2016年10月05日

2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回までに、例会で報告されたレジュメを紹介したあと、ヘーゲル『哲学史』バークリーからドイツの啓蒙思潮までの要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介してきました。

 最終回となる今回は、例会を受けての参加者の感想を掲載しておきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回はヘーゲル『哲学史』のうち、バークリー、ヒュームの哲学、スコットランド哲学、フランス哲学を中心にした部分を扱った。

 チューターとして、事前に論点を整理し、論点に対する各会員の見解をまとめる作業を行ったが、こうした過程を通じて、当初はあまり理解できていなかったヘーゲルの文章の意味が大枠で理解できるようになったと思う。

 今回の例会を通じて、バークリーやヒュームの哲学がなぜロックの経験論から出発したにも関わらず観念論となってしまったのかがよく理解できた。彼らはロックの経験論を受け継いで、全ての観念は感覚によって生じると考えていたのだが、この方向を突き詰めていくと、感覚こそが全てであって、それが客観的存在を捉えたものであるということの重要性が徐々に顧みられなくなっていったということだと理解した。客観的存在を反映するということではなくて、感覚こそが絶対的なものだと考えられたのであろう。しかし、こうした考え方から、普遍性や必然性を主観的なものとして把握するカントの哲学に繋がっていったということも押さえておく必要があると思った。

 また、道徳や宗教上の真理の基準が、人間の内にこそあると把握されていったスコットランド哲学やフランス哲学の流れから、自由という概念が生じてきた流れもしっかりと確認しておく必要があると感じた。ここからも、自由の原理を自らの根底においたカント哲学に繋がっていくし、ヘーゲルの説く自由の拡大こそが人間の歴史であるという把握の直接の土台が形成されたという意味でも、これらの哲学が大きな意味を持っていることが確認できた。

 次回はいよいよ、そのカントを含んだ範囲について学んでいくことになる。これまでの哲学史の流れを踏まえて、またヘーゲルのいう哲学の完成形態から捉えるという視点を意識して、徹底的にカント哲学の概要を学んでいきたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会を通じて、最も理解が深まったのはバークリーやヒュームの哲学についてである。両者の意義について、論点への見解を作成している段階では、ヘーゲルが「思考の堕落」と表現していることを捉えて、せいぜい次の段階に至るための問題提起をしたにすぎない(それ自体として大きく取り上げる内容はない)と考えていたのだが、ヘーゲルの哲学の完成形態から捉え返すとそうではないということがよくわかった。

 そもそもヘーゲルにおいては全世界が絶対精神の自己運動として捉えられている。つまり客観的な世界も自分自身も絶対精神なのであり、「世界=自己」という図式が成り立つわけである。

 そういう観点からしたとき、バークリーやヒュームは客観的な世界というものは自分自身が捉えた世界でしかないということ(現代の認識論で言えば、人間は主観的な世界で生きているということ)を指摘したのであり、ヘーゲルのいう「世界=自己」という図式につながる把握をしているのだということであった。これは非常に納得できた。

 やはりあくまでもヘーゲルのイメージしている完成形態から、それぞれの段階がどのように位置づけられているのかを見ていくことが重要だと感じた。

 これはヘーゲルの哲学史のみならず、唯物論の立場から哲学の歴史や世界の歴史を見ていく場合にも同様のことが言えるだろう。つまり、究極的な理想は何かということを把握した上で、その時代その時代はどのようなものとして位置づけられるのか、また現代はどのように捉えることができるのかということを見ていかなければならないのだと思った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今月の例会では、報告レジュメの担当になっていた。報告レジュメに関しては、バークリーやヒューム、スコットランド哲学、フランス哲学が、ヘーゲルの描く哲学史の全体像のなかでどのように位置づけられるものであるか、論点への見解をまとめる過程で考察したことをさらに深めながら、より端的で明瞭な形で示すことができたのではないかと思う。現実の世界と観念の世界をピッタリと重ね合わせること(=絶対精神が自分自身を知ること)が哲学の完成であるという観点から、哲学史の全てを捉えていかなければならないのだということを、改めて確認することができた。

 例会での議論を通じては、バークリーやヒュームの論について、現実の世界と観念の世界との接点である感覚だけが全てだ、としてしまうことで(それ以外の部分、すなわち感覚では捉えきれないものの存在を否定してしまうことで)、現実の世界=観念の世界という図式を強引に成立させたのだ、ということを明瞭にすることができた。これは、とくに重要な成果であったといってよいだろう。

 なお、今回の例会での議論のなかでは、自らの論を展開する際には根拠となる事実をきちんと確認して提示するべきだ、確たる根拠のないことを推測的に述べるべきではない、という(当たり前の)ことが浮上してきた。確認しようのないことを論理的に推測するのはいいとしても、確認しようと思えばできることを確認しないままに推測的な論を展開するのは怠慢というほかない。今後、各自がきちんと注意していくべきだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会では、まず、バークリーやヒュームの哲学についてのヘーゲルの評価が非常によく理解できた。ヘーゲル的にいえば、世界=自己という自覚が哲学の完成形態であるが、バークリーやヒュームにあっては、現実の世界が観念の世界の中に溶かし込まれているのであり、ある意味、強引に世界=自己という関係を成立させたともいえる、ということであった。このように、ヘーゲル哲学のあるべき姿から読み取っていかないと、なかなか理解できないことが、この箇所でも再確認できた。

 また、このバークリーやヒュームの哲学を唯物論的に評価するならば、やはり、認識を認識として対象とする視点を持ちえたことが、決定的に重要だと感じた。これは、観念論であったからこそ可能であったとも思える。すなわち、自己の描く感覚的な像自体が世界だという立場に立ったのであるから、この感覚的な像、すなわち認識を対象として、これを解明すること自体が、イコール世界を解明することになるからである。いったんこのように観念論の立場に立たなければ、認識の解明はその端緒につけない、ということなのではないかと考えさせられた。

 フランスの哲学については、一人で読み込んでも論旨がよく分からなかったが、まず当時の社会状況や文化状況を踏まえることが大切だと痛感した。フランス革命前の腐敗・堕落した社会の状況や、それを革命で変革していくための理論的な前提がつくられていたこと、こういった世界史的な流れと重ね合わせてヘーゲルを読んでいかないといけない。一般教養レベルの世界史の実力がなければ、まともに理解できないことを今回も痛感した次第である。

(了)
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月04日

2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮(9/10)

(9)論点3:フランス哲学とはどのようなものか

 前回は、スコットランド哲学とはどのようなものかに関する議論について見ていきました。ヘーゲルは、スコットランドの哲学者によるヒューム批判について、ヒュームが宗教や道徳についても単なる習慣に過ぎないとした点を批判し、宗教や道徳についての内的に独立した源泉が存在するのだと主張したことを確認しました。また、ヘーゲルがスコットランド哲学について、人間の意識のうちに価値判断の源泉を探しもとめたという点は評価しているものの、通俗的で哲学的な深みがないと述べていることも見ました。最後に、唯物論の立場からすれば、スコットランド哲学は、宗教上、道徳上の原理を社会的認識として把握しようとしたことが評価に値することなどを議論したのでした。

 さて今回は、3つ目の論点として、フランス哲学に関する討論内容を見ていきたいと思います。

論点3:フランス哲学とはどのようなものか

 ヘーゲルはフランス哲学について、「スピノザに対して平行する現象」(p.26)であり、かつ「ドイツのヴォルフ形而上学とも平行する現象」(pp.31-32)であると述べているが、これはどういうことか。フランス哲学の否定的側面、積極的側面、哲学的・形而上学的側面とはどのようなものだとされているか。ヘーゲルは、フランス哲学が具体的普遍的統一を目指して進んだと述べているが、これはどういうことか。
 唯物論の立場からすれば、フランス哲学をどのように評価すべきか。

 この論点に関しては、まず、「スピノザに対して平行する現象」とか「ドイツのヴォルフ形而上学とも平行する現象」とかいった場合の、「平行する」とはどういう意味なのかについて検討しました。チューターはこの「平行する」ということの意味を、交わることのない相対立する見解という意味ではないかと述べました。つまり、フランス哲学は、スピノザとも違うし、ヴォルフとも違うということです。しかしこのように把握すると、スピノザとの違いについては、フランス哲学が唯物論でスピノザが観念論であるというように説明も可能かもしれませんが、ヴォルフとの違いということに関してはうまく説明ができません。そこで他の会員は、「平行する」という言葉を同じ方向に進んでいるという意味にとるべきではないかと主張しました。フランス哲学はあらゆるものを否定していって、最後に残ったものを「至高の存在」と呼んだのであるが、これを自然だとみなすと、自然即神と考え無神論のレッテルを張られたスピノザ哲学と同様の考え方になるし、最後に残ったものを神とみると、モナドを予定調和的に動かいている神を想定したライプニッツ哲学を受け継ぐヴォルフ形而上学と同じような方向性になる、ということでした。この見解には全員が納得しました。

 次に、フランス哲学の否定的側面、積極的側面、哲学的・形而上学的側面とはどのようなものだとされているかという点を確認しました。諸々の議論を踏まえると、概ね次のような結論に至りました。すなわち、フランス哲学の否定的側面というのは、旧体制の腐敗堕落したあり方、人間を愚民扱いし、国家の意思決定から除外するような姿勢を徹底して批判し否定していったことを指しているということでした。また、積極的側面とは、スコットランド哲学と同様、人間の内に理性や常識が備わっていて、それらに基づいて正義の判断を行わなければならないと主張したことを意味するということでした。そして哲学的・形而上学的側面というのは、この両者を具体的に統一することであって、全てを否定したフランス哲学は、自己の中にしか基準を求められず、それが自由ということだ、ということになりました。

 最後に、唯物論の立場からすれば、フランス哲学をどのように評価すべきかという問題について議論しました。まず、フランス哲学が登場してきた社会的背景については、ある会員が筋の通った見解を示しました。すなわち、フランスの地理的条件に規定された強大な陸軍、それを保持するための強力な王権、農奴制が保持されていたことによる商工業発展の阻害と新興勢力の成長の遅れ、議会勢力の脆弱さなどにより、国民の政府への不満があっても政治体制が改革されず、政治の腐敗が極度にまで進んでしまったのだが、これに対してフランスの哲学者は、国家権力や宗教勢力とは異なった世界観に立って根本的な批判を行ったのだ、理性を旗印にして諸々の要求を突き付けたのだ、ということでした。また、フランス哲学の意義に関しては、個人の自由意志と国家の理性的意志との統一という点が唯物論的な意志論の萌芽と捉えることができるとか、自らの内面に基づいて判断を下すべきだとした点が主体性を重んじたという意義があるとかいった意見が出されました。しかし、こうしたことは観念論者であるヘーゲルも評価し得ることであって、どのように唯物論と観念論の評価を分けるかということが難しくなってしまうという意見も出されました。別の会員は、機械的だったとはいえ、唯物論が登場したことこそ、唯物論の立場での評価に値するのではないかという発言をしました。この見解には、皆が同意しました。

 以上のような議論を行い、今回の例会における論点についての議論を終了しました。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月03日

2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮(8/10)

(8)論点2:スコットランド哲学とはどのようなものか

 前回は1つ目の論点、すなわちバークリーやヒュームの哲学とはどのようなものかという論点についての討論を見ていきました。ヘーゲルは彼らの哲学について、客観的現実の世界の存在や普遍的なものの実在を否定したという意味で、懐疑論や観念論としていたのでした。また、古代の懐疑論と違って近代の懐疑論では、全ての実在を飲み込んでしまう自己意識こそが真理なのだと主張されていました。こうした哲学についてヘーゲルは、哲学の完成への大きな前進だと評価しつつ、普遍的なものをまともに扱えない点で大きな限界があるとしていたのでした。唯物論の立場からすれば、自分の認識を客観的に見つめる視点を確立したことなどが評価できるということでした。

 さて今回は、2つ目の論点として挙げられた、スコットランド哲学に関する論点について見ていきたいと思います。

論点2:スコットランド哲学とはどのようなものか

 ヘーゲルはスコットランド哲学について、「ヒュームの最初の反対者」(p.19)だと述べているが、スコットランドの哲学者はヒュームの哲学のどのような点をどのように批判したのか、カントのヒューム批判とはどのように異なるのか。ヘーゲルはスコットランド哲学をどのように評価しているか。
 唯物論の立場からすれば、スコットランド哲学はどのように評価することができるか。

 この論点に関しては、まず、スコットランドの哲学者はヒュームの哲学のどのような点をどのように批判したのか、カントのヒューム批判とはどのように異なるのかという点について確認しました。大きな見解の相違はなく、結論的には、ヒュームが必然性とか普遍的なるものの認識を完全に解消して、宗教や道徳についても単なる習慣にすぎないものだと片付けてしまったことに反対し、スコットランドの哲学者は「宗教や道徳について内的に独立した源泉」=「絶対的な正義の内容」が存在するのだと主張したことがヒューム批判である、ということでした。また、スコットランド哲学とカント哲学のヒューム批判における違いについては、前者が宗教や道徳における良識を強調したのに対して、後者が自己と現実世界との関係における認識の原理を問題にしたという点で異なっている、ということでした。

 次に、ヘーゲルはスコットランド哲学をどのように評価しているかという問題について議論しました。この点についても大きな見解の相違はなく、ヘーゲルはスコットランド哲学について、人間の意識のうちに価値判断の源泉を探しもとめたという点は評価しているものの、通俗的で哲学的な深みがないと述べていることを確認しました。

 最後に、唯物論の立場からすれば、スコットランド哲学はどのように評価することができるかについて検討しました。ある会員は、当時のイギリスが植民地の拡大を図っており、それなりの正義を掲げて戦っていく必要があったという事情も関係して、正義を測る絶対的な基準があるという前提を哲学的に説いておく必要があったといえるのではないかと述べました。これに対して別の会員は、植民地の拡大を図るという面では、スコットランドとイングランドは違うのではないか、イングランドには確かにそうした面があるかもしれないが、イングランドでは哲学と呼べるほどのものは生まれなかった、だからスコットランド哲学に関しては、ヒュームなども無神論として叩かれたという経緯もあるから、植民地の問題よりも長老派教会を擁護するという側面の方が強かったのではないか、と反論しました。初めに見解を出した会員もこの意見に納得し、世界歴史の学びの重要性を指摘しました。スコットランド哲学の意義に関しては、宗教上、道徳上の原理を、社会的認識として把握しようとしたことが評価に値するという意見が出されました。さらに、共通感覚によって善悪を捉えるというスコットランド哲学の考え方に対して、それを批判し、共感などの想像力でもって各人の胸中に「公平な観察者」と呼ばれる基準が生成される過程を説いたアダム・スミスの業績についても確認しておくべきだという意見も出されました。ヘーゲルは『道徳感情論』を読んでいなかったこともあってか、スミスをスコットランド哲学の中に位置づけているのですが、我々の研究会と立場としては、スミスの業績はスコットランド哲学とは明確に区別して把握しておく必要があるということでした。

 以上のことを確認して、この論点に関する議論を終えました。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月02日

2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮(7/10)

(7)バークリーやヒュームの哲学とはどのようなものか

 前回は、『哲学史』バークリーからドイツの啓蒙思想までのうち、ポイントとなる部分を改めて振り返った後、9月例会で提出された3つの論点を紹介しました。

 今回から、その3つの論点について順次検討した内容を紹介していきたいと思います。まず1つ目の論点として挙げられたのは、バークリーやヒュームの哲学の中身についてです。

論点1:バークリーやヒュームの哲学とはどのようなものか

 ヘーゲルはバークリーやヒュームの哲学について、懐疑論であり観念論だと論じているが、これはどういうことか。古代の懐疑論とはどのような違いがあると述べているか。ヘーゲルはバークリーやヒュームの哲学をどのように評価しているか。
 唯物論の立場からすれば、バークリーやヒュームの哲学をどのように評価すべきか。

 この論点については、まず、バークリーやヒュームの哲学が懐疑論であり観念論だというのはどういうことかという問題を議論しました。この問題については大きな見解の相違はありませんでした。すなわち、客観的現実の世界の存在を否定し、個別的な意識しか存在しないのだという考え方が懐疑論であり、因果関係の必然性などの普遍的なものが客観的な現実の世界には存在せず、それは単に観念の中にあるに過ぎないとした点が観念論だということでまとまりました。

 続いて、古代の懐疑論と近代の懐疑論の違いについて検討していきました。この論点に関しては、ある会員が、古代の懐疑論が個々人の意識こそが基準だとする考えを持っていたのに対して、近代の懐疑論は人間の自己意識と世界との関係についての一般性を打ち出そうとした点が異なるのではないかと発言しました。これに対してチューターは、古代の懐疑論は個々人の意識が基準だと考えていたのか、また近代の懐疑論が打ち出そうとしたという人間の自己意識と世界との関係の一般性とは何かと問いました。別の会員も、古代の懐疑論は真理の基準などというものはないのだ、と考えていたのではないか、近代の懐疑論においても、一般的に人間の自己意識と世界との関係を問題にしたのではなくて、個としての自己意識を取り上げたに過ぎないのであって、一般性というのはおかしいのではないか、という反論を出しました。初めに見解を出した会員も、自分の言葉が曖昧でよくなかったことを認めました。結局、この論点については、古代の懐疑論においては、個別的な意識が重視されたという点では近代の懐疑論と同じであるが、個別的意識にとっては何が真理か分かりようがないという消極的な結論しかでなかったのに対して、近代の懐疑論では、物自体と自己意識との統一という問題意識があるため、自己意識が全ての実在を飲み込んでしまい、それこそが真理であると主張された点が異なるのだということになりました。

 第3に、ヘーゲルはバークリーやヒュームの哲学をどのように評価しているかという問題についてです。この問題については、ヘーゲルが説く哲学の完成形態から捉える必要があるということをまずは確認しました。すなわち、ヘーゲルは現実の世界と観念の世界とがぴったりと一致することが哲学の完成だと考えていたことを確認したのでした。その上で、バークリーやヒュームの哲学は、自己意識が世界の全てを自分のものにしたという点で、非常に大きな前進が見られるものの、それが感覚的なレベルにとどまっていて、感覚で捉えられる以上のもの、普遍的なものとか概念とか対象の構造とか法則性とかいうものについては、まともに扱えないような、非常に浅薄なものでしかなかった点で、大きな限界を有するものだ、とヘーゲルは評価しているのではないか、ということになりました。

 最後に、唯物論の立場からすれば、バークリーやヒュームの哲学をどのように評価すべきかという点に関して検討しました。この点については、ある会員が、バークリーがアイルランド国教会の主教であったことを踏まえて、神の存在とロックの経験論をどう統一的に把握するのかということが課題となり、神が認識しているからこそ現実の事物が存在するのだと考えるに至ったのではないか、と述べました。また、ヒュームに関しては、外交官として長く務めていたために、諸外国・諸民族と関わる中でどこにでも通用するような一般的なものは存在しないという感覚を抱くようになったのではないか、と述べました。これらの見解に対して、別の会員は、確かにそういうこともいえるかもしれないが、必ずしも断定できるものではないと反論しました。バークリーについていえば、神の存在とロックの考え方はそもそも対立するものなのかという疑問もあるし、ヒュームについては、『人性論』などは若いころに書かれたものであるから、その後の外交官としての生活は関係ないのではないか、というわけです。あくまでも自分の推測としてこうした見解を述べているだけで、事実から導き出したものになっていないから唯物論的ではないといわざるを得ない、という厳しい見解も出されました。この論点については他に、これらの哲学が成立した歴史的必然性について確認しました。資本主義の生成期にあって、生産的労働(自然の人間化)という主体的な行為の過程における経験の積み重ねが非常に重要な意義を持っていたからこそではないか、ロックの哲学の社会的影響があったのではないか、といった意見が出されました。また、これらの哲学の意義については、自分の認識を客観的に見つめる視点を確立したことや人間の認識を外界とは独立に考察したことは評価できるものの、論理的な像などについては全く解明できなかったという決定的な限界もある、という見解が出されました。それぞれ妥当な見解だということで、論点1に関する議論を終了しました。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月01日

2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、ヘーゲル『哲学史』バークリーからドイツの啓蒙思潮までの要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところを振り返っておきたいと思います。

 はじめに、バークリーとヒュームの哲学について見ていきました。ヘーゲルは、個の形をとる形式的な自己意識が、全ての対象は人間のもつイメージであるという把握に留まるのであれば、それは最悪の観念論だとして、バークリーの哲学を批判していました。また、ヒュームの哲学についても、これを別の言い回しに変えただけだと述べていました。バークリーの観念論についてヘーゲルは、一切の存在するものは感覚されたものであり、自己意識によって形成されるものだと主張しているとして、こうした把握では真の認識に達することができないと批判していたのでした。ヒュームの懐疑論に関しても、必然性を偶然の観念連合の習慣化だと理解するのであれば、それ以上に思惟を深めることができず、必然性を概念的に把握することができないと述べていたいのでした。

 次に、スコットランド哲学についてのヘーゲルの見解を見ていきました。ヘーゲルによれば、スコットランド哲学はヒュームに反対して、宗教や道徳上の真理には内的に独立した源泉があるのだと主張していたのでした。しかしカントと違って、この内的な源泉を思惟や理性そのものだと主張するのではなくて、経験の外的材料を必要とするところの具体的な種類のものだと主張していたのでした。こうしたスコットランド哲学についてヘーゲルは、通俗哲学ではあるが、人間や人間の意識の中に価値判断の源泉を探し求め、価値を人間に内在化させようとした点で、大きな長所をもっていたと述べていたのでした。

 最後に、フランス哲学について見ていきました。ヘーゲルは、フランス哲学はおよそ存在するもの、それ自体においてあるとされるものは自己意識においてであるという確信を根底にして、既存の表象や固定した思想の全領域に対して背を向け、一切の固定したものを破壊し、自己に純粋自由を与えるものだと説いていました。そしてあらゆる存在を否定した後に残った空虚な存在は純粋思惟であって、これはヴォルフ哲学に見られるような唯一神論をふくんでいるものであるということでした。また、純粋思惟を意識一般にとって対象的に存在するものだとすると、これは物質となるのであって、こうした自然主義的な把握はスピノザの唯一実体に共通するものであるとも述べられていました。

 ヘーゲルは、フランス哲学の否定的方向について宗教攻撃と国家攻撃を挙げていました。フランス哲学が、人間理性が永遠な神的な真なる正なるものに対して同意したり判断を下したりする当然の権利を持つべきだと主張することについて大きく評価していたのでした。また、フランス哲学の積極的側面については、人間が自己の中に持っている根本的な正義感を前提とし、それを発展させるようにしなければならないとしたことを挙げていました。そしてそれらの統一、すなわち具体的な普遍的な統一を目指して進んだというのでした。

 以上のような内容について、例会では大きく3つの論点が提示されました。そして、各論点をめぐって様々な議論・討論がなされていきました。そこで今回は、その3つの論点を紹介したいと思います。次回以降、それぞれの論点をめぐってなされた討論過程と、その結果どのような(一応の)結論に到達したのかということを詳しく紹介していく予定です。

論点1:バークリーやヒュームの哲学とはどのようなものか

 ヘーゲルはバークリーやヒュームの哲学について、懐疑論であり観念論だと論じているが、これはどういうことか。古代の懐疑論とはどのような違いがあると述べているか。ヘーゲルはバークリーやヒュームの哲学をどのように評価しているか。
 唯物論の立場からすれば、バークリーやヒュームの哲学をどのように評価すべきか。

論点2:スコットランド哲学とはどのようなものか

 ヘーゲルはスコットランド哲学について、「ヒュームの最初の反対者」(p.19)だと述べているが、スコットランドの哲学者はヒュームの哲学のどのような点をどのように批判したのか、カントのヒューム批判とはどのように異なるのか。ヘーゲルはスコットランド哲学をどのように評価しているか。
 唯物論の立場からすれば、スコットランド哲学はどのように評価することができるか。

論点3:フランス哲学とはどのようなものか

 ヘーゲルはフランス哲学について、「スピノザに対して平行する現象」(p.26)であり、かつ「ドイツのヴォルフ形而上学とも平行する現象」(pp.31-32)であると述べているが、これはどういうことか。フランス哲学の否定的側面、積極的側面、哲学的・形而上学的側面とはどのようなものだとされているか。ヘーゲルは、フランス哲学が具体的普遍的統一を目指して進んだと述べているが、これはどういうことか。
 唯物論の立場からすれば、フランス哲学をどのように評価すべきか。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月30日

2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮(5/10)

(5)ヘーゲル『哲学史』フランス哲学(続)、ドイツの啓蒙思潮 要約

 前回は、フランス哲学の前半部分の要約を紹介しました。そこでは、フランス哲学が全ての既存の存在を否定することで、純粋思惟のみが残されることになったこと、これを自然と解釈すればスピノザ的な唯一実体が成就され、これを神と捉えればヴォルフ哲学に近いものになることなどが説かれていました。

 今回はフランス哲学の3つの側面、及びドイツの啓蒙思潮について説かれている部分の要約を紹介します。ここでは、フランス哲学において信念の自由、良心の自由が旗印として掲げられたことなどが説かれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1、否定的方向

 この側面の実体的な点は、堕落の状態、一般的な完全な虚偽の状態に対する理性的本能の攻撃にほかならない。フランス人の宗教攻撃と国家攻撃は非難されているが、彼らが攻撃したのは、最も破廉恥な迷信や僧侶政治や愚昧や心情の堕落、とりわけ公衆が悲惨な状態にあるにもかかわらず富の蕩尽や俗世の財物への耽溺をこととするような宗教であり、大臣やその妻妾や側近のものの行う最も盲目的な専制、したがって数限りない小暴君やゴロツキどもが国家の歳入を奪い、人民の膏血を絞ることを神授の権利と見なすに至るような国家である。
 哲学者たちが慄然たる錯乱に対抗して主張したのは、宗教に関してもまた法律に関しても、人間はもはや門外漢であってはならない、ということである。宗教社会の教会組織、法の社会の排他的な世襲階級が、永遠な神的な真なる正なるものを独占して、他の人々はこれらの人々から命じられるというふうであってはならない、むしろ人間理性はそれに対して同意したり判断を下したりする権利を当然もつべきである。この偉大な人間の権利、主体的な自由や確信の権利を、上述の人々は情熱を傾け勇気を奮って闘いとったのである。

2、積極的側面

 この哲学的思索の肯定的内容は充分に根本的とまではいえない。主要な規定は、人間が自己のなかにもっている根本的な正義感、例えば、善意や社会的傾向を前提することで、それが発達するようにしなければならない、というのである。知識一般と正義の積極的な源泉は人間の理性のなかに置かれ、まだ概念の形式のなかにではないが人間の普遍的意識たる健全な人間悟性のなかに置かれている。人間の本質規定は精神の自然性だと解され、その精神の自然性とは、知覚や観察や経験によって、あれこれの衝動であるとされた。しかし、衝動は我々自身の内にある規定とはいえ、それ自身としては不確定なもので、全体の一契機として限定されるほかない。自然はひとつの全体であり、一切は法則により、種々の運動の集合や原因結果の連鎖等々によって規定される。事物の様々な特性や質料や結合によって生み出されないものはない。以上が幾巻もの書に満ち溢れる共通の口調である。

a 自然の体系
 ドルバック『自然の体系』は、前自然界が究極のものであり、宇宙は物質と運動との途方もない集積であるとした。

b ロビネ
 ロビネ『自然について』は冒頭で、自然という全現象の原因として、不可知の一者たる神を置く。自然の活動として捉えられるのは、万物の内に萌芽があるという事実である。万物は自らを生み出す有機体である。それだけ単独であるものはなく、万物は結び付き、つながり、調和している。ロビネは事物の単純な内部形相、事物の実体的形相、事物の概念を萌芽と名づけた。萌芽のあり方を示すのに感覚に寄りかかりすぎるきらいはあるが、出発点は内部にある具体的な原理であり、形相そのものである。

3、具体的普遍的統一の理念

 フランス哲学は、結局のところ具体的な普遍的統一の獲得を目指して進んだ。具体的な統一という偉大な考えが、抽象的で形而上学的な悟性規定に対立しつつ、例えば自然の豊穣さとして現われる。他方、価値あるものは現存しなければならず、彼岸の権威に支えられるようなものであってはならないということが主要点でもあった。私の内容は同時に具体的なもの現存するものでなければならず、この具体的なものは理性と呼ばれたのであり、私の内にある信念の自由、良心の自由が旗印として掲げられるようになった。人間は、自身の精神に内在する確固たる羅針盤を見出そうとする絶対的な衝動をもつ。しかし、現存する生命性を求めるこの努力は、わき道にそれて偏った形式をとった。
 彼らの哲学の理論的側面においては、フランス人は唯物論または自然主義に進んでいった。悟性というものは、固定した原理からこの上なく膨大な結果を引き出せる抽象的思惟だが、それが彼らを惑わせて、唯一原理を究極のものとして立てさせ、しかもそれが同時に現存性をもち、経験の近くにあるものだとさせたのである。こうして彼らは、感覚や物質を唯一の真実体とし、一切の思惟、道徳的なものを、感覚の単なる態様としてそれに帰着させるのである。フランス人の生み出した統一は、こうして一面的なものになった。

a 感覚と思惟の対立
 感覚と思惟の対立が立てられ、思惟は単なる感覚の結果だとされた。しかし、彼らはデカルトやスピノザのように、この対立を思弁的な仕方で神のなかに合一させたのではない。一切の思想、表象は、それが物質的に捉えられるときにのみ意味をもち、そしてただ物質のみが存在するのである。

b モンテスキュー
 偉大なる頭脳の持ち主たちは、やがてこうした捉え方に胸裏の感情を対立させた。自己保存の本能、他人に対する善意の傾向性、社会衝動などがそれである。こうしてモンテスキューは、国民の憲法や宗教など国家のなかに見出される一切のものはひとつの全体をなすという重要な見地から諸々の国民を考察の対象としたのであった。

c エルヴェシウス
 このように思惟を感情に帰着させることは、エルヴェシウスにおいては、道徳的人間の唯一の根本原理(一者)は自愛(利己)である、という形態をとる。この原理は一面的であるが、自体の契機、主観的自由を指摘したものとしては重要である。

d ルソー
 ルソーは自由意志を国家の絶対的権利付けの原理とした。社会契約とは、各人がその意志をもってそのなかにあるといった結合のことである。人間は自由であるが、この本性は国家においても放棄されないのみならず、事実国家においてはじめて形成されるのである。自由の原理は、自己自身を無限者として観ずる人間に無限の強さを与える。このことこそ理論的見地においてこの原理を自らの根底に置いたカント哲学への移り行きをあたえるものである。こうして、認識はその自由を目指し、それが自己の意識のなかにもつ具体的内容を目指して進んだのである。

D ドイツの啓蒙思潮

 ライプニッツ=ヴォルフ哲学の諸々の定義や公理や証明のなかを安穏と徘徊していたドイツ人たちは、外国の精神に感染すると、そこで生まれたあらゆる現象のなかに入っていった。ロックの経験論を養い育て、啓蒙のなかに、並びに一切事物の有用性の考察――フランス人から取り入れた規定――のなかに没頭していったのであった。ドイツ啓蒙思潮は、有用性の原理で持って、諸々の理念と闘ったが、哲学的研究はそれ以上の深さに達することのない通俗性の平板に堕してしまった。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月29日

2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮(4/10)

(4)ヘーゲル『哲学史』フランス哲学 要約

 前回は、ヘーゲル『哲学史』のヒュームの哲学とスコットランド哲学が説かれている部分の要約を紹介しました。ヘーゲルによれば、ヒュームは連関を必然的と見るのは単なる習慣に過ぎないのであって、普遍性もただ主観的なものだと宣言したということでした。また、スコットランド哲学はヒュームに反対して、真理の根底には健全な悟性、普遍的な人間悟性があるのであって、宗教や道徳上の真理は共通感覚によって把握されるのだと主張したということでした。

 さて今回は、フランス哲学の前半部分の要約を紹介します。ここでは、フランス哲学の特徴は、既存の表象や固定した思想の全領域に対して背を向け、一切の固定したものを破壊し、自己に純粋自由の意識を与える絶対的概念であることなどが説かれていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

C フランス哲学

 イギリスの観念論は、存在とは知覚されることであると形式的にいうか、知覚するということは本能、衝動、習慣といった盲目的な一定の力でしかないというか、どちらかであった。前者の場合は、現象や感覚の有限な展開も、思想や固定的な概念も非哲学的な意識と同様であるし、後者の場合は、一切の普遍的なるものを習慣と本能のなかに解消し、現象世界を一層単純に概括するにすぎない。この本能や衝動や力は、自己意識の没精神的な、運動性を欠いた、限定的なあり方である。
 これに対して、一層溌剌とし、活動的で、機知(精神)に富んでいるのがフランス哲学である。それは既存の表象や固定した思想の全領域に対して背を向け、一切の固定したものを破壊し、自己に純粋自由の意識を与える絶対的概念である。この観念論的活動の根底にある確信は、およそ在在するもの、それ自体においてあるとされるものは、自己意識においてある、ということである。善悪の概念、権力や富の概念、神や神の世界への関係、神に対して自己意識が負う義務などという固定した表象も、自己意識の外に、それ自体として存在する真理ではない、ということである。これら全ては、自己自身を意識する精神のなかに自己を止揚してしまうのである。
 このような絶対的な概念的把握を行う自己意識にとって、本来の存在とはどういうものであるか。第一に、この場合の概念は、たんに概念の否定的活動というふうに固定されるから、肯定的なもの、単一なもの、あるいはその意味で本来の存在は、この運動の外に追いやられる。あらゆる規定された内容は、こうした否定的運動のなかで失われてしまうから、それには何らの区別も内容も残されない。この空虚な存在は、我々にとっては一般に純粋思惟、フランス人のいわゆる「至高の存在」である。反対に、意識一般に対象的に存在すると表象されると、物質となる。こうして絶対者は物質として、空虚な対象性として規定される。
 ここに純粋な概念的把握をする自己意識の必然的結果として、いわゆる唯物論と無神論がはばかるところなく登場してくる。精神を自己意識の外に存在する自己意識とするような信仰が精神について形づくる一切の表象、一言でいえば、一切の伝統的なもの、権威によって課せられたものが崩壊してしまうのである。自己意識が認めるのは自己意識たる自己にとってあるもの、そのなかにおいて自己意識が自己を現実に自覚するもののみであるから、残るのはただ現前する現実的存在である。それはすなわち自然である。自己意識は自己自身を物質として、心を物質的として、表象を感覚器官の外的印象に継続的に起こる脳の内的器官内の運動および変化として見出すのである。したがって、思惟は物質のひとつのあり方となる。ここに本来この対象全体のなかに究極的なるものとしてスピノザ的な唯一実体が成就される。フランス唯物論は自然主義としてスピノザに対して並行する現象なのである。
 啓蒙思潮のもうひとつの形式は、絶対者が自己意識の〔現前ではなく〕彼岸に立てられるとき、それ自体については何ら認識されるところがない、ということである。それは神という空虚な名をもつだけである。単純で空虚なものが、自己意識に対して存在しない否定的なものとされている以上、それは物質とは異なるものである。しかし、その区別にあまり意味はない。物質は普遍的なるもので、止揚された対自的存在だと考えられているからである。全く別のものと思われるような違いがどうしてできたかといえば、最後の抽象の仕方の違いによるのである。
 いまや概念は、単にその否定的な形式で存在しているにすぎず、積極的な広がりは依然として概念を欠いたままである。それは物質的事象においても道徳的事象においても、等しく自然の形式、存在者の形式をとる。自然の認識は学的見地からは思弁的ではないありきたりの認識に止まり、何ら規定されたものには到達しないのである。同じように精神的事象においても、現象や知覚を取り上げて色々と理屈をこねるが、それ自体は一定の力ではあるがその内部は分からない、といった退屈な長談義でしかない。道徳的側面の規定や認識も同じく人間をそのいわゆる自然的衝動に還元することを目指している。自体は自然性といった形式をもち、この自然性はいまや自愛や利己または善意の傾向性と呼ばれる。人は自然にしたがって生活すべき、などといわれるが、その自然については一般的な口上書きを述べる以上には進まない。彼らは、表象の起源を個別的意識において提示しようとするように、外的な発生を事象の生成や概念と取り違えてしまう。水の起源は、と問われれば、山または雨から、と答えるようなものである。フランス哲学については、ただ否定的な面のみが興味に値するのであり、積極的な側面は問題とするに足りない。
 しかし、この空虚な傾向に対する別の面は充実している。すなわち、他面において積極的なものは人間悟性のいわゆる直接自明な真理であって、この悟性は自己自らを見出すというこの真理と要求のほかは何も含まず、この形式のなかに立ち止まったままである。しかし、その場合、絶対者を現在的なものとし同時に思惟されたものとして、また絶対的統一として把握しようとする努力が生じる。それは自然的事象においては目的概念、したがって生命の概念の否認に向い、精神的な事象においては、精神と自由の概念の否認とともに、遂には自己内において規定されることのない自然、感覚や機械性、利欲や利益の抽象物に到達するに過ぎない努力である。フランス人たちは、その国家組織において抽象から出発するが、それは現実に対する否定者たる普遍思想としてのそれである。普遍的なるものそれ自身であって、一切の内容がそれのなかに解消していくことで充実させられるような精神の自由の思想は、フランス人が樹立し、守ってきた。それは普遍的根本命題、しかも個人の自己自身のうちにおける確信としてのそれにほかならない。
 人間の胸裏から、自然的感情からとられた内容を備えたこの健全な人間悟性や健全な理性は、いまや様々な点において宗教的側面に矛先をむけた。悟性にとっては、思弁によってのみ捉えられるものの究極の根底に対して矛盾を指摘することは容易である。悟性はその尺度を宗教的内容にあてて、これを無に等しいと宣言し、また同一の仕方で具体的哲学に対しても反対の行動をとる。宗教から多数の神学のなかにきわめて一般的に残ったのは、唯一神論と呼ばれるもの、つまりは信仰一般である。しかし、宗教に矛先を向ける推究的悟性のこうした傾向には、また唯物論や無神論や自然主義へと向う方向も現われた。この場合の実情は、この哲学が無神論へ進んで、究極のもの、活動的なもの、働くものとして捉えられるものを、物質、自然等々と規定してしまったということである。しかし、若干のフランス人はそのなかに数えられない。ルソーの書いた「サヴォワの助任司祭の信仰告白」は、全くドイツの神学者に見られるような唯一神論を含んでいる。こうしてフランス哲学は、単にスピノザのみならず、またドイツのヴォルフ哲学とも平行する現象となる。その他のフランス人は、明確に自然主義に進んだ。代表的なのはミラボー〔実際はドルバック〕の『自然の体系』である。
 こうして、フランス哲学については、否定的側面、積極的側面、形而上学的・哲学的側面の3つに分けることができる。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月28日

2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮(3/10)

(3)ヘーゲル『哲学史』ヒューム、スコットランド哲学 要約

 前回は、ヘーゲル『哲学史』カントに至る過渡期の哲学の総論的な部分とバークリーの哲学を要約したものを紹介しました。ここでは、18世紀の哲学が一般的な通俗哲学ではあるが、無自覚のまま人間悟性が原理とされていたこと、バークリーは一切の存在するものは感覚されたものであり、観念は神の生み出したものだと主張していたことなどが説かれていました。

 今回は、ヒュームの哲学とスコットランド哲学についての部分の要約を紹介しましょう。ここでは、ヒュームが因果関係の必然性は習慣に過ぎないと主張したこと、スコットランド哲学がヒュームに反対して、宗教や道徳上の真理の内的に独立した源泉を主張したことなどが説かれていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2、ヒューム

 ヒュームは、ロック=ベーコン的な立場、すなわち、我々の概念を経験から汲み取る立場から直接に出発し、バークリーの観念論を対象とする。バークリーは、一切の概念をそのままにしておいたが、ヒュームにおいては、感性的なものと普遍的なものとの対立が純化され、かつ先鋭に表明される。何故かといえば、彼は感性的なものを全く普遍性を欠くものとして規定しているからである。ヒュームは、我々の表象の全ては、感性的感覚と概念・観念に分けられるが、後者は前者と同じ内容で、ただ力強さ・溌剌さの点で劣るのだ、という。こうしてヒュームは、生得観念を放棄する。
 彼が最も深く考察の対象にしたのは原因結果の範疇であるが、ここでもヒュームは終始一貫して、経験のなかには普遍性と必然性の諸規定は決して含まれておらず、またそれらが我々に与えられることもない、ということに注目した。こうしてヒュームは、思想規定の客観性または即自且対自的存在を棄て去ってしまったのである。
 ロックによれば、我々は原因結果の概念、したがって必然的連関なる概念を経験から得なければならないことになる。しかし、感性的知覚としての経験は何らの因果連関を含まない。我々が知覚するのは、今あることが起り、またあることがそれに続く、ということでしかない。例えば、水の圧力が家の転覆の原因である、といっても、それは何ら純粋の経験ではなく、まず水が押し寄せてきて、次に家が転覆することを見た、ということにすぎない。必然性は経験によって確証されるものというより、我々が経験のなかに持ち込んだもの、我々が偶然的につくった主観的なものというべきである。我々が必然性と結び付けるこの種の普遍性を、ヒュームは習慣と呼ぶ。我々は結果をしばしば見たために、連関を必然的とみるように習慣づけられる。必然性とは偶然の観念連合が習慣化したものだというのである。
 普遍的なるものに関しても同様である。我々が知覚するものは個々の現象であり個々の感覚である。我々は、これが今はこう、別の場合はこう、ということを見るのである。我々が同一の規定をしばしば繰り返して知覚することもあり得るが、このことも依然として普遍性からはるかに遠いのである。普遍性は経験によっては我々に与えられない規定である、というヒュームの言葉は、経験ということを外的経験だと解するならば、全く正当であるといえる。何ものかが存在するということを経験は感覚しても、普遍的なるものは未だ経験のなかにはないのである。感覚的存在は他と無関係にそれだけで存在するものであるが、同時に普遍的なるものそれ自体でもある。しかし、ヒュームは、必然性すなわち相対立するものの統一を全く主観的な習慣と見なすので、それ以上に思惟を深めていくことができなくなっている。なるほど習慣は一面においては意識における必然的なものであり、その限りでそこには観念論一般の原理を見ることができるが、しかしまた他面、この必然性は全く思想なき概念なきものとされているのである。
 さてこの習慣は、感性的自然に関する我々の見解においても、また法律や道徳に関しても等しく成り立つ。ヒュームは、古代の懐疑論者と同じく、諸民族の見解が異なることを根拠に、民族が違い時代が違えば、違ったことが法律として妥当してきたとする。もし真理が経験に基づくのであれば、普遍性や即自且対自的な妥当などの規定はどこか別のところから由来し、経験によっては確証されないことになる。こうしてヒュームは、この種の普遍性や必然性をむしろただ主観的なものと宣言して、客観的に存在するものとはしなかったのである。なぜならば、習慣こそまさにこの種の主観的普遍性にほかならないからである。以上が認識の源泉として採用された経験についての重要かつ鋭い発言である。これを出発点にして、いまやカントの反省が始まったのである。

B スコットランド哲学

 しかし、スコットランド学派にあっては、以上と別なものが開花した。彼らこそヒュームの最初の反対者であるが、もう一人の反対者がドイツの哲学者カントである。かれらがヒュームの懐疑論に対して主張したのは、宗教や道徳上の真理の内的に独立した源泉である。これはカントと一致するもので、カントもまた外的な知覚に対して内的な源泉を対置しているが、ただしそれはカントにあっては、スコットランド学派におけるとは全く別の形式をもっている。彼らにあっては、この内的な独立した源泉は、思惟や理性そのものではない。むしろこの内的な源泉から成立してくる内容は具体的な種類のもので、それはまた、自らのために経験の外的材料を必要とする。それは一面においては認識の源泉の外面性に対して、他面においては形而上学そのもの、すなわちそれだけ切り離されて抽象的なものとなっている思惟または推究に対立する通俗的な諸々の根本命題である。彼らは教養ある人間として道徳を考察し、諸々の道徳的義務をひとつの原理の下にもたらすことを試みた。彼らにおいては、思弁哲学は全く姿を消してしまうが、全体として帰着するのは、ドイツにおいても原理として捉えられたもの、すなわち、真理の根底として彼らが立てたのは、いわゆる健全な悟性、普遍的な人間悟性なのである。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月27日

2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮(2/10)

(2)ヘーゲル『哲学史』バークリー 要約

 前回は、京都弁証法認識論研究会の9月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回に渡って、ヘーゲル『哲学史』バークリーからドイツの啓蒙思潮までの要約を紹介していくことにします。

 今回は、カントに至る過渡期の哲学の総論的な部分とバークリーの哲学の要約です。ここでは、18世紀の哲学としてヒューム、スコットランド哲学、フランス哲学を考察すること、バークリーの哲学は一切の外的存在が消失する観念論であることなどが説かれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第2章 過渡期

 カント哲学に至るまで思惟が凋落の一途を辿っていった事実は、いまや上述の形而上学に対立して、いわゆる一般的な通俗哲学、すなわち反省的経験論と呼ばれ得るものが台頭したことのなかに示される。これまで現れた諸々の矛盾、その作為的な技巧性――神の助力、予定調和、最善の世界、等々――対置されたのは、教養ある人間の胸裏に感じられ直観され崇められたものを内容とした、精神に内在する確固たる根本原理である。これらの具体的な諸原理は、ただ彼岸の神のなかにのみ解決を見出すのとは違って、人が一般に健全なる人間悟性(良識)と呼んできたものから見い出された現世的な宥和であり自立性であり、また合理的に納得のいく拠り所にほかならない。このような諸規定は、人間の感情や直観や心情また人間の悟性が道徳的にも知的にも教養ある場合には、充分に善いものであり、有効なものでありえる。しかし、もし我々が自然的人間の心に植えつけられているものを原理とするなら、健全なる人間悟性とはとりもなおさず自然的な感覚や知となる。牝牛を敬い新生児を棄てるなどの残忍行為を行うインド人などですら、このような健全な人間悟性は備わっている。こうした自然的感情を標準にとれば、忌むべき根本命題が生じてしまうであろう。我々が健全な人間悟性や自然的感情を口にするときには、いつも教養ある精神を思い浮かべているのである。生まれながらの知や直接的な感情を標準とする人は、宗教や倫理的事象・法律的事象が人間の胸裏に内容として見出されるときには、これが教養や教育のお陰であり、教養や教育によってはじめてこのような根本命題が自然な感情とされてきたのだという事実に気づかないのである。気づかないままに、このような自然な感情や健全な人間悟性が原理とされているのだから、原理の多くが理にかなったものであるのは当然である。このようなものが、18世紀における哲学である。ここでは、3つの側面、ヒューム、スコットランド哲学、フランス哲学を考察する。ヒュームは懐疑論者であり、一切の普遍的なるものを否定する。これに対立してスコットランド学派は、普遍的命題や真理を掲げはするが、それはあくまでも思惟によってするのではない。それゆえ、いまや確固たる立場がとられるにしても、それは経験的なものそれ自身のうちに求められることになり、フランス人は現実のなかに普遍的なるものを見出すが、その内容は思惟によって得られるのではなく、生物や自然や物質が原理とされる。

A 観念論と懐疑論

 思惟一般は単一な普遍的な自己同一的な存在であるが、しかも否定的な運動としてそうであり、規定された存在はかかる否定的な運動によって自己を止揚する。この対自的(自覚的)運動は従来は思惟の外にあったが、今からは思惟それ自身の本質的要素となる。このように思惟が自己を自己自身における運動として捉えると、思惟は自己意識となるが、最初は形式的に個別的自己意識としてである。思惟がこの形式をとるのは懐疑論においてであるが、それが古代の懐疑論と異なるのは、実在の確実性が根底となっている点である。これに反して古代にあっては懐疑論は個別的意識へ立ち戻ることではあったが、個別的意識は懐疑論にとっては真理ではなかった。換言すれば懐疑論は自己の究極する結果を表明して積極的意味をとることがなかった。しかし、近代世界においては、物自体と自己意識の統一が根底にあり、自己意識ないし自己確信が一切の実在と真理を覆い尽くすと言明することになる。その際、個の形をとる形式的な自己意識が、全ての対象は人間のもつイメージであるというにとどまれば、それは最悪の観念論である。こうした主観的観念論はバークリーに見られるもので、別の言い回しをするのがヒュームである。

1、バークリー

 一切の外的存在が消失するこの観念論は、ロックの立場を前提にして、ロックを直接の出発点にする。ロックにおける真理の源泉は、経験もしくは知覚対象である。この感覚的存在は意識に対してあるという規定をもっているから、その考えを押し進めていくと、少なくともいくつかのものは、それ自体であるのではなく、他に対してのみ存在する、例えば、色や形などは主観のうちに、主観の特殊な組織のうちにのみ存在の根拠をもつ、といわざるをえなくなる。しかし、この対他的存在は、概念としては受け取られず、むしろ自己意識――それも一般的な自己意識たる精神ではなく、物自体に対立するという意味での自己意識――を根拠とすることがいわれていただけである。
 バークリーの提示する観念論は、マルブランシュのそれとよく似ている。悟性の形而上学に対しては、一切の存在するもの及びその諸規定は感覚されたものであり、自己意識によって形成されたものである、という見解が現われる。彼独自の中心思想は「物と呼ばれるすべてについて、それがあるということはそれが知覚されているということである」と定式化される。バークリーは、対自的存在と他在との区別を認めはするが、この区別がそれ自身自我のなかに入ってしまう。ロックは例えば、延長と運動は対象自体に帰するものとしたが、バークリーは、大小・遅速等が相対的なものだという視点から、ロックの考えの不整合に気付き、延長と運動がそれ自体で存在するのなら、それらは大きいとか小さいとか早いとか遅いとか全くありえないはずなのに、実際には延長や運動の概念にはそれらが含まれているではないか、とした。
 バークリーもライプニッツも、存在と精神とを自己の内に取り込もうとするが、他なるものと我々との関係は依然として残る。バークリーは、そのような他なるものは全く余計だ、という。バークリーは他なるものを客体と呼ぶが、これは物質と呼ばれるようなものではない。なぜなら、精神と物質は合致することができないからである。
 観念が必然性をもつことは、観念をもつ主体が自己の内部に存在するという考えと直接に矛盾する。自己の内部にあるとは主体の自由を意味するが、その主体が観念を自由に生み出すのではなく、自分にとって他なるものの形態ないし性質として、観念が現われるからである。バークリーの観念論は、意識が観念を生み出すといった主観的観念論ではなく、精神は互いに観念を伝え合う(他者も観念をもつ)だけで、観念を生み出すのは神だけだと考える。だから、我々の自己活動によって生み出されたイメージや観念は、神の生み出した観念そのものとはあくまで違うのである。この考え方は、観念論に付きまとう難点を見究め、それに独自の回答を与えようとするものである。またしても、神が自ら下水溝となってそれを引き受けねばならず、頼みの綱は神なのである。
 こうした観念論は、意識とその客観との対立に触れるだけで、観念を展開したり、種々の経験的な内容の対立を考察したりといったことは手付かずのままである。かつて物について問われたように、ここでは知覚や観念の真実体とは何かが問題となるが、それへの解答はなされない。意識は無自覚のまま、全ての経験や常識的世界観や同一内容のなかをうろつきまわっていて、真の認識に達することがない。個々の自己意識はそれとして存在しているが、自分の現状を認識することがないのである。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月26日

2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)ヘーゲル『哲学史』バークリー 要約
(3)ヘーゲル『哲学史』ヒューム、スコットランド哲学 要約
(4)ヘーゲル『哲学史』フランス哲学 要約
(5)ヘーゲル『哲学史』フランス哲学(続)、ドイツの啓蒙思潮 要約
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:バークリーやヒュームの哲学とはどのようなものか
(8)論点2:スコットランド哲学とはどのようなものか
(9)論点3:フランス哲学とはどのようなものか
(10)参加者の感想の紹介

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、3年前のヘーゲル『歴史哲学』、一昨年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを踏まえて、昨年からいよいよヘーゲル『哲学史』に挑戦してきています。今年末までかけてこの著作を通読することで、ヘーゲルの説く哲学史を理解することはもちろんのこと、それを唯物論的に捉え返すことで唯物論哲学の創出に向けた第一歩を確実に歩んでいくことを課題としているわけです。

 9月例会では、ヘーゲル『哲学史』バークリーからドイツの啓蒙思潮までを扱いました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

京都弁証法認識論研究会 2016年9月例会
ヘーゲル『哲学史』
第3部 近代哲学 第2節 思惟する悟性の時期 第2章 過渡期

A 観念論と懐疑論
 思惟は自己を自己自身の運動において捉えることで自己意識となるが、その最初の形式たる個別的自己意識こそが懐疑論である、とヘーゲルはいう。思惟の自己運動とは、根源的存在たる絶対精神が世界の諸々の具体的なものをみずから生み出していく過程であるが、これを自覚する(世界=自己という関係を捉える)最初の形式が懐疑論だ、というわけである。これは、個人のアタマのなかにこそ世界がある(個別的自己意識が直接に世界そのものである)と主張する形で、自己=世界の関係を実現しようとしたのが懐疑論だ、ということであろう。
 ヘーゲルは、バークリーについて、全ての対象は人間の個別的意識が描くイメージでしかないという観念論だ、とした上で、ヒュームはそれを別の言い回しにかえたのだ、とする。ヘーゲルは、彼らの哲学について、自己意識が世界の全てを自己のものにしようとしたという点に大きな前進を認めつつ、それが感覚的レベルにとどまり、普遍的なるものとか観念とか概念とかを扱えなくなってしまった点に大きな限界を見ているといえよう。

【報告者コメント】
 ヘーゲルの描く哲学史の大きな流れ、すなわち、絶対精神が自己自身の何たるかを自覚するに至る過程のなかで、近代の懐疑論がどのように位置づけられるのか問うていく必要があるだろう。簡単にいえば、世界=自己という自覚、換言すれば、現実の世界と観念の世界とをピッタリと重なり合わせることこそが、ヘーゲルの考える哲学の完成である。この図式を踏まえていえば、近代の懐疑論は、現実の世界を強引に観念の世界のなかに溶かし込んでしまうことで、世界=自己という関係を成立させようとしたのだ、といえるのではないか。
 唯物論の立場からは、バークリーやヒュームの論について、我々が眺めているのは現実世界そのものではなく、アタマのなかに描かれた現実世界の映像にほかならないことを指摘したものとして、高く評価できるだろう。また、彼らが自分の認識を客観的に見つめる視点を確立したこと、換言すれば、感性的につかむことができない心のありさまを現象として観察する視点をもったことは、認識論の発展という観点から特筆されるべき業績である。同時に、現実世界が我々の認識から独立して存在していることを認められなくなったために、感覚レベルの像と論理レベルの像を合理的に区別する規準が立てられなくなってしまったことは、決定的な限界として確認しておかなければならない。

B スコットランド哲学
 ヘーゲルは、スコットランドの哲学について、必然性や普遍性の認識を完全に解消して宗教や道徳は単なる習慣にすぎないと片付けてしまったヒュームに反対し、宗教や道徳について内的に独立した源泉を主張しようとしたものだ、と述べている。こうした問題意識がカントと共通していると指摘される一方、カントが宗教や道徳における真理を思惟とか理性とかによって根拠付けようとしたのに対して、スコットランド哲学は、世間一般に通用している宗教上、道徳上の真理(とされているもの)をそのままの形で肯定し、直接に共通感覚(良識、常識)なる人間の認識能力に結び付けてしまったことが指摘されている。
 ヘーゲルは、こうしたスコットランド哲学について、通俗哲学にすぎないと批判的に評する一方、健全な悟性という原理そのものは妥当なものであることを指摘し、人間や人間の意識のなかに価値判断の源泉を探し求め、価値を人間に内在化させようとしたという点については、大きな長所として認めている。

【報告者コメント】
 ヘーゲルは、スコットランド哲学について、思弁的な深みのない通俗哲学であるとして、それほど高い評価を与えていないのだが、彼らが確固とした価値を人間に内在化させようとしたことについて、大きな長所として認めていることを見逃してはならないだろう。「人間は精神であるから、最高者にふさわしく自分自身を尊敬してよいし、また尊敬すべきである」(「就任演説」)というヘーゲルの信念に通ずるものが、ヒューム懐疑論への反論――文字通り常識レベルの反論であるが――という形で提示されているわけである。
 唯物論の立場からすれば、スコットランド哲学(いわゆるスコットランド常識学派)は、我々が視覚という感覚で色や形を捉え、聴覚という感覚で音を捉えるように、共通感覚(道徳感覚)で善悪を捉えるのだ、というような非常に素朴(安直)な発想で、宗教的・道徳的な原理の確実性を担保しようとしていたのだといえよう。感覚器官を通じた外界の反映を原基形態とする認識の発展過程のなかで、宗教的・道徳的な原理がどのように成立してくるか、という困難な課題に立ち向かうことを最初から避けてしまった、といわなければならない。
 なお、アダム・スミス『道徳感情論』は、道徳感覚という発想を批判し、想像力に着目して道徳感情の形成過程を追究した点で、いわゆるスコットランド常識学派とは大きく異なることを確認しておきたい。

C フランス哲学
 ヘーゲルは、フランス哲学について、およそ存在するものは自己意識においてなければならない、換言すれば、自己意識が納得できるものでなければ真理ではありえない、という確信に基づいて、既存の諸々の権威や観念をことごとく否定していったものだ、と述べている。
 ヘーゲルは、フランス人による宗教攻撃や国家攻撃が非難されていることに対して、フランス旧体制の社会状態のひどさ、貧困や悲惨さを指摘しつつ、彼らが旧体制に対抗して主張したのは、思惟する人間を愚民扱いしてはならないということにほかならないとして、その正当性を指摘している。人間は、自身の精神に内在する確固たる羅針盤を見出そうとする絶対的な衝動をもつ、とヘーゲルはいう。思惟と自己との統一が自由であり、自由意志こそ人間の概念であるが、ルソーにおいて自由の原理が高く掲げられ、自己自身を無限者としてみる人間にこの無限の強さが与えられたのだ、とヘーゲルは説くのである。

【報告者コメント】
 既存の権威や観念をことごとく否定していったフランス哲学のあり方について、ヘーゲルは、人間が自身の精神に内在する確固たる羅針盤を見出していく過程にほかならないとして、肯定的に捉えているところが決定的に重要であろう。「人間は精神であるから、最高者にふさわしく自分自身を尊敬してよいし、また尊敬すべきである」(「就任演説」)というヘーゲルの信念に通ずるものが、旧体制との激烈な闘争という過程を通じて、強烈な形で(粗削りな形で)押し出されてくるのである。ヘーゲルは、フランス人による旧体制攻撃を、思惟する人間を愚民扱いしてはならない(門外漢としてはならない)、という要求としてまとめているが、これは、個々の国民が主権者として国家意志の決定に主体的に関わるべき、という主張にほかならず、現代にも通じる決定的な意義をもっているといえよう。
 世界歴史の流れを自由の実現過程として捉えるヘーゲルにとって、フランス哲学における自由の原理の登場は決定的な画期であり、哲学の完成までもう一歩のところまで到達したものであることを、しっかりと押さえておきたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上の報告に対して、まず、「A 観念論と懐疑論」の「報告者コメント」が特に非常に分かりやすかったという意見が出されました。ヘーゲルの描く哲学史の流れを踏まえて、近代の懐疑論が「現実の世界を強引に観念の世界のなかに溶かし込んでしまうことで、世界=自己という関係を成立させようとした」ものだということが述べられているが、この論理展開は見事だということでした。また、「B スコットランド哲学」の部分で「価値を人間に内在化させようとした」とある部分について、これは価値判断の基準を人間に置こうとしたということかという質問があり、これに対して報告者はその通りだと答えました。質問者は今回の範囲は非常に読みづらかったと述べましたが、チューターは、「価値を人間に内在化させようとした」といった重要なキーワードを中心に読んでいくことで、ヘーゲルが説きたかった中身の大枠を押さえていく必要があると述べ、論点の検討に移っていきました。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月01日

2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回までは3回にわたって,論点に関してどのような討論がなされ,どのような(一応の)結論が導き出されたのかについて報告してきました。

 さて,本例会報告の最終回である今回は,参加者のメンバーそれぞれの感想を掲載したいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会では、ヘーゲル『哲学史』のうち、ロックとライプニッツの哲学を中心に扱った。ヘーゲルが、ロックとライプニッツに加え、前回扱ったデカルトやスピノザも含めて、「形而上学の時代」としていることについて、これがどういうことなのかをはっきりさせるつもりで例会に臨んだ。

 例会を通じて、「形而上学の時代」というものが、感覚的に把握できる個別の存在を超えた真実在のあり方を求めて試行錯誤した時代であったという中身がよく分かった。デカルトやスピノザについては、「実体」とは何かを追い求めて、「思惟と延長」や「神」といった概念に突き当たったわけであるが、通常、形而上学とは対極にあるかに思われるロックの経験論においても、個別的存在から一般観念を導き出そうとしていたという点で、「形而上学の時代」として大きく括って把握できるのだというヘーゲルの論理展開に納得できたのであった。前回、デカルトに関してヘーゲルが、新プラトン派以降、哲学らしい哲学が復活したという旨のことを述べていたが、この理由についても、「真実在」の追及という点で、「形而上学の時代」と「古代ギリシャ哲学」及びそれを継承した新プラトン派のつながりが理解でき、納得できたのであった。

 例会ではもう1つ、非常に重要なことを学んだと思う。それは、ロックが「事物と表象」の一致こそが真理であると説いていたことに関して、私がこれを「対象と認識」の一致と言い換えたことに関係する。すなわち、この例会報告の中でも述べていた通り、「事物と表象」といった場合には、それらは個別の感性的なあり方とその反映というレベルに過ぎないのに対して、「対象と認識」といった場合には、それらは「事物と表象」という個別的感覚的な内容も含みながらも、ヨリ一般的な、抽象的な内容をも含む概念である、ということである。こうした言語に含まれる中身のレベルの違いという問題は、私の専門とする言語学の範疇にあるにもかかわらず、何となく自分たちがよく使う言葉で言い換えて済ましてしまった、つまり言葉の内容を問うことなく言葉だけで考えてしまっていた、という意味で、深い反省が必要な事柄であった。

 次回は私がチューターの役割に当たっている。該当範囲を読み込んで、どんな論点にも的確に解答できる準備をしつつ、当日の例会の流れが深まっていけるよう、しっかりと討論中の言葉から相手の認識を正確に読み取っていくべく努力していきたいと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・

 今回、討論を通して学んだことは大きく三つである。まず、ロックの真理観のどこがまずいのかが明確になった。テキストを読んでいる段階では、ヘーゲルのロック批判は、そのまま三浦つとむさんの批判になっているように感じていた。すなわち、ヘーゲルは、対象=認識という真理観を批判していると読んでいたのである。しかし、例会当日の議論の中で、ヘーゲルが批判しているのはもっと狭い意味のことであり、事物と表象との一致ということと対象と認識との一致(あるいは存在と思惟の一致)ということとは、レベルが違うのだということが明らかになった。前者は、単に個別の事物とその表象が一致しているかどうかという部分的なものであり、後者は、そのような個別の内容も含みつつも、世界全体の体系性と学問的な体系性の一致ということまでも含意している、ということが分かってきたのである。ヘーゲルが批判しているのは前者であって、三浦さんの真理観は後者に近いということが了解できた。

 次に、ライプニッツの意義についてである。多少強引にでも、「生命の歴史」に重ねてみることによって、魚類段階が水中での生命の完成形態であるように、ライプニッツの哲学も何らかの意味で完成形態であるといえるのではないかという着想を得て、ひょっとしたらヘーゲルが批判する意味での「形而上学」の完成形態なのではないか、カントから新しい発展が始まるのではないかと、思い至った。これが正しいか否かは別にして、「生命の歴史」は発展の一般性を孕んでいるのであるから、また、哲学の歴史は「生命の歴史」の少しだけ形が変わったものにすぎないはずであるから、「生命の歴史」から哲学の歴史を眺めていく必要があり、そしてこそ、哲学の歴史の発展の構造が見えてくるのではないかということを改めて考えさせられた。

 最後に、唯物論的に哲学を考察する際には、二つの観点があることが明確になった点である。一つは、社会状況を踏まえて、その反映として哲学が成立する必然性を説くことである。もう一つは、あるべき唯物論哲学から、その意義と限界を評価することである。これまでの議論で、こういったことが明確になってきたのも非常によかったと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・

 8月例会への取り組みを通じて、ヘーゲルのいわゆる形而上学の時代(デカルト、スピノザ、ロック、ライプニッツら)の大きな流れを確認することができたと思う。
 やはり大事なのは、ヘーゲルの考える哲学の完成形態を念頭において、哲学史のそれぞれの時代を位置づけていくという姿勢であろう。南郷継正が伝える吉本隆明の言によれば、「ヘーゲルは、学問の世界と実体の世界とを二つ描いて、両方の図式の対がいわば重なり合うレベルで一致した時に、本当の学問の成立であるとした」(『学城』第12号、p.205)。これは、換言すれば、思惟=存在ということにほかならない。形而上学の時代というのは、思惟と存在との対立を前にして、(あくまでも思惟の側から出発しながら)両者を如何にして統一させうるか、が大きな問題として浮上してきた時代なのであった。デカルトは「我思う、故に我あり」として思惟=存在(思惟と存在との直接の統一)を主張したにとどまり、スピノザの神(思惟=存在)も何らの運動性ももたない硬直した存在でしかなかった。彼らは諸々の感覚的な存在について、真理性(思惟=存在)を主張できなかったのである。これに対して、ロックは、あくまでも感覚的存在、個としての認識にこだわった結果、真理(思惟=存在)を感覚的反映レベル(事物=表象)に限定してしまった。さらに、ライプニッツは、世界全体について思惟=存在ということを主張できるようにしようとして、思惟=存在という性格を把持した無数の単子で全宇宙を充たしてみたのであった(しかし、単子間の調和を説明するために、結局、弁神論という詭弁に逃げ込まざるを得なくなった)。

 8月例会での議論を通じては、ロックにおける事物=表象という把握と、本来あるべき(哲学レベルの)思惟=存在という把握との差異が明確になったのは大きな収穫であった。ロックの真理についての考え方は、三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』で言及している素朴な模写説そのもの、ということである。また、ライプニッツの単子論について、スピノザの唯一の実体との関係において、表象レベルで明確に把握できたのも大きな収穫であった。すなわち、スピノザの唯一の実体(思惟=存在)というのは、一個の大きな塊として世界の奥底に沈んで動かないものであるから、それを粉々に打ち砕いて宇宙全体にバラまいて、宇宙全体を思惟=存在という性格で強引に充たそうとしたのが、ライプニッツの単子論である、ということである。

 このように考えてみることで、真理とはあくまでも思惟=存在なのであるが、これを如何なるレベルで主張することができるかが問題だったのだ、ということがよく分かってきた。学問体系という形ではじめて、思惟=存在を完璧に主張することができる、というのがヘーゲルの主張であったわけである。

・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会をとおして、この形而上学の時代というものに対する理解が深まったという感覚があるその中身は大きく2つに分けられる。

 1つは、ロックの真理観に関してである。ロックは事物と表象の一致こそが真理だと主張し、ヘーゲルはこれを批判したということであった。論点への見解を作成している段階で、その違いは何となくはわかっていたが、例会での議論をとおして、そこが明確になった。要するに、ロックの真理観とは、目の前の事物・事象をそのまま捉えたというレベルだということである。それに対してヘーゲルは、この全世界の歴史性や体系性をすべて把握したときに真理が現出すると主張しているのであり、そこには天と地ほどのスケールの違いがあると言えるだろう。ヘーゲルがロックを批判するのも当然だと言える。ただし、唯物論の立場からすれば、どちらも対象(外界)と認識の一致という点で共通しているのであり、その端緒を築いた存在としてのロックは大きく評価されるべきだと思った。

 もう1つは、この時代の哲学者の学説が、思惟と存在の統一という観点から整理されたことである。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という形で思惟と存在の統一を図ろうとし、スピノザは両者を統一する存在として唯一実体の神を設定した。しかし、結局、そこからどうやって全世界が現れてくるのかを説くことはできなかった。次にロックは思惟と存在との統一という課題を表象と事物との統一というレベルで主張したこと、最後にライプニッツはスピノザの掲げた神を砕いて全世界に散らばらせることにより、思惟と存在との統一を図ろうとしたものの、モナド間のつながりを説ききることができなかったのだ、ということを確認したが、ヘーゲルの哲学史からすれば、解決すべき根本的な問題が浮上した時代ということが言えるのだろうと思った。改めてヘーゲルが自らの哲学を完成形態として、そこに至る過程としてそれぞれの哲学者を整理しているのだということを感じた。ヘーゲルの哲学というゴールをしっかりと見定めた上で、それぞれの時代がどう位置づけられているのかをしっかり見ていかなければならないと思った。
posted by kyoto.dialectic at 04:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月31日

2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部(9/10)

(9)論点3:形而上学の時代とはどのようなものであったか

 前回は、ライプニッツの哲学に関わる論点について、どのような議論を行い、どのような(一応の)結論に至ったのかを確認しました。ライプニッツのモナドとはスピノザの掲げた唯一の実体を砕いて世界にばらまいたようなものであり、それによって個人の精神が実体であることを説いたものの、そのモナド同士のつながりを説ききることができず弁神論に逃げてしまっている点をヘーゲルは批判していたのでした。唯物論的にも、対象を個々バラバラな存在の集合と捉える形而上学的な発想では、世界を捉えることができないということが明確になったということが言えるのではないか、ということでした。

 さて今回は、形而上学の時代とはどのようなものかについての議論を紹介します。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】
ヘーゲルのいわゆる形而上学の時代(デカルト、ロック、ライプニッツ)とはどのようなものであったのか。形而上学の時代全体を通じて、何が成し遂げられ、何が課題として残ったとされているのか。ヘーゲルの哲学史全体において、形而上学の時代はどのようなものとして位置づけられているか。唯物論の立場からすれば、ヘーゲルのいわゆる形而上学の時代なるものをどのように評価することができるか。


 まず、ヘーゲルのいわゆる形而上学の時代とはどのようなものであったのかを確認しました。ここについては、全員がほぼ共通した見解を出していました。つまり、教会の権威に依存せず、あくまでも自分の力で、自分自身が納得できる形で、自分に対峙する客観的世界(その本質たる実体)を把握しようとするようになった時代だということでした。

 次に、この時代には何が成し遂げられ、何が課題として残ったのかを確認しました。これについては、思惟と存在との統一という課題が浮上したこと、その解決に向けてそれぞれの哲学者が取り組んだものの、結局解決しきることはできず、難解な問題であることが確認されたことなどが指摘されました。ここに関わって、あるメンバーが、デカルト・スピノザ・ロック・ライプニッツが思惟と存在との統一という課題に対してどういう結論を出したのかを確認しておくことが必要なのではないかと指摘しました。その上で、そのメンバーは自らの見解を提示しました。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という形で思惟と存在の統一を図ろうとしたのであり、スピノザは両者を統一する存在として唯一実体の神を設定したものの、結局、そこからどうやって(思惟と存在という形で整理された)全世界が現れてくるのかを説くことはできなかったということでした。次にロックは思惟と存在との統一という課題を表象と事物との統一というレベルで主張したこと、最後にライプニッツはスピノザの掲げた神を砕いて全世界に散らばらせることにより、思惟と存在との統一を図ろうとしたものの、モナド間のつながりを説ききることができなかったのだ、ということでした。こうした整理については、全員が納得しました。

 続いて、この形而上学の時代はヘーゲルの哲学史全体においてどう位置づけられるのかを議論しました。ここについては、「ヘーゲルの説く絶対精神の自己運動の直接の原基形態が創出された」など、全員がヘーゲル哲学に直接につながる時代だったという評価をしました。その上で、あるメンバーが「生命の歴史において、人間にいたる直接の原基形態が魚類で誕生したのと同様の論理構造があるのではないか」と発言しました。これに対して、別のメンバーが次のような疑問を投げかけました。生命の歴史で言えば、魚類というのは水中における生命体の完成形態であって、その成果をひっさげて陸へ上がっていくことになる。ヘーゲルの『歴史哲学』においても、キリスト教が1つの完成形態であって、その成果をゲルマン民族が継承して発展していくということを確認していたが、そういうことで言えば、この時代はどういう意味での完成形態と言えるのか、ということでした。ここについては、シュヴェーグラー『西洋哲学史』を扱ったときに、二元論を一元論にしようという取り組みが3回くり返されていたことを踏まえて、それぞれの時代において得られた成果をひっさげて改めて進んで行くということが言えるのではないか、特にこの形而上学の時代にあっては、ライプニッツは形而上学としての完成形態と言えるのであって、その成果をひっさげてドイツ観念論という新しい流れが始まるのではないか、形而上学から弁証法へという流れではないか、ということでした。結局、明確な結論は出ませんでしたが、このように生命の歴史に照らしてヘーゲルの哲学史を読んでいくことの重要性と、その場合、どういう対応関係にあるのかを明確にすることが必要であることなどを確認しました。

 最後に、唯物論の立場からすれば、形而上学の時代はどう評価することができるかを確認しました。まずその必然性という点については、「中世期の社会的労働(自然の人間化)の積み重ねの結果、人類は人間としての自信を深め、キリスト教の絶対的権威などに頼るのではなく、自身が世界を能動的に変革する主体であるという意識をもって、世界に対峙し、世界の実体とは何かという本質的な問いが発せられるようになった」「どのようにすれば生産力をより高められるのか、といった経済的な要因もさることながら、政治的な混迷を極めていた当時にあっては、如何にして国家を治めていくのかという実際問題を解決するために、人類がその認識能力を開花させていった」などの見解が出されました。もう少しこの時代の特殊性に踏み込んだものとして、「17世紀における社会的労働のあり方(いわゆる大航海時代など)に規定された自然科学的(数学的、力学的)認識の発展を反映したものであった」という指摘もなされました。

 一方で、「数学的、力学的な方法だけでは対象は把握しきれないのだ、ということが、18世紀以降、だんだんと明瞭になってくる」という指摘もなされました。ここに関わって、別のメンバーが、これは誰に対して明瞭になってきたと言えるのか、現在においても、大多数の人間は数学的、力学的な方法だけが科学的な方法だと考えているのではないかという疑問を提示しました。これについて、その指摘をしたメンバーは、あえて言えば、ヘーゲルにおいて明瞭になってきたということではないか、確かにこういう自然科学的な考え方は現代に至るまでずっと続いているけれども、18世紀から19世紀の時代、少なくとも学問の世界においては、弁証法的な考え方が学問の世界では大きく力をもったのであり、自然科学的な考え方は一定沈んでいったのではないか、と答えました。これで疑問を出したメンバーも納得しました。

 以上で、8月例会の論点についての議論を終了しました。
posted by kyoto.dialectic at 06:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月30日

2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部(8/10)

(8)論点2:ライプニッツの哲学とはどのようなものか

 前回は、ロックの哲学に関わる論点について、どのような議論を行い、どのような(一応の)結論になったのかを紹介しました。端的には、ロックは表象と事物の一致こそ真理だと捉えたのですが、思惟と存在の一致(全世界を体系的に説くこと)こそ真理だと考えていたヘーゲルからすれば、個々バラバラな認識を真理だと呼んでいることになるのであり、その点を批判しているのだということでした。しかし、唯物論の立場からすれば、ロックの哲学は「認識は対象の反映である」という唯物論的認識論の基礎を築いたと言えるということでした。

 さて今回は、ライプニッツの哲学とはどのようなものかについての議論を紹介します。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】
ヘーゲルは、ライプニッツの哲学を、宇宙の叡智性についての観念論と評しているが、これはどういうことか。ライプニッツの哲学は、ロックおよびスピノザとそれぞれ対立しつつ両者を結合するものだとされているが、これはどういうことか。ヘーゲルは、結局のところ、ライプニッツのモナド論および弁神論について、どのような評価を与えているのか。ライプニッツの哲学を唯物論の立場から評価するとすればどのようになるか。


 この論点については、まずライプニッツの哲学が「宇宙の叡智性についての観念論」であるとはどういうことかについて確認しました。これについては、全宇宙を表象する精神的な単子が無数に存在し、それによって宇宙が発展するということを指しているということで共通した見解が出されました。

 次に、このライプニッツの哲学がロックおよびスピノザとそれぞれ対立しつつ両者を結合するものだとはどういうことか。まずロックとの対立については、大きく2つの見解が出されました。1つは、ロックは知覚や感覚的存在を強調したのに対して、ライプニッツは思惟を強調し、思惟されたものこそ真理の本質をなしたということです。もう1つは、ロックが生得観念はないと主張したのに対して、ライプニッツは生得観念があると主張したということです。この2つはそれぞれ妥当であるけれども、両者のつながりはどのようなものかということが問題になりました。この問題について、一人のメンバーが、要するに真理がどこにあるかということではないかと発言しました。ロックにあっては生得観念(=真理)が人間の中にないのだから、それは外界の個物に求めなければならず、それを反映させることで人間は真理を獲得するのだと考えた、それに対して、ライプニッツは生得観念(=真理)が人間の中に存在しているのであり、それを思惟によって把握することが重要だと主張した、ということではないかということでした。ここに関わって、ライプニッツのいうモナドは思惟する存在として全世界が映し出されているのであり、それをもっともきちんと映し出すのが人間の認識だと捉えられていることや、モナドには窓がない(外界を反映するわけではない)ことなども確認しました。この見解については、全員が納得しました。

 次に、スピノザとの対立について確認をしました。ここについては、スピノザが唯一の実体を掲げたのに対して、ライプニッツは無数の個体を実体として設定したという対立があるという見解が出されました。また、あるメンバーからは運動性の有無という点の指摘もありました。スピノザは神を唯一の実体として掲げたものの、そこから全世界を説くことはできなかったのに対して、ライプニッツは単子によって全世界のあり方をしっかりと説いたのだということでした。

 さらに、ライプニッツの哲学がロックとスピノザの両者を結合するものであるとはどういうことかについて確認をしました。あるメンバーは、スピノザは実体を設定したけれども、自己意識に目を向けることがなかったのに対して、ロックは個々の認識(いわば自己意識)に目を向けたものの、実体ということを設定することはなかった、その両者のいいとこ取りをしたということではないか、という見解を提示しました。これを踏まえて、別のメンバーは、イメージとしてはライプニッツのモナドはスピノザが唯一の実体として掲げたものを粉々に砕いて散らばらせたということではないかという見解を提示しました。だから、その実体は全世界に存在するのであり、また個人の認識が直接実体であるということになるのではないか、ということでした。これについてはわかりやすいものとして、全員が納得しました。

 このライプニッツのモナド論については、ヘーゲルが肯定的に評価していることを全員が指摘しました。一方で、個々別々のモナドという形で絶対的に独立したままの「多」から世界を説いている点は批判しているという指摘もなされました。つまり、個々のモナドがそれぞれ独立して動くということになれば、それぞれがどのようにつながりあって宇宙全体を構成しているのかが説けないことになるということです。この点についてライプニッツは、神があらかじめ定めたとおり、あらゆるモナドは調和的に展開していくのだとして弁神論を説いたわけですが、これについては「全ての矛盾を神という名のもとに流し込んでいるだけだ」とヘーゲルは批判的に捉えていることも確認しました。

 最後に、ライプニッツの哲学を唯物論の立場から評価するとどうなるかについて確認しました。まず誕生の必然性ということに関わって、あるメンバーは、ライプニッツがヨーロッパを遍歴していることを踏まえて、「各国のあり方のイメージをもとに想像されたものではないか」という見解を提示しました。つまり、個々に独立した国家が集まってヨーロッパが構成されていることから、全世界もモナドという個々独立したものが集まって構成されているという発想になったのではないか、ということです。これに対しては、確かに関係はあるかもしれないが、ヨーロッパを遍歴している哲学者は他にもいることを踏まえると、説得力が高いとは言えないという指摘がなされました。また、別のメンバーからは、当時のドイツが個々の領邦国家によって構成されていたという事情が反映しているのではないかという見解が出されました。さらに、領邦同士が争い、荒廃するドイツにおいて、ベーメ以来の自己の内面に引きこもろうとする傾向がライプニッツの観念論にまで影響しているのではないかという見解も出されました。また、当時は自然科学が大きく発展した時代であり、対象を細分化して究明しようとする考え方がこのライプニッツの哲学にも反映しているのではないか、特にライプニッツは数学者であったことが大きく関わっているのではないかという見解も出されました。

 一方、ライプニッツの哲学の意義(あるいは限界)については、そういう対象を細分化して捉えようとするあり方では世界を把握しきることはできないということが明らかになったということではないかという見解が出されました。ライプニッツは個々バラバラなモナドを統一して把握することはできず、(『弁証法はどういう科学か』で書かれている意味の)形而上学的な考え方でしかなかったのだが、そのような考え方ではダメだということが明確になったというのがこの時代の意義として捉えられるのではないかということでした。

 この論点については、以上で終了しました。
posted by kyoto.dialectic at 06:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月29日

2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部(7/10)

(7)論点1:ロックの哲学とはどのようなものか

 前回は、今回扱った内容を再度まとめ直した後、例会で扱った3つの論点を紹介しました。

 今回からは、それぞれの論点に対してどのような討論がなされ、どのような(一応の)結論が出されたのかのプロセスを紹介していきます。

 まずはロックの哲学に関わる論点です。以下に再掲します。

【論点再掲】
ヘーゲルは、ロックの真理についての考え方をどのように批判しているのか。そもそもヘーゲルの考える真理とロックの考える真理とはどう異なっているのか。ここに関わって、複合観念(実体、類概念)について、どのような限界を指摘しているか。また、ヘーゲルは、精神は白紙である、というロックの主張についてどのように評価しているのか。ヘーゲルは経験ということをどのように捉えているのか。ロックの哲学を唯物論の立場から評価するとすればどのようになるか。


 この論点については、まずロックの真理についての考え方とヘーゲルの真理についての考え方を確認しました。ヘーゲルによれば、ロックは表象と事物の一致こそが真理だと捉えていたこと、それに対してヘーゲルは、全世界を絶対精神の自己運動として体系的に説いたものが真理であるということで、全員が共通した見解を出していました。

 これを踏まえて、ヘーゲルがロックの真理についての考え方をどのように批判しているのかを確認しました。ここに関わっては、報告レジュメの段階で少し議論したとおり、まず「表象と事物の一致」ということと、「思惟と存在の一致」ということはレベルが違うのだということを確認しておくことが必要だという指摘がなされました。ロックはある対象についての個別の認識を真理と捉えており、これが表象と事物の一致というレベルであるが、これだと個々の認識がバラバラなものとして存在することになってしまいます。そうではなくて、それらの認識を体系的に説いてこそ真理と呼べるのだという批判がなされているのだということでした。これについては全員が納得しました。

 次に、ヘーゲルは、ロックの複合観念についてどのような限界を指摘しているのかを確認しました。これについては、対象それ自体の把握がどのようにしてなされるのかが説けていないということで共通した見解が出されました。ロックによれば、ある対象の色や形などを反映させた単純観念を加工することにより、実体や類などの複合観念を創り上げるのですが、その複合観念そのものは決して経験的に捉えたものではありませんから、経験的に捉えたもののみが真理だとするロックの立場からすると、複合観念が真実の存在なのかどうかは何ともいえないことになってしまいます。こうした点を限界としてヘーゲルは指摘しているのだということを確認しました。

 続いて、「精神は白紙である」というロックの主張についてヘーゲルがどのように評価しているのかを確認しました。これについては、一人のメンバーがヘーゲルの評価がわかりにくいとする一方で、他のメンバーは生得観念の捉え方に対しての問題提起として肯定的に評価しているという見解を出しました。これに対して、ヘーゲルの評価がわかりにくいとしたメンバーは、どこから肯定的な評価が読みとれるのかと発言したので、「ロックの反論にも重要な指摘がふくまれていて、それは、生得観念が思考の本質にふくまれることを証明しないかぎり、その観念を本質的で明確な概念と見なすことはできない、という指摘です」(長谷川訳、p.286)と書かれていることを確認しました。そのメンバーは、ここに書かれていることの意味がよくわからないということでしたので、一人のメンバーが自分の見解を述べました。ここで言われている生得観念とは、要するに真理のことではないか、ということでした。確かに人間の精神には潜在的に真理が備わっているのだけれども、それはあくまでも概念の労苦の結果としてでなければ現われてくることはない、簡単に人間は真理(=生得観念)をもっている、などと言ってはいけないのだ、とヘーゲルは言いたいのではないか、要するに、当時は生得観念の捉え方が歪んでいたのであり、ロックの批判はそういう歪みを指摘するものとしては意味があるということなのではないか、ということでした。これについては、疑問を出したメンバーも含めて全員が納得しました。

 さらにヘーゲルは経験をどのように捉えているのかを確認しました。これに関して、一人のメンバーが以下のような見解を出しました。ヘーゲルもまた、精神は外部との関わりにおいて発展していく、つまり、絶対精神が自己を客体化(自然へと外化)し、その客体化された自己と相互浸透することによって自己が絶対精神であることを把握するのであり、主観的な絶対精神と客観的な絶対精神との相互浸透としての経験は真理=学問体系に至るための必須の契機として位置づけられる、ということでした。ロックも真理と経験とのつながりを指摘したものの、経験こそが真理の本質をなすとしたことについては「最も悪しき思想」として批判している、ということでした。他のメンバーからも見解が出されましたが、この見解がもっともすっきりとまとまっているのではないかということになりました。

 最後に、ロックの哲学を唯物論の立場から評価するとどうなるかを確認しました。この点については、まず唯物論の立場から評価すると言った場合、ロックの哲学がどのような社会のあり方を反映して成立したのかという側面と、それを現代的な立場から眺めてどのような意義があったのかという側面の2つの視点で考えていかなければならないということを確認しました。

 その上で、ロックの哲学がどのような必然性で生まれてきたのかを確認しました。これについては、「王権がイギリス全体を統括するというようなあり方ではなく、個々の勢力が議会を足場に対立をくり返すような状況が続いた。これが個別者、有限者の経験を重視するロックの哲学に反映した」「国王派と議会派の闘争は、経済的、政治的な要素のみならず宗教的な要素をも含んで複雑に展開し、従来の価値観が大きく動揺するなかで、あらゆる問題について、正しいのは一体何なのか、激しく論争された時代であった」「人間と自然との相互浸透の過程が如何にすればヨリ上手くいくかという問題が真剣に追求され、自然の把握が進んでいくという社会においては、経験が重視される基盤が必要であった」などの見解が出され、それぞれ妥当な見解だと言えるのではないかということになりました。

 また、ロックの哲学の意義については、全員が「認識は対象の反映である」という唯物論の立場からの認識論構築の基礎を築いたという点を指摘しました。一方で、機械的な反映論に過ぎず、問いかけ的反映ということや、対象の共通性の把握から論理という像が形成されるということなどが把握できていないという限界も指摘されました。

 この論点については以上で議論を終えました。
posted by kyoto.dialectic at 05:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月28日

2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 ここまで、ヘーゲル『哲学史』の「思惟する悟性の時期」とされる時代の残りの部分の要約を紹介しました。ここで改めて重要なポイント、とりわけロックとライプニッツの哲学およびこの時代に特徴についてふり返っておきたいと思います。

 まず、ロックの哲学とライプニッツの哲学は、スピノザやマルブランシュに反対して、特殊なもの、有限なもの、個別的なものを原理として掲げたということでした。その中でロックの哲学については、一面において、真理や認識は経験と観察にもとづくが、他面においては普遍的規定の分析と抽出が認識の歩みとして指定されると説明していました。

 ロックは、感覚的存在のうちに真理があるとしたベーコンの考えを受けて、感覚的な存在のうちに一般観念が宿ることを証明し、一般的な真理は経験から得られるとしたのだということです。その上で、ロックは生得観念を否定したのですが、これは生得観念の意味を明確にする上では重要な指摘が含まれているとヘーゲルは捉えていました。

 しかし、単純観念を加工することで実体などの複合観念を創り上げるというロックの哲学は、根底にそれ自体としてあるべき本質に何ら触れるところはなく、その真理観も我々の表象と事物との一致を意味するものにすぎないとし、ロックにおいては、本来の(即自且つ対自的な)内容それ自体に対する関心は全く姿を消し、それとともに哲学の目的も全く忘却されてしまっていると批判されていたのでした。

 続いて、ライプニッツの哲学については、まずその特徴が確認されていました。ライプニッツは、全世界を内に含んだ精神的存在としての単子が無数に存在することにより、この世界は構成されているのだと説いていたのでした。特に意識する単子は、裸の(物質的)単子とはその表象の判明なることによって区別されるのであり、そこを踏まえてライプニッツは、「人間は必然的で永遠の真理を認識する能力をもつ」と主張していたのでした。

 このようなライプニッツの哲学に対して、ヘーゲルは宇宙の叡智性についての観念論であると評価していました。また、ライプニッツは、スピノザがただ普遍的な唯一実体のみを立てたのに対して個体的実体の絶対的多を根底に置く一方で、ロックが感性的存在に真理が含まれるとしたのに対して思惟されたものを真理の本質として主張した点で、スピノザともロックとも対立したのであり、両者を結合した哲学だということでした。

 しかし、ライプニッツは、各単子は自立していて他に働きかけることはないが、同時に、それぞれの単子は調和的に存在するという問題に直面することになったのでした。そこで、単子の中の単子である神を設定したのですが、唯一の実体的な単子があり、さらに、互いに関係することなく、それぞれに自立した多数の単子があるという解決できない矛盾に陥ってしまったのだとヘーゲルは述べていたのでした。

 結局、この形而上学の時代では、思惟の対立(思惟と存在、神と世界、善と悪、等々)が意識にもたらされ、矛盾の解決に関心が向けられたものの、これらの対立がそれ自体の下で解決されたのではなく、真の具体的解決はもたらされなかったのだとヘーゲルは捉えていたのでした。

 以上、今回扱った内容を再度まとめ直しました。

 2016年8月例会の場では、おおよそ以上のような内容に関わっての報告を受けて、参加したメンバーから諸々の意見・論点が提起され、議論がたたかわされました。これから、その内容を大きく3つの論点に沿って整理した上で、紹介していくことにします。今回はその3つの論点を紹介し、次回以降、討論の具体的な内容を紹介していくことにします。

論点1 ロックの哲学とはどのようなものか
ヘーゲルは、ロックの真理についての考え方をどのように批判しているのか。そもそもヘーゲルの考える真理とロックの考える真理とはどう異なっているのか。ここに関わって、複合観念(実体、類概念)について、どのような限界を指摘しているか。また、ヘーゲルは、精神は白紙である、というロックの主張についてどのように評価しているのか。ヘーゲルは経験ということをどのように捉えているのか。ロックの哲学を唯物論の立場から評価するとすればどのようになるか。

論点2 ライプニッツの哲学とはどのようなものか
ヘーゲルは、ライプニッツの哲学を、宇宙の叡智性についての観念論と評しているが、これはどういうことか。ライプニッツの哲学は、ロックおよびスピノザとそれぞれ対立しつつ両者を結合するものだとされているが、これはどういうことか。ヘーゲルは、結局のところ、ライプニッツのモナド論および弁神論について、どのような評価を与えているのか。ライプニッツの哲学を唯物論の立場から評価するとすればどのようになるか。

論点3 形而上学の時代とはどのようなものであったのか
ヘーゲルのいわゆる形而上学の時代(デカルト、ロック、ライプニッツ)とはどのようなものであったのか。形而上学の時代全体を通じて、何が成し遂げられ、何が課題として残ったとされているのか。ヘーゲルの哲学史全体において、形而上学の時代はどのようなものとして位置づけられているか。唯物論の立場からすれば、ヘーゲルのいわゆる形而上学の時代なるものをどのように評価することができるか。

posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月27日

2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部(5/10)

(5)ヘーゲル『哲学史』ライプニッツ他 要約

 前回はライプニッツの哲学の概説部分の要約を紹介しました。単子を実体とするライプニッツの哲学は宇宙の叡智性についての観念論であるとヘーゲルは評し、スピノザ、ロックと対立しつつ、両者を結合したものだとしていたのでした。

 今回はライプニッツの哲学の続き(弁神論)と、ヴォルフの哲学、ドイツの通俗哲学について、さらに悟性形而上学の総括の部分の要約です。

・・・・・・・・・・・・・・・・

1、ライプニッツ(承前)

 c、〔弁神論〕
 単子とは別のものである普遍的な絶対存在は、いまや2つの側面に分かれる。一方には、普遍的存在があり、他方には、対立物の統一としての存在がある。

 α、普遍的存在とは世界の原因としての神である。充足自由律は結局、神を意識するところまで進む。永遠の真理とは即自且対自的な普遍的絶対者の意識であり、この即自且対自的な絶対者が神である。神は一なるものとして自己と一体化し、単子のなかの単子であり、絶対的な一である。

 β、第二の側面は、対立物の絶対的関係である。この関係はまず、思想の有する絶対的な対立物たる善と悪との関係として現われる。「神は世界の創造者である」というところから、直ちに悪との関係が生じる。哲学はこの関係をめぐって努力しつつ、決してその統一には到達しなかったのである。固定された対立が超えられることがなかったから、この世の悪は合理的には把握されなかった。ライプニッツの弁神論の結果は、神が無限に可能な世界のなかから最上のものを選んだ、という楽天主義である。これは、不適切で卑俗な表現だし、内容も思い浮かべたり想像したりした可能性についてのおしゃべりでしかない。

 γ、さらに、充足理由律は単子の捉え方にも影響を及ぼす。事物の原理は単子で、各単子は自立していて他に働きかけることはないが、同時に、世界のなかには調和が存在する。単子のなかの単子である神が、絶対的な実体だとすれば、個々の単子は実体ではないことになる。これは解決不可能な矛盾である。唯一の実体的な単子があり、さらに、互いに関係することなく、それぞれに自立した多数の単子があるというのは、解決できない矛盾である。しかし同時に世界に存在する調和を示すために、ライプニッツは単子と単子との関係をもっと一般的な対立として、魂と肉体という対立物の統一として捉える。この統一を彼は予定調和として表わす。2つの時計が同時刻に合わせられ、同じ速さで進むようなものである。宇宙の両側面が相互に全く無関心であり、差異にもとづく概念の関係が欠けているのはスピノザと同様である。ここでもライプニッツは、個体の原理を見失っている。個体は一という意味しかもたず、他に関わることがない。一の概念が捉えられていないのである。

 さて、各単子は自己内に閉ざされたものとして、身体とその運動に影響を及ぼさないが、しかも両者(心と身体)の構成原理(原子)の無限集合は相互に相応するので、ライプニッツはこの調和を神のうちにおく。単子間の関連原理は単子には帰せられず、神のうちにあり、神はまさにそれによって単子中の単子、その絶対的統一となる。各単子は一般に表象するものであり、そういうものとして宇宙の表象であり、それ自体において全世界の総体である。単子内の発展は同時に他の全ての発展と調和しており、一切は唯一の調和である。一粒の砂からも全宇宙の発展を理解し得る、とライプニッツはいうが、本質としての宇宙は宇宙ではないのだから、空虚な長広舌といわねばならない。

 単子の自己自身内における表象は、単子の宇宙を構成するものであるが、それ自身精神的なものとして単子のなかにあって、その固有の活動と欲求の法則にしたがっておのずから発展する。それは外界の運動が物体の法則にしたがって発展するようなものである。自由とは、各単子のうちに展開するものが単子の内在的展開だという自発性にあり、自発性の意識が自由である。各単子が閉じられたものであり、それぞれが内部で活動を展開するとすれば、この展開は互いに調和するものでなければならない。有機的な全体をなす1人の人間は、自ら目的を決定し、他の単子に働きかける原因に見えるが、それは見かけ上のことにすぎない。他のものも、単子がそれを決定し、それを左右する限りで現実的な存在であり、受動的に振舞いつつ、全ての要素を自分のなかに含んでいるから、他の単子を必要としない。必要なのは、単子の内部の法則だけである。

 ライプニッツの偉大な点は表象作用のこうした叡智性であるが、彼はこれを徹底することができなかったために、叡智性が無限の個を生み出すことになってしまった。この叡智性は一(個)を克服する術を知らなかったから、絶対的な独立のままで終わる。

 ここから、神のうちに分離したものの統一をみようという要求が生れてくる。理解し得ないものを神に負わせるというのが神のもつ特権である。神という言葉は、名ばかりの統一をもたらすための一時的手段となる。この統一から多くの単子が出てくる筋道は示されない。それゆえ神は近代哲学においては古代哲学におけるよりはるかに大きな役割を演じている。なぜならば、思惟と存在という絶対的対立の理解が主たる要求だからである。ライプニッツにおいては、概念的把握のやむところで宇宙が終わり、神が始まる。あれこれの要素の統一は概念的に把握されず、統一は神に委ねられる。神はいわば全ての矛盾が流れ込む排水溝のようなもので、通俗的な見解の集大成がライプニッツの弁神論なのである。

2、ヴォルフ

 ライプニッツを直接に引き継ぐのがヴォルフの哲学である。ヴォルフ哲学はライプニッツ哲学(単子論と弁神論の主要概念)の体系化を目指したものであった。

 ヴォルフは著作の多くをドイツ語で出版したが、これは重要なことである(ライプニッツにはラテン語、フランス語の著作しかない)。学問がある民族の財産となるには、その民族の言葉で書かれねばならないのであって、他の学問にまして哲学ではこのことが大事である。

 彼は哲学をしかるべき部に組織的に分類した。

 T、理論哲学。1、論理学。2、形而上学(存在論、宇宙論、合理的心理学、自然
神学)。

 U、実践哲学。1、自然法。2、道徳。3、国際法ないし政治学。4、経済学。

 全体が、公理、定理、註、系など、厳密に幾何学的な形式をもって展開されている。しかし、厳密な方法というのは窮屈なものである。哲学的思索は遠ざけられ、定義が正しいかどうかは、我々の常識を単純化したものであるか否かを手がかりにするしかない。幾何学的方法のこうした利用が下らないことは本能的に直接意識され、やがて廃れていくのである。

3、ドイツの通俗哲学

 ヴォルフの哲学は、その硬直した形式さえ払い落とせば、後の通俗哲学の内容そのままである。通俗哲学は日常意識に受け入れられることだけを口にし、日常意識を究極の尺度とする。ヴォルフの哲学は、カントが出てくるまで支配的であった。バウムガルテン、クルジウス、メンデルゾーンがヴォルフの哲学の完成者で、メンデルスゾーンの哲学には通俗的で品のよい形式がみられる。

 これまで見てきた哲学には、普遍的悟性的規定から出発する形而上学でありながら、それに経験や観察という一版に経験的なものが結び付く、という形態上の特徴があった。こうした形而上学には、思惟の対立(思惟と存在、神と世界、善と悪、等々)が意識にもたらされ、矛盾の解決に関心が向けられるという一面がある。こうした対立の解決は今後の課題であるが、これまでの哲学では神が解決するものとされた。これらの対立がそれ自体の下で解決されたのではなく、真の具体的解決がもたらされたわけではないのである。

 こうした形而上学と鮮やかな対照をなすのが、古代のプラトンやアリストテレスの哲学である。三位一体の精神としての神のうちにこそ、神自身と子なる神(他者)との対立が含まれ、また対立を解決する論理も含まれる。しかし、理性としての神という具体的な理念は、いまだ哲学に取り入れられず、矛盾の解決は彼岸にしかないとされているのである。
posted by kyoto.dialectic at 07:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月26日

2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部(4/10)

(4)ヘーゲル『哲学史』ライプニッツ 要約

 前回は、ロックの哲学の続きと、ロック以外に第二部で扱われている哲学者(フーゴ−・グロティウス、トマス・ホッブズ、カドワース、クラーク、ウォラストン、プーフェンドルフ、ニュートン)の部分についての要約を紹介しました。その中でロックの哲学については「真理とは我々の表象と事物との一致を意味するにすぎない」と批判されていたのでした。

 今回から第三部に入ります。まずはライプニッツの哲学の概説部分の要約です。

・・・・・・・・・・・・・・・・

C 第三部

 第三はライプニッツとヴォルフ哲学であるが、ヴォルフの哲学がその生硬な形式を振り落とすと、その内容は後の通俗哲学となるのである。

1、ライプニッツ

 ライプニッツは哲学以外の点でニュートンと対立するように、哲学の点ではロックとその経験に対立し、同時にスピノザに対してもうひとつの対立を形づくる。彼は、イギリス流の知覚に対して思惟を主張し、感性的存在に対しては思惟されたものを――かつてベーメが自己内存在を主張したのと同様――真理の本質として主張したのである。スピノザの立てたものがただ普遍的な唯一実体のみにとどまり、ロックにおいては諸々の有限的規定が根底とされたのに対して、ライプニッツは、その個体性の根本原理によって本質的にスピノザの立場の反面を立てた。すなわち、彼は対自的存在である単子を立てたのである。ライプニッツは、その個体化の原理をもってスピノザを外的に積分することで、相互に補って完成態となるのである。

〔ライプニッツの生涯〕
 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツは、1646年、ライプツィヒに生まれた。父はその地の哲学教授であった。彼は最初ライプツィヒでありとあらゆる多彩な知識を学び、次いでイエナで哲学と数学を学び、ライプツィヒで哲学修士の資格を得た。しかし、法学部によって博士号を拒絶されたため、ライプツィヒを去って、アドルフで学位を得た。1672年、マインツ選帝侯宰相の息子の教師として招聘され、この青年とともにパリで4年間暮らした際、大数学者ホイヘンスと知り合って本格的に数学の領域へ導かれた。その後、1人でロンドンに赴き、ニュートンその他の学者たちと知己になった。1677年、ハノーヴァーに落ち着き、種々の国事に関係し、特に歴史上の諸問題に没頭した。そのようななかで、微分法を発明し、どちらが本来の発明者かをめぐって、ニュートンと論争を引き起こした。1716年、ハノーヴァーに70歳で没した。

〔ライプニッツの哲学の基本的な特徴〕
 ライプニッツは、単に哲学のみならず多種多様の諸科学において労作をなし、特に数学においては彼こそ微積分法の創始者にほかならない。ここでは、彼の数学、物理学上の大きな功績は考慮せず、ただ彼の哲学のみを考察するにとどめる。彼には、体系的な哲学の著作はなく、種々の見地で編まれた諸々の中小論文や手紙、反対論への回答などに分散されている。

 ライプニッツがその哲学において全体としてとる方針は、物理学者が存在する与件を説明するために仮説をつくる際の方針と同じである。ライプニッツ哲学は、哲学体系としてよりも、世界の本質についての仮説として、すなわち、妥当するものとして設定された形而上学的な規定や表象の与件ならびに諸前提にしたがって、如何に世界の本質が規定されるべきかの仮説として、現われるのである。

 a、〔宇宙の叡智性についての観念論〕
 ライプニッツ哲学は、宇宙の叡智性についての観念論である。一面ロックと対立し、他面スピノザとも対立するが、しかも両者を結合するものである。というのは、多数の単子のうちに区別されたものと個体性との絶対的存在を表明しつつ、表象的な観念論として、スピノザ的な観念性と一切の区別の相対的存在とを表明するからである。ライプニッツは、スピノザの単一の普遍的実体の主張に鋭く対立して、個体的実体の絶対的多を根底に置き、ピュタゴラス派の表現にならって、これを単子と呼んだのである。

 第一に、単一な実体たる単子が一切のものの真実体とされる。複合体は単一体なしには存在しないのだから、単一なものが原理である、というライプニッツの証明は拙劣である。しかし、それはエピクロスの空虚な原子のように自己自身のうちにおける抽象的単一体ではない。アリストテレスのエンテレケイア(完成態)であり自己自身のうちにおける形相である。

 第二に、単子は他の単子との間に何らの因果的結合をもたない。それぞれが究極のもの、絶対的に自立的なものである。

 第三に、単子は、他から区別されるべき性質、自己自身における規定、内的活動をもたねばならない。各自がそれ自身においてひとつの規定されたものであり、自己を他から自己自身において区別するものなのである。

 第四に、単子は、それ自体において普遍的である。なぜなら、普遍性とは多様の運動たる単一性だからである。これは極めて重大な規定である。単一なものは、その変化にもかかわらず、単一性のうちにとどまる――あたかも自我や私の精神のようなものだというのである。区別されるものが同時に止揚され、一として規定されるという観念性である。単子は表象的である。表象における変化が欲求であり、それが単子の自発性であり、一切はただこの自発性自身に帰着し、影響の範疇は消えてしまう。事物のこの叡智性はライプニッツの偉大な思想である。

 第五に、これらの表象は必ずしも意識された表象ではない。同様に、単子は表象するものであるが、全てが意識的であるわけではない。

 第六に、これら単子はいまや一切の存在するものの原理となる。物質はその受動的能力にほかならない。受動的能力は表象の混濁性を、差別や欲求や活動にまで到達しない麻痺状態を形づくる。これが物質である。

 第七に、物体は物体としての単子の集合体である。それは堆積物であって実体とは呼べない。

 b、〔無機的単子、有機的単子、意識的単子〕
 ライプニッツは、無機的、有機的および意識的単子を主要要素としてさらに詳細に次にように規定し区別する。

 α、何ら内的統一をもたず、その要素が単に空間によりまたは外的に結合されているような物体は無機体である。彼らエンテレケイアすなわち他の単子を支配する単子をもたない。

 β、存在のより高い段階は、生命あり心のある物体であり、そのうちにおいては一単子が他の単子を支配している。その一単子がエンテレケイアすなわち心であるような物体は、生命体、動物と呼ばれる。

 γ、意識する単子は、裸の(物質的)単子とはその表象の判明なることによって区別される。ライプニッツは、「人間は必然的で永遠の真理を認識する能力をもつ」という。普遍的なものを表象し、自己意識の本性と本質は概念の一般性にある、というわけである。永遠の真理の2つの原則として、矛盾律(A=A)と充足理由律が挙げられる。後者は、最終原因ないし究極目的をいおうとしたものである。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月25日

2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部(3/10)

(3)ヘーゲル『哲学史』ロック他 要約

 前回は、ロックの哲学の一般的な特徴についてヘーゲルが説いている部分の要約を紹介しました。ロックは個人の認識の発展に焦点を当て、経験によって真理を獲得するとして生得観念を否定していることなどが紹介されていました。しかし、こうしたロックの主張は、対象の根底にそれ自体としてあるべき本質に何ら触れるものではないと指摘されていたのでした。

 今回はロックの哲学の続きと、第二部のその他の哲学者について扱った部分の要約です。

・・・・・・・・・・・・・・・・

1、ロック(承前)

 c、〔類概念〕 普遍的なるものである類概念は、ロックによれば、我々の精神の産物であって、客観的なものでなく、類似の客観から状況や時間や場所などの特殊性を捨象したときにあらわれるものである。それゆえロックは、本質を実在的本質と名目的本質とに分ける。前者は事物の真の本質を現わすが、類は単なる名目的本質で、対象にあるものを現わしはするが、対象の全体をいい尽くすものではない。ロックは、類概念が自然にそれ自体として存在し、即自且つ対自的に規定されたものであるならば、奇形など存在しないはずだ、という。しかし、ロックは、類概念に他の性質も与えられていくことを見逃している。ロックは、他に対する関係〔経験〕を強調するあまり、認識の本性を捉える上でプラトンにも遅れを取っているのである。

〔ロック哲学についてのまとめ〕
 以上がロックの哲学であるが、そこには何らの思弁の仄めきも含まれていない。真理を認識しようとする哲学の関心はここでは経験的な仕方で到達されることになっており、思惟の規定が如何に与えられるかに全ての関心が向けられ、これらの思想や諸関係が即自且つ対自的にも真理を有するか否かの見地は全く含まれていない。ロックの論究は全く皮相なもので、ただあるもの、現象にとどまって、真なるものをよりどころにしていないのである。

 しかし、問題は、この普遍的規定はそのままでそれだけでも真であるのか、ということである。内容が悟性から生ずるか経験から生ずるかは無益な問いである。ロックにあっては、真理とは我々の表象と事物との一致を意味するにすぎない。しかしながら、我々のうちにあるこれは真であるかと問うのは、別問題である。ロックにおいて唯一の重大問題となっている「どこから」ということで問題は尽きるものではない。ロックにおいては、本来の(即自且つ対自的な)内容それ自体に対する関心は全く姿を消し、それとともに哲学の目的も全く忘却されてしまうのである。

 ロック哲学は極めて理解しやすい、それゆえに大衆的な哲学であり、イギリスの哲学的思索はすべて今日においてもなおこれと同一範疇に属する。観察、経験から演繹することがその時代以来イギリス人にあっては哲学的思索と称せられ、これはひたすら物理的対象や政治的法的対象をよりどころとしたのである。

2、フーゴー・グロティウス

 フーゴー・グロティウスは、ロックと同時代に国際法を考察の対象とした。彼は諸国民相互の関係について全く経験的に総括した。グロティウスは主著『戦争と平和の法』で、戦争と平和の様々な状況のなかで諸国民相互がどういう関係を持つのか、歴史と旧約聖書をもとに考察した。その論法と資料収集法は、全く経験的なものであった。こうした経験的な探究は、普遍的原理や悟性的、理性的な原理を人々に意識させ承認させ、多かれ少なかれ採用させる、という影響をもたらした。こうして例えば王権の正当化についての原理が樹立されたのである。我々は、こうした証明や演繹には不満足だが、それによって何がなされたかを見誤ってはならない。対象のうちに最終的な根拠をもつ一般原則の確立こそが目指されていたのである。

3、トマス・ホッブズ

 クロムウェルと時代をともにしたホッブズは、イギリス革命のうちに、国家および法の原理について深く考える機会を見出した。国家・社会はホッブズにとって最高のもので、法律や既成宗教やその外的活動を端的に規定するものである。彼はそれらのものを国家に従属させたので、彼の教説は忌まれた。しかし、そのなかには思弁的なもの、哲学的なものは何もない。
 ホッブズは、受身の服従、王権の絶対的恣意を主張しはした。しかし同時に、君主権等々の原則を普遍的規定から演繹することをも試みた。彼の見解は浅薄で経験的であるが、これに対する理由や命題はそれらが自然の要求からとられているために独創的である。
 ホッブズは「全ての市民社会の起源は万人相互の恐怖から由来する」と主張し、自然(生まれながら)の状態は万人が互いに支配しようとする衝動をもつといった種類のものである事実から出発して、平和を保つ理性の法へと移っていく。この法的状態は、自然的特殊的な個人意志を普遍意志に従えることである。普遍意志が1人の君主の意志のうちに置かれることにより、絶対的支配、完全な専制の状態が生まれてくる。

4、カドワース、クラーク、ウォラストン

 カドワースは、生気のない悟性形而上学のやり方において、プラトンをイギリスで再興しようとした。クラーク(神の存在証明で知られる)、ウォラストン等々もごく普通の悟性形而上学の形式のうちを動いており、ここから様々な道徳哲学が出てくることになる。

5、プーフェンドルフ

 国家の法的状態を制度として確立し、裁判機構に基礎を与えようとする闘いのなかで、思想的な反省が生まれ、本質的な力を発揮してくる。グロティウスの場合と同様、プーフェンドルフにおいても、人間の作業衝動や本能、特に群居本能が原理とされる。国家の土台をなすのは人間の群居本能であり、国家の最高目的は内的良心の義務を外的強制の義務へと転ずることによって、社会生活の平和を維持し、安全を保障することにほかならない、というのが彼の中心思想である。

6、ニュートン

 もう一方で、思想は自然にも向けられる。この方面では、アイザック・ニュートンの数学上の発見と物理学上の理論が有名である。ロックの哲学ないしイギリス流の哲学手法一般を普及させ、それをあらゆる自然科学に適用するという点では、文句なしにニュートンが最大の貢献者である。ニュートンの主たる業績は、力という反省概念を物理学に持ち込んだ点にある。彼は学問を反省の立場に立たせ、現象の法則の代わりに力の法則を打ち立てた。その際、彼は概念について全く粗野な意識しか持たなかった。ニュートンは、物理的現象を扱っているつもりでいて、その実、概念を手にし、概念を相手に格闘していることに気づかなかったのである。彼のやり方は、ヤコブ・ベーメと正反対で、ベーメが感覚的事物を概念のように扱い、心情の強さによって感覚的現実を完全に支配制圧したとすれば、ニュートンは、概念を感覚的事物のように扱い、石や木をつかまえるように概念をつかまえたのである。
posted by kyoto.dialectic at 08:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部(3/10)

(3)ヘーゲル『哲学史』ロック他 要約

 前回は、ロックの哲学の一般的な特徴についてヘーゲルが説いている部分の要約を紹介しました。ロックは個人の認識の発展に焦点を当て、経験によって真理を獲得するとして生得観念を否定していることなどが紹介されていました。しかし、こうしたロックの主張は、対象の根底にそれ自体としてあるべき本質に何ら触れるものではないと指摘されていたのでした。

 今回はロックの哲学の続きと、第二部のその他の哲学者について扱った部分の要約です。

・・・・・・・・・・・・・・・・

1、ロック(承前)

 c、〔類概念〕 普遍的なるものである類概念は、ロックによれば、我々の精神の産物であって、客観的なものでなく、類似の客観から状況や時間や場所などの特殊性を捨象したときにあらわれるものである。それゆえロックは、本質を実在的本質と名目的本質とに分ける。前者は事物の真の本質を現わすが、類は単なる名目的本質で、対象にあるものを現わしはするが、対象の全体をいい尽くすものではない。ロックは、類概念が自然にそれ自体として存在し、即自且つ対自的に規定されたものであるならば、奇形など存在しないはずだ、という。しかし、ロックは、類概念に他の性質も与えられていくことを見逃している。ロックは、他に対する関係〔経験〕を強調するあまり、認識の本性を捉える上でプラトンにも遅れを取っているのである。

〔ロック哲学についてのまとめ〕
 以上がロックの哲学であるが、そこには何らの思弁の仄めきも含まれていない。真理を認識しようとする哲学の関心はここでは経験的な仕方で到達されることになっており、思惟の規定が如何に与えられるかに全ての関心が向けられ、これらの思想や諸関係が即自且つ対自的にも真理を有するか否かの見地は全く含まれていない。ロックの論究は全く皮相なもので、ただあるもの、現象にとどまって、真なるものをよりどころにしていないのである。

 しかし、問題は、この普遍的規定はそのままでそれだけでも真であるのか、ということである。内容が悟性から生ずるか経験から生ずるかは無益な問いである。ロックにあっては、真理とは我々の表象と事物との一致を意味するにすぎない。しかしながら、我々のうちにあるこれは真であるかと問うのは、別問題である。ロックにおいて唯一の重大問題となっている「どこから」ということで問題は尽きるものではない。ロックにおいては、本来の(即自且つ対自的な)内容それ自体に対する関心は全く姿を消し、それとともに哲学の目的も全く忘却されてしまうのである。

 ロック哲学は極めて理解しやすい、それゆえに大衆的な哲学であり、イギリスの哲学的思索はすべて今日においてもなおこれと同一範疇に属する。観察、経験から演繹することがその時代以来イギリス人にあっては哲学的思索と称せられ、これはひたすら物理的対象や政治的法的対象をよりどころとしたのである。

2、フーゴー・グロティウス

 フーゴー・グロティウスは、ロックと同時代に国際法を考察の対象とした。彼は諸国民相互の関係について全く経験的に総括した。グロティウスは主著『戦争と平和の法』で、戦争と平和の様々な状況のなかで諸国民相互がどういう関係を持つのか、歴史と旧約聖書をもとに考察した。その論法と資料収集法は、全く経験的なものであった。こうした経験的な探究は、普遍的原理や悟性的、理性的な原理を人々に意識させ承認させ、多かれ少なかれ採用させる、という影響をもたらした。こうして例えば王権の正当化についての原理が樹立されたのである。我々は、こうした証明や演繹には不満足だが、それによって何がなされたかを見誤ってはならない。対象のうちに最終的な根拠をもつ一般原則の確立こそが目指されていたのである。

3、トマス・ホッブズ

 クロムウェルと時代をともにしたホッブズは、イギリス革命のうちに、国家および法の原理について深く考える機会を見出した。国家・社会はホッブズにとって最高のもので、法律や既成宗教やその外的活動を端的に規定するものである。彼はそれらのものを国家に従属させたので、彼の教説は忌まれた。しかし、そのなかには思弁的なもの、哲学的なものは何もない。
 ホッブズは、受身の服従、王権の絶対的恣意を主張しはした。しかし同時に、君主権等々の原則を普遍的規定から演繹することをも試みた。彼の見解は浅薄で経験的であるが、これに対する理由や命題はそれらが自然の要求からとられているために独創的である。
 ホッブズは「全ての市民社会の起源は万人相互の恐怖から由来する」と主張し、自然(生まれながら)の状態は万人が互いに支配しようとする衝動をもつといった種類のものである事実から出発して、平和を保つ理性の法へと移っていく。この法的状態は、自然的特殊的な個人意志を普遍意志に従えることである。普遍意志が1人の君主の意志のうちに置かれることにより、絶対的支配、完全な専制の状態が生まれてくる。

4、カドワース、クラーク、ウォラストン

 カドワースは、生気のない悟性形而上学のやり方において、プラトンをイギリスで再興しようとした。クラーク(神の存在証明で知られる)、ウォラストン等々もごく普通の悟性形而上学の形式のうちを動いており、ここから様々な道徳哲学が出てくることになる。

5、プーフェンドルフ

 国家の法的状態を制度として確立し、裁判機構に基礎を与えようとする闘いのなかで、思想的な反省が生まれ、本質的な力を発揮してくる。グロティウスの場合と同様、プーフェンドルフにおいても、人間の作業衝動や本能、特に群居本能が原理とされる。国家の土台をなすのは人間の群居本能であり、国家の最高目的は内的良心の義務を外的強制の義務へと転ずることによって、社会生活の平和を維持し、安全を保障することにほかならない、というのが彼の中心思想である。

6、ニュートン

 もう一方で、思想は自然にも向けられる。この方面では、アイザック・ニュートンの数学上の発見と物理学上の理論が有名である。ロックの哲学ないしイギリス流の哲学手法一般を普及させ、それをあらゆる自然科学に適用するという点では、文句なしにニュートンが最大の貢献者である。ニュートンの主たる業績は、力という反省概念を物理学に持ち込んだ点にある。彼は学問を反省の立場に立たせ、現象の法則の代わりに力の法則を打ち立てた。その際、彼は概念について全く粗野な意識しか持たなかった。ニュートンは、物理的現象を扱っているつもりでいて、その実、概念を手にし、概念を相手に格闘していることに気づかなかったのである。彼のやり方は、ヤコブ・ベーメと正反対で、ベーメが感覚的事物を概念のように扱い、心情の強さによって感覚的現実を完全に支配制圧したとすれば、ニュートンは、概念を感覚的事物のように扱い、石や木をつかまえるように概念をつかまえたのである。

posted by kyoto.dialectic at 07:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部(3/10)

(3)ヘーゲル『哲学史』ロック他 要約

 前回は、ロックの哲学の一般的な特徴についてヘーゲルが説いている部分の要約を紹介しました。ロックは個人の認識の発展に焦点を当て、経験によって真理を獲得するとして生得観念を否定していることなどが紹介されていました。しかし、こうしたロックの主張は、対象の根底にそれ自体としてあるべき本質に何ら触れるものではないと指摘されていたのでした。

 今回はロックの哲学の続きと、第二部のその他の哲学者について扱った部分の要約です。

・・・・・・・・・・・・・・・・

1、ロック(承前)

 c、〔類概念〕 普遍的なるものである類概念は、ロックによれば、我々の精神の産物であって、客観的なものでなく、類似の客観から状況や時間や場所などの特殊性を捨象したときにあらわれるものである。それゆえロックは、本質を実在的本質と名目的本質とに分ける。前者は事物の真の本質を現わすが、類は単なる名目的本質で、対象にあるものを現わしはするが、対象の全体をいい尽くすものではない。ロックは、類概念が自然にそれ自体として存在し、即自且つ対自的に規定されたものであるならば、奇形など存在しないはずだ、という。しかし、ロックは、類概念に他の性質も与えられていくことを見逃している。ロックは、他に対する関係〔経験〕を強調するあまり、認識の本性を捉える上でプラトンにも遅れを取っているのである。

〔ロック哲学についてのまとめ〕
 以上がロックの哲学であるが、そこには何らの思弁の仄めきも含まれていない。真理を認識しようとする哲学の関心はここでは経験的な仕方で到達されることになっており、思惟の規定が如何に与えられるかに全ての関心が向けられ、これらの思想や諸関係が即自且つ対自的にも真理を有するか否かの見地は全く含まれていない。ロックの論究は全く皮相なもので、ただあるもの、現象にとどまって、真なるものをよりどころにしていないのである。

 しかし、問題は、この普遍的規定はそのままでそれだけでも真であるのか、ということである。内容が悟性から生ずるか経験から生ずるかは無益な問いである。ロックにあっては、真理とは我々の表象と事物との一致を意味するにすぎない。しかしながら、我々のうちにあるこれは真であるかと問うのは、別問題である。ロックにおいて唯一の重大問題となっている「どこから」ということで問題は尽きるものではない。ロックにおいては、本来の(即自且つ対自的な)内容それ自体に対する関心は全く姿を消し、それとともに哲学の目的も全く忘却されてしまうのである。

 ロック哲学は極めて理解しやすい、それゆえに大衆的な哲学であり、イギリスの哲学的思索はすべて今日においてもなおこれと同一範疇に属する。観察、経験から演繹することがその時代以来イギリス人にあっては哲学的思索と称せられ、これはひたすら物理的対象や政治的法的対象をよりどころとしたのである。

2、フーゴー・グロティウス

 フーゴー・グロティウスは、ロックと同時代に国際法を考察の対象とした。彼は諸国民相互の関係について全く経験的に総括した。グロティウスは主著『戦争と平和の法』で、戦争と平和の様々な状況のなかで諸国民相互がどういう関係を持つのか、歴史と旧約聖書をもとに考察した。その論法と資料収集法は、全く経験的なものであった。こうした経験的な探究は、普遍的原理や悟性的、理性的な原理を人々に意識させ承認させ、多かれ少なかれ採用させる、という影響をもたらした。こうして例えば王権の正当化についての原理が樹立されたのである。我々は、こうした証明や演繹には不満足だが、それによって何がなされたかを見誤ってはならない。対象のうちに最終的な根拠をもつ一般原則の確立こそが目指されていたのである。

3、トマス・ホッブズ

 クロムウェルと時代をともにしたホッブズは、イギリス革命のうちに、国家および法の原理について深く考える機会を見出した。国家・社会はホッブズにとって最高のもので、法律や既成宗教やその外的活動を端的に規定するものである。彼はそれらのものを国家に従属させたので、彼の教説は忌まれた。しかし、そのなかには思弁的なもの、哲学的なものは何もない。
 ホッブズは、受身の服従、王権の絶対的恣意を主張しはした。しかし同時に、君主権等々の原則を普遍的規定から演繹することをも試みた。彼の見解は浅薄で経験的であるが、これに対する理由や命題はそれらが自然の要求からとられているために独創的である。
 ホッブズは「全ての市民社会の起源は万人相互の恐怖から由来する」と主張し、自然(生まれながら)の状態は万人が互いに支配しようとする衝動をもつといった種類のものである事実から出発して、平和を保つ理性の法へと移っていく。この法的状態は、自然的特殊的な個人意志を普遍意志に従えることである。普遍意志が1人の君主の意志のうちに置かれることにより、絶対的支配、完全な専制の状態が生まれてくる。

4、カドワース、クラーク、ウォラストン

 カドワースは、生気のない悟性形而上学のやり方において、プラトンをイギリスで再興しようとした。クラーク(神の存在証明で知られる)、ウォラストン等々もごく普通の悟性形而上学の形式のうちを動いており、ここから様々な道徳哲学が出てくることになる。

5、プーフェンドルフ

 国家の法的状態を制度として確立し、裁判機構に基礎を与えようとする闘いのなかで、思想的な反省が生まれ、本質的な力を発揮してくる。グロティウスの場合と同様、プーフェンドルフにおいても、人間の作業衝動や本能、特に群居本能が原理とされる。国家の土台をなすのは人間の群居本能であり、国家の最高目的は内的良心の義務を外的強制の義務へと転ずることによって、社会生活の平和を維持し、安全を保障することにほかならない、というのが彼の中心思想である。

6、ニュートン

 もう一方で、思想は自然にも向けられる。この方面では、アイザック・ニュートンの数学上の発見と物理学上の理論が有名である。ロックの哲学ないしイギリス流の哲学手法一般を普及させ、それをあらゆる自然科学に適用するという点では、文句なしにニュートンが最大の貢献者である。ニュートンの主たる業績は、力という反省概念を物理学に持ち込んだ点にある。彼は学問を反省の立場に立たせ、現象の法則の代わりに力の法則を打ち立てた。その際、彼は概念について全く粗野な意識しか持たなかった。ニュートンは、物理的現象を扱っているつもりでいて、その実、概念を手にし、概念を相手に格闘していることに気づかなかったのである。彼のやり方は、ヤコブ・ベーメと正反対で、ベーメが感覚的事物を概念のように扱い、心情の強さによって感覚的現実を完全に支配制圧したとすれば、ニュートンは、概念を感覚的事物のように扱い、石や木をつかまえるように概念をつかまえたのである。

posted by kyoto.dialectic at 07:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する