付け加わったものであり、分析によってこれを直線の概念から引き出すことはできない。

 2、自然科学(物理学)はア・プリオリな総合的判断を原理として自分自身のうちに含んでいる。例えば「物体界の一切の変化において物質の量は常に不変である」あるいは「運動の一切の伝達において作用と反作用は常に相等しくなければならない」という命題は、いずれも必然性と、したがってア・プリオリな起源とを有するのみならず、綜合的命題であることも明白である。物質という概念で考えられるのは、物質が空間のうちに現に存在しているということだけであり、常住不変という性質ではない。だから、物質という概念によって考えられていなかった何かあるものを、ア・プリオリにこの概念に付け加えるためには、物質という概念の外に出なければならない。

 3、形而上学は、これまでのところ単に試みられたにすぎない学であるにもかかわらず、人間理性の自然的本性からいって、欠くことのできない学だとみなされている。この学には、当然ア・プリオリな総合的認識が含まれていなければならない。形而上学の旨とするところは、我々が物に関してア・プリオリに構成するところの概念を単に分析することによって、これらの概念を分析的に解明するのではなく、我々が我々の認識をア・プリオリに拡張するところにある。そのためには、与えられた概念の外に出て、この概念に含まれていなかった何かあるものを別に付け加えるような原則を用いなければならない。そこで我々は、ア・プリオリな総合的命題によってこの概念を超出することになるので、経験そのものはもはや我々に追随できないのである。例えば、「世界にはそもそもの始まりがなければならない」などという命題がこれである。このような形而上学は、少なくともその目的に関しては、全くア・プリオリな総合的命題からなるのである。


Y 純粋理性の一般的課題

 多くの研究をひとつの課題にまとめて、これを一定の形式で表現することができると、それだけでも得るところは大きい。そうすれば自分のなすべき当面の仕事を自分で正確に規定できるから、仕事そのものが楽になるし、またそれだけでなくこの仕事を検討しようという人にとっても、我々の企図が成功したかどうかの判断が容易になるのである。すると純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能か」という形の問いに含まれるといってよい。

 形而上学がこれまで非常に不確かで矛盾に満ちていたのは、哲学者たちがこのような課題はもとより、分析的判断と総合的判断との区別にすら気づかなかったからである。それでも哲学者たちのうちで、この課題の解決に最も近づいたのは、デイヴィッド・ヒュームである。しかし、彼もこの課題を十分明確に考えたわけではなく、またこの課題が普遍性をもつものであることに考え及んだのでもなく、生起した結果をその原因に結びつけるという総合的命題(因果律)だけにとどまった。彼は、こうした命題はア・プリオリには全く不可能であることを明らかにすることができた、と信じた。彼の推論に従えば、我々が形而上学と呼ぶところのものは全て、実際には全く経験から得たところのものや、習慣によって見かけだけの必然性を得たところのものを、理性の真正な洞察と思い誤った妄想にすぎないということになるだろう。もしヒュームが、我々の提出した課題は普遍性をもつものだということを念頭に置いていたら、一切の純粋哲学を破壊するような主張を思いつきはしなかっただろうし、彼の論証に従えば純粋数学すら存在しなくなることを覚っただろう。

 上記の課題の解決は、対象のア・プリオリな理論的認識を含むところの全ての学の基礎を確立し、またこれらの学を完成するために純粋な理性使用が可能であることも――換言すれば、「純粋数学はどうして可能であるか」「純粋自然科学はどうして可能であるか」という問題に対する解答をもまた包括することになる。純粋数学にせよ純粋自然科学にせよ、いずれも実際に存在しているのだから、これらの学がどうして可能なのか問うのは当を得たことである。ところが形而上学に関しては、実際に存在しているとは言い難いので、誰しもこの学が可能であることに疑いを差し挟むのはもっともである。

 しかし、形而上学は、学としてではなくても、人間の自然的素質としては実際に存在する。人間の理性は、自分自身の止みがたい要求に駆られて、理性の経験的使用やまたそれから得られた原理などによってはとうてい答えられないような問題に向って、絶えず進んでいくものだからである。それだから人間の理性が発達して思弁を事とするようになるや否や、何らかの形而上学があらゆる人間の心の内にこれまでも常に存在していたし、またこれからも存在するであろう。そこで形而上学については、「人間理性の自然的素質としての形而上学はどうして可能であるか」という問いが生じる。

 しかし、人間理性にとって自然な問題、例えば「世界にはそもそも始まりがあるのか、それとも世界は無限の昔から存在しているのか」という問題に応えようとする従来のあらゆる試みには、常に避けることのできない矛盾があった。それだから我々は、人間理性に存在する形而上学的素質だけにとどまっているわけにはいかず、形而上学の論究する対象は知ることができるのか否か、これらの対象について何ごとか判断する能力の有無が決められるのか、したがってまた我々の純粋理性を拡張できるのか、それとも純粋理性には明確に規定された確実な制限を付しうるのか、ということである。すると、上記の一般的課題から生じてくる第三の問題は当然に次のようなものになるであろう。「学としての形而上学はどうして可能であるか」。

 それだから、理性批判は結局学にならざるをえない。これに反して批判なしに理性を独断論的に使用すれば、根拠のない主張に、したがってまた懐疑論に陥るのである。こうした主張には同じくもっともらしい主張を対抗させることができるからである。

 理性批判という学が扱うところのものは、理性の多種多様な対象ではなくて、全く理性自身であり、全て理性の内奥から生じたところの課題――理性自身の自然な本性によって理性に提出されたところの課題である。実際にも、もし理性が経験において自分に現われるところの対象に関して、前もって自分自身の能力を完全に知ることができれば、経験の一切の限界を超えて試みられる理性使用の範囲と限界とを完全かつ確実に規定することが容易になるに違いない。

 それだから形而上学を独断論的に成立させようとして従来行われた一切の試みは、もともとなかったものと見なし得るし、また見なさざるをえないのである。我々の理性にア・プリオリに内在している概念を分析するだけでは、学としての形而上学の準備にすぎず、ア・プリオリな認識を総合的に拡張しようとする本来の形而上学の目的たりえるどころでない。だが、人間理性に欠くことのできない学である形而上学に関しては、その幹から生じた枝葉は切り捨てることができるかもしれないが、これを根絶することは全く不可能である。そこでこの学を、これまでとは反対の別な取り扱いによって育成し、豊かに繁茂させる仕事が、内部的な困難と外部からの抵抗とによって疎外されないようにするためには、一段の堅忍不抜な心構えを必要とする。

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2017年04月05日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』緒言 要約A

 前回は、カント『純粋理性批判』緒言の「T 純粋認識と経験的認識との区別について」と「U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない」の部分の要約を掲載しました。ここでは、ア・プリオリな認識=純粋認識とは、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識を意味すること、必然性と厳密な普遍性がア・プリオリな認識の特徴であることなどが説かれていました。

 さて今回は、カント『純粋理性批判』緒言の「V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする」と「W 分析的判断と総合的判断との区別について」の部分の要約を掲載します。

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V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする

 しかし、はるかに重大な意味をもつのは、ある種の〔ア・プリオリな〕認識は一切の可能的経験の領域を捨て、自分に対応する対象が経験において全く与えられないような概念によって、我々の判断の範囲を経験の一切の限界を超えて拡張するように見える、ということである。

 純粋理性にとって避けることのできない課題は、神、自由および不死である。そしてこれらの課題の解決を究極目的とし、一切の準備を挙げてもっぱらこの意図の達成を期する本来の学を形而上学というのである。ところが、この学のとる方法は、最初は独断論的である。つまり、こうした大事業を成就しうる能力の有無を理性についてあらかじめ検討せずに、この事業の遂行を担当してはばからないわけである。

 しかし、我々としては、経験の領域を立ち去るや否や、素性の分からない認識を材料とし、起源の不明な原則をそのまま信用し、綿密な研究によって建物の基礎を確かめもせずに、すぐさま建築に取り掛かるよりも、まずその前に、一体悟性はどうしてこのようなア・プリオリな認識を得るに至ったのか、またこのような認識はどのような範囲、妥当性および価値をもつのか、という問いを提出する方がよほど自然なことであると思われる。しかし、自然なことという言葉を、普通一般に行われていることと解するなら、こうした〔批判的〕研究が長らく放置されざるを得なかった事情にもまして自然で明白なことはない。というのは、こうしたア・プリオリな認識の一部をなすところの数学的認識が、昔からその確実性を信頼されているので、これとは全く性質を異にする他の認識までが、それによって自分に都合のよいことを期待しているからである。その上、いったん経験の範囲を出てしまえば、もう経験によって反駁される恐れがない。また、我々の認識を拡張しようとする魅力は極めて大きいので、明白な矛盾に出合いさえしなければ、我々の行く手を阻むものはあり得ない。この魅力は、虚構に注意しさえすれば避けられうるとはいえ、だからといって虚構が決して虚構でなくなるわけではない。数学は、我々が経験に関わりなくア・プリオリな認識をどこまで進め得るか、立派な実例を示すものである。数学は、その対象と認識が〔ア・プリオリな〕直観に示される限りでのみ、これを研究するところの学である。しかし、この事情は、ここでいうところの直観がア・プリオリに与えられることで単なる純粋概念とほとんど区別されないことから、ややもすると看過される。こういう数学上の証明によって理性の威力に心奪われるものだから、認識を拡張しようとする衝動はついにとどまるところを知らないのである。

 我々の理性の仕事の大きな部分は、我々のすでにもっている種々の概念を分析するところにある。概念の分析は我々に多くの認識を与えるが、実質すなわち内容からいえば、分析は我々の概念を拡張するものではなくて、ただこれを分解するものにすぎない。ところが、この方法は、実際にもア・プリオリな認識を与え、またこの認識は確実でかつ有用な発展をとげるので、理性はこれに欺かれて、自分でも気づかぬうちに全く別の種類の主張をひそかに取り入れるのである。換言すれば、理性はすでに与えられている概念に、これとは全く無縁の、しかもア・プリオリな概念を付加する。しかし我々には、理性がどうしてこういうことをするのか、わけが分かっていない。それどころか我々は、こういう問いを発することすら思いつかないのである。そこで、まずはじめに、認識のこうした2通りの仕方の区別を論じてみたい。


W 分析的判断と総合的判断との区別について

 主語と述語との関係を含む一切の判断において(私がここで肯定的判断だけを考察するのは、あとでこれを否定判断に適用するのは容易だからである)この関係は2通りの仕方で可能である。すなわち、述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属するか、そうでなければ述語Bは主語Aと結び付いてはいるが、しかし全くAという概念の外にあるか。第一の場合を分析的判断、第二の場合を総合的判断と呼ぶ。分析的判断を解明的判断、総合判断を拡張的判断と呼ぶこともできる。解明的判断は、述語によって主語の概念に何も付け加えず、ただ主語概念を分析していくつかの部分的概念に分析するだけだからである。これに反して拡張的判断は、主語の概念に述語を付け加えるものである。この述語は主語の概念においては全く考えられていなかったもの、また主語概念を分析することでは引き出してこれなかったものである。「物体は全て延長をもつ」は分析判断であるが、「物体は重さをもつ」は総合判断である。

 経験判断はその本性上、全て総合的である。分析的判断を構成するには、私がすでにもっている概念の外へ出る必要はなく、分析的判断は経験の証言を必要としない。

 ところが、ア・プリオリな総合的判断となると、経験という便宜を全くもたない。Aという主語概念に結びついているものとしてのBという概念を認識するために、Aという概念の外へ出る場合に、私が自分の支えとするものは何であるか、またこの総合は何によって可能であるのか。これを経験の領域で探し求めるという利便はないのである。例えば、「生起するものは全てその原因をもつ」という命題において、原因という概念は、生起する何かあるものという概念の全く外にあり、生起するものとは異なる何かあるものを示している。では、私は一体どうやって、一般に生起するものの概念に、これとは全く異なるものを述語として付け加えうるのか。その支えとなる未知のXは何か。それは経験ではあり得ない。上記命題を成立させる原則は、経験が与えうる以上の普遍性をもって、そればかりかさらに必然性という言葉をもって、したがってまた全くア・プリオリな純粋概念だけによって、原因の表象を生起するものの表象に付け加え得るのである。要するに、我々のア・プリオリな思弁的認識の究極の意図は、もっぱらこうした総合的原則すなわち拡張の原則に基づいているのである。

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2017年04月04日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』緒言 要約@

 前回は、報告レジュメと、それにかかわって出されたコメントを紹介しました。

 今回から4回にわたって、カント『純粋理性批判』緒言の要約を掲載していきます。今回は、「T 純粋認識と経験的認識との区別について」と「U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない」の部分です。

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緒言

T 純粋認識と経験的認識との区別について

 我々の認識がすべて経験をもって始まるということはいささかも疑いえない。対象こそが、我々の感覚を触発し、一方ではおのずから表象をつくりだし、他方では、我々の悟性を働かせてこれらの表象を比較し結合または分離して、感覚的印象という素材を対象の認識、すなわち経験へとつくりあげるのである。だから、我々のどんな認識も、時間的には経験に先立つものではなく、すべて経験をもって始まるのである。

 しかし、我々の認識がすべて経験をもって始まるとしても、我々の認識がすべて経験から生じるというわけではない。我々の経験的認識ですら、我々が感覚的印象によって受け取るところのものに、我々自身の認識能力〔悟性〕が自分自身のうちから取り出したものが付加されてできた合成物であるからである。我々は、長い間の修練によってこのことに気付き、またこの付加物を分離することに熟達するようにならないと、これを基本的な材料すなわち感覚的印象から区別できない。

 それだから、経験に関わりない認識、それどころか一切の感覚的印象にすら関わりないような認識が実際に存在するかという問題は、立ち入った研究を必要とする。こうした認識は、ア・プリオリな認識と呼ばれ、経験的認識から区別される。経験的認識の源泉は経験のうちにあるから、ア・ポステリオリである。

 ところが、ア・プリオリな認識という語は、明確さを欠いており、当面の問題に含まれている意味の全体を適切に言い表すには十分ではない。土台の下を掘ったために家を倒壊させた人がいると、彼はこうすれば家が倒れるということをア・プリオリに知りえたはずだ、なにも家が実際に倒れるという経験をまつまでもなかったのに、などといわれることがあるからである。しかし、彼とて、このことを何から何までア・プリオリに知ることはできなかったのである。なぜなら、物体には重さがあるのだから、物体を支えているものが取り除かれれば落っこちてくる、ということは、やはりあらかじめ経験によって知っておかなければならなかったからである。

 それだから、これから先、我々がア・プリオリな認識というときには、個々の経験に関わりない認識ということではなく、一切の経験に絶対に関わりなく成立する認識を意味するということにしよう。こうしたア・プリオリな認識に対立するのが、経験的認識である。経験的認識は、ア・ポステリオリにのみ、換言すれば、経験によってのみ可能な認識である。そしてア・プリオリな認識のうちで、経験的なものを一切含まない認識を純粋認識というのである。それだから例えば、「およそ変化は全てその原因をもつ」という命題はア・プリオリな命題ではあるが、しかし純粋ではない。「変化」という概念は、経験からのみ引き出すことができるものだからである。


U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない

 ここで問題は、純粋認識と経験的認識とを確実に区別しうる標徴は何か、ということである。経験は、何かあるものが事実としてしかじかであることを教えはするが、そのものが「それ以外ではありえない」という必然性を教えるものではない。だから第一に、ある命題があって、それが同時に必然性をもつと考えられるなら、それはア・プリオリな判断である。その上、その命題が必然的な命題だけから導かれたものなら、それは絶対にア・プリオリな命題である。第二に、経験はその判断に厳密な普遍性を与えるものではなく、ただ想定された相対的普遍性を与えるだけである。もし、ある判断が厳密な普遍性をもつ(ただひとつの例外も許さない)と考えられるなら、こうした判断は経験から得られたのではなく、絶対にア・プリオリに妥当する判断である。ある判断に、厳密な普遍性が本質的に属する場合、こうした普遍性はこの判断が、ア・プリオリに認識する能力によるものであることを示している。だから、必然性と厳密な普遍性は、アプリオリな認識を表示する確実な特徴であり、この2つの性質は互いに分離しがたく結びついている。

 我々はこうした必然的な、また厳密な意味で普遍的な、したがってまたア・プリオリな純粋判断が、人間の認識に実際に存することを容易に示すことができる。「変化は全て原因をもたねばならない」という命題を例にとってみても、原因の概念は、原因が結果と結び付く必然性という概念と、この規則すなわち因果律の厳密な普遍性という概念とを明らかに含んでいる。ヒュームのように、原因の概念を習慣からいきだそうとしたら、この概念は全く成り立たない。だが、わざわざこのような例を挙げなくとも、ア・プリオリな純粋原則が経験そのものを可能にするために不可欠なものであることをア・プリオリにも示すことができる。もし、経験の進行を規定する一切の規則がどれもこれも経験的なもの、したがってまた偶然的なものだとしたら、経験は自分の確実性をどこに求めようとするのだろうか。判断ばかりでなく概念にさえ、ア・プリオリな起源をもつものがいくつかある。物体という経験概念から物体における一切の経験的なもの――色、硬さ、重さ、不可入性を次第に抜き去ってみても、この物体が占めていたところの空間は残る。同様に、ある対象について、経験的概念から一切の経験的な性質を抜き去っても、件の対象を実体として、あるいは実体に付属するものとして考えるところの性質は残る。実体という概念が必然性をもって迫ってくる以上、これを否定することはできず、実体概念がア・プリオリな認識能力のなかにその座を占めるものであることを承認せざるをえない。
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2017年04月03日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(1/10)

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』緒言 要約@
(3)カント『純粋理性批判』緒言 要約A
(4)カント『純粋理性批判』緒言 要約B
(5)カント『純粋理性批判』緒言 要約C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:ア・プリオリな認識とはどういうものか?
(8)論点2:分析的判断と綜合的判断とはどういうものか?
(9)論点3:純粋理性批判とはどういうものか?
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 3月例会では、『純粋理性批判』の緒言を扱いました。緒言は次の7つの節からなっています。

T 純粋認識と経験的認識との区別について
U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない
V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする
W 分析的判断と総合的判断との区別について
X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる
Y 純粋理性の一般的課題
Z 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分


 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。


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京都弁証法認識論研究会3月例会
カント『純粋理性批判』緒言(pp.57-83)

1.ア・プリオリな認識とはどういうものか

 カントは、神、自由および不死という課題を解決しようとする形而上学において、ア・プリオリな認識の可能、原理、範囲を規定するような学を必要とするのだという考えのもと、そもそもア・プリオリな認識とはどういうものかを論じている。

 通常、ア・プリオリな認識とは個々の経験にかかわりのない認識を指すが、これでは経験から得てきた一般的な規則をもとにした認識もア・プリオリな認識となることをカントは指摘した。そうではなくて一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識をア・プリオリな認識だと主張し、さらに純粋認識と呼んだ。そして、この純粋認識と経験的認識とを確実に区別しうる標徴として、必然性と厳密な普遍性を挙げた。

<報告者コメント>
 『カント事典』によると、ア・プリオリという言葉には歴史的な経緯があるようである。もともとはラテン語で「先に」を意味しており、ライプニッツは「主語に含まれている概念を分析的に導出して認識することを、アプリオリに認識する」と呼んでいた。ヴォルフは「理性的原理にもとづく認識がアプリオリとされ、直接に感覚器官に頼る認識がアポステリオリ」と見なしていた。またヴォルフ学派最大の哲学者であるバウムガルテン(1714-1762、独)は「あるものが根拠から認識されうる場合、アプリオリに認識され、帰結から認識されうる場合、アポステリオリに認識される」と主張した。ライプニッツは少し系列が違うかもしれないが、ヴォルフ学派に関して言えば、我々の言葉で捉え返せば、論理に基づくものをア・プリオリと呼び、事実に基づくものをア・ポステリオリと呼んでいるようである。

 こうした観点から言えば、カントは、論理に基づくと言っても、その論理は事実から導かれたものだという論理と事実ののぼりおりを踏まえ、ア・プリオリという概念をより明確にしようとしたということが言えるだろう。


2.分析的判断と総合的判断とはどういうものか

 続いてカントは、理性に基づく一切の理論的な学(数学、自然科学、形而上学)にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれているとして、そもそも総合的判断とはどういうものかを分析的判断との対比で論じている。

 主語と述語との関係を含む一切の関係において、述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属しているか、述語Bは主語Aと結びついてはいるが、しかしまったくAという概念のそとにあるかの2つがあるとして、カントは前者を分析的判断、後者を総合的判断と呼んでいる。

<報告者コメント>
 『カント事典』によれば、「分析的」という言葉に関しても歴史的な経緯がある。ニュートンによれば、「多様なデータから実験と観察によって一般的命題を帰納する」のが分析の方法であり、「分析の方法の結果から出発して諸現象を説明する」のが総合の方法である。またヴォルフによれば、「諸々の真理が発見されたようにして、あるいは発見されうるようにして、それらを呈示する」のが分析的方法であり、「諸々の真理の一方が他方からより容易に理解され論証されうるようにして、それらを呈示する」のが総合的方法である。カントの「分析的」という言葉は(ライプニッツではなく)このヴォルフを受け継いでいるということである。

 ヴォルフの分析的方法というのは、これだけでは正直あまりよくわからないのだが、少なくともカントが様々な意味で使われていた「分析的(判断)」「総合的(判断)」という概念を明確にしようとしていたのは間違いないだろう。特にニュートンの使い方を読むと、ア・プリオリとア・ポステリオリの使い方とほぼ同様にように思われるし、この辺りはかなり曖昧に使われていたのだろう。我々としては、学問を構築していく上で1つ1つの概念を明確にしていくことの重要性をカントから学ばないといけないだろう。


3.ア・プリオリな総合判断とはどういうものか

 以上のように分析的判断と総合的判断について説いた上で、カントは、総合的判断は経験を拠り所としなければ成り立たないのに、数学や自然科学でア・プリオリな総合判断が事実として成り立っているのはどうしてなのかということを問題とする。ここの解明が形而上学の確実な基礎となるのであり、この課題に思い至らなかったことが、形而上学がこれまで非常に不確かで矛盾の多い状態を続けてきた原因だと、カントは主張するのである。

 この課題の解決に最も近づいたのはヒュームであるが、ヒュームが扱った問題は因果性の原理という総合的命題のみに留まっていた(ア・プリオリな総合判断一般を扱ったのではなかった)し、さらに因果性の原理が成り立たないものとし、純粋哲学を破壊するような主張をしてしまったとして、その限界を指摘している。

<報告者コメント>
 カントは哲学(形而上学)において、様々な議論が錯綜する中において、根本的な論点は何なのかということを明らかにしたのだと言えるだろう。この「問いの発見」こそがカントの物自体論や二律背反といった哲学上の業績につながったということを踏まえるならば、我々としても、自分の専門分野において一体何が問題とされているのかや、あるいは例会の議論が錯綜する中で論点になっているのは何なのかを明確に意識し、問いを見つける力を高めていくことが必要だと言えるだろう。

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 このレジュメに対して、いくつかの指摘がありました。まず、1の報告者コメントの最後の部分についてです。そこでは、「こうした観点から言えば、カントは、論理に基づくと言っても、その論理は事実から導かれたものだという論理と事実ののぼりおりを踏まえ、ア・プリオリという概念をより明確にしようとしたということが言えるだろう」と説かれていました。この部分に対して、「このようなことがいえるだろうか?」という疑問が出されました。前とのつながりがよく分からないという疑問でした。これに対してレジュメ報告者は、カントが挙げている家が倒れる例で補足説明しました。すなわち、土台下を掘れば家が倒れるということをア・プリオリに知っているといっても、その論理はやはり事実から導き出されたものであるから、それは厳密な意味でア・プリオリな認識とはいえない、ア・プリオリな認識というためには、個々の経験にかかわりがないというだけではなく、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識である必要がある、とカントは説いているということである。この説明を聞いて疑問を呈した会員は、そのような説明があれば分からないこともないが、この文章だけではかなりの飛躍があると指摘しました。また別の会員は、今の補足説明であれば、単に、一般にア・プリオリと呼ばれている認識も、実はそうではないのだと主張しているだけであり、「ア・プリオリという概念をより明確にしようとした」というよりは、経験的認識を明らかにしたというべきではないか、と指摘しました。さらに別の会員は、その前の部分に「論理に基づくものをア・プリオリと呼び、事実に基づくものをア・ポステリオリと呼んでいる」とまとめている部分があるが、そのように単純に対応させるべきではないのではないかと指摘しました。歴史の途中にある(混乱した?)観念論の立場の概念を、完成した唯物論の立場の概念で割り切ると、漏れる部分が出てくるのではないかという指摘です。これらの指摘を、レジュメ報告者は大筋で認めました。

 あと2点、確認されたことがありました。一つは、2の部分に「続いてカントは、理性に基づく一切の理論的な学(数学、自然科学、形而上学)にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれているとして、そもそも総合的判断とはどういうものかを分析的判断との対比で論じている」とあるが、これはカントの論述の順番と逆になっているのではないか、すなわち、カントは綜合的判断と分析的判断を対比で論じた後、理性に基づく一切の理論的な学(数学、自然科学、形而上学)にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれているというテーマに進んでいるのではないか、なぜ順番を入れ替えるのか、という指摘です。これに対してレジュメ報告者は、自分の思い込みが入ってしまったかもしれないと述べました。もう一つは、2の報告者コメントにある「カントの「分析的」という言葉は(ライプニッツではなく)このヴォルフを受け継いでいるということである」という部分に関してです。ここは報告者の見解ではなく、『カント事典』の内容であるということが確認されました。もしここが報告者自身の見解であれば、後ろの「ヴォルフの分析的方法というのは、これだけでは正直あまりよくわからない」という部分とつながらないことから出た疑問でした。

 以上、今回は報告レジュメと、それにかかわって出されたコメントを紹介しました。
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2017年03月04日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の2つの序文を熱かった我が研究会の2017年2月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。

 2月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回3月例会は、『純粋理性批判』の緒言(pp.57-83)を扱います。

 それでは、以下、参加者の感想です。

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 今回の例会からいよいよカント『純粋理性批判』の中身に入っていった。今回は、序文を中心に扱った。

 カントが形而上学をどのように捉え、この著作をその歴史にどのように位置づけようとしていたのか、数学や物理学における考え方の革新とは如何なるもので、カントはそれを形而上学にどのように適用したのか、カントが物自体と現象とを分けて考えたのはなぜか、といった問題について、まずは本論に入る前の段階として理解しておくべき事柄については押さえることができたのではないかと思う。

 しかし同時に感じたことは、他会員と比べればはるかに理解の度合いが劣っているということであった。カントの物自体論と自由との関わりに関する議論が特にそうであった。解説してもらうと、なるほどそういうことかと一応の理解はできるので、苦手意識を克服して、分かったことを1つずつ丁寧に確認していき、分からなかったことを例会を通じて少しでも理解できていくよう努力していく必要がある。

 来月は緒言を扱うが、ここでも本論に入る前提としての理解が求められると思う。しっかりと読み込んで、上記の作業ができるように準備しておきたい。

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 今回の例会では、カント『純粋理性批判』を読み進めていくうえでの、いくつかの大切な問題意識を共有できた点が非常によかったと思う。

 まず、カントは形而上学の歴史を独断論と懐疑論の闘争の歴史として描いているが、どうやらこの闘争の歴史を踏まえて4つの二律背反が措定されたらしいことが分かった。もちろん、単純にテーゼが独断論の立場で、アンチテーゼが懐疑論の立場である、というような区分けではないにしろ、独断論と懐疑論の闘争、および独断論内部での闘争(内乱)の歴史を踏まえて、それを4つのアンチノミーとしてまとめ上げたのだ、という可能性が高いと分かったのである。それは、カントが理性批判を法廷になぞらえていることからも分かる。カントの論の流れからは、この法廷では従来の独断論と懐疑論の主張が戦わされる場であるというように解釈できるが、諸々の参考文献によると、この法廷というのは4つのアンチノミーについて、理性が裁判官としてのより高い立場から判定を下すという解釈が一般的であるようだ。すなわち、形而上学の歴史である独断論と懐疑論の闘争ということと、4つのアンチノミーということが、つながっていると理解できそうなのである。形而上学がぶつかっていた難問というのも、この問題にかかわってくるであろうから、ここはカントの問題意識の大前提として、しっかりと押さえておく必要があると感じた。

 次に、カントが形而上学に適用した考え方の革新についてである。数学や自然科学で成功した着想を形而上学にも採用したと説かれているが、ここに関して、結局物自体と現象というのは、どの程度つながっているのか、物自体が現象をどの程度規定しているのか、という問題意識が明確になった。カントも説いていたが、現象というからには、「何か」が現象しているのであり、その「何か」はとりもなおさず物自体であるはずだから、両者にはきちんとつながりがあるのは当然である。しかし、カントはこの二つの区別を強調もしているわけで、弁証法的にいえば、物自体と現象は、つながっているとともにつながっていないということができる。では、どのようにつながっており、どのようにつながっていないのか、その構造をきちんと理解していくことが、今後の大きな課題になるといえるだろう。

 最後に、物自体と現象とを区別することによって、無条件者についての矛盾が解消するとされていたわけであるが、そもそも、無条件者ということが形而上学の歴史において、どのような必然性があって扱われてきたのか、さらに、具体的にはどのような哲学者がどのような矛盾する見解を戦わせてきたのか、それをカントは本当に解決したといえるのか、こういった問題についても、しっかりと念頭に置きながら、『純粋理性批判』を読んでいかねばならないと感じた。カントは、自分の業績をコペルニクスになぞらえているが、それならばごくシンプルな説明でたりうるはずなのに、『純粋理性批判』は大著となっている。このあたり、カントの自信とは裏腹に、論理的にはスッキリと把握はされていなかった証左といえるのではないか、という気がする。いずれにせよ、歴史的に取り上げられてきている無条件者という対象の必然性をしっかりと掴んでいく必要があるのは間違いないだろう。

 このあたりの問題意識をもって、いくつかの入門的な参考書も参照しながら、『純粋理性批判』に取り組んでいきたいと思う。

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 今回の例会では、カントが『純粋理性批判』を書いたときの問題意識とその意義について理解を深めることができた。

 形而上学においては、独断論と懐疑論(または独断論同士)が争っていたが、とりわけヒュームが必然性は客観的に存在するものではないと主張したことを受けて、カントとしては、必然性は存在しており人間はそれを認識することができるということ、つまりアプリオリな認識が可能であることを示す必要が出てきたということである。例えば「机をたたけば音がなる」ということについて、いくつかの事例をもとにして、(実際に試してみなくても)どんな机でもそうだということがわかるということを示す必要が出てきたということである。そこで考え出されたのが、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うというコペルニクス的な転換なのだということである。こうして、対象そのもの(物自体)は何の性質ももたないけれども、我々がとらえた現象は認識によって性質を与えられているという物自体論が出てきたのである。

 このように現象と物自体を区別することにより、意志が自由であると同時に自由でない(法則性に縛られている)という矛盾を解決することができるようになった。つまり、現象としては自由ではないが、物自体としては自由であるということである。例えば、的に向かってボールを投げたとして、投げるのは自由な意志に基づくものである。ところが、その投げたボールが的に当たる過程は空気抵抗や重力など自然の法則性に縛られることになる、ということである。我々が見ることができるのは、ボールという現象だけである。しかし、その背後に「ボールを投げる」という(自由な)意志を想定することができる。このような形で意志の自由という問題を解決したのだということであった。

 もちろん今回の解答は現段階での暫定的なものであり、今後、これをより深めていく必要があるだろうが、大まかには把握することができたのは今回の例会の大きな収穫だった。

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 今回の例会を通じては、そもそもなぜカントが『純粋理性批判』を書かなければならなかったのか、そのそもそもの問題意識にしっかりと共感することが大切であると思わされた。ア・プリオリな総合判断はどのようにして可能か、ということがカントの根本的な問題意識であったといってよさそうであるが、ア・プリオリな総合判断とはどういうことなのか、なぜそういうものが切実に求められたのか、ヒュームの因果律批判からカントが受けた衝撃の大きさということをしっかりと踏まえつつ、カントの強烈な問題意識に幾分かでも共感できるようにならなければ、『純粋理性批判』はまともに読んでいくことはできないだろう、と思わされた。

 カントが現象と物自体とを区別してしまったこと、また結局は同じことであるが、理性を思弁的理性と理性の実践的使用とに二分してしまったこと(認識できるということと考えることができるとを分けてしまったこと)は、結論からみればおかしなことであり、現象と物自体との関係をカントは解けていない、というこもできるであろう。しかし、同時に、これがそれまでの形而上学の難問を解決するための画期的にすぐれた提起であったのだという側面を、絶対に見失ってはならないだろうとも思う。現象と物自体とを区別し、思弁的理性(絶対的なものを認識できない)と理性の実践的使用(絶対的なものを考えることができる)とを二分したことこそが、この『純粋理性批判』の哲学史上の不滅の意義なのであり、また同時にヘーゲルによって克服されるべき限界ともなったのだといえるだろうが、自分自身の不充分な実力のままヘーゲルらの尻馬に乗ってカントを非難すべきではないだろう、まずは『純粋理性批判』の画期的な意義をしっかりと受け止めることに重点を置くべきではないか、と思われるのである。

 『純粋理性批判』のまともな理解のためには、南郷継正『学問としての弁証法の復権』(『武道哲学講義(第二巻)』所収)に加えて「武道哲学講義〔Z〕」(『南郷継正全集第11巻』所収)をも繰り返し読み込んでおく必要があると確認することができたのも、この2月例会を通じた取り組みで得た大きな成果であった。

(了)
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2017年03月03日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(9/10)

(9)論点3:カントは自由についてどのように考えているのか

 前回は、第二の論点、すなわち、カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、カントが、数学や自然科学(物理学)は、対象が認識を規定するのではなくて認識(理性)が対象を規定するのだと捉えるという考え方の革新によって、学としての確実な道を歩むことになったのだと捉えていること、形而上学においては、対象が認識を規定するという前提ではうまくいかなかったので、逆に、認識が対象を規定するという考え方を採用してみることによって、それまでの形而上学の難問が解決されたのだと主張していることを確認しました。

 さて、今回は、第三の論点、すなわち、カントは自由についてどのように考えているのか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、物自体と現象との区別の大切さを説くが、カントはなぜこの区別が大切だと考えたのか。「カントの「物自体」論は、これは本質論であり、けっして構造論でもなければましてや現象論や実体論でもない」(南郷継正『武道哲学講義 著作・講義全集 第十二巻』、p.87)という指摘は、ここにどのように関わってくるのか。
 また、物自体と現象とを区別したことは、カントの自由論とどのように関わってくるのか。「思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできない」(p.43)とはどういうことか。


 カントがなぜ物自体と現象との区別の大切さを説いたのか、という問題をめぐっては、各メンバーから事前に提示された見解の間に、大きな相違はありませんでした。端的には、物自体と現象とを区別しなければ無条件なもの(絶対的なもの)を矛盾なしに考えることができなくなってしまう(例えば、人間の意志は自由でありながら自由でないというような矛盾に陥ってしまう)から、換言すれば、無条件なもの(絶対的なもの)は間違いなく存在するものなのだということを保障するためにほかならない、ということでした。これは、詰まるところ、二律背反の問題に悩んだあげく、その解決策として物自体論(物自体と現象を区別すること)をもってきたということである、という指摘もなされました。

 「カントの「物自体」論は、これは本質論であり、けっして構造論でもなければましてや現象論や実体論でもない」という指摘がここにどのように関わってくるのか、という問題をめぐっては、カントにおいて、物自体というのは、世界の本質的な存在として考えられているのであって、認識できる現象と区別することによって、認識はできないけれども考えることができる存在として、世界の本質が成立し得る領域を残しておいたということなのではないか、ということになりました。

 物自体と現象との区別がカントの自由論とどう関わるか、という問題をめぐっても、大きな見解の相違はありませんでした。端的には、自然法則が支配するのは現象の領域であり、「物自体」は自然法則に縛られないから自由であるという形で、人間の意志の自由を主張しようとしたのだ、ということです。ただし、このことに関わっては、具体的にどういうことか正直よくわからない、という疑問も出されました。例えば、子どもと関わるとき、自分としては自分で考えて行動している(自由である)ように思うけれども、そのプロセスを客観的に眺めたときには、毎回同じような対応をしている(一定の法則性に縛られてしまっている)ということなのだろうか、という疑問です。こうした疑問に対しては、そんなに難しく考える必要はなく、例えば、ある人が石ころをある的に命中させるべく投げるとして、「あの的に当てるぞ」という意志を抱くか抱かないかはその人の自由だが、いったん手から放れた石ころは、重力とか空気の抵抗とかの諸々の条件によって必然的に規定された軌道を進んでいくことになる、というようなことではないか、という見解が示されました。疑問を出したメンバーも、大筋でこうした説明に納得しました。

 43ページの引用文(「思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできない」)をめぐっては、何がいいたいのかよく分からなかった、という感想も出されましたが、これは結局のところ、物自体と現象との区別がなぜ大切か、という問題と同じであることが、他のメンバーから指摘されました。すなわち、「思弁的理性から経験を超越して認識すると称する越権を奪い去」るというのは、思弁的理性は経験の限界を超えられないのであり、認識できるのは現象のみで物自体は認識できないことを明らかにする、ということにほかならず、そのようにしない限りは、神、自由、霊魂の不死といった無条件なもの(絶対的なもの)を矛盾なしに考えることはできないのだ、ということです。こうした説明に、「よく分からなかった」という感想を出したメンバーも大筋で納得しました。

 ただし、「理性の実践的使用」というのが神、自由、霊魂の不死といった無条件なもの(絶対的なもの)と関わるものでることは何となく分かるが、「理性の実践的使用」というのはそもそもどういうイメージなのか、カントが思弁的理性と理性の実践的使用とを分け、認識できるということと考えることができるということとを分けてしまっているのは、なかなかすんなりとは納得しがたいところがある、という感想も出されました。チューターは、このように思弁的理性(絶対的なものを認識できない)と理性の実践的使用(絶対的なものを考えることができる)とを二分したことこそが、この『純粋理性批判』の哲学史上の画期的な意義であり、またヘーゲルによって克服されるべき限界ともなったのではないか、と指摘し、本論部分を読み進めていくなかで、しっかりと検討を深めていくように提起しました。

 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点3に関する議論を終えました。
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2017年03月02日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(8/10)

(8)論点2:カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか

 前回は、第一の論点、すなわち、カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、カントが「形而上学」「論理学」「悟性」「理性」といった用語をどのような意味で使っていたかを確認しつつ、理性が経験を超えたものについて論じようとすると混迷と矛盾に陥ってしまうという問題を正面に据え、理性自身を批判(吟味)することで形而上学の完成に道を切り拓こうというのが、カントの『純粋理性批判』の意図であったことを確認したのでした。

 さて、今回は、第二の論点、すなわち、カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、数学と自然科学(物理学)が、考え方の革新によって一個の学としての確実な道を歩むことになったとしているが、それはどのような革新であったのか。カントはこうした考え方の革新を形而上学に適用することを試みてみたというが、それはどういうことか。


 この論点をめぐっては、まず、数学および自然科学(物理学)における考え方の革新とはどのようなものであったのか、確認しました。

 数学における考え方の革新について、カントは、タレスによるともいわれる二等辺三角形の論証(二等辺三角形の底角は等しいことの論証だと思われます)を例に挙げながら、図形のうちに見たものにもとづいて図形の性質を学び取ろうとしてはならないのであって、「彼が何ごとかを確実にかつア・プリオリに知ろうとするならば、彼は自分の概念に従ってみずから対象のなかへ入れたところのものから必然的に生じる以外のものを、この対象に付け加えてはならない」(p.29)と説いています。一方、自然科学(物理学)における考え方の革新について、カントは、ガリレイやトリチェリやシュタールの実験の例を挙げながら、あらかじめ仮説を立てて(理性判断の諸原理によって先導して)、それを確認するために実験を行うということでなければ、換言すれば、理性自身が自然のなかに原理を考え入れなければ、いくら実験・観察しても偶然的なものにしかならず、必然的な法則など見い出しようがないのであって、「理性は、自然から学ばねばならないことや理性自体だけではそれについて何も知り得ないようなことを、自分自身が自然のなかへ入れたところのものに従って、これを自然のうちに求めねばならない(もともと自然のなかにありもしないことを自然に押しつけるのではなくて)」(p.30)と説いています。

 こうしたカントの主張をめぐって、2つの異なった捉え方が提示されました。ひとつは、認識が対象に性質を与えているのだという捉え方であり、もうひとつは、人間の認識が対象に備わっている性質を浮かび上がらせているのだ、という捉え方です。どちらの捉え方がカントの真意に近いのか議論をしました。後者の立場(認識が対象の性質を浮かび上がらせる)からは、自然科学について「自然を強要して自分の問いに答えさせる」「自分の提出する質問に対して、証人に答弁を強要する」といった表現をカントが行っていることから、自然そのものが何らかの答えをもっているのであって、それはすなわち、自然に備わっている性質を自然科学者の側からの目的意識的な問いかけによって浮かび上がらせるということにほかならないのではないか、という主張がなされました。こうした主張に対して、前者の立場(認識が対象に性質を与える)からは、確かに自然科学(物理学)に関していえば、自然にもともと何らかの性質が備わっているかのように読める表現はあるが、数学に関してはそれはないではないか、カントは「数学と物理学とは、それぞれその対象をア・プリオリに規定せねばならぬ両つの理論的認識である。そして数学は全体として純粋であり、また物理学は少くとも部分的に純粋である、しかし部分的に純粋ということになると、理性の認識源泉とは別個の認識源泉によっても幾分規定せられるわけである」(p.27)と書いているではないかという指摘がなされました。つまり、数学においては、理性が対象を全くア・プリオリに規定するのだが、自然科学(物理学)においては、理性が対象を部分的にア・プリオリに規定するのだ、というのがカントの捉え方であって、理性による対象のア・プリオリな規定という考え方の革新は、やはりあくまでも、認識(理性)が対象に性質を与えるということ、対象が認識を規定するのではなくて認識が対象を規定するのだと捉えるべきであろう、ということに落ち着きました。

 なお、「理性は、自然から学ばねばならないことや理性自体だけではそれについて何も知り得ないようなことを、自分自身が自然のなかへ入れたところのものに従って、これを自然のうちに求めねばならない(もともと自然のなかにありもしないことを自然に押しつけるのではなくて)」という表現をめぐって、認識が対象に性質を与えるといっても、物自体たる対象に対して認識が勝手気ままにどんな性質でも与えることができる、ということではないのではないか、という提起がなされました。物自体たる対象と認識の側にもともと(ア・プリオリに)備わっている枠組みとの相互浸透で現象が生じるとして、その現象はどの程度まで物自体によって規定されているのか、という問題があるのではないか、この問題をカントはどのように論じているのだろうか(果たしてきちんと論じきれているのであろうか)という疑問も生じてきました。チューターからは、カントは形而上学の問題を最終的に解決したと自信たっぷりであることをまずは尊重すべきで、きっとカントは解けていないのだ、などと早急に結論を出してカントを軽く見てしまうことになっては問題ではないか、との指摘もなされましたが、これが重要な論点であることは間違いなく、本論部分を読み進めていきながらしっかりと検討を深めていく必要があることを確認しました。

 数学および自然科学(物理学)における考え方の革新を形而上学に適用するとはどういうことか、という問題をめぐっては、対象が認識を規定するという前提ではうまくいかなかったので、逆に、認識が対象を規定するという考え方を採用してみようということであり、これによってそれまでの形而上学の難問が解決されたとカントは主張しているのだ、といった見解がほぼ一致して示されました。チューターからは、対象が認識を規定するという前提では何がうまくいかなかったのか、カントが一挙に解決したという形而上学の難問とは何だったのか、ということこそが重要であると提起されました。

 これは、端的には、形而上学においては、ア・プリオリな認識、すなわち、対象が我々に与えられる前に対象について何ごとかを決定するような認識が可能であることが要求されているということであるわけですが、そもそもなぜカントがこのような問題意識を抱いたのか、ヒュームの因果律批判との関わりできちんと確認しておく必要があるだろう、ということになりました。ヒュームの懐疑論によれば、リンゴを手から放したらどうなるか、1個目から9個目のリンゴについては下に落ちていったとしても、10個目のリンゴもそうなるかどうか前もって確実にいうことはできません。手から放れたリンゴは下に落ちるという主観的信念が習慣によって形成されているにすぎない、というのがヒュームの主張です。これに対して、10個目のリンゴについても手から離せば落下すると確実に主張できるためにはどうすればよいか、というのがカントのそもそもの問題意識だったのではないかと思われます。

 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点2に関する議論を終えました。
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2017年03月01日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(7/10)

(7)論点1:カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか

 前回まで、カント『純粋理性批判』の2つの序文の要約を提示し、その内容を踏まえて出された論点を紹介しました。今回からは、それらの論点に関わってどのような議論がなされたかを紹介していくことにします。

 今回は、第一の論点、すなわち、カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、形而上学とはどのようなものであり、その歴史はどのようなものであったと論じているか。その歴史の流れのなかに、『純粋理性批判』をどのように位置づけているのか。形而上学・論理学・悟性・理性(また純粋理性)といった基礎的・基本的な哲学用語の意味を押さえつつ、また、純粋理性批判が法廷にたとえられていることに留意しつつ、確認しておきたい。


 この論点をめぐっては、まず、基礎的・基本的な哲学用語の意味について確認していきました。チューターからは、事前に提示された各メンバーの見解においては、カントがそれぞれの語をどのような意味で用いているのかということと、本来の哲学(学問)的な意味としてはどうあるべきなのか、ということとが、必ずしも明確に区別されていなかったのではないか、という指摘がなされました。そして、本来の哲学(学問)的な意味としてどうあるべきかを確認していくためにも、南郷継正「武道哲学講義〔Z〕」(『南郷継正全集第11巻』所収)を繰り返し読み込んでおく必要があるのではないか、との提起がなされました。

 このことを確認した上で、これらの用語について、カントがどのように捉えていたのか、順番に確認していきました。まず、「形而上学」という用語についてです。第1版序文の冒頭で、カントは、人間の理性の本性について、経験上、確かだと思われる原則から出発しつつ、「その前提は何か?」「その前提の前提は何か?」とずっと問い続けていくことにある、と指摘しています。しかし、こうした問いの連続はどこまでいってもキリがないので、理性は、一切の経験によらないものの常識とも一致するような原則に逃避することになる、とカントはいいます。しかし、カントによれば、理性はこうした原則に逃避することで、かえって混迷と矛盾に陥ってしまいます。理性の用いる原則は一切の経験を超越しているので、経験による吟味は不可能であり、どこかに間違いがあるはずだと探しても見つけることはできません。カントによれば、この果てしない争いを展開する競技場が形而上学です。すなわち、一切の経験を超えた根本的な原則(世界は有限か無限かというような世界の究極的なあり方に関わるような原則)について、諸々の論争が闘わされてきたのが形而上学だ、というのがカントの説明であることを確認しました。

 続いて「論理学」という用語についてです。これについては、第2版序文において、一切の思惟の形式的規則を漏れなく説明し厳密に証明する学問だ、と説明されていることを確認しました。

 「理性」および「悟性」という用語をめぐっては、悟性は有限的な(経験できる)存在を対象とするものであり、理性は制約されない(超経験的な)存在を対象とするものだ、というようにカントが説明していることを確認しました。また、論理学においては悟性が悟性自身と悟性の形式だけを問題にし、形而上学においては理性が理性自身ばかりでなく、その対象をも究明しなければならない、と説明されているところから、カントが、論理学は悟性に関わるもの、形而上学は理性に関わるもの、という対比において捉えていたらしいことを確認しました。

 なお、以上のようなカントの論については、「武道哲学講義〔Z〕」において、「カントは悟性は経験から学んでくることが可能な論理能力の最上限としてしまうことによって自らの欠陥を隠してしまったのである。またそれだけに、本物の論理能力である理性に関わっては、先験的な存在として棚上げすることにして、自らの無能力を隠すことにも成功したことである」(『南郷継正全集第11巻』pp.307−308)と批判されていることが、チューターより紹介されました。つまり、経験に関わるものが悟性(論理学)であり、理性(形而上学)というのは経験を超えた神様からの授かりものだ、というのがカントの論であるわけですが、これは、経験された事実の論理化を形而上学レベル(学問を統括するレベル)にまで徹底する実力を欠いていたために、理性を経験から切り離して、いわば神棚に祭り上げてしまうようなものであった、というわけです。

 カントの描く形而上学の歴史については、以下のような内容を確認しました。

 カントは、諸学の女王たる形而上学の歴史を、王国の統治にたとえて描いています。カントによれば、王国の統治は最初は独断論者による専制的なものでした。これは、絶対に正しいとされる原則を前提に、そこから世界の全てが説明されていた、ということだと思われます。しかし、その原則は絶対的に正しいものかどうか、きちんと証明されているとはいえないシロモノであったために、しばしば懐疑論者によって攻撃されることになります。しかし、そうした攻撃は散発的なものにとどまり、独断論者の支配が覆されることはありませんでした。状況を大きく変えるのは、ロックの『人間悟性(知性)論』で、結局のところ全ての原則なるものは経験に由来するのだ、と主張されたことで、形而上学の支配が覆ったかに見えたのですが、経験によっては原則の成立を説明しきれないことが明らかになったために、再び独断論者の支配(しかし、それは陳腐な虫食いだらけだ、とされます)が復活することになった、というのです。こうした状況のもと、形而上学への真面目な関心がもたれなくなってしまった、とカントはいいます。しかし、カントは、こうした無関心は見せかけの知識には釣られない成熟した判断力の結果であり、理性が自己認識するための法廷を設けよ、という要求にほかならない、と前向きに捉えています。

 カントによれば、この法廷こそ『純粋理性批判』にほかなりません。理性が経験を超えたものについて論じようとすると混迷と矛盾に陥ってしまう、という問題を正面に据え、理性自身を批判(吟味)することで、形而上学の完成に道を切り拓こうというのが、カントの『純粋理性批判』の意図であるといえます。

 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点1に関する議論を終えました。
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2017年02月28日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、カント『純粋理性批判』の第1版序文および第2版序文の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところをふり返っておくことにしましょう。

 第1版序文において、カントは形而上学の歴史をふまえつつ、『純粋理性批判』の歴史的位置を明らかにしようとしていました。カントによれば、一切の経験の限界を超出しており、経験による吟味を承認しないような理性の原則を扱うのが形而上学です。カントは、諸学の女王と称されてきた形而上学の歴史について、当初は独断論者が専制的に支配していたものの、独断論者どうしの闘争、また懐疑論者による攻撃に晒されてきた結果、独断論者の支配は陳腐化し、現状においては真面目な関心がもたれなくなってしまった、と断じていました。こうした現状を、理性能力一般の批判(吟味)によって打破しようとするのが、この『純粋理性批判』の意図するところである、とカントは強調していたのでした。

 第2版序文においては、ある学問が学としての確実な道を歩んでいくための方法・着想の問題が論じられていました。カントはまず、形而上学においては対象のア・プリオリな(経験に由来しない)規定が求められることを確認した上で、数学と物理学においては、対象について経験したことから対象の性質を学び取るのではなく、理性が自己の概念に合致するように対象のなかに考え入れたものに従って対象の性質や法則性を求めなければならない、という考え方の革新によって、学としての確実な道を歩んでいくことが可能となったことを強調していました。

 カントは、形而上学においても、数学や物理学における考え方の革新にならって、我々の認識が対象によって規定されるのではなく、対象が我々の認識に従って規定されなければならないのだ、と想定してみれば、これまで形而上学が抱えてきた問題をもっとうまく解決できるのではないか、と提起します。認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うのだというコペルニクス的な転回によってこそ、形而上学は学としての確実な道を約束されるのだ、というのがカントの主張でした。カントによれば、これは、理性は経験が可能である限界をどうしても超えられない(認識できるのは現象だけで物自体は認識できない)ことを明らかにすることにほかなりません。もし理性がこの限界を超えることができるとすると、絶対的なものについて矛盾なしに考えることはできなくなってしまう、ということなのでした。

 思弁的理性が経験の限界を超えないように制限をかける、という『純粋理性批判』の結論は、非常に消極的なように思われます。しかし、カントは、これは、理性の実践的(道徳的)な使用の障害になるものを取り除くという意味で、非常に積極的な効用をもつものなのだ、と力説していました。カントによれば、道徳哲学は我々の意志が自由であることを必然的な前提にしていますが、思弁的理性が経験の限界を超えることで、自由など存在しないなどと主張してしまうと、道徳哲学の存立の基盤が揺らいでしまうのです。そうならないためには、思弁的理性の限界を明確にすること、換言すれば、物自体と現象を区別することが必要でした。カントはこのことに関連して、「信仰を容れる場所を確保するために知識を除かなければならなかった」と述べていました。

 2017年2月例会の場では、おおよそ以上のような内容に関わっての報告を受けて、参加したメンバーから諸々の意見・論点が提起され、議論がたたかわされました。これから、その内容を、大きく3つの論点に沿って整理した上で、紹介していくことにします。今回はその3つの論点を紹介し、次回以降、討論の具体的な内容を紹介していくことにします。

1、カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか
 カントは、形而上学とはどのようなものであり、その歴史はどのようなものであったと論じているか。その歴史の流れのなかに、『純粋理性批判』をどのように位置づけているのか。形而上学・論理学・悟性・理性(また純粋理性)といった基礎的・基本的な哲学用語の意味を押さえつつ、また、純粋理性批判が法廷にたとえられていることに留意しつつ、確認しておきたい。

2、カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか
 カントは、数学と自然科学(物理学)が、考え方の革新によって一個の学としての確実な道を歩むことになったとしているが、それはどのような革新であったのか。カントはこうした考え方の革新を形而上学に適用することを試みてみたというが、それはどういうことか。

3、カントはなぜ物自体と現象の区別が大切だと考えたのか
 カントは、物自体と現象との区別の大切さを説くが、カントはなぜこの区別が大切だと考えたのか。「カントの「物自体」論は、これは本質論であり、けっして構造論でもなければましてや現象論や実体論でもない」(南郷継正『武道哲学講義 著作・講義全集 第十二巻』、p.87)という指摘は、ここにどのように関わってくるのか。
 また、物自体と現象とを区別したことは、カントの自由論とどのように関わってくるのか。「思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできない」(p.43)とはどういうことか。
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2017年02月27日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』第2版序文 要約B

 前回は、『純粋理性批判』の第2版序文の中間部分の要約を紹介しました。そこでは、形而上学においても、数学や物理学における考え方の革新にならって、我々の認識が対象によって規定されるのではなく、対象が我々の認識に従って規定されなければならないのだ、と想定してみることでこそ、形而上学は学としての確実な道を約束されるのだ、という主張がなされていました。カントによれば、これは、理性は経験が可能である限界をどうしても超えられない(認識できるのは現象だけで物自体は認識できない)ことを明らかにすることにほかなりませんでした。もし理性がこの限界を超えることができるとすると、絶対的なものについて矛盾なしに考えることはできなくなってしまう、ということでした。

 さて、今回は、第2版序文の最後の部分を要約したものを紹介することにしましょう。ここでカントは、思弁的理性が経験の限界を超えないようにする、という本書の効用は、消極的なように見えて、実は、理性の実践的(道徳的)な使用の障害になるものを取り除くという積極的な効用にほかならないのだ、と主張しています。

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 形而上学の従来の方法を変革しようという試みこそ、しかも幾何学者および自然科学者を模範として形而上学の全面的な革新を企てることによってこうした変革を成し遂げようとする試みこそ、この思弁的純粋理性批判の本旨なのである。純粋理性批判は、方法に関する論究の書であって、純粋理性の学の体系そのものではない。とはいうものの、この批判はこうした学の外的限界と内的構造全体を顧みつつ、この学の概略図を描こうとする。思弁的純粋理性批判の特性は、第一に、思惟の対象を選択する仕方の相違にしたがって自分自身の能力を徹底的に検討し、第二に、自分自身に課題を与える様々な仕方を漏れなく枚挙し、こうして将来建設されるべき形而上学に対する全平面図を描くことができるし、また描かなければならないからである。第一の件についていえば、ア・プリオリな認識においては、思惟する主観が自分自身のうちから取り出したものでない限り、これを客観〔対象〕に付け加えることができないからである。第二の件についていえば、純粋理性は認識原理に関する完全に独立した、それ自体だけで存在するひとつの統一体だからである。つまり、この統一体においては各々の構成要素は、あたかもひとつの有機体におけるように、他の一切の構成要素のために存在し、全体はまた各個のために存在する。どんな原理でも、ひとつの関係のなかに確実に取り入れられるためには、同時に純粋な理性使用全体に対する全般的な関係において吟味されなければならないのである。

 しかしその代わりに、形而上学は、もっぱら対象の研究を事とする他の理性的な学(思惟一般の形式だけを論究する論理学は別として)には、とうてい与えられないような稀有な幸福に恵まれている。それは、もし形而上学がこの批判によってひとつの学として確実な道を歩むようになったあかつきには、この学は自分に必要な認識の全領域をあますところなく包括して自身の事業を完結し、これを将来も増資を必要としない資本として後代の用に供することができる、ということである。この形而上学の旨とするところは、原理と原理の使用に加えられる制限に関する論究に限られているからである。

 本書を読了した人は、思弁的理性をもって経験の限界を超えることをあえてしないというのが本書の効用だとすれば、それは全く消極的な効用にすぎないではないか、と考えるかもしれない。しかし、思弁的理性が自分の限界を超えようとする場合に用いる原理は、我々の理性使用を拡張するように見えて、実は我々の理性使用を狭めるという結果をもたらさずにはおかない。こうした原則は、もともと感性に属するものであるにもかかわらず、実際には感性の限界をどこまでも拡張して、純粋な(実践的)理性使用すらも駆逐しかねないからである。このことを知るならば、消極的効用はたちまち積極的効用に転化する。つまり、我々の批判は、思弁的理性に制限を加えるという点では消極的であるが、理性の実践的使用を制限したり滅却したりしかねないようなものを取り除くものだという点で、積極的な効用を有するのである。

 こうして我々は、純粋理性の絶対に必然的な実践的(道徳的)使用というものがあり、この使用によって純粋理性は必然的に感性の限界を超えて自らを拡張する、ということを確信するに至る。純粋理性は、思弁的理性の影響によって自己矛盾に陥らないよう、安全を保障されていなければならない。批判のこうした任務に存する積極的効用を否定するのは、警察の主要任務が、暴力行為の取締によって国民一人ひとりが各自の業を平静に営めるようにすることであるから、警察は積極的な効力を発揮するものではない、というのと同じである。

 この批判の分析的部門で証明されるのは、空間と時間とは感性的直観の形式にすぎず、現象としての物の存在を成立させる条件にほかならない、また、我々の悟性概念に対応する直観が与えられなければ我々はいかなる悟性概念ももちえず、物を認識するのに必要な要素をひとつももたない、ということである。つまり、我々が認識しうるのは物自体としての現象ではなく感性的直観の対象としての物、換言すれば現象としての物だけである。ここから、およそ理性の可能的な思弁的認識は、全て経験の対象のみに限られるという結論が当然に生じる。

しかし、我々はこの同じ対象を、たとえ物自体として認識することはできなくても、物自体として考えることができねばならない、という考えは依然として留保される。さもなければ、現象として現われる当のものが存在しないのに、現象が存在するという不合理なことになってしまう。経験の対象としての物と、物自体としての物との区別が全く設けられなければ、原因性の原則〔因果律〕と、原因性によって規定されている自然機構とは、作用原因としての一切のもの一般にそのまま通用しなければならなくなるだろう。我々の批判は、客観を二通りの意味に解することを教える。第一には、現象としての客観であり、第二には物自体としての客観である。

 道徳哲学は、自由を我々の意志の性質として必然的に前提している。ところが、思弁的理性が、自由は全く考えられない、という証明をしたとすれば、上記の道徳的前提は、思弁的理性に屈服せざるを得なくなる。自由および道徳は自然機構に席を譲らなければならなくなる。それだから、道徳哲学に必要とされるのは、自由が自己矛盾をふくまないこと、したがってまた自由は少なくとも考えられはするものの、それ以上の理解を必要とするものではないということ、また自由は、同一の行為の自然機構をいささかも妨げるものではない、ということである。そうすれば、道徳に関する学と自然に関する学とは、各々その地歩を確保して互いに相侵すことがない。純粋理性の批判的原則から生じる積極的効用については、神や我々の心の単純性という概念に対しても、全く同様の説明がなされる。要するに、思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできないのである。私は、信仰を容れる場所を確保するために知識を除かなければならなかった。

 理性による純粋認識が学として取り扱われる場合、理性はこの純粋認識を独断的に処理するが、批判が反対するのは理性のこうした独断的処理(およそ学は、ア・プリオリに確立された原理にもとづいて厳密な証明を行わなければならないから、独断的にならざるをえない)ではなく、独断論である。独断論は、原理にしたがう概念的な純粋認識だけをもって成功を収めようとする僭越な主張である。しかも、この場合に独断論は、理性がどんな仕方でまたいかなる権利をもってこの純粋認識に達したかは不問にするのである。つまり、独断論は、理性自身の能力を前もって批判せず、純粋理性によって行われる独断的処理にほかならない。批判による反対は、形而上学全体を簡単に片づけてしまう懐疑論を弁護するものではない。むしろ批判は、学としての根本的な形而上学の成立を促進するのに必要な準備をするのである。この形而上学は、あくまでア・プリオリに、したがってまた思弁的理性を十分に満足させるように、その仕事を遂行することを約している。
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2017年02月26日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』第2版序文 要約A

 前回は、『純粋理性批判』の第2版序文の最初の部分の要約を紹介しました。そこではまず、形而上学においては対象のア・プリオリな(経験に由来しない)規定が求められることが確認された上で、数学と物理学においては、対象について経験したことから対象の性質を学び取るのではなく、理性が自己の概念に合致するように対象のなかに考え入れたものに従って対象の性質や法則性を求めなければならない、という考え方の革新によって、学としての確実な道を歩んでいくことが可能となったことが説かれていました。

 さて、今回は、第2版序文の中間部分の要約を紹介します。ここでカントは、形而上学においても、数学や物理学における考え方の革新にならって、我々の認識が対象によって規定されるのではなく、対象が我々の認識に従って規定されなければならないのだ、と想定してみると、形而上学の諸々の課題がうまく解決されるのではないか、という提起を行っています。

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 形而上学において、学としての確実な道がこれまで見出されなかった理由は一体どこにあるのだろうか。

 私は、次のようなことをしてみてはどうかと思う。それは、数学と自然科学に大きな利益を与えたところの考え方の変革に存する本質的な点を詳細に考え、また形而上学が数学および自然科学と同じく理性認識であるという事情にかんがみて、これら2つの学と形而上学との類比が許す限り、形而上学において少なくとも試みに数学および自然科学を模倣してみてはどうか、ということである。

 我々はこれまで、我々の認識は全て対象に従って規定されなければならないと考えていた。しかし、我々がこのような対象に関して、何事かをア・プリオリに概念によって規定し、こうして我々の認識を拡張しようとする試みは、こうした前提の下では全て潰え去ったのである。そこで今度は、対象が我々の認識に従って規定されなければならないというふうに想定したら、形而上学のいろいろな課題がもっとうまく解決されはしないかどうかを、ひとつ試してみてはどうだろうか。コペルニクスは、全ての天体が観察者の周囲を運行するというふうに想定すると、天体の運動の説明なかなかうまく運ばなかったので、今度は天体を静止させ、その周囲を観察者に回らせたらもっとうまくいきはしないかと思って、そのことを試みたのである。形而上学においても、対象の直観に関して、これと同じような仕方を試みることができる。もし直観が、対象の性質に従って規定されなければならないとすると、私はこの性質についてどうしてア・プリオリに、何事かを知り得るのか分からなくなる。これに反して(感覚能力の対象としての)対象が、われわれの直観能力の性質に従って規定されるというのなら、私には直ちにこのことが可能であることがよく分かるのである。

 しかし、こうした直観が認識になるのだと、私は直観にとどまっているわけにはいかない。そこで私は表象としてのこれらの直観を、対象としての何かあるものに関係させ、対象をこうした表象によって規定しなければならない。そうすると私は、対象の規定に関して2通りの仕方だけを想定することができる。第一は、私が対象を規定するのに用いる概念は、やはり対象に従っている、というふうに想定することである。しかしそうなると私は、この対象に関して何事かをア・プリオリに知る仕方について、前と同じような困惑に陥ってしまう。そこで第二に、対象あるいは経験――といっても、対象(与えられた対象としての)は経験においてのみ認識されるのだから結局は同じことになるが、要するに対象あるいは経験が、これらの概念に従って規定されるというふうに想定すれば、私は問題をもっと楽に解決する方法がここにあることをただちに知るのである。つまり、経験そのものが認識のひとつの仕方であり、この認識の仕方は悟性を要求するが、悟性の規則は、対象がまだ私に与えられない前に、私が自分自身のうちにこれをア・プリオリに前提していなければならない。そして、こうした悟性規則は、ア・プリオリな悟性概念によって表現されるものであるから、経験の一切の対象は、必然的にこうした悟性概念〔カテゴリー〕に従って規定され、またこれらの概念と一致しなければならない、ということである。対象のなかには、理性だけによって必然的に考えられはするが、しかし(少なくとも理性が、自分なりにこうした対象を考えるようには)経験には全く与えられないようなものがある。こういう対象についていうと、これを考えようとする(こうした対象にしろ、とにかく考えられはするのだから)試みは、我々が一変した考え方、つまり、我々が物をア・プリオリに認識するのは、我々がこれらの物のなかへ自分で入れるところのものだけである、という新しい方法による考え方と見なすところのものの是非を吟味する試金石であることが、もっと先へ行ってから分かると思う。

 この試みは、希望通りの成功を収めて、形而上学の第一部門に、ひとつの学としての確実な道を約束した。形而上学は、この第一部門〔先験的感性論〕でア・プリオリな概念を論究するが、これらの概念に対応しかつ適合する対象は、経験に与えうるのである。上記の考え方の転換によって、ア・プリオリな認識が可能であることを非常に具合よく説明することができるし、経験の対象の総括たる自然の根底にア・プリオリに存在する法則に十分な証明を与えることができるからである。これらのことは、これまでの方法では全く不可能であった。ところが、形而上学のこの第一部門では、ア・プリオリな認識能力のこうした演繹から、形而上学の全目的にとって、すこぶる不利であるような、奇異な結果が生じる。それは、ア・プリオリな認識能力によっては、可能的経験の限界をどうしても超えられない、ということである。ところが、可能的経験の限界を越えることこそ、形而上学の最も本質的な関心事なのであり、形而上学の全目的を論究することこそ、第二部門〔先験的論理学〕の主旨なのである。ア・プリオリな理性的認識は現象だけに関係するもので、物自体は実在するかもしれないが我々には認識できないものとして度外視するというのが、第一部門の結論であった。こうした結論の真実性を吟味する実験が、この第二部門に含まれている。経験と一切の現象との限界を超えることを我々に強いるのは、無条件的なもの〔絶対的なもの〕である。理性は物自体を設定して強制的に、しかも全く当然のこととして、一切の条件付きのものに対して無条件的なものを要求し、またこうして条件の系列の完結を要求する。しかし我々が、我々の経験的認識は物自体としての対象に従って規定されると想定する限り、無条件的なものは矛盾なしには全く考えられないのである。これに反して、物〔対象としての〕が我々に与えられる前に、我々はこうした物を表象し、またこの表象が物自体としての物に従うのではなくて、かえって対象が現象として我々の表象の仕方に従うというように想定するならば、この矛盾は解消する。しかし、その場合にも、我々に無条件的なものという先験的理性概念を規定させ、また、このような仕方で、形而上学の希望するままに一切の可能的経験の限界を超えて、我々の認識――といっても、実践的〔道徳的〕な意味においてのみ可能なア・プリオリな認識をもってこうした先験的理性概念に達するような事実が、理性の実践的認識に存在しないかどうかを検討する、という課題が残されている。思弁的理性は、こういうやり方でこうした実践的拡張を可能とするために、少なくとも場所を確保した。もちろん、思弁的理性としても、この場所を開けておかざるをえなかったのである。我々が、この場所を理性の実践的事実によって満たすことは、今でも我々の自由に任されている。いや、それどころか、そうすることが理性によって我々に要求されているのである。
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2017年02月25日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』第2版序文 要約@

 前回は、『純粋理性批判』の第1版序文を要約したものを紹介しました。そこでカントは、形而上学の歴史を、独断論者どうしの闘争、また懐疑論者による攻撃に晒されてきた過程として描いた上で、形而上学に真面目な関心がもたれなくなってしまった現状を、理性能力一般の批判(吟味)によって打破しようとするのが、この『純粋理性批判』の意図するところである、と強調していたのでした。

 さて、今回から3回にわたっては、1787年に書かれた第2版序文の最初の部分の要約を紹介していくことにしましょう。ここでカントは、形而上学においては対象のア・プリオリな(経験に由来しない)規定が求められること、数学と物理学においてはある考え方の革新によって学としての確実な道を歩んでいくことが可能となったことを説いています。

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第2版序文(1787年)

 理性の営みのひとつである認識を改善する作業が学として確実な道を歩んでいるかどうかは、その成果を見ればすぐに判定できる。

 論理学がこうした確実な道をずっと古い時代から歩んできたことは、この学がアリストテレス以来、いささかも後退する必要がなかったことからして明白である。論理学についてさらに注目すべきなのは、この学が今日に至るまでいささかも進歩を遂げず、どこから見てもすでに自己完結しているように見えるという事実である。近代になって、様々な認識能力(想像力や理解力など)を取り扱った心理学的な章、あるいは認識の起源なり対象の相違によってそれぞれ異なる確実性の種類の起源を論じる形而上学的な章などを論理学書のなかに挿入して、この学を拡張しようと試みる人たちもいたが、諸学の境界をいたずらに入り組ませるのは、学問の拡大ではなく、それをいびつにすることである。論理学の限界は、一切の思惟(思惟がア・プリオリなものであろうと経験的なものであろうと、またどのような起源や対象をもつものであろうと問題ではなく、あるいはまた我々の心のうちで思惟の出会う障害が偶然的なものであるか自然的なものであるかも問題ではなく)の形式的規則を漏れなく説明し、また厳密に証明するという根拠によって厳密に規定されている。

 論理学は、認識の一切の対象とその差別を度外視する権限をもっている。というよりも、そうする義務を課せられている。それゆえに、論理学において悟性が問題にするのは、悟性自身と悟性の形式だけである。しかし理性となると、理性自身ばかりでなく、その対象をも究明しなければならないので、学としての確実な道を歩むのは、当然とはいえ、理性にとってはるかに困難であるに違いなかった。このようなわけで論理学はまた予備学として、いわば諸学の玄関をなすものである。また知識が問題となる場合には、与えられた知識を判定するためにも、論理学が前提される。しかし新たに知識を獲得するとなると、これは本来の意味で、また客観的に学とよばれるべき学に求められねばならないのである。

 しかし、こうした学は、当然に理性を含んでいるわけであるから、これらの学においては、ア・プリオリに認識されるものがなければならない。理性認識は、対象とその概念を規定するだけであるか、対象を実現するか、2通りの方法で対象と関係することができる。第一は、理性による理論的認識であり、第二は、理性による実践的認識である。いずれについても、その純粋な部分(ア・プリオリな部分)だけが前もって論究されなければならない。これ以外の源泉から生じたものを、純粋な部分と混同してはならない。

 数学と物理学とは、それぞれの対象をア・プリオリに規定しなければならない2つの理論的認識である。数学は全体として純粋であり、また物理学は少なくとも部分的に純粋である。

 数学は、人間理性の歴史が遡りうる最古の時代から、ギリシャ人という驚嘆すべき民族のなかで、1個の学としての確実な道を歩んできた。論理学が学の王道を容易く見出したのに対して、数学には長い模索の時期があったが、それが急転して1個の堅実な学になったのは、ひとつの革新を経たお陰である。この革新は、ある人物が素晴らしい着想を得たことによって生じた。要するに、二等辺三角形を初めて論証した人の心に一筋の光が閃いたのである。彼は、この図形において現に見ているところのものから図形の様々な性質を学び取るのではなく、概念に従って自分でア・プリオリに件の図形のなかへいわば考え入れ、また(構成によって〔概念に対応する直観をア・プリオリに現示することによって〕)現示したところのものによって、この概念に対応するところの対象を産出しなければならないということ、また彼が何ごとかを確実にかつア・プリオリ知ろうとするならば、彼は自分の概念に従って自ら対象のなかへ入れたところのものから必然的に生じる以外のものを、この対象に付け加えてはならない、ということを知ったからである。

 次に自然科学についていえば、この学が坦々たる学問の大道を発見するまで、その進歩は数学に比してはるかに遅々たるものであった。

 自然科学者たちの心に一条の光が閃いたのは、ガリレイが一定の重さの球を斜面下で落下させたとき、またトリチェリがある水柱の重さを前もって測定しておきこの重さに相当すると思われる重さを空気で支えてみたとき、さらに下ってはシュタールが金属と焼灰とからそれぞれあるものを除いたりあるいはこれにあるものを加えたりして金属を焼灰に変化させまた逆にその焼灰を金属に変化させたときであった。こうして自然科学者たちは、理性は一定不変の法則に従う理性判断の諸原理を携えて先導し、自然を強要して自分の問いに答えさせなければならないのであって、いたずらに自然に引きまわされて、あたかも幼児が手引き紐でよちよち歩きするような真似をしてはならない、ということを知ったのである。さもなければ、あらかじめ立てられた計画に従わない偶然的な観察が生じることになるし、またこうした観察はいくら寄せ集めたところで、理性が求めかつ必要としているような必然的な法則にはならないからである。互いに一致する多くの現象が法則と見なされているのは、理性の原則に従ってのみ可能である。実験は、理性がこうした原理に従って案出されたものである。理性はこのような原理を片方の手にもち、またこのような実験をもう片方の手にもって、自然を相手にしなければならない。それはもちろん自然から教えられるためであるが、しかしその場合に理性は、生徒の資格ではなくて本式の裁判官の資格を帯びるのである。生徒なら、教師の思うままのことを何でも聞かなければならないが、裁判官となれば、自分の提出する質問に対して証人に答弁を強要することになる。このように物理学も、その考え方の革新によって利するところが大いにあった。そしてこの学にしても、考え方のこうした革新を、例の斬新な着想に負っているのである。その着想というのは、――理性は、自然から学ばなければならないことやまた理性自体だけではそれについて何も知りえないようなことを、自分自身が自然のなかへ入れたところのものに従って、これを自然のうちに求めねばならない(もともと自然のなかにありもしないことを自然に押しつけるのではなくて)、という考えである。十世紀にわたって模索を続けることしかできなかった自然科学は、考え方のこうした革新によって初めて、1個の学としての確実な道を歩むことになったのである。

 ところで、形而上学となると、これは他から全く孤立した思弁的な理性認識である。この思弁的理性認識は、経験の教えるところのものをことごとく無視し、実に概念だけによって(しかし数学のように概念を直観に適用するのではない)成立する認識であり、したがってこの学にあっては、理性が理性自身の生徒になるわけである。形而上学といえば、他の一切の学よりも古く、たとえほかの諸学が一切を廃絶するような野蛮状態という奈落に陥るようなことがあっても、これだけは生き残るであろうと思われるほどの学である。それにもかかわらず、この学は、これまでのところでは運命に恵まれなかったので、学としての確実な道を歩むことはできなかった。形而上学においては、理性はごくありふれた経験ですら確認するところの法則を(自ら誇称するように)ア・プリオリに理解しようとする場合にさえ、絶えず行き詰ってしまうからである。形而上学はひとつの競技場であり、しかもこの競技場はもともと競技者たちが闘技によってただ各自の力を錬磨するためにのみ設けられたもののようにさえ思われるのである。この場内では、いかなる競技者もいまだかつていささかの地歩をも闘いとることはできなかったし、一旦は勝利を収めてもこれを長く保ち続けることができなかった。
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2017年02月24日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』第1版序文 要約

 前回は、京都弁証法認識論研究会の2月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回にわたって、カント『純粋理性批判』の2つの序文の要約を紹介していくことにします。

 今回は、1781年に書かれた第1版序文です。ここでカントは、形而上学の歴史を簡単に振り返った上で、この純粋理性批判が、理性能力一般の批判によって形而上学が歴史的に抱えてきた難問を解決しようとするものであることを主張しています。

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カント『純粋理性批判』要約

第1版序文(1781年)

 人間の理性は、ある種の認識について、理性が退けることもできず答えることもできないような問題に悩まされるという特異な運命を背負っている。退けることができないというのは、これらの問題が理性の自然な本性によって理性に課せられているからであり、答えることができないというのは、こうした問題が人間の理性のあらゆる能力を超えているからである。

 人間の理性がこうした窮地に陥るのは、理性の責任ではない。理性は、経験の過程で必ず使用されねばならず、その使用が経験によって十分に保障されている原則から出発する。理性はこうした原則によって(理性の本性につきものなのだが)、前提そのまた前提へとどこまでも上昇していく。しかし、問題はいつになっても尽きることがないので、理性はこのような方法では自分の仕事がいつまでも不完全なものにならざるをえないことに気づく。そこで理性は、考えられうる一切の経験使用を超えるにもかかわらず、常識とも一致するほど確実に見えるような原則に逃避せざるをえなくなる。ところがそのために理性は混迷と矛盾に陥る。どこかに謬見が隠れているに違いないと推量するものの、それを発見することができない。理性の用いる原則は、一切の経験の限界を超越しているので、経験による吟味をもはや承認しないからである。この果てしない争いを展開する競技場が形而上学と名づけられているところのものである。

 形而上学の統治は、最初は独断論者の支配下にあって専制的であった。ところがその立法は、昔ながらの粗野なものだったので、数次の内乱で次第に全くの無政府状態に堕した。そして、定住を嫌う遊牧民たる懐疑論者が国民の結束をしばしば寸断した。しかし、この懐疑論者たちは数がいたって少なかったので、独断論者たちが絶えず新たに植民を企てるのを防止できなかった。近代になって、一度は(有名なロックの)人間の悟性に関する一種の自然学によって、これら一切の紛争が終わりを告げ、形而上学の要求の合法性に関する問題がついに完全に解決された観があった。女王と自称する形而上学の家柄は経験という下層民に由来するのだから女王というのは僭称だ、と一時いわれたものの、こうした系図は捏造であり、形而上学への誹謗中傷であった。そこで形而上学は依然としてその要求を主張することになり、一切はまたしても陳腐な虫食いだらけの独断論に陥った。現代では、あらゆる道が(通説では)試みられ徒労に終わった挙句、学問において有力な傾向をなすものは倦怠と全くの無関心である。これは、混沌と暗黒の母であるが、同時に、やがて学問を改造し、開明する根源ともなるものである。

 一切の知識のうちで最も愛惜されるはずの学に対する無関心は、注意と熟考に値する現象である。この無関心は、もはや見せかけの知識には釣られない成熟した判断力の結果であり、理性のあらゆる任務のうちで最も困難な技であるところの自己認識に新たに着手し、そのためにひとつの法廷を設けよ、という理性に対する要請なのである。この法廷こそ純粋理性批判そのものにほかならない。

 私がここでいう批判は、理性が一切の経験に関わりなく獲得しようとするあらゆる認識について、理性能力一般を批判することである。

 私は、これまで手をつけられていなかった批判という道をとることで、従来理性がその超経験的使用のために自分自身といわば不和を醸す原因となっていたところの一切の謬見を除去する手立てが発見されたことを喜んでいる。私はこれらの問題を原理に従って漏れなく枚挙し、理性が自分自身について誤解している点を発見した上で、こうした問題を理性に十分満足いくように解決したのである。私は、およそ形而上学の課題にして、この批判において解決されなかったもの、少なくともその手がかりがあたえられなかったものはひとつもないはずである、と明言して憚らない。

 私の言い分は、心の単一性だの世界の始まりが必然的であることなどを証明する、と謳う形而上学の綱要書の著者の主張よりも、くらべものにならぬほど穏やかなものである。こうした著者は、人間の認識を可能的経験の一切の限界を超えて拡張しようとするが、私の方は、そんなことは全く私の手に負えない、と慎ましく告白するからである。

 個々の目的を達するには完全にして欠けることなきを期し、また全ての目的を合わせ達するには全体として周到を期するという2つのことを我々に課すのは、実に我々の批判的研究の素材としての認識そのものの本性なのである。

 さらにまた確実と明晰という2つの特性は認識の形式に関するものであり、はなはだ手に終えない企てを敢てする著者に、当然課せられるべき本質的要求と見なされてよい。

 この確実ということについて、私は自分自身に、どんなことがあっても臆見を立てることは許されない、という判決を下した。いやしくもア・プリオリに確立されるほどの認識ならば、絶対に必然的と認められることを欲する、と自ら宣言するものだからである。ア・プリオリな純粋認識を規定することは、あらゆる必然的(哲学的)確実性の基準となり、したがってまたこうした確実性の実例にもなるのである。

 我々が悟性と呼んでいる能力を究明し、またそれと同時に悟性使用の規則と限界とを規定するには、私が本書の「先験的分析論」第2章「純粋悟性概念の演繹」で行った研究ほど重要なものを私は知らない。この考察は深い根底をもつもので、次のような2つの面を備えている。第一は、純粋悟性の対象に関係するものであり、ア・プリオリな純粋悟性概念の客観的妥当性を説明し理解させようとする意図をもち、したがってまた私が本質的目的と見なすところの面である。第二は、純粋悟性そのものを、その可能とまた悟性の基礎にある認識能力とに関して考察する、したがって悟性を主観的関係において考察するわけである。しかし、このような究明は、私の主要目的に関して非常に重要だとはいえ、本来の目的にとって本質的であるとはいえない。主要な問題はなんといっても「悟性および理性は、一切の経験に関わりなしに何を認識し得るか、またどれだけのことを認識できるか」という問題であって、「思惟する能力そのものはどうして可能か」ではないからである。

 最後に明晰ということについていえば、読者は第一に概念による論証的明晰を、第二に直観による――換言すれば、実例あるいはその他の具体的説明による直観的(感性的)明晰を要求する権利がある。論証的明晰に対して私は十分な配慮をしたが、それがまた第二の要求を満足させえなかったことの原因にもなった。通俗的な目的にこそ必要な実例や説明によって、本書をこれ以上膨れ上がらせない方がよいと思った。こういう批判的な研究は、通俗的な用途には向かないし、学問を事とする人たちは、こうして平易にすることをさほど必要としないし、平易ということは、かえって当面の目的に反する結果を招きかねない。明晰を求める手段は、なるほど部分部分の理解を助けはするが、しかし全体の纏まりを損なうのである。つまり、こういう補助手段は、読者が全体を直下に見通すことを妨げ、明るい色彩で体系の組み立てや構成を塗りつぶし、その構成要素を識別できなくしてしまう。

 私がここでその概念を与えようとしている形而上学は、一致した協力によって短期間で完成すると期待してよい唯一の学であり、しかも完成した暁には、後世の人々にとっては、全てを教示的な方法で自分たちの目的に従って整える以外にはやることがなく、内容を少しも増やせるものではない。なぜならそれは、純粋理性による我々全ての所有物の、体系的に整理された財産目録だからである。

 私はこのような純粋(思弁的)理性の体系を『自然の形而上学』と題して出版したいと思っている。これは分量からすればこの批判の半分にも満たないが、しかしそれにもかかわらず批判とはくらべものにならないほど豊富な内容をもつはずである。批判はまず自然の形而上学を可能にする源泉と条件を説明しなければならなかったし、凹凸の激しくなった地盤を平坦に整備する必要があった。この批判においては、私は読者に対して裁判官としての忍耐と公平さを期待する。一方、理性の体系である『自然の形而上学』においては、協力者としての好意と支援を期待する。
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2017年02月23日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』第1版序文 要約
(3)カント『純粋理性批判』第2版序文 要約@
(4)カント『純粋理性批判』第2版序文 要約A
(5)カント『純粋理性批判』第2版序文 要約B
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか
(8)論点2:カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか
(9)論点3:カントは自由についてどのように考えているのか
(10)参加者の感想の紹介

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 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、絶対精神の成長の過程(自己=世界という自覚の成立過程)として哲学の発展の歴史を描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画にもとづいたものです。

 2月例会では、『純粋理性批判』の2つの序文、すなわち、1781年の第1版序文と1787年の第2版序文を扱いました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

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京都弁証法認識論研究会  2017年2月例会
カント『純粋理性批判』 序文

【1】形而上学とは何か
 カントは、第一版序文の初めの箇所で、形而上学について論じている。一切の経験の限界を超出していて、経験による吟味を承認しないような理性の原則を扱うのが形而上学であり、かつては形而上学が諸学の女王と称せられていたとカントは述べている。その上でカントは、形而上学の歴史を独断論と懐疑論の闘争として描き、ロックによって紛争が終結されたかに見えたが、それは間違いであり、またしても陳腐な独断論に陥ったために、学問において倦怠と無関心が支配的となってしまったと論じている。このような現状を打破するために、カントは理性能力一般を批判しようとしているのだと説いているのである。カントは理性批判を法廷にたとえており、理性を理性の法則によって批判することを試みようとしている。

〔報告者コメント〕
 カントのいう形而上学は、経験を超えた対象を扱う学問という意味で、われわれが一般に哲学としてイメージするものと同じようなものであると考えてよさそうである。カントはその形而上学の歴史を、基本的には独断論が支配していたが、しばしば懐疑論が闘争を挑んできた歴史として把握している。この闘争は決着がついていないが、理性の法廷で理性能力自体を吟味すれば、この闘争にも決着がつくとカントは考えていたようである。この法廷では、かつての独断論と懐疑論の闘争が論理的にくり返され、それを裁判官の立場に立った理性が、より俯瞰的な視点から判決する、というようなことなのだろうか。このようなこれまでの独断論と懐疑論の闘争を4つの論点にまとめたものが、カントの説く4つの二律背反ということになるのかもしれない。


【2】形而上学に適用された数学・自然科学の革新的着想とは
 カントは第二版序文において、学が学として確実な道を歩むための方法・着想について論じている。これまで確実な道を歩んできた学問領域として、数学と自然科学が挙げられ、その発展を支えた革新的な着想が抽出されている。その着想とは、自分の概念に従って自ら対象の中に入れたもの以外を、この対象に付け加えないというものである。形而上学も確実な道を歩むために、この着想を採用する必要があるとして、適用を試みている。すなわち、これまでは、われわれの認識はすべて対象に従って規定されねばならぬと考えてきたが、この前提ではうまくいかなかったので、今度は、対象がわれわれの認識に従って規定されねばならないというふうに想定してみる、ということである。カントはこの考え方の変換を、コペルニクスの思想になぞらえており、これによってア・プリオリな認識の可能をうまく説明できたとしている。

〔報告者コメント〕
 数学や自然科学が確実な発展を遂げた、その根底にある着想とはどのようなものであろうか。カントの説明では、分かったような気もするが、具体的にはどういうことなのか、明確ではない。ここに関して、黒崎政男は『カント『純粋理性批判』入門』において、「私たちが何か他のもの認識した、と考えているとき、そこで認識されているのは、他のもののうちにある自分自身である、ということ」(p.93)と説いている。対象から導き出した論理を頭の中で整序して、そしてその整序された論理でしっかりと現実が説明できるかどうかを、再び対象に戻って検証する、こうしたプロセスにおいて、頭の中で整序した論理のみで現実を説明しようとするのが、「そこで認識されているのは、他のもののうちにある自分自身である」ということになるのだろうか。
 カントが自身が採用した着想の転換をコペルニクスの業績にたとえているのは、この転換によって、従来の複雑な理論なしに、シンプルに対象のあり方を説明できたと考えているからであろう。コペルニクス以前は、天体の見かけの運動について、さまざまな円運動を組み合わせたような複雑な理論で説明されていた。しかし、天動説を捨てて地動説を採れば、太陽を中心にして惑星がその周囲を円運動していると想定するだけで、地球上からの見かけの運動がほぼ説明できたのである。このように前提を変えるだけで、複雑に見えたものが実はシンプルなものであったことが明らかになる。カントは形而上学の歴史で、このコペルニクスに匹敵する業績を遺したという自信があったのであろう。


【3】物自体と現象の区別はなぜ必要か
 カントは、第二版序文の後半部分で、物自体と現象の区別の大切さ・必要性について論じている。結局、物自体と現象を区別しなければ、矛盾に陥ってしまう、と論じているようである。具体的に取りあげられている矛盾は、無条件者(p.36)と意志の自由(p.41)である。逆にいうと、物自体と現象をきちんと区別すれば、無条件者についての矛盾は解消する(無条件者について矛盾なく考えることができる)し、意志の自由についても自然必然性と矛盾なく両立しうるということである。カントは自由の問題については、実践理性の領域だとして、純粋理性を批判する本書とは別に論じることを示唆している。

〔報告者コメント〕
 この第二版の序文を読むと、やはりカントは、南郷継正先生が言うように、何らかの矛盾=二律背反に悩んだ挙句、それを解消するために物自体論(物自体と現象とを区別する論)に辿り着いたのだということは間違いなさそうである。
 問題となるのは、哲学の歴史で、二律背反がどのように問題にされてきたのか、それをカントは物自体論として一応の解決に導いたとされているが、それはどのような点で優れており、どのような点で限界があったのか、さらに後の哲学の歴史では、この問題が最終的にどのように解決されていったのか、ということだろう。ここでその正解を出すことは難しいと考えられるが、少なくともこのような問題意識を持ってカントを学んでいく必要があるだろう。それは、すべての哲学はカントに流れ入り、カントから再び流れ出すといわれているからである。
 カントにおいては、物自体というのは、世界の本質的な存在として考えられている点も押さえておく必要があるだろう。認識できる現象と区別することによって、認識はできないけれども考えることができる存在として、世界の本質が成立し得る領域を残しておいた、ということなのかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この報告をめぐっては、「これまでの独断論と懐疑論の闘争を4つの論点にまとめたものが、カントの説く4つの二律背反」という捉え方について、疑問が呈されました。このような書き方だと、テーゼ(世界の無限性を主張する)が独断論でアンチテーゼ(世界の有限性を主張する)が懐疑論だ、というようにも読めるがそれでよいのか、世界の有限性を独断的に主張する、という立場もありうるのではないか、という疑問です。

 この疑問を受けて議論するなかで、カントが「形而上学の統治は、最初は独断論者の執政下にあって専制的であった。ところが……数字の内乱によって次第しだいに、まったくの無政府状態に堕した。そしておよそ定住を嫌う一種の遊牧民であるところの懐疑論者は、しばしば国民の結束を寸断した」(p.14)と述べていることが指摘されました。つまり、形而上学は内部に独断論どうしの争いを抱えつつ、外部からは懐疑論者の攻撃に晒されていた、という構造があったのだ、というわけです。

 このことを踏まえるならば、テーゼが独断論の立場でアンチテーゼが懐疑論の立場である、というような単純な区分けはできないのではないか、ということになりました。とはいえ、カントは、独断論内部での闘争(内乱)、および独断論と懐疑論の闘争の歴史を踏まえつ、それ4つのアンチノミーとしてまとめ上げたのだ、ということはいえるだろう、ということに落ち着きました。
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<講義一覧>

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 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
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 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
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 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
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 ・科学はどのように発展してきたのか
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 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史