2016年03月31日

一会員による『学城』第3号の感想(9/13)

(9)江戸末期に日本が導入した西洋の医学教育とはどのようなものであったか

 今回取り上げるのは、小田康友先生による日本近代医学教育史に関する論文である。ここでは、医学教育とは何かがその原点から説かれ、現代の医学教育の欠陥が指摘される。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトル・リード文・目次を示しておく。

小田康友
日本近代医学教育百五十年の歴史を問う(2)
─医学教育論序説─

 歴史を概観した前回をふまえ、今回は医師養成が徒弟修業から西洋式学校教育へと移行した、近代化の原点に焦点を当てる。歴史の原点を問うことにより、改革の指針となる「医学教育とは何か」が一般性として浮上する。

 〈目 次〉
はじめに―歴史の原点を問う意義
一、医学教育界における歴史軽視の構造
二、江戸末期の医学教育の大転換
 (1) 漢方主体の日本古来の医療と西洋医術受容の背景
 (2) 徒弟修業による経験的医師養成―その長所と限界
  A 徒弟的医師養成の現実
  B 徒弟的医師養成の限界
 (3) 長崎・海軍伝習所の教育改革
  A 系統的医学教育の誕生
  B 徒弟教育から近代医学教育への発展の必然性
三、近代化の原点に問う医学教育の構造
 (1) 医学教育とは何か
 (2) 原点から見た現代の医学教育

 本論文ではまず、前回の内容として、現代の医学教育改革には研究至上主義に至った必然性を歴史に問う視点に欠けることを歴史の流れを概観することで検証したことが確認された後、今回は江戸末期に西洋式学校教育が導入された過程に焦点を当てて、医学教育の論理(「医学教育とは何か」)を導き出していくとされる。そして本論で目指すのは、単に歴史にかかわる個別的事実の蒐集やロマンにとどまるものではなく、科学的方法論を駆使した医学教育の歴史の究明であることが述べられた後、江戸末期に至る医療と教育史が概観される。古来日本では、中国から伝わった伝統医術を熟成させ独自の医療を実践してきたこと、医師養成が徒弟的に行われていたこと、16世紀半ばから西洋医術が受容されてきたこと、銃弾や爆薬による外傷、伝染病への対応から西洋医術が全面的に導入されたこと、それは教育制度の大転換をも必要としたことが述べられるのである。ここで徒弟制度に関して、その長所と限界が問われる。すなわち、師匠のもとに弟子入りし、仕事を覚える中で師匠の業を受け継ぐという徒弟制度においては、師と生活そのものを共にし、師の人格や小社会での規範を含めて、必要なすべてを渾然一体として教育されたこと、往診においては、患者の生活過程を丸ごと把握するものとして教育されたことなどの長所があった反面、こうした経験的修業過程において創出される医術は、局所的(経験を超えた未知の対象には応用できない)・個人的(「カン・コツ」レベルの能力である)であるという限界があったというのである。そこで、長崎の海軍伝習所で行われた教育改革が示される。ここでは、実践からではなく教室での講義から教育が始まり、系統だった文化遺産の習得が行われたのであり、加えて基礎実習、臨床実習も行われたというのである。そして、徒弟教育から近代的医学教育への発展の必然性として、文化遺産の膨大化と社会的要請が挙げられ、最後に医学教育とは科学的医学体系に導かれた医術教育(いかなる患者の病気でも診断し治療できる技を身につけている医師の養成)であることが技能と技術の違い、医学と医療の違いに触れられながら説かれ、こうした観点から現代の医学教育は、この原点を完全に見失っていると結論されるのである。

 この論文に関してまず取り上げたいことは、江戸末期の教育改革として取り上げられている内容に関わってである。従来は、徒弟制度のもとで、師に弟子入りをして、生活を共にしながら師の技を盗み取るという教育方法(?)がとられていた。しかしこれでは、膨大化する文化遺産を継承させ、もって実力のある医師を養成することができない情況が生れてきたのであった。未知の対象にもそれなりの筋を通して診断と治療とができる医師を養成するためには、経験的で局所的・個人的な徒弟制度ではもはや通用しない現実があったのである。そこで採用されたのが、ヨーロッパの医学教育方法であった。これは、医学とされる膨大な文化遺産を、全体的に、順序だてて、系統的に教育するものであった。専門教育に先立って、医学究明の基礎科学が教育され、専門教育においても、まずは人間が生きている仕組み(解剖・生理)を教えた上で、その歪みである病気の仕組み(病理)を教え、その後で初めて病気の診断法、治療法などが教育されたというのである。これは学問への道を歩む上で、非常に重要なことを示唆していると思われる。

 どういうことかというと、まずは究明すべき対象の全体像を押えた上で、さらにその中身に関しても、基礎となる部分を系統的に学んでいく必要がある、ということである。そのためには、科学的医学体系のような学問の全体像、構造論が解明されている必要があるのであるが、少なくとも、まずは一般教養をしっかりと学ぶべきだという教訓は得られると思う。さらに、私の専門分野である言語学にしても、一般教養を学んだ上で究明すべきは、言語とは何かということであって、これが歴史的に如何に問われてきたのかも含めた言語の全体像の把握である、ということはいえそうである。つまり、例えば、日本語のある特定の文章における「それ」という指示詞は何を指し得るかとか、「それ」という言語が一部地方では「ほれ」といわれるようになったのは音声学的に云々とか、そんないわゆる大学で研究されているようなことは全く二の次三の次なのである。実力ある医師を育てる教育方法と同様、学問を志すのであれば、まずは全体をアバウトにでも把握し、その上で、究明すべき対象の大きな構造へと踏み込んでいく必要がある、ということである(このことは、前々回に説いた「学問」と「研究」とにおける頭の働かせ方の違いに通じるものである、つまり、対象を大きく括っていく、共通性を探っていくという頭の働かせ方か、対象の細かい違いに着目して、対象を細部に分類していくという頭の働かせ方か、という違いに通じるものである)。

 さて、この論文に関してもう1つ触れておきたいことは、「過去の歴史に学ぶ」(p.149)とはどういうことか、ということについてである。そもそもこの論文は、「医学教育とは何か」を明かにするために、その〈原点〉たる江戸末期の西洋式学校教育導入の過程が問われ、さらにそれ以前の徒弟制度の長所と短所も考察されているのである。こうした検討の末に、次のように説かれているのである。

「事実的には絶対に再現することはできない過去の歴史に学ぶということは、論理的に捉え返し現代的に措定することであって、現象的にはまったく異なる教育ともなりうることを忘れてはならない。」(同上)

 つまり、過去の歴史を学ぶとは、過去の事実そのままを繰り返すことでは決してなくて、過去においてなされたことの意味をしっかりと把握して、それを論理的に辿り返す必要がある、ということである(これは、「生命の歴史」にも通じる発展の論理であり、個体発生として系統発生を繰り返すとは、過去の系統発生においてなされた事実そのままを繰り返すことでは決してなく、その内実を論理的に繰り返すことである、ということと同じである)。こうしたことをなすためには、「論理能力」をしっかりと磨き上げ、現象に惑わされずにその論理をしっかりと手繰れる実力が必要になってこよう。こうした学び方こそが、我々には求められているのである。
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2016年03月30日

一会員による『学城』第3号の感想(8/13)

(8)人類の系統発生における論理能力の獲得と発展過程とは如何なるものか

 今回取り上げるのは、諸星史文先生と悠季真理先生による医学の歴史に関する論文である。この論文では、通常“医学の父”とされるヒポクラテスの実力の内実が説かれていく。

 本論文の著者名・タイトル・リード文・目次は以下の通りである。

諸星史文
悠季真理
学問形成のために問う医学の歴史(3)
―医学史とは何か―

 本稿では、本来の医学史の具体を説いていく。まずは、通常の医学史で常識とされている「ヒポクラテスは医学の父である」という説に対して、本来の医学史からすれば医学の父とは呼べないことを、医学とは何かをふまえ、『ヒポクラテス全集』の原典に基づいて事実的に示していく。

 〈目 次〉
一、前回までの内容
二、ヒポクラテスは本当に「医学の父」なのか
三、『ヒポクラテス全集』の概観
四、『ヒポクラテス全集』から見てとれる、認識の発展の三段階
五、医学史において『ヒポクラテス全集』はどう位置づけられるか

 本論文ではまず、医学体系の確立とそれによる医療体系の確立化のために医学史を問うことが本稿の目的であることが確認された後、通常“医学の父”といわれるヒポクラテスが本来の医学史からみてどのように位置づけられるのかを検討していくとされる。まず、結論として、ヒポクラテスは“医学の父”ではないと述べられ、それはヒポクラテスがなしたことはあくまで医療実践であり、医療に関わる対象についての事実レベルの把握であったからだと説かれる。そして、ヒポクラテスが実際にどのようなことを行なったかに関して、『ヒポクラテス全集』を概観しつつ考察されていく。初めに、『ヒポクラテス全集』が膨大な範囲にわたっており、事細かに具体的な知識が書かれていることが確認され、この医療に関わっての事実レベルの記述が、大きく3つのレベルに分けることができるとされる。1つは、個々の病人に関わっての事実そのものの記述(今でいうカルテのようなもの)であり、第2は、もう少し一般的に病状などを捉えられるようになるレベル(昏睡はどんな場合でも悪い、など)であり、第3の段階は、医療に関しての諸々の事柄についてより一般性レベルで把握できるようになってくるもの(病気の回復は食事や入浴、労働ないし休息、睡眠等々によるものである、など)であるとされる。しかしこれらにしても、医術について一般論レベルで説けているわけではないと説かれ、一般論レベルで対象を説くということの実例として、アリストテレスの「自然」や「弁証術」に関する記述が紹介される。そして最後に、ヒポクラテスはようやく医術らしきものを創れた段階にすぎず、アリストテレスが構築しえたような現象論段階には達していない以上、ヒポクラテスは医学という学問を生み出したわけでもその構想を示したわけでもなかったと結論される。

 本論文で注目したいことは、『学城』第3号全体を貫くテーマとして設定した「論理能力の生成発展」過程に関して、ここでは人類の系統発生として説かれているという点についてである。諸星先生と悠季先生は、ヒポクラテスがその著作において、医術とは何かという一般論を提示できたわけでもないし、医学の構造を論理的に示せたわけでもないことについて、以下のように述べておられる。

「このことは、一般的に学問の歴史の流れからも、およそ推測できることである。すなわち、古代ギリシャにおいては、ソクラテスからプラトンを経てアリストテレスに至って、ようやく学問らしきものができてきたのである。ということは逆にいえば、アリストテレス以前には、まだ学問の構想を示すことができるほどにも人類の認識は発展していなかったということなのである。ヒポクラテスはソクラテスとほぼ同時代の人物であり、あくまでもアリストテレスに至る途上に位置していることから、ヒポクラテスが医学という学問の構想を示せなかったことは時代的にみても当然であったのである。」(pp.118-119)

 ここでは、学問というものは事実を事実として並び立てることではなくて、対象とする事実に共通する性質を把握した論理の体系であって、この学問へと至る人類の認識の発展は、古代ギリシャにおいて、ソクラテスからプラトン、アリストテレスに至る過程においてようやくにして達成されてきたものであり、ソクラテスと同世代のヒポクラテスにおいては、まだまだ対象とする事実の直接の反映を論理として一般的に括るような認識の実力には、足を踏み入れたばかりであって、学問の構想などという高度な認識的実力を要するものを提示するまでには至っていなかったのだ、ということが説かれているのである。簡単にいえば、「論理能力の生成発展」過程というものは、そう簡単に辿れるものではないのである。

 では、それでも「論理能力」を身につけ、それを向上させていこうとする場合には、一体どのような過程を経る必要があるのか。このことに関しても本論文では、『ヒポクラテス全集』の記述の3つのレベルからアリストテレスの一般論レベルの把握へという流れ(4段階)として説かれているのである。まず、『ヒポクラテス全集』の記述における第1段階として、個々の病人についての具体的病状が事実として記載されているという段階が述べられ、次に第2段階として、肺炎の場合はこういう特徴があるとか、昏睡はだいたいの場合悪い結果になるとかいった形で、個別性を括って特殊性として把握したような段階があることが説かれ、そして第3段階として、病気の回復が何によるものなのかとか、医術をどんなものとして考えているかとかいった形で、より一般的な把握を行う段階があるとされている。そしてさらにアリストテレスの段階(第4段階)に至ると、究明すべき対象をまずは一般的に述べ、その対象に関わって諸々に現象しているものに筋を通す形で論じようとする段階にまでなることが説かれているのである。

 この人類の系統発生における「論理能力の生成発展」過程を、人間の個体発生における「論理能力の生成発展」過程として、つまり自分自身が「論理能力」を如何にして身につけていくのかという観点で捉え返すと、どのようなことに注意すべきだということになるだろうか。まず確認しておく必要があることは、事実を事実としてきっちりと把握する必要がある、ということである。学問や論理能力の出発点は、あくまでも事実であって、ここを学問の原点としてしっかりと押さえておく必要があるわけである(第1段階)。次に、その把握した事実をある範囲で括ってみて、それらの事実に共通する性質を論理として掬い出す必要がある、ということである。これは例えば筆者の専門分野である言語に関していえば、〈動詞〉とは事物の属性について表現したもので、〈名詞〉とは事物の実体について表現したものだ、と規定するようなものである(第2段階)。そして次の段階になると、第2段階で括った把握をさらに一般的に、より高い視点から括る必要があるのであり、これは言語学でいえば、言語とは認識と関わりのあるものであるというような把握になるだろう(第3段階)。さらに最後の段階では、対象とする事実全てを貫く性質を一般論レベルで把握する必要があるのであって、これは言語学でいえば、「言語とは、精神的交通を概念レベルで精密に行うことによって、社会的労働を維持発展させられるよう、社会的認識たる言語規範を媒介して行われる表現(音声や文字など)である」などの一般的な規定を与え、ここから対象である言語の諸々の事象全てに筋を通して論じていくということになるだろう(第4段階)。

 以上のように、本論文からは、「論理能力の生成発展」過程においては、まずは事実を事実としてしっかりと捉え、そこから論理を抽出し、論理を立体的に位置づけ、さらには一般論を把握していくという流れが必要である、ということをしっかりと学ばなければならないのだと思う。個体発生は系統発生を繰り返す必要があるのであるから、しっかりと歴史の論理に学ぶ必要があるのである。
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2016年03月29日

一会員による『学城』第3号の感想(7/13)

(7)研究と学問の違いとは何か

 今回は、本田克也先生、P江千史先生によるウィルヒョウ『細胞病理学』を扱った論文を取りあげる。ここでは、現代の大学における研究至上主義の問題点が説かれていく。

 以下に、本論文の著者名・タイトル・リード文・目次を提示する。

本田克也
P江千史
ウィルヒョウ『細胞病理学』なるものを問う(上)
─研究至上主義は学問への道を断つ─

 大学における学問不在の研究至上主義の現状は、遡れば近代病理学の祖とされるウィルヒョウ『細胞病理学』なるものにその源流をみることができる。今回はそれがなぜかを論じるために、その書の内容を概観する。

 〈目 次〉
 (1) 大学における研究至上主義の現状
 (2) ウィルヒョウとその時代
 (3) ウィルヒョウへの評価
 (4) ウィルヒョウ『細胞病理学』なるものを概観する

 本論文では、現在の大学では研究至上主義が横行しており、医学と医療の区別すらつけられないでいる現状があることが説かれた後、現在の研究至上主義のレールを敷いたウィルヒョウを取り上げ、学問不在の研究至上主義が趨勢を占めるに至った過程とその成否を説いていくとされる。ウィルヒョウは19世紀ドイツの病理学者であり、ドイツ医学がかつてないほどに低迷していた時代に、ドイツ医療の大躍進を支えたミューラーの弟子として、「細胞学説」(「総ての細胞は細胞から」という説)などの大きな発見をしたというのである。そして、多くの業績をあげたことに対する大きな評価がある一方で、ウィルヒョウが学問としての医学において果した役割を明かにするために、『細胞病理学』なるものの内容が検討されていく。まず、この題名が原著の題名とは大きく異なり、忠実に訳すなら「細胞病理」でしかない(つまり学問ではない)こと、また本書は講義録に基づくものであることが確認され、続いて「細胞はつねに細胞からしか生まれない」という発見に基づいて、疾患には必ず細胞の変化を伴うとウィルヒョウが考えたことが述べられる。そして、ウィルヒョウが総ての病理的組織は生理的組織から連続的に生ずるものだとしたこと、体液病理説(血液の変化に病気の原因を求める説)と神経病理説(身体を一個の統一体たらしめるものは神経系統であるとする説)を批判したこと、生命活動を個々の細胞へと細分化し細胞レベルで「病理学的現象」の事実に入っていったことが説明される。そして最後に、ウィルヒョウが生命体をどのように捉えたのかについて、「総ての動物は生命ある単位体の一個の総和である」という主張が紹介され、これが人間とは何かを解明する最大の障壁だと説かれるのである。

 本論文でまず取り上げたいのは、「研究」と「学問」が対比的に捉えられていることについてである。本論文では、今の世界中の大学において、「学問不在の研究至上主義が趨勢を占め」(p.100)ていることが説かれ、この情況では本当に実力ある医師を養成することができないと述べられている。それは、「医療研究はあくまで「個別の病・治療に密着した直接的事実の究明」のためになされるもの」(p.99)であるのに対して、「医学とは、病の形成過程と回復過程の構造を一般的にとらえ、病とは何か、それに働きかける治療とは何かを体系化した認識であり、科学である」(同上)からである。つまり、「研究」というものは、事実を細分化していって新たな事実を追求していくものであるから、個々の具体的な事実が異なれば全く役に立たないのに対して、「学問」というのは、対象とする事実から論理を導き出し、それを理論化し、体系化していくものであるから、医療実践において「大きな指針として、見事に役にたつ」(同上)からである。

 この「研究」と「学問」とでは、頭の働かせ方も大きく異なってくる。どういうことかというと、「研究」の過程においては、個々の事実の違いに着目して、対象をヨリ細かく細かく分析していくというような、個別性・具体性を追求していく頭の働かせ方が必要になってくるのに対して、「学問」の構築過程においては正反対に、個々の事実に共通する性質に着目して、対象を論理的に大きく括っていくような、一般性・抽象性を追求していく頭の働かせ方が重要となってくるのである。そして医師の実力としてどちらが必要かといえば、これも後者ということになってくるのである。逆にいえば、だからこそ現状の研究至上主義がこの論文では大きく批判されているのである。

 この問題は、『学城』第3号全体を貫くテーマとして設定した「論理能力の生成発展」ということにも大きく関わってくるものである。つまり、学問を構築するために「論理能力」を向上させるには、細かな事実に関わって、あれこれと違いを詮索するのではなくて、具体的な事実に共通する性質を追求し、それを認識に掬い上げた論理を求めなければならないのである。しかも、論理を把握するというこの学問的作業は、単に1回きりのものでは決してなく、対象とする事実の全ての領域に関して、立体的に論理を追求していくべきものであるから、常に頭の働かせ方をこうした論理を把握できるような構造にしておく必要があるのである。端的にいえば、違いに着目するのではなくて、共通性を掴もうとするような方向性に頭の働かせ方を向けなければならないのである。

 大きな視点から見れば、現在の大学全体が個別の事実の違いに着目するような方向に向かっていて、これでは真の学問は創出しようがないという情況をしっかりと踏まえ、本当の意味での学問、現実の問題解決の指針となるような学問を構築するためには、本論文で説かれているような、事実の共通性に着目し、それらを大きく括って論理化し、さらにその論理をまた一段高い視点から括って理論化し、本質論に統括された学問体系へと構築していくことこそが必要になってくる、ということである。そしてこの道を歩んでいくことが直接に、「論理能力の生成発展」の道であるということである。

 もう1つ、この論文で触れておきたいことは、ウィルヒョウの主張である「総ての動物は生命ある単位体の一個の総和である」(p.113)という主張についてである。このウィルヒョウの「細胞原理」こそが、「医学の対象論となる人間とは何かを解明するうえで、最大の障壁ともいえるものであった」(同上)とされているのであるが、これはどういうことかということである。これは端的には、形而上学的人間観というべきものである。個々の細胞が集まって一人の人間を形作るという発想であって、個々の人間が集まって契約によって社会をつくるのだという社会契約説にも通じる考え方である。しかし、本来人間は全体で1つであり、脳に統括された全身のあり方こそがまず問題にされるべきであり、この全体との関係において個々の部分が把握されなければならないのである。脳と骨と筋肉と個々の内臓が集まって人間になったのではなく、もともとは1つの細胞で全てであった単細胞生物が、地球との相互浸透の長い長い過程を経て、体の部分をそれぞれの必要に応じて分化させてきたのである。ウィルヒョウのような把握では、がんになった部分の細胞を手術で切り落とせばがんは完治したとなるのであるが、現実がこのことに反駁しているのである。この点に関しては次号で詳しく展開されるようなので、その論理をしっかりと辿って自らの実力としたいと思う。
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2016年03月28日

一会員による『学城』第3号の感想(6/13)

(6)学問体系を構築するためには論理的な学びが必要である

 今回は、P江千史先生による「医学原論」講義を取りあげる。医師の実力をつけるためには、あらゆる病気に共通する1つの筋道を掴む必要があることが説かれる。

 以下に、本論文の著者名・タイトル・リード文・目次を提示する。

P江千史
「医学原論」講義(第三回)
─時代が求める医学の復権─

 今回は科学的学問体系の構築過程を人類の歴史に尋ねて一般的・構造的に明らかにしたのち、科学的医学体系の本質論・構造論を提示する。そしてその体系にてらし、医学書の内容は現象論にもとどかないことを論じる。

 〈第三講 目次〉
 (1) 第二講の要旨
 (2) 科学的医学体系は時代の要請である
 (3) 学問体系は本質論に統括される論理の大系である
 (4) 論理能力の養成に逆行する医学教育の現実
 (5) 科学的医学体系の本質論と構造論
 (6) なぜ「生理論」ではなく「常態論」なのか
 (7) 現象論にもとどかない医学書の内実
 (8) 医学書には事実の羅列しかない

 本論文ではまず、前回の要旨として、「科学的に体系化された医学」を説くために、「科学的医学体系」と「医療実践」と「医学教育」の関係が整理されたことが述べられた後、「学問体系とは何か」が説かれる。それは現実の世界の事実そのものから論理を導きだし、理論化し、体系化することによって構築される観念(本質論に統括される論理の大系)であって、現実の実在の世界と何重もの構造をもったつながり(時代の要請という側面があることなど)があるということである。さらに、本質論に統括された学問体系を構築するためには、論理能力を養成する必要があるが、医学教育においては、事実の違いに着目し、その違いを暗記するという教育がなされていることが述べられる。しかし本来であれば、まず病気としての共通性である本質を理解させ、そのあとでそれぞれの病気の特殊性を教えるべきだとされる。その上で、「科学的医学体系」とは何かが説かれていく。医学とは「人間の正常な生理構造が病む過程と、病んだ生理構造の回復過程を統一して究明する学問」であって、「常態論」を礎石として、その上に「病態論」と「治療論」が成立する構造論を持っているということである。しかし、医学教育に使用される教科書は、構造論どころか現象論にもとどかないレベルで、病気の事実が羅列されているだけだと述べられる。そして最後に、次回の講義で学問体系としての現象論が説かれることが述べられる。

 この論文に関して取り上げたいのは、事実と論理の区別と連関に関してである。初めに、そもそも事実とは何かといえば、「実際にあること、あったこと」であり、論理とは何かを示せば以下の通りである。

「論理とは何かといえば、対象とする事物・事象のもつ性質を一般性として把握したものである。もっと正確には、事物・事象の現象レベル、構造レベルの性質を一般性として把握したものである。」(p.88)

 つまり、端的にいえば、事実とは現実の実在の世界に起ったことであるのに対して、論理とは認識の世界での概念である、という違いがあるのであり、しかし一方で、論理は事実の中から導き出されるものである、というつながりがあるのである。以上を踏まえて、P江先生は、現代の医学教育のあり方を批判されるのである。

「医学を科学的学問体系として構築するためには、このように現象的にはまったく異なる病気に貫かれている、共通な性質を導きだすという論理的な作業をくり返し、最終的には、ありとあらゆる病気を貫く共通の性質である、病気とは何かの本質を導きだすという過程が必要なのである。

 ところが現代の医学教育には、そのような病気の共通性に着目させる視点はまったくなく、それぞれの病気の、現象的に違う事実だけに着目し、その違う事実を深く深くほりさげて教えているのである。このような事実の違いは、探そうと思えば、無限といってよいほどに存在するのであり、現在はその違いの事実の探究は、遺伝子レベルへと進み、医学生は、どの病気はどの遺伝子の異常なのかの知識を、丸暗記させられているのである。」(p.90)

 ここでは、医学という科学的学問体系を構築するためには、知識的な教育(学び)ではなく論理的な教育(学び)が必要であることが説かれている。では、なぜ知識的な教育(学び)ではなく論理的な教育(学び)が必要であるのか。それは以下の通りである。

「現在の医学といわれているものの内実は、理論の大系、すなわち体系ではなく、知識の大系でしかないために、「モデル・コア・カリキュラム」で精選された病気を学べば、それらの病気についての知識は得ることはできても、病気と病気の共通性を学んでいないために、その知識を、それ以外の病気に応用して、役だてる実力はつかないのである。」(p.91)

 つまり、病気の現象的に違う事実ばかりを追っていては医療にならないのであって、どんな病気に対しても一定の診断と治療を行えるという医師の最低限の役割を果たすためには、病気を論理的に把握するという教育(学び)が必要になってくる、ということである。論理的な教育(学び)が必要であるのは、端的には、医師の役割たる診断と治療を正しく行うためである、ということである。

 こうした学び方は、『学城』第3号全体を貫くテーマとして設定した「論理能力の生成発展」のためには欠かせないものである。事実を細かく分類していって、非常に微細な事実にこだわった知識的な学びではなくて、対象とする事実に共通する性質を大きく括っていって、一般性を把握しようとする論理的な学びが「論理能力の生成発展」のためには必要であるということである。具体的にいえば、例えば世界歴史を学ぶにしても、フランス革命は何年何月何日に勃発して、初めはどのような勢力が政権を握り、次にはどの勢力に中枢が移っていって、さらにその勢力内の誰と誰が対立し、誰と誰がどういう目的で協力し、それが誰にどのように影響したかなどと、事実を細分化して詳細に捉えようとするような頭の働きでは「論理能力」は養成できないのであって、そうではなくて、フランス革命が人類の歴史において発生したのはなぜか、それは歴史の大きな流れの中でどのような役割を果たしたのか、そもそも革命とはどういうことか、歴史とは何かといった対象のあり方を抽象化して捉えようとするような頭の働きこそが「論理能力」を鍛えるためには(さらには学問を創出していくためには)必要である、ということである。私の専門分野である言語学でいえば、ある文章はいくつかの文から成り立っていて、その文はいくつかの文節から成り立っていて、分節は複数の単語から成り立っていて、単語は形態素から、形態素は音素からそれぞれできていて、などと細かく分類していくことが言語学なのではなくて、そもそも言語とは何か、言語規範とは何か、表現とは何かといった大きな観点から言語を問うていくことが言語学なのである。

 この論文で指摘されている現代医学教育の欠陥やそれに対する批判を、自らの学びにとってどのように理解し、どのように生かしていくのか、ここを問うことこそ、他分野への学びでは重要であって、こうした姿勢こそが論理的に学ぶということだろうと思う。
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2016年03月27日

一会員による『学城』第3号の感想(5/13)

(5)文化の発展には「場所の移動」が必須である

 今回も引き続き悠季真理先生の論文を取り上げる。ここでは、古代ギリシャのポリス社会が如何にして誕生していったのか、その過程性の構造が論じられていく。

 以下、本論文の著者名・タイトル・リード文・目次を掲げておく。

悠季真理
古代ギリシャ哲学、その学び方への招待(3)
―ポリス社会が誕生するまでのギリシャ小史―

 古代ギリシャの社会は、文化の中心となる場所を移動しながら、先人たちの文化を継承し、さらにそれを独自に発展させていくという過程を何重にも積み重ねて形成されていった。今回と次回はその歴史的過程を説く。

 〈目 次〉
 はじめに
一、オリエントからギリシャへ、そしてさらにギリシャ内での場所の移動による文化の発展
二、キュクラデス諸島を中心とした文明
三、クレタ島を中心とした文化の発展
四、クレタからミュケナイへ
(以下は次号)
五、北方からの新たな部族の移動
六、植民活動の拡大と、その中でのフェニキア人との出会い
七、フェニキア人の成り立ち
八、ギリシャはフェニキアから何を学んだか
九、植民活動の過程でギリシャが身につけていったものとは―ポリスの原基形態の誕生
おわりに

 本論文では、まず、ギリシャ哲学を理解するために、ギリシャ哲学が産み出される母体となったポリス社会とはどのようなものであるか、どのように創られてきたのかを、ギリシャがオリエントから何をどう学んだのかを中心に説くことが本稿の目的であることが述べられる。そして、古代のギリシャ人が、当初は自分たちよりはるかに進んでいたオリエントの文化に対して、驚き憧れる中で必死にその文化を吸収していったことが説かれた後、ギリシャ文化が中心地としての場所を移動しながら徐々に発展していった過程が説かれていく。第一の段階は、小アジアからギリシャへ農耕や牧畜などが伝わっていった時代で、青銅器文化もギリシャへと伝播する時代になると、多くの貴重な鉱物資源があったキュクラデス諸島を中心に文化が栄えたと述べられている。ここでは、鉱物資源を提供する代わりに得た資源で、さまざまな武器や農具を作る術を身につけていったことが説かれている。そして第二の段階は、クレタ島を中心としてオリエントとの貿易を発展させ、クレタ人が東地中海に支配権を拡大していく時代であるとされる。ここでは、エジプトに学びつつもエジプトを超えるような造船技術が高められていったと述べられている。さらに第三の段階は、ギリシャ本土のミュケナイに文化の中心が移っていく時代であって、ここでは、自分達の拠点を守るために、武器の精錬法や武具の改良が必死になってオリエントから吸収されていったこと、農業の発展についてもオリエントに学び自分たちの風土に合うように創り変えられていったことが説かれていく。

 この論文に関してはまず、「人間は歴史性を持つ」(p.70)と述べられていることに注目したい。オリエント文明が次第にギリシャへと伝わっていった理由について、文化的な先進地域が後進地域へ植民や侵略という形で社会的交通関係を徐々に創り上げていくからだけではないとして、次のように説いておられる。

「人間は認識的な実在であり、常に目的を持ち、それを実現する過程を経て、その人らしい人生を創りあげていく存在である。そしてその過程においては、常に現実の自分に満足することなく、さらなるレベルアップを望み、かつそのレベルアップに挑み、そしてそれを実現することによって、より見事なレベルの自分へと発展していく存在である、ということである。これを別の言葉で一般的に言えば、人間は歴史性を持つということである。」(同上)

 つまり、単に地理的条件によって隣接していて、一定の社会的精神的交通関係が創り上げられたからといって、必ずしも文化が伝承されるものではなくて、そこには人間の本質が深く関わり合っているということである。そして、その人間の本質とは何かといえば、「認識的な実在」であるということであって、これは他の動物と違って人間は目的をアタマの中に描いて、それに向かって行動するということである。しかもこの目的にしても、いつまでも同じレベルにとどまるようなものではなくて、常に上の目的を描いて、次から次へとその目的を実現するとともに新たなる目的像を描いていく、これが人間というものである、ということである。

 この過程においては、前回説いた「丸ごと」相手の文化を受け入れるという姿勢、つまり「最初はその実力はきわめて幼いながらも、幼いからこそ先進文化に強烈に憧れ、それを必死で吸収していく」(p.71)ことが重要だと説かれている。さらに、こうした文化遺産の継承は、人類の歴史において繰り返しなされてきているのであって、これを端的には、「場所の移動による文化の発展」(p.70)と概念化しておられるのである。しかもこの「場所の移動」は、より生活環境が厳しい場所への移動として、具体的には、「水はけの悪い沼沢地であった内陸貧地」(p.82)などへと移っていくという形をとって、進んでいくのである。しかし、こうした厳しい環境においてこそ、ヨリ見事な文化が形成されていくのであって、これが人間が認識的な実在であるということであり、目的を持つということであり、さらなるレベルアップを望み、挑み、かつ実現していくということの中身であると思う。

 こうした人類の歴史的な発展の流れは、端的にいえば、環境を変えることによってその反映たる像を変えていく(発展させていく)ということであって、同じような環境において、同じような反映をし続けるならば、必ず発展から衰退への道を歩むことになるという、認識一般の弁証法性、論理構造を内に含んでいるものとして捉えなければならない。であるならば、この人類の歴史的な発展過程の論理を、個人としての頭脳活動の発展過程の論理として、しっかりと掴みとらなければならないということになる。自らの頭脳活動、「論理能力」を向上させようとするならば、「場所の移動」は必然性であって、これが日本弁証法論理学研究会において後に説かれることになる、"change of the place, change of the brain"の論理であろう。人類の個体発生一般についていえば、例えば、小学校から中学校、高校へと進学していく際に「場所の移動」を伴うことがこの論理の無意識的な反映だといえるし、これを自らの学問を構築していく過程として意識的に捉え返すとすれば、物理的に「場所の移動」を行って、様々な反映をさせながらの学び、例えば合宿を行うときにはいつもと違う環境で行うことを意識したり、山登りをしながら思索したり、海や川で強烈な全身運動を行ったりすることが重要だということになる。さらに、自らの認識の問いかけを意図的に変革すべく、ヨリ高い目標を掲げて実践していったり、今まで想定していなかったような問いを立てて考察したりすることも、問いかけを変えることと直接に反映を変えていくという意味で、論理的な「場所の移動」と考えることもできよう。こうした問いかけと反映とを直接的に変革して、自らの認識の枠組みを突破していくことこそ、「論理能力の生成発展」に不可欠の要素であり、"change of the place, change of the brain"の論理の実践であるといえるだろう。

 さて、もう1つ簡単にでも確認しておきたいことは、哲学が誕生した理由についてである。それは端的には、「ポリス社会の現実の問題を究明する流れの中から生み出された」(p.69)ということである。先にも述べたように、オリエント世界に比べて地理的条件に恵まれていなかったギリシャ世界において、オリエント世界を凌駕するような文化を花開かせるには、「ポリス社会の安寧に関わって、先人たちの築き上げた文化遺産を学びながら、自らの問題とする諸々の対象に取り組み、かつ究明してい」(同上)く必要があったのであって、決して閑人の単なる知的好奇心から求められたものではないのである。ここから我々が学ばなければならないことは、現実の問題に深く関わっての必死の研鑽を通じてしか、諸々の対象を究明する学問を構築していくことはできないのであって、学問は何よりもまず、現実の問題を解くためにこそ! ということを決して忘れてはならないのだ、ということである。学問の原点として、しっかりと押さえておきたいと思う。
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2016年03月26日

一会員による『学城』第3号の感想(4/13)

(4)先進的な文化を丸ごと受け入れることが頭脳活動の発展には必要である

 今回取り上げるのは、悠季真理先生による古代ギリシャの学問に関する論文である。通常の哲学史では哲学の始まりとされるタレスが取り上げられ、当時の時代背景も踏まえて古代ギリシャがオリエントから如何に学んだかの内実が説かれていく。

 本論文の著者名・タイトル・リード文・目次は以下のとおりである。

悠季真理
古代ギリシャの学問とは何か(3)

 今回から二回にわたり、通常「哲学の祖」とされるタレスを取り上げ、この時代のギリシャはオリエントの文化をどのように学んでいたのか、そしてタレスらの実力は学問的にみて本当はいかなるレベルであったのかを論じる。

 〈目 次〉
はじめに
一、これまでの「哲学史」におけるタレスの評価
二、タレスの実力を知るために
三、タレスの生きた時代、オリエントとの関係
四、オリエントとは
五、従来の哲学史におけるオリエントとギリシャの関係についての理解とは
六、タレスと関わりのある地、イオニアとエジプト
七、オリエント文化の学びはギリシャ時代全体を通じて
(以下は次号)
八、オリエントとギリシャの実力の違いとは
九、タレスの出自とギリシャ人によるフェニキア文化の学び
十、タレスの実力とは
 (1) ミレトスの賢人=知者としてのタレス
 (2) リュディア王の軍事顧問としてのタレス
 (3) 日食の予言とそれが可能になったカルデアでの学び
 (4) リュディア王クロイソスの同盟要請の拒否
 (5) エジプトでのタレス ピラミッドの高さを測る
 (6) タレスが考えたとされる幾何の定理とは
 (7) 知者タレスの実践は、単に「知的好奇心を発揮したもの」ではない
十一、アリストテレスは“知者”たちをどう捉えていたか
十二、「自然万有の根本物質は水である」について
 (1) ヘーゲルの理解の是非
 (2) 「すべてのもののはじめは水である」とは

 本論文では、前号で確認された当時のギリシャ世界の形成史を踏まえて、通常の「哲学史」では彼からギリシャ哲学が始まるとされるタレスが取り上げられる。タレスを始めとするミレトス学派は、万物の起源を神に求めるのではなく、自然それ自体にあると考えたからであるという。しかし、万有の根本物質などというきわめて高度のものが当時のギリシャ人に考え出すことができたのか、疑問が呈されるのである。そしてこの疑問を解決するために、タレスの生きた時代の社会の実態が歴史性を踏まえて説かれていく。当時のイオニア地方は、世界文化の先進地域であるオリエントの文化の影響を極めて大きく受ける形で、長期にわたるオリエント地域との地理的、文化的一体性をもって、文化的に育まれていったと述べられ、加えて、オリエントとは現在でいうアジア全体ではなく、古代ギリシャ世界に隣接しているメソポタミアなどを漠然とさす言葉だと注意がされる。さらに、通常いわれているような古代ギリシャの学問とオリエントの文化とを切り離す論述が批判される。ここでタレスと関わりのある地として、まずタレスの生きたイオニア地方が当時としては文化的には突出した世界であったこと(とはいえ、あくまでもギリシャ世界はオリエント世界の周辺地域であること)、次にタレスはエジプトを訪れて先進的な文化を学んだことが述べられる。そして最後に、オリエント文化の学びはギリシャ時代全体を通じてなされたことが、アリストテレスの著作や出自を含めて説かれていくのである。

 本論文に関して取り上げなければならないことは、古代ギリシャとオリエントとの関係についてである。通常、古代ギリシャを学ぶ場合は、その地図としてどのようなものを思い浮かべるであろうか。おそらくはギリシャを中心として、そこに小アジアやエジプトが東側や南側に付随しているものではないだろうか。ところが、実際の当時のあり方からすれば、オリエント世界を中心に描いて、その周辺地域としてギリシャを西の端の方に描くという地図が想定されると悠季先生は説いておられる。つまり、文化のレベルとしてはオリエントが圧倒的に優位に立っており、当時のギリシャは文化的には相当遅れた辺境地域でしなかったということである。

 しかしここで問題になってくるのが、その当時のギリシャ文化の幼さであると悠季先生は述べられるのである。

「当時文化的には幼かったがゆえに、その幼いレベルでしかなかったギリシャは、突出した先進地域であるオリエントの文化を丸ごと受け取ることが可能となっていき、そしてそれを学んだ後に、オリエントの文化を内に含みつつも、それはと質的に異なったギリシャ独自の文化を見事なものとして成長させていくことが可能となっていったのである。」(p.46)

 どういうことかというと、後に古代ギリシャで学問が発祥したといわれるまでのレベルに達したその要因は、単に世界文化の中心地であったオリエント世界の周辺地域にギリシャが位置していたという地理的条件のみならず、圧倒的な文化レベルの差により、ギリシャがオリエントの文化を「丸ごと」受け入れざるを得ないほどの文化的条件にあったのだ、ということである。隣接する地域に圧倒的な文化レベルを誇るオリエントが存在したことは、常にそのオリエントの支配を受けつつも、何としてでもそうした文化レベルの高みへと辿り着きたいという強烈な憧れをギリシャに抱かせたのであり、この強烈な憧れに規定される形でオリエントの文化を「丸ごと」受け入れることが可能であったのは、ギリシャの文化が非常に幼かったがためである、ということである。

 これがもし、それほど大差のない相手が文化的に中心的な役割を担っていたとしたら、またもし、自らの文化レベルにそれなりの自負があるほどにギリシャの文化が成熟していたとしたら、素直に(?)相手のいうことを受け入れられたであろうか。ましてや「丸ごと」(=その時点での自分の立場を一切捨て去って)相手の文化を受け入れることなどできたであろうか。答えは「否!」である(当然、こうした場合においても、相手の優れた部分を自分のものとして吸収しようとすることはあったに違いないが、それは「丸ごと」という態度とは本質的に異なるものである)。そしてこの「丸ごと」ということが、頭脳活動の発展にとっては非常に重要になってくるのである。

 そもそも人間の認識というものは、外界の対象の反映たる像を大本として成立するものである。そして、その反映した像が積み重なっていって、またそこから外界の対象を反映しようとする(問いかけ的反映)のである。こうした反映の繰り返しの上の繰り返し、それに重なる形での問いかけの繰り返しの上の繰り返しによって、ある対象を反映させるにしても、その人なりの反映となっていくのである。つまり、個性的反映、個性という枠組みを持った像となるのである。これが通常の大人の場合である。ところが、これが幼い子供であったのなら、個性とよべるレベルにはまだ到達していない認識であって、いわば柔軟に対象を反映させることができるのである。古代ギリシャは、当時の世界文化の中心地であるオリエントと比べればはるかに幼い文化レベルであったため、いわば大人に教えを受ける子供のように、全てを正しいものとしてオリエントの文化を学ぶことができたのであり、このことが後の学問創出につながっていったのである。

 個人の「論理能力」を向上させ学問を構築していく場合においても、以上の論理が応用できる。どういうことかというと、個性という枠組みを持った像しか形成できないまでに成熟してしまえば、外界の対象の反映がいわば固定化されてしまい、いずれこの枠組みが認識の発展の限界として作用してしまうことになるのである。ここで、圧倒的なレベルの差がある論理を学ぶ場合、オリエントの文化に対して古代ギリシャが行ったのと論理的に同様の過程を辿る必要がある。つまり、「丸ごと」受け入れる、すなわち今の自分の枠組みを否定してその学ぶべき論理に頭脳を適応させる形で自分の頭脳活動を変革していくことによって、自らを閉じ込めていた枠組みを突破する必要があるのである。「相手の優れた部分を自分のものとして吸収しようとする」レベルでは、いわば今の自分の認識を土台にして、それにプラスアルファしようとしているのであるから、自らの認識の枠組みに規定されて、大きな進展は見込めないのであるが、外界の反映を決定的に変革すべく、今の自分を棄てる覚悟で、新たな認識の枠組みを創造することこそが、特に受験勉強によって知識的な頭脳活動しか展開できない「秀才」にとっては、「論理能力の生成発展」にとっての決定的な役割を果たすことになるのである。古代ギリシャがオリエントの文化に学んだ際には、強烈な憧れに規定される形でオリエントの文化を「丸ごと」受け入れることをいわば無意識的に行ったのであるが、個人が「論理能力」を向上させようとする際には、この「丸ごと」受け入れるという過程を意図的に行っていく必要があるということである。

 歴史的=論理的な学びとはこのようなことであって、「論理能力の生成発展」をこそ目指すものであって、単なる知識の集積ではないのである。
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2016年03月25日

一会員による『学城』第3号の感想(3/13)

(3)国家論はどのように発展してきたのか

 今回は加納哲邦先生の国家論論文を取り上げる。この論文では、国家論の歴史の主要な流れが概観され、最後に国家の概念規定が示される。

 本論文の著者名・タイトル・リード文・目次は以下である。なお、『学城』誌上では、目次はなく、本文に項番のみ振られているため、その項番に私なりにタイトルを付して目次とした。

加納哲邦
学的国家論への序章(3)
―マルクス主義の「国家論の歴史」を問う―

 国家論の歴史の主要な流れに沿って、ヘーゲル、マルクス・エンゲルス、レーニン、三浦つとむ氏、滝村隆一氏の国家の把握を簡潔に取り上げ、国家の正しい概念規定がなされていないことを説き、終わりに筆者の概念規定を示す。

 〈目 次〉
 (1) 前回のまとめ
 (2) ヘーゲルは法としての国家の実体を説いた
 (3) マルクス・エンゲルスは国家は死滅すると説いた
 (4) レーニンは国家を暴力機関と捉えた
 (5) 三浦つとむは国家意志こそ国家そのものであるとした
 (6) 滝村隆一は国家を〈広義の国家〉と〈狭義の国家〉とに区分けして把握した

 本論文では、ヘーゲル『歴史哲学』における国家の記述の意味を問うた前回の内容が確認された後、再度ヘーゲルから滝村氏への国家論の流れが概観されていく。ヘーゲルについては、『法の哲学』における国家の規定が引用され、それをヘーゲルの学問体系から解き、唯物論的な言葉で説きなおされている。ただし、この概念規定はあくまでも法としての国家の実体を説いたものであって、国家論として説いたものではないことが確認される。次にマルクス・エンゲルスであるが、彼らは一切の社会的変化と政治的変革の究極の原因を経済のうちに求め、ヘーゲルが「具体的自由の現実性」として説いた国家を、「被抑圧階級を抑制し搾取するための手段」と位置づけ、生産手段を社会全体のものにする労働者階級の革命によって死滅するものだとしたとされる。この学説を受け継いだレーニンについては、自らの経験や立場に規定されて、国家を暴力機関と捉えたこと、これは国家の一機能にすぎないもの一般化してしまっていることが説かれる。この国家暴力機関説に対して、「国家意志説」が次に取り上げられる。三浦つとむはエンゲルスの記述をふまえて、国家は国家意志を介してでないと行動できない、国家意志こそが国家そのものであると主張したと説かれる。そして、この「国家意志説」に対して、滝村氏が国家Macht説を構築したとして、その中身が説かれていく。滝村氏は国家を国家(〈広義の国家〉)と国家権力(〈狭義の国家〉)にしっかりと区分けし、その統一こそが国家であるとしたことが述べられる。しかし、学問的見地からは、国家の概念規定は唯1つでなければならないとして、最後に著者の国家の概念規定である「国家は社会の実存形態である。」が示される。

 本論文においても、まず取り上げなければならないことは、『学城』第3号全体を貫くテーマとして設定した「論理能力の生成発展」ということに関わっての問題である。前回、近藤論文を取り上げて、「論理能力」を養っていくためには具体的にどのような研鑽を行っていくべきかとして、「ヘーゲルやマルクス、さらにはクノーやレーニン、三浦つとむや滝村隆一の国家学説に関して、歴史的=論理的な発展過程を自らの一身において繰り返す」必要があることを説いた。本論文において加納先生は、まさにこの研鑽を実地に積んでこられたことを証明しておられるのである。

 ここでもう少し突っ込んで、国家学説の流れを歴史的=論理的に一身に繰り返すことの意味を整理しておこう。どのような学問の発展過程であれ、人類はそれまでの学説を充分に検討し、論理的な弱点を克服して、新たな学説を打ち立てる流れを辿ってきている。その原点に立ち返れば、そもそも古代ギリシャにおいて、外的世界の対象の反映たる像から徐々に論理的な像へと頭脳活動が発展していったのである。つまり、直接反映した像から自らが創造した像へ、それも外的世界の対象のあり方から相対的に独立した論理的な像の形成へと、認識の実力を向上させていったのである。

 こうした人類の系統発生における認識の発展、学説の進歩は、論理能力を創出し発展させてきた過程と直接の関係にある。つまり、外的世界の対象とする事物・事象の共通性を一般性としてどれ程に把握し得るかという実力こそ、学問の発展の大本であり論理能力そのものなのである。人類は、論理能力を創出し発展させていく過程を通じて、諸々の学問における学説を徐々に徐々に発展させてきたのである。

 こうした認識の発展過程については、学問の創出を志す個々の人間の個体発生においても必要不可欠である。逆にいえば、個体発生は系統発生を論理的に繰り返すことによってこそ、学問の創出が可能な頭脳活動を手に入れることができるのである。だからこそ、どのような学問を志すにしても、その発展過程について、大きな流れとして(時には後退する場面もあるがそれらは捨象して)、歴史的=論理的に一身に繰り返す研鑽過程が必要となってくるのである。

 ではなぜ、他の学問分野ではなくて、国家学説の流れを繰り返す必要があるのか。この問題についても前回説いた通り、端的には、「国家の体系性と学問の体系性との間には大きな共通性がある」からである。つまり、国家という対象の論理性を把握することは、学問を論理的、体系的に創出していく上で大きな役割を果たすということである。このことを本論文では、実際に行っておられるのである。

 では、ヘーゲルから滝村氏、さらには加納先生に至る国家学説の大きな流れについて、具体的にどのような論理的な発展があったのだろうか。現時点で筆者が把握できたことを述べると以下の通りである。

 まずヘーゲルにおいては、国家を「絶対精神」の自己運動という側面から把握したことが挙げられる。これはヘーゲルにおいては国家の把握に限らず、世界の全てを「絶対精神」の自己運動から展開していることからして、当然の把握である。そしてヘーゲルは、国家の完成を「具体的自由の実現性」、つまり真の自由が現実のものとなるのは国家において他にないと捉えたのである。

 これに対してマルクス・エンゲルスは、国家を「被抑圧階級を抑制し搾取するための手段」として把握した。彼らは唯物論の立場に立って、経済的構造が国家のあり方を規定すると考え、当時資本主義の矛盾が激化して、労働条件の悪化、労働者の貧困化が極度に進展した情況において、資本家階級の労働者階級への抑圧を国家の本質的なあり方が現象したものと捉えたのであった。ここから、国家権力こそが国家であると規定し、国家は階級分裂によって生じ、プロレタリア革命によって将来的には死滅するものだと主張したのであった。さらにレーニンにおいては、国家を「暴力機関」として捉えるまでになったのである。

 このレーニンの国家=暴力機関という実体的な国家の把握に対して、三浦つとむは「国家意志説」を提唱した。これは、暴力的な抑圧の主体である国家という把握から、国家の行動の契機である国家意志に着目して、支配階級が如何にして支配階級の特殊的利害を社会全体の一般的利害であるかのように偽装して国家意志を成立させるのかという点を暴いたものであった。

 そして滝村隆一であるが、彼はマルクス・エンゲルス以来、これこそが国家であると捉えられてきた国家権力という側面を、〈狭義の国家〉として把握し、これに対して〈広義の国家〉、すなわち国家意志を頂点とする政治的支配=被支配関係の総体をも統一して把握すべきだと主張したのである。端的には、国家を二重性において捉え、〈狭義の国家〉と〈広義の国家〉の統一的把握が国家であるとしたのである。

 最後に加納先生の「国家は社会の実存形態である。」についてであるが、これは滝村の国家に対する二義的な説明を克服し、さらに国家と社会との関係を明確に示したものとして、国家の本質を把握した概念規定である。

 非常に簡単に述べたが、これ以上の詳細については追って考察していくこととしたい。
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2016年03月24日

一会員による『学城』第3号の感想(2/13)

(2)国家の体系性を論理的に把握するとは

 今回から、『学城』第3号に掲載されている各論文について、順次その感想を述べていきたい。

 初めに取り上げるのは、近藤成美先生のマルクス「国家論」に関わっての論文である。ここでは、前号に引き続き社会学者クノーの著作である『マルクス歴史・社会・国家学説』が取り上げられ、マルクスの国家観に対するクノーの批判内容が説かれていく。

 まずは以下に、本論文の著者名・タイトル・リード文・目次を掲載する。

近藤成美
マルクス国家論の原点を問う(3)
―ヘーゲルから継承した市民社会と国家の二重性について―

 本稿では、前回に続いて『マルクス歴史・社会・国家学説』を繙き、ヘーゲルおよびマルクスの捉えた社会と国家について概観する。そして、クノーが見事に指摘したマルクス「国家論」の孕む大いなる欠陥について説く。

 〈目 次〉
はじめに
  C 小括―ヘーゲルの捉えた市民社会と国家
   (a) クノーの説く「ヘーゲルの捉えた市民社会と国家」
   (b) ヘーゲルの「国家」とは何か
 (3) クノーによるマルクス「国家論」の批判
  A 第十一章 国家の発生および発展
   (a) クノーの説く「マルクスの捉えた市民社会と国家」
   (b) 国家の誕生をめぐって
  B 第十二章 マルクス国家観の批判

 本論文ではまず、前回の振り返りとして、クノーが『マルクス歴史・社会・国家学説』において意図したことが、マルクスの国家や社会についての考えの系統立った展開であることが確認され、補足的な説明が加えられる。そして今回は、マルクスの国家と社会をめぐる論説に対するクノーによる批判が検討されていく。マルクスは国家廃絶論を唱えるのであるが、その後にどんな社会が来るのかについて何も提示されていないというクノーの指摘が紹介され、さらにマルクスが階級分化による国家形成を主張したことに対しても、外からの征服による国家の成立という事実が多いのだとクノーが反論したことが述べられる。すなわち、マルクスの国家論が「内的国家」(〈国家権力としての国家〉、〈狭義の国家〉)のみで国家形成を説いていて、「外的国家」(〈社会構成体としての国家〉、〈広義の国家〉)をまったく顧慮していないというのである。だからこそ、マルクスは革命で国家権力を奪取したあとの国家についての構想がなにもないのであって、本来であれば、「外的国家」もしっかりと把握する必要があるとクノーは説くのである。最後に、このクノーの批判は1920年というロシアで革命が成功し社会主義国家が形成されつつある時代になされたのであって、その時代にマルクスの説いた国家や社会について、ここまで詳細な読み込みと系統的な批判を行ったことは見事であると説かれる。

 この論文に関してまず取り上げたいことは、「国家とは何か」ということに関してである。「一会員による『学城』第1号の感想(2/13)」でも述べたが、この「国家とは何か」という問題は、学問の体系性に大きく関わっているのである。南郷継正先生は次のように説いておられる。

「哲学とは学問としての国家体系である。より正確には、学問としての哲学の体系とは実体世界の国家体系を論じる国家学に対しての、いわば観念的世界における学術国家としての体系学であり、端的には学 国家学である。」(『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第八巻』p.287)

 これはどういうことかというと、現実の世界において、国家意志が頂点に立ち整然と秩序だった統括を行うことで国家が成立していることと、認識の世界において、本質論が頂点に立って整然と秩序だった統括を行うことが学問であることとを、共通の論理構造をもつものとして捉えることができるのだ、ということである。別の言葉でいえば、学問体系を観念の世界に創出しようとするならば、現実の世界における国家の体系性を筋を通して学び把握する必要があるということである。だからこそ、学問構築を志す『学城』誌において、第1号からこの第3号まで、冒頭2つの論文がいずれも国家学を扱うものになっているのである。

 では、国家の形成過程とはどのようなものなのか。この問題について本論文では、国家が社会の実存形態であること、サルの集団が本能的集団であるのに対して、人間の集団は規範的集団であるから、その規範に基づいた労働によって地球を大きく変えていき、またそのことによって人間自身をも変えていったこと、このため人間の共同体が次第に大きく広がっていき、他共同体との遭遇を契機として、外的内的な共同体の組織が国家意志の統括のもと国家として形成されていったことなどが、「いのちの歴史」の論理構造を踏まえながら展開されているのである。

 こうした国家の形成に関する説は、第3号全体を貫くテーマとして設定した「論理能力」を磨き上げることなしには、決して説けないレベルの理論であると思う。では、こうした「論理能力」を得るためには、どのような研鑽が必要になってくるのであろうか。それは、本論文でも展開されているような、ヘーゲルやマルクス、さらにはクノーやレーニン、三浦つとむや滝村隆一の国家学説に関して、歴史的=論理的な発展過程を自らの一身において繰り返すことである。ヘーゲルは国家をどのように捉えたのか、マルクスはどうか、クノーは、と1つずつの学説を丁寧に把握しようと努めるだけでなく、また、現実の国家のあり方を詳細に分析するだけでもなく、例えば、マルクスはヘーゲルの国家学説のどの部分を継承しどの部分を発展させ、どういう面で後退したのか、それは当時の社会情勢にどのように規定されてのことなのかといった各学説のつながりを、社会のあり方も含めた大きな流れとして把握する努力が必要になってくるのである。こうした努力の末に把持できた「国家の体系性」を導きの糸として、学問の体系性を把握し、自らの学問を創出していく努力を積み重ねることで、漸くにして「論理能力」を培っていけるのである。「論理能力」をほかから切り離してそれ自体を磨き上げるということなど不可能であって、特定の対象から論理を導き出す鍛錬が必要なのであって、その対象としては、学問の体系性につながる「国家の体系性」を究明していこうとする頭脳活動が、どの専門分野にとっても必要となってくるのである。

 さて、本論文に関してもう1つ触れておきたいことは、クノーが「自らの学者としての誇りを賭けて」(p.20)マルクスの「国家論」を批判したことについてである。『マルクス歴史・社会・国家学説』の出版は1920年であって、当時ロシアでは社会主義革命が成功し、「ロシア革命万歳の時代」(p.21)であったにもかかわらず、その理論的支柱となったマルクスの「国家論」を批判しえたことは、自らが把握した論理が正しいという大きな自信に支えられた相当の覚悟がなせる業である。『学城』第2号のテーマであった「大志・情熱」との関連でいえば、「大志・情熱」があればこそ「論理能力」の研鑽に邁進できるという側面もあるのであるが、「論理能力」を厳しく鍛えることによって、自らの「大志・情熱」を大きく燃え上がらせ、もってどんなに神聖化された論理であろうとも果敢に挑んでいくことができるという側面もあるという、相互浸透の関係をよく掴んでおく必要がある。クノーには、本論文で説かれている「論理能力」のみならず、「大志・情熱」をも学ぶ必要があろう。
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2016年03月23日

一会員による『学城』第3号の感想(1/13)

《目 次》(予定)

(1)「論理能力の生成発展」が『学城』第3号の全体を貫くキーワードである
(2)国家の体系性を論理的に把握するとは
(3)国家論はどのように発展してきたのか
(4)先進的な文化を丸ごと受け入れることが頭脳活動の発展には必要である
(5)文化の発展には「場所の移動」が必須である
(6)学問体系を構築するためには論理的な学びが必要である
(7)研究と学問の違いとは何か
(8)人類の系統発生における論理能力の獲得と発展過程とは如何なるものか
(9)江戸末期に日本が導入した西洋の医学教育とはどのようなものであったか
(10)論理能力は学問創出の土台である
(11)学問の構築には意志の強さ、素直さ、身体的強靭さが必要である
(12)対象の運動性に着目できる論理能力=弁証法の実力を養成する必要がある
(13)学問の創出には、「論理能力の生成発展」を論理的に理解する必要がある


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(1)「論理能力の生成発展」が『学城』第3号の全体を貫くキーワードである

 2015年10月24日から本ブログに連載した「一会員による『学城』第2号の感想」において、第1号の感想を認めた理由について、最新号の『学城』の感想を論じていくつもりであったが、ある偶然のアクシデントのため、第1号の感想をその代用としたことを述べた後、次のように説いた。

「ところが、この原点ともいえる第1号の感想を認めるうちに、これは最新号の『学城』を本当の意味で理解して自分の実力とするためには、さらには自分の学問を自力で創出していく土台となる学問力を創り上げるためには、どうしてもこの『学城』が辿ってきた道のりをもう一度(といわずに何度も何度も)辿り返す必要があるのではないか、そのためにも、これまで感想をブログ掲載論稿の形でまとめられていない第2号から第7号までの『学城』についても、じっくりと学び直す必要があるのではないか、と思われてきたことであった。」

 つまり、今後は毎年2号ずつ発刊されるであろう『学城』を読んで自らの実力を向上させる契機とするためには、『学城』がこれまで辿ってきた軌跡をしっかりと踏まえる必要があるのであって、そのためには、これまで執筆できていなかったかつての『学城』についてもしっかりと学び直す必要があり、その一環として感想小論を執筆していくのだ、ということである。

 そこで『学城』第2号に関しては、「大志・情熱」というキーワードをもとに個々の論文の感想を認めたのであった。そして「一会員による『学城』第2号の感想」の最終回には、南郷継正先生が高校生に贈った人生論として『武道と弁証法の理論』に再録しておられる文章を引用した後、次のように説いておいた。

「つまり、この連載で注目した「大志・情熱」ということはもちろん必要で重要なことではあるのだが、これだけではいわば片手落ちであって、もう1つ、「論理能力」というものもしっかりと把持すべく研鑽する必要がある、ということである。これがなければ、悪くいえば、「地獄への道は善意の敷石で敷き詰められている」ということにもなりかねない、ということである。思いだけで突っ走ってもダメであって、そこに筋が通っているかどうかをもしっかりと確認しながら進む必要があるということである。」

 南郷先生は、現今の若人に欠けているものとして、〈大いなる志〉と〈論理能力〉を挙げておられたのであった。だから、第2号全体を貫くテーマである「大志・情熱」ということももちろん大切なのであるが、それだけではなくて、「論理能力」を磨いていくということも怠ってはならないのだと結論しておいたのである。

 さて、以上を踏まえる形で今回からは、『学城』第3号の感想を認めていくこととする。そこで今回も、第3号全体を貫くテーマを見出し、このテーマから各論文について学んだ中身を展開していくこととしたい。それでは第3号全体を貫くテーマとは何か。ここまでの流れでもうお分かりかと思うが、それは「論理能力」もしくは「論理能力の生成発展」ということであろう。第1号においては「原点」というキーワードのもと、学問を構築していく上では常に「原点」に立ち返ることが必要であることが説かれ、その上で、第2号、第3号において、今の若者に大きく欠けている〈大いなる志〉と〈論理能力〉を養成するためにはどのような学びをすべきかが説かれているというわけである。

 これだけでは、第3号全体を貫くテーマが「論理能力」もしくは「論理能力の生成発展」だということに納得されない向きもあるかもしれない。そこでここでは、「巻頭言」において南郷先生が説かれている内容について少し見ておくこととしよう。南郷先生は、『学城』やかつての『試行』のような学問誌が10号にまで積み重なっていくには、「大きく超えなければならない巨大な壁が存在する」(p.1)として、「論文を書くためには、少なくとも対象的事実の共通性をまずは導きだし、そこを一般性として把握できるだけの実力を必要とする」(p.2)こと、「一本、また一本と論文の質的向上を果たす必要がある」(同上)ことを説いておられる。「対象的事実の共通性をまずは導きだし、そこを一般性として把握できるだけの実力」とは、つまり「論理能力」のことであり、その「質的向上」こそが学問には必須である、ということである。

 以上を踏まえれば、第3号全体を貫くテーマが、まずは論文を書けるために必要な論理能力を創出すること、及びその論理能力を向上させていくことにある、つまり「論理能力」「論理能力の生成発展」である、ということがお分かりいただけるのではないか。「編集後記」においては悠季真理先生も、「学的研鑽の内実を筆にする困難さ」「学問的レベルでの弁証法の構造をもっての理論性の頭脳活動を創出しながらの論文執筆」(p.229)という表現でもって、「論理能力の生成発展」過程を持つことが学問にとって(どれほど困難であっても)どれほど重要であるかを説いておられる。

 ただし、ここで断っておかなければならないことは、この小論の目的が、第3号全体を貫くテーマが「論理能力の生成発展」にあることを証明することにあるのではなくて、あくまでも「論理能力の生成発展」という観点を設定して、そこからこの第3号を学んでいこうということにある、ということである。第2号で学んだ「大志・情熱」ということを土台として、その上に如何に「論理能力の生成発展」過程を重ねていけるのか、こういう視点で第3号を学んでいくこととしたい。

 では最後に、『学城』第3号の全体の目次を以下にお示ししておく。

学城 ( ZA-KHEM,sp ) 第3号


◎南郷継正  巻 頭 言
      ―学問を志す初学者たちに

◎近藤成美  マルクス「国家論」の原点を問う(3)
      ―ヘーゲルから継承した市民社会と国家の二重性について

◎加納哲邦  学的国家論への序章(3)
      ―マルクス主義の「国家論の歴史」を問う

◎悠季真理  古代ギリシャの学問とは何か(3)

◎悠季真理  古代ギリシャ哲学、その学び方への招待(3)
      ―ポリス社会が誕生するまでのギリシャ小史

◎瀬江千史  「医学原論」 講義 (第3回)
      ―時代が求める医学の復権

◎本田克也  ウィルヒョウ 『細胞病理学』 なるものを問う(上)
 瀬江千史 ―研究至上主義は学問への道を断つ

◎諸星史文  学問形成のために問う医学の歴史(3)
 悠季真理 ―医学史とは何か

◎小田康友  日本近代医学教育百五十年の歴史を問う(2)
      ―医学教育論序説

◎北嶋 淳  人間一般から説く障害児教育とは何か(2)

◎井上真紀  青頭巾 ― 『雨月物語』 より(上)
      ―悟りへの道を考える(2)

◎田熊叢雪  現代武道を問う 〔T〕 ―居合とは何か(3)

◎南郷継正  東京大学学生に語る 「学問への道」(1)
      ―平成十六年、夏期東京大学合宿講義

◎南郷継正  欧州版 『武道の理論』
 悠季真理 ―科学的武道論への招待

◎悠季真理  編集後記

 次回以降、順次各論文の感想を認めていくが、その際、この第3号全体を貫く「論理能力の生成発展」というテーマを常に念頭において、論を展開していくこととする。なお、連載回数の都合により、本稿では田熊叢雪「現代武道を問う〔T〕 ―居合とは何か(3)」及び南郷継正、悠季真理「欧州版『武道の理論』 ―科学的武道論への招待」を取り上げることができないことを予めご了承いただきたい。
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2016年03月17日

心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想(5/5)

(5)臨床心理学の論理化が筆者の使命

 本稿は,『医学教育 概論』シリーズの最終巻である『医学教育 概論(6)』を取り上げて,心理士の立場から,それも特に心理士教育に活かせる点は何かという観点から,学んだことを認めることを目的として,これまで説いてきた。ここで,これまでの流れを振り返っておきたい。

 初めに,「論理」という視点で本書の内容を考察した。『医学教育 概論』シリーズでは,医学教育改革が成功しない根本的な要因として,膨大な文化遺産を論理化・理論化・体系化する作業が抜け落ちている点がくり返し指摘されてきた。この点は臨床心理士の教育にあっても同様であり,臨床心理士を目指す大学院生には必携といわれている1,500ページほどの『心理臨床大辞典』の目次を取り上げて,論理の段階が異なるものが同一のレベルに並べられていることを指摘した。このように,医学も臨床心理学も,膨大な知見が蓄積されているものの,全くといっていいほど論理化の作業がなされていないために,事実的な知見が論理的に混乱した形で教科書や時点に記載されており,そのために学生は知識を丸暗記するしかないという状況に陥っているのであった。こういった現状から抜け出すためには,本書で指摘されているように,文化遺産の論理化が必要なのであった。腎臓の「濾過,再吸収・排泄」という事実から,これらの事実を貫く「選別」という論理が導き出されたように,心理臨床の対象となる困りごとも,詳細に分類していくのではなく,逆に共通性に着目して,論理化を図っていく必要があるのであり,そのような論理化が可能な論理的な頭脳づくりが,心理士教育に求められると説いた。論理化の例として,パニック障害や社交不安障害,強迫性障害の共通性を把握した「不安障害」という論理,リストカットや過食,激しい攻撃行動などの共通性を把握した「衝動制御の問題」などを挙げた。このような論理化を臨床心理学全体でなしとげていくと同時に,個々の心理士も事実から論理を導き出すことのできる論理的な頭づくりをしていくための教育が必要なのであり,そうしてこそ,千差万別のニーズにしっかりと応えていくことができるのだとしておいた。

 次に,弁証法の観点から本書の内容を読み取った。本書では,「CKD(慢性腎臓病)」という病名の導入は,非常に複雑で分かりにくかった腎臓病の分類に対する一つの論理的な進歩であったと評価されていた。ところが,この病名の導入は臨床には役立っても,医学教育にはそのままでは役に立たないと説かれていた。それは,この病名が事実によって規定されたものであるため,この定義を見ても腎臓病とはどのようなものであるのかの像が描けないからであるとされていた。そこで,腎臓病とは何かの論理的な把握をなすことが必要であるが,そのためには,教科書だけでは腎臓病に至る過程の事実が示されていないために不充分であると説かれていた。これらのことは臨床心理学にもそのまま当てはまると説いた。すなわち,臨床心理学が対象とする心の病も,患者の呈する症状という事実のみによって規定されたものであり,まったく論理化されていないのであった。だから,この診断基準だけで精神疾患の像を描くことは学生には難しいと説いた。また,病気に至る過程が全く問題にされていない点も指摘し,これでは精神疾患の予防は論理的には不可能になると説いた。このような現状を打破するためには,世界の運動の一般性を問題にする弁証法の実力が不可欠であり,病歴をしっかり聞き取って,どのような外界との相互浸透で精神疾患に至ったのかの把握が必要であるとしておいた。また,本書で説かれていた完成形態を初めに学ぶべきであるとの指摘を踏まえて,心理士が扱う心の問題の完成形態は精神疾患であり,そこを踏まえておけば,まだ診断がつかないくらいのレベルの問題であっても,しっかり見てとって,適切な介入ができることにも触れた。また,医師よりも心理士の方が,精神疾患という完成形態に至る過程を見る機会が多いので,精神疾患に至る過程の論理化は心理士こそなしうる可能性が高いと説いておいた。

 最後に,認識論の観点から,本書の内容を心理士教育の問題として捉え返した。『医学教育 概論』シリーズを著し,医学教育改革について従来にはないような構造に分け入り,その核心を暴露することができたのは,瀬江先生らには科学的医学体系があるからであった。とするならば,人間の認識を整えることを専門とする心理士を教育する場合,認識を科学的に明らかにした認識論が必要になるということになるのであった。この科学的認識論の学びが欠如しており,またその必要性も認識されていないことが,心理士教育の大きな欠陥なのであるから,そこを社会に訴えていくことが筆者の当面の使命であると述べた。その際,精神疾患や心の問題についての膨大な文化遺産を,しっかりと,科学的認識論の論理で整序していき,そうすることによっていかに学びが深まるか,その結果,いかに心理臨床の質が向上していくか,ということを示していくことが求められるのだとしておいた。医学の教科書の目次をみても,腎臓病の全体像を描くことはできないし,そもそも「腎臓病とは何か」「腎臓が病むとどうなるのか」「なぜ腎臓が病むのか」について問いかけたことすらないと指摘されていることを確認した。これと同様に,(臨床)心理学の教科書の目次を見ても,心の全体像は分からないし,いくつかのパラダイムが並存していることが分かるだけであり,精神疾患がただ平面的にたくさん羅列されているだけであることを示した。これを統一理論たる科学的認識論で整序すれば,認識とは何かの一般論からきちんと筋を通して認識の歪みが説けるとして,対象たる外界が通常ではなかったために,その結果として像が歪んだものになるケース,特定の問いかけが量質転化し技化してしまったケース,観念的二重化の能力が未熟であるケース,観念的二重化が歪んで技化してしまったケースなどを仮に挙げてみた。心理士の教育にあたっては,このように科学的認識論によってすっきりと整序された文化遺産を修得させていく必要があるのであり,そうすれば学びの質が深まり,介入の質も向上すると説いておいた。

 以上をごく簡単にまとめるならば,実力ある心理士を養成するためには,専門領域の論理化・学問化が必要なのであり,その際に,心理的な問題の生成・発展のプロセスを問題にしなければ,現代の医学と同じような重症化したケースのみを扱うという結果になってしまうので,そうならないために,しっかりとプロセスを扱うことができる弁証法の実力養成も必要となる,さらに,心理士は人間の心=認識を扱う職種だけに,当然に科学的認識論によって,これまでの(臨床)心理学や精神医学の知見を整序していく必要がある,ということになろう。要するに,認識とは何かの一般論から筋を通す形で,専門領域を論理化していく必要があるのであり,その際には弁証法の実力が必須である,ということである。したがって心理士の教育に当たっては,論理学・弁証法・認識論の実力をしっかり身につけさせることが肝要であり,このような教育が実現されなければ,公認心理師のカリキュラム作りや資格試験の整備は,医学教育改革の迷走と同じ結果になってしまうであろう。

 以上を踏まえて,もし筆者が公認心理師のカリキュラムを作るとしたら,どのようなものになるのか,アバウトではあっても考えて提示してみたい。

 まず,学部の1年生2年生の間は,専門の学びに突入する前の一般教養の学びを重視する。心理士は人間の認識を扱う職種であるから,人間の認識を理解することがその専門性となるべきではあるが,その前提をまずは学ばせるのである。この前提には二重構造があると思う。一つは,人間の認識に至る歴史性の学びである。人間の認識は,初めからあったものでもなければ,何の必然性もなく突然生じたものでもない。物質の生成・変化・発展の流れの中で,必然性をもって誕生してきたものである。この物質の発展の必然性を,すなわち「生命の歴史」を,しっかり学ばせることである。「過程も含めて全体である」(ヘーゲル)のだから,認識が誕生するに至った過程をしっかり理解しておかないと,認識そのものの理解が不十分なものとなってしまうと考えられる。もう一つの前提は,自然と社会の学びである。認識とは外界の反映によって成立するものであり,その外界は自然的外界と社会的外界の二つであるから,認識を理解するためにはそれら自然的・社会的外界のことをしっかりと理解しておく必要があるのである。これらと並行して,時代の心,社会の心,人の心を描いた文学作品をたくさん読ませるようにする。

 学部の3年生4年生では,認識論の基礎をしっかり身につけられるようにする。具体的には,認識学原論として,そもそも認識とは何か,どのように生成発展していくのか,ということをきちんと学ばせる。認識の正常な(健康な)生成発展の過程を,観念的二重化や問いかけ的反映という基本的な論理でもって筋を通して把握できるようにしていくのである。それに合わせて,科学的認識論で整序した(臨床)心理学や精神医学の文化遺産をしっかりと学ばせるようにする。その際,しっかりと事実から論理を導き出せるような頭脳創りも行っていく。卒業研究は,統計学の基礎をしっかりと理解し,使いこなせるようになることを目的とし,内容のオリジナリティにはそれほどこだわる必要がないだろう。『統計学という名の魔法の杖 ― 看護のための弁証法的統計学入門』(現代社)によって,統計学の発展の歴史を学ぶとともに,t検定を徹底的に技化できればそれで十分だといえる。

 大学院の修士課程の2年間は,心理臨床の技を創出する教育課程と位置づければいいであろう。心理検査の具体的な実施・解釈技法や心理面接の諸技法を,認識とは何かからしっかりと筋を通して学び,先生方の陪席を通して,あるいはロールプレイや事例検討を通して,徹底的に訓練する期間とすればいいであろう。気分障害や不安障害など,心理的介入が特に効果的と思われる精神疾患については,精神疾患の認識論的な理解に基づいた介入方法を,これまた認識論的にしっかりと筋を通して理解していくことも求められる。また,医療,教育,産業,司法,福祉領域など,心理士が活動する領域を一般的に押さえたあと,自分の志望する領域の特殊性について,ある程度の専門知識の学びと専門的な技能の訓練を行う必要もあるだろう。修士論文は,しっかりとした研究方法に則った,それなりにオリジナリティのある論文が求められよう。

 このような内容のカリキュラムを骨子として,各大学の独自の理念を加味した教育を行っていくことが理想であろう。独自の理念とは,たとえば,医療領域における心理的介入のスペシャリストを養成するとか,中学校や小学校に入って発達障害児者の学習支援をする心理士の養成に力を入れているとか,企業と連携して,職場のメンタル不調者を減少させるストレスマネジメント研修ができるような心理士を養成しているとか,などが考えられる。こういった各大学の売りをしっかりアピールして,そういった領域に進みたい学生を迎え入れることは,学生の動機づけにもつながるだろう。

 最後に,以上のことを実現するための筆者の課題を再確認しておこう。やはり何といっても科学的認識論の構築すること,そして,構築した科学的認識論を基にして臨床心理学の論理化を図ること,これである。認識とは何かの一般論から,心理に関わるあらゆる問題を解けるだけの実力を筆者自身が把持しないことには,上記のカリキュラムも夢のまた夢となってしまう。認識論構築のためには,常に認識とは何かの一般論から,自分が担当している具体的な事例を考えたり,諸々の心理検査や心理的介入,それに精神疾患とされているものを考察したりしていくことが必要となる。すなわち,認識に関わる事実と論理ののぼりおりである。幸い,筆者は医療領域を中心に,教育・産業・司法などいくつかの領域にまたがって仕事をしており,数多くの精神疾患のある方と関わり,数多くの心理検査やカウンセリングを実施してきている。すなわち,論理化のための大前提たる事実は豊富に持っているのである。あとは,『医学教育 概論』シリーズで説かれてきたことを自分の専門領域で実践することによって,あるいは,各巻の感想文で認めてきたことを着実に実行することによって,学問的な論理能力を向上させていくのみである。

 今後とも,科学的認識論の再措定のために必要な研鑽を行い,そのための論文を本ブログに掲載していくことを約束して,本稿と閉じたい。

(了)
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2016年03月16日

心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想(4/5)

(4)臨床心理学は認識論で整序する必要がある

 前回は,『医学教育 概論(6)』の内容を,主として弁証法の観点から取りあげ,心理士教育に活かしていける点について考察した。医学界においては,論理的な発展と評価しうるCKDという病名の導入であっても,事実によって規定されたものであるが故に,教育には役立てられないものであり,教科書には腎臓病に至る過程がすっぽりと抜け落ちているために,「病気とは何か」の一般論がなければ,「腎臓病とは何か」の論理を導き出すことができないと説かれていた。心理士が扱う精神疾患に関しても同様であり,診断のためのマニュアルは症状という事実によって規定されているだけで論理化されていないので,教育上は役立てることができないだけではなく,病気に至る過程がすっぽりと抜け落ちていることを説いた。したがって,弁証法の実力養成の教育課程が求められるのであり,精神疾患という完成形態に至る過程を見ることが多い心理士こそ,精神疾患の過程の論理化をなしうる可能性が高いと説いた。

 さて今回は,本書の内容を認識論の観点から読み取っていきたい。

 本書ではくり返し,医学教育改革が成功しないのは,「医療の膨大な文化遺産を学問的(理論的)な手続きを経て医学体系として構築する必要があ」(p.194)るのに,それを怠っていたり,その意義を無視しているからであると説かれている。そして,本書の著者である瀬江千史先生らは,医学の科学的体系化・学問化を成し遂げたからこそ,医学教育の改革について,従来にはないような構造に分け入り,その核心をつくことができたのである。

 そうであるならば,人間の心=認識を整えることを専門とする心理士を教育するにあたっては,当然に,人間の認識を科学的に明らかにし,論理化・理論化・体系化したところの学問的認識学体系が必要になる,ということになろう。また,その必要性を社会に対して訴えていくことも,当然に求められる。

 ここに関して,次の記述が参考になると思われる。

「……今回は,この腎臓病とは何かの論理があると,医学生のみなさんの腎臓病の学びに,どう役に立つのかを説いていきます。すなわち,医学生であるみなさんの腎臓病についての学びが,これまでとどう違ったものになり,その結果医療実践がどう変わってくのかを説くことになります。」(p.129)


 要するに,文化遺産が論理化され整序されていれば,学び方がどう変わり,その結果実践がどう変わっていくのかを説いていく,ということである。そして実際,「腎臓とは何かの論理」があると,いかに学びやすくなり,いかに論理的な頭づくりつながるか,そしてそれが医療実践の質をどのように高めるかについて説かれていく。

 ここを心理士の教育に置き換えるならば,以下のようになろう。

「認識とは何か,認識の歪みとは何かの論理があると,心理学科学生のみなさんの認識の歪み(≒精神疾患)の学びに,どう役に立つのか,すなわち,心理学科学生であるみなさんの認識の歪みについての学びが,これまでとどう違ったものになり,その結果心理臨床実践がどう変わっていくのかを説いていくことになります。」


 これを実践することこそが,学問的認識学体系の必要性を社会に理解してもらうために必要なことであり,当面の筆者の使命であるといえるだろう。より具体的には,精神疾患や心の問題についての膨大な文化遺産を,しっかりと,科学的認識論の論理で整序していき,そうすることによっていかに学びが深まるか,その結果,いかに心理臨床の質が向上していくか,ということを示していく・説いていくということこそが,筆者の当面の課題であるといえるだろう。

 医学の現状と(臨床)心理学の現状は,非常に近いものがあると思う。本書では腎臓病をとりあげて,「『内科学』」の腎臓病の目次からは,初心者としての医学生のみなさんが,腎臓病についての全体像を描くことは,まず不可能」(p.133)であると指摘されており,「腎臓病の種類については確かにたくさん列挙することができるものの,「腎臓病とは何か」「腎臓が病むとどうなるのか」「なぜ腎臓が病むのか」については,そのような問いかけはしたこともない,という人が多い」(pp.145-146)と説かれている。

 (臨床)心理学でも同じで,教科書の目次を見ても,心理(認識)とは何か,その歪みとは何かといったことは,全く分からない。たとえば,東京大学出版会が出している『心理学〔第5版〕』という教科書の目次は,以下のようになっている。

「I こころのありか
1章 心理学の視点
2章 行動の基本様式
3章 発達――環境と遺伝

II こころのはたらき
4章 学習・記憶
5章 感覚・知覚
6章 思考・言語
7章 動機づけ・情動
8章 個人差
9章 社会行動

III こころの探求
10章 心理学の歴史」


 それなりに整序されているように見えるかもしれないが,「I こころのありか」「II こころのはたらき」とあるように,そもそも心とは何かということは目次を見ただけで説かれていないことが明らかである。「学習・記憶」とか「思考・言語」など,心に関わる内容は羅列されているが,これを眺めても心の全体像が分かるわけではない。

 臨床心理学の教科書も確認してみよう。『臨床心理学 (New Liberal Arts Selection)』(有斐閣)の目次は以下である。

「第1部 臨床心理学の基礎
 第1章 臨床心理学とは何か
 第2章 エビデンスにもとづく臨床心理学
 第3章 パーソナリティ理論
 第4章 臨床の基礎学としての心理学

第2部 臨床心理学の理論と実際
 第5章 臨床心理面接
 第6章 臨床心理学的アセスメント
 第7章 精神分析パラダイム/精神分析療法
 第8章 人間性心理学パラダイム/クライエント中心療法
 第9章 学習理論パラダイム/行動療法
 第10章 認知理論パラダイム/認知療法
 第11章 さまざまなパラダイム
 第12章 臨床心理学の現場
 第13章 臨床心理学研究法
 第14章 心理士の専門性と倫理

第3部 心理的障害の理解と支援
 第15章 心理的障害の見取り図
 第16章 うつの理解と支援
 第17章 躁の理解と支援
 第18章 社交不安症の理解と支援
 第19章 パニック症の理解と支援
 第20章 強迫症の理解と支援
 第21章 心的外傷後ストレス障害の理解と支援
 第22章 統合失調症の理解と支援
 第23章 パーソナリティ障害の理解と支援
 第24章 身体の不調に関連する心理的障害の理解と支援
 第25章 発達に関する障害の理解と支援
 第26章 認知症の理解と支援
 第27章 依存・嗜癖の理解と支援」


 ここで注目していただきたいのが,第2部である。「○○パラダイム」というのがいくつか目に留まるはずである。これは,心とその問題を,例えば精神分析ではこう考えますが,学習理論では別のように考えます,というようなことを意味する。すなわち,統一した理論がなく,いくつかの全く相反する理論(と称されるもの)が並存しているのが臨床心理学の現状なのである。第3部を見ても,心理的障害というのは結局どういうものなのか,それに対して一般的にはどのような支援が必要なのかということは全く分からない。ただ単に,個別の精神疾患がいくつも並べられているだけである。

 教科書がこのような現状であるからして,心理学の分野においても,「心の病とは何か」「心が病むとどうなるのか」「なぜ心が病むのか」といった問いかけは,全くなされていないといっていいだろう。そうなってしまっている最大の原因は,そもそも心(認識)とは何かを明らかにする統一理論たる科学的認識論の学びが欠如していることであるといえよう。

 そもそも認識とは,外界の反映であり,像である。この「反映」も,単なる受動的な反映ではなく,それまでの蓄積された像でもって能動的に問いかけて反映するので,「問いかけ的反映」といわれている。また,人間の認識には,観念的二重化といって,現実の自分が見ている世界以外に,もう一人の自分が別の世界を見るという能力もある。。要するに,科学的認識論において重要な論理は,像,外界の(問いかけ的)反映,観念的二重化の三つである。

 ということは,認識の歪みとして想定できるものは,対象たる外界が通常ではなかったために,その結果として像が歪んだものになるケース,特定の問いかけが量質転化し技化してしまったケース,観念的二重化の能力が未熟であるケース,観念的二重化が歪んで技化してしまったケースなどであろう。こういった認識とは何かの論理から導かれた論理的な分類にしたがって,これまでの精神疾患や心の問題を整序していくことが求められる。そうすれば,心理的な介入法も,外界を正常に整える介入,問いかけを柔軟にしていく介入,観念的二重化の能力を養うための訓練,観念的二重化の歪みを最小にするための介入などといったように,すっきりと整序することができるのではないだろうか。

 心理士の教育にあたっては,科学的認識論によってすっきりと整序された文化遺産を修得させていく必要があろう。そうでないと,現状のように,ある疾患にはこのやり方,別の疾患には別のこのやり方,というように,介入法に一貫性がなくバラバラになってしまう。また,そもそもの精神疾患に関しても,統一性のない諸々の知識を暗記するだけになってしまい,とてもそれらを使いこなして臨床をする,ということにはならない。そもそも,心理的な介入を行うのに,現状のように精神医学を横滑りさせた知識が必要なのかどうかというと,これも検討の余地があろう。さらによろしくないのは,先に教科書の目次で確認したように,さまざまなパラダイムが並存しており,それを選択して,どの専門家になるのかは,個人の志向(嗜好)によって決まる,という点である。こうなれば,クライエントにとってみれば,専門家Aと専門家Bのいうことが全く違う,ということにもなりかねない。しっかりとした統一理論である科学的認識論によって,臨床心理学の知見を整序していく必要性が,ここにも存在するのである。

 以上,今回は,認識論に焦点を当てて,『医学教育 概論(6)』から学んだことを心理士教育にどのように活かしていけるのかについて考えてみた。
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2016年03月15日

心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想(3/5)

(3)過程の把握が大切である

 前回は,『医学教育 概論(6)』を論理という視点から読み取り,心理士教育に活かすという点で学んだ点を考察した。医学にしても臨床心理学にしても,その教科書や事典の目次を眺めれば明らかなように,論理的な実力が非常に低いのが現状であるから,事実から論理を導き出すことによって,膨大な文化遺産を整序していくことが必要であり,教育の過程でも,学生に事実から論理を導き出す訓練をさせることによって,論理的な頭づくりに努めなければならないと説いた。

 今回は,弁証法の観点から本書に学び,心理士の実力養成や心理士教育に活かせる内容について考えていきたい。

 本書では,病気の分類が細分化されていき,全体から部分を切り離して論じられる傾向が強い現在の医学界において,論理的な発展として評価できる取り組みとして「CKD(慢性腎臓病)」という病名が導入されたことをあげている。「CKDとは,腎臓が慢性的に病的な状態にあることと,それがどの程度重症なのかを,尿蛋白などの腎臓のダメージを示す所見,もしくは腎臓の機能を最もよく反映すると考えられているGFR(糸球体濾過量)という,極めて単純な指標を用いて把握しようとして導入された病名」(p.21)ということである。

 従来,腎臓病の病名は非常に複雑で,臨床医が腎臓病を診断する実践的な手引きとはなっておらず,末期腎不全から透析へと至る患者の著しい増加を止めることができない状態であった。そこに,CKDというこのシンプルな病名が導入されたことにより,一般医にも容易に腎臓病の重症度を診断できるようになり,診断に応じた適切な治療を行うことが可能になって,透析に至る患者の数を減らすことにつながっていったというのである。

 このように,複雑で非常にたくさんの病名に細分化されていた腎臓病を,たった一つのシンプルで実践的な病名へと統合したことを,本書では論理的な発展として評価しているものと思われる。

 しかし,医学教育にとっての意味という点になると,CKDの導入は役に立つものとはなっていないと説かれている。本書では,「CKDの定義は,腎臓の障害を示す所見や糸球体濾過量の低下という,事実そのものによって規定されたものであり,それ以外ではありません」と前置きされた後,次のように説かれている。

「ここで医学教育という観点から,医学生に問いたいのは,「みなさんはこのCKDの定義を学んで,腎臓病というものを理解できましたか。腎臓病とはこんな病気ということを,自分のアタマの中に思い描くことができましたか」ということです。

 当然に,答は「否!」のはずです。医学生が,先に挙げたCKDの重症度分類(これは2012年版のガイドラインで改訂されました)を眺めて,尿蛋白や,GFR(糸球体濾過量)の値だけから,腎臓病がどういうものかを思い浮かべようとしても,それは不可能というものです。つまり結論から言うならば,CKDの導入は医療現場では役に立っても,医学教育には,そのままでは決して役に立たないものなのです。」(p.91)


 すなわち,腎臓病の重症度を測るちょうどいい事実を提示しているだけのCKDという病名を導入しても,腎臓病とはどのような病気であるかの像を描くことは全くできず,したがって医学教育には役に立たない,ということである。後の部分では,CKDは単なる診断基準であり,「医療現場で医師が腎臓病の重症度を計るための“ものさし”として,それなりに有用ではありますが,医学生が難解と言われている腎臓病を学んでいくための,“導きの糸”にはなり得ません」(p.105)とも説かれている。

 だから,単なる事実の提示である診断基準ではなく,「腎臓病とは何か」という論理的な把握が,医学教育のためには必要であると説かれていく。そして,「腎臓病とは何か」という一般論を導くためには,「腎臓とは何か」という論理だけでは不十分であり,「病気とは何か」の一般論も必要である,それは,教科書には腎臓病の事実のエッセンスは記載されているものの,腎臓が病んでしまった結果としての事実ばかりであり,腎臓病に至る過程の事実が決定的に欠落しているからである,と説かれている。

 ここは,現代医学においては,病に至るプロセスは無視,ないし等閑視されており,教科書にも腎臓病に至る過程の事実が示されていないために,腎臓の論理と教科書に示された腎臓病の事実からだけでは,「腎臓病とは何か」という論理を導き出すことができないので,腎臓病にも貫かれている「病気とは何か」の一般論,すなわち「病気とは,人間の生理構造が,外界との相互浸透の過程によって,徐々に,あるいは急激に量質転化して歪んだ状態になったもの」という論理を併用することによって,ようやく腎臓の正常な働きが歪んでしまった状態である「腎臓病とは何か」という論理を導き出すことができるのである,ということであろう。

 ここまでで確認してきたことは,臨床心理学がその対象としている心の病にも,当然に当てはまる。まず,精神疾患の診断基準は,CKDと同じく,単なる事実によって規定されたものである。精神疾患の診断のためには,DSMやICDといった診断マニュアルが用いられるのがふつうである。このマニュアルは操作的診断基準といって,いくつかの症状が列挙されており,そのうちの特定数の症状を満たせば,ある病気であると診断されることになる。この症状というのは,患者さんが示している病気の事実であり,誰が見ても同じという「客観的な」ものであるとされている。すなわち,どの医師が診断しても,このマニュアルに則っていれば,同じ診断名がつくはずだということである。事実レベルで規定されたものであり,まったく論理化されていないことは明らかである。

 また,病気に至る過程がすっぽりと抜け落ちている点も,同様である。病気の結果として,このような症状を呈しますよということが示されているだけだからである。なぜそのような症状が出るに至るのかの過程は,ほとんどの疾患でまったく問題にされない(というか,問題にできない)。したがって,発症のメカニズムが明らかでないために,論理的にはそれらの精神疾患を予防するということは不可能である,ということになってしまう。

 さらにいうと,CKDほどではないにしても,この診断基準を学生が読んで,その精神疾患の像を描くことが難しいのは確かである。いくつもの症状がほぼ並列に列挙されているだけであるから,その症状といくつ満たせば診断がつくのかという点を暗記するだけに終わってしまい,この診断基準自体でその精神疾患を学ぶということはできない。どちらかといえば,臨床経験がすでにある医師や心理士が,漏れがないかを確認するために事後的に使うチェックリスト,としてであれば,ある程度活用できるであろう。しかし,精神疾患の具体の像が何もないのに,この診断基準だけで学ぼうとするのは,至難の業であるといえる。

 このような現状を打破するためには,そういった精神疾患に至るプロセスをこそ,問題にする必要があろう。これには弁証法の実力が必要となるのは,当然である。弁証法とは,世界全体の一般的な運動を対象とした学問であり,すべての対象には弁証法性が貫かれているからである。これまでの精神医学や臨床心理学が精神疾患のプロセスを解明できなかったのは,弁証法の実力が大きく欠落していたのが一因だと考えられる。すなわち,運動・変化・発展の一般性をしっかり把握できていなかったために,弁証法性に富んだ認識の病たる精神疾患の発症のプロセスが掴めなかったのである。

 もちろん,次回に説くように,認識とは何かを解明した認識論の理解がなかった点も大きいと思われるが,認識は,自然的・社会的外界との相互浸透によって創られていくのであるから,弁証法の実力不足が,精神疾患へと至る過程の解明を不可能にしていた側面も大きいと考えられるのである。

 心理士としては,相談に来られたクライエントの困りごとに関して,それが精神疾患に関するものであろうとそうでなかろうと,困りごとに至る過程(問題歴)をしっかりと聞き取って,どのようにしてその困りごとが生成・発展してきたのかをきちんと把握するようにする必要がある。もちろん,心理士教育においても,そのようにプロセスに目を向ける必要性をしっかり説いて,プロセスに目を向けるために具体的な訓練も実施すべきであろう。そうしてこそ,その困りごとの全体像が把握できて,それと直接に,解決方法も自然と浮上してくることにもなるはずである。

 ここに関連して,本書では興味深い指摘がなされている。腎臓病を学ぶときは,最初に腎不全を学ぶべきであるとした後,次のように説かれている。

「なぜならば,腎不全は他の腎臓病とは,レベルが異なるものだからです。つまり腎不全とは腎臓病の完成形態であり,その他に分類されて並んでいる様々な腎臓病は,腎臓病が完成形態にまで至る過程の事実の違いに着目して分類された病名だからです。

 別の角度から述べるならば,腎臓病は論理的にはたった一つしかないのであり,その完成形態が腎不全と言われる状態であり,そこへと至る過渡的な段階が,様々な腎疾患名として分類されているに過ぎないのです。」(p.149)


 ここでは,腎臓病とは論理的にはたった一つであり,その完成形態が腎不全であるから,腎不全から学ぶべきである,ということが説かれている。すなわち,完成形態を知っていれば,そこに至る過程も完成形態からそれなりに見て取りやすくなる,ということであろう。

 これを踏まえるならば,われわれ心理士は,様々な困りごとの一つの完成形態として精神疾患を学ぶ必要があるように思う。どういうことかというと,たとえば社交不安障害は,対人場面で異常に緊張し,不安を感じてしまうために,生活上の支障をきたしいている状態であるが,社交不安障害とまで診断されなくても,対人場面に対して苦手意識を持っているクライエントさんはいる。完成形態としての社交不安障害を知っていれば,そこに至る過程である同じような困りごとを訴えてこられても見て取りやすくなるし,それに応じて介入法も選びやすくなる。同様のことは強迫性障害であってもうつ病であっても当てはまる。

 この種の精神疾患は,よほど重症化しないかぎり医師に診てもらおうということにはならないケースが多いが,心理士のもとには困っているということで相談に来られるケースもある。もちろん,重症化した方も,心理士のもとに相談に来られるので,心理士は完成形態を見る機会も十分に持っている。これに対して,医師は,重症化したケースのみを見て,そこに至る過程を見ることがほとんどない。このように,完成形態に至る過程の事実を見る機会は,心理士の方が医師よりも多いといえるであろう。だから,この種の精神疾患の過程の論理化は,医師よりも心理士の方がなしうる可能性が高いといえるのではないだろうか。

 いずれにせよ,心理士教育においては,弁証法の実力養成が必須であり,困りごとの過程をしっかり見て取れる実力を養い,困りごとの全体像をしっかりと把握して,きちんと解決策を見いだせるような実力をつけていくことが肝心であろうと思われる。
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2016年03月14日

心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想(2/5)

(2)困りごとの共通性を把握していく

 本稿は,臨床心理士である筆者が,主として心理士教育の観点から『医学教育 概論(6)』を学んだことを認めていくものである。

 今回は,論理学の観点から,すなわち「論理」という視点で,本書の内容を考察していきたい。

 『医学教育 概論』シリーズでは,さまざまな医学教育の欠陥が指摘されてきたが,その根本的な原因は,「学生に学ばせるべき文化遺産の整序と統合のための,最も重要なプロセスである,文化遺産を論理化し,理論化し,体系化するという作業が,すっぽりと抜け落ちているからである」(p.17)ということが,くり返し説かれてきた。医学においては,年々,膨大な知見が蓄積されていき,それが論理化されることなく,ただただ事実の集積として膨れ上がっているために,そのような年々膨大化していく知識を,そのままでは教えきれないということから,教育改革が始まったのであった。しかし,文化遺産を論理化しないままで,教育方法や評価方法をいじくったとしても,根本的な解決にはならずに,また,医学教育の最終ゴールである医師国家試験が重箱の隅をつつくような知識を問うものである以上,結局医学生は膨大な知識を暗記することのみに終始してしまっているのが現状なのである。

 臨床心理士の教育にあっても同様で,もちろん,医学教育ほどではないにしても,膨大な,それも,覚えたところで臨床上何の役にも立たないような知識を覚えさせられる。これに関しては,興味深いエピソードがあるので紹介したい。

 筆者は大学の学部時代には哲学を専攻しており,その頃は臨床心理士など全く目指していなかった。しかし,同じ年に同じ大学に入った友人の中に,臨床心理士を目指している者がいた。入学後しばらくしてから,大学に併設されている書店で,その友人と出くわした。彼女は何やら,大きな図鑑のような本を携えていた。そして,「これ,全部覚えないと,臨床心理士の試験に合格できないの」などといって,レジに向かっていったことを記憶している。ずっと後になってから分かったことだが,その図鑑様の書物は,『心理臨床大事典』(培風館)といって,1,500頁ほどある3万円を超える事典だったのである。さすがに,この事典の内容を全部覚えないと臨床心理士の試験に合格できないということはない。しかし,大半は覚える必要があり,また,この事典にしか載っていないような細かな知識がないと解けない問題が出題されるのも事実である。

 しかもこの事典は,目次を眺めただけでも医学の教科書と同じような非論理性を感じるものである。一番大きな項目だけを抜き出すと,以下のようになっている。

第1部 臨床心理学総論
第2部 臨床心理学基礎論
第3部 心理療法
第4部 心理アセスメント
第5部 精神医学
第6部 精神分析
第7部 臨床心理的地域援助
第8部 人間,文化,諸外国の事情


 まず問題にしなければならないのは,「第6部 精神分析」の位置づけである。精神分析が一つの独立した「部」として,「心理療法」や「心理アセスメント」と並列されているのは,筋が通らない。なぜなら,「精神分析」というのは,心理療法の一種であって,その心理療法の前提としてある種の人間理解,すなわち心理アセスメントをも含んでいるものだからである。実際,「第3部 心理療法」の中には「精神分析療法」という項目が存在しているし,「第4部 心理アセスメント」の中には精神分析の人間観を前提とした心理テストが数多く紹介されている。これでは内容が重複していることもさることながら,論理の段階が別のものを並列に並べていることになってしまう。

 同じようなことはいくらでも指摘できる。「第4部 心理アセスメント」の中の「5 心理テスト」では,「ビネー法」「ウェクスラー法」「コース法(立方体組み合わせテスト)」という個別の知能検査と並列に「知能検査」という項目があるし,同様に,個別の性格検査に並んで「性格検査」という項目もある。もちろん,「事典」なので,論理の次元の違う項目が並ぶのは仕方がないという反論もあろう。しかし,本事典はこれまでに触れた目次のあり方からも明らかなように,大項目主義を採っている「読む事典」である。いかようにも立体的な構造にすることは可能なのである。それをあえてしていないというのは,論理的な一貫性が貫かれていないということができる。

 ここに関して,『医学教育 概論(6)』では,内科学の教科書の腎臓病の箇所をとりあげて,「症候分類」名と「病理組織学的分類」名が混在し,下位概念が独立して並列されていることを指摘したうえで,次のように説かれている。

「つまりこの章の項目は,観点の異なる二つの分類によって錯綜してしまっている病名を,並列させているばかりか,その中に含まれる一つの疾患名をも,わざわざ取りだして同列に並べているのです。これは喩えて言えば,日本の地理を説明するのに「1.北海道地方,2.温帯多雨夏高温気候地域,3.東北地方,4.太平洋沿岸地域,5.熱帯雨林気候地域,6.東京都,7.名古屋市……」という,レベルの違うものをゴチャマゼにした目次立てをするようなものだ,と分かるでしょうか。」(pp.136-137)


 すなわち,この医学の教科書は,観点の違う分類やレベルの違うものをゴチャマゼにしてしまっているということである。まさしく,先に見た『心理臨床大事典』の混乱ぶりと瓜二つという印象である。

 要するに,医学も臨床心理学も,膨大な知見が蓄積されているものの,全くといっていいほど論理化の作業がなされていないために,事実的な知見が論理的に混乱した形で教科書や事典に記載されており,そのために学生は知識を丸暗記するしかないという状況になっているのである。

 では,どうすればいいのか。その答えはしっかりと『医学教育 概論(6)』に説かれている。端的には,論理化である。すなわち,事実から論理を導き出していくことである。たとえば,腎臓の「濾過,再吸収・排泄」という事実から,これらの事実を貫く論理は「選別」であるとして,腎臓は選別器官であると規定されている。定説のように排泄器官で筋を通そうとすると,「濾過,再吸収」の過程にその筋が通せなくなるし,そもそも腎臓の働きの1%に過ぎない排泄だけに注目して,残りの99%にあたる濾過と再吸収の過程を無視するのはおかしいと説かれている。

 このような論理化を全ての器官,すべての病気に対して行うことによって,医学として蓄積されてきた膨大な知見がしっかりと整序され,学生にとっても非常に学びやすく使いやすいものとなる,ということである。

 臨床心理学でも全く同じことがいえるであろう。すなわち,臨床心理学として蓄積されてきた膨大な知見を,しっかり論理化を果たすことによって整序していくと同時に,教育課程で学生にしっかりと論理化のプロセスを辿り返させることによって,論理的な頭脳づくりを目指していかなければならない。

 心理臨床の対象となるのは,必ずしも心の病だけではなく,それをも含めた何らかの心の問題,困りごとであるということができよう。ならば,その困りごとを詳細に分類していくのではなく,逆に共通性に着目して,論理化を図っていくこと,あるいは論理化が図れるような頭脳を創出していくことこそが,心理士教育に求められると思う。

 たとえば,不安障害という枠組みは,それなりに具体的な個々の困りごとの共通性をとらえた論理であるといえると思う。不安障害の中には,下位分類として,パニック障害や社交不安障害,強迫性障害などが含まれるが,これらに共通していることは,過剰な不安のために,その不安を下げるための行動やそもそも不安を喚起しないための行動が常態化してしまって,日常生活に支障をきたす,ということである。こう押さえておくと,その具体的な表現型として,例えばパニック発作を恐れて電車などに乗れないのがパニック障害であり,対人場面を避けてしまうのが社交不安障害である,などというように,不安障害の一般論の具体化として,きちんと個々の障害を位置づけられると思う。

 他にも,例えば,リストカットや過食,攻撃行動の激しいことなどは,衝動制御の問題としてとらえることも可能であろう。すなわち,これらは衝動性をコントロールできない問題であり,その具体的なあり方がリストカットであったり過食であったりする,というわけである。また,自分の意見を主張できないとか,部下のいうことに耳を貸さないとかいった問題は,コミュニケーションの問題である,というように論理化もできるかもしれない。

 このように,いくつかの困りごとに共通する性質を導き出し論理化しておけば,個々の困りごとを理解しやすくなるし,介入法もそれに対応して,それなりに整序されて分かりやすくなる,ということもいえるだろう。このような論理化の際は,精神医学の知見もそれなりに踏まえることが必要とはなるだろうが,それに縛られることなく,臨床心理学としてのオリジナルな論理化を果たしていく必要があろう。

 いずれにせよ,このような論理化を臨床心理学全体で果たしていくとともに,心理士の教育にあっては,事実から論理を導き出すことのできるような論理的な頭づくりが必要なのであり,そうしてこそ,千差万別に見えるクライエントの困りごとに対して,それらを抽象化して,別の事例で用いた介入法などをうまく使いながら,クライエントのニーズに応えていくことができるような心理士になることができるといえるであろう。
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2016年03月13日

心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想(1/5)

目次

(1)心理士教育に活かせることとは
(2)困りごとの共通性を把握していく
(3)過程の把握が大切である
(4)臨床心理学は認識論で整序する必要がある
(5)臨床心理学の論理化が筆者の使命


(1)心理士教育に活かせることとは

 本ブログではこれまで,『医学教育 概論』シリーズの感想文を5回にわたって掲載してきた。5回分のタイトルと目次は以下である。


心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想

目次

(1)心理士として『医学教育 概論(1)』から何を学べるか
(2)すべてをゴールに収斂させる
(3)夢と同時に不安を描くことが大切である
(4)病気とは正常な生理構造が生活過程で歪んだ状態である
(5)不安解消のために認識論の研鑽を



必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想

目次

(1)カウンセリングに活かせる点とは
(2)心理士が主体的にカウンセリングに必要な事実を取りだす
(3)五感器官を総動員して相手の変化を捉える
(4)上達のためには身近な困りごとを解決していく必要がある
(5)責任と明確な問いかけをもって相手と関わっていく



弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想

目次

(1)どうすれば実力ある臨床心理士になれるか
(2)臨床心理士にも一般教養は必須
(3)クライエント理解も全体から部分へ
(4)心理臨床の歴史を辿る必要性
(5)対象と武器を弁証法的に学ぶ



臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想

目次

(1)臨床心理学の具体で考えると?
(2)よい教科書の条件を考える
(3)精神医学でも病因を問題にすべき
(4)少ない事実から生活過程像を描く
(5)表象像を媒介にして論理的なアタマづくりを!



事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想

目次

(1)専門分野の教育=学習という観点から読み解くと
(2)事実を提示した後にその論理を説く
(3)教科書は論理的なアタマ創りに資するもの
(4)研修医 北条亮先生から学ぶこと
(5)事実をありのままに反映しそこから論理を引き出す



 眺めていただければ分かるように,一貫して筆者の臨床心理士としての立場から,本シリーズに学び,臨床心理の実践と医療実践,臨床心理士の教育と医師の教育を重ね合わせながら,学んだことを認めてきた。

 『医学教育 概論』シリーズは,本『医学教育 概論(6)』で完結とのことなので,このシリーズの感想文も,本稿で終了となる。そこで本稿では,『医学教育 概論(6)』を読んで,その本題ともいえる教育に焦点を当てて,心理士の教育に活かしていくべき点を中心に考察していきたいと思う。

 もちろん,これまでの感想文でも,教育の観点からも説いてきた。さらに,本シリーズが論理的に一貫しているだけに,どの巻の感想文も,同じような内容を説いているということもある。しかし,本稿は,執筆することによって本シリーズの著者の先生方と対話することを意図したものであり,重要な論理はくり返しくり返し取り上げ,筆者の専門たる臨床心理に適用していくことこそが,論理の再措定であると考える。そこで,従来説いたのと似た内容であっても,大切なところはくり返しテーマとして取り上げていきたい。

 心理職の業界では,昨年可決・成立した公認心理師法をめぐる動きがあわただしい。大学や大学院の科目・カリキュラムはどのようなものにするのか,公認心理師になる際の試験を実施する機関をどこにするのかなどについて,諸々の関係団体が,あるいは表だって,あるいは水面下で動いている状況である。しかし,大学や大学院のカリキュラムにせよ,公認心理師の試験にせよ,『医学教育 概論(6)』で説かれている内容を踏まえたうえで決めていかないと,公認心理師教育も,医学教育が辿ったのと同じ地獄への道を善意の意図で辿ってしまいかねない。

 その意味でも,心理士の教育をどのようにしていけばいいのか,この機会にしっかりと考えておきたいと思う。

 では以下に,『医学教育 概論(6)』の目次を掲載しておく。次回以降は,本書から学んだ内容を,論理学・弁証法・認識論の3つの観点で整理して考察していきたい。


医学教育 概論 (6)


第36課 文化遺産の論理化とは何か ――「CKD(慢性腎臓病)」 を例に説く

 (1) 医学生は社会的に鍛えられる過程が必要である
 (2) 課外活動は医学生の社会的訓練の場としても設定し得る
 (3) 論理能力養成のための教育過程が大学からも失われた
 (4) 「CKD(慢性腎臓病)」 を例に文化遺産の論理化とは何かを説く
 (5) CKDの定義は腎臓病診療現場の切実な必要性から導入された
 (6) 医学生・医師を混乱させていた複雑な腎臓病の分類
 (7) 病気の進行が現象しづらく診断・治療が後手に回りがちな腎臓病
 (8) CKDは腎臓専門医と一般医の連携を深め,診療上の成果をもたらした

第37課 「CKD(慢性腎臓病)」 の定義導入の医学教育論上の意義を説く

 (1) 東京大学 「秋入学制度」 提言の背景
 (2) 秋入学制度は大学教育の根本的な転換を意図している
 (3) 秋入学制度による社会的混乱と成果の乏しさを指摘する反対意見
 (4) 東京大学が受験秀才の欠陥を指摘した歴史的転換点
 (5) 目的意識を学生の自主性に任せる秋入学制度の致命的欠陥
 (6) CKDに関わる事実には医学教育改革の停滞を打破する鍵がある
 (7) 病名創出の歴史的発展過程には二段階ある
 (8) CKDの導入は本物の 「コア・カリキュラム」 策定への萌芽形態を示した

第38課 大学教育における一般教養の重要性を説く

 (1) 学校教育におけるリーダー育成教育の消滅 ――等身大の思想の蔓延
 (2) 日本の発展を担う人材育成のための大学の初期教育の重要性
 (3) 学生に使命を自覚させ大志を萌芽させることが大学教育の出発点である
 (4) 壊滅状態にある大学の一般教養教育の再構築が急務である
 (5) 一般教養の必要性を提言しながら学びの指針を示せない日本学術会議
 (6) 近代的一般教養の原点は18世紀ドイツの大学哲学部の教育にある
 (7) 大学の一般教養教育は世界の論理的な全体像をイキイキと描かせることにある
 (8) 『学生に与う』 (河合栄治郎) に見る教育者としての思想性の高み
 (9) 『学生に与う』 は大学における一般教養教育を見事に示す

第39課 事実から論理を導きだすプロセスを 「腎臓とは何か」 を例に説く

 (1) 医学教育改革の根源的問題は文化遺産の膨大化にある
 (2) 「CKD(慢性腎臓病)」 の導入の意義と限界
 (3) 「腎臓病とは何か」 を問うためには,腎臓の事実を知らなければならない
 (4) 腎臓の事実である 「濾過,再吸収・排泄」 を貫く論理は 「選別」 である
 (5) 論理とはすべての事実に一本の筋を貫き通したものである
 (6) 科学的医学体系はすべての対象的事実の論理化によって構築される

第40課 「腎臓病とは何か」 を理論的に導きだす過程

 (1) 腎臓の論理とは 「腎臓とは何か」 を一言で表現したものである
 (2) 個々の知識の学びに先立つ全体像の重要性を説く実験
 (3) 対象の全体像のイメージを描くことにより知識の学びに筋道ができる
 (4) 病気の一般論と腎臓の論理から 「腎臓病とは何か」 の一般論を導く
 (5) 腎臓病とは体内の必要物質と不要物質の選別に歪みをきたした状態である
 (6) 人間を貫く三重構造をふまえて選別器官分化への必然性を説く
 (7) 人間の認識に基づく生活が腎臓の生理構造を歪める過程的構造

第41課 論理的に整序されない腎臓病の教科書の実態を検証する

 (1) 腎臓病の論理を導いてきた過程を概括する
 (2) 人間を貫く三重構造によって腎臓病に至る過程的構造の理解を深める
 (3) 代表的教科書 『内科学』 における腎臓病の目次を見る
 (4) 『内科学』 の目次から腎臓病の全体像を描くことは不可能である
 (5) 論理的に整序されていない腎臓病の病名
 (6) 病気の一般論を導きの糸とした腎臓病の学びとは

第42課 腎臓病の論理に導かれた学びとはいかなるものかを説く

 (1) 腎臓病の論理が医師の実践,医学生の学習の導きの糸となる
 (2) 腎臓病は論理的には一つである ――完成形態は 「腎不全」 である
 (3) 選別器官である腎臓の正常な生理構造
 (4) 腎臓病の完成形態を通して腎臓が病むとはいかなることかを理解する
 (5) 腎臓の生理構造の歪みが機能レベルから実体レベルへと至る過程的構造
 (6) 腎臓の生理構造にそって学べば個々の腎臓病も整序して理解できる
 (7) 医療現場のニーズと乖離した学びを強いる医学教育の裏事情

第43課 医学教育を歪めている現在の医師国家試験の実態を説く

 (1) 腎臓病は論理を導きの糸としてすっきりと整序できる
 (2) 論理に導かれた学びを妨げる医師国家試験の問題
 (3) 現在の医師国家試験の内容が医学教育を歪めている
 (4) 人材育成教育を破壊した戦後の学制改革と医師国家試験の導入
 (5) 資格試験としての質向上の努力が医師国家試験をモンスター化させた
 (6) 医師国家試験が医学教育改革を形骸化させている現実
 (7) 医師国家試験をゴールとして教育された医師の欠陥
 (8) 科学的医学体系に基づく医学教育の理論が切望されている



※なお,第38課に関わる内容は,4月の頭に新大学生向けの論考の中で触れたいと思うので,本稿ではあえて扱っていない。
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2016年03月02日

一会員による『学城』第13号の感想(13/13)

(13)『学城』第13号は「学問の体系化」への道標である

 本稿は『学城』第13号の感想を認めることによって、特に全体を貫くテーマである「学問の体系化」という観点から、この第13号の中身を主体的に自分の実力とすることを目的として、これまで第13号に掲載されている11本の論文を取り上げ、その要約を行い、学ぶべき点を明かにしてきたものである。

 ここで、『学城』第13号全体を貫くテーマである「学問の体系化」ということの中身を中心に、これまでの展開を振り返っておきたい。

 まず、連載第2回の本田論文では、「思うから考えるへ」として、「思う」ことと「考える」こととの違いが説かれ、そこから学問のためには、「思う」ことをなし続けることによって「考える」ことができるような、頭痛や吐き気がするほどの頭脳活動(像の文字化、文字の像化)が必要なのであって、こうした労苦の末に学問への道が開かれるのだ、ということが説かれてあった。

 連載第3回に取り上げた北條論文では、他分野に学ぶことによって自ら専門とする分野の位置付けが明確になるのであり、また他分野の事実を学ぶのではなくて、その論理を学ぶことによって、自らの分野での活動に生かせることが説かれていた。学問は自らの専門も含めた幅広い学びが必要であるということであった。

 連載第4回に扱った神庭論文では、看護実践で生かせる実力を身につけるためには、知識的な習得ではなく論理的な習得を行う必要があることが説かれていた。一般論から筋を通して学ぶことが重要だということであって、これは学問構築のためにも必要なことであると説いておいた。

 連載第5回の悠季論文では、ヘーゲルの術語を把握するためには、歴史的過程性に着目してその言葉を把握する必要があることが説かれていた。その際には、哲学史の流れを踏まえて、人類の認識がどのような段階であったのかにも注意しておく必要があるのであった。

 連載第6回で取り上げた北嶋・志垣論文では、「学問の体系化」へ向けた原動力としての情熱が文章に現れていることを論じた。さらに、その原動力をもとにして、事実と格闘を行う過程で論理を導き出していく必要があることを述べた。

 続くP江論文でも、学問構築のための道筋が説かれていたのであった。具体的には、事実の構造に分け入ることによって論理構造を把握し、その論理構造の一般性を言語化していくという概念化が必要であって、そのためには対象を細かく分類していく方向性ではなくて、共通性を括っていく作業が必要になるのであった。

 連載第8回で扱った「新・医学教育 概論」では、人類の学問の発展の道を辿り返すことで、論理的実力を培っていくことが学問において必要であることが説かれていた。また、表象レベルの像を形成するために、図式化が重要であることについても触れておいた。

 連載第9回の症例検討論文では、現在の病気を正確に把握するためには、まずは事実を徹底的に調べ上げることが重要であること、さらにその事実がどのような意味であるのかを判断するためには、一般性に照らして判断する必要があること、つまり一般論から事実に問いかける必要があることが説かれていた。

 連載第10回には、「唯物論の歴史を学ぶ」とする朝霧先生の新連載を見ていった。ここでは、対象の過程性に着目しながら、1つ1つの概念を丁寧に押えていくことが、学問を創出するためには必要なことであることを述べた。

 連載第11回で取り上げた橘論文では、まずは対象の一般性を捉え、その上で特殊性の考察に進むべきであること、現在のあり方を現在のあり方として捉えるのではなくて、過去からの過程をふまえて現在のあり方があるという形で現在を把握する必要があることが述べられていた。これは対象を全面的に把握する必要があるということであるとしておいた。

 そして前回、最後に扱ったのは、南郷先生による「武道哲学講義」であった。ここでは、一般教養を事実レベルではなくて論理レベルで学ぶことが学問には必要であって、このためには「思うレベル」ではなく「考えるレベル」の教育を行う必要がある、ということであった。

 以上、『学城』第13号の各論文に関して、「学問の体系化」という観点からどのようなことを学び取ったのかを振り返ってきた。改めてここをまとめると、以下のようになる。

 学問を構築していくためには、まず、自らの対象とする分野に関わるありとあらゆる事実から論理を導き出す必要がある。学問とは、対象の共通性を論理として把握したものを、本質論・構造論・現象論という形に体系化したものであるからである。しかしここで、事実から論理を導き出すとはいっても、それはこの言葉ほど簡単なものではない。ここで必要になってくる論理能力を身につけるためになすべきは、像を論理的に筋の通った文章として綴り続けること、文章から鮮明な像を描く努力をし続けることである。合わせて、一般教養の学びも必要である。世界全体のあり方をアバウトにでも頭脳に描けるようにしておかなければ、その世界の一部分である自らの専門分野とする対象の論理構造が説けないからである。では、その一般教養はどのように学べばよいのか。それは事実的に学ぶのではなくて、論理レベルで学ぶことである。膨大な知識を詰め込むことが一般教養の学びなのではなく、中学校の教科書レベルの知識を、筋を通して展開できる実力をつけることこそが一般教養の学びなのである。こうした学びによって獲得できた世界の一般性を踏まえて、自らの対象とする事実を把握しにかかり、そこから論理を導き出すのである。その際、事実を現在のあり方としてのみ見るのではなくて、過程性の結果として把握することが重要となってくる。事実の弁証法性を捉えることが必要なのである。こうした作業を気の遠くなるほど繰り返すことによって、当初は「思う」レベルであった像が、「考える」レベルの像へと量質転化することによって、漸く学問への道の端緒につくことができるのである。つまりここがスタート地点である。

 このように見てくると、「学問の体系化」ということが如何に苦難の道のりであるのかということが分かってこよう。しかしここで怯んでいるわけにはいかない。この道を目指すのだと決めた以上、決死の覚悟で進んでいくしかないのである。幸い、その進み方に関しては、今回感想を認めた『学城』第13号を含めて、様々な著作で説かれているのである。あとは自らがそれを実践するかどうかというだけの問題である。

 筆者の人生の目的は、科学的言語学を創出することである。そのためにもこの『学城』第13号に繰り返し学び、また集団として討論を重ねる過程を積んでいくことで、苦難の道を辿っていくことを改めて確認して、本稿を終えたいと思う。

(了)
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2016年03月01日

一会員による『学城』第13号の感想(12/13)

(12)「学問の体系化」のためには、一般教養を論理レベルで学ぶ必要がある

 今回取り上げるのは、南郷継正先生の武道哲学講義である。ここでは、世界観を踏まえてヘーゲルを真に理解するためには、一般教養の学びが必須であることが説かれている。

 以下、本論文の著者名・タイトル・目次を掲載する。

南郷継正
武道哲学講義〔]〕
―学問とはいわば世界地図を描くことである―
(2008年冬期ゼミ講義詳説)

 《目 次》
プロローグ
一、学問とは、いわば世界地図を描くことである
 (一)学者は「学問とは何か」のいわゆる世界地図をもって出立しなければならない
 (二)医学教育は自らの分野のいわゆる教育内容としての世界「地図」を示さない
二、ヘーゲルは絶対精神の自己運動として学問地図を描こうとしていた
 (一)歴史上、アリストテレスを踏まえたヘーゲルのみが体系的地図を描く努力をしてみせた
 (二)ヘーゲルの学問的世界地図とは絶対精神の自己運動を描いたものであった
 (三)ヘーゲルは観念論者であるが、彼の学問は見事に唯物論的であった
 (四)ヘーゲルは絶対精神が辿った自然・社会・精神を学問化しようと努めたのである
(以上第11号・12号所収)

本号のプロローグ
 (五)ヘーゲルの絶対精神を「宇宙の自己運動」とすれば唯物論となる
 (六)ヘーゲルを理解するには自然・社会・精神の一般教養が必要である
 (以下、次号)
三、哲学すなわち学問一般と科学との関係とはいかなるものか
 (一)ソフィアからフィロソフィーへの歴史的過程
 (二)哲学とはすべての科学を研鑽して創るものである
 (三)アリストテレスは現象論、ヘーゲルは構造論レベルである
 (四)個別科学としての生物学構築の過程的構造
 (五)学問構築には弁証法が必須である
 (六)人間にとっての死の意味と教育の意義

 本論文ではまず、前回の講義の内容が理解できていないとすれば、それは受験勉強による弊害であり、文字を文字としてしか読み取れず、文字の原形である諸々の像の回復過程を図る学習がなされていないという欠陥のためであることが説かれる。このことをプロローグとして確認した上で、ヘーゲルが逆立ちした唯物論といわれるのはなぜかについて、ヘーゲルは文言上では宇宙を絶対精神の自己運動として説いているが、その実態は物体の自己運動の生成発展として説いているからだとされる。つまり、絶対精神の自己運動を宇宙の自己運動とすれば、唯物論の立場からの主張になるというのである。次に、ヘーゲルの日本語の訳語について触れられ、「絶対精神」と「絶対理念」と「絶対概念」とが同じ概念でないことが強調される。ここから論は世界観たる観念論の優位性の問題に移っていく。唯物論は観念を排除する形で対象を見ようとするあまり、論理的に道筋を思い描く実力を排除し、遂には統計的数値の羅列で納得してしまう専門バカ(数字バカ)になり下がってしまい、全体を観てとる実力が頭脳活動から次第に消えていくのに対して、観念論はすべての事実とされるものを観念から見てとる努力を重ねることで、思うから考えるへと実力が向上する、自らの主体性ある世界地図から自らの知りえた事実を筋を通して大系として持ち続ける努力を続けていくことになると説かれている。そして最後に、ヘーゲルを理解するための一般教養の学びについて、古代ギリシャから中世までの学的文化遺産をモノにするために中学校のすべての教科書のレベルを論理的に学ぶ必要がある、「思うレベル」ではなく「考えるレベル」の教育をまともに実施する必要がある、という論理が展開されるのである。

 この論文に関してまず取り上げたいことは、文字とはどのようなものかについて述べられている部分についてである。

「本来、文字というものは、森羅万象たる対象の頭脳における反映として成立した五感情像たるものを、自己に、そして可能ならば他の多くの人に伝えるべく、として発明されたものである。すなわち、頭の中に成立した諸々の像(の過程的状態)を、静止した、動くことのない文字(姿形)として表わしたものである。
だから、対象たる森羅万象の「何事か」を文字として学ぶ場合には、文字と化したはずの対象たる森羅万象の諸々の過程性を把持した像を、まずは鮮明に描いていきながら、それなりに描ききる努力を積み重ねて、文字の原形たる諸々の像の回復過程を図る学習をなしていくことが学問のためには肝心なことなのである。」(p.182)

 ここでは、文字というものが諸々に変化・発展する五感情像を固定した形で表出することによって、(自分も含めた)多くの人と精神的交通を行うために創出されたものであること、だから文字を読むときには文字の元となった過程性を把持した像を鮮明に描くことができるように努力を続けていく必要があることが論じられている。そしてこうした学習こそが、「学問の体系化」には必須であると説かれているのである。本連載第2回で取り上げた本田論文で述べられていた「像をなるべく具体的に、かつ詳しく文字化するべく意識して文章化することが大事である」(p.20)ことや「その文字の具体化たる像として描く努力」(同上)が必要であることに通じる上記の文章は、言語学を専攻する筆者としては、見逃せない論理を含んでいるものである。

 端的には、文字というものは認識の表現なのであるが、認識を文字化するにも文字からそこに込められた認識を鮮明に描き出すにも、目的意識的な訓練が必要であって、さらには、認識を文字化するとはどういうことか、それがなぜ可能なのか、文字から具体的な生き生きとした五感情像を「回復」するとはどういうことか、それはどのようにすれば可能となるのか、といった問題を究明していくことが、言語学を構築する上での基本的な作業となると思う。自らが上記の様な訓練を積み重ねることで、学問構築の端緒を形作るとともに、こうした訓練の過程を目的意識的に捉え返すことで、言語学の構造を固めていきたいと思う。

 もう1つ触れたいのは、一般教養の重要性について述べられている以下の箇所についてである。

「学問を確立するための必須の基礎たる弁証法・認識論・論理学は自然・社会・精神の一般的な運動に関わる学問として必須の実態を把持するものであるから、すべての科目、すなわち自然科学、社会科学、精神科学(これは人文科学ではない)のすべてを一般的なりとも、まともに勉強しなければ、事物・事象の基本形態が分かるはずがない」(p.198)

「何か世界に冠たるものを残したければ、まずは人類の文化としての古代ギリシャから中世までの学的文化遺産をモノにする長い年月を持たなければいけないのである。そのためには現代の日本人であれば今の日本の高校の教科書の中身は詳しすぎるから、まずは、中学校の教科書のすべての基礎を論理レベルで学び直すことである。」(p.199)

 端的には、学問を確立するためには全ての分野にわたっての一般教養が必須である、ということである。具体的には、人類の文化遺産として残されている古代ギリシャからの学的成果をきちんと学ばなければならないし、その学びのあり方としては、単に事実レベルで知識を蓄えていくというような学びではなくて、少ない事実からでも論理を導き出せるような頭脳活動を可能とするような学び方をすべきであって、そのためには、中学校の教科書レベルの知識で十分であるということである。これは先ほど述べた文字を文字として学ぶのではなくて、像として考えていく必要があるということにもつながっていると思う。もちろん、現実の問題を解決していくためには、世界情勢がどのようになっているのかという知識も必要ではあるが、その解決のためには、論理能力をこそまずは鍛える必要があるのであって、そのための一般教養の学びなのだということであろう。「事物・事象の基本形態」、筆者の専門でいえば言語とは何かという一般論をまともに理解するためにも、再三説かれているこの一般教養の重要性を改めてしっかりと確認する必要があろう。
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2016年02月29日

一会員による『学城』第13号の感想(11/13)

(11)対象を全面的に把握するとはどういうことか

 今回は橘美伽先生による食事に関する論文を取り上げる。前回説かれた本来人間が摂るべき食事の「一般性」を踏まえて、読者からの質問に答える形でより突っ込んで食事のあり方が説かれていく。

 本論文の著者名・タイトル・目次は以下である。

橘美伽
武道空手上達のための人間体を創る「食事」とは何か(2)

 《目 次》
一、武道空手上達のためには「生命体に必要な地球の成分を摂りいれる」こと
二、事実は過程的に見なければ正しく分からないものである
三、武道空手上達のためには特殊性たる「哺乳類段階・サル段階」から食事に筋を通す必要がある
四、武道空手上達のためには「日本人」の食としての筋を通す必要がある
五、武道空手上達のためには武道が誕生できた時代の食事の筋を忘れてはならない
六、武道空手上達のために食事で「脳」を創りかえる必要がある
七、上達に限界がきている者ほどに食事を見直す必要がある

 本論文では、本来人間が摂るべき食事の「一般性」として、「いのちの歴史」にそった食生活、すなわち生命体に必要な地球の成分を摂りいれる必要がある、という前号の内容がまず確認され、読者からの質問が提示される。「いのちの歴史」のヒトから遠い段階からしっかりと摂るべきだと前号で説かれていたことに関して、では牛肉はほぼ食べない方がいいのか、100歳近い方が長寿の秘訣を肉を食べることだと答えていたがどうなのかという問いに対して、その長寿の方の「今」の食生活ではなく「それまで」の食生活の事実の過程性に着目すれば、人生の大半の食事は粗食であったはずで、肉類の必要性はほとんどないこと(但し、爆発的な運動源・成長源としてはそれなりに必要であること)が、人間が哺乳類の中でも「サル」から進化してきたということと絡めて説かれる。さらに、日本人という特殊性をふまえるならば、日本人が古来より食べてきているものを一般性として摂るのが最良であること、武道空手上達のためには特に武道が誕生してくる時代に摂られていたその土地のいわゆる郷土料理を摂る必要があることが述べられる。その上で、そうした食事を摂ることで実体そのものを創りかえる必要があること、それは人間のすべてを統括する「脳」の実質を創りかえることも含まれていること、脳の実体の構造を創りかえることで脳の機能も大きく変革させることができること、武道空手の上達に行き詰まっている人こそ、過去の食生活を見直すことで正常かつより見事な人間体を創りなおしていく必要があることが説かれていく。

 本論文でまず注目したいのは、この論文の展開が非常にすっきりとしていて、論文のお手本のような流れになっていることについてである。具体的には、まず先回、一般的に食事はどのようにあるべきかという問題が考察され、そこでは「いのちの歴史」をもとに考えると、生命体に必要不可欠な地球の成分を摂りいれる必要があると結論された。その上で今回は、「哺乳類段階・サル段階」としての人間、「サル」から進化した存在としての人間という特殊性の把握に基づいて、肉類などよりも野菜を中心とした雑食が必要であること、肉類を食べるにしても、その動物本来の運動をし本来の食べ物を食べている動物(狭いゲージの中で肉骨粉などを食べさせられている牛などではなく)の肉(ラム肉やクジラ肉)を食べるようにすべきであり、同じ植物性タンパク質でも生命体そのものを丸ごと食べられるアサリやシジミなどの貝や小魚などを食べる方がよいことなどが展開されていく。さらに、我々は人間の中でも「日本人」であるという特殊性をふまえるべきだとして、日本人の実体(遺伝子)や精神を創ってきた日本土着の食物、それも武道が誕生してきた江戸時代後期の食事のあり方を論理的に捉えてその筋を通した食事を摂るべきだと説かれていく。

 このように、本論文は、まずは一般的な解答を与えておいて、そこから徐々に特殊性へと足を踏み入れながら論を展開していくという流れになっているのである。それも、人間とは何か、食事とは何かという一般論に貫かれながらの展開であって、「いのちの歴史」の論理で統一されており、非常に分かりやすくスムーズに読み進めることができるものとなっているのである。

 「学問の体系化」という問題を考えても、このような論の展開、すなわち、一般性から特殊性へという論の展開、しかも当初掲げた一般論からは少しも外れることなく一貫した流れを持って説かれていく展開は非常に重要だと思われる。学問とは、一般論に貫かれた論理の体系であって、それを論文として表現すれば、こうした流れに必然的になってくるからである。

 もう1つ取り上げたいことは、「学問の体系化」には対象を全面的に捉える必要がある、ということに関係する。この論文では、先にも触れたように、「いのちの歴史」という形で、生命全体の歴史性をふまえる形で人間の食事が取り上げられていたり、まずは食事の一般性を説いた後、サルから進化した人間として捉えるという特殊性、日本人という特殊性などという形で論が展開されていたりしている。これは対象を時間的な経過も含めて、全体的に把握するという視点を含んでいる(先回も取り上げた「過程性」という問題にもかかわる)し、「特殊性」という把握の仕方も、全体を貫く「一般性」をまずは捉えて、その中に部分を位置づけて論を展開していくものであるから、対象を全面的に高い視点から捉えているのだといえるだろう。「学問の体系化」のためには、対象とする事物のある側面だけを取り上げて論じていくのではダメであって、その全体を網羅する形で捉えて、その全体を貫く性質を説いていかなければならないのであるから、この論文で展開されている対象を全面的に捉えるという視点のあり方は、学問を創出していく上で重要な示唆を与えるものなのである。

 筆者の専門分野である言語学でいえば、例えば日本語だけを研究していても、特殊性に貫かれる一般性の把握は可能であるとはいえ、どうしても視野が限定されてしまい、言語一般の学とはならない危険性がある。また、「今」の言語だけを取り出して、それだけを研究することでもって言語学だと主張することも、言語学を薄っぺらなものにしてしまうことになる。どのような必然性を持って、どのような過程で言語が歴史的に創出されたのか、それはサルからヒトへ、人間へと進化していった「いのちの歴史」の論理で捉えるとどのようなことがいえるのか、といった生成発展の道筋をも視野に入れて、言語を研究していく必要があるのである。

 この論文に学んで、より過程的・全面的な言語の把握を行っていくことが、筆者の大きな目標である。
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2016年02月28日

一会員による『学城』第13号の感想(10/13)

(10)「学問の体系化」には対象の過程性にしっかりと着目する必要がある

 今回取り上げるのは、朝霧華刃先生による唯物論の歴史に関する論文である。唯物論とは何かに関する学習をするために、西本一夫『唯物論の歴史』の感想が認められている。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトル・目次を示しておく。なお、『学城』誌上では、目次はなく、本文に項番のみ振られているため、その項番に私なりにタイトルを付して目次とした。

朝霧華刃
唯物論の歴史を学ぶ(1)

 《目 次》
〔前説〕言葉はそれが用いられた時代の思想背景を把握することなしには理解できない
〔A〕利子の源泉、資本家と労働者との相互浸透について
〔B〕資本主義は下からの経済権の収奪であり、労働者の力で伸びていく必然性を持つ
〔C〕「唯物論とは何か」を学習するために西本一夫『唯物論の歴史』を読む
〔D〕原始共同体の時代はものを二重化(物質と観念)して考えたのか
〔E〕「二重化して考える」ためには相当の期間を要する
〔F〕「モノ、コト」について、「霊魂」という言葉について、階級社会について
〔G〕唯物論と哲学の区別と連関、原始共同体とは、唯物論とは
〔H〕王の存在を脅かす文献は残らない
〔I〕ギリシャの植民地で唯物論哲学が始まった
〔J〕タレスは万物の根源は水であるとした

 本論文ではまず、唯物論、社会主義、資本主義といった理論を勉強するために『共産党宣言』を読んで、そこから時代背景や社会背景の違いで言葉の意味が変化してくることが分かってきたと述べられる。そして、『共産党宣言』には説かれていないことを述べるとして、『弁証法はどういう科学か』の剰余価値に関する部分が引用され、資本主義が民百姓による王侯権に頼ることのない下からの経済権の収奪であったこと、資本家の力は当初のみで、あとは下からの労働者の力で伸びていくのみであることが説かれる。その上で、まずは「唯物論とは何か」を学ぶために、西本一夫『唯物論の歴史』を読んで、その感想を綴っていくとされる。西本は原始共同体の時代にはものを二重化して考える考え方が生まれたとしているが、これは単に実体と機能程度のことが書かれているだけで、二重化ということではないと説かれる。そして、「モノ、コト」について、これは概念としては「事物」ということであって、実体(物)と機能(事)の一体性として理解すべきであると説かれる。また、西本が「霊魂」という言葉を使っていることについて、当時はそんな認識すらなかったと説かれる。さらに一番印象に残ったこととして、西本が階級社会の誕生によって「神」というものが登場したと説明している部分を取り上げ、西本の説明では階級が分裂した社会が誕生した過程が説かれていないと批判される。そして西本に欠けているものとして、唯物論と哲学の区別と連関の理解、原始共同体から奴隷制社会への説明、唯物論の理解ということが挙げられる。次に、奴隷制社会について西本は、司祭階級が誕生したこと、王の存在が危うくなるようなことは文献として残らないこと、文献に残っていない重要なことは詩などで残すしかなかったことを述べていることが紹介され、また、唯物論哲学がギリシャの植民地で始まったことも述べられている。そして最後に、万物の根源は水であるとしたタレスに関して、同様に水から世界が生まれたとする『ウパニシャッド』との大きな違いが考察される。

 この論文については、筆者にとって非常に読みづらく、分かりにくいものであったことをまずは述べておきたい。書かれている言葉自体は平易な日常会話で用いられているようなものであるのだが、どうにも論理展開を追っていくにあたって朝霧先生の認識にうまくついていけない、という感じがするということである。

 例えば、上に示した本論文の目次のそれぞれの表題については、筆者がその内容をまとめて独自につけたものであるのだが、順に読んでいただければわかるように、筋らしい筋を展開できなかった。本来であれば、目次のそれぞれのタイトルを眺めるだけで、大よその流れが把握できなければならないと思うのだが、そういう目次立てにすることができなかったのである。さらに、1つの項番の中で説かれている内容を1つに括ってタイトルをつけるということもできなかった。〔F〕や〔G〕を見ていただければ分かるように、各項番について3つの内容をただ並べただけというタイトルになってしまっている。

 本論文の冒頭の箇所に関しても、『共産党宣言』を読んだのは、「ふと気になって読み通してみ」(p.150)ただけなのか、唯物論や社会主義といった基本的な術語を勉強しておかないと、その時代の本当の事実が分からないことになると南郷先生に指摘されたからなのか、その直後に展開されている辞書的意味ではこうした術語を解してはならないということが「しだいに分かることができるようになってい」(同上)ったのは、『共産党宣言』を読み通したからなのか「少し調べてみ」(同上)たからなのか、『共産党宣言』を読んだ話が展開されていたのになぜ急に「『共産党宣言』には説かれていないことについて、少し感じたことを述べたい」(p.151)となるのかなど、数多くの引っかかる箇所があり、内容を的確に捉えられていないと感じている。しかしそうはいっても、何とか学び取れた中身について述べていきたいと思う。

 まず取り上げたいのは、「学問の体系化」に向けては、対象の過程性にしっかりと着目する必要があるということについてである。朝霧先生は「唯物論とは何か」に関わって以下のように説いておられる。

「「社会主義」という言葉が歴史性を把持しているのと同じように「唯物論」という言葉にしても、唯物論のその「物=もの」とは何かということも哲学の歴史の中で学問誕生以来大きな問題として扱われてきており、色々な考え方としての歴史があったのだと思いました。」(p.154)

 つまり、「唯物論」という世界観に関する術語についても、「社会主義」という言葉がその時代や社会背景によって色々な中身を持ったものとして使われてきたのと同様、「物=もの」をどのように捉えるかによって、歴史的に様々な捉え方をされてきたのだ、そういう歴史性を内に含むものとしてこうした術語を理解しなければ、本当にその述語を理解したとはいえないのだ、ということだと思う。

 これは例えば、「弁証法」という術語に関しても同様である。三浦つとむ弁証法を学んできたものにとっては、「弁証法」といえば、「対立物の相互浸透」「量質転化」「否定の否定」という三法則をすぐに連想してしまうが、「弁証法」を本当の意味で理解するためにはこれだけでは不十分なのである。そもそも「弁証法」は、古代ギリシャにおいて創出されたもので、その時代においてはこうした法則性の把握ということは全くなかったのであって、当初は弁論術として誕生させられたものなのである。これが中世に至って、学問的な問答法として定着・固定化したがために、デカルト曰く、「弁証法」など全く役に立たない、ということになってしまった。しかしヘーゲルになると、「弁証法」は絶対精神の自己運動のことを意味するようになり、そこからエンゲルスによって抽出された法則性を、教科書レベルで分かりやすく説いたのが三浦つとむであったのである。

 我々はともすると、「社会契約説」などと聞くと、「そんな馬鹿な!」と思ってしまいかねない側面もあるが、そうではなくて、「社会契約説」がどのような必然性で主張されるようになったのかを、人類の認識の発展過程と重ねながら把握していく、過程性を捉えるということが重要なのである。筆者の専門である言語学についても「言語道具説」や「音韻変化の法則」などと聞くと、そんなものは言語学ではないという思いはあるものの、そこは一旦保留して、そうした学説が登場してきた歴史的必然性をしっかりと研究して、その上で批判するところはきちんと批判していく、正しい言語学とは何かを提示していくという作業が必要になってくるのである。

 もう1つ触れておきたいことは、「事物」という概念に関わってである。朝霧先生は「モノ、コト」について学んだ中身として、次のように説いておられる。

「「ものごと」を概念として用いる場合は、単に「物事」として捉えてしまう日常的事実とを、はっきり分けることが大事になります。「物事」は概念としては「事物」として表現するのが普通ですが、この「事」と「物」の意義は極めて単純です。すなわち物(というもの)は実体そのものであり、事は機能すなわち働きです。ゆえに、概念レベルでは、実体(物)、機能(事)の一体性として理解すべきことなのです。」(p.158)

 このように説いた上で朝霧先生は、専門である武道空手での例を挙げておられる。ここで学ぶべきことは、1つ1つの概念をしっかりと確実に押えて学んでいくという態度である。このことは、我々の師からも折に触れて説いていただいていることではあるが、名刺大のカードに概念とその定義を書いておき、いつもいつも確認していくことが必要だと教えていただいていて、実際に筆者も実践しているところである。「事実」と「現象」、「一般性」と「普遍性」など、似たような概念についても対比しながら学んでいくことで、論文での不正確な概念の使用を防ぐことができるし、アタマの中に基本的な概念を確固としたものとして創っていくことにもつながっていると思う。当たり前だとして何気なく通り過ぎるのではなく、きちんと把握できているのか、常に確認していく必要があろう。
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2016年02月27日

一会員による『学城』第13号の感想(9/13)

(9)学問を構築するためには事実の把握と一般論の学びが必要である

 今回取り上げるのは、聖瞳子先生、高遠雅志先生、九條静先生、北條亮先生による医療における理論的実践を問う論文である。ここでは、代表的な市中肺炎であるマイコプラズマ肺炎の事例について、正常な生理構造の状態が歪んだ状態へ至る過程が説かれていく。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトル目次を示しておく。

聖瞳子、高遠雅志
九條静、北條亮
医療における理論的実践とは何か
―初期研修医に症例の見方、考え方の筋道を説く―
〈第5回〉マイコプラズマ肺炎@

 《目 次》
一、はじめに
二、症例の提示
三、マイコプラズマ肺炎症例の病態の構造を捉える
 (一)患児の生理構造が歪んだ状態を捉える
 (二)患児の正常な生理構造の状態から歪んだ状態へ至る過程の事実
 (三)患児の正常な生理構造の状態から歪んだ状態へ至る過程の構造を説く
    @人間一般から捉えた学童期の特殊性
    A学童期の特殊性から患児の生理構造が歪んでいく過程を捉える

 本論文ではまず、科学的理論にもとづく実践方法論を駆使して、いかなる病気に対しても正しい診断と治療を行える実力を研修医に身に付けさせることが本稿の目的であることが確認された後、今回のテーマであるマイコプラズマ肺炎の症例(10歳、男子、L君)が提示される。小児には、人間としての一般性と小児としての特殊性が存在すること、患者の生理構造がどのように歪んでいるのか、なぜそのような歪んだ状態になったのかを明かにすることが重要であることが説かれ、今回の症例における生理構造が歪んだ状態のあり方が検討されていく。そして、あまり病気にならない、既往歴もない小学生が、なぜ肺炎になったのかという問題提起がなされる。そこで研修医が両親から聞き取った、生理構造が歪んだ状態へと転化した過程の事実が提示され、ここから病気になった必然性が考察されていく。この過程の構造を把握するためには、患者の事実だけを見るのではなく、人間一般を踏まえて学童期の特殊性(成長期に必要な食事・睡眠、自立する認識など)を捉え、そこから患者の事実を見ていく必要があることが説かれた後、患者の生活の中身の構造から、活動量に対してしっかりと回復過程がとれるだけの栄養と睡眠が慢性的に不足していたことで生理構造が弱まってきていたところへ、体の冷えやヨリ大きな身体的負荷がかかったことが直接の引き金となって生理構造が急激に歪んだ状態へと転化していったことが、認識の問題も絡めながら説かれていく。最後に、どのような歪みが起こってもおかしくなかった患者の体において、なぜマイコプラズマ肺炎になってしまったのかという構造が、次回明かにされることが述べられる。

 『学城』第13号全体を貫くテーマである「学問の体系化」に関して、この論文では2つの大きな問題が扱われているように思う。1つ目は、論理を導き出すためには、まずは徹底して事実を調べ上げる必要があること、2つ目は、対象を把握する際には、対象全体を貫く一般性(さらにはその対象の特殊性)に照らして判断する必要があることである。

 まず、1点目の問題について見ていきたい。医師が患者を診るときには、患者の生理構造が歪んだ状態になっていて、医師はその歪んだ状態という結果から、その病状に至るまでの過程、その状態になってしまった原因を明かにしなければならないと本論文では説かれている。そして、その過程や原因を把握するためには、患者がどのような日常生活を送っていたのかの事実を確認する必要があるとされている。こうした指導医の助言を受けて、研修医が患者の両親から話を聞き、患者の〈小学校5年生になるまで〉〈小学校5年生になってからの生活〉〈肺炎になる直近の生活〉という形で、それぞれの時期の患者の生活習慣や課外活動のあり方について、詳細に記録されているのである。

 ここで重要なことは、学問を構築しようとすれば、まずは徹底的に事実にあたる、事実と格闘するということである。そもそも学問というものは、古代ギリシャにおいて、現実の問題、ポリスを維持発展させていく上で解決を迫られる諸々の問題を乗り越えていくためにこそ創出されたのであった。現実の問題を解決するためには、その対象とする現実がどのような構造になっているのかを知る必要があり、そのためには、対象とする事実を事実として、まずはしっかりと見つめる、把握する必要があるのである。そうでなければ、その現実が突きつけてくる問題をうまく解決することなどできないからである。

 今回の例でいえば、患者の正常な生理構造の状態が歪んでしまったのは何故かという現実の問題を解決し、同じような生理構造の歪みが生じないような生活を送ってもらうためには、まずはその患者の事実、その患者がどのような生活を送ってきたのかを、過程性も含めてしっかりと確認して、掴んでおく必要がある、というわけである。そこで研修医は、患者の両親から聞き取りを行うことで、3ページにも及ぶ患者の事実を把握し、それを記録として指導医に提出したのである。

 しかし、患者の事実を確認すれば、それだけで生理構造が歪んだ状態へと至った原因が判明するわけではない。そこで必要となってくるのが、2つ目のポイント、すなわち「対象を把握する際には、対象全体を貫く一般性(さらにはその対象の特殊性)に照らして判断する必要がある」ということなのである。

 本論文では、こうした研修医がまとめた詳細な事実に基づいて、研修医自身があれこれと感想レベルの見解(例えば、原因は過労ではないか、など)を出した後、指導医が次のようにコメントしている。少し長いが引用しておく。

「指導医 過労ということを、L君の事実だけで考えようとしても、やはり難しいね。この事実の構造を見ていくということにおいても、そもそも小学5年生くらいの子供は、人間においてどういう段階にあるのか、さらにそのような段階にある子供が、どのように生活していくことが健康を保つために必要なのかが分かっていなければならない。すなわち、人間が正常な生理構造を保ちながら生きていくためにはどのような生活を送るべきなのかという、人間一般をふまえて学童期の特殊性を捉え、そこからL君の事実を見ていかなればならないのである。そうでなければ、L君の生活のどこに無理があるのか、なぜ過労になってしまうのかという判断ができないからね。」(p.143)

 ここでは、事実のみに着目して何らかの判断を行うことは不可能であって、その事実を測るいわばモノサシとして、一般性を把握しておく必要があること、さらには、一般性の中の特殊性(対象のある範囲に共通する一般性)にも着目する必要があることが説かれている。この場合でいえば、患者の生活過程という事実だけをいくら眺めていても、それが生理構造の歪みにどのように影響を与えたのかということは分からないのであって、人間の正常な生理構造が保たれるような生活過程という一般性、さらにはその中での学童期の生活過程の特殊性をしっかりと基準として持った上で、患者の生活過程に重ねる形で判断する必要があるのだ、ということであろう。

 ここで述べられていることは、「学問の体系化」においても重要なことである。学問を構築する過程においては、まずは対象とする事実からその一般性を把握した一般論を構築する必要があり、次にはこの一般論から対象とする事実に問いかけていって、事実を論理的に把握していくとともに、規準となる一般論を精査していく必要がある。こうした事実の把握と論理との「のぼりおり」の重要性が説かれたものとして、この論文を「学問の体系化」への道に位置づける必要があろう。
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2016年02月26日

一会員による『学城』第13号の感想(8/13)

(8)理論化には人類の学問の発展の道を辿り返す必要がある

 今回取り上げるのは、P江千史先生、本田克也先生、小田康友先生、菅野幸子先生による新・医学教育 概論である。医師とは何か、医学生のゴールはどのようなものかについての論が展開されている。

 本論文の著者名・タイトル・目次は以下の通りである。

P江千史・本田克也
小田康友・菅野幸子
新・医学教育 概論(2)
─医学生・看護学生に学び方を語る─

 《目 次》
(一)現代の医学教育に欠けたるもの
(二)医学教育には理論が必要である
(三)理論化への過程を具体的に説く
(四)理論は問題を解く指針となる
(五)医学教育論に必要な全体像
(六)医学教育はまず医師とは何かを明確に示す必要がある
(七)医師の実力のレベルには段階がある
(八)医学生のゴールは臨床一般医として現場で困らない実力である
(九)初期研修では臨床一般医としての実力をつけなければならない

 本論文ではまず、現在の医学教育改革には理論体系がないために、医療に関わる膨大な文化遺産を前に途方に暮れるしかないことが述べられる。では、医学教育に必要な理論とは何かといえば、ある範囲の対象的事実から導き出した論理と別の範囲の対象的事実から導き出した論理とに共通な性質を導き出して、対象全体の事実を貫く共通性として把握し、それらをそれぞれのレベルの一般性として整序して提示したものであると説かれる。しかし、現在ある教科書は、少しも理論化されていないこと、医学教育改革も理論化を無視しては絶対に成功しないことが述べられる。ではなぜ理論が必要なのかといえば、端的には、解答に辿りつくための大きな指針となるからであって、病気とは何かの一般論(理論)があれば、そこから単に病名を当てるだけではなくて、どうしてこの人はこのような病気になってしまったのかという必然性が解明できるのだとされる。その上で、「医学教育論」と「医学体系」と「医療実践論」の区別と連関が説かれていく。まず、「医学教育論」とは、「病気の診断と治療を行うことによって、医療の維持・発展を担う医師を育成するために、文化遺産を習得させ、医術を修得させる過程を理論化したもの」(p.123)だとされた後、医学教育では目指すべき「医師とは何か」をこそ初めに明確にさせなければならないと説かれる。そして、「医師とは何か」は「医療実践論」(医師が行う実践である病気の診断と治療を理論化したもの)において理論化されているから、医学教育のためには「医療実践論」が必須だと述べられる。さらに、医師の実践にもレベルにより段階があることが述べられ、医学生は、まずは臨床一般医(あらゆる病気をとりあえず的確に診断し、治療する実力を持った医師)としての基本的な実力を培って卒業しなければならないと説かれる。すぐに忘れてしまう知識を丸暗記することに労力を費やすのではなく、医師として筋を通して考えていけるアタマづくりを習練すべきだということである。最後に、初期研修では臨床一般医としての実力をつけていかなければならないこと、「医療教育論」と「医学体系」との関係については次回に説かれることが述べられる。

 この論文でまず取り上げなければならないことは、「学問の体系化」への道はどのようなものかということについてである。著者の先生方は、一見華々しく発展しているかに見える医療が、実はただ事実が膨大に積み上げられているにすぎず、少しも理論化されていないことを、看護実践を導いてくれる指針としての看護学が既に確立されていることとの対比で、痛烈に気付かされたのである。そこで、理論を求めて出立されたのであった。それがどのようなものであったのかにいては、以下のように説かれている。

「理論化への道は、まさに苦難の道でしたが、最も重要なことを一言で言えば、人類の学問の発展の道を辿り返すことによって、論理的実力を培うことだったのです。」(p.118)

 これはどういうことかといえば、人類がどのように学問を発展させてきたのかについて、歴史的=論理的に辿り返すことによって、そこに含まれる論理を筋を通して展開できるまでに研鑽を続けることで、論理的実力を培っていったということである。では、その論理とは何か、「学問の体系化」=理論化に論理的実力がなぜ必要なのかといえば、以下のように説かれている。

「そもそも論理とは何かと言えば、対象に存在する共通の性質を導き出し、一般性として把握したものです。」(p.118)

「なぜ理論化に、この論理的実力が必要かと言えば、ある範囲の対象的事実から導き出した論理すなわち一般性と、別の範囲の対象的事実から導き出した論理すなわち一般性とを前にして、その一般性にさらに共通な性質を導き出して、一般性として把握していく作業を、気が遠くなるほど繰り返していくことによって、対象全体の事実を貫く共通性としての一般性を把握することが可能となり、このようにして対象全体の事実の性質が、それぞれのレベルの一般性として整序されて提示された時に、理論と呼んでよいものになるからです。」(pp.118-119)

 つまり、理論とは対象の共通性を把握したものであって、これを導き出せることが「学問の体系化」=理論化の前提条件、基礎的実力となるということである。

 では、「人類の学問の発展の道を辿り返す」とは具体的にどのようなことであろうか。それは、我々京都弁証法認識論研究会が昨年から実践しているヘーゲル『哲学史』を読み解くような作業を、まずはなすことである。ここでいわれている「学問」というのは、個別科学のことではなくて、それらを統括するような学問中の学問、すなわち哲学のことだからである。哲学は、その時代時代の個別科学のあり方を規定するのみならず、学問はまず、古代ギリシャにおいて哲学として創出されたからである。こうした学問の発展の流れを大きな枠組みで把握した後は、それに重ねる形で、それぞれの専門の個別科学史、言語学史なり経済学史なりを研鑽していくのである。こうした過程において、論理とはどのようなものかをしっかりと身に付けていくことが「学問の体系化」には必須であると説かれているわけである。

 さて、最後に軽くでも触れておきたいのは、今回初めて、「医学体系と医療実践論と医学教育論の関係」が図示された(p.124)ことに関してである。特に、「医学体系」と「医療実践論」との関係については、これまではっきりしなかった思いがあった。P江先生は「医学体系の構造」として、常態論を基礎にした病態論と治療論との二本柱の図を示してこられていたけれども、では例えば、次回取り上げる「医療における理論的実践とは何か」で必要とされる「科学的理論に基づいた実践方法論」とはどのような関係にあるのか、どう異なるのか、イマイチよく分からないところがあった。今回、「医療実践論の構造」として、診断論と治療論の二本柱の図が提示されたことによって、「医学体系」という「科学的理論」を土台として、どのような医療実践を行うのかを理論化したものが診断論と治療論を柱とする「医療実践論」であることが明確になったと思う。本ブログに掲載した「図式化にはどのような効用があるのか」でも説いた通り、やはり図式化されると表象として把握できるため、非常にイメージがしやすいと改めて感じたことであった。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
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 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
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 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
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 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
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 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
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 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
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 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
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 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
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 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言