2017年05月26日

文法家列伝:宮下眞二編(5/5)

(5)宮下は言語過程説が一般言語学の理論たり得ることを実証した

 本稿は、宮下眞二の言語過程説を俎上に載せ、その歴史的意義を問うことを目的とした小論です。宮下は、三浦つとむの言語過程説の考え方をしっかりと継承しつつ、その言語過程説を武器として、英語の具体的な問題に挑んでいったのでした。しかし、学問レベルの論文として宮下の著作を検討してみると、自らの主張の根拠を明示的、説得的に示すことができているとは言い難く、他の言語理論を批判するにしても、その根拠が言語過程説とは違うからという主観的で画一的なものになってしまっているのでした。また、著作の目次立てを見ても、言語とは何か、英語はとどういう言語かという規定のもとに、体系的に論を展開しているという構成にはなっておらず、現代的な英語に関する理論を批判することに重点が置かれ、なおかつ例えば『英語文法批判』の本論である「英語の文法」においても、英語の名詞や冠詞に関するトピックを適当に配置してその個々の問題を説いていったという流れに過ぎないものになっているのでした。これは端的には、宮下には討論を通じて培うべき弁証法、認識論の実力が決定的に不足していたからでした。

 本稿を終えるにあたって、以上概観してきた宮下の言語過程説について、その歴史的意義を2つの側面から考察しておきたいと思います。

 まず、宮下がなした業績の積極的側面についてです。

 言語過程説は、日本で生まれ日本で発展してきた言語観及びその言語観に基づく言語理論です。個々の言語が話されたり書かれたりする際に、その創り出された音声や文字だけに着目するのではなくて、人間が対象を認識し、その認識を基にして言語が生み出されたのだという過程を重視する言語理論です。これはソシュールの言語理論、すなわち言語規範を言語だとみなし、言語の本質は頭の中にあるラング(聴覚映像と概念とが結びついたものの総体)だとする言語理論に対立する言語理論として、時枝誠記によって生み出されました。時枝は、ソシュールのように言語がアタマの中にある観念的実体だと考えれば、説明がつかない言語現象が生じるとして、ソシュールを批判しました。例えば、生活の全てを頼っていた一人息子を事故で亡くした年老いた父親が、「私は生活の杖を失くしてしまった」と表現した場合、ソシュールの言語理論でいえば、「つえ」という聴覚映像と「自分の男の子供」という概念とが結びついた観念的実体がアタマの中にある、などという説明になってしまいます。だから時枝は、ソシュールがアタマの中に閉じ込めてしまっていた言語を解放して、個々の言語が生み出される過程に素材としての具体的事物とそれを把握した概念とを位置づけることで、ソシュールの言語理論を乗り越える言語理論を展望したのでした。これが言語過程説の出発点です。

 とはいえ時枝は、ソシュールがラングとして提示した言語規範をその言語理論に正当に位置づけることができませんでした。時枝は、言語の意味が話されたり書かれたりする情況によって規定されると考えたために、言語の持つ社会性をうまく説明できなくなってしまったのです。別言すれば、ソシュールのいわゆるラングを破り捨ててしまったのです。この問題を乗り越え、言語過程説を発展させていったのが三浦つとむです。三浦は言語の基となる認識と言語規範とを区別することによって、言語の個別性と社会性を統一的に説明したのです。つまり、言語の基となる認識はあくまでも個人的な個別的な認識なのですが、これを言語として表現するためには、社会的認識たる言語規範を媒介とすることが必要だという形で、ソシュールのいわゆるラングを言語過程説の中に正当に位置づけたのでした。

 以上のように、言語過程説といわれる言語観及びその言語観に基づく言語理論は、日本で生成発展してきたということです。それはすなわち、日本語を主な対象として創り上げられたものであり、言語一般に通用する言語理論であるとは必ずしも言い切れないものでした。そこに宮下が登場し、言語過程説で英文法を展開していったのです。つまり宮下は、言語過程説が一般言語学の理論たり得ることを実証したということです。

 それでは宮下は、言語過程説を武器として、英文法の体系的な理論を創り上げることができたのでしょうか。そうではありませんでした。それは何故かといえば、先にも説いたように、宮下には討論を通じて培うべき弁証法、認識論の実力が決定的に不足していたからでした。これが宮下の言語過程説における歴史的意義の消極的側面です。つまり、弁証法、認識論の実力を欠いていては、英文法を説き切ることはもちろん、言語学体系を創出することなど不可能だということです。

 宮下が読者の認識を想定しての論の展開ができなかったという認識論の実力不足、また言語過程説以外を画一的に切って捨ててしまったという弁証法の実力不足については前回見ました。ほかにも宮下は、例えば「概念とは対象をその普遍的側面で捉へた認識である」と述べていますが、では「対象をその普遍的側面で捉へた認識」とはどういうものか、それはどのように生成されてきたのか、といった認識の生成発展過程を問うことをしていません。概念が「対象をその普遍的側面で捉へた認識」であるという把握で満足(?)してしまい、それが具体的にはどのような像なのか、どういう生成過程で生じたものなのかを問い説いていく弁証法的、認識論的実力がなかったのです。

 その結果、連載第1回で紹介した今村雅弘復興大臣(当時)の「東北だから良かった」という発言に関しても、宮下の言語過程説では決定的な批判はできないことになります。首都圏ではなくて東北で大震災が起こったから、まだ被害額が少なかったのだという認識を表現したのだと言われてしまえば、言い逃れができてしまうからです。そうではなくて、認識とは対象を脳細胞に反映した像(が原基形態)であるという科学的認識論の基本を踏まえ、その像が生成発展していく弁証法性をしっかりと理解していれば、件の問題発言が、被災者の苦しい生活状況や悲痛な思いなどを全く像として描いていないからこその発言なのだ、そここそが問題なのだ、こうした被災者に二重化した像が描けないという欠陥は、それまでの今村氏の生活過程で育てられてきたものであるだけに、いくら言葉の上で言い繕った言い訳をしたとしても、そう簡単には改善されるものではないのだ、だからこそそんな人物は大臣どころか議員すらも辞職すべきだ、と主張することができるのです。

 以上、本稿では宮下の欠点にも触れながら、その言語学史上の意義を明らかにしてきました。宮下の欠点については、筆者が現時点でそれを乗り越えているということは断言できないものの、自らの欠点も含めてそれを把握していることは間違いありません。今後、科学的認識論の研鑽を深めつつ、認識の弁証法性についてもしっかりと把握できる頭脳活動を創出することにより、言語を単に言語のみで把握しようとするのではなくて、全うな科学的認識論を踏まえた言語学体系として創出できるよう努力していきたいと思います。その過程においては、人間が何故言語を創出できるようになったのかの過程的構造を明らかにすることを含めて、社会科学の中に言語学をしっかりと位置付けることを目標に取り組んでいきたいと思います。言語過程説を言語学体系の中心理論として発展させるのだという決意を述べて、本稿を終えたいと思います。

(了)
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2017年05月25日

文法家列伝:宮下眞二編(4/5)

(4)宮下には弁証法、認識論の実力が決定的に不足していた

 前回は、宮下眞二独自の業績として、言語学史の研究から言語観を3つに分類したこと、名詞論として、名詞と形容詞の区別の根拠を認識のあり方に求めたことなどを紹介していきました。さらに宮下の冠詞論について、冠詞は定冠詞も不定冠詞も共に単位性の認識をその内容の一部として持っていると宮下が主張したことを紹介したところまででした。

 宮下の冠詞論について若干の補足をしておきましょう。宮下は、冠詞が単位性の認識を表すほか、もう1つの側面があるとして次のように主張します。

「冠詞は特殊な実体に限らず、実体ならばどの実体に関しても表現されるのだから、すべての実体に共通する属性を取上げてゐるに違ひない。属性には具体的なものから抽象的なものまで色々あるが、最も抽象的で最も一般的な属性の一つは、各実体が独自の個体であると云ふ属性、言換へれば個別性である。これはすべての実体に共通する属性である。冠詞はこの個別性を表す語である。」(pp.231-232)

 こうして、冠詞の本質として単位性と個別性を表すということを明らかにした宮下は、これを「冠詞は、英語の単位観に基く個別性の把握を表す語と定義できる」(p.232)とまとめました。さらに定冠詞と不定冠詞との違いを同じ個別性をどの側面で捉えるかの違いだとして、「定冠詞は個別性の特殊的把握を表し、不定冠詞は個別性の一般的把握を表す」(同上)と規定しています。

 この冠詞論でも宮下は、認識のあり方に基づいて品詞の定義を行っていることが見てとれます。冠詞は日本語にない品詞ですから、この冠詞論は、日本語を言語過程説で説明してきた時枝や三浦にない、宮下独自の言語過程説の展開であるといえるでしょう。

 さて、以上で宮下が三浦の言語観をしっかりと受け継ぎ、それを英語に適用することで独自に発展させていることが明らかになったと思います。しかし一方で、宮下にも弱点が存在します。今回はこの問題について考えていきたいと思います。

 まず、次の引用文をしっかりと読んでもらいましょう。

「現代の「学者」の殆どが、本質論=方法論を自ら作り上げることをせず、…」(はしがき)

「19世紀の歴史的比較言語学は、18世紀末から19世紀にかけてヨーロッパの思想学問芸術に大きな影響を及したロマン主義の思潮に依つてその研究対象が音声言語に規定され、18・19世紀の自然科学の目覚しい発達に依つてその研究方法が構成的言語観ないし実体的言語観に規定されたのである。」(pp.7-8)

「彼(イェスペルセン―引用者)は「生きた文法」と「体系的文法」とを論じてゐる。概ね「生きた文法」とは現実の言語現象の中に観察される法則性の事であり、「体系的文法」とは言語現象の法則性の科学的認識の事である。」(p.9)

 これらを読めば、「本質論=方法論」とはどういうことか、「ロマン主義」と「音声言語」はどのような関係にあるのか、「構成的言語観ないし実体的言語観」とは何か、イェスペルセンの「生きた文法」と「体系的文法」についてそのように断言できる根拠は何かなど、諸々の疑問が浮かんでくるでしょう。しかし、こうした疑問に対する解答は一切ないのです。

 おそらく宮下のアタマの中には、こうした問題に対する比較的明確な解答があるのであり、わざわざ書くまでもないという判断があったものと思われますが、しかし読み手にすれば、たった9ページかそこらの間に、いくつも疑問が浮かんでくる展開は、非常にストレスのたまるものとなってくるでしょう。端的にいえば宮下は、自らの主張の根拠について、大きく説明が不足しているのです。

 宮下にはほかにも、言語過程説以外の言語理論を画一的に批判しているという弱点もあります。どういうことかというと、宮下は言語過程説の言語観が絶対的に正しいとして、この基準に従って、他の言語理論を評価するのです。その際用いられるのは、機能主義や形式主義というレッテルであり、言語規範を言語の本質とみなす言語規範本質説批判であり、個々の言語の個別的な意味を無視して、個々の言語に共通した一般的意味を言語の意味と解釈する一般的意味説批判です。しかし、言語の本質が機能や形式にあると考えるのでは何がまずいのか、言語規範を言語だと考えるとどのような問題が解けなくなるのか、一般的意味を言語の意味と考えることはどうして間違っているのか、こうした問題には解答が与えられないままであるため、結論を押しつられているように感じる部分があるのです。例えば、イェスペルセンの言語観について、欠点があるとしながらも、「表現を中心として言語を捉えてゐるから言語規範本質説よりも健全なのである」(p.12)と述べられているが、これだけでは表現を中心に言語を捉えると何故健全だといえるのか、その根拠が明らかにされていません。言語過程説に近い考え方だからというだけでは説得力を持たないのです。言語過程説と言語規範本質説のどこがどう異なり、どういう意味で健全だといえるのか、根拠なしに批判しているのです。

 また、上記のレッテルや批判を、それが当たらないような場面にも使っているのではないかと思われる部分もあります。例えば、「歴史的比較言語学」の特徴として宮下は、@「音声言語だけを言語の本質的なあり方と見做し」(p.8)たこと、A「言語規範を言語の本質と見做し」(同上)たこと、B「個々の語の意味ではなくて同種の語に共通な「一般的意味」を言語の意味と見做」(同上)していることの3点を挙げています。しかし、「歴史歴比較言語学」の特徴として、@は分かるにしても、AやBは挙げることができるのか、はなはだ疑問です。AやBは宮下がソシュールの言語理論をはじめとする言語道具説を特徴づける際によく述べていることですが、この同じ批判が「歴史的比較言語学」、すなわち言語学の対象を人間の意志とは関わりのない音韻法則にまで還元し、その音韻法則を明らかにすることを目的とする言語「学」にも当たるのかといえば、「歴史的比較言語学」では実際に表現された言語の変化法則を問題にしている(言語規範を言語の本質とみなしているわけではない!)し、そもそも言語の意味を度外視している(個々の語の意味も「一般的意味」も問題にしていない!)から、どうにも宮下の主張には納得しがたいものがあります。

 以上を端的にまとめれば、宮下は言語過程説以外の言語理論を全て一律に批判するし、その批判の仕方もいくつかの型にはまったものだ、ということになります。ほかにも、宮下の著作の目次立ては体系的でない(例えば『英語文法批判』「本論 英語の文法」は、「1章 固有名詞」、「2章 名詞と形容詞」、「3章 代名詞」、「4章 ever」、「5章 不特定代名詞とeverとの複合代名詞」、そして「6章 冠詞」となっていて、完結していないのみならず、その順序も恣意的です)という欠点もあります。

 こうしたことは、結局、宮下が言語学を構築する際に討論する相手がいなかったことに起因するのではないかと思われます。本来であれば学問は、その原点である古代ギリシャにおけるプラトンやアリストテレスの研鑽過程に見られるように、討論を通じて対象の構造を深く理解していってこそ構築可能なものなのです。個人の認識の限界を突破し、対象の性質を全的に把握するためには、格闘レベルで討論し続けていくことで、自らの認識を豊かなものにしていく必要があるのです。具体的にいえば、討論によって自らの認識の不十分さを指摘されたり、自分が思ってもみなかった視点を提示されたりすることによって、自分一人では不可能であった認識の発展が図れていくのです。しかし宮下は、在野の言語理論である言語過程説を支持していたため、大学というアカデミックの世界では言語過程説の中身を深めていく議論ができなかったのではないかと想像されるのです。端的にいえば、宮下には討論を通じて培うべき弁証法、認識論の実力が決定的に不足していたということになるでしょう。
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2017年05月24日

文法家列伝:宮下眞二編(3/5)

(3)宮下は言語過程説を英語に適用した

 本稿は、宮下眞二の言語過程説の中身を検討することで、宮下の言語学史上の意義を明らかにすることを目的として執筆する小論です。

 前回は、宮下が三浦つとむの言語観を全うに受け継いだことを見ていきました。宮下の「言語とは、言語規範を媒介とする表現である」という規定、「概念とは対象をその普遍的側面で捉へた認識である。言語はこの概念を直接の原型とする表現である」という考え方、「語は表現であり、対象―認識―表現という過程的構造を持ってゐる」、「語彙は語を媒介する言語規範であり、ある種の対象はある種の音声又は文字で表現すべしといふ認識である」という区別などは全て、英語の謎を解くために宮下が三浦の言語観を自らのものとして構築した結果の概念規定であったということでした。

 さて今回は、三浦にはない宮下独自の業績を中心に検討していくことで、宮下が言語過程説をどのように発展させたのかの具体的な中身を見ていきたいと思います。

 まず取り上げたいのが、宮下が言語観を3つに分類していることです。

「言語のどの側面を本質とするかによって、言語理論の理論的性格が決まってくる。意味を本質とみなして言語現象を説明すれば、内容主義の言語理論になり、形式を本質とみなして言語現象を説明すれば、形式主義の言語理論になり、機能を本質とみなして言語現象を説明すれば、機能主義の言語理論になる。」(『英語はどう研究されてきたか』p.130)

 このように宮下は、言語のどの側面を本質とするかによって、内容主義言語理論、形式主義言語理論、機能主義言語理論という3つの言語観が存在することになるというのです。具体的にいえば、例えば、「きれいな花が咲いていた」という表現について、その表現が示す意味を中心に言語を捉える(内容主義言語理論)か、その表現の語順や語形(活用など)を中心に言語を捉える(形式主義言語理論)か、または語と語の修飾関係や主語はどの語かといった文における語の役割を中心に言語を捉える(機能主義言語理論)かによって、言語観を分類したのです。さらに宮下は、内容主義言語理論を2つに区別して、言語が対象―認識―表現という過程的構造を持ち、この客観的な関係自体を言語の意味と捉える科学的内容主義(=言語過程説)と、客観的な関係自体ではなくて、関係を構成する実体である対象や話し手の認識、あるいは聞き手の認識を漠然と言語の「意味」だと経験的・直観的に把握する経験的内容主義とを挙げています。また、形式主義的言語理論については、「語の形態や文における語の位置などの言語の形式的なあり方を言語の本質とみなして言語現象を説明する理論」(同上書p.131)だとしています。そして、機能主義的言語理論に関しては、「語の内容(語が何を表すか)ではなくて、他の語に対して統語的関係(たとえば形容詞は名詞を「修飾」するとか、名詞は「主語」や「目的語」になるとか)を取るという「機能」を語の本質とみなし、更に句や文をも同様の機能的観点から説明する理論」(同上)だとされているのです。

 以上のように宮下は、言語学史を検討する中で、その中に表れる言語観を大きく3つに分類し、言語の捉え方を整理した上で、科学的内容主義である言語過程説が言語観として正しいと主張したのでした。

 続いて、宮下の名詞論の中から特徴的な議論を紹介したいと思います。

 まず、名詞と形容詞の区別についてです。ヨーロッパ諸語の大きな特徴として、名詞と形容詞とが同様の屈折をするということがあります(英語は屈折が消失してしまっている部分が多いですが、例えばラテン語では、「友」を表す名詞amīcusも「良い」を表す形容詞bonusも共に主格・呼格・属格・与格・対格・奪格の順にus・e・i(ī)・o(ō)・um・o(ō)と語尾変化(屈折)します)。ですから、上記の形式主義言語理論では名詞と形容詞の区別がつかないわけです。そこでイェスペルセン(デンマークの言語学者1860-1943)は、名詞と形容詞の区別の根拠に関して、両者の特殊性の程度の差(名詞は特殊的な意義を持ち、形容詞は一層一般的な意義をもつという差)と、名詞が「諸性質の複合」を表示するのに対して、形容詞が「一つの性質を抽出する」点とに求めたのでした。これに対して宮下は、特殊性の程度の差は語ではなく語彙の問題であり、また「諸性質の複合」を表示するか「一つの性質を抽出する」かは語によって様々であるから、両者の区別の根拠にはならないと批判しました。そして、「形容詞と名詞とは、それぞれ静的属性―静的属性概念―形容詞、実体―実体概念―名詞といふ過程的構造のあり方が異るのである。」(p.77)と述べ、言語が担う過程的構造の違いに着目したのです。さらに、red(赤み)やsweetness(甘み、甘さ)等の静的属性を表す名詞に関して、「これらは静的属性―実体概念―名詞といふ過程的構造を持ってゐる」(p.78)と説明しています。以上から宮下は、端的にいえば、実体概念を表現したものが名詞であり、静的属性概念を表現したものが形容詞だとして、認識のあり方で語の種類すなわち品詞を分類しているのです。同じ静的属性を対象としても、それを静的属性概念として把握するか、実体概念として把握するかによって、形容詞として表現したり、名詞として表現したりするのだということです。

 ほかにも宮下は、名詞に関連して、「ヨーロッパ諸語の複数表現は、同種類の実体を個別に認識した上で、それらを総合して、その総合的認識を原型とした表現である」(p.51)と述べたり、「ラテン語等の形容詞の文法的性が、接続する名詞の文法的性と一致するといふ文法現象は、その形容詞と名詞とが対象としている静的属性と実体とが現実に於ては不可分に結合してゐる事の、文法上の反映である」(p.61)と述べたりしています。

 以上を踏まえると、宮下の名詞に関する考え方はどれも、言語は対象―認識―表現という過程的構造を持ち、言語規範を媒介とすることで、対象を共通の側面すなわち種類の側面で捉えて表現するものであるという言語観に基づく一貫した説明になっていることが分かると思います。

 さて、続いて宮下の冠詞論を検討してきたいと思います。

 宮下は初めに、「名詞が冠詞を取つたり取らなかつたりする現象の土台には、英語に特有の単位観がある」(p.222)として、単位の問題を検討していきます。まず、「単位の認識は対象たる実体が他の同種の実体と共通する個体としての形式を持つてゐることに基く」(同上)と述べ、「或る種類の実体に特有の個体としての形式を単位性と名付けよう」(同上)と定義します。そして「単位とは単位性の認識に外ならない」(同上)と述べるのです。つまり「単位」は認識であり、「単位性」は対象たる実体の性質であるということになります。

 さらに宮下は、単位性について「同種の個体にほぼ共通の形態のことである」(p.224)として、家具を表すfurnitureを挙げて、これは机や椅子や寝台などの動かせる道具を表すが、それらに共通の形式を見つけることが難しいから、所謂物質名詞として、単位性を持たないと説明します。そして単位性を持たないことは、「複雑な事態を抽象的かつ実体的に把握した場合や、属性を実体的に認識した場合」(同上)も同様で、例として、peaceやkindnessやarrivalやboyhoodは単位性を持たないと説明するのです。

 こうした説明によって宮下は、「この単位を表すのが冠詞である」、「定冠詞も不定冠詞も単位性の認識を内容の一部としてゐるのである。」(同上)と結論付けるのです。
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2017年05月23日

文法家列伝:宮下眞二編(2/5)

(2)宮下は三浦の言語観を受け継いだ

 前回はまず、今村雅弘復興大臣(当時)の発言の何が問題なのかを明らかにしました。端的には、表面上の言葉づかいが問題だったのではなくて、東日本大震災をどのように捉えるのかという点に問題があったのだということでした。そして、言語から対象の見方を考えていく上で有効な言語理論として、言語過程説があり、その中でも今回は、言語過程説を英語に適用した宮下眞二を取り上げて検討していくということでした。

 さて今回は、宮下の言語に関する諸々の概念規定を概観していくことで、宮下が三浦つとむの言語観を受け継いだのだということを示したいと思います。

 まず断っておかなければならないことは、宮下の著作は、『英語はどう研究されてきたか』にしても『英語文法批判』にしても、初めに本質論を提示し、それに基づいて論を展開するという学問的な流れにはなっていないということです。そうではなく、現代の英文法論を批判するという問題意識が強く表れた構成になっています。具体的には、『英語はどう研究されてきたか』では、「第T部 現代言語学の批判」、「第U部 英語学史の再検討」となっていますし、『英語文法批判』は「序論 イェスペルセンの歴史的課題と言語観」及び「本論 英語の文法」から構成されています。ですから、宮下の言語に関する概念規定についても、明確な規定がなされているわけではないのですが、随所に表れている表現から、宮下の考え方を掬い取って検討していくことにしたいと思います。

 まず宮下による言語の概念規定についてです。宮下は、「言語規範を媒介とする表現即ち言語である」(p.12、今後、特に断りがない場合は『英語文法批判』からの引用)と述べています。つまり宮下は、「言語とは、言語規範を媒介とする表現である」と捉えているのです。言語を表現の一種と捉えており、言語規範を媒介とすることを表現一般における言語の特徴だと考えていることが分かります。

 では、三浦は言語をどのように規定していたのでしょうか。三浦についても、明確な概念規定をしている部分がありませんので、三浦の言語観をよく表す部分を引用しておきたいと思います。

「感性的な音声や文字を使って超感性的な一般的な認識を直接に表現しなければならぬという言語の矛盾から、特定の一般的な認識にはつねに特定の種類の音声や文字を対応させて表現するよう強制する規範が欠くべからざるものとなり、この規範による表現の媒介という特殊な過程の存在こそ、言語における矛盾がもって自らを実現するとともに解決する運動形態である」(三浦つとむ『認識と言語の理論』第3部pp.56-57)

 ここで三浦は、言語を矛盾として捉え、「感性的な音声や文字を使って超感性的な一般的な認識」を表現するために「特定の一般的な認識にはつねに特定の種類の音声や文字を対応させて表現するよう強制する規範」が創り出されることになったのだと述べています。言語が矛盾であるという側面を脇において要約すれば、三浦は言語が表現であり、言語規範を媒介とするという特殊性があると述べているわけで、宮下はこの三浦の言語観を受け継いでいると評価することができます。

 続いて、宮下が概念をどのように把握していたのかについて見ていきたいと思います。宮下は、「概念とは対象をその普遍的側面で捉へた認識である。言語はこの概念を直接の原型とする表現である」(p.47)と述べています。端的には、概念とは認識の1つのあり方であり、対象の感性的なあり方を具体的に捉えたものではなくて、対象の感性的な特殊性を捨象した普遍的な認識であるというわけです。そして言語は、この普遍的認識である概念を基にして創り出される表現であるというのです。

 それでは三浦はこの問題についてどのように説いているのでしょうか。

「どの語に表現された認識も、すべて対象の具体的な感覚的なありかたを頭の中で無視して(これを捨象という)しまって、それがどんな種類に属するかという種類としての共通性だけを分離して(これを抽象という)とりあげたものであり、この認識を概念とよんでいる。」(三浦つとむ『日本語の文法』p.11)

 つまり三浦は、「対象の具体的な感覚的なありかたを頭の中で無視して」、「それがどんな種類に属するかという種類としての共通性だけを分離して」「とりあげた」認識を概念と呼んでいるわけであり、言語はこの概念を表現したものであるというわけです。ここで三浦が対象の具体的なあり方を捨象し、種類としての共通性だけを抽象した認識、つまり先の引用でいえば「超感性的な一般的な認識」と呼んでいるものを、宮下は「対象を普遍的側面で捉へた認識」と別の言葉で表していますが、内容は同じものだといえるでしょう。また、言語が概念を表現したものであるという捉え方も共通しています。

 では最後に、宮下が語と語彙とをどのように区別しているのかについて見てみましょう。宮下は、「語は表現であり、対象―認識―表現という過程的構造を持ってゐる」、「語彙は語を媒介する言語規範であり、ある種の対象はある種の音声又は文字で表現すべしといふ認識である」(p.45)と述べています。つまり、語は表現であり、語彙は認識であるという明確な区別があるというのです。

 この点についても三浦が、語が「個々の人間によって語られ書かれた表現」(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』p.38)であって、語彙は「音声の種類あるいは文字の種類」(同上書p.37)であり「社会的な約束」(同上)であると述べていることを、宮下が継承していることが分かると思います。

 以上を踏まえると、宮下の言語観は三浦の言語観そのものであるといえると思います。言語の規定にしても、概念の規定にしても、語と語彙の区別についても、全て三浦の主張をそのまま受け継ぎ、自らの言語観として把持していることが分かると思います。宮下は『英語文法批判』「はしがき」で自ら述べているように、「時枝誠記・三浦つとむの言語過程説を武器として英語の謎と取組んで」いこうとしたのだといえるでしょう。
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2017年05月22日

文法家列伝:宮下眞二編(1/5)

〈目次〉

(1)宮下の言語過程説にはどのような歴史的意義があるのか
(2)宮下は三浦の言語観を受け継いだ
(3)宮下は言語過程説を英語に適用した
(4)宮下には弁証法、認識論の実力が決定的に不足していた
(5)宮下は言語過程説が一般言語学の理論たり得ることを実証した


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(1)宮下の言語過程説にはどのような歴史的意義があるのか

 先月25日、自民党二階派パーティーで今村雅弘復興大臣(当時)が、東日本大震災の被災者を傷つける発言をしたとして大きな問題になりました。

「皆さまのおかげで東日本大震災の復興も着々と進んでいる。社会資本などの毀損もいろんな勘定の仕方があるが、二十五兆円という数字もある。これがまだ東北で、あっちの方だったから良かったけど、これがもっと首都圏に近かったりすると莫大な、甚大な被害があったと思っている。」(中日新聞2017年4月26日朝刊)

 この「東北だから良かった」という発言は、被災者やその遺族にとって、到底許すことができないものでしょう。人間の命や人生を全く顧みない、被害を単に数字でのみ捉えている非情な発言だと映るからです。さらに問題なのは、今村氏の「失言」は先月4日の記者会見(東京電力福島第一原発事故で故郷を離れ、避難先で暮らす人について「自主避難は本人の責任だ」と発言)に続いて2回目であり、加えて、今回の問題発言の後、記者団に向って、「東北でもあれだけひどかった。防災なり、しっかり対応しなきゃいけないという意味だ」と釈明し、発言の扱いを問われると、開き直ったような口ぶりで「取り消させていただく」と述べたことです。見方によっては、自分が失言したことすら自覚がなく、3週間前に自身の発言が問題視されたため、とりあえず発言を撤回しておこうという打算的な態度にも見えてしまいかねない対応だといえるでしょう。結局今村氏は、更迭に近い形で大臣を辞めることになったのも当然です。

 ここで問題にしなければならないことは、単に今村氏の言葉が適切ではなかったという表面的なことではありません。「社会資本などの毀損」について、「東北」で震災が起こった現実と、「首都圏」で震災が起こったという仮定とを比べた場合、「東北」の方が被害額が少なかっただろうという意味で、「東北だから良かった」と述べたのだ、だから非難されるほど問題ではないのだ、単に少し表現の仕方がまずかっただけだ、などという問題ではありません。復興大臣という役職につきながら、東日本大震災の被害状況に対するイメージが、あまりにも貧困だという今村氏のアタマの中が問題なのです。被災者やその遺族、自主避難者の、震災後から現在に至るまでの厳しい生活状況、悲痛な思いなどを具体的に思い描けていたのなら、こうした発言にはならなかったに違いありません。それらがアタマになく、被害額や復興予算などの抽象的な数字でしか東日本大震災を捉えていないことこそ、大きな問題だということです。

 この今村氏の発言は、言語とは何かを考える上で非常に示唆に富んでいます。どういうことかというと、言語の問題を考える際には、単に言語だけを取り上げて云々してはならないのだ、言語の基となった認識をこそ問題にすべきだ、という教訓を引き出せるからです。さらにいえば、認識とは外界の対象をどのように捉えるかという問題を含んでいるものですから、言語から現実世界の見方を把握することができるのだということもいえるわけです。今村氏の発言からは、今村氏が東日本大震災を苦悩する被災者の情況から見ているのではないということが明らかになったからこそ、大きな問題になったのだということです。

 こうした問題を踏まえて本稿で取り上げたいのが、言語を対象―認識―表現という過程的構造を背負ったものとして捉え、認識を基にして言語を考察していこうという言語過程説です。本ブログではこれまで、時枝誠記の言語過程説やそれを継承発展させた三浦つとむの言語過程説を取り上げ、言語過程説は言語が創出される過程、すなわち対象―認識―表現という過程的構造に着目して、言語を明確に表現の一種として把握する言語理論であり、本当の意味での科学的言語理論の支柱になり得るものだということを明らかにしてきました。今回は、こうした時枝や三浦の言語過程説を英語に適用し、英文法の新たな体系を創り出そうとした宮下眞二の言語過程説について検討していきたいと思います。

 小川明「宮下眞二 小論―ある英語学研究者の軌跡」などによれば、宮下は1947年宮城県に生まれました。1971年には東北大学文学部を卒業して、文学研究科英語学専攻に進学しています。そして1973年に修士課程を修了し、北見工業大学に就職して一般英語を担当しました。学部時代は日本思想史学科に籍をおいていましたが、1969年には「英語の謎を解くことを志して」(『英語はどう研究されてきたか』はしがきp.3)、進路を変更したようです。この背景には、三浦や吉本隆明の影響があるのではないかと思われます。1980年には最初の著書である『英語はどう研究されてきたか―現代言語学の批判から英語学史の再検討へ』を出版し、1982年4月10日に2冊目の著書である『英語文法批判―言語過程説による新英文法体系』が発行されますが、その出来上がった著書を見ることなく、4月4日未明、熱海で縊死しました。

 『英語はどう研究されてきたか』「はしがき」には、「チョムスキーの変形文法を中心とする現代の欧米の言語学に根本的な疑問を抱き、それを批判して、さらにその歴史的背景を成す英語学史の再検討を試みた」(p.3)とあり、また『英語文法批判』「はしがき」には、「本書は言語過程説の英語研究への適用であり、具体化即ち発展であります」とあります。宮下は、当時支配的だった(そして現在でも支配的な)構造言語学や変形文法では言語の本質が掴めないと考え、言語過程説でもって英語の謎を説こうとしたのでした。

 本稿では、『英語文法批判』を中心にこうした宮下の言語過程説の中身を検討することで、宮下の言語学史上の意義を明らかにしたいと思います。まず、宮下が三浦の言語観及びそれに基づく言語理論を受け継いだことを、宮下による言語に関する概念規定を見ていくことで示したいと思います。次に、宮下による言語過程説の発展の中身を見ていきます。具体的には、宮下による言語観の分類、宮下の名詞論、冠詞論について検討していきたいと思います。そして最後に、宮下の著作に表れている欠点について、自らの言語学創出に資する形で論じていきたいと思います。
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2016年10月24日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(13/13)

(13)科学的な言語学体系の創出を目指して

 前回は、改めて本稿の内容を振り返った上で、三浦の言語理論の歴史的意義(*)について考察しました。端的には、弁証法を駆使して、言語における矛盾の構造を解き明かしたのだということでした。

 ここで、連載第1回に取り上げたレスリングの吉田沙保里選手の言葉を思い出してみましょう。吉田選手は、五輪4連覇を逃した決勝戦の後、涙ながらに「取り返しのつかないことになってしまった」と語ったのでした。この言葉を表面的に、言語の「意義」として把握すると、「失ったものを取り戻すことが不可能になってしまった」というようになると思います。しかし、こうした把握では、内容があまりにも抽象的であって、吉田選手が思い描いていた認識を部分的にしか捉えられていないということがいえるでしょう。それでは言語の「意味」、すなわち内容全体を捉えるとどうなるでしょうか。そのためには、観念的な自己を吉田選手の立場に立たせ、吉田選手の認識を追体験する必要があります。こうした過程を経ることによって、亡き父との約束を果たすことができなかったからこその「取り返しのつかないことになってしまった」という表現なのだということが分かるのです。連載第1回で述べた「取り返しのつかない」という表現に関する分析は、論理的にいえばこのようになるわけです。

 それでは、三浦の言語理論でもって言語学は完成したのだといいきることができるのでしょうか。実はそうではないのです。連載第2回に示した『認識と言語の理論』の目次をご覧いただければ分かるように、三浦は本書で言語に関する諸々の問題を一応の筋を通して説いてはいるのですが、科学的な言語学体系としては不十分だといわざるを得ないのです。三浦が本書を執筆した当時の、個別的な言語に関わる論争に関わる記載が、論理的な展開と並列されていたり、言語表現の過程的構造を説くにしても日本語についてのみ解説されていたりと、体系だった流れとはなっていないのです。何よりも、言語の一般的な概念規定がない、言語の本質論がない、というのが決定的に不十分な点として指摘されなければならないでしょう。

 三浦は『認識と言語の理論』第3部p.53において、自身が「言語理論の建設を目ざすようになった」理由について、「根本的にはまだ一般論すら確立されていない分野で仕事をしてみよう」、「言語学者の手におえない難問題を解決してやろう」ということがあったと述べています。では三浦が措定した言語の「一般論」とはどのようなものなのでしょうか。果たして本当に言語の「一般論」が説かれているのでしょうか。pp.56-57には以下のように述べられています。

「感性的な音声や文字を使って超感性的な一般的な認識を直接に表現しなければならぬという言語の矛盾から、特定の一般的な認識にはつねに特定の種類の音声や文字を対応させて表現するよう強制する規範が欠くべからざるものとなり、この規範による表現の媒介という特殊な過程の存在こそ、言語における矛盾がもって自らを実現するとともに解決する運動形態である」

 確かにこの規定は、言語がどのような過程を経て創出されるのか、その必然性も含めて言語の特徴をよく表しているといえるでしょう。しかし、この規定を読んだだけでは、言語とは何かの本質は理解できません。言語の「一般論」といいながら、言語とは何かを本質レベルで説けていないといわざるを得ないのです。それはつまり、言語がどういうものであるのかについて、一言で言い表したような概念規定ができていないということです。言語の本質論がなければ、そこから体系的な構造論を展開し、科学的な言語学体系を創っていくことはできないでしょう。さらにいえば、人間が言語を創出した歴史的必然性についてや、言語が表す認識はどのような過程で人類の頭脳に生成してきたのかについては、つまり言語やその基盤となる認識の原点については、論理的に筋を通して説かれてはいないのです。三浦の言語理論は、言語を矛盾として把握し、静的な構造を解明しただけであって、こうした言語や認識の原点から論理的に把握し、なぜ言語学を創出する必要があるのかを現代社会の諸問題も絡めながら説ききれるような科学的な言語学体系にはなっていないのです。厳しくいえば、弁証法を適用して言語の謎の一部を解き明かすことができましたという以上の言語学創出に対する情熱がなかったのだといえるでしょう。

 それでは最後に、筆者が考える言語の仮説的一般論を示しておきます。

「言語とは、人間が精神的交通を可能にすることで社会的労働を統括し社会を維持・発展させられるよう、社会的認識を媒介することで概念を音声や文字の類的創造として物質化した表現である。」

 この言語の仮説的一般論は、日常的なコミュニケーションにおける言語がどのようなものかを規定するのみならず、連載第2回で触れた人間の本質的なあり方、すなわち認識によって集団生活を統括するという人間のあり方における言語の役割をも規定していると考えています。

 さらにいえば、これまで人類が獲得してきた文化を世代を超えて継承し発展させる上で、言語が果たしてきた大きな役割についても内包していると思います。言語のように、抽象的、一般的な認識を表現する手段なくしては、学問の発展もあり得ないといえるでしょう。人類が長い年月をかけて獲得してきた文化遺産を継承し、さらに発展させていくためには、どうしても言語が必要になってくるのです。

 言語は単なるコミュニケーションの手段ではなくて、こうした人類の生成発展の流れと共に生成発展して、社会の維持・発展に欠かすことのできない役割を担っています。人間の社会の土台であり、全ての学問の基礎であるこうした言語の本質的な役割をしっかり踏まえた上で、言語の本質論が統括する科学的な言語学体系を創出することを決意して、本稿を終えたいと思います。

(*)三浦の言語理論を言語研究史という角度から評価すると、ソシュールの「ラング」と「パロール」を統一したのだともいえます。ソシュールは言語の持つ2つの性格を分けて把握し、それぞれに「ラング」と「パロール」という名前を付けました。言語の社会的・精神的・体系的な性格を「ラング」と呼び、言語の個人的・物理的・個別的な性格を「パロール」と呼んで、全く別の実体として把握したのです。「ラング」は頭の中にあり、「パロール」は現実の世界の中にあるというわけです。そして「ラング」は他の全ての記号と異なるという関係において、自らを同定する記号の体系だと捉えたのでした。また、「パロール」は物理的なあり方が問題であって、言語の本質からは外れる存在だとソシュールは考えたのでした。詳細については、本ブログに掲載した「文法家列伝:ソシュール編」を参照していただくとして、このソシュールの把握は、言語を言語表現と非言語表現との統一だとする三浦の把握に、今一歩のところまで迫ったものだと評価することができます。つまり、言語には2つの性格があることを見抜いたものの、音声や文字そのものに種類という側面があることを把握し切れず、言語の本質たる「ラング」を頭の中にある記号の体系に解消してしまったのでした。三浦は、音声や文字の中に「ラング」的な性質である言語表現と、「パロール」的な性質である非言語表現とが、不可分に統一されていることを見事に指摘したのでした。

(了)
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2016年10月23日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(12/13)

結論
(12)三浦言語学は言語を矛盾として把握した

 本稿は、認識を正しく伝える言語を創っていくためには、あるいは言語に表れている認識を正しく把握するためには、認識と言語とのつながりをしっかりと把握する必要があるという問題意識のもと、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読み進め、三浦の言語理論の歴史的意義を明らかにするとともに、科学的な言語学体系を構築する土台を築きあげることを目的として執筆する小論です。これまで三浦が、言語の問題を解くためにまずは認識の理論を説いていったこと、認識から表現への過程的構造を明らかにしたこと、言語を二重性で把握したことを述べてきました。

 ここで改めて、本稿の流れをポイントとなる部分を中心に振り返っておくことにしましょう。

 三浦は、言語はまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字が創造されるという形で生まれるものであるために、言語学のためには認識についての科学的な理論が必要だと述べた上で、認識の個別的性格と社会的性格について説いていきました。認識とは現実の世界の感覚器官を通した模像であって、個人の頭脳にしか描かれないものであるにも関わらず、認識が交通関係に入っていくことによって、他人の認識を受け取り、社会的な性質を帯びていくものであるということでした。認識の基本的な性質を確認した上で三浦は、認識論の2つの柱について説いていきました。1つ目は、観念的な自己分裂という問題についてでした。三浦は、人間の認識は「受動的であり限界づけられていると同時に、能動的に現実に向って問いかけその限界を超えていく」という性質があると述べ、「現実的な自己」から分裂した「観念的な自己」が時間空間を超えて移行していき、そこで捉えた成果を引っさげて「現実的な自己」に復帰することで、認識が発展していくのだと説いていたのでした。もう1つは、規範とは何かという問題でした。規範とは、観念的に対象化された意志であって、心の中から自分自身に命令するものでした。規範は、個人の頭の中にしか存在しないにも関わらず、対象化された意志という形をとるために、個人の独自の意志と対立することがあるということでした。

 言語学に必要な認識論を説いた上で、三浦は認識から表現への過程的構造について説いていきました。三浦はまず、表現一般について、精神の物質的な模像であると規定しました。そして、現実の世界にある物質的な存在においては、実体が直接に内容とよばれるのに対して、表現の場合は、実体は媒介的に内容を形成する存在であるということでした。言語についていえば、言語の内容(意味)とは、認識が言語の形式(音声や文字)と結ぶ関係であって、感性的に捉えられるものではないということでした。続いて三浦は、言語の表現としての特殊性について説いていきました。言語には、言語を規定する社会的な約束である言語規範が必須であって、この規範を媒介するということこそ、言語の表現における特殊性だというのでした。では、なぜ言語には規範が必要となってくるかといえば、それは言語が具体的な感性的な対象のあり方を捨象した認識である概念を表現するものであるために、こういう種類の認識(概念)を表現するためには、こういう種類の音声や文字を使うのだという社会的な約束が言語には必要になってくるのだということでした。さらに三浦は、言語における観念的な自己運動とはどういうものかについて説いていきました。過去の追想や否定判断を用いる場合には、簡単な構造の文であっても、その背後には、観念的な自己が時間空間を移行するという運動が潜んでいるのでした。また代名詞を用いる際にも、観念的な自己が現実的な自己から分離して、聞き手の立場に立つなどの運動を行うのでした。

 最後に、三浦が言語を二重性で把握した中身を見ていきました。まず、表現一般について、客体のあり方のみならず、主体のあり方をも表現している事実を確認し、この客体的表現と主体的表現とが、言語においては分離する可能性があることを見ていきました。これは言語が対象の感性的なあり方から解放された表現であるために、対象のあり方を表現しても、必ずしも主体のあり方を共に表すということにはならないためでした。次に三浦は、言語の「意味」と「意義」の違いを説いていきました。言語の「意義」とは、規範に対応する内容の抽象的・部分的な面であって、言語の「意味」とは具体的な内容全体のことでした。三浦は、言語の「意義」を手掛かりにしてその「意味」を把握する必要があるとして、観念的な自己が表現者の認識を追体験することで、言語の「意味」を掴むことができるのだと説いたことを見ていきました。最後に、言語は言語表現と非言語表現の統一であるということがどのようなことか、見ていきました。三浦は、言語がどのような形で表されようと、一定の範囲に属する限りは同じ言語として取り扱うのだと述べて、同じ種類に属するという側面こそが言語表現であるとしたのでした。一方、同じ種類に属していたとしても、感性的なあり方は様々であって、言語のこうした感性的なあり方の側面を非言語表現と名付けたのでした。

 以上、三浦つとむ『認識と言語の理論』の論理展開を概観してきました。改めてまとめてみると、三浦は、言語とはどういうものかを解明するために、まずは観念的な自己がどのように運動するのかという問題と、規範とは何かという問題とを中心に認識の理論を説いた上で、認識から表現に至る過程を明らかにしつつ、言語を表現一般に位置づけながらその特殊性を指摘し、言語と認識との関係を繙いてきたといえると思います。

 ここで三浦の言語理論の歴史的意義を問えば、それは徹底して言語を矛盾として把握しようとしたことだといえるでしょう。三浦は弁証法を「物ごとの本質そのものにおける矛盾の研究」(『弁証法はどういう科学か』p.25)だと述べていますが、それを言語において実践したことが大きな成果であるといえるということです。「矛盾の本質は、ある事物が対立を「せおっている」という関係」(同上書p.276)だと説く三浦は、言語においては超感性的な認識を感性的な音声や文字として表す必要があるという根本的な矛盾があるという把握のもと、言語における3つの二重性、すなわち客体的表現と主体的表現との二重性、意味と意義との二重性、言語表現と非言語表現との二重性を解き明かしたのでした。言語の根本矛盾を解決するためには、音声や文字を種類として創造する、つまり言語表現と非言語表現との統一したものとして創造する必要がありました。これを実現するためには、規範を媒介するという認識の運動が必要不可欠であって、この規範を媒介するという手段を創出することは、直接に言語の「意味」と「意義」とを二重化するということだったのです。こうした言語の過程的構造を創出したことは、対象の感性的なあり方に縛られない表現が可能となったことを意味し、結果として客体的表現と主体的表現の分離という言語の特殊性が生じてきたのでした。
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2016年10月22日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(11/13)

(11)言語表現と非言語表現との統一としての言語

 前回は、三浦が言語の「意味」と「意義」をどのように捉えていたのかについて見ていきました。言語は超感性的な認識である概念を表現したものであるために、音声や文字から直接把握できるものは、表現者の認識のうち、規範に対応する内容の抽象的・部分的な面でしかないのであって、これを三浦は言語の「意義」と呼んだのでした。一方、言語が表す具体的な内容全体のことを三浦は言語の「意味」と呼び、言語の「意義」から「意味」を把握する過程を解き明かしたのでした。具体的には、観念的な自己が表現者の立場に立ち、表現者が表現の過程で捨象した具体的な認識を追体験することによって、言語の「意味」を把握することが可能となってくるということでした。

 さて今回は、言語の二重性の最後の1つである、言語表現と非言語表現との統一とはどういうことかについて、三浦の論理展開を追っていくことにしましょう。

 連載第7回において、三浦が言語は「対象を類的存在において概念として忠実にとらえ音声や文字の類的創造において忠実に表現する」ものだと説いたことを紹介しました。簡単にいえば、言語は「音声や文字の類的創造」としての表現であるということです。ではこの「類的創造」とはどういうことでしょうか。このことに関して三浦は、以下のように説いています。

「たとえ、感性的な具体的なありかたとしてどんなに異っていても、行書で書かれた原稿用紙の文字を活字や電光ニュースで複製することが許されたり、あるいは文字を読みあげて音声で複製することが許されたりするのは、ほかならぬ種類として同一と認められているからである。これは、種類としての普遍的な側面こそが言語としての表現であって、種類として対応する複製ならば感性的にどのような変化があろうとも表現として忠実な複製であることを、実践的に承認しているのである。」(p.388)

「言語表現の持っている感性的なかたちそれ自体は決して言語としての表現でないからこそ対象の感性的なかたちからいくらでも遊離できるのだ」(p.387)

 ここで三浦は、音声や文字の二重性について言及しています。すなわち、音声や文字は「種類としての普遍的な側面」と「感性的なかたちそれ自体」という側面との統一であるというのです。そして三浦は、前者を言語表現、後者を非言語表現と規定しています。これは一体、どういうことでしょうか。

 例えば、「犬」という文字があります。この文字は、黒で書こうが赤で書こうが、行書で書こうが楷書で書こうが、鉛筆で書こうが万年筆で書こうが筆で書こうが、電光ニュースで流すために光の点で書こうが、どのような感性的なあり方をしていても同じ文字だといえます。ある一定の範囲に属している限り、同じ文字だとして扱うことになるのです。但し、限界を超えて別の種類として扱われてしまうような変更は許されません。「犬」という文字の「点」を中央下方に移して、「太」とすれば、これはもう別の種類の文字だということになります。音声についても同様です。「イヌ」という音声を、低く発音しようと高く発音しようと、早くいおうと遅くいおうと、その感性的なあり方に関係なく、同じ音声だといえます。ある一定の範囲に属している限り、同じ音声だとして扱うことになっているのです。但し、限界を超えて別の種類として扱われるような変更、例えば、「キヌ」(絹)とか「イン」(印、員など)とか発音すれば、これはもう別の種類の音声として扱われることになります。このように、音声や文字には、ある一定の範囲に属しているという種類の面(言語表現)と、具体的な感性的なあり方そのものという面(非言語表現)という二重性が存在していて、それらが統一されていると三浦はいうのです。

 三浦は非言語表現を活用する例として、「音声言語から相対的に独立した感性的な具体的な表現の系列を音楽として作曲するところに」(p.390)成立する「歌唱」(同上)や、「文字言語から相対的に独立した感性的な具体的な表現の系列を絵画として創造するところに」(同上)成立する「文字デザインあるいは書」(同上)などを挙げています。音声言語や文字言語の種類としての側面を保ちつつ、その範囲内で音声や文字の感性的なあり方、つまり非言語表現の部分を工夫して、様々な芸術が生み出されているというわけです。

 さらに三浦は、連載第9回に取り上げた客体的表現と主体的表現について、これらは言語表現だけではなく非言語表現にも存在するといいます。具体的には、非言語表現の客体的表現としては、以下のように、文字の配置で「「谷間」や蛾の「飛び立つ」ありかたを絵画的に示している」(p.395)例が挙げられています。

非言語表現の客体的表現.png

 非言語表現の主体的表現としては、「怒りや、憎しみや、悲しみや、あるいは愛情などが、非言語表現としての主体的表現すなわち声色によって示される」(p.396)例が挙げられています。例えば、「バカ!」という言葉を頑固おやじがいたずら息子を叱りつけるときに使えば、この声色という非言語表現が父親の怒りを直接に表現する主体的表現であると捉えることができるというわけです。

 以上三浦は、言語は「音声や文字の類的創造」としての言語表現という側面と、感性的なあり方そのものとしての非言語表現という側面とが統一されたものであると説き、この言語表現と非言語表現との二重性と、客体的表現と主体的表現との二重性とが複雑に絡み合った構造を解き明かしたのでした。
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2016年10月21日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(10/13)

(10)言語の「意味」と「意義」の違いを説く

 前回は、客体的表現と主体的表現とは何かという問題に関して、三浦の見解を追っていきました。三浦はまず、表現一般について、客体のあり方を表現した客体的表現と、主体のあり方を表現した主体的表現とがどのようなものか説明していきました。例えば写真であれば、被写体となったものの表現であることは間違いないのですが、同じ写真の画面に、主体の位置も表現されているということでした。そして、感性的なあり方を忠実に捉えて表現する場合には、客体的表現と主体的表現とが不可分に統一されていること、言語の場合には、対象の感性的なあり方から自由であるために、客体的表現と主体的表現とが分離し得ることを確認しました。

 さて今回は、三浦が言語を二重性で把握した中身の2つ目として、言語の意味と言語の意義との違いについて見ていくことにしましょう。

 三浦は、言語が概念の表現であることを踏まえて、「概念以前の対象や認識のありかたの差異は表現の向こう側にかくれてしまって、聞き手や読み手が言語から直接にとらえることができるのはすべて話し手や書き手の概念でしかないのである」(p.381)と述べています。これはどういうことかというと、連載第7回で見たように、言語が表現する概念は、対象を一般化して捉えた認識なのですから、対象の感性的なあり方やその具体的な認識については、言語から直接把握することはできないということです。例えば、山を対象として絵画を描くのであれば、その具体的、感性的なあり方がキャンバスの上に描かれるのですから、「対象の感性的なあり方やその具体的な認識」を直接捉えることができますが、言語の場合、「山がある」といわれても、その対象たる「山」の感性的なあり方や、それを表現者が具体的にどのように認識したのかについては、言語から直接掴むことはできないのです。

 ではどのようにして言語の内容(意味)を把握するのでしょうか。この問題について三浦は、「音声や文字に接したときに、その内容の抽象的・部分的な面を規範に従って直ちに予想するわけであるが、つぎにこの予想を手びきにしてそれ以外の話し手や書き手の認識がどんなものかを推察していき、内容全体の理解に達するのである」(pp.328-329)と述べています。ここで重要なのが、三浦が言語の「内容の抽象的・部分的な面」と言語の「内容全体」とを区別していることです。三浦は別の箇所で、「言語の場合は、規範に対応する抽象的な部分と具体的な内容とを区別する」(p.303)必要があるとも述べています。さらに『日本語はどういう言語か』においては、前者(規範に対応する内容の抽象的・部分的な面)を「意義」とよび、後者(具体的な内容全体)の「意味」と区別して、「意義」は「辞書の教えてくれる表現上の社会的な約束」(『日本語はどういう言語か』p.63)であり「普遍的・抽象的に対象を取り上げているだけ」(同上)だと述べているのです。また、「個々の言語はすべて「意義」に相当するものをふくんでいる」(同上)のであって、「話したり書いたりする場合の対象の認識には、個別的な事物の特殊なありかたが具体的にとらえられていて、いわば「意味」が「意義」に相当するものをふくんでいる状態にあ」(同上)るとも述べています。

 ここで三浦が説いていることは、例えば、ある人が「犬がいる」という表現を行った場合、その「犬」という語から聞き手なり読み手が直接把握できるものは、ワンワン鳴く動物という概念だけであって、この語の「意義」から、具体的な内容、すなわちどんな大きさでどんな色の犬か、どちらを向いているのかといった「内容全体」つまり「意味」を把握して初めて、その「犬」という語を理解したといえるということです。

 では、先の問いに戻って、言語の「意義」から言語の「意味」を把握するためには、どのようにすればいいのでしょうか。連載第6回に、「言語の内容(意味)は、認識が言語の形式(音声や文字)と結ぶ関係である」ということを述べました。また、連載第3回には、「認識とは客観的な現実の世界を感覚器官を通して捉え、脳細胞に描き出した模像」であることも述べていました。つまり、言語の表現者は、対象を把握して認識を形成し、それを音声や文字に表したのですから、言語の「意味」を正しく掴むためには、音声や文字に「むすびついている関係を逆にたどって、作者の頭の中へ、対象へと、その背後にあったはずの関係した存在をたぐっていく」(p.339)必要があるわけです。「表現は関係を逆にたどっていくための手がかりを形式として与えているのであって、この手がかりにもとづいて作者が表現したときの観念的な世界を自分の頭の中に近似的に再現しようと努力する」(同上)必要があるのです。

 これがどういうことを意味するかというと、言語の「意味」を把握するためには、観念的な自己を現実的な自己から分裂させて、観念的な自己を表現者の立場に位置づけ、表現者がかつて辿った表現への過程を遡ることによって、表現者の体験を追体験する必要があるということです。こうして、表現者の認識を把握したうえで、現実的な自己に復帰し、表現に込められた具体的な内容全体を理解することができるのだということです。

 以上のように三浦は、言語における「意味」と「意義」の違いを、具体的な内容全体と規範に対応する内容の抽象的・部分的な面との違いとして把握するとともに、「意義」から「意味」の把握への過程において、観念的な自己の運動が必要不可欠であることを説いたのでした。
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2016年10月20日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(9/13)

3、三浦は言語を二重性で把握した
(9)客体的表現と主体的表現とは何か

 本稿は、言語の問題を本質的に把握するためには、言語が認識とどのようにつながっているのかを明らかにする必要があるという問題意識のもと、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読み解き、三浦言語学の歴史的な位置づけを明らかにするとともに、筆者自身の科学的言語学体系構築の一助とすることを目的として執筆するものです。

 前回まで3回にわたって、三浦が認識から表現への過程的構造についてどのような解明をなしたのかについて見てきました。三浦はまず、言語を表現の一種と捉えて、表現が精神の物質的な模像であるとしたのでした。では言語が如何にして認識を模写するのかといえば、その過程において言語規範を媒介するということでした。超感性的な認識である概念を感性的なあり方に模写するためには、こういう種類の認識(概念)にはこういう種類の音声や文字を用いるのだという社会的な約束である言語規範が必要だということでした。さらに、言語の場合、認識から表現に至る過程において、観念的な自己が如何なる運動を行うのかという問題についても見ていきました。三浦は、時制の表現や代名詞を用いた表現において、観念的な自己が時間的、空間的に様々に移行しつつ、現実的な自己に復帰したり、復帰せずにそのまま観念的な世界に留まったりする認識の運動と言語とのつながりを解き明かしたのでした。

 さて今回から3回は、言語の問題を論じる際には認識の理論が不可欠であることを踏まえた上で、三浦が言語を二重性で把握した中身を見ていこうと思います。まず今回は、三浦が言語を大きく客体的表現と主体的表現とに分けて捉えたことを見ていきたいと思います。

 三浦はまず、表現一般が「客体についての表現であるばかりでなく主体についての表現でもある」(p.356)ことを、写真や映画を例にとって説明します。例えば写真であれば、「対象の感性的なありかたを忠実にとらえ忠実に表現する」(p.355)だけでなく、「作者が写真機を手にした位置」(p.356)をも表しているというのです。また映画の場合には、「ねむくなると画面がとけて流れる」(同上)ことによって、あるいは「よっぱらって帰って来た夫には、迎えに出た妻の顔が二重にも三重にも映じる」(同上)ことによって、あるいは「悲しい思いで手紙を読んでいるうちに、目に涙があふれて手紙の文字がぼやけてくる」(同上)ことによって、「主体的な認識のありかた」を表現しているというのです。このように、表現には表現しようとする対象である客体のあり方のみならず、対象を捉えるところの主体のあり方、例えば主体の位置であったり主体の生理的なあり方であったり主体の感情なども映し出されているというわけです。そして三浦は、客体についての表現という側面を客体的表現、主体についての表現という側面を主体的表現と呼ぶのです。

 さらに三浦は、「対象の感性的なありかたを忠実にとらえ忠実に表現する場合には、客体についての表現が同時に主体についての表現でもある」(同上)と述べます。つまり、写真や絵画などの場合には、客体的表現と主体的表現とは直接統一されていて、分離することが不可能であるというのです。上記の例でいえば、写真が対象のあり方を表現しているのと同時に、作者がどの位置から写したかという主体のあり方をも表現しているのですが、両者は写真の画面の上に統一されていて、どの部分が客体的表現でどの部分が主体的表現だというようには分けられないということです。

 では言語の場合の客体的表現と主体的表現とはどのようになるのでしょうか。三浦は言語の特殊性について、「主体的表現ぬきの客体的表現ということが言語表現にあっては可能であり、また客体的表現と関係ない独立した主体的表現ということも可能である」(p.393)と述べています。これは、言語においては、主体的表現と客体的表現とが分離する可能性があることを説いているのですが、それはなぜかというと、「対象の感性的なありかたに足をひっぱられない」(同上)からだといいます。つまり、対象の感性的なあり方を表現しようとするからこそ、表現者の位置や認識のあり方が必然的にそこに表れてしまうのであって、言語の場合には、概念という超感性的な認識を表現するのであるから、そうした制約からは解放されているというのです。例えば、山を対象として、絵画で描く場合と言語で表現する場合を考えてみましょう。絵画の場合、対象である山を目で捉えて、それを忠実に表現していくことになります。当然、絵画には山の客体としてのあり方の他に、主体である表現者がどの位置から山を捉えたのかが表れています。しかし言語の場合であれば、単に「山」と表現する限りにおいては、山が客体として把握されていることが分かるのみで、そこに表現主体のあり方は何ら表れてはいないのです。逆に例えば「あなたは学生ですか」と質問されて、「はい」と答える場合は、「学生」という対象のあり方を捉えた客体的表現を抜きにして、単に表現者の承認する気持ちを直接に表しているといえるでしょう。「学生です」という形で、対象のあり方を「学生」と捉えた上で、肯定判断という表現主体の認識を直接に表現する「です」を加えることもできます。いずれにしても、客体的表現と主体的表現が不可分に統一されているのではなくて、分離している(分離し得る)というのが言語の大きな特殊性だということです。

 言語における客体的表現や主体的表現にはどのようなものがあるかについて三浦は、『認識と言語の理論』ではあまり詳しく説いていないのですが、『日本語はどういう言語か』において、日本語を例にして説明しています。客体的表現には、実体を対象として捉えて表現する〈名詞〉、属性を運動し発展し変化するものとして捉えて表現する〈動詞〉、属性を静止し固定し変化しないものとして捉えて表現する〈形容詞〉などがあり、主体的表現には、主観的な感情や意識を直接表す〈感動詞〉、〈助動詞〉、〈助詞〉などがあるといいます。また欧米の言語では、客体的表現の語に主体的表現の部分が語尾変化の形で癒着していて、別の単語として分離していないものも多く存在する事実も指摘しています。英語の”liked”のような動詞の過去形は、日本語では「好き・だっ・た」と客体的表現の語に主体的表現の語を累加した形をとるところを、一語で表していて、客体的表現と主体的表現が癒着しているということです。
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2016年10月19日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(8/13)

(8)言語における観念的な自己運動とはどのようなものか

 前回は、三浦が認識の理論の柱として述べたものの1つである規範論が言語の問題とどのようにつながっているのか見ていきました。三浦は、表現一般における言語の特殊性として、規範を介した表現であると述べていました。ではなぜ、言語においては規範を介する必要があるのかというと、それは言語が超感性的な認識である概念を表現するからでした。感性的な認識であれば、絵画のように、直接それを感性的に忠実に表現することができますが、超感性的な認識である概念を表現しようとすれば、こういう種類の認識(概念)にはこういう種類の音声や文字を用いるのだという社会的な約束、すなわち言語規範を媒介して表現する必要があるのでした。

 さて今回は、三浦の認識の理論のもう1つの柱である観念的な自己分裂という問題が、言語とどのように関わっているのかについて見ていきたいと思います。

 三浦はまず、「言語表現は現実の世界のありかたを直接にとりあげるにとどまる場合もすくなくないが、…追想や予想や空想をとりあげる場合のほうが多い」(p.486)と述べ、「このような言語表現をとりあげる場合には世界の二重化および観念的な自己分裂がその背後に存在するものとして、認識構造を考えてみなければならない」(同上)ことを指摘します。それでは、「追想や予想や空想をとりあげる場合」に「世界の二重化および観念的な自己分裂がその背後に存在する」とは具体的にどのようなことか、以下で詳しく見ていくことにしましょう。

 三浦が取り上げるのは、「少年だ」(1)と「少年だった」(2)という簡単な文です。

「現実の世界での対象が「少年」であるときには、…それをそのままとらえて、これに話し手の肯定判断「だ」を加えてそれですむ。これが追想になると、観念的な世界での対象「少年」をとらえて、観念的な自己としての肯定判断「だ」を加えてから、現実的な自己へもどって来て「た」をさらに加えるのである。」(p.487)

 ここで三浦は、いわゆる「現在形」で対象をとりあげる場合(1)においては、現実的な自己が現実の世界の対象を捉えて、そのまま肯定判断を下すだけであるのに対して、いわゆる「過去形」の文(2)では、観念的な自己が現実的な自己から分離して、過去の世界という観念的な世界に移行し、そこで対象を捉え、観念的な自己として肯定判断を下した後、現実的な自己に復帰して、これまでの表現が過去の認識の表現であったことを「た」で指摘するのだというのです。このように三浦は、実に簡単な構造の文であっても、「助動詞といわれるものが累加される場合には、そこに自己の立場の移行が存在することがしばしばであるから、その点に注意しなければならない」(p.488)ことを指摘するのです。

 「明日は晴れるだろう」という表現では、観念的な自己が明日という未来の観念的な世界に移行し、そこで「晴れる」という対象のありかたを把握して肯定判断を加えて後で、現実的な自己に戻って、「う」という形で、これまでの表現が未来の認識の表現であったこと(「予想」であったこと)を表しています。また、「お化けはいない」という表現では、観念的な自己がお化けがいる空想の観念的な世界に移行し、そこで対象を捉え、そこから現実的な自己に復帰した後で、これまでの表現が空想の世界での認識の表現であったことを「ない」という形で、否定判断を加えて表しているのです。

 三浦はさらに、いわゆる「歴史的現在」(過去の出来事であるにもかかわらず、それを「現在形」で表現する用法のことです)と呼ばれる「現在形」の用法について詳しく解説していきます。

 三浦はまず、「現在」という時制がどのようなものであるのかについて、「同じ時点にあるという客観的な関係を現在とよぶ」(p.499)と説明します。これは具体的にどういうことかといえば、過去のある時点の対象について、その時点、その世界に移行した観念的な自己の立場からすれば、その対象は「現在」という関係にあるということです。このときの観念的な自己にとってその対象は「現在」という関係にあるということです。

 以上のように、「言語表現における時制は対象における時の区別と直接に対応しない」(p.500)ことを確認した上で、三浦は、いわゆる「歴史的現在」というのは、観念的な自己分裂によって観念的な自己が過去のある時点に移行し、ここで対象を「現在」として把握し表現し、その後次々にその観念的な世界で対象を捉えていき、現実の自己に復帰しないままで表現し続ける場合のことであると説明します。通常であれば、「カエサルは、ガリア戦争を行い、ポンペイウスと対決し、ブルートゥスに暗殺された」となりますが、これを観念的な自己が古代ローマ時代に移行したままで事件を「現在」として把握し表現し続けて、現実的な自己に復帰しなければ、「カエサルは、ガリア戦争を行い、ポンペイウスと対決し、ブルートゥスに暗殺される」というように、いわゆる「歴史的現在」と呼ばれる形になるということです。現実的な自己から分裂した観念的な自己は、ガリア戦争やポンペイウスとの対峙やブルートゥスによる暗殺の現場を、カエサルと共に体験しているのです。

 三浦は、こうした時制に関わる観念的な自己分裂の他に、代名詞における観念的な自己分裂についても述べています。例えば、「この俺が承知するものか」という表現を取り上げて、観念的な自己が現実的な自己を「こ」と呼べる位置に移行して、そこで対象たる現実的な自己を取り上げる場合の表現であると説明しています。また、親が子供に対して、「お母さんはちょっとお使いにいって来ますよ」とか「おまえにはお父さんの心配がわからないのか」とかいう表現を取り上げて、このような場合の「「お母さん」「お父さん」は客体化された主体であり、これを表現する主体は観念的な自己として現実的な自己の外部に位置づけられている」(pp.524-525)と説明しています。つまり、こうした表現を行う親は、観念的な自己を「現実的な自己の外部」、この場合であれば聞き手である子供の立場に位置づけて、子供の立場で現実的な自己を捉えて表現している、というわけです。

 以上見てきたように、三浦は言語が表現される際に、現実的な自己から観念的な自己が分裂し、その観念的な自己が如何に運動するかについて、具体的に説明しているのです。
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2016年10月18日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(7/13)

(7)言語の表現としての特殊性とは何か

 前回は、表現とは何かという問題についての三浦の見解を見ていきました。三浦は、表現とは「精神の物質的な模像」であり、「精神のありかたをそれに対応する物質的なありかたに模写し、それによって他の人間に理解できるよう表面化した」ものであると規定しているのでした。また、対象から認識へ、表現へという過程において、一貫して像としての反映関係があるのだということでした。三浦はさらに、表現の内容というものは、認識が表現形式との間に結ぶ関係であって、決して実体的なものではないということを、形式と内容との統一に関して、像でない場合と像である場合の違いを明らかにすることで説いていたのでした。

 さて今回は、三浦が言語の表現としての特殊性をどのように考えていたのかについて見ていくことにしましょう。

 三浦は言語の表現としての特殊性について、「絵画表現には見られない言語表現に特殊なものとして、規範によって表現が媒介されているという事実」(p.364)を取り上げます。ここでいう「規範」とは言語規範のことですが、言語規範については、前々回に軽く触れました。簡単にいえば、言語規範とは言語を規定する社会的な約束ということでした。では、なぜ言語にだけ、こうした規範が必要になってくるのでしょうか。以下、三浦の説く論理の流れを追っていきたいと思います。

 三浦は言語を表現の一形態として、つまり言語を模写として把握する姿勢を貫きつつ、「言語的な模写は絵画的な模写とは異っている」(p.366)と説きます。絵画の場合、対象の「感性的な色彩のありかたを忠実にとらえ忠実に表現することができるのだが、言語ではそれは不可能」(p.376)だというのです。では、言語では対象をどのように捉え表現するのかというと、言語は対象を「一般化して表現」(同上)すると三浦は説きます。例えば、我々が「赤い」といった場合、「色彩の変化に対してある幅を設定」(p.377)することになり、その「主観的な幅・主観的な境界線」(同上)の中にあるものはまとめて「同じ種類として近似的に扱っている」(p.378)ことになりますが、これが言語は対象を「一般化して表現する」ということなのです。そして、この主観的な幅の中にある同じ種類として捉えた認識を、三浦は概念と呼びます。ですから、端的にいえば、言語は概念を表現するものであるということになります。

 概念とはどういうものかをもう少し分かりやすく説明しておきましょう。例えば「犬」という言葉があります。ある人が「あっ、犬だ」という言葉を発した場合、その人の頭の中には、個別具体的な犬のイメージが描かれていることになります。茶色の毛並みの良い、大型の犬がこちらに向ってゆっくりと歩いてきているのかもしれません。黒色の小型犬が、目の前をサッと横切ったのかもしれません。いずれにしても、こうした情況における対象を言語で示すならば、それは「犬」ということになります。その時の認識は、対象の具体的なあり方がそぎ落とされ、種類という側面で対象を捉えているのです。これが概念です。また、「私は犬より猫の方が好きだ」という場合の「犬」は、具体的なあり方をもとから捨象して、種類として捉えています。これも概念です。このように言語では、「「一般化」して表象としてから概念化するなり、あるいは直接に「普遍相」を概念としてとらえるなりして、それを表現する」(p.381)ことになるのです。

 この概念というものは、現実の多様なあり方を一般化して捉え、具体的な感性的な認識が捨象されているものですから、超感性的な認識でありながら、それを運用するためには感性的な手がかりを必要とします。ここに言語の特殊性として、言語規範が必要になってくる理由があると三浦はいうのです。どういうことかというと、こういう種類の認識(概念)を表現するためには、こういう種類の音声や文字を使うのだという社会的な約束が言語には必要になってくるということです。感性的な認識を絵画で表現するのであれば、その感性的な認識のあり方そのものを忠実に絵画で再現すればいいのですが、超感性的な認識である概念を言語で表現する場合には、その概念をどういう種類の音声や文字で表すのかという社会的な約束がなければ、表現のしようがないということです。

 言語に言語規範が必須である理由について、以上のように説いた三浦は、「対象の感性的なありかたを感覚として忠実にとらえ絵画やカラー写真に忠実に表現するのが模写であるならば、対象を類的存在において概念として忠実にとらえ音声や文字の類的創造において忠実に表現するのもこれまたりっぱな模写で」(p.388)あると述べています。三浦は、言語にも表現一般の特徴である模写という性質が貫かれていることを主張しているのです。このことは逆からいえば、言語は表現の一種であることを証明しているともいえるでしょう。

 以上のように三浦は、表現とは精神の物質的な模写であって、言語も表現の一種であるとした上で、言語の表現としての特殊性について、概念という超感性的な認識を感性的な形として表現するために、こういう種類の認識(概念)にはこういう種類の音声や文字を用いるのだという社会的な約束である言語規範が必要になってくると説いているのです。ここでひょっとしたら、少し引っかかる読者があるかもしれません。それは何かといえば、「こういう種類の音声や文字」と述べたり、1つ前の引用では、三浦が「音声や文字の類的創造」と述べたりしていることです。音声や文字が「類的創造」であるとはどういうことか、この問題については連載第11回で詳しく述べていくことにします。
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2016年10月17日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(6/13)

2、三浦は認識から表現への過程的構造を解明した
(6)表現とは何か

 本稿は、言語を本質的に把握するためには、認識と言語とのつながりをしっかりと検討する必要があるという問題意識のもと、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読み進め、三浦の言語理論の歴史的意義を明らかにするとともに、科学的な言語学体系の構築の第一歩とすることを目的として執筆する小論です。

 前回まで3回にわたって、三浦の認識論を見てきました。言語はまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字が創造されるという形で生まれるものであるために、認識についての科学的な理論が必要だと考えた三浦は、人間の認識の私的な側面と社会的な側面についてまずは説明したのでした。認識は個人の頭脳にしか描かれないという面で私的な側面を持つものであるが、その認識が交通関係に入ることで、社会性を帯びたものとして発展していくということでした。こうした認識の一般的な性質を押さえた上で、三浦は認識論の2つの大きな柱について説明していきました。1つ目が観念的な自己分裂、2つ目が規範の問題についてでした。まず、観念的な自己分裂とは、現実的な自己が感覚器官の捉えられる限界に規定されているという限界を突破するために、現実的な自己から観念的な自己を分裂させることであり、この観念的な自己が時間的空間的に様々に移行し、そこでの経験を踏まえて現実的な自己に復帰することで、認識を発展させていくことが可能となるということでした。また、規範の問題については、規範とは意志を観念的に対象化したものであって、心の中から自分自身に命令を下すものでした。約束、契約、法律などが規範であって、「表現上の秩序を維持するために、人びとの間の社会的な約束として成立したもの」であって、「民族全体の言語表現を規定する」言語規範も規範の一種だということでした。

 さて今回から、いよいよ三浦の言語の理論について見ていきたいと思います。とはいっても、三浦はいきなり言語の問題に入るのではなくて、表現一般をまずは問題にします。

 三浦はまず、表現とは「精神の物質的な模像」(p.300)であり、「精神のありかたをそれに対応する物質的なありかたに模写し、それによって他の人間に理解できるよう表面化した」(同上)ものであると規定します。絵画や映画、彫刻などの他にも、「痛みを感じるときにいつでも顔をしかめて見せたり、怒ったときにいつでもこぶしをふりあげたり、嘲るときにいつでも舌を出したり」(p.301)することも表現の1つのあり方だといいます。簡単にいえば、認識という感覚器官で捉えられないものを感覚器官で捉えられる形にしたもの、これが表現だということです。例えば、作者がどのような風景を見ているのかを直接知ることはできません。しかし、それが絵画として、物質的なあり方として表現されれば、その時の作者の頭の中のイメージを捉えることができるのです。また、足の小指をタンスの角にぶつけたような場合、それがどれほどの痛みであるのかについては、周りの人間は直接経験することはできません。しかし、そのぶつけた本人が顔を歪め悶絶することを見れば、それがどれほどの痛みであるのか、ある程度の想像はつきます。物質的なあり方としてはいろいろありますが、とにかく、感覚器官で捉えられない認識を物質的なあり方に写し代えたものが表現だということです。

 ここで、三浦が認識は現実の世界の映像であり模写であると述べていたことを思い出していただきたいと思います。認識は現実世界の対象の精神的な模像だということです。このことと表現は認識の物質的な模像だという上記の論理をつなげて考えるとどうなるでしょうか。それは、対象から認識へ、表現へという過程においては、常に像としての反映関係が貫かれているということです。対象は認識に反映し、認識は表現に反映する、ということです。しかし注意が必要なのは、最初の対象と最後の表現が物質的な存在であるのに対して、真ん中の認識は精神的な存在だということです。そして、対象が像ではないのに対して、認識も表現も像としての性質を持っているということです。

 このように、表現一般の性質について確認した上で、三浦は形式と内容との統一という問題の考察に移っていきます。三浦は、「まず、像でない場合の形式と内容との統一から考えてみよう」(p.309)といい、現実の世界にある物質的な存在について、「空間的なかたち」(同上)が形式であり、「それらを構成している実質」(同上)が内容であることを指摘します。例えば、1つのリンゴが目の前にあるとすれば、そのリンゴの形式とはその形のことであって、そのリンゴの中身が内容だということになります。そして、「像でない場合」には、「実体が直接に内容とよばれる」(同上)ことに特徴があると述べています。では、認識や表現のような像の場合には、形式と内容との統一はどのようなものになるのでしょうか。これらの場合、「像のかたちを形式とよぶ」(同上)が、「実体が直接に内容とよばれるのではなくて、実体は媒介的に内容を形成する存在」(同上)であると説明しています。具体的にいえば、例えば太陽の光が地上に影を落とす場合、その影の形式とはその影の形のことであるが、その影そのものは何ら実体的ではなくて、原型の側に実体的な存在があるというのです。そしてその影の内容というのは、原型の側にある実体的な存在から媒介されて形成されるというのです。認識の場合でいえば、認識そのものは実体的なものではなくて、対象の側に実体的な存在があり、その対象たる実体自体が認識の内容なのではなくて、その対象たる実体は媒介的に内容を形成する存在だということです。リンゴを見た場合、リンゴの像が形成されますが、この認識の内容は、リンゴという対象たる実体そのものではなくて、リンゴという対象たる実体から媒介的に形成されるのだということです。リンゴを見た後で、そのリンゴを食べてしまったとしても、リンゴの像を維持できますが、もとのリンゴなくしてはリンゴの像は形成されなかったという意味で、認識の内容は「リンゴという対象たる実体から媒介的に形成される」というのです。

 以上のことを、言語という表現について考えてみると、言語の内容(意味)は、認識という実体が媒介的に形成するものだということになります。言葉を換えれば、言語の内容(意味)は、認識が言語の形式(音声や文字)と結ぶ関係であるということになります。だから、言語の内容(意味)はどこにあるかといわれれば、それは言語の形式(音声や文字)の中にあるのですが、言語の内容(意味)は感性的に把握できるようなものではない(関係は目には見えない!)ということになります。物質的な存在である音声や文字を分解してみても、言語の内容(意味)がその中から物質的に取り出されるわけではないのです。
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2016年10月16日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(5/13)

(5)規範とは何か

 前回は、三浦が認識の構造について突っ込んで検討している部分を見ていきました。三浦はまず、人間の認識がなぜ・いかにして・変化・発展するのかという問いを立てて、その原動力として、「現実の世界が無限であるのに対して、われわれ個人の認識に限界がある」という「認識の本質的な矛盾」を挙げていることを紹介しました。そして、この矛盾を解決する手段として、人間は世代を超えて他人の認識を受け継いでいくということがあることに触れた後、「個人の認識の構造」を見ていきました。三浦は、人間の認識は「受動的であり限界づけられていると同時に、能動的に現実に向って問いかけその限界を超えていく」という性質があると述べ、「現実的な自己」から分裂した「観念的な自己」が時間空間を超えて移行していき、そこで捉えた成果を引っさげて「現実的な自己」に復帰することで、認識が発展していくのだと説いていたのでした。

 さて今回は、三浦が説く認識の理論において、観念的な自己分裂に並んで重要な規範の問題を見ていくことにしましょう。

 三浦はまず規範について、「心の中から自分自身になされる命令」(p.149)であって、「社会的な関係で規定されながらもさらに社会的な関係を発展させるためにつくり出す、意志の特殊な形態」(同上)であると説明しています。例えば、酒とたばこを楽しんでいる者が自分で酒やたばこを有害だと判断して、ここから「やめよう」という意志をつくり出したとすれば、この「やめよう」という意志が規範だということです。また、恋人同士で「5時に有楽町で会いましょう」という約束をしたとすれば、この約束も規範の一種ということになります。他にも三浦は、契約や法律なども規範の一種だと述べています。

 しかしこのような三浦の説明を見てみると、「約束が規範であるというのは何となく分かるが、契約や法律が規範であるとはどういうことか分からない」、「契約や法律は「心の中から自分自身になされる命令」ではなくて、契約書や六法全書が外部から自分に命令するのではないのか」「契約や法律が「意志の特殊な形態」であるとはどういうことか分からない」などといった反論や疑問があることが想定されます。そこで三浦が規範をどのようなものだと考えているかについて、少し詳しく見ていくことにしましょう。

 三浦はまず、「簡単な規範のありかた」(p.154)を検討していきます。「簡単な規範のありかた」にも「規範の本質が示されている」(同上)からだというのです。そこで取り上げられるのが、先に示した「禁酒禁煙」の例です。初めに示されるのが、医師から「おやめなさい」といわれる場合です。医師からこういわれて、患者自身の自由意志でこの医師の命令を受け入れることになれば、この医師の命令の複製が患者の頭の中で患者の意志として維持されこれに従うことになるというのです。ここでは、命令の複製が患者にとって観念的な「外界」として、つまり観念的に対象化されたかたちをとって、維持されていくということがポイントになります。次に、患者が自分で酒やたばこを「やめよう」と思った場合が取り上げられます。この場合には、「自分でつくり出した「やめよう」という意志を自分から観念的に対象化して、「外界」から「おやめなさい」と命令されているかたちに持ってい」(p.153)き、「この観念的に対象化された意志を維持して、これに対立する「楽しもう」という意志が生れてくるのを押さえつけていく」(同上)というのです。これは先に見た医師から「おやめなさい」といわれて従う場合とまったく同じ構造になっています。このように、「自己の意志が観念的に対象化されたかたちをとり、「外界」の客観的な意志として維持される場合には、ここに規範が成立したのであって、単なる意志と区別する必要がある」(同上)と説明されているのです。

 ここで三浦が述べていることの要点は、規範というものは意志の一形態であって、自分の頭の中にしか存在しないものであること、それにも関わらず対象化されているため、つまり自分とは別の対象の位置に置かれているため、自分独自の意志と対立する可能性があること、この2点です。具体的に考えてみればよく分かるでしょう。例えば、酒やたばこを「やめよう」と決めたにもかかわらず、どうしても誘惑に負けて楽しみたい気持ちを押さえられないこともありますし、恋人と「5時に有楽町で会いましょう」という約束をしたのに、他にもっと楽しい用事ができて恋人との約束をキャンセルしたくなることもあります。このような場合、頭の中で、対象化された意志である規範とその時の自分の独自の意志とがせめぎ合い、葛藤することになるのです。

 以上のような三浦の説明をもとにすれば、「契約や法律が規範であるとはどういうことか」、「契約書や六法全書が外部から自分に命令するのではないのか」「契約や法律が「意志の特殊な形態」であるとはどういうことか」という問題も解けてきます。まず契約についていえば、「契約に際して自分の意志が同時に他人の意志でもあるような、両者に共通の意志を成立させる」(p.156)のであって、これが取も直さず自分たちの行動を規制する規範だということになります。契約書というのは、「後になって共通の意志の存在を否認されることのないように、客観的なかたちを与えて証拠とする」(p.157)ためのものであって、契約書がないから契約が成立しないということはありませんし、契約によって従わなければならないのは、自分たちの頭の中に成立した「共通の意志」、すなわち規範なのです。契約が特殊な人々(契約した者)だけに適用される命令であるのに対して、法律の場合は、「社会全体に適用されるものとして成立する」(p.164)ものである点が特殊性ですが、その他の点については契約と同じ構造になっています。つまり、人間が法律に従うというのは、いちいち六法全書を参照して従うのではなくて、頭の中に複製された社会全体に「共通の意志」に従うのであって、制定されている法律でも本人が知らなければ「共通の意志」を観念的に対象化できないわけで、思いもよらず法を犯してしまうこともあるでしょう。

 三浦は以上のような「目的的につくり出す規範」(p.170)の他に、「自然成長的な規範」(同上)もあるとして、言語規範についても触れています。言語規範は、「表現上の秩序を維持するために、人びとの間の社会的な約束として成立したもの」(p.177)であって、「民族全体の言語表現を規定する」(同上)ものであるとされていますが、詳細は次々回に扱うことにします。
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2016年10月15日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(4/13)

(4)人間の観念的な自己分裂とは何か

 前回から、いよいよ三浦つとむ『認識と言語の理論』の中身に入っていきました。前回はまず、言語を問うためには認識を問う必要があると主張する三浦の論理展開を追っていきました。言語はまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字が創造されるという形で生まれるものであるために、認識についての科学的な理論が必要だということでした。そこで認識とは何かを簡単に見ていきました。認識とは、あくまでも個々の人間の脳細胞に描かれる客観的な現実世界の模像として成立するものであるが、人間の認識が交通関係に入ることによって、認識は社会的な性質も帯びることになるということでした。そして、認識の科学が個別科学として科学者の手で体系化されなければならないという三浦の科学観も紹介しました。

 さて今回は、三浦が認識の構造についてさらに突っ込んで検討していく内容を見ていくことにしましょう。

 まず三浦は、人間の認識が変化し発展していくことに関して、「なぜ・いかにして・この変化と発展が起るのかを説明しなければならない」(p.16)と述べます。そして、「現実の世界が無限であるのに対して、われわれ個人の認識に限界がある」(同上)という「認識の本質的な矛盾」(同上)こそが原動力となって、認識が変化・発展していくのだと説くのです。具体的には、まず先回も説明したように、他の人間の認識を受け継ぐことで個人の認識の限界を突破するということが述べられます。しかもこのことは、「事実上限りなく継続していく人間の世代の認識を系列化すること」(同上)を通じてヨリ発展していくというのです。つまり、人間は言葉などの表現を介して他人の認識を受け取って認識を変化・発展させていくのですが、このことは同時代の人間間の問題に限られず、世代を超えて継続させられていくのだということです。例えば、人間が獲得した成果を書き言葉として書物などの形態で残しておけば、同世代のみならず、世代を超えた人々の認識に働きかけることができますし、いわゆる伝統とか習慣とかいったものも、家庭での躾や学校教育などによって世代を超えて継承されていくというわけです。

 三浦はこのように、集団における人間の認識の変化・発展の構造を説いた後、「個人の認識の構造」(同上)にも言及しています。つまり、人間の認識は「受動的であり限界づけられていると同時に、能動的に現実に向って問いかけその限界を超えていく」(同上)という性質があるというのです。これはどういうことかといえば、前回も説明したように、「認識は、客観的に存在している現実の世界のありかたを、個々の人間が目・耳その他の感覚器官をとおしてとらえる」(p.4)ものであるという意味で、確かに受動的な反映だといえるのですが、それだけではなくて、「能動的に想像していく」(p.16)という性質も持っていて、このことによって感覚器官で捉えられる限界を超えた認識が可能になっていく、ということです。例えば、縁側の障子から尻尾が現れているのを見て、その陰に猫がいることを予想する場合には、実際には障子によって隠されてしまっている猫の体の大部分を頭の中に描いているということなどが「能動的に想像していく」ということなのです。

 このように、人間の認識には受動的な側面と能動的な側面があることを説いた上で、三浦はさらにこの能動的な側面について詳しく説明していきます。「能動的に現実に向って問いかけその限界を超えていく」とは具体的にどのようなことなのかが説かれていくわけです。

 三浦はここで、「現実的な自己」「観念的な自己」(p.24)という概念を導入します。これがどういうものであるかについて三浦は、自分の家の中で、訪ねてくる友人のために自分の家のありかを教える地図を描く場合の例で説明しています。地図を描くときは、机に向って現実的な位置で目の前の白紙を眺めながら描くのですが、地図としての自分の家は、現実的な感覚器官(目)の位置では捉えられず、観念的に自分の家の上空から自分の家を見下ろすところに自分(の感覚器官(目))を位置づけて描かれるというのです。このときの現実の白紙を眺めている自己が「現実的な自己」であり、上空から自分の家を見下ろしている自己が「観念的な自己」だということです。「現実的な自己から、観念的な自己が分裂して、観念的に空中の一点に自己を位置づけていることになる」(同上)わけです。先の障子に隠れている猫の例でいえば、「現実的な自己」の目では、現実の世界の障子に隠されている猫の本体の部分は見えないわけですが、「観念的な自己」の目では、障子が取り外された観念的な世界を見ていて、猫の本体の部分もしっかりと見えているわけです。

 このように三浦は、人間の認識が感覚器官が捉えられる限界に規定されているという受動的な側面(現実的な自己の側面)と、感覚器官が捉えられる限界を超えて生成される能動的な側面(観念的な自己の側面)とを持つことを説きつつ、人間が観念的に「この限界を超えたりまたもどったりする活動をくりかえしながら生活している」(同上)ことによって、認識が発展していくことを説明しているのです。

 三浦は、「観念的な自己」が持つ目をクリスティの探偵小説の中の表現をとって「頭の中の目」とも呼んでいますが、この「頭の中の目」は「空間的時間的制約をのりこえて真理をとらえる」(p.58)ことができると説明しています。具体的には、「直接見ることのできない原子核の内部やガン細胞の内部」(同上)、「物的証拠の抹消された殺人事件」(同上)、あるいは「自然の法則」(同上)などを、この「頭の中の目」は見抜くことができるというのです。これは「現実的な自己」から分裂した「観念的な自己」は、「現実的な自己」が入りこめないような微細な空間に入りこんだり、「現実的な自己」が戻れないような過去の殺人現場に時間的に移行したり、または「現実的な自己」が捉えられないような超感性的な世界の関係性を捉えたりすることができることを述べたものです。

 以上見てきたように、三浦は「現実の世界が無限であるのに対して、われわれ個人の認識に限界がある」という「認識の本質的な矛盾」が原動力となって、「現実的な自己」から「観念的な自己」が分離することを述べ、この人間の観念的な自己分裂が認識の変化・発展に大きく関わっていることを説いているのです。
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2016年10月14日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(3/13)

本論
1、三浦は言語学にとって必要な認識論から説き始めた
(3)言語を問う前提として認識を問う

 本稿は、認識を正しく伝える言語を創っていくためには、あるいは言語に表れている認識を正しく把握するためには、認識と言語とのつながりをしっかりと把握する必要があるという問題意識のもと、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読み進めていくことで、三浦の言語理論の歴史的意義を明らかにするとともに、科学的な言語学体系を構築する土台を築きあげることを目的として執筆する小論です。

 今回からいよいよ『認識と言語の理論』の中身について見ていくことにしましょう。

 三浦はまず、言語の問題を解明するためには、認識についての理論を説明する必要があるとして、以下のように述べています。

「法律学には法哲学なるものが、言語学には言語哲学なるものがそれぞれくっついてまわっているばかりでなく、法律学者あるいは言語学者も、この問題は法哲学に属するとか言語哲学に属するとか述べて、いわば下駄を預けている状態にある。しかも、それではいけないのだという反省さえ見られないのである。では、この哲学に下駄を預けている問題はどんな問題かというと、それは精神活動に関する問題である。法律は国家の意志という特殊な認識として成立する。言語は話し手や書き手の頭の中にまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字を創造する活動がはじまるのである。法律学あるいは言語学が、いまだに哲学と名のるものによりかからなければならないのは、認識についての科学的な理論を持たないためであって、この理論を持つことによって真に科学の名に値するものになるであろう。それゆえ、本書はまず、言語学にとって必要な認識論を述べてから、言語についての理論に入っていくことにする。」(p.3)

 ここで三浦は、「精神活動に関する問題」を「哲学」に委ねてしまっている法律学や言語学の現状を憂い、それでは駄目なのだ、認識についての科学的な理論を土台としてこそ、法律学や言語学が真の科学となれるのだ、だからこそまずは認識論から説いていくのだ、と述べているのです。これまでの言語研究史においては、言語の問題を検討するに際して、認識の問題を考察する必要があるということが、長い歴史の中で徐々に把握されてきたのでしたが、ここまで明確に認識論を取り上げることはなかったといっていいでしょう。そういう意味では、三浦の言語理論は言語研究史の最先端に位置づけられるものだといえるでしょう。

 上記のように、言語が表現者の「思想や感情」をもとにして創造されるからこそ、まずは「言語学にとって必要な認識論」を論じなければならない、ということのほかに三浦は、「なぜ・いかにして・言語の意味が変動変遷するのかという問題」(p.5)や「なぜ・いかにして・単語を構成していくのかという問題」(p.6)を解決するためにも、認識論の構築が必須であると述べています。言語の意味の変遷や単語の構成方法というものは、認識のあり方が大きくかかわっているというのです。

 以上のように、言語の理論を展開する前提として認識の理論を検討していくとした上で、三浦は認識とはどういうものか簡単に説明していきます。

「認識は、客観的に存在している現実の世界のありかたを、個々の人間が目・耳その他の感覚器官をとおしてとらえるところにはじまるのである。認識は現実の世界の映像であり模写であって、たとえどのような加工が行われたとしてもその本質を失うことはないし、脳のはたらきとして個々の人間の頭の中にしか存在しない。」(p.4)

 ここで三浦は、認識とは客観的な現実の世界を感覚器官を通して捉え、脳細胞に描き出した模像が大本であって、私的なものだと説明しています。今、現に見ているものは、個人の認識として形成されるのであって、決して他人と共有されるものではないという認識の私的な側面を説いているのです。しかし一方で三浦は、「人間の認識は社会的なものである」(p.3)とも述べています。これは一体どういうことでしょうか。

 三浦は、「人間は…精神的に相互につくり合っている」(p.4)といいます。これはどういうことかといえば、「他の人間の認識を自己の頭に受けとめたり自己の認識を他の人間に伝えたり」(同上)することによって、「人間の認識が交通関係に入りこむ」(同上)ということです。具体的にいえば、日常的な会話によって、あるいは仕事上のやりとりによって、あるいは学問上の議論によって、人間は他の人間の認識を知り、自分の認識を相手に伝えることによって、互いに認識に影響を与え、互いの認識をつくり合っているということです。「他の人間の認識を自己の頭に受けとめることによって認識がさらに広く深くなる」、「自己の認識は他人的になることによって自己として成長していく」(同上)というわけです。これが認識が社会的であるということの意味であって、個々別々の人間の認識も他の人間の認識によって創られる側面があるということです。そして、こうした精神的な交通を媒介するものこそ、言語を中心とした表現であると三浦は説くのです。

 認識について、個々の人間の頭の中にしか存在しないにもかかわらず社会的な性質も受け取ると述べた上で、三浦は「認識の科学も、科学者の手によって一つの個別科学として体系化されなければならないのであり、認識の具体的なありかたととりくんで研究しなければならない」(p.6)ことを強調します。こうした考え方の背景には、「科学は哲学者が机に向ってあれこれと空想を展開しながら体系化していくものではなく、あくまでも対象ととりくんで対象からつかみとりたぐっていくものである」(同上)という三浦の科学観があり、「この問題は法哲学に属するとか言語哲学に属するとか述べて」いる現在のいわゆる法律学者や言語学者への批判があるといえるでしょう。あくまでも現実の問題を自分自身の手で解決するのだという三浦の主体性にも学ぶ必要があるといえるでしょう。
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2016年10月13日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(2/13)

(2)三浦言語学の歴史的意義とは何か

 前回は、リオデジャネイロオリンピックにおいて、4連覇を目指しながらそれが果たせなかった吉田沙保里選手の試合後の発言を取り上げて、吉田選手がどのような思いを持っていたのかを分析してみました。単に期待してくれていた国民の願いに応えることができなかったとか、日本選手団の主将として4連覇をしなければならないという責任があったのにもかかわらずそれが果たせなかったとか、そういう謝罪や無念の気持ちだけではなくて、亡くなった父との約束が果たせなかったことこそが、「取り返しのつかないことになってしまった」という表現に表れているのだということを説明しました。そして、こうした言葉の正確な理解のためには、あるいは言葉の正確な表現のためには、認識と言語との関係に関する科学的な理論が必要だと述べたところまででした。

 では、認識と言語との関係はどのようなものなのでしょうか。

 まず、前回も見た通り、認識は必ずしも言語に表現されるわけではありません。父との約束が果たせなかったという強烈な思いがあったとしても、それが必ずしも言語として全て表現されるとは限らないわけです。逆に、表現しようと意図していなかったことまで言語で表現してしまうということもあります。例えば、殺人事件の犯人が捕まって、当初は否認していたものの、警察の巧みな誘導によって、犯人しか知りえないことをうっかりと話してしまった、などということもあるでしょう。このように、認識と言語とは相対的に独立しているという関係があるのです。

 しかし一方でしっかりと押さえておくべきことは、言語には認識が間違いなく表現されているということです。なぜこんな当たり前のことを強調するかというと、言語研究の歴史において、言語を人間の認識とは無関係の、それ自体で生成・発展・消滅する有機的な存在であると考えられていたこともあるからです。また、言語には認識が表現されているからこそ、前回見たように、吉田選手の言葉から、そこには直接表れていない父との約束が果たせなかった無念さを把握することができるのです。

 認識と言語との関係というのは、こうした日常的な事柄に関する関係だけではなくて、人間の本質的なあり方にも大きく関わっています。

 人間は、他の動物と違って、本能の統括によってではなく、認識の統括によって生活している存在です。例えば、ライオンであれば、空腹時にはエサを求めて草原を駆け巡り、満腹であればたとえ目の前にエサとなる動物がいたとしても、決して襲うことはないでしょう。これは本能によって統括されているからです。しかし人間の場合であれば、もちろん空腹時には食事をとろうとし、満腹になれば食事をやめることが基本となるのですが、これは本能という予め決められたプログラムによってなされるのではなくて、目的像を描いて行動するという認識の統括によるのです。ですから、ダイエット中であればたとえお腹が空いても食事をとらないこともありますし、逆にスポーツなどで体を大きくする必要があるような場合には、満腹でも食べ続けるようなこともあります。これが認識の統括によって生活しているということの中身です。

 人間はさらに、集団での生活を統括するために、掟レベルの社会的認識を創出してきました。他の動物であれば、集団生活は本能により統括されているために、それぞれが勝手に行動するなどということはあり得ないのですが、人間の場合であれば、本能が薄れている分、独自の認識に基づいてバラバラに行動し、集団生活が維持できないということになりかねません。そこで、自分たちの集団内において守るべき事柄を掟として定めておいて、これに従って生活することで、集団を統括するという形態が生み出されたのです。単純な掟、例えばあの場所には近寄ってはならないとか、ボスには従わなければならないとかいったものであれば、これは言語なしにも創ることは可能でしょう。危険な場所に近寄ろうとした者を力ずくで引き止めたりすれば、そこには近寄ってはならないのだということが分かってきて、そうした掟を自分の頭に持つこともできるからです。しかし、現代社会における法律のような複雑で込み入った内容を言語なしに理解させることは不可能です。端的にいえば、人間が社会を維持するのに必須の規範(社会的認識)を形成するためには、言語はなくてならない存在なのです。こうしたことを考えてみても、認識と言語とが如何に深くつながっているかということが分かってくると思います。

 そこで本稿では、こうした認識と言語との関係を解明するために、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読んでいきたいと思います。三浦はこの著作のタイトルが示唆している通り、言語の問題を考える上で、認識の問題を解く必要があるという問題意識の下、認識の構造を解明し、認識から言語に至る過程的構造を解き明かしているのです。この著作を読み進めることで、認識と言語との関係を明らかにするとともに、これまでの言語研究者の研究史の流れを踏まえつつ、三浦の言語理論の歴史的位置づけを明らかにし、科学的な言語学体系を構築する土台を固めたいと思います。

 今回の最後に、『認識と言語の理論』の目次を提示しておきます。なお、本書は第3部までありますが、この第3部は第1部第2部では十分に説けなかった部分を補うために、独立した論文を集めたものですので、本稿では第1部第2部を中心に読んでいくこととします。

『認識と言語の理論』 目次

まえがき

第1部 認識の発展

 第1章 認識論と矛盾論
  1 識論論と言語学との関係
  2 認識における矛盾
  3 人間の観念的な自己分裂
  4 「主体的立場」と「観察的立場」
  5 認識の限界と真理から誤謬への転化
  6 表象の位置づけと役割
  7 予想の段階的発展――庄司の三段階連関理論

 第2章 科学・芸術・宗教
  1 法則性の存在と真理の体系化
  2 仮説と科学
  3 概念と判断の立体的な構造
  4 欲望・情感・目的・意志
  5 想像の世界――観念的な転倒
  6 科学と芸術
  7 宗教的自己疎外

 第3章 規範の諸形態
  1 意志の観念的な対象化
  2 対象化された意志と独自の意志との矛盾
  3 自然成長的な規範
  4 言語規範の特徴
  5 言語規範の拘束性と継承
  6 国際語とその規範

 第4章 パヴロフ理論とフロイト理論の検討
  1 パヴロフの人間機械論と決定論
  2 フロイト理論の礎石
  3 不可知論と唯物論との間の彷徨
  4 フロイトの基礎仮説――「エス」「自我」「上位自我」
  5 無意識論と精神的エネルギー論
  6 夢と想像
  7 性的象徴
  8 「幼児期性生活」の正体
  9 「エディプス・コンプレックス」の正体
  10 エロスの本能と破壊本能
  11 右と左からのフロイト批判

第2部 言語の理論

 第1章 認識から表現へ
  1 表現――精神の物質的な模像
  2 形式と内容との統一
  3 ベリンスキイ=蔵原理論
  4 対象内容説・認識内容説・鑑賞者認識内容説
  5 言語学者の内容論
  6 価値論と内容論の共通点
  7 吉本と中井の内容論
  8 記号論理学・論理実証主義・意味論

 第2章 言語表現の二重性
  1 客体的表現と主体的表現
  2 記号における模写
  3 小林と時枝との論争
  4 言語における「一般化」
  5 概念の要求する矛盾
  6 言語表現と非言語表現との統一

 第3章 言語表現の過程的構造(その1)
  1 身ぶり言語先行説
  2 身ぶりと身ぶり言語との混同
  3 言語発展の論理
  4 「内語」説と第二信号系理論
  5 音声と音韻
  6 音声言語と文字言語との関係
  7 言語のリズム

 第4章 言語表現の過程的構造(その2)
  1 日本語の特徴
  2 「てにをは」研究の問題
  3 係助詞をどう理解するか
  4 判断と助詞との関係
  5 主体的表現の累加
  6 時制における認識構造
  7 懸詞、比喩、命令
  8 代名詞の認識構造
  9 第一人称――自己対象化の表現

 第5章 言語と文学
  1 作者に導かれる読者の「旅行」
  2 言語媒材説と芸術認識説
  3 鑑賞法の表現としての俳句の構造
  4 文体と個性
  5 芸術アジ・プロ論――政治的実用主義
  6 生活綴方運動と「たいなあ方式」
  7 上部構造論争――芸術の価値の基礎はどこにあるか
  8 本多の「人類学的等価」とマルクスのギリシァ芸術論

 第6章 言語改革をめぐって
  1 言語観の偏向と言語改革論の偏向
  2 文字言語に対する見かたの対立
  3 表音文字フェティシズムからの幻想
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2016年10月12日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(1/13)

序論
(1)言語に関する科学的な理論が求められている

 8月に行われたリオデジャネイロオリンピックでは、数々の名場面が誕生するとともに、多くの名言も残されました。皆さんは、どのシーン、どの言葉が印象に残っているでしょうか。内村航平選手の体操個人総合二連覇でしょうか。男子400mリレーでの日本の銀メダルでしょうか。あるいは、柔道73kg級で金メダルに輝いた大野将平選手の「柔道の素晴らしさ、美しさ、強さを伝えられたと思う」という言葉でしょうか。卓球シングルスで銅メダルを獲得した水谷隼選手の「今日負けたら一生後悔すると思った。死にたくなると思った。絶対に負けたくないという気持ちで頑張りました」という言葉でしょうか。

 筆者が最も印象に残っているのは、五輪4連覇を目指したレスリングの吉田沙保里選手が、惜しくも決勝戦で敗れた後、涙を流し声を詰まらせながら次のように話したことでした。

「たくさんの方に応援していただいたのに、銀メダルに終わってしまって申し訳ない。日本選手団の主将として金メダルを取らないといけなかった。最後は勝てるだろうと思っていたが、取り返しのつかないことになってしまった。」(*1)

 映像で見ていただくと非常によく分かるのですが、日本選手団の主将として金メダルを取らなければならない試合、それも五輪4連覇もかかった試合に敗れたことの無念さ、責任を果たせなかった悔しさ、大きな期待を寄せてくれた国民への申し訳なささがとてもよく表れている言葉だと思います。ただ、筆者はこの発言を聞いた時、少し引っかかることがありました。それはこの発言の最後の部分で「取り返しのつかないことになってしまった」と吉田選手が述べていることです。通常、「申し訳ない」と言われれば、期待してくれた沢山のファンに謝っているのだということが分かりますし、それは「たくさんの方に応援していただいたのに」という言葉で直接表現されてもいます。また、責任を果たせなかったということについても、「日本選手団の主将として」という部分によく現れています。だから、吉田選手が国民の大きな期待を背負って、4連覇を果たすべく日本選手団の主将としての大きな責任感を持って戦ったのに金メダルを取れかなった、そのことに対して謝罪し、無念さをにじませるということはとてもよく分かるのです。しかしそのことを、「取り返しのつかないことをしてしまった」といわれると、少し大げさ過ぎる表現ではないかと感じました。筆者はそこに何か非常に大きな背景があるのではないかと思ったのでした。

 そこで調べてみると、次のようなことが分かりました。吉田選手の父は幼いころから吉田選手の指導をしていました。2年前に亡くなる前には、吉田選手と4連覇の約束をしていたそうです。また、「勝って終わるのと負けて終わるのは違うよ」とよく吉田選手に話していたそうです。(*2)

 こうした事実を踏まえるならば、吉田選手はまず何よりも、亡き父との約束を果たすべく決勝戦に臨んだはずです。もしかしたら4連覇を成し遂げて、勝ち切って引退を考えていたのかもしれません。しかし、今回の五輪で決勝で敗れ、4連覇を果たせなかった、勝って終わることができなかった、父との約束を果たせなかった、約束をした父はすでに他界しているため、再度約束してそれを果たすこともできない、だからこそ「取り返しのつかないことになってしまった」という表現になったのだろうと思います。

 ここで考えてみなければならないことは、言語は人間の認識を表現するものなのですが、認識にあることの全てが言語として表現されるわけではない、ということです。吉田選手の言葉には、先に見たように、謝罪の気持ちや責任感については、直接に表現されています。「申し訳ない」とか「日本選手団の主将として」などと述べられています。しかし、この吉田選手の言葉には、「取り返しのつかないことをしてしまった」という以外に、父との約束に関するものは、言葉としては表現されていないのです。ではこの発言をした時、吉田選手の頭の中に父との約束は全くなくなってしまっていたのかといえば、そうではないはずです。吉田選手の頭の中には父との約束がしっかりと存在していて、必ず4連覇するのだという強い気持ちがあったにも関わらず、それが達成できなかったからこその「取り返しのつかないことになってしまった」という発言になったのです。

 このように、言葉の意味するところを正確に掴むためには、その言葉を発した人間の頭の中をしっかりと捉える、つまり言葉からその背後にある認識を辿っていく必要があるのです。そうすることによって、実際には言葉として語られなかった認識をも把握することができるのです。言葉として語られた部分だけで吉田選手の気持ちを全て把握したつもりになるのであれば、この吉田選手の言葉に込められた重みを理解できていないということになってしまうでしょう。

 しかし、言葉から認識を辿っていくというのは、そう簡単なことではありません。言葉に込められた全ての内容を正しく把握することは非常に難しいことです。一体、どのようにすれば、言葉から認識を辿っていって、その言葉に込められた思いをしっかりと受け止めることができるのでしょうか。逆に、一体、どのようにすれば、認識をしっかりと言葉に表すことができるのでしょうか。

 こうした問題に解答を与えるためには、認識と言語との関係について、きちんと把握した理論が必要になってきます。

(*1)朝日新聞DEGITAL2016年8月19日
http://www.asahi.com/articles/GCO2016081901001112.html
参考ページhttps://www.youtube.com/watch?v=U2KSd4pHnEA

(*2)livedoor news2016年8月19日、Sponichi Annex2016年8月18日
http://news.livedoor.com/article/detail/11907765/?p=2
http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2016/08/18/kiji/K20160818013189650.html
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2016年10月11日

掲載予告:三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(全13回)

 本ブログでは、明日より「三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む」と題した論稿を掲載していきます。

 人が自分の思いを正確に伝えようとすれば、また他人の気持ちを正確に理解しようとすれば、言語についての正しい把握が必要になってきます。筆者はこれまで、本ブログにおいて、人類が言語をどのように研究してきたのかの歴史を概観してきました。その中で明らかになったことは、言語の問題を解明するためには、認識の問題を論理的に解き明かしておく必要があるということでした。それは、言語が認識を表現したものであるからです。

 こうした言語研究史の流れを踏まえて、今回は三浦つとむ『認識と言語の理論』を読み解いていきたいと思います。三浦は戦前から映画論などを発表し、戦後は認識論、表現論について言語を中心に研究するとともに、マルクス主義の研究者として、マルクスやエンゲルスの思想を正しく継承し発展させることに尽力した人物です。特に『弁証法はどういう科学か』は、我々の研究会でも弁証法の基本書として、何度も何度も繰り返し学んでいるものです。今回は、弁証法学者としての三浦ではなく、言語学者としての三浦に焦点を当てて『認識と言語の理論』を読んでいきますが、ここにも三浦の弁証法の実力がいかんなく発揮されています。

 三浦は本書において、言語研究のためには認識の理論を構築しておく必要があるという明確な問題意識のもと、第1部において言語学に必要な認識論を説き、それを踏まえて第2部では言語の理論を説いていきます。いわゆる「言語学者」が、言語の形式や機能にだけ着目して、言語の内容を一切問えないような実力しか持っていないことを徹底的に批判し、言語が表現の一種であること、すなわち言語が認識の反映としての性質を持つことを明らかにするとともに、言語の表現一般における特殊性について、特に言語を二重性として把握するという形で解明しています。

 本稿では、こうした三浦の言語理論の詳細について説いていくこととします。そして三浦の言語理論の歴史的位置づけを明らかにするとともに、筆者の志す科学的な言語学体系の創出の土台を固めていきたいと考えています。

 では以下に、連載論文の目次を示しておきます。

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〈目次〉

序論
(1)言語に関する科学的な理論が求められている
(2)三浦言語学の歴史的意義とは何か

本論
1、三浦は言語学にとって必要な認識論から説き始めた
(3)言語を問う前提として認識を問う
(4)人間の観念的な自己分裂とは何か
(5)規範とは何か

2、三浦は認識から表現への過程的構造を解明した
(6)表現とは何か
(7)言語の表現としての特殊性とは何か
(8)言語における観念的な自己運動とはどのようなものか

3、三浦は言語を二重性で把握した
(9)客体的表現と主体的表現とは何か
(10)言語の「意味」と「意義」の違いを説く
(11)言語表現と非言語表現との統一としての言語

結論
(12)三浦言語学は言語を矛盾として把握した
(13)科学的な言語学体系の創出を目指して
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2016年08月22日

文法家列伝:ソシュール編(5/5)

(5)ソシュールは「ラング」という心的な記号の体系を言語の事実から抽出した

 本稿は、科学的言語学体系の創出過程への1つの道として、歴史上の優れた言語研究者の業績を取り上げ、それを歴史的に位置づけることを目的にした「文法家列伝シリーズ」のソシュール編です。ここまで、ソシュールの言語理論の歴史的意義に関して、大きく3つに分けて説いてきましたが、ここでこれまでの展開の大事な部分を振り返っておくことにしましょう。

 まず、ソシュールが言語を体系として、認識との連関において取り上げたことを見ていきました。19世紀の比較言語学に至るまでの言語研究史を簡単に振り返り、言語研究が認識の解明の深化とともに発展してきた流れが、比較言語学において寸断され、ここでは個々の音声が歴史的にどのように変化するのか、その法則性を扱う研究として、認識とは無関係の自然科学的方法において、言語研究がなされていったことを確認しました。こうした比較言語学に対して、ソシュールは批判的な見解を述べていたのですが、それは「言語が何よりもまず記号の体系である」というソシュールの根本的な言語観によるものだとして、その中身を詳しく見ていきました。ソシュールによれば、言語は価値の体系であって、他の言語と違うという対立関係が変らなければ、言語の価値は変化しないのだということでした。では、その言語の価値体系とはどのようなものかといえば、それは「観念の差異に結びつけられた音の差異としてのラングの全体系」に他ならないということでした。つまり、ある観念にある音のイメージが結びついた記号が人間の頭の中にあって、その記号の集合体、総体が言語=「ラング」=「記号の体系」=「価値の体系」だということでした。こうしたソシュールの言語観を言語研究史に位置づけてみるならば、言語を体系として把握し、認識との連関において取り上げたということができるのでした。

 次に、ソシュールが言語の同定性(何によって同一の言語だといえるのか)をどのように考えたのかについて確認していきました。ソシュールはまず、言語の同定性は音声や文字といった物理的なあり方そのもので決定されるものではないと主張しました。文字を何色で書こうと、彫って表そうと、また音声をどのような声色で話そうと、同じ言語として認められるということです。ソシュールはこうした言語の同定性について、チェスの駒や急行列車の例を挙げて、それらと同じ性質の同定性であることを説明したのでした。それではなぜ、言語の同定性が物理的なあり方そのものによって決定されないかというと、それは言語の恣意性に根拠があるということでした。言語は、聴覚映像と概念との結びつきに必然性がないことに加え、概念がどのような範囲を表すのか、聴覚映像がどのように区別されるのか、定まった基準もないという意味で恣意的であって、そうした物理的なあり方の恣意性には言語の同定性の根拠を置くことはできないのだとソシュールは主張したのでした。では、言語の同定性の根拠はどこに求められるのかといえば、それは他と違うという関係、体系全体におけるその語の位置づけによって決定されるということでした。つまり、言語の同定性は、物理的な形そのものではなくて、言語全体の体系においてその語が他の全ての語と異なっているという関係にこそ、その根拠があるということでした。

 最後に、ソシュールが「ラング」を「パロール」から区別したことの意味を検討していきました。まず、「ラング」とは人間の頭の中にある言語に関する社会的な約束事の総体であって、一方「パロール」は個々の人間が話したり書いたりする個別的な音声や文字のことであることを見ていきました。また、両者は相互依存関係にあり、「パロール」は「ラング」なくしては実現しませんし、「ラング」も「パロール」の繰り返しにより社会的に承認されて初めて成立するものであることも確認しました。それでは、ソシュールは言語研究の中心的なテーマがどちらにあると考えていたのか、続いてこの問題について検討していきました。ソシュールは「言語が何よりもまず記号の体系である」と述べていたことを確認し、ここでいう「言語」とは、聴覚映像と概念とが結びついた心的記号の総体のことであり、これはとりもなおさず「ラング」のことであるから、ソシュールは言語学の中心的なテーマが「ラング」の研究にあると考えていたのだということを説明しました。その上で、ソシュールが「ラング」を「パロール」から区別したことの意味を検討しました。第1に、「ラング」は認識の一形態であるから、言語研究は認識の研究そのものだという形で、直接的に認識の研究を問題にしたこと、第2に、言語の本質が(これまで考えられてきたように)音声や文字であるということに疑問を呈し、言語の本質は社会的・精神的・体系的なものである、つまり「ラング」であるという形で、言語の持つ2つの性格を分けて把握したこと、この2点を見ていったのでした。

 以上、ソシュールの言語理論の歴史的意義について、3つに分けて説きてきた流れを確認しました。再度ソシュールの言語理論をまとめるとすると、ソシュールの時代までに隆盛を極めていた比較言語学の方法論、つまり個別の音声が歴史的にどのように変化していくのかに関する法則を研究するというやり方に対して、言語の本質は音声や文字の物理的なあり方そのものにあるというのは違うのではないかとソシュールは考えたのです。それは文字をどのような色で書いても、音声をどのような声色で話しても、同じ言語として通用する事実にも裏打ちされていました。では、言語の本質とは何かといえば、それは音声や文字といった物理的なあり方そのものではなく、聴覚映像と概念とが人間の頭の中で結びついた記号が、他の記号との対立関係の中で打ち立てる体系にあるのではないか、これがソシュールの根本的な言語観なのです。こうした考えをまとめ上げることによって、「ラング」を「パロール」から区別し、「ラング」という心的な記号の体系を抽出したものが、ソシュールの言語理論の中心なのです。

 では、こうしたソシュールの言語理論を自らの実力と化す、つまり連載第1回に用いた言葉でいえば、「科学的言語学体系を構築する」ための1つの過程にするには、どのような作業が必要になってくるのでしょうか。単にソシュールの言語理論の成果を捉えるだけでいいのでしょうか。この問題に関しては、南郷継正先生が以下のように説いておられることが非常に重要となってきます。

「論文を書くとは、相手の論の欠点を正しく説いて見せながら、つまり正当な論文になるように仕上げてみせることが重要なのであり、これを実践していってこそ自分の学の形成過程の一助となるのであり、これが体系化への第一歩となっていくのである。」(『武道哲学講義 第3巻』p.228)

 つまり、成果は成果として正当に評価しつつ、「相手の論の欠点」も同時に指摘しなければならず、その欠点を正していくことが必要になってくるということです。

 ではここで、これまで見てきたソシュールの言語理論を俎上に載せて、簡単にではありますが、このことを実践してみたいと思います。

 まず、ソシュールは言語の持つ2つの性格を分けて把握し、それぞれに「ラング」と「パロール」という名前を付けました。言語の社会的・精神的・体系的な性格を「ラング」と呼び、言語の個人的・物理的・個別的な性格を「パロール」と呼んで、全く別の実体として把握したのです。「ラング」は頭の中にあり、「パロール」は現実の世界の中にあるというわけです。そして「ラング」を研究の中心に据え、「ラング」は他の全ての記号と異なるという関係において、自らを同定する記号の体系だと捉えたのでした。このことを別の言葉でいえば、「ラング」は「絶対的な差異」が問題なのではなくて、「相対的な差異」が問題だということになります。そしてこの「相対的な差異」というのは、簡単にいえば「種類」のことです。しかし、「ラング」を「種類」としての記号の体系だと捉えるならば、それは何も「ラング」に限った把握ではなくなってしまうのです。どういうことかといえば、「パロール」は物理的なあり方が問題であって、言語の本質からは外れる存在だとソシュールは考えていたのですが、「種類」という概念を導入することによって、「パロール」にも2つの性格がある、つまり物理的なあり方そのものという側面と、「種類」としての側面と、2つの性格が「パロール」において統一されている、ということがいえるようになるわけです。ある言語(音声や文字)の物理的なあり方の変化は、「種類」が変ってしまうという限界に達するまでの範囲内においては許容されるのだと考えることで、ソシュールが「ラング」と「パロール」という形で二分した言語の2つの性格を、音声や文字の中に二重性として統一的に捉えることができるようになるのです。そしてこのことは、音声や文字が言語であり、言語学の中心的な研究テーマであるとする従来の言語観への、ヨリ高いレベルでの復帰を意味するのです。

 それでは、音声や文字(ソシュールのいう「パロール」)が言語であるとすると、ソシュールのいう「ラング」とは一体何なのかが問題になります。実はこれは言語に関する約束事、つまり言語規範なのです。そして言語規範は言語そのものと大きく関係していますが、言語そのものではありません。これは、例えば野球のルールは野球に大きく関係していますが、野球のルールそのものが野球であるとはいえないことと同じことです。ソシュールは、言語が「絶対的な差異」ではなくて「相対的な差異」に基づく体系であることを把握したまでは良かったのですが、音声や文字の中に「相対的な差異」が「絶対的な差異」との二重性で存在していることを見抜くことができず、「絶対的な差異」としての「パロール」とは別の実体として、人間の頭の中にある「相対的な差異」としての「ラング」を想定し、これこそが言語だとしてしまったことに誤りがありました。「ラング」を言語だとしてしまうと、連載第1回で引用した安倍首相の発言について、その意図を平板に表面的に捉えておしまいとなってしまうのです。なぜならば、「ラング」は記号の体系であって、その記号は聴覚映像と概念とが一義的に結びついているからです。「参院選の最大の焦点はアベノミクスだ」といえば、その意味は完全に固定化されてしまい、実は安倍首相の頭の中では憲法改正問題が最も大きなテーマなのではないか、などと考える余地がなくなってしまうのです。

 以上、ソシュールが「ラング」と「パロール」として言語の2つの特徴を分けて把握したことの意義と限界について考察してきました。言語に物理的な性質と「種類」としての性質とが存在することを指摘したことは、言語研究史上におけるソシュールの大きな業績だと評価できるのですが、それらを二分して把握してしまい、音声や文字の中に二重性としてそれらが存在すると理解できなかったことがソシュールの限界だったのです。

 実は、言語の同定性の根拠が「種類」であると明確に言い切ったのは三浦つとむさんなのです。三浦さんは言語を二重性(いわば「二分性」ではなく)で捉え、言語の感性的なあり方そのものは言語表現に不可欠ではあるものの、言語表現ではなく非言語表現であって、言語の「種類」としての側面こそが本来の言語表現であると説いておられます。また、言語と言語規範がどのような関係にあるのかも明らかにされています。三浦言語論については、10月に本ブログに掲載予定の「三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む」の中で詳細に展開することをお約束して、本稿を終えることとします。

(了)
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 ・マインドフルネスを認識論的に説く
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 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
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 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
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 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
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 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
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 ・教育の政治的中立性を問う
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