2017年05月08日

ヘーゲル『哲学史』を読む(10/13)

(10)18世紀の哲学の諸形態――健全な常識や自然な意識を原理とする

 前回は、ヘーゲルのいわゆる近代哲学の黎明期、および形而上学の時代について概観しました。ヘーゲルは、近代哲学の課題が、思惟と存在との統一を実現することにほかならなかったことを確認した上で、その統一が具体性のない形式で予告される黎明期、および、思惟する知性(悟性)によって形而上学的な統一が模索される時代について、論じていました。形而上学の時代とは、端的にいえば、思惟と存在との統一という観点から、筋を通して世界全体を説明しきることがあれこれと模索された時代であったということができるでしょう。デカルトは端的に、思惟=存在(我思う、故に我あり)を出発点と定めましたが、そこから諸々の具体的な事物・事象にまで筋を通し切る(ヘーゲル流にいえば、概念的に把握する)ことはできませんでした。デカルトを継承して、思惟=存在としての神を唯一の普遍的実体として根底においたスピノザも同様に、個々の具体的な事物・事象にまで筋を通して説明しきることはできなかったのです。一方、ロックは、個としての認識にこだわり、経験(感覚レベルの反映)にしか真理(思惟=存在)を認められなくなってしまいました。ロックとスピノザとそれぞれ対立しつつ、両者を結合しようとしたのが、ライプニッツです。ライプニッツは、思惟=存在という性格を備えた単子(スピノザにおける神を粉々に打ち砕いて、それぞれ絶対的に独立した個体としたようなもの)を、無数にバラまいて世界全体を充たしてしまうことで、世界全体を思惟=存在として説明しようとしました。しかし、単子どうしの関係をどう説明するかという難問にぶち当たって、神という存在に逃げ込むしかなくなってしまったのです。結局、思惟=存在という観点で世界を説明しきるのは極めて困難な課題なのだ、ということが明らかになったのが、形而上学の時代の成果であったといえるでしょう。思惟=存在たる神(絶対精神)が自己運動して世界の全てが生み出されていくこと、それが個として人間の精神にしっかりと(直接に)つながっていることを把握してこそ、ヘーゲルのいわゆる哲学は完成することになるのです。

 しかしながら、哲学の歴史は、この完成に向かって一直線に歩んでいったわけではありません。ヘーゲルは、ライプニッツからカントまでの間を移行期、思惟の凋落の時代として位置づけ、この時代の哲学を、一般的な通俗哲学ないし反省哲学ないし反省的経験主義として特徴づけています。前回取り上げた形而上学の時代においては、思惟と存在との統一という課題に取り組む過程で現われた諸々の矛盾は、神の助力とか予定調和といった作為的な分析的思考によって解決したものとされるしかありませんでした。今回取り上げる移行期においては、こうした作為的な解決に対立して、健全な人間の悟性(良識)のなかに合理的に納得のいく解決策を見いだそうとする傾向が主となります。これが18世紀の哲学の形態なのですが、ヘーゲルは、文明人の内にある健全な常識や自然な感情を規準とする人は、宗教や道徳や法が人間の心のうちにあるのは文化や教育のお陰であって、そのお陰ではじめてそうした原則が自然な感情になっていることを知らないのだ、と批判しています。ヘーゲルは、18世紀の哲学として、ヒュームやバークリーの懐疑論、スコットランドの哲学、フランスの哲学の3つを取り上げて、それぞれ批判的に検討しています。

 懐疑論について説くにあたって、ヘーゲルは、思惟というものが特定のものを破棄して自己同一を成り立たせるための否定的運動を本質とすることを指摘しています。思惟が自己の運動を自覚的に捉える過程は、近代においてようやくはじまったのですが、それはまず、個別的な形式的な自己意識として、すなわち、ある具体的な個人の意識としてはじまるしかなかったのだ、とヘーゲルは指摘します。こうして、個別的な意識こそこの世界の全てなのだ、という近代の懐疑論が登場してくることになります。ヘーゲルによれば、近代においては、物自体(存在)と自己意識(思惟)の統一を達成しなければならないという問題意識がありますから、自己意識が全ての実在を飲み込んでしまい、それこそが真理だと宣言されることになります。これに対して、古代の懐疑論においては、個別的意識が重視されたという点については近代の懐疑論と共通するといえるものの、物自体と自己意識とのズレこそが問題にされて、個別的意識にとっては何が真理なのかは分かりようがない、という消極的な結論にしかなりませんでした。こうした近代の懐疑論について、ヘーゲルは、全ての対象は人間の個別的意識が描くイメージでしかない、ということにとどまれば(単なるイメージ以上の、普遍的なるものは認めない、ということになれば)、それは最悪の観念論である、とした上で、バークリーはこうした主観的観念論であり、ヒュームはそれを別の言い回しにかえたのだ、としています。ヘーゲルは、バークリーについて、自己の内部にある主体が観念を自由に生み出す、というような主観的観念論ではなく、観念なるものは神によってのみ生み出される、としていることを指摘します。直接的に感覚できないような観念については、その根源を神に求めるしかなくなった、ということでしょう。このことについてヘーゲルは、体系に含まれる不合理を引き受ける下水溝として神が持ち出されるようなものだ、と述べています。さらにヒュームに至っては、普遍的なるものを一切認めず、因果関係なども主観的な習慣にすぎないものだ、という形で、観念とか概念とか必然性とかいうものを根本的に解体してしまったことが指摘されています。以上を要するに、自己意識が世界の全てを自分のものにする、という点に大きな前進を認めつつも、それが感覚的なレベルにとどまって、普遍的なるものとか観念とか概念とかをまともに扱えないような、非常に浅薄なものでしかなかった点に限界を見出す、というのが、ヘーゲルによるバークリーやヒュームについての評価であるといってよいでしょう。

 このように、ヒュームが必然性とか普遍的なるものの認識を完全に解消して、宗教や道徳についても単なる習慣にすぎないものだと片付けてしまったことに反対し、宗教や道徳について内的に独立した源泉を主張しようとしたのが、スコットランドの哲学です。宗教や道徳を単なる習慣レベルの不安定(根拠薄弱)なものとして放置しておくわけにはいかない、何が正しいのかは全く相対的なものだということにしてはならない、という問題意識があったわけです。しかしながら、スコットランド哲学は、世間一般に通用している宗教上、道徳上の真理(とされているもの)を、そのままの形で肯定し、直接に共通感覚(良識、常識)なる人間の認識能力に結び付けることで、説明を簡単に終わらせてしまいます。そのような宗教上、道徳上の真理がなぜ、どのようにして生じてくるかはまともに追究されることはありませんでした。ヘーゲルは、こうしたスコットランド哲学について、思弁哲学が全く姿を消してしまったもので、通俗哲学にすぎない、と批判的に評しています。一方で、健全な悟性という原理そのものは妥当なものであることは認められていますし、人間や人間の意識のなかに価値判断の源泉を探し求め、価値を人間に内在化させようとするという点については、大きな長所として認めてもいます。要するに、通俗的だけど問題意識も結果として主張していることもまとも、問題意識も結果として主張していることもまともだけど通俗的で哲学的な深みはない、というのが、スコットランド学派に対するヘーゲルの評価であるといってよいでしょう。

 フランス哲学について、ヘーゲルは、およそ存在するものは自己意識においてなければならない(自己意識が納得できるものでなければ真理ではありえない)、という確信にもとづいて、既存の諸々の権威や観念をことごとく否定していったものだ、と特徴づけています。ヘーゲルは、フランス旧体制の社会状態のひどさ、貧困や悲惨さを指摘して、フランスの哲学者による宗教攻撃や国家攻撃を擁護します。ヘーゲルは、彼らが旧体制に対抗して主張したのは、思惟する人間を愚民扱いしてはならないということだと、その正当性を指摘するのです。さらにヘーゲルは、フランスの哲学者たちが、知識一般や法知識の源泉を人間の理性や一般意識や健全な常識のうちに求めようとしたことを、フランス哲学の積極的な側面として評価しています。同時に、知覚や観察や経験をよりどころに、精神の本性をあれこれの自然的衝動に解消してしまうものとして、その不徹底さを指摘してもいます。しかし、そのような不徹底さがあったにしても、フランスの哲学において、自己意識(私)の内容は同時に具体的なもの、現存するものでなければならないとされ、この具体的なものが理性と呼ばれたこと、私のうちにある信念の自由、良心の自由が旗印として掲げられるようになったことは、フランスの哲学の偉大な功績として正当に評価されなければならない、とヘーゲルは強調するのです。そもそも人間は、自身の精神に内在する確固たる羅針盤を見出そうとする絶対的な衝動をもつものです。思惟と自己との統一が自由であり、自由意志こそ人間の概念であるとヘーゲルは力説します。ルソーにおいて自由の原理が高く掲げられ、自己自身を無限者としてみる人間にこの無限の強さが与えられたのだ、とヘーゲルはその歴史的意義を力説しています。
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 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
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 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言