2017年05月21日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回までは3回にわたって、論点に関してどのような討論がなされ、どのような(一応の)結論が導き出されたのかについて報告してきました。

 さて、本例会報告の最終回である今回は、参加者のメンバーそれぞれの感想を掲載したいと思います。

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 今回は、カント『純粋理性批判』の空間論、時間論の部分を扱った。

 今回も、いつも以上に読み込んで例会に臨んだため、カントのいわんとしていることは理解できたつもりである。つまり、空間にしても時間にしても、カントによれば、どちらもそれ自体として存在するものではなく、物自体に付随して存在するものでもない、感性にア・プリオリに備わった主観的な形式であって、人間の認識は物自体ではなく、物自体に空間、時間という枠組みを与えることで生じてくる現象を把握できるに過ぎない、ということであった。

 ここまでは一応理解できるのであるが、このカントの論を唯物論の立場から評価するとどのようなことがいえるのか、このことについては、諸々の議論を行ったが、結局、明確なイメージを描き切るまでには至らなかった。そもそも、時間、空間の唯物論的な規定、すなわち「時間とはある一定の物質の運動の具体化の一般性、空間とはある一定の物質の静止の具体化の一般性」とはどういうことか、対象を時間、空間という枠組みで把握することと、時間、空間の概念規定とはどのように関係してくるのか、生まれたばかりの赤ん坊や人間以外の動物は、時間、空間という枠組みで対象を把握しているのか、時間、空間は論理といえるのか、といった様々な考察を行っていったのだが、最終的な結論を得るまでには至らなかった。

 とはいえ、こうした哲学上の根本的な問いに対しては、すぐに答えを出して分かったつもりになるのではなく、繰り返し繰り返し考え続けていき、集団としても議論し続けていくという姿勢が大事である、ということが実感として分かってきたことは大きな成果であったといえると思う。今後も、議論の過程で自分自身や他会員の認識がどのように発展していくのかという点にも意識を向けながら、自らの頭脳を鍛えていきたいと思う。

 次回は先験的論理学の第1部である先験的分析論に入っていく。チューターに当たっているので、今回よりもさらに徹底して読み込んでいって、カントの主張を理解する上で必須の論点をしっかりと提示し、論点の整理の後、筋の通った見解を執筆していきたいと思う。その上で、例会当日の議論がスムーズに展開できるよう、各自の見解をきちんとまとめておきたいと思う。

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 今回の例会では空間と時間ということが中心的なテーマとなった。カントの言おうとしていることは比較的明確に理解することができたのだが、では唯物論の立場から空間や時間をどのように把握すればいいのかという点については、なかなか明確な理解を得られなかったというのが正直なところである。

 ただ、空間や時間が厳密にわかっていることと、物事を空間的・時間的に把握していることは違うという点を理解できたのは収穫だった。これはたとえて言えば、日本語がどういう言語であるかを知っていることと、日本語を使えることは別だということになるだろう。また、空間と時間を比べたときに、現実に存在するのは世界の広がりであり、その世界が運動・変化していく過程を人間が記憶するということを踏まえると、空間というのは客観的に存在し、時間というのは人間のアタマの中にしか存在しないと感じられるという点は納得できる指摘であった。カントの空間と時間の区別もここにかかわってくるのかもしれないと思った。

 いずれにせよ、空間と時間ということは非常に難しいテーマであり、簡単にわかったつもりになってはならないものなのだろう。今後も折に触れて議論をして、「わかった!」という量質転化が起こるようにしたいと思う。

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 先月扱った「緒言」と同じく、「先験的感性論」についても、カントの議論の進め方は明快で、文章そのものはそれほど難解なものとは感じられなかった。

 論点をめぐる議論を通じては、唯物論の立場からの空間・時間の把握という問題について、(明確な結論は出し切れなかったものの)それなりに突っ込んだ議論を展開することができてよかったと思う。世界を空間的・時間的に把握するということと「空間とは何か」「時間とは何か」を概念規定しきることとは異なる(人間は力学を知る以前から力学的に運動している、というのと同じ)ということが確認できたのは良かったし、動物もまた空間的(あるいはまた時間的に)世界を把握しているのではないか、その意味で空間的・時間的な把握というのは本能的(=先天的)と考える余地があるのではないか、という問題が提起されて、動物が本能的に描く像と人間が問いかけ的に描く像(=認識)との連続性と断絶性という問題が大きく浮上させられたのも良かったと思う。これらの問題は、そう簡単に結論が出る(出たことにしてしまってよい)問題ではないと思うので、今後も折に触れて、集団的に議論を深めていきたいものである。

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 今回の範囲を読んで、カントが空間や時間についてどのように説いているのかは、おおよそ理解できた。すなわち、カントによると、空間も時間も、ア・プリオリに感性に備わっている形式であり、これがあるからこそ、現象の認識=経験が可能となるのである。他方、物自体と空間や時間は関係がなく、物自体が可能となるためには空間も時間も必要ない、ということである。

 しかし、この空間・時間を唯物論的に捉えるとどうなるか、については、これまで何度も議論してきたことではあるが、明確な結論に至らなかった。しかし、これまでにない認識の発展があったと思う。一つは、動物の描く本能的な像と、人間の描く認識の連続性と断絶はどのようなものか、という視点から、空間と時間を考えていくことができそうだ、ということが分かった点である。ここからもう少し広げると、赤ん坊がどのように対象をとらえているのか、空間や時間的に対象を捉えられるようになるというのはどのようなことか、というような点も、考えていくに値する問題だと感じた。他にも、脳に障害があって空間や時間を認識できない人の研究や、歴史的に人間が空間や時間をどのように捉えてきたかの歴史なども、調べる価値があると思った。

 いずれにせよ、空間・時間の問題は、これからもくり返し議論していく必要があるだろう。
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2017年05月20日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(9/10)

(9)論点3 カントは物自体と現象との関係に空間・時間の問題をどのように絡めて説明しているか

 前回は、カントは時間をどのようなものであると考えているかについての議論を紹介しました。今回は、カントは物自体と現象との関係に空間・時間の問題をどのように絡めて説明しているかについて議論を紹介します(ただし、これまでの議論でかなり予定時間をオーバーしてしまっていたために、この論点については簡単に確認する程度となりました)。

 まず論点を再掲します。

<論点再掲>
 カントは、物自体と現象とを区別して説明しているが、この説明に、先に解説された空間と時間とはどのように絡んでくると述べられているか。ここに関連して、カントは根源的存在者〔神〕の根源的直観(=知性的直観)なるものを示唆しているが、神の認識と人間の認識はどのように異なるとされるのか。
唯物論の立場からする空間と時間との規定(空間とはある一定の物質の静止の具体化の一般性、時間とはある一定の物質の運動の具体化の一般性)から見れば、カントのこの説明はどのように評価することができるか。


 この論点に関しては、おおむね共通した見解が出されていました。

 第一に、物自体と現象との区別に空間と時間がどのように絡んでくるかという点に関しては、「物自体が空間・時間という純粋直観の形式を通して現象として与えられる」、「空間や時間は我々の感性に付属しているものであり、この感性をとおして我々は対象を与えられるわけであるが、ここで与えられるものは対象自体(物自体)ではなくて、対象の現象だけである」、「人間の認識は物自体を把握することはできず、あくまでも物自体に感性の純粋直観である空間と時間という形式を与えることで浮上してくる現象を認識するに過ぎない」、「人間は、空間と時間という枠組みで世界を認識するのであり、空間と時間という枠組みにおいて成立するのが現象なのである」という見解が出されていました。要するに、人間は物自体を把握することはできず、空間と時間という枠組みをとおした現象しか把握することができないのだということで共通した見解でした。

 第二に、神の認識と人間の認識との違いに関しては、「根源的存在の根源的直観(=知性的直観)は、時間および空間という枠組みを通すことなく、物自体を直接に把握することができる」、「神は物自体を認識することができる」、「根源的存在者(神)においては、対象そのものを認識するような知性的直観(根源的直観)が可能」、「根源的存在者の根源的直観(=知性的直観)は、物自体をも認識できる」という見解が出されていました。つまり、神の認識と人間の認識との違いは物自体を認識できるかどうかの違いだということで、共通した見解が出されていました。

 第三に、唯物論の立場からどう評価することができるかに関しては、まず肯定的な側面として「人間は、空間および時間という枠組みのなかにあるものとしてしか対象を捉えることはできない、というのは、唯物論の立場からもいえることである。少し角度を変えていえば、人間は、現実の世界を眺めているつもりでも、実際には、脳細胞に反映した(描かれた)現実世界の映像を眺めているにすぎない、ということである」、「空間と時間という枠組みで対象を把握するという点までは、唯物論の立場からも何とか容認可能であろう」という見解が出されていました。

 一方、否定的な側面として、「物自体の世界と現象の世界を切断してしまい、物自体は何の性質ももっておらず、(現象として人間に与えられる)対象の諸々の性質はすべて人間の認識が与えたものだとしてしまった。これは、唯物論の立場からは批判されなければならない。現実世界の対象はそれぞれなりの性質をもっているのであって、それが頭脳に反映するのである。時間及び空間もまた、現実世界の諸々の物体の性質と無縁にあるものではない。」、「この対象の性質を認識が与えるという説明に関しては明らかに行き過ぎである。世界の対象はそれ自体、性質を持っているのであって、それを感覚器官を通して脳細胞に反映したものが認識であって、対象の性質は客観的に存在するものなのである」という見解が出されていました。また少し違った角度から、「唯物論の立場からすれば、人間が認識できるものとできないものが予め決められているという発想は、許容できないと考えられる。どのような対象でも認識することはできるが、認識し尽くすことはできない、どこまで認識できるかは、時代性によって規定されている、というように考えるのが唯物論的ではないか。」という見解も出されていました。

 それぞれの見解に関して、特に大きく間違っているということはないことを確認して、この論点についての議論を終えました。
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2017年05月19日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(8/10)

(8)論点2 カントは時間をどのようなものであると考えているか

 前回は、カントが空間をどのようなものであると考えているかという論点についての議論を紹介しました。

 今回は、カントが時間をどのようなものであると考えているかという論点についての議論を紹介します。まず、論点を再掲します。

<論点再掲>
 カントは、感性の2つの純粋形式の1つとして空間を挙げているが、カントにおいては、時間はどのようなものとして把握されているのか。「時間は内感の形式」、時間の「経験的実在性」、「絶対的実在性」、「先験的観念性」という点に注意しながら議論したい。
 カントの時間論について、唯物論の立場から批判するとすれば、どのようなことをいわなければならないか。また、唯物論の立場からすれば、時間とはどのようなものといえるか。唯物論の立場からすれば、認識に時間の観念が備わるのはどのようにしてであるといえるか。


 第一に、カントにおいては、時間はどのようなものとして把握されているのかを確認しました。様々な見解が出されていましたが、結局、時間とは人間にア・プリオリに備わっているものであり、現象が可能となる条件であるという形で捉えられているということで、ほぼ共通した見解が出されていました。また、時間が内感の形式であるとはどういうことかという点についてもほぼ同様の見解が出されていましたが、「一切の表象(イメージ)は、外的なものを対象とするにしても、それ自体は心意識の規定として内的状態に属することを指摘し、この内的直観は時間という純粋直観の形式に従うほかない」という一人のメンバーの見解が最も的確にまとめられているということになりました。

 第二に、時間の「経験的実在性」「絶対的実在性」「先験的観念性」について確認しました。これに関しても、おおむね共通した見解が出されていました。つまり、時間の経験的実在性とは、我々が見ている対象はすべて時間のうちにあるということです。しかし、時間は客観的に存在するものではなく(絶対的実在性をもつものではなく)、あくまでも人間にア・プリオリに備えられたものであり、これが時間の先験的観念性ということです。

 第三に、カントの時間論が唯物論の立場からどのように評価できるのかについて議論しました。まず肯定的な側面としては、「人間が現実世界を把握する上での根本的な枠組みである、と把握した点は、唯物論の立場からも肯定することができる」「カントの時間論は、対象を捉える枠組みとして時間を把握している点は評価できる」などの見解が出されていました。

 一方、否定的な側面として、「カントは、諸々の物体の具体性を捨象していくというやり方では時間の観念に到達できない、と主張するのであるが、唯物論の立場からは、「時間とはある一定の物質の運動の具体化の一般性、空間とはある一定の物質の静止の具体化の一般性であるから、あらゆる物質の具体性を捨象していけば、空間と時間だけが残る」(加藤幸信「学問の発達の歴史」)とされているのである」、「唯物論の立場からすれば、やはり空間論の場合と同じく、時間という観念がどのようにして成立してきたのかというプロセスを明らかにしなければならない」、「時間を認識の側の性質だとしてしまっている点は、納得できないものである」などの見解が出されました。ここに関わって、あるメンバーは、「時間がア・プリオリな直観形式であるならば、どの人間にとっても時間というものが同じであるということにならないか。ところが、時間をどのようなものとして考えていたかは、時代によっても大きく異なる。午前と午後というように大雑把に区分していた時代もあっただろうし、活動できる昼間だけを12分割していたような時代もあった。時間がア・プリオリな存在であるならば、このような時代による変化などはないのではないか」という形でカントへの反論を展開していました。しかし、そのように言うとカントからは「それは時間の区切り方の問題であって、時間自体の問題ではない、時間が流れていくというような表象自体は人間にア・プリオリに与えられているのだ」という再反論が来るかもしれないとも述べていました(例会での議論でも、確かにそのような再反論が来たら、なかなか返すのは難しいから、最初の反論そのものがあまり適切ではないのではないかということになりました)。

 唯物論的な立場からの評価という点については、結局、空間論で展開した議論と同じことが言えることを確認しました。つまり、我々はどのようにして対象を時間的に把握できるようになるのか、そこに本能的な部分はどれぐらい残っているのかということを明らかにしていかなければならないということです。ただ、空間と時間は同じように対象を捉える枠組みと言っても、少し違う側面がありそうだという意見が出されました。この世界は物質が延々と運動していく過程ですが、実在するものはその瞬間その瞬間の世界の広がりでしかありません。我々はその瞬間瞬間の世界を記憶して、運動する過程として捉えるわけです。その意味で空間は確かに実在するというイメージをもつことができるものの、時間はやはり我々のアタマの中にしか存在しないものという感じがするということでした。カントが時間を内感の形式と呼んだのも、このあたりが関わっていそうだという意見が出されました。

 以上で論点2についての議論を終えました。
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2017年05月18日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(7/10)

(7)論点1 カントは空間をどのようなものであると考えているか?

 前回は、今回扱った内容を再度まとめ直した後、例会で扱った3つの論点を紹介しました。

 今回からは、それぞれの論点に対してどのような討論がなされ、どのような(一応の)結論が出されたのかのプロセスを紹介していきます。

 今回は第一の論点をめぐる議論を紹介します。論点は次のようなものでした。

<論点再掲>
 カントは、感性の2つの純粋形式の1つとして空間を挙げているが、カントにおいては空間はどのようなものとして把握されているのか。空間概念の形而上学的解明と先験的解明とはどのように違うのか。「純粋直観」「空間の経験的実在性」「空間の先験的観念性」ということに注意しながら議論したい。
 カントの空間論について、唯物論の立場から批判するとすれば、どのようなことをいわなければならないか。また、唯物論の立場からすれば、空間とはどのようなものといえるか。唯物論の立場からすれば、認識に空間の観念が備わるのはどのようにしてであるといえるか。


 第一に、カントが空間をどのようなものとして把握したのかを確認しました。ここに関しては様々な見解が出されましたが、要するに、空間とは物自体の性質ではなく感性に備わっている主観的なものであり、決して経験から得られるものではないこと、また、これによって現象が可能となることをカントは指摘しているということで、おおむね共通した見解が出されていました。

 第二に、空間概念の形而上学的解明と先験的解明とはどのように違うのかを確認しました。チューターは「ある概念がア・プリオリに与えられたものとして明示することが形而上学的解明」であり、「空間について総合的認識が成り立つためには、空間はどのようなものでなければならないかを考えるのが先験的解明」であるという見解を出していましたが、これに対して別のメンバーは「先験的解明の説明がよくわからない」と発言しました。先験的解明について、カントは「或るア・プリオリな原理に基づいて、別のア・プリオリな総合的認識(例えば幾何学的認識)の可能が理解せられ得る場合に、かかる原理としての概念の説明を先験的解明と言うのである」(p.92)と書いています。この定義にうまく当てはまらないのではないか、少なくとも「ア・プリオリ」という言葉が入っていないのはおかしいのではないかということでした。これについてはチューターも納得しました。一方で、そのメンバーは「空間がア・プリオリであるということを論証するのが形而上学的解明であり、空間をア・プリオリな原理であると考えることによってのみ、ある種のア・プリオリな綜合的判断の可能性が理解され得るということを論証するのが先験的解明」であるという見解を出しており、その見解の方が妥当性があるということになりました。また別のメンバーは形而上学的解明と先験的解明の違いに着目して、「形而上学的解明については、空間表象がなければ現象を認識することができないから空間概念はア・プリオリに与えられたものだという帰納的説明であり、先験的解明については、幾何学的認識が可能となるためには空間表象は純粋直観でなければならないという演繹的説明である」という見解を出していました。確かに帰納と演繹ということで整理できなくはなさそうだという見解は出ましたが、はっきりとはしませんでした。

 第三に、「空間の経験的実在性」「空間の先験的観念性」について確認をしました。経験的実在性という点については、ほぼ共通した見解が出されていました。つまり、我々の経験としては、空間は実在するということが「空間の経験的実在性」ということです。一方、先験的観念性については、観念性とはどういうことかについて意見がわかれました。メンバーの多くは、空間は経験に先立って(ア・プリオリに)我々の側に備わっているものであるという点を捉えたものが先験的観念性だという見解を出していました。つまり、空間とは主観的なものであり、それが観念性だということです。それに対して一人のメンバーは、「空間を主観的条件としてではなく、物自体が成立するための条件と考えるならば、空間は、単に観念的なものになってしまう。これが空間の先験的観念性ということであろう」という見解を出していました。補足を求めると、空間は経験的には実在しているのだけれども(経験的実在性)、先験的には実際に存在しているわけではなく、単に観念として考えられているだけで本当はないのだ、経験が成立するためには空間が必要だが、物自体が成立するためには空間は不要なのだ、ということでした。直接的には、カントの以下の記述をもとにしたものであるということでした。

「空間の先験的観念性とは、我々が一切の経験を可能ならしめる〔主観的〕条件を捨てて、空間を物自体の根拠に存するところの何か或るものと考えるならば、空間は無である、ということである」(p.95)


 この見解も、空間が客観的に存在するわけではなく、観念として考えられているだけにすぎないという点で、他のメンバーと同様の見解だと言えるだろうという結論になりました。

 第四に、カントの空間論を唯物論の立場からどう評価できるかについて議論しました。これに関して、一人のメンバーは「空間を、人間が現実世界を把握する上での根本的な枠組みである、と把握した点は、唯物論の立場からも肯定することができる」という見解を出していましたが、これに対して、そもそも枠組みとは何なのかという疑問を別のメンバーが出したことから、激しい議論が繰り広げられました。

 疑問を出したメンバーは、そもそも空間という観念も、我々が対象と関わる中で反映させた像を抽象化する中で生まれてくるものであるから、1つの論理だと言えるのではないか、その空間とはこういうものという論理に基づいて、空間が把握できるようになるのではないかと発言しました。それに対して、見解を出していたメンバーは、確かに学的に空間とは何かということを把握するにはそのような抽象化のプロセスがあるのだろうけれども、別に空間とは何かを把握していなくても我々は対象を空間的に把握しているのであり、我々は自分の体に見合った形で空間を把握していくのではないのかという意見を出しました。一方、疑問を出したメンバーは、空間とは何かを把握することと、対象を空間的に把握することとは別であるというのは確かにそうだが、例えば、我々が木を認識するとき、厳密に木とは何かという把握ではないにしても、木というのはこういうものというイメージを持っているからこそ、木を認識することができるのであって、そのアタマの中にあるイメージというのは問いかけであり、論理だと言える、それと同じように空間が把握できるのも空間という論理がアタマの中にあるからではないのか、要するに「枠組み」というのは論理のことではないのか、と反論しました。これに対して、見解を出したメンバーは、確かに人間の認識がすべて論理的認識だという前提に立つのであれば、それも納得できるが、果たしてそう捉えていいのか、そもそも人間以外の動物にしても対象を空間的に把握していることは間違いないのであるから、人間が対象を空間的に把握できるのは本能に基づく部分も存在しているのではないかと反論しました。

 結局、明解な結論に至ることはありませんでしたが、空間の把握に関しては動物との区別と連関を押さえながら検討していくことが必要であることを確認しました。そして、カントの空間論に関しては、空間という観念がどのようにして生まれてきたのかを問うことなく、認識にア・プリオリに備わっているとしており、他の動物との区別という視点も見られない点が欠陥だという点を確認しました。

 以上で、論点1をめぐる議論を終了しました。
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2017年05月17日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 これまで4回に渡って『純粋理性批判』先験的感性論の要約を見てきました。ここで、重要なポイントを再度振り返っておきましょう。

 まずカントは緒言において先験的感性論とは何かを説いていました。そもそも感性とは、対象から触発される仕方によって表象を受け取る能力のことでした。そうして得られたものが感覚であり、感覚を介して対象に関係するような直観を経験的直観というのでした。こうした感覚を受け入れるものとして、我々の心の内には現象の形式がアプリオリに具わっているのであり、このア・プリオリな感性の諸原理に関する学こそが先験的感性論なのだということでした。そして、先験的感性論は先験的原理論の第一部門をなすものとして、純粋思惟の諸原理を含む学、すなわち先験的論理学と名づけられる学と対立するものだということでした。経験的直観から感覚に属する一切のものを分離して現象の単なる形式だけ残すと、最後に残されるものが空間と時間であり、これについて論じるのが先験的感性論の課題になるのでした。

 空間に関して、カントは形而上学的解明において、空間が外的経験から抽象された経験的概念ではないこと、ア・プリオリな必然的表象であることなどを論じていました。さらに先験的解明においては、空間は、物自体の性質でもなければ、また物自体をこれらの物自体相互の関係において示すものでもないこと、空間は、外感によって表象される一切の現象の形式にほかならないことなどを論じていたのでした。そして、空間は、外的対象として我々に現われ得るところのものに関しては実在性(すなわち客観的妥当性)をもつが、しかしそれと同時に、物に関しては観念性をもつということ、つまり、空間の経験的実在性と空間の先験的観念性を主張していたのでした。

 時間に関して、カントは形而上学的解明において、時間が何らかの経験から抽象された経験的概念ではないこと、一切の直観の根底に存する必然的表象であることなどを論じていました。さらに、時間は内感の形式であること、時間は主観的実在性をもつことなどを主張していたのでした。

 この時間と空間とは、一切の感性的直観の2つの純粋形式であり、これによってア・プリオリな総合的認識が可能になるのであるが、しかしこの2つの認識源泉は、感性の形式であるがゆえの限界をもつのであって、この両形式が関係するのは、現象と見なされる限りの対象であって物自体ではない、ということでした。神と違って、人間は物自体は全く認識し得ないのであって、時間や空間もあくまでも現象に関わるものなのだということでした。

 このような内容に関わって、以下のような3つの論点が提示されました。次回から、それぞれの論点に関わっての議論を紹介します。

1.カントは空間をどのようなものであると考えているか?

 カントは、感性の2つの純粋形式の1つとして空間を挙げているが、カントにおいては空間はどのようなものとして把握されているのか。空間概念の形而上学的解明と先験的解明とはどのように違うのか。「純粋直観」「空間の経験的実在性」「空間の先験的観念性」ということに注意しながら議論したい。
 カントの空間論について、唯物論の立場から批判するとすれば、どのようなことをいわなければならないか。また、唯物論の立場からすれば、空間とはどのようなものといえるか。唯物論の立場からすれば、認識に空間の観念が備わるのはどのようにしてであるといえるか。

2.カントは時間をどのようなものであると考えているか

 カントは、感性の2つの純粋形式の1つとして空間を挙げているが、カントにおいては、時間はどのようなものとして把握されているのか。「時間は内感の形式」、時間の「経験的実在性」、「絶対的実在性」、「先験的観念性」という点に注意しながら議論したい。
 カントの時間論について、唯物論の立場から批判するとすれば、どのようなことをいわなければならないか。また、唯物論の立場からすれば、時間とはどのようなものといえるか。唯物論の立場からすれば、認識に時間の観念が備わるのはどのようにしてであるといえるか。

3、カントは物自体と現象との関係に空間・時間の問題をどのように絡めて説明しているか。

 カントは、物自体と現象とを区別して説明しているが、この説明に、先に解説された空間と時間とはどのように絡んでくると述べられているか。ここに関連して、カントは根源的存在者〔神〕の根源的直観(=知性的直観)なるものを示唆しているが、神の認識と人間の認識はどのように異なるとされるのか。
 唯物論の立場からする空間と時間との規定(空間とはある一定の物質の静止の具体化の一般性、時間とはある一定の物質の運動の具体化の一般性)から見れば、カントのこの説明はどのように評価することができるか。

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2017年05月16日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約C

 前回は『純粋理性批判』先験的感性論の時間に関する部分の要約を紹介しました。そこでは、時間が何らかの経験から抽象された経験的概念ではないこと、一切の直観の根底に存する必然的表象であることなどを論じていました。さらに、時間は内感の形式であること、時間は主観的実在性をもつことなどを主張していたのでした。

 今回は、以上を踏まえた先験的感性論のまとめに該当する部分の要約です。

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 7

説明

 変化は現実に存在しており(我々が一切の外的現象ならびにその変化をいくら否定しようとしても、我々自身の表象の変化がこれを証明している)、変化は時間においてのみ可能だから時間は現実的なものである、という非難に答えることは容易である。時間は確かに、何かある現実的なものである。要するに時間は内的直観の現実的形式なのである。したがってまた時間は内的直観に関して主観的実在性をもつ。時間は現実的だが、対象そのものとして現実的なのではなく、私自身を対象として表象する仕方として現実的なものと見なされなければならないのである。

 このような非難の声が一斉にあがる理由、しかも空間は観念性をもつという私の説に対して明白な反論を提示しえないような人達からのこうした非難がなされる理由は、外的現象の現実性は厳密に証明され得ないが、我々の内感の対象(我々自身および我々の内的状態)の現実性は、意識によって直接に明瞭だからである。ところが彼らは、外的対象と内的対象とが表象として現実性をもつことは否定できないにせよ、両者とも現象にほかならず、現象は常に対象自体が考察される(この場合、対象を直観する仕方が度外視されるので、対象自体の性質は依然として蓋然的)という面と、我々がこの対象を直観する形式(これは対象そのものではなく、対象があらわれるところの主観に求められなければならない)が考察されるという面とをもつ、ということに思い及ばないのである。

 それだから、時間と空間とは2つの認識源泉であり、これらの源泉からそれぞれ相異なるア・プリオリな総合的認識が汲み出され得るのである。とりわけ純粋数学は、空間および空間関係の認識に関して、立派な実例を示すものである。要するに、時間と空間とは、一切の感性的直観の2つの純粋形式であり、これによってア・プリオリな総合的認識が可能になるのである。しかしこの2つの認識源泉は、感性の形式であるがゆえの限界をもつ。すなわち、この両形式が関係するのは、現象と見なされる限りの対象であって物自体ではない、ということである。いったん現象の領域外に出れば、時間と空間とはもはや客観的に使用され得ないのである。空間および時間の絶対的実在性を主張する人たちは、空間および時間を自存するものと考えるにせよ、物自体に付属するものと考えるにせよ、経験そのものの原理と矛盾せざるを得ない。空間および時間は自存するものだという説を採用すれば、2つの永遠にして無限な、しかもそれだけで存立する不可解なものを想定しなければならなくなる。空間および時間が物自体に付属するという説を採用すれば、空間と時間は経験を除き去ってもなお後に残るが、しかし経験から引き離されたために曖昧にしか表象されない現象的関係と見なされるので、現実に存在する物に関するア・プリオリな数学的学説に対して、その妥当性を、あるいは少なくともその必然的確実性を否定しなければならなくなる。

 この先験的感性論が空間および時間以外には何も含みえないということは、感性に属する他の一切の概念は――時間と空間とを結合するところの運動の概念すら――何か経験的なものを前提している、ということからも明白である。運動は運動するものの知覚を前提しているからである。しかしそれ自体として見られた空間においては、運動するものは全く存在しない。すると運動するものは空間において経験によってのみ見出されるような何かあるもの、すなわち経験的な所与物でなければならない。それだからまた先験的感性論は、変化の概念をこの感性論におけるア・プリオリな所与物のなかに算することはできない。時間そのものは変化せず、変化するものは時間における何かあるものだからである。

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先験的感性論に対する一般性

T 我々の一切の直観は、現象を表象する仕方にほかならない。もし我々の主観を除き去るなら、空間および時間における対象の一切の性質や関係はもとより、空間および時間そのものすら消失するだろう。対象が我々のこの受容性から引き離された場合、それ自体としてどのようなものであるかは、我々にはついに知られない。我々が知っているのは、対象を知覚する仕方だけである。この仕方は我々に特有であり、それは人間にこそ例外なく存するに違いないにせよ、人間以外の存在者にも必ず存するとは限らない。

 ライプニッツ=ヴォルフ哲学は、感性と知性との区別を全く論理的な区別と見なしているが、この両者の区別は明らかに先験的な区別であって、認識の起源と内容に関するのである。だから我々は、感性によって物自体の性質を、単に不判明にせよ認識するというのではなくて、物自体なるものを全く認識しないのである。我々が、我々に具わっているこの主観的性質を除き去るや否や、表象された対象は、我々の感覚的直観がこれに付したところの性質もろとも、全く存在しなくなるし、また存在できなくなる。この主観的性質こそ、現象としての対象の形式を規定するものだからである。

U 我々の認識において直観に属する一切のものは、直観における場所、場所の変化、およびこうした変化を規定する法則などの単なる関係しか含んでいない。しかし我々は、場所において存在している物は何か、あるいは場所の変化に関係なく物そのものにおいて作用している物は何かを、直観によって知ることはできない。このような事情は内的直観についても全く同じである。

V 外的対象の直観ならびに内的対象としての心意識の自己直観は、それぞれ空間あるいは時間において対象を表象するが、その場合にこれらの直観は、対象が我々の感覚を触発するままに、換言すれば、こうした対象が我々に現われるままに表象する、というのが私の言い分である。だからといって私は、これらの対象を単なる仮象というつもりはない。現象においては、対象はもとより、我々が対象に帰する諸種の性質もまた現実に与えられているものと見なされる。しかしこうした性質は、主観の直観様式によってのみ規定されるのである。したがって、この与えられた対象は現象であって、客観自体としての対象からは区別される。

W 我々は自然的神学においてある対象〔神〕を考えるが、しかしこうした対象は我々にとって全く直観の対象にならないばかりか、この対象自身にとっても決して感性的直観の対象になりえない。そこで自然的神学では、時間および空間という条件をひどく気にして、対象の一切の直観からこれを除去しようとするのである。しかし、時間及び空間を、前もって物自体の形式として、一切の存在一般の条件とすると、それはまた神の存在の条件にもならなければならなくなる。だから時間および空間を一切のものの客観的形式にしたくなければ、我々はこれを外的ならびに内的に直観する仕方の主観的形式とするよりほかない。しかしこうした直観は根源的直観ではないから、感性的直観と呼ばなければならない。

先験的感性論の結語

 先験的哲学の一般的課題「ア・プリオリな総合的命題はどうして可能であるか」を解決するための要件の一つは、ア・プリオリな純粋直観であるところの空間および時間である。ア・プリオリな判断は、感官の対象以上に及ぶものではなく、可能的経験の対象だけにしか妥当しない。
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2017年05月15日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約B

 前回は『純粋理性批判』先験的感性論の空間概念の先験的解明の部分の要約を紹介しました。そこでカントは、空間は、物自体の性質でもなければ、また物自体をこれらの物自体相互の関係において示すものでもないこと、空間は、外感によって表象される一切の現象の形式にほかならないことなどを論じていたのでした。

 今回は、時間について論じている部分の要約です。

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第2節 時間について

 4

時間概念の形而上学的解明

(1)時間は何らかの経験から抽象された経験的概念ではない。時間表象がア・プリオリに根底に存しないなら、同時的存在もまた継起的存在も、知覚されることすら不可能であろう。

(2)時間は一切の直観の根底に存する必然的表象である。現象を時間から除き去ることは難しくないが、現象一般に関して時間そのものを除き去ることは不可能である。だから時間はア・プリオリに与えられているものである。現象の現実性は時間においてのみ可能である。

(3)時間関係を規定する必然的原則や、時間一般に関する公理が可能であることは、こうしたア・プリオリな必然性に基づく。時間は一次元のみをもつ。したがって多くの異なる時間は、同時的ではなく継時的である。これら原則は経験から導かれたのではない。経験は厳密な普遍性をも、また必然的な確実性をも与えないからである。

(4)時間は論証的概念でなければ、一般的概念と呼ばれるものでもなく、感性的直観の純粋形式である。多くの異なる時間は唯一の時間のそれぞれの部分にほかならない。「多くの異なる時間は同時的には存在しない」という命題は、一般的概念からは導かれない。この命題は総合的命題であり、概念だけから生じうるものではない。それだからこの命題は時間直観すなわち時間表象のうちに含まれているのである。

(5)時間が無限であるというのは、ある一定の長さをもつ時間は、いずれもその根底に存する唯一の時間を制限することによってのみ可能である、という意味にほかならない。この根源的な時間表象は、もともと無限定なものとして与えられていなければならない。そして部分的時間そのものと、或る対象のもつそれぞれの時間的量とは、こうした制限によって規定されたものとしてのみ、表象されうるのである。そうすると全体的な時間表象は、概念(部分的な時間表象のみを含む)によって与えられたものではなくて、直接的な直観としてこれらの部分的表象の根底に存しなければならないことになる。

 5

時間概念の先験的解明

 本来、時間概念の先験的解明であるべきものを、簡潔を求めて前記の形而上学的解明に加えたので、4の(3)をそのままここに援用してよい。なお2つのことを付け加える。変化の概念および運動の概念は、時間表象によってのみ可能である。矛盾対当関係をなす2つの規定が同一物においてむすびつくこと、すなわち継起的に存在するということは、時間表象においてのみ可能である。時間概念は、一般力学が示すところの多くのア・プリオリな総合的認識の可能を説明しうるのである。

 6

これらの概念から生じた結論

(a) 時間は、それだけで存立する何かあるものではない。また、客観的規定として物に付属している何かあるものでもない。したがって、物の直観を成立させる主観的条件を全て除き去っても、なお後に残るような何かあるものでもない。第一の場合が成り立てば、時間は現実の対象がなくなっても現実に存在することになる。第二の場合が成り立てば、時間は物そのものに付属する規定あるいは秩序であって、対象よりも前に存在しえないし、また総合判断によってア・プリオリに認識され直観されることはできないだろう。これに反して時間が、我々のうちに一切の主観を生じさせる主観的条件にほかならないとすれば、このことは十分に成り立つのである。そうすれば時間というこの内的直観形式は、対象より前に、したがってア・プリオリに表象されるからである。

(b) 時間は内感の形式、換言すれば、我々自身と我々の内的状態との直観形式にほかならない。時間は、外的現象の規定ではありえないからである。

(c) 時間は、一切の現象一般のア・プリオリな形式的条件である。一切の外的直観の純粋形式であるところの空間は、ア・プリオリな条件として、外的現象のみに限定される。これに反して、一切の表象は――外的なものを対象とするにせよしないにせよ――それ自体、心意識の規定として内的状態に属する。ところがこの内的状態は、内的直観の形式的条件に従い、それだからまた時間に従っている。時間は一切の現象一般のア・プリオリな条件である。しかも、内的現象の直接の条件であり、またこれによって間接的に外的現象の条件でもある。もし私が「一切の外的現象は空間のうちにあり、また空間関係に従ってア・プリオリに規定されている」とア・プリオリにいえるなら、私はまた内感の原理に基づいて、「感覚の一切の対象は時間のうちにあり、また必然的に時間関係に従っている」といってもよい。
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2017年05月14日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約A

 前回は『純粋理性批判』先験的感性論の緒言と空間概念の形而上学的解明の部分の要約を紹介しました。我々の心のうちには感覚を受け入れるものとして、現象の形式がアプリオリに具わっているのであり、このア・プリオリな感性の諸原理に関する学こそが先験的感性論なのだということでした。経験的直観から感覚に属する一切のものを分離して現象の単なる形式だけ残すと、最後に残されるものが空間と時間であり、これについて論じるのが先験的感性論の課題になるのでした。そして、空間概念の形而上学的解明においては、空間が外的経験から抽象された経験的概念ではないこと、ア・プリオリな必然的表象であることなどを論じていました。

 今回は空間概念の先験的解明の部分の要約です。

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 3

空間概念の先験的解明

 あるア・プリオリな原理にもとづいて、別のア・プリオリな総合的認識〔例えば幾何学的認識〕の可能が理解され得る場合、こうした原理としての概念の説明を先験的解明という。そのための2つの要件は、(1)実際にこうした認識がこの与えられた概念から生じる、(2)こうした認識はこの概念を説明する仕方が既に存在していることを前提としてのみ可能である、ということである。

 幾何学は、空間の諸性質を総合的に、しかもア・プリオリに規定する学である。空間についてこうした認識が可能であるためには、空間表象は、そもそも直観でなければならない。単なる概念からは、その概念の外に出るような命題を引き出すことができないのに、幾何学ではこのことができるからである。しかしこの直観はア・プリオリに我々の心に具わっていなければならない。したがって、この直観は経験的直観ではなくて純粋直観でなければならない。「空間は三次元をもつ」というような必然性の意識と結び付いている命題は、経験的な判断ではあり得ない。

 外的直観は、対象そのものよりも前にあり、また対象の概念はこの直観においてア・プリオリに規定され得るというが、こうした外的直観は我々の心意識にどうして内在しうるのか。それは明らかに、この外的直観が、客観〔対象〕によって触発されてこれら客観の直接的表象すなわち直観をもつことになるという主観的性質として、したがってまた概観一般の形式としてのみ、認識主観のうちに存在するからにほかならない。

 それだから、ア・プリオリな総合的認識としての幾何学が可能であることは、我々の説明によってしか理解されない。

上記の諸概念から生じる結論

(a) 空間は、物自体の性質でもなければ、また物自体をこれらの物自体相互の関係において示すものでもない。換言すれば、空間は物自体の規定ではない。物自体の規定ならば、こうした規定は対象そのものに付着しているから、直観の主観的条件を全て除き去っても、依然として残っているはずである。およそ物の規定は、絶対的規定にせよあるいは相対的規定にせよ、こうした規定が属するところのものが存在するよりも前には、したがってア・プリオリには、直観され得ないからである。

(b) 空間は、外感によって表象される一切の現象の形式にほかならない。換言すれば、空間は感性の主観的条件であり、この条件のもとにおいてのみ、外的直観が我々に可能なのである。主観は、対象によって触発されるという受容性をもつが、この受容性はこうした対象に関する一切の直観よりも前に存在しなければならない。あらゆる現象の形式であるところの空間は、どうして一切の現実的知覚よりも前に、すなわちア・プリオリに心意識のうちに与えられうるのか、またこの形式はどうして純粋直観として、換言すれば一切の対象がそこにおいて規定されねばならないような直観として、一切の経験よりも前にこれらの対象の関係が原理を含み得るのかということは、これによって理解される。

 それだから、空間や延長を有するものその他を云々し得るのは、人間の立場からだけである。我々が外的直観をもち得るための唯一の条件、すなわち対象から触発されるという条件を捨ててしまえば、空間表というものは全く無意味である。空間という述語は、物が我々に現われる限りにおいて、物に適用される。こうした受容性の一定不変の形式は感性と呼ばれるが、この形式こそ我々が対象を我々の外にあるものとして直観するための、一切の関係の必然的条件である。これらの対象を除き去っても、なお後に残るのが空間という純粋直観なのである。我々は感性の特殊な条件を、物を可能ならしめる条件とすることはできず、物の現象を可能ならしめる条件とすることができるだけである。それだから「空間は我々に外的に現われる一切のものを含む」とはいえても「一切の物自体を含む」とはいえない。要するにこの解明の教えるところは、空間という直観形式が実在性をもつと同時に、観念性をももつということである。つまり空間は、外的対象として我々に現われ得るところのものに関しては実在性(すなわち客観的妥当性)をもつが、しかしそれと同時に、もし物が理性によって物自体として――換言すれば、我々の感性の性質を顧慮せずに考えられるならば、物に関しては観念性をもつわけである。だから我々は、空間の経験的実在性を主張すると同時に空間の先験的観念性をも主張する。空間の先験的観念性とは、我々が一切の経験を可能ならしめる主観的条件を捨てて、空間を物自体の根拠に存するところの何かあるものと考えるならば、空間は無である、ということである。

 しかし、こうした空間のほかには、外的なものに関係するいかなる主観的表象でも、ア・プリオリに客観的であるといえるようなものは存在しない。これ以外の主観的表象からは、空間という直観から導かれるような、ア・プリオリな総合的命題を引き出すことができないからである。色、音、温かさなどは単なる感覚であって直観ではないから、それ自体、対象をア・プリオリに認識させるものではない。

 空間表象によって直観されるところのものは決して物自体ではない。また空間は物の形式――換言すれば、物にいわばそれ自体固有であるような形式ではない。つまり対象自体は、我々には全く知られていないのであって、我々が外的対象と呼ぶところのものは、我々の感性の単なる表象にほかならない。そしてこの感性の形式がすなわち空間だというのである。しかし、空間という形式の真の相関者であるところの物自体は、この形式によっては全く認識されないし、また認識できるものでもない。物自体は経験においては全く問題にならないのである
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2017年05月13日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約@

 前回は、例会の冒頭で提示されたレジュメを紹介し、そのレジュメにかかわった出されたコメントを紹介しました。

 さて今回から4回にわたって、カント『純粋理性批判』(先験的感性論)の要約を掲載していきます。今回は緒言と空間の形而上学的解明についてです。

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T 先験的原理論

第1部門 先験的感性論

緒言

 1

 認識が直接に対象と関係するための方法、一切の思惟が手段として求めるところの方法が直観である。直観は、対象が我々に与えられる限りで生じる。対象が我々人間に与えられるのは、対象がある仕方で心意識を触発することによってのみ可能である。我々が対象から触発される仕方によって表象を受け取る能力を感性という。対象は悟性によって考えられ、悟性から概念が生じる。思惟は直接にせよ間接にせよ結局は直観に関係し、感性に関係する。

 我々が対象から触発される限り、対象が表象能力に与える作用によって生じた結果は感覚である。感覚を介して対象に関係するような直観を経験的直観という。また、経験的直観のまだ規定されていない対象を、現象というのである。

 現象において感覚と対応するところのものが現象の質料であり、現象の多様な内容をある関係において整理するところのものが現象の形式と呼ばれる。一切の現象の質料はア・ポステリオリに与えられるが、現象の形式は、感覚を受け入れるものとして、我々の心の内にア・プリオリに具わっていなければならない。したがって、この形式は一切の感覚から分離して考察されなければならない。

 感覚に属するものを一切含んでいない表象は、純粋(先験的意味において)な表象と呼ばれる。すると感性的直観一般の純粋形式は、我々の心の内にア・プリオリに見出され、現象における一切の多様なものは、この形式によって、ある関係において直観されるのである。感性のこうした純粋形式はそれ自身、純粋直観と呼ばれてよい。私がある物体の表象から、悟性の思惟する実体、力、可分性のようなものを分離し、感覚に属する不可入性、硬さ、色等を分離しても、こうした経験的直観のなかでまだ我々に残されているものがある。それは延長および形態であり、こうした空間的なものが純粋直観に属するのである。空間という純粋直観は、感官や感覚などの対象が実際に存在していなくても、我々の心意識における単なる感性的形式として、ア・プリオリに成立するのである。

 ア・プリオリな感性の諸原理に関する学を、私は先験的感性論と名づける。この学は、先験的原理論の第一部門をなすものとして、純粋思惟の諸原理を含む学、すなわち先験的論理学と名づけられる学と対立するものである。

 私は先験的感性論で、悟性が概念によって思惟する一切のものを分離して経験的直観だけを残し、まず感性だけを孤立させる。次いでこの経験的直観から感覚に属する一切のものを分離して純粋直観、すなわち現象の単なる形式だけを残すようにする。こうして最後に残されたものこそ、感性がア・プリオリに与えうる唯一のものである。このように究明していくと、感性の2つの純粋形式であるところの空間と時間とがア・プリオリな認識の原理であることが分かる。

第1節 空間について

 2

空間概念の形而上学的解明

 我々は外的感官によって、対象を我々の外にあるものとして表象する。つまりこれら対象を空間において表象する。対象の形態、大きさおよび相互の関係は、空間において規定される。また、心は内的感官によって自分自身を、あるいは自分の内的状態を直観する。内的感官は、客観としての心そのものの直観を与えるものではないが、時間という一定の形式があり、心の内的状態の直観はこの形式によってのみ可能となるのである。空間と時間とは、現実に存在するものであるのか。それとも物の単なる規定にすぎないのか。あるいは物と物との関係なのか。物自体に――物自体は直観されないにしても――属するのか。直観の形式のみに付着しているようなものなのか。

 我々の心の主観的性質に付着しているようなものなのか。これらを明らかにするために、まず空間の概念を究明したい。こうした究明が、この概念をア・プリオリに与えられたものとして明示するところのものを含む場合、それは形而上学的解明と呼ばれる。

(1)空間は多くの外的経験から抽象されてできた経験的概念ではない。私の外にある何かある物を、私とは異なった場所にある物として表象できるためには、空間の表象がそもそもその根底に存しなければならない。外的現象そのものが空間表象によって初めて可能になるのである。

(2)空間はア・プリオリな必然的表象であって、この表象は一切の外的直観の根底に存する。空間のなかに対象が全く存在しないと考えることはできても、空間そのものが全く存在しないと考えることは絶対に不可能である。

(3)空間は物一般の関係に関する論証的概念ではなくて純粋直観である。第一に我々はただ1つの空間だけしか表象できない。多くの部分的空間は唯一の空間においてしか考えられない。

(4)空間は与えられた無限量として表象される。どんな概念も、無限数の種々の可能的表象のなかに含まれている表象として、したがって自分のもとにそれらの表象群を包括する表象と考えられる。しかし、概念そのものとしては、それが表象の無限数の表象を自分のうちに包括するものとして考えることはできない。しかし、空間はそういうふうに考えられるのである。だから空間表象は概念ではなくてア・プリオリな直観である。
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2017年05月12日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(1/10)

<目次>
(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約@
(3)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約A
(4)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約B
(5)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1 カントは空間をどのようなものであると考えているか?
(8)論点2 カントは時間をどのようなものであると考えているか
(9)論点3 カントは物自体と現象との関係に空間・時間の問題をどのように絡めて説明しているか
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 4月例会では、『純粋理性批判』の先験的感性論を扱いました。これは次のような構成になっています。

第一部門 先験的感性論
緒言(1)
第1節 空間について
 空間概念の形而上学的解明(2)
 空間概念の先験的解明(3)
 上記の諸概念から生じる結論
第2節 時間について
 時間概念の形而上学的解明(4)
 時間概念の先験的解明(5)
 これらの概念から生じる結論86)
 説明(7)
 先験的感性論に対する一般的注(8)
 先験的感性論の結語


 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

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カント『純粋理性批判』先験的感性論

【1】カントの空間論
 カントは、感覚に属するものを一切含まない感性的直観の純粋形式を純粋直観と呼び、このア・プリオリな感性の諸原理に関する学を先験的感性論と名付けている。そして、この先験的感性論は、感性の2つの純粋形式である空間と時間とを考察するものだというのである。
 カントはまず、空間について考察していく。空間は外的経験から抽象された概念ではなく、ア・プリオリな必然的表象であって、一切の外的直観の根底に存在する主観的条件だとカントは説明する。つまり、空間は物自体の性質でもなければ、物自体の規定でもなく、外的直観を可能にする感性の主観的形式だというのである。カントによれば、物自体は空間という形式によっては全く認識できず、この主観的形式によって浮上させられた現象を認識できるに過ぎないというのである。

<報告者コメント>
 唯物論の立場からすれば、「空間とはある一定の物質の静止の具体化の一般性」であって、「空間は外的経験から抽象された概念ではな」いとするカントの主張は受け入れられないものである。そもそも、人間の認識は、外界の対象を五感器官を通して脳細胞に反映したものが原基形態であるというのが唯物論の立場からの認識論である。この直接の反映を、対象たる事物の共通性で括っていく、つまり論理化することによって、徐々に徐々に対象の具体性を捨象し、一般性を抽象していくのである。その結果、高度に抽象化された概念として、空間という認識が創出されるのである。
 とはいえ、唯物論の立場からの空間の規定は、物質は一般性として空間という性質を持っている、などとは主張していないわけであるから、では空間が「ある一定の物質の静止の具体化の一般性」であるとはどういうことか、生き生きとした像を描けるように、繰り返し繰り返し議論し続けていく必要があろう。

【2】カントの時間論
 続いてカントは、時間についても言及していく。時間は何らかの経験から抽象された概念ではなく、一切の直観の根底にア・プリオリに与えられた必然的表象だとカントは主張する。つまり、時間はそれだけで存立するものでもなく、客観的規定として物に付随するものでもなく、一切の現象一般のア・プリオリな形式的条件だというのである。さらにカントは、空間が外的現象にのみ限定されるものであるのに対して、時間は我々の心の内的現象の条件だと述べている。そして、時間は現象に関してのみ客観的妥当性を持つのであるが、物一般に関しては、時間は客観的ではなくなると説明している。

<報告者コメント>
 唯物論の立場からすれば、「時間とはある一定の物質の運動の具体化の一般性」であるから、「時間は何らかの経験から抽象された概念ではな」いというカントの説明は、空間の説明同様、受け入れがたいものである。とはいえ、空間にしても時間にしても、人間が対象を把握する際の基本的な枠組みであると捉えたカントの考え方は、基本的には正しいものとして受け取れるという側面もあるだろう。カントも主張するように、空間も時間も経験的実在性を持つからである。
 それにしても、これも空間の唯物論的な規定とともに、時間の唯物論的な規定についてもよくよく考え続けていく必要がある。時間が「ある一定の物質の運動の具体化の一般性」であるとはどういうことか、単に物質の一般性ではなくて、また物質の運動の一般性でもなくて、物質の運動の具体化の一般性であると述べられているが、これはどういうことなのか、引き続き議論していきたい。

【3】カントの先験的感性論
 カントは、我々がア・プリオリに認識しうるのは空間および時間だけであって、我々の感性そのものに絶対に、また必然的に付属するものだと述べている。そして、空間および時間という主観的形式を通して我々に与えられているのは、物自体ではなくて現象だけであることを強調している。カントによれば、人間の認識は物自体を認識することはできず、この物自体とは区別される現象を捉えることができるに過ぎないというのである。
 最後にカントは、我々がア・プリオリな判断において、与えられた概念の外に出ようとする場合に、この概念には含まれていないがこれに対応するところの直観においてア・プリオリに発見され、その概念に総合的に結びつけられ得るところのものを、空間と時間において見出すのだと述べ、「ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能であるか」という先験的哲学の一般的課題を解決するための要件の1つを示している。

<報告者コメント>
 カントの物自体論、すなわち人間の認識が捉えることができるのは、物自体ではなくて現象にすぎないという論は、人間はある外的対象を見ているつもりでも、実際には脳細胞に反映した認識を「見ている」のだという唯物論的な説明のカント的表現である、という側面を捉えれば、非常に重要な指摘であるといえるだろう。
 しかしカントはここで、大きく行き過ぎてしまうのである。つまり、物自体は捉えようがなく、どんな性質も持っていないとして、我々がその対象にあると思っている性質は、実は人間の認識の側から与えたものだというのである。すなわち、物自体の世界と現象の世界とを全く別のものだとして大きく分離させてしまったのである。これは「二律背反の先にある難問の解決に悩んだあげく、二律が背反するのは、対象の性質のゆえではなく対象に性質がないが故として論理の問題として自分の観念たる認識、すなわち頭脳活動の実力に解決を求めてしまった」(南郷継正『全集第12巻』p.113)結果であるが、唯物論の立場からは、「われわれはいかにもすべての客体を認識するであろうが、しかしどの客体をも認識しつくし、知りつくし、或いは把握しつくすことはできない」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.109に引用されているディーツゲンの言)と考えなければならない。端的には、外的対象と認識とはつながっているのであって、二律が背反するのは、対象の性質が認識されるからにほかならない、ということになるだろう。

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 このレジュメに対しては、(1)の報告者コメントにある「唯物論の立場からの空間の規定は、物質は一般性として空間という性質を持っている、などとは主張していないわけである」というのが、どういうことかがよくわからないという疑問が出されました。これについては、唯物論の立場からは空間という観念が対象の反映を土台として成立するといっても、空間というものが客観的に存在してそれを頭の中に反映させるという単純なものではないということを言いたかったということでした。

 また、(3)では、要約の部分に「カントは、我々がア・プリオリに認識しうるのは空間および時間だけであって」とあるが、これは間違いではないか、例えば幾何学的認識などもア・プリオリな認識なのではないのかという指摘がなされました。これについて、別のメンバーからは、そもそも空間と時間は対象を知覚する形式で、感覚は質料であるという文脈の中での話だということを押さえておく必要があるのではないか、という意見も出されました。
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2017年04月12日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回まで3回にわたって、本例会で議論した内容を紹介してきました。

 本例会報告の最後に、参加した会員の感想を掲載したいと思います。感想は以下です。

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 今回の例会では、カント『純粋理性批判』の「緒言」を扱った。ここでは、ア・プリオリな認識と経験的認識、分析的判断と綜合的判断が対比的に取り上げられており、本書のテーマとして、「ア・プリオリな綜合判断はどうして可能であるか」という問いが提起されている。

 全体として、これまでよりも時間をかけて読み込んだためもあると思うが、とても分かりやすい展開であったと思う。カントがア・プリオリな認識とは、一切の経験に絶対に関わりなく成立する認識であると考えていたこと、経験判断であれば必ず綜合的判断になるが、綜合的判断でかつア・プリオリな判断が問題になると考えていたこと、ヒュームは「ア・プリオリな綜合判断はどうして可能であるか」という問いに最も近づいた哲学者であるが、彼は因果律の問題だけを取り上げていたこと、またア・プリオリな綜合判断は不可能だとしてしまったことの2点が欠点であると述べていることなどがよく分かった。

 次回は「先験的感性論」で時間・空間の問題を扱うことになるが、今回以上に周到に準備をして、不明な点をできるだけ少なくしておくとともに、不明な点は何が不明であるのかをはっきりさせておくことで、例会での取り組みを実のあるもの賭すべく取り組んでいきたい。報告レジュメの担当でもあるので、この執筆もしっかりとしたものを目指したい。

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 今回の例会の範囲は「緒言」であり、ここでは「分析的」「総合的」「ア・プリオリ」など非常に重要で基礎的な概念が取り扱われているが、比較的易しく読み進めていくことができた。以前から「ア・プリオリな総合判断はいかにして可能か」ということがこの『純粋理性批判』を貫くテーマだということは聞いていたが、この問いがどういう意味なのかが全くわからなかった。しかし、今回の議論をとおして理解を深めることができたと感じている。とりわけ、それぞれの概念の関係を図として表すとどうなるかを検討できた点がよかったと思う。

 今回の例会ではレジュメ担当ということで、「分析的」と「総合的」、「ア・プリオリ」と「ア・ポステリオリ」という語の歴史的な経緯についても『カント事典』を使って調べたが、こうした言葉も徐々に徐々にその意味が明確化されてきて、カントにおいて一応はっきりとした区別をつけられるようになったのだということを感じた。学問を構築する上で、概念規定ということが極めて重要なのだということを感じた。

 次回は時間と空間について扱っている部分が対象となるが、しっかり読み込んで例会に臨みたいと思う。

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 今回扱った緒言では、『純粋理性批判』の課題が「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いに答えることであると、明確に規定されている。しかもこの問いは、これまでの形而上学の歴史全体をアウフヘーベンしたものであり、この問いにしっかりと答えることによって、形而上学が確実な学として構築される土台がつくられるのだとカントは考えていたということも非常に印象的だった。カントを理解するためにも、これまでの哲学の歴史をしっかり復習しながら、『純粋理性批判』を読み進めていかなければならないとも思った。

 また、他の会員が指摘していたことであるが、特に今回の範囲に関しては、カントの主張自体を理解することは、それほど困難とは感じなかった。しかし、重要なのはカントの主張を理解することだけではなく、カントが扱った問題をヘーゲルならばどのように解くか、そして、われわれ唯物論者はどのように解くべきか、ということをしっかりと考え続け、答えを出していくことであろう。単にカントがどのように考えたかということを云々するだけでは、大学にいるカント研究者と変わらないということになってしまう。カントが取り組んだ問題に、自らもしっかり取り組んでいくのだという決意をもって、主体的に読み込んでいく必要があるのだということを、しっかりと再確認できたと思う。

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 3月例会論点への見解については、緒言の要約を仕上げてから、と思っていたのだが、時間的な余裕がなく、要約作業が中途半端なまま、見解の作成にかかってしまった。そのこともあって、見解作成の過程では、あまり深く突っ込んだ考察はできなかったな、というのが率直なところである。

 緒言の文章そのものは、『純粋理性批判』の問題意識や全体像が漠然とでも押さえられているならば、それほど難解なものではないと感じた。例会での議論を通じて、カントが使っている基本的な概念などについて、研究会としての共通認識を作ることができたのはよかったと思う。

 しかしながら、ヘーゲルならばこうしたカントの捉え方をどのように批判するのだろうか、とか、唯物論者たる我々はカントの捉え方をどのように批判する(間違いを正して正当な論として仕上げる)べきなのか、というところまでは、十分に討論を深め切れなかったきらいがある。

 そもそもそういう角度できちんと論点提起できなかったのも反省すべきであるが、今後の例会のなかでは、きちんとそういう角度からも議論を深めていけるようにしたい。


(了)

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2017年04月11日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(9/10)

(9)論点3:純粋理性批判とはどういうものか?

 前回は、分析的判断と綜合的判断に関わる論点を扱い、そこでの討論プロセスを紹介しました。

 今回は、純粋理性批判の本来の課題とされる「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いに関わる論点を取り上げ、どのような議論・討論がなされたのかを紹介します。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】

3.純粋理性批判とはどういうものか?

 カントは純粋理性批判の本来の課題は「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という形の問いに含まれている、と述べているが、このような問いの提起の意義を、哲学史上にどのように位置づけているのか。このような問いの提起に関わって、カントは、デイヴィッド・ヒュームの議論の意義と限界をどのように見ているのか。また、人間の認識の2つの根幹であるとされている感性と悟性とはどのようなものだとされているか。



 この論点に関しては、まず、カントは「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いの提起の意義を、哲学史上にどのように位置づけているのかに絞って議論しました。

 ある会員は、多くの研究を1つの課題にまとめることができ、自分のなすべき当面の仕事を自分で正確に規定できるし、この仕事を検討しようとする人にとっても企図が成功したがどうかという判断が容易になることがその意義だと主張しました。別の会員は、形而上学に関わる主張の真偽を判定し、形而上学を構築していくための基準をつくるという意義があるのだと述べました。チューターは、その問いを解決することが対象のア・プリオリな理論的認識を含むような全ての学の基礎を確立することになるだという点に触れました。もう一人の会員は、この問いは形而上学史上の諸々の問題をひとつに収斂させたものであるという点が大切であり、いわば形而上学の本質論に相当するものなのだと説きました。チューターはおおよそ言わんとしていることは似通っているとして、次のようにまとめました。すなわち、まず大切なのが、「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いは、形而上学史上の諸々の問題をひとつに収斂させたものであるという点にあるということ、またそれゆえに、この問いの解決は、形而上学を含む、対象のア・プリオリな理論的認識を含むような全ての学の基礎となるのであり、形而上学の本質論に相当するものということでした。これに対して皆は同意しました。

 次にこの問いに関わって、カントはヒュームの意義をどのように見ていたのかについて検討しました。これについては皆ほぼ同様の意見でした。すなわち、ヒュームは、この課題の解決に最も近づいた哲学者であり、因果律の問題を取り上げることによって、綜合的命判断を議論の俎上に載せた点が高く評価されている、ということでした。なお、ここで一会員から、ヒュームは自我を認めていないので、「綜合的判断」というのではなく、「綜合的命題」というのが正しいのではないかという指摘がありました。確かに、カントもヒュームの見解を述べているところでは「判断」と言わずに「命題」と書いていることを確認して、おそらくそうだろうということになりました。

 ヒュームの限界については、次のような見解が出されました。すなわち、「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という課題を全般的に十分明確に考えたわけではなく、また結論としても誤っていた(因果律はただ習慣による主観的な観念に過ぎないと考えていた)ため、一切の純粋哲学を破壊してしまった点が限界である、ヒューム自身がそのような問いを意識していたわけではない点がヒュームの限界である、ヒュームが「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いが普遍的なものであることを理解せずに、総合判断を因果律だけにとどめて検討した点と、それがア・プリオリには全く不可能であるとしてしまった点の2点がヒュームの限界である、など。これらはほぼ同様の見解であり、綜合的判断の問題に挑んだものの、その位置づけが明確であったわけでもないし、取り上げた範囲も狭く、最終的な結論も間違っていた、ということでしょう。

 最後に、人間の認識の2つの根幹であるとされている感性と悟性について議論しました。共通ではあるが、しかし我々には知られない唯一の根から生じた認識の二つの根幹であり、感性によって我々に対象が与えられ、また悟性によってこの対象が考えられるということで、基本的な見解の一致を見ました。これに加えて、ある会員は、認識の受動性と能動性が感性と悟性という形で取り上げられていると指摘しました。また、別の2人の会員は、感性はロック以来のイギリス経験論の流れを含むものであり、悟性はデカルト以来の大陸合理論の流れを含むものであり、カントはこの2つの流れを合流させようとしたのだという点にも触れました。これらの見解は、他の会員の同意を得ました。

 さらに一会員は、感性と悟性が「共通ではあるがしかし我々には知られない唯一の根から生じた」(p.82)と指摘されている点を踏まえて、これはカントの二元論的発想を超える可能性を含むものであるといえるだろうと指摘しました。皆はそれに納得しました。その上で、とはいえ、カントはこの「唯一の根」について「我々には知られない」と簡単に片づけてしまうことで、この問題の本格的な究明を放棄してしまった、ということになるのかもしれないという見解も出されました。確かに、カントはこの問題に積極的に取り組まなかったのだろうということで、一応の結論としました。

 以上で、論点3についての議論は終了しました。

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2017年04月10日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(8/10)

(8)論点2:分析的判断と綜合的判断とはどういうものか?

 前回は、ア・プリオリな認識に関わる論点を取り上げ、その議論のプロセスを紹介しました。

 今回は、分析的判断と綜合的判断に関わる論点2を取り上げます。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】

2.分析的判断と綜合的判断とはどういうものか?

 カントは、分析的判断と綜合的判断とを区別しているが、それぞれどのようなものだと説いているか。綜合的判断は、経験判断、あるいはア・プリオリに確立している判断とどのように関係しているのか。また、理性にもとづく一切の理論的な学、すなわち、数学や自然科学、形而上学にはア・プリオリな綜合判断が原理として含まれていると主張しているが、これはどういうことか。


 まず、分析的判断と綜合的判断についてです。これについては、皆の見解は一致していました。すなわち、分析的判断とは、主語に含まれている要素を引き出すだけの判断であり、主語概念を分析していくつかの部分的概念に分解するだけの判断のことです。したがってこれは、解明的判断とも呼ばれるのです。これに対して、綜合的判断とは、主語の概念において考えられていなかったものを新たに述語として付け加える判断のことです。このため、拡張的判断とも呼ばれます。

 次に、これら二つの判断と、ア・プリオリな判断・経験判断との関係について検討しました。ある会員は、綜合的判断は経験に基づかなければ成り立たないはずだと主張しましたが、カントはそこまではいっていないのではないかという指摘がありました。これについては、その会員も自分の行き過ぎを認めました。この点以外は、見解は一致しており、チューターは次のようにまとめました。すなわち、カントは、経験判断はすべて総合的であり、分析的判断のためには経験は必要ない(分析的判断はすべてア・プリオリな判断である)と説いているから、「分析的判断⇒ア・プリオリな判断」「経験判断⇒綜合的判断」ということになります。さらに、経験判断とア・プリオリな判断、分析的判断と総合的判断は、それぞれ相対立するものであるから、これらの関係をベン図に表すと、図1のようになります。

ベン図1.GIF
【図1】


 この図1は、分析的判断はア・プリオリな判断に含まれ、経験判断は綜合的判断に含まれることを示しており、また、オレンジで示したア・プリオリな判断と経験判断、青で示した分析的判断と綜合的判断とは、それぞれ相反しているので、重なる部分がないことを示しています。つまり、ア・プリオリな経験判断とか、分析的かつ綜合的判断というものは、その定義上、ありえないのです。そうなると残る問題は、ア・プリオリな綜合的判断はありうるのか、ということになり、これをカントは取り上げていくのだとチューターは説明しました。

 このようなチューターのまとめに対して、概ね賛同が得られました。ただ、会員の一人は、図1だと分析的判断でもなく綜合的判断でもないような領域が存在しているし、同様に、ア・プリオリな判断でもなく経験判断でもないような領域も存在しているので、おかしいのではないかと指摘しました。確かに、そのような領域が存在しない図に改定する必要があるとして、チューターは図2を作成しました。これでおおよそ、諸々の判断の関係を適切に表せているということになりました。

ベン図2.GIF
【図2】


 理性にもとづく一切の理論的な学、すなわち、数学や自然科学、形而上学にはア・プリオリな綜合判断が原理として含まれているというのは、どのようなことかについても、皆の見解はほぼ同様でした。一番シンプルにいってしまうと、これらの学においては、必然性および厳密な普遍性をもつ命題が存在しているということです。すなわち、ア・プリオリな綜合的判断は、これらの学(少なくとも数学と自然科学)では実際に成立しているのであり、これらの学こそが、ア・プリオリな綜合的判断が可能であるということの証明になるということです。ここからカントの問題意識は、「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか?」という問いに集約されていくのだということを確認しました。

 以上で、論点2についての議論を終えました。

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2017年04月09日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(7/10)

(7)論点1:ア・プリオリな認識とはどういうものか?

 前回は、今回扱ったカント『純粋理性批判』緒言の内容を再度まとめ直した後、本例会で議論した3つの論点を紹介しました。

 今回から3回にわたって、それぞれの論点についてどのような議論・討論を行い、どのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。

 今回は、ア・プリオリな認識に関する次のような論点についてです。

【論点再掲】

1.ア・プリオリな認識とはどういうものか?

 カントは、ア・プリオリな認識とはどのようなものであると説いているのか。通常言われているところのア・プリオリな認識なるものと、カントが明確に規定したところのア・プリオリな認識とはどのように異なっていると主張しているのか。カントは、ア・ポステリオリ、経験的認識、純粋認識という言葉も挙げているが、これらの区別と連関もしっかり確認したい。ここに関わって、純粋認識と経験的認識とを区別する標徴はどのようなものか。



 この論点については、まず、通常言われているところのア・プリオリな認識と、カントが明確に規定したところのア・プリオリな認識とは、どのように異なっているのかについて議論しました。この点については、初めから見解の一致を見ました。すなわち、通常言われているところのア・プリオリな認識とは、個々の経験にかかわりのない認識のことです。たとえば、土台下を掘ったために家を倒壊させた人に対して、そうすれば家が倒れるだろうということをア・プリオリに知り得たはずなのに、というようなことがいわれるとカントは指摘しています。確かにこれは、この家の土台下を掘ったら家が倒れた、という個々の経験を待たずに認識できるはずのことですから、通常言われているところのア・プリオリな認識といっていいでしょう。ところが、カントはこの規定では不十分だと考えていたようです。それは、物体には重さがあるのだから、支えているものが取り除かれたら落ちてしまうということ自体は、何らかの経験から得られた一般的な規則であり、これを知らなければ、先のア・プリオリな認識は成立しないからです。すなわち、何らかの経験が関与している認識であることは間違いがないのです。そこでカントは、このような個々の認識に関わりのない認識というだけでは、ア・プリオリな認識とはいえないと説いているのです。それだけではなく、一切の経験に絶対に関わりなく成立する認識をア・プリオリな認識と規定したのです。

 次に、ア・ポステリオリ、経験的認識、純粋認識の区別と連関について確認しました。まず、経験的認識は、ア・プリオリな認識に対立するものである点、ア・ポステリオリというのは「経験的」とほぼ同義である点、この二点については皆が同意しました。ここに関して、ある会員は「経験的認識は、その認識の源泉が経験のうちにあるものであって、ア・プリオリ(先天的)に対してア・ポステリオリ(後天的)であるとカントは述べている」と指摘しました。

 純粋経験については、見解が分かれました。チューターは、カントが「そこでこれから先き我々がア・プリオリな認識というときには、個々の経験にかかわりのない認識というのではなくて、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識を意味するということにしよう」と述べた後で、「ア・プリオリな認識のうちで、経験的なものをいっさい含まない認識を純粋認識というのである」と説いていることを根拠にして、これは素直に読めば、ア・プリオリな認識の特殊性として、純粋認識が位置づけられていることになると主張しました。これに対して他の会員は、「一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識」と「経験的なものをいっさい含まない認識」というのは、内容は全く同じであるから、ア・プリオリな認識=純粋認識であると主張しました。もし、チューターがいうように、ア・プリオリな認識の一部として純粋認識が位置づけられるのであれば、先の純粋認識の規定は、「一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識のうちで、経験的なものをいっさい含まない認識を純粋認識というのである」と言い換えられることになるが、このような規定はおかしい、純粋認識の規定に出てくる「ア・プリオリな認識」というのは、先に議論した「通常言われているところのア・プリオリな認識」のことであろうというわけです。さらに別の根拠として、緒言Tのタイトルが「純粋認識と経験的認識との区別について」となっており、経験的認識に対立するものとして純粋認識が位置づけられていること、緒言Uにおいても純粋認識=ア・プリオリな認識という前提で論が展開していることが挙げられました。これらの説明によって、チューターも純粋認識=ア・プリオリな認識という理解に同意しました。

 最後に、純粋認識と経験的認識とを区別する標徴についても確認しました。これについては、必然性と(厳密な)普遍性ということで見解は一致しました。ただ、ある会員は、カントは経験からは必然性や厳密な普遍性は導かれないと説いているが、これは唯物論の立場からは否定されるはずだと指摘しました。唯物論の立場では、基本的には経験から認識が形成されると考えるからです。しかし一方で、南郷学派が措定した「生命の歴史」は経験から導き出されたものではありません。資料のないところから分かるのが論理能力であるというようなことが南郷学派では説かれているので、唯物論の立場から見ても、カントの主張がまったく間違っているわけではありません。もっというと、同じ観念論の立場でも、ヘーゲルならばこのカントの主張をどのように捉えたか。このようなことは、すぐには結論が出ないということで保留としておきました。それでも、カントの主張をヘーゲルならどう考えるか、われわれ唯物論の立場からはどう評価するか、というような問題意識を常に持っておく必要があるということを確認して、論点1に関する議論を終了しました。
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2017年04月08日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までは4回にわたって、2017年3月例会で扱ったカント『純粋理性批判』緒言の要約を掲載してきました。ここで改めて、大切なポイントを振り返っておきたいと思います。

 カントはまず、純粋認識(ア・プリオリな認識)と経験的認識をしっかりと区別していました。カントがいうア・プリオリな認識とは、個々の経験にかかわりのない認識というのではなくて、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識のことでした。またカントは、経験的なものをいっさい含まない認識を純粋認識とも呼んでいました。このような純粋認識(ア・プリオリな認識)に対立するのが経験的認識です。

 次にカントは、純粋認識と経験的認識とを確実に区別しうる標徴を問題にし、それを必然性と厳密な普遍性であると説いていました。そして、そのような必然性と厳密な普遍性を有するア・プリオリな認識の可能、原理及び範囲を規定するような学を哲学は必要とすると説いていました。

 さらにカントは、分析的判断と綜合的判断の区別を考察していきます。主語と述語との関係を含む一切の関係において、述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属しているか、述語Bは主語Aと結びついてはいるが、しかしまったくAという概念のそとにあるかの2つがあるとして、前者を分析的判断、後者を綜合的判断と規定したのでした。分析的判断は解明的判断とも呼ばれ、綜合的判断は拡張的判断とも呼ばれていました。カントは、経験判断は全て綜合的であるとしたうえで、ア・プリオリな総合判断ということを問題にしていきました。

 カントは、数学や自然科学、それに形而上学などの、理性に基づく一切の理論的な学には、ア・プリオリな綜合的判断が原理として含まれていると説ていました。そうすると、純粋理性の本来の課題は、「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という形の問いにまとめられるとしていました。そして、この課題の解決に最も近づいたのがヒュームであると指摘されていました。

 最後にカントは、純粋理性批判の構想と区分についても説明していました。

 以上のような内容について、会員から事前にいくつもの論点が提出されました。それをチューターが3つにまとめました。その3つの論点が以下です。

1.ア・プリオリな認識とはどういうものか?

 カントは、ア・プリオリな認識とはどのようなものであると説いているのか。通常言われているところのア・プリオリな認識なるものと、カントが明確に規定したところのア・プリオリな認識とはどのように異なっていると主張しているのか。カントは、ア・ポステリオリ、経験的認識、純粋認識という言葉も挙げているが、これらの区別と連関もしっかり確認したい。ここに関わって、純粋認識と経験的認識とを区別する標徴はどのようなものか。



2.分析的判断と綜合的判断とはどういうものか?

 カントは、分析的判断と綜合的判断とを区別しているが、それぞれどのようなものだと説いているか。綜合的判断は、経験判断、あるいはア・プリオリに確立している判断とどのように関係しているのか。また、理性にもとづく一切の理論的な学、すなわち、数学や自然科学、形而上学にはア・プリオリな綜合判断が原理として含まれていると主張しているが、これはどういうことか。


3.純粋理性批判とはどういうものか?

 カントは純粋理性批判の本来の課題は「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という形の問いに含まれている、と述べているが、このような問いの提起の意義を、哲学史上にどのように位置づけているのか。このような問いの提起に関わって、カントは、デイヴィッド・ヒュームの議論の意義と限界をどのように見ているのか。また、人間の認識の2つの根幹であるとされている感性と悟性とはどのようなものだとされているか。


 これら3つの論点について、例会1週間前までに会員はそれぞれの見解を作成し、メールで相互に送り合いました。そしてチューターはそれらの見解を例会当日までにまとめました。例会当日は、それらの見解を踏まえて、議論をしていきました。

 次回以降、これらの論点についてどのような議論・討論がなされ、どのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していくことにします。

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2017年04月07日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』緒言 要約C

 前回は、カント『純粋理性批判』緒言の「X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる」と「Y 純粋理性の一般的課題」の部分の要約を掲載しました。ここでは、数学や自然科学、それに形而上学には、必然性と厳密な普遍性を備えた命題が存在していること、純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いに収斂することなどが説かれていました。

 今回は、カント『純粋理性批判』緒言の最後の部分である「Z 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分」の要約を掲載します。


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Z 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分

 以上述べたところから、純粋理性批判と名づけられるような特殊な学の構想が生じる。理性はア・プリオリな認識の原理を与える能力だからである。したがって、純粋理性は、何かあるものを全くア・プリオリに認識する原理を含むところの理性である。もしア・プリオリな一切の純粋認識が、原理にしたがって得られ、また実際に成立しうるなら、これらの原理の総括は、純粋理性のオルガノン(認識の道具)といえるだろう。また、こうしたオルガノンを周到に適用すれば、純粋理性の体系が成立するだろう。しかし、これは実に骨の折れる仕事である。我々の認識の拡張は果たして可能なのか、また可能だとすればそれはどのような場合に可能であるか、今のところはまだ決定されていないわけだから、我々は純粋理性とその源泉および限界との批判を旨とするような学を、純粋理性のための予備学とみなしてよい。こうした予備学は、学説ではなくて、単に純粋理性の批判と呼ばれなければならないだろう。また、この批判の効用は、思弁に関しては全く消極的であって、我々の理性を拡張するのに役立つものではなく、ただ理性を純化する用をなすことで理性が誤謬に陥るのを防ぐことになるだろう。私は、対象に関する認識ではなくてむしろ我々が一般に対象を認識する仕方――それがア・プリオリに可能である限り――に関する一切の認識を先験的(transzendental)と名づける。すると、こうした概念の体系は先験的哲学と名づけられてよいが、そういってしまっては最初としては過大である。この学は、分析的認識とア・プリオリな総合的認識を完全に含んでいなければならないので、我々の意図に関する限りでは、なお範囲が広すぎるからである。我々が分析を進めて差し支えないのは、ア・プリオリな総合の諸原理をその全範囲にわたって洞察するのに是非とも必要な程度に限られている。このア・プリオリな総合こそ我々にとって最も肝要なのである。こうした研究の意図するところは、認識そのものの拡張ではなく修正であり、ア・プリオリな一切の認識の価値あるいは非価値を判別する試金石である。したがって、この研究は学説と称してよいようなものではなく、先験的批判と名づけられるべきものである。このような批判は、オルガノンのための準備といえるが、オルガノンが成功しなくても、純粋理性の規準のための準備にはなるだろう。いつかはこの基準にしたがって、純粋理性の哲学の完全な体系が分析的にも総合的にも示されるだろう。こうした体系は決して完成が期待できないほど広大な範囲にわたるものではないということは、ここで我々が論究するところのものは物すなわち外的対象としての自然ではなく、自然について判断する悟性であり、それもア・プリオリな認識に関する限りの悟性であるということからも、容易に推測できる。必要な対象の手持ちは我々の内部にあるのだから、したがっていつまでも我々に隠されているわけにはいかないし、それにまたどう見積もっても極めて少ない量であるから、その全部をとりあげたところで、これらの対象をそれぞれその価値あるいは非価値にしたがって判定し、また適正に評価することができるだろう。ここで期待できるのは、純粋理性に関する書物や純粋理性の体系などの批判ではなく、純粋な理性能力そのものの批判である。こうした批判を根底にするときのみ、我々は哲学の部門における古今の著作の哲学的価値内容を評価すべき確実な基準をもつのである。

 先験的哲学は、ある種の学の構想である。換言すれば、純粋理性批判がこの学の全設計をいわば建築術的に、すなわち原理にもとづいて立案するとともに、この建物を構成する一切の部分の完全と安全とを十分に保障しなければならないような学の構想である。すなわち、先験的哲学は、純粋理性の一切の原理の体系である。この批判がみずから先験的哲学と名のらないのは、こうした批判が完全な体系であるためには、人間のア・プリオリな認識全体の周到な分析を含まねばならないからである。

 純粋理性批判は、先験的哲学を構成する一切のものを含み、先験的哲学の完全な構想ではあるが、しかしまだ先験的哲学そのものではない。この批判が行う分析は、ア・プリオリな総合的認識を完全に判定するに必要なだけにとどまっているからである。

 こうした学〔純粋理性批判〕を区分するに当たって最も重要な目安は、何によらず経験的なものを含むような概念が入り込んではならない、換言すれば、ア・プリオリな認識はあくまで純粋でなければならない、ということである。それだから、道徳の最高原則と基本概念とは、ア・プリオリな認識ではあるが先験的哲学には属さない。これらの原則や概念は快・不快、欲望、傾向のような、いずれも経験的起源をもつものの概念を、みずから道徳的命令の根底におくわけではないが、しかし義務の概念において克服されるべき障害として、あるいは動因にされてはならない刺激として、純粋な道徳の体系を構成する場合でも、こうした概念を引き入れざるをえないからである。それだから先験的哲学は全く思弁的な純粋理性の哲学である。一切の実践的な要素は、それが動機を含む限り感情に関係し、感情はまた経験的な認識起源に属するものだからである。

 ところで、一般に体系というものを考察する見地からこの学の区分を試みるとなると、我々が今述べているところの区分は、第一に純粋理性の原理論を、また第二に純粋理性の方法論を含まねばならない。またこれら2つの主要部門は、それぞれ小区分を含むことになるだろう。人間の認識には、2つの根幹がある。おそらくこれら根幹は、共通ではあるがしかし我々には知られない唯一の根から生じたものであろう。この2つの根幹というのは、感性と悟性とである。感性によって我々に対象が与えられ、悟性によってこの対象が思惟されるのである。ところで感性は、対象が我々に与えられるための条件をなすところから、先験的哲学に属するだろう。そして先験的感性論は、原理論の第一部門でなければならないだろう。認識の対象が人間に与えられるための条件は、その対象が考えられるための条件に先立つからである。
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2017年04月06日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』緒言 要約B

 前回は、カント『純粋理性批判』緒言の「V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする」と「W 分析的判断と総合的判断との区別について」の部分の要約を掲載しました。ここでは、ある種の認識は、概念によってわれわれの判断の範囲を経験の一切の限界を超えて拡張するように見えること、分析的判断とは主語概念を分析していくっかの部分的概念に分解するような判断であり、綜合的判断とは主語の概念において全く考えられていなかったものを述語として付け加えるような判断であることなどが説かれていました。

 今回は、カント『純粋理性批判』緒言の「X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる」と「Y 純粋理性の一般的課題」の部分の要約を掲載します。


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X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる

 1、数学的判断は全て総合的判断である。この命題は極めて確実で、誰も反駁できない。

 数学的命題は、経験からは到底得られないような必然性を備えているのだから、常にア・プリオリな判断であって経験的な判断ではない。

 「7+5=12」という命題は分析的命題であり、7と5の和という概念から矛盾率にしたがって生じると考えられるかもしれない。しかし詳しく考察してみれば、7と5の和という概念は、この2つの数を結びつけて1個の数にするということしか含んでいないことが分かる。12という概念は、私が7と5との結びつきを考えるだけで既にこの概念において考えられているというわけにはいかない。和の概念をいくら分析してみても、この概念のうちに12という数は見出されない。

 同様に、純粋幾何学の命題にしても、分析的なものはひとつもない。「直線は2点間で最短である」という命題は総合的命題である。直線という概念は長短の量を含むものではなく、ただ性質を含んでいるだけだからである。最短という概念は、全く別に付け加わったものであり、分析によってこれを直線の概念から引き出すことはできない。

 2、自然科学(物理学)はア・プリオリな総合的判断を原理として自分自身のうちに含んでいる。例えば「物体界の一切の変化において物質の量は常に不変である」あるいは「運動の一切の伝達において作用と反作用は常に相等しくなければならない」という命題は、いずれも必然性と、したがってア・プリオリな起源とを有するのみならず、綜合的命題であることも明白である。物質という概念で考えられるのは、物質が空間のうちに現に存在しているということだけであり、常住不変という性質ではない。だから、物質という概念によって考えられていなかった何かあるものを、ア・プリオリにこの概念に付け加えるためには、物質という概念の外に出なければならない。

 3、形而上学は、これまでのところ単に試みられたにすぎない学であるにもかかわらず、人間理性の自然的本性からいって、欠くことのできない学だとみなされている。この学には、当然ア・プリオリな総合的認識が含まれていなければならない。形而上学の旨とするところは、我々が物に関してア・プリオリに構成するところの概念を単に分析することによって、これらの概念を分析的に解明するのではなく、我々が我々の認識をア・プリオリに拡張するところにある。そのためには、与えられた概念の外に出て、この概念に含まれていなかった何かあるものを別に付け加えるような原則を用いなければならない。そこで我々は、ア・プリオリな総合的命題によってこの概念を超出することになるので、経験そのものはもはや我々に追随できないのである。例えば、「世界にはそもそもの始まりがなければならない」などという命題がこれである。このような形而上学は、少なくともその目的に関しては、全くア・プリオリな総合的命題からなるのである。


Y 純粋理性の一般的課題

 多くの研究をひとつの課題にまとめて、これを一定の形式で表現することができると、それだけでも得るところは大きい。そうすれば自分のなすべき当面の仕事を自分で正確に規定できるから、仕事そのものが楽になるし、またそれだけでなくこの仕事を検討しようという人にとっても、我々の企図が成功したかどうかの判断が容易になるのである。すると純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能か」という形の問いに含まれるといってよい。

 形而上学がこれまで非常に不確かで矛盾に満ちていたのは、哲学者たちがこのような課題はもとより、分析的判断と総合的判断との区別にすら気づかなかったからである。それでも哲学者たちのうちで、この課題の解決に最も近づいたのは、デイヴィッド・ヒュームである。しかし、彼もこの課題を十分明確に考えたわけではなく、またこの課題が普遍性をもつものであることに考え及んだのでもなく、生起した結果をその原因に結びつけるという総合的命題(因果律)だけにとどまった。彼は、こうした命題はア・プリオリには全く不可能であることを明らかにすることができた、と信じた。彼の推論に従えば、我々が形而上学と呼ぶところのものは全て、実際には全く経験から得たところのものや、習慣によって見かけだけの必然性を得たところのものを、理性の真正な洞察と思い誤った妄想にすぎないということになるだろう。もしヒュームが、我々の提出した課題は普遍性をもつものだということを念頭に置いていたら、一切の純粋哲学を破壊するような主張を思いつきはしなかっただろうし、彼の論証に従えば純粋数学すら存在しなくなることを覚っただろう。

 上記の課題の解決は、対象のア・プリオリな理論的認識を含むところの全ての学の基礎を確立し、またこれらの学を完成するために純粋な理性使用が可能であることも――換言すれば、「純粋数学はどうして可能であるか」「純粋自然科学はどうして可能であるか」という問題に対する解答をもまた包括することになる。純粋数学にせよ純粋自然科学にせよ、いずれも実際に存在しているのだから、これらの学がどうして可能なのか問うのは当を得たことである。ところが形而上学に関しては、実際に存在しているとは言い難いので、誰しもこの学が可能であることに疑いを差し挟むのはもっともである。

 しかし、形而上学は、学としてではなくても、人間の自然的素質としては実際に存在する。人間の理性は、自分自身の止みがたい要求に駆られて、理性の経験的使用やまたそれから得られた原理などによってはとうてい答えられないような問題に向って、絶えず進んでいくものだからである。それだから人間の理性が発達して思弁を事とするようになるや否や、何らかの形而上学があらゆる人間の心の内にこれまでも常に存在していたし、またこれからも存在するであろう。そこで形而上学については、「人間理性の自然的素質としての形而上学はどうして可能であるか」という問いが生じる。

 しかし、人間理性にとって自然な問題、例えば「世界にはそもそも始まりがあるのか、それとも世界は無限の昔から存在しているのか」という問題に応えようとする従来のあらゆる試みには、常に避けることのできない矛盾があった。それだから我々は、人間理性に存在する形而上学的素質だけにとどまっているわけにはいかず、形而上学の論究する対象は知ることができるのか否か、これらの対象について何ごとか判断する能力の有無が決められるのか、したがってまた我々の純粋理性を拡張できるのか、それとも純粋理性には明確に規定された確実な制限を付しうるのか、ということである。すると、上記の一般的課題から生じてくる第三の問題は当然に次のようなものになるであろう。「学としての形而上学はどうして可能であるか」。

 それだから、理性批判は結局学にならざるをえない。これに反して批判なしに理性を独断論的に使用すれば、根拠のない主張に、したがってまた懐疑論に陥るのである。こうした主張には同じくもっともらしい主張を対抗させることができるからである。

 理性批判という学が扱うところのものは、理性の多種多様な対象ではなくて、全く理性自身であり、全て理性の内奥から生じたところの課題――理性自身の自然な本性によって理性に提出されたところの課題である。実際にも、もし理性が経験において自分に現われるところの対象に関して、前もって自分自身の能力を完全に知ることができれば、経験の一切の限界を超えて試みられる理性使用の範囲と限界とを完全かつ確実に規定することが容易になるに違いない。

 それだから形而上学を独断論的に成立させようとして従来行われた一切の試みは、もともとなかったものと見なし得るし、また見なさざるをえないのである。我々の理性にア・プリオリに内在している概念を分析するだけでは、学としての形而上学の準備にすぎず、ア・プリオリな認識を総合的に拡張しようとする本来の形而上学の目的たりえるどころでない。だが、人間理性に欠くことのできない学である形而上学に関しては、その幹から生じた枝葉は切り捨てることができるかもしれないが、これを根絶することは全く不可能である。そこでこの学を、これまでとは反対の別な取り扱いによって育成し、豊かに繁茂させる仕事が、内部的な困難と外部からの抵抗とによって疎外されないようにするためには、一段の堅忍不抜な心構えを必要とする。

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2017年04月05日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』緒言 要約A

 前回は、カント『純粋理性批判』緒言の「T 純粋認識と経験的認識との区別について」と「U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない」の部分の要約を掲載しました。ここでは、ア・プリオリな認識=純粋認識とは、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識を意味すること、必然性と厳密な普遍性がア・プリオリな認識の特徴であることなどが説かれていました。

 さて今回は、カント『純粋理性批判』緒言の「V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする」と「W 分析的判断と総合的判断との区別について」の部分の要約を掲載します。

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V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする

 しかし、はるかに重大な意味をもつのは、ある種の〔ア・プリオリな〕認識は一切の可能的経験の領域を捨て、自分に対応する対象が経験において全く与えられないような概念によって、我々の判断の範囲を経験の一切の限界を超えて拡張するように見える、ということである。

 純粋理性にとって避けることのできない課題は、神、自由および不死である。そしてこれらの課題の解決を究極目的とし、一切の準備を挙げてもっぱらこの意図の達成を期する本来の学を形而上学というのである。ところが、この学のとる方法は、最初は独断論的である。つまり、こうした大事業を成就しうる能力の有無を理性についてあらかじめ検討せずに、この事業の遂行を担当してはばからないわけである。

 しかし、我々としては、経験の領域を立ち去るや否や、素性の分からない認識を材料とし、起源の不明な原則をそのまま信用し、綿密な研究によって建物の基礎を確かめもせずに、すぐさま建築に取り掛かるよりも、まずその前に、一体悟性はどうしてこのようなア・プリオリな認識を得るに至ったのか、またこのような認識はどのような範囲、妥当性および価値をもつのか、という問いを提出する方がよほど自然なことであると思われる。しかし、自然なことという言葉を、普通一般に行われていることと解するなら、こうした〔批判的〕研究が長らく放置されざるを得なかった事情にもまして自然で明白なことはない。というのは、こうしたア・プリオリな認識の一部をなすところの数学的認識が、昔からその確実性を信頼されているので、これとは全く性質を異にする他の認識までが、それによって自分に都合のよいことを期待しているからである。その上、いったん経験の範囲を出てしまえば、もう経験によって反駁される恐れがない。また、我々の認識を拡張しようとする魅力は極めて大きいので、明白な矛盾に出合いさえしなければ、我々の行く手を阻むものはあり得ない。この魅力は、虚構に注意しさえすれば避けられうるとはいえ、だからといって虚構が決して虚構でなくなるわけではない。数学は、我々が経験に関わりなくア・プリオリな認識をどこまで進め得るか、立派な実例を示すものである。数学は、その対象と認識が〔ア・プリオリな〕直観に示される限りでのみ、これを研究するところの学である。しかし、この事情は、ここでいうところの直観がア・プリオリに与えられることで単なる純粋概念とほとんど区別されないことから、ややもすると看過される。こういう数学上の証明によって理性の威力に心奪われるものだから、認識を拡張しようとする衝動はついにとどまるところを知らないのである。

 我々の理性の仕事の大きな部分は、我々のすでにもっている種々の概念を分析するところにある。概念の分析は我々に多くの認識を与えるが、実質すなわち内容からいえば、分析は我々の概念を拡張するものではなくて、ただこれを分解するものにすぎない。ところが、この方法は、実際にもア・プリオリな認識を与え、またこの認識は確実でかつ有用な発展をとげるので、理性はこれに欺かれて、自分でも気づかぬうちに全く別の種類の主張をひそかに取り入れるのである。換言すれば、理性はすでに与えられている概念に、これとは全く無縁の、しかもア・プリオリな概念を付加する。しかし我々には、理性がどうしてこういうことをするのか、わけが分かっていない。それどころか我々は、こういう問いを発することすら思いつかないのである。そこで、まずはじめに、認識のこうした2通りの仕方の区別を論じてみたい。


W 分析的判断と総合的判断との区別について

 主語と述語との関係を含む一切の判断において(私がここで肯定的判断だけを考察するのは、あとでこれを否定判断に適用するのは容易だからである)この関係は2通りの仕方で可能である。すなわち、述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属するか、そうでなければ述語Bは主語Aと結び付いてはいるが、しかし全くAという概念の外にあるか。第一の場合を分析的判断、第二の場合を総合的判断と呼ぶ。分析的判断を解明的判断、総合判断を拡張的判断と呼ぶこともできる。解明的判断は、述語によって主語の概念に何も付け加えず、ただ主語概念を分析していくつかの部分的概念に分析するだけだからである。これに反して拡張的判断は、主語の概念に述語を付け加えるものである。この述語は主語の概念においては全く考えられていなかったもの、また主語概念を分析することでは引き出してこれなかったものである。「物体は全て延長をもつ」は分析判断であるが、「物体は重さをもつ」は総合判断である。

 経験判断はその本性上、全て総合的である。分析的判断を構成するには、私がすでにもっている概念の外へ出る必要はなく、分析的判断は経験の証言を必要としない。

 ところが、ア・プリオリな総合的判断となると、経験という便宜を全くもたない。Aという主語概念に結びついているものとしてのBという概念を認識するために、Aという概念の外へ出る場合に、私が自分の支えとするものは何であるか、またこの総合は何によって可能であるのか。これを経験の領域で探し求めるという利便はないのである。例えば、「生起するものは全てその原因をもつ」という命題において、原因という概念は、生起する何かあるものという概念の全く外にあり、生起するものとは異なる何かあるものを示している。では、私は一体どうやって、一般に生起するものの概念に、これとは全く異なるものを述語として付け加えうるのか。その支えとなる未知のXは何か。それは経験ではあり得ない。上記命題を成立させる原則は、経験が与えうる以上の普遍性をもって、そればかりかさらに必然性という言葉をもって、したがってまた全くア・プリオリな純粋概念だけによって、原因の表象を生起するものの表象に付け加え得るのである。要するに、我々のア・プリオリな思弁的認識の究極の意図は、もっぱらこうした総合的原則すなわち拡張の原則に基づいているのである。

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2017年04月04日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』緒言 要約@

 前回は、報告レジュメと、それにかかわって出されたコメントを紹介しました。

 今回から4回にわたって、カント『純粋理性批判』緒言の要約を掲載していきます。今回は、「T 純粋認識と経験的認識との区別について」と「U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない」の部分です。

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緒言

T 純粋認識と経験的認識との区別について

 我々の認識がすべて経験をもって始まるということはいささかも疑いえない。対象こそが、我々の感覚を触発し、一方ではおのずから表象をつくりだし、他方では、我々の悟性を働かせてこれらの表象を比較し結合または分離して、感覚的印象という素材を対象の認識、すなわち経験へとつくりあげるのである。だから、我々のどんな認識も、時間的には経験に先立つものではなく、すべて経験をもって始まるのである。

 しかし、我々の認識がすべて経験をもって始まるとしても、我々の認識がすべて経験から生じるというわけではない。我々の経験的認識ですら、我々が感覚的印象によって受け取るところのものに、我々自身の認識能力〔悟性〕が自分自身のうちから取り出したものが付加されてできた合成物であるからである。我々は、長い間の修練によってこのことに気付き、またこの付加物を分離することに熟達するようにならないと、これを基本的な材料すなわち感覚的印象から区別できない。

 それだから、経験に関わりない認識、それどころか一切の感覚的印象にすら関わりないような認識が実際に存在するかという問題は、立ち入った研究を必要とする。こうした認識は、ア・プリオリな認識と呼ばれ、経験的認識から区別される。経験的認識の源泉は経験のうちにあるから、ア・ポステリオリである。

 ところが、ア・プリオリな認識という語は、明確さを欠いており、当面の問題に含まれている意味の全体を適切に言い表すには十分ではない。土台の下を掘ったために家を倒壊させた人がいると、彼はこうすれば家が倒れるということをア・プリオリに知りえたはずだ、なにも家が実際に倒れるという経験をまつまでもなかったのに、などといわれることがあるからである。しかし、彼とて、このことを何から何までア・プリオリに知ることはできなかったのである。なぜなら、物体には重さがあるのだから、物体を支えているものが取り除かれれば落っこちてくる、ということは、やはりあらかじめ経験によって知っておかなければならなかったからである。

 それだから、これから先、我々がア・プリオリな認識というときには、個々の経験に関わりない認識ということではなく、一切の経験に絶対に関わりなく成立する認識を意味するということにしよう。こうしたア・プリオリな認識に対立するのが、経験的認識である。経験的認識は、ア・ポステリオリにのみ、換言すれば、経験によってのみ可能な認識である。そしてア・プリオリな認識のうちで、経験的なものを一切含まない認識を純粋認識というのである。それだから例えば、「およそ変化は全てその原因をもつ」という命題はア・プリオリな命題ではあるが、しかし純粋ではない。「変化」という概念は、経験からのみ引き出すことができるものだからである。


U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない

 ここで問題は、純粋認識と経験的認識とを確実に区別しうる標徴は何か、ということである。経験は、何かあるものが事実としてしかじかであることを教えはするが、そのものが「それ以外ではありえない」という必然性を教えるものではない。だから第一に、ある命題があって、それが同時に必然性をもつと考えられるなら、それはア・プリオリな判断である。その上、その命題が必然的な命題だけから導かれたものなら、それは絶対にア・プリオリな命題である。第二に、経験はその判断に厳密な普遍性を与えるものではなく、ただ想定された相対的普遍性を与えるだけである。もし、ある判断が厳密な普遍性をもつ(ただひとつの例外も許さない)と考えられるなら、こうした判断は経験から得られたのではなく、絶対にア・プリオリに妥当する判断である。ある判断に、厳密な普遍性が本質的に属する場合、こうした普遍性はこの判断が、ア・プリオリに認識する能力によるものであることを示している。だから、必然性と厳密な普遍性は、アプリオリな認識を表示する確実な特徴であり、この2つの性質は互いに分離しがたく結びついている。

 我々はこうした必然的な、また厳密な意味で普遍的な、したがってまたア・プリオリな純粋判断が、人間の認識に実際に存することを容易に示すことができる。「変化は全て原因をもたねばならない」という命題を例にとってみても、原因の概念は、原因が結果と結び付く必然性という概念と、この規則すなわち因果律の厳密な普遍性という概念とを明らかに含んでいる。ヒュームのように、原因の概念を習慣からいきだそうとしたら、この概念は全く成り立たない。だが、わざわざこのような例を挙げなくとも、ア・プリオリな純粋原則が経験そのものを可能にするために不可欠なものであることをア・プリオリにも示すことができる。もし、経験の進行を規定する一切の規則がどれもこれも経験的なもの、したがってまた偶然的なものだとしたら、経験は自分の確実性をどこに求めようとするのだろうか。判断ばかりでなく概念にさえ、ア・プリオリな起源をもつものがいくつかある。物体という経験概念から物体における一切の経験的なもの――色、硬さ、重さ、不可入性を次第に抜き去ってみても、この物体が占めていたところの空間は残る。同様に、ある対象について、経験的概念から一切の経験的な性質を抜き去っても、件の対象を実体として、あるいは実体に付属するものとして考えるところの性質は残る。実体という概念が必然性をもって迫ってくる以上、これを否定することはできず、実体概念がア・プリオリな認識能力のなかにその座を占めるものであることを承認せざるをえない。
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2017年04月03日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(1/10)

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』緒言 要約@
(3)カント『純粋理性批判』緒言 要約A
(4)カント『純粋理性批判』緒言 要約B
(5)カント『純粋理性批判』緒言 要約C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:ア・プリオリな認識とはどういうものか?
(8)論点2:分析的判断と綜合的判断とはどういうものか?
(9)論点3:純粋理性批判とはどういうものか?
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 3月例会では、『純粋理性批判』の緒言を扱いました。緒言は次の7つの節からなっています。

T 純粋認識と経験的認識との区別について
U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない
V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする
W 分析的判断と総合的判断との区別について
X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる
Y 純粋理性の一般的課題
Z 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分


 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。


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京都弁証法認識論研究会3月例会
カント『純粋理性批判』緒言(pp.57-83)

1.ア・プリオリな認識とはどういうものか

 カントは、神、自由および不死という課題を解決しようとする形而上学において、ア・プリオリな認識の可能、原理、範囲を規定するような学を必要とするのだという考えのもと、そもそもア・プリオリな認識とはどういうものかを論じている。

 通常、ア・プリオリな認識とは個々の経験にかかわりのない認識を指すが、これでは経験から得てきた一般的な規則をもとにした認識もア・プリオリな認識となることをカントは指摘した。そうではなくて一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識をア・プリオリな認識だと主張し、さらに純粋認識と呼んだ。そして、この純粋認識と経験的認識とを確実に区別しうる標徴として、必然性と厳密な普遍性を挙げた。

<報告者コメント>
 『カント事典』によると、ア・プリオリという言葉には歴史的な経緯があるようである。もともとはラテン語で「先に」を意味しており、ライプニッツは「主語に含まれている概念を分析的に導出して認識することを、アプリオリに認識する」と呼んでいた。ヴォルフは「理性的原理にもとづく認識がアプリオリとされ、直接に感覚器官に頼る認識がアポステリオリ」と見なしていた。またヴォルフ学派最大の哲学者であるバウムガルテン(1714-1762、独)は「あるものが根拠から認識されうる場合、アプリオリに認識され、帰結から認識されうる場合、アポステリオリに認識される」と主張した。ライプニッツは少し系列が違うかもしれないが、ヴォルフ学派に関して言えば、我々の言葉で捉え返せば、論理に基づくものをア・プリオリと呼び、事実に基づくものをア・ポステリオリと呼んでいるようである。

 こうした観点から言えば、カントは、論理に基づくと言っても、その論理は事実から導かれたものだという論理と事実ののぼりおりを踏まえ、ア・プリオリという概念をより明確にしようとしたということが言えるだろう。


2.分析的判断と総合的判断とはどういうものか

 続いてカントは、理性に基づく一切の理論的な学(数学、自然科学、形而上学)にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれているとして、そもそも総合的判断とはどういうものかを分析的判断との対比で論じている。

 主語と述語との関係を含む一切の関係において、述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属しているか、述語Bは主語Aと結びついてはいるが、しかしまったくAという概念のそとにあるかの2つがあるとして、カントは前者を分析的判断、後者を総合的判断と呼んでいる。

<報告者コメント>
 『カント事典』によれば、「分析的」という言葉に関しても歴史的な経緯がある。ニュートンによれば、「多様なデータから実験と観察によって一般的命題を帰納する」のが分析の方法であり、「分析の方法の結果から出発して諸現象を説明する」のが総合の方法である。またヴォルフによれば、「諸々の真理が発見されたようにして、あるいは発見されうるようにして、それらを呈示する」のが分析的方法であり、「諸々の真理の一方が他方からより容易に理解され論証されうるようにして、それらを呈示する」のが総合的方法である。カントの「分析的」という言葉は(ライプニッツではなく)このヴォルフを受け継いでいるということである。

 ヴォルフの分析的方法というのは、これだけでは正直あまりよくわからないのだが、少なくともカントが様々な意味で使われていた「分析的(判断)」「総合的(判断)」という概念を明確にしようとしていたのは間違いないだろう。特にニュートンの使い方を読むと、ア・プリオリとア・ポステリオリの使い方とほぼ同様にように思われるし、この辺りはかなり曖昧に使われていたのだろう。我々としては、学問を構築していく上で1つ1つの概念を明確にしていくことの重要性をカントから学ばないといけないだろう。


3.ア・プリオリな総合判断とはどういうものか

 以上のように分析的判断と総合的判断について説いた上で、カントは、総合的判断は経験を拠り所としなければ成り立たないのに、数学や自然科学でア・プリオリな総合判断が事実として成り立っているのはどうしてなのかということを問題とする。ここの解明が形而上学の確実な基礎となるのであり、この課題に思い至らなかったことが、形而上学がこれまで非常に不確かで矛盾の多い状態を続けてきた原因だと、カントは主張するのである。

 この課題の解決に最も近づいたのはヒュームであるが、ヒュームが扱った問題は因果性の原理という総合的命題のみに留まっていた(ア・プリオリな総合判断一般を扱ったのではなかった)し、さらに因果性の原理が成り立たないものとし、純粋哲学を破壊するような主張をしてしまったとして、その限界を指摘している。

<報告者コメント>
 カントは哲学(形而上学)において、様々な議論が錯綜する中において、根本的な論点は何なのかということを明らかにしたのだと言えるだろう。この「問いの発見」こそがカントの物自体論や二律背反といった哲学上の業績につながったということを踏まえるならば、我々としても、自分の専門分野において一体何が問題とされているのかや、あるいは例会の議論が錯綜する中で論点になっているのは何なのかを明確に意識し、問いを見つける力を高めていくことが必要だと言えるだろう。

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 このレジュメに対して、いくつかの指摘がありました。まず、1の報告者コメントの最後の部分についてです。そこでは、「こうした観点から言えば、カントは、論理に基づくと言っても、その論理は事実から導かれたものだという論理と事実ののぼりおりを踏まえ、ア・プリオリという概念をより明確にしようとしたということが言えるだろう」と説かれていました。この部分に対して、「このようなことがいえるだろうか?」という疑問が出されました。前とのつながりがよく分からないという疑問でした。これに対してレジュメ報告者は、カントが挙げている家が倒れる例で補足説明しました。すなわち、土台下を掘れば家が倒れるということをア・プリオリに知っているといっても、その論理はやはり事実から導き出されたものであるから、それは厳密な意味でア・プリオリな認識とはいえない、ア・プリオリな認識というためには、個々の経験にかかわりがないというだけではなく、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識である必要がある、とカントは説いているということである。この説明を聞いて疑問を呈した会員は、そのような説明があれば分からないこともないが、この文章だけではかなりの飛躍があると指摘しました。また別の会員は、今の補足説明であれば、単に、一般にア・プリオリと呼ばれている認識も、実はそうではないのだと主張しているだけであり、「ア・プリオリという概念をより明確にしようとした」というよりは、経験的認識を明らかにしたというべきではないか、と指摘しました。さらに別の会員は、その前の部分に「論理に基づくものをア・プリオリと呼び、事実に基づくものをア・ポステリオリと呼んでいる」とまとめている部分があるが、そのように単純に対応させるべきではないのではないかと指摘しました。歴史の途中にある(混乱した?)観念論の立場の概念を、完成した唯物論の立場の概念で割り切ると、漏れる部分が出てくるのではないかという指摘です。これらの指摘を、レジュメ報告者は大筋で認めました。

 あと2点、確認されたことがありました。一つは、2の部分に「続いてカントは、理性に基づく一切の理論的な学(数学、自然科学、形而上学)にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれているとして、そもそも総合的判断とはどういうものかを分析的判断との対比で論じている」とあるが、これはカントの論述の順番と逆になっているのではないか、すなわち、カントは綜合的判断と分析的判断を対比で論じた後、理性に基づく一切の理論的な学(数学、自然科学、形而上学)にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれているというテーマに進んでいるのではないか、なぜ順番を入れ替えるのか、という指摘です。これに対してレジュメ報告者は、自分の思い込みが入ってしまったかもしれないと述べました。もう一つは、2の報告者コメントにある「カントの「分析的」という言葉は(ライプニッツではなく)このヴォルフを受け継いでいるということである」という部分に関してです。ここは報告者の見解ではなく、『カント事典』の内容であるということが確認されました。もしここが報告者自身の見解であれば、後ろの「ヴォルフの分析的方法というのは、これだけでは正直あまりよくわからない」という部分とつながらないことから出た疑問でした。

 以上、今回は報告レジュメと、それにかかわって出されたコメントを紹介しました。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史