2017年10月18日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回までに、例会で報告されたレジュメを紹介したあと、カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介してきました。

 最終回となる今回は、例会を受けての参加者の感想を掲載しておきたいと思います。

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 今回は、カント『純粋理性批判』の「経験的思惟一般の公準」と「あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について」という部分を扱った。

 チュータとして、各会員が提出した論点をまとめ、その論点に対して出された見解を整理していった。特に今回は、該当箇所をこれまでにないほど読み込んで、きちんとチュータとしての役割を果たせるようにとの思いを込めて例会当日に臨んだ。

 例会本番では、見解が共通する中でも新しい論点を提示し、例会を通じて各会員の認識の発展を図ろうと努力してみたが、結果としては、なかなかうまく進行することができなかったと思う。特に、唯物論の立場から可能性、現実性、必然性とはどのようなものか、議論してみてはどうかという提起を行ったものの、個別の議論に終始してしまい、全体として、カントのいうものと違うのかどうか、ハッキリしないまま議論を切り上げざるを得なかった。また、バークリの独断的観念論に対してカントがどのように批判しているかという問題に関わって、先験的感性論の部分を参照しつつ議論していったが、ここも一応の結論すら出ないままで議論を終了せざるを得なかった。今回の範囲はよく読み込んでいたつもりであるが、これまでの議論を正確に辿っていくということをしていなかったために、以前の問題に絡むものについては、なかなか自分で思うように把握することができないという課題が見つかった。

 とはいえ、カントの議論を正確に理解し、それを唯物論の立場ではどう考えるのか、どう反駁していくのかということは、たとえ結論が出ないにしても、常に問題意識として持っておく必要がある事柄だと思う。そういう意味では、唯物論の立場からの可能性、現実性、必然性とはどういうものかという議論も、全く無意味だったわけではないとは思うし、バークリ批判にしても、ここまで読んだ段階で以前の先験的感性論をしっかりと読み返せば、何らかの新しい把握が可能かもしれないという希望も見えてきた。

 次回は、「経験的な悟性使用と先験的な悟性使用との混同によって生じる反省概念の二義性について」という付録の部分を扱う。可能な限り、これまでの大きな流れを復習しつつ、当該箇所についてもしっかりと読み込んで、論点を明確にしつつ、自分の見解を固めていきたいと思う。

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 今回の例会の範囲で、先験的分析論の部分がほぼ終わったのであるが、カントを理解し切った! というところからは程遠いと痛感した。たとえば、バークリの独断的観念論について、先験的感性論でカントは反駁していたのだが、それがどのような内容であるのか、今振り返ってみても、確たることがいえないありさまであった。また、ライプニッツに対してどのように批判しているのかも、いまいち理解できなかったところである。

 やはり、前々から反省しているように、ここらで一度、『純粋理性批判』を初めから読み返す作業がどうしても必要になってくるだろう。と同時に、カントが大枠でどういう主張をしているのか、カント以前のバークリやライプニッツ、それにデカルトやヒュームなんかも含めて、哲学の大きな流れはどのようなものであったのか、こういったことも復習していく必要があろう。

 具体的には、シュヴェーグラー『西洋哲学史』を中心として、イギリス経験論と大陸合理論のあたりからカントへの流れを復習しながら、中山元訳で『純粋理性批判』を、その解説とともに読み返していきたい。これは、今停滞している著作の執筆を促進していくうえでも、大切な準備作業になると確信している。早速に計画を立てて、着実に学習を進めていかなければならない。

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 今回の例会では報告レジュメを担当したのであるが、今回の範囲は(今回の範囲も)なかなか難しかった、というのが率直な感想である。報告レジュメを作成するまでにはおろか、例会当日までに該当範囲の要約作業を終えられなかったことも大きく影響していると思われるが。

 論点2におけるバークリの独断的観念論に対するカントの批判など、正直にいって、分かったような分からないようなモヤモヤとした感覚がつきまとってしまう。論点3をめぐる議論でも改めて確認したが、『純粋理性批判』を著したカントのそもそもの問題意識――人間の認識が真理性(対象と一致していること)を主張できるのはなぜなのか、という問いについて、真理性を主張できる範囲を厳格に定めることによって答えようとした――をしっかりと踏まえつつ、最初から読み直していく計画を立てなければならないと強く思わされた。その際、哲学史の大きな流れのなかにカントの『純粋理性批判』を位置づけること、対象と認識との関係について唯物論の立場からはどのように考えるかを常に問い続けることを忘れてはならないと思う。

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 今回の例会をとおして、ある程度は書かれている内容を把握することができたと感じている。特に、カントが純粋悟性の国を波立さわぐ渺茫たる海に囲まれた「真理の国」にたとえているという点について、チューターが図示をしてくれたが、これまで学んだカント哲学の大枠を踏まえれば、納得できるものだった。やはり全体像を把握するということが極めて重要だなと感じた。何とか時間をとって、『純粋理性批判』全体の論の流れを確認する時間をとらなければならないと思った。

 哲学史全体の流れもしっかり押さえておかなければならないと思った。カントはバークリやライプニッツに対して批判をしているのだが、そもそもバークリやライプニッツはどのような主張をしていたのかを知らなければ、読んでいくことが難しい。そういう意味でも全体像をしっかりと押さえることが重要だと思った。

(了)
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2017年10月17日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(9/10)

(9)論点3:対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠とは何か

 前回は、カントは観念論に対してどのように反駁しているかに関する議論について見ていきました。ここでは、バークリの独断的観念論に対しては空間を物自体に属する性質と見なしている点が誤りであること、デカルトの蓋然的観念論に対しては内的経験の前提として、外的なものについての経験をしているのだということを証明することでことで反論していることを確認しました。

 さて今回は、3つ目の論点として、対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠についてカントがどのように述べているかに関する論点を見ていきたいと思います。

論点3:対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠とは何か

 カントは「純粋悟性の国」(p.319)について、波立さわぐ渺茫たる海に囲まれた「真理の国」(同上)にたとえているが、これはどのようなイメージを表現したものか。カントは、対象を現象的存在と可想的存在とに区別しているが、それぞれどのようなものだと述べているか。両者を区別する根拠をどのように説明しているか。特に、可想的存在は、積極的な意味のものではなく、消極的な意味と解せられなければならない(p.332)とか、可想的存在という概念は、感性の僭越を制限するための限界概念にすぎない(p.333)とか説かれているが、これらはどういう意味か。


 この論点に関しては、@カントのいう「純粋悟性の国」のイメージについて、A現象的存在と可想的存在とはどのようなもので、両者を区別する根拠は何かという問題、Bカントが可想的存在について、消極的な意味と解せられなければならないとか、限界概念に過ぎないとか述べているのはどういう意味か、という3点について議論していく必要がある、と当初は分けて考えていたのであるが、全ての個々の論点が繋がっているのではないかという把握のもと、チュータが以下のような図を示しました。


純粋悟性の国.png
「純粋悟性の国」「真理の国」     「波立さわぐ渺茫たる海」
現象の世界              物自体の世界
現象的存在              可想的存在
事象(積極的)            余事象(消極的)

 つまり、「純粋理性の国」「真理の国」に対する「波立さわぐ渺茫たる海」、現象的存在に対する可想的存在、積極的な意味に対する消極的な意味、可想的存在という概念が限界概念に過ぎないということ、これらは全て繋がっていて、カントは現象の世界のことを「純粋理性の国」「真理の国」と呼んでおり、この領域に存在する対象を現象的存在と名付けているのに対して、物自体の世界のことを「波立さわぐ渺茫たる海」と表現し、この領域に存在する対象を可想的存在と名付けているということです。また、前者においては、主観と客観の一致という真理が獲得できるのに対して、後者については、悟性の使用がこの領域に及んでしまうと必然的に誤謬に陥ってしまうということも確認しました。感性や悟性が及びうる範囲という意味で、前者が積極的な意味合いを持つとともに、後者はこれらが到達しえない領域という意味で、限界を超えた存在だとされていることも共通理解になりました。

 この図に関しては、この論点を網羅するものとして、概ね肯定的に捉えられました。特に追加の発言もなく、この論点についてはすっきり理解できたということでした。

 以上のような議論を行い、今回の例会における論点についての議論を終了しました。
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2017年10月16日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(8/10)

(8)論点2:カントは観念論に対してどのように反駁しているか

 前回は1つ目の論点、すなわち経験的思惟一般の公準に関する論点についての討論を見ていきました。カントは、可能的、現実的、必然的という様態の三原則について、客観的な総合的命題ではなく主観的な総合的命題であると述べているということでした。

 さて今回は、2つ目の論点として挙げられた、カントが観念論に対して行った反駁に関する論点について見ていきたいと思います。

論点2:カントは観念論に対してどのように反駁しているか

 カントは、物の現実的存在を間接的に証明しようとする規則に有力な非難を加えるものとして観念論を挙げているが、観念論による「有力な非難」とはどういうもので、それに対してどのように論駁しているか。カントは「内的経験一般は、外的経験一般によってのみ可能である」(p.305)というが、これはどういうことであり、どのように証明されているか。

 この論点に関しては、まず、カントのいう観念論とはどのようなものか見ていきました。各見解に大きな違いがなく、それらをまとめると、カントのいう観念論とは実質的観念論のことであり、デカルトの蓋然的観念論(我々の外にある、空間における対象の現実的存在を単に疑わしいもの、証明できないものとする理論)と、バークリの独断的観念論(我々の外にある対象を虚妄であり不可能であるとする理論)の2通りある、ということになりました。

 次に、観念論による「有力な非難」について検討しました。デカルトの蓋然的観念論については、我々の存在以外の現実的存在を直接の経験によって証明することは不可能だという主張をしているとカントは説明しているのに対して、バークリの独断的観念論については、そもそも空間における一切のものは単なる想像上の虚構物に過ぎない(客観的な世界など存在しない)から、物の現実的存在を証明するなどということは不可能だという主張をしているとカントは説明しているという見解で、概ね全員の見解をまとめることができました。

 最後に、これらの観念論による「有力な非難」にたいして、カントがどのように論駁しているのかについて見ていきました。この部分も見解は概ね共通していて、まずバークリの独断的観念論に対しては、この考え方は空間を物自体に属する性質と見なしているが、直観の主観的条件を全て除き去ってしまえば、空間が物を規定するということは直観できないのであるから、空間は物自体に属する性質ではなくて、直観の主観的形式であるという論を展開し、この形式を通して現象の世界が成立している、つまり対象(現象)を認識することが可能である、という形で論駁しているということでした。少し分かりにくいですが、要するに、空間を物自体の属する性質だとしてしまうと、直観の主観的条件によって物を規定するということが説明できなくなってしまうため、空間は物自体の属する性質ではなくて、直観の主観的条件にほかならないのだということをカントは主張しているのだということです。続いてデカルトの蓋然的観念論に対して、カントがどのように論駁しているのかを検討しました。この論点に関しては、我々は外的な物に関して単に想像するだけでなく、経験もしているということを証明することで反駁しようとしていることを確認しました。具体的には、「我あり」という意識は、「我」の外にある物の現実的存在を意識することなしには成立しない、それは時間に関する規定が、「我」の外にある常住不変なものを前提として初めて可能であるからだ、だから内的経験(我あり!)という時点で既に、外的な物についての経験をしているのだという論を展開することで、カントはデカルトに反論しているということでした。

 この最後の論点に関わっては、先験的感性論などのこれまでの議論をふまえた形でカントの主張が展開されているため、今回の範囲だけを理解していても、全体的な把握には至らないということを全員で確認することができました。『純粋理性批判』の全体を改めて初めから読み返していくことで、この観念論に対する批判をより深く理解できるのではないかということで、この論点に関する議論を終えました。
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2017年10月15日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(7/10)

(7)論点1:「経験的思惟一般の公準」とはどういうものか

 前回は、カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他の部分のうち、ポイントとなる部分を改めて振り返った後、9月例会で提出された3つの論点を紹介しました。

 今回から、その3つの論点について順次検討した内容を紹介していきたいと思います。まず1つ目の論点として挙げられたのは、カントのいう「経験的思惟一般の公準」とはどのようなものかを問う論点です。

論点1:「経験的思惟一般の公準」とはどういうものか

 カントは、様態のカテゴリーは特殊な性質をもっているというが、それはどのようなものか。カントがここでいう可能性、現実性、必然性とはどのようなものか。カントはなぜ、様態の原理に「公準」という名称を用いたのか。カントは、様態の三原則は客観的な総合的命題ではなく、主観的な総合的命題であると述べているが、これはどういうことか。「原則の体系に対する一般的注」ではどのようなことが説かれているかも合わせて確認したい。

 この論点1については、概ね、見解が一致していました。まず、カントが様態のカテゴリーについてどのような特殊性を持っていると述べているかについてです。これに関しては、様態のカテゴリーはいずれも対象を規定するものではなく、概念を拡張するものでもないのであって、認識能力とこの概念との関係を示すものであるということで共通理解が得られました。完全に規定された概念についても、この様態のカテゴリーを適用することで、対象と認識との関係を問うことが可能だということも確認しました。

 次に、カントがいう可能性、現実性、必然性とはどのようなものかという問題についてです。この点についても、ある物の概念が、単に経験の形式的条件(純粋直観の形式である空間・時間と純粋悟性概念)に合致している(だけな)のか、知覚されているのか、因果律によって規定されているのかによって、それぞれ可能性、現実性、必然性という規定を与えることができるのだということで落ち着きました。

 第3に、カントはなぜ、様態の原理に「公準」という名称を用いたのかという論点です。端的にいえば、これまでの純粋悟性の原則は対象を規定するものであったのに対して、今回取り上げた様態の原理はこの原理によって概念が産出されるものであって、数学でいう公準という言葉との類比で様態の原理に公準という名が付されているのだ、ということでした。

 第4に、カントが様態の三原則は客観的な総合的命題ではなく主観的な総合的命題であると述べていることについてです。これもほぼ同様の見解で、まとめると、様態の原理は物の概念をいささかも増大させることはなく、この認識に認識能力が結合される仕方(可能的か、現実的か、必然的か)を示すだけであり、客観的な物の概念について何も主張しないから客観的な総合命題ではないが、こうした対象と主観との関係を規定するから主観的な総合命題ということができるということでした。

 第5に、「原則の体系に対する一般的注」で説かれている中身について確認しました。ここでは、カテゴリーだけでは総合的な命題を作り出すことができず、対象を認識できない、必ず直観を持ち合わせていることが必要なのであり、カテゴリーは与えられた直観から認識を形成するための思考形式にすぎないということが再度述べられていることを見ていきました。また、対象を認識するための直観が外的直観でなければならないことが強調されていることも確認しました。ライプニッツが悟性だけによって考えられるような実体相互の関係を説明するために、実体間の媒介者として神を持ち出したことについて、カントが批判していることも確認しました。神に頼らずとも外的直観において表象すれば、相互性の可能は極めて容易に理解できるという批判をカントはライプニッツに与えていたのでした。

 最後に、直接論点としては取り上げられていませんでしたが、唯物論の立場から説く可能性、現実性、必然性とはどのようなものか議論してみてはどうかという提起をチュータが行いました。この問題については、諸々の見解が出されましたが、統一した理解に至ることはありませんでした。ただ、カントが提起した論点に関して、それを唯物論の立場から考えるとどうなるのかという問題意識は常に持っている必要があるのではないかということは確認できました。

 以上でこの論点に対する議論を終了しました。
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2017年10月14日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところを振り返っておきたいと思います。

 まずカントは、経験的思惟一般の公準について述べていました。これは様態についての判断の原則であって、可能的、現実的、必然的の3項目に分けられるということでした。そしてこれらの原則は、これまでの純粋悟性の原則と違って、対象を規定するものでも概念を拡大するものでもなくて、認識能力に対するこの概念の関係を表現するに過ぎないものだと説いていました。物の概念が経験的一般の形式的条件に合致していれば可能的であり、物が知覚されれば現実的であり、原因性の法則に従って生じた結果であれば必然的であるというのです。この様態の三原則は、客観的な物の概念について何も主張していないから客観的な綜合命題ではないが、対象と主観との関係を規定するという点で、主観的な綜合命題と呼べるということでした。

 続いてカントは、物の現実的存在を間接的に証明しようとする規則に対して有力な非難を加えるものとして、バークリの独断的観念論とデカルトの蓋然的観念論とを挙げていました。前者については、空間を物自体に属する性質だと見なしたために、空間および空間を条件として生じる一切のものが想像上の虚構物だとしてしまったものであり、先験的感性論において論破したと述べられていました。また後者については、我々の存在以外の現実的存在を直接の経験によって証明することが不可能だと主張するものであるが、我々は外的なものを単に想像するだけではなく経験もしていること、我々の内的経験は外的経験を前提としてのみ可能であることを証明することで、これに反論しようとしているのでした。

 最後にカントは、あらゆる対象を現象的存在と可想的存在とに区別していました。現象的存在は現象の世界にある存在であって、悟性使用によって、真理を主張することができるものでした。一方、可想的存在というのは物自体のことであって、我々が経験できないものであり、悟性の使用がこの領域に及んでしまうと必然的に誤謬に陥ってしまうと述べられていました。つまり、カントのいう現象的存在とは、感性的直観によって捉えられる対象の姿であって、可想的存在とは、感官の対象とならずに悟性によってのみ考えられた対象のことである、ということでした。

 以上のような内容について、例会では大きく3つの論点が提示されました。そして、各論点をめぐって様々な議論・討論がなされていきました。そこで今回は、その3つの論点を紹介したいと思います。次回以降、それぞれの論点をめぐってなされた討論過程と、その結果どのような(一応の)結論に到達したのかということを詳しく紹介していく予定です。

論点1:「経験的思惟一般の公準」とはどういうものか

 カントは、様態のカテゴリーは特殊な性質をもっているというが、それはどのようなものか。カントがここでいう可能性、現実性、必然性とはどのようなものか。カントはなぜ、様態の原理に「公準」という名称を用いたのか。カントは、様態の三原則は客観的な総合的命題ではなく、主観的な総合的命題であると述べているが、これはどういうことか。「原則の体系に対する一般的注」ではどのようなことが説かれているかも合わせて確認したい。

論点2:カントは観念論に対してどのように反駁しているか

 カントは、物の現実的存在を間接的に証明しようとする規則に有力な非難を加えるものとして観念論を挙げているが、観念論による「有力な非難」とはどういうもので、それに対してどのように論駁しているか。カントは「内的経験一般は、外的経験一般によってのみ可能である」(p.305)というが、これはどういうことであり、どのように証明されているか。

論点3:対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠とは何か

 カントは「純粋悟性の国」(p.319)について、波立さわぐ渺茫たる海に囲まれた「真理の国」(同上)にたとえているが、これはどのようなイメージを表現したものか。カントは、対象を現象的存在と可想的存在とに区別しているが、それぞれどのようなものだと述べているか。両者を区別する根拠をどのように説明しているか。特に、可想的存在は、積極的な意味のものではなく、消極的な意味と解せられなければならない(p.332)とか、可想的存在という概念は、感性の僭越を制限するための限界概念にすぎない(p.333)とか説かれているが、これらはどういう意味か。
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2017年10月13日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』 あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について

 前回は、原則の体系に対する一般的注などについて説かれている部分の要約を紹介しました。そこでは、物の可能は、カテゴリーだけから了解できることではなく、必ず直観を持ち合わせている必要があること、悟性は、そのア・プリオリな諸原則はもとより、その概念〔カテゴリー〕すらも、全て経験的に使用し得るだけであって、決してこれらの物を先験的に使用することはできないことなどが説かれていました。

 今回は現象的存在と可想的存在について説明されている部分の要約を紹介します。

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第3章 あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について〔承前〕

 純粋悟性概念は、常に経験的にのみ使用され得るものであり、決して先験的には使用され得ない。また純粋悟性概念の諸原則は、可能的経験の一般的条件として、感官の対象にのみ関係し得るものであり、決して物一般に(我々が物を直観する仕方を無視して)に関係し得るものではない。
 したがって、悟性がア・プリオリになし得るのは、可能的経験一般の形式を先取的に認識することだけである。また現象でないものは経験の対象になり得ないから、悟性は感性の限界、つまりそのなかでのみ我々に対象が与えられるところの限界を踏み越えることはできない。悟性の諸原則は、現象を解明する原理にすぎない。
 感性の形式的条件を欠く純粋カテゴリーは、単なる先験的意義をもちはするが、しかし先験的に使用され得るものではない。先験的使用はそれ自体不可能だからである。つまり純粋カテゴリーには(判断における)何らかの使用の条件――換言すれば、いわゆる対象なるものを概念のもとに包摂するための形式的条件が欠けているのである。カテゴリー(単なる純粋カテゴリーとしては)経験的に使用されるはずはなく、さりとてまた先験的に使用されることもできないから、カテゴリーが感性から完全に分離されてしまうと、カテゴリーのいかなる使用も不可能だということになる。
 しかしここには、なかなか避けがたいひとつの謬見が根底に存する。カテゴリーはその起原からいって、空間および時間という直観形式とは異なり、感性に基づくものではない。するとカテゴリーは、感官の一切の対象を越えてもっと広い適用ができそうに思われる。ところがカテゴリーは、その性質上思考形式にほかならない。感性的直観が悟性に付け加わらないと、悟性は全く意義をもたないのである。それにもかかわらず次のような区別がなされる。もし我々が、現象としてのある対象を直観する仕方を〔物自体としての〕これらの対象の性質自体から区別して、現象としての対象を感覚的存在と名づけるならば、我々は他方においてこの同じ対象を、〔物自体としての〕その性質自体にしたがって悟性的存在(可想的存在)と名づけるか、さもなければ全く我々の感官の対象にならないような別の可能的な物を悟性によってのみ考えられた対象として、さきの感覚的存在にいわば対立させてこれを悟性的存在者と名づける、ということである。するとここに、我々の純粋悟性概念は、こうした悟性的存在に関しては意義をもち得るのはあるまいか、またこの悟性的存在者を認識する仕方たり得るのではなかろうか、という問題が生じる。
 ところが、悟性がある対象をある関係において現象的存在と名づけるにしても、悟性はそれと同時に、この関係以外でも対象自体の表象を作り、こうした対象についても概念を構成し得ると思いなす。しかし悟性はカテゴリー以外にはどんな根本概念ももたないから、対象自体という意味での対象は、少なくともこうした純粋悟性概念によって考えられねばならないと思いなすのである。そのために悟性はややもすれば我々の感性のほかにある何かあるもの一般としての悟性的存在者という全く無規定な概念を、我々が悟性によってただひとつの仕方で認識し得るような存在者という規定された〔一定の〕概念と考えたがるのである。
 ところで我々が、物を直観する我々の〔感性的な〕仕方を無視して、可想的存在を我々の感性的直観の対象でないようなある物と解するならば、こうした物は消極的な意味での可想的存在である。しかしまた我々が可想的存在を、非感覚的な直観の対象と解するならば、我々は特殊な直観の仕方――すなわち知性的な直観の仕方を想定することになる。ところがこうした知性的な直観の仕方は我々の直観の仕方ではない。こういうのが積極的な意味での可想的存在というものであろう。
 私が直観をいっさい除き去っても、なお思惟の形式――換言すれば、可能的直観における多様なものに対して対象を規定する仕方は残る。カテゴリーは、対象が与えられる特殊な仕方(感性)を無視して、対象一般を思惟するから、感性的直観よりも遠くに達する。しかし、カテゴリーは、それによっていっそう広大な対象の領域を規定するのではない。感性的な直観の仕方とは異なる別の直観の仕方が可能でない限り、我々はこうした対象が与えられ得ることを想定するわけにはいかないからである。
 可想的存在という概念は、感性的直観を物自体まで拡大しないために、したがってまた感性的認識の客観的実在性に制限を加えるために必要なのである(我々が、感性的存在の達し得ない物、すなわち物自体を可想的存在と名づけるのは、およそ感性的思惟は悟性の思惟する一切のものを越えてその領域を広げることができない、と示すためにほかならない)。可想的存在という概念は、感性の僭越を制限するための限界概念にすぎない。したがってまた消極的にしか使用され得ないのである。
 それだから、対象を現象的存在と可想的存在とに区分し、また世界を感覚界と悟性界とに分つことは、積極的意味では全く承認され得ない。
 近代の学者の著者のなかで、感覚界と可想界という語の全く別の用法が散見されるが、この用法にはいたずらな言葉の綾しか見い出せない。現象の総括が直観される限りではこれを感覚界と名づけ、また現象の関連が普遍的な悟性法則にしたがって考えられる限りではこれを悟性界と名づけるのは、全く口実のためのこじつけでしかない。つまり問題の意味を自分に都合のよいように格下げして、困難な問題を回避しようとするのである。現象に関して、悟性と理性とが使用されることはいうまでもない。しかしここで問題は、対象が現象でないようなもの(可想的存在)の場合にも、なおかつ悟性や理性が幾分でも使用されるどうかということである。そこで問題は、悟性の経験的使用(宇宙構造に関するニュートン説においてすら悟性は経験的に使用されている)のほかに悟性の先験的使用、すなわち対象としての可想的存在に関係するような使用が可能であるかどうかということになるが、それに対しては我々は否定的な答えを与えざるを得ない。
 それだから我々が、感性は対象をそれが現われるがままに示すし、また悟性は対象をそれがあるがままに示すというときには、その「あるがまま」は経験的意味に解されるべきであって、先験的意味に解されるべきではない。我々にあっては、悟性と感性とが結合してのみ対象を規定し得るのである。もし我々が悟性と感性とを分離するならば、我々は概念のない直観かあるいは直観のない概念をもつにすぎない。しかし概念のない直観にせよあるいは直観のない概念にせよ、それは我々が一定の対象に関係させることのできない表象である。
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2017年10月12日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』原則の体系に対する一般的注その他 要約

 前回は、カントによる観念論への論駁について説かれている部分の要約を紹介しました。そこでは、デカルトの蓋然的観念論とバークリの独断的観念論が取り上げられ、特に前者に関して、デカルトがもはや疑いえないとした内的経験すら、外的経験を前提してのみ可能であることを証明することで、カントはデカルトに反論しているのでした。

 さて今回は、原則の体系に対する一般的注などが説かれている部分の要約を紹介します。

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原則の体系に対する一般的注

 およそ物の可能は、カテゴリーだけから了解できることではない。そのためには我々は必ず直観を持ち合わせていて、これによって純粋悟性概念の客観的実在性を現示しなければならない。これは大いに注意されるべきことである。我々は、直観を欠く限り、カテゴリーによってある対象を実際に考えることができるのかどうか、またカテゴリーにとにかく何らかの対象を対応させることができるのか、知りえないのである。つまりカテゴリーは、それだけでは認識にならないのであって、ただ与えられた直観から認識を形成するための思考形式にすぎない、ということが確認されるのである。それだからカテゴリーだけでは、決して総合的命題をつくり得ないわけである。
 もっと注意すべきことは、我々はカテゴリーによって物の可能を理解し、したがってまたカテゴリーの客観的実在性を明らかにするために直観を必要とするが、しかしこの直観は必ず外的直観でなければならない、ということである。一切の変化は、変化として知覚されるためだけにも、ある常住不変なものを直観において前提しているが、しかし内感には常住不変な直観というものが全く見出されない。相互性のカテゴリーの可能は、理性によるだけでは全く理解されない。我々は、空間における外的直観を欠くと、この概念の客観的実在性を明らかにすることができないのである。実際、2つ以上の実体が存在する場合、一方の実体の実在から他の実体の実在の上に何かある結果を生じさせるという作用が相互的に行われることの可能を、我々はどのようにして考えてみることができるのか。このことは相互性の概念が成立するためには是非とも必要であるが、しかし各自の実体性によってそれぞれ完全に孤立しているような物の間では、とうてい明らかにされ得ない事柄である。だから悟性だけによって考えられるような実体(世界における)に相互性を認めようとしたライプニッツは、こうした実体間の媒介者として神を必要としたのである。しかし我々が、(現象としての実体間の)相互性を空間において、したがってまた外的直観において表象すれば、相互性の可能は極めて容易に理解できるのである。空間は外的な形式関係を、(作用と反作用の、したがってまた相互作用の)実在的関係が可能であるための条件として、すでにア・プリオリに含んでいるからである。
 上述の注記は全て非常に重要である。「観念論に対する論駁」を確証するためばかりでなく、外的な経験的直観の助けをかりずに、単なる内的意識と我々自身の自然的性質の規定とによる自己認識がやがて論究される場合には、こうした認識の可能に対する制限を我々自身に指示するためにいっそう重要なのである。
 するとこの節全体の結果は、結局こういうことになる――純粋悟性の原則はいずれも経験を可能ならしめるア・プリオリな原理にほかならない。そしてア・プリオリな総合的命題もまた全て経験だけに関係する、それどころかこうした総合的命題の可能そのものが、全くこの関係を基礎にしているのである。


判断力の先験的理説(原則の分析論)

第3章 あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について

 我々はいま純粋悟性の国をあまねく巡り歩いて、この国のあらゆる地方を仔細に観察してきたばかりでなく、国中を端から端まで踏査して、この国土に存する一切のものにそれぞれしかるべき位置を規定した。しかしこの国はひとつの島である。そして自然そのものによって一定不変の限界をめぐらされている。この国土は真理の国(いかにも魅惑的な名前だ)であり、波立さわぐ渺茫たる海に囲まれている。そしてこの大洋こそ仮象のまことの棲み処なのである。我々はこの大洋を隈なく捜索して、そこに何ものかを見出す望みがあるかどうかを確かめるために海上へ乗り出そうとしているのであるが、しかしそれに先立ち、いまや立ち去ろうとするこの国の地図に一瞥を与えて、次の問題を考察しておくことは有益であると思う。その第一は、もし我々の定住し得るような土地がこの国以外には全く存在しないとしたら、我々はこの国土にあるところのものをもってとにかく満足できるかどうか、あるいは止むを得ず満足せねばならぬかどうか。第二は、いったい我々はどんな権原があってこの土地を我々自身のものであると主張するのか、また我々に対して提起される一切の敵視的な要求を退けて我々の安全をどうして保ち得るのか、という問題である。
 我々がこれまで知ったことは、悟性が自分自身のうちから得てくる一切のものは、経験から借りてきたのではないにもかかわらず、全く経験的使用のためだけのものであり、それ以外に何ら他意はない、ということである。悟性は、経験的な悟性使用を旨とするので、自分自身の認識の源泉については精しく考えようとしない。それだからなるほど非常に具合よく自分の仕事を運びはするものの、ひとつだけはどうしても自分になし得ないことがある。それは悟性使用の限界をみずから決定し、また何が自分の全領域のうちにあり何がその外にあるかを知るということである。しかし悟性がある種の問題について、それが自分の解決し得る範囲内にあるかどうかを判別できないとすると、悟性は自分の要求と所有とを確保できないわけであって、もし自分の領域の限界をしょっちゅう踏み越え(これは避けられないことである)謬見と虚妄とのなかへ迷い込むならば、しばしば恥ずべき叱正を蒙る覚悟が必要である。
 それだから悟性は、そのア・プリオリな諸原則はもとより、その概念〔カテゴリー〕すらも、全て経験的に使用し得るだけであって、決してこれらの物を先験的に使用することはできない、という命題は、もしこの命題が確認されるなら甚だ重要な結果を生じることになろう。何らかの原則におけるある概念の先験的使用とは、この概念が物一般すなわち物自体に適用されることである。また経験的使用とは、この概念が現象だけに適用されることである。しかし悟性概念に関しては一般に経験的使用だけしかあり得ないことは、次の事情から明白である。およそ概念に必要なものは、第一に概念(思惟)一般の論理的形式であり、第二には、その概念の適用される対象が概念に与えられ得るということである。こうした対象を欠く概念は、たとえ何らかの与えられたものから概念を構成するという論理的形式をなお含んでいるにしても、何の意味をももたないし、また全く内容がないことになる。ところで概念には、直観においてしかその対象が与えられ得ない。また純粋直観は、対象よりも前にア・プリオリに可能であるが、しかしこの純粋直観そのものすら、その対象と従ってまた客観的実在性とをもち得るのは、経験的直観によるよりほかない。純粋直観は経験的直観の単なる形式にすぎないのである。それだから悟性の概念と、またそれとともに悟性の原則とは、いずれもア・プリオリに可能であるにせよ、全て経験的直観に関係する。換言すれば、可能的経験を形成するための所与に関係するのである。
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2017年10月11日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』観念論に対する論駁 要約

 前回は、経験的思惟一般の公準を扱った部分の要約を紹介しました。ここでは、様態の3カテゴリーは、いずれも対象を規定するものでなく、また概念をいささかも拡大するものでもなく、認識能力に対するこの概念の関係を表現するにすぎないこと、これらのカテゴリーは先験的使用を許さず、これを経験的使用にのみ制限する必要があることなどが説かれていました。

 今回は、観念論に対するカントの論駁の部分の要約を紹介しましょう。

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観念論に対する論駁

 観念論(私のいう観念論は実質的観念論)には2通りある。第一は我々の外にある対象、すなわち空間における対象の現実的存在を単に疑わしいもの、証明できないものとするデカルトの蓋然的観念論であり、彼は「私は存在する」という唯一の経験的主張だけを疑いえないというのである。第二は、これを虚妄であり不可能であるとするバークリの独断的観念論である。空間は物を成立させる条件として物から分離されないものであるが、彼は空間と一切のものをそれ自体不可能な何かあるものであり、それ故に空間における一切のものをも単なる想像上の虚構物にすぎないというのである。もし我々が空間を物自体に属する性質と見なすなら、独断的観念論は避けられない。この場合、空間は空間を条件として成立する一切の物とともに、空想物になってしまうからである。しかしこの独断的観念論の根拠は、我々がすでに先験的感性論において論破したところである。ところが蓋然的観念論のほうは、こうしたことは何も主張せずに、ただ我々の存在以外の現実的存在を直接の経験によって証明することの不可能を説くだけであるから、合理的であるしまた徹底を旨とする哲学的考え方にもかなうところがある。つまり十分な証明が提示されないうちは、決定的判断を下さないというわけである。それだからここで要求されている証明は、我々は外的な物に関して単に想像するだけでなく、経験もしているということを証示せねばならない。このことは、我々の内的経験、すなわちデカルトがもはや疑いえないとした経験すら、外的経験を前提してのみ可能であることを証明しうるときのみ、成就され得るわけである。

定理

 私の外にある対象すなわち空間における対象の現実的存在を証明するところのものは私自身の現実的存在の単なる、とはいえ経験的に規定された意識である。

証明

 私は私自身の現実的存在を、時間に規定されたものとして意識する。時間に関する規定は全て常住不変なものを前提するが、これは私の内にあるものではない。常住不変なものの知覚は、私の外にある物によってのみ可能になる。したがって、時間における私の現実的存在の規定は、何によらず私が自分の外にあるものとして知覚するようなものの実際的存在によってのみ可能である。私自身の現実的存在の意識が同時に、私の外にある他の物の現実的存在の直接的意識なのである。
 注1)この観念論は、内的経験だけが唯一の直接的経験であり、外的な物はこの内的経験から推及されたものにすぎないと想定したが、上に証明した通り、外的経験こそ本来直接的なものなのである。内的経験そのものは間接的にのみ、外的経験によってのみ可能である。
 注2)我々は一切の時間を、空間における常住不変なものに関する外的関係(例えば、地上の対象に関する太陽の移動)における変易(運動)によってのみ規定することができる。我々が、実体の概念に直観として対応させることができる常住不変なものといえば物質だけである。そしてこの常住不変性すら、外的経験から得られるものではなく、一切の時間規定の必然的条件としてア・プリオリに前提される。したがってまた我々自身の現実的存在に関する内感の規定としても、外的な物の実際的存在によって前提されるわけである。「私」という表象に含まれている私自身に関する意識は、決して直観ではなく、思惟する主観の自発的活動によって生じた知性的表象である。この「私」は常住不変なものとして、内感における時間規定の相関者の用をなし得るようなもの――つまり経験的直観としての物質における不加入性と同じようなものである。
 注3)外的な物の表象は(夢や狂気の場合の)構想力のはたらきから生じた結果にすぎないこともあり得るから、我々自身に関するある一定の意識が可能であるためには、外的な対象の実際的存在が必要であるということからは、外的な物の直観的表象でありさえすれば同時に外的な物の実際的存在を含んでいる、という結論は出てこない。しかし、こうした表象はかつて経験したことのある外的知覚の再生によって生じたものである。そしてこの外的知覚は、すでに述べた通り、外的対象の現実的存在によってのみ可能である。

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 第三の必然性の公準についていえば、この公準は現実的存在の実質的な必然性に関するものであって、概念結合の単なる形式的、論理的な必然性に関するものではない。感官の対象の実際的存在は、完全にア・プリオリには認識されないにせよ、しかしすでに与えられている他の現実的存在に関係させて、比較的にア・プリオリには認識され得る。とはいえその場合にも我々が認識し得る存在は、経験の――といっても、与えられた知覚がその一部をなしているところの経験の連関のどこかに含まれていなければならないような実際的存在に限られている。それだから実際的存在の必然性は、概念から認識されるのではなくて、常に知覚されるところのものとの結合からのみ経験の普遍的法則にしたがって認識されるのである。すると与えられた原因から他の現象が条件となり、この条件のもとで認識され得る現実的存在は、与えられた原因から原因性の法則〔因果律〕にしたがって生じた結果の現実的存在だけということになる。我々が認識し得るのは、物(実体)の現実的存在の必然性ではなくて、その物の状態の現実的存在の必然性だけである。それも、知覚に与えられている他の状態から、原因性の法則にしたがって認識するにすぎない。してみるとかかる必然性の標徴は、可能的経験を成立させる法則にのみ見出されることが判る。そしてその法則とは、「生起する一切のものはその原因によって、現象においてア・プリオリに規定されている」ということである。つまり、我々が認識するのは、原因が与えられている場合に自然においてこの原因から生じた結果の必然性だけである。
 私が様態の原理に公準という名称を付した理由を述べておく。様態の3原則は、対象の概念に何ものをも付け加えないから客観的な総合命題ではないが、この概念に認識能力を適用するから、主観的な総合命題ではある。数学における公準は、ある種の総合しか含まない実用的命題である。すなわち我々は、この総合によってある対象をまず我々自身に示しておいて、それからこの対象の概念を産出するのである。例えば「与えられた線をもって、与えられた点から平面上にひとつの円を描くこと」というような命題は証明されるものではなく、この命題が要求している手続きそのものによってこそ、この図形の概念が始めて産出されるのである。これと同じく、様態の3原則は、物の概念をいささかも増大するのではなく、この概念に認識能力が結合される仕方を示すだけなのである。
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2017年10月10日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準 要約

 前回は、京都弁証法認識論研究会の9月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回に渡って、カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準等の部分の要約を紹介していくことにします。

 今回は、純粋悟性の原則の4つ目として、経験的思惟一般の公準について説かれている内容の要約を紹介します。

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経験的思惟一般の公準

1 経験の形式的条件(直観および概念に関する)と合致するものは、可能的である。
2 経験の実質的条件(感覚)と関連するものは、現実的である。
3 現実的なものとの関連が、経験の普遍的条件に従って規定されているものは、必然的である(必然的に存在する)。

 様態の3カテゴリーは、いずれも対象を規定するものでなく、また概念をいささかも拡大するものでもなく、認識能力に対するこの概念の関係を表現するにすぎない、という特殊な性質をもっている。ある物の概念が十全であってもなお、この対象は単に可能であるのか、現実的なものでもあるのか、もし現実的なものであるとすれば必然的なものでもあるのか、と問い得るのである。
 様態の3原則も可能性、現実性、必然性が経験的に使用される場合のこれら3原則の説明以上に出ず、同時に様態のカテゴリーに先験的使用を許さず、これを経験的使用にのみ制限するのである。これらカテゴリーが単なる論理的意義をもつだけでなく、また思惟の形式を分析的に表現するにとどまるべきでなくて、物と物の可能性、現実性、必然性とにかかわるべきならば、こうしたカテゴリーはいずれも可能的経験とその総合的統一とに関係しなければならない。認識の対象は、可能的経験の総合的統一においてのみ与えられるからである。
 それだから物の可能を認識する公準は、物の概念が経験一般の形式的条件に合致することを要求する。しかしこの形式的条件、つまり経験一般の客観的形式は、およそ客観の認識に必要な一切の総合を含んでいる。総合を含む概念は、もしその総合が経験に属しないとすると、空虚と見なされねばならない。したがってまたおよそいかなる対象にも関係しえないわけである。それだからア・プリオリな総合的概念によって考えられるような対象の可能が、客観の経験的認識の形式をなすところの総合によって成立するのでないとしたら、我々は対象の可能という特性をどこにも求めようがないのである。
 概念の客観的実在性、すなわちその先験的真理は、これらの概念がおよそ経験における知覚の関係をア・プリオリに表現するのでなければ認識しえない。我々はこうした客観的実在性を、もとより経験に関わりなく認識するのであるが、しかし経験一般の形式と、対象の経験的認識を可能ならしめる唯一のものであるところの総合的統一とに対する一切の関係を無視しては認識しえないのである。
 空間において常住不変に現在しながらしかも空間を占めていないような物体、未来のことを前もって直観する心力、遠隔地にいる他の人々とも精神感応を営み相手の考えていることを読みとる心的能力といった概念は、経験と既知の経験的法則とを根拠となしえないから、思考の任意の結合でしかなく、客観的実在性を要求できるようなものではない。
 しかし私は、たとえ物の可能が経験における現実性だけから推及されるにしても、こうした物を一切無視して、物がア・プリオリな概念によって可能になるということだけを考察したい。物の可能は、決してこうした概念自体だけで成立し得るものではなくて、これらのア・プリオリな概念が常に経験一般の形式的かつ客観的な条件である限りにおいてのみ成立し得るというのが、私のこれから主張しようとするところなのである。
 ひとつの三角形が可能であることは、三角形の概念自体(経験に関わりがない)から認識されるように見える。しかしこのような三角形は、構想力の所産であり対象の形式にすぎないから、対象の可能は疑わしい。対象が可能であるためには、この図形が経験の一切の対象の基礎をなすところの諸条件のもとでのみ考えられる、ということが必要なのである。要するに、空間が外的現象のア・プリオリな形式的条件であるということ、また我々が構想力においてひとつの三角形を構成するのに用いるところの総合とまったく同一であるということ――これのみがこの三角形の概念に、こうした物の可能の表象を結びつけるところのものである。連続的な量が可能であるのも、それどころか量一般が可能であるのも、全てこのような事情によるものであって、概念そのものからではなく、経験一般において対象を規定する形式的条件としての概念から初めて明瞭になるからである。
 物の現実性を認識するための公準は、知覚を必要とする。従ってまた我々が意識している感覚を必要とする。その場合にこの公準は、必ずしも対象そのものを――換言すれば、我々がその現実的存在を認識しようとする当の対象の知覚を直接に必要とするのではないが、しかしこの対象が経験の類推に従ってなんらかの現実的知覚と関連していることを必要とする。経験の類推は、経験一般における一切の実在的結合を表示するからである。
 物の単なる概念のなかには、物の現実的存在という特性は決して見出されるものではない。物の現実的存在が問題とするのは、こうした物が我々に与えられているかどうか(この物の知覚がいずれにせよ概念より前にありうるかどうか)ということだけである。もっとも、物の現実的存在が、知覚の経験的結合の原則(類推)に従っていくつかの知覚と関連していさえすれば、我々はその物を知覚する前でも、したがって比較的にア・プリオリに、こうした物の現実的存在を認識することができる。つまりその場合には、この想定された物の現実的存在は、可能的経験における我々の知覚と関連しているので、我々は経験の類推の手引きにしたがって、我々の現実的知覚から可能的知覚の系列を辿って、この物に到達することができるわけである。例えば、一切の物体を透徹している磁性的物質の現実的存在を、これに引き付けられた鉄粉の知覚から認識するように、である。ところが、物の現実的存在を間接的に証明しようとするこの規則に有力な反論を加えるものに観念論がある。そこでここに観念論に対する論駁を挿入する次第である。
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2017年10月09日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準 要約
(3)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約
(4)カント『純粋理性批判』原則の体系に対する一般的注その他 要約
(5)カント『純粋理性批判』あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について 要約
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:「経験的思惟一般の公準」とはどういうものか
(8)論点2:カントは観念論に対してどのように反駁しているか
(9)論点3:対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠とは何か
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 9月例会では、『純粋理性批判』の経験的思惟一般の公準その他を扱いました。今回の範囲は次のような構成になっています。

第2章 純粋悟性のすべての原則の体系
 第3節 純粋悟性のすべての綜合的原則の体系的表示
  4 経験的思惟一般の公準
  (観念論に対する論駁)
  原則の体系に対する一般的注
第3章 あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について

 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

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京都弁証法認識論研究会 2017年9月例会
カント『純粋理性批判』
経験的思惟一般の公準 〜判断力の先験的理説(原則の分析論)
 第3章 あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について

1.「経験的思惟一般の公準」とはどういうものか
 経験的思惟一般の公準とは、様態(対象の存在の仕方、対象にたいする認識能力の関係)についての判断の原則で、@可能的 A現実的 B必然的の3項目に分けられる。これら様態のカテゴリーは、これまでの純粋悟性の原則(分量、性質、関係)と異なり、対象を規定するものでも概念を拡大するものでもなく、認識能力に対するこの概念の関係を表現するにすぎない、とされる。様態の3カテゴリーは、他の原則によって概念規定された対象が可能なのか、現実なのか、必然なのか、という問題に関わるものなのである。
 可能性とは、物の概念が経験一般の形式的条件(純粋直観の形式である空間・時間と純粋悟性概念)に合致していることである。そういう形式的条件に合致していれば(実際に存在しているかどうかはともかく)存在する可能性はあるといえる。現実性とは、物が経験の実質的な条件(感覚)と関連すること、端的には、物が知覚されることである。必然性とは、原因性の法則(因果律)に従って生じた結果の現実的存在しか認識されない、ということである。
 様態の三原則は、客観的な物の概念について何も主張しないから客観的な総合命題ではないが、こうした対象と主観との関係を規定するから主観的な総合命題である、とカントは述べている。

〈報告者コメント〉
 「経験的思惟一般の公準」(様態のカテゴリーにもとづく総合判断の原則)が、他のカテゴリーにもとづく総合判断の原則とは異なって、対象そのものの概念規定に関わるものではなく、対象と認識主体との関係に関わるものだとされていることが重要であろう。カントがそもそも対象と認識との関係をどのように描いていたのか、というところから、この「経験的思惟一般の公準」の位置づけを明確にイメージしておく必要があるだろう。このことこそが、唯物論の立場からいうところの可能性、現実性、必然性とはどういうものなのか、それはカントのいわゆる可能性、現実性、必然性とどう異なるのか、議論していくための前提となるであろう。

2.カントは観念論をどう論駁しているか
 カントは、物の現実的存在を間接的に証明しようとする規則に有力な非難を加えるものとして、観念論(実質的観念論)を挙げている。この観念論には、デカルトの蓋然的観念論(我々の外にある、空間における対象の現実的存在を単に疑わしいもの、証明できないものとする理論)と、バークリの独断的観念論(我々の外にある対象を虚妄であり不可能であるとする理論)の2通りある、とされる。
 カントは、独断的観念論なるものは、空間を物自体に属する性質と見なしたために空間および空間を条件として生じる一切のものが想像上の虚構物だ、としてしまったものであり、先験的観念論においてすでに論破された、とする。これに対して、蓋然的観念論については、我々の存在以外の現実的存在を直接の経験によって証明することの不可能を説くだけであるから、合理的で哲学的考え方にかなうものだ、とする。ここから、直接的には知覚することができない物(例えば磁性的物質)の現実的存在を現象の経験的連関の法則に従って間接的に証明しようとすることへの「有力な非難」がなされることになる。このような非難に対してカントは、我々は外的なものを単に想像するだけでなく経験もしていること、このことは我々の内的経験(デカルトがもはや疑いえないとした経験)すら外的経験を前提としてのみ可能であることを証明することで論駁しようとしている。カントは、時間における私の現実的存在の規定は、私が自分の外にあるものとして知覚するような物の実際的存在によってのみ可能である、と主張するのである。

〈報告者コメント〉
 カントのいわゆる観念論と、カント自身の立場とはどう違うのか、我々自身の唯物論の立場から、よく整理しておく必要があるだろう。カントが外的経験を前提としてのみ内的経験が可能になる、と主張しているのは重要ではないかと思われるが、これは我々自身の唯物論の立場からすればどのように評価できるのか、よく確認しておきたい。

3.あらゆる対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠とは
 カントは「純粋悟性の国」を、波立さわぐ渺茫たる海に囲まれた「真理の国」にたとえている。「純粋悟性の国」とは、我々人間が経験できる領域のこと、すなわち現象の世界のことであり、悟性の使用がこの領域にとどまる限り、真理(主観と客観の一致)を主張することが可能となるという意味で、「真理の国」にたとえられている。これに対して、「波立さわぐ渺茫たる海」というのは、経験できない領域のこと、すなわち物自体の世界のことであり、悟性の使用がこの領域に及んでしまうと必然的に誤謬に陥ってしまう、とされている。
 カントは、純粋カテゴリーは感性から完全に分離されてしまうと対象に全く適用できなくなってしまうことを強調し、感性に基づかないカテゴリーは感官の一切の対象を超えてもっと広い範囲に適用できるかのように思うのは誤解である、と指摘する。その上で、現象的存在と可想的存在との区別を導入している。カントのいわゆる現象的存在(感覚的存在)とは、感性的直観によって捉えられる対象の姿(対象の性質自体から区別された現象)であり、可想的存在(悟性的存在)とは、人間の感官の対象にはならず悟性によってのみ考えられた対象のことである。

〈報告者コメント〉
 『純粋理性批判』を著したカントのそもそもの問題意識とは何であったのか、というところから確認すべきところであろう。人間の認識が真理性(対象と一致していること)を主張できるのはなぜなのか、という問いについて、真理性を主張できる範囲を厳格に定めることによって答えようとしたのだ、ということが確認できるであろう。

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 以上の報告に対しては、概ね肯定的な評価がなされました。報告者コメントが若干分量的に少ないとはいえ、コンパクトにまとまっているのではないかということでした。また、3.の報告者コメントにあるように、カントのそもそもの問題意識を念頭に置きながら議論していく必要があることも確認しました。
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2017年09月16日

障害児の子育ての1年間を振り返る(2/5)

(2)抱っこしながらの散歩とその意味

 本稿は、ダウン症と診断されたわが子の1年間の育児を振り返るものである。今回は、その育児の中で行っていた「抱っこしながらの散歩」について取り上げたいと思う。

 里帰り出産であったため、出産後の2か月ほどは一緒にいなかったのだが、家に戻ってきてからはほとんど欠かすことなく毎日行っていたことが抱っこしながらの散歩である。朝6時頃から子どもを抱っこして、近くを2、30分散歩した。さらに、仕事から戻った夕方にも同じように散歩をした。休日は昼間にも行うようにした。つまり多い時で合計3回、1時間半ほど散歩するようにした。

 直接的なきっかけは、松田道雄『育児の百科』の「赤ちゃんをきたえよう」の項目で、くどいほど「外気に当てろ」と書かれていたことである。例えば、以下のとおりである。

「3か月をすぎた赤ちゃんは、1日のうち3時間くらい外気にあてたい。気候のいいときであれば、ベビーカーにねかせて、外気のなかにだしておいてもいいが、やはり、抱いて散歩する時間がほしい。3か月になると、赤ちゃんは、いろいろのものに関心をもつようになり、自分で頭をうごかして左右をながめる。抱かれていれば、胴体をしゃんと直立させようとする。よろこべば腕もうごかす。だから、赤ちゃんにとっては散歩はいい運動である。
 極寒でも、つよい風のない日は手足や耳を十分に保護して、あたたかい時刻をえらんで、せめて20〜30分でも外気にあてたい。冷たい空気を呼吸することが、気道の粘膜をきたえる。夏の暑いときは、日陰をえらんで外にだす。帽子を必ずかぶせる。春や秋でも、3か月では、まだあまり太陽で皮膚をやかないほうがいい。」(pp.197-199)

「4か月すぎると、赤ちゃんは首もしっかりし、支えればすわってもいられるから、抱っこしたり、ベビーカーに乗せたりして、家の外につれてでやすくなる。赤ちゃん自身も、周囲のものにたいする関心がふえるので、外へ出ることをよろこぶ。からだをきたえるチャンスがめぐってきたといえる。できれば1日に3時間以上、外気のなかで暮らすようにしたい。」(p.225)

「5か月から6か月までは(中略)鍛錬開始期とでもいいたいくらいだ。厳寒の季節をのぞいて、せいぜい外気のなかで生活させてほしい。」(pp.251-252)

「6か月すぎた赤ちゃんは、1日のうち3時間以上は外気のなかですごすようにしたい。ベビーカーにすわらせているだけでなく、安全なところでおろして、おすわりさせたり、はいはいさせたりできるといちばんいい。(中略)外で外気浴のできないときは、家のなかで空気浴をやる。室温を20度ぐらいにしておければ、赤ちゃんをはだかにできる。」(p.297)


 とりわけ抱っこしながらの散歩がよいということだったので、散歩をすることにした。最初は、ずっと斉藤公子が推奨しているやり方(赤ちゃんと向かい合わせになり、赤ちゃんの股を自分のおなかにくっつけて、片手でおへその裏側、もう片方の手で頭をもつという方法)で抱っこをしながら散歩をしていた(今振り返ると、かなりリスクの高い散歩の仕方だったと思う)。途中でとまって、じーっと目を見つめて、ほほえみかけたりした。生後2か月と1週のときの記録では「最近、だっこしているときに目が合うようになってきた。じーっと笑顔で見つめ続けると、ほほの筋肉が少し上がるようにもなった。先日ははっきりと笑う姿が見られた。」と書いている。12月からは、縦抱きにして抱っこするようにした。最近は、抱っこひもを使って縦抱きにするようにしている

 抱っこしながらの散歩にはどのような意味があるのか。『育児の認識学』では、「そもそも人間は実体と認識の統一体であり、それだけに、この両面をきちんととらえて教育していかなければならない」(p.26)と書かれている。したがって、散歩の意味についても、実体面と認識面の両面から見ていく必要があるだろう。

 第一に実体面に関してだが、これも生理的な側面と運動的な側面の2つがある。生理的な側面で言えば、外界に対応する実力をつけるということである。家の中はある程度過ごしやすい温度に保たれているが、外は暑かったり寒かったりする。また日差し・明るさに関しても、家の中ではほぼ一定であるが、外ではその時々によって変化する。このような外界の自然的な変化に対応できるようにするという意味がある。

 運動的な側面で言えば、首から背中・腰にかけての骨や筋肉を鍛えるという意味がある。ここに関わっては、『総合看護』に連載されていた「看護の生理学」で瀬江先生が次のように説いている。

「人間の赤ん坊は、首が座るということも、放っておいて自然にできるようになるわけではありません。ではどのような育て方をすると、赤ん坊の首が座ってくるのかというと、最も大事なことは『抱く』ということです。つまり人間の母親が赤ん坊を抱くということは、単なるスキンシップのためだけではなく、人間としての運動形態の基本をつくっていくことになるのであり、当然その抱き方が問題とされなければなりません。
 では、赤ん坊をどのように抱かなければならないのかと言うと、端的には、仰向けに寝ている状態から、少しずつ少しずつ背骨を立てていく抱き方、つまり”横抱き”から”たて抱き”に移行していく必要があるのです。
 そのように、少しずつ少しずつ大地に対して背骨を垂直に立てる姿勢をとらせていくことによって、赤ん坊の体は、背骨をはじめとして、首や手足の骨も筋肉も、内臓も、脳も感覚器官も、少しずつ少しずつその姿勢になれ、そのような重力関係に慣れ、そのような姿勢を保てる実力がついていくことになるのです。」(瀬江千史「看護の生理学(43)−運動器官第8回−」『綜合看護』(2012年3号)所収)


 要するに、縦抱きとは背骨を立てていく抱き方であり、それによって、そのような重力関係に慣れ、そのような姿勢を保てる実力がついていくことになるということである。

 これは私自身の経験としてもよくわかる。縦抱きを始めた当初、赤ちゃんはぐにゃぐにゃで、親が手でしっかりと支えていないといけない。しかし、徐々に徐々にその支える力を緩めていっても大丈夫なようになり、最終的には自分で支えられるようになるのである。ここでは直接的には首すわりについて触れられているが、私自身はおすわりのために背筋を伸ばすということにも同様のことが言えると感じている。

 第二に認識面に関してだが、こちらについても「看護の生理学」で次のように説かれている。

「さらに、抱くということは赤ん坊を育てるうえで、とても重要な意味を持つのですが、それは赤ん坊が仰向けに寝かされていたのに対して、抱かれた時には、反映する外界が大きく違ってくるからです。つまり周囲のものを、下から見上げていたのに対して、上から見下ろすことになるのです。例えばベッドに寝ている時は、のぞきに来たお兄ちゃんの顔しか見えなかったのに対し、お母さんに抱かれて上から見てみると、お兄ちゃんが走り回ったり、食事をしたりしているのが見える・・・という具合にです。そしてこういう外界の違った反映の体験を繰り返していくことが、サルが木に登ったり、降りたりしてヒトになっていく過程で、脳の機能としての認識が新たな発展を遂げたと同様に、赤ん坊の認識の発展を促していくことになるのです。」(同上論文)


 つまり、抱っこをすることによって、これまでとは違った形で外界を反映させることになり、赤ちゃんの認識の発展を促していくことになるということである。当初は横抱きに近い形で抱っこしていたから、そういう形での外界の反映をしていたけれども、徐々に縦抱きにしたことにより、以前とは違った反映がなされるようになり、両者が合わさって、像が厚みのあるものになっていったということである。

 さらに散歩の場合、その反映する外界そのものが家の中に比べれば多種多様となる。小鳥が泣いていたり、ちょうちょが飛んでいたり、前から散歩している犬がやってきたり、その飼い主が「おはよう」と声をかけてくれたり・・・といった家では味わえない新鮮な反映がある。これは赤ちゃんの興味・関心を促し、外界に対して積極的な姿勢を創ることになると考えられる。

 こうした意味のある抱っこしながらの散歩なのだが、「毎日」行い続けたということがやはり重要だったのではないかと思う。さすがにどしゃ降りの雨の日などは中止したが、多少の雨や雪の日は、濡れないように気を使いながらも散歩した。当然、疲れているときもあったけれども、朝と夕方の散歩は欠かさなかった(頻度は減ってしまったが、現在も行っている)。このように毎日行い続けた結果として、様々なものに興味関心を示す現在の姿があるのではないかと考えている。
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2017年09月14日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の「経験の類推」を扱ったわが研究会の2017年8月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、3つの論点について諸々に議論したプロセスを紹介してきました。

 8月例会報告の最終回となる今回は、参加していた会員の感想を紹介することにします。

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 今回の内容も何を言わんとしているのかがなかなかつかみにくいところであったが、ヒュームの因果律批判に対してどのように反論しているのかについて、かなり明確に把握できたのではないかと思う。端的に言えば、我々が見ている世界(現象)は、原因と結果というカテゴリーが備わった純粋悟性概念によって成立したものであるから、そこには必然性が存在しているのだということである。そもそもカントは、我々が見ている世界はカテゴリーによって成立した現象の世界であり、この世界を客観的な世界として、様々な経験(認識)を獲得するのだと主張している。こういうカントの主張の枠組みがかなり明確に把握できた。

 当日の議論においても、こういう枠組みを踏まえたときに違和感を覚える表現についてしっかりと指摘することができたし、その指摘の中身を説明する中で、自分自身の理解や研究会全体の理解も深めることができたと感じている。前回の例会の感想の中で、7月例会のチューターが「ちょっとした会員のちょっとした言語表現から、大きく誤解しているのではないか、根本的なところを理解していないのではないか、と思われる点については、やや厳しく突っ込みを入れることができたと思う」と書いていたので、私も今回そのことを意識してチューターに臨んだのだが、まずまずの働きができたのではないかと思う。

 また、唯物論の立場からヒュームにどう反論するかという議論も非常によかったと思う。ヒュームに反論するためには、世界に必然性があることを主張しないといけない。あるいは、世界の部分的な認識に基づいて世界全体のことがわかるのはなぜなのかということを説かなければならない。端的には、この世界全体には弁証法性が貫かれているから、我々が認識する特定の部分にも弁証法は貫かれているのであり、したがって、部分の認識によって全体の認識をすることができるのだということであった。

 このように、唯物論の立場ではこう説くということをカント自身も納得するような形で論を展開していかなければならないと感じた。

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 今回は、カント『純粋理性批判』の「経験の類推」という部分を扱った。報告レジュメの担当に当たっていたため、しっかり読み込んでレジュメを執筆しようと取り組んでいった。

 読み始めの数ページは、まるで自分のアタマがカントになり切ったかの如く、「うんうん、そうだよな」という感じで全く引っかかりなく読めていった。カントの立場であればこういう表現になるということが、これまでの学びで少しずつ分かってきた感じがあったのである。

 しかし、「現象の現実的存在」という部分で引っかかってしまった。この表現がどのような中身であるのか、ほとんど全くといっていいほど像が描けなかったのである。しかも、この表現は繰り返し登場してきて、文章全体がよく分からないものとなっていってしまったのである。この表現については、例会を通してもあまり突っ込んだ議論ができなかったが、何度も読み返して、「読み始めの数ページ」で味わったような感覚になっていけるように努力していきたい。

 例会の議論の中で特に印象的だったのが、カントが現象の成立と現象の認識とを分けて捉えているらしいということであった。私の理解では、認識の側にある純粋悟性概念(カテゴリー)を現象に適用することで、認識が成立し、それと直接に現象(客観)も成立する、とカントが考えているものと思っていた。しかし、議論を通じて、そうではなく、確かに純粋悟性概念(カテゴリー)を適用することで現象は成立するのであるが、その現象を認識することはまた別の段階の事象だということが理解できてきた。これは、そもそものカントの問題意識、つまり人間に見えるような世界(現象の世界=客観)をなぜ人間は正しく認識(主観)できるのか、そもそも現象の世界=客観はどのように成立しているのか、という問題意識をしっかりとふまえてカントの論を追っていく必要がある、ということでもある。こうした大局的な見方ができていなかったために、カント学説の一般的な理解(認識が対象を成立させている)で満足してしまったということである。

 次回の例会はチューターに当たっているため、議論をリードし有意義な例会にできるように、しっかりと準備をしていきたいと思う。

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 今回の範囲もなかなか難しいところであったが、あくまでも『純粋理性批判』の全体の論の流れのなかでどのような位置づけにある部分なのかを見失わないようにしながら読んでいくことの大切さを改めて感じた。なかなか実行できていないが、やはり最初の部分からの読み直していくことが必要であると感じている。

 今回の例会の議論で重要だと思ったのは、カントの議論に対して、唯物論の立場からはこう考える、と対置することを、あまり安易にやってしまってはならない、ということが、研究会としての共通認識になったことである。例えば、「唯物論の立場からは、原因と結果のつながりは客観的に存在していることになる」などと結論だけいっても、それはヒューム以前の常識的な見方を繰返しているだけで、カントが納得するわけがないのである。これではヒューム以下なのだ、ということを自覚しなければならない。カントを納得させうるような唯物論の立場からの論の展開はどうあるべきか、と常に考えていかなければならない。これに関連して、世界の部分についての経験から世界の全体を貫く性質を把握することができるのはなぜか、という問いが明確になったのは、大きな収穫だったといえるのではないだろうか。こうした問題は、簡単に解決したもの、分かったものとしてしまってはならないので、常に問いを深めるようにしていきたい。
 
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 今回の例会では、カント「純粋理性批判」の「原則の分析論」のなかの、「経験の類推」の部分を扱った。論点への見解は書くことができなかったが、当日の議論において、だいたいの内容を把握することができたと思う。要するに、われわれは、ある現象Aと別の現象Bを、因果関係で捉えたり、同時に存在していると捉えたりするが、そのためには、どのような原則が適用されているのかを説いている部分だと思う。原因・結果の関係にせよ、同時だという関係にせよ、そういう時間関係について論じる際には、その前提として常住不変なもの=実体が想定されている。そこで、まず実体について論じ、その後、因果関係と同時的関係についてカントは説いているのであろう。

 今回の例会で最も興味深かったのは、唯物論の立場からすれば、経験の積み重ねによってなぜ必然性の認識が可能となるのか、について議論した点であった。私は端的には、認識における量質転化の問題だと答えたのであるが、当日指摘されたとおり、これでは不十分であった。なぜなら、ヒュームからは「それは単なる信念なのではないか」と反論されうるからであった。そこで、現実世界の持つ弁証法性に注目した。現実の世界全体を貫く弁証法的な性格は、もちろん、部分にも貫かれているから、部分の認識だけでもって、全体の認識、すなわち必然性の認識となる、ということであった。

 このように、現実世界の持つ弁証法性を考えに入れないと、必然性の認識が成立する根拠は説明できないというのは、間違いないと思う。しかし、当初私が指摘したような、認識の量質転化という問題も、他方でやはり、必然性の認識にとって不可欠な要素なのではないか。カントは、感性と理性を分けてしまって、そのつながりを解明できなかったが、われわれは、感性的認識と理性的認識を、同じ像の発展過程において捉えることができる。部分の認識というのはいわば感性的認識のことであり、全体の認識=必然性の認識とは理性的認識のことであるといえるだろう。そうすると、感性的認識の積み重ねによって、理性的認識に到達することができるのであるから、それはやはり量質転化といいうるのである。この認識の量質転化の具体的な過程的構造を解明していくことが、カントの二元論を克服するための、大きな道であると感じた次第である。
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2017年09月13日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(9/10)

(9)論点3:相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か。

 前回は、2つ目の論点に関する議論を紹介しました。そこでは、カント哲学の大きな枠組みを確認した上で、ヒュームの因果律批判にどう答えているのか、これに対して唯物論の立場からすれば、ヒュームの因果律批判にどう反論すべきなのかという点について検討しました。

 今回は、3つ目の論点についての議論と、その議論をとおしてどのような(一応の)結論に至ったのかを紹介したいと思います。まず論点を再掲します。

<論点再掲>
 カントは経験の類推の3つ目として相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則を挙げている。これは、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」というものであるが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?カントは、2つ以上の物が同一の時間に存在することを、何によって認識すると説明しているか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?


 まず、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」とはどういうことかについて確認しました。これについては、「2つのものが同時に存在する(相互的に継起し得る)ということを知覚する根拠は客観に存在するというためには、相互性の関係、あるいは相互作用の関係というカテゴリーを必要とし、このカテゴリーを前提としてのみ、2つのものの同時的存在が認識され、また経験の対象としての物を可能ならしめる、ということである」「端的には2つのものが同時に存在しているということを人間はどうやって認識するのかということに答えたもの」「2つ以上の物が同時に存在しているということは、それら2つ以上の実体間の相互作用を前提としてのみ、経験において認識され得る、ということである」などの見解が出されていました。時間の関係上、詳しく検討することはできませんでしたが、要するに、2つ以上の物が同時に存在しているということは、そこに相互作用が働いているからこそ認識できるのだとカントが主張していることを確認しました。

 この証明についても、あらかじめメンバーから提出された見解のうち、もっともすっきりまとまっているもので確認しました。

「カントによれば、2つ以上の物の同時的な存在を客観的なものとして表象するためには、互いに別々でありながらしかも同時的に存在するこれらの物の規定が相互的に継起することを表現するようなカテゴリー(純粋悟性概念)を必要とするが、そのカテゴリーとは影響の関係であり、相互作用の関係である(ある実体の含む規定の根拠がほかの実体に含まれているような関係)、と説明するのである。要するに、ある物が他の物に影響を与えている(両者が相互に依存しあっている)関係にあると把握されるからこそ、両者が同一の時間に存在するということが客観的に言いうるのだ、というわけである」

 しかし、このカントの見解に対して、チューターから疑問を提示しました。カントによれば、2つのものが同時に存在することを認識できるのは、その2つのものが相互作用の関係にある場合だということになります。しかし、例えば、喫茶店にいて、離れた場所にいる2人の客を見るとき、その2人は何の相互作用もないけれども、同時に存在していると言っていいのではないのか、ということでした。

 これに対してメンバーの一人は、カントが言っていることは、2つのものの間に相互作用していれば、確実に同時に存在しているということが言える、ということではないか、例えば、今、私と他の方たちは会話をとおして相互作用しているから同時に存在しているということが確実に言える、しかし、日本にいる我々と、アメリカにいる(例えば)マイク君とは相互作用していないから、必ずしも同時に存在しているとは言えないということではないか、ということでした。つまり、「同時に存在しているなら相互作用している」ということではなく、「相互作用しているなら同時だ」ということです。他のメンバーも一応納得しました。

 最後に、こうしたカントの主張を唯物論の立場から評価するとどういうことが言えるかを考えました。これについてチューターは「知覚の根拠を客観に求めている点は評価できる」と書いていたのですが、これについては他のメンバーから言葉足らずの表現ではないかという指摘がなされました。その客観というものもあくまでもカテゴリーによって成立したものだという点を触れないといけないのではないかということでした。これはチューターも納得しました。別のメンバーは「あくまで客観と主観の一致ということにこだわったこと自体は、唯物論の立場への接近として評価できるものの、客観とは物自体と区別された現象の世界であるとし、それが認識の能動性によって成立させられている(この場合は、相互作用という純粋悟性概念によって2つ以上の物の関係性が規定されている)としてしまったのは、唯物論の立場とは根本的に相いれないものである」と書いており、おおむねこのような評価で間違いないのではないかということになりました。また、このメンバーは「この世界全体をつながり合ったものとして、同時的な広がりをもったものとして、把握しきったことは、弁証法的な世界観の発展という点からすれば、大いに評価に値するのではないだろうか」という見解も提示していたのですが、これについても特に異論は出ませんでした。

 以上で例会での議論をすべて終了しました。
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2017年09月12日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(8/10)

(8)論点2:因果律に従う時間継起の原則とは何か。

 前回は、1つ目の論点についての議論について紹介しました。経験の類推とはどういうことか、それはカント哲学の中でどのような位置づけになるのかということや、その中の1つ目である実体の常住不変性とはどういうことかなどについて議論をしました。

 今回は2つ目の論点についての議論とその議論をとおしてどのような(一応の)結論に至ったのかを紹介します。まず論点を再掲します。

<論点再掲>
 カントは経験の類推の2つ目として「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」という因果律に従う時間継起の原則を挙げているが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?特に、表象のみならず対象(客観)においても継起するかどうかという問題について、カントがどのように説明しているのか。またこれは結局、ヒュームの因果律批判にどのように反駁しているといえるのか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?


 まず「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」とはどういうことかについて確認しました。これについては、チューターを含めたメンバーの3人からそれぞれ「原因と結果というカテゴリーを現象に適用することによって、現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ、ということである」「実体の規定が生起したり消滅したりする(中略)変化の前の状態が必ず前に置かれ、その後の状態が後に置かれなければならないということが必然的に規定されているということである」「変化、すなわち、ある現象に次いで別の現象が生じるということについて、これら2つの現象の間の関係が、ある現象が先行して別の現象が続かなければならないという必然性として、客観的に規定されていなければならない、という原則のことである」という見解が出されていました。

 このうち、2つ目と3つ目はほぼ同様のことを言っているものの、1つ目の見解については、少し力点の置き方が違うように感じられるとチューターが指摘しました。その見解を書いたメンバーから「力点の置き方が違うとはどういうことか」と問われたので、次のように説明しました。

 そもそもカント哲学では、人間のもっているカテゴリーによって、現象の世界が客観的なものとして人間の目の前に現れてくるとされています。そして、その客観的な世界の中で人間は様々な体験を積むわけです。図式化していうならば、@主観(カテゴリー)→A客観(現象)→B主観(経験)という流れになるわけです。これを踏まえると、2つ目と3つ目の見解は、Aあるいは@→Aについて解説したものとなります。ところが、1つ目の見解では「現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ」と書かれています。この表現の背後には、「現象の変化を認識することによって現象自体も変化する」という認識があるように感じられます。現象の変化を認識するというのはBの話であり、現象自体が変化するというのはAの話です。そうすると、この見解はB→Aという流れになっていることになります。そこに違和感を覚えたということでした。

 この説明に対して1つ目の見解を書いたメンバーは、あまり納得できないようでした。カントはコペルニクス的転回によって、「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」(p.33)と考えたのではないか、今の説明では、「現象の変化を認識する」とカントが考えていたことになり、これではコペルニクス的転回とはいえないのではないか、ということでした。

そこで別のメンバーが、チューターの説明を補う形で自分の見解を述べました。カントは、我々の目の前に客観的な世界が存在していて、その世界を通して様々な認識を獲得していく(様々な経験を積み重ねていく)ということ自体は認めているのではないか、しかしその目の前の客観的な世界というのは、物自体の世界ではなくて、我々のカテゴリーによって成立させられた現象の世界なのだ、だからこの現象の世界の成立という面では確かに「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」、つまり認識が対象を生み出しているといえるが、一方では客観的な世界(現象の世界)を認識することもカントは否定していないのではないか、ということでした。このメンバーは以上の内容をまとめて、人間に世界がどのように見えてしまうか(主観が客観を作り出す側面)ということと、その世界をより深く追究していく(客観が主観を作り出す側面)ということとは別問題であって、カントの『純粋理性批判』では、後者(科学を確立していくこと)の前提としての前者の問題を扱っているのではないか、と発言しました。こうした説明で、1つ目の見解を書いたメンバーもおおむね納得しました。

 続いて、因果律に従う時間継起の原則はどのように証明されているかについて扱いました。これは要するに原因と結果のカテゴリーによって現象が成立させられているからだと述べていることを確認しました。

 ここでメンバーの一人から疑問が出されました。カントは、生起するものの知覚においては原因と結果のカテゴリーが適用されるということを述べているものの、なぜ生起するものには適用されるのか、なぜ生起しないもの(例として出されている家など)には適用されないのかということでした。様々に議論をしましたが、カントの立場からすれば、物自体が持っている性質によると考えるしかないのではないかということになりました。つまり、生起するものには原因と結果のカテゴリーが適用されるような物自体としての性質を持っているけれども、生起しないものにはそういう性質がないということです。しかし、その物自体ということはわからないから、そうした点には触れないようにしたのではないかということでした。

 次に、カントはヒュームの因果律批判にどう反論したのかを確認しました。これまでの議論の中でほぼ答えは出されているのですが、端的には、「客観は悟性にア・プリオリに具わっている規則によってこそ成立させられている」のだということ、つまり、そもそも因果律が存在するものとして我々が見ている世界はつくられているのだと主張することで、ヒュームの因果律批判に反論したのだということでした。

 このようなカントの意見は「客観と主観の一致ということにこだわった」点では唯物論の立場からも評価できるものの、「経験を積み重ねることによっては必然性の認識には到達できない、と断定してしまっている」点は批判すべきだという見解が出されました。ただし、「経験の積み重ねによってなぜ必然性の認識が可能となるのかを説かなければ、唯物論の立場からの真っ当なカント批判にはならない」という問題提起がメンバーからなされたため、この点について議論をしました。

 メンバーの一人は、端的には量質転化だと発言しました。つまり、同じ経験を何度か積み重ねることによって、科学的認識というレベルへと認識が量質転化するのだということでした。これに対して別のメンバーは、「それではヒュームからは『単なる信念にすぎない』と反論されてしまうのではないか。そういうことではなくて、そういう部分的な認識を積み重ねれば、なぜ全体の認識に至るのかということを世界自体の仕組みから説明しなければならないのではないか」と指摘しました。そして、議論を重ねた中で、全世界は弁証法性という普遍的な性質が貫かれており、それは当然部分にも貫かれているからこそ、部分を認識すれば全体を認識することにつながるのではないかという意見が出されました。この見解については、メンバー全員が納得しました。

 以上で、論点2に関する議論を終えました。
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2017年09月11日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(7/10)

(7)論点1:経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か。

 前回は、カント『純粋理性批判』の経験の類推の部分のポイントを改めてまとめるとともに、それに対して出された論点を紹介しました。今回から、それぞれの論点についてどのような議論がなされたのかを紹介していきたいと思います。

 まず1つ目の論点です。

<論点再掲>
 カントは、純粋悟性の原則の3つ目として経験の類推を挙げているが、これはどういうことか? 特にこれは時間といかなる関係があるのか?また、直観の公理と知覚の先取的認識が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、経験の類推が力学的な統整的原理と名づけられているのはなぜか?ここに関わって、哲学でいう類推とはどういう意味であるとカントは説明しているか?経験の類推の第一としてあげられている実体の常住不変性とは何か? それはどのように証明されているか?カントのいわゆる実体は時間とどのように関わっているのか。その他、「現象の現実的存在」「基体」「常住不変なもの」などのキーワードにも注意しながら議論したい。


 この論点については、まず経験の類推とはどういうことかについて確認しました。これについては、「経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能となる」「意識における知覚の多様な内容の総合的統一によってこそ経験(知覚による客観の規定)が可能になるのだ」などの見解が出されていました。要するに、我々の知覚というものはそのままではバラバラな存在にすぎないけれども、それがしっかりと整えられることによって経験として成立するのだということを主張しているのだということを確認しました。そして、その知覚を整える際に使っているものが時間というア・プリオリな直観の形式なのだということでした。

 また、そもそもこの経験の類推というのは、純粋理性批判全体の中にどう位置づけられるのかも確認しました。経験の類推とは、人間が純粋悟性概念(カテゴリー)を対象に適用するその適用の仕方のうち、3つ目のカテゴリー、つまり「関係」というカテゴリーを適用するということに関わって説いているものなのだということを確認しました。

 では、前回扱った直観の公理と知覚の先取的認識が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、経験の類推が力学的な統整的原理と名づけられているのはなぜか。続いて、この点について確認しました。これについて、もっともすっきりとまとまった見解は次のようなものでした。

「『直観の公理』と『知覚の先取的認識』は、現象における現実的存在が数学的綜合によって産出されるという原則であった。すなわち、対象が何らかの量的な規定性をもったものとして認識の側から構成されていく、というのである。これに対して、『経験の類推』は現象における現実的存在どうしの関係をア・プリオリな規則に従わせるだけの原則である。そのため、『直観の公理』と『知覚の先取的認識』が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、『経験の類推』は力学的な統整的原理と名づけられているわけである。」


 つまり、「直観の公理」と「知覚の先取的認識」によって、ある1つの現象が量的な規定性をもったものとして構成されるということであり、「量的」「構成される」という点を捉えて「数学的な構成原理」と呼ばれているのだということです。一方、経験の類推においては、その現象と現象との関係性を問うています。互いに影響を与え合う2つの現象の関係を整えているものという意味で、「力学的な統整的原理」と呼ばれているということです。このような把握で全員が納得しました。

 次に、哲学でいう類推とはどういう意味であるかについて確認しました。数学でいう類推とは量的な関係性を示すため、比例式の3つの項が与えられればもう1つも示しうるのに対して、哲学でいう類推とは質的な関係性を示したものであり、比例式の3つの項が与えられても、第4項は示せないという見解が出されていました。

 具体的に言うと、例えば、砂糖と塩を1:2の割合で入れるといったとき、砂糖が100gであれば、塩は200gだということが定まります。これが数学でいう類推です。これに対して、ある男の子が泣いているという現象があったとき、原因と結果というカテゴリーに基づいて、その泣いているという結果には何らかの原因があったことは推測されますが、その原因が具体的に何であるかは定めることができません。これが哲学でいう類推ということです。このような説明でメンバー全員が納得しました。

 さらに、実体の常住不変性とは何かという点について議論しました。ここに関してもメンバーの間で大きな見解の相違はありませんでした。つまり、「時間における諸々の変化するものは、時間の根底に変化しないものがあるからこそ把握できる(変化するものは変化しないものとの関係でしか認識でいない)のだ」ということであり、この変化しないものこそが実体なのだということでした。

 ただ、メンバーの一人から「ここでカントが言っている実体とは、カテゴリー表の実体とは同じものなのか、違うものなのかがわからない」という疑問が提示されました。ここでのカントの説明では実体とは客観的に存在するものとして説かれているようだが、カテゴリー表の実体とは人間の認識の側に具わっているものであるから、違うもののように感じるということでした。これについては、チューターが次のように解説をしました。カントによれば、この客観的な世界というものはあくまでも人間のもつカテゴリーがつくりだしたものにすぎません。したがって、現実の世界に存在する実体も、我々がもっている実体というカテゴリーによって生まれたものであり、そういう意味で両者は同一の存在だと言える、ということです。この説明で疑問を提示したメンバーも納得しました。

 また、ここに関わって、メンバーの一人が「カントのいわゆる実体とは、時間の物質的表現であり、現象の世界を普遍的に(全体を隙間なく)満たしているものだといえるかもしれない。これは唯物論の立場からの時間の規定に接近したものとして興味深い」という唯物論の立場からの評価を書いていました。カントは実体というものを、この世界すべての根底に存在している普遍的な存在として捉えています。これは唯物論の立場から全世界が物質的に統一されていると主張するのと、考え方としては同一だと言えます。唯物論の立場ではその物質がもっている根源的な性質として空間と時間というものを捉えるので、カントの主張はそれに近いものがあるのではないか、ということでした。確たる結論は出ませんでしたが、そういうことも言えるかもしれないということになりました。

 以上で論点1に関わる議論を終了しました。
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2017年09月10日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 これまで、4回にわたって『純粋理性批判』の8月例会の範囲の要約を掲載してきました。ここで、改めて、今回の範囲で大事な内容を簡単にふり返っておきたいと思います。

 そもそも我々の知覚は時間によって整序されることによって、我々の経験として成り立っているのでした。その時間は大きく三つの様態、つまり常住不変性、継起および同時的存在があるから、それに応じて経験の類推も3つがあるのだとして、それぞれが紹介されていったのでした。

 第一の類推は、実体の常住不変性の原則というものでした。これは、現象がどんなに変易しようとも実体は常住不変であり自然における実体の量は増えもしなければ減りもしないということです。そもそも時間というものが成り立つ背景には、その根底に変化しない何らかのものが存在しなければならないとして、それが実体だとカントは主張したのでした。そして、我々が見ている変化というものは、その実体の在り方の変化でしかなく、実体そのものが生起したり消滅したりしているわけではないということを説いていたのでした。

 第二の類推は、因果律に従う時間的継起の原則というものでした。これは、一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起するということです。つまり生起するものに関しては、必ず原因と結果のカテゴリーが適用されたものとして我々の目の前に現れてくるのだということです。そのことを家や船の例を出しながら説明するとともに、ヒュームの因果律批判に対して反論していたのでした。

 第三の類推は、相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則というものでした。これは、およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしているということです。ある2つのものが同時に存在し、それぞれが互いに何らかの作用を与え合っているときに、我々はその2つのものを同時に存在するものとして把握することができるのだということでした。

 以上のような内容に関わって、会員からはいくつかの論点が提示されました。それをチューターが以下のように3つにまとめました。

1.経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か?
 カントは、純粋悟性の原則の3つ目として経験の類推を挙げているが、これはどういうことか? 特にこれは時間といかなる関係があるのか?また、直観の公理と知覚の先取的認識が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、経験の類推が力学的な統整的原理と名づけられているのはなぜか?ここに関わって、哲学でいう類推とはどういう意味であるとカントは説明しているか?経験の類推の第一としてあげられている実体の常住不変性とは何か? それはどのように証明されているか?カントのいわゆる実体は時間とどのように関わっているのか。その他、「現象の現実的存在」「基体」「常住不変なもの」などのキーワードにも注意しながら議論したい。

2.因果律に従う時間的継起の原則とは何か?
 カントは経験の類推の2つ目として「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」という因果律に従う時間継起の原則を挙げているが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?特に、表象のみならず対象(客観)においても継起するかどうかという問題について、カントがどのように説明しているのか。またこれは結局、ヒュームの因果律批判にどのように反駁しているといえるのか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?

3.相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か?
 カントは経験の類推の3つ目として相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則を挙げている。これは、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」というものであるが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?カントは、2つ以上の物が同一の時間に存在することを、何によって認識すると説明しているか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?

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2017年09月09日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約C

 前回は、第二の類推の後半部分の要約を紹介しました。前半部分でカントは一般の見解(ヒュームの因果律批判)についての反論をしたわけですが、それについてのより詳しい照明をしていました。また、因果的結合の原則は、必ずしも時間の経過ではないということなどが説かれていました。

 今回は、第三の類推の部分についての要約を紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
C 第三の類推

相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則
 およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている

 経験的直観において、あるものの知覚が他のものの知覚に次いで継起し、また逆に前者が後者に次いで継起するというふうに、これら2つの知覚が相互的に継起し得る場合には(こうしたことは第二原則で示したように、時間における現象の継起においては生じ得ない)、これらの物は同時的に存在する。我々は、まず月を知覚しその後で地球を知覚することもできるし、逆にまず地球を知覚してから月を知覚することもできる。これらの対象の知覚が相互的に相次いで生じるので、私はこれらの物が同時的に存在するというのである。同時的存在とは、同一の時間における多様なものの実際的存在である。しかし我々は時間そのものを知覚することはできないから、2つ以上の物が同時的に置かれているからといって、これらの物の知覚が相互的に継起し得ると推知するわけにはいかない。したがって統覚における構想力の総合は、主観においてこれらの知覚のどれかが存在すれば、他の知覚は存在しないし、またその逆の場合も成立することを告げはするが、しかし2つ以上の客観が同時的に存在すること――換言すれば、ひとつの客観が存在すれば他の対象もまた同一の時間に、すなわち同時的に存在するということ、そしてこのことは知覚が相互的に継起し得るための必然的条件であるということを告げるものではない。そうすると知覚の相互的継起の根拠は客観に存するというためには、またこれによって同時的存在を客観的なものとして表象するためには、互に別々でありながらしかも同時的に存在するこれらの物の規定が相互的に継起することを表現するような悟性概念すなわちカテゴリーを必要とするわけである。ところで実体間の関係において、ひとつの実体の含む規程の根拠が他の実体に含まれているような関係は、影響の関係である。そしてひとつの実体が他の実体を規定する根拠を相互的に含む場合には、実体間のかかる関係は、相互性の関係あるいは相互作用の関係である。それだから空間における2つ以上の実体の同時的存在は、実体間の相互作用を前提としてのみ、経験において認識され得る。したがって、この前提は、経験の対象としてのものを可能ならしめる条件である。

 2つ以上の物は、同一の時間において存在する限り、同時的に存在する。しかしこれらの物が同一の時間に存在することを、我々は何によって認識するのだろうか。

 1つの実体は他の実体に働きかけもしなければ、また他の実体からの影響も受けないと仮定するならば、実体の同時的存在は可能的知覚の対象になり得ないし、またひとつの実体の現実的存在は、決して経験的総合の道を通って他の実体に至ることもあり得ない。

 すると単なる現実的存在のほかに、なお何かあるもの――すなわち、それによってAがBにその位置を規定し、また逆にBがAにその位置を規定するようなあるものが存在しなければならない。こうした条件の下でのみ、これらの実体は同時的に存在するものとして経験的に表象され得るからである。ある物に時間におけるその位置を規定するところのものは、その物の原因、あるいはその物の規定の原因にほかならない。およそ実体は、(実体はその規定に関してのみ結果であり得るから)他の実体のある規定の原因性を含むと同時に、他の実体の原因性の結果をも含んでいなければならない。換言すれば、これらの実体は、もしその同時的存在がなんらか可能的な経験において認識されるとすれば、(直接もしくは間接に)力学的相互作用の関係をなさねばならないからである。ところで、あるものを欠いたなら、対象の経験そのものが不可能になるならば、そのようなものは全て経験の対象に関して欠くことのできないもの、すなわち必然的なものといえるだろう。ゆえに一切の実体が全て相互作用という完全な相互性の関係にあるということは、これらの実体が同時的に存在する限り、現象における一切の実体にとって必然的である。

 力学的相互作用がなければ、場所的〔空間的〕相互性すら、経験的に認識され得ない。ところで、次の諸件は、我々の経験について容易に認められる事柄である。すなわち、我々の感官をひとつの対象から他の対象へと向かわせうるものは、空間のあらゆる場所における連続的影響のみである。我々は空間に遍在する物質が我々の占めている場所の知覚を可能にするのでなければ、我々の場所を経験的に変じる(この変化を知覚する)ことはできない。また、こうした知覚は、場所間の相互的影響によってのみ、これらの場所の同時的存在を示し、これによって最も遠隔な対象に及ぶまでこれらの対象の共在を(間接的にもせよ)示し得る、ということである。こうした相互性を欠くと、およそ空間における現象の)知覚は、他の知覚からも断絶され、経験的表象の連鎖すなわち経験は、新しい対象にあってはそもそもの最初から始められることになり、前の経験はこれと全く結びつきえないだろう。つまり時間的関係をもつことができなくなるであろう。空虚な空間はたとえ存在するとしても、我々の知覚はとうていそこまで達し得ないから、同時的存在に関する経験的知識も成立しえない。空虚な空間は、我々の可能的経験にとっては全く対象でなくなるのである。

* * *

 これら経験の三類推は、時間の三様態にしたがって時間における現象の現実的存在を規定する原則にほかならない。時間の三様態とはすなわち量としての時間そのものに対する関係(現実的存在の量すなわち持続)、系列としての時間における関係(継時的)、および一切の現実的存在を総括するものとしての時間における関係(同時的)である。時間規定におけるこうした統一はあくまでも力学的統一である。というのは、時間は、経験がそこにおいて一切の現実的存在にそれぞれその位置を直接に指定するところのものと見なされない、ということである。絶対的時間は知覚の対象ではなく、現象は知覚によって互いに結合され得る。だから、現象の現実的存在は、悟性の規則によってのみ、時間関係に従う総合的統一をもち得ることになる。要するに悟性の規則が、全ての現象にそれぞれの位置を時間において、したがってまた何時でもいかなるときでもア・プリオリに妥当するように規定するのである。
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2017年09月08日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約B

 前回は、第二の類推の前半部分の要約について紹介しました。第二の類推とは、因果律に従う時間的継起の原則であり、一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起するというものでした。生起するものについては原因と結果のカテゴリーが適用されて我々の目の前に表れているということを説き、一般の見解(具体的にはヒュームの因果律批判)に対して反論していたのでした。

 今回は第二の類推の後半部分の要約を紹介します。

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B 第二の類推〔承前〕

 我々は次のことを実例によって示す必要がある。すなわち、我々は継起を客観に帰して、これを我々の覚知における主観的継起から区別するが、このことは知覚のこうした秩序を他のいかなる秩序にも勝るとみなすことを我々に強いるような規則が根底になければ不可能であるし、また、こうした規則による強制こそ、客観における継起の表象を初めて可能ならしめる、ということである。

 我々は自分のうちに種々な表象をもち、これを意識することもできるが、こうした表象に客観を対置し、また表象の主観的実在性は主観の変様であるにもかかわらず、こうした主観的実在性以上に、これらの表象に何らかの客観的実在性を帰するのはどうしてだろうか。

 現象の総合においては、多様な表象が終始継起している。しかし、こうした景気は一切の覚知に共通であって、このような継起によっては何ものも他から区別されないから、これによっては、およそ客観は全く表象され得ない。この継起が、それよりも前の状態に対する関係を含み、この状態から表象が規則に従って必然的に生じることを、私が認めもしくは想定するや否や、私は何かある物を出来事として、すなわち生起するものとして表象する。換言すれば、私は時間においてある一定の位置に置かねばならないような対象を認知する。そしてこの位置は全く先行の状態によってのみ、この対象に与えられるのである。この生起の現象がこうした時間関係において一定の位置を占め得るのは、この現象をいかなるときにも、つまりひとつの規則に従って、必然的に継起させるところのものが、先行の状態において前提されることによってのみ可能である。すると次のことが明らかになる。第一に、私はこの系列を逆にして、新たに生起するところのものをそれよりも前の状態に先立たせることはできない。第二に、先行の状態が設定されれば、この一定の出来事は必然的に継起せざるを得ない。これによって、我々のうちにある表象の間にひとつの秩序が成立する。この秩序においては現に存在するところのものは(それがすでに生じている限り)、これに対応するものとしてそれよりも前にある何らかの状態を指示する。また、この先行状態は、与えられた出来事の相関者として――まだ規定されていないにせよ――この状態から生じた結果としてのこの出来事に関係してこれを規定し、時間系列においてこの新たな出来事を必然的に自分に結びつけるのである。

 先行する時間は後続する時間を規定するというのが我々の感性の必然的法則であり、したがってまた一切の知覚の形式的条件であるとすれば、先行する時間における現象が後続する時間における一切の現実的存在を規定するということ、また先行する現象が後続する現象にその現実的存在を時間において規定するのでなければ――換言すれば、ひとつの規則に従って確定するのでなければ、この後続する現象は出来事として生起するわけにはいかないということもまた、時間系列の経験的表象にとって欠くことのできない法則である。我々は前後の時間の結合におけるこうした連続性を現象においてしか経験的に認識しえないからである。

 およそ経験を成立させ、また経験を可能なものとするためには、悟性を必要とする。そのために悟性のなすべき第一のことは、個々の対象の表象を判明にすることではなく、対象一般の表象を可能にすることである。このことは悟性が時間秩序を現象とその現実的存在とに適用することによってなされる。つまり悟性は、結果としての現象に、先行の現象に応じてア・プリオリに時間において規定された位置を与えるわけである。こうした一定の位置をもたなければ、現象は時間そのものと合致しないことになる。こうして生じた現象の系列は、内的直観の形式(時間)――換言すれば一切の知覚がそこにおいてそれぞれその位置を占めねばならぬところの時間においてア・プリオリに見出されるのと全く同じ秩序と一定不変の結合とを、悟性によって我々の可能的知覚の系列においても作り出し、これを必然的なものにするのである。

 それだから、何かあるものが生起するとは、ある可能的経験に属する知覚のことである。この可能的経験は、私がこの現象を時間におけるその位置に関して規定せられていると見なすときにのみ、したがってまたひとつの規則に従って知覚の系列的結合の位置にいかなるときでも見出され得るようなひとつの客観と見なすときのみ、現実的な経験となるのである。時間における継起を規定する規則は、出来事が生起するための条件は先行するところのもののうちに存しなければならない、ということである。だから、時間の系列的継起においては、因果律が可能的経験の根拠であり、したがってまた現象の客観的認識の根拠である。

 この基本的命題の証明根拠は、全く以下に述べる諸要件に基づく。およそ経験的認識には、構想力による多様なものの総合が必要である。この総合は、常に継時的である、換言すれば、表象はこの総合において継起する。この継起は、構想力においては(何が先行し、何がこれに継起しなければならないかという)秩序に関しては、全く規定されていないが、この総合が(与えられた現象における多様なものの)覚知の総合であれば、こうした秩序は客観において規定されているのである。もっと正確にいえば、継時的総合の秩序が客観のうちにあって、この秩序が客観を規定するのである。何かあるものは、この秩序に従って必然的に先行し、またこのものが設定されると、他のものが必然的にこれに次いで継起するのである。それだから私の知覚が、ある出来事の認識――つまり何かあるものが実際に生起するという認識を含むとすれば、こうした知覚は経験的判断でなければならない。そして我々は、この判断において、継起が規定されているということを考えるのである。これに反して、もし私が先行の現象を設定しても、出来事がこれに必然的に継起しないとなると、私はこの出来事を私の想像によって生じたものの営む主観的な戯れと見なさざるを得ないだろう。

 現象間の因果的結合の原則は、ひとつの現象が他の現象を同伴している場合にも当てはまる。例えば、炊かれている暖炉が原因となって、室内の温度という結果を同時に伴っているような場合である。この場合、原因と結果との間には時間における継起の関係は存せず、原因と結果は同時に存在するが、それでも員が結合の法則が妥当するのである。ここで我々がよく注意しなければならないのは、問題は時間の秩序であって時間の経過ではない、ということである。
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2017年09月07日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約A

 前回は、経験の類推の概説的な部分と、第一の類推についての要約を紹介しました。そもそも我々の経験は知覚が時間によって整序されることによって成り立っているものであり、その時間は常住不変性、継起および同時的存在という3つの様態があるから、経験の類推もそれに応じて3つになるということで、第一の類推に入っていったのでした。第一の類推は、実体の常住不変性の原則というもので、時間が成り立つ根底には何ら変化しないものが存在しており、それが実体なのだということを説いていました。

 今回は、第二の類推の部分の前半の要約について紹介したいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

B 第二の類推

因果律に従う時間的継起の原則
 一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する

証明

 時間において継起する一切の現象は全て変化にほかならない。換言すれば、実体の規定の継時的な存在と非存在とである。しかしこの場合も実体は常住不変であり、実体そのものに生起や消滅があるわけではない。第一の類推の原則はこのことを明らかにしたが、これは、現象の一切の変易(継起)は変化にほかならない、とも言い表し得る。

 私は、現象が時間において相次いで継起することを知覚する。私は時間における2つの知覚を結びつけるわけであるが、結合は単なる感官や直観のなし得るところではない。結合は構想力の総合能力の所産であり、構想力が内感を時間関係に関して規定するのである。ところが構想力は、ひとつの状態が時間的に他の状態よりも前にあるようにも結合できるし、またその後に来るように結合することもできる。時間自体は知覚されないし、時間に関して何が前にあり何がこれに続くかを客観についていわば経験的に規定することは不可能だからである。単なる知覚だけでは、相次ぐ現象の客観的関係は結局規定され得ない。この関係が規定されたものとして認識されるためには、両状態の間の関係は、これらの状態のうちのどれが前に置かれどれが後に置かれなければならず、逆であってはならないということが、この関係によって必然的に規定されている、と考えなければならない。この場合、総合的統一の必然性を有する概念は、原因と結果との関係の概念である。すなわち原因は、結果を原因に次いで継起するものとして、時間において規定する。我々は、現象の継起を、従ってまた一切の変化を、原因性の法則〔因果律〕に従わせることによってのみ経験、すなわち現象の経験的認識すらも可能ならしめるのである。従ってまた経験の対象としての現象自身も、この法則に従ってのみ可能となるのである。

 現象における多様なものの覚知は常に継時的であるが、こうした表象が対象〔客観〕においても継起するかどうか。我々は、どんな表象でも、我々がそれを意識している限りにおいて、客観と名づけてよい。しかし現象(表象としての)がそれぞれ客観であるというのではなくて、ただ1個の客観を表わすとしたら、客観という語が現象に関して何を意味するのか、もっと深い研究を必要とする。現象は物自体ではないにせよ、それにもかかわらず認識の素材として我々に与えられる唯一のものである。だから私は、覚知における多様なものの表象は常に継時的に現われるにしても、現象そのものにおける多様なものにはどのような時間的結合が与えられるかを証示せねばならない。例えば、私の眼前にある家屋の現象に含まれている多様なものの覚知は継時的である。しかしこの家屋そのものの含む多様なものもまたそれ自体継起的であるかといえばそうではない。そこで私が用いている対象という概念を先験的意味にまで高めると、この家屋はもはや物自体ではなくて単なる現象にすぎなくなる(家屋は表象であって、この表象の先験的対象は我々には知られていないことになる)。ならば私は、現象そのもの(物自体ではない)における多様なものはどのように結合されているか、という問題をどう解するのか。私に与えられている現象は、継時的な覚知に存する表象の総括であるにもかかわらず、表象の対象と見なされるのであり、私が覚知における表象から引き出した客観という概念は、この対象と一致せねばならない。するとすぐに、認識と客観の一致が真理だから、ここで経験的真理を成立させる形式的条件が問題になる。現象は現象における多様なものを結合する仕方を必然的にするような規則に従うことによってのみ、表象の対象すなわち客観と見なされ得るのである。要するに、現象において、覚知のこうした必然的規則の条件を含むところのものがすなわち客観なのである。

 何かあるものが生起するというのは、現在の状態を含んでいない現象がそれよりも前に存在するのでなければ、経験的に知覚され得ない。だから出来事の覚知は、ある知覚に続いて起きた別の知覚にほかならない。しかし、このことは覚知の一切の総合についても、先に家屋の現象で例示した通りであり、出来事の覚知はこれによってはまだ他の覚知から区別され得ない。先に知覚した状態をA、これに続く状態をBとすれば、覚知においてBはただAに続いて起きるだけであるが、しかし知覚ということになると、AがBについで継起するなどということは不可能で、AはBよりも前にしかあり得ない、ということである。例えば、川を下る船を見ていると、下流におけるこの船の位置の知覚は、上流におけるこの船の位置の知覚に次いで継起する。この現象の覚知において、船が最初下流にあり、その後で上流にあるものとして知覚されるということは不可能である。家屋の例ならば、覚知における知覚は、家屋の頂上からはじまり土台で終わることも、また下方からはじめて上方で終わることもできた。このような知覚の系列では、多様なものを経験的に結合するためにどこから始めるべきかという仕方を必然的にする一定の秩序は存在しない。ところが生起するところのものの知覚においては、我々はこの規則に出くわすのである。この規則が相次いで継起する知覚の秩序を必然的にするのである。

 この場合、覚知の主観的継起は現象の客観的継起から導かれなければならない。さもなければ、主観的継起は全く不定なものになり、ある現象と他の現象とが区別されなくなる。主観的継起だけでは、客観における多様なものの必然的結合を証示するわけにはいかないから、客観的継起は、現象における多様なものの秩序によって成立することになる。生起するあるものの知覚は、こうした秩序に準拠しひとつの規則に従って、他のものに次いで継起するのである。

 我々が、何かあるものの生起を経験的に知るというときには、何らかのあるものがこの生起よりも前にあり、生起するものは規則に従って、このものに次いで継起するということを前提しているのである。こういうことがなければ私は客観について、それが実際に継起するとはいえないだろう。私の主観的総合を客観的ならしめるというのは、このことがいつでも規則に従って行われるということなのである。

 このことは、我々の悟性使用の進み方についていわれてきた一般の見解と矛盾する。こうした見解では、我々は多くの出来事がそれぞれそれより前にある現象に次いで一様に継起するのを知覚し、比較することによってのみ、初めてある規則――すなわち、それに従ってある出来事が常にある現象に次いで継起する規則を発見する手がかりを得、原因の概念を構成する機会がようやく与えられるという段取りになる。しかしこういう見方では、原因の概念が全く経験的な概念にすぎなくなり、この概念が与えるところの規則、すなわち生起する一切のものは全て原因を有するという規則は、経験そのものと同じく偶然的なものになる。出来事の系列を規定する規則の表象、すなわち原因の概念の論理的明晰ということは、我々が経験においてこの規則を使用した場合に初めて可能になる。
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2017年09月06日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約@

 今回から4回にわけて、8月例会で扱った範囲の要約を紹介していきます。今回は、経験の類推の概説的な部分と、3つの類推のうちの1つ目「実体の常住不変性の原則」について紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

3 経験の類推

その原理――経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である

 経験とは知覚によって客観を規定するような認識であるから、経験は知覚の総合であるが、この総合そのものは意識における知覚の多様な内容の総合的統一を含んでいる。この総合的統一が、感官の対象の認識の本質、従ってまた経験の本質をなす。覚知が空間および時間において一緒に並べ連ねた現象が結合されたものとして実際に存在しているという必然性の表象は、覚知のなかには全く見出されない。ところが、経験は知覚による客観の認識だから、多様なものの現実的な存在における関係は、時間において客観的に存在する物として表象されねばならない。しかし、時間そのものは知覚されないから、時間における客観の存在は時間一般における結合によってのみ(ア・プリオリに結合するところの概念によってのみ)規定され得る。

 時間の三様態は常住不変性、継起および同時的存在である。およそ現象の現実的存在をあらゆる時間統一に関して規定するこれら規則は、一切の経験より前にあり、また経験を初めて可能ならしめる。

 これら三類推の全てに通じる一般的原則は、いかなる時でも一切の可能的な経験的意識(知覚)に関する統覚の必然的統一に基づいている、従ってまた――こうした統一が常にア・プリオリに根底に存するところから、時間における現象相互の関係に従うところの一切の現象の総合的統一に基づいている。

 こうした原則が考慮に入れるのは、現象の現実的存在および現象の現実的存在に関する現象相互の関係にすぎない。

 先に述べた二原則――直観の公理と知覚の先取的認識は、数学を現象に適用する機能をもっているので、数学的原則と名づけられた。これら原則は、現象の可能という点だけから現象を問題にし、現象がその直観と現象の知覚における実在的なものに関して、数学的総合に従ってどのように産出され得るか、ということを教えた。これら二原則は構成的原則と名づけられる。

 ところが、現象の現実的存在をア・プリオリに規則に従わせる原則ということになると、事情は全く異なる。現象の現実的存在は構成され得るものではないから、後の原則は統整的原理にすぎない。この場合、次のような事情が考慮されるだけである。我々にある知覚が他の知覚に対する時間関係において与えられている場合に我々がア・プリオリに言い得ることは、どうしてこの知覚が現にあるところの存在に関して、こうした時間的様態においてはじめの知覚と必然的に結びついているか、ということである。経験の類推は、それに従って経験の統一が知覚から生じるような規則であり、現象の対象に関する原則として構成的に妥当するのではなくて、全く統整的にのみ妥当する。

A 第一の類推

実体の常住不変性の原則
 現象がどんなに変易しようとも実体は常住不変であり自然における実体の量は増えもしなければ減りもしない

証明

 全て現象は時間において存在する。同時的存在も継起も、基体としての時間(内的直観の不変な形式としての)においてのみ、表象せられるのである。それだから時間は、現象の一切の変易がそのなかで考えられなければならないものであるが、時間そのものは常住であって変易しない。時間はそれ自体だけでは知覚され得ないから、知覚の対象すなわち現象において、時間一般を表わすところの基体が見出されねばならない。一切の変易や同時的存在は、こうした基体に即して、この基体に対する現象の関係によって覚知され得るのである。現象の一切の時間関係は、常住不変なものとの関係においてのみ規定され得る。してみるとこの常住不変なものがすなわち現象における実体である。換言すれば、現象の一切の変易の基体として、現象において常に同一不変であるところの実在的なものである。してみるとこの実体は、現象の現実的存在において変易することがあり得ない。ゆえに、自然における実体の量は増すこともあり得なければ減ることもあり得ないのである。

 現象における多様なものの覚知は継時的で絶えず変易しているから、我々は覚知によるだけでは多様なものが経験の対象として同時的に存在しているのか前後的に継起しているのか規定することはできない。そのためには、常住不変なあるものが経験の根底に存しなければならない。一切の変易や同時的存在は、こうした常住不変なものの実際的のそれぞれの仕方(時間の様態)にほかならない。換言すれば、常住不変なものが時間そのものの経験的表象の基体なのである。常住不変性は、一切の現実的存在の恒常的な相関者としての、従ってまた一切の変易と一切の同時的存在との相関者としての時間を表現する。常住不変なものがないと、およそ時間関係は全く成立しない。現象における常住不変なものは、一切の時間規定の基体であり、それ故にまた知覚の一切の総合的統一を可能ならしめる――換言すれば経験を可能ならしめる条件でもある。時間における一切の現実的存在と一切の変易とは、それぞれこの常住不変なものの実際的存在の一様態と見なされ得るにすぎない。それだからおよそ現象においては、この常住不変なものが対象そのものであり、実体(現象的実体)である。変易する(変易し得る)一切のものは、この実体の実際的な存在の仕方である。

 こうした常住不変性の概念に基づいて、変化の概念も訂正される。生起と消滅とは起滅する当体の変化ではなく、変化は対象の実際的存在のひとつの仕方であり、この仕方が同じ対象の別の存在の仕方に相次いで起きるのである。つまり変化するところの当体は全て常住不変であり、その状態だけが変易するのである。

 それだから変化は、実体に即してのみ知覚される。生起あるいは消滅そのものは、常住不変なものの規定に関する限りにおいてのみ、可能的な知覚になり得るのである。変化は常住不変なものの変易的規定としてのみ、経験的に認識され得るのである。

 現象における実体は、一切の時間規定の基体をなしている。もしある実体は生起し、他の実体は消滅するということになったら、時間を経験的に統一するための唯一の条件そのものが滅却されてしまうだろう。実際には唯一の時間があるだけで、この時間において相異なる一切の時間が、同時的にでなく相次いで配置されなければならないのである。
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 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史