2017年11月16日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(4/5)

(4)本史2

 大学を卒業した私は、塾の講師になった。仕事をしながら一般教養的な内容を学んでいけると思ったからである。それに、教育にも強い関心があった。また、浪人時代の予備校の先生に憧れて、ああいう先生になりたいと思ったことも大きく影響している。ただ、この塾講師になっても、私は挫折してしまう。当初は、中学生や小学生に国語や英語を教える仕事が中心であった。ところが、これまでに触れてきたように、私自身は小学校や中学校では特別に勉強しなくてもテストで100点が取れるような子どもであったため、何が分からないのか、どう教えていいのか、まったくといっていいほど分からずに、授業アンケートでも最低な結果になったのである。これにはショックであった。授業に行くのが恐かった。それでも、先輩の先生方に何とか支えていただき、2年間でそれなりの授業ができるようにはなっていった。

 この頃教えていた小学生で、今思うと明らかに発達障害のある天才児がいた。彼は自分のことを○○マン(○○には苗字が入る)と呼んでいた。○○マンは、本当に勉強がよくできた。彼は進学コースに入っていたのだが、中学生に教える内容よりも難しい内容をすらすら理解しているようであった。というか、彼のような人間にしか理解できないような、小学生には難しすぎる内容を教えるのが進学コースであった(小学生に国文法の助詞や助動詞の意味の識別をさせたりするのである)。発達障害があるからといってからかわれたりいじめられたりすることもなく、逆に、周りの子どもからも非常に個性的な天才児と見なされている様子であった。彼については、その天才ぶりで記憶に残っているだけではない。衝撃的な事実が発覚したことでも鮮明に記憶に残っている。ふつう、苗字に付けた「マン」で「○○マン」といえば、「キン肉マン」とか「スーパーマン」とか、その類のことを連想するのではないだろうか。周囲の人間もだれ一人疑わず、彼がそういうつもりで自分でニックネームをつけているのだと理解していた。ところがある日、彼が一つの絵を描いていたのである。そこには、肉マンやアンマンに並べて、自分の顔の「マン」が描いてあったのである。この時初めて、「マン」の意味が分かったのである。

 さて、3年目からは高校生に英語を教えるようになった。これは非常に楽で、楽しい仕事であった。というのは、私自身、高校時代に英語には散々苦労したし、偏差値30台から70オーバーを実現するほど熱心に勉強したので、どういうところから勉強していけばいいのか、英語が読めるとはどのようなことなのか、どうすれば読めるようになるのか、英文法の基本とは何か、どのように筋を通せば理解しやすいのか、などということが、手にとるように分かっていたからである。高校生に英語を教えたのは3年間ほどであったが、この間、自分自身も英語を勉強して、自分の頭の中もさらに整理されていったと思う。

 さて、私は働き始めてからも、弁証法・認識論の勉強はもちろん続けていた。大学時代に立ち上げた研究会は、働き始めてからも月一で開催していた。師が主催するゼミ合宿にも継続的に参加していた。このゼミ合宿の中で、師は「学問を志すなら、若い頃に最低でも修士号を取っておいた方がよい。私は取らずに後悔しているところもあるから」とおっしゃった。私はその頃ぼんやりと、何年か働いてお金を貯めたら、大学院に行こうと思っていたが、その思いが師の言葉で強くなっていった。

 初めは教育に関心があったので、出身大学の教育学研究科に進学することを考えた。これなら、私の真の専門と定めている認識論の研鑽になるだろうという見込みがあった。しかしある時、とある本を読んでいると、法律の専門家が弁護士であるように、心理の専門家である臨床心理士という資格があることを知った。いや、存在自体は知っていたかもしれないが、それほど意識していなかったのは確かである。弁護士と並べられる資格であれば、それ相応の専門性があるだろう。カウンセリングや心理検査を通じて、心の悩みを抱える方々に関わっていくのは、認識論の研鑽としての十分に意義があることに違いない。そう考えて、私は臨床心理士を目指すことにした。

 ただ、臨床心理士になるには、指定されている特定の大学院を修了する必要がある。大学では、哲学系が専門だったので、臨床心理学となると畑違いであり、いきなり大学院を目指すのは無謀なのではないか。それなら、学部の3回生に編入して、2年間、学部で臨床心理学を学び、それから大学院に進むことも考えられる。そちらの方が無難だろう。そのような思いに傾きつつ、そのころ小論文の書き方でお世話になっていた予備校の先生に相談した(この先生は確か当時、大学の非常勤講師をされていたはずである)。するとその先生は、「絶対に直接大学院にチャレンジするべきだ。学部ではほとんど何も学べない。時間がもったいない」と教えてくださった。そこで私は、直接大学院入試にチャレンジすることにしたのである。すぐ後に判明することであるが、この先生の助言はまさしくその通りであった。本当に学部編入などという妙な回り道をとらずによかったと思う。

 次に問題になったのは、どこの大学院を受けるか、ということであった。いろいろ調べていくうちに、最近は認知行動療法というのが流行っており、これは、ものごとの受け止め方によって気分が変わってくるので、受け止め方(認知)を変えることによって、気分をコントロールすることができる、というようなものだと知った。三浦つとむ・南郷継正系列の認識論でいうところの「問いかけ的反映」という論理の一形態であると私には思えたので興味が持てた。そこで、認知行動療法を学べる大学院を探したところ、当時の私の情報収集力では、北海道の私立大学と四国の国立大学しか見つけられなかった。北海道は遠いし私立はお金もかかるので、四国の国立大学の大学院を受験することにした。

 臨床心理士になろうと志してからは、ぽつぽつ、臨床心理学の勉強を始めていたが、本格的に始めたのは大学院入試の3か月ほど前からである。この頃に購入したのが、臨床心理士指定大学院の学生は必携とされていた『心理臨床大事典』(培風館)である。これこそ、学部時代に大学生協の書店で、女性の知人が購入しようとしていた書籍だったのである。彼女もまた臨床心理士を目指していたのであり、私が臨床心理士を目指していたこの頃は、すでに臨床心理士の資格を取って、大学の博士課程に在籍していた。この頃、一度だけあって、大学受験のアドバイスをいただいた。あれこれ思案して、結局私が採用した勉強方法は以下である。すなわち、まず、『試験にでる心理学』シリーズ(北大路書房)などを参考にして、コンパクトな基本書を設定し、その内容をマインドマップにまとめたりしながら、目次を見てその中身を自分で自分に講義する「自己講義法」を実践する。すぐ後で触れるが、そのころ弟と一緒にジョギングをする機会が多かったので、走りながら弟に実際に講義したりもした。そういえば、弟とは、南郷継正が推奨していた灼熱のアスファルトの上を裸足で歩くという運動も一緒に行っていた。この時も歩きながら、臨床心理学の全体像などを講義していたものである。灼熱のアスファルトの上を裸足で歩くという運動が、頭脳活動を活性化したために、いつも以上に効率の良い学習になったのかもしれない。もちろん、基本書で創り上げた臨床心理学の全体像に、その他の参考書や用語集を使って肉付けすることも行った。こうして大学院受験を迎えたのである。

 前日は四国入りしていたが、ホテルで一睡もできなかった。緊張していたということはないと思っているのだが、どういうわけか、本当に一睡もできなかったのである。ちなみに、この時泊まったホテルは、学部時代に運転免許をとるために2週間ほど合宿していた場所のすぐ近くで、何か因縁めいたものを感じたものだった。一睡もできなかったが、大学院入試は思ったより簡単で、特に英語などは、辞書を持ち込んでもよかったこともあり、ほぼ満点だったと思う。私の英語読解力で唯一の弱点は英単語力のなさであったが、辞書があったので、その点は全く問題にならなかったのである。結果は合格。3か月に満たない受験勉強で大学院に合格できたことは、私の小さな成功体験の一つであった。

 当時、もう一つの成功体験があった。それはダイエットである。当時私は、塾講師の不規則な勤務形態と暴飲暴食のために、体重がかつてないほど増加していた。具体的には、マックスで75sもあった。見た目もふっくらしている感じである。大学院に入学するにあたり、これでは格好悪い、何とか痩せなくては、と思い、ダイエットを決意したのであった。やったことは単純で、食事量を減らし、ジョギングを始めたのである。ジョギングは、高校時代に朝練を一緒に行っていた後輩にマラソン大会への出場を誘われたのがきっかけで始めた。初めは2q走るのもしんどかったが、徐々に伸ばしていき、5q、10qと走れるようになっていった。一時は、週に3回、10qずつくらい走っていた。みるみる体が軽くなり、ますます走りやすくなっていったのを覚えている。弟が一緒に走ってくれたのもよかった。こうして結局、半年間で12sほどの減量に成功したのであった。

 大学院の入学の直前には、学部時代に熱心に学んだ河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)を久々に読み返して、来るべき学生生活に備えた。そしていよいよ、私の2回目の学生生活が始まったのである。1回目の学生生活が充実しすぎており、思わず通常より1年長く在籍したくらいだから、今回の学生生活に対しても大きな期待があった。初めての一人暮らしも経験した。というのは、学部時代は、双子の兄と一緒に暮らしていたからである。

 大学院に入って特に印象的だったのは、学部時代の学生とは全く種類の違う人々が大半であったということである。すなわち、秀才タイプの人間は、院生にはほとんどおらず(教員にはいたが)、みんな、感性豊かなタイプの人間だったということである。その分、あまり勉強しない人が大半であったともいえる。失礼ながら、このくらいで大学院に合格できるのであれば、生真面目に学部からやり直すなどということをしなくて本当によかったと感じた。しかし、今まで接してきた人間と全く種類の違う院生の中で生活できたのは、両者の比較でそれぞれの特徴が浮き彫りになってきたということもあるし、単純に、それはそれで楽しく有意義であった。

 教員も、学部のころの教員とはかなり違ったタイプの方がおられた。中でも印象的なのが、今はその大学の学長になられている先生である。ふつう、大学の教員というと研究者タイプで、自分の研究していることのごく基本的なことを学生相手にしゃべるのが講義であり、講義(教育)は研究の片手間の仕事、という感じであろう。少なくとも、私が学部でお世話になった○○大学は、そのような感じの教員ばかりであった。ところが、私が行った大学院の教員、中でも現在の学長先生は、まったく逆だった。研究などその頃はほとんどされておらず、講義(教育)に非常に力を入れておられたのである。一流の臨床心理士を育てようと、熱心に取り組まれていた。その熱意に、私は非常に感動した。この先生は実は出身大学が私と同じであり、そのこともあって目をかけてくださったのだと思う。そもそも私は、認知行動療法の先生を求めてこの大学院を選んだのであり、その認知行動療法の先生も予想通り非常に魅力的であったが、この現在の学長先生に出会えたことも非常なる幸運であったといってよい。

 大学院の2年間、私は南郷継正の著作に出てきた弟子のエピソードを見習って、講義内容を全てレポートにまとめ、われわれの師や仲間に送っていた。臨床心理士の指定大学院は、かなりの数の単位を取得する必要がある。同時に大学院に進学した弟などは、週に1回か2回くらい、大学院に行っていただけだったと思うし、それが一般的な大学院生のあり方であろう。ところが、臨床心理士の指定大学院の場合は、必修の講義だけでもかなりの数にのぼり、毎日2〜3コマほどは講義やゼミがあったと思う。これに加えて、学外の学校や福祉施設などでの実習があり、実際のクライエントも担当してカウンセリングを行うようになっていく(さらに、カウンセリング後は、カウンセリングの内容を逐語録におこし、スーパーバイザーの先生に指導を受けることになっていた)ので、なかなかに忙しかった。さらに、私は、近くの大学で行われていた認知行動療法の勉強会にも毎週参加していたし、同じゼミの3人で、認知行動療法の原典を英語で講読する勉強会も行っていた。したがって、学部時代のように自由を謳歌した、という感じではなかった。

 それでも、院生がみんな近くに下宿していたこともあり、よく遊んだものだった。現役の中学校の教員なども多数おられて、年齢の幅がけっこうあった。私はストレートマスター(学部卒業後、そのまま大学院に進学した者)よりは若干年を取っていたが、年齢不詳で通した。ダイエットに成功していたからか、はたまた、この頃とみにかわいさが増してきていたからか、私の人生の中では割とモテた時期だった。現在の妻(といっても、かつての妻がいたわけではないが)は大学院の同期で、大学院時代に付き合いはじめ、修了直前に結婚した。年齢だけではなく、諸々の事情で彼女と付き合っていることも周囲に隠していたため、修了後しばらくしてから結婚式の案内を出した時、みんなは何かのいたずらだと思ったらしい。なぜ年齢等を隠していたのか、今となっては当時の心境を思い出せないが、おそらく、そちらの方が「面白い」と思ったからであろう。何が面白いのか、現在ではよく分からないが。

 修士論文では、認知行動療法に関する研究を行い、それなりのものをまとめた。また、カウンセリングを担当したケースを事例論文としてまとめ、紀要に投稿した。その他、認知行動療法が専門のゼミの先生について、学会の手伝いもしたことがあった。これらの業績が認められ、確か奨学金の半分が返済免除になった。これは当初から狙っていたものであり、うまくいったことが経済的には大きかった。ただし妻は、海外での学会発表や査読付き論文もあったので、確か全額返済免除になっていたはずだ。この領域では、私は妻の業績に及んでいない。ちなみに彼女は、中学高校時代にバスケットボール部でエースだったそうだ。この点でも、私は妻の実力に及んでいない。もう一ついっておくと、彼女は空手(もちろん、スポーツ空手であるが)の黒帯を所持している。白帯でやめてしまった私は、この点でも妻の実力に及んでいない。

 こうして、楽しく充実した2年間の院生生活が終わった。



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 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
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 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
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 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
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 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
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 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
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 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言
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