2016年12月02日

2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回までの3回にわたって,ヘーゲル『哲学史』の最後の部分を扱った例会で,3つの論点についてどのような討論を行い,どのような(一応の)結論に到達したのかを見てきました。

 本例会報告の最終回である今回は,いつものように参加者の感想を紹介したいと思います。

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 今回はレジュメ担当にあたっており,論点への見解の作成段階や,レジュメの作成段階において,フィヒテ・シェリング・ヘーゲルの流れを自分なりに生命の歴史や,学問の構築過程に当てはめながら見ていったつもりであったが,例会での議論をとおして,無理やりなものになってしまっていたということがわかった。生命の歴史や学問の構築過程を見ていく場合,そこに潜む発展の論理構造をしっかりと見抜いた上で,その構造が同じだということを指摘しないといけない。ともすれば現象的な類似性で当てはめを行ってしまうのであるが,それではダメなのだということを改めて確認できたのはよかった。

 また,当初,フィヒテがカント哲学の完成とはどういうことか(カント哲学の完成はヘーゲルではないのか),フィヒテとシェリングはどう違うのか,という点があまり明確ではなかったのだが,ここがある程度わかるようになったのもよかった。カントは自我と物自体という二元論に陥っていたが,それをカントの枠組みにそってしっかりと整理しきったのがフィヒテだということである。それをもって,フィヒテはカント哲学の完成者だと評価されているのである。一方,ヘーゲルはそういうレベルではなく,そもそもそういう枠組みからして異なるのだということであった。たとえ話でいえば,論争において,何を言っているのかわからないものをわかるように整理したのがフィヒテであり,その内容に足りないものを補ってより高度な論を展開したのがヘーゲルということになるだろう。

 具体的にいうと,フィヒテは自我ということを根本において,そこからすべてを説こうとしたということである。しかし,フィヒテは自我と非我という対立を克服することができなかったのであった。それに対してシェリングは,(フィヒテの言葉を使うなら)自我と非我の共通性・同一性というものを指摘し,対立を克服できる可能性を示したということがフィヒテからの発展だと言える。これがフィヒテとシェリングの違いであるが,もう少し言うと,シェリングは自我(主観)と非我(客観)の同一性を結論として示しただけでその証明がないから,そこを絶対精神の自己運動という観点から示したのがヘーゲルだということになる。こういった形でフィヒテ・シェリング・ヘーゲルという流れを大まかに確認することができたのはよかった。

 なお,シェリングとヘーゲルの違いに関わって,シェリングのように結論だけを示して「わかれ!」というのでは,天才的な人しか哲学ができないではないかとヘーゲルは批判しているが,ここにはヘーゲルの人間観ということが現れているように思った。就任演説にあるように,ヘーゲルにとって人間は精神であるから,誰でも哲学ができるはずなのである。そういう観点からして,シェリングはおかしいと思ったのだろう。

 いよいよ次回はヘーゲルの哲学史の流れを把握し直すとともに,唯物論の立場に立った哲学史の構築に向けての議論を行う。例会に向けての準備作業は非常に膨大なものになりそうであるが,これまでの学びを総動員して,実りのある例会にしたい。

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 今回の例会では,ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリングの範囲,つまり『哲学史』の最後の部分を扱った。正直にいうと,フィヒテやシェリングの哲学説について説かれている部分はあまりはっきりとは分からなかったのだが,最後の最後に「結語」として説かれている部分は非常に印象的で,格調の高い文章になっていて,ヘーゲルの学的実力もさることながら,人間としての高みが感じられるものであった。

 さて,今回の例会に向けては,何とか論点を提示し,何とかそれへの見解を書くことはできたのだが,他会員と比べると,質的にも量的にも圧倒的に劣った見解しか書けなかった。前回のカントを扱った例会でもそうであったが,ヘーゲル『哲学史』を扱える論理能力,さらにレベルを下げていえば基本的な哲学の知識が全く足りていないのだと思う。それでも,前回は論点への見解が全く書けなかったので,今回は何とか,論点に対してズバリと答えを書くことだけは何とかしようと思い,少し分かりそうな部分はもう少し加筆するというやり方を行ったのであった。

 例会を通じて,自分の何とか分かった範囲の理解はそう間違ってはいないことが確認できた。しかし,やはり理解し切ったというレベルには程遠いし,唯物論の立場からそれぞれの哲学説を評価するという課題については,相変わらずまともに答えることができない部分があった。何としてもヘーゲルの哲学の把握をものにしなければ,自分の学の確立などあり得ないのだという強い気持ちを持って取り組む必要があると思う。

 次回はいよいよ『哲学史』のまとめである。例会報告を中心に『哲学史』の流れをしっかりと頭に描き切るとともに,「いのちの歴史」の論理構造がどのように哲学の歴史や世界歴史に貫かれているのかという点をしっかりと自分なりに自分の頭脳で筋を通して見解を書いていきたい。また,ここを踏まえて,唯物論の立場から『哲学史』を執筆する際の基本的な視点についても考察を深めておきたい。

 次回は報告レジュメの担当になっているので,ヘーゲル『哲学史』の大きな流れを必然性を持って流れているものとしてしっかりとまとめるとともに,それに対して筋の通ったコメントができるよう,早め早めに準備しておくことにしよう。

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 今回はヘーゲルの一歩手前のフィヒテとシェリングの哲学を扱った。細かなところを突っ込みはじめるときりがないが,カントからヘーゲルに至る大まかな流れは掴めたように思う。

 個人的に一番印象的だったのは,フィヒテの初めての論文がカントのものだと間違えられたということは知っていたが,シェリングも「フィヒテ哲学のひきうつし」「フィヒテそのまま」として出発し,「フィヒテの原理や表現の影響は,ことばづかいにもおよんでいる」と説かれるほど,フィヒテに二重化していたということである。カント,フィヒテ,シェリングは,同じ国の人間だったということもあり,文体レベルまで先人を徹底的にまねして,自分の他人化レベルで先人の認識を受け取っていったということであろう。これはちょうど,南郷継正先生が三浦つとむさんに徹底的に二重化し,当初の著作などは,まるで三浦つとむさんが書いた武道論であるかのように現象しているのとまったく同じ論理構造であろう。あるいは,南郷先生の弟子筋の論文は,まるっきり,南郷先生の文体そのままという印象があり,例えば『医学の復権』などは,南郷先生が書かれた医学論文であるかのように現象しているといってもいいのではないか。そういったこととまったく同じことが,ドイツ観念論の発展の歴史の中で見られたのだと思った次第である。

 もちろん,文体さえまねればそれで相手の認識が受け取れる,などということをいいたいのではない。自然と同じ文体になるくらいに必死に先人に二重化し,その認識を受け取ったうえでないと,発展などありえないのであり,逆にいうと,何らかの発展があったからには,必ず,その先人の認識の段階を経過しているということなのである。これが発展の必然性ということであろう。すなわち,必ず前段階を自己の実力と化すことなしには,それ以上の発展はないのである。これはさらに先人の先人,さらにその先人といった形で,どんどん遡っていけるものであり,究極的には,人類誕生の段階から,古代ギリシャの哲学誕生の段階から,人間の認識の系統発生の流れをしっかりと辿り返すことなしには,人類の社会的認識を発展させることなどできないのだ,ということになるだろう。

 さて,今回はチューターとして例会に臨んだが,時間の関係で,当日議論すべき点と,確認程度に済ます点を,明確には分別できなかった点が反省点である。もちろん,ある程度は区分けしていたものの,議論すべき点は,何を議論すべきなのか,明確に細かな論点までは設定できていなかったし,本当に流していいところも明確ではなかったために,議論が中途半端になってしまい,時間がオーバーしてしまった。やはりチューターたるもの,議論の流れを支配できるように,しっかりと事前準備に時間をかけて,当日の議論を活発に促すとともに,個々の会員の貴重な時間を必要以上に使わないように配慮すべきであると痛感した。今後はしっかりとチューターとしての役割を果たしていかなければならないと決意した次第である。

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 今回の例会のなかでは,フィヒテの「自我(我)」(Ich)について,三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)で言及している個所について確認しておきたい,という意見を出した。三浦は「観念論者は,……想像の世界のなかの自分こそ,本源的な自分であり,人間を人間として自覚させる「純粋な」自分であり,現実の自分を創造する「我」(Ich)であるなどと説明したのでした」(p.146)と説いている。また,「この観念的な自分は,必ずしも現実の自分と似た存在ではなく,人間以外の存在にも,あるいは「神」にもなれます」(p.141)とも説いている。現実の自分と観念的な自分(「自我」=神)との関係を転倒させた,という観点から捉えるならば,カントからヘーゲルへのドイツ観念論哲学の発展過程が非常によく分かるのではないか,と思わされた。「ドイツ古典哲学の発展は,観念的な自己分裂のあり方についての解釈の発展という面からも,検討されなければならない」(三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』p.26)との提起を真剣に受け止めて,考えていかなければならない。

 さらにいえば,このような「観念的な自己分裂」という観点からの三浦の解説が手掛かりとなって,哲学というものが――観念論であろうと唯物論であろうと――把持していなければならない構造が非常に明確に浮き彫りになってきたことも,大きな収穫であった。哲学というものは,世界全体(宇宙の生成から現代までの歴史性をも含む)に体系的に筋を通して把握したものであるが,そのためには,観念的な自己をいわば神の立場に立たせて,世界全体を(その歴史性をも含めて)眺め渡すという過程が絶対に必須になってくるのである。唯物論の立場からすれば,これはもちろんフィクションなのだが,そうではなくて,自分はもともと神と同じものなのだ(自己=絶対精神)と本気で思いこんでしまったところに,ヘーゲルの観念論哲学が成立している訳なのである。しかし,これは決して笑うべきことではなく,そういう観念論の立場で,自分は精神だからこそ絶対なのだ! と真剣に信じて努力し続けたからこその(「就任演説」参照)成果だったことをきちんとみるべきものであろう。

(了)

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2016年12月01日

2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語(9/10)

(9)論点3:ヘーゲルは哲学史をどのようなものとして描いたか

 前回は,シェリングの哲学に関する論点に対して,どのような討論がなされたのかを紹介しました。

 今回は,ヘーゲル『哲学史』の結語に関わる最後の論点について見ていきます。論点は以下です。


【論点再掲】

3.ヘーゲルは哲学史をどのようなものとして描いたか
 ヘーゲルは,「結語」において,哲学史の全体を概観しようとしているが,ヘーゲルの考える哲学とはそもそもどういうものであったか。哲学の完成とはどのような状態であり,どのような過程を経てその完成へと至るものだとされているか。
 ヘーゲル哲学について特に再度深く検討すべき事柄(次回例会の論点)はどのようなことか。
 我々が唯物論の立場から哲学の歴史の流れを描くとすれば,ヘーゲル哲学史の何を継承し,何を批判していかなければならないのか。



 この論点に関わって,まず,ヘーゲルの考える哲学とはどのようなものであったかを確認しました。ヘーゲルの考える哲学とは,端的にいうと,絶対精神の自己運動として全世界を説き切ることに他ならなず,その完成とは,自然と精神の同一を自覚(認識)すること,自分自身が世界の全てを自分自身のこととして分かること(「世界=自分」という意識をもつこと)でした。チューターは,世界=自分という意識を持つという視点が大切であるとした上で,ここをもう少し詳しく,以下のように説きました。

 ヘーゲルにおいて哲学とは,絶対精神が自己自身(の過去)を知ることであった。またヘーゲルにおける哲学の目的とは,「唯一の真理が同時に,そこからすべての他のもの,自然の全法則,生命と意識の全現象の流れ出る源泉であることを(即ちこれらは,この唯一の真理の反映にすぎない)認識すること」(『哲学史 上巻』(岩波書店)p.47;『哲学史序論』(岩波文庫)p.66)であった。すなわち,ヘーゲルにおける唯一の真理である(絶対)精神が,自ら主体として自己運動し,自然の全法則や生命と意識の全現象へと転化し,それらを生み出していくプロセスを説くことこそが,絶対精神が自分自身を知ることであり,それこそが哲学なのである。また,「真理が現実に存在するためにとりうる真の形態は,学問としての体系にほかならない」(『精神現象学 序論』,中央公論社版,p.92)と説いている通りに,哲学たる絶対精神の自己運動は体系としてしか叙述できないと考えていた。


 さらにチューターは,南郷継正先生による「ヘーゲルが哲学を完成していたら書いたであろう概念規定」(『学城』第11号,pp.190-192)を紹介しました。それは以下です。

「学問とは,客観的絶対精神の発展形態である自然・社会・精神を主観的精神の自己運動として捉え返して体系化することにある。」


「学問とは,客観的絶対精神の実体レベルでの発展形態である自然から社会へ,そして社会から精神への歩みを,主観的精神の絶対精神から絶対理念までの発展的自己運動として捉え返して体系化することにある。」


「学問とは,『客観的絶対精神の自己的発展形態』である自然から社会へ,社会から精神へ,精神から絶対精神への生成発展を,自らの『主観的精神の自己運動の発展形態』として捉え返しながら,そこを『観念的(絶対精神的)=学的世界』として体系化する,つまりそれを学一般として体系的に措定しながら,その構造を学的最高形態にまで高めた学問であり,すなわちそれは絶対精神を哲学として完成させることにある。」


 これに関してチューターは,ヘーゲルにおける哲学の完成とは,漫画化していうならば,絶対精神が過去の自分をしっかりと辿り返して,今の自分はこのようにして成長してきたのだということをしっかりと筋道を立てて理解しきることである,といえるのではないかと主張しました。そうすると,精神はすでに,客観的絶対精神としては,自然から社会へ,そして社会から精神(その中にプラトン段階やアリストテレス段階,デカルト段階やカント段階などがあり,そのゴールがヘーゲル段階)へと発展しきっており,これを主観的精神(ヘーゲル)が,自分(=精神)の発展過程として捉え返し,それを体系的に説くことこそが哲学史であるということになる,そうすると,哲学の完成に至る過程には二重の意味,すなわち,客観的絶対精神の歩みのプロセスと,主観的精神の自己運動のプロセス(過去の自分のプロセスと,今現在,過去の自分のプロセスを辿り返しているプロセス)があるのではないか,どちらがここで問題にしている哲学の歴史といえるのか分からない,と述べました。ある会員は,これに対して,客観的絶対精神の歩みのことを哲学の歴史というのだと断言しました。そうでないと,ヘーゲル以前は哲学の歴史がないことになるからです。この見解にはチューターも納得しました。こうなると,例えばアリストテレス段階であっても,主観的精神(=アリストテレス)がそれまでの客観的絶対精神の歩みを辿り返している,ということはいえそうであるということで,皆の同意が得られました。

 次に,論点の順序を変えて,唯物論の立場からの哲学史について議論しました。我々が唯物論の立場から哲学の歴史の流れを描くとすれば,ヘーゲル哲学史の何を継承し,何を批判していかなければならないのか,という問題です。議論した結果,継承すべき点としては,一つの哲学の必然的な発展として哲学の歴史を説くことや,全てを一から説き切るという姿勢,それに,世界のあらゆる事物・事象について,あたかも自分のことであるかのように分かる,ということが挙げられました。これに対して,批判すべき点としては,発展の主体が世界精神(絶対精神)ではなく,社会的認識(社会的労働)であること,だから,精神(文化)の歴史を社会の歴史から切り離すことなく見ていかなければならないこと,精神がはじめからあるとしてはいけないことが挙げられました。

 ここで一会員から,批判すべき点があるのに,なぜ唯物論の立場から継承すべき点は継承できるのか,この点について,しっかりと共通認識にしておかなければならない,という指摘がありました。たとえば,あたかも一人の人間の認識の発展であるかのように説く必要があるというが,本当は違うのに「あるかのように」が許される根拠は何か,こういった点をきちんと押さえておくべきだ,ということでした。そこで,少しこの問題について議論した結果,唯物論の立場でも,社会的認識の流れとして哲学の歴史をとらえることができるがゆえに,あたかも一人の人間の認識の発展のように説けるのだ,ということになりました。ある(小)社会で共有されている認識があり,それが表現され物質化されることによって別の社会や次の世代の人間に伝わる可能性が出てきて,それを別の人間が受け取ってさらに発展させ,その認識がまた社会化して社会的認識となり,それがまた表現される,というようなことがくり返されてきた歴史があるからこそ,唯物論の立場からも哲学の発展の歴史を「一つの哲学」の発展として説けるのであり,逆にいうと,社会的認識ということを認めないと,哲学史は説けないのだ,ということを皆で共有しました。

 また,かつての唯物論者が書いた哲学の歴史を,今のわれわれが簡単に超えられるものではない,非常に困難なことにチャレンジしているのだという自覚をしっかりと持っておかなければならない,ということも確認しました。

 最後に,ヘーゲル哲学について特に再度深く検討すべき事柄を出し合い,次回の例会に向けての論点を整理しました。議論の結果,およそ,次の3点になりました。

1.ヘーゲルが挙げている哲学の発展段階の8つはどのようなことなのか?
2.「生命の歴史」からヘーゲルの哲学史をとらえ返すとどうなるか?
3.我々自身が唯物論の立場から哲学史を展開する際,どのような視点が必要となるか?


 具体的な文言や論点の順序については,次回のチューターに一任することになりました。

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2016年11月30日

2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語(8/10)

(8)論点2:シェリングの哲学とはどのようなものか

 前回は,フィヒテの哲学に関する論点1について,どのような討論がなされたのかを紹介しました。

 今回は,シェリングの哲学に関わる論点について,どのような討論がなされ,どのような(一応の)結論に到達したのかを説きたいと思います。論点は以下でした。

【論点再掲】

2.シェリングの哲学とはどのようなものか
 ヘーゲルは,シェリングの哲学のどのような点を評価し,シェリングはフィヒテの哲学をどのように発展させたと説いているのか。また,どのような点に欠陥をみているのか。シェリングの哲学とヘーゲルの哲学との共通点と相違点を挙げるとすればどうなるか。両者の決定的な相違は何であろうか。
 唯物論の立場からすると,シェリングの哲学はどのように評価できるのか。



 この論点についてはまず,シェリング哲学はフィヒテ哲学をどのように発展させたとされるかについて話し合いました。この点については,概ね,皆同じような理解でした。すなわち,フィヒテのいう自我と非我に共通する根本的な存在として神を措定し,その神(主観=客観)を生き生きとした運動として把握することによって,絶対者の自己運動による世界(あらゆる具体的なもの)の創造という把握に向かって大きく前進したということです。もう少し詳しくいうと,哲学の課題は,主観と客観の統一であり,絶対者を世界の全てを生み出す活動として把握することでありました。しかし,フィヒテにおいては,主観性(自我)から全てが生み出されるとしつつも,主観の側から客観の側への道を十分には明らかにすることができませんでした。いってみれば結論だけ示したようなものでした。これに対してシェリングは,ヤコービの直接知(叡智的直観)を援用しつつ,主観的なものと客観的なものの統一を強く押し出しました。この主観的なものと客観的なものの統一が神であり,神は主観的なものと客観的なものとの具体的な統一として,生き生きとした運動を内に含むものとされているのでした。ここに関して,シェリングが神を生き生きとした運動として把握したのか,それができたのはヘーゲルではないのかという指摘がありましたが,確かにヘーゲルは,シェリングのいう神は生き生きとした存在である矛盾をはらんだ存在として説いていることをテキストで確認しました。要するに,生き生きとした運動として把握したものの,それが中途半端で,ヘーゲルの絶対精神のようには説けなかったということで,皆が同意しました。また,不十分であっても,主観=客観としての神を措定できたのは,それまでの自然科学の成果を踏まえて自然哲学を研鑽したという点が影響しているのではないかという点も確認しました。

 次に,ヘーゲルの指摘するシェリング哲学の欠陥とは何かについて,討論しました。ある会員は,ヘーゲルは,主観的なものと客観的なものとの無差別ということ(理性の概念)が絶対的に前提とされるだけで,これが真理であるという証明が全くなされていないことを,シェリング哲学の欠陥として挙げていると指摘しました。ここに関してチューターは同意したうえで,「シェリングは哲学者でありながら悲しいことに,論理ということが全くもって分からなかったのだ」(南郷継正『武道哲学講義 第3巻』p.129)という指摘を紹介し,シェリングには論理的考察や論の展開がなかったと補足しました。これらについては,皆が同意しました。別の会員は,ヘーゲルの立場からすれば,シェリングが措定した絶対者というものは,非常に抽象的でそれ自身から次々に概念を展開して,世界の全てを説明し切るようなものではなく,運動性のない静的なものだったと指摘しました。これも,証明のプロセスがないという意味では,先の見解と同様であろうということになりました。

 さらに,シェリングとヘーゲルの共通点と相違点というテーマに移りました。この点については,皆が程同じような見解でした。すなわち,共通点は,主観(自我)も客観(自然)も同一であるということを強調した点であり,一方から他方への移行を説いた点であるということでした。他方,相違点はその説き方にありました。すなわち,シェリングが形式主義に陥り,必然性を欠いた表面的な説き方になっていたのに対して,ヘーゲルは概念の自己運動として,その内的必然性を一貫した展開として説き切った,ということです。端的にいうと,シェリング哲学には弁証法性がなく,ヘーゲル哲学の根本概念である絶対精神は弁証法そのものという違いが決定的ということです。シェリングが結論だけ提示して「分かれ!」というだけだったのに対して,ヘーゲルの場合はその過程を絶対精神の自己運動として論理的に説いたのだという指摘もなされました。ここにも関連して,シェリングにおいては,絶対者が把握できるかどうかは個人的な才能にもとづく偶然的な事柄だとされてしまったのに対して,ヘーゲルにおいては,まともに思惟する人間であれば誰でも必然的に絶対者を把握することができるはずだ,という観点が強く打ち出されることになったという見解も出されました。これらには皆が同意し,異論は出されませんでした。

 最後に,シェリング哲学の唯物論の立場からの評価について議論しました。この点についてある会員は,シェリングが啓蒙思想の合理主義に反対して,美的感情を重視するロマン主義の芸術家とも親交をもったという点が重要だとした上で,そうして芸術に関わる中で,人間が創り出すリズムと,自然の中で見られるリズム(具体的にはどういうものかよくわからないのではあるが)が一致することに気づき,そこから両者の根源は何かと考察していくようになったということではないかと指摘しました。しかし,報告レジュメへのコメントにもあったように,ロマン主義の芸術家とも親交をもったのは,シェリングの特殊性ではないため,この主張の根拠はやや薄いのではないかという反論がありました。これには,この見解を出した会員も納得しました。別の会員は,過去の様々な哲学者を出発点として,ゼロから学び続けるシェリングの姿勢は,それなりに評価に値するものであるといえるとしながらも,学の出発点において学問の世界地図を描いておかなければシェリングのように右往左往してしまうと指摘しました。チューターは,後半については同意できたものの,前半部分については,「過去の文化遺産を如何に継承し発展させていけるか学問の大きな課題」なのは,観念論哲学でも同じなのではないだろうかと疑問を呈しました。それに対してこの会員は,観念論では文化遺産という言い方はしないのではないかと反論しましたが,その明確な根拠は示せませんでした。

 別の会員は,フランス革命後の混乱によって,フランス革命への憧れということが薄れてきていた時代の雰囲気が反映して,社会的な現実からの乖離を深めて自然へと向かい,かつ,観念的な色彩が濃くなったのではないかと指摘しました。これには皆が同意しました。またチューターは,フィヒテの場合と同じく,シェリングにおいても,先行の哲学者に「自分の他人化」レベルで二重化したことを指摘しました。すなわち,シェリングも,「フィヒテ哲学のひきうつし」「フィヒテそのまま」として出発したのであり,「フィヒテの原理や表現の影響は,ことばづかいにもおよんでいる」といわれるくらい,フィヒテに対して二重化したのであり,「自分の他人化」レベルで二重化できたのである,このように当時の最先端の社会的認識であるフィヒテの哲学をしっかりと反映して,自分の認識を形成していった点が大切である,と指摘しました。これには皆も同意しました。さらに,シェリングの哲学は,当時の自然科学の著しい発展を反映したものであり,自然を弁証法的に把握しようという意図をもったこと自体は,唯物論の立場からも評価に値するという見解も出されました。これにも異論は出ませんでした。

 以上,今回は論点2についての討論過程を紹介してきました。


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2016年11月29日

2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語(7/10)

(7)論点1:フィヒテの哲学とはどのようなものか

 前回は,今回扱った範囲の大切な点を改めてまとめた後,例会で扱った論点を提示しました。今回からは,論点に対して,どのような討論がなされたのかを紹介していきます。


 今回は,フィヒテの哲学についての論点です。以下にもう一度提示しておきます。

【論点再掲】

1.フィヒテの哲学とはどのようなものか
 ヘーゲルは,フィヒテの哲学について,「カント哲学の完成であり,特にその首尾一貫した展開である」(p.129)としているが,これはどういうことか。カントの哲学をどのように発展させたものだと捉えているのか。また,どのような点にフィヒテの哲学の欠陥を見出しているのか。
 ヘーゲルは,フィヒテのいわゆる自我をどのようなものとして捉えているのか。デカルトの思考(自我)とはどう異なるのか。フィヒテの自我なるものは,カントとヘーゲルをどのように媒介しているといえるのであろうか。
 フィヒテ哲学を唯物論の立場から評価するとどのようなことがいえるか。



 この論点についてはまず,フィヒテ哲学がカント哲学の完成であるとはどういうことかについて議論しました。この点については,皆がほぼ同様の見解でした。すなわち,フィヒテはカントの二元論を克服しようと試みた,ということでした。カントの二元論とは,直接的には,物自体の世界と現象の世界との二元論ですが,より根本的にいえば,思惟(主観)と存在(客観)との間に絶対的な壁を設けてしまって,両者の統一がありえなくなってしまったということです。フィヒテはカントの二元論という難点を自我一元論として克服しようとしたのであり,カントのように,世界を2つに分離するのではなくて,1つのもの,つまり自我から全てを説こうとしたこと,それも筋を通して説き切ろうとしたということでした。

 ここで一人の会員から,ヘーゲル哲学もいってみればカント哲学を完成させたといえるわけであるが,フィヒテとヘーゲルは何が違うのか,という疑問が呈されました。フィヒテは自我を,ヘーゲルは絶対精神を,それぞれ根本的な原理だと説いたのであるが,両者は何が違うのか,ということです。これに対して別の会員は,フィヒテはカントの枠を超えておらず,カントがいおうとしていえなかったことをしっかりと主張したに過ぎないのに対して,ヘーゲルはそういうカントの枠組みを超えているのだ,と説明しました。この説明には,疑問を呈した会員も納得しました。

 次に,ヘーゲルの指摘するフィヒテ哲学の欠陥についての議論に移りました。この問題については,ある会員は,ヘーゲルにすれば,普遍者は個別的な主観を超えた存在であるが,フィヒテはそこまでの絶対的な理念を打ち立てられておらず,全てのものを統一する理念を把握していないと指摘し,別の会員は,理性は概念と現実の総合であるにもかかわらず,フィヒテはもっぱら主観的な面に終始して終始対立につきまとわれてしまったのであり,対象を概念的に把握しきることで,思惟と存在とを完全に一致させて両者の対立を解消させる,ということはできなかったのだと説きました。これを踏まえてもう一人の会員は,対立する両者の一方が根本的だと考えたにすぎなかった点がフィヒテの限界だと言えると指摘しました。チューターはこれらを,要するに,自我一元論という形で概念と現実の統一を果たそうと試みた,その枠組み・狙い自体はよかったのだが,それを実際になして,学問を構築することはできなかった,ということであろうとまとめました。これに対して異論は出ませんでした。

 続いて,フィヒテのいわゆる自我をヘーゲルはどう評価するかという問題の検討に入りました。チューターはフィヒテの自我について,直接に存在し,それだけで確実な存在であるとし,デカルトの自我とは狙いと要求が違うのだと説きました。すなわち,フィヒテは,自我に他の観念を付け加えるのではなく(外から経験的なものを全く取り入れるのではなく),全く一要素だけから演繹されるような哲学を目指していたということでした。さらに,カントにあっては,物自体は客観的に存在しているが,われわれには認識できないものとされていたが,フィヒテは,そういった物自体を否定して,物自体をも自我が創り出したものとしてとらえることこそが哲学の狙いであり,実現できなかったとはいえ,それに向けて第一歩を歩みだしたのだと述べました。別の会員は,自我の活動により非我が生み出され,非我が自我の活動を妨げるという相互浸透を指摘したうえで,人間が対象に働きかけ,また対象によって人間が創られるという労働・疎外というイメージがここで創られたのではないか,そしてそれが,ヘーゲルによって,絶対精神が自然へと転化し,また絶対精神に立ち戻ってくるという円環運動として捉えられたのだろうと主張しました。別の会員は,ヘーゲルは,フィヒテのいわゆる自我について,これこそが純粋思惟,カントのいわゆるア・プリオリな総合判断であり,概念的に把握された現実(自己意識のうちに取り戻された他在)であるとしたうえで,宇宙の全内容が自我から顕現する,といった説明からすれば,自我とはヘーゲルのいわゆる絶対精神とほぼ同じものだといってよさそうであるという見解を提示しました。同じような内容を,それぞれなりに説いているということで,チューターは,要するに,フィヒテの自我はヘーゲルの絶対精神につながる枠組みを提供したのであり,その枠組みにしたがって,絶対精神の自己運動として実際にその中身をしっかり説いたのがヘーゲルであるとまとめました。これには,皆が同意しました。

 ここで一会員が,カントのいうア・プリオリな総合判断というのがいまいち理解できないと述べました。そこで,教科書レベルで確認しました。その内容は以下です。

 総合判断とは,主語を分析したら述語の内容が出てくるというのではなくて,主語に新しい内容を付け加えるような判断のことである。また,ア・プリオリなというのは経験的ではないということであり,経験を超えてという意味である。だから例えば,「三角形の内角の和は二直角である」や「2プラス3は5である」といった判断はア・プリオリな総合判断である。ともに,主語のどこをどう分析しても述語は出てこないし,これらは単なる経験的な判断ではなく,経験を超えて通用する判断だからである。

 この説明を受けて,別の会員は,絶対精神は,(そのうちに萌芽的に内容を把持しているとはいえ)次々に新しいものを生み出していくのであり,それも必然的な発展として生み出していくのであるから,これはカントの言葉でいうとア・プリオリな総合判断だといえるのである,と説明しました。これには皆が納得しました。

 最後に,フィヒテ哲学の唯物論の立場からの評価について討論しました。これについてはいろいろな観点から見解が出されました。まず,なぜフィヒテが自我を根源においたのかを考察するならば,ナポレオン軍によってドイツが占領されていたことが関わっているのではないかという見解が出されました。しかし,これについてはチューターが,ナポレオンがベルリンを占領したのは1806年であるのに対して,フィヒテの自我を根源においた哲学はそれより以前に説かれているため,因果関係が逆ではないかと指摘しました。これについては,この見解を出した会員も納得しました。続いて,別の会員は,全てを自我という自分自身の本質的な要素から説き切ろうとした姿勢は大きく評価できるとして,主体性の重要性を指摘したことがフィヒテ哲学の大きな成果だと説きました。この見解についてチューターは,これは,あえて唯物論の立場からの評価といえるだろうかと疑問を呈しました。すると,この見解を提示した会員は,自我から説くのということは,唯物論の立場からは本来的には許容されないが,自分の問題意識から説く,主体性から説くという意味では,唯物論の立場からも評価できるという意味であると補足しました。これにはチューターも納得しました。さらに社会的な背景について,フィヒテが自我を根源において,この世界の全てを自我の活動として把握しようとしたことは,世界に主体的に働きかけていきたいという人間の欲求(18世紀末から19世紀初頭にかけてのドイツ・ブルジョアジーの欲求)を反映したものであるという見解も出されました。また,別の会員は,フィヒテが当初はカントと間違われるほど「自分の他人化」をなして,当時の最先端の社会的認識たるカント哲学をしっかり反映し,自分のものにした点が重要だと指摘しました。これらについては皆が同意しました。

 さらに,フィヒテ哲学の内容に関して,三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)の内容を確認したいという意見も出されました。同書では,「自分自身の二重化」という項で,次のように説かれています。

「……マルクスは,ここからさらにすすんで,ドイツ観念論が逆立ちさせた「理智的に自分自身を二重化する」(マルクス『経済学手稿』)事実をとりあげて,どうしてこの二重化が発生するか,その現実的な根拠をあきらかにしました。「人間は,鏡を持って生れてくるのでもなく,また,我は我なりというフィヒテ的哲学者として生れてくるのでもないから,人間はまず,他の人間という鏡に自分を映して見る」(マルクス『資本論』)というのです。この皮肉なフィヒテ批判のなかに,観念的な自分が,フィヒテ流の「我」が,現実の自分以前から存在していたものでないこと,人間が現実の世界を鏡とすることによって発生するものであることが指摘されています。」(p.148)


 この内容に関して,一会員は,哲学というものは観念的な自己をいわば神的な立場(全世界の創造主の立場)において世界全体を見渡すことによってこそ成立するものであるが,それはまずは,観念論哲学として,すなわち,この観念的な自己こそ本当の自分(絶対精神)であり,身体をもった自分はそこから派生してきた仮の姿にすぎないとみなすことによって成し遂げられたのだ,これに対して唯物論の立場からは,神的な立場に立つ観念的な自己は,あくまでの現実の自己から派生したフィクションであるといわなければならないが,神的な立場に立った観念的な自己が世界全体に筋を通して把握しきるという意味では,唯物論哲学も観念論哲学と共通した構造をもたなければならないのだ,と説明しました。これについては,皆が納得しました。

 以上で論点1に関わる討論を終了しました。

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2016年11月28日

2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回は,今回扱ったヘーゲル『哲学史』の最後の部分の要約を掲載してきました。ここで,その中で大切なポイントを改めてまとめておきたいと思います。

 初めに,ヘーゲルがフィヒテの哲学について説いている部分を見ました。ヘーゲルは,フィヒテの哲学をカントの哲学を完成させたものだとして,高く評価していました。どういうことかというと,カントは,哲学全体を体系として統一することはできませんでしたが,フィヒテは自我を絶対的な原理として,そこから首尾一貫した表現を与えようとしたのだ,ということでした。ヘーゲルは,自我とは概念が直接に現実となり,現実が直接に概念となったものであり,カントのいうところの真のアプリオリな総合判断であると説いていました。そして,哲学は最高の原則から出発して,すべての内容をそこから必然的に演繹してくる学問でなければならないという考え方を表明したという意味で,フィヒテの哲学は抜きん出た価値を持つのだと説いていました。

 自我の後には,非我についての説明に移行していきました。非我とは自我に対置される存在であり,客観一般であるとされていました。そして,これはわたしに対立する対象であり,わたしを否定するものであるから,この他なるものを「非我」と名付けたのは筋の通った表現法であるとしていました。しかし,フィヒテにおいては非我がそれ自体で無条件に存在するとされており,そうである以上,非我が絶対の自己意識へと帰っていくプロセスを説くことができないとヘーゲルは批判しており,そこにフィヒテの哲学の限界があるとされていました。ヘーゲルは,結局フィヒテの哲学も,カントの哲学と同じように,理論理性においては自我と非我の対立がつきまとい,実践理性においては感覚と理性の対立が現れると説いていたのでした。

 次にヘーゲルは,以上のようなフィヒテ哲学において,思惟と延長の統一の形式そのものが主観性として取り出され,主観性からすべての内容が出てくるとされていましたが,今やその一面性から解き放たれて,客観性や実体性と統一することが必要であると説いた上で,シェリング哲学へと移っていきました。ヘーゲルによると,シェリングの哲学は自然哲学と先験哲学の2つから成っており,ともに主観と客観がもともと同一のものであるという前提がありました。その上で,客観を第一のものとし,自然を知性化しようとするものが自然哲学であるのに対して,主観を第一のものとし,主観と一致するような客観がどのようにしてあらわれるかを明らかにしようとするものが先験哲学であるとされていました。

 ヘーゲルは,このようなシェリング哲学について,概念や理性の形式を自然に適用した点が功績だと説いていました。他方,シェリング哲学においては,主観と客観の無差別が前提とされており,それが真理であることが証明されていない点が欠陥であると指摘されていました。シェリング哲学においては,主観と客観の無差別は,知的に直観されるべきものであったため,天才的な技量を持つものでなければ哲学することが不可能となってしまうのでした。ヘーゲルはこれを批判して,本来の哲学は誰にでも開かれているものであると主張していました。その上で,ヘーゲルは,主観は客観へと転化するものであり,客観も客観にとどまりえず,主観となっていくものであることを示さなければならないと説いていました。

 最後にヘーゲルは,結語の部分で,哲学の現在の立場は理念の二つの側面たる自然と精神の同一性が必然的であるのを認識することにあると説いていました。そして,哲学の発展は一つの哲学の発展であるとした上で,これまでの哲学の発展段階を,以下のような8つに整理していました。

1.与えられた対象から出発してそれを理念に転化した「ある」(存在)の段階
2.抽象的思考であるヌースが全体を貫く実在として知られるようになるイデアの段階(プラトン)
3.概念的思考が宇宙のすべての形態に精神をふきこむ段階(アリストテレス)
4.概念が主観としてあらわれ,主客の抽象的な分離が生じる段階(ストア派から懐疑主義)
5.すべての実在のうちに理念を見るが,その理念が自己を知らない段階(新プラトン主義)
(近代の課題:理念を精神として,自己を知る理念として,とらえること)
6.自己意識が自分が意識であると考える段階(デカルトからライプニッツ)
7.自己意識が他とも否定的な関係を結ぶ段階(フィヒテ)
8.自己意識が純粋な思考と存在を一体化したものとして認識する知的直観の段階

 以上が,今回の範囲の大切な部分のまとめとなります。

 11月例会では,このような内容について,3つの論点に沿って議論していきました。以下に3つの論点を提示しておきます。


1.フィヒテの哲学とはどのようなものか
 ヘーゲルは,フィヒテの哲学について,「カント哲学の完成であり,特にその首尾一貫した展開である」(p.129)としているが,これはどういうことか。カントの哲学をどのように発展させたものだと捉えているのか。また,どのような点にフィヒテの哲学の欠陥を見出しているのか。
 ヘーゲルは,フィヒテのいわゆる自我をどのようなものとして捉えているのか。デカルトの思考(自我)とはどう異なるのか。フィヒテの自我なるものは,カントとヘーゲルをどのように媒介しているといえるのであろうか。
 フィヒテ哲学を唯物論の立場から評価するとどのようなことがいえるか。



2.シェリングの哲学とはどのようなものか
 ヘーゲルは,シェリングの哲学のどのような点を評価し,シェリングはフィヒテの哲学をどのように発展させたと説いているのか。また,どのような点に欠陥をみているのか。シェリングの哲学とヘーゲルの哲学との共通点と相違点を挙げるとすればどうなるか。両者の決定的な相違は何であろうか。
 唯物論の立場からすると,シェリングの哲学はどのように評価できるのか。



3.ヘーゲルは哲学史をどのようなものとして描いたか
 ヘーゲルは,「結語」において,哲学史の全体を概観しようとしているが,ヘーゲルの考える哲学とはそもそもどういうものであったか。哲学の完成とはどのような状態であり,どのような過程を経てその完成へと至るものだとされているか。
 ヘーゲル哲学について特に再度深く検討すべき事柄(次回例会の論点)はどのようなことか。
 我々が唯物論の立場から哲学の歴史の流れを描くとすれば,ヘーゲル哲学史の何を継承し,何を批判していかなければならないのか。



 次回以降の例会報告では,これらの論点についてどのような討論がなされ,どのような(一応の)結論に達したのかを紹介していきたいと思います。


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2016年11月27日

2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語(5/10)

(5)ヘーゲル『哲学史』結語 要約

 前回は,シェリングの哲学のうち,同一性の哲学について論じられている部分の要約を紹介しました。シェリングは主観と客観の同一性ということを証明する必要があることを感じ様々に試みたものの,結局,形式的な形にしかなっていないということでした。

 今回はいよいよヘーゲル『哲学史』の最終部分である結語の要約を紹介します。ここでは,哲学とは何か,哲学史とは何かを踏まえて,これまでの哲学史の大きな流れが8つの段階として示されています。

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E 結語

〔哲学の現在の立場〕
 哲学の現在の立場は,理念がその必然性において認識されること,言い換えれば,理念の分離の両側面である自然と精神の各々が理念の総体を現わすものとして,単に自体において同一なばかりでなく自己自身からこの唯一の同一性を生み出すものとされ,さらにそれによってこの同一性が必然的なものとして認識されることである。哲学の究極の目的と関心は,思想や概念を現実と宥和させることにある。我々は自己自身を把握する思想が立ち現れてくるのをみてきたが,思想は自己を自己内において具体的なものとすることこそを求めたのである。思想の最初の活動は形式的であるが,アリストテレスになってはじめて,ヌースが思惟の思惟であるということを口にするようになる。その結果として現われて来るのは,自己の許に安らい,同時に自己のなかに宇宙を包括し,宇宙を叡智界と変じる思想である。概念的把握において精神的宇宙と自然的宇宙とはただひとつの調和する宇宙となって相互に透徹し合う。その宇宙は,自ら自己のなかに逃れ,その各側面において絶対者を展開して総体となし,まさにそのことによって,その統一のうち思想のうちにおいて自己を意識する。哲学は,芸術や宗教やそれらの引き起こす感覚に対して,真の弁神論である。それは精神の宥和,しかもその自由と豊かな現実性において自己を捉えた精神の宥和である。

〔哲学史とは何であったか〕
 ここまで到達した世界精神の歩みの各段階は,諸々の真実な哲学体系のうちその独自の形を現わしている。最後の哲学がそれら諸々の形式の総体であることによって,およそ何ものも失われたものはなく,一切の原理は保持されている。この具体的理念は,ほとんど2500年間を通じて,自己自らを客観化し,自己を認識しようとした精神の真摯なる労苦の結果である。この長きにわたって,精神の概念は,その具体的な全発展,外的な存立やその豊かさを自己のなかに担いつつ,自己を徹底的に形成しさらに進展させて,自己のうちから自ら現われ出ることをもとめる。ただ精神のみが前進なのだから,精神は常に前進する。自己を認識する作業こそ,精神の生命であり,精神そのものである。哲学史は精神がその歴史においてこのことを欲したという事実の曇りなき洞察である。哲学史は世界史の核心である。この内的思惟における人間精神のこの労作は,現実のあらゆる段階と平行する。それゆえ,如何なる哲学といえどもその時代を超えない。思想規定がこのような重大さをもつということ,それは哲学史の領域には属さないそれ以上の認識である。この概念こそ,世界の精神の最も単純な啓示であり,それがいっそう具体的な形態をとったとき,それが歴史にほかならないのである。
 第一に,精神が現在勝ち得たところのものを過小評価することはできない。古きものは尊ぶべきであるが,最高のものは現在以外にはない。第二に,諸々の哲学は,偶然的なものではなく,精神的な理性的な前進であり,必然的に前進しつつある一哲学,自己自らを知る神の示現である。第三に,それぞれが新しい原理を打ち立てるのであるから,あら探しなどではなく,その原理をこそ認識すべきである。

〔全哲学史を概観する〕
 全哲学史を概観し,それぞれ一定の理念を現わす主要要素の必然的段階を総括する。何らの悟性に到達しない東洋の主観性の陶酔の後に,思想の光がギリシャに昇った。
 (1)古代人の哲学は,絶対的理念を思惟した。その理念の実現または現実は,現存の現在の世界を概念的に把握し,即自且対自的にあるがままの世界を考察する点に成立したのであった。この哲学は理念自身から出発しないで,所与としての対象的なものから出発し,これを理念へと変ずる。パルメニデスの有。
 (2)抽象的思想。ヌースは主観的思惟としてではなく普遍的本質として知られた。プラトンの普遍的なるもの。
 (3)アリストテレスにおいて概念が現われる。それは自由にして何ものにもとらわれず,宇宙のあらゆる形態を透徹し精神化する概念的思惟としてである。
 (4)主観としての概念。その独立化や自己内存在,抽象的分離等は,ストア派,エピクロス派,スケプシス主義となる。すなわち,自由な具体的形式ではなく,抽象的な,自己内において形式的な普遍性である。
 (5)総体性の思想。新プラトン派における具体的理念としての叡智界。この原理は一切の実在性を尽した観念性一般であるが,自己自らを知る理念ではない。しかしついに主観性・個体性の原理がそのなかに入り,神が精神として自己意識内において現実的となった。
 (6)近代の事業は,この理念を精神として自己自らを知る理念として捉える点にある。知る理念から自らを知る理念に至るためには,理念がその絶対的分裂の意識に到達するという無限の対立が必要である。精神が対象的本質を思惟することによって哲学は世界の叡智性を完成し,この精神界を自然――精神の最初の創造――と同様現在と現実の彼岸にある対象として生んだ。精神の仕事は,この彼岸を現実に自己意識に連れもどすことである。このことは自己意識が自己自身を思惟し,絶対者を自己自身を思惟する自己意識として認識する点に成し遂げられる。上の分裂を超えて,デカルトにおいて純粋思惟が現われた。自己意識は第一に自己を意識として考える。そのなかに一切の対象的現実が含まれ,またその現実と他の現実との積極的な直観的な関係が含まれる。思惟と存在とはスピノザにおいて対立すると同時に同一である。彼には実体的直観なるものがあるが,認識は実体に対しては外的である。ここに思惟の主観性を止揚するために,思惟そのものから出発する宥和の原理がある。例えば,ライプニッツの表象する単子において,そのことが行われた。
 (7)第二に意識はそれが自己意識であることを思惟する点で対自的になるが,他者に対する否定的関係においても対自的である。それがカントにおける思惟の批判として,またフィヒテにおける具体的なものへの衝動としての無限の主観性である。絶対的な純粋な無限の形式は自己意識,自我として表明される。
 (8)この電光は,精神的実体のなかに閃き,絶対的内容と絶対的形式とは同一となる。実体は自己内において認識と同一である。こうして自己意識はその積極的関係をその消極的関係として,その消極的関係を積極的関係として認識する。あるいはこの対立した活動を同一として,換言すれば,純粋思惟または存在を自己同一として,さらにこの自己同一を分裂として認識する。これが知的直観であるが,それが事実知的であるためには,絶対的に認識するものでなければならない。
 知的直観が認識されるのは,第一に,相対立するものは相互に分離されるにもかかわらず,一切の外的現実が内的現実として認識されることによる。もしそれがその本質上あるがままに認識されるなら,それは存続するものとしでてはなく,推移の運動であることが示される。各個物の本質が規定性であり,自己の反対であるというこの意識のなかにその反対との統一が概念的に把握されて現われてくる。第二に,この統一自身がその本質において認識される。この同一性としての本質は等しくその反対に移りゆくこと,あるいは自己を実現し,自ら他となることである。かくてその対立がそれ自身によって現われてくる。第三に,対立について,それが絶対者のなかにはないことをいわなければならない。絶対者は本質的存在であり,永遠なものである。しかし,こう考えれば,それはそれ自身抽象であり,単に一面的であり,対立は単に観念的なものとして捉えられるにすぎない。しかし,事実は,対立こそ,絶対者の運動の本質的要素たる形式にほかならない。純粋思惟は,主観的なものと客観的なものとの対立に進む。対立の真の宥和は,この対立はその絶対的尖端に押し詰められ,自己自身を解消し,対立するものが同一である(永遠の生命は永遠に対立を生じて永遠に宥和する)ことの洞察にある。統一において対立を,対立において統一を知ること,これこそ絶対知である。学とはこの統一をその全発展において自己自身を通じて知ることにほかならない。
 以上が今や時代一般の要求であり,哲学の要求でもある。世界に新たなる時代が現出したのである。一切の疎遠な対象的存在を自己から捨て去って,ついに自己を絶対的精神として捉え,自己に対象的となるものを自己から生み出し,それに対して安らうとともに,それを自己の力のなかにしっかりと保つことが,いまや世界精神に成功したようにみえる。有限的自己意識と絶対的自己意識との闘いは終わる。有限的自己意識は有限的であることを止めた。それによって,絶対的自己意識は,以前はもたなかった現実性を勝ち得たのである。精神は自己を自然とし国家として産み出す。自然は精神が精神としてでなく自ら他者となる精神の無自覚な活動である。国家において歴史の行為や生活において,また芸術において,精神は確かに意識的な仕方で自己を生みだし,その現実の様々な類別を知りもする。しかし,精神が絶対精神として自己自らを自覚するのは,ただ学においてのみである。この知のみが,すなわち精神のみが精神の真の存在である。以上が現代の立場であり,精神形成の系列は,今のところ,以上をもって完結しているのである。
 ここにおいてこの哲学史もまた完結したのである。

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2016年11月26日

2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語(4/10)

(4)ヘーゲル『哲学史』シェリング 同一性の哲学 要約

 前回は,シェリングの哲学の自然哲学と先験哲学について論じられている部分の要約を紹介しました。シェリングは主観と客観の同一性ということを指摘し,それを2つの側面から示すものとして先験哲学と自然哲学を打ち立てたのですが,結局,主観と客観の同一性は同一性を証明することができておらず,知的直観によって把握できると説くのみであったということでした。

 今回は,シェリングの哲学のうち,同一性の哲学について論じられている部分の要約を紹介します。

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 シェリングは主観的なものと客観的なものの同一たる絶対者の理念をもって始めたが,やがてこの理念を証明しようという要求が現われてきた。それは『思弁物理学雑誌』『新思弁的物理学雑誌』において試みられた。しかし,シェリングの証明は極度に形式的に進められており,したがってそれは証明されるべきものをいつも前提していることになる。
 『思弁物理学雑誌』でシェリングは,主観的なものと客観的なものとの絶対的同一から出発することで,スピノザ的実体,単一の絶対者を再び呼び覚ました。ここで彼はスピノザと同様,幾何学的方法を用いた(まず公理,次いで証明を行う諸命題,さらに系等々)が,この方法は哲学に対して何ら真実な適用性をもたない。シェリングは,この場合ある種の区別の形式を前提し,これをポテンツ(力,可能性)と呼んだ。これに次ぐシェリングの主要形式は,カントによって再び記憶に呼び覚まされた三元の形式,第一,第二,第三のポテンツである。
 フィヒテが自我即自我をもって始めるように,シェリングは「理性は主観と客観との絶対的無差別である」という絶対者の命題もしくは定義として表現された絶対的直観をもって始める。一と多の対立も,一切の対立と同様,そのなかでは消滅してしまう。次いでシェリングは,主観が反省につきまとわれてはならないことを要望する。それは悟性規定であり,それは感性的知覚と同様,感性的事物の相互分離を含む。
 こうして対立が形式や本質の上から絶対者に現れはする。しかし,それは単に相対的な,または非本質的な対立として規定される。主観と客観との質的相違は考えられないから,量的相違のみがありうる。この量的相違は顕勢的形式(一切の有限性の根拠)だとシェリングはいう。各一定のポテンツの段階は主観的なものと客観的なものとの一定の量的相違を示す。個々の存在は主権性と客観性との量的相違によって措定される。しかし,これは不十分である。量的相違は真実の区別ではなく,全く外的な関係であり,主観的なものと客観的なものとの優勢もまた決して思想規定ではなく,単に感性的な規定にすぎないのである。
 〔第一のポテンツ〕 絶対者の最初の量的相違または最初の相対的総体が物質だという点にある。第一次元:最初の前提たる相対的総体性(A=B)によって相対的同一性がある。第二次元:相対的な同一性を前提とする相対的な二重性。相対的な同一性と二重性とは,相対的総体性のなかに潜勢的に含まれている。第三の次元:相対立する二者の解消。AとBとの実在性の直接的な根拠となる絶対的同一性は重力である。それぞれ優勢を占めるAまたはBは,前者が牽引力,後者が膨張力である。牽引力と膨張力の量的措定は無限に進み,その平衡は全体においては存在するが,個々のものにおいては存在しない。
 〔第二のポテンツ〕 この同一性自身が存在するものとして措定される光。同じ同一性が,発現する両極性の形式下におかれると凝集力となる。凝集力は,自体性または自我性の物質内における印象であり,それによって物質はまず特殊的なものとして普遍的同一性から出て,形式の領域に自己を高める。惑星や金属その他の物質は,動的凝集力の形式において,一方では収縮力が他方では膨張力がそれぞれ優勢となる特殊な凝集関係を現わす一系列を形成する。
 〔第三のポテンツ〕 全ポテンツの相対的総体が措定されること(光と重力の結合たる全生産物)で重力は絶対的同一の単なるあり方の形式に引き下げられる。これが有機体である。
 シェリングは,全宇宙の構成を与えようとして,あまりにも多くの詳細な点にまでわたって自説を述べたが,その叙述を完成するには至らず,前提した図式によって外的に構成するという形式主義を混ぜた。シェリングは,我々の認識が自然をそのように考察する,というカント的な言葉を,自然はそのように形づくられている,というふうに変える。彼は自然のなかに精神を摘出するというカントの手掛けた仕事を,とりわけ観念的なもののなかに成立すると同一の図式・同一のリズムを対象的事物のなかにも認識するというような自然考察に再び着手したのであった。自然は総じて精神を対象的なあり方に投射したものであるという点から叙述されるのである。

 シェリングは,その形式の未完成と弁証法を欠くためにどれにも満足できず様々な形式のなかを彷徨したため,『新思弁的物理学雑誌』が提供する「私の哲学体系の再述」においては別の形式を選んだ。主観性と客観性との平衡の代わりに,本質と形式,普遍的なものと特殊的なもの,有限なものと無限なもの,積極的なものと消極的なものの同一を語り,絶対的無差別をこの形式あるいは他の形式のなかに規定する。差別は単に観念的な対立にすぎず,それらは絶対者においては端的に一である。形式としてのこの統一は知的直観であり,それは思惟と存在とを絶対的に等しいものとおき,また絶対者を形式的に表現することによって,同時にその本質の表現ともなるのである。一切と各個との真実の絶対性は,それがそれ自身普遍的なものと特殊的なものとして認識されることにあるのではなく,普遍的なものがそういう規定性にありながら,それ自身普遍的なものと特殊的なものとの統一として(同じように特殊的なものも両者の統一として)認識されるという点に成立するのである。特殊的なものの規定性はただそれの観念的契機にすぎず,むしろそれが絶対者のなかにあることこそその真実態である。これら3つの契機,すなわち,本質(無限なもの)を形式(有限なもの)へ造り入れることと形式を本質へ造り入れること――これら2つは相対的統一である――および第三者たる絶対的統一は,各個物のなかで再び繰り返される。したがって,本質を形式へとまた普遍的なものを特殊的なものへと造り入れたものとしての実在的側面を現わす自然は,それ自身再びこの3つの統一を備え,観念的側面もまた同様である。こうして各ポテンツはそれだけで再び絶対的となる。すなわち全体の三重構造を各個においても同様に反復し,それによって一切の事物の同一を示すとともに,これらの事物が全ての同一の統一を表現するようにこれらの事物をその絶対的本質において考察すること,これが宇宙の学的構成の一般的理念にほかならない。



 自然が精神および絶対者たる神に対してもつ関係を,シェリングは後期の叙述においてはじめて,次のように示した。すなわち,彼は神の本質を――無限の直観としての神がさらに自己自身を根拠とするかぎり――自然として規定し,叡智や思惟はただ存在と対置されることによってのみあるがゆえに,この自然を神における否定的要素であるとしたのである。
 シェリングの体系は,我々が考察しなければならない哲学のもつ最後の興味ある真実の形態である。第一にシェリングにあっては,彼が真実体を具体的なものとして,主観的なものと客観的なものとの統一として捉えたというその理念自身が挙げられねばならない。シェリング哲学の主要な点は,深い思弁的内容を問題にしていることである。それは,哲学の全歴史の上で問題にとなってきた内容である。自由に独立に存在するが,抽象的でなく自己内で具体的である思惟は,自らを自らのなかで叡智的現実的世界として捉える。これが自然の真理であり,自然自体である。シェリングの第二に偉大な点は,自然のなかで精神の諸形式を指摘したことである。電気,磁気等々は,彼にとっては理念の外的なあり方にすぎない。欠点となるところは,この理念一般,ならびにそれが観念界と自然界とに区別される点や,さらにはこれらの諸規定の総体が概念によってそれ自身のなかに必然的として示され発展させられていないことである。シェリングはこの面を把握しなかったので,思惟を見失ってしまった。こうして芸術品こそ理念が精神にたいしてある唯一最高のあり方となった。しかし,理念の最高のあり方はむしろ理念自身の境位にあり,思惟や概念的に把握された理念こそ芸術品より一層高次なものなのである。理念は真理であり,一切の真実体は理念である。そして理念を世界へ組織することが必然的な開示であり啓示であるとして証明されねばならない。これに反して,シェリングにあっては,形式はむしろ外的な図式となり,方法はこの図式の外的対象への依存となる。この外的に整えられた図式こそ弁証法的信仰の代わりに現われるものであり,それによって自然哲学は特に不信をかったのである。

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2016年11月25日

2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語(3/10)

(3)ヘーゲル『哲学史』シェリング 自然哲学と先験哲学 要約
 
 前回はフィヒテの哲学について論じられている部分の要約を紹介しました。そこでは,カントが物自体と自我という二元論に陥ってしまっていたのに対して,フィヒテが自我を根源において体系的に説いたということ,その自我とはカントのいうアプリオリな総合判断であることなどが説かれていました。しかし,フィヒテの哲学にも結局,自我と非我の対立がつきまとってしまったということでした。

 今回からシェリングの哲学について論じられている部分の要約を紹介します。その中でも自然哲学と先験哲学についての部分を今回は見ていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

D シェリング

 フィヒテ哲学を越えて最も重大なあるいは哲学的見地からして唯一の意味ある一歩を踏み出したのはシェリングである。シェリングの哲学は,フィヒテ哲学と同様,神の認識を否定したカント哲学から出発しながら,神の認識へと移っていった。同時に,ヤコービの思惟と存在の統一の原理を根底におく。彼における具体的統一は,有限的なものも無限なものも,主観的観念も客観性もともに真実体ではなく,2つの真理ならざるものが相互に独立に離在しながら結合するのも真理ならざるものの結合でしかないとされる。具体的統一はただそれが過程であり,ひとつの定立(命題)のなかの生き生きとした運動であるというふうにしてのみ捉えられるにすぎない。こうした不可分性は,まさにただ神のなかのみにある。
 シェリングが登場したとき,哲学一般の要求は次のようなものであった。デカルトにおいては,思惟と延長が神のなかに合一され,スピノザにおいてはそれらが不動の実体として合一されていた。その後,形式が一部は諸科学において,一部はカント哲学において形成されていく。そして最後に,フィヒテ哲学において,形式そのものだけが主観性として現われ,この主観性から一切の規定が発展するとされたのであった。こうして時代の要求は,無限の形式たるこの主観性が,その一面性から自由となって客観性,客体性と合一することにある。あるいはスピノザ的実体が不動のものとしてでなく,叡智者として,自己内において必然性をもって活動する形式として,把握されるべきなのである。したがって,それは自然の創造者であり,しかもまたそれと同様,知や認識でもある。求められているのは,無限の形式を備えた総体性であり,これこそシェリング哲学において現われるものにほかならない。



 シェリングは,初期の著述『先験的観念論の体系』において,先験哲学と自然哲学とを学の両面として考えた。一切の知は客観と主観の一致に基づくが,両者の絶対的一致はただ神のみにおいてあり,その他の一切のものは主観と客観の不一致の要素を含んでいる。客観的なものの総体が自然,主観的なものの総体が自我または叡智であるが,一切の知が相互に前提し合い要求し合う2つの極をもつとすれば,2つの基礎学が存在しなければならず,一方の極から出発すれば必ず他方の極に向わずにいられなくなる,というのである。客観的なものを始元とし,自然から叡智的なものに至るのが自然哲学であり,主観的なものを始元とし,主観的なものから客観的なものを成立させるのが先験哲学である。

a 自我は主観と客観が直接に一となる点であり,自我即自我,主観即客観である。それが自己意識の作用であり,そのなかで私は私にとって対象となる。自我は自己自らが客観となる生産にほかならない。かくしてシェリングはフィヒテ哲学を引き合いに出しつつ,ヤコービのように直接知(叡智的直観)を原理とする。この叡智的直観の内容は,絶対者,神,即自且対自的存在であり,自己内において自己を媒介するものとして,主観的なものと客観的なものとの無差別として現わされるものである。
 しかし,絶対者を具体的なものとして知るこの知の形式の点で,さらに詳しくいえば,主観的なものと客観的なものとの統一の形式の点で,特に哲学はシェリング哲学となって日常の表象的意識やその反省の仕方から離れてしまったのであった。具体的なものは,その本性上,等しく思弁的である。シェリングにおいて思弁的形式が再び台頭して,哲学は再び独自の原理たる理性的思惟自体が思惟の形式を得たのである。

b 主観と客観の区別が入ってくると,自我と他者の関係が生じてくる。自我が自己を非我によって制限されたものとして措定することで,自我は自己を自己自身に対して措定する。自我のそれ自身への関係と無限の衝撃への関係は不可分離である。また,自我はそれが制限されないものである限りにおいてのみ制限されているが,この限界は,それを越えて行き渡るために必要不可欠である。この矛盾は,たとえ自我が非我を常に制限しても,依然として残る。

c 制限する活動によっても制限される活動によっても,自我は自己意識に到達しない。自己意識の自我を成立させるものは,両者から合成された第三の活動である。それはただ相対的同一性という本質的関係にとどまり,区別は依然としていつもそのなかに残ったままである。自我の自己内への方向と外への方向との争いが,無限の過程において解かれるというのは,単に外見上のことにとどまる。それが完結されるためには,内的および外的自然の全体がそのあらゆる細かな点まで叙述されなければならないのであるが,ただ主たる区画が掲げられるにすぎない。合一を直接自己内に含むこの第三者は,特殊性がうちに含まれている思想である。それはカントの直観的悟性,叡智的直観,または直観的叡智である。シェリングは特に矛盾の絶対的統一を知的直観と呼ぶ。ここでは自我は他者に対して一面的に対立しているのではない。それは無意識的なものと意識的なものとの一致であるが,しかしその一致の根底が自我自身のなかに存するといったようなものではないのである。
 客観的なものからは分離が措定され,別のものが対立させられるのだが,原理はこの対立の解消なのであるから,全哲学は絶対的同一者として非客観的な原理から出発しなければならない。絶対的同一者は,それ自身,主観的なものでも客観的なものでもないのだが,それは直接的な直観において客観として現わされる。知的直観の客観的となったものが芸術にほかならない。芸術において,同一不二の直観のなかにおいて自我はそれ自身を意識し,また無意識となる。こうして客観的となった知的直観はとりもなおさず客観的な感性的直観である。しかし,概念の客観性はこれとは別であり,それは洞察された必然性である。
 こうして,哲学の内容に対しても主観的な哲学的思索に対しても一つの原理が前提されるが,一面においては人は知的直観をもって終止するように要求されるとともに,他面においては,この原理がやはり確証を得なければならず,それがいまや芸術品において行われるのである。そこでは,感性的表象が叡智性と一つになっており,感性的存在はただ精神性の表現にすぎないのであるから,これは理性の客観化の最高のあり方である。主観が到達する最高の客観性,客観的なものと主観的なものとの最高の同一性こそ,シェリングが構想力と名づけるものにほかならない。哲学的思索はほかならぬ芸術の独創性と考えられるのである。しかし,芸術も構想力も決して最高のものではない。理念や精神は芸術が芸術の理念を表現するような仕方では真に表現されえないのだから,これは直観の一つのあり方にすぎず,こうした感覚的なあり方のために芸術品は決して精神にふさわしくあることはできない。構想力や芸術によっては,主観的なものと客観的なものの絶対的同一性にはならない。そのためには,理性的な思弁的思惟が必要なのだが,君は知的直観をもっていないのだ,といわれてしまう。
 シェリング哲学の欠陥は,主観的なものと客観的なものとの無差別点,言い換えるなら,理性の概念が絶対的に前提され,これが真理であると証明されることなしに終わる点にある。主観的なものと客観的なものとの同一が真理であるという証明は,各々が独立にその論理的規定において,すなわちその本質的規定において追究されるようにしてのみ行われるべきである。それによって,やがて主観的なものは自らを変じて客観的なものとなり,客観的なものもまたそのままに止まらず,自らは主観的なものとするという結果が生じるに違いない。同じように,有限的なものそのものについて,それが矛盾を内に含み自らを無限なものとすることが示されねばならない。そうしてこそ,有限なものと無限なものとの合一が得られる。こうした発展の結果を単に結果として捉えるのは一面的である。それは過程であって媒介を自己の内に含んでいる。この媒介そのものは再び止揚され,直接的なものとして措定される。おそらくシェリングはこうした考え方を一般には持っていただろうが,これを一定の論理的な仕方で遂行することはなかった。彼にあってそれは,知的直観のみによって証明される直接的真理にとどまったのである。

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2016年11月24日

2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語(2/10)

(2)ヘーゲル『哲学史』フィヒテ 要約

 前回は,京都弁証法認識論研究会の11月例会において,報告担当者から提示されたレジュメ,およびそれに対して他メンバーからなされたコメントを紹介しました。今回から4回にわたって,ヘーゲル『哲学史』の要約を紹介していくことにします。

 今回は,フィヒテの哲学について論じられている部分の要約です。ここでは,フィヒテが自我を原理としてカントの哲学を完成させたのだということが説かれています。

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C フィヒテ

 フィヒテの哲学はカント哲学の完成であり,その首尾一貫した展開である。これらの哲学とシェリングのそれ以外に,何ら哲学と称するに足るべきものはない。
 フィヒテの哲学と称されるものについては,厳密に終始一貫して進行しながらもあまり知られていない本格的な思弁哲学と,公衆向けに行われたベルリンでの講義(『至福の生活について』など)のような通俗哲学とを区別しなければならない。哲学史において取り扱われるものにあっては,内容そのものが思弁的に発展させねばならないが,それはただ彼の初期の哲学的書目においてのみそうなのである。

1,本来のフィヒテ哲学

 フィヒテこそ,カント哲学の欠陥,すなわち全体系に思弁的統一を欠く原因となった没思想的な不整合を止揚した当の人にほかならなかった。フィヒテの心を捉えた絶対的形式こそ絶対的対自存在,絶対的否定性であり,個別性の概念,現実性の概念である。フィヒテは自我を絶対的原理として掲げ,宇宙の全内容をこの自我(自己自身の直接的確実性)からの所産として叙述しようとした。それゆえ,フィヒテに従えば,理性は自己自身内において概念と現実の総合であるのだが,彼はこの原理を再び一面的に振り分けてしまった。すなわち,徹頭徹尾主観的で,対立につきまとわれており,この原理の実現は有限性のままの進行であり,先行するものへの回顧である。さらにまた叙述の形式には常に経験的自我を目にしているという不都合,不手際があり,それが内容にそぐわず,観点を狂わすのである。
 自我とは自己自身において相対立するものを自ら差別することである。自我が自己を思惟の単純性から区別し,またこの他者を区別する手段も,同様自我にとって直接的であり,自我と等しいかまたは区別されない。かくて自我は純粋思惟,あるいはカントがすでに名付けたように真のアプリオリな総合判断である。この原理は概念的に把握された現実である。なぜなら他在を自己意識のうちに取り戻すことこそ概念的把握にほかならないからである。この側面からすれば,概念の概念は,概念的に把握されるもののなかにおいて自己意識が自己自身の確実性をもつということによって見出される。この絶対的概念,あるいは即自且対自的に存在する無限性こそは,学において発展させられ,その差別が宇宙の一切の差別として自己から顕現する当のものであり,宇宙は依然としてその差別のなかにおいて同様の絶対性のまま,自己のうちに反省するものでなければならないのである。
 フィヒテはこうした概念のみを掲げたのであって,この概念を自己自身からする学の実現へともっていくことはできなかった。フィヒテにおいては,この概念が概念として固定され,ただそれが実現されない概念として実在に対立する限りで絶対性をもっていたからである。フィヒテ哲学は,およそ哲学は一切の規定が唯一最高の原則からして必然的に演繹される学でなければならないということを確立した点で,大きな長所をもっている。彼は学の規定を自我から構成する仕事を遂行しようとしたことで一歩前進したのであった。
 カントが認識を樹立したように,フィヒテは知を樹立する。フィヒテは哲学が知の理説であるというように哲学の課題を言い表す。哲学的認識の目的は意識の本性としての知を知ることである。それゆえ,フィヒテはかれの哲学を智識学と名づけたのである。

a〔自我と非我〕
 彼が出発点としたのは,カントに存在した自己意識の先験的統一である。知の単純な根底となるのは私自身の確実性である。フィヒテはデカルトの「我思う,ゆえに我あり」を想起するが,自我はフィヒテによれば,範疇や理念の源泉であり,しかも一切の表象や思想は思惟によって総合された多様だからである。デカルトにあっては自我に次いでは,我々がただ我々のなかにのみ見出すその他の思想,すなわち神や自然等々のものが現われて来るが,フィヒテにあっては何ら経験的なものを外部から取り入れることなく,全く一丸となった哲学が企てられる。
 フィヒテは自我を学の全体が導出されるべき3つの根本命題に分析する。
 α 第一の原則はA=A(自我=自我)である。これは抽象的な無規定的な同一性であって,自我の自己確実性が何らの対象性も有せず,区別される内容の形式をもっていない。
 β 第二の原則は「自我は自我に対して非我を対置する」。非我は対象一般であり,自我の否定者であるから,非我というのは筋の通った表現である。
 γ 第三の原則は,「自我も非我も,ともに自我によって,自我のうちに,相互に制限し合うものとして,すなわち,一方の実在性が他方の実在性を止揚するものとして,措定される」。自我が非我によって制限されれば理論理性・叡智の定立であり,非我が自我によって制限されれば実践理性・意志の定立である。

b〔理論理性〕
 自我は自己を非我によって制限されたものとして措定するが,しかし私はこの制限を私の制限作用とする。したがって,それは私のなかにあり,自我のこの受動性はそれ自身自我の活動である。事実こうして対象において自我に対して現われる実在性は全て自我の規定にほかならない。ここで,他在が絶対的自己意識に立ち戻ることが期待されるが,他在が無制約的に,すなわち自体的にみられることで,この還帰は成立しない。自我が他者を規定するにしても,この統一は有限的であり,自己意識と他者の意識との交代の絶えざる進行にすぎない。

c〔実践理性〕
 自我は非我を規定するものとして自らを措定する。今や自我はそれを越える彼岸を規定することで自己自身のもとにあるというふうにして,対立は解消されることになる。こうして自我は無限の活動となり,自我即自我として絶対的自我となる。しかし,それは抽象的なものでしかない。有限な精神は必然的に絶対的なものを自己の外に措定しなければならない(物自体),しかもそれがただ有限な精神にとってのみある(必然的本体である)ことを認めなければならない。自我は絶対的概念であるが,まだ思惟の統一には到達せず,非我を概念的に把握していない。

〔フィヒテ哲学の欠陥〕
 フィヒテ哲学の欠陥の第一は,普遍的な絶対的な自己意識に対立して,個別的な現実的な自己意識の意味を離されていないことである。
 第二に,主観と客観あるいは自我と非我との完成した実在的統一としての理性の理念に到達していない。統一はカントにおけるのと同様,信仰のなかに合一を求める思想として立てられているにすぎず,フィヒテもまた信仰をもって終わるのである。
 第三に,自我が一方に固定されているがゆえに,この極限たる自我から学の内容の一切の進行が出発する。そしてフィヒテ哲学の演繹,すなわち認識なるものはその内容上からも形式上からも,ある規定性から他の規定性に進むだけで決して統一に帰着することがない。絶対者を内に含まない有限性の系列を通じての進行にほかならないのである。そこには絶対的考察も絶対的内容もともに欠けている。

2,改造されたフィヒテの体系〔略〕

3,フィヒテ哲学と関連する主要形式〔略〕

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2016年11月23日

2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語(1/10)

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)ヘーゲル『哲学史』フィヒテ 要約
(3)ヘーゲル『哲学史』シェリング 自然哲学と先験哲学 要約
(4)ヘーゲル『哲学史』シェリング 同一性の哲学 要約
(5)ヘーゲル『哲学史』結語 要約
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:フィヒテの哲学とはどのようなものか
(8)論点2:シェリングの哲学とはどのようなものか
(9)論点3:ヘーゲルは哲学史をどのようなものとして描いたか
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は,昨年および今年の2年間を費やして,ヘーゲル『哲学史』の学びに取り組んでいます。3年前のヘーゲル『歴史哲学』,一昨年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを踏まえて,この『哲学史』を通読することにより,ヘーゲルが描く哲学史の流れを理解することはもちろんのこと,それを唯物論的に捉え返すことで唯物論哲学の創出に向けた一歩を確実に進めていくことを課題としています。

 11月例会では,ヘーゲル『哲学史』の最後の部分であるフィヒテとシェリングの哲学を扱いました。彼らがカントの哲学をいかにして発展させ,それがヘーゲル哲学にどのようにつながっていったのかを中心に検討しました。また,最後の結語の部分も今回の範囲でした。ここでは,ヘーゲルの考える哲学が端的に説かれており,これまでの流れも整理されていました。

 今回の例会報告では,まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと,扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し,ついで,参加者から提起された論点について,どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に,この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず,報告担当者から提示されたレジュメ,およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

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京都弁証法認識論研究会12月例会

ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング

1.フィヒテの哲学とはどのようなものか

 ヘーゲルはフィヒテの哲学をカントの哲学を完成させたものだとしている。カントの哲学は体系全体が哲学的に統一されることがなかったが,フィヒテは自我を絶対的な原理として,そこから首尾一貫した表現を与えるものだとして評価しているのである。自我とは概念が直接に現実となり,現実が直接に概念となったものであり,真の先天的総合判断だと解説した上で,「哲学は最高の原則から出発して,すべての内容をそこから必然的に演繹してくる学問でなければならない」という考えをうちたてた点で,フィヒテの哲学はぬきんでた価値をもつという。
 この自我は自我に非我を対置するというフィヒテの原則を紹介した上で,非我とは,客観一般であり,わたしに対立する対象であり,わたしを否定するものだとヘーゲルは解説している。ヘーゲルは,この他なるものを非我と名付けたのは筋のとおった表現法だと評価するものの,フィヒテにおいては,他なる存在がそれ自体で無条件に存在するとされている以上,他なる存在が絶対の自己意識へとかえっていくさまを示すことができないとして,フィヒテの哲学の限界を指摘している。そして,カントと同じように,理論理性においては自我と非我の対立がフィヒテにつきまとい,実践理性においては感覚と理性との対立が現れているとしている。

<報告者コメント>
 ヘーゲルはフィヒテが自我ということを最高の原理として掲げたことを高く評価しているようであるが,これは学問の構築過程からすれば,学問体系における一般論を掲げたということ,しかもその一般論の中身も妥当だと評価しているということになりそうである。
 しかし,結局,自我と非我の対立があって統一して説くことができなかったとしている。これは,まともな一般論を掲げたものの,それをもってして現実の世界を説いていくことができなかったということであろう。唯物論的にいえば,事実と論理ののぼりおりができなかったということであり,ヘーゲル流にいえば,絶対精神が円環を閉じることができなかったということになるだろう。


2.シェリングの哲学とはどのようなものか

 ヘーゲルは,フィヒテの哲学において,思考と延長の統一の形式そのものが主観性としてとりだされ,主観性からすべての内容が出てくるとされたが,今はその一面性から解きはなって,客観性や実体性と統一することが必要だとした上で,シェリングの哲学の解説に入っている。
 ヘーゲルによれば,シェリングの哲学は自然哲学と先験哲学の2つから成っている。主観と客観がもともと同一のものであるという前提のもと,客観を第一のものとし,自然を知性化しようとするものが自然哲学である。一方,主観を第一のものとし,主観と一致するような客観がどのようにしてあらわれるかを明らかにしようとするものが先験哲学である。
 こうしたシェリングの哲学に対して,ヘーゲルは,概念や理性の形式を自然に適用した点が功績だとしている(別の個所では「自然のうちに概念や概念形式を導入した」「観念世界に生じるのとおなじ図式やリズムを対象世界のうちに認識しようとした」とも書いているが,ほぼ同じような意味であろう)。
 一方,シェリングの哲学の欠陥として,ヘーゲルは,主観と客観の無差別が前提とされ,それが真理であることが証明されず,「知的に直観せよ」と要求されるところにあると指摘している。これでは哲学は天才的な技量を必要とするものとなり,幸運児にしか許されないものになると批判し,主観が客観へと転化するものであり,客観も客観にとどまりえず,主観となっていくものであることを示さなければならないとしている。

<報告者コメント>
 シェリングは主観と客観が同一のものであるとしている。学問の構築過程からすれば,一般論として掬い上げた性質が,現実の様々な事実にも存在していることを確認したということになるだろう。フィヒテが自我を原理として掲げたものの,そこから説くことができなかったことを比べると,これは一歩前進していると言えるだろう。なお,「観念世界に生じるのとおなじ図式やリズムを対象世界のうちに認識しようとした」とあるが,その背景にはシェリングがロマン主義の芸術家と親交をもっていたことも関わっているだろう。
 ただし,シェリングにおいては主観と客観の無差別が前提とされていて,それが真理であることが証明されていないとしている。これは事実から一気に一般論にのぼってしまう,あるいは一般論から一気に事実におりてしまうということではないか。例えば,認識は対象の反映であり,像であるというのが認識一般論である。コップを思い浮かべて,それが現実の対象の反映(をもとにして創られた像)だと言われれば,それはある程度納得できるだろうが,仮に自由や権利など抽象的な概念がいきなり対象の反映だと言われても納得できないだろう。そのような抽象的な概念が対象の反映からどのように生成・発展して生まれてくるのかを説かなければならない。こうした過程がとんでしまっているのがシェリングだということではないだろうか。


3.ヘーゲルの『哲学史』を振り返る

 ヘーゲルはシェリングの哲学についての解説を終えた後,「哲学の現在の立場は理念の二つの側面たる自然と精神の同一性が必然的であるのを認識することにある」としている。そして,ここに至るまでの過程を以下の8つの段階として示している。
1.与えられた対象から出発してそれを理念に転化した「ある」(存在)の段階
2.抽象的思考であるヌースが全体を貫く実在として知られるようになるイデアの段階(プラトン)
3.概念的思考が宇宙のすべての形態に精神をふきこむ段階(アリストテレス)
4.概念が主観としてあらわれ,主客の抽象的な分離が生じる段階(ストア派から懐疑主義)
5.すべての実在のうちに理念を見るが,その理念が自己を知らない段階(新プラトン主義)
(近代の課題:理念を精神として,自己を知る理念として,とらえること)
6.自己意識が自分が意識であると考える段階(デカルトからライプニッツ)
7.自己意識が他とも否定的な関係を結ぶ段階(フィヒテ)
8.自己意識が純粋な思考と存在を一体化したものとして認識する知的直観の段階
 その上で,この哲学史をとおして示したかったものは,「後の哲学は必ず前の哲学を前提にして生まれる」ということであったとしている。

<報告者コメント>
 ヘーゲルは,絶対精神の自己運動として全世界を捉え,人間が絶対精神としての自覚を深める過程として哲学史を描いたわけであるが,絶対精神という観点で現代にいたるまでの過程を説ききったという実力をまずはしっかり受け止める必要があるだろう。この間,様々な哲学者が出てきたが,基本的にはその哲学者の著書をヘーゲルは読んでいるであろうし,まずそれだけで大変な労力であるし,ましてそれを自らの哲学の中に組み込んでいくなど,とんでもない実力だと言えるだろう。唯物論の立場からヘーゲルを上回る哲学を構築するなど,本当に並大抵のことではないということをわかった上で取り組んでいく必要がある。
 その上でなすべき作業としては,このヘーゲルが説いた哲学史の過程からしっかり運動・変化の一般性を読み取っていくことであろう。生命の歴史や人類の歴史,個体発生の過程,学問構築の過程,上達論,それぞれの専門分野における学問史などに重ね合わせながら,そこから運動・変化の一般性を導き出していくことが,唯物論の立場から哲学史を構築する際の指針を獲得するという意味で必要だろう。

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 この報告に対して,まず,シェリングについての報告者コメントがよく分からないという指摘がありました。「シェリングは主観と客観が同一のものであるとしている。学問の構築過程からすれば,一般論として掬い上げた性質が,現実の様々な事実にも存在していることを確認したということになるだろう」という部分についてです。レジュメ報告者からは,ヘーゲル哲学を学問構築の一般論として読もうとしたとして補足の説明がありましたが,つまり,事実から論理を導き出したことがすなわち主観と客観の同一であるということでした。この結論自体も当てはめ的な感じがするが,何よりも論理の飛躍があり,今のような説明がなければ,読者としてはつながりがよく分からないという指摘がありました。

 また,フィヒテについてのコメントも,フィヒテが自我を最高の原理として掲げたことは,学問体系における一般論を掲げたということだと説かれているが,これは,哲学という特殊性を無視した主張になってしまっているという指摘がありました。また,唯物論の立場と観念論の立場は違うのであって,フィヒテは現実から抽象して,全ては自我である,というように唯物論的な手続きを経て結論したわけではないのであるから,単純に自我を最高の原理として掲げたことを一般論の構築といってしまうのはどうなのか,という指摘もなされました。

 さらに,シェリングについての「ロマン主義の芸術家と親交をもっていた」ことに関して,そういう影響もなくはないだろうが,これはシェリングに特殊な事情というよりも,ドイツ観念論一般にいえることなのではないか,「図式」という言葉などは直接的にはカントの『判断力批判』を受け継いでいるのではないか,という意見も出ました。

 これらの指摘や意見について,レジュメ報告者は同意しました。

 では,次回以降4回は,今回扱った範囲の要約を掲載していきたいと思います。

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2016年11月03日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 ここまで、例会で報告されたレジュメを紹介したあと、ヘーゲル『哲学史』のヤコービとカントについて論じられている部分の要約を4回に分けて掲載し、参加者から提起された論点についてどのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介してきました。

 最終回となる今回は、例会を受けての参加者の感想を紹介します。

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 今回の例会では、ヘーゲル『哲学史』のうち、ヤコービとカントの部分を扱った。論点の提示まではできたのであるが、それに対する見解で行き詰ってしまって、結局、見解をまとめることができなかった点は大いに反省する必要があると思っている。

 例会当日は、自分の読みで内容を把握できず混乱してしまった部分を少しでも理解し、大枠でヤコービやカントがどのような主張をしているのか、それをヘーゲルがどのように評価しているのか、何とか把握できるようになることを目標に議論していった。

 ヤコービに関しては、神はその存在を証明できるようなものではなく、思惟によって把握できないものであること、信仰によってこそ直接その存在を捉えられるものであることを主張していることが分かり、またヘーゲルはこうしたヤコービのいわば二元論、思惟と信仰とを全く別のものとして分けて捉えてしまっていることを批判していることが理解できた。

 カントに関しては、人間の認識能力を研究したこと、人間の認識能力を、対象に関する理論理性、自立的な実践理性、個別者と普遍者を統一する判断力の3つに分けたこと、理論理性には対象を時間と空間という制限を加えて捉える感性、12のカテゴリーで把握する悟性、それに超感性的なものを捉える理性に分けていること、自由と必然、物自体の世界と現象の世界を何とか統一しようと苦闘したことなどが分かってきた。カントのいう感性と悟性とを統一した直観的悟性こそがヘーゲルのいう絶対精神の萌芽形態であるということも何となく理解できたが、やはりカントの認識論を全て把握できたとは全く言い難いところがある。来年以降、『純粋理性批判』を読んでいくこととなるので、言語学創出のためにも、カントが人間の認識をどのように捉えたのか、しっかりと理解して自分の実力にしていく必要がある。

 次回はいよいよ『哲学史』の最後の部分、フィヒテとシェリングを扱う。細かな部分に捕われて大きな流れを見失ってしまわないように、過去の例会報告も参考にして、しっかりと準備していきたいと思う。

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 今回の例会では、カント哲学を大まかにも把握したいと考えていた。それは来年度からカントの『純粋理性批判』を扱うからであるが、その目標は達成できたのではないかと感じている。つまり、なぜカントが物自体の世界と現象の世界という2つに区分したのか、またそれらを統一するためにどう考えたのかという点を大体理解できたということである。

 カントが物自体の世界と現象の世界という2つに区分したのは、ヒュームの問題提起(必然性や因果関係といったものは客観的に存在しないという主張)に答えるためである。カントは、物自体の世界は何の性質ももたないが、その物自体の世界から得た材料が我々の感性・悟性を通過した結果として、現象の世界が成立するのであり、この現象の世界こそ我々が見ている世界(客観的な世界)だとしたのである。この現象の世界は悟性がもつカテゴリー(因果関係や必然性などを含む)を通過しているからこそ、因果関係や必然性などは存在しているのだと主張したということであった。そして、この感性と悟性は共通の根から誕生するとして、その共通の根として「直観的悟性」という概念を打ち立てたのだが、これがのちにヘーゲルに引き継がれて、絶対精神へと昇華したということであった。

 また、理性とは一体何なのかという点について、感性や悟性は現象の世界に関わるのに対して、理性(理論理性・実践理性ともに)は物自体の世界に関わるものだということだった。そして、両者を統一するものとして、理性と悟性の間に判断力があるのだということだった。

 以上を図式化すると、以下のようになると思う。

物自体    理性
         \
          判断力
         /
現象     悟性
         \
          直観的悟性
         /
現象     感性


 このような形で、カント哲学を大まかに把握できたこと、またヘーゲル哲学へのつながりについて少し理解できたことがよかった。

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 今回の例会では、まず、カントの立場に立って、なぜ物自体論や二律背反論を構築しなければならなかったのか、その必然性をしっかりと掴むことが大切だと思った。哲学史は一つにつながっているのであり、カントならカントの時代状況で、それまで明らかにされてきたことや取り組まれたりしてきた問題が前提としてある。そこから出発して、新たな学説を打ち立てたのであるから、カントが身を置いていた世界をしっかり描いて、カントの立場に立って、カントの理論構築の過程を辿り直す必要があるだろう。なぜこのような一見当たり前とも思えることを再確認しているのかというと、今回の例会の途中で、私はカントがなぜ二元論に陥ってしまったのか、その必然性をきちんと理解できていないことが明らかになったからである。もう少しいうと、カントの出発点たるヒュームとカントの哲学のつながりを、すっかり忘却していたのである。

 ヒュームは、経験論の立場を徹底させ、必然性や普遍性などといったものは、客観的世界やその反映である感覚の中には含まれていないのであるから存在しない、単なる観念の連合にすぎないとした。カントはこのヒュームの考え方から出発して、確かに客観的世界や感覚の中には必然性や普遍性はないが、それが存在しているのは確実であるから、それは悟性が与えるものであるに違いないとして、純粋悟性概念たるカテゴリーを措定したのであった。つまり、必然性や普遍性は、認識の中にしか存在しないということである。しかし他方で、経験がなければ認識が成立しないことも明らかであるので、認識を成立させるスタート地点としての経験を認め、経験によって与えられた材料に、感性の純粋形式である時間・空間の枠組みが与えられ、さらにそれを悟性がカテゴリーに適合させることによって認識が成立する説いたのである。こうなると、われわれが必然性や普遍性が存在するものとして認識しているのは、われわれの認識が作り出した現象の世界でしかないということになり、真に客観的な存在たる物自体は認識することができないということになる。物自体には時間も空間もなく、当然に、必然性や普遍性もない。そのようなものをわれわれは認識することができないのである。このようにしてカントの二元論が成立したのであった。一見するとカントの物自体論や二律背反論は、常識からかけ離れた非常におかしな論である。しかし、カントの立場に立って、その前提であったヒュームからの発展を考えると、この論は必然性のあるものだということが分かる。このように、それぞれの哲学者の立場に立ち、その哲学者が見ていた世界や前提としてた先行学説をしっかりと踏まえたうえで、その哲学者の学説の成立する必然性を押さえることが大切だと、再確認したことであった。

 さらにカントからヘーゲルへの流れとして、この二元論を克服するための取り組みであるということも大切だと感じた。カント自体が、この二元論を克服するためのヒントいうか、基本的発想を出してはいる。感性と悟性の共通の基盤としての悟性的直観や、悟性と理性の間にあるとされる判断力などの概念がそれである。一方では、必然性が支配する自然の世界たる現象界があり、他方では、自由が支配する物自体界がある。理性とか自我とかいったものは、物自体界の住人でもあるという捉え方のようである。ここをどう統一的に説き切るのかという格闘の歴史が、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルへと発展するドイツ観念論の歴史といっていいのであろう。こういう観点を忘れずに、次回の例会に臨みたいと思う。

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 今月は、チューターにあたっていたわけだが、その役割を果たす以前に、毎月継続して行ってきた『哲学史』の要約作業に、思った以上に時間とエネルギーを費やすことになってしまった。読めば何となく分かるのだが、その要点を短くまとめる上でどういう言葉を選択していけばよいのか、『哲学史』のこれまでの部分以上に、難しさを感じた。とくにカントの部分は大変であった。

 各自から出された論点の整理にあたっては、論点3に多くのテーマを詰め込み過ぎて、3つの論点の間のバランスが少々悪くなってしまったのは反省点である。整理した論点への自身の見解の執筆も、ヘーゲルがカントの議論に沿って展開している中身に沿ってまとめていくと、相当な分量になってしまってなかなか大変であった。それでも、丁寧に見解を書いていくなかで、ヘーゲルがカントの二元論を如何にして一元論にしようとしたか、より具体的には、カントの直観的悟性とヘーゲルの絶対精神が繋がるものであることが、次第に鮮明になってきた感があった。

 なお、見解の執筆に際しては、自身の過去のブログ掲載論稿「ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたのか」を読み直してみたが、非常に得るところがあった。自分自身が書いた文章を繰り返し読んでしっかりと血肉化していく事の大切さを改めて痛感した。

 各自から出された見解の整理については、特に問題なく行えたのではないかと思う。当日の議論も含めて、ヒュームとカントとの関係、カントが二元論に陥ってしまった必然性、二元論を克服する可能性を秘めていたはずの直観的悟性という着想等々について、研究会としての共通認識にすることができたのではないかと思う。

(了)
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2016年11月02日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(9/10)

(9)論点3:カントの実践理性批判、判断力批判とはどういうものか

 前回は、第二の論点、すなわち、カントの理論理性批判とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、カントが物自体は何らの矛盾ももたず、いわゆる二律背反は自我の側(我々の心のなか)にあるものだとしたこと、こうしたカントの主張をヘーゲルが批判して、物自体は矛盾しており、この矛盾を原動力として全世界は運動・変化・発展しているとしたこと、カントにおいて自我の側にあるとされた矛盾が、ヘーゲルにおいてそもそもは世界(物自体)の側にあるとされるためには、カントによって示唆された直観的悟性という発想をヘーゲルが徹底して突き詰めて絶対精神(自我=世界)という発想に到達する必要があったことなどが議論されました。

 さて、今回は、第三の論点、すなわち、カントの実践理性批判、判断力批判とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 ヘーゲルは、カントの実践理性への批判について、どのように説明し、どのような評価を与えているのか。また、カントの判断力への批判について、どのように説明し、どのような評価を与えているのか。これらのことを踏まえつつ、ヘーゲルは、カント哲学の全体についてどのように総括しているか。ヘーゲルの立場からすれば、カント哲学は、どのような前進を成し遂げ、どのような課題を後に残したといえるのであろうか。ヤコービの哲学とカントの哲学との共通点と相違点は、ここにどのように関わるか。
 唯物論の立場からすれば、カントの実践理性への批判、および判断力への批判について、どのように評価することができるか。また、カント哲学の全体については、どのように評価することができるか。


 カントの実践理性批判へのヘーゲルの評価については、事前に提出された各メンバーの見解の間に大きな捉え方の相違はありませんでした。簡単にいえば、道徳的存在としての人間を自由であるとしたことの意義を認めつつ、道徳的な自由の法則と自然界における必然の法則とを別物(二元論!)として出発してしまったために、両者の現実的な統一がありえなくなってしまったことを限界として指摘する、というのがヘーゲルによるカント実践理性批判への評価だということになります。

 カントの判断力批判へのヘーゲルの評価についても、事前に提出された各メンバーの見解の間に大きな捉え方の相違はありませんでした。簡単にいうならば、カントのいわゆる判断力とは、感性的なものとしての自然概念の領域と超感性的なものとしての自由概念の領域とを合目的性という概念によって統一しようとするものであるわけですが、ヘーゲルは、概念と実在との統一を表明しても、ただ概念の側面を掲げるだけで終わってしまっている、と否定的な評価を与えているのでした。「ただ概念の側面を掲げるだけ」というのは、カントがいくら概念と実在との統一を主張しても、それは主観的にはそう見えるということでしかなく、それ自体(実在)が実際のところどうなっているかは我々にはつかみようがない、という見解にとどまっていたことを指しています。この点に関わっては、ヘーゲルが、概念と直観を唯一の統一としてもつ直観的悟性こそ我々がわがものとすべき思想である、と力説していることも指摘されました。カントが十分には展開することができなかった直観的悟性こそ、思惟することによって世界自体を生み出す絶対精神の萌芽的形態であることを、確認しました。

 ヘーゲルの立場からのカント哲学の全体への評価については、カント哲学が二元論(物自体の世界/現象の世界)にとどまってしまい、この矛盾を解決できなかったことが批判されている、ということで、事前に見解を提出したメンバー間に意見の相違はありませんでした。この点に関わって、あるメンバーは、カントの二元論をバークリーやヒュームの主張と対比させつつ、普遍的なるものとか概念とか対象の構造とか法則性とかいうものも、我々が見ている世界(現象の世界)に間違いなく含まれていると指摘したことこそがカント哲学の意義だとされている、とも指摘していました。こうした指摘について、チューターは、普遍的なるものや法則性などを主張するために二元論を打ち立てなければならなかった、すなわち、物自体の世界とは別個に、自我の側から能動的に創出される現象の世界の存在を仮定するほかなくなってしまった、ということを押えておくことが重要であろう、というコメントがなされました。また、カント哲学の全体が三段構造の図式(定立、反定立、総合)によって貫かれている点が評価されている、という指摘もなされました。ただし、こうした三段構造の図式が、概念の必然的な展開としては捉えられず、諸契機がバラバラのままであった(自己を意識しつつ区別するものとしての精神の概念的把捉に至っていない)ことが批判されていることには注意が必要だ、というコメントがチューターからなされました。

 ヘーゲルが説くヤコービとカントの共通点と相違点としては、ともに神が認識されないと主張している点は共通するものの、そのような結論に至る過程も、そもそもの出発点も異なっていた、ということが確認されました。ヤコービは、フランス哲学(諸々の具体的なものが展開する此岸の世界に対する彼岸の存在として、抽象的・無内容な神が位置づけられました)とドイツ形而上学から出発し、範疇(カテゴリー)がそもそも制約されているから、絶対者は認識できるものではないのだと考えました。これに対してカントは、ヒュームの懐疑論(必然性などは実在するものではなく、原因と結果の法則などは習慣にもとづく主観的な信念にすぎない、とされました)から出発し、認識に備わった範疇(カテゴリー)そのものは制約されているわけではないが、現象界を創造する主観的なものでしかないから、(現象界とは区別された)客観的な物自体の世界の存在である絶対者を認識することはできないのだ、と考えたのでした。

 最後に、カントの実践理性批判および判断力批判、またカント哲学の全体を唯物論の立場からどのように評価すればよいか、という問題について議論しました。実践理性批判については、人間の認識の能動性、人間の主体性(=自由)ということを認めようとしたものであり、その社会的な背景としては、後進地域ドイツにおいて、自由を現実の世界のなかに実現するよりも以前に、観念の世界のなかで深めていくという過程が進行した、ということができるのではないか、という指摘がなされました。この点に関わっては、カントの両親がルター派の敬虔主義であり、その影響でカント自身も敬虔なルター派であったことが、道徳律に尊敬の念を抱くべしとの彼の思想に反映しているといえるのではないか、という意見も出されました。また、カント哲学の全体については、現象の世界(自然、必然)と物自体の世界(自由)という全く別個の(絶対的に区別される)2つの世界を前提としてしまったことが大きな制約となっており、判断力というのは、物自体の世界(自由)と重なり合うようなものとして現象の世界を把握できないものであろうか、という課題の解決に向けた苦闘の産物にほかならない、という指摘がされました。こうした指摘を踏まえつつ議論した結果、現象の世界と物自体の世界という二元論は一元論に解消されなければならないこと、全ては精神(絶対精神)の産物だとして、いわば物自体の世界の側から一元論化しようとしたのが観念論者ヘーゲルであるとすれば、我々の唯物論の立場からは、全ては物質の発展の流れのなかでの産物であるとして、いわば現象の世界の側から一元論化しなければならないことを確認しました。

 以上で、論点3をめぐる議論については、一応の区切りをつけました。
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2016年11月01日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(8/10)

(8)論点2:カントの理論理性批判とはどういうものか

 前回は、第一の論点、すなわち、ヤコービの哲学とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、ヤコービが思惟(媒介知)と信仰(直接知)を絶対的に対立させてしまったことに対して、ヘーゲルがあらゆる知は媒介的である(過程)と同時に直接的なものである(結果)、と主張していることについて、そもそもヘーゲルの考える知とはどういうことなのか、ということを踏まえつつ、議論したのでした。

 さて、今回は、第二の論点、すなわち、カントの理論理性批判とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。


【論点再掲】
 ヘーゲルは、カントによる理論理性への批判について、どのように説明し、どのような評価を与えているのか。カントの物自体論および二律背反論から、ヘーゲルの絶対精神を核心とする哲学体系がどのようにして導かれることになったのであろうか。
 唯物論の立場からすれば、カントの理論理性への批判について、どのように評価することができるか。


 まず、カントの理論理性批判についてのヘーゲルの評価から、確認していきました。各メンバーが事前に提出した見解を比べてみれば、ごく簡単にまとめているか、より詳しくまとめているかの違いはあるものの、捉え方の大きな相違というものはないであろう、というコメントがチューターからなされました。総論的に大切なポイントとしては、そもそもカントが理論的意識を感性・悟性・理性の3段階に分けたことについて、ヘーゲルはこうした分け方はもっぱら経験的なもので、概念の必然的な展開というものにはなっていない、と批判していることが指摘されました。このことを踏まえた上で、カントが感性・悟性・理性についてそれぞれどのように説いていたかを確認しつつ、ヘーゲルが批判しているポイントについても押えていきました。箇条書きレベルで列挙すれば以下のようになります。

 感性をめぐっては、カントが、経験によって与えられた材料は感性の純粋形式である時間と空間の枠組みで取り込まれる、としていることを確認しました。その上で、ヘーゲルが、時間空間が感性の純粋形式だとされるだけで、そもそも時間空間とは何なのか、という問題が突っ込んで検討されていない、と批判していることを確認しました。

 悟性をめぐっては、カントが、感性が時間空間の枠組みのなかに受け入れた材料は悟性の普遍的思惟規定であるカテゴリーと結合させられることで、はじめて認識として成立する、としていることを確認しました。その上で、ヘーゲルが、カントのいわゆるカテゴリーはただ経験的に取り上げられたものにすぎず、経験は結局のところ現象しか捉えられないとされてしまったことを批判していることを確認しました。

 理性をめぐっては、カントが、カテゴリーは悟性の対象たる有限的な存在には適用できるものの、理性の対象たる制約されないものに適用しようとすると、4つの二律背反に陥ってしまう、と論じていたことを確認しました。その上で、ヘーゲルが、二律背反はカントが示した4つに限らずどんな概念のうちにも見出せること、カントにあっては物自体が矛盾するのではなく、心のなかにしか矛盾はないとしてしまったことを批判していることを確認しました。

 また、感性と悟性との共通の根源として直観的悟性なるものがあるはずなのに、このことを明確に理解しきれていないことについても、批判的に言及されていることを確認しました。この直観的悟性をめぐっては、いわば(自己が)想像することによって(世界を)創造するものであり、自我と物自体との二元論を克服する可能性を秘めたものとして、ヘーゲルの絶対精神の萌芽的形態ともいえるものなのではないか、という指摘もなされました。

 カントからヘーゲルへの道に関して、各メンバーが事前に提出した見解においては、カントにおいて主観的なものだとされた二律背反(=矛盾)は、世界そのものがもつものであり、この矛盾を原動力として全世界は運動・変化・発展しているという発想をヘーゲルは抱いたのだ、といったことが共通して指摘されていました。チューターからは、自我の側にあるとされた矛盾が、そもそもは世界(物自体)の側にあるとされるためには、カントによって示唆された直観的悟性という発想を徹底して突き詰めて絶対精神(自我=世界)という発想に到達する必要があったことを、しっかりと押さえておく必要があるのではないか、というコメントがなされました。

 なお、カントの二律背反については、ヘーゲルの扱いが非常にあっさりとしていることが意外であった、という感想も出されました。このことは、「カントの『物自体』論、『二律背反』論は本当はその成立過程の論理構造こそが大事であるのに、すなわちここは学問レベル、論理学レベル、哲学レベルでその構造の成立過程をとらえかえさなければならないのに、『物自体』論を事実レベルにおとしめて批判したヘーゲル(『大論理学』〔先験的観念論の物自体論〕)も含めて、そこをなすことをしなかったばかりに、多くの学者たちは哲学者カントの実力をずいぶんと低くみてしまったものだ」(『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第二巻』p.367)とされていることに関わるのではないか、との意見も出されました。

 カントの理論理性批判への唯物論の立場からの評価ということについては、カントのいわゆるカテゴリーが「論理」にほかならないこと、すなわち、感性的な素材が与えられても、論理がなければきちんとした像は結ばないということをカントが指摘したことは高く評価するに値する、ということが確認されました。ここでいう論理とは、諸対象に共通する性質に関する像(例えば、鉛筆、ボールペン、万年筆という諸対象から「筆記用具」という共通性を抽象した像)のことです。このような論理という像がすでに我々のアタマのなかに(自我に)存在しているからこそ、我々は、現実の世界の姿をそれなりの秩序をもったものとして反映することができるわけです。アタマのなかにそういう論理がなければ、私たちは次々と出会う諸々の対象の無限の変化性、無限の多様性に振りまわされてしまい、完全な混乱状態に陥ってしまうでしょう。カントの議論はこの点を極めて鋭く指摘したものであり、認識論史上、特筆すべき成果であるといわなければならない、ということになりました。

 同時に、カントが、時間・空間の概念や諸カテゴリーについて、あらゆる経験に先だって認識にもともと備わっているもの(先験的な、純粋なもの)だ、としてしまった点は唯物論の立場からは批判の対象となる、という指摘もなされました。カントは、個々の具体的な認識は経験によってしか成立しない、と主張した点では唯物論(世界は永遠の昔から物質的に統一されたものとして存在していたのであり、精神は物質の特殊なあり方としてある時点で創造されたのだ、とする世界観)的であったといえるが、その大前提として、そもそも経験的認識が成立するための条件が認識の側にもともと備わっている(客観的世界は認識の側の条件によって創造される)、としてしまった点で、結局は観念論(物質的な世界はある時点において精神的存在によって創造されたものである、とする世界観)の立場をとったのだ、ということもできます。唯物論の立場からするならば、時間・空間の概念も、カントのいわゆる12のカテゴリーも、すべて具体的な諸経験(対象の反映)を出発点にして、そこから何重にも抽象化の過程を積み重ねていくことによって成立したものだ、と捉えられなければなりません。しかし、このような難点はあるにしろ、認識が対象のたんなる受動的な反映として成立するのではなく、あくまでも能動的な問いかけによってこそ成立するものであることを鋭く解明した点においては、カントの理論理性批判は不朽の意義をもっているといえるのではないか、ということになりました。

 なお、唯物論の立場からの評価をめぐっては、カントが認識内において矛盾は避けられないということを指摘した点も唯物論の立場から評価できるのではないか、という意見も出されました。しかし、この意見については、カントが認識内の矛盾を云々せざるをえなくなったのは、世界そのものが矛盾していることを認められなかったからであり、物自体(対象)と自我(認識)とに絶対的な壁を設けてしまったからではないか、という指摘がなされました。すなわち、唯物論の立場からすれば、カントにおいて、物自体(世界)の反映として認識が成立するという関係が否定されてしまったことが批判の対象とされるべきではないのか、ということです。この意見を提出したメンバーも、大筋においてこうした批判を受け入れました。

 以上で、この論点2をめぐる議論については一応の区切りをつけました。
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2016年10月31日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(7/10)

(7)論点1:ヤコービの哲学とはどういうものか

 前回まで、ヘーゲル『哲学史』のうち、ヤコービおよびカントについて論じられている部分の要約を提示し、その内容を踏まえて出された論点を紹介しました。今回からは、それらの論点に関わってどのような議論がなされたかを紹介していくことにします。

 今回は、第一の論点、すなわち、ヤコービの哲学とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 ヘーゲルは、ヤコービが「信仰を思惟に対立して登場させる」(p.66)というが、これはどういうことか。また、これに関連してヘーゲルは、「媒介された知と直接知との対立」について言及しているが、これはどういうことか。両者の関係について、より根本的にいえば、そもそも「知」ということについて、ヘーゲルはどのように考えていたのであろうか。
 唯物論の立場からすれば、ヤコービの哲学はどのように評価できるか。


 まず、信仰と思惟の対立という問題から、確認していきました。この問題をめぐっては、事前に各メンバーから提示されていた見解に、大きな食い違いはありませんでした。簡単にまとめれば、次のようになります。すなわち、色々な根拠をもってきて、これがこうだからあれがああなって……と筋を通していくのが思惟ですが、絶対者である神はそのようなやり方では把握できません。絶対者である神は確実に存在するのだ、と直接に把握するしかありません。これがヤコービのいわゆる信仰であり、直接知であり、内的な啓示である、ということでした。この点に関わっては、ヘーゲルが、直接知としての啓示は神学的意味としての啓示とは異なる、としているのも重要だろう、という指摘がなされました。直接知としての啓示は我々自身のなかにあるのだが、教会は啓示を外から伝えられるものだと考える、というわけです。歴史的にいえば、ルターによる宗教改革を通じて、人間が教会の権威から主体性を取り返したという経過があってこその主張といえるのではないか、という意見も出されました。

 媒介された知と直接知との対立との問題についても、大きな見解の相違はありませんでした。端的にいえば、信仰が直接知、内的な啓示であり、思惟というのが媒介された知である、ということです。また、ヘーゲルが、直接知と媒介知を絶対的に対立させるヤコービの見地を厳しく批判したということについても、全員が一致して指摘していました。ヘーゲルの批判の要点は、直接知のみならず媒介知も、結局のところは、自我(自己意識)に対するものとしての絶対的存在を、自己自身と直接に同じものにしようとしている、と指摘した点ではないか、というものでした。とりわけ、思惟は絶対者を思惟するとき直接に絶対者自身になっている、というヘーゲルの主張は、思惟によっては絶対者を把握することができないというヤコービに対する批判の重要なポイントとして押さえておくべきではないか、という指摘もなされました。

 結局、ヘーゲルは、信仰も思惟も同じように知なのである、と主張していることになるわけですが、ここで、ヘーゲルのいわゆる知とはそもそもどういうことなのか、ということが問題になりました。これについては、絶対的存在(世界の本質的な原理)を人間が直接に自分と同じものとして捉える、ということにほかならない、という見解が提示されました。ヘーゲルにおける知とは、現実の世界と観念の世界とをピッタリと重ねてしまうことにほかならず、そのためには、世界の本質としての神を自己自身として自覚すること(神とは精神であり、人間もまた精神である、と自覚すること)がカナメとなるのだ、というわけです。この見解に対しては、「ピッタリ重ねてしまう」とはどういうことか、無限に多様な世界を人間は認識しつくすことはできない、「どこまでいても近似的」(『弁証法はどういう科学か』p.139)という三浦つとむの主張との整合性はどうなのか、という疑問が出されました。この疑問に対しては、唯物論の立場からすればそういう疑問の余地はあるにしても、ヘーゲルの観念論の場合は、文字通り、世界=自己という図式が成立するので、まさに「ピッタリと重ねてしまう」ということになるのではないか、また唯物論の立場でも、あたかも自分=世界という図式が成立するかのように、世界の全てをあたかも自分自身のようによく分かるという状態が知(=学問)の完成形態だといい得るのであって、これは世界のあらゆる現象の隅々まで脳細胞に鮮明に反映させるというのとは別次元の問題ではないか、という意見が出されました。疑問を提示したメンバーも、大筋で納得しました。ヘーゲルにおける知ということについては、「知というものは、体系的に組み上げられた全体としてこそ真理であるといえるのであり、その部分も、全体の中にしっかりと位置付けられているのが、本来の知のあり方である」という見解もなされました。これはこれで重要な指摘であることを確認しました。

 ヘーゲルが、あらゆる知は直接知であると同時に、媒介された知でもあるのだ、という立場を強調していることについては、事前に見解を提示した全てのメンバーが一致して指摘していました。ごく簡単にいえば、直接性というのは結果であり、そのためには過程すなわち媒介が必要である(例えば、人間が神を精神であると直接に知るのは、本質的には教説により長く継続された教養によって媒介された結果であることは明らかである)、ということです。こうしたヘーゲルの指摘は、「媒介と同時に直接性を含んでいないものは、天にも、自然にも、精神にも、どこにも存在しない」(『大論理学』)という論に通じるものであろう、という指摘もなされました。


 ヤコービの哲学への唯物論の立場からの評価については、チューターのみが見解を提示していました。まず、社会的歴史的条件についていえば、カントと並んで、経済的・政治的に後進地域であったドイツにおける観念論哲学の大きな発展のきっかけをつくったといえるのではないか、ということでした。より詳しくいえば、19世紀に入ってなお封建的色彩の濃い領邦国家の分立状態にあったドイツは、政治的・経済的変革を通じて現実世界のなかに自由の理念を実現していったイギリスやフランスに強烈な憧れを抱きながらも、みずから同じように自由を現実世界のなかに実現することがかなわなかったために、それをまずもって観念の世界で発展させていく(理論的に考察して深化させる)という歩みを進めていくことになった(これが結実したのがドイツ観念論哲学)のであり、その歩みの発端に位置付けられるのがヤコービとカントである、ということです。哲学の内容という面からみたヤコービの意義としては、この世界の絶対的本質についての把握が可能であるという信念を、いささか強引な形であったにしろ、明確に打ち立てたということが指摘できるのではないか、ということでした。また、限界としては、まさにその強引さが問題で、経験(対象の反映)をもとにした思惟による媒介を否定してしまったという点で、観念論的というほかないないのではないか、ということでした。

 以上のようなチューターの見解そのものについては、大きな異論は出されなかったものの、そもそも唯物論の立場から哲学史の大きな流れを描く際に、ヤコービがそれほど重要な存在として浮上してくるものなのか、という疑問が提示されました。この疑問をめぐっては、カントと対になる存在としては、やはりそれなりの位置を占めることになるのではないか、という意見も出されましたが、何らかの結論を出すところにまでは至りませんでした。ともかく、我々自身の手で、唯物論の立場から、ヘーゲルに匹敵するレベルで哲学史の流れを描いていかなければならないのだ、という課題を改めて明確に確認したところで、この論点1をめぐる議論に一応の区切りをつけました。
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2016年10月30日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、ヘーゲル『哲学史』のうち、ヤコービおよびカントについて論じられている部分の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところをふり返っておくことにしましょう。

 まず、ヤコービの哲学についてです。ヘーゲルは、ヤコービについて、絶対的な存在を認識することはできないという結論はカントと同じであるものの、その出発点も結論に至る過程も異なると説いていました。ヤコービにおいて、認識とは、対象を何ものかに条件付けられたものとして把握することだとされるので、媒介されたもの(条件づけられたもの)しか認識することはできない、ということになる、というわけです。ここからヤコービは、何ものにも制約されない絶対者たる神は認識できないのであり、絶対者たる神は内的な啓示によって直接に知ることができるだけである、としたのでした。このように、ヤコービにおいては、信仰(直接知)と思惟(媒介された知)とが対立させられたわけですが、ヘーゲルはこれを厳しく批判していました。ヘーゲルによれば、全ての直接知は媒介性を含んでいる、ということになるのです。我々が直接に知ることは、無限に多くの媒介を経た結果なのだ、というわけです。ヘーゲルは、このようにヤコービを批判しながらも、人間精神が直接に神について知るという命題のなかには、人間精神の自由の承認であるという偉大なる点が含まれている、という肯定的な評価も与えているのでした。

 続いて、カントの哲学についてです。カント哲学の全般的な特徴として、ヘーゲルは、@普遍性や必然性を否定したヒュームの議論を受け止めつつ、普遍性と必然性は思惟のなかに存在するとしたこと、A認識する前に認識能力を認識すべきだとしたこと、Bアプリオリな総合判断は思惟によって与えられる関係で関係づけることだとしたことを挙げていました。ヘーゲルは、認識する前に認識能力を研究しなければならないというカントの主張について、泳ぐことができるようになるまでは前もって水に入ろうとしないようなものだ、と厳しく批判しつつも、認識能力そのものを研究の対象として設定したことについては、カントのなした偉大な一歩であったと評価していました。

 カントの純粋理性批判に関わってヘーゲルは、理論的意識の三段階区分――感性、悟性、理性――が、もっぱら経験的になされたもので概念の必然的な展開としては把握されていないと指摘していました。その上で、三段階のそれぞれについてのカントの議論を検討していました。カントによれば、経験によって与えられた材料は、感性の純粋形式である時間と空間の枠組みで取り込まれ、悟性の普遍的思惟規定であるカテゴリーと結合することで、はじめて認識が成立します。カントによれば、このようにして認識できるのは、物自体ではなく現象です。カントによれば、カテゴリーは悟性の対象たる有限的な存在には適用できるものの、理性の対象たる制約されないものに適用しようとすると、4つの二律背反に陥ってしまいます。カントはこの二律背反について、物自体ではなく主観の側に存在するものだとと説きました。

 ヘーゲルは、こうしたカントの議論について、時間空間の本来の性質やカテゴリーの必然性を問題にしていない点を批判していました。また、純粋感性と純粋悟性との共通の根に位置付けられる直観的悟性について、突っ込んだ考察がなされていない点をも批判していました。さらに、カントの二律背反論については、二律背反の必然性を指摘したことを高く評価しつつ、矛盾はただ我々の思惟のなかにあるもので物自体は矛盾していないのだとしてしまったことを批判していました。

 カントは、実践理性批判において、対象を必要とする理論理性は自立できなかったが、実践理性は内部で自立した存在であり、人間は道徳的存在としては、全ての自然法則や現象を超えて自由である、と説いていました。この実践理性批判について、ヘーゲルは、カントが自己意識の本質をなす事柄を絶対的な法則とみなし、そこに全てを集約していったことをこの上なく重要な視点であると高く評価していました。自由こそが人間の行動を支える究極の心棒とされたことは偉大な進歩であった、というわけです。ただし、その自由が抽象的で無規定であることが指摘され、自然のうちに理性の目的が実現されるべきということから神の存在が要請されるものの、必然性の法則と自由の法則は別のものであるという二元論が前提される以上は自然と善との統一は決して現実にはなりえず、神は単なる信念以上のものにはなりようがない、と批判されていました。

 カントは、判断力批判において、自然と理性、必然と自由の統一を実現するのが判断力の理念であり、美と有機的生命が判断力の対象である、としていました。ここでカントは、直観の完全に自発的な能力が悟性と一体化した直観的悟性を考えていたのですが、ヘーゲルはこのことを高く評価して、これが叡智の原型であり、我々がものにすべき思想であると力説していました。

 ヘーゲルは、カント哲学の全体について、結論的に、二元論に終わるものだと批判していました。しかし、全体を三段構造の図式によって貫いた(批判を3つに分かれており、カテゴリーもまた4×3という形になっている、など)ことについては、高い評価を与えていました。カントは認識の、学的運動のリズムを普遍的図式として描き、至るところで定立・反定立・綜合という精神のあり方を樹立した、というわけです。ただし、これらの諸契機がバラバラなままで、概念の必然的な展開としては把握されていない、ということが指摘されていました。

 2016年10月例会の場では、おおよそ以上のような内容に関わっての報告を受けて、参加したメンバーから諸々の意見・論点が提起され、議論がたたかわされました。これから、その内容を、大きく3つの論点に沿って整理した上で、紹介していくことにします。今回はその3つの論点を紹介し、次回以降、討論の具体的な内容を紹介していくことにします。

1、ヤコービの哲学とはどういうものか
 ヘーゲルは、ヤコービが「信仰を思惟に対立して登場させる」(p.66)というが、これはどういうことか。また、これに関連してヘーゲルは、「媒介された知と直接知との対立」について言及しているが、これはどういうことか。両者の関係について、より根本的にいえば、そもそも「知」ということについて、ヘーゲルはどのように考えていたのであろうか。
 唯物論の立場からすれば、ヤコービの哲学はどのように評価できるか。

2、カントの理論理性とはどういうものか
 ヘーゲルは、カントによる理論理性への批判について、どのように説明し、どのような評価を与えているのか。カントの物自体論および二律背反論から、ヘーゲルの絶対精神を核心とする哲学体系がどのようにして導かれることになったのであろうか。
 唯物論の立場からすれば、カントの理論理性への批判について、どのように評価することができるか。

3、カントの実践理性、判断力とはどういうものか
 ヘーゲルは、カントの実践理性への批判について、どのように説明し、どのような評価を与えているのか。また、カントの判断力への批判について、どのように説明し、どのような評価を与えているのか。これらのことを踏まえつつ、ヘーゲルは、カント哲学の全体についてどのように総括しているか。ヘーゲルの立場からすれば、カント哲学は、どのような前進を成し遂げ、どのような課題を後に残したといえるのであろうか。ヤコービの哲学とカントの哲学との共通点と相違点は、ここにどのように関わるか。
 唯物論の立場からすれば、カントの実践理性への批判、および判断力への批判について、どのように評価することができるか。また、カント哲学の全体については、どのように評価することができるか。
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2016年10月29日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(5/10)

(5)ヘーゲル『哲学史』カント〔実践理性批判、判断力批判〕 要約

 前回は、カントの理論理性批判についてヘーゲルが論じている部分の要約を紹介しました。そこでは、ヘーゲルが、カントによる理論的意識の三段階区分――感性、悟性、理性――について、もっぱら経験的になされたもので概念の必然的な展開としては把握されていないと批判していたこと、カントの二律背反論において、矛盾はただ我々の思惟のなかにあるものであって、物自体は矛盾していないのだとされたことを批判していたことなどをみました。

 さて、今回は、カントの実践理性批判、判断力批判について、ヘーゲルが論じている部分の要約を紹介することにしましょう。

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2、〔実践理性批判〕

 意志の本性とその原理を考察するのが実践理性批判であり、そのなかでカントは意志は本来的に自由だというルソーの規定を取り上げている。対象に関係する理論理性はついに自立性には到達しない。これに反して、理性が自己内において自立的になるのは実践理性としてである。道徳的存在として人間は自由であり、一切の自然法則一切の現象を超えた高みにある。
 実践理性における第一の要請は、自己自らを規定する独立の自由意志である。自己意識にとって本質的な存在、法則や自体として妥当するものを自己意識自身のなかに帰着させたことは、カント哲学のこの上なく重大な規定である。自由は人間がそれを究極の軸として回転するものであり、何ものによっても左右されない究極の尖端であり、したがって、人間は何らの権威をも認めず、人間の自由が尊重されない限りは彼に何らの責任も負わすことはできないという原理が樹立されたことは、大いなる進歩である。しかし、この原理にカント哲学は依然として立ち止まってしまった。この自由は、自己自身との一致ということでしかなく、無規定的で無内容である。
 第二は、意志の概念と個人の特殊的意志との関係である。ここで具体的な点は、私の特殊的意志と普遍的意志とが同一であることである。しかし、そこでは何が道徳的であるかは語られず、自己を実現する精神の体系についても何ら考えられていない。むしろ理論理性が感性的対象に対立させられるように、実践理性は依然として実践的感性たる衝動や傾向性に対立させられる。道徳性とは普遍的意志によると特殊的な意志(感性的なもの)の規定だとされるから、道徳的意志の目標はただ無限の進行においてのみ達せられるという結果になる。そのことに基づいてカントは魂の不死を要求する。
 第三は最高の具体的なるもの、すなわち全ての人間の自由の概念である。したがって自然界も自由の概念と調和的にあるべきことが要求される。それこそ神の要請にほかならない。意志は全世界(感性の全体)を自己と対立させるが、理性は世界の究極目的たる善の理念として道徳律と自然との統一に迫ろうとする。カントは、神の存在を、道徳律が神聖だという考え、また自然のうちに実現される理性の目的のために要請するのである。こうした要請は、あるがままの矛盾を成立させ、ただその解決の抽象的当為のみを表明するにとどまるものである。必然性の法則と自由の法則は別のものであるという二元論のなかにおかれる限り、善は自然に対して彼岸にあり、自然が善の概念に適合するなら、もはや自然ではなくなる。両者の統一を立てることは当然に必要なのだが、両者の分離が前提される以上、統一は決して現実にはならない。神はカントにとっては単なる信念、あて推量にすぎず、単に主観的にとどまり即自且対自的な真理ではない。

3、〔判断力批判〕

 判断力批判には、統一の理念を現在的なものとして立てようという要求が登場してくる。感性的なものとしての自然概念の領域と、超感性的なものとしての自由概念の領域との間が隔絶しているにしても、自由概念はその法則によって課せられた目的を感性界に現実化すべきであり、したがって自然はその形式の合法則性が自由法則によって自然のなかに働く目的の可能性に一致するように考えることができなければならない。反省的な判断力は、自由であると同時に合法則的な必然性の理念またはその内容と直接一つになっている自由の理念を原理とする。判断力の原理は、経験的諸法則一般の下にある自然の諸事物の形式に関していえば、その多様性における自然の合目的性だということになる。換言すれば、この合目的性という概念によって、あたかも悟性のなかに自然の経験的諸法則の多様が統一される根拠があるかのように自然は表象されるようになる。反省的判断力の原理は、形式的合目的性と実質的合目的性と二重になっている。判断力も一方で美的であるとともに他方で目的論的であり、前者は主観的合目的性を考察するものとして芸術作品における美を対象とし、後者は客観的・論理的合目的性を考察するものとして、有機的生命の自然産物を考察する。

a〔美的判断力〕 美的判断力の美は、対象の合目的的な形式が快の根拠として価値判断される場合に成立する。美的判断力において、普遍的なものと特殊的なものの没概念的な直接的統一がみられるが、カントはこの統一を主観においたために、それは制限を免れず、また概念的に把握された統一でないために、美的なものとしても一層低いものである。

b〔自然の目的論的考察〕 自然の目的論考察では、有機的な自然産物において概念と実在との直接的統一が対象的統一として直観される。しかし、こうした考察は外的目的観ではなく内的目的観(生物はそれ自身が目的であり、目的が外部におかれることはない)によって行われなければならない。カントによれば、有機体とは自然の機械性と目的とが同一になっているようなものである。こうして、普遍的概念が特殊的なものを規定するという具体的なものの表象がカント哲学のなかに入ってくるのであるが、しかしカントはこの理念をただ主観的な規定においてのみとりあげたから、概念と実在との統一を表明しても、ただ概念の側面を掲げるだけで終わってしまう。彼は制限を制限として立てた瞬間にその制限を止揚しようとはしない。それがカント哲学が常に犯す矛盾である。思想の豊かな富は、カントにあっては常にただ主観的形態においてのみ展開される。客観的なものは、カントによればただ自体のみであり、事物が自体において何であるかは我々には分からないのである。
 カントは、普遍的法則を与えることで等しく個別的なものを規定する直観する悟性の考えに到達しはする。しかし、この「叡智の原型」なるものが悟性の真の理念にほかならないことには、カントはついに思い及ばない。我々の悟性はそれと違って、分析的な普遍的なるものから特殊的なものへと進むように造られているから、というのである。にもかかわらず、概念と直観を唯一の統一としてもつ直観的悟性こそ、我々がわがものとすべき思想なのである。

c〔善〕 カント哲学において具体的なもののの表象が現われる最高の形式は目的がその全き普遍性において捉えられる場合であるが、この場合の目的こそ善にほかならない。総じて世界全般が善たるべきという絶対的要求が存在しているが、善と現実との同一という実践理性の要求は、主観的理性によっては実現されない。世界の究極目的としての普遍的な善は、第三のものとしての神によってのみ実現される。こうして判断力批判もまた神の要請をもって終わる。カント哲学においては、神は証明されないものの、要求されるのである。カントによれば神はただ信じられるにすぎず、この点でカントはヤコービと一致する。神を信じることは絶対者への復帰であるが、しかし神は何であるかの問題は依然として残る。

 こうしてカント哲学は二元論に終わる。すなわち、ただ本質的な当為にすぎない関係、不断の矛盾をもって終わるのである。しかし、自体において差別をもつ普遍的なるものというべきアプリオリな総合判断という普遍的な理念以外に、カントの本能は、没精神的とはいえ全体を三段構造の図式によって貫いた。批判を3つに分けたことのみならず、大抵の分類、範疇や理性理念等々の場合もそうである。カントは認識の、学的運動のリズムを普遍的図式として描き、至るところで定立、反定立、綜合という精神のあり方を樹立した。それによって精神は自己を意識して区別するものとして精神となるのである。第一は存在であるが、それは意識にとっては他在である。第二は、対自的存在、自己自身の現実性であり、ここで逆転した関係が現われ、自体に対する否定者たる自己意識が自己自身にとって本質的存在となる。第三は両者の統一であり、対自的に存在する自覚した現実性は、対象的な存在も対自的存在もそのなかに取り戻したあらゆる真の現実性にほかならない。こうしてカントは歴史的に全体の諸契機を示し、これを正当に指摘し区別した。カント哲学の欠陥は絶対的形式の諸契機が離れ離れになっていることにある。我々の認識が自体への対立を構成するが、当為を止揚すべき否定的なものが欠けており、それが概念的に把捉されていない。
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2016年10月28日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(4/10)

(4)ヘーゲル『哲学史』カント〔理論理性批判〕 要約

 前回は、カントの哲学についてヘーゲルが総論的に論じている部分の要約を紹介しました。そこでは、ヘーゲルが、認識する前に認識能力を研究しなければならないというカントの主張について、泳ぐことができるようになるまでは前もって水に入ろうとしないようなものである、と批判していたこと、一方で、認識能力そのものを研究の対象として設定したことはカントのなした偉大な一歩であったと評価していることをみました。

 さて今回は、カントの理論理性批判についてヘーゲルが論じている部分の要約を紹介することにしましょう。

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1〔理論的理性〕
 
 カントは純粋理性批判において、理論的意識の主要段階を叙述する。第一の能力は感性一般、第二は悟性、第三が理性である。以上は、概念からの発展として必然性をもって進行するものではなく、全く経験的にとりあげられたものである。

a、感性
 先験的なものの出発点は、感性におけるアプリオリなもの、感性の形式である。この感性についての論定を、カントは先験的感性論と呼ぶ。カントによれば、直観とは感性によって我々に与えられた対象の認識であり、感性とは外的なものとしての表象によって触発される能力にほかならない。直観には色や硬さや怒りや愛や快等々あらゆる種類の内容が見出されるが、こうした材料のなかにありながらそれとは別のものとして、空間と時間の規定が含まれる。空間と時間は純粋直観すなわち抽象的直観であり、その直観のなかにおいて我々は個々の感覚の内容を、あるときは時間のなかで前後に流れるものとして、あるときは空間のなかに並立するものとして、我々の外に置くのである。カントは、外的な物自体は時間空間を欠いており、それらが意識によって経験されることの制約として時間空間が加わるのだ、というように考える。そうであるならば、一体どうして、心はほかならぬ時間空間という形式的制約をもつのであろうか。しかし、時間空間の本来の性質は何かということは、カント哲学は全く問題にしないのである。

b、悟性
 感性は受動性であるが、思惟一般は自発性であるとカントはいう。悟性は感性から経験的な材料とアプリオリな材料(時間と空間)を得て思惟する。感性と悟性の双方が働いたときのみ、認識が姿を現わす。先験的論理学は、悟性がアプリオリにそれ自身においてもつ概念を掲げる。思想のもつ形式は多様を統一にもたらす総合的機能である。この統一は、先験的統覚たる自我・自己意識の純粋統覚作用であり、自我はあらゆる我々の表象に随伴するとされる。生硬な言い方だが、偉大で重大な認識である。
 自我が、表象一般の経験的材料を結合するのは、普遍的思惟規定たる範疇の先験的な本性である。カントによれば、12の根本範疇があり、これが3元をなす4つの組に分かたれる。@量の範疇…単一性・雑多性・総体性。A質の範疇…実在性・否定性・制限性。B関係の範疇…実体と偶有性・原因と結果・相互作用。C様態の範疇…可能性・現実性・必然性。カントが、第一の範疇は積極的であり、第二は第一を否定するもので、第三は両者の総合だといっているのは、概念の偉大なる本能である。しかし、カントは、これらの範疇を経験的にとりあげるだけで、統一からこれらの差別を必然性をもって発展させることには思い至らない。
 これら範疇はそれだけでは空虚であり、知覚や感情等々の与えられた多様な材料と結合してはじめて意味をもつ。感情または直観に属する知覚の材料はその個別性と直接性の規定のままに放置されず、むしろ私はそれに対して働きかけてそれを範疇によって結合し、普遍的類や自然法則等々に高めるのである。経験のなかにこれら2つの構成部分を見出すことは正当であるが、カントはこれに結び付けて、経験は単に現象を捉えるにすぎない、としてしまう。
 純粋悟性概念が如何にして現象に適用され得るかの可能性を示すのが、先験的判断力である。純粋直観を範疇にしたがって規定し、経験への移り行きをなすのは、純粋悟性の図式論であり、先験的構想力である。これによって先に絶対的に対立するとされた純粋感性と純粋悟性とが今や合一される。そこには直観的悟性あるいは悟性的直観が含まれるのだが、カントはそうは考えず、この思想をまとめ上げることはしない。

c、理性
 カントは悟性から出発して同じく心理学的に理性に向って進んでいく。理性はカントによれば、原理から認識する能力、すなわち、概念によって特殊的なるものを普遍的なもののうちに認識する能力である。悟性は有限的な関係における思惟であり、理性は制約されぬものを対象とする思惟であって、理性の産物は理念だとされるが、カントにおいてそれは抽象的な普遍的なるもの、規定されぬものにすぎない。
 この制約されぬものを具体的に把握することに真の困難がある。ここでカントは、理性は無限的なるものを認識しようとしつつそれを果たしえない、という。その第一の理由は、無限的なものは感性的知覚の世界には与えられない、ということである。しかし、そもそも無限的なものを感性的に知覚しようというのが誤りである。第二の理由は、理性が範疇という思惟形式以外のものをもたない、ということである。範疇は客観的規定を与えるが、それ自体においては主観的なものであり、ただ現象に適用され得るこれら範疇を無限的なものの規定に用いるならば、誤った推理と矛盾(二律背反)のなかに巻き込まれてしまう――これがカント哲学の重要な規定である。
 制約されぬものには、形式論理学の3つの理性推理――断言的・仮言的・選言的――にしたがって、3つの種類がある。第一は思惟する主観、第二は一切の現象の総体、すなわち世界、第三は思惟され得る一切のものの可能性の最高の制約を含むもの、すなわち神である。

(α)先験的主観の統一という必然的な理性理念が物としていいあらわされる点に、推理の誤謬が生じる。自我は自己自身のなかで持続的であるが、ただ意識のなかだけでそうなのであって、意識の外においてではない。我々が思惟するものについて表象をもつのは、外的経験によってではなく、単に自己意識によってである。自我が主観的であることは分かっても、我々が自己意識を超えてそれを実体であるというならば、我々は我々に正当に許された範囲以上に出ることになる。したがって、私は主観に何らの実在性をも与えることはできない。カントが自我について、感性的存在をもつ心的事物や死んだ持続体でないと主張するのは正当である。しかし、カントはこれと正反対の点、すなわち、この普遍的なるもの、または自己思惟としての自我が、彼が対象的あり方として望む真の現実性を自己自身に備えているということを主張しない。彼は、実在性とは感性的実在であるというような考え方を抜け切れていないのである。

(β)二律背反、すなわち制約されぬものの理念を世界に適用し、世界が諸制約の完全な総体であると叙述するときに生ずる矛盾。現象は有限であり、世界は制限されたものの連関であるが、もしこの理性の内容が思惟されて制約されぬもののうちに包括されると、有限と無限という相互に矛盾する2つの規定が生じる。カントは4つの矛盾を指摘するが、本当はあらゆる概念のなかに二律背反があるのである。

 (αα)二律背反の第一。「定立 世界は時間において始めと終わりがあり、また限られた空間内にある。反定立、世界は時間において始めも終わりもなく、また空間においても限りがない」。カントは両方とも充分に証明され得るという。
 (ββ)第二の二律背反。定立は「合成された実体はいずれも単一な部分からなる」、反定立は「単一なるものは存在せず」。
 (γγ)第三の二律背反は自由と必然性の対立である。
 (δδ)第四の二律背反。一方において、総体が完結するのは出発点として自由というものがあるか、世界の
原因として絶対的必然的存在があるかいずれであるが、いずれにしても当然に進行は中断される。しかし他方において、自由に対しては原因結果の制約による進行の必然性が対立し、必然的存在に対しては一切が偶然であるということが対立する。すなわち「世界には端的に必然的な存在がある」、その逆は「世界の部分としても、世界の外にも端的に必然的な存在は存在しない」。

 これらの矛盾の必然性こそ、カントが我々に意識させた興味ある側面である。しかし、彼はこれら二律背反を、先験的観念論に独特な意味においてしか解かず、物自体はこのように矛盾するものではなく、この矛盾はその源をただ我々の思惟のなかにもっている、としてしまう。

(γ)カントは次いで神の理念に達する。これをカントは、たんに一切の可能性の総体にすぎない理念と区別して理性の理想体と呼ぶが、これは存在する理念である。カントはここで神の実在の証明を考察し、この理想体に実在性が与えられるか否かを問うている。カントが固く執って譲らない規定は、概念から存在をひねり出すことは決してできないということである。しかしカントは、理性だけでは悟性認識の方法的組織化への形式的統一をもつにすぎない、というところから一歩もふみ出さなかった。理性または表象としての自我と外的事物は、両者とも相互に端的に他者として相対し、そしてそれがカントによれば究極の立場なのである。
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2016年10月27日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(3/10)

(3)ヘーゲル『哲学史』カント〔批判的観念論〕 要約

 前回は、ヤコービの哲学について論じられている部分の要約を紹介しました。そこでは、ヤコービが、認識とは何ものかに条件付けられたものとして把握することだとした上で、何ものにも制約されない絶対者たる神は認識できないとしたこと、絶対者たる神は、内的な啓示によって直接に知ることができるだけである、として、信仰(直接知)と思惟(媒介された知)とを対立させたことをみました。

 さて今回から3回にわたっては、カントの哲学について論じられた部分の要約を紹介していきます。今回は、カントの哲学についてヘーゲルが総論的に論じている部分です。

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B カント

 ヤコービにあっては、第一に思惟すなわち証明は、有限的なるものや制約されたものをついに超えないし、第二に、たとえ神が形而上学的対象である場合でさえ、証明はむしろ神を制約し有限とすることに終わる。そして第三に、制約されぬものでありしかも直接に確実なものはただ信仰のなかのみにあり、主観的には動かすべからざるものであるが、それはしかし認識できぬものであり、換言すれば規定されないもの、規定すべきでないもの、したがって実を結ばぬものである。これに反してカントの哲学の立場は、第一に思惟がその推究によって、自らを偶然的なものとしてではなく、むしろ自己自身のなかにおいて絶対に究極的なものとして捉えるに至ったという点にある。有限的なるものにおいて、またそれとの関連において絶対的な立場が現われ、それが中間項ともなって、有限的なるものを結合するとともに、無限的なるものへと昇り行く通路となる。思惟は自己自身を絶対的に決定的なものとして捉えた。思惟の確信にとっては外的なものは何らの権威もなく、一切の権威はただ思惟によってのみ有効となりうる。しかし、この自己自身内で自己を規定する具体的な思惟は、第二に主観的なものとして把握された。主観性のこの側面こそヤコービの見解においてとくに支配的な形式であるが、これに反して思惟が具体的であるということはヤコービがどちらかといえば不問に付したのである。両者の立場はともに主観性の哲学にとどまる。すなわち、思惟が主観的たることによって思惟には即自且対自的存在者を認識する能力が否定されるのである。カントにあっては神は、一面、経験のなかには見出されない。外的経験のなかにもなく内的経験のなかにもない。他面、カントは推論によって神に到達する。すなわち、神は彼にとっては説明のための仮説であり、実践理性の要請である。カント哲学の真実なる点は、自由を容認することである。すでにルソーが自由のなかに絶対者を掲げていたが、カントもまた同一の原理を、理論的な側面から掲げたのである。フランスでは、抽象的な自由を現実に当てはめることで現実を破壊したが、ドイツにおいては、意識が自己に関心をもつということが、ただ理論的な形で遂行されたのである。

〔批判的観念論〕

 全てのものがそれに対して存在すべきものは、つまるところ人間であり自己意識であって、しかもその人間とは全ての人間一般としてのそれにほかならない――こういうことを抽象的な形で意識にのぼらせたのがカント哲学なのである。それは、自己意識に自体的なものの一切の要素を取り戻すことを要求しながら、しかもこの自体的なものをなお自己と区別することによって、みずからは依然として対立から抜けきれないでいる観念論である。カント哲学は、単純な思惟を自己自身に区別を備えたものと解しはするが、一切の実在がまさにこの区別によって成立することを未だ解するに至らず、自己意識の個別性を克服する術も知らず、理性を描くことには巧みを究めるものの、その描き方は、真理それ自身を再び失うような没思想的な経験的な仕方でしかないのである。カント哲学は、知り得るものは真実体でなくただ現象のみであるというにすぎない。それは知を意識と自己意識のなかに導入するものの、この知は主観的な有限的な認識として固定されてしまう。この哲学は、客観的独断論としての悟性形而上学を終息させたが、しかし実際にはそれをただ主観的な独断論に、換言すれば同一の有限な悟性規定が根差している意識のなかに移しかえ、即自且対自的に真なるものを求める問題を放棄してしまったのである。

 カント哲学は、第一に、ヒュームと直接に関係する。カント哲学の一般的意味は、普遍性や必然性という規定は知覚のなかには見当たらないというヒュームの指摘を、ただちにその根本から認めることにある。しかし、ヒュームが総じて範疇の普遍性と必然性に反対し、ヤコービはその有限性を難じたのに対して、カントは、その客観性にのみ反対する。もっとも彼は、数学や自然科学の例が示すように、それが普遍妥当的必然的なものの意味では客観的であるとして主張するが、外的事物それ自身のなかに存在するかのような意味では、その客観性に反対するのである。我々が客観的なものを成立させるものとして普遍性と必然性を希求するという事実は、カントはこれを充分に容認する。しかし、普遍性と必然性が外的事物のなかにないとすれば、それはどこに見出されるかが問題になる。ここでカントはヒュームに反対して、それはアプリオリに、換言すれば理性自身のなかに、自覚した理性としての思惟のなかに存在しなければならない、その源泉は私の自己意識内の主観、自我なのである、という。これがカント哲学を簡明に表わした主要命題である。

 カント哲学は、第二に、その目的がカントの言葉によれば認識能力の批判にあるという理由で、批判哲学とも呼ばれる。すなわち認識する前に、人は認識能力を研究せねばならぬというのである。認識はその場合、真理を獲得するための道具だと考えられている。真理それ自身に到達する前に、まずその道具の性質や作用を認識しなければならない、というのである。しかし、人は認識する前に認識能力を認識すべき、というのはできない相談である。泳ぐことができるようになるまでは前もって水に入ろうとしないようなものである。とはいうものの、認識を考察の対象としたことは、カントのなした偉大にして重大な一歩ではある。

 第三に、経験によって与えられる材料と範疇との関係についていえば、カントによると、思惟の主観的な規定、例えば、原因と結果のなかには、すでにそれ自身だけで上の材料の区別を結合する素地がある。その限りカントは、思惟を総合的活動と呼び、したがって彼は、哲学の問題を次のように設定する。「如何にしてアプリオリな総合判断は可能であるか」と。アプリオリな総合判断とは、相反するものの自己自身による連関、または絶対概念にほかならない。換言すれば、原因と結果等々のような区別された規定を経験によって与えられないで、思惟によって与えられる関係で関係づけることにほかならない。同じように、空間と時間も結合するものであり、それらもまたアプリオリ、すなわち自己意識のなかにある。カントは思惟が知覚から汲み取られないアプリオリな総合判断を有することを指摘することによって、思惟を自己内において具体的なものとして示すのである。このなかには偉大な理念があるが、展開そのものは粗雑な経験的見解にとどまり、学問的形式をもっていない。

 カントの粗野な表現の一例をあげれば、自身の哲学が純粋理性の諸原理の体系であり、その諸原理は自覚した悟性のなかの普遍的なものと必然的なものとを示すだけで、対象に携わることもなく、また普遍性や必然性の何たるかを研究することもない、という意味で、先験哲学(Transzendental-philosophie)などと呼ぶことである。そうならば、それは超越的(transzendent)というべきだろう。transzendent と tranzendental とは厳密に区別しなければならない。カントは先験哲学を、超越的となり得るものについてその源を主観的思惟のうちに、意識のうちに指摘する哲学である、と規定する。必然的なもの普遍的なものは人間の認識能力のなかにあるとされるのだが、カントはこの人間の認識能力から依然として物自体を区別するから、普遍性と必然性とはただ認識の主観的制約であるにとどまり、理性はその普遍性と必然性をもってしては、真理の認識に到達できないのである。理性は主観性として認識するために、直観や経験、すなわち経験的に与えられた材料を必要とするからである。もし、理性がそれだけで自存しようとし、自己自身においてまた自己自身から原理を汲み取ろうとするなら、理性は超越的となり、経験を超える。それゆえ、理性は認識においては構成的でなくて単に統制的であり、感性の多様に対する統一であり、規則である。しかし、この統一はそれだけでは経験を超えてただ矛盾に陥ってしまう。したがって、理性の批判は、まさに対象を認識することではなく、認識とその原理を認識すること、認識が飛躍的にならないためにその限界と範囲を認識することである。

 以上が一般論であり、続いて個々の部分をみていく。カントは第一に理論的理性、すなわち外的対象に関する認識を考察する。第二に、自己実現としての意志を考究し、第三に判断力、すなわち普遍的なものと個別的なものとの統一を考察の対象にする。いずれにせよ、認識能力の批判が主要な事柄である。
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2016年10月26日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(2/10)

(2)ヘーゲル『哲学史』ヤコービ 要約

 前回は、京都弁証法認識論研究会の10月例会において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそれに対して他メンバーからなされたコメントを紹介しました。今回から4回にわたって、ヘーゲル『哲学史』の要約を紹介していくことにします。

 今回は、ヤコービの哲学について論じられている部分の要約です。ここでは、ヤコービが、神の存在証明を批判し、信仰と思惟を対立させ、直接知と媒介された知とを対立させたことが説かれています。

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第3節 最近のドイツ哲学

 カント、フィヒテ、シェリングの哲学こそは、精神が最近のドイツにおいて思想の形式をとって遂行した革命を記録し、かつ表明するものにほかならない。これらの哲学的思索が継起する順序のなかには、同時に思惟そのものがとった進行過程が含まれている。最近のドイツ哲学の課題は、哲学一般の根本理念たる思惟と存在との統一をいまやそれ自体として対象とし、かつこれを概念的に捉える、すなわち、その最深の必然性たる概念を捉えるという方向に向ったのである。カント哲学は、この課題の形式的な点をとりあえず掲げたのであるが、その結果は自己意識内の理性の抽象的絶対性を確保するだけに終わり、一面では、批判的なものや否定的なもののなかに停滞して、積極的な点といっては意識の事実や憶測を頼りとするが、思想を断念して感情に還るといった皮層と無気力とを結果するのである。しかも他面では、またそこからフィヒテの哲学が生れでるのであって、フィヒテ哲学は自己意識の本質を具体的自我として思弁的に把握しながら、しかも絶対者のこの主観的形式を超えることができない。それを出発点として、やがてシェリング哲学がその形式を放擲し、絶対者の理念、即自且対自的真実体を樹立するのである。

A ヤコービ

 カントと関連して、あらかじめヤコービ(1743-1819)について語っておかねばならない。2人の到達点は同じだが、出発点も行程も異なる。ヤコービは、フランス哲学とドイツ形而上学から出発したが、カントはイギリスのヒュームの懐疑論から出発した。ヤコービは、認識の仕方の客観的な点を考察し、認識はその内容上、絶対者を認識することができないと宣言した。すなわち、真実体は具体的で現前しなければならないが、有限的であってはならない、というのである。これに対してカントは、内容を考察せず、認識を主観的と認め、この理由から、それが即自且対自的存在者を認識することができないと宣言した。カントにあっては、認識はただ現象の認識にすぎない。それも範疇が単に制限され有限であるからでなく、範疇が主観的だからである。これに反してヤコービにあっては範疇は主観的であるのみならず、それ自身制約されているという点が主眼になる。これらの点が結果においては一致するにせよ両者の見解の本質的な相違である。

 ヤコービは、神の存在証明について、神を演繹されたもの、何かに基づいたものとして表象することだ、という。彼は、超自然的なもの(制約されたもの、すなわち自然的に媒介されたもの連関の外にある一切のもの)は、我々の明瞭な認識の領域外にあり、概念によっては理解され得ないのであるから、事実以外の仕方で我々に受け取られることはできない、という。この超自然的なものは異口同音に神と呼ばれる。人間の思惟が自然的なもの有限的なものを超えて達する超自然的なものの存在は、ヤコービにとっては自己自身と同様確実である。この確実性は、彼の自己意識と同一であり、私が確実であると同様、神は確実である。このように彼は、自己意識に立ち戻るのであるが、それによって無制約者は、ただ我々によって直接的な仕方でのみあることになる。この直接知をヤコービは信仰と名づけ、内的な啓示と呼び、人間においてはこれに訴えることができるとする。絶対者、無制約者たる神は、ヤコービによれば、証明され得ない。なぜかといえば、証明し理解することは、或るもの対して制約を工夫し、それを制約から演繹するということだからである。直接知としての啓示は、神学的意味としての啓示とは異なる。直接知としての啓示は我々自身のなかにあるのだが、教会は啓示を外から伝えられるものだと考えるのである。

 ヤコービはここで、信仰を思惟に対立して登場させる。我々は、両者に天地の隔たりがあるのかどうか、両者を相互に比較してみよう。一面において、信仰にとっては絶対的本質は直接知であり、信じる意識には絶対的本質が行き渡っており、それが自己の本質になっている。信じる意識は絶対的本質と直接に一となって生きている。思惟は絶対的本質を思惟する。思惟は絶対的本質に対しては絶対的思惟、絶対的悟性、純粋思惟である。換言すれば、思惟はまた同じく直接的に絶対者自身なのである。他面において、信仰にとっては絶対的本質の直接性は同時に存在の意味を有する。それは在り且つ自我以外のものである。思惟するものにとっても同様である。それは彼にって絶対的存在、現実的なもの自体であり、自己意識すなわちいわゆる有限悟性としての思惟以外のものである。

 ところで、信仰と思惟とが相互に理解し合い、一方は他方のなかに自己を認めることをしないのは何ゆえであるか。第一に、信仰は自らが思惟であるということについて何らの意識をもっていない。それは、絶対意識を直接に自己と合一して自己意識として立て、内部において直接に自己を知るからである。しかも、信仰は、この単純な統一を口に出して表明するが、統一はただ没意識的な実体の統一としてあるにすぎない。第二に、思惟には対自的存在が含まれており、信仰はこれに対して存在の直接性を対立させる。思惟は、直接の存在を絶対的な可能性、絶対的に思惟されたものとして捉え、絶対的存在との直接の一体化を現に存在する生命のあり方としては捉えない。こうして、抽象の極限において両者は対立する。自己意識を否定するものとして現われた絶対存在が、否定を貫いて彼岸にあるものとされるか、自己意識と直接に一体化するものとされるか、である。

 信仰も思惟もともに知である。我々は全く普遍的な知を思惟と呼び、特殊的な知を直観と呼ぶ。そして外的規定を持ち込むことを悟性と呼ぶ。人間における普遍的なものは思惟であり、これにまた例えば宗教的感情も数えられる。この感情が宗教的である限り、それは思惟するものの感情としてあり、またこの感情の規定は自然的衝動等々の規定ではなくて普遍的規定である。こうして神はたとえただ感じられ信じられるにすぎなくても、依然として全く抽象的にとられた普遍的なるものであり、それ自身その人格のままで絶対的普遍的人格である。

 思惟と信仰とがこのように一つであるように、いまやまた、媒介された知と直接知との対立も同様の関係にある。本質的に見失ってはならないことは、直接知のなかで啓示されるものが普遍的なるものであることである。しかも、抽象的なあり方の直接知は、自然的な知、感性的な知である。直接的人間はその自然的態度において、その欲情において普遍的なるものを知らない。子どもやエスキモーは神について何も知らず、エジプト人は神が牝牛や猫であることを直接知として知っていた。これに反して、もし、人間が神をただ精神の対象として、すなわち精神的なものとして知るようになったとすれば、この直接的として主張される知は、本質的には教説により長く継続された教養によって媒介された結果であることは明らかである。人は直接的に知るが、ただ媒介的にそこに至ったのである。私は思惟し、普遍的なるものを直接に知る。まさにこの思惟こそ自己自身内における過程であり、運動であり、生命性である。直接性と媒介性との対立は全く空虚な規定であり、これを真の対立と見るのは皮層のきわみである。直接性がそれだけで何ら自体のなかに媒介なくして何ものかでありうると考えるのは、もっとも枯渇した悟性である。ヤコービにおいて哲学が堕した究極の形式、すなわち直接性が絶対者として把握される究極の形式は、一切の批判、一切の論理の欠如を示している。しかし、人間精神が直接に神について知るという命題のなかには、これこそが人間精神の自由の承認であるという偉大なる点が含まれている。この承認のなかに神を知ることの源があり、こうして権威の一切の外面性は、この原理のなかに止揚されているのである。
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2016年10月25日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)ヘーゲル『哲学史』ヤコービ 要約
(3)ヘーゲル『哲学史』カント〔批判的観念論〕 要約
(4)ヘーゲル『哲学史』カント〔理論理性批判〕 要約
(5)ヘーゲル『哲学史』カント〔実践理性批判、判断力批判〕 要約
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:ヤコービの哲学とはどういうものか
(8)論点2:カントの理論理性批判とはどういうものか
(9)論点3:カントの実践理性批判、判断力批判とはどういうものか
(10)参加者の感想の紹介

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 我々京都弁証法認識論研究会は、昨年および今年の2年間を費やして、ヘーゲル『哲学史』に取り組んでいます。3年前のヘーゲル『歴史哲学』、一昨年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを踏まえて、この『哲学史』を通読することにより、ヘーゲルが描く哲学史の流れを理解することはもちろんのこと、それを唯物論的に捉え返すことで唯物論哲学の創出に向けた一歩を確実に進めていくことを課題としているわけです。

 10月例会では、いわゆるドイツ観念論哲学の起点をなす2人の人物――ヤコービとカント――について論じられている部分を扱いました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

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京都弁証法認識論研究会  2016年10月例会
ヘーゲル『哲学史』 ヤコービ、カント

【1】ヤコービ
 ヘーゲルはヤコービについて、絶対的な存在を認識することはできないという結論はカントと同じであるが、その出発点も途中経過も違うと説いている。ヤコービにとって認識とは、順番からいってすぐ前にある条件をとらえることであるから、媒介されたもの、条件づけられたものしか認識できないことになるという。ところが、絶対者=神は無条件のものであるから、認識することはできず、ただ直接知=信仰によってのみ捉えることができるのである。ヘーゲルはこのように思惟と信仰、媒介性と直接性を対立させるヤコービの説を批判している。ヘーゲルによると、全ての直接知は媒介性を含んでいる。われわれが直接に知ることは、無限に多くの媒介を経た結果なのであるというのである。このようにヤコービを批判しながらも、人間の精神が直接に神を知るという立場にも、人間精神の自由を承認しているという長所があると、ヘーゲルは説いている。

〔報告者コメント〕
 ヤコービが思惟と信仰、媒介性と直接性を絶対的に対立するものとしてとらえてしまったのは、弁証法的な実力がなかったからであろうか。媒介と直接性については、三浦つとむさんも『弁証法はどういう科学か』の中で引用されていてる「媒介と同時に直接性を含んでいないものは、天にも、自然にも、精神にも、どこにも存在しない」(ヘーゲル『大論理学』)という弁証法的な把握が必要になってくるだろう。次に見るように、カントは物自体の世界と現象の世界の二元論に陥ってしまったが、ヤコービは思惟と信仰の二元論に陥ったのであり、その原因は両者とも、弁証法的な実力の不足のゆえに、対立物を統一して把握できなかったから、ということがいえそうである。


【2】カントの理論的理性批判
 ヘーゲルはカント哲学の特徴として、普遍性と必然性は思惟の中に存在するとしたこと、認識する前に認識能力を認識すべきだとしたこと、アプリオリな総合判断は思惟によって与えられる関係で関係づけることだとしたことの三点を挙げている。
 カントの純粋理性批判については、感性、悟性、理性が、概念からの発展として必然性をもって進行するのではなく、全く経験的に取り上げられていると批判している。そのうえで、順に検討している。カントによれば、経験によって与えられた材料は、感性の純粋形式である時間と空間の中でとらえられ、さらに悟性によって、普遍的思惟規定であるカテゴリーと結合して初めて認識が成立する。このようにして認識できるのは、物自体ではなくその現象であるという。ヘーゲルは、カントが時間空間の本来の性質やカテゴリーの必然性を問題にしていない点を批判している。また、純粋感性と純粋悟性の合一たる直観的悟性(ヘーゲルのいう絶対精神の萌芽形態)についても考察していないと批判している。
 カテゴリーは、悟性の対象である有限な存在に対して適用できるが、これを理性の対象である制約されないものに適用すると、4つの二律背反などの困難に陥るとカントは説いている。カントはこの二律背反を物自体ではなく主観の側に存在すると説いた。ヘーゲルは二律背反の必然性を説いた点を高く評価しつつも、二律背反を4つに限った点や物自体に矛盾はないとした点を批判している。

〔報告者コメント〕
 感性、悟性、理性を明確に区別した点がカントの業績といえそうであるが、一方で、これらをバラバラに考察しており、一つの認識能力としては捉えられていないという点がカントの限界だったのではないか。とはいえ、人間の認識がどのようにして成立するかについて、かなり突っ込んで検討して、そのプロセスを観念論の立場であったとはいえ、それなりに明らかにした点は、唯物論の立場からも大きく評価できるといえるだろう。カントのいうカテゴリーとは、われわれ唯物論の立場でいうと、対象の諸々の共通性を把握したもの、つまり論理のことであり、カテゴリー(論理)なくして、対象のきちんとした認識は成立しない。それは、生まれたばかりの赤ん坊の認識が、何が何だかわからない像になっていることからもわかる。生まれたばかりの赤ん坊には、もちろん対象を認識する経験がないので、論理がない。したがって、外界が反映しても、頭の中でごちゃごちゃな像しか描けないのである。逆に、論理があれば、論理でもって問いかけて、きちんとした対象の認識=像が成立する。カントはこのような論理を、これまでの学問の文化遺産を整理して、3×4の枠組みとしてまとめ上げたといえるだろう。


【3】カントの実践理性批判、判断力批判
  カントは、対象を必要とする理論理性は自立できなかったが、実践理性は内部で自立した存在であり、人間は道徳的存在としては、全ての自然法則や現象を超えて自由であると説いている。そして、実践理性は己を本質とするような自己意識であるとしているが、ヘーゲルはカントが自己意識の本質をなす事柄を絶対的な法則とみなし、そこに全てを集約していったことをこの上なく重要な視点であると高く評価している。自由こそが人間の行動を支える究極の心棒とされたことは偉大な進歩であると評している。ただ、カントにあっては、人間は道徳的であるべきであり、自然は理性と調和すべきだが、このあるべきはいつまでたってもあるべきであるため、魂の不死と神が要請されるという。ヘーゲルはこの点を真理の一歩手前で立ち止まっていると批判している。
 カントにおいては、自然と理性、必然と自由の統一を実現するのが判断力の理念であり、美と有機的生命が判断力の対象であるとされる。ここでカントは、直観の完全に自発的な能力が悟性と一体化している直観的悟性を考えているが、ヘーゲルはこれを評価して、これが叡智の原型であり、われわれがものにすべき思想だと説いている。ヘーゲルは、結局カントの哲学は二元論に終わっていることを批判している。

〔報告者コメント〕
 カントは『実践理性批判』や『判断力批判』において、ヘーゲル哲学の核心に近づくような発想を出しているといえる。たとえば、実践理性は自立しているがゆえに人間は自由であり、実践理性は自己意識であると説いている点や、直観的悟性という感性と悟性を統一したような概念に触れている点である。結局、カントのいう物自体も自己意識も、全て一なる精神的な存在であり、叡智の原型である直観的悟性に弁証法性を与えて、これが主体的に運動していく中で、全世界の具体的なものが生み出されていくのであり、それを通して自由が実現されていくのだという形で、統一的に把握してこそ、カントの二元論が克服できるということなのではないか。

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 この報告をめぐっては、ヤコービおよびカントについてヘーゲルが論じている内容を、的確にポイントを押さえて簡潔にまとめているといえるのではないか、という感想が出されました。一方で、報告者コメントについては、いくつかの疑問が出されました。

 第一は、ヤコービやカントが二元論に陥ってしまったことを「弁証法的な実力の不足」として切って捨ててしまうことは妥当なのか、という問題です。神の存在証明を云々していた論者や、普遍的なるものや必然性、法則性などを否定していた論者は、果たしてヤコービやカントに比べて弁証法の実力が上だったといえるのか、という疑問が出されたわけです。これに対して報告者は、「弁証法的な実力の不足」というのは非常に抽象的なレベルの批判であり、ここにヤコービやカントの問題点を解消してしまうと、哲学史の歩みの具体的な構造が見えなくなってしまうことを認めました。

 第二は、カントの理論理性批判に関わっての報告者コメントのなかで、「それは、生まれたばかりの赤ん坊の認識が、何が何だかわからない像になっていることからもわかる」としているのは妥当なのか、ということです。「生まれたばかりの赤ん坊の認識」という自分自身の五感覚器官で直接に体験したわけでもなく、世間一般で常識として認められているわけでもないことを、あたかも自明の理であるかのように持ち出すのは不適切であり、どうしてもこの例を出す必要があるのなら「海保静子『育児の認識学』が明らかにしたように……」と断るべきであろう、ということでした。報告者もこのことは認めました。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
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 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
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 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
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 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
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 ・2010年11月例会報告
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 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
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 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
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 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
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 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む