2017年10月22日

徒然なるままに――40歳を迎えて(4/5)

(4)再発

 その勉強会で感じたことは、何を専門として学んでいくにしても、まずは弁証法や認識論といった学問の基礎をしっかりと学び続けていかなければならないということであった。さらにもう1つ感じたことは、弁証法や認識論の基礎からの学びのためには、自らの専門分野を設定し、その学構築のためにこそ弁証法や認識論を学ぶのだという思いが必要だということであった。他会員は皆、自分の専門分野の発表を行っていて、その中でもその専門分野の弁証法性が取り上げられ、どのように考えていくべきかという認識論も議論されていたからである。

 当時私は、どんな分野の仕事をするにしても必ず必要になるということで、弁証法の基本書・教科書である三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』をものにするために、その筆写を行っていた。ここで「仕事」とは、単なる職業上の仕事のことであって、もっと昇進して、どんな仕事上の問題でも自らの頭脳で解決できる頭脳を作りたいというレベルでの思いであった。しかし、年に3回ほど開催されていた京都弁証法認識論研究会の合宿形式の勉強会に参加し続けることで、その思いは学問構築という仕事を全うしたいというものに変わってきていたのである。そこで筆写を終わらせるとすぐに、『弁証法はどういう科学か』の小項目ごとの400字要約に取りかかっていった。2011年12月のことである。そして2012年3月には、初のブログ掲載用論稿である「『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか」を本ブログに掲載したのである。

 合わせて私は、自らの専門分野を何にすべきか、検討していった。やはり何といっても大学時代に中心的に学んだ言語学がやりたいと思い、他会員や指導者の先生にも相談しつつ、自分の専門分野を確定していったのである。2012年10月には、卒業論文に若干の解説を加えた論稿をブログ掲載し、12月の勉強会では初めて、言語学に関わる発表を行うことができたのであった。

 2013年1月からは、毎月の学びを振り返るという作業も行うようになった。人生の目標として言語学の創出ということを志したからには、学びを継続的に行っていくとともに、さら深めていく必要もあると考えたからである。1ヶ月の学びを振り返り、次の月の目標を設定することで、持続的に学んでいくことができるようになっていったし、振り返りを行うことで、単に書物を読んでお仕舞いという学びではなくて、そこからどのようなことを考えたのか、しっかりと考察を深めていくこともできるようになっていったのである。この毎月の振り返りという作業は、徐々に会員間で広がりを見せ、今では全会員がこの形式を採用するようになっている。

 2014年からは、毎月の例会にも参加するようになった。2013年の例会のテーマであったヘーゲル『歴史哲学』については、自分自身で読み進めて、ブログ掲載される例会報告を読んで議論を確認するという方式で学んでいたのであるが、それを2014年からは例会自体に参加し、議論にも加わるようにしたのである。私の住んでいるところは、他会員が住んでいる京都周辺からはかなり離れており、物理的な制約があると思っていた。つまり、例会は同一の場所に集合し、そこで膝をつきあわせて行っているために、私には参加が難しいと思っていたのである。ところが、そうした方式の例会では、たとえ比較的近くに住んでいるにしても、諸々の制約が生じるということで、その頃は専らスカイプによる方式に変更されていたのである。これなら空間的にいくら離れていたとしても問題ない。そこで2014年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びから、私も例会に参加させてもらうことにしたのである。2013年からブログ掲載論文の執筆にも本格的に参戦していた私は、例会報告の執筆についても他会員同様の責任を負うことになっていったのである。

 専門の言語学の学びについては、いわゆる言語学史の研究を始めていた。古代ギリシャ、古代ローマ、中世、17世紀の『ポール・ロワイヤル文法』とロックの言語論、比較言語学、ソシュールの言語理論について、まずは大雑把ではあるが、大きな流れを捉えることを中心的課題として取り組んできているのである。合わせて、卒業論文でも取り上げた三浦つとむの言語過程説の理解を深めていくために、三浦の著作は勿論のこと、三浦が学んだ時枝誠記や三浦を学んだ宮下眞二の著作も研究してきている。かつ、こうした言語過程説の輪郭を浮き彫りにするために、その対照概念の1つでもある言語道具説についての論文も執筆してきた。

 こうして私が京都弁証法認識論研究会に参加してからの流れを振り返ってみると、6年前までに完全に止まってしまっていた時計の針がやっと動き出したのでないかと感じられる。何かに夢中になることで自分を磨き上げ、鍛え上げていくというかつての自分の姿(?)に戻り、さらにそこから発展してきているのではないかと思えてくるのである。もちろん、研究会に参加してからも、なかなか思うように研究が進まず、停滞どころか衰退していっているのではないかという時期も幾度もあった。生活が乱れ、仕事だけは何とかこなしているが、研究活動は全くという時期もあったのである。しかしそんな時、必ず私の支えになり希望となってくれたのが、ほかならない研究会の会員だったのである。それぞれの専門分野は違えど、弁証法・認識論を基礎にして、学問を創造していくという共通の基盤に立っているからこそ、直接的な励ましはもとより、その学問への道を歩む姿を見せられるだけで、自分を奮い立たせ再生させてくれたのである。

 ごく最近、テレビアニメの「メジャー」という番組を見た。主人公の吾郎が小学校に上がる前から野球を始め、最後にはメジャーリーグで活躍するという物語である。私生活では幼くして母を亡くし、幼稚園に通っている頃には父親も失ってしまうという逆境の中、どんな困難に突き当たっても必ず乗り越え、チームメイトにもその情熱で希望を与え続けていくのである。その一方で、吾郎も人間である以上、乗り越えられそうにない壁に阻まれることもある。もう諦めてしまうしかないのではないかという情況に追い込まれてしまうことが多々あるのである。しかしそうした時には必ず、かつて吾郎自身が救った仲間が吾郎の前に現れ、吾郎を窮地から助け出してくれるのである。まさに相互浸透による発展の物語であり、我々の研究会のあり方の理念を具体的に示してくれている物語だといえるのではないかと思ったものだった。三浦つとむも以下のように述べていたことを思い出さざるを得ないものである。「メジャー」はもしかしたら、こうした三浦の言葉を具体化したのもではないか、などと思わされるのである。

「政治の分野であろうと学問の分野であろうと、革命的な仕事にたずさわる人たちは道のないところを進んでいく。時にはほこりだらけや泥だらけの野原を横切り、あるいは沼地や密林をとおりぬけていく。あやまった方向へ行きかけて仲間に注意されることもあれば、つまずいて倒れたために傷をこしらえることもあろう。これらは大なり小なり、誰もがさけられないことである。真の革命家はそれをすこしも恐れなかった。われわれも恐れてはならない。ほこりだらけになったり、靴をよごしたり、傷を受けたりすることをいやがる者は、道に志すのをやめるがよい。」(三浦つとむ『レーニン批判の時代』)

「孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。」(三浦つとむ『新しいものの見方考え方』)
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2017年10月21日

徒然なるままに――40歳を迎えて(3/5)

(3)停動

 バスケのほかに、高校時代はよくカラオケにもいったものだ。高校に入って初めての友人が、そこそこ歌が上手くて、おまけに我が家から最寄りの鉄道駅がある街(そこは片田舎なりに栄えていた街だった)に住んでいたため、その友人の家のすぐそばにカラオケボックスもあったのである。そこでそれこそ毎日のように、部活が終わってからそのカラオケボックスにいったものだった。ちなみに私は、家から高校まで片道45分位を自転車で通っていたのだが、そのカラオケボックスの位置は、ちょうど家と高校とを結ぶ直線を底辺にした時、正三角形の頂点の位置にあったのである。つまり、真っ直ぐ家に帰る場合に比べて、倍の時間をかけて帰った(カラオケの時間を除く)わけである。しかも、初めのうちはその友人も自転車で通学していたのだが、その友人に彼女ができてからというもの、彼女と一緒に電車通学になったのはいいが、(彼女と一緒に帰らずに)私とカラオケに行く場合に限り、私の自転車の後ろに立ち乗りして一緒に帰ったものだから、その時の私は真っ直ぐ帰る場合の3倍ほど疲れることになったのであった。

 こんなペースで思い出話をしていたら、いつまでたっても私は40歳にならないから、ここからは多少端折っていくことにする。

 とにかく、バスケにカラオケに、一生懸命だった私だが、勉強の成績が一番頭抜けていた。バスケでは、高校最後の大会も結局はレギュラーになれなかったし、カラオケでも友人には勝てないという思いがあった。しかし頭は一番良かった(というのは、あくまでも偏差値でという意味であって、今から考えるとそれは頭が悪かったという意味にもなる)。高校3年生の2学期の通知表が特にビックリで、10段階評価(1が一番悪く、10が一番良い)で数学以外の全教科が10(もちろん体育も図画も音楽も!)、数学も8というものだった(これはテストでの計算間違いが原因だった)。担任の先生から通知表をもらうとき、この成績はこの学校史上最高点だとかいわれてしまった(その当時で既に90年ほどの伝統がある学校だった)。

 しかし今考えてみると、こうした言葉が私を調子に乗らせ、大学というモラトリアムの、更なるモラトリアムに私を3年間も縛ることになったのかもしれない。現役時代も含めて4年間、たった1つの大学のたった1つの学部以外には受験しなかったのである。これは前にもどこかこのブログ内の文章で書いたことがあると記憶しているが、高校の国語の教科書にあった夏目漱石『こころ』に凄まじいまでの衝撃を受けた私は、小説家になることを志し、そのためには何としても文学部に行く必要があると勘違いしてしまったのである(現に私が大学在学中だったと思うが、法学部(出身?)の人間が芥川賞を受賞している)。

 ともかく、何とか大学生になることができた私は、大学の講義では言語学関係(小説家になるためには言語を自由自在に使いこなす必要があると考えていた)のものばかりに出席し、サークル活動では、主に経済学の勉強をするサークル(実は私より先に大学生になっていた弟が所属していた)に入って勉強し、空いた時間はガソリンスタンドでバイトするという生活を送っていったのである。そして今度は遅れることなく、立派に卒業したのであった。

 その後私は、実家から見れば大学がある方向とは全く逆の方向に倍ほどの距離を進んだ場所にある会社に就職し、窓口業務を経て、現在はシステム部門で働いている。長男であるにもかかわらず、実家も継がずに当地に家も建てた(妻のお父さんが設計もする大工さんで、そのお父さんに建てていただいた)。

 こうしてざっと私の40年を振り返ってみるとき、その時々で一生懸命になれるものを見つけ、それが年齢とともに色々なものに移っていったことが分かってくるのである。野球、サッカー、バスケ、カラオケ、小説、(受験勉強、)言語学、経済学、諸々の仕事の知識。しかし移っていったとはいえ、これらはいまだに私の中にあり、今の私を創っているものだといえる。ただ中心が変化していっただけだともいえると思う。野球やサッカーは自分ではやらなくなったが、観戦するのは好きであるし、バスケは実は3年ほど前から(実に20年ぶりくらいに!)再開した(今年度からは公式試合にも出ていて、つい先日、4試合目にしてはじめてシュートを決めることができた。なんと、苦手なはずのゴール下のシュートである。これが「ゴール下のシュート恐怖症」を克服できたとした要因である)。カラオケは今でも家族でよくいくし、夏目漱石も含めて小説もよく読んでいる。言語学は私の人生の中心になりつつある。そして経済学やその他の学問も、我々の研究会で学び続けているところである。

 さて、こうした人生を内包している私は、40歳を迎えるにあたって何を考えるべきか。ここからが本題である。読者の方々がここまで読み進めて、楽しんでいただけたかどうかは別として、ここまでは格調が高かったということはないことだけは間違いない。ここからである(予定)。

 我々の京都弁証法認識論研究会は、私も所属していた大学のあるサークルのメンバーが中心となって継続してきたものである。私が入学したときにはすでに、その原基形態が出来上がっていた。当初私も誘われて、P江千史『看護学と医学』を扱う勉強会に参加したことを覚えている。しかし、なぜ大学で言語学と経済学を中心に勉強し、ガソリンスタンドでバイトしてためたお金でビールを楽しく飲んでいる私が、『看護学と医学』なのか、その意味するところが全く分かってはいなかったのである。一度か二度参加して、それなりにしてしまったのであった。

 京都弁証法認識論研究会との再会は、実に12年後のことである。就職してすでに9年目、昇格して新しいポストに着いたものの、これまでのように夢中になって取り組める対象を失ってしまっていた。思い返せば、球技なら何でもそこそこできたのも、決していきなりできたわけではなかったはずである。それが楽しいと思って、必死で練習したからこそできたのではなかったか。バスケのシュートにしても、これだけは絶対に負けないと思って練習を積み重ねたからこそ、よく入るようになったのである。しかし当時の私は、仕事と両輪で取り組んでいたある組織も抜けて、ただただ職場で仕事をし、家に帰って多少家族と団らんし、そして寝るだけの生活を送っていたのであった。夢中になれるものもなく、そのため私の発展が停滞してしまっていたのである。

 そんな時、かつて大学時代に京都弁証法認識論研究会の原基形態的勉強会に誘ってくれた友人たちが、まだ継続して勉強を続けている場に私を誘ってくれたのである。何か自分でもやれることがないか、それを通じて自分の新たな姿を築きあげていくことができるのではないか、そんな期待を胸に、合宿形式の勉強会に参加したのであった。
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2017年10月20日

徒然なるままに――40歳を迎えて(2/5)

(2)瞬放

 さて、不完全燃焼のまま小学生を終えた私は、中学校では「部活」なるものが存在することを知ったのであった。どういうわけか、私の通っていた中学校には陸上部がなかった。まあ、その当時は(そして今も)陸上など(を観るのではなくてやること)には全く興味がなかったので、それはどうでもいいのだが、ここでどの部に入るか、迷っていたのであった。というのも、実は私は小学生時代、野球やサッカーのほかに、卓球もやっていたからであった。母親に連れて行ってもらって、隣町の卓球センターによく行って、弟相手に何時間も練習していたものだった。

 ここまで書いて、ふとした不安に襲われた。おそらく本稿は、(予定通り進めば)私が執筆する本ブログへの投稿としては最後の文章になる。それをこんなどうでもいい文章を綴ってしまっていていいものか、と思ったのである。しかしまあ、「徒然なるままに」だからこれでよしとしよう。

 そんなわけで、中学校の部活に関していえば、野球部、サッカー部、卓球部がまずは候補に挙がったわけである。そしてそれらは全て、見事に選択肢から除外されていくのである。まず野球部であるが、これは当時の伝統というか悪い風習で、なぜだか野球部は頭を丸刈りにしなければならなかった。帽子やヘルメットをかぶってやるという数少ないスポーツの1つであるから、別に髪の毛がどうであろうと、帽子やヘルメットで押さえつければ、そんなに気になることもないだろうのに、なぜか野球部=丸刈りなのである。これは無理だと早々に諦めてしまった。次にサッカー部であるが、これも小学校時代、下級生にレギュラーを取られてしまうという体たらくだったので、本格的にやったとしてもそうものにはならないだろうということで止めにしてしまった。最後に卓球部であるが、これも当時のイメージでいえばかなり暗い人間のやるスポーツだということになっていた。さらに問題なのは、部活見学で卓球部の練習を見に行ったとき、上級生と試合をさせてもらえるということでやってみたのだが、何とここで試合に勝ってしまったのである。こんな弱い集団の中にいるのは嫌だということが決定的な理由となって、卓球部もないということになってしまった。

 そこで結局何部に入ったかといえば、バスケ部であった。これは当時、漫画「スラムダンク」が週刊少年ジャンプに連載され始めた頃で、その影響でにわかバスケファンが急増したことも大きな要因であった。ご多分に漏れず、私もその流れでバスケットを始めたようなものである。

 それからはどういうわけか、1年生から試合に出させてもらい、練習も私ともう1人だけ別メニューという特別扱いだった。165pとたいして上背もなく、運動神経でいっても私なんかよりジャンプ力があったり足が早かったりする同級生は大勢いた。しかしなぜか、顧問の先生(この先生は後で分かったことだが、ダンクができた。中学校を卒業してから、皆の前でダンクができるかどうか賭けようとかいいだして、皆できない方に賭けたところ、ガツンと決めて本気で金を徴収していた)は、1年生の中で特に私を重用してくれたのだった。

 そんなこんなで3年生にもなると、チームのキャプテンを任されるようになった。当時の私はシューターで、ドリブルもパスも上手ではなかった(というか、ドリブルもパスもほとんど試みようとすらしていなかった)が、シュートだけはよく入ったものだった。試合でも、ボールをもらえば即シュートであった。かなり過去を美化しているようで恐縮だが、シュートが外れた記憶がないといっても過言ではないくらいよく入った。しかも、上背のなさやジャンプ力のなさを補うために、ボールをもらってからシュートまで(ボールをリリースするまで)のスピードを極限まで高めた独自のシュートを考案し実践していた。いわゆる普通のジャンプシュートというものは、ボールをもらいながらステップを踏んでジャンプ、そしてジャンプの最高到達点付近でボールをリリースするというシュートであるが、私の場合、ボールをもらいながらステップを踏み、即ジャンプして、同時にボールをリリースするという型を創り上げたのであった。ディフェンス側からすれば、チェックに行こうと思う間もなくシュートされているわけで、どうにも止めようがない。しかもこれがほぼ100%入るのである(私の記憶によれば)。残念ながら中学時代は、県大会の予選レベル(ブロック大会)で敗退してしまったのであるが、バスケの魅力に取りつかれた私は、高校では迷わずバスケ部に入ったのであった。というより、中学時代に憧れていたバスケ部の先輩が行ったという理由で高校を決めたくらいで、バスケ部が先にあって高校は後からついてきたという感じである。ちなみに、この中学最後の試合(負けた試合)で、私にトラウマができてしまった。ゲームの終盤、ゴール下のノーマークのシュートを外してしまったのである(中学時代にシュートを外した唯一の記憶かもしれない)。結局、このことが原因となってか、悪い流れのまま試合終了となって引退となってしまったのである。小学校時代、少年野球に(一人で)進んだ弟も、実は中学ではバスケ部に入っていたのであるが、この弟から散々いわれたものである。あのシュートが入っていればまだ試合は分からなかったと。それ以来、私は極度の「ゴール下のシュート恐怖症」に陥ってしまい、ゴール下のシュートは全く入る気がしなくなってしまったし、事実、よく外したものだった。しかしまさに今月、この病気はあることが原因で全く解消してしまった。

 さて、高校生になった私は早速、バスケ部の見学に行った。するとそこで、ある人物から声をかけられたのである。それは中学時代の最後の大会、すなわちブロック大会において、我々の地区で優勝し、県大会に進出したチームのエースであった。中学当時からバスケが上手くて有名だった彼から突然、「あっ、君知ってる」と指を指しながら声をかけられたのである。やはり私も(最後の試合の終盤のゴール下のごくごく簡単なシュートを除いて)相当程度シュートを決めまくっていたために、そうしたブロック大会のいわゆる「スター」にも顔を知られていたのだろう。彼は我々が3年生になったとき、バスケ部のキャプテンになる男であった。

 高校時代のバスケ部の思い出といえば、2年生からバスケ部に入ってきた同級生にポジションを奪われてしまったことが挙げられる。彼は中学時代(私とは別の中学校出身)、野球部のエースか何かだったのだが、高校に入ってからは野球をやめ、1年生の時は何の部活にも入っていなかったのである。それがどういうわけか、2年生になってからバスケ部に入部してきて、3年生が夏の大会で引退するとすぐにレギュラーになったのである。私にしても、まあやれば何でも球技はそこそこできた。小学校の時、少年サッカーではレギュラーが取れなかった(実は下級生がレギュラーになっていた)わけだが、これにはちゃんとした理由がある。実はその少年サッカーのチームは、県大会でも優勝するくらいのレベルの強豪で、そこから上がっていった中学校のサッカー部も、全国大会の常連というレベルであった。だから端的にいえば、私のサッカーが下手だったのではなくて、他のチームメイトのサッカーが異様に上手かったのである。その証拠に、高校2年生の時、我々のバスケ部とサッカー部がサッカーの試合をしたことがあったが、私の活躍で、何とサッカー部にサッカーで勝ってしまったのである。ちなみに、もう1人活躍したのが、その中学時代に野球部のエースで、高校2年生からバスケ部に入ってきた同級生であった(こいつは本当に何でもできた、野球、バスケ、サッカーに加え、ギターもものすごく上手で、音楽室にあったフォークギターで、Xの「Silent Jealousy」を笑いながら軽く引いていたのには驚いた。私が音楽の道(中学時代にギターを買ってもらっていた)に進まなかったのも、彼のギター演奏を聴いて、こんなやつがいたら勝てないと思ったからかもしれない)。
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2017年10月19日

徒然なるままに――40歳を迎えて(1/5)

〈目次〉

(1)描夢(ビョウム)
(2)瞬放(シュンホウ)
(3)停動(テイドウ)
(4)再発(サイハツ)
(5)真史(シンシ)


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(1)描夢

 本ブログ「主体性確立のための「弁証法・認識論」講義」は、初めての講義から7年半が経とうとしている。講義数は350タイトル目前であり、連載回数としても2638回目を数えている。私はこのうち、49タイトルを執筆し、388回目の連載ということになる。私の初めての講義である「『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか」の執筆も、もうかれこれ5年半以上前の出来事である。

 断りが遅くなってしまったが、本稿はこれまでのような論文形式の文章ではなくて、いわゆる随想の類の文章である。タイトルにもあるように、「徒然なるままに」認めていくことを趣旨としたものである。ではなぜ今回、これまで一貫してきた論文形式の文章を掲載するのではなくて、エッセイ的な文章を載せることにしたのか。理由は大きく3つある。

 まずきっかけを述べておかなければならない。本来であれば、今日から5日間は別の会員が論文を掲載することになっていた。しかし、その会員にとってはブログ掲載用論文の執筆が初めてであり、なかなか思うように筆が進まなかったという事情があった。本ブログに掲載する論文に関しては、連載開始日の原則2週間前までに他の会員にメールで送付し、会員間で検討し、より良いものに仕上げた上で公開しているのであるが、連載開始日の5日前になっても提出がなかったのである。そこで話し合いの末、別のものを掲載しようということになったのである。

 では、誰がどのようなものを執筆するのか、次に当然こういう問題が生じてくることになった。そこで、この連載期間中に40歳を迎える私が、40歳を迎えるにあたっての諸々の思いを、随想レベルで執筆していくということになったのである(副題にある「40歳を迎えて」というのはこうした事情による命名である)。さすがにこの短期間では、論文形式の文章を書き上げることが難しかったからである。

 最後にもう1つ大きな理由がある。それは9月に行った合宿形式の例会での議論である。ある会員が本ブログに関して、今年の年末を目途に廃止してはどうかという提案をしたのである。より正確にいえば、本ブログは年末まで掲載予定が決まっているので、その間は今まで通り掲載することにして、来年からは別ブログを立ち上げ、心機一転、新たなスタートを切ろうということであった。そして新ブログにおいては、毎月の例会等の報告は継続する(ただし、現在掲載している論文の中で、この例会報告が最も読みにくいものであることは我々も把握しているところなので、よりよい形式や内容を模索もしていくつもりである。なお、例会「等」と書いたのは、例会以外にも複数の学習会を開催しているものの、それらについては十分な報告ができていないという反省があるからである)ものの、その他の内容としては、今までのような固い論文形式のものではなくて、エッセイ的なものを掲載してはどうかというのであった。我々の論文に関しては、来年から刊行予定の研究会機関誌『哲学への道(仮称)』で読んでいただくこととして、新ブログにおいては例会報告等のほかは、もっと軽い内容の・気軽に読んで楽しめるようなものにしてはどうかというのであった。これは、(今まさにそういう状態であるのだが)ブログに毎日掲載する論文を執筆し、検討し、アップするという作業に加え、新たに研究会機関誌を発刊するとなると、そちらに掲載する論文についてもより突っ込んだ検討が必要になってくるのであって、仕事をしながら研究活動も続けている我々にとっては甚だ困難な情況になってくる(いる)ことは明白だし、研究会機関誌に掲載する論文についても、一旦(タダで)ブログで読んだものを(多少なりとも焼き直して)改めて研究会機関誌で読むというのは、読者心理からしても納得でき難いものがある(というより、我々の立場からすれば、このやり方では研究会機関誌が売れない!)ということもあるからである。

 そこで今回は、私が40歳を迎えるにあたって思うところを、諸々に述べていくという趣旨での論稿となったわけである。これは来年からの新ブログの予行演習も兼ねての執筆である。当然、可能な限り楽しめるようなものにしたいのだが、他会員からは格調の高さも要求されているので、論文形式の文章とは別の意味での困難を背負い込んだと若干後悔しつつの執筆である。

 さて、40歳を迎えるにあたっての思いとはいっても、まずはこの40年間を簡単に振り返ることから始めたいと思う。過去を積み重ねての現在であるからである。とはいえ、現在を積み重ねての未来である、という方が重要かもしれないが。

 私は1977年10月某日、滋賀県の片田舎に生まれた(話は飛ぶが、この「田舎」というものに(もっと)若い頃は非常に抵抗があり、下宿していた大学時代にはよく、実家は乱立するビルの最上階だなどとはったりを述べていたものだった)。交通機関といえば、最寄りの鉄道駅まで片道僅か10kmほどで500円くらいかかる私鉄運営のバスしかなかった。近所には、私を含めて6人の同級生の男の子が住んでおり、下の学年の子どもたちも含めて、よく近くの公園(今考えると理由がよく分からないのだが、この公園をみんな「遊園地」と呼んでいた)で野球をしたものだった。初めて買ってもらった帽子が中日ドラゴンズのものだったため、そして当時は中日の投手陣が全体としていまいちだったこともあって、小学生のころの夢は中日のピッチャーになって中日を日本一にすることだった。郭源治や小松辰雄に憧れ、いつかは彼らを超えるピッチャーになるつもりでいたのである。もっとも、私のポジションはショートかサードが定番で、ほかの地域の子どもたちと日曜日に野球の試合をするような時にも、ピッチャーなどほとんどさせてもらえなかったし、どちらかというと、左の強打者というのが私に対する他の子どもたちの見方だった。ホームランを連発していた(ように思う、というのは、弟はそんな記憶がないというからだ)のだった。ちなみに我々のチームのエースは私の弟だった。

 当時、私が住んでいた実家のある地域では、小学校の4,5年生にもなると、地域の少年野球や少年サッカーのチームに入って、その道に進んでいくというのが、スポーツができる子どもの進む(べき)道であり、憧れでもあった。そこで私と弟とは、やっと両親を説得して、このスポーツ少年団に入ることを許されたのであった。ところがここで、ちょっとした問題が起こった、というより私が問題を起こしてしまった事件があった。それは何かというと、当然私が一緒に少年野球に進むと思っていた弟に対して、私は当時、どういうわけかサッカーに魅かれ始めていて、迷った末に、誰にも相談することなく、少年サッカーに丸をつけた申込用紙を提出してしまったのである。そしてそのことを後になってから弟に告げた時、当然のように弟に非難されたのであった。

 ともかく、小学校の4,5年生から始めた(とはいっても、例の「遊園地」では、小学生になってからは野球だけではなくサッカーもしていたのではあるが)サッカーの方は、6年生になってもレギュラーが取れず、野球でいう「左の強打者」のような肩書もないままに終わってしまったことであった。
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2017年10月08日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(13/13)

(13)哲学的な把握を志向する精神こそスミス最大の遺産である

 前回は、本稿で説いてきた流れをざっと振り返ってみることで、通説的には“経済学の祖”とされ、近年は『道徳感情論』の著者としても注目されるようになってきたアダム・スミスが、たんなる経済学者でも倫理学者でもなく、あくまでも世界全体のつながりを把握しようとした哲学者と呼ぶにふさわしい存在であったことを確認しました。18世紀のイギリス(スコットランド)という時代的条件に規定された学者として、スミスが解くことを迫られていた具体的な問題というのは、あくまでも富と徳との関係をどう捉えるか――経済発展のなかで生じてきた徳の腐敗についてどのように考え、どのように対処していくべきか――という問題であったものと思われます。しかしスミスは、こうした問題を、個別の問題としてただそれ自体から解いたわけでもなければ、若干の倫理学を加味した経済学といったレベルから解いていこうとしていたわけでもありません。スミスは、具体的な社会問題を解くにしても、この世界(宇宙)全体には一般的な法則性がつらぬかれている――宇宙はすべての種の保存と繁栄を目ざして運動するまとまった体系である――という観点から、世界全体のなかの部分としての問題という位置づけを明確にしながら解いていこうという姿勢をもっていたわけです。このように、問題の哲学的な把握を志向する精神こそ、スミスによって現代の私たちに遺されたもっとも貴重な財産であるというべきでしょう。

 現代の社会を眺めるならば、いわゆる新自由主義的な経済政策の推進が人間と社会の深刻な荒廃をもたらし、経済の発展と人間の幸福との関係が大きな問題として浮上してきているという状況があります。このような状況においてスミスの遺産を活かすというのは、新自由主義的な思想・理論によってもたらされた荒廃した現実に、幸福についてのスミスの片言節句(心の平静さこそ真の幸福だ!)を対置することなどではないはずです。いわゆる市場という領域を社会の他の部分から切り離して究明の対象としてきた現代の経済学、より具体的にいえば、市場のみに視野を限定して、狭い意味での資源の最適配分や効率性、利潤の拡大ばかりを一面的に追求することを正当化してきた新古典派的な経済理論の歪みを、世界全体のつながりを視野に入れた体系的な社会科学および経済学の構築によって克服していくということこそが、スミスの遺産を現代に活かしていく道なのだといえるでしょう。

 このような観点から、本稿の最後に補足的に考えておきたいのは、通常は「政治経済学」と訳されるところの「ポリィテカル・エコノミー(political economy)」という言葉の意味合いについてです。『国富論』第4篇の冒頭において、スミスは次のように述べています。

「ポリィテカル・エコノミーは、政治家あるいは立法者が行うべき科学(science)の一部門としてみるならば、はっきり異なった二つの目的をもっている。その第一は、国民に豊かな収入もしくは生活資料を供給すること、より正確にいえば、国民がそうした収入や生活資料を自分で確保できるようにすることである。第二は、国家あるいは公共社会(state or commonwealth)に、公的サービスを行うのに十分な収入を供することである。ポリティカル・エコノミーは、国民と統治者の双方をともに富ませることを意図するものなのである。」(『国富論』第4篇、序論。筆者訳)


 ここから、スミスは、国民と国家(政府)の双方を富ませるための科学として“政治経済学”を定義したのだ、と読みとることも可能です。すなわち、スミスは、国民を富ませるために市場の自然で自由な働きを確立(国家の恣意的介入の排除)し、こうして実現される国民の富の形成を大前提にして、それをできるかぎり阻害しないように配慮しつつ、国家の富の形成(財源の調達)がはかられるべきだという形で、市場論と国家論を統一した“政治経済学”を展開したのだ、という見方をすることもできるのです。スミスの“政治経済学”をこのようなものとして捉えてみることで、社会という有機的な全体から貨幣を媒介にした効率的な資源配分の場としての市場のみを実体的に切り離して究明の対象としてしまった現代の「経済学(economics)」を批判的に捉えていくことも可能でしょう。

 しかし、スミスはあくまでも哲学者として評価されるべき存在であったのだという視点からは、この「ポリティカル・エコノミー」という語について、もう少し踏み込んで考えておく必要が出てくるのです。そもそも英語のエコノミーは、「オイコノミア(oikonomia)」というギリシャ語に由来します。オイコノミアは「家」を意味するオイコスに「用い方、方法」を意味するノモスがくっついた言葉で、ふつうは「家政術」などと訳されているものです。つまり、エコノミーという言葉には、もともと「家庭の財産についての賢明な管理の方法」という意味合いがあったわけです。ここから転じて、中世ヨーロッパにおいては、エコノミーという語に“家のような共同体(組織体)をうまく管理するための方法”あるいは“組織体における体系的な秩序”という意味合いがもたされるようになり、天体の運行をつかさどる摂理(神のエコノミー)や動物の生命を維持するための体の仕組み(動物のエコノミー)などにまで、幅広く使われていくようになったのでした。
スミスもまた、こうした中世以来の伝統を踏まえて、エコノミーという語を使っていました。本稿の連載第4回において、スミスの自然神学的な発想がうかがえる文章として、「自己保存と種の繁栄とは、自然がすべての動物を創造するにあたって意図していた偉大な目的である」という『道徳感情論』の一節を紹介しましたが、その少し前の部分で、スミスは「自然のエコノミー(the economy of nature)」という言葉を使っています。これは「古代自然学史」論文で提示された「一般的な法則に支配され、それ自身の保存と繁栄およびそこにいるすべての種の保存と繁栄という一般的な目的を目ざす、完全な機械、まとまった体系(system)」という自然観(宇宙観)にもつうじるものだといえるでしょう。つまりスミスは、この自然界(宇宙)はあまねく一般的な法則性によって支配されており体系的な秩序が成り立っているのだ、というイメージを託して、「自然のエコノミー」という語を使っていたのだと考えられるのです。正義の確立された社会についてスミスが述べた「自然的自由の体系」という語も、あくまでもこのような自然(宇宙)全体の秩序につながるイメージにおいて捉えられるべきでしょうし、「ポリティカル・エコノミー」という語もまた、こうした「自然のエコノミー」のミニマムな形態として、具体的には、政治的組織体における体系的な秩序(あるいは、政治的組織体をうまく管理するための方法)という意味合いにおいて、使われていたのだと考えることができるのです。
スミスの遺産を活かして現代の課題に応えうる経済学体系を構築していくといった場合、スミスのいわゆる「ポリティカル・エコノミー」を単純に政治経済(政治経済学)として捉えるだけではなく、あくまでも、世界(宇宙)全体の体系的秩序を把握しきらなければならない! という哲学的志向性を背景にもった言葉としてとらえていく必要があるでしょう。

 また、スミスの「見えざる手」という言葉についても、スミスの宇宙観を背景にもったものとしてとらえ返しておく必要があります。この宇宙全体あるいは宇宙の個々の部分について、体系的な秩序を成り立たせるように働いている力こそが「見えざる手」にほかならないのです。けっして、たんなる市場の自動調節機能に解消してよいものではありません。『国富論』においてスミスが実現を目指していたのは、全ての国民(その大きな部分を占めるのが下層の労働者)がそこそこの物質的な豊かさを保障され、人間らしく生きていくことのできる社会状態でした。スミスのいわゆる「見えざる手」は、国民が消費する生活必需品と便益品の生産量(社会の全収入)を最大にするような資本と労働の配分を実現してくれるからこそ尊重されるのであって、市場における自由な競争それ自体が自己目的化されていたわけではないことが強調されなければなりません。スミスが「見えざる手」を主張したのは、ハッキリいえば、経済的な強者(特権的な大商人や製造業者)の利害によって経済の自然なあり方が歪められてしまったために、経済的な弱者(下層労働者など)が痛めつけられている、という現状を打開しようとしたからにほかならないのです。ここでいう経済の自然なあり方とは、国民が年々に消費する生活必需品と便益品が、きちんと持続的に再生産されていけるように、資本と労働が適切に配分されていく状態のことです。スミスが「見えざる手」に任せるべきことを主張したのは、強者の利益のために歪められてしまった経済の自然なあり方を回復することこそが、下層労働者を含む国民全ての利益になると信じたからにほかならないのです。その背景には、この世界(宇宙)全体は、本来的に調和的なものとして存在しているのであって、人為的にその動きをかき乱さなければ、おのずから望ましい状態が実現されていくはずだ、というスミスの信念があったのです。こうした文脈から切り離して、「見えざる手」という言葉をもっぱら市場の自動調節機能を賛美するものとして流布するのは、スミスの真意を曲解するものといわなければなりません。

 私たちがスミスから学びとるべきことは、何よりもまず、問題の哲学的な把握を思考する精神――どんな問題を解くにしても、必ず、世界全体のなかの部分としての問題という位置づけを明確にしながら解いていこうという姿勢に徹すること――にほかなりません。現代の経済学の行きづまり――市場のみに視野を限定して、狭い意味での資源の最適配分や効率性、利潤の拡大ばかりを一面的に追求してきたことから行きづまり――を、世界全体のつながりを視野に入れた体系的な社会科学および経済学の構築によって克服し、現代の世界が抱える諸々の問題を解決してよりよい社会を築いていくための理論的な指針を示していくということこそが、スミスの遺産を現代に活かしていく道にほかならないのです。

〔予告〕
 本稿については、より詳しく説きなおす形で、来年発刊予定のわが研究会の機関誌『哲学への道(仮称)』に連載していく予定です。

(了)
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2017年10月07日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(12/13)

(12)スミスは具体的な社会問題を世界全体から解こうとした

 本稿は、現代社会の課題に応えうる学問体系の構築に向かっていくことこそアダム・スミスの遺産を現代に活かしていく道である、という問題意識から、『道徳感情論』と『国富論』という2大著作だけにとどまらないスミスの学問的構想の全体像について、描き出すことを試みるものでした。ここで、これまで説いてきた流れを振り返ってみることにしましょう。

 スミスが生きた18世紀のスコットランドは、イングランドとの合邦によって大きな経済発展を成し遂げつつあり、商業化された社会における人間性や道徳のあり方について考察を深めていく「スコットランド啓蒙」と呼ばれる思想的な流れを登場させていました。このような時代背景の下にグラスゴウ大学に入学したスミスは、恩師ハチスンの道徳哲学講義に決定的な影響を受け、自身も独自の道徳哲学体系の構築を志すようになったのでした。

 しかし、青年スミスは、科学的認識の確実性を否定してしまうかのようなヒュームの議論によって大きな不安を抱かされることになります。スミスは、この大きな不安を解消するために、古代ギリシャ以来の自然哲学の歴史的発展過程をたどり返してみようとしました。スミスは、人類が、新奇の現象に出会ったことから生じる不安を鎮めるために、新奇の現象と既知の現象とをつなげて理解するための結合原理を想像力によって創り出し、現実と突き合わせてその結合原理の妥当性を検証することで、自然にたいする認識をより確かなものにしてきたことをあきらかにしたのでした。こうしてスミスは、人間が客観的世界(自然)の法則性を認識していくことは可能であることを確認したのです。

 スミスは、自然哲学史研究をつうじて獲得した科学方法論を道徳哲学の構築という課題に適用していこうとしたのですが、その際、意志をもたない諸物の機械的運動を記述するための自然科学的な方法を、そのままの形で、自由意志をもった人間の集合体である社会の領域へと適用することができるのか、という問題にぶつかることになりました。スミスは、道徳哲学の第一部門として位置づけられた自然神学においてこのような問題について考察し、社会の客観的法則性というのは諸個人の自由意志にもとづいた行動の絡み合いをつうじてこそ貫徹されていくものである、という見方を確立したのでした。

 スミスは、自然哲学と道徳哲学を媒介するもうひとつの環として、生物学にも注目していました。自然神学的な考察は、諸個人の動きを総体として捉えたときにどのような法則性が浮上してくるのか、といったレベルの把握を可能にしようとするものだったといえますが、個々の具体的な人間はそもそもどのような存在なのか、といったレベルの把握は、生物学的な考察を基礎にしつつ、試みられていくことになったのです。スミスは生物学的な見地をふまえつつ人間の五感覚について検討した「外部感覚論」を著し、触覚こそが根源的な感覚にほかならないとの主張を展開しました。このことによってスミスは、先輩ヒュームの懐疑論的な人間観(他人の存在も自分自身の存在も不確かなものである!)を克服し、私たち人間が自分と異なる他者の存在について本能的といってよいレベルで確信を抱いている(自分以外の他人の存在を疑ったりしない!)ことを明確に確認したのでした。

 スミスは、人間は他人の存在について触覚によって示唆されるような生々しい知覚をもっているはずだ、ということを前提にして、想像上の立場(境遇)の交換によって共感が生じるのだという過程的構造、すなわち、想像の世界のなかで相手の境遇に自分自身を置いてみることによって相手の感情と同様の感情を抱くのだという過程的構造を解きました。この共感原理を全面的に展開したものこそ、『道徳感情論』にほかなりません。『道徳感情論』では、利己的でありながら周囲の人々に関心をもたずにはいられない存在である人間が、他人とかかわる経験(想像上の立場の交換)を積み重ねていくことによって、胸中に「公平な観察者」を創り出し、それによって利己心を適切にコントロールするようになることが説かれていました。スミスは、胸中の「公平な観察者」が利己的な自分を統制するという「自己統制」の徳の大枠のなかに成立するより具体的な徳として、将来の自分の幸福のために現在の諸欲求を抑えるという「慎慮」の徳、他人の身体や財産などを不当に侵害しないという「正義」の徳、他人に善行を施すという「仁愛」の徳を論じていました。このうち、権力によって強制されうるのは正義の徳だけですが、この正義の原則を首尾一貫した形で確立させるために求められるのが法学という学問です。こうした観点からスミスは、『道徳感情論』の末尾において、「私は別の論考において、法と統治の一般的諸原理について説明に努めるとともに、この一般的諸原理が社会のそれぞれ異なる時代ないし時期に応じてそれぞれこうむることになった種々の大変革について、たんに正義(司法 justice)にかんする事柄にとどまらず、行政(police)や公収入、および軍備にかかわる事柄、さらには法の対象となる他のすべての事柄も含めて、説明に努めるつもりでいる」と宣言したのでした。
こうした計画にもとづいてなされた『法学講義』は、正義(司法)にかかわる諸問題を論じる第1部、生活行政や公収入、軍備などを扱う第2部から構成されていました。このうち、第1部においては、狩猟→牧畜→農業→商業という社会の4つの発展段階をつうじて、「公平な観察者」による共感が積み重ねられていくことで、正義(所有権)が確立されていく過程がたどられていました。

 しかし、スミスは『道徳感情論』で『法と統治の一般的諸原理と歴史』と題されるべき著作を予告しながら、その前半部分については後回しにし、後半部分だけを『国富論』として独立させて執筆・出版することになります。これは端的には、スミスが、「公平な観察者」による共感の歴史的な積み重ねという論立てでは正義(所有権)の絶対性を論証できない、という難問にぶちあたってしまい、この難問解決への糸口を何とか見いだそうと苦闘したあげく、正義(所有権)の絶対的な確立というゴールの姿を明確にすることこそがそのゴールに到達するまでの歴史的な道筋を究明するヒントになるのではないか、という考えに至ったからであると思われます。

 このことを念頭において、『国富論』を法学体系の一部として捉えた場合、その第1篇および第2篇は、スミスの考える理想的な社会(商品交換社会)のあり方について、社会の制度的な枠組みとその内部における主体の行動原理との両面に目を配りながら理論化を試みたものだ、と把握することができました。すなわち、お互いの財産(所有物)を不当に侵害しないという正義が絶対的な枠組みとして確立されているなかで、個々の経済主体(資本所有者)が慎慮の徳にしたがって行動するならば、農業→製造業→国内商業→外国貿易という自然な順序で産業が発展していき、おのずから社会の全般的富裕が実現されていく、というわけです。こうした議論を裏側から支えるようにして、第3篇においてヨーロッパ経済史の批判的検討がなされ、第4篇において重商主義批判が展開されます。その上で、自然的自由の体系においてなお政府が果たすべき役割があるのだとして、第5篇において、市場論とのつながりを意識した財政論が展開されていくのでした。

 ここまでは、スミスが人間のつくる社会(法的な規範によって統括された共同体)について、その歴史的な発展過程を視野に入れつつ体系的に把握することを目指していたことにかかわるものでしたが、スミスにはもうひとつ、人間のつくる文化(学問および芸術一般)について、その歴史的な発展過程を視野に入れつつ体系的に把握するという構想もありました。これにかかわるものとしてまず注目されるのは、「哲学的研究を導き指導する諸原理」でした。ここでスミスは、感情および想像力に着目した学問論を展開していたのでした。感情あるいは想像力というものは、古代ギリシャ以来の学問の歴史において、学的認識(真実の認識)を妨げてしまうものとして、たいがい負のイメージで語られてきました。しかし、ロックのような受動的な反映論(人間の認識は鏡のように外界のあり方を写し取るものだ、という論)にとどまるかぎり、なぜ認識が客観的法則性を把握できるのか、まともに解くことはできません。客観的法則性とは、認識の側からの能動的な問いかけによって、いわば“現象させる”ことによらなければ、そもそも把握しようがないのです。それでは、認識の側からの能動的な問いかけを可能にするものは何かといえば、それは想像力であり、その想像力を駆り立てるのは感情にほかならない、ということになるのです。想像力を駆使してこそ感覚の限界を超えることができる、感覚器官を通じた直接的な反映では捉えきれないような対象の姿に迫ることができる――「哲学的研究を導き指導する諸原理」からはそうしたスミスの主張を読みとることができるのでした。

 学芸の歴史の把握というスミスの課題にかかわるものとして、「いわゆる模倣技術〔芸術〕において生じる模倣の性質について」という論文についても取り上げました。この論文でスミスは、芸術(模倣技術)における模倣について突っ込んで検討することで、模倣ということだけでは芸術の価値が生じる要因を説明しつくせないこと、芸術的な価値は模倣される対象(モデルとなるもの)と模倣するもの(表現の素材)との大きな差異を克服する技術の見事さへの驚嘆にもとづいていることを論じていました。しかしながら、作者の認識という問題はスミスの視野に明瞭には入って来ておらず、芸術作品の鑑賞者が、芸術作品を媒介として、その作者の感情に共感する、という構図を見て取ることができていなかったのでした。それは、18世紀後半においては、作者の主体的認識が強烈に表現されたような芸術作品はまだほとんど存在していなかった、という時代的な条件に制約されたものだと考えられるのでした。

 学芸の歴史の把握というスミスの課題にかかわるものとしては、『修辞学・文学講義』の存在も忘れてはなりませんでした。これは、適切な言語表現とはそもそもどのようなものであるのかという問題を究明したものであり、聞き手・読み手の共感を獲得するものこそがよい言語表現だ、という観点から、『道徳感情論』で展開された共感の原理が大きな役割を果たしています。スミスは、言語(文学)をそれ自体として取り上げるのではなく、あくまでも社会的な関係――これには、話し手(書き手)の境遇というレベルの小社会から、国家レベルの社会までが含まれます――のなかでつくられていくものとして取り上げ、言語によるコミュニケーションが、相互に共感を呼び起こしあうことをつうじて、よりよい人間関係(よりよい社会)を築いていく力をもっていることを力説していました。端的には、スミスは、言語を社会との相互浸透において(言語によって社会がつくられ、社会によって言語がつくられていくものとして)把握した、ということができるのでした。

 以上、本稿でこれまで説いてきた流れについて、ざっと振り返ってみました。このようにみてくると、『道徳感情論』も『国富論』も、スミスが構想していた壮大な学問体系のごく一部を占めるものにすぎないことはあきらかでしょう。スミスは、人間にかかわるあらゆる問題に関心をもち、天文学や生物学など自然科学の成果にもしっかりと学びながら、想像上の立場(境遇)の交換によって成立する共感を、社会と精神(学問・芸術一般)におけるバラバラの諸現象を結合していくための原理として位置づけ、歴史的に発展してきた国家社会(法的な規範によって統括された共同体)および文化(学問および芸術一般)についての体系的な把握を志していたわけです。スミスについて『国富論』を著した“経済学の祖”としてのみ捉えることが、また、『道徳感情論』と『国富論』の2冊からのみスミスの思想を捉えようとすることが、いかに狭い見方であり、スミスを過小評価するものであるか、納得してもらえてのではないでしょうか。スミスは、社会の具体的な問題を解くにしても、それを個別の問題として解くのではなく、あくまでも世界全体のつながりをふまえて解いていこうという志向性をもった、まさに哲学者と呼ぶのにふさわしい人物だったのです。

※スミスの哲学体系の構造については、以下のように図示することができるでしょう。スミス哲学体系の全体像.jpg
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2017年10月06日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(11/13)

(11)『修辞学・文学講義』――人間と人間とをつなぐ言語への関心

 前回は、「哲学的研究を導き指導する諸原理」などとともに遺稿集『哲学論文集』に収録された「いわゆる模倣技術〔芸術〕において生じる模倣の性質について」という論文を取り上げました。この論文でスミスは、芸術(模倣技術)における模倣について突っ込んで検討することで、模倣ということだけでは芸術の価値が生じる要因を説明しつくせないこと、芸術的な価値は模倣される対象(モデルとなるもの)と模倣するもの(表現の素材)との大きな差異を克服する技術の見事さへの驚嘆にもとづいていることを論じていました。しかしながら、作者の認識という問題はスミスの視野に明瞭には入って来ておらず、芸術作品の鑑賞者が、芸術作品を媒介として、その作者の感情に共感する、という構図を見て取ることができていなかったのでした。それは、18世紀後半においては、作者の主体的認識が強烈に表現されたような芸術作品はまだほとんど存在していなかった、という時代的な条件に制約されたものだと考えられるのでした。

 さて、「文学、哲学、詩、雄弁(eloquence)などの種々の分野すべてにかんする哲学的歴史」の構想とのかかわりで忘れてはならないものとして、『修辞学・文学講義』があります。これは、スミスのグラスゴウ大学での講義を受講生が筆記したノートにもとづくものです。

 スミスは、1751年にグラスゴウ大学の論理学教授に就任すると、従来のスコラ的な論理学(カトリックの絶対的権威が失われていくなかで、煩瑣で無用な議論をするものだと受け止められるようになっていました)ではなく、もっと面白くて有益な学びを学生に提供しようという意図のもと、古代ギリシャの論理学をごく簡単に解説した後はもっぱら修辞学や文学の問題を中心に論じたといわれています。こうした講義は、1752年にスミスが道徳哲学教授に転じた後も、1763年に大学を辞するまで継続されました。このうち、1762年から1763年にかけての講義(すなわち最後の講義)を受講した学生のノートにもとづいて出版されたものが、『修辞学・文学講義』(原題:Lectures on Rhetoric and Belles Lettres)です。これはスミス自身が書いた文章ではなく、あくまでも学生の筆記にもとづくものです。全30回の講義のうち第1講がどういうわけかすっぽりと欠落していますし、空白(聞き取れなかった部分を空けたままにしておいたのでしょう)も多く、明らかな書き誤りも少なからずあるようです。そういう不完全なノートにもとづくものですから、あまり細かい部分にとらわれないようにして、スミスの論じたかった内容をあくまでも大きな流れからざっくりとつかむ、といった読み方が必要になります。この講義ノートは、30回の講義を日付順に記録していったものであり、立体的な目次立てがあるわけではありませんが、その内容に即して『修辞学・文学講義』全体の構成を図式的に示すならば、以下のようになるでしょう。

1、言語・文体・性格について
(1)言語の発展と起源について(2-3講)
(2)言語と文体について(4-6講)
(3)文体と性格について(7-11講)
2、論説の諸形態について
(1)事実を述べる論説について
 ・対象(事実)を記述する方法について(12-15講)
 ・歴史の記述について(16-20講)
  *叙事詩と演劇について(21講)
(2)命題を立証する論説(弁論)について
 ・演示型弁論について(22-23講)
  *訓話型論説(科学的論説)について(24講)
 ・討議型弁論について(25-27講)
 ・法廷弁論について(28-30講)

 スミスは、明晰な文体とはどういうものかを論じるにあたって、まずは、多数言語の複合体である英語の欠陥について、言語一般の起源と発展を踏まえつつ論じています。スミスは、言語の起源を、太古の人々が自分たちの生活に決定的な影響を与える特定の対象(悪天候から逃れるための特定の洞穴、飢えを癒す果実をつける特定の木、のどの渇きをうるおす水をたたえた特定の泉など)を指示するために特定の名称を与えたところに見出し、対象を抽象化して捉える人々の認識能力の発展にともなってさまざまな品詞が生み出されてきたこと(対象がもつ性質を対象そのものと区別して把握できるようになることで形容詞が形成され、さらにある関係を関係する諸対象とは区別して把握できるほどに抽象化能力が高まることによってはじめて前置詞が形成されうること)を論じています。その上で、英語の欠陥(外来語が多く、もとの言語を熟知していなければ理解しがたい単語が多い)を正すために言葉の適正な配列に心を砕くべきことを強調し、文体についての議論に入っていくのです。そのなかでは、文体が作者の精神(個性的認識)によって規定され、作者の精神(個性的認識)は作者の置かれた境遇によって支配されることも、と論じられていきます。

 続いてスミスは、論説の諸形態について、事実を述べる論説と命題を立証する論説(弁論)の大きく2つに分けて論じていきます。

 まず、事実を述べる論説についてですが、ここでは、記述の対象となる事実が、外的か内的か(精神の外側か内側か)、単純か複雑か、という2つの軸によって、大きく4つ――単純で外的な事実(外的諸物体)、単純で内的な事実(人間の感情)、複雑で外的な事実(人間の行動)、複雑で内的な事実(人間の性格)に分けられます。その上で、事実を記述する方法として直接法(ある対象の性質を直接に記述する方法)と間接法(ある対象の性質を、それを見る人の心に生み出される効果を媒介として、記述する方法)の2つが挙げられ、先に4つに区分された事実のそれぞれについて、直接法と間接法のどちらが適しているかが検討されていくのです。さらに、4つの事実の複合体としての歴史をどのように記述すべきか、という問題が論じられます。ちなみに、歴史叙述の企図についてスミスは、「諸々の国民に生起した注目すべき事件と、その時代の最重要人物たちの企図、動機、見解とを、その歴史叙述が語ろうと意図している諸国家の重大な変化と革命の説明に必要な限りにおいて、述べることである」としています。なお、補足的に叙事詩と演劇についても論じられているのですが、ここでスミスは、古代ギリシャ・ローマにおける寓話物語から悲劇へという文学の形態の変化、あるいは中世ヨーロッパにおける騎士物語から小説へという文学の形態の変化を、人々の啓蒙の度合いによって規定されたものとして把握しています。読み手(聞き手)の知識の度合いが高まっていくにつれて、怪異な化け物たちや怪奇現象などによって読者を驚かせ面白がらせようとする空想的物語が馬鹿げたものとみなされるようになり、人間の行動や感情についての微妙な表現が好まれるようになってきたのだ、というわけです。また、スミスは、散文の発展よりも詩の発展が先行する(詩を書く方が難しいように思われるにもかかわらず!)のはなぜか、という問題を立てて、考察してもいます。原始社会においては、生きるための労働が終わった後の余興のひとつとして歌が歌われたのであり、言語表現を音楽のリズムに合わせる必要から詩的な表現形式が著しく発展していくことになったのだろう、というのが、スミスの推測です。その上でスミスは、快楽と享楽のための詩(観賞用表現)とビジネスのための散文(実用的表現)という対比を提示し、(もともと実用的表現でしかなった)散文においても改良が追求されるようになる(観賞用表現として磨き上げていこうという試みがなされるようになる)には、商業の発展と富裕の導入によって、生産的労働から解放されて多くの余暇を持つ人々が登場してくるのを待たなければならなかった、と論じています。

 命題を立証する論説(弁論)については、アリストテレス以来の伝統にのっとって、演示型弁論(ある人物を賞賛することを目的とした弁論)、討議型弁論(国家の重要問題に関して議会でなされた弁論)、法廷弁論の3つに分けて論じられています。なお、討議型弁論についての考察への導入として、訓話型論説(didactic discourse)が取り上げられ、このなかで自然哲学の論文におけるアリストテレス的な方法とニュートン的な方法との比較がなされています。アリストテレス的方法というのは、ある部門について、生起してくる諸々の現象をひとつずつ検討し、それぞれについてひとつひとつ原理的説明を与えていくものです。これにたいしてニュートン的方法というのは、はじめにひとつの根本的な原理を提示し、そのひとつの原理によって諸々の現象を全てつなげて説明しようとするものです。スミスは、後者のやり方こそ私たちに大きな喜びを与えるものである、と強調しています(これは、本稿の連載第3回および第9回でとりあげた「天文学史」の議論につうじるものです)。

 討議型弁論については、古代アテナイ弁論家のデモステネスの飾り気のない文体と、古代ローマ弁論家のキケロの威厳に満ちた文体との差異について、国家の歴史的形態の差異から説明していることが注目されます。市民たちの間に大きな格差のなかったアテナイでは、市民どうしが親しげに飾り気なく語り合っていたのに対して、貴族と平民の間に決定的な格差が存在していたローマでは、貴族たちは自分の権威を誇示するためことさらに大袈裟で飾り立てた言語で語るようになったのだ、というわけです。

 この『修辞学・文学講義』の意義は、大きく3つに整理することができます。

 第一は、スミスが言語表現だけを孤立させて捉えるのではなく、あくまでも話し手(書き手)の認識や社会的外界とのつながりにおいて把握しようとしていることです。従来の修辞学が、言語表現のみに着目してその美しさをあれこれ論じてきたのにたいして、スミスは、話し手(書き手)と聞き手(読み手)とのコミュニケーション(精神的交通)の全過程を視野に入れて、その過程をスムーズに進行させる言語表現こそが美しく力強いのだ、と主張します。さらにスミスが、よい文体とはどういうものかという問題をめぐって、文体は著者の精神(個性的認識)によって規定され、著者の精神(個性的認識)は著者の置かれた境遇によって支配されるのだ、と論じてもいることも注目に値します。

 第二は、スミスが言語表現の歴史的な発展過程について、社会的な認識あるいは社会的な労働の歴史的な発展過程に規定されたものであると理解しようとしていることです。とりわけ、スミスが、太古の人々の生活のあり方を具体的にイメージしながら、彼らの認識能力の発展(対象を抽象化して捉える能力の発展)との関連で、言語の起源と発展過程について考察したのは、非常にすぐれた発想だといえます。さらに、寓話物語から悲劇へ、騎士物語から小説へという文学の形態の変化を、人々の啓蒙の度合いによって規定されたものとして把握していたこと、散文の発展よりも詩の発展が先行するのはなぜかという問題について、社会的労働の形態の歴史的発展という観点から解答を与えようと試みていたこと、デモステネスとキケロの文体の違いを、アテナイとローマの社会的条件の違いから説明していたことも注目されます。

 第三に、スミスが言語表現によって読み手の心が動かされるのは「共感」によるものにほかならないと強調していることです。スミスは、言語は話し手(書き手)自身、あるいは話し手(書き手)の語る第三者(物語中の登場人物)への共感を呼び起こす力をもつという点に注目して、言語がこうした力を効果的に発揮するためにはどうすればよいのかという観点から、文章表現のあり方を論じています。端的には、スミスは一貫して感情を的確に伝えるという観点から言語の美しさ・力強さを論じているといえるのですが、こうした観点は(通常は感情に対立する理性の産物と考えられる)科学的な論文の良し悪しという問題にまで適用されていきます。私たち人間は、目の前の諸々の現象がどうにもつながらないということに不安を感じ、目の前の諸々の現象をきちんとつなげて把握できるということに喜びを感じる存在であり、私たちが学問的な論文を読んでその見事な説明に喜びを感じるとすれば、それはつまるところ、著者(哲学者・科学者)の「なるほど、このようにつながっているのか!」という発見の喜びにたいして、私たちが共感を覚えるからにほかならないのだ、ということになるわけです。スミスは、こうした著者の感情を的確に読者に伝えるためには、叙述に隙間をつくらないようにすること、物語的な流れのなかで自然なつながりが感じられるような形で諸々の事実を提示することが必要だということも論じています。結論的には、諸事実をきちんとつなげた形で(叙述にどのような隙間もつくらずに)記述することこそが、読者にとって分かりやすい文章を書くことにほかならないのであり、そういう分かりやすさによってこそ、読者の共感を呼び起こすことができるのだ、ということになります。

 以上をようするに、スミスは、言語(文学)をそれ自体として取り上げるのではなく、あくまでも社会的な関係――これには、話し手(書き手)の境遇というレベルの小社会から、国家レベルの社会までが含まれます――のなかでつくられていくものとして取り上げ、言語によるコミュニケーションが、相互に共感を呼び起こしあうことをつうじて、よりよい人間関係(よりよい社会)を築いていく力をもっていることを力説したのだ、ということができるでしょう。一言でいうならば、スミスは言語を社会との相互浸透において(言語によって社会がつくられ、社会によって言語がつくられていくものとして)把握した、ということができるのです。
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2017年10月05日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(10/13)

(10)「模倣技術〔芸術〕論」――芸術の価値の源泉を問う

 前回は、「文学、哲学、詩、雄弁(eloquence)などの種々の分野すべてにかんする哲学的歴史」の一部を占めるはずだったと思われる「哲学的研究を導き指導する諸原理」において、スミスが、感情および想像力に着目した学問論を展開していたことをみました。感情あるいは想像力というものは、古代ギリシャ以来の学問の歴史において、学的認識(真実の認識)を妨げてしまうものとして、たいがい負のイメージで語られてきました。しかし、ロックのような受動的な反映論(人間の認識は鏡のように外界のあり方を写し取るものだ、という論)にとどまるかぎり、なぜ認識が客観的法則性を把握できるのか、まともに解くことはできません。客観的法則性とは、認識の側からの能動的な問いかけによって、いわば“現象させる”ことによらなければ、そもそも把握しようがないのです。それでは、認識の側からの能動的な問いかけを可能にするものは何かといえば、それは想像力であり、その想像力を駆り立てるのは感情にほかならない、ということになるのです。想像力を駆使してこそ感覚の限界を超えることができる、感覚器官を通じた直接的な反映では捉えきれないような対象の姿に迫ることができる――「哲学的研究を導き指導する諸原理」からはそうしたスミスの主張を読みとることができるのでした。

 さて、「文学、哲学、詩、雄弁(eloquence)などの種々の分野すべてにかんする哲学的歴史」の構想とのかかわりでもうひとつ注目されるのは、「哲学的研究を導き指導する諸原理」などとともに遺稿集『哲学論文集』に収録された「いわゆる模倣技術〔芸術〕において生じる模倣の性質について」という論文です。

 この論文のタイトルにある「模倣技術(imitative arts)」という語について、まずは説明しておくべきでしょう。そもそも、現代の私たちがイメージするような芸術という観念は、18世紀後半から19世紀になってようやく成立したものです。では、それ以前はどうだったのかといえば、いわゆる芸術が技術一般から明瞭には区別されていませんでした(このことは、技術も芸術も英語では art であるし、ドイツ語では Kunst であることからもあきらかです)。ようするに、芸術とはもともとある種の特殊な技術(art)にほかならなかったのです。では、絵画や彫刻や詩などがどのような技術とされていたかといえば、端的には、自然を模倣する技術だとされていました(これにたいして、農業などは自然を補完する技術として位置づけられていました)。芸術は自然の模倣であるとすれば、論理的には、芸術の価値(良し悪し)は、自然の事物(あるいはそれに人間の手が加わった人工物)を忠実に写し取っているか否かによって決まってくるのだ、ということにならざるをえません。例えば、現実のリンゴの色や形を忠実に写し取った絵こそがよい絵なのである、ということになるわけです。

 ところが、18世紀後半以降、芸術の価値は対象を忠実に写したかどうかではなく、あくまでも作者の創造性にこそ求められるべきだ、という論が登場してきます。極端にいえば、作者が創造性を発揮して、実際には赤くて丸いリンゴを青くて四角いものとして描いたとしても、それはそれで大いに結構だ、ということにもなっていくわけです。

 「いわゆる模倣技術〔芸術〕において生じる模倣の性質について」が書かれたのは、スミス自身の手紙や周辺人物の証言などから、スミス(1723−89)の晩年といってよい1780年代のことであると推定されています(邦訳『哲学論文集』名古屋大学出版の解説など)。この時期は、大きく見れば、芸術が自然を模倣する技術だと見なされていたところから、作者の創造性を重視する芸術論が登場してくる過渡期にあたっていました。スミスは、こうした芸術論の過渡期にあって、自然(あるいは自然を加工した人工物)を模倣する技術とされてきた芸術において、実際のところ模倣はどのような役割を果たしているのか、芸術の価値(良し悪し)にどのような影響を与えているのか、突っ込んで考察したのでした。それでは、スミスの考察は、芸術の価値の源泉について何をあきらかにしたといえるのでしょうか?

 この論文は、以下の3つの部分から構成されています。まず、第1部では、絵画と彫刻における模倣が検討され、続く第2部では、舞踊、音楽、詩(いわゆる「三姉妹芸術」)における模倣が検討されます。この第2部は論文全体のおよそ3分の2を占める長大なものであり、三姉妹芸術のなかでも音楽、とりわけ器楽が検討の中心となっています。最後の第3部は非常に短いものであり、舞踊における模倣の問題が古代舞踊と近代舞踊を比較することでごく簡単に考察されています。

 もう少しくわしく確認しておきましょう。

 第1部では、完全な模倣とはどういうことか、という観点から議論がスタートし、絵画と彫刻における模倣が検討されてゆきます。その結果、模倣そのものの完全さ(その極限が欺瞞、すなわちコピーにすぎないものを本物と見まちがわせようとすること)はなんらの芸術的価値も生まないのであり、芸術的な価値は、模倣される対象(モデルとなるもの)と模倣するもの(表現の素材)との大きな物質的な差異を克服する技術の見事さへの驚嘆にもとづいているのだ、とされることになります。「全然似ていない素材を使って、よくもここまで似せたものだ!」という驚嘆こそが、彫刻や絵画を見た際の快楽の基礎となる、というわけです。

 第2部の前半部分では、いわゆる「三姉妹芸術」(音楽、舞踊、詩)相互の関係について、それらの歴史的な起源および発展過程をも視野に入れて論じられています。スミスは、空腹を満たし寒さ暑さから身を守ることができるようになった人間が、次に求めたのは音楽と舞踊の楽しみだった、といいます。満たされた身体を(音を伴う形で)楽しく動かしたくなってきた、ということでしょう。スミスは、あるリズムに合わせ身体を動かして声を発するという形で、音楽と舞踊が密接不可分なものとしてまず成立し、その声が無意味な音楽的「言葉」から明瞭な意味をもった言葉に置き換えられていくことによって詩が成立したのだ、と説いています。このように「三姉妹芸術」の成立過程を説いたスミスは、舞踊は音楽から離れては存在しえない(音楽的な速度と拍子を伴わなければ、諸々の動作の適切な速度と拍子とを知覚することができない)が、器楽は詩からも舞踊からも離れて単独で存在できる、と主張しています。第2部後半では、この器楽が考察の対象となります。スミスは詩と音楽が結合した声楽(歌曲)が、三重の過程(作詞者による模倣、作曲者による模倣、歌手による模倣)によって、何らかの出来事にたいしてのきわめて強い模倣力を発揮することを強調する一方、器楽が現実の対象を模倣する力は、非常に貧弱なものでしかない、と断じています。器楽は、何らかの出来事を具体的に描写することはできないし、その出来事の当事者がどのような感情を抱いたかについて、全ての聴き手がハッキリと理解できるように表現することはできない、というのです。それでは、器楽がもたらす感動の源泉はどこにあるというのでしょうか? スミスは、器楽がもたらす感動の源泉をめぐって、精神(心)における思考や観念の連なりと音楽における音の連なりとの類似性について着目し、器楽は高い音と低い音や類似音と対照音の適切な配列により、また継起の緩急により、陽気な、平静な、あるいは憂鬱な気分に適応しうるのだ、と論じています。しかし、スミスは、こうした音の連なりが作曲者の感情(思考や観念の連なり)を模倣したものである、とは論じていません。スミスによれば、器楽はそれ自体が、陽気、平静、憂鬱な対象なのであって、器楽を聴いて私たちが抱く感情というのは、あくまでも本源的な感情、すなわち、他者の感情への共感を媒介として成立した感情ではなく、さまざまな音の連なりによって呼び起こされた、私たち自身の陽気、平静、憂鬱である、としてしまったのでした。

 以上のように、芸術の価値(良し悪し)、いいかえれば、芸術作品がその鑑賞者に与える満足感の源泉について考察してきたスミスは、模倣の性質について突っ込んで検討することで、模倣そのものの見事さということだけでは芸術の価値が生じる要因を説明しつくせないことを示したといえます。模倣ということにかかわって、スミスは、芸術的な価値は模倣される対象(モデルとなるもの)と模倣するもの(表現の素材)との大きな差異を克服する技術の見事さへの驚嘆にもとづいている、という重要な命題を提起していました。模倣される対象と模倣したものとの差異を克服する技術に対する感嘆という指摘は、(作者から切り離された)模倣そのものの忠実さではなく、模倣する技術の巧拙、もう少し踏み込んでいえば、その技術を駆使する人間の主体性に着目しようとしたものだということができるでしょう。しかしながら、スミスは、作者の創造的認識こそがその源泉にほかならない、ということまでは、ついにハッキリとはつかむことができなかったのです。器楽のもたらす感動は、聴き手が作曲者の感情に共感することによるのではなく、さまざまな音の連なりそのものが、聴き手の心のなかに、それらの音の連なりに類似した思考や観念の連なり(陽気な気分、平静な気分、憂鬱な気分など)を呼び起こすことによる、と結論づけられてしまったのでした。
このように、作者の認識というものは、スミスの視野に明瞭には入って来ていませんでした。スミスは、芸術作品の鑑賞者が、芸術作品を媒介として、その作者の感情に共感する、という構図を見て取ることができなかったのです(*)。このことは、スミス自身が『道徳感情論』において共感論を全面的に展開していたことを思えば、非常に奇妙なことのようにも思われます。「模倣技術論」においても、共感というキーワードが登場しないわけではないのですが、それは、鑑賞者が作者に共感するという構図においてではなく、鑑賞者が物語の登場人物に共感する、という構図においてでしかないのです。

 では、スミスが芸術の作者の認識に着目しきれなかったのは、なぜなのでしょうか? それは、端的には歴史的な制約ではないかと思われます。18世紀後半においては、作者の主体的認識が強烈に表現されたような芸術作品はまだほとんど存在していなかったのです。とりわけ、「模倣技術論」で中心的な考察の対象となった器楽についていえば、18世紀後半はバロック音楽から古典派音楽への過渡期でしかないのです。作曲者の主体的認識が強烈に表現された器楽曲は、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」からようやくはじまるといっても過言ではありません。この曲が公開初演されるのは、1805年、スミスの死後15年経ってからのことだったのです。

 現代の芸術論の水準(三浦つとむ『芸術とはどういうものか』など)をふまえるならば、芸術は作者の認識の表現であり、作者の認識のレベルの高さが芸術的な価値の源泉である、ということができます。スミスの「模倣技術論」は、結果としてみれば、この正解に到達することはできていませんでした。しかし、18世紀後半という時代的制約のもとにありながら、徹底的に突きつめた考察によって伝統的な芸術論の限界を乗り越えていこうという力強さを感じさせる、非常に魅力的な論文であることは間違いありません。人類社会の歴史的な発展過程とかかわらせながら諸芸術の成立過程を考察したり、精神の内部における思考や観念の連なりと音楽における音の連なりとの類似に着目したりした点などは、現代における芸術論の発展という観点からも、非常に示唆に富むものだといってよいでしょう。

 私たちは、この「模倣技術論」について、結論の不充分さをあげつらうのではなく、その結論に至る過程におけるアダム・スミスのアタマの働かせ方の見事さにしっかりと学ぶべきなのです。この点にこそ、哲学者アダム・スミスに学ぶ大きな意義があるといえるでしょう。 
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2017年10月04日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(9/13)

(9)「哲学的研究を導き指導する諸原理」――感情および想像力に着目した学問論

 本稿は、現代社会の課題に応えうる学問体系の構築に向かっていくことこそアダム・スミスの遺産を現代に活かしていく道である、という問題意識から、『道徳感情論』と『国富論』という二大著作だけにとどまらないスミスの学問的構想の全体像について、おもに社会科学にかかわる側面に重点を置いて、描き出すことを試みています。

 前回までの3回にわたっては、『道徳感情論』から『法学講義』を経て『国富論』へと至る流れをたどってみました。『道徳感情論』では、利己的でありながら周囲の人々に関心をもたずにはいられない存在である人間が、他人とかかわる経験(想像上の立場の交換)を積み重ねていくことによって、胸中に「公平な観察者」を創り出し、それによって利己心を適切にコントロールするようになることが説かれていました。スミスは、胸中の「公平な観察者」が利己的な自分を統制するという「自己統制」の徳の大枠のなかに成立するより具体的な徳として、将来の自分の幸福のために現在の諸欲求を抑えるという「慎慮」の徳、他人の身体や財産などを不当に侵害しないという「正義」の徳、他人に善行を施すという「仁愛」の徳を論じていました。このうち、権力によって強制されうるのは正義の徳だけですが、この正義の原則を首尾一貫した形で確立させるために求められるのが法学という学問です。こうした観点からスミスは、『道徳感情論』の末尾において、「私は別の論考において、法と統治の一般的諸原理について説明に努めるとともに、この一般的諸原理が社会のそれぞれ異なる時代ないし時期に応じてそれぞれこうむることになった種々の大変革について、たんに正義(司法 justice)にかんする事柄にとどまらず、行政(police)や公収入、および軍備にかかわる事柄、さらには法の対象となる他のすべての事柄も含めて、説明に努めるつもりでいる」と宣言したのでした。こうした計画にもとづいてなされた『法学講義』は、正義(司法)にかかわる諸問題を論じる第1部、生活行政や公収入、軍備などを扱う第2部から構成されていました。このうち、第1部においては、狩猟→牧畜→農業→商業という社会の4つの発展段階をつうじて、「公平な観察者」による共感が積み重ねられていくことで、正義(所有権)が確立されていく過程がたどられていました。しかし、スミスは『道徳感情論』で『法と統治の一般的諸原理と歴史』と題されるべき著作を予告しながら、その前半部分については後回しにし、後半部分だけを『国富論』として独立させて執筆・出版することになります。これは端的には、スミスが、「公平な観察者」による共感の歴史的な積み重ねという論立てでは正義(所有権)の絶対性を論証できない、という難問にぶちあたってしまい、この難問解決への糸口を何とか見いだそうと苦闘したあげく、正義(所有権)の絶対的な確立というゴールの姿を明確にすることこそがそのゴールに到達するまでの歴史的な道筋を究明するヒントになるのではないか、という考えに至ったからであると思われます。このことを念頭において、『国富論』を法学体系の一部として捉えた場合、その第1篇および第2篇は、スミスの考える理想的な社会(商品交換社会)のあり方について、社会の制度的な枠組みとその内部における主体の行動原理との両面に目を配りながら理論化を試みたものだ、と把握することができました。すなわち、お互いの財産(所有物)を不当に侵害しないという正義が絶対的な枠組みとして確立されているなかで、個々の経済主体(資本所有者)が慎慮の徳にしたがって行動するならば、農業→製造業→国内商業→外国貿易という自然な順序で産業が発展していき、おのずから社会の全般的富裕が実現されていく、というわけです。こうした議論を裏側から支えるようにして、第3篇においてヨーロッパ経済史の批判的検討がなされ、第4篇において重商主義批判が展開されます。その上で、自然的自由の体系においてなお政府が果たすべき役割があるのだとして、第5篇において、市場論とのつながりを意識した財政論が展開されていくのでした。

 さて、以上のような流れは、本稿の連載第2回で紹介したラ・ロシュフーコー宛ての手紙に登場する文言でいえば、「法と統治の一般的諸原理と歴史」を扱う著作の計画にかかわるものでした。ここで思い出してもらいたいのは、この手紙のなかではもうひとつ、「文学、哲学、詩、雄弁(eloquence)などの種々の分野すべてにかんする哲学的歴史」を扱う著作の計画が触れられていたことです。それでは、このもうひとつの著作では、どのような内容が説かれるはずだったのでしょうか?

 その重要な部分を占めると思われるのは、本稿の連載第3回でとりあげた「哲学的研究を導き指導する諸原理」という共通タイトルを冠された3つの論文(「――天文学の歴史による例証」「――古代自然学の歴史による例証」「――古代論理学と古代形而上学の歴史による例証」)です。これらの論文は、道徳哲学(社会科学)の構築のための確かな武器となる科学方法論(具体的には結合原理という発想)を自然哲学(自然科学)の歴史からつかみとろうとするものであったと同時に、そもそも人間にとって哲学とは何なのか、哲学の起源と発展の原動力を探ろうとするものであったともいえます。

 スミスは、「天文学の歴史による例証」の冒頭で、「驚駭 wonder、驚愕 surprise、驚嘆 admiration は、しばしば混同されるけれども、……相互に区別される、諸感情を示す語である。目新しく奇異であることが厳密な意味で驚駭と名づけるのが適切な感情を呼び起こし、意外なことが驚愕を、壮大なことあるいは美しいことが驚嘆という感情を呼び起こす」と述べ、「この論文の企図は、これらの感情それぞれの性質と原因を個々に考察することにある」としています。この論文におけるスミスの問題意識は、あくまでも感情の問題、もう少し正確にいえば、哲学的探究の動機としての感情の問題にあるのです。スミスが、哲学的探究の直接の動機となると見なしたのは、驚駭と呼ばれる感情でした。端的には、新奇な現象、あるいは、通常ではありえないような(想像力がなじんでいるのとは全く異なる)事物・事象のつながりに出会ったときに抱かれる「どうしてこんなところにこんなものが!?」という驚駭の念こそが、「自然の結合諸原理の科学」たる哲学の出発点である、というのがスミスの主張なのです。

 それでは、こうした驚駭の念は、「自然の結合諸原理の科学」へとどのようにつながっていくことになるのでしょうか? このことを確認するためには、ヒュームの観念連合の議論にまでさかのぼってみなければなりません。スミスに大きな影響を与えたヒュームは、2つの出来事の連続がくり返し観察されるならば、それらの2つの出来事についての観念どうしが結びつけられようになる、と論じていました。しかし、もっぱら心のなかを見つめたヒュームは、ある観念と他の観念とが習慣によって結びつけられることを指摘するにとどまり、客観的世界において2つの出来事が必然的に結びついていることは否定する立場をとったのです。ところが、習慣によって2つの観念が結合されているだけだ、というヒュームの議論の到達点(イギリス経験論の最後の帰結ともえいます)は、スミスにとっては、自身の議論の出発点でしかありませんでした。スミスは、諸現象が習慣的な連関と全く異なる順序で現れるならば、想像力が先行する現象から後続する現象へとなめらかに移行することができなくなる、という極めて重大な指摘を行うのです。スミスによれば、想像力は、それら2つの事象の間に隔たりがあることに驚き不安を感じて、両者をつないでくれる目には見えない鎖のようなもの――「中間的諸事象の鎖」――を想定することで、何とか安らぎを得ようとします。こうして、「世界で生じる様々な変化の全てを結合しようと努力する科学」(「古代論理学と古代形而上学の歴史による例証」)である哲学が誕生することになるのです。

 スミスは、「天文学の歴史による例証」において、古代ギリシャ以降、天体現象を統一的に説明するために様々な「体系(system)」が模索されてきたこと、換言するならば、太陽の運動、月の運動、恒星の運動、惑星の運動というバラバラな天体諸現象を統一的に説明するための「中間的諸事象の鎖」が様々に想定されてきたことを論じています。スミスは、天文学の歴史をざっと概観することによって、既存の「体系(system)」では説明できない新奇の現象(例えば、惑星の運動)に直面させられたとき、既知の現象と新奇の現象とを結びつけて統一的に説明できるような新しい結合原理にもとづく新しい「体系(system)」が構築されていくという過程が繰り返されることによって、人間が天体現象についての認識を段々と深めていったことを明らかにしたのでした。

 私たちは、スミスによって描かれた天文学史の流れから、次のような結論を導き出すことができるでしょう。人間は、バラバラの諸現象をつなげて理解するために、想像力を使って、何らかの結合原理を創り出します。しかし、心のなかで、結合原理を媒介にしてバラバラの諸現象がつなげられればそれで終わり! ということではありません。その結合原理が妥当なものであるかどうかは、あくまでも現実の諸現象と突き合わせることによって検証されていかなければならないのです。仮に、何らかの新奇な現象の登場によって既存の結合原理の不充分さが露呈してしまったならば、そのことが新たな不安を引き起こすのであり、その不安を鎮めるために、より確かな結合原理が模索されていくことになります。人類は、このような過程をくり返すことで、客観的世界に存在する法則性についての認識をより確かなものにしてきたのでした。

 ここで注目したいのは、スミスが、あくまでも感情や想像力に注目して天文学の発展を論じていた点です。感情あるいは想像力というものは、古代ギリシャ以来の学問の歴史において、学的認識(真実の認識)を妨げてしまうものとして、たいがい負のイメージで語られてきました。「理性・知性・悟性などは、人間が真理を獲得するための高い認識源泉であるのに対して、感情・感性・想像力など総じて感性的なものは……仮象や誤謬の源泉であるという考え方は、近世哲学の真理観をつらぬく根本的な図式」(黒崎岩男『カント「純粋理性批判」入門』講談社選書メチエ、p.67)であったのです。認識の二大源泉のひとつとして感覚を重視したロックの『人間知性論』においてさえ、想像力には積極的な役割が与えられておらず、むしろ、心が諸々の観念を勝手気ままにもてあそんで、客観的実在とはかけ離れた不確かなイメージを創ってしまうような力として、捉えられているきらいがあります(*)。

 それだけに、スミスがこうした学問的な常識を大転換させるような見方を打ち出したのは、まさに画期的なことであったといえるでしょう。客観的な法則性というものは感覚器官で直接に捉えられるものでありませんから、ロックのような受動的な反映論(人間の認識は鏡のように外界のあり方を写し取るものだ、という論)にとどまるかぎり、なぜ認識が客観的法則性を把握できるのか、まともに解くことはできません。そこから、ヒュームのような因果律批判が生まれてくることにもなるのです。客観的法則性とは、認識の側からの能動的な問いかけによって、いわば“現象させる”ことによらなければ、そもそも把握しようがありません。それでは、認識の側からの能動的な問いかけを可能にするものは何かといえば、それは想像力であり、その想像力を駆り立てるのは感情にほかならない、ということになるのです。想像力を駆使してこそ感覚の限界を超えることが出来る、感覚器官を通じた直接的な反映では捉えきれないような対象の姿に迫ることが出来る――「哲学的研究を導き指導する諸原理」を著したスミスは、漠然とした形ではあれ、このようなことをつかみかけていたのではないかと思われます。スミスは、感情や想像力の果たす役割に着目して学問史を検討したからこそ、イギリス経験論の限界を突破することが可能になったといえそうです。

(*)「私には狂人が推理機能を失ってしまったとは見えない。ただ、狂人は観念をはなはだしく正しくなく結び合わせてしまい、これを真理と間違えて、正しくない原理から正しく論ずる人が誤るのと同じように誤る。なぜなら、狂人はその想像のはげしさのため、空想を実在事と取り違えてしまって、空想から正しく演繹するのである」(ロック『人間知性論(一)』大槻春彦訳、岩波文庫、p.230)

「ロックには知性の受動性を強調しすぎる嫌いが、あるいは能動性にじゅうぶんな配慮を払わない恨みが、たしかにあると言える。……かれは、心象構成機能としての想像の積極的役割をほとんど全くと言ってよいほど無視している。……この機能を、ロックは公刊本では簡単に、しかも狂人の心理と結びつけて、価値低く取り扱うだけであり(本分冊二三〇ページ)、日記では一六七八年一月二二日に記憶と比較しながら考察しているが、この場合も狂気と関連させて、低い位置しか与えていないのである」(同「解説」、p.327)
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2017年10月03日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(8/13)

(8)『国富論』――社会の完成形態としての商業社会の究明

 前回は、スミスの『法学講義』がどのような内容をもったものであったのか、簡単に確認しておいたわけですが、ここで大きな問題として浮上してくるのは、『法学講義』と『国富論』(正式なタイトルは『国の富の本質と原因にかんする研究』、原題:An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)との関係という問題です。晩年のスミスは、『道徳感情論』第6版(1790年)の序文において、次のように述べています。

「この著作の初版の最終パラグラフで私は、別の論考において、法と統治の一般的諸原理について説明に努めるとともに、この一般的諸原理が社会のそれぞれ異なる時代ないし時期に応じてそれぞれこうむることになった種々の大変革について、たんに正義(司法 justice)にかんする事柄にとどまらず、生活行政(police)や公収入、および軍備にかかわる事柄、さらには法の対象となる他のすべての事柄も含めて、説明に努めるつもりである、と述べておいた。『国の富の本質と原因にかんする研究』において、私はこの約束を部分的に、少なくとも生活行政、公収入、軍備にかんする限り、実行することができた。残っている法学の理論については、長年にわたって想を練ってきたのだが、この著作の改訂を妨げてきたのと同じ仕事のために、その実行を妨げられてきた。私は、すっかり歳をとってしまったので、この大著を満足のいくように仕上げる望みがほぼ断たれてしまったことは認めざるをえない。しかし、それでもなお、この構想を完全に放棄してしまったわけではないし、できる限りのことをするという義務は負い続けたいと思っている。そのため、このパラグラフについては、三十年以上も前に出版されたとき――そのとき私は、そこで宣言したすべてを実行できることに何の疑いも抱いていなかったのであった――のままに残しておいた。」(『道徳感情論』第6版への序文。筆者訳)


 この文章は、約束を果たせそうにないことへのスミスの強烈な無念の思いと、それでも死ぬまでできる限りの努力はつづけたいという誠実な気持ちとが痛いほど伝わってくるものですが、同時に、『法学講義』と『国富論』の関係について大きな問題を提起するものでもあります。それは、スミスが『道徳感情論』の末尾で『法と統治の一般的諸原理と歴史』と題されるべき著作を予告しながら、その前半部分については後回しにし、後半部分だけを独立させて『国富論』として執筆・出版したのはなぜなのか、という問題にほかなりません。

 この問題を考えるためには、『法学講義』の第1部(正義論)と第2部(生活行政論、公収入論、軍部論)との関係について、あらためて検討してみる必要があります。前回確認したとおり、第1部の正義論においては、狩猟→牧畜→農業→商業という社会の4つの発展段階をつうじて「公平な観察者」による共感が積み重ねられながら正義が確立されていく歴史的過程がたどられ、第2部においては、正義が揺るぎなく確立された商業社会段階において社会(国家)のどのような発展が可能になっていくのか、生活行政・公収入、軍備の各領域を視野に入れながら論じられていました。そもそもスミスのいう正義とは、他人の身体や財産を不当に侵害しないということですから、正義が歴史的に確立していく過程は、具体的には、所有権が確立されていく過程として描かれることになります。ここでスミスが導入したのが「公平な観察者」でした。しかし、「公平な観察者」の判断はその時代時代の具体的な社会環境によって大きく左右されてしまうものです。そういう「公平な観察者」の判断をいくら積み重ねていったところで、正義(所有権)の絶対的な確立という地点には到達できないのではないか――『法学講義』の展開のなかで、スミスはこうした難問に直面させられたものと思われます。スミスは、難問解決への糸口を何とか見いだそうと苦闘したあげく、正義(所有権)の絶対的な確立というゴールの姿を明確にすることこそが、そのゴールに到達するまでの道すじを究明するヒントになるのではないか、と考えるに至ったからこそ、法学体系の後半を『国富論』として先行させることになったものと思われるのです。

 この『国富論』は、以下のような5つの篇から構成されています(各篇のタイトルはそれぞれのテーマを簡潔に示すために筆者が便宜的につけたものです)。

《スミス『国富論』の構成》
第1篇 分業論
第2篇 資本蓄積論
第3篇 経済史の批判的検討
第4篇 重商主義批判
第5篇 財政論

 このうち、第1篇(正式のタイトルは「労働の生産力における改善の要因と、労働生産物が異なった階級へと分配されていく際の自然な順序について」)は、社会における分業(原語は the division of labor であり、社会的総労働を分割して異なる生産部門へと配分していく、といったイメージが読み取れます)の形成について、交換を媒介する手段としての貨幣について、交換比率を規定する自然価格の内実(労働生産物の諸階級への分配)について、論じられています。この第1篇は、お互いの所有物を自由に交換しあうことを可能にする条件――所有権という具体的な形をとった正義――が確立された商業社会(商品交換社会)こそ真に人間らしい社会のあり方(社会の完成形態)だ、というスミスの信念を理論的に根拠づけようとしたものだといえます(*)。

 つづく第2篇(正式のタイトルは「資本〔ストック〕の性質、蓄積、用途について」)は、労働者を雇用するためにはあらかじめ資本(生産手段となるもの)が蓄積されていなければならない、という見地をふまえつつ、どの生産部門への資本投下がどの程度まで富の増大に寄与するのか、検討されています。その結果として、国民の富(生活資料)の増大にもっとも寄与するのは農業であって、ついで国内製造業、国内商業とつづき、国民の富の増大にもっとも寄与することが少ないのは外国貿易であることがあきらかにされます。ここで大きな意味をもってくるのが、慎慮の徳――『道徳感情論』において、自分の将来の幸福のために現在の欲求を抑える徳として説かれた徳――です。資本所有者が慎慮の徳を備えている場合、それぞれの部門において予想される利潤が極端に異ならない限り、投資の安全さや確実さを考慮に入れて、外国貿易より国内商業、国内商業より製造業、製造業より農業に、自分の資本を投下しようとするはずだ、ということになるのです。

 このように、『道徳感情論』をふまえた法学体系の一部として『国富論』を捉えた場合、第1篇においては正義の徳が、第2篇においては慎慮の徳が、大きな役割を果たしていると指摘することができます。正義の徳が自由で平等な経済主体が活躍する舞台を整備し、慎慮の徳が個々の経済主体の行動を規定しているのです。お互いの財産(所有物)を不当に侵害しないという正義が絶対的な枠組みとして確立されているなかで、個々の経済主体(資本所有者)が慎慮の徳にしたがって行動するならば、おのずから国民の富を最大化するような形で社会的総資本の配分が達成されていく――これが、『国富論』の第1篇および第2篇における議論なのです。

 しかし、スミスが眼にしていた現実の社会のあり方は、そのような理想(理論的に描かれた商品交換社会)とは少なからず距離がありました。現実の社会のあり方を批判的に分析するとともに、理想的な状態の実現を阻んでいる要因を考察したのが、つづく第3篇(正式のタイトルは「国の違いによる富裕の発展過程の違いについて」)と第4篇(正式のタイトルは「政治経済学の諸々の体系について」)です。第3篇では、西ローマ帝国以来のヨーロッパ経済史が批判的に検討され、農業→製造業→国内商業→外国貿易という産業の自然な発展の順序が、国家権力の恣意的な介入によって、往々にして逆転させられてしまったことが論じられています。第4篇では、このような恣意的な介入の根拠となった重商主義の理論が厳しく批判されます。

 しかし、スミスは、政府が特定産業を優遇するような恣意的な介入を行うことは否定したもの、政府に果たすべき役割があることを否定したわけではありません。この問題を扱うのが、第5篇(正式なタイトルは「統治者あるいは公共社会(the Sovereign or Commonwealth)の収入について」)です。ここでは、政府のなすべき仕事について(経費論)、政府の仕事に必要な財源の調達について(租税論・公債論)、市場の自然で自由な動きとの関連を意識した財政論として議論されていくのです。ここでスミスが、政府のやるべき仕事としてあげているのは、国防、司法行政、公共事業の3つです。このうち、国防は国家の存立そのものにかかわるものとして富裕に先だって重要なものであるとされ、司法行政は正義の制度的枠組みを守るものとしてその重要性が強調されています。また、政府がやらなければならない公共事業として教育行政が論じられ、文明社会の二面性――商業社会が生活習慣を洗練していくという積極面と、分業の発展が労働者階級の視野を狭くし勇武の精神を失わせていくという消極面――を視野に入れつつ、国民の徳を陶冶していくために基礎的な教育が重要であることが強調されていくのです。

 以上、法学体系の一部としての『国富論』という観点から、その構成を概観してみました。端的には、第1篇と第2篇が自然的自由の体系の基礎となる市場(経済社会)についての論をなし、第5篇が自然的自由の体系を上から統括する政府についての論をなす一方、第3篇が現実の経済社会のあり方についての批判、第4篇が現実の経済社会のあり方を規定した政府の政策およびそれに影響を与えた重商主義にたいする批判をなす、とまとめることができます。

(*)『法学講義』では、共感の原理(立場の交換論)と重ねあわせるようにして、人間が交換性向というべきものをもっていることが論じられています。ここからスミスは、お互いの所有物を自由に交換しあうことを可能にするような条件――所有権という具体的な形をとった正義――が確立された社会こそ、真に人間らしい社会のあり方だと考えていたと推測することができます。だとすれば、『法学講義』第1部の課題は、正義が所有権という具体的な形で確立されていく理論的・歴史的な根拠を解明しておくことだったと考えることができます。

※『国富論』の構成は以下のように図示することができます。

『国富論』全体像.jpg
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2017年10月02日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(7/13)

(7)『法学講義』――共感の原理を社会の歴史的現実に適用する

 前回は、スミスの主著『道徳感情論』においてどのような議論が展開されていたか、紹介しました。スミスは、『道徳感情論』の冒頭で、人間の本性を、何よりもまず自分のことを大切にするという利己性の原理と、他人のこと(他人の運不運)にも関心をもたずにはおれないという共感の原理との二重性として提示しています。『道徳感情論』は、端的には、利己性の原理と共感の原理とを調和させる形態がどのように創り出されていくか、という問題を追究したものであったともいえます。スミスは、共感の原理が「想像上の立場(境遇)の交換」によるものであること、私たち人間は、相互に想像上の立場(境遇)の交換をくり返していくなかで、各々が自分の胸中に「公平な観察者」が創出していく(自分を客観的に見つめる視点を獲得していく)こと、この「公平な観察者」から利己的な自分への命令こそが道徳の一般原則とされるものであることを説いていました。このようにしてスミスは、本来的に利己的な存在であるはずの人間が社会の秩序をきちんと形成していくことができるのは、各人の行動がそれぞれの胸中に存在する「公平な観察者」によって適切にコントロールされているからだ、と論じたのでした。

 さて、社会の秩序ということにかかわって注目されなければならないのは、スミスが権力によって強制されうる唯一の徳として、正義の徳をあげていたことです。ここでいう正義とは、端的には、他者の身体や財産を不当に侵害しないことです。こうした正義の徳は、明白で確固とした原則をもっており、基本的に例外を許しません。とはいえ、このような自然的正義(natural justice)が実際に法律的な制度として定められ裁判をつうじて運用されていく過程では、少なからず自然的正義からのズレが生じてこざるをえないから、社会の秩序を規定する正義の原則を首尾一貫した形で確立させるために、法学という学問が求められていくことになる――こうした観点からスミスは、『道徳感情論』の末尾において、「私は別の論考において、法と統治の一般的諸原理について説明に努めるとともに、この一般的諸原理が社会のそれぞれ異なる時代ないし時期に応じてそれぞれこうむることになった種々の大変革について、たんに正義(司法 justice)にかんする事柄にとどまらず、行政(police)や公収入、および軍備にかかわる事柄、さらには法の対象となる他のすべての事柄も含めて、説明に努めるつもりでいる」と宣言したのでした。今回は、この法学について、スミスがどのような構想を抱いていたのか、みていくことにしましょう。とはいえ、残念ながら、『道徳感情論』の末尾で予告された「別の論考」は、結局、完全な形で完成させられることはありませんでした(その一部は『国富論』として結実しました)。しかし、そのおおよその内容は、学生の講義ノート――詳細に記録された「Aノート」(1762〜1763年の講義)と、簡潔に整理された「Bノート」(1763年〜1764年の講義)の2種類があります――にもとづいた『法学講義』によって推測することができます(『法学講義』の邦訳は、Bノートにもとづくものが岩波文庫から、Aノートにもとづくものが名古屋大学出版会から出ています)。この『法学講義』がどのような構成になっているのか、Bノートを参考にしながら、確認しておくことにしましょう。

 『法学講義』は、大きくいえば、法学とはそもそもどういうものかを論じる序論、正義(司法)にかかわる諸領域を論じる第1部、生活行政(公収入も含む)と軍備などを扱う第2部から構成されています。現在の私たちが「法学」という言葉からイメージするものよりも、はるかに広い領域が含まれていることに注意してください。

《スミス『法学講義』の構成》
序論
第1部 正義(司法)
 序論/公法/家族法/私法/契約
第2部
 生活行政・公収入/軍備/国際法

 このうち『法学講義』全体の序論では、冒頭で「法学は、すべての国民の法律の基礎であるべき一般諸原理を研究する学問である」(水田洋訳『法学講義』岩波文庫、p.17)と定義された上で、グロティウス以来の法学の歴史がざっと概観されています。その後、あらためて「法学は、法と統治の一般諸原理の理論である」と確認し、法の四大目的として、司法(justice)、生活行政(police)、公収入、軍備があげられているのです(*)。

 正義論では、まず、正義とは侵害からの安全保障である、と定義された上で、人間(個人)としての安全保障を論じる私法論、家族の一員としての安全保障を論じる家族法論、国家の一員としての安全保障を論じる公法論の3つの領域に分かれることが説明されています。論の展開の順序に関連してスミスは、そもそも所有権を守るためにこそ国内統治が成立したのであるし、所有権の状態は国内統治の形態とともに歴史的に変化してきたのだ、として、公法論→家族法論→私法論という流れを予告しています。

 スミスは、主権者(統治者)と臣民(被治者)のそれぞれの権利を論ずる公法論の前提として、人類社会の歴史を〈狩猟→牧畜→農耕→商業〉の4つの段階に分け(**)、正規の統治は、牛や羊といった私有財産が成立した牧畜段階において、これらの財産を防衛するためにこそ発生したことを確認し、そこから、古代ギリシャにおける共和制の成立、古代ローマにおける軍事的君主制の成立と崩壊、ゲルマン人侵入による混乱と封建制の成立、国王の権力の専制化、議会の権限強化による自由の回復、という歴史的発展の流れを概説しています。家族法論では、家族のなかに存在する三重の関係――夫と妻、親と子、主人と召使(奴隷)――のそれぞれについて、まずは古代ローマの状況を押さえつつ、それらがキリスト教の影響を受けながらどのように変化していったのか、という観点から考察されています。私法論においては、「観察者」や想像上の立場の交換という『道徳感情論』で詳しく展開された論理を絡めつつ、人類の認識の歴史的発展という観点から、所有権の歴史的な拡大の過程がたどられていきます。

 『法学講義』第2部の生活行政論とのつながりで重要なのは、公法論および私法論のそれぞれで説かれた歴史的な到達点です。スミスが論じた国内統治(市民社会)の歴史の到達点は、国民の自由(国王の権力に束縛されないこと)が確立されたところであり、同じくスミスが論じた所有権拡大の歴史の到達点は、土地の売買の自由(何世代も前の故人の遺志に縛られないこと)が切実な課題として浮上してきたところです。こうした議論の到達点に立って、生活行政(生活資料の安価と豊富を実現する国家の機能)についての議論が展開されていくことになります。こうした論の展開の流れからは、所有権が確立され、個々人が自由に活動できるようになることこそが、国の富裕を実現するための歴史的な大前提なのだ、というスミスの発想をうかがうことができます。本稿の連載第2回でも指摘したとおり、この生活行政論こそ、経済学の歴史上の不滅の古典として知られる『国富論』の原型になったものにほかなりません。

 さて、スミスの生活行政論の内容は、大きく、分業論、価格論と貨幣論、一国の富裕の進行が遅れてしまう原因についての考察、という3つの部分に分けることができます。分業論においては、分業(労働の分割)こそが生活資料の安価と豊富をもたらすものであること、分業の根拠は説得の本能(相手に自分の気持ちを分かってもらいたい、という本能的な欲求)を基礎とする交易性向にあること、この交易性向の具体的な発現は「私の欲しいものを私にくれれば、あなたはあなたの欲しいものを手にするだろう」と相手の利己心(仁愛ではなく!)に働きかけるものであること、などが論じられています。価格論と貨幣論においては、商品の市場価格の変動は自然価格によって規制される(商品の価格は、その商品の生産のために投入される労働に適正な報酬が支払われるところに落ち着く)こと、諸商品の自然価格を通じて産業の自然的な均衡が達成される(どの産業にどれくらいの労働が投入されるべきかという問題が解決される)こと、商品取引の発展に伴って価値尺度および流通手段として金貨・銀貨が鋳造されるようになったこと、流通手段としての銀行券(紙幣)を発行することで節約された金銀を国外に送って生活に必要な商品を輸入することは一国の富裕に資するものであること、などが論じられています。さらにスミスは、一国が富裕であるかどうかは貨幣(金銀)が多いか少ないかによって決まる、という当時支配的であった考え方を誤りと断じ、個々人の財産の安全保障という国内統治の枠組みが確立されたもとで、生産的な労働に従事する人々の労働意欲を削いでしまう諸々の観念(商工業への軽蔑など)や制度・政策(穀物の輸出禁止や特権的大商人の優遇など)を排するならば、富裕の進行が実現していくであろうことを主張しています。スミスが、貨幣こそが富であるという当時の常識的な見方を批判し、人々の労働によって生活必需品がきちんと継続的に生産されていくことこそ国家社会の維持発展にとって死活的に重要であることを見抜いた点、また産業の自然的均衡というべきものに沿って社会的総労働が分割されるべきであることを鋭く指摘した点は、現代にも通じる卓見として、高く評価するに値するものであるといえるでしょう。

 続いて、スミスは公収入(租税+公債)について論じています(公収入は、序論においては「法の四大目的」のひとつとして、生活行政と並んであげられていますが、実際の議論の展開のなかでは、公収入論は生活行政論の一部として取り込まれています)。ここでは、統治のための費用を得る上での財産税や消費税などの優劣が論じられ、公債が成立した歴史的経緯や公債価格の変動の要因について、考察されています。さらに、スミスは、商業の発展が国民のマナー(風習、習慣)に与える影響についても論じています。商業の発展が(商人として成功するために、という利己心に導かれて)誠実と几帳面という徳を涵養したこと、一方で、下層民衆の知的鋭敏さの欠如、国民の勇武の精神の衰退といった弊害をもたらしてしまったことを指摘して、生活行政論の締め括りとしています。

 以上のように国の富裕の実現の問題について論じたスミスは、続いて、他国家による侵略から国家を防衛するための軍備について論じています。ここでスミスは、狩猟段階→牧畜段階→農業段階→商業段階という社会発展の歴史を念頭に置きつつ軍備の歴史を概観し、常備軍導入の歴史的必然性(分業=社会的総労働の分割の一環としての必然性)を説く一方、それが国王専制の道具として使われてしまう危険性(また、その点での民兵制の優位)をしっかり直視した上で、その組織のあり方には慎重な配慮が必要だと主張しています。一般論としては、政府が責任を持って募集し、軍人として雇った人たちに対して給与を支払う近代的な常備軍(この対極にあるのが、古代ローマの軍閥です)は、国民の自由に対して脅威となる危険性は少ない、というのがスミスの主張です。

 ここまでで、スミスが「法の四大目的」とした4つの項目、すなわち、正義、生活行政、公収入、軍備についての考察を一通り概観したことになるわけですが、スミスは『法学講義』の最後に(それまでの議論が国家内の関係を対象にしていたのに対して)国家間の関係を律する国際法についての議論が必要になる、と述べて、戦争と平和に関わる国家間のルールについて、@何が戦争の正当な原因か、Aある国家が戦時に他の国家に対して合法的に何をなし得るか、B交戦諸国は中立諸国家に対して何をなすべきか、C諸国家間における外交使節の諸権利は何か、という4つの問題を考察しています。

 このように、スミスの『法学講義』は、身体と財産の安全保障のために成立した国内統治の歴史的発展過程をたどった公法論に始まり、所有権の歴史的な確立過程を論じた私法論を経て、産業の自然的均衡というべきものに沿って社会的総労働が分割されるべきことを論じた生活行政論に至り、そこからさらに、政府の活動に必要な財源を確保するための公収入論(租税論+公債論)、他国家による侵略から国家を防衛するための軍備論が展開され(ここまでひとつの国家の内部に視野を向けた議論)、最後に、諸国家間の関係を律する国際法についての考察によって、全体がしめくくられることになるのです。

(*)岩波文庫版『法学講義』は、justice について、これが法の機能であることを重視して「司法」と訳出していますが、これはもちろん「正義」とも訳しうるものです。また、police は「生活行政」と訳されていますが、これには理由があります。18世紀には現代の私たちがイメージするような警察機構はまだ存在しなかったのであり、police といえば住民の生活条件の確保一般を意味する語だったからです(かのヘーゲルも『法の哲学』においてほぼ同様の内容を含んだものとして Polizei について論じており、中央公論社の世界の名著シリーズでは、これに「福祉行政」という訳語があてられています)。これは、古代ギリシャの「ポリス」に近いイメージだと考えればよいでしょう。スミスはこの police の目的について「商品の安価と公安と清潔」をあげています。

(**)人類社会の歴史を、生活様式にもとづいていくつかの発展段階に区分して把握しようという発想は、このスミスの『法学講義』が学問史上初のものだとされています。これは学問の歴史においてスミスが果たした特筆すべき業績のひとつというべきものです。
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2017年10月01日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(6/13)

(6)『道徳感情論』――道徳哲学体系の土台としての共感原理

 本稿は、現代社会の課題に応えうる学問体系の構築に向かっていくことこそアダム・スミスの遺産を現代に活かしていく道である、という問題意識から、『道徳感情論』と『国富論』という二大著作だけにとどまらないスミスの学問的構想の全体像について、描き出すことを試みています。

 前回まで、若き日のスミスが、道徳哲学体系の構築という課題に向かっていく前提として自然哲学史の総括をおこない、科学的認識の成立過程の究明から道徳哲学構築の武器となる科学方法論をつかんだこと、意志をもたない諸物の機械的運動を記述するための自然科学的な方法を、自由意志をもった人間の集合体である社会の領域へと適用していくために自然神学的な考察をおこない、「見えざる手」による客観的法則性の貫徹という発想をつかんだこと、さらに自然哲学と道徳哲学とを媒介するもうひとつの環として生物学に着目し、「外部感覚論」を著したことを確認しました。この「外部感覚論」は、人間がもつ五感覚のうち触覚(自分の外部に何らかのモノが存在していることをハッキリ知覚させてくれる唯一の感覚)こそ根源的な感覚にほかならないという主張を、他の生物における感覚のあり方にも視野を広げながら展開したものでした。このことによってスミスは、ヒュームの懐疑論的な人間観を克服して、人間は他の人間との関係のなかで生きていることをハッキリ自覚している(他人の存在に何らの疑いも抱いていない)ことを明確につかんだのでした。このことこそ、スミスが先輩ヒュームの道徳論を批判的に継承して大きく発展させていくことを可能にしたのです。

 それでは、ヒュームの道徳論とはそもそもどのようなものであり、スミスはそれをどのように発展させたのでしょうか?

 ヒュームは、人間には道徳的な善悪を感じ取る道徳感覚がある、というシャフツベリ(1671〜1713)やハチスン以来の議論を踏襲して、道徳的な善悪は理性によって判断されるようなものではなく、感覚的なものだと主張していました。すなわち、ある人の言動が快を与えればそれは道徳的な善であり、不快(苦)を与えればそれは道徳的な悪である、というわけです。ここで浮上してくるのが、自分自身には直接に快も不快も与えないある人物の言動――ある人物が自分以外の他人にたいして善行をほどこしたり、危害をくわえたりしていること――について道徳的な善悪をどのように感じ取るのか、という問題です。この問題を解決するために、ヒュームは共感(sympathy)の原理を導入しました。他人の感じている快あるいは不快にたいする自分の共感を媒介として、道徳的な善悪を感じ取るのだ、というわけです。しかし、この共感論を展開する上で大きな制約となったのが、人間は知覚の束にすぎない、という捉え方です。ヒュームは、そもそも共感とは何か、共感はどのようにして成立するのか、という説明において、「等しい強さに張られた弦で一本の弦の振動が残りの弦に伝わるように、すべての感情はたやすく一人の人から他の人へと移り、すべての人間に対応する動きを生む」(同、p.196)というような、「情動感染(emotional infection)」論のレベルを大きく超えることができなかったのです。ここで前提となっているのは、ある観念・印象は、それと類似した印象・観念を引き寄せるのだという観念連合・印象連合の説です。人間の心はすべて似かよったものである(人間とは知覚の束にすぎない!)から、ある知覚の束(ある人)から他の知覚の束(他の人)へと印象・観念のもつ引力が作用していくというのが、ヒュームの共感論なのです。

 スミスは、このようなヒュームの共感論を、触覚こそ本源的な感覚であるとの論をふまえて、いいかえれば、人間は他者の存在について明確な自覚をもっているという大前提をふまえて、批判的に継承し発展させていくことになりました。この共感論が展開されたものこそ、スミスのもっとも重要な著作であるといってよい『道徳感情論』にほかなりません。この『道徳感情論』は、次のような文章で開始されています。

「人間というものがどれほど利己的なものだと思われるにしても、なおその本性のなかには、他人のことに関心をもたせずにはおかない何らかの原理があきらかに存在しているのであって、その原理は、他人の幸福について、それを目にすることが快いということ以外に何も得ることがなくても、自分にとってなくてはならないものだと感じさせるのである。」(『道徳感情論』冒頭、筆者訳)


 このようにスミスは、人間の本性を、利己的である(何よりもまず自分のことに関心をもち、自分のことを大切に考える)と同時に、他人のこと(他人の運不運)にも関心をもたずにはおれない、という二重性において把握するところから、『道徳感情論』の全体の議論をスタートさせています。ここで「他人のことに関心をもたせずにはおかない何らかの原理」というものこそ、共感(sympathy)の原理にほかなりません。スミスは、そもそも共感とはどのようなものか、共感はどのようにして成立するのか、という説明において、ヒュームの共感論から長足の進歩を示したのです。端的には、スミスは、共感とは「想像上の立場〔境遇〕の交換」(imaginary change of situation)によって生じるものだ、と喝破したのでした。このことについてスミスは、「いわば相手の身体に入り込んで、ある程度まで同じ人間になりきる(we enter as it were into his body, and become in some measure the same person with him)」と表現しています。この表現から、スミスの共感論が、他人の存在について触覚によってなされる本能的示唆――自分自身と異なる身体(知覚の束ではない!)をもった他人が厳然として存在しているのだという示唆――を大前提とした議論であることを読み取ることができるでしょう。

 スミスは、周囲の人々に関心をもたずにはいられない存在である人間は、他人から共感されることに快さを感じ、共感されないことに不快さを感じる、といいます。私たちは、他人からの共感を獲得することを切望するがゆえに、「他人の目から見て自分はどう見えるのか」を問わずにはいられないのです。しかし、私たちは、自分自身の顔がどんなであるか自分の目で直接に見ることができないのと同じように、自分自身の感情・行為の妥当性を自分自身で直接に見てとることはできません。自分自身の顔を見るためには鏡に反映した映像を媒介にしなければならないのと同じように、自分自身の感情・行為が妥当なものであったかどうかは、それを反映してくれる鏡を媒介にしなければならないのです。そうした鏡になるものこそ、自分の行為を見たまわりの人々の反応にほかなりません。私たちは、自分の行為を受けたまわりの人の反応がどうであったかを媒介してのみ、自分の行為、またその行為を支配した感情が妥当であったかどうか、判断を下していくことができるのです。私たちは、自分の諸々の行為について、まわりの人々の反応があるときは是認を示しまたあるときは否認を示す、といった具体的な経験を数多く積み重ねていくことによって、しだいしだいに、自分の心のなかに客観的に自分自身を見つめる視点を創り出していくことになっていきます。スミスの言葉によれば、この視点をもつ者こそ、胸中の「公平な観察者(impartial spectator)」にほかなりません。この「公平な観察者」は、特定の利害関係や特別の好意あるいは敵意にとらわれることなく、自分自身の行為・感情の妥当性を判断してくれる存在です。私たちは、胸中の「公平な観察者」の視点を借りて自分自身の行動の妥当性を判断するようになります。

 だとすれば、道徳の一般原則(いかなる行為をなすべきで、いかなる行為をなすべきでないかという一般原則)は、けっして生得的な観念などではなくて、私たちが他人の諸々の行為をみてどのように感じるかという経験を積み重ねていくことをつうじて、また、周囲の人々が同じ行為をどのように評価するのかということにかんする経験を積み重ねていくことをつうじて、自分自身の胸中にしだいしだいに形成していくものにほかならない、ということになります。スミスによれば、道徳の一般原則の正体は、胸中の「公平な観察者」から自分自身にたいする命令にほかならないのです。

 それでは、徳(美徳)というものの性質について、スミスはどのように論じていたのでしょうか? スミスの徳論は、大きく二重構造に分けて捉えることができます。すなわち、「公平な観察者」による利己的な諸欲求のコントロールという自己統制(self-command)の徳を大前提として、その大枠のなかでより具体的な徳が展開していく、という二重構造です。この具体的な徳は、自分自身の幸福にかかわる徳と他者の幸福にかかわるか徳に分けられ、後者はさらに、他者を不当に侵害しない徳と他者に積極的に善行を施す徳に分けられます。自分の未来の幸福のために現在の欲求を抑えるというのが慎慮(prudence)の徳であり、他者を不当に侵害しないというのが正義(justice)の徳であり、他者に積極的に善行を施すというのが仁愛(beneficence)の徳です。

 これらの徳のうち、社会の秩序という問題を考えるにあたって直接に大きな問題となってくるのは、自分と他人との関係にかかわる2つの徳、すなわち正義の徳と仁愛の徳なのですが、両者の性格が大きく異なることをスミスは強調しています。仁愛の徳の欠如は、現実に積極的な害悪を及ぼすというわけではありませんから、仁愛の徳を権力によって強制することはできません。これにたいして、正義に反すれば人を傷つけることになりますから、正義の徳は権力によって強制することができます。一方、たんに仁愛が欠けているだけでは何ら処罰に値しませんが、この徳をすすんで実践することは大いに賞賛に値すると考えられます。反対に、正義に違反することは処罰の対象になりますが、正義の規律を遵守する(他人を不当に傷つけない)だけでは何ら賞賛に値しません。それは当たり前のことにすぎず、とくに感謝されるほどのものではないのです。

 あくまでも個人の良心にまかされておいてよい仁愛の徳は(この意味では慎慮の徳も)、具体的な行動の指針となる原則としてみればきわめて漠然としたものでしかなく、その実行にあたっては諸々の条件に影響されて数多くの例外が生じてくることになります。これにたいして、権力によって強制されなければならない正義の徳は、明白で確固としたものであり、基本的に例外を許さないものであるといえます。とはいえ、スミスは、このような自然的正義(natural justice)が実際に法律的な制度として定められ裁判をつうじて運用されていく過程では、少なからず自然的正義からのズレが生じてこざるをえない、といいます。ここから、社会の秩序を規定する正義の原則を首尾一貫した形で確立させようとする営みが生じてくることになります。これこそが、道徳哲学の一部門として位置づけられうる法学にほかなりません。

 このような観点からスミスは、『道徳感情論』の末尾において、「私は別の論考において、法と統治の一般的諸原理について説明に努めるとともに、この一般的諸原理が社会のそれぞれ異なる時代ないし時期に応じてそれぞれこうむることになった種々の大変革について、たんに正義(司法 justice)にかんする事柄にとどまらず、生活行政(police)や公収入、および軍備にかかわる事柄、さらには法の対象となる他のすべての事柄も含めて、説明に努めるつもりでいる」(筆者訳)と宣言することになったのです。このような、スミスによる法学(原語は jurisprudence であり、「法律学」というよりは「法哲学」に近い語感をもっています)の構想については、次回以降に詳しくみていくことにしましょう。

※スミスの徳論の構造は以下のように図示することができるでしょう。

スミス徳論の構造.jpg
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2017年09月30日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(5/13)

(5)「外部感覚論」――人間観の生物学的基礎を問う

 前回は、スミスが自然哲学史研究で獲得した科学方法論にのっとって道徳哲学の構築に向かっていこうとした際に不可避的に直面したであろう大問題、すなわち、自然科学的な方法をそのまま社会科学的な研究に適用することができるのか、という大問題にたいして、どのような解決が与えられることになったのか、みてきました。スミスは、道徳哲学講義における第一の部門として位置づけられた自然神学において、社会の客観的法則性は諸個人の自由意志にもとづいた行動の絡み合いをつうじてこそ貫徹されていくものだ、という見方を確立したのではないか、と考えることができるのでした。

 自然哲学史の研究の成果と道徳哲学の構築という課題は、以上のような自然神学的な考察によって、一応は媒介されたということができます。しかし、この媒介は、あくまでも、諸個人の動きを総体としてみれば自然と同様に法則性を見いだすことができる、というレベルの把握にとどまっていたことが注意されなければなりません。そもそも、スミスのおこなった自然哲学史の研究は、あくまでも天文学史を中心としたものであり、そこに若干の古代自然学史と古代論理学史、古代形而上学史がくわわったものでしかありませんでした。このような自然哲学史研究のなかでは、「一般的な法則に支配され、それ自身の保存と繁栄およびそこにいるすべての種の保存と繁栄という一般的な目的を目ざす、完全な機械、まとまった体系」(「古代自然学の歴史による例証」)という自然観(宇宙観)の表明がなされていましたが、このような自然観から社会の客観的な法則性のあり方を類推するというやり方だけでは、諸個人の動きを総体として把握すればどうなるか……ということにしかならず、一人ひとりの具体的な人間がそもそもどのような存在なのか、という問題についての突っ込んだ究明が欠けてしまうことになるのです。

 しかしスミスは、こうした問題への考察を怠っていたわけではありません。スミスは、人間もまた神による創造された自然の一部にほかならない、という見地を堅持しながら、この問題に迫っていこうとしていたように思われるのです。それは具体的にはどういうことだったのでしょうか?

 そのヒントは、スミスが古代自然学史論文において表明した機械的体系としての宇宙という自然観をふまえつつ、前回紹介した『道徳感情論』の以下の文章を読むことで得ることができます。

「自己保存と種の繁栄とは、自然がすべての動物を創造するにあたって意図していた偉大な目的であるように思われる。人間は、こうした目的への欲求と、その反対物への嫌悪――生命への愛と死滅への恐怖、種の存続と繁栄への欲求とその完全な消滅という考えへの嫌悪――を与えられている」(第2部、第1篇、第5章)


 ここでは、すべての種の保存と繁栄という一般目的につらぬかれた自然のなかに、動物の存する領域があり、さらにその動物の一種として人間の存在が位置づけられる、というとらえ方が示されています。つまり、人間もまた動物の一種にほかならないのだから、動物としての一般性をふまえながら、人間としての特殊性をとらえていかなければならない、というとらえ方が示されているわけです。ここから、次のように推測することが可能でしょう。すなわち、スミスは、自然哲学(自然科学)と道徳哲学(社会科学)とを、諸個人の動きを総体として考察することで自然神学的に媒介しようとしていただけでなく、その媒介を、個々の人間の具体的なあり方の究明につながる生物学的な議論によって補強しようとしていたのではないか、ということです。

 実際スミスは、生涯にわたって生物学にたいして強い関心を抱いていたことが知られています。1756年(33歳)のときに『エディンバラ評論』という書評誌に寄稿した文章では、フランスにおける学問の動向に注意を払う必要があると力説するなかで、ビュフォン(植物の形成、動物の発生、胎児の形成、感覚の発達などについて哲学的な推理を行いました)やレオミュール(全6巻からなる大著『昆虫誌』を著しました)らの作品について言及していますし、『道徳感情論』刊行の前後には幼鳥や哺乳動物についてのフィールドワークに取り組んだとされています。また、1773年(50歳)にロンドンの王立協会の会員となってからは、ビュフォン(1740年に王立協会の研究員になっていました)やリンネなど、当時を代表する生物学者たちと親しく交流を重ねました。

 こうした生物学への強い関心が、道徳哲学の基礎となる人間観につながる論考として結実したのが、「哲学的研究を導き指導する諸原理」などとともに遺稿集『哲学論文集』に収録された「外部感覚論」(*)です。この論文でスミスは、人間がもつ5つの感覚(触覚、視覚、聴覚、臭覚、味覚)について、リンネなどによる生物学研究の成果を参照しつつ、他の生物の感覚のあり方にまで視野を広げて検討をおこない、触覚こそがもっとも基礎的で本源的な感覚なのではないか、という主張を展開しています。そもそも触覚は、感覚器官が外側から直接に圧迫されることによる感覚であり、外部の諸物体の存在をもっとも生々しくハッキリと知覚させる(というよりもむしろ、自他の区別は触覚によってしか明確にならない!)ものです(**)。スミスは、鳥類や哺乳類の産まれたばかりの子どもの行動にかんする観察から、ほとんどの動物が、あらゆる観察と経験に先立って、自分の身体の外部に物体が存在しているのだという何らかの概念のようなものを本能的にもっているのではないかと提起し、こうした本能的な示唆を与える感覚は触覚以外には考えられない、と論じています。こうした議論のなかでスミスは、動物のなかで人間だけがこうした本能的知覚(生得的観念)を与えられていないとは考えにくい、と主張するのです。

 少し難しい話になりますが、哲学の歴史の流れをふまえていえば、この論文は、人間の経験を重視するあまり、外部の物体の実在について懐疑的になってしまったイギリス経験論の発想を全く逆転させるものであったといえます。イギリス経験論は、人間の心にはもともと(生まれつき)神の概念や数学の公理などが書き込まれているという大陸合理論(デカルトやライプニッツ)の主張に対抗して、人間の心はもともと白紙であり、経験によって諸々の事柄が書き込まれていくのだ、と主張しました。経験によって確かめられないものの存在は認められない! というわけです。しかし、感覚器官を通じた経験そのものは、あくまでも人間の心のなかの出来事でしかありませんから、経験を重視する立場を徹底していくと、視野がだんだんと心のなかだけに限定されていきます。そうなると、心の外側に物体が本当に存在しているかどうかは確かめようがない、とか、諸々の感覚はもともとバラバラのものでしかなく、それらが結合されるのはもっぱら習慣によるものでしかない、といった主張が出てくることにもなります。これにたいしてスミスは、感覚的な経験のもとになる外部の物体の存在を大前提として復権させることで、諸感覚の必然的な結びつきについて明らかにしようとしたのです。その過程でスミスは、人間の精神はもともと完全な白紙である、というイギリス経験論の大命題について根本的な疑問を提起するに至りました。スミスは、人間を含むあらゆる動物は、外部の諸物体の存在について本能的な知覚を先天的にもっているのであって、それを直接に示唆してくれる触覚の機能の限界(器官が直接に物体に触れない限り働きようがない)を補うために、他の諸々の感覚が成立させられていったのだ、という結論に至ったのです。

 それでは、スミスが触覚の本源性を主張したことは、道徳哲学の構築という課題にとって、どのような意味をもったのでしょうか? 端的には、私たち人間が自分と異なる他人の存在について本能的といってよいレベルで確信を抱いていることを明確に確認した、ということができます。つまり、人間は自分以外の他人の存在を疑ったりすることなく、自分と同じように肉体と精神を備えた他の人間との関係のなかで生きていることをハッキリ自覚しているのだ、というわけです。このようにいうと「何を当たり前のことを!」と思われるかもしれませんが、スミスの先輩であるヒュームが、この当たり前のことを疑うかのような議論を展開していたから問題でした。ヒュームは、確かに存在するといえるのは感覚だけだという立場をとことんまで突き詰めた結果、外部に本当に物体が存在しているかどうかも、また人格の同一性(自分という1人の人間が本当に存在しているということ)すらも、疑わざるをえないところまで追い込まれていたのです。ヒュームによれば「人間とは、思いもつかない速さでつぎつぎと継起し、たえず変化し、動き続けるさまざまな知覚の束あるいは集合にほかならぬ」(ヒューム『人性論』中公クラシックス、p.110)ということになるのです。

 このような人間観では、人間は自分と同じような他の人間との関係のなかで生きていることをハッキリ自覚している、などとはいえません。なにしろ、人格の同一性(自分という1人の人間が本当に存在しているということ)についてすらも、確信をもてなくなっているのですから。このような知覚の束としての人間観では、人間と人間との関係をどのように律するか、という道徳の問題をまともに扱っていくことはできません。これにたいしてスミスは、触覚(自分の外部に何らかのモノが存在していることをハッキリ知覚させてくれる唯一の感覚)中心論によってこうした人間観を克服し、ヒュームを大きく超えるレベルの道徳論を展開していくことになります。このことについては、次回以降、詳しく紹介していくことにしましょう。

(*)「外部感覚論」の執筆時期については諸説ありますが、田中正司『アダム・スミスの認識論管見』(社会評論社、2013年)は、『道徳感情論』の共感論との論理的つながりを根拠に、『道徳感情論』の執筆に先だつ1750年代前半という説を主張しています。スミスの学問的構想の全体像における「外部感覚論」の位置づけという観点からすれば、この説が妥当なものではないかと考えられます。

(**)ここで興味深いのは、スミスが、私たちがテーブルのような単なる物体に手を置いてみる場合と、他人や他の動物の身体に手を置いてみる場合とを区別していることです。私たちは、テーブルが私たちの手による圧迫を感じるなどとは思っていないので、取り立てて配慮してやるべき対象であるとは感じません。これに対して、他人や他の動物であれば我々の身体による圧迫を感じるであろうことを知っているので、それなりの配慮をしてやる必要を感じる(スミスは fellow-feeling という語でこれを表現しています)というのです。このことは「外部感覚論」における触覚論と次回取り上げる『道徳感情論』における共感論とのつながりを示唆するものだといえるでしょう。
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2017年09月29日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(4/13)

(4)「自然神学」――自然哲学と道徳哲学はどのように媒介されるか

 前回は、スミスはそもそもどのような問題意識をもって学問への道へと出立したのか、確認しました。恩師ハチスンの道徳哲学講義に決定的な影響を受け、自身も独自の道徳哲学体系の構築を志すようになった青年スミスは、自然科学的な認識の確実性を否定してしまうかのようなヒュームの議論によって大きな不安を抱かされることになります。スミスは、この大きな不安を解消するために、古代ギリシャ以来の自然哲学の歴史的な発展過程をたどり返してみようとしたのであり、その結果として、人間の認識が客観的世界(自然)の法則性を把握していくことは可能であることをつかんだ(確信した)のでした。こうした自然哲学史の研究は、学芸(哲学、文学、詩、修辞など)の哲学的歴史――スミスによる哲学の定義にしたがえば、バラバラな諸現象のすべてをひとつの原理で結合して把握するような歴史のことです――というスミスの学問的構想の一方の大きな柱の発端となるとともに、もう一方の大きな柱である道徳哲学(社会科学)の構築に向けて、確かな武器となる科学方法論(具体的には結合原理という発想)を提供するものになったのでした。

 これ以降、この科学方法論にのっとって道徳哲学(社会科学)を構築していくことが、スミスにとってのひとつの大きな課題となっていくわけです。しかし、ここで不可避的に大きな問題が浮上してくることになります。それは、自然科学的な方法をそのまま社会科学的な研究に適用することができるのか、という問題にほかなりません。自然哲学史の総括をおこなったスミスは、古代ギリシャの自然学について論じるなかで「一般法則に支配され、それ自身の保存と繁栄およびそこにいるすべての種の保存と繁栄という一般目的を目ざす、完全な機械、まとまった体系」という宇宙観を表明していました。確かに、自然を構成する諸々の事物・事象は意志をもたないものであり、その運動は機械的な体系として記述することが可能です。こうした自然にたいして、社会は、それぞれ独自の意志をもって自由に行動する人間の集合体として構成されています。こうした社会について、自然と同じように客観的法則性を見いだすことが可能なのでしょうか?

 これは、古代ギリシャ以来、哲学(および神学)の世界で、決定論と自由意志は両立するのか否か、という問題として議論されてきたものにほかなりません。すなわち、神の意志が森羅万象を統括している、あるいは森羅万象が神によって決定された法則にしたがって動いている(すべては必然である!)とするならば、はたして人間の意志の自由などありえるのか、ということが問題になっていたのです。18世紀のスコットランドのように、人々が固定的な身分制度にしばられていた中世封建的な社会のあり方が崩れて、個々人の自由な活動が社会の大きな変化・発展をもたらすようになってくると、この問題があらためて大きく浮上してくることになります。ニュートン力学の形成によってひとつの頂点に到達した自然哲学(自然科学)と遜色のないレベルで道徳哲学(社会科学)を構築していこうとするならば、人間は自由意志をもっているという経験的な事実と両立するような形で、社会においても客観的な法則性がつらぬかれているのだという大前提を、何としてでも確立しておく必要がでてくるからです。

 社会科学の構築を大きな課題とした18世紀のスコットランド啓蒙思想において、こうした問題の解決を担わされていたものが、自然神学にほかなりませんでした。自然神学とは、簡単にいうならば、自然に内在する法則性を人間理性によって把握することで創造主たる神の叡智を知ろうとする神学であるということができます。スミスに決定的な影響を与えたハチスンの道徳哲学講義も、こうした自然神学を基礎としたものでした。ハチスンは、人間の本性(人間的自然の構造)のうちに神の摂理と自然法の原理を探ろうとしていたのです。

 スミスは1752年(29歳)にグラスゴウ大学の道徳哲学教授に就任し、1763年に退職するまで、学生たちを前に道徳哲学を講義することになります。この道徳哲学講義は、大きく3つの部門、すなわち、自然神学、倫理学、法学の3部門から構成されていたとされています。こうした構成からも、自然神学に道徳哲学全体の基礎理論としての位置づけが与えられていたことはあきらかです。この道徳哲学講義の3部門のうち、倫理学に相当する部分がやがて『道徳感情論』(第1版は1759年)としてまとめられ、法学にかんする部分の一部(生活行政論・公収入論)がのちに『国富論』(第1版は1785年)として結実していくことになりました。また、法学のそれ以外の部分にかんしても、19世紀末以降に発見された学生の講義ノートによって、どのような内容のものであったのか、知ることができます。しかし、スミスは、自然神学にかんしては自身の考えをまとめた著作も論文も遺しませんでしたし、道徳哲学講義のうち自然神学の部門については学生の講義ノートも発見されていません。したがって、スミスが講義した自然神学が具体的にどのような内容のものであったのか、直接的に知る術はないのです。とはいえ、18世紀スコットランドの道徳哲学において、自然神学にどのような役割が担わされていたのかをふまえつつ、スミスの著作において顔をのぞかせている神学的な発想を検討することによって、そのおおよその内容を推測することは不可能ではありません。

 ここでは、スミスの神学的発想が顔をのぞかせている文章として、『道徳感情論』につけられた注について、みてみることにしましょう。ここで、スミスは次のように述べています(なお、以下の引用文において「自然」とされている語は、自然の創造主としての神に置き換えて読まれるべきものです)。

「人間は、社会の繁栄と存続を望むような資質を生まれながらに付与されている。……自己保存と種の繁栄とは、自然がすべての動物を創造するにあたって意図していた偉大な目的であるように思われる。人間は、こうした目的への欲求と、その反対物への嫌悪――生命への愛と死滅への恐怖、種の存続と繁栄への欲求とその完全な消滅という考えへの嫌悪――を与えられている。しかし、我々にこうした目的への強烈な欲求が与えられているとはいえ、こうした目的の実現のために適切な手段を見つけだすことは、我々の理性の緩慢で不確実な決定にゆだねられることはなかった。自然は、本源的で直接的な本能によって、我々をこうした目的の大部分へと方向づけるようにしたのである。飢え、渇き、両性の結合への情熱、快楽への愛、苦痛への恐怖などといったものが、こうした手段をそれ自身のために使用するよう我々を促すのであって、我々は、自然の偉大な支配者が、それらの手段をつうじて仁愛的な目的に向かう傾向を生みだそうとしていたことなど、まったく考えもしないのである。」(『道徳感情論』第2部、第1篇、第5章。筆者訳)


 ここでは、人間は社会の繁栄と存続を望むとはいえ、どのような行為が社会の繁栄と存続という目的につながる手段なのか、理性的に判断しているわけではない、と説かれています。自己保存と種の繁栄につながる諸々の手段(飢えを満たしたり、渇きを癒したり、異性と結びついたり、苦痛から逃れたりするための諸手段)は、本源的で直接的な本能によって、あくまでもそれ自身のために追求されるのであって、それらが社会の繁栄と存続という慈恵的な目的に資するのだ、という理性的な判断を媒介として追求されるわけではないのです。にもかかわらず、自然(=神)は、人間が諸欲求を満たすために追求する諸々の手段をつうじて、社会の繁栄と存続という目的の実現につながるような傾向を生みだそうと意図していたのだ、とスミスは説きます。つまり、個々の人間が利己的な諸欲求を自由に追求していくことこそが、社会の繁栄と存続という結果をもたらすための必然的な契機となるように、自然(=神)はあらかじめ計画しておいたのだ、というわけです。個々の人間は、ただただ利己的な諸欲求を追求している(=自由に行動している)だけでありながら、全体としてみれば、知らず知らずのうちに、社会全体の利益の促進という自然(=神)の意図を実現していくように導かれていくのだ――このような見方が、有名な「見えざる手」の議論へとつながっていくことになります。

「富裕な人々は、貧乏な人々にくらべてほんの少しばかり多く消費するにすぎず、彼らは生来の利己性と貪欲さにもかかわらず、〔中略〕自分たちの改良の成果を貧乏な人々にも分配する。彼らは見えざる手によって、仮に土地がその上に住むすべての人々の間に平等な面積で分割されていた場合になされていたであろうと思われるのとほぼ同様の生活必需品の分配をなすように導かれていくのであって、このようにして何ら意図することなく、また自覚することもなく、社会の利益を促進し、種族繁栄のための手段を供給することになるのである。」(『道徳感情論』第4部、第1章。筆者訳)


 ここでは、「見えざる手」が、富裕な人々による利己的な富の追求行動を、貧しい人々への生活必需品の供給という結果へと導いていくものとして位置づけられています。ちなみに、『国富論』における「見えざる手」は、より確実でより大きな利潤を追求する資本家の利己的行動を、きわめて不安定で一部の人々の利益にしかならない外国貿易への資本投下ではなく、国民全体の富を安定的に増大させる国内産業への資本投下へと導いていくものとして位置づけられています。いずれにせよ、スミスのいわゆる「見えざる手」とは、個々人の意図をこえて、自覚されることなく自然の創造主たる神の意図(社会全体の利益)を実現するように機能するものとして位置づけられているといえるのです。

 以上のようにみてきたことから、スミスは、個々人が利己的な欲求の実現をめざして行動していくことを、神の意図(社会全体の利益)が実現されていくための必然的な契機として位置づけていたのだ、ということが確認できるでしょう。逆からいえば、神の偉大な目的が現実の世界に実現されていくためには、具体的な諸個人の自由な行動を手段とするしかないのだ、という把握があったのだともいえます。端的には、スミスの自然神学とは、神の「見えざる手」という発想を媒介として、社会においても客観的な法則性がつらぬかれているはずだという理論的な前提と、人間は自由な意志をもって行動しているという経験的な事実とを結合しようとするものであったということができるでしょう。

〔補足〕
このような「見えざる手」がきちんと機能することを保障しているのは、個々人の胸中に創られる「公平な観察者」です(「公平な観察者」については本稿の連載第6回で説明します)。『道徳感情論』第3部の第5章において、スミスは、「公平な観察者」の命令が神の戒律と同視されることを肯定的に捉えています。ここから、個々の人間はそれぞれに利己心に突き動かされながらも、神の戒律と同視されうる胸中の「公平な観察者」の命令によってコントロールされるがゆえに、社会全体としては望ましい結果が導かれていくのだ、という社会観を見て取ることができるのです。そもそもスミスは、大きくいえばニュートン以来の理神論の系譜に属していました。理神論とは、神は世界(宇宙)を創造したものの、創造後の世界は神からの介入によらずに自分自身の法則性にしたがって運動・発展していく、という見方にほかなりません。この見方からすれば、世界の運動・発展を規定する法則性は、神が世界の創造に際してプログラムしておいたもの、ということになります(ここから、自然の法則性と神とが同視されていくようになります)。結局のところ、スミスにおいては、創造主たる神は、人間を創造するに際して、「公平な観察者」による利己心のコントロールという形態が創出されていくように、その本性に利己性と共感の原理という二重性(矛盾)を内在させておいたのだ、と考えられていたのです。このことについて詳しくは、本ブログに2013年8月に掲載した「カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える」を参照して下さい。

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2017年09月28日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(3/13)

(3)「天文学史」――自然哲学史の総括による科学方法論の獲得

 本稿は、現代の課題に応えうる学問体系の構築に向かっていくことこそアダム・スミスの遺産を現代に活かしていく道である、という問題意識から、『道徳感情論』と『国富論』という二大著作だけにとどまらないスミスの学問的構想(哲学体系)の全体像について、描き出すことを試みています。

 今回は、そもそもスミスはどのような問題意識をもって学問への道へと出立したのか、確認しておきましょう。

 アダム・スミスは、1723年6月5日、スコットランド東海岸にある港町カーコーディに生れました。スミスの生れたスコットランドは、もともとイングランドとは別の国だった――ただし1603年にスコットランド国王がイングランド国王を兼ねて以降は、共通の国王の下に別個の議会が存在する「同君連合」を形成していました――のですが、1707年、スコットランド議会がイングランドとの合同条約を批准したことにより、正式にイングランドと合同してひとつの国家を形成することになります。当時のスコットランドは、イングランドと比べるとかなり経済の発展が遅れていました。スコットランド国内をみても、豊かな平地(南部)と貧しい高地(北部)という地域間格差を抱えていました。しかし、イングランドとの合邦を契機に、植民地アメリカとの貿易を含むイングランド市場に全面的に参加する道が拓かれたことによって、スコットランドは急速に経済的な発展をとげていくことになったのでした。一般的にいって、資本主義経済の勃興による繁栄は、自由で進歩的な社会の雰囲気をつくりだしていきます。諸産業の発展によって台頭してきた商工業者層が、旧来の封建的な体制をつくりかえていくための精神的な武器として、「自由」と「理性」とを掲げるようになっていくからです。こうした状況は、スミスが生きた18世紀のスコットランドにも当てはまります。当時のスコットランドにおいては、商業化された社会における人間性や道徳のあり方について考察を深めていった「スコットランド啓蒙」と呼ばれる思想的な流れが存在していたのです。ここでは、富と徳との関係――両者は絶対的に対立するものか、それとも調和させることが可能なものか――という問題が大きく浮上してきていました。

 こうした時代背景のもと、スミスは1737年(14歳)に、スコットランド随一の商業都市グラスゴウのグラスゴウ大学へ入学しました。スミスはここで、道徳哲学教授のフランシス・ハチスン(Francis Hutcheson 1694〜1746)に学ぶことになります。当時の道徳哲学とは、狭い意味での倫理学というようなものではなく、人間論を基礎とした社会科学一般といった内容を含んだものでした。ハチスンの道徳哲学は、自然神学(自然の法則性を人間の理性によって把握することで創造主である神の叡智を知ろうとする神学)を基礎にして、道徳感覚の原理(人間には道徳的な善悪を感じ取る感覚が備わっているという論)によって倫理学と法学とを展開していこうとするものでした。スミスは、このハチスンの道徳哲学講義に決定的な影響を受け、自身も独自の道徳哲学体系の構築を志すようになります。

 その頃、道徳哲学者たちに大きな刺激を与えていたのは、前世紀の17世紀末に確立されたニュートンの力学体系でした。これは、万有引力というひとつの基本的な原理によって、天体の運動から地上の物体の運動まで、自然界の諸々の出来事に見事に筋をとおして説明したものでした。人類の認識の発展史という観点からいえば、自然の個々の現象それぞれを神の意志と直結させてしまうような説明では納得できなくなってきて、感覚的・経験的になじみのある、理解しやすい原理であらゆる現象に筋をとおして統一的に説明できるようにしたい、という強い欲求が芽生えてきたことの現れだともいえるでしょう。さらにいえば、目には何も見えないけれども確かに何らかの法則的な力が普遍的に働いているのだ、ということを確信できるだけの認識のレベルに当時の人類は到達したのであって、そうしたレベルを体現していたのがニュートンにほかならない、といえるかもしれません。ここで重要なのは、このニュートン力学が、当時のスコットランドの道徳哲学者たちに、人間がつくる社会の領域についてもニュートン力学のような体系を打ち立てることが可能なのではないか、という意識をもたらしていたことです。端的には、“道徳哲学のニュートンたらん”というのが、スコットランド啓蒙の道徳哲学者たちの共通の野心であった、ということができるのです。このような野心を若きスミスも抱くようになっていったのでした。

 スミスは、1740年(17歳)前後に、イングランドのオックスフォード大学に留学します。しかし、オックスフォード大学はグラスゴウ大学と比して保守的な傾向と停滞した雰囲気をもっていたためにスミスは幻滅し、しだいに充実した蔵書数を誇る図書館に逃避して、プラトンやアリストテレスなど、古代ギリシャの文献に読み耽るようになっていきました。こうしたなかでスミスは、同郷(スコットランド)の先輩にあたるデイヴィッド・ヒューム(David Hume 1711〜1776)の『人間本性論』(A Treatise of Human Nature 1739)を読むことになったのです。

 ここでヒュームは、因果律(原因と結果のつながり)は世界に客観的に存在するものではなくて、主観的な信念にすぎない、という議論を展開していました。すなわち、人間がある出来事の次に別の出来事が起きるという経験をくり返すなかで、前者を原因と名づけ後者を結果と名づけるようになるだけであり、客観的な世界のなかには2つの出来事のつながりなど発見できない(原因と結果のつながりは人間の心のなか〔主観〕だけにあり、現実の世界〔客観〕には存在しない)、というわけです。こうしたヒュームの議論は、自然科学的な認識の確実性(客観的な世界のあり方を正しく認識できるはず!)に大きな疑問を呈するものにほかなりませんでした。恩師ハチスンの道徳哲学講義に決定的な影響を受け、自身も独自の道徳哲学体系の構築を志すようになっていたスミスにとって、科学的認識の確実性を否定してしまうかのようなヒュームの議論は、大きな不安を抱かせるものであったことは想像に難くありません。

 スミスは、この不安を何とか解消しようとして、古代ギリシャからニュートン力学の形成に至るまで、人類がどのようにして自然にかんする科学的認識を発展させてきたのか、その歴史的な歩みを究明してみようと思い立ったものと推測されます。学問への道を歩みはじめたばかりの青年スミスは、みずからの学問への道を確かなものにするために、自然科学的認識の確実性そのものを検討して確認しておく必要に迫られたわけです。こうした思索が結実したのが、1748年(スミス25歳)前後にまとめられたと考えられる「哲学的研究を導き指導する諸原理」(The Principles which Lead and Direct Philosophical Enquiries)という共通タイトルを冠された3つの論文(「――天文学の歴史による例証」「――古代自然学の歴史による例証」「――古代論理学と古代形而上学の歴史による例証」)です。それでは、これら3つの論文では、どのような論が展開されているのでしょうか?

 これら3論文では、哲学が「自然の結合諸原理の科学」(「天文学の歴史による例証」)、あるいは「世界で生じるさまざまな変化のすべてを結合しようと努力する科学」(「古代論理学と古代形而上学の歴史による例証」)であると定義され、その出発点が驚駭(*)という感情にあることが論じられています。つまり、新奇の現象、あるいは、通常ではありえないような事物・事象のつながりに出会ったときに抱かれることになる「どうしてこんなところにこんなものが!?」という驚きの念こそが、哲学の出発点にほかならないのだ、ということです。

 もう少し詳しくみてみることにしましょう。スミスは、2つの出来事の連続がくり返し観察されるならば、それらは空想(fancy)において結合される(観念連合が形成される)ようになり、一方の観念から他方の観念へと想像力がなめらかに移行するようになる、といいます。しかし、諸現象が習慣的な連関とまったく異なる順序で現れるならば、想像力は先行する現象から後続する現象へ、なめらかに移行することはできません。スミスによれば、哲学とは、こうしたバラバラな諸現象を媒介する「中間的諸事象という結合の鎖」を想定することで想像力のなめらかな移行を可能にし、対象の不可解さから生ずる不安を解消しようと努力するところから生じたものにほかならないのです。まさに「哲学は、想像力に語りかける学芸のひとつ」(「天文学の歴史による例証」)だというわけです。

 スミスは、こうした哲学の性格を確認するために、古代ギリシャ以降、天体現象を統一的に説明するために様々な「体系(system)」が模索されてきたこと、より具体的には、太陽の運動、月の運動、星の運動というバラバラな天体諸現象を統一的に説明するための「中間的諸事象の鎖」が様々に想定されてきたことを論じています。スミスは、天文学の歴史をざっと概観することによって、既存の「体系(system)」では説明できない新奇の現象――例えば、恒星の規則的な運動とは大きく異なる惑星の一見不規則な運動――に直面させられたとき、既知の現象と新奇の現象とを結びつけて統一的に説明できるような新しい結合原理にもとづく新しい「体系(system)」が構築されていくという過程が繰り返されることによって、人間が天体現象についての認識を段々と深めていったことを明らかにしたのでした。

 ようするに、人間は、新奇の現象に出会ったことから生じる不安を鎮めるために、想像力を使って新奇の現象と既知の現象とをつなげて理解できるような何らかの結合原理を創り出そうとするのですが、バラバラな諸現象が人間のアタマのなかで結合原理を媒介にしてつなげられればそれで終わり、ということではありません(この点が、心のなかにおける諸観念の連合を客観的世界のあり方と切り離して論じたヒュームの議論と決定的に異なります)。その結合原理が妥当なものかどうかは、あくまでも現実の諸現象とつき合わせることによって、検証されていかなければならないのです。仮に、また別な新奇の現象が登場することによって既存の結合原理の不充分さが露呈してしまったならば、より確かな結合原理が想定され新しい体系の構築が模索されていくことになります。人類は、このような過程をくり返すことで、客観的世界に存在する法則性についての認識をより確かなものにしてきたわけです。スミスは、以上のような過程的構造を古代ギリシャ以来の自然哲学(**)の発展史からあきらかにすることによって、人間の認識が客観的世界(自然)の法則性を把握していくことは可能であることを主張したのでした。

 このようにスミスは、ヒュームの因果律批判をきっかけにして、ニュートン力学の形成というひとつの頂点にむかって発展してきた自然哲学(天文学)の歴史を深く突っ込んで追究していきました。ここからスミスは、想像による結合原理の想定と事実によるその検証という科学的認識成立の過程的構造を明確につかむことになりました。若き日のスミスが取り組んだ自然哲学史の研究は、学芸(哲学、文学、詩、修辞など)の哲学的歴史――スミスによる哲学の定義にしたがえば、バラバラな諸現象のすべてをひとつの原理で結合して把握するような歴史のことです――というスミスの学問的構想の一方の大きな柱の発端となるとともに、もう一方の大きな柱となる道徳哲学(社会科学)の構築という課題に向けて、確かな武器となる科学方法論(具体的には結合原理という発想)を提供するものとなったのでした。

(*)原語は wonder であり、通常は「驚異」と訳されていますが、ここではスミスが人類の学問的出発点を問おうとしていたことを重視して、「驚駭」としました。

(**)ここでいう自然哲学(natural philosophy)は、自然科学(natural science)とほぼ同じ意味ですが、自然科学という語は19世紀以降に使われるようになるもので、スミスの時代までは自然哲学という語が普通でした。ニュートンの主著『プリンキピア』の正式名称も『自然哲学の数学的諸原理』です。
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2017年09月27日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(2/13)

(2)スミスはどのような学問体系をつくろうとしていたのか

 前回は、いわゆる市場原理主義的な資本主義経済のあり方を問い直していこうという気運が高まるなかで、市場における自由競争の効用を説いた“経済学の祖”アダム・スミスの倫理学者としての側面、具体的には『国富論』と並ぶスミスの主著である『道徳感情論』が大きな注目を集めるようになってきていることを紹介しました。同時に、こうしたブーム的な動きにおいては、『道徳感情論』が現代の経済情勢、社会情勢にたいしてどういう意義をもっているのかという角度からの踏み込みが浅く、いささか表面的にすぎる受け止めにとどまってしまっていることについても指摘したのでした。それは端的には、『道徳感情論』の内容をエッセイ的な人生論のレベルで捉えてしまう傾向がなくもない、ということです。しかし、本来ならば、『道徳感情論』における人間論および社会的秩序形成論をしっかりと土台に据えてこその『国富論』なのだ、という把握をふまえ、現代の課題に応えうる学問体系の構築に向かっていくことこそが、スミスの遺産を現代に活かしていく道ではないのか、と提起したのでした。

 同時に、逆からいうならば、現代の課題に応えうる学問体系を構築していくためには、スミスの『道徳感情論』と『国富論』とを一体のものとして捉えていくという作業が絶対に欠かせないのだ、ということが強調されなければなりません。現代においては、社会科学が諸々の領域へと細分化してしまい、社会をまるごと一個のまとまりとして、統一的に把握する視点が失われてしまっています。それだけに、この失われてしまった視点を取り戻すためにも、社会科学の諸領域を未分化なままに内包しているスミスの理論の全体像から学んでいくことが、決定的に重要な意味をもっているのです。

 それでは、そのスミスの理論の全体像とはどのようなものだったのでしょうか? その全体像をつかんでいくためには、どのようにすればよいのでしょうか?

 スミスが生前に出版した著作は、『道徳感情論』(第1版の出版は1759年、スミス36歳のとき)と『国富論』(第1版の出版は1776年、スミス53歳のとき)のわずか2冊だけでした。しかし、これらの著作は、スミスの幅広い視野と深い教養に支えられたものであり、狭い意味での倫理学の書や経済学の書というより、社会科学一般の書といっても過言ではないような内容の豊かさをもっています。スミスは生涯にわたってこれらの著作の改訂をくり返し、彫琢を重ねていったのでした。こうしたことからすると、スミスの理論の全体像をつかむためには、ただこの2つの著作だけを徹底して読み込んでいけばよい、ということになりそうです。
しかし、ここで注目しなければならないのは、死を目前にしたスミスが、友人たちに「これだけしかできなかった」「しかし、もっとやるつもりだったのですよ、私の原稿のなかには、いろいろ利用することのできる材料があるが、今となってはそれも問題になりませんね」という無念の思いを漏らした、と伝えられていることです(*)。ここから、スミスには残念ながら未完に終わったけれども壮大な学問的な構想があり、『道徳感情論』も『国富論』もそのごく一部として位置づけられるものにすぎなかったのではないか、と推測されるのです。

 それでは、未完に終わった壮大な学問的な構想とは、いったいどのようなものだったのでしょうか? そのヒントになる文言が1785年(スミス62歳のとき)、ラ・ロシュフーコーに宛てた手紙のなかにあります。この手紙のなかでスミスは「文学、哲学、詩、修辞(eloquence)などのさまざまな分野すべてにかんする哲学的歴史」および「法と統治の理論と歴史」にかかわる著作を計画していると述べているのです(このうち後者については『道徳感情論』の末尾においても言及されています)。前者は、いわゆる学芸(学問および芸術一般)の歴史について筋のとおった形で把握していこうとするものであり、後者は、社会の歴史について法的な規範という側面に焦点を当てながら把握していこうとするものだということができます。

 ここから、スミスの抱いていた学問的構想について次のようにいうことができるでしょう。すなわち、スミスは、人間どうしが集まってつくりあげている社会と、人間が他の人間とのかかわりのなかでつくりあげていく文化(学問や芸術)について、それぞれの歴史的な発展過程を視野に入れつつ、筋をとおして把握していくことを志していたのではないか、ということです。

 それでは、こうした壮大な学問体系の構想において、『道徳感情論』や『国富論』として結実することなく残された部分について、スミス自身はどのような内容を想定していたのでしょうか? このことについては、スミスの遺稿集『哲学論文集』や、グラスゴウ大学(スミスはグラスゴウ大学の道徳哲学の教授でした)でスミスの講義を受講した学生のノートから、おおよその推測をおこなうことができます。

 まず、遺稿集『哲学論文集』についてみてみましょう。スミスは死の1週間前、遺稿管理人に指定していた2人の親友――ジョセフ・ブラック(二酸化炭素の発見者として知られる化学者)とジェイムズ・ハットン(火成論で知られる地質学者)――のどちらかに依頼して、出版に値すると考えたいくつかの論文をのぞくすべての草稿を焼却処分したといわれています。幸いにして焼却を免れて遺された論文は、スミスの死後、ブラックとハットンの編集によって『哲学論文集』として出版されることになりました。これには、以下の論考が収録されています。

・「哲学的研究を導き指導する諸原理――天文学の歴史による例証」(天文学史)
・「哲学的研究を導き指導する諸原理――古代自然学の歴史による例証」
・「哲学的研究を導き指導する諸原理――古代論理学と古代形而上学の歴史による例証」
・「いわゆる模倣技術〔芸術〕において生じる模倣の性質について」
・「音楽と舞踊と詩との類似性について」
・「イギリスとイタリアの韻文の類似性について」
・「外部感覚について」(外部感覚論)

 このように、『哲学論文集』には、哲学史や芸術論にかかわる論文が多く収録されています。これらは、「文学、哲学、詩、修辞などのさまざまな分野すべてについての哲学的歴史」を準備するための労作であったと推測することができるでしょう。また、「外部感覚論」は、人間の5つの感覚(触覚、視覚、聴覚、味覚、臭覚)について当時の生物学の研究の成果も踏まえて検討したもので、スミスが生物学にも強い関心を抱いていたことがうかがえるものです。

 このほか、グラスゴウ大学での講義について、学生のノートにもとづいて編集・出版されたものとして、以下の2つがあります。

・『法学講義』
・『文学・修辞学講義』

 このうち、『法学講義』には、講義内容が詳細に記録された「Aノート」(1958年発見)と、講義内容が簡潔に整理された「Bノート」(1876年発見)の2種類があります。これは、スミスがやり残した2つの大きな仕事との関連でいえば、いうまでもなく「法と統治の理論と歴史」のほうにかかわるものです。この『法学講義』では、人類社会の発展過程が4つの段階(狩猟→牧畜→農耕→商業)に分けて捉えられ、正義の徳(『道徳感情論』において権力によって強制されうる唯一の徳とされたもの)が確立していく過程が論じられています。注目されるのは、この『法学講義』のなかに『国富論』に相当する内容が生活行政(police)論として含まれていることです。ここから、スミスの学問的構想においては、『国富論』は決して純粋な経済学の本として位置づけられるものではなく、商業社会の段階における社会(市場)と政府のあり方を論じたものとして、あくまでも法学の一部門に位置づけられるべきものであったことを確認することができるのです。

 一方の『文学・修辞学講義』(1958年発見)は、スミスがやり残した2つの大きな仕事との関連でいえば、「文学、哲学、詩、修辞などの種々の分野すべてにかんする哲学的歴史」のほうにかかわるものとみて間違いないでしょう。この講義は、適切な言語表現とはそもそもどのようなものであるのかという問題を究明したものですが、ここでも、聞き手・読み手の共感を獲得するものこそがよい言語表現だ、という観点から、『道徳感情論』で展開された共感の原理が大きな役割を果たすことになります。

 このようにみてくると、『道徳感情論』も『国富論』も、スミスが構想していた壮大な学問体系のごく一部を占めるものにすぎないことはあきらかでしょう。スミスは、人間にかかわるあらゆる問題に関心をもち、天文学や生物学など自然科学の成果にも学びながら、国家社会(法的な規範によって統括された共同体)および文化(学問および芸術一般)のそれぞれについて、歴史的な発展過程を視野に入れつつ体系的に把握することをめざしていたのです。

 そもそも哲学というのは、この世界全体をまるごと対象にして筋をとおして把握しようとする学問を意味するものですが、スミスの抱いていた学問的構想は、この言葉の厳密な意味において、哲学体系といってもよいほどの壮大さをもっていたといえます。『国富論』を著したことにより、一般には“経済学の祖”として知られているスミスですが、決して単なる経済学者として片づけてよい存在ではありません。『道徳感情論』をも含めて、社会科学者として捉えてみたとしても、まだまだ不十分です。アダム・スミスはあくまでも、この世界全体を視野に入れて人間にかかわるあらゆる問題を解こうとした哲学者として評価されなければならない存在なのです。

 それだけに、スミスが遺してくれた『道徳感情論』と『国富論』とを統一的に読み解いていくためには、スミスの哲学体系の全体像についておおよそのイメージをもっておくことが、どうしても必要な前提となってくるでしょう。そうでなければ、利己心の原理を説いた『国富論』を共感の原理を説いた『道徳感情論』で補うのだ、といった程度の把握にとどまってしまうことになりかねません。全く別の原理を説いた2つの著作を統一的に把握するということではなくて、スミスが構築しようとした哲学体系の全体像を念頭に置きつつ、『国富論』も『道徳感情論』も、同じ根っこから伸びてきた2つの幹として、捉えていかなければならないのです。

 本稿では、以上のようなことをふまえつつ、現代の課題に応えうる学問体系の構築に向かっていくことこそスミスの遺産を現代に活かしていく道である、というそもそもの問題意識を念頭におきながら、スミスの哲学体系の全体像について、描き出すことを試みてみることにしましょう。

(*)J・レー『アダム・スミス伝』(大内兵衛、大内節子訳、岩波書店)pp.540-541。
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2017年09月26日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(1/13)

(1)『道徳感情論』が注目を集めている

 みなさんは、アダム・スミスという名前を聞いて、どのようなイメージを描くでしょうか? 世間的にもっとも広く通用しているイメージは、『国富論』という経済学の古典の著者であり、市場経済の働きの合理性を主張して経済学という科学を確立した学者、一言でいえば“経済学の祖”というものでしょう。もう少し詳しくいうならば、各個人が自分の利益を追求して自由に行動しても、結局のところ「見えざる手」によって社会全体の利益へと導かれていくのだから、政府は経済活動に恣意的に介入するべきではないと主張したのがアダム・スミスだ、ということになるでしょう。

 アダム・スミスの「見えざる手」という言葉は、現在においては、市場が自動的に最適な資源配分を達成する機能、簡単にいえば市場原理の別名として、広く使われているものです。アダム・スミスといえば、まずこの「見えざる手」という言葉があげられるほどに、アダム・スミスの名前は市場原理と一体のものとして語られてきた歴史があります。とりわけ、1980年代以降、いわゆる新自由主義的な経済政策が全地球規模で推進されていくようになるなかで、さらに市場の機能を否定したソ連・東欧の計画経済が次々と破綻し、中国やベトナムなども市場原理を導入する経済改革を進めていくなかで、スミスは、市場の調整機能の素晴らしさを解明した偉大な経済学者として、あたかも自由な市場経済の守護神であるかのように、大きく持ち上げられていくことになったのでした。

 一方で、新自由主義的な経済政策の推進の果てに世界経済がたどり着いたサブプライム問題やリーマン・ショックが、市場の機能に対する人々の信頼を大きく損ねることになってきたことも見逃すわけにはいきません。個々の経済主体の利己的な行動は、社会全体の利益を増進するどころか、破滅的な結果を招きかねないものなのではないか――このような強い疑念が巻き起こされることにもなってきたのです。

 こうした状況は、アダム・スミスの評価について再検討を迫るものとなりました。『国富論』の著者としてのスミスが市場万能主義の守護神として非難されるようになっていく一方で、こうしたスミス批判の流れに抵抗するような形で、これまで「見えざる手」の論理で利己心を容認した経済学者として一面的に捉えられてきたスミスの、いわば“知られざる側面”として、他者への共感にもとづく道徳の重要性を説いた倫理学者としての側面が強調されていくようになってきたのです。端的には、『国富論』と並ぶスミスのもうひとつの主著というべき『道徳感情論』という本が、世界的に大きな注目を集めるようになってきたのです。

 この日本において、現在の“『道徳感情論』ブーム”とでもいうべき動きをつくる直接のきっかけになったのは、堂目卓生『アダム・スミス――「道徳感情論」と「国富論」の世界』(中公新書)であるといってよいでしょう。これは奇しくも、サブプライム問題の勃発からリーマン・ショックへといたる中間地点ともいうべき2008年3月に出版されたもので、いわゆる市場原理主義的な資本主義経済のあり方を問い直そうという気運に見事ピッタリとはまったものといえます。この本は大きな注目を集め、一般的にはあまり知られていなかったアダム・スミス像を見事に描いたものとして各方面で絶賛され、サントリー学芸賞という権威ある学術賞も受賞しました。わが日本においては、ここから一気に『道徳感情論』への関心が高まることになったといってもよいでしょう。

 2009年6月には、堂目氏の解説を付したスミスの伝記(ジェイムズ・バカン『真説 アダム・スミス その生涯と思想をたどる』日経BP社、翻訳は山岡洋一氏)が出され、2011年12月には、数多くの経済入門書を執筆している木暮太一氏が『いまこそアダム・スミスの話をしよう 目指すべき幸福と道徳と経済学』(マトマ出版)というタイトルの本を出すなど、研究者ではない普通の人々を読者として想定したスミス関連本、それもたんなる経済学者ではなく倫理学者としての側面にも光を当てた本の出版が続きました。『道徳感情論』(原題:The Theory of Moral Sentiments)そのものの邦訳は、長らく米林富男訳(未來社、1969年。タイトルは『道徳情操論』)と水田洋訳(岩波文庫、2003年。もともとは筑摩書房から1973年に出されていたもの)の2種類があるだけでしたが、2013年の6月には講談社学術文庫から高哲男訳が加わり、2014年4月には、日経BPクラシックスより村井章子・北川知子共訳のものが刊行されました。新訳の登場以降も、『アダム・スミス 人間の本質――『道徳感情論』に学ぶよりよい生き方』(小川仁志著、ダイヤモンド社、2014年11月)、『スミス先生の道徳の授業――アダム・スミスが経済学よりも伝えたかったこと』(ラス・ロバーツ著、村井章子訳、日本経済新聞出版社、2016年2月)のように、研究者ではない普通の人々を読者として想定したスミス関連本の出版が続きました。

 それでは、こうしたブーム的な動きのなかでの『道徳感情論』の受け止められ方について、学問的な観点からはどのように評価することができるのでしょうか? 残念ながら、現代の状況において『道徳感情論』がどういう意義をもっているのか、という角度からの踏み込みが浅く、いささか表面的にすぎる受け止めにとどまっているといわざるをえないのです。

 ひとつの例として、“『道徳感情論』ブーム”のきっかけをつくったともいえる堂目卓生『アダム・スミス』(中公新書)をとりあげてみることにしましょう。これは、『道徳感情論』と『国富論』とを統一的に理解するという点で、非常に分かりやすく説かれた良書であることは確かです。筆者も、これから経済学・社会科学を本格的に学んでいこうという若い人たちに、アダム・スミスの思想の全体像をとりあえずつかむために適当な本として、本書を推薦してきました。しかし、本書の結論部分において以下のように説かれていることについては、率直にいって脱力させられてしまいます。

「スミスは、真の幸福は心が平静であることだと信じた。そして、人間が真の幸福を得るためには、それほど多くのものを必要としないと考えた。……多くの人間が陥る本当の不幸は、真の幸福を実現するための手段が手近にあることを忘れ、遠くにある富や地位や名誉に心を奪われ、静座し満足しているべきときに動くことにある。……諸個人の間に配分される幸運と不運は、人間の力の及ぶ事柄ではない。私たちは、受けるに値しない幸運と受けるに値しない不運を受け取るしかない存在なのだ。そうであるならば、私たちは、幸運の中で傲慢になることなく、また不運の中で絶望することなく、自分を平静な状態に引き戻してくれる強さが自分の中にあることを信じて生きていかなければならない。私は、スミスが到達したこのような境地こそ、現代の私たちひとりひとりに遺されたもっとも貴重な財産であると思う。」(堂目卓生『アダム・スミス』中公新書、pp.284〜285)


 読んでもらえればあきらかなように、ここでは、人間の幸福はほどほどの現状に満足しようとする心の平静さにこそあると提示してくれたことこそスミスのもっとも重要な遺産である、とまとめられています。確かにスミスは、『道徳感情論』のある部分において――貧困が不幸をもたらすとはいっても、富や地位や名誉があればあるほど幸福になるとも限らない、ということを指摘する文脈のなかで――そういう趣旨のことを語ってはいますし、こうした考え方そのものは、含蓄に富んだものであるといってよいでしょう。しかし、このような主張こそがアダム・スミスのもっとも貴重な財産だ、という見方は果たして妥当なものといえるのでしょうか?

 心の平静さこそが幸福であるというのは、まさにブッダの悟りの境地のようなもので、学問の歴史上の偉人であるスミスの「もっとも貴重な遺産」が、偉大なる宗教家の遺産とほとんど同じようなものとして語られていることに、率直にいって違和感を覚えずにはいられません。

 本稿でも後ほど詳しく解説しますが、『道徳感情論』は、利己的な存在である人間が他人と協調しながら安定的な社会の秩序をつくっていけるのはなぜなのかという問題を、理論的に徹底的に突き詰めて考察したものであり、『国富論』において、個々の経済主体の自由な行動をつうじて国家社会全体の富裕がどのように実現されていくのか、という問題についての考察を展開していくための確かな土台となったものです。堂目氏は、スミスのこうした思索の流れを一応はたどっているのですが、結論として、スミスの「もっとも貴重な遺産」を、社会の諸問題を解決する指針となる理論を構築しようと苦闘した学者としての側面ではなく、人間にとっての幸福は心の平静さにあるという「境地」に到達した思想家としての側面に見出そうとしてしまうのです。

 こうなると、『道徳感情論』がエッセイ的な人生論のレベルで捉えられてしまうことにもなりかねません。スミスのこういう「境地」をことさらに強調するならば、結局のところ、現代の資本主義経済が陥っている危機を打開していくためには、私たち一人ひとりが富や地位を闇雲に追求しないように心のありようを変えるしかないのだ、という結論にもつながっていくでしょう。しかし、心の平静さが重要であることをいくら力説しても、それだけでは、現在の混迷した資本主義経済の状況を打開していく上で何の力にもなりません。私たちの心のありようは、あくまでも社会的な関係のなかでつくられていくものです。そうであるならば、学問的な観点から何よりもまず問題にするべきなのは、私たちを否応なしに富や地位の獲得をめざした競争へと駆り立ててしまう社会のあり方であるといえるでしょう。偉大なる学者であったアダム・スミスが現代の私たちに残してくれた遺産は、あくまでも、こうした学問的な姿勢の面にこそ、求められるべきものです。よりハッキリといえば、当時の社会が抱えていた諸々の問題を理論的に解決しようと挑んでいったスミスの姿勢に学びながら、私たち自身が、現代の課題に応えられるような学問体系の構築に向かっていくことこそ、スミスの遺産を現代に活かしていく道なのです。
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2017年09月25日

掲載予告:経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(全13回)

 本ブログでは、明日より「経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス」と題した論稿を掲載していくことにします(全13回予定)。本稿は、2013年09月に掲載した「アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う」の増補改訂版です。

 サブプライム危機やリーマンショック以降、いわゆる市場原理主義的な経済のあり方への疑問が高まるにつれて、これまで自由な市場経済の守護神であるかのようにいわれてきたアダム・スミスの、いわば“知られざる側面”として、道徳の重要性を説いた倫理学者としての側面が強調されていくようになり、『国富論』と並ぶ主著である『道徳感情論』が大きな注目を集めるようになってきました。『道徳感情論』の相次ぐ新訳の登場は、こうした“『道徳感情論』ブーム”を象徴的に示すものにほかなりません。

 しかし、こうしたブーム的な動きにおいては、『道徳感情論』が現代の経済情勢にたいしてどういう意義をもっているのかという角度からの踏み込みが浅く、いささか表面的にすぎる受け止めにとどまってしまっている(『道徳感情論』の内容をエッセイ的な人生論のレベルで捉えられてしまっている)きらいがあります。しかし、本来ならば、『道徳感情論』における人間論および社会的秩序形成論をしっかりと土台に据えてこその『国富論』なのだ、という把握をふまえ、現代社会の課題に応えうる学問体系の構築に向かっていくことこそが、スミスの遺産を現代に活かしていく道なのです。

 本稿では、このような問題意識にもとづいて、『道徳感情論』と『国富論』という2大著作だけにとどまらないスミスの学問的構想(哲学体系)の全体像について、描き出すことを試みていきます。


 以下、目次(予定)です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(全13回)

〈目次〉

はじめに
(1)『道徳感情論』が注目を集めている
(2)スミスはどのような学問体系をつくろうとしていたのか

1、道徳哲学体系の前提としての自然哲学
(3)「天文学史」――自然哲学史の総括による科学方法論の獲得
(4)「自然神学」――自然哲学と道徳哲学はどのように媒介されるか
(5)「外部感覚論」――人間観の生物学的基礎を問う

2、社会の諸問題について歴史的な発展過程を視野に入れて解く
(6)『道徳感情論』――道徳哲学体系の土台としての共感原理
(7)『法学講義』――共感の原理を社会の歴史的現実に適用する
(8)『国富論』――社会の完成形態としての商業社会の究明

3、学問・芸術の歴史的発展過程の究明へ
(9)「哲学的研究を導き指導する諸原理」――感情および想像力に着目した学問論
(10)「模倣技術〔芸術〕論」――芸術の価値の源泉を問う
(11)『修辞学・文学講義』――人間と人間とをつなぐ言語への関心

まとめ
(12)スミスは具体的な社会問題を世界全体から解こうとした
(13)哲学的な把握を志向する精神こそスミス最大の遺産である
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2017年06月05日

マルクス思想の原点を問う(5/5)

(5)マルクスはヘーゲルの自由論の延長線上に普遍的な人間解放を構想した

 本稿は、ロシア革命から100年という記念の年にあたって、20世紀に現に存在したスターリン的な「社会主義」体制にとらわれることなく、19世紀半ばに若きマルクスがヘーゲル哲学を踏まえつつ当時のヨーロッパ社会の現実と対峙しながらつくりあげた思想とはそもそもどのようなものであったのかを問うことから、資本主義をのりこえる新たな社会の構想をつかみとっていく必要があるのではないか、という問題意識を踏まえつつ、若きマルクスの思想形成の画期となった「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」『経済学・哲学草稿』という3つの文献をとりあげ、マルクス思想の原点について明らかにしようとするものでした。

 ここで、これまでに説いてきた流れを簡単に振り返っておくことにしましょう。

 まず、マルクスが1844年に『独仏年誌』という雑誌に掲載した2つの論文――「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」――を取り上げました。「ユダヤ人問題によせて」では、近代における政治的国家と市民社会の分裂に応じて同一の人間が公人(公民)と私人とに分裂してしまうこと、すなわち、類的存在(共同体の一員として、お互いに助け合うような存在)としての側面は抽象化され国家に奪われてしまうことで市民社会における利己的で排他的な個人として存在するしかなくなっていることが論じられていました。マルクスは、市民社会と政治的国家との分裂を解消して、現実的な人間が直接に共同体の一員としてお互いに助け合うような状況をつくることこそが真の人間的解放であると主張したのでした。「ヘーゲル法哲学批判序説」では、市民社会のあり方が踏み込んで検討されることで、市民社会の弊害を完全な形で一身に体現させられているプロレタリアートこそ普遍的な人間解放の担い手であることが見出されたのでした。

 続いて、マルクスが『経済学・哲学草稿』(1844年に書かれた未定稿)において、古典派経済学とヘーゲル哲学とを相互浸透させることで、自らの思想を深く彫琢していこうとしていたことをみました。マルクスは、絶対精神の自己運動として諸々の具体的なものの運動に筋を通していこうとしたヘーゲル哲学を念頭に起きながら、古典派経済学が競争、営業の自由、土地占有の分割を一般的で抽象的な公式として羅列的に捉えるだけで、これらの法則が私有財産の本質からどのような必然性をもって生まれてくるのかを明らかにしようとしてはいない、と批判していたのでした。一方でマルクスは、ヘーゲルが古典派経済学を通じて人間の本質を労働だと捉えきったからこそ絶対精神の自己運動という観点から自己の哲学を構築することができたのだと喝破してもいました。

 しかし、マルクスは、ヘーゲルが労働を人間の本質として捉えたことを高く評価しながらも、「彼は労働の肯定的な側面を見るだけで、その否定的な側面を見ない」と批判してもいました。マルクスは現実社会におけるプロレタリアートの状況を踏まえて、人間の本質たる労働が非人間的なものに貶められ、人間を非人間的な境遇に追い込む力として働いてしまっているという近代市民社会における現実を「疎外された労働」という言葉で表現したのでした。マルクスは、私有財産が「疎外された労働」の必然的な結果として成立しているものであることを確認した上で、私有財産の積極的な止揚によって普遍的な人間解放を実現しようとするものが共産主義である、と結論付けていたのでした。それは、人間が自然の必然性を把握しつつ自然と調和して生きられる社会、人間が他人に抑圧されることなく自由に生きられる社会(各個人が共同体の一員として相互に助け合うような社会)の実現を目指す思想にほかなりません。

 以上でみてきたように、ヘーゲルよりも半世紀ほど後の時代に生きたマルクスは、当時のドイツ社会の現実――資本主義経済の勃興につれて物質的な利害の衝突が生じてきているという現実――と対決しながら、「すべての人間が本来自由である」というヘーゲルの掲げた世界歴史の究極目的を真に実現していく(普遍的な人間解放を実現する)ためにはどうすればよいのかを探究していった結果、市民社会の弊害を完全な形で一身に体現させられているプロレタリアートこそが普遍的な人間解放の担い手とならなければならないこと(労働者の解放が直接に普遍的な人間解放を含むこと)を見出し、さらに「疎外された労働」の必然的な結果として成立させられている私有財産を積極的に止揚することで、人間が自然の必然性を把握しつつ自然と調和して生きられる社会、人間が他人に抑圧されることなく自由に生きられる社会の実現を目指すという共産主義の思想に到達したのでした。端的には、若きマルクスが抱いた共産主義の思想とは、ヘーゲルの自由論の延長線上に、近代市民社会の現実を踏まえながら、普遍的な人間解放を構想したものにほかならなかったのです。

 マルクスの共産主義がヘーゲルからの強烈な影響のもとにあったことを確認するために、唯物史観の定式として非常に有名な『経済学批判』の序言もみておくことにしましょう。

「大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。」(武田隆夫ほか訳『経済学批判』岩波文庫、p.13)


 ここで登場する「アジア的→古代的→封建的→近代ブルジョア的」という流れは、ヘーゲル『歴史哲学』における「東洋世界→ギリシャ世界→ローマ世界→ゲルマン世界」という流れを下敷きにしたものであることは明らかですし、歴史(マルクスにおいては「人間社会の前史」)の到達点を、人間の本性たる自由が全面的に開花する段階としてイメージしたこともヘーゲルと共通しています。この段階について、マルクスとエンゲルスの初期の共著『ドイツ・イデオロギー』では次のように述べられています。

「共同社会においてはじめて、人格的自由が可能になる。共同社会のこれまでの代用物、すなわち国家などにおいては、人格的自由は、支配階級の諸関係のなかで育成された諸個人にとってだけ、そして、彼らがこの階級の諸個人であったかぎりでだけ、存在した。……真の共同社会においては、諸個人は、彼らの連合のなかで、また連合をとおして、同時に彼らの自由を獲得する。」(服部文雄監訳『ドイツ・イデオロギー』新日本出版社、p.85)


 こうした文章からも明らかに確認できる通り、そもそもマルクスが主張した共産主義というものは「各個人の自由な発展が、万人の自由な発展のための条件となる連合体〔Assoziation〕」(『共産党宣言』第2章)を目指すものにほかならなかったのです。

 しかし、革命ロシア=ソ連においては、帝国主義諸国の干渉や国際的孤立という悪条件の下、世界革命を主張するトロツキーが一国社会主義を主張するスターリンに敗れてしまい、個人の自由を徹底して押し潰す異様な専制と抑圧の体制が築かれてしまったのでした。社会主義社会の建設を掲げて出発したはずのソ連が、なぜそのような経過を辿ることになってしまったのかは、別に詳しい検討が必要です(先月発刊された『学城』第15号の村田洋一「ロシアにおける社会主義革命の誤りとは何であったか」はまさにこの問題について考察するものです)が、若きマルクスが構想していた共産主義というものが、ソ連で築かれてしまったような人間抑圧型の社会とは全く異なるものであったことを確認しておくことも重要でしょう。

 資本主義経済の行き詰まりが明瞭になりつつある現在、20世紀に存在したスターリン的な「共産主義」のイメージにとらわれることなく、若きマルクスがヘーゲルの普遍的な人間解放の思想を当時の社会の現実と対決させながら創り上げた共産主義の思想から、資本主義をのりこえる新たな社会の構想についてのヒントをつかみとっていく必要があるといえます。少なくとも、普遍的な人間解放というヘーゲルの掲げた目標を真に社会の現実とするためにはどうすればよいのか、という若きマルクスが抱いた強烈な問題意識を、現代に生きる我々も共有することが求められていることだけは間違いないでしょう。

(了)
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2017年06月04日

マルクス思想の原点を問う(4/5)

(4)私有財産の積極的止揚としての共産主義

 前回は、マルクスが『経済学・哲学草稿』において、古典派経済学とヘーゲル哲学とを相互浸透させることで、自らの思想を深く彫琢していこうとしていたことをみました。マルクスは、古典派経済学が競争、営業の自由、土地占有の分割を一般的で抽象的な公式として羅列的に捉えるだけで、これらの法則が私有財産の本質からどのような必然性をもって生まれてくるのかを明らかにしようとしてはいない、と批判していました。これは、絶対精神の自己運動として諸々の具体的なものの運動に筋を通していこうとしたヘーゲル哲学を踏まえたものにほかなりません。このように、若きマルクスは、古典派経済学の限界を突破するためにヘーゲル哲学を武器として使っていこうとしていたのでした。一方で、マルクスが古典派経済学の観点からヘーゲル哲学を読み込んでいることも確認しました。ヘーゲルが古典派経済学を通じて人間の本質を労働だと捉えきったからこそ、絶対精神の自己運動という観点から自己の哲学を構築することができたのだと、マルクスは喝破していたのでした。

 しかし、マルクスは、ヘーゲルが労働を人間の本質として捉えたことを高く評価しながらも、「彼は労働の肯定的な側面を見るだけで、その否定的な側面を見ない」と批判してもいました。この問題は、私有財産の本質という問題とも直接に重なるものです。端的には、マルクス思想の核心ともいうべき「疎外された労働」という概念がここに関わってくるのです。

 そもそも疎外というのは、ごく簡単にいうならば、人間の創り出したものが人間から独立した外的な存在として人間を規定してくることです。この疎外の概念は、マルクスがヘーゲルから受け継いだものです。しかし、ヘーゲル自身がもっぱら肯定的な意味合いで使っていたのに対して、マルクスは現実社会におけるプロレタリアートの状況を踏まえて、もっぱら否定的な側面を強調しました。「疎外された労働」というのは、端的にいえば、人間の本質たる労働が非人間的なものに貶められ、人間を非人間的な境遇に追い込む力として働いてしまっているという近代市民社会における現実を捉えた表現であるといえるでしょう。

 マルクスは、この「疎外された労働」を大きく3つの側面に分けて論じています。

 第一は、労働者の労働生産物からの疎外です。これは、ごく簡単にいえば、労働者が生産したものが労働者のものでなくなってしまう(資本家のものになってしまう)、ということです。

 第二は、労働者の労働行為そのものからの疎外です。これはごく簡単にいえば、労働は本来、創造的な喜びに溢れた行為であるはずなのに、非創造的な単純化された面白くもない行為を強制させられるものになってしまっている、ということです。

 第三は、人間の類からの疎外です。「類」というのは分かりにくい表現ですが、前々回「ユダヤ人問題によせて」を取り上げたときにも「類的存在」という表現が登場していました。類的存在あるいは類的生活というのは、人間の本来的なあり方、人間は本来こうあるべきものというイメージを含むものです。動物は自然に与えられたものを消費するだけですが、人間は自然に能動的に働きかけて生活に必要なものを創りだし、活動を相互に交換し合いながら、文化を発展させていきます。協働を通じて物質的のみならず精神的にも豊かな生活を生産していくわけで、それが本来あるべき人間的なあり方だといえます。ところが、近代市民社会においては、労働すればするほどそういう人間的なあり方からかけ離れた状況に陥っていく、ということになります。このことが類的生活からの疎外という言葉で表現されているわけです。

 このように論じたマルクスは「私有財産は、外化された労働の、すなわち自然や自分自身に対する労働者の外的関係の、産物であり、成果であり、必然的帰結である」(同、p.102)、「労賃は疎外された労働の直接の結果であり、そして疎外された労働は私有財産の直接の原因である」(同、p.104)と結論付けています。「疎外された労働」(他人の儲けのために面白くもない労働を強制され、労働生産物は資本家のものになってしまう)の必然的な結果として私有財産が成立しているのだ、というわけです。この結論を踏まえて、マルクスは普遍的な人間解放について次のように語っています。

「私有財産に対する疎外された労働の関係から、さらに結果として生じてくるのは、私有財産などからの、隷属状態からの、社会の解放が、労働者の解放という政治的なかたちで表明されているということである。そこでは労働者の解放だけが問題になっているように見えるのであるが、そうではなく、むしろ労働者の解放のなかにこそ一般的人間的な解放が含まれているからなのである。」(城塚登、田中吉六訳『経済学・哲学草稿』岩波文庫、p.104)


 労働者の解放は単に労働者だけの解放ではなくて、労働者の解放のなかにこそ一般的人間的な解放が含まれているのだ、というわけです。これは、前々回取り上げた「ヘーゲル法哲学批判序説」の結論――市民社会の弊害を完全な形で一身に体現させられているプロレタリアートこそが普遍的な人間解放の担い手となりうるのだ――を繰り返したものだといえます。ただし、この『経済学・哲学草稿』においては、古典派経済学とヘーゲル哲学とを相互浸透させることで獲得された「疎外された労働」=私有財産という概念を媒介とすることで、この結論がよりいっそう深められた形で、力強く宣言されることになったのだということができるでしょう。

 マルクスは、労働者の解放を通じての普遍的な人間解放こそが真の共産主義である、と主張しました(当時あった諸々の共産主義的思想に対抗して、です)。マルクスは自身が主張する共産主義について、次のように特徴付けます。

「人間の自己疎外としての私有財産の積極的止揚としての共産主義、それゆえにまた人間による人間のための人間的本質の現実的な獲得としての共産主義。それゆえに、社会的すなわち人間的な人間としての人間の、意識的に生まれてきた、またいままでの発展の内部で生まれてきた完全な自己還帰としての共産主義。この共産主義は完成した自然主義として=人間主義であり、完成した人間主義として=自然主義である。それは人間と自然とのあいだの、また人間と人間とのあいだの抗争の真実の解決であり、現実的存在と本質との、対象化と自己確認との、自由と必然との、個と類とのあいだの争いの真の解決である。それは歴史の謎が解かれたものであり、自分をこの解決として自覚している。」(同、pp.130−131)


 つまり、マルクスのいわゆる共産主義とは、人間が自然の必然性を把握しつつ自然と調和して生きられる社会、人間が他人に抑圧されることなく自由に生きられる社会(各個人が共同体の一員として相互に助け合うような社会)のことであって、そうした社会の実現こそが歴史の目指すところであるという把握があったわけです。これは、「共産主義」という言葉を省いて考えるならば、ヘーゲルが歴史の到達点として描いていることそのままであるといえるでしょう。マルクスは、ヘーゲルが描いた歴史の到達点について、「私有財産の積極的止揚」(社会的生産のための手段が資本家によって私的に所有され個人的な利益のために動かされているという状況を打破して、直接に社会全体の共同の利益のために動かせるようにする)という契機を媒介にすることで、共産主義という言葉で表現するようになったのだ、ということができます。

 ここでマルクスが描いているのは、非常に漠然とした理想でしかないというほかありませんが、若きマルクスが構想していた共産主義というものが、ソ連で築かれてしまったような人間抑圧型の社会とは全く異なるものであったことは、明確に確認することができるでしょう。
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 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて