2017年05月09日

ヘーゲル『哲学史』を読む(11/13)

(11)カント、フィヒテ、シェリング――思惟と存在の統一の概念的な把握へ

 前回は、18世紀の哲学について概観しました。ヘーゲルは、ライプニッツからカントまでの間を移行期、あるいは思惟の凋落の時代として位置づけ、この時代の哲学を、一般的な通俗哲学として特徴づけていました。デカルト、ロック、ライプニッツらのいわゆる形而上学の時代においては、思惟と存在との統一という課題に取り組む過程で現われた諸々の矛盾は、神の助力とか予定調和といった作為的な分析的思考によって解決したものとされるしかありませんでしたが、移行期においては、こうした作為的な解決に対立して、健全な人間の悟性(良識)のなかに合理的に納得のいく解決策を見いだそうとする傾向が主となったのでした。ヘーゲルは、18世紀の哲学として、ヒュームやバークリーの懐疑論、スコットランドの哲学、フランスの哲学の3つを取り上げて、それぞれ批判的に検討していましたが、フランスの哲学において、具体的な個人のうちにある信念の自由、良心の自由が旗印として高く掲げられるようになり、人間が自己自身を無限者としてみるようになったことを、偉大な進歩として強調していたのでした。

 さて、ヘーゲルによれば、哲学の根本的な課題であるところの思惟と存在との統一をそれ自体として対象とし、かつこれを概念的に捉える、すなわち、その最深の必然性たる概念を捉えるという方向に向ったのが、カント以来のドイツ哲学の発展です。カントからフィヒテ、シェリングを経て、ヘーゲルに至ってついに、哲学は完成するのです。今回は、ヘーゲル『哲学史』が描く、哲学史の最後の部分について概観することにしましょう。

 ヘーゲルは、カントについて論じる前に、ヤコービについて触れています。ヤコービは、絶対者たる神(思惟=存在)は演繹されたもの(何かにもとづいたもの)として表象することはできない、として、神の存在証明という試みを否定しました。ヤコービによれば、絶対者たる神の存在について、人間が媒介的に知ることは不可能であり、神の存在は人間に直接知(叡智的直観)として啓示されるしかないのです。こうしたヤコービの主張についてヘーゲルは、直接知としての信仰を、媒介された知としての思惟に絶対的に対立させるのは誤りで、あらゆる知は直接知であると同時に媒介された知でもあるのだ、という立場を強調しています。ごく簡単にいえば、直接性というのは結果であり、そのためには過程すなわち媒介が必要である、ということにほかなりません。とはいえ、ヘーゲルは、人間精神が直接に神について知るという命題には、人間精神の自由の承認という偉大な点が含まれていることを指摘しています。

 人間精神の自由の承認という点は、カントについても強調されます。ヘーゲルは、ルソーによって絶対的な原理として掲げられた自由が、カントによって理論的な面に重点をおいて打ち立てられた、としています。フランスでは、抽象的な自由を現実に当てはめることで現実を破壊したのに対して、ドイツにおいては、意識が自己に関心をもつということが、ただ理論的な形で遂行された、というのです。全ての存在はそれ自体として存在するのではなく、他のもののために存在するものでなければならないが、全ての物がそのために存在するという、その当のものは、人間ないし自己意識であって、しかもその人間とは人間一般(全人類)にほかならない――こういうことを抽象的な形で意識にのぼらせたのがカント哲学だ、とヘーゲルはいいます。カントは、「ア・プリオリな総合判断は可能か」という問題を立てました。カントは、原因と結果というような規定は経験によって与えられるものではなく、自己意識のうちにもともとあるのだ、と主張しようとしたわけです。ヘーゲルにいわせれば、カント哲学とは、それ自体として存在するものを全て自己意識に取り戻す(逆にいえば、この世界の全ての具体的な物を自己意識から導き出す)ことを要求しながら、しかもこの自体的なもの(物自体)をなお自己と区別することによって、対立から抜けきれないでいる観念論だ、ということになります。カントは、人間(自己意識)が知りうるのは物自体ではなく現象のみである、と主張しました。人間の悟性にもともと備わっている範疇(カテゴリー)――世界を捉えるための枠組みのようなもの――は感性的知覚で捉えられる有限的な現象にしか適用できないのであって、理性がこうした範疇を自我・世界・神といった無限のものに適用しようとすると二律背反に陥ってしまう、というのです。例えば、世界そのもの(世界全体)に範疇を適用すると、世界は時間的・空間的な限界をもたないという命題と、世界は時間的・空間的に限界をもっているという対立する2つの命題が成り立ってしまいます。ヘーゲルは、本当はあらゆる概念のなかに二律背反があるはずだと指摘しつつ、カントがこうした矛盾の必然性を主張したことは認めています。しかし、物自体がこうした矛盾をもっているのだとされるのではなく、自我が矛盾を抱え込まされる形で(自我が二律背反を生み出してしまうという形で)問題を解消してしまったことを、中途半端な解決であると批判しています。ヘーゲルによるカント哲学批判の核心は、カント哲学は二元論である、ということです。この二元論というのは、直接的には、物自体の世界と現象の世界との二元論のことですが、より根本的にいえば、思惟(主観)と存在(客観)との間に絶対的な壁を設けてしまって、両者の統一がありえなくなってしまった、ということにほかなりません。カントがいくら思惟と存在の統一を主張しても、それは主観的にはそう見えるということでしかなく、物自体(存在)が実際のところどうなっているかは我々にはつかみようがない、という見解にとどまるしかなかったのです。

 思惟(主観)と存在(客観)との間に絶対的な壁を設けてしまったことで、両者の統一を不可能にしてしまったカントに対して、自我を絶対的な原理とし、宇宙の全内容をこの自我から演繹的に叙述することによって、カントの二元論という難点を自我一元論として克服しようとしたのがフィヒテです。しかしながら、ヘーゲルは、フィヒテは絶対的原理として自我という概念を掲げたのみで、この概念を自己自身からする学の実現へともっていくことはできなかった、と指摘しています。学問とはこういもの、という基本的な着想はよかったものの、実際に、宇宙の全内容を、自我から演繹されたものとして筋を通して叙述しきることはできなかった、ということでしょう。ヘーゲルは、理性は概念と現実の総合であるにもかかわらず、フィヒテはもっぱら主観的な面に終始して終始対立につきまとわれてしまった、と指摘します。ヘーゲルのいわゆる哲学の課題は、主観(思惟)と客観(存在)の統一、あるいは、絶対者を世界の全てを生み出す活動として把握することにほかならないわけですが、フィヒテは、主観性(自我)から全てが生み出されるとしつつも、主観の側から客観の側への道を充分には明らかにすることができませんでした。換言するならば、主観的な面に終始してしまい、主観に客観的なものをまともに取り込んで完全に宥和させるということができなかったのでした。

 これに対して、シェリングは、ヤコービの直接知(叡智的直観)を援用しつつ、主観的なものと客観的なものの統一を強く押し出します。これが神であり、主観的なものと客観的なものとの具体的な統一として、生き生きとした運動をうちに含むものとされるのです。要するに、シェリングは、神(主観=客観)を生き生きとした運動として把握することで、絶対者の自己運動による世界(あらゆる具体的なもの)の創造という把握に向かって大きく前進したのです。ヘーゲルはこのことを高く評価しつつも、主観的なものと客観的なものとの無差別ということ(理性の概念)が絶対的に前提とされるだけで、これが真理であるという証明が全くなされていないことを、シェリング哲学の欠陥として指摘しています。ヘーゲルにいわせれば、対立物の統一というものははじめから立てられるようなものではなく、各契機が自らその反対物となり、両者の同一のみが真理であることが明らかになる、といった思惟的考察の結果にほかなりません。すなわち、主観と客観との統一というのは、あくまでも過程であって媒介を自己のうちに含んでいるのですが、この媒介が止揚されて直接的なものとして措定されるわけです。シェリングは、このことを薄々感じつつも、論理的な仕方としては遂行せず、主観と客観の統一を、知的直観によってのみ証明される直接的真理のままに放置してしまったのだ、とヘーゲルは批判します。

 絶対者を主観と客観の統一として把握し、絶対者の自己運動として世界(あらゆる具体的なもの)を把握しようという発想そのものは、シェリングとヘーゲルに共通したものだといえます。ただし、主観と客観の統一(神、絶対者)の把握ということを、シェリングはヤコービ流に叡智的直観によるものだとして片づけてしまいました。これに対して、ヘーゲルは、絶対者の把握は、あくまでも思惟的考察によってなされるべきだという主張を対置したのでした。ここから派生する問題として、シェリングにおいては、絶対者が把握できるかどうかは個人的な才能にもとづく偶然的な事柄だとされてしまったのに対して、ヘーゲルにおいては、まともに思惟する人間であれば誰でも必然的に絶対者を把握することができるはずだ、という観点が強く打ち出されることになったのだ、ということも指摘しておかなければなりません。
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 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言