2017年06月14日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(9/10)

(9)論点3:純粋悟性概念とはどのようなものか

 前回は、純粋悟性概念を導き出す手引きに関する議論について見ていきました。ここでは主に、判断が表象を統一する機能であり、判断における統一の機能を完全に余すところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能(純粋悟性概念)は経験的要素を交えずに純粋に残らず発見できるということが展開されていることを確認しました。

 さて今回は、3つ目の論点として、純粋悟性概念とはどのようなものかに関する論点を見ていきたいと思います。

論点3:純粋悟性概念とはどのようなものか

 カントは、純粋悟性概念すなわちカテゴリーに関して、どのようなものだと述べているか。また、カントは判断の機能からカテゴリー表を導いているが、判断とはどのようなもので、判断と純粋悟性概念はどのような関係にあるのか。このカテゴリー表について、ヘーゲルはどのように評価しているか。唯物論の立場から評価するならば、どのようなことがいえるか。

 この論点に関しては、まず、カントがカテゴリーをどのようなものだと述べているかに関して議論しました。ある会員は、「カントは、対象についての多様な表象から認識を構成する作用を総合と名づけ、総合は構想力の作用である、とする。カントによれば、種々の表象を分析によってひとつの概念に包括するのは一般的論理学の仕事であるが、表象の純粋総合を概念に形成するのは先験的論理学の仕事である」とした上で、「純粋総合に統一を与える概念は、悟性にもとづく。種々の表象に統一を与えるという判断の機能が、直観によって与えられた種々の表象の単なる総合そのものにもまた統一を与えるのであるが、この統一を一般的に表現したものがすなわち純粋悟性概念(カテゴリー)である、とカントは説明している」と述べました。この見解に対しては、具体的にはどういうことかという疑問が呈せられました。これに対して見解を述べた会員は、カントの文章をほとんどそのまま使って見解を書いたことを認めた上で、要するに、多様な表象を総合するのが構想力であって、綜合を概念にするのが純粋悟性概念だということであると説明しました。他の会員は、判断には統一するという機能があって、その機能が直観が与える材料にも統一を与えるということではないか、それが純粋悟性概念だというのではないかと発言しました。

 ここで、判断の問題が出てきたために、次の議論に移っていきました。それは、カントが判断をどのようなものとして捉え、判断と純粋悟性概念はどのような関係にあるとしているかという問題についてです。この点に関しては、判断が種々の表象を統一する機能を持つものであり、悟性の一切の作用を還元できるものであるということは共通認識となりました。また、先に出された、「種々の表象に統一を与えるという判断の機能が、直観によって与えられた種々の表象の単なる総合そのものにもまた統一を与える」とはどういうことかについては、判断も純粋悟性概念も統一という共通の機能があるという点を確認しました。

 次に、ヘーゲルがカントのカテゴリー表をどのように評価しているかについてです。この論点については概ね見解が共通していて、第一のカテゴリーは積極的(肯定的)であり、第二は第一を否定するもので、第三は両者の総合だといっているのは、概念の偉大なる本能である、という評価をヘーゲルは与えている一方で、これらのカテゴリーを経験的に取り上げるだけで、統一からこれらの差別を必然性をもって発展させることができていないという批判も行っているということでした。

 最後に、カントのカテゴリー表について、唯物論の立場から評価すればどうなるかという問題についてです。この問題についても概ね見解が一致していました。すなわち、カントはカテゴリーが対象をア・プリオリに思惟する条件だと捉えているが、これは論理がなければ対象についての認識が成立しないという唯物論(的認識論)の主張につながるものと評価することができる一方で、そのカテゴリーがもともと具わっているとした点は、認識は対象の反映であり像であるとする唯物論(的認識論)の立場からは批判されるべきだ、あくまでも対象を反映した像を原点として、そこから抽象されて形成された論理像として捉えられなければならない、ということでした。

 以上のような議論を行い、今回の例会における論点についての議論を終了しました。
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2017年06月13日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(8/10)

(8)論点2:全ての純粋悟性概念を残らず発見する方法とはどのようなものか

 前回は1つ目の論点、すなわちカントが論理学をどのように把握していたかに関する論点についての討論を見ていきました。カントは、認識にもともと備わっている純粋悟性概念だけを扱う先験的論理学を展開しているのだということ、これはアリストテレスの論理学を発展させたものであって、認識の成立条件を考察するものだということでした。

 さて今回は、2つ目の論点として挙げられた、純粋悟性概念を導き出す手引きに関する論点について見ていきたいと思います。

論点2:全ての純粋悟性概念を残らず発見する方法とはどのようなものか

 カントは、「先験的哲学は、純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見するという利点をもっているが、しかしまたそうする責務をももつのである。かかる概念は、絶対的統一体としての悟性から、夾雑物をひとつも交えずに純粋に生じるものであり、従ってこれらの概念自身もまた一個の概念或いは理念に従って互いに関連していなければならない」(p.140)と述べているが、これはどういうことか。純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見する方法はどのようなものだと説明されているか。

 この論点に関しては、時間の関係もあり、また概ね見解が一致していたこともあって、軽く確認する程度で済ませました。

 まず、引用されたカントの文章については、次のような見解が出されました。すなわち、カントによれば、直観や感性に属するのではなく思惟と悟性とに属し、経験的概念ではない純粋悟性概念を完全に、余すところなく把握することは、先験的哲学によって可能となるのであるが、単に可能であるという段階で留まるべきではなくて、それは先験的哲学の責務であるというのである、そして、ア・プリオリな概念の生みの親である悟性を出発点として、ここから一切の経験的要素を交えることなく純粋悟性概念を分析していく必要があるわけだが、ここでアリストテレスのように、何の原理もなく探し求めていくというのではなくて、判断する能力という1個の原理から生み出していく、それも個々の純粋悟性概念が体系的に的確に分類されることを持って完全性を保証する形で探求していく必要がある、というのがこの引用文の趣旨であるということでした。この見解については、概ね賛同されました。

 次に、純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見する方法はどのようなものかという問題についてですが、これは概ね見解が一致しました。つまり、悟性の一切の作用は判断に還元できる(悟性は判断の能力である)のであり、判断は表象を統一する機能であるから、判断における統一の機能を完全にあますところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能(純粋悟性概念)は経験的要素を交えずに純粋に残らず発見できる、ということでした。そして、この主張に基づいて、判断一般からその一切の内容を度外視して判断の悟性形式だけに着目することによって、カントは12個の判断様式を導きだし、これに基づいてカテゴリー表を創り出したということでした。

 簡単ですが、以上でこの論点に関する議論を終えました。
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2017年06月12日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(7/10)

(7)論点1:カントのいわゆる論理学とはどのようなものか

 前回は、カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他の部分のうち、ポイントとなる部分を改めて振り返った後、5月例会で提出された3つの論点を紹介しました。

 今回から、その3つの論点について順次検討した内容を紹介していきたいと思います。まず1つ目の論点として挙げられたのは、カントが論理学をどのように捉えていたのかを問う論点です。

論点1:カントのいわゆる論理学とはどのようなものか

 カントは論理学をどのようなものとして整理しているのか。特に先験的論理学はその中にどのように位置づけられているか、一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論に区分する必要性はどのようなものか、カントの論理学はアリストテレスの論理学とはどのような関係にあるのか、またヘーゲルの論理学はこれらとどのように異なっているのかを中心に議論したい。

 この論点については、まず、カントが論理学をどのようなものとして整理しているのかについて確認しました。この点については、各自の見解に大きな差異はありませんでした。まとめると、論理学は悟性が認識の一切の対象とその差別を度外視して、悟性自身と悟性の形式だけを問題にするものであり、与えられた知識を判定するための前提となるものであって、感性を扱う感性論と対をなすものだということでした。

 次に、先験的論理学の位置づけについてです。まず全員に共通していたのが、論理学を一般的な悟性使用についての論理学である一般論理学と、特殊な対象へ悟性を使用するための論理学とに区分し、前者である一般論理学をさらに、我々が悟性を使用する場合の一切の経験的条件(感覚の影響、想像力の活動、記憶の法則、習慣の力、情意的傾向等々)を一切度外視し、悟性および理性の使用の形式的方面だけに関係し、内容の如何を問わない純粋論理学と、これらの経験的条件を考慮した応用論理学とに分けているという把握でした。このカントの分類を確認した上で、先験的論理学とはどういうものかについて議論しました。この点についても大きな見解の相違はありませんでした。すなわち、先験的論理学とは、要するに我々が対象をア・プリオリに思惟するための条件であり、経験的起源も感性的起源も全く持たない純粋悟性概念に関する学であるということでした。

 ここでチューターから、今議論した先験的論理学というものは、先に区分された一般論理学や純粋論理学とどのような関係にあるのか、という疑問が呈せられました。この論点については、特殊な対象へ悟性を使用するための論理学である個々の学のオルガノンとはどういうものかをまずはイメージすべきであるとか、応用論理学は心理学だということをヒントに考えるべきではないかとか、一般論理学は認識の起源を問題にしないが先験的論理学は認識の起源を問うという違いがあるのではないかとか、諸々の意見が出されました。結局、一般論理学では雑多な概念を扱うが、先験的論理学では認識にもともと備わっている概念だけを扱うという違いがある、という共通理解を確認するまでで(時間の関係もあって)切り上げました。

 一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論に区分する必要性については、以下のような共通した理解が示されました。すなわち、一般論理学であれ、先験的論理学であれ、論理学が問題にできる真理というものは形式に関するものであって、内容に関するものではあり得ない、だからある認識が真理であるための形式を明らかにするのが論理学であって、このことをカントは分析論と呼んでいるのである。一方で、この分析論を誤用して、ある認識が形式的に真理であるという規準に過ぎない分析論でもって実質的真理を与え得るかのように純粋悟性の使用を説明するとすると、これは弁証法的仮象であって、この弁証法的仮象を批判する部分が弁証論である、ということでした。

 カントの論理学がアリストテレスの論理学とはどのような関係にあるのかに関しては、カントの論理学がアリストテレスの論理学を踏まえつつも、人間の認識が成立する条件という観点から深めて、人間の悟性のア・プリオリな形式を明らかにしようとするものであったこと、アリストテレスのカテゴリーは何らかの原理に基づいて体系的に配置されたものではないのに対して、カントのカテゴリーは判断する能力という1個の原理に基づいて導き出されたものであって、全体が4つの綱目から成り、さらに各綱目を形成する3つのカテゴリーについても第1のカテゴリーと第2のカテゴリーを結合して第3のカテゴリーが生じるといった体系性があることを確認しました。なお、この議論の中で、ある会員がアリストテレスの論理学に関して、「ノウハウレベルのものだった」と述べたことに対して、別の会員からは、アリストテレスの論理学をノウハウレベルだったという理解で分かった気になってしまってはいけないのではないかと指摘し、その見解に全員がうなずきました。

 最後に、ヘーゲルの論理学はこれらカントおよびアリストテレスの論理学とどのように異なっているのかという問題についてです。この論点については、アリストテレスやカントの論理学があくまでも人間の思惟に関する法則を明らかにしようとしていたのに対して、ヘーゲルの論理学は、思惟=存在という大前提を強調して、この世界の創造に先立つ神の思考(この世界の設計図を描くようなもの)として、思惟法則であると同時に(直接に)客観的世界それ自体がもつ法則を明らかにするものとして位置づけられているという見解が出されました。これに関連して、「この世界の創造に先立つ」という部分について、へーゲルの論理学は、絶対精神が自然に外化する前、時間及び空間という規定を獲得する前であり、絶対精神が自然から精神へという客観的なものから主観的なものへの発展過程を辿る前に、その基本的な設計図を描き上げてしまうものであるという説明もなされました。また、端的には運動性が大きく異なるとして、カントにしてもアリストテレスにしても、個々のカテゴリーが他と明確に区別され対立する形になっているが、ヘーゲルの論理学においては、絶対精神の自己運動という形で個々の概念の運動過程として論理学が展開されているのであって、単に10個や12個のカテゴリーに関してだけではなくて、世界の森羅万象に絶対精神の自己運動という設計図でもって筋を通し切った点が、ヘーゲルの論理学の大きな特徴であるという見解も出されました。どの見解についても、大筋で全うなものだということになりました。

 以上でこの論点に対する議論を終了しました。
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2017年06月11日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところを振り返っておきたいと思います。

 まずカントは、感性の規則一般に関する学である感性論を、悟性一般の規則に関する学である論理学から区別します。そして論理学については、その目的によって、一般的な悟性使用の論理学である一般論理学と、特殊な悟性使用の論理学である個々の学のオルガノンとに区別するのです。さらにカントは、一般論理学を純粋論理学と応用論理学とに分類し、前者は我々が悟性を使用する場合の一切の経験的条件を全て度外視するものであるのに対して、後者は心理学の提示する主観的、経験的条件のもので悟性を使用する規則に関する学だと主張するのです。

 さらにカントは、対象にア・プリオリに関係するような概念を想定し、我々が対象を全くア・プリオリに思惟するための条件であるところの純粋悟性に関する学を先験的論理学と呼びます。そしてカントは、一般論理学も先験的論理学も分析論と弁証論とに区分するのです。分析論とは、悟性による認識の形式に関する仕事全体をその要素に分解して、これを我々の認識を吟味する一切の論理的判定の原理として提示するもので、弁証論とは、この分析論が論理的判定の規準でしかないのに、客観的主張を実際に作り出せるものだとして誤用された場合の欺瞞を暴露し、その弁証法的仮象の批判に関する学だとされていました。

 続いてカントは、全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて説明していきます。まずカントは、判断について、我々の表象を統一する機能であり、悟性の一切の作用を判断に還元することができると主張します。その上で、判断における統一の機能を完全に余すところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見できるとして、判断における思惟の機能を4綱目に区分し、さらにまた各綱目が3個の判断様式を含むものだとして、合計12個の判断様式を提示するのです。

 最後にカントは、表象の純粋総合を概念に形成することを教えるのが先験的論理学であるとした上で、判断の含む種々な表象に統一を与えるのと同じ機能が、直観の含む種々な表象の単なる総合そのものにもまた統一を与えるのであって、この統一を一般的に表現したものとして、12個の純粋悟性概念を導き出すのでした。

 以上のような内容について、例会では大きく3つの論点が提示されました。そして、各論点をめぐって様々な議論・討論がなされていきました。そこで今回は、その3つの論点を紹介したいと思います。次回以降、それぞれの論点をめぐってなされた討論過程と、その結果どのような(一応の)結論に到達したのかということを詳しく紹介していく予定です。

論点1:カントのいわゆる論理学とはどのようなものか

 カントは論理学をどのようなものとして整理しているのか。特に先験的論理学はその中にどのように位置づけられているか、一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論に区分する必要性はどのようなものか、カントの論理学はアリストテレスの論理学とはどのような関係にあるのか、またヘーゲルの論理学はこれらとどのように異なっているのかを中心に議論したい。

論点2:全ての純粋悟性概念を残らず発見する方法とはどのようなものか

 カントは、「先験的哲学は、純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見するという利点をもっているが、しかしまたそうする責務をももつのである。かかる概念は、絶対的統一体としての悟性から、夾雑物をひとつも交えずに純粋に生じるものであり、従ってこれらの概念自身もまた一個の概念或いは理念に従って互いに関連していなければならない」(p.140)と述べているが、これはどういうことか。純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見する方法はどのようなものだと説明されているか。

論点3:純粋悟性概念とはどのようなものか

 カントは、純粋悟性概念すなわちカテゴリーに関して、どのようなものだと述べているか。また、カントは判断の機能からカテゴリー表を導いているが、判断とはどのようなもので、判断と純粋悟性概念はどのような関係にあるのか。このカテゴリー表について、ヘーゲルはどのように評価しているか。唯物論の立場から評価するならば、どのようなことがいえるか。
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2017年06月10日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約A

 前回は、悟性の論理的使用について、また判断における悟性の論理的機能について説かれている部分の要約を紹介しました。そこでは、悟性の一切の作用を判断に還元することができること、判断における統一の機能を完全にあますところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見できることが説かれ、判断が12個に分けて説かれていました。

 今回は純粋悟性概念すなわちカテゴリーについて説明されている部分の要約を紹介します。

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第3節 純粋悟性概念すなわちカテゴリーについて

 一般論理学は、認識の一切の内容を度外視して、表象が他所から与えられることを待っており、これらの表象を概念に変じるのであるが、表象から概念を構成する操作は分析的に行われる。これに反して先験的論理学は、感性においてア・プリオリに与えられた多様なものをすでにもっている。空間および時間は、我々の心意識の受容性の条件であり、我々の心意識はこうした条件のもとでのみ対象の表象を受け取りうるのである。したがって、これらの条件は、常に対象の概念にも影響を与えざるをえない。しかし、我々の思惟の自発性は、こうした多様なものをまずある仕方で通観し、これを取りまとめ、さらにまたこれらを結合して、この多様なものから認識を構成しようとする。こうした思惟作用を、私は総合と名づける。
 しかし私はまた総合を最も一般的な意味に解して、種々な表象を互いに加え合わせて、その多様をひとつの認識に統括する作用であるとする。多様なものの総合によって作り出される認識は、なるほど最初は未整理で乱雑なものであり、したがって分析を必要とするかもしれない。しかしもともとこれらの多様な要素を結合してある内容とするところのものがすなわち総合なのである。したがって総合は、我々が認識の起源を究明しようとする場合、まず着目せねばならないものである。
 およそ総合は、構想力の作用にほかならない。構想力がなければ、我々は全く認識をもちえないが、それにもかかわらず我々がそれを意識することは稀である。
 一般的に表象された純粋総合は純粋悟性概念を与える。しかし私はこの純粋総合を、ア・プリオリな総合的統一を基礎とする総合と解する。
 種々な表象は分析によって1個の概念のもとに包括される(これは一般論理学の仕事である)。ところが表象でなくて表象の純粋総合を概念に形成することを教えるのは先験的論理学である。およそ対象をア・プリオリに認識するために、我々に与えられていなければならないものは、第一に純粋直観における多様なものであり、第二に構想力によるこの多様なものの総合であるが、しかしこれだけではまだ認識を与ええない。そこでこうした純粋総合に統一を与え、またこの必然的、総合的統一の表象にほかならないところの概念が、当面の対象に必要な第三のものを加える。これらの概念は全て悟性に基づいているのである。
 判断の含む種々な表象に統一を与えるのと同じ機能が、直観の含む種々な表象の単なる総合そのものにもまた統一を与える。この統一を一般的に表現したものがすなわち純粋悟性概念である。
 そこで直観の対象一般にア・プリオリに関係する純粋悟性概念が、善計の判断表に列挙された一切の可能的判断の論理的機能とちょうど同じ数だけ生じるわけである。我々はこれらの概念を、アリストテレスにならってカテゴリーと名づける。

カテゴリー表
1、分量 単一性/数多性/総体性
2、性質 実在性/否定性/制限性
3、関係 付属性と自存性/原因性と依存性/相互性
4、様態 可能―不可能/現実的存在―非存在/必然性―偶然性

 悟性はみずからのうちにこれらの概念をア・プリオリに含んでいる。悟性はこれらの純粋悟性概念によってのみ直観における多様なものについて何かあることを理解しうる。上記のカテゴリー表の区分は、共通な1個の原理、すなわち判断する能力にもとづいて体系的に作成されたもので、純粋概念を手当たり次第に探し出して、互いに連絡もなしに寄せ集めたものではない。

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 上掲のカテゴリー表は、悟性の一切の基本概念を余すところなく含んでいるばかりか、人間悟性における基本概念の体系の形式をすら含み、したがってまた何らかの思弁的な学が企てられる場合には、こうした学の一切の要件に関してのみならず、これらの要件の秩序についても指示を与えるのである。ここで2、3の注意を述べておきたい。
 注の1 悟性概念の4綱目を含むカテゴリーは、直観の対象に関係する分量と性質(数学的カテゴリー)、対象の実際的存在に関係する関係と様態(力学的カテゴリー)とに2分される。
 注の2 これら4綱目は、いずれも3個ずつのカテゴリーを含み、第三のカテゴリーは常に第一のカテゴリーと第二のカテゴリーの結合から生じている。総体性のカテゴリーは単一性と見なされた数多性、制限性は否定性と結合した実在性、相互性は他の実体と相互的に規定し合う実体の因果性、必然性は可能ということによって与えられた実際的存在にほかならない。第一の概念と第二の概念との結合によって第三の概念が成立するためには、悟性の特殊な活動が必要である。
 注の3 相互性のカテゴリーだけは、論理的機能の表〔判断表〕において対応する選言的判断との一致が、他のカテゴリーとこれに対応する判断形式との一致ほど明白でないので、次のことを付言する必要がある。およそ選言的判断においては、判断の全範囲はいくつかの部分に区分された全体と見なされてよい。選言的判断では、ひとつの部分は他のいかなる部分のもとにも包括させられないわけだから、これらの部分は互いに並列的であって従属的ではない。したがってまた系列において見られるように、互いに一方的な関係をなすものではなくて、集合体におけるように相互的に規定し合うものと考えられるのである。

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 スコラ哲学者のあいだで有名であった命題「およそ実在するものは一者、真および善である」において、物に付け加えられる先験的述語〔一者、真および善〕は、それぞれ分量のカテゴリー、すなわち単一性、数多性および総体性を認識の根底においている。ただこれらのカテゴリーは、実質的に解されねばならないのに、つまり物そのものを可能ならしめる条件と解されねばならないにもかかわらず、彼らはこの3カテゴリーを、実際には単なる形式的な意味に解し、およそ認識に関する論理的要求に属するものとして使用しながら、しかも元来は思惟の標徴であるところのものを、不用意にも物自体の特性としたのである。
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2017年06月09日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約@

 前回は、一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論とに区分することについて説かれている部分の要約を紹介しました。そこでは、論理学について、認識が正しいといえる形式の基準を与える分析論と、分析論を誤用して客観的主張を創り上げるものであるとする弁証論とに分けてカントが説明していることが論じられていました。

 さて今回は、悟性の論理的使用について、また判断における悟性の論理的機能について説かれている部分の要約を紹介します。

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先験的論理学

第1部 先験的分析論

 この分析論は、我々のア・プリオリな全認識を、純粋悟性認識の諸要素に分析することを趣旨とする。その場合に4つの要件がある。(1)ここでいう概念は純粋概念であって経験的概念ではない、(2)これらの概念は直観や感性に属するものではなく、思惟と悟性に属する、(3)これらの概念は基本的概念であって、派生的概念、合成された概念ではない、(4)これらの概念の表は完全であって、純粋悟性概念の全領域をあますところなく包括する。こうした完全性は、ア・プリオリな悟性認識の全体という理念と、この認識を構成する全ての概念をこうした理念に基づいて的確に分類することによってのみ、したがってこれら概念を関連させてひとつの体系とすることによってのみ成立しうる。先験的論理学の先験的分析論の部分は、純粋悟性概念を含む概念の分析論と、純粋悟性の原則を含む原則の分析論の2篇からなる。

第1篇 概念の分析論

 ここでいう「概念の分析論」とは、悟性能力そのものの分析である。ア・プリオリな概念をその出生地である悟性においてのみ求め、悟性の純粋使用を分析することでこれら悟性概念の可能を究明する。

第1章 全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて

 先験的哲学は、純粋悟性概念を1個の原理にしたがって残らず発見するという利点をもち、またそうする責務をもつ。こうした概念は、絶対的統一体としての悟性から夾雑物をひとつも交えずに純粋に生じるものであり、したがってこれらの概念自身もまた1個の概念あるいは理念に従って互いに関連していなければならない。

第1節 悟性の論理的使用一般について

 悟性の認識、少なくとも人間悟性の認識は、例外なく概念による認識であり、直観的ではなく論証的な認識である。悟性は概念を判断に用いうるだけであるが、概念が直接に関係するのは対象そのものではなくて、対象に関する何らかの表象である。すると判断は、対象の間接的認識であり、したがってまた対象の表象のそのまた表象である。およそ判断には他の多くの概念にも通用するような概念がある。例えば、「全て物体は可分的である」という判断において、可分的という概念は物体という概念以外の他の多くの概念にも関係するし、物体という概念はまた我々に現われる色々な現象に関係する。このように、あらゆる判断は、我々の表象を統一する機能である。つまり対象に直接に関係するひとつの表象の代わりに、この表象をもまた他の多くの表象をも含むようないっそう高次の表象があって、この表象が対象の認識に使用されると、多くの可能的認識がひとつの認識にまとめられるのである。ところで我々は悟性の一切の作用を判断に還元することができるから、悟性は判断の能力と考えられてよい。悟性は思惟の能力だからである。思惟は、概念による認識である。しかし概念は、可能的判断の述語としては、まだ規定されていない対象の表象に関係する。そこで物体という概念は、この概念によって認識されうるような何かあるもの、例えば金属をも意味する。このように物体の概念は、この概念のもとに含まれている他の表象を介して対象に関係しうるからこそ概念なのである。したがってこうした概念はある可能的判断、例えば「全ての金属はいずれも物体である」というような判断の述語になるのである。それだからもし我々が、判断における統一の機能を完全にあますところなく表示しさえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見できるわけである。

第2節 判断における悟性の論理的機能について

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 判断一般からその一切の内容を度外視して判断の悟性形式だけに着目すると、我々は判断における思惟の機能が4綱目に区分され、さらにまた各綱目が3個の判断様式を含むことを知る。これらは次のように示される。

判断の
1、分量 全称的判断/特殊的判断/単称的判断
2、性質 肯定的判断/否定的判断/無限的判断
3、関係 定言的判断/仮言的判断/選言的判断
4、様態 蓋然的判断/実然的判断/必然的判断
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2017年06月08日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約A

 前回は、論理学一般及び先験的論理学が取り上げられている部分の要約を紹介しました。ここでは、心意識の受容性が感性であり、認識の自発性が悟性であること、悟性の一般規則に関する学が論理学であり、これは一般論理学と応用論理学に区分できること、先験的論理学とは対象を全くア・プリオリに思惟するための条件であるところの純粋悟性および純粋理性認識に関する学であることなどが説かれていました。

 今回は、一般論理学や先験的論理学を分析論と弁証論とに区分することについて説かれている部分の要約を紹介しましょう。

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V 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて

 昔から論理学者を窮地に追い込んできたのは真理とは何かという問題である。この場合「真理とは認識とその対象との一致である」という定義は前提されている。しかし我々の知ろうとするのは、およそ認識の真理を表示する確実な普遍的標徴は何であるか、ということである。
 真理が、認識とその対象の一致にあるならば、この対象はその他の対象から区別されなければならない。もしある認識がその関係する対象と一致しなければ、たとえその他の対象には十分に妥当するところのものを含んでいるにしても、この認識は偽である。ところで真理の普遍的標徴であるからには、認識の関係する対象の差異にかかわりなく、一切の認識に妥当するものでなければなるまい。するとこういうことが明らかになる。それは――真理すなわち真なる判断のこうした普遍的標徴にあっては、一切の認識内容(認識とその対象との関係)は全て度外視される、ところが他方で真理がまさに認識の内容に関するとしたら、こうした認識内容を真であるとするところの標徴は何かと問うのは、全く不可能でありまた不合理でもある、したがって真理の十分でしかも同時に普遍的な標徴は示されえない、ということである。真理の普遍的標徴なるものは、内容に関する認識の真理には要求できない。そうすることは自己矛盾だからである。
 しかし、単に形式だけから見た認識についていえば、一般論理学が悟性の普遍的、必然的規則を提示するものである限り、これらの規則においてこそ真理の標徴が開顕されねばならないということも同様に明らかである。こうした規則に矛盾するものは全て偽である。悟性は、思惟に関してみずから確立した法則に矛盾し、したがってまた自己矛盾に陥ることになるからである。しかし、こうした真理の標徴は真理の形式、換言すれば思惟一般の形式のみに関するものであり、不十分である。ある認識が、論理的形式には完全に一致し、自己矛盾を含まないにしても、この認識はなおその対象に矛盾するということがありうるからである。一般論理学は、形式に関する誤謬ではなくて内容に関する誤謬を発見しうるような基準をもたない。
 ところで一般論理学は、悟性および理性による認識の形式に関する仕事全体をその要素に分解して、これを我々の認識を吟味する一切の論理的判定の原理として提示する。それだから一般論理学のこの部分を「分析論」と名づけてよい。しかし認識の単なる形式は、いかに論理的法則と一致していようとも、この認識に関する実質的(客観的)真理を与えるにはまだまだ不十分である。一般論理学は、もともと論理的判定の規準(カノン)でしかないのに、まるでオルガノンででもあるかのように客観的主張を実際に作り出したり、あるいは少なくとも客観的主張らしく見えるまやかし物を拵えあげたりすることに使われてきたし、また実際にもこうして誤用されたのである。そこでオルガノンと誤想された一般論理学は、弁証論と呼ばれるのである。
 昔の学者たちが、弁証論という名称をまちまちの意味で用いたが、弁証論は彼らにあっては仮象の論理学にほかならなかった。すなわち彼らの無知あるいはそれどころか彼らが故意に拵えあげたまやかし物を真理の概観で装うとする詭弁術であった。オルガノンと見なされた一般論理学は常に仮象の論理学であり、したがってまた弁証的である。一般論理学はもともと認識内容については我々に全く教えるところがなく、ただ悟性と一致する形式的条件、つまりいずれにせよ対象にいささかもかかわりのない条件を示すだけにすぎない。
 私は弁証的仮象の批判に関する部分を弁証論と名づけて、この論理学のなかに加えた。

W 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区分することについて

 先験的論理学では、我々は悟性を孤立させ、また思惟の部分――しかもその起源が全く悟性にのみ存するような部分だけを、我々の認識からそっくり取り出すのである。しかしこうした純粋認識の使用は、この認識の適用されうる対象が直観において我々に与えられているということに基づくものであり、またこのことを認識の条件としているのである。直観がないと我々の認識は対象を欠くことになり、認識は全く空虚になってしまうからである。先験的論理学のこうした部分は、純粋な悟性認識の諸要素と、対象が思惟されうるためには絶対に欠くことのできない諸原理とを論述する学である。それだからこの部分は、先験的分析論であると同時に真理の論理学である。もし認識がこの学に矛盾するなら、それと同時に一切の認識内容が失われるからである。換言すれば、認識の対象に対する一切の関係が失われ、したがってまた一切の真理が失われるのである。質料(対象)を我々に与えるのは経験だけであり、こうした質料に純粋悟性概念が適用されうるのであるが、純粋な悟性認識および悟性の原則だけを用いて、経験の一切の限界を超出するということは、悟性にとって非常な魅力でありまた誘惑である。そこで悟性は、空疎な思弁を弄して純粋悟性の単なる形式的原理を実質的に使用し、また我々に与えられていないどころか、おそらくは決して与えられえないような対象について、見境なく判断を下すという危険を冒すのである。先験的分析論は、もともと悟性の経験的使用を判定する基準にすぎないはずなのに、もし我々がこれにオルガノンとしての普遍的使用を許し、純粋悟性だけでもって対象を総合的に判断し主張しまた決定するという僭越をあえてすると、この分析論の誤用が生じるのである。そうなると純粋悟性の使用は、弁証的になるだろう。それだから先験的論理学の第2部は、こうした弁証的仮象の批判でなければならない。この部分は先験的弁証論と名づけられるが、それは弁証的仮象を独断論的に作りあげる技術としてではなく、悟性および理性をその超自然的使用に関して批判する学としてである。この先験的弁証論は、悟性および理性のこうした越権が何ら根拠をもたないにもかかわらずあたかも正当な権利を有するように装っている欺瞞を暴露し、またこの両者が先験的原則のみをもって認識における発明や拡張なるものを達成しようとする大それた要求を引き下げて、ただ純粋悟性を批判するにとどめさせて、純粋悟性が詭弁的な迷妄に陥らないよう配慮するためである。
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2017年06月07日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約@

 前回は、京都弁証法認識論研究会の5月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回に渡って、カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想等の部分の要約を紹介していくことにします。

 今回は、論理学一般及び先験的論理学が取り上げられている部分の要約を紹介します。

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先験的原理論

第2部門 先験的論理学

緒言 先験的論理学の構想

T 論理学一般について

 我々の認識は心意識の2つの源泉から生じる。第一の源泉は、表象を受け取る能力であり、第二の源泉は、これら表象によって対象を認識する能力である。第一の能力によって対象が与えられ、第二の能力によって対象がこれら表象との関係で思惟される。直観と概念とが我々の一切の認識の要素であり、自分に対応する直観をもたない概念も、概念をもたない直観も、それだけでは認識になりえない。この両者はいずれも、純粋であるか経験的であるかどちらかである。直観なり概念なりが感覚を含んでいれば経験的であるし、感覚を交えていなければ純粋である。感覚は感性的直観の質料と呼べる。純粋直観は形式だけを含み、この形式によって何かあるものが直観されるのである。また純粋概念は対象一般を思惟する形式だけを含んでいる。こうした純粋直観あるいは純粋概念のみが、ア・プリオリに可能であり、経験的直観あるいは経験的概念はア・ポステリオリにのみ可能である。
 我々の心意識の受容性は、心意識が何らかの仕方で触発される限りにおいて、表象を受け取る能力である。この受容性を感性と名づけるなら、自ら表象を生み出す能力、すなわち認識の自発性は悟性である。感性がなければ対象は我々に与えられないし、悟性がなければいかなる対象も思惟されない。この2つの能力は、各自の機能を互いに交換することはできない。悟性は何ものも直観できないし、感性は何ものも思惟できない。両者が結合してのみ認識が生じうるのである。しかし、だからといって両者の持ち分を混同してはならない。感性の規則一般に関する学すなわち感性論を、悟性の一般規則に関する学すなわち論理学から区別するのはそのためである。
 論理学は2通りの目的をもって論究される。すなわち一般的な悟性使用の論理学としてであるか、特殊な悟性使用の論理学としてであるか、である。前者は思惟の絶対的に必要な規則を含み、悟性がどんな対象に使用されようと対象の差異を無視して悟性の使用だけを論究する。後者はある種の対象について正しく思惟する規則を含む。前者は基本的論理学、後者は個々の学のオルガノンと名づけることができる。後者は学がすでに出来上がってこれを修正し完成させるために、最後の仕上げを必要とするときに初めて達するものである。
 一般論理学は純粋論理学であるか応用論理学であるかどちらかである。純粋論理学においては、我々が悟性を使用する場合の一切の経験的条件、例えば感覚の影響、想像力の活動、記憶の法則、習慣の力、情意的傾向などはもとより、種々の成見の源も全て度外視される。それどころか、ある種の認識を我々に生じさせたり、こうした認識を我々の認識とひそかにすりかえたりするような一切の原因もまたことごとく無視される。こうしたものは悟性がある事情のもとで適用される場合にのみ悟性に関係するが、これらの事情を知るには経験を必要とするからである。だから一般的であってしかも純粋な論理学は、ア・プリオリな原理のみを論究し、悟性および理性の規準になるが、その場合にも悟性および理性の使用の形式的方面だけに関係し、内容の如何を問わないのである。この一般論理学は応用論理学と呼ばれることもあるが、それは一般論理学が、心理学の提示する主観的、経験的条件のもとで悟性を使用する規則に向けられた場合である。それだから応用論理学は、対象の差異に関わりなく悟性使用を論じる限りでは一般的といえるにせよ、やはり経験的原理を含んでいるのである。
 こういうわけで、一般論理学においては、純粋理性の学をなすべき部分を、応用論理学を成す部分から画然と区別しなければならない。前者すなわち一般的な論理学だけが本来の学である。この学について常に2条の規則を念頭に置かなければならない。
(1)この学は一般論理学としては悟性認識の一切の内容と認識の対象の差異とを度外視して思惟の単なる形式のみを論じるものである。
(2)この学は純粋論理学としては、経験的原理を一切含まない。したがってまた心理学から何ひとつ借用しない。
 私がここで応用論理学と名づけるのは、悟性と悟性の具体的ではあるがしかし必然的な使用の規則を含むところの学である。

U 先験的論理学について

 一般論理学は、一切の認識内容――換言すれば、認識と対象との一切の関係を度外視して、認識相互の関係における論理的形式、すなわち思惟一般の形式だけを考察する。直観には、純粋直観と経験的直観とがあり、対象を考える場合にも、純粋思惟と経験的思惟との区別がありうる。そうすると認識内容を必ずしも全て度外視しないような論理学が別に成立することになるだろう。対象の純粋思惟に関する規則だけを扱う論理学の方は、経験的内容を含むような一切の認識を排除するからである。そして認識内容を必ずしも全て排除しないような論理学はまた、対象に関する我々の認識の起源をも究明することになるだろう。もちろん認識の起源といっても、それは認識の対象に求められうるようなものではない。ところが一般論理学では、認識の起源などは一切問題にしないのである。一般論理学は、表象が我々のうちにア・プリオリに与えられていようが経験的に与えられていようが頓着なく、悟性が思惟において表象を互いに関係させつつ使用する場合に準拠するところの法則に従ってのみこれらの表象を考察するだけである。
 今後の考察の全般にわたって影響を及ぼす注意すべき事柄がある。ア・プリオリな認識でありさえすればすべて先験的認識だというのではなく、先験的と呼ばれねばならない認識は、ある種の表象がア・プリオリにのみ適用されア・プリオリにのみ可能であるということと、こうした表象がどうしてア・プリオリにのみ適用されまたア・プリオリにのみ可能であるかということとを、我々がそれによって認識するような認識にほかならない、ということである。それだから、空間にせよ空間のア・プリオリな幾何学的規定にせよ、それはいずれも先験的表象ではない。先験的と呼ばれ得るのは、こうした表象が経験的起源を全くもっていないという認識と、それにもかかわらずこれらの表象が経験の対象にア・プリオリに関係することの可能とだけである。同様に対象一般に空間表象を適用することも先験的といえるだろうが、この適用が感官の対象だけに限定されるなら、こうした使用は経験的だといわれる。
 そこで我々は、対象にア・プリオリに関係するような概念、つまり純粋直観としてでもなければ経験的直観としてでもなくて、全く純粋思惟の作用としてのみ対象に関係し、したがってまた経験的起源をも感性的起源をも全くもたないような概念が多分ありうるだろうということを期待して、我々が対象を全くア・プリオリに思惟するための条件であるところの純粋悟性および純粋理性認識に関する1個の学の理念をあらかじめ構想するわけである。このような学は先験的論理学と呼ばれてしかるべきであろう。
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2017年06月06日

2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約@
(3)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約A
(4)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約@
(5)カント『純粋理性批判』全ての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて 要約A
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:カントのいわゆる論理学とはどのようなものか
(8)論点2:全ての純粋悟性概念を残らず発見する方法とはどのようなものか
(9)論点3:純粋悟性概念とはどのようなものか
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 5月例会では、『純粋理性批判』の先験的論理学の構想その他を扱いました。今回の範囲は次のような構成になっています。

第2部門 先験的論理学
 緒言 先験的論理学の構想
  T 論理学一般について
  U 先験的論理学について
  V 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて
  W 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区分することについて
 第1部 先験的分析論
  第1篇 概念の分析論
   第1章 すべての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて
    第1節 悟性の論理的使用一般について
    第2節 判断における悟性の論理的機能について
    第3節 純粋悟性概念即ちカテゴリーについて

 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

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京都弁証法認識論研究会 2017年5月例会
カント『純粋理性批判』
先験的論理学 緒言
〜すべての純粋悟性概念を発見する手引きについて

1.先験的論理学について
 カントは、論理学を一般的な悟性使用についての論理学(一般論理学、基本的な論理学)と、特殊な対象へ悟性を使用するための論理学に分けている。一般論理学は、我々が悟性を使用する場合の経験的条件(感覚、想像力、記憶、習慣、情意的傾向等々)を度外視した純粋論理学と、これら経験的条件を考慮した応用論理学とに分かれるが、純粋理性の学の一部をなすのはあくまでも純粋論理学である、とされる。
 カントは、(従来の)一般論理学について、表象がア・プリオリに与えられようが経験的に与えられようが頓着なく、悟性が思惟において表象を互いに関係させつつ使用する場合に準拠するところの法則に従ってこれらの表象を考察するだけである、と指摘する。その上で、経験的起源をも感性的起源をも全くもたず、全く純粋思惟の作用としてのみ対象に関係する概念(我々が対象を全くア・プリオリに思惟するための条件)について究明する学が先験的論理学である、とする。
 カントは、一般論理学について、真理の普遍的標徴を明らかにしようとする(形式に関する誤謬を発見する)だけで、内容に関する誤謬を発見しうるような基準をもたないと指摘して、思惟が正しいといえる一般的な形式を明らかにする「分析論」と、論理的判定の規準でしかないものから客観的主張(らしく見えるもの)を拵えあげてしまう「弁証論」とに区分する(後者は内容に関する誤謬を発見できないという限界に無自覚であったからこそ生じてしまったものである)。
 カントは、先験的論理学は純粋な悟性認識の諸要素と対象が思惟されうるためには絶対に欠くことのできない諸原理とを論述する学なのだから、この部分は分析論である(真理であるための形式を明らかにする)と同時に真理の論理学である(この学に矛盾すれば一切の認識内容が消失する)と主張する。この先験的分析論は、もともと悟性の経験的使用を判定する基準にすぎないのだから、もし純粋悟性だけでもって対象を総合的に判断し主張しまた決定しようとするのなら、それは分析論の誤用である。こうした誤用から生じる弁証的仮象を批判するのが、先験的弁証論である。

〈報告者コメント〉
 カントのいわゆる純粋理性の学は、人間の認識はいかなる条件で成立しているのか、という問題意識に徹頭徹尾貫かれたものであるといえるだろう。人間はこの世界を正しく捉えることができるかどうか、という思惟と存在に関わる根本問題について、思惟の構造を徹底して究明することで、その解決に迫ろうとしたのがカントであったことを、改めて確認しておきたい。
カントは、人間の認識について、感性・悟性・理性の3つの部分に分けて、それぞれがもともとどのような形式を備えているのかを考察している。これが先験的な究明ということである。感性(対象を感覚的に直観する能力)にもともと備わっている形式を究明するのが先験的感性論、悟性(直観で得られた多様な表象をまとめ上げて判断する能力)にもともと備わっている形式を究明するのが先験的論理学ということであろう(理性については、先験的論理学の第二部門たる先験的弁証論で扱われることになる)。
 この世界を捉えるため(この世界についての認識を成立させるため)に、人間の認識(頭脳)の側にもともとどのような形式が備わっているのか、というカントの問いの立て方(認識の根源的な性格に迫ろうとするもの)自体は高く評価されるべきであろう。もちろん、「もともと」(先験的)という捉え方が唯物論の立場からすれば問題になることはいうまでもないが。

2.悟性の判断という機能および純粋悟性概念(カテゴリー)について
 カントは、悟性は(思惟の能力であり概念による認識であるから)判断の能力、すなわち、我々の表象を統一する機能である、としている。つまり、諸々の具体的な表象(対象に直接に関係する表象)をより高次の(抽象的な)表象にまとめあげるのが悟性の判断だ、というわけである。ここからカントは、判断における統一の機能を完全に表示しさえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見することができるのだ、と主張している。
 カントによれば、この統一を一般的に表現したものがすなわち純粋悟性概念(カテゴリー)である。純粋悟性概念こそが、悟性にもともと備わっている思惟の形式であり、それは諸々の表象をまとめる判断という悟性の機能にもとづいているのだ、ということになるわけである。

〈報告者コメント〉
 多種多様な(雑多でそれ自体として脈絡のない)表象をまとめあげるための形式が人間の認識(頭脳)の側に備わってなければ、対象についての認識はまともに成立しない、というカントの着眼は、高く評価されるべきものであろう。これが、ヒューム的な因果律批判への解答というところからきていることも改めて確認しておきたい。
 カテゴリー表の4項目がそれぞれ3つから構成されていることも興味深い。ヘーゲルがこの点に注意を促して、第一のカテゴリーは積極的(肯定的)であり、第二は第一を否定するもので、第三は両者の総合だというのは、概念の偉大なる本能である、という評価を与えていたことも確認しておきたい。同時に、カントがこれらのカテゴリーを経験的に(判断という機能を観察することから)とりあげるだけで、思惟そのものの統一からこれらの差別を必然的なものとして展開することはできなかった、という批判が加えられていたことについて、カントの論理学とヘーゲルの論理学との差異という観点から、議論を深めておくことも必要であろう。
 唯物論の立場からすれば、これらのカテゴリーについて、ア・プリオリに(もともと)人間の認識に備わっている、と片付けてしまった点が批判されなければならない。唯物論の立場からすれば、これらのカテゴリーなるものは、あくまでも対象を反映した像を原点として、そこから抽象されて形成された論理像として捉えられなければならないのである。

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 以上の報告に対しては、「1.先験的論理学について」の2段落目に「(従来の)一般論理学」という表現があるが、このカッコつきの「従来の」とはどういう意味かという質問が出されました。これに対してレジュメの執筆者は、カントは一般論理学と先験的論理学を区別して説いているようなので、この点を明確にするために、これまで一般的に用いられてきた一般論理学という言葉の前にカッコつきで「従来の」という表現を加えたのだと説明しました。この点については、論点の中で議論していくことを確認しました。
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2017年05月21日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回までは3回にわたって、論点に関してどのような討論がなされ、どのような(一応の)結論が導き出されたのかについて報告してきました。

 さて、本例会報告の最終回である今回は、参加者のメンバーそれぞれの感想を掲載したいと思います。

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 今回は、カント『純粋理性批判』の空間論、時間論の部分を扱った。

 今回も、いつも以上に読み込んで例会に臨んだため、カントのいわんとしていることは理解できたつもりである。つまり、空間にしても時間にしても、カントによれば、どちらもそれ自体として存在するものではなく、物自体に付随して存在するものでもない、感性にア・プリオリに備わった主観的な形式であって、人間の認識は物自体ではなく、物自体に空間、時間という枠組みを与えることで生じてくる現象を把握できるに過ぎない、ということであった。

 ここまでは一応理解できるのであるが、このカントの論を唯物論の立場から評価するとどのようなことがいえるのか、このことについては、諸々の議論を行ったが、結局、明確なイメージを描き切るまでには至らなかった。そもそも、時間、空間の唯物論的な規定、すなわち「時間とはある一定の物質の運動の具体化の一般性、空間とはある一定の物質の静止の具体化の一般性」とはどういうことか、対象を時間、空間という枠組みで把握することと、時間、空間の概念規定とはどのように関係してくるのか、生まれたばかりの赤ん坊や人間以外の動物は、時間、空間という枠組みで対象を把握しているのか、時間、空間は論理といえるのか、といった様々な考察を行っていったのだが、最終的な結論を得るまでには至らなかった。

 とはいえ、こうした哲学上の根本的な問いに対しては、すぐに答えを出して分かったつもりになるのではなく、繰り返し繰り返し考え続けていき、集団としても議論し続けていくという姿勢が大事である、ということが実感として分かってきたことは大きな成果であったといえると思う。今後も、議論の過程で自分自身や他会員の認識がどのように発展していくのかという点にも意識を向けながら、自らの頭脳を鍛えていきたいと思う。

 次回は先験的論理学の第1部である先験的分析論に入っていく。チューターに当たっているので、今回よりもさらに徹底して読み込んでいって、カントの主張を理解する上で必須の論点をしっかりと提示し、論点の整理の後、筋の通った見解を執筆していきたいと思う。その上で、例会当日の議論がスムーズに展開できるよう、各自の見解をきちんとまとめておきたいと思う。

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 今回の例会では空間と時間ということが中心的なテーマとなった。カントの言おうとしていることは比較的明確に理解することができたのだが、では唯物論の立場から空間や時間をどのように把握すればいいのかという点については、なかなか明確な理解を得られなかったというのが正直なところである。

 ただ、空間や時間が厳密にわかっていることと、物事を空間的・時間的に把握していることは違うという点を理解できたのは収穫だった。これはたとえて言えば、日本語がどういう言語であるかを知っていることと、日本語を使えることは別だということになるだろう。また、空間と時間を比べたときに、現実に存在するのは世界の広がりであり、その世界が運動・変化していく過程を人間が記憶するということを踏まえると、空間というのは客観的に存在し、時間というのは人間のアタマの中にしか存在しないと感じられるという点は納得できる指摘であった。カントの空間と時間の区別もここにかかわってくるのかもしれないと思った。

 いずれにせよ、空間と時間ということは非常に難しいテーマであり、簡単にわかったつもりになってはならないものなのだろう。今後も折に触れて議論をして、「わかった!」という量質転化が起こるようにしたいと思う。

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 先月扱った「緒言」と同じく、「先験的感性論」についても、カントの議論の進め方は明快で、文章そのものはそれほど難解なものとは感じられなかった。

 論点をめぐる議論を通じては、唯物論の立場からの空間・時間の把握という問題について、(明確な結論は出し切れなかったものの)それなりに突っ込んだ議論を展開することができてよかったと思う。世界を空間的・時間的に把握するということと「空間とは何か」「時間とは何か」を概念規定しきることとは異なる(人間は力学を知る以前から力学的に運動している、というのと同じ)ということが確認できたのは良かったし、動物もまた空間的(あるいはまた時間的に)世界を把握しているのではないか、その意味で空間的・時間的な把握というのは本能的(=先天的)と考える余地があるのではないか、という問題が提起されて、動物が本能的に描く像と人間が問いかけ的に描く像(=認識)との連続性と断絶性という問題が大きく浮上させられたのも良かったと思う。これらの問題は、そう簡単に結論が出る(出たことにしてしまってよい)問題ではないと思うので、今後も折に触れて、集団的に議論を深めていきたいものである。

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 今回の範囲を読んで、カントが空間や時間についてどのように説いているのかは、おおよそ理解できた。すなわち、カントによると、空間も時間も、ア・プリオリに感性に備わっている形式であり、これがあるからこそ、現象の認識=経験が可能となるのである。他方、物自体と空間や時間は関係がなく、物自体が可能となるためには空間も時間も必要ない、ということである。

 しかし、この空間・時間を唯物論的に捉えるとどうなるか、については、これまで何度も議論してきたことではあるが、明確な結論に至らなかった。しかし、これまでにない認識の発展があったと思う。一つは、動物の描く本能的な像と、人間の描く認識の連続性と断絶はどのようなものか、という視点から、空間と時間を考えていくことができそうだ、ということが分かった点である。ここからもう少し広げると、赤ん坊がどのように対象をとらえているのか、空間や時間的に対象を捉えられるようになるというのはどのようなことか、というような点も、考えていくに値する問題だと感じた。他にも、脳に障害があって空間や時間を認識できない人の研究や、歴史的に人間が空間や時間をどのように捉えてきたかの歴史なども、調べる価値があると思った。

 いずれにせよ、空間・時間の問題は、これからもくり返し議論していく必要があるだろう。
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2017年05月20日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(9/10)

(9)論点3 カントは物自体と現象との関係に空間・時間の問題をどのように絡めて説明しているか

 前回は、カントは時間をどのようなものであると考えているかについての議論を紹介しました。今回は、カントは物自体と現象との関係に空間・時間の問題をどのように絡めて説明しているかについて議論を紹介します(ただし、これまでの議論でかなり予定時間をオーバーしてしまっていたために、この論点については簡単に確認する程度となりました)。

 まず論点を再掲します。

<論点再掲>
 カントは、物自体と現象とを区別して説明しているが、この説明に、先に解説された空間と時間とはどのように絡んでくると述べられているか。ここに関連して、カントは根源的存在者〔神〕の根源的直観(=知性的直観)なるものを示唆しているが、神の認識と人間の認識はどのように異なるとされるのか。
唯物論の立場からする空間と時間との規定(空間とはある一定の物質の静止の具体化の一般性、時間とはある一定の物質の運動の具体化の一般性)から見れば、カントのこの説明はどのように評価することができるか。


 この論点に関しては、おおむね共通した見解が出されていました。

 第一に、物自体と現象との区別に空間と時間がどのように絡んでくるかという点に関しては、「物自体が空間・時間という純粋直観の形式を通して現象として与えられる」、「空間や時間は我々の感性に付属しているものであり、この感性をとおして我々は対象を与えられるわけであるが、ここで与えられるものは対象自体(物自体)ではなくて、対象の現象だけである」、「人間の認識は物自体を把握することはできず、あくまでも物自体に感性の純粋直観である空間と時間という形式を与えることで浮上してくる現象を認識するに過ぎない」、「人間は、空間と時間という枠組みで世界を認識するのであり、空間と時間という枠組みにおいて成立するのが現象なのである」という見解が出されていました。要するに、人間は物自体を把握することはできず、空間と時間という枠組みをとおした現象しか把握することができないのだということで共通した見解でした。

 第二に、神の認識と人間の認識との違いに関しては、「根源的存在の根源的直観(=知性的直観)は、時間および空間という枠組みを通すことなく、物自体を直接に把握することができる」、「神は物自体を認識することができる」、「根源的存在者(神)においては、対象そのものを認識するような知性的直観(根源的直観)が可能」、「根源的存在者の根源的直観(=知性的直観)は、物自体をも認識できる」という見解が出されていました。つまり、神の認識と人間の認識との違いは物自体を認識できるかどうかの違いだということで、共通した見解が出されていました。

 第三に、唯物論の立場からどう評価することができるかに関しては、まず肯定的な側面として「人間は、空間および時間という枠組みのなかにあるものとしてしか対象を捉えることはできない、というのは、唯物論の立場からもいえることである。少し角度を変えていえば、人間は、現実の世界を眺めているつもりでも、実際には、脳細胞に反映した(描かれた)現実世界の映像を眺めているにすぎない、ということである」、「空間と時間という枠組みで対象を把握するという点までは、唯物論の立場からも何とか容認可能であろう」という見解が出されていました。

 一方、否定的な側面として、「物自体の世界と現象の世界を切断してしまい、物自体は何の性質ももっておらず、(現象として人間に与えられる)対象の諸々の性質はすべて人間の認識が与えたものだとしてしまった。これは、唯物論の立場からは批判されなければならない。現実世界の対象はそれぞれなりの性質をもっているのであって、それが頭脳に反映するのである。時間及び空間もまた、現実世界の諸々の物体の性質と無縁にあるものではない。」、「この対象の性質を認識が与えるという説明に関しては明らかに行き過ぎである。世界の対象はそれ自体、性質を持っているのであって、それを感覚器官を通して脳細胞に反映したものが認識であって、対象の性質は客観的に存在するものなのである」という見解が出されていました。また少し違った角度から、「唯物論の立場からすれば、人間が認識できるものとできないものが予め決められているという発想は、許容できないと考えられる。どのような対象でも認識することはできるが、認識し尽くすことはできない、どこまで認識できるかは、時代性によって規定されている、というように考えるのが唯物論的ではないか。」という見解も出されていました。

 それぞれの見解に関して、特に大きく間違っているということはないことを確認して、この論点についての議論を終えました。
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2017年05月19日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(8/10)

(8)論点2 カントは時間をどのようなものであると考えているか

 前回は、カントが空間をどのようなものであると考えているかという論点についての議論を紹介しました。

 今回は、カントが時間をどのようなものであると考えているかという論点についての議論を紹介します。まず、論点を再掲します。

<論点再掲>
 カントは、感性の2つの純粋形式の1つとして空間を挙げているが、カントにおいては、時間はどのようなものとして把握されているのか。「時間は内感の形式」、時間の「経験的実在性」、「絶対的実在性」、「先験的観念性」という点に注意しながら議論したい。
 カントの時間論について、唯物論の立場から批判するとすれば、どのようなことをいわなければならないか。また、唯物論の立場からすれば、時間とはどのようなものといえるか。唯物論の立場からすれば、認識に時間の観念が備わるのはどのようにしてであるといえるか。


 第一に、カントにおいては、時間はどのようなものとして把握されているのかを確認しました。様々な見解が出されていましたが、結局、時間とは人間にア・プリオリに備わっているものであり、現象が可能となる条件であるという形で捉えられているということで、ほぼ共通した見解が出されていました。また、時間が内感の形式であるとはどういうことかという点についてもほぼ同様の見解が出されていましたが、「一切の表象(イメージ)は、外的なものを対象とするにしても、それ自体は心意識の規定として内的状態に属することを指摘し、この内的直観は時間という純粋直観の形式に従うほかない」という一人のメンバーの見解が最も的確にまとめられているということになりました。

 第二に、時間の「経験的実在性」「絶対的実在性」「先験的観念性」について確認しました。これに関しても、おおむね共通した見解が出されていました。つまり、時間の経験的実在性とは、我々が見ている対象はすべて時間のうちにあるということです。しかし、時間は客観的に存在するものではなく(絶対的実在性をもつものではなく)、あくまでも人間にア・プリオリに備えられたものであり、これが時間の先験的観念性ということです。

 第三に、カントの時間論が唯物論の立場からどのように評価できるのかについて議論しました。まず肯定的な側面としては、「人間が現実世界を把握する上での根本的な枠組みである、と把握した点は、唯物論の立場からも肯定することができる」「カントの時間論は、対象を捉える枠組みとして時間を把握している点は評価できる」などの見解が出されていました。

 一方、否定的な側面として、「カントは、諸々の物体の具体性を捨象していくというやり方では時間の観念に到達できない、と主張するのであるが、唯物論の立場からは、「時間とはある一定の物質の運動の具体化の一般性、空間とはある一定の物質の静止の具体化の一般性であるから、あらゆる物質の具体性を捨象していけば、空間と時間だけが残る」(加藤幸信「学問の発達の歴史」)とされているのである」、「唯物論の立場からすれば、やはり空間論の場合と同じく、時間という観念がどのようにして成立してきたのかというプロセスを明らかにしなければならない」、「時間を認識の側の性質だとしてしまっている点は、納得できないものである」などの見解が出されました。ここに関わって、あるメンバーは、「時間がア・プリオリな直観形式であるならば、どの人間にとっても時間というものが同じであるということにならないか。ところが、時間をどのようなものとして考えていたかは、時代によっても大きく異なる。午前と午後というように大雑把に区分していた時代もあっただろうし、活動できる昼間だけを12分割していたような時代もあった。時間がア・プリオリな存在であるならば、このような時代による変化などはないのではないか」という形でカントへの反論を展開していました。しかし、そのように言うとカントからは「それは時間の区切り方の問題であって、時間自体の問題ではない、時間が流れていくというような表象自体は人間にア・プリオリに与えられているのだ」という再反論が来るかもしれないとも述べていました(例会での議論でも、確かにそのような再反論が来たら、なかなか返すのは難しいから、最初の反論そのものがあまり適切ではないのではないかということになりました)。

 唯物論的な立場からの評価という点については、結局、空間論で展開した議論と同じことが言えることを確認しました。つまり、我々はどのようにして対象を時間的に把握できるようになるのか、そこに本能的な部分はどれぐらい残っているのかということを明らかにしていかなければならないということです。ただ、空間と時間は同じように対象を捉える枠組みと言っても、少し違う側面がありそうだという意見が出されました。この世界は物質が延々と運動していく過程ですが、実在するものはその瞬間その瞬間の世界の広がりでしかありません。我々はその瞬間瞬間の世界を記憶して、運動する過程として捉えるわけです。その意味で空間は確かに実在するというイメージをもつことができるものの、時間はやはり我々のアタマの中にしか存在しないものという感じがするということでした。カントが時間を内感の形式と呼んだのも、このあたりが関わっていそうだという意見が出されました。

 以上で論点2についての議論を終えました。
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2017年05月18日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(7/10)

(7)論点1 カントは空間をどのようなものであると考えているか?

 前回は、今回扱った内容を再度まとめ直した後、例会で扱った3つの論点を紹介しました。

 今回からは、それぞれの論点に対してどのような討論がなされ、どのような(一応の)結論が出されたのかのプロセスを紹介していきます。

 今回は第一の論点をめぐる議論を紹介します。論点は次のようなものでした。

<論点再掲>
 カントは、感性の2つの純粋形式の1つとして空間を挙げているが、カントにおいては空間はどのようなものとして把握されているのか。空間概念の形而上学的解明と先験的解明とはどのように違うのか。「純粋直観」「空間の経験的実在性」「空間の先験的観念性」ということに注意しながら議論したい。
 カントの空間論について、唯物論の立場から批判するとすれば、どのようなことをいわなければならないか。また、唯物論の立場からすれば、空間とはどのようなものといえるか。唯物論の立場からすれば、認識に空間の観念が備わるのはどのようにしてであるといえるか。


 第一に、カントが空間をどのようなものとして把握したのかを確認しました。ここに関しては様々な見解が出されましたが、要するに、空間とは物自体の性質ではなく感性に備わっている主観的なものであり、決して経験から得られるものではないこと、また、これによって現象が可能となることをカントは指摘しているということで、おおむね共通した見解が出されていました。

 第二に、空間概念の形而上学的解明と先験的解明とはどのように違うのかを確認しました。チューターは「ある概念がア・プリオリに与えられたものとして明示することが形而上学的解明」であり、「空間について総合的認識が成り立つためには、空間はどのようなものでなければならないかを考えるのが先験的解明」であるという見解を出していましたが、これに対して別のメンバーは「先験的解明の説明がよくわからない」と発言しました。先験的解明について、カントは「或るア・プリオリな原理に基づいて、別のア・プリオリな総合的認識(例えば幾何学的認識)の可能が理解せられ得る場合に、かかる原理としての概念の説明を先験的解明と言うのである」(p.92)と書いています。この定義にうまく当てはまらないのではないか、少なくとも「ア・プリオリ」という言葉が入っていないのはおかしいのではないかということでした。これについてはチューターも納得しました。一方で、そのメンバーは「空間がア・プリオリであるということを論証するのが形而上学的解明であり、空間をア・プリオリな原理であると考えることによってのみ、ある種のア・プリオリな綜合的判断の可能性が理解され得るということを論証するのが先験的解明」であるという見解を出しており、その見解の方が妥当性があるということになりました。また別のメンバーは形而上学的解明と先験的解明の違いに着目して、「形而上学的解明については、空間表象がなければ現象を認識することができないから空間概念はア・プリオリに与えられたものだという帰納的説明であり、先験的解明については、幾何学的認識が可能となるためには空間表象は純粋直観でなければならないという演繹的説明である」という見解を出していました。確かに帰納と演繹ということで整理できなくはなさそうだという見解は出ましたが、はっきりとはしませんでした。

 第三に、「空間の経験的実在性」「空間の先験的観念性」について確認をしました。経験的実在性という点については、ほぼ共通した見解が出されていました。つまり、我々の経験としては、空間は実在するということが「空間の経験的実在性」ということです。一方、先験的観念性については、観念性とはどういうことかについて意見がわかれました。メンバーの多くは、空間は経験に先立って(ア・プリオリに)我々の側に備わっているものであるという点を捉えたものが先験的観念性だという見解を出していました。つまり、空間とは主観的なものであり、それが観念性だということです。それに対して一人のメンバーは、「空間を主観的条件としてではなく、物自体が成立するための条件と考えるならば、空間は、単に観念的なものになってしまう。これが空間の先験的観念性ということであろう」という見解を出していました。補足を求めると、空間は経験的には実在しているのだけれども(経験的実在性)、先験的には実際に存在しているわけではなく、単に観念として考えられているだけで本当はないのだ、経験が成立するためには空間が必要だが、物自体が成立するためには空間は不要なのだ、ということでした。直接的には、カントの以下の記述をもとにしたものであるということでした。

「空間の先験的観念性とは、我々が一切の経験を可能ならしめる〔主観的〕条件を捨てて、空間を物自体の根拠に存するところの何か或るものと考えるならば、空間は無である、ということである」(p.95)


 この見解も、空間が客観的に存在するわけではなく、観念として考えられているだけにすぎないという点で、他のメンバーと同様の見解だと言えるだろうという結論になりました。

 第四に、カントの空間論を唯物論の立場からどう評価できるかについて議論しました。これに関して、一人のメンバーは「空間を、人間が現実世界を把握する上での根本的な枠組みである、と把握した点は、唯物論の立場からも肯定することができる」という見解を出していましたが、これに対して、そもそも枠組みとは何なのかという疑問を別のメンバーが出したことから、激しい議論が繰り広げられました。

 疑問を出したメンバーは、そもそも空間という観念も、我々が対象と関わる中で反映させた像を抽象化する中で生まれてくるものであるから、1つの論理だと言えるのではないか、その空間とはこういうものという論理に基づいて、空間が把握できるようになるのではないかと発言しました。それに対して、見解を出していたメンバーは、確かに学的に空間とは何かということを把握するにはそのような抽象化のプロセスがあるのだろうけれども、別に空間とは何かを把握していなくても我々は対象を空間的に把握しているのであり、我々は自分の体に見合った形で空間を把握していくのではないのかという意見を出しました。一方、疑問を出したメンバーは、空間とは何かを把握することと、対象を空間的に把握することとは別であるというのは確かにそうだが、例えば、我々が木を認識するとき、厳密に木とは何かという把握ではないにしても、木というのはこういうものというイメージを持っているからこそ、木を認識することができるのであって、そのアタマの中にあるイメージというのは問いかけであり、論理だと言える、それと同じように空間が把握できるのも空間という論理がアタマの中にあるからではないのか、要するに「枠組み」というのは論理のことではないのか、と反論しました。これに対して、見解を出したメンバーは、確かに人間の認識がすべて論理的認識だという前提に立つのであれば、それも納得できるが、果たしてそう捉えていいのか、そもそも人間以外の動物にしても対象を空間的に把握していることは間違いないのであるから、人間が対象を空間的に把握できるのは本能に基づく部分も存在しているのではないかと反論しました。

 結局、明解な結論に至ることはありませんでしたが、空間の把握に関しては動物との区別と連関を押さえながら検討していくことが必要であることを確認しました。そして、カントの空間論に関しては、空間という観念がどのようにして生まれてきたのかを問うことなく、認識にア・プリオリに備わっているとしており、他の動物との区別という視点も見られない点が欠陥だという点を確認しました。

 以上で、論点1をめぐる議論を終了しました。
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2017年05月17日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 これまで4回に渡って『純粋理性批判』先験的感性論の要約を見てきました。ここで、重要なポイントを再度振り返っておきましょう。

 まずカントは緒言において先験的感性論とは何かを説いていました。そもそも感性とは、対象から触発される仕方によって表象を受け取る能力のことでした。そうして得られたものが感覚であり、感覚を介して対象に関係するような直観を経験的直観というのでした。こうした感覚を受け入れるものとして、我々の心の内には現象の形式がアプリオリに具わっているのであり、このア・プリオリな感性の諸原理に関する学こそが先験的感性論なのだということでした。そして、先験的感性論は先験的原理論の第一部門をなすものとして、純粋思惟の諸原理を含む学、すなわち先験的論理学と名づけられる学と対立するものだということでした。経験的直観から感覚に属する一切のものを分離して現象の単なる形式だけ残すと、最後に残されるものが空間と時間であり、これについて論じるのが先験的感性論の課題になるのでした。

 空間に関して、カントは形而上学的解明において、空間が外的経験から抽象された経験的概念ではないこと、ア・プリオリな必然的表象であることなどを論じていました。さらに先験的解明においては、空間は、物自体の性質でもなければ、また物自体をこれらの物自体相互の関係において示すものでもないこと、空間は、外感によって表象される一切の現象の形式にほかならないことなどを論じていたのでした。そして、空間は、外的対象として我々に現われ得るところのものに関しては実在性(すなわち客観的妥当性)をもつが、しかしそれと同時に、物に関しては観念性をもつということ、つまり、空間の経験的実在性と空間の先験的観念性を主張していたのでした。

 時間に関して、カントは形而上学的解明において、時間が何らかの経験から抽象された経験的概念ではないこと、一切の直観の根底に存する必然的表象であることなどを論じていました。さらに、時間は内感の形式であること、時間は主観的実在性をもつことなどを主張していたのでした。

 この時間と空間とは、一切の感性的直観の2つの純粋形式であり、これによってア・プリオリな総合的認識が可能になるのであるが、しかしこの2つの認識源泉は、感性の形式であるがゆえの限界をもつのであって、この両形式が関係するのは、現象と見なされる限りの対象であって物自体ではない、ということでした。神と違って、人間は物自体は全く認識し得ないのであって、時間や空間もあくまでも現象に関わるものなのだということでした。

 このような内容に関わって、以下のような3つの論点が提示されました。次回から、それぞれの論点に関わっての議論を紹介します。

1.カントは空間をどのようなものであると考えているか?

 カントは、感性の2つの純粋形式の1つとして空間を挙げているが、カントにおいては空間はどのようなものとして把握されているのか。空間概念の形而上学的解明と先験的解明とはどのように違うのか。「純粋直観」「空間の経験的実在性」「空間の先験的観念性」ということに注意しながら議論したい。
 カントの空間論について、唯物論の立場から批判するとすれば、どのようなことをいわなければならないか。また、唯物論の立場からすれば、空間とはどのようなものといえるか。唯物論の立場からすれば、認識に空間の観念が備わるのはどのようにしてであるといえるか。

2.カントは時間をどのようなものであると考えているか

 カントは、感性の2つの純粋形式の1つとして空間を挙げているが、カントにおいては、時間はどのようなものとして把握されているのか。「時間は内感の形式」、時間の「経験的実在性」、「絶対的実在性」、「先験的観念性」という点に注意しながら議論したい。
 カントの時間論について、唯物論の立場から批判するとすれば、どのようなことをいわなければならないか。また、唯物論の立場からすれば、時間とはどのようなものといえるか。唯物論の立場からすれば、認識に時間の観念が備わるのはどのようにしてであるといえるか。

3、カントは物自体と現象との関係に空間・時間の問題をどのように絡めて説明しているか。

 カントは、物自体と現象とを区別して説明しているが、この説明に、先に解説された空間と時間とはどのように絡んでくると述べられているか。ここに関連して、カントは根源的存在者〔神〕の根源的直観(=知性的直観)なるものを示唆しているが、神の認識と人間の認識はどのように異なるとされるのか。
 唯物論の立場からする空間と時間との規定(空間とはある一定の物質の静止の具体化の一般性、時間とはある一定の物質の運動の具体化の一般性)から見れば、カントのこの説明はどのように評価することができるか。

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2017年05月16日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約C

 前回は『純粋理性批判』先験的感性論の時間に関する部分の要約を紹介しました。そこでは、時間が何らかの経験から抽象された経験的概念ではないこと、一切の直観の根底に存する必然的表象であることなどを論じていました。さらに、時間は内感の形式であること、時間は主観的実在性をもつことなどを主張していたのでした。

 今回は、以上を踏まえた先験的感性論のまとめに該当する部分の要約です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 7

説明

 変化は現実に存在しており(我々が一切の外的現象ならびにその変化をいくら否定しようとしても、我々自身の表象の変化がこれを証明している)、変化は時間においてのみ可能だから時間は現実的なものである、という非難に答えることは容易である。時間は確かに、何かある現実的なものである。要するに時間は内的直観の現実的形式なのである。したがってまた時間は内的直観に関して主観的実在性をもつ。時間は現実的だが、対象そのものとして現実的なのではなく、私自身を対象として表象する仕方として現実的なものと見なされなければならないのである。

 このような非難の声が一斉にあがる理由、しかも空間は観念性をもつという私の説に対して明白な反論を提示しえないような人達からのこうした非難がなされる理由は、外的現象の現実性は厳密に証明され得ないが、我々の内感の対象(我々自身および我々の内的状態)の現実性は、意識によって直接に明瞭だからである。ところが彼らは、外的対象と内的対象とが表象として現実性をもつことは否定できないにせよ、両者とも現象にほかならず、現象は常に対象自体が考察される(この場合、対象を直観する仕方が度外視されるので、対象自体の性質は依然として蓋然的)という面と、我々がこの対象を直観する形式(これは対象そのものではなく、対象があらわれるところの主観に求められなければならない)が考察されるという面とをもつ、ということに思い及ばないのである。

 それだから、時間と空間とは2つの認識源泉であり、これらの源泉からそれぞれ相異なるア・プリオリな総合的認識が汲み出され得るのである。とりわけ純粋数学は、空間および空間関係の認識に関して、立派な実例を示すものである。要するに、時間と空間とは、一切の感性的直観の2つの純粋形式であり、これによってア・プリオリな総合的認識が可能になるのである。しかしこの2つの認識源泉は、感性の形式であるがゆえの限界をもつ。すなわち、この両形式が関係するのは、現象と見なされる限りの対象であって物自体ではない、ということである。いったん現象の領域外に出れば、時間と空間とはもはや客観的に使用され得ないのである。空間および時間の絶対的実在性を主張する人たちは、空間および時間を自存するものと考えるにせよ、物自体に付属するものと考えるにせよ、経験そのものの原理と矛盾せざるを得ない。空間および時間は自存するものだという説を採用すれば、2つの永遠にして無限な、しかもそれだけで存立する不可解なものを想定しなければならなくなる。空間および時間が物自体に付属するという説を採用すれば、空間と時間は経験を除き去ってもなお後に残るが、しかし経験から引き離されたために曖昧にしか表象されない現象的関係と見なされるので、現実に存在する物に関するア・プリオリな数学的学説に対して、その妥当性を、あるいは少なくともその必然的確実性を否定しなければならなくなる。

 この先験的感性論が空間および時間以外には何も含みえないということは、感性に属する他の一切の概念は――時間と空間とを結合するところの運動の概念すら――何か経験的なものを前提している、ということからも明白である。運動は運動するものの知覚を前提しているからである。しかしそれ自体として見られた空間においては、運動するものは全く存在しない。すると運動するものは空間において経験によってのみ見出されるような何かあるもの、すなわち経験的な所与物でなければならない。それだからまた先験的感性論は、変化の概念をこの感性論におけるア・プリオリな所与物のなかに算することはできない。時間そのものは変化せず、変化するものは時間における何かあるものだからである。

 8

先験的感性論に対する一般性

T 我々の一切の直観は、現象を表象する仕方にほかならない。もし我々の主観を除き去るなら、空間および時間における対象の一切の性質や関係はもとより、空間および時間そのものすら消失するだろう。対象が我々のこの受容性から引き離された場合、それ自体としてどのようなものであるかは、我々にはついに知られない。我々が知っているのは、対象を知覚する仕方だけである。この仕方は我々に特有であり、それは人間にこそ例外なく存するに違いないにせよ、人間以外の存在者にも必ず存するとは限らない。

 ライプニッツ=ヴォルフ哲学は、感性と知性との区別を全く論理的な区別と見なしているが、この両者の区別は明らかに先験的な区別であって、認識の起源と内容に関するのである。だから我々は、感性によって物自体の性質を、単に不判明にせよ認識するというのではなくて、物自体なるものを全く認識しないのである。我々が、我々に具わっているこの主観的性質を除き去るや否や、表象された対象は、我々の感覚的直観がこれに付したところの性質もろとも、全く存在しなくなるし、また存在できなくなる。この主観的性質こそ、現象としての対象の形式を規定するものだからである。

U 我々の認識において直観に属する一切のものは、直観における場所、場所の変化、およびこうした変化を規定する法則などの単なる関係しか含んでいない。しかし我々は、場所において存在している物は何か、あるいは場所の変化に関係なく物そのものにおいて作用している物は何かを、直観によって知ることはできない。このような事情は内的直観についても全く同じである。

V 外的対象の直観ならびに内的対象としての心意識の自己直観は、それぞれ空間あるいは時間において対象を表象するが、その場合にこれらの直観は、対象が我々の感覚を触発するままに、換言すれば、こうした対象が我々に現われるままに表象する、というのが私の言い分である。だからといって私は、これらの対象を単なる仮象というつもりはない。現象においては、対象はもとより、我々が対象に帰する諸種の性質もまた現実に与えられているものと見なされる。しかしこうした性質は、主観の直観様式によってのみ規定されるのである。したがって、この与えられた対象は現象であって、客観自体としての対象からは区別される。

W 我々は自然的神学においてある対象〔神〕を考えるが、しかしこうした対象は我々にとって全く直観の対象にならないばかりか、この対象自身にとっても決して感性的直観の対象になりえない。そこで自然的神学では、時間および空間という条件をひどく気にして、対象の一切の直観からこれを除去しようとするのである。しかし、時間及び空間を、前もって物自体の形式として、一切の存在一般の条件とすると、それはまた神の存在の条件にもならなければならなくなる。だから時間および空間を一切のものの客観的形式にしたくなければ、我々はこれを外的ならびに内的に直観する仕方の主観的形式とするよりほかない。しかしこうした直観は根源的直観ではないから、感性的直観と呼ばなければならない。

先験的感性論の結語

 先験的哲学の一般的課題「ア・プリオリな総合的命題はどうして可能であるか」を解決するための要件の一つは、ア・プリオリな純粋直観であるところの空間および時間である。ア・プリオリな判断は、感官の対象以上に及ぶものではなく、可能的経験の対象だけにしか妥当しない。
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2017年05月15日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約B

 前回は『純粋理性批判』先験的感性論の空間概念の先験的解明の部分の要約を紹介しました。そこでカントは、空間は、物自体の性質でもなければ、また物自体をこれらの物自体相互の関係において示すものでもないこと、空間は、外感によって表象される一切の現象の形式にほかならないことなどを論じていたのでした。

 今回は、時間について論じている部分の要約です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

第2節 時間について

 4

時間概念の形而上学的解明

(1)時間は何らかの経験から抽象された経験的概念ではない。時間表象がア・プリオリに根底に存しないなら、同時的存在もまた継起的存在も、知覚されることすら不可能であろう。

(2)時間は一切の直観の根底に存する必然的表象である。現象を時間から除き去ることは難しくないが、現象一般に関して時間そのものを除き去ることは不可能である。だから時間はア・プリオリに与えられているものである。現象の現実性は時間においてのみ可能である。

(3)時間関係を規定する必然的原則や、時間一般に関する公理が可能であることは、こうしたア・プリオリな必然性に基づく。時間は一次元のみをもつ。したがって多くの異なる時間は、同時的ではなく継時的である。これら原則は経験から導かれたのではない。経験は厳密な普遍性をも、また必然的な確実性をも与えないからである。

(4)時間は論証的概念でなければ、一般的概念と呼ばれるものでもなく、感性的直観の純粋形式である。多くの異なる時間は唯一の時間のそれぞれの部分にほかならない。「多くの異なる時間は同時的には存在しない」という命題は、一般的概念からは導かれない。この命題は総合的命題であり、概念だけから生じうるものではない。それだからこの命題は時間直観すなわち時間表象のうちに含まれているのである。

(5)時間が無限であるというのは、ある一定の長さをもつ時間は、いずれもその根底に存する唯一の時間を制限することによってのみ可能である、という意味にほかならない。この根源的な時間表象は、もともと無限定なものとして与えられていなければならない。そして部分的時間そのものと、或る対象のもつそれぞれの時間的量とは、こうした制限によって規定されたものとしてのみ、表象されうるのである。そうすると全体的な時間表象は、概念(部分的な時間表象のみを含む)によって与えられたものではなくて、直接的な直観としてこれらの部分的表象の根底に存しなければならないことになる。

 5

時間概念の先験的解明

 本来、時間概念の先験的解明であるべきものを、簡潔を求めて前記の形而上学的解明に加えたので、4の(3)をそのままここに援用してよい。なお2つのことを付け加える。変化の概念および運動の概念は、時間表象によってのみ可能である。矛盾対当関係をなす2つの規定が同一物においてむすびつくこと、すなわち継起的に存在するということは、時間表象においてのみ可能である。時間概念は、一般力学が示すところの多くのア・プリオリな総合的認識の可能を説明しうるのである。

 6

これらの概念から生じた結論

(a) 時間は、それだけで存立する何かあるものではない。また、客観的規定として物に付属している何かあるものでもない。したがって、物の直観を成立させる主観的条件を全て除き去っても、なお後に残るような何かあるものでもない。第一の場合が成り立てば、時間は現実の対象がなくなっても現実に存在することになる。第二の場合が成り立てば、時間は物そのものに付属する規定あるいは秩序であって、対象よりも前に存在しえないし、また総合判断によってア・プリオリに認識され直観されることはできないだろう。これに反して時間が、我々のうちに一切の主観を生じさせる主観的条件にほかならないとすれば、このことは十分に成り立つのである。そうすれば時間というこの内的直観形式は、対象より前に、したがってア・プリオリに表象されるからである。

(b) 時間は内感の形式、換言すれば、我々自身と我々の内的状態との直観形式にほかならない。時間は、外的現象の規定ではありえないからである。

(c) 時間は、一切の現象一般のア・プリオリな形式的条件である。一切の外的直観の純粋形式であるところの空間は、ア・プリオリな条件として、外的現象のみに限定される。これに反して、一切の表象は――外的なものを対象とするにせよしないにせよ――それ自体、心意識の規定として内的状態に属する。ところがこの内的状態は、内的直観の形式的条件に従い、それだからまた時間に従っている。時間は一切の現象一般のア・プリオリな条件である。しかも、内的現象の直接の条件であり、またこれによって間接的に外的現象の条件でもある。もし私が「一切の外的現象は空間のうちにあり、また空間関係に従ってア・プリオリに規定されている」とア・プリオリにいえるなら、私はまた内感の原理に基づいて、「感覚の一切の対象は時間のうちにあり、また必然的に時間関係に従っている」といってもよい。
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2017年05月14日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約A

 前回は『純粋理性批判』先験的感性論の緒言と空間概念の形而上学的解明の部分の要約を紹介しました。我々の心のうちには感覚を受け入れるものとして、現象の形式がアプリオリに具わっているのであり、このア・プリオリな感性の諸原理に関する学こそが先験的感性論なのだということでした。経験的直観から感覚に属する一切のものを分離して現象の単なる形式だけ残すと、最後に残されるものが空間と時間であり、これについて論じるのが先験的感性論の課題になるのでした。そして、空間概念の形而上学的解明においては、空間が外的経験から抽象された経験的概念ではないこと、ア・プリオリな必然的表象であることなどを論じていました。

 今回は空間概念の先験的解明の部分の要約です。

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 3

空間概念の先験的解明

 あるア・プリオリな原理にもとづいて、別のア・プリオリな総合的認識〔例えば幾何学的認識〕の可能が理解され得る場合、こうした原理としての概念の説明を先験的解明という。そのための2つの要件は、(1)実際にこうした認識がこの与えられた概念から生じる、(2)こうした認識はこの概念を説明する仕方が既に存在していることを前提としてのみ可能である、ということである。

 幾何学は、空間の諸性質を総合的に、しかもア・プリオリに規定する学である。空間についてこうした認識が可能であるためには、空間表象は、そもそも直観でなければならない。単なる概念からは、その概念の外に出るような命題を引き出すことができないのに、幾何学ではこのことができるからである。しかしこの直観はア・プリオリに我々の心に具わっていなければならない。したがって、この直観は経験的直観ではなくて純粋直観でなければならない。「空間は三次元をもつ」というような必然性の意識と結び付いている命題は、経験的な判断ではあり得ない。

 外的直観は、対象そのものよりも前にあり、また対象の概念はこの直観においてア・プリオリに規定され得るというが、こうした外的直観は我々の心意識にどうして内在しうるのか。それは明らかに、この外的直観が、客観〔対象〕によって触発されてこれら客観の直接的表象すなわち直観をもつことになるという主観的性質として、したがってまた概観一般の形式としてのみ、認識主観のうちに存在するからにほかならない。

 それだから、ア・プリオリな総合的認識としての幾何学が可能であることは、我々の説明によってしか理解されない。

上記の諸概念から生じる結論

(a) 空間は、物自体の性質でもなければ、また物自体をこれらの物自体相互の関係において示すものでもない。換言すれば、空間は物自体の規定ではない。物自体の規定ならば、こうした規定は対象そのものに付着しているから、直観の主観的条件を全て除き去っても、依然として残っているはずである。およそ物の規定は、絶対的規定にせよあるいは相対的規定にせよ、こうした規定が属するところのものが存在するよりも前には、したがってア・プリオリには、直観され得ないからである。

(b) 空間は、外感によって表象される一切の現象の形式にほかならない。換言すれば、空間は感性の主観的条件であり、この条件のもとにおいてのみ、外的直観が我々に可能なのである。主観は、対象によって触発されるという受容性をもつが、この受容性はこうした対象に関する一切の直観よりも前に存在しなければならない。あらゆる現象の形式であるところの空間は、どうして一切の現実的知覚よりも前に、すなわちア・プリオリに心意識のうちに与えられうるのか、またこの形式はどうして純粋直観として、換言すれば一切の対象がそこにおいて規定されねばならないような直観として、一切の経験よりも前にこれらの対象の関係が原理を含み得るのかということは、これによって理解される。

 それだから、空間や延長を有するものその他を云々し得るのは、人間の立場からだけである。我々が外的直観をもち得るための唯一の条件、すなわち対象から触発されるという条件を捨ててしまえば、空間表というものは全く無意味である。空間という述語は、物が我々に現われる限りにおいて、物に適用される。こうした受容性の一定不変の形式は感性と呼ばれるが、この形式こそ我々が対象を我々の外にあるものとして直観するための、一切の関係の必然的条件である。これらの対象を除き去っても、なお後に残るのが空間という純粋直観なのである。我々は感性の特殊な条件を、物を可能ならしめる条件とすることはできず、物の現象を可能ならしめる条件とすることができるだけである。それだから「空間は我々に外的に現われる一切のものを含む」とはいえても「一切の物自体を含む」とはいえない。要するにこの解明の教えるところは、空間という直観形式が実在性をもつと同時に、観念性をももつということである。つまり空間は、外的対象として我々に現われ得るところのものに関しては実在性(すなわち客観的妥当性)をもつが、しかしそれと同時に、もし物が理性によって物自体として――換言すれば、我々の感性の性質を顧慮せずに考えられるならば、物に関しては観念性をもつわけである。だから我々は、空間の経験的実在性を主張すると同時に空間の先験的観念性をも主張する。空間の先験的観念性とは、我々が一切の経験を可能ならしめる主観的条件を捨てて、空間を物自体の根拠に存するところの何かあるものと考えるならば、空間は無である、ということである。

 しかし、こうした空間のほかには、外的なものに関係するいかなる主観的表象でも、ア・プリオリに客観的であるといえるようなものは存在しない。これ以外の主観的表象からは、空間という直観から導かれるような、ア・プリオリな総合的命題を引き出すことができないからである。色、音、温かさなどは単なる感覚であって直観ではないから、それ自体、対象をア・プリオリに認識させるものではない。

 空間表象によって直観されるところのものは決して物自体ではない。また空間は物の形式――換言すれば、物にいわばそれ自体固有であるような形式ではない。つまり対象自体は、我々には全く知られていないのであって、我々が外的対象と呼ぶところのものは、我々の感性の単なる表象にほかならない。そしてこの感性の形式がすなわち空間だというのである。しかし、空間という形式の真の相関者であるところの物自体は、この形式によっては全く認識されないし、また認識できるものでもない。物自体は経験においては全く問題にならないのである
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2017年05月13日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約@

 前回は、例会の冒頭で提示されたレジュメを紹介し、そのレジュメにかかわった出されたコメントを紹介しました。

 さて今回から4回にわたって、カント『純粋理性批判』(先験的感性論)の要約を掲載していきます。今回は緒言と空間の形而上学的解明についてです。

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T 先験的原理論

第1部門 先験的感性論

緒言

 1

 認識が直接に対象と関係するための方法、一切の思惟が手段として求めるところの方法が直観である。直観は、対象が我々に与えられる限りで生じる。対象が我々人間に与えられるのは、対象がある仕方で心意識を触発することによってのみ可能である。我々が対象から触発される仕方によって表象を受け取る能力を感性という。対象は悟性によって考えられ、悟性から概念が生じる。思惟は直接にせよ間接にせよ結局は直観に関係し、感性に関係する。

 我々が対象から触発される限り、対象が表象能力に与える作用によって生じた結果は感覚である。感覚を介して対象に関係するような直観を経験的直観という。また、経験的直観のまだ規定されていない対象を、現象というのである。

 現象において感覚と対応するところのものが現象の質料であり、現象の多様な内容をある関係において整理するところのものが現象の形式と呼ばれる。一切の現象の質料はア・ポステリオリに与えられるが、現象の形式は、感覚を受け入れるものとして、我々の心の内にア・プリオリに具わっていなければならない。したがって、この形式は一切の感覚から分離して考察されなければならない。

 感覚に属するものを一切含んでいない表象は、純粋(先験的意味において)な表象と呼ばれる。すると感性的直観一般の純粋形式は、我々の心の内にア・プリオリに見出され、現象における一切の多様なものは、この形式によって、ある関係において直観されるのである。感性のこうした純粋形式はそれ自身、純粋直観と呼ばれてよい。私がある物体の表象から、悟性の思惟する実体、力、可分性のようなものを分離し、感覚に属する不可入性、硬さ、色等を分離しても、こうした経験的直観のなかでまだ我々に残されているものがある。それは延長および形態であり、こうした空間的なものが純粋直観に属するのである。空間という純粋直観は、感官や感覚などの対象が実際に存在していなくても、我々の心意識における単なる感性的形式として、ア・プリオリに成立するのである。

 ア・プリオリな感性の諸原理に関する学を、私は先験的感性論と名づける。この学は、先験的原理論の第一部門をなすものとして、純粋思惟の諸原理を含む学、すなわち先験的論理学と名づけられる学と対立するものである。

 私は先験的感性論で、悟性が概念によって思惟する一切のものを分離して経験的直観だけを残し、まず感性だけを孤立させる。次いでこの経験的直観から感覚に属する一切のものを分離して純粋直観、すなわち現象の単なる形式だけを残すようにする。こうして最後に残されたものこそ、感性がア・プリオリに与えうる唯一のものである。このように究明していくと、感性の2つの純粋形式であるところの空間と時間とがア・プリオリな認識の原理であることが分かる。

第1節 空間について

 2

空間概念の形而上学的解明

 我々は外的感官によって、対象を我々の外にあるものとして表象する。つまりこれら対象を空間において表象する。対象の形態、大きさおよび相互の関係は、空間において規定される。また、心は内的感官によって自分自身を、あるいは自分の内的状態を直観する。内的感官は、客観としての心そのものの直観を与えるものではないが、時間という一定の形式があり、心の内的状態の直観はこの形式によってのみ可能となるのである。空間と時間とは、現実に存在するものであるのか。それとも物の単なる規定にすぎないのか。あるいは物と物との関係なのか。物自体に――物自体は直観されないにしても――属するのか。直観の形式のみに付着しているようなものなのか。

 我々の心の主観的性質に付着しているようなものなのか。これらを明らかにするために、まず空間の概念を究明したい。こうした究明が、この概念をア・プリオリに与えられたものとして明示するところのものを含む場合、それは形而上学的解明と呼ばれる。

(1)空間は多くの外的経験から抽象されてできた経験的概念ではない。私の外にある何かある物を、私とは異なった場所にある物として表象できるためには、空間の表象がそもそもその根底に存しなければならない。外的現象そのものが空間表象によって初めて可能になるのである。

(2)空間はア・プリオリな必然的表象であって、この表象は一切の外的直観の根底に存する。空間のなかに対象が全く存在しないと考えることはできても、空間そのものが全く存在しないと考えることは絶対に不可能である。

(3)空間は物一般の関係に関する論証的概念ではなくて純粋直観である。第一に我々はただ1つの空間だけしか表象できない。多くの部分的空間は唯一の空間においてしか考えられない。

(4)空間は与えられた無限量として表象される。どんな概念も、無限数の種々の可能的表象のなかに含まれている表象として、したがって自分のもとにそれらの表象群を包括する表象と考えられる。しかし、概念そのものとしては、それが表象の無限数の表象を自分のうちに包括するものとして考えることはできない。しかし、空間はそういうふうに考えられるのである。だから空間表象は概念ではなくてア・プリオリな直観である。
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2017年05月12日

2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(1/10)

<目次>
(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約@
(3)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約A
(4)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約B
(5)カント『純粋理性批判』先験的感性論 要約C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1 カントは空間をどのようなものであると考えているか?
(8)論点2 カントは時間をどのようなものであると考えているか
(9)論点3 カントは物自体と現象との関係に空間・時間の問題をどのように絡めて説明しているか
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 4月例会では、『純粋理性批判』の先験的感性論を扱いました。これは次のような構成になっています。

第一部門 先験的感性論
緒言(1)
第1節 空間について
 空間概念の形而上学的解明(2)
 空間概念の先験的解明(3)
 上記の諸概念から生じる結論
第2節 時間について
 時間概念の形而上学的解明(4)
 時間概念の先験的解明(5)
 これらの概念から生じる結論86)
 説明(7)
 先験的感性論に対する一般的注(8)
 先験的感性論の結語


 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

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カント『純粋理性批判』先験的感性論

【1】カントの空間論
 カントは、感覚に属するものを一切含まない感性的直観の純粋形式を純粋直観と呼び、このア・プリオリな感性の諸原理に関する学を先験的感性論と名付けている。そして、この先験的感性論は、感性の2つの純粋形式である空間と時間とを考察するものだというのである。
 カントはまず、空間について考察していく。空間は外的経験から抽象された概念ではなく、ア・プリオリな必然的表象であって、一切の外的直観の根底に存在する主観的条件だとカントは説明する。つまり、空間は物自体の性質でもなければ、物自体の規定でもなく、外的直観を可能にする感性の主観的形式だというのである。カントによれば、物自体は空間という形式によっては全く認識できず、この主観的形式によって浮上させられた現象を認識できるに過ぎないというのである。

<報告者コメント>
 唯物論の立場からすれば、「空間とはある一定の物質の静止の具体化の一般性」であって、「空間は外的経験から抽象された概念ではな」いとするカントの主張は受け入れられないものである。そもそも、人間の認識は、外界の対象を五感器官を通して脳細胞に反映したものが原基形態であるというのが唯物論の立場からの認識論である。この直接の反映を、対象たる事物の共通性で括っていく、つまり論理化することによって、徐々に徐々に対象の具体性を捨象し、一般性を抽象していくのである。その結果、高度に抽象化された概念として、空間という認識が創出されるのである。
 とはいえ、唯物論の立場からの空間の規定は、物質は一般性として空間という性質を持っている、などとは主張していないわけであるから、では空間が「ある一定の物質の静止の具体化の一般性」であるとはどういうことか、生き生きとした像を描けるように、繰り返し繰り返し議論し続けていく必要があろう。

【2】カントの時間論
 続いてカントは、時間についても言及していく。時間は何らかの経験から抽象された概念ではなく、一切の直観の根底にア・プリオリに与えられた必然的表象だとカントは主張する。つまり、時間はそれだけで存立するものでもなく、客観的規定として物に付随するものでもなく、一切の現象一般のア・プリオリな形式的条件だというのである。さらにカントは、空間が外的現象にのみ限定されるものであるのに対して、時間は我々の心の内的現象の条件だと述べている。そして、時間は現象に関してのみ客観的妥当性を持つのであるが、物一般に関しては、時間は客観的ではなくなると説明している。

<報告者コメント>
 唯物論の立場からすれば、「時間とはある一定の物質の運動の具体化の一般性」であるから、「時間は何らかの経験から抽象された概念ではな」いというカントの説明は、空間の説明同様、受け入れがたいものである。とはいえ、空間にしても時間にしても、人間が対象を把握する際の基本的な枠組みであると捉えたカントの考え方は、基本的には正しいものとして受け取れるという側面もあるだろう。カントも主張するように、空間も時間も経験的実在性を持つからである。
 それにしても、これも空間の唯物論的な規定とともに、時間の唯物論的な規定についてもよくよく考え続けていく必要がある。時間が「ある一定の物質の運動の具体化の一般性」であるとはどういうことか、単に物質の一般性ではなくて、また物質の運動の一般性でもなくて、物質の運動の具体化の一般性であると述べられているが、これはどういうことなのか、引き続き議論していきたい。

【3】カントの先験的感性論
 カントは、我々がア・プリオリに認識しうるのは空間および時間だけであって、我々の感性そのものに絶対に、また必然的に付属するものだと述べている。そして、空間および時間という主観的形式を通して我々に与えられているのは、物自体ではなくて現象だけであることを強調している。カントによれば、人間の認識は物自体を認識することはできず、この物自体とは区別される現象を捉えることができるに過ぎないというのである。
 最後にカントは、我々がア・プリオリな判断において、与えられた概念の外に出ようとする場合に、この概念には含まれていないがこれに対応するところの直観においてア・プリオリに発見され、その概念に総合的に結びつけられ得るところのものを、空間と時間において見出すのだと述べ、「ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能であるか」という先験的哲学の一般的課題を解決するための要件の1つを示している。

<報告者コメント>
 カントの物自体論、すなわち人間の認識が捉えることができるのは、物自体ではなくて現象にすぎないという論は、人間はある外的対象を見ているつもりでも、実際には脳細胞に反映した認識を「見ている」のだという唯物論的な説明のカント的表現である、という側面を捉えれば、非常に重要な指摘であるといえるだろう。
 しかしカントはここで、大きく行き過ぎてしまうのである。つまり、物自体は捉えようがなく、どんな性質も持っていないとして、我々がその対象にあると思っている性質は、実は人間の認識の側から与えたものだというのである。すなわち、物自体の世界と現象の世界とを全く別のものだとして大きく分離させてしまったのである。これは「二律背反の先にある難問の解決に悩んだあげく、二律が背反するのは、対象の性質のゆえではなく対象に性質がないが故として論理の問題として自分の観念たる認識、すなわち頭脳活動の実力に解決を求めてしまった」(南郷継正『全集第12巻』p.113)結果であるが、唯物論の立場からは、「われわれはいかにもすべての客体を認識するであろうが、しかしどの客体をも認識しつくし、知りつくし、或いは把握しつくすことはできない」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.109に引用されているディーツゲンの言)と考えなければならない。端的には、外的対象と認識とはつながっているのであって、二律が背反するのは、対象の性質が認識されるからにほかならない、ということになるだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このレジュメに対しては、(1)の報告者コメントにある「唯物論の立場からの空間の規定は、物質は一般性として空間という性質を持っている、などとは主張していないわけである」というのが、どういうことかがよくわからないという疑問が出されました。これについては、唯物論の立場からは空間という観念が対象の反映を土台として成立するといっても、空間というものが客観的に存在してそれを頭の中に反映させるという単純なものではないということを言いたかったということでした。

 また、(3)では、要約の部分に「カントは、我々がア・プリオリに認識しうるのは空間および時間だけであって」とあるが、これは間違いではないか、例えば幾何学的認識などもア・プリオリな認識なのではないのかという指摘がなされました。これについて、別のメンバーからは、そもそも空間と時間は対象を知覚する形式で、感覚は質料であるという文脈の中での話だということを押さえておく必要があるのではないか、という意見も出されました。
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2017年04月12日

2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回まで3回にわたって、本例会で議論した内容を紹介してきました。

 本例会報告の最後に、参加した会員の感想を掲載したいと思います。感想は以下です。

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 今回の例会では、カント『純粋理性批判』の「緒言」を扱った。ここでは、ア・プリオリな認識と経験的認識、分析的判断と綜合的判断が対比的に取り上げられており、本書のテーマとして、「ア・プリオリな綜合判断はどうして可能であるか」という問いが提起されている。

 全体として、これまでよりも時間をかけて読み込んだためもあると思うが、とても分かりやすい展開であったと思う。カントがア・プリオリな認識とは、一切の経験に絶対に関わりなく成立する認識であると考えていたこと、経験判断であれば必ず綜合的判断になるが、綜合的判断でかつア・プリオリな判断が問題になると考えていたこと、ヒュームは「ア・プリオリな綜合判断はどうして可能であるか」という問いに最も近づいた哲学者であるが、彼は因果律の問題だけを取り上げていたこと、またア・プリオリな綜合判断は不可能だとしてしまったことの2点が欠点であると述べていることなどがよく分かった。

 次回は「先験的感性論」で時間・空間の問題を扱うことになるが、今回以上に周到に準備をして、不明な点をできるだけ少なくしておくとともに、不明な点は何が不明であるのかをはっきりさせておくことで、例会での取り組みを実のあるもの賭すべく取り組んでいきたい。報告レジュメの担当でもあるので、この執筆もしっかりとしたものを目指したい。

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 今回の例会の範囲は「緒言」であり、ここでは「分析的」「総合的」「ア・プリオリ」など非常に重要で基礎的な概念が取り扱われているが、比較的易しく読み進めていくことができた。以前から「ア・プリオリな総合判断はいかにして可能か」ということがこの『純粋理性批判』を貫くテーマだということは聞いていたが、この問いがどういう意味なのかが全くわからなかった。しかし、今回の議論をとおして理解を深めることができたと感じている。とりわけ、それぞれの概念の関係を図として表すとどうなるかを検討できた点がよかったと思う。

 今回の例会ではレジュメ担当ということで、「分析的」と「総合的」、「ア・プリオリ」と「ア・ポステリオリ」という語の歴史的な経緯についても『カント事典』を使って調べたが、こうした言葉も徐々に徐々にその意味が明確化されてきて、カントにおいて一応はっきりとした区別をつけられるようになったのだということを感じた。学問を構築する上で、概念規定ということが極めて重要なのだということを感じた。

 次回は時間と空間について扱っている部分が対象となるが、しっかり読み込んで例会に臨みたいと思う。

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 今回扱った緒言では、『純粋理性批判』の課題が「ア・プリオリな綜合的判断はどうして可能であるか」という問いに答えることであると、明確に規定されている。しかもこの問いは、これまでの形而上学の歴史全体をアウフヘーベンしたものであり、この問いにしっかりと答えることによって、形而上学が確実な学として構築される土台がつくられるのだとカントは考えていたということも非常に印象的だった。カントを理解するためにも、これまでの哲学の歴史をしっかり復習しながら、『純粋理性批判』を読み進めていかなければならないとも思った。

 また、他の会員が指摘していたことであるが、特に今回の範囲に関しては、カントの主張自体を理解することは、それほど困難とは感じなかった。しかし、重要なのはカントの主張を理解することだけではなく、カントが扱った問題をヘーゲルならばどのように解くか、そして、われわれ唯物論者はどのように解くべきか、ということをしっかりと考え続け、答えを出していくことであろう。単にカントがどのように考えたかということを云々するだけでは、大学にいるカント研究者と変わらないということになってしまう。カントが取り組んだ問題に、自らもしっかり取り組んでいくのだという決意をもって、主体的に読み込んでいく必要があるのだということを、しっかりと再確認できたと思う。

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 3月例会論点への見解については、緒言の要約を仕上げてから、と思っていたのだが、時間的な余裕がなく、要約作業が中途半端なまま、見解の作成にかかってしまった。そのこともあって、見解作成の過程では、あまり深く突っ込んだ考察はできなかったな、というのが率直なところである。

 緒言の文章そのものは、『純粋理性批判』の問題意識や全体像が漠然とでも押さえられているならば、それほど難解なものではないと感じた。例会での議論を通じて、カントが使っている基本的な概念などについて、研究会としての共通認識を作ることができたのはよかったと思う。

 しかしながら、ヘーゲルならばこうしたカントの捉え方をどのように批判するのだろうか、とか、唯物論者たる我々はカントの捉え方をどのように批判する(間違いを正して正当な論として仕上げる)べきなのか、というところまでは、十分に討論を深め切れなかったきらいがある。

 そもそもそういう角度できちんと論点提起できなかったのも反省すべきであるが、今後の例会のなかでは、きちんとそういう角度からも議論を深めていけるようにしたい。


(了)

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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う