2017年10月30日

〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う(2/5)

(2)自由主義の歴史@――古典的自由主義(Classical Liberalism)の生成

 本稿は、1980年代以降、世界中を席巻してきた「新自由主義」と呼ばれるような経済政策が、人々の生活を破壊し、社会を荒廃させてきたことが、各国において政治的な大きな変動を引き起こしているという把握にもとづき、新自由主義が主張する「自由」の概念の形成過程を検討することを通じて、そもそも自由とは人類の歴史においてどのような意味をもつものなのか、考察していこうとするものです。

 ところで、「新」自由主義というからには、それに対応する「旧」自由主義があったはずです。これは、資本主義経済の生成発展を踏まえ、18世紀の市民革命を通じて成立した思想であり、古典的自由主義(Classical Liberalism)と呼ばれています。それでは、この「旧」自由主義(=古典的自由主義)はそもそもどのようなものであったのでしょうか? それを知るためには、まずは、古典的自由主義が生まれる以前の中世社会がどのような社会だったのか、簡単にでも確認しておかなければなりません。

 中世社会は、簡単にいえば、荘園を基礎的な単位として、領主が労働力としての農民を土地に縛り付けて支配し、戦乱からの安全を保障する代わりに生産物を貢納させるという社会体制でした。防衛的な経済組織の強固な枠組みのなかで、基本的に商業に頼ることなく自給自足的に欲求の充足をなしていこうというのが、中世封建制的な生産のあり方の原点でした(一種の軍事的な組織のなかで、欲求そのものが抑制されざるをえなかったことも重要です)。衣服や家具などの生産は基本的に農家の副業として営まれていたため、工業が独立した産業として存在することはなく、村落には農具をつくる鍛冶屋が存在する程度でした。もちろん、塩や鉄などは荘園の外部から調達するほかなく、これらを運んでくる遍歴商人をつうじて外部との交通関係が存在していたことはたしかです。しかし、こうした外部との交通は、あくまでも自給自足的な生活を部分的に補完する程度にとどまっていました。こうした秩序を正当化するイデオロギーを提供していたのが、ローマ教皇を頂点としたカトリック教会です。封建的な身分制度は神の意志の表現であるとみなされ、中世封建制社会の人々は、神によって定められた生き方の一環として、日々の労働に励んでいたのでした。

 しかし、生産力が徐々に向上して余剰生産物が産み出されるようになると、手工業に専念する人々が生まれてきます(農業からの手工業の分離)。さらに、余剰生産物を売り歩く商人も誕生します。固定的な枠組みにのっとって自分たちが消費するためではなく、他人と自由に交換するために生産するというあり方が生まれてきたわけです。このような、封建制の硬直性の否定としての自由を体現したのが貨幣でした。貨幣は、交換を円滑に進めるために、それぞれの商品の価値を抽象化して示す存在として誕生したのでしたものですから、この貨幣自身がいかなる形にも変化できるという意味で自由な存在だといえます。この貨幣の誕生によって、中世封建制社会の束縛は大きく崩されていくことになります。

 そもそも社会的な存在としての人間は、活動を相互に交換することによって相互に作り合う存在です。中世封建制社会においては、政治的な支配の枠組み(厳格な身分制秩序の枠組み)が、直接に諸々のモノ(生活資料)の運動を規定する枠組みでした。たとえば、領主が農民を政治的に支配するという枠組みにより、余剰生産物が年貢として農民から領主へと移行していたのでした。ところが、貨幣を介した交換では、交換されるモノどうしが等価であるかどうかだけが問題となります。人間どうし(売り手と買い手)はその限りでは対等なのであって、政治的な支配秩序の枠組みは必要としないのです。つまり、貨幣を介したモノの交換によってはじめて、硬直した封建的支配秩序(政治的な支配関係にしたがって諸々のモノが運動する)とは異なる人間どうしのつながり方(自由な意志で活動を相互に交換し、相互に作り合うあり方)がありうることが示されるようになったのです。やがて、領主と農民の関係も、地代の金納化などを通じて、純粋に経済的な関係へと変化していきました。このことは直接に、生産者と消費者との直接的な結びつきが断たれてしまい、貨幣によって媒介されるしかなくなってしまったことを意味します。商品は不特定の誰かのために生産されるモノであって、その商品が実際に消費されるかどうかは事前には知りようがなく、市場にもっていって売れるかどうかによって事後的に判断するほかなくなってしまったのです。

 このようにして形成されてきた商品生産社会の大枠のなかで、やがて土地・労働力といった基本的な生産要素までもが商品化していくことになりました。農業経営に行き詰まった農家が農地を売り払ってしまうことにより、自分の労働力を売って(誰か他人に雇ってもらって)生活の糧を得るしかない賃金労働者層が産み出されていくようになったのです。これにより、生産手段と労働力との分離が進み、両者は貨幣によってのみ媒介されるようになったのです。このように貨幣の役割が決定的に大きくなっていくにつれて、やがて貨幣そのものが商品化されるようにもなりました。銀行業の発展により、利子を取って貸し付けられるものになったのです(金融市場の形成)。

 以上のように、各地方に無数に存在していた労働者と生産手段の小規模なセットが解体された上で、一方に生産手段が集積されていき、他方に生産手段を欠いた労働者が取り残されていったのです。その結果、大規模な生産手段を所有した資本家が、生産手段をもたない労働者を雇って生産するという構造が、国家的な広がりのなかで創られていくことになりました。このように中世封建制の固定性を否定し、自由が拡大していく流れを媒介したのが貨幣だったのです。

 こうした自由の拡大は、やがて個々の人間の自由を自覚させることになり、私的所有の自由や職業選択の自由といった経済的な自由、さらには思想・信条の自由などの精神的な自由も主張されるようになりました。市民革命を通じて、こうした自由が全面的に制度化されたことで、古典的自由主義が成立することになったのです。

 近代社会では、生産手段と労働力との関係が中世封建制のように固定的なものではなくなり、簡単に結びつけたり切り離したりすることができるようになりました。このことによって、近代社会は柔軟性を獲得し、生産力の著しい発展、巨大な富の蓄積を成し遂げていくことになります。一方で、生産手段と労働力とを結びつけるものは、生産手段の所有者である資本家側の意志(貨幣によって体現されている価値の増大を追求しようとする資本家の意志)のみに依存してしまうようになりました。このことによって、労働者の地位は著しく不安定化してしまうことになったのでした。このように、古典的な意味での自由はもともと、封建的な硬直した体制では不可能であったダイナミックな発展を可能にするというプラス面と、人々の生活を著しく不安定なものにしてしまうというマイナス面との両面をもっていたのです。

 しかし、古典的自由がもたらした後者(不安定性)の側面は、当初、前者(成長の実現)の輝かしい成果の背後に覆い隠されていました。国家権力による恣意的な経済介入(輸出産業のみを過度に優遇してきた重商主義政策)を廃して、個々の経済主体が自由に行動するようになれば、自ずと社会全体の利益(国民の富の増大)につながっていく、と考えられたのです。古典的自由主義においては、自由という理念と、平等(あるいは社会的公正)といった理念は、決して現在のような敵対的な関係にあるものとして捉えられていませんでした。そもそも自由というのが、封建的な束縛からの解放、封建的な特権の否定であったのですから、それが直接に平等の実現でもあったわけです。

 こうした自由を押し進め、封建的束縛を突き崩していく力となった貨幣は、もっぱら市場における自由な交換をスムーズに実現していくための手段としてのみ把握されていました。つまり、貨幣は商品の価値の大きさを測り、交換する手段としてのみ捉えられたのであり、不確実な将来に備えて価値を貯蔵しておくための手段としての側面(つまり、スムーズな商品交換の障害となってしまう側面)をもっていることは、ほとんど無視されることになったのです。

 貨幣によって各国の内部に形成された「自然的自由の制度」(アダム・スミス)は、国際的には金本位制によって支えられるものだと考えられていました。古典的自由主義の時代においては、貨幣というのは金銀にほかなりません(紙幣も兌換紙幣です)。金山・銀山を所有しない国においては、貨幣材料となる金銀は、対外貿易を通じて入手するしかありませんでした。国内の貨幣価値は、このようにして入手した金銀量によって大きく左右されます。古典的自由主義に先だつ重商主義の時代には、金銀こそが富そのものであると見なされたために、各国政府は対外貿易によってできるかぎり大量の金銀を獲得しようと、市場への恣意的な介入を行っていました。その結果、国内における金銀の価値が不安定になり、大きな経済的混乱が引き起こされる、といった事態も生じていたのでした。これに対して、古典的自由主義の経済学的表現といってもよい古典派経済学は、自由貿易を実現することによってこそ、すなわち、政府による市場への恣意的な介入を排することによってこそ、金銀の価値が安定的に推移するのだと主張しました。国際的な金本位制のもとで、各国政府が市場への恣意的介入を排するならば、一国への金の流入があった場合、それによって中央銀行の金準備が増えて信用が緩むために国内経済が刺激されて物価が上昇し、このことが輸出減少と輸入増加を引き起こすためにやがて金の一方的流入は止まる、という形で自動調整機能が働くと考えられたのです。このように、自由を体現する貨幣そのものを名実ともに自由にさせることによってこそ、「自然的自由の制度」(貨幣を媒介とする自由な商品交換)の基礎がしっかりと守られるのだと考えられるようになっていったわけです。

 しかし、資本の集中・集積によって企業の規模が大きくなっていくにつれて、個々の資本家の行為が社会全体に与える影響は拡大していくことになっていきます。無数の小企業が競い合う段階から、少数の大企業が市場の独占的な支配をめぐって争い合うような段階に近づいていくにつれて、古典的自由の不安定性の面がしだいにあきらかになっていくことになったのです。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言