2017年11月17日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(5/5)

(5)現在とこれから

 大学院修了後、私は幸運にも、とある精神科病院の常勤職員として採用された。臨床心理士を目指す者、あるいは臨床心理士資格を有している者でも、なかなか常勤の口がないため、非常勤で生活していくのがこの世界の常識である。ところが私は、ゼミの先生(精神科医)のつながりで、この病院に紹介してもらえたのであった。私のゼミの先生は、大学院入学前の、素人であった私が調べてもひっかかるくらいの著名人で、認知行動療法の第一人者であったから、その先生のゼミ生となると、ほとんど顔パスのようなものであった。またこれと関連するが、私が認知行動療法を勉強していたこともよかった。認知行動療法はうつ病や不安障害などに対して、比較的短期に顕著な効果がある心理療法として知られていて、患者さんからのニーズも高くなってきていたころだから、その認知行動療法の専門家であれば採用しようということになったのである。

 このような形で、いわば偶然入職することになった病院であったが、この病院は非常に恵まれていた。最初の数年間は、かなりの数の研修に、出張という形で出してもらえた。当時は、京都周辺に認知行動療法の事例検討会が3種類ほどあり、毎月、3つの事例検討会全てに参加していた。事例検討会だけではなく、認知行動療法の研修会も、希望したものはほとんど出ることができた。中には東京で行なわれる研修会や学会もあり、それらにも毎年のように参加して、認知行動療法の研鑽に励んだ。

 入職したころの出来事で覚えているものがある。とある事例検討会に参加した後、近くのラーメン屋でその事例検討会を主催されている先生と2人でラーメンを食べていた。その先生は、「認知行動療法をやっている人はあまりいないから、○○さん(私のこと)もすぐにベテランになれるよ」とおっしゃったのである。またこの先生は、認知行動療法の研修の講師をたくさんされていたので、「私もそういうことを将来的にやっていきたい」というと、「やりはじめると、あの人は研修の講師をする人だと認知されるようになるので、すぐに講師としての仕事が増えていく」とおっしゃった。この先生の予言は、数年ならずして現実のものとなる。

 私が研修の講師を初めて担当したのは、1年目の冬であった。まだまだカウンセリングのケースなど数えるほどしかもっていなかったにも関わらず、私の上司であり、大学院のゼミの先生と知り合いだった精神科医が、とある研究会で認知行動療法の研修講師をするように命じてきたのである。しかし私は、全然嫌ではなかった。むしろ、そういう機会を与えていいただいて感謝の気持ちでいっぱいであった。南郷継正も空手を始めてからすぐに弟子をとり、明日弟子に教えることがないという恐怖を常に感じながら指導していったという。これを確かファーブルから学んだと、どこかに書いてあった。私も、自分のカウンセリング・心理療法の実力を向上させていくためには、教えながら学び、学びながら教えるというようなファーブル式のやり方が一番確実だと思っていたので、研修の講師のような仕事をやりたいと思っていたのである。それに私は、人に教えることが単純に好きであった。これにはもちろん、南郷継正の影響があったことは否定できないが、それに加えて、高校や予備校、それに大学院で教えてくださった先生方の影響もあったと思う。これらの先生のように、本当に教え子の心を動かすような教育がしたいと憧れていたのである。

 初めての研修講師は、それなりに好評だった。ここから同じ研究会での講師を5回ほど行ったが、初回から3年弱が経過したあとの5回目のときには、精神科医である上司から、「本当に分かりやすかった! すばらしい!」と絶賛の言葉をいただいたほどであった。3年目には、大学院時代の指導教員であり、著名な認知行動療法の専門家である精神科医から、一緒に研修会をやろうというお誘いを受けた。これもそれ以来、毎年2〜3回ほどの研修会を、継続的に企画し、講師も担当している。そうこうしているうちに、外部からの研修講師の依頼も入るようになってきた。まさしく、ラーメン屋でいわれた通りの展開になってきたのである。実際、これまで担当した専門家向けの研修講師の回数は、約60回である。ある程度、認知行動療法の研修をする人ということで知られている存在にはなっているのかもしれない。

 研修講師の他にもやりたいと思っていた仕事で、案外早くできるようになったというものがいくつかある。一つは、スーパービジョンである。これはカウンセリングの個別指導のようなものであり、私も大学院のときには、担当したケースについてスーパービジョンを受けていた。今度は私がスーパービジョンを行う仕事がしたかったのである。これも先のファーブル式の勉強法の実践のためであった。3年目になった頃には、スーパービジョンをいずれ行いたいと周囲に公言していた。それから間もなく、実際にスーパービジョンを行うようになったのである。今では、ある大学院の外部スーパーバイザーとして、院生の指導も行っている。

 もう一つ、大学で教えるということも、私のやりたかった仕事である。私は博士号をもっていないので、なかなか難しいと感じていたが、大学の非常勤講師になるという形で、これも意外に早く実現することができた。詳細はここには書かないが、実現できたポイントは、人のつながりである。研修会講師の仕事は、私の上司からの命令が始まりであったし、大学院の外部スーパーバイザーも、直接は私の大学院の先輩に来た依頼であったが、諸々の事情でその先輩は引き受けることができず、私を紹介してくださったのである。そもそも病院に就職できたのも、ゼミの指導教員のつながりがあったからである。このように、仕事においては人と人とのつながりが非常に重要なのだということを最近痛感している。大学の非常勤講師の仕事も、仕事上で付き合いがあった知人からの紹介であった。そして今年、これまた諸々のつながりがあって、他に3つの大学から非常勤講師の依頼があった。これは現在の私にとっては、望外の喜びであった。

 大学の非常勤講師といえば、今年、大学で教えてから電車で帰宅している途中で、懐かしい人2名に立て続けに出会った。一人は、高校時代、一緒に朝練をしていた後輩である。彼とは私の結婚式の時以来、会っていなかったと思う。それが、たまたま帰りの電車で遭遇したのである。もう一人は、塾講師時代の上司(校長)である。これは結婚式どころか、10年以上は会っていなかった。これもたまたま帰りの電車で見かけたので、声をかけたのである。彼の姿は当時と全く変わっていなかった。

 仕事については以上のように、病院で臨床心理士として患者さんに接するだけではなく、研修会講師やスーパーバイザーの仕事、さらに大学での非常勤講師の仕事もするようになったのである。他にも、教育や産業、司法の領域でも臨床活動を行うになっており、また、英書の翻訳や本の執筆の仕事もいただいている。端的にいえば、仕事上は順調そのものであり、最近は特に、これ以上はないくらいに順調である。こういう時こそ、大きな落とし穴が待っているものであるから、気を引き締めているところである。

 病院で働くようになってからも、当然のことながら大学以来の研究会や師が主催するゼミには継続的に参加して、弁証法・認識論の研鑽を続けている。そして、私が病院に入職するのと前後して、京都弁証法認識論研究会のブログも開設し、毎日更新するようになった。ここで私は主に、現在行っているカウンセリングや心理療法など、心理臨床に関わる事実を弁証法・認識論的に捉え返す修練を行っている。これは特に「認識論」のカテゴリーにある論考を読んでいただけば分かるであろう。

 ところで、このように毎日更新しているブログに関しては、どうしても一人の人物を挙げておかねばならない。それは、「心に青雲」というブログを主催されていた玄和会のある支部長である。「心に青雲」は2006年7月ごろに見つけ、それ以来愛読していた。われわれは複数名でブログ記事を書いており、それでも、毎日更新するというのは非常に大変なのであるが、彼は何と、たった一人で毎日ブログ記事を更新し続けていたのである。この事実は、少なくとも私にとっては大きな刺激となった。われわれのブログを毎日更新するための、一つの原動力になったのではないかと思っている。

 彼とはそれなりの回数、メールでやり取りした。これは冗談ではないのだが、私はその素直さと勉強熱心な態度のために、上の方に目をかけていただくことが多いのだが、彼も玄和会の外部にいた私に目をかけてくださった。こっそりと、いろいろな情報を教えてもらった。そのような個人的なやり取りがあったからか、彼のブログの記事についても、それほどひどいことが書いてあるとは思えなかった。京都に来られた時には、確か2回ほどお会いしたこともある。その時彼は、「場を支配するのだ!」ということを強調されていた。その時以来、「場を支配する」というのは、いつも私の頭の片隅にあって、私を動かす言葉になっているような気がする。彼は今年亡くなったそうである。ご冥福をお祈りしたい。

 プライベートでは、2015年2月に母が亡くなった。乳がんだった。定年退職して間がなく、私たち息子を含めて、人のために尽くしてきた母が、ようやく自分の時間が持てると思ったその時にがんが発覚して、もはや手の施しようがなかった。大した親孝行も恩返しもできなかった。唯一、亡くなる前に私の娘が誕生して、孫の姿を見せられたのはよかったと思っている。そして、私自身は、今後の私の生き様自体が、恩返しになる、そのような生き方をしていかなければならない。

 以上、40歳を迎えて、自身の半生を振り返ってみた。いろいろな思いが去来しているが、まず私の原点を確認することができたと思う。私の原点は、ずばり「無上の知性」である。抽象的な言い方かもしれないが、確か、南郷継正もそういっていたはずだから、これでいいだろう。万能人、学中の学たる哲学を極めた人、世界を掌に乗せる人、場を支配する人、これが私の理想の原点なのである。

 現在の私にまで至る発展の必然性のようなものも見えてきた気がする。端的には、素直な性格であったために、これだと決めたものとの相互浸透によって、私が創られてきたということである。一番強く感じたのは、高校時代の伊藤和夫『英文解釈教室』で英語の力を比較的に伸ばした経験があったからこそ、南郷継正が弁証法の教科書は三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』だけだ、これだけをやればよいと指摘しても、それほど違和感がなく、すんなりと信じることができたのだという点である。本当に優れた人物、そして同じことだが、優れた著作に出会い、その人物や著作と、素直に相互浸透を図ることによって、必然的に今の私が存在するのである。

 優れた教師に出会ったことによって、私自身も優れた教師に憧れ、教えるのが好きになったということも一つの発見であった。そして、教えるからこそ自分の認識の発展も促されるのだということは、近年、強く実感しているところである。ただ、現在までの指導対象としては、塾の生徒や研修会参加者、大学で一年限り教える学生などが主である。本当に自分の実力を発展させるための教育・指導をなすためには、本格的な弟子をとる必要あがる。40歳になったのであるから、20歳以下の鈍才大学生くらいを弟子にとる計画を立てて、実践していかなければならない。

 私の半生を振り返ってみると、それなりに挫折体験もあるものの、それを上回るほどの成功体験も積み重ねていることが分かる。負けず嫌いな性格も相まって、一生懸命努力してきて、それなりの成功体験につながってきたのだから、やればできるという自己効力感のようなものが私の中に育っているのを感じる。そして、これは認識論の基本であるが、われわれ人間は思い描いたことは実現するし、逆に思い描かないと実現しない。私も、英語の実力を向上させる、○○大学に合格する、一流の臨床心理士になる、研修講師をする、大学の講義を担当する、などなど、それらを思い描いてきたからこそ実現できてきたのである。

 では今後、私は何を思い描き、何を実現していくのか。それはやはり、唯物論的な認識論の構築(再措定)である。今行っていることも、全てこの認識論の構築という一大目的に収斂していくことになるはずである。具体的には、先に触れたように若い鈍才的な弟子をとる。これももう思い描いているので、近々実現するはずである。そして、謙虚に文化遺産に学んでいく。たとえば、心理臨床の世界で名人・達人などと呼ばれている臨床家の技は、私が認識論の体系化を試みる際に素材として活用するべきものである。書物として遺されているものも、批判するのは簡単であろうが、その成果を正しく受け継ぎ、アウフヘーベンして自己の体系の中に位置づけていく必要がある。そのためには謙虚に学んでいかなければならない。この点、「心に青雲」の主催者は私の反面教師でもある。

 この謙虚な姿勢にも通じるが、周囲の人間に感謝の気持ちを忘れないようにしたいとも思う。これまでの半生を振り返って、自分は本当にたくさんの方々に支えられて生きてこれたのだ、成長してこれたのだということがしみじみと感じられた。感謝の気持ちが自然と湧いてきた。身近なところでは家族や兄弟、そして研究会仲間や師に対して、職場の上司や部下、患者さんや仕事の関連で付き合いがある人物に対して、大きなところでは私の生活を支えてくれている労働者や私の理想となり私を導いてくださっている三浦つとむ・南郷継正両先生に対して、さらにいえば、これまでの人類の文化遺産を創造してくれた全ての人間に対して、私は感謝の気持ちを忘れないような人間になっていきたい。

 40歳から新たな自分を創り上げる、その覚悟と決意を述べて、私の徒然草を閉じたいと思う。

(了)
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2017年11月16日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(4/5)

(4)本史2

 大学を卒業した私は、塾の講師になった。仕事をしながら一般教養的な内容を学んでいけると思ったからである。それに、教育にも強い関心があった。また、浪人時代の予備校の先生に憧れて、ああいう先生になりたいと思ったことも大きく影響している。ただ、この塾講師になっても、私は挫折してしまう。当初は、中学生や小学生に国語や英語を教える仕事が中心であった。ところが、これまでに触れてきたように、私自身は小学校や中学校では特別に勉強しなくてもテストで100点が取れるような子どもであったため、何が分からないのか、どう教えていいのか、まったくといっていいほど分からずに、授業アンケートでも最低な結果になったのである。これにはショックであった。授業に行くのが恐かった。それでも、先輩の先生方に何とか支えていただき、2年間でそれなりの授業ができるようにはなっていった。

 この頃教えていた小学生で、今思うと明らかに発達障害のある天才児がいた。彼は自分のことを○○マン(○○には苗字が入る)と呼んでいた。○○マンは、本当に勉強がよくできた。彼は進学コースに入っていたのだが、中学生に教える内容よりも難しい内容をすらすら理解しているようであった。というか、彼のような人間にしか理解できないような、小学生には難しすぎる内容を教えるのが進学コースであった(小学生に国文法の助詞や助動詞の意味の識別をさせたりするのである)。発達障害があるからといってからかわれたりいじめられたりすることもなく、逆に、周りの子どもからも非常に個性的な天才児と見なされている様子であった。彼については、その天才ぶりで記憶に残っているだけではない。衝撃的な事実が発覚したことでも鮮明に記憶に残っている。ふつう、苗字に付けた「マン」で「○○マン」といえば、「キン肉マン」とか「スーパーマン」とか、その類のことを連想するのではないだろうか。周囲の人間もだれ一人疑わず、彼がそういうつもりで自分でニックネームをつけているのだと理解していた。ところがある日、彼が一つの絵を描いていたのである。そこには、肉マンやアンマンに並べて、自分の顔の「マン」が描いてあったのである。この時初めて、「マン」の意味が分かったのである。

 さて、3年目からは高校生に英語を教えるようになった。これは非常に楽で、楽しい仕事であった。というのは、私自身、高校時代に英語には散々苦労したし、偏差値30台から70オーバーを実現するほど熱心に勉強したので、どういうところから勉強していけばいいのか、英語が読めるとはどのようなことなのか、どうすれば読めるようになるのか、英文法の基本とは何か、どのように筋を通せば理解しやすいのか、などということが、手にとるように分かっていたからである。高校生に英語を教えたのは3年間ほどであったが、この間、自分自身も英語を勉強して、自分の頭の中もさらに整理されていったと思う。

 さて、私は働き始めてからも、弁証法・認識論の勉強はもちろん続けていた。大学時代に立ち上げた研究会は、働き始めてからも月一で開催していた。師が主催するゼミ合宿にも継続的に参加していた。このゼミ合宿の中で、師は「学問を志すなら、若い頃に最低でも修士号を取っておいた方がよい。私は取らずに後悔しているところもあるから」とおっしゃった。私はその頃ぼんやりと、何年か働いてお金を貯めたら、大学院に行こうと思っていたが、その思いが師の言葉で強くなっていった。

 初めは教育に関心があったので、出身大学の教育学研究科に進学することを考えた。これなら、私の真の専門と定めている認識論の研鑽になるだろうという見込みがあった。しかしある時、とある本を読んでいると、法律の専門家が弁護士であるように、心理の専門家である臨床心理士という資格があることを知った。いや、存在自体は知っていたかもしれないが、それほど意識していなかったのは確かである。弁護士と並べられる資格であれば、それ相応の専門性があるだろう。カウンセリングや心理検査を通じて、心の悩みを抱える方々に関わっていくのは、認識論の研鑽としての十分に意義があることに違いない。そう考えて、私は臨床心理士を目指すことにした。

 ただ、臨床心理士になるには、指定されている特定の大学院を修了する必要がある。大学では、哲学系が専門だったので、臨床心理学となると畑違いであり、いきなり大学院を目指すのは無謀なのではないか。それなら、学部の3回生に編入して、2年間、学部で臨床心理学を学び、それから大学院に進むことも考えられる。そちらの方が無難だろう。そのような思いに傾きつつ、そのころ小論文の書き方でお世話になっていた予備校の先生に相談した(この先生は確か当時、大学の非常勤講師をされていたはずである)。するとその先生は、「絶対に直接大学院にチャレンジするべきだ。学部ではほとんど何も学べない。時間がもったいない」と教えてくださった。そこで私は、直接大学院入試にチャレンジすることにしたのである。すぐ後に判明することであるが、この先生の助言はまさしくその通りであった。本当に学部編入などという妙な回り道をとらずによかったと思う。

 次に問題になったのは、どこの大学院を受けるか、ということであった。いろいろ調べていくうちに、最近は認知行動療法というのが流行っており、これは、ものごとの受け止め方によって気分が変わってくるので、受け止め方(認知)を変えることによって、気分をコントロールすることができる、というようなものだと知った。三浦つとむ・南郷継正系列の認識論でいうところの「問いかけ的反映」という論理の一形態であると私には思えたので興味が持てた。そこで、認知行動療法を学べる大学院を探したところ、当時の私の情報収集力では、北海道の私立大学と四国の国立大学しか見つけられなかった。北海道は遠いし私立はお金もかかるので、四国の国立大学の大学院を受験することにした。

 臨床心理士になろうと志してからは、ぽつぽつ、臨床心理学の勉強を始めていたが、本格的に始めたのは大学院入試の3か月ほど前からである。この頃に購入したのが、臨床心理士指定大学院の学生は必携とされていた『心理臨床大事典』(培風館)である。これこそ、学部時代に大学生協の書店で、女性の知人が購入しようとしていた書籍だったのである。彼女もまた臨床心理士を目指していたのであり、私が臨床心理士を目指していたこの頃は、すでに臨床心理士の資格を取って、大学の博士課程に在籍していた。この頃、一度だけあって、大学受験のアドバイスをいただいた。あれこれ思案して、結局私が採用した勉強方法は以下である。すなわち、まず、『試験にでる心理学』シリーズ(北大路書房)などを参考にして、コンパクトな基本書を設定し、その内容をマインドマップにまとめたりしながら、目次を見てその中身を自分で自分に講義する「自己講義法」を実践する。すぐ後で触れるが、そのころ弟と一緒にジョギングをする機会が多かったので、走りながら弟に実際に講義したりもした。そういえば、弟とは、南郷継正が推奨していた灼熱のアスファルトの上を裸足で歩くという運動も一緒に行っていた。この時も歩きながら、臨床心理学の全体像などを講義していたものである。灼熱のアスファルトの上を裸足で歩くという運動が、頭脳活動を活性化したために、いつも以上に効率の良い学習になったのかもしれない。もちろん、基本書で創り上げた臨床心理学の全体像に、その他の参考書や用語集を使って肉付けすることも行った。こうして大学院受験を迎えたのである。

 前日は四国入りしていたが、ホテルで一睡もできなかった。緊張していたということはないと思っているのだが、どういうわけか、本当に一睡もできなかったのである。ちなみに、この時泊まったホテルは、学部時代に運転免許をとるために2週間ほど合宿していた場所のすぐ近くで、何か因縁めいたものを感じたものだった。一睡もできなかったが、大学院入試は思ったより簡単で、特に英語などは、辞書を持ち込んでもよかったこともあり、ほぼ満点だったと思う。私の英語読解力で唯一の弱点は英単語力のなさであったが、辞書があったので、その点は全く問題にならなかったのである。結果は合格。3か月に満たない受験勉強で大学院に合格できたことは、私の小さな成功体験の一つであった。

 当時、もう一つの成功体験があった。それはダイエットである。当時私は、塾講師の不規則な勤務形態と暴飲暴食のために、体重がかつてないほど増加していた。具体的には、マックスで75sもあった。見た目もふっくらしている感じである。大学院に入学するにあたり、これでは格好悪い、何とか痩せなくては、と思い、ダイエットを決意したのであった。やったことは単純で、食事量を減らし、ジョギングを始めたのである。ジョギングは、高校時代に朝練を一緒に行っていた後輩にマラソン大会への出場を誘われたのがきっかけで始めた。初めは2q走るのもしんどかったが、徐々に伸ばしていき、5q、10qと走れるようになっていった。一時は、週に3回、10qずつくらい走っていた。みるみる体が軽くなり、ますます走りやすくなっていったのを覚えている。弟が一緒に走ってくれたのもよかった。こうして結局、半年間で12sほどの減量に成功したのであった。

 大学院の入学の直前には、学部時代に熱心に学んだ河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)を久々に読み返して、来るべき学生生活に備えた。そしていよいよ、私の2回目の学生生活が始まったのである。1回目の学生生活が充実しすぎており、思わず通常より1年長く在籍したくらいだから、今回の学生生活に対しても大きな期待があった。初めての一人暮らしも経験した。というのは、学部時代は、双子の兄と一緒に暮らしていたからである。

 大学院に入って特に印象的だったのは、学部時代の学生とは全く種類の違う人々が大半であったということである。すなわち、秀才タイプの人間は、院生にはほとんどおらず(教員にはいたが)、みんな、感性豊かなタイプの人間だったということである。その分、あまり勉強しない人が大半であったともいえる。失礼ながら、このくらいで大学院に合格できるのであれば、生真面目に学部からやり直すなどということをしなくて本当によかったと感じた。しかし、今まで接してきた人間と全く種類の違う院生の中で生活できたのは、両者の比較でそれぞれの特徴が浮き彫りになってきたということもあるし、単純に、それはそれで楽しく有意義であった。

 教員も、学部のころの教員とはかなり違ったタイプの方がおられた。中でも印象的なのが、今はその大学の学長になられている先生である。ふつう、大学の教員というと研究者タイプで、自分の研究していることのごく基本的なことを学生相手にしゃべるのが講義であり、講義(教育)は研究の片手間の仕事、という感じであろう。少なくとも、私が学部でお世話になった○○大学は、そのような感じの教員ばかりであった。ところが、私が行った大学院の教員、中でも現在の学長先生は、まったく逆だった。研究などその頃はほとんどされておらず、講義(教育)に非常に力を入れておられたのである。一流の臨床心理士を育てようと、熱心に取り組まれていた。その熱意に、私は非常に感動した。この先生は実は出身大学が私と同じであり、そのこともあって目をかけてくださったのだと思う。そもそも私は、認知行動療法の先生を求めてこの大学院を選んだのであり、その認知行動療法の先生も予想通り非常に魅力的であったが、この現在の学長先生に出会えたことも非常なる幸運であったといってよい。

 大学院の2年間、私は南郷継正の著作に出てきた弟子のエピソードを見習って、講義内容を全てレポートにまとめ、われわれの師や仲間に送っていた。臨床心理士の指定大学院は、かなりの数の単位を取得する必要がある。同時に大学院に進学した弟などは、週に1回か2回くらい、大学院に行っていただけだったと思うし、それが一般的な大学院生のあり方であろう。ところが、臨床心理士の指定大学院の場合は、必修の講義だけでもかなりの数にのぼり、毎日2〜3コマほどは講義やゼミがあったと思う。これに加えて、学外の学校や福祉施設などでの実習があり、実際のクライエントも担当してカウンセリングを行うようになっていく(さらに、カウンセリング後は、カウンセリングの内容を逐語録におこし、スーパーバイザーの先生に指導を受けることになっていた)ので、なかなかに忙しかった。さらに、私は、近くの大学で行われていた認知行動療法の勉強会にも毎週参加していたし、同じゼミの3人で、認知行動療法の原典を英語で講読する勉強会も行っていた。したがって、学部時代のように自由を謳歌した、という感じではなかった。

 それでも、院生がみんな近くに下宿していたこともあり、よく遊んだものだった。現役の中学校の教員なども多数おられて、年齢の幅がけっこうあった。私はストレートマスター(学部卒業後、そのまま大学院に進学した者)よりは若干年を取っていたが、年齢不詳で通した。ダイエットに成功していたからか、はたまた、この頃とみにかわいさが増してきていたからか、私の人生の中では割とモテた時期だった。現在の妻(といっても、かつての妻がいたわけではないが)は大学院の同期で、大学院時代に付き合いはじめ、修了直前に結婚した。年齢だけではなく、諸々の事情で彼女と付き合っていることも周囲に隠していたため、修了後しばらくしてから結婚式の案内を出した時、みんなは何かのいたずらだと思ったらしい。なぜ年齢等を隠していたのか、今となっては当時の心境を思い出せないが、おそらく、そちらの方が「面白い」と思ったからであろう。何が面白いのか、現在ではよく分からないが。

 修士論文では、認知行動療法に関する研究を行い、それなりのものをまとめた。また、カウンセリングを担当したケースを事例論文としてまとめ、紀要に投稿した。その他、認知行動療法が専門のゼミの先生について、学会の手伝いもしたことがあった。これらの業績が認められ、確か奨学金の半分が返済免除になった。これは当初から狙っていたものであり、うまくいったことが経済的には大きかった。ただし妻は、海外での学会発表や査読付き論文もあったので、確か全額返済免除になっていたはずだ。この領域では、私は妻の業績に及んでいない。ちなみに彼女は、中学高校時代にバスケットボール部でエースだったそうだ。この点でも、私は妻の実力に及んでいない。もう一ついっておくと、彼女は空手(もちろん、スポーツ空手であるが)の黒帯を所持している。白帯でやめてしまった私は、この点でも妻の実力に及んでいない。

 こうして、楽しく充実した2年間の院生生活が終わった。

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2017年11月15日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(3/5)

(3)本史1

 私は大学時代、自由を謳歌した。これは旧制高校の学生に匹敵するのではないかというくらいである。予備校時代にがんばって勉強した甲斐があったというものである。工業高校卒の父親と、商業高校卒の母親の息子が、それも双子そろって、一流国立大学に進学したのであるから、ある意味では奇跡であった。ただ、なぜだか理由はよく分からないのであるが、兄の方は私から遅れること1年、ようやく同じ大学の同じ学部に入学してきたのであったが。ちなみに我々には6年年下の弟もいるのであるが、その弟も5年ほど後に同じ大学に入学することになる。

 さて、私の大学時代については、6年半ほど前に、本ブログに「三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出」として説いたことがある。あれからすでに6年以上たっているとは、驚きであり、まさに光陰矢のごとしである。ここでは、多少重複するかもしれないが、大学時代の思い出を振り返ってみたい。

 私にとって大学時代は、私というものの骨格の原基形態ができあがった時期である。「生命の歴史」でいうところの魚類段階だといっていいだろう。今の私にあるものは、全て大学時代にその直接の起源がある。それに比べれば、浪人時代までは、いってみれば私の前史であり、もちろん、前史あってこその本史なのであるが、そこには断絶があり、飛躍がある。

 一番大きかったのは、何といっても弁証法との出会いである。より正確性を期するならば、三浦つとむの弁証法との出会いである。私はとある組織に属していた関係で、もともと弁証法なるものに非常に強い関心を持っていた。浪人時代から『フォイエルバッハ論』なる著作があることは知っていた。大学に入ってからも、弁証法関係のお勧めの著作を、先輩などに尋ねていた記憶がある。そんな中、その頃普及しだしたインターネット上で、とある掲示板を見つけた。確か、「哲学投稿ボード」なる名前であったと思う。そこには、「永遠の思考」や「なし」などというペンネームで投稿している方が大勢いたが、本名で投稿されているおじさんがいた。そのおじさんが、熱心に勧めていたのが、三浦つとむや南郷継正の著作だったのである。そのおじさんの紹介の仕方がよかったのであろう、私は三浦つとむや南郷継正の著作を買って、読んでみることにした。ここから、私の三浦つとむ・南郷継正三昧の学生生活がスタートする。1回生の夏であった。

 一番衝撃を受けたのは、最初の頃に読んだ南郷継正『弁証法・認識論への道』(三一書房)である。まさに私のために書かれた書であるとの思いがして、何度も背筋が凍りついたような感覚に襲われたものである。○○大学の秀才たちに囲まれて勉強している中で、自分の鈍才ぶりを痛感していた私は、南郷継正が指し示す道しか、私が挽回できる道はないと思った。南郷継正が弁証法の基本書であるとくり返し説いてた三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)には、弁証法は哲学の生まれ変わりであると説いてあった。この言を、南郷継正がそうであったのと全く同様に、私は素直に受け取り、大学に入学した目的である哲学の学びというのは、すなわち弁証法の学びなのであるとして、弁証法の学びにのめり込んでいくこととなった。

 当時のインターネットの普及によって、それまでは考えられなかったような精神的な交通が可能となった。先の掲示板で知り合った私と同い年の若者が、「弁証法メーリングリスト」を立ち上げ、そこに、全国各地の、三浦つとむや南郷継正のファンのような人々が集い始めたのである。それらの先輩にいろいろと教えてもらいながら、大学でも三浦つとむを学ぶサークルを創った。そこで当初から一緒に活動をしていたのが、今もわれわれの研究会の中心メンバーであるS・K君である。彼との出会いや関わりについては、前稿「三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出」で詳しく説いたが、彼なしには今の私も、今のわれわれの組織もありえないことだけは間違いない。もし私が一年間の浪人だけで合格できていれば、インターネットの普及具合からして、三浦つとむや南郷継正に出会うのが遅れたかもしれないし、S・K君との出会いも違ったものになっていただろう。そうなれば、私が彼に三浦つとむや南郷継正を熱心に勧め、彼もまた弁証法の学びにのめり込んでいく、というようなことにはならなかったかもしれない。
 
 学生時代、私は南郷継正の指示することは、だいたいやったと思う。南郷継正お勧めの小説や教養書は、入手が困難なものも含めてほぼ読んだ。特に入手が困難だったのは、ポレヴォーイ『真実の人間の物語 上・下』(青銅選書)と中岡孝『社会科学読本 自然・人間・社会』(牧書房)である。こういうものを含めて、南郷継正が触れているものはだいたい読んだはずである。告白すると、私は大学に入るまで、本という本をほとんど読んだことがなかった。学校の宿題で出ていた読書感想文も、本文を読まずに「あとがき」だけを参考に書いたこともあるほどである。そんな私が、南郷継正に出会って、全く変わっていったのである。

 他にも、南郷継正の指示に従って、中学の教科書、特に理科と社会を勉強したりもした。いくら尊敬している先生から言われたからといって、○○大学の学生で、真面目に中学校の教科書を勉強したのは、おそらく、日本論理学研究会の会員とわれわれくらいなものであろう。もちろん、三浦つとむや滝村隆一の著作も、南郷継正の指示通りの順番で学んでいった。南郷継正の弟子である瀬江千史の著作も読んだ。これにはみんな驚いたものだった。こんなに滑らかな論理展開の文章が書けるとは! おそろしいほどの分かりやすさを把持する文章であった。瀬江千史を育てただけでも、南郷継正の実力の本物さ具合は知れようというものである。

 こんな私は、当然のように、大学1回生の冬に、南郷継正が主催する空手団体である玄和会への入門を試みた。ここまで南郷継正に心酔しきって、玄和会に入らないほうがおかしい。私は当時、大阪大学におられた南郷継正の一番弟子の一人といっていいであろう本田克也氏の支部に入門しようとした。一度は入門したといってよい。スキー合宿にも参加したくらいである。このスキー合宿では、本田氏の見事なスキーの技術に感嘆したが、何でも、スキーを始めてわずか数年だということであった。しかも、あらゆるゲレンデのあらゆるコースを全て把握しているということであった。「そっちは易しいから、こっちに来い」といわれてついていくと、上から眺めたら真っ逆さまな絶壁と思えるような、こぶだらけの斜面であった。「これくらい行けなければ、空手なんてできないぞ」といって、何のためらいもなく滑っていかれた。私はヒーヒーいいながら、ゆっくりと降りていくのがやっとであった。このように最初は順調であったが、そのうち、私がとある組織に属していることが判明して、本田氏の怒りを買ってしまうことになる。「お前はスパイか!」と罵倒され、破門同然で私は玄和会を去ることになったのである。

 これは私にとって、大きな挫折だった。お先真っ暗になったといっていい。学問への道などすっぱりあきらめてしまって、面白おかしい人生を送ろうと決心したほどであった。しかし、弁証法メーリングリストの先輩方や大学の同志の励ましによって、私は立ち直り、玄和会とは別の道で(といっても、論理的には同じになるはずであるが)、学問への道を志すことに決めたのである。

 大学ではその後も、三浦つとむ・南郷継正三昧の学習生活だった。S・K君とは相変わらず研究会などで頻繁に議論を重ねていた。3回生になると、三浦つとむを正面から研究できそうだということで、倫理学専修を選択した。どうやら倫理学では、「規範」が扱われているようであるし、三浦つとむは『認識と言語の理論』で規範を唯物論的・弁証法的に解明しているのであるから、これをちょこちょこっと、適当なリサーチクエスチョンを設定した上で説いていけば、卒論が書けるだろうと踏んだのである。実際、その通りになった。

 そのころの記憶としてよみがえる場面が一つある。予備校時代から一緒に勉強して、教育学部に入学していた女性がいたのであるが、彼女が大学生協の書店で、非常に大きな書物を抱えてレジに向かっていたのである。軽くあいさつを交わした後、、彼女は「これ、丸まる一冊覚えなあかんねん」というような意味のことをいった。「それは大変やね」とその時は何気なく答えていたが、まさかその後、自分もその書物を買う羽目になるとは、この時点では予想だにしていなかった。

 2001年の冬にはまた、私の人生上非常に意義のある大きな出会いが待っていた。現在のわれわれの師との出会いである。この師とは、弁証法メーリングリスト上ではすでにやり取りをしていた。この師がメーリングリストに現れたとき、他の方には失礼ながら、何か異次元なものを感じた。率直にいってしまうと、「南郷継正、現る!」と思ったのである。他の方はどちらかといえば、三浦つとむや南郷継正がいっていることをそのままくり返しているだけという印象であった(それはそれで大事である)が、われわれの師となる人物は、まさしく、自分で論理化した内容を説いておられたのであり、それは三浦つとむや南郷継正が、直接にはどこにも説いていない内容ながら、非常に論理的で筋が通っており、いかにも南郷継正が説いていてもおかしくはない、というものに思われたのである。

 そんな人物が主催するゼミ合宿があると、これまた弁証法メーリングリストに参加されていたある方が教えてくださった。彼は若い私を非常に買ってくださり、ぜひとも一緒に勉強しようと誘ってくださったのであった。玄和会での失敗体験がトラウマになっていた私だったが、思い切って参加することにした。合宿会場の最寄り駅まで迎えに来てくださった彼の姿は、予想に反して大柄であった。メールでのやり取りのみの印象では、非常に小柄で大人しく、ひょろっとした感じの男性というイメージだったのである。彼に会場まで車で送っていただいている途中、何と、後続の車に追突されるという事故にあった。後ろの車はものすごい勢いでバックしたかと思うと、またものすごい勢いで前進に転じというのをくり返し、タイヤをキュルキュルいわせていた。運転手は完全にパニック状態に陥っているようであった。私は、彼が朝入れてきたというドリップ・コーヒーをいただいている最中であったが、それをぶちまけ、また追突されるのではないかという恐怖に慄いていた。すると彼は一言、「認識論ですね」と落ち着いた口調でいった。この「認識論ですね」という一言は、非常に新鮮に響いた。もちろん、われわれは大学で喧々諤々の議論を行っており、その中で「弁証法」や「認識論」などという言葉は、それこそ常識のように何度も使っていたし、耳にもしていた。しかし、メールでのやり取りしかしていなかった彼が、このような状況で発した言葉であったせいか、何か、心が躍るというか、目を見開かせてくれるというか、新奇な体験に感じたのである。

 肝心の合宿では、誘ってくれた彼と師の他に、3名の参加者があった。私が体験した玄和会とは違って、非常に受容的で、若い私を受け入れてくださった。ゼミの会員で、映画論を専門にされている方が私に何か問いかけられた時、師は「違う。彼は初めての参加なのだから」と指導された。すると指導された会員は「そうか。なるほど」とつぶやいて、何かを思惟されている様子であった。この合宿では夕食後、日本酒を味わう時間があった。玄和会のスキー合宿でもビールを飲む機会があり、「酒飲むんかい!」と心の中で突っ込んだものであったが、こちらのゼミ合宿では、この時間がいわば本番の一つであったといってよい。このようにいうとただの酒飲み集団だと誤解されるかもしれないが、そうではない。日本文化の一つとして、日本酒を味わうのである。ここで師からは、日本酒の生成発展の講義があったのはいうまでもない。

 このゼミ合宿へは、その後も継続的に参加することとなる。当初は、静岡あたりの会場で2泊3日が多かったと記憶している。私は京都から一人、高速道路を飛ばして駆け付けた。その後、少しずつ、S・K君など、大学の仲間も参加するようになっていった。ある時からは、関西のメンバーが増えてきたということで、師がわざわざ関西に出向いてくださることが多くなってきた。現在では年3回、この種の「ゼミ合宿」を行っている。

 残念ながら、私をこのゼミ合宿に誘い、われわれの師となる人物と出合わせてくれた彼は、それから4年もたたないうちに亡くなってしまわれた。車で3時間半ほどかけて伺った長野市にあるお宅で、奥様からうかがった話は感動ものだった。彼は30歳を超えてから、アトピーで体の弱い娘さんのために脱サラし、鍼灸師養成の学校を経て鍼灸師となり、その後に弁証法の学びを開始されたというのである。奥様が何度も何度も、「主人は、娘を一生分かわいがってくれました」とおっしゃっていたのが印象的だった。

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2017年11月14日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(2/5)

(2)前史

 今の私の土台が創られたのは、高校時代から浪人時代にかけてである。

 私は、中学校では1、2を争う学力を把持していたので、当然ながら、私の住んでいた学区から行ける一番偏差値の高い高校に進学した。さすがの私も、高校に入ってからは授業の予習・復習をそれなりに行うようになった。特に英語である。英語は、予習をしていかなければ授業についていけなかった。中学校の3年間、同じ先生に英語を教わったが、その先生が新任の先生だったからか、英語の実力がいまいちだったようである。おそらく、私と同じ中学校出身の同級生は、全体的に英語ができなかったのではないか。それはともかく、予習で英単語を調べて訳しておき、授業で先生の解説を聞いて、試験一週間前に詰め込む、という形の学習で、定期試験はそこそこの点数がとれていた。これに対して数学は、本当に得意だった。授業を聞いているだけでほぼ完全に理解でき、試験勉強も英語ほどはやらなかったと思うが、常に高得点だった。

 兄は、十分に私と同じ高校に行けるだけの学力があったが、バスケットボール部が強いということで、2番目に偏差値の高い高校へ進学していった(高校に進学してみると、実際にバスケットボール部が強かったのは、むしろ私が進学した高校であったのだが)。その際、大学は同じところに行こうと約束したが、この約束は反故にされることなく、数年後、果たされることになる。私が帰宅して勉強している横で、兄は高校の友達と遊んでいるということがよくあった。高校時代の兄が家で勉強しいている記憶が、私にはほとんどない。

 高校に入っても私はバスケットボールを続けたが、これが大きな挫折体験になった。同級生には、身長が180pを超える者が4〜5名ほどいた。その中には、高校からバスケットボールを始めたため、全く素人同然であり、しかも運動能力もそれほど優れていない者もいた。しかし、バスケットボールでは身長がものをいう。そんな素人であっても、背が高いというだけで重用され、1年生の内から試合に出させてもらっていた。私はというと、背は170pとそれほど高くなく、中学校で顧問の先生からの指導を受けられなくなったことが響いて、技術的にも全然大したことはなかった。同級生には、背はそれほど高くなくても、非常にうまい者がいたので、私は全くレギュラーになれなかった。それどころか、2年生になると、中学時代に県の大会で優勝したチームのレギュラーメンバーが4人ほど入部してきて、他にも非常にうまい後輩が3人ほど入ってきた。彼らは背はそれほど高くなかったが、技術的に非常に優れていたので、ますます私の出番などなくなっていった。

 そうはいっても、負けず嫌いの私は簡単にあきらめたわけではない。自主的に朝練を行ったのである。確か、2年生になったくらいから始めたはずである。朝練を行っていたのは、私と一人の後輩だけであった。この後輩は、同じ学年内で7番手くらいの実力であった。バスケットボールは5人で行うスポーツであるから、彼はスターティングメンバーに入れていない。そこで、スタメンよりも努力して、何とかスタメンを勝ち取ろうと思っていたのである。目つきの鋭い、どちらかというと不良少年のような風体であったが、どういうわけか、かわいらしく、真面目そのものの私と気が合った。2人とも負けず嫌いで、努力を厭わなかった(彼はそれほど勉強ができる方ではなかったが、持ち前の負けず嫌いと努力で、後に筑波大学に合格している)。二人で、来る日も来る日も朝練に励んだ。私の記憶では、ちょうど、阪神淡路大震災が起こった日も、朝練をしていた時期である。ところが、震災の影響で電車が止まってしまい、いとことともに私の母親に車で高校まで送ってもらったのはいいが、もちろん休校。それは予想していたので、バスケットの練習だけしようと体育館に向かうと、顧問の先生から「今日は部活禁止だ」といわれて、あえなくとんぼ返りした記憶がある。この顧問の先生のことを、私は好きではなかった。私と同じくらいか、私より下手だと思われる同級生を試合で使うのに、私はあまり出してもらえなかったからである。しかし、毎日朝練に励んでいる姿を見て、少しは出してくれるようになった。ただ、私が不貞腐れて、反抗的な態度に出たり、乱暴なプレイをしたりしたために、評価はダダ落ちになり、全く試合に出してもらえなくなってしまった。こうした反抗的な態度のために、件の後輩は逆に私を評価して、高校卒業後、唯一といっていいほど付き合いが続いていくのであるが。ともかく、このような事情で、私にとって高校生時代の部活動は大きな挫折体験になり、高校を卒業してからも、それどころかつい最近まで、試合に出してもらえなかった場面を悪夢として何度も何度も見たものだった。

 ただ、こういった朝練の影響もあったのだろうか、身体能力は高校時代に大きく発展していった。特に、走るのが驚くほど速くなった。私の記憶では、小学校の4〜5年生までは、どちらかといえば走るのが遅い方で、クラス代表のリレー選手に選ばれるなどということは全くなかった。ところが、中学校くらいから徐々に早くなっていき、特に長距離では、根性を出して、学年で3番くらいになったこともあった。それが高校に入ってからは、短距離走も早くなり、裸足で走った50メートル走では6.3秒くらいだった。また、3年生の部活の最後の大会のまさにその日にあった1500m走では4分40秒くらいで、サッカー部の一人に最後に抜かされただけで2位であった。ウォーミングアップのやり方などを教えてくれた陸上部の友人には、ダントツで勝ってしまった。おそらく、高校時代の私のイメージは、頭がいいが運動(バスケットボール)は苦手な秀才君という感じだったので、こんなに走りが速いというイメージはなかったと思う。

 高校時代の思い出の授業は二つある。一つは世界史である。2年生と3年生で同じ先生に教わったが、この先生のおかげで哲学に興味を持つようになった。あまりどういう内容だったかは覚えていないが、非常に面白かったということと、古代ギリシャの文化のところで、ゼノンの詭弁について触れられたことは覚えている。アキレスと亀の話である。これで哲学に関心をいだき、この先生の所に話を伺いに行くと、「哲学といってもいろいろあるが、哲学を学ぶなら○○大学文学部だ」と教えてくださったように記憶している。あとから記憶の改変が起こっているかもしれないが、何となく、この先生の授業で、哲学というのは学問中の学問であり、哲学者というのはその時代の最も頭のよい人間だ、というようなことを刷り込まれたような気がする。

 もう一つの思い出の授業は、3年生の時の英作文である。これは思い出の授業というより、思い出の先生である。強烈な個性の持ち主であった。どういう仕組みになっているのか分からないが、この先生は、公立の進学校であったその高校に20年ほど連続して勤務されていた。確か初回の授業で、「1回目の校内模試で200点満点中120点を取れたら、この参考書をやれ! 10回やれ!」と、独特の口調で強調されたのである。その参考書とは、伊藤和夫『英文解釈教室』(研究社)である。先生は、これを10回やればどんな英文でも読めるようになること、伊藤和夫というのは教えるプロである予備校講師のなかでトップであること、だからこれは難解だが素晴らしい参考書であること、を非常に熱く語っておられた。進学校であったが、高校の先生が参考書を勧めている場面に出会ったのは、これが最初で最後であったと思う。ここでいわれている校内模試というのは、3年生の内に5回ほど行われるもので、大学入試を意識した本格的な試験である。200点満点中120点というのは、この模試のレベルからすれば、かなりハードルが高い。素直な私は、そんなにすばらしい参考書であれば、ぜひとも購入して取り組みたいと思ったのであった。ところが、その模試を受けてみると、英語の結果は散々であった。200点満点で49点、偏差値は30台であった。定期テストでは英語でもそれなりの点数がとれていたものの、大学入試には全く通用しないことが明らかとなった。

 しかし、あきらめの悪い私は、この先生に直訴しに行った。「先生、120点をこえたら『英文解釈教室』をやれということでしたが、私は49点でした。それでもやっていいですか?」と尋ねたところ、「おう! やれ! やったらいいんや!」と力強く即答されたのである。冷静に考えてみると、それなら120点という基準は何だったんだと突っ込みたくもなるが、当時の私の心情は全く違った。「よし! 許可を得たぞ! これで『英文解釈教室』に取り組める。そして英語もできるようになるぞ!」と心の底から喜んだものである。その後の私は、大げさにいうならば『英文解釈教室』一筋であった。3年生になってからは、バスケットボールの朝練に代えて、朝勉(朝の勉強)を行っていた。授業開始の1時間ほど前に学校に着いて、そこからひたすら勉強するのである。同じくらいの時間に来ている女子生徒が1人いた。おそらく、お互い意識はしていたが、一言も話さずに、もくもくと勉強していた。授業と授業の間の休み時間も、誰とも話さずに勉強した。もちろん、行き帰りの電車の中でも、である。もっと恐ろしいことに、18時に帰宅すると、すぐに2時間の仮眠をとり、20時から翌日の3時まで勉強する。そして3時からまた2時間寝て、5時に起きて準備をして、学校に行く、という生活だったのである。この間、自主的な勉強の時間は、ほとんど『英文解釈教室』に充てることができた。というのは、たとえば数学などは、学校の授業だけで偏差値80くらいを叩き出していたので、安心して英語に集中できたのである。さすがに10回やることはできずに一通り終わらせただけであったが、その結果、最後の校内模試では、英語に関しては、帰国子女のバスケットボール部女子生徒に負けただけで、学年2位の点数を叩き出したのである。

 英語に関しては驚くほど成績が上がったものの、英作文はほとんど手つかずであり、他の教科にしても、哲学を学ぶべく志望していた○○大学文学部(国立の超一流大学である)に合格するほどの実力はついていなかった。現役時代、その大学しか受けなかったが、予想通り、不合格となった。そこで私は、京都のとあるマイナー予備校に通うことにしたのである。この予備校を選んだ一番の理由は、学費が安かったからである。模試でいい成績をとっている者には、授業料の免除規定があり、私は確か、年間6万円しか払わなくてよかったと思う。また、この予備校は、京都にある○○大学専用のコースもあり、合格実績もよかった。それも、この予備校を選んだ理由である。

 この予備校もすばらしかった。すばらしすぎて、2年間も通ったほどである。特に印象に残っている先生が2人いる。一人は英語の名物先生で、私はこの先生に習ったおかげで、英語の構造が分かったというか、英文法や英作文もかなりできるようになった。英語の理屈を、これ以上になくクリアーに教えてくれた先生である。後に私は、塾の講師をすることになるが、それもこの先生の影響である。この先生のように英語を論理的に教えたいというのが、塾の講師になった一番の理由である。また、現在、翻訳の仕事もいただいているが、そこまで英語ができるようになったのは、完全にこの先生のおかげである。この件は、また後ほど触れたいと思う。

 もう一つは、後期試験の小論文対策を担当してくださった先生である。この先生は、普段は予備校にいなかった。おそらく、どこかの大学の先生で、小論文対策に特化して教えていたのだと思う。この先生は非常に教養豊かで、あらゆる問題に的確にコメントされていた。ごく少人数で指導を受けていたのだが、ある学生がとある課題に対して、日本人は明確な目標を定めると、集団的にそれに取り組み、すばらしい力を発揮する、というようなことを書いていたが、それに対して、丸山真男か誰かを引き合いに出して、解説されておられた。一番印象に残っているのは、ルネサンス期の万能人についての話である。「万能人」という言葉も、この先生から初めて聞いたのである。この先生によると、たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチは「最後の晩餐」や「モナ・リザ」で有名な画家・芸術家であるが、科学にも非常に精通しており、当時の最先端の知識を身につけていたという。このように、あらゆる分野に関心を持ち、それぞれの分野で一流の業績を残している人間を「万能人」と呼ぶ、ルネサンス期にはこのような万能人が何人も活躍したのだ、というような話だった。この話を聞いて私は、私が漠然と抱いていた哲学者というイメージと万能人のイメージが重なったような気がした。ありとあらゆる領域に関心を持ち、ありとあらゆる問題を解く実力を備えた人間こそ、哲学者であり万能人である、ということである。私はそのような哲学者・万能人に何としてでもなりたいと強く決意したことであった。

 熱心に勉強したこともあって、私の学力はみるみる向上していき、無事、志望の大学に合格することができた。本当は1年で合格することができたのであるが、2つの要因で2年間、予備校に通うことになった。一つは、ひょんなきっかけで入手した1万円を、その当時兄がはまっていたパチンコに費やして勝ってしまったために、パチンコに時間を割いて勉強時間が減ってしまったことである。もう一つは、センター試験の数学でのケアレスミスである。今でも覚えている。ある問題の途中の計算で、ルート4をなぜか4と計算してしまい(もちろん、正解は2である)、その後の問題が全滅してしまったのである。大問を丸々一つ、落したので、マイナス25点である。面白いことに、兄もまったく同じミスをしていた。途中の計算で、ルート4を4だとしてしまうと、その後の枠が合わないのである。センター試験はマークシート方式なので、たとえば2桁の答えの場合は、2つ枠があるのであるが、われわれの計算だと3桁になってしまう。こんな感じで、どう考えてもわれわれの出した答えが枠に合わないので、しかも、二人そろって同じ計算ミス(ルート4=4)をし、後はすべて正確に計算していたため、最終的に出てきた答えも同じであった。数学の試験が終わった後、お互いに「これは絶対に枠が間違っている。出題ミスだ」などと話し合っていたことを今でも鮮明に覚えている。

 予備校生活の最後も思い出深い。2年間、同じコースで勉強してきたが、お互い、全く口をきかなかったクラスメイトが、話しかけてくれたのである。「○○君、合格おめでとう。俺は落ちてしまったけど、この2年間、一緒にがんばってこれてよかったわ。これからもがんばって!」。彼はこういって握手を求めてきたのである。私は何ともいえず、感動して涙が出てきたのであった。彼は確か、第2志望の大阪大学に行ったはずである。

 このようなすばらしい予備校であったればこそ、2年間も通ったのであった。

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2017年11月13日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(1/5)

目次

(1)原点
(2)前史
(3)本史1
(4)本史2
(5)現在と未来

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(1)原点

 光陰矢のごとしとはよくいったもので、私もはや40歳である。本格的に学問への道を志したのが20歳の頃であったから、爾来、20年もの歳月が過ぎ去ったことになる。学問への道を志すまでが20年であり、学問への道を志してからが20年である。本エッセイでは、私のこれまでの人生を振り返り、私自身の原点を確認するとともに、原点を踏まえて、今後を展望したいと思っている。1ヶ月ほど前に本ブログに掲載された「徒然なるままに――40歳を迎えて」に触発されてのものである。

 私の記憶にある一番古い光景は、保育園時代のものである。おそらく、3歳か4歳ごろのものであろう。私はスプーンだったか、お箸だったかで、昼食を食べていた。私の前には、ちょっとした悪がき風の男の子が座って、同じく昼食を食べていた。その悪がきは、左手でスプーンだか箸だかを持っており、そのことを先生に注意されていた。「左手で持つのではありません。右手で持ちなさい」と。するとこの悪がきは私を指さし、「こいつもこっち(左手)で持ってるやん!」と反発したのである。この時の私の率直な感想は、「アホだな〜、こいつは」というものであった。向かい合わせに座っており、私が右手で持っていると、彼にとっては左側である。向かい合わせに座っている人間を自分に置き換えるときには反転させる必要がある。自分から見たら左であっても、反転させれば右である。そのことが彼には分らなかったのである。そこで私は「アホだな〜」と感じたわけである。しかし、今になって思えば、彼がアホだったというよりは、私が賢すぎたのである。3歳やそこらで、現象に引きずられることなく、相手の立場に立てば左は右になるということをしっかり理解していたのであるから。彼には悪いことをしてしまった。年齢不相応なレベルを求めて、それに達していないからといって「アホ」呼ばわりしたのであるから。

 そんな賢すぎた私も、アホなことをしていた。私は当時、シイタケを海の幸だと勘違いしていた。クジラのような魚の肉だと思っていたのである。この時点で少しアホである。さらに、海の幸全般が当時苦手だったため、シイタケを海の幸だと思い込んでいた私は、シイタケを食べることができなかったのである。そこで、給食でシイタケが出たときには、いったん口の中に入れて食べたふりをして、先生が見ていない隙に口から取り出し、さっと机の下に投げ捨てていたのである。これでばれないと思っていたのだから、愚の極みである。当時の予想に反して、あっという間に先生に見つかり、こっぴどく叱られた記憶がある。後年、シイタケがキノコの一種だということを知って非常に驚いた。と同時に、「それならそうと、いってくれたらよかったのに。それなら食べられたのに」などと、周囲の大人を不当に批判したものである。まったく、頭がいいのか悪いのか分からない、ただし、非常にかわいげのある子どもであった。

 このような勘違いは他にも覚えている。これも小学校に入る前のことだった思うが、布団のなかで母親から「兄弟」や「双子」なる概念を教えてもらっていた。当時の私にはよく理解できなかったようで、私は「兄弟」や「双子」は、今でいう(?)「行事」の一種だと理解した。そういう行事=イベントがあると思ったのだ。当時の私は、関係概念が理解できなかったものと見える。そこで私は母親に、「キョウダイは手をつながないといけないの?」と尋ねた。この記憶ははっきりしている。この記憶から推測すると、おそらく母親は、しばしばケンカしていた兄と仲良くしろというようなことをいっていたのではないか。「キョウダイは仲良くしないといけない」と。そこを私は、キョウダイという名のイベントでは、兄と仲良くしないといけないのかと理解して、仲がいい即ち手をつなぐと短絡的に思考して、「キョウダイ(という行事で)は(兄と)手をつながないといけないの?」と聞いたのだろう。これに対して母親は、「いや、別に手はつながなくていい」という至極まっとうな返答をしたが、それにしても、なかなかかわいらしい勘違いである。

 小学生時代の私は、もっぱら近所の友達と近くの公園で野球をして遊んでいた。今考えると理由がよく分からないのだが、当時、この公園をみんな「遊園地」と呼んでいた。ここにもちょっとした概念の混同がある。それはともかく、私のポジションはピッチャーで、それもエースであった。「自分はピッチャーだから、相手ピッチャーがどこに投げるかもだいたい分かる」などというかわいらしい嘘もついていた。しかし、試合になると、どこに投げるか分かっているはずのボールなのに、全く打てなかった。野球の思い出といえば、アニメ「タッチ」がある。ご存じの方も多いと思うが、「タッチ」というのは、双子の兄弟が主人公で、野球をやっていた弟が交通事故で亡くなり、その後、本当は才能があった兄が野球を始めて、甲子園に出場して優勝する(?)というようなストーリーである。私もたまたま双子の兄がいたため、夕方、「タッチ」を見終わってから、兄と「遊園地」に行って、キャッチボールをしたものである。日が暮れて、暗くなって、ボールがはっきり見えなくなるまで兄とキャッチボールをしていた。

 そういえば、この兄はひどい男で、小学校4年生くらいのときに、スポーツ少年団のなかに野球とサッカーがあったのだが、「タッチ」の影響を受けて二人で野球に入る約束をしていた。ところが、どういうわけか、勝手に一人、サッカーに入ってしまったのである。まったくひどい奴だ。

 他に小学校時代で覚えていることといえば、テストでは満点しかとったことがなかったということである。国語のテストなど、一字一句、模範解答と同じなので、先生もびっくりしていたくらいだった。もちろん、塾などに行っていたわけでもないし、特別に勉強していたわけでもない。それでも、自然と勉強のできる(かわいい)子どもに育っていったのである。今振り返ってみると、これには、家庭環境、特に母親と祖父の影響が強いと思う。母親は、子どもとかなり頻繁にコミュニケーションをとってくれたし、商業高校卒とはいえ、語彙力もそれなりにあり、難しいことでも子どもに教えてくれていた。どういう経緯でそうなったのか、全く覚えていないが、小学生の私に「ミゼン・レンヨウ・シュウシ・レンタイ・カテイ・メイレイ」と唱えさせ、さらに「ナイ・マス・マル・トキ・バ」と唱えさせていた。当時は全く意味が分からずに覚えただけであったが、その意味が中学校に入って国文法を習う中で分かるようになった。

 祖父は、地域では頭のいい人ということで有名な人物だった。将棋を教えてもらったのは祖父からだったと記憶している。最初は、私は通常の駒の配置で、祖父は王将と手持ちの歩3枚だけという条件で戦っても、コテンパにやられた。しかし、当時、父親が所有していたNECのPC88とか98とかで、将棋のソフトを買ってもらい、そのソフトでコンピューターと対戦したり、兄弟で対戦したりしているうちに、実力をつけていって、いつしか、祖父にも勝てるようになった。母親もそうだったが、祖父も、つまらないことをいって笑いをとるのが好きだった。小さい頃、祖父から出されたなぞなぞに次のようなものがあった。

「電線にスズメが5羽とまっている。銃で1羽を撃ち落とした。残りは何匹か?」

 普通の算数の問題だと思って、「4羽!」と私がかわいらしく答えると、「残念。銃の音に驚いて、他の4羽も飛び立ったので、正解は0羽」とかいってくるのである。後日、また全く同じ問題を出してくる。学習能力に秀でていた私は、すかさず「0羽」と答える。すると祖父はしたり顔で、「残念。4羽は銃の音に驚いて飛び立ったが、撃たれた1羽が下に落ちて残っているので、正解は1羽」などと屁理屈をいうのである。このような祖父との交流によって、考える力がついていったということはいえそうである。

 ついでに父親にも触れておこう。小学生だったある日、父親にある漢字の書き順を尋ねたところ、「書き順なんかは何でもいい。書いてしまえば同じだから」というようなことをいってきたのである。それ以来、素直な私は、本当に書き順なんてないんだと思い込み、あまり書き順を覚えなくなってしまったのである。これは痛い思い出である。しかし、これを補ってあまりある父親の言葉も存在する。それは、「テストでは習ったことが出るのだから、満点がとれて当たり前だ」というものである。これまた素直な私はそのまま受け取り、満点を取るのが常態となっていくのであった。

 中学生になると、さすがに全てのテストで満点を取ることは難しくなったが、テストの1週間前から集中的に勉強するだけで、学年の1位か2位の点数をとっていた。5教科500点満点で、480点は取っていたと思う。今、「テストの1週間前から集中的に勉強するだけで」と書いたが、これは本当にそうで、中学校になっても塾などには行っていないし、試験前までは部活に明け暮れていたので、最低限の宿題をするくらいで、家で勉強など、ほとんどしていなかった。私にとって学校の試験は、ちょっとした楽しいイベントであり、試験自体のも楽しみだったし、結果が返ってくるのがもっと楽しみだった。バツや三角になっていて納得できない場合は、すぐさま先生に抗議しに行き、場合によっては先生を説き伏せて丸にしてもらえることもあった。私の兄も、私ほどでは当然ないが、そこそこ点数がとれていたので、私たち兄弟は頭がいいと周囲からは認知されていた。

 もう一つ、われわれ兄弟は、バスケットボールがうまい兄弟としても認知されていた。小学生の時にスポーツ少年団で兄に裏切りにあっていた私であったが、そのことは水に流して、仲よくバスケットボール部に入部したのであった。小学生の時は、それほど運動ができるというわけでもなかったが、なぜか中学校に入ったころには、運動神経がよくなっていたようだ。何という名前だったか、準備運動で行う、斜め前に前進しながら内側の足で飛び上がり、飛んでいる間にその内側の膝を体まで引き付け、そして同じ足で着地し、今度は反対側の斜め前に前進して、逆の足で同じことを行うという特殊な運動(兄に聞いて、「ワンエンドワン」という名前であったことが判明した)は、1年生では私と兄しかできなかったように記憶している。見よう見まねですぐにできるようになったのである。長身なのに、旧型の小さなミニクーパーに乗っていた顧問の先生には重用され、1年生の内から3年生の練習に参加させてもらえた。ただ、バスケットのことなど何も分からなかったのに、ボールをキャッチした私に対して、いきなり「どっちを向いてボールをとってるんだ!」と怒鳴り散らし、ボールを投げつけられたことも覚えている。ゴールと逆の方を向いてキャッチしたのがいけなかったらしい。理不尽極まりなかった。そんな練習が嫌で、兄と示し合わせて、家のシャッターが開かなくなったというようなとってつけたようなウソの理由で、日曜日の練習を休んだこともあった。ただこの先生は、「メンタルタフネス」とかいって、精神面の重要性も強調しており、指導者としてはなかなかよかったと思う。残念ながら、3年生が引退した後、2年生男子がこの先生を嫌ったため、それまで一緒に練習していた男女のチームが分かれて、その先生は女子バスケットボール部に専念することになった。男子バスケットボール部には、きちんとした指導者がいないままとなり、私の中学での部活動は実りないまま、たいして上達もせずに終わってしまった。

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2017年10月23日

徒然なるままに――40歳を迎えて(5/5)

(5)真史

 さてここまで、40歳を迎えるにあたって思うところを述べていくつもりで「徒然なるままに」執筆してきたのであるが、大半が自分の人生の振り返りとなってしまった。けれどもこれでいいのではないか。三浦つとむもいっているではないか。「新しい未来を発見するために過去から学ぶ」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』)と。

 ではここで、この「新しい未来」とはどのようなものか、少し考えておきたいと思う。

 我々京都弁証法認識論研究会の会員が学問の構築を志すのは、何も難解なパズルを解いた時のような知的興奮を味わいたいがためでは決してない。現実が突きつけてくる問題を解決する指針を得るためである。つまり、現実とは何の関係もない頭の体操をして満足したいがためではなくて、現実の世の中を良くしていくためにこそ学んでいるのである。なぜ景気が良くならないのか、誰もが幸せに暮らせるようにするにはどのような経済政策が必要なのか、なぜうつ病が生じるのか、精神疾患はどのようにすれば治療できるのか、学校でのいじめの問題をどのように解決するのか、子どもたちを立派な大人に成長させるためにはどのような教育が必要なのか、といった現実の問題を説く(解く)ためにこそ、我々は学問への道を歩んでいるのである。そこには強烈な問題意識があり、解いても解かなくてもいいようなパズルをするのとは次元の違う覚悟が必要なのである。我々の学問は、こうした感情に突き動かされて発展してきているのである。

 ここで「感情」と述べたが、この「感情」も決して個人的な我儘といったレベルのものではない。毎日酒を飲みたいとか、満員電車に乗っていてある駅に停車した時に後ろからおっさんに「ちょっとどいて!」といわれてムカッとした(そこは「すいません、通してください」だろ!)とか、学校史上最高の点数の通知表をもらってうれしかったとか、課長に昇格できなかって落ち込んだとか、そういう類のものではない。人間は社会的な存在であるから、「感情」も社会的に創っていく必要がある。現実の日本を、現実の世界をよりよく創っていくためにこそ、自分自身のアタマを鍛えるのだ、そういう「感情」でなければならないのである。

 だから「新しい未来」ということについても、それが毎日上等の酒を浴びるほど飲んでもなくならないくらいの金を持っている未来だとか、どこかの首相みたいに自分は偉くてムカついた相手なら徹底的に攻撃(口撃)したり、お友達相手なら権力を笠に利益を供与したりするといったような会社のトップになっている未来だとか、そんな個人的なものでは決してないのである。人類の発展史を踏まえ、人類の英知を結集して創られていく(創っていく!)あるべき社会像のことをいうのである。大げさにいえば、こうした「未来」を展望するために、私は今、自分の「過去」を振り返ってきたのである。

 では私は、ここからの人生で何をなすべきか。それはもちろん、言語学の創出である。私が夏目漱石『こころ』に衝撃を受けたのはなぜなのか、「メジャー」の吾郎がチームメイトに希望を与え、チームメイトによって苦境から脱することができたのは言葉のどのような力によってなのか、こうした問題が明らかにできるだけではない。言語学の創出によって、人間と人間との精神的交通がより発展していって、人類の認識そのものの発展、すなわち学問全体が大きく発展すると考えているのである。さらにいえば、人間とはどういう存在かを解明するための大きな指針を言語学は与えてくれるはずである。逆にいえば、言語を解明することなしには、学問の発展も人間とは何かの解明も望めないのではないかと考えている。こうした日常的な個々の問題から、人類社会全体に関わるような大きな問題まで、言語学の構築によって解明できるのではないかと思うのである。

 と、大上段に述べてしまったが、本稿を執筆するまでの私はスランプに陥ってしまっていたのであった。9月に行われた合宿形式の勉強会のレポートは書けないままで、毎月の振り返りも9月分は飛ばしてしまった。先日までブログ掲載していた9月の例会報告も提出が遅れに遅れ、内容的にも十分満足できるものではなかったし、変形生成文法の研究も行き詰まってしまっている。しかし本稿を執筆することによって、今の一瞬一瞬が未来の自分を、未来の日本を、未来の世界を豊かに創っていけるかの鍵であるという自覚が芽生えてきて、新たな一歩を踏み出していくのだという決意が沸き起こってきたのである。読者の皆さんに喜んでもらえたか、格調高い文章だったかは別にして、これだけでも本稿を執筆した意味は私にはあったと思える。願わくは、「新しい未来」において、本稿が私だけではなく、日本や世界にとっても意味があったとなってほしいものである。ここを主体的に捉え返せば、本稿をきっかけに新しい自分、新しい日本、新しい世界を創っていくのだという決心をしたということである。

 この間の気持ちの揺らぎを一掃して、真に自分の人生を歩めるように生まれ変わるのだという意気込みでやっていかなければならない。私の人生の前史は今終わった。ここからが私の本当の人生の始まりである。

(了)
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2017年10月22日

徒然なるままに――40歳を迎えて(4/5)

(4)再発

 その勉強会で感じたことは、何を専門として学んでいくにしても、まずは弁証法や認識論といった学問の基礎をしっかりと学び続けていかなければならないということであった。さらにもう1つ感じたことは、弁証法や認識論の基礎からの学びのためには、自らの専門分野を設定し、その学構築のためにこそ弁証法や認識論を学ぶのだという思いが必要だということであった。他会員は皆、自分の専門分野の発表を行っていて、その中でもその専門分野の弁証法性が取り上げられ、どのように考えていくべきかという認識論も議論されていたからである。

 当時私は、どんな分野の仕事をするにしても必ず必要になるということで、弁証法の基本書・教科書である三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』をものにするために、その筆写を行っていた。ここで「仕事」とは、単なる職業上の仕事のことであって、もっと昇進して、どんな仕事上の問題でも自らの頭脳で解決できる頭脳を作りたいというレベルでの思いであった。しかし、年に3回ほど開催されていた京都弁証法認識論研究会の合宿形式の勉強会に参加し続けることで、その思いは学問構築という仕事を全うしたいというものに変わってきていたのである。そこで筆写を終わらせるとすぐに、『弁証法はどういう科学か』の小項目ごとの400字要約に取りかかっていった。2011年12月のことである。そして2012年3月には、初のブログ掲載用論稿である「『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか」を本ブログに掲載したのである。

 合わせて私は、自らの専門分野を何にすべきか、検討していった。やはり何といっても大学時代に中心的に学んだ言語学がやりたいと思い、他会員や指導者の先生にも相談しつつ、自分の専門分野を確定していったのである。2012年10月には、卒業論文に若干の解説を加えた論稿をブログ掲載し、12月の勉強会では初めて、言語学に関わる発表を行うことができたのであった。

 2013年1月からは、毎月の学びを振り返るという作業も行うようになった。人生の目標として言語学の創出ということを志したからには、学びを継続的に行っていくとともに、さら深めていく必要もあると考えたからである。1ヶ月の学びを振り返り、次の月の目標を設定することで、持続的に学んでいくことができるようになっていったし、振り返りを行うことで、単に書物を読んでお仕舞いという学びではなくて、そこからどのようなことを考えたのか、しっかりと考察を深めていくこともできるようになっていったのである。この毎月の振り返りという作業は、徐々に会員間で広がりを見せ、今では全会員がこの形式を採用するようになっている。

 2014年からは、毎月の例会にも参加するようになった。2013年の例会のテーマであったヘーゲル『歴史哲学』については、自分自身で読み進めて、ブログ掲載される例会報告を読んで議論を確認するという方式で学んでいたのであるが、それを2014年からは例会自体に参加し、議論にも加わるようにしたのである。私の住んでいるところは、他会員が住んでいる京都周辺からはかなり離れており、物理的な制約があると思っていた。つまり、例会は同一の場所に集合し、そこで膝をつきあわせて行っているために、私には参加が難しいと思っていたのである。ところが、そうした方式の例会では、たとえ比較的近くに住んでいるにしても、諸々の制約が生じるということで、その頃は専らスカイプによる方式に変更されていたのである。これなら空間的にいくら離れていたとしても問題ない。そこで2014年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びから、私も例会に参加させてもらうことにしたのである。2013年からブログ掲載論文の執筆にも本格的に参戦していた私は、例会報告の執筆についても他会員同様の責任を負うことになっていったのである。

 専門の言語学の学びについては、いわゆる言語学史の研究を始めていた。古代ギリシャ、古代ローマ、中世、17世紀の『ポール・ロワイヤル文法』とロックの言語論、比較言語学、ソシュールの言語理論について、まずは大雑把ではあるが、大きな流れを捉えることを中心的課題として取り組んできているのである。合わせて、卒業論文でも取り上げた三浦つとむの言語過程説の理解を深めていくために、三浦の著作は勿論のこと、三浦が学んだ時枝誠記や三浦を学んだ宮下眞二の著作も研究してきている。かつ、こうした言語過程説の輪郭を浮き彫りにするために、その対照概念の1つでもある言語道具説についての論文も執筆してきた。

 こうして私が京都弁証法認識論研究会に参加してからの流れを振り返ってみると、6年前までに完全に止まってしまっていた時計の針がやっと動き出したのでないかと感じられる。何かに夢中になることで自分を磨き上げ、鍛え上げていくというかつての自分の姿(?)に戻り、さらにそこから発展してきているのではないかと思えてくるのである。もちろん、研究会に参加してからも、なかなか思うように研究が進まず、停滞どころか衰退していっているのではないかという時期も幾度もあった。生活が乱れ、仕事だけは何とかこなしているが、研究活動は全くという時期もあったのである。しかしそんな時、必ず私の支えになり希望となってくれたのが、ほかならない研究会の会員だったのである。それぞれの専門分野は違えど、弁証法・認識論を基礎にして、学問を創造していくという共通の基盤に立っているからこそ、直接的な励ましはもとより、その学問への道を歩む姿を見せられるだけで、自分を奮い立たせ再生させてくれたのである。

 ごく最近、テレビアニメの「メジャー」という番組を見た。主人公の吾郎が小学校に上がる前から野球を始め、最後にはメジャーリーグで活躍するという物語である。私生活では幼くして母を亡くし、幼稚園に通っている頃には父親も失ってしまうという逆境の中、どんな困難に突き当たっても必ず乗り越え、チームメイトにもその情熱で希望を与え続けていくのである。その一方で、吾郎も人間である以上、乗り越えられそうにない壁に阻まれることもある。もう諦めてしまうしかないのではないかという情況に追い込まれてしまうことが多々あるのである。しかしそうした時には必ず、かつて吾郎自身が救った仲間が吾郎の前に現れ、吾郎を窮地から助け出してくれるのである。まさに相互浸透による発展の物語であり、我々の研究会のあり方の理念を具体的に示してくれている物語だといえるのではないかと思ったものだった。三浦つとむも以下のように述べていたことを思い出さざるを得ないものである。「メジャー」はもしかしたら、こうした三浦の言葉を具体化したのもではないか、などと思わされるのである。

「政治の分野であろうと学問の分野であろうと、革命的な仕事にたずさわる人たちは道のないところを進んでいく。時にはほこりだらけや泥だらけの野原を横切り、あるいは沼地や密林をとおりぬけていく。あやまった方向へ行きかけて仲間に注意されることもあれば、つまずいて倒れたために傷をこしらえることもあろう。これらは大なり小なり、誰もがさけられないことである。真の革命家はそれをすこしも恐れなかった。われわれも恐れてはならない。ほこりだらけになったり、靴をよごしたり、傷を受けたりすることをいやがる者は、道に志すのをやめるがよい。」(三浦つとむ『レーニン批判の時代』)

「孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。」(三浦つとむ『新しいものの見方考え方』)
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2017年10月21日

徒然なるままに――40歳を迎えて(3/5)

(3)停動

 バスケのほかに、高校時代はよくカラオケにもいったものだ。高校に入って初めての友人が、そこそこ歌が上手くて、おまけに我が家から最寄りの鉄道駅がある街(そこは片田舎なりに栄えていた街だった)に住んでいたため、その友人の家のすぐそばにカラオケボックスもあったのである。そこでそれこそ毎日のように、部活が終わってからそのカラオケボックスにいったものだった。ちなみに私は、家から高校まで片道45分位を自転車で通っていたのだが、そのカラオケボックスの位置は、ちょうど家と高校とを結ぶ直線を底辺にした時、正三角形の頂点の位置にあったのである。つまり、真っ直ぐ家に帰る場合に比べて、倍の時間をかけて帰った(カラオケの時間を除く)わけである。しかも、初めのうちはその友人も自転車で通学していたのだが、その友人に彼女ができてからというもの、彼女と一緒に電車通学になったのはいいが、(彼女と一緒に帰らずに)私とカラオケに行く場合に限り、私の自転車の後ろに立ち乗りして一緒に帰ったものだから、その時の私は真っ直ぐ帰る場合の3倍ほど疲れることになったのであった。

 こんなペースで思い出話をしていたら、いつまでたっても私は40歳にならないから、ここからは多少端折っていくことにする。

 とにかく、バスケにカラオケに、一生懸命だった私だが、勉強の成績が一番頭抜けていた。バスケでは、高校最後の大会も結局はレギュラーになれなかったし、カラオケでも友人には勝てないという思いがあった。しかし頭は一番良かった(というのは、あくまでも偏差値でという意味であって、今から考えるとそれは頭が悪かったという意味にもなる)。高校3年生の2学期の通知表が特にビックリで、10段階評価(1が一番悪く、10が一番良い)で数学以外の全教科が10(もちろん体育も図画も音楽も!)、数学も8というものだった(これはテストでの計算間違いが原因だった)。担任の先生から通知表をもらうとき、この成績はこの学校史上最高点だとかいわれてしまった(その当時で既に90年ほどの伝統がある学校だった)。

 しかし今考えてみると、こうした言葉が私を調子に乗らせ、大学というモラトリアムの、更なるモラトリアムに私を3年間も縛ることになったのかもしれない。現役時代も含めて4年間、たった1つの大学のたった1つの学部以外には受験しなかったのである。これは前にもどこかこのブログ内の文章で書いたことがあると記憶しているが、高校の国語の教科書にあった夏目漱石『こころ』に凄まじいまでの衝撃を受けた私は、小説家になることを志し、そのためには何としても文学部に行く必要があると勘違いしてしまったのである(現に私が大学在学中だったと思うが、法学部(出身?)の人間が芥川賞を受賞している)。

 ともかく、何とか大学生になることができた私は、大学の講義では言語学関係(小説家になるためには言語を自由自在に使いこなす必要があると考えていた)のものばかりに出席し、サークル活動では、主に経済学の勉強をするサークル(実は私より先に大学生になっていた弟が所属していた)に入って勉強し、空いた時間はガソリンスタンドでバイトするという生活を送っていったのである。そして今度は遅れることなく、立派に卒業したのであった。

 その後私は、実家から見れば大学がある方向とは全く逆の方向に倍ほどの距離を進んだ場所にある会社に就職し、窓口業務を経て、現在はシステム部門で働いている。長男であるにもかかわらず、実家も継がずに当地に家も建てた(妻のお父さんが設計もする大工さんで、そのお父さんに建てていただいた)。

 こうしてざっと私の40年を振り返ってみるとき、その時々で一生懸命になれるものを見つけ、それが年齢とともに色々なものに移っていったことが分かってくるのである。野球、サッカー、バスケ、カラオケ、小説、(受験勉強、)言語学、経済学、諸々の仕事の知識。しかし移っていったとはいえ、これらはいまだに私の中にあり、今の私を創っているものだといえる。ただ中心が変化していっただけだともいえると思う。野球やサッカーは自分ではやらなくなったが、観戦するのは好きであるし、バスケは実は3年ほど前から(実に20年ぶりくらいに!)再開した(今年度からは公式試合にも出ていて、つい先日、4試合目にしてはじめてシュートを決めることができた。なんと、苦手なはずのゴール下のシュートである。これが「ゴール下のシュート恐怖症」を克服できたとした要因である)。カラオケは今でも家族でよくいくし、夏目漱石も含めて小説もよく読んでいる。言語学は私の人生の中心になりつつある。そして経済学やその他の学問も、我々の研究会で学び続けているところである。

 さて、こうした人生を内包している私は、40歳を迎えるにあたって何を考えるべきか。ここからが本題である。読者の方々がここまで読み進めて、楽しんでいただけたかどうかは別として、ここまでは格調が高かったということはないことだけは間違いない。ここからである(予定)。

 我々の京都弁証法認識論研究会は、私も所属していた大学のあるサークルのメンバーが中心となって継続してきたものである。私が入学したときにはすでに、その原基形態が出来上がっていた。当初私も誘われて、P江千史『看護学と医学』を扱う勉強会に参加したことを覚えている。しかし、なぜ大学で言語学と経済学を中心に勉強し、ガソリンスタンドでバイトしてためたお金でビールを楽しく飲んでいる私が、『看護学と医学』なのか、その意味するところが全く分かってはいなかったのである。一度か二度参加して、それなりにしてしまったのであった。

 京都弁証法認識論研究会との再会は、実に12年後のことである。就職してすでに9年目、昇格して新しいポストに着いたものの、これまでのように夢中になって取り組める対象を失ってしまっていた。思い返せば、球技なら何でもそこそこできたのも、決していきなりできたわけではなかったはずである。それが楽しいと思って、必死で練習したからこそできたのではなかったか。バスケのシュートにしても、これだけは絶対に負けないと思って練習を積み重ねたからこそ、よく入るようになったのである。しかし当時の私は、仕事と両輪で取り組んでいたある組織も抜けて、ただただ職場で仕事をし、家に帰って多少家族と団らんし、そして寝るだけの生活を送っていたのであった。夢中になれるものもなく、そのため私の発展が停滞してしまっていたのである。

 そんな時、かつて大学時代に京都弁証法認識論研究会の原基形態的勉強会に誘ってくれた友人たちが、まだ継続して勉強を続けている場に私を誘ってくれたのである。何か自分でもやれることがないか、それを通じて自分の新たな姿を築きあげていくことができるのではないか、そんな期待を胸に、合宿形式の勉強会に参加したのであった。
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2017年10月20日

徒然なるままに――40歳を迎えて(2/5)

(2)瞬放

 さて、不完全燃焼のまま小学生を終えた私は、中学校では「部活」なるものが存在することを知ったのであった。どういうわけか、私の通っていた中学校には陸上部がなかった。まあ、その当時は(そして今も)陸上など(を観るのではなくてやること)には全く興味がなかったので、それはどうでもいいのだが、ここでどの部に入るか、迷っていたのであった。というのも、実は私は小学生時代、野球やサッカーのほかに、卓球もやっていたからであった。母親に連れて行ってもらって、隣町の卓球センターによく行って、弟相手に何時間も練習していたものだった。

 ここまで書いて、ふとした不安に襲われた。おそらく本稿は、(予定通り進めば)私が執筆する本ブログへの投稿としては最後の文章になる。それをこんなどうでもいい文章を綴ってしまっていていいものか、と思ったのである。しかしまあ、「徒然なるままに」だからこれでよしとしよう。

 そんなわけで、中学校の部活に関していえば、野球部、サッカー部、卓球部がまずは候補に挙がったわけである。そしてそれらは全て、見事に選択肢から除外されていくのである。まず野球部であるが、これは当時の伝統というか悪い風習で、なぜだか野球部は頭を丸刈りにしなければならなかった。帽子やヘルメットをかぶってやるという数少ないスポーツの1つであるから、別に髪の毛がどうであろうと、帽子やヘルメットで押さえつければ、そんなに気になることもないだろうのに、なぜか野球部=丸刈りなのである。これは無理だと早々に諦めてしまった。次にサッカー部であるが、これも小学校時代、下級生にレギュラーを取られてしまうという体たらくだったので、本格的にやったとしてもそうものにはならないだろうということで止めにしてしまった。最後に卓球部であるが、これも当時のイメージでいえばかなり暗い人間のやるスポーツだということになっていた。さらに問題なのは、部活見学で卓球部の練習を見に行ったとき、上級生と試合をさせてもらえるということでやってみたのだが、何とここで試合に勝ってしまったのである。こんな弱い集団の中にいるのは嫌だということが決定的な理由となって、卓球部もないということになってしまった。

 そこで結局何部に入ったかといえば、バスケ部であった。これは当時、漫画「スラムダンク」が週刊少年ジャンプに連載され始めた頃で、その影響でにわかバスケファンが急増したことも大きな要因であった。ご多分に漏れず、私もその流れでバスケットを始めたようなものである。

 それからはどういうわけか、1年生から試合に出させてもらい、練習も私ともう1人だけ別メニューという特別扱いだった。165pとたいして上背もなく、運動神経でいっても私なんかよりジャンプ力があったり足が早かったりする同級生は大勢いた。しかしなぜか、顧問の先生(この先生は後で分かったことだが、ダンクができた。中学校を卒業してから、皆の前でダンクができるかどうか賭けようとかいいだして、皆できない方に賭けたところ、ガツンと決めて本気で金を徴収していた)は、1年生の中で特に私を重用してくれたのだった。

 そんなこんなで3年生にもなると、チームのキャプテンを任されるようになった。当時の私はシューターで、ドリブルもパスも上手ではなかった(というか、ドリブルもパスもほとんど試みようとすらしていなかった)が、シュートだけはよく入ったものだった。試合でも、ボールをもらえば即シュートであった。かなり過去を美化しているようで恐縮だが、シュートが外れた記憶がないといっても過言ではないくらいよく入った。しかも、上背のなさやジャンプ力のなさを補うために、ボールをもらってからシュートまで(ボールをリリースするまで)のスピードを極限まで高めた独自のシュートを考案し実践していた。いわゆる普通のジャンプシュートというものは、ボールをもらいながらステップを踏んでジャンプ、そしてジャンプの最高到達点付近でボールをリリースするというシュートであるが、私の場合、ボールをもらいながらステップを踏み、即ジャンプして、同時にボールをリリースするという型を創り上げたのであった。ディフェンス側からすれば、チェックに行こうと思う間もなくシュートされているわけで、どうにも止めようがない。しかもこれがほぼ100%入るのである(私の記憶によれば)。残念ながら中学時代は、県大会の予選レベル(ブロック大会)で敗退してしまったのであるが、バスケの魅力に取りつかれた私は、高校では迷わずバスケ部に入ったのであった。というより、中学時代に憧れていたバスケ部の先輩が行ったという理由で高校を決めたくらいで、バスケ部が先にあって高校は後からついてきたという感じである。ちなみに、この中学最後の試合(負けた試合)で、私にトラウマができてしまった。ゲームの終盤、ゴール下のノーマークのシュートを外してしまったのである(中学時代にシュートを外した唯一の記憶かもしれない)。結局、このことが原因となってか、悪い流れのまま試合終了となって引退となってしまったのである。小学校時代、少年野球に(一人で)進んだ弟も、実は中学ではバスケ部に入っていたのであるが、この弟から散々いわれたものである。あのシュートが入っていればまだ試合は分からなかったと。それ以来、私は極度の「ゴール下のシュート恐怖症」に陥ってしまい、ゴール下のシュートは全く入る気がしなくなってしまったし、事実、よく外したものだった。しかしまさに今月、この病気はあることが原因で全く解消してしまった。

 さて、高校生になった私は早速、バスケ部の見学に行った。するとそこで、ある人物から声をかけられたのである。それは中学時代の最後の大会、すなわちブロック大会において、我々の地区で優勝し、県大会に進出したチームのエースであった。中学当時からバスケが上手くて有名だった彼から突然、「あっ、君知ってる」と指を指しながら声をかけられたのである。やはり私も(最後の試合の終盤のゴール下のごくごく簡単なシュートを除いて)相当程度シュートを決めまくっていたために、そうしたブロック大会のいわゆる「スター」にも顔を知られていたのだろう。彼は我々が3年生になったとき、バスケ部のキャプテンになる男であった。

 高校時代のバスケ部の思い出といえば、2年生からバスケ部に入ってきた同級生にポジションを奪われてしまったことが挙げられる。彼は中学時代(私とは別の中学校出身)、野球部のエースか何かだったのだが、高校に入ってからは野球をやめ、1年生の時は何の部活にも入っていなかったのである。それがどういうわけか、2年生になってからバスケ部に入部してきて、3年生が夏の大会で引退するとすぐにレギュラーになったのである。私にしても、まあやれば何でも球技はそこそこできた。小学校の時、少年サッカーではレギュラーが取れなかった(実は下級生がレギュラーになっていた)わけだが、これにはちゃんとした理由がある。実はその少年サッカーのチームは、県大会でも優勝するくらいのレベルの強豪で、そこから上がっていった中学校のサッカー部も、全国大会の常連というレベルであった。だから端的にいえば、私のサッカーが下手だったのではなくて、他のチームメイトのサッカーが異様に上手かったのである。その証拠に、高校2年生の時、我々のバスケ部とサッカー部がサッカーの試合をしたことがあったが、私の活躍で、何とサッカー部にサッカーで勝ってしまったのである。ちなみに、もう1人活躍したのが、その中学時代に野球部のエースで、高校2年生からバスケ部に入ってきた同級生であった(こいつは本当に何でもできた、野球、バスケ、サッカーに加え、ギターもものすごく上手で、音楽室にあったフォークギターで、Xの「Silent Jealousy」を笑いながら軽く引いていたのには驚いた。私が音楽の道(中学時代にギターを買ってもらっていた)に進まなかったのも、彼のギター演奏を聴いて、こんなやつがいたら勝てないと思ったからかもしれない)。
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2017年10月19日

徒然なるままに――40歳を迎えて(1/5)

〈目次〉

(1)描夢(ビョウム)
(2)瞬放(シュンホウ)
(3)停動(テイドウ)
(4)再発(サイハツ)
(5)真史(シンシ)


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(1)描夢

 本ブログ「主体性確立のための「弁証法・認識論」講義」は、初めての講義から7年半が経とうとしている。講義数は350タイトル目前であり、連載回数としても2638回目を数えている。私はこのうち、49タイトルを執筆し、388回目の連載ということになる。私の初めての講義である「『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか」の執筆も、もうかれこれ5年半以上前の出来事である。

 断りが遅くなってしまったが、本稿はこれまでのような論文形式の文章ではなくて、いわゆる随想の類の文章である。タイトルにもあるように、「徒然なるままに」認めていくことを趣旨としたものである。ではなぜ今回、これまで一貫してきた論文形式の文章を掲載するのではなくて、エッセイ的な文章を載せることにしたのか。理由は大きく3つある。

 まずきっかけを述べておかなければならない。本来であれば、今日から5日間は別の会員が論文を掲載することになっていた。しかし、その会員にとってはブログ掲載用論文の執筆が初めてであり、なかなか思うように筆が進まなかったという事情があった。本ブログに掲載する論文に関しては、連載開始日の原則2週間前までに他の会員にメールで送付し、会員間で検討し、より良いものに仕上げた上で公開しているのであるが、連載開始日の5日前になっても提出がなかったのである。そこで話し合いの末、別のものを掲載しようということになったのである。

 では、誰がどのようなものを執筆するのか、次に当然こういう問題が生じてくることになった。そこで、この連載期間中に40歳を迎える私が、40歳を迎えるにあたっての諸々の思いを、随想レベルで執筆していくということになったのである(副題にある「40歳を迎えて」というのはこうした事情による命名である)。さすがにこの短期間では、論文形式の文章を書き上げることが難しかったからである。

 最後にもう1つ大きな理由がある。それは9月に行った合宿形式の例会での議論である。ある会員が本ブログに関して、今年の年末を目途に廃止してはどうかという提案をしたのである。より正確にいえば、本ブログは年末まで掲載予定が決まっているので、その間は今まで通り掲載することにして、来年からは別ブログを立ち上げ、心機一転、新たなスタートを切ろうということであった。そして新ブログにおいては、毎月の例会等の報告は継続する(ただし、現在掲載している論文の中で、この例会報告が最も読みにくいものであることは我々も把握しているところなので、よりよい形式や内容を模索もしていくつもりである。なお、例会「等」と書いたのは、例会以外にも複数の学習会を開催しているものの、それらについては十分な報告ができていないという反省があるからである)ものの、その他の内容としては、今までのような固い論文形式のものではなくて、エッセイ的なものを掲載してはどうかというのであった。我々の論文に関しては、来年から刊行予定の研究会機関誌『哲学への道(仮称)』で読んでいただくこととして、新ブログにおいては例会報告等のほかは、もっと軽い内容の・気軽に読んで楽しめるようなものにしてはどうかというのであった。これは、(今まさにそういう状態であるのだが)ブログに毎日掲載する論文を執筆し、検討し、アップするという作業に加え、新たに研究会機関誌を発刊するとなると、そちらに掲載する論文についてもより突っ込んだ検討が必要になってくるのであって、仕事をしながら研究活動も続けている我々にとっては甚だ困難な情況になってくる(いる)ことは明白だし、研究会機関誌に掲載する論文についても、一旦(タダで)ブログで読んだものを(多少なりとも焼き直して)改めて研究会機関誌で読むというのは、読者心理からしても納得でき難いものがある(というより、我々の立場からすれば、このやり方では研究会機関誌が売れない!)ということもあるからである。

 そこで今回は、私が40歳を迎えるにあたって思うところを、諸々に述べていくという趣旨での論稿となったわけである。これは来年からの新ブログの予行演習も兼ねての執筆である。当然、可能な限り楽しめるようなものにしたいのだが、他会員からは格調の高さも要求されているので、論文形式の文章とは別の意味での困難を背負い込んだと若干後悔しつつの執筆である。

 さて、40歳を迎えるにあたっての思いとはいっても、まずはこの40年間を簡単に振り返ることから始めたいと思う。過去を積み重ねての現在であるからである。とはいえ、現在を積み重ねての未来である、という方が重要かもしれないが。

 私は1977年10月某日、滋賀県の片田舎に生まれた(話は飛ぶが、この「田舎」というものに(もっと)若い頃は非常に抵抗があり、下宿していた大学時代にはよく、実家は乱立するビルの最上階だなどとはったりを述べていたものだった)。交通機関といえば、最寄りの鉄道駅まで片道僅か10kmほどで500円くらいかかる私鉄運営のバスしかなかった。近所には、私を含めて6人の同級生の男の子が住んでおり、下の学年の子どもたちも含めて、よく近くの公園(今考えると理由がよく分からないのだが、この公園をみんな「遊園地」と呼んでいた)で野球をしたものだった。初めて買ってもらった帽子が中日ドラゴンズのものだったため、そして当時は中日の投手陣が全体としていまいちだったこともあって、小学生のころの夢は中日のピッチャーになって中日を日本一にすることだった。郭源治や小松辰雄に憧れ、いつかは彼らを超えるピッチャーになるつもりでいたのである。もっとも、私のポジションはショートかサードが定番で、ほかの地域の子どもたちと日曜日に野球の試合をするような時にも、ピッチャーなどほとんどさせてもらえなかったし、どちらかというと、左の強打者というのが私に対する他の子どもたちの見方だった。ホームランを連発していた(ように思う、というのは、弟はそんな記憶がないというからだ)のだった。ちなみに我々のチームのエースは私の弟だった。

 当時、私が住んでいた実家のある地域では、小学校の4,5年生にもなると、地域の少年野球や少年サッカーのチームに入って、その道に進んでいくというのが、スポーツができる子どもの進む(べき)道であり、憧れでもあった。そこで私と弟とは、やっと両親を説得して、このスポーツ少年団に入ることを許されたのであった。ところがここで、ちょっとした問題が起こった、というより私が問題を起こしてしまった事件があった。それは何かというと、当然私が一緒に少年野球に進むと思っていた弟に対して、私は当時、どういうわけかサッカーに魅かれ始めていて、迷った末に、誰にも相談することなく、少年サッカーに丸をつけた申込用紙を提出してしまったのである。そしてそのことを後になってから弟に告げた時、当然のように弟に非難されたのであった。

 ともかく、小学校の4,5年生から始めた(とはいっても、例の「遊園地」では、小学生になってからは野球だけではなくサッカーもしていたのではあるが)サッカーの方は、6年生になってもレギュラーが取れず、野球でいう「左の強打者」のような肩書もないままに終わってしまったことであった。
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2017年10月08日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(13/13)

(13)哲学的な把握を志向する精神こそスミス最大の遺産である

 前回は、本稿で説いてきた流れをざっと振り返ってみることで、通説的には“経済学の祖”とされ、近年は『道徳感情論』の著者としても注目されるようになってきたアダム・スミスが、たんなる経済学者でも倫理学者でもなく、あくまでも世界全体のつながりを把握しようとした哲学者と呼ぶにふさわしい存在であったことを確認しました。18世紀のイギリス(スコットランド)という時代的条件に規定された学者として、スミスが解くことを迫られていた具体的な問題というのは、あくまでも富と徳との関係をどう捉えるか――経済発展のなかで生じてきた徳の腐敗についてどのように考え、どのように対処していくべきか――という問題であったものと思われます。しかしスミスは、こうした問題を、個別の問題としてただそれ自体から解いたわけでもなければ、若干の倫理学を加味した経済学といったレベルから解いていこうとしていたわけでもありません。スミスは、具体的な社会問題を解くにしても、この世界(宇宙)全体には一般的な法則性がつらぬかれている――宇宙はすべての種の保存と繁栄を目ざして運動するまとまった体系である――という観点から、世界全体のなかの部分としての問題という位置づけを明確にしながら解いていこうという姿勢をもっていたわけです。このように、問題の哲学的な把握を志向する精神こそ、スミスによって現代の私たちに遺されたもっとも貴重な財産であるというべきでしょう。

 現代の社会を眺めるならば、いわゆる新自由主義的な経済政策の推進が人間と社会の深刻な荒廃をもたらし、経済の発展と人間の幸福との関係が大きな問題として浮上してきているという状況があります。このような状況においてスミスの遺産を活かすというのは、新自由主義的な思想・理論によってもたらされた荒廃した現実に、幸福についてのスミスの片言節句(心の平静さこそ真の幸福だ!)を対置することなどではないはずです。いわゆる市場という領域を社会の他の部分から切り離して究明の対象としてきた現代の経済学、より具体的にいえば、市場のみに視野を限定して、狭い意味での資源の最適配分や効率性、利潤の拡大ばかりを一面的に追求することを正当化してきた新古典派的な経済理論の歪みを、世界全体のつながりを視野に入れた体系的な社会科学および経済学の構築によって克服していくということこそが、スミスの遺産を現代に活かしていく道なのだといえるでしょう。

 このような観点から、本稿の最後に補足的に考えておきたいのは、通常は「政治経済学」と訳されるところの「ポリィテカル・エコノミー(political economy)」という言葉の意味合いについてです。『国富論』第4篇の冒頭において、スミスは次のように述べています。

「ポリィテカル・エコノミーは、政治家あるいは立法者が行うべき科学(science)の一部門としてみるならば、はっきり異なった二つの目的をもっている。その第一は、国民に豊かな収入もしくは生活資料を供給すること、より正確にいえば、国民がそうした収入や生活資料を自分で確保できるようにすることである。第二は、国家あるいは公共社会(state or commonwealth)に、公的サービスを行うのに十分な収入を供することである。ポリティカル・エコノミーは、国民と統治者の双方をともに富ませることを意図するものなのである。」(『国富論』第4篇、序論。筆者訳)


 ここから、スミスは、国民と国家(政府)の双方を富ませるための科学として“政治経済学”を定義したのだ、と読みとることも可能です。すなわち、スミスは、国民を富ませるために市場の自然で自由な働きを確立(国家の恣意的介入の排除)し、こうして実現される国民の富の形成を大前提にして、それをできるかぎり阻害しないように配慮しつつ、国家の富の形成(財源の調達)がはかられるべきだという形で、市場論と国家論を統一した“政治経済学”を展開したのだ、という見方をすることもできるのです。スミスの“政治経済学”をこのようなものとして捉えてみることで、社会という有機的な全体から貨幣を媒介にした効率的な資源配分の場としての市場のみを実体的に切り離して究明の対象としてしまった現代の「経済学(economics)」を批判的に捉えていくことも可能でしょう。

 しかし、スミスはあくまでも哲学者として評価されるべき存在であったのだという視点からは、この「ポリティカル・エコノミー」という語について、もう少し踏み込んで考えておく必要が出てくるのです。そもそも英語のエコノミーは、「オイコノミア(oikonomia)」というギリシャ語に由来します。オイコノミアは「家」を意味するオイコスに「用い方、方法」を意味するノモスがくっついた言葉で、ふつうは「家政術」などと訳されているものです。つまり、エコノミーという言葉には、もともと「家庭の財産についての賢明な管理の方法」という意味合いがあったわけです。ここから転じて、中世ヨーロッパにおいては、エコノミーという語に“家のような共同体(組織体)をうまく管理するための方法”あるいは“組織体における体系的な秩序”という意味合いがもたされるようになり、天体の運行をつかさどる摂理(神のエコノミー)や動物の生命を維持するための体の仕組み(動物のエコノミー)などにまで、幅広く使われていくようになったのでした。
スミスもまた、こうした中世以来の伝統を踏まえて、エコノミーという語を使っていました。本稿の連載第4回において、スミスの自然神学的な発想がうかがえる文章として、「自己保存と種の繁栄とは、自然がすべての動物を創造するにあたって意図していた偉大な目的である」という『道徳感情論』の一節を紹介しましたが、その少し前の部分で、スミスは「自然のエコノミー(the economy of nature)」という言葉を使っています。これは「古代自然学史」論文で提示された「一般的な法則に支配され、それ自身の保存と繁栄およびそこにいるすべての種の保存と繁栄という一般的な目的を目ざす、完全な機械、まとまった体系(system)」という自然観(宇宙観)にもつうじるものだといえるでしょう。つまりスミスは、この自然界(宇宙)はあまねく一般的な法則性によって支配されており体系的な秩序が成り立っているのだ、というイメージを託して、「自然のエコノミー」という語を使っていたのだと考えられるのです。正義の確立された社会についてスミスが述べた「自然的自由の体系」という語も、あくまでもこのような自然(宇宙)全体の秩序につながるイメージにおいて捉えられるべきでしょうし、「ポリティカル・エコノミー」という語もまた、こうした「自然のエコノミー」のミニマムな形態として、具体的には、政治的組織体における体系的な秩序(あるいは、政治的組織体をうまく管理するための方法)という意味合いにおいて、使われていたのだと考えることができるのです。
スミスの遺産を活かして現代の課題に応えうる経済学体系を構築していくといった場合、スミスのいわゆる「ポリティカル・エコノミー」を単純に政治経済(政治経済学)として捉えるだけではなく、あくまでも、世界(宇宙)全体の体系的秩序を把握しきらなければならない! という哲学的志向性を背景にもった言葉としてとらえていく必要があるでしょう。

 また、スミスの「見えざる手」という言葉についても、スミスの宇宙観を背景にもったものとしてとらえ返しておく必要があります。この宇宙全体あるいは宇宙の個々の部分について、体系的な秩序を成り立たせるように働いている力こそが「見えざる手」にほかならないのです。けっして、たんなる市場の自動調節機能に解消してよいものではありません。『国富論』においてスミスが実現を目指していたのは、全ての国民(その大きな部分を占めるのが下層の労働者)がそこそこの物質的な豊かさを保障され、人間らしく生きていくことのできる社会状態でした。スミスのいわゆる「見えざる手」は、国民が消費する生活必需品と便益品の生産量(社会の全収入)を最大にするような資本と労働の配分を実現してくれるからこそ尊重されるのであって、市場における自由な競争それ自体が自己目的化されていたわけではないことが強調されなければなりません。スミスが「見えざる手」を主張したのは、ハッキリいえば、経済的な強者(特権的な大商人や製造業者)の利害によって経済の自然なあり方が歪められてしまったために、経済的な弱者(下層労働者など)が痛めつけられている、という現状を打開しようとしたからにほかならないのです。ここでいう経済の自然なあり方とは、国民が年々に消費する生活必需品と便益品が、きちんと持続的に再生産されていけるように、資本と労働が適切に配分されていく状態のことです。スミスが「見えざる手」に任せるべきことを主張したのは、強者の利益のために歪められてしまった経済の自然なあり方を回復することこそが、下層労働者を含む国民全ての利益になると信じたからにほかならないのです。その背景には、この世界(宇宙)全体は、本来的に調和的なものとして存在しているのであって、人為的にその動きをかき乱さなければ、おのずから望ましい状態が実現されていくはずだ、というスミスの信念があったのです。こうした文脈から切り離して、「見えざる手」という言葉をもっぱら市場の自動調節機能を賛美するものとして流布するのは、スミスの真意を曲解するものといわなければなりません。

 私たちがスミスから学びとるべきことは、何よりもまず、問題の哲学的な把握を思考する精神――どんな問題を解くにしても、必ず、世界全体のなかの部分としての問題という位置づけを明確にしながら解いていこうという姿勢に徹すること――にほかなりません。現代の経済学の行きづまり――市場のみに視野を限定して、狭い意味での資源の最適配分や効率性、利潤の拡大ばかりを一面的に追求してきたことから行きづまり――を、世界全体のつながりを視野に入れた体系的な社会科学および経済学の構築によって克服し、現代の世界が抱える諸々の問題を解決してよりよい社会を築いていくための理論的な指針を示していくということこそが、スミスの遺産を現代に活かしていく道にほかならないのです。

〔予告〕
 本稿については、より詳しく説きなおす形で、来年発刊予定のわが研究会の機関誌『哲学への道(仮称)』に連載していく予定です。

(了)
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2017年10月07日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(12/13)

(12)スミスは具体的な社会問題を世界全体から解こうとした

 本稿は、現代社会の課題に応えうる学問体系の構築に向かっていくことこそアダム・スミスの遺産を現代に活かしていく道である、という問題意識から、『道徳感情論』と『国富論』という2大著作だけにとどまらないスミスの学問的構想の全体像について、描き出すことを試みるものでした。ここで、これまで説いてきた流れを振り返ってみることにしましょう。

 スミスが生きた18世紀のスコットランドは、イングランドとの合邦によって大きな経済発展を成し遂げつつあり、商業化された社会における人間性や道徳のあり方について考察を深めていく「スコットランド啓蒙」と呼ばれる思想的な流れを登場させていました。このような時代背景の下にグラスゴウ大学に入学したスミスは、恩師ハチスンの道徳哲学講義に決定的な影響を受け、自身も独自の道徳哲学体系の構築を志すようになったのでした。

 しかし、青年スミスは、科学的認識の確実性を否定してしまうかのようなヒュームの議論によって大きな不安を抱かされることになります。スミスは、この大きな不安を解消するために、古代ギリシャ以来の自然哲学の歴史的発展過程をたどり返してみようとしました。スミスは、人類が、新奇の現象に出会ったことから生じる不安を鎮めるために、新奇の現象と既知の現象とをつなげて理解するための結合原理を想像力によって創り出し、現実と突き合わせてその結合原理の妥当性を検証することで、自然にたいする認識をより確かなものにしてきたことをあきらかにしたのでした。こうしてスミスは、人間が客観的世界(自然)の法則性を認識していくことは可能であることを確認したのです。

 スミスは、自然哲学史研究をつうじて獲得した科学方法論を道徳哲学の構築という課題に適用していこうとしたのですが、その際、意志をもたない諸物の機械的運動を記述するための自然科学的な方法を、そのままの形で、自由意志をもった人間の集合体である社会の領域へと適用することができるのか、という問題にぶつかることになりました。スミスは、道徳哲学の第一部門として位置づけられた自然神学においてこのような問題について考察し、社会の客観的法則性というのは諸個人の自由意志にもとづいた行動の絡み合いをつうじてこそ貫徹されていくものである、という見方を確立したのでした。

 スミスは、自然哲学と道徳哲学を媒介するもうひとつの環として、生物学にも注目していました。自然神学的な考察は、諸個人の動きを総体として捉えたときにどのような法則性が浮上してくるのか、といったレベルの把握を可能にしようとするものだったといえますが、個々の具体的な人間はそもそもどのような存在なのか、といったレベルの把握は、生物学的な考察を基礎にしつつ、試みられていくことになったのです。スミスは生物学的な見地をふまえつつ人間の五感覚について検討した「外部感覚論」を著し、触覚こそが根源的な感覚にほかならないとの主張を展開しました。このことによってスミスは、先輩ヒュームの懐疑論的な人間観(他人の存在も自分自身の存在も不確かなものである!)を克服し、私たち人間が自分と異なる他者の存在について本能的といってよいレベルで確信を抱いている(自分以外の他人の存在を疑ったりしない!)ことを明確に確認したのでした。

 スミスは、人間は他人の存在について触覚によって示唆されるような生々しい知覚をもっているはずだ、ということを前提にして、想像上の立場(境遇)の交換によって共感が生じるのだという過程的構造、すなわち、想像の世界のなかで相手の境遇に自分自身を置いてみることによって相手の感情と同様の感情を抱くのだという過程的構造を解きました。この共感原理を全面的に展開したものこそ、『道徳感情論』にほかなりません。『道徳感情論』では、利己的でありながら周囲の人々に関心をもたずにはいられない存在である人間が、他人とかかわる経験(想像上の立場の交換)を積み重ねていくことによって、胸中に「公平な観察者」を創り出し、それによって利己心を適切にコントロールするようになることが説かれていました。スミスは、胸中の「公平な観察者」が利己的な自分を統制するという「自己統制」の徳の大枠のなかに成立するより具体的な徳として、将来の自分の幸福のために現在の諸欲求を抑えるという「慎慮」の徳、他人の身体や財産などを不当に侵害しないという「正義」の徳、他人に善行を施すという「仁愛」の徳を論じていました。このうち、権力によって強制されうるのは正義の徳だけですが、この正義の原則を首尾一貫した形で確立させるために求められるのが法学という学問です。こうした観点からスミスは、『道徳感情論』の末尾において、「私は別の論考において、法と統治の一般的諸原理について説明に努めるとともに、この一般的諸原理が社会のそれぞれ異なる時代ないし時期に応じてそれぞれこうむることになった種々の大変革について、たんに正義(司法 justice)にかんする事柄にとどまらず、行政(police)や公収入、および軍備にかかわる事柄、さらには法の対象となる他のすべての事柄も含めて、説明に努めるつもりでいる」と宣言したのでした。
こうした計画にもとづいてなされた『法学講義』は、正義(司法)にかかわる諸問題を論じる第1部、生活行政や公収入、軍備などを扱う第2部から構成されていました。このうち、第1部においては、狩猟→牧畜→農業→商業という社会の4つの発展段階をつうじて、「公平な観察者」による共感が積み重ねられていくことで、正義(所有権)が確立されていく過程がたどられていました。

 しかし、スミスは『道徳感情論』で『法と統治の一般的諸原理と歴史』と題されるべき著作を予告しながら、その前半部分については後回しにし、後半部分だけを『国富論』として独立させて執筆・出版することになります。これは端的には、スミスが、「公平な観察者」による共感の歴史的な積み重ねという論立てでは正義(所有権)の絶対性を論証できない、という難問にぶちあたってしまい、この難問解決への糸口を何とか見いだそうと苦闘したあげく、正義(所有権)の絶対的な確立というゴールの姿を明確にすることこそがそのゴールに到達するまでの歴史的な道筋を究明するヒントになるのではないか、という考えに至ったからであると思われます。

 このことを念頭において、『国富論』を法学体系の一部として捉えた場合、その第1篇および第2篇は、スミスの考える理想的な社会(商品交換社会)のあり方について、社会の制度的な枠組みとその内部における主体の行動原理との両面に目を配りながら理論化を試みたものだ、と把握することができました。すなわち、お互いの財産(所有物)を不当に侵害しないという正義が絶対的な枠組みとして確立されているなかで、個々の経済主体(資本所有者)が慎慮の徳にしたがって行動するならば、農業→製造業→国内商業→外国貿易という自然な順序で産業が発展していき、おのずから社会の全般的富裕が実現されていく、というわけです。こうした議論を裏側から支えるようにして、第3篇においてヨーロッパ経済史の批判的検討がなされ、第4篇において重商主義批判が展開されます。その上で、自然的自由の体系においてなお政府が果たすべき役割があるのだとして、第5篇において、市場論とのつながりを意識した財政論が展開されていくのでした。

 ここまでは、スミスが人間のつくる社会(法的な規範によって統括された共同体)について、その歴史的な発展過程を視野に入れつつ体系的に把握することを目指していたことにかかわるものでしたが、スミスにはもうひとつ、人間のつくる文化(学問および芸術一般)について、その歴史的な発展過程を視野に入れつつ体系的に把握するという構想もありました。これにかかわるものとしてまず注目されるのは、「哲学的研究を導き指導する諸原理」でした。ここでスミスは、感情および想像力に着目した学問論を展開していたのでした。感情あるいは想像力というものは、古代ギリシャ以来の学問の歴史において、学的認識(真実の認識)を妨げてしまうものとして、たいがい負のイメージで語られてきました。しかし、ロックのような受動的な反映論(人間の認識は鏡のように外界のあり方を写し取るものだ、という論)にとどまるかぎり、なぜ認識が客観的法則性を把握できるのか、まともに解くことはできません。客観的法則性とは、認識の側からの能動的な問いかけによって、いわば“現象させる”ことによらなければ、そもそも把握しようがないのです。それでは、認識の側からの能動的な問いかけを可能にするものは何かといえば、それは想像力であり、その想像力を駆り立てるのは感情にほかならない、ということになるのです。想像力を駆使してこそ感覚の限界を超えることができる、感覚器官を通じた直接的な反映では捉えきれないような対象の姿に迫ることができる――「哲学的研究を導き指導する諸原理」からはそうしたスミスの主張を読みとることができるのでした。

 学芸の歴史の把握というスミスの課題にかかわるものとして、「いわゆる模倣技術〔芸術〕において生じる模倣の性質について」という論文についても取り上げました。この論文でスミスは、芸術(模倣技術)における模倣について突っ込んで検討することで、模倣ということだけでは芸術の価値が生じる要因を説明しつくせないこと、芸術的な価値は模倣される対象(モデルとなるもの)と模倣するもの(表現の素材)との大きな差異を克服する技術の見事さへの驚嘆にもとづいていることを論じていました。しかしながら、作者の認識という問題はスミスの視野に明瞭には入って来ておらず、芸術作品の鑑賞者が、芸術作品を媒介として、その作者の感情に共感する、という構図を見て取ることができていなかったのでした。それは、18世紀後半においては、作者の主体的認識が強烈に表現されたような芸術作品はまだほとんど存在していなかった、という時代的な条件に制約されたものだと考えられるのでした。

 学芸の歴史の把握というスミスの課題にかかわるものとしては、『修辞学・文学講義』の存在も忘れてはなりませんでした。これは、適切な言語表現とはそもそもどのようなものであるのかという問題を究明したものであり、聞き手・読み手の共感を獲得するものこそがよい言語表現だ、という観点から、『道徳感情論』で展開された共感の原理が大きな役割を果たしています。スミスは、言語(文学)をそれ自体として取り上げるのではなく、あくまでも社会的な関係――これには、話し手(書き手)の境遇というレベルの小社会から、国家レベルの社会までが含まれます――のなかでつくられていくものとして取り上げ、言語によるコミュニケーションが、相互に共感を呼び起こしあうことをつうじて、よりよい人間関係(よりよい社会)を築いていく力をもっていることを力説していました。端的には、スミスは、言語を社会との相互浸透において(言語によって社会がつくられ、社会によって言語がつくられていくものとして)把握した、ということができるのでした。

 以上、本稿でこれまで説いてきた流れについて、ざっと振り返ってみました。このようにみてくると、『道徳感情論』も『国富論』も、スミスが構想していた壮大な学問体系のごく一部を占めるものにすぎないことはあきらかでしょう。スミスは、人間にかかわるあらゆる問題に関心をもち、天文学や生物学など自然科学の成果にもしっかりと学びながら、想像上の立場(境遇)の交換によって成立する共感を、社会と精神(学問・芸術一般)におけるバラバラの諸現象を結合していくための原理として位置づけ、歴史的に発展してきた国家社会(法的な規範によって統括された共同体)および文化(学問および芸術一般)についての体系的な把握を志していたわけです。スミスについて『国富論』を著した“経済学の祖”としてのみ捉えることが、また、『道徳感情論』と『国富論』の2冊からのみスミスの思想を捉えようとすることが、いかに狭い見方であり、スミスを過小評価するものであるか、納得してもらえてのではないでしょうか。スミスは、社会の具体的な問題を解くにしても、それを個別の問題として解くのではなく、あくまでも世界全体のつながりをふまえて解いていこうという志向性をもった、まさに哲学者と呼ぶのにふさわしい人物だったのです。

※スミスの哲学体系の構造については、以下のように図示することができるでしょう。スミス哲学体系の全体像.jpg
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2017年10月06日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(11/13)

(11)『修辞学・文学講義』――人間と人間とをつなぐ言語への関心

 前回は、「哲学的研究を導き指導する諸原理」などとともに遺稿集『哲学論文集』に収録された「いわゆる模倣技術〔芸術〕において生じる模倣の性質について」という論文を取り上げました。この論文でスミスは、芸術(模倣技術)における模倣について突っ込んで検討することで、模倣ということだけでは芸術の価値が生じる要因を説明しつくせないこと、芸術的な価値は模倣される対象(モデルとなるもの)と模倣するもの(表現の素材)との大きな差異を克服する技術の見事さへの驚嘆にもとづいていることを論じていました。しかしながら、作者の認識という問題はスミスの視野に明瞭には入って来ておらず、芸術作品の鑑賞者が、芸術作品を媒介として、その作者の感情に共感する、という構図を見て取ることができていなかったのでした。それは、18世紀後半においては、作者の主体的認識が強烈に表現されたような芸術作品はまだほとんど存在していなかった、という時代的な条件に制約されたものだと考えられるのでした。

 さて、「文学、哲学、詩、雄弁(eloquence)などの種々の分野すべてにかんする哲学的歴史」の構想とのかかわりで忘れてはならないものとして、『修辞学・文学講義』があります。これは、スミスのグラスゴウ大学での講義を受講生が筆記したノートにもとづくものです。

 スミスは、1751年にグラスゴウ大学の論理学教授に就任すると、従来のスコラ的な論理学(カトリックの絶対的権威が失われていくなかで、煩瑣で無用な議論をするものだと受け止められるようになっていました)ではなく、もっと面白くて有益な学びを学生に提供しようという意図のもと、古代ギリシャの論理学をごく簡単に解説した後はもっぱら修辞学や文学の問題を中心に論じたといわれています。こうした講義は、1752年にスミスが道徳哲学教授に転じた後も、1763年に大学を辞するまで継続されました。このうち、1762年から1763年にかけての講義(すなわち最後の講義)を受講した学生のノートにもとづいて出版されたものが、『修辞学・文学講義』(原題:Lectures on Rhetoric and Belles Lettres)です。これはスミス自身が書いた文章ではなく、あくまでも学生の筆記にもとづくものです。全30回の講義のうち第1講がどういうわけかすっぽりと欠落していますし、空白(聞き取れなかった部分を空けたままにしておいたのでしょう)も多く、明らかな書き誤りも少なからずあるようです。そういう不完全なノートにもとづくものですから、あまり細かい部分にとらわれないようにして、スミスの論じたかった内容をあくまでも大きな流れからざっくりとつかむ、といった読み方が必要になります。この講義ノートは、30回の講義を日付順に記録していったものであり、立体的な目次立てがあるわけではありませんが、その内容に即して『修辞学・文学講義』全体の構成を図式的に示すならば、以下のようになるでしょう。

1、言語・文体・性格について
(1)言語の発展と起源について(2-3講)
(2)言語と文体について(4-6講)
(3)文体と性格について(7-11講)
2、論説の諸形態について
(1)事実を述べる論説について
 ・対象(事実)を記述する方法について(12-15講)
 ・歴史の記述について(16-20講)
  *叙事詩と演劇について(21講)
(2)命題を立証する論説(弁論)について
 ・演示型弁論について(22-23講)
  *訓話型論説(科学的論説)について(24講)
 ・討議型弁論について(25-27講)
 ・法廷弁論について(28-30講)

 スミスは、明晰な文体とはどういうものかを論じるにあたって、まずは、多数言語の複合体である英語の欠陥について、言語一般の起源と発展を踏まえつつ論じています。スミスは、言語の起源を、太古の人々が自分たちの生活に決定的な影響を与える特定の対象(悪天候から逃れるための特定の洞穴、飢えを癒す果実をつける特定の木、のどの渇きをうるおす水をたたえた特定の泉など)を指示するために特定の名称を与えたところに見出し、対象を抽象化して捉える人々の認識能力の発展にともなってさまざまな品詞が生み出されてきたこと(対象がもつ性質を対象そのものと区別して把握できるようになることで形容詞が形成され、さらにある関係を関係する諸対象とは区別して把握できるほどに抽象化能力が高まることによってはじめて前置詞が形成されうること)を論じています。その上で、英語の欠陥(外来語が多く、もとの言語を熟知していなければ理解しがたい単語が多い)を正すために言葉の適正な配列に心を砕くべきことを強調し、文体についての議論に入っていくのです。そのなかでは、文体が作者の精神(個性的認識)によって規定され、作者の精神(個性的認識)は作者の置かれた境遇によって支配されることも、と論じられていきます。

 続いてスミスは、論説の諸形態について、事実を述べる論説と命題を立証する論説(弁論)の大きく2つに分けて論じていきます。

 まず、事実を述べる論説についてですが、ここでは、記述の対象となる事実が、外的か内的か(精神の外側か内側か)、単純か複雑か、という2つの軸によって、大きく4つ――単純で外的な事実(外的諸物体)、単純で内的な事実(人間の感情)、複雑で外的な事実(人間の行動)、複雑で内的な事実(人間の性格)に分けられます。その上で、事実を記述する方法として直接法(ある対象の性質を直接に記述する方法)と間接法(ある対象の性質を、それを見る人の心に生み出される効果を媒介として、記述する方法)の2つが挙げられ、先に4つに区分された事実のそれぞれについて、直接法と間接法のどちらが適しているかが検討されていくのです。さらに、4つの事実の複合体としての歴史をどのように記述すべきか、という問題が論じられます。ちなみに、歴史叙述の企図についてスミスは、「諸々の国民に生起した注目すべき事件と、その時代の最重要人物たちの企図、動機、見解とを、その歴史叙述が語ろうと意図している諸国家の重大な変化と革命の説明に必要な限りにおいて、述べることである」としています。なお、補足的に叙事詩と演劇についても論じられているのですが、ここでスミスは、古代ギリシャ・ローマにおける寓話物語から悲劇へという文学の形態の変化、あるいは中世ヨーロッパにおける騎士物語から小説へという文学の形態の変化を、人々の啓蒙の度合いによって規定されたものとして把握しています。読み手(聞き手)の知識の度合いが高まっていくにつれて、怪異な化け物たちや怪奇現象などによって読者を驚かせ面白がらせようとする空想的物語が馬鹿げたものとみなされるようになり、人間の行動や感情についての微妙な表現が好まれるようになってきたのだ、というわけです。また、スミスは、散文の発展よりも詩の発展が先行する(詩を書く方が難しいように思われるにもかかわらず!)のはなぜか、という問題を立てて、考察してもいます。原始社会においては、生きるための労働が終わった後の余興のひとつとして歌が歌われたのであり、言語表現を音楽のリズムに合わせる必要から詩的な表現形式が著しく発展していくことになったのだろう、というのが、スミスの推測です。その上でスミスは、快楽と享楽のための詩(観賞用表現)とビジネスのための散文(実用的表現)という対比を提示し、(もともと実用的表現でしかなった)散文においても改良が追求されるようになる(観賞用表現として磨き上げていこうという試みがなされるようになる)には、商業の発展と富裕の導入によって、生産的労働から解放されて多くの余暇を持つ人々が登場してくるのを待たなければならなかった、と論じています。

 命題を立証する論説(弁論)については、アリストテレス以来の伝統にのっとって、演示型弁論(ある人物を賞賛することを目的とした弁論)、討議型弁論(国家の重要問題に関して議会でなされた弁論)、法廷弁論の3つに分けて論じられています。なお、討議型弁論についての考察への導入として、訓話型論説(didactic discourse)が取り上げられ、このなかで自然哲学の論文におけるアリストテレス的な方法とニュートン的な方法との比較がなされています。アリストテレス的方法というのは、ある部門について、生起してくる諸々の現象をひとつずつ検討し、それぞれについてひとつひとつ原理的説明を与えていくものです。これにたいしてニュートン的方法というのは、はじめにひとつの根本的な原理を提示し、そのひとつの原理によって諸々の現象を全てつなげて説明しようとするものです。スミスは、後者のやり方こそ私たちに大きな喜びを与えるものである、と強調しています(これは、本稿の連載第3回および第9回でとりあげた「天文学史」の議論につうじるものです)。

 討議型弁論については、古代アテナイ弁論家のデモステネスの飾り気のない文体と、古代ローマ弁論家のキケロの威厳に満ちた文体との差異について、国家の歴史的形態の差異から説明していることが注目されます。市民たちの間に大きな格差のなかったアテナイでは、市民どうしが親しげに飾り気なく語り合っていたのに対して、貴族と平民の間に決定的な格差が存在していたローマでは、貴族たちは自分の権威を誇示するためことさらに大袈裟で飾り立てた言語で語るようになったのだ、というわけです。

 この『修辞学・文学講義』の意義は、大きく3つに整理することができます。

 第一は、スミスが言語表現だけを孤立させて捉えるのではなく、あくまでも話し手(書き手)の認識や社会的外界とのつながりにおいて把握しようとしていることです。従来の修辞学が、言語表現のみに着目してその美しさをあれこれ論じてきたのにたいして、スミスは、話し手(書き手)と聞き手(読み手)とのコミュニケーション(精神的交通)の全過程を視野に入れて、その過程をスムーズに進行させる言語表現こそが美しく力強いのだ、と主張します。さらにスミスが、よい文体とはどういうものかという問題をめぐって、文体は著者の精神(個性的認識)によって規定され、著者の精神(個性的認識)は著者の置かれた境遇によって支配されるのだ、と論じてもいることも注目に値します。

 第二は、スミスが言語表現の歴史的な発展過程について、社会的な認識あるいは社会的な労働の歴史的な発展過程に規定されたものであると理解しようとしていることです。とりわけ、スミスが、太古の人々の生活のあり方を具体的にイメージしながら、彼らの認識能力の発展(対象を抽象化して捉える能力の発展)との関連で、言語の起源と発展過程について考察したのは、非常にすぐれた発想だといえます。さらに、寓話物語から悲劇へ、騎士物語から小説へという文学の形態の変化を、人々の啓蒙の度合いによって規定されたものとして把握していたこと、散文の発展よりも詩の発展が先行するのはなぜかという問題について、社会的労働の形態の歴史的発展という観点から解答を与えようと試みていたこと、デモステネスとキケロの文体の違いを、アテナイとローマの社会的条件の違いから説明していたことも注目されます。

 第三に、スミスが言語表現によって読み手の心が動かされるのは「共感」によるものにほかならないと強調していることです。スミスは、言語は話し手(書き手)自身、あるいは話し手(書き手)の語る第三者(物語中の登場人物)への共感を呼び起こす力をもつという点に注目して、言語がこうした力を効果的に発揮するためにはどうすればよいのかという観点から、文章表現のあり方を論じています。端的には、スミスは一貫して感情を的確に伝えるという観点から言語の美しさ・力強さを論じているといえるのですが、こうした観点は(通常は感情に対立する理性の産物と考えられる)科学的な論文の良し悪しという問題にまで適用されていきます。私たち人間は、目の前の諸々の現象がどうにもつながらないということに不安を感じ、目の前の諸々の現象をきちんとつなげて把握できるということに喜びを感じる存在であり、私たちが学問的な論文を読んでその見事な説明に喜びを感じるとすれば、それはつまるところ、著者(哲学者・科学者)の「なるほど、このようにつながっているのか!」という発見の喜びにたいして、私たちが共感を覚えるからにほかならないのだ、ということになるわけです。スミスは、こうした著者の感情を的確に読者に伝えるためには、叙述に隙間をつくらないようにすること、物語的な流れのなかで自然なつながりが感じられるような形で諸々の事実を提示することが必要だということも論じています。結論的には、諸事実をきちんとつなげた形で(叙述にどのような隙間もつくらずに)記述することこそが、読者にとって分かりやすい文章を書くことにほかならないのであり、そういう分かりやすさによってこそ、読者の共感を呼び起こすことができるのだ、ということになります。

 以上をようするに、スミスは、言語(文学)をそれ自体として取り上げるのではなく、あくまでも社会的な関係――これには、話し手(書き手)の境遇というレベルの小社会から、国家レベルの社会までが含まれます――のなかでつくられていくものとして取り上げ、言語によるコミュニケーションが、相互に共感を呼び起こしあうことをつうじて、よりよい人間関係(よりよい社会)を築いていく力をもっていることを力説したのだ、ということができるでしょう。一言でいうならば、スミスは言語を社会との相互浸透において(言語によって社会がつくられ、社会によって言語がつくられていくものとして)把握した、ということができるのです。
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2017年10月05日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(10/13)

(10)「模倣技術〔芸術〕論」――芸術の価値の源泉を問う

 前回は、「文学、哲学、詩、雄弁(eloquence)などの種々の分野すべてにかんする哲学的歴史」の一部を占めるはずだったと思われる「哲学的研究を導き指導する諸原理」において、スミスが、感情および想像力に着目した学問論を展開していたことをみました。感情あるいは想像力というものは、古代ギリシャ以来の学問の歴史において、学的認識(真実の認識)を妨げてしまうものとして、たいがい負のイメージで語られてきました。しかし、ロックのような受動的な反映論(人間の認識は鏡のように外界のあり方を写し取るものだ、という論)にとどまるかぎり、なぜ認識が客観的法則性を把握できるのか、まともに解くことはできません。客観的法則性とは、認識の側からの能動的な問いかけによって、いわば“現象させる”ことによらなければ、そもそも把握しようがないのです。それでは、認識の側からの能動的な問いかけを可能にするものは何かといえば、それは想像力であり、その想像力を駆り立てるのは感情にほかならない、ということになるのです。想像力を駆使してこそ感覚の限界を超えることができる、感覚器官を通じた直接的な反映では捉えきれないような対象の姿に迫ることができる――「哲学的研究を導き指導する諸原理」からはそうしたスミスの主張を読みとることができるのでした。

 さて、「文学、哲学、詩、雄弁(eloquence)などの種々の分野すべてにかんする哲学的歴史」の構想とのかかわりでもうひとつ注目されるのは、「哲学的研究を導き指導する諸原理」などとともに遺稿集『哲学論文集』に収録された「いわゆる模倣技術〔芸術〕において生じる模倣の性質について」という論文です。

 この論文のタイトルにある「模倣技術(imitative arts)」という語について、まずは説明しておくべきでしょう。そもそも、現代の私たちがイメージするような芸術という観念は、18世紀後半から19世紀になってようやく成立したものです。では、それ以前はどうだったのかといえば、いわゆる芸術が技術一般から明瞭には区別されていませんでした(このことは、技術も芸術も英語では art であるし、ドイツ語では Kunst であることからもあきらかです)。ようするに、芸術とはもともとある種の特殊な技術(art)にほかならなかったのです。では、絵画や彫刻や詩などがどのような技術とされていたかといえば、端的には、自然を模倣する技術だとされていました(これにたいして、農業などは自然を補完する技術として位置づけられていました)。芸術は自然の模倣であるとすれば、論理的には、芸術の価値(良し悪し)は、自然の事物(あるいはそれに人間の手が加わった人工物)を忠実に写し取っているか否かによって決まってくるのだ、ということにならざるをえません。例えば、現実のリンゴの色や形を忠実に写し取った絵こそがよい絵なのである、ということになるわけです。

 ところが、18世紀後半以降、芸術の価値は対象を忠実に写したかどうかではなく、あくまでも作者の創造性にこそ求められるべきだ、という論が登場してきます。極端にいえば、作者が創造性を発揮して、実際には赤くて丸いリンゴを青くて四角いものとして描いたとしても、それはそれで大いに結構だ、ということにもなっていくわけです。

 「いわゆる模倣技術〔芸術〕において生じる模倣の性質について」が書かれたのは、スミス自身の手紙や周辺人物の証言などから、スミス(1723−89)の晩年といってよい1780年代のことであると推定されています(邦訳『哲学論文集』名古屋大学出版の解説など)。この時期は、大きく見れば、芸術が自然を模倣する技術だと見なされていたところから、作者の創造性を重視する芸術論が登場してくる過渡期にあたっていました。スミスは、こうした芸術論の過渡期にあって、自然(あるいは自然を加工した人工物)を模倣する技術とされてきた芸術において、実際のところ模倣はどのような役割を果たしているのか、芸術の価値(良し悪し)にどのような影響を与えているのか、突っ込んで考察したのでした。それでは、スミスの考察は、芸術の価値の源泉について何をあきらかにしたといえるのでしょうか?

 この論文は、以下の3つの部分から構成されています。まず、第1部では、絵画と彫刻における模倣が検討され、続く第2部では、舞踊、音楽、詩(いわゆる「三姉妹芸術」)における模倣が検討されます。この第2部は論文全体のおよそ3分の2を占める長大なものであり、三姉妹芸術のなかでも音楽、とりわけ器楽が検討の中心となっています。最後の第3部は非常に短いものであり、舞踊における模倣の問題が古代舞踊と近代舞踊を比較することでごく簡単に考察されています。

 もう少しくわしく確認しておきましょう。

 第1部では、完全な模倣とはどういうことか、という観点から議論がスタートし、絵画と彫刻における模倣が検討されてゆきます。その結果、模倣そのものの完全さ(その極限が欺瞞、すなわちコピーにすぎないものを本物と見まちがわせようとすること)はなんらの芸術的価値も生まないのであり、芸術的な価値は、模倣される対象(モデルとなるもの)と模倣するもの(表現の素材)との大きな物質的な差異を克服する技術の見事さへの驚嘆にもとづいているのだ、とされることになります。「全然似ていない素材を使って、よくもここまで似せたものだ!」という驚嘆こそが、彫刻や絵画を見た際の快楽の基礎となる、というわけです。

 第2部の前半部分では、いわゆる「三姉妹芸術」(音楽、舞踊、詩)相互の関係について、それらの歴史的な起源および発展過程をも視野に入れて論じられています。スミスは、空腹を満たし寒さ暑さから身を守ることができるようになった人間が、次に求めたのは音楽と舞踊の楽しみだった、といいます。満たされた身体を(音を伴う形で)楽しく動かしたくなってきた、ということでしょう。スミスは、あるリズムに合わせ身体を動かして声を発するという形で、音楽と舞踊が密接不可分なものとしてまず成立し、その声が無意味な音楽的「言葉」から明瞭な意味をもった言葉に置き換えられていくことによって詩が成立したのだ、と説いています。このように「三姉妹芸術」の成立過程を説いたスミスは、舞踊は音楽から離れては存在しえない(音楽的な速度と拍子を伴わなければ、諸々の動作の適切な速度と拍子とを知覚することができない)が、器楽は詩からも舞踊からも離れて単独で存在できる、と主張しています。第2部後半では、この器楽が考察の対象となります。スミスは詩と音楽が結合した声楽(歌曲)が、三重の過程(作詞者による模倣、作曲者による模倣、歌手による模倣)によって、何らかの出来事にたいしてのきわめて強い模倣力を発揮することを強調する一方、器楽が現実の対象を模倣する力は、非常に貧弱なものでしかない、と断じています。器楽は、何らかの出来事を具体的に描写することはできないし、その出来事の当事者がどのような感情を抱いたかについて、全ての聴き手がハッキリと理解できるように表現することはできない、というのです。それでは、器楽がもたらす感動の源泉はどこにあるというのでしょうか? スミスは、器楽がもたらす感動の源泉をめぐって、精神(心)における思考や観念の連なりと音楽における音の連なりとの類似性について着目し、器楽は高い音と低い音や類似音と対照音の適切な配列により、また継起の緩急により、陽気な、平静な、あるいは憂鬱な気分に適応しうるのだ、と論じています。しかし、スミスは、こうした音の連なりが作曲者の感情(思考や観念の連なり)を模倣したものである、とは論じていません。スミスによれば、器楽はそれ自体が、陽気、平静、憂鬱な対象なのであって、器楽を聴いて私たちが抱く感情というのは、あくまでも本源的な感情、すなわち、他者の感情への共感を媒介として成立した感情ではなく、さまざまな音の連なりによって呼び起こされた、私たち自身の陽気、平静、憂鬱である、としてしまったのでした。

 以上のように、芸術の価値(良し悪し)、いいかえれば、芸術作品がその鑑賞者に与える満足感の源泉について考察してきたスミスは、模倣の性質について突っ込んで検討することで、模倣そのものの見事さということだけでは芸術の価値が生じる要因を説明しつくせないことを示したといえます。模倣ということにかかわって、スミスは、芸術的な価値は模倣される対象(モデルとなるもの)と模倣するもの(表現の素材)との大きな差異を克服する技術の見事さへの驚嘆にもとづいている、という重要な命題を提起していました。模倣される対象と模倣したものとの差異を克服する技術に対する感嘆という指摘は、(作者から切り離された)模倣そのものの忠実さではなく、模倣する技術の巧拙、もう少し踏み込んでいえば、その技術を駆使する人間の主体性に着目しようとしたものだということができるでしょう。しかしながら、スミスは、作者の創造的認識こそがその源泉にほかならない、ということまでは、ついにハッキリとはつかむことができなかったのです。器楽のもたらす感動は、聴き手が作曲者の感情に共感することによるのではなく、さまざまな音の連なりそのものが、聴き手の心のなかに、それらの音の連なりに類似した思考や観念の連なり(陽気な気分、平静な気分、憂鬱な気分など)を呼び起こすことによる、と結論づけられてしまったのでした。
このように、作者の認識というものは、スミスの視野に明瞭には入って来ていませんでした。スミスは、芸術作品の鑑賞者が、芸術作品を媒介として、その作者の感情に共感する、という構図を見て取ることができなかったのです(*)。このことは、スミス自身が『道徳感情論』において共感論を全面的に展開していたことを思えば、非常に奇妙なことのようにも思われます。「模倣技術論」においても、共感というキーワードが登場しないわけではないのですが、それは、鑑賞者が作者に共感するという構図においてではなく、鑑賞者が物語の登場人物に共感する、という構図においてでしかないのです。

 では、スミスが芸術の作者の認識に着目しきれなかったのは、なぜなのでしょうか? それは、端的には歴史的な制約ではないかと思われます。18世紀後半においては、作者の主体的認識が強烈に表現されたような芸術作品はまだほとんど存在していなかったのです。とりわけ、「模倣技術論」で中心的な考察の対象となった器楽についていえば、18世紀後半はバロック音楽から古典派音楽への過渡期でしかないのです。作曲者の主体的認識が強烈に表現された器楽曲は、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」からようやくはじまるといっても過言ではありません。この曲が公開初演されるのは、1805年、スミスの死後15年経ってからのことだったのです。

 現代の芸術論の水準(三浦つとむ『芸術とはどういうものか』など)をふまえるならば、芸術は作者の認識の表現であり、作者の認識のレベルの高さが芸術的な価値の源泉である、ということができます。スミスの「模倣技術論」は、結果としてみれば、この正解に到達することはできていませんでした。しかし、18世紀後半という時代的制約のもとにありながら、徹底的に突きつめた考察によって伝統的な芸術論の限界を乗り越えていこうという力強さを感じさせる、非常に魅力的な論文であることは間違いありません。人類社会の歴史的な発展過程とかかわらせながら諸芸術の成立過程を考察したり、精神の内部における思考や観念の連なりと音楽における音の連なりとの類似に着目したりした点などは、現代における芸術論の発展という観点からも、非常に示唆に富むものだといってよいでしょう。

 私たちは、この「模倣技術論」について、結論の不充分さをあげつらうのではなく、その結論に至る過程におけるアダム・スミスのアタマの働かせ方の見事さにしっかりと学ぶべきなのです。この点にこそ、哲学者アダム・スミスに学ぶ大きな意義があるといえるでしょう。 
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2017年10月04日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(9/13)

(9)「哲学的研究を導き指導する諸原理」――感情および想像力に着目した学問論

 本稿は、現代社会の課題に応えうる学問体系の構築に向かっていくことこそアダム・スミスの遺産を現代に活かしていく道である、という問題意識から、『道徳感情論』と『国富論』という二大著作だけにとどまらないスミスの学問的構想の全体像について、おもに社会科学にかかわる側面に重点を置いて、描き出すことを試みています。

 前回までの3回にわたっては、『道徳感情論』から『法学講義』を経て『国富論』へと至る流れをたどってみました。『道徳感情論』では、利己的でありながら周囲の人々に関心をもたずにはいられない存在である人間が、他人とかかわる経験(想像上の立場の交換)を積み重ねていくことによって、胸中に「公平な観察者」を創り出し、それによって利己心を適切にコントロールするようになることが説かれていました。スミスは、胸中の「公平な観察者」が利己的な自分を統制するという「自己統制」の徳の大枠のなかに成立するより具体的な徳として、将来の自分の幸福のために現在の諸欲求を抑えるという「慎慮」の徳、他人の身体や財産などを不当に侵害しないという「正義」の徳、他人に善行を施すという「仁愛」の徳を論じていました。このうち、権力によって強制されうるのは正義の徳だけですが、この正義の原則を首尾一貫した形で確立させるために求められるのが法学という学問です。こうした観点からスミスは、『道徳感情論』の末尾において、「私は別の論考において、法と統治の一般的諸原理について説明に努めるとともに、この一般的諸原理が社会のそれぞれ異なる時代ないし時期に応じてそれぞれこうむることになった種々の大変革について、たんに正義(司法 justice)にかんする事柄にとどまらず、行政(police)や公収入、および軍備にかかわる事柄、さらには法の対象となる他のすべての事柄も含めて、説明に努めるつもりでいる」と宣言したのでした。こうした計画にもとづいてなされた『法学講義』は、正義(司法)にかかわる諸問題を論じる第1部、生活行政や公収入、軍備などを扱う第2部から構成されていました。このうち、第1部においては、狩猟→牧畜→農業→商業という社会の4つの発展段階をつうじて、「公平な観察者」による共感が積み重ねられていくことで、正義(所有権)が確立されていく過程がたどられていました。しかし、スミスは『道徳感情論』で『法と統治の一般的諸原理と歴史』と題されるべき著作を予告しながら、その前半部分については後回しにし、後半部分だけを『国富論』として独立させて執筆・出版することになります。これは端的には、スミスが、「公平な観察者」による共感の歴史的な積み重ねという論立てでは正義(所有権)の絶対性を論証できない、という難問にぶちあたってしまい、この難問解決への糸口を何とか見いだそうと苦闘したあげく、正義(所有権)の絶対的な確立というゴールの姿を明確にすることこそがそのゴールに到達するまでの歴史的な道筋を究明するヒントになるのではないか、という考えに至ったからであると思われます。このことを念頭において、『国富論』を法学体系の一部として捉えた場合、その第1篇および第2篇は、スミスの考える理想的な社会(商品交換社会)のあり方について、社会の制度的な枠組みとその内部における主体の行動原理との両面に目を配りながら理論化を試みたものだ、と把握することができました。すなわち、お互いの財産(所有物)を不当に侵害しないという正義が絶対的な枠組みとして確立されているなかで、個々の経済主体(資本所有者)が慎慮の徳にしたがって行動するならば、農業→製造業→国内商業→外国貿易という自然な順序で産業が発展していき、おのずから社会の全般的富裕が実現されていく、というわけです。こうした議論を裏側から支えるようにして、第3篇においてヨーロッパ経済史の批判的検討がなされ、第4篇において重商主義批判が展開されます。その上で、自然的自由の体系においてなお政府が果たすべき役割があるのだとして、第5篇において、市場論とのつながりを意識した財政論が展開されていくのでした。

 さて、以上のような流れは、本稿の連載第2回で紹介したラ・ロシュフーコー宛ての手紙に登場する文言でいえば、「法と統治の一般的諸原理と歴史」を扱う著作の計画にかかわるものでした。ここで思い出してもらいたいのは、この手紙のなかではもうひとつ、「文学、哲学、詩、雄弁(eloquence)などの種々の分野すべてにかんする哲学的歴史」を扱う著作の計画が触れられていたことです。それでは、このもうひとつの著作では、どのような内容が説かれるはずだったのでしょうか?

 その重要な部分を占めると思われるのは、本稿の連載第3回でとりあげた「哲学的研究を導き指導する諸原理」という共通タイトルを冠された3つの論文(「――天文学の歴史による例証」「――古代自然学の歴史による例証」「――古代論理学と古代形而上学の歴史による例証」)です。これらの論文は、道徳哲学(社会科学)の構築のための確かな武器となる科学方法論(具体的には結合原理という発想)を自然哲学(自然科学)の歴史からつかみとろうとするものであったと同時に、そもそも人間にとって哲学とは何なのか、哲学の起源と発展の原動力を探ろうとするものであったともいえます。

 スミスは、「天文学の歴史による例証」の冒頭で、「驚駭 wonder、驚愕 surprise、驚嘆 admiration は、しばしば混同されるけれども、……相互に区別される、諸感情を示す語である。目新しく奇異であることが厳密な意味で驚駭と名づけるのが適切な感情を呼び起こし、意外なことが驚愕を、壮大なことあるいは美しいことが驚嘆という感情を呼び起こす」と述べ、「この論文の企図は、これらの感情それぞれの性質と原因を個々に考察することにある」としています。この論文におけるスミスの問題意識は、あくまでも感情の問題、もう少し正確にいえば、哲学的探究の動機としての感情の問題にあるのです。スミスが、哲学的探究の直接の動機となると見なしたのは、驚駭と呼ばれる感情でした。端的には、新奇な現象、あるいは、通常ではありえないような(想像力がなじんでいるのとは全く異なる)事物・事象のつながりに出会ったときに抱かれる「どうしてこんなところにこんなものが!?」という驚駭の念こそが、「自然の結合諸原理の科学」たる哲学の出発点である、というのがスミスの主張なのです。

 それでは、こうした驚駭の念は、「自然の結合諸原理の科学」へとどのようにつながっていくことになるのでしょうか? このことを確認するためには、ヒュームの観念連合の議論にまでさかのぼってみなければなりません。スミスに大きな影響を与えたヒュームは、2つの出来事の連続がくり返し観察されるならば、それらの2つの出来事についての観念どうしが結びつけられようになる、と論じていました。しかし、もっぱら心のなかを見つめたヒュームは、ある観念と他の観念とが習慣によって結びつけられることを指摘するにとどまり、客観的世界において2つの出来事が必然的に結びついていることは否定する立場をとったのです。ところが、習慣によって2つの観念が結合されているだけだ、というヒュームの議論の到達点(イギリス経験論の最後の帰結ともえいます)は、スミスにとっては、自身の議論の出発点でしかありませんでした。スミスは、諸現象が習慣的な連関と全く異なる順序で現れるならば、想像力が先行する現象から後続する現象へとなめらかに移行することができなくなる、という極めて重大な指摘を行うのです。スミスによれば、想像力は、それら2つの事象の間に隔たりがあることに驚き不安を感じて、両者をつないでくれる目には見えない鎖のようなもの――「中間的諸事象の鎖」――を想定することで、何とか安らぎを得ようとします。こうして、「世界で生じる様々な変化の全てを結合しようと努力する科学」(「古代論理学と古代形而上学の歴史による例証」)である哲学が誕生することになるのです。

 スミスは、「天文学の歴史による例証」において、古代ギリシャ以降、天体現象を統一的に説明するために様々な「体系(system)」が模索されてきたこと、換言するならば、太陽の運動、月の運動、恒星の運動、惑星の運動というバラバラな天体諸現象を統一的に説明するための「中間的諸事象の鎖」が様々に想定されてきたことを論じています。スミスは、天文学の歴史をざっと概観することによって、既存の「体系(system)」では説明できない新奇の現象(例えば、惑星の運動)に直面させられたとき、既知の現象と新奇の現象とを結びつけて統一的に説明できるような新しい結合原理にもとづく新しい「体系(system)」が構築されていくという過程が繰り返されることによって、人間が天体現象についての認識を段々と深めていったことを明らかにしたのでした。

 私たちは、スミスによって描かれた天文学史の流れから、次のような結論を導き出すことができるでしょう。人間は、バラバラの諸現象をつなげて理解するために、想像力を使って、何らかの結合原理を創り出します。しかし、心のなかで、結合原理を媒介にしてバラバラの諸現象がつなげられればそれで終わり! ということではありません。その結合原理が妥当なものであるかどうかは、あくまでも現実の諸現象と突き合わせることによって検証されていかなければならないのです。仮に、何らかの新奇な現象の登場によって既存の結合原理の不充分さが露呈してしまったならば、そのことが新たな不安を引き起こすのであり、その不安を鎮めるために、より確かな結合原理が模索されていくことになります。人類は、このような過程をくり返すことで、客観的世界に存在する法則性についての認識をより確かなものにしてきたのでした。

 ここで注目したいのは、スミスが、あくまでも感情や想像力に注目して天文学の発展を論じていた点です。感情あるいは想像力というものは、古代ギリシャ以来の学問の歴史において、学的認識(真実の認識)を妨げてしまうものとして、たいがい負のイメージで語られてきました。「理性・知性・悟性などは、人間が真理を獲得するための高い認識源泉であるのに対して、感情・感性・想像力など総じて感性的なものは……仮象や誤謬の源泉であるという考え方は、近世哲学の真理観をつらぬく根本的な図式」(黒崎岩男『カント「純粋理性批判」入門』講談社選書メチエ、p.67)であったのです。認識の二大源泉のひとつとして感覚を重視したロックの『人間知性論』においてさえ、想像力には積極的な役割が与えられておらず、むしろ、心が諸々の観念を勝手気ままにもてあそんで、客観的実在とはかけ離れた不確かなイメージを創ってしまうような力として、捉えられているきらいがあります(*)。

 それだけに、スミスがこうした学問的な常識を大転換させるような見方を打ち出したのは、まさに画期的なことであったといえるでしょう。客観的な法則性というものは感覚器官で直接に捉えられるものでありませんから、ロックのような受動的な反映論(人間の認識は鏡のように外界のあり方を写し取るものだ、という論)にとどまるかぎり、なぜ認識が客観的法則性を把握できるのか、まともに解くことはできません。そこから、ヒュームのような因果律批判が生まれてくることにもなるのです。客観的法則性とは、認識の側からの能動的な問いかけによって、いわば“現象させる”ことによらなければ、そもそも把握しようがありません。それでは、認識の側からの能動的な問いかけを可能にするものは何かといえば、それは想像力であり、その想像力を駆り立てるのは感情にほかならない、ということになるのです。想像力を駆使してこそ感覚の限界を超えることが出来る、感覚器官を通じた直接的な反映では捉えきれないような対象の姿に迫ることが出来る――「哲学的研究を導き指導する諸原理」を著したスミスは、漠然とした形ではあれ、このようなことをつかみかけていたのではないかと思われます。スミスは、感情や想像力の果たす役割に着目して学問史を検討したからこそ、イギリス経験論の限界を突破することが可能になったといえそうです。

(*)「私には狂人が推理機能を失ってしまったとは見えない。ただ、狂人は観念をはなはだしく正しくなく結び合わせてしまい、これを真理と間違えて、正しくない原理から正しく論ずる人が誤るのと同じように誤る。なぜなら、狂人はその想像のはげしさのため、空想を実在事と取り違えてしまって、空想から正しく演繹するのである」(ロック『人間知性論(一)』大槻春彦訳、岩波文庫、p.230)

「ロックには知性の受動性を強調しすぎる嫌いが、あるいは能動性にじゅうぶんな配慮を払わない恨みが、たしかにあると言える。……かれは、心象構成機能としての想像の積極的役割をほとんど全くと言ってよいほど無視している。……この機能を、ロックは公刊本では簡単に、しかも狂人の心理と結びつけて、価値低く取り扱うだけであり(本分冊二三〇ページ)、日記では一六七八年一月二二日に記憶と比較しながら考察しているが、この場合も狂気と関連させて、低い位置しか与えていないのである」(同「解説」、p.327)
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2017年10月03日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(8/13)

(8)『国富論』――社会の完成形態としての商業社会の究明

 前回は、スミスの『法学講義』がどのような内容をもったものであったのか、簡単に確認しておいたわけですが、ここで大きな問題として浮上してくるのは、『法学講義』と『国富論』(正式なタイトルは『国の富の本質と原因にかんする研究』、原題:An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)との関係という問題です。晩年のスミスは、『道徳感情論』第6版(1790年)の序文において、次のように述べています。

「この著作の初版の最終パラグラフで私は、別の論考において、法と統治の一般的諸原理について説明に努めるとともに、この一般的諸原理が社会のそれぞれ異なる時代ないし時期に応じてそれぞれこうむることになった種々の大変革について、たんに正義(司法 justice)にかんする事柄にとどまらず、生活行政(police)や公収入、および軍備にかかわる事柄、さらには法の対象となる他のすべての事柄も含めて、説明に努めるつもりである、と述べておいた。『国の富の本質と原因にかんする研究』において、私はこの約束を部分的に、少なくとも生活行政、公収入、軍備にかんする限り、実行することができた。残っている法学の理論については、長年にわたって想を練ってきたのだが、この著作の改訂を妨げてきたのと同じ仕事のために、その実行を妨げられてきた。私は、すっかり歳をとってしまったので、この大著を満足のいくように仕上げる望みがほぼ断たれてしまったことは認めざるをえない。しかし、それでもなお、この構想を完全に放棄してしまったわけではないし、できる限りのことをするという義務は負い続けたいと思っている。そのため、このパラグラフについては、三十年以上も前に出版されたとき――そのとき私は、そこで宣言したすべてを実行できることに何の疑いも抱いていなかったのであった――のままに残しておいた。」(『道徳感情論』第6版への序文。筆者訳)


 この文章は、約束を果たせそうにないことへのスミスの強烈な無念の思いと、それでも死ぬまでできる限りの努力はつづけたいという誠実な気持ちとが痛いほど伝わってくるものですが、同時に、『法学講義』と『国富論』の関係について大きな問題を提起するものでもあります。それは、スミスが『道徳感情論』の末尾で『法と統治の一般的諸原理と歴史』と題されるべき著作を予告しながら、その前半部分については後回しにし、後半部分だけを独立させて『国富論』として執筆・出版したのはなぜなのか、という問題にほかなりません。

 この問題を考えるためには、『法学講義』の第1部(正義論)と第2部(生活行政論、公収入論、軍部論)との関係について、あらためて検討してみる必要があります。前回確認したとおり、第1部の正義論においては、狩猟→牧畜→農業→商業という社会の4つの発展段階をつうじて「公平な観察者」による共感が積み重ねられながら正義が確立されていく歴史的過程がたどられ、第2部においては、正義が揺るぎなく確立された商業社会段階において社会(国家)のどのような発展が可能になっていくのか、生活行政・公収入、軍備の各領域を視野に入れながら論じられていました。そもそもスミスのいう正義とは、他人の身体や財産を不当に侵害しないということですから、正義が歴史的に確立していく過程は、具体的には、所有権が確立されていく過程として描かれることになります。ここでスミスが導入したのが「公平な観察者」でした。しかし、「公平な観察者」の判断はその時代時代の具体的な社会環境によって大きく左右されてしまうものです。そういう「公平な観察者」の判断をいくら積み重ねていったところで、正義(所有権)の絶対的な確立という地点には到達できないのではないか――『法学講義』の展開のなかで、スミスはこうした難問に直面させられたものと思われます。スミスは、難問解決への糸口を何とか見いだそうと苦闘したあげく、正義(所有権)の絶対的な確立というゴールの姿を明確にすることこそが、そのゴールに到達するまでの道すじを究明するヒントになるのではないか、と考えるに至ったからこそ、法学体系の後半を『国富論』として先行させることになったものと思われるのです。

 この『国富論』は、以下のような5つの篇から構成されています(各篇のタイトルはそれぞれのテーマを簡潔に示すために筆者が便宜的につけたものです)。

《スミス『国富論』の構成》
第1篇 分業論
第2篇 資本蓄積論
第3篇 経済史の批判的検討
第4篇 重商主義批判
第5篇 財政論

 このうち、第1篇(正式のタイトルは「労働の生産力における改善の要因と、労働生産物が異なった階級へと分配されていく際の自然な順序について」)は、社会における分業(原語は the division of labor であり、社会的総労働を分割して異なる生産部門へと配分していく、といったイメージが読み取れます)の形成について、交換を媒介する手段としての貨幣について、交換比率を規定する自然価格の内実(労働生産物の諸階級への分配)について、論じられています。この第1篇は、お互いの所有物を自由に交換しあうことを可能にする条件――所有権という具体的な形をとった正義――が確立された商業社会(商品交換社会)こそ真に人間らしい社会のあり方(社会の完成形態)だ、というスミスの信念を理論的に根拠づけようとしたものだといえます(*)。

 つづく第2篇(正式のタイトルは「資本〔ストック〕の性質、蓄積、用途について」)は、労働者を雇用するためにはあらかじめ資本(生産手段となるもの)が蓄積されていなければならない、という見地をふまえつつ、どの生産部門への資本投下がどの程度まで富の増大に寄与するのか、検討されています。その結果として、国民の富(生活資料)の増大にもっとも寄与するのは農業であって、ついで国内製造業、国内商業とつづき、国民の富の増大にもっとも寄与することが少ないのは外国貿易であることがあきらかにされます。ここで大きな意味をもってくるのが、慎慮の徳――『道徳感情論』において、自分の将来の幸福のために現在の欲求を抑える徳として説かれた徳――です。資本所有者が慎慮の徳を備えている場合、それぞれの部門において予想される利潤が極端に異ならない限り、投資の安全さや確実さを考慮に入れて、外国貿易より国内商業、国内商業より製造業、製造業より農業に、自分の資本を投下しようとするはずだ、ということになるのです。

 このように、『道徳感情論』をふまえた法学体系の一部として『国富論』を捉えた場合、第1篇においては正義の徳が、第2篇においては慎慮の徳が、大きな役割を果たしていると指摘することができます。正義の徳が自由で平等な経済主体が活躍する舞台を整備し、慎慮の徳が個々の経済主体の行動を規定しているのです。お互いの財産(所有物)を不当に侵害しないという正義が絶対的な枠組みとして確立されているなかで、個々の経済主体(資本所有者)が慎慮の徳にしたがって行動するならば、おのずから国民の富を最大化するような形で社会的総資本の配分が達成されていく――これが、『国富論』の第1篇および第2篇における議論なのです。

 しかし、スミスが眼にしていた現実の社会のあり方は、そのような理想(理論的に描かれた商品交換社会)とは少なからず距離がありました。現実の社会のあり方を批判的に分析するとともに、理想的な状態の実現を阻んでいる要因を考察したのが、つづく第3篇(正式のタイトルは「国の違いによる富裕の発展過程の違いについて」)と第4篇(正式のタイトルは「政治経済学の諸々の体系について」)です。第3篇では、西ローマ帝国以来のヨーロッパ経済史が批判的に検討され、農業→製造業→国内商業→外国貿易という産業の自然な発展の順序が、国家権力の恣意的な介入によって、往々にして逆転させられてしまったことが論じられています。第4篇では、このような恣意的な介入の根拠となった重商主義の理論が厳しく批判されます。

 しかし、スミスは、政府が特定産業を優遇するような恣意的な介入を行うことは否定したもの、政府に果たすべき役割があることを否定したわけではありません。この問題を扱うのが、第5篇(正式なタイトルは「統治者あるいは公共社会(the Sovereign or Commonwealth)の収入について」)です。ここでは、政府のなすべき仕事について(経費論)、政府の仕事に必要な財源の調達について(租税論・公債論)、市場の自然で自由な動きとの関連を意識した財政論として議論されていくのです。ここでスミスが、政府のやるべき仕事としてあげているのは、国防、司法行政、公共事業の3つです。このうち、国防は国家の存立そのものにかかわるものとして富裕に先だって重要なものであるとされ、司法行政は正義の制度的枠組みを守るものとしてその重要性が強調されています。また、政府がやらなければならない公共事業として教育行政が論じられ、文明社会の二面性――商業社会が生活習慣を洗練していくという積極面と、分業の発展が労働者階級の視野を狭くし勇武の精神を失わせていくという消極面――を視野に入れつつ、国民の徳を陶冶していくために基礎的な教育が重要であることが強調されていくのです。

 以上、法学体系の一部としての『国富論』という観点から、その構成を概観してみました。端的には、第1篇と第2篇が自然的自由の体系の基礎となる市場(経済社会)についての論をなし、第5篇が自然的自由の体系を上から統括する政府についての論をなす一方、第3篇が現実の経済社会のあり方についての批判、第4篇が現実の経済社会のあり方を規定した政府の政策およびそれに影響を与えた重商主義にたいする批判をなす、とまとめることができます。

(*)『法学講義』では、共感の原理(立場の交換論)と重ねあわせるようにして、人間が交換性向というべきものをもっていることが論じられています。ここからスミスは、お互いの所有物を自由に交換しあうことを可能にするような条件――所有権という具体的な形をとった正義――が確立された社会こそ、真に人間らしい社会のあり方だと考えていたと推測することができます。だとすれば、『法学講義』第1部の課題は、正義が所有権という具体的な形で確立されていく理論的・歴史的な根拠を解明しておくことだったと考えることができます。

※『国富論』の構成は以下のように図示することができます。

『国富論』全体像.jpg
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2017年10月02日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(7/13)

(7)『法学講義』――共感の原理を社会の歴史的現実に適用する

 前回は、スミスの主著『道徳感情論』においてどのような議論が展開されていたか、紹介しました。スミスは、『道徳感情論』の冒頭で、人間の本性を、何よりもまず自分のことを大切にするという利己性の原理と、他人のこと(他人の運不運)にも関心をもたずにはおれないという共感の原理との二重性として提示しています。『道徳感情論』は、端的には、利己性の原理と共感の原理とを調和させる形態がどのように創り出されていくか、という問題を追究したものであったともいえます。スミスは、共感の原理が「想像上の立場(境遇)の交換」によるものであること、私たち人間は、相互に想像上の立場(境遇)の交換をくり返していくなかで、各々が自分の胸中に「公平な観察者」が創出していく(自分を客観的に見つめる視点を獲得していく)こと、この「公平な観察者」から利己的な自分への命令こそが道徳の一般原則とされるものであることを説いていました。このようにしてスミスは、本来的に利己的な存在であるはずの人間が社会の秩序をきちんと形成していくことができるのは、各人の行動がそれぞれの胸中に存在する「公平な観察者」によって適切にコントロールされているからだ、と論じたのでした。

 さて、社会の秩序ということにかかわって注目されなければならないのは、スミスが権力によって強制されうる唯一の徳として、正義の徳をあげていたことです。ここでいう正義とは、端的には、他者の身体や財産を不当に侵害しないことです。こうした正義の徳は、明白で確固とした原則をもっており、基本的に例外を許しません。とはいえ、このような自然的正義(natural justice)が実際に法律的な制度として定められ裁判をつうじて運用されていく過程では、少なからず自然的正義からのズレが生じてこざるをえないから、社会の秩序を規定する正義の原則を首尾一貫した形で確立させるために、法学という学問が求められていくことになる――こうした観点からスミスは、『道徳感情論』の末尾において、「私は別の論考において、法と統治の一般的諸原理について説明に努めるとともに、この一般的諸原理が社会のそれぞれ異なる時代ないし時期に応じてそれぞれこうむることになった種々の大変革について、たんに正義(司法 justice)にかんする事柄にとどまらず、行政(police)や公収入、および軍備にかかわる事柄、さらには法の対象となる他のすべての事柄も含めて、説明に努めるつもりでいる」と宣言したのでした。今回は、この法学について、スミスがどのような構想を抱いていたのか、みていくことにしましょう。とはいえ、残念ながら、『道徳感情論』の末尾で予告された「別の論考」は、結局、完全な形で完成させられることはありませんでした(その一部は『国富論』として結実しました)。しかし、そのおおよその内容は、学生の講義ノート――詳細に記録された「Aノート」(1762〜1763年の講義)と、簡潔に整理された「Bノート」(1763年〜1764年の講義)の2種類があります――にもとづいた『法学講義』によって推測することができます(『法学講義』の邦訳は、Bノートにもとづくものが岩波文庫から、Aノートにもとづくものが名古屋大学出版会から出ています)。この『法学講義』がどのような構成になっているのか、Bノートを参考にしながら、確認しておくことにしましょう。

 『法学講義』は、大きくいえば、法学とはそもそもどういうものかを論じる序論、正義(司法)にかかわる諸領域を論じる第1部、生活行政(公収入も含む)と軍備などを扱う第2部から構成されています。現在の私たちが「法学」という言葉からイメージするものよりも、はるかに広い領域が含まれていることに注意してください。

《スミス『法学講義』の構成》
序論
第1部 正義(司法)
 序論/公法/家族法/私法/契約
第2部
 生活行政・公収入/軍備/国際法

 このうち『法学講義』全体の序論では、冒頭で「法学は、すべての国民の法律の基礎であるべき一般諸原理を研究する学問である」(水田洋訳『法学講義』岩波文庫、p.17)と定義された上で、グロティウス以来の法学の歴史がざっと概観されています。その後、あらためて「法学は、法と統治の一般諸原理の理論である」と確認し、法の四大目的として、司法(justice)、生活行政(police)、公収入、軍備があげられているのです(*)。

 正義論では、まず、正義とは侵害からの安全保障である、と定義された上で、人間(個人)としての安全保障を論じる私法論、家族の一員としての安全保障を論じる家族法論、国家の一員としての安全保障を論じる公法論の3つの領域に分かれることが説明されています。論の展開の順序に関連してスミスは、そもそも所有権を守るためにこそ国内統治が成立したのであるし、所有権の状態は国内統治の形態とともに歴史的に変化してきたのだ、として、公法論→家族法論→私法論という流れを予告しています。

 スミスは、主権者(統治者)と臣民(被治者)のそれぞれの権利を論ずる公法論の前提として、人類社会の歴史を〈狩猟→牧畜→農耕→商業〉の4つの段階に分け(**)、正規の統治は、牛や羊といった私有財産が成立した牧畜段階において、これらの財産を防衛するためにこそ発生したことを確認し、そこから、古代ギリシャにおける共和制の成立、古代ローマにおける軍事的君主制の成立と崩壊、ゲルマン人侵入による混乱と封建制の成立、国王の権力の専制化、議会の権限強化による自由の回復、という歴史的発展の流れを概説しています。家族法論では、家族のなかに存在する三重の関係――夫と妻、親と子、主人と召使(奴隷)――のそれぞれについて、まずは古代ローマの状況を押さえつつ、それらがキリスト教の影響を受けながらどのように変化していったのか、という観点から考察されています。私法論においては、「観察者」や想像上の立場の交換という『道徳感情論』で詳しく展開された論理を絡めつつ、人類の認識の歴史的発展という観点から、所有権の歴史的な拡大の過程がたどられていきます。

 『法学講義』第2部の生活行政論とのつながりで重要なのは、公法論および私法論のそれぞれで説かれた歴史的な到達点です。スミスが論じた国内統治(市民社会)の歴史の到達点は、国民の自由(国王の権力に束縛されないこと)が確立されたところであり、同じくスミスが論じた所有権拡大の歴史の到達点は、土地の売買の自由(何世代も前の故人の遺志に縛られないこと)が切実な課題として浮上してきたところです。こうした議論の到達点に立って、生活行政(生活資料の安価と豊富を実現する国家の機能)についての議論が展開されていくことになります。こうした論の展開の流れからは、所有権が確立され、個々人が自由に活動できるようになることこそが、国の富裕を実現するための歴史的な大前提なのだ、というスミスの発想をうかがうことができます。本稿の連載第2回でも指摘したとおり、この生活行政論こそ、経済学の歴史上の不滅の古典として知られる『国富論』の原型になったものにほかなりません。

 さて、スミスの生活行政論の内容は、大きく、分業論、価格論と貨幣論、一国の富裕の進行が遅れてしまう原因についての考察、という3つの部分に分けることができます。分業論においては、分業(労働の分割)こそが生活資料の安価と豊富をもたらすものであること、分業の根拠は説得の本能(相手に自分の気持ちを分かってもらいたい、という本能的な欲求)を基礎とする交易性向にあること、この交易性向の具体的な発現は「私の欲しいものを私にくれれば、あなたはあなたの欲しいものを手にするだろう」と相手の利己心(仁愛ではなく!)に働きかけるものであること、などが論じられています。価格論と貨幣論においては、商品の市場価格の変動は自然価格によって規制される(商品の価格は、その商品の生産のために投入される労働に適正な報酬が支払われるところに落ち着く)こと、諸商品の自然価格を通じて産業の自然的な均衡が達成される(どの産業にどれくらいの労働が投入されるべきかという問題が解決される)こと、商品取引の発展に伴って価値尺度および流通手段として金貨・銀貨が鋳造されるようになったこと、流通手段としての銀行券(紙幣)を発行することで節約された金銀を国外に送って生活に必要な商品を輸入することは一国の富裕に資するものであること、などが論じられています。さらにスミスは、一国が富裕であるかどうかは貨幣(金銀)が多いか少ないかによって決まる、という当時支配的であった考え方を誤りと断じ、個々人の財産の安全保障という国内統治の枠組みが確立されたもとで、生産的な労働に従事する人々の労働意欲を削いでしまう諸々の観念(商工業への軽蔑など)や制度・政策(穀物の輸出禁止や特権的大商人の優遇など)を排するならば、富裕の進行が実現していくであろうことを主張しています。スミスが、貨幣こそが富であるという当時の常識的な見方を批判し、人々の労働によって生活必需品がきちんと継続的に生産されていくことこそ国家社会の維持発展にとって死活的に重要であることを見抜いた点、また産業の自然的均衡というべきものに沿って社会的総労働が分割されるべきであることを鋭く指摘した点は、現代にも通じる卓見として、高く評価するに値するものであるといえるでしょう。

 続いて、スミスは公収入(租税+公債)について論じています(公収入は、序論においては「法の四大目的」のひとつとして、生活行政と並んであげられていますが、実際の議論の展開のなかでは、公収入論は生活行政論の一部として取り込まれています)。ここでは、統治のための費用を得る上での財産税や消費税などの優劣が論じられ、公債が成立した歴史的経緯や公債価格の変動の要因について、考察されています。さらに、スミスは、商業の発展が国民のマナー(風習、習慣)に与える影響についても論じています。商業の発展が(商人として成功するために、という利己心に導かれて)誠実と几帳面という徳を涵養したこと、一方で、下層民衆の知的鋭敏さの欠如、国民の勇武の精神の衰退といった弊害をもたらしてしまったことを指摘して、生活行政論の締め括りとしています。

 以上のように国の富裕の実現の問題について論じたスミスは、続いて、他国家による侵略から国家を防衛するための軍備について論じています。ここでスミスは、狩猟段階→牧畜段階→農業段階→商業段階という社会発展の歴史を念頭に置きつつ軍備の歴史を概観し、常備軍導入の歴史的必然性(分業=社会的総労働の分割の一環としての必然性)を説く一方、それが国王専制の道具として使われてしまう危険性(また、その点での民兵制の優位)をしっかり直視した上で、その組織のあり方には慎重な配慮が必要だと主張しています。一般論としては、政府が責任を持って募集し、軍人として雇った人たちに対して給与を支払う近代的な常備軍(この対極にあるのが、古代ローマの軍閥です)は、国民の自由に対して脅威となる危険性は少ない、というのがスミスの主張です。

 ここまでで、スミスが「法の四大目的」とした4つの項目、すなわち、正義、生活行政、公収入、軍備についての考察を一通り概観したことになるわけですが、スミスは『法学講義』の最後に(それまでの議論が国家内の関係を対象にしていたのに対して)国家間の関係を律する国際法についての議論が必要になる、と述べて、戦争と平和に関わる国家間のルールについて、@何が戦争の正当な原因か、Aある国家が戦時に他の国家に対して合法的に何をなし得るか、B交戦諸国は中立諸国家に対して何をなすべきか、C諸国家間における外交使節の諸権利は何か、という4つの問題を考察しています。

 このように、スミスの『法学講義』は、身体と財産の安全保障のために成立した国内統治の歴史的発展過程をたどった公法論に始まり、所有権の歴史的な確立過程を論じた私法論を経て、産業の自然的均衡というべきものに沿って社会的総労働が分割されるべきことを論じた生活行政論に至り、そこからさらに、政府の活動に必要な財源を確保するための公収入論(租税論+公債論)、他国家による侵略から国家を防衛するための軍備論が展開され(ここまでひとつの国家の内部に視野を向けた議論)、最後に、諸国家間の関係を律する国際法についての考察によって、全体がしめくくられることになるのです。

(*)岩波文庫版『法学講義』は、justice について、これが法の機能であることを重視して「司法」と訳出していますが、これはもちろん「正義」とも訳しうるものです。また、police は「生活行政」と訳されていますが、これには理由があります。18世紀には現代の私たちがイメージするような警察機構はまだ存在しなかったのであり、police といえば住民の生活条件の確保一般を意味する語だったからです(かのヘーゲルも『法の哲学』においてほぼ同様の内容を含んだものとして Polizei について論じており、中央公論社の世界の名著シリーズでは、これに「福祉行政」という訳語があてられています)。これは、古代ギリシャの「ポリス」に近いイメージだと考えればよいでしょう。スミスはこの police の目的について「商品の安価と公安と清潔」をあげています。

(**)人類社会の歴史を、生活様式にもとづいていくつかの発展段階に区分して把握しようという発想は、このスミスの『法学講義』が学問史上初のものだとされています。これは学問の歴史においてスミスが果たした特筆すべき業績のひとつというべきものです。
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2017年10月01日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(6/13)

(6)『道徳感情論』――道徳哲学体系の土台としての共感原理

 本稿は、現代社会の課題に応えうる学問体系の構築に向かっていくことこそアダム・スミスの遺産を現代に活かしていく道である、という問題意識から、『道徳感情論』と『国富論』という二大著作だけにとどまらないスミスの学問的構想の全体像について、描き出すことを試みています。

 前回まで、若き日のスミスが、道徳哲学体系の構築という課題に向かっていく前提として自然哲学史の総括をおこない、科学的認識の成立過程の究明から道徳哲学構築の武器となる科学方法論をつかんだこと、意志をもたない諸物の機械的運動を記述するための自然科学的な方法を、自由意志をもった人間の集合体である社会の領域へと適用していくために自然神学的な考察をおこない、「見えざる手」による客観的法則性の貫徹という発想をつかんだこと、さらに自然哲学と道徳哲学とを媒介するもうひとつの環として生物学に着目し、「外部感覚論」を著したことを確認しました。この「外部感覚論」は、人間がもつ五感覚のうち触覚(自分の外部に何らかのモノが存在していることをハッキリ知覚させてくれる唯一の感覚)こそ根源的な感覚にほかならないという主張を、他の生物における感覚のあり方にも視野を広げながら展開したものでした。このことによってスミスは、ヒュームの懐疑論的な人間観を克服して、人間は他の人間との関係のなかで生きていることをハッキリ自覚している(他人の存在に何らの疑いも抱いていない)ことを明確につかんだのでした。このことこそ、スミスが先輩ヒュームの道徳論を批判的に継承して大きく発展させていくことを可能にしたのです。

 それでは、ヒュームの道徳論とはそもそもどのようなものであり、スミスはそれをどのように発展させたのでしょうか?

 ヒュームは、人間には道徳的な善悪を感じ取る道徳感覚がある、というシャフツベリ(1671〜1713)やハチスン以来の議論を踏襲して、道徳的な善悪は理性によって判断されるようなものではなく、感覚的なものだと主張していました。すなわち、ある人の言動が快を与えればそれは道徳的な善であり、不快(苦)を与えればそれは道徳的な悪である、というわけです。ここで浮上してくるのが、自分自身には直接に快も不快も与えないある人物の言動――ある人物が自分以外の他人にたいして善行をほどこしたり、危害をくわえたりしていること――について道徳的な善悪をどのように感じ取るのか、という問題です。この問題を解決するために、ヒュームは共感(sympathy)の原理を導入しました。他人の感じている快あるいは不快にたいする自分の共感を媒介として、道徳的な善悪を感じ取るのだ、というわけです。しかし、この共感論を展開する上で大きな制約となったのが、人間は知覚の束にすぎない、という捉え方です。ヒュームは、そもそも共感とは何か、共感はどのようにして成立するのか、という説明において、「等しい強さに張られた弦で一本の弦の振動が残りの弦に伝わるように、すべての感情はたやすく一人の人から他の人へと移り、すべての人間に対応する動きを生む」(同、p.196)というような、「情動感染(emotional infection)」論のレベルを大きく超えることができなかったのです。ここで前提となっているのは、ある観念・印象は、それと類似した印象・観念を引き寄せるのだという観念連合・印象連合の説です。人間の心はすべて似かよったものである(人間とは知覚の束にすぎない!)から、ある知覚の束(ある人)から他の知覚の束(他の人)へと印象・観念のもつ引力が作用していくというのが、ヒュームの共感論なのです。

 スミスは、このようなヒュームの共感論を、触覚こそ本源的な感覚であるとの論をふまえて、いいかえれば、人間は他者の存在について明確な自覚をもっているという大前提をふまえて、批判的に継承し発展させていくことになりました。この共感論が展開されたものこそ、スミスのもっとも重要な著作であるといってよい『道徳感情論』にほかなりません。この『道徳感情論』は、次のような文章で開始されています。

「人間というものがどれほど利己的なものだと思われるにしても、なおその本性のなかには、他人のことに関心をもたせずにはおかない何らかの原理があきらかに存在しているのであって、その原理は、他人の幸福について、それを目にすることが快いということ以外に何も得ることがなくても、自分にとってなくてはならないものだと感じさせるのである。」(『道徳感情論』冒頭、筆者訳)


 このようにスミスは、人間の本性を、利己的である(何よりもまず自分のことに関心をもち、自分のことを大切に考える)と同時に、他人のこと(他人の運不運)にも関心をもたずにはおれない、という二重性において把握するところから、『道徳感情論』の全体の議論をスタートさせています。ここで「他人のことに関心をもたせずにはおかない何らかの原理」というものこそ、共感(sympathy)の原理にほかなりません。スミスは、そもそも共感とはどのようなものか、共感はどのようにして成立するのか、という説明において、ヒュームの共感論から長足の進歩を示したのです。端的には、スミスは、共感とは「想像上の立場〔境遇〕の交換」(imaginary change of situation)によって生じるものだ、と喝破したのでした。このことについてスミスは、「いわば相手の身体に入り込んで、ある程度まで同じ人間になりきる(we enter as it were into his body, and become in some measure the same person with him)」と表現しています。この表現から、スミスの共感論が、他人の存在について触覚によってなされる本能的示唆――自分自身と異なる身体(知覚の束ではない!)をもった他人が厳然として存在しているのだという示唆――を大前提とした議論であることを読み取ることができるでしょう。

 スミスは、周囲の人々に関心をもたずにはいられない存在である人間は、他人から共感されることに快さを感じ、共感されないことに不快さを感じる、といいます。私たちは、他人からの共感を獲得することを切望するがゆえに、「他人の目から見て自分はどう見えるのか」を問わずにはいられないのです。しかし、私たちは、自分自身の顔がどんなであるか自分の目で直接に見ることができないのと同じように、自分自身の感情・行為の妥当性を自分自身で直接に見てとることはできません。自分自身の顔を見るためには鏡に反映した映像を媒介にしなければならないのと同じように、自分自身の感情・行為が妥当なものであったかどうかは、それを反映してくれる鏡を媒介にしなければならないのです。そうした鏡になるものこそ、自分の行為を見たまわりの人々の反応にほかなりません。私たちは、自分の行為を受けたまわりの人の反応がどうであったかを媒介してのみ、自分の行為、またその行為を支配した感情が妥当であったかどうか、判断を下していくことができるのです。私たちは、自分の諸々の行為について、まわりの人々の反応があるときは是認を示しまたあるときは否認を示す、といった具体的な経験を数多く積み重ねていくことによって、しだいしだいに、自分の心のなかに客観的に自分自身を見つめる視点を創り出していくことになっていきます。スミスの言葉によれば、この視点をもつ者こそ、胸中の「公平な観察者(impartial spectator)」にほかなりません。この「公平な観察者」は、特定の利害関係や特別の好意あるいは敵意にとらわれることなく、自分自身の行為・感情の妥当性を判断してくれる存在です。私たちは、胸中の「公平な観察者」の視点を借りて自分自身の行動の妥当性を判断するようになります。

 だとすれば、道徳の一般原則(いかなる行為をなすべきで、いかなる行為をなすべきでないかという一般原則)は、けっして生得的な観念などではなくて、私たちが他人の諸々の行為をみてどのように感じるかという経験を積み重ねていくことをつうじて、また、周囲の人々が同じ行為をどのように評価するのかということにかんする経験を積み重ねていくことをつうじて、自分自身の胸中にしだいしだいに形成していくものにほかならない、ということになります。スミスによれば、道徳の一般原則の正体は、胸中の「公平な観察者」から自分自身にたいする命令にほかならないのです。

 それでは、徳(美徳)というものの性質について、スミスはどのように論じていたのでしょうか? スミスの徳論は、大きく二重構造に分けて捉えることができます。すなわち、「公平な観察者」による利己的な諸欲求のコントロールという自己統制(self-command)の徳を大前提として、その大枠のなかでより具体的な徳が展開していく、という二重構造です。この具体的な徳は、自分自身の幸福にかかわる徳と他者の幸福にかかわるか徳に分けられ、後者はさらに、他者を不当に侵害しない徳と他者に積極的に善行を施す徳に分けられます。自分の未来の幸福のために現在の欲求を抑えるというのが慎慮(prudence)の徳であり、他者を不当に侵害しないというのが正義(justice)の徳であり、他者に積極的に善行を施すというのが仁愛(beneficence)の徳です。

 これらの徳のうち、社会の秩序という問題を考えるにあたって直接に大きな問題となってくるのは、自分と他人との関係にかかわる2つの徳、すなわち正義の徳と仁愛の徳なのですが、両者の性格が大きく異なることをスミスは強調しています。仁愛の徳の欠如は、現実に積極的な害悪を及ぼすというわけではありませんから、仁愛の徳を権力によって強制することはできません。これにたいして、正義に反すれば人を傷つけることになりますから、正義の徳は権力によって強制することができます。一方、たんに仁愛が欠けているだけでは何ら処罰に値しませんが、この徳をすすんで実践することは大いに賞賛に値すると考えられます。反対に、正義に違反することは処罰の対象になりますが、正義の規律を遵守する(他人を不当に傷つけない)だけでは何ら賞賛に値しません。それは当たり前のことにすぎず、とくに感謝されるほどのものではないのです。

 あくまでも個人の良心にまかされておいてよい仁愛の徳は(この意味では慎慮の徳も)、具体的な行動の指針となる原則としてみればきわめて漠然としたものでしかなく、その実行にあたっては諸々の条件に影響されて数多くの例外が生じてくることになります。これにたいして、権力によって強制されなければならない正義の徳は、明白で確固としたものであり、基本的に例外を許さないものであるといえます。とはいえ、スミスは、このような自然的正義(natural justice)が実際に法律的な制度として定められ裁判をつうじて運用されていく過程では、少なからず自然的正義からのズレが生じてこざるをえない、といいます。ここから、社会の秩序を規定する正義の原則を首尾一貫した形で確立させようとする営みが生じてくることになります。これこそが、道徳哲学の一部門として位置づけられうる法学にほかなりません。

 このような観点からスミスは、『道徳感情論』の末尾において、「私は別の論考において、法と統治の一般的諸原理について説明に努めるとともに、この一般的諸原理が社会のそれぞれ異なる時代ないし時期に応じてそれぞれこうむることになった種々の大変革について、たんに正義(司法 justice)にかんする事柄にとどまらず、生活行政(police)や公収入、および軍備にかかわる事柄、さらには法の対象となる他のすべての事柄も含めて、説明に努めるつもりでいる」(筆者訳)と宣言することになったのです。このような、スミスによる法学(原語は jurisprudence であり、「法律学」というよりは「法哲学」に近い語感をもっています)の構想については、次回以降に詳しくみていくことにしましょう。

※スミスの徳論の構造は以下のように図示することができるでしょう。

スミス徳論の構造.jpg
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2017年09月30日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(5/13)

(5)「外部感覚論」――人間観の生物学的基礎を問う

 前回は、スミスが自然哲学史研究で獲得した科学方法論にのっとって道徳哲学の構築に向かっていこうとした際に不可避的に直面したであろう大問題、すなわち、自然科学的な方法をそのまま社会科学的な研究に適用することができるのか、という大問題にたいして、どのような解決が与えられることになったのか、みてきました。スミスは、道徳哲学講義における第一の部門として位置づけられた自然神学において、社会の客観的法則性は諸個人の自由意志にもとづいた行動の絡み合いをつうじてこそ貫徹されていくものだ、という見方を確立したのではないか、と考えることができるのでした。

 自然哲学史の研究の成果と道徳哲学の構築という課題は、以上のような自然神学的な考察によって、一応は媒介されたということができます。しかし、この媒介は、あくまでも、諸個人の動きを総体としてみれば自然と同様に法則性を見いだすことができる、というレベルの把握にとどまっていたことが注意されなければなりません。そもそも、スミスのおこなった自然哲学史の研究は、あくまでも天文学史を中心としたものであり、そこに若干の古代自然学史と古代論理学史、古代形而上学史がくわわったものでしかありませんでした。このような自然哲学史研究のなかでは、「一般的な法則に支配され、それ自身の保存と繁栄およびそこにいるすべての種の保存と繁栄という一般的な目的を目ざす、完全な機械、まとまった体系」(「古代自然学の歴史による例証」)という自然観(宇宙観)の表明がなされていましたが、このような自然観から社会の客観的な法則性のあり方を類推するというやり方だけでは、諸個人の動きを総体として把握すればどうなるか……ということにしかならず、一人ひとりの具体的な人間がそもそもどのような存在なのか、という問題についての突っ込んだ究明が欠けてしまうことになるのです。

 しかしスミスは、こうした問題への考察を怠っていたわけではありません。スミスは、人間もまた神による創造された自然の一部にほかならない、という見地を堅持しながら、この問題に迫っていこうとしていたように思われるのです。それは具体的にはどういうことだったのでしょうか?

 そのヒントは、スミスが古代自然学史論文において表明した機械的体系としての宇宙という自然観をふまえつつ、前回紹介した『道徳感情論』の以下の文章を読むことで得ることができます。

「自己保存と種の繁栄とは、自然がすべての動物を創造するにあたって意図していた偉大な目的であるように思われる。人間は、こうした目的への欲求と、その反対物への嫌悪――生命への愛と死滅への恐怖、種の存続と繁栄への欲求とその完全な消滅という考えへの嫌悪――を与えられている」(第2部、第1篇、第5章)


 ここでは、すべての種の保存と繁栄という一般目的につらぬかれた自然のなかに、動物の存する領域があり、さらにその動物の一種として人間の存在が位置づけられる、というとらえ方が示されています。つまり、人間もまた動物の一種にほかならないのだから、動物としての一般性をふまえながら、人間としての特殊性をとらえていかなければならない、というとらえ方が示されているわけです。ここから、次のように推測することが可能でしょう。すなわち、スミスは、自然哲学(自然科学)と道徳哲学(社会科学)とを、諸個人の動きを総体として考察することで自然神学的に媒介しようとしていただけでなく、その媒介を、個々の人間の具体的なあり方の究明につながる生物学的な議論によって補強しようとしていたのではないか、ということです。

 実際スミスは、生涯にわたって生物学にたいして強い関心を抱いていたことが知られています。1756年(33歳)のときに『エディンバラ評論』という書評誌に寄稿した文章では、フランスにおける学問の動向に注意を払う必要があると力説するなかで、ビュフォン(植物の形成、動物の発生、胎児の形成、感覚の発達などについて哲学的な推理を行いました)やレオミュール(全6巻からなる大著『昆虫誌』を著しました)らの作品について言及していますし、『道徳感情論』刊行の前後には幼鳥や哺乳動物についてのフィールドワークに取り組んだとされています。また、1773年(50歳)にロンドンの王立協会の会員となってからは、ビュフォン(1740年に王立協会の研究員になっていました)やリンネなど、当時を代表する生物学者たちと親しく交流を重ねました。

 こうした生物学への強い関心が、道徳哲学の基礎となる人間観につながる論考として結実したのが、「哲学的研究を導き指導する諸原理」などとともに遺稿集『哲学論文集』に収録された「外部感覚論」(*)です。この論文でスミスは、人間がもつ5つの感覚(触覚、視覚、聴覚、臭覚、味覚)について、リンネなどによる生物学研究の成果を参照しつつ、他の生物の感覚のあり方にまで視野を広げて検討をおこない、触覚こそがもっとも基礎的で本源的な感覚なのではないか、という主張を展開しています。そもそも触覚は、感覚器官が外側から直接に圧迫されることによる感覚であり、外部の諸物体の存在をもっとも生々しくハッキリと知覚させる(というよりもむしろ、自他の区別は触覚によってしか明確にならない!)ものです(**)。スミスは、鳥類や哺乳類の産まれたばかりの子どもの行動にかんする観察から、ほとんどの動物が、あらゆる観察と経験に先立って、自分の身体の外部に物体が存在しているのだという何らかの概念のようなものを本能的にもっているのではないかと提起し、こうした本能的な示唆を与える感覚は触覚以外には考えられない、と論じています。こうした議論のなかでスミスは、動物のなかで人間だけがこうした本能的知覚(生得的観念)を与えられていないとは考えにくい、と主張するのです。

 少し難しい話になりますが、哲学の歴史の流れをふまえていえば、この論文は、人間の経験を重視するあまり、外部の物体の実在について懐疑的になってしまったイギリス経験論の発想を全く逆転させるものであったといえます。イギリス経験論は、人間の心にはもともと(生まれつき)神の概念や数学の公理などが書き込まれているという大陸合理論(デカルトやライプニッツ)の主張に対抗して、人間の心はもともと白紙であり、経験によって諸々の事柄が書き込まれていくのだ、と主張しました。経験によって確かめられないものの存在は認められない! というわけです。しかし、感覚器官を通じた経験そのものは、あくまでも人間の心のなかの出来事でしかありませんから、経験を重視する立場を徹底していくと、視野がだんだんと心のなかだけに限定されていきます。そうなると、心の外側に物体が本当に存在しているかどうかは確かめようがない、とか、諸々の感覚はもともとバラバラのものでしかなく、それらが結合されるのはもっぱら習慣によるものでしかない、といった主張が出てくることにもなります。これにたいしてスミスは、感覚的な経験のもとになる外部の物体の存在を大前提として復権させることで、諸感覚の必然的な結びつきについて明らかにしようとしたのです。その過程でスミスは、人間の精神はもともと完全な白紙である、というイギリス経験論の大命題について根本的な疑問を提起するに至りました。スミスは、人間を含むあらゆる動物は、外部の諸物体の存在について本能的な知覚を先天的にもっているのであって、それを直接に示唆してくれる触覚の機能の限界(器官が直接に物体に触れない限り働きようがない)を補うために、他の諸々の感覚が成立させられていったのだ、という結論に至ったのです。

 それでは、スミスが触覚の本源性を主張したことは、道徳哲学の構築という課題にとって、どのような意味をもったのでしょうか? 端的には、私たち人間が自分と異なる他人の存在について本能的といってよいレベルで確信を抱いていることを明確に確認した、ということができます。つまり、人間は自分以外の他人の存在を疑ったりすることなく、自分と同じように肉体と精神を備えた他の人間との関係のなかで生きていることをハッキリ自覚しているのだ、というわけです。このようにいうと「何を当たり前のことを!」と思われるかもしれませんが、スミスの先輩であるヒュームが、この当たり前のことを疑うかのような議論を展開していたから問題でした。ヒュームは、確かに存在するといえるのは感覚だけだという立場をとことんまで突き詰めた結果、外部に本当に物体が存在しているかどうかも、また人格の同一性(自分という1人の人間が本当に存在しているということ)すらも、疑わざるをえないところまで追い込まれていたのです。ヒュームによれば「人間とは、思いもつかない速さでつぎつぎと継起し、たえず変化し、動き続けるさまざまな知覚の束あるいは集合にほかならぬ」(ヒューム『人性論』中公クラシックス、p.110)ということになるのです。

 このような人間観では、人間は自分と同じような他の人間との関係のなかで生きていることをハッキリ自覚している、などとはいえません。なにしろ、人格の同一性(自分という1人の人間が本当に存在しているということ)についてすらも、確信をもてなくなっているのですから。このような知覚の束としての人間観では、人間と人間との関係をどのように律するか、という道徳の問題をまともに扱っていくことはできません。これにたいしてスミスは、触覚(自分の外部に何らかのモノが存在していることをハッキリ知覚させてくれる唯一の感覚)中心論によってこうした人間観を克服し、ヒュームを大きく超えるレベルの道徳論を展開していくことになります。このことについては、次回以降、詳しく紹介していくことにしましょう。

(*)「外部感覚論」の執筆時期については諸説ありますが、田中正司『アダム・スミスの認識論管見』(社会評論社、2013年)は、『道徳感情論』の共感論との論理的つながりを根拠に、『道徳感情論』の執筆に先だつ1750年代前半という説を主張しています。スミスの学問的構想の全体像における「外部感覚論」の位置づけという観点からすれば、この説が妥当なものではないかと考えられます。

(**)ここで興味深いのは、スミスが、私たちがテーブルのような単なる物体に手を置いてみる場合と、他人や他の動物の身体に手を置いてみる場合とを区別していることです。私たちは、テーブルが私たちの手による圧迫を感じるなどとは思っていないので、取り立てて配慮してやるべき対象であるとは感じません。これに対して、他人や他の動物であれば我々の身体による圧迫を感じるであろうことを知っているので、それなりの配慮をしてやる必要を感じる(スミスは fellow-feeling という語でこれを表現しています)というのです。このことは「外部感覚論」における触覚論と次回取り上げる『道徳感情論』における共感論とのつながりを示唆するものだといえるでしょう。
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2017年09月29日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(4/13)

(4)「自然神学」――自然哲学と道徳哲学はどのように媒介されるか

 前回は、スミスはそもそもどのような問題意識をもって学問への道へと出立したのか、確認しました。恩師ハチスンの道徳哲学講義に決定的な影響を受け、自身も独自の道徳哲学体系の構築を志すようになった青年スミスは、自然科学的な認識の確実性を否定してしまうかのようなヒュームの議論によって大きな不安を抱かされることになります。スミスは、この大きな不安を解消するために、古代ギリシャ以来の自然哲学の歴史的な発展過程をたどり返してみようとしたのであり、その結果として、人間の認識が客観的世界(自然)の法則性を把握していくことは可能であることをつかんだ(確信した)のでした。こうした自然哲学史の研究は、学芸(哲学、文学、詩、修辞など)の哲学的歴史――スミスによる哲学の定義にしたがえば、バラバラな諸現象のすべてをひとつの原理で結合して把握するような歴史のことです――というスミスの学問的構想の一方の大きな柱の発端となるとともに、もう一方の大きな柱である道徳哲学(社会科学)の構築に向けて、確かな武器となる科学方法論(具体的には結合原理という発想)を提供するものになったのでした。

 これ以降、この科学方法論にのっとって道徳哲学(社会科学)を構築していくことが、スミスにとってのひとつの大きな課題となっていくわけです。しかし、ここで不可避的に大きな問題が浮上してくることになります。それは、自然科学的な方法をそのまま社会科学的な研究に適用することができるのか、という問題にほかなりません。自然哲学史の総括をおこなったスミスは、古代ギリシャの自然学について論じるなかで「一般法則に支配され、それ自身の保存と繁栄およびそこにいるすべての種の保存と繁栄という一般目的を目ざす、完全な機械、まとまった体系」という宇宙観を表明していました。確かに、自然を構成する諸々の事物・事象は意志をもたないものであり、その運動は機械的な体系として記述することが可能です。こうした自然にたいして、社会は、それぞれ独自の意志をもって自由に行動する人間の集合体として構成されています。こうした社会について、自然と同じように客観的法則性を見いだすことが可能なのでしょうか?

 これは、古代ギリシャ以来、哲学(および神学)の世界で、決定論と自由意志は両立するのか否か、という問題として議論されてきたものにほかなりません。すなわち、神の意志が森羅万象を統括している、あるいは森羅万象が神によって決定された法則にしたがって動いている(すべては必然である!)とするならば、はたして人間の意志の自由などありえるのか、ということが問題になっていたのです。18世紀のスコットランドのように、人々が固定的な身分制度にしばられていた中世封建的な社会のあり方が崩れて、個々人の自由な活動が社会の大きな変化・発展をもたらすようになってくると、この問題があらためて大きく浮上してくることになります。ニュートン力学の形成によってひとつの頂点に到達した自然哲学(自然科学)と遜色のないレベルで道徳哲学(社会科学)を構築していこうとするならば、人間は自由意志をもっているという経験的な事実と両立するような形で、社会においても客観的な法則性がつらぬかれているのだという大前提を、何としてでも確立しておく必要がでてくるからです。

 社会科学の構築を大きな課題とした18世紀のスコットランド啓蒙思想において、こうした問題の解決を担わされていたものが、自然神学にほかなりませんでした。自然神学とは、簡単にいうならば、自然に内在する法則性を人間理性によって把握することで創造主たる神の叡智を知ろうとする神学であるということができます。スミスに決定的な影響を与えたハチスンの道徳哲学講義も、こうした自然神学を基礎としたものでした。ハチスンは、人間の本性(人間的自然の構造)のうちに神の摂理と自然法の原理を探ろうとしていたのです。

 スミスは1752年(29歳)にグラスゴウ大学の道徳哲学教授に就任し、1763年に退職するまで、学生たちを前に道徳哲学を講義することになります。この道徳哲学講義は、大きく3つの部門、すなわち、自然神学、倫理学、法学の3部門から構成されていたとされています。こうした構成からも、自然神学に道徳哲学全体の基礎理論としての位置づけが与えられていたことはあきらかです。この道徳哲学講義の3部門のうち、倫理学に相当する部分がやがて『道徳感情論』(第1版は1759年)としてまとめられ、法学にかんする部分の一部(生活行政論・公収入論)がのちに『国富論』(第1版は1785年)として結実していくことになりました。また、法学のそれ以外の部分にかんしても、19世紀末以降に発見された学生の講義ノートによって、どのような内容のものであったのか、知ることができます。しかし、スミスは、自然神学にかんしては自身の考えをまとめた著作も論文も遺しませんでしたし、道徳哲学講義のうち自然神学の部門については学生の講義ノートも発見されていません。したがって、スミスが講義した自然神学が具体的にどのような内容のものであったのか、直接的に知る術はないのです。とはいえ、18世紀スコットランドの道徳哲学において、自然神学にどのような役割が担わされていたのかをふまえつつ、スミスの著作において顔をのぞかせている神学的な発想を検討することによって、そのおおよその内容を推測することは不可能ではありません。

 ここでは、スミスの神学的発想が顔をのぞかせている文章として、『道徳感情論』につけられた注について、みてみることにしましょう。ここで、スミスは次のように述べています(なお、以下の引用文において「自然」とされている語は、自然の創造主としての神に置き換えて読まれるべきものです)。

「人間は、社会の繁栄と存続を望むような資質を生まれながらに付与されている。……自己保存と種の繁栄とは、自然がすべての動物を創造するにあたって意図していた偉大な目的であるように思われる。人間は、こうした目的への欲求と、その反対物への嫌悪――生命への愛と死滅への恐怖、種の存続と繁栄への欲求とその完全な消滅という考えへの嫌悪――を与えられている。しかし、我々にこうした目的への強烈な欲求が与えられているとはいえ、こうした目的の実現のために適切な手段を見つけだすことは、我々の理性の緩慢で不確実な決定にゆだねられることはなかった。自然は、本源的で直接的な本能によって、我々をこうした目的の大部分へと方向づけるようにしたのである。飢え、渇き、両性の結合への情熱、快楽への愛、苦痛への恐怖などといったものが、こうした手段をそれ自身のために使用するよう我々を促すのであって、我々は、自然の偉大な支配者が、それらの手段をつうじて仁愛的な目的に向かう傾向を生みだそうとしていたことなど、まったく考えもしないのである。」(『道徳感情論』第2部、第1篇、第5章。筆者訳)


 ここでは、人間は社会の繁栄と存続を望むとはいえ、どのような行為が社会の繁栄と存続という目的につながる手段なのか、理性的に判断しているわけではない、と説かれています。自己保存と種の繁栄につながる諸々の手段(飢えを満たしたり、渇きを癒したり、異性と結びついたり、苦痛から逃れたりするための諸手段)は、本源的で直接的な本能によって、あくまでもそれ自身のために追求されるのであって、それらが社会の繁栄と存続という慈恵的な目的に資するのだ、という理性的な判断を媒介として追求されるわけではないのです。にもかかわらず、自然(=神)は、人間が諸欲求を満たすために追求する諸々の手段をつうじて、社会の繁栄と存続という目的の実現につながるような傾向を生みだそうと意図していたのだ、とスミスは説きます。つまり、個々の人間が利己的な諸欲求を自由に追求していくことこそが、社会の繁栄と存続という結果をもたらすための必然的な契機となるように、自然(=神)はあらかじめ計画しておいたのだ、というわけです。個々の人間は、ただただ利己的な諸欲求を追求している(=自由に行動している)だけでありながら、全体としてみれば、知らず知らずのうちに、社会全体の利益の促進という自然(=神)の意図を実現していくように導かれていくのだ――このような見方が、有名な「見えざる手」の議論へとつながっていくことになります。

「富裕な人々は、貧乏な人々にくらべてほんの少しばかり多く消費するにすぎず、彼らは生来の利己性と貪欲さにもかかわらず、〔中略〕自分たちの改良の成果を貧乏な人々にも分配する。彼らは見えざる手によって、仮に土地がその上に住むすべての人々の間に平等な面積で分割されていた場合になされていたであろうと思われるのとほぼ同様の生活必需品の分配をなすように導かれていくのであって、このようにして何ら意図することなく、また自覚することもなく、社会の利益を促進し、種族繁栄のための手段を供給することになるのである。」(『道徳感情論』第4部、第1章。筆者訳)


 ここでは、「見えざる手」が、富裕な人々による利己的な富の追求行動を、貧しい人々への生活必需品の供給という結果へと導いていくものとして位置づけられています。ちなみに、『国富論』における「見えざる手」は、より確実でより大きな利潤を追求する資本家の利己的行動を、きわめて不安定で一部の人々の利益にしかならない外国貿易への資本投下ではなく、国民全体の富を安定的に増大させる国内産業への資本投下へと導いていくものとして位置づけられています。いずれにせよ、スミスのいわゆる「見えざる手」とは、個々人の意図をこえて、自覚されることなく自然の創造主たる神の意図(社会全体の利益)を実現するように機能するものとして位置づけられているといえるのです。

 以上のようにみてきたことから、スミスは、個々人が利己的な欲求の実現をめざして行動していくことを、神の意図(社会全体の利益)が実現されていくための必然的な契機として位置づけていたのだ、ということが確認できるでしょう。逆からいえば、神の偉大な目的が現実の世界に実現されていくためには、具体的な諸個人の自由な行動を手段とするしかないのだ、という把握があったのだともいえます。端的には、スミスの自然神学とは、神の「見えざる手」という発想を媒介として、社会においても客観的な法則性がつらぬかれているはずだという理論的な前提と、人間は自由な意志をもって行動しているという経験的な事実とを結合しようとするものであったということができるでしょう。

〔補足〕
このような「見えざる手」がきちんと機能することを保障しているのは、個々人の胸中に創られる「公平な観察者」です(「公平な観察者」については本稿の連載第6回で説明します)。『道徳感情論』第3部の第5章において、スミスは、「公平な観察者」の命令が神の戒律と同視されることを肯定的に捉えています。ここから、個々の人間はそれぞれに利己心に突き動かされながらも、神の戒律と同視されうる胸中の「公平な観察者」の命令によってコントロールされるがゆえに、社会全体としては望ましい結果が導かれていくのだ、という社会観を見て取ることができるのです。そもそもスミスは、大きくいえばニュートン以来の理神論の系譜に属していました。理神論とは、神は世界(宇宙)を創造したものの、創造後の世界は神からの介入によらずに自分自身の法則性にしたがって運動・発展していく、という見方にほかなりません。この見方からすれば、世界の運動・発展を規定する法則性は、神が世界の創造に際してプログラムしておいたもの、ということになります(ここから、自然の法則性と神とが同視されていくようになります)。結局のところ、スミスにおいては、創造主たる神は、人間を創造するに際して、「公平な観察者」による利己心のコントロールという形態が創出されていくように、その本性に利己性と共感の原理という二重性(矛盾)を内在させておいたのだ、と考えられていたのです。このことについて詳しくは、本ブログに2013年8月に掲載した「カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える」を参照して下さい。

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 ・2010年6月例会の報告
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 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
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 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
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 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
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 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史