2017年03月04日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の2つの序文を熱かった我が研究会の2017年2月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。

 2月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回3月例会は、『純粋理性批判』の緒言(pp.57-83)を扱います。

 それでは、以下、参加者の感想です。

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 今回の例会からいよいよカント『純粋理性批判』の中身に入っていった。今回は、序文を中心に扱った。

 カントが形而上学をどのように捉え、この著作をその歴史にどのように位置づけようとしていたのか、数学や物理学における考え方の革新とは如何なるもので、カントはそれを形而上学にどのように適用したのか、カントが物自体と現象とを分けて考えたのはなぜか、といった問題について、まずは本論に入る前の段階として理解しておくべき事柄については押さえることができたのではないかと思う。

 しかし同時に感じたことは、他会員と比べればはるかに理解の度合いが劣っているということであった。カントの物自体論と自由との関わりに関する議論が特にそうであった。解説してもらうと、なるほどそういうことかと一応の理解はできるので、苦手意識を克服して、分かったことを1つずつ丁寧に確認していき、分からなかったことを例会を通じて少しでも理解できていくよう努力していく必要がある。

 来月は緒言を扱うが、ここでも本論に入る前提としての理解が求められると思う。しっかりと読み込んで、上記の作業ができるように準備しておきたい。

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 今回の例会では、カント『純粋理性批判』を読み進めていくうえでの、いくつかの大切な問題意識を共有できた点が非常によかったと思う。

 まず、カントは形而上学の歴史を独断論と懐疑論の闘争の歴史として描いているが、どうやらこの闘争の歴史を踏まえて4つの二律背反が措定されたらしいことが分かった。もちろん、単純にテーゼが独断論の立場で、アンチテーゼが懐疑論の立場である、というような区分けではないにしろ、独断論と懐疑論の闘争、および独断論内部での闘争(内乱)の歴史を踏まえて、それを4つのアンチノミーとしてまとめ上げたのだ、という可能性が高いと分かったのである。それは、カントが理性批判を法廷になぞらえていることからも分かる。カントの論の流れからは、この法廷では従来の独断論と懐疑論の主張が戦わされる場であるというように解釈できるが、諸々の参考文献によると、この法廷というのは4つのアンチノミーについて、理性が裁判官としてのより高い立場から判定を下すという解釈が一般的であるようだ。すなわち、形而上学の歴史である独断論と懐疑論の闘争ということと、4つのアンチノミーということが、つながっていると理解できそうなのである。形而上学がぶつかっていた難問というのも、この問題にかかわってくるであろうから、ここはカントの問題意識の大前提として、しっかりと押さえておく必要があると感じた。

 次に、カントが形而上学に適用した考え方の革新についてである。数学や自然科学で成功した着想を形而上学にも採用したと説かれているが、ここに関して、結局物自体と現象というのは、どの程度つながっているのか、物自体が現象をどの程度規定しているのか、という問題意識が明確になった。カントも説いていたが、現象というからには、「何か」が現象しているのであり、その「何か」はとりもなおさず物自体であるはずだから、両者にはきちんとつながりがあるのは当然である。しかし、カントはこの二つの区別を強調もしているわけで、弁証法的にいえば、物自体と現象は、つながっているとともにつながっていないということができる。では、どのようにつながっており、どのようにつながっていないのか、その構造をきちんと理解していくことが、今後の大きな課題になるといえるだろう。

 最後に、物自体と現象とを区別することによって、無条件者についての矛盾が解消するとされていたわけであるが、そもそも、無条件者ということが形而上学の歴史において、どのような必然性があって扱われてきたのか、さらに、具体的にはどのような哲学者がどのような矛盾する見解を戦わせてきたのか、それをカントは本当に解決したといえるのか、こういった問題についても、しっかりと念頭に置きながら、『純粋理性批判』を読んでいかねばならないと感じた。カントは、自分の業績をコペルニクスになぞらえているが、それならばごくシンプルな説明でたりうるはずなのに、『純粋理性批判』は大著となっている。このあたり、カントの自信とは裏腹に、論理的にはスッキリと把握はされていなかった証左といえるのではないか、という気がする。いずれにせよ、歴史的に取り上げられてきている無条件者という対象の必然性をしっかりと掴んでいく必要があるのは間違いないだろう。

 このあたりの問題意識をもって、いくつかの入門的な参考書も参照しながら、『純粋理性批判』に取り組んでいきたいと思う。

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 今回の例会では、カントが『純粋理性批判』を書いたときの問題意識とその意義について理解を深めることができた。

 形而上学においては、独断論と懐疑論(または独断論同士)が争っていたが、とりわけヒュームが必然性は客観的に存在するものではないと主張したことを受けて、カントとしては、必然性は存在しており人間はそれを認識することができるということ、つまりアプリオリな認識が可能であることを示す必要が出てきたということである。例えば「机をたたけば音がなる」ということについて、いくつかの事例をもとにして、(実際に試してみなくても)どんな机でもそうだということがわかるということを示す必要が出てきたということである。そこで考え出されたのが、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うというコペルニクス的な転換なのだということである。こうして、対象そのもの(物自体)は何の性質ももたないけれども、我々がとらえた現象は認識によって性質を与えられているという物自体論が出てきたのである。

 このように現象と物自体を区別することにより、意志が自由であると同時に自由でない(法則性に縛られている)という矛盾を解決することができるようになった。つまり、現象としては自由ではないが、物自体としては自由であるということである。例えば、的に向かってボールを投げたとして、投げるのは自由な意志に基づくものである。ところが、その投げたボールが的に当たる過程は空気抵抗や重力など自然の法則性に縛られることになる、ということである。我々が見ることができるのは、ボールという現象だけである。しかし、その背後に「ボールを投げる」という(自由な)意志を想定することができる。このような形で意志の自由という問題を解決したのだということであった。

 もちろん今回の解答は現段階での暫定的なものであり、今後、これをより深めていく必要があるだろうが、大まかには把握することができたのは今回の例会の大きな収穫だった。

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 今回の例会を通じては、そもそもなぜカントが『純粋理性批判』を書かなければならなかったのか、そのそもそもの問題意識にしっかりと共感することが大切であると思わされた。ア・プリオリな総合判断はどのようにして可能か、ということがカントの根本的な問題意識であったといってよさそうであるが、ア・プリオリな総合判断とはどういうことなのか、なぜそういうものが切実に求められたのか、ヒュームの因果律批判からカントが受けた衝撃の大きさということをしっかりと踏まえつつ、カントの強烈な問題意識に幾分かでも共感できるようにならなければ、『純粋理性批判』はまともに読んでいくことはできないだろう、と思わされた。

 カントが現象と物自体とを区別してしまったこと、また結局は同じことであるが、理性を思弁的理性と理性の実践的使用とに二分してしまったこと(認識できるということと考えることができるとを分けてしまったこと)は、結論からみればおかしなことであり、現象と物自体との関係をカントは解けていない、というこもできるであろう。しかし、同時に、これがそれまでの形而上学の難問を解決するための画期的にすぐれた提起であったのだという側面を、絶対に見失ってはならないだろうとも思う。現象と物自体とを区別し、思弁的理性(絶対的なものを認識できない)と理性の実践的使用(絶対的なものを考えることができる)とを二分したことこそが、この『純粋理性批判』の哲学史上の不滅の意義なのであり、また同時にヘーゲルによって克服されるべき限界ともなったのだといえるだろうが、自分自身の不充分な実力のままヘーゲルらの尻馬に乗ってカントを非難すべきではないだろう、まずは『純粋理性批判』の画期的な意義をしっかりと受け止めることに重点を置くべきではないか、と思われるのである。

 『純粋理性批判』のまともな理解のためには、南郷継正『学問としての弁証法の復権』(『武道哲学講義(第二巻)』所収)に加えて「武道哲学講義〔Z〕」(『南郷継正全集第11巻』所収)をも繰り返し読み込んでおく必要があると確認することができたのも、この2月例会を通じた取り組みで得た大きな成果であった。

(了)
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2017年03月03日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(9/10)

(9)論点3:カントは自由についてどのように考えているのか

 前回は、第二の論点、すなわち、カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、カントが、数学や自然科学(物理学)は、対象が認識を規定するのではなくて認識(理性)が対象を規定するのだと捉えるという考え方の革新によって、学としての確実な道を歩むことになったのだと捉えていること、形而上学においては、対象が認識を規定するという前提ではうまくいかなかったので、逆に、認識が対象を規定するという考え方を採用してみることによって、それまでの形而上学の難問が解決されたのだと主張していることを確認しました。

 さて、今回は、第三の論点、すなわち、カントは自由についてどのように考えているのか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、物自体と現象との区別の大切さを説くが、カントはなぜこの区別が大切だと考えたのか。「カントの「物自体」論は、これは本質論であり、けっして構造論でもなければましてや現象論や実体論でもない」(南郷継正『武道哲学講義 著作・講義全集 第十二巻』、p.87)という指摘は、ここにどのように関わってくるのか。
 また、物自体と現象とを区別したことは、カントの自由論とどのように関わってくるのか。「思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできない」(p.43)とはどういうことか。


 カントがなぜ物自体と現象との区別の大切さを説いたのか、という問題をめぐっては、各メンバーから事前に提示された見解の間に、大きな相違はありませんでした。端的には、物自体と現象とを区別しなければ無条件なもの(絶対的なもの)を矛盾なしに考えることができなくなってしまう(例えば、人間の意志は自由でありながら自由でないというような矛盾に陥ってしまう)から、換言すれば、無条件なもの(絶対的なもの)は間違いなく存在するものなのだということを保障するためにほかならない、ということでした。これは、詰まるところ、二律背反の問題に悩んだあげく、その解決策として物自体論(物自体と現象を区別すること)をもってきたということである、という指摘もなされました。

 「カントの「物自体」論は、これは本質論であり、けっして構造論でもなければましてや現象論や実体論でもない」という指摘がここにどのように関わってくるのか、という問題をめぐっては、カントにおいて、物自体というのは、世界の本質的な存在として考えられているのであって、認識できる現象と区別することによって、認識はできないけれども考えることができる存在として、世界の本質が成立し得る領域を残しておいたということなのではないか、ということになりました。

 物自体と現象との区別がカントの自由論とどう関わるか、という問題をめぐっても、大きな見解の相違はありませんでした。端的には、自然法則が支配するのは現象の領域であり、「物自体」は自然法則に縛られないから自由であるという形で、人間の意志の自由を主張しようとしたのだ、ということです。ただし、このことに関わっては、具体的にどういうことか正直よくわからない、という疑問も出されました。例えば、子どもと関わるとき、自分としては自分で考えて行動している(自由である)ように思うけれども、そのプロセスを客観的に眺めたときには、毎回同じような対応をしている(一定の法則性に縛られてしまっている)ということなのだろうか、という疑問です。こうした疑問に対しては、そんなに難しく考える必要はなく、例えば、ある人が石ころをある的に命中させるべく投げるとして、「あの的に当てるぞ」という意志を抱くか抱かないかはその人の自由だが、いったん手から放れた石ころは、重力とか空気の抵抗とかの諸々の条件によって必然的に規定された軌道を進んでいくことになる、というようなことではないか、という見解が示されました。疑問を出したメンバーも、大筋でこうした説明に納得しました。

 43ページの引用文(「思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできない」)をめぐっては、何がいいたいのかよく分からなかった、という感想も出されましたが、これは結局のところ、物自体と現象との区別がなぜ大切か、という問題と同じであることが、他のメンバーから指摘されました。すなわち、「思弁的理性から経験を超越して認識すると称する越権を奪い去」るというのは、思弁的理性は経験の限界を超えられないのであり、認識できるのは現象のみで物自体は認識できないことを明らかにする、ということにほかならず、そのようにしない限りは、神、自由、霊魂の不死といった無条件なもの(絶対的なもの)を矛盾なしに考えることはできないのだ、ということです。こうした説明に、「よく分からなかった」という感想を出したメンバーも大筋で納得しました。

 ただし、「理性の実践的使用」というのが神、自由、霊魂の不死といった無条件なもの(絶対的なもの)と関わるものでることは何となく分かるが、「理性の実践的使用」というのはそもそもどういうイメージなのか、カントが思弁的理性と理性の実践的使用とを分け、認識できるということと考えることができるということとを分けてしまっているのは、なかなかすんなりとは納得しがたいところがある、という感想も出されました。チューターは、このように思弁的理性(絶対的なものを認識できない)と理性の実践的使用(絶対的なものを考えることができる)とを二分したことこそが、この『純粋理性批判』の哲学史上の画期的な意義であり、またヘーゲルによって克服されるべき限界ともなったのではないか、と指摘し、本論部分を読み進めていくなかで、しっかりと検討を深めていくように提起しました。

 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点3に関する議論を終えました。
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2017年03月02日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(8/10)

(8)論点2:カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか

 前回は、第一の論点、すなわち、カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、カントが「形而上学」「論理学」「悟性」「理性」といった用語をどのような意味で使っていたかを確認しつつ、理性が経験を超えたものについて論じようとすると混迷と矛盾に陥ってしまうという問題を正面に据え、理性自身を批判(吟味)することで形而上学の完成に道を切り拓こうというのが、カントの『純粋理性批判』の意図であったことを確認したのでした。

 さて、今回は、第二の論点、すなわち、カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、数学と自然科学(物理学)が、考え方の革新によって一個の学としての確実な道を歩むことになったとしているが、それはどのような革新であったのか。カントはこうした考え方の革新を形而上学に適用することを試みてみたというが、それはどういうことか。


 この論点をめぐっては、まず、数学および自然科学(物理学)における考え方の革新とはどのようなものであったのか、確認しました。

 数学における考え方の革新について、カントは、タレスによるともいわれる二等辺三角形の論証(二等辺三角形の底角は等しいことの論証だと思われます)を例に挙げながら、図形のうちに見たものにもとづいて図形の性質を学び取ろうとしてはならないのであって、「彼が何ごとかを確実にかつア・プリオリに知ろうとするならば、彼は自分の概念に従ってみずから対象のなかへ入れたところのものから必然的に生じる以外のものを、この対象に付け加えてはならない」(p.29)と説いています。一方、自然科学(物理学)における考え方の革新について、カントは、ガリレイやトリチェリやシュタールの実験の例を挙げながら、あらかじめ仮説を立てて(理性判断の諸原理によって先導して)、それを確認するために実験を行うということでなければ、換言すれば、理性自身が自然のなかに原理を考え入れなければ、いくら実験・観察しても偶然的なものにしかならず、必然的な法則など見い出しようがないのであって、「理性は、自然から学ばねばならないことや理性自体だけではそれについて何も知り得ないようなことを、自分自身が自然のなかへ入れたところのものに従って、これを自然のうちに求めねばならない(もともと自然のなかにありもしないことを自然に押しつけるのではなくて)」(p.30)と説いています。

 こうしたカントの主張をめぐって、2つの異なった捉え方が提示されました。ひとつは、認識が対象に性質を与えているのだという捉え方であり、もうひとつは、人間の認識が対象に備わっている性質を浮かび上がらせているのだ、という捉え方です。どちらの捉え方がカントの真意に近いのか議論をしました。後者の立場(認識が対象の性質を浮かび上がらせる)からは、自然科学について「自然を強要して自分の問いに答えさせる」「自分の提出する質問に対して、証人に答弁を強要する」といった表現をカントが行っていることから、自然そのものが何らかの答えをもっているのであって、それはすなわち、自然に備わっている性質を自然科学者の側からの目的意識的な問いかけによって浮かび上がらせるということにほかならないのではないか、という主張がなされました。こうした主張に対して、前者の立場(認識が対象に性質を与える)からは、確かに自然科学(物理学)に関していえば、自然にもともと何らかの性質が備わっているかのように読める表現はあるが、数学に関してはそれはないではないか、カントは「数学と物理学とは、それぞれその対象をア・プリオリに規定せねばならぬ両つの理論的認識である。そして数学は全体として純粋であり、また物理学は少くとも部分的に純粋である、しかし部分的に純粋ということになると、理性の認識源泉とは別個の認識源泉によっても幾分規定せられるわけである」(p.27)と書いているではないかという指摘がなされました。つまり、数学においては、理性が対象を全くア・プリオリに規定するのだが、自然科学(物理学)においては、理性が対象を部分的にア・プリオリに規定するのだ、というのがカントの捉え方であって、理性による対象のア・プリオリな規定という考え方の革新は、やはりあくまでも、認識(理性)が対象に性質を与えるということ、対象が認識を規定するのではなくて認識が対象を規定するのだと捉えるべきであろう、ということに落ち着きました。

 なお、「理性は、自然から学ばねばならないことや理性自体だけではそれについて何も知り得ないようなことを、自分自身が自然のなかへ入れたところのものに従って、これを自然のうちに求めねばならない(もともと自然のなかにありもしないことを自然に押しつけるのではなくて)」という表現をめぐって、認識が対象に性質を与えるといっても、物自体たる対象に対して認識が勝手気ままにどんな性質でも与えることができる、ということではないのではないか、という提起がなされました。物自体たる対象と認識の側にもともと(ア・プリオリに)備わっている枠組みとの相互浸透で現象が生じるとして、その現象はどの程度まで物自体によって規定されているのか、という問題があるのではないか、この問題をカントはどのように論じているのだろうか(果たしてきちんと論じきれているのであろうか)という疑問も生じてきました。チューターからは、カントは形而上学の問題を最終的に解決したと自信たっぷりであることをまずは尊重すべきで、きっとカントは解けていないのだ、などと早急に結論を出してカントを軽く見てしまうことになっては問題ではないか、との指摘もなされましたが、これが重要な論点であることは間違いなく、本論部分を読み進めていきながらしっかりと検討を深めていく必要があることを確認しました。

 数学および自然科学(物理学)における考え方の革新を形而上学に適用するとはどういうことか、という問題をめぐっては、対象が認識を規定するという前提ではうまくいかなかったので、逆に、認識が対象を規定するという考え方を採用してみようということであり、これによってそれまでの形而上学の難問が解決されたとカントは主張しているのだ、といった見解がほぼ一致して示されました。チューターからは、対象が認識を規定するという前提では何がうまくいかなかったのか、カントが一挙に解決したという形而上学の難問とは何だったのか、ということこそが重要であると提起されました。

 これは、端的には、形而上学においては、ア・プリオリな認識、すなわち、対象が我々に与えられる前に対象について何ごとかを決定するような認識が可能であることが要求されているということであるわけですが、そもそもなぜカントがこのような問題意識を抱いたのか、ヒュームの因果律批判との関わりできちんと確認しておく必要があるだろう、ということになりました。ヒュームの懐疑論によれば、リンゴを手から放したらどうなるか、1個目から9個目のリンゴについては下に落ちていったとしても、10個目のリンゴもそうなるかどうか前もって確実にいうことはできません。手から放れたリンゴは下に落ちるという主観的信念が習慣によって形成されているにすぎない、というのがヒュームの主張です。これに対して、10個目のリンゴについても手から離せば落下すると確実に主張できるためにはどうすればよいか、というのがカントのそもそもの問題意識だったのではないかと思われます。

 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点2に関する議論を終えました。
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2017年03月01日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(7/10)

(7)論点1:カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか

 前回まで、カント『純粋理性批判』の2つの序文の要約を提示し、その内容を踏まえて出された論点を紹介しました。今回からは、それらの論点に関わってどのような議論がなされたかを紹介していくことにします。

 今回は、第一の論点、すなわち、カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、形而上学とはどのようなものであり、その歴史はどのようなものであったと論じているか。その歴史の流れのなかに、『純粋理性批判』をどのように位置づけているのか。形而上学・論理学・悟性・理性(また純粋理性)といった基礎的・基本的な哲学用語の意味を押さえつつ、また、純粋理性批判が法廷にたとえられていることに留意しつつ、確認しておきたい。


 この論点をめぐっては、まず、基礎的・基本的な哲学用語の意味について確認していきました。チューターからは、事前に提示された各メンバーの見解においては、カントがそれぞれの語をどのような意味で用いているのかということと、本来の哲学(学問)的な意味としてはどうあるべきなのか、ということとが、必ずしも明確に区別されていなかったのではないか、という指摘がなされました。そして、本来の哲学(学問)的な意味としてどうあるべきかを確認していくためにも、南郷継正「武道哲学講義〔Z〕」(『南郷継正全集第11巻』所収)を繰り返し読み込んでおく必要があるのではないか、との提起がなされました。

 このことを確認した上で、これらの用語について、カントがどのように捉えていたのか、順番に確認していきました。まず、「形而上学」という用語についてです。第1版序文の冒頭で、カントは、人間の理性の本性について、経験上、確かだと思われる原則から出発しつつ、「その前提は何か?」「その前提の前提は何か?」とずっと問い続けていくことにある、と指摘しています。しかし、こうした問いの連続はどこまでいってもキリがないので、理性は、一切の経験によらないものの常識とも一致するような原則に逃避することになる、とカントはいいます。しかし、カントによれば、理性はこうした原則に逃避することで、かえって混迷と矛盾に陥ってしまいます。理性の用いる原則は一切の経験を超越しているので、経験による吟味は不可能であり、どこかに間違いがあるはずだと探しても見つけることはできません。カントによれば、この果てしない争いを展開する競技場が形而上学です。すなわち、一切の経験を超えた根本的な原則(世界は有限か無限かというような世界の究極的なあり方に関わるような原則)について、諸々の論争が闘わされてきたのが形而上学だ、というのがカントの説明であることを確認しました。

 続いて「論理学」という用語についてです。これについては、第2版序文において、一切の思惟の形式的規則を漏れなく説明し厳密に証明する学問だ、と説明されていることを確認しました。

 「理性」および「悟性」という用語をめぐっては、悟性は有限的な(経験できる)存在を対象とするものであり、理性は制約されない(超経験的な)存在を対象とするものだ、というようにカントが説明していることを確認しました。また、論理学においては悟性が悟性自身と悟性の形式だけを問題にし、形而上学においては理性が理性自身ばかりでなく、その対象をも究明しなければならない、と説明されているところから、カントが、論理学は悟性に関わるもの、形而上学は理性に関わるもの、という対比において捉えていたらしいことを確認しました。

 なお、以上のようなカントの論については、「武道哲学講義〔Z〕」において、「カントは悟性は経験から学んでくることが可能な論理能力の最上限としてしまうことによって自らの欠陥を隠してしまったのである。またそれだけに、本物の論理能力である理性に関わっては、先験的な存在として棚上げすることにして、自らの無能力を隠すことにも成功したことである」(『南郷継正全集第11巻』pp.307−308)と批判されていることが、チューターより紹介されました。つまり、経験に関わるものが悟性(論理学)であり、理性(形而上学)というのは経験を超えた神様からの授かりものだ、というのがカントの論であるわけですが、これは、経験された事実の論理化を形而上学レベル(学問を統括するレベル)にまで徹底する実力を欠いていたために、理性を経験から切り離して、いわば神棚に祭り上げてしまうようなものであった、というわけです。

 カントの描く形而上学の歴史については、以下のような内容を確認しました。

 カントは、諸学の女王たる形而上学の歴史を、王国の統治にたとえて描いています。カントによれば、王国の統治は最初は独断論者による専制的なものでした。これは、絶対に正しいとされる原則を前提に、そこから世界の全てが説明されていた、ということだと思われます。しかし、その原則は絶対的に正しいものかどうか、きちんと証明されているとはいえないシロモノであったために、しばしば懐疑論者によって攻撃されることになります。しかし、そうした攻撃は散発的なものにとどまり、独断論者の支配が覆されることはありませんでした。状況を大きく変えるのは、ロックの『人間悟性(知性)論』で、結局のところ全ての原則なるものは経験に由来するのだ、と主張されたことで、形而上学の支配が覆ったかに見えたのですが、経験によっては原則の成立を説明しきれないことが明らかになったために、再び独断論者の支配(しかし、それは陳腐な虫食いだらけだ、とされます)が復活することになった、というのです。こうした状況のもと、形而上学への真面目な関心がもたれなくなってしまった、とカントはいいます。しかし、カントは、こうした無関心は見せかけの知識には釣られない成熟した判断力の結果であり、理性が自己認識するための法廷を設けよ、という要求にほかならない、と前向きに捉えています。

 カントによれば、この法廷こそ『純粋理性批判』にほかなりません。理性が経験を超えたものについて論じようとすると混迷と矛盾に陥ってしまう、という問題を正面に据え、理性自身を批判(吟味)することで、形而上学の完成に道を切り拓こうというのが、カントの『純粋理性批判』の意図であるといえます。

 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点1に関する議論を終えました。
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2017年02月28日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、カント『純粋理性批判』の第1版序文および第2版序文の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところをふり返っておくことにしましょう。

 第1版序文において、カントは形而上学の歴史をふまえつつ、『純粋理性批判』の歴史的位置を明らかにしようとしていました。カントによれば、一切の経験の限界を超出しており、経験による吟味を承認しないような理性の原則を扱うのが形而上学です。カントは、諸学の女王と称されてきた形而上学の歴史について、当初は独断論者が専制的に支配していたものの、独断論者どうしの闘争、また懐疑論者による攻撃に晒されてきた結果、独断論者の支配は陳腐化し、現状においては真面目な関心がもたれなくなってしまった、と断じていました。こうした現状を、理性能力一般の批判(吟味)によって打破しようとするのが、この『純粋理性批判』の意図するところである、とカントは強調していたのでした。

 第2版序文においては、ある学問が学としての確実な道を歩んでいくための方法・着想の問題が論じられていました。カントはまず、形而上学においては対象のア・プリオリな(経験に由来しない)規定が求められることを確認した上で、数学と物理学においては、対象について経験したことから対象の性質を学び取るのではなく、理性が自己の概念に合致するように対象のなかに考え入れたものに従って対象の性質や法則性を求めなければならない、という考え方の革新によって、学としての確実な道を歩んでいくことが可能となったことを強調していました。

 カントは、形而上学においても、数学や物理学における考え方の革新にならって、我々の認識が対象によって規定されるのではなく、対象が我々の認識に従って規定されなければならないのだ、と想定してみれば、これまで形而上学が抱えてきた問題をもっとうまく解決できるのではないか、と提起します。認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うのだというコペルニクス的な転回によってこそ、形而上学は学としての確実な道を約束されるのだ、というのがカントの主張でした。カントによれば、これは、理性は経験が可能である限界をどうしても超えられない(認識できるのは現象だけで物自体は認識できない)ことを明らかにすることにほかなりません。もし理性がこの限界を超えることができるとすると、絶対的なものについて矛盾なしに考えることはできなくなってしまう、ということなのでした。

 思弁的理性が経験の限界を超えないように制限をかける、という『純粋理性批判』の結論は、非常に消極的なように思われます。しかし、カントは、これは、理性の実践的(道徳的)な使用の障害になるものを取り除くという意味で、非常に積極的な効用をもつものなのだ、と力説していました。カントによれば、道徳哲学は我々の意志が自由であることを必然的な前提にしていますが、思弁的理性が経験の限界を超えることで、自由など存在しないなどと主張してしまうと、道徳哲学の存立の基盤が揺らいでしまうのです。そうならないためには、思弁的理性の限界を明確にすること、換言すれば、物自体と現象を区別することが必要でした。カントはこのことに関連して、「信仰を容れる場所を確保するために知識を除かなければならなかった」と述べていました。

 2017年2月例会の場では、おおよそ以上のような内容に関わっての報告を受けて、参加したメンバーから諸々の意見・論点が提起され、議論がたたかわされました。これから、その内容を、大きく3つの論点に沿って整理した上で、紹介していくことにします。今回はその3つの論点を紹介し、次回以降、討論の具体的な内容を紹介していくことにします。

1、カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか
 カントは、形而上学とはどのようなものであり、その歴史はどのようなものであったと論じているか。その歴史の流れのなかに、『純粋理性批判』をどのように位置づけているのか。形而上学・論理学・悟性・理性(また純粋理性)といった基礎的・基本的な哲学用語の意味を押さえつつ、また、純粋理性批判が法廷にたとえられていることに留意しつつ、確認しておきたい。

2、カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか
 カントは、数学と自然科学(物理学)が、考え方の革新によって一個の学としての確実な道を歩むことになったとしているが、それはどのような革新であったのか。カントはこうした考え方の革新を形而上学に適用することを試みてみたというが、それはどういうことか。

3、カントはなぜ物自体と現象の区別が大切だと考えたのか
 カントは、物自体と現象との区別の大切さを説くが、カントはなぜこの区別が大切だと考えたのか。「カントの「物自体」論は、これは本質論であり、けっして構造論でもなければましてや現象論や実体論でもない」(南郷継正『武道哲学講義 著作・講義全集 第十二巻』、p.87)という指摘は、ここにどのように関わってくるのか。
 また、物自体と現象とを区別したことは、カントの自由論とどのように関わってくるのか。「思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできない」(p.43)とはどういうことか。
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2017年02月27日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』第2版序文 要約B

 前回は、『純粋理性批判』の第2版序文の中間部分の要約を紹介しました。そこでは、形而上学においても、数学や物理学における考え方の革新にならって、我々の認識が対象によって規定されるのではなく、対象が我々の認識に従って規定されなければならないのだ、と想定してみることでこそ、形而上学は学としての確実な道を約束されるのだ、という主張がなされていました。カントによれば、これは、理性は経験が可能である限界をどうしても超えられない(認識できるのは現象だけで物自体は認識できない)ことを明らかにすることにほかなりませんでした。もし理性がこの限界を超えることができるとすると、絶対的なものについて矛盾なしに考えることはできなくなってしまう、ということでした。

 さて、今回は、第2版序文の最後の部分を要約したものを紹介することにしましょう。ここでカントは、思弁的理性が経験の限界を超えないようにする、という本書の効用は、消極的なように見えて、実は、理性の実践的(道徳的)な使用の障害になるものを取り除くという積極的な効用にほかならないのだ、と主張しています。

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 形而上学の従来の方法を変革しようという試みこそ、しかも幾何学者および自然科学者を模範として形而上学の全面的な革新を企てることによってこうした変革を成し遂げようとする試みこそ、この思弁的純粋理性批判の本旨なのである。純粋理性批判は、方法に関する論究の書であって、純粋理性の学の体系そのものではない。とはいうものの、この批判はこうした学の外的限界と内的構造全体を顧みつつ、この学の概略図を描こうとする。思弁的純粋理性批判の特性は、第一に、思惟の対象を選択する仕方の相違にしたがって自分自身の能力を徹底的に検討し、第二に、自分自身に課題を与える様々な仕方を漏れなく枚挙し、こうして将来建設されるべき形而上学に対する全平面図を描くことができるし、また描かなければならないからである。第一の件についていえば、ア・プリオリな認識においては、思惟する主観が自分自身のうちから取り出したものでない限り、これを客観〔対象〕に付け加えることができないからである。第二の件についていえば、純粋理性は認識原理に関する完全に独立した、それ自体だけで存在するひとつの統一体だからである。つまり、この統一体においては各々の構成要素は、あたかもひとつの有機体におけるように、他の一切の構成要素のために存在し、全体はまた各個のために存在する。どんな原理でも、ひとつの関係のなかに確実に取り入れられるためには、同時に純粋な理性使用全体に対する全般的な関係において吟味されなければならないのである。

 しかしその代わりに、形而上学は、もっぱら対象の研究を事とする他の理性的な学(思惟一般の形式だけを論究する論理学は別として)には、とうてい与えられないような稀有な幸福に恵まれている。それは、もし形而上学がこの批判によってひとつの学として確実な道を歩むようになったあかつきには、この学は自分に必要な認識の全領域をあますところなく包括して自身の事業を完結し、これを将来も増資を必要としない資本として後代の用に供することができる、ということである。この形而上学の旨とするところは、原理と原理の使用に加えられる制限に関する論究に限られているからである。

 本書を読了した人は、思弁的理性をもって経験の限界を超えることをあえてしないというのが本書の効用だとすれば、それは全く消極的な効用にすぎないではないか、と考えるかもしれない。しかし、思弁的理性が自分の限界を超えようとする場合に用いる原理は、我々の理性使用を拡張するように見えて、実は我々の理性使用を狭めるという結果をもたらさずにはおかない。こうした原則は、もともと感性に属するものであるにもかかわらず、実際には感性の限界をどこまでも拡張して、純粋な(実践的)理性使用すらも駆逐しかねないからである。このことを知るならば、消極的効用はたちまち積極的効用に転化する。つまり、我々の批判は、思弁的理性に制限を加えるという点では消極的であるが、理性の実践的使用を制限したり滅却したりしかねないようなものを取り除くものだという点で、積極的な効用を有するのである。

 こうして我々は、純粋理性の絶対に必然的な実践的(道徳的)使用というものがあり、この使用によって純粋理性は必然的に感性の限界を超えて自らを拡張する、ということを確信するに至る。純粋理性は、思弁的理性の影響によって自己矛盾に陥らないよう、安全を保障されていなければならない。批判のこうした任務に存する積極的効用を否定するのは、警察の主要任務が、暴力行為の取締によって国民一人ひとりが各自の業を平静に営めるようにすることであるから、警察は積極的な効力を発揮するものではない、というのと同じである。

 この批判の分析的部門で証明されるのは、空間と時間とは感性的直観の形式にすぎず、現象としての物の存在を成立させる条件にほかならない、また、我々の悟性概念に対応する直観が与えられなければ我々はいかなる悟性概念ももちえず、物を認識するのに必要な要素をひとつももたない、ということである。つまり、我々が認識しうるのは物自体としての現象ではなく感性的直観の対象としての物、換言すれば現象としての物だけである。ここから、およそ理性の可能的な思弁的認識は、全て経験の対象のみに限られるという結論が当然に生じる。

しかし、我々はこの同じ対象を、たとえ物自体として認識することはできなくても、物自体として考えることができねばならない、という考えは依然として留保される。さもなければ、現象として現われる当のものが存在しないのに、現象が存在するという不合理なことになってしまう。経験の対象としての物と、物自体としての物との区別が全く設けられなければ、原因性の原則〔因果律〕と、原因性によって規定されている自然機構とは、作用原因としての一切のもの一般にそのまま通用しなければならなくなるだろう。我々の批判は、客観を二通りの意味に解することを教える。第一には、現象としての客観であり、第二には物自体としての客観である。

 道徳哲学は、自由を我々の意志の性質として必然的に前提している。ところが、思弁的理性が、自由は全く考えられない、という証明をしたとすれば、上記の道徳的前提は、思弁的理性に屈服せざるを得なくなる。自由および道徳は自然機構に席を譲らなければならなくなる。それだから、道徳哲学に必要とされるのは、自由が自己矛盾をふくまないこと、したがってまた自由は少なくとも考えられはするものの、それ以上の理解を必要とするものではないということ、また自由は、同一の行為の自然機構をいささかも妨げるものではない、ということである。そうすれば、道徳に関する学と自然に関する学とは、各々その地歩を確保して互いに相侵すことがない。純粋理性の批判的原則から生じる積極的効用については、神や我々の心の単純性という概念に対しても、全く同様の説明がなされる。要するに、思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできないのである。私は、信仰を容れる場所を確保するために知識を除かなければならなかった。

 理性による純粋認識が学として取り扱われる場合、理性はこの純粋認識を独断的に処理するが、批判が反対するのは理性のこうした独断的処理(およそ学は、ア・プリオリに確立された原理にもとづいて厳密な証明を行わなければならないから、独断的にならざるをえない)ではなく、独断論である。独断論は、原理にしたがう概念的な純粋認識だけをもって成功を収めようとする僭越な主張である。しかも、この場合に独断論は、理性がどんな仕方でまたいかなる権利をもってこの純粋認識に達したかは不問にするのである。つまり、独断論は、理性自身の能力を前もって批判せず、純粋理性によって行われる独断的処理にほかならない。批判による反対は、形而上学全体を簡単に片づけてしまう懐疑論を弁護するものではない。むしろ批判は、学としての根本的な形而上学の成立を促進するのに必要な準備をするのである。この形而上学は、あくまでア・プリオリに、したがってまた思弁的理性を十分に満足させるように、その仕事を遂行することを約している。
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2017年02月26日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』第2版序文 要約A

 前回は、『純粋理性批判』の第2版序文の最初の部分の要約を紹介しました。そこではまず、形而上学においては対象のア・プリオリな(経験に由来しない)規定が求められることが確認された上で、数学と物理学においては、対象について経験したことから対象の性質を学び取るのではなく、理性が自己の概念に合致するように対象のなかに考え入れたものに従って対象の性質や法則性を求めなければならない、という考え方の革新によって、学としての確実な道を歩んでいくことが可能となったことが説かれていました。

 さて、今回は、第2版序文の中間部分の要約を紹介します。ここでカントは、形而上学においても、数学や物理学における考え方の革新にならって、我々の認識が対象によって規定されるのではなく、対象が我々の認識に従って規定されなければならないのだ、と想定してみると、形而上学の諸々の課題がうまく解決されるのではないか、という提起を行っています。

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 形而上学において、学としての確実な道がこれまで見出されなかった理由は一体どこにあるのだろうか。

 私は、次のようなことをしてみてはどうかと思う。それは、数学と自然科学に大きな利益を与えたところの考え方の変革に存する本質的な点を詳細に考え、また形而上学が数学および自然科学と同じく理性認識であるという事情にかんがみて、これら2つの学と形而上学との類比が許す限り、形而上学において少なくとも試みに数学および自然科学を模倣してみてはどうか、ということである。

 我々はこれまで、我々の認識は全て対象に従って規定されなければならないと考えていた。しかし、我々がこのような対象に関して、何事かをア・プリオリに概念によって規定し、こうして我々の認識を拡張しようとする試みは、こうした前提の下では全て潰え去ったのである。そこで今度は、対象が我々の認識に従って規定されなければならないというふうに想定したら、形而上学のいろいろな課題がもっとうまく解決されはしないかどうかを、ひとつ試してみてはどうだろうか。コペルニクスは、全ての天体が観察者の周囲を運行するというふうに想定すると、天体の運動の説明なかなかうまく運ばなかったので、今度は天体を静止させ、その周囲を観察者に回らせたらもっとうまくいきはしないかと思って、そのことを試みたのである。形而上学においても、対象の直観に関して、これと同じような仕方を試みることができる。もし直観が、対象の性質に従って規定されなければならないとすると、私はこの性質についてどうしてア・プリオリに、何事かを知り得るのか分からなくなる。これに反して(感覚能力の対象としての)対象が、われわれの直観能力の性質に従って規定されるというのなら、私には直ちにこのことが可能であることがよく分かるのである。

 しかし、こうした直観が認識になるのだと、私は直観にとどまっているわけにはいかない。そこで私は表象としてのこれらの直観を、対象としての何かあるものに関係させ、対象をこうした表象によって規定しなければならない。そうすると私は、対象の規定に関して2通りの仕方だけを想定することができる。第一は、私が対象を規定するのに用いる概念は、やはり対象に従っている、というふうに想定することである。しかしそうなると私は、この対象に関して何事かをア・プリオリに知る仕方について、前と同じような困惑に陥ってしまう。そこで第二に、対象あるいは経験――といっても、対象(与えられた対象としての)は経験においてのみ認識されるのだから結局は同じことになるが、要するに対象あるいは経験が、これらの概念に従って規定されるというふうに想定すれば、私は問題をもっと楽に解決する方法がここにあることをただちに知るのである。つまり、経験そのものが認識のひとつの仕方であり、この認識の仕方は悟性を要求するが、悟性の規則は、対象がまだ私に与えられない前に、私が自分自身のうちにこれをア・プリオリに前提していなければならない。そして、こうした悟性規則は、ア・プリオリな悟性概念によって表現されるものであるから、経験の一切の対象は、必然的にこうした悟性概念〔カテゴリー〕に従って規定され、またこれらの概念と一致しなければならない、ということである。対象のなかには、理性だけによって必然的に考えられはするが、しかし(少なくとも理性が、自分なりにこうした対象を考えるようには)経験には全く与えられないようなものがある。こういう対象についていうと、これを考えようとする(こうした対象にしろ、とにかく考えられはするのだから)試みは、我々が一変した考え方、つまり、我々が物をア・プリオリに認識するのは、我々がこれらの物のなかへ自分で入れるところのものだけである、という新しい方法による考え方と見なすところのものの是非を吟味する試金石であることが、もっと先へ行ってから分かると思う。

 この試みは、希望通りの成功を収めて、形而上学の第一部門に、ひとつの学としての確実な道を約束した。形而上学は、この第一部門〔先験的感性論〕でア・プリオリな概念を論究するが、これらの概念に対応しかつ適合する対象は、経験に与えうるのである。上記の考え方の転換によって、ア・プリオリな認識が可能であることを非常に具合よく説明することができるし、経験の対象の総括たる自然の根底にア・プリオリに存在する法則に十分な証明を与えることができるからである。これらのことは、これまでの方法では全く不可能であった。ところが、形而上学のこの第一部門では、ア・プリオリな認識能力のこうした演繹から、形而上学の全目的にとって、すこぶる不利であるような、奇異な結果が生じる。それは、ア・プリオリな認識能力によっては、可能的経験の限界をどうしても超えられない、ということである。ところが、可能的経験の限界を越えることこそ、形而上学の最も本質的な関心事なのであり、形而上学の全目的を論究することこそ、第二部門〔先験的論理学〕の主旨なのである。ア・プリオリな理性的認識は現象だけに関係するもので、物自体は実在するかもしれないが我々には認識できないものとして度外視するというのが、第一部門の結論であった。こうした結論の真実性を吟味する実験が、この第二部門に含まれている。経験と一切の現象との限界を超えることを我々に強いるのは、無条件的なもの〔絶対的なもの〕である。理性は物自体を設定して強制的に、しかも全く当然のこととして、一切の条件付きのものに対して無条件的なものを要求し、またこうして条件の系列の完結を要求する。しかし我々が、我々の経験的認識は物自体としての対象に従って規定されると想定する限り、無条件的なものは矛盾なしには全く考えられないのである。これに反して、物〔対象としての〕が我々に与えられる前に、我々はこうした物を表象し、またこの表象が物自体としての物に従うのではなくて、かえって対象が現象として我々の表象の仕方に従うというように想定するならば、この矛盾は解消する。しかし、その場合にも、我々に無条件的なものという先験的理性概念を規定させ、また、このような仕方で、形而上学の希望するままに一切の可能的経験の限界を超えて、我々の認識――といっても、実践的〔道徳的〕な意味においてのみ可能なア・プリオリな認識をもってこうした先験的理性概念に達するような事実が、理性の実践的認識に存在しないかどうかを検討する、という課題が残されている。思弁的理性は、こういうやり方でこうした実践的拡張を可能とするために、少なくとも場所を確保した。もちろん、思弁的理性としても、この場所を開けておかざるをえなかったのである。我々が、この場所を理性の実践的事実によって満たすことは、今でも我々の自由に任されている。いや、それどころか、そうすることが理性によって我々に要求されているのである。
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2017年02月25日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』第2版序文 要約@

 前回は、『純粋理性批判』の第1版序文を要約したものを紹介しました。そこでカントは、形而上学の歴史を、独断論者どうしの闘争、また懐疑論者による攻撃に晒されてきた過程として描いた上で、形而上学に真面目な関心がもたれなくなってしまった現状を、理性能力一般の批判(吟味)によって打破しようとするのが、この『純粋理性批判』の意図するところである、と強調していたのでした。

 さて、今回から3回にわたっては、1787年に書かれた第2版序文の最初の部分の要約を紹介していくことにしましょう。ここでカントは、形而上学においては対象のア・プリオリな(経験に由来しない)規定が求められること、数学と物理学においてはある考え方の革新によって学としての確実な道を歩んでいくことが可能となったことを説いています。

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第2版序文(1787年)

 理性の営みのひとつである認識を改善する作業が学として確実な道を歩んでいるかどうかは、その成果を見ればすぐに判定できる。

 論理学がこうした確実な道をずっと古い時代から歩んできたことは、この学がアリストテレス以来、いささかも後退する必要がなかったことからして明白である。論理学についてさらに注目すべきなのは、この学が今日に至るまでいささかも進歩を遂げず、どこから見てもすでに自己完結しているように見えるという事実である。近代になって、様々な認識能力(想像力や理解力など)を取り扱った心理学的な章、あるいは認識の起源なり対象の相違によってそれぞれ異なる確実性の種類の起源を論じる形而上学的な章などを論理学書のなかに挿入して、この学を拡張しようと試みる人たちもいたが、諸学の境界をいたずらに入り組ませるのは、学問の拡大ではなく、それをいびつにすることである。論理学の限界は、一切の思惟(思惟がア・プリオリなものであろうと経験的なものであろうと、またどのような起源や対象をもつものであろうと問題ではなく、あるいはまた我々の心のうちで思惟の出会う障害が偶然的なものであるか自然的なものであるかも問題ではなく)の形式的規則を漏れなく説明し、また厳密に証明するという根拠によって厳密に規定されている。

 論理学は、認識の一切の対象とその差別を度外視する権限をもっている。というよりも、そうする義務を課せられている。それゆえに、論理学において悟性が問題にするのは、悟性自身と悟性の形式だけである。しかし理性となると、理性自身ばかりでなく、その対象をも究明しなければならないので、学としての確実な道を歩むのは、当然とはいえ、理性にとってはるかに困難であるに違いなかった。このようなわけで論理学はまた予備学として、いわば諸学の玄関をなすものである。また知識が問題となる場合には、与えられた知識を判定するためにも、論理学が前提される。しかし新たに知識を獲得するとなると、これは本来の意味で、また客観的に学とよばれるべき学に求められねばならないのである。

 しかし、こうした学は、当然に理性を含んでいるわけであるから、これらの学においては、ア・プリオリに認識されるものがなければならない。理性認識は、対象とその概念を規定するだけであるか、対象を実現するか、2通りの方法で対象と関係することができる。第一は、理性による理論的認識であり、第二は、理性による実践的認識である。いずれについても、その純粋な部分(ア・プリオリな部分)だけが前もって論究されなければならない。これ以外の源泉から生じたものを、純粋な部分と混同してはならない。

 数学と物理学とは、それぞれの対象をア・プリオリに規定しなければならない2つの理論的認識である。数学は全体として純粋であり、また物理学は少なくとも部分的に純粋である。

 数学は、人間理性の歴史が遡りうる最古の時代から、ギリシャ人という驚嘆すべき民族のなかで、1個の学としての確実な道を歩んできた。論理学が学の王道を容易く見出したのに対して、数学には長い模索の時期があったが、それが急転して1個の堅実な学になったのは、ひとつの革新を経たお陰である。この革新は、ある人物が素晴らしい着想を得たことによって生じた。要するに、二等辺三角形を初めて論証した人の心に一筋の光が閃いたのである。彼は、この図形において現に見ているところのものから図形の様々な性質を学び取るのではなく、概念に従って自分でア・プリオリに件の図形のなかへいわば考え入れ、また(構成によって〔概念に対応する直観をア・プリオリに現示することによって〕)現示したところのものによって、この概念に対応するところの対象を産出しなければならないということ、また彼が何ごとかを確実にかつア・プリオリ知ろうとするならば、彼は自分の概念に従って自ら対象のなかへ入れたところのものから必然的に生じる以外のものを、この対象に付け加えてはならない、ということを知ったからである。

 次に自然科学についていえば、この学が坦々たる学問の大道を発見するまで、その進歩は数学に比してはるかに遅々たるものであった。

 自然科学者たちの心に一条の光が閃いたのは、ガリレイが一定の重さの球を斜面下で落下させたとき、またトリチェリがある水柱の重さを前もって測定しておきこの重さに相当すると思われる重さを空気で支えてみたとき、さらに下ってはシュタールが金属と焼灰とからそれぞれあるものを除いたりあるいはこれにあるものを加えたりして金属を焼灰に変化させまた逆にその焼灰を金属に変化させたときであった。こうして自然科学者たちは、理性は一定不変の法則に従う理性判断の諸原理を携えて先導し、自然を強要して自分の問いに答えさせなければならないのであって、いたずらに自然に引きまわされて、あたかも幼児が手引き紐でよちよち歩きするような真似をしてはならない、ということを知ったのである。さもなければ、あらかじめ立てられた計画に従わない偶然的な観察が生じることになるし、またこうした観察はいくら寄せ集めたところで、理性が求めかつ必要としているような必然的な法則にはならないからである。互いに一致する多くの現象が法則と見なされているのは、理性の原則に従ってのみ可能である。実験は、理性がこうした原理に従って案出されたものである。理性はこのような原理を片方の手にもち、またこのような実験をもう片方の手にもって、自然を相手にしなければならない。それはもちろん自然から教えられるためであるが、しかしその場合に理性は、生徒の資格ではなくて本式の裁判官の資格を帯びるのである。生徒なら、教師の思うままのことを何でも聞かなければならないが、裁判官となれば、自分の提出する質問に対して証人に答弁を強要することになる。このように物理学も、その考え方の革新によって利するところが大いにあった。そしてこの学にしても、考え方のこうした革新を、例の斬新な着想に負っているのである。その着想というのは、――理性は、自然から学ばなければならないことやまた理性自体だけではそれについて何も知りえないようなことを、自分自身が自然のなかへ入れたところのものに従って、これを自然のうちに求めねばならない(もともと自然のなかにありもしないことを自然に押しつけるのではなくて)、という考えである。十世紀にわたって模索を続けることしかできなかった自然科学は、考え方のこうした革新によって初めて、1個の学としての確実な道を歩むことになったのである。

 ところで、形而上学となると、これは他から全く孤立した思弁的な理性認識である。この思弁的理性認識は、経験の教えるところのものをことごとく無視し、実に概念だけによって(しかし数学のように概念を直観に適用するのではない)成立する認識であり、したがってこの学にあっては、理性が理性自身の生徒になるわけである。形而上学といえば、他の一切の学よりも古く、たとえほかの諸学が一切を廃絶するような野蛮状態という奈落に陥るようなことがあっても、これだけは生き残るであろうと思われるほどの学である。それにもかかわらず、この学は、これまでのところでは運命に恵まれなかったので、学としての確実な道を歩むことはできなかった。形而上学においては、理性はごくありふれた経験ですら確認するところの法則を(自ら誇称するように)ア・プリオリに理解しようとする場合にさえ、絶えず行き詰ってしまうからである。形而上学はひとつの競技場であり、しかもこの競技場はもともと競技者たちが闘技によってただ各自の力を錬磨するためにのみ設けられたもののようにさえ思われるのである。この場内では、いかなる競技者もいまだかつていささかの地歩をも闘いとることはできなかったし、一旦は勝利を収めてもこれを長く保ち続けることができなかった。
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2017年02月24日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』第1版序文 要約

 前回は、京都弁証法認識論研究会の2月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回にわたって、カント『純粋理性批判』の2つの序文の要約を紹介していくことにします。

 今回は、1781年に書かれた第1版序文です。ここでカントは、形而上学の歴史を簡単に振り返った上で、この純粋理性批判が、理性能力一般の批判によって形而上学が歴史的に抱えてきた難問を解決しようとするものであることを主張しています。

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カント『純粋理性批判』要約

第1版序文(1781年)

 人間の理性は、ある種の認識について、理性が退けることもできず答えることもできないような問題に悩まされるという特異な運命を背負っている。退けることができないというのは、これらの問題が理性の自然な本性によって理性に課せられているからであり、答えることができないというのは、こうした問題が人間の理性のあらゆる能力を超えているからである。

 人間の理性がこうした窮地に陥るのは、理性の責任ではない。理性は、経験の過程で必ず使用されねばならず、その使用が経験によって十分に保障されている原則から出発する。理性はこうした原則によって(理性の本性につきものなのだが)、前提そのまた前提へとどこまでも上昇していく。しかし、問題はいつになっても尽きることがないので、理性はこのような方法では自分の仕事がいつまでも不完全なものにならざるをえないことに気づく。そこで理性は、考えられうる一切の経験使用を超えるにもかかわらず、常識とも一致するほど確実に見えるような原則に逃避せざるをえなくなる。ところがそのために理性は混迷と矛盾に陥る。どこかに謬見が隠れているに違いないと推量するものの、それを発見することができない。理性の用いる原則は、一切の経験の限界を超越しているので、経験による吟味をもはや承認しないからである。この果てしない争いを展開する競技場が形而上学と名づけられているところのものである。

 形而上学の統治は、最初は独断論者の支配下にあって専制的であった。ところがその立法は、昔ながらの粗野なものだったので、数次の内乱で次第に全くの無政府状態に堕した。そして、定住を嫌う遊牧民たる懐疑論者が国民の結束をしばしば寸断した。しかし、この懐疑論者たちは数がいたって少なかったので、独断論者たちが絶えず新たに植民を企てるのを防止できなかった。近代になって、一度は(有名なロックの)人間の悟性に関する一種の自然学によって、これら一切の紛争が終わりを告げ、形而上学の要求の合法性に関する問題がついに完全に解決された観があった。女王と自称する形而上学の家柄は経験という下層民に由来するのだから女王というのは僭称だ、と一時いわれたものの、こうした系図は捏造であり、形而上学への誹謗中傷であった。そこで形而上学は依然としてその要求を主張することになり、一切はまたしても陳腐な虫食いだらけの独断論に陥った。現代では、あらゆる道が(通説では)試みられ徒労に終わった挙句、学問において有力な傾向をなすものは倦怠と全くの無関心である。これは、混沌と暗黒の母であるが、同時に、やがて学問を改造し、開明する根源ともなるものである。

 一切の知識のうちで最も愛惜されるはずの学に対する無関心は、注意と熟考に値する現象である。この無関心は、もはや見せかけの知識には釣られない成熟した判断力の結果であり、理性のあらゆる任務のうちで最も困難な技であるところの自己認識に新たに着手し、そのためにひとつの法廷を設けよ、という理性に対する要請なのである。この法廷こそ純粋理性批判そのものにほかならない。

 私がここでいう批判は、理性が一切の経験に関わりなく獲得しようとするあらゆる認識について、理性能力一般を批判することである。

 私は、これまで手をつけられていなかった批判という道をとることで、従来理性がその超経験的使用のために自分自身といわば不和を醸す原因となっていたところの一切の謬見を除去する手立てが発見されたことを喜んでいる。私はこれらの問題を原理に従って漏れなく枚挙し、理性が自分自身について誤解している点を発見した上で、こうした問題を理性に十分満足いくように解決したのである。私は、およそ形而上学の課題にして、この批判において解決されなかったもの、少なくともその手がかりがあたえられなかったものはひとつもないはずである、と明言して憚らない。

 私の言い分は、心の単一性だの世界の始まりが必然的であることなどを証明する、と謳う形而上学の綱要書の著者の主張よりも、くらべものにならぬほど穏やかなものである。こうした著者は、人間の認識を可能的経験の一切の限界を超えて拡張しようとするが、私の方は、そんなことは全く私の手に負えない、と慎ましく告白するからである。

 個々の目的を達するには完全にして欠けることなきを期し、また全ての目的を合わせ達するには全体として周到を期するという2つのことを我々に課すのは、実に我々の批判的研究の素材としての認識そのものの本性なのである。

 さらにまた確実と明晰という2つの特性は認識の形式に関するものであり、はなはだ手に終えない企てを敢てする著者に、当然課せられるべき本質的要求と見なされてよい。

 この確実ということについて、私は自分自身に、どんなことがあっても臆見を立てることは許されない、という判決を下した。いやしくもア・プリオリに確立されるほどの認識ならば、絶対に必然的と認められることを欲する、と自ら宣言するものだからである。ア・プリオリな純粋認識を規定することは、あらゆる必然的(哲学的)確実性の基準となり、したがってまたこうした確実性の実例にもなるのである。

 我々が悟性と呼んでいる能力を究明し、またそれと同時に悟性使用の規則と限界とを規定するには、私が本書の「先験的分析論」第2章「純粋悟性概念の演繹」で行った研究ほど重要なものを私は知らない。この考察は深い根底をもつもので、次のような2つの面を備えている。第一は、純粋悟性の対象に関係するものであり、ア・プリオリな純粋悟性概念の客観的妥当性を説明し理解させようとする意図をもち、したがってまた私が本質的目的と見なすところの面である。第二は、純粋悟性そのものを、その可能とまた悟性の基礎にある認識能力とに関して考察する、したがって悟性を主観的関係において考察するわけである。しかし、このような究明は、私の主要目的に関して非常に重要だとはいえ、本来の目的にとって本質的であるとはいえない。主要な問題はなんといっても「悟性および理性は、一切の経験に関わりなしに何を認識し得るか、またどれだけのことを認識できるか」という問題であって、「思惟する能力そのものはどうして可能か」ではないからである。

 最後に明晰ということについていえば、読者は第一に概念による論証的明晰を、第二に直観による――換言すれば、実例あるいはその他の具体的説明による直観的(感性的)明晰を要求する権利がある。論証的明晰に対して私は十分な配慮をしたが、それがまた第二の要求を満足させえなかったことの原因にもなった。通俗的な目的にこそ必要な実例や説明によって、本書をこれ以上膨れ上がらせない方がよいと思った。こういう批判的な研究は、通俗的な用途には向かないし、学問を事とする人たちは、こうして平易にすることをさほど必要としないし、平易ということは、かえって当面の目的に反する結果を招きかねない。明晰を求める手段は、なるほど部分部分の理解を助けはするが、しかし全体の纏まりを損なうのである。つまり、こういう補助手段は、読者が全体を直下に見通すことを妨げ、明るい色彩で体系の組み立てや構成を塗りつぶし、その構成要素を識別できなくしてしまう。

 私がここでその概念を与えようとしている形而上学は、一致した協力によって短期間で完成すると期待してよい唯一の学であり、しかも完成した暁には、後世の人々にとっては、全てを教示的な方法で自分たちの目的に従って整える以外にはやることがなく、内容を少しも増やせるものではない。なぜならそれは、純粋理性による我々全ての所有物の、体系的に整理された財産目録だからである。

 私はこのような純粋(思弁的)理性の体系を『自然の形而上学』と題して出版したいと思っている。これは分量からすればこの批判の半分にも満たないが、しかしそれにもかかわらず批判とはくらべものにならないほど豊富な内容をもつはずである。批判はまず自然の形而上学を可能にする源泉と条件を説明しなければならなかったし、凹凸の激しくなった地盤を平坦に整備する必要があった。この批判においては、私は読者に対して裁判官としての忍耐と公平さを期待する。一方、理性の体系である『自然の形而上学』においては、協力者としての好意と支援を期待する。
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2017年02月23日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』第1版序文 要約
(3)カント『純粋理性批判』第2版序文 要約@
(4)カント『純粋理性批判』第2版序文 要約A
(5)カント『純粋理性批判』第2版序文 要約B
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか
(8)論点2:カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか
(9)論点3:カントは自由についてどのように考えているのか
(10)参加者の感想の紹介

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 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、絶対精神の成長の過程(自己=世界という自覚の成立過程)として哲学の発展の歴史を描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画にもとづいたものです。

 2月例会では、『純粋理性批判』の2つの序文、すなわち、1781年の第1版序文と1787年の第2版序文を扱いました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

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京都弁証法認識論研究会  2017年2月例会
カント『純粋理性批判』 序文

【1】形而上学とは何か
 カントは、第一版序文の初めの箇所で、形而上学について論じている。一切の経験の限界を超出していて、経験による吟味を承認しないような理性の原則を扱うのが形而上学であり、かつては形而上学が諸学の女王と称せられていたとカントは述べている。その上でカントは、形而上学の歴史を独断論と懐疑論の闘争として描き、ロックによって紛争が終結されたかに見えたが、それは間違いであり、またしても陳腐な独断論に陥ったために、学問において倦怠と無関心が支配的となってしまったと論じている。このような現状を打破するために、カントは理性能力一般を批判しようとしているのだと説いているのである。カントは理性批判を法廷にたとえており、理性を理性の法則によって批判することを試みようとしている。

〔報告者コメント〕
 カントのいう形而上学は、経験を超えた対象を扱う学問という意味で、われわれが一般に哲学としてイメージするものと同じようなものであると考えてよさそうである。カントはその形而上学の歴史を、基本的には独断論が支配していたが、しばしば懐疑論が闘争を挑んできた歴史として把握している。この闘争は決着がついていないが、理性の法廷で理性能力自体を吟味すれば、この闘争にも決着がつくとカントは考えていたようである。この法廷では、かつての独断論と懐疑論の闘争が論理的にくり返され、それを裁判官の立場に立った理性が、より俯瞰的な視点から判決する、というようなことなのだろうか。このようなこれまでの独断論と懐疑論の闘争を4つの論点にまとめたものが、カントの説く4つの二律背反ということになるのかもしれない。


【2】形而上学に適用された数学・自然科学の革新的着想とは
 カントは第二版序文において、学が学として確実な道を歩むための方法・着想について論じている。これまで確実な道を歩んできた学問領域として、数学と自然科学が挙げられ、その発展を支えた革新的な着想が抽出されている。その着想とは、自分の概念に従って自ら対象の中に入れたもの以外を、この対象に付け加えないというものである。形而上学も確実な道を歩むために、この着想を採用する必要があるとして、適用を試みている。すなわち、これまでは、われわれの認識はすべて対象に従って規定されねばならぬと考えてきたが、この前提ではうまくいかなかったので、今度は、対象がわれわれの認識に従って規定されねばならないというふうに想定してみる、ということである。カントはこの考え方の変換を、コペルニクスの思想になぞらえており、これによってア・プリオリな認識の可能をうまく説明できたとしている。

〔報告者コメント〕
 数学や自然科学が確実な発展を遂げた、その根底にある着想とはどのようなものであろうか。カントの説明では、分かったような気もするが、具体的にはどういうことなのか、明確ではない。ここに関して、黒崎政男は『カント『純粋理性批判』入門』において、「私たちが何か他のもの認識した、と考えているとき、そこで認識されているのは、他のもののうちにある自分自身である、ということ」(p.93)と説いている。対象から導き出した論理を頭の中で整序して、そしてその整序された論理でしっかりと現実が説明できるかどうかを、再び対象に戻って検証する、こうしたプロセスにおいて、頭の中で整序した論理のみで現実を説明しようとするのが、「そこで認識されているのは、他のもののうちにある自分自身である」ということになるのだろうか。
 カントが自身が採用した着想の転換をコペルニクスの業績にたとえているのは、この転換によって、従来の複雑な理論なしに、シンプルに対象のあり方を説明できたと考えているからであろう。コペルニクス以前は、天体の見かけの運動について、さまざまな円運動を組み合わせたような複雑な理論で説明されていた。しかし、天動説を捨てて地動説を採れば、太陽を中心にして惑星がその周囲を円運動していると想定するだけで、地球上からの見かけの運動がほぼ説明できたのである。このように前提を変えるだけで、複雑に見えたものが実はシンプルなものであったことが明らかになる。カントは形而上学の歴史で、このコペルニクスに匹敵する業績を遺したという自信があったのであろう。


【3】物自体と現象の区別はなぜ必要か
 カントは、第二版序文の後半部分で、物自体と現象の区別の大切さ・必要性について論じている。結局、物自体と現象を区別しなければ、矛盾に陥ってしまう、と論じているようである。具体的に取りあげられている矛盾は、無条件者(p.36)と意志の自由(p.41)である。逆にいうと、物自体と現象をきちんと区別すれば、無条件者についての矛盾は解消する(無条件者について矛盾なく考えることができる)し、意志の自由についても自然必然性と矛盾なく両立しうるということである。カントは自由の問題については、実践理性の領域だとして、純粋理性を批判する本書とは別に論じることを示唆している。

〔報告者コメント〕
 この第二版の序文を読むと、やはりカントは、南郷継正先生が言うように、何らかの矛盾=二律背反に悩んだ挙句、それを解消するために物自体論(物自体と現象とを区別する論)に辿り着いたのだということは間違いなさそうである。
 問題となるのは、哲学の歴史で、二律背反がどのように問題にされてきたのか、それをカントは物自体論として一応の解決に導いたとされているが、それはどのような点で優れており、どのような点で限界があったのか、さらに後の哲学の歴史では、この問題が最終的にどのように解決されていったのか、ということだろう。ここでその正解を出すことは難しいと考えられるが、少なくともこのような問題意識を持ってカントを学んでいく必要があるだろう。それは、すべての哲学はカントに流れ入り、カントから再び流れ出すといわれているからである。
 カントにおいては、物自体というのは、世界の本質的な存在として考えられている点も押さえておく必要があるだろう。認識できる現象と区別することによって、認識はできないけれども考えることができる存在として、世界の本質が成立し得る領域を残しておいた、ということなのかもしれない。

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 この報告をめぐっては、「これまでの独断論と懐疑論の闘争を4つの論点にまとめたものが、カントの説く4つの二律背反」という捉え方について、疑問が呈されました。このような書き方だと、テーゼ(世界の無限性を主張する)が独断論でアンチテーゼ(世界の有限性を主張する)が懐疑論だ、というようにも読めるがそれでよいのか、世界の有限性を独断的に主張する、という立場もありうるのではないか、という疑問です。

 この疑問を受けて議論するなかで、カントが「形而上学の統治は、最初は独断論者の執政下にあって専制的であった。ところが……数字の内乱によって次第しだいに、まったくの無政府状態に堕した。そしておよそ定住を嫌う一種の遊牧民であるところの懐疑論者は、しばしば国民の結束を寸断した」(p.14)と述べていることが指摘されました。つまり、形而上学は内部に独断論どうしの争いを抱えつつ、外部からは懐疑論者の攻撃に晒されていた、という構造があったのだ、というわけです。

 このことを踏まえるならば、テーゼが独断論の立場でアンチテーゼが懐疑論の立場である、というような単純な区分けはできないのではないか、ということになりました。とはいえ、カントは、独断論内部での闘争(内乱)、および独断論と懐疑論の闘争の歴史を踏まえつ、それ4つのアンチノミーとしてまとめ上げたのだ、ということはいえるだろう、ということに落ち着きました。
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2017年02月07日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回までに、例会で報告されたレジュメを紹介したあと、2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介してきました。

 最終回となる今回は、例会を受けての参加者の感想を掲載しておきたいと思います。

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 今回の例会では、カント『純粋理性批判』を読んでいくに当たっての指針を獲得したいと考えていたが、その観点からして大きな収穫があったと感じている。

 まず報告者レジュメで、南郷先生が『純粋理性批判』について触れている箇所が引用されていたが、ここで説かれている南郷先生の言葉をしっかりと理解することがこの2年間の目標となるだろう。常にこの南郷先生の言葉をアタマに入れながら、『純粋理性批判』を読んでいくようにしなければならないと思った。

 中身を具体的に言うと、『純粋理性批判』は二律背反と物自体論が学的に評価できるものであり、カントはこれまでの哲学の成果を二律背反としてまとめたものの、二律背反をどう解決すればいいのかがわからず、物自体論という形で逃げてしまったということである。したがって、二律背反がどのようにして生まれてきたのか、また二律背反をどのように解決すればいいのかという観点から、『純粋理性批判』を読んでいくのがよいのだろうと思った。

 また、南郷先生は学問への準備運動として、ヘーゲル『哲学史』→カント『純粋理性批判』→ヘーゲル『エンチクロペディー』という過程を辿らなければならないと説いておられるが、これも1つには以上のような観点から意味づけることできるということがわかったのもよかった。つまり、哲学の歴史を大きく押さえた上で、それがどう結実して『純粋理性批判』(二律背反)になったのか、また二律背反をどうヘーゲルは解決したのかという過程を把握することをとおして、世界全体の体系的なイメージを創るということである。

 以上のような形で、『純粋理性批判』を読んでいくための指針とその意義を確認できたことがよかった。

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 今回の例会では、これまでのシュヴェーグラー『西洋哲学史』やヘーゲル『哲学史』の学びを踏まえて、カントの『純粋理性批判』の全体像をアバウトに描くとともに、それを大きな哲学の発展史の中に位置づけることを目的として臨んだ。『純粋理性批判』の構成に従って、それぞれの個所でどのようなことが説かれているのかをしっかり確認できた。また、ヒュームの懐疑論によって、独断論のまどろみから覚めたカントは、それでも科学的認識の確実性を求めて研鑽していたこと、カントのいう「構想力」がヘーゲルの絶対精神につながっていった可能性が高いことなども再確認できた。

 しかし、今回の例会で一番の収穫だったのは、南郷継正先生の言葉を通して、二律背反論と物自体論の関係が明確に掴めたことである。すなわち、カントは二律背反の問題に解答しようと苦しんだ挙句、その解答として物自体論を出したのだ、ということである。『純粋理性批判』の叙述の順序はこれとは逆になっていることもあって、このようなつながりは意識できない可能性があるだけに、われわれはここを明確に意識しながら読んでいく必要があるだろう。

 また、二律背反は、カント以前の哲学的成果を総括したものである可能性が高く、そのようなものとして捉えていく必要性も感じた。さらに、物自体論も含めて、現象論レベルでとらえてはいけないという指摘もあり、これはどういうことか現時点では不明であるが、ヘーゲルや三浦つとむレベルの把握の仕方では不十分なのだということだけは強烈に意識させられた。『武道哲学講義(第二巻)』では、「諸氏には『純粋理性批判』の学習はとても難解だと思うが、これは本書で説いている弁証法の成立過程に諸氏がしっかりと学んでいれば、次第にカントの理論の中身が分かってくることになっていく」と説かれているということなので、この書をしっかりと学びながら、カント『純粋理性批判』を読んでいく2年間としたいと思った。

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 今回の例会では、シュヴェーグラー『西洋哲学史』とヘーゲル『哲学史』における、カント『純粋理性批判』の内容を確認することをテーマに議論が行われた。私自身の問題意識としては、カント哲学の全体像を、「二律背反」論と「物自体」論を中心にしっかりと把握しておくということがあった。

 報告レジュメにおいて、南郷継正先生のカントに関わる記述が引用されていたことによって、「二律背反」論と「物自体」論の関係がすっきり整理できたことが今後の学びにとって非常に大きかったと思う。つまり、カントは説くことのできない二律背反に陥ってしまったために、悩んだ挙句、それは物自体の性質によるのではなくて、かえって物自体に何の性質もないためだとしたのであった。物自体にあると思っている性質は、実は人間の認識が与えたものであって、物自体は人間の認識では捉えられないもの、人間の認識が捉えることができるのはただ現象の世界であるにすぎないとしたのである。

 こうしたカント哲学の中心概念の理解を踏まえて、今後具体的に『純粋理性批判』を読み進めていくことにしたのである。もちろん、個々の記述の内容で理解できない場面も多々あるとは思うが、細かい中身に振り回されることなく、弁証法の生成発展の歴史もしっかりと学び返す中で、カント哲学の理解を深めていきたいと思う。

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 1月例会では、報告レジュメの担当となっており、どういう内容のものにすべきか色々と悩んだのだが、最終的には、『純粋理性批判』に関わって南郷継正が説いている内容をまとめるものにした。南郷継正は、カントの哲学で評価に値する成果は二律背反と物自体論であること、二律背反の解決に悩んで物自体論が出てきたという関係(立体構造)があること、二律背反が出てくる必然性を古代ギリシャ以来の弁証法の発展史にたずねなければならないことなどを、説いていた。こうしたことを、『純粋理性批判』そのものを読んでいく前提として、しっかりと確認することができたのは、今後の例会の進行にとって非常によかったのではないかと思っている。『武道哲学講義(第二巻)』などの弁証法の発展史を真面目に学んでいけば、難解な『純粋理性批判』もだんだんと理解できていくはずなのだ、と説かれているのも、大いに勇気づけられるものであった。ヘーゲル『哲学史』の再読とも絡めて、しっかりと取り組んでいきたい。

(了)
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2017年02月06日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(9/10)

(9)論点3:カント『純粋理性批判』は哲学史上、どのように位置づけられるか

 前回は、カント『純粋理性批判』ではどのようなことが説かれているのかに関する議論について見ていきました。ここでは主に、「二律背反」論と「物自体」論が展開されていて、世界についての解くことのできない矛盾を「二律背反」として述べられるとともに、それを解消すべく、物自体には何の性質もなく、物自体に備わっていると思う諸々の性質は、実は人間の認識が物自体に与えて現象させたものに過ぎないという「物自体」論が展開されているということでした。

 さて今回は、3つ目の論点として、『純粋理性批判』の哲学史上の位置づけに関する論点を見ていきたいと思います。

論点3:カント『純粋理性批判』は哲学史上、どのように位置づけられるか

 カント『純粋理性批判』は哲学史上、如何なる問題に如何なる解決を与え、如何なる課題を残したのか。また、その成果(特に「二律背反」論、「物自体」論)はどのようにその後のドイツ観念論に受け継がれ、ヘーゲル哲学(絶対精神論)につながっていくのか。ヘーゲル『哲学史』からカント『純粋理性批判』を経て、ヘーゲル『エンチクロペディー』へと学びを進めていく必要がある(南郷継正先生の言)のはなぜか。

 この論点に関しては、まず、『純粋理性批判』は哲学史上、如何なる問題に如何なる解決を与えたのかという問題について確認しました。この論点に関しては、大きな見解の相違はありませんでした。すなわち、大きな観点からすれば、イギリス経験論と大陸合理論が掲げた真理の源泉について、カントが解答を出したということがいえるのであって、より具体的には、ヒュームの因果律批判が提起した大問題、すなわち、人間の認識と現実の世界の客観的法則性とはどのように関係しているのかという大問題に対して、人間の認識は自身にもともと備わっている枠組み(感性的直観の純粋形式としての時間・空間、および純粋悟性概念の12のカテゴリー)から物自体の世界に問いかけることによって、自身の対象となる現象の世界(客観的世界)を成立させるのだ、換言すれば、現象の世界に存在する客観的法則性は人間の認識によって創造されたものにほかならないのだ、と解決することによって、客観的法則性の認識可能性を根拠づけ、因果律の客観的妥当性を主張したのだ、ということでした。

 カントが残した課題についても概ね共通した理解で、物自体と自我とを絶対的に区別し、世界を物自体の世界と現象の世界とに2つに分けてしまったことが問題で、二律背反を客観的世界の性質にもとづくものとして捉えきるという課題が後世に残ったということでした。ここに関しては、カントが物自体論として逃げてしまった課題をヘーゲルが解決したのではないかとか、カントを読む上では二律背反と物自体論に全てを収斂させて読んでいくべきだという意見が出されました。

 カント哲学がどのようにヘーゲル哲学につながっていくのかという問題については、ヘーゲルはカントが第1版で述べた「自我と物自体とが同一の思考的な実体であることはありえないことではない」という問題提起を突っ込んで検討し、カントのいわゆる直観的悟性に解決の糸口を見出し、ここから絶対精神の自己運動として、自我=世界は矛盾によって発展していく存在だと考えたのではないかとい見解が示されました。これは黒崎政男『「純粋理性批判」入門』(講談社選書メチエ)の記述を参考にした見解ですが、内容的に非常に難しいという声も上がりました。重要なことは、この見解と南郷さんの二律背反に悩んで物自体論に行ったのだという論とを合わせて考えて熟成させる必要があるということであって、必ず絡む、大きな弁証法の歴史としてカントからヘーゲルの流れをつかむ必要があるということを全員で確認しました。

 最後に、ヘーゲル『哲学史』からカント『純粋理性批判』を経て、ヘーゲル『エンチクロペディー』へと学びを進めていく必要がある(南郷継正先生の言)のはなぜかという問題についてです。この論点に関しては、以前ある会員が我々の師に質問し、師から得た回答を踏まえて、以下のように見解をまとめました。すなわち、ごくごく簡単に(大雑把に)いえば、『哲学史』は一般教養、『純粋理性批判』は認識論、『エンチュクロペディー』は弁証法(論理学)ということであり、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について、徹底的に突き詰めて考え抜いたのが『純粋理性批判』だといえるであろう、端的には、認識論の問題ということであるが、角度を変えていえば、自己がこの世界とどのように対峙していくか、「そもそも何のために学問を?」という姿勢に関わるところをしっかりと押さえた上で、全世界の論理的体系的把握(『エンチュクロペディー』)に進まなければならない、ということがいえるのではないだろうか、ということでした。この見解については皆が同意しました。さらにこの会員は、『エンチュクロペディー』はそれなりの世界の全体像を描いたものであって、『純粋理性批判』はこれまでの哲学をまとめたものであり、これらを理解するためには『哲学史』が分かる必要がある、ということもいえると発言しました。別の会員も、まずは哲学の全体像を押さえるために哲学の流れを『哲学史』で把握し、そこから『純粋理性批判』によって世界全体の「本質論的構造論」を学び、その学びをふまえて、自然や精神といった諸々の事物・事象に関して筋を通して学んでいく必要がある(『エンチュクロペディー』)、という趣旨の見解を示しました。

 以上のような議論を行い、今回の例会における論点についての議論を終了しました。
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2017年02月05日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(8/10)

(8)論点2:カントは『純粋理性批判』で何を説いたか

 前回は1つ目の論点、すなわちカント『純粋理性批判』の構成及びカントの問題意識に関する論点についての討論を見ていきました。カントはヒュームの主張に反駁して、自然科学的認識の確実性を明らかにすべく、認識能力そのものの研究を行おうとして『純粋理性批判』を執筆したのであって、ここでは、認識の2つの主要な要因として、感性(受容性)と悟性(自発性)とを挙げ、先験的感性論、先験的分析論、先験的弁証論という3つの構成で論を展開しているということでした。

 さて今回は、2つ目の論点として挙げられた、『純粋理性批判』の中身に関する論点について見ていきたいと思います。

論点2:カントは『純粋理性批判』で何を説いたか

 カントは『純粋理性批判』において、何を説いたのか。特に「物自体」論と「二律背反」論については、哲学史上、重要な概念であると考えられるので、「二律背反」論とはどのようなものか、「物自体」論とはどのようなものか、「二律背反」論と「物自体」論とはどのような関係にあるのかについて議論したい。

 この論点に関しては、まず、端的にいえば、『純粋理性批判』では人間の認識能力とはどのようなものかということが説かれているということを確認しました。このことを踏まえて、我々の弁証法の教科書である三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の中からカントについて説かれている部分を読み合わせました。

「世界は時間のうちに一つの出発点をもち、また空間的にも限界があるということを証明できますが、それと同時に、世界は時間的な出発点もなければ空間的な限界もないことをも証明できるのです。この解くことのできない矛盾が、「二律背反」として述べられています。この矛盾が何に基づいているかをカントは正しく解決しなかったとはいえ、それが必然性として指摘されたことは、弁証法にとって重要な進歩だといえましょう。カントは、この矛盾が、世界自体の性格に原因するもの、すなわち客観的な矛盾に原因があるものとは考えませんでした。彼は、わたしたちが物自体にそなわっていると思う諸性質を、認識から与えられたものと解釈しました。人間の認識はもともとそういう能力をそなえているのであって、物自体は何の性質も持っていないし、わたしたちの認識の向こうの岸にあってとらえることができない存在だと主張しました。」(p.60)

 さらにある会員は、論点1の『純粋理性批判』執筆時のカントの問題意識と絡めて、我々が眺めている客観的な世界(現象の世界)は、我々の認識の側に備わっている条件によって、きちんと因果律が成り立つものとして構成されている(人間の認識がまさにそのようなものとして創造した!)ということになる、ということが説かれていることを強調しました。

 さて、ではもう少し具体的にカントの主張を見ていくとどうなるでしょう。まず、「二律背反」論とはどのようなものかについて押さえていきました。これは悟性の諸カテゴリーを制約されないものに適用しようとすることで陥る矛盾のことであり、悟性概念の4つのカテゴリーに対応して、4つの二律背反があるということでした。また、「物自体」論に関しても議論し、端的には、我々の認識が捉えることができるのは、あるがままの「物自体」ではなくて、現象の世界に過ぎず、「物自体」は何の性質も持っていないのだという論であることを確認しました。ここでは、『純粋理性批判』だけを読んでいても、「二律背反」というのは単に先験的仮象の1つとして出てくるだけで、それが重要であることは分からないのではないかとか、三浦さんの理解ではカントが哲学史を踏まえた成果として「二律背反」論を提出していることがよく分からない、哲学史の総決算だという感じがしないから、二律背反の突っ込んだ検討が必要で、哲学の成果を4つに整理したということをしっかりと掴む必要があるのではないかとかいった意見が出されました。

 最後に、「二律背反」論と「物自体」論とはどのような関係にあるのかについて考えていきました。まず、南郷継正『全集第12巻』にある「論理学基本用語 五十」の記述を確認しました。すなわち、「二律背反の先にある難問の解決に悩んだあげく、二律が背反するのは、対象の性質のゆえではなく対象に性質がないが故として論理の問題として自分の観念たる認識、すなわち頭脳活動の実力に解決を求めてしまったのである。つまり、対象が二律になるのは、対象の成立が実際には無なるがために、自らの観念である認識の働き、すなわち頭脳の働きで、二律のどちらにもなるのだ、すなわちどちらも正しいのだ、としたのである」(p.113)という部分です。ここでは端的には、「二律背反」を解消するために「物自体」論が出てきたのだということです。この部分に関しては、三浦さんの文章では明確には説かれていないことであるし、『純粋理性批判』そのものにおいても「物自体」論が先に説かれることもあって、なかなかこうした理解には到達できない、だからこそこれは決定的に重要な指摘なのではないか、ということで意見が一致しました。

 ともかく、今後『純粋理性批判』を読み進める上で、以上のことを指針として学んでいくことを確認して、この論点に関する議論を終えました。
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2017年02月04日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(7/10)

(7)論点1:カント『純粋理性批判』の構成はどのようなものか

 前回は、シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』においてカント『純粋理性批判』が取り上げられていた部分のうち、ポイントとなる部分を改めて振り返った後、1月例会で提出された3つの論点を紹介しました。

 今回から、その3つの論点について順次検討した内容を紹介していきたいと思います。まず1つ目の論点として挙げられたのは、カント『純粋理性批判』の構成を問う論点です。

論点1:カント『純粋理性批判』の構成はどのようなものか

 これから2年間にわたってカント『純粋理性批判』を読んでいく前提として、どういう構成で論が展開されているのか、シュヴェーグラー『西洋哲学史』の記述に沿って、その全体像を確認しておきたい。合わせて、『純粋理性批判』を執筆したときのカントの問題意識も確認したい。

 この論点については、まず、カント『純粋理性批判』の構成に関して確認していきました。概ね見解は共通していて、カントが認識の2つの主要な要因として、感性(受容性)と悟性(自発性)とを挙げていることに触れた後、大きく先験的感性論、先験的分析論、先験的弁証論という3つの構成で本論を展開していることが指摘されました。また、先験的感性論では、感性の純粋形式は空間と時間であること、我々は物をありのままに認識するのではなくて、時間と空間という主観的媒質を通して物が我々に現象する姿を認識するに過ぎない、ということなどが論じられ、先験的分析論では、空間と時間という感性的直観の形式によって把握された対象が、さらに悟性にもともと(ア・プリオリに)備わっている形式(カテゴリー)によって把握されること、そのカテゴリーとは量(全体性、数多性、単一性)、質(実在性、否定性、制限性)、関係(実体性と内属性、原因性と依存性、相互性あるいは相互作用)、様相(可能性と不可能性、存在性と非存在性、必然性と偶然性)であることが論じられ、先験的弁証論では自然科学のように経験に基づくのではない(霊魂とは何か、世界とは何か、神とは何かなどを扱う)形而上学が扱われ、このような無制約的な理念に、悟性の概念を適用しようとすれば、われわれを欺く先験的仮象が生まれること、この先験的仮象は、心理学的理念、宇宙論的理念、神学的理念という3つにおいて論じられ、心理学的理念に関わっては魂の不滅の問題が、宇宙的理念に関わっては二律背反の問題が、神学的理念に関わっては神の存在証明の問題が論じられていることをそれぞれ押さえていきました。

 さらに、悟性を感性的対象に適用するには、感性と悟性との中間的な第三のものによって媒介される必要があるとして、「先験的図式」や「構想力」が取り上げられているという指摘もありました。シュヴェーグラーによれば、感性によって得られた素材とカテゴリー(純粋悟性概念)とは異質なものなので、それらを統一するために第三のものが必要であって、それを「先験的図式」や「構想力」と呼んで議論を深めていったということでした。感性と悟性との関係については、感性がイギリス経験論、悟性が大陸合理論の流れをくむものだという指摘もありました。大枠としては、感性と悟性の中間に値するものとして、「先験的図式」や「構想力」というものをカントが想定していたのだということを押さえておけばいいのではという結論になりました。

 次に、『純粋理性批判』を執筆したときのカントの問題意識について、議論していきました。この点についても概ね意見は一致していました。すわなち、カントの問題意識は、端的にいえば、因果律(原因と結果のつながり)は主観的な信念にすぎない、というヒュームの主張に反駁して、自然科学的認識の確実性を明らかにしたい、ということであって、人間が何を認識できるかを明らかにするために、認識能力そのものを研究しなければならないというものであった、ということでした。ここでチューターが、ある会員の見解に対して、「ヴォルフの独断論」という表現が使われているが、これは具体的にどのようなものか質問しました。これに対してその会員は、独断論とは経験によらずに神などの確実なもの(世界)についての認識を得られるということであって、ヒュームの懐疑論と対をなすものであるという説明をしました。これに対してはチューターも概ね納得しました。

 以上でこの論点に対する議論を終了しました。
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2017年02月03日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、シュヴェーグラー『西洋哲学史』及びヘーゲル『哲学史』において、カント『純粋理性批判』がどのように取り上げられていたのかの要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところを振り返っておきたいと思います。

 まず、『西洋哲学史』に関してみていきました。純粋理性(理論的理性)の批判では、我々がこの世界をア・プリオリに認識しうるか否かが問題となっています。ここでカントは、認識を2つの要因、すなわち感性(受容性)と悟性(自発性)とに分けた上で考察しています。先験的感性論では、感性的認識に本源的に具わっている形式として、空間と時間の問題が説かれます。空間と時間はあくまでも主観的な形式であって客観的実在ではない、とカントは主張したのでした。結局、カントにおいては、我々は物をありのままに認識するのではなく、時間と空間という主観的形式を通して物が我々に対して現象する姿を認識するにすぎないのだ、ということになるのでした。我々は物自体(Ding an sich)ではなく現象(Erscheinung)を認識するにすぎない、ということこそ、純粋理性批判におけるカントの核心的な主張であるともいえます。

 先験的分析論においては、悟性の本源的形式が考察されています。ここは、対象を能動的に把握しようとする悟性にもともと備わっている形式が分析される部分であり、量(全体性、数多性、単一性)、質(実在性、否定性、制限性)、関係(実体性と内属性、原因性と依存性、相互性あるいは相互作用)、様相(可能性と不可能性、存在性と非存在性、必然性と偶然性)の4つが悟性の根本概念(カテゴリー)として示されていました。これらの形式が悟性によって対象(物自体を現象させたもの)に付与されるのだ、というのがカントの主張です。

 さらに、先験的弁証論においては、カテゴリーを物自体にまで及ぼして認識しようとすることによって生じてしまう「先験的仮象」について論じられていました。カントは、理性の誤った使用(理性を無制約的なものにまで及ぼそうとすること)によって、心理学、宇宙論、神学の3つの領域において、二律背反が生じてしまうことを示したのでした。例えば、宇宙論的仮象においては、「時間・空間は有限である」という定立(テーゼ)と「時間・空間は無限である」という反定立(アンチテーゼ)との二律背反など、4つの二律背反が示されています。

 続いて『哲学史』に関してです。カント哲学の全般的な特徴として、ヘーゲルは、@普遍性や必然性を否定したヒュームの議論を受け止めつつ、普遍性と必然性は思惟のなかに存在するとしたこと、A認識する前に認識能力を認識すべきだとしたこと、Bア・プリオリな総合判断は思惟によって与えられる関係で関係づけることだとしたことを挙げていました。ヘーゲルは、認識する前に認識能力を研究しなければならないというカントの主張について、泳ぐことができるようになるまでは前もって水に入ろうとしないようなものだ、と厳しく批判する一方で、認識能力そのものを研究の対象として設定したことについては、カントのなした偉大な一歩であったと評価していました。

 カントの純粋理性批判に関わってヘーゲルは、理論的意識の三段階区分――感性、悟性、理性――が、もっぱら経験的になされたもので概念の必然的な展開としては把握されていないと指摘していました。その上で、三段階のそれぞれについてのカントの議論を検討していました。カントによれば、経験によって与えられた材料は、感性の純粋形式である時間と空間の枠組みで取り込まれ、悟性の普遍的思惟規定であるカテゴリーと結合することで、はじめて認識が成立します。カントによれば、このようにして認識できるのは、物自体ではなく現象です。カントによれば、カテゴリーは悟性の対象たる有限的な存在には適用できるものの、理性の対象たる制約されないものに適用しようとすると、4つの二律背反に陥ってしまいます。カントはこの二律背反について、物自体ではなく主観の側に存在するものだと説きました。

 ヘーゲルは、こうしたカントの議論について、時間空間の本来の性質やカテゴリーの必然性を問題にしていない点を批判していました。また、純粋感性と純粋悟性との共通の根に位置付けられる直観的悟性について、突っ込んだ考察がなされていない点をも批判していました。さらに、カントの二律背反論については、二律背反の必然性を指摘したことを高く評価しつつ、矛盾はただ我々の思惟のなかにあるもので物自体は矛盾していないのだとしてしまったことを批判していました。

 以上のような内容について、例会では大きく3つの論点が提示されました。そして、各論点をめぐって様々な議論・討論がなされていきました。そこで今回は、その3つの論点を紹介したいと思います。次回以降、それぞれの論点をめぐってなされた討論過程と、その結果どのような(一応の)結論に到達したのかということを詳しく紹介していく予定です。

論点1:カント『純粋理性批判』の構成はどのようなものか

 これから2年間にわたってカント『純粋理性批判』を読んでいく前提として、どういう構成で論が展開されているのか、シュヴェーグラー『西洋哲学史』の記述に沿って、その全体像を確認しておきたい。合わせて、『純粋理性批判』を執筆したときのカントの問題意識も確認したい。

論点2:カントは『純粋理性批判』で何を説いたか

 カントは『純粋理性批判』において、何を説いたのか。特に「物自体」論と「二律背反」論については、哲学史上、重要な概念であると考えられるので、「二律背反」論とはどのようなものか、「物自体」論とはどのようなものか、「二律背反」論と「物自体」論とはどのような関係にあるのかについて議論したい。

論点3:カント『純粋理性批判』は哲学史上、どのように位置づけられるか

 カント『純粋理性批判』は哲学史上、如何なる問題に如何なる解決を与え、如何なる課題を残したのか。また、その成果(特に「二律背反」論、「物自体」論)はどのようにその後のドイツ観念論に受け継がれ、ヘーゲル哲学(絶対精神論)につながっていくのか。ヘーゲル『哲学史』からカント『純粋理性批判』を経て、ヘーゲル『エンチクロペディー』へと学びを進めていく必要がある(南郷継正先生の言)のはなぜか。
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2017年02月02日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(5/10)

(5)ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』 要約A

 前回は、ヘーゲル『哲学史』でカントが取り上げられている部分の前半の要約を紹介しました。そこでは、認識する前に認識能力を研究しなければならないというカントの主張に対して、ヘーゲルがそれはできない相談だと非難していたこと、しかし認識を考察の対象としたことはカントの偉大な成果だと述べられていたことを紹介しました。

 今回はヘーゲル『哲学史』でカントが取り上げられている部分の後半の要約を紹介します。ここでは、理論的理性が感性、悟性、理性という3つの主要段階に分けて説かれています。

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ヘーゲル『哲学史』より「第3部 近代の哲学/第3篇 最近のドイツ哲学」

B カント(承前)

1〔理論的理性〕
 
 カントは純粋理性批判において、理論的意識の主要段階を叙述する。第一の能力は感性一般、第二は悟性、第三が理性である。以上は、概念からの発展として必然性をもって進行するものではなく、全く経験的にとりあげられたものである。

a、感性
 先験的なものの出発点は、感性におけるアプリオリなもの、感性の形式である。この感性についての論定を、カントは先験的感性論と呼ぶ。カントによれば、直観とは感性によって我々に与えられた対象の認識であり、感性とは外的なものとしての表象によって触発される能力にほかならない。直観には色や硬さや怒りや愛や快等々あらゆる種類の内容が見出されるが、こうした材料のなかにありながらそれとは別のものとして、空間と時間の規定が含まれる。空間と時間は純粋直観すなわち抽象的直観であり、その直観のなかにおいて我々は個々の感覚の内容を、あるときは時間のなかで前後に流れるものとして、あるときは空間のなかに並立するものとして、我々の外に置くのである。カントは、外的な物自体は時間空間を欠いており、それらが意識によって経験されることの制約として時間空間が加わるのだ、というように考える。そうであるならば、一体どうして、心はほかならぬ時間空間という形式的制約をもつのであろうか。しかし、時間空間の本来の性質は何かということは、カント哲学は全く問題にしないのである。

b、悟性
 感性は受動性であるが、思惟一般は自発性であるとカントはいう。悟性は感性から経験的な材料とアプリオリな材料(時間と空間)を得て思惟する。感性と悟性の双方が働いたときのみ、認識が姿を現わす。先験的論理学は、悟性がアプリオリにそれ自身においてもつ概念を掲げる。思想のもつ形式は多様を統一にもたらす総合的機能である。この統一は、先験的統覚たる自我・自己意識の純粋統覚作用であり、自我はあらゆる我々の表象に随伴するとされる。生硬な言い方だが、偉大で重大な認識である。
 自我が、表象一般の経験的材料を結合するのは、普遍的思惟規定たる範疇の先験的な本性である。カントによれば、12の根本範疇があり、これが3元をなす4つの組に分かたれる。@量の範疇…単一性・雑多性・総体性。A質の範疇…実在性・否定性・制限性。B関係の範疇…実体と偶有性・原因と結果・相互作用。C様態の範疇…可能性・現実性・必然性。カントが、第一の範疇は積極的であり、第二は第一を否定するもので、第三は両者の総合だといっているのは、概念の偉大なる本能である。しかし、カントは、これらの範疇を経験的にとりあげるだけで、統一からこれらの差別を必然性をもって発展させることには思い至らない。
 これら範疇はそれだけでは空虚であり、知覚や感情等々の与えられた多様な材料と結合してはじめて意味をもつ。感情または直観に属する知覚の材料はその個別性と直接性の規定のままに放置されず、むしろ私はそれに対して働きかけてそれを範疇によって結合し、普遍的類や自然法則等々に高めるのである。経験のなかにこれら2つの構成部分を見出すことは正当であるが、カントはこれに結び付けて、経験は単に現象を捉えるにすぎない、としてしまう。
 純粋悟性概念が如何にして現象に適用され得るかの可能性を示すのが、先験的判断力である。純粋直観を範疇にしたがって規定し、経験への移り行きをなすのは、純粋悟性の図式論であり、先験的構想力である。これによって先に絶対的に対立するとされた純粋感性と純粋悟性とが今や合一される。そこには直観的悟性あるいは悟性的直観が含まれるのだが、カントはそうは考えず、この思想をまとめ上げることはしない。

c、理性
 カントは悟性から出発して同じく心理学的に理性に向って進んでいく。理性はカントによれば、原理から認識する能力、すなわち、概念によって特殊的なるものを普遍的なもののうちに認識する能力である。悟性は有限的な関係における思惟であり、理性は制約されぬものを対象とする思惟であって、理性の産物は理念だとされるが、カントにおいてそれは抽象的な普遍的なるもの、規定されぬものにすぎない。
 この制約されぬものを具体的に把握することに真の困難がある。ここでカントは、理性は無限的なるものを認識しようとしつつそれを果たしえない、という。その第一の理由は、無限的なものは感性的知覚の世界には与えられない、ということである。しかし、そもそも無限的なものを感性的に知覚しようというのが誤りである。第二の理由は、理性が範疇という思惟形式以外のものをもたない、ということである。範疇は客観的規定を与えるが、それ自体においては主観的なものであり、ただ現象に適用され得るこれら範疇を無限的なものの規定に用いるならば、誤った推理と矛盾(二律背反)のなかに巻き込まれてしまう――これがカント哲学の重要な規定である。
 制約されぬものには、形式論理学の3つの理性推理――断言的・仮言的・選言的――にしたがって、3つの種類がある。第一は思惟する主観、第二は一切の現象の総体、すなわち世界、第三は思惟され得る一切のものの可能性の最高の制約を含むもの、すなわち神である。
(α)先験的主観の統一という必然的な理性理念が物としていいあらわされる点に、推理の誤謬が生じる。自我は自己自身のなかで持続的であるが、ただ意識のなかだけでそうなのであって、意識の外においてではない。我々が思惟するものについて表象をもつのは、外的経験によってではなく、単に自己意識によってである。自我が主観的であることは分かっても、我々が自己意識を超えてそれを実体であるというならば、我々は我々に正当に許された範囲以上に出ることになる。したがって、私は主観に何らの実在性をも与えることはできない。カントが自我について、感性的存在をもつ心的事物や死んだ持続体でないと主張するのは正当である。しかし、カントはこれと正反対の点、すなわち、この普遍的なるもの、または自己思惟としての自我が、彼が対象的あり方として望む真の現実性を自己自身に備えているということを主張しない。彼は、実在性とは感性的実在であるというような考え方を抜け切れていないのである。
(β)二律背反、すなわち制約されぬものの理念を世界に適用し、世界が諸制約の完全な総体であると叙述するときに生ずる矛盾。現象は有限であり、世界は制限されたものの連関であるが、もしこの理性の内容が思惟されて制約されぬもののうちに包括されると、有限と無限という相互に矛盾する2つの規定が生じる。カントは4つの矛盾を指摘するが、本当はあらゆる概念のなかに二律背反があるのである。
 (αα)二律背反の第一。「定立 世界は時間において始めと終わりがあり、また限られた空間内にある。反定立、世界は時間において始めも終わりもなく、また空間においても限りがない」。カントは両方とも充分に証明され得るという。
 (ββ)第二の二律背反。定立は「合成された実体はいずれも単一な部分からなる」、反定立は「単一なるものは存在せず」。
 (γγ)第三の二律背反は自由と必然性の対立である。
 (δδ)第四の二律背反。一方において、総体が完結するのは出発点として自由というものがあるか、世界の原因として絶対的必然的存在があるかいずれであるが、いずれにしても当然に進行は中断される。しかし他方において、自由に対しては原因結果の制約による進行の必然性が対立し、必然的存在に対しては一切が偶然であるということが対立する。すなわち「世界には端的に必然的な存在がある」、その逆は「世界の部分としても、世界の外にも端的に必然的な存在は存在しない」。
 これらの矛盾の必然性こそ、カントが我々に意識させた興味ある側面である。しかし、彼はこれら二律背反を、先験的観念論に独特な意味においてしか解かず、物自体はこのように矛盾するものではなく、この矛盾はその源をただ我々の思惟のなかにもっている、としてしまう。
(γ)カントは次いで神の理念に達する。これをカントは、たんに一切の可能性の総体にすぎない理念と区別して理性の理想体と呼ぶが、これは存在する理念である。カントはここで神の実在の証明を考察し、この理想体に実在性が与えられるか否かを問うている。カントが固く執って譲らない規定は、概念から存在をひねり出すことは決してできないということである。しかしカントは、理性だけでは悟性認識の方法的組織化への形式的統一をもつにすぎない、というところから一歩もふみ出さなかった。理性または表象としての自我と外的事物は、両者とも相互に端的に他者として相対し、そしてそれがカントによれば究極の立場なのである。
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2017年02月01日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史、』ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(4/10)

(4)ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』 要約@

 前回は、シュヴェーグラー『西洋哲学史』でカントが取り上げられている部分の後半の要約を紹介しました。先験的分析論とは、対象を能動的に把握しようとする悟性にもともと備わっている形式が分析される部分であり、量(全体性、数多性、単一性)、質(実在性、否定性、制限性)、関係(実体性と内属性、原因性と依存性、相互性あるいは相互作用)、様相(可能性と不可能性、存在性と非存在性、必然性と偶然性)の4つが悟性の根本概念(カテゴリー)として示されました。これらの形式が悟性によって対象(物自体を現象させたもの)に付与されるのだ、というわけです。先験的弁証論とは、これらカテゴリーを物自体にまで適用して認識しようとすることによって生じてしまう「先験的仮象」について論じられる部分であり、心理学、宇宙論、神学の3つの領域において、「先験的仮象」が論じられていました。

 さて今回は、ヘーゲル『哲学史』でカントが取り上げられている部分の前半の要約を紹介します。ここでは、カント哲学が総論的に論じられていきます。

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ヘーゲル『哲学史』より「第3部 近代の哲学/第3篇 最近のドイツ哲学」

B カント

 ヤコービにあっては、第一に思惟すなわち証明は、有限的なるものや制約されたものをついに超えないし、第二に、たとえ神が形而上学的対象である場合でさえ、証明はむしろ神を制約し有限とすることに終わる。そして第三に、制約されぬものでありしかも直接に確実なものはただ信仰のなかのみにあり、主観的には動かすべからざるものであるが、それはしかし認識できぬものであり、換言すれば規定されないもの、規定すべきでないもの、したがって実を結ばぬものである。これに反してカントの哲学の立場は、第一に思惟がその推究によって、自らを偶然的なものとしてではなく、むしろ自己自身のなかにおいて絶対に究極的なものとして捉えるに至ったという点にある。有限的なるものにおいて、またそれとの関連において絶対的な立場が現われ、それが中間項ともなって、有限的なるものを結合するとともに、無限的なるものへと昇り行く通路となる。思惟は自己自身を絶対的に決定的なものとして捉えた。思惟の確信にとっては外的なものは何らの権威もなく、一切の権威はただ思惟によってのみ有効となりうる。しかし、この自己自身内で自己を規定する具体的な思惟は、第二に主観的なものとして把握された。主観性のこの側面こそヤコービの見解においてとくに支配的な形式であるが、これに反して思惟が具体的であるということはヤコービがどちらかといえば不問に付したのである。両者の立場はともに主観性の哲学にとどまる。すなわち、思惟が主観的たることによって思惟には即自且対自的存在者を認識する能力が否定されるのである。カントにあっては神は、一面、経験のなかには見出されない。外的経験のなかにもなく内的経験のなかにもない。他面、カントは推論によって神に到達する。すなわち、神は彼にとっては説明のための仮説であり、実践理性の要請である。カント哲学の真実なる点は、自由を容認することである。すでにルソーが自由のなかに絶対者を掲げていたが、カントもまた同一の原理を、理論的な側面から掲げたのである。フランスでは、抽象的な自由を現実に当てはめることで現実を破壊したが、ドイツにおいては、意識が自己に関心をもつということが、ただ理論的な形で遂行されたのである。

〔批判的観念論〕
 全てのものがそれに対して存在すべきものは、つまるところ人間であり自己意識であって、しかもその人間とは全ての人間一般としてのそれにほかならない――こういうことを抽象的な形で意識にのぼらせたのがカント哲学なのである。それは、自己意識に自体的なものの一切の要素を取り戻すことを要求しながら、しかもこの自体的なものをなお自己と区別することによって、みずからは依然として対立から抜けきれないでいる観念論である。カント哲学は、単純な思惟を自己自身に区別を備えたものと解しはするが、一切の実在がまさにこの区別によって成立することを未だ解するに至らず、自己意識の個別性を克服する術も知らず、理性を描くことには巧みを究めるものの、その描き方は、真理それ自身を再び失うような没思想的な経験的な仕方でしかないのである。カント哲学は、知り得るものは真実体でなくただ現象のみであるというにすぎない。それは知を意識と自己意識のなかに導入するものの、この知は主観的な有限的な認識として固定されてしまう。この哲学は、客観的独断論としての悟性形而上学を終息させたが、しかし実際にはそれをただ主観的な独断論に、換言すれば同一の有限な悟性規定が根差している意識のなかに移しかえ、即自且対自的に真なるものを求める問題を放棄してしまったのである。
 カント哲学は、第一に、ヒュームと直接に関係する。カント哲学の一般的意味は、普遍性や必然性という規定は知覚のなかには見当たらないというヒュームの指摘を、ただちにその根本から認めることにある。しかし、ヒュームが総じて範疇の普遍性と必然性に反対し、ヤコービはその有限性を難じたのに対して、カントは、その客観性にのみ反対する。もっとも彼は、数学や自然科学の例が示すように、それが普遍妥当的必然的なものの意味では客観的であるとして主張するが、外的事物それ自身のなかに存在するかのような意味では、その客観性に反対するのである。我々が客観的なものを成立させるものとして普遍性と必然性を希求するという事実は、カントはこれを充分に容認する。しかし、普遍性と必然性が外的事物のなかにないとすれば、それはどこに見出されるかが問題になる。ここでカントはヒュームに反対して、それはアプリオリに、換言すれば理性自身のなかに、自覚した理性としての思惟のなかに存在しなければならない、その源泉は私の自己意識内の主観、自我なのである、という。これがカント哲学を簡明に表わした主要命題である。
 カント哲学は、第二に、その目的がカントの言葉によれば認識能力の批判にあるという理由で、批判哲学とも呼ばれる。すなわち認識する前に、人は認識能力を研究せねばならぬというのである。認識はその場合、真理を獲得するための道具だと考えられている。真理それ自身に到達する前に、まずその道具の性質や作用を認識しなければならない、というのである。しかし、人は認識する前に認識能力を認識すべき、というのはできない相談である。泳ぐことができるようになるまでは前もって水に入ろうとしないようなものである。とはいうものの、認識を考察の対象としたことは、カントのなした偉大にして重大な一歩ではある。
 第三に、経験によって与えられる材料と範疇との関係についていえば、カントによると、思惟の主観的な規定、例えば、原因と結果のなかには、すでにそれ自身だけで上の材料の区別を結合する素地がある。その限りカントは、思惟を総合的活動と呼び、したがって彼は、哲学の問題を次のように設定する。「如何にしてアプリオリな総合判断は可能であるか」と。アプリオリな総合判断とは、相反するものの自己自身による連関、または絶対概念にほかならない。換言すれば、原因と結果等々のような区別された規定を経験によって与えられないで、思惟によって与えられる関係で関係づけることにほかならない。同じように、空間と時間も結合するものであり、それらもまたアプリオリ、すなわち自己意識のなかにある。カントは思惟が知覚から汲み取られないアプリオリな総合判断を有することを指摘することによって、思惟を自己内において具体的なものとして示すのである。このなかには偉大な理念があるが、展開そのものは粗雑な経験的見解にとどまり、学問的形式をもっていない。
 カントの粗野な表現の一例をあげれば、自身の哲学が純粋理性の諸原理の体系であり、その諸原理は自覚した悟性のなかの普遍的なものと必然的なものとを示すだけで、対象に携わることもなく、また普遍性や必然性の何たるかを研究することもない、という意味で、先験哲学(Transzendental-philosophie)などと呼ぶことである。そうならば、それは超越的(transzendent)というべきだろう。transzendent と tranzendental とは厳密に区別しなければならない。カントは先験哲学を、超越的となり得るものについてその源を主観的思惟のうちに、意識のうちに指摘する哲学である、と規定する。必然的なもの普遍的なものは人間の認識能力のなかにあるとされるのだが、カントはこの人間の認識能力から依然として物自体を区別するから、普遍性と必然性とはただ認識の主観的制約であるにとどまり、理性はその普遍性と必然性をもってしては、真理の認識に到達できないのである。理性は主観性として認識するために、直観や経験、すなわち経験的に与えられた材料を必要とするからである。もし、理性がそれだけで自存しようとし、自己自身においてまた自己自身から原理を汲み取ろうとするなら、理性は超越的となり、経験を超える。それゆえ、理性は認識においては構成的でなくて単に統制的であり、感性の多様に対する統一であり、規則である。しかし、この統一はそれだけでは経験を超えてただ矛盾に陥ってしまう。したがって、理性の批判は、まさに対象を認識することではなく、認識とその原理を認識すること、認識が飛躍的にならないためにその限界と範囲を認識することである。
 以上が一般論であり、続いて個々の部分をみていく。カントは第一に理論的理性、すなわち外的対象に関する認識を考察する。第二に、自己実現としての意志を考究し、第三に判断力、すなわち普遍的なものと個別的なものとの統一を考察の対象にする。いずれにせよ、認識能力の批判が主要な事柄である。
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2017年01月31日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史、』ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(3/10)

(3)シュヴェーグラー『西洋哲学史』におけるカント『純粋理性批判』 要約A

 前回は、シュヴェーグラー『西洋哲学史』でカントが取り上げられている部分の前半を要約したものを紹介しました。ここでは、カントの生涯が紹介された後、認識の2つの主要な要素である感性(受容性)と悟性(自発性)とをカントが詳しく調べたこと、感性的直観に備わっている主観的な形式が空間と時間であって、われわれは物をありのままに認識するのではなくて、時間と空間という主観的媒質を通して物がわれわれに現象する姿を認識するにすぎないことが説かれていました。

 今回は、シュヴェーグラー『西洋哲学史』でカントが取り上げられている部分の後半の要約を紹介しましょう。ここでは、純粋悟性概念の12のカテゴリーが説明された後、二律背反とはどのようなことかについて説かれていきます。

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シュヴェーグラー『西洋哲学史』より「第39章 カント」(承前)

B 先験的分析論
 人間の精神は感性の受容的な態度にのみ満足するものではない。それは、対象を概念によって思考し悟性の形式のうちで把握しようとすることによって、受け入れられた対象に自己の自発的活動をも加えるのである。このようなア・プリオリな概念あるいは思考形式の研究が先験的分析論の対象である。
 分析論の最初の課題は、純粋な悟性概念を見出すことである。悟性の諸原理は判断から導き出されるべきである。カントは普通の論理学が示す判断の4つの種類から、悟性の根本概念すなわちカテゴリーを導いた。

 量(全体性、数多性、単一性)
 質(実在性、否定性、制限性)
 関係(実体性と内属性、原因性と依存性、相互性あるいは相互作用)
 様相(可能性と不可能性、存在性と非存在性、必然性と偶然性)

 その他のカテゴリーはこれら12のカテゴリーの結合から導きだされる。これらの概念はア・プリオリであるから、必然的かつ普遍的な妥当性を持っている。しかし、それらは自身では空虚な形式であって、直観を通してのみ内容をあたえられるのである。
 感性的対象への悟性の適用は直接にはおこなわれない。両者のあいだには、言わば両者の性質をあわせもった(一方では純粋、他方では感性的)第三のものが介在しなければならない。このような性質をもつものは、2つの純粋直観、空間と時間のみであり、とくに時間である。先験的な時間規定は一方ではア・プリオリであるからカテゴリーと同質であり、他方には現象するものはすべて時間のうちにのみ表象されうるから現象する対象とも同質である。この意味でカントは先験的な時間規定を先験的図式と呼び、悟性によるその使用を純粋悟性の先験的図式性と呼んでいる。図式は自発的に内官を図式的に規定する構想力の産物である。
 カテゴリーのそれぞれにたいして先験的な時間規定を求めると、(1)量の普遍的図式としての時間系列あるいは数、(2)質の図式としての時間の内容、(3)関係の図式としての時間の順序、(4)様相の図式としての時間の総括――が見出される。各々のカテゴリーおよびその図式とともに、現象を悟性の普遍妥当的な形式のもとにもたらす特殊な仕方が与えられている。したがって各々のカテゴリーから悟性認識の諸原則(普遍的な綜合判断)が生まれる。
 これら概念および原則は、経験しうる対象としての物にのみ適用しうるのであって、物自体に適用することは許されない。ア・プリオリな概念および原則は、人間の経験をはなれては構想力および悟性が表象をもてあそぶものにすぎない。しかし、人はここで避けがたい錯覚におちいる。すなわち、カテゴリーは感性に基づくものではなくて、起源から言えばア・プリオリなものであるから、その適用から言っても感性を越えているかのように思われるのである。物自体はけっして可能的な経験のうちに与えられず、われわれの認識はあくまで現象に限られている。現象の世界と物自体の世界を混同したことが、これまでの形而上学におけるあらゆる混乱と誤謬と争いの源だったのである。

C 先験的弁証論
 このほかになお、あきらかに経験の範囲を越えるという使命をもち、したがって「超験的」と呼ぶことにできる概念がある。これらの概念こそこれまでの形而上学の根本概念および原則となってきたものである。これらが誤って生みだす客観的な学問および認識という見せかけを破壊することが、先験的論理学の第二部門である先験的弁証論の課題である。
 悟性が概念から原則をつくるのにたいして、理性は理念から原理(悟性の原則の最高の基礎づけ)をつくる。理性は対象と直接に関係せず、悟性とその諸判断とのみ関係するから、その活動はあくまで内在的でなければならない。もしそれが最高の理性的統一をたんに先験的な意味に理解せず、認識の現実的な対象にまで高めようとするならば、それは悟性の概念を無制約的なものの認識に適用することによって、超験的となる。カテゴリーのこのような超経験的な誤った使用から、純粋悟性を経験を越えて拡大しうるかのような幻想をもってわれわれを欺くところの先験的仮象が生まれる。理性の思弁的理念には、心理学的理念、宇宙論的理念、神学的理念の3つがあるが、先験的仮象は、それぞれにおいて異なった現れ方をする。
 心理学的理念における純粋理性の誤謬推理。思考する不滅の実体としての魂という(伝統的)合理的心理学の命題は、カントによればまったくの虚偽である。これらの命題の根拠となった「我思う」は直観でもなければ概念でもなく、単なる心の作用である。
 宇宙論の二律背反。宇宙論的理念を完全に集めるには、4つのカテゴリーを導きの糸にする必要がある。世界の量にかんしては空間と時間について、質にかんしては物質の分割性について確定されなければならず、関係については原因の完全な系列が見出されなければならず、様相については偶然的なものの依存性の絶対的完全性が理解されなければならない。ところが、理性がこれらの問題を決定しようとすると、4つのすべての点について、相反する主張が同じ妥当性をもって証明されるのである。(1)定立:世界は時間のうちに始まりをもち、空間的にも限られている。反定立:世界は時間的始まりをもたず、空間的限界をもたない。(2)定立:世界の全ては単純なものから成り立つ。反定立:単純なものはなく全て合成されている。(3)定立:世界には自由による原因がある。反定立:いかなる自由もなく全ては自然法則である。(4)定立:世界には絶対的に必然的な存在であるような何かが実在する。反定立:世界の原因として絶対に必然的な存在というものは全く存在しない。これら宇宙論的諸理念の弁証法的な争いから、この争いがすべて無価値であるという帰結がおのずから生まれるのである。 
 純粋理性の理想あるいは神の理念。カントは、理性がいかにしてもっとも実在的な存在という理念に到達するかを示し、それからこのもっとも実在的な存在の実在を証明しようとする旧形而上学の努力に反対して、神の存在にかんするこれまでの論証(存在論的証明、宇宙論的証明、自然神学的証明)にたいする批判をおこなっている。最高の存在者という理想は、理性の規制的原理にすぎず、人間の全認識の究極および頂点をなしてはいるが、その客観的な実在性は明確に証明もされず、といってもちろん反駁もできない一概念にすぎない。
 理性の諸理念に客観的な意味がないとすれば、それらは何のためにわれわれのうちに存在しているのか。それらは構成的でないにせよ規制的原理なのである。われわれの心の諸能力を整理するには、心というものが存在する「かのように」取扱うのがうまくゆく。宇宙論的理念は叡智的原因は排除しないで原因の系列が無限である「かのように」世界を考察するように指示を与える。神学的理念は、世界という複合体の全体を、秩序ある統一という見地のもとに見るために役立つ。理性の諸理念は、規制的原理としてわれわれの経験に秩序を与え、それを或る種の仮定的統一にもたらす役目はもっているのである。
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2017年01月30日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(2/10)

(2)シュヴェーグラー『西洋哲学史』におけるカント『純粋理性批判』 要約@

 前回は、京都弁証法認識論研究会の1月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回に渡って、シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』においてカント『純粋理性批判』が取り上げられている部分の要約を紹介していくことにします。

 今回は、シュヴェーグラー『西洋哲学史』でカントが取り上げられている部分の要約を紹介します。カントの生涯と先験的感性論が説かれています。

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シュヴェーグラー『西洋哲学史』より「第39章 カント」

 イマヌエル・カントは、1724年4月22日、プロイセンのケーニヒスベルクに、正直な馬具匠の父と信仰篤くものわかりのよい母との間に生まれた。大学での専攻は神学であったが、主として哲学と数学と物理学を研究し、1747年(23歳)のとき、『活力の真の測定にかんする考察』という論文をもって著作生活をはじめた。1755年ケーニヒスベルク大学の私講師となり、論理学、形而上学、物理学、数学の講義をし、後にはさらに倫理学、人類学、自然地理学の講義もした。この時代のかれはだいたいヴォルフ学派の立場に立っていたが、しかしはやくから独断論にたいして疑いを述べている。かれは一度も故郷の州から出たことはなかったが、旅行記を読むことによって、とくにその地理学の講義が示しているように、世界について非常に詳しい知識をえていた。かれはルソーの著作をすべて読んでおり、『エミール』が出たときは毎日かかさなかった散歩を2、3日やめたほどであった。カントは、1804年2月12日、80歳で死んだ。
 劃期的な主著『純粋理性批判』が出版されたのはようやく1781年のことであった。カントはその批判的立場の内面的な起源を主としてヒュームに帰している。「デーヴィッド・ヒュームの警告こそ、数年前はじめてわたしの独断のまどろみをやぶって、思弁的哲学の分野におけるわたしの諸研究にまったく別の方向を与えたものである」(『プロレゴメナ』序言)。ヒュームの警告とは、原因と結果との必然的結合の問題にかんするこれまでの理解にたいしてヒュームがくわえた批判的反駁である。『純粋理性批判』を閉じるにあたってカントは言っている――「これまでは、ヴォルフのように独断論的にふるまうか、あるいはヒュームのように懐疑的にふるまうか、いずれかを人は選ばなければならなかった。……批判の道こそ、まだ開かれていない唯一の道である。」
 かれは自分が哲学においてつくりだした変革を、天文学においてコペルニクスによってひき起こされた革命と比較している。「これまでは、われわれの認識はすべて対象に従わなければならないと想定されていた。しかし対象にかんしてア・プリオリな概念をもってなんらかの――それによってわれわれの認識が拡張されるような――決定をしようとする企ては、このような想定のもとではすべて失敗してしまった。したがって対象がわれわれの認識に従わなければならないと想定したら、形而上学の問題がもっとうまく解決されはしないかどうか、やってみようではないか。……コペルニクスの最初の思想についても事情はこれと同じであって……」この言葉のうちには主観的観念論の原理がもっとも明白かつ意識的に語られている。
 カントはわれわれのあらゆる心的能力は、それ以上共通の根源にさかのぼることのできない3つのもの、認識、感情、意欲に還元されると言っている。第一の能力が3つのすべてにたいする原理、指導的な法則を含んでいる。認識能力が認識作用そのものを含んでいるかぎり、それは理論的理性であり、欲求と行為の諸原理を含んでいるかぎり、それは実践的理性であり、最後にそれが快不快の感情の原理を含んでいるかぎり、判断力の能力である。かくしてカントの哲学は(批判の面からすれば)3つの批判にわかれる。(1)(純粋)理論理性の批判、(2)実践理性の批判、(3)判断力の批判がそれである。

1、純粋理性の批判

 純粋理性の批判とは、われわれが純粋理性によってもっている全所有物の組織的に排列された目録である、とカントは言っている。これらの所有物はどんなものであろうか。認識の成立にわれわれがもたらすものは何であろうか。カントはこれを見出すために、われわれの認識の2つの主要な要因、すなわち感性(受容性)と悟性(自発性)をくまなく調べる。第一に、われわれの感性または直観能力のア・プリオリな所有物は何であろうか(先験的感性論)。第二に、われわれの悟性のア・プリオリな所有物は何であろうか(先験的論理学の第1門、先験的分析論)。

A 先験的感性論
 われわれの感性的認識のア・プリオリな原理、感性的直観に本源的に具わっている形式は、空間と時間である。感覚の質料に属するあらゆるものを捨象しても、外官のすべての質料がそのうちに排列される普遍的な形式である空間が残り、内官の質料に属するあらゆるものを捨象しても、心の動きを容れていた時間が残る。空間および時間は外官および内官の最高の形式である。これらの形式がア・プリオリに人間の心にあることを、これらの概念の性質から直接に証明するのが形而上学的究明であり、これらの概念をア・プリオリなものと前提しなければ、疑うことのできない妥当性をもっている或る種の科学(純粋数学)がまったく不可能となることを示すことによって間接的に証明するのが先験的究明である。
 われわれ人間は、時間と空間を普遍的直観としてもつ感性をつうじてのみ直観、すなわち直接に認識することができる。ところで、空間と時間という直観は客観的な関係ではなくて、主観的な形式にすぎないから、われわれの直観にはすべて主観的なものがまじっている。すなわち、われわれは物をありのままに認識するのではなくて、時間と空間という主観的媒質を通して物がわれわれに現象する姿を認識するにすぎない。これが、われわれは物自体(Ding an sich)をではなく現象(Erscheinung)を認識するにすぎない、というカントの命題の意味である。かれの言うところによれば、かれは時間、空間の先験的観念性を主張しはするが、その経験的実在性を否定するものではない。すなわち、われわれの外部に物が実在するということは、われわれ自身およびわれわれの内的状態が存在しているのと同じ程度に確かなのであって、ただそれらは、空間と時間とから独立してそれ自らがあるとおりに現れるのではないと言うだけである。
 現象の背後にかくれている物自体について、カントは批判の第1版では、自我と物自体とが同一の思考的な実体であることはありえないことではない、と言っている。カントが憶測としてもらしたこの思想こそ、ヘーゲルまでの哲学の発展の源となった物である。しかしカントはその第2版では右の文章を削除している。
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2017年01月29日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)シュヴェーグラー『西洋哲学史』におけるカント『純粋理性批判』 要約@
(3)シュヴェーグラー『西洋哲学史』におけるカント『純粋理性批判』 要約A
(4)ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』 要約@
(5)ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』 要約A
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:カント『純粋理性批判』の構成はどのようなものか
(8)論点2:カントは『純粋理性批判』で何を説いたか
(9)論点3:カント『純粋理性批判』は哲学史上、どのように位置づけられるか
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、昨年までの2年間にわたるヘーゲル『哲学史』の学びを踏まえて、今年からはカント『純粋理性批判』に挑戦していきます。哲学の流れの概要を一般教養レベルで押さえた上で、二律背反と物自体論を中心とするカント哲学の構造を明らかにし、自己がこの世界とどのように対峙していくのかをしっかりと押さえていこうというわけです。

 1月例会では、『純粋理性批判』を読み進めていくにあたって、これまでこの例会で扱ったシュヴェーグラー『西洋哲学史』及びヘーゲル『哲学史』において、『純粋理性批判』がどのように取り上げられていたのかを確認しました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

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京都弁証法認識論研究会 2017年1月例会
カント『純粋理性批判』を読んでいくにあたって

はじめに
 我々がカント『純粋理性批判』を読んでいくのは、いうまでもなく、自分自身の学問的実力(世界の全てを論理的・体系的に把握する力)を創っていくための取り組みの一環として、である。そのためには、「個体発生は系統発生を繰返す」の観点から、哲学の歴史を自分自身が辿り返すために『純粋理性批判』を読んでいくのだ、という姿勢が欠かせない。『純粋理性批判』を、あくまでも哲学の歴史の大きな流れのなかに位置付け、人類の認識の発展史においてどのような問題を解決し、どのような問題を後世に残したのかをつかんでいく必要がある。今回は、カント『純粋理性批判』の哲学上の位置づけを考える上で踏まえるべきものとして、南郷継正の著作における『純粋理性批判』に関する記述を確認しておきたい。

1.「二律背反」「物自体論」とはどういうものか
 南郷継正は、「新版 武道と弁証法の理論」(『全集第十二巻』所収)の「論理学基本用語五十」で、「二律背反」「物自体論」を取り上げて解説している。

「(四七)二律背反とは何か。カントが『純粋理性批判』で空間は無限であると証明できると説いているが、また、空間は有限であるとも証明できる。このように、あることを証明するのに、一方ではAと証明でき、他方では非Aと証明できるといった具合に、正反対のことが同一のことでしっかりと間違いなく証明できることを、二律背反というのである。……
 弁証法ではこれを対立物の統一として解決できるのであるが、カントは背反している二律を統一できるほどの実力の形成が今一歩及ばず、結果として物自体の性質は主観としての認識が決定するのだと「物自体論」でもって、説くことになってしまったのである。」(『武道哲学講義 著作・講義全集 第十二巻』p.112)
「(四八)物自体論とは何か。カントは……二律背反の先にある解決に悩んだあげく、二律が相反するのは、対象の性質のゆえではなく対象に性質がないがゆえとして論理の問題として自分の観念たる認識、すなわち頭脳活動の実力に解決を求めてしまったのである。……」(同、p.113)

 また、『武道哲学講義(第二巻)』の「第二部 『学問としての弁証法の復権』――弁証法の学的復活を願って――」の「第三章 学問としての弁証法の学びに必須の認識論」の「第二説 歴史上の哲学者による認識論の究明」では、カント『純粋理性批判』からヘーゲルへの発展について次のように説いている。

「カントの学問的な評価として本当に存在するものは、「二律背反」と、「物自体論」なのだと、諸氏が私の読者であるなら分かってほしいものである。ここをしっかりと分かることが、カントの真髄を理解できるかどうかの分かれ道となるからである。
 諸氏には『純粋理性批判』の学習はとても難解だと思うが、これは本書で説いている弁証法の成立過程に諸氏がしっかりと学んでいれば、次第にカントの理論の中身が分かってくることになっていく。
 カント以上の大哲学者たるヘーゲルは、カントのここをしっかりと弁証法的レベルで学びとって理解しきれたからこそ、彼ヘーゲルは学問上の実力が見事に培えたのだと断言しておこう。……
また、ここを単なる「理論上の」二律背反としただけで、そこを理解する能力のなかった人は、二律背反を学問的哲学的、弁証法的に説明しきれず、ましてやこの二律背反と物自体論の含む立体構造を体系として解ききることはなかったのである。でもさすがにヘーゲルはそれを成し遂げたのだともいえるのであるが、肝心の点で大失策をしてしまったと、ここでは説いておこう。」(『武道哲学講義(第二巻)』、p.179)

2.ヘーゲルの「大失策」とは何か
 この「大失策」については、「ヘーゲル」の「物自体論」理解、およびそれをふまえた「三浦つとむ」の「物自体論」解説が引用された上で、次のように述べられている。

「学的レベルで説けば、カントの「物自体論」なるものは、本質論レベルでの概念であることを、お二方は分かることがなかったということである。それだけに、お二方はここを現象レベルで捉え返して、このような解説をなしてしまうとの愚を犯すことになったのである。
 「論理学」の本質論と「論理学」の現象論とはレベルが大きく異なるのであり、「現象論」は「構造論」を経てようやくに「本質論」へと転成していけるのであり、「現象論レベル」への物自体と二律背反は、「構造論レベル」の物自体と二律背反でないことくらい、お二方には分かるべきだったのである。
 まして本質論レベルでは、二律背反は存在しない(できない)し、物自体の本質論というものを概念化することなしには、本当の二律背反の概念も成立できないのである。」(『武道哲学講義(第二巻)』p.185)

 さらに、このことに関わって『全集第二巻』の「あとがき」では、次のように述べられている。

「カントの『物自体』論、『二律背反』論は本当はその成立過程の論理構造こそが大事であるのに、すなわちここは学問レベル、論理学レベル、哲学レベルでその構造の成立過程をとらえ返さなければならないのに、『物自体』論を事実レベルにおとしめて批判したヘーゲル(『大論理学』〔先験的観念論の物自体論〕)も含めて、そこをなすことをしなかったばかりに、多くの学者たちは哲学者カントの実力をずいぶんと低くみてしまったものだなあ」(『武道哲学講義 著作・講義全集 第二巻』、p.366)

 また、『全集第十二巻』では次のように述べられている。

「カントの「物自体」論は、これは本質論であり、けっして構造論でもなければましてや現象論や実体論でもない。なのにどうしてヘーゲルほどの人物が、事実的批判! レベルなのであろうか。これはまったくもって現象論がようやくである。では、ヘーゲルはどうすべきだったのか。解答は簡単である。カントの「物自体」はカントにとっての本質論なのであるから、ヘーゲルは自らの本質論である「絶対精神」の過程的構造ないし構造の過程を把持して、そのレベルで批判すべきだったのである」(『武道哲学講義 著作・講義全集 第十二巻』、p.87)

3.報告者からの若干のコメント
 カントにおいて学問的に重要なのは「二律背反」と「物自体論」であり、ここが分かっていなければカントの真髄は理解できない、という指摘を、『純粋理性批判』を読み進めていく上での大前提として、改めてしっかりと確認しておくべきであろう。また、カントの理論の中身を分かるためには、『武道哲学講義(第二巻)』などで説かれている「弁証法の成立過程」をしっかりと学んでおかなければならない、という指摘もしっかりと受け止めておかなければならない。古代ギリシャ以来の弁証法の生成発展の歴史の流れのなかで、カントの「二律背反」「物自体論」がどのような位置を占めるのか、その立体構造の成立過程をしっかりとつかむことが必要であろう。そのようにしてこそ、「現象論レベル」の物自体と二律背反と「構造論レベル」の物自体と二律背反とはどういうものか、また、カントの「物自体」はカントにとっての本質論であるとはどういうことか、などの問題が解けてくるのではないだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上の報告に対しては、概ね肯定的な評価が述べられました。南郷先生がカント哲学に関わって説いておられる部分を引用してあるので、今後の学びの指針とすることができるとか、もう一度南郷先生著作をしっかりと読み返してみることで、カントがどのようなことを哲学史上で成し遂げ、何が課題として残ったのかを把握しておく必要があるとか、南郷先生の指摘に従って、『純粋理性批判』を理解するために弁証法の歴史を徹底して学ぶ必要があるとかいったコメントがありました。
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<講義一覧>

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 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
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 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
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 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
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 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
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 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
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 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
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 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
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 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う