2012年12月31日

科学者列伝:19世紀の精神科学編(3/3)

(3)フロイト

 「科学者列伝:19世紀の精神科学編」の最後となる今回は,無意識を発見したとされ,精神分析の創始者として著名な,そしてマルクス同様,20世紀に大きな影響を与えたフロイトの生涯と業績などを紹介します。

 ジグムント・フロイトは1856年,モラビア(現在のチェコ領)の一小都市であるフライベルクに,ユダヤ人の毛織物商人を父として生まれました。なお同年,現代精神医学の基礎を確立したとされるドイツの精神医学者クレペリンも生まれています。精神医学に大きな影響を与えた二人が同じ年に生まれているというのは,非常に興味深い事実です。

 さて,フロイトの父親は中年にして妻を失い,40歳のときに20歳の若く美しい女性と再婚します。その一年後に生まれたフロイトは,2人の長子として,一身に寵愛を受けて育ちました。フロイトが生まれたときには,父親には亡き妻との間に長子がおり,さらにその長子には1歳になるヨハネスという子がいました。したがってフロイトは,ヨハネスの年下の叔父として生まれたことになります。

 フロイトが4歳のとき,一家はウィーンに移ることになりました。その後フロイトは死の前年,ナチスに追われるまでウィーンに暮らしました。ウィーンに移る少し前に,フロイトは汽車の中から生まれてはじめてガス灯の火を見ました。それはまるで地獄で燃えている人魂のように見えたため,汽車旅行に対する恐怖症が始まりました。これは後年,汽車の時間に間に合うかどうかを必要以上に気にするという形でフロイトの中に残りましたが,同時に,自己の精神を分析する1つの材料として重要な意味をもつものとなりました。

 フロイトは10歳になるまで学校へは行かず,家庭で父親の教えを受けていました。幼い頃からフロイトは非常に優秀であったそうです。幼少にしてラテン語・ギリシア語をものにしただけでなく,後には英語・フランス語にも習熟し,イタリア語・スペイン語までも身につけたそうです。記憶力のよさは別格でした。

 10歳になって入学したギムナジウムを首席で卒業し,1873年,17歳のフロイトはウィーン大学に入学します。ゲーテの論文に影響を受けて,当初は自然科学を研究しようと思っていましたが,後に父親の希望もあって医学へと転じます。

 当時のウィーン大学では,ヘルバルト心理学の流れを汲む人物が教壇に立っており,ヘルバルト心理学は当時の「時代の空気」と呼んでもよいほど支配的でした。フロイト自身,どれほど直接ヘルバルト心理学を学んだかは不明ですが,「時代の空気」を吸って暮らしたことは間違いありません。フロイトの力動的な考え方や無意識の重視には,ヘルバルト心理学からの影響が読み取れます。

 またフロイトは,2年生からブレンターノのゼミに出席しています。ブレンターノは当時の優れた哲学者・心理学者であり,「心理学を根底としてはじめて哲学は学的性質を得ることができる」と主張していました。フロイトはブレンターノからの影響で,しだいに心理学に傾いていった可能性があります。

 フロイトは所属した生理学研究室で神経系の組織標本を作り,顕微鏡で検索する作業に従事しました。生理学教室を指導していたブリュッケもまた,フロイトに大きな影響を与えたと考えられます。当時はまさに「エネルギー」に憑かれた時代でした。ヘルムホルツがエネルギー保存の法則を一般化し,「運動のエネルギーと位置のエネルギーの総量は,孤立している体系の中では不変である」という形で表現すると,世間の熱い注目を浴び,あらゆる現象の真の原因として「エネルギー」という言葉が人口に膾炙しました。生物とて例外ではないと,ブリュッケの教室では考えられていたのです。すなわち,生命現象の中に物理学や科学において認められるエネルギー以外の「生命力」などといったものを認めようとせず,物理化学的エネルギーによって全ての生命現象の謎を解こうとしていたのがブリュッケの教室だったのです。これが心的エネルギーとしての「リビドー」というフロイトの発想に影響を与えたと思われます。

 フロイトは研究者としての道を目指していましたが,6年後には研究室を離れ,開業医への道へ転向しました。これは婚約者マルタとの結婚という経済的な理由からでした。尊敬する師であるブリュッケがフロイトの経済事情がよくないことを考えて,理論の探求に生涯を捧げるよりも臨床医を志すように忠告したのでした。師の忠告に従うことを決めたフロイトは,神経病医として3年間の病院勤務を経て,パリのシャルコーのもとで短期間学びます。ここでヒステリー心因論の発症的研究となったシャルコーの催眠を使った研究に巡り会うことができました。パリを去ったフロイトは,1886年ウィーンで開業しました。

 その後,フロイトはシャルコーの神経症理論への傾倒から脱しながら独自のヒステリー理論を組み立てていきます。そして1895年,ブロイアートの共著『ヒステリー研究』で抑圧の理論および性的外因説を展開しました。この中には,有名はアンナ・Oの症例も紹介されています。また,この中でも少し導入されていたフロイト独自の治療法が,後に自由連想法として確立されました。

 翌年,フロイトは自分の理論および治療法の独創性に自信を得て,「精神分析」と命名しました。40歳のこの年,父が他界し,フロイトは自身も神経症に悩まされながら,親友である耳鼻科医フリーストとの文通を自己分析の場として用い,人間のあらゆる心的現象の背後にあると仮定される無意識の存在とその意味の読解の仕方を理論化していきました。幼児体験の回想から自らのエディプス・コンプレックスを発見したのもこの時期です。

 自己分析から得た洞察は,後のさまざまな著作に結実しました。『夢判断』(1899年),『日常生活の精神病理』(1902年),転移を論じた「ドラの症例」(1905年),小児性欲説を唱え,悪評をよんだ「性に関する三つの論文」などです。

 理論的な対立からブロイアーと決別していたフロイトは,しばらくの間一人の信奉者もいないといっていいほどの状況でした。しかし,フロイトの孤立もしだいに終局に近づいてきます。1902年からは,何人かの若い医師が精神分析を学び,それを普及しようという目的意識をもって,フロイトの家に集まるようになります。彼らは決められた日の夕方に,議論したり雑談したりするようになっていきました。これが精神分析運動の始まりでした。この会が発展して,1907年にウィーン精神分析学会となり,同年,第1回国際精神分析会議が開催されました。しかし1911年にはアドラーが,1913年にはユングが,というように,愛弟子が次々と離反し,外部からの攻撃も強くなって,運動は数々の危機に見舞われました。

 そのような中でも第一次世界大戦中のフロイトは,精力的な執筆活動により無意識の心理学に関する一連の論文を発表しました。また,1916年には大学における講義をまとめ,『精神分析入門』を出版しました。その後,1920年には『快楽原則の彼岸』で死の本能説を展開します。同年,65歳にして正教授の称号を得ました。この頃からフロイトの著作は,思弁的な傾向が著しく増していったといわれています。フロイト自身も,自分はもう年老いてしまったので,自らの考えを十分に成熟させるだけの時間がなく,未熟なままでも思いついたことは述べなければならないといっています。

 1923年,67歳になったフロイトは上顎癌の手術を受けます。そして以後死ぬまでの16年間に32回におよぶ手術を受けました。同年,『自我とエス』を著し,エス―自我―超自我という心的構造論を体系化しました。さらにフロイトは精神分析の対象範囲を広げていき,『幻想の未来』(1927年)や『文化への不満』(1930年)などで,宗教・文化論を論じていきました。

 1936年に迎えた80歳の誕生日には,世界中から祝いの言葉が寄せられました。世紀の物理学者であるアインシュタインも祝いの手紙をくれました。また,妻のマルタが大好きな作家であったトーマス=マンは,この誕生日にフロイトを訪れました。これがフロイトのもっとも喜んだ出来事だったといいます。

 ヒトラーが権力を握って間もなく,ベルリンではフロイトや精神分析関係の著作が禁書となりました。1936年にはゲシュタポが国際精神分析出版所の全財産を押さえ,1938年にはオーストリアを合併してユダヤ人追放運動を繰り広げました。フロイトはもはや去るほかはありませんでした。同年6月にフロイトはロンドンに亡命します。そして,このとき携えていった原稿を『モーゼと一神教』として出版します。これがフロイト最後の論文となりました。翌年,彼はロンドンのメヤレスフィールド・ガーデンにおいて亡くなりました。病床には未完成の原稿『精神分析概説』が残されていました。

 フロイトの理論は,当時からさまざまな批判を受けつつも,20世紀の心理学や精神医学を含めた文化と思想に非常に大きな影響を与えました。このあたりの事情も含めて,今回詳しく論じることができなかったフロイトの理論に関しては,来年中に本ブログでしっかりと説くことを約束しておきたいと思います。

(了)
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2012年12月30日

科学者列伝:19世紀の精神科学編(2/3)

(2)マルクス

 「科学者列伝:19世紀の精神科学編」の第2回目は,20世紀の世界に大きな影響を与えたマルクスを取りあげます。

 カール・ハインリヒ・マルクスは,1818年5月5日,プロイセン王国のトーリア市(フランスとベルギーの国境に近いところ)に生まれました。父ハインリヒの家系は,4代にわたってユダヤ教のラビ(聖職者・神学者)を輩出した名門であり,母アンリエットもオランダ系ユダヤ人の出でしたが,父ハインリヒ自身は,自由主義的な啓蒙思想をもった弁護士であり,マルクスが生まれる数年前にプロテスタントに改宗しています。

 マルクスは,カントやルソーなど啓蒙思想の賛美者が校長を努めていた高校を経て,ボン大学やベルリン大学で法学を専攻します。しかし,実際のところ彼が熱心に勉強したのは,法学よりもむしろ歴史や哲学でした。ヘーゲル左派に属するブルーノ・バウアーという神学講師から多大な影響を受けたマルクスは,「デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異」という学位論文を完成させることで,大学講師の職をめざしました。しかし,哲学によって現実を理性的なものへ変革していくことを主張するマルクスの急進主義は,専制的な君主制のもとにあった当時のドイツでは到底受け入れられるようなものではなく,大学に職を得ることはかないませんでした。

 大学教員への道を断念したマルクスは,ジャーナリズムの世界に身を投じ,1842年,急進的ブルジョアジーの立場にたつ「ライン新聞」の主筆となります。この新聞の編集にたずさわる過程で,マルクスの関心がしだいに哲学や歴史から政治や経済の問題へと移っていくことになったのでした。

 しかし,この「ライン新聞」は激しい政府批判のために弾圧を受け,廃刊を余儀なくされてしまいます。弾圧を逃れてフランスへ出国したマルクスは,パリで「独仏年誌」という雑誌を創刊し,ジャーナリストとしての活動を継続します。この時代に,生涯にわたっての盟友となるエンゲルスとの協力関係が築かれたのでした。ジャーナリストとしての活動をつうじて,法的諸関係や国家諸形態は社会の物質的な諸関係にねざしたものなのではないか,と考えるようになっていたマルクスは,「独仏年誌」に掲載されたエンゲルスの「国民経済学批判大綱」という論文に触発されて,本格的に経済学の研究へとのめり込んでいくことになります。それは,ブルジョア社会の解剖は経済学にこそ求められなければならないのではないか,と考えるようになったからでした。

 マルクスは,1845年,プロイセン政府からの間接的な圧力を受けて,ベルギーのブリュッセルへと追放されてしまうのですが,ここでエンゲルスとの共著『ドイツ・イデオロギー』を著し,ヘーゲルの観念論的歴史観に対抗する形で「唯物論的な歴史の見方」を提示することになります。それは,経済的な諸関係こそが社会の土台であり,精神的な諸関係はこの土台に制約される上部構造にほかならないこと,歴史を動かす究極の原動力は経済的土台にあり,経済的利害をめぐる階級闘争をつうじて歴史がすすめられてきことを主張するものでした。

 こうして,急進的な民主主義者から共産主義者へと変貌を遂げたマルクスは,1846年ブリュッセルにおいて,エンゲルスとともに「共産主義者同盟」の創設に参画することになります。かの有名な『共産党宣言』は,マルクスとエンゲルスが,1848年のパリ二月革命の直前にこの同盟の綱領として起草したものでした。

 1848年革命はドイツにも飛び火します。マルクスはドイツに戻って「新ライン新聞」を発行,革命の勝利のために奮闘します。しかし,やがてプロイセンを中心とする反革命勢力の盛り返しによって革命が敗北すると,「新ライン新聞」は発行禁止の措置を食らい,マルクスは国外退去を命じられてしまったのでした。

 ドイツから追放されたマルクスは,各地を転々としながら,1849年8月,ようやくロンドンにたどりつきます。ここでマルクスは,エンゲルスからの財政的支援を受けながら(エンゲルスは父親がマンチェスターで経営していた紡績工場の仕事を引き継いでいたのでした),大英図書館に通い詰めて,経済学の研究に没頭します。とはいえ,もちろん実践的な活動から足を洗ったわけではなく,1863年には,エンゲルスとともに,国際労働者協会(いわゆる第一インターナショナル)の創立にかかわっています。

 さて,マルクスは,アダム・スミスやデイヴィッド・リカードなどの古典派経済学理論,あるいは重農主義者フランソワ・ケネーの経済表など,それまでの経済学の成果を批判的に摂取することで,自身の経済学体系について「資本,土地所有,賃労働,国家,外国貿易,世界市場」という6部からなる壮大な構想を打ち立てました。しかし,こうした構想にしたがった著作の執筆は,遅々としてすすみませんでした。1859年,商品と貨幣について論じた部分が『経済学批判』の第1分冊として出版されましたが,第2分冊以降は出版されず,ようやく1867年に,もう一度最初から説き直す形で(すなわちさきに出版されていた『経済学批判』とは別個の著作として)『資本論』の第1部「資本の生産過程」が出版される,といった具合です。『資本論』第1部の出版後も,マルクスは自身の経済学体系の完成に向けた努力を重ねますが,結局,自身の手でそれを完結させることはできないまま,1883年3月14日にその生涯を閉じてしまったのでした。

 学問の構築をめざすというわが研究会の目的からすれば,マルクスが6部からなる壮大な経済学体系の構想をもちつつも,そのほんの最初の部分にすぎない『資本論』すらまともに完成させることができなかったのはなぜなのかが問われなければなりません。これは,簡単には,資本を論じるにあたって,あまりに細部へ細部へと入り込んで詳細な論を展開しようとしてしまったためだということができるでしょう。もう少し論理的にいえば,全体的な構想を立てる段階から部分(資本)の究明へとすすんだ際に,部分(資本)には全体(経済一般)としての性格が貫かれているとの視点を把持しきれなかったために,部分を全体のなかの部分として論じるのではなく,たんなる部分としてそれ自体を詳細に論じてしまう(資本論を経済学体系のなかの資本論としてではなく,たんなる資本論として展開してしまう)ことになったからではないか,ということです。これは,マルクスがヘーゲルの弁証法をどのように継承したのか(継承しそこなってしまったのか)という問題とあわせて,突っ込んで検討されるべき問題でしょう。

 さて,マルクスは自身の手で『資本論』を完成させることができなかったとはいえ,それに向けての膨大な草稿を残してはいました。この遺稿は盟友エンゲルスによって編集され,1885年に『資本論』の第2部「資本の流通過程」が,1894年に『資本論』の第3部「資本主義的生産の総過程」が出版されることになります。

 こうして一応の形を整えられることになった『資本論』は,労働者階級の立場に立って資本の構造,運動のあり方について論じたものだということができるでしょう。より具体的には,労働力商品の価値と労働が生み出す価値とを峻別することで剰余価値の発生を説明するとともに,資本主義的生産様式の発展が資本家と労働者との階級対立を激化させることで新たな生産様式への道を拓いていく必然性について理論的に解明したものとして,「科学的社会主義」思想の理論的根拠とみなされるようになっていたのでした。この思想が20世紀の世界に激動をもたらすことになったことについては,ここであらためていうまでもないことでしょう。
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2012年12月29日

科学者列伝:19世紀の精神科学編(1/3)

(1)ヘルバルト

 科学の歴史に名を残す偉大な科学者を紹介する「科学者列伝」シリーズも,今回で終了となります。最終回は「19世紀の精神科学編」として,ヘルバルト,マルクス,フロイトを取りあげたいと思います。初回はヘルバルトの生涯や業績を紹介します。

 ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト(Johann Friedrich Herbart, 1776年-1841年)は,1776年,オルデンブルクで生まれました。彼の父は街の法律顧問官兼参事官で,母は同じ街の娘で想像力・決断力・強固な意志・不屈の精神など男性的な美徳を備えた人物でした。母はヘルバルトの教育に非常に熱心で,特に音楽に関しては,幼児期からヴァイオリン・チェロ・竪琴・ピアノの楽器を学ばせました。ピアノに関してはその天分を示し,11歳でコンサートを開き,その演奏に対して拍手喝采だったと言われています。また,ヴォルフ哲学に造詣の深い家庭教師による教育も行われました。後のヘルバルトの哲学的思索や体系性の萌芽はここではぐくまれたと言われています。さらに,1785年(9歳)から1年間,後にライプチヒ大学教授となるクルーゼの私塾に通い,自然科学に関する学びを深めました。

 1788年にギムナジウムに入学してからは(正確にはヘルバルトが入学した翌年,ギムナジウムに昇格された),その哲学的な才能が開花し,14歳にして人間意志の自由に関する論文を書いたと言われています。17歳には,卒業式にて「国家において道徳の向上と堕落とを将来する一般的原因について」というテーマの演説を行い,翌年の自身の卒業の場では,「最高善及び実践哲学についてのキケロ及びカントの思想」の卒業演説を行いました。

 1794年(18歳),イエナ大学に入学したヘルバルトは,後に生涯の友となるシュミット(Joh.smidt)が主宰する「文学会」というサークルの会員になりました。当時の学生たちが無意味な宴会や,野蛮な決闘に興味を持つ低級卑俗な様相を示していたのに対して,この「文学会」では,一切の世間的雑談は禁止され,それぞれの研究テーマに沿った論文の研究討議が行われていました。ここでヘルバルトはさらに哲学的思索を深めるとともに,フィヒテに直接師事して学んでいきました。しかし,次第にフィヒテ哲学に対して懐疑を抱くようになり,真理を求めて苦悶の日々を送るようになります。

 そこへ,ベルンの貴族シュタイゲル氏から家庭教師の依頼があり,ルードウィヒ(14歳),カール(12歳),ルドルフ(8歳)の教育に携わるようになります。なお,この時代の家庭教師というのは,現在のようなものではありません。朝から夜まで共にするのであり,まさに教育担当として家族の一員になるというレベルのものです。1797年から1799年まで務め,その3年間の記録は『シュタイゲル氏への教育報告』という形で残されています。ここには,管理・訓練・多方興味など後のヘルバルト教育学の要素が見られます。

 家庭教師時代,ヘルバルトはペスタロッチの学舎を訪問し,その授業を参観するとともに,ペスタロッチとの親交を深めました。『ペスタロッチの近著・ゲルトルートはその子をどのように教えたかについて』『ペスタロッチの直観のABC』などの著作も執筆し,ヘルバルトはペスタロッチの実践を理論化したと言われています。

 1802年には,ゲッチンゲン大学の講師として務めるようになり,教育学のみならず,倫理学や実践哲学の講義を行うようになりました。そして,『教育の主要任務としての世界の美的表現』を執筆し,自身の教育に関する根本的な立場を明らかにするとともに,1806年(30歳)には代表的な著作『一般教育学』を著し,自身の教育学の体系を明らかにしました。

 その後,カントの後任としてケーニヒスベルク大学の哲学教授となりました。この時期には『心理学教科書』を執筆しています。実は「心理学」という言葉を初めて使ったのはヘルバルトだとも言われています。1833年(57歳)にゲッチンゲン大学に戻ってから,もう1つの代表作『教育学講義綱要』を著しました。その6年後,65歳で死去します。

 このように,ヘルバルトは幼児期からその哲学的才能を発揮し,その実力でもって,家庭教師としての自身の経験や,ペスタロッチの実践を捉え返し,自身の教育学を構築しました。それは『一般教育学』において現れており,晩年の『教育学講義綱要』においても基本的な輪郭は一貫しています。

 その教育学とは,簡単に言えば,道徳性をもった人間を育てるということを教育目的とし,すべての教育的行為をそこにつながるように位置づけようとするものです。ここで言われている道徳性とは,幅広い教養・興味をもって正しい判断を下し,自らの自然的な欲求との葛藤に負けることなく,その判断に基づいて行動していくことです。ヘルバルトはギリシア神話に出てくるオデュッセウスを,理想的な人間像として思い描いていると考えられます。恐らく,当時の人間のあり方を眺めたときに,道徳性を持った人間の育成ということが,社会を維持・発展させるために大きな課題になっており,ヘルバルトはそこを把握したのでしょう。

 また,ヘルバルトは教育対象としての人間を心理学という視点で把握しようとした点も特徴的です。ヘルバルト自身が自覚できていたかどうかは不明ですが,人間を把握するとはその人間の心を把握するということであり,その心のあり方に基づいて教育を論じていくということ,つまり,人間論に基づいて教育論を展開しました。このように大きな立場から教育を捉えようとする視点や,教育目的に全てを収斂させて体系的に論じていこうとする姿勢は,ヘーゲルを代表とする当時のドイツ哲学の風を受け継いだものだと言えるでしょう。

 しかし,ヘルバルトの問題意識が,果たして人類の歴史に通用する教育学というレベルだったのかという点については疑問が残ります。もちろんその主張の中には,現代にも通用する論理が見られますが,彼は基本的には,あくまでもその当時の教育のあり方について論じているように思われます。

 こうしたヘルバルト教育学の意義と限界については,近いうちに詳しく論じていきたいと思います。
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2012年11月19日

科学者列伝:19世紀の自然科学編(3/3)

(3)ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ

 「科学者列伝:19世紀の自然科学編」の最終回は,エネルギー保存の法則の発見者であるヘルマン・フォン・ヘルムホルツを取りあげます。

 エネルギー保存の法則とは,宇宙のエネルギーの総量は一定であり,無から生じることも無になることもなく,その姿を変えるだけであるというものです。この法則は,同じころ,3人の科学者によって発見されています。最初に提唱したのは,ドイツの医師マイヤーです。彼は船医としての経験をもとに,化学エネルギー,熱,力学的な仕事は相互に転換すると考え,1842年にこれを発表しました。ただ,彼は物理学の門外漢であったため,関心を示されることはありませんでした。

 マイヤーとは独立に,イギリスの物理学者ジュールも,1843年に一定量の仕事が一定量の熱に変わることを示す,注意深い実験を数多く行いました。ここから彼はエネルギー保存の法則を導き出し,1847年には詳細な実験とその結果を載せた論文を発表しました。しかし,彼が大学教授ではなく醸造業者でしかないと思われていたため,また,非常に小さな温度変化を扱った地味な実験であったため,注目されませんでした。

 3人目が今回取りあげるヘルムホルツです。彼もジュールと同じく,全く独立に同じ原理に辿り着き,1847年に当時の物理学者にも分かるように数式化・一般化し,明確に論述しました。ここから,一昔前は,エネルギー保存の法則の発見者はヘルムホルツであるとされていましたが,現在ではこの3人に3等分されるような傾向になっています。

 このように,エネルギー保存の法則という最も基本的な自然法則が,1840年代に3人の科学者によって独立に発見されたという事実は,非常に興味深いものがあります。当時の社会的認識が,エネルギー保存の法則を発見できるところまで成熟していたこと,だれが発見するかは偶然性であっても,それが発見されることは必然的であったことが分かります。

 それでは以下,ヘルムホルツの生涯や業績,後世への影響などを紹介したいと思います。

 ヘルムホルツは1821年,ドイツのポツダムに生まれました。父親は地元のギムナジウムの教師でした。子どものころは病気がちであったため医学を学びました。彼が学んだ教師の中にはヨハネス・ミュラーがいました。ミュラーはドイツのベルリン大学において,生理学の父と評されており,19世紀の第一級の科学者を数多く育てました。ヘルムホルツの他にも,細胞説のシュワン,系統発生は個体発生を繰り返すと唱えたヘッケル,『細胞病理学』を著したウィルヒョウ,ベルリン大学でミュラーの講座を受け継いだレーモン,フロイトの師である神経解剖学者のブリュッケや実験心理学の創始者ヴントなどがいます。この中でヘルムホルツは,レーモンやブリュッケと交友を結びました。1842年卒業後は,しばらくプロシア軍の軍医を務めました。そして,ミュラーの助手を経て,フンボルトの影響と勧めに従って49年ケーニヒスベルクに生理学教授になりました。55年ボン大学解剖学・生理学教授,58年ハイデルベルク大学生理学教授となり,71年からはベルリン大学に移って物理学を担当します。88年以降は国立理工学研究所の初代所長を務めました。ちなみに,日本の理化学研究所は,この研究所を模範にしたものです。

 このような経歴の中で,彼はいくつかの分野でさまざまな業績をあげました。

 生理学の分野では,目の働きを研究し,1851年に検眼鏡を発明しました。これは現代の眼科医にとって不可欠のものであり,目の内部をのぞくための道具です。また目の曲率を測る検眼計も発明しました。さらに,ヤングの三原色の理論を復活・拡張させて,ヤング=ヘルムホルツ説を打ち立てました。これは,目には3種類の神経線維があり,それぞれ赤・緑・紫の感覚を起こすのであり,光はこの3種類の繊維をそれぞれの波長によってさまざまな強さで興奮させるというものです。

 また,耳についての研究も行いました。ヘルムホルツは,耳が音の高さを判断するのは,内耳にある蝸牛殻が共鳴器の役割をするからであるとしました。ハーモニーと不協和音についても研究し,混合音の波長と生じるうなりの振動数によってハーモニーになるか否かが決まるということを明らかにしました。

 神経を伝わる刺激の速さを初めて測定したのもヘルムホルツであるといわれています。彼の師ミュラーは,短い距離を非常に速い速度で伝わる刺激は,科学では解明できない問題の好例であるということをしばしば語っていたそうです。しかし,ヘルムホルツは1852年にカエルの筋肉についている神経を用いて実験をくり返し,神経興奮の伝導に要する時間を明らかにしました。結果,毎秒約90フィートの速度であることが分かったといいます。さらに彼は人間を対象にして実験しました。一つの感覚器官に刺激を加えてから,その結果として運動反応が生じるまでの完成回路を研究したのです。しかし,個人差が非常に大きく,また同一人物でも試行ごとにきわめて大きな差があったため,彼はこの研究を断念しました。

 ヘルムホルツはまた,数学者でもあり,リーマンが創設した非ユークリッド幾何学の研究も行いました。

 しかし,やはりヘルムホルツの名が最も知られているのは物理学の分野です。彼は筋肉運動の研究から,初めに触れたようにエネルギー保存の法則を導き出したのです。彼は筋肉運動の研究の中で,動物の熱が主として筋肉の収縮によって生じることや酸(現在では乳酸であることが分かっている)が生じるのは筋肉の運動によることを初めて解明しました。

 1847年7月23日,ヘルムホルツはベルリンの物理学会で「力の保存について」という講演を行いました。その後,それを論文として出版しています。ここでいう「力」とは,今でいうエネルギーのことです。この論文の中でヘルムホルツは,まずすべての自然現象は引力および斥力の中心力によって力学的に説明できるという立場をとっています。これは,当時の多くの科学者と同じ立場でした。しかし,彼はそれにとどまらず,無から動力を取り出すことはできないという永久機関が不可能だという考えから,エネルギーについてのさまざまな式を導出しています。彼は運動エネルギー(当時は「活力」と呼ばれていた)の式を正しく定め,位置エネルギー(彼は「張力」と呼んだ)も新しく定義しました。そして,非弾性衝突やまさつのように,運動エネルギーと位置エネルギーだけでは保存則が成立していないように現象する場合を考察し,熱や電気が発生するので,それらを考慮するならばエネルギー保存の法則が成り立つとしました。こうして熱素説は完全に否定され,熱は原子の運動と配置の変化によるものだと結論されたのです。ここではまだ電気現象などに関しては議論が十分なされていませんでしたが,70年以降電池の分極現象について研究することにより,エネルギー保存の法則を定量的に正しく把握し,エネルギー保存の法則を一般的に完成されたものとしました。

 物理学の分野では他に,渦,大気の運動,電気力学などに関する研究があります。

 後年,ヘルムホルツは無電およびラジオの創設にも間接的に寄与しました。1893年秋,シカゴの万国博覧会の帰途,ヘルムホルツはアメリカの他の地を訪れました。しかし,その時乗っていた船が他の船に衝突するという事故にあってしまいます。それ以降,彼の健康は十分に回復することがなく,11ヶ月後,世を去りました。

 ヘルムホルツの業績は,後世に大きな影響を与えました。ここでは主に,精神科学に対する貢献を紹介します。まず,彼の生理学の業績は,近代的な実験心理学の誕生に寄与しました。彼の反応時間に関する研究は,心理学的過程に関する実験と測定を可能にした最初の証明の一つとなりました。そして,新しい心理学において,方法論的に実験的アプローチを強化する助けとなりました。

 また彼のエネルギー保存の法則は,精神分析の創始者であるフロイトにも影響を与えています。ヘルムホルツ以後の時代は,まさに「エネルギー」に取りつかれた時代となりました。ヘルムホルツ自身も,エネルギー保存の法則を武器にして,生気論に反対していましたが,彼と同じくミュラーの弟子であるブリュッケの生理学教室では,生命現象の中に物理学や化学において認められるエネルギー以外のものを認めようとはせずに,この物理化学的エネルギーによってすべての生命現象の謎を解こうとしていました。ブリュッケに指導を受けたフロイトも,あらゆる現象の真の原因としてエネルギーを想定し,人間の心にもエネルギーの考え方を適用したのでした。そして,さまざまな心的現象を心的エネルギー=リビドーの概念から解明しょうとしたのです。

 このように,ヘルムホルツ以後,精神現象も科学的に研究できるし,量的に測定することもできるという信念が,次第に社会的認識となっていったのでした。


(了)
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2012年11月18日

科学者列伝:19世紀の自然科学編(2/3)

 今回は,瀬江千史先生によって「科学的医学への扉を開いた医学者」と非常に高く評価されているフランスの生理学者クロード・ベルナールを紹介します。本稿では,瀬江先生による評価を適宜参照しながら,ベルナールの生涯や業績を,ざっと紹介することにします。

 ベルナールは1813年,ソーヌ川に沿ったサン・ジュリアン村でブドウ栽培を業とする家に生まれました。初等教育を受けたのち,劇作家になる希望をもち,原稿を書く余暇が得られるようにと,薬剤師の助手となりました。その間,5幕物の劇を書きました。1834年,とある有名な批評家に意見をきくためにパリに出ましたが,批評家から忠告を受けて志を変え,医学の道に進むことを決意しました。

 やがて,コレージュ・ド・フランスの生理学教授であったマジャンディの知遇を得て,1841年その助手に採用されました。1843年には,胃液の作用に関する論文で学位を受けました。その後は,ソルボンヌ大学の初代生理学教授となり,1855年には恩師マジャンディの急逝のあとを継いでコレージュ・ド・フランス教授となりました。

 当時の学界では,生気論者が多く,生命原理の,感覚,運動,現状維持力などは,生命の特性であるとする考えが支配尾的でした。このような中にあって,実験を重視して,生命現象を物理的・化学的に解明しようとしたのが,マジャンディであり,それを受け継いで大きく発展させたのがベルナールだったのです。

 ベルナールとコレージュ・ド・フランスのかかわりについては,瀬江千史先生が,ベルナールの著作を訳した三浦岱栄の「コレージュ・ド・フランスは本来の医育機関ではなく,(これは自然科学と人文科学の両領域に亘ってその最高権威を網羅し,科学の最先端を自由奔放に研究することを許すフランス独特の教育機関である),したがってまたそこでは医学はつねに文化の一要素としての見地からのみ講義されなければならなかった」という言葉を引用した後,次のように説いておられます。

「ここで指摘されているように,医学がたんに医学としてではなく,『つねに文化の一要素』としての見地からのみ講義されなければならなかったコレージュ・ド・フランスにおいて,ベルナールが34歳から20年以上にわたって講義を行ないつづけてことが,彼の実験医学構築へ向けての歩みに,はかりしれない影響を及ぼしたという事実を我々はしっかりとみてとらなければならないのである。なぜなら,これこそが,医学をたんに医学としてではなく,一般教養および学的一般教養をふまえた医学として位置づけることを要求されつづけたということであり,……」(瀬江千史『看護学と医学(下巻)』p.345)


 このように,文化全体の中の医学として位置づけながら講義し続けたために,ベルナールには学者としての実力が養成されていったのだという点は,われわれもしっかりと押さえておくべき重要な点であると思います。このようなベルナールに対して,ナポレオン3世は実験施設が整うように配慮したともいわれています。それでは以下,ベルナールの業績を見ていきたいと思います。

 彼の大きな発見は,消化の研究が出発点となって行われました。彼は予め人工的なロウ管(消化器から体外へ通じる管)を取り付けた動物を使用して実験しました。ベルナール以前には,事故にあった人がたまたまつけなければならなくなったロウ管によって研究がなされていましたが,彼は事故が起こるのを待つのではなく,人工的につくり上げた装置を使って実験したのです。この実験によって,ベルナールは消化は全て胃で行われるという従来の考えが誤りであることを明らかにしました。確かに,胃でも消化は行われますが,それは消化の全過程中の一部であることを示したのです。ベルナールは,食物を直接小腸のはじめの部分に入れることによって,膵臓から出た消化液が食物を侵すこと,食物の消化作用が小腸全体で行われること,膵臓の分泌液は脂肪を特によく分解する作用のあることを明らかにしました。

 ベルナールは1851年に,神経が血管を膨張させたり収縮させたりする働きがあることを発見しました。これによって,熱いときには血管を膨張させて体内の熱を多く放出し,寒いときには血管を収縮させて熱を保持するのです。彼はまた,血液中で酸素を運ぶのは赤血球であることも解明しました。

 彼はこのような研究から,身体は外界の環境に応じて内部環境を常に一定に保つような機構になっていると考えるようになります。さらに彼は,身体内でこのようなバランスが保たれるのは,物理的な変化だけでなく化学的な変化にまで及ぶことを示しました。1856年に,哺乳類の肝臓内にグリコーゲンというデンプン状の物質があることを発見し,これが炭水化物の保存のために血糖からつくられ,必要に応じて再び糖に分解されることを明らかにしました。グリコーゲンの製造分解は,身体の状態や各組織に必要なエネルギー,それに腸内での食物の量などによって決定されますが,ともかく,グリコーゲンの量を加減することによって血液中の糖分の量は一定に保たれるのです。こうして,動物は単に複雑な化合物を簡単なものに分解するだけでなく,逆に植物と同じように,糖のような単純な化合物をグリコーゲンのような複雑なものにする働きもあることが初めて分かったのでした。

 ベルナールは1860年に健康を害して郷里で約2年間静養しました。この間,過去20年余りにわたる自らの研究の踏まえて,実験的医学研究の方法論を執筆しました。それが,1865年にパリで出版された彼の主著『実験医学序説』です。この書は,「実験的推理」「生物における実験」「生命現象の研究に対する実験的方法の応用」の3部からなっています。観察からはじまった医学が実験の医学となって最高の発展段階に達したとしたうえで,実験的事実から帰納する彼の研究方法の実例を挙げて,近代医学における重要な方法の一つである実験医学の理論的基礎づけを行っています。

 この書は,青年パスツールも愛読して,「実験という実に難しい技術の原則をこれほど明瞭に,また完全に深く記した書物は今までになかった」と評しました。また,のちに出された英訳本の序文で,ハーヴァード大学のアンダーソン教授は,「私はアリストテレス以来,生物学者の哲学をこれほど見事にわれわれに示した書物を知らない」と記しました。

 ベルナールはその後,1869年にフランス学士院会員に推挙されました。しかし,彼は既にその頃から病気がちの生活を送っていました。そして1878年に尿毒症で亡くなりました。フランスは彼の死に際し,公葬を行いました。科学者としてこの扱いを受けたのは彼が初めてです。いかに彼の業績が当時から評価されていたかが分かるエピソードです。

 彼の考えは,のちに続く科学者によって内分泌学,すなわちホルモンの研究となっていきました。また,「内部環境」という彼が提唱した概念は,のちに米国の生理学者・ウォルター・B・キャノンによって「ホメオスタシス」という概念に発展させられました。

 最後に,ベルナールを「科学的医学への扉を開いた医学者」と高く評価されている瀬江千史先生が説く,ベルナールの主要な二つの業績とその関係についての文章を引用したいと思います。

「第一点は,科学的医学体系の構造を『生理学,病理学,治療学の基本的三部門を含み,病理学と治療学は生理学の基礎の上に建設されなければならない』と一般的に措定したこと,第二点は,その基礎となる生理学における数々の事実的解明をなしえ,さらに生理学の重要な概念である『内部環境』を措定したことである。
 しかしながら,ベルナールは第二点においては歴史的に大きく評価されていても,第一点についてはなんら評価されていないのが現実である。すなわち,ベルナールは生理学者としては認められたが,医学者としては認められてはいないのが,悲しい現実である。
 これまで彼の著作でみてきたように,本来第二点にあげた生理学的解明は,第一点,つまり医学体系の構造を一般的に構想したうえで,その医学体系の完成へむけての第一歩として,彼自らが位置づけていたものであるにもかかわらず,すなわち第一点がなければ第二点はないにもかかわらず,生理学の業績のみを医学全体から切りはなし,生理学者として位置づけるだけの実力しかないのが,医学界の淋しい現状なのである。」(瀬江千史『看護学と医学(下巻)』pp.361-362)


 詳細はぜひ『看護学と医学(下巻)』をお読みになってください。

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2012年11月17日

科学者列伝:19世紀の自然科学編(1/3)

(1)チャールズ・ダーウィン

 本日から3回にわたって,優れた科学の業績を残した人物を紹介する「科学者列伝」シリーズを連載します。今回は19世紀に活躍した自然科学者を取りあげます。最初に取りあげるのは,19世紀の時代精神といってもよい進化学説を唱え,その後の科学界に大きな影響を与えたチャールズ・ダーウィンです。

 ダーウィンはアブラハム・リンカーンが生まれたのと同じ1809年2月12日に,イングランドのシュロップシャー州で裕福な家庭に生まれました。父は著名な医者であり,祖父は生物進化の考えを含む『ズーノミア』を著した博物学者でした。少年時代のダーウィンは学情成績が悪く,父からは「家の体面を傷つける」といって叱られていたそうです。最初は医学を学び,次に僧侶を志しましたが,フンボルトの著書に接してからは博物学を研究するようになり,ケンブリッジ大学在学中にますます興味を持つようになりました。

 ダーウィンの人生は,1831年に転機を迎えます。海洋調査船ビーグル号が世界周航に出る際に,博物学者として同行するように要請されたのです。彼は同行を承諾し,5年間の航海の間に遠く離れたところのさまざまな動植物を研究しました。

 ダーウィンは航海に出発する前に,すでにライエルの『地質学原理』を読んでいました。ライエルはイギリスの地質学者であり,ハットンとともに「地表の斉一変化説」を提唱していました。これは,地球の表面は突然変化したとするキュビエの天変地異説に対立する説であり,地球の表面は徐々に変化してできたものであり,現在もその変化は進行中であるとする説です。ダーウィンはライエルの著書を読んで,地球の歴史が考えられていた以上に長大であること,その長い歴史の中で生命が発展してきた可能性があることをすでに認めていたのです。

 ビーグル号で航行しているうちに,ダーウィンは生命の進化について鋭い考察をする機会を得ました。南アメリカのエクアドルから1000q以上離れた沖にあるガラパゴス諸島で,5週間,動物の生活を観察しました。そこでダーウィンは,イギリスのフィンチに似た小鳥が住んでいるが,島によって住んでいるフィンチの種が違い,14種以上のフィンチが存在することを発見しました。くちばしが長いものや短いもの,くちばしが薄いものや曲がっているものなどがいたのです。なぜ,それぞれの小島に,それぞれ種が異なるフィンチがいるのでしょうか。ダーウィンは次のように推測しました。初めは一種だけだったのが,別の小島に離れて住むうちに別々の種になったのではないだろうか,種子,毛虫,昆虫などのエサのうち,自分が食べるエサに応じて,ついばみやすいようにくちばしも変化していったのではないだろうか,こうして1つの種がいくつかの種に分岐していったのではないだろうか,と。

 この後,ビーグル号は太平洋を横切り,オーストラリアとその沿岸諸島に向かいました。ダーウィンはここで,カンガルーやウォンバット,ワラビーなどがオーストラリアだけにいて,他のところにはいないことを不思議に思いました。彼は,かつてオーストラリアはアジアの一部であったのであり,のちに大陸本土から切り離されて,その後,島に住む生物たちは変化して,独特の新しい種が現れたのだと推理しました。

 こうしてダーウィンは,ビーグル号の航海の間に生物進化についての確信を深めたのでした。ただ,この進化の原因が何であるか,分からなかったのです。

 1836年に帰国したダーウィンは,航海中に見聞きしたことを本にまとめる作業を行いました。1839年に刊行された『ビーグル号航海記』は,大成功をおさめ,フンボルトにも強い感銘を与えました。ダーウィンの名は,たちまち有名になりました。彼はロンドンの生物学会に入り,幹事を務めました。このおかげで,以前から親交のあったライエルと接する機会が多くなり,二人は進化の問題について討論するようになりました。

 突然の構想がひらめいたのは,1838年のことです。ダーウィンはマルサスの書いた『人口論』という有名な本を読んでいました。この中でマルサスは,人口の増加は常に食料供給の増加よりも早いので,ある数の人間は,常に飢えて死ななければならない,と主張していました。ダーウィンは直ちに他のすべての生物にこの原理を適用して考えてみました。どんな動物でも,周囲のエサで生きていけるよりもずっと多くの子供を産むはずです。そうすると,そのうち何匹かは,飢えで死ぬことになってしまいます。他の子供に比べて,自分たちが生きている特定の環境にうまく適合できない子が死ぬことになるのです。ダーウィンは,ハトを飼育して,珍し品種を育てた経験がありました。これはハトの変異を利用したものです。同じように,人間が何代にもわたって,より速く走るウマを育てたり,より牛乳を多く出すウシを育てたり,人の目を楽しませる奇妙な形のネコやイヌを育てたりしている事実もあります。これらも変異を利用して人間に都合の良いものだけを育て,悪いものを滅ぼすように人為的な選択を続けた結果です。人間の手によってこのようなことができるとすれば,もっと長く時間がかかり,もっと徐々にではありますが,人間の代わりに自然が同じような選択をすることもできるはずです。こうしてダーウィンは,環境の影響や習性の変化によって生まれた新しい生物が生存競争の中で自然によって選択され新しい種になるという「自然選択説」に行きついたのです。

 ダーウィンは,自分の説についての証拠を際限なく分類し,集め続けました。そしてようやく1844年に,この問題についての原稿を書き始めましたが,1858年になってもまだ書き続けていました。彼の友人,特にライエルは,早くしないと誰か他の人に先を越されるといって,早く出版するようにダーウィンに催促し続けましたが,ダーウィンは急がなかったのです。

 結局,ライエルの心配したとおりのことが起こりました。ウォーレスというダーウィンより14歳も年下のイギリス人が,ダーウィンの説とほとんど同じ内容のものを論文にまとめ,他ならぬダーウィンに送ってきたのです。ウォーレスはダーウィンとは違って,わずか2日間で原稿を書き上げたといわれています。この論文を受け取ったダーウィンは雷に打たれたように驚きました。自分の考えと非常によく似ており,同じような言葉さえ使っていたのです。寛大にも彼はウォーレスの論文を他の有力な科学者たちにも回し,その年のうちに連名の論文を「リンネ学会雑誌」に出しました。同時期に,同じような結論を全く別の人間が着想することは,科学史上にはよくありますが,これらは人間の社会的認識の影響や,科学的認識の発展の必然性を思い知らされる興味深い出来事だといえます。

 そして翌1859年に,『自然選択,すなわち生存競争において適者が存続することによる種の起源』(ふつう,『種の起源』と略称されている)が出版されました。初版は1250部しか印刷されなかったため,全て発行の当日に売り切れたといわれています。この著書は大反響を呼んだのです。一方で,主として宗教家から聖書の内容に反するということで,激しい非難をあびました。しかし,ダーウィンは,自然選択の理論を裏付けるために,膨大な数の証拠と論理的な推論とを示したため,当時の生物学者たちはいやおうなしに受け入れなければなりませんでした。ハクスリーは「ダーウィンの番犬」として,彼の説を広めました。こうして,従来,種の変化は単なる憶測に過ぎなかったのですが,1859年からは事実として認められるようになったのでした。

 ダーウィン自身は論争に加わらず,その他にもいくつかの研究成果を残しています。1871年には『人間の由来』を著し,下等な動物から人間への進化の証拠を配列し,動物と人間の心的過程の類似性を強調しました。翌年,『人間と動物の情緒表出』を出版し,情緒表出はかつてある種の実用的な働きをした運動の名残であると論じました。また,自分の息子の発達を記録に残し,1877年に「一乳幼児の伝記的素描」を公にしました。この論文は,児童心理学の古典の一つになっています。

 1882年,ダーウィンはケント州のダウンで亡くなりました。彼はその業績を認められ,ライエルと同様にウェストミンスター寺院に葬られました。ダーウィンは遺伝の法則については多くを知りませんでした。メンデルが1865年にこの法則を発見していたものの,1900年までは埋もれたままだったからです。ダーウィンの思想は人類の社会的認識に大きな影響を与え,ダーウィンの影響によって「18世紀の静的観念が,みずから変転し成長する世界という観念とおきかえられて」(シュテーリヒ『西洋科学史W』p.244)いったといわれています。

 なお,ダーウィンの業績に対する真の学問的評価は,『学城』第7号,第8号の本田克也論文,浅野昌充論文でなされていますので,ぜひお読みください。

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2012年09月08日

科学者列伝:18世紀の科学編(3/3)

(3)ラプラス

 科学者列伝シリーズの「18世紀の科学編」も今回で終わりです。最終回では,フランスの天文学者・数学者であるピエール・シモン・ラプラスを紹介したいと思います。

 ラプラスといえば,哲学をかじった人は「カント・ラプラスの星雲説」によって,数学を専攻していた人は「ラプラス変換」によって,その名を知っているでしょう。しかし,南郷継正先生に学んでいる我々としては,何よりも統計学者としてのラプラスにまず触れておきたいと思います。本田克也・浅野昌充・神庭純子『統計学という名の魔法の杖
看護のための弁証法的統計学入門』(現代社)の「本書に登場する統計学者概説」から引用します。

「ピエール・シモン・ラプラス(1749-1827)

 フランスに生まれた。現宇宙の天体の起源として,カントが史上初めて説いた「燃えさかる星雲の凝縮によって,現在の天体が生成した」という星雲学説を数学的に証明して,この学説に科学的基盤を与えた。また多くの分野で数学を駆使して特に天体力学に一紀元を画した。

 また確率という数学的分野を創始し,確率論の古典である『確率の哲学的試論』(1814)を著した。『確率の哲学的試論』の冒頭は「すべての事象は,たとえそれが小さいために自然の偉大な法則の結果であるとはみえないようなものでさえも,太陽の運行と同じく必然的にこの法則から生じている」という言葉で始まっている。天文学の分野では『天体力学』全5巻を著し,第二のニュートンといわれた。

 統計学の分野では中心極限定理(統計学用語解説参照)を発見して正規分布を数学的に証明したとされている。」(p.254)


 最後の部分で「正規分布を数学的に証明したとされる」と書かれています。これは,通説ではそのように理解されている,という意味です。というのは,『統計学という名の魔法の杖』では,正規分布の発見者はラプラスではなくガウスであるとしているからです。

 それはともかく,ラプラスの発見した「中心極限定理」とは何でしょうか。同書の「統計学の基礎的用語解説」から引用します。

「中心極限定理(ラプラスの魔法;central limit theorem)

 いかなる対象から集めたデータでも,その平均値をとって分布の中心を求めていくと,もとの母集団の平均値に限りなく近づいていくという定理。これはデータ数を増やすほどに,その平均値の分布は限りなく元の母集団の平均値(中心)に集中して分布する性質があり,その標準偏差は標本数の平方根に反比例して小さくなることが示された。

 発見者ラプラスに因んで,本書ではこの定理を「ラプラスの魔法」と命名した。」(p.249)


 この中心極限定理のおかげで,少ないデータに統計学を適用することができるようになったのです。詳しくはぜひ,『統計学という名の魔法の杖』をお読みください。では,中心極限定理の発見という統計学史上の画期的な業績をあげたラプラスは,どのような生涯を送ったのでしょうか。

 ラプラスは,1749年,北フランスのノルマンディーの農家に生まれました。生家は貧しかったのですが,富豪の隣家の援助を受けて,同地方の陸軍の学校に学ぶことができました。18歳になった時,紹介状を持ってダランベールを訪ねましたが,会ってもらえなかったそうです。そこで,数学についての論文を送付したところ,その優秀さにほれ込んだダランベールの援助を受けることができるようになったと伝えられています。ダランベールのおかげで,パリに出て,陸軍学校の数学教授に任命されました。

 ラプラスははじめ,ラボアジエと協力して,多くの物質の比熱を測定しました。1780年に二人は,化合物を元素に分解するときに必要な熱量が,その元素から化合物が生成するときに放出される熱量と一致することを示しました。これは熱化学の始まりであり,約60年後のエネルギー保存の法則の誕生を暗示するものと評価することができます。

 この後,ラプラスは研究の主力を太陽系惑星の三体問題と一般安定性の問題に向けました。三体問題とは,三つの天体の相互作用を数学的に説く課題のことです。ここに関して,シュテーリヒは以下のように述べています。

「木星や土星などの惑星運動には確かに不規則性が観測されるが,長い時間を通じてみればこれも実は周期運動を示すことを,ラプラスは数学的に証明した。……こうしてラプラスは,自分でも明言する通り,“長らく万有引力論の例外であるかのように思われていた不規則性を,今やもっとも特徴的な証拠に”してしまった。ラプラスは,太陽系が安定であること,平衡状態にあることを立証したのである。」(シュテーリヒ『西洋科学史V』p.198)


 すなわち,ニュートンは,惑星は太陽の影響だけを受けるということを一般的な前提にしていたのですが,その前提からすれば「例外であるかのように思われていた不規則性」を惑星の運動は示します。その惑星の不規則性をラプラスは,三体問題を数学的に解ききることによって,万有引力論の最も確実な証拠へと転換したのです。このようにしてラプラスは,惑星天文学に関して,ニュートンの研究を完成させたのです。このため「第二のニュートン」とか「フランスのニュートン」と呼ばれることがあるわけです。

 1796年に『宇宙の体系』という一般向けに描いた天文学書を著しました。この書の巻末に書いた注釈で,星雲説に触れています。そこでは,全ての惑星が太陽の周りを同一方向に,同一平面内で公転していることから,太陽は,初めは回転している巨大な星雲か,気体の雲だったのではないかと提唱しています。そして,気体が収縮するにつれて回転が速くなり,外側にある気体の部分が遠心力によってちぎれて惑星が次々とできてきて,星雲の中心部が濃縮したものが現在の太陽であると主張したのです。

 ラプラスの引力理論は,1799年から1825年にかけて出版された『天体力学』全5巻にまとめられています。この内容に目を通したナポレオンが,神についての記述がないことについて質問したのに対して,ラプラスは「そのような仮説は必要ありません」と答えたというエピソードが残っています。

 1812年には『確率の解析的理論』を,1814年には『確率の哲学的試論』を出版して,確率という数学的分野を創始しました。これらの中でラプラスは,自然界のあらゆる力と物質の状態を完全に把握した知的存在が実在すれば,その知的存在にとって,宇宙の中で何一つとして不確実なものはなく,未来を完全な正確さで予見できると主張しました。この知的存在は「ラプラスの悪魔」と呼ばれています。ラプラスの悪魔がいれば,神の存在は不要になるということで,先に紹介したナポレオンに対する言葉になったのでした。

 ラプラスはラボアジエと違って,うまくフランス革命を乗り切り,常に高い地位にいました。ナポレオンのもとでは内務大臣,宮中顧問となりながら,ルイ18世が王位につき,ナポレオンが失脚した後も,侯爵に任ぜられました。1785年には科学アカデミーの会員になっていましたが,1816年には,最も地位の高い,フランス学士院の会員に任ぜられ,翌年にはその総裁にもなっています。晩年はパリ郊外のアルクイユに住み,毛管現象,音響学などの物理現象にも関心をもちましたが,この方面の彼の業績はあまり高く評価されてはいません。


(了)
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2012年09月07日

科学者列伝:18世紀の科学編(2/3)

(2)ラボアジエ

 今回は,「近代化学の父」と称されるラボアジエを紹介します。

 ラボアジエはなぜ,近代化学の父と呼ばれているのでしょうか。それには主に5つほどの理由があります。第一に,ラボアジエは正確な測定の重要性を認め,測定をくり返し実行して成功させ,それを他の化学者が採用するようにさせたからです。つまり,2世紀前に物理学においてガリレオがしたのと同じことを化学で実行したのです。第二に,彼は燃焼について,従来のフロギストン説に代わって明快な説を立てたからです。第三に,化学変化の前後で,物質全体の質量は増えもしないし減りもしないという「質量保存の法則」を示した点も挙げられます。さらに第四に,ラボアジエはすべての物質をその構成元素によって呼ぶという原則を打ち立てました。最後に,彼はフランス革命が起こった1789年に『化学要論』という教科書を発表し,自分の理論をまとめました。これが,ラボアジエが近代化学の父と呼ばれる第5の理由です。

 ではラボアジエの生涯を辿ってみましょう。

 ラボアジエは1743年にパリで生まれます。父親は裕福な弁護士であり,ラボアジエは十分な教育を受ける機会に恵まれました。父親は自分の跡を継いで法律家になってほしいと願っていたようですが,ある天文学講義を聴いてからは科学に関心を持つようになり,地質学をかじったのちに化学に方向転換しました。

 1760年代には,パリの街路の照明を改良するために働き,この問題に関する論文を書いて名をあげました。ほどなくして,フランス科学アカデミーの名誉ある学会員に25歳の若さで選ばれました。こうして化学者としてのスタートを切ったのです。

 1768年に,ラボアジエは研究の資金を手に入れるために,徴税会社に50万フランを投資しました。徴税会社というのは,政府に雇われた個人の会社で,割り当てられただけの税金を集めて政府に納める仕事をしていました。しかし,その額よりも多く取り立てれば,それは徴税請負人のものとなったため,ほとんどすべての徴税請負人が最後の一銭まで,厳しく取り立てていました。したがって,18世紀のフランスで,この徴税請負人ほど小作人や労働者・中産階級の人たちに嫌われた者は他にいないほどでした。ラボアジエはこの投資で一年に10万フランの利益をあげ,1771年には,会社の経営者の娘と結婚しました。彼女は腕の立つ画家で,ラボアジエの本のために挿絵を描いたり,彼が実験するときにノートをとるのを手伝ったりしてくれたということです。

 はじめのうち,ラボアジエは,18世紀の化学者が抱いていた古代化学思想=四元素説を打ち破っていきました。四元素説というのは,すべてのものが火と水と空気と土でできているという説です。この説を信じていた化学者たちは,水を長い時間熱すると,土に変わると考えていました。確かに,水を長い時間をかけて加熱し続けると,固形の沈殿物ができたのです。

 このことを確かめるために,ラボアジエは,加熱中に水蒸気を凝結してもとへ戻し,水が外部に逃げないように工夫した装置を使って,101日間水を加熱し続けました。そして,注意深い測定法を用いて,実験の前後での,水と容器の重さを測定したのです。すると,確かに沈殿物は現れましたが,水の重さは変化していなかったので,沈殿物は水から出たものとは考えられませんでした。フラスコの重さを測定すると,ちょうど沈殿物と同じ重さだけ減っていました。こうして,この沈殿物は水が変化してできたものではなく,ガラスが変化してできたものであることが分かったのです。

 ラボアジエは,先に触れた街路の照明に関する関心から,燃焼についても強い興味を示すようになりました。当時,燃焼に関しては約70年前にシュタールによって発表されたフロギストン説で説明されていました。フロギストン説というのは,物質の燃焼とは,物質が含んでいた負の重さを持つフロギストンが空気中に逃げだすことであるとする説です。ラボアジエは,酸素の発見者であるプリーストリーとは違って,フロギストン説を疑っていました。燃焼に際して物質がもとの重さよりも重くなるのは,空気中の何かが結合したためではないかと考えました。これを確かめるために,彼は実験を行いました。まず,一定量のスズを,空気とともに大きなフラスコに入れて密封し,質量を測りました。そして,全体をスズが金属灰になるまで十分加熱し,冷却後,再び質量を測りました。すると,前後で変化はなかったのです。次に,封を開けると,シュッと音がしてフラスコ内に空気が流入しました。これはフラスコ内が減圧になっていたことを示しています。この後フラスコの質量を測ると,若干ながら増えており,それは金属の質量の増加分と一致していました。こうしてラボアジエは,金属灰が金属と空気の化合物であり,金属がさびたり燃焼したりするのは,フロギストンが逃げることではなく,空気の一部が結合することであるということを証明したのです。

 また,彼は,化学変化にあずかる全ての物質を考慮すれば,質量の変化は決して起こらないと結論付けました。これが質量保存の法則の発見です。この法則は,19世紀において化学が発展していく上で非常に重要で有効なものとなりました。

 さらにラボアジエは,酸素の発見者プリーストリー(彼自身は「脱フロギストン空気」と呼んでいました)と交流します。そこで脱フロギストン空気の重要性を感じ取ったラボアジエは,純粋な脱フロギストン空気だけを使って燃焼の実験をしたり,逆に脱フロギストン空気のない状態で燃焼を試みたりしました。このような実験の結果,空気の約5分の1は「脱フロギストン空気」であり,燃焼とは可燃物と酸素(「脱フロギストン空気」をラボアジエはこう命名でしました)との結合であるという近代的な燃焼理論に到達しました。これは,これまでの考え方を180度転換させた,まさに「化学革命」と呼ばれるのにふさわしいものでした。

 1787年には,ラボアジエは他の化学者と協力して『化学物質の命名法』という本を出版します。この中で,化合物の命名に関する論理的な規則を示したのです。従来,化合物の名前はここの化学者の気まぐれでつけられていました。それゆえ,化学者同士のコミュニケーションがうまくとれないような状態だったのです。そこで,ラボアジエは名前によってその物質の成分が分かるようにしたのです。今日,私たちが使っている塩化ナトリウムとか塩素酸ナトリウムなどという名称は,ラボアジエの規則に沿ったものです。

 フランス革命の起こった1789年には,『化学要論』という,初めての近代的な化学の教科書を出版しました。ラボアジエは,この本で自分の仕事の総まとめをしています。この中で,当時知られていた全ての元素を載せた表がつけられています。この中には光と熱も載せられています。ラボアジエは,熱は「熱素」と呼ばれる重さのない流体からできていると信じていたのです。重さのない流体の一つであるフロギストンを一掃したラボアジエも,熱については間違った見解を持っており,以後50年の間,化学者に悪影響を及ぼしました。

 研究生活も終わりに近くなってから,ラボアジエは若きラプラスと共同で,生体組織の中で起こる変化について,燃焼熱を測定してかなり詳しい研究を行いました。ところが,この研究の継続は,フランス革命の影響で,永遠に閉ざされてしまいます。

 1789年に始まったフランス革命は,1792年には過激な革命派の天下となり,共和制が宣言されます。過激派から見れば,徴税機関は憎むべき旧制度の象徴であったため,徴税請負人をすべて捕えるようにという命令が下されます。そこでラボアジエも捕えられ,死刑が宣告されたのです。1794年5月8日に,人類史上最高の頭脳の持ち主の1人であったラボアジエは,ギロチンにかけられて殺されました。有名な数学者であるラグランジュは,「彼の頭を切り落とすのは瞬間的だけれども,それと同じ頭脳が出現するには100年以上を必要とするだろう」と嘆いたということです。
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2012年09月06日

科学者列伝:18世紀の科学編(1/3)

(1)アダム・スミス

 今回から、歴史に名を残す科学者を紹介する「科学者列伝」シリーズを3回にわたって掲載します。今回は、18世紀に活躍した3人の科学者を取り上げます。初回は、このシリーズで初となる社会科学の分野で活躍したアダム・スミスです。

 アダム・スミスは、1723年6月5日、スコットランド東海岸にある港町カーコーディに生れました。関税監督官であった父は、スミスが生れる前になくなっています。母マーガレット・ダグラスは、亡き夫と同じアダムという名前を一人息子につけ、生涯愛情を注ぎました。

 スミスの生れたスコットランドは、もともとイングランドとは別の国(ただし1603年にスコットランド国王がイングランド国王を兼ねて以降は、共通の国王の下に別個の議会が存在する「同君連合」を形成)だったのですが、1707年、スコットランド議会がイングランドとの合同条約を批准したことにより、正式にイングランドと合同してひとつの国家を形成することになります。

 当時のスコットランドは、イングランドと比べるとかなり経済の発展が遅れていました。国内的にみても、豊かな平地(南部)と貧しい高地(北部)という地域間格差を抱えていました。しかし、イングランドとの合邦を契機に、植民地アメリカとの貿易を含むイングランド市場に全面的に参加する道が拓かれたことによって、スコットランドは急速に経済的な発展をとげていくことになったのでした。

 経済的な繁栄は、自由で進歩的な社会の雰囲気をつくりだしていきます。諸産業の発展によって台頭してきたブルジョアジーが、旧来の封建的な体制をつくりかえていくための精神的な武器として、「自由」と「理性」とを掲げるようになっていくからです。こうした状況は、スミスが生きた18世紀のスコットランドにも当てはまりました。当時のスコットランドにおいては、商業化された社会における人間性や道徳のあり方について考察を深めていった「スコットランド啓蒙」と呼ばれる思想的な流れが存在していたのです。フランシス・ハチスンやデビッド・ヒュームなどが、こうした流れを代表する人物です。

 1737年、スミスは、スコットランド随一の商業都市グラスゴウのグラスゴウ大学に入学します。スミスはここで、道徳哲学教授のフランシス・ハチスンに学び、決定的な影響を受けることになります(ハチスンは、人間には何が善であるかを感知しうる「道徳感覚」が備わっているのだという論を展開していました)。

 スミスは、1740年にオックスフォード大学に入学しますが、その(グラスゴウ大学と比しての)保守主義的な傾向と停滞した雰囲気に幻滅、しだいに充実した蔵書数を誇る図書館に逃避するようになります。スミスが、ギリシャ・ローマ時代の古典から18世紀の英文学、仏文学にまで精通するようになったのは、この図書館のおかげだといわれています。

 スミスは1746年、故郷のカーコーディーに戻ります。きまった就職先があっての帰郷だったわけではないのですが、1748年の冬以来、エディンバラにおいて3回にわたって行われた修辞学と文学についての公開講義が高く評価されたことが、大学就職への道を拓きます。スミスは、1751年にグラスゴウ大学の論理学教授に、1752年には同大学の道徳哲学教授に就任することになったのでした。こうしたなか1750年ごろには、生涯をつうじての友人となるデイヴィッド・ヒューム(ヒュームのほうが12歳年上)と出会っています。また、当時のグラスゴウ大学には、蒸気機関を改良することで工業化への道を拓いたジェームズ・ワットが機械工として雇われていたというのも、非常に興味深い事実だといえるでしょう。スミスは、1757年には、ワットが大学構内で実験器具製造・修理店を開業することを手助けしたともいわれています。

 さて、グラスゴウ大学におけるスミスの道徳哲学講義は、自然神学・倫理学・法学・経済学の4部門から構成されていました。このうち、経済学に相当する部分がのちに『国富論』へとつながっていくわけですが、まず、倫理学に相当する部分をひとつの著作としてまとめたものが1759年に出版されます。これが有名な『道徳感情論』です(このほか法学にかんしては、1763年の講義録にもとづくものが岩波文庫から『法学講義』として出されています)。

 『道徳感情論』は、「利己的な存在であるはずの人間が、社会の秩序を保ち、よりよい社会へと発展させていくことができるのはなぜなのか」という問題にとりくんだ著作であるといってよいでしょう。スミスは、この問題にたいして、人間は利己的であると同時に同感の能力をも持つという矛盾した存在であり、現実の他者とかかわる経験を積み重ねていく過程をつうじて、胸中に「公平な観察者」を創出しそれを使用していくからにほかならないのだ、という解答をあたえたのでした。

 この『道徳感情論』は大成功を収めます。すぐにフランス語版、ドイツ語版が出版されるなどして、スミスの名声は世界的なものになりました。スミスは、この『道徳感情論』を読んでスミスの学識にほれ込んだチャールズ・タウンゼントという人物から、ぜひ第3代バクルー公爵ヘンリー・スコットの家庭教師としてフランス旅行に同行してほしい、と懇願されるようになります(当時のイギリスには、裕福な貴族の子弟が、その学業の終了時に大規模な国外旅行をおこなう習慣があったのです)。スミスは、この要求を受け入れて1763年には教授職を辞し、バクルー公に同行してフランスへ向かいます。スミスは、この旅行をつうじて、ヴォルテールやダランベール、テュルゴー、ケネーなど、フランスの知識人と親交をむすぶことになったのでした。

 その後、1766年にスコットランドに戻ったスミスは、畢生の名著『国富論』の執筆にとりかかり、1776年に出版します。経済学について「諸国民の富の原因と性質」を扱う学問であると規定したスミスは、『国富論』の冒頭で次のように述べています。

「国民の年々の労働は、その国民が年々消費する生活の必需品と便益品のすべてを本来的に供給する源であって、この必需品と便益品は、つねに、労働の直接の生産物であるか、またはその生産物によって他の国民から購入したものである」

 この言葉は、スミスにとっては、富とは金銀のことであり富の源泉は貿易収支の黒字であるという当時の支配的な経済思想(重商主義)を厳しく批判したものにほかなりませんでした。スミスは、このような考え方に反対して、富とは生活資料(人々の諸々の欲求を満たすモノ)のことにほかならず、富の源泉は年々の労働にほかならないのだ、という主張を掲げたのでした。その上で、富を増大させるためには、分業によって生産性を上げるとともに、生産的労働の雇用を増大させるための資本蓄積が必要となるのだとして、富(人々の諸々の欲求を満たすためのモノ)の源泉たる労働の合理的・適切な配分のあり方を研究したのです。

 『国富論』においてスミスは、重商主義思想にもとづいた国家の経済への介入が経済の自然な発展のあり方をゆがめていると批判し、人為的な介入をやめて自然な動きに任せてこそ富の真の増大がもたらされていくと主張しました。個々人の利己的な行動が「見えざる手」の導きによって社会全体の利益をもたらすという有名な主張も、この文脈のなかでなされています。しかしスミスはけっして個々人の利己的な行動を野放しで黙認していたわけではなく、あくまでも同感の原理によって規制される限りで(すなわち、個々の経済主体が「公平な観察者」の考えられる範囲内に自分の利己心を抑制していくという条件のもとでのみ)利己心を容認したのだと考えるべきでしょう。

 スミスは1778年にエディンバラの関税委員に任命され、亡くなるまで自身の2つの著作(『道徳感情論』と『国富論』)の改定増補作業に没頭しました。そして、1787年にはグラスゴー大学名誉学長に任命され、1790年7月17日、エディンバラにおいて、67歳で亡くなりました。スミスは、死に先立って、ジョセフ・ブラック(二酸化炭素の発見で知られる化学者です)およびジェイムズ・ハットン(火成論で知られる地質学者です)の2人を遺言執行人に指名し、みずからの遺稿のほとんどを焼却するように依頼したといわれています。
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2012年08月12日

科学者列伝:17世紀の科学編(3/3)

(3)ニュートン

 数学によって世界を解釈できるし,またしなければならないという認識理想をもった17世紀の科学者を紹介する科学者列伝の本シリーズも,今回で最終回となります。今回は,数学の分野でも業績を残し,最も偉大な物理学者とも称されるアイザック・ニュートンを取りあげます。

 ニュートンは,ガリレオがこの世を去った1642年のクリスマスに,イングランドのウールスソープの自作農の家に生まれました。子どものころは幸福な生活ではありませんでした。生まれる前にすでに父親はなくなっており,3年後には母親が再婚したため,祖父母に引き取られて育ちました。学校では風変わりな生徒で,10代半ばまでは学校の勉強も遅れがちだったといいます。

 その後ニュートンは,学校をやめさせられ,母親の農場の仕事を手伝うようになりました。ここで農作業を行い,手足を対象たる自然に合わせる形でしっかりと運動形態においたことが,ニュートンの脳細胞の発展につながったのかもしれません。しかし,ケンブリッジのトリニティカレッジに勤めている叔父が,ニュートンの仕事ぶりを見て,農業をやったところでろくな農夫にはなれない,むしろケンブリッジ大学に入学させたほうがいい,と言って母親を説得し,ニュートンは1660年にケンブリッジ大学に入学することになりました。

 当時の大学では,自然科学はほとんど教えられていませんでした。しかしニュートンは,大学在籍中にデカルトやケプラーの業績を学び,数学や光学,力学を研究したということです。

 その頃ロンドンでペストが大流行しました。ニュートンは,危険を避けるために母の農場に帰りました。この時期にすでに二項定理という数学上の公式を発見しており,微積分についても想を練っていたといわれています。また,リンゴが落ちるのを見て重力を発見したという有名なエピソードもこの時期のものです。このエピソードは作り話といわれることが多いですが,ニュートン自身の言葉から真実であるようです。

 ニュートンは,リンゴが木から落ちるのを見ました。この時,彼は空を見上げ,昼間の空にかかっていた半月を見て,「なぜ月はリンゴと同じように引力に引かれて落ちてこないのか?」と疑問に思ったそうです。そして,「おそらく月も地球に引っぱられているが,宇宙を移動する月の速度が,地球の引力を打ち消しているに違いない」「リンゴを引っぱって地上に落とした引力は,宇宙空間の遠いところまで及んでおり,遠くなればなるほど引力は弱くなるに違いない」と考えたのでしょう。

 このような発想ができたのは,ニュートンには当時の時代精神である「自然は数学的法則に従う」という問題意識=問いかけがあったからだと思われます。古代ギリシャ以来,地上と天界は「質」が異なっており,当然異なった法則によって支配されていると考えられてきました。しかし,ケプラーやガリレオを経て,人類の社会的認識は「質」を捨象し,「量」を問題とするようなものに変わってきていました。量的に考えるならば,地上と天界は近いか遠いかだけの程度問題となり,同じ法則性が貫かれていると考えてもおかしくない,ということになります。このような当時の時代精神を問題意識として持っていたからこそ,地上のリンゴの落下と天界の月の運動をつなげて考えることができたのだと思われます。

 彼は,当時の資料をもとに地球の中心から月までの距離を計算し,地球の引力とバランスを取るためには,月はどれほどの速度で移動していなければならないかを計算しました。その数字は,当時の天文学者が出していた月の速度とほぼ一致するものの,ニュートンには満足できないほどの誤差があったため,自分の理論が不十分だと考え,この理論を当面保留してしまいました。

 ニュートンは同じころ,光に関する研究も行っています。部屋を暗くして,カーテンの穴から太陽光が入るようにしました。その細い光線を三角形のガラスのプリズムに当てると,プリズムを通った光は,虹のような帯に分かれたのです。これを別のプリズムに通して再び集めると,元の白色光に戻りました。こうして,白色光が現実には様々な色の光でつくられており,それを分解したり再び合成したりできるということを,ニュートンは発見したのです。

 ロンドンに戻ったニュートンは,望遠鏡の改良に取り組みました。当時の望遠鏡は光を屈折するレンズでつくられており,像の周りには色がついてにじんだように見えました。この現象は「色収差」と呼ばれています。この色収差を防ぐために,ニュートンはレンズを使わない望遠鏡をつくろうとし,お椀型の鏡を使う望遠鏡を設計しました。この望遠鏡では,反射によって光を集め,細く絞ろうとしたのです。ニュートンは1668年にこの種の最初の望遠鏡をつくりました。これが反射望遠鏡です。

 1680年代になると,ニュートンの活躍は最高潮に達しました。1684年,フックはニュートンの親友であったエドムント・ハレー(後に,ニュートンの方法によって彗星の軌道を計算し,大彗星の出現を予言しました。ハレーの死後,予言は的中し,この彗星はハレー彗星と名付けられました)や建築家レンに会った時,天体の運動を支配している力を説明する法則を導いたと自慢しました。レンはフックの説明に満足できず,この問題を解いた人に賞金を与えると発表したそうです。ハレーがニュートンにこの問題を持ち込み,もし距離の二乗に反比例するような引力が天体間に働いているとすれば,惑星はどのような運動をするか尋ねました。するとニュートンは,直ちに「それは楕円の軌道を描く」と答えたということです。そして彼は,18年前の1666年に計算を試みた話をハレーにしたのです。この時,ハレーは興奮して取り乱し,再び計算するようにニュートンに頼んだといわれています。今度は事態が一変していました。自前の微積分法を使って,球体の引力は中心から働いていると考えてよいことを証明できました。また,地球の半径や月の大きさ,地球から月までの距離なども,より正確な測定結果が出ていました。それをもとに計算し直すと,正確に事実と一致しました。月は,リンゴと同じように地球の引力に捕らえられており,地球のほうに引っぱられていることが明らかになったのです。

 ニュートンは1687年に『自然哲学の数学的原理(プリンキピア)』という書物を著し,自分の理論を詳しく説きました。これは少数の原理で世界を解明した史上最高の科学書とされているものです。ニュートンはこの中で,ガリレオの研究成果を運動の三法則にまとめました。第一法則は慣性の法則と呼ばれるもので,静止または等速直線運動をする物体は力が作用しない限り,その状態を継続するというものです。第二法則はニュートンの運動方程式と言われ,力=質量×加速度で表されます。第三法則は作用・反作用の法則であり,ロケットが飛ぶのはこの法則で説明されます。この三法則を使ってニュートンは地球と月の引力を計算する方法を考案し,引力がそれぞれの質量の積に比例し,中心間の距離の2乗に反比例することを明らかにしました。これは万有引力の法則と呼ばれるようになりました。

 こうしてニュートンは,ガリレオとケプラーの業績を統合し,この全世界を通して(地上でも天界でも)同じ統一された法則が成立することを示し,古代ギリシャ以来の天と地の区別を消し去ったのです。このことは,それまで全く別の領域で,全く別の法則性が支配していると信じられてきた2領域間に,同じ法則性が貫徹していることを示したという意味で,非常に示唆的です。自然,社会,精神といった全く別と思われている領域にも弁証法性という統一した運動の法則性があることが分かってきたことと,同じような論理構造があるのかもしれません。

 ニュートンは,錬金術や神学の問題にも熱心に取り組みました。彼は自分の証明した物理学に関する諸現象も,「神の一撃」から始まったと真剣に考えていました。自然哲学の主たる任務は,結果から原因を導き出して,第一原因,すなわち神に到達することだとニュートンは明言しています。20世紀の大経済学者ジョン・メイナード・ケインズは,ニュートンのことを「理性時代の最初の人ではなく,最後の魔術師である」と評しましたが,それも肯けます。

 ニュートンは,国会議員や造幣局長官,王立協会会長を務め,1705年にはアン女王より騎士の称号を贈られました。そして,『プリンキピア』から40年を経た1727年に亡くなりました。


(了)
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2012年08月11日

科学者列伝:17世紀の科学編(2/3)

(2)ボイル

 科学者列伝の「17世紀の科学編」は2回目となります。今回は,日本でも「ボイルの法則」で有名なロバート・ボイルを紹介します。

 ボイルは,1627年,アイルランドの金持ち貴族の14番目の子としてリズモアで生まれました。小さい頃から頭がよく,神童として知られていました。8歳のときにイートン校に入学し,12歳になると家庭教師同伴でヨーロッパに留学しました。14歳の頃,ガリレオが没した直後にイタリアに赴き,ガリレオの研究成果を学びました。

 1645年に故郷に帰ると,フランシス・ベーコンがその理念をイギリス社会に流行させ,ガリレオが実践してみせた実証科学の研究に取り組むようになりました。この新しい実証科学を研究しようとする当時の研究者の集まりにも参加しました。この集まりは”見えざる大学(Invisible College)”と呼ばれており,そこではニュートンやフックたちと親しく交わりました。また,前回触れたように,ハーヴィからも教えを受け,実験重視の姿勢を叩き込まれました。1663年にチャールズ2世が復権してからは,この集まりは正式にその存在と特権を認められ,王立協会として知られるようになりました。この協会は「単なる権威は無力である」を座右の銘にしたと言われています。このような小社会の中での活発な認識の交流によって,当時最先端の社会的認識が一気に発展し,科学史上に残る大発見が次々となされていったのでした。

 ボイルの名前を最も有名にしたのは,「一定量の空気の体積は,その圧力に反比例する」というボイルの法則でした。この法則を発見するためボイルは,自ら空気ポンプを作成する必要がありました。当時は性能のよい空気ポンプなど市販されていなかったからです。1657年,ボイルは,ゲーリケが半球を二つ合わせて中の空気をポンプで抜くと,大気圧のために何頭もの馬で引き合いをさせても引き離すことができないという実験を行ったことを聞き及びました。そこで,ボイルも自ら空気ポンプの作成に乗り出したのです。助手のフックの優れた技術を借りながら,ゲーリケのものよりも性能のよい空気ポンプを完成させました。

 ちなみに,この空気ポンプを使って真空にした管を用いて,彼は鉛のカタマリと羽毛が同時に落下することを示しました。こうして,真空中では全ての物体が同じ速さで落ちるというガリレオの説を実証したのです。

 さて,空気ポンプを使って,ボイルは空気の研究を行うようになりました。空気を容器の中から吸い出して膨張させたり,逆に空気を押し込めて圧縮する操作をくり返し試しました。この中で,空気の圧力と体積との関係性に気づいてったものと思われます。そして,J字をした一端を閉じたガラス管に気体を閉じ込め,もう一方の長い端から水銀を加えていくという実験を行い,見事にボイルの法則を発見したのでした。これは,化学者にとって興味のある物質に起こる変化に,正確な測定を応用した最初の試みでした。ここにも数学によって世界を解釈しなければならないという当時の時代精神が反映したということができるでしょう。

 なお,ボイルの法則は,イギリスやアメリカ,それに日本では「ボイルの法則」と呼ばれているものの,ヨーロッパ大陸では「マリオットの法則」と呼ばれています。マリオットは,ボイルに遅れて1680年ころ,ボイルとは独立に「ボイルの法則」を発見したフランスの物理学者です。マリオットは,気体の体積と圧力が反比例するのは,温度が一定に保たれていた場合のみであることを明示しました。これはボイルが述べていなかった点です。ボイルはこのことの気づいていたけれども,自明のことと考えてあえて明言しなかったのかもしれません。あるいは,全く気付いていなかった可能性もあります。いずれにせよ,同じ法則がほぼ同時代に独立に発見されるというのは科学史においてはよくあることですが,社会的認識の影響やその発展の必然性をうかがわせる興味深い事例だと言えます。

 ボイルの法則によれば,気体に2倍の圧力をかければ,圧縮されて体積は2分の1になるということになります。3倍の圧力をかければ,体積は3分の1になります。このようなボイルの法則からある重大な結論が導かれます。それは,気体が圧縮されるということは,気体の粒子が離れ離れになっているからに違いないという結論です。圧力をかけると,この粒子間の距離が強制的に縮められ,その結果体積が小さくなると考えるならば,納得がいくのです。こうしてボイルは,自分の実験結果から原子説を確信するようになりました。

 その後,1661年にボイルは『懐疑的な化学者』という本を出版しました。この中でボイルは,いくらアリストテレスのような権威が正しいといったことであっても,それを鵜呑みにしてはいけない,化学者は疑わなければならない,全ては実験から生まれるのである,と主張しました。すなわち,ここでいう「懐疑的」というのは,どんな権威が述べたことであっても,実験で証明されていないことに対してはまずは疑ってかかれ,という主張だったのです。この本は,ガリレオの著書のような対話体で書かれています。登場人物は,ボイルの分身であるカルネアデスと,アリストテレスの四元素説(土,水,空気,火の組み合わせによって物質がつくられるという説)を信奉するテミスティウスと,パラケルススや中世以来の錬金術師たちの三原質説(硫黄,水銀,塩の組み合わせによって物質がつくられるという説)を信じるフィロポヌスです。ボイルの分身であるカルネアデスは,アリストテレスの四元素説や錬金術師の三原質説を論破していきます。ボイルはこの本の中で,元素は演繹的に推論できるような性質をもったものではなく,実験によってのみその存在を証明できるものであるとしました。こうして錬金術を一つの独立した科学である化学へと移行させたということができます。

 ボイルの科学的な業績に関して,シュテーリヒは次のように説いています。

「ようやく生まれつつある化学という科学に行動予定を与え,出発点となる仮説をたて,前進可能な方向――事実が示した通り,実り多い方向であった――を教えたのは,イギリス人ロバート・ボイル(1627〜1691)の功績だった。」(シュテーリヒ『西洋科学史V』p.97)


「元素が何種類あって,それはこれこれである,ということをボイルは述べていない。彼は,いわば号令をかけただけなのである。元素を捜せ――ただし,実験によって探せ!」(同p.99)


 “近代化学の父”と呼ばれるラヴォアジェに至る道を用意したのがボイルの最大の功績といってよいでしょう。なお,現在もしばしば用いられる「リトマス試験紙」は,ボイルによって広く用いられるようになった指示薬の一つです。

 ボイルは生涯質素な研究生活を送り,独身をとおしました。1680年には,王立協会の会長に選出されましたが,その宣誓の形式が気に入らないということで,これを受けませんでした。このような逸話も残っています。
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2012年08月10日

科学者列伝:17世紀の科学編(1/3)

(1)ハーヴィ

 今回から3回にわたって,科学者列伝シリーズの「17世紀の科学編」を掲載します。科学者列伝シリーズではこれまで,歴史に名を残した人物の生涯や業績,その問題意識や後世への影響などを紹介してきました。今回は,世界を数学的に解釈しなければならないという確信が芽生え強まっていった17世紀の科学者を取り上げていきたいと思います。

 初回に取り上げるのは,血液循環説を唱えたイギリスの医者であるウィリアム・ハーヴィです。

 ハーヴィは,1578年にイギリス南部の港町であるフォークストンに生まれました。当時のイギリスは,エリザベス1世の治世下にあって,イギリス絶対王政の最盛期を迎えていました(同時に,王政没落のはじまりの時期でもありました)。1588年にはスペインの無敵艦隊を撃破し,イギリスの海上発展の基礎を築いていく,そのような時代でした。

 彼の父親は運送業で財を成した資産家であったため,彼は医師になろうとする者が望みうる限りの有利な条件に恵まれていました。ハーヴィは10歳の時,カンタベリーのキングズ・スクールに入り,その後ケンブリッジ大学で学びました。1597年に学位を取ったあと,彼はモンディーノ以来3世紀にわたって世界で最高の大学とされたイタリアのパドヴァ大学に学びました。

 ここで彼は,ヴェサリウスの孫弟子にあたるファブリキウスから解剖学を学びます。ファブルキウスは1595年に,解剖学教室を建設しました。この教室のおかげで,解剖が初めて屋内で教えられるようになったといわれています。この教室は中央に解剖台があり,それを取り囲むように6層の円形回廊が作られていました。学生たちはこの回廊から身を乗り出して,中央の解剖台を熱心に見下ろしたのでした。こうして一度に300人の学生が解剖を子細に見学できるようになりました。死体の数が少なく,解剖が行われる機会が少なかった当時の状況下では,このような解剖学教室の建設は医学教育にとって画期的なものでした。ハーヴィはこの教室でファブリキウスの解剖を見学し,事実を重んずることの大切さを学んだのでした。

 1602年,学位を取得すると帰国し,2年後にはロンドン医師会から開業免許を得て開業し,大成功をおさめます。彼の患者の中には,フランシス・ベーコンもいました。この間ハーヴィは,エリザベス1世のかつての侍医の娘と結婚し,医科大学の特別研究員となります。また,カレッジで定期的に外科の講義も行っていました。やがて王室付の医師となり,初めはジェームズ1世,のちにチャールズ1世の侍医となりました。ハーヴィが交流した人々の中には,“社会の物理学”を目指し,社会契約の理念を説いた『リヴァイアサン』を著したトマス・ホッブズもいました。

 ハーヴィは多数の動物の生体解剖を行い,心臓の動きや弁膜の機能の研究を積み重ねていきました。その結果,かなり早い段階から,血液が動脈から静脈へと循環するということを確信していました。しかし,血液循環説を実際に発表したのは,10年以上経過した1628年のことでした。それはわずか72ページのみすぼらしい粗末な紙に印刷された『心臓と血液の運動』という著書の中で発表されました。

 ハーヴィ以前は,血液はたえず肝臓でつくられ,血管の中を行ったり来たりする,また,動脈と静脈の血液は全く別の種類であるとするガレノスの説が信じられていました。これに対してハーヴィは,血液循環を証明するために,当時の時代精神ともいえる実験と数学的発想(質ではなく量を問題にする発想)を用いています。

 彼は動脈を包帯でかたくしばりました。すると,血液で膨らんだのは心臓側でした。他方,静脈を同じようにしばると,反対側が膨らんだのです。血液が血管の中を行ったり来たり振動しているならば,このようなことは起こりません。ハーヴィは,血液は心臓から動脈に出されて静脈に至り,再び心臓に戻っていると確信していたため,そのことを確かめるために以上のような実験を考案し,実行したのでした。

 なお,静脈には一方通行の弁があることを,ハーヴィの師であるファブリキウスは発見していましたが,自身はそれに正しい説明を与えることができませんでした。これに対してハーヴィは,自身の血液循環説に基づいて,逆流を防ぐという弁の機能を正しく説明したのでした。

 ハーヴィはまた,量を問題にすることによって血液循環説を論証することに成功しています。彼は心臓から押し出される血液の量を測ってみたのです。すると,一時間当たり,人間の体重の3倍の量であることが分かりました。これほど大量の血液が体のどこかでつくられたり,あるいは消費されて消滅したりするということは考えられません。ここから必然的に,血液は心臓→動脈→静脈→心臓というように循環していると考えざるを得ないということになったのです。

 量を問題とするだけで,これほど明快に古代以来信じられてきた説が否定され,新たに血液循環説が認められたというのは,まさにこの時代を象徴する出来事だったと評価できます。逆からいえば,従来は「量」という問いかけ=問題意識がなかったか希薄だったということが言えるでしょう。

 ハーヴィは晩年,別の業績も残しています。1651年に『動物の発生』という書物を出版し,この中で動物の胎児の発生と卵の発生が似ていることから,「すべてのものは卵より生ずる」と書き残したのです。

 ハーヴィは自分の研究姿勢に関して,以下のように述べています。

「あえて公言するが,わたしは解剖学を学び,教授するにさいして,哲学者の原理によるのではなく,解剖実習及び自然の構造をよりどころとする。」


「わたしはファブリキウスとともによく言ったものだ。『経験によって結論が否定されるならば,その結論はそっくり沈黙させるべきだ』と。いまの時代にとりわけ幅をきかせている悪弊は,論理的な証拠がまったくないままに,憶測あるいはうわべだけの論理に基づいた単なる幻想を,明らかな真実であるかのように押しつけることである。」


 「論理的な証拠がまったくないままに,憶測あるいはうわべだけの論理に基づいた単なる幻想」が定説として流布しているのではないかという問いかけは,現代にあっても有効性をもっていると思われます。

 ハーヴィの血液循環説は,デカルトらの賛同もあり,ハーヴィの晩年には広く認められていました。しかし,毛細血管が発見されていなかったため,実証的には不十分なものでした。マルピーギが顕微鏡を用いて動脈と静脈とを結ぶ毛細血管を発見し,血液循環説を最終的に証明したのは,ハーヴィの死後30年のことでした。

 ハーヴィはピューリタン革命の時も国王の侍医を務めていたため,国王とともにオクスフォードに逃れました。そこでは実験を何よりも重視する若手の研究グループと接し,彼らに大きな影響を与えたと言われています。その中には,ボイルやフックもいました。ハーヴィは彼ら若手研究者に対して,実験を重視する姿勢を徹底的に叩き込みました。ここに実験重視というイギリスの科学的伝統が始まったのです。この伝統は,ボイルらが1662年に王立協会を設立すると,ますます確固としたものになっていきました。

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2012年06月29日

科学者列伝:近代科学の開始編(3/3)

(3)ケプラー

 科学者列伝シリーズ「近代科学の開始編」,最終回となる今回は,ドイツの天文学者ケプラーの生涯や業績,後世への影響などを紹介したいと思います。

 ケプラーは,1571年にドイツのヴァイル・デア・シュタットに生まれました。貧しいプロテスタントの家庭でした。幼少の頃から病弱な体質で,3歳のときに天然痘にかかって両手を悪くし,目も弱くなったといわれています。牧師以外の職業につくことが不可能と思われたため,宗教について学ぶことになりました。

 ところが,しばらくして数学的な実力を認められたケプラーは,個人教授を受けてコペルニクスの地動説を学び,直ちにこの説を支持するようになったといわれています。23歳のときに,牧師になることをやめ,招かれたグラーツの学校で数学と天文学を講義することになりました。

 当時の天文学の教授は,占星術を行うことが当然視されていました。ケプラーも熱心にこの仕事に取り組みました。毎年の暦を占星術で作る仕事を継続して,名声が徐々に高まっていきました。このように名声が高まっていった一因としては,彼の保護者がよかったという点にありました。彼ははじめ,神聖ローマ皇帝ルドルフ2世のために占星術を行い,後年にはワレンシュタイン将軍に使えてその保護を受けました。こうして,占星術師として高く評価されるようになっていったのです。

 ケプラーは占星術に含まれた迷信を内心で軽蔑する一方で,神が宇宙に与えた調和と,その調和が人間の魂や運命に及ぼす影響について真剣に考えていました。当時はまだ天王星や小惑星は発見されていなかったため,惑星は6個だと思われていました。ケプラーは,なぜ惑星が6個なのか,真剣に考え抜きました。そして,古代ギリシャのピタゴラス派が見出した5つの正多面体と関連付けたのです。すなわち,6つの惑星の軌道をそれぞれ含む6個の天球の間(5つある)に,その5つの正多面体をピッタリとはめ込むのです。惑星の数が6つなのは,正多面体が5つだからであると彼は本気で考えたのでした。この考えに彼は非常に満足しましたが,各惑星までの距離が,この考えから導き出される値とは一致しませんでした。

 1597年に,グラーツでは,30年戦争に先立って宗教の争いが激化したため,ケプラーはグラーツを離れてプラハを訪れ,数年間文通していたティコ・ブラーエの助手になりました。1601年にティコが急死すると,火星の視運動についての綿密な観測データを含めて,この老人が20年にもわたって集めた観測記録を受け継ぐことができました。

 ケプラーはこの観測記録を元に,調和のとれた宇宙体系を導き出そうと研究をはじめました。まず,他の人がやったように,火星に円軌道を与え,太陽を円の中心から少しずらしたところに置いたのですが,計算の結果はやはり,どうしても観測値と合わないのでした。そのときのズレは,角度にしてわずかに8分というものでしたが,彼はまたはじめから別の体系を探り始めました。円軌道を断念し,卵形の長円形を取り入れたりもしました。しかし,これでも計算が合いませんでした。そこでついに,ケプラーは楕円軌道を採用したのでした。

 楕円は,古代ギリシャのアポロニウスによってはじめて研究された図形でした。ケプラーは神秘主義的な思想に関心を示して古代ギリシャ時代のことも研究していたので,アポロニウスの業績にも詳しかったのかもしれません。

 ケプラーははじめ,火星の動きを楕円軌道として計算すれば,きわめて正確にティコから受け継いだ火星の位置の観測データと一致することを見出しました。さらに,太陽はその楕円の1つの焦点に置くことができました。次にケプラーは,他の惑星の軌道も,太陽を焦点とする楕円軌道であると仮定して計算を行いました。これもまた,観測データとぴたりと一致したのです。

 このような研究成果をまとめて,1609年に『新天文学』という書物を出版しました。この書物には,ケプラーの第一法則と第二法則が載っています。第一法則は,惑星は太陽をその一つの焦点にもつ楕円軌道上を運動するというものです(楕円軌道の法則)。そして第二法則は,惑星が太陽を公転するときに,太陽と惑星を結ぶ動径が一定の時間には一定の面積を描くという「面積速度一定の法則」と呼ばれるものです。

 一見するとコペルニクスの説の微修正に思われるケプラーの第一法則は,実は非常に大きな意義をもつものでした。なぜなら,これによって周転円を取り入れた天動説よりも,楕円軌道を採用した地動説の方が天体の動きをより正確に示すことがでたからです。また

 また,より決定的なことは,これによって2000年も前にユードクソスが設定し,コペルニクスさえも温存していた天球の概念が廃止され,円運動の神聖さが失われてしまったことです。アリストテレス以来,天界の完全な運動とされていた円運動が楕円運動に取って代わられると,ではなぜ天体は他ならぬ楕円軌道を描いて運動するのか,という問いが生じてくることになります。円運動であれば,それこそ全知全能の神の意図に関連付けて,完全な神であるからこそ完全なる円運動を意図されたのだ,という強引なこじ付けでも,何ら疑問が生じません。ところが,楕円軌道ということになると,なぜ円運動ではなく楕円軌道なのかが必然的に問題視されることになるのです。ケプラー自身は,惑星の速度が太陽に近づくほど速くなることから,惑星の運動をコントロールしているのは太陽であり,何か磁気的な力が関係していると考えたものの,彼の理論は不十分なものでした。この問いに対する正答は,半世紀後のニュートンを待たねばなりませんでした。

 1619年になると,ケプラーはもう一冊の書物を出しました。『世界の調和』というタイトルのこの書物の中に,ケプラーの第三法則が登場します。それは,「調和の法則」といわれ,惑星の公転周期の二乗は,太陽までの平均距離の三乗に比例するというものでした。ここでも,太陽が惑星の運動を操っている証拠が見つかったことになります。

 この書物は,イギリス王ジェームズ1世に捧げられました。ジェームズ1世は,学問を鼻にかけ,大げさな書物を読むのを何よりの楽しみにしており,献本を受けるのを何よりも喜ぶような王でした。王はケプラーをイギリスに招きましたが,彼は30年戦争で混乱しているドイツを離れようとはしませんでした。

 ケプラーはその後,ティコの詳細な記録と自己の楕円軌道理論を元にした惑星の運行表を作成したり,内惑星である水星と金星の太陽面通過時刻を計算したりする業績を残しました。晩年の著作としては,死後出版された『夢』があります。これは月への旅行というSFのはしりともいえる作品です。この中で,月から見た天体の運行を語ることによって,彼が熱心に支持したコペルニクスの太陽中心説を読者に説得するような仕組みになっていました。

 ケプラーの法則は,後にニュートンが運動法則を導くよりどころとなり,近代科学がこの確固とした基礎の上に築かれていったという意味でも,非常に意義のある発見でした。ガリレオが明らかにした運動の合成の法則(砲弾の軌跡が放物線になること)とケプラーの惑星の楕円軌道の法則,地上と天界の運動がともに円錐曲線であるのは非常に興味深いところです。両者が統一されるのは時間の問題だったのかもしれません。

(了)
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2012年06月28日

科学者列伝:近代科学の開始編(2/3)

(2)ガリレオ

 科学者列伝シリーズ「近代科学の開始編」の2回目は,イタリアの天文学者であり物理学者でもあるガリレオを紹介します。

 ガリレオ・ガリレイは1564年2月15日にイタリアのピサで生まれました。この日は,ミケランジェロの死の3日前です。ですから,ルネッサンス期の人類の社会的認識の関心事が芸術の分野から科学の分野に移行した時期にあたるということができるかもしれません。

 ガリレオの父親は落ちぶれたフィレンツェの貴族出身で数学者でしたが,息子には医学を勉強させようとして,わざと数学から遠ざけるように仕向けていたそうです。なぜなら,当時,医者になれば数学者の何十倍もの収入が期待できたからです。そんな父親の期待通りに,ガリレオはピサ大学で医学を学びます。

 1581年,ガリレオがまだ17歳の医学生のときに,最初の大発見がなされました。彼がピサの教会堂でお祈りに出席していたとき,ドームの天井からぶら下がっているランプ揺れているのを目にしました。そのランプは,空気の流れの影響のためか,あるときは小さく,あるときは大きく揺れていました。ガリレオの目には,その振動の時間が振幅には無関係にいつも一定であるように映りました。ガリレオはその時,自分の脈拍を使って確認しました。家に帰ったガリレオは,同じ長さの振り子を2つ用意し,一方は小さく,他方は大きく振ってみました。すると,2つとも振動の時間は同じだったのです。その後ひもの長さを買えて実験をくり返すことによって,周期とひもの長さの関係も分かってきました。こうして振り子の等時性とその周期の2乗がひもの長さに比例するという法則性が見出されたのでした。

 このエピソードは2つの点で重要だと考えられます。1つは,ガリレオの問題意識に関わります。この点に関して,『西洋科学史U』では,「ガリレオが自然にたちむかうさい,問題のたてかたのどんな点が特殊なものだったのか」と問い,次のように答えています。

「目的への探求,すなわち何ゆえにを探求するのか,の代りに,ガリレオはどのようにを問題にした。ことに,どれだけ多くを問題にした。この問題は,質ではなく量に関するものである。」(p.186,原文のママ)


 これはすなわち,中世のように自然の背後に神の存在を想定し,その神の意図=目的を問うのではなく,実際の自然の運動のあり方を問う問題意識であった,ということです。それも,自然の運動のあり方を定量的に把握しようという問いかけが,すでに芽生えていることが指摘されています。このような問題意識=問いかけが強烈であったからこそ,誰もが目にしたはずのランプの揺れから,だれも気が付かなかった論理を浮上させることができたのでした。

 もう1つ重要なのは,観察によって浮上した論理を実験で確かめるという,近代科学の典型的な認識発展の手続きを,ガリレオがしっかり辿っているという点です。ガリレオの場合,教会堂のランプの揺れを観察して,振動の周期が揺れの幅に関係なく一定であるのではないかと気が付きます。そして,この観察で浮上した論理を,家に帰ったあと実験で確かめているのです。おそらく,振幅の大きさを変えるだけでなく,ひもの長さや重りの重さなど,いろいろな条件で実験をくり返したはずです。実験を何回も何回もくり返しの上にくり返して,「これで間違いない!」という確信に至ったものと考えられます。

 ガリレオはその他にも物理学上の偉大な発見をしています。有名なのが,落体の運動についての研究です。当時,落下の速さは物体の重さに比例するというアリストテレスの説が信じられていました。ところがガリレオは,空気抵抗を無視できるような十分に重い物体であれば,どんなものでも同じ速さで落下することを明らかにしました。先に触れた振り子の周期は,重りの重さには無関係でした。こうしたことも,重さが違っても同じ速度で落下するという発見につながるヒントになったのかもしれません。

 当時は時間を測定する精密な方法がなかったので,ガリレオは,落下する物体を直接測定するのではなく,斜面の上を転がして落とすことによって,重力を弱くするという工夫を行いました。こうして,落下距離やその時間を容易に測定することができたのです。その結果,落下距離が落下時間の2乗に比例し,しかもそのためには落下速度が落下時間に比例しなければならないという落体の基本法則を発見したのです。これによって,物体が運動するためには,引き続いて力を加えなければならないというアリストテレスの説が間違いであることが明らかになりました。力を加えなければ物体は一定の速度で運動し続け,同じ方向に力を加えれば加えて分だけ速度が速くなることを,ガリレオは落下運動で示したのでした。

 これに関連して,ガリレオは同時に二つの力を受けた物体が運動できることも示しました。水平方向に発射された砲弾は,水平方向に同じ速さで進みます。しかし,絶えず垂直方向に重力がかかっているため,砲弾は下向きにその速さを増します。こうして砲弾の軌跡が放物線を描くことを示したのです。この理論により,コペルニクスの説に対する最も強力な反論が打破されました。それは,地球が回転しているのならば,地面に固定されていない物体は後ろに取り残されてしまうはずだという反論でした。しかし,ガリレオのこの理論によれば,地球上の物体は,初めから地球の自転に合わせて,そちら向きの速度で進んでいるわけですから,後ろに取り残されるというような心配は無用なわけです。

 ガリレオは天文学の分野でも,大きな発見をしています。1609年に,オランダでレンズを用いた望遠鏡が発明されたという知らせが伝わってくると,ガリレオは半年もたたないうちに自分で装置を工夫して,32倍の倍率をもった望遠鏡を作り上げたのです。そしてこれを使って天体観測を開始しました。アリストテレスによると,天界と地上とを支配する法則は全く別のものでした。地上にある全てのものは汚れていて変化するが,天界のものは全て完全で永久不変であるとされていました。しかし,ガリレオが実際に望遠鏡を通して自分の目で観察したところによると,月には山があってでこぼこしており,太陽には黒点がありました。ここでもまた,アリストテレスの理論が間違いであることが証明されたのです。

 最も劇的だったのは,木星が4つの星(ケプラーが衛星と名付けた)を従えており,これらの衛星は木星の周りを規則正しく回っているという発見でした。衛星が木星の周りを回っている様子は,地球が太陽の周りを回っており,月が地球の周りを回っている様子を容易に想像させました。また,全ての天体が地球を中心に回転ているわけではないという決定的な証拠にもなりました。この観測によって,ガリレオは地動説を深く確信したのでした。

 しかし地動説は当時の教会の教義に反していたため,1616年,宗教裁判で地動説の禁止が宣告され,ガリレオも地動説を発表することを止められてしまいました。それでもガリレオは,自分に対して友好的だった法王が位についたのを機に,イタリア語で書かれた『天文対話』という大作を発表しました。この本が大きな反響を呼んだため,ガリレオは再び宗教裁判にかけられました。そこで,『天文対話』は禁書とされ,地動説を捨てることを命じられました。自説の放棄を認めてから,法廷で立ち上がる時に,「それでも地球は動いている」とつぶやいたという有名な伝説があります。なお,ガリレオはケプラーと文通を続けており,長い間交際していたにもかかわらず,『天文対話』では,コペルニクスの説を修正したケプラーの業績を全く取り上げていませんでした。

 晩年のガリレオは,両眼失明という不幸に襲われながらも,トリチェリなどの若い弟子と,科学の諸問題についての対話を大いに楽しんだといわれています。そして,天寿を全うしました。

 ガリレオはただ事物を自分の目で観察するだけでは満足せずに,条件を統制して実験して測定をし,現象を数量化して一般的な数学的関係式を導くという,近代科学に大きな成果を約束した方法を採りはじめたという意味で,科学の歴史の中で大きな結節点だったと評価することができるでしょう。
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2012年06月27日

科学者列伝:近代科学の開始編(1/3)

(1)ヴェサリウス

 歴史に名を残す科学者の生涯や業績,その目的意識や後世への影響などを考察する「科学者列伝」シリーズ。今回から「近代科学の開始編」ということで,ルネサンス期の科学者を3人紹介したいと思います。

 初回となる今回は,近代解剖学の夜明けをもたらしたヴェサリウスを取り上げます。

 ヴェサリウスは1514年,ブリュッセルに生まれました。母親はイギリス人,父親はドイツ皇帝カール5世の薬剤師を務めた人でした。少年時代から鳥やネズミなどの小動物を解剖して研究するのが好きだったといわれています。

 19歳の時にパリに遊学して,動物を解剖したり,人骨を集めたりして,解剖学の研究に励みました。しかし,パリは古代ギリシャの医学者ガレノスの教義を固く守っていた保守的な町でした。ヴェサリウスはここでガレノス学説を十分に学び,解剖学への関心を高めていったものの,ガレノス学説を神聖化することだけでは満足できませんでした。

 ヴェサリウスは常々,自分が自ら手を下して解剖をしたいと考えていました。彼の目的意識は,ガレノスのような権威を盲信したり,ガレノスの説を立証しようとしたりするのではなく,先入見なしに自分の目で実物を観察して,人体の構造を明らかにしたい,というものだったのです。そのためには,当時普通に行われていたような解剖のやり方,すなわち,助手に解剖をさせて自らは壇上でガレノスの著作の解説を行うというようなやり方ではなく,自らが実際に解剖を行ってみせる必要があったのです。

 ヴェサリウスは医学生時代,絞首刑後さらしものにされて腐敗しかかった罪人の死体が町の一角にぶら下がっているのを見つけて,この死体を盗んで持ち帰り,解剖して研究したという逸話も残っています。当時,人体解剖そのものは違法ではありませんでしたが,死体を盗むのは違法でした。法を犯してまで決行したのは,自分の目で確認したいという目的意識が非常に強かったからでしょう。

 その後ヴェサリウスは,北ヨーロッパにいては死体の確保が難しいと思い知らされ,ルネサンス後期で研究の自由がどこよりも保障されていたイタリアに赴きます。そして,23歳の若さでパドヴァ大学の外科と解剖学の教授になりました。そこでは,ヴェサリウスの研究に理解を示した裁判官の取り計らいで,死体を合法的に入手できるようになりました。こうしてヴェサリウスは,解剖の実演を自分自身の手で行うモンディノ・デ・ルッチの方法を復活させたのです。彼は,男も女も,肋骨の数が同じであることを明らかにする展示をしました。中世的なキリスト教の世界観では,イブはアダムの肋骨から創られたことになっているので,男の肋骨は女より1本少ないと信じられていたのでした。このようなパフォーマンスもあって,彼の授業はたちまち評判となり,優れた弟子もたくさん育っていきました。

 しばらくしてバーゼル大学に移ったヴェサリウスは,1543年,それまでの研究成果をまとめて名著『人体の構造について(ファブリカ)』を出版しました。当時彼は,まだ30歳にならない若者でした。この書物は,史上初めての正確な人体解剖書であり,古代の書物に比べて際立って優れている点としては,美しい解剖図が載っていることでした。ヴェサリウスはベネチアの有名な画家ティツィアーノの弟子であるヤン・ステファンと知り合いになり,解剖図の作成を依頼したのです。ヤン・ステファンの描いた美しい解剖図は非常に正確で,特に筋肉の描写は,その後に出版されたものでこれより優れているものはないほどの正確さでした。

 彼はこの書で,ガレノスの誤りを200以上も訂正したといわれています。たとえば,骨格については,胸骨が三骨からなること(ガレノスによれば七骨),心臓骨が存在しないこと,尾てい骨の構成骨数に関するガレノスの記述が間違っていることなどを示しました。その他,左右の心室間の孔はゆきづまりであることを証明したり,神経が中空でない事実をも発見したりしました。こうして,ガレノスの医学を終局に導き,近代解剖学の夜明けをもたらしたと評価されています。

 ところが,このように正確無比な観察を行い,それを記述して大著をまとめたヴェサリウスにも限界はありました。彼は人体の構造は解剖し,自分の目で確かめたけれども,機能の説明,すなわち生理学はガレノスを踏襲するにとどまったのです。ヴェサリウスは,先にも触れたように,左右の心室間に血液を透過させる小孔をもつ隔壁が存在しないことを確かめたけれども,血液の運動に関してガレノス説に代わる説明は提出できませんでした。また,心臓は熱を発生し呼吸はそれを冷やすということも,左心室から出る動脈の血液には生命精気,神経には精神精気が含まれるということも,ガレノス説のままでした。

 『人体の構造について』は,ガレノスや聖書の権威・伝統に固執する当時の正統派医学者の猛反撃に遭いました。こうした大騒ぎに困惑したためか,ヴェサリウスは一時研究を中断します。しかし,その名声が高くなったため,カール5世の侍医に任命され,次いでその息子で,後にスペイン王になったフィリップ2世の侍医となりました。

 彼の名声が高まるにつれ,これを快く思わない正統派医学者からさらなる反感を買い,彼の学説は異教として攻撃されました。危うく死刑になるところでしたが,王家の侍医という地位にあったため減刑され,エルサレム巡礼の旅に出ることになりました。しかし,その途上,船が難破して海上で死亡しました。結果的には死刑と同じことになってしまいました。

 ヴェサリウスには時代の限界もあった(特に生理学の面で)ものの,中世の神学的教条主義から脱して,自然と人間を新しい目でみつめようとするルネサンス期の思潮を実際に解剖学の分野で実践したという意味で,その業績は偉大と評価できるでしょう。『人体の構造について』が,コペルニクスが地動説を唱えた『天体の回転について』と同じ1543年に出版されたことは,新しい天文学と新しい生物学が同時に生まれ,科学革命の誕生を導いたということを意味しているといえるでしょう。
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2012年05月27日

科学者列伝:西欧中世編(3/3)

(3)モンディノ・デ・ルッチ

 今回で科学者列伝:西欧中世編は終わりとなります。最終回は,これまでの古代ギリシャ編やヘレニズム・ローマ・イスラム編でも取り上げてきた医学の分野から,モンディノ・デ・ルッチを紹介したいと思います。

 彼は,1275年ごろ,イタリアのボローニャに生まれました。同地の大学で医学を学び1290年に卒業して,1306年に教授になったとされています。当時のイタリアは医学の先進国でした。9世紀ごろから南イタリアのサレルノ存在していた医師組合が,11〜12世紀には医学校として栄えていました。これは十字軍の遠征と無関係ではありませんでした。十字軍を通してアラビアの医学知識が流入し,サレルノの医学校は指導的な地位を築いていました。特に,十字軍で傷ついた兵士を治療しなければならないという必要性に規定されて,外科学で大きな業績を上げました。サレルノの外科術の基礎知識は,1170年ごろ活躍したルッジェロが『外科学の実際』としてまとめました。

 この学校は,自身も科学者として有名な神聖ローマ皇帝フリードリヒU世から助成を受けました。フリードリヒU世は,サレルノの学生に対して解剖学を重視するように勧告を出しました。そして,外科学生には,1年間の解剖学の学習を義務づけたといわれています。もっとも,当時の実習では動物が解剖されていたということです。

 フリードリヒU世の援助にもかかわらず,サレルノの医学校は13世紀には衰微していきました。代わって,サレルノの医学の伝統を引き継いだのは,北イタリアのボローニャ大学でした。ここで中世最初の人体解剖が行われたと伝えられています。詳しいことは分かっていませんが,1266年と1275年の間に,ボローニャ大学のタッデオ・アルデロッティが関わって行われたといわれています。モンディノは彼の弟子でした。

 こうして,アレクサンドリア時代以来1000年の空白期間を経て,中世後期に人体の死体解剖が復活したのでした。ところが,中世においては,死体解剖の際に現実に執刀したのは,外科医を兼ねた湯屋や理髪職人たちでした。解剖のときに教授は死体から離れた壇上の椅子に座ってガレノスなどの本を読み,それに合わせて助手が解剖すべき部分を指示しました。その指示に従って,先の職人たちがメスを振るう,というように解剖が進められていったといいます。これがガレノス等に含まれる誤りの発見を遅らせた原因だったといわれています。講義する教授は説明している実物を自分の目で見ていないし,解剖を担当している職人たちは見ている対象についての説明を理解できなかったのです。

 このような伝統の中にあって,自分の手で解剖をはじめたのがモンディノだったのです。自分の目で実際に観察するという,近代科学にとって不可欠の要素が,このとき医学の中にも芽生え始めたといっていいでしょう。彼は1315年に2人の婦人遺体を自ら解剖し,それをもとに翌年,史上初めて解剖だけを取り扱った書物(『モンディノ解剖学』)を書きました。そのため,彼は解剖学の復興者と呼ばれています。

 この書は人体解剖の手引き書であって,4日間で人体を解剖するように説明されています。内容的には,古代の影響を強く受けており,多くの誤りが見られます。たとえば胃を球状とし,肝臓は5つの肝葉からなるとしています(これはアレクサンドリアで活躍したルフスが犬の解剖をもとに書いた『人体部分の解剖』以来の誤伝です)。モンディノはもともと古典の記述を学習する手段として解剖していたのであり,その動機から見てもこのような誤謬は当然のことでした。

 しかし,自身の解剖上の体験も盛り込まれています。いくつかの臓器に関しては進歩が見られ,特に生殖器の記述は優れていました。このため,この書はベサリウスのものが出現するまで2世紀以上にわたって,もっとも有用なテキストとして使用されました。印刷術の発明後には,1478年にパドヴァで出版され,実に40版を重ねたといわれています。

 モンディノの後継者たちは,解剖を他の者にやらせるような習慣に戻ってしまいました。このため,あいかわらずガレノスやモンディノの文献による講義が行われ,ここに含まれる誤りが訂正される時期は,なかなかやってこなかったのです。したがって,モンディノによって極めて重要な一歩が踏み出されたとはいえ,解剖学は16世紀までほとんど進歩することはありませんでした。

 それでもイタリアは解剖学の分野において指導的な立場に立ち続けました。そのため,後のルネッサンス期において,レオナルド・ダ・ビンチが解剖学を学ぶことができました。ミケランジェロも,レアルド・コロンボという名のパドヴァ大学の解剖学者の弟子でした。このように,ルネサンス期に人体を自らの手で解剖し,よく観察したのは解剖学者でなく画家でした。彼らによって人間の形態が研究され,解剖学が研究されていきました。

 また,ベサリウスから始まる近代医学を遡ると,その芽はモンディノを初めとするイタリアの解剖学者に行き着きます。彼らは「観察」によって医学を進歩させました。ガレノス等の絶対的な権威に対する懐疑精神が登場し,それが近代の科学的精神の誕生につながった,その大本には,モンディノがいたといえるかもしれません。

(了)
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2012年05月26日

科学者列伝:西欧中世編(2/3)

(2)ロジャー・ベーコン

 今回は,科学者列伝:西欧中世編の第2回目です。今回は,予告しておいた通り,イギリスの科学者であるロジャー・ベーコンを紹介します。

 ロジャー・ベーコンは,1214年にイギリスのサマーセット州イルチェスターで生まれたとされています。彼は,オクスフォード大学で学んだ後,1236年ごろにパリに渡ってパリ大学で講義し,1251年には再びオクスフォードに戻ったといわれています。

 当時のイギリスは,聖職者と貴族が広大な土地を所有し,農奴を隷属させて支配収奪するという,封建制度が確立していた時代でした。政治的には,1066年のノルマン・コンクエスト以来,アングロ・サクソン貴族に取って代わってノルマン貴族が支配するようになり,大陸,特にフランスとの交流が活発になっていました。ジョン王の失政に貴族が反発して,自分たちの要求をマグナ・カルタとして王に認めさせたのが1215年です。ジョン王の後のヘンリー3世時代にも,シモン・ド・モンフォールが貴族を率いて王の軍を破り,マグナカルタの遵守と国民議会の開設を約束させました(1265年)。こうして,都市の代表や地域の代表が議会に送られるようになり,議会はしだいに国民的な性質を備えるようになっていきました。こういった出来事も,ロジャー・ベーコンの生きていた時代と重なっています。地方の有力な騎士や都市民が,徐々に力をつけ始めて,歴史の表舞台に登場し始めた時代,新しい力が芽生え始めた時代に,ロジャー・ベーコンは生きていたということができるでしょう。

 彼の生きていた時代は,イスラム経由でアリストテレス哲学がヨーロッパに入ってきて,受け入れられ始めた時代でもあります。12〜13世紀にかけて,アリストテレスの著作は次々にラテン語訳されていきます。当初は,ヨーロッパの大学でアリストテレスを学ぶことは異端とされていました。キリスト教神学と対立していたためです。1210年以降も,何度もアリストテレスの著作に対する禁令が出ていました。ところが,それでもアリストテレスを学ぶ者が多くなり,その影響を無視できなくなったためか,1255年には,アリストテレスの全著作が解禁されたといわれています。このような時代にあって,ロジャー・ベーコンもアリストテレスを熱心に学んだ1人です。

 ロジャー・ベーコンは非常に博学だったといわれています。ギリシャやローマ,それにイスラムの知識をとてもたくさん持っていたので,「驚異博士」と呼ばれていました。この博学ぶりに目をつけた教皇クレメンス4世は,ロジャー・ベーコンに著作をまとめるように依頼しました。その依頼に応えて,瞬く間に書き上げたのが主著『大著作』です。

 『大著作』は,以下のように7部構成になっています。

1.誤りの原因
2.哲学と神学
3.諸言語の研究
4.数学(天文学,音楽,地理学を含む)
5.光学または遠近法
6.実験科学
7.道徳


 第1部の「誤りの原因」では,脆弱な権威への依存,慣習の影響,俗衆の意見,自己の無知の隠ぺいという4つの原因が挙げられています。人間が誤りに陥ってしまうのは,アリストテレスの著作の無謬性を信じたり,慣れた惰性にはまり込んで頑なになってしまったり,あるいは,大衆に向かって虚栄を張り余計な配慮をしたりするためだ,ということが説かれています。

 第2部では,自分は聖書を信じる忠実なキリスト教者であると述べており,第3部では,聖書の翻訳が不正確であることを指摘して,聖書やギリシャの古典は原書で読むべきだと説いています。実際彼は,ギリシャ語文法の本も書いています。

 第4部では,科学は観察・実験を研究手段にすべきであること,また,科学が自然についての命題を数学的な形式で表現できるようになったとき初めて科学は完全になること,が説かれています。第6部でも,同様の主張がなされています。ここに関して,シュテーリヒは次のように説いています。

「現象の基礎に横たわる法則について真理を知りたい者は――とベーコンはいう――実験に訴えねばならない! 法則の発見には実験,その定式化には数学! ベーコンのいう“実験(experimentum)”の概念は,まだ中世に用いられていた広い意味,すなわち経験の意味で使われていることもある。しかし他の箇所ではこれが,近代の概念内容といちじるしく近づいている。認識した法則を実際に適用して一般的に利用するというような考え方もまた,予言的であり,まさに近代的である。」(『西洋科学史U』p.47)


 第5部は,この著作でもっとも注目すべき箇所ともいわれています。イスラムのイブン・アル・ハイサム(アルハゼン)やアル・キンディーを参照しながら,光の本性やさまざまな反射と屈折の法則や,目の解剖,目の生理の明快な説明などがあります。ここでは,光の進行には時間がかかることも説かれています。また,虹の研究もなされています。

 最終の第7章では,道徳哲学こそが他のあらゆる哲学分野の女王であり,最も重要なのは正しい生活を送ることであると説かれています。そしてその基盤は,宗教の中にのみ見いだされるとされています。

 以上,主著である『大著作』の内容を簡単に紹介しました。他にもベーコンは,地球は丸いので地球一周の旅行ができることや,ユリウス歴は不正確なので訂正の必要があることなども主張しています。実際に地球上を一周することが実現し,ユリウス歴の訂正が行われたのは,ともに3世紀後でした。また,ロジャー・ベーコンは,汽船や自動車,望遠鏡なども予言していたとされています。このような独創的な着想や見通しは,同時代の学者よりも100〜500年も先行していたと評価されています。

 ロジャー・ベーコンは,キリスト教に全的に依存し,神の意図を問題視していた旧来の支配者層に代わって,新興の都市の市民が徐々に力をつけ始めてきた時代にあって,彼らの認識目標,すなわち,事実を事実としてとらえて,物事を自分の目で確かめる,さらには実験によって科学的な認識を成立させるという人類の認識が進むべき方向を指し示していたのかもしれません。アリストテレスの経験重視の哲学に学んで,近代科学の輪郭を予言したロジャー・ベーコンは,権威盲従への反逆者であり,まさに「暁の使者」,すなわち近代の夜明けを告げる者といえるでしょう。その意味で,西欧中世最大の科学者と評することができると思われます。
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2012年05月25日

科学者列伝:西欧中世編(1/3)

(1)アルベルトゥス・マグヌス

 科学史上に名を残す大科学者の生涯や業績,その問題意識や後世への影響等を説く「科学者列伝」シリーズ。今回から3回にわたって「西欧中世編」ということで説いていきたいと思います。西欧中世編では,近代科学の先駆者と考えられる科学者を紹介します。

 初回となる今回は,13世紀のドイツで活躍したアルベルトゥス・マグヌスを取り上げます。彼は,1200年ごろ,南ドイツで騎士の家に生まれます。パドヴァ大学に学び,その間,ドミニコ会に入ります。1245年にはパリ大学神学部の教授になり,ここでのちに中世最大の哲学者として知られることになるトマス・アクイナスが弟子となります。1248年に,ケルン大学の前身であるドミニコ会神学大学ストゥディウム・ゲネラーレ創設のためにケルンに移り住みます。この後,1260年から2年間,レーゲンスブルクの司教を務めたり,教皇庁所属の神学者として活躍した時期を除いて,主としてケルンで活動します。

 彼の本名はボルシュテート伯アルベルトといいますが,学問領域全般にわたる学識のゆえに大アルベルトゥスを意味する「アルベルトゥス・マグヌス」と呼ばれました。また,「万能博士」とも呼ばれています。当時は誇張した呼び名が流行ったようで,弟子のトマス・アクイナスは「天使博士」,論敵であり次回紹介するロジャー・ベーコンは「驚異博士」と呼ばれました。存命中すでに,アリストテレス,アヴィケンナ,アヴェロエスと並ぶ権威ある著作家とされていたようです。

 アルベルトゥス・マグヌスは,アヴェロエスのラテン語によるアリストテレスの注釈書に触発され,アリストテレスの自然学を学びました。そしてそれを基礎としながらも,動物学,植物学,鉱物学について鋭い観察力をもって広汎な研究を行いました。権威を否定して,個人の観察の重要性を強調したこと,自然をあるがままに観察することの大切さを説いたこと,これが科学史上におけるアルベルトゥス・マグヌスの意義であると考えられます。

 逆からいうと,当時は動植物に関して,自分の観察に基づかない,いんちききわまる観念が風靡していたのです。2世紀ごろから1000年ほどにわたって,聖書に出てくるものやでたらめで空想的な生物を扱った『フィジオログス(自然学者)』と題する本が流布していました。これは,動物では奇怪で空想的な哺乳動物,鳥類,爬虫類などが記載され,植物ではイチジク,ドクニンジンなどが扱われ,いくつかの鉱物も述べられているものでした。中世の動物に関わる本は,大部分がこの『フィジオログス』を典拠としていました。『西洋科学史』に引用されている『フィジオログス』のアリジゴクに関する記述を孫引きします。

「アリとライオンとから一つの動物が生まれ,これがアリ=ライオン(Ameisenlöwe――アリジゴク)と呼ばれる。この動物は,生まれるとじきに死んでしまう。食物の工面がつかないので,いや,むしろその能力がないので飢え死にするのである。これが事実であることは聖書が証明している通りであって,そこにはこういわれている。“アリジゴクは糧に飢えて死ぬべし”。……」(『西洋科学史U』pp.54-55)


 ここでは,聖書という絶対的な権威が事実を証明するものとされています。これに対して,アルベルトゥス・マグヌスは,次のように説いています。これも『西洋科学史』からの孫引きです。

「最初にいうが,この動物は多くの人たちのいうようにアリではない。なぜなら,この動物がダニと非常に似た形のものであることを,私はしばしば体験してきたし,同僚たちにも示したことがある。このものは半ば円錐形のくぼみを砂に掘ってひそんでおり,アリジゴクの口はこれの底にある。食物を求めにでたアリがこの穴を横ぎろうとすると,アリジゴクはこれを捕らえてのみこむ。私たちはこれを非常にしばしば観察したことがある。」(p.61)


 「私はしばしば体験してきた」とか「私たちは……しばしば観察した」とあるように,自分自身の体験・観察を根拠としています。これは,身のまわりの動植物をどうみるかという限りでは聖書という絶対的な権威を否定して,自然をあるがままに観察していることを意味しています。これは近代科学への,ごく小さいながらも非常に大切な第一歩ということができるかと思います。シュテーリヒも先の引用部分に続いて,次のように説いています。

「このような単純な記載は,今日の私たちにとってはたいした科学的業績とは思えないかもしれない。しかし,ありのままに観察し,過程を正確に記載する能力を人類が獲得してまだ日は浅いのであり,今日でさえまだこれを行なえない者のほうが,人類の大多数なのだ――交通事故を目撃した人たちの証言一つを考えてみてもわかることである。アルベルトゥスはそれを開拓した一人だった。」(pp.61-62)


 神の意図は何かと問いかけて自然を眺める場合,自然をありのままに観察することにはならないで,むしろ自然自体のあり方を無視してでも,聖書に根拠を求め,聖書を絶対視するような姿勢になってしまいます。このような問いかけ的認識が,中世全体を支配していました。そのような中にあっても,アルベルトゥス・マグヌスのように,権威=聖書を(ある意味では)否定して,あるがままの自然を観察して,自分の観察したことに基づいて自らの考えを述べていくというあり方が,人類の中に芽生え始めてきたのです。

 もちろん,アルベルトゥス・マグヌスがキリスト教を否定したということではありません。彼は信仰の世界に関してはプラトン主義を,理性の世界に関してはアリストテレス主義を採用し,信仰と理性をはっきりと分離させたといわれています。これは,信仰を否定したわけではなく,相反する矛盾した要素が,一人の人間の中に共存していた,ということでしょう。ニュートンですら,中世と近代の奇妙なジレンマを抱えていましたし,現代の科学者でも,完全に宗教的な要素を排除できている人,徹底的な唯物論の立場に立てている人が,どのくらいいるかは心許ないと思われます。

 それでも,アルベルトゥス・マグヌスが踏み出した一歩は,科学を宗教から独立させる初めの一歩となったと評価することはできるでしょう。権威に全的に依存することによって安らうという中世的指導理念が動揺し始め,科学的ルネサンスに向けての胎動がアルベルトゥス・マグヌスには見られるのです。そしてこの胎動は,次回に紹介するロジャー・ベーコンにおいていっそう顕著となります。
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2012年05月03日

科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編(3/3)

(3)イブン・シーナーとイブン・ルシュド

 歴史に残る科学者を取り上げ,その生涯や業績を紹介する「科学者列伝」シリーズのヘレニズム・ローマ・イスラム編も,今回で最終回となります。これまで2回にわたって,ヘレニズムのアルキメデス,ローマのガレノスを紹介しました。

 最終回の今回は,イスラムの科学者を2人取り上げたいと思います。イブン・シーナーとイブン・ルシュドの2人です。2人を取り上げるのは,イスラム帝国が大きな中心地を二つもっていたからです。東の中心は,アッバース朝のカリフに治められていたバグダードです。西の中心はスペインのコルドバです。そこで今回は,それぞれの代表者として,医学者であり哲学者でもあった2人の人物を紹介することにしたのです。

 イブン・シーナーは,ラテン名をアヴィケンナといいます。彼は980年頃,イスラム帝国東の中心地であるバグダードよりさらに東のブハラ近郊で生まれました。父親は徴税人だったといいます。10歳の時に『コーラン』を暗記した神童であったと伝えられています。当時としては最高の教育を受け,18歳の時には形而上学以外の全学問分野に精通し,医師としての名声も高まりました。数人のイスラム教国王に仕えましたが,政情が不安定で,何度も危険な目に合い,身の危険をおぼえながら放浪の生涯を送りました。

 イブン・シーナーは100冊以上の本を書いたとされています。なかでも優れているのは『治癒の書』と『医学範典』でした。前者は哲学上の主著であり,アリストテレスの哲学に基づいて,新プラトン主義とイスラム神学の思想を加味したものでした。その思想は,中世ヨーロッパのトマス・アクィナスに大きな影響を与えました。

 『医学範典』はギリシャとイスラムの医学の集大成であり,全五巻からなっています。第一巻は一般原理,第二巻は単一の薬物,第三巻は器官の病気,第四巻は一般の局所的な病気,第五巻は合成薬物について,それぞれ説かれています。全体として,健康と病気との関係を,アリストテレス流の四原因と四体液やガレノスのプネウマ説を踏まえて,精神と身体の調和を広く高度な視野で展望しています。この書は,12〜17世紀にかけては西欧の医学の基本書として,数種のラテン語訳,ヘブライ語訳,アラビア語原文が刊行されました。

 イブン・シーナーはまた,錬金術の研究も行いました。彼は錬金術によって金を作ることは不可能であると考えた少数の人々のうちの1人でした。錬金術師としてではなく,イスラム世界最初の化学者として,鉱物や化学薬品を分類し,その精錬方や製造方法を詳しく研究したのでした。

 他方,イブン・ルシュド(ラテン名アヴェロエス)は1126年,コルドバの裁判官の子として生まれました。当時のコルドバは,ビザンティンを除けば,ヨーロッパ最大の都市でした。イスラム教支配下にあるスペインの統治者によって,初めはセビリアで,次いで父と同じくコルドバで裁判官に任命され,宮廷の侍医にもなりました。その後,外交使節としても活躍しました。
 
 イブン・ルシュドは,アリストテレス哲学の注釈者として有名です。イスラム世界において,シリアを経由して入ってきたアリストテレスは,当初きわめて新プラトン主義的な色彩の濃いものでした。これは,プラトンのイデア論とイスラムの教義がうまくマッチしたためだと考えられます。すなわち,当初は,イスラム教の教えを合理化するために,プラトン的に解釈されたアリストテレスが利用されていたのでした。ところが,イスラム世界でギリシャ哲学の研究が進むと,アリストテレスの真の姿を求めようとする動きが出てきます。こうしてシリアを媒介せずに,直接ギリシャの学問が学ばれるようになっていきました。このような動きを押し進め,純粋にアリストテレスそのものを復興しようとし,かつそれを実現したのが,イブン・ルシュドだったのです。

 イブン・ルシュドは,アリストテレスのほとんど全ての哲学書の注釈を著しました。彼の思想は,イスラム世界では長続きしませんでした。しかし,彼の哲学書の多くは,13世紀にラテン語訳され,ラテン・アヴェロエス主義として西欧中世思想に絶大な影響を与えました。また,科学史上の「13世紀革命」と呼ばれるものを引き起こすことになりました。アリストテレスを紹介したことによって,科学的認識における経験への密着をも促し,西欧の学者たちに科学への関心をかき立て,直接ギリシャ語からの翻訳することを促進したのです。

 哲学以外の学問分野でも,イブン・ルシュドは活躍しています。プトレマイオスの『アルマゲスト』をアラビア語からラテン語に訳しました。また医学でも,『医学大全』を著しました。これは,イブン・シーナーの『医学範典』よりは劣っているとされていますが,ガレノスの医学を継承したものであり,後にヨーロッパで広く読まれるようになりました。

 こうしてみると,イブン・シーナーもイブン・ルシュドも,古代ギリシャやローマの学問,特にアリストテレスの哲学体系とガレノスの医学体系をしっかり継承し,それを中世のヨーロッパに伝える役割を果たしたことが分かります。ゲルマン人の大移動によって散逸してしまったギリシャ語文献を,イスラム世界がしっかりと保存し,再びヨーロッパに引き渡したのです。このように,学問体系を継承するためには,継承する側がしっかりとした学問的な素養をもっている必要があります。事実,イスラムの学者は,特定の領域のみを研究するような個別科学者ではなく,世界全体を把握しようとする哲学者であり,なかでも突出した業績を特定の分野で修めた場合には,医学者なり数学者なりという呼ばれ方をしたようです。

 また,イブン・シーナーとイブン・ルシュドがそうであったように,強力なイスラム支配者の保護がなければ,学問の継承はありえなかったと考えられます。支配者自身も,学問に対する理解が要求されます。この点に関して,イブン・ルシュドの興味深いエピソードをシュテーリヒが紹介していましたので,最後にその部分を引用しておきたいと思います。

「哲学者アヴェロエスは自分がはじめて総督を訪れた時のことを書いている。総督は,ある種の哲学説についてアヴェロエスに質問した。初めのうちアヴェロエスはなま返事をしていた。あまりずばずばものをいって君侯の不興を買うといけないと思ったからである――なぜなら,教養人の仲間どうしならあらゆる可能性についてきわめてあけすけな議論を戦わすこともできたが,君主は少なくとも一般民衆と違って,一度こうと信じたら意見をひるがえさないのを徳としていたからである。支配をぐらつかせないためには信念が不可欠だ,と支配者は考えていたのだ。ところがこの総督は,プラトンやアリストテレスその他の哲学者のことや,イスラムの神学者がこれに対して唱えている反対意見について,自分のほうから口をきった。この際総督は,該博な哲学者でも名誉とするだろうと思われるほどの知識を示した。そこでアヴェロエスも胸襟を開いて語りだした。侯は会談の後,金一封と乗馬一頭と高価な礼服を贈って彼をねぎらったという。」(『西洋科学史T』pp.296-297)


(了)
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2012年05月02日

科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編(2/3)

(2)ガレノス

 今回は,シュテーリヒによっても「何よりもまた体系家,真に百科全書的な頭の持ち主であり,古代の解剖学や医学の全知識を統一し体系化した」(『西洋科学史T』p.263)と評価されている古代ローマの医学者・ガレノスを紹介したいと思います。

 ガレノスの生きた時代は,パクス・ロマーナと呼ばれるローマ帝国の最盛期=五賢帝時代の最後から衰退期にかけての時代でした。ここでも時代の黄昏に,ミネルヴァの梟=学問が飛び立ったということができるかもしれません。すなわち,医学の領域でこの時代としては知見が出揃い,あとは体系化するだけだというような時代的な必然性があったのかもしれません。

 ガレノスは,129年,小アジアの文化都市ペルガモン(現在のトルコのベルガマ)で生を受けました。父親は高い教育を受け,深い教養のあった建築家であり,地主でもありました。そのような父ニコンから,ガレノスは文学や文法,幾何学や哲学の基礎を学びました。15歳頃に既に哲学を修めており,アリストテレスに深く私淑したといわれています。18歳頃までは,当時の最高レベルの先生について,当時の代表的な哲学をすべて学んだそうです。このように,専門の医学を勉強しはじめるまでに,古代ギリシャ最大の遺産であるアリストテレスの哲学をはじめ,当時の全学的文化遺産を学んだことが,後の医学体系の創出につながったのは間違いありません。このあたりの事情については,瀬江千史『医学の復権』(現代社)に一般教養の重要性ということで説かれていますので,ぜひ参照してください。

 20歳になったガレノスは,当時の文化の中心地であったアレクサンドリアを訪れ,5〜9年ほど医学の研鑽に没頭します。その後故郷に帰り,剣闘士を見る医師になりました。この経験は非常に重要だったと思われます。当時は死体の解剖がタブーとされており,なかなか人間の内部の構造を調べることができませんでした。そのため,人間の代わりにサルや豚を解剖して,筋肉の組織や内臓を研究したといわれています。そんな時代にあって,剣闘士の医師を務めたのは,貴重な体験だったはずです。なぜなら,剣闘士の傷口の内部を見て学べる機会をもつことができたからです。

 その後,ローマに赴いたガレノスは,貴族の治療にあたります。そんな中,偶然出会ったある大学者の,当時不治とされていた病気を治します。そのことで急に評判になり,ついに時の皇帝マルクス・アウレリウスに召し抱えられるようになります。こうして皇帝の侍医になったガレノスは,一時帰郷したこともあるようですが,基本的にはローマで過ごし,医学の研鑽に励みました。

 「ガレノス」というギリシャ語は,もともと「おだやかさ」を意味したようですが,ガレノス自身はおだやかとは正反対の性格だったといわれています。非常に傲慢で尊大であり,論争好きだったようです。この論争ということが,彼の医学体系を創出する上で,一つのポイントだったと考えられます。アリストテレスに私淑していたガレノスは,古代ギリシャの弁証の方法をしっかり学びとり,自らも論的と討論をくり返すことによって次第次第に論理的な実力を養成していったのでしょう。論争によって,古代ギリシャから帝政ローマに至るまでの病に関する知見や医療実戦の経験の蓄積をしっかり自分のものにしていき,その中の誤りを排除しつつ,論理的に筋の通った体系にまとめていったと思われます。その時代性ゆえに思弁を含んでいるとはいえ,医学体系を構築することが可能となったのは,論争を媒介としてだったといえるでしょう。

 ガレノスは非常に膨大な著作を書いたといわれています。ギリシャ語の論文を500編書いたとされ,その中には医学関連の他に,修辞学,文法,劇作,哲学の論文も含まれていたと伝えられています。その中の200編以上が現在にまで伝わっています。それは,20巻にもなるほどの分量です。以下に,ネット上にあったガレノスの著作一覧を引用しておきます。


ガレノス研究の新ラウンジ」より

『医学のすすめ』
『最良の学説について』
『最良の医師は哲学者でもあること』
『初学者のための諸学派について』
『最良の学派について』 (偽作?)
『医術の構成について』
『医術』
『ヒポクラテスによる元素について』
『混合について』
『自然の諸力について』
『解剖の手順について』
『骨について』
『血管の解剖について』
『神経の解剖について』
『嗅覚の器官について』
『子宮の解剖について』
『各部位の用途について』
『各部位の用途について』
『筋肉の動きについて』
『呼吸の原因について』
『呼吸の有用性について』
『精液について』
『胎児の形成について』
『血液は血管の中に含まれるのか』
『我々の身体の最良の構成について』
『良い習慣について』
『自然の諸力の実体について』
( = 『我が見解について』の一部)
『霊魂の諸作用は身体の混合に左右されること』
『霊魂が受けるダメージを知り、治療することについて』
『霊魂の不全を知り、治療することについて』
『黒胆汁について』
『脈の用途について』
『ヒポクラテスとプラトンの学説について』
『保健は医学か運動のどちらか?』
『小球を使った運動について』(偽作?)
『健康を維持することについて』
『食物の諸力について』
『食物の良い・悪い水分について』
『夢の診断について』
『病気の種類について』
『病気の原因について』
『諸症状の違いについて』
『諸症状の原因について』
『熱の違いについて』
『病気の経過について』
『全体的な病の経過について』
『充満について』
『震え、動悸、痙攣、硬直について』
『ヒポクラテスによる昏睡状態について』
『麻痺状態について』
『非自然的な腫瘍について』
『不均衡な状態について』
『呼吸困難について』
『ラ患した部位について』
『初学者のための脈について』
『脈の違いについて』
『脈見について』
『脈の原因について』
『脈から予見について』
『脈についての概略』(偽作?)
『発作について』
『分利日について』
『治療法について』
『グラウコンへの治療法について』
『瀉血について』
『エラジストラトス派に対する瀉血について』
『瀉血による治療の理論について』
『下剤の諸力について』
『癲癇の少年の治療案内』
『単体薬の諸力について』
『単体薬の諸力について』
『場所による薬剤の複合について』
『場所による薬剤の複合について』
『類による薬剤の複合について』
『解毒剤について』
『毒に対する特効薬について』 (偽作?)
『簡単な治療について』 (偽作)
『言あるソフィズムについて』
『エピゲネスのための予後判断について』
『概論あるいは医師』 (偽作)
『ヒポクラテス「人間の本性について」注解』
『ヒポクラテス「健全な食物の理について」注解』
『ヒポクラテス「食物について」注解』(偽作)
『ヒポクラテス「急病の食物について」注解』
『ヒポクラテス「体液について」注解』
『ヒポクラテス「予言」注解』
『ヒポクラテス「伝染病」注解』
『ヒポクラテス「伝染病」注解』
『ヒポクラテス「アフォリスム」注解』
『ヒポクラテス「アフォリスム」注解』
『リュコス反駁』
『ユリアノス反駁』
『ヒポクラテス「関節について」注解』
『包帯について』 (偽作?)
『ガレノスの「包帯について」注解から』
『ヒポクラテス「予後判断」注解』
『ヒポクラテス「骨折について」注解』
『ヒポクラテス「医師の仕事について」注解』
『筋肉の解剖について』
『いかにして仮病を見抜くか』
『我が著作について』
『我が著作の順番について』
『語彙集』 (偽作?)
『動物は子宮の中で生きているか』(偽作)
『ヒポクラテスの見解における急病における食物の理について』 (偽作)
『哲学の歴史』 (偽作)
『医学的定義群』 (偽作)
『質は非物体的であること』
『体液について』 (偽作)
『予見について』 (偽作)
『真の予知について』 (偽作)
『瀉血について』 (偽作)
『尿について』 (偽作)
『尿について概論』 (偽作)
『ヒポクラテスとガレノスにおける尿について』 (偽作)
『アントニウス宛の脈について』 (偽作)
『事物の被作用性について』 (偽作)
『メランコリーについて』 (偽作)
『重さと長さについて』 (偽作)



 こうして眺めてみると,その膨大さに圧倒されます。と同時に,非常に体系的な配列になっていることもうかがえます。すなわち,初めに医学概論があり,そのあとは人体の各器官の構造や働きを論じる生理学(当時は生理学と解剖学は未分化だったと考えられます),そして病気についての理論である病理学,さらに両者を踏まえての治療法という大きな流れが見えてきます。『我が著作の順番について』という著作もあり,このような順番は,ガレノス自身が意図したものであることが分かります。瀬江千史先生が措定された医学の構造論が,2000年近くも前に直観的に予言されていたといっても過言ではないかもしれません。

 ガレノスの業績に関しては,百科事典には次のようにまとめられています。

「ヒッポクラテスを〈神のごとき人〉として最も高く評価し,《ヒッポクラテス全集》のいくつもの著作に詳細な注解を施した。後世のヒッポクラテスに対する評価もガレノスに負うところが少なくない。彼はヒッポクラテス医学を基礎として,過去の医学的成果を批判的に総合すると同時に,自らの解剖学的知見と哲学的理論によって,学問的な一大体系としての医学を築き上げようとした。解剖学では,動物解剖に基づいて脳神経系,筋肉,眼,骨などについてすぐれた成果をあげた。ことに神経の結紮や脊髄の切断による生体実験は注目に値する。しかし人体解剖を行わなかったことや自らの理論への固執から,誤った記述も少なくない。生理学・病理学においては,プラトンの魂三部分説を継承し,肝臓・心臓・脳を生命活動の中枢と考え,また,温冷乾湿の四性質のバランスが身体の機能を決定するという伝統的な観念とともに,《ヒッポクラテス全集》の〈人間の自然性について〉に由来する血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁という四体液の説を継承し発展させた。動脈にはプネウマ(気体状の物質)が流れているとするエラシストラトスの説を批判し,血液が流れていることを実験によって示したが,彼もエラシストラトスと同じく,心臓から発して熱と生命力を伝達する〈生命のプネウマ〉と,脳に位置し感覚と精神作用をつかさどる〈魂のプネウマ〉の存在を認め,複雑な脈管系と呼吸の理論を展開した。心臓や脈管系についてもすぐれた記述を残しているが,血液循環には思いいたらなかった。なお,後に定式化されるように,肝臓に位置する〈自然のプネウマ〉にも言及しているが,これは彼の生理学においては未だ独立した役割を果たしていない。」(『世界大百科事典』平凡社)


 この中で説かれているように,ガレノスはヒポクラテスの遺産をしっかりと継承しながら,自らの体系を構築していきました。彼の生理学の中心はプネウマ説でした。ここから,各器官の機能を筋を通して説いていきました。また,「血液循環には思いいたらなかった」とありますが,その一歩手前までは迫っていました。というのは,ガレノスは,血液は心臓を中心に静脈と動脈の中を潮が満ち引きするように,行ったり来たりすると考えていたからです。17世紀にハーベイが唱えた血液循環説の一歩手前まで到達していたとはいえ,その一歩には数千年がかかったことになります。

 ガレノスの医学体系は非常にしっかりしていたために,16世紀まで,ほとんど無傷のまま権威を保っていました。シュテーリヒも以下のように説いています。

「西欧の全医学界に対するガレノスの仕事の関係は,ヒッパルコス=プトレマイオスの体系が天文学に,またプトレマイオスの地図や仕事が地理学に対する関係とそっくりだ。16世紀や17世紀になっても,またある点では19世紀になっても,あいかわらずそんなふうであった。なんと1821年から1833年にかけて,ライプツィヒでガレノスの著作が22巻ものとして刊行されたが,これがけっして歴史的研究のためというのでなく,医者の教育をめざすものなのであった。」(『西洋科学史T』p.263)


 ガレノスの著作が解剖学のベサリウス,生理学のハーベイが出現するまでは絶対的な権威として,その後も圧倒的な影響力のある医学者として,ヨーロッパ世界に受け入れられていたのは,それだけガレノスの医学体系が見事であり,反駁の余地のないものと考えられていたからだといえます。体系化された学問の実力に圧倒されざるをえない事例だといえるでしょう。
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 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する