2017年08月27日

夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想(5/5)

(5)夢の解明のためには学問が必須である

 本稿は,哲学レベルで説かれている南郷継正『“夢”講義(4)』を読んで,学んだことを認めることによって,学習内容を明確にし,しっかり自分のものにしていくためにこれまで執筆してきた。ここで,これまでの内容を簡単に振り返っておきたい。

 初めに,「学問は原点からの歴史性に学んでこそ措定できる」(p.72)と説かれている内容を取り上げた。ここではまず,哲学というのは,原点からの歴史性に学んでこそ,措定できるのであり,成立しうるものなのであるということが説かれていた。哲学の原点は,「森羅万象すなわち全世界をしっかりと把握したいという」願望にあり,その原点を踏まえたうえで,古代ギリシャから自分の時代までの学問史を一身の上にくり返すことこそが,哲学へ到達可能な道なのである,ということであった。これはあらゆる学問分野に当てはまることであるが,原点からの歴史性に学ぶ必要があるのは,原点にこそ,そのものの本質が端的な形で現れているため,そのものの本質を掴みやすいからであり,この世のありとあらゆるものの発展は,段階を踏んでなされているものであり,前段階の実力をしっかりと身につけてこそ,次の段階へと発展していけるという,発展の論理構造があるからであった。これを踏まえて,本書では弁証法や認識論の歴史性についても説かれていた。認識論の歴史性に関しては,心理学誕生の謎解きがされていた。すなわち,人間において,本能以上の働きをし始めたココロが,本能レベルの安定性を求めて宗教を創造することになり,ココロの問題は,一般性をもったレベルのものであっただけに,宗教による画一的な教えによって解消されていたが,資本主義社会になるに至り,個人が主体性を帯び,ココロが特殊性や個別性を帯びるように変化したため,心理学が誕生したのだ,ということであった。

 次に,本書で説かれている弁証法の基本について取り上げた。まず,弁証法の歴史的過程については,弁証法は歴史的にはさまざまな姿形をとっているが,その実態・実体は,弁証法の原点たる古代ギリシャ時代に見るがごとく,学問(というより論理体系レベルのもの)の創出できる論理的な実力形成への歩き方の方法である,それが,時代時代によって変化・発展していき,さまざまな姿形として現象してきているだけであるという趣旨のことが説かれていた。次に,直接と直接的同一性の論理的区別を確認した。ここに関わっては,「直接に同一」と「直接的な同一の性質」とは大きく異なるのであり,これは「人間」と「人間的」の関係と同様だと説かれていたのであった。第三に,『弁証法はどういう科学か』旧版のあとがきについて,その意義と重大性を検討した。本書では,「この「あとがき」を読んでから弁証法の深い学習に入るばあいと,この「あとがき」を知らないで学習に入るばあいとでは,その実力のつき方が全く異なっていく」,「はっきり述べて,私はこの「あとがき」の文言がなかったならば,恩師三浦つとむの著作との精神レベルでの交流はなかった」(p.166)などと説かれていた。あとがきを読むと,三浦つとむの志の高さや気概,責任感・使命感の強さの他に,権威を恐れずにその誤りを批判して憚らない主体性が痛いほど伝わってくるのであり,これを読めばこそ「人生,意気に感ず」レベルで弁証法の学びに入っていけるのだと説いた。

 最後に,認識の成立と社会の関係を中心に検討して,認識論の理解を深めようと試みた。第3編第3章では,人間は社会からの反映でもって育ってくるのであり,私たちの認識は必ず社会を反映しているし,社会を反映した像しか原形としては存在していないと説かれていた。そして,ここでいう社会とは,生活している範囲の身近な小社会のことであるとされていた。そして,夢も認識=像であるから,社会関係の足跡の全くないものとはなれず,それだけに,夢の問題を学問レベルで説くためには,社会に関わる大勉強が要求されるのだと説かれていた。要するに,社会が違えば,それに応じて創られる認識も違ったものになるのであるから,認識のことをしっかりと理解するためには,「世界史を初めとする歴史や政治,経済などの社会に関わる大勉強」が必須だということであった。その社会は,時代性,国家性・地域性,小社会性に応じて千差万別であるから,その普遍性・特殊性・個別性をしっかりと押さえない限り,その社会的外界を反映して創られる人間の認識をしっかりと解明することはできないのだと説いておいた。さらに,認識論の基本用語ともいえる,「像」「感覚」「感情」「感性」についても,本書で説かれている内容を確認した。像とは脳の中に描かれたものであり,感覚とは実体としての感覚器官の機能(働き)であるがゆえに,感覚だけではまだ像ではない,「この感覚が脳そのものに反映されて脳の中に自身が『何か』を描く時,『何か』が描かれた時,この描かれたもの,描いたもののことを『像』という」と説かれていた。また,感情と感性については,脳の中での像が量質転化するだけではなく,感覚するということ自体が量質転化し,さらに実体である五感覚器官も量質転化していくのであり,こうして量質転化できていったあるレベルの状態を感情といい,この感情の一般的なあり方を感性という,と説かれていた。

 以上,本稿の内容を端的にまとめ直した。

 本稿の最後に,本稿で採用されている論の展開について考察しておきたい。本書では,読者からの質問に答えながら,論を展開している部分が多い。これには,どのような意義があるのであろうか。筆者は3つあると考える。

 第一に,読者からの質問に答えて,より丁寧にとき直すことによって,自身が説きたかった内容がより明確になっていく,ということが挙げられる。自分の表現した言語は,自分の認識を表現しているだけに,自分が読み返しても論の不十分な点や不明瞭な点が分かりにくい。自分の頭の中にある像でもって問いかけ的に読み返してしまうため,これで十分だと反映してしまいがちなのである。ところが,他者が自分の論理展開を読んだ場合は,そのような問いかけ像がないために,純粋に言語表現されているもののみを根拠に論の展開を追おうとする。すると,不十分な点や曖昧で不明瞭な点がよく分かるものである。その点を質問されると,分からないといっているのだから,より丁寧に説き直すことになる。それによって,自分自身もいいたかったこと,説きたかった内容が,より明瞭になっていくのである。

 第二に,自己の論理展開をくり返し原点から辿り返せるという意義がある。質問されると,少し前に説いた内容を,もう一度説くことになる。今説いていることとは相対的に独立した内容であるし,少し前の内容であるだけに,もう一度,なぜそれを問題にしたのか,それに対してどのような答えを出したのかということを説き直すことになる。本稿の連載第2回でも説いたように,このような原点からの辿り返しは,次の段階へと発展していくために必須のものである。すなわち,少し進んではまた原点に戻って,そこから説き直し,少しだけ進む,ということをくり返すことによってこそ,自らの実力が前段階をしっかりものにして,正当に発展していくことになるのである。

 第三に,読者からの質問・疑問をしっかりと読み,それに答えていくことによって,自らが行う一人きりの二人問答の実力があがっていく,その精緻化につながるといえる。これはどういうことか。そもそも一人きりの二人問答とは,自らが何らかの立論をした場合,すぐさま,それの批判者の立場に立って,自らの立論に対する疑問点を出し,論駁し,反論する,ということをくり返して行なっていくものである。この際,自分の見解に対して疑問点を出したり,反論したりということは,実際に誰かから疑問点を出されたり,反論されたりという経験を内在化していくことによって,うまくできるようになっていくものである。であるからして,実際の他者から疑問点を出してもらい,反論してもらうというようなことは,他者がいなくても,一人きりの二人問答によって自らの認識を発展させていくことができるようになる,いわば前提条件といえるのである。

 以上の3点は,われわれが研究会において議論し,討論していく際にも,常に念頭に置いて意識しておくべきことだと考えられる。すなわち,会員同士で,相手の書いた論文に対してしっかりと質問したり疑問点を出したりすることによって,問われた方は相手に分かるように,より丁寧な論理展開を試みる。それによって,自分の像がよりクリアーなものになっていく。同時に,説きたかった内容を原点から再度説き直すことによって,自分の上達に向けて,前段階の実力を常態化・常識化していくことが可能となる。さらに,他者からの疑問や反論を内在化して,事前に,他者がいなくても,一人きりの二人問答を展開することによって,より隙きのない論理展開が可能となっていき,自分の認識を発展させていくことが可能となるのである。

 このようなことを実現化していくためにも,われわれはより積極的に議論し討論していかなければならない。相手の論に疑問点をぶつけ,質問していくことは,相手の認識を発展させることにつながり,ひいては,組織全体のレベルアップに貢献することなのである。このことをしっかりと肝に銘じて,今後の研究会活動を行っていきたいと思う。

(了)
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2017年08月26日

夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想(4/5)

(4)認識の成立と社会の関係性

 前回は,本書で説かれている弁証法の基本について検討した。特に,旧版のあとがきで説かれている内容に関して,三浦つとむの志の高さや気概,責任感・使命感の強さ,それに,外国の権威を恐れずに批判する主体性を感じるとして,これがあればこそ,三浦つとむの著作との精神レベルでの交流が可能となるのだと説いておいた。

 さて今回は,主として本書「第3編 認識の成立の過程性を説く」「第3章 認識の成立と社会の関係性を説く」で説かれている内容を紹介しながら,認識論について理解を深めていきたい。

 この章では初めに,夢と「社会とは何か」がどう関係してくるのかという読者からの質問に答える形で,人間は社会からの反映でもって育ってくるのであり,私たちの認識は必ず社会を反映しているし,社会を反映した像しか原形としては存在していないと説かれている。そしてここでいう社会とは,生活している範囲の身近な社会=小社会のことであるとして,その小社会が,家の中から,隣近所の公園まで,保育園・幼稚園,小学校,中学校,高校へとどんどんと広がっていくことによって,それを反映した社会的像がどのように生成発展していくのかが説かれている。

 ここから問題の“夢”の論点に展開して,夢は脳の中の像(の形成)が,脳によっていわば勝手気ままに作成されていくものだとした上で,次のように説かれている。

「でも,脳が勝手に(本人に無関係に)作成するとはいっても,夢として描かれるその脳の中の全ての像は,元々社会(環境)的な反映で形成されたものですから,その大本の五感覚器官を通して形成された過程が必ず残っているものです。

 ……結論としては,睡眠中のいかなる人のいかなる夢も社会(環境)なしの,つまり社会的関係の足跡の全くないものとは,絶対になれないのです。

 再度説きますが,それだけに夢の問題を学問レベルで説く(説く実力をつける)ためには,いかなる社会(環境)で育ったのか,いかなる社会(環境)を経て大人になったのか,そして現在はいかなる社会(環境)の中で生活しているのかの最低三つの社会(環境)の実際的かつ論理的合成力の修練が必要とされるのです。当然にそのためには,世界史を初めとする歴史や政治,経済などの社会に関わる大勉強の必然性が要求されることを分かることが大切なのです。念のためですが,心理療法の達人だったかのフロイトは,ここを見事になしとげていたからこその名医とされる治療を施せたのです。」(pp.115-116)


 ここでは,夢も認識=像であるから,社会関係の足跡の全くないものとはなれず,それだけに,夢の問題を学問レベルで説くためには,社会に関わる大勉強が要求されるのだと説かれている。

 ここまでで,認識に関わる非常に重要な指摘がされていると思う。人間の認識は外界の反映によって成立するということは,ずっと以前からモロモロの学者・研究者によって説かれていたと思うが,その外界は,大きく自然的外界と社会的外界に分けられるから,後者である社会的外界によって認識が創られる側面をしっかり押さえることが重要なのだということを,これほど明確に説かれたことはかつてなかったのではないか。

 要するに,社会が違えば,それに応じて創られる認識も違ったものになるのであるから,認識のことをしっかりと理解するためには,「世界史を初めとする歴史や政治,経済などの社会に関わる大勉強」が必須だということである。この問題をもう少し検討してみたい。

 単純に「社会」といっても,その中身は千差万別である。まず,時代によって社会のあり方は大きく異なる。古代であれば奴隷制は当たり前のものとして存在していたが,現代においては非人道的・非人間的なものとしてその存在は認められていない。また時代に応じて,社会の複雑さも異なる。したがって,ある人間の認識を理解するためには,その人間の属する時代をしっかり理解しなければならない。まずは時代性の把握が肝要なのである。

 次に,同じ時代でも,国家や地域によって,社会のあり方はさまざまである。同じ中世の封建制社会でも,ヨーロッパと日本とではそのあり方が違う。たとえば,ヨーロッパでは「臣下の臣下は臣下でない」という言葉が示すように,AとBが主従関係を結んでおり,BとCが主従関係を結んでいても,AとCにはその関係がないというのが普通であった。ところが,日本においては,臣下の臣下と主君の主君とは,当然に主従関係があったのである。

 最後に,同じ時代,同じ国家・地域であっても,より小さな社会環境である小社会は異なっている。同じ現代日本であっても,東京と大阪では社会的認識が違う。東京弁とか大阪弁とかいうように,同じ日本語であっても,微妙に違いがあるし,よくテレビや雑誌などで紹介されているように食文化も違う。もっと小さなレベルの小社会に着目するならば,生まれてくる家庭も人それぞれである。何人家族であるか,兄弟は何人いるのか,何人目の子どもであるか,母子家庭か否か,両親の学歴はどれほどか,両親の生まれはどこか,両親の年齢はいくつであるか,などなどに応じて,その家族=小社会のあり方は異なってくる。

 このような千差万別の社会について,その普遍性・特殊性・個別性をしっかりと押さえない限り,その社会的外界を反映して創られる人間の認識をしっかりと解明することはできないということであろう。フロイトもなしとげたという社会に関わる大勉強を,同じく心理臨床に携わっている筆者としても,しっかりと行っていかねばならないと改めて決意した。

 さて次に,認識論の理解を深めるために,像や感覚に関わる内容も確認しておく。本書では,像とは何か,感覚とは何かについて,これも読者からの質問に答える形で説かれている部分があるので引用したい。

「ここで「像」というものは,直接的には脳の中に描かれた(反映させられた)ものです。もっと説くなら,外界が感覚器官を通して脳の中に反映させられた(描くことになった)一種の“画(絵)もどき”です。

(中略)

 感覚とは,感覚器官の機能,すなわち働きそのものです。もっと理論的にいうなら,実体としての感覚器官は,感覚するという機能を直接的に持っているのです。……

 このように感覚器官はたしかにそれぞれの機能(働き)を持っていますが,これらはけっして単独で働いているものではないのです。すなわち,感覚器官は全部で一つとして機能,すなわち働いているのです。この五個の感覚器官,つまり五感覚器官の共同体的機能すなわち五感覚器官の総合一体的な働きをまとめて(統合して)「感覚」というのです。

 それだけに,感覚だけではまだまだ「像」そのものにはなりえません。この感覚が脳そのものに反映されて脳の中に自身が『何か』を描く時,『何か』が描かれた時,この描かれたもの,描いたもののことを『像』というのです。」(pp.121-122)


 ここでは,像とは脳の中に描かれたものであり,感覚とは実体としての感覚器官の機能(働き)であるがゆえに,感覚だけではまだ像ではない,「この感覚が脳そのものに反映されて脳の中に自身が『何か』を描く時,『何か』が描かれた時,この描かれたもの,描いたもののことを『像』という」と説かれている。また,感覚器官は全部で一つとして機能している点も強調されている。

 本書では,三浦つとむですら,像とは何か,感覚とは何かは説けていないとされている。確かに,像や感覚について,このような分かりやすくすっきりとした説明は,三浦つとむにもなかったと思う。筆者自身も,「感覚とは,たとえば皮膚感覚であれば皮膚のところにあるものなのか,それとも頭の中にあるものなのか」というような疑問を以前抱いていた。そのような疑問が,ここでの解説で見事に解消されたのである。

 また,感覚器官は全部で一つとして機能しているというのも大事だと思った。感覚器官を原点から辿り返すならば,当然,初めから複数の感覚器官があったわけではなく,初めは原始的な触覚的な機能があっただけだと推察される。それが,生命維持の必要性に迫られて,きちんと外界を把握することが必要となり,それに応じて感覚器官が分化していったのだと考えられるのである。このように,もともとひとつのものが5つに分化しただけなのであるから,分かれているという現象に引きずられて,バラバラなものであると考えてしまってはならないのであり,「五感覚器官の共同体的機能すなわち五感覚器官の総合一体的な働き」として,理解していく必要があるのだろう。

 最後に,感情と感性についても簡単に確認しておきたい。これらについては,以下のように説かれている。

「外界を反映し続けると,脳に描かれる像はしだいしだいに深みを帯びていきます。……

 これはただ単に脳の中での像が見事になる! というだけのことではありません。その他にも量質転化してきているものがあるはずです。

 一つは感覚そのものです。感覚するということ自体が量質転化していくのです。もう一つは,それを通して実体である五感覚器官もそれらに相応しながら発達してきているのです。なぜなら感覚だけ(機能だけ)の発達には限界があります。それだけに,感覚し続けることで働き(機能)そのものが実体そのもの(五感覚器官)をも発達させる(量質転化させる)必要があるのです。こうやって量質転化できていったあるレベルの状態を感情と称するのです。この感情の一般的なあり方を称して(論理レベルで)感性ということになるのです。」(p.124-125)


 ここでは,外界を感覚し続け反映し続けることによる量質転化について説かれている。すなわち,脳の中での像が量質転化するだけではなく,感覚するということ自体が量質転化し,さらに実体である五感覚器官も量質転化していくのであり,こうして量質転化できていったあるレベルの状態を感情といい,この感情の一般的なあり方を感性という,と説かれている。

 感情の問題は,たとえば,悲しくて仕方がないとか,自分の怒りをコントロールできないとかいった形で,筆者のような臨床心理士の仕事をしていくうえでは,避けては通れない問題である。その感情の問題を,そもそも認識とは何か,感情とは何かという本質から説ききるためには,ここで説かれているような内容をしっかりと自分のものとしていく必要があると感じた。今後とも,この問題については,ここで説かれたことをヒントにしながら考え続けていきたいと考えている。


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2017年08月25日

夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想(3/5)

(3)『弁証法はどういう科学か』旧版のあとがきの意義

 前回は,『“夢”講義(4)』で説かれている「学問は原点からの歴史性に学んでこそ措定できる」ということに関わって,なぜ原点からの歴史性に学ぶ必要があるのかの理由を考察した。原点からの歴史性に学ぶ必要があるのは,原点において,そのものの本質的なものが形成されるためであり,さらに,物事の発展は,前段階の実力の上に上書きされる形でなされていくためであった。その後,認識論の歴史性について,特に心理学誕生の謎について本書で説かれていることを確認した。

 さて今回は,本書で説かれている弁証法の基本に関わって,2,3のテーマを取り上げたい。

 まずは,前回も少し触れた弁証法の歴史的過程についてである。「弁証法なるものがどんな赤ちゃんとして誕生し,その赤ちゃんがどう幼児になり,またどう青年へと変化・発展していったのか」(p.136)を,本書の流れに沿って簡単に見ておきたい。

 はじめに,読者からの質問で出てきた「弁証法というのは,『弁論すなわち議論・討論・論争を通じて相手の論の欠陥を暴きだし,自分の論の正しさの証を立てること,すなわち,弁じて証明することだった』」という言葉を取り上げ,これはよくてプラトンの時代までのことであり,このような中身の弁証法はアリストテレス以後はほとんど顔を出さなくなっていくと説かれている。しかもこれは,弁証法といわれる現象形態でしかなく,弁証法なるものの実態や実体ではないとされている。では,その実態・実体とはなんであったのかというと,それは,学問(というより論理体系レベルのもの)の創出できる論理的な実力形成への歩き方の方法であったのだ,と説かれている。

 この古代ギリシャの弁証法は,中世において定式化,公式化されて,学問形成への問答集として大成されたが,これは大失敗であったと説かれている。というのは,答えが初めから分かっている,現代の大学入試のような問答集だったからであるとされている。当時の弁証法は,問答法としての形式を借用しただけの現象形態にすぎないものだったのである。本来はそうではなく,実態構造・過程を学ばなければならなかったのであり,討論が大切なのではなく,討論できるだけの実力が大事なのであると説かれている。

 学問を創出する実力養成のための弁証法(弁証の方法)は中世以降,堕落させられていたが,やがてその実力の実態を学んで自分の学問力にしたのが大哲学者カントであり,いわゆる「二律背反」の措定がそうであると説かれている。ヘーゲルはこのカントの「二律背反」の構造にしっかりと学んで,本物の弁証法を理論的に駆使できる実力をつけていき,このヘーゲルの学問的実力の中身を,弁証法を駆使しての実力であるとみごとに見抜いたエンゲルスが,この過程を一般化して,「弁証法とは,自然,人間社会,および思惟の一般的な運動=発展法則にかんする科学」であるとしたのである,ということである。最後に,このような弁証法の歴史的な過程性=発展的構造論を実力化してきたからこそ,「いのちの歴史」を措定できたのだ,と説かれている。

 ここで説かれていることをごくシンプルにいってしまうと,弁証法は歴史的にはさまざまな姿形をとっているが,その実態・実体は,弁証法の原点たる古代ギリシャ時代に見るがごとく,学問(というより論理体系レベルのもの)の創出できる論理的な実力形成への歩き方の方法である,ということであろう。それが,時代時代によって変化・発展していき,さまざまな姿形として現象してきている,ということであろう。古代ギリシャで誕生した学問を創出する実力を養成するための弁証法という本質的な部分が,それ以後の弁証法にも貫かれているのであり,この本質的な部分をしっかりと理解しながら弁証法の歴史を辿り返していくことこそが,弁証法的な実力を養成するためには必要だといえると思う。

 さて,二つ目のテーマとしては,直接と直接的同一性の論理的区別という問題を取り上げたい。本書では,直接的同一性とは,直接に同一であるということではないと説かれている。「直接に同一」と「直接的な同一の性質」とは大きく異なるのであり,これは「人間」と「人間的」の関係と同様だと説かれている(pp.180-181)。さらに別の箇所では,「中学生レベルで説くと,直接とは,あるものが切り離すことのできない他の性質を必然的に持っている時に使います」(p.201)と解説されている。

 本書で挙げられている具体例を,以下にまとめてみよう。

直接:
 実体は直接に機能である(p.173)
 ヒトは直接に哺乳類です(p.201)

直接的同一性:
 ココロとアタマは,簡単に説けば直接的な同一性を保って働き続けてきています(o.180)
 武道と武術とは直接的同一性である(p.202)


 この両者の区別は,三浦つとむですらつけられていないと指摘されているだけに,われわれにとっても,そもそも問題意識になかった。したがって,今後,新たにこの区別をしっかりとつけていかなければならない。しかし,直接の方は説明もあって何となく理解できるが,直接的同一性の方があやしい。

 実体は機能という切り離すことのできない性質を必然的に持っている,ヒトは哺乳類という切り離すことのできない性質を必然的に持っている,というのは(何となくであっても)分かる。また,ココロはアタマという切り離すことのできない性質を必然的に持っているとはいえない,武道は武術という切り離すことのできない性質を必然的に持っているとはいえない,というのも分かる。しかしそれなら,直接的同一性とはどういうことなのか。

 「人間」と「人間的」の区別を参考にすると,直接的同一性とは,「直接の性質にふさわしい同一性」とか「直接の性質をもった同一性」とか「直接らしい恰好をした同一性」とかいうことになろう。また,武道と武術に関する記述からは,「同じものでもあり,かつ,異なるものでもある」(p.202)場合を「直接的同一性」と呼ぶのかもしれない,ということが分かる。現時点ではこのくらいの理解にしておいて,具体的な事実で考えていきながら,熟成させていきたい。

 弁証法に関わって最後に取り上げたいテーマは,これが最も重要だと筆者は考えているのであるが,『弁証法はどういう科学か』旧版のあとがきについてである。1968年に出た現行の『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)には,まえがきはあってもあとがきはない。ところが,1955年に出版された『弁証法はどういう科学か』の旧版(ミリオン・ブックス版)にはあとがきがあるのである。この旧版のあとがきについて,本書では,「この「あとがき」を読んでから弁証法の深い学習に入るばあいと,この「あとがき」を知らないで学習に入るばあいとでは,その実力のつき方が全く異なっていく」,「はっきり述べて,私はこの「あとがき」の文言がなかったならば,恩師三浦つとむの著作との精神レベルでの交流はなかった」(p.166)などと説かれており,その重大性が強調されている。非常に重要なので,本書では全文引用されているが,特に大事な部分を中心に引用したい。

「弁証法というものに興味を持って,この本を手にした読者の大多数は,知識のための知識ではなくて,現実にぶつかっている問題を処理するのに役立つ理論を要求しておられることと思います。ある有名な婦人雑誌では,料理や裁縫の原稿ができてくると,まず社の中の人たちが実際にこしらえて食べたり着たりしてみて,充分役立つことをたしかめてから発表する,と聞きました。これは読者の要求に責任を持ってこたえる態度です。わたしは,弁証法の本を書く場合にも,やはりこれと同じような態度でなければならないと考えています。外国人がうまいと主張しているからきっとうまいにちがいないと,自分ではこしらえたことも食べたこともない料理を宣伝し,他人にすすめるとしたら,ずいぶん無責任な話ではないでしょうか。……やはり経験者でなければ失敗を防ぐためのカンドコロが分かりませんが,それをおしえてくれないと本に書いたとおりにやってみたがどうもうまくいかない,という結果に終りがちです。……

 弁証法の教科書には,翻訳,国産いろいろありますが,わたしが弁証法を研究に役立ててみてわかったことは,哲学者の書いた本には大切なところが相当ぬけおちているという事実でした。……相互浸透の具体的な構造がほとんど無視されていることや,ヘーゲルの否定の否定を批判しただけで唯物弁証法のそれが無視されていることなども,ずいぶん不当な扱いかただと思いました。これでは弁証法を充分に役立てることができません。……

 弁証法について何の知識もない人でもよく分かること,生活に研究にすぐ役立つ実用的なものであること,しかももっとも高い学問的な水準を示すものであること,――これらの条件をすべて満足させることは理想ですが,その実現はなかなか困難です。この本のように紙数に制限のある小冊子ではなおさらです。でもわたしはこのような本を書くことが長い間の望みでしたから,理想の実現のためにできるだけ努力を払ったつもりです。……翻訳の教科書などでは弁証法がどんなに役立つ道具であるかを最上級のほめ言葉を使って長々とのべていますが,この小冊子では道具の構造や使い方かたに叙述の重点を置いて効能書を簡単にしました。」
(pp.167-169)


 ここでは,三浦つとむが実際に弁証法を使って成果をあげた経験者であり,自分で責任をもって,充分に役に立つことを確かめていること,弁証法を十分に役立てるために大切なところ(相互浸透の具体的な構造など)をしっかりと説いたこと,分かりやすく実用的で学問的に高水準な本を目指したこと,弁証法という道具の構造や使いかたに重点を置いて説いたこと,などが説かれている。

 これを読むと,三浦つとむの志の高さや気概,責任感・使命感の強さなどが痛いほど伝わってくる。そしてまた,外国の権威に盲従するのではなく,自ら自力・独力で弁証法を使いこなすまでの研鑽をなし,権威を恐れずにその誤りを批判して憚らない主体性というものも感じられるのである。同時に,自分が使ってみてその効果を確かめた弁証法であるから,自信をもってお勧めできる,だから読者は安心して学びに集中してほしい,というような三浦つとむの思いも伝わってくるのである。特に,「対立物の相互浸透」については,これまで「対立物の統一と闘争」などと歪曲して捉えられていたために,きちんとした解説がなされたことがなかったので,三浦つとむはあえてかなりのページ数を割いて,丁寧に,具体的に,相互浸透の構造を解説したのだと思われる。

 このように説くと,新版のまえがきでも,「わたしも自分の社会科学の研究にこの弁証法を使ってみて,それがどんなにすばらしい武器であるかを実感することができました。これまでの学者が越えられなかった理論の壁を,弁証法を使って簡単に打ち破り,学問的に未知の分野に深く切りこんでいくことができたからこそ,多くの人たちにこのすばらしい武器のことを知ってもらいたい,これを使って成果をあげてほしいと願って,この本を書くことにしたのです」とあるように,同じような内容を説いているではないか,という反論があるかもしれない。

 しかし,新版で説かれている内容は,旧版と比較すると,やや物足りない印象を受ける。旧版でにじみ出ているような責任感や使命感は読み取るのがなかなか難しいし,権威を恐れず批判するというような主体性も,直接的に文言として現れているとはいえない。もちろん,新版のまえがきでは,弁証法は科学であるという側面が強調されており,これはこれで重要な内容であり,著作の入り口としては非常に優れていると考えられるが,しかし,これを読んだからといって,「人生,意気に感ず」レベルで動かされるということはないであろう。

 すなわち,旧版のあとがきを読まずに学習を進めた場合には,『弁証法はどういう科学か』を,数ある哲学書の一つとして,one of themとしてスマートに読了して終わり,ということにもなりかねないが,旧版のあとがきに深く学んで学習をしていった場合は,「人生,意気に感ず」レベルでの学習となり,まさに弁証法の唯一無二の基本書として,only oneの存在としてこの書に学ぶことになるだろう。こうしてこそ,三浦つとむが「恩師」になるのであるし,「恩師三浦つとむの著作との精神レベルでの交流」が可能となっていくのであると考えられる。

 われわれはある時期まで,『弁証法はどういう科学か』旧版のあとがきを読まずに『弁証法はどういう科学か』に学んできたが,幸いなことに,恩師から,この書は「世界最高の論理学が説かれている書である」として推薦され,折に触れてあとがきに説かれているような三浦つとむの使命感や主体性についても講義を受けてきた。しかしそれでも,今後とも,このあとがきに深く深く学び続けながら,弁証法の研鑽を継続していきたいと決意した次第である。

 以上,今回は,弁証法に関わる内容について考察した。

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2017年08月24日

夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想(2/5)

(2)学問は原点からの歴史性に学んでこそ措定できる

 本稿は,哲学レベルで説かれている『“夢”講義(4)』を読んで学んだことを認めていく論考である。

 今回は,「学問は原点からの歴史性に学んでこそ措定できる」(p.72)と説かれている内容を取り上げたい。

 本書の「第2編 哲学の成立の過程的構造を説く」「第2章 哲学の形成の歴史的研鑽過程を説く」では,カントの「二律背反」を分かるためには,古代ギリシャ哲学をふまえての弁証法の研鑽が必要だと説かれている。すなわち,カントの「二律背反」の原形は,パルメニデスとゼノンの弁証法の核心であると説かれている。そして,「ゼノンの特性は,弁証法にある。弁証法は実にゼノンに始まる」「カントの二律背反は,ゼノンがここですでにやったもの以上の何ものでもない」というヘーゲルの言葉を紹介した後,次のように説かれている。

「このように学問ないし哲学というものは,人類の学問ないし哲学の原点から歴史性を持って学んでこそ措定=成立できるものなのです……。」(p.72)

 ここでは,例えばカントの「二律背反」を理解しようとするならば,その「二律背反」に至る過程を,原点から辿り直す必要がある,このように哲学というのは,原点からの歴史性に学んでこそ,措定できるのであり,成立しうるものなのである,ということが説かれているのであろう。

 続く,第2編第2章の第4節は,「学問・哲学はその発達史を一身の上にくり返すことが必然である」というタイトルであり,初めに,次のようなことが説かれている。連載第1回でも引用したが,再度引用する。

「そもそも,哲学とは森羅万象すなわち全世界をしっかりと把握したいという,古代ギリシャにおける明晰な頭脳活動者(知を愛する人)たちの願望から始まることになったものです。ここから全ての学問レベルの理論的研鑽は始まっていくのです。そしてこれは,かつてのカントやヘーゲルの血のにじむような学問的努力を同じようにくり返すことによって(つまり古代ギリシャから自分の時代までの学問史を学問化する努力を,カントやヘーゲルが行っていたように)こそ,到達可能な道なのです。」(p.75)


 すなわち,哲学の原点は,「森羅万象すなわち全世界をしっかりと把握したいという」願望にあり,その原点を踏まえたうえで,古代ギリシャから自分の時代までの学問史を一身の上にくり返すことこそが,哲学へ到達可能な道なのである,ということである。

 このように,原点を踏まえ,そこからの歴史性に学んでこそ,その領域での実力がしっかりとついていくということは,あらゆる学問分野に関していえることであろう。それどころか,第2編第2章の第6節のタイトルに「武の道の育成過程は武術の歴史の発達過程を一身の上にくり返すことが必要である」とあるように,これは学問分野だけに限らず,人間が関わるあらゆる活動について当てはまる論理であるといってよいだろう。

 ではなぜ,原点からの歴史性に学ぶことが必要なのであろうか。それはまず,原点にこそ,そのものの本質が端的な形で現れているため,そのものの本質を掴みやすいからであろう。先の哲学であれば,その本質は「森羅万象すなわち全世界をしっかりと把握」するということにあるといっていいだろう。これが素朴な形であるとはいえ,哲学の原点たる古代ギリシャ哲学においてははっきりと分かるような形で,現れているのである。この時代以降,哲学は発展して,さまざまな形に複雑化していくのであるが,しかし,その本質は決して変わることがない。したがって,哲学の実力をつけるためには,そもそも哲学とは何かということを原点に問い,哲学とは何かの本質を常に見失わないようにしながら,研鑽していくことが必要なのである。このように本質をしっかりと把握するためにこそ,原点からの歴史性に学ぶ必要があるといえるのである。

 なお,哲学の原点ということでいうと,なぜ,「森羅万象すなわち全世界をしっかりと把握したいという」願望が古代ギリシャ時代に生まれてきたのか,という問題にも,しっかりと解答を出しておく必要がある。すなわち,人類社会の歴史的発展の流れの中で,どうして古代ギリシャ時代に哲学なるものが誕生してきたのか,その過程的構造をも,しっかりと把握しておかなければ,哲学の原点を真に理解したとはいえないであろう。簡単には,当時,相次ぐ戦争に次ぐ戦争の時代がやや収束していき,精神的な労働に従事できるだけの暇ができてきたことが一つの大きな要因であるといえる。もちろん,奴隷制のおかげで,生産労働に携わる必要のない階層が生まれていたことも,哲学誕生の大前提である。さらにいうと,ギリシャ社会が,当時の最先端社会たる古代オリエント社会の周辺部に存在していたことも,重要な要素である。このために,古代ギリシャ社会は先進的な社会に憧れをもって学び続けることができたのである。このような社会的な条件が重なることによって,「森羅万象すなわち全世界をしっかりと把握したいという」願望が実現化していった,すなわち,哲学が誕生していったのである。

 さて次に,原点からの歴史性に学ぶ必要があるのは,この世のありとあらゆるものの発展は,段階を踏んでなされているものであり,前段階の実力をしっかりと身につけてこそ,次の段階へと発展していけるという,発展の論理構造があるがゆえ,である。このことが一番分かりやすいのは,「生命の歴史」であろう。『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)によると,生命体は,生命現象段階→単細胞段階→カイメン段階→クラゲ段階→魚類段階→両生類段階→哺乳類段階(四つ足哺乳類→猿類→人類)というプロセスを経て人間にまで発展してきたのである。この途中の段階を飛ばして,人間にまで発展することはできない。たとえば,カイメン段階を飛ばして,単細胞段階からいきなりクラゲ段階に発展することはできないし,両生類段階を飛ばして,魚類段階からいきなり哺乳類段階へと発展することもできないのである。なぜなら,それぞれの段階には,その段階で実力化すべき内容があるのであり,その内容に上書きされる形で,次の段階での実力化が起こっていくからである。前段階の実力がない場合は,次の段階の実力へと上書きすることが不可能となってしまうのである。

 哲学も同様の発展の論理構造を有する。現象的には,プラトンの哲学,アリストテレスの哲学,デカルトの哲学,カントの哲学,ヘーゲルとの哲学というように,個々の哲学者の学説が存在しているだけに見える。しかし実際は,原点たる「森羅万象すなわち全世界をしっかりと把握したいという」願望が核となって,それぞれの段階で実力化すべき内容が前段階の実力に上書きされていきながら,一つの大きな流れとして発展してきているのが哲学の発展史なのである。哲学的実力を養成するためには,このような「古代ギリシャから自分の時代までの学問史を学問化する努力」こそが求められるのであり,これこそが,哲学の原点からの歴史性に学ぶということであろう。さらにこれこそが,哲学の歴史を一身の上にくり返すということでもあるのである。

 以上のように,学問は原点からの歴史性に学んでこそ措定できるものであるがゆえに,本書では,編のタイトルで見ても,「哲学の成立の過程的構造」や「論理学の過程的構造」,さらには「弁証法の過程的構造」という言葉が見られ,これらが説かれていくのであると思う。章レベルでも,「弁証法の歴史的過程」「認識論の歴史的過程」「論理学の歴史性」という言葉が見られ,ここでも,弁証法,認識論,論理学といった学問領域の歴史が説かれているのである。

 たとえば,弁証法の歴史性であれば,「弁証法なるものがどんな赤ちゃんとして誕生し,その赤ちゃんがどう幼児になり,またどう青年へと変化・発展していったのか」(p.136)ということが説かれていく。また,論理学の歴史性については,「現象学」という言葉は,学問がまだ幼かった時代,事実を集積するだけのレベルであった時代の遺物的言葉であり,当時であれば,たしかに事実レベルの現象形態を論じただけで「学」と名乗ることが許されたのであるが,今日では,学問は現象論・構造論・本質論としての体系性をもつことが明らかとなったのであるからして,単に現象を論じただけで「学」ということはできないので,「現象論」とその実体にふさわしい名称で呼ばれるようになった,というようなことが説かれている。

 認識論の歴史性については,心理学の誕生の謎が解明されている。哲学・学問の出発点に,アタマの問題はあっても,ココロの問題はなかったので,ココロは学問の問題としては1000年以上も浮上できなかったと説かれている。さらに,人生上のココロの問題については,「いのちの歴史」に「ココロの歴史」の起源があるとして,本能レベルで生活していたサルから説かれている。そのサルが,樹上生活をやめて地上におり,ヒトへと進化する過程で,本能に代わってココロが芽生え始めるとした後,次のように説かれている。

「そして,「ヒト」が「人間」に進化・発展する頃には,当然のように「ココロ」が本能以上の働きをし始めることになり,ここでその「ココロ」は本能レベルの安定性を求めるようになり,それを「何か」に見つける(創造する)ことになるのです。

 その「何か」とは端的には宗教です。……ここから「ココロ」の問題は「カミ」や「ホトケ」に解答を求める宗教に任されていくのです。もちろん,この「ココロ」はまだ一般性を持ったレベルでの不安などですから,画一的な教え(お告げ)で多くの人たちは安らぐのです。

 この「ココロ」の一般性レベルでの解決ですんでいる頃までは,まだ心理などの誕生はなく,封建時代から資本主義への大きな時の流れで,個人が主体性を帯び始める頃から,「ココロ」の一般性が「ココロ」の特殊性・個別性へと変化することになり,結果,「ココロ」が学問として登場する,すなわち「心理学」の誕生を迎えることになってくるのです。」(pp.94-95)


 ここでは,人間において,本能以上の働きをし始めたココロが,本能レベルの安定性を求めて宗教を創造することになり,ココロの問題は,一般性をもったレベルのものであっただけに,宗教による画一的な教えによって解消されていたが,資本主義社会になるに至り,個人が主体性を帯び,ココロが特殊性や個別性を帯びるように変化したため,心理学が誕生したのだ,と説かれている。

 ココロの問題の解決という心理学の原点から,心理学の長い過去の過程的構造が,見事に説かれていると思った。本書で紹介されている読者の論評の中で,「学問としての心理学そのものが,アンチ宗教,アンチ認識論として,その落ちこぼれとして,その隙間をついて日常生活の心を扱う分野として生まれた」(p.151)と評されているように,本書において初めて,心理学の真の発達史が明らかにされたといってもいいであろう。

 認識論を専門とし,心理学を使って仕事をしている筆者としては,心理学の原点からの歴史性をしっかりと学び,ココロの問題を扱う実力をしっかりと養成していくとともに,認識論をも,心の問題を扱えるものとしてしっかりと措定していきたいと決意したことである。

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2017年08月23日

夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想(1/5)

目次

(1)本書では学問そのものが説かれていく
(2)学問は原点からの歴史性に学んでこそ措定できる
(3)『弁証法はどういう科学か』旧版のあとがきの意義
(4)認識の成立と社会の関係性
(5)夢の解明のためには学問が必須である

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(1)本書では学問そのものが説かれていく

 本稿は,南郷継正『“夢”講義(4)』を読んで学んだことを,感想文として認めていく論考である。より正確にいうと,感想文を書くことによって『“夢”講義(4)』をより深く理解すると直接に,そこで説かれている内容を自分のものとすることを目的として執筆した論考である。これまでも何度か本ブログでくり返し説いているように,本年は京都弁証法認識論研究会として,組織的に『“夢”講義』シリーズに学んでいくことを一つの目標としている。本稿も,研究会としての議論を踏まえた内容となっている。

 さて,『“夢”講義(4)』は,今回の最後に載せている目次を見ていただければ明らかなように,学問を正面から取り上げての展開となっている。たとえば,第2編は「哲学の成立の過程的構造を説く」であり,哲学や学問の概念がその成立の起源から説かれている。ここでは,いかなる分野であれ,一流を目指すためには哲学や学問に関わる基礎的教養が必要であり,ナイチンゲールにはそれがあったからこそ,看護学の祖としての地位を築くことができたのだと説かれている。また,第4編は「論理学から説く弁証法と認識論」となっており,第5編は「論理学の過程的構造を説く」となっている。ここでは,論理学の観点から弁証法や認識論が説かれ,論理学の歴史性が説かれていくのである。このような目次を眺めれば,本書は「夢」はもちろん「看護」や「武道」とは何の関わりもない,単なる(?)大哲学書,大学問書であると勘違いしてしまいかねないであろう。それほどに,学問や哲学・論理学といったものが,頻繁に顔を出すような構成となっているのである。

 哲学に関わっては,これは日常用語として経営者すらが使っているような意味ではなくて,もっともっと厳しいものであることが,次のように説かれている。

「そもそも,哲学とは森羅万象すなわち全世界をしっかりと把握したいという,古代ギリシャにおける明晰な頭脳活動者(知を愛する人)たちの願望から始まることになったものです。ここから全ての学問レベルの理論的研鑽は始まっていくのです。そしてこれは,かつてのカントやヘーゲルの血のにじむような学問的努力を同じようにくり返すことによって(つまり古代ギリシャから自分の時代までの学問史を学問化する努力を,カントやヘーゲルが行っていたように)こそ,到達可能な道なのです。」(p.75)


「中学生にも分かるように簡単に説けば,学問とは,ある一流大学の学部の博士論文を全て集めて,一本化,すなわち体系化したレベルが底辺のものであり,哲学とは,一流大学の全学部の全ての博士論文の体系的展開であってようやくにして哲学の底辺であり,それでようやく哲学の名に値する実体が形成されてくるのだといってよいものです。」(p.77)


 すなわち,哲学とは,全世界の把握を目指したものであり,そのためには人類の系統発生をくり返すだけの血のにじむような研鑽が必要なのである,中学生にも分かるように説けば,哲学とは「一流大学の全学部の全ての博士論文の体系的展開であってようやくにして哲学の底辺」なのである,ということである。

 別の個所でも,『武道講義第3巻 武道と認識の理論V』が引用され,「哲学とは,『全世界を自らの手のひらに載せること』です。すなわち,全世界=森羅万象を自分の掌を指すがごとくの容易さで論理的に説くことです」「哲学とは,全世界=森羅万象の論理を自家薬籠中の物と化すことである」などと,中学生向きに説かれた後,『南郷継正 武道哲学・著作 講義全集』第6巻からの引用という形で,次のような学問(哲学)の概念規定が紹介されている。

「学問というものは,自然・社会・精神として存在している現実の世界の歴史性,体系性を観念的な実体の論理性として構築し,その内実の歴史的構造性を理論レベルで体系化することである。  南郷継正

 学問とは,客観的絶対精神の実体レベルでの発展形態である自然から社会へ,そして社会から精神への歩みを,主観的精神の絶対精神から絶対理念までの発展的自己運動として捉え返して体系化することにある。〔ヘーゲルが哲学を完成していたら書いたであろう概念規定〕」(p.193)


 このような厳しい厳しい哲学レベルの内容が,本書ではいたるところで説かれているのである。

 さて本稿では,以上のような哲学レベルで説かれている内容について,3つに分けて説いていくことにしたい。初めに,学問的な実力をしっかりと身につけるためには,原点から,その学問の辿ってきた過程を辿り返す必要がある,とされている点を取り上げる。次に,弁証法の基本について,特に,『弁証法はどういう科学か』旧版のあとがきについて説かれている内容を確認したい。最後に,認識の成立と社会の関係性について説かれていることをしっかりと理解できるようにしたい。

 最後に,本書の目次を現代社のサイトから引用しておく。

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なんごうつぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(4)


【 第1編 】 学問的に説く 「脳とは何か」

第1章 学問の歴史における頭脳活動の究明の過程性を説く

 第1節 「認知症予防」 に関する研究者の見解を問う
 第2節 人間の認識の歴史性を説く
 第3節 学問 ・哲学の歴史に学ぶことの意義を説く

第2章 弁証法の学びの構造を 「脳とは何か」 から説く

 第1節 論理的な頭脳活動が可能となる実力とは
 第2節 弁証法の実力は論の展開にその実態が現われる
 第3節 正常な頭脳活動のための二つの条件を説く
 第4節 脳は体全体の統括のための中枢器官である
 第5節 「いのちの歴史」 をふまえた脳の実体論から 「認知症予防」 を説く

【 第2編 】 哲学の成立の過程的構造を説く

第1章 哲学の形成の過程的構造を説く

 第1節 「学問への道」 「武道への道」 措定を弟子たちに
 第2節 一流を目指すには哲学 ・学問に関わる基礎的教養が必要である
 第3節 哲学 ・学問の概念をその成立の起源から説く
 第4節 学問体系としての哲学から個別科学の分化へ
 第5節 人類文化の最高形態としての哲学への研鑽過程を説く
 第6節 哲学の歴史的研鑽過程を分かる実力を身につけるために

第2章 哲学の形成の歴史的研鑽過程を説く

 第1節 「学問への道」 に必須の 「論理能力」 と 「大志」 を説く
 第2節 学問形成には学問力の基礎的研鑽が必要である
 第3節 学問 ・哲学は原点からの歴史性に学んでこそ措定できる
 第4節 学問 ・哲学はその発達史を一身の上にくり返すことが必然である
 第5節 ヘーゲルの説く 「学びの道」 の意義を説く
 第6節 武の道の育成過程は 武術の歴史の発達過程を一身の上にくり返すこと
      が必要である

【 第3編 】 認識の成立の過程性を説く

第1章 頭脳活動の究明の過程性を説く

 第1節 体系性を持った書物からの学びとは
 第2節 心理学の発達史を説く
 第3節 「いのちの歴史」 に 「ココロの歴史」 の起源がある
 第4節 心理学の誕生の基盤を説く

第2章 頭脳活動の育成の過程性を説く

 第1節 「アタマ」 と 「ココロ」 は育ちの中で創られる
 第2節 胎児期の実体の形成とその機能とは
 第3節 夢は社会 (環境) を反映して形成される
 第4節 哲学 ・学問 ・弁証法の学びの大事性を説く

第3章 認識の成立と社会の関係性を説く

 第1節 認識の原風景を形成する小社会とは
 第2節 夢としての像は社会 (環境) 的な反映を原基形態として描かれる
 第3節 像の内実=構造の成立過程を説く
 第4節 「認識とは五感覚器官を通して脳に描かれた像である」 とは
 第5節 感覚 ・感情 ・感性,像の重層化の過程を説く
 第6節 心の世界の発展を育む教育過程を説く

【 第4編 】 論理学から説く弁証法と認識論

第1章 弁証法の歴史的過程を説く

 第1節 弁証法の誕生からの変化・発展の過程を説く
 第2節 古代ギリシャで誕生した学問を創出する実力を養成するための弁証法
 第3節 弁証法の過程的構造への学びを説く
 第4節 「弁証法は自然 ・社会 ・精神の一般的な運動に関する科学である」 とは

第2章 認識論の歴史的過程を説く

 第1節 「弁証法と認識論の現象学 ・構造学」 とは
 第2節 “夢”講義に学ぶ心理学の真の発達史とは
 第3節 感性的認識の発展における過程的構造

第3章 弁証法の学びの構造を説く

 第1節 弁証法を学ぶための書物は新しいものが正しいとはいえない
 第2節 旧版 『弁証法はどういう科学か』 の 「あとがき」 に説かれていた重要な内容
 第3節 『弁証法はどういう科学か』 に学ぶとは

【 第5編 】 論理学の過程的構造を説く

第1章 世界観から 「哲学とは何か」 を問う

 第1節 季節の変化に応じて形成される感覚像 ・感情像
 第2節 弁証法に関わる基本の学習を説く
 第3節 世界観から論じる2つの正しい 「筋道(すじみち)」 とは
 第4節 観念論の立場から説く 「哲学とは何か」
 第5節 弁証法的唯物論の立場から説く 「哲学とは何か」

第2章 論理学の歴史性を説く

 第1節 学問の歴史性から説く 「現象学・構造学」
 第2節 学問は現象論 ・構造論 ・本質論としての体系性を持つ
 第3節 弁証法の学びの基本を説く ―〔本節から弁証法を武道で説く〕

第3章 論理学から 「心」 の論理構造を説く

 第1節 頭脳活動の形成過程への学びを問う
 第2節 技の形成に関わる過程性の構造を問う
 第3節 「心」 に関する専門家の見解を問う
 第4節 「心」 と 「気」 の論理構造とは

【 第6編 】 弁証法の過程的構造を説く

第1章 人間の一般的な生成発展の構造を説く

 第1節 人間体の形成に関わる過程性の構造を問う
 第2節 個としての人間の生成発展の過程的構造を問うことが必要である

第2章 生成発展の論理構造を説く

 第1節 人類の歴史性を問う意義とは
 第2節 物自体の生成発展の論理構造を解く
 第3節 人類の発展にとっての精神的文化の発展の意義
 第4節 「“夢”講義」 への学びの過程性

第3章 上達への過程的構造を説く

 第1節 体系化された書物と認識との相互浸透による学びの重層構造化とは
 第2節 上達への過程的構造を具体的に説く
 第3節 頭脳活動を創りかえる運動形態の創造とは
 第4節 「いのちの歴史」 から説く 「人間にとっての運動とは」

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2017年08月02日

一会員による『学城』第15号の感想(14/14)

(14)「段階性」を踏まえた学びの重要性を主体的に捉え返す必要がある

 本稿は『学城』第15号の感想を認めることによって、特に全体を貫くテーマである「段階性」ということを踏まえた学びの重要性という観点から、この第15号の中身を主体的に自分の実力とすることを目的として、これまで第15号に掲載されている12本の論文を取り上げ、その要約を行い、学ぶべき点を明かにしてきたものである。

 ここで、第15号全体を貫くテーマである「段階性」ということを中心に、これまでの展開を簡単に振り返っておきたい。

 連載第2回で取り上げた村田論文では、人類の社会的認識の「段階性」は、事実的に捉えるのではなくて、その流れの中の論理に焦点を当てて捉えるべきだということが説かれていた。このことは、連載第8回で扱った菅野論文においても述べられていた。すなわち、「生命の歴史」においても、社会の歴史においても、人類の個人としての歴史においても、前の段階をしっかりと踏まえて次の段階へと進んでいくのだということを論理的に把握する必要性が説かれていたのであった。

 村田論文ではほかにも、「段階性」という区別とともに、対象の一般性レベルの把握が必要であることも説かれていた。人類の歴史であれば、その一般性としての社会的認識に着目する必要があるということであった。連載第10回で取り上げた河野論文においても、「段階性」の把握は特殊性と一般性との統一として行う必要があるということが暗に説かれているとしておいた。

 「段階性」という問題を考える際に、どうしても避けては通れないものとして、「生命の歴史」について説かれている論文もあった。連載第4回の浅野論文では、武道空手体を創出するためには、まずは「生命の歴史」の「段階性」をしっかりと踏まえた人間体を創出する必要があることが説かれていた。また、連載第9回で扱った北嶋・志垣論文では、脳性麻痺児の教育においては、「生命の歴史」における「段階性」を辿り返すような教育を行う必要があることも説かれていた。

 「段階性」という問題のうちでもとくに重要な事柄として、「原点」という「段階性」に言及されている論文も多数あった。北嶋・志垣論文では、上記のような教育を「原点からの過程性、歴史性を問う」ことが重要だとまとめられていたし、連載第3回に取り上げた近藤論文では、国家論の学びにおいては、共同体や法というものがどのように生成発展してきたのかの「原点」を踏まえる必要があることが説かれていた。また、連載第5回の北條論文では、上達や組織の発展の「原点」には、強烈な憧れがあるということが強調されていたし、連載第7回の佐藤論文では、文化遺産の学びの「原点」である小学一年生の特殊性が俎上に載せられ、具体的な事例を通して「初学者」にも分かりやすい展開がなされていたのであった。

 この「初学者」の学びの「段階性」ということについても、多くの論文で説かれていた。連載第6回に取り上げた西林論文では、哲学の初歩の学びの段階では、哲学の歴史の構造を学問の発展の構造として学ぶ必要があることが説かれていたし、連載第11回の症例検討論文や連載第13回の橘論文では、「初学者」という「段階性」を踏まえて、具体的なイメージが描けるよう、喩え話で病気や遺伝子の構造が説かれていた。連載第12回で扱った朝霧論文では、「初学者」の学びの「段階性」として、区別よりも連関をという弁証法的なアタマ創りが必要であることも説かれていた。

 以上、今回第15号を読み、その内容を主体的に把握するために、「段階性」をテーマとしてこれまで説いてきた流れを振り返っておいた。端的にいえば、どのような歴史であっても、その各段階はその段階に応じた実力を身につける時期であり、そこを踏まえてこそ次の段階へと進んでいくことができるのであるが、その中でも特に「原点」という段階のあり方は、「生命の歴史」における単細胞段階で生じた「代謝」のように、その後の流れの中に貫かれている普遍性を持ったものであり、ここをしっかりと一般性として押さえておくことが重要である、ということである。そして、こうした「段階性」を踏まえた学びの重要性という問題は、何よりもまず、自分自身の発展の「段階性」における論理構造として学び取る必要がある、ということである。

 ここで、連載第1回に引用した「編集後記」において、第15号は「初学者の学びに資するもの」を数多く掲載したと述べられていたことを再び取り上げたいと思う。上にも記したように、「初学者」の学びにおいては、まず何よりも弁証法的なアタマ創りが重要になってくる。現在のいわゆるアカデミズムの世界との対比でいえば、対象たる分野を細かく細かく分割していくのではなくて、大きな視点で、対象の全体像を捉える必要があるのである。部分のみでは、対象を捉え違えかねないのであって、まずはアバウトにでも、対象を、そして世界全体を把握する必要がある。そういう意味では、学問の歴史を大きな流れとして学んでいく必要があるといえるだろう。人類の社会的認識の発展の最高段階として、各時代には人類は世界をどのように捉えてきたのか、何を問題とし、何を解決してきたのか、自分の専門分野も含めた哲学の歴史として、学問の流れを押さえておく必要があるのである。

 もう1つ指摘しておかなければならないことは、認識の「のぼりおり」が非常に重要だということである。学問は論理の体系であるとはいえ、その歴史を振り返ってみれば明らかなように、自分を含めた世界が直面する具体的な諸々の問題を解決するためにこそ、学問は生成発展してきたのである。具体的な問題と抽象的な論理とを結びつけることによってこそ、現実のあらゆる問題を説き切れるような学問が成立するのである。だから、「初学者」の学びにおいても、常に論理に触れればそれは具体的にどういうことかと考えていく、逆に具体的な問題にぶつかったときには、それは要するにどういうことかを考えていく、という形で、認識の「のぼりおり」の訓練をしておく必要があるのである。そして、何らかの論理を相手に説明するにしても、これは具体的にイメージ化していえばどういう説明の仕方ができるかを常に考え、具体的な問題を論じる際にも、それは結局どういうことだと論理的に結論できるかを考えながら、相手が納得感を持ってその説明を受け入れてもらえるような工夫が必要になってくるのである。

 以上の「初学者の学び」ということに関していえば、我々京都弁証法認識論研究会では、まずは三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』を弁証法の基本書として何度も何度も繰り返し学んできているし、世界の全体像を把握するためにシュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』から、カント『純粋理性批判』、さらにはヘーゲル『エンチュクロペディー』への学びの道を進んできているのである。また、認識の「のぼりおり」ということに関していえば、年に数回実施している、直接顔を突きあわせての例会において、我々の指導者から繰り返し繰り返しこのことの指導を受けてきているし、スカイプで行っている勉強会においても、会員間で討論の際に、意識的にこうした指摘を行うようにしてきているのである。また、このブログに掲載する論文についても、ここは抽象的過ぎて分かりにくいから、具体的な例を入れるべきではないかとか、この事実からどういう論理を導き出せるのかをまとめて説明した方が良いのではないかとかいった指摘を行い、認識の「のぼりおり」を実践してきているのである。

 今回、15号という「初学者の学びに資する」という目的を持った『学城』が発刊されたことに鑑み、改めて学びの「原点」からの「段階性」を辿り返していく必要性を感じたことである。大志を抱いて学問への道に志した初心を忘れずに、自らの道を切り開いていくべく研鑽していく覚悟を述べて、本稿を終えたいと思う。

(了)
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2017年08月01日

一会員による『学城』第15号の感想(13/14)

(13)「初学者」にはどのような説き方が必要か

 今回は橘美伽先生による食事に関する論文を取り上げる。ここでは遺伝子の問題から神経の役割について説かれていく。

 本論文の著者名・タイトルは以下である。なお、『学城』誌上では、目次はなく、本文に項番のみ振られているため、その項番に筆者なりにタイトルを付して目次とした。

橘美伽
武道空手上達のための人間体を創る「食事」とは何か(4)
―遺伝子としての食事を考える―

 《目 次》
(1)柔道事故防止に必須のものとは何か
(2)指導者は「生活」指導を行う必要がある
(3)遺伝子とは何か、その二重構造とは何か
(4)遺伝子を武道空手化させていくとはどういうことか
(5)遺伝子を武道空手化させていく具体例
(6)武道空手は神経を駆使しての闘いである
(7)五体を自在に働かせるためには全ての神経を駆使できる必要がある
(8)鍛えられていない神経が自在な組手や上達の邪魔をする
(9)使っていないところを使うことで遺伝子の内実も変わっていく

 本論文では、部活動における柔道事故に関する新聞記事が引用され、事故防止に絶対に必要な項目として、練習生の「生活」に関する項目が挙げられる。人間の身体は、衣・食・住の「生活」の過程で創られるのであるから、指導者は「生活」に関する指導ができなければならないというのである。こうして遺伝子レベルで人間は創られていくということで、そもそも遺伝子とは何かが説かれていく。すなわち、遺伝子とは、その人の行動や認識の全てをその人がそうするように司令を出すものだということである。しかも遺伝子は、外界から得た情報を組み込んで変化し、その変化した遺伝子がまた司令を出すという二重構造を持っているというのである。ここで武道空手をモノにしたいのであれば、武道空手的修練を行っていくことで、自分の遺伝子に武道空手の情報を組み込んでいく必要があるのであるが、これは武道空手が日常生活にない動きを要求するために、非常に困難なことであることが説かれる。具体的には、相手の攻撃技に対して、当初はどうしても横によけたり後ろに下がったりしてしまうのであるが、遺伝子を創っていく過程を経て、動かないこともできるという重層的構造を持てるようにしていったというのである。ここで論の展開は、遺伝子からの司令を受けてこれらを体現させるための神経に関してのものに移っていく。武道空手は神経を駆使しての闘いであること、そのためには本能的な動きを取り戻す必要があること、それは五体を自在に働かせることができるように全ての神経を駆使できる必要があるためであること、鍛えられていない神経が自在な組手を阻害していることなどが説かれていく。最後に、使っていないところを使うという実践をすることで、頭脳活動も見事になり、身体的にも精神的にも上達していくことが説かれる。

 本論文に関しても、まずは『学城』第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」ということを考えていきたい。

 まず、本論文では、柔道における事故防止の第一要因、つまり最も大切な根本的な段階の事柄として、「各練習生の「生活」、すなわち「食事」「睡眠」「日常を含めた運動」に関する項目!」(p.203)を挙げておられる。これはどういうことかといえば、通常であれば、例えば受け身の練習をしっかりとしていたかとか、体格差や技能差をきちんと考慮していたかとか、練習の初めに準備運動をしっかりと行ったかとか、練習生の体調をきちんと確認したかとか、そういったことが問われて問題になるということがあるのだが、実は柔道における事故を防止する上で最も重要なことは、練習生の身体が日常的な衣食住、つまり生活の過程で創られているのであるから、そこをこそしっかりと問う必要がある、ということである。具体的にいえば、きちんとしたバランスの良い食事をしっかりと食べているのか、睡眠時間は十分確保できているのか、歩いたり走ったり飛んだりといった運動が日常的に継続できているのか、こうしたことをこそ問題にすべきだというのである。これは人間は創られて人間となるという人間の一般論を踏まえた根本的な提起だといえると思う。

 もう1つ、「段階性」ということに関わって取り上げたいのは、前々回の症例検討論文でも述べたことではあるが、「初学者」という「段階性」にとっては、具体的にイメージできるような喩えを踏まえて、論理を理解させていく必要があるということである。本論文では、遺伝子がいわばその人の司令官として、その人の行動や認識の全てをその人がそうするようにさせるものだと述べられた後、これをマンガレベルの像として描いてみるとして、アニメ『ヒカルの碁』の例が引かれている。このアニメでは、「主人公の進藤ヒカルに憑いた碁の達人である藤原佐為の霊が「あそこに打ちなさい、次はここに打ちなさい」といった具合にヒカルに司令を出し、寸分違わずその通りに、なんの疑いもなくヒカルが碁を打っていく」(p.207)のであるが、このあり方が遺伝子の全身への司令のあり方をイメージするために役に立つとして、こうした例が用いられているのである。「初学者」の段階においては、いきなり遺伝子が司令を出して全身をそうあるようにさせているなどと説明されても、具体的な像が描けないのであるが、こうした分かりやすい例で説明されれば、なるほどそういうイメージかと、大枠での理解ができていくのである。

 本論文ではほかにも、「初学者」が内容を理解しやすいように工夫されていることがある。それは、武道空手の修練において、遺伝子を武道空手化させていく必要があると説かれていることに関わってである。「遺伝子を武道空手化させていく必要がある」などといきなりいわれても、それは一体どういうことなのか、初学者には全くといっていいほどイメージができないと思われる。そこで橘先生は、武道空手の修練過程の初期において、相手の攻撃技をその場で受ける(もしくは少しでもいいから前に出る)という練習を具体的に説明することで、このことを理解できるように工夫しておられる。当初は、どうしてもその場で技を受けることができずに、横によけたり、後ろに下がったりしてしまうのであったが、これは「その時の筆者の遺伝子は身体的にも精神的にも武道空手のそれとはほど遠く、「横や後ろに動いてしまうしかない」、逆にいえば「前に出ることができない」という、単層構造的なものだった」(p.209)からだと説かれる。しかし、強烈な意志で何とか動かないように努め、遺伝子にその情報を組み込ませていくことによって、「それまでに創ってきてしまった遺伝子と、これから創っていかなければならない遺伝子との闘い、せめぎ合い」(pp.209-210)の結果として、「新たに「動かないこともできる」「前に出ることもできる」という重層的構造」(p.210)を遺伝子が持てるようになっていったというのである。

 本論文ではこのように、説かれている内容もさることながら、その説き方にしっかりと学んでいく必要があると感じた次第である。
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2017年07月31日

一会員による『学城』第15号の感想(12/14)

(12)「初学者」の学びの「段階性」とはどのようなものか

 今回取り上げるのは、朝霧華刃先生による唯物論の歴史に関する論文である。「初学者」が学問構築への道を歩む際の学びの「段階性」が論じられていく。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトルを示しておく。なお、『学城』誌上では、目次はなく、本文に項番も振られていない。

朝霧華刃
唯物論の歴史を学ぶ(3)

 本論文ではまず、シュヴェーグラーの実力が、達人の説くことを忠実に理解できるが、自らの生命を賭けた決闘においての勝負の機微が分かるレベルでは全くないと説かれる。そしてその実例として、ヘーゲルが学的生命を賭けて「学問は体系化しなければならない」と説いているにも拘らず、シュヴェーグラーはこれは正しくないとしていることを取り上げ、これではシュヴェーグラーは学問構築への努力から逃走してしまっているというのである。とはいえ、その難行苦行の精神状態の実態を知れば、逃走してしまうことも分かる気がするとして、南郷継正先生の著作からの引用を通して、具体的な研鑽の中身が説かれていく。合わせて、シュヴェーグラーが哲学と経験的な諸科学とを区別している文言についての批判もなされるのである。展開はここから『唯物論の歴史』の次の項目に移っていく。すなわち、万物のもととなるものは「無限なものである」と唱えたアナクシマンドロスについて触れられていく。アナクシマンドロスに関しては、彼が唱えた「無限」とか、人間は魚から生れたということを主張した際の「魚」とかいった言葉の背後にあるイメージが、自然を肌身で感じていたようなところから生まれたものであり、人工的なものにまみれてしまっている現代の私たちの抱くイメージと全然違うのではないかということが説かれる。また、19世紀と古代とを結びつける点に気づいたとして、シュリーマンが19世紀になってやっと、古代文明があった時代を発掘したことが述べられる。

 本論文に関してまず述べなければならないことは、本論文の展開が非常に分かりにくく、一体どういうことが説きたいのか、筆者のレベルでは充分に把握できなかったということである。『学城』第13号に関する小論でも、「書かれている言葉自体は平易な日常会話で用いられているようなものであるのだが、どうにも論理展開を追っていくにあたって朝霧先生の認識にうまくついていけない、という感じがする」と述べていたが、正に同じような感想を抱いてしまったということである。

 前回、第14号の感想を述べた小論では、一読しただけではよく分からなかったものの、第14号全体を貫くテーマを念頭に、素直に学んでいくことで、「今までなぜこんな分かりやすい展開で説かれているのに分からなかったのかと思えるほどよく分かるように読めていった」と述べておいた。今回もこの反省を生かして、第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」というものを手掛かりに、素直に学んでいったのであるが、今回はどうしてもその展開についていけなかったのである。具体的にいえば、「学問構築への努力」(p.194)の過程における「難行苦行の精神状態の実態」(同上)について、南郷先生の著作を借りて述べていくとされているが、その引用されている南郷先生の著作には、「難行苦行の精神状態の実態」が説かれているようには思えないのである。また、後半部分ではアナクシマンドロスについて説かれているが、ここでもアナクシマンドロスが人間は魚から生れたということを唱えていたことに関連して、ダーウィンの進化論の話へ、そこからさらにダーウィンの時代の人間は、ポリス以前の社会がホメロスの叙事詩などにみられる空想的な社会として考えていたことが述べられ、ここに関連してポリス以前の小アジアの遺跡を発見したシュリーマンに話が移っていく、という展開であって、一体これはどういうことか、よく分からないまま、歴史に残る「武道論」を創りたいという決意が述べられて論文が終わるという流れなのである。正直、非常に弱ってしまった。

 しかし、いつまでも弱ってしまっていても仕方がないので、無理にでも「段階性」というテーマに結びつけてこの論文を読み解いてみると以下のようになる(ということを理解していただきたい)。

 本論文は前半部分で、シュヴェーグラーの「学問からの逃走(決闘からの逃走)」(p.193)の実態が分かるためには、学問構築の過程での「難行苦行」(p.194)を知るという「段階性」が必要だと述べられている。これはつまり、実際に自らが学問構築への道を歩んでみて、その実態を自ら体験することなくしては、本当にはシュヴェーグラー『西洋哲学史』を読み取ることはできないということであろう。このことに関わっては、「哲学を経験的な諸科学から区別するものは哲学の素材ではなくて、その形式、方法、認識の仕方である」というシュヴェーグラーの言葉を引用して、これは「間違いだらけだ」(p.198)と、朝霧先生は即座に反論しておられることである。そしてその理由として、「哲学というものは経験的な諸科学と区別するもの、といってよいわけがな」(同上)いと断言しておられるのである。筆者のレベルであれば、こうした即座の批判、反論はできないものである。それはつまり、いまだに学問構築への道をしっかりと歩んでいけていないからこそ、シュヴェーグラーの弱点が掴めないのだ、まだまだその段階に達していないのだという警告として、しっかりと受け止めなければならない。

 もう1つ触れておきたいことは、「高校時代の世界史の教科書をばらばらとめくり、19世紀がどんな時代だったか見ていたところ、19世紀と古代とを結びつける面白いある点に気づきました」(p.200)とあることである。これは「初学者」の「段階性」における学びの目標として、事物間のつながりに着目できる弁証法的な実力をまずは養成する必要がある、ということが説かれているものとして理解した。本論文ではほかにも、アナクシマンドロスとダーウィンとのつながり、ダーウィン・マルクスとシュリーマンとのつながりなども説かれているが、弁証法の実力養成のためには、まずは区別よりも連関を捉えられるような頭づくりが必要だということであろう。そういう意味では、先に引用したシュヴェーグラーの「哲学を経験的な諸科学から区別するものは哲学の素材ではなくて、その形式、方法、認識の仕方である」という言葉も、哲学と経験的な諸科学の区別を説いているのであって、まず区別から説くという展開に即座に反応し、そうではない、まずはつながりをこそ説かなければならない、として、朝霧先生は全ての個別科学の素材を一般化することが哲学だと述べておられるのであろう。

 以上をまとめると、「初学者」が学問への道を歩む際には、まずは弁証法的なアタマを創ることから始め、実際にその道を自分で歩んでいくことで、過去の偉人たちの著作も読めていくようになっていくということが、この論文の中身だといえるのではないだろうか。
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2017年07月30日

一会員による『学城』第15号の感想(11/14)

(11)「初学者」への指導では具体的なイメージが描ける工夫が必要である

 今回取り上げるのは、聖瞳子先生、高遠雅志先生、九條静先生、北條亮先生による医療における理論的実践を問う論文である。ここでは、何故10歳男児が肺炎になってしまったのかの過程が説かれていく。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトル・目次を示しておく。

聖瞳子・高遠雅志
九條静・北條亮
医療における理論的実践とは何か
―初期研修医に症例の見方、考え方の筋道を説く―
〈第7回〉マイコプラズマ肺炎B

 《目 次》
(1)はじめに
(2)「呼吸とは何か」「呼吸器官とは何か」を復習する
(3)呼吸器病とは何か
(4)「呼吸器官とは何か」「呼吸器病とは何か」の一般論から患児の病態を説く
(5)マイコプラズマと人間における相互浸透のあり方の特殊性を説く@
  ―マイコプラズマの一般的な知見
(6)マイコプラズマと人間における相互浸透のあり方の特殊性を説くA
  ―マイコプラズマの特殊性から、その病態の特殊性を説く

 本論文ではまず、10歳男児L君がマイコプラズマ肺炎を発症した症例を検討してきているとして、呼吸とは何か、呼吸器官とは何かが復習する形で説かれ、さらにそれらを踏まえて呼吸器病とは何かが措定される。すなわち呼吸器病とは、生きていることの本質を支える原基形態的代謝過程(呼吸)を行うために、大気を生命現象的に変化させ体内に取り込むことができない、あるいは代謝によって生じた代謝産物を体外に排出することができなくなっている状態であり、完全に呼吸不全に至るまでの過程と捉えることができるというのである。そしてL君について、呼吸器官の正常な生理構造がどのように歪んでいったのかが説かれていく。端的には、気道において不必要な物質を浄化する働きに歪みが生じ、病原体の1つであるマイコプラズマの感染を引き起こしたというのである。その要因は3つあり、1つ目は自らが外界に適用して生きていけるように自らを成長させるという小児期の特殊性であり、2つ目は激しい運動を毎日のように長時間続けることにより、体内に取り込む必要のある酸素が多くなり、異物もろとも取り込む空気が増えたことであり、3つ目は激しい運動の連続で気道内が乾燥し、粘膜が損傷を受けやすい環境にさらされていたにもかかわらず、睡眠不足などによりその修復が十分にできなかったことであると説かれる。さらに1つ目の問題に関わって、なぜマイコプラズマは乳幼児や高齢者に比べて、健康で元気な若年者に羅患者が多いのかが、戦国時代の戦の喩え話で説かれていく。結論としては、免疫反応が過剰に働くことによって、自分で自分の体を傷つけてしまって、その結果、肺炎という状態にまで至ってしまったということである。

 本論文は、「初学者の学びに資する」ということがどういうことか、具体的な形として説かれていることに特徴のある論文である。これがどういうことか、以下に見ていくことにする。

 本論文ではまず、免疫反応について、「強く働けば働くほど良いというものではない」(p.188)と述べられている。「人間と病原体との相互浸透のあり方においては、病原体に対して、その力関係が均衡した状態でいられるように免疫系が働いて、表面的には何事もなかったかのような状態で保たれるということが、正常な生理構造の状態である」(p.190)が、免疫反応が強く働き過ぎると、「免疫系が病原体に対して必要以上に過剰に働き過ぎて、それにより本来の攻撃対象である病原体だけでなく、本来守るべき対象である自分自身の細胞までが傷害される」(同上)ことになってしまうというのである。10歳のL君がマイコプラズマ肺炎になってしまったのは、こうした過剰な免疫反応によるものだと述べられている。

 しかし、一般的にいうならば、人間の免疫系の正常な生理構造が歪むというと、それは「病原体に対して人間の免疫系が弱かったり衰えていたりして、病原体による直接の攻撃を受けることによって、人間の細胞が傷害される」(同上)ということを想定するだろう。つまり、病原体を攻撃し切れるだけの免疫反応がないことによって、病原体の増殖を抑えきれず、結果、その病原体の攻撃により細胞が傷害されるのだと考えるのが普通だということである。だからこそ、「なぜマイコプラズマは乳幼児や高齢者に比較的少なく、健康で元気な若年者に罹患者が多いのか」という疑問も出てくるというのである。

 こうした問題に関して、明確なイメージを描いて生理構造の変化を理解するために、本論文では研修医の指導に関して指導医が説明の工夫を行っているのである。すなわち、研修医が歴史に関わるゲームが好きであることを捉えて、指導医はこの問題を「群雄割拠の戦国時代をモデルにしたゲームに喩えて説明」(p.184-185)していくのである。

 具体的には、まずL君の体をL国として、マイコプラズマのような病原体をL国に対する他国からの侵入者として話が進められていく。マイコプラズマはそれほど強い破壊力はないために、L国が赤ちゃんの時代にちょこちょこといわば嫌がらせレベルの攻撃を仕掛けてきても、L国が未熟な分、追い払おうと戦いを仕掛けることができないのである。だから、気道内で小競り合いが続くだけで、目に見える症状をあまり呈してこないというのである。これはL国が高齢者となった状態でも同様だと説かれる。

 一方で、L国が成長し国力が上がってくると、強固な防御力を誇る壁や石垣などで防御しているし、兵士達も実力のある武器の使い手に成長しているため、マイコプラズマのような敵はとるに足らない敵になっていると説かれる。しかしここで、例えばイナゴの大発生や台風や洪水などの自然災害で飢饉にあったり、流行病でL国の力が弱まったりすると、壁などのメンテナンスもできなくなり、合わせて前線への物資の補給が滞ってしまい、兵士達の警備力も弱まってしまう。そうなると、本来は簡単に侵入できないマイコプラズマがL国に侵入してしまうし、防御力が低下した状態では、前線の兵士達も必要以上に大暴れして、何とかこの事態に対処しようとしてしまうのである。この遮二無二戦ってしまうことが過剰反応の中身だと説かれるのである。

 以上のように本論文では、「初学者」をターゲットにした説き方として、つまり「段階性」を踏まえた説き方として、まずは具体的なイメージが描けるように、喩え話でもって、しかもその学び手たる「初学者」の興味関心に沿った喩え話でもって、対象とする現象のあり方を説明していくことで、「初学者」の理解を生き生きとしたものにしていこうとされているのである。「なぜマイコプラズマは乳幼児や高齢者に比較的少なく、健康で元気な若年者に罹患者が多いのか」という、一見、筋の通らないような現象に対して、そこを「初学者」にも分かりやすいように説明する工夫として、こうした方法が採られているということである。逆からいえば、指導者としては、抽象的な問題を論じるにあたっても、常に「初学者」でも理解可能なように、具体的な問題におりていって説明することが要求されているのであり、そうした認識ののぼりおりの訓練を積んでいく必要があるということでもある。
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2017年07月29日

一会員による『学城』第15号の感想(10/14)

(10)「段階性」の把握は特殊性と一般性との統一として行う必要がある

 今回取り上げるのは、河野由貴先生による病気の一般論を問う論文である。ここでは、病気一般論から看護実践が検討されていく。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトル・目次を示しておく。

河野由貴
看護のための病気一般論を問う
―ナイチンゲールの説く「病気とは回復過程である」に学んで―

 《目 次》
(一)ナイチンゲールの説く病気の一般論との出会い
(二)ナイチンゲールの病気の見方と看護一般論とのつながり
(三)看護実践を事例から説く
(四)看護実践の振り返り@
   ―安心できる療養環境を整える関わり
(五)看護実践の振り返りA
   ―食を整える関わり
(六)看護実践の振り返りB
   ―本人と家族の安らぎを支える関わり

 本論文ではまず、ナイチンゲール『看護覚え書』序章の冒頭に説かれている「病気とは回復過程である」という言葉が紹介され、「癒そうとする自然の努力」がうまく働くように生活過程を整えることが看護として大事だと説かれる。そしてこの病気一般論が強い看護の心を理論的に支えるのだと述べられる。ここから論は看護実践の事例となる。70代男性で認知症の既往がある血液疾患の患者(Aさん)とその娘さんに関する事例である。当初、このAさんは「ここは警察」というような言葉をよく発していたのだが、これは本来は安全で安楽であるべき療養生活の場が、Aさんには強制的に捕らわれ脅かされるような場として受け止められているということであり、「生命力が消耗している」状態であるから、この思いを変化させることが重要な看護だと説かれる。そして看護研修生の献身的な援助によって、こうした発言が消えていったというのである。次に、Aさんが自分で車椅子に乗り、嬉しそうに車椅子をこげるまでに活動できるようになったことが取り上げられる。これは、先の認識の変化を生み出した基盤である、食と活動(リハビリ)、休養の質を整えることができたからだと述べられる。そして、Aさんが車椅子をこいで嬉しそうな表情でその時を過ごせたことが、看護として大きな意味があったと説かれる。最後に、Aさんが亡くなる場面で、娘さんの認識を整えられたことも看護であると説かれる。看護は家族も含めて対象としなければならないのであって、そうした看護によって、患者も安らぎ、その家族もストレス状態に陥ることを免れたのだというのである。

 本論文は、ナイチンゲールの説く病気とは何か、看護とは何か、両者はどのようにつながるのかという問題を踏まえ、「初学者」にも分かりやすい形で事例を通して看護実践が振り返られていくものである。これが看護であるということが、生き生きとした像として描けるように、具体的な看護の場面を取り上げて、それが何故看護といえるのか、看護一般論を媒介として説かれているのである。

 70代男性で認知症の既往がある血液疾患の患者Aさんとその娘さんへの看護実践について、具体的に3つの場面を取り上げて、それぞれがどういう意味で看護といえるのかが説かれている。簡単にいえば、患者の認識を整えるような援助を行いつつ、身体的にも回復過程を辿っていけるように食事の準備や片付けなどを行い、栄養として吸収されやすいような雰囲気を創っていくという患者への看護のみならず、その患者を支える家族の認識をも整えることを通じて、媒介的に患者を支えるとともに、その家族をも看護していくのだということであった。

 こうした看護実践の根底にあるものこそ、「看護とは生命力の消耗を最小限にするよう生活過程を整えることである」という看護一般論であり、その前提としての「病気とは回復過程である」という病気の見方であると説かれているのである。前回取り上げた障害児教育に関する論文でも感じたことであるが、本当に効果的な実践を行いたいのであれば、どのような分野においても、その実践の指針となるような論理、一般論が必要だということを、ここでも改めて感じさせられたことであった。

 さて、では『学城』第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」という問題について、この論文ではどのようなことが説かれているといえるだろうか。

 まずいえることは、学問への道の「初学者」にとっては、いきなり高度の論理的展開を示して、抽象的な像しか描けないような形で学んでいかざるを得ないというような情況を創るのではなくて、事例に即して、具体的にイメージできる形を示していって、しかしその具体的な事例にも貫かれている一般性があるのだ、それこそが対象とする事物の一般論なのだという説き方が必要になってくる、ということである。本論文はまさにこうした展開になっており、看護を専門とする者がどのようなアタマの働かせ方をすべきか、その基本となる事柄について、具体的に展開されているといえるだろう。さらに、他分野の理論的実践家にとっても、一般論から事例を見ていくことがどれほど重要であるかということが分かるという意味で、非常に優れた実践報告となっているともいえると思う。合わせて、学問を志す者にとっても、実践から論理を導き出し、その論理を基に実践していくということがどういうことなのか、具体的に知ることができる論文になっていると思う。

 もう1つ、「段階性」ということを別の角度から考えさせられる論文でもあると思う。この論文は最後の部分で、「病気の段階、病状の程度にかかわらず、看取りの時であっても「生命力の消耗を最小にするように」すべてを整え、対象とその家族の持てる力を引き出す関わりを創り上げることができる、それが、看護のための病気一般論を把持していることの強みである」(p.171)と説かれているのであるが、注目したいことは、初めの「病気の段階、病状の程度にかかわらず」という部分である。これまで取り上げた15号に掲載されていた論文は、どちらかというと、「段階性」の特殊性、つまり大きな流れの中でのその段階の他と区別される性質に焦点を当てて、その特徴を論じていくというものが大半であったと思われるが、ここでは各段階における一般性、つまりどの段階においても必ず貫かれている本質(看護においては、どのような場面においても、病気一般論を踏まえた看護一般論を貫く必要があるということ)を取り上げているといえるのではないかと思うのである。大きくいえば、「段階性」のそれぞれの特殊性とともに、一般性をも、対立物の統一として、両側面から対象を捉えていく必要があるということが、暗に説かれているのではないかということである。

 対象のある段階における特徴を明らかにするためには、その段階の特殊性のみならず全ての段階に貫かれている普遍性をも合わせて捉える必要があるという、弁証法的なアタマの働かせ方が必要になってくる、このことを学ばされた論文であった。
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2017年07月28日

一会員による『学城』第15号の感想(9/14)

(9)原点からの過程性、歴史性を問う必要がある

 今回は北嶋淳先生、志垣司先生による障害時教育とは何かを問う論文を取り上げる。ここでは、脳性麻痺児に対する運動教育のあるべき姿が論じられていく。

 以下、本論文の著者名・タイトル・目次を掲げておく。

北嶋淳
志垣司
人間一般から説く障害児教育とは何か(9)
─障害児教育の科学的な実践方法論を問う─

 《前々回目次》
はじめに
一、肢体不自由特別支援学校の現状と運動障害の理解
 (一)肢体不自由特別支援学校の運動教育の現状と問題点
 (二)機能訓練と教育
二、脳性麻痺児A子の運動の変化過程
 (一)転校してきた時のA子の様子
 (二)転校してきてからのA子の変化

 《前回目次》
はじめに
 (一)前回の要旨
 (二)「心理療法」としての「動作訓練」の持つ限界
一、A子の運動の育ちを障害の二重構造より説く
 (一)人間の育ちにおける一般的な運動性の獲得過程とは何か
   @人間の育ちにおける一般的な運動性の獲得過程の構造とは
   A「運動の発展構造」に分け入って説く、人間の運動性の獲得過程
 (二)障害を受けて育つ運動の獲得過程の歪みとは何か

 《今回目次》
はじめに
一、科学的実践方法論に基づいた脳性麻痺児への運動教育とは
 (一)A子の運動の成長をもたらした教育の視点とは何か
 (二)障害児教育一般からA子の成長を説く
   @系統発生を機能的に繰り返させる働きかけ
   Aスローモーションでの働きかけ
   B脳の実体とその機能である認識を育てる働きかけ
 (三)母親と共に
 (四)自立活動より説くA子への教育
おわりに

 本論文ではまず、今回は脳性麻痺児A子への運動指導の実践を示し、その論理的な意味を明らかにしていくことが述べられる。初めに、A子は脳に重い障害を負っているため、本来生まれてから小学五年生になるまでの間に培ってこなければならなかったことを少しずつ段階を追って身につけさせていく指導が必要だと説かれ、人間としての運動形態の基本を身につけさせるべく、呼吸がしっかりとできるような働きかけ、手足の動かし方についての働きかけ、しっかりした背骨をつくっていく指導を行ったというのである。さらに1つ1つの動作をゆっくり行わせていったと説かれる。それは、神経を通しての手足の動かし方がしっかりとしたものになるためであると述べられる。こうした働きかけの結果、余計な筋緊張がなくなり、歪んだ運動が正されていったのみならず、認識の面にも積極的な変化が見られるようになってきたと述べられる。それは今まで経験したことのない新たな刺激として五感覚器官を働かせ、そこから神経を介して脳の実体の実力がつくられ、それに伴って像を描くという脳の働きも向上していったからだと説かれる。そして、障害児は系統発生を機械的に繰り返していく運動も食事を摂ることも自分自身で行うことが難しいため、家庭との協同がどうしても必要になること、「自立活動」が適切なものになれるためには、「教育とは何か」の一般論を把持して、それを貫く教育を行っていく必要があること、人間として全的に育てること、すなわち、体、心、社会関係を一体として当該学年のレベルに育て上げることが必要であることが説かれるのである。

 本論文に関しても、『学城』第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」について考察していきたい。

 前回、菅野先生の論文を扱った際に、「過去から現在にまで生じてきた様々な出来事というのは、どんなものでも、必ずその前の段階までの物事に積み重ねる形で新たなものとして生じてくる」こと、つまり「前の段階をしっかりと経ることなしには、次の新たな段階には進めない、途中を飛ばすことは決してできないのだ」ということについて見ていった。今回の北嶋・志垣両先生の論文でも、このことの具体的な例が示されているといえるだろう。それは、脳性麻痺児であるA子には、「本来生まれてから小学五年生になるまでの間に培ってこなければならなかったことを、少しずつ段階を追って身につけさせていく指導が必要になってくる」(p.144)と説かれていることである。つまり、脳性麻痺児が偏った運動しかできず、余計な筋緊張を起こしてしまう原因は、本来あるべき人間としての運動形態を創っていく過程が欠けていたからである、もっといえば、その欠けていた過程を原点から辿り返していく指導を行っていくことによって、そうした歪みは解消され、本来のあるべき人間としての運動形態に近づけていくことが可能である、ということである。

 それでは具体的にどのようなことを行わせていく必要があるのか。この問題に関して両先生は、「「生命の歴史」をふまえながら、系統発生を機能的に繰り返していく過程を、最初の段階からしっかりと持たせていくこと」(p.145)だと述べておられる。より具体的には、まずは「「単細胞段階」の運動形態」(p.146)を身につけされる必要がある、それは「この全身的運動が原点となって、土台となって、赤ん坊は次なる段階へと成長していくことが可能となる」(同上)からだと説かれるのである。そして、脳性麻痺児の場合は、全力で泣くことで可能となる呼吸もまともにできない状態であるから、腹式呼吸を誘導するような働きかけを行い、合わせて手足のいわば「単細胞段階」の運動として、手足に柔らかく触れて、手を開いたり閉じたりつかんだりできるようにしてやることなどを実践していったということである。

 さらには、「カイメン段階の運動」(p.147)として、仰向けの状態で手足を自由に動かしていくことや、「哺乳類からサルそしてヒトへと発展していく過程」(pp.152-153)を辿らせるべく、今まで行ったことがない手足の動きを体験させていくなどした結果、「A子は人間として成長し始めることができていった」(p.154)というのである。

 こうした実践をまとめて、「おわりに」においては、「原点からの過程性、歴史性を問う」(p.159)ことが重要だとしておられる。つまり、「生命の歴史」における原点たる「単細胞段階」から、順次、生成発展の論理構造を見てとり、その系統発生におけるあり方を個体発生としても機能的に繰り返すことによって、まともな障害児教育が可能となるというわけである。まさに、「生命の歴史」における「段階性」を踏まえた教育とはどのようなものか、その成果がどのような素晴らしい結果になるのか、実践によって確かめられた論理が示されている論文だといえるだろう。

 さて、本論文に関してもう1つ触れておきたいことは、「子供の運動能力というものは、運動したいという意志と共に育てていかなければ、まともには育ち得ない」(p.154)と説かれていることである。端的にいえば、人間は認識的実在であるから、運動能力という実体に関わる問題を扱う際にも、常に認識ということを念頭に置いていなければならないということであろう。本論文では具体的に、脳性麻痺児の運動能力を向上させていくためには、単なる機能訓練で、泣こうが喚こうが強制的に運動する「機能」を「訓練」していくというだけではダメであって、「自分もやってみたい」という強烈な意識を育てつつ、身体的な機能を創っていく必要があることが説かれている。このように、人間について考える場合にはつねに、身体と精神とを統一して考えていく必要があることを改めて確認させられたことであった。
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2017年07月27日

一会員による『学城』第15号の感想(8/14)

(8)前の「段階」をしっかりと踏まえて次の「段階」へと進んでいくことの重要性

 今回取り上げるのは、菅野幸子先生による講演録である。頭脳活動を発展させるために大事なことは何かが展開されている。

 本論文の著者名・タイトル・目次は以下の通りである。

菅野幸子
〔講演録〕生命の歴史から見た人間の頭脳の成り立ち
─子供達のより良い頭脳活動を育むために

 《目 次》
はじめに―すべての物事を歴史性あるものとして見ていくことの大事性
一 脳科学研究の現状と問題点
二 人間とはどのような存在なのか
三 人間とはどのような存在かを、生命の歴史を遡って考える
 (1)人間の脳は認識を形成する
 (2)生命の歴史に見る脳の誕生と進化
 (3)動物の脳が描く像とは
 (4)動物の脳と人間の頭脳の違い
 (5)外界の変化と動物の脳の発達
 (6)人間の脳の形成を胎児期から見ていくと
   ―個体発生は系統発生を繰り返す
四 頭脳の働きをより良くしていくには
 (1)子供の身体の発育と頭脳の発達のさせ方
 (2)頭脳の働きは感覚器官の実力によって規定される
 (3)外界との関わりが少ないと認識を形成する力も見事には育たない
五 頭脳の活性化に必要な食事とは
 (1)バランス良く食べることが大事と言われることの意味
 (2)サルはどのような生活をすることでヒトになれたのか?
 (3)食生活と子どもの頭脳の発達との関係
おわりに

 本論文ではまず、教育の要となる人間の頭脳について話すことが述べられる。そしてその前提として、歴史の学びにおいて、最初の段階でいわば核となるものが形成され、その本質は消滅することなく物事が発展していくこと、過去から現在までに生じてきた出来事は、必ずその前の段階までの物事に積み重ねる形で新たなものとして生じてくることに気づいたと説かれる。個人の頭脳についても、この観点が必要だというのである。では、脳科学の現状と問題点はどうかというと、脳の目に見える物理的変化のみにしか着目できない脳科学では、人間の心を解明することはできないと述べられる。人間の心を解明するためには、人間は社会的に育てられることで人間となる存在であることを踏まえて、どのように育ってきたがゆえにこうなったのか、どう働きかけていけばよいのかを問いかける視点が大切だとされる。そこでまずは、人間が認識的実在であることを確認し、その認識を形成する脳とは何かが「生命の歴史」を遡ることで解明される。端的には、魚類段階で誕生した脳は、地球の変化に対応して二重構造化した運動器官と代謝器官とを総括するために形成された統括器官であるというのである。さらに、動物が本能に従って外界からの反映像のみを描くのに対して、人間は外界を自分なりに反映させてその像を作り変えていくことができると述べられる。そしてそれは、人間の脳にそれまでの歴史が詰まっているからだと説かれる。以上を踏まえて、人間の脳がハイハイによってできないことを頑張ろうとする力を培うこと、頭脳の働きは運動によって規定されるから、感覚器官を働かせることで頭脳に描かれる像も生き生きとしてくるということが説かれる。最後に、頭脳の発達にとっての食事の大事性が「生命の歴史」を踏まえて説かれていくのである。

 本論文に関してまず検討したいのが、『学城』第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」という問題についてである。菅野先生は、人類社会の歴史、自然科学の歴史、哲学の歴史、生命の歴史、地球の歴史、宇宙の歴史などの学びを通じて、高校までに習った「多くの出来事の羅列」(p.112)とは全くレベルが異なった、様々な物事の奥に潜む、直接目には見えない内部の繋がりが見えてきたとして、その中身を2つ説いておられる。1つ目が、最初の段階でいわば核となるもの(原基形態)が形成されて、それが形を変えてもその本質は決して消失することなく連綿と貫かれながら物事は発展していくことを説かれた後、以下のように述べられる。

「そしてもう1つは、過去から現在にまで生じてきた様々な出来事というのは、どんなものでも、必ずその前の段階までの物事に積み重ねる形で新たなものとして生じてくる、ということ、つまり前の段階をしっかりと経ることなしには、次の新たな段階には進めない、途中を飛ばすことは決してできないのだ、ということです。」(同上)

 つまり、諸々の物事の歴史においては、必ずその段階に至るまでの必然的な積み重ねがあるのであって、いきなり新たな段階に進むのでは決してない、ということである。そしてこのことに関して、生命の歴史(単細胞→カイメン体→クラゲ体→…)や社会の歴史(原始時代→古代社会→…)、人類の個人としての歴史(いわゆる“飛び級”はできないし、やってもまともに発展できない!)でその具体的な説明をされていくのである。

 また、魚類以降の動物の脳の発展の順序についても、以下のように説いておられる。

「まず大事なことは、魚類→両生類→哺乳類→ヒトへと、各段階の生命体の脳を見ていく時に、これらは決して別々のものではなくて、それらにはある1つの連綿と繋がったプロセスがある、つまり必ず前の段階を踏んで次の段階へと進化しているということです。哺乳類の脳になるには、両生類の脳を飛ばしては絶対になれなかったのであり、両生類の脳は魚類の脳の段階を踏まなければならなかったのです。同様に、ヒトの脳になるにも、途中を飛ばしてはダメで、魚類、両生類、哺乳類の脳の段階を踏まないと、その先のサルの脳へ、さらにヒトの脳へと発展できなかったのです。」(p.125)

 このように、生命の歴史の各段階で培った実力をもって次の段階へと発展していくという必然性が強調されているわけであるが、このことは何ももう過ぎ去ってしまった過去の出来事として済ましてしまってよい問題ではないことも説かれていく。すなわち、「人間の赤ん坊は、体内では単細胞段階から人間にまで至った系統発生を、論理的実体的に繰り返して誕生してくるのですが、誕生後はその系統発生を、論理的機能的に繰り返させる育て方をすることによって、ようやく人間としての基本的な運動形態が、可能となる」(pp.130-131)ということが、P江千史先生の論文で紹介され、その中身がハイハイの重要性として説かれるのである。要するに、人間はすでに人間にまで進化してしまったとはいえ、個体発生においても生命の歴史の流れで養ってきた実力を、実体的機能的に論理として辿り返していく必要があるということである。

 こうした論理構造は、当然、学問を創出しようとしている我々にとっても導きの糸となる。すなわち、古代ギリシャで誕生した学問を辿り返す、つまり弁証(の方)法の実力をまずはしっかりと創っていく必要があるのであって、その上で、エンゲルスなり三浦つとむなりの(科学的)弁証法(の法則)を学ぶ必要があるということである。さらにいえば、個別科学の発展史を学び、そこにどのような発展の必然性があったのかを明らかにすることも重要になってくるだろう。

 さて、最後にもう1つ触れておきたいことは、筆者の専門分野である言語に関わってである。菅野先生は、一歳頃から次第に言葉らしきものが話せるようになってくることについて、「生後、不快の時は単に泣くだけでしかなかった状態から、言葉を話して何かを訴えられるようになるということは、それだけ頭脳の中に豊かに認識即ち像を描けるようになってきたことの現われです」(p.129)と述べておられる。このことは、個体発生について述べられているものであるが、人間の系統発生においても、言葉すなわち言語がどのようにして創出されてきたのかを考える際にヒントになるように思われる。つまり、言語を必要とするほどにまで人間の認識が豊かな像を描けるようになったからこそ、言語が創出されたのであって、サルからヒトへ、人間へと発展していく流れの中で、像の発展が言語創出の契機になったのだということである。このあたりは今後、もう少し突っ込んで検討していきたと思う。
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2017年07月26日

一会員による『学城』第15号の感想(7/14)

(7)小学一年生の「段階」における特殊性とは何か

 今回は、佐藤聡志先生による教育実践に関する論文を取り上げる。小学一年生の特殊性が認識論を基に説かれていく論文である。

 以下に、本論文の著者名・タイトル・目次を提示する。

佐藤聡志
教育実践の指針を求めて
―小学一年生における教育の重要性―

 《目 次》
はじめに
一 教育実践において指針となるものを求めて
 @教育基本法や教育関係の書物に記されていたこととは
 A大学時代の空手の学びから「人間は創られる」ことを実感する
 B「人間とは何か」「教育とは何か」から教育実践を捉えていく
二 「教育とは何か」から小学一年生の教育の重要性を説く
三 小学一年生の特殊性(1)
  ―分からないということが不安な一年生
 @授業中、分からなくて泣きだした一年生
 A「子どもたちが分かる」ためには、まず何が大切なのか
四 小学一年生の特殊性(2)
  ―何でもやりたがる一年生
 @チャレンジする一年生たち
 A入学式の日に「ヤダー」と叫んだ一年生(O子)
 BO子が育てられてきた過程を見る
 C「ヤダー」から「ヤッター」への表現の変化

 本論文では最初に、佐藤先生が大学を卒業して初めて小学校の教壇に立った頃の悪戦苦闘の日々を振り返りつつ、教師が拠り所とすべきものなどの教師人生で掴んだことを説くことで、若い先生などのヒントになればと思っての執筆であることが説かれる。まず、教育について拠り所となるものとして、「教育基本法」や「学校教育法」、さらには教育関係の本も参照したが、それらは教育実践において何ら具体的な問題の指針にはならなかったと述べられる。しかし、大学時代に学んだ空手の練習で「人間は創られる存在である」という人間の捉え方を学んだことを思い返してみると、これは日々の教育活動での教え方のヒントになるのでは、何事もチャレンジし続け、繰り返し行うことが上達への鍵を握るのではと思えてきたということである。そして、「人間とは何か」を基盤にした「教育とは何か」を教育実践の指針にしていくことで、様々なことが見えてきたというのである。特に小学一年生に対する教育は、それぞれの家庭で様々な育ち方をしてきた子どもたちが小学校で皆でどのように学んでいくのかという「取り組む姿勢」をしっかりと教育する必要があること、またそれ以後の学習内容の土台となることという2点で、非常に重要だと説かれる。そこで小学一年生の特殊性が説かれていく。その1つは、小学一年生は「分からない」ということが耐え難いほどの不安になるということであり、この問題を解決するためには、子どもたちを同じスタートラインに並ばせ、子どもたちが「学ぶことは楽しい、勉強が分かりたい」という気持ちを持てるように教師が働きかける必要があると説かれる。小学一年生のもう1つの特殊性は、低学年ほどに何でもやりたがるということであり、ここでのポイントは、やりたいという気持ちが行動を起こさせ、行動することによって様々な学びを深めていくことができるのであるから、担任としてできるだけ多くの子どもたちに機会を与えてやり、前向きの認識を創っていくことだと述べられる。

 本論文は、実践を積んできた先生らしい、分かりやすく生き生きとした表現で論が展開されていて、「初学者の学びに資するもの」として非常に優れた実践記録を含む論文だとまずは感じた。今回は、小学校、中学校、高校、大学という学びの過程における「段階的な教育制度」(p.98)の中で、特に重要だとされる小学一年生に対する教育内容を具体的に見ていきたい。

 佐藤先生はまず、「一年生の認識の発展段階の特殊性」として、「その1つは、小学一年生は「分からない」ということが耐え難いほどの不安になるということであり、もう1つは低学年ほどに(可能性を信じてか?)「何でもやりたがる」ということです」(p.99)と説いておられる。そして前者については、算数の問題を各自に解かせていたとき、突然泣いている子供がいたというのである。その理由を聞くと、「どうやってよいのか分からない」ということであった。そうしてこうした経験は、一年生を担任するたびに何回かあったというのである。さらに二年生ではわからないという理由で泣くことはほとんどないと述べられた後、このことについて佐藤先生は次のように説いておられる。

「それはどうしてなのかと考えると、子どもたちはいつの間にか分からないことに慣れ、分からないことに不安を覚えなくなり、主体的に学ぼうという意欲がなくなってきているように思えます。あるいは、その不安に慣れ、逆から言えば耐えられる精神力がついてきていると言えるのかもしれません。」(p.100)

 ここには、「人間は創られる存在である」(p.97)という人間一般論が反映しているように思われる。すなわち、「分からない」という不安心も、その量が積み重なっていくにつれて、段々となくなってくる、つまり不安心に安心してしまうような認識が創られていってしまう、だからこそ、「分からない」ということが耐え難いほどの不安になるということは小学一年生の(つまりは文化遺産の知識的習得を開始した当初の)特殊性だということであろう。

 ではこの問題はどのように解決すればいいのか。佐藤先生はまず、「「分からない」ことが「分かる」ようになる喜びへと導いていくことが、一年生を担任し教えていくことの醍醐味ではないか」(p.100)として、この問題を積極的に捉えた上で、教師が子どもに「観念的に二重化する」(p.102)ことによって、分からないことの不安を取り除き、「学ぶことが楽しい、勉強が分かりたい」(同上)と子どもが思えるように教師が働きかけていく必要があると説かれているのである。

 さて、小学一年生のもう1つの特殊性についても見ていこう。一般的に小学一年生は、何でもやりたがり、張り切って入学してくるのであるが、入学式の後の教室で、いきなり「ヤダー」と叫ぶように反応した女の子(O子)がいたというのである(O子は「ヤダー」とか「知らない」という言葉をよく発する子どもであった)。ここでも佐藤先生は、「人間は創られる存在である」という人間一般論を踏まえて、O子が育ってきた過程を見ていくことにされるのである。端的には、O子が通っていた幼稚園は、就学前から詰め込み教育をするような幼稚園であり、そのためにO子は「また間違っていたらどうしよう、途中でつかえたら恥ずかしい」(p.106)という思いを抱いてきていて、何かについけてやりたくないという思いが強くなってきたのではないか、そこから「ヤダー」という表現になっているのではないか、ということであった。

 このまま放っておいたら、クラス全体に「ヤダー」という雰囲気が広がり、学習が進めにくくなるし、失敗しても再度チャレンジするということもなくなっていってしまうのではないかという疑念があったため、ここで佐藤先生は子どもたちに次のように説かれるのである。

「みんなは勉強がんばりたいんだよね。…でも「ヤダー」と言ってしまうのは、みんなの中で間違ってしまったらどうしようとか、途中でつかえたら恥ずかしいなとか、そういうことを思っていると心臓がドッキンドッキンしてきて苦しくなってきて「ヤダー」と言ってしまうのではないのかな。

 間違っていいんだよ。まだみんなは教えてもらっていないことを自分で一生懸命考えて言おうとしているのですから。失敗は成功のもとだよ。どんどん失敗していいんだよ。自分の考えを言えるって素敵なことですよ。…

 それから、わざわざ「知らない!」と大声を出さなくても大丈夫。「知らない」と気がついたのですから、今から勉強していけばよいのです。学校は知らないことを勉強するところなのですから。…」(pp.106-107)

 ここで佐藤先生は、見事に子どもたちに観念的に二重化して、まず「ヤダー」といってしまう子どもたちの思いを受け止め、その上で、「失敗」はダメなことではなくてどんどんしてもいいこと、「知らない」ということを叫ばなくてもいいことを、子どもたちに伝わるやさしい言葉で話しておられる。子どもに観念的に二重化するとはどういうことかが非常に分かりやすい形で具体的に示されているのである。

 こうした教育の結果、O子はいつもより多めの宿題を出した際に、「ヤダー」ではなくて「ヤッター」と叫んだということである。教育を通して子どもたちを変化させていくことの喜びが溢れているような論文であった。
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2017年07月25日

一会員による『学城』第15号の感想(6/14)

(6)哲学への道の初心の「段階」で必要なものは何か

 今回は西林文子先生による『哲学以前』を問う論文を取り上げる。ここでは、哲学への道が『哲学以前』の学びを通じて考察されていく。

 以下、本論文の著者名・タイトル・目次を掲げておく。

西林文子
出隆『哲学以前』を問う(1)
─哲学への道とは何かを知るために

 《目次》
(1)なぜ今、出隆『哲学以前』なのか
(2)『哲学以前』の冒頭に説かれていることは
(3)『哲学以前』の言葉の背後にある出隆の思惟を問う
(4)出隆は『哲学以前』でいかなる思いを把持しながら何を説こうとしたのか

 本論文ではまず、『哲学以前』を取り上げる理由が述べられる。すなわち、大学に入学して最初に出会った哲学書であったこと、第二の人生として医師を志すに際して、哲学への道を歩くとは何かを知りたくなったことが挙げられる。そして、『哲学以前』の冒頭部分に関して、30年前の大学入学当時はサッパリ分からず、人生に関する迷いや心情といった文学的レベルでしか理解できなかったと説かれるのである。しかしながら、現在、『哲学以前』がサッパリ分からないままではどうしようもないとして、第一論文「真理思慕」全体を何度も読んでいくうちに、出隆が「哲学とは何か」を分かろうとして、歴史上の著名な哲学書を学んでいった際の苦労や迷いや淋しさが表現されていることが何となく分かってきたというのである。そのことを踏まえて、『哲学以前』の冒頭部分が解説されていく。「哲学とは何か」を考えようとして、諸々の哲学書を読み漁ったものの、どれが本当であるか迷ってしまって、結局、哲学に異説が多いのは歴史的条件の如何が影響するためと出隆は考えてしまったこと、一歩も身動きできないというのはこれほど勉強したのに何も分からないという「自問の責苦」ではないかということ、ようやく辿り着いた古代ギリシャの哲学を研鑽していくうちに、「初め」とは知識欲や真理欲といった人間の認識の面ではないかと思い至ったことなどが説かれていく。そして最後に、出隆が歴史に残るような哲学者が何を知ろうとしていたのかを問わずに、何かを知ろうとする人間の認識の面ばかりに問いかけていたのは、それまでにどのような哲学の学びをしてきたからなのかを探るために、次回は出隆の哲学の研鑽過程を追っていくとされるのである。

 本論文では、哲学への道の「段階性」が、西林先生自身と出隆の人生を重ねる形で、しかもしっかりと区別しつつ説かれていると感じた。これがどういうことか、以下に説いていきたい。

 まず西林先生は、日本弁証法論理学研究会に入会して数年後、南郷継正先生から「初学者の学びの大事なこととして(哲学の初歩の学びのためにとして)「アリストテレスからカント・ヘーゲルへの道」を自分なりに筋を通した小論として書くことを命じられた」(p.76)と説かれている。これはつまり、哲学の「初学者」はまず、哲学史の大きな流れを「アリストテレスからカント・ヘーゲルへ」と辿っていくことでアバウトにでも掴みとらなければならないということであろう。しかもそれは、「哲学の歴史を知識の習得レベルで」(同上)執筆していくというのではなくて、「哲学の歴史の構造をアリストテレスの学(現象論的一般論)からカントの学(構造論的一般論)・ヘーゲルの学(過程的一般の構造論)という学問の発展の構造として」(p.84)説かなければならないというのである。ここに関しては、出隆も「哲学の歴史も原著も含めてかなり勉強していた」(p.87)と説かれているように、それなりの過程を辿っていたものと思われる。しかし出隆の場合は、「哲学には異説が多い」(p.86)のは「歴史的条件の如何」(同上)が影響するからだとして、「歴史上に残っているような学説の違いを発展の歴史として捉えようとしていない」(同上)と批判されている。つまり、西林先生も出隆も共に哲学の歴史を学んでいったことは共通しているものの、そこにどのような論理を見出すかという問題については、西林先生が南郷先生の講義に導かれて発展の論理構造として哲学の歴史を学んでいかれたのに対して、出隆の場合には、そうした「導きの糸」(p.84)がなかったこともあって、諸々の哲学説の違いを歴史的条件の違いに解消してしまったのだということである。

 さて、出隆が「哲学とは何か」を分かろうとして、歴史上の著名な哲学書を学んでいった中で、様々な苦労や迷いや淋しさがあったと『哲学以前』の冒頭に説かれていることについて、西林先生は、自らの「アリストテレスからカント・ヘーゲルへの道」と題した小論を執筆していった際の思いと大きく重なるものがあると説かれている。しかしここからの発展過程が異なるのである。出隆は「何が初めであるか」と自問し、その「初め」が「知識欲」や「真理欲」であると見出した、つまり出隆は「何かを知ろうとする人間の認識の面ばかりに問いかけていた」(p.90)のに対して、西林先生は「歴史に残るような哲学者が何を知ろうとしていたのか」(同上)を問い、「世界全体を知ろうとしたから」(同上)こそ、そうした存在になれたのだということを学び取っていかれたのである。この違いの意味を考えてみると、出隆は現実の世界とは無関係に、哲学者自身の認識の側面にだけ焦点を当てて哲学史を把握してしまったのであるが、西林先生は認識を対象の反映として、科学的認識論の立場で、哲学が現実世界の問題を解決するためにこそ生成発展していったのだという流れを把握しようとしておられるのだということになると思う。つまり、出隆が哲学を哲学自体で解決しようという観念論的な把握に陥ってしまったのに対して、西林先生はあくまでも現実の反映たる認識の発展形態としての哲学を見ていくという唯物論的な把握をしておられるということである。

 我々京都弁証法認識論研究会も、「世界全体を知」るために、そしてその実力でもって現実世界の諸々の問題を解決していける能力を養っていくために、「哲学者が何を知ろうとしていたのか」を哲学史に問い続けていくという研鑽を行っていく必要がある。そして、それぞれの哲学説の違いは、単に歴史的条件の違いだという理解に留まることなく、先人の何をどのように発展させていったがために、「違い」として現象してきたのかの過程的構造を把握できるように学んでいく必要がある。毎月の例会において、シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『歴史哲学』『哲学史』、カント『純粋理性批判』などを共に学んできているのであるが、「哲学への道」の「段階性」をしっかりと念頭に置きつつ、ここで指摘されている内容を踏まえながら、大きな発展の流れを見失うことなく学んでいく必要があると感じた次第である。
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2017年07月24日

一会員による『学城』第15号の感想(5/14)

(5)やる気を起こすためにはまず強烈な憧れを抱く必要がある

 今回は北條翔鷹先生の実戦部隊飛翔隊の修業過程に関わっての論文を取り上げる。今回は、前号の続きではなく、読者の参考になるようにと、北條先生から師 南郷継正先生への手紙(ではあるが直接に論文である)が掲載される。

 本論文の著者名・タイトルは以下である。なお、本論文については『学城』誌上に目次はなく、本文に項番も振られていない。

北條翔鷹
実戦部隊飛翔隊修業の総括小論(5)

 本論文ではまず、南郷先生が会議の中で説かれた内容が紹介される。端的には、大会ではどう対戦させたら互いが自分の実力を発揮できるかで対戦をさせるべきであること、少年少女の大会も、そこに見事な武道空手としての精神を花咲かせるべきものとして実践すべきであることが説かれたのである。この講義を受けて北條先生は、先導するものが自分で実践することで、少年少女に対して、本来の人間的生き様としての人間の人間たる所以をまともに見せ続けていくことが重要だと述べられる。つまり、一般会員は、目の前でこの流派の見事さ、凄さを見せてやらねばどうにも信じないのであり、逆に現実の見事さや凄さを分からせてやった分だけおおいなる希望を持ち頑張るのだ、というのである。こうしたことができていなかったという反省を踏まえて北條先生は、大会が全体として発展し続けることができなければ、それは現状維持どころかレベルダウンへの道であること、そうなれば大会を開催すること自体が目的となり、武道空手の実力は問わないという無惨な状況になってしまうことを述べられる。そして、茶帯の尺止め組手をなくしてしまったことは、自身の危機管理能力の杜撰さ以外の何ものでもなかったと反省される。なぜなら、尺止め組手の練習を積んだ茶帯の攻撃技が躊躇なく鋭いものになってとなってきていたのにもかかわらず、あまりに安易に尺止めでなくても大丈夫と判断してしまったために、脳震盪によって救急車で病院に運ばれたり、骨折の可能性を指摘されたりする者が出てきてしまったからだと説かれるのである。

 本論文についても、『学城』15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」について考えていきたい。

 本論文の中で紹介されている南郷先生の講義の中に、少年少女の大会であるジュニア大会について、「東京オリンピックを見据えて組手をやらねばわが流派の支部はつぶれてしまいかねない」(p.64)という記述がある。ここだけを読めば、「なるほど、日本で開催される東京オリンピックでは、空手も競技種目に数えられることとなったので、そこに選手を輩出できるような取り組みが必要だということだな」などと早とちりしてしまいかねない。実際に南郷先生が説こうとしておられることは全く反対の事である。すなわち、武道空手の世界はオリンピックに代表されるような、金食い虫的なスポーツの世界とは全く違うのであるが、空手の世界がオリンピックの世界へということになれば、しかもそれが日本で開催されるとなれば、我々もお金を貯めてオリンピックを目指そうとの、「いわゆる風評被害(?)」(p.65)が出ないとも限らない、だから「我々は武道空手の世界でまともに生きていくのが本分であり、本心である、との思想性を明確に打ち出して、オリンピックのような“お金”の世界とは無縁的な生き様を志すべきである」(同上)、というのである。「人間性を育てるような実質を把持できる「ジュニア大会」」(同上)という言葉も使われている。つまり、東京オリンピックのおかげ(せい)であらぬ方向に向かってしまわぬように、本来の武道空手をしっかりと指導していく必要があるということである。

 ではそのためには何が必要だというのか。南郷先生は「単なる試合」「単なる闘い」(p.66)ではダメだと述べておられる。つまり、試合に出られるようになるために空手をするという低度ではダメだということである。この南郷先生の講義を受けて北條先生は、「先導する者が何もやらないで号令をかけるだけ」(同上)では誰も頑張らないこと、「本来の人間的な生き様としての、人間の人間たる所以は「何」なのか、をまともに見せ続けていくこと」(同上)が必要だということを説いていかれる。さらに30数年前、本部の修行者同士の一戦で、前蹴一撃で対戦者を2〜3メートルすっ飛ばした《一撃必倒》を目の当たりにしたことで、会員は躍起になって取り組みだしたことを踏まえて、次のように説かれていく。

「このような現実的状況を我々指導者が実際にやって見せなければ会員は本物としてのやる気を出しようがない、ということです。これらの現実は、この後の我々飛翔隊の実践を目の当たりにしたり、対外的闘いでの成果があったことでも同じだったことであり、我々が現実として実践して見せたことは会員すべての喜びとなり、自分という野望を持たせることができるようになる、しかし、見せなければ決してできない、の一貫性は決して崩れることはありませんでした。」(同上)

 つまり、流派の見事さや凄さを指導者自身が体現することによって会員に示すことができなければ、会員はやる気を出して取り組むことはなく、大きくいえばそれが組織の崩壊へとつながってしまいかねないということである。ここで説かれていることは、組織を発展させていくためには、何よりもまず会員に本物のやる気を起こさせる必要があるが、そのためには、自分もこんなふうになりたいと強烈に思わせるだけの人間の可能性を実際に示してやるという「段階性」が必要になってくる、ということである。「本物としてのやる気」を出させるような強烈な憧れを媒介する「現実」を見せることがまずは必要だということである。

 さて、本論文についてはもう1つ取り上げたいことがある。それは「尺止め」の効果についてである。先に結論をいえば、「「必殺できる実力」を創出するために、「必殺しない(=当てない)形式で修練する」」(p.72)ことにこそ、「尺止め」練習の効用があるということである。これはどういうことかというと、「「尺止め組手」ないし「尺止めでの突込」を修練させ、突蹴を対手に当てない形で技の威力を爆発させることを意図的に訓練」(p.71)することによって、「技を対手に当てることによって躊躇することを覚えさせ」(同上)ることなく、技を鋭いものにすることができる、ということである。つまり、技を対手に当てる形で練習すれば、どうしても心が躊躇することを学習してしまって、技を全力で駆使することができがたくなってしまうために、「尺止め」で練習することによって、爆発的な威力を持つ技を創って、本番で使える技としたということである。相手を倒すために相手を倒さない(技を当てない)形で修練するという、「否定の否定」の実践的なあり方をここでは学ぶべきであろう。合わせて、このような「段階性」を踏むことが上達に繋がるのだということも確認しておきたい。
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2017年07月23日

一会員による『学城』第15号の感想(4/14)

(4)「生命の歴史」の「段階性」に応じた鍛錬とはどのようなものか

 今回取り上げるのは、浅野昌充先生の空手指導に関する論文である。「生命の歴史」を辿り返すことによる人間体の創出とはどのようなものかが展開されていく。

 以下、本論文の著者名・タイトル・目次を掲載する。

浅野昌充
桜花武道局への指導に見る
生命の歴史の学的論理(T)

 《目 次》
一、桜花武道局の十数年にわたる鍛錬は「生命の歴史」の実証的実験であった
二、人間体と武道空手体との構造の二重性
三、「生命の歴史」適応の第二期たる桜花武道局の鍛錬
四、人間体が武道空手体として「立つ」ことの構造

 本論文は、まず、女性武道家の育成を本格化させた桜花武道局の十数年にわたる鍛錬は、「生命の歴史」の改めての壮大な実証的実験としてなされていったことが説かれ、現在はサルからヒトへと進化していった「二本足で立つ」ところまで来ているとされる。すなわち、人間が二本足で立つことは「踵」を動物的にではなくヒト的に使うことであり、俊敏に動き回りうる縦横無尽さと武技の強烈な発動を支える強靭さとの二重性を養成する必要があると説かれる。しかし、ここで注意が必要なことは、武道空手を武道空手に重点を置いて鍛錬すべきではないということだと説かれる。すなわち、人間としての最も高度な身体運動を頭脳活動の総括下に行いうる身体と精神とを合わせるべく創出(人間体の創出)しながら、そこの武道空手を見事になしうる身体と精神とを相対的かつ特殊的に創出(武道空手体の創出)していく二重的過程が必要だというのである。では、それはどうすればいいのかといえば、人間が「生命の歴史」の全過程を背負った生命体であるがゆえに、その単細胞から進化してくる過程を見事なレベルで段階的に辿ることが必要だとされ、これは遺伝子の重層構造の創出過程としても捉えられるというのである。そして、具体的な鍛錬が紹介された後、「立つ」ことについて論じられていく。すなわち、サルからヒトへの過程において、二本の足で立つための足の掌底の「踵」化が重要な契機になったと説かれるのである。

 本論文についても、『学城』第15号全体と貫くテーマとして設定した「段階性」ということに着目していきたい。まず注目すべきは、オリンピック選手に関して、そのアスリートたちの身体の生理構造に加えて、姿形の構造すらが特化的に創られてきていて、そのことが競技体の足を引っ張ってしまっている、つまり実力向上の足かせになってしまっているということが説かれた後、次のように説かれていることである。

「すなわち、武道空手も武道空手に重点を置いての鍛錬をなすべきものではない。端的に私見レベルでは、まずは、武道空手に集中をなすことのできる人間体をまずは何をさておいても創出し続けながら、その上にこそ武道空手体、武道空手を見事になしうる人間体を創出していかなければならないということになるであろう。すなわち人間として最も高度な身体運動を頭脳活動の統括下に行いうる身体と精神とを合わせるべく創出しながら、そこに武道空手を見事になしうる身体と精神とを相対的かつ特殊的に創出していく二重的過程がどうしても必要なのだということにある。」(p.53)

 上記のオリンピック選手について説かれた内容を踏まえてこの部分で説かんとされていることが何なのかを考えてみると、それはどのような運動体(ある運動なり競技を行うための身体)を創っていくにしても、まずはその土台となる人間体(一般的な身体)の実力を向上させていく必要がある、そうでなければその運動体によって人間は歪んで育ってしまうということであろう。さらに、その運動体による歪みのせいで、その運動なり競技自体の実力も頭打ちになってしまうということであろう。つまりここでは、特に武道空手について、人間体と武道空手体との二重性が指摘され、さらにその育成の順序、つまり「段階性」がどうあるべきかが説かれているということである。

 それでは、見事な人間体を創出するためにはどのようにすればよいのであろうか。この問題についても本論文では明確に答えが与えられている。それは「単細胞から進化してくる過程(=「生命の歴史」)を見事なレベルで段階的に辿ることによって」(p.54)であるというのである。そしてそれは「人間が「生命の歴史」の全過程を背負った生命体であるがゆえ」(同上)だというのである。これは、人間を人間のみで捉えるのではなくて、単細胞から進化してきた歴史的存在として捉え、人間が人間に至るまでに歩んできた各段階の実力をしっかりと再措定してこそ、見事な人間体が創出可能となるという、非常に弁証法的・論理的な把握だといえるだろう。

 とはいえ、「生命の歴史」を見事なレベルで段階的に辿るといっても、具体的にどのような鍛錬をすればよいのか、よく分からないというのが実情であろう。そこで浅野先生は、具体的な鍛錬をいくつか挙げておられる。いわく、「水の中での静的受動的運動から、能動的かつ強烈に振り回し、振り回される運動」、「直接の木登りや手指での数多くのモノを掴みとり、また掴んだモノに振り回されるように振り回す運動」、「段ボール千切り」(以上p.55)、「段ボールを何枚も重ね合せた板状のものへの蹴り技である段ボール蹴り技」、「荷車で土を運んで山を築く」鍛錬、「何重ものティッシュペーパーを収めてのマスクをつけて呼吸困難な中での十何時間もの日常的鍛錬」、「柔軟性を十分に把持した空手バーなる器具や重いペットボトルを両手に持っての内臓体力を鍛錬する強化」(以上p.57)などである。しかも、それらの鍛錬のそれぞれについて、例えば「四肢の体幹からの相対的独立かつ一体化を果たす」などというように、「生命の歴史」から導き出された論理を媒介として、それらの鍛錬の意味がしっかりと説かれているのである。

 こうした鍛錬を経ることによって、桜花武道局という女性武道家の育成組織において、「姿形として「いかにも武道家らしい」とは決して見えない、通常のバランスのとれた姿形の女性がいざ闘いの場となると、瞬時に逞しい武道空手の秀技を逞しい男性相手に見事に繰り出し、相手を圧倒していくという、現在の姿形になってきている」(p.55)というのである。要するに、「生命の歴史」の「段階性」をしっかりと踏まえた人間体の見事な創出を土台として、武道空手体を創出していくという「段階性」を辿っていくことによって、オリンピック選手のような歪んだ姿形や生理構造が上達の足を引っ張ることなく、「逞しい男性」を相手にしてすら、彼らを圧倒してしまう武技を手に入れることができるのだということである。

 さらに重要なことは、先に示したp.53の引用文にあるように、こうした人間体や運動体の見事な創出というのは、単に「身体」や「身体運動」だけの問題ではなくて、「精神」や「頭脳活動」の問題でもあるということである。それだけに、学問の構築を志す我々も、どうしたらアタマが良くなるのかという観点からも、この論文で説かれている論理をしっかりと自分のものにして実践していく必要があると思う。
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2017年07月22日

一会員による『学城』第15号の感想(3/14)

(3)国家論構築のための学びの「段階性」とは何か

 今回は近藤成美先生と加納哲邦先生による国家論論文を取り上げる。国家とは何かを提示するために、三浦つとむ及び滝村隆一の国家論が説かれていく論文となっている。

 本論文の著者名・タイトル・目次は以下である。

近藤成美
加納哲邦
滝村隆一『国家論大綱』をめぐって(2)

 《目 次》
 はじめに
一、滝村国家論は何故行き詰まったか【承前】
  A 滝村国家論には「国家とは何か」の一般的規定が欠落している
  B 「革命のため」だけの国家論はどんな結果をもたらしたか
  C 国家論の学的体系化のために必須なものは何か
二、学的「国家論」構築のための国家一般論を問う
 [1] 三浦つとむ、滝村隆一の国家論とは何か
  (以下次号)
 [2] 国家とは何かを学的に問う
  A 国家とは何か
  B 国家とは何かを歴史的原点レベルから問う
  C 成立している国家は、いかなる体系的構造を把持しているか

 本論文ではまず、前回の内容を振り返るとして、滝村隆一の国家論の意義が2つ挙げられる。すなわち、国家を二重構造で説こうとしたこと、世界歴史レベルでの国家の内実の発展を描こうとしたことの2つである。しかし一方で、滝村国家論には大きな欠点もあることが説かれていく。つまり、国家とは何かの一般的規定が欠落しているというのである。それは何故かといえば、滝村は国家学という学的体系化を図ったのではなくて国家廃絶を主眼においた国家奪取論に終始してしまったためであるとされる。その結果、国家権力の実態が把握できず、また国家権力の実体・実態のひとつである法的支配を夢想だにできないということになってしまうというのである。では国家論の学的体系化のために必須のものは何かというと、それは国家とは何かを概念化し、国家の歴史的原点レベルからの究明を行い、国家に内在する権力の実態を明確にする(国家の体系的構造を把持する)ことだと説かれる。そして、こうした展開をしていくために、まずは準備運動として、三浦つとむと滝村隆一の国家に関わる記述が(歴史に耐えうる展開のみに絞って)解説されていく。すなわち、三浦においては、人間の社会生活にあっては規範が必要であること、国家は法律を通して国民を統括すること、権力に従わせるために強制力が必須であることなどが説かれ、滝村においては、権力とは社会生活の中で創出された規範による支配力であること、国家権力の本質的側面は国家意志への服従を迫り、社会全体を直接支配し統制し統御するところの〈イデオロギー的な権力〉に他ならないことなどが説かれているというのである。そして、こうした見解は、基本的な概説としてはそれなりの水準にあるとしつつも、サルから人間への過程をふまえた原始共同体とは何か、法とは何かの原点がふまえられていないというのである。

 本論文に関しても、まずは『学城』第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」に関わる問題から検討していきたいと思う。本論文では、国家論を構築する上で必須の項目として、以下の3点が掲げられている。すなわち、

「@国家とは何かの一般論的な展開をなすこと
 A国家とは何かについて、歴史的原点レベルからの究明を行う
 B成立している国家は、いかなる体系的構造を把持しているかを具体的に説く」(pp.37-38)

 これらの必須項目については、簡単には説明されているのであるが、本格的な展開の前に、「読者諸氏の国家論の理解を正常にするためにも、まずはその準備運動として、先達である三浦つとむ及び滝村隆一の国家論を概括するところから始めることにしたい」(p.41)と述べられているのである。これはつまり、いきなり高度の論理展開を行ったとしても、読者がその高度な論理展開を正確に理解することが難しいために、国家論の歴史的発展における全うな論理をまずはしっかりと押さえた上で、近藤・加納両先生自身の論理展開を行うということである。端的にいえば、国家論の学びにはきちんとした「段階性」があるのであって、その過程を踏まえることなしには、国家を正常に理解することはできないということである。(さらにいえば、三浦つとむ、滝村隆一の論理展開を本当に理解するためには、レーニン『国家と革命』やエンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』『反デューリング論』の引用箇所をまともに自分の実力としなければならないことも指摘されている。)

 では、三浦や滝村の国家論をきちんと学びさえすれば、それで国家の理解が正常となるのかというと、そうではないと両先生は説いておられる。

「しかしながら、三浦つとむにせよ、滝村隆一にせよ、社会とは何か、国民とは何か、国家とは何かのそれを統治するとはいかなることかという「国家とは社会の自立的実存形態である」との原点レベルからの解明が全く欠けているために、現象論レベル、あるいは少しばかりの構造性レベルでの記述に留まっている、すなわちそこで立ち止まる、つまり留まる他なかったのだ、と言ってよいのである。」(p.47)

 要するに、三浦や滝村の国家論には国家の「本質論的一般論」(p.40)が欠けているために、「現象論レベル、あるいは少しばかりの構造性レベルでの記述に留まっている」というのである。では、そのレベルで留まっていてはどういう問題があるのかということについても、「そのため、例えば、なぜ国家だけが、徴兵や租税の義務を強制できるのか、なぜ国家は死刑を宣告することが可能なのか等々は、これまた何にも説けてはいないのである」(p.47)として、具体的に示されているのである。端的にいえば、三浦や滝村の国家論では国家に関わる具体的な問題が解決できないということである。

 では、どのようにすればこうした欠陥を補うことができるのか、次にはこのことが問題になってくる。この点については以下のように説かれている。

「国家とは何かを学的に規定するためには、サルから人間への過程をふまえた、原始共同体とは何か、そこに誕生し、実存することになっていく法とは何かとの原点をふまえての、初歩レベルからの解明が必須なのである。」(同上)

 つまり、生命の歴史を踏まえた国家の原点からの解明、人間の特殊性たる認識に焦点を当てつつ、本能に代えて規範による統括がなされていく人間社会の解明が必要だということだろう。このことは、国家論を構築する上で必須項目が簡単に説かれている部分においても、「国家は、原始共同体から現在の社会に至るまで、社会の実存形態として、変遷してきたものである」(p.40)とか、「人間の社会は、本能ではなく認識=規範により統括される。その統括力が法としての権力であり、その実施形態、その現象形態がすなわち権力機関たる軍隊、警察、裁判等々である」(p.41)という形で触れられていることである。

 我々京都弁証法認識論研究会も、社会科学の確立を目指していく以上、ここで示された学びの「段階性」をしっかりと踏まえつつ、生命の歴史や三浦・滝村国家論をしっかりと学びとることで、国家論構築の準備運動を確実に行っていく必要があるだろう。
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2017年07月21日

一会員による『学城』第15号の感想(2/14)

(2)対象の一般性レベルの把握と共に「段階性」を捉えていく必要がある

 今回から、『学城』第15号に掲載されている各論文について、順次その感想を述べていきたい。

 初めに取り上げるのは、今回から新たに連載が開始された村田洋一先生のロシアにおける社会主義革命を問う論文である。ここでは、ソビエト連邦が解体したことの意味を考察するために、資本主義とは何かが分かりやすく説かれていく。

 まずは以下に、本論文の著者名・タイトル・目次を掲載する。

村田洋一
ロシアにおける社会主義革命の誤りとは何であったか(1)

 《目 次》
はじめに―なぜ今、ロシアにおける社会主義革命を取り上げるのか
一 資本主義段階を経ずに社会主義国となったソビエト連邦
二 人間社会は然るべき段階を踏まなければ発展し得ない
三 資本主義(資本制)とは何か
 (以下は次号予定)
四 資本主義はどのように生成してきたのか
五 中世における封建社会の構造とは何か―自立と統括の発展
六 社会主義経済は資本主義経済を経ることで可能となる
おわりに

 本論文ではまず、ソビエト連邦における社会主義国家建設の失敗と社会主義自体の問題とは論理的に区別しなければならないのではないかという問題意識のもと、そもそも資本主義とは何か、いかなる歴史性を持つものなのか、社会的認識がいかなる質的変化をすることで、社会の構造が次なる段階へと変化していくのかを考察すると述べられる。そして、ソ連が解体した後のロシアの情況や市場経済を導入した中国の経済大国化という事実を踏まえ、社会主義的生産に対して資本主義的生産が猛烈な生産力を持っていることが示される。さらに『共産党宣言』においては、プロレタリア革命はかなり進歩したヨーロッパ文明全般の条件のもとで、まずブルジョア革命が起こった後に起こすべきであると記載されていること、それにもかかわらずロシアは資本主義社会の段階には至っておらず、封建制のもとで商工業を十分に発達させることもできていなかったこと、これがロシアにおける革命の失敗の原因であったことが述べられる。問題の本質は、単に社会主義一般が誤りだということではなく、然るべき人間社会の発展段階を踏まなかったことにあるというのである。つまり、人間社会のある段階はその前までをふまえて実力と化すことなしには達し得なかったのであって、本論文では資本主義について、それ以前の歴史的段階を必須としたこと、人類の社会的認識は段階を1つずつ踏むことで資本主義の段階へと達したことを説いていくとされる。そこで、そもそも「資本」とは何かが明確にされる。すなわち、「蓄積された過去の対象化された労働」が「直接の生きた労働」を支配するという関係に置かれたとき、この「蓄積された過去の対象化された労働」が「資本」だというのである。そして、資本制の大きな特徴は、労働に大きな価値がおかれるようになってくるということにあると述べられるのである。

 本論文については、まず、『学城』第15号全体を貫くテーマとして設定した「段階性」ということに着目する必要があろう。「目次」をご覧いただければ明らかなように、「資本主義段階を経ずに社会主義国となったソビエト連邦」は、「人間社会は然るべき段階を踏まなければ発展し得ない」という一般論を媒介にすれば、必然的に解体せざるを得なかったのだということが論じられようとしている。このことを「分かりやすく人間の個人レベルの成長に喩えれば」として、「幼稚園児が小学生の過程を経ずにいきなり中学生になることは不可能であるし、小学生が中学生の段階を経ずに高校生になることなど、実体的にも精神的にも不可能である」(p.26)と説かれているのは確かに「分かりやすい」。しかし、この喩えは事実的なイメージとしては「分かりやすい」ということであって、そこに如何なる必然性が存在するのかという論理的な把握はないのである。そこで村田先生は、「まず本論文では、資本主義について、それ以前の歴史的段階を必須としたこと、人類の社会的認識は段階を1つずつ踏むことで資本主義の段階へと達するに至ったことを説いてい」(pp.27-28)くとして、資本主義とは何かを丁寧に、「初学者」でも理解可能な形で展開していかれるのである。つまり、まずは歴史的な事実から資本主義への発展の歴史的必然性を論理として把握し、その把握を踏まえて、今度は問題としている「資本主義段階を経ずに社会主義国となったソビエト連邦」の解体の必然性を説いていこうということであろう。「段階性」を踏まえる必然性については、次回展開されるようなので、しっかりと論を追っていきたい。

 ただし、ここで注意すべきは、「段階性」といっても単に各段階を並べるだけではダメである、ということである。村田先生は、マルクスの有名な歴史的発展段階の定式に関する部分を引用した後、次のように述べておられる。

「確かにマルクスはここで、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式の順で並べてはいる。しかしながら、そこには大きく欠けているものがあるのである。それは何かと言えば、人間社会とは何かの一般性レベルでの把握であり、人間社会の原点たる原始共同体からいかなる重層性をもって現代の資本主義社会まで形成されてきているのかの過程的構造である。」(p.27)

 つまり、人間社会の変遷を特徴的な様式で区切って並べる(区別する)だけではなくて、人間社会一般を貫く普遍的な存在(共通性)を把握し、それがどのように積み重なっていって現代にまで至ったのかを解明する必要があるということである。そしてその普遍的な存在(共通性)とは、人間社会でいえば、「社会的労働・社会的文化として発展させ」(同上)られてきた「社会的認識」(同上)であるというのである。だからこそ、先にも引用したように、「資本主義について、それ以前の歴史的段階を必須としたこと、人類の社会的認識は段階を1つずつ踏むことで資本主義の段階へと達するに至ったことを説いてい」(pp.27-28)くという流れになるのである。非常に弁証法的な捉え方といえるだろう。

 最後に、村田先生の弁証法的な把握をもう1つだけ紹介しておく。通常、資本制といえば、マルクスの主張が大きく影響して、「資本が労働者の労働を搾取する」(p.32)という否定的側面ばかりが強調されがちである。しかし村田先生は、「資本制における大きな特徴」(p.31)として、「人間の労働が大きく着目されるようになり、労働に大きな価値がおかれるようになってくるということ」(同上)を挙げておられる。つまり、「資本制とは、人間労働が生み出した価値が一点に凝縮して新たな人間労働を支配し、人間のもつ生産能力を最大に活用することで最大の価値を新たに生み出していく生産様式にほかならない」(p.32)のであって、こうした肯定的側面をも捉えてこそ、「社会主義経済は資本主義経済を経ることで可能となる」という結論が全うに導き出されるということであろう。対象の性質を二重性として把握する必要性が次回で詳細に展開されることを期待している。
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2017年07月20日

一会員による『学城』第15号の感想(1/14)

《目 次》(予定)

(1)『学城』第15号は「段階性」ということに焦点を当てて学ぶべきである
(2)対象の一般性レベルの把握と共に「段階性」を捉えていく必要がある
(3)国家論構築のための学びの「段階性」とは何か
(4)「生命の歴史」の「段階性」に応じた鍛錬とはどのようなものか
(5)やる気を起こすためにはまず強烈な憧れを抱く必要がある
(6)哲学への道の初心の「段階」で必要なものは何か
(7)小学一年生の「段階」における特殊性とは何か
(8)前の「段階」をしっかりと踏まえて次の「段階」へと進んでいくことの重要性
(9)原点からの過程性、歴史性を問う必要がある
(10)「段階性」の把握は特殊性と一般性との統一として行う必要がある
(11)「初学者」への指導では具体的なイメージが描ける工夫が必要である
(12)「初学者」の学びの「段階性」とはどのようなものか
(13)「初学者」にはどのような説き方が必要か
(14)「段階性」を踏まえた学びの重要性を主体的に捉え返す必要がある


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(1)『学城』第15号は「段階性」ということに焦点を当てて学ぶべきである

 2017年4月23日、早くも『学城』第15号が発刊された。ここで「早くも」というのは、前号第14号が発刊されてから僅か4ヶ月と少ししか経っていないからである。これまでで最短の発刊である。

 このことの意味を少し考えてみよう。これまで、この『学城』の感想シリーズで何度か触れたことであるが、これまでは基本的に年1回のペースで発刊されていた。それが2015年には1度だけ、年2回の発刊(第12号、第13号)となったことであった。「これは第10号の「編集後記」にて、「今後は年二回の発刊を現実化すべく努力していく所存である」と決意が述べられ、第11号の「編集後記」で「わが研究会においては志ある若い読者のために、発刊を年二回に増やし、初学者向けの教育が可能な、いわゆる入門編となる論文も掲載したい」と展望が示され、第12号の「編集後記」で「年二回の発刊を目指して努力してきた」と言及されていることが、遂に実現したことを意味している」と第13号の感想に書いた通りである。そして今回、第15号の「編集後記」においては、「今回は特別記念号として、従来の連載以外の小論を多く掲載することにした。会員諸氏から寄せられた原稿には、なかなか労作が多い中で、なるべく初学者の学びに資するものを中心に選んである。」(p.215)と述べられているように、この第15号においては、「初学者の学びに資するもの」が多く掲載されているのである。

 「会員諸氏から寄せられた原稿には、なかなか労作が多い」とあるように、この『学城』掲載論文の背後には、掲載に至らなかったものの相当の中身を把持した論文が多数存在するということである。これまでは、「従来の連載」を中心に『学城』誌上に掲載していたものの、号を重ねるにつれて論文のレベルが相当に上がってきていて、新しい読者にとってはそれを読み解くことがかなり難しくなってきているのである。そこで、「志ある若い読者のために、発刊を年二回に増やし、初学者向けの教育が可能な、いわゆる入門編となる論文も掲載したい」という思いを何とか実現すべく、今回は年をまたいだとはいえ、最短での発刊によって、「初学者の学びに資するもの」を数多く掲載したのだ、ということだと思われる。

 こうした事情も踏まえて、今回も第15号全体を貫くテーマを設定し、そのテーマに沿った形で各論文を読み解いていきたいと思う。ではそのテーマとは何か。それは「段階性」ということを踏まえた学びの重要性が説かれているということではないかと思われる。上に引用した「編集後記」においては、「初学者の学びに資するもの」を掲載した旨記載されていたが、これは順を追って学んでいくことが重要であるという観点に立っての選択ではないかと思われるのである。第13号の冒頭論文である本田克也「「南郷継正講義」遺伝子の体系性から生命の世界の発展性の帰結たる人間の遺伝子の重層構造を説く(1)」や、今回の冒頭の南郷継正「絶対矛盾(ゼノン)の理解はアリストテレスをふまえるべきである―巻頭言に代えて」を読めば明かなように、最近の『学城』の各論文のレベルは、初学者が理解可能な範囲を明らかに超えてしまっているのである。そこで、もう一度原点に立ち返って、初学者にも十分役立つレベルの論文を掲載して、基礎から学ぶことができるように配慮されているのではないかと思われるのである。

 ほかにも「段階性」という観点から第15号を読み解いていくべきではないかと思った理由を挙げておくと、冒頭の南郷継正「絶対矛盾(ゼノン)の理解はアリストテレスをふまえるべきである―巻頭言に代えて」において、アリストテレスの弁証法の原基形態を理解するためには、ヘーゲルの弁証法を学ぶ実力が必要だと述べられていることもある。これは、現在の人間の脳の解明によって、サルの脳のから人間の脳への解明が促されるのと同様、対象とすべきものの原点を解明するためには、完成した形態の対象の解明が導きの糸になるということだろうと思われる。つまり、アリストテレスという漸くにしてアタマの中の無数ともいえる像を何とか1つにまとめていって、それを1つの言葉として表すことができるようになっていくかどうかという時代の認識(弁証法)を理解するためには、そのアリストテレスだけを対象として研究していったとしてもそれは不可能であって、ある意味で弁証法を完成させたヘーゲルへの学びを媒介とすることによって初めて、アリストテレスのアタマの中の像を、そしてそれを何とか表現しようとした言語を理解することができるのだということだと思われる。端的にいえば、学びの「段階性」をしっかりと踏まえることが重要だということであろう。

 以上を踏まえて本稿では、「段階性」ということに焦点を当てて第15号を学んでいきたいと思う。各論文において、「段階性」の重要性がどのように現われてきているのかについては、次回以降、詳しく展開していく予定である。特に「初学者」という「段階性」、また「生命の歴史」における「段階性」が強く意識されている各論文の内容となっていることが分かると思う。

 次回以降、以下の第15号全体の目次の順に、各論文の感想を認めていく。ただし、南郷継正「絶対矛盾(ゼノン)の理解はアリストテレスをふまえるべきである―巻頭言に代えて」については、内容が非常に難解であり、まとまった感想を筆者のレベルで展開できないために、またブログ掲載の回数の問題もあって、今回触れた程度でお許しいただくとして、次回は村田洋一「ロシアにおける社会主義革命の誤りとは何であったか(1)」の感想から認めていきたいと思う。

学 城 (学問への道)  第15号


◎ 南郷継正   絶対矛盾 (ゼノン) の理解はアリストテレスをふまえるべきである
           ― 巻頭言に代えて

◎ 村田洋一   ロシアにおける社会主義革命の誤りとは何であったか (1)

◎ 近藤成美   滝村隆一 『国家論大綱』 をめぐって (2)
  加納哲邦

◎ 浅野昌充   桜花武道局への指導に見る生命の歴史の学的論理 (1)

◎ 北條翔鷹   実戦部隊飛翔隊修業の総括小論 (5)

◎ 西林文子   出 隆 『哲学以前』 を問う (1)
           ― 哲学への道とは何かを知るために

◎ 佐藤聡志   教育実践の指針を求めて
           ― 小学一年生における教育の重要性

◎ 菅野幸子   〔講義録〕 「生命の歴史」 から見た人間の頭脳の成り立ち
           ― 子供達のより良い頭脳活動を育むために

◎ 北嶋  淳   人間一般から説く障害児教育とは何か (9)
  志垣  司   ― 障害児教育の科学的な実践理論を問う

◎ 河野由貴   看護のための病気一般論を問う
           ― ナイチンゲールの説く 「病気とは回復過程である」 に学んで

◎ 聖  瞳子   医療における理論的実践とは何か
  高遠雅志    ― 初期研修医に症例の見方、考え方の筋道を説く
  九條  静   〈第7回〉 マイコプラズマ肺炎3
  北條  亮

◎ 朝霧華刃   唯物論の歴史を学ぶ (3)

◎ 橘 美伽   武道空手上達のための人間体を創る 「食事」 とは何か (4)
           ― 遺伝子としての食事を考える

◎ 悠季真理   編集後記
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2017年03月23日

一会員による『学城』第14号の感想(14/14)

(14)「発展の論理構造」を文字として捉えるのではなく、像として主体的に描いていく必要がある

 本稿は『学城』第14号の感想を認めることによって、特に全体を貫くテーマである「発展の論理構造」という観点から、この第14号の中身を主体的に自分の実力とすることを目的として、これまで第14号に掲載されている12本の論文を取り上げ、その要約を行い、学ぶべき点を明かにしてきたものである。

 ここで、第14号全体を貫くテーマである「発展の論理構造」ということの中身を中心に、これまでの展開を振り返っておきたい。

 連載第2回で取り上げたP江論文では、「発展の論理構造」は「新しい弁証法の構造」であると述べられ、動く遺伝子の構造が説かれていた。また、「発展の論理構造」は生命の歴史から学ぶべきものであることも強調されていた。

 「発展の論理構造」を把握するためには、弁証法の理解が必要だという観点から展開されていたのは、連載第4回に扱った神庭論文であった。ここでは、弁証法的なものの見方・考え方が看護の実例を通して説かれていたのであった。同じ事例を繰り返し別の観点から説いているというのは「量質転化」的な説き方であることも指摘しておいた。連載第7回のP江論文では、治療論を医学体系の全体像の中で把握すること、また治療論と病態論を対立物の統一として捉えることの重要性が説かれていたし、連載第11回の朝霧論文に関しては、「素直さ」が自分を否定し指導者に二重化するという意味で「否定の否定」になることを説いておいた。

 「発展の論理構造」を生命の歴史から学ぶ必要があることも、随所に説かれていた。連載第5回で取り上げた悠季論文では、アリストテレスの認識が論理的な像を形成し始める際の過程が生命の歴史を媒介として説かれていたし、連載第9回の症例検討論文では、呼吸とは何かという把握が生命の歴史を学ぶことで大きな発展を遂げたことが述べられていた。連載第12回で扱った橘論文では、生命の歴史から武道空手上達のための論理が導かれていた。すなわち、黒帯になっても白帯の鍛錬から辿り返していく必要があること、またある段階で完璧にできあがってしてしまうような修練の仕方をしてはならないことであった。

 「発展の論理構造」は原点からの辿り返しだという内容に関しては、他にも連載第3回の北條論文で説かれていた。武道空手の修練としては、初めは骨体力などの養成から始めなければならないこと、上達した段階でも常に基本技のチェックを行ってはならないことが説かれていた。また、連載第6回の北嶋・志垣論文においても、人間の個体発生においては前の段階を自らの実力と化しつつ発展していくことが説かれていたし、連載第8回の新・医学教育概論では、医師の実力養成のためには何が必要かについて、そのためには、そのためにはという形で原点にまで遡って考察されていた。連載第10回の法医学原論では、それぞれの専門分野の発展のためにはその原点を歴史的に辿り、踏まえることで一般論を確立する必要があることが説かれていた。

 そして最後に、連載第13回で取り上げた南郷論文では、学問発展のための土台としての一般教養の学びの重要性が説かれ、それぞれの専門分野の個別学問の発展のためには学問一般たる哲学の発展との相互規定的相互浸透が必要であることを説いておいた。また、これは連載第5回の悠季論文を扱った際にも触れたが、自分かかつて執筆した論文の内実を自らの実力として常識化しておく必要があることも説いておいた。さらに重要なこととして、「発展の論理構造」を対象の性質として客観的に受け止めるのではなくて、自らの頭脳活動を発展させるためにこそ学ぶのだという主体的な把握が必要だということも説いた。

 以上、今回第14号を読み、その内容を主体的に把握するために、「発展の論理構造」をテーマとしてこれまで説いてきた流れを振り返っておいた。端的にいえば「発展の論理構造」とは、対象の持つ弁証法的な性質であって、生命の歴史に学ぶことによって、あらゆる物事の発展の一般的なあり方を掴み取ることができるのだといえるだろう。その基本的な性質は、前段階のあり方に上書きする形で変化していくという構造を持っているのである。

 ここで重要なことを指摘しておきたい。それは「発展の論理構造」を、弁証法だの生命の歴史だの原点からの辿り返しだのという文字で把握するだけではダメだということである。このことに関しては、「人類の遺伝子が把持している重層構造」(p.169)の内実を分かっていくとはどういうことかが以下のように説かれていることをしっかりと踏まえる必要があろう。

「しかしこれを「文字」で追うだけでは理解とは程遠く、それどころかまったく意味がない。そうではなく、自分自身で筋道にそった頭脳活動としての自身の思い、思惟レベルでの像をまずはそれなりにでも描く努力をし続けなければ、いつまでたっても本当の理解はできてはいかないものである。」(同上)

 つまり、文字を文字として把握するのではなくて、その文字が表す中身について、像として描けるような努力をしていく必要があるということである。このことはもちろん、「発展の論理構造」という文字についても当てはまるのであって、それがどういうことか、しっかりと像としてイメージし続けていく必要があるのである。

 さらに改めて確認しておきたいことは、学びにおける主体性ということである。先にも少しふれたが、「発展の論理構造」をある対象に関する性質であるとして、自分から切り離した存在として把握していてはダメであって、あくまでも自分の頭脳活動を発展させるための構造として把握し学んでいく必要があるのである。この主体性という問題は、当然、認識論を学ぶ際にも、弁証法を学ぶ際にも、いのちの歴史を学ぶ際にも必要になってくる。認識論に関しては、前回、このブログにかつて掲載した論文「認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想」の中で説いていることを紹介したが、弁証法については、自分の頭脳を弁証法的にすることで、世界のすべてを弁証法的に把握できるようになるために学ぶのであって、生命の歴史についても、自分と関係のないかつての生命体の発展史だなどと考えるのではなくて、他でもない自分自身がどのような発展の歴史を背負っているのかを把握し、自分の生き方を生命の歴史の延長線上にある世界歴史、人類の歴史に重ねて発展させていくためにこそ学ぶのである。では例えば筆者の専門分野である言語はどうか。これも単なる対象として、自分の他にある存在として捉えるのではなくて、あくまでも自分の認識を発展させるべく研鑽し、その結果描いた像を何としても表現するのだ、社会化するのだという必死の過程を経て創出されるものだというように、主体的に捉えていく必要があるのではないか。

 さて、以上の中身を端的にいえば、『学城』第14号から学ぶべきことは、「発展の論理構造」を文字として捉えるのではなく、像として主体的に描いていくための学びが必須であるということではないだろうか。自らの頭脳活動を発展させ、それぞれの専門分野の学問を創出していくためには、どうしても認識をどのようにすれば発展させられるかの論理構造をしっかりとつかんでおく必要があるのである。そのための学びの指針が、第14号全体にわたって説かれていると捉え、引き続き学んでいく必要があるということだろう。「発展の論理構造」を像として描くという点に関していえば、「正規分布図」(p.174)のイメージが大きなヒントになりそうである。主体的な学びという点についていえば、自らの大志をどのように見事に描くかということにかかってくることであろう。いずれにしても、「発展の論理構造」を正しく捉え、集団力を駆使しつつ学問の構築を図っていくという我々京都弁証法認識論研究会の使命を確認して、本稿を終えたいと思う。

(了)
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 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
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 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
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 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
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 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う