2017年09月16日

障害児の子育ての1年間を振り返る(2/5)

(2)抱っこしながらの散歩とその意味

 本稿は、ダウン症と診断されたわが子の1年間の育児を振り返るものである。今回は、その育児の中で行っていた「抱っこしながらの散歩」について取り上げたいと思う。

 里帰り出産であったため、出産後の2か月ほどは一緒にいなかったのだが、家に戻ってきてからはほとんど欠かすことなく毎日行っていたことが抱っこしながらの散歩である。朝6時頃から子どもを抱っこして、近くを2、30分散歩した。さらに、仕事から戻った夕方にも同じように散歩をした。休日は昼間にも行うようにした。つまり多い時で合計3回、1時間半ほど散歩するようにした。

 直接的なきっかけは、松田道雄『育児の百科』の「赤ちゃんをきたえよう」の項目で、くどいほど「外気に当てろ」と書かれていたことである。例えば、以下のとおりである。

「3か月をすぎた赤ちゃんは、1日のうち3時間くらい外気にあてたい。気候のいいときであれば、ベビーカーにねかせて、外気のなかにだしておいてもいいが、やはり、抱いて散歩する時間がほしい。3か月になると、赤ちゃんは、いろいろのものに関心をもつようになり、自分で頭をうごかして左右をながめる。抱かれていれば、胴体をしゃんと直立させようとする。よろこべば腕もうごかす。だから、赤ちゃんにとっては散歩はいい運動である。
 極寒でも、つよい風のない日は手足や耳を十分に保護して、あたたかい時刻をえらんで、せめて20〜30分でも外気にあてたい。冷たい空気を呼吸することが、気道の粘膜をきたえる。夏の暑いときは、日陰をえらんで外にだす。帽子を必ずかぶせる。春や秋でも、3か月では、まだあまり太陽で皮膚をやかないほうがいい。」(pp.197-199)

「4か月すぎると、赤ちゃんは首もしっかりし、支えればすわってもいられるから、抱っこしたり、ベビーカーに乗せたりして、家の外につれてでやすくなる。赤ちゃん自身も、周囲のものにたいする関心がふえるので、外へ出ることをよろこぶ。からだをきたえるチャンスがめぐってきたといえる。できれば1日に3時間以上、外気のなかで暮らすようにしたい。」(p.225)

「5か月から6か月までは(中略)鍛錬開始期とでもいいたいくらいだ。厳寒の季節をのぞいて、せいぜい外気のなかで生活させてほしい。」(pp.251-252)

「6か月すぎた赤ちゃんは、1日のうち3時間以上は外気のなかですごすようにしたい。ベビーカーにすわらせているだけでなく、安全なところでおろして、おすわりさせたり、はいはいさせたりできるといちばんいい。(中略)外で外気浴のできないときは、家のなかで空気浴をやる。室温を20度ぐらいにしておければ、赤ちゃんをはだかにできる。」(p.297)


 とりわけ抱っこしながらの散歩がよいということだったので、散歩をすることにした。最初は、ずっと斉藤公子が推奨しているやり方(赤ちゃんと向かい合わせになり、赤ちゃんの股を自分のおなかにくっつけて、片手でおへその裏側、もう片方の手で頭をもつという方法)で抱っこをしながら散歩をしていた(今振り返ると、かなりリスクの高い散歩の仕方だったと思う)。途中でとまって、じーっと目を見つめて、ほほえみかけたりした。生後2か月と1週のときの記録では「最近、だっこしているときに目が合うようになってきた。じーっと笑顔で見つめ続けると、ほほの筋肉が少し上がるようにもなった。先日ははっきりと笑う姿が見られた。」と書いている。12月からは、縦抱きにして抱っこするようにした。最近は、抱っこひもを使って縦抱きにするようにしている

 抱っこしながらの散歩にはどのような意味があるのか。『育児の認識学』では、「そもそも人間は実体と認識の統一体であり、それだけに、この両面をきちんととらえて教育していかなければならない」(p.26)と書かれている。したがって、散歩の意味についても、実体面と認識面の両面から見ていく必要があるだろう。

 第一に実体面に関してだが、これも生理的な側面と運動的な側面の2つがある。生理的な側面で言えば、外界に対応する実力をつけるということである。家の中はある程度過ごしやすい温度に保たれているが、外は暑かったり寒かったりする。また日差し・明るさに関しても、家の中ではほぼ一定であるが、外ではその時々によって変化する。このような外界の自然的な変化に対応できるようにするという意味がある。

 運動的な側面で言えば、首から背中・腰にかけての骨や筋肉を鍛えるという意味がある。ここに関わっては、『総合看護』に連載されていた「看護の生理学」で瀬江先生が次のように説いている。

「人間の赤ん坊は、首が座るということも、放っておいて自然にできるようになるわけではありません。ではどのような育て方をすると、赤ん坊の首が座ってくるのかというと、最も大事なことは『抱く』ということです。つまり人間の母親が赤ん坊を抱くということは、単なるスキンシップのためだけではなく、人間としての運動形態の基本をつくっていくことになるのであり、当然その抱き方が問題とされなければなりません。
 では、赤ん坊をどのように抱かなければならないのかと言うと、端的には、仰向けに寝ている状態から、少しずつ少しずつ背骨を立てていく抱き方、つまり”横抱き”から”たて抱き”に移行していく必要があるのです。
 そのように、少しずつ少しずつ大地に対して背骨を垂直に立てる姿勢をとらせていくことによって、赤ん坊の体は、背骨をはじめとして、首や手足の骨も筋肉も、内臓も、脳も感覚器官も、少しずつ少しずつその姿勢になれ、そのような重力関係に慣れ、そのような姿勢を保てる実力がついていくことになるのです。」(瀬江千史「看護の生理学(43)−運動器官第8回−」『綜合看護』(2012年3号)所収)


 要するに、縦抱きとは背骨を立てていく抱き方であり、それによって、そのような重力関係に慣れ、そのような姿勢を保てる実力がついていくことになるということである。

 これは私自身の経験としてもよくわかる。縦抱きを始めた当初、赤ちゃんはぐにゃぐにゃで、親が手でしっかりと支えていないといけない。しかし、徐々に徐々にその支える力を緩めていっても大丈夫なようになり、最終的には自分で支えられるようになるのである。ここでは直接的には首すわりについて触れられているが、私自身はおすわりのために背筋を伸ばすということにも同様のことが言えると感じている。

 第二に認識面に関してだが、こちらについても「看護の生理学」で次のように説かれている。

「さらに、抱くということは赤ん坊を育てるうえで、とても重要な意味を持つのですが、それは赤ん坊が仰向けに寝かされていたのに対して、抱かれた時には、反映する外界が大きく違ってくるからです。つまり周囲のものを、下から見上げていたのに対して、上から見下ろすことになるのです。例えばベッドに寝ている時は、のぞきに来たお兄ちゃんの顔しか見えなかったのに対し、お母さんに抱かれて上から見てみると、お兄ちゃんが走り回ったり、食事をしたりしているのが見える・・・という具合にです。そしてこういう外界の違った反映の体験を繰り返していくことが、サルが木に登ったり、降りたりしてヒトになっていく過程で、脳の機能としての認識が新たな発展を遂げたと同様に、赤ん坊の認識の発展を促していくことになるのです。」(同上論文)


 つまり、抱っこをすることによって、これまでとは違った形で外界を反映させることになり、赤ちゃんの認識の発展を促していくことになるということである。当初は横抱きに近い形で抱っこしていたから、そういう形での外界の反映をしていたけれども、徐々に縦抱きにしたことにより、以前とは違った反映がなされるようになり、両者が合わさって、像が厚みのあるものになっていったということである。

 さらに散歩の場合、その反映する外界そのものが家の中に比べれば多種多様となる。小鳥が泣いていたり、ちょうちょが飛んでいたり、前から散歩している犬がやってきたり、その飼い主が「おはよう」と声をかけてくれたり・・・といった家では味わえない新鮮な反映がある。これは赤ちゃんの興味・関心を促し、外界に対して積極的な姿勢を創ることになると考えられる。

 こうした意味のある抱っこしながらの散歩なのだが、「毎日」行い続けたということがやはり重要だったのではないかと思う。さすがにどしゃ降りの雨の日などは中止したが、多少の雨や雪の日は、濡れないように気を使いながらも散歩した。当然、疲れているときもあったけれども、朝と夕方の散歩は欠かさなかった(頻度は減ってしまったが、現在も行っている)。このように毎日行い続けた結果として、様々なものに興味関心を示す現在の姿があるのではないかと考えている。
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2017年09月14日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の「経験の類推」を扱ったわが研究会の2017年8月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、3つの論点について諸々に議論したプロセスを紹介してきました。

 8月例会報告の最終回となる今回は、参加していた会員の感想を紹介することにします。

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 今回の内容も何を言わんとしているのかがなかなかつかみにくいところであったが、ヒュームの因果律批判に対してどのように反論しているのかについて、かなり明確に把握できたのではないかと思う。端的に言えば、我々が見ている世界(現象)は、原因と結果というカテゴリーが備わった純粋悟性概念によって成立したものであるから、そこには必然性が存在しているのだということである。そもそもカントは、我々が見ている世界はカテゴリーによって成立した現象の世界であり、この世界を客観的な世界として、様々な経験(認識)を獲得するのだと主張している。こういうカントの主張の枠組みがかなり明確に把握できた。

 当日の議論においても、こういう枠組みを踏まえたときに違和感を覚える表現についてしっかりと指摘することができたし、その指摘の中身を説明する中で、自分自身の理解や研究会全体の理解も深めることができたと感じている。前回の例会の感想の中で、7月例会のチューターが「ちょっとした会員のちょっとした言語表現から、大きく誤解しているのではないか、根本的なところを理解していないのではないか、と思われる点については、やや厳しく突っ込みを入れることができたと思う」と書いていたので、私も今回そのことを意識してチューターに臨んだのだが、まずまずの働きができたのではないかと思う。

 また、唯物論の立場からヒュームにどう反論するかという議論も非常によかったと思う。ヒュームに反論するためには、世界に必然性があることを主張しないといけない。あるいは、世界の部分的な認識に基づいて世界全体のことがわかるのはなぜなのかということを説かなければならない。端的には、この世界全体には弁証法性が貫かれているから、我々が認識する特定の部分にも弁証法は貫かれているのであり、したがって、部分の認識によって全体の認識をすることができるのだということであった。

 このように、唯物論の立場ではこう説くということをカント自身も納得するような形で論を展開していかなければならないと感じた。

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 今回は、カント『純粋理性批判』の「経験の類推」という部分を扱った。報告レジュメの担当に当たっていたため、しっかり読み込んでレジュメを執筆しようと取り組んでいった。

 読み始めの数ページは、まるで自分のアタマがカントになり切ったかの如く、「うんうん、そうだよな」という感じで全く引っかかりなく読めていった。カントの立場であればこういう表現になるということが、これまでの学びで少しずつ分かってきた感じがあったのである。

 しかし、「現象の現実的存在」という部分で引っかかってしまった。この表現がどのような中身であるのか、ほとんど全くといっていいほど像が描けなかったのである。しかも、この表現は繰り返し登場してきて、文章全体がよく分からないものとなっていってしまったのである。この表現については、例会を通してもあまり突っ込んだ議論ができなかったが、何度も読み返して、「読み始めの数ページ」で味わったような感覚になっていけるように努力していきたい。

 例会の議論の中で特に印象的だったのが、カントが現象の成立と現象の認識とを分けて捉えているらしいということであった。私の理解では、認識の側にある純粋悟性概念(カテゴリー)を現象に適用することで、認識が成立し、それと直接に現象(客観)も成立する、とカントが考えているものと思っていた。しかし、議論を通じて、そうではなく、確かに純粋悟性概念(カテゴリー)を適用することで現象は成立するのであるが、その現象を認識することはまた別の段階の事象だということが理解できてきた。これは、そもそものカントの問題意識、つまり人間に見えるような世界(現象の世界=客観)をなぜ人間は正しく認識(主観)できるのか、そもそも現象の世界=客観はどのように成立しているのか、という問題意識をしっかりとふまえてカントの論を追っていく必要がある、ということでもある。こうした大局的な見方ができていなかったために、カント学説の一般的な理解(認識が対象を成立させている)で満足してしまったということである。

 次回の例会はチューターに当たっているため、議論をリードし有意義な例会にできるように、しっかりと準備をしていきたいと思う。

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 今回の範囲もなかなか難しいところであったが、あくまでも『純粋理性批判』の全体の論の流れのなかでどのような位置づけにある部分なのかを見失わないようにしながら読んでいくことの大切さを改めて感じた。なかなか実行できていないが、やはり最初の部分からの読み直していくことが必要であると感じている。

 今回の例会の議論で重要だと思ったのは、カントの議論に対して、唯物論の立場からはこう考える、と対置することを、あまり安易にやってしまってはならない、ということが、研究会としての共通認識になったことである。例えば、「唯物論の立場からは、原因と結果のつながりは客観的に存在していることになる」などと結論だけいっても、それはヒューム以前の常識的な見方を繰返しているだけで、カントが納得するわけがないのである。これではヒューム以下なのだ、ということを自覚しなければならない。カントを納得させうるような唯物論の立場からの論の展開はどうあるべきか、と常に考えていかなければならない。これに関連して、世界の部分についての経験から世界の全体を貫く性質を把握することができるのはなぜか、という問いが明確になったのは、大きな収穫だったといえるのではないだろうか。こうした問題は、簡単に解決したもの、分かったものとしてしまってはならないので、常に問いを深めるようにしていきたい。
 
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 今回の例会では、カント「純粋理性批判」の「原則の分析論」のなかの、「経験の類推」の部分を扱った。論点への見解は書くことができなかったが、当日の議論において、だいたいの内容を把握することができたと思う。要するに、われわれは、ある現象Aと別の現象Bを、因果関係で捉えたり、同時に存在していると捉えたりするが、そのためには、どのような原則が適用されているのかを説いている部分だと思う。原因・結果の関係にせよ、同時だという関係にせよ、そういう時間関係について論じる際には、その前提として常住不変なもの=実体が想定されている。そこで、まず実体について論じ、その後、因果関係と同時的関係についてカントは説いているのであろう。

 今回の例会で最も興味深かったのは、唯物論の立場からすれば、経験の積み重ねによってなぜ必然性の認識が可能となるのか、について議論した点であった。私は端的には、認識における量質転化の問題だと答えたのであるが、当日指摘されたとおり、これでは不十分であった。なぜなら、ヒュームからは「それは単なる信念なのではないか」と反論されうるからであった。そこで、現実世界の持つ弁証法性に注目した。現実の世界全体を貫く弁証法的な性格は、もちろん、部分にも貫かれているから、部分の認識だけでもって、全体の認識、すなわち必然性の認識となる、ということであった。

 このように、現実世界の持つ弁証法性を考えに入れないと、必然性の認識が成立する根拠は説明できないというのは、間違いないと思う。しかし、当初私が指摘したような、認識の量質転化という問題も、他方でやはり、必然性の認識にとって不可欠な要素なのではないか。カントは、感性と理性を分けてしまって、そのつながりを解明できなかったが、われわれは、感性的認識と理性的認識を、同じ像の発展過程において捉えることができる。部分の認識というのはいわば感性的認識のことであり、全体の認識=必然性の認識とは理性的認識のことであるといえるだろう。そうすると、感性的認識の積み重ねによって、理性的認識に到達することができるのであるから、それはやはり量質転化といいうるのである。この認識の量質転化の具体的な過程的構造を解明していくことが、カントの二元論を克服するための、大きな道であると感じた次第である。
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2017年09月13日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(9/10)

(9)論点3:相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か。

 前回は、2つ目の論点に関する議論を紹介しました。そこでは、カント哲学の大きな枠組みを確認した上で、ヒュームの因果律批判にどう答えているのか、これに対して唯物論の立場からすれば、ヒュームの因果律批判にどう反論すべきなのかという点について検討しました。

 今回は、3つ目の論点についての議論と、その議論をとおしてどのような(一応の)結論に至ったのかを紹介したいと思います。まず論点を再掲します。

<論点再掲>
 カントは経験の類推の3つ目として相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則を挙げている。これは、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」というものであるが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?カントは、2つ以上の物が同一の時間に存在することを、何によって認識すると説明しているか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?


 まず、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」とはどういうことかについて確認しました。これについては、「2つのものが同時に存在する(相互的に継起し得る)ということを知覚する根拠は客観に存在するというためには、相互性の関係、あるいは相互作用の関係というカテゴリーを必要とし、このカテゴリーを前提としてのみ、2つのものの同時的存在が認識され、また経験の対象としての物を可能ならしめる、ということである」「端的には2つのものが同時に存在しているということを人間はどうやって認識するのかということに答えたもの」「2つ以上の物が同時に存在しているということは、それら2つ以上の実体間の相互作用を前提としてのみ、経験において認識され得る、ということである」などの見解が出されていました。時間の関係上、詳しく検討することはできませんでしたが、要するに、2つ以上の物が同時に存在しているということは、そこに相互作用が働いているからこそ認識できるのだとカントが主張していることを確認しました。

 この証明についても、あらかじめメンバーから提出された見解のうち、もっともすっきりまとまっているもので確認しました。

「カントによれば、2つ以上の物の同時的な存在を客観的なものとして表象するためには、互いに別々でありながらしかも同時的に存在するこれらの物の規定が相互的に継起することを表現するようなカテゴリー(純粋悟性概念)を必要とするが、そのカテゴリーとは影響の関係であり、相互作用の関係である(ある実体の含む規定の根拠がほかの実体に含まれているような関係)、と説明するのである。要するに、ある物が他の物に影響を与えている(両者が相互に依存しあっている)関係にあると把握されるからこそ、両者が同一の時間に存在するということが客観的に言いうるのだ、というわけである」

 しかし、このカントの見解に対して、チューターから疑問を提示しました。カントによれば、2つのものが同時に存在することを認識できるのは、その2つのものが相互作用の関係にある場合だということになります。しかし、例えば、喫茶店にいて、離れた場所にいる2人の客を見るとき、その2人は何の相互作用もないけれども、同時に存在していると言っていいのではないのか、ということでした。

 これに対してメンバーの一人は、カントが言っていることは、2つのものの間に相互作用していれば、確実に同時に存在しているということが言える、ということではないか、例えば、今、私と他の方たちは会話をとおして相互作用しているから同時に存在しているということが確実に言える、しかし、日本にいる我々と、アメリカにいる(例えば)マイク君とは相互作用していないから、必ずしも同時に存在しているとは言えないということではないか、ということでした。つまり、「同時に存在しているなら相互作用している」ということではなく、「相互作用しているなら同時だ」ということです。他のメンバーも一応納得しました。

 最後に、こうしたカントの主張を唯物論の立場から評価するとどういうことが言えるかを考えました。これについてチューターは「知覚の根拠を客観に求めている点は評価できる」と書いていたのですが、これについては他のメンバーから言葉足らずの表現ではないかという指摘がなされました。その客観というものもあくまでもカテゴリーによって成立したものだという点を触れないといけないのではないかということでした。これはチューターも納得しました。別のメンバーは「あくまで客観と主観の一致ということにこだわったこと自体は、唯物論の立場への接近として評価できるものの、客観とは物自体と区別された現象の世界であるとし、それが認識の能動性によって成立させられている(この場合は、相互作用という純粋悟性概念によって2つ以上の物の関係性が規定されている)としてしまったのは、唯物論の立場とは根本的に相いれないものである」と書いており、おおむねこのような評価で間違いないのではないかということになりました。また、このメンバーは「この世界全体をつながり合ったものとして、同時的な広がりをもったものとして、把握しきったことは、弁証法的な世界観の発展という点からすれば、大いに評価に値するのではないだろうか」という見解も提示していたのですが、これについても特に異論は出ませんでした。

 以上で例会での議論をすべて終了しました。
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2017年09月12日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(8/10)

(8)論点2:因果律に従う時間継起の原則とは何か。

 前回は、1つ目の論点についての議論について紹介しました。経験の類推とはどういうことか、それはカント哲学の中でどのような位置づけになるのかということや、その中の1つ目である実体の常住不変性とはどういうことかなどについて議論をしました。

 今回は2つ目の論点についての議論とその議論をとおしてどのような(一応の)結論に至ったのかを紹介します。まず論点を再掲します。

<論点再掲>
 カントは経験の類推の2つ目として「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」という因果律に従う時間継起の原則を挙げているが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?特に、表象のみならず対象(客観)においても継起するかどうかという問題について、カントがどのように説明しているのか。またこれは結局、ヒュームの因果律批判にどのように反駁しているといえるのか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?


 まず「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」とはどういうことかについて確認しました。これについては、チューターを含めたメンバーの3人からそれぞれ「原因と結果というカテゴリーを現象に適用することによって、現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ、ということである」「実体の規定が生起したり消滅したりする(中略)変化の前の状態が必ず前に置かれ、その後の状態が後に置かれなければならないということが必然的に規定されているということである」「変化、すなわち、ある現象に次いで別の現象が生じるということについて、これら2つの現象の間の関係が、ある現象が先行して別の現象が続かなければならないという必然性として、客観的に規定されていなければならない、という原則のことである」という見解が出されていました。

 このうち、2つ目と3つ目はほぼ同様のことを言っているものの、1つ目の見解については、少し力点の置き方が違うように感じられるとチューターが指摘しました。その見解を書いたメンバーから「力点の置き方が違うとはどういうことか」と問われたので、次のように説明しました。

 そもそもカント哲学では、人間のもっているカテゴリーによって、現象の世界が客観的なものとして人間の目の前に現れてくるとされています。そして、その客観的な世界の中で人間は様々な体験を積むわけです。図式化していうならば、@主観(カテゴリー)→A客観(現象)→B主観(経験)という流れになるわけです。これを踏まえると、2つ目と3つ目の見解は、Aあるいは@→Aについて解説したものとなります。ところが、1つ目の見解では「現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ」と書かれています。この表現の背後には、「現象の変化を認識することによって現象自体も変化する」という認識があるように感じられます。現象の変化を認識するというのはBの話であり、現象自体が変化するというのはAの話です。そうすると、この見解はB→Aという流れになっていることになります。そこに違和感を覚えたということでした。

 この説明に対して1つ目の見解を書いたメンバーは、あまり納得できないようでした。カントはコペルニクス的転回によって、「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」(p.33)と考えたのではないか、今の説明では、「現象の変化を認識する」とカントが考えていたことになり、これではコペルニクス的転回とはいえないのではないか、ということでした。

そこで別のメンバーが、チューターの説明を補う形で自分の見解を述べました。カントは、我々の目の前に客観的な世界が存在していて、その世界を通して様々な認識を獲得していく(様々な経験を積み重ねていく)ということ自体は認めているのではないか、しかしその目の前の客観的な世界というのは、物自体の世界ではなくて、我々のカテゴリーによって成立させられた現象の世界なのだ、だからこの現象の世界の成立という面では確かに「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」、つまり認識が対象を生み出しているといえるが、一方では客観的な世界(現象の世界)を認識することもカントは否定していないのではないか、ということでした。このメンバーは以上の内容をまとめて、人間に世界がどのように見えてしまうか(主観が客観を作り出す側面)ということと、その世界をより深く追究していく(客観が主観を作り出す側面)ということとは別問題であって、カントの『純粋理性批判』では、後者(科学を確立していくこと)の前提としての前者の問題を扱っているのではないか、と発言しました。こうした説明で、1つ目の見解を書いたメンバーもおおむね納得しました。

 続いて、因果律に従う時間継起の原則はどのように証明されているかについて扱いました。これは要するに原因と結果のカテゴリーによって現象が成立させられているからだと述べていることを確認しました。

 ここでメンバーの一人から疑問が出されました。カントは、生起するものの知覚においては原因と結果のカテゴリーが適用されるということを述べているものの、なぜ生起するものには適用されるのか、なぜ生起しないもの(例として出されている家など)には適用されないのかということでした。様々に議論をしましたが、カントの立場からすれば、物自体が持っている性質によると考えるしかないのではないかということになりました。つまり、生起するものには原因と結果のカテゴリーが適用されるような物自体としての性質を持っているけれども、生起しないものにはそういう性質がないということです。しかし、その物自体ということはわからないから、そうした点には触れないようにしたのではないかということでした。

 次に、カントはヒュームの因果律批判にどう反論したのかを確認しました。これまでの議論の中でほぼ答えは出されているのですが、端的には、「客観は悟性にア・プリオリに具わっている規則によってこそ成立させられている」のだということ、つまり、そもそも因果律が存在するものとして我々が見ている世界はつくられているのだと主張することで、ヒュームの因果律批判に反論したのだということでした。

 このようなカントの意見は「客観と主観の一致ということにこだわった」点では唯物論の立場からも評価できるものの、「経験を積み重ねることによっては必然性の認識には到達できない、と断定してしまっている」点は批判すべきだという見解が出されました。ただし、「経験の積み重ねによってなぜ必然性の認識が可能となるのかを説かなければ、唯物論の立場からの真っ当なカント批判にはならない」という問題提起がメンバーからなされたため、この点について議論をしました。

 メンバーの一人は、端的には量質転化だと発言しました。つまり、同じ経験を何度か積み重ねることによって、科学的認識というレベルへと認識が量質転化するのだということでした。これに対して別のメンバーは、「それではヒュームからは『単なる信念にすぎない』と反論されてしまうのではないか。そういうことではなくて、そういう部分的な認識を積み重ねれば、なぜ全体の認識に至るのかということを世界自体の仕組みから説明しなければならないのではないか」と指摘しました。そして、議論を重ねた中で、全世界は弁証法性という普遍的な性質が貫かれており、それは当然部分にも貫かれているからこそ、部分を認識すれば全体を認識することにつながるのではないかという意見が出されました。この見解については、メンバー全員が納得しました。

 以上で、論点2に関する議論を終えました。
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2017年09月11日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(7/10)

(7)論点1:経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か。

 前回は、カント『純粋理性批判』の経験の類推の部分のポイントを改めてまとめるとともに、それに対して出された論点を紹介しました。今回から、それぞれの論点についてどのような議論がなされたのかを紹介していきたいと思います。

 まず1つ目の論点です。

<論点再掲>
 カントは、純粋悟性の原則の3つ目として経験の類推を挙げているが、これはどういうことか? 特にこれは時間といかなる関係があるのか?また、直観の公理と知覚の先取的認識が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、経験の類推が力学的な統整的原理と名づけられているのはなぜか?ここに関わって、哲学でいう類推とはどういう意味であるとカントは説明しているか?経験の類推の第一としてあげられている実体の常住不変性とは何か? それはどのように証明されているか?カントのいわゆる実体は時間とどのように関わっているのか。その他、「現象の現実的存在」「基体」「常住不変なもの」などのキーワードにも注意しながら議論したい。


 この論点については、まず経験の類推とはどういうことかについて確認しました。これについては、「経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能となる」「意識における知覚の多様な内容の総合的統一によってこそ経験(知覚による客観の規定)が可能になるのだ」などの見解が出されていました。要するに、我々の知覚というものはそのままではバラバラな存在にすぎないけれども、それがしっかりと整えられることによって経験として成立するのだということを主張しているのだということを確認しました。そして、その知覚を整える際に使っているものが時間というア・プリオリな直観の形式なのだということでした。

 また、そもそもこの経験の類推というのは、純粋理性批判全体の中にどう位置づけられるのかも確認しました。経験の類推とは、人間が純粋悟性概念(カテゴリー)を対象に適用するその適用の仕方のうち、3つ目のカテゴリー、つまり「関係」というカテゴリーを適用するということに関わって説いているものなのだということを確認しました。

 では、前回扱った直観の公理と知覚の先取的認識が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、経験の類推が力学的な統整的原理と名づけられているのはなぜか。続いて、この点について確認しました。これについて、もっともすっきりとまとまった見解は次のようなものでした。

「『直観の公理』と『知覚の先取的認識』は、現象における現実的存在が数学的綜合によって産出されるという原則であった。すなわち、対象が何らかの量的な規定性をもったものとして認識の側から構成されていく、というのである。これに対して、『経験の類推』は現象における現実的存在どうしの関係をア・プリオリな規則に従わせるだけの原則である。そのため、『直観の公理』と『知覚の先取的認識』が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、『経験の類推』は力学的な統整的原理と名づけられているわけである。」


 つまり、「直観の公理」と「知覚の先取的認識」によって、ある1つの現象が量的な規定性をもったものとして構成されるということであり、「量的」「構成される」という点を捉えて「数学的な構成原理」と呼ばれているのだということです。一方、経験の類推においては、その現象と現象との関係性を問うています。互いに影響を与え合う2つの現象の関係を整えているものという意味で、「力学的な統整的原理」と呼ばれているということです。このような把握で全員が納得しました。

 次に、哲学でいう類推とはどういう意味であるかについて確認しました。数学でいう類推とは量的な関係性を示すため、比例式の3つの項が与えられればもう1つも示しうるのに対して、哲学でいう類推とは質的な関係性を示したものであり、比例式の3つの項が与えられても、第4項は示せないという見解が出されていました。

 具体的に言うと、例えば、砂糖と塩を1:2の割合で入れるといったとき、砂糖が100gであれば、塩は200gだということが定まります。これが数学でいう類推です。これに対して、ある男の子が泣いているという現象があったとき、原因と結果というカテゴリーに基づいて、その泣いているという結果には何らかの原因があったことは推測されますが、その原因が具体的に何であるかは定めることができません。これが哲学でいう類推ということです。このような説明でメンバー全員が納得しました。

 さらに、実体の常住不変性とは何かという点について議論しました。ここに関してもメンバーの間で大きな見解の相違はありませんでした。つまり、「時間における諸々の変化するものは、時間の根底に変化しないものがあるからこそ把握できる(変化するものは変化しないものとの関係でしか認識でいない)のだ」ということであり、この変化しないものこそが実体なのだということでした。

 ただ、メンバーの一人から「ここでカントが言っている実体とは、カテゴリー表の実体とは同じものなのか、違うものなのかがわからない」という疑問が提示されました。ここでのカントの説明では実体とは客観的に存在するものとして説かれているようだが、カテゴリー表の実体とは人間の認識の側に具わっているものであるから、違うもののように感じるということでした。これについては、チューターが次のように解説をしました。カントによれば、この客観的な世界というものはあくまでも人間のもつカテゴリーがつくりだしたものにすぎません。したがって、現実の世界に存在する実体も、我々がもっている実体というカテゴリーによって生まれたものであり、そういう意味で両者は同一の存在だと言える、ということです。この説明で疑問を提示したメンバーも納得しました。

 また、ここに関わって、メンバーの一人が「カントのいわゆる実体とは、時間の物質的表現であり、現象の世界を普遍的に(全体を隙間なく)満たしているものだといえるかもしれない。これは唯物論の立場からの時間の規定に接近したものとして興味深い」という唯物論の立場からの評価を書いていました。カントは実体というものを、この世界すべての根底に存在している普遍的な存在として捉えています。これは唯物論の立場から全世界が物質的に統一されていると主張するのと、考え方としては同一だと言えます。唯物論の立場ではその物質がもっている根源的な性質として空間と時間というものを捉えるので、カントの主張はそれに近いものがあるのではないか、ということでした。確たる結論は出ませんでしたが、そういうことも言えるかもしれないということになりました。

 以上で論点1に関わる議論を終了しました。
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2017年09月10日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 これまで、4回にわたって『純粋理性批判』の8月例会の範囲の要約を掲載してきました。ここで、改めて、今回の範囲で大事な内容を簡単にふり返っておきたいと思います。

 そもそも我々の知覚は時間によって整序されることによって、我々の経験として成り立っているのでした。その時間は大きく三つの様態、つまり常住不変性、継起および同時的存在があるから、それに応じて経験の類推も3つがあるのだとして、それぞれが紹介されていったのでした。

 第一の類推は、実体の常住不変性の原則というものでした。これは、現象がどんなに変易しようとも実体は常住不変であり自然における実体の量は増えもしなければ減りもしないということです。そもそも時間というものが成り立つ背景には、その根底に変化しない何らかのものが存在しなければならないとして、それが実体だとカントは主張したのでした。そして、我々が見ている変化というものは、その実体の在り方の変化でしかなく、実体そのものが生起したり消滅したりしているわけではないということを説いていたのでした。

 第二の類推は、因果律に従う時間的継起の原則というものでした。これは、一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起するということです。つまり生起するものに関しては、必ず原因と結果のカテゴリーが適用されたものとして我々の目の前に現れてくるのだということです。そのことを家や船の例を出しながら説明するとともに、ヒュームの因果律批判に対して反論していたのでした。

 第三の類推は、相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則というものでした。これは、およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしているということです。ある2つのものが同時に存在し、それぞれが互いに何らかの作用を与え合っているときに、我々はその2つのものを同時に存在するものとして把握することができるのだということでした。

 以上のような内容に関わって、会員からはいくつかの論点が提示されました。それをチューターが以下のように3つにまとめました。

1.経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か?
 カントは、純粋悟性の原則の3つ目として経験の類推を挙げているが、これはどういうことか? 特にこれは時間といかなる関係があるのか?また、直観の公理と知覚の先取的認識が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、経験の類推が力学的な統整的原理と名づけられているのはなぜか?ここに関わって、哲学でいう類推とはどういう意味であるとカントは説明しているか?経験の類推の第一としてあげられている実体の常住不変性とは何か? それはどのように証明されているか?カントのいわゆる実体は時間とどのように関わっているのか。その他、「現象の現実的存在」「基体」「常住不変なもの」などのキーワードにも注意しながら議論したい。

2.因果律に従う時間的継起の原則とは何か?
 カントは経験の類推の2つ目として「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」という因果律に従う時間継起の原則を挙げているが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?特に、表象のみならず対象(客観)においても継起するかどうかという問題について、カントがどのように説明しているのか。またこれは結局、ヒュームの因果律批判にどのように反駁しているといえるのか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?

3.相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か?
 カントは経験の類推の3つ目として相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則を挙げている。これは、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」というものであるが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?カントは、2つ以上の物が同一の時間に存在することを、何によって認識すると説明しているか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?

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2017年09月09日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約C

 前回は、第二の類推の後半部分の要約を紹介しました。前半部分でカントは一般の見解(ヒュームの因果律批判)についての反論をしたわけですが、それについてのより詳しい照明をしていました。また、因果的結合の原則は、必ずしも時間の経過ではないということなどが説かれていました。

 今回は、第三の類推の部分についての要約を紹介します。

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C 第三の類推

相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則
 およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている

 経験的直観において、あるものの知覚が他のものの知覚に次いで継起し、また逆に前者が後者に次いで継起するというふうに、これら2つの知覚が相互的に継起し得る場合には(こうしたことは第二原則で示したように、時間における現象の継起においては生じ得ない)、これらの物は同時的に存在する。我々は、まず月を知覚しその後で地球を知覚することもできるし、逆にまず地球を知覚してから月を知覚することもできる。これらの対象の知覚が相互的に相次いで生じるので、私はこれらの物が同時的に存在するというのである。同時的存在とは、同一の時間における多様なものの実際的存在である。しかし我々は時間そのものを知覚することはできないから、2つ以上の物が同時的に置かれているからといって、これらの物の知覚が相互的に継起し得ると推知するわけにはいかない。したがって統覚における構想力の総合は、主観においてこれらの知覚のどれかが存在すれば、他の知覚は存在しないし、またその逆の場合も成立することを告げはするが、しかし2つ以上の客観が同時的に存在すること――換言すれば、ひとつの客観が存在すれば他の対象もまた同一の時間に、すなわち同時的に存在するということ、そしてこのことは知覚が相互的に継起し得るための必然的条件であるということを告げるものではない。そうすると知覚の相互的継起の根拠は客観に存するというためには、またこれによって同時的存在を客観的なものとして表象するためには、互に別々でありながらしかも同時的に存在するこれらの物の規定が相互的に継起することを表現するような悟性概念すなわちカテゴリーを必要とするわけである。ところで実体間の関係において、ひとつの実体の含む規程の根拠が他の実体に含まれているような関係は、影響の関係である。そしてひとつの実体が他の実体を規定する根拠を相互的に含む場合には、実体間のかかる関係は、相互性の関係あるいは相互作用の関係である。それだから空間における2つ以上の実体の同時的存在は、実体間の相互作用を前提としてのみ、経験において認識され得る。したがって、この前提は、経験の対象としてのものを可能ならしめる条件である。

 2つ以上の物は、同一の時間において存在する限り、同時的に存在する。しかしこれらの物が同一の時間に存在することを、我々は何によって認識するのだろうか。

 1つの実体は他の実体に働きかけもしなければ、また他の実体からの影響も受けないと仮定するならば、実体の同時的存在は可能的知覚の対象になり得ないし、またひとつの実体の現実的存在は、決して経験的総合の道を通って他の実体に至ることもあり得ない。

 すると単なる現実的存在のほかに、なお何かあるもの――すなわち、それによってAがBにその位置を規定し、また逆にBがAにその位置を規定するようなあるものが存在しなければならない。こうした条件の下でのみ、これらの実体は同時的に存在するものとして経験的に表象され得るからである。ある物に時間におけるその位置を規定するところのものは、その物の原因、あるいはその物の規定の原因にほかならない。およそ実体は、(実体はその規定に関してのみ結果であり得るから)他の実体のある規定の原因性を含むと同時に、他の実体の原因性の結果をも含んでいなければならない。換言すれば、これらの実体は、もしその同時的存在がなんらか可能的な経験において認識されるとすれば、(直接もしくは間接に)力学的相互作用の関係をなさねばならないからである。ところで、あるものを欠いたなら、対象の経験そのものが不可能になるならば、そのようなものは全て経験の対象に関して欠くことのできないもの、すなわち必然的なものといえるだろう。ゆえに一切の実体が全て相互作用という完全な相互性の関係にあるということは、これらの実体が同時的に存在する限り、現象における一切の実体にとって必然的である。

 力学的相互作用がなければ、場所的〔空間的〕相互性すら、経験的に認識され得ない。ところで、次の諸件は、我々の経験について容易に認められる事柄である。すなわち、我々の感官をひとつの対象から他の対象へと向かわせうるものは、空間のあらゆる場所における連続的影響のみである。我々は空間に遍在する物質が我々の占めている場所の知覚を可能にするのでなければ、我々の場所を経験的に変じる(この変化を知覚する)ことはできない。また、こうした知覚は、場所間の相互的影響によってのみ、これらの場所の同時的存在を示し、これによって最も遠隔な対象に及ぶまでこれらの対象の共在を(間接的にもせよ)示し得る、ということである。こうした相互性を欠くと、およそ空間における現象の)知覚は、他の知覚からも断絶され、経験的表象の連鎖すなわち経験は、新しい対象にあってはそもそもの最初から始められることになり、前の経験はこれと全く結びつきえないだろう。つまり時間的関係をもつことができなくなるであろう。空虚な空間はたとえ存在するとしても、我々の知覚はとうていそこまで達し得ないから、同時的存在に関する経験的知識も成立しえない。空虚な空間は、我々の可能的経験にとっては全く対象でなくなるのである。

* * *

 これら経験の三類推は、時間の三様態にしたがって時間における現象の現実的存在を規定する原則にほかならない。時間の三様態とはすなわち量としての時間そのものに対する関係(現実的存在の量すなわち持続)、系列としての時間における関係(継時的)、および一切の現実的存在を総括するものとしての時間における関係(同時的)である。時間規定におけるこうした統一はあくまでも力学的統一である。というのは、時間は、経験がそこにおいて一切の現実的存在にそれぞれその位置を直接に指定するところのものと見なされない、ということである。絶対的時間は知覚の対象ではなく、現象は知覚によって互いに結合され得る。だから、現象の現実的存在は、悟性の規則によってのみ、時間関係に従う総合的統一をもち得ることになる。要するに悟性の規則が、全ての現象にそれぞれの位置を時間において、したがってまた何時でもいかなるときでもア・プリオリに妥当するように規定するのである。
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2017年09月08日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約B

 前回は、第二の類推の前半部分の要約について紹介しました。第二の類推とは、因果律に従う時間的継起の原則であり、一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起するというものでした。生起するものについては原因と結果のカテゴリーが適用されて我々の目の前に表れているということを説き、一般の見解(具体的にはヒュームの因果律批判)に対して反論していたのでした。

 今回は第二の類推の後半部分の要約を紹介します。

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B 第二の類推〔承前〕

 我々は次のことを実例によって示す必要がある。すなわち、我々は継起を客観に帰して、これを我々の覚知における主観的継起から区別するが、このことは知覚のこうした秩序を他のいかなる秩序にも勝るとみなすことを我々に強いるような規則が根底になければ不可能であるし、また、こうした規則による強制こそ、客観における継起の表象を初めて可能ならしめる、ということである。

 我々は自分のうちに種々な表象をもち、これを意識することもできるが、こうした表象に客観を対置し、また表象の主観的実在性は主観の変様であるにもかかわらず、こうした主観的実在性以上に、これらの表象に何らかの客観的実在性を帰するのはどうしてだろうか。

 現象の総合においては、多様な表象が終始継起している。しかし、こうした景気は一切の覚知に共通であって、このような継起によっては何ものも他から区別されないから、これによっては、およそ客観は全く表象され得ない。この継起が、それよりも前の状態に対する関係を含み、この状態から表象が規則に従って必然的に生じることを、私が認めもしくは想定するや否や、私は何かある物を出来事として、すなわち生起するものとして表象する。換言すれば、私は時間においてある一定の位置に置かねばならないような対象を認知する。そしてこの位置は全く先行の状態によってのみ、この対象に与えられるのである。この生起の現象がこうした時間関係において一定の位置を占め得るのは、この現象をいかなるときにも、つまりひとつの規則に従って、必然的に継起させるところのものが、先行の状態において前提されることによってのみ可能である。すると次のことが明らかになる。第一に、私はこの系列を逆にして、新たに生起するところのものをそれよりも前の状態に先立たせることはできない。第二に、先行の状態が設定されれば、この一定の出来事は必然的に継起せざるを得ない。これによって、我々のうちにある表象の間にひとつの秩序が成立する。この秩序においては現に存在するところのものは(それがすでに生じている限り)、これに対応するものとしてそれよりも前にある何らかの状態を指示する。また、この先行状態は、与えられた出来事の相関者として――まだ規定されていないにせよ――この状態から生じた結果としてのこの出来事に関係してこれを規定し、時間系列においてこの新たな出来事を必然的に自分に結びつけるのである。

 先行する時間は後続する時間を規定するというのが我々の感性の必然的法則であり、したがってまた一切の知覚の形式的条件であるとすれば、先行する時間における現象が後続する時間における一切の現実的存在を規定するということ、また先行する現象が後続する現象にその現実的存在を時間において規定するのでなければ――換言すれば、ひとつの規則に従って確定するのでなければ、この後続する現象は出来事として生起するわけにはいかないということもまた、時間系列の経験的表象にとって欠くことのできない法則である。我々は前後の時間の結合におけるこうした連続性を現象においてしか経験的に認識しえないからである。

 およそ経験を成立させ、また経験を可能なものとするためには、悟性を必要とする。そのために悟性のなすべき第一のことは、個々の対象の表象を判明にすることではなく、対象一般の表象を可能にすることである。このことは悟性が時間秩序を現象とその現実的存在とに適用することによってなされる。つまり悟性は、結果としての現象に、先行の現象に応じてア・プリオリに時間において規定された位置を与えるわけである。こうした一定の位置をもたなければ、現象は時間そのものと合致しないことになる。こうして生じた現象の系列は、内的直観の形式(時間)――換言すれば一切の知覚がそこにおいてそれぞれその位置を占めねばならぬところの時間においてア・プリオリに見出されるのと全く同じ秩序と一定不変の結合とを、悟性によって我々の可能的知覚の系列においても作り出し、これを必然的なものにするのである。

 それだから、何かあるものが生起するとは、ある可能的経験に属する知覚のことである。この可能的経験は、私がこの現象を時間におけるその位置に関して規定せられていると見なすときにのみ、したがってまたひとつの規則に従って知覚の系列的結合の位置にいかなるときでも見出され得るようなひとつの客観と見なすときのみ、現実的な経験となるのである。時間における継起を規定する規則は、出来事が生起するための条件は先行するところのもののうちに存しなければならない、ということである。だから、時間の系列的継起においては、因果律が可能的経験の根拠であり、したがってまた現象の客観的認識の根拠である。

 この基本的命題の証明根拠は、全く以下に述べる諸要件に基づく。およそ経験的認識には、構想力による多様なものの総合が必要である。この総合は、常に継時的である、換言すれば、表象はこの総合において継起する。この継起は、構想力においては(何が先行し、何がこれに継起しなければならないかという)秩序に関しては、全く規定されていないが、この総合が(与えられた現象における多様なものの)覚知の総合であれば、こうした秩序は客観において規定されているのである。もっと正確にいえば、継時的総合の秩序が客観のうちにあって、この秩序が客観を規定するのである。何かあるものは、この秩序に従って必然的に先行し、またこのものが設定されると、他のものが必然的にこれに次いで継起するのである。それだから私の知覚が、ある出来事の認識――つまり何かあるものが実際に生起するという認識を含むとすれば、こうした知覚は経験的判断でなければならない。そして我々は、この判断において、継起が規定されているということを考えるのである。これに反して、もし私が先行の現象を設定しても、出来事がこれに必然的に継起しないとなると、私はこの出来事を私の想像によって生じたものの営む主観的な戯れと見なさざるを得ないだろう。

 現象間の因果的結合の原則は、ひとつの現象が他の現象を同伴している場合にも当てはまる。例えば、炊かれている暖炉が原因となって、室内の温度という結果を同時に伴っているような場合である。この場合、原因と結果との間には時間における継起の関係は存せず、原因と結果は同時に存在するが、それでも員が結合の法則が妥当するのである。ここで我々がよく注意しなければならないのは、問題は時間の秩序であって時間の経過ではない、ということである。
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2017年09月07日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約A

 前回は、経験の類推の概説的な部分と、第一の類推についての要約を紹介しました。そもそも我々の経験は知覚が時間によって整序されることによって成り立っているものであり、その時間は常住不変性、継起および同時的存在という3つの様態があるから、経験の類推もそれに応じて3つになるということで、第一の類推に入っていったのでした。第一の類推は、実体の常住不変性の原則というもので、時間が成り立つ根底には何ら変化しないものが存在しており、それが実体なのだということを説いていました。

 今回は、第二の類推の部分の前半の要約について紹介したいと思います。

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B 第二の類推

因果律に従う時間的継起の原則
 一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する

証明

 時間において継起する一切の現象は全て変化にほかならない。換言すれば、実体の規定の継時的な存在と非存在とである。しかしこの場合も実体は常住不変であり、実体そのものに生起や消滅があるわけではない。第一の類推の原則はこのことを明らかにしたが、これは、現象の一切の変易(継起)は変化にほかならない、とも言い表し得る。

 私は、現象が時間において相次いで継起することを知覚する。私は時間における2つの知覚を結びつけるわけであるが、結合は単なる感官や直観のなし得るところではない。結合は構想力の総合能力の所産であり、構想力が内感を時間関係に関して規定するのである。ところが構想力は、ひとつの状態が時間的に他の状態よりも前にあるようにも結合できるし、またその後に来るように結合することもできる。時間自体は知覚されないし、時間に関して何が前にあり何がこれに続くかを客観についていわば経験的に規定することは不可能だからである。単なる知覚だけでは、相次ぐ現象の客観的関係は結局規定され得ない。この関係が規定されたものとして認識されるためには、両状態の間の関係は、これらの状態のうちのどれが前に置かれどれが後に置かれなければならず、逆であってはならないということが、この関係によって必然的に規定されている、と考えなければならない。この場合、総合的統一の必然性を有する概念は、原因と結果との関係の概念である。すなわち原因は、結果を原因に次いで継起するものとして、時間において規定する。我々は、現象の継起を、従ってまた一切の変化を、原因性の法則〔因果律〕に従わせることによってのみ経験、すなわち現象の経験的認識すらも可能ならしめるのである。従ってまた経験の対象としての現象自身も、この法則に従ってのみ可能となるのである。

 現象における多様なものの覚知は常に継時的であるが、こうした表象が対象〔客観〕においても継起するかどうか。我々は、どんな表象でも、我々がそれを意識している限りにおいて、客観と名づけてよい。しかし現象(表象としての)がそれぞれ客観であるというのではなくて、ただ1個の客観を表わすとしたら、客観という語が現象に関して何を意味するのか、もっと深い研究を必要とする。現象は物自体ではないにせよ、それにもかかわらず認識の素材として我々に与えられる唯一のものである。だから私は、覚知における多様なものの表象は常に継時的に現われるにしても、現象そのものにおける多様なものにはどのような時間的結合が与えられるかを証示せねばならない。例えば、私の眼前にある家屋の現象に含まれている多様なものの覚知は継時的である。しかしこの家屋そのものの含む多様なものもまたそれ自体継起的であるかといえばそうではない。そこで私が用いている対象という概念を先験的意味にまで高めると、この家屋はもはや物自体ではなくて単なる現象にすぎなくなる(家屋は表象であって、この表象の先験的対象は我々には知られていないことになる)。ならば私は、現象そのもの(物自体ではない)における多様なものはどのように結合されているか、という問題をどう解するのか。私に与えられている現象は、継時的な覚知に存する表象の総括であるにもかかわらず、表象の対象と見なされるのであり、私が覚知における表象から引き出した客観という概念は、この対象と一致せねばならない。するとすぐに、認識と客観の一致が真理だから、ここで経験的真理を成立させる形式的条件が問題になる。現象は現象における多様なものを結合する仕方を必然的にするような規則に従うことによってのみ、表象の対象すなわち客観と見なされ得るのである。要するに、現象において、覚知のこうした必然的規則の条件を含むところのものがすなわち客観なのである。

 何かあるものが生起するというのは、現在の状態を含んでいない現象がそれよりも前に存在するのでなければ、経験的に知覚され得ない。だから出来事の覚知は、ある知覚に続いて起きた別の知覚にほかならない。しかし、このことは覚知の一切の総合についても、先に家屋の現象で例示した通りであり、出来事の覚知はこれによってはまだ他の覚知から区別され得ない。先に知覚した状態をA、これに続く状態をBとすれば、覚知においてBはただAに続いて起きるだけであるが、しかし知覚ということになると、AがBについで継起するなどということは不可能で、AはBよりも前にしかあり得ない、ということである。例えば、川を下る船を見ていると、下流におけるこの船の位置の知覚は、上流におけるこの船の位置の知覚に次いで継起する。この現象の覚知において、船が最初下流にあり、その後で上流にあるものとして知覚されるということは不可能である。家屋の例ならば、覚知における知覚は、家屋の頂上からはじまり土台で終わることも、また下方からはじめて上方で終わることもできた。このような知覚の系列では、多様なものを経験的に結合するためにどこから始めるべきかという仕方を必然的にする一定の秩序は存在しない。ところが生起するところのものの知覚においては、我々はこの規則に出くわすのである。この規則が相次いで継起する知覚の秩序を必然的にするのである。

 この場合、覚知の主観的継起は現象の客観的継起から導かれなければならない。さもなければ、主観的継起は全く不定なものになり、ある現象と他の現象とが区別されなくなる。主観的継起だけでは、客観における多様なものの必然的結合を証示するわけにはいかないから、客観的継起は、現象における多様なものの秩序によって成立することになる。生起するあるものの知覚は、こうした秩序に準拠しひとつの規則に従って、他のものに次いで継起するのである。

 我々が、何かあるものの生起を経験的に知るというときには、何らかのあるものがこの生起よりも前にあり、生起するものは規則に従って、このものに次いで継起するということを前提しているのである。こういうことがなければ私は客観について、それが実際に継起するとはいえないだろう。私の主観的総合を客観的ならしめるというのは、このことがいつでも規則に従って行われるということなのである。

 このことは、我々の悟性使用の進み方についていわれてきた一般の見解と矛盾する。こうした見解では、我々は多くの出来事がそれぞれそれより前にある現象に次いで一様に継起するのを知覚し、比較することによってのみ、初めてある規則――すなわち、それに従ってある出来事が常にある現象に次いで継起する規則を発見する手がかりを得、原因の概念を構成する機会がようやく与えられるという段取りになる。しかしこういう見方では、原因の概念が全く経験的な概念にすぎなくなり、この概念が与えるところの規則、すなわち生起する一切のものは全て原因を有するという規則は、経験そのものと同じく偶然的なものになる。出来事の系列を規定する規則の表象、すなわち原因の概念の論理的明晰ということは、我々が経験においてこの規則を使用した場合に初めて可能になる。
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2017年09月06日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約@

 今回から4回にわけて、8月例会で扱った範囲の要約を紹介していきます。今回は、経験の類推の概説的な部分と、3つの類推のうちの1つ目「実体の常住不変性の原則」について紹介します。

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3 経験の類推

その原理――経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である

 経験とは知覚によって客観を規定するような認識であるから、経験は知覚の総合であるが、この総合そのものは意識における知覚の多様な内容の総合的統一を含んでいる。この総合的統一が、感官の対象の認識の本質、従ってまた経験の本質をなす。覚知が空間および時間において一緒に並べ連ねた現象が結合されたものとして実際に存在しているという必然性の表象は、覚知のなかには全く見出されない。ところが、経験は知覚による客観の認識だから、多様なものの現実的な存在における関係は、時間において客観的に存在する物として表象されねばならない。しかし、時間そのものは知覚されないから、時間における客観の存在は時間一般における結合によってのみ(ア・プリオリに結合するところの概念によってのみ)規定され得る。

 時間の三様態は常住不変性、継起および同時的存在である。およそ現象の現実的存在をあらゆる時間統一に関して規定するこれら規則は、一切の経験より前にあり、また経験を初めて可能ならしめる。

 これら三類推の全てに通じる一般的原則は、いかなる時でも一切の可能的な経験的意識(知覚)に関する統覚の必然的統一に基づいている、従ってまた――こうした統一が常にア・プリオリに根底に存するところから、時間における現象相互の関係に従うところの一切の現象の総合的統一に基づいている。

 こうした原則が考慮に入れるのは、現象の現実的存在および現象の現実的存在に関する現象相互の関係にすぎない。

 先に述べた二原則――直観の公理と知覚の先取的認識は、数学を現象に適用する機能をもっているので、数学的原則と名づけられた。これら原則は、現象の可能という点だけから現象を問題にし、現象がその直観と現象の知覚における実在的なものに関して、数学的総合に従ってどのように産出され得るか、ということを教えた。これら二原則は構成的原則と名づけられる。

 ところが、現象の現実的存在をア・プリオリに規則に従わせる原則ということになると、事情は全く異なる。現象の現実的存在は構成され得るものではないから、後の原則は統整的原理にすぎない。この場合、次のような事情が考慮されるだけである。我々にある知覚が他の知覚に対する時間関係において与えられている場合に我々がア・プリオリに言い得ることは、どうしてこの知覚が現にあるところの存在に関して、こうした時間的様態においてはじめの知覚と必然的に結びついているか、ということである。経験の類推は、それに従って経験の統一が知覚から生じるような規則であり、現象の対象に関する原則として構成的に妥当するのではなくて、全く統整的にのみ妥当する。

A 第一の類推

実体の常住不変性の原則
 現象がどんなに変易しようとも実体は常住不変であり自然における実体の量は増えもしなければ減りもしない

証明

 全て現象は時間において存在する。同時的存在も継起も、基体としての時間(内的直観の不変な形式としての)においてのみ、表象せられるのである。それだから時間は、現象の一切の変易がそのなかで考えられなければならないものであるが、時間そのものは常住であって変易しない。時間はそれ自体だけでは知覚され得ないから、知覚の対象すなわち現象において、時間一般を表わすところの基体が見出されねばならない。一切の変易や同時的存在は、こうした基体に即して、この基体に対する現象の関係によって覚知され得るのである。現象の一切の時間関係は、常住不変なものとの関係においてのみ規定され得る。してみるとこの常住不変なものがすなわち現象における実体である。換言すれば、現象の一切の変易の基体として、現象において常に同一不変であるところの実在的なものである。してみるとこの実体は、現象の現実的存在において変易することがあり得ない。ゆえに、自然における実体の量は増すこともあり得なければ減ることもあり得ないのである。

 現象における多様なものの覚知は継時的で絶えず変易しているから、我々は覚知によるだけでは多様なものが経験の対象として同時的に存在しているのか前後的に継起しているのか規定することはできない。そのためには、常住不変なあるものが経験の根底に存しなければならない。一切の変易や同時的存在は、こうした常住不変なものの実際的のそれぞれの仕方(時間の様態)にほかならない。換言すれば、常住不変なものが時間そのものの経験的表象の基体なのである。常住不変性は、一切の現実的存在の恒常的な相関者としての、従ってまた一切の変易と一切の同時的存在との相関者としての時間を表現する。常住不変なものがないと、およそ時間関係は全く成立しない。現象における常住不変なものは、一切の時間規定の基体であり、それ故にまた知覚の一切の総合的統一を可能ならしめる――換言すれば経験を可能ならしめる条件でもある。時間における一切の現実的存在と一切の変易とは、それぞれこの常住不変なものの実際的存在の一様態と見なされ得るにすぎない。それだからおよそ現象においては、この常住不変なものが対象そのものであり、実体(現象的実体)である。変易する(変易し得る)一切のものは、この実体の実際的な存在の仕方である。

 こうした常住不変性の概念に基づいて、変化の概念も訂正される。生起と消滅とは起滅する当体の変化ではなく、変化は対象の実際的存在のひとつの仕方であり、この仕方が同じ対象の別の存在の仕方に相次いで起きるのである。つまり変化するところの当体は全て常住不変であり、その状態だけが変易するのである。

 それだから変化は、実体に即してのみ知覚される。生起あるいは消滅そのものは、常住不変なものの規定に関する限りにおいてのみ、可能的な知覚になり得るのである。変化は常住不変なものの変易的規定としてのみ、経験的に認識され得るのである。

 現象における実体は、一切の時間規定の基体をなしている。もしある実体は生起し、他の実体は消滅するということになったら、時間を経験的に統一するための唯一の条件そのものが滅却されてしまうだろう。実際には唯一の時間があるだけで、この時間において相異なる一切の時間が、同時的にでなく相次いで配置されなければならないのである。
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2017年09月05日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(1/10)

目次
(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』経験の類推
(3)カント『純粋理性批判』経験の類推
(4)カント『純粋理性批判』経験の類推
(5)カント『純粋理性批判』経験の類推
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か。
(8)論点2:因果律に従う時間継起の原則とは何か。
(9)論点3:相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か。
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 8月例会では、『純粋理性批判』の先験的論理学の内、その「第一部 先験的分析論」「第二篇 原則の分析論」の途中を扱いました。具体的には、「第三節 純粋悟性のすべての総合的原則の体系的表示」の中の「3 経験の類推」です。

 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

カント『純粋理性批判』経験の類推
【1】経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か?
 カントは、経験の類推の原理が、「経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である」というものであると述べている。経験においては、多様なものの現実的存在における関係は、時間において客観的に存在するものとして表象されねばならないが、時間における客観の存在は、ア・プリオリに結合するところの概念(時間一般における)によってのみ必然的に規定されうる、故に経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である、というのである。

 またカントは、第一の類推として、実体の常住不変性の原則を挙げ、これは「現象がどんなに変易しようとも実体は常住不変であり自然における実体の量は増えもしなければ減りもしない」というものだと述べている。すべて現象は時間において存在するのであり、時間一般を表すところの基体によって知覚される(時間そのものは知覚され得ない)のであるが、その基体とは常住不変な実体のことであり、現実的存在に属する一切のものは、それぞれの実体の規定としてのみ考えられるから、実体は現象の現実的存在において変易することがなく、故に自然における実体の量は、増すことも減ることもあり得ないというのである。

<報告者コメント>
 カントは「時間における関係は、同時性と継時性の2つだけである」(p.259)と述べている。第1の類推である「実体の常住不変性の原則」においてカントは、時間を表現する基準である常住不変なものとしての実体を説明し、それを基にして、第2、第3の原則では、時間の「継時性」と「同時性」の原則に関して説いていくことになるということであろう。

 ここでは、カントのいう「実体」とはどのようなものか、よく検討してみる必要があろう。純粋悟性概念の1つとして、カントは「実体」というカテゴリーを挙げているが、ここでの「実体」はカテゴリーとしての「実体」を意味しているのか、別の内容を表しているのか。ここでの「実体」は物自体の範疇に入るものか、現象の範疇に入るものか。「現象の現実的存在」という表現も使われているが、これとここでの「実体」という表現とは同じことなのか違うのか、違うとするとどう違うのか。

【2】因果律に従う時間的継起の原則とは何か?
 続いてカントは、第二の類推として、「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」という因果律に従う時間継起の原則を挙げている。これは、原因と結果というカテゴリーを現象に適用することによって、現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ、ということである。

 ここでカントは、ヒュームの因果律批判に反駁している。つまり、原因や結果という概念は、確かに経験から導き出されるものではないが、かといって客観的な対象にこうした必然的な因果関係がないということにもならない、それは原因や結果という純粋悟性概念によって認識が成立すると同時に、客観的な対象の因果関係も成立するからだ、というのである。

<報告者コメント>
 カントはこの部分で、「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」(p.33)という、形而上学におけるコペルニクス的転換を実証している。我々の認識が対象によって規定されるのではなくて、その逆だという発想を展開することで、ヒュームが乗り越えられなかった問題、すなわち因果律の客観的な必然性はどこにあるのかという問題を解決した(つもりになっている)。

 しかし、こうした考え方の結果、現象と物自体とを完全に分けてしまい、物自体は捉えようのないものだとする「物自体論」に陥ってしまったのである。唯物論の立場からすれば、物自体には性質があり、それを認識できるかどうかは物の性質とは関係がない。カントは、客観と主観との一致という問題を、客観を現象に限定することで解決しようとしたが、では現象の背後にある物自体とはどのようなものかという新たな問題を残してしまったのである。

【3】相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か?
 最後にカントは、第三の類推として、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」という相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則を挙げている。2つの物が同時的に存在する(相互的に継起し得る)ということを知覚する根拠は客観に存在するというためには、相互性の関係、あるいは相互作用の関係というカテゴリーを必要とし、このカテゴリーを前提としてのみ、2つの物の同時的存在が認識され、また経験の対象を可能ならしめる、ということである。

<報告者コメント>
 ここでもカントは、2つ以上の物が同一の時間に存在することを、相互性の関係というカテゴリーによって認識するのだと説明している。これも「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」ということの1つの実例であろう。

 唯物論の立場からすれば、人間の認識の能動性を取り上げ、その性質を明らかにしたという意味では、一定の評価ができるものの、やはり考え方が転倒しているといわざるを得ない。2つ以上の物が同時に存在するかどうかは、認識(の能動性)如何に関わりなく、客観的に規定されている事実である。認識が成立して初めて対象が成立するのではなくて、対象の成立が認識の成立の条件である、と考えるのが唯物論的な認識論の土台である。


 このレジュメに対して、いくつかの指摘がありました。1つは、第三の内容の報告者コメントに関するものです。「唯物論の立場からすれば」ということで書かれているものの、これだけでは「唯物論ではこう考えます」というだけであり、カントは納得しないだろうということでした。これについてはレジュメ報告者も納得していました。

 もう1つは、第二の内容に関するものです。「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」ということが「原因と結果というカテゴリーを現象に適用することによって、現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ、ということである」と言い換えられているが、果てしてこれでよいのかということをチューターが指摘しました。もう少し具体的に言うと、前者は客観的な世界について述べていて、主観のことには何も触れていないのに、それを言い換えた後者では「現象の変化を認識できるし・・・」と主観のことを書いていることに違和感を覚えるということでした。しかし、これは今回の例会で議論したい点として挙げていたことでもあったので、詳しくは論点の議論の中で扱うことになりました。
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2017年08月17日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで,カント『純粋理性批判』の「原則の分析論」の緒言〜第2章第3節2の部分を扱ったわが研究会の2017年7月例会について,報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で,3つの論点について諸々に議論したプロセスを紹介してきました。

 7月例会報告の最終回となる今回は,参加していた会員の感想を紹介することにします。なお,次回8月例会は,『純粋理性批判』で説かれている純粋悟性の原則の3つ目である「経験の類推」の部分(pp.251-294)を扱います。

 それでは,以下,参加者の感想です。

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 今回は,カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の図式論,純粋悟性の全ての原則の体系の部分を扱った。

 カントが,カテゴリーを現象に適用するためには,先験的図式なるものが必要であると説いていること,また,綜合的判断の最高原則が,いかなる対象も可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件〔直観の形式即ち空間および時間,カテゴリーとカテゴリーによる統一,先験的統覚,時間における構想力の綜合によるカテゴリーの図式化〕に従うものであると説いていること,純粋悟性の原則に関して,三段論法を用いて証明していることなどが大雑把にではあるが理解できた。

 しかし,他会員が把握していたような中身に至らなかったという反省点もある。例えば,先験的図式なるものに関していえば,これが庄司和晃氏の三段階連関理論と重ねあわせて把握し得るようなものであるという把握は,他会員が共通して指摘していたことであるが,私には全くそういった理解ができていなかった。また,カントのいう「現象」というものの理解についても,私はこれが物自体が認識に表れたものだと理解していたのだが,他会員は皆,これはそういう認識に属するようなものではなくて,対象に属するものであるという理解をしていたのだった。

 ここ最近は,何度も例会の範囲を読み込んで,それなりの理解ができてきているという面はあるものの,やはりそれまでの部分が十分に理解できていないため,またそもそものカント哲学の素養がないため,あらぬ理解になってしまっているということが多々あるということだと思う。しかしこれこそ,集団力でもって学んでいく重要な意義の1つであるのだから,その利点をしっかりと生かしていけるようなアタマのあり方にしていく必要があると感じた。

 次回は純粋悟性の原則の1つである「経験の類推」という部分を扱う。報告者レジュメの担当に当たっているために,ここ数ヶ月以上の読み込みで,しっかりと内容を把握し,的確な論点を提示し,それに対する見解も筋を通したものとして提示できるよう,努力していこうと思う。

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 7月例会はチューターとして臨んだ。カテゴリーを現象に適用するためには図式が必要だと説いていること,一切の綜合的判断の最高原則は,いかなる対象も可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件にしたがうものであるとされていること,直観はすべて外延量であり,感覚の対象は度合いをもつことはア・プリオリに認識できること,などが説かれていることは,ある程度理解できたと感じている。

 当日の進行についても,それほど問題はなかったと考えている。ちょっとした会員のちょっとした言語表現から,大きく誤解しているのではないか,根本的なところを理解していないのではないか,と思われる点については,やや厳しく突っ込みを入れることができたと思う。また,純粋理性の原則の部分に関しては,時間規定に引き付けて理解しなければならないことを提起できた点もよかったと思う。

 ただ,『純粋理性批判』の大きな流れに,今回の部分を位置づけようとすると,今回の部分は純粋悟性概念の演繹とどう違うのか,カントは一体何を説明しようとしているのか,などなど,疑問がいくつも生じてくるのも事実である。毎回の例会では,その部分部分を理解することに必死になってしまって,全体の流れにおける位置づけなどはなおざりになってしまっていると感じる。それはいくぶんしかたのないことなのかもしれないが,初めからまた読み返してみるなどして,毎回の例会では議論できない大きな流れについて,自分なりに考え続けることもまた,必要だと感じている。

 今回,解説部分が非常に充実している中山元訳『純粋理性批判』(光文社古典新訳文庫)も購入したので,改めてこちらで初めから読み返すことも検討してみたいと思ったしだいである。

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 7月例会では,カント『純粋理性批判』の純粋悟性概念の図式論,純粋悟性の全ての原則の体系について論じられている部分を扱った。本来なら,徹底して読み込み,要約作業を行ってから論点への見解を作成したかったのだが,それはかなわず,ざっと通読したレベルで見解を作成したために(また,見解提示の起源に間に合わせるために),不十分なものしか書くことができなかった。それでも,当日の議論を通じて,大まかな内容は理解できたのではないかと思う。

 とりわけ,カントの図式論について,唯物論の立場からの把握と比較しながらの議論は興味深かった。感性的なものと概念的なものとは全く異質なように見えるが,両者が関連していることも否定はできない。それでは両者はどのように媒介されるのか――このことが,それこそ古代から一貫して問題になっていたといえるのではないか,とも考えさせられた。感性的なものと概念的なものとの関係は,対象(客観)と認識(主観)との関係とどのように関わってくるのか,というのも考えてみれば微妙な問題で,様々な解釈がなされてきた歴史があるのではないかと思う。このあたりをきちんと整理しきらなければ,真の唯物論哲学の構築など不可能であるといってよいだろう。カントの二元論,ヘーゲルの観念論,それから唯物論という3つの立場を比較するという意識で考察を深めていく必要性を改めて感じさせられた。

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 今回の範囲に関して,最初に読んだときには非常に難しいなと感じていたが,論点への見解作成に向けて何度も読み返す中で,おぼろげながら内容がわかってきたように感じていった。また,例会での議論をとおして,ある程度理解を深めることができたと感じている。

 とりわけカントの図式論について唯物論的な見解とはどう同じでどう異なるのかという点を検討したのがよかったと思う。感性的なものと概念的なものを区別している点は共通しているものの,カントの図式論においては,その2つが全く別個のものであり,だからこそその別個のものをつなぐための媒介(図式)が必要になるのだという主張がなされている。それに対して,唯物論の立場では,感性的なものの反映を繰り返す中で,その共通する部分が概念的なものとして形成されていき,あらたに感性的なものを目にしたとき,アタマの中にある概念的なものと結びつくのだという説明をする。この点を捉えると,確かに唯物論の立場の方が1つの筋をとおして説くことができるのだなと実感できた。やはりこういうレベルでカントの主張と唯物論の立場での主張を比較検討していくという作業が必要になるなと感じた。

 あと,反省点として,カントの記述を読んでふと思いついたことをレジュメなり見解なりに書いてしまっていたという点が挙げられる。しっかり読み込んで,前後の文脈を理解したうえで自分の見解を作成していかなければならないと思った。


(了)

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2017年08月16日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(9/10)

(9)論点3:直観の公理,および知覚の先取的認識とはどういうものか

 前回は,主として一切の綜合的判断の最高原則についてのカントの主張について,議論した内容を紹介しました。

 今回は,純粋悟性の4つの原則のうち,初めの2つの部分についての討論過程を紹介します。論点は,以下のようなものでした。

【論点再掲】

 カントは,純粋悟性の原則を4つ提示しているが,そもそも,純粋悟性の原則とはどういうものか。さらにカントは,「直観の公理」は「直観はすべて外延量である」(p.237)という原理であり,「知覚の先取的認識」は「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」(p.241)という原理であると述べているが,これらはそれぞれどういうことか。それぞれはどのように証明されているか。

 この論点に関しては,まず,そもそも,純粋悟性の原則とはどういうものかを確認しました。これについては,カテゴリーを客観的に使用する(現象に適用する)ための規則のことである,という理解で,ほぼ落ち着きました。

 次に,「直観の公理」は「直観はすべて外延量である」(p.237)という原理であると説かれているが,これはどういうことかについて議論しました。まず,外延量とは,空間・時間のある部分を占めているという意味であり,「直観はすべて外延量である」というのは,直観はすべて,空間・時間の一部を占めているという意味であろうということを確認しました。そのうえで,これがどのように証明されているのか,そのプロセスを議論しました。ここでチューターが,中山元訳『純粋理性批判』(光文社古典新訳文庫)の解説で,ここでの証明は三段論法によってなされているという指摘があることを紹介しました。そのうえで,ここの証明を以下のように整理しました。

大前提:
 すべての現象は形式的に見れば空間・時間における直観を含んでおり,現象が覚知されるためには多様なものの綜合が必要である

小前提:
 直観一般における同種的な多様なものの意識は,対象の表象を初めて可能にするが,この意識が外延量の概念である

結論:
 同種的な多様なものの合成の統一が量の概念において考えられる,すなわち,現象は全て外延量である


 ごく簡単にいい直すならば,すべての現象は,空間や時間における直観を含んでおり,直観は外延量であるがゆえに,全ての現象は外延量である,ということです。この見解に対しては,皆が,ほぼ,このような理解でいいのではないかと同意しました。

 最後に,「知覚の先取的認識」についての議論に移りました。これは,「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」(p.241)という原理であると説かれていますが,これはどういうことを意味するのか,ということです。ここに関してもまず,「知覚の先取的認識」とはそもそもどういうことなのかを確認しました。ある会員は,カントは,経験的認識に属するものをア・プリオリに認識し規定し得るような認識を先取的認識と名づけていると説明しました。すなわち,経験的認識なのだけれども,その経験に先立って,あることを認識しうるような,そのような認識を「先取的認識」と呼んでいるのだ,ということでした。これにはみなが同意しました。

 続いて,先の場合と同じく,チューターによって三段論法の証明が,以下のように提示されました。

大前提:
 知覚とは感覚をも含むような意識であり,知覚の対象としての現象は客観一般に対応する質料を含んでいる

小前提:
 感覚自体は客観的表象ではなく,外延量をもつものではないが,ある種の量=内包量を持つ

結論:
 感覚が内包量をもつ以上,これに対応して知覚のあらゆる対象にもまた内包量,すなわち感官に及ぼす影響の度合がある


 ここでいわれている内包量についても確認しました。内包量とは,感官に及ぼす影響の度合いのことであり,どこまでも漸減せられ得るようなもの(例えば色,熱,重力)である,ということでした。したがって先の三段論法は,簡単にいってしまうと,知覚は感覚を含み,感覚は内包量(度合い)をもつがゆえに,知覚の対象をなす実在的なものにも内包量(度合い)がある,ということだと確認しました。要するに,知覚の先取的認識とは,経験に先立って,対象が度を有することを認識している,ということです。これで皆の見解がほぼ一致しました。

 以上で,7月例会の論点に関する議論を,すべて終了しました。
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2017年08月15日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(8/10)

(8)論点2:一切の分析的/綜合的判断の最高原則とは何か

 前回は,純粋悟性の図式論に関わる論点について,どのような議論がなされ,どのような(一応の)結論に到達したのかを説きました。

 今回は,分析的判断,綜合的判断のそれぞれの最高原則に関わる論点です。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】

 カントは,「一切の分析的判断の最高原則」は何だと説いているか。また,カントの説く「一切の綜合的判断の最高原則」とはどういうものか。なぜそれが最高原則だと言えるのか。カントの説く認識成立の構造は,唯物論の立場からはどのように評価することができるか。

 この論点については,まず,一切の分析的判断の最高原則についての確認から入りました。これについては皆の見解が一致しており,一切の分析的判断の最高原則は矛盾律だということを確認しました。なぜ矛盾律なのかという理由については,分析的判断の真実は,常に矛盾律に従って十分に認識せられうるからとカントが説いていることを確認しました。

 次に,一切の綜合的判断の最高原則についての検討に移りました。これも大筋では皆の見解は同様の内容でした。すなわち,端的にいうと,「我々の一切の表象を含む総括者であるところの内感,構想力に基づく表象の綜合,および統覚の統一に基づく表象の綜合的統一」(p.230)という三者にこそ,純粋な綜合的判断の可能が求められるべきである,ということでした。もう少し詳しくいうと,以下のようになります。そもそも綜合的判断とは,与えられた概念に,その概念のなかからは出てこない別の概念を関係させて考察するものです。この場合,判断自体からは,この判断が真理であるか否かは明らかになりません。与えられた概念と他の概念を比較するには,これら2つの概念の綜合を可能にするような第三のものが必要になる,とカントは説いています。それは,我々の一切の表象を含む総括者である内感,構想力に基づく表象の綜合,および統覚の統一に基づく表象の綜合的統一の三者です。綜合的判断は,この三者を基礎にしなければ成り立たない(したがって,それが最高原則である),というのがカントの主張なのです。

 ここでチューターがある疑問を呈しました。それは,p.232では,「直観の形式即ち空間および時間,カテゴリーとカテゴリーによる統一,先験的統覚,時間における構想力の総合によるカテゴリーの図式化」とあるように,三者ならぬ四者になっているのはなぜなのか,先ほどの三者とここに挙げられた四者は,どのように対応しているのか,というものでした。単純に対応しそうなものを考えてみると,前者の「内感」と後者の「直観の形式即ち空間および時間」,前者の「統覚の統一に基づく表象の綜合的統一」と後者の「先験的統覚」が,対応しそうだということになります。そうすると残ったのは,前者の「構想力に基づく表象の綜合」と後者の「カテゴリーとカテゴリーによる統一」「時間における構想力の総合によるカテゴリーの図式化」ということになります。確かに構想力は,カテゴリーとも図式とも関係してきますから,前者の「構想力に基づく表象の綜合」が後者の「カテゴリーとカテゴリーによる統一」「時間における構想力の総合によるカテゴリーの図式化」という2つに対応すると考えてもいいのではないか,ということになりました。

 また,カントは「いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件〔直観の形式即ち空間および時間,カテゴリーとカテゴリーによる統一,先験的統覚,時間における構想力の綜合によるカテゴリーの図式化〕に従うものである」(p.232)と説いているが,ここでは,可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件に,対象をも従う必要がある,それこそが,一切の綜合的判断の最高原則であると説かれています。これはすなわち,経験=認識が可能となる条件は,直接に,対象が可能となる条件でもあり,これによって,ア・プリオリな綜合的判断が客観的妥当性を持つのだ,と主張しているように思われるとの見解も出されました。これについて他の会員も,そのような理解でいいのではないかと同意しました。

 カントの説く認識成立の構造についての唯物論の立場からの評価については,物自体は性質をもたないとしている点が批判されるべきであるということについては,見解が一致しました。ここに関して,分かりやすく説いている一会員の見解を示すならば,以下です。

「カントの主張は,例えば,石が水に投げ込まれると波紋が生じる,という総合的判断について,我々の一切の表象を含む総括者である内感(石が投げ込まれた後に波紋が生じたというように,時間という形式に従って順序付けられる),構想力に基づく表象の綜合(石が投げ込まれたということが原因となって波紋という結果が生じた,というように原因と結果というカテゴリーが適用される),および統覚の統一に基づく表象の綜合的統一(「私は……考える」というように自分の経験としてまとめる)の三者によって成り立つのだ,と主張するものであり,あくまでも主観的条件が対象(現象)を成り立たせているのであって,物自体の性質は把握しようがない(物自体は何の性質も持たない),ということを前提としています。しかし,唯物論の立場からすれば,物自体は性質をもつのであって,石が波紋を引き起こすのも,それぞれの客観的な性質に根拠があるということになるのです。」


 この見解には,皆が納得しました。

 唯物論の立場からの評価に関わって,ある会員は,カントの立場を人間の認識に対象が現象する際に認識の側から性質を与えると説明しました。これに対してチューターは,カントの言う「現象」とは,人間の認識に対象が現われることをいうのではなく,客観的世界の側にあるものを指す用語ではないか,と指摘しました。カントの立場では,物自体は認識できず,その現象しか認識できないとされているのだから,現象とは認識する対象の側の存在を指すのであって,認識の側を指すのではない,ということです。この説明にはこの会員も納得しました。

 以上で論点2についての議論を終了しました。

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2017年08月14日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(7/10)

(7)論点1:純粋悟性概念の図式論とはどのようなものか

 前回は,7月例会で扱った範囲を改めて要約し直した後に,会員から出された論点をチューターが整理して3つにまとめたものを紹介しました。

 今回からは,その3つの論点について,どのような議論がなされ,どのような(一応の)結論に達したのかについて,紹介していきたいと思います。

 今回は,カントのいう「純粋悟性の図式論」に関わる論点についての内容です。論点は,以下のようなものでした。

【論点再掲】

 カントは判断力に関して,「規則のもとに包摂する能力である」(p.210)と述べているが,これはどういうことか。また,カントは,カテゴリーを現象に適用するためには先験的図式が必要だというが,これはどういうことか。唯物論の立場からすれば,カントの図式論をどのように評価することができるか。具体的な例として,犬の認識がどのように成立するか,カントの説明と唯物論の立場からの説明を比較してみるとどうなるか。

 この論点に関してはまず,判断力とは何かということについて確認しました。これについては意見の相違はありませんでした。すなわち,判断力とは,普遍的な規則のもとに特殊な対象を包摂する能力であり,特殊な対象が普遍的な規則の適用を受けるかどうかを判断する能力である,ということです。もう少し端的にいうと,感性的直観における表象を,悟性に具わった純粋悟性において与えられる規則に取り込む働きであり,カテゴリーを現象に適用する働きのことであるということです。会員の一人は,カントの叙述にしたがって,判断力は,生得の知慧の特殊なものであり,教えることができるようなものではない点にも触れました。

 次に,先験的図式について議論しました。これは,カテゴリーと直観を媒介する第三のものであり,カテゴリーとも現象とも同種である先験的な時間規定がこれにあたるという点は,皆の共通認識でした。二人の会員はこれに加えて,図式が構想力の所産であることも指摘しました。ここに関わって,カントが,感性的概念(経験的概念)の根底には形像ではなく図式がある,と説いている点について,議論を深めました。まず,感性的概念(経験的概念)とは何かという点ですが,これは,カテゴリー以外の,先験的ではない概念のことだろうということになりました。また,形像とは,見たままの像,具体像のことだろうということで落ち着きました。これを踏まえて,感性的概念(経験的概念)の根底には形像ではなく図式がある,ということはどのようなことかを議論して,結局,対象の具体的なイメージから感性的概念に達することはできず,必ず図式が媒介とならなければならない,ということであろう,という結論になりました。要するに,カテゴリーと現象(直観),感性的概念(経験的概念)と形像を媒介するものは図式である,ということです。

 構想力と図式の関係についても議論しました。一会員が,カントは,図式についてそれが構想力に関わることを指摘するだけで,「人間の心の奥深い処に潜む隠微な技術」(p.218)だとして,明快な説明を放棄してしまっていると指摘しましたが,この点については,これ以上議論が深まりませんでした。

 最後に,唯物論の立場からすれば,カントの図式論をどのように評価することができるかについて議論しました。感性と悟性,現象とカテゴリーを全く別物として捉えてしまっている点が問題であるが,カテゴリーを現象に適用する際には,その媒介物が必要だと指摘した点は,概念と感覚を媒介するものとして表象的段階を措定した庄司和晃に通じるような見事な指摘ということもできるとか,カントのいわゆる図式は,ごく大雑把にいえば,対象についての感性的(具体的)なレベルの像と概念的(抽象的)なレベルの像とを媒介する表象的なレベルの像に相当するものであるといえるのではないかとか,図式とは唯物論的にいうと表象的認識に相当するとかいう見解が出されました。いずれも,カントのいう図式は,庄司和晃氏の三段階連関理論における表象と論理的に似通って性質をもっているのではないかという指摘でした。ただし,三段階連関理論のように,抽象度の違いとして3段階を統一的に把握するような視座はなく,まったく異種的な2つのものを結びつけるために,両方の性質を併せ持った第三のものを設定しただけという欠陥がありそうだという話にもなりました。

 ここをもう少し検討するために,犬の認識がどのようにして成立するのかを,カントの立場とわれわれの立場とで比較してみました。カントの立場では,ある特殊な個々の犬を見た場合,これを「犬」だと認識できるのは,犬という図式に従ってこの形像を犬という概念に結びつけることによってである,ということになります。すなわち,犬の形像が,ア・プリオリな純粋構想力の産物である図式(がカテゴリーを適用すること)によって可能となるのです。一方で,われわれ唯物論の立場から犬という認識がどのように成立するかを説くならば,個々の犬をくり返しくり返し認識することによって,それらの像の重なる部分と重ならない部分とが徐々に明確になってきて,その重なる部分が共通性として把握されるようになり,その重なる部分が徐々に表象から概念へと発展していくことになるのであり,その「犬」という表象や概念でもって対象に問いかけることで,その共通像にある程度合致する対象の像を「犬」と判断できる,ということになります。もう少しいうと,具体的な犬を対象として反映した場合に,その具体的な像が,犬の表象像を媒介として犬の概念像に結び付けられるということができます。このように検討してみると,やはりカントの図式論は,何かバラバラなものを3つ並べただけという印象がぬぐえないのに対して,われわれ唯物論の立場に立つ認識論においては,3つの段階が全て像の発展として,その像の抽象度の違いとして,統一的に把握されており,より一貫性のある論理であるということができる,ということを確認しました。

 以上で,この論点についての議論を終了しました。

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2017年08月13日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 これまで,4回にわたって『純粋理性批判』の7月例会の範囲の要約を掲載してきました。

 ここで,改めて,今回の範囲で大事な内容を簡単にふり返っておきたいと思います。

 初めにカントは,これから論究しようとする原則の分析論は,判断力に対する規準であるとして,その判断力とは,規則のもとに包摂する能力,何かあるものが与えられた規則の適用を受けるかどうかを判別する能力であると説いていました。そして,ある現象をカテゴリーに包摂する場合には,一方ではカテゴリーと,他方では現象とそれぞれ同種的であるような第三のものがなければならないとして,それを先験的図式であると説いていました。この先験的図式とは先験的時間規定のことであるとされていました。この先験的時間規定が,悟性概念の図式として,現象をカテゴリーのもとに包摂する媒介的な役割をはたすということでした。そして,悟性が図式を取り扱う仕方を図式論と名づけ,図式は構想力の所産だとされていました。また,形像は,これを描き出すところの図式を介してのみ概念と結びつかねばならないのであって,それ自体概念と完全に合致するものではないと説かれていました。さらに,カテゴリーの図式はいずれも時間規定を含みかつこれを表示しているとされていました。

 このように純粋悟性概念の図式論について説いた後,カントは純粋悟性の原則の体系としてまず,一切の分析的判断の最高原則について説いていきました。カントはそれを,「いかなる物にもこの物と矛盾する述語を付することはできない」という矛盾律にあると説いていました。それは,分析的判断の真実は,常に矛盾律に従って認識され得るからとのことでした。続いてカントは,一切の綜合的判断の最高原則について説いていきました。内感,構想力に基づく表象の綜合,統覚の統一に基づく表象の綜合的統一の3つにこそ,純粋な綜合的判断の可能も求められるべきであり,綜合的判断は必ずこの三者を基礎としなければならないと説かれていました。結論的にカントは,一切の綜合的判断の最高原理は,いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件に従うものである,ということであると説いていました。

 最後にカントは,純粋悟性の原則を体系的に表示しようと試みていました。そもそも純粋悟性の原則とは,カテゴリーを客観的に使用するための規則のことでした。そしてそれは,「直観の公理」「知覚の先取的認識」「経験の類推」「経験的思惟一般の公準」の4つであることが示されていました。前二者は直観的確実性を持つがゆえに数学的原則と呼ばれ,後二者は論証的確実性しか持たないゆえに力学的原則と名づけられていました。その後,「直観の公理」に関しては,その原理は「直観はすべて外延量である」とされ,「知覚の先取的認識」については,その原理は「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」であると説かれ,それぞれその証明がなされていました。

 以上のような内容に関わって,会員からはいくつかの論点が提示されました。それをチューターが以下のように3つにまとめました。

1.純粋悟性概念の図式論とはどのようなものか

 カントは判断力に関して,「規則のもとに包摂する能力である」(p.210)と述べているが,これはどういうことか。また,カントは,カテゴリーを現象に適用するためには先験的図式が必要だというが,これはどういうことか。唯物論の立場からすれば,カントの図式論をどのように評価することができるか。具体的な例として,犬の認識がどのように成立するか,カントの説明と唯物論の立場からの説明を比較してみるとどうなるか。


2.一切の分析的/綜合的判断の最高原則とは何か

 カントは,「一切の分析的判断の最高原則」は何だと説いているか。また,カントの説く「一切の綜合的判断の最高原則」とはどういうものか。なぜそれが最高原則だと言えるのか。カントの説く認識成立の構造は,唯物論の立場からはどのように評価することができるか。


3.直観の公理,および知覚の先取的認識とはどういうものか

 カントは,純粋悟性の原則を4つ提示しているが,そもそも,純粋悟性の原則とはどういうものか。さらにカントは,「直観の公理」は「直観はすべて外延量である」(p.237)という原理であり,「知覚の先取的認識」は「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」(p.241)という原理であると述べているが,これらはそれぞれどういうことか。それぞれはどのように証明されているか。


 これらの論点について,会員は事前に自己の見解をまとめて文章化し,それをチューターが取りまとめて,コメントを付しました。ここまでを例会までにすませておき,それを踏まえて例会当日には議論をしました。次回以降は,例会当日にどのような議論がなされて,どのような(一応の)結論に到達したのか,ということを紹介していきたいと思います。

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2017年08月12日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第2章第3節1・2

 前回は,『純粋理性批判』原則の分析論の第2章第2節から第2章第3節にかけての部分の要約を紹介しました。そこでは,いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の綜合的統一の必然的条件に従うものであるという,一切の綜合的判断の最高原理が説かれていました。そして,純粋悟性の原則とは,カテゴリーを客観的に使用するための規則のことであり,「直観の公理」「知覚の先取的認識」「経験の類推」「経験的思惟一般の公準」の4つであることが説かれていました。

 さて今回は,今挙げた4つの原則のうち,「直観の公理」と「知覚の先取的認識」とについて説かれている部分の要約を掲載します。「直観の公理」に関しては,その原理は「直観はすべて外延量である」とされ,「知覚の先取的認識」については,その原理は「およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量即ち度を有する」であると説かれ,それぞれその証明がなされていきます。

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1 直観の公理

その原理――直観は全て外延量である

証明

 およそ現象は,形式的に見れば全て空間あるいは時間における直観を含んでいるから,現象が覚知されるためには(現象が経験的意識に取り入れられるには),多様なものの総合によるよりほかに方法がない。要するにある一定の空間および時間の表象は,この総合によって,同種的なものの合成と同種的な多様なものの総合的統一の意識によって生じるのである。ところで直観一般における同種的な多様なものの意識は,対象の表象を初めて可能にするものであるが,この意識がすなわち量(外延量)の概念である。それだから現象としての対象の知覚すら,感覚的直観において与えられた多様なものの総合的統一によってのみ可能である。この同じ総合的統一によって,同種的な多様なものの合成の統一が量の概念において考えられるのである。換言すれば,およそ現象は全て量であり,しかも外延量である。空間および時間における直観としての現象は,空間および時間一般を規定する総合と同じ総合によって表象されねばならないからである。
 私がここで外延量というのは,そのなかでは部分の表象が全体の表象を可能にする(したがって部分の表象が必然的に全体の表象よりも前にある)ような量のことである。私が1本の直線を引くにしても,これを考えのなかで引いてみないことには(考えのなかである1点からこの線の全ての部分を順次作り出し,こうしてこの線の直観を描いてみないことには)どんな短い線でも実際に引くことはできない。このことは時間についても――たとえどんなに短い時間についても,全く同様である。それだから時間についていえば,私は時間においてあるひとつの瞬間から他の瞬間までの継続的進行を考えてみさえすればよい。そうするとこの進行のままに,全ての部分的時間とそれが順次に付け加えられていくこととによって,ついに一定の時間量が作り出されるのである。あらゆる現象について,純粋直観は空間であるかさもなければ時間であるから,およそ直観としての現象は全て外延量である。現象は(部分から部分への)継続的総合によってのみ,覚知において認識され得るからである。ゆえに一切の現象は,すでに集合(前もって与えられている諸部分の総量)として直観されるのである。しかしこのことは,どんな種類の量についても常にこうなるというわけではなく,我々によって外延量として表象され覚知されるような量についてだけの話である。

2 知覚の先取的認識

その原理――およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なものは内包量すなわち度を有する

証明

 知覚とは経験的意識のことである。換言すれば,同時に感覚をも含んでいるような意識である。知覚の対象としての現象は,空間および時間のような(全く形式的な)純粋直観ではない。それだから現象は,直観を越えてそれ以上に,なお何らかの客観一般に対応する質料(空間あるいは時間において存在するものは,これによって表象される),すなわち感覚における実在的なものを,単なる主観的表象として含んでいる。経験的意識にから純粋意識に至る漸減的変化は可能である。経験的意識における実在的なものが全く消滅して,空間および時間における多様なものの純粋に形式的な(ア・プリオリな)意識が残るからである。それだから,感覚がゼロすなわち純粋直観から始めて次第に増大し,任意の量まで達すること(感覚の量を次第に算出していく総合)も可能になるわけである。感覚自体は決して客観的表象ではないし,また感覚には空間の直観もなければ時間の直観もないのだから,感覚はなるほど外延量をもつものではないが,しかしそれにもかかわらず,ある種の量をもつ(しかもそれはこの量を覚知することによるのである。つまり経験的意識は,この覚知においてある時間に無すなわちゼロから,その都度達した量まで増大し得るのである)。これがすなわち内包量である。知覚は感覚を含んでいるから,感覚が内包量をもつ以上,これに対応して知覚のあらゆる対象にもまた内包量,すなわち感官に及ぼす影響の度合いがあるとしなければならない。
 経験的認識に属するところのものを,ア・プリオリに認識し規定し得るような認識を,全て先取的認識と名づけることができる。しかし現象は,ア・プリオリには決して認識されないような何かあるものを含んでいるのであり,これが本来,経験的認識をア・プリオリな認識から区別するところのものである。すなわちそれは知覚の質料としての感覚である。感覚は,もともと先取的には決して認識され得ない。これに反して空間および時間において,形態なり量なりを純粋に規定することは,現象の先取的認識と呼ばれてよい。こうした純粋な規定は,経験においてア・ポステリオリにのみ与えられるところのものをア・プリオリに示すものだからである。しかしおよそ感覚には,感覚一般として(個々の感覚が与えられていようがいまいが)ア・プリオリに認識されるようなものがあると仮定するなら,それは特殊な意味で先取的認識とよばれてよい。
 感覚だけによる覚知はある瞬間を充たすにすぎない。現象の覚知は,部分から全体的表象へ進むような継続的総合ではない。それだから感覚はこうした性質のものとして,現象において外延量をもたない。経験的直観において感覚に対応するものは実在である。また感覚の欠無に対応するものは否定すなわちゼロである。如何なる感覚も漸減し得るものだから,感覚は次第に減じてついに消滅することがありうる。それだから現象における実在と否定との間には多くの可能的な中間的感覚を含む連続がある。
 内包量というのは,単一性としてのみ覚知されるところの量である。この量においては数多性は否定すなわちゼロに近接することによってのみ表象される。だから現象における実在は全て内包量すなわち度を有する。こうした実在を原因(感覚の原因であると,現象における別の実在――例えば変化――の原因であるとを問わず)と見なすならば,原因としての実在の度はモメントと名づけられる。
 量においては,そのいかなる部分も可能的な最小部分ではない。これが量の特性であって,この性質を量の連続性と名づける。空間も時間のいかなる部分も限界によって区切らずには与えられないから,空間も時間もそれぞれ連続的な量である。点や瞬間は,個々の空間や時間を局限する単なる場所にほかならず,空間や時間よりも前にその構成部分として与えられるようなものではない。点や瞬間から空間や時間が合成されるわけではないのである。このような量を産出する(産出的構想力の総合)は,時間における経過であるから,このような量を「流れる」量とも名付けることができる。
 すると現象一般は,連続的な量ということになる。すなわち現象の直観に関しては外延量としての,また単なる知覚(感覚とその対象としての実在と)に関しては内包量としての連続的量である。

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2017年08月11日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第2章第2節〜第2章第3節

 前回は,『純粋理性批判』の原則の分析論の第1章の後半部分と第2章第1節の要約を紹介しました。そこでは,図式がカテゴリーに関連して説明され,カテゴリーの図式は,いずれも時間規定を含みかつこれを表示していると説かれていました。また,一切の分析的判断の最高原則は矛盾律にあると指摘されていました。

 さて今回は,『純粋理性批判』原則の分析論の第2章第2節から第2章第3節にかけての部分の要約を掲載します。ここでは,一切の綜合的判断の最高原則について説かれた後,純粋悟性の原則について総論的に説かれていきます。

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純粋悟性の原則の体系

第2節 一切の総合的判断の最高原則について

 総合的判断の可能を説明することは,先験的論理学の最も重要な仕事であり,ア・プリオリな総合的判断の可能,その判断の妥当性の条件と範囲の問題は,この論理学の唯一の仕事である。
 総合的判断にあっては,私は与えられた概念の外に出て,この概念において考えられているのとは全く別のものを,この概念に関係させて考察する。だから主語と述語との関係は,同一性の関係でもなければ矛盾の関係でもない。この場合には,判断自体からはこの判断が真実であることも誤謬であることも看取され得ない。
 与えられた概念と他の概念と総合的に比較するためには,この与えられた概念の外に出なければならないということを認めるならば,ここに第三のもの,すなわちこれら2概念の総合がそれにおいてのみ成立し得るような第三のものが必要になる。一切の総合的判断においてこうした媒介者の役目を果たす第三のものとは何か。それはわれわれの一切の表象を全て含んでいるような総括者にほかならない。すなわち内感と内感のア・プリオリな形式であるところの時間とがこれである。表象の総合は構想力に基づくが,表象の総合的統一は統覚の統一に基づくから,綜合的判断の可能はここに求められるべきである。この三者,すなわち,我々の一切の表象を含む総括者であるところの内感,構想力に基づく表象の総合,および統覚の統一に基づく表象の総合的統一は,ア・プリオリな表象の源泉を含むものであるから,純粋な総合的判断の可能もまたここに求められるべきであろう。それどころか,もし対象について全く表象の総合に基づくような認識が成立すべきなら,綜合的判断は必ずこの三者を基礎にせねばならないだろう。
 ある判断が客観的実在性をもたねばならないとすれば,また認識が対象に関係し,この対象において意義をもたねばならないとすれば,この対象は何らかの仕方で与えられねばならない。空間および時間の表象はいずれも単なる図式であり,この図式は常に再生的構想力に関係する。そしてこの構想力が経験の対象を現出するのである。経験の対象がなかったら,空間も時間も全く意義をもたなくなるだろう。
 経験が可能であるということは,つまり我々の一切のア・プリオリな認識に客観的実在性を与えるということなのである。経験は現象の総合的統一(現象一般の対象に関する概念に従うような総合)に基づく。経験は,その形式のア・プリオリな原理(現象を総合的に統一する一般的規則)を根底としているのである。この規則の客観的実在性は,必然的条件として常に経験において,それどころか経験を可能にするということにおいてすら,示され得るのである。こうした関係をほかにしては,ア・プリオリな総合的命題は不可能である。そうなると総合的命題は,第三のものであるところの純粋な対象(総合的命題の含む概念がそれにおいて客観的実在性を提示し得るような対象)をもたないことになるからである。
 純粋な総合的判断は,可能的経験に――というよりは,むしろ経験の可能そのものに(たとえ間接的にすぎないにもせよ)関係する。そして総合的判断における総合の客観的妥当性の根拠をこのことのみに求めるのである。
 このように経験は,経験的総合として,認識の唯一の可能な仕方であり,この仕方は他の一切の総合に実在性を与える。それだから他の一切の総合もまた,ア・プリオリな認識として,経験一般の総合的統一に欠くことのできない必須のものだけしか含まないことによってのみ,真理(対象との一致)を所有するのである。
 すると一切の総合的判断の最高原理はこういうことになる。いかなる対象も,可能的経験における直観の多様な内容の総合的統一の必然的条件(直観の形式すなわち空間および時間,カテゴリーとカテゴリーによる統一,先験的統覚,時間における構想力の総合によるカテゴリーの図式化)に従うものである,と。
 経験一般を可能ならしめる条件は,同時に経験の対象を可能ならしめる条件であり,それゆえにまたア・プリオリな総合的判断において客観的妥当性を有する。

純粋悟性の原則の体系

第3節 純粋悟性の全ての総合的原則の体系的表示

 純粋悟性は,生起するものに関する規則の能力であるばかりでなく,実にそれ自体原則の源泉であり,我々に対象として現われる一切のものは,この原則によって必然的に規則に従う。この規則を欠くと現象に対応するところの対象に関する認識は成立しない。
 純粋悟性概念を可能的経験へ適用する場合,純粋悟性による総合は,数学的に使用されるか力学的に使用されるかのどちらかである。この総合には直観だけに関係するものと,現象一般の現実的存在に関係するものとがあるからである。
 原則はカテゴリーを客観的に使用するための規則にほかならないから,先に示したカテゴリー表が,原則の表に対する適切な指示を与えることは当然である。すると,純粋悟性の全ての原則は次のように表示される。
 1 直観の公理
 2 知覚の先取的認識
 3 経験の類推
 4 経験的思惟一般の公準
 直接的確実性と,分量および性質のカテゴリーによる現象のア・プリオリな規定に関していえば,上記4原則のうち1と2は著しく異なる。つまり双方とも完全な確実性をもちはするものの,前2者は直観的確実性をもつが後2者は論証的確実性しかもたないからである。前2者を数学的原則,後2者を力学的原則と名づけよう。これら純粋悟性の原則は全て内感に対する関係によって可能となっている。

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2017年08月10日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』原則の分析論 第1章(承前)〜第2章第1節

 前回は,『純粋理性批判』の原則の分析論の緒言と第1章の前半部分の要約を紹介しました。そこでは,判断力とは規則のもとに包摂する能力であること,カテゴリーを,それとは異種的な現象に適用することを可能にする第三のものが図式であること,悟性が図式を取り扱う仕方を図式論と命名したこと,などが説かれていました。

 今回は,『純粋理性批判』の原則の分析論の第1章の後半部分と第2章第1節の要約を掲載します。ここでは,先験的図式がカテゴリーの順序に従って説明され,一切の分析的判断の最高原則について説かれていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

第1章 純粋悟性概念の図式論について(承前)

 純粋悟性概念一般の先験的図式をカテゴリーの順序に従い,またカテゴリーに関連して説明していこう。
 およそ外感に対する量の純粋な形像は空間である。しかし感性一般に対する一切の対象の純粋な形像は時間である。ところで悟性の概念としての量の純粋な図式は数である。数は一を一に順次加算することを含む表象であるから,同種な直観における多様なもの一般の総合的統一にほかならない。つまり私はこうした総合的統一において,時間そのものを直観の覚知において産出するのである。
 実在性は,純粋悟性概念において感覚一般に対応するところのものであるから,そのものの概念自体が時間における存在を示している。また否定は概念に対応するものの時間における非存在を表わすものである。実在と否定との対立は,同一の時間が充実しているのと空虚であるのとの相違ということになる。時間は直観の形式であり,現象としての対象の形式にほかならないから,対象において感覚に対応するものは物自体としての一切の対象という先験的質料である。およそ感覚は度あるいは量を有し,感覚はこれによって同一の時間を,換言すればある対象に関する同一の表象を含むところの内感を,無に至って消滅するまで,あるいは多くあるいは少なく様々な度合で充たすことができるから,ここには実在から否定への移行がある。この移行は,実在するいかなるものをもひとつの量として現わすのである。
 実体の図式は,時間における実在的なものの常住不変性である。換言すれば,経験的な時間規定一般の基体としての実在的なものの表象である。それだから他の一切のものは変化しても,この基体は常住的である。
 一般にあるものの原因と原因性との図式は,実在的なもの――換言すれば,このものが任意に設定されると,何か他のあるものが必ずこれに随起するような実在的なものである。だからこの図式の本質は,多様なものが規則に従って継起する限りにおいて,多様なもののこうした継起にある。
 相互性(相互作用)の図式――換言すれば,実体がその付随性に関して相互に作用しあう相互的原因性の図式は,一方の実体の規定と他方の実体の規定との同時的存在――しかも普遍的規則に従う同時的存在である。
 可能性の図式は,種々な表象の総合と,時間一般の諸条件との合致である。それだからこの図式は,何らかの時点における物の表象の規定である。
 現実性の図式は,ある一定の時間における現実的存在である。
 必然性の図式は,あらゆる時点における対象の現実的存在である。
 上述したところから,次のことが明らかになる。カテゴリーの図式は,いずれも時間規定を含みかつこれを表示している。すなわち分量の図式としては,対象の継起的覚知における時間の産出(総合)を,性質の図式としては感覚(知覚)と時間表象との総合,あるいは感覚による時間の充填を,関係の図式としては,あらゆる時間における近く相互の関係を,様態と様態のカテゴリーの図式としては,ある対象が時間に属するかどうか,また属するとすればどのようにして時間に属するかという規定の相関者としての時間を,それぞれに含み表示するのである。それだから図式はいずれも,規則に従うア・プリオリな時間規定にほかならない。そしてこの時間規定は,カテゴリー表の順序に従い,一切の可能的対象に関して時間系列,時間内容,時間秩序および時間総括に関係するのである。
 悟性の図式論が構想力の先験的総合によって達し得たところのものは,内感における直観に含まれている多様なものの統一であり,従ってまた間接的には内感(受容性)に対応する機能としての統覚の統一にほかならない。純粋悟性概念の図式は,それぞれの純粋悟性概念に対象との関係を与え意義を与えるところの,真正でかつ唯一の条件である。してみると,カテゴリーは結局,可能的な経験的使用以外には使用されないことになる。
 我々のあらゆる認識は,一切の可能的経験の全体のうちにある。そしてあらゆる個々の認識がこの可能的経験全体と関係するところに,先験的真理が成立する。こうした先験的意味における真理は,一切の経験的真理よりも前にあって,これを可能ならしめるのである。
 感性における図式の本務は,カテゴリーを実在化するにあるとはいえ,これらの図式はまたカテゴリーそのものに制限を加える。換言すれば,カテゴリーを悟性のほかにある(感性に存する)条件だけに制限するということである。それだから図式は本来は現象にほかならない。
 図式を欠くカテゴリーは,悟性の単なる機能――換言すれば,概念を産出する単なる機能にすぎないのであって,対象を表示するものではない。このようにカテゴリーに与えられるところの意義は,悟性を実在化する(図式によって悟性を経験的実在に関係させる)と同時に,これに制限を加える(経験的実在だけに制限する)ところの完成に由来するのである。


判断力の先験的理説(あるいは原則の分析論)

第2章 純粋悟性の全ての原則の体系

 悟性が実際にア・プリオリに形成するところの判断を,体系的に結合するためには,カテゴリー表が自然で確実な手引きになる。
 ア・プリオリな原則が原則という名をもつのは,これらの原則が他の判断の根拠を含んでいるという理由からばかりでなく,原則自身が最も高く最も一般的な認識に基づいているからである。しかしこうした特性をもつからといってこれら原則の証明を省略してよいものではない。
 我々は当面の研究をカテゴリーに関係する原則だけに限るが,ここでまた分析的判断の原則にも言及しなければならず,しかもこれを総合的判断の原則と対立させる。この対立こそ,綜合的判断の理論を一切の誤解から免れさせ,この判断の特異な本質を明確に示すものだからである。

純粋悟性の原則の体系

第1節 一切の分析的判断の最高原則について

 「いかなる物にも,この物と矛盾する述語を付すことはできない」という命題は,矛盾律と呼ばれて一切の真理の一般的な――たとえ消極的なものにすぎないにせよ――標徴である。しかしこの命題は一般論理学のみに属する。この命題は認識の内容に関わりなく,ただ認識一般としての認識にだけ妥当し,矛盾はおよそ認識を滅却するものである,と言明するにとどまるからである。
 ところがこの矛盾律は,積極的にも使用され得る。換言すれば,虚偽や誤謬(矛盾にもとづく誤謬)を追放するだけでなく,真理を認識するためにも使用できるのである。もし判断が分析的判断であれば,その判断が否定的であるにせよあるいは肯定的であるにせよ,こうした判断の真実は,常に矛盾律にしたがって十分に認識され得るからである。
 それだから我々は矛盾律を,あらゆる分析的認識の必然的でかつ十分な原理と見なさなければならない。しかし総合的認識の真理に関しては,この原則からいささかも解明を期待し得ない。

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2017年08月09日

2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第1章

 今回から4回に分けて,7月例会で扱った範囲の要約を掲載してきます。

 今回は,『純粋理性批判』の原則の分析論の緒言と第1章の前半部分の要約です。ここでは,判断力について,さらに,先験的図式や図式論について説かれていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

先験的分析論

第2篇 原則の分析論

 一般論理学は,悟性,判断力,理性という高級認識能力の区分と正確に一致するような平面図をもとにして構築されている。この全く形式的な論理学は,認識(純粋認識だろうと経験的認識だろうと)の一切の内容を度外視して,もっぱら思惟一般の形式だけを論究するものだから,一般論理学はその分析論のなかに理性に対する規準(Kanon)をも含み得る。
 先験的論理学は,ア・プリオリな純粋認識という一定の内容に制限されているので,その区分は一般論理学にならうことができない。理性の先験的使用は全く客観的妥当性を有するものでないということ,したがって,こうした使用は,真理の論理学すなわち分析論に属するものではなく,むしろ仮象の論理学として,先験的弁証論という名でやかましい学的体系の特殊な部門を占めていることは明らかである。
 これから論究しようとする原則の分析論は,もっぱら判断力に対する規準ということになる。この規準は,ア・プリオリな規則に対する条件を含むところの悟性概念(カテゴリー)を現象に適用することを,判断力に教えるものである。こういう理由から,これから悟性に特異な諸原則を論題とするに当り,本編を判断力の理説と名づける。

緒言 先験的判断力一般について

 悟性一般を規則の能力と称するならば,判断力は規則のもとに包摂する能力である。換言すれば,何かあるものが与えられた規則の適用を受けるか否かを判別する能力である。
 一般論理学は,認識の一切の内容を度外視するから,判断力に何ら指定を与え得ないが,先験的論理学となると,事情はまるきり違ってくる。先験的論理学は,純粋悟性を使用する場合に判断力を一定の規則に従って正しく整えかつこれを安全にすることを本務としている感すらある。
 先験的哲学の特性は,悟性の純粋概念において与えられるところの規則のほかに,これらの規則が適用されるべき場合を同時にア・プリオリに指示し得るということである。
 この判断力の先験的理説は,純粋悟性概念が使用されうるための唯一の感性的条件,すなわち純粋悟性概念の図式論を論究する第1章と,この条件の下で純粋悟性概念からア・プリオリに生じて,しかも一切のア・プリオリな認識の根底に存するような総合的判断,すなわち純粋悟性の原則を論究する第2章を含む。

判断力の先験的理説(あるいは原則の分析論)

第1章 純粋悟性概念の図式論について

 ある対象をひとつの概念のもとに包摂する場合には,その対象はいつでも概念と同種なものでなければならない。換言すれば,概念は,その概念のもとに包摂される対象において表象されるところのものを,自分のうちに含んでいなければならない。例えば,皿という経験的概念は,円という純粋な幾何学的概念と同種である。円という概念において考えられる「円さ」は皿という経験的概念において直観される。
 ところが,純数悟性概念と経験的(感性的)直観とを比較してみると,両者は異種的であって,純粋悟性概念はいかなる直観においても決して見出され得ない。それならば,直観を純粋悟性概念のもとに包摂することはどうして可能なのか。カテゴリーを現象に適用することはどうして可能なのか。この問題こそ,判断力の先験的理説を必要とする本来の理由なのである。
 ここに第三のもの,すなわち,一方ではカテゴリーと,また他方では現象とそれぞれ同種的であって,しかもカテゴリーを現象に適用することを可能にするような第三の物がなければならないことが明らかになる。このような媒介的な役目をする表象は,経験的なものを一切含まない純粋な表象であって,しかも一方では知性的であり,また他方では感性的なものでなければならない。このような表象がすなわち先験的図式なのである。
 悟性概念は,多様なもの一般の純粋な総合的統一を含んでいる。また時間は,内感における多様なものの形式的条件として,したがってまたおよそ表象が結合されるための形式的条件として,純粋直観においてア・プリオリに与えられた多様なものを含んでいる。ところで先験的な時間規定が普遍的であって,ア・プリオリな規則にもとづく限り,こうした時間規定は(時間規定を成立させるところの)カテゴリーと同種である。しかしまた時間が多様なものの経験的表象に例外なく含まれている限りにおいて,時間規定はまた現象と同種である。それだからカテゴリーを現象に適用することは,こうした先験的時間規定を介して可能になるのである。つまりこの先験的時間規定が,悟性概念の図式として,現象をカテゴリーのもとに包摂する媒介的な役目をするわけである。
 悟性概念の使用は感性だけに限られている。そこで我々は感性のこうした純粋な形式的条件(時間)を悟性概念の図式と名づけ,また悟性が図式を取り扱う仕方を図式論と名づける。
 図式は,それ自体つねに構想力の所産にすぎない。構想力の総合が意図するのは,個々の直観ではなく,感性の規定における統一にほかならない。したがって図式は,形像よりも一般的であるから,形像から区別されなければならない。構想力が,ある概念に形像を与える一般的方法の表象を,この概念に対する図式と名づける。
 実際,我々の純粋な感性的概念の根底にあるのは,対象の形像ではなく図式である。三角形の概念は三角形のどんな形像も決して十全に合致するものでない。三角形の個々の形像は,三角形の普遍的な概念に達することができず,つねに三角形という範囲の一部だけに制限される。三角形の図式は,思考のうちにしか存在せず,空間における純粋な形像に関して,構想力による総合の規則を意味するのである。まして経験の対象やその対象の形像は,けっしてその対象の経験的概念に達し得るものではない。経験的概念は,つねに構想力の図式に,すなわち我々の直観をある一般概念に従って規定する規則としての図式に直接関係するのである。現象とその単なる形式とに関する我々の悟性の図式論は,人間の心の奥深いところに潜む隠微な技術であって,我々がこの術の真の技量を自然について察知し,これをあからさまに提示することは困難であろう。形像は産出的構想力の経験的能力による所産であり,感性的概念の図式はア・プリオリな純粋構想力のいわばモノグラム(組み合わせ文字)である。形像はこの図式によって初めて可能になる。しかしまた形像は,これを描き出すところの図式を介してのみ概念と結びつかねばならないのであって,それ自体概念と完全に合致するものではない。これに反して純粋悟性概念の図式は,形像には決して当てはまり得ないような何かあるものである。すなわち,この図式は,概念一般による統一の規則に従うところの純粋総合にほかならない。そしてこの総合はカテゴリーによって表現されるのである。この図式はまた構想力の先験的所産である。換言すれば,表象が統覚の統一に従ってア・プリオリに一つの概念において結合されなければならない限りにおいて,こうした一切の表象に関して内感の形式(時間)の諸条件に従うところの,内感の規定一般に関係するような所産である。

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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う