2017年11月12日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の反省概念の二義性についての部分を扱った我が研究会の2017年10月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。

 10月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回11月例会からは、いよいよ先験的論理学の第二部、先験的弁証論へと入っていくことになります。

 それでは、以下、参加者の感想です。

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 今回の例会では、主としてカントのいう先験的反省について扱った。反省というのは、唯物論的にいうと、自分の認識=像を見つめることといえるのではないかと提起したが、会員の中から反対意見は出なかった。およそ、そのような理解でよいのだろう。しかし、後から気づいたが、「反省」というのは、ロックが2種類の経験のうちの1つとして、感覚とともにあげていたものであった。ロックによると、感覚と反省とが、悟性というそれ自身は暗い部屋に観念という光が入る唯一の窓であるということであった。このように、「反省」というのは哲学史的にも重要なタームであって、「反省」という概念の生成発展のプロセスをも考慮に入れて、カントのいう「反省」を考えていくべきであろう。

 さて、今回の例会では、議論を通して、いくつか認識の発展・深化があった。まず、反省と4組の反省概念の関係である。たとえば、2滴の水という表象を反省するとき、これを感性に属すると捉えれば相違となり、純粋悟性に属すると考えれば同一となる。同じ表象であっても、どちらの認識能力・認識源泉に属すると考えるかによって、同一か相違か、変わってくるのである。このようなペアが、4組あるということである。この4組は、ある表象を反省する際の4つの観点ということもできるだろう。

 ライプニッツは、その表象がいずれの認識能力に属するかを考慮せずに、換言すれば、全て純粋悟性に属すると無意識的に考えてしまったために、2滴の水を同じものだと捉えるしかなかった。4組の反省概念に沿っていうならば、同一、一致、内的なもの、質料(先行)がライプニッツの立場である。このようなライプニッツ的な反省の仕方を、論理的反省というのであろう。

 今回は、反省概念のうち、内的なものと外的なものに関する部分を取り上げて音読し、逐語的に検討していった結果、カントのいわんとしていることが徐々に明確になっていった。これは研究会にとって非常に重要な経験だったと思う。分からないところを分からないままにしておくのではなく、その部分を集中的・集団的に検討することによって、分かるようになってくるのである。今後も、必要に応じて大切な部分については、このような取り組みが必要だろう。

 もう一つ、無の区分を検討する中で、先の4つの反省概念も、実はカテゴリー表に沿ったものなのではないかということが見えてきた。これも大きな収穫であったと思う。ただ、本来であれば、カテゴリー表はしっかりと頭に入っている状態で、この部分を読み進めていくべきなのだ。カテゴリー表が頭に入っていれば、例会当日の議論になって初めて、4組の反省概念がカテゴリー表と関連しているのではないか、などということが分かってくるということにはならない。これでは遅すぎるのであり、自分で一読している段階で気づいたはずである。カントのいわんとしていることは一つなのであり、前の部分をふまえておかないと後の部分が分からないということになるので、先験的分析論を読み終えて、次から先験的弁証論に入っていくというこの段階で、きちんと再読して、これまでの内容を頭に入れるようにしたいと思った。

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 今回は、論点の提示はできたものの、その論点に対する見解を執筆することができなかったことがまずは大きな反省点である。カント『純粋理性批判』への学びをしっかりと自分の学問への道に位置づけて、真剣に取り組んでいかなければならない。

 とはいえ、例会当日の議論では、カントのいわんとしていることの理解がかなり深まったと思う。特に、カントがライプニッツの単子論をどのように捉えているかという部分については、カントの文章を逐次読んでいって、研究会全体で理解を深めていけたことは大きな収穫だったと思う。どうしてライプニッツは単子論に行きついたのか、カントは説明しているのであるが、ここで先験的場所論を絡め、さらに実体がもつ表象力というものを想定したからこそ、ライプニッツの単子という概念が成立したことを、批判的に説いていることがよく分かったのである。

 これはひとえに、チュータによる議論のまわし方なり、根本的な理解なりが優れていたからこその討論過程であったと思う。分からない部分をどのように考えていけばよいのかということについても、たとえ自分だけで読み進めている場合でも参考になるようなアタマの働かせ方が学べたと思う。自分がチュータをやるときにも、こうしたことが実践できる実力をつけていきたいと思った次第である。

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 今回の例会で何よりも反省すべきは、子どもを寝かしつけた際に自分も寝てしまって、無断で欠席することになったことだ。その週は仕事の関係で、連日8時9時の退勤になっていて疲れていたというのはあるが、生活リズムをしっかりと整えて、疲れをためないように工夫すべきだった。

 幸い翌日も議論の続きを行い、論点3についての議論は参加することができた。無のそれぞれの内容についても理解を深めることができたと感じている。また、なぜここで無が取り上げられているのかということが論点として挙げられていたが、これについては、次から始まる弁証論へつなげる意味があるのではないかということで一応の結論を得ることができたのはよかったと思う。

 また、今回、カントの文章を1つ1つ細かく、丁寧に読み解いていく作業を行ったようだが、やはり重要な部分、理解ができない部分は、こうやってしっかりと向き合って、具体的なイメージを描いていく作業が必要なのだと思った。

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 今回の例会ではチューターにあたっていたので、該当範囲をそれなりに丁寧に読み込み、例会当日までに要約作業を終えてから、当日の議論に臨んだ。とはいえ、十分に理解しきったという自信をもって臨んだわけではなく、かなり漠然とした理解で臨んだのであった。

 各メンバーから事前に提示された見解は、自分自身のものも含めて、カントの表現(篠田英雄氏の訳文の表現)をそのまま利用してそれなりにまとめた、という部分が多かったので、核心的に重要だと思われる個所については、カント自身の文章(篠田英雄氏の訳文)を直接に読んでみることも含めて、きちんと共通の理解をつくっていく、という方針でもって進めてみた。結果としては、このような方針で進めてみたことが、非常によかったのではないかと思われる。カントがライプニッツの哲学をどのようなものとして捉えていたのか、その成立の必然的な過程をどう考えていたのか、非常に鮮明になった。今回の範囲には、ロックに対する批判的な言及もあったが、カントの『純粋理性批判』を哲学史の大きな流れのなかで位置付けて理解していく上で、重要な個所なのではないかと思った。

 また、論点3についての議論においてカテゴリー表を参照していくなかで、論点1および論点2において登場してきた4組の反省概念というものも、実はカテゴリー表に沿ったものだったのではないか、ということが指摘されることになったのも、非常に印象的な出来事であった。カントは自分の提示したカテゴリー表に大きな自信をもっていたのであり、これは先験的分析論の全体をつらぬく重要な柱であるはずなのだから、反省概念の4つの組がこのカテゴリー表と無関係であるわけがないだろう、ということになったのである。先験的分析論の全体を、このカテゴリー表を軸として読み込んで理解していくという作業が充分に出来ていないからこそ、議論が錯綜して充分に深まらないということになってしまうのではないか、という反省が語られたのも、『純粋理性批判』の学びをこれからどう進めていけばよいか考える上で、示唆に富むものだと思う。これまでの部分の再読ということをしっかりとやっていかなければ、と思わされた。
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2017年11月11日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(9/10)

(9)論点3:カントによる無の概念の区分はどのようなものか

 前回は、第二の論点、すなわち、カントはライプニッツをどのように批判しているか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。端的には、ライプニッツは、先験的反省をなさず論理的反省のみを行ったために、あらゆる表象が感性の制約にも服すことを見逃し、純粋悟性にのみ属すと考えてしまった(本来なら感性という場所に属するはずの概念も、純粋悟性という場に属するものとして考えてしまった)のだ、ということでした。

 さて、今回は第三の論点、すなわち、カントによる無の概念の区分はどのようなものか、という問題を巡ってなされた議論の内容をまとめて紹介することにしましょう。ここで改めて論点を紹介しておくことにします。

【論点再掲】
 カントは先験的分析論を完結するにあたり、無を4つに区分しているが、これらはそれぞれどのようなことを意味しているのか。また、そもそもなぜこのような話題を最後の部分にもってきたのか。


 4つに区分された無については、各自がカントの文言を踏まえつつ見解をまとめていましたので、具体的な例も念頭に置きつつ、それぞれがどういうことなのかよく確認しておこうということになり、以下のように確認しました。

 カントは、対象一般が何かあるものなのかそれとも無なのかという区別はカテゴリーの順序と指示とにしたがって行われる、として、以下の4つに区分しています。ちなみに、カテゴリーというのは、@分量(単一性、数多性、総体性)、A性質(実在性、否定性、制限性)、B関係(実体と付随性、原因と結果、相互性)、C様態(可能――不可能、現実的存在――非存在、必然性――偶然性)の4つです(pp.152-153)。

 @分量のカテゴリーに対立する無は、一切を滅却する概念、すなわち皆無である。直観が全く対応しないような概念の対象は無、すなわち対象をもたぬ概念、可想的存在のようなものがこれに当たる。「対象をもたない空虚な概念としての無」である。概念はあってもそれに対応する対象(現実的な存在)があり得ないようなもの。

 A性質のカテゴリーに対立する無は、何かあるものとしての実在を否定する無である。対象が欠けているという概念であり、例えば光が欠けている無としての影、暖かさが欠けている無としての寒さである。「概念に対する空虚な対象としての無」である。光という概念に対する光という対象(現実的な存在)が欠けているようなもの。

 B関係のカテゴリーに対立する無は、実体をもたない直観の単なる形式のことである。純粋空間や純粋時間などは直観の形式としては確かに何かあるものではあるが、それ自身としては直観されるような対象ではない。「対象をもたない空虚な直観としての無」である。

 C様態のカテゴリーに対立する無は、自己矛盾するような概念の対象としての無である。二直線で囲まれた図形のように自己のうちに矛盾を含んでいるものは概念として存在することは不可能であり、無なのである。「概念をもたない空虚な対象としての無」とされている。

 カントはなぜこのような話題を最後の部分にもってきたのか、という問題については、次のように議論しました。

 カントは、このような無の区分を説いたのは先験的分析論の体系を完全にするためだと説いていました。先験的哲学の出発点とされる最高概念は、普通には可能なものと不可能なものとの区分であるとされるわけですが、区分は区分が施されたもともとの概念を前提とするものです。したがって、区分を遡るごとに、いっそう高い概念が示されることになるはずです。そのような観点からして、最も一般的な概念は、対象一般(何かあるものか「無」かは未決定)という概念であり、この一般的概念に関係するのはカテゴリーだけであるから、カテゴリーの順序と指示にしたがって、何かあるものなのか無なのかという区別が施されるのだ、というわけです。

 このような議論を進めていくために、カテゴリー表を参照していくなかで、論点1および論点2において登場してきた4組の反省概念というものも、実はカテゴリー表に沿ったものだったのではないか、ということが指摘されることになりました。カントは自分の提示したカテゴリー表に大きな自信をもっていたのであり、これは先験的分析論の全体をつらぬく重要な柱であるはずなのだから、反省概念の4つの組がこのカテゴリー表と無関係であるわけがないだろう、ということになりました。先験的分析論の全体を、このカテゴリー表を軸として読み込んで理解していくという作業が充分に出来ていないからこそ、議論が錯綜して充分に深まらないということになってしまうのではないか、という反省も語られました。

 先験的分析論を読み終えていよいよ先験的弁証論に入っていくというこの段階において、きちんとこれまでの部分を再読してその内容を頭に入れておく必要がある、ということを確認して、論点3についての議論を終えました。

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2017年11月10日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(8/10)

(8)論点2:カントはライプニッツをどのように批判しているか

 前回は、第一の論点、すなわち、先験的反省とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。カントのいわゆる反省とは、対象そのものを考察するのではなく、対象についての概念を得るための主観的な条件を発見しようとする心の状態のことであり、先験的反省というのは、与えられた概念が感性と悟性という認識能力のうち、どちらに属するかという判別をなすものだ、ということでした。

 さて、今回は、第二の論点、すなわち、カントはライプニッツをどのように批判しているか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントのいわゆる「先験的場所論」とはどういうものか。カントは、ライプニッツが先験的場所論を欠いたために、反省概念の二義性に欺かれた(p.347)、「ライプニッツが現象を知性化した」(p.348)と批判しているが、これはどういうことか。「反省概念の二義性を生ぜしめ、……誤れる原則の設定を誘起せしめた原因」(p.356)とはどういうものか。


 カントのいわゆる先験的場所論については、事前に提出された各メンバー見解の間に大きな相違はありませんでした。あらゆる概念にそれぞれ使用の相違に応じて与えられる場所を判定すること、またかかる場所をあらゆる概念に規則に従って指示することであり、もっと具体的にいうならば、ある概念について、論点1で挙げられた4つの関係(同一と相違、一致と反対、内的なものと外的なもの、質量と形式)によって、純粋悟性に属するものか感性に属するものか、その場所を判定することだ、ということでした。

 「ライプニッツが先験的場所論を欠いたために反省概念の二義性に欺かれた」「ライプニッツが現象を知性化した」という問題については、ライプニッツは先験的反省をなさずに、論理的反省のみを行ったために、あらゆる表象を一様に取り扱ってしまった、すなわち、あらゆる表象が感性の制約にも服すことを見逃し、純粋悟性にのみ属すと考えてしまった(本来なら感性という場所に属するはずの概念も、純粋悟性という場に属するものとして考えてしまった)のであり、これが現象を知性化したという意味であろう、ということになりました。論点1で確認した通り、カントは、対象を純粋悟性の対象と見た場合と、現象として見た場合とでは異なることを説いているのでしたが、ライプニッツはこのような区別(反省概念の二義性)を考えずに、純粋悟性の対象としてしか考えなかったのだ、というわけです。さらにいえば、感性と悟性は互いに異なる表象源泉であるにもかかわらず、ライプニッツは両者を同一視し、曖昧なものと明晰なものという程度の区分としてしか捉えなかったのだ、ということもできます。ライプニッツは、感性というものが悟性と並んで不可欠の認識源泉である(悟性のみでは認識は成立せず、感性と悟性の両者が働いてはじめて認識が成立する)とは考えずに、感性というものは単に悟性の劣化したものにすぎず、むしろ正しい認識を妨げてしまうものだ、という程度の把握にとどまってしまったのでした。

 このことに関連しては、チューターから、論点1で挙げられた4つの関係(@同一と相違、A一致と反対、B内的なものと外的なもの、C質量と形式)に沿って、カントがどのようにライプニッツを批判しているのか、丁寧に確認しておく必要があるだろうと提起され、以下のような内容を確認しました。

 @ライプニッツは、対象を物一般として悟性においてのみ比較した(概念だけを念頭において直観〔空間〕において占める場所を考慮しなかった)ために「概念的に区別されないものは同一である」という物自体の概念にしか適用できない原理を、現象界に適用することで自然認識を拡張しうると誤解してしまった。

 Aライプニッツ学派は、矛盾という反対(矛盾があれば物の概念そのものが成立しなくなる)を知るだけで、ひとつの実在的原因が他の実在的原因の結果を無効にするという反対のあることを知らない(これは、我々が後者の反対を考えてみるための条件〔空間的な方向性という性質〕は、感性にしか見出され得ないからである)。

 Bライプニッツは、内的なものと外的なものとの区別を悟性との関係においてのみ考えたために、実体一般は一切の外的関係に関わりない内的なものでなければならなくなった(これは、論点1において詳しく確認した通りである)。こうした実体に帰すことのできる内的状態は、我々の感覚を内的に規定する状態、すなわち表象の状態でしかない。こうして全宇宙の根源的要素としての単子が出来上がった。

 C物の外的状態を悟性だけで表象しようとすれば、物と物との相互作用という概念によるほかない。そこでライプニッツは、空間は実体の相互作用におけるある種の秩序であり、また時間は実体の状態の力学的系列であると考えた。時間および空間がそれ自体として物には関わりないという特性を具えていることについては、ライプニッツは時間および空間の概念が混雑しているために力学的関係の単なる形式(時間・空間)が物そのものよりも前にある独自の直観と考えられるようになった、と解釈した。

 このうち、Cについては、物自体から離れて時間・空間はないというのがライプニッツの立場で、カントはこれを物自体とは別個に時間・空間があるという立場から批判しているということになるが、唯物論の立場からすればライプニッツの立場のほうが正しいということになるのではないか、という意見も出されました。物(物自体)と時間・空間との関係という問題に限って言えばその通りだろう、ということになりました。

 「反省概念の二義性を生ぜしめ、……誤れる原則の設定を誘起せしめた原因」については、端的にいえば、我々人間の悟性は、感性的直観の形式である空間と時間を通して成立させられた現象にしか適用できない(感性において与えられたものがなければ、カテゴリーは悟性による統一の単なる主観的形式でしかなく何らの対象ももち得ない)にもかかわらず、悟性があたかも物自体に適用できるかのように考えられてしまったということであり、要するに、物自体と現象との区別が明確でなかったということもできるだろう、ということになりました。
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2017年11月09日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(7/10)

(7)論点1:先験的反省とはどういうものか

 前回まで、カント『純粋理性批判』の反省概念の二義性について論じられている部分の要約を提示し、その内容を踏まえて出された論点を紹介しました。今回からは、それらの論点に関わってどのような議論がなされたかを紹介していくことにします。

 今回は、第一の論点、すなわち、先験的反省とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、反省という概念についてどのようなものだと述べているか。また、反省概念の二義性――先験的反省と論理的反省についてはどのように説明しているか。「概念が心意識の状態において互に対となりうる関係」(p.340)が4種類挙げられているが、これらはどのようなものであり、反省とどのように関わっているのか。


 カントのいわゆる反省の概念については、事前に提出された各メンバー見解の間に大きな相違はありませんでした。要するに、対象そのものを考察するのではなく、対象についての概念を得るための主観的な条件を発見しようとする心の状態のことである、ということでした。また、反省概念の二義性――先験的反省と論理的反省についても大きな見解の相違はありませんでした。先験的反省というのは、与えられた概念が感性と悟性という認識能力のうち、どちらに属するかという判別をなすものであり、論理的反省というのは、与えられた表象が感性と悟性のいずれの認識能力に属するかを全く度外視して、諸表象を単に比較することにとどまるものです。これに関連しては、先験的反省が表象相互の客観的比較を可能とする根拠を含むものであるのに対して、論理的反省ではあらゆる表象を一様に取り扱うことしかできない、とカントが論じていることについて指摘する見解もありました。物が同一なのかそれとも相異するものなのかは、空間的に占める場所が同一なのか相違しているのかという感性的な把握を踏まえなければ決定できるものではないので、与えられた表象が感性に属するのか悟性に属するのかを全く度外視して一様に扱ってしまう論理的反省では、表象相互の客観的な比較ということが不可能になってしまうのだ、ということでした。例えば、2つの水滴について、質と量が全く同じなのであれば、論理的反省においては両者は区別できなくなってしまいますが、先験的反省によって両者の空間的な位置が異なることが確認できれば、両者を区別することができるのです。

 「概念が心意識の状態において互に対となりうる関係」の4つ――@同一と相違、A一致と反対、B内的なものと外的なもの、C規定され得るもの(質料)と規定するもの(形式)――については、各メンバーの見解はカントの文言を踏まえつつまとめられていましたが、チューターは、具体的な例を押さえながらしっかりと共通の理解をつくっておく必要がある、と提起しました。

 @「同一と相違」については、先ほどの水滴の例の通りです。ある対象がたびたび同一の内的規定(質と量)で現われると、この対象は純粋悟性の対象と見なされる限り(すなわち、論理的反省においては)常に同一です。しかし、その対象が現象だとすると(すなわち、先験的反省を踏まえると)、空間において占める場所の相違が対象そのものの数的相違を成立させることとなります。

 A「一致と反対」について。実在が純粋悟性の対象であれば、(空間における方向性という性質を欠いてしまうことになるので)実在と実在の間に反対しあうことは考えられません。しかし、現象における実在的なものについては、(空間における方向性という性質をもつことになるので)同一直線上の2つの運動力が反対方向であるとか、満足と苦痛の平衡などのように、一方が他方の結果を無効にするという場合があり得ます。

 B「内的なものと外的なもの」については、チューターから、もっとも難解であるものの、ライプニッツの単子論をカントがどのように理解したのかという問題に関わる非常に重要なものではないか、との指摘がなされました。その上で、カントの文章そのものを丁寧に読み込んで理解する必要があるだろう、と提起されました。問題となる文章は以下です。

「我々が空間における実体を知るのは、空間において作用している力、即ち他の物を自分のほうへ引き寄せる力(引力)によるか、さもなければ他の物が自分のうちへ入り込むのを防ぐ力(斥力と不加入性)によるか、二つのうちのいずれかである。……ところが純粋悟性の対象ということになると、実体はいずれも内的規定と、内的実在に帰せられる力とをもっているに違いない。しかし私は、私の内感が私に示すところの付随性のほかに、どんな内的付随性を考えてみることができるだろうか。そして私の内感が私に示す付随性と言えば、それ自体思惟であるか、さもなければ思惟に類似するものか、この二つしかないわけである。」(pp.343-344)


 空間における実体は、他の物を自分の方に引っ張るか押し返すか、ともかく自分の外部との関係によってしか知られる(自分が自分であることを示す)ことはありません。しかし、純粋悟性の対象としての実体は、(空間における存在という性質を欠いてしまっているために)他の物との関係云々ではなく、あくまでも自分自身によって(内的な規定として)自分が自分であることを示すしかありません。このようなことのできる力といえば、思惟のような力しかないのではないか……ということから、ライプニッツはそれぞれ表象力を具えた単一の実体――単子なるものを考え出すにいたったのだ、ということでした。

 C「規定され得るもの(質料)と規定するもの(形式)」について。純粋悟性の概念にあっては(すなわち、論理的反省においては)、質料は形式よりも前にあることになります。しかし、本来は、空間および時間は、一切の現象と経験において与えられた一切のものよりも前にあり、むしろ経験を初めて可能にするものにほかなりません。(したがって、先験的反省を踏まえると)空間および時間は感性的直観の形式として、一切の質料(感覚)に先行することになるのです。

 カントはこれらの4種の関係について、感性と純粋悟性のいずれにも属し得るという二義性をもっている、と指摘しているのですが、結局のところ、同じ表象であってもどちらの認識能力・認識源泉に属すると考えるかによって、同一か相違か、一致か反対か、内的なものか外的なものか、質料が先行か形式が先行か、変わってくるのではないか、という指摘もなされました。例えば、2滴の水という表象を反省するとき、これを感性に属すると捉えれば相違となり、純粋悟性に属すると考えれば同一となる、という具合にです。このことを確認して、論点1についての議論に一応の区切りをつけました。
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2017年11月08日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、カント『純粋理性批判』の反省概念の二義性という問題について論じられている部分の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところをふり返っておくことにしましょう。

 カントのいわゆる反省とは、対象に関する概念を得ようとして対象そのものを考察することではなく、対象に関する概念を得るための主観的な条件を発見しようと心構えをする状態のことでした。カントは、この反省について、与えられた表象(概念)が感性・悟性のいずれに属するかを判別する先験的反省と、与えられた表象(概念)が感性に属するか悟性に属するかは度外視して単に比較するだけの論理的反省とに分けられると指摘していました。その上でカントは、物が同一なのか相違するのか、一致するのか反対なのかは、概念そのものの単なる比較(=論理的反省)からただちに決定できるものではなく、これら概念が感性に属するか悟性に属するかを判別すること(=先験的反省)によって初めて決定できるのだ、と主張していたのでした。さらにカントは、「概念が心意識の状態において互に対となりうる関係」として、@同一と相違、A一致と反対、B内的なものと外的なもの、C規定され得るもの(質料)と規定するもの(形式)の4種類を挙げて、それぞれについて説明を加えていました。

 カントは、我々がひとつの概念に感性あるいは純粋悟性のいずれかにおいて与える場所を先験的場所と名づけ、ある概念について、先に挙げられた4つの関係(同一と相違、一致と反対、内的なものと外的なもの、質量と形式)によって、純粋悟性に属するものか感性に属するものか、その場所を判定することを先験的場所論と呼んでいました。カントは、ライプニッツについて、このような先験的場所論を欠いたために、一切の対象の内的性質を、感性の参加をまたず、ただ悟性のみによって認識し得るという体系を建設することになってしまったのだ、と批判していたのでした。

 カントは、ライプニッツが知性哲学体系(感覚の参加をまたずに対象を規定しようと企てる認識体系)の構成という誤った方向に誘惑されてしまったのはなぜなのか、という問題についても検討を加えていました。カントによれば、ライプニッツの知性哲学体系は、概念的に区別されないものは互いに同一であるという原理に基づいていました。これについてカントは、ある物の単なる概念からはその物の直観を成立させる多くの条件が除かれているのであるから、こうして除かれたものを初めから全く存在しなかったものと考えて、この物の概念に含まれている物しかこの物に認めないというのは、いかにも早計である、と批判していたのでした。要するに、我々人間の悟性は、感性的直観の形式である空間と時間を通して成立させられた現象にしか適用できない(感性において与えられたものがなければ、カテゴリーは悟性による統一の単なる主観的形式でしかなく何らの対象ももち得ない)にもかかわらず、悟性があたかも物自体に適用できるかのように考えられてしまったところから、ライプニッツの知性哲学体系が成立してきたのだ、ということになるのでした。

 先験的分析論を完結するにあたって、カントは無の概念の区分について論じていました。カントは、対象一般という最も一般的な概念が何かあるものであるか無であるかは、カテゴリーの順序と指示とに従って行われることになるとして、無の概念を、@対象をもたない空虚な概念としての無、A概念に対する空虚な対象としての無、B対象をもたない空虚な直観としての無、C概念をもたない空虚な対象としての無に区分したのでした。

 2017年10月例会の場では、おおよそ以上のような内容に関わっての報告を受けて、参加したメンバーから諸々の意見・論点が提起され、議論がたたかわされました。これから、その内容を、大きく3つの論点に沿って整理した上で、紹介していくことにします。今回はその3つの論点を紹介し、次回以降、討論の具体的な内容を紹介していくことにします。

1、先験的反省とはどういうものか
 カントは、反省という概念についてどのようなものだと述べているか。また、反省概念の二義性――先験的反省と論理的反省についてはどのように説明しているか。「概念が心意識の状態において互に対となりうる関係」(p.340)が4種類挙げられているが、これらはどのようなものであり、反省とどのように関わっているのか。

2、カントはライプニッツをどのように批判しているか

 カントのいわゆる「先験的場所論」とはどういうものか。カントは、ライプニッツが先験的場所論を欠いたために、反省概念の二義性に欺かれた(p.347)、「ライプニッツが現象を知性化した」(p.348)と批判しているが、これはどういうことか。「反省概念の二義性を生ぜしめ、……誤れる原則の設定を誘起せしめた原因」(p.356)とはどういうものか。

3、カントによる無の概念の区分はどのようなものか
 カントは先験的分析論を完結するにあたり、無を4つに区分しているが、これらはそれぞれどのようなことを意味しているのか。また、そもそもなぜこのような話題を最後の部分にもってきたのか。
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2017年11月07日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』反省概念の二義性について 要約C

 前回は、ライプニッツが知性哲学体系(感覚の参加をまたずに対象を規定しようと企てる認識体系)の構成という誤った方向に誘惑されてしまったのはなぜなのか、という問題について検討されている部分の要約を紹介しました。ライプニッツの知性哲学体系は、概念的に区別されないものは互いに同一であるという原理に基づいているのですが、ある物の単なる概念からは、その物の直観を成立させる多くの条件が除かれているのであるから、こうして除かれたものを初めから全く存在しなかったものと考えて、この物の概念に含まれている物しかこの物に認めないというのは、いかにも早計である、とカントは批判していたのでした。我々人間の悟性は、感性的直観の形式である空間と時間を通して成立させられた現象にしか適用できない(感性において与えられたものがなければ、カテゴリーは悟性による統一の単なる主観的形式でしかなく何らの対象ももち得ない)にもかかわらず、悟性があたかも物自体に適用できるかのように考えられてしまったところから、ライプニッツの知性哲学体系が成立してきたのだ、ということでした。

 さて、今回は、先験的分析論の完結にあたって、無の概念の区分について論じられている部分についての要約を紹介することにしましょう。

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 こうして悟性は、感性に制限を加えるものの、しかしそのために悟性自身の領域を拡張するのではない。つまり悟性は、感性が物自体に関係するような僭越な真似をしないで現象だけに関係することを、感性に警告するのである。また悟性は、物自体を思惟するが、これを先験的対象としてのみ思惟するにすぎず、我々のいかなる悟性概念をもこのような対象に適用することはできない。先験的対象の表象は、我々にとって全く無内容である。

 それだからこの純粋悟性批判は、悟性が自分のために、現象として自分に現われる対象以外の対象を含むような新しい領域を創設して、可想界へ――それどころか可想界という概念へすら、さ迷い入ることを許さない。

 *  *  *

 先験的分析論を完結するにあたり、なお付言しておかなければならない一事がある。このこと自体は特に重要というわけではないが、しかしこの体系を完全にするためにはやはり必要だといってよい。我々が先験的哲学の出発点とする最高概念といえば、普通には可能なものと不可能なものとに区分することとされている。しかしおよそ区分は、区分が施された当の概念を前提する。したがって、区分を遡るごとにいっそう高い概念が示されねばならないわけである。そして我々の場合にこの最も一般的な概念は、対象一般(これは蓋然的なものと解された対象であり、それが何かあるものなのか、それとも「無」であるのかは、決定されていない)という概念である。ところで対象一般に関係するのはカテゴリーだけであるから、我々はこの対象が何かあるものなのか、それとも無なのかという区別は、カテゴリーの順序と指示とに従って行われることになるだろう。

 一 総体、数多および単一という概念〔カテゴリー〕に対立するものは、一切を滅却する概念、すなわち皆無である。それだから直観が全く対応しないような概念の対象は無、すなわち対象をもたぬ概念であり、可想的存在のようなものがこれである。可想的存在は、可能的なものの群には入らないが、しかしそれだからといって不可能であるというわけにはいかない。また何か新しい根源力というようなものは、我々がこうした物を考えてみることができるというだけで、なるほど矛盾は含んでいないが、しかし経験から得られた実例がないままに考えられねばならぬものであるから、可能なもののなかへ加えることはできない。

 二 実在はないかあるものであり、その否定は無である。すなわち実在の否定は、対象が欠けているという概念であり、影とか寒さとかいうようなものがこれである(欠けている無)。

 三 実体をもたない直観の単なる形式は、それ自体対象ではなくて、対象(現象)の単なる形式的条件である。例えば純粋空間や純粋時間などがこれである。空間および時間は、直観の形式としては確かに何かあるものであるが、しかしそれ自身は、直観される対象ではない(想像物)。

 四 自己矛盾するような概念の対象は無である。こうした概念は無であり不可能なものだからである。すなわち二直線で囲まれた図形のようなものがこれである(否定的な無)。

 それだから無の概念のこうした区分を示す表は(これと並行して「何かあるもの」の区分もあるわけだが、この方の区分はひとりでにできるから)次のように排列されなければならないだろう。

    無

 1 対象をもたない空虚な概念としての無
 2 概念に対する空虚な対象としての無
 3 対象をもたない空虚な直観としての無
 4 概念をもたない空虚な対象としての無

 思惟されたもの(1)は、不合理なもの(4)から区別される。その理由は、前者が単なる想像上の仮構物(自己矛盾を含まぬにもせよ)であって、そのために可能なもののなかへ加えられることができないのに対して、後者はその概念自身が自己否定してみずからの可能を滅却するところにある。しかし両社はいずれも空虚な概念である。これに反して「欠けている無」(2)と、「想像された物」(3)とは、それぞれ概念に対するいわば空虚な所与である。光が感官に与えられなければ、暗黒も表象され得ない。また延長を有する存在が知覚されなければ、空間も表象され得ない。否定も直観の単なる形式も、実在的なものを欠くと、対象になり得ないのである。
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2017年11月06日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』反省概念の二義性について 要約B

 前回は、先験的場所論(概念を感性に属するか純粋悟性に属するかを判定すること)を踏まえつつ、ライプニッツの哲学が批判的に検討されている部分の要約を紹介しました。カントのいわゆる先験的場所論とは、ある概念について、4つの関係(同一と相違、一致と反対、内的なものと外的なもの、質量と形式)によって、純粋悟性に属するものか感性に属するものか、その場所を判定することでした。カントは、ライプニッツについて、このような先験的場所論を欠いたために、一切の対象の内的性質を、感性の参加をまたず、ただ悟性のみによって認識し得るという体系を建設することになってしまった、と批判していました。

 さて、今回は、ライプニッツが知性哲学体系(感覚の参加をまたずに対象を規定しようと企てる認識体系)の構成という誤った方向に誘惑されてしまったのはなぜなのか、という問題について検討されている部分の要約を紹介することにしましょう。

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 反省概念はある誤解によって悟性使用に著しい影響を及ぼし、その結果およそ哲学者のうちで最も明敏な一人であるライプニッツを誘惑して、いわゆる知性的認識の体系――感覚の参加をまたずに対象を規定しようと企てる認識体系を構成するに至らしめた。してみると、反省概念の二義性を生じさせ、ひいては誤った原則の設定を誘起させた原因を究明することは、悟性の限界を確実に規定し、かつこれを保全するに甚だ有益だということになるだろう。

 「ある概念について一般的に肯定され、もしくは否定されるものは、この概念に含まれている一切の特殊なものについてもそれぞれ肯定され、もしくは否定される」というのは確かに正しい。しかしこの論理的原則を否定して、「ある一般的概念に含まれていないものは、この概念のもとに包摂される全ての特殊的概念にも含まれていない」というなら不合理である。ところが、ライプニッツの知性哲学体系は、まさにこの第二の原則の上に建てられている。だから、この命題が維持されなくなれば、彼の体系は悟性使用に関してこの命題から生じた一切の曖昧な原理もろとも崩壊するのである。

 概念的に区別されないものは互いに同一であるという原理は、あるもの一般の概念においてある区別が全く見出されなければ、その区別は物そのものにおいても見出されない、という前提に基づいている。しかしある物の単なる概念からは、その物の直観を成立させる多くの条件が除かれているのであるから、こうして除かれたものを初めから全く存在しなかったものと考え、この物の概念に含まれている物しかこの物に認めないというのは、いかにも早計である。

 1立方フィートの空間という概念は、どこで何べん考えてみようと、それ自体完全に同一であるが、2つの1立方フィートは空間においてそれぞれ占める場所によって区別される。これらの場所は感性的直観の条件である。同様にある物の概念においても、否定的なものが肯定的なものと結合されていない限り、この物の概念は全く反対を含まない。しかし実在(例えば運動)は感性的直観においてのみ与えられ、この直観には運動一般の概念から除かれていたような条件(2つの力の相反する運動方向という)が含まれ、これらの条件が反対を可能にするのである。概念だけからいうと、内的なものは一切の関係ないし外的規定の基体をなしている。したがって私が、直観の条件を一切度外視して物一般の概念以外に出ないとすると、私は一切の外的関係をも除き去ることができる。それにもかかわらず、全く関係を意味しないで単なる内的規定だけを意味するようなものの概念は残るに違いない。そこから次のような結果が生じるように思われる。すなわち、およそ物(実体)には絶対に内的であって一切の外的規定よりも前にあるような何かあるものが存し、これによって外的規定が初めて可能になる。したがってまたこうした実体はもはや外的関係を一切含まない何かあるもの、つまり単純なものである(物体的な物は結局関係――少なくとも別々に存在する部分相互の外的関係にほかならないからである)。さらに我々は、我々の内感規定以外には、絶対に内的規定なるものを知らないから、こうした基体は単純であるばかりでなく、また我々の内感との類比にしたがって表象によって規定されている。換言すれば、一切の物は本来単子、すなわち表象を具えた単純な存在者である、ということになる。ところが、空間における常住不変な現象(不可入的延長)は全く関係にすぎないのであって、絶対的-内的なものをひとつも含まないにもかかわらず、一切の外的な知覚の第一の〔根本的な〕基体たり得ることは明白である。直観には物一般の単なる概念には全く存しないような何かあるものが含まれている。そしてこの何かあるものは、単なる概念によっては決して認識できないような基体を我々に与える。それはすなわち空間である。空間は、その含む一切の物とともに、全く形式的な、とはいえまた実在的でもあるような関係からなっている。我々が直観の条件を全て除き去ってしまうなら、単なる概念において我々に残されているのは、内的なもの一般と内的なもの相互の関係しかない。そして外的なものはこれによって可能になるのである。しかし直観の条件を除き去ることによって成立する必然性は、物が内的なものをその根底にもたずに単なる関係だけを表わすような規定とともに直観において与えられる限り、物そのものにはあり得ない。こうした物は物自体ではなくて、全く現象にほかならないからである。我々が物質について知るのは関係だけである。関係を除き去ってしまえば、単なる概念のみによって規定されるような可想的存在は全く不可能になってしまう。物は物自体と感官との関係においてのみ成立するのである。もし我々が単なる概念だけを事とするなら、抽象的なもの相互の関係を原因・結果のカテゴリーでしか考えることができない。しかしそうなると我々は、一切の直観を除去することになるから、したがってまた多様なものが互いに各自の場所を規定し合うことのできる唯一の仕方である感性の形式(空間)も失われてしまう。

 我々のいう可想的存在〔物自体〕が、感性の図式を全く用いずに純粋カテゴリーだけで考えられるものだとすれば、こうした物は全く不可能である。しかし、我々が可想的対象を、我々のカテゴリーが当然通用し得ないような、したがってまた我々が全く認識し得ない(直観によっても概念によっても)ような対象としてのみ解するならば、こういう全く消極的な意味での可想的存在は当然認められねばならない。こうした可想的存在は、我々の直観の仕方は一切の物に関係するのではなく、我々の感官の対象だけに関係すること、それだからこの直観の仕方の客観的妥当性は制限されていること、したがってまた我々の直観とは異なる種類の直観に対しては、したがってまたこうした直観の対象としての物に対しても、別に場所が残されていることを意味する。しかし、我々は、我々の感性的直観と異なる種類の直観を知らないし、我々のカテゴリーとは異なる種類の概念も知らないから、我々の感性の条件を越えて思惟の対象を拡張したり、現象のほかになお純粋思惟の対象、すなわち可想的存在を想定することはできない。こうした対象は何ら積極的な意味をもたないのである。可想的存在という概念は、ある客観の概念ではなくて、むしろ我々の感性に対する制限と分離しがたく結びついている課題である。
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2017年11月05日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』反省概念の二義性について 要約A

 前回は、そもそも反省とはどういうことか、そのなかでも先験的反省とはどういうものであるのか、また先験的反省が行われるための4種の関係とはどういうものか、ということについて説明されている部分の要約を紹介しました。カントのいわゆる反省とは、対象に関する概念を得ようとして対象そのものを考察することではなく、対象に関する概念を得るための主観的な条件を発見しようと心構えをする状態のことでした。カントは、この反省について、与えられた表象(概念)が感性・悟性のいずれに属するかを判別する先験的反省と、与えられた表象(概念)が感性に属するか悟性に属するかは度外視して単に比較するだけの論理的反省とに分けられるとしつつ、物が同一なのか相違するのか、一致するのか反対なのかは、概念そのものの単なる比較(=論理的反省)からただちに決定できるものではなく、これら概念が感性に属するか悟性に属するかを判別すること(=先験的反省)によって初めて決定できる、と主張していました。さらにカントは、「概念が心意識の状態において互に対となりうる関係」として、@同一と相違、A一致と反対、B内的なものと外的なもの、C規定され得るもの(質料)と規定するもの(形式)の4種類を挙げて、それぞれについて説明を加えていたのでした。

 さて、今回は、先験的場所論(概念を感性に属するか純粋悟性に属するかを判定すること)を踏まえつつ、ライプニッツの哲学が批判的に検討されている部分の要約を紹介することにしましょう。

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反省概念の二義性に対する注

 我々がひとつの概念に感性あるいは純粋悟性のいずれかにおいて与える場所を、先験的場所と名づけたい。すると、あらゆる概念に、それぞれ使用の相違に応じて与えられる場所を判定すること、またこうした場所をあらゆる概念に規則に従って指示することは、先験的場所論と呼ばれてよい。この理論は、概念が本来いずれの認識能力に属するかを判定するから、純粋悟性のひそかなたばかりと、それから生じるまやかしとを根本的に防止できる。

 アリストテレスの論理的場所論(トピカ)は、多くの認識をひとつの概念(論理的場所)のもとに集めたものであり、教授連や演説家らはこれを利用して、思考に関する銘々の手持ちの材料を処理するのに適当なものを探し出しては懸河の弁をふるうのだが、先験的場所論は、あらゆる比較と判別について、先に挙げた4種の名目(同一と相違、一致と反対、内的なものと外的なもの、質料と形式)だけしか含んでいない。これら名目がカテゴリーと異なるのは、対象を、その対象を構成しているところのもの(量、実在性)によって示すのではなく、物の概念よりも前にまず物の表象の比較を、物の一切の多様な表象について行うにすぎない、という点にある。しかし、こうした比較は反省(表象が純粋悟性によって思惟されるのか、感性によって減少において与えられるかの決定)を必要とする。

 概念は悟性に属するか感性に属するかにはお構いなしに、論理的に比較され得る。しかし、我々が概念を対象に適用するためには、その概念が純粋悟性の対象になるのか感性の対象になるのか判定する必要がある。こうした先験的反省を欠くと、概念の使用が非常に不安定になり、批判的理性が承認できないような総合的原則なるものが生じてくる。

 ライプニッツは、こうした先験的場所論を欠いたために、反省概念の二義性に欺かれて、一切の対象を悟性と悟性による思惟の抽象的、形式的概念を比較するだけで、物の内的性質を認識し得ると信じ、世界の知性的体系を建設してしまった。先に示した反省概念の表は、ライプニッツの学説独自の考え方の根本思想を解明する。

 第一に、ライプニッツは、感覚の対象を物一般として悟性においてのみ比較したから、概念だけを念頭において直観〔空間〕において占める場所を考慮しなかった。そのために、「概念的に区別されないものは同一である」という物自体の概念にしか適用できない原理を、現象界に適用することで自然認識を拡張しうると信じることになってしまった。

 第二に、単なる現象としての実在は論理的には互いに反対し合わないという原則は、概念の関係については確かに真実な命題である。しかし、2つの実在のうちの一方が他方の作用を無効にするというような実在的反対が至るところに生じるのだから、この命題は、自然に関しても物自体に関しても、全く意味をもたない。一般力学は、2つの力の方向における反対に着目する。しかし実在性という先験的概念は、こうした条件については全く知るところがないのである。ライプニッツは、この命題を新原則などという仰々しい名前で発表したわけではないが、彼の後継者たちは、この命題をライプニッツ‐ヴォルフ哲学の体系に公然と取り入れた。ライプニッツ学派は、矛盾という反対(矛盾があれば物の概念そのものが成立しなくなる)を知るだけで、ひとつの実在的原因が他の実在的原因の結果を無効にするという反対のあることを知らない。しかし、我々が後者の反対を考えてみるための条件は感性にしか見出され得ない。

 第三に、ライプニッツの単子論は、この哲学者が内的なものと外的なものとの区別を悟性との関係においてのみ考えた、という以外に何ら根拠をもつものではない。つまり実体一般は、ある内的なもの――換言すれば、一切の外的関係に関わりなく、合成にすら関わりのない何かあるものをもたねばならない。それだから部分をもたぬ単純なものが、物自体の内的なものの基礎になるわけである。しかし実体の状態の内的なものは場所、形態、接触あるいは運動(こうした規定は全て外的関係である)ではあり得ない。すると我々がこうした実体に帰する内的状態としては、我々の感覚そのものを内的に規定する状態、すなわち表象の状態しかない。全宇宙の根源的要素、すなわち原素と称されるところの単子は、こうして出来上がったのである。一切の実体は、内的にのみはたらく(表象する)のだから、ひとつの実体と他の実体の状態の間に互いに働きかけるという結びつきは全く成立し得ない。このようなわけで、実体間の可能的な相互性に関するライプニッツの原理は、物理的影響ではなくて、前もって規定された予定調和にならざるを得なかった。

 第四に、ライプニッツは、彼の有名な時間および空間論で、これらの感性的形式を知性化しているが、この論も同じく先験的反省を全く思い違いしたところから生じたものである。もし私が、物の外的状態を悟性だけで表象しようとすれば、物と物との相互作用という概念によるほかない。そこでライプニッツは、空間は実態の相互作用におけるある種の秩序であり、また時間は実体の状態の力学的系列であると考えた。時間および空間がそれ自体として物には関わりないという特性を具えていることについては、ライプニッツは時間および空間の概念が混雑しているために力学的関係の単なる形式(時間・空間)が物そのものよりも前にある独自の直観と考えられるようになった、と解釈した。

 我々は単なる反省作用から生じた結論に批判を加えてきたが、この批判の極めて大きな効用は、悟性においてのみ互いに比較されるような対象についていくら論証を重ねたとしても、結局は無益であるということを明らかにすると同時に、我々がこれまでもっぱら力説してきたことを確証したところにある。すなわち、現象は物自体として純粋悟性の対象のなかに入るものではないが、しかしそれにもかかわらず、やはり我々の認識の対象であり、しかも我々の認識がそれによって客観的実在性を得るところの、すなわちそこにおいて概念に直観が対応するところの唯一の対象である、ということである。

 我々が単に論理的に反省するだけなら、我々は我々の概念を悟性において互いに比較するにとどまる。しかし、対象が感性的直観の対象であるか知性的直観の対象であるかをまず決定しないで、これらの概念を対象一般(先験的意味での)へ適用すると、ただちに制限(これらの概念から外で出てはならないという)が生じる。そしてこれらの制限は、こうした概念の経験的使用がすべて誤りであることを示すと同時に、これによってまた次のことも証示する。すなわち、第一に、物一般としての対象の表象は不十分であるばかりか表象の感性的規定を欠き経験的条件から離れ去ると自己矛盾を生じる。第二に、それだから我々は(論理学において)一切の対象を度外視するか、それとも対象を想定してこれを感性的条件のもとで考えるか、いずれかである。第三に、そうすると可想的なものは、我々に具わっていなければならない特殊な直観〔知性的直観〕を必要とするわけだが、こうした直観を欠く我々にとっては可想的なものはひっきょう無である。
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2017年11月04日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』反省概念の二義性について 要約@

 前回は、京都弁証法認識論研究会の10月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回にわたって、カント『純粋理性批判』における反省概念の二義性についての議論を紹介していくことにします。

 今回は、そもそも反省とはどういうことか、そのなかでも先験的反省とはどういうものであるのか、また先験的反省が行われるための4種の関係とはどういうものか、ということについて説明されている部分の要約を紹介しましょう。

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付録

経験的な悟性使用と先験的な悟性使用との混同によって生じる反省概念の二義性について

 反省は、対象に関する概念を直接に得るために対象そのものを考察するのではなくて、心意識の状態である。換言すれば、我々が概念を得るための主観的条件を発見しようとして、まずその心構えをする状態である。反省は、与えられた表象が我々の2つの相異なる認識源泉〔感性と悟性〕に対するそれぞれの関係の意識である。そして表象相互の関係は、こうした意識によってのみ正しく規定されるのである。我々が表象について論じる前にまず問題になるのは、我々の表象は2つの認識能力のいずれに属するのか、表象が結合され比較されるのは悟性においてなのか感性においてなのか、ということである。判断のなかには、習慣から生じたものや情意的傾向によって出来たものがあるのに、このような判断に先立って、あるいは判断の後で反省が行われないものだから、判断は全て悟性から発生したものだと見なされてしまう。しかし判断は全て、それどころか表象の比較にしてからが、全て反省を必要とする。換言すれば、与えられた概念がいずれの認識能力に属するかの判別が必要である。表象の比較は認識能力によって行われる。そして私はこの比較と認識能力を見比べて、これらの表象は純粋悟性に属するものとして比較されるのか、それとも感性的直観に属するものとして比較されるのかを判別する作用を、私は先験的反省と名づけるのである。ところで、概念が心意識の状態において互いに対になり得る関係は4通りある。すなわち、同一と相違、一致と反対、内的なものと外的なもの、規定され得るもの〔質料〕と規定するもの〔形式〕である。感性においてか悟性においてかという区別は、我々がこの4通りの関係をどう考えたらよいか、という仕方に大きな相違を生じる。
 客観的判断のための概念を比較してみると、全称判断のために同一、特殊判断を構成するには相違、肯定的判断を成立させるには一致、否定的判断を成立させるには反対がある。これらの概念は比較概念と名づけられる。しかし問題が論理的形式でなく概念の内容にあるとすると、換言すれば、物そのものが互いに同一なのかそれとも相違しているのか、互いに一致しているのかそれとも反対なのか、などということが問題になると、これらの物は我々の認識能力に対して、感性に対するか悟性に対するか2通りの関係をもち得る。物が相互に対をなして結びつく仕方は、それらの物が感性と悟性とのいずれに属するかによって決定される。すると先験的反省のみが同時に表象相互の関係を規定し得るということになる。物が互いに同一なのか相違しているのか、一致しているのか反対なのかは、概念そのものから単なる比較によってただちに決定できるものではなく、これらの物の属する認識の仕方を判別することによって、すなわち先験的反省を用いて初めて決定され得るのである。

 一 同一と相違。ある対象がたびたび、しかもその都度ごとに同一の内的規定をもって現れると、この対象は、純粋悟性の対象と見なされる限り常に同一であり、「多」物ではなく「一」物である。しかしこの対象が現象だとすると、この物の概念を他のものの概念と比較することは全く問題にならない。たとえ概念に関してはこれらの物が完全に同一であるにしても、同一時においてこうした現象の占める場所の相違は、感官の対象そのものの数的相違を成立させるのに十分な根拠になる。2滴の水は、それぞれの内的相違を一切度外視することができても、それぞれが別の場所において同時に見られるということで、数的に相違するものと考えるに十分である。ライプニッツは現象を全て物自体と考え、可想的存在すなわち純粋悟性の対象と見なしたが、こういう考え方をすれば、彼の「概念的に区別されぬものは同一という原理」は確かに反駁されない。しかし現象は感性の対象であり、また悟性は現象に関しては経験的にしか使用されない。したがって悟性の純粋な使用は不可能であるから、数多性や数的相違は、外的現象を成立させる条件であるところの空間によってすでに表示されているわけである。空間の一部分は、他の一部分と完全に相等しくても別の部分である。空間の諸処に同時に存在する物についても、たとえこれらの物がそれぞれの占めている場所以外の点では全く相等しいにせよ、当てはまらなければならない。

 二 一致と反対。実在が純粋悟性によってのみ表象される場合、実在と実在の間には反対は全く考えられない。これに反して現象における実在的なものは、互に反対し合い、またこれらの実在的なものが同一の主語に結び付けられると、一方は他方の結果を、全面的にあるいは部分的に無効にすることがあり得る。例えば、同一直線上の2つの運動力が、その直線上の一点を互いに反対に引くなり押すなりするような場合、あるいはまた苦痛と満足が平衡を保っているような場合である。

 三 内的なものと外的なもの。純粋悟性の対象にあっては、この対象と異なるものと(その現実的存在に関して)全く関係をもたないものだけが「内的なもの」である。これに反して空間における現象的実体の内的規定は、全て関係にほかならない。それにまた現象的実体そのものが、純然たる関係だけの総括なのである。我々が空間における実体を知るのは、空間において作用している力、すなわち他の物を自分の方へ引き寄せる力(引力)によるか、さもなければ他の物が自分のうちに入り込むのを防ぐ力(斥力と不加入性)によるか、2つのうちいずれかである。ところが純粋悟性の対象となると、実体はいずれも内的規定と内的実在に帰することのできると空をもっているに違いない。しかし私は、私の内感が私に示すところの付随性のほかに、どんな内的付随性も考えることはできない。そして私の内感が私に示す付随性としては、それ自体思惟であるか思惟に類似するものか、2つしかない。ライプニッツは、実体を可想的存在と考えたので、一切の実体を、それどころか物質の構成部分をすら、それぞれ表象力を具えた単一の実体――単子であるとした。

 四 質料と形式。質料という概念は規定されるもの一般を、形式という概念は規定するものを意味する。論理学者は普遍的なものを質料と名づけ、普遍的なもののある部分と他の部分との種別的な差異を形式と称してきた。悟性はまず何かあるものが(少なくとも概念において)与えられていることを要求する。それは悟性がこのあるものをある仕方で規定するためである。すると純粋悟性の概念にあっては、質料は形式よりも前にあることになる。ライプニッツがまず物(単子)と物における内的表象力とを想定し、こうした基礎の上に単子相互の外的関係と単子の状態(すなわち表象)の相互作用を捉えたのはこのためである。こうして空間は実体間の関係によってのみ、また時間は実体の規定を原因および結果として互いに結びつけることによって可能となるとされた。しかし本当のところは、空間および時間は一切の現象と経験において与えられた一切のものよりも前にあり、むしろ経験を初めて可能にするものなのである。それにしても形式が物そのものよりも前にあって、物の可能を規定するなど、主知的哲学者たるライプニッツの我慢できるところではなかった。
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2017年11月03日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』反省概念の二義性について 要約@
(3)カント『純粋理性批判』反省概念の二義性について 要約A
(4)カント『純粋理性批判』反省概念の二義性について 要約B
(5)カント『純粋理性批判』反省概念の二義性について 要約C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:先験的反省とはどういうものか
(8)論点2:カントはライプニッツをどのように批判しているか
(9)論点3:カントによる無の概念の区分はどのようなものか
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、絶対精神の成長の過程(自己=世界という自覚の成立過程)として哲学の発展の歴史を描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画にもとづいたものです。

 10月例会では、反省概念の二義性について論じられている部分(先験的分析論の最後に付録としてつけられた部分)を扱いました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

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カント『純粋理性批判』 反省概念の二義性について

【1】先験的反省について
 カントによると、反省とは対象に関する概念を得るために対象そのものを考察するのではなく、概念を得るための主観的条件を発見しようとして、その心構えをする心の状態であるという。その反省のうち、与えられた概念が感性と悟性のいずれの認識能力に属するかという判別を行うことを先験的反省とカントは名づけている。他方、与えられた表象の属する認識能力を全く度外視し、全て一様に扱いながら、表象相互の比較を行うにとどまる反省は、論理的反省と呼ばれている。
 カントは、(1)同一と相違、(2)一致と反対、(3)内的なものと外的なもの、(4)規定され得るものと規定するもの(質料と形式)という4つの反省概念を取り上げ、これらは感性と純粋悟性のいずれにも属しうるという二義性をもっていることを指摘している。

〔報告者コメント〕
 カントのいう反省とは、唯物論的な認識論からすると、自分の認識=像を見つめること、自分の認識=像を対象として認識すること、といえるだろう。さらに、論理的反省とは、単に像を像として見つめることであり、像がどのようにして生成してきたのかは問わない作業といえるだろう。これに対して、先験的反省とは、像の生成の過程も含めて見つめることであるといえるのではないか。ただし、カント(の時代)にあっては、像の生成発展も含めて、きちんと見ることができる実力はなかったから、認識=像が感性に属するのか、それとも純粋悟性に属するのか、という形でしか、答えを出せなかったのではないだろうか。


【2】ライプニッツ批判について
 カントは、一つの概念に感性あるいは純粋悟性のいずれかにおいて与える場所を、先験的場所と名づけ、あらゆる概念に、それぞれ使用の相違に応じて与えられる場所を判定すること、かかる場所をあらゆる概念に規則にしたがって指示することを、先験的場所論と呼んでいる。
 カントによると、ライプニッツはかかる先験的場所論を欠いていたために、反省概念の二義性に欺かれたという。すなわち、先の4つの反省概念を全て純粋悟性に属するものと考えてしまい、感性は純粋悟性の表象を混雑させたものにすぎないとしてしまったのである。
 なぜライプニッツのような誤りに陥るのかというと、人間の悟性はもともと、感性的直観の形式である空間と時間を通して成立した現象にしか適用できないのに、物自体に対しても悟性を使用してしまうからであるとカントは説いている。すなわち、経験的な悟性使用と先験的な悟性使用との混同によって、反省概念の二義性が生じるのだということである。

〔報告者コメント〕
 カントによるライプニッツとロックの批判は興味深い。カントによると、ライプニッツは現象を知性化したが、ロックは悟性概念を全て感覚化したという。これはすなわち、ライプニッツは、受動的に感覚でとらえるべき現象をも能動的な悟性でとらえるとしてしまったのに対して、ロックは、悟性の能動性を否定して、認識の全ての要素を感覚による受動性のたまものと解釈した、ということであろう。どんな対象でも矛盾した性質をもっており、認識についても受動性と能動性の矛盾がある。人間は一般的に、初めは矛盾した側面の一方しか見られずに、あるいは、矛盾した側面の一歩鵜呑みを度外れに拡大して捉えてしまい、別々の人間が矛盾した側面をそれぞれ主張した後に、それらがアウフヘーベンされるということがいえるだろう。しかし、カントの時代はまだまだ、認識の受動性と能動性を媒介的に、別の認識能力の統一として捉えたに過ぎなかったということもいえるかもしれない。


【3】無の概念の区分について
 カントは、先験的分析論を完結するに当たり、カテゴリーにしたがって無について考察して、以下のように4つに区分している。
(1)対象をもたない空虚な概念としての無
 これは一切を滅却する概念、すなわち皆無であるとカントは説く。たとえば、可想的存在や根源力というようなもののことで、可能的なものの群には入らないが、不可能であるというわけにもいかない思惟物であるとされている。
(2)概念に対する空虚な対象としての無
 カントはこれを、実在の否定であり、対象が欠けている概念であるという。たとえば、光が欠けている影とか、暑さが欠けている寒さのようなものである。
(3)対象をもたない空虚な直観としての無
 実体をもたない直観の単なる形式のことであり、純粋空間や純粋時間などのことであるとされている。これ自体は直観せられる対象ではないため、想像物であるとされている。
(4)概念をもたない空虚な対象としての無
 自己矛盾するような概念の対象のことであり、不可能なものであるとカントは説く。たとえば、二直線で囲まれた図形のようなものがこれにあたるとされている。

〔報告者コメント〕
 「何か或るもの」に対する「無」を取り上げているということ自体が、対立物の統一という意味で、弁証法的なとらえ方だと感じた。また、(1)と(4)、(1)と(3)、(2)と(4)も、それぞれ、対立物の統一的に把握されているように思われる。感性と悟性もそうかもしれないが、カントの弁証法は、対立物の統一という把握にあるといえるのかもしれない。

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 以上の報告レジュメについては、ポイントを押さえて簡潔にまとめられているのではないか、と概ね肯定的な評価がなされました。また、唯物論的な認識論の立場を踏まえつつ、人類の認識の発展史(哲学の歴史)の大きな流れも意識しつつ、カントの主張を位置づけようという姿勢でまとめられているのもよいのではないか、という意見も出されました。
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2017年10月18日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回までに、例会で報告されたレジュメを紹介したあと、カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介してきました。

 最終回となる今回は、例会を受けての参加者の感想を掲載しておきたいと思います。

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 今回は、カント『純粋理性批判』の「経験的思惟一般の公準」と「あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について」という部分を扱った。

 チュータとして、各会員が提出した論点をまとめ、その論点に対して出された見解を整理していった。特に今回は、該当箇所をこれまでにないほど読み込んで、きちんとチュータとしての役割を果たせるようにとの思いを込めて例会当日に臨んだ。

 例会本番では、見解が共通する中でも新しい論点を提示し、例会を通じて各会員の認識の発展を図ろうと努力してみたが、結果としては、なかなかうまく進行することができなかったと思う。特に、唯物論の立場から可能性、現実性、必然性とはどのようなものか、議論してみてはどうかという提起を行ったものの、個別の議論に終始してしまい、全体として、カントのいうものと違うのかどうか、ハッキリしないまま議論を切り上げざるを得なかった。また、バークリの独断的観念論に対してカントがどのように批判しているかという問題に関わって、先験的感性論の部分を参照しつつ議論していったが、ここも一応の結論すら出ないままで議論を終了せざるを得なかった。今回の範囲はよく読み込んでいたつもりであるが、これまでの議論を正確に辿っていくということをしていなかったために、以前の問題に絡むものについては、なかなか自分で思うように把握することができないという課題が見つかった。

 とはいえ、カントの議論を正確に理解し、それを唯物論の立場ではどう考えるのか、どう反駁していくのかということは、たとえ結論が出ないにしても、常に問題意識として持っておく必要がある事柄だと思う。そういう意味では、唯物論の立場からの可能性、現実性、必然性とはどういうものかという議論も、全く無意味だったわけではないとは思うし、バークリ批判にしても、ここまで読んだ段階で以前の先験的感性論をしっかりと読み返せば、何らかの新しい把握が可能かもしれないという希望も見えてきた。

 次回は、「経験的な悟性使用と先験的な悟性使用との混同によって生じる反省概念の二義性について」という付録の部分を扱う。可能な限り、これまでの大きな流れを復習しつつ、当該箇所についてもしっかりと読み込んで、論点を明確にしつつ、自分の見解を固めていきたいと思う。

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 今回の例会の範囲で、先験的分析論の部分がほぼ終わったのであるが、カントを理解し切った! というところからは程遠いと痛感した。たとえば、バークリの独断的観念論について、先験的感性論でカントは反駁していたのだが、それがどのような内容であるのか、今振り返ってみても、確たることがいえないありさまであった。また、ライプニッツに対してどのように批判しているのかも、いまいち理解できなかったところである。

 やはり、前々から反省しているように、ここらで一度、『純粋理性批判』を初めから読み返す作業がどうしても必要になってくるだろう。と同時に、カントが大枠でどういう主張をしているのか、カント以前のバークリやライプニッツ、それにデカルトやヒュームなんかも含めて、哲学の大きな流れはどのようなものであったのか、こういったことも復習していく必要があろう。

 具体的には、シュヴェーグラー『西洋哲学史』を中心として、イギリス経験論と大陸合理論のあたりからカントへの流れを復習しながら、中山元訳で『純粋理性批判』を、その解説とともに読み返していきたい。これは、今停滞している著作の執筆を促進していくうえでも、大切な準備作業になると確信している。早速に計画を立てて、着実に学習を進めていかなければならない。

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 今回の例会では報告レジュメを担当したのであるが、今回の範囲は(今回の範囲も)なかなか難しかった、というのが率直な感想である。報告レジュメを作成するまでにはおろか、例会当日までに該当範囲の要約作業を終えられなかったことも大きく影響していると思われるが。

 論点2におけるバークリの独断的観念論に対するカントの批判など、正直にいって、分かったような分からないようなモヤモヤとした感覚がつきまとってしまう。論点3をめぐる議論でも改めて確認したが、『純粋理性批判』を著したカントのそもそもの問題意識――人間の認識が真理性(対象と一致していること)を主張できるのはなぜなのか、という問いについて、真理性を主張できる範囲を厳格に定めることによって答えようとした――をしっかりと踏まえつつ、最初から読み直していく計画を立てなければならないと強く思わされた。その際、哲学史の大きな流れのなかにカントの『純粋理性批判』を位置づけること、対象と認識との関係について唯物論の立場からはどのように考えるかを常に問い続けることを忘れてはならないと思う。

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 今回の例会をとおして、ある程度は書かれている内容を把握することができたと感じている。特に、カントが純粋悟性の国を波立さわぐ渺茫たる海に囲まれた「真理の国」にたとえているという点について、チューターが図示をしてくれたが、これまで学んだカント哲学の大枠を踏まえれば、納得できるものだった。やはり全体像を把握するということが極めて重要だなと感じた。何とか時間をとって、『純粋理性批判』全体の論の流れを確認する時間をとらなければならないと思った。

 哲学史全体の流れもしっかり押さえておかなければならないと思った。カントはバークリやライプニッツに対して批判をしているのだが、そもそもバークリやライプニッツはどのような主張をしていたのかを知らなければ、読んでいくことが難しい。そういう意味でも全体像をしっかりと押さえることが重要だと思った。

(了)
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2017年10月17日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(9/10)

(9)論点3:対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠とは何か

 前回は、カントは観念論に対してどのように反駁しているかに関する議論について見ていきました。ここでは、バークリの独断的観念論に対しては空間を物自体に属する性質と見なしている点が誤りであること、デカルトの蓋然的観念論に対しては内的経験の前提として、外的なものについての経験をしているのだということを証明することでことで反論していることを確認しました。

 さて今回は、3つ目の論点として、対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠についてカントがどのように述べているかに関する論点を見ていきたいと思います。

論点3:対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠とは何か

 カントは「純粋悟性の国」(p.319)について、波立さわぐ渺茫たる海に囲まれた「真理の国」(同上)にたとえているが、これはどのようなイメージを表現したものか。カントは、対象を現象的存在と可想的存在とに区別しているが、それぞれどのようなものだと述べているか。両者を区別する根拠をどのように説明しているか。特に、可想的存在は、積極的な意味のものではなく、消極的な意味と解せられなければならない(p.332)とか、可想的存在という概念は、感性の僭越を制限するための限界概念にすぎない(p.333)とか説かれているが、これらはどういう意味か。


 この論点に関しては、@カントのいう「純粋悟性の国」のイメージについて、A現象的存在と可想的存在とはどのようなもので、両者を区別する根拠は何かという問題、Bカントが可想的存在について、消極的な意味と解せられなければならないとか、限界概念に過ぎないとか述べているのはどういう意味か、という3点について議論していく必要がある、と当初は分けて考えていたのであるが、全ての個々の論点が繋がっているのではないかという把握のもと、チュータが以下のような図を示しました。


純粋悟性の国.png
「純粋悟性の国」「真理の国」     「波立さわぐ渺茫たる海」
現象の世界              物自体の世界
現象的存在              可想的存在
事象(積極的)            余事象(消極的)

 つまり、「純粋理性の国」「真理の国」に対する「波立さわぐ渺茫たる海」、現象的存在に対する可想的存在、積極的な意味に対する消極的な意味、可想的存在という概念が限界概念に過ぎないということ、これらは全て繋がっていて、カントは現象の世界のことを「純粋理性の国」「真理の国」と呼んでおり、この領域に存在する対象を現象的存在と名付けているのに対して、物自体の世界のことを「波立さわぐ渺茫たる海」と表現し、この領域に存在する対象を可想的存在と名付けているということです。また、前者においては、主観と客観の一致という真理が獲得できるのに対して、後者については、悟性の使用がこの領域に及んでしまうと必然的に誤謬に陥ってしまうということも確認しました。感性や悟性が及びうる範囲という意味で、前者が積極的な意味合いを持つとともに、後者はこれらが到達しえない領域という意味で、限界を超えた存在だとされていることも共通理解になりました。

 この図に関しては、この論点を網羅するものとして、概ね肯定的に捉えられました。特に追加の発言もなく、この論点についてはすっきり理解できたということでした。

 以上のような議論を行い、今回の例会における論点についての議論を終了しました。
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2017年10月16日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(8/10)

(8)論点2:カントは観念論に対してどのように反駁しているか

 前回は1つ目の論点、すなわち経験的思惟一般の公準に関する論点についての討論を見ていきました。カントは、可能的、現実的、必然的という様態の三原則について、客観的な総合的命題ではなく主観的な総合的命題であると述べているということでした。

 さて今回は、2つ目の論点として挙げられた、カントが観念論に対して行った反駁に関する論点について見ていきたいと思います。

論点2:カントは観念論に対してどのように反駁しているか

 カントは、物の現実的存在を間接的に証明しようとする規則に有力な非難を加えるものとして観念論を挙げているが、観念論による「有力な非難」とはどういうもので、それに対してどのように論駁しているか。カントは「内的経験一般は、外的経験一般によってのみ可能である」(p.305)というが、これはどういうことであり、どのように証明されているか。

 この論点に関しては、まず、カントのいう観念論とはどのようなものか見ていきました。各見解に大きな違いがなく、それらをまとめると、カントのいう観念論とは実質的観念論のことであり、デカルトの蓋然的観念論(我々の外にある、空間における対象の現実的存在を単に疑わしいもの、証明できないものとする理論)と、バークリの独断的観念論(我々の外にある対象を虚妄であり不可能であるとする理論)の2通りある、ということになりました。

 次に、観念論による「有力な非難」について検討しました。デカルトの蓋然的観念論については、我々の存在以外の現実的存在を直接の経験によって証明することは不可能だという主張をしているとカントは説明しているのに対して、バークリの独断的観念論については、そもそも空間における一切のものは単なる想像上の虚構物に過ぎない(客観的な世界など存在しない)から、物の現実的存在を証明するなどということは不可能だという主張をしているとカントは説明しているという見解で、概ね全員の見解をまとめることができました。

 最後に、これらの観念論による「有力な非難」にたいして、カントがどのように論駁しているのかについて見ていきました。この部分も見解は概ね共通していて、まずバークリの独断的観念論に対しては、この考え方は空間を物自体に属する性質と見なしているが、直観の主観的条件を全て除き去ってしまえば、空間が物を規定するということは直観できないのであるから、空間は物自体に属する性質ではなくて、直観の主観的形式であるという論を展開し、この形式を通して現象の世界が成立している、つまり対象(現象)を認識することが可能である、という形で論駁しているということでした。少し分かりにくいですが、要するに、空間を物自体の属する性質だとしてしまうと、直観の主観的条件によって物を規定するということが説明できなくなってしまうため、空間は物自体の属する性質ではなくて、直観の主観的条件にほかならないのだということをカントは主張しているのだということです。続いてデカルトの蓋然的観念論に対して、カントがどのように論駁しているのかを検討しました。この論点に関しては、我々は外的な物に関して単に想像するだけでなく、経験もしているということを証明することで反駁しようとしていることを確認しました。具体的には、「我あり」という意識は、「我」の外にある物の現実的存在を意識することなしには成立しない、それは時間に関する規定が、「我」の外にある常住不変なものを前提として初めて可能であるからだ、だから内的経験(我あり!)という時点で既に、外的な物についての経験をしているのだという論を展開することで、カントはデカルトに反論しているということでした。

 この最後の論点に関わっては、先験的感性論などのこれまでの議論をふまえた形でカントの主張が展開されているため、今回の範囲だけを理解していても、全体的な把握には至らないということを全員で確認することができました。『純粋理性批判』の全体を改めて初めから読み返していくことで、この観念論に対する批判をより深く理解できるのではないかということで、この論点に関する議論を終えました。
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2017年10月15日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(7/10)

(7)論点1:「経験的思惟一般の公準」とはどういうものか

 前回は、カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他の部分のうち、ポイントとなる部分を改めて振り返った後、9月例会で提出された3つの論点を紹介しました。

 今回から、その3つの論点について順次検討した内容を紹介していきたいと思います。まず1つ目の論点として挙げられたのは、カントのいう「経験的思惟一般の公準」とはどのようなものかを問う論点です。

論点1:「経験的思惟一般の公準」とはどういうものか

 カントは、様態のカテゴリーは特殊な性質をもっているというが、それはどのようなものか。カントがここでいう可能性、現実性、必然性とはどのようなものか。カントはなぜ、様態の原理に「公準」という名称を用いたのか。カントは、様態の三原則は客観的な総合的命題ではなく、主観的な総合的命題であると述べているが、これはどういうことか。「原則の体系に対する一般的注」ではどのようなことが説かれているかも合わせて確認したい。

 この論点1については、概ね、見解が一致していました。まず、カントが様態のカテゴリーについてどのような特殊性を持っていると述べているかについてです。これに関しては、様態のカテゴリーはいずれも対象を規定するものではなく、概念を拡張するものでもないのであって、認識能力とこの概念との関係を示すものであるということで共通理解が得られました。完全に規定された概念についても、この様態のカテゴリーを適用することで、対象と認識との関係を問うことが可能だということも確認しました。

 次に、カントがいう可能性、現実性、必然性とはどのようなものかという問題についてです。この点についても、ある物の概念が、単に経験の形式的条件(純粋直観の形式である空間・時間と純粋悟性概念)に合致している(だけな)のか、知覚されているのか、因果律によって規定されているのかによって、それぞれ可能性、現実性、必然性という規定を与えることができるのだということで落ち着きました。

 第3に、カントはなぜ、様態の原理に「公準」という名称を用いたのかという論点です。端的にいえば、これまでの純粋悟性の原則は対象を規定するものであったのに対して、今回取り上げた様態の原理はこの原理によって概念が産出されるものであって、数学でいう公準という言葉との類比で様態の原理に公準という名が付されているのだ、ということでした。

 第4に、カントが様態の三原則は客観的な総合的命題ではなく主観的な総合的命題であると述べていることについてです。これもほぼ同様の見解で、まとめると、様態の原理は物の概念をいささかも増大させることはなく、この認識に認識能力が結合される仕方(可能的か、現実的か、必然的か)を示すだけであり、客観的な物の概念について何も主張しないから客観的な総合命題ではないが、こうした対象と主観との関係を規定するから主観的な総合命題ということができるということでした。

 第5に、「原則の体系に対する一般的注」で説かれている中身について確認しました。ここでは、カテゴリーだけでは総合的な命題を作り出すことができず、対象を認識できない、必ず直観を持ち合わせていることが必要なのであり、カテゴリーは与えられた直観から認識を形成するための思考形式にすぎないということが再度述べられていることを見ていきました。また、対象を認識するための直観が外的直観でなければならないことが強調されていることも確認しました。ライプニッツが悟性だけによって考えられるような実体相互の関係を説明するために、実体間の媒介者として神を持ち出したことについて、カントが批判していることも確認しました。神に頼らずとも外的直観において表象すれば、相互性の可能は極めて容易に理解できるという批判をカントはライプニッツに与えていたのでした。

 最後に、直接論点としては取り上げられていませんでしたが、唯物論の立場から説く可能性、現実性、必然性とはどのようなものか議論してみてはどうかという提起をチュータが行いました。この問題については、諸々の見解が出されましたが、統一した理解に至ることはありませんでした。ただ、カントが提起した論点に関して、それを唯物論の立場から考えるとどうなるのかという問題意識は常に持っている必要があるのではないかということは確認できました。

 以上でこの論点に対する議論を終了しました。
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2017年10月14日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところを振り返っておきたいと思います。

 まずカントは、経験的思惟一般の公準について述べていました。これは様態についての判断の原則であって、可能的、現実的、必然的の3項目に分けられるということでした。そしてこれらの原則は、これまでの純粋悟性の原則と違って、対象を規定するものでも概念を拡大するものでもなくて、認識能力に対するこの概念の関係を表現するに過ぎないものだと説いていました。物の概念が経験的一般の形式的条件に合致していれば可能的であり、物が知覚されれば現実的であり、原因性の法則に従って生じた結果であれば必然的であるというのです。この様態の三原則は、客観的な物の概念について何も主張していないから客観的な綜合命題ではないが、対象と主観との関係を規定するという点で、主観的な綜合命題と呼べるということでした。

 続いてカントは、物の現実的存在を間接的に証明しようとする規則に対して有力な非難を加えるものとして、バークリの独断的観念論とデカルトの蓋然的観念論とを挙げていました。前者については、空間を物自体に属する性質だと見なしたために、空間および空間を条件として生じる一切のものが想像上の虚構物だとしてしまったものであり、先験的感性論において論破したと述べられていました。また後者については、我々の存在以外の現実的存在を直接の経験によって証明することが不可能だと主張するものであるが、我々は外的なものを単に想像するだけではなく経験もしていること、我々の内的経験は外的経験を前提としてのみ可能であることを証明することで、これに反論しようとしているのでした。

 最後にカントは、あらゆる対象を現象的存在と可想的存在とに区別していました。現象的存在は現象の世界にある存在であって、悟性使用によって、真理を主張することができるものでした。一方、可想的存在というのは物自体のことであって、我々が経験できないものであり、悟性の使用がこの領域に及んでしまうと必然的に誤謬に陥ってしまうと述べられていました。つまり、カントのいう現象的存在とは、感性的直観によって捉えられる対象の姿であって、可想的存在とは、感官の対象とならずに悟性によってのみ考えられた対象のことである、ということでした。

 以上のような内容について、例会では大きく3つの論点が提示されました。そして、各論点をめぐって様々な議論・討論がなされていきました。そこで今回は、その3つの論点を紹介したいと思います。次回以降、それぞれの論点をめぐってなされた討論過程と、その結果どのような(一応の)結論に到達したのかということを詳しく紹介していく予定です。

論点1:「経験的思惟一般の公準」とはどういうものか

 カントは、様態のカテゴリーは特殊な性質をもっているというが、それはどのようなものか。カントがここでいう可能性、現実性、必然性とはどのようなものか。カントはなぜ、様態の原理に「公準」という名称を用いたのか。カントは、様態の三原則は客観的な総合的命題ではなく、主観的な総合的命題であると述べているが、これはどういうことか。「原則の体系に対する一般的注」ではどのようなことが説かれているかも合わせて確認したい。

論点2:カントは観念論に対してどのように反駁しているか

 カントは、物の現実的存在を間接的に証明しようとする規則に有力な非難を加えるものとして観念論を挙げているが、観念論による「有力な非難」とはどういうもので、それに対してどのように論駁しているか。カントは「内的経験一般は、外的経験一般によってのみ可能である」(p.305)というが、これはどういうことであり、どのように証明されているか。

論点3:対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠とは何か

 カントは「純粋悟性の国」(p.319)について、波立さわぐ渺茫たる海に囲まれた「真理の国」(同上)にたとえているが、これはどのようなイメージを表現したものか。カントは、対象を現象的存在と可想的存在とに区別しているが、それぞれどのようなものだと述べているか。両者を区別する根拠をどのように説明しているか。特に、可想的存在は、積極的な意味のものではなく、消極的な意味と解せられなければならない(p.332)とか、可想的存在という概念は、感性の僭越を制限するための限界概念にすぎない(p.333)とか説かれているが、これらはどういう意味か。
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2017年10月13日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』 あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について

 前回は、原則の体系に対する一般的注などについて説かれている部分の要約を紹介しました。そこでは、物の可能は、カテゴリーだけから了解できることではなく、必ず直観を持ち合わせている必要があること、悟性は、そのア・プリオリな諸原則はもとより、その概念〔カテゴリー〕すらも、全て経験的に使用し得るだけであって、決してこれらの物を先験的に使用することはできないことなどが説かれていました。

 今回は現象的存在と可想的存在について説明されている部分の要約を紹介します。

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第3章 あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について〔承前〕

 純粋悟性概念は、常に経験的にのみ使用され得るものであり、決して先験的には使用され得ない。また純粋悟性概念の諸原則は、可能的経験の一般的条件として、感官の対象にのみ関係し得るものであり、決して物一般に(我々が物を直観する仕方を無視して)に関係し得るものではない。
 したがって、悟性がア・プリオリになし得るのは、可能的経験一般の形式を先取的に認識することだけである。また現象でないものは経験の対象になり得ないから、悟性は感性の限界、つまりそのなかでのみ我々に対象が与えられるところの限界を踏み越えることはできない。悟性の諸原則は、現象を解明する原理にすぎない。
 感性の形式的条件を欠く純粋カテゴリーは、単なる先験的意義をもちはするが、しかし先験的に使用され得るものではない。先験的使用はそれ自体不可能だからである。つまり純粋カテゴリーには(判断における)何らかの使用の条件――換言すれば、いわゆる対象なるものを概念のもとに包摂するための形式的条件が欠けているのである。カテゴリー(単なる純粋カテゴリーとしては)経験的に使用されるはずはなく、さりとてまた先験的に使用されることもできないから、カテゴリーが感性から完全に分離されてしまうと、カテゴリーのいかなる使用も不可能だということになる。
 しかしここには、なかなか避けがたいひとつの謬見が根底に存する。カテゴリーはその起原からいって、空間および時間という直観形式とは異なり、感性に基づくものではない。するとカテゴリーは、感官の一切の対象を越えてもっと広い適用ができそうに思われる。ところがカテゴリーは、その性質上思考形式にほかならない。感性的直観が悟性に付け加わらないと、悟性は全く意義をもたないのである。それにもかかわらず次のような区別がなされる。もし我々が、現象としてのある対象を直観する仕方を〔物自体としての〕これらの対象の性質自体から区別して、現象としての対象を感覚的存在と名づけるならば、我々は他方においてこの同じ対象を、〔物自体としての〕その性質自体にしたがって悟性的存在(可想的存在)と名づけるか、さもなければ全く我々の感官の対象にならないような別の可能的な物を悟性によってのみ考えられた対象として、さきの感覚的存在にいわば対立させてこれを悟性的存在者と名づける、ということである。するとここに、我々の純粋悟性概念は、こうした悟性的存在に関しては意義をもち得るのはあるまいか、またこの悟性的存在者を認識する仕方たり得るのではなかろうか、という問題が生じる。
 ところが、悟性がある対象をある関係において現象的存在と名づけるにしても、悟性はそれと同時に、この関係以外でも対象自体の表象を作り、こうした対象についても概念を構成し得ると思いなす。しかし悟性はカテゴリー以外にはどんな根本概念ももたないから、対象自体という意味での対象は、少なくともこうした純粋悟性概念によって考えられねばならないと思いなすのである。そのために悟性はややもすれば我々の感性のほかにある何かあるもの一般としての悟性的存在者という全く無規定な概念を、我々が悟性によってただひとつの仕方で認識し得るような存在者という規定された〔一定の〕概念と考えたがるのである。
 ところで我々が、物を直観する我々の〔感性的な〕仕方を無視して、可想的存在を我々の感性的直観の対象でないようなある物と解するならば、こうした物は消極的な意味での可想的存在である。しかしまた我々が可想的存在を、非感覚的な直観の対象と解するならば、我々は特殊な直観の仕方――すなわち知性的な直観の仕方を想定することになる。ところがこうした知性的な直観の仕方は我々の直観の仕方ではない。こういうのが積極的な意味での可想的存在というものであろう。
 私が直観をいっさい除き去っても、なお思惟の形式――換言すれば、可能的直観における多様なものに対して対象を規定する仕方は残る。カテゴリーは、対象が与えられる特殊な仕方(感性)を無視して、対象一般を思惟するから、感性的直観よりも遠くに達する。しかし、カテゴリーは、それによっていっそう広大な対象の領域を規定するのではない。感性的な直観の仕方とは異なる別の直観の仕方が可能でない限り、我々はこうした対象が与えられ得ることを想定するわけにはいかないからである。
 可想的存在という概念は、感性的直観を物自体まで拡大しないために、したがってまた感性的認識の客観的実在性に制限を加えるために必要なのである(我々が、感性的存在の達し得ない物、すなわち物自体を可想的存在と名づけるのは、およそ感性的思惟は悟性の思惟する一切のものを越えてその領域を広げることができない、と示すためにほかならない)。可想的存在という概念は、感性の僭越を制限するための限界概念にすぎない。したがってまた消極的にしか使用され得ないのである。
 それだから、対象を現象的存在と可想的存在とに区分し、また世界を感覚界と悟性界とに分つことは、積極的意味では全く承認され得ない。
 近代の学者の著者のなかで、感覚界と可想界という語の全く別の用法が散見されるが、この用法にはいたずらな言葉の綾しか見い出せない。現象の総括が直観される限りではこれを感覚界と名づけ、また現象の関連が普遍的な悟性法則にしたがって考えられる限りではこれを悟性界と名づけるのは、全く口実のためのこじつけでしかない。つまり問題の意味を自分に都合のよいように格下げして、困難な問題を回避しようとするのである。現象に関して、悟性と理性とが使用されることはいうまでもない。しかしここで問題は、対象が現象でないようなもの(可想的存在)の場合にも、なおかつ悟性や理性が幾分でも使用されるどうかということである。そこで問題は、悟性の経験的使用(宇宙構造に関するニュートン説においてすら悟性は経験的に使用されている)のほかに悟性の先験的使用、すなわち対象としての可想的存在に関係するような使用が可能であるかどうかということになるが、それに対しては我々は否定的な答えを与えざるを得ない。
 それだから我々が、感性は対象をそれが現われるがままに示すし、また悟性は対象をそれがあるがままに示すというときには、その「あるがまま」は経験的意味に解されるべきであって、先験的意味に解されるべきではない。我々にあっては、悟性と感性とが結合してのみ対象を規定し得るのである。もし我々が悟性と感性とを分離するならば、我々は概念のない直観かあるいは直観のない概念をもつにすぎない。しかし概念のない直観にせよあるいは直観のない概念にせよ、それは我々が一定の対象に関係させることのできない表象である。
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2017年10月12日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』原則の体系に対する一般的注その他 要約

 前回は、カントによる観念論への論駁について説かれている部分の要約を紹介しました。そこでは、デカルトの蓋然的観念論とバークリの独断的観念論が取り上げられ、特に前者に関して、デカルトがもはや疑いえないとした内的経験すら、外的経験を前提してのみ可能であることを証明することで、カントはデカルトに反論しているのでした。

 さて今回は、原則の体系に対する一般的注などが説かれている部分の要約を紹介します。

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原則の体系に対する一般的注

 およそ物の可能は、カテゴリーだけから了解できることではない。そのためには我々は必ず直観を持ち合わせていて、これによって純粋悟性概念の客観的実在性を現示しなければならない。これは大いに注意されるべきことである。我々は、直観を欠く限り、カテゴリーによってある対象を実際に考えることができるのかどうか、またカテゴリーにとにかく何らかの対象を対応させることができるのか、知りえないのである。つまりカテゴリーは、それだけでは認識にならないのであって、ただ与えられた直観から認識を形成するための思考形式にすぎない、ということが確認されるのである。それだからカテゴリーだけでは、決して総合的命題をつくり得ないわけである。
 もっと注意すべきことは、我々はカテゴリーによって物の可能を理解し、したがってまたカテゴリーの客観的実在性を明らかにするために直観を必要とするが、しかしこの直観は必ず外的直観でなければならない、ということである。一切の変化は、変化として知覚されるためだけにも、ある常住不変なものを直観において前提しているが、しかし内感には常住不変な直観というものが全く見出されない。相互性のカテゴリーの可能は、理性によるだけでは全く理解されない。我々は、空間における外的直観を欠くと、この概念の客観的実在性を明らかにすることができないのである。実際、2つ以上の実体が存在する場合、一方の実体の実在から他の実体の実在の上に何かある結果を生じさせるという作用が相互的に行われることの可能を、我々はどのようにして考えてみることができるのか。このことは相互性の概念が成立するためには是非とも必要であるが、しかし各自の実体性によってそれぞれ完全に孤立しているような物の間では、とうてい明らかにされ得ない事柄である。だから悟性だけによって考えられるような実体(世界における)に相互性を認めようとしたライプニッツは、こうした実体間の媒介者として神を必要としたのである。しかし我々が、(現象としての実体間の)相互性を空間において、したがってまた外的直観において表象すれば、相互性の可能は極めて容易に理解できるのである。空間は外的な形式関係を、(作用と反作用の、したがってまた相互作用の)実在的関係が可能であるための条件として、すでにア・プリオリに含んでいるからである。
 上述の注記は全て非常に重要である。「観念論に対する論駁」を確証するためばかりでなく、外的な経験的直観の助けをかりずに、単なる内的意識と我々自身の自然的性質の規定とによる自己認識がやがて論究される場合には、こうした認識の可能に対する制限を我々自身に指示するためにいっそう重要なのである。
 するとこの節全体の結果は、結局こういうことになる――純粋悟性の原則はいずれも経験を可能ならしめるア・プリオリな原理にほかならない。そしてア・プリオリな総合的命題もまた全て経験だけに関係する、それどころかこうした総合的命題の可能そのものが、全くこの関係を基礎にしているのである。


判断力の先験的理説(原則の分析論)

第3章 あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について

 我々はいま純粋悟性の国をあまねく巡り歩いて、この国のあらゆる地方を仔細に観察してきたばかりでなく、国中を端から端まで踏査して、この国土に存する一切のものにそれぞれしかるべき位置を規定した。しかしこの国はひとつの島である。そして自然そのものによって一定不変の限界をめぐらされている。この国土は真理の国(いかにも魅惑的な名前だ)であり、波立さわぐ渺茫たる海に囲まれている。そしてこの大洋こそ仮象のまことの棲み処なのである。我々はこの大洋を隈なく捜索して、そこに何ものかを見出す望みがあるかどうかを確かめるために海上へ乗り出そうとしているのであるが、しかしそれに先立ち、いまや立ち去ろうとするこの国の地図に一瞥を与えて、次の問題を考察しておくことは有益であると思う。その第一は、もし我々の定住し得るような土地がこの国以外には全く存在しないとしたら、我々はこの国土にあるところのものをもってとにかく満足できるかどうか、あるいは止むを得ず満足せねばならぬかどうか。第二は、いったい我々はどんな権原があってこの土地を我々自身のものであると主張するのか、また我々に対して提起される一切の敵視的な要求を退けて我々の安全をどうして保ち得るのか、という問題である。
 我々がこれまで知ったことは、悟性が自分自身のうちから得てくる一切のものは、経験から借りてきたのではないにもかかわらず、全く経験的使用のためだけのものであり、それ以外に何ら他意はない、ということである。悟性は、経験的な悟性使用を旨とするので、自分自身の認識の源泉については精しく考えようとしない。それだからなるほど非常に具合よく自分の仕事を運びはするものの、ひとつだけはどうしても自分になし得ないことがある。それは悟性使用の限界をみずから決定し、また何が自分の全領域のうちにあり何がその外にあるかを知るということである。しかし悟性がある種の問題について、それが自分の解決し得る範囲内にあるかどうかを判別できないとすると、悟性は自分の要求と所有とを確保できないわけであって、もし自分の領域の限界をしょっちゅう踏み越え(これは避けられないことである)謬見と虚妄とのなかへ迷い込むならば、しばしば恥ずべき叱正を蒙る覚悟が必要である。
 それだから悟性は、そのア・プリオリな諸原則はもとより、その概念〔カテゴリー〕すらも、全て経験的に使用し得るだけであって、決してこれらの物を先験的に使用することはできない、という命題は、もしこの命題が確認されるなら甚だ重要な結果を生じることになろう。何らかの原則におけるある概念の先験的使用とは、この概念が物一般すなわち物自体に適用されることである。また経験的使用とは、この概念が現象だけに適用されることである。しかし悟性概念に関しては一般に経験的使用だけしかあり得ないことは、次の事情から明白である。およそ概念に必要なものは、第一に概念(思惟)一般の論理的形式であり、第二には、その概念の適用される対象が概念に与えられ得るということである。こうした対象を欠く概念は、たとえ何らかの与えられたものから概念を構成するという論理的形式をなお含んでいるにしても、何の意味をももたないし、また全く内容がないことになる。ところで概念には、直観においてしかその対象が与えられ得ない。また純粋直観は、対象よりも前にア・プリオリに可能であるが、しかしこの純粋直観そのものすら、その対象と従ってまた客観的実在性とをもち得るのは、経験的直観によるよりほかない。純粋直観は経験的直観の単なる形式にすぎないのである。それだから悟性の概念と、またそれとともに悟性の原則とは、いずれもア・プリオリに可能であるにせよ、全て経験的直観に関係する。換言すれば、可能的経験を形成するための所与に関係するのである。
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2017年10月11日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』観念論に対する論駁 要約

 前回は、経験的思惟一般の公準を扱った部分の要約を紹介しました。ここでは、様態の3カテゴリーは、いずれも対象を規定するものでなく、また概念をいささかも拡大するものでもなく、認識能力に対するこの概念の関係を表現するにすぎないこと、これらのカテゴリーは先験的使用を許さず、これを経験的使用にのみ制限する必要があることなどが説かれていました。

 今回は、観念論に対するカントの論駁の部分の要約を紹介しましょう。

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観念論に対する論駁

 観念論(私のいう観念論は実質的観念論)には2通りある。第一は我々の外にある対象、すなわち空間における対象の現実的存在を単に疑わしいもの、証明できないものとするデカルトの蓋然的観念論であり、彼は「私は存在する」という唯一の経験的主張だけを疑いえないというのである。第二は、これを虚妄であり不可能であるとするバークリの独断的観念論である。空間は物を成立させる条件として物から分離されないものであるが、彼は空間と一切のものをそれ自体不可能な何かあるものであり、それ故に空間における一切のものをも単なる想像上の虚構物にすぎないというのである。もし我々が空間を物自体に属する性質と見なすなら、独断的観念論は避けられない。この場合、空間は空間を条件として成立する一切の物とともに、空想物になってしまうからである。しかしこの独断的観念論の根拠は、我々がすでに先験的感性論において論破したところである。ところが蓋然的観念論のほうは、こうしたことは何も主張せずに、ただ我々の存在以外の現実的存在を直接の経験によって証明することの不可能を説くだけであるから、合理的であるしまた徹底を旨とする哲学的考え方にもかなうところがある。つまり十分な証明が提示されないうちは、決定的判断を下さないというわけである。それだからここで要求されている証明は、我々は外的な物に関して単に想像するだけでなく、経験もしているということを証示せねばならない。このことは、我々の内的経験、すなわちデカルトがもはや疑いえないとした経験すら、外的経験を前提してのみ可能であることを証明しうるときのみ、成就され得るわけである。

定理

 私の外にある対象すなわち空間における対象の現実的存在を証明するところのものは私自身の現実的存在の単なる、とはいえ経験的に規定された意識である。

証明

 私は私自身の現実的存在を、時間に規定されたものとして意識する。時間に関する規定は全て常住不変なものを前提するが、これは私の内にあるものではない。常住不変なものの知覚は、私の外にある物によってのみ可能になる。したがって、時間における私の現実的存在の規定は、何によらず私が自分の外にあるものとして知覚するようなものの実際的存在によってのみ可能である。私自身の現実的存在の意識が同時に、私の外にある他の物の現実的存在の直接的意識なのである。
 注1)この観念論は、内的経験だけが唯一の直接的経験であり、外的な物はこの内的経験から推及されたものにすぎないと想定したが、上に証明した通り、外的経験こそ本来直接的なものなのである。内的経験そのものは間接的にのみ、外的経験によってのみ可能である。
 注2)我々は一切の時間を、空間における常住不変なものに関する外的関係(例えば、地上の対象に関する太陽の移動)における変易(運動)によってのみ規定することができる。我々が、実体の概念に直観として対応させることができる常住不変なものといえば物質だけである。そしてこの常住不変性すら、外的経験から得られるものではなく、一切の時間規定の必然的条件としてア・プリオリに前提される。したがってまた我々自身の現実的存在に関する内感の規定としても、外的な物の実際的存在によって前提されるわけである。「私」という表象に含まれている私自身に関する意識は、決して直観ではなく、思惟する主観の自発的活動によって生じた知性的表象である。この「私」は常住不変なものとして、内感における時間規定の相関者の用をなし得るようなもの――つまり経験的直観としての物質における不加入性と同じようなものである。
 注3)外的な物の表象は(夢や狂気の場合の)構想力のはたらきから生じた結果にすぎないこともあり得るから、我々自身に関するある一定の意識が可能であるためには、外的な対象の実際的存在が必要であるということからは、外的な物の直観的表象でありさえすれば同時に外的な物の実際的存在を含んでいる、という結論は出てこない。しかし、こうした表象はかつて経験したことのある外的知覚の再生によって生じたものである。そしてこの外的知覚は、すでに述べた通り、外的対象の現実的存在によってのみ可能である。

 *  *  *

 第三の必然性の公準についていえば、この公準は現実的存在の実質的な必然性に関するものであって、概念結合の単なる形式的、論理的な必然性に関するものではない。感官の対象の実際的存在は、完全にア・プリオリには認識されないにせよ、しかしすでに与えられている他の現実的存在に関係させて、比較的にア・プリオリには認識され得る。とはいえその場合にも我々が認識し得る存在は、経験の――といっても、与えられた知覚がその一部をなしているところの経験の連関のどこかに含まれていなければならないような実際的存在に限られている。それだから実際的存在の必然性は、概念から認識されるのではなくて、常に知覚されるところのものとの結合からのみ経験の普遍的法則にしたがって認識されるのである。すると与えられた原因から他の現象が条件となり、この条件のもとで認識され得る現実的存在は、与えられた原因から原因性の法則〔因果律〕にしたがって生じた結果の現実的存在だけということになる。我々が認識し得るのは、物(実体)の現実的存在の必然性ではなくて、その物の状態の現実的存在の必然性だけである。それも、知覚に与えられている他の状態から、原因性の法則にしたがって認識するにすぎない。してみるとかかる必然性の標徴は、可能的経験を成立させる法則にのみ見出されることが判る。そしてその法則とは、「生起する一切のものはその原因によって、現象においてア・プリオリに規定されている」ということである。つまり、我々が認識するのは、原因が与えられている場合に自然においてこの原因から生じた結果の必然性だけである。
 私が様態の原理に公準という名称を付した理由を述べておく。様態の3原則は、対象の概念に何ものをも付け加えないから客観的な総合命題ではないが、この概念に認識能力を適用するから、主観的な総合命題ではある。数学における公準は、ある種の総合しか含まない実用的命題である。すなわち我々は、この総合によってある対象をまず我々自身に示しておいて、それからこの対象の概念を産出するのである。例えば「与えられた線をもって、与えられた点から平面上にひとつの円を描くこと」というような命題は証明されるものではなく、この命題が要求している手続きそのものによってこそ、この図形の概念が始めて産出されるのである。これと同じく、様態の3原則は、物の概念をいささかも増大するのではなく、この概念に認識能力が結合される仕方を示すだけなのである。
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2017年10月10日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準 要約

 前回は、京都弁証法認識論研究会の9月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回に渡って、カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準等の部分の要約を紹介していくことにします。

 今回は、純粋悟性の原則の4つ目として、経験的思惟一般の公準について説かれている内容の要約を紹介します。

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経験的思惟一般の公準

1 経験の形式的条件(直観および概念に関する)と合致するものは、可能的である。
2 経験の実質的条件(感覚)と関連するものは、現実的である。
3 現実的なものとの関連が、経験の普遍的条件に従って規定されているものは、必然的である(必然的に存在する)。

 様態の3カテゴリーは、いずれも対象を規定するものでなく、また概念をいささかも拡大するものでもなく、認識能力に対するこの概念の関係を表現するにすぎない、という特殊な性質をもっている。ある物の概念が十全であってもなお、この対象は単に可能であるのか、現実的なものでもあるのか、もし現実的なものであるとすれば必然的なものでもあるのか、と問い得るのである。
 様態の3原則も可能性、現実性、必然性が経験的に使用される場合のこれら3原則の説明以上に出ず、同時に様態のカテゴリーに先験的使用を許さず、これを経験的使用にのみ制限するのである。これらカテゴリーが単なる論理的意義をもつだけでなく、また思惟の形式を分析的に表現するにとどまるべきでなくて、物と物の可能性、現実性、必然性とにかかわるべきならば、こうしたカテゴリーはいずれも可能的経験とその総合的統一とに関係しなければならない。認識の対象は、可能的経験の総合的統一においてのみ与えられるからである。
 それだから物の可能を認識する公準は、物の概念が経験一般の形式的条件に合致することを要求する。しかしこの形式的条件、つまり経験一般の客観的形式は、およそ客観の認識に必要な一切の総合を含んでいる。総合を含む概念は、もしその総合が経験に属しないとすると、空虚と見なされねばならない。したがってまたおよそいかなる対象にも関係しえないわけである。それだからア・プリオリな総合的概念によって考えられるような対象の可能が、客観の経験的認識の形式をなすところの総合によって成立するのでないとしたら、我々は対象の可能という特性をどこにも求めようがないのである。
 概念の客観的実在性、すなわちその先験的真理は、これらの概念がおよそ経験における知覚の関係をア・プリオリに表現するのでなければ認識しえない。我々はこうした客観的実在性を、もとより経験に関わりなく認識するのであるが、しかし経験一般の形式と、対象の経験的認識を可能ならしめる唯一のものであるところの総合的統一とに対する一切の関係を無視しては認識しえないのである。
 空間において常住不変に現在しながらしかも空間を占めていないような物体、未来のことを前もって直観する心力、遠隔地にいる他の人々とも精神感応を営み相手の考えていることを読みとる心的能力といった概念は、経験と既知の経験的法則とを根拠となしえないから、思考の任意の結合でしかなく、客観的実在性を要求できるようなものではない。
 しかし私は、たとえ物の可能が経験における現実性だけから推及されるにしても、こうした物を一切無視して、物がア・プリオリな概念によって可能になるということだけを考察したい。物の可能は、決してこうした概念自体だけで成立し得るものではなくて、これらのア・プリオリな概念が常に経験一般の形式的かつ客観的な条件である限りにおいてのみ成立し得るというのが、私のこれから主張しようとするところなのである。
 ひとつの三角形が可能であることは、三角形の概念自体(経験に関わりがない)から認識されるように見える。しかしこのような三角形は、構想力の所産であり対象の形式にすぎないから、対象の可能は疑わしい。対象が可能であるためには、この図形が経験の一切の対象の基礎をなすところの諸条件のもとでのみ考えられる、ということが必要なのである。要するに、空間が外的現象のア・プリオリな形式的条件であるということ、また我々が構想力においてひとつの三角形を構成するのに用いるところの総合とまったく同一であるということ――これのみがこの三角形の概念に、こうした物の可能の表象を結びつけるところのものである。連続的な量が可能であるのも、それどころか量一般が可能であるのも、全てこのような事情によるものであって、概念そのものからではなく、経験一般において対象を規定する形式的条件としての概念から初めて明瞭になるからである。
 物の現実性を認識するための公準は、知覚を必要とする。従ってまた我々が意識している感覚を必要とする。その場合にこの公準は、必ずしも対象そのものを――換言すれば、我々がその現実的存在を認識しようとする当の対象の知覚を直接に必要とするのではないが、しかしこの対象が経験の類推に従ってなんらかの現実的知覚と関連していることを必要とする。経験の類推は、経験一般における一切の実在的結合を表示するからである。
 物の単なる概念のなかには、物の現実的存在という特性は決して見出されるものではない。物の現実的存在が問題とするのは、こうした物が我々に与えられているかどうか(この物の知覚がいずれにせよ概念より前にありうるかどうか)ということだけである。もっとも、物の現実的存在が、知覚の経験的結合の原則(類推)に従っていくつかの知覚と関連していさえすれば、我々はその物を知覚する前でも、したがって比較的にア・プリオリに、こうした物の現実的存在を認識することができる。つまりその場合には、この想定された物の現実的存在は、可能的経験における我々の知覚と関連しているので、我々は経験の類推の手引きにしたがって、我々の現実的知覚から可能的知覚の系列を辿って、この物に到達することができるわけである。例えば、一切の物体を透徹している磁性的物質の現実的存在を、これに引き付けられた鉄粉の知覚から認識するように、である。ところが、物の現実的存在を間接的に証明しようとするこの規則に有力な反論を加えるものに観念論がある。そこでここに観念論に対する論駁を挿入する次第である。
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2017年10月09日

2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準 要約
(3)カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想 要約
(4)カント『純粋理性批判』原則の体系に対する一般的注その他 要約
(5)カント『純粋理性批判』あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について 要約
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:「経験的思惟一般の公準」とはどういうものか
(8)論点2:カントは観念論に対してどのように反駁しているか
(9)論点3:対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠とは何か
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 9月例会では、『純粋理性批判』の経験的思惟一般の公準その他を扱いました。今回の範囲は次のような構成になっています。

第2章 純粋悟性のすべての原則の体系
 第3節 純粋悟性のすべての綜合的原則の体系的表示
  4 経験的思惟一般の公準
  (観念論に対する論駁)
  原則の体系に対する一般的注
第3章 あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について

 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

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京都弁証法認識論研究会 2017年9月例会
カント『純粋理性批判』
経験的思惟一般の公準 〜判断力の先験的理説(原則の分析論)
 第3章 あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について

1.「経験的思惟一般の公準」とはどういうものか
 経験的思惟一般の公準とは、様態(対象の存在の仕方、対象にたいする認識能力の関係)についての判断の原則で、@可能的 A現実的 B必然的の3項目に分けられる。これら様態のカテゴリーは、これまでの純粋悟性の原則(分量、性質、関係)と異なり、対象を規定するものでも概念を拡大するものでもなく、認識能力に対するこの概念の関係を表現するにすぎない、とされる。様態の3カテゴリーは、他の原則によって概念規定された対象が可能なのか、現実なのか、必然なのか、という問題に関わるものなのである。
 可能性とは、物の概念が経験一般の形式的条件(純粋直観の形式である空間・時間と純粋悟性概念)に合致していることである。そういう形式的条件に合致していれば(実際に存在しているかどうかはともかく)存在する可能性はあるといえる。現実性とは、物が経験の実質的な条件(感覚)と関連すること、端的には、物が知覚されることである。必然性とは、原因性の法則(因果律)に従って生じた結果の現実的存在しか認識されない、ということである。
 様態の三原則は、客観的な物の概念について何も主張しないから客観的な総合命題ではないが、こうした対象と主観との関係を規定するから主観的な総合命題である、とカントは述べている。

〈報告者コメント〉
 「経験的思惟一般の公準」(様態のカテゴリーにもとづく総合判断の原則)が、他のカテゴリーにもとづく総合判断の原則とは異なって、対象そのものの概念規定に関わるものではなく、対象と認識主体との関係に関わるものだとされていることが重要であろう。カントがそもそも対象と認識との関係をどのように描いていたのか、というところから、この「経験的思惟一般の公準」の位置づけを明確にイメージしておく必要があるだろう。このことこそが、唯物論の立場からいうところの可能性、現実性、必然性とはどういうものなのか、それはカントのいわゆる可能性、現実性、必然性とどう異なるのか、議論していくための前提となるであろう。

2.カントは観念論をどう論駁しているか
 カントは、物の現実的存在を間接的に証明しようとする規則に有力な非難を加えるものとして、観念論(実質的観念論)を挙げている。この観念論には、デカルトの蓋然的観念論(我々の外にある、空間における対象の現実的存在を単に疑わしいもの、証明できないものとする理論)と、バークリの独断的観念論(我々の外にある対象を虚妄であり不可能であるとする理論)の2通りある、とされる。
 カントは、独断的観念論なるものは、空間を物自体に属する性質と見なしたために空間および空間を条件として生じる一切のものが想像上の虚構物だ、としてしまったものであり、先験的観念論においてすでに論破された、とする。これに対して、蓋然的観念論については、我々の存在以外の現実的存在を直接の経験によって証明することの不可能を説くだけであるから、合理的で哲学的考え方にかなうものだ、とする。ここから、直接的には知覚することができない物(例えば磁性的物質)の現実的存在を現象の経験的連関の法則に従って間接的に証明しようとすることへの「有力な非難」がなされることになる。このような非難に対してカントは、我々は外的なものを単に想像するだけでなく経験もしていること、このことは我々の内的経験(デカルトがもはや疑いえないとした経験)すら外的経験を前提としてのみ可能であることを証明することで論駁しようとしている。カントは、時間における私の現実的存在の規定は、私が自分の外にあるものとして知覚するような物の実際的存在によってのみ可能である、と主張するのである。

〈報告者コメント〉
 カントのいわゆる観念論と、カント自身の立場とはどう違うのか、我々自身の唯物論の立場から、よく整理しておく必要があるだろう。カントが外的経験を前提としてのみ内的経験が可能になる、と主張しているのは重要ではないかと思われるが、これは我々自身の唯物論の立場からすればどのように評価できるのか、よく確認しておきたい。

3.あらゆる対象を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠とは
 カントは「純粋悟性の国」を、波立さわぐ渺茫たる海に囲まれた「真理の国」にたとえている。「純粋悟性の国」とは、我々人間が経験できる領域のこと、すなわち現象の世界のことであり、悟性の使用がこの領域にとどまる限り、真理(主観と客観の一致)を主張することが可能となるという意味で、「真理の国」にたとえられている。これに対して、「波立さわぐ渺茫たる海」というのは、経験できない領域のこと、すなわち物自体の世界のことであり、悟性の使用がこの領域に及んでしまうと必然的に誤謬に陥ってしまう、とされている。
 カントは、純粋カテゴリーは感性から完全に分離されてしまうと対象に全く適用できなくなってしまうことを強調し、感性に基づかないカテゴリーは感官の一切の対象を超えてもっと広い範囲に適用できるかのように思うのは誤解である、と指摘する。その上で、現象的存在と可想的存在との区別を導入している。カントのいわゆる現象的存在(感覚的存在)とは、感性的直観によって捉えられる対象の姿(対象の性質自体から区別された現象)であり、可想的存在(悟性的存在)とは、人間の感官の対象にはならず悟性によってのみ考えられた対象のことである。

〈報告者コメント〉
 『純粋理性批判』を著したカントのそもそもの問題意識とは何であったのか、というところから確認すべきところであろう。人間の認識が真理性(対象と一致していること)を主張できるのはなぜなのか、という問いについて、真理性を主張できる範囲を厳格に定めることによって答えようとしたのだ、ということが確認できるであろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上の報告に対しては、概ね肯定的な評価がなされました。報告者コメントが若干分量的に少ないとはいえ、コンパクトにまとまっているのではないかということでした。また、3.の報告者コメントにあるように、カントのそもそもの問題意識を念頭に置きながら議論していく必要があることも確認しました。
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 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史