2017年09月29日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(4/13)

(4)「自然神学」――自然哲学と道徳哲学はどのように媒介されるか

 前回は、スミスはそもそもどのような問題意識をもって学問への道へと出立したのか、確認しました。恩師ハチスンの道徳哲学講義に決定的な影響を受け、自身も独自の道徳哲学体系の構築を志すようになった青年スミスは、自然科学的な認識の確実性を否定してしまうかのようなヒュームの議論によって大きな不安を抱かされることになります。スミスは、この大きな不安を解消するために、古代ギリシャ以来の自然哲学の歴史的な発展過程をたどり返してみようとしたのであり、その結果として、人間の認識が客観的世界(自然)の法則性を把握していくことは可能であることをつかんだ(確信した)のでした。こうした自然哲学史の研究は、学芸(哲学、文学、詩、修辞など)の哲学的歴史――スミスによる哲学の定義にしたがえば、バラバラな諸現象のすべてをひとつの原理で結合して把握するような歴史のことです――というスミスの学問的構想の一方の大きな柱の発端となるとともに、もう一方の大きな柱である道徳哲学(社会科学)の構築に向けて、確かな武器となる科学方法論(具体的には結合原理という発想)を提供するものになったのでした。

 これ以降、この科学方法論にのっとって道徳哲学(社会科学)を構築していくことが、スミスにとってのひとつの大きな課題となっていくわけです。しかし、ここで不可避的に大きな問題が浮上してくることになります。それは、自然科学的な方法をそのまま社会科学的な研究に適用することができるのか、という問題にほかなりません。自然哲学史の総括をおこなったスミスは、古代ギリシャの自然学について論じるなかで「一般法則に支配され、それ自身の保存と繁栄およびそこにいるすべての種の保存と繁栄という一般目的を目ざす、完全な機械、まとまった体系」という宇宙観を表明していました。確かに、自然を構成する諸々の事物・事象は意志をもたないものであり、その運動は機械的な体系として記述することが可能です。こうした自然にたいして、社会は、それぞれ独自の意志をもって自由に行動する人間の集合体として構成されています。こうした社会について、自然と同じように客観的法則性を見いだすことが可能なのでしょうか?

 これは、古代ギリシャ以来、哲学(および神学)の世界で、決定論と自由意志は両立するのか否か、という問題として議論されてきたものにほかなりません。すなわち、神の意志が森羅万象を統括している、あるいは森羅万象が神によって決定された法則にしたがって動いている(すべては必然である!)とするならば、はたして人間の意志の自由などありえるのか、ということが問題になっていたのです。18世紀のスコットランドのように、人々が固定的な身分制度にしばられていた中世封建的な社会のあり方が崩れて、個々人の自由な活動が社会の大きな変化・発展をもたらすようになってくると、この問題があらためて大きく浮上してくることになります。ニュートン力学の形成によってひとつの頂点に到達した自然哲学(自然科学)と遜色のないレベルで道徳哲学(社会科学)を構築していこうとするならば、人間は自由意志をもっているという経験的な事実と両立するような形で、社会においても客観的な法則性がつらぬかれているのだという大前提を、何としてでも確立しておく必要がでてくるからです。

 社会科学の構築を大きな課題とした18世紀のスコットランド啓蒙思想において、こうした問題の解決を担わされていたものが、自然神学にほかなりませんでした。自然神学とは、簡単にいうならば、自然に内在する法則性を人間理性によって把握することで創造主たる神の叡智を知ろうとする神学であるということができます。スミスに決定的な影響を与えたハチスンの道徳哲学講義も、こうした自然神学を基礎としたものでした。ハチスンは、人間の本性(人間的自然の構造)のうちに神の摂理と自然法の原理を探ろうとしていたのです。

 スミスは1752年(29歳)にグラスゴウ大学の道徳哲学教授に就任し、1763年に退職するまで、学生たちを前に道徳哲学を講義することになります。この道徳哲学講義は、大きく3つの部門、すなわち、自然神学、倫理学、法学の3部門から構成されていたとされています。こうした構成からも、自然神学に道徳哲学全体の基礎理論としての位置づけが与えられていたことはあきらかです。この道徳哲学講義の3部門のうち、倫理学に相当する部分がやがて『道徳感情論』(第1版は1759年)としてまとめられ、法学にかんする部分の一部(生活行政論・公収入論)がのちに『国富論』(第1版は1785年)として結実していくことになりました。また、法学のそれ以外の部分にかんしても、19世紀末以降に発見された学生の講義ノートによって、どのような内容のものであったのか、知ることができます。しかし、スミスは、自然神学にかんしては自身の考えをまとめた著作も論文も遺しませんでしたし、道徳哲学講義のうち自然神学の部門については学生の講義ノートも発見されていません。したがって、スミスが講義した自然神学が具体的にどのような内容のものであったのか、直接的に知る術はないのです。とはいえ、18世紀スコットランドの道徳哲学において、自然神学にどのような役割が担わされていたのかをふまえつつ、スミスの著作において顔をのぞかせている神学的な発想を検討することによって、そのおおよその内容を推測することは不可能ではありません。

 ここでは、スミスの神学的発想が顔をのぞかせている文章として、『道徳感情論』につけられた注について、みてみることにしましょう。ここで、スミスは次のように述べています(なお、以下の引用文において「自然」とされている語は、自然の創造主としての神に置き換えて読まれるべきものです)。

「人間は、社会の繁栄と存続を望むような資質を生まれながらに付与されている。……自己保存と種の繁栄とは、自然がすべての動物を創造するにあたって意図していた偉大な目的であるように思われる。人間は、こうした目的への欲求と、その反対物への嫌悪――生命への愛と死滅への恐怖、種の存続と繁栄への欲求とその完全な消滅という考えへの嫌悪――を与えられている。しかし、我々にこうした目的への強烈な欲求が与えられているとはいえ、こうした目的の実現のために適切な手段を見つけだすことは、我々の理性の緩慢で不確実な決定にゆだねられることはなかった。自然は、本源的で直接的な本能によって、我々をこうした目的の大部分へと方向づけるようにしたのである。飢え、渇き、両性の結合への情熱、快楽への愛、苦痛への恐怖などといったものが、こうした手段をそれ自身のために使用するよう我々を促すのであって、我々は、自然の偉大な支配者が、それらの手段をつうじて仁愛的な目的に向かう傾向を生みだそうとしていたことなど、まったく考えもしないのである。」(『道徳感情論』第2部、第1篇、第5章。筆者訳)


 ここでは、人間は社会の繁栄と存続を望むとはいえ、どのような行為が社会の繁栄と存続という目的につながる手段なのか、理性的に判断しているわけではない、と説かれています。自己保存と種の繁栄につながる諸々の手段(飢えを満たしたり、渇きを癒したり、異性と結びついたり、苦痛から逃れたりするための諸手段)は、本源的で直接的な本能によって、あくまでもそれ自身のために追求されるのであって、それらが社会の繁栄と存続という慈恵的な目的に資するのだ、という理性的な判断を媒介として追求されるわけではないのです。にもかかわらず、自然(=神)は、人間が諸欲求を満たすために追求する諸々の手段をつうじて、社会の繁栄と存続という目的の実現につながるような傾向を生みだそうと意図していたのだ、とスミスは説きます。つまり、個々の人間が利己的な諸欲求を自由に追求していくことこそが、社会の繁栄と存続という結果をもたらすための必然的な契機となるように、自然(=神)はあらかじめ計画しておいたのだ、というわけです。個々の人間は、ただただ利己的な諸欲求を追求している(=自由に行動している)だけでありながら、全体としてみれば、知らず知らずのうちに、社会全体の利益の促進という自然(=神)の意図を実現していくように導かれていくのだ――このような見方が、有名な「見えざる手」の議論へとつながっていくことになります。

「富裕な人々は、貧乏な人々にくらべてほんの少しばかり多く消費するにすぎず、彼らは生来の利己性と貪欲さにもかかわらず、〔中略〕自分たちの改良の成果を貧乏な人々にも分配する。彼らは見えざる手によって、仮に土地がその上に住むすべての人々の間に平等な面積で分割されていた場合になされていたであろうと思われるのとほぼ同様の生活必需品の分配をなすように導かれていくのであって、このようにして何ら意図することなく、また自覚することもなく、社会の利益を促進し、種族繁栄のための手段を供給することになるのである。」(『道徳感情論』第4部、第1章。筆者訳)


 ここでは、「見えざる手」が、富裕な人々による利己的な富の追求行動を、貧しい人々への生活必需品の供給という結果へと導いていくものとして位置づけられています。ちなみに、『国富論』における「見えざる手」は、より確実でより大きな利潤を追求する資本家の利己的行動を、きわめて不安定で一部の人々の利益にしかならない外国貿易への資本投下ではなく、国民全体の富を安定的に増大させる国内産業への資本投下へと導いていくものとして位置づけられています。いずれにせよ、スミスのいわゆる「見えざる手」とは、個々人の意図をこえて、自覚されることなく自然の創造主たる神の意図(社会全体の利益)を実現するように機能するものとして位置づけられているといえるのです。

 以上のようにみてきたことから、スミスは、個々人が利己的な欲求の実現をめざして行動していくことを、神の意図(社会全体の利益)が実現されていくための必然的な契機として位置づけていたのだ、ということが確認できるでしょう。逆からいえば、神の偉大な目的が現実の世界に実現されていくためには、具体的な諸個人の自由な行動を手段とするしかないのだ、という把握があったのだともいえます。端的には、スミスの自然神学とは、神の「見えざる手」という発想を媒介として、社会においても客観的な法則性がつらぬかれているはずだという理論的な前提と、人間は自由な意志をもって行動しているという経験的な事実とを結合しようとするものであったということができるでしょう。

〔補足〕
このような「見えざる手」がきちんと機能することを保障しているのは、個々人の胸中に創られる「公平な観察者」です(「公平な観察者」については本稿の連載第6回で説明します)。『道徳感情論』第3部の第5章において、スミスは、「公平な観察者」の命令が神の戒律と同視されることを肯定的に捉えています。ここから、個々の人間はそれぞれに利己心に突き動かされながらも、神の戒律と同視されうる胸中の「公平な観察者」の命令によってコントロールされるがゆえに、社会全体としては望ましい結果が導かれていくのだ、という社会観を見て取ることができるのです。そもそもスミスは、大きくいえばニュートン以来の理神論の系譜に属していました。理神論とは、神は世界(宇宙)を創造したものの、創造後の世界は神からの介入によらずに自分自身の法則性にしたがって運動・発展していく、という見方にほかなりません。この見方からすれば、世界の運動・発展を規定する法則性は、神が世界の創造に際してプログラムしておいたもの、ということになります(ここから、自然の法則性と神とが同視されていくようになります)。結局のところ、スミスにおいては、創造主たる神は、人間を創造するに際して、「公平な観察者」による利己心のコントロールという形態が創出されていくように、その本性に利己性と共感の原理という二重性(矛盾)を内在させておいたのだ、と考えられていたのです。このことについて詳しくは、本ブログに2013年8月に掲載した「カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える」を参照して下さい。

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 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言