2017年12月31日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで『純粋理性批判』の序文と緒言について扱った2017年12月例会について、報告レジュメおよび当該部分の要約した文章を紹介した上で、3つの論点に諸々に議論した内容を紹介してきました。

 最後に、参加していた会員の感想を紹介することにします。

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今回は、先回の確認に基づき、また初めからカント『純粋理性批判』を読み直すということで、序文と緒言とを再び扱うこととなった。

読み直してもう一度同じ範囲を例会で扱うという今回からの取り組みについて率直に感じたことは、こうしたやり方を決断して良かったというものであった。読んでいても理解が前よりも深まっている感じがしたし、例会の議論に関しても、これまで上巻を一通り学んだことを踏まえつつ、より突っ込んだ議論ができたのではないかと思うからである。例えば、カントの問題意識については、形而上学の混乱の歴史をふまえつつ、ヒュームの因果律批判への反駁ということが大きな要因としてあったことが明確になって来たし、因果律という現象に適用される原則を確固としたものとして打ち立てることで、神、自由、魂の不死という絶対的なもの(物自体の世界に属するもの)の存在を確立しようというカントの意図も見えてきたのであった。

各会員の提出した見解についても、諸々の鋭い突込みがあったように思う。私が報告レジュメにおいて、唯物論の立場からすればカントの物自体論は、「物質の究明から逃げたのだと評されても仕方がないものであった」と記載していたことに関しては、ある会員から、カントは『自然の形而上学』という著作を計画していたのであって、決して物質の究明から逃げたわけではなく、まずは理性という認識能力に焦点を当ててこの著作を執筆したというだけではないのかといった反論がなされたり、別の会員が「人間の認識には個々の体験を一般化して考える性質がある」と述べていたことに対して、なぜ「人間には」とせずに「人間の認識には」としたのか、「一般化」とはどういうことか、それは抽象化とは違うことなのか、そうした性質は「ある」ものなのか、それとも「獲得されていく」ものなのか、といった疑問が呈せられたことなどである。

例会での議論で最も重要だったと思われるのは、カント(やヒュームといった歴史上の偉大な人物)の論を、単に現時点での唯物論の成果を借りてきて安易に批判するだけで終わってしまってはならないということであった。彼らが、当時支配的であった一般的な考え方のどこにどのように疑問を感じ、それらをどのような道筋で解決しようとしたのかという苦悩の歴史をしっかりとまずは味わってから、そのレベルの実力を把持した上で、漸くにして唯物論的な批判が可能となるという「否定の否定」を観念的に実践すべきであって、初めの否定すらしないというのでは哲学史を学ぶ意味がないのではないかということであった。

こうした再度の学びにおける成果をしっかりとふまえつつ、次回以降もカントに二重化すべく取り組んでいく必要があると感じた次第である。

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今回から、『純粋理性批判』の最初に戻って(ただし、2倍の速度で)読み直す作業を始めたのだが、非常によかったと思う。論点についても、前回同じ範囲を扱ったときとおおよそ重なるようなものであったが(これは同じ範囲を扱っているのだから当然だが)、議論のレベルがそれなりに深まっているように感じられた。哲学史の大きな流れのなかでのカントの『純粋理性批判』の位置づけとか、カントのそもそもの問題意識ということが、より明確になったのではないかと思う。

議論のなかで非常に重要だと思ったのは、現代の我々が先人たちの学問の発展の結果として知識的に獲得したにすぎないものを、あたかも我々自身の実力と錯覚して、ヒュームやカントなどを“上から目線”で批判してはならない、ということである。これは、ヒュームやカントに限らず、哲学史に名を残しているほどの人物なら全般的にいわなければならないことであろう。自分自身の実力を過信せず、偉大な先人たちへの敬意をもって学んでいかなければ、自分自身に真の実力をつけていくことはできないのだと思う。

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今回から改めて『純粋理性批判』を読み返していったが、カントの問題意識などを再確認することができて非常に良かったと思う。やはりこの序文と緒言がこの『純粋理性批判』のスタートであるとともにゴールであり、ここをしっかりと把握した上で、こことのつながりでそれぞれの部分の内容を理解していかなければならないと感じた。

議論に関わっては、カントなど名前が残っている哲学者を軽々しく批判してはいけないということを確認できたことがとても良かった。あくまでも南郷先生の実力だからこそ批判できるのであって、それを受けて我々が批判するのは勘違いもいいところであり、当時としては最高の頭脳であるということをしっかりわかっておかなければならないと思った。

なお、今回はチューターを務めたが、議論をうまく進行させることができなかったのが大きな反省点である。その場その場で出される見解をしっかり論理的に整理していくことが課題だと感じた。

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今回の例会では、カント『純粋理性批判』を初めに戻ってもう一度読み返す試みを始めたのであるが、これは非常に重要な取り組みであると再確認できた。というのは、「こんなことが書いてあったのか」という部分が非常に多かったからである。やはり、一度読んだだけでは、内容をきちんと把握することすらおぼつかないということがよくわかった。さらにそれだけではなくて、分かっていたつもりになっていた部分も、理解が深まったという気がする。たとえば、今回の範囲である序論や緒言では、『純粋理性批判』の全体像がそれとなく説かれている部分があり、途中まで読んでいったからこそ、その内容がきちんと理解できた、という側面がある。原点に戻って、常に全体像を確認することが重要だということを痛感したのも、非常に大きな学びであったと感じている。

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最後に読者の皆様に重要なお知らせがあります。来年より本ブログは新しいブログへと引越しを行います。新ブログのアドレスは以下になります。

http://kyotodialectic.seesaa.net/

中身についても大きくリニューアルする予定です。その経緯や今後の掲載のあり方については、1月4日より掲載予定の年頭言においてお伝えします。
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2017年12月30日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(9/10)

(9)論点3:ア・プリオリな総合的判断とはどういうものか

 前回は、カントがなぜ現象と物自体とを区別したのかという点について行った議論を紹介しました。

 今回は、ア・プリオリな総合的判断とはどういうものかについて行った議論を紹介します(ただし、この論点については、時間が限られていたため、ざっと確認するに留まりました)。まず論点を再度確認します。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】
3、ア・プリオリな総合的判断とはどういうものか
 カントはヒュームの懐疑論的主張に反対しつつ、「理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれる」「純粋理性の本来の課題は『ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか』という形の問いに含まれている」などと主張しているが、これはどういうことか。ア・プリオリな認識とは何か。綜合的判断とは何か。それぞれ、ア・ポステリオリな認識と分析的判断との対比で確認しておきたい。また、「先験的」という言葉の意味も押さえておきたい。このような主張を、唯物論の立場からはどのように評価することができるか。


 第一に、ア・プリオリな認識、綜合的判断、先験的とはどういうことかを確認しました。まずア・プリオリな認識ですが、これは個々の経験にかかわりのない認識というのではなくて、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識であり、経験的認識(ア・ポステリオリな認識)と対比されていること、また普遍性と必然性が含まれていることを確認しました。次に、「述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとしてAに属する」「述語と主語の結びつきが同一性の原理によって考えられる」場合の判断を「分析的判断」と呼び、「述語Bは主語Aと結び付いているが、しかしまったくAという概念の外にある」「〔述語と主語の〕結びつきが同一性によらないで考えられる」場合の判断を「綜合的判断」と呼ぶことを確認しました。先験的については、カントが「対象に関する認識ではなくてむしろ我々が一般に対象を認識する仕方――それがア・プリオリに可能である限り、――に関する一切の認識を先験的(transzendental)と名づける」(p.79)と述べていることを確認しました。また別のメンバーは、中山元訳から「対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識」と書かれていることを紹介しました。要するに、対象を見つめる自分を一歩高い立場(ディソシエイトした立場)から客観的に眺めているというイメージであることを確認しました。

 第二に、「理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれる」「純粋理性の本来の課題は『ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか』という形の問いに含まれている」とはどういうことかを確認しました。まず前者については、数学や自然科学、形而上学にア・プリオリな総合的判断が存在しているということで全員が共通していました。では、このア・プリオリな総合的判断はどうして成り立つのか(分析的判断は必ずア・プリオリであり、経験的認識は必ず総合的判断になる)が問題になります。ここを問うことが純粋理性の本来の課題だとカントは主張しているのだという見解が出されており、大きく異論はありませんでした。また、カントがこのように主張した背景には、形而上学におけるア・プリオリな総合的判断に矛盾したものが存在している(二律背反)ということがあるという見解も出されていました。結局、カントは対象が客観的にもっている普遍的な法則性を人間の認識が把握できるのはなぜなのかを問おうとしたのだという指摘もあり、全員が納得していました。

 第三に、このような主張を、唯物論の立場からはどのように評価することができるかを確認しました。認識とは対象の頭脳における反映を原基形態とするという唯物論的認識論の立場からすれば、ア・プリオリな認識を認めるわけにはいかないものの、カントが明らかにしようとした必然性や普遍性を備えた認識の成立過程は唯物論の立場でも一貫した論理で説き切ることが課題であるということや、ア・プリオリな認識を広く対象への問いかけとして捉えれば、唯物論的認識論の立場からもそれなりの解明をなした主張だと言えるかもしれないなどの見解が出されていました。

 以上で、12月例会での議論をすべて終了しました。
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2017年12月29日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(8/10)

(8)論点2:カントはなぜ現象と物自体とを区別したのか

 前回は、カントが『純粋理性批判』を執筆した問題意識について議論した内容を紹介しました。

 今回は、カントがなぜ現象と物自体とを区別したのかという点について行った議論を紹介します。まず論点を再度確認します。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】
2、カントはなぜ現象と物自体とを区別したのか
 カントは客観を現象と物自体との2つに区分しているが、なぜこのような区分をするにいたったのか。そもそも現象とは何か。物自体とは何か。純粋理性の実践的(道徳的)使用、あるいは道徳哲学における意志の自由の問題は、これとどのように関わると考えられているのか。こうしたカントの主張について、唯物論の立場からはどのように評価することができるか。


 第一に、そもそも現象・物自体とは何かについて確認しました。各自が見解を出していましたが、簡単にまとめるならば、我々の感覚器官で捉えられるものが現象であり、そのもとになっているものが物自体ということでおおむね共通した理解でした。また、このように2つに区分した理由も、形而上学の混迷や矛盾を解決するためということではほぼ同様の見解でした。もう少し詳しく言えば、我々の経験的認識が物自体としての対象に従って規定されると想定する限り、絶対的なものは矛盾なしに考えることができません(二律が背反してしま)。しかし、物が対象として我々に与えられる前に、我々が物を表象し、この表象が物自体としてのものに従うのでなく、逆に対象が現象としての我々の表象の仕方に従うのだ、と想定すれば、こうした矛盾は解消します。このように二律背反という問題を解決するために、現象と物自体とを区別したのだということでした。

 第二に、純粋理性の実践的(道徳的)使用、あるいは道徳哲学における意志の自由の問題は、これとどのように関わると考えられているのかを確認しました。これは簡単に言えば、もしこの世界が因果律によって支配されているならば、人間の意志も因果律によって支配されており、自由など存在しないはずではないか、その問題はどう考えるのかということです。こちらについても、ほぼ同様の見解が出されていました。つまり、我々が認識できる現象としての客観は自然法則に支配されていて自由とはいえませんが、物自体としての客観はそうした法則に縛られるものではなくて自由だということです。つまり、現象と物自体とを区別することによって、自然法則が支配する自然に関する学と、自由が支配する道徳哲学とが、矛盾することなく両立できるということを主張したのだということでした。

 第三に、カントの主張について、唯物論の立場からはどのように評価することができるかを議論しました。まずカントへの批判として「物質の存在する領域を二分してしまっていて、物質についての統一した把握が困難であるといえるのではないか。」「認識の及ぶ範囲と及ばない範囲を固定的に設定してしまったことは、カントの弱点といえるのではないか。」という見解が出されていました。一方で、別のメンバーは「カントの「物自体」論は、物自体を現象から明確に切り離すことによって、絶対的なもの(世界の本質的なあり方)をヒューム的な懐疑論の攻撃から守るためのものだ」という見解を出していました。ヒュームの因果律批判は、自然法則のみならずアプリオリな認識一般を否定するものでした。したがって、ヒュームの因果律批判を容認すれば、カントが世界の本質的な存在と考えていた神・自由・不死なども否定されることになります。このようなヒュームの攻撃から絶対的なものを守るために、物自体を現象から区別したのだというのです。南郷先生が「カントの「物自体」論は本質論である」といった指摘をしておられるのも、こうして点を踏まえてのものではないかということでした。これについては、全員が納得しました。

 以上で、論点2の議論を終えました
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2017年12月28日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(7/10)

(7)論点1:『純粋理性批判』におけるカントの問題意識とは

 前回は、今回扱った範囲の大事な部分を再度まとめ直した後、チューターが整理した3つの論点を紹介しました。

 今回はこのうち、カントの問題意識に関する初めの論点について、どのような議論がなされたのかを紹介します。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】
1.『純粋理性批判』におけるカントの問題意識とは?
 カントはいかなる問題意識で『純粋理性批判』を書いたのか。そもそも「理性」「純粋理性」「批判」とはどういうものか。カントのいう形而上学とはいかなる学問であるか。論理学と比較しながら確認しておきたい。その形而上学の歴史に『純粋理性批判』をどのように位置づけているか。また、カントのいうコペルニクス的転回とはどのようなことを意味しているのか。唯物論の立場からすれば、カントの問題意識についてどのように評価することができるか。


 第一に、カントはいかなる問題意識で『純粋理性批判』を書いたのかという点を議論しました。これについては、ヒュームの因果律批判に反論しようとしたということや、従来の形而上学を批判しようとしたということが挙げられていました。例えば、「ヒュームの因果律批判(原因と結果の結びつきは習慣にもとづく主観的な信念にすぎない)に接して、原因と結果の法則のような総合的判断がア・プリオリに可能であることを明らかにしなければならない、という問題意識を抱いたからである。」「これまでの形而上学は独断論的であったため、いわば土台がしっかりしていない地面の上に立てられた建物のようなものである。カントは、形而上学という建物を建てる前に、その土台をしっかりと固める必要があると説いており、その土台を固める作業が理性批判、すなわち理性の吟味なのである。」などのようにです。これについて、チューターは大きく2つの背景があるとまとめようとしましたが、形而上学の歴史の一部としてヒュームの因果律批判があるのであり、両者は一体のものなのではないかという見解が出されました。それについては全員が納得しました。

 第二に、そもそも「理性」「純粋理性」「批判」とはどういうものかという点を議論しました。まず「理性」については、カント自身が「条件からそのまた条件へと条件の系列を遡ってますます高く昇っていく」能力だと書いていることを確認しました。一方、あるメンバーは悟性との対比で「理性とは、経験を越えた存在(神など)を対象とする認識能力であって、悟性が経験的な存在を対象とすることと対になる概念である」としており、両者の関係が問題になりました。チューターは、条件からそのまた条件へと条件の系列を遡って高く昇っていけば、最終的には経験を超えた存在に行きつくということで、両者は同じものと言えるのではないかと発言しました。次に「純粋理性」については、「経験的なものから独立した理性」「あるものをまったくアプリオリに認識することのできる諸原理を含む理性」「経験に全く関係ないことが強調されている」などの見解が出されていました。この純粋理性については実践理性との対比で考えていくべきではないかという指摘もなされましたが、はっきりした把握にはいたりませんでした。最後に「批判」については、理性には何ができて何ができないのかを批判的に明らかにするという意味合いでほぼ共通した見解でした。

 第三に、形而上学とはいかなる学問であるかを確認しました。形而上学とは、一切の経験を超えた根本的な原則(世界の究極的なあり方に関わるような原則)について、諸々の論争が闘わされてきたものであるということでほぼ共通した見解でした。そして、形而上学の課題として神・自由・不死があるという指摘もありました。これに対して論理学は、一切の思惟の形式的規則を漏れなく説明し厳密に証明する学問であり、論理学は悟性に関わるもの、形而上学は理性に関わるもの、という対比がありそうだということを確認しました。

 第四に、カントが形而上学の歴史に『純粋理性批判』をどのように位置づけているかを確認しました。これは今年の2月の例会で扱ったもので、その内容を踏まえて各自が見解を出しており、おおむね共通したものでした。以下のような内容になります。

 カントは、形而上学の歴史を、女王によって統治される王国にたとえている。統治は、最初は、独断論者の支配下で専制的であったという。絶対に正しいとされる原則を前提にして、そこから世界の全てが説明されていた、ということであろう。しかし、その原則は絶対的に正しいものかどうか、きちんと証明されているとはいえないシロモノであったので、しばしば懐疑論者によって攻撃された。しかし、そうした攻撃は散発的なものにとどまり、独断論者の支配が覆されることはなかった、という。状況を大きく変えるのは、ロックの『人間悟性(知性)論』であり、結局のところ全ての原則なるものは経験に由来するのだ、と主張されたことで、形而上学の支配が覆ったかに見えたが、経験によっては原則の成立を説明しきれないことが明らかになったために、再び独断論者の支配(しかし、それは陳腐な虫食いだらけだ、とされている)が復活することになった、というのである。こうした状況のなかで、形而上学への真面目な関心がもたれなくなっているのが現状である、とカントはいう。こうした無関心についてカントは、見せかけの知識には釣られない成熟した判断力の結果であり、理性が自己認識するための法廷を設けよ、という要求にほかならない、と前向きに捉える。理性が自分自身を批判(吟味)することで、経験を超えた使用でなぜ不都合が生じてしまったのかを明らかにするのだ、というわけである。理性が経験を超えたものについて論じようとすると混迷と矛盾に陥ってしまう、という問題を正面に据え、理性自身を批判(吟味)することで、形而上学の完成に道を切り拓こうというのが、カントの『純粋理性批判』の意図であるといえよう。


 第五に、カントのいうコペルニクス的転回とはどのようなことを意味しているのかを確認しました。これは、対象が認識を規定すると考えるのではなくて、認識が対象を規定すると考えることということで、見解は一致していました。その上で、なぜカントがこのようなことを考えたのかを議論し、おおむね以下のような結論になりました。もし対象によって認識が規定されていると考えると、ヒュームのように、結局は因果律のような必然性の認識は不可能であり、それはただ習慣によるものでしかないという結論になってしまいます。これではアプリオリな認識そのものが否定され、同じく神・自由・不死などのアプリオリな認識を扱う形而上学が否定されることになってしまいます。このようなヒュームの因果律批判から形而上学を守ろうとしたのだということでした。

 第六に、唯物論の立場からすれば、カントの問題意識についてどのように評価することができるかを議論しました。独断論的な演繹でも、ロックの経験論的な帰納でも解決できなかった課題を解決しようとしたという問題意識は評価できるという点は全員が共通していました。その課題とは、なぜ普遍性や必然性の認識が成立するのかということです。これをカントは観念論的に説いたということでした。では、唯物論の立場からはどう説くのかという点について、「因果関係(法則性)は全世界に貫かれており、個々の体験にもそれが存在しているから、また、人間の認識には個々の体験を一般化して考える性質があるから、個々の体験を通して全世界を貫いている因果関係(法則性)を把握することが可能なのだ」「現代の唯物論は、世界が弁証法という普遍的な法則をもっており、人間の認識は個別的な経験の積み重ねを通じて、この普遍的な法則を把握することができると主張しているのである」という見解が出されました。前者はチューターが書いたものですが、これについて、「人間の認識には個々の体験を一般化して考える性質がある」という表現について、一般化して考えることも徐々に育っていくものであるのに、もともと存在しているようかのような表現になっているという指摘がありました。これについては、チューターも納得しました。また、そもそもこの論点ではカントの主張についてではなく、問題意識についての評価であるから、唯物論の立場からどう説くかということは論点から少しずれるのではないかという指摘もなされました。加えて、確かに、唯物論の立場では「全世界を貫いている因果関係(法則性)」「世界が弁証法という普遍的な法則性をもっており」ということを説くものの、これをカントなりヒュームなりに説得的に論じることができるのかという指摘もなされました。あくまでも一度カントやヒュームの立場に立ってみて、こちらの主張をどう受け取るか、またそれに対してどう反論してくるかを想定すること、端的には南郷先生が言うような「独りっきりの二人問答」が必要だということを確認しました。

 以上で、論点1に関する議論を終了しました。
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2017年12月27日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 これまで4回にわたって『純粋理性批判』の12月例会の範囲の要約を掲載してきました。ここで改めて、今回の範囲で大事な内容を簡単に振り返っておきたいと思います。

 カントは最初に形而上学の歴史を振り返っていました。最初は独断論の支配が行われていたものの、経験論からの反論などもあり、現在の形而上学は混迷と矛盾に陥っているということでした。そこで批判という形で理性にできることを明らかにしなければならないと説いていたのでした。

 一方、形而上学と同じく理論的認識を扱う数学や自然科学は1個の学として確実な道を歩んでいることが紹介されていました。そこでカントは、形而上学においても、数学や自然科学の考え方を模倣するべきだと説いていたのでした。その中身がコペルニクス的転回として有名なものであり、対象が認識を規定するのではなく、認識が対象を規定するというものなのでした。認識によって規定された存在としての現象と、決して認識できない存在としての物自体とを区別することにより、道徳哲学が成立する根拠なども明らかになると主張していたのでした。このように、序文において、『純粋理性批判』の結論に相当する部分が紹介されていました。

 そして緒言において、基本的な用語である純粋認識(ア・プリオリな認識)や分析的判断・総合的判断などについて解説がなされていました。純粋認識(ア・プリオリな認識)とは経験を一切含まない認識であるということでした。また「AはBである」という判断において、主語Aの中に述語Bが含まれている場合は分析的判断、含まれていない場合は総合的判断であるということでした。分析的判断においては述語Bが主語Aの中に含まれているので、主語Aを分析していくだけでよく、経験を必要としません。したがって、分析的判断であれば、ア・プリオリな認識だということになります。一方、総合的判断の場合は、述語Bが主語Aに含まれていませんから、経験を必要とします。ところが、形而上学などにおいては、ア・プリオリな総合的判断が存在しています。では、このア・プリオリな総合的判断はいかにして可能となるのかが問われるのであり、これこそが純粋理性の本来の課題なのだということでした。

 以上のような内容に関わって、会員からはいくつかの論点が提示されました。それをチューターが以下のように3つにまとめました。

1.『純粋理性批判』におけるカントの問題意識とは?
 カントはいかなる問題意識で『純粋理性批判』を書いたのか。そもそも「理性」「純粋理性」「批判」とはどういうものか。カントのいう形而上学とはいかなる学問であるか。論理学と比較しながら確認しておきたい。その形而上学の歴史に『純粋理性批判』をどのように位置づけているか。また、カントのいうコペルニクス的転回とはどのようなことを意味しているのか。唯物論の立場からすれば、カントの問題意識についてどのように評価することができるか。

2、カントはなぜ現象と物自体とを区別したのか
 カントは客観を現象と物自体との2つに区分しているが、なぜこのような区分をするにいたったのか。そもそも現象とは何か。物自体とは何か。純粋理性の実践的(道徳的)使用、あるいは道徳哲学における意志の自由の問題は、これとどのように関わると考えられているのか。こうしたカントの主張について、唯物論の立場からはどのように評価することができるか。

3、ア・プリオリな総合的判断とはどういうものか
 カントはヒュームの懐疑論的主張に反対しつつ、「理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれる」「純粋理性の本来の課題は『ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか』という形の問いに含まれている」などと主張しているが、これはどういうことか。ア・プリオリな認識とは何か。綜合的判断とは何か。それぞれ、ア・ポステリオリな認識と分析的判断との対比で確認しておきたい。また、「先験的」という言葉の意味も押さえておきたい。このような主張を、唯物論の立場からはどのように評価することができるか。

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2017年12月26日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』序文と緒言 要約C

 前回は、『純粋理性批判』の序文の前半部分の要約を紹介しました。そこでは純粋認識(ア・プリオリな認識)と経験的認識、分析的判断と総合的判断の区別などが説かれていました。端的には経験を一切含まない認識が純粋認識であるということでした。また「AはBである」という判断において、主語Aの中に述語Bが含まれている場合は分析的判断、含まれていない場合は総合的判断であるということでした。

 今回は、『純粋理性批判』の序文の後半部分の要約を紹介します。ここでは、純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな総合判断はどうして可能か」という点であることが説かれています。

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X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる

 1、数学的判断は全て総合的判断である。この命題は極めて確実で、誰も反駁できない。「7+5=12」という命題は分析的命題だと考えられるかもしれない。しかし、12という概念は、私が7と5との結びつきを考えるだけで既にこの概念において考えられているというわけにはいかない。和の概念をいくら分析しても、この概念のうちに12という数は見出されない。同様に、純粋幾何学の「直線は2点間で最短である」という命題も総合的命題である。直線という概念は長短の量を含むものではなく、ただ性質を含んでいるだけだからである。最短という概念は、全く別に付け加わったものであり、分析によってこれを直線の概念から引き出すことはできない。

 2、自然科学(物理学)はア・プリオリな総合的判断を原理として自分自身のうちに含んでいる。例えば「物体界の一切の変化において物質の量は常に不変である」あるいは「運動の一切の伝達において作用と反作用は常に相等しくなければならない」という命題は、いずれも必然性と、したがってア・プリオリな起源とを有するのみならず、総合的命題であることも明白である。物質という概念で考えられるのは、物質が空間のうちに現に存在しているということだけであり、常住不変という性質ではない。だから、物質という概念によって考えられていなかった何かあるものを、ア・プリオリにこの概念に付け加えるためには、物質という概念の外に出なければならない。

 3、形而上学は、これまでのところ単に試みられたにすぎない学であるにもかかわらず、人間理性の自然的本性からいって、欠くことのできない学だとみなされている。形而上学の旨とするところは、我々が物に関してア・プリオリに構成するところの概念を単に分析することによって、これらの概念を分析的に解明するのではなく、我々が我々の認識をア・プリオリに拡張するところにある。そのためには、与えられた概念の外に出て、この概念に含まれていなかった何かあるものを別に付け加えるような原則を用いなければならない。そこで我々は、ア・プリオリな総合的命題によってこの概念を超出することになるので、経験そのものはもはや我々に追随できないのである。例えば、「世界にはそもそもの始まりがなければならない」などという命題がこれである。


Y 純粋理性の一般的課題

 純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能か」という形の問いに含まれる。

 形而上学がこれまで非常に不確かで矛盾に満ちていたのは、哲学者たちがこのような課題はもとより、分析的判断と総合的判断との区別にすら気づかなかったからである。それでも哲学者たちのうちで、この課題の解決に最も近づいたのは、デイヴィッド・ヒュームである。しかし、彼も、生起した結果をその原因に結びつけるという総合的命題(因果律)だけにとどまった。彼は、こうした命題はア・プリオリには全く不可能であることを明らかにすることができた、と信じた。彼の推論に従えば、我々が形而上学と呼ぶところのものは全て、実際には全く経験から得たところのものや、習慣によって見かけだけの必然性を得たところのものを、理性の真正な洞察と思い誤った妄想にすぎないということになるだろう。もしヒュームが、我々の提出した課題は普遍性をもつものだということを念頭に置いていたら、一切の純粋哲学を破壊するような主張を思いつきはしなかっただろうし、彼の論証に従えば純粋数学すら存在しなくなることを覚っただろう。

 上記の課題の解決は、「純粋数学はどうして可能であるか」「純粋自然科学はどうして可能であるか」という問題に対する解答をもまた包括することになる。純粋数学にせよ純粋自然科学にせよ、いずれも実際に存在しているのだから、これらの学がどうして可能なのか問うのは当を得たことである。ところが形而上学に関しては、実際に存在しているとは言い難いので、誰しもこの学が可能であることに疑いを差し挟むのはもっともである。

 しかし、形而上学は、学としてではなくても、人間の自然的素質としては実際に存在する。人間の理性は、自分自身の止みがたい要求に駆られて、理性の経験的使用やまたそれから得られた原理などによってはとうてい答えられないような問題に向って、絶えず進んでいくものだからである。そこで形而上学については、「人間理性の自然的素質としての形而上学はどうして可能であるか」という問いが生じる。

 しかし、人間理性にとって自然な問題、例えば「世界にはそもそも始まりがあるのか、それとも世界は無限の昔から存在しているのか」という問題に応えようとする従来のあらゆる試みには、常に避けることのできない矛盾があった。それだから我々は、人間理性に存在する形而上学的素質だけにとどまっているわけにはいかず、形而上学の論究する対象は知ることができるのか否か、これらの対象について何ごとか判断する能力の有無が決められるのか、したがってまた我々の純粋理性を拡張できるのか、それとも純粋理性には明確に規定された確実な制限を付しうるのか、問わねばならない。すると、上記の一般的課題から生じてくる第三の問題は当然に次のようなものになるであろう。「学としての形而上学はどうして可能であるか」。

 それだから、理性批判は結局学にならざるをえない。これに反して批判なしに理性を独断論的に使用すれば、根拠のない主張に、したがってまた懐疑論に陥るのである。こうした主張には同じくもっともらしい主張を対抗させることができるからである。

 理性批判という学が扱うところのものは、理性の多種多様な対象ではなくて、全く理性自身であり、全て理性の内奥から生じたところの課題――理性自身の自然な本性によって理性に提出されたところの課題である。実際にも、もし理性が経験において自分に現われるところの対象に関して、前もって自分自身の能力を完全に知ることができれば、経験の一切の限界を超えて試みられる理性使用の範囲と限界とを完全かつ確実に規定することが容易になるに違いない。


Z 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分

 以上述べたところから、純粋理性批判と名づけられるような特殊な学の構想が生じる。純粋理性は、何かあるものを全くア・プリオリに認識する原理を含むところの理性である。我々の認識の拡張は果たして可能なのか、また可能だとすればそれはどのような場合に可能であるか、今のところはまだ決定されていないわけだから、我々は純粋理性とその源泉および限界との批判を旨とするような学を、純粋理性のための予備学とみなしてよい。こうした予備学は、学説ではなくて、単に純粋理性の批判と呼ばれなければならないだろう。また、この批判の効用は、思弁に関しては全く消極的であって、我々の理性を拡張するのに役立つものではなく、ただ理性を純化する用をなすことで理性が誤謬に陥るのを防ぐことになるだろう。私は、対象に関する認識ではなくてむしろ我々が一般に対象を認識する仕方に関する一切の認識を先験的(transzendental)と名づける。すると、こうした概念の体系は先験的哲学と名づけられてよいが、そういってしまっては最初としては過大である。この学は、分析的認識とア・プリオリな総合的認識を完全に含んでいなければならないので、我々の意図に関する限りでは、なお範囲が広すぎるからである。我々が分析を進めて差し支えないのは、ア・プリオリな総合の諸原理をその全範囲にわたって洞察するのに是非とも必要な程度に限られている。したがって、この研究は学説と称してよいようなものではなく、先験的批判と名づけられるべきものである。

 先験的哲学は、ある種の学の構想である。換言すれば、純粋理性批判がこの学の全設計をいわば建築術的に、すなわち原理にもとづいて立案するとともに、この建物を構成する一切の部分の完全と安全とを十分に保障しなければならないような学の構想である。すなわち、先験的哲学は、純粋理性の一切の原理の体系である。この批判がみずから先験的哲学と名のらないのは、こうした批判が完全な体系であるためには、人間のア・プリオリな認識全体の周到な分析を含まねばならないからである。

 こうした学〔純粋理性批判〕を区分するに当たって最も重要な目安は、何によらず経験的なものを含むような概念が入り込んではならない、換言すれば、ア・プリオリな認識はあくまで純粋でなければならない、ということである。それだから、道徳の最高原則と基本概念とは、ア・プリオリな認識ではあるが先験的哲学には属さない。

 ところで、一般に体系というものを考察する見地からこの学の区分を試みるとなると、我々が今述べているところの区分は、第一に純粋理性の原理論を、また第二に純粋理性の方法論を含まねばならない。またこれら2つの主要部門は、それぞれ小区分を含むことになるだろう。人間の認識には、2つの根幹がある。おそらくこれら根幹は、共通ではあるがしかし我々には知られない唯一の根から生じたものであろう。この2つの根幹というのは、感性と悟性とである。感性によって我々に対象が与えられ、悟性によってこの対象が思惟されるのである。ところで感性は、対象が我々に与えられるための条件をなすところから、先験的哲学に属するだろう。そして先験的感性論は、原理論の第一部門でなければならないだろう。認識の対象が人間に与えられるための条件は、その対象が考えられるための条件に先立つからである。
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2017年12月25日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』序文と緒言 要約B

 前回は、『純粋理性批判』第2版序文の残りの部分の要約を紹介しました。ここでは形而上学が混迷と矛盾に陥っていることを踏まえて、1個の学として確実な道を歩んでいる数学と自然科学の考え方を模倣するべきだと主張していたのでした。その中身こそが、認識が対象によって規定されるのではなく、対象が認識によって規定されるのだというコペルニクス的転回だったのでした。そして、認識できない物自体の存在を想定することによって、道徳哲学の成立根拠を明らかにしたのでした。

 今回は、『純粋理性批判』の緒言の前半部分の要約です。ここではア・プリオリな認識、分析的判断と総合的判断といった用語についての解説がなされています。

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緒言

T 純粋認識と経験的認識との区別について

 我々の認識がすべて経験をもって始まるということはいささかも疑いえない。対象こそが、我々の感覚を触発し、一方ではおのずから表象をつくりだし、他方では、我々の悟性を働かせてこれらの表象を比較し結合または分離して、感覚的印象という素材を対象の認識、すなわち経験へとつくりあげるのである。

 しかし、我々の認識がすべて経験をもって始まるとしても、我々の認識がすべて経験から生じるというわけではない。我々の経験的認識ですら、我々が感覚的印象によって受け取るところのものに、我々自身の認識能力〔悟性〕が自分自身のうちから取り出したものが付加されてできた合成物であるからである。

 それだから、経験に関わりない認識、それどころか一切の感覚的印象にすら関わりないような認識が実際に存在するかという問題は、立ち入った研究を必要とする。こうした認識は、ア・プリオリな認識と呼ばれ、経験的認識から区別される。経験的認識の源泉は経験のうちにあるから、ア・ポステリオリである。

 ところが、ア・プリオリな認識という語は、明確さを欠いており、当面の問題に含まれている意味の全体を適切に言い表すには十分ではない。土台の下を掘ったために家を倒壊させた人がいると、彼はこうすれば家が倒れるということをア・プリオリに知りえたはずだ、なにも家が実際に倒れるという経験をまつまでもなかったのに、などといわれることがあるからである。しかし、彼とて、このことを何から何までア・プリオリに知ることはできなかったのである。なぜなら、物体には重さがあるのだから、物体を支えているものが取り除かれれば落っこちてくる、ということは、やはりあらかじめ経験によって知っておかなければならなかったからである。

 それだから、これから先、我々がア・プリオリな認識というときには、個々の経験に関わりない認識ということではなく、一切の経験に絶対に関わりなく成立する認識を意味するということにしよう。ア・プリオリな認識のうちで、経験的なものを一切含まない認識を純粋認識という。例えば、「およそ変化は全てその原因をもつ」という命題はア・プリオリな命題ではあるが、しかし純粋ではない。「変化」という概念は、経験からのみ引き出すことができるものだからである。


U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない

 ここで問題は、純粋認識と経験的認識とを確実に区別しうる標徴は何か、ということである。経験は、何かあるものが事実としてしかじかであることを教えはするが、そのものが「それ以外ではありえない」という必然性を教えるものではない。だから第一に、ある命題があって、それが同時に必然性をもつと考えられるなら、それはア・プリオリな判断である。その上、その命題が必然的な命題だけから導かれたものなら、それは絶対にア・プリオリな命題である。第二に、経験はその判断に厳密な普遍性を与えるものではなく、ただ想定された相対的普遍性を与えるだけである。もし、ある判断が厳密な普遍性をもつ(ただひとつの例外も許さない)と考えられるなら、こうした判断は経験から得られたのではなく、絶対にア・プリオリに妥当する判断である。

 我々はこうした必然的な、また厳密な意味で普遍的な、したがってまたア・プリオリな純粋判断が、人間の認識に実際に存することを容易に示すことができる。「変化は全て原因をもたねばならない」という命題を例にとってみても、原因の概念は、原因が結果と結び付く必然性という概念と、この規則すなわち因果律の厳密な普遍性という概念とを明らかに含んでいる。ヒュームのように、原因の概念を習慣からひきだそうとしたら、この概念は全く成り立たない。だが、わざわざこのような例を挙げなくとも、ア・プリオリな純粋原則が経験そのものを可能にするために不可欠なものであることをア・プリオリにも示すことができる。もし、経験の進行を規定する一切の規則がどれもこれも経験的なもの、したがってまた偶然的なものだとしたら、経験は自分の確実性をどこに求めようとするのだろうか。判断ばかりでなく概念にさえ、ア・プリオリな起源をもつものがいくつかある。物体という経験概念から物体における一切の経験的なもの――色、硬さ、重さ、不可入性を次第に抜き去ってみても、この物体が占めていたところの空間は残る。


V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする

 しかし、はるかに重大な意味をもつのは、ある種の〔ア・プリオリな〕認識は一切の可能的経験の領域を捨て、自分に対応する対象が経験において全く与えられないような概念によって、我々の判断の範囲を経験の一切の限界を超えて拡張するように見える、ということである。

 純粋理性にとって避けることのできない課題は、神、自由および不死である。そしてこれらの課題の解決を究極目的とし、一切の準備を挙げてもっぱらこの意図の達成を期する本来の学を形而上学というのである。ところが、この学のとる方法は、最初は独断論的である。つまり、こうした大事業を成就しうる能力の有無を理性についてあらかじめ検討せずに、この事業の遂行を担当してはばからないわけである。

 しかし、我々としては、経験の領域を立ち去るや否や、素性の分からない認識を材料とし、起源の不明な原則をそのまま信用し、綿密な研究によって建物の基礎を確かめもせずに、すぐさま建築に取り掛かるよりも、まずその前に、一体悟性はどうしてこのようなア・プリオリな認識を得るに至ったのか、またこのような認識はどのような範囲、妥当性および価値をもつのか、という問いを提出する方がよほど自然なことであると思われる。
 我々の理性の仕事の大きな部分は、我々のすでにもっている種々の概念を分析するところにある。概念の分析は我々に多くの認識を与えるが、実質すなわち内容からいえば、分析は我々の概念を拡張するものではなくて、ただこれを分解するものにすぎない。ところが、この方法は、実際にもア・プリオリな認識を与え、またこの認識は確実でかつ有用な発展をとげるので、理性はこれに欺かれて、自分でも気づかぬうちに全く別の種類の主張をひそかに取り入れるのである。換言すれば、理性はすでに与えられている概念に、これとは全く無縁の、しかもア・プリオリな概念を付加する。しかし我々には、理性がどうしてこういうことをするのか、わけが分かっていない。それどころか我々は、こういう問いを発することすら思いつかないのである。そこで、まずはじめに、認識のこうした2通りの仕方の区別を論じてみたい。


W 分析的判断と総合的判断との区別について

 主語と述語との関係を含む一切の判断において、この関係は2通りの仕方で可能である。すなわち、述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属するか、そうでなければ述語Bは主語Aと結び付いてはいるが、しかし全くAという概念の外にあるか。第一の場合を分析的判断、第二の場合を総合的判断と呼ぶ。前者は、述語によって主語の概念に何も付け加えず、ただ主語概念を分析していくつかの部分的概念に分析するだけである。これに反して後者は、主語の概念に述語を付け加える。この述語は主語の概念においては全く考えられていなかったもの、また主語概念を分析することでは引き出してこれなかったものである。「物体は全て延長をもつ」は分析判断であるが、「物体は重さをもつ」は総合判断である。

 経験判断はその本性上、全て総合的である。分析的判断を構成するには、私がすでにもっている概念の外へ出る必要はなく、分析的判断は経験の証言を必要としない。

 ところが、ア・プリオリな総合的判断となると、経験という便宜を全くもたない。例えば、「生起するものは全てその原因をもつ」という命題において、原因という概念は、生起する何かあるものという概念の全く外にあり、生起するものとは異なる何かあるものを示している。では、私は一体どうやって、一般に生起するものの概念に、これとは全く異なるものを述語として付け加えうるのか。その支えとなる未知のXは何か。それは経験ではあり得ない。上記命題を成立させる原則は、経験が与えうる以上の普遍性をもって、そればかりかさらに必然性という言葉をもって、したがってまた全くア・プリオリな純粋概念だけによって、原因の表象を生起するものの表象に付け加え得るのである。要するに、我々のア・プリオリな思弁的認識の究極の意図は、もっぱらこうした総合的原則すなわち拡張の原則に基づいているのである。
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2017年12月24日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』序文と緒言 要約A

 前回は、『純粋理性批判』の第1版序文と第2版序文の途中までの要約を紹介しました。そこでは、形而上学が独断論によって支配されていたものの、経験論からの反論などもあり、現在は矛盾と混迷に陥っており、理性にできることを批判という形で明らかにすることが必要だと説いているのでした。一方、同じく理性的認識を扱う数学と自然科学は1個の学として確実な道を歩んでいることなどが説かれていました。

 今回は、第2版序文の残りの部分の要約です。ここでは有名なカントのコペルニクス的転回について触れられています。

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 形而上学において、学としての確実な道がこれまで見出されなかった理由は一体どこにあるのだろうか。

 私は、数学と自然科学に大きな利益を与えたところの考え方の変革に存する本質的な点を詳細に考え、また形而上学が数学および自然科学と同じく理性認識であるという事情にかんがみて、これら2つの学と形而上学との類比が許す限り、形而上学において少なくとも試みに数学および自然科学を模倣してみてはどうか、と思う。

 我々はこれまで、我々の認識は全て対象に従って規定されなければならないと考えていた。しかし、我々がこのような対象に関して、何事かをア・プリオリに概念によって規定し、こうして我々の認識を拡張しようとする試みは、こうした前提の下では全て潰え去ったのである。そこで今度は、対象が我々の認識に従って規定されなければならないというふうに想定したら、形而上学のいろいろな課題がもっとうまく解決されはしないかどうかを、ひとつ試してみてはどうだろうか。コペルニクスは、全ての天体が観察者の周囲を運行するというふうに想定すると、天体の運動の説明なかなかうまく運ばなかったので、今度は天体を静止させ、その周囲を観察者に回らせたらもっとうまくいきはしないかと思って、そのことを試みたのである。形而上学においても、対象の直観に関して、これと同じような仕方を試みることができる。もし直観が、対象の性質に従って規定されなければならないとすると、私はこの性質についてどうしてア・プリオリに、何事かを知り得るのか分からなくなる。これに反して(感覚能力の対象としての)対象が、われわれの直観能力の性質に従って規定されるというのなら、私には直ちにこのことが可能であることがよく分かるのである。

 私は表象としてのこれらの直観を、対象としての何かあるものに関係させ、対象をこうした表象によって規定しなければならない。経験そのものが認識のひとつの仕方であり、この認識の仕方は悟性を要求するが、悟性の規則は、対象がまだ私に与えられない前に、私が自分自身のうちにこれをア・プリオリに前提していなければならない。そして、こうした悟性規則は、ア・プリオリな悟性概念によって表現されるものであるから、経験の一切の対象は、必然的にこうした悟性概念〔カテゴリー〕に従って規定され、またこれらの概念と一致しなければならないのである。対象のなかには、理性だけによって必然的に考えられはするが、しかし(少なくとも理性が、自分なりにこうした対象を考えるようには)経験には全く与えられないようなものがある。こういう対象についていうと、これを考えようとする(こうした対象にしろ、とにかく考えられはするのだから)試みは、我々が一変した考え方、つまり、我々が物をア・プリオリに認識するのは、我々がこれらの物のなかへ自分で入れるところのものだけである、という新しい方法による考え方と見なすところのものの是非を吟味する試金石であることが、もっと先へ行ってから分かると思う。

 この試みは、希望通りの成功を収めて、形而上学の第一部門に、ひとつの学としての確実な道を約束した。形而上学は、この第一部門〔先験的感性論〕でア・プリオリな概念を論究するが、これらの概念に対応しかつ適合する対象は、経験に与えうるのである。上記の考え方の転換によって、ア・プリオリな認識が可能であることを非常に具合よく説明することができるし、経験の対象の総括たる自然の根底にア・プリオリに存在する法則に十分な証明を与えることができるからである。これらのことは、これまでの方法では全く不可能であった。ところが、形而上学のこの第一部門では、ア・プリオリな認識能力のこうした演繹から、形而上学の全目的にとって、すこぶる不利であるような、奇異な結果が生じる。それは、ア・プリオリな認識能力によっては、可能的経験の限界をどうしても超えられない、ということである。ところが、可能的経験の限界を越えることこそ、形而上学の最も本質的な関心事なのであり、形而上学の全目的を論究することこそ、第二部門〔先験的論理学〕の主旨なのである。ア・プリオリな理性的認識は現象だけに関係するもので、物自体は実在するかもしれないが我々には認識できないものとして度外視するというのが、第一部門の結論であった。こうした結論の真実性を吟味する実験が、この第二部門に含まれている。経験と一切の現象との限界を超えることを我我に強いるのは、無条件的なもの〔絶対的なもの〕である。理性は物自体を設定して強制的に、しかも全く当然のこととして、一切の条件付きのものに対して無条件的なものを要求し、またこうして条件の系列の完結を要求する。しかし我々が、我々の経験的認識は物自体としての対象に従って規定されると想定する限り、無条件的なものは矛盾なしには全く考えられないのである。これに反して、物〔対象としての〕が我々に与えられる前に、我々はこうした物を表象し、またこの表象が物自体としての物に従うのではなくて、かえって対象が現象として我々の表象の仕方に従うというように想定するならば、この矛盾は解消する。しかし、その場合にも、我々に無条件的なものという先験的理性概念を規定させ、また、このような仕方で、形而上学の希望するままに一切の可能的経験の限界を超えて、我々の認識――といっても、実践的〔道徳的〕な意味においてのみ可能なア・プリオリな認識をもってこうした先験的理性概念に達するような事実が、理性の実践的認識に存在しないかどうかを検討する、という課題が残されている。思弁的理性は、こういうやり方でこうした実践的拡張を可能とするために、少なくとも場所を確保した。もちろん、思弁的理性としても、この場所を開けておかざるをえなかったのである。我々が、この場所を理性の実践的事実によって満たすことは、今でも我々の自由に任されている。いや、それどころか、そうすることが理性によって我々に要求されているのである。

 形而上学の従来の方法を変革しようという試みこそ、しかも幾何学者および自然科学者を模範として形而上学の全面的な革新を企てることによってこうした変革を成し遂げようとする試みこそ、この思弁的純粋理性批判の本旨なのである。

 本書を読了した人は、思弁的理性をもって経験の限界を超えるとをあえてしないというのが本書の効用だとすれば、それは全く消極的な効用にすぎないではないか、と考えるかもしれない。しかし、思弁的理性が自分の限界を超えようとする場合に用いる原理は、我々の理性使用を拡張するように見えて、実は我々の理性使用を狭めるという結果をもたらさずにはおかない。こうした原則は、もともと感性に属するものであるにもかかわらず、実際には感性の限界をどこまでも拡張して、純粋な(実践的)理性使用すらも駆逐しかねないからである。このことを知るならば、消極的効用はたちまち積極的効用に転化する。つまり、我々の批判は、思弁的理性に制限を加えるという点では消極的であるが、理性の実践的使用を制限したり滅却したりしかねないような制限を取り除くものだという点で、積極的な効用を有するのである。

 この批判の分析的部門で証明されるのは、空間と時間とは感性的直観の形式にすぎず、現象としての物の存在を成立させる条件にほかならない、また、我々の悟性概念に対応する直観が与えられなければ我々はいかなる悟性概念ももちえず、物を認識するのに必要な要素をひとつももたない、ということである。つまり、我々が認識しうるのは物自体としての現象ではなく感性的直観の対象としての物、換言すれば現象としての物だけである。ここから、およそ理性の可能的な思弁的認識は、全て経験の対象のみに限られるという結論が当然に生じる。

 しかし、我々はこの同じ対象を、たとえ物自体として認識することはできなくても、物自体として考えることができねばならない、という考えは依然として留保される。さもなければ、現象として現われる当のものが存在しないのに、現象が存在するという不合理なことになってしまう。経験の対象としての物と、物自体としての物との区別が全く設けられなければ、原因性の原則〔因果律〕と、原因性によって規定されている自然機構とは、作用原因としての一切のもの一般にそのまま通用しなければならなくなるだろう。我々の批判は、客観を二通りの意味に解することを教える。第一には、現象としての客観であり、第二には物自体としての客観である。

 道徳哲学は、自由を我々の意志の性質として必然的に前提している。ところが、思弁的理性が、自由は全く考えられない、という証明をしたとすれば、上記の道徳的前提は、思弁的理性に屈服し、自由および道徳は自然機構に席を譲らなければならなくなる。それだから、道徳哲学に必要とされるのは、自由が自己矛盾をふくまないこと、したがってまた自由は少なくとも考えられはするものの、それ以上の理解を必要とするものではないということ、また自由は、同一の行為の自然機構をいささかも妨げるものではない、ということである。そうすれば、道徳に関する学と自然に関する学とは、各々その地歩を確保して互いに相侵すことがない。純粋理性の批判的原則から生じる積極的効用については、神や我々の心の単純性という概念に対しても、全く同様の説明がなされる。要するに、思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできないのである。私は、信仰を容れる場所を確保するために知識を除かなければならなかった。
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2017年12月23日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』序文と緒言 要約@

 今回から4回に分けて、12月例会で扱った範囲の要約を掲載していくことにします。

 今回は、『純粋理性批判』の第1版序文と第2版序文の途中までの部分です。ここでは、形而上学の歴史とそれを踏まえた『純粋理性批判』執筆の背景、また形而上学と同じく理論的認識を扱う数学や自然科学の歴史について説かれています。

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第1版序文(1781年)

 人間の理性は、ある種の認識について、理性が退けることもできず答えることもできないような問題に悩まされるという特異な運命を背負っている。退けることができないというのは、これらの問題が理性の自然な本性によって理性に課せられているからであり、答えることができないというのは、こうした問題が人間の理性のあらゆる能力を超えているからである。

 理性は、経験の過程で必ず使用されねばならず、その使用が経験によって十分に保障されている原則から出発する。理性はこうした原則によって、前提そのまた前提へとどこまでも上昇していくが、問題はいつになっても尽きることがないので、理性は、考えられうる一切の経験使用を超えるにもかかわらず、常識とも一致するほど確実に見えるような原則に逃避せざるをえなくなる。そのために理性は混迷と矛盾に陥る。理性の用いる原則は、一切の経験の限界を超越しているので、経験による吟味をもはや承認しないから、どこかに謬見が隠れているに違いないと推量するものの、それを発見することができない。この果てしない争いを展開する競技場が形而上学である。

 形而上学の統治は、最初は独断論者の支配下にあって専制的であった。数次の内乱で次第に無政府状態に堕し、定住を嫌う遊牧民たる懐疑論者が国民の結束をしばしば寸断したが、懐疑論者たちは数がいたって少なかったので、独断論者たちが絶えず新たに殖民を企てるのを防止できなかった。近代になって、女王と自称する形而上学の家柄は経験という下層民に由来するのだから女王というのは僭称だ、と一時いわれたものの、こうした系図は捏造であり、形而上学への誹謗中傷であった。そこで形而上学は依然としてその要求を主張することになり、一切はまたしても陳腐な虫食いだらけの独断論に陥った。現代では、あらゆる道が(通説では)試みられ徒労に終わった挙句、学問において有力な傾向をなすものは倦怠と全くの無関心である。

 一切の知識のうちで最も愛惜されるはずの学に対する無関心は、注意と熟考に値する現象である。この無関心は、もはや見せかけの知識には釣られない成熟した判断力の結果であり、理性のあらゆる任務のうちで最も困難な技であるところの自己認識に新たに着手し、そのためにひとつの法廷を設けよ、という理性に対する要請なのである。この法廷こそ純粋理性批判そのものにほかならない。

 私がここでいう批判は、理性が一切の経験に関わりなく獲得しようとするあらゆる認識について、理性能力一般を批判することである。私は、これまで手をつけられていなかった批判という道をとることで、従来理性がその超経験的使用のために自分自身といわば不和を醸す原因となっていたところの一切の謬見を除去する手立てが発見されたことを喜んでいる。私は、およそ形而上学の課題にして、この批判において解決されなかったもの、少なくともその手がかりがあたえられなかったものはひとつもないはずである、と明言して憚らない。

 私の言い分は、心の単一性だの世界の始まりが必然的であることなどを証明する、と謳う形而上学の綱要書の著者の主張よりも、くらべものにならぬほど穏やかなものである。こうした著者は、人間の認識を可能的経験の一切の限界を超えて拡張しようとするが、私の方は、そんなことは全く私の手に負えない、と慎ましく告白するからである。

 確実と明晰という2つの特性は認識の形式に関するものであり、甚だ手に終えない企てを敢てする著者に、当然課せられるべき本質的要求と見なされてよい。

 いやしくもア・プリオリに確立されるほどの認識ならば、絶対に必然的と認められることを欲する。ア・プリオリな純粋認識を規定することは、あらゆる必然的(哲学的)確実性の基準となり、したがってまたこうした確実性の実例にもなるのである。

 明晰ということについていえば、読者は第一に概念による論証的明晰を、第二に直観による――換言すれば、実例あるいはその他の具体的説明による直観的(感性的)明晰を要求する権利がある。論証的明晰に対して私は十分な配慮をしたが、それがまた第二の要求を満足させえなかったことの原因にもなった。通俗的な目的にこそ必要な実例や説明によって、本書をこれ以上膨れ上がらせない方がよいと思った。

 私がここでその概念を与えようとしている形而上学は、一致した協力によって短期間で完成すると期待してよい唯一の学であり、しかも完成した暁には、後世の人々にとっては、全てを教示的な方法で自分たちの目的に従って整える以外にはやることがなく、内容を少しも増やせるものではない。なぜならそれは、純粋理性による我々全ての所有物の、体系的に整理された財産目録だからである。

第2版序文(1787年)

 理性の営みのひとつである認識を改善する作業が学として確実な道を歩んでいるかどうかは、その成果を見ればすぐに判定できる。

 論理学がこうした確実な道をずっと古い時代から歩んできたことは、この学がアリストテレス以来、いささかも後退する必要がなかったことからして明白である。論理学の限界は、一切の思惟の形式的規則を漏れなく説明し、また厳密に証明するという根拠によって厳密に規定されている。

 論理学は、認識の一切の対象とその差別を度外視する権限をもっている、というようりも、そうする義務を課せられている。それゆえに、論理学において悟性が問題にするのは、悟性自身と悟性の形式だけである。しかし理性となると、理性自身ばかりでなく、その対象をも究明しなければならないので、学としての確実な道を歩むのは、当然とはいえ、理性にとってはるかに困難であるに違いなかった。このようなわけで論理学はまた予備学として、いわば諸学の玄関をなすものである。また知識が問題となる場合には、与えられた知識を判定するためにも、論理学が前提される。しかし新たに知識を獲得するとなると、これは本来の意味で、また客観的に学とよばれるべき学に求められねばならないのである。

 しかし、こうした学は、当然に理性を含んでいるわけであるから、これらの学においては、ア・プリオリに認識されるものがなければならない。理性認識は、対象とその概念を規定するだけであるか、対象を実現するか、2通りの方法で対象と関係することができる。第一は、理性による理論的認識であり、第二は、理性による実践的認識である。いずれについても、その純粋な部分(ア・プリオリな部分)だけが前もって論究されなければならない。これ以外の源泉から生じたものを、純粋な部分と混同してはならない。

 数学と物理学とは、それぞれの対象をア・プリオリに規定しなければならない2つの理論的認識である。数学は全体として純粋であり、また物理学は少なくとも部分的に純粋である。

 数学は、人間理性の歴史が遡りうる最古の時代から1個の学としての確実な道を歩んできた。それが1個の堅実な学になったのは、ひとつの革新を経たお陰である。この革新は、ある人物が素晴らしい着想を得たことによって生じた。要するに、二等辺三角形を初めて論証した人は、この図形において現に見ているところのものから図形の様々な性質を学び取るのではなく、概念に従って自分でア・プリオリに件の図形のなかへ考え入れたところのものによって、この概念に対応するところの対象を産出しなければならないということ、また彼が何ごとかを確実にかつア・プリオリ知ろうとするならば、彼は自分の概念に従って自ら対象のなかへ入れたところのものから必然的に生じる以外のものを、この対象に付け加えてはならない、ということを知ったからである。

 自然科学者たちの心に一条の光が閃いたのは、ガリレイが一定の重さの球を斜面下で落下させたとき、またトリチェリがある水柱の重さを前もって測定しておきこの重さに相当すると思われる重さを空気で支えてみたとき、さらに下ってはシュタールが金属と焼灰とからそれぞれあるものを除いたりあるいはこれにあるものを加えたりして金属を焼灰に変化させまた逆にその焼灰を金属に変化させたときであった。こうして自然科学者たちは、理性は一定不変の法則に従う理性判断の諸原理を携えて先導し、自然を強要して自分の問いに答えさせなければならないのであって、いたずらに自然に引きまわされて、あたかも幼児が手引き紐でよちよち歩きするような真似をしてはならない、ということを知ったのである。物理学の考え方の革新も、理性は自然から学ばなければならないことやまた理性自体だけではそれについて何も知りえないようなことを自分自身が自然のなかへ入れたところのものに従って、それを自然のうちに求めねばならない(もともと自然のなかにありもしないことを自然に押しつけるのではなくて)、という着想に負っているのである。
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2017年12月22日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(1/10)

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、絶対精神の成長の過程(自己=世界という自覚の成立過程)として哲学の発展の歴史を描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画にもとづいたものです。

 しかし、読み進めていく中で徐々に論の展開や用語などを把握することが難しくなり、もう一度最初から読み返していくことが必要だということが感じられるようになってきました。そして前回、先験的弁証論の入り口を扱ったことによって、やはり組織的にもう一度初めから『純粋理性批判』を復習した方がいいのではないかということになり、今回から再度読み返していくことになったのでした。ただし、すでに一度扱っている箇所であるため、これまでの2倍のペースで読み進めていくことにしたのでした。そして今回、『純粋理性批判』の序文と緒言を扱いました。

 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

カント『純粋理性批判』序文、緒言
【1】『純粋理性批判』におけるカントの問題意識とは何か?
 カントが『純粋理性批判』を執筆するに至った直接の要因は、ヒュームによる因果律批判にあるだろう。ヒュームは、原因と結果の結びつきが習慣による主観的なものに過ぎないと論じたのであるが、これに反駁するために、理性がどういうものかを吟味してみる必要性を感じたのである。もう少し視野を広げると、歴史的に混迷してきた形而上学を完成させるために、理性自身を詳しく検討してみる必要があると思い至ったものと思われる。このことにより同時に、理性の実践的使用の範囲を明確するということも念頭にあったのだろう。

<報告者コメント>
 カントは、その直近の存在であるヒュームを含めた形而上学の歴史(哲学史)を視野に入れつつ、自らの問題意識を検討していっている。普遍的な認識がどのようにして成立するのか、この問題についてヒュームは、習慣による主観的な事柄に過ぎないと断じていたのであるが、カントはこの問題について、ア・プリオリな総合判断がどうして可能であるのかという問いを立てつつ追求していくのである。独断論でも経験論でも解決しえなかった歴史上の問題に対するカントの姿勢は、カントをも歴史上の人物として俯瞰できる我々が学ぶべきものを多く持っているといえる。

【2】カントはなぜ現象と物自体とを区別したのか?
 カントが現象と物自体とを区別したのは、端的にいえば、絶対的なものを矛盾なく考えることができるようにするためである。カントは、認識が対象に規定されると考えると、絶対的なものを矛盾なしに考えることができず、二律背反に陥ってしまうから、逆に認識が現象としての対象を規定する(一方で、物自体としての対象は人間の認識では捉えることができないものだ)と考えることでこの矛盾を解決できるのではないかと考えたのである。現象は自然必然性に規定され、物自体はそうした制約から自由であると考えることで、自由と必然という二律背反を両立させたのである。

<報告者コメント>
 カントの物自体論は、避けることのできない二律背反という矛盾を解決するためにカントが編み出した根本的な法則だといえるだろう。しかしこの考え方は、あくまでも物質のありかた、性質から世界全体を説いていくという唯物論の立場からすれば、物質の究明から逃げたのだと評されても仕方がないものであった。頭の中だけで物質の世界を二分してしまい、それを現実の世界に適用して問題の解決を図るという手法ではなく、そもそも現実世界の物質が弁証法性をもった存在であると考えるのが唯物論の考え方である。

【3】ア・プリオリな総合的判断とはどういうものか?
 カントによれば、ア・プリオリな認識というのは、経験に関わりないだけでなく、一切の感覚的印象にすら関わりの内容な認識のことである。また、総合的判断は、主語の概念をいくら分析しても出てこない述語を付け加える拡張的な判断であるとも述べている。カントは、「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか」という問いを立てそれに対する答を追求していくことが形而上学の根本的な課題であるとしているのである。

<報告者コメント>
 事物の普遍性は如何にして認識可能かという問いのカントなりの表現が「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか」というものであろう。カントはこの問いに対して、時間や空間という直観の形式、カテゴリーという純粋悟性概念、そして最後にはイデーという純粋理性概念を持ってきて説明をしていくわけであるが、やはり唯物論の立場からは、世界の森羅万象のもつ法則性、弁証法性を我々が認識できるまでに人間が発展してきたからだということになるだろう。


 このレジュメに対して、いくつかの指摘がなされましたが、その中でも2つ目の報告者コメントにある「唯物論の立場からすれば、物質の究明から逃げたのだと評されても仕方がないものであった」というカントに対する評価については、大きく議論となりました。指摘したメンバーは、「カントは『自然の形而上学』などを書こうとしたのだから、逃げたというのはおかしいのではないか」ということでした。それに対して、報告者は「物自体に何の性質もないと言っているのだから、それは物質の究明から逃げたと言われても仕方がないのではないか」と答えました。また報告者は南郷先生の文章をもとにしているということだったので、その文章を確認し、確かに「物質の究明から逃げた」と解釈することもできる記述があることを確認しました。

 しかし、このような評価は南郷先生だからこそできるのであり、我々としては二律背反の問題を必死で解決しようとして物自体論に至ったカントの意義をこそ把握するべきではないか、南郷先生の受け売りで安易に「逃げた」などと評価するべきではないのではないか、という意見も出されました。これについては、報告者も納得しました。
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2017年12月11日

2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで,カント『純粋理性批判』の先験的弁証論の緒言と「第一篇 純粋理性の概念について」を扱ったわが研究会の2017年11月例会について,報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で,3つの論点について諸々に議論した内容を紹介してきました。

 今回の例会の最後で,今後の計画を変更するということになりました。どういうことかというと,前々回くらいの例会から,これまでの内容をしっかりと踏まえていないためにだんだんと分からないことが多くなってきていましたが,今回,先験的弁証論の入り口を扱ったことによって,やはり組織的にもう一度初めから,『純粋理性批判』を復習したほうがいいのではないか,ということになったのです。これまでの例会の感想で,各々の会員が初めから読み返す必要性を痛感した旨,記述していましたが,新しいところにどんどん進んでいきながら,もう一度各自で読み返していくというのは困難であると判断したのです。そこで,予定が遅れることにはなりますが,来月の例会からは,もう一度初めから読み返していくこととしたのです。ただし,すでに一度扱っている箇所ですので,これまでのペースの2倍で読み進めることとしました。すなわち,2か月分の範囲を1か月で復習していくということです。したがって次回12月例会では,今年の2月例会と3月例会で扱った部分(二つの序文と緒言)を再度扱うということになります。

 さて,最後に,参加していた会員の感想を紹介することにします。それでは,以下,参加者の感想です。

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 今回は,カント『純粋理性批判』のうち,純粋理性の概念について説かれている部分を中心に扱った。

 論点の提示までは進めることができたものの,前月に引き続き,論点への見解を執筆することができなかった。やはり本書を読み進めていていも,単なる文字の羅列を目で追っているだけといった感が拭えず,積極的・主体的に取り組む意欲が減退していたことが大きな原因であった。

 私ほどではないにしても,他会員からもなかなか読み進めていくことが困難になってきたという声が上がったこともあって,来月以降,これまでの範囲をもう一度初めからやり直すということになったことは,大きなチャンスと捉えなければならない。

 本来であれば,本書の内容が掴めないのであれば,掴めるように努力し続けていく必要があるのに,私はそこから逃げてしまっていたのであるから,もう一度初めからやっていくということに関しては,必死で取り組んでいく必要がある。

 哲学史の大きな柱の1つである本書を理解することなしには,自らの学問構築など夢のまた夢であるということを改めて肝に銘じ,言い訳せずに立ち向かっていきたいと思う。

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 今回からカント『純粋理性批判』の先験的弁証論に入った。扱ったのは「純粋理性について」の部分が中心であった。先験的仮象とは何か,理性とは何か,先験的理念とは何かといったことが説かれており,アバウトな内容は掴めたような気がしている。すなわち,経験を超越したものに対して原則を適用しようとすると先験的仮象が生じるのであるが,これは理性の本性から生じるものであるということ,理性は悟性の規則を原理のもとに統一する能力であり,無条件的なものを求めていくのであるが,その無条件的なものが先験的理念であり,魂の不死,意志の自由,神の存在という3つがあるということ,である。このような概略は掴めたと思う。

 ただ,細かく見ていくと,「規則」「原則」「原理」はどのように区別されているのかといった点や,原則とカテゴリーはどのように同じで,どのように違うのかといった点,それに理性の論理的使用と純粋使用に関わって,悟性の同じような区別はどのようになされていたのかといった点など,不明確なところも非常に多くなってきた。これまで,カントの概念規定をしっかり確認して,それを意識しながら読み進めるということが十分にはできていなかったと反省させられた。そこで,次回以降は,もう一度初めから(ただし2倍のスピードで)『純粋理性批判』を読み返していくこととなった。これは,弁証法的な学び方という点でもよかったと思う。

 どういうことかというと,物事の発展や我々人間の上達は,常に原点に戻ってそこから辿り返すという過程が必須であるとされている。これを,現在例会で扱っている『純粋理性批判』に即していえば,少し進んではまた初めから読み返し,また少し進んでは三度初めから読み返し,という形で学習していくべきだということになる。しかし,例会で次々に読み進めながら個人的に読み返していくということは,なかなか難しい。これまでも会員の反省として,何度も初めから読み返すことの必要性が説かれていたが,なかなか実践できていなかったのである。そこで,組織的に,読み進めていくことを一度否定して初めに戻り,もう一度今までのところを辿り返すことにしたのである。集団的に原点からの辿り返しを実践しようというのである。これであれば,先を読み進める負担がなくなり,原点から辿り返しに組織的に集中できるというものである。

 もちろん,そのことによって当初の予定よりも読了するまでに時間がかかるというデメリットもある。しかし,我々の目的は,とにかく『純粋理性批判』を最後まで読み通す,などといった形式的なことではなく,『純粋理性批判』の内容をしっかりと理解して,それを唯物論的に再措定することにある。この目的に照らせば,いくら時間がかかっても仕方がないであろう。

 来月からは,基本的にこれまで読んできた岩波文庫とは違う訳で読み返していきながら,カントの概念規定や議論の枠組みをしっかりと確認していきたい。

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 今回からカント『純粋理性批判』の先験的弁証論の内容に入った。なかなか難しい内容ではあったものの、何とか読み込んで論点への見解を事前に作成することができたのはよかった。その内容についても、大きく間違っているということはなかったことが例会での議論の中で確認できた。

 しかし、大まかな内容を把握するにとどまっており、細かいところを突っ込んでいくと曖昧な部分が非常にたくさん出てくる。また、文字として理解することが精一杯というのが正直なところである。例えば、魂の不死とか神の存在と言われても、それがどれぐらい大きな問題だったのかを自らの実感として把握することは難しい。この辺りは哲学史の教養が不足しているということに大きな原因があると言えるだろう。

 今後、再度『純粋理性批判』を最初から読み返していくことになったが、これまでの例会で出た議論を念頭におくとともに、そういう哲学史の背景もしっかりと押さえながら読み進めるようにしていきたいと考えている。繰り返し原点から辿り返すことは重要ではあるが、単純に同じレベルで繰り返していても仕方がないはずで、前回よりもレベルアップして辿り返していかなければならないのだと思う。それをしっかりと実践していきたい。

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 今回から先験的弁証論の内容に入った。大まかな内容としては何となく分かるのだが、細かいところに突っ込んで、これまで説かれてきた流れとのつながりをおっていくとなると怪しくなってくる……というのが正直な感想であった。そのようなことを踏まえて、来月以降、最初に戻って読み直していくことになったのはよかったと思う。哲学史の大きな流れのなかで、カントがいったいどういう問題を立ててどのように解いたのか、という観点を忘れないようにして、丁寧に読み直していくことにしたい。せっかくの機会なので、複数の翻訳を参照したり、ドイツ語原文にあたったり、要約作業をこれまで以上に丁寧に行うなどして、しっかりと取り組んでいきたい。

(了)
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2017年12月10日

2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇(9/10)

(9)論点3:先験的理念とは何か?

 前回は,理性とは何かに関する論点2についての討論過程を紹介しました。

 今回は,先験的理念にまつわる論点3について,どのような議論がなされたのかを紹介したいと思います。論点は,以下のようなものでした。

【論点再掲】

 カントは純粋理性概念を理念(イデー)と呼んでいるが,それはなぜか。先験的理念とはどのようなものか。純粋悟性概念の客観的使用は内在的であるのに対して,純粋理性概念の客観的使用は常に超越的である(p.43)とはどのようなことを意味しているのか。理性推理の上昇的系列とか下降的系列とか(pp.47-48)は,どういうことか。純粋理性は,先験的心理学,先験的宇宙論,および神の先験的認識(先験的神学)にそれぞれ理念を与える,と説かれているが,これはどういうことなのか。


 この論点についてはまず,カントが純粋理性概念を理念(イデー)と呼んでいる理由について確認しました。これについては,皆,プラトンのイデア論に由来することを指摘しました。たとえば,ある会員は,カントのいわゆる理性概念は,無条件者を含み,理性概念の関係するところのものは,一切の経験がそれに属し,しかもそれ自身決して経験の対象にならない何かあるものであるという点で,プラトンのイデアになぞらえることのできるものなのであると説明しましたし,別の会員は,イデアは物そのものの原型であるが,経験の中に合致するものが存在しないという特徴があり,これは,条件的なものを生み出す無条件的なものとしての,また経験の対象にならないものとしての理性概念と共通しているというところから,理念(イデー)と呼んでいるのであると説明しました。

 先験的理念については,チューターが次のようにまとめました。

「先験的理念とは,理性推理の形式が含むア・プリオリな概念であり,経験全体における悟性使用を原理に従って規定するとされている。また先験的理念(純粋理性概念)は理性推理における条件の総体あるいは全体であり,無条件的なものであるとされている。そして,カテゴリーにおける関係の様式の数に対応して,純粋理性概念は3つあるとされている。すなわち,主観における定言的綜合の無条件者,系列の含む諸項の仮言的綜合の無条件者,体系における一切の部分の選言的綜合の無条件者の3つである。これらは後に,それぞれ不死,自由,そして神と言い換えられている。」


 他の会員も,だいたいこのようなことが説かれていたということで同意しました。

 純粋悟性概念の客観的使用は内在的であるのに対して,純粋理性概念の客観的使用は常に超越的である(p.43)ということについては,事前に提出された見解に相違点はありませんでした。論点1を踏まえると,純粋悟性概念の客観的使用は,その性質上(感性によって与えられた表象をまとめるという性質上),可能的経験だけに制限されているのだから,必ず内在的であるのに対して,純粋理性は,カテゴリーによって考えられる総合的統一を,そのまま絶対的無条件者にまで及ぼそうとする(対象に関する一切の悟性作用を総括して絶対的全体にまとめようとする)ので,必然的に可能的経験の範囲を超えてしまうもの(絶対的全体など経験できるものではない!)であるから,超越的である,ということでした。

 理性推理の上昇的系列とか下降的系列とか(pp.47-48)についても,見解の相違はありませんでした。ある会員のまとめによると,ある条件から結論が導き出されるわけだが,その条件の条件は何か,さらにその条件は何かと遡っていくのが上昇的系列であり,こうして無条件的なものに行きつこうとするのに対して,導かれた結論を条件として新たな結論を導いていくのが下降的系列ということになるということです。チューターは,上昇的系列は抽象化,下降的系列は具体化といえるのではないかとコメントしましたが,まあ,そういうこともできるだろいうという話になりました。

 このあたりから,だいぶあやふやな状態で議論を進めていくことになりましたが,最後の内容についても,一応確認しました。それは,純粋理性は,先験的心理学,先験的宇宙論,および神の先験的認識(先験的神学)にそれぞれ理念を与える,というのはどういうことか,という問題でした。ここに関しては,一番詳しく書いていたチューターの見解を確認しました。その見解は以下です。

「理性推理は,先に少し触れたように,@定言的推理,A仮言的推理,B選言的推理の3つの種類がある。それぞれの推理において,理性は無制約者=理念を求めていく。このそれぞれの理性推理を,後の個所でカントは別の観点から説いている。すなわち,「我々の表象の一切の関係,即ち我々がそれについて概念かさもなければ理念を構成し得るところの関係は三通りになる」(p.50)として,@主観に対する関係,A現象における多様な客観に対する関係,Bあらゆる物一般に対する関係の3つを挙げているのである。@における理念は,思惟する主観の絶対的(無条件的)統一を含み,Aにおける理念は,現象の条件の系列の絶対的統一を含み,Bにおける理念は,思惟一般の一切の対象の条件の絶対的統一を含むと説かれている。これに関して3つの学問領域が挙げられ,それぞれの対象と理念が説かれていくが,「学問領域―対象―理念」の形で整理すると以下のようになるだろう。

@先験的心理学―思惟する主観(「私」)―霊魂の不死
A先験的宇宙論―一切の現象の総括(世界)―意志の自由
B神学(神の先験的認識〔理説〕)―考え得る限りの一切のものを可能ならしめる第一条件を含むところの物(一切の存在者中の存在者〔神〕)―神の存在

 カントはこの後,@ABの理念について,それぞれ「純粋理性の誤謬推理について」「純粋理性のアンチノミー」「純粋理性の理想」の中で説いていくのである。

 ちなみに,この@ABは,いわゆる「正―反―合」という形式になっているようである。@が主体,Aが客体,Bが主体と客体を合わせた世界全体というイメージであろうか。」


 分かったような分からないような感じがつきまとったままでしたが,一応,これを確認して,論点3についての議論を終了しました。

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2017年12月09日

2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇(8/10)

(8)論点2:理性とは何か?

 前回は,先験的仮象をめぐる論点1についての議論の流れを紹介しました。

 今回は,理性とは何かに関わる論点2についての討論を紹介します。まず,論点を再度確認します。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】

 理性は原理の能力であると述べられているが,これはどういうことか。原理とは何か。一般的命題とどう異なるのか。悟性との違いに注意しながら確認したい。また,理性の論理的使用と純粋使用を,どのように区別しているか。



 この論点に関しては,まず理性について確認しました。悟性と対比した場合,悟性は規則を用いて現象を統一する能力であるのに対して,理性は悟性の規則を原理のもとに統一する能力(原理の能力)であり,概念によって悟性の多様な認識にア・プリオリな統一を与えるのだ,ということで,見解は一致しました。因みに,ここでいう「概念」とは,純粋悟性概念=カテゴリーのことではなく,純粋理性概念=理念のことである,という点も確認しました。

 ここで会員の一人は,知性(悟性)は判断の能力であり,理性は推論の能力だという中山元の言葉を紹介しました。判断というのは,「AはBである」という命題のようなものであり,推論というのは,命題同士の関係に関するものであるということも確認しました。また,基本的なことながら,次の2点も確認しました。すなわち,直観の供給する素材を処理して,思惟の最高の統一に従わせるものとしては,理性よりも高いものはないと,カントが指摘している点と,理性が関係するのは悟性概念と判断であり,対象や対象の直観へ直接に関係するわけではないとカントが指摘している点の2つです。

 次に,原理とは何かについて,検討しました。おおよそ,原理とは,概念によって特殊なものを普遍的なもののうちに認識する働きであり,理性推理(特殊なものを普遍的なものにおいて認識する)の大前提として使用される一般的命題のうち,概念だけによる総合的認識のことであるという見解で落ち着きました。ここでチューターが,「原理というのは学的認識を統括する本質論のようなものとイメージされているようである」「原理による認識とか理性統一とか呼ばれているものは,われわれの言葉でいえば,本質論に基づく体系化ということになるのではないか」と発言しました。もちろん,「本質論」とか「体系化」というような明確なイメージがカントにあったわけではないものの,確かに,原理といえば,一つのものによる統括というくらいのイメージはあったのではないか,したがって,現代の論理用語でいうと「本質論」といえなくもないのではないか,という話になりました。

 理性の論理的使用と純粋使用については,多少,見解が分かれました。端的にいうと,理性が大前提と小前提を使って推理するのが論理的使用であり,理性がそれらを使わずに,理性の中にあるものから結論を出すのが純粋使用であるという見解が出されましたが,それに対してチューターは,どちらも三段論法であることには変わりなないのではないかと疑問を呈しました。しかしそれだと,両者の区別がどうであるのか,不明となってしまいます。純粋使用の方は自ら概念を産出するという点では見解は一致していましたから,そこを中心にわれわれなりに筋をとおして,およそ以下のような結論になりました。

「理性の論理的使用とは,三段論法と呼ばれる理性推理のことである。推論には@大前提とA小前提とB結論とがあり,結論によって小前提と大前提とが必然的に結びつく。推論された判断が大前提にすでに含まれていて小前提による媒介を必要としない場合(「すべての人は死ぬ」という大前提には「いくたりかの人々は死ぬ」「死なぬものは人間ではない」などの結論がすでに含まれている),この推理は直接推理=悟性推理と名づけられる。これに対して,「すべての学者は死ぬ」という結論のように,「すべての人は死ぬ」という大前提には含まれておらず,「学者は人間である」という小前提に媒介されなければならない場合を,理性推理(三段論法)と呼ぶのである。

 理性の純粋使用とは,理性自体(純粋理性)がみずからのうちに含まれる原理によって総合的統一を行うことである。理性が関係するのは悟性概念と判断であり,対象や対象の直観へ直接に関係するわけではない。理性による統一(理性統一)は,可能的経験の統一であるところの悟性による統一(悟性統一)とは本質的に区別されるのである。また,理性推理(理性の論理的使用)は,判断(結論)の条件を一般的規則(大前提)のもとに包摂する判断にほかならないが,理性はこの一般的規則にも全く同じ手続きを施し,条件のそのまた条件というものがどこまでも求められることになる。したがって,理性の本務は無条件的なものを見出すことだということになる。」

 完全な理解というわけではありませんが,だいたいこのような内容ではないかということになりました。ここに関して,カントは悟性の使用と同じような形式で説いているので,悟性の場合を復習する必要があることを確認して,論点2についての討論を終えました。
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2017年12月08日

2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇(7/10)

(7)論点1:先験的仮象とは何か?

 前回は,今回扱った範囲の大事な部分を再度まとめ直した後,チューターが整理した3つの論点を紹介しました。

 今回はこのうち,先験的仮象に関する初めの論点について,どのような議論がなされたのかを紹介します。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】

 カントは内在的原則と超越的原則とを区別しているが,これらはどのように異なっているのか。また,これに関連して,先験的と超越的とは同一ではないとも指摘しているが,これらはどのように異なっているのか。カントのいわゆる先験的仮象とはどういうものであり,どのような原因から生じると説明されているのか。現象と仮象の区別,先験的仮象と経験的仮象,論理的仮象の区別も含めて確認しておきたい。



 この論点については,まず,カントのいう内在的原則と超越的原則について確認しました。これについては見解の相違はなく,その適用が可能的経験の範囲にとどまるものを内在的原則,その適用が可能的経験の限界を超出するものを超越的原則と名づけたということでした。ここに関連して,カントは超越的原則はカテゴリーの先験的使用・誤用のことではないとして,先験的と超越的を区別していました。この区別については,次のような見解で落ち着きました。すなわち,カントのいう先験的使用というのは,ついうっかりして,純粋悟性の活動に許されている唯一の領域=空間と時間によって捉えられた現象の世界を超えてしまうような使用のことであるのに対して,超越的原則というのは,意図的に,純粋悟性はあらゆる領域で活動可能なのだとして,現象と物自体の区別を取り払うことを要求するような原則ということであるということです。訳語の意味で考えれば,先験的というのは経験に先立つということであり,超越的とは経験を超えるということになるはずだが,それがなぜ,先ほど確認したような意味につながるのかはよく分からない,という指摘もありました。このあたりは,確かによく分からないということで,今後の課題であるとしておきました。

 次に,本論点のメインテーマである先験的仮象とはどのようなものであるかという議論に移りました。まず,そもそも仮象とは何かといえば,対象と我々の悟性との関係(対象に対する悟性の判断)にのみあり得るもので,要するに主観的なものであり,一見すると真理であるかのように見えながら,誤謬に誘うようなものである,ということを確認しました。チューターは,現象は,われわれの認識にとって対象となる世界のこととであり,客観的なものであるのに対して,仮象は,対象に対する悟性の判断であり,主観的なものであるという違いが重要であろうとまとめました。

 これを踏まえて先験的仮象とは,原則を経験を超越したものに適用しようとすることによって生じる仮象であるということで,だいたい見解は一致しました。ただしここで,チューターが,原則とカテゴリーの区別と連関については確認しておきたいとして,そもそも原則とは何か,カテゴリーと同じと理解していいのかという問いを発しました。これについては,皆で使われている文脈を確認してみて,だいたい同じと考えていいのではないかという結論になりました。また,「原則」と似た言葉として,「規則」や「原理」についても,その区別と連関を確認しました。『カント事典』などによると,原理とは特殊な規則であり,原則とは特殊な規則であるということだったので,大枠としては,一番大きな集合が規則であり,その中に原則があり,さらにそのまた中に原理があるという集合論のイメージでとらえればいいのではないかということになりました。ただ,これについては,どのように特殊であるのかという具体的な内容までは理解しきれませんでした。

 経験的仮象と論理的仮象についても,皆,ほぼ同じようなイメージでした。すなわち,経験的仮象とは,「もともと正しい悟性規則を経験的に使用する場合に生じるものであり,この使用において判断力が,想像力の影響を受けて過ちを犯す」(p.14)ものであり,たとえば,海を見る場合に岸辺よりも沖合の方が高く見えたり,棒を水に突っ込めば曲がって見えたりするような,目の錯覚的なものであるということでした。これに対して論理的仮象とは,論理的規則を誤って用いたり,意図的に論理的トリックを用いたりすることによって生じる仮象であるということでした。ここに関してさらに,他の仮象と違って,先験的仮象は,仮象であることが分かり,それがとるに足らないものであることが先験的批判によって明らかに見抜かれても,依然として仮象であることをやめないとカントが指摘している点も確認しました。

 最後に,先験的仮象が生じる原因について検討しました。これに関して会員の一人は,人間理性の自然的な(本性的な)錯覚が,もともと主観的原則にもとづくものを客観的原則とすり替えてしまうことから,先験的仮象なるものが生じるのだと説明しました。これには皆同意しました。チューターは,このことについて補足しました。すなわち,霊魂や世界全体や神などといった超感性的なものに対して,カテゴリーを適用してある判断を行ってしまう,この場合,カテゴリーは主観的な原則(条件)にすぎないのに,あたかも,そのカテゴリーを適用して行った霊魂・世界全体・神などについての判断が,客観的な妥当性を有していると錯覚してしまう,ということではないか,ということでした。これについては,だいたいそのような理解でいいのではないかということになり,たとえば,「世界は時間的な始まりをもつ」という命題は,世界全体に因果律を適用しているということだろうとの指摘もありました。

 論点1については以上で議論を終了しました。
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2017年12月07日

2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 これまで,4回にわたって『純粋理性批判』の11月例会の範囲の要約を掲載してきました。

 ここで,改めて,今回の範囲で大事な内容を簡単にふり返っておきたいと思います。

 カントは,先験的弁証論の緒言で,はじめに先験的仮象とは何かについて論じていました。そもそも仮象についてカントは,「真理も誤謬も,誤謬へ誘うものとしての仮象も,対象と我々の悟性との関係にのみあり得る」として,これを現象と区別しなければならないと説いていました。そしてカントは,仮象を経験的仮象,論理的仮象,先験的仮象の3つに区分していました。経験的仮象は,例えば視覚的仮象であり,正しい悟性規則を経験的に使用する場合に生じるものであり,論理的仮象は論理的規則に対する注意の欠如から生じるものだとしていました。これに対して,先験的仮象は,カテゴリーの経験的使用の限界外に我々を連れ出すことによって生じるものだと説かれていました。論理的仮象は,注意しさえすれば消滅させたり,仮象であることをやめさせたりすることができるが,先験的仮象ではそれができないとことにも触れていました。

 次にカントは,理性とは何かについて論じていきました。カントによると,理性には間接的に推理する能力(形式的使用・論理的使用)と,みずから概念を産出する能力(実在的使用・純粋使用)があり,この2つの能力を統接するものとして,理性は原理の能力であるということでした。これは悟性が規則の能力であることと対比されて論じられているのでした。すなわち,悟性は規則を用いて現象を統一する能力であるが,理性は悟性の規則を原理のもとに統一する能力であるということでした。次にカントは,一般的命題と原理の違いを説明していました。一般的命題は理性推理の大前提として使用せられ得るものであり,その命題のもとに包摂せられる得る事例に関しては,原理と名付けられてよいと説いていました。しかし,一般的命題は概念だけによる綜合的認識ではないから,それはあくまでも相対的な原理であり,概念だけによる綜合的認識こそが原理だということでした。

 続く「第一篇 純粋理性の概念について」では,純粋理性概念や先験的理念とは何かが説かれていました。カントは,純粋悟性概念をカテゴリーと呼んだように,純粋理性概念をプラトンのイデアに倣って理念(イデー)と呼ぶと説いていました。そのうえで,先験的理念(純粋理性概念)を,理性推理の形式が含んでいる特殊でしかもア・プリオリな概念だと説いていました。先験的理性概念は,常に条件の総合における絶対的全体性を志向し,絶対的無条件者に到達せねば止まないものであり,したがって,純粋理性概念の客観的使用は常に超越的だというのです。無条件者に到達するべく条件の側において連結推理を続けることを上昇的系列とカントは呼び,一方条件付きのものの側において続けることを下降的系列と呼んでいました。

 最後にカントは,我々の表象のもち得る一切の関係を,@主観に対する関係,A現象における多様な客観に対する関係,Bあらゆる物一般に対する関係の3つに区分していました。そして,純粋理性はそれぞれにおいて無条件的なものを求めようとするから,先験的心理学,先験的宇宙論,先験的神学のそれぞれに理念を与えることになると説いているのでした。

 以上のような内容に関わって,会員からはいくつかの論点が提示されました。それをチューターが以下のように3つにまとめました。

1.先験的仮象とは何か?

 カントは内在的原則と超越的原則とを区別しているが,これらはどのように異なっているのか。また,これに関連して,先験的と超越的とは同一ではないとも指摘しているが,これらはどのように異なっているのか。カントのいわゆる先験的仮象とはどういうものであり,どのような原因から生じると説明されているのか。現象と仮象の区別,先験的仮象と経験的仮象,論理的仮象の区別も含めて確認しておきたい。


2.理性とは何か?

 理性は原理の能力であると述べられているが,これはどういうことか。原理とは何か。一般的命題とどう異なるのか。悟性との違いに注意しながら確認したい。また,理性の論理的使用と純粋使用を,どのように区別しているか。


3.先験的理念とは何か?

 カントは純粋理性概念を理念(イデー)と呼んでいるが,それはなぜか。先験的理念とはどのようなものか。純粋悟性概念の客観的使用は内在的であるのに対して,純粋理性概念の客観的使用は常に超越的である(p.43)とはどのようなことを意味しているのか。理性推理の上昇的系列とか下降的系列とか(pp.47-48)は,どういうことか。純粋理性は,先験的心理学,先験的宇宙論,および神の先験的認識(先験的神学)にそれぞれ理念を与える,と説かれているが,これはどういうことなのか。



 これらの論点について,会員は事前に自己の見解をまとめて文章化し,それをチューターが取りまとめて,コメントを付しました。ここまでを例会までにすませておき,それを踏まえて例会当日には議論をしました。次回以降は,例会当日にどのような議論がなされて,どのような(一応の)結論に到達したのか,ということを紹介していきたいと思います。
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2017年12月06日

2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』先験的弁証論 第一篇後半

 前回は,『純粋理性批判』「第二部 先験的弁証論」の「第一篇 純粋理性の概念について」の前半部分,すなわち「第一章 理念一般について」までの要約を掲載しました。そこでは,理性概念が無条件者を含むとすれば,そのような理性概念が関係するのは一切の経験がそれに属し,しかもそれ自身けっして経験の対象にならないような何かあるものであること,純粋理性概念をプラトンのイデアに倣って理念(イデー)と名づけたことなどが説かれていた。

 今回は,『純粋理性批判』「第二部 先験的弁証論」の「第一篇 純粋理性の概念について」の残りの部分,すなわち,「第二章 先験的理念について」と「第三章 先験的理念の体系」の部分の要約を紹介します。ここでは,先験的理念について詳細に説かれていきます。

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第2章 先験的理念について

 先験的分析論は,我々の認識の単なる論理的形式〔判断の形式〕がア・プリオリな純粋概念の根源を含み得ることを明示した。これらの概念は,対象の経験的認識を可能ならしめる唯一の条件であるところの総合的統一を表示するものである。こうして判断の形式は,経験における一切の悟性使用を指導するところのカテゴリーを産出した。これと同様に,我々が理性推理の形式を,カテゴリーにならって直観の総合的統一に適用すれば,我々はこの形式が特殊でしかもア・プリオリな概念の根源を含むだろうという見込みをつけてよい。すると我々はこれらの概念を純粋理性概念すなわち先験的理念と名づけることができる。そしてこうした理念は,経験の全体における悟性使用を原理にしたがって規定することになるだろう。
 理性推理における理性の機能の特性は,概念による認識の普遍性ということである。そしてまた理性推理そのものが,その条件の全範囲にわたってア・プリオリに規定されるような判断なのである。先験的理性概念は,与えられた条件付きのものに対する条件の全体という概念にほかならない。
 すると,純粋理性概念の数も,悟性がカテゴリーによって考えるところの関係の様式の数に相応することになるだろう。したがって第一に,主観における定言的総合の無条件者,第二に,系列の含む諸項の仮言的総合の無条件者,第三に,体系における一切の部分の選言的総合の無条件者が求められなければならない。
 これらとまったく同数の理性推理の様式があり,それらはいずれも前推理からそのまた前推理へと遡りつつ,無条件者に向かって進むのである。それだから条件の総合における全体という純粋理性概念は,悟性の統一をできるなら無条件者まで遡らせるために,少なくとも課題として必然的であり,また人間理性の自然的本性にもとづいているのである。
 先験的理性概念は,常に条件の総合における絶対的全体を志し,絶対的無条件者――すなわちいかなる関係においても無条件的なものに到達せねば止まない。純粋理性は,一切の認識を悟性にゆだねる。悟性はまず直観の対象に関係する。というよりはむしろ構想力による対象の総合に関係する。そして純粋理性は,悟性使用における絶対的全体性だけを自分自身のために保留し,カテゴリーによって考えられるところの総合的統一をそのまま絶対的無条件者にまで及ぼそうとするのである。それだからかかる統一は,現象の理性統一と名づけられてよい。理性が悟性使用に関係するのは,悟性使用が可能的経験の根拠を含むからではなく,悟性が全く知らないような統一への方向をしているすためである。この統一の旨とするところは,およそ対象に関する一切の悟性作用を総括してひとつの絶対的全体にまとめるにある。それだから純粋理性概念の客観的使用は常に超越的である。
 ここで私のいう理念は必然的理性概念であり,この概念に対応するような対象は感官には決して与えられない。それだから我々がいま考察している純粋理性概念は先験的理念である。先験的理念は超越的であって一切の経験の限界を超出する。それだからこれらの理念に完全に合致するような対象は,経験においては決して現われ得ないのである。
 先験的理性概念について,「それは単なる理念にすぎない」といわざるを得ないにせよ,しかし我々は,理念を決して余計なもの,とるに足りないものと見なしてはなるまい。悟性は理性概念によって,なるほど対象を悟性概念にしたがって認識する以上には認識しないが,しかしこうした認識においてもっとよく指導され,またもっと遠くまで達し得るのである。そのうえこれらの理性概念が,おそらく自然概念から実践的概念への移り行きを可能にし,こうして道徳的理念そのものに支持と理性の思弁的認識との関連とを与え得ることはいうまでもあるまい。
 我々は,我々本来の意図に従い,実践的理念はひとまず度外視し,理性を思弁的使用においてのみ,またこの使用でもさらに狭い先験的使用についてのみ考察する。
 理性が認識のある種の論理的形式の能力と見なされる場合には,理性は推理する能力である。理性作用は連結推理を形成する。これが推理の系列であり,この系列は条件の側においてか(前推理によって),あるいは条件付きのものの側においてか(後推理によって),両者のいずれかの側で,不定の遠さまで続けられるのである。
 前推理の系列は与えられた認識に対する条件の側において推論された認識の系列であり,これはいわば理性推理の上昇的系列である。これに対して,理性が条件付きのものの側において,後推理を用いて進行するところの系列は,下降的系列である。ある認識が条件付と見なされる場合は,理性は条件の系列を上昇的な線において完結しているもの,換言すれば全体として与えられているものと見なさざるを得ない。しかしこの同じ認識が同時に,下降的な線における結論の系列なすような他の認識に対する条件と見なされる場合には,下降的方向を辿るこの進行がどこまで達するのか,またこの系列の全体が一般に可能かどうかというようなことは,理性にとってはまるきり興味のない問題である。結論は上昇的方向を辿るところの条件によって十分に規定され保証されている。この全体的系列そのものは無条件的〔絶対的〕に真でなければならない,というのが理性の要求である。

第3章 先験的理念の体系

 先験的弁証論は,純粋理性によるある種の認識の根源と,推論されたある種の認識,すなわち全く純粋悟性の能力の範囲外にあってその対象が経験的には決して与えられ得ないような概念の根源とをア・プリオリに含むとされているところのものである。
 我々の表象のもち得る一切の関係のうちで最も一般的なのは,(1)主観に対する関係と,(2)客観に対する関係とに分たれる。さらにまたこの客観は,現象としての客観と,思惟一般の対象としての客観に再区分される。そこでこの再区分を上記の主たる区分に結合すると,我々の表象の一切の関係,すなわち我々がそれについて概念かさもなければ理念を構成し得るところの関係は3通りになる。すなわち(1)主観に対する関係,(2)現象における多様な客観に対する関係,(3)あらゆる物一般に対する関係である。
 ところで純粋悟性概念はすべて表象の総合的統一を事とするが,これに反して純粋理性概念(先験的理念)は一般にあらゆる条件の無条件的,総合的統一を旨とする。従ってすべての先験的理念は3種の理念のうちいずれかに入る。第一は思惟する主観の絶対的(無条件的)統一を含み,第二は現象の条件の系列の絶対的統一を含み,第三は思惟一般の一切の対象の条件の絶対的統一を含む。
 思惟する主観は心理学の対象であり,一切の現象の総括は宇宙論の対象であり,また考え得る限りの一切の物を可能ならしめる第一条件を含むところの物(一切の存在者中の存在者〔神〕)は神学の対象である。それだから純粋理性は,先験的心理学,先験的宇宙論,先験的神学にそれぞれ理念を与える。
 理性は,定言的理性推理に用いるのと同じ機能を総合的に使用するだけで思惟する主観の絶対的統一という概念に必然的に到達する。また仮言的理性推理における論理的手続きは,与えられた条件の系列における絶対的無条件者という理念を必然的に生じさせる。最後に,選言的理性推理の単なる形式は,異才の存在者中の存在者という最高の理性概念を必然的に生じさせる。このような事情は,つづく詳論で初めて明らかにされるだろう。

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2017年12月05日

2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』先験的弁証論 第一篇前半

 前回は,『純粋理性批判』「第二部 先験的弁証論」の緒言の後半部分,すなわち,「U 先験的仮象の在処としての純粋理性について」のうちの「B 理性の論理的使用について」と「C 理性の純粋使用について」の部分の要約を紹介しました。そこでは,理性の論理的使用とは,認識内容をすべて度外視した,悟性と同じくまったく形式的な使用のことであり,理性の純粋使用とは,自ら概念を産出する能力であるとされていた。

 今回は,同書「第二部 先験的弁証論」の「第一篇 純粋理性の概念について」の前半部分,すなわち「第一章 理念一般について」までの要約を掲載します。ここでは,純粋理性概念と理念について論じられていきます。

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先験的弁証論

第1篇 純粋理性の概念について

 純粋理性概念は,単に反省によって得られたものではなく,まったく推論によって得られた概念である。悟性概念〔カテゴリー〕もまたア・プリオリに経験よりも前に考えられて経験を可能ならしめる概念であるが,しかしこの概念は,現象が可能的な経験的意識に必然的に属する限り,こうした現象に施された反省による統一しか含んでいない。悟性概念即ちカテゴリーの客観的実在性は,カテゴリーの適用が常に経験にのみ限られているということに基づく。
 しかしすでに理性概念という名称からして,この概念が経験の範囲内に制限されていそうもないことが判る。理性概念の関係する認識は,およそいかなる経験的認識も単にその一部分をなすにすぎないような認識である。理性概念の旨とするところは理性による理解であり,悟性概念の旨とするところは,概念による(知覚の)理解である。理性概念が無条件者を含むとすれば,こうした理性概念の関係するところは,一切の経験がそれに属し,しかもそれ自身決して経験の対象にならないような何かあるものである。それにもかかわらず理性概念が客観的妥当性をもつとすれば,それは正しく推論された概念と名づけられてよい。そうでないとすれば,そのような理性概念は正しい推論らしく見せかけて忍び込んだ概念だから詭弁的概念と呼ばれてよいだろう。しかし,こうしたことは純粋理性の弁証的巣理論に関する篇で初めて解決され得る問題である。我々はとりあえず純粋理性の概念に新しい名前を与えてこれを理念(イデー)と呼び,こうした名称をつけた理由を説明する。

第1章 理念一般について

 思索を事とする人は,自分の概念にぴったり合った表現が見つからなくて当惑する場合がしばしばあるが,新語を造るのは言語について立法を敢えてしようとする越権であり,なかなか成功するものではない。こういうよくよくの手段に訴える前に,もう死語と見なされている学術語のなかで,自分の概念に恰好な表現がないかどうか探してみるのが当を得たやり方である。
 プラトンはイデアという語を用いた。プラトンにあっては,イデアは物そのものの原型であった。またカテゴリーと同じく可能的経験を成立させる要件であったが,そればかりでなはない。イデアは最高の理性から流出して,人間理性に授けられたものである。ところが人間理性はもはや本来の純粋な状態にあるのではない。そこで我々は今となっては極めて不分明な古いイデアを追憶によって呼び覚まさねばならない,というのである。
 もとよりプラトンは,次のような事情を十分承知していた。すなわち,我々の認識能力は,現象を総合的統一によって綴り,現象を経験として読むことができればよいというだけではなくて,それよりもはるかに高い欲求を感知している。また我々の理性は,その自然的本性のままに高翔して認識に達しようとするが,しかしおよそ経験が与え得るほどの対象はこうした認識に決して合致するものではない。それにもかかわらずこの認識は実在性をもち,単なる空想の所造ではない,ということである。
 人間の理性が真に原因性となり,理念が作用原因(行為とその対象とを生ぜしめる原因)となるところといえば,それは道徳の領域である。しかしプラトンが,この領域においてのみならず自然そのものに関しても,その根源がイデアにあるという明白な証明を認得したのは当然のことである。植物にせよ動物にせよ,あるいはまた宇宙の規則正しい節序(したがってまた恐らくは自然全体の秩序の全体)にせよ,これらのものが理念によってのみ可能であることを明示している。なるほど個々の被造物は,それぞれの現実的存在の条件下にあるところから,各自の属する種の最も完全なもののイデアと合致するものではない。しかしこれらのイデアは,最高の悟性においてはそれぞれ不変的にまた完全に規定されていて,物の根源的原因をなしている。そして世界において結合されている一切の物の全体のみが件のイデアに完全に適合するのである。表現の行き過ぎを別にすれば,この哲学者が,世界秩序における自然的なものを理念の不完全な模写と見なすことからはじめて,目的すなわちイデアにしたがってこの世界秩序の建築術的〔体系的〕結合へ上昇していく精神の高翔は,我々の尊敬と追随とに値する努力である。また道徳,立法および宗教の原理に関するところについていえば,イデアが経験において完全に実現されることは不可能であるにせよ,しかし(善の)経験を初めて可能にするのはやはりイデアそのものなのである。したがってイデアは,これらの領域において実に独自の功績を有する。それだのにこの功績を認めないのは,こうした功績が全く経験的規則によって判定されるためであるが,しかし原理としての経験的規則の妥当性は,当然イデアによって無効にされたはずである。自然に関しては,我々に規則を与えるものは経験であり,経験が真理の源である。しかし道徳に関しては,経験は(残念ながら!)仮象を産む母であり,私がなすべきところのものに関する法則を,なされるところのものに求めようとし,あるいは後者によって前者に制限を加えようとすることは,まことにもってのほかの沙汰である。
 広壮な道徳的建築〔体系〕を築造すべき土地の地下には,埋蔵された財宝を掘り当てようとする理性の穿ったモグラ道が四通八達していて,これが建築を危険なものにしている。しかし,理性の宝探しは徒労に終わらざるを得ない。我々が純粋理性の影響と価値とを適正に規定しまた評価するためには,純粋理性の先験的使用と純粋理性の原理および理念とを正確に知らねばならない。
 ここで,もし哲学を心にかけていられる方たちが私の述べたこと,これから論述することによって確信を得られたなら,どうか理念(イデー)という語をその原義に即して保存されることをお願いしたい。そうすればこの表現はこれから先ほかのいろいろな表現のなかに交じり込んで,この学を損なわずにすむと思う。実際,理念という語で,種々な表象の仕方を不用意に乱雑に表現しているのが一般だからである。しかしどんな表象の仕方にもそれぞれ適当な名称が欠けているわけではないから,ほかの表象の仕方の所有権を侵害する必要はない。ここに表象の仕方の段階を挙げると次のようになる。
 類は表象である。この類の下に,意識をもつ表象がある。知覚が主観の状態の変化として主観のみに関係すると,それは感覚である。また客観的な知覚は認識である。認識は直観であるか概念であるか,2つのうちいずれかである。直観は直接に対象に関係し,したがって個別的である。概念は多くのものに共通であり得るような標徴を用いて間接的に対象に関係する。また概念は,経験的概念であるか純粋概念であるか,2つのうちいずれかである。純粋概念が,悟性にのみその起原をもつ限りでは悟性概念と呼ばれる。悟性概念から生じて経験の可能を超出するような概念は理念すなわち理性概念である。このような区別になれている人は,赤い色の表象を理念などと呼ぶのを聞くと我慢できないに違いない。こうした表象は,悟性概念と呼ばれる分際のものですらないのである。
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2017年12月04日

2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言後半

 前回は,『純粋理性批判』「第二部 先験的弁証論」の緒言の前半部分,すなわち,「T 先験的仮象について」と,「U 先験的仮象の在処としての純粋理性について」のうちの「A 理性一般について」の部分の要約を掲載しました。そこでは,先験的仮象とは超越的原則に基づいて形成される仮象であり,それがとるに足らないものであることが先験的批判によって明らかに見抜かれても,依然として仮象であることをやめないこと,理性は悟性の規則を原理のもとに統一する能力であることなどが説かれていました。

 今回は,同書「第二部 先験的弁証論」の緒言の後半部分,すなわち,「U 先験的仮象の在処としての純粋理性について」のうちの「B 理性の論理的使用について」と「C 理性の純粋使用について」の部分の要約を紹介します。ここでは,理性の二つの使用についてその区別が説かれています。

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B 理性の論理的使用について

 直接に認識されるものと,推論されるものとの間には区別がある。「3直線で囲まれる図形は3個の角をもつ」ということは直接に認識される。しかしその3個の角の和が2直角に等しいということは推論された認識にほかならない。我々はこうした推論になれてしまうと,直接の認識と推論された認識との区別に気づかなくなり,実際には推論したことでも直接に知覚したものと思いなしてしまうことがしばしばである。およそ理性推理には,理由となる1個の命題〔大前提〕と,これから引き出されるいま1個の命題〔小前提〕すなわち推論があり,最後にこの推論の結果(理由と帰結との関係)〔結論〕がある。そしてこれによって第二の命題〔小前提〕が第一の命題〔大命題〕の真と必然的に結びつくのである。推論された判断が,第一の命題にすでに含まれていて,この判断が第三の概念〔媒概念〕に媒介されなくても,第一の命題から導出される場合には,この推理は直接推理と称される。私はこれを悟性推理と名づけたい。しかし結論を出すために,理由となる認識〔大前提〕のほかになお別の判断〔小前提〕を必要とする場合には,この推理は理性推理〔三段論法〕といわれる。「すべての人は死ぬ」という命題には「いくたりかの人々は死ぬ」「いくたりかの死ぬ人々は人間である」「死なぬ者は人間ではない」などの命題がすでに含まれている。これに反して「すべての学者は死ぬ」という命題は,「すべて人は死ぬ」という根底に存する命題には含まれていないから,媒介的判断〔小命題〕を介してのみ,推論されるのである。
 およそいかなる理性推理においても,私はまず悟性によってひとつの規則〔大前提〕を考える。次に私は判断力を用いてある認識をこの規則の条件のもとに包摂する〔小前提〕。最後に私はこの規則の述語によって,したがってまたア・プリオリに理性によって私の認識を規定する(結論)。規則としての大命題は,ある認識とその条件との間の関係を示すものであるが,これらの関係にしたがってそれぞれ異なる理性推理が構成される。それは,一切の判断が悟性における認識の関係を表現する仕方の区別に応じて,3通りある。すなわち,定言的理性推理,仮言的理性推理,選言的理性推理である。
 ところで,私がある理性推理から得た結論を与えられた判断として,これをさらに別の理性推理の一般的規則〔大前提〕と見なす場合,この判断がすでに与えられている他の判断から生じはしまいかどうか知ろうとするならば,私はこの結論の含む主張が再びある条件のもとで,ある一般的規則から導来されないかどうかを,悟性について調べてみるだろう。そしてもし私がこうした条件を見出し,この結論の含む対象が与えられた条件のもとに包摂されるならば,こういう結論は認識の他の諸対象にも妥当するところのいっそう一般的な規則から推論されたことになる。してみると理性が,きわめて多様な悟性認識を理性推理によって最も少数の原理に還元し,こうして悟性認識の究極の統一を成就しようとしていることは,これによって明らかである。

C 理性の純粋使用について

 我々は理性を,それだけとして孤立させることができるのか,また孤立させることができたとしても,理性はそれでもなお概念および判断――すなわち理性からのみ生じ,また理性がそれによって対象に関係するところの概念と判断との独自の源泉であるのか,それとも理性は与えられた認識にある形式を付与する従属的能力にすぎないのか,という問題がある。ここである形式というのは論理的形式と呼ばれるものであり,これによって悟性認識相互の間に従属関係が成立し,またこれらの悟性認識が互いに比較され得る限り,下位の規則は上位の規則に従属させられるのである。約言すれば,問題はこういうことになる。理性自体すなわち純粋理性は,総合的原則ないし規則をア・プリオリに含んでいるのかどうか,またこうした原理は本来どのようなものであるのか,ということである。
 理性推理における理性の形式的,論理的手続きは,純粋理性による総合的認識における理性の先験的原理はいかなる根拠にもとづくのだろうかということについて,すでに十分な手引きを与えている。
 第一に,理性推理は,直接に直観に関係して直観を規則のもとに統摂するものではない。理性が関係するのは悟性概念と判断である。それだから,純粋理性が対象に関係するといっても,対象や対象の直観へ直接に関係するのではなく,悟性と悟性の判断だけに関係するのである。
 第二に,理性はその論理的使用において,理性による判断(結論)の一般的条件を求めようとする。理性推理そのものが,こうした判断の条件を一般的規則(大前提)のもとに包摂する判断にほかならないのである。ところで理性は,この一般的規則にもまたこれとまったく同じ手続きを施すので,条件のそのまた条件というものがどこまでも求められなければならない。
 この論理的格率が純粋理性の原則となり得るためには,無条件的なものが与えられているなら逐次に従属的関係をなすところの条件の全系列も与えられている,ということを想定するしかない。
 ところが純粋理性のこうした原則はあきらかに総合的命題である。このような原則からはまた種々な総合的命題が生じてくるけれども,純粋悟性はこれらの命題についてはいささかも知るところがないのである。純粋悟性の事とするのは可能的経験の対象であるが,可能的経験の対象の認識と総合とは常に条件付きだからである。
 純粋理性のこうした最高原理に完全に適合するような経験的使用は全く不可能だろう。このような原則は,およそ悟性の原則(全て経験の可能ということを建前とする)とは全く類を異にするものである。するとここに次のような問題が生じる。条件の系列(現象の総合,あるいは物の思惟一般の総合における)は無条件者にまで遡るという原則は客観的に正しいかどうか,もし正しいとすればこの原則は悟性の経験的使用にどのような結果を及ぼすのか,それともこうした客観的妥当性をもつ理性命題はもともと存しないのであって絶えずいっそう高い条件に遡りつつ条件の完結に近接することで我々に可能な最高の理性統一を我々の認識に与えるような単なる論理的指定が存するだけではあるまいか,理性のこうした欲求は何か誤解によって純粋理性の先験的原則とみなされているのではあるまいか,そしてこの先験的原則なるものは早まって無制限的完結を対象そのものにおける条件の系列に関して要請しているのではあるまいか,しかしそうなると大前提を純粋理性から得てきたところの理性推理,そして経験から経験の条件へさらにその条件へと遡るところの理性推理のなかへ,なんと甚だしい誤解やごまかしが忍び込むだろうか,というような問題である。こういう問題の解明が,この先験的弁証論における我々の仕事である。

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2017年12月03日

2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言前半

 今回から4回に分けて,11月例会で扱った範囲の要約を掲載していくことにします。

 今回は,『純粋理性批判』「第二部 先験的弁証論」の緒言の前半部分です。すなわち,「T 先験的仮象について」と,「U 先験的仮象の在処としての純粋理性について」のうちの「A 理性一般について」の部分です。ここでは,先験的仮象とは何か,理性とは何かといったことが論じられています。

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先験的論理学

第2部 先験的弁証論

緒言

T 先験的仮象について

 我々はさきに弁証論一般を仮象(Schein)の論理学と名づけたが,これは弁証論が「確からしさ(Wahrscheinlichkeit)」の学だという意味ではない。確からしさは真であり,ただ不十分な根拠によって認識されたというだけだからである。「確からしさ」をもつ認識は,不完全であってもまやかしというわけでなく,論理学の分析的部門から切りはなされてはならない。まして現象と仮象は同一視されてはならない。真理とか仮象とかいうものは,対象が直観される限りにおいては,対象そのものにあるのではなくて,対象が考えられる限りにおいて対象に関する判断にある。真理も誤謬も,誤謬に誘うものとしての仮象も,判断にのみあり得る。感官には判断は全く存しないのだから,誤謬は,感性がひそかに悟性に及ぼした影響によってのみ生じる。これがために判断の主観的根拠と客観的根拠とが混雑して,客観的根拠をその本分から逸脱させてしまうのである。それだから,悟性に独自な作用を,これに干渉する力から判別するために,先験的反省が必要なのである。
 我々の当面の仕事は,経験的仮象(例えば,視覚的仮象)を論じることではない。こうした経験的仮象は,もともと正しい悟性規則を経験的に使用する場合に生じるものであり,この使用において判断力が,想像力の影響を受けて誤ちを犯すのである。我々がここで論究しようとするのは,もっぱら先験的仮象である。先験的現象が影響を与える原則は,決して経験への適用を建前とするものではない。原則が経験に適用される場合なら,我々は少なくともその原則の当否を吟味すべき基準を持ち合わせているだろう。ところが先験的仮象は,批判の警告をいっさい無視して,カテゴリーの経験的使用の限界外に我々を連れ出し,純粋悟性の拡張などというごまかしで我々を釣っているのである。我々は原則を区別して,その適用があくまで可能的経験の範囲内にとどまるものを内在的原則と呼び,その適用が可能的経験の限界を超出するものを超越的原則と名づけようと思う。超越的原則とは,カテゴリーの先験的使用ないし誤用のことではない。こうしたものは,判断力が純粋悟性の活動に許されている唯一の領域の限界に十分な注意を払わないために生じたものである。ところが,超越的原則は,可能的経験の一切の境界標の取り払いと,また境界線というものをまったく認めないようなまるきり新しい領域の僭取とを我々に要求する現実的な原則なのである。それだから先験的《transzendental》と超越的《transzendent》とは同一でない。純粋悟性の原則は経験の限界を超えて使用されてはならないのだが,こうした制限を取り払うような原則,それどころかこの制限を踏み越えることを命じるような原則を,超越的原則というのである。
 論理的仮象は,仮象とはいえ元々理性推理の形式の真似事であり,まったく論理的規則に対する欠如から生じたものだから,その都度注意を怠らなければ,この種の仮象はすべて消滅する。これに反して先験的仮象は,仮象であることがすでに発見され,またそのとるに足らないものであることが先験的批判によって明らかに見抜かれても,それにもかかわらず依然として仮象たることをやめないのである(例えば「世界は時間的な始まりをもつ」という命題における仮象)。その原因は次の点に存在する。すなわち,我々の理性(人間の認識能力のひとつとして主観的にみられた)は,理性使用の主観的規則や格律〔主観的原理〕を含み,またこれらのものは客観的原則そっくりの外観を具えている。そこで我々の悟性が自分に都合のよいようにある種の概念を結合すると,こうした結合の主観的必然性が物自体の規定の客観的必然性と見なされるということである。これは我々にとってどうしても避けがたい錯覚である。
 それだからこの先験的弁証論は,超越的判断の仮象を発見し,またそれと同時に仮象のために欺かれるのを防ぐというだけで満足することになろう。こうした仮象を消滅させたり,仮象たることをやめさせたりすることは先験的弁証論のとうていなし得るところではない。先験的弁証論が扱うのは,人間理性にとって自然的な,どうしても避けることのできない錯覚である。この錯覚は,もともと主観的原理に基づくものであるにもかかわらず,これを客観的原則とすり替えるのである。

U 先験的仮象の在処としての純粋理性について

A 理性一般について

 我々の一切の認識は,感性に始まって悟性に進み,ついに理性に終わるが,直観の供給する素材を処理して,思惟の最高の統一に従わせるものとしては,理性より高い認識能力は我々のうちには見出せない。理性には,悟性と同じ全く形式的な使用――換言すれば論理的使用があるが,また実在的使用もある。理性はある種の概念および原則の根源をみずからのうちに含んでいるからである。しかし理性は,これらの概念や原則を,感性からも悟性からも得て来るのではない。理性の第一の能力,すなわちその論理的能力は,いうまでもなくずっと前から論理学者によって,間接的に推理する(直接推理,すなわち悟性による推理と区別して)能力と称せられていたものである。これに反して理性の第二の能力すなわちその先験的能力は,みずから概念を産出する能力である。理性を論理的能力と先験的能力に区分するとなると,これら両概念を統摂する,理性のいっそう高い概念が求められなければならない。我々は悟性概念との類比に従って,この論理的概念が同時に先験的概念を解明する手掛かりを与え,また悟性概念の機能の表〔カテゴリー表〕が同時に理性概念の系図を示すだろうと期待してよさそうである。
 我々は先に先験的論理学の第一部〔先験的分析論〕で,悟性を規則の能力であるといったから,ここでは,理性を原理の能力であるとして,悟性から区別したい。
 私が概念によって特殊なものを普遍的なものにおいて認識するなら,こうした認識を原理による認識といってよいかもしれない。そうすればおよそ理性推理は,いずれも認識を原理から引き出す形式だということになる。悟性はア・プリオリな一般的命題を与えるものだから,この命題もまたその可能的使用に関しては,原理と名づけられてよさそうである。
 しかし純粋悟性のこうした原則自体を,その起原の上から考察すると,これらの原則は決して概念による認識とは言い得ない。もし我々が純粋直観(数学においては)なり,あるいは可能的経験一般の条件なりを援用しなければ,こうした原則はア・プリオリには全く不可能であろう。
 こういうわけで悟性にしても,概念だけによる総合的認識なるものを与えることはできない。しかも私がもっぱら原理と名づけるところのものは,実にこの総合的認識にほかならないのである。
 原理(自体)による認識は単なる悟性認識とは全く異なるものである。悟性認識は,なるほど原理という形式を具えているので,諸他の認識よりも前にあるけれども,しかしそれ自体(悟性認識が総合的認識である限り),思惟だけにもとづくものでもなければ,また概念だけから引き出された一般的なもの〔一般的命題〕を含んでいない,ということである。
 悟性は規則を用いて源生を統一する能力であるといってよい。これに対して理性は,悟性の規則を原理のもとに統一する能力である。それだから理性は,直接に経験やまた何らかの〔経験的〕対象に関係するのではなくてもっぱら悟性に関係し,概念によって悟性の多様な認識にア・プリオリな統一を与えるのである。従ってこの統一は理性統一と名づけられてよい。そしてこうした理性統一は,悟性によってなされ得る統一とはまったく別種のものである。

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2017年12月02日

2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇(1/10)

目次
(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言前半
(3)カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言後半
(4)カント『純粋理性批判』先験的弁証論 第一篇前半
(5)カント『純粋理性批判』先験的弁証論 第一篇後半
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:先験的仮象とは何か?
(8)論点2:理性とは何か?
(9)論点3:先験的理念とは何か?
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は,今年および来年の2年間を費やして,カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています(あとで触れるように,この計画は若干変更することになりました)。これは,哲学の発展の歴史を,絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ,客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって,全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 11月例会では,『純粋理性批判』の先験的弁証論に入りました。その中の「緒言」と「第一篇 純粋理性の概念について」を扱いました。扱った部分の目次を引用すると,以下です。

第二部 先験的弁証論
 緒言
  T 先験的仮象について
  U 先験的仮象の在処としての純粋理性について
   A 理性一般について
   B 理性の論理的使用について
   C 理性の純粋使用について
 第一篇 純粋理性の概念について
  第一章 理念一般について
  第二章 先験的理念について
  第三章 先験的理念の体系

 
 今回の例会報告では,まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後,扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し,次いで,参加者から提起された論点について,どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に,この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず,報告担当者から提示されたレジュメ,およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

 なお,この研究会では,篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ,他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は,特に断りがない限り,岩波文庫版のものです)。

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『純粋理性批判』(中)緒言,第1篇 純粋理性の概念について(pp.12-54)

1.先験的仮象とは何か

 カントは仮象について,現象と同一視されてはならないとし,「真理も誤謬も,誤謬へ誘うものとしての仮象も,対象と我々の悟性との関係にのみあり得る」としている。この仮象として,カントは経験的仮象,先験的仮象,論理的仮象の3つを挙げている。経験的仮象は,例えば視覚的仮象であり,正しい悟性規則を経験的に使用する場合に生じるものであるとしている。先験的仮象は,カテゴリーの経験的使用の限界外に我々を連れ出すことによって生じるものだとしている。例えば,「世界は時間的な始まりをもつ」などである。論理的仮象は論理的規則に対する注意の欠如から生じるものだとしている。論理的仮象は(注意すれば)消滅させたり,仮象であることをやめさせたりすることができるが,先験的仮象ではそれができないとしている。

<報告者コメント>
 『カント事典』によれば,カント以前,仮象は経験的仮象と論理的仮象の2つに大きく分けられていたようである。そこへ,この2つとは異なる先験的仮象(『カント事典』では「超越論的仮象」)と書かれている)を出したのがカントだということである。先験的仮象の例として「世界は時間的な始まりをもつ」という命題が挙げられているが,カントはこのテーゼと同時に「世界は時間的な始まりをもたない」というアンチテーゼも成り立つというような矛盾をどうやって解決するかという問題にぶつかったときに,我々が見ている世界は物自体ではなく現象であるという物自体論や,そもそもこれらの命題は先験的仮象であると考えるようになったのだろう。

2.理性とは何か

 カントは,理性には間接的に推理する能力(形式的な使用・論理的使用)と,みずから概念を産出する能力(実在的使用・純粋使用)があると説いている。その上で,この2つの能力を統接するものとして,理性は原理の能力だとしている。これは悟性が規則の能力であることと対比されている。つまり,「悟性は規則を用いて現象を統一する能力であるが,理性は悟性の規則を原理のもとに統一する能力だ」ということである。そして,一般的命題と原理の違いを説いている。一般的命題は理性推理の大前提として使用せられ得るものであり,その命題のもとに包摂せられる得る事例に関しては,原理と名付けられてよいとしている。しかし,一般的命題は概念だけによる総合的認識ではないから,それはあくまでも相対的な原理だとしている。この概念だけによる総合的認識こそが原理だとカントは述べている。

<報告者コメント>
 この部分では,カントは理性の能力には間接的に推理する能力と,みずから概念を産出する能力があるとした上で,その2つを統一して原理の能力だとしている。また,その理性が原理の能力であるということを,悟性が規則の能力であることと対比して述べている(「理性の論理的使用」では悟性推理と理性推理の2つを並べて,理性推理の特徴も論じている)。さらに,その原理という言葉の意味を,一般的命題との対比で論じている。
 このような説き方は対立物の統一を踏まえた説き方と言えるであろうし,こうした説き方にカントの弁証法的な実力が現れているともいえるだろう。


3.先験的理念とは何か

 カントは先験的理念(純粋理性概念)を,理性推理の形式が含んでいる特殊でしかもア・プリオリな概念だとしている。先験的理性概念は,常に条件の総合における絶対的全体性を志し,絶対的無条件者に到達せねば止まないものであり,したがって,純粋理性概念の客観的使用は常に超越的だとしている。無条件者に到達するべく条件の側において連結推理を続けることを上昇的系列とカントは呼び,一方条件付きのものの側において続けることを下降的系列と呼んでいる。
 カントは我々の表象のもち得る一切の関係を(1)主観に対する関係,(2)現象における多様な客観に対する関係,(3)あらゆる物一般に対する関係の3つに区分している。そして,純粋理性はそれぞれにおいて無条件的なものを求めようとするから,先験的心理学,先験的宇宙論,先験的神学のそれぞれに理念を与えることになると説いている。

<報告者コメント>
 ここで要約した部分には入れていないが,カントは純粋理性概念をプラトンのイデア論を踏まえて説いている。その背景として,「新語を造るのは(中略)なかなか成功するものではない。それにまたこういうよくよくの手段に訴える前に,もう死語と見なされている学術語のなかで,自分の概念とこの概念に格好な表現とがないかどうかを探してみるのが当を得た遣り方である」と述べている。例えば,薄井先生が看護の本質論をナイチンゲールの言葉から拾ってきているが,これはまさにカントが言っているようなやり方をしたということになるのではないか。このように過去の文化遺産を受け継いで,それを自分なりのものにしていくということは確かに方法論として重要だと感じた。

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 このレジュメに対して,二つのコメントがなされました。第一に,「仮象」に関してのコメントにあるような,概念の歴史(変遷史)の把握は重要だという指摘です。黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』では,「理性」や「悟性」という概念の変遷について説かれていたが,このようなことは哲学史を理解するうえでかなり重要なのではないかということでした。

 第二に,3にある薄井先生の例はしっくりこないというコメントです。カントは純粋理性概念を表すのにぴったりな言葉としてプラトンの「イデア」という言葉を用いたのであるが,薄井先生は,何かの概念を表すのにぴったりな言葉としてナイチンゲールの「看護」という言葉を用いたわけではない,ということでした。そうではなく,薄井先生は,ナイチンゲールの「看護とは〜である」という看護一般論を継承して,それをもとにして科学的看護論を構築したのだ,ということです。したがって,薄井先生の場合は,新しい語をつくるか,それとも,以前からある学術語の中から選んでくるか,というような問題とは別次元のことだ,ということを確認しました。レジュメ報告者もこれで納得しました。

 以上,今回は報告レジュメと,それに関わって出されたコメントを紹介しました。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
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 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
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 ・弁証法の学び方の具体を説く
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 ・2010年12月例会報告
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 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
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 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
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 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
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 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
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 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
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 ・科学はどのように発展してきたのか
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 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言