2017年09月05日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(1/10)

目次
(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』経験の類推
(3)カント『純粋理性批判』経験の類推
(4)カント『純粋理性批判』経験の類推
(5)カント『純粋理性批判』経験の類推
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か。
(8)論点2:因果律に従う時間継起の原則とは何か。
(9)論点3:相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か。
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 8月例会では、『純粋理性批判』の先験的論理学の内、その「第一部 先験的分析論」「第二篇 原則の分析論」の途中を扱いました。具体的には、「第三節 純粋悟性のすべての総合的原則の体系的表示」の中の「3 経験の類推」です。

 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

カント『純粋理性批判』経験の類推
【1】経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か?
 カントは、経験の類推の原理が、「経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である」というものであると述べている。経験においては、多様なものの現実的存在における関係は、時間において客観的に存在するものとして表象されねばならないが、時間における客観の存在は、ア・プリオリに結合するところの概念(時間一般における)によってのみ必然的に規定されうる、故に経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である、というのである。

 またカントは、第一の類推として、実体の常住不変性の原則を挙げ、これは「現象がどんなに変易しようとも実体は常住不変であり自然における実体の量は増えもしなければ減りもしない」というものだと述べている。すべて現象は時間において存在するのであり、時間一般を表すところの基体によって知覚される(時間そのものは知覚され得ない)のであるが、その基体とは常住不変な実体のことであり、現実的存在に属する一切のものは、それぞれの実体の規定としてのみ考えられるから、実体は現象の現実的存在において変易することがなく、故に自然における実体の量は、増すことも減ることもあり得ないというのである。

<報告者コメント>
 カントは「時間における関係は、同時性と継時性の2つだけである」(p.259)と述べている。第1の類推である「実体の常住不変性の原則」においてカントは、時間を表現する基準である常住不変なものとしての実体を説明し、それを基にして、第2、第3の原則では、時間の「継時性」と「同時性」の原則に関して説いていくことになるということであろう。

 ここでは、カントのいう「実体」とはどのようなものか、よく検討してみる必要があろう。純粋悟性概念の1つとして、カントは「実体」というカテゴリーを挙げているが、ここでの「実体」はカテゴリーとしての「実体」を意味しているのか、別の内容を表しているのか。ここでの「実体」は物自体の範疇に入るものか、現象の範疇に入るものか。「現象の現実的存在」という表現も使われているが、これとここでの「実体」という表現とは同じことなのか違うのか、違うとするとどう違うのか。

【2】因果律に従う時間的継起の原則とは何か?
 続いてカントは、第二の類推として、「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」という因果律に従う時間継起の原則を挙げている。これは、原因と結果というカテゴリーを現象に適用することによって、現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ、ということである。

 ここでカントは、ヒュームの因果律批判に反駁している。つまり、原因や結果という概念は、確かに経験から導き出されるものではないが、かといって客観的な対象にこうした必然的な因果関係がないということにもならない、それは原因や結果という純粋悟性概念によって認識が成立すると同時に、客観的な対象の因果関係も成立するからだ、というのである。

<報告者コメント>
 カントはこの部分で、「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」(p.33)という、形而上学におけるコペルニクス的転換を実証している。我々の認識が対象によって規定されるのではなくて、その逆だという発想を展開することで、ヒュームが乗り越えられなかった問題、すなわち因果律の客観的な必然性はどこにあるのかという問題を解決した(つもりになっている)。

 しかし、こうした考え方の結果、現象と物自体とを完全に分けてしまい、物自体は捉えようのないものだとする「物自体論」に陥ってしまったのである。唯物論の立場からすれば、物自体には性質があり、それを認識できるかどうかは物の性質とは関係がない。カントは、客観と主観との一致という問題を、客観を現象に限定することで解決しようとしたが、では現象の背後にある物自体とはどのようなものかという新たな問題を残してしまったのである。

【3】相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か?
 最後にカントは、第三の類推として、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」という相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則を挙げている。2つの物が同時的に存在する(相互的に継起し得る)ということを知覚する根拠は客観に存在するというためには、相互性の関係、あるいは相互作用の関係というカテゴリーを必要とし、このカテゴリーを前提としてのみ、2つの物の同時的存在が認識され、また経験の対象を可能ならしめる、ということである。

<報告者コメント>
 ここでもカントは、2つ以上の物が同一の時間に存在することを、相互性の関係というカテゴリーによって認識するのだと説明している。これも「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」ということの1つの実例であろう。

 唯物論の立場からすれば、人間の認識の能動性を取り上げ、その性質を明らかにしたという意味では、一定の評価ができるものの、やはり考え方が転倒しているといわざるを得ない。2つ以上の物が同時に存在するかどうかは、認識(の能動性)如何に関わりなく、客観的に規定されている事実である。認識が成立して初めて対象が成立するのではなくて、対象の成立が認識の成立の条件である、と考えるのが唯物論的な認識論の土台である。


 このレジュメに対して、いくつかの指摘がありました。1つは、第三の内容の報告者コメントに関するものです。「唯物論の立場からすれば」ということで書かれているものの、これだけでは「唯物論ではこう考えます」というだけであり、カントは納得しないだろうということでした。これについてはレジュメ報告者も納得していました。

 もう1つは、第二の内容に関するものです。「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」ということが「原因と結果というカテゴリーを現象に適用することによって、現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ、ということである」と言い換えられているが、果てしてこれでよいのかということをチューターが指摘しました。もう少し具体的に言うと、前者は客観的な世界について述べていて、主観のことには何も触れていないのに、それを言い換えた後者では「現象の変化を認識できるし・・・」と主観のことを書いていることに違和感を覚えるということでした。しかし、これは今回の例会で議論したい点として挙げていたことでもあったので、詳しくは論点の議論の中で扱うことになりました。
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2017年08月17日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで,カント『純粋理性批判』の「原則の分析論」の緒言〜第2章第3節2の部分を扱ったわが研究会の2017年7月例会について,報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で,3つの論点について諸々に議論したプロセスを紹介してきました。

 7月例会報告の最終回となる今回は,参加していた会員の感想を紹介することにします。なお,次回8月例会は,『純粋理性批判』で説かれている純粋悟性の原則の3つ目である「経験の類推」の部分(pp.251-294)を扱います。

 それでは,以下,参加者の感想です。

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 今回は,カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の図式論,純粋悟性の全ての原則の体系の部分を扱った。

 カントが,カテゴリーを現象に適用するためには,先験的図式なるものが必要であると説いていること,また,綜合的判断の最高原則が,いかなる対象も可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件〔直観の形式即ち空間および時間,カテゴリーとカテゴリーによる統一,先験的統覚,時間における構想力の綜合によるカテゴリーの図式化〕に従うものであると説いていること,純粋悟性の原則に関して,三段論法を用いて証明していることなどが大雑把にではあるが理解できた。

 しかし,他会員が把握していたような中身に至らなかったという反省点もある。例えば,先験的図式なるものに関していえば,これが庄司和晃氏の三段階連関理論と重ねあわせて把握し得るようなものであるという把握は,他会員が共通して指摘していたことであるが,私には全くそういった理解ができていなかった。また,カントのいう「現象」というものの理解についても,私はこれが物自体が認識に表れたものだと理解していたのだが,他会員は皆,これはそういう認識に属するようなものではなくて,対象に属するものであるという理解をしていたのだった。

 ここ最近は,何度も例会の範囲を読み込んで,それなりの理解ができてきているという面はあるものの,やはりそれまでの部分が十分に理解できていないため,またそもそものカント哲学の素養がないため,あらぬ理解になってしまっているということが多々あるということだと思う。しかしこれこそ,集団力でもって学んでいく重要な意義の1つであるのだから,その利点をしっかりと生かしていけるようなアタマのあり方にしていく必要があると感じた。

 次回は純粋悟性の原則の1つである「経験の類推」という部分を扱う。報告者レジュメの担当に当たっているために,ここ数ヶ月以上の読み込みで,しっかりと内容を把握し,的確な論点を提示し,それに対する見解も筋を通したものとして提示できるよう,努力していこうと思う。

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 7月例会はチューターとして臨んだ。カテゴリーを現象に適用するためには図式が必要だと説いていること,一切の綜合的判断の最高原則は,いかなる対象も可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件にしたがうものであるとされていること,直観はすべて外延量であり,感覚の対象は度合いをもつことはア・プリオリに認識できること,などが説かれていることは,ある程度理解できたと感じている。

 当日の進行についても,それほど問題はなかったと考えている。ちょっとした会員のちょっとした言語表現から,大きく誤解しているのではないか,根本的なところを理解していないのではないか,と思われる点については,やや厳しく突っ込みを入れることができたと思う。また,純粋理性の原則の部分に関しては,時間規定に引き付けて理解しなければならないことを提起できた点もよかったと思う。

 ただ,『純粋理性批判』の大きな流れに,今回の部分を位置づけようとすると,今回の部分は純粋悟性概念の演繹とどう違うのか,カントは一体何を説明しようとしているのか,などなど,疑問がいくつも生じてくるのも事実である。毎回の例会では,その部分部分を理解することに必死になってしまって,全体の流れにおける位置づけなどはなおざりになってしまっていると感じる。それはいくぶんしかたのないことなのかもしれないが,初めからまた読み返してみるなどして,毎回の例会では議論できない大きな流れについて,自分なりに考え続けることもまた,必要だと感じている。

 今回,解説部分が非常に充実している中山元訳『純粋理性批判』(光文社古典新訳文庫)も購入したので,改めてこちらで初めから読み返すことも検討してみたいと思ったしだいである。

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 7月例会では,カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の図式論,純粋悟性の全ての原則の体系について論じられている部分を扱った。本来なら,徹底して読み込み,要約作業を行ってから論点への見解を作成したかったのだが,それはかなわず,ざっと通読したレベルで見解を作成したために(また,見解提示の起源に間に合わせるために),不十分なものしか書くことができなかった。それでも,当日の議論を通じて,大まかな内容は理解できたのではないかと思う。

 とりわけ,カントの図式論について,唯物論の立場からの把握と比較しながらの議論は興味深かった。感性的なものと概念的なものとは全く異質なように見えるが,両者が関連していることも否定はできない。それでは両者はどのように媒介されるのか――このことが,それこそ古代から一貫して問題になっていたといえるのではないか,とも考えさせられた。感性的なものと概念的なものとの関係は,対象(客観)と認識(主観)との関係とどのように関わってくるのか,というのも考えてみれば微妙な問題で,様々な解釈がなされてきた歴史があるのではないかと思う。このあたりをきちんと整理しきらなければ,真の唯物論哲学の構築など不可能であるといってよいだろう。カントの二元論,ヘーゲルの観念論,それから唯物論という3つの立場を比較するという意識で考察を深めていく必要性を改めて感じさせられた。

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 今回の範囲に関して,最初に読んだときには非常に難しいなと感じていたが,論点への見解作成に向けて何度も読み返す中で,おぼろげながら内容がわかってきたように感じていった。また,例会での議論をとおして,ある程度理解を深めることができたと感じている。

 とりわけカントの図式論について唯物論的な見解とはどう同じでどう異なるのかという点を検討したのがよかったと思う。感性的なものと概念的なものを区別している点は共通しているものの,カントの図式論においては,その2つが全く別個のものであり,だからこそその別個のものをつなぐための媒介(図式)が必要になるのだという主張がなされている。それに対して,唯物論の立場では,感性的なものの反映を繰り返す中で,その共通する部分が概念的なものとして形成されていき,あらたに感性的なものを目にしたとき,アタマの中にある概念的なものと結びつくのだという説明をする。この点を捉えると,確かに唯物論の立場の方が1つの筋をとおして説くことができるのだなと実感できた。やはりこういうレベルでカントの主張と唯物論の立場での主張を比較検討していくという作業が必要になるなと感じた。

 あと,反省点として,カントの記述を読んでふと思いついたことをレジュメなり見解なりに書いてしまっていたという点が挙げられる。しっかり読み込んで,前後の文脈を理解したうえで自分の見解を作成していかなければならないと思った。


(了)

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2017年08月16日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(9/10)

(9)論点3:直観の公理,および知覚の先取的認識とはどういうものか

 前回は,主として一切の綜合的判断の最高原則についてのカントの主張について,議論した内容を紹介しました。

 今回は,純粋悟性の4つの原則のうち,初めの2つの部分についての討論過程を紹介します。論点は,以下のようなものでした。

【論点再掲】

 カントは,純粋悟性の原則を4つ提示しているが,そもそも,純粋悟性の原則とはどういうものか。さらにカントは,「直観の公理」は「直観はすべて外延量である」(p.237)という原理であり,「知覚の先取的認識」は「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」(p.241)という原理であると述べているが,これらはそれぞれどういうことか。それぞれはどのように証明されているか。

 この論点に関しては,まず,そもそも,純粋悟性の原則とはどういうものかを確認しました。これについては,カテゴリーを客観的に使用する(現象に適用する)ための規則のことである,という理解で,ほぼ落ち着きました。

 次に,「直観の公理」は「直観はすべて外延量である」(p.237)という原理であると説かれているが,これはどういうことかについて議論しました。まず,外延量とは,空間・時間のある部分を占めているという意味であり,「直観はすべて外延量である」というのは,直観はすべて,空間・時間の一部を占めているという意味であろうということを確認しました。そのうえで,これがどのように証明されているのか,そのプロセスを議論しました。ここでチューターが,中山元訳『純粋理性批判』(光文社古典新訳文庫)の解説で,ここでの証明は三段論法によってなされているという指摘があることを紹介しました。そのうえで,ここの証明を以下のように整理しました。

大前提:
 すべての現象は形式的に見れば空間・時間における直観を含んでおり,現象が覚知されるためには多様なものの綜合が必要である

小前提:
 直観一般における同種的な多様なものの意識は,対象の表象を初めて可能にするが,この意識が外延量の概念である

結論:
 同種的な多様なものの合成の統一が量の概念において考えられる,すなわち,現象は全て外延量である


 ごく簡単にいい直すならば,すべての現象は,空間や時間における直観を含んでおり,直観は外延量であるがゆえに,全ての現象は外延量である,ということです。この見解に対しては,皆が,ほぼ,このような理解でいいのではないかと同意しました。

 最後に,「知覚の先取的認識」についての議論に移りました。これは,「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」(p.241)という原理であると説かれていますが,これはどういうことを意味するのか,ということです。ここに関してもまず,「知覚の先取的認識」とはそもそもどういうことなのかを確認しました。ある会員は,カントは,経験的認識に属するものをア・プリオリに認識し規定し得るような認識を先取的認識と名づけていると説明しました。すなわち,経験的認識なのだけれども,その経験に先立って,あることを認識しうるような,そのような認識を「先取的認識」と呼んでいるのだ,ということでした。これにはみなが同意しました。

 続いて,先の場合と同じく,チューターによって三段論法の証明が,以下のように提示されました。

大前提:
 知覚とは感覚をも含むような意識であり,知覚の対象としての現象は客観一般に対応する質料を含んでいる

小前提:
 感覚自体は客観的表象ではなく,外延量をもつものではないが,ある種の量=内包量を持つ

結論:
 感覚が内包量をもつ以上,これに対応して知覚のあらゆる対象にもまた内包量,すなわち感官に及ぼす影響の度合がある


 ここでいわれている内包量についても確認しました。内包量とは,感官に及ぼす影響の度合いのことであり,どこまでも漸減せられ得るようなもの(例えば色,熱,重力)である,ということでした。したがって先の三段論法は,簡単にいってしまうと,知覚は感覚を含み,感覚は内包量(度合い)をもつがゆえに,知覚の対象をなす実在的なものにも内包量(度合い)がある,ということだと確認しました。要するに,知覚の先取的認識とは,経験に先立って,対象が度を有することを認識している,ということです。これで皆の見解がほぼ一致しました。

 以上で,7月例会の論点に関する議論を,すべて終了しました。
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2017年08月15日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(8/10)

(8)論点2:一切の分析的/綜合的判断の最高原則とは何か

 前回は,純粋悟性の図式論に関わる論点について,どのような議論がなされ,どのような(一応の)結論に到達したのかを説きました。

 今回は,分析的判断,綜合的判断のそれぞれの最高原則に関わる論点です。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】

 カントは,「一切の分析的判断の最高原則」は何だと説いているか。また,カントの説く「一切の綜合的判断の最高原則」とはどういうものか。なぜそれが最高原則だと言えるのか。カントの説く認識成立の構造は,唯物論の立場からはどのように評価することができるか。

 この論点については,まず,一切の分析的判断の最高原則についての確認から入りました。これについては皆の見解が一致しており,一切の分析的判断の最高原則は矛盾律だということを確認しました。なぜ矛盾律なのかという理由については,分析的判断の真実は,常に矛盾律に従って十分に認識せられうるからとカントが説いていることを確認しました。

 次に,一切の綜合的判断の最高原則についての検討に移りました。これも大筋では皆の見解は同様の内容でした。すなわち,端的にいうと,「我々の一切の表象を含む総括者であるところの内感,構想力に基づく表象の綜合,および統覚の統一に基づく表象の綜合的統一」(p.230)という三者にこそ,純粋な綜合的判断の可能が求められるべきである,ということでした。もう少し詳しくいうと,以下のようになります。そもそも綜合的判断とは,与えられた概念に,その概念のなかからは出てこない別の概念を関係させて考察するものです。この場合,判断自体からは,この判断が真理であるか否かは明らかになりません。与えられた概念と他の概念を比較するには,これら2つの概念の綜合を可能にするような第三のものが必要になる,とカントは説いています。それは,我々の一切の表象を含む総括者である内感,構想力に基づく表象の綜合,および統覚の統一に基づく表象の綜合的統一の三者です。綜合的判断は,この三者を基礎にしなければ成り立たない(したがって,それが最高原則である),というのがカントの主張なのです。

 ここでチューターがある疑問を呈しました。それは,p.232では,「直観の形式即ち空間および時間,カテゴリーとカテゴリーによる統一,先験的統覚,時間における構想力の総合によるカテゴリーの図式化」とあるように,三者ならぬ四者になっているのはなぜなのか,先ほどの三者とここに挙げられた四者は,どのように対応しているのか,というものでした。単純に対応しそうなものを考えてみると,前者の「内感」と後者の「直観の形式即ち空間および時間」,前者の「統覚の統一に基づく表象の綜合的統一」と後者の「先験的統覚」が,対応しそうだということになります。そうすると残ったのは,前者の「構想力に基づく表象の綜合」と後者の「カテゴリーとカテゴリーによる統一」「時間における構想力の総合によるカテゴリーの図式化」ということになります。確かに構想力は,カテゴリーとも図式とも関係してきますから,前者の「構想力に基づく表象の綜合」が後者の「カテゴリーとカテゴリーによる統一」「時間における構想力の総合によるカテゴリーの図式化」という2つに対応すると考えてもいいのではないか,ということになりました。

 また,カントは「いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件〔直観の形式即ち空間および時間,カテゴリーとカテゴリーによる統一,先験的統覚,時間における構想力の綜合によるカテゴリーの図式化〕に従うものである」(p.232)と説いているが,ここでは,可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件に,対象をも従う必要がある,それこそが,一切の綜合的判断の最高原則であると説かれています。これはすなわち,経験=認識が可能となる条件は,直接に,対象が可能となる条件でもあり,これによって,ア・プリオリな綜合的判断が客観的妥当性を持つのだ,と主張しているように思われるとの見解も出されました。これについて他の会員も,そのような理解でいいのではないかと同意しました。

 カントの説く認識成立の構造についての唯物論の立場からの評価については,物自体は性質をもたないとしている点が批判されるべきであるということについては,見解が一致しました。ここに関して,分かりやすく説いている一会員の見解を示すならば,以下です。

「カントの主張は,例えば,石が水に投げ込まれると波紋が生じる,という総合的判断について,我々の一切の表象を含む総括者である内感(石が投げ込まれた後に波紋が生じたというように,時間という形式に従って順序付けられる),構想力に基づく表象の綜合(石が投げ込まれたということが原因となって波紋という結果が生じた,というように原因と結果というカテゴリーが適用される),および統覚の統一に基づく表象の綜合的統一(「私は……考える」というように自分の経験としてまとめる)の三者によって成り立つのだ,と主張するものであり,あくまでも主観的条件が対象(現象)を成り立たせているのであって,物自体の性質は把握しようがない(物自体は何の性質も持たない),ということを前提としています。しかし,唯物論の立場からすれば,物自体は性質をもつのであって,石が波紋を引き起こすのも,それぞれの客観的な性質に根拠があるということになるのです。」


 この見解には,皆が納得しました。

 唯物論の立場からの評価に関わって,ある会員は,カントの立場を人間の認識に対象が現象する際に認識の側から性質を与えると説明しました。これに対してチューターは,カントの言う「現象」とは,人間の認識に対象が現われることをいうのではなく,客観的世界の側にあるものを指す用語ではないか,と指摘しました。カントの立場では,物自体は認識できず,その現象しか認識できないとされているのだから,現象とは認識する対象の側の存在を指すのであって,認識の側を指すのではない,ということです。この説明にはこの会員も納得しました。

 以上で論点2についての議論を終了しました。

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2017年08月14日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(7/10)

(7)論点1:純粋悟性概念の図式論とはどのようなものか

 前回は,7月例会で扱った範囲を改めて要約し直した後に,会員から出された論点をチューターが整理して3つにまとめたものを紹介しました。

 今回からは,その3つの論点について,どのような議論がなされ,どのような(一応の)結論に達したのかについて,紹介していきたいと思います。

 今回は,カントのいう「純粋悟性の図式論」に関わる論点についての内容です。論点は,以下のようなものでした。

【論点再掲】

 カントは判断力に関して,「規則のもとに包摂する能力である」(p.210)と述べているが,これはどういうことか。また,カントは,カテゴリーを現象に適用するためには先験的図式が必要だというが,これはどういうことか。唯物論の立場からすれば,カントの図式論をどのように評価することができるか。具体的な例として,犬の認識がどのように成立するか,カントの説明と唯物論の立場からの説明を比較してみるとどうなるか。

 この論点に関してはまず,判断力とは何かということについて確認しました。これについては意見の相違はありませんでした。すなわち,判断力とは,普遍的な規則のもとに特殊な対象を包摂する能力であり,特殊な対象が普遍的な規則の適用を受けるかどうかを判断する能力である,ということです。もう少し端的にいうと,感性的直観における表象を,悟性に具わった純粋悟性において与えられる規則に取り込む働きであり,カテゴリーを現象に適用する働きのことであるということです。会員の一人は,カントの叙述にしたがって,判断力は,生得の知慧の特殊なものであり,教えることができるようなものではない点にも触れました。

 次に,先験的図式について議論しました。これは,カテゴリーと直観を媒介する第三のものであり,カテゴリーとも現象とも同種である先験的な時間規定がこれにあたるという点は,皆の共通認識でした。二人の会員はこれに加えて,図式が構想力の所産であることも指摘しました。ここに関わって,カントが,感性的概念(経験的概念)の根底には形像ではなく図式がある,と説いている点について,議論を深めました。まず,感性的概念(経験的概念)とは何かという点ですが,これは,カテゴリー以外の,先験的ではない概念のことだろうということになりました。また,形像とは,見たままの像,具体像のことだろうということで落ち着きました。これを踏まえて,感性的概念(経験的概念)の根底には形像ではなく図式がある,ということはどのようなことかを議論して,結局,対象の具体的なイメージから感性的概念に達することはできず,必ず図式が媒介とならなければならない,ということであろう,という結論になりました。要するに,カテゴリーと現象(直観),感性的概念(経験的概念)と形像を媒介するものは図式である,ということです。

 構想力と図式の関係についても議論しました。一会員が,カントは,図式についてそれが構想力に関わることを指摘するだけで,「人間の心の奥深い処に潜む隠微な技術」(p.218)だとして,明快な説明を放棄してしまっていると指摘しましたが,この点については,これ以上議論が深まりませんでした。

 最後に,唯物論の立場からすれば,カントの図式論をどのように評価することができるかについて議論しました。感性と悟性,現象とカテゴリーを全く別物として捉えてしまっている点が問題であるが,カテゴリーを現象に適用する際には,その媒介物が必要だと指摘した点は,概念と感覚を媒介するものとして表象的段階を措定した庄司和晃に通じるような見事な指摘ということもできるとか,カントのいわゆる図式は,ごく大雑把にいえば,対象についての感性的(具体的)なレベルの像と概念的(抽象的)なレベルの像とを媒介する表象的なレベルの像に相当するものであるといえるのではないかとか,図式とは唯物論的にいうと表象的認識に相当するとかいう見解が出されました。いずれも,カントのいう図式は,庄司和晃氏の三段階連関理論における表象と論理的に似通って性質をもっているのではないかという指摘でした。ただし,三段階連関理論のように,抽象度の違いとして3段階を統一的に把握するような視座はなく,まったく異種的な2つのものを結びつけるために,両方の性質を併せ持った第三のものを設定しただけという欠陥がありそうだという話にもなりました。

 ここをもう少し検討するために,犬の認識がどのようにして成立するのかを,カントの立場とわれわれの立場とで比較してみました。カントの立場では,ある特殊な個々の犬を見た場合,これを「犬」だと認識できるのは,犬という図式に従ってこの形像を犬という概念に結びつけることによってである,ということになります。すなわち,犬の形像が,ア・プリオリな純粋構想力の産物である図式(がカテゴリーを適用すること)によって可能となるのです。一方で,われわれ唯物論の立場から犬という認識がどのように成立するかを説くならば,個々の犬をくり返しくり返し認識することによって,それらの像の重なる部分と重ならない部分とが徐々に明確になってきて,その重なる部分が共通性として把握されるようになり,その重なる部分が徐々に表象から概念へと発展していくことになるのであり,その「犬」という表象や概念でもって対象に問いかけることで,その共通像にある程度合致する対象の像を「犬」と判断できる,ということになります。もう少しいうと,具体的な犬を対象として反映した場合に,その具体的な像が,犬の表象像を媒介として犬の概念像に結び付けられるということができます。このように検討してみると,やはりカントの図式論は,何かバラバラなものを3つ並べただけという印象がぬぐえないのに対して,われわれ唯物論の立場に立つ認識論においては,3つの段階が全て像の発展として,その像の抽象度の違いとして,統一的に把握されており,より一貫性のある論理であるということができる,ということを確認しました。

 以上で,この論点についての議論を終了しました。

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2017年08月13日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 これまで,4回にわたって『純粋理性批判』の7月例会の範囲の要約を掲載してきました。

 ここで,改めて,今回の範囲で大事な内容を簡単にふり返っておきたいと思います。

 初めにカントは,これから論究しようとする原則の分析論は,判断力に対する規準であるとして,その判断力とは,規則のもとに包摂する能力,何かあるものが与えられた規則の適用を受けるかどうかを判別する能力であると説いていました。そして,ある現象をカテゴリーに包摂する場合には,一方ではカテゴリーと,他方では現象とそれぞれ同種的であるような第三のものがなければならないとして,それを先験的図式であると説いていました。この先験的図式とは先験的時間規定のことであるとされていました。この先験的時間規定が,悟性概念の図式として,現象をカテゴリーのもとに包摂する媒介的な役割をはたすということでした。そして,悟性が図式を取り扱う仕方を図式論と名づけ,図式は構想力の所産だとされていました。また,形像は,これを描き出すところの図式を介してのみ概念と結びつかねばならないのであって,それ自体概念と完全に合致するものではないと説かれていました。さらに,カテゴリーの図式はいずれも時間規定を含みかつこれを表示しているとされていました。

 このように純粋悟性概念の図式論について説いた後,カントは純粋悟性の原則の体系としてまず,一切の分析的判断の最高原則について説いていきました。カントはそれを,「いかなる物にもこの物と矛盾する述語を付することはできない」という矛盾律にあると説いていました。それは,分析的判断の真実は,常に矛盾律に従って認識され得るからとのことでした。続いてカントは,一切の綜合的判断の最高原則について説いていきました。内感,構想力に基づく表象の綜合,統覚の統一に基づく表象の綜合的統一の3つにこそ,純粋な綜合的判断の可能も求められるべきであり,綜合的判断は必ずこの三者を基礎としなければならないと説かれていました。結論的にカントは,一切の綜合的判断の最高原理は,いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件に従うものである,ということであると説いていました。

 最後にカントは,純粋悟性の原則を体系的に表示しようと試みていました。そもそも純粋悟性の原則とは,カテゴリーを客観的に使用するための規則のことでした。そしてそれは,「直観の公理」「知覚の先取的認識」「経験の類推」「経験的思惟一般の公準」の4つであることが示されていました。前二者は直観的確実性を持つがゆえに数学的原則と呼ばれ,後二者は論証的確実性しか持たないゆえに力学的原則と名づけられていました。その後,「直観の公理」に関しては,その原理は「直観はすべて外延量である」とされ,「知覚の先取的認識」については,その原理は「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」であると説かれ,それぞれその証明がなされていました。

 以上のような内容に関わって,会員からはいくつかの論点が提示されました。それをチューターが以下のように3つにまとめました。

1.純粋悟性概念の図式論とはどのようなものか

 カントは判断力に関して,「規則のもとに包摂する能力である」(p.210)と述べているが,これはどういうことか。また,カントは,カテゴリーを現象に適用するためには先験的図式が必要だというが,これはどういうことか。唯物論の立場からすれば,カントの図式論をどのように評価することができるか。具体的な例として,犬の認識がどのように成立するか,カントの説明と唯物論の立場からの説明を比較してみるとどうなるか。


2.一切の分析的/綜合的判断の最高原則とは何か

 カントは,「一切の分析的判断の最高原則」は何だと説いているか。また,カントの説く「一切の綜合的判断の最高原則」とはどういうものか。なぜそれが最高原則だと言えるのか。カントの説く認識成立の構造は,唯物論の立場からはどのように評価することができるか。


3.直観の公理,および知覚の先取的認識とはどういうものか

 カントは,純粋悟性の原則を4つ提示しているが,そもそも,純粋悟性の原則とはどういうものか。さらにカントは,「直観の公理」は「直観はすべて外延量である」(p.237)という原理であり,「知覚の先取的認識」は「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」(p.241)という原理であると述べているが,これらはそれぞれどういうことか。それぞれはどのように証明されているか。


 これらの論点について,会員は事前に自己の見解をまとめて文章化し,それをチューターが取りまとめて,コメントを付しました。ここまでを例会までにすませておき,それを踏まえて例会当日には議論をしました。次回以降は,例会当日にどのような議論がなされて,どのような(一応の)結論に到達したのか,ということを紹介していきたいと思います。

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2017年08月12日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第2章第3節1・2

 前回は,『純粋理性批判』原則の分析論の第2章第2節から第2章第3節にかけての部分の要約を紹介しました。そこでは,いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件に従うものであるという,一切の綜合的判断の最高原理が説かれていました。そして,純粋悟性の原則とは,カテゴリーを客観的に使用するための規則のことであり,「直観の公理」「知覚の先取的認識」「経験の類推」「経験的思惟一般の公準」の4つであることが説かれていました。

 さて今回は,今挙げた4つの原則のうち,「直観の公理」と「知覚の先取的認識」とについて説かれている部分の要約を掲載します。「直観の公理」に関しては,その原理は「直観はすべて外延量である」とされ,「知覚の先取的認識」については,その原理は「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」であると説かれ,それぞれその証明がなされていきます。

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1 直観の公理

その原理――直観は全て外延量である

証明

 およそ現象は,形式的に見れば全て空間あるいは時間における直観を含んでいるから,現象が覚知されるためには(現象が経験的意識に取り入れられるには),多様なものの総合によるよりほかに方法がない。要するにある一定の空間および時間の表象は,この総合によって,同種的なものの合成と同種的な多様なものの総合的統一の意識によって生じるのである。ところで直観一般における同種的な多様なものの意識は,対象の表象を初めて可能にするものであるが,この意識がすなわち量(外延量)の概念である。それだから現象としての対象の知覚すら,感覚的直観において与えられた多様なものの総合的統一によってのみ可能である。この同じ総合的統一によって,同種的な多様なものの合成の統一が量の概念において考えられるのである。換言すれば,およそ現象は全て量であり,しかも外延量である。空間および時間における直観としての現象は,空間および時間一般を規定する総合と同じ総合によって表象されねばならないからである。
 私がここで外延量というのは,そのなかでは部分の表象が全体の表象を可能にする(したがって部分の表象が必然的に全体の表象よりも前にある)ような量のことである。私が1本の直線を引くにしても,これを考えのなかで引いてみないことには(考えのなかである1点からこの線の全ての部分を順次作り出し,こうしてこの線の直観を描いてみないことには)どんな短い線でも実際に引くことはできない。このことは時間についても――たとえどんなに短い時間についても,全く同様である。それだから時間についていえば,私は時間においてあるひとつの瞬間から他の瞬間までの継続的進行を考えてみさえすればよい。そうするとこの進行のままに,全ての部分的時間とそれが順次に付け加えられていくこととによって,ついに一定の時間量が作り出されるのである。あらゆる現象について,純粋直観は空間であるかさもなければ時間であるから,およそ直観としての現象は全て外延量である。現象は(部分から部分への)継続的総合によってのみ,覚知において認識され得るからである。ゆえに一切の現象は,すでに集合(前もって与えられている諸部分の総量)として直観されるのである。しかしこのことは,どんな種類の量についても常にこうなるというわけではなく,我々によって外延量として表象され覚知されるような量についてだけの話である。

2 知覚の先取的認識

その原理――およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量すなわち度を有する

証明

 知覚とは経験的意識のことである。換言すれば,同時に感覚をも含んでいるような意識である。知覚の対象としての現象は,空間および時間のような(全く形式的な)純粋直観ではない。それだから現象は,直観を越えてそれ以上に,なお何らかの客観一般に対応する質料(空間あるいは時間において存在するものは,これによって表象される),すなわち感覚における実在的なものを,単なる主観的表象として含んでいる。経験的意識にから純粋意識に至る漸減的変化は可能である。経験的意識における実在的なものが全く消滅して,空間および時間における多様なものの純粋に形式的な(ア・プリオリな)意識が残るからである。それだから,感覚がゼロすなわち純粋直観から始めて次第に増大し,任意の量まで達すること(感覚の量を次第に算出していく総合)も可能になるわけである。感覚自体は決して客観的表象ではないし,また感覚には空間の直観もなければ時間の直観もないのだから,感覚はなるほど外延量をもつものではないが,しかしそれにもかかわらず,ある種の量をもつ(しかもそれはこの量を覚知することによるのである。つまり経験的意識は,この覚知においてある時間に無すなわちゼロから,その都度達した量まで増大し得るのである)。これがすなわち内包量である。知覚は感覚を含んでいるから,感覚が内包量をもつ以上,これに対応して知覚のあらゆる対象にもまた内包量,すなわち感官に及ぼす影響の度合いがあるとしなければならない。
 経験的認識に属するところのものを,ア・プリオリに認識し規定し得るような認識を,全て先取的認識と名づけることができる。しかし現象は,ア・プリオリには決して認識されないような何かあるものを含んでいるのであり,これが本来,経験的認識をア・プリオリな認識から区別するところのものである。すなわちそれは知覚の質料としての感覚である。感覚は,もともと先取的には決して認識され得ない。これに反して空間および時間において,形態なり量なりを純粋に規定することは,現象の先取的認識と呼ばれてよい。こうした純粋な規定は,経験においてア・ポステリオリにのみ与えられるところのものをア・プリオリに示すものだからである。しかしおよそ感覚には,感覚一般として(個々の感覚が与えられていようがいまいが)ア・プリオリに認識されるようなものがあると仮定するなら,それは特殊な意味で先取的認識とよばれてよい。
 感覚だけによる覚知はある瞬間を充たすにすぎない。現象の覚知は,部分から全体的表象へ進むような継続的総合ではない。それだから感覚はこうした性質のものとして,現象において外延量をもたない。経験的直観において感覚に対応するものは実在である。また感覚の欠無に対応するものは否定すなわちゼロである。如何なる感覚も漸減し得るものだから,感覚は次第に減じてついに消滅することがありうる。それだから現象における実在と否定との間には多くの可能的な中間的感覚を含む連続がある。
 内包量というのは,単一性としてのみ覚知されるところの量である。この量においては数多性は否定すなわちゼロに近接することによってのみ表象される。だから現象における実在は全て内包量すなわち度を有する。こうした実在を原因(感覚の原因であると,現象における別の実在――例えば変化――の原因であるとを問わず)と見なすならば,原因としての実在の度はモメントと名づけられる。
 量においては,そのいかなる部分も可能的な最小部分ではない。これが量の特性であって,この性質を量の連続性と名づける。空間も時間のいかなる部分も限界によって区切らずには与えられないから,空間も時間もそれぞれ連続的な量である。点や瞬間は,個々の空間や時間を局限する単なる場所にほかならず,空間や時間よりも前にその構成部分として与えられるようなものではない。点や瞬間から空間や時間が合成されるわけではないのである。このような量を産出する(産出的構想力の総合)は,時間における経過であるから,このような量を「流れる」量とも名付けることができる。
 すると現象一般は,連続的な量ということになる。すなわち現象の直観に関しては外延量としての,また単なる知覚(感覚とその対象としての実在と)に関しては内包量としての連続的量である。

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2017年08月11日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第2章第2節〜第2章第3節

 前回は,『純粋理性批判』の原則の分析論の第1章の後半部分と第2章第1節の要約を紹介しました。そこでは,図式がカテゴリーに関連して説明され,カテゴリーの図式は,いずれも時間規定を含みかつこれを表示していると説かれていました。また,一切の分析的判断の最高原則は矛盾律にあると指摘されていました。

 さて今回は,『純粋理性批判』原則の分析論の第2章第2節から第2章第3節にかけての部分の要約を掲載します。ここでは,一切の綜合的判断の最高原則について説かれた後,純粋悟性の原則について総論的に説かれていきます。

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純粋悟性の原則の体系

第2節 一切の総合的判断の最高原則について

 総合的判断の可能を説明することは,先験的論理学の最も重要な仕事であり,ア・プリオリな総合的判断の可能,その判断の妥当性の条件と範囲の問題は,この論理学の唯一の仕事である。
 総合的判断にあっては,私は与えられた概念の外に出て,この概念において考えられているのとは全く別のものを,この概念に関係させて考察する。だから主語と述語との関係は,同一性の関係でもなければ矛盾の関係でもない。この場合には,判断自体からはこの判断が真実であることも誤謬であることも看取され得ない。
 与えられた概念と他の概念と総合的に比較するためには,この与えられた概念の外に出なければならないということを認めるならば,ここに第三のもの,すなわちこれら2概念の総合がそれにおいてのみ成立し得るような第三のものが必要になる。一切の総合的判断においてこうした媒介者の役目を果たす第三のものとは何か。それはわれわれの一切の表象を全て含んでいるような総括者にほかならない。すなわち内感と内感のア・プリオリな形式であるところの時間とがこれである。表象の総合は構想力に基づくが,表象の総合的統一は統覚の統一に基づくから,綜合的判断の可能はここに求められるべきである。この三者,すなわち,我々の一切の表象を含む総括者であるところの内感,構想力に基づく表象の総合,および統覚の統一に基づく表象の総合的統一は,ア・プリオリな表象の源泉を含むものであるから,純粋な総合的判断の可能もまたここに求められるべきであろう。それどころか,もし対象について全く表象の総合に基づくような認識が成立すべきなら,綜合的判断は必ずこの三者を基礎にせねばならないだろう。
 ある判断が客観的実在性をもたねばならないとすれば,また認識が対象に関係し,この対象において意義をもたねばならないとすれば,この対象は何らかの仕方で与えられねばならない。空間および時間の表象はいずれも単なる図式であり,この図式は常に再生的構想力に関係する。そしてこの構想力が経験の対象を現出するのである。経験の対象がなかったら,空間も時間も全く意義をもたなくなるだろう。
 経験が可能であるということは,つまり我々の一切のア・プリオリな認識に客観的実在性を与えるということなのである。経験は現象の総合的統一(現象一般の対象に関する概念に従うような総合)に基づく。経験は,その形式のア・プリオリな原理(現象を総合的に統一する一般的規則)を根底としているのである。この規則の客観的実在性は,必然的条件として常に経験において,それどころか経験を可能にするということにおいてすら,示され得るのである。こうした関係をほかにしては,ア・プリオリな総合的命題は不可能である。そうなると総合的命題は,第三のものであるところの純粋な対象(総合的命題の含む概念がそれにおいて客観的実在性を提示し得るような対象)をもたないことになるからである。
 純粋な総合的判断は,可能的経験に――というよりは,むしろ経験の可能そのものに(たとえ間接的にすぎないにもせよ)関係する。そして総合的判断における総合の客観的妥当性の根拠をこのことのみに求めるのである。
 このように経験は,経験的総合として,認識の唯一の可能な仕方であり,この仕方は他の一切の総合に実在性を与える。それだから他の一切の総合もまた,ア・プリオリな認識として,経験一般の総合的統一に欠くことのできない必須のものだけしか含まないことによってのみ,真理(対象との一致)を所有するのである。
 すると一切の総合的判断の最高原理はこういうことになる。いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の総合的統一の必然的条件(直観の形式すなわち空間および時間,カテゴリーとカテゴリーによる統一,先験的統覚,時間における構想力の総合によるカテゴリーの図式化)に従うものである,と。
 経験一般を可能ならしめる条件は,同時に経験の対象を可能ならしめる条件であり,それゆえにまたア・プリオリな総合的判断において客観的妥当性を有する。

純粋悟性の原則の体系

第3節 純粋悟性の全ての総合的原則の体系的表示

 純粋悟性は,生起するものに関する規則の能力であるばかりでなく,実にそれ自体原則の源泉であり,我々に対象として現われる一切のものは,この原則によって必然的に規則に従う。この規則を欠くと現象に対応するところの対象に関する認識は成立しない。
 純粋悟性概念を可能的経験へ適用する場合,純粋悟性による総合は,数学的に使用されるか力学的に使用されるかのどちらかである。この総合には直観だけに関係するものと,現象一般の現実的存在に関係するものとがあるからである。
 原則はカテゴリーを客観的に使用するための規則にほかならないから,先に示したカテゴリー表が,原則の表に対する適切な指示を与えることは当然である。すると,純粋悟性の全ての原則は次のように表示される。
 1 直観の公理
 2 知覚の先取的認識
 3 経験の類推
 4 経験的思惟一般の公準
 直接的確実性と,分量および性質のカテゴリーによる現象のア・プリオリな規定に関していえば,上記4原則のうち1と2は著しく異なる。つまり双方とも完全な確実性をもちはするものの,前2者は直観的確実性をもつが後2者は論証的確実性しかもたないからである。前2者を数学的原則,後2者を力学的原則と名づけよう。これら純粋悟性の原則は全て内感に対する関係によって可能となっている。

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2017年08月10日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第1章(承前)〜第2章第1節

 前回は,『純粋理性批判』の原則の分析論の緒言と第1章の前半部分の要約を紹介しました。そこでは,判断力とは規則のもとに包摂する能力であること,カテゴリーを,それとは異種的な現象に適用することを可能にする第三のものが図式であること,悟性が図式を取り扱う仕方を図式論と命名したこと,などが説かれていました。

 今回は,『純粋理性批判』の原則の分析論の第1章の後半部分と第2章第1節の要約を掲載します。ここでは,先験的図式がカテゴリーの順序に従って説明され,一切の分析的判断の最高原則について説かれていきます。

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第1章 純粋悟性概念の図式論について(承前)

 純粋悟性概念一般の先験的図式をカテゴリーの順序に従い,またカテゴリーに関連して説明していこう。
 およそ外感に対する量の純粋な形像は空間である。しかし感性一般に対する一切の対象の純粋な形像は時間である。ところで悟性の概念としての量の純粋な図式は数である。数は一を一に順次加算することを含む表象であるから,同種な直観における多様なもの一般の総合的統一にほかならない。つまり私はこうした総合的統一において,時間そのものを直観の覚知において産出するのである。
 実在性は,純粋悟性概念において感覚一般に対応するところのものであるから,そのものの概念自体が時間における存在を示している。また否定は概念に対応するものの時間における非存在を表わすものである。実在と否定との対立は,同一の時間が充実しているのと空虚であるのとの相違ということになる。時間は直観の形式であり,現象としての対象の形式にほかならないから,対象において感覚に対応するものは物自体としての一切の対象という先験的質料である。およそ感覚は度あるいは量を有し,感覚はこれによって同一の時間を,換言すればある対象に関する同一の表象を含むところの内感を,無に至って消滅するまで,あるいは多くあるいは少なく様々な度合で充たすことができるから,ここには実在から否定への移行がある。この移行は,実在するいかなるものをもひとつの量として現わすのである。
 実体の図式は,時間における実在的なものの常住不変性である。換言すれば,経験的な時間規定一般の基体としての実在的なものの表象である。それだから他の一切のものは変化しても,この基体は常住的である。
 一般にあるものの原因と原因性との図式は,実在的なもの――換言すれば,このものが任意に設定されると,何か他のあるものが必ずこれに随起するような実在的なものである。だからこの図式の本質は,多様なものが規則に従って継起する限りにおいて,多様なもののこうした継起にある。
 相互性(相互作用)の図式――換言すれば,実体がその付随性に関して相互に作用しあう相互的原因性の図式は,一方の実体の規定と他方の実体の規定との同時的存在――しかも普遍的規則に従う同時的存在である。
 可能性の図式は,種々な表象の総合と,時間一般の諸条件との合致である。それだからこの図式は,何らかの時点における物の表象の規定である。
 現実性の図式は,ある一定の時間における現実的存在である。
 必然性の図式は,あらゆる時点における対象の現実的存在である。
 上述したところから,次のことが明らかになる。カテゴリーの図式は,いずれも時間規定を含みかつこれを表示している。すなわち分量の図式としては,対象の継起的覚知における時間の産出(総合)を,性質の図式としては感覚(知覚)と時間表象との総合,あるいは感覚による時間の充填を,関係の図式としては,あらゆる時間における近く相互の関係を,様態と様態のカテゴリーの図式としては,ある対象が時間に属するかどうか,また属するとすればどのようにして時間に属するかという規定の相関者としての時間を,それぞれに含み表示するのである。それだから図式はいずれも,規則に従うア・プリオリな時間規定にほかならない。そしてこの時間規定は,カテゴリー表の順序に従い,一切の可能的対象に関して時間系列,時間内容,時間秩序および時間総括に関係するのである。
 悟性の図式論が構想力の先験的総合によって達し得たところのものは,内感における直観に含まれている多様なものの統一であり,従ってまた間接的には内感(受容性)に対応する機能としての統覚の統一にほかならない。純粋悟性概念の図式は,それぞれの純粋悟性概念に対象との関係を与え意義を与えるところの,真正でかつ唯一の条件である。してみると,カテゴリーは結局,可能的な経験的使用以外には使用されないことになる。
 我々のあらゆる認識は,一切の可能的経験の全体のうちにある。そしてあらゆる個々の認識がこの可能的経験全体と関係するところに,先験的真理が成立する。こうした先験的意味における真理は,一切の経験的真理よりも前にあって,これを可能ならしめるのである。
 感性における図式の本務は,カテゴリーを実在化するにあるとはいえ,これらの図式はまたカテゴリーそのものに制限を加える。換言すれば,カテゴリーを悟性のほかにある(感性に存する)条件だけに制限するということである。それだから図式は本来は現象にほかならない。
 図式を欠くカテゴリーは,悟性の単なる機能――換言すれば,概念を産出する単なる機能にすぎないのであって,対象を表示するものではない。このようにカテゴリーに与えられるところの意義は,悟性を実在化する(図式によって悟性を経験的実在に関係させる)と同時に,これに制限を加える(経験的実在だけに制限する)ところの完成に由来するのである。


判断力の先験的理説(あるいは原則の分析論)

第2章 純粋悟性の全ての原則の体系

 悟性が実際にア・プリオリに形成するところの判断を,体系的に結合するためには,カテゴリー表が自然で確実な手引きになる。
 ア・プリオリな原則が原則という名をもつのは,これらの原則が他の判断の根拠を含んでいるという理由からばかりでなく,原則自身が最も高く最も一般的な認識に基づいているからである。しかしこうした特性をもつからといってこれら原則の証明を省略してよいものではない。
 我々は当面の研究をカテゴリーに関係する原則だけに限るが,ここでまた分析的判断の原則にも言及しなければならず,しかもこれを総合的判断の原則と対立させる。この対立こそ,綜合的判断の理論を一切の誤解から免れさせ,この判断の特異な本質を明確に示すものだからである。

純粋悟性の原則の体系

第1節 一切の分析的判断の最高原則について

 「いかなる物にも,この物と矛盾する述語を付すことはできない」という命題は,矛盾律と呼ばれて一切の真理の一般的な――たとえ消極的なものにすぎないにせよ――標徴である。しかしこの命題は一般論理学のみに属する。この命題は認識の内容に関わりなく,ただ認識一般としての認識にだけ妥当し,矛盾はおよそ認識を滅却するものである,と言明するにとどまるからである。
 ところがこの矛盾律は,積極的にも使用され得る。換言すれば,虚偽や誤謬(矛盾にもとづく誤謬)を追放するだけでなく,真理を認識するためにも使用できるのである。もし判断が分析的判断であれば,その判断が否定的であるにせよあるいは肯定的であるにせよ,こうした判断の真実は,常に矛盾律にしたがって十分に認識され得るからである。
 それだから我々は矛盾律を,あらゆる分析的認識の必然的でかつ十分な原理と見なさなければならない。しかし総合的認識の真理に関しては,この原則からいささかも解明を期待し得ない。

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2017年08月09日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第1章

 今回から4回に分けて,7月例会で扱った範囲の要約を掲載してきます。

 今回は,『純粋理性批判』の原則の分析論の緒言と第1章の前半部分の要約です。ここでは,判断力について,さらに,先験的図式や図式論について説かれていきます。

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先験的分析論

第2篇 原則の分析論

 一般論理学は,悟性,判断力,理性という高級認識能力の区分と正確に一致するような平面図をもとにして構築されている。この全く形式的な論理学は,認識(純粋認識だろうと経験的認識だろうと)の一切の内容を度外視して,もっぱら思惟一般の形式だけを論究するものだから,一般論理学はその分析論のなかに理性に対する規準(Kanon)をも含み得る。
 先験的論理学は,ア・プリオリな純粋認識という一定の内容に制限されているので,その区分は一般論理学にならうことができない。理性の先験的使用は全く客観的妥当性を有するものでないということ,したがって,こうした使用は,真理の論理学すなわち分析論に属するものではなく,むしろ仮象の論理学として,先験的弁証論という名でやかましい学的体系の特殊な部門を占めていることは明らかである。
 これから論究しようとする原則の分析論は,もっぱら判断力に対する規準ということになる。この規準は,ア・プリオリな規則に対する条件を含むところの悟性概念(カテゴリー)を現象に適用することを,判断力に教えるものである。こういう理由から,これから悟性に特異な諸原則を論題とするに当り,本編を判断力の理説と名づける。

緒言 先験的判断力一般について

 悟性一般を規則の能力と称するならば,判断力は規則のもとに包摂する能力である。換言すれば,何かあるものが与えられた規則の適用を受けるか否かを判別する能力である。
 一般論理学は,認識の一切の内容を度外視するから,判断力に何ら指定を与え得ないが,先験的論理学となると,事情はまるきり違ってくる。先験的論理学は,純粋悟性を使用する場合に判断力を一定の規則に従って正しく整えかつこれを安全にすることを本務としている感すらある。
 先験的哲学の特性は,悟性の純粋概念において与えられるところの規則のほかに,これらの規則が適用されるべき場合を同時にア・プリオリに指示し得るということである。
 この判断力の先験的理説は,純粋悟性概念が使用されうるための唯一の感性的条件,すなわち純粋悟性概念の図式論を論究する第1章と,この条件の下で純粋悟性概念からア・プリオリに生じて,しかも一切のア・プリオリな認識の根底に存するような総合的判断,すなわち純粋悟性の原則を論究する第2章を含む。

判断力の先験的理説(あるいは原則の分析論)

第1章 純粋悟性概念の図式論について

 ある対象をひとつの概念のもとに包摂する場合には,その対象はいつでも概念と同種なものでなければならない。換言すれば,概念は,その概念のもとに包摂される対象において表象されるところのものを,自分のうちに含んでいなければならない。例えば,皿という経験的概念は,円という純粋な幾何学的概念と同種である。円という概念において考えられる「円さ」は皿という経験的概念において直観される。
 ところが,純数悟性概念と経験的(感性的)直観とを比較してみると,両者は異種的であって,純粋悟性概念はいかなる直観においても決して見出され得ない。それならば,直観を純粋悟性概念のもとに包摂することはどうして可能なのか。カテゴリーを現象に適用することはどうして可能なのか。この問題こそ,判断力の先験的理説を必要とする本来の理由なのである。
 ここに第三のもの,すなわち,一方ではカテゴリーと,また他方では現象とそれぞれ同種的であって,しかもカテゴリーを現象に適用することを可能にするような第三の物がなければならないことが明らかになる。このような媒介的な役目をする表象は,経験的なものを一切含まない純粋な表象であって,しかも一方では知性的であり,また他方では感性的なものでなければならない。このような表象がすなわち先験的図式なのである。
 悟性概念は,多様なもの一般の純粋な総合的統一を含んでいる。また時間は,内感における多様なものの形式的条件として,したがってまたおよそ表象が結合されるための形式的条件として,純粋直観においてア・プリオリに与えられた多様なものを含んでいる。ところで先験的な時間規定が普遍的であって,ア・プリオリな規則にもとづく限り,こうした時間規定は(時間規定を成立させるところの)カテゴリーと同種である。しかしまた時間が多様なものの経験的表象に例外なく含まれている限りにおいて,時間規定はまた現象と同種である。それだからカテゴリーを現象に適用することは,こうした先験的時間規定を介して可能になるのである。つまりこの先験的時間規定が,悟性概念の図式として,現象をカテゴリーのもとに包摂する媒介的な役目をするわけである。
 悟性概念の使用は感性だけに限られている。そこで我々は感性のこうした純粋な形式的条件(時間)を悟性概念の図式と名づけ,また悟性が図式を取り扱う仕方を図式論と名づける。
 図式は,それ自体つねに構想力の所産にすぎない。構想力の総合が意図するのは,個々の直観ではなく,感性の規定における統一にほかならない。したがって図式は,形像よりも一般的であるから,形像から区別されなければならない。構想力が,ある概念に形像を与える一般的方法の表象を,この概念に対する図式と名づける。
 実際,我々の純粋な感性的概念の根底にあるのは,対象の形像ではなく図式である。三角形の概念は三角形のどんな形像も決して十全に合致するものでない。三角形の個々の形像は,三角形の普遍的な概念に達することができず,つねに三角形という範囲の一部だけに制限される。三角形の図式は,思考のうちにしか存在せず,空間における純粋な形像に関して,構想力による総合の規則を意味するのである。まして経験の対象やその対象の形像は,けっしてその対象の経験的概念に達し得るものではない。経験的概念は,つねに構想力の図式に,すなわち我々の直観をある一般概念に従って規定する規則としての図式に直接関係するのである。現象とその単なる形式とに関する我々の悟性の図式論は,人間の心の奥深いところに潜む隠微な技術であって,我々がこの術の真の技量を自然について察知し,これをあからさまに提示することは困難であろう。形像は産出的構想力の経験的能力による所産であり,感性的概念の図式はア・プリオリな純粋構想力のいわばモノグラム(組み合わせ文字)である。形像はこの図式によって初めて可能になる。しかしまた形像は,これを描き出すところの図式を介してのみ概念と結びつかねばならないのであって,それ自体概念と完全に合致するものではない。これに反して純粋悟性概念の図式は,形像には決して当てはまり得ないような何かあるものである。すなわち,この図式は,概念一般による統一の規則に従うところの純粋総合にほかならない。そしてこの総合はカテゴリーによって表現されるのである。この図式はまた構想力の先験的所産である。換言すれば,表象が統覚の統一に従ってア・プリオリに一つの概念において結合されなければならない限りにおいて,こうした一切の表象に関して内感の形式(時間)の諸条件に従うところの,内感の規定一般に関係するような所産である。

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2017年08月08日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(1/10)

目次
(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第1章
(3)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第1章(承前)〜第2章第1節
(4)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第2章第2節〜第2章第3節
(5)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第2章第3節1・2
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:純粋悟性概念の図式論とはどのようなものか
(8)論点2:一切の分析的/綜合的判断の最高原則とは何か
(9)論点3:直観の公理,および知覚の先取的認識とはどういうものか
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は,今年および来年の2年間を費やして,カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは,哲学の発展の歴史を,絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ,客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって,全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 7月例会では,『純粋理性批判』の先験的論理学の内,その「第1部 先験的分析論」の「第2篇 概念の分析論」のはじめの部分を扱いました。扱った部分の目次を引用すると,以下です。

第2篇 原則の分析論(判断力の先験的理説)
 緒言 先験的判断力一般について
 第1章 純粋悟性概念の図式論について
 第2章 純粋悟性のすべての原則の体系
  第1節 一切の分析的判断の最高原則について
  第2節 一切の綜合的判断の最高原則について
  第3節 純粋悟性のすべての綜合的原則の体系的表示
   1 直観の公理
   2 知覚の先取的認識
 
 今回の例会報告では,まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後,扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し,次いで,参加者から提起された論点について,どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に,この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず,報告担当者から提示されたレジュメ,およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

 なお,この研究会では,篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ,他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は,特に断りがない限り,岩波文庫版のものです)。

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京都弁証法認識論研究会7月例会

1.純粋悟性概念の図式論とはどういうものか

 判断力とは規則のもとに包摂する能力であり,何かあるものが与えられた規則の適用を受けるか否かを判別する能力であるとカントは説いている。ある対象を1つの概念のもとに包摂する場合には,その対象はいつでも概念と同種的なものでなければならないが,純粋悟性概念と直観は異種的であるから,カテゴリーを現象に適用することを可能にするような第三のものがなければならぬとして,カントはそれを先験的図式(具体的には先験的時間規定)であるとしている。そして,悟性が図式を取り扱う仕方を図式論と名づけ,形像は,これを描き出すところの図式を介してのみ概念と結びつかねばならないのであって,それ自体概念と完全に合致するものではないとしている。

<報告者コメント>
 このカントの主張は,庄司和晃氏の三段階連関理論につながるものだと言えるだろう。三段階連関理論では,認識は抽象度によって具体的認識・表象的認識・抽象的認識という3つにわけることができるとしている。そして,表象的認識は具体的であると同時に抽象的でもあるという性質をもち,具体から抽象へのぼったり,抽象から具体へとおりたりすることを促すものだとされている。つまり,具体と抽象を媒介する役割をもつのである。これはまさにカントが図式として提示したものと同じような内容をもつものであり,カントの主張は三段階連関理論につながっていると言えるだろう。


2.分析的判断・総合的判断の最高原則とはどういうものか

 分析的判断の最高原則は,矛盾律であるとカントは述べている。つまり「いかなる物にも,この物と矛盾する述語を付することはできない」ということである。分析的判断の真実は,常に矛盾律に従って認識され得るからである。
 総合的判断の最高原則は,いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の総合的統一の必然的条件に従うものであるということだとカントは述べている。そもそも総合的判断では2つの概念を結びつけるのだが,それが真実であるか誤謬であるかを判断するためには,第三のものが必要になるという。それが,我々の一切の表象を含む総括者であるところの内感,構想力に基づく表象の綜合,および統覚の統一に基づく表象の綜合的統一という3つであり,これによって総合的判断は可能になるのだから最高原則だとしている。

<報告者コメント>
 先の純粋悟性概念の図式論では,純粋悟性概念と直観とは異種的であるから,それを結びつけるには第三のものが必要になるとカントは説いていた。この総合的判断の最高原則では,ある概念と別の概念を正しく結びつけるには第三のものが必要になると説いている。このように,異なる2つのものがつながるならば,そこには媒介するものが存在するという考え方は非常に論理的だと言えるだろう。このようなアタマの働かせ方,またそれを裏付けている現実のあり方をすくいとることによって,『弁証法はどういう科学か』で説かれている「直接」や「媒介」といった概念が生まれてきたのだろうと思った。


3.直観の公理・知覚の先取的認識とはどういうものか

 カントは「直観はすべて外延量(部分の表象が全体の表象を可能にするような量)である」ということが直観の公理だとしている。これは次のように説明している。現象の根底には空間あるいは時間における直観を含んでいるから,現象が覚知されるには,多様なものの総合によるよりほかに方法がない。直観一般における同種的な多様なものの意識が量(外延量)の概念である。同種的な多様なものの合成の統一が量の概念において考えられるということが,現象はすべて外延量であるということである。
 知覚の先取的認識(経験的認識に属するところのものを,ア・プリオリに認識し規定し得るような認識)については「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」としている。これは次のように説明している。現象には感覚における実在的なものを主観的表象として含んでいる。この表象については,主観が触発せられているという意識を持ち得るにすぎない。この量が内包量である。知覚は感覚を含んでいるから,感覚が内包量をもつ以上,これに対応して知覚のあらゆる対象にもまた内包量,即ち感官に及ぼす影響の度合いがあるとしなければならないとしている。

<報告者コメント>
 第二の原則に関しては,『カント事典』では次のように説明されている。

「そこでは,物質一般の原則が論じられており,しかもその物質観は真空のうちに粒子が飛び交うというのではなく,さまざまな濃度をもった物質が境を接してせめぎ合っているといったものである。したがって,物質の「濃度」こそ,同じ延長量をもつある物質Aと別の物質Bとを区別する指標となる。つまり,第二原則とは,すべて物質は何らかの濃度を必然的に有するという原則なのであり,こうした動力学的自然が「知覚の予料」にそのまま持ち込まれている。」

 ここで説かれている物質観によると,我々が何もないと思っているところにも実は物質が存在していて,単に我々がとらえられるだけの濃度がないにすぎないということになるだろう。これはすなわち無ということの否定であり,その意味では唯物論の立場からも評価できる物質観だと言えるだろう。

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 このレジュメに対して,いくつかの指摘がありました。まず,1の報告者コメントに関して,「このカントの主張は,庄司和晃氏の三段階連関理論につながるものだ」というのは言い過ぎではないかという指摘がありました。確かに,ここでカントが説いている図式と,庄司和晃氏の三段階連関理論でいう表象とは,論理的に似ているけれども,「つながるものだ」と言ってしまうと,あたかも,カントの理論を庄司氏が受け継いで発展させた,というようなニュアンスが出てしまうのではないか,という指摘でした。

 また,2の報告者コメントでは,「異なる2つのものがつながるならば,そこには媒介するものが存在する」という考え方が説かれているが,そもそも必ずそうだといえるのか,という疑問が提示されました。これについては,別の会員から,『弁証法はどういう科学か』で説かれている直接と媒介の図のように,確かにそういうことはいえるだろうから,間違いとはいえないが,「分析的判断・総合的判断の最高原則」という本筋からはずれたコメントになっていえるのではないか,という指摘がありました。

 最後に3の報告者コメントについても,カントの物質観を唯物論の立場から評価できるといってもいいのか,という指摘がありました。そもそもカントは,物自体はとらえられず,我々が認識できるのは現象に過ぎないと主張しているのだから,その大前提を考慮せずに,『カント事典』の当該箇所の記述のみを根拠として評価するのはおかしいのではないか,ということでした。

 これら3つの指摘について,報告者は確かにそうだと納得しました。

 以上,今回は報告レジュメと,それに関わって出されたコメントを紹介しました。
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2017年07月19日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の演繹についての部分を扱った我が研究会の2017年6月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。

 6月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回7月例会は、『純粋理性批判』の純粋悟性概念の図式論(pp.209-264)を扱います。

 それでは、以下、参加者の感想です。

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 今回は、カント『純粋理性批判』の「純粋悟性概念の演繹について」という部分を扱った。

 カントの文章は、なかなか具体的なイメージが描きづらいものであったため、どういうことをいわんとしているのか、自分が分かる具体的なものにあてはめながら読み進めていった。

 論点への見解を執筆する際にも、こうした姿勢で、具体的にはどういうことかを意識して書いていった。初めのうちは、この方法でかなり理解が深まったと思うのだが、純粋統覚を扱っている部分などになると、ハッキリしたイメージを描くことが難しくなっていった。

 例会での議論を通じて感じたことは、まだまだ1回目の学びであるため、大雑把にどういうことが説かれているのかを把握することをまずは心がけるべきであるということであった。大きくいえば、悟性もカテゴリーも純粋統覚も同じものだと考えておくことが、初学者にとって不要の混乱を引き起こさないためには必要だということも確認できた。

 もう1つ、カントが産出的構想力というものを想定して、感性と悟性とを明確に区切ってしまうのではなくて、それらを1つのものとして構想しようとしていたことも何となく理解できていった。このことは、例会での議論をするまでは全くそういう像が描けていなかったため、また読み返していく際には十分念頭に置いて取り組んでいきたいと思う。

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 今回の範囲は、『純粋理性批判』でも最も難解とされている「純粋悟性概念の先験的演繹」の部分であった。論点への見解を書く過程で参考書を読んだり、例会当日に他のメンバーと議論を重ねたりすることによって、アバウトな理解はできたように感じている。

 一番印象に残ったのは、カントは初めは感性と悟性を分けて考えていた、すなわち、媒介関係にあるとして説いていたが、ここにきて、それでは純粋悟性概念がいかにして対象に対して客観的妥当性をもつのかという問題を解決できなくなり、両者は直接の関係であると捉えるようになった、という指摘がなされたことである。そして、両者が直接の関係であることを示すために、「産出的構想力」とか「純粋統覚」とかいう概念を持ってこざるを得なかったということである。これにはなるほどと思わされるものがあった。南郷継正「武道哲学講義〔Z〕」でも、感性・悟性・理性というのは、カントが思惟的に分けただけであるというような指摘があったが、それともつなげて理解できるように感じた。

 思惟する「私」と自分自身を直観する「私」との関係については、非常に難解で、解釈が錯綜してしまったが、少なくとも「私」をカントのように物自体としての「私」と現象としての「私」という形で分けてしまうと、統一性がなくなってしまうことは理解できたように思う。ヘーゲルはここの問題を、カントのいう表象を生み出す力である「構想力」という概念をもとにして、実際に自然や精神的存在を生み出していく「絶対精神」の自己運動として解決したのだろうという、大きな流れもある程度掴むことができた。これも今回の例会の収穫であった。

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今回の内容についても難解で理解することが困難であったというのが正直なところである。とりわけ純粋統覚の辺りになると、かなり厳しくなっていった。

ただ、議論をとおして、悟性や構想力、統覚といった概念が、同じことを別の角度から説いているのであって、とりあえず同じものとして捉えておけばよいということはわかったし、論点3に関わって、カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのかという点はある程度理解できたと感じている。

ただ、やはりなかなか読み進めていくのが苦しいところなので、何度も読み返した上で、次の範囲に進むことを心がけたいと思う。

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 この6月例会については、チューターにあたっていたのだが、毎月行っている要約作業は結局、例会までに終えることができず、カントの議論を自分なりに十分に把握しきれないままに、論点の整理、整理された論点に対する各メンバーの見解についてのまとめの作業を行わなければならなかった。それでも、例会での議論を通じて、悟性、カテゴリー、先験的統覚、産出的構想力などが、感性的直観におけるバラバラな表象をまとめ上げて対象となす過程について、様々な角度から焦点を当てて浮かび上がらせたものだ、ということが明確になったのは、大きな収穫であった。また、悟性と感性とを媒介するものとして、より根源的な、産出的構想力なるものが持ち出されてきたらしいこと、この産出的構想力を、表象(主観)レベルのものではなく、現実に物自体を産出するものにまで発展させたものがヘーゲルの絶対精神であること、それに伴って、純粋悟性に具わっているとされたカントのカテゴリー表も、絶対精神が把持する世界そのものの設計図というべき論理学にまで発展させられていくのだ、という道筋がおぼろげながら見えてきたことも、大きな収穫であったといえよう。
 
(了)
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2017年07月18日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(9/10)

(9)論点3:カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのか

 前回は、第二の論点、すなわち、純粋統覚とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、純粋統覚とは「私は考える」という意識のことであり、これによってばらばらな表象が結合されることがなければ、そもそも人間の認識は成り立たないという意味で、人間の認識全体の最高原理であるといえること、また、バラバラな表象をまとめ上げるように働く力が産出的構想力であり、悟性、カテゴリー、統覚、産出的構想力というものは、いずれも感性的直観におけるバラバラな表象をまとめ上げて我々にとっての対象となす過程に関わるものであり、焦点の当て方の違いによって異なる捉え方がなされたものであることを確認しました。さらに、カントが、現象としての私と物自体としての私を分けてしまったこと、これらを同じ一つのものとして、絶対精神の自己運動として筋を通したのがヘーゲルであることも確認しました。

 さて、今回は、第三の論点、すなわち、カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで、論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、カテゴリーについて、現象(一切の現象の総括としての自然)に法則をア・プリオリに指定する概念だとした上で、「かかる法則は自然における多様なものの結合を自然から得てこないにも拘らず、どうして自然をア・プリオリに規定し得るか」(p.203)という難問を解決しようとしているが、カントはこの難問をどのように解決したのであろうか。ヘーゲルであれば、カントの解決にどのような評価を与えるだろうか。


 この論点そのものをめぐっては、各メンバーから提示された見解の間に大きな相違はありませんでした。端的には、カントの立場からすれば、自然の法則なるものが主観とは独立に存在しており、それを認識するというのではなくて、そもそも自然の法則なるものそのものが、純粋悟性概念が関わって成立するのだ、ということです。少し言い方を換えるならば、純粋悟性概念が関わって、対象たる自然の法則が成立することが、直接に、その認識が成立することでもある、ということになります。

 ヘーゲルならばカントの解決をどのように評価するだろうか、という問題についても、各メンバーの見解はほぼ一致していました。端的には、ヘーゲルであれば、物自体としての自然と現象としての自然との間に絶対的な境界線を引くことに反対し、物自体としての自然の合法則性は絶対に認識可能であると、自らの絶対的観念論の立場から反駁を加えだろう、ということになります。このことに関わっては、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の以下の記述を改めて確認しておくべきだ、という指摘もありました。

「カントのように物の性質を主観的なものだと考えるなら、木の葉を黒としてでなく緑として眺め、太陽を四角でなく丸として眺め、砂糖を辛いものとしてでなく甘いと感じ、時計は一時と二時をいっしょに打つのでなく順次に打つと聞き、二時から一時になるのではなくてその反対だと考えることなどが、物のありかたと無関係にわたしたちの認識の中だけで行われることになります。カントのように物の性質と物との間に絶対的な壁を設けるのはまちがいで、物自体は性質を持ち、いわゆる「二律背反」も世界自体の持っている性格である、とヘーゲルは主張しました。」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.61)


 すなわち、ヘーゲルならば、カントのように物自体には性質がなく物の性質は主観が与えるのだという考え方に反対し、物自体には性質がありそれを人間が認識するのだと説明する、ということです。対象となる物の性質が人間の認識を生み出すという関係の把握についていえば、ヘーゲルの主張は、唯物論の立場からの把握と同じものになります(もっとも、対象となる物はそもそも絶対精神が姿を変えたものである、と把握される点では唯物論の立場とは決定的に異なりますが)。

 論点そのものについては、以上のような確認を行ったのですが、ここで、自然法則はどうして自然をア・プリオリに規定しうるかという「難問」は、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスのなかでどのように位置づけられているのか、という報告者レジュメのなかで提起されていた問題について、議論を行うことにしました。この問題は、より具体的にいえば、この「難問」が取り上げられる段階では先験的演繹はすでに終わっているのか、それとも、この「難問」の解決が直接に先験的演繹の最後の段階を意味するのか、ということになります。純粋悟性概念(カテゴリー)がなければ経験が可能なものとはならない、と指摘された段階で、先験的演繹は終わっているともいえそうなのに、わざわざ自然法則について「難問」を取り上げているのはなぜなのか、という疑問です。

 この疑問をめぐっても、議論は大いに錯綜しましたが、200ページに「先験的演繹では、直観の対象一般に関するア・プリオリな認識としてのカテゴリーの可能が説明せられた。そこで今度は、およそ我々の感官に現われ得る限りの対象をカテゴリーによって、――しかも対象を直観する形式によってではなく対象を結合する法則に従って、ア・プリオリに認識し得ること、それどころか自然を可能ならしめ得ることを説明する段になった」とあるところが、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスのなかでの、この「難問」の位置を示しているのではないか、ということは指摘されました。この文章の意味するところについて、明確な共通理解までは得られなかったのですが、「直観の対象一般」と「我々の感官に現われ得る限りの対象」とが対比させられて、後者が自然法則に結び付けられていること、そもそもカントの問題意識は自然法則についての認識の確実性を主張したいという点にあったことを重く見るべきことは確認されました。また、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセス全体については、最後の「この演繹の要約」(p.208)で簡潔に示されているのではないか、という指摘もあり、「この演繹は、最後に経験をかかる綜合的統一の原理によって解明したもの」という個所が、自然法則の問題についての検討に相当すると考えられることからも、この「難問」の解決が直接に先験的演繹の最後の段階を意味する、と捉える方が妥当ではないか、という意見も出されました。
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2017年07月17日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(8/10)

(8)論点2:純粋統覚とはどういうものか

 前回は、第一の論点、すなわち、純粋悟性概念の演繹とはいかなることか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、純粋悟性概念の演繹とは思惟の主観的条件である純粋悟性概念がなにゆえに客観的妥当性をもちうるものであるのかを説明するものであることを確認しました。

 さて、今回は、第二の論点、すなわち、純粋統覚とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、純粋統覚あるいは統覚の先験的統一こそが人間の認識全体の最高の原理だとしているが、これはどういうことか。また産出的構想力というものはここにどのように関わってくるのか。思惟する「私」と自分自身を直観する「私」との関係を、カントはどのように解いたのか。こうしたカントの論について、ヘーゲルならばどのように評価するだろうか。


 純粋統覚あるいは統覚の先験的統一こそが人間の認識全体の最高原理であるとはどういうことか、という問題については、各メンバーによって提示された見解に、大きな相違はありませんでした。端的にいえば、「私は考える」という意識によってバラバラな表象が結合されることがなければ、そもそも認識が成り立たない、ということです。

 産出的構想力とはどういうものか、という問題をめぐっても、大きな見解の相違はありませんでした。そもそもカントのいわゆる構想力とは、対象が現に存在していなくてもこの対象を直観的に表象する能力のことなのですが、この構想力が、統覚の統一にしたがって感官の形式をア・プリオリに規定すると同時に、感性的直観における多様なものをまとめあげて悟性にもたらす、とカントはいうのであり、このような自発的(能動的)な働きをなす構想力を、かつて経験したものを再生するだけの再生的構想力から区別して、産出的構想力と名づけているわけです。すなわち、我々の対象が成立する時点で、純粋悟性概念(カテゴリー)が関わっているのであり、感性的直観における多様なものを総合して我々の対象となすものこそが、産出的構想力なるものなのです。このことに関わっては、カントの議論においては、この構想力なるものが感性の側に属するものなのか悟性の側に属するものなのか判然としないが、感性とも悟性ともつかないものがあるからこそ感性と悟性とが媒介される、ということが重要なのではないか、という意見も出されました。

 構想力なるものの捉え方そのものについては大きな見解の相違はなかったのですが、問題となったのは、純粋統覚と産出的構想力の関係です。この問題に関しては、よく分からない、というメンバーがいる一方で、端的に、両者は同じものである、と断言する見解を提示したメンバーもいました。そのような見解のヒントとなったのは、黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』において、「認識〈能力〉としての「悟性」、それの純粋〈概念〉としての「カテゴリー」、それに「私は……と考える」を生み出す〈自己意識〉としての「統覚」。本書の「はじめに」でも書いたように、この『純粋理性批判』入門の、見学ツアーレベルでは、これらはだいたい同じ、と思ってもらって差し支えない」(p.131)という記述だ、ということでした。感性的直観における多様な(バラバラの)表象をまとめあげて何らかの対象となす、という過程において、悟性という能力が把持するところの、バラバラな表象をまとめあげるための枠組みのようなものに焦点を当てれば、それが純粋悟性概念(カテゴリー)だということになり、まとめ上げるという過程を遂行する主体に焦点を当てれば、それが統覚だということになり、バラバラの表象をまとめ上げている力に焦点を当てれば、それが産出的構想力だということになるのではないか、ということでした。このような見解に、他のメンバーも納得しました。

 思惟する「私」と自分自身を直観する「私」との関係については、議論が大変に錯綜しましたが、根源的統覚としての「私」(「私は存在している」と意識している「私」)と、現象としての「私」(「現われるままの私」)と、物自体としての私(「あるがままの私」)とが区別されているらしいことは、ほぼ共通の認識となりました(根源的統覚としての私と物自体としての私との差異については若干の疑問が残りましたが)。

 このことを確認した上で、チューターは、結局のこところカントは、根源的統覚としての「私」と、現象としての「私」と、物自体としての「私」が区別されるべきことを力説したものの、それらの関係については解くことができなかったのではないか、と提起しました。そして、これらを、絶対精神の自己運動(絶対精神が自己を知る過程)として筋を通しきったのが、ヘーゲルの絶対的観念論であるといえるのではないか、との見解を述べました。

 こうした見解に対しては、カントが私を物自体としての「私」と現象としての「私」とに分けてしまったことで論に一貫性がなくなってしまったとは確かにいえそうだ、また、ヘーゲルは、このようなカントの限界を、カントのいわゆる産出的構想力を発展させる形で、あらゆる対象を現実に産出していく「絶対精神」の自己運動として解決したということになるのではないか、という感想が出されました。
 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点2に関する議論を終えました。
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2017年07月16日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(7/10)

(7)論点1:純粋悟性概念の演繹とはいかなることか

 前回まで、カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の演繹の要約を提示し、その内容を踏まえて出された論点を紹介しました。今回からは、それらの論点に関わってどのような議論がなされたかを紹介していくことにします。

 今回は、第一の論点、すなわち、純粋悟性概念の演繹とはいかなることか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 先験的演繹と経験的演繹とはどのように異なり、純粋悟性概念について先験的演繹が求められるのは何故なのか。このことに関わって、カントは、ロックやヒュームの試みについて、どのような評価を与えているのか。


 カントのいわゆる演繹とは、法学者の用語を踏まえたもので、何が事実であるかという問題と区別して、何が権利であるかという問題を説明するものだとされています。これについては、あるメンバーが、以下のような例を提示しました。

 ある病院職員Aがある患者Bのカルテを閲覧したことは違法だという訴訟事件があった場合、事実としてAがBのカルテを閲覧したことを証明するとともに、AはBのカルテを閲覧する権限がないこと、および閲覧する権利を要求することもできないことをも、カルテ閲覧に関する規則(原理)から証明しなければならない、ということです。端的にいえば、カントのいう演繹とは、ある一定の原理からある対象の権利、適法性(正当性)を証明することである、ということになります。

 このような具体例も踏まえつつ、概念の演繹とは、諸々の概念についてそもそもその概念が正当性(客観的妥当性)をもっていることを説明することである、ということを確認しました。

 先験的演繹と経験的演繹の違いについては、概念がア・プリオリに対象に関係するということ(適法性)を示すのが先験的演繹であり、概念がどのようにして生まれたかを事実として示すのが経験的演繹ということで、各メンバーによって提示された見解の間に大きな相違はありませんでした。

 純粋悟性概念について先験的演繹が求められるのは何故なのか、という問題をめぐっても、大きな見解の相違はありませんでした。空間・時間という感性の純粋形式の場合は、このような直観形式がなければ、そもそも現象としての対象は我々に与えられないわけですから、空間・時間と対象の関係を云々する必要はありませんでした。ところが、純粋悟性概念(カテゴリー)の場合は事情が異なってきます。直観によってすでに対象は与えられており、悟性はこの対象について思惟するわけですから、純粋悟性概念(カテゴリー)は対象の可能性の制約ではないと考えられるからです。一方に既に与えられている対象があり、他方にカテゴリーがあるとすれば、両者がなぜうまく適合するのか、思惟の主観的条件がどうして客観的妥当性をもつのか、ということを説明しなければならなくなってきます。これが、純粋悟性概念について先験的演繹が求められる理由です。端的には、純粋悟性概念は、その性質上、その使用の客観的妥当性や制限などに関して疑惑をひき起こしてしまうから、先験的演繹が必要だということです。

 ロックやヒュームの試みについてのカントの評価をめぐっては、ロックやヒュームが純粋概念を経験から導きだそうとしたことが批判されているのだ、という見解が示されました。カントは、カテゴリーと対象とが合致し必然的に関係し合うこと(要するにカテゴリーの客観的妥当性)は、対象がカテゴリーを可能にするか、カテゴリーが対象を可能にするかのどちらかの場合にのみ可能である、として、前者が可能だとしてこの問題に取り組んだのがロックやヒュームだと考えているわけです。しかし、カントは純粋概念をこのように経験から導き出すことは、純粋数学や一般自然科学の実際に適合するものではなく、こうした事実によって否定されるものだと説いている、ということです。

 この見解に対して、チューターは、大筋では間違いではないものの、カントはロックとヒュームの微妙な差異についても言及しているのであるから、そこは丁寧に確認しておくべきではないか、と提起しました。

 カントは、ロックについて、我々の認識能力が個々の知覚から出発して一般的概念に達しようとする最初の努力を行ったとして一定の評価を与えつつも、純粋悟性概念の演繹は、こうした仕方では決して成立しないと批判もしています。こうした純粋悟性概念の使用は経験とは全く関わりがないから、「経験からの出生を立証する証明書とは別の出生証明書を呈示しなければならない」(p.164)というわけです。また、ロックが純粋悟性概念を経験から導来したにもかかわらず、こうした概念によって経験の一切の限界をはるかに超出するような認識(神の認識など)に達しようとしたことは辻褄が合わない仕方だと非難されてもいました。

 一方、ヒュームについてカントは、純粋悟性概念はア・プリオリな起原をもたねばならないことに気がついていたものの、概念自体が悟性において結合されていないのに、悟性がこうした概念を対象においては必然的に結合されていると考えねばならないのはどうして可能なのか、全く説明できず(原因と結果という必然的なつながりが対象において客観的に存在するなどとは考えることができず)、悟性がこうした概念によって自ら経験の創作者になるのではないか、悟性の対象は経験そのもののうちに見出されるのではないかということに思い及ばなかったため、こうした純粋悟性概念を(結局は)経験から導き出さざるを得なかった、つまり経験において同じ連想が度々繰り返されると、そこから主観的必然性が生じ、この必然性がついには客観的必然性と誤認されるに至ると考えざるを得なかったのだ、と説明しています。カントは、ヒュームがこうした概念とそれから生じる原則とをもってしては、経験の限界を超出することは不可能であると断言したことは、(ロックと比較すると)なかなか辻褄のあったやり方だと評しつつも、ロックもヒュームもともに純粋悟性概念を経験的に導き出そうとしたことは、純粋数学や一般自然科学の実際に適合しないとして否定しているわけです。
 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点1に関する議論を終えました。
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2017年07月15日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の演繹という問題について論じられている部分の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところをふり返っておくことにしましょう。

 そもそも、カントのいわゆる演繹とは、端的には、何が権利であるかという法学用語を踏まえたもので、概念に即していえば、その客観的妥当性を説明するものでした。カントは、純粋悟性概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を、純粋悟性概念の先験的演繹と名づけていました。対象は、感性の純粋形式である空間と時間を介してのみ我々に現れるのですから、空間・時間については、特にこうした説明は必要ありませんでした。ところが、純粋悟性概念は、対象が直観に与えられるための条件ではありませんから、対象が必然的に悟性の機能に関係しなければならないということはできません。そのため、思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がなにゆえに客観的妥当性をもつのか、説明することが求められることになります。これがカントのいわゆる純粋悟性の先験的演繹なのでした。

 カントは、多様なものの結合は悟性の作用であり、そのような悟性作用を総合と呼ぶのだと説明していました。また、私の一切の表象には、「私は考える」という意識が伴っていなければならないとして、この「私は考える」という自己意識のことを、純粋統覚あるいは根源的統覚と名づけていました。カントは、悟性が直観における多様な表象を統一するという統覚の総合的統一の原則は、人間の認識全体の(一切の悟性使用の)最高の原理(原則)であると強調していました。「私は考える」という原則がなければ、そもそも認識が成立しない、というわけです。

 さらにカントは、経験的な直観における多様な表象が、判断という悟性の機能によって統覚のもとに取り込まれて客観的な統一を与えられることを指摘する一方で、このように純粋悟性概念(カテゴリー)が適用されるのはあくまでも経験の対象(経験的直観における多様な表象)のみであり、それ以外のところに純粋悟性概念を適用しようとしても、対象に関する無内容な概念にしかならず、客観的な実在性をもたない単なる思考形式にしかならない、と指摘してもいました。カテゴリーにしたがって直観における多様なものを結合する総合をなすものについて、カントは産出的構想力と名づけていました。

 カントは、悟性は内感を触発することによって多様なものの結合をつくり出すことに注意を促した上で、我々はただ我々自身によって内的に触発されるままに我々自身を直観するとして、思惟された客観としての私は悟性によって思惟される私自体(物自体としての私)ではない、と指摘していました。

 カントは、カテゴリーは一切の現象の総括としての自然に法則をア・プリオリに指定する概念であるとした上で、ここに難問があるとしていました。すなわち、自然法則は自然から導き出されたものでもなければ、自然を範としてこれに従うのでもないのに、自然の方がこの法則に従わなければならないことをどうして理解できるのか、という問題です。カントはこれに対して、法則は現象のうちに存在するのではなく、現象が与えられているところの主観に関係してのみ存在するのだ、という解答を与えていました。すなわち、自然は、自然の必然的合法性の根源的根拠としてのカテゴリーに依存しているというわけです。

 2017年6月例会の場では、おおよそ以上のような内容に関わっての報告を受けて、参加したメンバーから諸々の意見・論点が提起され、議論がたたかわされました。これから、その内容を、大きく3つの論点に沿って整理した上で、紹介していくことにします。今回はその3つの論点を紹介し、次回以降、討論の具体的な内容を紹介していくことにします。

1、純粋悟性概念の演繹とはいかなることか
 カントのいわゆる演繹とはどういうことか。先験的演繹と経験的演繹とはどのように異なり、純粋悟性概念について先験的演繹が求められるのは何故なのか。このことに関わって、カントは、ロックやヒュームの試みについて、どのような評価を与えているのか。

2、純粋統覚とはどういうものか
 カントは、純粋統覚あるいは統覚の先験的統一こそが人間の認識全体の最高の原理だとしているが、これはどういうことか。また産出的構想力というものはここにどのように関わってくるのか。思惟する「私」と自分自身を直観する「私」との関係を、カントはどのように解いたのか。こうしたカントの論について、ヘーゲルならばどのように評価するだろうか。

3、カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのか
 カントは、カテゴリーについて、現象(一切の現象の総括としての自然)に法則をア・プリオリに指定する概念だとした上で、「かかる法則は自然における多様なものの結合を自然から得てこないにも拘らず、どうして自然をア・プリオリに規定し得るか」(p.203)という難問を解決しようとしているが、カントはこの難問をどのように解決したのであろうか。ヘーゲルであれば、カントの解決にどのような評価を与えるだろうか。
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2017年07月13日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約B

 前回は、直観における多様な表象を統一する根拠として、「私は考える」という純粋統覚、根源的統覚がなければならないことが説明された部分の要約を紹介しました。カントは、多様なものの結合は悟性の作用であり、そのような悟性作用を総合と呼ぶのだとしていました。また、「私は考える」という意識は、私の一切の表象に伴っていなければならないとして、この「私は考える」という自己意識のことを純粋統覚あるいは根源的統覚と名づけていたのでした。カントは、悟性が直観における多様な表象を統一するという統覚の総合的統一の原則は、人間の認識全体の(一切の悟性使用の)最高の原理(原則)であると強調していました。

 さて、今回は、感性的直観によって与えられた多様なもの(経験の対象)だけが統覚によって客観的に統一されるのだということが説明された部分の要約を紹介することにしましょう。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・

19

およそ判断の論理的形式の旨とするところは判断に含まれている概念に統覚の客観的統一を与えることにある

 判断について、与えられた認識の関係を精密に研究し、またこの関係を悟性に属するものとして、再生的構想力の法則に従って生じた関係(主観的妥当性しかもたない)から区別すると、判断は与えられた認識に統覚の客観的統一を与える仕方にほかならないことが分かる。判断に含まれている表象は、経験的直観において互いに必然的に結びつくのではなくて、直観の総合における統覚の必然的統一によって(認識になり得る限りのあらゆる表象を規定する諸原理に従って)互いに必然的に結びつく。

20

およそ感性的直観はこうした直観において与えられた多様なものが結合されてひとつの意識なりうるための条件としてのカテゴリーに従っている

 感性的直観において与えられた多様なものは、必然的に統覚の根源的、総合的統一のもとに統摂される。与えられた表象に含まれている多様なものは、悟性の作用によって統覚一般のもとに統摂される。こうした悟性作用がすなわち判断の論理的機能なのである。カテゴリーは、直観において与えられた多様なものが判断の論理的機能に関して規定されているかぎり、まさにこうした判断機能にほかならない。それだから与えられた直観における多様なものもまた必然的にカテゴリーに従うのである。

21



 私が、私の直観と名づけているような直観に含まれている多様なものが自己意識の必然的統一に属するものとして表象されるのは、悟性の総合により、このことはカテゴリーによって行われる。カテゴリーは、ひとつの直観において与えられた多様なものの経験的意識が、ア・プリオリでかつ純粋な自己意識に従うことを示す。これは、経験的直観が、これまたア・プリオリで純粋な感性的直観に従うのと同様である。
 上述の説明でどうしても除くわけにはいかなかったのは、多様なものは悟性の総合よりも前にこの総合に関わりなく直観のために与えられていなければならない、ということである。しかし、なぜそうなのかは、ここではまだ解決されない。自ら直観するような悟性(自分が表象すればそれによって同時に対象が与えられる神的悟性)があるとしたら、こうした認識に関してはカテゴリーは全く意義をもたないだろう。カテゴリーは人間の悟性に対する規則にほかならない。悟性は対象によって悟性に与えられなければならないところの直観、すなわち認識の質料を結合し、これに秩序を与えるだけにすぎない。人間悟性の特性、すなわちカテゴリーによってのみ、しかもカテゴリーの一定の種類と数とによってのみア・プリオリな統覚の統一を生じさせるという特性が説明され得ないのは、我々はなぜちょうどこれだけの判断機能をもち、それ以外の判断機能をもたないのか、なぜ時間および空間だけが我々に可能な直観の形式なのかが説明できないのと同じである。

22

カテゴリーは経験の対象に適用されるだけであってそれ以外には物の認識に使用され得ない

 対象を思惟することと、対象を認識することは同じでない。認識には、純粋悟性概念(これによって対象が一般的に思惟される)と直観(これによって対象が与えられる)という2つの要素が必要なのである。我々に可能な直観は全て感性的直観であるから、対象一般に関する思惟は、純粋悟性概念が感官の対象に関係させられる限りにおいてのみ、我々の認識になりうるのである。純粋悟性概念は、ア・プリオリな直観に適用される場合ですら(数学におけるように)、このア・プリオリな直観が――したがってまた直観を介して悟性概念が経験的直観に適用される限りにおいてのみ、認識を与えるのである。ゆえに、カテゴリーは、経験的直観に適用されなければ、直観によっても我々に物の認識を与えない。換言すれば、カテゴリーは、経験的認識を可能なものとするだけのものである。カテゴリーが物の認識に使用されるのは、物が可能的経験の対象とみなされる場合だけに限るのであり、それ以外には物の認識に使用され得ないのである。

23

 この命題は、対象に関する純粋悟性概念の使用に対して限界を規定するものだから、極めて重要である。これは、先に先験的感性論が我々の感性的直観の純粋形式に対して限界を規定したのと同じである。空間および時間は、感性においてのみ存在し、感性以外では全く現実性をもたない。ところが純粋悟性概念は、こうした制限を受けず、およそ直観の対象一般に適用される。しかし我々の感性的直観を超えて、これらの概念を拡張してみたところで、対象に関する無内容な概念があるだけで、この対象が可能であるか否かをすらを判断し得ない。このような場合、純粋悟性概念は単なる思考形式であって、客観的実在性を全くもたないことになる。つまり我々は、統覚の総合的統一が適用され得るような直観を持ち合わせないわけである。ところが統覚の総合的統一を含むものは概念〔カテゴリー〕だけであり、カテゴリーはこうした統一を直観に適用することによって対象を規定しうるのである。要するに、我々の感性的でかつ経験的な直観だけが、概念に意味と意義を与え得るのである。
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2017年07月12日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約A

 前回は、そもそも演繹とはどういうことか、純粋悟性概念(カテゴリー)について、経験的な演繹ではなく先験的な演繹という手続きが必要になるのはどうしてなのかについて、説明されている部分の要約を紹介しました。カントのいわゆる演繹とは、端的には、何が権利であるかという法学用語を踏まえたもので、概念に即していえば、その客観的妥当性を説明するものでした。カントは、純粋悟性概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を、純粋悟性概念の先験的演繹と名づけていました。対象は、感性の純粋形式である空間と時間を介してのみ我々に現れるのですから、空間・時間についてはこうした説明は不要でした。ところが、純粋悟性概念は、対象が直観に与えられるための条件ではないので、対象が必然的に悟性の機能に関係しなければならないとはいえません。そこで、思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がなにゆえに客観的妥当性をもつのか説明が求められることになります。これがカントのいわゆる純粋悟性の先験的演繹なのでした。
 さて、今回は、直観における多様な表象を統一する根拠として、「私は考える」という純粋統覚、根源的統覚がなければならないことが説明された部分の要約を紹介することにしましょう。

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第2節 純粋悟性概念の先験的演繹

15

結合一般の原理について

 多様な表象〔印象〕は直観において与えられ得るが、この直観は単なる感性的直観であり、したがって受容性にほかならない。ところで多様なもの一般の結合は、感官によっては決して我々のうちに現われ得ず、感性的直観の純粋形式のうちに含まれているということもあり得ない。結合は表象能力の自発性の作用だからである。この自発性は感性と区別するために悟性といわなければならない。このような悟性作用に総合という一般的な名を与えよう。総合という悟性作用はもともとひとつしかなく一切の結合はいずれもこの作用に従わなければならないし、分析は実は総合を前提としている(悟性によって前もって結合されたものとして与えられたものだけが分析され得る)。
 結合の概念は、多様なものという概念と、この多様なものの総合という概念のほかに、さらにこの多様なものの統一という概念を必然的に伴っている。要するに結合は、多様なものの総合的統一の表象なのである。この統一はア・プリオリに一切の結合の概念よりも前にあり、判断における種々の概念の統一の根拠を含み、したがってまた悟性の論理的使用においてすら悟性の存立を可能ならしめる根拠を含むところのものに、これを求めなければならない。

16

統覚の根源的‐総合的統一について

 「私は考える(Ich denke)」〔という意識〕は、私の一切の表象に伴わなければならない。「私は考える」という表象は自発性の作用であり、感性に属するとみなすことはできない。この表象を純粋統覚または根源的統覚と名づける。こうした統覚は「私は考える」という表象を産出するところの自己意識〔自覚〕であって、もはや他の統覚からは導出されないからである。また、ア・プリオリな認識がこの統一によって可能であることをいうために自己意識の先験的統一とも名づける。
 直観において与えられた多様なものの統覚の完全な同一性は、表象の総合を含み、またこうした総合の意識によってのみ可能である。私は直観において与えられた多様な表象を1個の意識において結合することによってのみ、これら表象における意識の同一性そのものを表象できる。直観における多様なものの総合的統一は、ア・プリオリに与えられたものとして、私のあらゆる一定の思惟にア・プリオリに先立つところの統覚の同一性そのものの根拠なのである。結合は対象のうちに存するのでも、知覚によって対象から得られて悟性のうちに取り入れられるようなものでもない。この根源的結合は悟性のなすわざである。悟性はア・プリオリに結合する能力であり、また直観における多様な表象を統覚によって統一する能力にほかならない。そしてこの統覚の統一という原則こそ、人間の認識全体の最高の原理なのである。

17

統覚の総合的統一の原則は一切の悟性使用の最高原則である

 感性に関して一切の直観を可能にする最高原則は、先験的感性論によると、直観における一切の多様なものが空間および時間という2つの形式的条件に従うことであった。また、悟性に関して一切の直観を可能にする最高原則は、直観における多様なものが統覚の根源的統一の諸条件に従うことである。
 一般的にいえば、悟性は認識の能力である。認識は、与えられた表象がある客観に対してもつところの一定の関係である。客観は、与えられた直観における多様なものがひとつの概念によって結合されたところのものである。換言すれば、多様なものは客観の概念によって結合されている。およそ表象の結合は、表象の総合における意識の統一を必要とするから、意識の統一は表象がある対象に対してもつところの唯一の関係をなすものであり、表象の客観的妥当性の根拠であり、表象を認識にするところのものであり、したがって認識能力としての悟性が可能であることもまた意識の統一にかかっている。
 しかし、こうした原則は、およそ悟性であればどんな可能的悟性にも妥当するような原則ではなくて、悟性の純粋統覚によるだけでは「私は考える」という表象にまだ多様なものが全く与えられないような人間悟性だけにとっての原理である。自分の自己意識によって同時に直観における多様なものが与えられるところの悟性(自分が表象しさえすれば同時にその表象の対象が存在するような悟性)なら、多様なものを結合して意識の統一とする特殊な総合作用は必要としない。

18

自己意識の客観的統一とは何かということ

 統覚の先験的統一は、直観において与えられた多様なものを結合して、客観すなわち対象とするものである。それだからこの統一は客観的統一と呼ばれ、意識の主観的統一から区別されねばならない。意識の主観的統一は内感の規定である(内的直観において経験的に与えられた多様なものを、結合の素材として提供する)。しかし、私がこの多様なものを同時的もしくは継時的に意識しうるかどうかは、経験的条件によって決まるから、全く偶然的である。これに反して、時間における直観の純粋形式は、与えられた多様なものを含む直観一般としてのみ、意識の根源的統一に従うのである。そのことは、経験的総合の根底に、ア・プリオリに存するところの悟性の先験的統一によってのみ可能である。統覚の先験的統一だけが客観的に妥当する。これに反して、統覚の経験的統一は主観的妥当性をもつにすぎない。ある人はある言葉の表象にあるものを結びつけるし、他の人はその同じ言葉の表象に他のものを結びつける、といった経験的な意識の統一は、与えられたところのものに関して必然的でもなければ普遍的に妥当するものでもない。

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2017年07月11日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約@

 前回は、京都弁証法認識論研究会の6月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回にわたって、カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の演繹(思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がどうして客観的妥当性をもつのか、という問題についての説明)を紹介していくことにします。

 今回は、そもそも演繹とはどういうことか、純粋悟性概念(カテゴリー)について、経験的な演繹ではなく先験的な演繹という手続きが必要になるのはどうしてなのかについて、説明されている部分の要約を紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

第2章 純粋悟性概念の演繹について

第1節 

13

先験的演繹一般の諸原理について

 法学者は、ひとつの訴訟事件について、何が権利であるかという問題と事実に関する問題を区別し、第一の問題について権限、あるいはそればかりでなく権利要求をも説明する明示を演繹と名づけている。我々は、多くの経験的概念を誰からも異議の申し立てがないままに使用し、またこうした演繹を経ずにこれらの概念に意味と憶測的な意義を与える資格があると思いなしている。それは我々が、いつでもこうした概念の客観的実在性を証明しうる経験を持ち合わせているからである。
 しかし、人間の認識の極めて雑多な組織を造り上げている多種多様な概念のなかにも(一切の経験に全く関わりのない)ア・プリオリな純粋使用に供せられ得るような若干の概念があり、これらの概念の権限が演繹を必要とするのである。こうした純粋使用の適法性を経験によって証明することは十分ではないのにかかわらず、これらの概念はどうして対象に関係しうるのか、是非とも知らなければならないからである。このような概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を純粋悟性概念の先験的演繹と名づけ、これを経験的演繹(ひとつの概念が経験と経験に対する反省によって得られる仕方を示すもの)から区別する。
 我々は、全く種類を異にする2通りの概念でありながらア・プリオリに対象に関係するという点では互いに完全に一致するような概念をすでにもっている。すなわち感性の形式としての空間・時間と、悟性の概念としてのカテゴリーとである。これらの概念について経験的演繹を試みようとしても無益である。
 とはいえ、これらの概念についても、一切の認識におけると同じく、ア・プリオリな概念を可能にする原理ではないが、しかしこうした概念を産出する幾因を経験のうちに求めることはできる。経験は、認識の質料とこの質料に秩序を与える形式を含む。この形式は、純粋直観および純粋思惟という我々のうちにある源泉から生じたものであり、両者は質料を機縁として活動し始め、概念を創り出すのである。我々の認識能力が個々の知覚から出発して一般的概念に達しようとする最初の努力をこうして追究してみることは極めて有益である。ロックがこうした探究の道を開いたが、ア・プリオリな純粋概念の演繹はこのような仕方では決して成立しない。
 空間および時間の概念は、ア・プリオリな認識であるにもかかわらず、どうして必然的に対象に関係しなければならないのか、また一切の経験にかかわりなく対象の総合的認識をどうやって可能にするのかということは、先に容易に説明することができた。つまり対象は、感性の純粋形式である空間・時間を介してのみ我々に現われるから、直観における総合が客観的妥当性をもつのである。
 これに反して、悟性のカテゴリーは、対象が直観に与えられるための条件を示すものではない。従って対象は、確かに我々に現れはするが必然的に悟性の機能に関係しなければならないというものではないから、悟性は対象を可能にするア・プリオリな条件を含んでいないことになる。そこで、感性の領域ではなかったような困難が現われてくる。すなわち、思惟の主観的条件がどうして客観的妥当性をもつのか(対象の一切の認識を可能にする条件となるのか)ということである。例えば、原因という概念は特殊な種類の総合を意味する。あるものAに別のものBがある法則に従って結合されるからである。しかし現象がなぜBのようなものを含むかはア・プリオリには明白ではない。それだから、こうした概念は全く空虚で、現象のうちにはこの概念に対応するような対象は全く存在しないのではないか、というア・プリオリな疑問が生じるのである。原因の概念は、全くア・プリオリに悟性のうちにその根拠をもつか、それとも単なる妄想として放棄されねばならないか、どちらかである。この概念は、AからBが絶対的に普遍的な規則に従って必然的に随起するような性質のものであることを、あくまで要求する。だから、原因と結果の総合は、経験的には全く表現できないような尊厳というべきものを備えている。

14

カテゴリーの先験的演繹への移り行き

 総合的表象とその対象とが合致し、必然的に関係し合い、両者がいわば相会することは、対象が表象を可能にするか、表象だけが対象を可能にするか、2つの場合にのみ可能である。前者の場合、対象と表象の関係は経験的で、表象は決してア・プリオリには可能にならない。後者の場合、表象自体は対象をその現実的存在に関して産出しうるものではないが、表象だけで何かあるものを対象として認識することが可能であれば、表象は対象を規定することになる。この場合、直観(現象としての対象を与える)と概念(直観に対応する対象を思惟する)という2つの条件がある。第一の条件は、我々の心意識のうちにア・プリオリに存し、対象の根底をなしているから、一切の対象は、この感性的条件と必然的に合致する。では、我々が何かあるものを対象一般として思惟しうるための条件としての概念もあり、このような概念も経験に先立って存在するのではないか。もしこうした概念が存在するなら、それを前提しなければ何ひとつ経験の対象になりえないのだから、対象の経験的認識は全てこれらの概念と必然的に合致する。およそ経験は直観、すなわちそれによって何かあるものが与えられるところの感性的直観のほかに、直観において与えられる(現われる)ところの対象に関する概念をも含むのである。すると対象一般に関する概念は、ア・プリオリな条件として一切の経験的認識の根底に存することになるだろう。ア・プリオリな概念としてのカテゴリーの客観的妥当性は、カテゴリーによってのみ経験が(思惟の形式に関する限りでは)可能になるということに基づくわけである。
 ア・プリオリな概念を含む経験をただ展開するだけでは、こうした概念の演繹にはならない。
 ロックは、悟性の純粋概念が経験において見出されると考え、これらの概念を経験から導き出した。にもかかわらず、こうした概念によって経験の一切の限界をはるかに超出するような認識に達しようとする試みを敢てしたのは、甚だ辻褄の合わぬことだった。しかし、ヒュームは、こうした認識を得るためにはこれら純粋概念がどうしてもア・プリオリな起源をもたねばならないことに気づいていた。しかし彼は、概念自体が悟性において結合されていないのに、悟性がこうした概念を対象においては必然的に結合されていると考えねばならないのはどうして可能なのか、全く説明できなかった。また、悟性がこうした概念によって自ら経験の創作者になるのではないか、悟性の対象は経験そのもののうちに見出されるのではないか、と思い及ばなかった。そこで彼は、純粋概念を経験から導出せざるをえなかった(習慣から導出された主観的必然性を客観的必然性と誤想する、という形で)。それでもヒュームが、こうした概念とそれから生じた原則では経験の限界を超えられないと断言したのは、なかなか辻褄の合ったことだった。ロックもヒュームも、純粋概念を経験的に導出しようとしたが、これは我々が現に有するア・プリオリな学的認識の実際――純粋数学と一般科学の実際に適合するものではないという事実によって否定される。
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2017年07月10日

2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約@
(3)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約A
(4)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約B
(5)カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹 要約C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:純粋悟性概念の演繹とはいかなることか
(8)論点2:純粋統覚とはどういうものか
(9)論点3:カテゴリーが現象を規定する法則はなぜ自然をア・プリオリに規定できるのか
(10)参加者の感想の紹介

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、絶対精神の成長の過程(自己=世界という自覚の成立過程)として哲学の発展の歴史を描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画にもとづいたものです。

 6月例会では、純粋悟性概念の演繹という問題について論じられている部分を扱いました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

カント『純粋理性批判』 純粋悟性概念の先験的演繹について

【1】先験的演繹一般について
 カントは、純粋悟性概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を、純粋悟性概念の先験的演繹と名づけている。これは、感性の純粋形式であるところの空間・時間については不要な説明であった。なぜなら、対象は、感性の純粋形式である空間と時間を介してのみ、我々に現れるからである。ところが、純粋悟性概念は、対象が直観に与えられるための条件ではないから、対象が必然的に悟性の機能に関係せねばならないというものではないとカントはいう。そこで、思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がどうして客観的妥当性をもつのか、ということを説明しなくてはいけない。これがカントのいうところの純粋悟性の先験的演繹である。
 カントは、綜合的表象とその対象が合致し、必然的に関係し合うことは、二つの場合にのみ可能であるとしている。それは、対象が表象を可能にするか、それとも、表象だけが対象を可能にするか、の二つである。カントは、前者の場合の取り組みとしてロックとヒュームを挙げ、ともに純粋概念を経験的に導来しようとしたのであるが、このような経験的導来は、ア・プリオリな学的認識の実際に適合するものではないと説いている。

〔報告者コメント〕
 ここでカントは、純粋悟性概念は、対象が直観に与えられるための条件ではないとして、それを前提にして、思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がどうして客観的妥当性をもつのかという問題に取り組もうとしている。しかし、結論から言えば、カントは純粋悟性概念は対象が直観に与えられるに際して関与しているのだと説明している。それならば、そもそもこの問題が生じる前提が違うということになるのだから、問題そのものが成立しないのではないか。このあたりが正直、よく分からないところである。
 唯物論の立場に立つ我々は、基本的にはロックやヒュームと同様に、対象が表象を可能にするという立場で、筋をとおして説いていく必要がある。そのためには、認識の生成発展を明らかにした科学的認識論と、対象と表象の合致は、最終的には学問体系としてしか可能ではないということを明らかにした学問論(論理学?)をしっかりと再措定していく必要があるだろう。


【2】純粋統覚について
 カントは、多様なものの結合は悟性の作用であり、そのような悟性作用を綜合と呼ぶと規定している。また、「私は考える」という意識は、私の一切の表象に伴い得なければならないとして、その「私は考える」という自己意識のことを純粋統覚と名づけている。そのうえで、悟性が直観における多様な表象を統一するという、統覚の綜合的統一の原則は、人間の認識全体の(一切の悟性使用の)最高の原理(原則)であると説いている。このような原則がないと、認識が成立しないからであるとされている。
 またカントは、対象が現在していなくてもこの対象を直観において表象する能力を構想力と名づけ、その中で、カテゴリーに従って直観における多様なものを結合する綜合をなすものを産出的構想力と呼んでいる。

〔報告者コメント〕
 悟性、カテゴリー、統覚、そして産出的構想力のそれぞれの関係は、分かりにくいところである。黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』では、次のように説かれている。

「認識〈能力〉としての「悟性」、それの純粋〈概念〉としての「カテゴリー」、それに「私は……と考えるを生み出す〈自己意識〉としての「統覚」。本書の「はじめに」でも書いたように、この『純粋理性批判』入門の、見学ツアーレベルでは、これらはだいたい同じ、と思ってもらって差し支えない。」」(p.131)

 岩崎武雄『カント』では、「先験的統覚は直観の多様に総合的統一を与えてゆくという自発的な働きをするものであるが、悟性とは正しく自発性の能力(B.75)だから」、「この先験的統覚こそ悟性に外ならないであろう」(pp.87-88)と述べた後で、産出的構想力について次のように説いている。

「この構想力は再現された表象と現に存する表象とを総合的に統一してそこに対象の形像を作り出してゆくものであり、この総合的統一の働きが先験的統覚の先天的規則にしたがって行なわれるのである。すなわち悟性あるいは先験的統覚はこの場合産出的構想力という形で働くのである。」(p.89)

 以上をふまえると、悟性、カテゴリー、統覚、そして産出的構想力は、ほぼ同じような意味ととって間違いないが、スポットの当て方が違うといっていいだろう。悟性という能力の把持する概念にスポットを当てればカテゴリー、自己意識という点にスポットを当てれば統覚、表象する力にスポットを当てれば産出的構想力ということになるのだろう。


【3】純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスについて
 カントは、カテゴリーは一切の現象の総括としての自然に法則をア・プリオリに指定する概念であるとしたうえで、ここに難問があるとしている。すなわち、自然法則は自然から導き出されたものでもなければ、自然を範としてこれに従うのでもないのに、自然の方がこの法則に従わなければならないことをどうして理解できるのか、という問題である。カントはこれに対して、法則は現象のうちに存在するのではなく、現象が与えられているところの主観に関係してのみ存在するのだと答えている。すなわち、自然は、自然の必然的合法性の根源的根拠としてのカテゴリーに依存しているというのである。

〔報告者コメント〕
 自然法則はどうして自然をア・プリオリに規定しうるかという「難問」(p.203)は、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスの中で、どのように位置づけられているのかが、いまいちよく分からない。もうこの段階では、先験的演繹は終わっているのか、それとも、この難問の解決が、直接に先験的演繹の最後の段階を意味するのか。論点3のなかで、今回の範囲の大きな流れについても議論できればと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上の報告レジュメの、「報告者コメント」のなかには、「純粋悟性概念は対象が直観に与えられるに際して関与している」というカントの論立てからして、純粋悟性概念の演繹(思惟の主観的条件にすぎない純粋悟性概念がどうして客観的妥当性をもつのか、という問題についての説明)などがそもそも成り立つ余地があるのか、「自然法則はどうして自然をア・プリオリに規定しうるかという「難問」(p.203)は、純粋悟性概念の先験的演繹のプロセスの中で、どのように位置づけられているのか」というような、『純粋理性批判』の構成における純粋悟性概念の演繹の位置づけ、あるいは純粋悟性概念の演繹そのものの論の展開についての根本的な疑問が含まれていました。これらの疑問については、論点をめぐる議論のなかで考えていくことを確認しました。
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 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
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 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
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 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史