2017年08月08日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(1/10)

目次
(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第1章
(3)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第1章(承前)〜第2章第1節
(4)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第2章第2節〜第2章第3節
(5)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第2章第3節1・2
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:純粋悟性概念の図式論とはどのようなものか
(8)論点2:一切の分析的/綜合的判断の最高原則とは何か
(9)論点3:直観の公理,および知覚の先取的認識とはどういうものか
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は,今年および来年の2年間を費やして,カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは,哲学の発展の歴史を,絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ,客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって,全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 7月例会では,『純粋理性批判』の先験的論理学の内,その「第1部 先験的分析論」の「第2篇 概念の分析論」のはじめの部分を扱いました。扱った部分の目次を引用すると,以下です。

第2篇 原則の分析論(判断力の先験的理説)
 緒言 先験的判断力一般について
 第1章 純粋悟性概念の図式論について
 第2章 純粋悟性のすべての原則の体系
  第1節 一切の分析的判断の最高原則について
  第2節 一切の綜合的判断の最高原則について
  第3節 純粋悟性のすべての綜合的原則の体系的表示
   1 直観の公理
   2 知覚の先取的認識
 
 今回の例会報告では,まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後,扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し,次いで,参加者から提起された論点について,どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に,この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず,報告担当者から提示されたレジュメ,およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

 なお,この研究会では,篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ,他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は,特に断りがない限り,岩波文庫版のものです)。

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京都弁証法認識論研究会7月例会

1.純粋悟性概念の図式論とはどういうものか

 判断力とは規則のもとに包摂する能力であり,何かあるものが与えられた規則の適用を受けるか否かを判別する能力であるとカントは説いている。ある対象を1つの概念のもとに包摂する場合には,その対象はいつでも概念と同種的なものでなければならないが,純粋悟性概念と直観は異種的であるから,カテゴリーを現象に適用することを可能にするような第三のものがなければならぬとして,カントはそれを先験的図式(具体的には先験的時間規定)であるとしている。そして,悟性が図式を取り扱う仕方を図式論と名づけ,形像は,これを描き出すところの図式を介してのみ概念と結びつかねばならないのであって,それ自体概念と完全に合致するものではないとしている。

<報告者コメント>
 このカントの主張は,庄司和晃氏の三段階連関理論につながるものだと言えるだろう。三段階連関理論では,認識は抽象度によって具体的認識・表象的認識・抽象的認識という3つにわけることができるとしている。そして,表象的認識は具体的であると同時に抽象的でもあるという性質をもち,具体から抽象へのぼったり,抽象から具体へとおりたりすることを促すものだとされている。つまり,具体と抽象を媒介する役割をもつのである。これはまさにカントが図式として提示したものと同じような内容をもつものであり,カントの主張は三段階連関理論につながっていると言えるだろう。


2.分析的判断・総合的判断の最高原則とはどういうものか

 分析的判断の最高原則は,矛盾律であるとカントは述べている。つまり「いかなる物にも,この物と矛盾する述語を付することはできない」ということである。分析的判断の真実は,常に矛盾律に従って認識され得るからである。
 総合的判断の最高原則は,いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の総合的統一の必然的条件に従うものであるということだとカントは述べている。そもそも総合的判断では2つの概念を結びつけるのだが,それが真実であるか誤謬であるかを判断するためには,第三のものが必要になるという。それが,我々の一切の表象を含む総括者であるところの内感,構想力に基づく表象の綜合,および統覚の統一に基づく表象の綜合的統一という3つであり,これによって総合的判断は可能になるのだから最高原則だとしている。

<報告者コメント>
 先の純粋悟性概念の図式論では,純粋悟性概念と直観とは異種的であるから,それを結びつけるには第三のものが必要になるとカントは説いていた。この総合的判断の最高原則では,ある概念と別の概念を正しく結びつけるには第三のものが必要になると説いている。このように,異なる2つのものがつながるならば,そこには媒介するものが存在するという考え方は非常に論理的だと言えるだろう。このようなアタマの働かせ方,またそれを裏付けている現実のあり方をすくいとることによって,『弁証法はどういう科学か』で説かれている「直接」や「媒介」といった概念が生まれてきたのだろうと思った。


3.直観の公理・知覚の先取的認識とはどういうものか

 カントは「直観はすべて外延量(部分の表象が全体の表象を可能にするような量)である」ということが直観の公理だとしている。これは次のように説明している。現象の根底には空間あるいは時間における直観を含んでいるから,現象が覚知されるには,多様なものの総合によるよりほかに方法がない。直観一般における同種的な多様なものの意識が量(外延量)の概念である。同種的な多様なものの合成の統一が量の概念において考えられるということが,現象はすべて外延量であるということである。
 知覚の先取的認識(経験的認識に属するところのものを,ア・プリオリに認識し規定し得るような認識)については「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」としている。これは次のように説明している。現象には感覚における実在的なものを主観的表象として含んでいる。この表象については,主観が触発せられているという意識を持ち得るにすぎない。この量が内包量である。知覚は感覚を含んでいるから,感覚が内包量をもつ以上,これに対応して知覚のあらゆる対象にもまた内包量,即ち感官に及ぼす影響の度合いがあるとしなければならないとしている。

<報告者コメント>
 第二の原則に関しては,『カント事典』では次のように説明されている。

「そこでは,物質一般の原則が論じられており,しかもその物質観は真空のうちに粒子が飛び交うというのではなく,さまざまな濃度をもった物質が境を接してせめぎ合っているといったものである。したがって,物質の「濃度」こそ,同じ延長量をもつある物質Aと別の物質Bとを区別する指標となる。つまり,第二原則とは,すべて物質は何らかの濃度を必然的に有するという原則なのであり,こうした動力学的自然が「知覚の予料」にそのまま持ち込まれている。」

 ここで説かれている物質観によると,我々が何もないと思っているところにも実は物質が存在していて,単に我々がとらえられるだけの濃度がないにすぎないということになるだろう。これはすなわち無ということの否定であり,その意味では唯物論の立場からも評価できる物質観だと言えるだろう。

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 このレジュメに対して,いくつかの指摘がありました。まず,1の報告者コメントに関して,「このカントの主張は,庄司和晃氏の三段階連関理論につながるものだ」というのは言い過ぎではないかという指摘がありました。確かに,ここでカントが説いている図式と,庄司和晃氏の三段階連関理論でいう表象とは,論理的に似ているけれども,「つながるものだ」と言ってしまうと,あたかも,カントの理論を庄司氏が受け継いで発展させた,というようなニュアンスが出てしまうのではないか,という指摘でした。

 また,2の報告者コメントでは,「異なる2つのものがつながるならば,そこには媒介するものが存在する」という考え方が説かれているが,そもそも必ずそうだといえるのか,という疑問が提示されました。これについては,別の会員から,『弁証法はどういう科学か』で説かれている直接と媒介の図のように,確かにそういうことはいえるだろうから,間違いとはいえないが,「分析的判断・総合的判断の最高原則」という本筋からはずれたコメントになっていえるのではないか,という指摘がありました。

 最後に3の報告者コメントについても,カントの物質観を唯物論の立場から評価できるといってもいいのか,という指摘がありました。そもそもカントは,物自体はとらえられず,我々が認識できるのは現象に過ぎないと主張しているのだから,その大前提を考慮せずに,『カント事典』の当該箇所の記述のみを根拠として評価するのはおかしいのではないか,ということでした。

 これら3つの指摘について,報告者は確かにそうだと納得しました。

 以上,今回は報告レジュメと,それに関わって出されたコメントを紹介しました。
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2017年07月19日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の演繹についての部分を扱った我が研究会の2017年6月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。

 6月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回7月例会は、『純粋理性批判』の純粋悟性概念の図式論(pp.209-264)を扱います。

 それでは、以下、参加者の感想です。

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 今回は、カント『純粋理性批判』の「純粋悟性概念の演繹について」という部分を扱った。

 カントの文章は、なかなか具体的なイメージが描きづらいものであったため、どういうことをいわんとしているのか、自分が分かる具体的なものにあてはめながら読み進めていった。

 論点への見解を執筆する際にも、こうした姿勢で、具体的にはどういうことかを意識して書いていった。初めのうちは、この方法でかなり理解が深まったと思うのだが、純粋統覚を扱っている部分などになると、ハッキリしたイメージを描くことが難しくなっていった。

 例会での議論を通じて感じたことは、まだまだ1回目の学びであるため、大雑把にどういうことが説かれているのかを把握することをまずは心がけるべきであるということであった。大きくいえば、悟性もカテゴリーも純粋統覚も同じものだと考えておくことが、初学者にとって不要の混乱を引き起こさないためには必要だということも確認できた。

 もう1つ、カントが産出的構想力というものを想定して、感性と悟性とを明確に区切ってしまうのではなくて、それらを1つのものとして構想しようとしていたことも何となく理解できていった。このことは、例会での議論をするまでは全くそういう像が描けていなかったため、また読み返していく際には十分念頭に置いて取り組んでいきたいと思う。

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 今回の範囲は、『純粋理性批判』でも最も難解とされている「純粋悟性概念の先験的演繹」の部分であった。論点への見解を書く過程で参考書を読んだり、例会当日に他のメンバーと議論を重ねたりすることによって、アバウトな理解はできたように感じている。

 一番印象に残ったのは、カントは初めは感性と悟性を分けて考えていた、すなわち、媒介関係にあるとして説いていたが、ここにきて、それでは純粋悟性概念がいかにして対象に対して客観的妥当性をもつのかという問題を解決できなくなり、両者は直接の関係であると捉えるようになった、という指摘がなされたことである。そして、両者が直接の関係であることを示すために、「産出的構想力」とか「純粋統覚」とかいう概念を持ってこざるを得なかったということである。これにはなるほどと思わされるものがあった。南郷継正「武道哲学講義〔Z〕」でも、感性・悟性・理性というのは、カントが思惟的に分けただけであるというような指摘があったが、それともつなげて理解できるように感じた。

 思惟する「私」と自分自身を直観する「私」との関係については、非常に難解で、解釈が錯綜してしまったが、少なくとも「私」をカントのように物自体としての「私」と現象としての「私」という形で分けてしまうと、統一性がなくなってしまうことは理解できたように思う。ヘーゲルはここの問題を、カントのいう表象を生み出す力である「構想力」という概念をもとにして、実際に自然や精神的存在を生み出していく「絶対精神」の自己運動として解決したのだろうという、大きな流れもある程度掴むことができた。これも今回の例会の収穫であった。

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今回の内容についても難解で理解することが困難であったというのが正直なところである。とりわけ純粋統覚の辺りになると、かなり厳しくなっていった。

ただ、議論をとおして、悟性や構想力、統覚といった概念が、同じことを別の角度から説いているのであって、とりあえず同じものとして捉えておけばよいということはわかったし、論点3に関わって、カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのかという点はある程度理解できたと感じている。

ただ、やはりなかなか読み進めていくのが苦しいところなので、何度も読み返した上で、次の範囲に進むことを心がけたいと思う。

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 この6月例会については、チューターにあたっていたのだが、毎月行っている要約作業は結局、例会までに終えることができず、カントの議論を自分なりに十分に把握しきれないままに、論点の整理、整理された論点に対する各メンバーの見解についてのまとめの作業を行わなければならなかった。それでも、例会での議論を通じて、悟性、カテゴリー、先験的統覚、産出的構想力などが、感性的直観におけるバラバラな表象をまとめ上げて対象となす過程について、様々な角度から焦点を当てて浮かび上がらせたものだ、ということが明確になったのは、大きな収穫であった。また、悟性と感性とを媒介するものとして、より根源的な、産出的構想力なるものが持ち出されてきたらしいこと、この産出的構想力を、表象(主観)レベルのものではなく、現実に物自体を産出するものにまで発展させたものがヘーゲルの絶対精神であること、それに伴って、純粋悟性に具わっているとされたカントのカテゴリー表も、絶対精神が把持する世界そのものの設計図というべき論理学にまで発展させられていくのだ、という道筋がおぼろげながら見えてきたことも、大きな収穫であったといえよう。
 
(了)
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2017年07月18日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(9/10)

(9)論点3:カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのか

 前回は、第二の論点、すなわち、純粋統覚とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、純粋統覚とは「私は考える」という意識のことであり、これによってばらばらな表象が結合されることがなければ、そもそも人間の認識は成り立たないという意味で、人間の認識全体の最高原理であるといえること、また、バラバラな表象をまとめ上げるように働く力が産出的構想力であり、悟性、カテゴリー、統覚、産出的構想力というものは、いずれも感性的直観におけるバラバラな表象をまとめ上げて我々にとっての対象となす過程に関わるものであり、焦点の当て方の違いによって異なる捉え方がなされたものであることを確認しました。さらに、カントが、現象としての私と物自体としての私を分けてしまったこと、これらを同じ一つのものとして、絶対精神の自己運動として筋を通したのがヘーゲルであることも確認しました。

 さて、今回は、第三の論点、すなわち、カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで、論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、カテゴリーについて、現象(一切の現象の総括としての自然)に法則をア・プリオリに指定する概念だとした上で、「かかる法則は自然における多様なものの結合を自然から得てこないにも拘らず、どうして自然をア・プリオリに規定し得るか」(p.203)という難問を解決しようとしているが、カントはこの難問をどのように解決したのであろうか。ヘーゲルであれば、カントの解決にどのような評価を与えるだろうか。


 この論点そのものをめぐっては、各メンバーから提示された見解の間に大きな相違はありませんでした。端的には、カントの立場からすれば、自然の法則なるものが主観とは独立に存在しており、それを認識するというのではなくて、そもそも自然の法則なるものそのものが、純粋悟性概念が関わって成立するのだ、ということです。少し言い方を換えるならば、純粋悟性概念が関わって、対象たる自然の法則が成立することが、直接に、その認識が成立することでもある、ということになります。

 ヘーゲルならばカントの解決をどのように評価するだろうか、という問題についても、各メンバーの見解はほぼ一致していました。端的には、ヘーゲルであれば、物自体としての自然と現象としての自然との間に絶対的な境界線を引くことに反対し、物自体としての自然の合法則性は絶対に認識可能であると、自らの絶対的観念論の立場から反駁を加えだろう、ということになります。このことに関わっては、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の以下の記述を改めて確認しておくべきだ、という指摘もありました。

「カントのように物の性質を主観的なものだと考えるなら、木の葉を黒としてでなく緑として眺め、太陽を四角でなく丸として眺め、砂糖を辛いものとしてでなく甘いと感じ、時計は一時と二時をいっしょに打つのでなく順次に打つと聞き、二時から一時になるのではなくてその反対だと考えることなどが、物のありかたと無関係にわたしたちの認識の中だけで行われることになります。カントのように物の性質と物との間に絶対的な壁を設けるのはまちがいで、物自体は性質を持ち、いわゆる「二律背反」も世界自体の持っている性格である、とヘーゲルは主張しました。」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.61)


 すなわち、ヘーゲルならば、カントのように物自体には性質がなく物の性質は主観が与えるのだという考え方に反対し、物自体には性質がありそれを人間が認識するのだと説明する、ということです。対象となる物の性質が人間の認識を生み出すという関係の把握についていえば、ヘーゲルの主張は、唯物論の立場からの把握と同じものになります(もっとも、対象となる物はそもそも絶対精神が姿を変えたものである、と把握される点では唯物論の立場とは決定的に異なりますが)。

 論点そのものについては、以上のような確認を行ったのですが、ここで、自然法則はどうして自然をア・プリオリに規定しうるかという「難問」は、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスのなかでどのように位置づけられているのか、という報告者レジュメのなかで提起されていた問題について、議論を行うことにしました。この問題は、より具体的にいえば、この「難問」が取り上げられる段階では先験的演繹はすでに終わっているのか、それとも、この「難問」の解決が直接に先験的演繹の最後の段階を意味するのか、ということになります。純粋悟性概念(カテゴリー)がなければ経験が可能なものとはならない、と指摘された段階で、先験的演繹は終わっているともいえそうなのに、わざわざ自然法則について「難問」を取り上げているのはなぜなのか、という疑問です。

 この疑問をめぐっても、議論は大いに錯綜しましたが、200ページに「先験的演繹では、直観の対象一般に関するア・プリオリな認識としてのカテゴリーの可能が説明せられた。そこで今度は、およそ我々の感官に現われ得る限りの対象をカテゴリーによって、――しかも対象を直観する形式によってではなく対象を結合する法則に従って、ア・プリオリに認識し得ること、それどころか自然を可能ならしめ得ることを説明する段になった」とあるところが、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスのなかでの、この「難問」の位置を示しているのではないか、ということは指摘されました。この文章の意味するところについて、明確な共通理解までは得られなかったのですが、「直観の対象一般」と「我々の感官に現われ得る限りの対象」とが対比させられて、後者が自然法則に結び付けられていること、そもそもカントの問題意識は自然法則についての認識の確実性を主張したいという点にあったことを重く見るべきことは確認されました。また、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセス全体については、最後の「この演繹の要約」(p.208)で簡潔に示されているのではないか、という指摘もあり、「この演繹は、最後に経験をかかる綜合的統一の原理によって解明したもの」という個所が、自然法則の問題についての検討に相当すると考えられることからも、この「難問」の解決が直接に先験的演繹の最後の段階を意味する、と捉える方が妥当ではないか、という意見も出されました。
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2017年07月17日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(8/10)

(8)論点2:純粋統覚とはどういうものか

 前回は、第一の論点、すなわち、純粋悟性概念の演繹とはいかなることか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、純粋悟性概念の演繹とは思惟の主観的条件である純粋悟性概念がなにゆえに客観的妥当性をもちうるものであるのかを説明するものであることを確認しました。

 さて、今回は、第二の論点、すなわち、純粋統覚とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、純粋統覚あるいは統覚の先験的統一こそが人間の認識全体の最高の原理だとしているが、これはどういうことか。また産出的構想力というものはここにどのように関わってくるのか。思惟する「私」と自分自身を直観する「私」との関係を、カントはどのように解いたのか。こうしたカントの論について、ヘーゲルならばどのように評価するだろうか。


 純粋統覚あるいは統覚の先験的統一こそが人間の認識全体の最高原理であるとはどういうことか、という問題については、各メンバーによって提示された見解に、大きな相違はありませんでした。端的にいえば、「私は考える」という意識によってバラバラな表象が結合されることがなければ、そもそも認識が成り立たない、ということです。

 産出的構想力とはどういうものか、という問題をめぐっても、大きな見解の相違はありませんでした。そもそもカントのいわゆる構想力とは、対象が現に存在していなくてもこの対象を直観的に表象する能力のことなのですが、この構想力が、統覚の統一にしたがって感官の形式をア・プリオリに規定すると同時に、感性的直観における多様なものをまとめあげて悟性にもたらす、とカントはいうのであり、このような自発的(能動的)な働きをなす構想力を、かつて経験したものを再生するだけの再生的構想力から区別して、産出的構想力と名づけているわけです。すなわち、我々の対象が成立する時点で、純粋悟性概念(カテゴリー)が関わっているのであり、感性的直観における多様なものを総合して我々の対象となすものこそが、産出的構想力なるものなのです。このことに関わっては、カントの議論においては、この構想力なるものが感性の側に属するものなのか悟性の側に属するものなのか判然としないが、感性とも悟性ともつかないものがあるからこそ感性と悟性とが媒介される、ということが重要なのではないか、という意見も出されました。

 構想力なるものの捉え方そのものについては大きな見解の相違はなかったのですが、問題となったのは、純粋統覚と産出的構想力の関係です。この問題に関しては、よく分からない、というメンバーがいる一方で、端的に、両者は同じものである、と断言する見解を提示したメンバーもいました。そのような見解のヒントとなったのは、黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』において、「認識〈能力〉としての「悟性」、それの純粋〈概念〉としての「カテゴリー」、それに「私は……と考える」を生み出す〈自己意識〉としての「統覚」。本書の「はじめに」でも書いたように、この『純粋理性批判』入門の、見学ツアーレベルでは、これらはだいたい同じ、と思ってもらって差し支えない」(p.131)という記述だ、ということでした。感性的直観における多様な(バラバラの)表象をまとめあげて何らかの対象となす、という過程において、悟性という能力が把持するところの、バラバラな表象をまとめあげるための枠組みのようなものに焦点を当てれば、それが純粋悟性概念(カテゴリー)だということになり、まとめ上げるという過程を遂行する主体に焦点を当てれば、それが統覚だということになり、バラバラの表象をまとめ上げている力に焦点を当てれば、それが産出的構想力だということになるのではないか、ということでした。このような見解に、他のメンバーも納得しました。

 思惟する「私」と自分自身を直観する「私」との関係については、議論が大変に錯綜しましたが、根源的統覚としての「私」(「私は存在している」と意識している「私」)と、現象としての「私」(「現われるままの私」)と、物自体としての私(「あるがままの私」)とが区別されているらしいことは、ほぼ共通の認識となりました(根源的統覚としての私と物自体としての私との差異については若干の疑問が残りましたが)。

 このことを確認した上で、チューターは、結局のこところカントは、根源的統覚としての「私」と、現象としての「私」と、物自体としての「私」が区別されるべきことを力説したものの、それらの関係については解くことができなかったのではないか、と提起しました。そして、これらを、絶対精神の自己運動(絶対精神が自己を知る過程)として筋を通しきったのが、ヘーゲルの絶対的観念論であるといえるのではないか、との見解を述べました。

 こうした見解に対しては、カントが私を物自体としての「私」と現象としての「私」とに分けてしまったことで論に一貫性がなくなってしまったとは確かにいえそうだ、また、ヘーゲルは、このようなカントの限界を、カントのいわゆる産出的構想力を発展させる形で、あらゆる対象を現実に産出していく「絶対精神」の自己運動として解決したということになるのではないか、という感想が出されました。
 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点2に関する議論を終えました。
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2017年07月16日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(7/10)

(7)論点1:純粋悟性概念の演繹とはいかなることか

 前回まで、カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の演繹の要約を提示し、その内容を踏まえて出された論点を紹介しました。今回からは、それらの論点に関わってどのような議論がなされたかを紹介していくことにします。

 今回は、第一の論点、すなわち、純粋悟性概念の演繹とはいかなることか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 先験的演繹と経験的演繹とはどのように異なり、純粋悟性概念について先験的演繹が求められるのは何故なのか。このことに関わって、カントは、ロックやヒュームの試みについて、どのような評価を与えているのか。


 カントのいわゆる演繹とは、法学者の用語を踏まえたもので、何が事実であるかという問題と区別して、何が権利であるかという問題を説明するものだとされています。これについては、あるメンバーが、以下のような例を提示しました。

 ある病院職員Aがある患者Bのカルテを閲覧したことは違法だという訴訟事件があった場合、事実としてAがBのカルテを閲覧したことを証明するとともに、AはBのカルテを閲覧する権限がないこと、および閲覧する権利を要求することもできないことをも、カルテ閲覧に関する規則(原理)から証明しなければならない、ということです。端的にいえば、カントのいう演繹とは、ある一定の原理からある対象の権利、適法性(正当性)を証明することである、ということになります。

 このような具体例も踏まえつつ、概念の演繹とは、諸々の概念についてそもそもその概念が正当性(客観的妥当性)をもっていることを説明することである、ということを確認しました。

 先験的演繹と経験的演繹の違いについては、概念がア・プリオリに対象に関係するということ(適法性)を示すのが先験的演繹であり、概念がどのようにして生まれたかを事実として示すのが経験的演繹ということで、各メンバーによって提示された見解の間に大きな相違はありませんでした。

 純粋悟性概念について先験的演繹が求められるのは何故なのか、という問題をめぐっても、大きな見解の相違はありませんでした。空間・時間という感性の純粋形式の場合は、このような直観形式がなければ、そもそも現象としての対象は我々に与えられないわけですから、空間・時間と対象の関係を云々する必要はありませんでした。ところが、純粋悟性概念(カテゴリー)の場合は事情が異なってきます。直観によってすでに対象は与えられており、悟性はこの対象について思惟するわけですから、純粋悟性概念(カテゴリー)は対象の可能性の制約ではないと考えられるからです。一方に既に与えられている対象があり、他方にカテゴリーがあるとすれば、両者がなぜうまく適合するのか、思惟の主観的条件がどうして客観的妥当性をもつのか、ということを説明しなければならなくなってきます。これが、純粋悟性概念について先験的演繹が求められる理由です。端的には、純粋悟性概念は、その性質上、その使用の客観的妥当性や制限などに関して疑惑をひき起こしてしまうから、先験的演繹が必要だということです。

 ロックやヒュームの試みについてのカントの評価をめぐっては、ロックやヒュームが純粋概念を経験から導きだそうとしたことが批判されているのだ、という見解が示されました。カントは、カテゴリーと対象とが合致し必然的に関係し合うこと(要するにカテゴリーの客観的妥当性)は、対象がカテゴリーを可能にするか、カテゴリーが対象を可能にするかのどちらかの場合にのみ可能である、として、前者が可能だとしてこの問題に取り組んだのがロックやヒュームだと考えているわけです。しかし、カントは純粋概念をこのように経験から導き出すことは、純粋数学や一般自然科学の実際に適合するものではなく、こうした事実によって否定されるものだと説いている、ということです。

 この見解に対して、チューターは、大筋では間違いではないものの、カントはロックとヒュームの微妙な差異についても言及しているのであるから、そこは丁寧に確認しておくべきではないか、と提起しました。

 カントは、ロックについて、我々の認識能力が個々の知覚から出発して一般的概念に達しようとする最初の努力を行ったとして一定の評価を与えつつも、純粋悟性概念の演繹は、こうした仕方では決して成立しないと批判もしています。こうした純粋悟性概念の使用は経験とは全く関わりがないから、「経験からの出生を立証する証明書とは別の出生証明書を呈示しなければならない」(p.164)というわけです。また、ロックが純粋悟性概念を経験から導来したにもかかわらず、こうした概念によって経験の一切の限界をはるかに超出するような認識(神の認識など)に達しようとしたことは辻褄が合わない仕方だと非難されてもいました。

 一方、ヒュームについてカントは、純粋悟性概念はア・プリオリな起原をもたねばならないことに気がついていたものの、概念自体が悟性において結合されていないのに、悟性がこうした概念を対象においては必然的に結合されていると考えねばならないのはどうして可能なのか、全く説明できず(原因と結果という必然的なつながりが対象において客観的に存在するなどとは考えることができず)、悟性がこうした概念によって自ら経験の創作者になるのではないか、悟性の対象は経験そのもののうちに見出されるのではないかということに思い及ばなかったため、こうした純粋悟性概念を(結局は)経験から導き出さざるを得なかった、つまり経験において同じ連想が度々繰り返されると、そこから主観的必然性が生じ、この必然性がついには客観的必然性と誤認されるに至ると考えざるを得なかったのだ、と説明しています。カントは、ヒュームがこうした概念とそれから生じる原則とをもってしては、経験の限界を超出することは不可能であると断言したことは、(ロックと比較すると)なかなか辻褄のあったやり方だと評しつつも、ロックもヒュームもともに純粋悟性概念を経験的に導き出そうとしたことは、純粋数学や一般自然科学の実際に適合しないとして否定しているわけです。
 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点1に関する議論を終えました。
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2017年07月15日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の演繹という問題について論じられている部分の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところをふり返っておくことにしましょう。

 そもそも、カントのいわゆる演繹とは、端的には、何が権利であるかという法学用語を踏まえたもので、概念に即していえば、その客観的妥当性を説明するものでした。カントは、純粋悟性概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を、純粋悟性概念の先験的演繹と名づけていました。対象は、感性の純粋形式である空間と時間を介してのみ我々に現れるのですから、空間・時間については、特にこうした説明は必要ありませんでした。ところが、純粋悟性概念は、対象が直観に与えられるための条件ではありませんから、対象が必然的に悟性の機能に関係しなければならないということはできません。そのため、思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がなにゆえに客観的妥当性をもつのか、説明することが求められることになります。これがカントのいわゆる純粋悟性の先験的演繹なのでした。

 カントは、多様なものの結合は悟性の作用であり、そのような悟性作用を総合と呼ぶのだと説明していました。また、私の一切の表象には、「私は考える」という意識が伴っていなければならないとして、この「私は考える」という自己意識のことを、純粋統覚あるいは根源的統覚と名づけていました。カントは、悟性が直観における多様な表象を統一するという統覚の総合的統一の原則は、人間の認識全体の(一切の悟性使用の)最高の原理(原則)であると強調していました。「私は考える」という原則がなければ、そもそも認識が成立しない、というわけです。

 さらにカントは、経験的な直観における多様な表象が、判断という悟性の機能によって統覚のもとに取り込まれて客観的な統一を与えられることを指摘する一方で、このように純粋悟性概念(カテゴリー)が適用されるのはあくまでも経験の対象(経験的直観における多様な表象)のみであり、それ以外のところに純粋悟性概念を適用しようとしても、対象に関する無内容な概念にしかならず、客観的な実在性をもたない単なる思考形式にしかならない、と指摘してもいました。カテゴリーにしたがって直観における多様なものを結合する総合をなすものについて、カントは産出的構想力と名づけていました。

 カントは、悟性は内感を触発することによって多様なものの結合をつくり出すことに注意を促した上で、我々はただ我々自身によって内的に触発されるままに我々自身を直観するとして、思惟された客観としての私は悟性によって思惟される私自体(物自体としての私)ではない、と指摘していました。

 カントは、カテゴリーは一切の現象の総括としての自然に法則をア・プリオリに指定する概念であるとした上で、ここに難問があるとしていました。すなわち、自然法則は自然から導き出されたものでもなければ、自然を範としてこれに従うのでもないのに、自然の方がこの法則に従わなければならないことをどうして理解できるのか、という問題です。カントはこれに対して、法則は現象のうちに存在するのではなく、現象が与えられているところの主観に関係してのみ存在するのだ、という解答を与えていました。すなわち、自然は、自然の必然的合法性の根源的根拠としてのカテゴリーに依存しているというわけです。

 2017年6月例会の場では、おおよそ以上のような内容に関わっての報告を受けて、参加したメンバーから諸々の意見・論点が提起され、議論がたたかわされました。これから、その内容を、大きく3つの論点に沿って整理した上で、紹介していくことにします。今回はその3つの論点を紹介し、次回以降、討論の具体的な内容を紹介していくことにします。

1、純粋悟性概念の演繹とはいかなることか
 カントのいわゆる演繹とはどういうことか。先験的演繹と経験的演繹とはどのように異なり、純粋悟性概念について先験的演繹が求められるのは何故なのか。このことに関わって、カントは、ロックやヒュームの試みについて、どのような評価を与えているのか。

2、純粋統覚とはどういうものか
 カントは、純粋統覚あるいは統覚の先験的統一こそが人間の認識全体の最高の原理だとしているが、これはどういうことか。また産出的構想力というものはここにどのように関わってくるのか。思惟する「私」と自分自身を直観する「私」との関係を、カントはどのように解いたのか。こうしたカントの論について、ヘーゲルならばどのように評価するだろうか。

3、カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのか
 カントは、カテゴリーについて、現象(一切の現象の総括としての自然)に法則をア・プリオリに指定する概念だとした上で、「かかる法則は自然における多様なものの結合を自然から得てこないにも拘らず、どうして自然をア・プリオリに規定し得るか」(p.203)という難問を解決しようとしているが、カントはこの難問をどのように解決したのであろうか。ヘーゲルであれば、カントの解決にどのような評価を与えるだろうか。
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2017年07月13日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約B

 前回は、直観における多様な表象を統一する根拠として、「私は考える」という純粋統覚、根源的統覚がなければならないことが説明された部分の要約を紹介しました。カントは、多様なものの結合は悟性の作用であり、そのような悟性作用を総合と呼ぶのだとしていました。また、「私は考える」という意識は、私の一切の表象に伴っていなければならないとして、この「私は考える」という自己意識のことを純粋統覚あるいは根源的統覚と名づけていたのでした。カントは、悟性が直観における多様な表象を統一するという統覚の総合的統一の原則は、人間の認識全体の(一切の悟性使用の)最高の原理(原則)であると強調していました。

 さて、今回は、感性的直観によって与えられた多様なもの(経験の対象)だけが統覚によって客観的に統一されるのだということが説明された部分の要約を紹介することにしましょう。
 
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19

およそ判断の論理的形式の旨とするところは判断に含まれている概念に統覚の客観的統一を与えることにある

 判断について、与えられた認識の関係を精密に研究し、またこの関係を悟性に属するものとして、再生的構想力の法則に従って生じた関係(主観的妥当性しかもたない)から区別すると、判断は与えられた認識に統覚の客観的統一を与える仕方にほかならないことが分かる。判断に含まれている表象は、経験的直観において互いに必然的に結びつくのではなくて、直観の総合における統覚の必然的統一によって(認識になり得る限りのあらゆる表象を規定する諸原理に従って)互いに必然的に結びつく。

20

およそ感性的直観はこうした直観において与えられた多様なものが結合されてひとつの意識なりうるための条件としてのカテゴリーに従っている

 感性的直観において与えられた多様なものは、必然的に統覚の根源的、総合的統一のもとに統摂される。与えられた表象に含まれている多様なものは、悟性の作用によって統覚一般のもとに統摂される。こうした悟性作用がすなわち判断の論理的機能なのである。カテゴリーは、直観において与えられた多様なものが判断の論理的機能に関して規定されているかぎり、まさにこうした判断機能にほかならない。それだから与えられた直観における多様なものもまた必然的にカテゴリーに従うのである。

21



 私が、私の直観と名づけているような直観に含まれている多様なものが自己意識の必然的統一に属するものとして表象されるのは、悟性の総合により、このことはカテゴリーによって行われる。カテゴリーは、ひとつの直観において与えられた多様なものの経験的意識が、ア・プリオリでかつ純粋な自己意識に従うことを示す。これは、経験的直観が、これまたア・プリオリで純粋な感性的直観に従うのと同様である。
 上述の説明でどうしても除くわけにはいかなかったのは、多様なものは悟性の総合よりも前にこの総合に関わりなく直観のために与えられていなければならない、ということである。しかし、なぜそうなのかは、ここではまだ解決されない。自ら直観するような悟性(自分が表象すればそれによって同時に対象が与えられる神的悟性)があるとしたら、こうした認識に関してはカテゴリーは全く意義をもたないだろう。カテゴリーは人間の悟性に対する規則にほかならない。悟性は対象によって悟性に与えられなければならないところの直観、すなわち認識の質料を結合し、これに秩序を与えるだけにすぎない。人間悟性の特性、すなわちカテゴリーによってのみ、しかもカテゴリーの一定の種類と数とによってのみア・プリオリな統覚の統一を生じさせるという特性が説明され得ないのは、我々はなぜちょうどこれだけの判断機能をもち、それ以外の判断機能をもたないのか、なぜ時間および空間だけが我々に可能な直観の形式なのかが説明できないのと同じである。

22

カテゴリーは経験の対象に適用されるだけであってそれ以外には物の認識に使用され得ない

 対象を思惟することと、対象を認識することは同じでない。認識には、純粋悟性概念(これによって対象が一般的に思惟される)と直観(これによって対象が与えられる)という2つの要素が必要なのである。我々に可能な直観は全て感性的直観であるから、対象一般に関する思惟は、純粋悟性概念が感官の対象に関係させられる限りにおいてのみ、我々の認識になりうるのである。純粋悟性概念は、ア・プリオリな直観に適用される場合ですら(数学におけるように)、このア・プリオリな直観が――したがってまた直観を介して悟性概念が経験的直観に適用される限りにおいてのみ、認識を与えるのである。ゆえに、カテゴリーは、経験的直観に適用されなければ、直観によっても我々に物の認識を与えない。換言すれば、カテゴリーは、経験的認識を可能なものとするだけのものである。カテゴリーが物の認識に使用されるのは、物が可能的経験の対象とみなされる場合だけに限るのであり、それ以外には物の認識に使用され得ないのである。

23

 この命題は、対象に関する純粋悟性概念の使用に対して限界を規定するものだから、極めて重要である。これは、先に先験的感性論が我々の感性的直観の純粋形式に対して限界を規定したのと同じである。空間および時間は、感性においてのみ存在し、感性以外では全く現実性をもたない。ところが純粋悟性概念は、こうした制限を受けず、およそ直観の対象一般に適用される。しかし我々の感性的直観を超えて、これらの概念を拡張してみたところで、対象に関する無内容な概念があるだけで、この対象が可能であるか否かをすらを判断し得ない。このような場合、純粋悟性概念は単なる思考形式であって、客観的実在性を全くもたないことになる。つまり我々は、統覚の総合的統一が適用され得るような直観を持ち合わせないわけである。ところが統覚の総合的統一を含むものは概念〔カテゴリー〕だけであり、カテゴリーはこうした統一を直観に適用することによって対象を規定しうるのである。要するに、我々の感性的でかつ経験的な直観だけが、概念に意味と意義を与え得るのである。
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2017年07月12日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約A

 前回は、そもそも演繹とはどういうことか、純粋悟性概念(カテゴリー)について、経験的な演繹ではなく先験的な演繹という手続きが必要になるのはどうしてなのかについて、説明されている部分の要約を紹介しました。カントのいわゆる演繹とは、端的には、何が権利であるかという法学用語を踏まえたもので、概念に即していえば、その客観的妥当性を説明するものでした。カントは、純粋悟性概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を、純粋悟性概念の先験的演繹と名づけていました。対象は、感性の純粋形式である空間と時間を介してのみ我々に現れるのですから、空間・時間についてはこうした説明は不要でした。ところが、純粋悟性概念は、対象が直観に与えられるための条件ではないので、対象が必然的に悟性の機能に関係しなければならないとはいえません。そこで、思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がなにゆえに客観的妥当性をもつのか説明が求められることになります。これがカントのいわゆる純粋悟性の先験的演繹なのでした。
 さて、今回は、直観における多様な表象を統一する根拠として、「私は考える」という純粋統覚、根源的統覚がなければならないことが説明された部分の要約を紹介することにしましょう。

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第2節 純粋悟性概念の先験的演繹

15

結合一般の原理について

 多様な表象〔印象〕は直観において与えられ得るが、この直観は単なる感性的直観であり、したがって受容性にほかならない。ところで多様なもの一般の結合は、感官によっては決して我々のうちに現われ得ず、感性的直観の純粋形式のうちに含まれているということもあり得ない。結合は表象能力の自発性の作用だからである。この自発性は感性と区別するために悟性といわなければならない。このような悟性作用に総合という一般的な名を与えよう。総合という悟性作用はもともとひとつしかなく一切の結合はいずれもこの作用に従わなければならないし、分析は実は総合を前提としている(悟性によって前もって結合されたものとして与えられたものだけが分析され得る)。
 結合の概念は、多様なものという概念と、この多様なものの総合という概念のほかに、さらにこの多様なものの統一という概念を必然的に伴っている。要するに結合は、多様なものの総合的統一の表象なのである。この統一はア・プリオリに一切の結合の概念よりも前にあり、判断における種々の概念の統一の根拠を含み、したがってまた悟性の論理的使用においてすら悟性の存立を可能ならしめる根拠を含むところのものに、これを求めなければならない。

16

統覚の根源的‐総合的統一について

 「私は考える(Ich denke)」〔という意識〕は、私の一切の表象に伴わなければならない。「私は考える」という表象は自発性の作用であり、感性に属するとみなすことはできない。この表象を純粋統覚または根源的統覚と名づける。こうした統覚は「私は考える」という表象を産出するところの自己意識〔自覚〕であって、もはや他の統覚からは導出されないからである。また、ア・プリオリな認識がこの統一によって可能であることをいうために自己意識の先験的統一とも名づける。
 直観において与えられた多様なものの統覚の完全な同一性は、表象の総合を含み、またこうした総合の意識によってのみ可能である。私は直観において与えられた多様な表象を1個の意識において結合することによってのみ、これら表象における意識の同一性そのものを表象できる。直観における多様なものの総合的統一は、ア・プリオリに与えられたものとして、私のあらゆる一定の思惟にア・プリオリに先立つところの統覚の同一性そのものの根拠なのである。結合は対象のうちに存するのでも、知覚によって対象から得られて悟性のうちに取り入れられるようなものでもない。この根源的結合は悟性のなすわざである。悟性はア・プリオリに結合する能力であり、また直観における多様な表象を統覚によって統一する能力にほかならない。そしてこの統覚の統一という原則こそ、人間の認識全体の最高の原理なのである。

17

統覚の総合的統一の原則は一切の悟性使用の最高原則である

 感性に関して一切の直観を可能にする最高原則は、先験的感性論によると、直観における一切の多様なものが空間および時間という2つの形式的条件に従うことであった。また、悟性に関して一切の直観を可能にする最高原則は、直観における多様なものが統覚の根源的統一の諸条件に従うことである。
 一般的にいえば、悟性は認識の能力である。認識は、与えられた表象がある客観に対してもつところの一定の関係である。客観は、与えられた直観における多様なものがひとつの概念によって結合されたところのものである。換言すれば、多様なものは客観の概念によって結合されている。およそ表象の結合は、表象の総合における意識の統一を必要とするから、意識の統一は表象がある対象に対してもつところの唯一の関係をなすものであり、表象の客観的妥当性の根拠であり、表象を認識にするところのものであり、したがって認識能力としての悟性が可能であることもまた意識の統一にかかっている。
 しかし、こうした原則は、およそ悟性であればどんな可能的悟性にも妥当するような原則ではなくて、悟性の純粋統覚によるだけでは「私は考える」という表象にまだ多様なものが全く与えられないような人間悟性だけにとっての原理である。自分の自己意識によって同時に直観における多様なものが与えられるところの悟性(自分が表象しさえすれば同時にその表象の対象が存在するような悟性)なら、多様なものを結合して意識の統一とする特殊な総合作用は必要としない。

18

自己意識の客観的統一とは何かということ

 統覚の先験的統一は、直観において与えられた多様なものを結合して、客観すなわち対象とするものである。それだからこの統一は客観的統一と呼ばれ、意識の主観的統一から区別されねばならない。意識の主観的統一は内感の規定である(内的直観において経験的に与えられた多様なものを、結合の素材として提供する)。しかし、私がこの多様なものを同時的もしくは継時的に意識しうるかどうかは、経験的条件によって決まるから、全く偶然的である。これに反して、時間における直観の純粋形式は、与えられた多様なものを含む直観一般としてのみ、意識の根源的統一に従うのである。そのことは、経験的総合の根底に、ア・プリオリに存するところの悟性の先験的統一によってのみ可能である。統覚の先験的統一だけが客観的に妥当する。これに反して、統覚の経験的統一は主観的妥当性をもつにすぎない。ある人はある言葉の表象にあるものを結びつけるし、他の人はその同じ言葉の表象に他のものを結びつける、といった経験的な意識の統一は、与えられたところのものに関して必然的でもなければ普遍的に妥当するものでもない。

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2017年07月11日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約@

 前回は、京都弁証法認識論研究会の6月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回にわたって、カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の演繹(思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がどうして客観的妥当性をもつのか、という問題についての説明)を紹介していくことにします。

 今回は、そもそも演繹とはどういうことか、純粋悟性概念(カテゴリー)について、経験的な演繹ではなく先験的な演繹という手続きが必要になるのはどうしてなのかについて、説明されている部分の要約を紹介します。

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第2章 純粋悟性概念の演繹について

第1節 

13

先験的演繹一般の諸原理について

 法学者は、ひとつの訴訟事件について、何が権利であるかという問題と事実に関する問題を区別し、第一の問題について権限、あるいはそればかりでなく権利要求をも説明する明示を演繹と名づけている。我々は、多くの経験的概念を誰からも異議の申し立てがないままに使用し、またこうした演繹を経ずにこれらの概念に意味と憶測的な意義を与える資格があると思いなしている。それは我々が、いつでもこうした概念の客観的実在性を証明しうる経験を持ち合わせているからである。
 しかし、人間の認識の極めて雑多な組織を造り上げている多種多様な概念のなかにも(一切の経験に全く関わりのない)ア・プリオリな純粋使用に供せられ得るような若干の概念があり、これらの概念の権限が演繹を必要とするのである。こうした純粋使用の適法性を経験によって証明することは十分ではないのにかかわらず、これらの概念はどうして対象に関係しうるのか、是非とも知らなければならないからである。このような概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を純粋悟性概念の先験的演繹と名づけ、これを経験的演繹(ひとつの概念が経験と経験に対する反省によって得られる仕方を示すもの)から区別する。
 我々は、全く種類を異にする2通りの概念でありながらア・プリオリに対象に関係するという点では互いに完全に一致するような概念をすでにもっている。すなわち感性の形式としての空間・時間と、悟性の概念としてのカテゴリーとである。これらの概念について経験的演繹を試みようとしても無益である。
 とはいえ、これらの概念についても、一切の認識におけると同じく、ア・プリオリな概念を可能にする原理ではないが、しかしこうした概念を産出する幾因を経験のうちに求めることはできる。経験は、認識の質料とこの質料に秩序を与える形式を含む。この形式は、純粋直観および純粋思惟という我々のうちにある源泉から生じたものであり、両者は質料を機縁として活動し始め、概念を創り出すのである。我々の認識能力が個々の知覚から出発して一般的概念に達しようとする最初の努力をこうして追究してみることは極めて有益である。ロックがこうした探究の道を開いたが、ア・プリオリな純粋概念の演繹はこのような仕方では決して成立しない。
 空間および時間の概念は、ア・プリオリな認識であるにもかかわらず、どうして必然的に対象に関係しなければならないのか、また一切の経験にかかわりなく対象の総合的認識をどうやって可能にするのかということは、先に容易に説明することができた。つまり対象は、感性の純粋形式である空間・時間を介してのみ我々に現われるから、直観における総合が客観的妥当性をもつのである。
 これに反して、悟性のカテゴリーは、対象が直観に与えられるための条件を示すものではない。従って対象は、確かに我々に現れはするが必然的に悟性の機能に関係しなければならないというものではないから、悟性は対象を可能にするア・プリオリな条件を含んでいないことになる。そこで、感性の領域ではなかったような困難が現われてくる。すなわち、思惟の主観的条件がどうして客観的妥当性をもつのか(対象の一切の認識を可能にする条件となるのか)ということである。例えば、原因という概念は特殊な種類の総合を意味する。あるものAに別のものBがある法則に従って結合されるからである。しかし現象がなぜBのようなものを含むかはア・プリオリには明白ではない。それだから、こうした概念は全く空虚で、現象のうちにはこの概念に対応するような対象は全く存在しないのではないか、というア・プリオリな疑問が生じるのである。原因の概念は、全くア・プリオリに悟性のうちにその根拠をもつか、それとも単なる妄想として放棄されねばならないか、どちらかである。この概念は、AからBが絶対的に普遍的な規則に従って必然的に随起するような性質のものであることを、あくまで要求する。だから、原因と結果の総合は、経験的には全く表現できないような尊厳というべきものを備えている。

14

カテゴリーの先験的演繹への移り行き

 総合的表象とその対象とが合致し、必然的に関係し合い、両者がいわば相会することは、対象が表象を可能にするか、表象だけが対象を可能にするか、2つの場合にのみ可能である。前者の場合、対象と表象の関係は経験的で、表象は決してア・プリオリには可能にならない。後者の場合、表象自体は対象をその現実的存在に関して産出しうるものではないが、表象だけで何かあるものを対象として認識することが可能であれば、表象は対象を規定することになる。この場合、直観(現象としての対象を与える)と概念(直観に対応する対象を思惟する)という2つの条件がある。第一の条件は、我々の心意識のうちにア・プリオリに存し、対象の根底をなしているから、一切の対象は、この感性的条件と必然的に合致する。では、我々が何かあるものを対象一般として思惟しうるための条件としての概念もあり、このような概念も経験に先立って存在するのではないか。もしこうした概念が存在するなら、それを前提しなければ何ひとつ経験の対象になりえないのだから、対象の経験的認識は全てこれらの概念と必然的に合致する。およそ経験は直観、すなわちそれによって何かあるものが与えられるところの感性的直観のほかに、直観において与えられる(現われる)ところの対象に関する概念をも含むのである。すると対象一般に関する概念は、ア・プリオリな条件として一切の経験的認識の根底に存することになるだろう。ア・プリオリな概念としてのカテゴリーの客観的妥当性は、カテゴリーによってのみ経験が(思惟の形式に関する限りでは)可能になるということに基づくわけである。
 ア・プリオリな概念を含む経験をただ展開するだけでは、こうした概念の演繹にはならない。
 ロックは、悟性の純粋概念が経験において見出されると考え、これらの概念を経験から導き出した。にもかかわらず、こうした概念によって経験の一切の限界をはるかに超出するような認識に達しようとする試みを敢てしたのは、甚だ辻褄の合わぬことだった。しかし、ヒュームは、こうした認識を得るためにはこれら純粋概念がどうしてもア・プリオリな起源をもたねばならないことに気づいていた。しかし彼は、概念自体が悟性において結合されていないのに、悟性がこうした概念を対象においては必然的に結合されていると考えねばならないのはどうして可能なのか、全く説明できなかった。また、悟性がこうした概念によって自ら経験の創作者になるのではないか、悟性の対象は経験そのもののうちに見出されるのではないか、と思い及ばなかった。そこで彼は、純粋概念を経験から導出せざるをえなかった(習慣から導出された主観的必然性を客観的必然性と誤想する、という形で)。それでもヒュームが、こうした概念とそれから生じた原則では経験の限界を超えられないと断言したのは、なかなか辻褄の合ったことだった。ロックもヒュームも、純粋概念を経験的に導出しようとしたが、これは我々が現に有するア・プリオリな学的認識の実際――純粋数学と一般科学の実際に適合するものではないという事実によって否定される。
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2017年07月10日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約@
(3)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約A
(4)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約B
(5)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:純粋悟性概念の演繹とはいかなることか
(8)論点2:純粋統覚とはどういうものか
(9)論点3:カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのか
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、絶対精神の成長の過程(自己=世界という自覚の成立過程)として哲学の発展の歴史を描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画にもとづいたものです。

 6月例会では、純粋悟性概念の演繹という問題について論じられている部分を扱いました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

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カント『純粋理性批判』 純粋悟性概念の先験的演繹について

【1】先験的演繹一般について
 カントは、純粋悟性概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を、純粋悟性概念の先験的演繹と名づけている。これは、感性の純粋形式であるところの空間・時間については不要な説明であった。なぜなら、対象は、感性の純粋形式である空間と時間を介してのみ、我々に現れるからである。ところが、純粋悟性概念は、対象が直観に与えられるための条件ではないから、対象が必然的に悟性の機能に関係せねばならないというものではないとカントはいう。そこで、思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がどうして客観的妥当性をもつのか、ということを説明しなくてはいけない。これがカントのいうところの純粋悟性の先験的演繹である。
 カントは、綜合的表象とその対象が合致し、必然的に関係し合うことは、二つの場合にのみ可能であるとしている。それは、対象が表象を可能にするか、それとも、表象だけが対象を可能にするか、の二つである。カントは、前者の場合の取り組みとしてロックとヒュームを挙げ、ともに純粋概念を経験的に導来しようとしたのであるが、このような経験的導来は、ア・プリオリな学的認識の実際に適合するものではないと説いている。

〔報告者コメント〕
 ここでカントは、純粋悟性概念は、対象が直観に与えられるための条件ではないとして、それを前提にして、思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がどうして客観的妥当性をもつのかという問題に取り組もうとしている。しかし、結論から言えば、カントは純粋悟性概念は対象が直観に与えられるに際して関与しているのだと説明している。それならば、そもそもこの問題が生じる前提が違うということになるのだから、問題そのものが成立しないのではないか。このあたりが正直、よく分からないところである。
 唯物論の立場に立つ我々は、基本的にはロックやヒュームと同様に、対象が表象を可能にするという立場で、筋をとおして説いていく必要がある。そのためには、認識の生成発展を明らかにした科学的認識論と、対象と表象の合致は、最終的には学問体系としてしか可能ではないということを明らかにした学問論(論理学?)をしっかりと再措定していく必要があるだろう。


【2】純粋統覚について
 カントは、多様なものの結合は悟性の作用であり、そのような悟性作用を綜合と呼ぶと規定している。また、「私は考える」という意識は、私の一切の表象に伴い得なければならないとして、その「私は考える」という自己意識のことを純粋統覚と名づけている。そのうえで、悟性が直観における多様な表象を統一するという、統覚の綜合的統一の原則は、人間の認識全体の(一切の悟性使用の)最高の原理(原則)であると説いている。このような原則がないと、認識が成立しないからであるとされている。
 またカントは、対象が現在していなくてもこの対象を直観において表象する能力を構想力と名づけ、その中で、カテゴリーに従って直観における多様なものを結合する綜合をなすものを産出的構想力と呼んでいる。

〔報告者コメント〕
 悟性、カテゴリー、統覚、そして産出的構想力のそれぞれの関係は、分かりにくいところである。黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』では、次のように説かれている。

「認識〈能力〉としての「悟性」、それの純粋〈概念〉としての「カテゴリー」、それに「私は……と考えるを生み出す〈自己意識〉としての「統覚」。本書の「はじめに」でも書いたように、この『純粋理性批判』入門の、見学ツアーレベルでは、これらはだいたい同じ、と思ってもらって差し支えない。」」(p.131)

 岩崎武雄『カント』では、「先験的統覚は直観の多様に総合的統一を与えてゆくという自発的な働きをするものであるが、悟性とは正しく自発性の能力(B.75)だから」、「この先験的統覚こそ悟性に外ならないであろう」(pp.87-88)と述べた後で、産出的構想力について次のように説いている。

「この構想力は再現された表象と現に存する表象とを総合的に統一してそこに対象の形像を作り出してゆくものであり、この総合的統一の働きが先験的統覚の先天的規則にしたがって行なわれるのである。すなわち悟性あるいは先験的統覚はこの場合産出的構想力という形で働くのである。」(p.89)

 以上をふまえると、悟性、カテゴリー、統覚、そして産出的構想力は、ほぼ同じような意味ととって間違いないが、スポットの当て方が違うといっていいだろう。悟性という能力の把持する概念にスポットを当てればカテゴリー、自己意識という点にスポットを当てれば統覚、表象する力にスポットを当てれば産出的構想力ということになるのだろう。


【3】純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスについて
 カントは、カテゴリーは一切の現象の総括としての自然に法則をア・プリオリに指定する概念であるとしたうえで、ここに難問があるとしている。すなわち、自然法則は自然から導き出されたものでもなければ、自然を範としてこれに従うのでもないのに、自然の方がこの法則に従わなければならないことをどうして理解できるのか、という問題である。カントはこれに対して、法則は現象のうちに存在するのではなく、現象が与えられているところの主観に関係してのみ存在するのだと答えている。すなわち、自然は、自然の必然的合法性の根源的根拠としてのカテゴリーに依存しているというのである。

〔報告者コメント〕
 自然法則はどうして自然をア・プリオリに規定しうるかという「難問」(p.203)は、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスの中で、どのように位置づけられているのかが、いまいちよく分からない。もうこの段階では、先験的演繹は終わっているのか、それとも、この難問の解決が、直接に先験的演繹の最後の段階を意味するのか。論点3のなかで、今回の範囲の大きな流れについても議論できればと思う。

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 以上の報告レジュメの、「報告者コメント」のなかには、「純粋悟性概念は対象が直観に与えられるに際して関与している」というカントの論立てからして、純粋悟性概念の演繹(思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がどうして客観的妥当性をもつのか、という問題についての説明)などがそもそも成り立つ余地があるのか、「自然法則はどうして自然をア・プリオリに規定しうるかという「難問」(p.203)は、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスの中で、どのように位置づけられているのか」というような、『純粋理性批判』の構成における純粋悟性概念の演繹の位置づけ、あるいは純粋悟性概念の演繹そのものの論の展開についての根本的な疑問が含まれていました。これらの疑問については、論点をめぐる議論のなかで考えていくことを確認しました。
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2017年06月15日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回までに、例会で報告されたレジュメを紹介したあと、カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介してきました。

 最終回となる今回は、例会を受けての参加者の感想を掲載しておきたいと思います。

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 今回は、カント『純粋理性批判』先験的論理学の初めの部分を扱った。チューターとして、論点の提示、各会員から提示された論点の整理、論点への見解の執筆、各会員の論点への見解の整理を行い、例会当日を迎えた。

 当日の進行では、特に先験的論理学とはどのようなものか、一般論理学や純粋論理学とどのように異なるのか、といった論点に関して、自分のアタマの中を整理し切れず混乱してしまって、大きく時間を費やすことになってしまった。事前に自分なりの解答をしっかりと用意しておくという基本的な事柄がきちんと実践できていなかったのだと大きく反省されられた。

 また、他の部分でも、各会員が示した見解を確認していくという作業を行ったのみで、今回の範囲での大きな学びに繋がっていくような議論を提起することも出来なかった。

 とはいえ、今回の範囲は非常に難解で、この部分だけを読んで理解できるものではないようにも思うので、次回以降、今回の内容に関わっての論が展開されていくようであれば、今回の内容に立ち返って、合わせて考えていくようにすることで、少しでも認識の構造を明らかにしていこうとしたカントの描いた像を掴めるように努力していきたいと思う。

 次回は「純粋悟性概念の演繹について」という範囲を扱うことになるが、事前の準備を怠ることなくしっかりと自分の見解を用意して臨めるようにしておきたいと思う。

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 今回の範囲は、なかなか難解であった。論理学について、カントは大きく整理しているのであるが、一般論理学と先験的論理学の差異について明確なイメージを描くことができたとはなかなか言いにくいものがある。また、純粋悟性概念についても同様である。ここに関わって、判断も総合も表象を統一するものだという説明がなされていたように思うが、この違いは一体何なのかという点についても、あまり明確には理解できなかったと感じている。

 次回の範囲は今回の内容も踏まえたものであるので、もしかすると次回の範囲を読み込む中で、今回の内容も理解を深めていくことができるかもしれない。そういう期待をもって、次回に向けて準備をしたいと思う。

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 今回の例会では,時間の関係で論点に対する見解を作成することができなかった。その影響もあって,今回の範囲はきちんと理解できた感じがせず,他の会員の発言も,まあ,そういうものかなというくらいでしか受け取れなかった。これではせっかく例会を行っている意味がないし,今後,『純粋理性批判』を読み進めていくうえでも支障が出る。そのようなことがないように,今後はしっかり論点に対する自己の見解を書き切るようにするとともに,これまでの部分もしっかり復習しながら読み進めていきたい。

 今回の範囲では,カテゴリーという有名な概念が登場したが,これが判断の機能から導出されたことはしっかりと押さえておくべきだと思った。また,「構想力」という概念も登場したが,これは以前の例会で,ヘーゲルの絶対精神につながる重要な概念だと指摘している研究者の説を確認した。多様な表象を綜合するのが構想力だと今回の範囲では説明されていたが,綜合と判断はどう違うのか,構想力と悟性はどのような関係なのかといったことが,いまいちはっきりしていない。ひょっとしたら,自然と唯物論的な認識論の枠組みでカントを理解しようとしているために,自分の他人化ならぬ自分の自分化レベルでカントを理解してしまっており,それが,筋を通して理解できていない要因なのかもしれない。

 今後はいったん,唯物論の立場を否定して,しっかりとカントの観念論の立場に立って,カントの論の展開を応用に意識していかなければならないと感じた。

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 5月例会は、報告レジュメの担当であった。毎月、該当範囲の要約作業を行っているのだが、この5月例会に向けては、実に数ヶ月ぶりに、論点の提起までに要約作業を終えることができた。しかし、これまで読み進めてきた範囲よりもかなり難解だったという印象がある。先験的論理学とはどういうもので従来の論理学とはどのように異なっているのか、判断という悟性の機能とカテゴリー(純粋悟性概念)との関係はどうなっているのか、また、これらはヘーゲルの立場からはどのように批判されるのか、等々、なかなか明確なイメージが描き切れなかった。報告レジュメについては、難解な個所であるだけに、あくまでも『純粋理性批判』の全体像を見失わないように、また、ヒュームやヘーゲルとの関連など哲学史の大きな流れのなかで位置付ける視点を失わないように、という問題意識でまとめることを試みた。当日の議論については、かなり錯綜してしまって、率直にいって消化不良だった感も否めないが(私自身、徹底した読み込みが不足していたことも大きい)、今後読み進めていく部分で理解を深めていければ、と思う。また、緒言からの丁寧な読み直しにも取り組んでいきたい。

(了)
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2017年06月14日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(9/10)

(9)論点3:純粋悟性概念とはどのようなものか

 前回は、純粋悟性概念を導き出す手引きに関する議論について見ていきました。ここでは主に、判断が表象を統一する機能であり、判断における統一の機能を完全に余すところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能(純粋悟性概念)は経験的要素を交えずに純粋に残らず発見できるということが展開されていることを確認しました。

 さて今回は、3つ目の論点として、純粋悟性概念とはどのようなものかに関する論点を見ていきたいと思います。

論点3:純粋悟性概念とはどのようなものか

 カントは、純粋悟性概念すなわちカテゴリーに関して、どのようなものだと述べているか。また、カントは判断の機能からカテゴリー表を導いているが、判断とはどのようなもので、判断と純粋悟性概念はどのような関係にあるのか。このカテゴリー表について、ヘーゲルはどのように評価しているか。唯物論の立場から評価するならば、どのようなことがいえるか。

 この論点に関しては、まず、カントがカテゴリーをどのようなものだと述べているかに関して議論しました。ある会員は、「カントは、対象についての多様な表象から認識を構成する作用を総合と名づけ、総合は構想力の作用である、とする。カントによれば、種々の表象を分析によってひとつの概念に包括するのは一般的論理学の仕事であるが、表象の純粋総合を概念に形成するのは先験的論理学の仕事である」とした上で、「純粋総合に統一を与える概念は、悟性にもとづく。種々の表象に統一を与えるという判断の機能が、直観によって与えられた種々の表象の単なる総合そのものにもまた統一を与えるのであるが、この統一を一般的に表現したものがすなわち純粋悟性概念(カテゴリー)である、とカントは説明している」と述べました。この見解に対しては、具体的にはどういうことかという疑問が呈せられました。これに対して見解を述べた会員は、カントの文章をほとんどそのまま使って見解を書いたことを認めた上で、要するに、多様な表象を総合するのが構想力であって、綜合を概念にするのが純粋悟性概念だということであると説明しました。他の会員は、判断には統一するという機能があって、その機能が直観が与える材料にも統一を与えるということではないか、それが純粋悟性概念だというのではないかと発言しました。

 ここで、判断の問題が出てきたために、次の議論に移っていきました。それは、カントが判断をどのようなものとして捉え、判断と純粋悟性概念はどのような関係にあるとしているかという問題についてです。この点に関しては、判断が種々の表象を統一する機能を持つものであり、悟性の一切の作用を還元できるものであるということは共通認識となりました。また、先に出された、「種々の表象に統一を与えるという判断の機能が、直観によって与えられた種々の表象の単なる総合そのものにもまた統一を与える」とはどういうことかについては、判断も純粋悟性概念も統一という共通の機能があるという点を確認しました。

 次に、ヘーゲルがカントのカテゴリー表をどのように評価しているかについてです。この論点については概ね見解が共通していて、第一のカテゴリーは積極的(肯定的)であり、第二は第一を否定するもので、第三は両者の総合だといっているのは、概念の偉大なる本能である、という評価をヘーゲルは与えている一方で、これらのカテゴリーを経験的に取り上げるだけで、統一からこれらの差別を必然性をもって発展させることができていないという批判も行っているということでした。

 最後に、カントのカテゴリー表について、唯物論の立場から評価すればどうなるかという問題についてです。この問題についても概ね見解が一致していました。すなわち、カントはカテゴリーが対象をア・プリオリに思惟する条件だと捉えているが、これは論理がなければ対象についての認識が成立しないという唯物論(的認識論)の主張につながるものと評価することができる一方で、そのカテゴリーがもともと具わっているとした点は、認識は対象の反映であり像であるとする唯物論(的認識論)の立場からは批判されるべきだ、あくまでも対象を反映した像を原点として、そこから抽象されて形成された論理像として捉えられなければならない、ということでした。

 以上のような議論を行い、今回の例会における論点についての議論を終了しました。
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2017年06月13日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(8/10)

(8)論点2:全ての純粋悟性概念を残らず発見する方法とはどのようなものか

 前回は1つ目の論点、すなわちカントが論理学をどのように把握していたかに関する論点についての討論を見ていきました。カントは、認識にもともと備わっている純粋悟性概念だけを扱う先験的論理学を展開しているのだということ、これはアリストテレスの論理学を発展させたものであって、認識の成立条件を考察するものだということでした。

 さて今回は、2つ目の論点として挙げられた、純粋悟性概念を導き出す手引きに関する論点について見ていきたいと思います。

論点2:全ての純粋悟性概念を残らず発見する方法とはどのようなものか

 カントは、「先験的哲学は、純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見するという利点をもっているが、しかしまたそうする責務をももつのである。かかる概念は、絶対的統一体としての悟性から、夾雑物をひとつも交えずに純粋に生じるものであり、従ってこれらの概念自身もまた一個の概念或いは理念に従って互いに関連していなければならない」(p.140)と述べているが、これはどういうことか。純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見する方法はどのようなものだと説明されているか。

 この論点に関しては、時間の関係もあり、また概ね見解が一致していたこともあって、軽く確認する程度で済ませました。

 まず、引用されたカントの文章については、次のような見解が出されました。すなわち、カントによれば、直観や感性に属するのではなく思惟と悟性とに属し、経験的概念ではない純粋悟性概念を完全に、余すところなく把握することは、先験的哲学によって可能となるのであるが、単に可能であるという段階で留まるべきではなくて、それは先験的哲学の責務であるというのである、そして、ア・プリオリな概念の生みの親である悟性を出発点として、ここから一切の経験的要素を交えることなく純粋悟性概念を分析していく必要があるわけだが、ここでアリストテレスのように、何の原理もなく探し求めていくというのではなくて、判断する能力という1個の原理から生み出していく、それも個々の純粋悟性概念が体系的に的確に分類されることを持って完全性を保証する形で探求していく必要がある、というのがこの引用文の趣旨であるということでした。この見解については、概ね賛同されました。

 次に、純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見する方法はどのようなものかという問題についてですが、これは概ね見解が一致しました。つまり、悟性の一切の作用は判断に還元できる(悟性は判断の能力である)のであり、判断は表象を統一する機能であるから、判断における統一の機能を完全にあますところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能(純粋悟性概念)は経験的要素を交えずに純粋に残らず発見できる、ということでした。そして、この主張に基づいて、判断一般からその一切の内容を度外視して判断の悟性形式だけに着目することによって、カントは12個の判断様式を導きだし、これに基づいてカテゴリー表を創り出したということでした。

 簡単ですが、以上でこの論点に関する議論を終えました。
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2017年06月12日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(7/10)

(7)論点1:カントのいわゆる論理学とはどのようなものか

 前回は、カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他の部分のうち、ポイントとなる部分を改めて振り返った後、5月例会で提出された3つの論点を紹介しました。

 今回から、その3つの論点について順次検討した内容を紹介していきたいと思います。まず1つ目の論点として挙げられたのは、カントが論理学をどのように捉えていたのかを問う論点です。

論点1:カントのいわゆる論理学とはどのようなものか

 カントは論理学をどのようなものとして整理しているのか。特に先験的論理学はその中にどのように位置づけられているか、一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論に区分する必要性はどのようなものか、カントの論理学はアリストテレスの論理学とはどのような関係にあるのか、またヘーゲルの論理学はこれらとどのように異なっているのかを中心に議論したい。

 この論点については、まず、カントが論理学をどのようなものとして整理しているのかについて確認しました。この点については、各自の見解に大きな差異はありませんでした。まとめると、論理学は悟性が認識の一切の対象とその差別を度外視して、悟性自身と悟性の形式だけを問題にするものであり、与えられた知識を判定するための前提となるものであって、感性を扱う感性論と対をなすものだということでした。

 次に、先験的論理学の位置づけについてです。まず全員に共通していたのが、論理学を一般的な悟性使用についての論理学である一般論理学と、特殊な対象へ悟性を使用するための論理学とに区分し、前者である一般論理学をさらに、我々が悟性を使用する場合の一切の経験的条件(感覚の影響、想像力の活動、記憶の法則、習慣の力、情意的傾向等々)を一切度外視し、悟性および理性の使用の形式的方面だけに関係し、内容の如何を問わない純粋論理学と、これらの経験的条件を考慮した応用論理学とに分けているという把握でした。このカントの分類を確認した上で、先験的論理学とはどういうものかについて議論しました。この点についても大きな見解の相違はありませんでした。すなわち、先験的論理学とは、要するに我々が対象をア・プリオリに思惟するための条件であり、経験的起源も感性的起源も全く持たない純粋悟性概念に関する学であるということでした。

 ここでチューターから、今議論した先験的論理学というものは、先に区分された一般論理学や純粋論理学とどのような関係にあるのか、という疑問が呈せられました。この論点については、特殊な対象へ悟性を使用するための論理学である個々の学のオルガノンとはどういうものかをまずはイメージすべきであるとか、応用論理学は心理学だということをヒントに考えるべきではないかとか、一般論理学は認識の起源を問題にしないが先験的論理学は認識の起源を問うという違いがあるのではないかとか、諸々の意見が出されました。結局、一般論理学では雑多な概念を扱うが、先験的論理学では認識にもともと備わっている概念だけを扱うという違いがある、という共通理解を確認するまでで(時間の関係もあって)切り上げました。

 一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論に区分する必要性については、以下のような共通した理解が示されました。すなわち、一般論理学であれ、先験的論理学であれ、論理学が問題にできる真理というものは形式に関するものであって、内容に関するものではあり得ない、だからある認識が真理であるための形式を明らかにするのが論理学であって、このことをカントは分析論と呼んでいるのである。一方で、この分析論を誤用して、ある認識が形式的に真理であるという規準に過ぎない分析論でもって実質的真理を与え得るかのように純粋悟性の使用を説明するとすると、これは弁証法的仮象であって、この弁証法的仮象を批判する部分が弁証論である、ということでした。

 カントの論理学がアリストテレスの論理学とはどのような関係にあるのかに関しては、カントの論理学がアリストテレスの論理学を踏まえつつも、人間の認識が成立する条件という観点から深めて、人間の悟性のア・プリオリな形式を明らかにしようとするものであったこと、アリストテレスのカテゴリーは何らかの原理に基づいて体系的に配置されたものではないのに対して、カントのカテゴリーは判断する能力という1個の原理に基づいて導き出されたものであって、全体が4つの綱目から成り、さらに各綱目を形成する3つのカテゴリーについても第1のカテゴリーと第2のカテゴリーを結合して第3のカテゴリーが生じるといった体系性があることを確認しました。なお、この議論の中で、ある会員がアリストテレスの論理学に関して、「ノウハウレベルのものだった」と述べたことに対して、別の会員からは、アリストテレスの論理学をノウハウレベルだったという理解で分かった気になってしまってはいけないのではないかと指摘し、その見解に全員がうなずきました。

 最後に、ヘーゲルの論理学はこれらカントおよびアリストテレスの論理学とどのように異なっているのかという問題についてです。この論点については、アリストテレスやカントの論理学があくまでも人間の思惟に関する法則を明らかにしようとしていたのに対して、ヘーゲルの論理学は、思惟=存在という大前提を強調して、この世界の創造に先立つ神の思考(この世界の設計図を描くようなもの)として、思惟法則であると同時に(直接に)客観的世界それ自体がもつ法則を明らかにするものとして位置づけられているという見解が出されました。これに関連して、「この世界の創造に先立つ」という部分について、へーゲルの論理学は、絶対精神が自然に外化する前、時間及び空間という規定を獲得する前であり、絶対精神が自然から精神へという客観的なものから主観的なものへの発展過程を辿る前に、その基本的な設計図を描き上げてしまうものであるという説明もなされました。また、端的には運動性が大きく異なるとして、カントにしてもアリストテレスにしても、個々のカテゴリーが他と明確に区別され対立する形になっているが、ヘーゲルの論理学においては、絶対精神の自己運動という形で個々の概念の運動過程として論理学が展開されているのであって、単に10個や12個のカテゴリーに関してだけではなくて、世界の森羅万象に絶対精神の自己運動という設計図でもって筋を通し切った点が、ヘーゲルの論理学の大きな特徴であるという見解も出されました。どの見解についても、大筋で全うなものだということになりました。

 以上でこの論点に対する議論を終了しました。
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2017年06月11日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところを振り返っておきたいと思います。

 まずカントは、感性の規則一般に関する学である感性論を、悟性一般の規則に関する学である論理学から区別します。そして論理学については、その目的によって、一般的な悟性使用の論理学である一般論理学と、特殊な悟性使用の論理学である個々の学のオルガノンとに区別するのです。さらにカントは、一般論理学を純粋論理学と応用論理学とに分類し、前者は我々が悟性を使用する場合の一切の経験的条件を全て度外視するものであるのに対して、後者は心理学の提示する主観的、経験的条件のもので悟性を使用する規則に関する学だと主張するのです。

 さらにカントは、対象にア・プリオリに関係するような概念を想定し、我々が対象を全くア・プリオリに思惟するための条件であるところの純粋悟性に関する学を先験的論理学と呼びます。そしてカントは、一般論理学も先験的論理学も分析論と弁証論とに区分するのです。分析論とは、悟性による認識の形式に関する仕事全体をその要素に分解して、これを我々の認識を吟味する一切の論理的判定の原理として提示するもので、弁証論とは、この分析論が論理的判定の規準でしかないのに、客観的主張を実際に作り出せるものだとして誤用された場合の欺瞞を暴露し、その弁証法的仮象の批判に関する学だとされていました。

 続いてカントは、全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて説明していきます。まずカントは、判断について、我々の表象を統一する機能であり、悟性の一切の作用を判断に還元することができると主張します。その上で、判断における統一の機能を完全に余すところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見できるとして、判断における思惟の機能を4綱目に区分し、さらにまた各綱目が3個の判断様式を含むものだとして、合計12個の判断様式を提示するのです。

 最後にカントは、表象の純粋総合を概念に形成することを教えるのが先験的論理学であるとした上で、判断の含む種々な表象に統一を与えるのと同じ機能が、直観の含む種々な表象の単なる総合そのものにもまた統一を与えるのであって、この統一を一般的に表現したものとして、12個の純粋悟性概念を導き出すのでした。

 以上のような内容について、例会では大きく3つの論点が提示されました。そして、各論点をめぐって様々な議論・討論がなされていきました。そこで今回は、その3つの論点を紹介したいと思います。次回以降、それぞれの論点をめぐってなされた討論過程と、その結果どのような(一応の)結論に到達したのかということを詳しく紹介していく予定です。

論点1:カントのいわゆる論理学とはどのようなものか

 カントは論理学をどのようなものとして整理しているのか。特に先験的論理学はその中にどのように位置づけられているか、一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論に区分する必要性はどのようなものか、カントの論理学はアリストテレスの論理学とはどのような関係にあるのか、またヘーゲルの論理学はこれらとどのように異なっているのかを中心に議論したい。

論点2:全ての純粋悟性概念を残らず発見する方法とはどのようなものか

 カントは、「先験的哲学は、純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見するという利点をもっているが、しかしまたそうする責務をももつのである。かかる概念は、絶対的統一体としての悟性から、夾雑物をひとつも交えずに純粋に生じるものであり、従ってこれらの概念自身もまた一個の概念或いは理念に従って互いに関連していなければならない」(p.140)と述べているが、これはどういうことか。純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見する方法はどのようなものだと説明されているか。

論点3:純粋悟性概念とはどのようなものか

 カントは、純粋悟性概念すなわちカテゴリーに関して、どのようなものだと述べているか。また、カントは判断の機能からカテゴリー表を導いているが、判断とはどのようなもので、判断と純粋悟性概念はどのような関係にあるのか。このカテゴリー表について、ヘーゲルはどのように評価しているか。唯物論の立場から評価するならば、どのようなことがいえるか。
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2017年06月10日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約A

 前回は、悟性の論理的使用について、また判断における悟性の論理的機能について説かれている部分の要約を紹介しました。そこでは、悟性の一切の作用を判断に還元することができること、判断における統一の機能を完全にあますところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見できることが説かれ、判断が12個に分けて説かれていました。

 今回は純粋悟性概念すなわちカテゴリーについて説明されている部分の要約を紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

10 

第3節 純粋悟性概念すなわちカテゴリーについて

 一般論理学は、認識の一切の内容を度外視して、表象が他所から与えられることを待っており、これらの表象を概念に変じるのであるが、表象から概念を構成する操作は分析的に行われる。これに反して先験的論理学は、感性においてア・プリオリに与えられた多様なものをすでにもっている。空間および時間は、我々の心意識の受容性の条件であり、我々の心意識はこうした条件のもとでのみ対象の表象を受け取りうるのである。したがって、これらの条件は、常に対象の概念にも影響を与えざるをえない。しかし、我々の思惟の自発性は、こうした多様なものをまずある仕方で通観し、これを取りまとめ、さらにまたこれらを結合して、この多様なものから認識を構成しようとする。こうした思惟作用を、私は総合と名づける。
 しかし私はまた総合を最も一般的な意味に解して、種々な表象を互いに加え合わせて、その多様をひとつの認識に統括する作用であるとする。多様なものの総合によって作り出される認識は、なるほど最初は未整理で乱雑なものであり、したがって分析を必要とするかもしれない。しかしもともとこれらの多様な要素を結合してある内容とするところのものがすなわち総合なのである。したがって総合は、我々が認識の起源を究明しようとする場合、まず着目せねばならないものである。
 およそ総合は、構想力の作用にほかならない。構想力がなければ、我々は全く認識をもちえないが、それにもかかわらず我々がそれを意識することは稀である。
 一般的に表象された純粋総合は純粋悟性概念を与える。しかし私はこの純粋総合を、ア・プリオリな総合的統一を基礎とする総合と解する。
 種々な表象は分析によって1個の概念のもとに包括される(これは一般論理学の仕事である)。ところが表象でなくて表象の純粋総合を概念に形成することを教えるのは先験的論理学である。およそ対象をア・プリオリに認識するために、我々に与えられていなければならないものは、第一に純粋直観における多様なものであり、第二に構想力によるこの多様なものの総合であるが、しかしこれだけではまだ認識を与ええない。そこでこうした純粋総合に統一を与え、またこの必然的、総合的統一の表象にほかならないところの概念が、当面の対象に必要な第三のものを加える。これらの概念は全て悟性に基づいているのである。
 判断の含む種々な表象に統一を与えるのと同じ機能が、直観の含む種々な表象の単なる総合そのものにもまた統一を与える。この統一を一般的に表現したものがすなわち純粋悟性概念である。
 そこで直観の対象一般にア・プリオリに関係する純粋悟性概念が、善計の判断表に列挙された一切の可能的判断の論理的機能とちょうど同じ数だけ生じるわけである。我々はこれらの概念を、アリストテレスにならってカテゴリーと名づける。

カテゴリー表
1、分量 単一性/数多性/総体性
2、性質 実在性/否定性/制限性
3、関係 付属性と自存性/原因性と依存性/相互性
4、様態 可能―不可能/現実的存在―非存在/必然性―偶然性

 悟性はみずからのうちにこれらの概念をア・プリオリに含んでいる。悟性はこれらの純粋悟性概念によってのみ直観における多様なものについて何かあることを理解しうる。上記のカテゴリー表の区分は、共通な1個の原理、すなわち判断する能力にもとづいて体系的に作成されたもので、純粋概念を手当たり次第に探し出して、互いに連絡もなしに寄せ集めたものではない。

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 上掲のカテゴリー表は、悟性の一切の基本概念を余すところなく含んでいるばかりか、人間悟性における基本概念の体系の形式をすら含み、したがってまた何らかの思弁的な学が企てられる場合には、こうした学の一切の要件に関してのみならず、これらの要件の秩序についても指示を与えるのである。ここで2、3の注意を述べておきたい。
 注の1 悟性概念の4綱目を含むカテゴリーは、直観の対象に関係する分量と性質(数学的カテゴリー)、対象の実際的存在に関係する関係と様態(力学的カテゴリー)とに2分される。
 注の2 これら4綱目は、いずれも3個ずつのカテゴリーを含み、第三のカテゴリーは常に第一のカテゴリーと第二のカテゴリーの結合から生じている。総体性のカテゴリーは単一性と見なされた数多性、制限性は否定性と結合した実在性、相互性は他の実体と相互的に規定し合う実体の因果性、必然性は可能ということによって与えられた実際的存在にほかならない。第一の概念と第二の概念との結合によって第三の概念が成立するためには、悟性の特殊な活動が必要である。
 注の3 相互性のカテゴリーだけは、論理的機能の表〔判断表〕において対応する選言的判断との一致が、他のカテゴリーとこれに対応する判断形式との一致ほど明白でないので、次のことを付言する必要がある。およそ選言的判断においては、判断の全範囲はいくつかの部分に区分された全体と見なされてよい。選言的判断では、ひとつの部分は他のいかなる部分のもとにも包括させられないわけだから、これらの部分は互いに並列的であって従属的ではない。したがってまた系列において見られるように、互いに一方的な関係をなすものではなくて、集合体におけるように相互的に規定し合うものと考えられるのである。

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 スコラ哲学者のあいだで有名であった命題「およそ実在するものは一者、真および善である」において、物に付け加えられる先験的述語〔一者、真および善〕は、それぞれ分量のカテゴリー、すなわち単一性、数多性および総体性を認識の根底においている。ただこれらのカテゴリーは、実質的に解されねばならないのに、つまり物そのものを可能ならしめる条件と解されねばならないにもかかわらず、彼らはこの3カテゴリーを、実際には単なる形式的な意味に解し、およそ認識に関する論理的要求に属するものとして使用しながら、しかも元来は思惟の標徴であるところのものを、不用意にも物自体の特性としたのである。
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2017年06月09日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約@

 前回は、一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論とに区分することについて説かれている部分の要約を紹介しました。そこでは、論理学について、認識が正しいといえる形式の基準を与える分析論と、分析論を誤用して客観的主張を創り上げるものであるとする弁証論とに分けてカントが説明していることが論じられていました。

 さて今回は、悟性の論理的使用について、また判断における悟性の論理的機能について説かれている部分の要約を紹介します。

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先験的論理学

第1部 先験的分析論

 この分析論は、我々のア・プリオリな全認識を、純粋悟性認識の諸要素に分析することを趣旨とする。その場合に4つの要件がある。(1)ここでいう概念は純粋概念であって経験的概念ではない、(2)これらの概念は直観や感性に属するものではなく、思惟と悟性に属する、(3)これらの概念は基本的概念であって、派生的概念、合成された概念ではない、(4)これらの概念の表は完全であって、純粋悟性概念の全領域をあますところなく包括する。こうした完全性は、ア・プリオリな悟性認識の全体という理念と、この認識を構成する全ての概念をこうした理念に基づいて的確に分類することによってのみ、したがってこれら概念を関連させてひとつの体系とすることによってのみ成立しうる。先験的論理学の先験的分析論の部分は、純粋悟性概念を含む概念の分析論と、純粋悟性の原則を含む原則の分析論の2篇からなる。

第1篇 概念の分析論

 ここでいう「概念の分析論」とは、悟性能力そのものの分析である。ア・プリオリな概念をその出生地である悟性においてのみ求め、悟性の純粋使用を分析することでこれら悟性概念の可能を究明する。

第1章 全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて

 先験的哲学は、純粋悟性概念を1個の原理にしたがって残らず発見するという利点をもち、またそうする責務をもつ。こうした概念は、絶対的統一体としての悟性から夾雑物をひとつも交えずに純粋に生じるものであり、したがってこれらの概念自身もまた1個の概念あるいは理念に従って互いに関連していなければならない。

第1節 悟性の論理的使用一般について

 悟性の認識、少なくとも人間悟性の認識は、例外なく概念による認識であり、直観的ではなく論証的な認識である。悟性は概念を判断に用いうるだけであるが、概念が直接に関係するのは対象そのものではなくて、対象に関する何らかの表象である。すると判断は、対象の間接的認識であり、したがってまた対象の表象のそのまた表象である。およそ判断には他の多くの概念にも通用するような概念がある。例えば、「全て物体は可分的である」という判断において、可分的という概念は物体という概念以外の他の多くの概念にも関係するし、物体という概念はまた我々に現われる色々な現象に関係する。このように、あらゆる判断は、我々の表象を統一する機能である。つまり対象に直接に関係するひとつの表象の代わりに、この表象をもまた他の多くの表象をも含むようないっそう高次の表象があって、この表象が対象の認識に使用されると、多くの可能的認識がひとつの認識にまとめられるのである。ところで我々は悟性の一切の作用を判断に還元することができるから、悟性は判断の能力と考えられてよい。悟性は思惟の能力だからである。思惟は、概念による認識である。しかし概念は、可能的判断の述語としては、まだ規定されていない対象の表象に関係する。そこで物体という概念は、この概念によって認識されうるような何かあるもの、例えば金属をも意味する。このように物体の概念は、この概念のもとに含まれている他の表象を介して対象に関係しうるからこそ概念なのである。したがってこうした概念はある可能的判断、例えば「全ての金属はいずれも物体である」というような判断の述語になるのである。それだからもし我々が、判断における統一の機能を完全にあますところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見できるわけである。

第2節 判断における悟性の論理的機能について

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 判断一般からその一切の内容を度外視して判断の悟性形式だけに着目すると、我々は判断における思惟の機能が4綱目に区分され、さらにまた各綱目が3個の判断様式を含むことを知る。これらは次のように示される。

判断の
1、分量 全称的判断/特殊的判断/単称的判断
2、性質 肯定的判断/否定的判断/無限的判断
3、関係 定言的判断/仮言的判断/選言的判断
4、様態 蓋然的判断/実然的判断/必然的判断
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2017年06月08日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約A

 前回は、論理学一般及び先験的論理学が取り上げられている部分の要約を紹介しました。ここでは、心意識の受容性が感性であり、認識の自発性が悟性であること、悟性の一般規則に関する学が論理学であり、これは一般論理学と応用論理学に区分できること、先験的論理学とは対象を全くア・プリオリに思惟するための条件であるところの純粋悟性および純粋理性認識に関する学であることなどが説かれていました。

 今回は、一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論とに区分することについて説かれている部分の要約を紹介しましょう。

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V 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて

 昔から論理学者を窮地に追い込んできたのは真理とは何かという問題である。この場合「真理とは認識とその対象との一致である」という定義は前提されている。しかし我々の知ろうとするのは、およそ認識の真理を表示する確実な普遍的標徴は何であるか、ということである。
 真理が、認識とその対象の一致にあるならば、この対象はその他の対象から区別されなければならない。もしある認識がその関係する対象と一致しなければ、たとえその他の対象には十分に妥当するところのものを含んでいるにしても、この認識は偽である。ところで真理の普遍的標徴であるからには、認識の関係する対象の差異にかかわりなく、一切の認識に妥当するものでなければなるまい。するとこういうことが明らかになる。それは――真理すなわち真なる判断のこうした普遍的標徴にあっては、一切の認識内容(認識とその対象との関係)は全て度外視される、ところが他方で真理がまさに認識の内容に関するとしたら、こうした認識内容を真であるとするところの標徴は何かと問うのは、全く不可能でありまた不合理でもある、したがって真理の十分でしかも同時に普遍的な標徴は示されえない、ということである。真理の普遍的標徴なるものは、内容に関する認識の真理には要求できない。そうすることは自己矛盾だからである。
 しかし、単に形式だけから見た認識についていえば、一般論理学が悟性の普遍的、必然的規則を提示するものである限り、これらの規則においてこそ真理の標徴が開顕されねばならないということも同様に明らかである。こうした規則に矛盾するものは全て偽である。悟性は、思惟に関してみずから確立した法則に矛盾し、したがってまた自己矛盾に陥ることになるからである。しかし、こうした真理の標徴は真理の形式、換言すれば思惟一般の形式のみに関するものであり、不十分である。ある認識が、論理的形式には完全に一致し、自己矛盾を含まないにしても、この認識はなおその対象に矛盾するということがありうるからである。一般論理学は、形式に関する誤謬ではなくて内容に関する誤謬を発見しうるような基準をもたない。
 ところで一般論理学は、悟性および理性による認識の形式に関する仕事全体をその要素に分解して、これを我々の認識を吟味する一切の論理的判定の原理として提示する。それだから一般論理学のこの部分を「分析論」と名づけてよい。しかし認識の単なる形式は、いかに論理的法則と一致していようとも、この認識に関する実質的(客観的)真理を与えるにはまだまだ不十分である。一般論理学は、もともと論理的判定の規準(カノン)でしかないのに、まるでオルガノンででもあるかのように客観的主張を実際に作り出したり、あるいは少なくとも客観的主張らしく見えるまやかし物を拵えあげたりすることに使われてきたし、また実際にもこうして誤用されたのである。そこでオルガノンと誤想された一般論理学は、弁証論と呼ばれるのである。
 昔の学者たちが、弁証論という名称をまちまちの意味で用いたが、弁証論は彼らにあっては仮象の論理学にほかならなかった。すなわち彼らの無知あるいはそれどころか彼らが故意に拵えあげたまやかし物を真理の概観で装うとする詭弁術であった。オルガノンと見なされた一般論理学は常に仮象の論理学であり、したがってまた弁証的である。一般論理学はもともと認識内容については我々に全く教えるところがなく、ただ悟性と一致する形式的条件、つまりいずれにせよ対象にいささかもかかわりのない条件を示すだけにすぎない。
 私は弁証的仮象の批判に関する部分を弁証論と名づけて、この論理学のなかに加えた。

W 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区分することについて

 先験的論理学では、我々は悟性を孤立させ、また思惟の部分――しかもその起源が全く悟性にのみ存するような部分だけを、我々の認識からそっくり取り出すのである。しかしこうした純粋認識の使用は、この認識の適用されうる対象が直観において我々に与えられているということに基づくものであり、またこのことを認識の条件としているのである。直観がないと我々の認識は対象を欠くことになり、認識は全く空虚になってしまうからである。先験的論理学のこうした部分は、純粋な悟性認識の諸要素と、対象が思惟されうるためには絶対に欠くことのできない諸原理とを論述する学である。それだからこの部分は、先験的分析論であると同時に真理の論理学である。もし認識がこの学に矛盾するなら、それと同時に一切の認識内容が失われるからである。換言すれば、認識の対象に対する一切の関係が失われ、したがってまた一切の真理が失われるのである。質料(対象)を我々に与えるのは経験だけであり、こうした質料に純粋悟性概念が適用されうるのであるが、純粋な悟性認識および悟性の原則だけを用いて、経験の一切の限界を超出するということは、悟性にとって非常な魅力でありまた誘惑である。そこで悟性は、空疎な思弁を弄して純粋悟性の単なる形式的原理を実質的に使用し、また我々に与えられていないどころか、おそらくは決して与えられえないような対象について、見境なく判断を下すという危険を冒すのである。先験的分析論は、もともと悟性の経験的使用を判定する基準にすぎないはずなのに、もし我々がこれにオルガノンとしての普遍的使用を許し、純粋悟性だけでもって対象を総合的に判断し主張しまた決定するという僭越をあえてすると、この分析論の誤用が生じるのである。そうなると純粋悟性の使用は、弁証的になるだろう。それだから先験的論理学の第2部は、こうした弁証的仮象の批判でなければならない。この部分は先験的弁証論と名づけられるが、それは弁証的仮象を独断論的に作りあげる技術としてではなく、悟性および理性をその超自然的使用に関して批判する学としてである。この先験的弁証論は、悟性および理性のこうした越権が何ら根拠をもたないにもかかわらずあたかも正当な権利を有するように装っている欺瞞を暴露し、またこの両者が先験的原則のみをもって認識における発明や拡張なるものを達成しようとする大それた要求を引き下げて、ただ純粋悟性を批判するにとどめさせて、純粋悟性が詭弁的な迷妄に陥らないよう配慮するためである。
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2017年06月07日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約@

 前回は、京都弁証法認識論研究会の5月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回に渡って、カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想等の部分の要約を紹介していくことにします。

 今回は、論理学一般及び先験的論理学が取り上げられている部分の要約を紹介します。

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先験的原理論

第2部門 先験的論理学

緒言 先験的論理学の構想

T 論理学一般について

 我々の認識は心意識の2つの源泉から生じる。第一の源泉は、表象を受け取る能力であり、第二の源泉は、これら表象によって対象を認識する能力である。第一の能力によって対象が与えられ、第二の能力によって対象がこれら表象との関係で思惟される。直観と概念とが我々の一切の認識の要素であり、自分に対応する直観をもたない概念も、概念をもたない直観も、それだけでは認識になりえない。この両者はいずれも、純粋であるか経験的であるかどちらかである。直観なり概念なりが感覚を含んでいれば経験的であるし、感覚を交えていなければ純粋である。感覚は感性的直観の質料と呼べる。純粋直観は形式だけを含み、この形式によって何かあるものが直観されるのである。また純粋概念は対象一般を思惟する形式だけを含んでいる。こうした純粋直観あるいは純粋概念のみが、ア・プリオリに可能であり、経験的直観あるいは経験的概念はア・ポステリオリにのみ可能である。
 我々の心意識の受容性は、心意識が何らかの仕方で触発される限りにおいて、表象を受け取る能力である。この受容性を感性と名づけるなら、自ら表象を生み出す能力、すなわち認識の自発性は悟性である。感性がなければ対象は我々に与えられないし、悟性がなければいかなる対象も思惟されない。この2つの能力は、各自の機能を互いに交換することはできない。悟性は何ものも直観できないし、感性は何ものも思惟できない。両者が結合してのみ認識が生じうるのである。しかし、だからといって両者の持ち分を混同してはならない。感性の規則一般に関する学すなわち感性論を、悟性の一般規則に関する学すなわち論理学から区別するのはそのためである。
 論理学は2通りの目的をもって論究される。すなわち一般的な悟性使用の論理学としてであるか、特殊な悟性使用の論理学としてであるか、である。前者は思惟の絶対的に必要な規則を含み、悟性がどんな対象に使用されようと対象の差異を無視して悟性の使用だけを論究する。後者はある種の対象について正しく思惟する規則を含む。前者は基本的論理学、後者は個々の学のオルガノンと名づけることができる。後者は学がすでに出来上がってこれを修正し完成させるために、最後の仕上げを必要とするときに初めて達するものである。
 一般論理学は純粋論理学であるか応用論理学であるかどちらかである。純粋論理学においては、我々が悟性を使用する場合の一切の経験的条件、例えば感覚の影響、想像力の活動、記憶の法則、習慣の力、情意的傾向などはもとより、種々の成見の源も全て度外視される。それどころか、ある種の認識を我々に生じさせたり、こうした認識を我々の認識とひそかにすりかえたりするような一切の原因もまたことごとく無視される。こうしたものは悟性がある事情のもとで適用される場合にのみ悟性に関係するが、これらの事情を知るには経験を必要とするからである。だから一般的であってしかも純粋な論理学は、ア・プリオリな原理のみを論究し、悟性および理性の規準になるが、その場合にも悟性および理性の使用の形式的方面だけに関係し、内容の如何を問わないのである。この一般論理学は応用論理学と呼ばれることもあるが、それは一般論理学が、心理学の提示する主観的、経験的条件のもとで悟性を使用する規則に向けられた場合である。それだから応用論理学は、対象の差異に関わりなく悟性使用を論じる限りでは一般的といえるにせよ、やはり経験的原理を含んでいるのである。
 こういうわけで、一般論理学においては、純粋理性の学をなすべき部分を、応用論理学を成す部分から画然と区別しなければならない。前者すなわち一般的な論理学だけが本来の学である。この学について常に2条の規則を念頭に置かなければならない。
(1)この学は一般論理学としては悟性認識の一切の内容と認識の対象の差異とを度外視して思惟の単なる形式のみを論じるものである。
(2)この学は純粋論理学としては、経験的原理を一切含まない。したがってまた心理学から何ひとつ借用しない。
 私がここで応用論理学と名づけるのは、悟性と悟性の具体的ではあるがしかし必然的な使用の規則を含むところの学である。

U 先験的論理学について

 一般論理学は、一切の認識内容――換言すれば、認識と対象との一切の関係を度外視して、認識相互の関係における論理的形式、すなわち思惟一般の形式だけを考察する。直観には、純粋直観と経験的直観とがあり、対象を考える場合にも、純粋思惟と経験的思惟との区別がありうる。そうすると認識内容を必ずしも全て度外視しないような論理学が別に成立することになるだろう。対象の純粋思惟に関する規則だけを扱う論理学の方は、経験的内容を含むような一切の認識を排除するからである。そして認識内容を必ずしも全て排除しないような論理学はまた、対象に関する我々の認識の起源をも究明することになるだろう。もちろん認識の起源といっても、それは認識の対象に求められうるようなものではない。ところが一般論理学では、認識の起源などは一切問題にしないのである。一般論理学は、表象が我々のうちにア・プリオリに与えられていようが経験的に与えられていようが頓着なく、悟性が思惟において表象を互いに関係させつつ使用する場合に準拠するところの法則に従ってのみこれらの表象を考察するだけである。
 今後の考察の全般にわたって影響を及ぼす注意すべき事柄がある。ア・プリオリな認識でありさえすればすべて先験的認識だというのではなく、先験的と呼ばれねばならない認識は、ある種の表象がア・プリオリにのみ適用されア・プリオリにのみ可能であるということと、こうした表象がどうしてア・プリオリにのみ適用されまたア・プリオリにのみ可能であるかということとを、我々がそれによって認識するような認識にほかならない、ということである。それだから、空間にせよ空間のア・プリオリな幾何学的規定にせよ、それはいずれも先験的表象ではない。先験的と呼ばれ得るのは、こうした表象が経験的起源を全くもっていないという認識と、それにもかかわらずこれらの表象が経験の対象にア・プリオリに関係することの可能とだけである。同様に対象一般に空間表象を適用することも先験的といえるだろうが、この適用が感官の対象だけに限定されるなら、こうした使用は経験的だといわれる。
 そこで我々は、対象にア・プリオリに関係するような概念、つまり純粋直観としてでもなければ経験的直観としてでもなくて、全く純粋思惟の作用としてのみ対象に関係し、したがってまた経験的起源をも感性的起源をも全くもたないような概念が多分ありうるだろうということを期待して、我々が対象を全くア・プリオリに思惟するための条件であるところの純粋悟性および純粋理性認識に関する1個の学の理念をあらかじめ構想するわけである。このような学は先験的論理学と呼ばれてしかるべきであろう。
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2017年06月06日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約@
(3)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約A
(4)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約@
(5)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約A
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:カントのいわゆる論理学とはどのようなものか
(8)論点2:全ての純粋悟性概念を残らず発見する方法とはどのようなものか
(9)論点3:純粋悟性概念とはどのようなものか
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 5月例会では、『純粋理性批判』の先験的論理学の構想その他を扱いました。今回の範囲は次のような構成になっています。

第2部門 先験的論理学
 緒言 先験的論理学の構想
  T 論理学一般について
  U 先験的論理学について
  V 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて
  W 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区分することについて
 第1部 先験的分析論
  第1篇 概念の分析論
   第1章 すべての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて
    第1節 悟性の論理的使用一般について
    第2節 判断における悟性の論理的機能について
    第3節 純粋悟性概念即ちカテゴリーについて

 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

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京都弁証法認識論研究会 2017年5月例会
カント『純粋理性批判』
先験的論理学 緒言
〜すべての純粋悟性概念を発見する手引きについて

1.先験的論理学について
 カントは、論理学を一般的な悟性使用についての論理学(一般論理学、基本的な論理学)と、特殊な対象へ悟性を使用するための論理学に分けている。一般論理学は、我々が悟性を使用する場合の経験的条件(感覚、想像力、記憶、習慣、情意的傾向等々)を度外視した純粋論理学と、これら経験的条件を考慮した応用論理学とに分かれるが、純粋理性の学の一部をなすのはあくまでも純粋論理学である、とされる。
 カントは、(従来の)一般論理学について、表象がア・プリオリに与えられようが経験的に与えられようが頓着なく、悟性が思惟において表象を互いに関係させつつ使用する場合に準拠するところの法則に従ってこれらの表象を考察するだけである、と指摘する。その上で、経験的起源をも感性的起源をも全くもたず、全く純粋思惟の作用としてのみ対象に関係する概念(我々が対象を全くア・プリオリに思惟するための条件)について究明する学が先験的論理学である、とする。
 カントは、一般論理学について、真理の普遍的標徴を明らかにしようとする(形式に関する誤謬を発見する)だけで、内容に関する誤謬を発見しうるような基準をもたないと指摘して、思惟が正しいといえる一般的な形式を明らかにする「分析論」と、論理的判定の規準でしかないものから客観的主張(らしく見えるもの)を拵えあげてしまう「弁証論」とに区分する(後者は内容に関する誤謬を発見できないという限界に無自覚であったからこそ生じてしまったものである)。
 カントは、先験的論理学は純粋な悟性認識の諸要素と対象が思惟されうるためには絶対に欠くことのできない諸原理とを論述する学なのだから、この部分は分析論である(真理であるための形式を明らかにする)と同時に真理の論理学である(この学に矛盾すれば一切の認識内容が消失する)と主張する。この先験的分析論は、もともと悟性の経験的使用を判定する基準にすぎないのだから、もし純粋悟性だけでもって対象を総合的に判断し主張しまた決定しようとするのなら、それは分析論の誤用である。こうした誤用から生じる弁証的仮象を批判するのが、先験的弁証論である。

〈報告者コメント〉
 カントのいわゆる純粋理性の学は、人間の認識はいかなる条件で成立しているのか、という問題意識に徹頭徹尾貫かれたものであるといえるだろう。人間はこの世界を正しく捉えることができるかどうか、という思惟と存在に関わる根本問題について、思惟の構造を徹底して究明することで、その解決に迫ろうとしたのがカントであったことを、改めて確認しておきたい。
カントは、人間の認識について、感性・悟性・理性の3つの部分に分けて、それぞれがもともとどのような形式を備えているのかを考察している。これが先験的な究明ということである。感性(対象を感覚的に直観する能力)にもともと備わっている形式を究明するのが先験的感性論、悟性(直観で得られた多様な表象をまとめ上げて判断する能力)にもともと備わっている形式を究明するのが先験的論理学ということであろう(理性については、先験的論理学の第二部門たる先験的弁証論で扱われることになる)。
 この世界を捉えるため(この世界についての認識を成立させるため)に、人間の認識(頭脳)の側にもともとどのような形式が備わっているのか、というカントの問いの立て方(認識の根源的な性格に迫ろうとするもの)自体は高く評価されるべきであろう。もちろん、「もともと」(先験的)という捉え方が唯物論の立場からすれば問題になることはいうまでもないが。

2.悟性の判断という機能および純粋悟性概念(カテゴリー)について
 カントは、悟性は(思惟の能力であり概念による認識であるから)判断の能力、すなわち、我々の表象を統一する機能である、としている。つまり、諸々の具体的な表象(対象に直接に関係する表象)をより高次の(抽象的な)表象にまとめあげるのが悟性の判断だ、というわけである。ここからカントは、判断における統一の機能を完全に表示しさえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見することができるのだ、と主張している。
 カントによれば、この統一を一般的に表現したものがすなわち純粋悟性概念(カテゴリー)である。純粋悟性概念こそが、悟性にもともと備わっている思惟の形式であり、それは諸々の表象をまとめる判断という悟性の機能にもとづいているのだ、ということになるわけである。

〈報告者コメント〉
 多種多様な(雑多でそれ自体として脈絡のない)表象をまとめあげるための形式が人間の認識(頭脳)の側に備わってなければ、対象についての認識はまともに成立しない、というカントの着眼は、高く評価されるべきものであろう。これが、ヒューム的な因果律批判への解答というところからきていることも改めて確認しておきたい。
 カテゴリー表の4項目がそれぞれ3つから構成されていることも興味深い。ヘーゲルがこの点に注意を促して、第一のカテゴリーは積極的(肯定的)であり、第二は第一を否定するもので、第三は両者の総合だというのは、概念の偉大なる本能である、という評価を与えていたことも確認しておきたい。同時に、カントがこれらのカテゴリーを経験的に(判断という機能を観察することから)とりあげるだけで、思惟そのものの統一からこれらの差別を必然的なものとして展開することはできなかった、という批判が加えられていたことについて、カントの論理学とヘーゲルの論理学との差異という観点から、議論を深めておくことも必要であろう。
 唯物論の立場からすれば、これらのカテゴリーについて、ア・プリオリに(もともと)人間の認識に備わっている、と片付けてしまった点が批判されなければならない。唯物論の立場からすれば、これらのカテゴリーなるものは、あくまでも対象を反映した像を原点として、そこから抽象されて形成された論理像として捉えられなければならないのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上の報告に対しては、「1.先験的論理学について」の2段落目に「(従来の)一般論理学」という表現があるが、このカッコつきの「従来の」とはどういう意味かという質問が出されました。これに対してレジュメの執筆者は、カントは一般論理学と先験的論理学を区別して説いているようなので、この点を明確にするために、これまで一般的に用いられてきた一般論理学という言葉の前にカッコつきで「従来の」という表現を加えたのだと説明しました。この点については、論点の中で議論していくことを確認しました。
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